Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

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1 我が国初の刑事弁護

 

  我が国において初めて刑事弁護らしいものが認められたのは明治8年の広沢参議暗殺事件である。同事件の審理に特別な裁判所が構成されたが,その際弁護官が裁判所から任命された。しかし,弁護官はこの事件限りで広く一般の制度として認められたものではなかった。(司法研修所『平成18年度 刑事弁護実務』10頁)

 

 我が国初めての刑事弁護を担ったこの弁護官の一人が,後に鷗外森林太郎の岳父となる荒木博臣でした。すなわち,森鷗外記念会の雑誌『鷗外』24号(1979年1月号)88頁以下の荒木博臣の略年譜によれば(坂本秀次「森鷗外と岳父荒木博臣―漢詩文集『猶存詩鈔』を中心に―」),明治8年(1875年)に数え39歳の荒木博臣について「2月14日,広沢参議暗殺事件弁護官に任ず(我が国最初の官選弁護人となる)。」とあるところです。

 

2 広沢参議暗殺事件と臨時裁判所別局及び弁護官

 さて,広沢参議暗殺事件とは何か,そして我らが荒木弁護官の弁護振りはいかん。

 

  ・・・「広沢参議暗殺事件」とは,明治四年(1871)一月九日〔グレゴリオ暦1871年2月27日〕未明,参議広沢真臣が麹町の自邸で斬殺された事件である。犯人は逃走し・・・「政敵による暗殺」を捜査し尽くした挙句の果てに,広沢が殺された寝室にいたにも関わらず軽傷で証言のあやふやな「妾」福井かねが逮捕され,彼女が「私通」を自白した家令の起田正一との共犯として両者に拷問を加えて「自白」させたのである。五年四月,司法省に送られてきた起田は自白を翻し,事態は膠着したまま明治7年が暮れ,ようやく8年になって「参座」の特別規則を設けた臨時裁判所別局で公判が開廷することになったのである。

  3月19日の開廷初日には司法卿大木喬任はじめ10名,外務卿寺島宗則,参座12名,弁護官2名,原告官7名が列席するという「空前絶後の大法廷」であった。・・・

  荒木博臣はこの2名の弁護官のうちの一人で,官職は明法中法官となっている。裁判官が「弁護官弁護の次第あらば参座に向ひ陳述ありたし」と述べたのに対し,弁護官は「別に弁護すべき意見なし,縦令抑圧せらるとも,真正の事実を述べられざる道理なき故,特に弁護するに及ばずと信ず」と陳述したという。・・・7月,参座の投票によって,起田とかねは「無罪ニ決スルヲ以テ解放候事」となり,事件は迷宮入りしたのである。(古澤夕紀子「鷗外岳父となった荒木博臣という人」言語文化論叢4巻(京都橘大学文学部野村研究室編・2010年8月)1516頁)

 

 「刑弁スピリット」もあらばこそ。
 輝かしかるべき我が国初の刑事弁護における弁論は,「別に弁護すべき意見なし・・・特に弁護するに及ばずと信ず」だったのでした。明治8年(1875年)7月10日のことです(尾佐竹猛『明治文化史としての日本陪審史』(邦光堂書店・1926年)123頁)。「弁論は,被告人の権利を擁護するための第一審最後の機会である。弁論を行うのは権利であり義務ではないが,これまでの弁護活動の集大成として裁判所を説得する重要な機会であるので,弁護人は,いかなる事案にあっても,十分な準備のもとに熱意を持って弁論をすべきであり,弁論をしなかったり,弁論をしても形式的,抽象的な内容に止まるのであれば,弁護人としての責任を果たしたことにはならない。」と熱く語る司法研修所の刑事弁護教官は(『平成18年度 刑事弁護実務』350頁。なお,下線は筆者によるもの),おかんむりだったのでしょう。刑事弁護教官室作成の教材において,広沢参議暗殺事件における刑事弁護に関する言及が淡泊になるわけです。

 なお,荒木博臣の同僚弁護官は長野文炳で,官職は明法権中法官となっています(尾佐竹119頁)。荒木の方が長野よりも位が上ですから,弁護官として「別に弁護すべき意見なし・・・特に弁護するに及ばずと信ず」と述べるべく判断したその判断は,やはり荒木に帰せられるべきでしょう。

 「薩の西郷と並び称された長州第一の人物」であると評価され,かつ,「参議の顕職に在つた」のに(尾佐竹95頁),広沢真臣は,現在では余り知られない人物になってしまっていますね。ただし,太っ腹の人だったようです。かねは「広沢の妾となつてからも起田との関係ばかりでなく広沢の甥とも関係し,従者の誰彼とも関係があり,来る若侍には巫山戯る,大酒呑みのズボラと来て居る,これを広沢に忠告してもそれでも広沢は寵愛して居つたといふ」ことで,広沢家の閨門は紊れていたそうです(尾佐竹108頁)。ところで,「かねは当時妊娠中で且つ持病のあつたのが拘留せられ,拘留中に分娩し,其子は広沢家に引取られたが,分娩後75日経たぬ内に拷問せられ・・・」とありますが(尾佐竹100頁),広沢家に引き取られた「其子」こそ,後の広沢金次郎伯爵なのでしょうか。

 起田及びかねの被疑事件については,警視庁で捜査の局に当った(ということで拷問についても責任者であり,かつ,「正直漢で鼻柱は強かつたが頭が単純では一度こうと思ひ込んでは思ひ返す事の出来ない男」(尾佐竹100頁)である)安藤則命中警視は張り切っていたのですが,司法省で取調べに当った判事たちは物にならないだろうとの見解,しかし広沢参議暗殺事件については明治天皇から「賊ヲ必獲ニ帰セヨ」との詔書が明治四年二月二十五日〔グレゴリオ暦1871年4月14日〕に発せられており(尾佐竹97頁),更に明治7年〔1874年〕8月11日には大木喬任司法卿が明治天皇に召されて「猶々精々尽力捜索を遂げよ」とのお言葉を賜ってしまっているので(尾佐竹107頁),司法省としてはなかなか引っ込みがつかず,そこで「空前絶後の大法廷」を設けて何とか事件に区切りをつけたということでしょうか。一種の「勧進帳」ですね。

ところで,広沢参議暗殺被告事件を取り扱う臨時裁判所別局の公判に付されたのは起田とかねとの事件だけではなく,「窃盗の為め忍入り,広沢参議に発見せられ,之を殺したといふ白状」を別途していた「無頼漢」青木鉄五郎及び「つまらぬ関係者」である坂口匡の事件もまた付されています(尾佐竹115頁)。起田が有罪ならば青木が無罪,青木が有罪なら起田は無罪,両者無罪はあっても両者有罪はあり得ません(なお,結論を先にいえば,青木及び坂口も無罪になっています(尾佐竹125127頁)。)。現在の「検察の実務においては,的確な証拠に基づき有罪判決が得られる高度の見込みがある場合に限って起訴するという原則に厳格に従っている」ので(司法研修所検察教官室『平成18年度 検察講義案』67頁),相互に有罪が両立しない二つの公訴を提起などしたら検察庁は一体どうなってしまったのかということになるのでしょうが,明治の昔はおおらかです。また,弁護人としても,起田と青木とは利害が相反するようにも思われるので厄介です。「〔弁護士〕職務〔基本〕規程上,利害相反する被疑者・被告人から弁護の依頼を受けても,これを受任することは許されない(職務規程28③)」とされています(『平成18年度 刑事弁護実務』49頁)。しかしながら,荒木・長野両弁護官は,起田も青木も一緒くたにして弁護するものとされていたようです。1875年7月13日の弁護官発言をより正確に引用すると「青木,坂口,起田,かね等に付き,別に弁護すべき意見なし,仮令抑圧せらるゝとも,真正の事実を述べられざる道理なき故,特に弁護するに及ばずと信ず」となっています(尾佐竹123124頁。下線は筆者によるもの)。 刑事訴訟規則29条5項は国選弁護人について「被告人又は被疑者の利害が相反しないときは,同一の弁護人に数人の弁護をさせることができる。」と規定していますが,起田と青木とは利害が相反していなかったということでしょうか。そもそもからして,両者とも有罪になる見込みが薄いので,実質的に考えて,利害相反など気にしなくともよいよと司法省は考えていたということでしょうか。

 

3 「正直」な裁判官となる。

弁護官としては「別に弁護すべき意見なし・・・特に弁護するに及ばずと信ず」で終始した荒木博臣でしたが,その分その後裁判官としての実質的弁護で埋め合わせをしてくれたのでしょうか。(「実質的弁護」とは,「裁判所や検察官も,勿論被告人の権利を護ってやらなければならない」ということです(平野龍一『刑事訴訟法』(有斐閣・1958年)73頁)。)しかしながら,どうもそうでもないようです。大阪で有名であった代言人・砂川(かつ)(たか)1918年の『法曹紙屑籠』で荒木博臣判事を評していわく。

 

裁判官は正直でなければならぬことは勿論であるが,余り(・・)正直すぎて(・・・・・)道徳(・・)()観念(・・)高い(・・)()刑事(・・)裁判(・・)など(・・)()()()失する(・・・)虞れ(・・)()ある(・・)。当時有名であつた判事荒木博臣氏は,最も正直謹厳而も温厚な人であつたが,同氏の裁判は刑が重いとて被告人等は恐れて居つた。知らず識らず自己の高尚なる道徳観念を標準とするためではなからうか。(圏点原文のまま。坂本82頁に引用されているもの)

 

 塩っ辛いというべきか,北海道弁でしょっぱいというべきか。ますます刑事弁護の側から遠いところに,司法官としての自己を規定していたようです。
 前記『鷗外』24号の略年譜によれば,広沢参議暗殺事件の弁護官を務めていた1875年5月にその年にできた大審院勤務を命ぜられていた荒木は,翌年の1876年9月23日に大阪上等裁判所詰,1877年6月29日に福島裁判所長,1880年3月19日に大審院刑事課勤務,1886年7月10日に大阪控訴院評定官,1890年10月22日に数え54歳で大審院判事,1893年3月19日に退職,という裁判官としての経歴であって,1914年4月17日に数え78歳で直腸癌で歿,長女志げが鷗外森林太郎と婚姻して「鷗外岳父」となったのは1902年1月4日のことでした(坂本89‐90頁)。 

 

4 文豪との縁と人気作家との薄い縁

 

(1)松本清張と『両像・森鷗外』

 若き日(といっても43歳の時ですが)『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞した松本清張は,1992年4月に病に倒れるまで(同年8月4日満82歳で死去)遺作となった『両像・森鷗外』(文藝春秋・1994年)の加筆を続けていました。書かれていたのは「鷗外の二人の岳父・赤松則良と荒木博臣のプロフィール」でした(『両像・森鷗外』編集部註)。しかしながら,当該「未整理の追加原稿」から『両像・森鷗外』の単行本に掲載された荒木博臣に関する記述は,なお次のものにすぎませんでした。

 

  荒木博臣は肥前佐賀藩の士族というだけで,これといった有力な背景がなかった。討幕運動は薩・長・土・肥の連合といわれるが,藩主鍋島直正(閑叟)は早くから藩士の人材登用に心をもちい,大隈重信,江藤新平,副島種臣などが新政府に参加し得たのは直正の後押しによった。

  荒木博臣のことはこれまでよくわからなかった。(ママ)艸太郎氏の『鷗外岳父・荒木博臣』は,同人雑誌の掲載ながら彼を知る労作である」(『両像・森鷗外』第1刷286頁)

 

『両像・森鷗外』の単行本は,ここで終わっています。

しかしながら,荒木博臣は,とことんよくわからなくなる定めにあるようです。松本清張の絶筆ともいうべき上記掲載部分の最後に登場する「山中艸太郎氏」とは,当該『鷗外岳父・荒木博臣』論文を読むべく筆者が国立国会図書館の蔵書検索をしたところ,実は「田中艸太郎氏」であるようでした。「田中艸太郎」で検索して,何とか国立国会図書館で同氏の論文「鷗外岳父・荒木博臣のこと」(九州文学197111月号(第34巻第11号・通巻第321号)16頁)を見ることができたのですが,これは何と1頁足らずの小品であって,娘・志げが鷗外に嫁して鷗外の岳父となったこと,鷗外と漢詩・漢籍に関してやり取りがあったこと及び「明治二年に東京に出て江藤新平を頼り,その奔走で官途に就」くまでの略歴が記されているばかりで,「彼を知る労作」とまではなかなかいいにくいようです。松本清張は最晩年に至ってどうしてしまったのだろうとまで頭を悩ませたのですが,インターネットのウェッブ・ページをうろうろしたところ,雑誌『西日本文化』の第83号及び第84号に著者を田中艸太郎とする「鷗外岳父・荒木博臣のこと」が2回にわたって掲載されているようです。なるほど,大部の労作のようです。しかし,いやはや,また出直しです。(なお, 「田中」を「山中」にしてしまった『両像・森鷗外』第1刷の誤植は, 当然のことながら, 文藝春秋社によって後に改められています。)

 

(2)司馬遼太郎とここでも『歳月』

小倉時代の鷗外の事績を追う孤独な青年の情熱を描いた『或る「小倉日記」伝』から『両像・森鷗外』まで,鷗外を終生一つの執筆テーマとして執念を燃やし続けていた松本清張とは残念ながら縁の薄かった荒木博臣ですが,松本清張と並ぶ昭和の人気作家であって,幕末・明治の時代を舞台とした作品を数多く残した司馬遼太郎からは,冷淡かつあっさり無視されています。

 ことは,明治二年十二月二十日(グレゴリオ暦1870年1月21日)の江藤新平暗殺未遂事件にかかります。

 当該事件の経過は,荒木博臣の次男・三雄が発起人となって今から百年前の1916年に虎ノ門に建てられ(商船三井のビルの脇にあります。)同年1112日に除幕された江藤新平の遭難遺址碑の碑文には次のようにあるところです。

 

 明治二年十二月二十日中辨従五位江藤君新平訪阪部長照於赤坂葵街佐賀藩邸会西岡逾明荒木博臣在座歓晤至夜半君先去竹輿出邸僅数歩暴客猝狙撃君躍身避溝中三人聞急提刀走出護君入邸招医療創・・・(下線は筆者によるもの)

 

(大意)明治二年十二月二十日に中辨で従五位の江藤新平が赤坂葵町の佐賀藩邸に阪部長照を訪ねて行ったら,西岡逾明と荒木博臣がいたので皆で夜半まで(酒を飲みながらでしょうね)面白く話をした。江藤新平は先に帰ることにしたが,かごが藩邸を出てわずか数歩のところで暴漢が突然江藤に襲いかかった。江藤は身を躍らせて溝の中に入って難を避けた。阪部,西岡及び荒木の三人は急を聞いて刀をひっつかんで走り出て,江藤を護って藩邸に入り,医者を招いて(きず)の治療をさせた。


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 これが,司馬遼太郎が江藤新平の生涯を小説として描いた『歳月』の「闇討ち」の章では,次のように改められています。すなわち,

 明治二年十二月二十日に江藤が訪れた佐賀藩邸は,赤坂葵町の藩邸ではなく溜池の藩邸とされ(同じ中屋敷のことをいっているのでしょうが,「溜池」といわれると今日の読者には今の溜池交差点辺りの印象であるのに対して,実際には現在虎の門病院などがある辺りです。),

 訪問相手は,佐賀藩士の阪部長照ではなく佐賀藩主の鍋島(なお)(ひろ)及び藩父閑叟とされ,

 酒は,阪部長照,西岡逾明(江藤の1歳年下)及び荒木博臣(江藤の3歳年下)とくつろいで飲んだのではなく謹直な閑叟と飲んだとされ,

 藩邸と襲撃場所との間の隔たりは,藩邸を出てわずか数歩ではなく駈けて1丁も行った時間及び距離とされ(1町は約109メートルです。),

 江藤は,ちょっと格好悪く溝の中に逃げたのではなく(なお,この「溝」は外堀のことでしょうか。),「脇差を片手頭上にかざして曲者のほうに突進」して「無礼であろう」と吠えて襲撃者らを追い払ったものとされ,

 阪部,西岡及び荒木が江藤を救出した武士の義侠話はまるまる消えて,お伴の黒沢鐘次郎という十五歳の少年が逃走してしまった幕府瓦解後の薄情話に差し替えられ,

 阪部,西岡及び荒木に護られて葵町の藩邸に担ぎ込まれた話もまるまる消えて,流血の江藤は傷を負ったまま琴平神社前から溜池藩邸まで独りでとぼとぼ歩いたとされ,更に江藤の策士性及びすさまじさを強調するためか,溜池藩邸前でそこにいた襲撃犯の一味二人に対して仲間を装って名を聞き出そうとした上「虎のように口をあけ,「わしは江藤新平だ」と,わめい」て両名を退散させた,という話が付加せられています。

 司馬遼太郎は小説家であり,『歳月』は飽くまでも小説です。

 なお,西岡逾明は,広沢参議暗殺事件の臨時裁判所別局の裁判官で,1875年7月13日に被告人らに無罪の言渡しをしています(尾佐竹120121頁,125127頁)。荒木博臣は司法卿・江藤新平の引きで明治五年十月(グレゴリオ暦1872年11月)に地方官から中央の司法官となったのですが(坂本79頁),西岡逾明も同様だったのでしょう。出世するためには,偉い人,偉くなる人とお酒を飲んでおくべきものです。

1 三百代言

 我が国の「訴訟における代理人制度は,明治5年〔1872年〕の司法職務定制(同年8月3日太政官無号達)によって最初に認められた。職務定制は江藤新平が司法卿に就任してのち,フランス法の影響下で訴状の作成をする代書人と民事訴訟における弁論の代理をする代言人とを認めた。ここに初めて訴訟行為における代理制度が成立したのであり,日本の伝統的な司法制度の重大な変革が行われた。司法職務定制による代言人は,我が国の弁護士制度の始まりである。」とされています(司法研修所『平成18年度 刑事弁護実務』2頁)。ところが,江戸時代に訴訟関係人を泊める旅館(公事宿)の経営者であった「公事師からの系譜を受けた代言人も多く,同業者間に依頼者の獲得競争を生じ,報酬のダンピングも行われ,青銭三百文,玄米1升という低価で事件を引き受ける代言人もあったので,この時代に「三百代言」という蔑称も生まれた」そうです(同4‐5頁)

 司法職務定制の第10章「証書人代書人代言人職制」中第42条及び第43条は次のとおり。

 

 第42

  代書人

  第1 各区代書人ヲ置キ各人民ノ訴状ヲ調成シテ其詞訟ノ遺漏無カラシム

    但シ代書人ヲ用フルト用ヒサルトハ其本人ノ情願ニ任ス

  第2 訴状ヲ調成スルヲ乞フ者ハ其世話料ヲ出サシム

 第43

  代言人

  第1 各区代言人ヲ置キ自ラ訴フル能ハサル者ノ為ニ之ニ代リ其訴ノ事情ヲ陳述シテ枉冤無カラシム

    但シ代言人ヲ用フルト用ヒサルトハ其本人ノ情願ニ任ス

  第2 代言人ヲ用フル者ハ其世話料ヲ出サシム

    証書人代書人代言人世話料ノ数目ハ後日ヲ待テ商量スヘシ

 

1893年に旧々弁護士法(明治26年法律第7号)が施行されて(同年5月1日施行(同法38条1項)),代言人の称は弁護士に変わっています(同法38条2項により明治13年司法省甲第1号布達代言人規則は廃止。同法35条は「現在ノ代言人ハ本法施行ノ日ヨリ60日以内ニ弁護士名簿ニ登録ヲ請フトキハ試験ヲ要セスシテ弁護士タルコトヲ得」と規定)

ところで,三百代言諸氏がそれで訴訟代理活動等を行ったという「青銭三百文,玄米1升」という世話料は,どれくらいの価値があったものでしょうか。

 

2 青波銭(寛永通宝四文銭)の新貨換算

明治四年(1871年)五月に出た新貨条例は,我が通貨単位に円を採用し,1円を100銭,1銭を10厘としました。「新貨幣ト在来通用貨幣トノ価格ハ1円ヲ以テ1両即チ永1貫文ニ充ツヘシ」とされています。

 同年十二月十九日に出た太政官第658(新貨並ニ金札ノ比較及ヒ旧銅貨ノ品位ヲ定ム)は,「旧銅貨ノ儀去ル辰年定価被 仰出候処今般新貨御発行ニ付各種比較商量ノ上当分左ノ通品位被相定候条其旨相心得新貨幣並金札共取交聊無差支通用可致事」と定め,その「旧銅貨品位」の表では,「青波銭ト唱へ元四文銭ナリ」との寛永通宝を「10枚ヲ以テ2銭トス」る二厘銭としています。

青銭とは青波銭のことのようですから,当該寛永通宝四文銭が75枚で「三百文」になります。しかしそれは二厘銭が75枚ということですから,150厘,すなわち15銭ということになるようです。これが「青銭三百文」の世話料の額であるようです。

なお,旧銅貨たる寛永通宝には「耳白銭或ハ其外」の「元一文銭」もあり,こちらは一厘銭とされていました(明治四年太政官第658

同じ「寛永通宝」でも四文銭があったり,一文銭があったり,一筋縄ではいきません。貨幣制度の歴史は,小アジアの古代リュディアから始まるそうですが(ヘロドトス『歴史』巻1の94節),なかなか複雑です。


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 寛永通宝四文銭(青波銭) 
 

3 明治の物価等

 

(1)明治五年(1872年)

 その五月に新貨条例,十二月十九日に太政官第658が出た明治四年の翌年であり,かつ,司法職務定制が定められた明治五年(1872年)の官吏の給与及び東京における物価はどれくらいであったでしょうか。

 

・・・優は此年四月十二日に〔埼玉県出仕の〕権少(さくわん)になつて,月給僅に25円である。これに当時の潤沢なる巡回旅費を加へても,尚70円許に過ぎない。しかし其意気は今の勅任官に匹敵してゐた。(森鷗外『澀江抽斎』その九十四)

 

・・・師範学校は此年始て設けられて,文部省は上等生に10円,下等生に8円を給した。(同・その九十五)

 

・・・文部省は当時頗る多く名流を羅致してゐた。・・・諸家が皆九等乃至十等出仕を拝して月に四五十円を給せられてゐたのである。(同)

 

  〔前記の優いわく〕「・・・今浅草見附の所を遣つて来ると,旨さうな茶飯餡掛を食べさせる店が出来てゐました。そこに腰を掛けて,茶飯を2杯,餡掛を2杯食べました。どつちも50文づつで,丁度200文でした。(やす)いぢやありませんか。」(同)

 

夕食200文。一文銭の寛永通宝の200文ということならば,200厘の20銭でしょう。勅任官に匹敵する意気の優の夕食ですから,けちなものではないはずです。

 

  ・・・保は鈴木の女主人(あるじ)に月2両の下宿代を払ふ約束をしてゐながら,学資の方が足らぬ勝なので,まだ一度も払はずにゐた。」(同・その九十六)

 

元船宿の未亡人宅2階(同・その九十三参照)を借りる師範学校生徒である保のこの下宿代は,月2円ということになります。

 

(2)1874年(明治7年)

 明治五年の2年後の1874年(明治7年)頃の東京では10銭で何が買えたかというと,「僕は外へ出て最中を10銭買つて来た。その頃は10銭最中を買ふと,大袋に一ぱいあつた。」とあります(森鷗外『ヰタ・セクスアリス』の十三歳の段)。また,その頃の語学学校寄宿舎では「大抵間食は弾豆か焼芋で,生徒は醵金をして,小使に2銭の使賃を遣つて,買つて来させるのである」そうでした(同)。こうしてみると,三百代言の15銭は,寄宿舎の小使さんのお使い7回半分です。

 

(3)1885年(明治18年)

 森林太郎一等軍医が1885年(明治18年)1010日に脱稿した『日本兵食論大意』によれば,当時「我邦ノ兵ハ毎人毎日米6合(約1「キロ」)ト金6銭,士官学校生徒ハ米6合ト金8銭ヲ給与セラル」ることになっていたそうです。「然レドモ士官学校生徒ノ食シタル米量ハ6合ニ達セズ何トナレバ其乾燥分ハ643瓦,3〔643.3g〕ニシテ721瓦,5ノ未炊米ニ当レバナリ(算法之ヲ略ス)一般ノ兵卒モ6合ノ米ヲ食ヒ尽ス者ハ少ナカルベシ」ということでした。若い健康な壮丁兵士が1日に食べるべき米の量は平均約4.5合ということでしょうか。なお,「「ショイベ」氏ノ試験セル強壮ナル日本人ハ1日平均6百02瓦ノ未炊米ヲ食ヘリ」とされています。森一等軍医は更に,在営兵卒1人1日の食量を試算した上で,「其代価ハ之ヲ概算セシニ米価ヲ合シテ約10銭ナリ(算法之ヲ略ス)」と述べています。すなわち,1885年当時の我が国では,1日10銭あれば,健康な食生活は可能であったようです。(ただし, 脚気問題はここでは取り上げません。)

 

(4)明治末年の一厘事件判決(1910年)

 なお,明治の末期には,「“半銭”と刻印された五厘銅貨があったが,その頃でさえ五厘銅貨1枚で買えるものはほとんどなくなりつつあった。」とされます(鈴木武雄『おかねの話』(岩波新書・1967年)60頁)

 いわんや1厘をや。すなわち,有名な一厘事件(煙草専売法違犯ノ件)に係る1910年の大審院(たいしんいん)明治431011日判決(刑録161620頁)は,「此種ノ反法行為ハ刑罰法条ニ規定スル物的条件ヲ具フルモ罪ヲ構成セサルモノト断定スヘク其行為ノ零細ニシテ而モ危険性ヲ有セサルカ為メ犯罪ヲ構成セサルヤ否ヤハ法律上ノ問題ニシテ其分界ハ物理的ニ之ヲ設クルコトヲ得ス健全ナル共同生活上ノ観念ヲ標準トシテ之ヲ決スルノ外ナシトス」と述べ,1909年度煙草耕作人でありながら政府に納入すべき煙草7分(価額金1厘相当)を手刻みとして消費した被告人を無罪としています。(当時の葉煙草専売法(明治29年法律第35号)21条は「葉煙草ヲ耕作スル者政府ニ納付スヘキ葉煙草ヲ他ニ譲渡シ若ハ消費シタルトキ又ハ葉煙草ノ譲渡ヲ受クルコトヲ得サル者葉煙草ノ譲渡ヲ受ケタルトキ又ハ煙草製造ヲ業トスル者若ハ葉煙草売買ヲ業トスル者情ヲ知リ政府ヨリ売渡ササル葉煙草ノ譲渡ヲ受ケタルトキ若ハ葉煙草ノ譲渡ヲ受クルコトヲ得サル者ヨリ葉煙草ノ譲渡ヲ受ケタルトキ若ハ氏名居所不明ノ者ヨリ葉煙草ヲ譲受ケタルトキハ10円以上300円以下ノ罰金ニ処シ其ノ犯罪ニ係ル葉煙草ノ現存スルトキハ之ヲ没収シ既ニ譲渡シ又ハ消費シタルトキハ其ノ代金ヲ追徴ス」と詳細に規定していました。なお,上記判決は行為の零細性のみならずその危険性も問題にしていますから,「判例も,一厘事件判決(大判明43・10・11刑録16・1620)以来,処罰に値しない法益侵害を,構成要件に該当しないとしてきた」として(前田雅英『刑法総論講義[第4版]』(東京大学出版会・2006年)103頁),「軽微」性は指摘するものの行為又は犯人(上記判決引用部分の前の部分には「犯人ニ危険性アリト認ムヘキ特殊ノ情況ノ下ニ決行セラレタルモノニアラサル限リ」という表現がありました。)の危険性の問題に言及しないのでは少し物足りない気がします。)ここでいう7分は,2.625グラムです(度量衡法(明治42年法律第4号)1条は「衡ハ貫ヲ以テ基本トス」とし,第2条はキログラム原器の「分銅ノ質量4分ノ15ヲ貫」とし,第3条の衡の項では分を貫の1万分の1としています。計量法施行法(昭和26年法律第208号)4条2号及び5条3号参照)。一厘事件の添田増男弁護人は「1厘ノ金実ニ1枚ノ青銅此カ如何ニ活躍ヲ恣ニスト雖モ其影響ノ及フ処夫幾程ソヤ之ヲ善用シテ益スル所数ナラス之ヲ悪用シテ毒スル所看ルヲ得ス否寧ロ共ニ社会反応ヲ呼起スルニ足ラサルモノト云フヘシ」と論じていますが,そこでいう「1枚ノ青銅」は明治政府の発行した新貨条例にある一厘銅貨だったものか,それとも寛永通宝一文銭だったものか。ちなみに,1897年の貨幣法(明治30年法律第16号)の下においては,青銅貨幣の最小は五厘ということになっていて(同法3条等),一厘青銅貨の発行はなかったようです。

 

(5)和歌山県における「一厘銭」

 ところで,少なくとも和歌山県では,20世紀の初頭において一厘銭といえば,なお寛永通宝一文銭であったようです。1894年生まれの松下幸之助の回想にいわく。

 

  私は和歌山の家で母と貧乏暮しをしておったとき,学校から帰ってくると,「お母さん,おやつ」というと,母はまん中に穴のあいた一厘銭をくれた。それを持って駄菓子屋へ飛んでいくと,アメ玉を2個くれる。それが日課になっておった。(松下幸之助『物の見方考え方』(PHP文庫・1986年)。下線は筆者)

 

なお,いたいけな幸之助少年から寛永通宝一文銭を強取すると,さすがにこれは被害額1厘とはいえ無罪とはなし難いでしょう。旧刑法(明治13年太政官布告第36号)378条は「人ヲ脅迫シ又ハ暴行ヲ加ヘテ財物ヲ強取シタル者ハ強盗ノ罪ト為シ軽懲役ニ処ス」と規定していました。軽懲役は,重罪の刑で(同法7条7号),6年以上8年以下です(同法22条2項後段)。

 
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 穴のない一厘銭と穴のあいた「一厘銭」(寛永通宝一文銭)
 

5 米1升の食いで

 青銭三百文の値打ちは以上のとおり。しかし,米1升の食いでは,なかなかばかにできません。

 筆者は学生時代のある夏,ワンダーフォーゲル部員として,山形県と新潟県との境にある朝日連峰を藪漕ぎ藪抜け,長期縦走したのですが(石見堂岳,赤見堂岳,枯松山,大桧原山,障子ヶ岳,天狗角力取山,三方境,寒江山,竜門山,西朝日岳,大朝日岳,平岩山,祝瓶山,御影森山),新潟県は村上海岸で夏合宿山行の各パーティが集結してキャンプをし,今夜は打ち上げというその日の午後,地元で調達した本場コシヒカリの飯盒1発分すなわち米1升(これは炊き上がった状態で,元の生米は4合です。)の単独カッポジリ(スプーンでかっぽじりながら食べること)に挑戦したことがあります。山の中ではとにかく腹が減っていて何でも貪り食う状態でしたから,うまそうな銀シャリ1升(生米4合)などペロリだぞという勢いでカッポジリを始めて途中まで順調,あっぱれ胃の腑まで頑丈な山男なりと自賛していたのですが,残り数口というところで突然の腹痛に襲われ,七転八倒のたうち回りました。心配した先輩が,

 「齊藤,どうした?」

と声をかけてくれたのですが,

 「ハイ。飯盒1発メシのカッポジリに挑戦しての名誉の戦死であります。」

 ということで,

 「バカ。」

 というお言葉でした。

 しばらく苦しんで更にじっとしていると,腹痛はやがておさまりました。

 米の飯も恐ろしいものです。

 なお,食べた分量は炊き上がった玄米1升ならぬ白米1升弱でしたが無論脚気にはならず,結構なことでした。
 1升の生米は,炊き上げれば2升5合でしょうから,七転八倒2回半分ということになります。 
 

  少々遅れましたが,明けましておめでとうございます。

 今年の初記事です

 また長々しいものになってしまいました。しかし,あえて開き直ってしまえば,生産性の高い一年の幕開けにふさわしい,ということではありましょう。


1 はじめに

 大陸軍(ダイリクグン)をもってヨーロッパを席捲したフランス皇帝ナポレオン1世(1769815日生まれ,18215551歳で没)には,複数の子どもがあったと伝えられています。(他方,大西洋の彼方のタイリクグンを率い,後にナポレオンの仇敵となるイギリスを相手に独立戦争を戦ったアメリカ合衆国のワシントン大統領には子どもは生まれませんでした。)

 公式には,皇后ジョゼフィーヌとの離婚後1810年に再婚したオーストリア皇女マリー・ルイーズとの間に生まれた夭折の嫡男ナポレオン2世(ローマ王,ライヒシュタット公。1811320日生まれ,183272221歳で没)の存在が認められているだけです。しかしながら,ナポレオンには,その他幾人かの「隠し子」があったところです。

 これらの子どもとナポレオンとの「父子」関係を,ナポレオンが自らの名の下に公布した1804年のフランス民法典(以下「ナポレオンの民法典」)を仏和辞書片手に参照しつつ,見てみることとしましょう。フランス法については門外漢であるとはいえ,ナポレオンの民法典における具体的な規定が,その後ヨーロッパ大陸法を継受して形成された我が国の民法の関係諸制度にどのような影響を与えているのかは,日本の法律家として,いささか興味のあるところです。

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立法者ナポレオン,Hôtel des Invalides, Paris

(ナポレオンの右手は「ローマ法/ユスティニアヌスの法学提要」を,左手は「ナポレオン法典/万人に平等かつ理解可能な正義」を指す。足下の言葉は「私の一箇の法典が,その簡明さによって,先行するすべての法律の総体よりも多大な福祉をフランスにもたらした。」)



2 実子かつナポレオンの嫡出子:ナポレオン2世 

 まず,ナポレオン2世。

 ナポレオン2世には,ナポレオンの民法典の「第1編 人事」,「第7章 父性(paternité)及び親子関係(filiation)」,「第1節 嫡出ないしは婚内子(enfans légitimes ou nés dans le mariage)の親子関係」(第312条から第318条まで)における次の規定がそのまま適用になります。



3121

 婚姻中に懐胎された子は,夫を父とする。

L'enfant conçu pendant le mariage, a pour père le mari.


 これは,我が民法7721項が「妻が婚姻中に懐胎した子は,夫の子と推定する。」として,慎重な規定ぶりになっているのと比べると,子を主語とした,堂々たる原則宣言規定になっています。

 (なお,我が民法の規定からは,嫡出子は妻と「夫との性的交渉によって懐胎された子でなければならない」(我妻栄『親族法』(1961年)214頁)のが原則であるということになるようです。これに対して,「嫡出親子関係に関する限り,フランス法の出発点は『人為』にあり,『自然』は『人為』の枠の中で一定の役割を占めるに過ぎない」とされています(大村敦志『フランス民法―日本における研究状況』96頁)。ちなみに,明治23年法律第98号として公布されながら施行されないまま廃止された旧民法人事編911項は,ナポレオンの民法典3121項と同様「婚姻中ニ懐胎シタル子ハ夫ノ子トス」と規定していました。)

 ナポレオンとマリー・ルイーズとのパリでの結婚式は18104月のことだったそうですから,マリー・ルイーズがナポレオンとの婚姻中にナポレオン2世を懐胎したことについては問題はありません(妊娠期間はおおよそ9箇月)。2世は,1世の嫡出の子です。

 なお,わが民法7722項の「婚姻の成立の日から200日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から300日以内に生まれた子は,婚姻中に懐胎したものと推定する。」との規定に対応する規定は,ナポレオンの民法典では次のようになっています。



314

 婚姻から180日目より前に生まれた子は,次の各場合には,夫によって否認され得ない。第1,同人が婚姻前に妊娠を知っていた場合,第2,同人が出生証書に関与し(s'il a assisté à l'acte de naissance),かつ,当該証書が同人によって署名され,又は署名することができない旨の同人の宣言が記されている場合,第3,子が生育力あるもの(viable)と認められない場合。


315

 婚姻の解消から300日後に生まれた子の嫡出性は,争うことができる。


 なお,l'acte de naissance「出生証書」ではなく,「出生届」としたくもなったところですが,我が旧民法の規定から推すに,同法の母法国であるフランスにおいては,出生の届出があると証書(acte)が身分取扱吏の関与の下で作られるとともに,身分登録簿(le registre de l'état civil)に登録(inscrire)されていたもののようです。すなわち,旧民法によれば,出生があれば「届出」がされ(旧民法人事編95条,99条参照),当該「出生・・・ハ身分取扱吏ノ主管スル帳簿ニ之ヲ記載ス可」きものであるところ(同289条),その「帳簿ニ記載シタル証書ハ公正証書ノ証拠力ヲ有」するものとされ(同2901項本文),また,「身分取扱吏ノ詐欺若クハ過失ニ因リテ証書ヲ作ラサリシトキ」があるもの(同291条)とされている一方,本人は,出生証書を婚姻等の場合に提出すべきものとされていたところです(同441号等)。


3 実子であるが他の男性の嫡出子:アレクサンドル及びジョゼフィーヌ


(1)アレクサンドル・ヴァレウスキ伯爵

 ナポレオンの隠し子で最も有名なのは,ポーランド生まれで,後にナポレオン3世の政府の外務大臣にもなったアレクサンドル・ヴァレウスキ伯爵(181054日生まれ)でしょう。甥の3世よりも息子の方が当然1世によく似ているので,ヴァレウスキ家の外務大臣がボナパルト家の皇帝と勘違いされることも間々あったとか。ちなみに,1858年の日仏修好通商条約の締結は,アレクサンドル・ヴァレウスキ外務大臣時代の出来事です。

 さて,アレクサンドルの母親は,マリア・ヴァレウスカ。しかし,マリアは,1807年の初めポーランドでナポレオンに出会った当時既に,同地の貴族であるヴァレウスキ伯爵の妻でした。すなわち,アレクサンドルは,母マリアとヴァレウスキ伯爵との婚姻中に懐胎された子です。

 アレクサンドルが生まれた当時のポーランド(ワルシャワ大公国)における民法がどのようなものであったかはつまびらかにできないのですが,ナポレオンの民法典に則って考えると,前記3121項(同項の原則によれば,アレクサンドルの父は母の夫であるヴァレウスキ伯爵になる。)のほか次の条項が問題になります。



3122

 しかしながら,夫は,子の出生前300日目から同じく180日目までの期間において,遠隔地にいたこと(éloignement)により,又は何らかの事故により(par l'effet de quelque accident),その妻と同棲(cohabiter)することが物理的に不可能であったこと(l'impossibilité physique)を証明した場合には,その子を否認することができる。


313

 夫は,自己の性的不能(son impuissance naturelle)を理由として,子を否認することはできない。夫は,同人に子の出生が隠避された場合を除き(à moins que la naissance ne lui ait été cachée),妻の不倫を理由としても(même pour cause d'adultère)その子を否認することはできない。ただし,上記の場合においては,夫は,その子の父ではないことを理由づけるために適当なすべての事実を主張することが許される。


316

 夫が異議を主張(réclamer)することが認められる場合には,同人がその子の出生の場所にあるときは(s'il se trouve sur le lieux de la naissance de l'enfant),1箇月以内にしなければならない。

 出生時に不在であったときは,帰還後2箇月以内にしなければならない。

 同人にその子の出生が隠避されていたときは,欺罔の発見後2箇月以内にしなければならない。


 ヴァレウスキ伯爵がアレクサンドルの嫡出を否認することができた場合(アレクサンドルの出生は伯爵に隠避されていなかったようですから,ナポレオンの民法典313条ではなく3122項が問題になるのでしょう。また,マリア夫人は長くポーランドの家を離れてナポレオンと一緒にいたようです。)であっても,最短では, 181064日までに否認しなかったのであれば(同法典3161項参照),ことさら「認知」をするまでもなく,アレクサンドルの父はヴァレウスキ伯爵であると確定したわけです。


(2)モントロン伯爵令嬢ジョゼフィーヌ

 ナポレオンは,皇帝退位後も,別の機会に人妻に子を産ませています。

 1815年にセント・ヘレナ島に流されたナポレオンに,同島においてなおも仕えた側近の中に,モントロン伯爵夫妻がありました。その間無聊をかこつナポレオンとモントロン伯爵夫人との間には,一人の女児が生まれています。しかし,幼女ジョゼフィーヌ(1818126日生まれ,1819930日没)の父が,ナポレオンの民法典によれば,母の夫であるモントロン伯爵であることは,動かせないでしょう。

 すなわち,ジョゼフィーヌの出生はモントロン伯爵に隠避されていたわけではなく(ナポレオンの民法典313条参照),モントロン伯爵夫妻はどちらも狭いセント・ヘレナ島で生活していたのですから,「同棲することが物理的に不可能であった」わけでもないところです(同法典3122項参照)。したがって,夫であるモントロン伯爵による否認はできず,「婚姻中に懐胎された子は,夫を父とする。」とするナポレオンの民法典第3121項の原則が貫徹するのでしょう。


4 実子であるが「父が不在である子」:シャルル・レオン

 180612月(出生日は,インターネット上では,13日,15日等あって十分一定していません。)にエレオノール・ドゥニュエルから生まれたシャルル・レオンの場合は,法律の適用関係がどうなっていたのかまた難しいところです(なお,Léonというのは,Napoléonの最後の4文字ですね。。シャルル・レオンの身分登録簿には,母はエレオノール・ドゥニュエルであるが,父は不在(absent)として登録されていた(officiellement inscrit)とされています(La Fondation NapoléonのサイトにあるHenri Ramé氏による記事)。


(1)母の前夫の嫡出子とされる可能性

 ところで,実は,エレオノール・ドゥニュエルは1806429日に離婚が成立するまでは,ルヴェルという男の妻であったところです。

 通常の妊娠期間の長さから考えると,ルヴェルとの離婚の前にシャルル・レオンが懐胎されたのでしょうから,前記のとおり,ナポレオンの民法典の第3121項(また,同法典315条参照)によれば,シャルル・レオンはルヴェルの嫡出の子となるのが順当であったところです。どうしたものでしょう。

 とはいえ,実は,シャルル・レオンが懐胎されたころには,母エレオノール・ドゥニュエルの夫であるルヴェルは詐欺罪で収監されていたようですから(夫の収監で困ったエレオノールは,そこで,ナポレオンの妹であるカトリーヌの「朗読係」をすることになっていたわけです。),ナポレオンの民法典3122項に基づき,ルヴェルからシャルル・レオンが子であることを否認することは可能ではあったわけです。しかし,そのような訴訟沙汰が本当にあったものかどうか(なお,ナポレオンの民法典318条によれば,夫が訴訟外で子の否認をしても,1箇月内に訴え(une action en justice)を提起しなければ効力のないものとされています。)。いろいろと面倒ではなかったでしょうか。


(2)嫡出でない子の場合


ア ナポレオンによる認知に対する障害

 フランスにおける身分登録の手続に関する実際の詳細に立ち入るのはまた大変ですから,取りあえず,シャルル・レオンは,改めてルヴェルの嫡出子とされる可能性はないものと考えましょう。すなわち,シャルル・レオンは,婚姻外(hors mariage)で生まれた,嫡出でない子(enfant naturel)であるものとしましょう。

 その場合,ナポレオンによるシャルル・レオンの認知のいかんが次の問題になります。

 ナポレオンの民法典第1編第7章の「第3節 嫡出でない子」,「第2款 嫡出でない子の認知」(第334条から第342条まで)における第334条は,認知の手続について次のように規定しています。



334

 嫡出でない子の認知は,その出生証書においてされていなかった場合は,公署証書によって(par un acte authentique)されるものとする。


 一見単純です。しかしながら,1806年当時,ナポレオンにはジョゼフィーヌという正妻がいたところです。したがって,ナポレオンの民法典の次の条項の存在は,ナポレオンによるシャルル・レオンの認知の障害となったものでしょう。

 


335

 近親間又は不倫の関係から生まれた子(enfans nés d'un commerce incestueux ou adultérin)のためには,認知をすることができない。


 さすがに,皇帝陛下の不倫行為を示唆してしまうような身分登録はまずかったわけでしょう。


イ 「父の捜索」の否定

 同様に,エレオノール・ドゥニュエルの子であるシャルル・レオンから,ジョゼフィーヌという正妻のいるナポレオンに対して認知を求めることもできなかったところです。ナポレオンの民法典の次の条項は,このことを明らかにしています。



342

 第335条により認知が許されない場合においては,子は,父の捜索をすることも母の捜索をすることも許されない。


 ちなみに,母子関係は母の認知をまたず分娩の事実によって発生するとするのが我が国の判例(最判昭37427民集1671247)ですが,これに対して,民法の条文の文言どおり母の認知を要するものとする谷口知平教授の説は「母の姦通の子や未婚の子が虚偽の届出または棄児として,身分をかくそうとしている場合に,第三者から出生の秘密をあばくことは許さるべきではない。子の朗らかな成人のためにその意思を尊重し,母または子のいずれかの発意と希望があるときにのみ母子関係を認むべきだ」ということを実質的な根拠の一つとしているものとされているところ,当該谷口説を,我妻教授は,「虚偽の出生届を公認してまで,人情を尊重すべしとの立場には賛成しえない」,谷口「教授の懸念されることは,社会教育その他の手段によって解消すべきもの」と批判していたところです(我妻『親族法』248-249頁)。我妻教授は「非嫡出子と母との関係は,その成立についても,成立した関係の内容についても,嫡出子と区別しない,というのが立法の進路であり,その途に横たわる障害については合理性を見出しえない」として,フランス民法よりもドイツ民法・スイス民法(いずれも当時のもの)を評価して(同232頁,234頁)上記判例を先取りする説を唱えていました。

 しかしながら,ナポレオンの民法典については,その第335条との関係からして,「人情」論を別としても,認知を介さずに分娩の事実のみから直ちに母子関係を認めるものとすることに対するためらいが,立法者においてあったのではないでしょうか。

 なお,そもそもナポレオンの民法典340条が,「父の捜索は許さず」の原則を明らかにしていたところです。



340

 父の捜索は禁止される(La recherche de la paternité est interdite.)。かどわかし(enlèvement)の場合においては,当該かどわかしの時期が懐胎の時期と符合するときは,利害関係者の請求により,かどわかしを行った者(ravisseur)を子の父と宣言することができる。


 この規定と「同一」(我妻『親族法』233頁)とされるのが,我が民法施行前の,次に掲げる明治6年太政官21号の布告です(1873118日)。



妻妾ニ非サル婦女ニシテ分娩スル児子ハ一切私生ヲ以テ論シ其婦女ノ引受タルヘキ事

 但男子ヨリ己レノ子ト見留メ候上ハ婦女住所ノ戸長ニ請テ免許ヲ得候者ハ其子其男子ヲ父トスルヲ可得事


 父に対する認知請求権は,フランス革命時代に否定されるに至ったものとされますが,その理由としては,「革命以前にこの請求権が濫用されたこと」のほか,「平等の理想の他に,男女関係において,愛情とそこに向かう意思を尊重した(離婚の自由もそこから出てくる)」フランス革命時代において,「親子関係においても同様に血のつながりでなく,父としての愛情とそのような父になる意思が父子関係の基礎であると考えた」当該時代の法律家の「奇妙な論理」が挙げられています(星野英一『家族法』(1994年)112-113頁)。「通常生理的な父は子に対して愛情を持ち,父となる意思を持つが,そうでない場合には,父たることを強制することはできない」とされたわけです(同)。


(余話として)「司馬遼太郎の『歳月』の謎の読み方」補遺

 なお,明治6年太政官21号の布告は江藤新平司法卿時代のものですが,当該布告では妾(「妻妾」の「妾」)が公認されていたことになります。

 以前御紹介した司馬遼太郎の『歳月』には,江藤司法卿がフランスからの御雇外国人ブスケと「蓄妾問答」を行った場面があり,そこでは,ブスケとの議論に負けて妾の制度を「民法に組み入れる思案をすてた以上,江藤の法家的気分からいえば積極的にこの蓄妾の風を禁止する覚悟をした。上は当然,公卿,旧大名家にまで及ぶことであり,どのような排撃をうけるかわからなかったが,とにかくもここ数年のあいだには断固としてこの禁止を立法化し,違反の者に対しては容赦なく法をもってさばくつもりであった。」と,江藤司法卿の断固たる決意が力強く叙述されています。しかしながら,そもそも当該江藤司法卿の下で,妾の禁止はしないまま,かえってわざわざそれを公認してしまったような形の布告が出されてしまっていたことになります。

 となると,明治6年太政官21号の布告は上記「蓄妾問答」の前に出されたものでしょうか。しかしながら,「父の捜索は許さず」がフランス法由来の原則であるのならば,あえて当該原則を導入しようとする当該布告がフランスの法律家であるブスケの意見を徴さずに制定されたということは考えられにくいところです。『歳月』の描くような「蓄妾問答」がその際されたとなると,江藤新平は,実際には,「妾廃止」という考えに必ずしも小説で描かれているほどには固執していなかったということになるわけで,当該小説から受ける印象とは異なり,意外と妥協的ないしは便宜主義的な人物ということになるのかもしれません。

 井上清教授は,江藤新平の人物について,「本質的に保守官僚主義者であり,急進主義と見えるものは功業欲の発現にすぎない」,「貧窮のなかに成長した秀才官僚型の大物で,立身出世の機を見るに敏」と評しています(『日本の歴史20 明治維新』(中央公論社・1966年)350頁。なお,同書のしおりは,同教授と司馬遼太郎との対談)。


(余話の余話:補遺の補遺)

 江藤新平が妾廃止論者であった証拠としては,「明治五年十一月二十一日,司法卿江藤新平,司法大輔福岡孝悌両人より,「自今妾の名義を廃し,一家一夫一婦と定め度の件」を太政官に建議せり。」という事実があります(石井研堂『明治事物起原Ⅰ』(ちくま学芸文庫・1997年)269頁)。しかしながら,「翌6115なお,明治五年の十二月は2日間しかなかった。,太政官が,「伺の趣,御沙汰に不被及候事」と指令」し,江藤及び福岡の建白は採用されませんでした(石井・前掲270頁)。司法卿及び司法大輔の当該建議が退けられた明治6年(1873115日の3日後に,前記明治6年太政官21号の布告が出ています。なお,この布告は,同月13日の太政官宛て司法省伺が契機となって出されたものです(二宮周平「認知制度は誰のためにあるのか」立命館法学310号(2006年6号)316頁,村上一博「明治6年太政官第21号布告と私生子認知請求」法学論叢67巻2=3号(1995年1月)512頁)。ちなみに,当時戸籍事務を所管していたのは,民部省から当該事務を吸収していた大蔵省であって,司法省ではありませんでした(戸籍事務は,内務省設立以後は内務省に移る。)。江藤とブスケとのせっかくの「蓄妾問答」も,江藤のせっかくの妾廃止の「覚悟」も,政府内において十分かつ決定的な重要性を持ち得なかったということのようです。しかしながらそもそも,明治五年十一月二十一日(なお,村上一博「明治前期における妾と裁判」法律論叢71234頁では,同月二十三日に正院に提出されたとされる。)の妾廃止の建白は,上司である江藤新平と部下である福岡孝悌との連名で提出されています。偉い人とそうでない人との連名文書に係る通常の作成実態からすると,当該文書の実質的作成主体は偉くない方の人であるはずです。となると,妾廃止を言い出した本当の妾廃止論者は福岡孝悌であって,江藤は福岡ほどではなかったかもしれません。


5 実子ではないが「証明されない嫡出子」:アルベルティーヌ及びギヨーム

 以上は,ナポレオンが嫡出子又は隠し子の実父となった場合です。しかし,ナポレオンの「隠し子」というよりはナポレオンに隠された子ということになりますが,ナポレオンの妻がナポレオン以外の者を実父とする子を産んだ場合もあったところです。 


(1)マリー・ルイーズとナイペルク伯爵

 ナポレオンの妻マリー・ルイーズは,実は,ナポレオンの没落後,オーストリア貴族のナイペルク伯爵と愛人関係になってしまい,二人の間には1817年にアルベルティーヌという女児が,1819年にはギヨームという男児が生まれています(名前はここではフランス語読みです。)。

 さて困ったことになりました。1819年には,マリー・ルイーズの夫であるナポレオンはまだセント・ヘレナ島で生きています。マリー・ルイーズが女公となったイタリアのパルマ公国の臣民の手前も問題です。上記の子らをマリー・ルイーズが分娩した事実は,秘密とされることになりました。

 この隠避は少なくともナポレオンに対しては成功し,最期までナポレオンは,前記事情は御存知なかったものと思われます。すなわち,ナポレオンは,1821年に死ぬ前のその遺言で,「私は最愛の妻マリ=ルイーズに満足の意を表したいと常に思っていた。私は最後の瞬間まで妻に対して最もやさしい感情を抱きつづけている。妻に頼む,どうか気を配って,私の息子(mon fils)の子供時代をまだ取りかこんでいる数々の陥穽から私の息子を守ってもらいたい。」(大塚幸男訳『ナポレオン言行録』(岩波文庫)201頁)と述べているからです。当該遺言での「私の息子(mon fils)」は単数形ですので,ナポレオン2世のみを指し,ギヨームは含まれないものでしょう。


(2)否認の不存在

 ナポレオンは大西洋の孤島であるセント・ヘレナ島に流されており,マリー・ルイーズがそこを訪れていないことは明らかですから,ナポレオンは,その民法典の第3122項に基づき,あるいはまた,子の出生が隠避されたことから第313条に基づき,第3121項によって自分の子であるとされているアルベルティーヌ及びギヨームについて,子であることの否認をすることができ,その際その否認は,同法典3163項により「欺罔の発見後2箇月以内」にすべきであったところです。しかしながら,当該否認をしないまま,ナポレオンは死んでしまいました。ナポレオンの民法典第1編第7章「第1節 嫡出ないしは婚内子の親子関係」の規定の建前からすると,ナポレオンの側からの否認(なお,同法典317条は夫の相続人(les héritiers)による否認が認められる場合について規定しています。)がされない以上,パルマのアルベルティーヌ及びギヨームは,ナポレオンの嫡出子であったわけです。


(3)証明の不存在

 しかしながら,ナポレオンとアルベルティーヌ及びギヨームとの父子関係は,ナポレオンの民法典第1編第7章「第2節 嫡出子の親子関係の証明」(第319条から第330条まで)との関係で,証明ができないもの,というのが正確なところであったようです。アルベルティーヌ及びギヨームには,ナポレオンの嫡出子としての出生証書及び身分登録(ナポレオンの民法典319条)も身分占有(同法典320条)もなかったはずだからです。

 アルベルティーヌ及びギヨームにはvon Montenuovo(モンテヌオヴォ)という氏が与えられていたところです(NeippergNeuberg(ドイツ語で「新山」)→Montenuovo(イタリア語で「新山」))。(なお,Wilhelm (ギヨーム)von Montenuovoは,オーストリア帝国のFürst(公爵又は侯爵)となりました。)



319

 嫡出子の親子関係は,身分登録簿(le registre de l'état civil)に登録された出生証書によって証明される。


320

 前条による証書(titre)がないときは,嫡出子身分の継続的占有(la possession constante de l'état d'enfant légitime)による。


322

 何人も,その出生の証書(titre de naissance)及び当該証書に合致する身分の占有によって与えられる身分と異なる身分を主張することはできない。

 また,反対に,何人も,出生の証書に合致する身分を占有している者の身分を争うことはできない。


 無論,身分登録が虚偽の場合については,ナポレオンの民法典3231項は,「・・・又は子が,虚偽の名前で(soit sous de faux noms),若しくは知れない父及び母から生まれたものとして(soit comme né de père et mère inconnus)登録された場合には,親子関係の証明は,証拠によることができる。」と規定していました。民事裁判所(tribunaux civils)のみが管轄を有する事件です(同法典326条)。

 しかしながら,身分登録と異なる親子関係の証明が認められる場合については制限的な規定があったのみならず(ナポレオンの民法典3232項,324条,325条),そもそもアルベルティーヌ及びギヨームが法律上はナポレオンの子であることをわざわざ証明しようとする者はいなかったようです。

 ちなみに,我が旧民法の親子法も「フランス法と同様」に,「証拠法的な色彩を強く帯びていた」ところです(大村『フランス民法』91頁)。

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ナポレオンの墓,Hôtel des Invalides, Paris



6 おわりに:最高裁判所平成25年12月10日決定

 実は,今回の記事を書くきっかけになったのは,先月出た,我が最高裁判所の平成251210日第三小法廷決定(平成25年(許)第5号戸籍訂正許可申立て却下審判に対する抗告棄却決定に対する許可抗告事件)でした。次にその一部を掲げます。



「特例法
性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(平成15年法律第111号)41項は,性別の取扱いの変更の審判を受けた者は,民法その他の法令の規定の適用については,法律に別段の定めがある場合を除き,その性別につき他の性別に変わったものとみなす旨を規定している。したがって,特例法31項の規定に基づき男性への性別の取扱いの変更の審判を受けた者は,以後,法令の規定の適用について男性とみなされるため,民法の規定に基づき夫として婚姻することができるのみならず,婚姻中にその妻が子を懐胎したときは,同法772条の規定により,当該子は当該夫の子と推定されるというべきである。もっとも,民法7722項所定の期間内に妻が出産した子について,妻がその子を懐胎すべき時期に,既に夫婦が事実上の離婚をして夫婦の実態が失われ,又は遠隔地に居住して,夫婦間に性的関係を持つ機会がなかったことが明らかであるなどの事情が存在する場合には,その子は実質的には同条の推定を受けないことは,当審の判例とするところであるが(最高裁昭和43年(オ)第1184号同44529日第一小法廷判決・民集2361064頁,最高裁平成8年(オ)第380号同12314日第三小法廷判決・裁判集民事189497頁参照),性別の取扱いの変更の審判を受けた者については,妻との性的関係によって子をもうけることはおよそ想定できないものの,一方でそのような者に婚姻することを認めながら,他方で,その主要な効果である同条による嫡出の推定についての規定の適用を,妻との性的関係の結果もうけた子であり得ないことを理由に認めないとすることは相当でないというべきである。」


 ナポレオンが現在も生きているものとした場合,性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律が立法されたこと及び当該法律の第41項に係る最高裁判所の上記解釈についてどのような態度をとるのかは,分かりません。しかしながら,上記決定の引用部分の「もっとも」以下の判示については,ナポレオンは,その民法典の第3122項の規定(我が民法の第772条の推定を実質的に受けない場合に係る判例(特に上記決定において引用されている平成12年最高裁判決参照)のいわゆる外観説に符合)及び第313条の規定(「夫は,自己の性的不能を理由として,子を否認することはできない。」)に照らせば,是認できるものであるとの見解を表明するのではないでしょうか。

 ただし,「最後の瞬間まで・・・最もやさしい感情を抱きつづけてい」た「最愛の妻マリ=ルイーズ」に,アルベルティーヌ及びギヨームという自分のあずかり知らぬ子が生まれていたと知ったならば,嫡出父子関係ないしは嫡出否認の在り方について,改めてその見解に変化を生じさせるかもしれませんが。

 前記最高裁判所平成251210日決定においても,裁判官の意見は32に分かれていました。
(追記:最高裁判所第一小法廷平成26年7月17日判決は,DNA鑑定の結果生物学上は99.99パーセント以上他の男の子であるとされた子であっても,妻が婚姻中に懐胎した子であって嫡出推定が働く以上なお法律上は夫の子である,としました。)


補遺 出生証書に関するナポレオンの民法典の規定(抄)

  「2 実子かつナポレオンの嫡出子:ナポレオン2」の最後の部分で紹介した出生証書に関する旧民法の規定に対応するナポレオンの民法典の規定は,次のとおりです。



55

 出生届(déclarations de naissance)は,分娩から3日以内に(dans les trois jours de l'accouchement),その地の身分取扱吏に対してされるものとし,当該身分取扱吏に子が示されるものとする。


56

 子の出生は,父によって,若しくは父によることができないときは,医師,助産婦,衛生担当吏その他の分娩に立ち会った者によって,又は母がその住所外(hors de son domicile)で分娩した場合においては,分娩がされた場所を管理する者によって,届けられるものとする。

 続いて,2名の証人の立会いの下に,出生証書(l'acte de naissance)が作成されるものとする。


57

 出生証書(l'acte de naissance)には,出生の日,時刻及び場所,子の性別並びにその子に与えられる名,父母の氏名,職業及び住所並びに証人の氏名,職業及び住所が記載されるものとする。


40

 身分証書は,各市町村において,一つ又は複数の登録簿に(sur un ou plusieurs registres tenus doubles)登録されるものとする(seront inscrits)。


70

 身分取扱吏は,これから婚姻しようとする各配偶者の出生証書(l'acte de naissance)を提出させるものとする。同条以下略

1 江藤新平司法卿の司法事務と司法職務定制


(1)司馬遼太郎の『歳月』

 前回の記事(「大審院の読み方の謎:呉音・漢音,大阪・パリ」)において,明治五年(1872)八月三日の司法職務定制と,大審院の設置に伴い司法卿が「裁判ニ干預セス」ということになった187558日の司法省職制(明治8年司法省達第10号達)とを紹介していて(なお,漢数字の日付は太陰太陽暦である天保暦(旧暦),算用数字の日付はグレゴリオ暦(明治6年(1873年)からの現行暦)によるものです。),江藤新平の生涯を描いた司馬遼太郎の小説『歳月』の次のくだりとの関係が気になりだしました。



┉┉
中弁(官房長官兼法制局長官のようなもの)時代明治四年(1871)の文部大輔就任までの江藤はこれ大蔵省及び府県知事が司法権を持つような体制を不合理とし,西洋流の司法権を考え,

 ――司法権は行政から独立させるべきである。

 とし,その制度を立案し,ついにそれが採択されるや,江藤自身が司法卿になって明治五年四月二十五日(辞令の日付。ただし,蕪山厳『司法官試補制度沿革―続 明治前期の司法について』(慈学社・2007年)338頁は,同月二十七日就任とする。)この方面のいっさいを整備することになったのである。

 ┉┉┉┉

 江藤が書いた司法省の事務分掌は5ヶ条にわかれている。その第1条には「本省は全国の裁判所を総括し,諸般の事務をとる。ただし裁判のことには関係しない」とあり,裁判はあくまでも裁判所の権限で司法省はそれに容喙しないという点,司法行政の近代的基礎としてはみごとなほどであった。(「蓄妾問答」の章の三)


 1875年の大阪会議及びそれをうけた大審院の設置をまたずに,江藤司法卿の下で既に裁判機関(裁判所)と司法行政機関(司法省)との分離が達成されていたかのような印象を受ける記述です(江藤は,征韓論政変に敗れ,18731025日に下野)。さて,どういうことでしょうか。


(2)司法職務定制

 実は江藤司法卿時代,「各裁判所ノ上ニ位スル」司法省裁判所について,司法職務定制46条は,「別ニ所長ヲ置カス司法卿之ヲ兼掌ス」と規定していたところです。江藤新平は,自分は司法卿ながら,司法省裁判所の所長として裁判のことに関係してもよろしいと考えていたわけです。また,例えば,司法職務定制52号は,司法卿は「┉┉疑讞ぎげん。讞は,はかること,罪を取り調べること,罪をさばくこと(『角川新字源』)。ノ審定重要ナル罪犯ノ論決ヲ総提ス」るものとし,同「第3章 本省章程」における第9条から第11条まではそれぞれ,「必ス上奏制可ヲ経テ然ル後ニ施行ス」る前提で本省が,「国家ノ大事ニ関スル犯罪ヲ論決」し,「全国ノ死罪ヲ論決」し,「勅奏官及華族ノ犯罪ヲ論決」するものとし,これらに応じて同「第5章 判事職制」における第20条の判事に係る第2号は「奏請スヘキ条件及疑讞ハ決ヲ卿ニ取リ輙クたやすく論決スルコトヲ得ス」と規定していたところです。


(3)司法事務

 いずれにせよ,まず,「江藤が書いた司法省の事務分掌」とは何であったのか調べなければなりません。これは,「司法事務」として,『法規分類大全』に次のようにあるところです。



   司法省伺
うかがい 明治五年五月二十日

 別紙司法事務ノ儀至急御差図有之度これありたく此段相伺候也

 (別紙)

 司法事務

1条 本省ハ全国ノ裁判所ヲ総括シ諸般ノ事務ヲ掌ル但シ裁判ノ事ニ関係スルコトナシ

2条 上裁ヲ仰クヘキ事件ハ総テ本省ヨリ奏請スヘシ

3条 卿輔ノ任ハ裁判官ヲ総括シ新法ノ草案ヲ起シ各裁判所ノ疑讞ヲ決シ諸裁判官ヲ監督シ進退黜陟ちゅつちょく。黜陟は,功の無い者を降職・免職にし,功のある者を登用・昇進させること(『角川新字源』)。スルノ権アリ

4条 諸裁判官軽重罪ヲ犯ス時ハ本省ニオヰテ論決スヘシ

5条 事件政府ニ関係スル犯罪ハ卿輔聴許セサレハ裁判官論決スルヲ得ス

 (参考)司法省記註

壬申明治五年五月二十二日江藤卿持参大隈参議差出即日御聞置ノ旨同人ヨリ口達ノ事 


 第1条でいう「本省」は,第2条及び第4条における用法との並びで考えると,全体としての司法省という意味ではなくて,司法本省ということのようです。すなわち,司法本省は,司法省に属するからといって地方の裁判所の裁判にすべていちいち関係しないよ,ということなのでしょう。明治五年八月の司法職務定制の第1条にも,「各課権限アリテ互ニ相干犯スルコトヲ得ス」とあります。

 「――司法権は行政から独立させるべきである。」といっても,江藤司法卿時代には,大蔵省及び地方官からの司法権の分離並びに司法省への接収がなお第一段階の課題であったということでしょう(司法職務定制2条は「司法省ハ全国法憲ヲ司」るものと規定。ただし,司法省もなお行政の一部ではあります。)。

 ところで,司法事務の「(参考)」を見ると,明治五年五月二十二日に江藤司法卿が,太政官の正院に「伺」の形で「司法事務」案を持参し,同じ佐賀出身の大隈重信参議に提出したところ,即日大隈参議から,聞き置かれたよと口頭で話があったということのようです。翌日の同月二十三日は明治天皇の中国・西国巡幸(明治天皇の六大巡幸の最初のもの)の出発日であって忙しいところに,「至急御差図」してくれといきなり重要な伺い案件を持ち込まれても(困りますね。),確かに,「聞置」くしかできないでしょう。江藤の司法事務は,少なくとも司法省内においては司法卿の決定として大原則を定める効力を有していたのでしょうが,太政官における扱いは以上のようであった次第です。


2 各省と太政官(内閣)


(1)太政官

 ここで,司法省と太政官との関係がまた問題になります。明治五年当時の中央官制は,明治四年(1871年)七月十四日の廃藩置県による国制の大改革後同月二十九日に発布された太政官職制(太政官第386)に基づくものであったところです。

 この明治四年七月の太政官職制によって,初めて太政官に太政大臣が置かれ,「天皇ヲ輔翼シ庶政ヲ総判」することになりました。

 また,太政官が正院,左院及び右院から構成されることになりましたが,正院が従来の太政官に相当するもの(正院事務章程によれば「正院ハ 天皇臨御シテ万機ヲ総判シ大臣納言実際には納言に代わって左右大臣が置かれた(下記の明治四年太政官第400参照)。之ヲ輔弼シ参議之ニ参与シテ庶政ヲ奨督スル所」)であった一方,左院は立法に関する審議機関(左院事務章程によれば「左院ハ議員諸立法ノ事ヲ議スル所」)であり(ただし,立法については,正院事務章程において「凡立法施政司法ノ事務ハ其章程ニ照シテ左右院ヨリ之ヲ上達セシメ本院之ヲ裁制ス」とされていました。),各省の長官及び次官によって構成される右院はいわば各省の連絡機関(右院事務章程によれば「右院ハ各省ノ長官当務ノ法ヲ案シ及行政実際ノ利害ヲ審議スル所」)でした。

 各省は,太政官の下に置かれ(なお,正院事務章程において「諸官省等ヲ廃立分合スルモ本院ノ特権タリ」と規定されていました。),卿は各省の長官です。

 太政官と各省との関係は,明治四年八月十日の官制等級の改定(太政官第400)において,「太政官是ヲ本官トシ諸省是ヲ分官トス」,「太政大臣左右大臣参議ノ三職ハ 天皇ヲ輔翼スルノ重官ニシテ諸省長官ノ上タリ」と定められていました。

 太政官時代はなお封建的身分関係の旧習が残っており,「太政摂関の職は,中世以来政事の変遷種々多様なりしと雖も,常に春日明神の子孫にあらざれば之に近付く能はず」ということで,太政大臣は三条実美,左右大臣には宮(有栖川宮熾仁左大臣),公卿(岩倉具視右大臣)又は諸侯(島津久光左大臣)しかなれず,維新の三傑であった西郷隆盛,大久保利通及び木戸孝允であっても参議(「太政ニ参与シ官事ヲ議判シ大臣納言ヲ補佐シ庶政ヲ賛成スルヲ掌ル」)が上りポストでした。しかしながら,無論,政府の実権は,実力参議のもとにあったところです。

 (以上,太政官については山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)3037頁,76‐77頁,80頁を参照


(2)内閣(太政官)と各省との分離論

 なお,18751‐2月の大阪会議では内閣(太政官)と各省との分離が図られることになりましたが,これは,太政官の参議が太政官の下の各省の卿(長官)をも兼任していたところ,「諸参議が太政官に於て政務を議するに際して,他の省務に就いて云為することは,恰も他の担任領域に容喙するが如き嫌ひあり,従つて多くは互ひに相憚つて言を為さるの傾向があつた。そこで閣議は,国家凡百の政務を決すべき最も重要なものでありながら,其の実際はいつも長官会議の如き状態となり,甚だ低調なものとなるのを免れなかつた」ので,「参議は内閣に在つて専念国務の議判に当たること」にしようとのことだったようです(山崎・前掲64頁,66頁参照)。また,有力省の卿を兼任する参議に権勢が集中することになるのが面白くないということもあったようです(山崎・前掲64頁参照)。


(3)太政官職制における「内閣」

 ちなみに,内閣ですが,187352日の太政官職制の「潤飾」により,太政官正院の参議は「内閣ノ議官ニシテ諸機務議判ノ事ヲ掌ル」とされ,ここで初めて「内閣」の文字が使用されました(山崎・前掲38)。ただし,それまでは「太政大臣左右大臣参議ノ三職ハ 天皇ヲ輔翼スルノ重官」(明治四年八月の官制等級)であったのに対して,18735月の太政官職制では,天皇を輔弼する者は,太政大臣及び「職掌太政大臣ニ亜ク」左右大臣のみとされたところです(正院事務章程は「正院ハ 天皇陛下臨御シテ万機ヲ総判シ太政大臣左右大臣之ヲ輔弼シ参議之ヲ議判シテ庶政ヲ奨督スル所ナリ」と規定。)。


3 江藤新平司法卿v.井上馨大蔵大輔


(1)明治6年の予算問題

 政府における有力省といえば大蔵省です。明治の初年において既に「其の勢力は頗る強大」であり,「往々内閣の議を待たないで其の省務を専決するの風があり,為めに他省との間に摩擦を生ずることが一再ではなかつた」ため,「そこで之が匡正の一方策としてこに内閣の強化が企図され」,187352日の太政官職制の改正がされたとされています(山崎・前掲44‐46)。

 当時における大蔵省と他省との間の「摩擦」とは,司法省その他の省からの予算要求に対する大蔵省による大幅減額査定をめぐる紛争でしょうか(『歳月』の「長閥退治」の章の三。司法省からの要求額965744円が大蔵大輔(次官)井上馨によって45万円に削られたそうです。)。江藤新平は,後藤象二郎及び大木喬任と共に1873419日に参議に任じられていましたが,「内閣と大蔵省の間は愈々意思の疎通を缺くに至り,遂に後藤・江藤の2参議の如きは大蔵省の事務を調査せんことを主張するに至つた」ため,「於是時の大蔵大輔井上馨は大いに之を憤慨し,大蔵省三等出仕渋沢栄一と共に,財政に関し一編の建議書を上つて同年57日其の職を辞」することとなりました(山崎・前掲46頁。なお,『歳月』は,井上馨の辞任の日を7日ではなく14日としています。岩波『近代日本総合年表 第四版』によれば,7日に建議,14日に免官)。「当時此の建議書が一度世に伝はるや,朝野共に政府の財政に危懼の念を懐き議論大いに沸騰」ということでした(山崎・前掲46頁)。井上馨としては,政府は本当に財政難なのに他省はとんでもない額の予算要求をしてきて,仕方がないから削ると,上の内閣は他省の肩を持って,大蔵省は強大過ぎていかん,調査をするぞと言ってくるんだからやってられないよ,ということだったのでしょう。

 ここで江藤は,なおもしつこく井上馨を追撃します。すなわち,井上馨及び渋沢栄一は,財政に関する上記建議書を各種新聞紙に掲載させたのですが,井上「公と氷炭相容れなかつた江藤参議の如きは,之を黙過すべきで無い。彼は先頭に立つて公並びに渋沢を弾劾し,政府の秘事を故らに世に泄したのであるから,彼等を捕縛すべしなどと壮語した。かくて司法省当局者の活動となり」ということで(井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝 第一巻』(内外書籍・1933年)565頁),1873720日,司法省臨時裁判所は,次のような裁判を井上馨に申し渡します(同書567‐568頁)。



                          従四位 井上馨

 其方儀大蔵大輔在職中,兼テ御布告ノ旨ニ悖リ,渋沢栄一両名ノ奏議書各種新聞紙ヱ掲載致ス段,右科雑犯律違令ノ重キニ擬シ,懲役40日ノ閏刑禁錮40日ノ処,

特命ヲ以テ贖罪金3円申付ル。

  明治6720日               司法省臨時裁判所


 井上=渋沢の建議書公表によって国の財政状況が暴露されたことは,江藤の言うように「政府の秘事を故らに世に泄した」重い悪事であるのかどうか。「内閣は,国会及び国民に対し,定期に,少なくとも毎年1回,国の財政状況について報告しなければならない。」とする現行憲法の第91条を前提に考えると,いささか言い過ぎのように思われます。江藤は,人民の権利保護のチャンピオンであったと紹介されますが,国民の政治参加にはなお消極的であったということになるのでしょうか。これに対して,井上馨の伝記作家は,当然,財政状況に関する建議書が井上=渋沢によって公表されたこと及びそれがもたらした慣行を積極的に評価しており,「これより以後,政府は予算表を公示するを憚らなく為つたことは,真に美政といはねばならぬ」と述べています(『世外井上公伝 第一巻570頁)。


(2)尾去沢事件


ア 明治五年司法省第46号

 井上馨に対する江藤新平の追及第2弾として,『歳月』は「尾去沢事件」の章を設けて,大蔵大輔井上馨の「腐敗」と,司法卿江藤新平の「正義感」とを描きます。

 しかしながら,『歳月』は,飽くまでも小説であって,歴史書,いわんや法律書ではありません。「尾去沢事件」の章で大きな役割を果たす次の「司法省達第46号」なるもの(同章の一)は,実はフィクションなのです。



地方人民にして,官庁より迫害を受くる者は,進んで府県裁判所,もしくは司法省裁判所に出訴すべし。

――司法省達第46号――


 原典との照合はされなかったのでしょうか。特に「官庁より迫害」の「官庁」がいけません。これでは大蔵省その他の中央官庁も含まれることになってしまいます。(なお,井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝 第二巻』(内外書籍・1933年)66‐67頁に,江藤新平は「司法権の独立を主唱し,明治五年十一月二十八日に,司法省達第46号を以て,地方人民にして官庁等から不法の迫害を受けた者は,進んでその地方裁判所若しくは司法省裁判所へ出訴すべしとの令を出した」との記述があります。)

 実際の明治五年十一月二十八日司法省第46号は,次のような規定からなっています。

 


一 地方官及ヒ其戸長等ニテ太政官ノ御布告及ヒ諸省ノ布達ニ悖リ規則ヲ立或ハ処置ヲ為ス時ハ各人民 
華士族卒平民ヲ併セ称ス ヨリ其地方裁判所ヘ訴訟シ又ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラサル事

一 地方官及ヒ其戸長等ニテ各人民ヨリ願伺届等ニ付之ヲ壅閉スル時ハ各人民ヨリ其地方裁判所エ訴訟シ亦ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラサル事

一 各人民此地ヨリ彼地ヘ移住シ或ハ此地ヨリ彼地ヘ往来スルヲ地方官ニテ之ヲ抑制スル等人民ノ権利ヲ妨ル時ハ各人民ヨリ其地方ノ裁判所亦ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラサル事

一 太政官ノ御布告及ヒ諸省ノ布達ヲ地方官ニテ其隣県ノ地方掲示ノ日ヨリ10日ヲ過クルモ猶延滞布達セサル時ハ各人民ヨリ其地方ノ裁判所ヘ訴訟シ亦ハ司法省裁判所エ訴訟苦シカラサル事

一 太政官ノ御布告及ヒ諸省ノ布達ニ付地方官ニテ誤解等ノ故ヲ以テ右御布告布達ノ旨ニ悖ル説得書等ヲ頒布スル時ハ各人民ヨリ其地方裁判所亦ハ司法省裁判所エ訴訟苦シカラサル事

一 各人民ニテ地方裁判所及ヒ地方官ノ裁判ニ服セサル時ハ司法省裁判所ニ訴訟苦シカラサル事


 飽くまでも対象は,「地方官及ヒ其戸長等」の処分等にすぎません。また,「進んで出訴すべし」とまではされておらず,なおも「訴訟苦シカラ」ずです。『歳月』の「司法省達第46号」ほど開明的かつ進歩的なものではありません。

 (とはいえ,我が明治の人民は遠慮会釈なく,「明治五年司法省第46号達は凡そ地方官を訴ふる者皆裁判所に於てせしめたりしに,地方官吏を訴ふるの文書法廷に蝟集し,俄に司法官行政を牽制するの弊端を見るに至れり。」(『憲法義解』帝国憲法61条解説)という状態ではありましたが。)

 中央の大蔵省が,南部の商人・村井茂兵衛の「借金」証文(実は同人の南部藩主に対する貸金であるが,はばかって村井茂兵衛の南部藩主からの「借金」として証文を作成していた。廃藩置県により各藩の債権債務は中央政府が承継。)に基づき同人に「貸金」の返還を求め,支払がないために同人の財産を差し押さえて競売に付したこと(『歳月』「尾去沢事件」の章の二)が,地方官に係る明治五年司法省第46号の規定の対象に入るものとは,なかなかいい難いでしょう。

 しかしながら,『歳月』においては,村井茂兵衛は「司法省達第46号」に基づいて「司法裁判所」に出訴し,「司法裁判所」はそれを受理し,審査の結果訴えを却下することもなく,江藤司法卿以下は勇躍して大蔵省の調査を始めたことになっています。ちょっと変ではあります。刑事事件の捜査の端緒として村井茂兵衛の「出訴」が取り扱われたというのならば分かるのですが(そういうことなのでしょう。)。

 18751226日に至って,尾去沢事件に関して東京上等裁判所が井上馨に申し渡した裁判は,次のとおりです(『世外井上公伝 第二巻』104‐105頁)。



   申渡

                           従四位 井上馨

其方儀,大蔵大輔在職中,旧藩々外国負債取調の際,村井茂兵衛ヨリ取立ベキ金円多収スルトノ文案ニ連署セシ科,名例律同僚犯公罪条ニ依リ,KSの第三従トナシ,2等ヲ減ジ懲役2年ノ所,平民贖罪例図ニ照シ,贖罪金30円申付候事。

 但,多収シタル金25000円ハ,大蔵省ヨリ追徴シテ村井茂兵衛ヘ還付イタス間,其旨可相心得候事。

明治812月                     東京上等裁判所


 大蔵省の下僚のKSが25000円余計に村井茂兵衛から債権を回収する間違った文案を作成し,上申してきたのに対してうっかり連署してしまった,という監督不行き届きの罪で罰金30円ということです。本体部分は,確かに刑事裁判ですね。

 ただし書には,過払いを受けた25000円は大蔵省から追徴して村井茂兵衛に還付させると書いてありますが,これは,被告人井上馨に対する裁判ではありませんから,いわば無用のことながら参考までに書いておいたということでしょうか。いずれにせよ,村井茂兵衛と南部藩との金銭貸借関係が私法上の関係であったのであれば,南部藩の当該債権債務を承継した政府と相手方村井茂兵衛との間の関係も私法関係ということになるはずですが,明治五年司法省第46号は,なお,行政裁判の制度の嚆矢とされています。これは,むしろ,人民ヨリ院省使府県ニ対スル訴訟仮規則(明治792日司法省第24号達)1条の「院省使府県ノ会計及ヒ金銀貸借ニ関シタル事」に係る「一般公同ニアラサル人民一個ノ訴訟」として「司法官ニ於テ受理」されたものでしょう。

 主犯である下僚KSに対する裁判は,次のとおりでした(『世外井上公伝 第二巻』105‐106頁)。25000円の過剰請求は「過誤失錯ニ出ル」ものとされており,大蔵省の「陰謀」のようなものの存在は認定されなかったわけです。



                            紙幣大属 KS

其方儀,大蔵省十等出仕ニテ判理局勤務中,旧藩々外国負債取調ノ際,村井茂兵衛ヨリ旧盛岡藩ヘ係ル貸上ゲ金ノ内ヘ償却シタル25000円,同藩ヨリ貸付ト見做シ徴収セシ科,職制律出納有違条ニ依リ,座賍ヲ以テ論ジ懲役3年ノ所,過誤失錯ニ出ルヲ以テ,官吏公罪罰俸例図ニ照シ,罰俸3箇月申付候事。

 但,村井茂兵衛稼ギ尾去沢銅山附属品買上ゲ代価同人承諾証取置カザルハ,違式ノ軽ニ問ヒ,懲役10日。

 以下略


イ 「辞めても辞めぬ」

 ところが,『歳月』の「尾去沢事件」の章には,またほかに,分かりづらいところがあります。

 明治五年十一月二十八日の司法省第46号らしき「司法省達第46号」を読んだ村井茂兵衛が出訴し,それを受けて司法省が調査を行っていたところ,井上馨は「うかつに」にも「司法省がその能力をあげて自分を監視しているのも気づかず,尾去沢銅山の今後の経営について準備をすすめ」,同鉱山を視察することにして「馬車をつらねて東京を出発したのが88日」,同月「29日,問題の尾去沢鉱山に入」り,同所に「従四位井上馨所有地」との榜柱を立て,「翌月28日」に帰京,江藤新平は「従四位大蔵大輔」の「現職の顕官」である井上馨を東京において拘引すべく内閣の会議に案件をかけたのですが,議事は紛糾,副島種臣が「井上馨は,辞職する」,「君はこれをもってなっとくせよ」と江藤を説得して,結局本件はうやむやになった,と『歳月』では物語られています(「尾去沢事件」の章の三)。

 「従四位大蔵大輔」の「現職の顕官」である井上馨の拘引問題が内閣で問題になったのは,明治6年(1873年)の9月から10月にかけてのことのようです。当時,井上馨は,「辞職して平人にくだる」べき官職を持っていたことになっています。しかし,おかしいですね。井上馨は,前記のとおり,同年5月に既に大蔵大輔を辞職していたのですから。

 司馬遼太郎は,聞多井上馨の絶倫の生命力について『死んでも死なぬ』という作品を書いていますが,『歳月』においては,井上馨は「辞めても辞めぬ」怪人として描かれたということになります。

 堀雅明『井上馨開明的ナショナリズム』(弦書房・2013年)によれば,井上馨が18735月に大蔵大輔を辞めた理由としては尾去沢鉱山をめぐる非難が既にあったということがあり,また,同年8月に確かに井上馨は尾去沢鉱山を視察しているけれども,これはやはり退官後のことであるということです。当該視察の際,井上馨は釜石鉱山も見学したところ,「鉱業はなるほど大蔵省の管轄であったが,井上の随員には本省の鉱山技師がひとりも加わっておらず,かれをとりまいているのは,小野組の番頭やえたいの知れぬ利権屋ふうの連中ばかり」であって,「釜石の技師たちは不審におもった」そうですが(『歳月』「尾去沢事件」の章の三),大蔵省を辞めてしまっている以上はむしろ当然のことで,釜石の技師たちのところには,同年5月の井上馨大蔵大輔辞任のニュースは届いていなかったのでしょう。

 ところで,堀氏の著作からは,なお,井上馨の大蔵大輔辞任は,国家の財政の問題という堂々たる理由ではなく,やはり尾去沢事件のスキャンダルによるものだという印象を受けるのですが,井上馨側の主張では,尾去沢事件を江藤がぶつけてきたのは井上退官後のことであり,かつ,江藤は村井茂兵衛の訴えを待たずに,それ以前から井上をつけ狙っていたということになっています。

 すなわち,まず,明治五年司法省第46号に基づく村井茂兵衛の出訴は,明治「618731218日を以て,司法省裁判所検事局に出訴」ということだったようで(『世外井上公伝 第二巻』67),これでは,征韓論政変による同年10月の江藤の下野後のことになってしまいます。

 また,前々から「司法卿江藤新平は尾去沢銅山が収公されたことを聞くや,予て井上馨公とは快からず常に公の間隙を狙つてゐたことであるから,機乗ずべしとなし,司法大丞兼大検事警保頭島本仲道に内命を下して,密かに本件の内容を調査せしめつあつた」ところです(『世外井上公伝 第二巻』65)。

 問題の太政官における尾去沢事件に係る井上馨弾劾は,『歳月』から示唆される前後関係とは異なり,18735月の井上馨の大蔵大輔辞任後だったようです。いわく,



江藤は公を拘引する議を太政官に持出した,併し三条・木戸の回護もあつて,その事は行はれなかつた。もとより公を拘引するに足るほどの明確な証拠とては有らう筈は無かつたからである。大隈侯八十五年史には,該事件が司法裁判所の手に移つたのを
618735月としてある。然らば公が辞職を聞届けられた月であるから,江藤は公が重職を去るのを待つてゐて,こに本件を公然告発することに為つたのではないかと思はれる。而してこれは村井から訴状が出たので始めたものではない。(『世外井上公伝 第二巻』66


 『歳月』の江藤新平とはまた少し違った印象の江藤新平が,ここにはいます。

 (ところで,明治初めの村井家当主・京助村井茂兵衛は,既に1873523日に享年53歳(文政四年生まれ)で大阪で没していますから,187312月に出訴した茂兵衛はその次の代の茂兵衛でしょう。なお,村井京助は,南部藩内では実はむしろ長州派で,嘉永年間に盛岡を訪問した吉田松陰は京助と歓談していますし,戊辰戦争の時には,奥羽越列藩同盟派の家老・楢山佐渡と所見を異にする勤皇派南部藩士を京助が京都「三条通の長藩邸に潜伏せしめたと言はれ」ています。(『興亜の礎石:近世尊皇興亜先覚者列伝』(大政翼賛会岩手県支部・1944年)48‐50頁)『歳月』において江藤司法卿が会った「村井茂兵衛」は「齢は45だという」とされていますから年齢が合わず,京助村井茂兵衛ではないことになります。)


4 締めくくり:大阪会議の主役はだれか

 1875年の大阪会議をうけた大審院の設置による司法の行政からの分離と,江藤新平司法卿下での「司法権の独立」との関係について図らずも論ずることとなってしまった本稿の締めとしては,小説風に,「江藤の言う「司法権の独立」など,実は奴の権力欲の隠れ蓑にすぎなかったのだよ。まったく,奴にはひどい目に遭ったが・・・しかし,江藤のあの梟首の写真・・・一番恐ろしいのは大久保参議だよなぁ・・・タイシンインねぇ・・・うむ,司法権の行政からの真の独立をもたらすことになった欧化の本当の貢献者は,実は,木戸,大久保,板垣という難しい大物たちを何とかまとめて,大阪会議を開くべく奔走した不肖この我輩なのだよ。」との,酒盃片手の元大蔵大輔・井上馨の独白にしましょうか。それともやはり,「長州ぎらいであるはずの江藤にどういうわけか好意をもちつづけていた」とされる木戸孝允(『歳月』「長崎の宿」の章の一)こそが,江藤の遺志を継いで,大阪会議を通じて司法の行政からの分離をもたらした立役者であった,という見解を表明しておくことにしましょうか。大阪会議の舞台となった料亭・加賀伊も,木戸の揮毫の「花外楼」が気に入ったようですし・・・

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 東京都港区西麻布の長谷寺(ちょうこくじ)にある従一位大勲位侯爵井上馨の墓

 


付録:本文と関係の無いつけたり

 大審院については,タイシンインと読んでもダイシンインと読んでも指し示すものは同じでした。

 しかし,


 大陸軍


 の場合はそうはいきません。

 ダイリクグンであれば,ナポレオンのグラン・ダルメー(Grande Armée),タイリクグンであればジョージ・ワシントン率いるコンティネンタル・アーミー(Continental Army)ということになります。



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ペンシルヴァニア州ヴァレー・フォージ(
Valley Forge, PA)のワシントンの旧司令本部(苦しい対英独立戦争を戦うアメリカ諸邦の大陸軍は,フィラデルフィア陥落後の1777-1778年の冬をヴァレー・フォージの宿営地で耐え忍び,かつ,自らを鍛え上げました。)

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