Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

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1 元号と追号との関係

 近々元号法(昭和54年法律第43号)2項の事由に基づき平成の元号が改まるということで,元号に関する議論がにぎやかです。

 ところで,150年前の明治元年九月八日(18681023日)の改元の詔には「其改慶応四年,為明治元年,自今以後,革易旧制,一世一元,以為永式。主者施行。」とありますところ,「一世一元」であるゆえに(元号法2項も「元号は,皇位の継承があつた場合に限り改める。」と規定しており,「実質は一世一元でございます。」とされています(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第421頁)。),元号はすなわち天皇の追号となるべきもの,と考えたくなるところです。

 

(1)元号≠追号

 しかしながら,元号と追号とは制度的には無関係であるという見解が,1979年の元号法案の国会審議時において政府から何度も表明されています。例えば,次のとおり。

 

   次に,元号名と天皇の贈り名のことについてお尋ねがあったわけでございます。

   御承知のように,明治,大正という元号がそれぞれ天皇の贈り名とされましたのは事実でございますが,贈り名と元号との関係につきましては,従前も,制度上元号が必ず贈り名になると定められていたわけではございません。この法案のもとにおいても直接に結びつきはないものと考えております。戦前におきましては,登極令におきまして元号の問題が取り上げられており,あるいは追号の問題は皇室喪儀令に分かれて取り上げられておった。戦前でもそうでございます。そういうことでございますので,戦前におきましても,いま申し上げましたように,追号と元号とは制度的に関係がないものと承知をいたしておるところでございます。(三原朝雄国務大臣(総理府総務長官)・第87回国会衆議院会議録第155頁)

 

   いまお答え申し上げている元号法案による元号と追号とは全然関係がないと承知いたしております。(大平正芳内閣総理大臣・第87回国会参議院内閣委員会会議録第1422頁)

 

 また,細かい規定はないとしても,新天皇が大行天皇の追号を勅定するということは明らかにされています。例えば,次のとおり。

 

   追号につきましては,現在は法令がないというような状況になっていると存じます。したがいまして,過去の法令,法規等を参考にいたしまして定められてくるというようなことになると思うわけでございますが,過去の例は御案内のとおり,新帝が勅定をされた,こういうことでございまして,その旨が宮内大臣と内閣総理大臣が連署して告示された,こういうことでございます。

   こういったような過去の例というのを十分考えながら,今後いろいろと研究を続けていかなければならない事項と思っておるわけでございます。ただいま,どういうかっこうでどうなるということを申し上げるのは差し控えさせていただきたいと存じます。(山本悟政府委員(宮内庁次長)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第519頁)

 

   お答えを申し上げますが,元号と追号とはこれは全く性格が違うわけなんですね。追号は,これは皇室の行事で,新天皇が亡くなられた天皇に贈り名としてお名前をおつけになるということでございますし,元号というのは陛下が御在世中に国民なり役所なりがその年をあらわす紀年法として用いる呼び名でございまして,この二つは全然違うわけなのです。御質問の将来陛下が崩御になったときにどういう追号をお持ちになるかということは,それは現在の段階ではこれは私何とも申し上げられません。これは新天皇がお決めになることでございまして,まあ現在ではもう想像の域を出ないと,こういうお答えしかできないわけでございます。(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会参議院内閣委員会会議録第711頁)

 

   これは先ほどもお答え申し上げたつもりでございますけれども,元号と追号とは全然これは別問題でございまして,追号の方は天皇が先帝に対して贈られるものでございます。政府のかかわるところではございません。(大平内閣総理大臣・第87回国会参議院内閣委員会会議録第1427頁)

 

 「一世一元の制で重要なのは,後に元号が天皇の諡号(高徳の人に没後おくる名)になることです。中国でも一世一元の元号は,皇帝の諡号になっています。日本では明治以降,元号=諡号となります。」といわれていますが(所功「平成の「次の元号」に使われる漢字」文藝春秋20187月号188頁),少なくとも我が国では,在位中の元号=追号となるのは,新帝がそのように先帝の追号を治定した例が1912年,1926年及び1989年と続いたからにすぎないものであって制度的なものではない,ということになります。在位中の元号をもって1912年に大行天皇が明治天皇と追号されたことについては,当時,「和漢其の例を見ず」,「史上曽て見ざる新例」と評されました(井田敦彦「改元をめぐる制度と歴史」レファレンス811号(20188月)96頁(宮内庁編『明治天皇紀 第十二』(吉川弘文館・1975833頁及び読売新聞1912828日「御追号明治天皇 史上曽て見ざる新例」を引用))。
 元号を皇帝の追号にすることは漢土に例を見ずといわれても,明の初代洪武帝朱元璋以下の明・清の歴代皇帝は一体どういうことになるのだという疑問が湧くのですが,『明史』の本紀第一の太祖一の冒頭部分を見ると「太祖開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高皇帝,諱元璋,字国瑞,姓朱氏。」とあるところです。在位中の元号を洪武とした皇帝朱元璋の廟号は太祖で,諡号は開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高皇帝であるということのようです。要は明の太祖以降の漢土皇帝に係る在位中の元号に基づく洪武帝等の呼び方は,廟号又は諡号ではないことはもちろん,そもそも正式のものではなかったのでした。いわく,「〔明の〕太祖は在位31年,歳71で,皇太孫〔建文帝〕の将来の運命を案じながら,孤独のうちに病死する(1398年)。その年号は終始洪武と称して改元することがなく,以後中国においては一世一元の習慣が確立する。そこで天子を呼ぶにも,従来の諡号,廟号に代えて,年号をもって称するようになった。天子の諡号は古代には極めて簡単な美称を12字ですませたが,後世それが次第に長くなり,明の太祖は21字を重ねるに至ったので,臣下としてはこれを省略して呼んでは失礼にならぬとも限らない。廟号は常に1字であるが,各王朝とも廟号に用いる字はおおむね定まっていて,太祖,太宗,仁宗といった名が頻出するので,前朝と紛らわしくなる。そこで年号によって,たとえば洪武帝のように呼べば,これは正式の名称ではないが,一目瞭然で間違えたり,混同したりするおそれがなくてすみ,甚だ便利なのである。」と(宮崎市定『中国史(下)』(岩波文庫・2015年)175-176頁。下線は筆者によるもの)。これに対して,我が国においては,明治天皇より前に一世一元であった過去の天皇について,例えば平城天皇は,現在一般には元号により大同天皇と呼ばれてはいません。そうしたからとて特に「甚だ便利」というわけでもなく,かつ,本来の追号・諡号がむやみに長くなることもなかったからでしょう。

なお,明治天皇より前に一代の間に改元が1度だけであった天皇としては,元明,桓武,平城,嵯峨,淳和,清和,陽成,光孝,宇多,冷泉,花山,三条,後三条,後白河,六条,御嵯峨,後伏見,後亀山,後小松,称光,後桜町及び後桃園の22天皇が挙げられていました(清水汪政府委員(内閣官房内閣審議室長兼内閣総理大臣官房審議室長)・第87回国会参議院内閣委員会会議録第122頁)。これら各天皇と元号との関係について見ていくと,元明天皇の改元に係る新元号は和銅,桓武天皇のそれは延暦,平城天皇については上記のとおり大同,嵯峨天皇については弘仁,淳和天皇については天長,清和天皇については貞観,陽成天皇については元慶,光孝天皇については仁和,宇多天皇については寛平,冷泉天皇については安和,花山天皇については寛和,三条天皇については長和,後三条天皇については延久,後白河天皇については保元,六条天皇については仁安,後嵯峨天皇については寛元,後伏見天皇については正安,後亀山天皇については元中,称光天皇については正長(ただし,同天皇践祚から17年目の崩御の年に至ってやっと改元),後桜町天皇については明和,後桃園天皇については安永となります。ただし,後小松天皇は一代の間に明徳から応永へ1度しか改元しなかったというのは南朝正統論の行き過ぎで,実は同天皇は在位中に,永徳から至徳へ,至徳から嘉慶へ,嘉慶から康応へ,康応から明徳へ及び明徳から応永へと,5回改元を行っています。また,光厳天皇は元徳から正慶への改元しかしていませんし,崇光天皇も貞和から観応への改元しか行っていません。ちなみに,皇位の継承があったことに基づき行われる代始改元の時期については,「踰年改元,つまり皇位の継承をなさいました年の翌年のある時期,あるいは翌年以降のある時期,そういう意味におきまして,その年を越してからの改元ということでございますが,そのような例は過去の元号の歴史の中ではむしろ非常に多かったということは御案内のとおり」であり,「奈良時代におきましては特にすぐ改元したということがあったわけでございますが,平安時代の初期と申しますか,第51代の平城天皇のときにその年のうちに改元をしたということがございましたが,それが大体最後でございまして,それから後は年を越してからの改元ということが例でございました。」とされています(清水汪政府委員・第87回国会参議院内閣委員会会議録第77頁)。この大同改元については,『日本後紀』の記者によって,「改元大同。非礼也。国君即位,踰年而後改元者,縁臣子之心不忍一年而有二君也。今未踰年而改元,分先帝之残年,成当身之嘉号。失慎終无改之義,違孝子之心也。稽之旧典,可謂失也。」と,踰年改元でなかったことが正に厳しく批判されていたところです(巻第十四大同元年五月辛巳〔十八日〕条)。

 

(2)皇室喪儀礼及び追号奉告の儀

 さて,追号について定めていた皇室喪儀令とは,枢密顧問の諮詢(枢密院官制(明治21年勅令第22号)61号参照)を経た旨が記された上諭が附され(公式令(明治40年勅令第6号)53項),一木喜徳郎宮内大臣並びに若槻禮次郎内閣総理大臣並びに主任の国務大臣たる宇垣一成陸軍大臣,財部彪海軍大臣及び濱口雄幸内務大臣が副署し(同条2項),摂政宮裕仁親王が裁可し(同条1項,明治皇室典範36条)19261021日に官報によって公布された(公式令12条)大正15年皇室令第11号です。同令は194752日限り廃止されていますが,「2日,皇室令をもって皇室令及び附属法令をこの日限りにて廃止することが公布される。なお53日,従前の規程が廃止となったもののうち,新しい規程が出来ていないものは,従前の例に準じて事務を処理する旨の〔宮内府長官官房〕文書課長名による依命通牒が出される。」という取り運びとなっています(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)316頁)。

皇室喪儀令の第1条から第3条までは次のとおりでした。

 

第1条 天皇崩御シタルトキハ宮内大臣内閣総理大臣ノ連署ヲ以テ直ニ之ヲ公告ス

 太皇太后皇太后皇后崩御シタルトキハ宮内大臣直ニ之ヲ公告ス

第2条 天皇太皇太后皇太后皇后崩御シタルトキハ追号ヲ勅定ス

第3条 大行天皇ノ追号ハ宮内大臣内閣総理大臣ノ連署ヲ以テ之ヲ公告ス

 太皇太后皇太后皇后ノ追号ハ宮内大臣之ヲ公告ス

 

 皇室喪儀令11条に基づく同令附式第1編第1の天皇大喪儀に「追号奉告ノ儀」が規定されており,そこにおいて「天皇御拝礼御誄ヲ奏シ追号ヲ奉告ス」とあります。

 皇室喪儀令施行の月(公式令11条により19261110日から施行)の翌月25日に崩御した大正天皇のための1927120日の追号奉告ノ儀においては,秩父宮雍仁親王が兄である新帝・昭和天皇の名代となり(昭和天皇は同年元日の晩から風邪(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)620頁)),次の御誄を奏して追号を奉告しています(同626-627頁)。

 

  裕仁敬ミテ

  皇考在天ノ神霊ニ白ス

  皇考位ニ在シマスコト十有五年

  明治ノ顕朝ヲ承ケサセラレ迺チ其ノ明ヲ継カセタマヒ

  大正ノ昭代ヲ啓カセラルル夙ニ其ノ正ヲ養ハセタマヘリ茲ニ

  遺制ニ遵ヒ追号ヲ奉ケ

  大正天皇ト称シタテマツル

 

 198917日に崩御した昭和天皇のための同月31日の追号奉告の儀における今上天皇の御誄は,次のとおりです(宮内庁ウェブ・サイト)。

 

明仁謹んで

御父大行天皇の御霊に申し上げます。

大行天皇には,御即位にあたり,国民の安寧と世界の平和を祈念されて昭和と改元され,爾来,皇位におわしますこと六十有余年,ひたすらその実現に御心をお尽くしになりました。

ここに,追号して昭和天皇と申し上げます。

 

 同日平成元年内閣告示第3号によって大行天皇の追号が昭和天皇となった旨公告されましたが,「宮内大臣内閣総理大臣ノ連署ヲ以テ」の公告ではなかったのは,宮内大臣が廃されてしまっている以上そうなるべきものだったのでしょう。(なお,平成元年内閣告示第3号には「大行天皇の追号は,平成元年113日,次のとおり定められた。」とのくだりがありますが,これは,皇統譜(皇室典範(昭和22年法律第3号)26条)における天皇に係る登録事項には「追号及追号勅定ノ年月日」があるところ(皇統譜令(大正15年皇室令第6号)1213号。昭和22年政令第1号たる皇統譜令の第1条は「この政令に定めるものの外,皇統譜に関しては,当分の間,なお従前の例による。」と規定),追号のみならずその勅定日も「公告ニ依リ」登録(皇統譜令施行規則(大正15年宮内省令第7号)附録参照)するからでしょう。)

 ところで,「大行天皇には,御即位にあたり,国民の安寧と世界の平和を祈念されて昭和と改元され」という表現を見ると,やはり昭和天皇の追号が昭和天皇となったのは在位中の元号が昭和(「百姓昭明,協和万邦」)だったからだ,したがって第87回国会で大平内閣総理大臣以下政府当局者が何やかやと言っていたが元号法施行後も結局元号が天皇の追号となるべきものなのだ,と早分かりしたくなるのですが,それでよいのでしょうか。単に在位中の元号が昭和だったからではなく,19261225日の「御即位にあたり」「昭和と改元」したのは大行天皇自身であったからこそその追号が昭和天皇と治定されたように筆者には思われるのですが,どうでしょうか。

 (ついでながら,天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)33項は「上皇の身分に関する事項の登録,喪儀及び陵墓については,天皇の例による。」と規定しています。なお,「天皇の例による」としても,大正15年皇室令第6号たる皇統譜令12条においては退位の年月日(時)は天皇に係る登録事項とはなっておらず,昭和22年政令第1号たる皇統譜令にも特段の定めはないようであるところ,この辺はどうなるものでしょうか。

 

2 元号を定める権限の所在

 

(1)明治皇室典範・登極令と元号法との相違

 明治皇室典範12条は「践祚ノ後元号ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ従フ」と,登極令(明治42年皇室令第1号)2条は「天皇践祚ノ後ハ直ニ元号ヲ改ム/元号ハ枢密顧問ニ諮詢シタル後之ヲ勅定ス」と,同令3条は「元号ハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と規定していました。「勅」定ですから天皇が定めるのですし,「詔」書だからこそ天皇名義の文書なのです。

これに対して現在の元号法1項は「元号は,政令で定める。」と規定しており,すなわち元号を改める権限(「新しい元号の名前」及び「いつ改元が効力を持つか」という2点を規定する政令(清水汪政府委員(内閣官房内閣審議室長兼内閣総理大臣官房審議室長)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第440頁)を制定する権限)は,天皇ではなく,政令を制定する機関である内閣が有しているところです(日本国憲法736号)。天皇ではなく内閣が決めるのであれば元号とはいえないのではないか,という見解を我が政府は採っておらず,「元号だから天皇が決める,それが伝統であって,そうでなければ元号という制度になじまないとか,そういう気持ちは毛頭ありません。」,「決して天皇が決めなければ元号とは言わないなんというような気持ちは毛頭ございません。」という国会答弁がされています(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会参議院内閣委員会会議録第123頁)。

(なお,先帝崩御日と新元号建定日とを一致させるのは明治皇室典範レヴェルでの要請ではなく,登極令21項(「直ニ」)の要請であるということになります(現に,慶応四年を改めて明治元年としましたが,孝明天皇が崩御したのは慶応四年元日より1年以上前の慶応二年十二月二十五日のことでした。)。1909127日に開かれた枢密院会議の筆記には,登極令案は「従来ノ慣例ヲ取捨折衷シテ作ラレタルモノ」だとの細川潤次郎枢密顧問官の発言が記されていますが,代始改元を践祚後直ちに行うのが「従来ノ慣例」だったのかどうかについては前記『日本後紀』の記述等に鑑みても議論がありそうです(所功「昭和の践祚式と改元」別冊歴史読本1320号(198811月)186頁に引用された「登極令制定関係者である多田好問の『登極令義解』草稿」(井田98頁・注(48))によれば「古例に於ける・・・如く事実を稽延することを得ず」ということだったそうですから(井田98頁),この場合の「古例」ないしは「従来ノ慣例」は,むしろ意識的に「捨」てられたもののようです。)。現在の元号法においては,「事情の許す限り速やかに改元を行う」のが「法の趣旨」だとされていますが(三原朝雄国務大臣(総理府総務長官)・第87回国会衆議院会議録第155頁),これは登極令21項的運用を念頭に置いていたということでしょう。ただし,元号法2項の「皇位の継承があつた場合」との表現については「「場合」という表現をとっておりますのは,そこにある程度の時間的なゆとりというものを政府にゆだねていただきたいという考え方からそのような表現をとっているということ」になっています(清水汪政府委員・第87回国会参議院内閣委員会会議録第1229頁)。)

 

(2)明治皇室典範・登極令下の大権ノ施行たる元号建定における内閣の関与

 とはいえ,天皇が元号を勅定するものとされていた明治皇室典範時代も,元号建定に当たっては,内閣が中心となっていました。

すなわち,大正天皇崩御の「日午前330分,内閣総理大臣若槻礼次郎以下の閣僚は〔葉山〕御用邸附属邸より本邸に戻り,直ちに緊急閣議を開き,登極令に基づき元号建定の件を上程し,元号建定の詔書案,大喪使官制,東宮武官官制廃止の件その他を閣議決定し,直ちに元号建定の詔書案の枢密院への御諮詢を奏請する。枢密院は御諮詢を受け,午前645分より副議長平沼騏一郎を委員長とし,内閣総理大臣以下関係諸員出席のもと,元号建定の審査委員会を開く。元号案は全会一致を以て可決され,詔書案の文言に関しては,討議を重ねた上,原案に修正を加えることにて可決される。それより枢密院は修正案を作成し,内閣総理大臣の同意を得て午前915分本会議を開催,元号案並びに詔書修正案を全会一致を以て可決し,〔倉富勇三郎〕枢密院議長は直ちに奉答する。ついで奉答書が内閣に下付され,直ちに内閣は再度の閣議を開き,元号建定の詔書案につき,枢密院の奉答のとおり公布することを閣議決定する。天皇は945分より10時過ぎまで,内閣総理大臣若槻礼次郎に謁を賜い,元号建定の件につき上奏を受けられる。よって御裁可になり,1020分,詔書に御署名になる。ついで再び若槻に謁を賜う。詔書は直ちに官報号外を以て公布され,ここに元号を「昭和(せうわ)」と改められる。」ということでした(『昭和天皇実録 第四』602頁)。なお,内閣の活動のみならず,枢密顧問に諮詢する手続がありますが(登極令22項),これは「元号ハ昔時ニ於テモ廷臣ヲシテ勘文ヲ作ラシメ問難論議ヲ経テ之ヲ定メ難陳ト号セリ今本〔登極〕令ニ於テモ枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ之ヲ定ムルコトトシタルハ事重大ナルノミナラス古ノ難陳ノ意ヲモ加ヘテ此ノ如ク規定シタルナリ」ということでした(1909127日に開かれた枢密院会議の筆記にある奥田義人宮中顧問官の説明)。

 昭和改元の詔書の文言は「朕皇祖皇宗ノ威霊ニ頼リ大統ヲ承ケ万機ヲ総フ茲ニ定制ニ遵ヒ元号ヲ建テ大正151225日以後ヲ改メテ昭和元年ト為ス」というものでしたが(『昭和天皇実録 第四』603頁),当該詔書に副署した者は内閣総理大臣及び国務各大臣であって,そこには宮内大臣は含まれていませんでした。これは,明治皇室典範の第12条に規定があるにもかかわらず,元号建定は「皇室ノ大事」に関するものではなく,「大権ノ施行」に関するものであることを意味します。すなわち,公式令12項は「詔書ニハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ其ノ皇室ノ大事ニ関スルモノニハ宮内大臣年月日ヲ記入シ内閣総理大臣ト倶ニ之ニ副署ス其ノ大権ノ施行ニ関スルモノニハ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ国務各大臣ト倶ニ之ニ副署ス」と規定していたところです。元号を建定することは「万機ヲ総フ」る大権の施行の一環であるということでしょう。(ただし,宮内省図書寮編修官吉田増蔵が若槻内閣の委嘱を受けて起草した元号建定の詔書案(『昭和天皇実録 第四』605頁)の文言は「朕皇祖皇宗ノ威霊ニ頼リ茲ニ大統ヲ承ケ一世一元ノ永制ニ遵ヒ以テ大号ヲ定ム廼チ大正15年ヲ改メテ昭和元年トシ1225日ヲ以テ改元ノ期ト為ス」というもので,「万機ヲ総フ」がありませんでした。ちなみに,1912730日の大正改元に係る詔書の文言は「朕菲徳ヲ以テ大統ヲ承ケ祖宗ノ霊ニ誥ケテ万機ノ政ヲ行フ茲ニ/先帝ノ定制ニ遵ヒ明治45730日以後ヲ改メテ大正元年ト為ス主者施行セヨ」というものでした。「先帝ノ定制ニ遵ヒ」の部分は,前記『日本後紀』の記者に対する,年を踰えることを待つことなく改元するのは先帝陛下の定制(登極令21項)によるものであって自分勝手な親不孝ではありませんからね,との言い訳のようにも読み得る気がします。なお,こうして見ると,吉田案では「万機ヲ総フ」のみならず,「主者施行セヨ」も落ちています。)

日本国憲法下においても,「そういうような経過から申し上げましても元号に関することは国務として,現在で言えば総理府本府〔当時〕におきまして取り扱われるべきものでございまして,宮内庁の所掌事務ということにはならないと存じます」とされています(山本悟政府委員(宮内庁次長)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第420頁)。日本国憲法公布後の1946118日に𠮷田茂内閣総理大臣が昭和天皇に上奏した元号法案(GHQとの関係もあり,結局帝国議会には提出せず。)も現在の元号法とよく似た内容で,本則は「皇位の継承があつたときは,あらたに元号を定め,一世の間,これを改めない。/元号は,政令で,これを定める。」,附則は「この法律は,日本国憲法施行の日から,これを施行する。/現在の元号は,この法律による元号とする。」というものでした。

美濃部達吉の説明によれば,「元号ヲ建ツルハ事直接ニ国民ノ生活ニ関シ,性質上純然タル国務ニ属スルコトハ勿論ニシテ,固ヨリ単純ナル皇室ノ内事ニ非ズ。故ニ之ヲ憲法ニ規定セズシテ,皇室典範ニ規定シタルハ恐クハ適当ノ場所ニ非ズ。其ノ皇室典範ニ規定セラレタルニ拘ラズ,大正又ハ昭和ノ元号ヲ定メタル詔書ガ宮内大臣ノ副署ニ依ラズ,各国務大臣ノ副署ヲ以テ公布セラレタルハ蓋シ至当ノ形式ナリ。」ということになります(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)185頁)。(なお,先例となった大正改元の際の内閣総理大臣は公家の西園寺公望であって,宮内大臣の渡辺千秋は元は諏訪高島藩士でしかありませんでしたから,西園寺が明治天皇崩御を承けての元号建定事務を主管したことはいかにも自然であったということかもしれません。)「事直接ニ国民ノ生活ニ関シ」とは,「とにかく旧憲法下における元号は,国の元首であり,かつ統治権の総覧者である天皇がお決めになったものであって,はっきり使用についての規定はございませんけれども,恐らくその趣旨は,朕が定めた元号だから国民よ使えよという御趣旨がその裏にはあったのだろうと思うのですよね。」ということでしょう(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第58頁)。(ちなみに,詔書と同様天皇が親署して御璽を鈐する勅令については,「他の国務上の詔勅と区別せらるゝ所以は,勅令は国民に向つて法規を定めることを主たる目的とすることに在る」とされていましたが(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)235頁),勅令の副署者については「内閣総理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ国務各大臣若ハ主任ノ国務大臣ト倶ニ之ニ副署ス」るものとされていました(公式令72項)。宮内大臣の副署はなかったわけです。)元号の建定は国務事項である以上,「この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない」ものとされる(日本国憲法41項)194753日以降の天皇については,「天皇に元号の決定権を与えるような法律をつくることは憲法違反でございます。」ということになります(真田秀夫政府委員・第87回国会参議院内閣委員会会議録第123頁)。「世の様の移り換りて斯なれるは人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから且は我国体に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき」とは,天皇が「政治の大権」を失った時代に係る明治天皇の慨嘆です(188214日の軍人勅諭)。

 1889211日の「皇室典範第12条に建元大権の事を定めて居るのは,事純然たる国務に関するもので,皇室に関係の有るものではなく,宜しく憲法中に規定せらるべきものである。」(美濃部・精義113頁)という記述に出て来る「建元大権」とは,漢の武帝以来の「王が時間をも支配するとして,支配下の人民に使用させた年を数える数詞」である「元号をさだめ,あるいは改める権限」(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)121頁)という意味の東洋の皇帝的な建元大権のことだったのでしょうか。(なお,明治皇室典範12条は,践祚後の改元を義務付けると共にそれ以外の場合の改元を禁じており,むしろ天皇の権限を制約する規定のようにも思われます。)


3 大日本帝国憲法制定前期における元号等についての意見:井上毅及び伊知地正治

 しかし,元号に関する規定を憲法に設けるべきだとの方向性は,明治維新の功臣である岩倉具視右大臣の考え方においてはあったものと考えられ得るところです。岩倉右大臣は「奉儀局或ハ儀制局開設建議」を18783月に太政官に提出しますが,当該奉儀局又は儀制局が開設されたならばそこにおいて帝室の制規天職に関し調査起草されるべき「議目」として掲げられたもののうち,「憲法」の部には次のようなものがありました(小嶋和司「帝室典則について―明治皇室典範制定初期史の研究―」同『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)73-74頁)。

 

  改元 一代数改 一代一元 不用元号称紀元何年

  諡号 史記諡法 漢籍抄出美字 地名院 国風諡号

 

 上記「奉儀局或ハ儀制局開設建議」に対して井上毅が「奉儀局取調不可挙行意見」を岩倉右大臣に提出し,同右大臣の当該建議は実現されずに終わりますが,井上の当該「意見」においては「国体ト云即位宣誓式ト云 皇上神聖不可侵ト云国政責任ト云ガ如キハ其標目簡単ナルガ為ニ一覧ノ間ニ深キ感触ヲナサゞルモ其義ヲ推窮シテ其末来ノ結果ヲ想像スルニ至テハ真ニ至大ノ議題ニシテ果シテ其深ク慎重ヲ加フベクシテ躁急挙行スベカラザルヲ信ズ」とされていた一方,「改元」等に関しては「奉儀局議目中国号改元ノ類大半ハ儀文名称ノ類ニシテ政体上ニ甚シク関係アラザル者トス」とあったところです(小嶋73-74頁)。

「改元ノ類」は「儀文名称ノ類ニシテ政体上ニ甚シク関係アラザル者」にすぎないというのですから,建元大権もあらばこそ。したがって,井上毅が起草作業の重要な一翼を担った大日本帝国憲法においては元号に関する条項が設けられなかったことはむべなるかな,とは筆者の感想です。

なお,前記「議目」について宮内省一等出仕の伊知地正治(1873年に左院副議長として「帝室王章」を取り調べ,1874年以後国憲編纂担当議官(小嶋65頁))の口述を宮島誠一郎が筆記したもの(1882121日)があり,そこには次のような意見が記されていました(伊藤博文編・金子堅太郎=栗野慎一郎=伊藤博精=尾佐竹猛=平塚篤校訂『秘書類纂 憲法資料 下巻』(秘書類纂刊行会・1935年)497頁)。

 

 改元 神武紀元何千何百年モ民間通用ニハ少シク難渋ナリ。漢土モ明代ヨリ一代一元ノ制ヲ定メ今日清朝之ニ沿襲ス其制頗ル傚フベシ。御維新後一代一元ノ姿ナレバ此レニテ当然ナルベシ。御一代数度ノ改元ハ已ニ無用ナルベシ。

 諡号 近世ハ白河家ニ御委任ノ様ニ覚ユ,御維新後ハ内閣ニテ御選定当然ナリ。

 

 明治政府は「1873年(明治6)年の改暦にともない,公式に干支を廃し,新たにさだめた皇紀と元号を用いて年を数えることとした」のでしたが(村上123頁),「神武紀元何千何百年モ民間通用ニハ少シク難渋ナリ。」ということであったのであれば,ハイカラな「耶蘇紀元何千何百年」も当時の我が国の民間においてはそもそもその通用は論外だったということでしょう。なお,神武紀元(皇紀)については明治五年十一月十五日(18721215日)の太政官布告第342号が根拠とされており,当該布告は「今般太陽暦頒行 神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被為告候為メ来ル廿五日 御祭典被執行候事〔後略〕」というものでした。ただし,当該布告については,「神武天皇の御即位のときが建国の日であるぞということをここで宣明されたというふうに考えられるわけでございますが,そうなりますと,したがいましてこれは年の数え方というのを決めたのではございませんで,建国の日から何年かということを数えるときには神武天皇の御即位のときが始まりなんだということを書いてあるわけでございます。したがいまして,元号のように年の数え方を書いたというものではございません。そして,これが一体現在どのような意味,内容を持っているのか,これは一体国民に対して強制力を持っていたのか持っていなかったのか,さらに,現在の科学的知見でもって神武天皇の御即位というのは一体いつであったのかというようなことを確定いたしませんと,どうもこの太政官布告の現在における効力というのは確定はできない。ところが,私どももいろいろ調べてはみたのでございますが,何分古いものでございまして,文献等もございませんし,さらにその神武天皇の御即位の時期がいつかというようなことは歴史的事実に属しまして私どものまだ何とも確定できる状況ではございませんので,現段階におきましてはなかなかこれの法的効力というものにつきまして断定ができるような状況に立ち至っていないということを御了解いただきたいと存じます。」と解されています(味村治政府委員(内閣法制局第二部長)・第87回国会参議院内閣委員会会議録第1415頁)。

「御一代数度ノ改元ハ已ニ無用ナルベシ。」とわざわざ言わざるを得なかったということは,江戸時代最長の元号は享保及び寛永の各21年であったので,明治も10年を過ぎるともうそろそろ改元で縁起直しをしたい,数字が大きくなると面倒臭い,というような昔ながらの欲求がやはり感じられていたということでしょうか。(なお,「未開人」は3までしか数えられない一方「むかしのタイ国の法廷でもやはり証人に10までの数を数えさせてみて,数えられなかったら,一人前の証人としての資格をみとめなかった」そうです(遠山啓『数学入門(上)』(岩波新書・1959年)1頁)。)

太政官の内閣で諡号を選ぶ云々ということは,1882年当時は宮中府中の区別がいまだにされていなかったからでしょう(近代的内閣制度の創設は18851222日)。

 

4 元号の示すもの

 

(1)天皇在位ノ称号

 元号が「儀文名称ノ類」であるのならば,それは明治皇室典範下において具体的には何を示すのかといえば,美濃部達吉によれば「天皇在位ノ称号」です。いわく,「即チ元号ハ明治元年ノ定制ニ依リ其ノ法律上ノ性質ヲ変ジタルモノニシテ,旧制ニ於テハ元号ハ単純ナル年ノ名称ナリシニ反シテ,現時ノ制ニ於テハ天皇在位ノ称号トシテ其ノ終始ハ全ク在位ト相一致ス,天皇崩御ノ瞬間ハ即チ旧元号ノ終リテ同時ニ新元号ノ始マル瞬間ナリ。元号ヲ改ムル詔書ノ公布セラルルニハ多少ノ時間ヲ要スルハ勿論ナレドモ,其ノ公布ガ如何ニ後レタリトスルモ,常ニ先帝崩御ノ瞬間ニ迄遡リテ其ノ効力ヲ生ズベキモノナリ。」と(美濃部・撮要184-185頁)。

 「年を帝王の治世何年で数える例は,古代ローマ帝国にも,イギリス等の君主制国家にもみられる」ところ(村上122頁),我が国においては実名敬避俗があるから天皇の御名の代わりにその践祚時に建定する「天皇在位ノ称号」を使用するのだ,といえば,他国の例と比較を絶する奇天烈なものではないということにはなるのでしょう。(英国の例を見ると,「制定法は,1962年までは,正式には,国王の治世第何年の議会で制定された法律第何号という形で呼ばれていた。」とされています(田中英夫『英米法総論下』(東京大学出版会・1980年)675頁)。また,「イギリスでは,即位の日から丸1年を治世第1年,次の1年を第2年とし,暦年で数えるのではない」とされています(同頁)。)漢土においても,武帝より前の「従来の紀年法は君主が先代を継承すると,その翌年を元年として数え始めた。」そうです(宮崎市定『中国史(上)』(岩波文庫・2015年)214頁)。

 

(2)漢の武帝

漢の武帝による年号制度の創始も,実は前記の「年を帝王の治世何年で数える」制度の延長線上にあったところです。いわく。「戦国時代は七国がそれぞれの君主の即位年数を用いたのはもちろんであるが,漢代に入っても封建君主はその領内で,その君の即位年で年を記したのである。中央では〔漢3代目の〕文帝の時,在位がやや長くなったので,17年目にまた元年として数え直した。これを()元年として区別するのは後世の加筆である。次の景帝〔武帝の先代〕8年目が(ちゅう)元年,更に7年目が後元年と,2回の改元を行った。こういう方法は記録を整理する時に紛らわしくて甚だ不便である。特に皇帝には死んでから諡号を贈られるまでは名がなく,後世でこそ景帝の中二年と言えるが,その当時においては,ただ皇帝二年とだけしか言えない。更に地方の封建君主の即位年があるからいよいよ混雑しやすい。武帝の世になっては,6年を一区切りとし,7年目になると元年に戻したが,改元が何回か繰返されると,前後の区別がつかなくなった。そこで5回目の改元の際に,その元年に元封(げんぽう)元年という年号を制定して数え始めた。更に前へ戻って,最初から建元,元光,元朔,元狩,元鼎と,6年ずつひとまとめにして年号を追命した。これは当時においては大へん進んだ便利な制度で,中央で定めた年号は国内至る所に通用し,またこれによって何年たった後でも,すぐあの年だということが分る。更に国内のみならず,中国の主権を認める異民族の国にも年号を用いさせれば,それだけ年代を共通にする範囲が広くなるわけである。中国にはキリスト教紀元のようにある起点を定めて元年とし,永久に数えて行く考えは遂に発生しなかった。」と(宮崎214-215頁)。

なお,漢の元封元年(西暦紀元前110年ほぼ対応します。)は武帝が今の山東省の泰山において封禅を行った年であって,その「大礼の記念として,天下の民に爵一級を賜わり,女子と百戸には牛酒を賜わった。人民の全部が大礼記念章もしくは酒肴料をいただいたのである。/年号が元封(・・)と改元されたのも,またその記念のひとつである。」とされています(吉川幸次郎『漢の武帝』(岩波新書・1963年)164頁)。

 (「現時点の年を表すものとしては,西暦前113年に「元鼎」と号したのが最初とされる」ともされています(井田95頁・注(22))。なお,藤田至善「史記漢書の一考察―漢代年号制定の時期に就いて―」(東洋史研究15号(1936年)420-433頁)によれば,漢の武帝の五元の三年(西暦紀元前114年にほぼ対応します。)に有司から,元は宜しく天瑞を以て命ずべし,一二を以て数へるは宜しからず,一元を建と曰ひ,二元は長星を以て光と曰ひ,ママ一角獣史記封禅というがあって,(年号制定である。」というったそう420-421頁,426頁)。五元の年号である元鼎は,五元の四年(西暦紀元前113年にほぼ対応します。)に宝鼎が得られたことから追称されたものであって,改元と年号の制定とが初めて同時に行われたのは元封元年のことであった(漢書武帝紀・元封元年の条に「詔曰,其以十月為元封元年」,郊祀志上に「下詔改元為元封」とあるそうです。)とされています(藤田432頁註⑥)。

 

(3)国民元号

ところで,現在の元号法に基づく元号は「天皇在位ノ称号」とはいえないのでしょう。

元号と皇位の継承とは直ちに連動するのかという質疑に対して政府は「直接的には皇室典範4条が働く場合にいまの改元が行われるわけでございますが,ただ,おっしゃいましたように,直接皇位の継承と,観念上といいますか考え方として元号とすぐ結びつけたというものではむしろなくて,元号制度について国民が持っているイメージ,それはやはり日本国憲法のもとにおける象徴たる天皇の御在位中に関連せしめて元号を定めていくんだという事実たる慣習を踏まえまして,このような条文の仕方にしたわけでございます。」と答弁しています(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第514頁)。国民の持っているイメージに従っただけであって政府自身の考え方は無い,そもそも,「元号は,国民の日常生活におきまして,長年使用されて広く国民の間に定着しており,かつ,大多数の国民がその存続を望んでおるもの」であるところ「また,現在46都道府県,千を超える市町村が法制化の決議を行い,その速やかな法制化を望んでおります」から「政府としては,こういう事実を尊重いたしまして,元号制度を明確で安定したものとするため,元号法案を提出」した(大平正芳内閣総理大臣・第87回国会衆議院会議録第154頁)だけなのだ,「深いイデオロギー的なものではな」いのだ(大平内閣総理大臣・同会議録9頁)ということでしょう。

また,ここで皇位継承と元号との結び付きを仲介するものとされる「元号制度について国民が持っているイメージ」は更に,精確には,改元の時期についてかかるものなのでしょう。「その元号をどういう場合に改める,つまり改元をするかという点につきましては,これは申し上げるまでもなく,旧憲法の時代に戻るというのではなくて,現在,日本の国民の多くの方々が持っていらっしゃる元号についてのイメージ,それは天皇の御在位中に一世一代の元号を用いるのだというイメージがあるわけなんで,それを忠実に制度化するというのが本意でございまして,無論,天皇の性格が旧憲法と現在の憲法との間において非常な違いがあるということは百も承知でございまして,それと混同するようなつもりは毛頭ございません。」という答弁もあります(真田秀夫政府委員・第87回国会衆議院内閣委員会議録第511-12頁)。

改元という区切りを重視した結果,「年号法」とはならず元号法となったのでしょう。「本来的には,年号といい元号といい,年の表示の仕方,つまり紀年方式の一つでございますが,年号の方は単純にその年を表示するという感覚が主になっているというふうに考えるわけなんで,その年号を幾つか区切りをつけて,古くは大化,白雉,朱鳥というふうに区切りをつけまして,それから新しくは明治,大正,昭和というふうにある区切りをつけていく。その区切りをつけたその期間の始まりが,その区切りの名前の第1年であるというふうな扱いになる。そういう区切りの初年度であるという点に重点を置いて名前をつければ,まあ元号という言葉になじむような感じがいたします。本来的には,先ほど申しましたように,元号といい年号といい,そんなに違うものではないと思いますけれども,あえて区別をつければ,ただいま申し上げましたような,その区切りに重点を置いて呼び名をつけた場合に,元号という言葉の方がぴったりくるという感じがいたします。」ということでした(真田政府委員・第87回国会衆議院内閣委員会議録第511頁)。

「神武紀元何千何百年モ民間通用ニハ少シク難渋」であるのに対して元号はちょくちょく改元があるからこそよいのであるが,「屢〻年号を改め」過ぎて「徒に史乗の煩きを為すに至」った(伊藤博文『皇室典範義解』第12条解説),そこで1868年に改元事由を整理して「是迄吉凶之象兆に随ひ屢〻改号有之候へ共,自今御一代一号に被定候」(明治元年九月八日の行政官布告)としたところ,百十余年後の1979年には,元号について「国民が持っているイメージ」においては天皇の践祚時にされる改元以外の改元のイメージが失われてしまうに至っていた(「代始め改元以外の改元の方法というのが,過去百年間では整理されて,ないわけでございます。そうなりますと,元号が変わるということについて国民が考えるとすれば,恐らくそれは代始め改元で変わるというイメージが一般的に残っているのだろうというふうに言えるのじゃなかろうかと思います。」(清水汪政府委員(内閣官房内閣審議室長兼内閣総理大臣官房審議室長)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第846頁)),すなわち,同年制定の元号法2項における「元号は,皇位の継承があつた場合に限り改める。」という規定はそういう主権者「国民が持っているイメージ」を承けた結果である,ということになるのでしょうか。元号法においては「たまたま改元を,昔よくありましたような祥瑞改元とか言ったのだそうですが,それだとか,あるいは国家について重大な事件があった場合とか,そういうようなことではやらないで,憲法第1条に書いてある象徴たる天皇の地位の承継があった場合に限ってやる,そういう改元のきっかけをそこへ求めただけ」だということですが(真田政府委員・第87回国会衆議院内閣委員会議録第716頁),これをもって,践祚時改元制は積極的選択の結果ではなく吉凶之象兆等を理由とする改元を整理した消極的選択の結果にすぎないことになるのである,というように理解するのは善解でしょうか誤解でしょうか。しかし確かに,改元事由は限定されるべきであって,明和(めいわ)九年は迷惑(めいわく)だから物価安が永く続くように安永元年に改元しよう,というような洒落で内閣が次々と元号を改め始めのならばそれこそ迷惑です。

元号法制定は「国民のためよき元号を策定することが主たる目的」であるところ,同法に基づく元号は,「国民に十分開かれた国民元号」としての性格を有するものということになります(三原朝雄国務大臣(総理府総務長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第744頁)。すなわち,「今度の法律〔元号法〕によって委任を受けた内閣が政令を出して,そして年号を定めるということでございまして,天皇のお名前を使って年の表示をするという考えではございません。」というわけです(真田政府委員・第87回国会参議院内閣委員会会議録第711頁)。

総理府からの19791023日の閣議報告である「元号選定手続について」においては,元号の候補名の整理に当たっての留意事項の筆頭に「国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つものであること。」を掲げています(22)ア。下線は筆者によるもの)。余りにも高邁な元号であると,我々人民としては理想負けしてしまうわけです。これに対して,昭和の元号名の勘進者である前記宮内省図書寮吉田増蔵編修官(192279日に死去した図書頭鷗外森林太郎の元部下(ちなみに,鷗外最晩年の日記『委蛇録』の1922620日の項には「二十日。火。〔在家〕第六日。呼吉田増蔵託事。」とあり,同月30日から同年75日までの最後の6日分については,吉田が鷗外のために代筆をしています。))に一木宮内大臣が与えた5項目の元号の条件中第2項は「元号ハ,国家一大理想ヲ表徴スルニ足ルモノナルベキコト。」としていました(『昭和天皇実録 第四』603頁。下線は筆者によるもの)。


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吉田編修官の元上司である帝室博物館総長兼図書頭森林太郎墓(東京都三鷹市禅林寺)

森図書頭のなした仕事として,正に元号及び追号に係る『元号考』及び『帝諡考』が残されています。(ただし,大正改元の際に西園寺内閣総理大臣と渡辺宮内大臣との間でなされた事務分配の前例によれば建元は「大権ノ施行ニ関スル」ものとされていたのですから,内閣総理大臣の下の内閣(これは,国務大臣によって組織される現憲法にいう内閣とは異なります。)ではなく宮内大臣の下の宮内省(図書頭)が元号を云々したのは,厳密には越権(ないしはあえて建元を「皇室ノ大事」と捉え直そうとするもの)だったのかもしれません。)

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禅林寺山門
 

5 大宝律令と大宝建元及び三田の詐偽

 ところで,現在我が国に元号があるのはなぜかという問いに対して,元号法という法律がある以上はいずれにせよ皇位継承の都度内閣は改元して新しい元号を定めなければならないのだと官僚的に答えることは,不真面目な答えであるということでお叱りを受けてしまうことなのでしょうか。(ただし,政府は法律たる元号法の効果として「憲法73条第1号によりまして,内閣は法律を誠実に執行しなければならないということで,今度の法律案が成立した場合の元号法の本則第1項によって,政府は〔同法本則2項の〕改元の事由が出た場合には改元をしなさいという効果が出てくるわけなんです。」と答弁してはいます(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第732頁)。)

しかるに,その後中断なく継続して元号が現在まで使用されるようになった最初の元号である大宝については,正に,新しい令(大宝令)に年号を使えと書いてあるからその指令を役人らに守らせるために年号を定めるのだ,ということで建元されたもののようにも思われるところです。さらには,当該大宝建元の事由たる祥瑞も,実は小役人の手になるいんちきであったというところが味わい深い。

 

   8世紀の最初の年〔701年〕の晩春三月(本書ではすべて陰暦)二十一日,藤原宮の大極殿をかこむ朝堂院では,即位や新年の拝賀におとらない盛大な式典が挙行された。

   式は,黄金献上の儀から始まる。それまで日本にはないと思われていた金山が,さきごろ対馬で発見されたとの内報をえた大納言大伴御行(みゆき)は,技術者を派遣,鋭意精錬させていたのだが,ようやく間にあって,この盛大な式典の劈頭をかざることになったのである。しかし御行自身はこの日をまたず,さる正月に56歳で病没した。〔文武〕天皇は深く悼んで,即日右大臣に昇任させた。

   式は荘重な宣命の朗読にうつる。大極殿前の広場に参列する百官にもよくとおる声である。

   「対馬に産した黄金は,神々が新しい律令〔大宝律令〕の完成を祝いたもうた瑞祥(めでたいしるし)である。よって年号を大宝と定め,新令によって官名・位号を改正する・・・」

年号は,大化改新に始まったが,大化・白雉以後は天武朝の末年に朱鳥としただけで,ひさしく公的には使われていなかった。しかし今度の令は,つねに年号を用いることを命じていた。(青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』(中央公論社・1965年)25-26頁。下線は筆者によるもの。儀制令第26条(公文条)に「凡公文応記年者,皆用年号。」とあったそうです(窪美昌保『大宝令新解 第3冊』(橘井堂蔵・1916年)553頁)。

 

   だが,この式典の劈頭をかざった黄金は,日本で産したものではなかった。対馬に金山などはなかったのである。『続日本紀』の大宝元年(701年)八月条には,金を精錬した技術者三田五(みたのいつ)(),対馬で金山を発見したという島民や嶋司(国司にあたる役人),そして紹介者である故右大臣にたいする行賞の記事があるが,続紀の編纂者は記事の注に「年代暦」という書物を引用して,後年,五瀬の詐偽だったことが発覚した,故右大臣はあざむかれたのである,とのべている。(青木2729頁)

 

   三田氏は任那王の後裔と称しながら,代々金工を業としていたために,大化改新にさいしても朝廷から解放されず,賤民ではないけれども良民のなかでいちばん低い雑戸という身分に指定され,差別待遇されていたのである。「年代暦」が詐偽と記したのは,五瀬が対馬の金山からではなく,どこからか,おそらくは朝鮮から手に入れた金を,島民と共謀して対馬産といったためであろう。

   五瀬は行賞によって雑戸から解放された。のみならず,正六位上という貴族に近い位や,絹・布・鍬など,あまたの賞品をもらった。自分で手に入れた金を献納しても,当座は引きあったわけである。ただ発覚したあとどうなったかは,なにも知られていない。

   かれが金を発見しなければ,大宝という年号もできなかったろうし,高官たちが新令施行の式典をはなやかにかざることもむずかしかったであろう。かれが何者かに命ぜられた役割は,もうすんだのであり,歴史は使い捨てた小道具の最期を語ろうとはしない。(青木29-30頁)

 

 大宝ではなく実は「韓宝」であったのか,などと言えばまたお叱りを受けるのでしょうか。

しかし,青木和夫山梨大学助教授(当時)が,三田五瀬のしてしまった「忖度」ゆえの過ちについて,歴史学的というよりはあるいは文学的な,極めて同情的な口吻を漏らしているところが,刑事弁護も時に行う筆者には印象深いところです。

 

  五瀬としても,詐偽を働いてはいけないということぐらいはじゅうぶん知っていたであろう。ただ,正直に精錬できない旨を朝廷に復命したばあいに自分を待っている将来と,金を精錬した功によって雑戸という身分から抜けだせるかも知れないという誘惑とをくらべたとき,誘惑の強さには,ついに勝てなかったのであろうか。(青木30頁)

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002 東京都渋谷区渋谷三丁目516 渋谷三丁目スクエアビル2

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp




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1 墓参り

 特別縁故者に対する相続財産分与審判の手続代理人の仕事(2018年2月25日の当ブログ記事「特別縁故者に対する相続財産分与制度等について」を御参照ください。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1070203577.html)をしていて,亡くなった被相続人の人となり,周囲の人々との交渉等を調べて書面にまとめつつ,筆者はふと,明治・大正の文豪・森鷗外の手になる史伝物を思い出したことでした。筆者は当該手続事件の被相続人の墓にも詣でて調査を行ったのですが,鷗外もその史伝の主人公について同様のことをしています。19151030日(松本清張『両像・森鷗外』(文藝春秋・1994年)147頁参照)におけるその次第は次のとおり。

 

   わたくしは谷中(やなか)感応寺(かんのうじ)に往つて,抽斎の墓を訪ねた。墓は容易(たやす)く見附けられた。南向の本堂の西側に,西に面して立つてゐる。「抽斎澀江君墓碣銘」と云ふ(てん)(がく)も墓誌銘も,皆小島成斎の書である。漁村の文は頗る長い。後に〔抽斎の息子である澀江〕保さんに聞けば,これでも碑が余り大きくなるのを恐れて,割愛して刪除(さんぢよ)したものださうである。〔略〕

   わたくしは自己の敬愛してゐる抽斎と,其尊卑二属とに,香華(かうげ)を手向けて置いて感応寺を出た。(森鷗外『澀江抽斎』(1916年)その八)

 

 当該墓参を,70年後,昭和の文豪・松本清張が自ら再現しています。

 

   本年(昭和60年〔1985年〕)6月2日の午後,私は谷中に行った。感応寺は谷中霊園の南端に相対した西側道路から横通りに入ったところにある。小さな山門に「光照山感応寺」の古い扁額がかかっている。日蓮宗。門を入った正面の本堂は四注造,前に破風造の廂が付いている。墓地は本堂の向かって左側にある。広くない墓地には石塔が密集し,仕切りの各筋の径も人一人がようやく通れるくらいである。私は抽齋墓を容易(たやす)見つけることができず,本堂前に人は居らぬかとさがしたが,そこには小学2,3年生くらいの子供が5,6人遊んでいるだけだった。右側の庫裡(くり)へ行った。私を見て犬がほえた。

   住職は居るか居ないかわからない。私を墓地へ導いたのは14,5くらいの少女だった。

   抽齋墓は本堂西から二筋目を北に入ってすぐだった。(あおぐろ)い墓石は高さ2メートル,横1.5メートル,上がゆるやかな山形をなしている。篆額に当る上部は広く仕切ってそのスペースに「抽齋澀江君墓碣銘」と2行に篆書体文字が彫られてある。したがってその下の墓誌銘は方1メートルの中に長い海保漁村の文が楷書の細字で窮屈そうに埋められている。

   抽齋の墓に詣る人の有無を少女に聞くと,ときたまに人が見えるという。私が墓の形や篆額の文字を書体どおりにノートに写し取っていると,このお墓の方はどういう人ですかと少女はきいた。むかしのえらいお医者さんで学者ですと私は答えた。少女は,そうですか,どうぞごゆっくりと頭をさげて去った。(松本148149頁)

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   〔前略〕〔永井〕荷風ですら〔中略〕谷中感応寺までは足を伸ばしていない。また鷗外研究家諸氏の文章にも抽齋墓を訪ねたとは見えないようである。「鷗外写真アルバム」といった刊行物にも,この墓の写真は載っていない。私が一応満足したのはこうした理由からである。(松本150頁)

 

2 鷗外の史伝

ところで,鷗外の史伝物に対する清張の評言は,なかなか厳しい。1909年の「「半日」は純自然派だが,早くも細君の抗議に遇っている。つづけて書いて発表した「ヰタ〔・セクスアリス〕」は陸軍次官石本新六の戒飭(かいちょく)を受け,雑誌は発禁処分を受けた。どうも自然派は難物である。(松本280頁),「諸事百般の現象はすべて仮象である,それが存在するかのように映っているだけだと「かのやうに」〔1912年〕で遁げようとしても,それも不可能になってきた。天皇制が存在する限り,狭い潜水艦の室内に居るように,ちょっと身動きしただけでも,こっちの角,あっちの角にぶっつかってしまう。」(松本281頁),「歴史小説に筆を取った。が,歴史小説が現代の寓意と取られている以上,これも窮屈を感じてくる。」(松本281頁)という諸々の「危険」を避けつつあった果ての,要は安全な場所での衒学趣味が鷗外の史伝だ,というのです。

 

   官吏の道を踏みはずさないためには,文壇の外に立つことが必要であった。文学を第二義的にする故である。しかし,常に群小の上に聳立(しょうりつ)していなければならない。類なきペダンティックの文学がそれである。

   それは,何の危険物もない考証学者の伝記にとりかかったとき,存分にペダンティックの自由が発揮された。ジェネアロジックの方向というのは,くりかえして云うように,澀江保の「抽齋歿後」によって発想を得たものだが,そうは云わないで,魏収の名を出して,ペダンティックに糊塗するところなどはいかにも鷗外らしいのである。(松本282頁)

 

ここで出て来る魏収は,『角川新字源』によると,「506572。北斉の人。(きょ)鹿(ろく)(河北省)の人。(あざな)は伯起。北魏から北斉に仕え,中書令兼著作郎となり,「魏書」を編集した。」とあります。魏収の「魏書」は南北朝の北魏439年華北統一,534年滅亡)の歴史を記したもので,邪馬台国の「魏志」とは異なります。魏収について鷗外は,次のように述べていました。

 

  わたくしは此叙法〔「一人の事蹟を叙して其死に至つて足れりとせず,其人の裔孫のいかになりゆくかを追蹤して現今に及ぶ」叙法〕が人に殊なつてゐると云つた。しかし此叙法と近似したるものは絶無では無い。昔()(しう)は魏書を修むるに当つて,多く列伝中人物の末裔を載せ,後に(てう)(よく)17271814。清代前期の史学者・詩人。〕の難ずる所となつた。しかし収は曲筆して同世の故旧に(わたくし)したのである。一種陋劣なる目的を有してゐたのである。わたくしの無利害の述作とは違ふ。〔後略〕(森鷗外『伊沢蘭軒』19161917年)その三百七十)

 

 特別縁故者に対する相続財産分与の審判の申立書などは,どうしても「無利害の述作」というわけにはいかないので,鷗外にいわせればやはり「一種陋劣なる目的を有」するものになってしまうのでしょうか。とはいえ自営業者たる弁護士は,自分で食っていかねばなりません。

 「説明を入れたくて仕方がないのは鷗外の性分である。考証物にその自由を見出したのは鷗外の幸福である。」とは清張の『両像・森鷗外』の結語です(松本283頁)。説明に夢中になってしまって脱線することを,五十代半ばの鷗外は楽しんでいたのでしょうか。『伊沢蘭軒』の書き方についてですが,清張は次のように説明します。

 

   伊澤徳の「蘭軒略傳」「歴世略傳」を骨子にして,それを編年的に順序立て,「勝手気儘に」考証随筆として書きすすめて行くことである。この方法だと,鷗外の広博強識を以てすればいくらでも思うままに書ける。話は話を生み,枝から枝へと岐れ,煩瑣な梢を茂らせる。人物は次々と出て来きて,その小伝や軼事(いつじ)(逸事・逸話)はくりひろげられる。(松本194195頁)

 

3 京水と鷗外

 

(1)京水を追跡する鷗外

 前記のような脱線のうち,鷗外が特に力を入れたのが,澀江抽斎の「痘科の師」である「池田氏,名は(いん)(あざな)()(ちよう),通称は(ずゐ)(えい)(けい)(すゐ)と号した」池田京水(『抽斎』その十四)と池田独美との関係調査です。

 

   独美の家は門人の一人が養子になつて()いで,世瑞仙と称した。これは上野(かうづけの)(くに)桐生の人村岡善左衛門(じやう)(しん)の二男である。名は(しん)(あざな)(じう)(かう),又(ちよく)(けい)霧渓(むけい)と号した。(せい)寿館(じゆくわん)〔痘科の〕講座をも此人が継承した。

   〔略〕

   独美の初代瑞仙は素源家(もとげんけ)の名閥だとは云ふが,周防の岩国から起つて幕臣になり,駿河台の池田氏の宗家となつた。それに業を継ぐべき子がなかつたので,門下の俊才が入つて後を襲つた。(にはか)に見れば,なんの怪しむべき所もない。

   しかしこゝに問題の人物がある。それは抽斎の痘科の師となるべき池田(けい)(すゐ)である。

   京水は独美の子であつたか,甥であつたか不明である。向島嶺松寺に立つてゐた墓に刻してあつた誌銘には子としてあつたらしい。然るに2世瑞仙(しん)の子(ちよく)(をん)の撰んだ過去帖には,独美の弟(げん)(しゆん)の子だとしてある。子にもせよ甥にもせよ,独美の血族たる京水は宗家を嗣ぐことが出来ないで,自立して町医になり,下谷(したや)徒士(かち)(まち)に門戸を張つた。当時江戸には駿河台の官医世瑞仙と,徒士町の町医京水とが両立してゐたのである。(『抽斎』その十五)

 

   わたくしは抽斎の師となるべき人物を数へて(けい)(すゐ)に及ぶに当つて,こゝに京水の身上に関する疑を記して,世の人の教を受けたい。(『抽斎』その十六)

 

 「調べてみても京水の身もとはよくわからない。そこで穿鑿欲が出てくる。人に知られざる人の,そのまた謎への挑みである。「抽齋」を開始したのが大正5年〔1916年〕1月である。その前年から京水を探していたと思われるふしがある」(松本77頁)ということになります。「鷗外の京水に対するモノマニアックなまでの執拗な追跡」(松本206頁)がなされます。

 

(2)向島弘福寺

 ところで,被相続人の特別縁故者であるかどうかの該当性判断に当たっては被相続人の「死後における実質的供養の程度」も考慮されますから(広島高等裁判所平成15年3月28日決定(家月55巻9号60頁)等),特別縁故者に対する相続財産分与審判の手続代理人の仕事には被相続人の菩提寺から故人の「供養」に関する事情を聴取することも含まれ,筆者は,当該手続事件の依頼者に慫慂されてお寺の住職訪問をしたのでした。鷗外もまた,池田京水の身もと調査に当たって,住職訪問をしています。池田氏の墓があったという向島の嶺松寺を探しての帰り道です。

 

   わたくしは幼い時向島小梅村に住んでゐた。初の家は今須崎町になり,後の家は今小梅町になつてゐる。〔略〕

   わたくしは再び向島へ往つた。そして新小梅町,小梅町,須崎町の間を徘徊して捜索したが,嶺松寺と云ふ寺は無い。わたくしは絶望して(くびす)(めぐら)したが,道の(ついで)なので,須崎町弘福寺にある先考〔亡父〕の墓に詣でた。さて住職奥田墨汁師を(とぶら)つて久濶を叙した。対談の間に,わたくしが嶺松寺と池田氏の墓との事を語ると,墨汁師は意外にも(ふた)つながらこれを知つてゐた。

   墨汁師は云つた。嶺松寺は常泉寺の近傍にあつた。其(しん)(ゐき)内に池田氏の墓が数基並んで立つてゐたことを記憶してゐる。墓には多く誌銘が刻してあつた。然るに近い頃に嶺松寺は廃寺になつたと云ふのである。〔略〕(『抽斎』その十六

 

 向島牛頭山弘福寺の奥田住職は,親切です。

 

   弘福寺の現住墨汁師は大正5年〔1916年〕に入つてからも,捜索の手を(とど)めずにゐた。そしてとうとう下目黒村海福寺所蔵の池田氏過去帖と云ふものを借り出して,わたくしに見せてくれた。〔略〕

   此書の記する所は,わたくしのために創聞に属するものが頗る多い。就中(なかんづく)異とすべきは,独美に玄俊と云ふ弟があつて,それが宇野氏を(めと)つて,二人の間に出来た子が京水だと云ふ一事である。此書に拠れば,独美は一旦(てつ)京水を養つて子として置きながら,それに家を()がせず,更に門人村岡晉を養って子とし,それに業を継がせたことになる。(『抽斎』その十九)

 

   〔前略〕わたくしは撰者不詳の〔京水の〕墓誌の残欠に,京水が(そし)つてあるのを見ては,忌憚なきの甚だしきだと感じ,晉が〔自分に対する〕養父の賞美の語を記して,一の抑損の句をも著けぬのを見ては,簡傲(かんがう)も亦甚だしいと感ずることを禁じ得ない。わたくしには初代瑞仙独美,世瑞仙晉,京水の3人の間に或るドラアムが蔵せられてゐるやうに思はれてならない。〔後略〕(『抽斎』その二十)

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弘福寺(東京都墨田区向島)


(3)京水廃嫡一件

前記の「ドラアム」については,その後事情が判明します。「京水廃嫡一件」と鷗外によって名づけられるところの「池田の家の床下に埋蔵せられてゐた火薬」であって,ついには「爆発」(『蘭軒』その二百三十一(1917年))させられるに至ったものです。

 

ア 独美の養子・京水

廃嫡させられることとなった京水は,独美の弟・玄俊の子として天明六年(1786年)に京都に生まれ,生後間もなく伯父・独美の養子に迎えられたのでした。現在では「成年に達した者は,養子をすることができる」わけですが(民法792条),独美は元文元年(1736年)又は享保二十年(1735年)生まれですから(『蘭軒』その二百二十三),天明六年には当然既に成人に達しておりました(というか五十代ですね。)。なお,「幕藩時代の武士が養子を願い出るときは,17歳以上,通常は30歳以上の者に限って許される慣例であった。ただやむを得ない事情がある場合,たとえば奉公相勤め難い事情があるときは,30歳以下の者にも願い出を許した。しかし16歳以下の者には,絶対に養親資格を認めなかった」そうです(中川高男『新版注釈民法(24)親族(4)親子(2)養子§§79281711』(有斐閣・1994年)792条解説・153頁)。

 

 〔独美の弟・玄俊に天明〕六年〔1786年〕五月五日に三男が生まれた。名は貞之介であつた。是が後の京水である。貞之介の母〔宇野氏〕秀は此月二十六日に死んだ。恐くは産後の病であつただらう。〔略〕

  貞之介は(はゝ)を失つた直後に,伯父瑞仙〔独美〕の養子にせられて大坂に往つた。〔京水の〕自筆の巻物に「善郷〔独美〕養て兄弟二人を祐ると云意を用て〔貞之介を〕祐二と改む」と云つてある。「兄弟二人を祐る」とは,玄俊は家に女子が無いので,赤子(せきし)を兄に託して祐けられ,兄瑞仙は男子が無いので,貞之介の祐二を獲て(たす)けられたと云ふ意であらう。〔後略〕(『蘭軒』その二百二十七)

 

 「嬰幼児をその父母が他人の養子にやるという制度は,わが国では古くから行われた。そこには,親が子を自由に支配しうるとする思想があったであろうし,子の福祉を考えるよりは,収養する方の家の承継や,養子にやる親と貰う親との経済的な理由(実質的には子の売買)もあったであろう。濫用の弊も少なくはなかった。」と説かれてはいたところです(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)269頁)。現在では「養子となる者が15歳未満であるときは,その法定代理人が,これに代わって,縁組の承諾をすることができる。」(民法797条1項)と規定されるとともに,「未成年者を養子とするには,家庭裁判所の許可を得なければならない。ただし,自己又は配偶者の直系卑属を養子とする場合は,この限りでない。」とされています(同法798条)。民法798条本文の許可は,養子となるべき者の住所地を管轄する家庭裁判所の審判によってされます(家事事件手続法(平成23年法律第52号)39条,別表第一の61の項,161条)。

 

イ 独美の後妻・沢と「家庭の友」・佐々木文仲

 

   此推定にして誤らぬならば,瑞仙〔独美〕の3人目の妻沢は寛政七年〔1795年〕若しくは八年〔1796年〕に,養子祐二のゐる処へ迎へられたのである。沢は〔数え〕31歳若くは32歳で,祐二は10歳若くは11歳であつた。次で瑞仙が召されて江戸に来り,沢と祐二改杏春とを迎へ取つた。是が瑞仙62,沢33,杏春12の時である。(『蘭軒』その二百三十)

 

祐二が杏春と改められた由来については,「京水は「善郷〔独美〕(中略)〔幕府に〕実子の届に言上するに及て杏春と称す」と自記してゐる」そうです(『蘭軒』その二百二十九)。

ところで,「独美先生は還暦過ぎて,29歳も年下の若い奥さんをもらったのか,男のロマンだなぁ・・・」などと呑気なことを言ってはいけません。

 

  しかし其裏面には幾多の葛藤があつたものと看なくてはならない。わたくしは(のち)よりして前を顧み(くわ)よりして因を推し,錦橋瑞仙〔独美〕の妻沢(さいさは)を信任することが稍過ぎてゐたのではないかと疑ふ。其家に出入(いでいり)する佐々木文仲と云ふものをして,余りに深く内事に干渉するに至らしめたのではないかと疑ふ。佐々木は恐くは洋人の所謂「家庭の友」に類した地位を占むるに至つたのであらう。そして佐々木と沢との関係は,遂に養子杏春をしてこれが犠牲たらしめたのであらう。(『蘭軒』その二百三十一)

 

 「ここに云う洋人の所謂「家庭の友」とは,暗にその家の主人の黙認の(もと)にその妻と密通した男が公然と家庭に出入りすることの意味に当てているようである。とは清張の註釈です(松本76頁)。 

 

  夫と三十も年が違う沢は,自分よりずっと年下の若者を愛人にし,すでに衰老に達した瑞仙は,この後妻を寵愛しつつも佐々木との関係に眼をふさいでいたのである。(松本76頁)

 

古代ローマの2代目皇帝ティベリウスは60歳の男が50歳未満の女と結婚することを禁じ,いかなる場合でも60歳の男が罰を受けずに結婚することができないようにしたそうですが(De l’Esprit des lois XXIII, 21),このような不様な事態の発生を避けしめようとしたものでしょうか。なお,当該規定は4代目皇帝クラウディウスによって廃止されますが(スエトニウス『ローマ皇帝伝』(岩波文庫・1986年)「クラウディウス」第23章に,「元首ティベリウスが,60歳の人はもう子供が生めないかのように考えて,パピウス・ポッパエウス法に追加していた条規を〔クラウディウスは〕廃止した。」とあります(国原吉之助訳)。),クラウディウス自身が58歳の年(西暦紀元48年)になって結婚しており,25歳年下のその妻がネロの母のアグリッピナでした。しかし,クラウディウスは,その後7年目(54年)に毒殺されます。

 

 …per ipsam Agrippinam, quae boletum medicatum avidissimo ciborum talium obtulerat.

 

 クラウディウスはきのこ(boletus)が大好物で,一説によれば,毒をしみ込ませたきのこを食べさせられて死んだのでした。

 

ウ 京水辞嗣及び池田家のその後

 さて,独美先生が眼をふさぐのをよいことに,お沢さんと佐々木文仲とは散々悪乗りしたようです。京水少年は我慢がならない。

 

   京水自筆の巻物中参正池田家譜(よし)(なほ)〔京水〕の条には,「享和元年1801年〕病に依て嗣を辞するの後瑞英と改む」と書してある。嗣を辞したのと,杏春を瑞英と改めたのは,辛酉の出来事である。当時養父錦橋66,養母沢37,杏春の瑞英16であつた。(『蘭軒』その二百三十一)

 

当該辞嗣に関する事情について京水が書いたところを,鷗外は次のように紹介します。「種々謀計」というのは,お沢さんと文仲とがこもごも独美先生のところにやって来ては,京水についてあることないこと悪口を言い,告げ口してなどいたのでしょう。

 

   〔京水の家の〕生祠記は既に佚した。しかし京水は養父の幕府に呈した系図を写して,其後に数行の文を書した。わたくしは此書後に由つて生祠記の内容の一端を知ることを得た。京水の辞嗣は霧渓の受嗣と表裏をなしてゐて,其内情は(しも)の如くである。

   「右直郷(霧渓2世瑞仙晋)は初佐佐木文仲の弟子なり。文仲は於沢の方に愛せられて,遂に余を追て嗣とならむの志起り,種々謀計せしかど,余辞嗣の後にも養子の事(文仲自ら養子となる事)成らず,終に直郷に定まりたり。其間山脇道作の男玄智,瑞貞と云,堀本一甫の男某,田中俊庵の男,瑞亮と云,皆一旦は養子となれども,何れも於沢の方と文仲に追出されたり。善直(京水瑞英)誌。」(『蘭軒』その二百三十一)

 

京水辞嗣後,さすがに独美先生も,妻の愛人である佐々木文仲を自らの養子にさせられるところまでコケ(コキュ)にされることには耐えられなかったのでしょう。

しかしめげずに,お沢さんらは自分らに都合のよい弟子筋の2世瑞仙が養子になるまでは(2世瑞仙晉が正式に養嗣子となったのは,独美の死ぬる6箇月前の文化十三(1816年)年三月のことでした(『蘭軒』その二百三十二)。),不都合な養子3人を連続していびり出したのですか。恐ろしいですねぇ,お局様ですねぇ,後妻業ですねぇ。

 

4 後妻業

さて,後妻業。

 

(1)妻の相続権

現在は「被相続人の配偶者は,常に相続人となる」ものとされ(民法890条1項),「子及び配偶者が相続人であるときは,子の相続分及び配偶者の相続分は各2分の1」ということになります(同法900条1号)。しかしながら,江戸時代には「被相続人に子孫なくまた養子なくして死亡せるときは,その家名は()これを相続す。」ということでしたから(中田薫『徳川時代の文学に見えたる私法』(岩波文庫・1984年)202頁),反対解釈すれば,お沢さんとしては養子の京水がいては夫の独美の遺産に係る相続権が全く無かったわけです。(しかし,いずれにせよお沢さんが自ら幕府の官医の職を継ぐわけにはいかなかったでしょうから,都合のよい後任の養子は必要です。)なお,昭和22年法律第222号による改正前の民法では,「旧法の家督相続においては,初めから配偶者の法定相続権はなく,また遺産相続においても,直系卑属なき場合にのみ,配偶者の法定相続権は認められたに過ぎなかった」ところでした(中川善之助『相続法』(有斐閣・1964年)86頁)。「子は孝養を尽くすはずのものであり,その子が父の遺産を承継する以上,別に母が遺産の一部を相続する必要はさらにないと考えられていた」ものです(中川87頁)。しかし,お沢さんとしては,生意気な小僧と思われたのであろう京水少年の「孝養」は当てにならぬものと信ぜられ,聡明でフレンドリーな男性たる文仲との愛の方が頼りがいのあるものと思われたものなのでしょう。

 

(2)養子に対する離縁の訴え

 

ア 辣腕弁護士氏登場

ところで,現代において後妻業をやるような方にあっては,富裕かつ老耄の我が夫に養子などがあった場合,遺産の2分の1(民法900条1号)では我慢できない,自分が全財産を受けるという遺言書を夫に書かせても,養子の遺留分としてなお残る4分の1(同法1028条2号)が実に惜しい,そこで,辣腕弁護士氏(「弁護士は,他の弁護士・・・との関係において相互に名誉と信義を重んじる。」ものとされています(弁護士職務基本規程70条)。)を雇い,かつ,難しいことはもう面倒くさくなっている夫を外界から遮断してあげて,夫を励まし夫の名で,養子に対して離縁の訴えを提起せしめ(民法814条),又は家庭裁判所に廃除の請求をせしめ(同法892条。家事事件手続法39条,別表第一の86の項,188条),若しくは廃除の遺言をさせる(民法893条)という内助に及ぶということが,あり得ます。そうであるのならば,鷗外のいう「火薬」の晃々たる「爆発」的紛争は,昔も今も必ずしも珍しいものではないことになるようです。

 

イ 養父の住居権等

さて,離縁の訴えに先立つ離縁を求める家事調停(家事事件手続法257条)の申立書の写しの送付(同法256条)を受けた養子は驚きます。また,そこには「縁組を継続し難い重大な事由」(民法814条1項3号参照)云々として自分が「(そし)つてあるのを見ては,忌憚なきの甚だしきだと感じ」ざるを得ません。どうせこれはあの後妻の仕業であって養父の本意ではあるまいということで養父に会いに行くのですが,養父と同居している後妻(民法752条において「夫婦は同居」するものとされています。)によって,お前なんかともう会いたくないと言っているわよと言われて家に入ることを妨げられます。正当な理由がないのに人の住居に侵入すると3年以下の懲役又は10万円以下の罰金に処せられ(刑法130条前段),未遂も罰せられます(同法132条)。最高裁判所昭和58年4月8日判決・刑集37巻3号215頁は「刑法130条前段にいう「侵入シ」とは,他人の看守する建造物に管理権者の意思に反して立ち入ることをいう」と判示しています。

そこで知り合いの弁護士に相談して,先生,養父と会って話をしてくれないかと頼んでも,「弁護士職務基本規程52条に「弁護士は,相手方に法令上の資格を有する代理人が選任されたときは,正当な理由なく,その代理人の承諾を得ないで直接相手方と交渉してはならない。」とあるんで,相手方に弁護士が立てられている以上,それはおれにはできない。」と頼りないことを言われます。そこでやはり自分で何とか養父と直談判しようと気を取り直すのですが,これもまた,「おれを代理人にするのならそれはやめてくれ。」と当該弁護士に止められるでしょう。日本弁護士連合会弁護士倫理委員会編著の『解説弁護士職務基本規程 第3版』(日本弁護士連合会・2017年)には,弁護士職務基本規程52条に関して「依頼者が相手方本人と直接交渉をしようとしているのを知って,弁護士がこれを止めなかったからといって,直接本条に違反するものではないが,弁護士は,原則として,自らの依頼者に対してそのような直接交渉を慫慂すべきではない。むしろ,依頼者に対して,そのような直接交渉を思いとどまるよう,すすんで説得すべきであろう。」とあるところです(155頁)。養子とその弁護士との間の関係は早くもぎくしゃく。後妻さんが老耄の夫のために辣腕弁護士氏を雇った効用が早速現れます。智謀恐るべし。

 

ウ 養親子関係破綻の主張

辣腕弁護士氏は,裁判所にはなかなか現れぬ存在となっている原告たる養父の離縁意思の強固性及び養親子関係破綻の事実性を見てきたように(実際見てきたのでしょう。)執拗かつ熱心に言い募ります。それまで特段の問題はなかったところで養親子間の現実の交渉が後妻さんによって遮断されてしまっているのですから,両当事者間における現実の衝突ではなく,もはや専ら養父の一方的な感情なるものに関する議論とはなります。しかし,辣腕弁護士氏による一種忌憚なき(そし)りの言をいつまでも繰り返し読まされ聞かされ,更には「当事者間の感情的・経済的な争が極度に達した場合には――真実の親子なら,親権の喪失(834条・835条参照),相続の廃除(892条)などの手段によって処置すべきだが,人為的な親子関係において,しかも一方がその解消を望むときは――これ〔離縁〕を認めるのが至当であろう。」と民法学の権威から説かれてしまい(我妻306頁),また,「「縁組を継続し難い重大な事由があるとき」とは,養親子としての精神的経済的生活関係を維持もしくは回復することがきわめて困難なほどに縁組を破綻せしめる事由の存する場合の意味である。あるいはこれ以上縁組の継続を強制しても,正常な親子的社会関係の回復は期待できない場合といってもよい。「縁組を継続し難い重大な事由があるとき」〔略〕とは養親子関係の破綻のことであるというのは,すでに指摘したように,相手方の有責事由を必要としない」などと説明されると(深谷松男『新版注釈民法(24)親族(4)』814条解説・509510頁),養子側としては,自らに有責事由の無いことは明白ながら,とうとう最後は根負けということになるようです。

 

エ 金銭的解決

やはりお金の問題になるのでしょうか。「解釈論として,離縁の止むなきに至らしめた当事者は賠償責任を負うべきである(人訴は離縁の訴に附帯して訴えることを認める(人訴26条による7条の準用)〔人事訴訟法(平成15年法律第109条)17条〕)。」とされています(我妻309頁)。賠償の範囲は「縁組によって期待された合理的な親子関係が破綻したことによる精神的苦痛が主なものであろう」と解されつつ,「財産的損害についても,理論としては,肯定すべきである。」とのことです(我妻309頁)。しかしながら,「養子が養親の財産を相続する期待権を失ったことは計算されるべきではあるまい。」と説かれてしまうのは(我妻309頁),正に遺産相続目当ての後妻さんが実質的当事者としてその背後にいるようにも思われる離縁請求事件においては,いかがなものでしょうか。本来保護に値しないのだと辣腕弁護士氏が言い募っていた「財産を相続する期待権」がどういうわけか後妻さんについては反射的に堂々保護されることになって,何だか悔しいですね。

結局,判決で損害賠償をもらうよりも,和解で和解金を得る方がよさそうです。後妻さんとしても,その献身的かつ熱意ある愛護にもかかわらず訴訟が長引いている間に富裕かつ老耄の夫が死亡して,紛争相手の養子をも共同相続人とする相続が始まってしまっては面倒でしょう。

 

(3)再び池田家

とはいえ,池田京水のように四の五の言わずにすぱっと離縁してしまうような豪胆な人が当事者では,なかなかお金は動きません。

なお,京水の「廃嫡」は京水が満15歳の時のことのようですが,現行民法でも養子は満15歳になれば自ら養親と協議離縁をすることができます(同法811条1項・2項)。いずれにせよ,既に15歳にして己が俊才に恃むところがあり,事実逆境に打ち克って痘科医として名を成したのですから,池田京水は立派な大先生でした。

これに対して,佐々木文仲はどうなってしまったのでしょうか。池田宗家にいそいそとやって来てはお沢さんと小部屋に籠り,たまに小部屋を出れば,我は一流学者なりと自得しつつ2世瑞仙晉に対して師匠(づら)していつまでもかつての「弟子」にたかっていたのでは見苦しく,かつ,迷惑だったことでしょう。


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向島の森家址(東京都墨田区)

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

石見国津和野の出身とはいえ,鷗外には,隅田川にカモメ飛ぶ向島・小梅村の少年時代の思い出も大きなものだったのでしょう。

 
 

 

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1 我が国初の刑事弁護

 

  我が国において初めて刑事弁護らしいものが認められたのは明治8年の広沢参議暗殺事件である。同事件の審理に特別な裁判所が構成されたが,その際弁護官が裁判所から任命された。しかし,弁護官はこの事件限りで広く一般の制度として認められたものではなかった。(司法研修所『平成18年度 刑事弁護実務』10頁)

 

 我が国初めての刑事弁護を担ったこの弁護官の一人が,後に鷗外森林太郎の岳父となる荒木博臣でした。すなわち,森鷗外記念会の雑誌『鷗外』24号(1979年1月号)88頁以下の荒木博臣の略年譜によれば(坂本秀次「森鷗外と岳父荒木博臣―漢詩文集『猶存詩鈔』を中心に―」),明治8年(1875年)に数え39歳の荒木博臣について「2月14日,広沢参議暗殺事件弁護官に任ず(我が国最初の官選弁護人となる)。」とあるところです。

 

2 広沢参議暗殺事件と臨時裁判所別局及び弁護官

 さて,広沢参議暗殺事件とは何か,そして我らが荒木弁護官の弁護振りはいかん。

 

  ・・・「広沢参議暗殺事件」とは,明治四年(1871)一月九日〔グレゴリオ暦1871年2月27日〕未明,参議広沢真臣が麹町の自邸で斬殺された事件である。犯人は逃走し・・・「政敵による暗殺」を捜査し尽くした挙句の果てに,広沢が殺された寝室にいたにも関わらず軽傷で証言のあやふやな「妾」福井かねが逮捕され,彼女が「私通」を自白した家令の起田正一との共犯として両者に拷問を加えて「自白」させたのである。五年四月,司法省に送られてきた起田は自白を翻し,事態は膠着したまま明治7年が暮れ,ようやく8年になって「参座」の特別規則を設けた臨時裁判所別局で公判が開廷することになったのである。

  3月19日の開廷初日には司法卿大木喬任はじめ10名,外務卿寺島宗則,参座12名,弁護官2名,原告官7名が列席するという「空前絶後の大法廷」であった。・・・

  荒木博臣はこの2名の弁護官のうちの一人で,官職は明法中法官となっている。裁判官が「弁護官弁護の次第あらば参座に向ひ陳述ありたし」と述べたのに対し,弁護官は「別に弁護すべき意見なし,縦令抑圧せらるとも,真正の事実を述べられざる道理なき故,特に弁護するに及ばずと信ず」と陳述したという。・・・7月,参座の投票によって,起田とかねは「無罪ニ決スルヲ以テ解放候事」となり,事件は迷宮入りしたのである。(古澤夕紀子「鷗外岳父となった荒木博臣という人」言語文化論叢4巻(京都橘大学文学部野村研究室編・2010年8月)1516頁)

 

 「刑弁スピリット」もあらばこそ。
 輝かしかるべき我が国初の刑事弁護における弁論は,「別に弁護すべき意見なし・・・特に弁護するに及ばずと信ず」だったのでした。明治8年(1875年)7月10日のことです(尾佐竹猛『明治文化史としての日本陪審史』(邦光堂書店・1926年)123頁)。「弁論は,被告人の権利を擁護するための第一審最後の機会である。弁論を行うのは権利であり義務ではないが,これまでの弁護活動の集大成として裁判所を説得する重要な機会であるので,弁護人は,いかなる事案にあっても,十分な準備のもとに熱意を持って弁論をすべきであり,弁論をしなかったり,弁論をしても形式的,抽象的な内容に止まるのであれば,弁護人としての責任を果たしたことにはならない。」と熱く語る司法研修所の刑事弁護教官は(『平成18年度 刑事弁護実務』350頁。なお,下線は筆者によるもの),おかんむりだったのでしょう。刑事弁護教官室作成の教材において,広沢参議暗殺事件における刑事弁護に関する言及が淡泊になるわけです。

 なお,荒木博臣の同僚弁護官は長野文炳で,官職は明法権中法官となっています(尾佐竹119頁)。荒木の方が長野よりも位が上ですから,弁護官として「別に弁護すべき意見なし・・・特に弁護するに及ばずと信ず」と述べるべく判断したその判断は,やはり荒木に帰せられるべきでしょう。

 「薩の西郷と並び称された長州第一の人物」であると評価され,かつ,「参議の顕職に在つた」のに(尾佐竹95頁),広沢真臣は,現在では余り知られない人物になってしまっていますね。ただし,太っ腹の人だったようです。かねは「広沢の妾となつてからも起田との関係ばかりでなく広沢の甥とも関係し,従者の誰彼とも関係があり,来る若侍には巫山戯る,大酒呑みのズボラと来て居る,これを広沢に忠告してもそれでも広沢は寵愛して居つたといふ」ことで,広沢家の閨門は紊れていたそうです(尾佐竹108頁)。ところで,「かねは当時妊娠中で且つ持病のあつたのが拘留せられ,拘留中に分娩し,其子は広沢家に引取られたが,分娩後75日経たぬ内に拷問せられ・・・」とありますが(尾佐竹100頁),広沢家に引き取られた「其子」こそ,後の広沢金次郎伯爵なのでしょうか。

 起田及びかねの被疑事件については,警視庁で捜査の局に当った(ということで拷問についても責任者であり,かつ,「正直漢で鼻柱は強かつたが頭が単純では一度こうと思ひ込んでは思ひ返す事の出来ない男」(尾佐竹100頁)である)安藤則命中警視は張り切っていたのですが,司法省で取調べに当った判事たちは物にならないだろうとの見解,しかし広沢参議暗殺事件については明治天皇から「賊ヲ必獲ニ帰セヨ」との詔書が明治四年二月二十五日〔グレゴリオ暦1871年4月14日〕に発せられており(尾佐竹97頁),更に明治7年〔1874年〕8月11日には大木喬任司法卿が明治天皇に召されて「猶々精々尽力捜索を遂げよ」とのお言葉を賜ってしまっているので(尾佐竹107頁),司法省としてはなかなか引っ込みがつかず,そこで「空前絶後の大法廷」を設けて何とか事件に区切りをつけたということでしょうか。一種の「勧進帳」ですね。

ところで,広沢参議暗殺被告事件を取り扱う臨時裁判所別局の公判に付されたのは起田とかねとの事件だけではなく,「窃盗の為め忍入り,広沢参議に発見せられ,之を殺したといふ白状」を別途していた「無頼漢」青木鉄五郎及び「つまらぬ関係者」である坂口匡の事件もまた付されています(尾佐竹115頁)。起田が有罪ならば青木が無罪,青木が有罪なら起田は無罪,両者無罪はあっても両者有罪はあり得ません(なお,結論を先にいえば,青木及び坂口も無罪になっています(尾佐竹125127頁)。)。現在の「検察の実務においては,的確な証拠に基づき有罪判決が得られる高度の見込みがある場合に限って起訴するという原則に厳格に従っている」ので(司法研修所検察教官室『平成18年度 検察講義案』67頁),相互に有罪が両立しない二つの公訴を提起などしたら検察庁は一体どうなってしまったのかということになるのでしょうが,明治の昔はおおらかです。また,弁護人としても,起田と青木とは利害が相反するようにも思われるので厄介です。「〔弁護士〕職務〔基本〕規程上,利害相反する被疑者・被告人から弁護の依頼を受けても,これを受任することは許されない(職務規程28③)」とされています(『平成18年度 刑事弁護実務』49頁)。しかしながら,荒木・長野両弁護官は,起田も青木も一緒くたにして弁護するものとされていたようです。1875年7月13日の弁護官発言をより正確に引用すると「青木,坂口,起田,かね等に付き,別に弁護すべき意見なし,仮令抑圧せらるゝとも,真正の事実を述べられざる道理なき故,特に弁護するに及ばずと信ず」となっています(尾佐竹123124頁。下線は筆者によるもの)。 刑事訴訟規則29条5項は国選弁護人について「被告人又は被疑者の利害が相反しないときは,同一の弁護人に数人の弁護をさせることができる。」と規定していますが,起田と青木とは利害が相反していなかったということでしょうか。そもそもからして,両者とも有罪になる見込みが薄いので,実質的に考えて,利害相反など気にしなくともよいよと司法省は考えていたということでしょうか。

 

3 「正直」な裁判官となる。

弁護官としては「別に弁護すべき意見なし・・・特に弁護するに及ばずと信ず」で終始した荒木博臣でしたが,その分その後裁判官としての実質的弁護で埋め合わせをしてくれたのでしょうか。(「実質的弁護」とは,「裁判所や検察官も,勿論被告人の権利を護ってやらなければならない」ということです(平野龍一『刑事訴訟法』(有斐閣・1958年)73頁)。)しかしながら,どうもそうでもないようです。大阪で有名であった代言人・砂川(かつ)(たか)1918年の『法曹紙屑籠』で荒木博臣判事を評していわく。

 

裁判官は正直でなければならぬことは勿論であるが,余り(・・)正直すぎて(・・・・・)道徳(・・)()観念(・・)高い(・・)()刑事(・・)裁判(・・)など(・・)()()()失する(・・・)虞れ(・・)()ある(・・)。当時有名であつた判事荒木博臣氏は,最も正直謹厳而も温厚な人であつたが,同氏の裁判は刑が重いとて被告人等は恐れて居つた。知らず識らず自己の高尚なる道徳観念を標準とするためではなからうか。(圏点原文のまま。坂本82頁に引用されているもの)

 

 塩っ辛いというべきか,北海道弁でしょっぱいというべきか。ますます刑事弁護の側から遠いところに,司法官としての自己を規定していたようです。
 前記『鷗外』24号の略年譜によれば,広沢参議暗殺事件の弁護官を務めていた1875年5月にその年にできた大審院勤務を命ぜられていた荒木は,翌年の1876年9月23日に大阪上等裁判所詰,1877年6月29日に福島裁判所長,1880年3月19日に大審院刑事課勤務,1886年7月10日に大阪控訴院評定官,1890年10月22日に数え54歳で大審院判事,1893年3月19日に退職,という裁判官としての経歴であって,1914年4月17日に数え78歳で直腸癌で歿,長女志げが鷗外森林太郎と婚姻して「鷗外岳父」となったのは1902年1月4日のことでした(坂本89‐90頁)。 

 

4 文豪との縁と人気作家との薄い縁

 

(1)松本清張と『両像・森鷗外』

 若き日(といっても43歳の時ですが)『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞した松本清張は,1992年4月に病に倒れるまで(同年8月4日満82歳で死去)遺作となった『両像・森鷗外』(文藝春秋・1994年)の加筆を続けていました。書かれていたのは「鷗外の二人の岳父・赤松則良と荒木博臣のプロフィール」でした(『両像・森鷗外』編集部註)。しかしながら,当該「未整理の追加原稿」から『両像・森鷗外』の単行本に掲載された荒木博臣に関する記述は,なお次のものにすぎませんでした。

 

  荒木博臣は肥前佐賀藩の士族というだけで,これといった有力な背景がなかった。討幕運動は薩・長・土・肥の連合といわれるが,藩主鍋島直正(閑叟)は早くから藩士の人材登用に心をもちい,大隈重信,江藤新平,副島種臣などが新政府に参加し得たのは直正の後押しによった。

  荒木博臣のことはこれまでよくわからなかった。(ママ)艸太郎氏の『鷗外岳父・荒木博臣』は,同人雑誌の掲載ながら彼を知る労作である」(『両像・森鷗外』第1刷286頁)

 

『両像・森鷗外』の単行本は,ここで終わっています。

しかしながら,荒木博臣は,とことんよくわからなくなる定めにあるようです。松本清張の絶筆ともいうべき上記掲載部分の最後に登場する「山中艸太郎氏」とは,当該『鷗外岳父・荒木博臣』論文を読むべく筆者が国立国会図書館の蔵書検索をしたところ,実は「田中艸太郎氏」であるようでした。「田中艸太郎」で検索して,何とか国立国会図書館で同氏の論文「鷗外岳父・荒木博臣のこと」(九州文学197111月号(第34巻第11号・通巻第321号)16頁)を見ることができたのですが,これは何と1頁足らずの小品であって,娘・志げが鷗外に嫁して鷗外の岳父となったこと,鷗外と漢詩・漢籍に関してやり取りがあったこと及び「明治二年に東京に出て江藤新平を頼り,その奔走で官途に就」くまでの略歴が記されているばかりで,「彼を知る労作」とまではなかなかいいにくいようです。松本清張は最晩年に至ってどうしてしまったのだろうとまで頭を悩ませたのですが,インターネットのウェッブ・ページをうろうろしたところ,雑誌『西日本文化』の第83号及び第84号に著者を田中艸太郎とする「鷗外岳父・荒木博臣のこと」が2回にわたって掲載されているようです。なるほど,大部の労作のようです。しかし,いやはや,また出直しです。(なお, 「田中」を「山中」にしてしまった『両像・森鷗外』第1刷の誤植は, 当然のことながら, 文藝春秋社によって後に改められています。)

 

(2)司馬遼太郎とここでも『歳月』

小倉時代の鷗外の事績を追う孤独な青年の情熱を描いた『或る「小倉日記」伝』から『両像・森鷗外』まで,鷗外を終生一つの執筆テーマとして執念を燃やし続けていた松本清張とは残念ながら縁の薄かった荒木博臣ですが,松本清張と並ぶ昭和の人気作家であって,幕末・明治の時代を舞台とした作品を数多く残した司馬遼太郎からは,冷淡かつあっさり無視されています。

 ことは,明治二年十二月二十日(グレゴリオ暦1870年1月21日)の江藤新平暗殺未遂事件にかかります。

 当該事件の経過は,荒木博臣の次男・三雄が発起人となって今から百年前の1916年に虎ノ門に建てられ(商船三井のビルの脇にあります。)同年1112日に除幕された江藤新平の遭難遺址碑の碑文には次のようにあるところです。

 

 明治二年十二月二十日中辨従五位江藤君新平訪阪部長照於赤坂葵街佐賀藩邸会西岡逾明荒木博臣在座歓晤至夜半君先去竹輿出邸僅数歩暴客猝狙撃君躍身避溝中三人聞急提刀走出護君入邸招医療創・・・(下線は筆者によるもの)

 

(大意)明治二年十二月二十日に中辨で従五位の江藤新平が赤坂葵町の佐賀藩邸に阪部長照を訪ねて行ったら,西岡逾明と荒木博臣がいたので皆で夜半まで(酒を飲みながらでしょうね)面白く話をした。江藤新平は先に帰ることにしたが,かごが藩邸を出てわずか数歩のところで暴漢が突然江藤に襲いかかった。江藤は身を躍らせて溝の中に入って難を避けた。阪部,西岡及び荒木の三人は急を聞いて刀をひっつかんで走り出て,江藤を護って藩邸に入り,医者を招いて(きず)の治療をさせた。


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 これが,司馬遼太郎が江藤新平の生涯を小説として描いた『歳月』の「闇討ち」の章では,次のように改められています。すなわち,

 明治二年十二月二十日に江藤が訪れた佐賀藩邸は,赤坂葵町の藩邸ではなく溜池の藩邸とされ(同じ中屋敷のことをいっているのでしょうが,「溜池」といわれると今日の読者には今の溜池交差点辺りの印象であるのに対して,実際には現在虎の門病院などがある辺りです。),

 訪問相手は,佐賀藩士の阪部長照ではなく佐賀藩主の鍋島(なお)(ひろ)及び藩父閑叟とされ,

 酒は,阪部長照,西岡逾明(江藤の1歳年下)及び荒木博臣(江藤の3歳年下)とくつろいで飲んだのではなく謹直な閑叟と飲んだとされ,

 藩邸と襲撃場所との間の隔たりは,藩邸を出てわずか数歩ではなく駈けて1丁も行った時間及び距離とされ(1町は約109メートルです。),

 江藤は,ちょっと格好悪く溝の中に逃げたのではなく(なお,この「溝」は外堀のことでしょうか。),「脇差を片手頭上にかざして曲者のほうに突進」して「無礼であろう」と吠えて襲撃者らを追い払ったものとされ,

 阪部,西岡及び荒木が江藤を救出した武士の義侠話はまるまる消えて,お伴の黒沢鐘次郎という十五歳の少年が逃走してしまった幕府瓦解後の薄情話に差し替えられ,

 阪部,西岡及び荒木に護られて葵町の藩邸に担ぎ込まれた話もまるまる消えて,流血の江藤は傷を負ったまま琴平神社前から溜池藩邸まで独りでとぼとぼ歩いたとされ,更に江藤の策士性及びすさまじさを強調するためか,溜池藩邸前でそこにいた襲撃犯の一味二人に対して仲間を装って名を聞き出そうとした上「虎のように口をあけ,「わしは江藤新平だ」と,わめい」て両名を退散させた,という話が付加せられています。

 司馬遼太郎は小説家であり,『歳月』は飽くまでも小説です。

 なお,西岡逾明は,広沢参議暗殺事件の臨時裁判所別局の裁判官で,1875年7月13日に被告人らに無罪の言渡しをしています(尾佐竹120121頁,125127頁)。荒木博臣は司法卿・江藤新平の引きで明治五年十月(グレゴリオ暦1872年11月)に地方官から中央の司法官となったのですが(坂本79頁),西岡逾明も同様だったのでしょう。出世するためには,偉い人,偉くなる人とお酒を飲んでおくべきものです。

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前編(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1057864864.html)からの続き

 

(3)『晩年の父』

 

ア 「はじめて理解できた『父・鷗外』」と「不律安楽死殺人事件」

不律は殺されたものとする主張の出典はどこにあるのかと探したところ,『諸君』1979年1月号に掲載された197810月7日付けの「はじめて理解できた『父・鷗外』」という記事(小堀杏奴(鷗外の二女。1909年生まれ)の著述。同著者の岩波文庫版『晩年の父』(1981年)に,「あとがきにかえて はじめ悪しければ終り善し」と改題して併載されています。筆者が読んだのは,当該岩波文庫に収載されたものです。)にありました。

 

・・・その大切な不律が,父の小説,『金毘羅』にあるように,百日咳にかかり,一医師の提案により,モルヒネの注射によって安楽死させられているのである。この事件については,こうして父自身書いており,私も『晩年の父』に,当事者の一人である母から聞いたままを,正直に書き記している。兄はその折,看護に当った某女の話を伝えているが,当時,祖母と,母との確執は,表面上,一応おさまっている如く見えるだけで,母にとって不利な証言をすることは,祖母側の人々を喜ばせる効果のあることを心得ている某女の言辞を私は全く信頼出来ない。いずれにしても,軽々に論ずべき事柄でなく,当事者である父母の言を信じ,余分の臆測は慎むべきである。ただ,私にとって,最愛の亡母のために一言!何処の国に,全く,母方の祖父の言葉ではないが,何処の国に肉親の,血をわけた我が子に,「早く楽に死なせる薬を注射して下さい」などと,愚かしい叫びをあげる母親があろうか!(岩波文庫版『晩年の父』204頁)

 

 不律及び茉莉の百日咳をめぐる1908年1月から同年3月にかけての出来事に基づく森鷗外の小説『金毘羅』(1909年)では,「半子(はんす)及び「百合」が百日咳にかかり,「半子」が死亡したことは書かれてありますが,「半子」が「一医師の提案により,モルヒネの注射によって安楽死」させられたことは書かれてありません。そうであれば,記の「この事件」が「不律安楽死殺人事件」であるのならば,「この事件については,こうして父自身〔『金毘羅』において〕書いており」ということはなかったはずです。当時の旧々刑事訴訟法(明治23年法律第96号)8条1号では死刑に該たる罪に係る公訴時効期間は15年でしたので,1908年に殺人事件があったのならば,その公訴時効が成立するのは1923年ということになります。1922年に亡くなった森鷗外が,刑事事件捜査がらみで家族や知人に迷惑がかかる可能性のあるような話を『金毘羅』以外においてどこかで公表されるような形で文章にしていたものとも考え難いところです。

 「私も『晩年の父』に,当事者の一人である母から聞いたままを,正直に書き記している。」の部分ですが,これは岩波文庫版の『晩年の父』では,「母から聞いた話」(19351115日記)中の181頁から185頁までのことでしょう。そこにも「不律が・・・百日咳にかかり,一医師の提案により,モルヒネの注射によって安楽死させられている」ことは書かれていません。森鷗外の長男の『屍室断想』(森於菟(解剖学者)。時潮社・1935年)中「高瀬舟と父鷗外」において紹介された不律の死に関する次の挿話が,『晩年の父』においては「・・・恐らく兄が内科の教授某氏から直接聞いたか,あるいはその人の口から他の人に伝わり,間接に耳にしたかは明瞭しないが,とにかく事実とは全然違った事柄である」として否認されており,代わりに「茉莉安楽死殺人予備事件」が紹介されているものです。(ということで,「はじめて理解できた『父・鷗外』」における当該記述は,明晰であるものとはなかなかいえません。)

 

  ・・・これについて余程前のことですから,云つても悪くないと思ひますのでお話してみませう。

  それは,私の弟に不律といふのがありましたが,父の二男で,極く小さい頃死にました。・・・こんな赤ん坊が,苦しいのを我慢して愛想笑するのが,父はいぢらしくて,見るに堪へなかつたのです。その時もそんなことをする必要はないと思つたのに,注射して,生かしては又苦しめた事がいつまでも父の心残りであつたでせう。

  その時,橋本軍医の外に参考医として,ある大学の内科の教授を頼んでゐましたが,その人が来た時,父に「どうです?もう止めませうか,」と父の考へを推し測つてきいたので,父は「それはもう止めた方がいゝ,注射したら続くことは続くけれども」といつたのです。すると母は一生懸命子供の世話をしてゐたから興奮してゐたのでせう,「それぢや早く楽に死なせる薬を注射して下さい」と大声で云ひました。

  其時父は「さう云ふことは,暗黙の裡にやるべきことで,口に出していつては決して医者としては出来ないことである。又することではないと云つて断然母の乞を斥けて注射を続けさせました。・・・

  この子供の死んだのは明治41年で,「高瀬舟」の書かれたのはずつと後ですが,かうした心持があつた上に,更に「翁草」の故事があつたために,更に刺戟されて,あの小説が出来たのではなからうかと思ひます。(森於菟214216頁)

 

 橋本軍医は,幼時の森茉莉のかかりつけ医であったようです。森茉莉の「幼い日々」(初出1954年)に,「熱があると陸軍省に電話を掛けて,橋本先生という軍医の人を呼んで貰った。」,「仏蘭西の帝政時代の(ずる)武士(さむらい)といった風貌」であったと紹介されています(森茉莉『父の帽子』(講談社文芸文庫・1991年)48頁)。

 当時の「大学の内科の教授」であって鷗外とも親しかった人物といえば,鷗外の日露戦争からの凱旋を新橋駅に出迎えることもした(岩波文庫版『晩年の父』175頁参照)東京帝国大学医科大学教授たる入沢達吉でしょうか。『金毘羅』に出て来る医学の大学教授の氏は「広沢」ですから,「入沢」と「広沢」と何やら符合するところがありそうです。なお,入沢達吉教授の治療中止に関する態度をうかがわせるものとしては,次のようなエピソードがあります。いわく,「伊東〔忠太〕氏の胃腸の工合依然としてよくないので再三〔入沢達吉〕先生に訴へた。先生一寸思案して思ひ出したやうに「いいものがある,それは近頃独逸で発明した妙薬で万病に特効があつて,然も薬価が非常に安く,何処でも得られる,(それ)を試みるがよい」と,ちと変だと思つて「其薬は何と言ふ」と訊ねると,先生は莞爾として「夫は「ほつとけ」だ〔」〕と言はれた。成程と伊東氏も感心したといふことであります。」と(楠本長三郎「恩師入沢先生を偲びて」『入沢先生追憶』(水曜会・1939年)34頁)。ちなみに,『金毘羅』の当時は百日咳の治療薬としての抗生物質が登場する前の時代であって,当該小説中で半子らに施されていたものも対症療法にすぎませんでした。

 『晩年の父』中の「母から聞いた話」においては,兄が書いて本で出している話は実は勘違いで,不律の治療中止の話があったのではなくて「茉莉安楽死殺人予備事件」があったのだ,という主張であったように理解されるのですが,1978年になると,実は不律については治療中止の話があったどころか安楽死させられたのだ,というように話が発展しています。

 

イ 「母から聞いた話」における「茉莉安楽死殺人予備事件」

 1936年に初版が出た『晩年の父』の「母から聞いた話」において,「後日誤ったまま世間に伝えられる事を恐れて,此処に本当の話を書いておく。」とて書かれた「母から聞いたまま」の話は,次のとおりでした。

 

  その時某氏は姉の命がもう廿四時間であることを宣告し,死ぬにしても甚だしい苦痛が伴うのであるからむしろ注射をして楽に死なせたらどうだろうか,モルヒネを注射すれば十分間で絶命するといわれ,父に計るところがあった。

  父もその気になって母にその事をいって聞かせたので,母も父のいうままにそうするような気持になって,()う注射するばかりになっているところへ母の実家の父が見舞に来た。

  母は祖父に

  「既う茉莉はとても助かる見込はないので,某さんが注射して下さるそうです」

 と話すと祖父は眼を洞穴(うろ)のようにして大声で

  「馬鹿な」

 というより大変なけんまくで

  「人間は天から授った命というものがある。天命が自然に尽きるまでは例えどんな事があろうとも生かしておかなくてはならない。私も子供を3人まで既う駄目だと医者に見放された事があったが3人とも立派に助かって生きているじゃないか」

  といって断然注射を行う事を退けさせた。

  某氏は

  「こういう事は一人でも他人の耳に入ったら実行出来ません」

 といってそれを中止したそうである。

  その後容態が変って姉はずんずん()くなって行った。だから姉の命は全く明舟町の祖父のために救われたと言ってもよいので,実に命の恩人であった。

  自分は兄がこの事を書かないずっと以前から,この話は度々母に聞かされていたので,兄がこの事を誤って書いた時,直接彼にその誤りを直し,彼自身で改めて事実を書いてもらった方が好いとも考えたが,兄は医者という位置にあるし,事柄が事柄であるから,かえって彼をして苦しい立場に陥らせてはと考慮して,無関係の私が事の真相を書かしてもらった。

 (「母から聞いた話」岩波文庫版『晩年の父』183185頁)

 

確かに,ここでの鷗外夫人は,「肉親の,血をわけた我が子に,「早く楽に死なせる薬を注射して下さい」などと,愚かしい叫びをあげる母親」ではありません。とはいえ,「愚かしい叫び」はあげていませんが,鷗外夫人が「そうするような気持になって」はいたことは認められているところです。しかし,鷗外夫人の同じような内容の発言によって,「不律治療中止検討事件」では不律が死亡するまで対症療法の注射を受け続けることになったのに反して,「茉莉安楽死殺人予備事件」では注射がされずに茉莉の命が助かった功名になっています。また,ここでは,安楽死を言い出したのが夫人ではなく鷗外であるということが大きいのでしょうか。しかし,家長たる鷗外がいったん決定したとなると森家ではだれも止めることができなくなるので,鷗外夫人の父である荒木博臣判事閣下が折よく現れてくれて止めてくれたのでよかった,ということになるのでしょう。(なお,裁判所構成法(明治23年法律第6号)67条によれば,判事は終身官でした。荒木博臣「大審院判事」という表現もありますが,現在は最高裁判所判事という官名があるものの(裁判所法39条等参照),裁判所構成法上は「大審院判事」という官名はありませんでした。荒木博臣の「閣下」性については,坂本秀次「森鷗外と岳父荒木博臣―漢詩文集『猶存詩鈔』を中心に―」(鷗外(森鷗外記念会)24号(1979年1月号)70頁以下)の荒木博臣略年譜に,明治27年「3月19日退官,高等官2等従四位となる。」とあります。高等官官等俸給令(明治25年勅令第96号)1条は「親任式ヲ以テ叙任スル官ヲ除ク外高等官ヲ分テ9等トス親任式ヲ以テ叙任スル官及1等官2等官ヲ勅任官トシ3等官乃至9等官ヲ奏任官トス」と規定していました。荒木博臣判事はそれまでの奏任官から,退職に当たって勅任官閣下にしてもらったということでしょうか。判事は終身官ですから「退官」よりも「退職」の方がよいでしょう。)

 

ウ 理由付き否認としての「茉莉安楽死殺人予備事件」

『屍室断想』が1935年に出て,その「高瀬舟と父鷗外」の内容を知ったなお存命の鷗外未亡人又は二女が,「肉親の,血をわけた我が子に,「早く楽に死なせる薬を注射して下さい」などと,愚かしい叫びをあげる母親」ではない,と柳眉を逆立て,そこで同年1115日までに「母から聞いた話」の中に反論が書かれたものでしょうか。とはいえ,「高瀬舟と父鷗外」にある話は全く架空のでっち上げだと端的に否認して済まさずに,「茉莉安楽死殺人予備事件」の披露ということになったのはなぜでしょう。民事訴訟規則79条3項は「準備書面において相手方の主張する事実を否認する場合には,その理由を記載しなければならない。」とありますから,否認の理由を付加したということでしょうか。しかし,民事訴訟規則79条3項の「理由」としては「これと両立し得ない事実がある」こと等が想定されているところ(最高裁判所事務総局民事局監修『条解民事訴訟規則』(司法協会・1997年)173頁参照),「茉莉安楽死殺人予備事件」と「不律治療中止検討事件」とは両立し得るので,「茉莉安楽死殺人予備事件」の紹介をもって「不律治療中止検討事件」の主張に対する鮮やかな理由付き否認(積極否認)がされたということにはなっていないように思われます。

 

エ 伝聞供述

しかし,「茉莉安楽死殺人予備事件」の現場にいた鷗外,同夫人,荒木判事及び某医師のうち(瀕死の患者には記憶はなかったでしょうし,「看護に当った某女」のいるところで機微にわたる話がされたということはなかなかないでしょう。),当該「事件」について「はじめて理解できた『父・鷗外』」の著者に語ったのは鷗外夫人だけだったようです(「自分は兄がこの事を書かないずっと以前から,この話は度々母に聞かされていた」)。「不律治療中止検討事件」については,『屍室断想』には話の出所が書かれていないので,全くの創作でなければ,鷗外当人又は「ある大学の内科の教授」から話が出た可能性を考えざるを得ないのでしょう(当該「事件」の否認者である鷗外夫人からは話は出ていないのでしょう。)。その後の「不律安楽死殺人事件」の主張については,これも専ら鷗外夫人の話に基づいたものなのでしょう(「当事者の一人である母から聞いたままを,正直に書き記している」)。

仮に,「はじめて理解できた『父・鷗外』」の著者を,不律にモルヒネ致死注射をした医師を被告人とする殺人被告事件の公判期日に召喚して供述を求めた場合,当該供述は既に亡くなった鷗外夫人の供述を内容とするものとなりますから,現行刑事訴訟法324条2項により同法321条1項3号が準用されることになります(同号の規定は,「前2号に掲げる書面以外の書面〔被告人以外の者が作成した供述書又はその者の供述を録取した書面で供述者の署名若しくは押印のあるもの〕については,供述者が死亡,精神若しくは身体の故障,所在不明又は国外にいるため公判準備又は公判期日において供述することができず,且つ,その供述が犯罪事実の存否の証明に欠くことができないものであるとき〔は,証拠とすることができる〕。但し,その供述が特に信用すべき情況の下にされたものであるときに限る。」というものです。被告人及び弁護人は同法326条の同意をしないものとします。)。当該準用に係る刑事訴訟法321条1項3号のただし書への該当性いかんが問題となります。しかし,「はじめて理解できた『父・鷗外』」の文章からは,亡鷗外夫人がどのような状況で当該原供述をしたかも分からないのですよねえ。
(なお,同じ「はじめて理解できた『父・鷗外』」によれば,「不律兄を失った母も,
恰度(ちょうど)半年ばかりというものは,団子坂の自宅から電車に乗り,隅田河畔で一銭蒸気に乗換えて,寒い日も暑い日も,雨の日も風の日も,一日も欠かさず,不律兄の墓に通いつめたという」(岩波文庫版『晩年の父』205頁)とのことです。しかしながら,『鷗外全集第35巻』(岩波書店・1975年)の鷗外の明治41年日記によれば,1908年3月15日(日)に「家人等不律の遺骨を弘福寺に葬る。」のところ,鷗外夫人はその前日14日(土)に「妻単独大原に徃く。」ということで墓への埋葬には立ち会っておらず,同月19日(木)に至って「妻日在より帰る。大原の松濤館に宿り,中ごろ日在の別墅に遷りたりしに,是日還り来ぬるなり。」ということであり,同年4月5日(日)の項に「妻不律の墓に詣づ。」とありました。お墓参りが毎日のことであればわざわざ墓参が特記されることもなかったようにも思われますが,どういうものでしょう。)


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東京都墨田区向島の弘福寺(鷗外ら森家の墓は,後に三鷹市の禅林寺に移されています。)

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隅田川越しに向島方面を望む4月5日の風景(ただし,撮影は2017年。なお,気象庁のデータによれば,1908年3月下旬から同年4月上旬までの東京はどんよりとしていて,降雨が無かったのは,3月下旬は22日,23日及び31日,4月上旬は3日及び10日のみでした。同年4月4日には26.2ミリメートル,同月5日は5.8ミリメートルの降水量が記録されています。)
 

 (4)父と娘とそれぞれの『半日』及び『金毘羅』

鷗外の母・峰子の関与が初めて示唆されたのは,1953年初出の森茉莉の『「半日」』でしょうか。森茉莉の『「半日」』は,先の大戦後の鷗外全集で初めて読んだ父・鷗外の『半日』(夫の母を嫌う妻から苦情を受ける困惑した夫の視線から描く鷗外の家庭をモデルにした小説。鷗外夫人の反対によってそれまでは単行本・全集に収載されていませんでした。)に触発されて書かれたものでした。

森鷗外の『半日』(1909年)の冒頭は「六畳の間に,床を三つ並べてとつて,七つになる娘を真中に寝かして,夫婦が寝てゐる。」となっています。森茉莉をモデルにしたこの娘の名は,玉。森茉莉は1903年生まれなので,数えで七つであるのは1909年です。文章中「今日は孝明天皇祭」とありますので(孝明天皇祭は1月30日(明治6年太政官布告第344号)),『半日』は1909年1月30日の出来事を描いた小説ということになります。『金毘羅』の百日咳事件からちょうど約1年後のことです。

しかし,森茉莉の『「半日」』では,「「半日」に描かれたのは,「奥さん」が「博士」の所に嫁して来たばかりの時期の様子である。」(森茉莉67頁)とされています。夫婦間の娘が数えで七つなので「「奥さん」が「博士」の所に嫁して来たばかりの時期」ではないわけですし,1902年1月4日の鷗外の再婚後当時の様子について1903年生まれの長女が知っていることもないでしょう。「8歳の「玉」の見た「博士」は,「母君」と食卓を共にしたいと言うような感情を,持っていなかった。「奥さん」は大分おとなしくなっていた。やはり「博士」に向ってヒステリックな苦情を言っていたが,苦情の中味は,「母君」の事から去って,「博士」と「奥さん」との間のことに,移っていた。」(森茉莉67頁)と書かれていますが,この「8歳」が数えならば1910年の状況の観察,満年齢ならば1911年の状況の観察ということになるのでしょう(次に見るように,玉が「5歳」の時に百日咳にかかったとされていますから,それならば満年齢でしょう。)。「「半日」に描かれた時期と,「玉」がものを観察し始めるようになった頃との間には,3年程の月日がある。その月日の間には,一つの事件があった。その月日の間を,「博士」の家に起った一つの事件が横切っていてそれが3人〔「博士」,「奥さん」及び「母君」〕の関係を,変えたのである。その間の時期に「博士」の家で,5歳になった「玉」と,次に生れた赤ん坊とが,死にかけた。病名は百日咳である。」(同頁)とありますが,これでは,1908年1月から同年3月までを描いた『金毘羅』の時期と,1909年1月30日のことであるはずの『半日』の時期との時間的前後関係が逆転してしまっています。

更に森茉莉は,『金毘羅』で描かれた出来事をリライトします。

 

・・・その時,その寂しい,暗い家の片隅で,或相談がなされていた。「百合さん」の苦痛を無くす為に,致死量の薬を射とうと言う計画である。この「安楽死(ユウタナジイ)」を思い立って,医者に計ったのが,「母君」であった。医者がそれを「博士」に仄めかした。子供の苦しむのを日夜みていて,精神が弱った父と母とは遂に,医者の仄めかしに乘って,注射を肯んじようとした。幸,この計画は,医者が注射の仕度をしていた時偶々部屋に入って来た,「奥さん」の父親によって阻止せられた。・・・「安楽死(ユウタナジイ)」は哀れみから,成り立つものである。その時「母君」の心にあったのは,哀れみである。医者が相談に乗ったのも哀れみからである。それが「博士」に解っていて尚,胸の中に素直に溶けてゆかない,なにものかがあった。それが「博士」の心に,あるか無いかの(おり)になって,残った。「百合さん」は,奇蹟的に生きたが,その事があってから,「博士」と「母君」との間柄は,微妙な変化をしたのである。

 その時の「博士」の心痛は,後に「高瀬舟」を生んだ。・・・「高瀬舟」の裏にあるのが,「博士」の心の痛みと怒りとであり,「半日」の中にあるものが,「博士」の一時的な興奮であった事は,人は知らない。・・・(森茉莉6869頁)

 

 8歳の「玉」の見たところ「「博士」は,「母君」と食卓を共にしたいと言うような感情を,持っていなかった。」と,娘によって父の感情の情態が忖度決定された上で,当該決定と符合しない『半日』の出来事の時期が鷗外自身の示唆する時期から3年ほど前にずらされ,更に「博士」の当該情態の淵源を尋ねる「玉」は,『半日』と前後順序交代させられた上でリライトされた『金毘羅』における「百合さん」の「安楽死(ユウタナジイ)」計画発案者であった「母君」に対する「博士」の心に残った「滓」をそこに発見したということでしょうか。

 ところで,森茉莉は,事実の主張をしているものとの断乎たる姿勢は,示してはいません。予防線が張られています。

 

  以上の文章は,(ママ)歳の頃の私の観察と,成長してから後の考えとによるものだが,「観察違いである」,或は「考え方が間違っている」と言うような批難をする人があるかも知れない。若しあった場合は,「人間には間違いのあるものだ」と言う事に於て,お許しを願うより他はない。何しろ「奥さん」から生まれた「玉」の考える事である。観察違いも,ヒステリックな思惑も,あり得ないとは,言えまい。・・・(森茉莉70頁。下線は筆者によるもの)

 

確かに,森茉莉の『「半日」』は,鷗外の『半日』に触発されて書かれたものであって,「唯「半日」という小説だけの為に,「親類」という,何処の家でも兎角嫉み,反目,小競合い等の塊りである一群の,母に対する批難が正当化される事に対しては,落胆しない訳にはいかない」ところ(森茉莉69頁),「この文章は言ってみれば成長した「玉」の「博士」に対する,哀しい訴えである。「私」の文章である。」とあります(同70頁)。小説『半日』の「玉」からする当該小説の「博士」に対する「訴え」は,やはり当該小説中のものでしょう(また,森茉莉のエッセイ「注射」(初出1949年)も,未里(マリイ)の話ということになっていて,小説仕立てになっています。)

 

(5)明治41年鷗外日記等

なお,「某氏は姉〔森茉莉〕の命がもう廿四時間であることを宣告」したという事態になった日は,『金毘羅』によれば1908年2月8日(土)のことのようです。しかし,明治41年鷗外日記の同日の項には「松本三郎来話す。/〔欄外〕午後1時華族会館茶会」とのみあって,荒木博臣判事の訪問は記されていません。同月9日及び同月10日はそもそも日記に何ら記載なし。松本三郎というのは,第1師団軍医部長として森林太郎陸軍省医務局長の後任である松本三郎軍医監のことでしょう。

ただし,この時期の荒木博臣判事の森家訪問は,同月3日には確実にありました。不律が死亡した同月5日の2日前です。明治41年鷗外日記に「2月3日(月) 夜親族会を自宅に開く。荒木博臣,小金井良精,長谷文,森久子至る。/〔欄外〕午後5時親族会」とあります。同年1月10日に亡くなった鷗外の弟・森篤次郎の家に係る今後についての会議でした(森鷗外『本家分家』,大村敦志『民法読解 親族編』(有斐閣・2015年)382383頁参照)。その折荒木判事が百日咳に苦しむ孫・茉莉及び不律を見舞い,心配している娘・鷗外夫人に対して「人間は天から授った命というものがある。天命が自然に尽きるまでは例えどんな事があろうとも生かしておかなくてはならない。私も子供を3人まで既う駄目だと医者に見放された事があったが3人とも立派に助かって生きているじゃないか」というようなことを言って励ましたことはあるかもしれません。

ちなみに,森茉莉は,その「明舟町の家」の中で「この祖父〔荒木博臣〕は私が百日咳に罹った時,虎の門の金比羅神社に願を懸けて呉れた。もう24時間より()たないと医者から宣告される所まで行った私の容態が,ふと好転してどうやら助かるという目星のついた日,丁度来ていたが「よかった。よかった。」と喜び,その日明舟町の家に帰ると玄関から大きな声で,「まりはもうこっちのものだ。まりはもうこっちのものだ。」と言い言い,右肩を怒らせ,畳ざわりも荒々しく奥まで入って行ったので,祖母は吃驚したそうだ。」とのみ書いており(森茉莉81頁),「茉莉安楽死殺人予備事件」及び当該予備を予備のみに止めた荒木判事の一喝については触れていません。「明舟町の家」は初出不詳ですが,1957年に筑摩書房から出た単行本『父の帽子』に収載されていたものです。1957年の21年前に,森茉莉の妹による『晩年の父』は出ていました。

虎ノ門金刀比羅宮の月次祭は毎月10日(同宮は京極藩邸内にあったので,江戸時代は毎月十日に限り一般の参拝が許可されていたそうです(同宮ウェッブ・サイト参照)。)ですが,『金毘羅』によれば「これが百合さんの病気の好くなる初で,それから一日々々と様子が直つた」発端である百合の「牛と葱」摂取が1908年2月9日(日)のことでしたので,10日はその翌日になります。その2月10日も,金刀比羅宮に参詣する人が多かったことでしょう。孫娘の快癒を祈る荒木判事閣下もその中に含まれていたものかどうか。明治41年鷗外日記には,3月に入り,「10日(火) 茉莉始て起坐す。」と記されています。

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東京・虎ノ門金刀比羅宮境内で:「大願成就」

なお,今般筆者が虎ノ門金刀比羅宮で神籤を抽いたところ,
「病ひ」は「充分保養せよ」,
「老後(ゆきさき)」は「辛抱すれば末は安楽」でした。
ちなみに,弁護士にとっては気になる「諍ひ(いさかい)」は,「勝つ 自然(かみ)に逆ふな」。
 

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 東京・虎ノ門金刀比羅宮(祭神は,大物主神及び 崇徳天皇。社殿設計校閲者は,伊東忠太。)

1 人生百年時代

 医療・福祉大国にして世界に冠たる長寿を誇る我が日本国においては,現在,かえって「長生きリスク」ということが心配されています。人生百年時代において長生きしているうちに,「老後破産」ということで破産法と関係ができたり,生活保護法に基づき各種の扶助を受けることになったり,当該「リスク」が現実化するとなかなか法律との縁は切れません。あるいは病気になって入院して,からだは苦しくこころ寂しく,「安楽死」についてふと考えることもあるかもしれません。

 どうも辛気臭くなって申し訳ありません。しかし,人にとって不可避である死についていろいろ考える際には,「安楽死」の問題が念頭に去来するときもあるであろうことは,事実でしょう。

 

2 治療中止

 

(1)川崎協同病院事件最高裁判所決定

ところで,一般に「安楽死」といってもいろいろな形態があるわけですが(「広義の安楽死とは,死期が迫っていることが明らかな場合に,患者の苦痛をやわらげるために,一定の条件の下にその死期を早める,あるいは死期を人工的に延ばすのを止めることで,2つの型に大別しうる。1つは,末期患者から人工的な生命維持装置をはずす延命措置の中止(尊厳死)である。・・・これに対して,死期の迫ったしかも苦痛の甚だしい患者の苦痛を柔らげるためにモルヒネなどを投与したり,積極的に死期を早める措置をとる行為が狭義の安楽死である。」(前田雅英『刑法各論講義 第4版』(東京大学出版会・2007年)14‐15頁)),そのうち治療中止(延命措置の中止)については,法律上許容されるもの(医師による殺人行為に該当しないもの)があるということが最高裁判所の判例であるものと解されます。すなわち,気管支(ぜん)の重積発作で心肺停止状態となって病院に搬送され,心肺は蘇生したが(こん)状態が続いていた患者(大脳機能のみならず脳幹機能にも重い後遺症が残り,細菌感染症に敗血症を合併)について,気道確保のため鼻から気管内に挿入されていた気管内チューブの被告人医師)による抜管行為(なお,抜管に伴い当該患者は「身体をのけぞらせるなどして苦もん様呼吸を始め」,その後()剤であるミオブロック3アンプルの静脈注射を受け絶命した。)の違法性に関し職権で判断を行った最高裁判所平成2112月7日決定(刑集63111899。川崎協同病院事件最高裁判所決定)は,次のとおりです。

 

  所論は,被告人は,終末期にあった被害者について,被害者の意思を推定するに足りる家族からの強い要請に基づき,気管内チューブを抜管したものであり,本件抜管は,法律上許容される治療中止であると主張する。

  しかしながら,上記の事実経過によれば,被害者が気管支ぜん息の重積発作を起こして入院した後,本件抜管時までに,同人の余命等を判断するために必要とされる脳波等の検査は実施されておらず,発症からいまだ2週間の時点でもあり,その回復可能性や余命について的確な判断を下せる状況にはなかったものと認められる。そして,被害者は,本件時,こん睡状態にあったものであるところ,本件気管内チューブの抜管は,被害者の回復をあきらめた家族からの要請に基づき行われたものであるが,その要請は上記の状況から認められるとおり被害者の病状等について適切な情報が伝えられた上でされたものではなく,上記抜管行為が被害者の推定的意思に基づくということもできない。以上によれば,上記抜管行為は,法律上許容される治療中止には当たらないというべきである。

  そうすると,本件における気管内チューブの抜管行為をミオブロックの投与行為と併せ殺人行為を構成するとした原判断は,正当である。

(下線は筆者によるもの)

 

(2)東海大学安楽死事件判決における治療中止

 

ア 事案

 川崎協同病院事件最高裁判所決定を読むに当たって参照すべき治療中止の許否についての先行裁判例としては,横浜地方裁判所平成7年3月28日判決(判時153028。東海大学安楽死事件判決)があります。多発性骨髄腫で入院し末期状態であって死が迫っていた患者に対する当該殺人被告事件においては,治療中止行為自体は公訴提起の対象外であったものの(対象となった事実は,最終段階における,徐脈・一過性心停止等の副作用のある不整脈治療剤である塩酸ベラパミル製剤(商品名「ワソラン」注射液)の通常の2倍の使用量の静脈注射及び希釈しないで使用すれば心停止を引き起こす作用のある塩化カリウム製剤(商品名「KCL」注射液)の希釈しないでの静脈注射によって患者を死に致した行為),当該公訴提起対象事実に先立って被告人(医師)によってされた,点滴(栄養や水分を補給),フォーリーカテーテル(排尿用のカテーテル)及びエアウェイ(舌根低下対策の管)を患者から外した当該治療中止行為の適法性いかんが裁判所によって検討されたものです。

 

イ 要件

当該判決において横浜地方裁判所は,「治療行為の中止は,意味のない治療を打ち切って人間としての尊厳性を保って自然な死を迎えたいという,患者の自己決定を尊重すべきであるとの患者の自己決定権の理論と,そうした意味のない治療行為までを行うことはもはや義務ではないとの医師の治療義務の限界を根拠に,一定の要件の下に許容される」とし,要件としては,①患者が治癒不可能な病気に冒され,回復の見込みがなく死が避けられない末期状態にあること,②治療行為の中止を求める患者の意思表示が存在し,それは治療行為の中止を行う時点で存在すること,しかし,中止を検討する段階で患者の明確な意思表示が存在しないときには,患者の推定的意思によることを是認してよい(患者の事前の意思表示が何ら存在しないときは,家族の意思表示から患者の意思を推定することが許される。),③どのような措置をいつどの時点で中止するかは,死期の切迫の程度,当該措置の中止による死期への影響の程度等を考慮して,医学的にはもはや無意味であるとの適正さを判断し,自然の死を迎えさせるという目的に沿って決定されるべきである,ということを挙げています。

 

ウ 当てはめ

しかし,東海大学安楽死事件に係る具体的事案についての横浜地方裁判所の判断においては,事件当日の患者の余命はあと1日ないしは2日と診断されており上記①の要件は満たされているとされたのですが,事前のものを含め患者の明確な意思表示が存在していなかったため上記②の要件については家族の意思表示からの推定が問題になったところ,家族は治療の中止を求める旨強く意思表示していたものの「その家族の意思表示の内容をなお吟味してみると,家族自身が患者の病状,特に治療行為の中止の大きな動機となる苦痛の性質・内容について,十分正確に認識していたか疑わしく,最終的に治療の中止を強く要望した4月13日当時の患者の状態は,すでに意識も疼痛反応もなく,点滴,フォーリーカテーテルについて痛みや苦しみを感じる状態にはなかったにもかかわらず,その状態について,家族は十分な情報を持たず正確に認識していなかったのであり,家族自身が患者の状態について正確な認識をして意思表示をしたものではなかったのである。そうすると,この家族の意思表示をもって患者の意思を推定するものに足りるものとはいえない。」ということで,③にたどり着く前に,②で倒れてしまいました。「患者の病状,治療内容,予後等について,十分な情報と正確な認識を持っていることが必要」であるのに,当該認識がなかったというわけです。

 この家族は,そもそも夜中に担当医の自宅にまで電話をかけることもあったところ(熱心ですね。),患者死亡当日の4月13日の4日前である同月9日から治療中止を求め始め,病院側の抵抗にかかわらず当該要求は執拗に続き,同月11日には被告人と共に担当医であった女性研修医が前夜自宅にかかってきた患者の妻からの抗議電話等を理由としてそれまでの家族対応から外れて(どうしたのでしょうね。)同月1日に赴任したばかりの超多忙(「超・・・」という表現は使いたくないのですが,判決文に表れた被告人の仕事及び生活の状況は,「超多忙」としかいいようがありません。例えば,事件前日の同月12日は「この日はほとんど他の危篤状態の患者の治療に当たり,その患者が死亡したので,夜その病理解剖のための書類作りをし,一旦結婚記念日のため妻と外で食事をした後病院に戻り,翌午前3時過ぎころ帰宅した。」という状態だったそうです。)な被告人(ちなみに助手です。)が家族対応をすることになったところ,同月13日の患者家族による治療中止の意思表示の内容は,「もう1週間も寝ずに付き添ってきたので疲れました。もう治らないのなら治療を全てやめてほしいのです。」「点滴やフォーリーカテーテルを抜いてほしい。もうやるだけのことはやったので早く家に連れて帰りたい。これ以上父の苦しむ姿を見ていられないので,苦しみから解放させてやりたい。楽にしてやってほしい,十分考えた上でのことですから。」「家族としてこれ以上見ておれない。私たちも疲れたし,患者もみんな分かっているのです。もうやるだけのことはやったので,早く家に連れて帰りたい。楽にしてやってください。」というようなもので,かつ,「強固な態度」を伴うものでした。「患者が苦しそうにしているとみじめでかわいそう」という憐憫の情はそれとして貴いのですが,裁判所のいうように患者は既に「点滴,フォーリーカテーテルについて痛みや苦しみを感じる状態にはなかった」ことを飽くまで前提とするのであれば,患者を見守る苦しみから解放されて楽になって今日は早く家に帰りたいのは患者ではなく実はその家族ばかりであったということになるのでしょうか。治療中止を求める当該意思表示は家族自身のものであるばかりであって,「患者の立場に立った上での真摯な考慮に基づいた意思表示」ではなかったということにもなるのでしょうか。家族だからとて,実は専ら自分の感情や希望であるものをもって安易にもの言わぬ立場の他の家族に投影して,当該他の家族に対する「同情」と共に「患者もみんな分かっているのです。」などというように自己都合を言い張ってはならないということになるもの()(ちなみに,最後の静脈注射の直前には患者の長男は,夕食をとろうと外出していた被告人をポケットベルで病院に呼び戻させ,「怒ったような顔をし腕組みをしたまま,「先生は何をやっているんですか。まだ息をしているじゃないですか。早く父を家に連れて帰りたい。何とかして下さい。」と,激しい調子で被告人に迫った」そうです。

 

3 『高瀬舟』の作家の子らと安楽死問題

 ところで,「安楽死」といえば,鷗外森林太郎がちょうど100年前に発表した時代小説『高瀬舟』(1916年)が連想されるところです。


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 京の三条小橋から高瀬川を下流方向に見る。


(1)ウィキペディアの風説

その鷗外の妻・森志げに係るウィキペディアの記事を最近ふと読んだのですが,次のような記載があって驚きました。

 

 1907年に第二子になる不律を出産(鷗外にとっては第三子)。翌年,〔鷗外との長女〕茉莉と不律が百日咳にかかり,不律が亡くなる。茉莉はのちに著書で,不律の死は,苦しむ不律を不憫に思った〔鷗外の母〕峰が医師に頼んで薬物で安楽死させたものと聞いたと書き,この安楽死事件以降,鷗外は峰を疎むようになったとされていたが,のちに〔鷗外との二女・小堀〕杏奴は,鷗外も峰の提案を了承しており,苦しむ茉莉にも薬を飲ませようとしたところ,志げの父親に発覚して断念した,と書いた。鷗外の『高瀬舟』はこの一件をきっかけに書かれたものと言われている。

 

1908年2月5日に鷗外の二男・不律(ふりつ)が百日咳死亡していますが(生後半年),これは実は医師による殺人(現行刑法199条「人を殺した者は,死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。」)であって,また,同時期には,同じく百日咳に罹患していた長女・茉莉(1903年1月7日生まれの当時満5歳)に対する殺人予備(現行刑法201条「第199条の罪を犯す目的で,その予備をした者は,2年以下の懲役に処する。ただし,情状により,その刑を免除することができる。」)もされていたところ,黒幕は鷗外の母・峰子であって,かつ,鷗外も加担していた,ということでしょうか。

しかし,ウィキペディアの当該記述については,出典が明らかにされていません。また,飽くまでも「・・・聞いたと書き・・・と書いた。」という文体を用いて伝聞の態がとられており,堂々たる事実の主張の形になっておりません。姑息に逃げ道は用意されているようで,横着ですね。これに対して,旧刑事訴訟法(大正11年法律第75号)277条は,「犯罪ニ関シ匿名ノ申告又ハ風説アル場合ニ於テハ特ニ其ノ出所ニ注意シ虚実ヲ探査スヘシ」と規定していたところです。

 

(2)旧刑法との関係

 

ア 旧刑法の適用

なお,現行刑法が施行され,かつ,旧刑法が廃止されたのは190810月1日からなので(現行刑法上諭及び明治41年勅令第163号),不律及び茉莉の百日咳をめぐる出来事が起きた同年1月から3月にかけては,旧刑法(明治13年太政官布告第36号)が適用されていました。

 

イ 謀殺

旧刑法293条によれば,薬物による殺人は死刑でしょう(「毒物ヲ施用シテ人ヲ殺シタル者ハ謀殺ヲ以テ論シ死刑ニ処ス」)。同法105条によれば,教唆者も死刑です(「人ヲ教唆シテ重罪軽罪ヲ犯サシメタル者ハ亦正犯ト為ス」)。「重罪軽罪違警罪ヲ分タス所犯情状原諒ス可キ者ハ酌量シテ本刑ヲ減軽スル(こと)ヲ得」るところ(旧刑法89条1項),「酌量減軽ス可キ者ハ本刑ニ1等又ハ2等ヲ減ス」ですから(同90条),実際は無期徒刑又は有期徒刑でしょうか(同法67条2・3号)。「徒刑ハ無期有期ヲ分タス島地ニ発遣シ定役ニ服ス」ものであり(旧刑法17条1項),「有期徒刑ハ12年以上15年以下ト為ス」とされていました(同条2項)。ただし,「徒刑ノ婦女ハ島地ニ発遣セス内地ノ懲役場ニ於テ定役ニ服ス」とされていました(旧刑法18条)。男女差別ですね。

 

ウ 殺人予備

ところで,殺人予備ですが,旧刑法111条は「罪ヲ犯サンヿヲ謀リ又ハ其予備ヲ為スト雖モ未タ其事ヲ行ハサル者ハ本条別ニ刑名ヲ記載スルニ非サレハ其刑ヲ科セス」と規定しており,同法に内乱予備陰謀(同法125条),私戦予備(同法133条後段),貨幣偽造予備(同法186条2項)の規定はあるのですが,殺人予備の規定はないので,不可罰だったのでしょう(罪刑法定主義の帰結ですね。もっとも,大日本帝国憲法23条(「日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」)については「本条は唯法律に依らずして処罰を加ふることを禁止して居るのであつて,司法権及び行政権に対する制限であるに止まり,立法権を制限する意味を含んで居らぬ。故に本条の規定のみから言へば,法律を以て遡及的の処罰を定めたとしても,本条に違反するものとは言ひ難い。」ということではありました(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)363頁)。)。ちなみに,殺人予備の意義については,「殺人予備とは,殺害の実行の着手にいたる以前の準備行為一般を意味する。例えば,殺害の為の凶器を準備して,被害者の家の周りを徘徊するとか,不特定の人の殺害の目的で毒入り飲料を道端に置く行為などである。ただ,準備行為のすべてが予備罪として可罰的であるわけではなく,目的地との距離,準備の程度などから判断して,客観的に殺人の危険性が顕在化する必要がある。」と説明されています(前田21頁)。

 

後編に続く(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1057864958.html

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1 三百代言

 我が国の「訴訟における代理人制度は,明治5年〔1872年〕の司法職務定制(同年8月3日太政官無号達)によって最初に認められた。職務定制は江藤新平が司法卿に就任してのち,フランス法の影響下で訴状の作成をする代書人と民事訴訟における弁論の代理をする代言人とを認めた。ここに初めて訴訟行為における代理制度が成立したのであり,日本の伝統的な司法制度の重大な変革が行われた。司法職務定制による代言人は,我が国の弁護士制度の始まりである。」とされています(司法研修所『平成18年度 刑事弁護実務』2頁)。ところが,江戸時代に訴訟関係人を泊める旅館(公事宿)の経営者であった「公事師からの系譜を受けた代言人も多く,同業者間に依頼者の獲得競争を生じ,報酬のダンピングも行われ,青銭三百文,玄米1升という低価で事件を引き受ける代言人もあったので,この時代に「三百代言」という蔑称も生まれた」そうです(同4‐5頁)

 司法職務定制の第10章「証書人代書人代言人職制」中第42条及び第43条は次のとおり。

 

 第42

  代書人

  第1 各区代書人ヲ置キ各人民ノ訴状ヲ調成シテ其詞訟ノ遺漏無カラシム

    但シ代書人ヲ用フルト用ヒサルトハ其本人ノ情願ニ任ス

  第2 訴状ヲ調成スルヲ乞フ者ハ其世話料ヲ出サシム

 第43

  代言人

  第1 各区代言人ヲ置キ自ラ訴フル能ハサル者ノ為ニ之ニ代リ其訴ノ事情ヲ陳述シテ枉冤無カラシム

    但シ代言人ヲ用フルト用ヒサルトハ其本人ノ情願ニ任ス

  第2 代言人ヲ用フル者ハ其世話料ヲ出サシム

    証書人代書人代言人世話料ノ数目ハ後日ヲ待テ商量スヘシ

 

1893年に旧々弁護士法(明治26年法律第7号)が施行されて(同年5月1日施行(同法38条1項)),代言人の称は弁護士に変わっています(同法38条2項により明治13年司法省甲第1号布達代言人規則は廃止。同法35条は「現在ノ代言人ハ本法施行ノ日ヨリ60日以内ニ弁護士名簿ニ登録ヲ請フトキハ試験ヲ要セスシテ弁護士タルコトヲ得」と規定)

ところで,三百代言諸氏がそれで訴訟代理活動等を行ったという「青銭三百文,玄米1升」という世話料は,どれくらいの価値があったものでしょうか。

 

2 青波銭(寛永通宝四文銭)の新貨換算

明治四年(1871年)五月に出た新貨条例は,我が通貨単位に円を採用し,1円を100銭,1銭を10厘としました。「新貨幣ト在来通用貨幣トノ価格ハ1円ヲ以テ1両即チ永1貫文ニ充ツヘシ」とされています。

 同年十二月十九日に出た太政官第658(新貨並ニ金札ノ比較及ヒ旧銅貨ノ品位ヲ定ム)は,「旧銅貨ノ儀去ル辰年定価被 仰出候処今般新貨御発行ニ付各種比較商量ノ上当分左ノ通品位被相定候条其旨相心得新貨幣並金札共取交聊無差支通用可致事」と定め,その「旧銅貨品位」の表では,「青波銭ト唱へ元四文銭ナリ」との寛永通宝を「10枚ヲ以テ2銭トス」る二厘銭としています。

青銭とは青波銭のことのようですから,当該寛永通宝四文銭が75枚で「三百文」になります。しかしそれは二厘銭が75枚ということですから,150厘,すなわち15銭ということになるようです。これが「青銭三百文」の世話料の額であるようです。

なお,旧銅貨たる寛永通宝には「耳白銭或ハ其外」の「元一文銭」もあり,こちらは一厘銭とされていました(明治四年太政官第658

同じ「寛永通宝」でも四文銭があったり,一文銭があったり,一筋縄ではいきません。貨幣制度の歴史は,小アジアの古代リュディアから始まるそうですが(ヘロドトス『歴史』巻1の94節),なかなか複雑です。


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 寛永通宝四文銭(青波銭) 
 

3 明治の物価等

 

(1)明治五年(1872年)

 その五月に新貨条例,十二月十九日に太政官第658が出た明治四年の翌年であり,かつ,司法職務定制が定められた明治五年(1872年)の官吏の給与及び東京における物価はどれくらいであったでしょうか。

 

・・・優は此年四月十二日に〔埼玉県出仕の〕権少(さくわん)になつて,月給僅に25円である。これに当時の潤沢なる巡回旅費を加へても,尚70円許に過ぎない。しかし其意気は今の勅任官に匹敵してゐた。(森鷗外『澀江抽斎』その九十四)

 

・・・師範学校は此年始て設けられて,文部省は上等生に10円,下等生に8円を給した。(同・その九十五)

 

・・・文部省は当時頗る多く名流を羅致してゐた。・・・諸家が皆九等乃至十等出仕を拝して月に四五十円を給せられてゐたのである。(同)

 

  〔前記の優いわく〕「・・・今浅草見附の所を遣つて来ると,旨さうな茶飯餡掛を食べさせる店が出来てゐました。そこに腰を掛けて,茶飯を2杯,餡掛を2杯食べました。どつちも50文づつで,丁度200文でした。(やす)いぢやありませんか。」(同)

 

夕食200文。一文銭の寛永通宝の200文ということならば,200厘の20銭でしょう。勅任官に匹敵する意気の優の夕食ですから,けちなものではないはずです。

 

  ・・・保は鈴木の女主人(あるじ)に月2両の下宿代を払ふ約束をしてゐながら,学資の方が足らぬ勝なので,まだ一度も払はずにゐた。」(同・その九十六)

 

元船宿の未亡人宅2階(同・その九十三参照)を借りる師範学校生徒である保のこの下宿代は,月2円ということになります。

 

(2)1874年(明治7年)

 明治五年の2年後の1874年(明治7年)頃の東京では10銭で何が買えたかというと,「僕は外へ出て最中を10銭買つて来た。その頃は10銭最中を買ふと,大袋に一ぱいあつた。」とあります(森鷗外『ヰタ・セクスアリス』の十三歳の段)。また,その頃の語学学校寄宿舎では「大抵間食は弾豆か焼芋で,生徒は醵金をして,小使に2銭の使賃を遣つて,買つて来させるのである」そうでした(同)。こうしてみると,三百代言の15銭は,寄宿舎の小使さんのお使い7回半分です。

 

(3)1885年(明治18年)

 森林太郎一等軍医が1885年(明治18年)1010日に脱稿した『日本兵食論大意』によれば,当時「我邦ノ兵ハ毎人毎日米6合(約1「キロ」)ト金6銭,士官学校生徒ハ米6合ト金8銭ヲ給与セラル」ることになっていたそうです。「然レドモ士官学校生徒ノ食シタル米量ハ6合ニ達セズ何トナレバ其乾燥分ハ643瓦,3〔643.3g〕ニシテ721瓦,5ノ未炊米ニ当レバナリ(算法之ヲ略ス)一般ノ兵卒モ6合ノ米ヲ食ヒ尽ス者ハ少ナカルベシ」ということでした。若い健康な壮丁兵士が1日に食べるべき米の量は平均約4.5合ということでしょうか。なお,「「ショイベ」氏ノ試験セル強壮ナル日本人ハ1日平均6百02瓦ノ未炊米ヲ食ヘリ」とされています。森一等軍医は更に,在営兵卒1人1日の食量を試算した上で,「其代価ハ之ヲ概算セシニ米価ヲ合シテ約10銭ナリ(算法之ヲ略ス)」と述べています。すなわち,1885年当時の我が国では,1日10銭あれば,健康な食生活は可能であったようです。(ただし, 脚気問題はここでは取り上げません。)

 

(4)明治末年の一厘事件判決(1910年)

 なお,明治の末期には,「“半銭”と刻印された五厘銅貨があったが,その頃でさえ五厘銅貨1枚で買えるものはほとんどなくなりつつあった。」とされます(鈴木武雄『おかねの話』(岩波新書・1967年)60頁)

 いわんや1厘をや。すなわち,有名な一厘事件(煙草専売法違犯ノ件)に係る1910年の大審院(たいしんいん)明治431011日判決(刑録161620頁)は,「此種ノ反法行為ハ刑罰法条ニ規定スル物的条件ヲ具フルモ罪ヲ構成セサルモノト断定スヘク其行為ノ零細ニシテ而モ危険性ヲ有セサルカ為メ犯罪ヲ構成セサルヤ否ヤハ法律上ノ問題ニシテ其分界ハ物理的ニ之ヲ設クルコトヲ得ス健全ナル共同生活上ノ観念ヲ標準トシテ之ヲ決スルノ外ナシトス」と述べ,1909年度煙草耕作人でありながら政府に納入すべき煙草7分(価額金1厘相当)を手刻みとして消費した被告人を無罪としています。(当時の葉煙草専売法(明治29年法律第35号)21条は「葉煙草ヲ耕作スル者政府ニ納付スヘキ葉煙草ヲ他ニ譲渡シ若ハ消費シタルトキ又ハ葉煙草ノ譲渡ヲ受クルコトヲ得サル者葉煙草ノ譲渡ヲ受ケタルトキ又ハ煙草製造ヲ業トスル者若ハ葉煙草売買ヲ業トスル者情ヲ知リ政府ヨリ売渡ササル葉煙草ノ譲渡ヲ受ケタルトキ若ハ葉煙草ノ譲渡ヲ受クルコトヲ得サル者ヨリ葉煙草ノ譲渡ヲ受ケタルトキ若ハ氏名居所不明ノ者ヨリ葉煙草ヲ譲受ケタルトキハ10円以上300円以下ノ罰金ニ処シ其ノ犯罪ニ係ル葉煙草ノ現存スルトキハ之ヲ没収シ既ニ譲渡シ又ハ消費シタルトキハ其ノ代金ヲ追徴ス」と詳細に規定していました。なお,上記判決は行為の零細性のみならずその危険性も問題にしていますから,「判例も,一厘事件判決(大判明43・10・11刑録16・1620)以来,処罰に値しない法益侵害を,構成要件に該当しないとしてきた」として(前田雅英『刑法総論講義[第4版]』(東京大学出版会・2006年)103頁),「軽微」性は指摘するものの行為又は犯人(上記判決引用部分の前の部分には「犯人ニ危険性アリト認ムヘキ特殊ノ情況ノ下ニ決行セラレタルモノニアラサル限リ」という表現がありました。)の危険性の問題に言及しないのでは少し物足りない気がします。)ここでいう7分は,2.625グラムです(度量衡法(明治42年法律第4号)1条は「衡ハ貫ヲ以テ基本トス」とし,第2条はキログラム原器の「分銅ノ質量4分ノ15ヲ貫」とし,第3条の衡の項では分を貫の1万分の1としています。計量法施行法(昭和26年法律第208号)4条2号及び5条3号参照)。一厘事件の添田増男弁護人は「1厘ノ金実ニ1枚ノ青銅此カ如何ニ活躍ヲ恣ニスト雖モ其影響ノ及フ処夫幾程ソヤ之ヲ善用シテ益スル所数ナラス之ヲ悪用シテ毒スル所看ルヲ得ス否寧ロ共ニ社会反応ヲ呼起スルニ足ラサルモノト云フヘシ」と論じていますが,そこでいう「1枚ノ青銅」は明治政府の発行した新貨条例にある一厘銅貨だったものか,それとも寛永通宝一文銭だったものか。ちなみに,1897年の貨幣法(明治30年法律第16号)の下においては,青銅貨幣の最小は五厘ということになっていて(同法3条等),一厘青銅貨の発行はなかったようです。

 

(5)和歌山県における「一厘銭」

 ところで,少なくとも和歌山県では,20世紀の初頭において一厘銭といえば,なお寛永通宝一文銭であったようです。1894年生まれの松下幸之助の回想にいわく。

 

  私は和歌山の家で母と貧乏暮しをしておったとき,学校から帰ってくると,「お母さん,おやつ」というと,母はまん中に穴のあいた一厘銭をくれた。それを持って駄菓子屋へ飛んでいくと,アメ玉を2個くれる。それが日課になっておった。(松下幸之助『物の見方考え方』(PHP文庫・1986年)。下線は筆者)

 

なお,いたいけな幸之助少年から寛永通宝一文銭を強取すると,さすがにこれは被害額1厘とはいえ無罪とはなし難いでしょう。旧刑法(明治13年太政官布告第36号)378条は「人ヲ脅迫シ又ハ暴行ヲ加ヘテ財物ヲ強取シタル者ハ強盗ノ罪ト為シ軽懲役ニ処ス」と規定していました。軽懲役は,重罪の刑で(同法7条7号),6年以上8年以下です(同法22条2項後段)。

 
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 穴のない一厘銭と穴のあいた「一厘銭」(寛永通宝一文銭)
 

5 米1升の食いで

 青銭三百文の値打ちは以上のとおり。しかし,米1升の食いでは,なかなかばかにできません。

 筆者は学生時代のある夏,ワンダーフォーゲル部員として,山形県と新潟県との境にある朝日連峰を藪漕ぎ藪抜け,長期縦走したのですが(石見堂岳,赤見堂岳,枯松山,大桧原山,障子ヶ岳,天狗角力取山,三方境,寒江山,竜門山,西朝日岳,大朝日岳,平岩山,祝瓶山,御影森山),新潟県は村上海岸で夏合宿山行の各パーティが集結してキャンプをし,今夜は打ち上げというその日の午後,地元で調達した本場コシヒカリの飯盒1発分すなわち米1升(これは炊き上がった状態で,元の生米は4合です。)の単独カッポジリ(スプーンでかっぽじりながら食べること)に挑戦したことがあります。山の中ではとにかく腹が減っていて何でも貪り食う状態でしたから,うまそうな銀シャリ1升(生米4合)などペロリだぞという勢いでカッポジリを始めて途中まで順調,あっぱれ胃の腑まで頑丈な山男なりと自賛していたのですが,残り数口というところで突然の腹痛に襲われ,七転八倒のたうち回りました。心配した先輩が,

 「齊藤,どうした?」

と声をかけてくれたのですが,

 「ハイ。飯盒1発メシのカッポジリに挑戦しての名誉の戦死であります。」

 ということで,

 「バカ。」

 というお言葉でした。

 しばらく苦しんで更にじっとしていると,腹痛はやがておさまりました。

 米の飯も恐ろしいものです。

 なお,食べた分量は炊き上がった玄米1升ならぬ白米1升弱でしたが無論脚気にはならず,結構なことでした。
 1升の生米は,炊き上げれば2升5合でしょうから,七転八倒2回半分ということになります。 
 

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1 ソクラテス的問答法

 

(1)星野英一教授のソクラティック・メソッド

 法学教育に関して,ソクラティック・メソッドとはよく聞く言葉です。2012年9月に86歳で亡くなった星野英一教授の回想にも「〔東京大学法学部で〕筆者は,最高裁判所判例研究の演習を,50人のクラスで,席次を決め,このメソッドだけで進めた。各人のあたる回数が同じになるように,席次表に印をつけていた。10回,各2時間以上の授業で,毎回20人程度,一人合計5回くらいあたるようにしていた。これは,かなり成功だったように思っている。」との記述があり(同『法学者のこころ』(有斐閣・2002年)146頁),また,「もちろん,法律の勉強には,ケース・メソッドというよりソクラティック・メソッドの授業があったほうがいいと思っています。法律的訓練のために有効だということです。私自身,ゼミですが,東大,千葉大,放送大を通じて,そのようなゼミを30年くらいやってきました。しかし,教えるほうは,その質問を考えておくことも大変だし,その場で思いがけない答えが出てきたときに臨機応変に対応するのでとても疲れます。やっと東大の停年〔1987年3月〕の数年前くらいから,自分である程度うまくできたと思えるようになりました。」とあります(同『ときの流れを超えて』(有斐閣・2006年)234頁)。「数年前くらい」を3ないし4年くらい前と考えれば,1983年度の冬学期くらいから最高裁判所判例研究の演習を「自分である程度うまくできたと思えるようになった。」ということでしょうか。当時の東京大学法学部の学生は,どのような様子だったものやら。なお,星野教授の理解では「ソクラティック・メソッドとは,授業進行の方法であって,授業の内容に関するものでない。教師の一方的な話でなく,対話的に授業を進める方法一般を意味するものであろう。それゆえ,よい方法」であるということでした(同『法学者のこころ』145頁)。

 

(2)「論理の万力」

他方,紀元前5世紀末のアテネにおける本家ソクラテスによる実際の問答はどのようなものであったのでしょうか。1917年にドイツ帝国のミュンヘンでされたマックス・ヴェーバーの講演『職業としての学問』において,次のような紹介があります。

 

  Die leidenschaftliche Begeisterung Platons in der »Politeia« erklärt sich letztlich daraus, daß damals zuerst der Sinn eines der großen Mittel allen wissenschaftlichen Erkennens bewußt gefunden war: des Begriffs. Von Sokrates ist er in seiner Tragweite entdeckt. … Hier zum erstenmal schien ein Mittel zur Hand, womit man jemanden in den logischen Schraubstock setzen konnte, so daß er nicht herauskam, ohne zuzugeben: entweder daß er nichts wisse: oder daß dies und nichts anders die Wahrheit sei, die ewige Wahrheit, die nie vergehen würde, wie das Tun und Treiben der blinden Menschen. Das war das ungeheure Erlebnis, das den Schülern des Sokrates aufging.

 

  『国家』におけるプラトンの情熱的熱狂は,つまりのところ,当時初めて,全ての学問的認識に係る偉大な手段の一つ,すなわち概念の意義が自覚されたということから説明される。ソクラテスによって,それは,その有効射程と共に発見されたのである。・・・ここにおいて,何人をも論理の万力に据えて,彼は何も知らないこと,又は他のものではなくあるものこそが真理,すなわち,盲目の人々の行為や営為のように廃れてしまうものではない永遠の真理であることを彼が認めざるを得ないようにすることができる手段が初めて手に入ったものと思われた。これが,ソクラテスの生徒らに対して明らかになった,おそるべき経験であった。

 

対話の相手方を論理の万力(der logische Schraubstock)に据えてギリギリと締め上げ,参りました私は間違っていました,そうです全く先生のおっしゃるとおりでございますと言わせてしまう,なかなか意地悪なものだったようです。これが古代ギリシャ人ということでしょうか。相手を気遣った優しいものではありません。これに対して星野教授のゼミにおいては,ソクラティック・メソッドといっても,「知識を正確にするためという場合もあ〔るが〕・・・しかし,私は,まず判例等における事実関係をきちんと把握する練習から始めました。・・・それから,法律的な考え方を自分でできる訓練をする趣旨で,答えが合っている秀才型の人には,さらに突っこんでゆきました。答えが間違いまたは不正確な人にも,類似の例などを示して,自分で考えて正解に達するようにしました。」というような配慮がされていました(星野『ときの流れを超えて234頁)。

 

(3)刑事弁護におけるソクラテス的意地悪質問

ところで,刑事公判における弁護人の被告人質問などにおいては,筆者はソクラテス的意地悪質問をするときがあります。証言台で緊張している被告人に任せておくだけでは,その内心の反省を表現する的確な言葉がなお十分出て来ないであろうときなどです。

「先生の弁護人質問の方が,検察官からの質問よりも怖かった。」

と国選弁護の被告人から言われたことがあります。

「それは君の考えが甘いよ。弁護士が付いたからって,何もせずに任せていればいい結果が出て来るものと,のほほんと期待されては困るよ。刑事訴訟における主役は飽くまでも君だよ。意地悪質問といわれたって,君のために有効な質問を考え出すのは大変なんだぞ。」

とは筆者の内心の声でした。

日本人たる筆者が,古代ギリシャ人のように意地悪になれるわけがありません。

 

2 書かれた言葉と語られる言葉

 

(1)判決の宣告と判決書

 なお,前記被告人は,かつて同種事犯で執行猶予付きの懲役刑の判決を受けたことがありました。

 国選弁護人として選任された当初筆者は,「前の判決については,執行猶予の言渡しが取り消されることなくその猶予の期間を経過しているのだから,刑法27条によって刑の言渡し自体の効力が失われているよね。だから,前に禁錮以上の刑に処せられたことがない者として,刑法25条1項1号で執行猶予付きの判決が可能だよね。」と楽観していました。しかしながら,検察官から公判での取調べを請求する予定の証拠書類として,閲覧の機会を与えられた(刑事訴訟法299条1項本文,刑事訴訟規則178条の6第1項1号),当該被告人に係る前の事件における判決書の写しを見て,絶句したものです。第一審では実刑判決だったところ,控訴審判決で執行猶予が付いたのですが,当該控訴審判決にいわく。

 

 ・・・被告人に対しては,今回に限り,その刑の執行を猶予するのが相当である。(下線は筆者)

 

 えっ,「今回に限り」なんだからまたやったら実刑だよ,という厳しい警告を高等裁判所から受けてしまっているではないか。それなのに,なぜまた同じような犯罪を行ってしまったのかね。執行猶予付き判決を受け得るチャンスは使い尽くしてしまっていることになっているではないか。今更,今回も執行猶予になるように先生よろしくお願いしますと頼まれても困るよ。裁判所にも立場というものがあるのだよ・・・。

情状弁護で頑張るとして,執行猶予になるのかどうかは,なお苦しいところです。

 「あのね,前の事件が無事執行猶予付き判決で終わった時にね,「今回に限り」だから次にまた同じことをやったら執行猶予は付かないよって,控訴審での弁護人の○○先生から注意されていなかったの。控訴審の判決書は見なかったの。」

と,保釈によって釈放中の被告人に問いただしたのですが(筆者は保釈も頑張っていたのでした。),回答は次のとおり。

 

 控訴審の弁護人がだれであったかは,覚えていない。

 判決書は,見ていない。

 

 頭を抱えそうになったのですが,確かに刑事裁判ではあり得ることです。○○先生(控訴審の判決書に名前が出ている。)は,ひょっとしたら控訴審の判決書謄本の交付を請求(刑事訴訟法46条)せず,したがって当該判決書謄本ないしはその写しを被告人に渡すこともしていなかったのではないでしょうか。民事訴訟では,判決書が当事者に送達されます(民事訴訟法255条)。しかしながら,刑事訴訟においては,「判決は,公判廷において,宣告によりこれを告知する」だけです(刑事訴訟法342条。控訴審につき,同法404条)。

刑事訴訟規則34条は,「裁判の告知は,公判廷においては,宣告によつてこれをし,その他の場合には,裁判書の謄本を送達してこれをしなければならない。但し,特別の定のある場合は,この限りでない。」と規定しています。裁判書の謄本の送達が,公判廷において宣告された裁判の告知のためにされることはないわけです。判決書の謄本又は抄本の送付については,検察官の執行指揮を要する場合にする旨の規定が刑事訴訟規則36条にありますが,その送付先は検察官だけです。(なお,同規則222条参照)

 ちなみに,刑事訴訟法46条に基づいて裁判書又は裁判を記載した調書の謄本又は抄本の交付を請求するには費用がかかり,その額は,「当分の間,その謄本又は抄本の用紙1枚につき60円」です(刑事訴訟法施行法(昭和23年法律249号)10条1項前段)。通常,収入印紙で納めることになります(刑事訴訟法施行法10条2項)。

 将来の戒めのためには,判決を耳で聞いたままにしておくよりも,何か書き物の形で被告人に交付しておく方がよいよう思われるので,筆者は,判決書又は判決書に代わる記載のある調書(調書判決)の写しを入手して被告人に送ることにしています。さすがに,額に入れて部屋に飾って毎日それを見ることまでは期待しませんが。

  己は主人と一しよに立ち上がつた。そして出口の方へ行かうとして,ふと壁を見ると,今迄気が附かなかつたが,あつさりした額縁に嵌めたものが今一つ懸けてあつた。それに荊(いばら)の輪飾(わかざり)がしてある。薄暗いので,念を入れて額縁の中を覗くと,肖像や画ではなくて,手紙か何かのやうな,書いた物である。己は足を留めて,少し立ち入つたやうで悪いかとも思つたが,決心して聞いて見た。

  「あれはなんだね。」

  「判決文です。」エルリングはかう云つて,目を大きく睜(みは)つて,落ち着いた気色で己を見た。

  「誰の。」

  「わたくしのです。」

  「どう云ふ文句かね。」

  「殺人犯で,懲役5箇年です。」緩やかな,力の這入つた詞で,真面目な,憂愁を帯びた目を,怯(おそ)れ気もなく,大きく睜つて,己を見ながら,かう云つた。

  ・・・

  ・・・その肩の上には鴉が止まつてゐる。この北国神話の中の神の様な人物は,宇宙の問題に思を潜めてゐる。それでも稀には,あの荊の輪飾の下の扁額に目を注ぐことがあるだらう。・・・(ハンス・ラント,森鷗外訳『冬の王』)

 

(2)ソクラテスの文字使用批判:『パイドロス』

ところでソクラテスは,書き物が嫌いであったようで,弟子プラトンの著作たる『パイドロス』の主人公「ソクラテス」として,エジプトの古い神が発明した文字の使用に対して全エジプトの王たる神アモン(又はThamus)がしたという批判を対話者たるパイドロスに紹介しています。すなわち,「(文字によって)学徒が記憶力を用いなくなるのであるから,(文字は)学徒の魂に忘れっぽさを生み出すだろう,彼らは自らを思い返すことなく,外界の書かれた記号を信用するようになるだろう。」及び「(文字は)想起の助けとはなっても記憶の助けにはならず,汝の弟子らに対して真理ではなく真理らしく見えるもののみを与えるものである。彼らは多くの事物についての耳学者とはなるが,何事をも学ばないだろう。彼らは全知のようにみえるだろうが,概して何も知らないことだろう。現実性の無い知恵ばかり誇示する彼らは,一緒にいるには煩わしい者となるであろう。」という文字批判です。ソクラテスとしては,書かれた言葉よりもむしろ,「学徒の魂に刻み込まれた知識の言葉であって,自らを守ることができ,語るべきときと沈黙すべきときとを知っているもの」を推奨しています。(以上はBenjamin Jowettの英訳からの重訳)

しかしながら,我々の日々の現実は,このような高尚な議論の場ではありません。世の中の皆が,向学心にあふれたソクラテスの弟子たちのような異常な人たちではありません。文字の使用によって記憶力が弱められる以前に,そもそも記憶することが苦手な人々が存在することを否定することは難しいでしょう。

 

(3)調書判決とその記載

前記の被告人にも, 調書判決の写しを入手して自宅に郵送しました。実は,ありがたいことに執行猶予が付き,判決はそのまま確定したのでした。ただし,執行猶予期間は5年であって,法律上の最長期間でした(刑法25条1項参照。執行猶予期間は,1年以上5年以下。3年が標準といわれています。)。ぎりぎりの執行猶予付き判決であったことが分かります(判決の宣告において量刑の理由が告げられる際にも「実刑も十分あり得る」ところだったと言われていました。)。

なお,調書判決とは,「裁判をするときは,裁判書を作らなければならない。但し,決定又は命令を宣告する場合には,裁判書を作らないで,これを調書に記載させることができる。」との刑事訴訟規則53条の原則(判決をするときには全て判決書を作らなければならないとの建前)の例外として,同規則219条で「地方裁判所又は簡易裁判所においては,上訴の申立てがない場合には,裁判所書記官に判決主文並びに罪となるべき事実の要旨及び適用した罰条を判決の宣告をした公判期日の調書の末尾に記載させ,これをもつて判決書に代えることができる。ただし,判決宣告の日から14日以内でかつ判決の確定前に判決書の謄本の請求があつたときは,この限りでない。」と規定されているものです(同条1項)。

ところで,前記被告人の調書判決の写しを見た際,そこに裁判官の訓戒等が記されていないのは当然なのですが(「裁判所としては軽く見るわけにはいきませんが,しかし,特に執行猶予付きの判決にしました。・・・あなたは今回が2回目ですから,次もやったら,実刑の可能性が高いですからね。ですから,3回目のときは,いくら深く反省しても,いくらいい弁護士さんが頑張っても,実刑になるものと理解してください。」といった趣旨の説諭がありました。――しかし,この部分については,「2回目の時の弁護では,いい弁護士さんが頑張っていたね」との評価までをも読み込んでよいものでしょうか。――),裁判官及び検察官の氏名はそれぞれ記載されている一方,弁護人の氏名は記載されないことに改めて気が付きました。裁判書には,裁判をした裁判官が署名押印しなければならず(刑事訴訟規則55条),判決書には公判期日に出席した検察官の官氏名を記載しなければならないのですが(同規則56条2項),弁護人の氏名は判決書に記載すべきものとはされていないのでした(同条参照)。お上からお上の御責任で下される文書なのですから,お上ならざる弁護人の氏名の記載は必須ではないわけでしょう(旧刑事訴訟法関係事件ですが,最大判昭和25年9月27日刑集4巻9号1783頁は,「原判決書には,本件公判に立会つた弁護人の氏名を記載していないことは所論のとおりであるが,しかしその為何等旧刑訴法の条規に反するところはなく,また憲法37条3項に反するものでもない。」とつとに判示していました。司法研修所『平成19年版 刑事判決書起案の手引』134頁以下の「判決書の例」にも弁護人の氏名は記載されていません。)。ただし,筆者が弁護人を務めた別の事件において,公訴事実について争ったりして正式の判決書が書かれたときには,弁護人である筆者の氏名も記載されていました。

せっかく調書判決の写しを入手して送付しても,そこに名前は無いわけですから,筆者も,前記被告人の記憶の中では,同人の前回被告事件における○○先生と同じ運命をたどりそうな気がします。

無論,いずれにせよ,被告人が無事更生することが一番です。

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 日本国憲法18 何人も,いかなる奴隷的拘束も受けない。又,犯罪に因る処罰の場合を除いては,その意に反する苦役に服させられない。

 Article 18. No person shall be held in bondage of any kind. Involuntary servitude, except as punishment of crime, is prohibited.

 

1 兵役義務の違憲性

 2014年7月1日の我が閣議決定「国の存立を全うし,国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」を受けて,内閣官房国家安全保障局は,ウェッブ・サイトに「「国の存立を全うし,国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」の一問一答」という記事を掲載しています。その15番目及び16番目の問答は次のとおりです。

 

 【問15】徴兵制が採用され,若者が戦地へと送られるのではないか?

 【答】全くの誤解です。例えば,憲法第18条で「何人も(中略)その意に反する苦役に服させられない」と定められているなど,徴兵制は憲法上認められません。

 

【問16】今回,集団的自衛権に関して憲法解釈の変更をしたのだから,徴兵制も同様に,憲法解釈を変更して導入する可能性があるのではないか?

【答】徴兵制は,平時であると有事であるとを問わず,憲法第13条(個人の尊重・幸福追求権等),第18条(苦役からの自由等)などの規定の趣旨から見て許容されるものではなく,解釈変更の余地はありません。

 

 これは,1980年8月15日に鈴木善幸内閣がした閣議決定,すなわち,「閣議,稲葉誠一社会党代議士提出の〈徴兵制問題に関する質問主意書〉につき〈徴兵は違憲,有事の際も許されない〉との答弁書決定(初の体系的統一見解)」(『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年))との立場の確認ですね。つとに,19701028日の衆議院内閣委員会での高辻正己内閣法制局長官の答弁及び同年11月5日の参議院決算委員会での中曽根康弘防衛庁長官の答弁を受けて,憲法「第9条が自衛隊の存在を容認すると解する政府も,徴兵制は,憲法第13条ないし第18条に反し違憲だとしているようである。」と観察されていたところです(宮沢俊義『憲法Ⅱ〔新版〕』(有斐閣・1971年)335頁)。

 政府の見解と学説との関係を見ると,憲法18条「にいう「苦役」が兵役の義務をも含むと解することは,この規定の歴史的意味からいって,あまり自然ではない。しかし,日本国憲法では,戦争を放棄し,軍隊を否認している第9条の規定からいって,兵役の義務は,みとめられる余地がないだろう。」(宮沢335頁)として兵役義務の違憲性について第9条を決め手とするものと解される学説と,政府の見解とは直ちには符合しませんね。「憲法18条は,「その意に反する苦役」,すなわち強制的な労役を,刑罰の場合を除いて禁止する。徴兵制は,憲法9条だけでなく本条にも違反すると考えるべきである。」(樋口陽一『憲法』(創文社・1992年)244頁)として第9条と第18条とを並置するものと解される学説と,より符合するものでしょう。

 「非常災害などの緊急の必要がある場合に,応急的な措置として労務負担が課されることがあるが(災害対策基本法65条・71条,災害救助法〔7〕条・〔8〕条,水防法〔24〕条,消防法29条5項など),これは,災害防止・被害者救済という限定された緊急目的のため必要不可欠で,かつ応急一時的な措置であるという点で,本条〔憲法18条〕に反するものとはいえない。しかし,明治憲法下にみられた国民徴用のように,積極的な産業計画のために長期にわたって労務負担を課すことは許されない。」ということですから(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)585-586頁),徴用が許されないのならばいわんや徴兵をやということでしょう(ただし,国民徴用は,「むしろ,職業選択の自由(憲22条)に含まれると解される勤労の自由に対する侵害と見るほうが,いいのではないか。」ともされています(宮沢336337頁)。)。

 ちなみに,我が憲法18条のモデルであるアメリカ合衆国憲法修正13条1節(Neither slavery nor involuntary servitude, except as a punishment for crime whereof the party shall have been duly convicted, shall exist within the United States, or any place subject to their jurisdiction.)の「その意に反する隷属状態(involuntary servitude)」には,債務の履行としての強制労役たる債務労働(peonage)は含まれるが,「国民が国に対して負う義務」の履行たる兵役や陪審員になる義務などは含まれないとされています(宮沢333334335頁)。修正13条は,米国政府を縛るための規定というよりは,むしろ私人間効力のための規定であるということでしょうか。確かに,南部の私人が奴隷を所有していたのですよね。

我が政府は,徴兵制が違憲であるとの解釈を導き出すために,憲法18条になお同13条を加えての合わせ技にしています。とはいえ憲法13条は,そもそも「立法その他の国政」について広くかかっていますが。

 政府の憲法解釈によれば,国民に兵役義務を課するには,大日本帝国憲法20条(「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」)のような条項を,憲法を改正して設けなければならないということのようです。

 美濃部達吉は,大日本帝国憲法20条について,同条に「或る特別なる法律上の意義を附せんとする見解は,総て正当とは認め難い。」との見解を述べていましたが(同『憲法精義』(有斐閣・1927年)352頁),現在の日本国憲法については状況が異なっているということになります。

 なお,伊藤博文の『憲法義解』は,大日本国憲法20条について,明治「5年古制に基き徴兵の令を頒行し,全国男児20歳に至る者は陸軍海軍の役に充たしめ,平時毎年の徴員は常備軍の編制に従ひ,而して17歳より40歳迄の人員は尽く国民軍とし,戦時に当り臨時召集するの制としたり。此れ徴兵法の現行する所なり。本条〔大日本帝国憲法20条〕は法律の定むる所に依り全国臣民をして兵役に服するの義務を執らしめ,類族門葉に拘らず,又一般に其の志気身体を併せて平生に教養せしめ,一国雄武の風を保持して将来に失墜せしめざらむことを期するなり。」と解説していました。美濃部的には,大日本帝国憲法20条は,「志気身体を併せて平生に教養」して「一国雄武の風を保持」するという「臣民の道徳的本分を明にする」ものにすぎない(美濃部『憲法精義』351352頁),ということでしょう。

 

2 1938年の兵役法紹介

 前置きが長くなりました。

前回(20141115日)の記事(「離婚と「カエサルの妻」」補遺(裁判例紹介)」)を書いていて,描写が又太郎の愛情生活に及ぶうちに,先の大戦中における我が臣民の兵役への服役状況が気になりだしたのですが,今回は,当時兵役義務について定めていた兵役法(昭和2年法律第47号)等についてのお話です。

 なお,そもそも兵とは,美濃部達吉によれば,「単に公務を担任する義務を意味するのではなく,忠実に無定量の勤務に服すべき公法上の義務」であるところの「公法上の勤務義務(öffentliche Dienstpflicht)」を国家に対して官吏と並んで負う者です。兵と官吏との相違は,「一に兵は臣民たる資格から生ずる当然の義務として其の関係に立つものであり,仮令本人の志願に依つて現役に服する場合でも,それは唯義務の変形であるに止まるに反して,官吏は一般臣民の法律上の義務に基づくのではなく,常に本人の自由意思に依る同意に基づいてのみ任命せらるるものであることに在る。」とされています。(同『日本行政法 上』(有斐閣・1936年)676-677頁)

 

兵役法の主要規定は次のとおりです(19389月当時)。

   

 第1条 帝国臣民タル男子ハ本法ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ服ス

 第2条 兵役ハ之ヲ常備兵役,後備兵役,補充兵役及国民兵役ニ分ツ

 ②常備兵役ハ之ヲ現役及予備役ニ,補充兵役ハ之ヲ第一補充兵役及第二補充兵役ニ,国民兵役ハ之ヲ第一国民兵役及第二国民兵役ニ分ツ

 第4条 6年ノ懲役又ハ禁錮以上ノ刑ニ処セラレタル者ハ兵役ニ服スルコトヲ得ズ

 第5条 現役ハ陸軍ニ在リテハ2年,海軍ニ在リテハ3年トシ現役兵トシテ徴集セラレタル者之ニ服ス

 ②現役兵ハ現役中之ヲ在営セシム

 第6条 予備役ハ陸軍ニ在リテハ5年4月,海軍ニ在リテハ4年トシ現役ヲ終リタル者之ニ服ス

 第7条 後備兵役ハ陸軍ニ在リテハ10年,海軍ニ在リテハ5年トシ常備兵役ヲ終リタル者之ニ服ス

 第8条 第一補充兵役ハ陸軍ニ在リテハ12年4月,海軍ニ在リテハ1年トシ現役ニ適スル者ニシテ其ノ年所要ノ現役兵員ニ超過スル者ノ中所要ノ人員之ニ服ス

 ②第二補充兵役ハ12年4月トシ現役ニ適スル者ノ中現役又ハ第一補充兵役ニ徴集セラレザル者及海軍ノ第一補充兵役ヲ終リタル者之ニ服ス但シ海軍ノ第一補充兵役ヲ終リタル者ニ在リテハ11年4月トス

 第9条 第一国民兵役ハ後備兵役ヲ終リタル者及軍隊ニ於テ教育ヲ受ケタル補充兵ニシテ補充兵役ヲ終リタル者之ニ服ス

 ②第二国民兵役ハ戸籍法ノ適用ヲ受クル者ニシテ常備兵役,後備兵役,補充兵役及第一国民兵役ニ在ラザル年齢17年ヨリ40年迄ノ者之ニ服ス

 18 第5条乃至第8条,第9条第1項及第10条〔師範学校卒業者の短期現役兵〕ニ規定スル服役ハ其ノ期間ニ拘ラズ年齢40年ヲ以テ限トス

23 戸籍法ノ適用ヲ受クル者ニシテ前年12月1日ヨリ其ノ年1130日迄ノ間ニ於テ年齢20年ニ達スル者ハ本法中別段ノ規定アルモノヲ除クノ外徴兵検査ヲ受クルコトヲ要ス

②前項ニ規定スル年齢ハ之ヲ徴兵適齢ト称ス

 32条1項 身体検査ヲ受ケタル者ハ左ノ如ク之ヲ区分ス

  一 現役ニ適スル者

  二 国民兵役ニ適スルモ現役ニ適セザル者

  三 兵役ニ適セザル者

  四 兵役ノ適否ヲ判定シ難キ者

 34 国民兵役ニ適スルモ現役ニ適セザル者ハ之ヲ徴集セズ

 54 帰休兵,予備兵,後備兵,補充兵又ハ国民兵ハ戦時又ハ事変ニ際シ必要ニ応ジ之ヲ召集ス

 

 兵役法1条及び9条2項の意味は,「内地人たる男子は満17年に達するに因り,何等の行為を待たず,法律上当然に兵役義務に服するのであるが,此の意義に於ける兵役義務は,現に軍事上の勤務に服する義務ではなくして,唯国家より勤務に服することを命ぜられ得べき状態に在るに止まる。・・・随つて又兵役義務に服する者の総てが軍人であるのではなく,唯或る条件の下に其の自由意思に依らずして軍人となるべき地位に在るのである。」ということになります(美濃部達吉『日本行政法 下』(有斐閣・1940年)1321-1322頁)。

手元の辞書を見ると,ラテン語のjunioresの定義は,“les plus jeunes=les jeunes gens destinés à former l’armée active, de 17 ans à 45 ans, les citoyens capables de porter les armes”となっていて,古代ローマでは17歳から45歳までの男性市民は武器を執って軍務に服すべきものとされていたようです。40歳で打ち止めとする大日本帝国(兵役法92項,18条)は,若者には古代ローマ並みに厳しいものの,中年には優しかったということになります(それとも日本男児には早老の気があるということでしょうか。)。

 兵役法4条は,兵役に服することの「権利たる性質を明示して居るもの」です(美濃部『日本行政法 下』1322頁)。また,「兵役義務は憲法に定むる義務であるが,兵役義務に服するが為に刑罰に服する義務を無視することの出来ないことは勿論で,兵役に服することが出来なくなつても,尚刑罰に服しなければならぬ」ところでもありました(美濃部『憲法精義』353354頁)。すなわち我が軍には「囚人部隊」というものはなかったわけです。

徴兵検査は「(1)身体検査(2)身上に関する調査(3)徴兵処分の三を包含し,徴兵官がこれを行ふ」ものとされていました(美濃部『日本行政法 下』1324頁)。

徴兵検査後の兵役の流れには,次のように大きく3系統がありました。太字部分が常備兵役です。「「常備兵役」は軍編成上の骨幹を為す兵員を包含する兵役で,常時国防の義務ありとの観念に立脚せるもの」です(日高巳雄『軍事法規』(日本評論社・1938年)2頁)。

 

現役→予備役→後備役→第一国民兵役

 ②第一又は第二補充兵役→第一又は第二国民兵役

 ③第二国民兵役

 

この外,「兵役ニ適セザル者」(兵役法3213号)があって,兵役を免除されました(同法35条)。

現役兵が「現役ニ適スル者」であることは当然ですが,補充兵もまた「現役ニ適スル者」であるものとされています(兵役法8条,331項・3項。補充兵のうち第一補充兵は現役兵闕員の場合の補闕要員となり(同法481項),また,教育のため召集されることがありました(同法571項)。)。

これに対して,第二国民兵役に服する者はそもそも現役に適さない者(兵役法3212号の「国民兵役ニ適スルモ現役ニ適セザル者」)ということになります。なお,兵役法34条の「徴集」は,ここでは現役又は補充兵役編入を決してこれを本人に通告する行為の意味と解されます(日高12頁参照)。

さて,徴兵検査中の身体検査の結果区分(①現役に適する者,②国民兵役に適するも現役に適せざる者,③兵役に適せざる者及び④兵役の適否を判定し難き者(兵役法321項))の標準は勅令で定めるものとされ(同条2項),兵役法施行令(昭和2年勅令第330号)68条1項1号の第2項は「現役ニ適スル者ハ其ノ体格ノ程度ニ応ジ之ヲ甲種及乙種ニ,乙種ハ之ヲ第一乙種及第二乙種ニ分ツ」と,同条1項2号は「国民兵役ニ適スルモ現役ニ適セザル者」を「丙種トス」と,同項3号は「兵役ニ適セザル者」を「丁種トス」と,同項4号は「兵役ノ適否ヲ判定シ難キ者」を「戊種トス」と規定し,更に同条2項は「疾病其ノ他身体又ハ精神ノ異常ニ因リ第一乙種,第二乙種,丙種又は丁種ト為スベキ細部ノ標準ハ陸軍大臣之ヲ定ム」と規定していました。

すなわち,甲乙ならば現役に適して現役兵又は補充兵であるのに対し,丙ならば第二国民兵であって徴集されず,丁ならば兵役免除となる,というわけです。

ところで,昔から視力検査となると0.1が見えずにじりじりと前に進んでは恥ずかしい思いをしていた筆者は,徴兵検査を受けたならば,丙種で第二国民兵相当だったようです。すなわち,兵役法施行令68条2項に基づき制定された陸軍身体検査規則(昭和3年陸軍省令第9号)の制定当初の規定によれば,同規則18条4項は「各眼ノ裸視力(以下単ニ視力ト称ス)「0.6」ニ満チザル者ハ甲種ト為スコトヲ得ズ」と規定している一方,同規則6条1項本文(「疾病其ノ他身体又ハ精神ノ異常ニ因リ第一乙種,第二乙種,丙種及丁種ト為スベキ標準ハ附録第2ニ因ル」)に基づく附録第2の表の第18号を見ると,「近視又ハ近視性乱視ニシテ視力右眼「0.4」左眼「0.3」以上ノモノ及5「ヂオプトリー」以下ノ球面鏡ニ依ル各眼ノ矯正視力「0.6」以上ノモノ」は第二乙種であるのに対し「近視又ハ近視性乱視ニシテ球面鏡ニ依ル矯正視力良キ方ノ眼ニテ「0.3」以上ノモノ」が丙種であり,「近視又ハ近視性乱視ニシテ球面鏡ニ依ル矯正視力良キ方ノ眼ニテ「0.3」ニ満タザルモノ」は丁種だったからです。

なお,上記陸軍身体検査規則附録第2の表の第15号には不思議な規定があります。「著シキ頭蓋,顔面ノ変形」のある者及び「全禿頭」の者は丙種とされ,その結果第二国民兵になるというものです。毛が無いと軍隊で怪我無いことになるということのようですが,どういうことでしょうか。兵役法33条2項においては,現役兵及び第一補充兵の属すべき兵種は「身材,芸能及職業ニ依リ之ヲ定ム」るものとされ,「身材」とは「独り身体と謂ふのみでなく容姿,気品等を包含する」とされていますから(日高17頁),「全禿頭」の者は身材的に難ありということだったのでしょうか。陸軍の軍医であった森鷗外の小説『金貨』(1909年)には「八は子供の時に火傷をして, 右の外眥(めじり)から顳顬(こめかみ)に掛けて, 大きな引弔(ひつつり)があるので, 徴兵に取られなかつた。」というくだりがあります。著シキ顔面ノ変形の一例ということでしょう。

 

 とこの辺で,本件記事は一つのブログ記事として掲載するには分量が多くなり過ぎたので前編を終わります。続きは後編をどうぞ。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

(弊事務所の鈴木宏昌弁護士が,週刊ダイヤモンドの20141011日号において,労働問題,損害賠償事件等に強い辣腕弁護士として紹介されました。)

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