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1 序

 筆者は,かつて「「法の下の平等」(日本国憲法14条1項)の由来に関する覚書」などという大仰な題名を掲げたブログ記事(2015年9月26日)を書きましたが,当該記事の中にあって筆者の主観において主役を務めていたのは,「1946年2月28日の松本大臣の決断によって,19世紀トニセン流の狭い射程しかない法律の前の平等概念を超えた,広い射程の「法(律)の下の平等」概念が我が国において生まれたと評価し得るように思われます。」との評価を呈上することとなった憲法担当国務大臣松本烝治でした。松本烝治こそが,日本国憲法14条1項の前段と後段との連結者であって,その結果,同項の「法の下の平等」概念はその後松本自身も予期しなかったであろう大きな発展を遂げることになった,というのが筆者の観察でした。

 松本大臣の筆先からは,思いもかけぬ日本国憲法上の論点がひょこりと飛び出して来るようです。

 今回筆者が逢着したのは,天皇に係る日本国憲法4条1項後段の「国政に関する権能」概念でした。

 

天子さま――という表現を,松本国務相は使う。

  〔中略〕

  「父にしてみれば,ほかの明治人と同じように,ひたすら天子さまでしょ。終戦にしても,天皇制を護持するために終戦にしたんで,日本人民のためにだけ終戦にしたのじゃないという考え方ですよ」

  と,松本正夫がいい〔後略〕

   (児島襄『史録 日本国憲法』(文春文庫・1986年(単行本1972年))88頁,90頁)

 

 ということで,松本烝治は天皇及び皇室のためを思って仕事をしていたようなのですが,天皇の意思表示と「天皇は,国政に関する権能を有しない。」とする日本国憲法4条1項後段との関係を検討しているうちに,筆者は,忠臣小楠公・楠木正行の四條畷における奮闘がかえって不敬の臣・高師直の増長を招いてしまったようなことがあったなぁというような感慨を覚えるに至ったのでした。(奇しくもいずれも,四条がらみの戦いでした。)

 

「「法の下の平等」(日本国憲法14条1項)の由来に関する覚書」

(松本烝治は後編に登場します。)

前編http://donttreadonme.blog.jp/archives/1041144048.html

後編http://donttreadonme.blog.jp/archives/1041144259.html


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小楠公・楠木正行像(大阪府大東市飯盛山山頂)

  返らじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞ留むる


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小楠公・楠木正行墓(大阪府四條畷市)

馬には放れ,身は疲れたり。今はこれまでとや思ひけん,楠帯刀正行,舎弟次郎正時,和田新発意〔正行・正時のいとこ〕,三人立ちながら差し違へ,同じ枕に臥したりけり。吉野の御廟にて過去帳に入りたりし兵,これまでなほ63人討ち残されてありけるが,「今はこれまでぞ。いざや面々,同道申さん」とて,同時に腹掻き切つて,同じ枕に臥しにけり。(兵藤裕己校注『太平記(四)』(岩波文庫・2015年)232頁)

 ・・・ただこの楠ばかりこそ,都近き殺所(せつしょ)両度藤井寺合戦・住吉合戦大敵(なび)吉野村上ぬ。京都(よりかか)恐懼和田片時(へんし)1348年)一月五日〕,聖運すでにかたぶきぬ。・・・(同234頁)


2 関係条文

 日本国憲法4条1項は「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」と規定しています。三省堂の『模範六法』にある英文では“The Emperor shall perform only such acts in matters of state as are provided for in this Constitution and he shall not have powers related to government.”となっています。

 下らない話ですが,日本語文では,天皇は「この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ」という表現になっているので,天皇は当該国事行為をする以外は食事睡眠等を含めて何もしてはならないのかという余計な心配をしたくなるのですが,英語文では,国事(matters of state)についてはこの憲法の定める行為しかしないのだよと読み得るので一安心です。政府見解的には「国事行為は,天皇の国家機関としての地位に基づく行為」であるそうですから(園部逸夫『皇室法概論』(第一法規・2002年)124頁),換言すると,日本国憲法4条1項前段は,天皇が国家機関としての地位に基づき行う行為は「この憲法の定める国事に関する行為のみ」だということのようです。(ちなみに,「宮廷費で賄うこととされている」天皇の「公的行為」は,「天皇の自然人としての行為であるが,象徴としての地位に基づく行為」です(園部131頁,126頁)。)

日本国の日本国憲法の解釈に英語が出てくるのはわずらわしくありますが,1946年の日本国憲法制定当時の法制局長官である入江俊郎は,日本国憲法の英語文について「アメリカとの折衝では,英文で意見を合致した。憲法解釈上有力な参考になる。」と同年の枢密院審査委員会で述べていたところです(佐藤達夫(佐藤功補訂)『日本国憲法成立史 第三巻』(有斐閣・1994年)387頁)。

 

3 GHQ草案

 話を1946年2月13日,東京・麻布の外務大臣官邸において松本烝治憲法担当国務大臣,吉田茂外務大臣らにGHQ民政局のホイットニー准将,ケーディス陸軍大佐,ハッシー海軍中佐及びラウエル陸軍中佐から手交されたいわゆるGHQ草案から始めましょう。

同日のGHQ草案では,日本国憲法4条に対応する第3条の規定は次のとおりとなっていました(国立国会図書館ウェッブ・サイトの電子展示会「日本国憲法の誕生」の「資料と解説」における「315 GHQ草案 1946年2月13日」参照)。

 

Article III.     The advice and consent of the Cabinet shall be required for all acts of the Emperor in matters of State, and the Cabinet shall be responsible therefor.

The Emperor shall perform only such state functions as are provided for in this Constitution. He shall have no governmental powers, nor shall he assume nor be granted such powers.

The Emperor may delegate his functions in such manner as may be provided by law.

      

日本国憲法4条1項に対応する部分は,「天皇は,この憲法の定める国の職務(state functions)のみを行う。天皇は,政治の大権(governmental powers)を有さず,かつ,そのような大権を取得し,又は与えられることはない。」となっています。「天皇は,この憲法の定める国の職務のみを行う。」の部分は,「天皇は,国の職務を行うが,この憲法の定めるものに限られる。」と敷衍して意訳しないと,天皇の食事睡眠等がまた心配になります。この点については,それとも,その前の項では天皇の行う国事に関する行為(acts of Emperor in matters of State)が問題になっていますから,「国事に関する行為(acts in matters of State)であって天皇が行うものは,この憲法の定める国の職務(state functions)のみである」という意味(こころ)なのでしょうか。(State functionsは,国家機関としての地位に基づき行う行為だということになるのでしょう。)

 後に日本国憲法4条1項となるこのGHQ草案3条2項は,大日本帝国憲法4条(「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ従ヒ之ヲ行フ」)の清算規定でしょう。

大日本帝国憲法4条の伊東巳代治による英語訳文は次のとおり(Commentaries on the Constitution of the Empire of Japan(中央大学・1906年(第2版))。同書は『憲法義解』の英訳本です。)。

 

ARTICLE IV

 The Emperor is the head of the Empire, combining in Himself the rights of sovereignty, and exercises them, according to the provisions of the present Constitutions(sic).

 

ちなみに,米国人らは真面目で熱心であるので,当然伊東巳代治による英語訳『憲法義解』を研究していました。

1946年7月15日にGHQを訪問した佐藤達夫法制局次長は,次のようなケーディス大佐の姿を描写しています(佐藤達夫(佐藤功補訂)『日本国憲法成立史 第四巻』(有斐閣・1994年)681頁。下線は筆者によるもの)。

 

 第1条についての政府の説明は,かつて松本博士がその試案における天皇の地位について自分に説明した考え方と同じだ・といって,英訳〈憲法義解〉をもち出し次のように述べた。〔後略〕

 

この点については,既に同年3月4日の段階で,「先方〔GHQ民政局〕は伊東巳代治の明治憲法の英訳を持っており」と観察されていたところです(佐藤達・三112頁)。
 GHQ草案3条は外務省によって次のように訳されました(佐藤達・三
34頁)。

 

国事ニ関スル(in matters of State)皇帝ノ一切ノ行為ニハ内閣ノ輔弼及協賛ヲ要ス而シテ内閣ハ之カ責任ヲ負フヘシ

皇帝ハ此ノ憲法ノ規定スル国家ノ機能(state functions)ヲノミ行フヘシ彼ハ政治上ノ権限(governmental powers)ヲ有セス又此ヲ把握シ又ハ賦与セラルルコト無カルヘシ

皇帝ハ其ノ権能ヲ法律ノ定ムル所ニ従ヒ委任スルコトヲ得

 

Governmental powersとは,国家機関としての権力的な権限のことだと思われます(日本国憲法の英語文をざっと見ると,powerは,主,国政の権力,全権委任状の全,国,行政,最高裁判所の規則を定める権限,憲法に適合するかしないかを決定する権限,国の財政を処理する権限といった語の対応語となっています。)。「政治上ノ権限」は外務省の訳語ですが,いずれにせよ「国政権」,「政府に係る権限」などとそれらしく重く訳されるべきでした。「政治」はなお,筆者の感覚では,卑俗ないしは非公的なものとなり得ますが,「政治の大権」は,12世紀以来武士どもの棟梁が天皇から奪い取ったものを指称する軍人勅諭(1882年1月4日)における明治天皇の用語です。

日本国憲法88条に基づき皇室財産が国有化されて皇室が財産を失ったように,同4条1項についても,同項で天皇も「この憲法の定める国事に関する行為」をする仕事を残して政治の大権を失っており,今や後堀河院以降の時代と同様であって政治の大権は天皇から臣下の手に落ちているところ(軍人勅諭的表現),願わくは当該臣下が北条泰時のような者ならんことを,といい得ることになっていれば,依然同項後段に関する解釈問題がなお今日的なものとなっているという事態とはなっていなかったものでしょうか。天皇ないしは皇族の少々の発言等では天皇の政治の大権という巨大なものは回復したことに到底ならずしたがって天皇が政治の大権を有する違憲状態となったとの問題も発生せず,天皇及び皇族の振る舞い方の問題は日本国憲法4条1項後段の憲法論とは別の次元で(例えば皇室の家法における行為規範の問題として)論じられるようになっていたのではないでしょうか。しかしながら, 日本国憲法4条1項の規定については,「国家機関としての天皇は,憲法に定める国事に関する行為のみを行い,国政に関与する権能を全く持たない旨を定めるものである」のみならず,「一般に天皇の行為により事実上においても国政の動向に影響を及ぼすようなことがあってはならないという趣旨を含むものと解されている」ところです(園部128‐129頁)。

 

4 日本側3月2日案と松本モデル案

 

(1)3月2日案

GHQ草案を承けた日本側1946年3月2日案の第4条は次のようになりました(佐藤達・三94頁)。

 

第4条 天皇ハ此ノ憲法ノ定ムル国務ニ限リ之ヲ行フ。政治ニ関スル権能ハ之ヲ有スルコトナシ。

 天皇ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ権能ノ一部ヲ委任シテ行使セシムルコトヲ得。

 

(2)松本モデル案

 

ア 文言

3月2日案の第4条は,松本国務大臣が1946年2月26日に佐藤達夫法制局第一部長に渡したモデル案どおりなのです。GHQ草案の「一応大ナル(いが)ヲ取リ一部皮ヲ剥クべしとの意図をもって作成された松本大臣のモデル案の調子を見るため,その第1条から第4条までを次に記載します(佐藤達・三72頁,6970頁)。

 

第1条 天皇ハ民意ニ基キ国ノ象徴及国民統合ノ標章タル地位ヲ保有ス

第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ世襲シテ之ヲ継承ス

第3条 天皇ノ国事ニ関スル一切ノ行為ハ内閣ノ輔弼ニ依ルコトヲ要ス内閣ハ之ニ付其ノ責ニ任ス

第4条 天皇ハ此ノ憲法ノ定ムル国務ニ限リ之ヲ行フ政治ニ関スル権能ハ之ヲ有スルコトナシ

 天皇ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ権能ノ一部ヲ委任シテ行使セシムルコトヲ得

 

イ ちょっと小説

 冒頭の「天皇ハ民意ニ基キ」で松本大臣はがっくり元気がなくなり,続く「国ノ象徴及国民統合ノ標章タル地位」で頭が痛くなり,皇室典範については議会の関与に係る規定を後ろの条項に回して少し気が楽になり,内閣の輔弼(advice)は当然あるべきことと認めても生意気な同意(consent)は毅然として認めず,内閣が天皇の行為について責任を負うとあからさまに書くと天皇が被保護者みたいであるから「之ニ付其ノ責ニ任ス」とうまく表現し,国務を行うのは当然でも「ニ限リ」はちょっと嫌だなぁと眉をしかめたところで,「天皇ハ此ノ憲法ノ定ムル国務ニ限リ之ヲ行ヒ政治ノ大権ヲ有スルコトナシ」とはとても書けなかったものでしょう。

 「・・・ニ限リ之ヲ行フ政治ニ関スル権能ハ之ヲ有スルコトナシ」と書いた松本大臣の心理はどういうものであったか。

 「政治上ノ権限」というのがgovernmental powersに対応する外務省の訳語だったのですが,どうしてこれをそのまま採らずに「政治ニ関スル権能」を採用したのか。

 

ウ 「権能」

まず,「権能」ですが,これは,「権限」よりは「融通性の広い」,その意味ではやや輪郭がぼやけ,かつ,微温的な語として採用されたのではないでしょうか。日本国憲法の英語文でpowerが「権能」と対応するものとされているのは第4条1項だけです。「権能」とは,「法律上認められている能力をいう。あるいは権限,職権と同じように,あるいは権利に近い意味で用いられる。「権限」,「権利」というような用語よりは融通性の広い,いずれかといえば,能力の範囲ないし限界よりは,その内容ないし作用に重きを置いた用語であるといえよう。」と定義されており,かつ,用例として正に日本国憲法4条が挙げられています(吉国一郎等編『法令用語辞典〈第八次改訂版〉』(学陽書房・2001年)橘武夫執筆)。

 

エ 「政治」

「政治」という語の維持は,政治家の方々には悪いのですが,dirty imageがあることはかえって結構であって,否定の対象語として適当であると思われたのかもしれません。ちなみに,1946年7月11日付けのGHQ民政局長宛てビッソン,ピーク及びコールグローヴ連名覚書「憲法草案の日本文と英文の相違」では「日本人は天皇が政治的(ポリテイクス)な意味で政治(ガバメント)に積極的にたずさわったり,政府の行政そのものに直接介入することを望んだことはこれまで一度もなかった。したがって,日本人は憲法にこのような禁止条項がはいることにはなんら反対していない。」と観察していました(佐藤達・四700702頁)。「統治」であれば,大日本帝国憲法告文(「皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範」)及び上諭(「国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所」)並びに1条(「天皇之ヲ統治ス」)及び3条(「国ノ統治権ヲ総攬」)の真向否定になるのであって論外であり(伊東巳代治の訳するところでは統治権は“the rights of sovereigntyであって,統治=主権ということになっていました。),「政府に係る権限」も天皇ノ政府を失うとの文言であって寂しい。

 

オ 「ニ関スル」

しかし,「政治上ノ権能ハ之ヲ有サス」と,失う権能の対象を比較的くっきりはっきり書くと,たといそれがdirty imageを伴うものであっても,やはり喪失感が辛く厳しい。そこで「上ノ」に代えて「ニ関スル」が出て来ての更に朧化した表現となったのではないでしょうか。

「政治ニ関スル権能」ということになると,しかし,外延が弛緩します。「政治」は必ずしも国家の機関の公的活動をのみ意味しませんし,「に関する」は「に係る」よりも更に広い対象を含み得るからです。「に係る」に関して,「に係る」は「「・・・に関する」又は「・・・に関係する」に近い意味であるが,これらより直接的なつながりがある場合に用いられる。」とされているところです(吉国等編『法令用語』澄田智執筆)。換言すると,「に係る」が「・・・より直接的」であるということは,「に関する」は「に係る」より間接的であるわけです。

「国政に関する(related to government)」の「に関する」のせいで日本国憲法4条1項の解釈について後日紛糾が生ずるのですが,その紛糾の種は松本大臣がまいたものだったのでした。

 

5 佐藤・GHQ折衝及び3月6日要綱から4月13日草案まで

 

(1)佐藤・GHQ折衝および3月6日要綱

1946年3月4日から同月5日にかけての佐藤達夫部長とGHQ民政局との折衝においては,日本側3月2日案の第4条については「その中で,天皇の権能の委任について,マ草案では単に「其ノ権能ヲ法律ノ定ムル所ニ従ヒ委任スルコトヲ得」となっていたのに対し日本案で「其ノ権能ノ一部ヲ委任・・・」としていたことが問題となり,その「一部」を削ることとした」だけでした(佐藤達・三112113頁)。その結果の第4条の第1項の英語文は,次のとおりです(佐藤達・三178頁)。

 

The Emperor shall perform only such functions as are provided for in this constitution. Nor shall he have powers related to government.

 

英語文においても,GHQ草案にあったgovernmental powersが,松本大臣の手を経た結果,将来紛糾をもたらすこととなる,より幅広いものと日本側が解釈するpowers related to governmentになってしまっていたわけです。

1946年3月6日内閣発表の憲法改正草案要綱の第4は,次のとおりです(佐藤達・三189頁)。

 

第4 天皇ハ此ノ憲法ノ定ムル国務ヲ除クノ外政治ニ関スル権能ヲ有スルコトナキコト

 天皇ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ権能ヲ委任スルコトヲ得ルコト

 

このうち第1項は,3月2日案(及びそこから変更の無かった3月5日案(佐藤達・三164頁))とは異なった表現となっています。「これは,この憲法に列挙される天皇の権能も,一応は「政治ニ()スル(﹅﹅)権能(﹅﹅)」と見られるから,「除クノ外」でつなぐ方が論理的だ・という考えによるものであったと思う。」ということですが(佐藤達・三178頁),松本大臣の毒がまわってきたわけです。「邪推するならば,政府は天皇の権能にかんして,民政局にたいする関係においてはその政治的権能を否定しながら,日本国民にたいする関係においてはそれを復活させたと考えることもできるし,また,すくなくとも民政局発案のものをただしく把握していなかったことだけは疑ない。」(小嶋和司「天皇の権能について」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』(木鐸社・1988年)92頁)というのはやはり「邪推」で,「政治的権能」よりも「政治ニ関スル権能」の方が意味する範囲がはるかに広かっただけであり(天皇の「政治的権能」プラス・アルファが否定されたことになります。「此ノ憲法ノ定ムル国務」はプラス・アルファの部分に含まれてしまうのでしょう。),また,文句を言われようにも,“governmental powers”から“powers related to government”への用語の変更をGHQが十分重く受け止めていなかっただけだということのようです。

 

(3)4月13日草案まで

とはいえ,1946年4月2日に法制局とGHQ民政局との打合せがあったのですが,前記の点は,「第4条の「国務ヲ除クノ外」は,要綱作成のときに入れたのであったけれども,この打ち合せの段階で,それは英文にもないし,また「国務」が形式的な仕事をあらわしている点からいって,「除クノ外」でつなぐことは反って適切ではなかろうという意見が出たが,これは成文化のときの考慮に残した。」というように再び問題となり(佐藤達・三289頁),同月13日の日本国草案作成段階では,「英文との関係もあっていろいろと迷った」結果,日本側限りで「国務ヲ除クノ外」を「国務のみを行(ママ),」としています(佐藤達・三326頁)。1946年4月13日の憲法改正草案4条は,次のとおり(佐藤達・三336頁)。

 

第4条 天皇は,この憲法の定める国務のみを行ひ,政治に関する権能を有しない。

  天皇は,法律の定めるところにより,その権能を委任することができる。

 

6 枢密院審査委員会

とはいえ,憲法改正草案4条1項後段から「その他の」を完全に切り捨てる割り切りは難しかったようで,1946年4月22日の第1回の枢密院審査委員会における幣原喜重郎内閣総理大臣の説明要旨では「改正案においては,天皇は一定の国務のみを行ひ,その他においては,政治に関する権能を有せられないこととしてゐるのである。」と述べています(佐藤達・三381382頁。下線は筆者によるもの)。(ここでの「一定の国務」の範囲については,1946年4月の法制局「憲法改正案逐条説明(第1輯)」では「天皇が具体的に統治権の実施に当たらるる範囲」と観念されていました(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「44 「憲法改正草案に関する想定問答・同逐条説明」1946年4月~6月」参照。下線は筆者のもの)。)同年5月3日の委員会においては林頼三郎枢密顧問官も「第4条の国務と政治とは別なやうによめる。国務即政治なり。要綱のときの「除くの外政治に関する・・・」の方がよくわかつた。」と発言し,これに対して入江法制局長官が「その国務だけで,それ以外は政治に関する権能を有せずといふ意なるもこの国務のみを行ふといふこととそれ以外は行はぬといふ2点をかきたかつたのである。」と答弁すると,更に「そういふ意味ならそれ以外といふ字を入れたらどうか。」と二の矢を放っています(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「41 枢密院委員会記録 1946年4月~5月」)。

しかしながら,枢密院審査委員会においては草案4条1項の文言は修正されませんでした。とはいえ1946年5月の法制局「憲法改正草案逐条説明(第1輯)」は,なお第4条1項について「天皇が行はせられる国務の範囲は第6条及び第7条に規定されて居りますが,本条はそこに定められた国務のみを行はせられることを明らかにし,その他の政治に関する権能を有せられないことを定めたのであります。」と述べています(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「44 「憲法改正草案に関する想定問答・同逐条説明」1946年4月~6月」参照。下線は筆者によるもの)。「その他の」の挿入等何らかの手当ての必要性は決して消えてはいませんでした。

問題解決は先延ばしにされ,その後の修正作業は,帝国議会の審議期間中において概略後記のような経緯で行われていきます。

7 第90回帝国議会会期中の修正及びその意味

 

(1)芦田小委員会修正

 第90回帝国議会衆議院の憲法小委員会(芦田均小委員長)において1946年8月2日までに修正を経た日本国憲法案4条は,次のとおりでした(佐藤達・四783頁参照)。下線部が小委員会による修正後の文言で,括弧内が被修正部分です。

 

 第4条 天皇は,この憲法の定める国務のみを行ひ,その他の国政(政治)に関する権能を有しない。

 

   天皇は,法律の定めるところにより,前項の国務に関する(その)権能を委任することができる。

 

 上記第1項の英語文は,次のとおりでした(佐藤達・四802頁)。

 

    The Emperor shall perform only such state functions as are provided for in this Constitution. Never shall he have powers related to government.

 

第4条1項の「政治に関する権能を有しない」を「その他の国政に関する権能を有しない」と改めることは,同年7月25日に芦田小委員長から提案されていました(佐藤達・四715頁)。

 

(2)7月29日の入江・ケーディス会談

 

ア GHQ側の認識:本来的形式説

前記のように第4条1項の「政治に関する権能を有しない。」を「その他の国政に関する権能・・・」と改めようとしている点については,1946年7月29日,入江俊郎法制局長官がGHQ民政局のケーディス大佐を訪問した際GHQ側が,「何故に「その他の」を加えるのか,それでは,国務(state function)と国政(government)とが同一レベルのものとなり,天皇が儀礼的国務のみを行うという意味がぼやけてしまう。せっかく,前文及び第1条で主権在民を明文化しても,第4条において,あたかも天皇がそれを行使するかのように規定したのでは何にもならない。」とおかんむりだったそうです(佐藤達・四757頁)。

第4条1項前段の天皇の「国務」は儀礼的な行為にすぎないものであるというのがGHQの認識であり,儀礼的な行為にすぎないから国政(government)とは同一レベルにはない,すなわちそもそも国政に含まれるものではない,ということのようです。「4条は,天皇に単なる「行為」権のみを認め,「国政に関する権能」を認めていないのであって,6条,7条の「国事に関する行為」は本来的に形式的・儀礼的行為にとどまるものと解す」る「本来的形式説」が採用されているわけです(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)253254頁)。

 

イ 日本側の認識:国政に関する権能による国事行為の権能の包含

日本側のその場における反論は,「それに対して,「国政」のほうが意味がひろく,「国務」も国政のなかに含まれる。したがって「その他の国政・・・」としないと,第1項前段の「天皇は,この憲法の定める国務のみを行ひ」と矛盾する」というものだったそうですが(佐藤達・四757頁),なお言葉足らずだったでしょう。より精確には,「「その他の」を加える理由として,「国政に関する」とあるために,事務的,儀礼的の仕事でも,およそ「国政」に関連するものは含まれることとなる。したがって「その他の」を入れることが論理上正確であり,且つ,天皇の権能として許されない事がらが一層明確となる」ということが日本の法制局の思考だったようです(佐藤達・四758頁)。「国政に関する」の「に関する」こそが問題であって,この文言があるばかりに,国政自体に係る権能のみならず国政に関連するだけの仕事に係る権能をも含むこととなって,「国政に関する権能」の行使となる仕事のレベルは上下分厚く,「国務」のレベルの仕事もそこに含まれてしまうことになっているのだ,ということだったようです。しかし,こう理屈を明らかにすればするほど「その他の」の文言が必要不可欠ということになり,結局「その他の」がない場合には矛盾が生じ,「そのような理解は4条の文言からいって無理」(佐藤幸253頁)ということになるようです。

なお,第4条1項のgovernmentが「政治」から「国政」に改まることについては,1946年7月15日に佐藤達夫法制局次長がケーディス大佐に対して,努力する旨約束していたところでした(佐藤達・四682頁,683頁)。これは,同月11日付けの前記ビッソンらの民政局長宛て覚書で,「政治」の語にはgovernmentのほかpoliticsの意味がある旨指摘されていたところ(佐藤達・四702頁),それを承けてケーディス大佐から一義的にgovernmentと理解されるような語を用いるように要求されたからでしょうか。

 

(3)8月6日の入江・ケーディス会談

 

ア 日本側妥協による日本国憲法4条1項の日本語文言の成立

1946年7月29日には対立解消に至らなかったものの,しかしながら,同年8月6日,入江長官はケーディス大佐を訪問し,「天皇の章について,「国務」等の語を「国事に関する行為」に改め,〔芦田小委員会の修正した第4条1項の〕「その他の国政」の「その他」〔ママ〕を削ることにしたい,もしこれに同意ならば,政府として議会側に働きかける用意がある・と述べ」るに至りました(佐藤達・四801頁)。「ケーディス大佐は,ゴルドン中尉を呼び入れて用語の適否を確かめた上,これに賛成し,「国事に関する行為」は,英文がまちまちの表現をしているにくらべて改善であると述べた」そうです(佐藤達・四801頁。なお,「国務」の語については,英語に戻すとstate affairsとなり「functionよりもいっそう積極的で強い語感を含む言葉」となっているとの指摘が同年7月11日付けのビッソンらの民政局長宛て覚書でされていました(佐藤達・四702頁)。)。第4条1項の文言は,「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ, 国政に関する権能を有しない。」という現在の日本国憲法4条1項の文言となることになったわけです。(なお,ジョゼフ・ゴードン陸軍中尉は,GHQ草案作成時26歳でGHQの翻訳委員会のスタッフであり,また,後に日本国憲法24条関係で有名となるベアテ・シロタ嬢と結婚します。「エール大学の民事要員訓練所でみっちり学んだというゴードン氏の日本語は,読み書きは立派なものだが,会話はまったく駄目。妻のベアテさんは,会話は日本人と変わりないが,読み書きは苦手。ベアテさんに来た日本語の手紙を,ご主人が読んで英語で聞かせてあげるというから,なんとも不思議な夫婦だ。」と紹介されています。(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川文庫・2014年(単行本1995年))6970頁))

 

イ 4条1項前段と同項後段との関係に係るGHQの認識:逆接

第4条1項の前段と後段とは英文では二つの文になっていたところ,前記合意成立の際,「ケーディス大佐〔は〕,この二つの語句は,althoughbutで結ばれる関係にある,日本文がandで結ばれているような感じになっているのはおもしろくない・と述べた」そうです(佐藤達・四802頁)。すなわち,日本国憲法4条1項後段は,前段で国事行為(前記のとおり,これは儀礼的なものなので国政とは別レベルである,というのがGHQの認識でした。)を行う旨規定しているのでそれらの行為を通じて天皇が国政の権能を有するもののように誤解される恐れがあるから,天皇の国事行為の性格についてのそのような誤解を打ち消すために(「althoughbutで結ばれる関係」ということはこういう意味でしょう。)書かれた文言である,ということのようです。

 

ウ 4条1項前段と同項後段との関係に係る日本側の認識:順接

ただし,「これに対しては,日本側からalthough又はbutというのはonlyを見落としているもので,むしろ,論理上thereforeと解すべきである。また,もし日本文で二つの文章に分けるとすれば,短い文章で「天皇」の主語をくり返すことになり翻訳臭がでてきわめておかしなものとなる・と反対した結果,先方はその提案を撤回した。」との落着となりました(佐藤達・四802頁)。

第4条1項前段の「のみ(only)」の語に天皇に対する制限ないしは禁止規範の存在が見出されたところ,therefore,当該制限ないしは禁止規範の内容たる「天皇の権能として許されない事がら」が明文化されることとなったのが同項後段である,というのが日本の法制局の理解なのでしょう。(これに対して,あるいはGHQの理解は,第4条1項前段の「のみ(only)」による天皇に対する制限ないしは禁止は同項前段自体の内部で閉じている,すなわち,同項前段の意味は「天皇は,国事に関する行為を行う。ただし,この憲法の定めるものに限る。」というものである,同項後段は具体的な制限ないしは禁止規範ではなくて天皇に政治の大権が無いことを改めて確認する為念規定である(「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ふ。この国事に関する行為を行ふ権限は,政治の大権のために認められたものと解釈してはならない。」),ということででもあったのでしょうか。)GHQの理解では日本国憲法4条1項後段は同項前段に向かっているものであるのに対して,日本の法制局の理解では同項後段は天皇に向かっている,と比喩的に表現できるでしょうか。

日本側は第4条1項をどのように解釈することにしたのでしょうか。「国政に関する権能(powers related to government)」を「国政の権能(governmental powers)」と解釈することにしたのでしょうか。しかし,当座のところは,むしろ原案復帰にすぎないということで,「その他の国政に関する権能を有しない。」の「その他の」を元のとおり解釈で補うことにした,ということの方があり得ることではないでしょうか。帝国議会で政府は,「此処の意味は,天皇は政治に関する権能を有せられない,併しながら其の政治に関する権能の中でも,此の憲法にはつきり書いてある部分は行はせらるゝことが出来る,斯う云ふ意味であります」との答弁を行っていたところです(小嶋「天皇の権能について」9192頁参照)。

 

エ Governmentの訳語:「国政」か「統治」か

なお,日本国憲法4条1項後段の「国政に関する権能」(powers related to government)の語について当該会談において「ゴルドン中尉は,「国政に関する権能を有しない」の「国政」を「統治」と改めることを提案したが,日本側はこれに反対し,またケーディス大佐も「統治」とすると,天皇はrulingに関する権能はもたないが,もっと軽易なadministrativeな権能はもち得るように解せられる恐れがあるから「国事」に対するものとして「国政」とした方がいい・と述べ,「国政」とすることに落ち着いた」そうです(佐藤達・四802頁)。

大日本帝国憲法の完全否定になる「統治」の語の採用を日本側が拒んだことは分かります。大日本帝国憲法の告文及び上諭並びに1条及び3条は,天皇は大日本帝国の統治の大権を有してきたものであり,また今後も有するものであることを規定していましたし,伊東巳代治の英語訳(統治=sovereignty)からしても, 「統治」の語は主権論争を惹起せざるを得なかったからです。

天皇に対する制約規範として,「統治に関する権能を有しない」と「国政に関する権能を有しない」とを比較すると,権能を有しないものとされるものの範囲は後者(「国政」)の方が前者(「統治」)より広いのです(というのが筆者及びケーディス大佐の理解です。)。だからこそ,ケーディス大佐は軽易なadministrative権能まで天皇に与えまいとして日本側の「国政」説に与したのでした。

 

オ 英語文の修正

1946年8月24日の段階で,日本国憲法案4条1項の英語文は,“The Emperor shall perform only such acts in matters of state as are provided for in this Constitution. Never shall he have powers related to government.”という形になっていたもののようです(佐藤達・四876頁)。

8 「結果的形式説」の妥当性

 

(1)当初の政府説明の維持不能性:「その他の」の不在

 日本国憲法4条1項における,天皇が「国政に関する権能を有しない」こと(同項後段)とその同じ天皇が「この憲法の定める国事に関する行為」を行うこと(同項前段)との関係に係る「此処の意味は,天皇は政治に関する権能を有せられない,併しながら其の政治に関する権能の中でも,此の憲法にはつきり書いてある部分は行はせらるゝことが出来る,斯う云ふ意味であります」との第90回帝国議会における政府説明は,確かに,同項後段は「その他の国政に関する権能を有しない」と規定していておらず,かつ,そのことは再三公然と指摘されていたことでもあるので,いつまでも維持され得るものではありませんでした。

 

(2)本来的形式説の難点:松本烝治元法制局長官の「ニ関スル」の呪縛

 しかし,日本国憲法4条1項前段の国事行為を行うことに係る天皇の権能は同項後段の国政に関する権能には含まれない,との解釈(天皇の国事行為に係る本来的形式説の前提となる解釈)は,我が日本国の法制局参事官の頑として受け付けないところでした。

 

ア 「国事に関する行為」を行う権能と「国政に関する権能」と

日本国憲法4条1項の前段と後段との関係を後段冒頭に「その他の」の無いまま整合的に説明するための努力に関してでしょうが,「多くの論者は「国事に関する行為」と「国政に関する権能」とを単純に相排斥する対立的概念であるとして,その区分基準を「国事」と「国政」との相違にもとめ,ここで敗退する。」との指摘があります(小嶋和司「再び天皇の権能について」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』113頁)。当該指摘に係る状況について精密に見てみると,国事行為を行う権能は国政に関する権能に含まれるのだ,と言う主張の壁の前に当該論者らは敗退したということでしょう。

 

イ 「国政に関する権能」概念の縮小解釈の可能性いかん

 

(ア)「国政の動向を決定するような権能」:小嶋和司教授

そこで,本来的形式説の首唱者(小嶋和司教授)は,本丸の「国政に関する権能」概念を操作することにします。当該概念を縮小せしめることとして,「国政に関する権能」は「国政の動向決定(●●)する(●●)ような(権能」であるものと主張します(小嶋「再び」113頁。「国政運営に影響を及ぼすような権能」との理解から改説)。そこには「「国事に関する行為」を行う権能」は含まれないのだ,と主張するわけです。しかし,「国政の権能」,せめて「国政に係る権能」との文言であったのならばともかくも,「に関する」がそこまでの縮小を認めるものかどうか。内閣法制局は,無理だと考えているのでしょう。

 

(イ)「国政に関して実質的な影響を与えるような行為をする権能」:内閣法制局

「国政」に関して,元法制局参事官の佐藤功教授は,「国政」とは「国の政治を意味する。」としつつ,「憲法4条は,天皇が憲法の定める国事に関する行為のみを行い国政に関する権能を有しない旨を定めている。この場合に「国政に関する権能」とあるのは,国家意思を決定する国政に関して実質的な影響を与えるような行為をする権能という意味である。」と,なおも「国政に関する権能」を広く定義しています(吉国等編『法令用語辞典』。下線は筆者によるもの)。松本烝治元法制局長官の筆にした「ニ関スル」は,実に重いものなのです。

日本国憲法4条1項の前段と後段との関係の解釈については,憲法学界の大勢は本来的形式説を採るようなのですが,内閣法制局筋の実務家から見るとどういうものなのでしょうか。

 

ウ またも小説

「ここは,「関する」ですか,若しくは「係る」ですか,又は「の」なのですか。」

と夜半, 霞が関の中央合同庁舎第4号館の内閣法制局の大部屋において内閣法制局参事官に「詰め」られたとき,

「いやぁ,そこは作文ですから,よくご存じの参事官が文学的フィーリングで決めてくださいよ。」

などと学識不足のゆえか疲労に由来する横着のゆえかうっかり言おうものなら,法令案の審査がストップして大騒ぎになります。

「なんですかそれは。それが審査を受ける者の態度ですか。」

担当官庁の法案作成担当チームの頑冥無学迷走ぶりに憤然として大机の前で御機嫌斜めの内閣法制局参事官殿のところに本省局長閣下がちょこちょことやって来て,御免お願い機嫌を直して審査を再開してちょうだいよこちらは死ぬ気で頑張るからさと懇願している様子を実見した者の言うには,「ふぅーん,人間の頭の使い方には2種類あるんだな。」と思ったとの由。

「考える」と「下げる」。

無論,後者の方が前者よりもはるかに高い価値があるものです。


考える
「考える」(東京都台東区上野公園国立西洋美術館前庭)
 

(3)結果的形式説

 本来的形式説が,「に関する」に伴う「国政に関する権能」概念の広さゆえ採用が難しいところから,別の解決策が求められざるを得ません。

日本国憲法4条1項前段の国事行為には「すべて内閣の助言と承認が要求され,この助言と承認権には実質的決定権が含まれるから,結果的には「国事に関する行為」は形式的・儀礼的になる,というように説く見解」たる「結果的形式説」(佐藤幸254頁参照)が,アポリアからの最後の脱出路となるわけです。

ただし,「行為」が「形式的・儀礼的になる」と落着するのだと述べるだけで説明を打ち切るのは,なお議論が行為レベルにとどまっていて不親切です。「形式的・儀礼的」な行為を行う権能であっても「国政に関する権能」ではないわけではなかったのですから。より正確には,日本国憲法4条1項前段の国事行為を行う権能「のうち『国政に関する』部分は『内閣の助言と承認』の中にあって,天皇にはないのであって,その形式的宣布の部分だけが天皇の権能として現れてくるのである」というように(小嶋「天皇の権能について」96頁の引用する佐藤功教授の論説参照),権能のレベルで問題を処理しておく必要があります。

結果的形式説であれば,日本国憲法4条1項前段の国事行為を行う天皇の権能については,当該国事行為に係る内閣の助言と承認を経ることによって,そのうち国政に関する部分はいわば内閣に吸収されて失われ,そもそも国政に関しない部分しか残らないものとなっている,ということになります。したがって,同項後段の天皇は「国政に関する権能を有しない」規定との抵触は存在せず,同項後段冒頭に「その他の」を置く必要も無い,ということになります。

 

9 その他

本稿では,日本国憲法4条1項をめぐる紛糾や論争を追ってきたのですが,時代はまた,第90回帝国議会において日本国憲法案が審議中の時期に戻ります。

 

(1)日本国憲法4条1項後段不要論

1946年7月23日に行われた金森徳次郎憲法担当国務大臣とGHQのケーディス大佐との会談において,当該規定の生みの親の一人であったはずのケーディス大佐は,日本国憲法案4条1項後段はそもそも実は不要だったという意味の重大発言をしていたという事実があります。

 

〔日本側から天皇の章の〕第4条第1項の後段「政治に関する権能を有しない」を削るという修正意見があることを述べたところ,先方は,はじめからこの字句がなかったとすれば,その方がいいと考えるが,すでにあるものを削るとなると,それによって天皇が政治に関する権能を有することになるというような誤解を与えるおそれがあるから,その削除には賛成できない・と述べた。(佐藤達・四693頁)

 

思い返せば,初めからこの字句がなければその方がよかったのだ,というわけです。

これは,GHQにとっては,天皇の権能の制限は他の条項で既に十分であって,日本国憲法4条1項後段は実はいわば添え物のような宣言的規定だったのだ,ということでしょうか。同項後段の今日の日本における現実の働きぶりを見ると,隔世の感がします。

 

(2)日本国憲法4条1項の当初案起草者:リチャード・A・プール少尉

そうなると,GHQ民政局内で当該まずい添え物規定をそもそも最初に起草したのはだれなのだとの犯人捜しが始まります。

下手人は,割れています。

本職は米国国務省の外交官であったところのリチャード・A・プール海軍少尉です(当時26歳)。

日本国憲法4条1項の規定の濫觴としては,GHQ草案の作成過程の初期において,1946年2月6日の民政局運営委員会(ケーディス大佐,ハッシー中佐及びラウエル中佐並びにエラマン女史)との会合に,プール少尉及びネルソン陸軍中尉の天皇,条約及び授権員会から次のような案文が提出されていました(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「314 GHQ原案」参照。下線はいずれも筆者によるもの)。

 

Article IV.  All official Acts and utterances of the Emperor shall be subject to the advice and consent of the Cabinet. The Emperor shall have such duties as are provided for by this Constitution, but shall have no governmental powers, nor shall he assume or be granted such powers. The Emperor may delegate his duties in such manner as may be provided by Law.

When a regency is instituted in conformity with the provisions of such Imperial Home Law as the Diet may enact, the duties of the Emperor shall be performed by the Regent in the name of the Emperor; and the limitations on the functions of the Emperor contained herein shall apply with equal force to the Regent.

 

 日本国憲法4条1項に対応する部分は,「天皇は,この憲法の定める義務を有するが(but),政治の大権(governmental powers)を有さず,かつ,そのような大権を取得し,又は与えられることはない。」となっています。天皇はこの憲法の定める仕事をする,しかしながら(but)政治の大権は有さないのである,というのですから,同年8月6日のケーディス大佐の前記発言に至るまで,当該条文の構造に係るGHQの論理(逆接とするもの)は一貫していたわけです。

 これが,GHQ草案の前の天皇,条約及び授権委員会の最終報告書では次のようになります。

 

 Article     The advice and consent of the Cabinet shall be required for all acts of the Emperor in matters of State, and the Cabinet shall be responsible therefor. The Emperor shall perform such state functions as are provided for in this Constitution. He shall have no governmental powers, nor shall he assume or be granted such powers. The Emperor may delegate his functions in such manner as may be provided by law.

       When a regency is instituted in conformity with the provisions of such Imperial House Law as the Diet may enact, the duties of the Emperor shall be performed by the Regent in the name of the Emperor; and the limitations on the functions of the Emperor contained herein shall apply with equal force to the Regent.

 

「天皇は,この憲法の定める国の職務(state functions)を行う。天皇は,政治の大権を有さず,かつ,そのような大権を取得し,又は与えられることはない。」ということで,「義務(duties)」の代わりに「国の職務」という言葉が出てきます。また,butでつながれた一つの文であったものが,二つの文に分割されています。

日本国憲法4条1項前段の「のみ(only)」の文言はなお欠落していましたが,当該文言は1946年2月13日のGHQ草案には存在します。すなわち,天皇,条約及び授権委員会からの最終報告の後,同月12日の最終の運営委員会あたりでこの「のみ(only)」は挿入されたものでしょう。ホイットニー准将か,ケーディス大佐か,ハッシー中佐か,ラウエル中佐か。だれの手によるものかは筆者には不明です。

 

(3)最後の小説

Governmental powersとの語は,プール少尉らの最初の案から使用されていたものです。

プール少尉の高祖父であるエリシャ・ライス大佐は幕末における箱館の初代米国領事ですから,当然プール少尉は,自分の高祖父が箱館にいた時代の日本は「政治の大権」を江戸幕府が把持していて軍人勅諭のいうところの「浅間しき次第」ではあったが,天皇はやはりなお天皇であった,ということは知っていたことでしょう。

高祖父以来代々日本に住んで仕事をしていた一族の家系に生まれ,少年時代を横浜で過ごした1919年生まれのプール少尉が最初の案を起草した天皇のgovernmental powers放棄規定を受け取るに至った1877年生まれの松本烝治憲法担当国務大臣が,自らのモデル案を作成の際,「なにぃ,「天皇ハ政治ノ大権ヲ有セス又此ヲ把握シ又ハ賦与セラルルコト無カルヘシ」だとぉ。GHQはワシントン幕府の東京所司代のつもりかぁ。増長しおって。後水尾天皇の御宸念がしのばれることだわい。」と憤然口汚くののしりつつも,あっさり尊皇的闘争をあきらめて,「政治ニ関スル権能」ではなくあえておおらかに「政治ノ大権」の語を採用していたならばどうだったでしょうか。

 

芦原やしげらば繁れ荻薄とても道ある世にすまばこそ

 

天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,政治の大権を有しない。

 

日本国憲法4条1項の前段と後段との関係をめぐる議論は本来的形式説で片が付き,同項後段は政体の転換を闡明するための宣言的規定と解されて天皇の日常を規制するinstructionとまでは受け取られなかった,ということになったかどうか。

「天皇は,国政に関する権能を有さない」という規範の存在は,天皇を寡黙にさせるものなのでしょう。しかしながら,更に当該規範を積極的に振り回す横着な実力者が登場して寡黙が沈黙にまで至ると・・・木を以て作るか,金を以て鋳るかした像を連想するような者も出て来る可能性があり・・・本稿冒頭での高師直想起につながるわけです。

 

 「「木を以て作るか,金を以て鋳るかして,生きたる院,国王をば,いづくへも皆流し捨てばや」発言とそれからの随想」(20161030日)

  http://donttreadonme.blog.jp/archives/1062095479.html

  さらばやがて,この(つい)(たち)焼き払吉野越後(もろ)(やす)六千余騎貞和正月和泉石川富田林市東部河原武蔵師直三万十四平田奈良県葛城一帯吉野る。(『太平記(四)』234235頁)

  ・・・

  さる程に,武蔵守師直,三万余騎を率して,吉野山に押し寄せ,三度(みたび)(ママ)揚げ音も後村上焼き払皇居宿所鳥居(かね)鳥居金剛力士二階北野天神示現七十二三十八行化(ぎょうげ)神楽宝蔵(へつい)殿(どの)三尊(さんぞん)万人(かうべ)(かたぶ)金剛蔵王一時(いつし)灰燼立ちる。あ有様。(237238頁)

 

10 跋

ところで,実は,1994年6月12日,米国コロンビア特別区ワシントン市で,米国訪問中の今上天皇と「知日派の米国人」プール少尉とが会話する機会があったという事実があります。

しかし,日本国憲法4条1項後段規定の現在唯一の名宛人被規律者である今上天皇と当該規定の立案責任者であった元日本占領軍士官との間で,本稿で以上論じたようなことどもを十分語り尽くすだけの時間があったものかどうか・・・。

松本烝治は,「実は,私は今の憲法に何と書いてあるか見たことがないのです。それほど私は憲法が嫌いになったのです・・・」(児島380頁)と日本国憲法に背を向け,195410月8日に死去していました。

 

「「知日派の米国人」考」(2014年3月4日)

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1000220558.html



 弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

郵便:1500002  東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16  渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

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楠公父子別れの地たる桜井駅址(大阪府三島郡島本町JR島本駅前)にある記念碑:上部に「七生報国」の文字があります。両楠公は,しぶとい。

DSCF0805
小楠公・楠木正行を祭る四條畷神社(大阪府四条畷市)  


 


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(前編 http://donttreadonme.blog.jp/archives/1041144048.html からの続き)

3 日本国憲法14条1項の制定経緯瞥見

 

(1)憲法研究会の「憲法草案要綱」

 まず,1946年2月13日のGHQ草案に影響を与えたとされる高野岩三郎,鈴木安蔵らによる憲法研究会の「憲法草案要綱」(19451226日)における「国民権利義務」の部分を見てみると,次のとおりです。

 

一,国民ハ法律ノ前ニ平等ニシテ出生又ハ身分ニ基ク一切ノ差別ハ之ヲ廃止ス

一,爵位勲章其ノ他ノ栄典ハ総テ廃止ス

一,国民ノ言論学術芸術宗教ノ自由ニ〔ママ〕妨ケル如何ナル法令ヲモ発布スルヲ得ス

 一,国民ハ拷問ヲ加ヘラルルコトナシ

 一,国民ハ国民請願国民発案及国民表決ノ権利ヲ有ス

一,国民ハ労働ノ義務ヲ有ス

一,国民ハ労働ニ従事シ其ノ労働ニ対シテ報酬ヲ受クルノ権利ヲ有ス

一,国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有ス

一,国民ハ休息ノ権利ヲ有ス国家ハ最高8時間労働ノ実施勤労者ニ対スル有給休暇制療養所社交教養機関ノ完備ヲナスヘシ

一,国民ハ老年疾病其ノ他ノ事情ニヨリ労働不能ニ陥リタル場合生活ヲ保証サル権利ヲ有ス  

 一,男女ハ公的並私的ニ完全ニ平等ノ権利ヲ享有ス

 一,民族人種ニヨル差別ヲ禁ス

 一,国民ハ民主主義並平和思想ニ基ク人格完成社会道徳確立諸民族トノ協同ニ努ムルノ義務ヲ有ス

 

 これを見ると,最初の項の法律の前の平等は,出生又は身分による差別の廃止に係るもので,伝統的な身分制廃止の意味で用いられているようです。したがって,次の項の華族(=爵位を有する者(華族令(明治40年皇室令第2号)1条1項が「凡ソ有爵者ヲ華族トス」と規定))の廃止につながるのでしょう。男女平等や民族差別・人種差別の禁止は,法律の前の平等の第1項からは離れたところの第11項及び第12項に出てきます。法律の前の平等とは直結していないようです。

 ところで,他の箇所ではヴァイマル憲法的なところも多いのですが,「憲法草案要綱」の第6項及び第7項並びに第9項から第12項までは,今は亡きソヴィエト社会主義共和国連邦(同盟)の1936年憲法(スターリン憲法)の香りがしますね。

 

 第12条1項 ソ同盟においては,労働は,「働かざる者は食うべからず」の原則によって,労働能力あるすべての市民の義務であり,また名誉である。

 第118条1項 ソ同盟の市民は,労働の権利すなわち労働の量および質に相当する支払を保障された仕事を得る権利を有する。

 第119条 ソ同盟の市民は,休息の権利を有する。

   休息の権利は,労働者および職員のために,8時間労働日を制定し,かつ困難な労働条件を有する若干の職業のために,労働日を7時間ないし6時間に,かつ特別に困難な労働条件を有する職場においては,4時間に短縮することによって保障され,さらに労働者および職員に対して,年次有給休暇を設定し,かつ勤労者に対する奉仕のために,広く行きわたった療養所,休息の家,およびクラブを供与することによって,保障される。

 第120条1項 ソ同盟の市民は,老齢,ならびに病気および労働能力喪失の場合に,物質的保障をうける権利を有する。

 第122条 ソ同盟における婦人は,経済的,国家的,文化的および社会的・政治的生活のすべての分野において,男子と平等の権利を与えられる。

   これらの婦人の権利を実現する可能性は,婦人に対して,男子と平等の労働,労働賃金,休息,社会保険および教育に対する権利が与えられること,母および子の利益が国家的に保護されること,子供の多い母および独身の母に対する国家的扶助,妊娠時に婦人に有給休暇が与えられること,広く行きわたった産院,託児所および幼稚園の供与によって保障される。

 第123条 ソ同盟の市民の権利の平等は,その民族および人種のいかんを問わず,経済的,国家的,文化的および社会的・政治的生活のすべての分野にわたり不変の法である。

   市民の人種的または民族的所属からする,いかなる直接もしくは間接の権利の制限も,または反対に,直接もしくは間接の特権の設定も,ならびに人種的もしくは民族的排他性の宣伝,もしくは憎悪および軽侮の宣伝も,法律によって罰せられる。

  (山之内一郎訳『人権宣言集』(岩波文庫)292-294頁)

 

(2)「憲法草案要綱」のGHQへの紹介

 法律の前の平等がかかわる出生又は身分の問題と,男女平等及び民族差別・人種差別の禁止の問題とを最初に同一の範疇にひっくるめてしまったのは,GHQ「民政局法規課長として,高野岩三郎らの「憲法研究会」・・・のメンバーや,リベラルなグループとのつきあいも多く,日本側の在野の憲法草案を取り入れるに当たって,橋渡し役として動いた人物」であるマイロ・E・ラウエル中佐(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川文庫・2014年(単行本1995年))47頁)でしょう。

 ラウエル中佐がまとめた1946年1月11日付けのGHQ参謀長あてのメモランダム“Comments on Constitutional Revision proposed by Private Group”(「私的グループによる憲法改正草案に対する所見」)では,憲法研究会の「憲法草案要綱」における「14.素晴らしくリベラルな条項」(14. Outstanding Liberal Provisions)として,“b. Discriminations by birth, status, sex, race and nationality are prohibited. The peerage is abolished.”b. 出生,身分,性別,人種及び民族による差別は,禁止される。華族制度は,廃止される。)が挙げられています。性別,人種又は民族に基づく差別禁止問題と伝統的な身分制廃止問題とが融合されて,全体として差別禁止の話とされています。

 

(3)GHQ民政局国民の権利委員会における検討

 GHQ原案の起草に携わったGHQ民政局の国民の権利委員会(“Civil Rights Committee”は,「人権委員会」と訳するよりも,こう訳した方がよいでしょう。その構成員は,ピーター・K・ロウスト中佐,ハリー・エマソン・ワイルズ氏及びベアテ・シロタ氏)は,どのように考えていたか。実は,初稿及びそれに対する書き込みからすると,法律の前の平等と,性別,人種又は民族による差別の禁止とは,前者が後者を包摂するような関係であるものとは考えられていなかったようです。

 国立国会図書館ウェッブ・サイトの電子展示会「日本国憲法の誕生」のハッシー文書のウェッブ・ページによると,国民の権利委員会による日本国憲法14条の原型規定は,最初は次のようなものでした(102コマ目,121コマ目,123コマ目,126コマ目及び129コマ目)。

 

 6.  All persons are equal before the law. No discrimination shall be authorized or tolerated in political, economic, educational, and domestic relations on account of race, creed, sex, caste or national origin. No special privilege shall accompany any ownership or grant of title, honor, decoration or other distinction; nor shall any such ownership or grant of distinction, whether now existing or hereafter to be conferred, be valid beyond the lifetime of the individual who owns or may receive it.

 

 挿入の書き込みがあるのは,及びの部分です。

 最初のの所には,“natural”が挿入されています(102コマ目,121コマ目,123コマ目,126コマ目及び129コマ目)。

 次のの所には,華族制度廃止規定が挿入されるべきものとされていたようです。102コマ目では“Insert”121コマ目では“peerage clause”126コマ目では“Insert peerage clause”129コマ目では“Peerage Clause”と書き込まれています。

 “Peerage Clause”とは,1946年2月3日のマッカーサー三原則の第3項における次の第2文及び第3文のことでしょう。

 

 No rights of peerage except those of the Imperial family will extend beyond the lives of those now existent.

  No patent of nobility will from this time forth embody within itself any National or Civic power of government.

 

最高司令官御自らのお筆先になる規定が脱落してしまっているということは大変なことです。慌てて原案初稿に挿入することになったようです。しかし,そこでは,華族制度の廃止こそが,法律の前の平等に直ちに続くものと考えられていたようです。換言すると,「人種,信仰,性別,カースト又は民族的出自」による差別の禁止より前に華族制度の廃止が先行すべきものとされていて,「人種,信仰,性別,カースト又は民族的出自」による差別の禁止は,法律の前の平等と直接結びついたものとは考えられていなかった,ということになるように思われます。前記憲法研究会の「憲法草案要綱」でもそのような並びになっていました。しかしながら,単に,マッカーサー元帥のお筆先を順番の上で優先させようとしていたのかもしれません。

なお,前記ラウエル中佐の「私的グループによる憲法改正草案に対する所見」における14.b.の部分とは異なり,「出生,身分(birth, status)」による差別の禁止は,国民の権利委員会の案にはそれとして出ていません。法律の前に平等(equal before the law)ということで,その点は尽くされていると考えられたものでしょうか。

「性別」,「人種」及び「民族」は,憲法研究会の「憲法草案要綱」にありましたが,“creed”及び“caste”は,国民の権利委員会が付加したものということになります。“Creed”は,西洋の歴史にかんがみると宗教的なものでしょう。1786年ヴァジニア信教自由法の第2項は,“the same (their opinions in matters of religion) shall in no wise diminish, enlarge, or  affect their civil capacities.”と規定していましたから,換言すると,宗教的意見のいかんによって,市民としての資格について縮小,拡大その他の影響を受けていたわけです。“Caste”は,インドのあのカーストですね。しかし,なぜ,カーストが日本で問題になるのか。とはいえ,国民の権利委員会のロウスト中佐は,実際にインドの大学で講師をもしていたという風変わりな人物でしたので(鈴木57-58頁),その影響があったものでもありましょう。しかし,この謎は,神智をもってしないと解くことのできない神秘の謎のまま残りそうでもあります(http://www.theosophy.wiki/mywiki/index.php?title=Pieter_K._Roest#cite_note-4)。

国民の権利委員会の修正後の原案は,次のとおりです(167コマ目)。

 

5.  All natural persons are equal before the law. No discrimination shall be authorized or tolerated in political, economic, educational and domestic relations on account of race, creed, sex, caste or national origin. No patent of nobility shall from this time forth embody within itself any national or civil power of government. No right of peerage except those of Imperial family shall extend beyond the lives of those now existent. No special privilege shall accompany any ownership or grant of title, honor, decoration or other distinction; nor shall any such ownership or grant of distinction be valid beyond the lifetime of the individual who owns or may receive it.

 

結局,華族制度の廃止規定が,法律の前の平等規定と「人種,信仰,性別,カースト又は民族的出自」による差別の禁止規定との間に割って入ることはありませんでした。確かにワイマル憲法109条でも,身分制度の廃止関係は,(公民としての)男女同権の後ろにまわっています。

 

(4)GHQ草案13

これが,1946年2月13日に松本烝治憲法担当国務大臣らに手交されたGHQ草案では次のとおりとなっています。

 

 Article XIII.  All natural persons are equal before the law. No discrimination shall be authorized or tolerated in political, economic or social relations on account of race, creed, sex, social status, caste or national origin.

         No patent of nobility shall from this time forth embody within itself any national or civic power of government.

         No rights of peerage except those of the Imperial dynasty shall extend beyond the lives of those now in being. No special privilege shall accompany any award of honor, decoration or other distinction; nor shall any such award be valid beyond the lifetime of the individual who now holds or hereafter may receive it.

 

第1項後段の差別禁止の場面から,“educational and domestic relations”が抜けています。これは,教育及び家族生活の問題は他の個別条項(現行日本国憲法では第26条及び第24条)で手当てされるからここで規定する必要は無い,ということでしょう。ところが,それに代わって,広く“social relations”(社会的関係)における差別が禁止されることになり,また,差別の理由(“on account of”という表現が用いられています。)とすることが許されないものとして“social status”(社会的身分)が加えられています。これらの修正は,国民の権利委員会によってではなく,運営委員会(Steering Committee。構成員は,ケーディス大佐,ラウエル中佐及びハッシー中佐並びにルース・エラマン氏)によってされたものでしょう。ラウエル中佐あたりが,「カーストなんてインドみたいで,かつ,特殊に過ぎるではないか。これはやはり「身分」とは違うのではないか。わしの「私的グループによる憲法改正草案に対する所見」の14.b.に,“birth, status”による差別は禁止されると書いておいたぞ。“Social status”を入れて,出生・身分を理由とした差別の禁止もはっきりさせるべきだろう。」と考えて,筆を入れたものでしょうか。“Social status”が身分制的身分であるとすると,第1項後段における「身分」による差別の禁止は,身分制の廃止に係る同項前段の法律の前の平等と相重なることになります。前段と後段との架橋が,ここでされてしまったようです。(しかし,ここまで思いつきを書いてしまうと,ブログでなければ許されない妄想の域に入ってしまうようです。)なお,ヴァイマル憲法109条2項の英訳をインターネット上で調べてみると,ドイツ語のStandを,“social standing”とするものがあります(www.zum.de)。一般には“rank”と訳されているようですが。

 

(5)日本国政府の対応

 

ア 外務省訳

 GHQ草案13条の我が外務省訳は次のとおり。

 

13条 一切ノ自然人ハ法律上平等ナリ政治的,経済的又ハ社会的関係ニ於テ人種,信条,性別,社会的身分,階級又ハ国籍起源ノ如何ニ依リ如何ナル差別的待遇モ許容又ハ黙認セラルルコト無カルヘシ

爾今以後何人モ貴族タルノ故ヲ以テ国又ハ地方ノ如何ナル政治的権力ヲモ有スルコト無カルヘシ

皇族ヲ除クノ外貴族ノ権利ハ現存ノ者ノ生存中ヲ限リ之ヲ廃止ス栄誉,勲章又ハ其ノ他ノ優遇ノ授与ニハ何等ノ特権モ附随セサルヘシ又右ノ授与ハ現ニ之ヲ有スル又ハ将来之ヲ受クル個人ノ生存中ヲ限リ其ノ効力ヲ失フヘシ

 

法律の「前」でも「下」でもなく,法律「上」平等ということになっています。“Creed”が「信条」と訳された以上,「宗教的信仰に限らず,政治や人生に関する信念を包含するものと解される」ことになるのでしょう(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)471頁)。“Caste”を「階級」と訳したのは,確信犯的誤訳でしょうか。“National origin”に「民族的出自」という訳語が当てられず,帰化した国民にのみ関係しそうな「国籍起源」という訳語が当てられたのは,当時の大日本帝国の外務省においては,大日本帝国はそもそも多民族帝国ではなかったという意識があったものか,受諾したポツダム宣言の第8項に基づき,早くも朝鮮,台湾等は考慮の外になってしまっていたのか,考えさせられるところです。

 

イ 佐藤達夫部長の検討と松本烝治国務大臣の決断

 

(ア)1946年2月28日まで

これに対する日本政府(松本烝治憲法担当国務大臣,佐藤達夫法制局第一部長及び入江俊郎法制局次長)の1946年2月28日案(初稿)は,次のとおり(ウェッブ・ページ6コマ目及び7コマ目)。主に佐藤達夫部長の手になるものとされています。

 

13第5条 国民ハ凡テ法律ノ前ニ平等トス。 

  国民ハ門閥,出生又ハ性別ニ依リ政治上,経済上其ノ他一般ノ社会関係ニ於テ差別ヲ受クルコトナシ。 

  (爾今何人ト雖モ貴族(・・)タルノ故ヲ以テ政治上ノ特権ヲ附与セラルルコトナシ)

  

 ―別案―

国民ハ門閥,出生又ハ性別ニ依リ法律上差別セラルルコトナシ。

 補則, 王公族,華族及朝鮮貴族ノ特権ハ之ヲ廃止ス。

  此ノ憲法施行ノ際現ニ王公族,華族又ハ朝鮮貴族タル者ノ有スル特権ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ者ノ生存中ニ限リ仍従前ノ例ニ依ル。

 

「人種,信条」及び「社会的身分,階級又ハ国籍起源」が,「門閥,出生」に置き換えられています。ここでの「門閥」がドイツ語の“Stand”に対応するのならば,佐藤部長は,前記ヴァイマル憲法109条的条項を考えていたものでしょうか。

なお,ここで出てくる「王公族」及び「朝鮮貴族」が,日本国憲法14条2項において含意されているところの「貴族(華族を除く。)」です(会社法のような表現で,失礼します。)。いずれも日韓併合条約に基づくものでした。王公族については,大韓帝国皇帝家が王族,同帝国の皇族2家が公族となっていました。朝鮮貴族には公侯伯子男の5爵があり,華族が内地人に限られるのと対応して,朝鮮貴族の受爵者は朝鮮人に限られていました。

 

(イ)1946年2月28日の打合せとその後

佐藤達夫部長は,後に,1946年「2月28日さきの〔内閣総理大臣官邸〕放送室で松本大臣と第1回の打ち合わせをした。これには当時の法制局次長入江俊郎氏も参加したはずである。」と回想しています(佐藤達夫著=佐藤功補訂『日本国憲法成立史第3巻』(有斐閣・1994年)71頁)。入江次長はやや影が薄い。

1946年3月1日案(第2稿)では次のようになっています(ウェッブ・ページ6コマ目)。変化した部分は,松本烝治大臣の責任によるものとすべきでしょう。「法律ノ前ニ」が「法律ノ下ニ」になったのは,佐藤達夫部長としては,「表現上の変更にとどまったものと思っている」ところだったそうです(佐藤=佐藤119頁)。

 

 1314条 凡テノ国民ハ法律ノ下ニ平等ニシテ人種,信条,性別,社会上ノ身分又ハ門閥ニ依リ政治上,経済上又ハ社会上ノ関係ニ於テ差別セラルルコトナシ。

   爵位,勲章其ノ他ノ栄典ハ特権ヲ伴フコトナシ。

 

ここで,「法律の下の平等」と「人種,信条,性別,社会上の身分又ハ門閥」による差別の禁止とが初めて一文に合体します。なお,ここでの「門閥」は,「階級又ハ国籍起源」(カースト又は民族)の言い換えということになるようです。

いずれにせよ,1946年2月28日の松本大臣の決断によって,19世紀トニセン流の狭い射程しかない法律の前の平等概念を超えた,広い射程の「法(律)の下の平等」概念が我が国において生まれたと評価し得るように思われます。(これも非学術的な言い過ぎのようでありますが。長尾龍一教授によれば, なお,「要するに法の下の平等の規定は, 封建制の遺産の除去という目的に限定されているのである。」ということではあります(同『憲法問題入門』(ちくま新書・1997年)97頁)。)

松本大臣は,「男女平等」についてはどのような考えを持っておられたものか。

 

松本国務相の・・・夫人は慶應義塾の重鎮小泉信吉の令嬢,つまり小泉信三の姉千子である。

松本家では,千子夫人の“威令”がゆきとどき,松本国務相はときに夫人の横に寝ころび,夫人に羊かん,果物をツマ楊枝で食べさせてもらったり,政治談議の好きな夫人の舌鋒にへきえきして,当時は草深いおもかげを残す綱島温泉に逃げだしたりした,と長女峰子は語る。

その長女峰子は,・・・東大教授田中耕太郎にとつぎ,次女文子は慶應義塾大学医学部三辺謙夫人である。そして,三辺謙は,松本国務相の秘書をつとめた・・・(児島襄『史録日本国憲法』(文春文庫・1986年(単行本1972年))88-89頁)

 

なお,松本大臣は,本業の商法学の分野では,1935年の中央大学五十周年記念論文集において「従来の定説に対し相当大胆な叛逆を試みた」ものである『株式会社に於ける定款自由の原則と其例外』という論文を発表していて,「併し乍ら解釈論上は定款規定自由の大原則に対し如何なる場合に於ても株主平等ならざるべからずとする一般的の制限を存すべき理はなく,株主平等に反する定款規定が正義衡平の観念に反するや否や,即ち公序良俗に反するや否やを個個の場合に付き考察して其規定の効力を判定するに止まるべきである。会社の個個の株主総会の決議其他の行為に付ても亦同様に解して誤ないと考へる。・・・之を要するに株主平等の原則なるものは解釈上は寧ろ之を排斥すべきものである。」「所謂株主平等の原則なるものは実際上は寧ろ誤解を招き又は膠柱の不便を生ぜしむる無用の原則であつて,法律解釈上是の如き根拠に乏しき原則を高調するは其利を以て害を償ふに足らないものと考へる。」と,平等原則中少なくとも「株主平等原則」に対しては警告を発していました(松本烝治『私法論文集(続編)』(巌松堂書店・1938年)316頁,304頁,311頁)。


 1946
年3月4日にGHQ民政局に提出された同月2日案は次のとおり(ウェッブ・ページ3コマ目及び4コマ目)。

 

13条 凡テノ国民ハ法律ノ下ニ平等ニシテ,人種,信条,性別,社会上ノ身分又ハ門閥ニ依リ政治上,経済上又ハ社会上ノ関係ニ於テ差別セラルルコトナシ。

爵位,勲章其ノ他ノ栄典ハ特権ヲ伴フコトナシ。

 

なお,我が3月2日案の第14条は「外国人ハ均シク法律ノ保護ヲ受クルノ権利ヲ有ス」と規定していました。GHQ草案XVI条( “Aliens shall be entitled to the equal protection of law.”)に対応するものです。

 

(6)1946年3月4日から同月5日にかけての佐藤部長とGHQとの折衝から同月6日の憲法改正草案要綱まで

 

ア 佐藤部長とGHQ民政局との折衝

「三月四,五両日司令部ニ於ケル顛末」(佐藤達夫作成)には,1946年3月4日から同月5日にかけて徹夜で行われたGHQ民政局と日本側(佐藤達夫部長)との折衝について次のようにあります(ウェッブ・ページ6コマ目)。

 

13条 「ナチユラル・パーソンズ」ハ自然人トスベシ尚「ナシヨナル・オリジン」ヲ脱セリト云フ,之ハ「人種」ニ含ムト考ヘタリト述ベタルモ,ソレハ違フト云フ,然ラバXVIノ外国人ノ条文トノ関係如何ト述ベタルニ夫レデハXVIヲ削ツテ之ニ合スベシトテ(XVI当方案14条ノ「均シク」(equal protection)ノ意ヲ質シタルニ日本国民トイクオール(・・・・・)ナリト云フ)「自然人ハ・・・タルト・・・タルトヲ問ハズ」トシ門閥ノ下ニ「又ハ国籍」ヲ入レルコトニシテ落付ク。(ナシヨナル・オリジンハ出身国ト云フベキカ)

次ニ貴族制ノ廃止ハ何故ニ規定セザリシヤト云フ,(ママ)ハ重要問題故是非規定スベシ,トテ〔1946年2月13日のGHQ〕交付案ノ趣旨ヲ入ルルコトトス。〔「ただ「皇族(imperial dynasty)ヲ除ク外」は当然のこととして削り,その他マ草案の英文にも若干の手直しが加えられた。」(佐藤=佐藤118頁)〕

 

 閣議で配布された日本国憲法1946年3月5日案では,次のとおり。

 

 第13条 凡テノ自然人ハ其ノ日本国民タルト否トヲ問ハズ法律ノ下ニ平等ニシテ,人種,信条,性別,社会上ノ身分若ハ門閥又ハ国籍ニ依リ政治上,経済上又ハ社会上ノ関係ニ於テ差別セラルルコトナシ。

  爾今何人モ貴族タルノ故ヲ以テ国又ハ地方ノ如何ナル政治的権力ヲモ有スルコト無カルヘシ。華族ハ現存ノ者ノ生存中ヲ限リ之ヲ廃止ス栄誉,勲章又ハ其ノ他ノ優遇ノ授与ニハ何等ノ特権モ附随セサルヘシ又右ノ授与ハ現ニ之ヲ有スル又ハ将来之ヲ受クル個人ノ生存中ヲ限リ其ノ効力ヲ失フヘシ

 

この第13条1項については吉田茂外務大臣から「国籍により政治上差別を受けることがないという規定,すなわち外国人も日本人と同様政治上の権限をひとしく享有するが如き規定は不適当であるから改めること」については「さらにマッカーサー司令部に申し入れて再考を乞うことにしたい」との発言があり(佐藤=佐藤161頁参照),翌6日午後同大臣から文書をもって申し入れがされ,GHQは直ちに当該部分を改めたそうです(同162頁参照。「これについては,国籍云々と書いておくと,外交官の治外法権も,日本国内では認められなくなるといったら,司令部側は早速ひっこんだそうです」(同))。ただし,佐藤達夫部長は,「私が5日の夕方司令部から総理官邸にもどった後,〈3月5日案〉第13条の「国籍」及び「日本国民タルト否トヲ問ハズ」について,白洲氏から司令部に交渉してもらい,これを削ることの了解を得ていた」と記憶しています(佐藤=佐藤176頁。また,同119頁)。

なお,5日の閣議中断中の幣原喜重郎内閣総理大臣及び松本国務大臣の内奏の際,昭和天皇から「華族廃止についても堂上華族だけは残す訳には行かないか」との発言があったと伝えられています(佐藤=佐藤162-163頁参照)。

 

イ 内閣発表憲法改正草案要綱(1946年3月6日)

 1946年3月6日の内閣発表憲法改正草案要綱では,次のようになっています。

 

 第14 凡ソ人ハ法ノ下ニ平等ニシテ人種,信条,性別,社会的地位,又ハ門地ニ依リ政治的,経済的又ハ社会的関係ニ於テ差別ヲ受クルコトナキコト

  将来何人ト雖モ華族タルノ故ヲ以テ国又ハ地方公共団体ニ於テ何等ノ政治的権力ヲモ有スルコトナク華族ノ地位ハ現存ノ者ノ生存中ニ限リ之ヲ認ムルコトトシ栄誉,勲章又ハ其ノ他ノ栄典ノ授与ニハ何等ノ特権ヲ伴フコトナク此等ノ栄典ノ授与ハ現ニ之ヲ有シ又ハ将来之ヲ受クル者ノ一代ニ限リ其ノ効力ヲ有スベキコト

 

ここで「法律ノ下ニ」が「法ノ下ニ」になりましたが,それは「形式的意味の“法律”との混同を避ける趣旨」であったそうです(佐藤=佐藤179頁)。

「社会上ノ身分」が「社会的地位」になり,「門閥」は「門地」になっています。「社会的地位」は現在の日本国憲法14条1項では「社会的身分」にまた改められていますから,やはり,「社会的身分」は,身分的なものなのでしょう。GHQ草案からの由来に鑑みると,「門地」は「カースト又は民族」ということになるようです。しかしながら,門地(family origin)は,現在,「人の出生によって決定される社会的地位のことで,いわゆる「家柄」がこれにあたる。貴族制度の廃止(142項)は,その当然の帰結である。」と解されていて(佐藤幸治475頁),むしろこちらの方が本来の身分(Stand)に相当するものであるかのように理解されています。ロウスト中佐のインド体験(カースト)が悪いのか,また,スターリン憲法賛美(民族間平等)がうまく理解されなかったのか,翻訳上の辻褄合わせが,「憲法14条1項にいう社会的身分と門地との違いって何だ」という難問を生み出してしまったようです。

ハッシー中佐の文書中の1946年3月6日の日本国憲法案では次のとおり(ウェッブ・ページ5コマ目)。

 

 Article XIII.     All natural persons are equal under the law and there shall be no discrimination in political, economic, or social relations because of race, creed, sex, social status, or family origin. No right of peerage shall from this time forth embody within itself any national or civic power of government, nor shall peerage extend beyond the lives of those now in being. No privilege shall accompany any award of honor, decoration or any distinction; nor shall any such award be valid beyond the lifetime of the individual who now holds or hereafter may receive it.

 

 なお,3月5日案の英文は,次のようなものでした(佐藤=佐藤179-180頁参照)。

 

 Article XIII.     All natural persons, Japanese or alien, are equal under the law and there shall be no discrimination in political, economic, or social relations because of race, creed, sex, social status, family origin, or nationality. No right of peerage shall…… No privilege shall accompany any award of honor, decoration or other distinction; nor……


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 平等に見る権利あり鳳凰堂世をうぢ山に人は違へど
「・・・法律家の詠む俳句などは理屈っぽくておもしろくないものが多い。花井卓蔵の月見の宴での作といわれる「何人も見る権利あり今日の月」とか,詠人不知の「不動産を動産にする鉢の梅」などは,どうみても美的でない。」(長尾龍一『法哲学入門』(日本評論社・1982年)30頁)

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   »Jahrtausende mußten vergehen, ehe du ins Leben tratest, und andere Jahrtausende warten schweigend«: - darauf, ob dir diese Konjektur gelingt.

 

1 佐藤幸治名誉教授と憲法97条 

 今月(2015年6月)6日,東京大学法学部25番教室で開催された立憲デモクラシーの会において,佐藤幸治京都大学名誉教授が「世界史の中の日本国憲法―立憲主義の史的展開を踏まえて」と題する基調講演をされましたが,当該講演の締めくくりとして同教授は,日本国憲法97条を読み上げられました。

 

  この憲法が日本国民に保障する基本的人権は,人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて,これらの権利は,過去幾多の試錬に堪へ,現在及び将来の国民に対し,侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 

 英文では,次のとおり。

 

 The fundamental human rights by this Constitution guaranteed to the people of Japan are fruits of the age-old struggle of man to be free; they have survived the many exacting tests for durability and are conferred upon this and future generations in trust, to be held for all time inviolate.

 

2 自由民主党憲法改正草案と憲法97条(GHQ草案10条)

 なかなか格調の高い響きの条文なのですが,憲法97条は,自由民主党からは評判が悪いところです。2012年4月27日に決定された同党の日本国憲法改正草案では,削られて,なくなってしまっています。その理由にいわく。

 

 ・・・我が党の憲法改正草案では,基本的人権の本質について定める現行憲法97条を削除しましたが,これは,現行憲法11条と内容的に重複している(※)と考えたために削除したものであり,「人権が生まれながらにして当然に有するものである」ことを否定したものではありません。

 ※現行憲法の制定過程を見ると,11条後段と97条の重複については,97条のもととなった総司令部案10条がGHQホイットニー民政局長の直々の起草によることから,政府案起草者がその削除に躊躇したのが原因であることが明らかになっている。

(自由民主党「日本国憲法改正草案Q&A・増補版」(201310月)のQ44の答)

 

  1946年2月13日に日本国政府に手交されたGHQ草案10条は,次のとおり(国立国会図書館ウェッブ・サイト電子展示会「日本国憲法の誕生」参照)。

 

 Article X.  The fundamental human rights by this Constitution guaranteed to the people of Japan result from the age-old struggle of man to be free. They have survived the exacting test for durability in the crucible of time and experience, and are conferred upon this and future generations in sacred trust, to be held for all time inviolate.

 

 外務省罫紙に和文タイプ打ちのGHQ草案10条の日本語訳は次のとおりです。

 

10 此ノ憲法ニ依リ日本国ノ人民ニ保障セラルル基本的人権ハ人類ノ自由タラントスル積年ノ闘争ノ結果ナリ時ト経験ノ坩堝ノ中ニ於テ永続性ニ対スル厳酷ナル試練〔ママ〕ニ克ク耐ヘタルモノニシテ永世不可侵トシテ現在及将来ノ人民ニ神聖ナル委託ヲ以テ賦与セラルルモノナリ 

 

3 GHQホイットニー民政局長と憲法97条(GHQ草案10条)

 

(1)憲法97条の原型

 国立国会図書館ウェッブ・サイト電子展示会「日本国憲法の誕生」にある1946年2月の「ハッシー文書」(GHQ民政局内での憲法検討草案の綴り)の120枚目に手書きで"The fundamental human rights hereinafter by this constitution conferred upon and guaranteed to the people of Japan result from the age-old struggle of man to be free. They have survived the exacting test for durability in the crucible of time and experience and are conferred upon this and future generations in sacred trust, to be held for all time inviolate."と書いたものがありますが,そうであれば,これが自由民主党の「日本国憲法改正草案Q&A・増補版」が言及するところのホイットニー局長の手による現行憲法97条のそもそもの原案の現物なのでしょうか。

 

(2)憲法97条の原型条項に代わって削られた2条項

 

ア 人権委員会原案第2条及び第4条

 なお,現行憲法97条に相当する当該条項の挿入の際,その前後の場所で代りに削られている条項としては,GHQ民政局内の人権委員会(Committee on Civil Rights)による当初原案第2条の"The enumeration in this Constitution of certain freedoms, rights and opportunities shall not be construed to deny or disparage others retained by the people."(この憲法において一定の自由,権利及び機会が掲げられていることをもって,人民に留保された他の自由等を否認し,又は軽視するものと解釈してはならない。)及び同第4条の"No subsequent amendment of this Constitution and no future law or ordinance shall in any way limit or cancel the rights to absolute equality and justice herein guaranteed to the people; nor shall any subsequent legislation subordinate public welfare, democracy, freedom or justice to any other consideration whatsoever."(今後の憲法改正並びに将来の法律又は命令は,ここにおいて人民に保障された絶対の平等及び正義に対する権利をいかなる形においても制限し,又は取り消してはならない。今後の立法は,公共の福祉,民主主義,自由又は正義を他のいかなる配慮にも従属するものとしてはならない。)があります。

 

イ 人権委員会原案第2条(米国憲法第9修正)の不採用とその意味

  「エラマン・ノート」(国立国会図書館の展示では17枚目から18枚目まで)によれば,GHQ民政局内での運営委員会(Steering Committee)と人権委員会との1946年2月8日の会議において,前記第2条に対して運営委員会のハッシー中佐は,残余の権力(residual power)は国会に属する,人民は自らの設立に係る国会に反対する権利を有しない,国会を通じて行使される意思が至高のものなのであると憲法の他の場所で規定されている,と言って反対しています(なお,児島襄『史録日本国憲法』(文春文庫・1986年(単行本1972年))287-288頁,鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川文庫・2014年(単行本1995年))272頁も参照)。人権委員会原案の第2条は,アメリカ合衆国憲法の第9修正("The enumeration in the Constitution, of certain rights, shall not be construed to deny or disparage others retained by the people.")をほぼそのままなぞったものなので,このハッシー中佐の反対(及びそれを認めたGHQ民政局の決定)は注目に値します。アメリカ合衆国憲法における人民の権利と日本国憲法における国民の権利とは違うという前提で,GHQ民政局は日本国憲法草案の作成作業をしたということになるからです。この場面は,「人権という観念を,「実定法の世界の外あるいはそれを超えたところで活発に生きており,まさにそうであることに格別の意義をも」つものとしてとらえ,「憲法が保障する権利」とのあいだで意識的に区別をする,という考え方」(樋口陽一『国法学 人権原論』(有斐閣・2004年)22頁が紹介する奥平康弘『憲法Ⅲ―憲法が保障する権利』(有斐閣・1993年)20-21頁)が端的に現れた場面と解し得るのではないでしょうか。その場合, 17911215日成立のアメリカ合衆国憲法第9修正の人民の権利は実定法の世界の外の人権であり得るのに対し,1946年の日本国憲法における国民の権利は飽くまでも「憲法が保障する権利」に限られるということになります。

 

ウ 人権委員会原案第4条(基本的人権を制限又は廃棄する憲法改正を禁止する条項)をめぐる論争

  人権委員会原案第4条について更に「エラマン・ノート」(1946年2月8日の部)を見ると,

 

・・・運営委員会と起草担当委員会〔人権委員会〕との間で,尖鋭かつ根本的な意見の相違が展開された。同条〔第4条〕は,将来の憲法,法律又は命令は,この憲法で保障された権利を制限し,又は取り消してはならず,また,公共の福祉及び民主主義を他のいかなる配慮にも従属させてはならない,と規定するものである。〔運営委員会の〕ケーディス大佐は,同条は無謬性を暗黙の前提としている点及び一つの世代が将来世代の自己決定権を否認する点に強く反対した。書かれているところによれば,人権宣言に対する改正は無効ということになり,及びその変更は革命によるよりほかは不可能になってしまうと。

 〔人権委員会の〕ロウスト中佐は,現在の時代は人類進歩における一定の段階に達したものであること,及び人間の存在にとって固有のものであるとして現在受容されている権利の廃棄はいかなる将来の世代にも許されないことを論じて当該条項を弁護した。彼は続けて,ケーディス大佐が信ずるように日本に民主的な政府を作るだけでは不十分であって,現段階までの社会的かつ道徳的な進歩を将来にわたって保障しなくてはならないと発言した。〔人権委員会の〕ワイルズ氏は,第4条を削ることは不可避的に日本においてファシズムに門戸を開くことになるとの信念を表明した。

 ハッシー中佐は,第4条は,政府に係る意見及び一つの理論を憲法レベルの法としての高みにまで上昇させようと試みるものであるだけではなく,実効性に欠けるもの(impractical)でもあると指摘した。当該条項の執行は,この憲法に記された文言いかんではなく,むしろ最高裁判所の解釈にかかっているのであると。

 満足できる妥協に達することはできなかった。・・・

 

 ということで,結局同条の採否の決定はホイットニー局長に一任ということになっています(なお,児島287-288頁,鈴木273-274頁も参照)。

 

(3)ホイットニー局長の起草とマッカーサー決裁

 ホイットニー局長は問題の第4条を採用しないことにしたのですが,その際,人権委員会側の強い懸念もあったことから,自ら新たな1条として,将来の日本国憲法97条の源となる条文を書き加えたということでしょう。

 人権委員会案の第4条の不採択は,最終的には,1946年2月10日(日曜日)夜にマッカーサー元帥の決裁を経ています(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」,鈴木304頁。児島296頁では同月11日夜)。

 

4 3月2日日本国政府案から3月6日憲法改正案要綱まで

 

(1)3月2日日本国政府案

 1946年2月13日交付のGHQ草案を承けた同年3月2日の日本国政府案の第10条1項は「国民ハ凡テノ基本的人権ノ享有ヲ妨ゲラルルコトナシ。」,同2項は「此ノ憲法ノ保障スル国民ノ基本的人権ハ其ノ貴重ナル由来ニ鑑ミ,永遠ニ亙ル不可侵ノ権利トシテ現在及将来ノ国民ニ賦与セラルベシ。」となっています。第2項がGHQ草案10条に対応します(第1項はGHQ草案9条に対応)。 

 

(2)3月4・5日の顛末と「役人」ケーディス大佐及び「上役」ホイットニー将軍

 1946年3月4日から同月5日までGHQと佐藤達夫法制局第一部長とが逐条討議を行い,現在の日本国憲法の条文がほぼ確定しますが,佐藤部長の手記『三月四,五両日司令部ニ於ケル顛末』には次のようにあります(国立国会図書館のウェッブ・ページでは5枚目)。

 

  第10条 〔日本国政府案10条〕2項ハ交付案第10条ニ依ルモノナルモ何故カ斯ク簡単ニセルヤトノ反問アリ。我ガ立法ハ簡約ヲ旨トスルヲ以テカヽル歴史的,芸術的ノ表現ハ其ノ例ナシト答フ。

「此ノ憲法ノ保障スル」ヲ削ルベシトノ論アリタルモ,原文ニモアリ,復活,「其ノ貴重ナル由来ハ分ラヌト云フ故削ルコトトシ,一応先方了承セルモ後ニ打合セタルモノノ如ク(ホイツトネー将軍ト)之ハ将軍ノ自ラノ筆ニ成ル得意ノモノ故何トカシタシ,セメテ後ノ章ニ入レテ呉レトノ懇望アリ承認ス。

(従テ最後案10条2項ヲ存セルハ整理漏ナリ。英文ニモ其ノ儘存セリ。)

 

 本来削られるべきは憲法11条後段であって,97条ではなかったようです。

 児島襄の『史録日本国憲法』は,前記の事情を多少敷衍しています(364-365頁)。

 

   ・・・あたふたと帰ってきて,大佐は佐藤部長に,いったものである。「まずい。第10条は,じつは“チーフ”(局長)自身の文章でお得意なんだ。せめて第10章あたりにでもいれてもらえないだろうか」

 佐藤部長は,ニヤリと破顔した。上役の意向を重んずる役人の心情は,洋の東西を問わないものらしい。しかし,条文の趣旨そのものは結構なので,ケーディス大佐の“点数かせぎ”的配慮とは別に,第9条第1項〔ママ〕にいれることにした。

 もっとも,ケーディス大佐,つまり総司令部側が佐藤部長に懇願的な言辞をひれきしたのは,このときだけであった。

 

(3)3月5日案

 閣議で配布された1946年3月5日案の訳文は次のようになっていました。

 

  第94条 此ノ憲法ノ日本国民ニ保障スル基本的人権ハ人類ノ多年ニ亙ル自由獲得ノ努力ノ成果ニシテ,此等ノ権利ハ過去幾多ノ試錬ニ堪ヘ現在及将来ノ国民ニ対シ永遠ニ神聖不可侵ノモノトシテ賦与セラル。

    天皇又ハ摂政及国務大臣,両議院ノ議員,裁判官其ノ他ノ公務員ハ此ノ憲法ヲ尊重擁護スルノ義務ヲ負フ。

 

 この段階では,現在の憲法97条と99条とが一体のものとされています。

 

(4)3月6日憲法改正案要綱

 1946年3月6日内閣発表の憲法改正案要綱の第94項は次のとおりでした。

 

94 此ノ憲法ノ日本国民ニ保障スル基本的人権ハ人類ノ多年ニ亙ル自由獲得ノ努力ノ成果ニシテ,此等ノ権利ハ過去幾多ノ試錬ニ堪ヘ現在及将来ノ国民ニ対シ永劫不磨ノモノトシテ賦与セラレタルモノトスルコト

 天皇又ハ摂政及国務大臣,両議院ノ議員,裁判官其ノ他ノ公務員ハ此ノ憲法ヲ尊重擁護スルノ義務ヲ負フコト

 

 同日付けGHQ内での英文は次のとおり。

 

   Article XCIV.   The fundamental human rights by this Constitution guaranteed to the people of Japan result from the age-old struggle of man to be free. They have survived the exacting test for durability in the crucible of time and experience, and are conferred upon this and future generations in sacred trust, to be held for all time inviolate.

   The Emperor or the Regent, the Ministers of State, the members of the Diet, judges, and all other public officials have the obligation to respect and uphold this Constitution. 

 

5 1946年4月中の修正

 

(1)口語化第1次草案及び憲法尊重擁護義務条項との分離

 1946年4月5日には日本国憲法の口語化第1次草案ができます。そこでの第94条(後の順序変更後93条)は,次のとおり(国立国会図書館ウェッブ・ページ23枚目)。同年3月6日の憲法改正案要綱第94項前段と大体同じですね。ただし,要綱の第94項後段(憲法尊重擁護義務条項)は分離されて独立の第95条とされています。

 

94条〔順序変更後第93条〕 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は,人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて,これらの権利は過去幾多の試錬に堪へ,現在及び将来の国民に対し,侵すことのできない永久の権利として与へられたものである。

 

 なお,鉛筆書きで「93条ハ形式的,第94条ハ実質的 最高法規タル憲法トシテ一番重要ナ部分故コヽニ置ク」と書き込みがあります。順序変更前の第93条(変更後94条)は,現在の憲法98条(国の最高法規,条約・国際法規遵守条項)の前身です。

 

(2)口語化第2次草案及び「与へられた」から「信託された」へ

 これが,同年4月13日の口語化第2次草案では次のようになります(国立国会図書館ウェッブ・ページ34枚目)。

 

93条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は,人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて,これらの権利は,過去幾多の試錬に堪へ,現在及び将来の国民に対し,侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 

 現在の憲法97条の文言になっています。しかし,口語化第1次案までの「・・・侵すことのできない永久の権利として与ヘられた・・・」が,「・・・侵すことのできない永久の権利として信託された・・・」に変更されています。1946年3月6日のGHQによる英文の表現(in sacred trust)に近づいてきたわけです。ところが当該変更自体はそう容易なものではなかったようで,鉛筆で種々書き込みがあって当該場所以外についての改訳も考えられていたことが窺われます。最終的には「信託」に落ち着いたわけですが,鉛筆書きからは,なお,「崇高な信託として」あるいは「神聖の信託として」という訳語(これらの方が元の"in sacred trust"により近い。)も考えられていたらしいことが分かります。

 

(3)1946年4月9日GHQ=法制局会談

 1946年4月5日の口語化第1次案の段階から同月13日の第2次案までの間に何があったのかといえば,同月9日午後,法制局の入江長官,佐藤次長らがGHQ民政局のケーディス大佐及びハッシー中佐と会談を行ったところ,次のようなやりとりがあったところです。

 

15)(第94条)本条第1項ヲ第93条(新)トシ第93条(旧)ヲ第94条(新)トシ本条第2項ヲ独立ノ条文トシ第95条(新)トシ以下1条宛ヲ増ス

    (註)先方ハ当方ノ提案通本条第2項ヲ独立ノ条文トセバ第1項ノ意義ナクナルベク而モ本項ハ本草案中ノ傑作トシテ米国ニ於テモ評判良ク之ヲ削ル訳ニ行カザルヲ以テ之ヲ第10章最高法規ノ冒頭ニ移スベキコトヲ提案シ右ノ如ク決定ス

 

 GHQとしては,現在の憲法97条(「本条第1項」)と99条(「本条第2項」)とは本来一体のものと考えていたことが分かります。また,第97条が最高法規に係る第10章の冒頭に来たのはGHQの指示によるものであったことも分かります(当初は現在の第98条(「第93条(旧)」)が先頭)。現行97条についてはここでも「本草案中ノ傑作トシテ米国ニ於テモ評判良」しと執拗に言われており,米国においては当然英文で読まれているところから,日本側としては改めて,英文と訳文(とはいえ日本語が正文)との関係を見直すことになったように思われます(お気付きのように,"in sacred trust"をめぐって両者の間には齟齬がありました。)。

 

6 法制局における理解の試み及び枢密院における批判

 

(1)「信託された」の理解

 しかし,「信託(trust)」とは何か。元の英語に近づけて訳したものの,日本側としては実はなかなかはっきりとは分かっていなかったようです。法制局の「昭和21年5月 憲法改正案に関する想定問答(第7輯)」には次のようにあります(国立国会図書館のウエッブ・ページの114枚目及び115枚目)。

 

問 「信託された」といふ意味如何

答 これを学問的な信託法理で説明することは,必ずしも当を得てゐまいが,基本的人権は国民生得の不可譲の権利であるからといつて,全くの無拘束な,我儘勝手な権利ではなく,第11条〔現行第12条〕に明文があるやうに,この基本的人権の主体たる国民は,その保持に積極的に努め,任意にこれを抛棄することは許されぬし,第二にその濫用は禁ぜられてゐるし,第三に常に公共の福祉に適合するやうにこれを利用する責任を負つてゐるのであつて,畢竟するに,国家社会全体の進歩発達のためにこそ,基本的人権を各個の国民に委ねてゐると考へ,またかく考へてこそ,各個の国民の基本的人権は,相互の摩擦衝突を避けてはじめて永久に確立され得ると考へられるのであつて,かやうな考へ方を端的に表現した語である。したがつて前文第1段の中に用ひられた場合の信託といふ語よりやや漠然たる意味内容に用ひられてゐる。

 

 現行憲法の第12条の趣旨を別の形でいえば「信託された」ということになるのだ,ということでしょうか。憲法11条後段とのみならず,むしろ第12条との重複が問題になりそうです。また,「信託」としての「受託者」は,「各個の国民」とされています。

 ちなみに,憲法学界においても,「「与へられる」と「信託された」とのあいだには,言葉そのものの意味にちがいはあるが,本条〔日本国憲法97条〕の場合においては,格別の区別をみとめる必要がないとおもう。」ということにされています(宮澤俊義著・芦部信喜補訂『全訂日本国憲法』(日本評論社・1978年)801頁)。(ただし,「「信託された」というときは,後々の世代の利益のために永く守って行くべきものだという意味が特に強調されるといえようか。」程度の違いはある,ということのようです(同頁)。)

 

(2)「日本国民」の理解

 ところで,前記の法制局の解釈では「受託者」は「各個の国民」であるのに,現行の第97条の文言は「日本国民」と大きく出ています(なお,同条後半に出てくる「国民」は,generations(世代)であってpeopleではない。)。法制局の「昭和21年5月 憲法改正案に関する想定問答(第7輯)」は,そこでいわく。

 

問 ここでは国民といはず,特に「日本国民」と規定している理由如何

答 前文の中の用語と同じく,特に力点ををいて表記したためである。なほ后段に出て来る「現在及び将来の国民」を,一括して表現する趣旨もある。

 

 単なる「力点をを」くための修辞的表現だというのでしょうか。しかし,こういわれてみると日本国憲法における「日本国民」と「国民」との使い分けが気になります。

 調べてみると,日本国憲法の現行条文で「日本国民」が使われているのは,前文のほか,第1条,第9条,第10条及び第97条だけです。ところで,英文を見ると,前文及び第9条はthe Japanese people,第1条はthe People,各個の国民の日本国籍に関す第10条の日本国民はa Japanese nationalで,問題の第97条ではthe people of Japanです。

 

(3)枢密院における批判

 さて,法制局が日本国憲法草案の想定問答作りに励んでいたころ,日本国憲法草案93条(現行97条)は,1946年4月から5月にかけての枢密院の審査委員会でさっそく火だるまになっていました。

 4月24日の第2回会合。

 

 ・・・

幣原〔坦顧問官〕 第93につき,日本の憲法になにゆえこれをかかねばならぬか。「人権は」は「侵すことのできない云々」に直結すべきでないか。

松本〔烝治国務大臣〕 重複する嫌もあり,又世界の基本的人権の歴史を書いてゐるのでおかしいといへるが,基本的人権の重大性に鑑みここに再録したものである。

 ・・・

 

 5月15日の第8回会合。

 

 ・・・

河原〔春作枢密顧問官〕 93条は削つた方がよい。

美濃部〔達吉枢密顧問官〕 第10章の中,93条は法律的に無意味・・・従つて第10章は全部削るべし。これを存置する理由如何。

松本 御尤もと思ふ。全部削つても何等支障ないと思ふ。しかし強いて弁護すれば,93条はこの憲法の精神を更に強く云ふ主旨・・・。

 ・・・

遠藤〔源六枢密顧問官〕 93条は前文の重複としか思へない。又,「人類の」より「試練に堪へ」までは日本と関係ない。

松本 日本を除外した意味に読む必要はないと思ふ。日本にも自由獲得のための長い歴史があつた。政治的,徳義的な意味でこの条文を残す価値はあると思ふ。基本的人権をせばめる様なことは余程重大な必要がなければ出来ないと云ふことを明かにする意味があると思ふ。

河原 日本に於ては自由は陛下の寛大な御心持によつて与へられたものとする方が,国体の上から見ても適当ではないかと思ふ。削ることは出来ないか。

松本 政府原案として削らうと云ふ考へはない。

 ・・・

 

 松本烝治大臣もお気の毒です。

 なお,草案93条(現行97条)を最高法規の章に置く理由としては,前記の「昭和21年5月 憲法改正案に関する想定問答(第7輯)」は,「・・・日本国民に保障せられた基本的人権が如何なる努力の結果獲得されたかの沿革を明にし,且つ将来不可侵なることを明にし,この基本的人権の保障がこの憲法の眼目として真に貴重なる旨を明かにしたものである。」と説明しています。しかし,なお,美濃部達吉の「法律的に無意味」との発言は,厳しい。
 ちなみに,幣原坦枢密顧問官は,幣原喜重郎の兄にして,かつ,森鷗外の史伝『澀江抽斎』(1916年)の登場人物でもありました。

是より先,弘前から来た書状の(うち)に,かう云ふことを報じて来たのがあつた。津軽家に仕へた澀江氏の当主は澀江保である。保は広島の師範学校の教員になつてゐると云ふのであつた。わたくしは職員録を検した。しかし澀江保の名は見えない。それから広島高等師範学校長幣原坦(しではらたん)さんに書を遣つて問うた〔当該書簡は1915年8月14日に発送されたもののようです(松本清張『両像・森鷗外』(文藝春秋・1994年)147頁参照)。〕。しかし学校には此名の人はゐない。又(かつ)てゐたこともなかつたらしい。(『澀江抽斎』その七)


(4)「逐条説明」における説明

 法制局の「昭21.5 憲法改正草案 逐条説明(第5輯)」は,草案93条(現行97条)について次のように説明しています(国立国会図書館のウエッブ・ページの276枚目及び277枚目)。これが,紆余曲折の末たどり着いた,日本国憲法97条に関する説明の標準的なところでしょう。

 

本条は,この憲法全体――恐らくは近代的憲法のすべて――を通じ,最も顕著な特色を成す国民の基本的人権につき,重ねてその歴史的意義を謳ひ,その本質を闡明した規定であつて,かくして,かやうな基本的人権の保障規定を有する憲法こそ,まさに我国の最高法規として最上の遵由に値する法であり,その施行に主として携はる官憲は,まづ率先してよくこれを尊重し,擁護する義務があるといふ所以の根拠を明かにしてゐるのである。第10条〔現行11条〕によると,「国民は,すべての基本的人権の享有を妨げられない。」と規定して,まづ基本的人権を国民に対して保障し,次にこの「基本的人権は侵すことのできない永久の権利として,現在及び将来の国民に与へられる」と規定して,その不可侵性及び永久性を闡明している。本条は,あたかもこの第10条〔現行11条〕の規定を,やや敷延〔ママ〕して再録し両々相俟つてこれを強調してゐるのであつて,后者が「第3章 国民の権利及び義務」の冒頭に,それ以下一聯の保障規定の大前提として規定されてゐるに反し,前者,即ち本条は,「第10章 最高法規」の冒頭に置かれて,最高法規の最高法規たる実質的所以を明かにしてゐるのである。

 本条によると,まづ,この憲法が主として第3章において日本国民に保障してゐる基本的人権は,何も唐突として我国の現代に至つて確立されたものではなく、実に人類が,専制君主治下のまだ個人の自由の確立されてなかつた境涯よりはじまつて,多年にわたる自由獲得の努力の過程を経て,その手に収めた成果であつて,時間的にも古い歴史を有し,又空間的にも世界人類に普遍のものであるといへる。しかして,次に,これらの権利は,過去において幾多の試錬に遭ひ,これを超克してその存在を強化してきたのであつて,いはばすでに試験済の間違ひのないものである。そこで,さらに,これらの権利は,現在の国民及その後継者たる将来の国民に対し,永久不可侵の権利にして,託されたものである。すなはち,現在及び将来の国民は,これを恣意的に我儘勝手に用ひてはならぬのであつて,一般の信に応へるべく心して用ひなければならぬのである。本条は,以上の趣旨を述べた規定である。

 

 「日本国憲法の「最高法規」の章の冒頭に,基本的人権の本質に関する97条がおかれていることにつき,その位置を誤ったものと解する見解があるが,そのように解すべきではなく,むしろ,それは,日本国憲法の「最高法規」性の実質的根拠が何よりも人権の実現にあることを明確にしようとする趣旨であろうと解される。」とする佐藤幸治名誉教授の立場(同『憲法〔第三版〕』(青林書林・1995年)22頁)はこの流れを汲むものでしょう。

 とはいえ,「我儘勝手に用ひてはならぬ」云々とは何だかお説教臭いですね。また,憲法97条は憲法11条と「両々相俟つてこれを強調」するだけであるとすると,余り面白くはないです。

 日本国憲法97条について別の解釈はあり得ないものでしょうか。

 

7 日本国憲法97条とGHQ人権委員会原案第4条との関係再見

 日本国憲法97条の濫觴はGHQ民政局内の人権委員会による起草原案の第4条(基本的人権を制限又は廃棄する憲法改正を禁止する規定)にありますから(ケーディス大佐の回想によると,人権委員会原案第4条の「精神」を受け継いだものが日本国憲法97条であるそうです(鈴木304頁)。),同条をめぐる1946年2月8日のロウスト中佐対ケーディス大佐の前記論争に遡ってみるべきようです。

 

(1)18世紀のジェファソンの有効期間19年説

 一つの世代が将来世代の自己決定権を否認することはできない,というケーディス大佐のそこでの主張は,アメリカ法思想史的には,ジェファソンの思想を継ぐものでしょう。

 

・・・いかなる社会も永久の憲法を,ましてや永久の法律を作ることはできないということが証明できるでしょう。大地(the earth)は常に,現に生きている世代に帰属するものです。彼らはその用益期間中,大地及びそこから生ずるものを好きなように管理することができます。彼らは自分たちの身体の主人でもあり,したがって,好きなようにそれらを統御することができます。しかし,身体と財産とが,統治の客体の総和です。ですから,先行世代の憲法及び法律は,それらに存在を与えた人々と共に自然の経過として消滅するものです。後者の存在は,それ自身であることをやめるまでは,前者の存在を維持することができますが,それまでです。ゆえに,すべての憲法及びすべての法律は,本来的に19年の経過とともに失効するのです。それがなおも依然として執行されるとすれば,それは正当なものではなく,力の行使です。・・・(ジェファソンの1789年9月6日付け(パリ発)マディソン宛て書簡)

 

 アメリカ独立宣言の起草者にとっては,憲法といえども不磨の大典であってはいけなかったわけです。

 

(2)20世紀のロウスト中佐の時代とその主張

 しかしながら,苛烈な第二次世界大戦を戦い抜いた1946年初めの戦勝アメリカ合衆国民としては,「現在の時代は人類進歩における一定の段階に達したものであること,及び人間の存在にとって固有のものであるとして現在受容されている権利の廃棄はいかなる将来の世代にも許されないこと」は,ロウスト中佐ならずとも,深く実感するところであったのでしょう。また,民主的な政府だけでは不十分であることは,ドイツのヴァイマル共和国の崩壊や日本の大正デモクラシーの没落という最近の敵国の例があったところです。ドイツのファシズムはヴァイマル民主主義から生れたと思えば,たとい民主的な政府があっても「第4条を削ることは不可避的に日本においてファシズムに門戸を開くことになる」とのワイルズ氏の懸念もあながち杞憂とばかりはいえないようです。

 以上のような思いがGHQ民政局内で共有されていたからこそ,基本的人権を制限又は廃棄する憲法改正を禁止する人権委員会案第4条を却下するためには,ジェファソンの権威のみならず,マッカーサー元帥の決裁も必要だったのでしょう。

 

(3)将来の改正を禁止する条文の書き方

 

ア ヴァジニア信教自由法最終節

 憲法制定権者自らによる基本的人権の制限又は廃棄を憲法によって無効とすることはできないとしても,憲法制定権者に何らかの歯止めをかけるための条文は考えられないか,ということが次の問題となったことでしょう。しかし,これはなかなか難しい。またジェファソンの例になりますが,彼が墓石に刻んで自慢したヴァジニア信教自由法(1777年ころジェファソンが起草。マディソンがヴァジニア邦議会で頑張って1786年1月16日に同邦の法律として成立したもの(なお,当時ジェファソンは駐仏公使)。)の最終節は次のようになっています。

 

 しかして,我々は,立法に係る通常の目的のみをもって人民によって選出されたこの議会は我々のものと同等の権限を有するものとして構成される後続の議会の行為を制限する何らの力を有するものではなく,したがって,この法律は不可侵である(irrevocable)と宣言することには法的効力は無いということを十分承知しているものであるが,この法律において表明された権利は人類の自然権に属するものであること,及びこの法律を廃止し,又はその適用を縮減する法律が今後議決された場合には,そのような法律は自然権に対する侵害であることを宣言する自由を有し,かつ,宣言する。

 

 どうも迫力不足ですね。やることを止める力も権限もないけど,悪口だけは事前に言っておくぞ,みたいですね。正直ではあるのでしょうが。

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  ジェファソンの墓(Monticello, VA)

イ 日本国憲法97

 これらに対して,日本国憲法97条は日本国憲法「草案中ノ傑作トシテ米国ニ於テモ評判良ク」,ホイットニー局長も「得意」だったといいますが,どういうことでしょうか。以下,97条を分析してみましょう。

 なお,基本的人権を制限し,又は廃棄する憲法改正を行う者として人権委員会案第4条が窮極的に警戒していた対象は,論理的には憲法制定権者,すなわち主権者たる日本国民ということになるようです(独裁者は最初から独裁者ではなく,まず,主権者国民の名において,喝采とともに独裁権を掌握するものでしょう。)。

 

(ア)信託構成

 まず,憲法97条における「信託」は,「与へる」の単なる言い換えではなく,実際に信託ないしはそれに類似の「神聖な信託」であるものと考えましょう。憲法11条後段との最大の相違はここにあるようだからです。

 信託であるとすると,そこには,信託をする「委託者」(信託法2条4項),信託の目的の達成のために必要な行為をすべき義務を負う「受託者」(同条5項)及び受益権を有する「受益者」(同条7項)がいることになります。憲法97条ではそれぞれがだれに当たるのでしょうか。法学協会の『註解日本国憲法』(有斐閣・1953年・1954年)及び佐藤功教授(『憲法〔新版〕下(ポケット註釈全書)』(有斐閣・1984年))がこの問題を取り扱っています。

 

(イ)信託の委託者

 委託者としては,法学協会の『註解日本国憲法』は「神」とし,佐藤功教授は「天または神あるいはこの憲法そのもの」又は「人類」としているそうです(樋口陽一・佐藤幸治・中村睦男・浦部法穂『注解法律学全集4 憲法Ⅳ[76条~第103]』(青林書院・2004年)327頁(佐藤幸治執筆))。

 しかし,「人類」が委託者ということになると,そこでの「人類」代表はマッカーサー元帥さまやGHQさまや全人類の自由のさきがけたる米国民さまということになってしまわないのでしょうか。また,GHQ民政局内の人権委員会原案第2条の不採択についてさきに見たように,同局としては日本国憲法における国民の権利は「憲法が保障する権利」であるものと考えていたようですから,「神」や「天」にまで遡る必要は必ずしもないのではないでしょうか。

 

(ウ)信託の受託者

 受託者としては,『註解日本国憲法』は「現在及び将来の日本国民」,佐藤功教授は「現在及び将来の日本国民」又は「個々の日本国民」(後者は,委託者が「人類」の場合)としています(樋口等・327頁(佐藤幸治執筆))。

 憲法97条後段の「現在及び将来の国民」に対して信託されているのですが,ここでの「現在及び将来の国民(this and future generations)」は,個々の国民と対立する憲法制定権者たる日本国民ではないでしょうか。信託構成で縛られる者は受託者であるところ,ここでの信託構成は憲法制定権者を縛って基本的人権を制限又は廃棄する憲法改正を妨げるために採用されたものと考えてみているところですから。

 

(エ)信託の受益者

 受益者は,『註解日本国憲法』は「人類一般」,佐藤功教授は「人類一般」又は「日本国民全体」(後者は,委託者が「人類」,受託者が「個々の日本国民」の場合)としています(樋口等・327頁(佐藤幸治執筆))。

 「日本国民は,その生命,自由及び幸福追求に対する権利を挙げて信託の受益者たる「人類一般」のために奉仕せよ。すなわち具体的には,人類の自由獲得の努力の先頭に立つアメリカ合衆国のたたかいに協力奉仕せよ。」ということにでもなれば昨今の「平和安全法制」をめぐる議論も面白くなるのですが,日本の庶民としては,自分の基本的人権を海の向こうの「人類一般」なる抽象的なもののために捧げるということは,どうも難しいようです。「すべて国民は,個人として尊重される」のですから(憲法13条前段),受益者は,素直に,個々の国民でよいように思うのですが,どうでしょうか。

 

(オ)信託構成による図式

 個々の国民を受益者として,憲法制定権者たる日本国民を受託者として基本的人権が信託される一方(なお,委託者と受託者とが同一人である自己信託について信託法3条3号参照),当該信託の目的は,基本的人権が"to be held for all time inviolate"であるようにすること,すなわち,個々の国民に受益させつつ基本的人権が「永久に侵されないようにすること」(基本的人権を侵害する憲法制定権力の行使をしないこと)とすることが憲法97条の意図する図式であると考えることはできないでしょうか。「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて,これらの権利は,過去幾多の試錬に堪へ」の部分は,かかる煩瑣な図式(しかも,必ずしも実効性があるとはいえない)を特に設定せざるをえなくなったので,その理由までを示す必要があったということでありましょう。なお,この部分は,1946年2月8日の会議でのロウスト中佐の口吻を髣髴とさせます。

 信託の受託者による権限違反行為は直ちには無効ではないので(信託法27条等参照),憲法97条も,憲法制定権者たる日本国民による憲法制定権力行使であって基本的人権を制限し,又は取り消すものを直ちに無効とするものではないでしょう(そもそも,受益者たる個々の国民は,憲法制定権者たる受託者・日本国民のしたことを認めざるを得ないでしょう。)。「神聖な」信託であれば,なおさら法的義務違反というわけでもないでしょう。しかし,憲法制定権力の行使を制約するための文言としては,ヴァジニア信教自由法の最終節式のものよりも気が利いているようです。現在の憲法で将来の世代までをも信託の受託者とすることはできないではないか,というようなそもそも論的な批判もあり得るのでしょうが,そこは「神聖な」信託なのでしょう(いずれにせよ最初の一世代さえ無事にもてば,日本国憲法も安定するだろうとの見切りもあったかもしれません。)。

 なお,1946年3月6日の憲法改正案要綱第94項では日本国憲法の現行97条と99条とが一体のものとされていましたが,これは,前段の憲法97条における信託の受託者たる憲法制定権者たる日本国民が,信託の目的の達成のために必要な行為として,後段の憲法99条によって,更に憲法の尊重擁護義務を天皇以下の各国家機関に課したということでしょう(なお,前記のとおり,1946年2月8日にハッシー中佐は「人民は自らの設立に係る国会に反対する権利を有しない」と発言していますから,あらかじめ国会等を縛っておかなければならないということであったのでしょう。)。憲法改正の発議権を持つ国会(憲法96条1項)の国会議員までが憲法尊重擁護義務を負う者に含まれていますから,憲法改正権の行使によって「この憲法が日本国民に保障する基本的人権」を制限し,又は取り消す憲法改正はされないことになるということだったのでしょう。

 


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1 今次会社法改正における主要項目

 会社法(平成17年法律第86号)の一部を改正する平成26年法律第90号(201551日からの施行が予定されています。)の法案に付された提出理由における主な改正項目4本柱のうち最後のものは,「株主による組織再編等の差止請求制度の拡充」でした(他の3本は,①監査等委員会設置会社制度の創設,②社外取締役の要件改正及び③株式会社の完全親会社の株主による代表訴訟の制度の創設。2014115日の本ブログの記事「会社法改正の年に当たって(又は「こっそり」改正のはなし)」参照http://donttreadonme.blog.jp/archives/2471090.html)。

 今回は,4本目の「株主による組織再編等の差止請求制度の拡充」についてのお話です。

なお,監査等委員会設置会社制度の創設については,今年2015年1月15日の記事で御紹介しました(「改正会社法と監査等委員会設置会社制度の導入等」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1017728671.html)。

社外取締役の要件改正については,「子会社等」及び「親会社等」概念との関係で触れるところがありました(2015年1月12日「改正会社法と子会社等及び親会社等(後編)」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1017451320.html)。

株式会社の完全親会社の株主による代表訴訟の制度の創設については,2015年2月4日の記事で御紹介しています(「平成9年の持株会社解禁の周辺から平成27年の多重代表訴訟制度等まで」http://donttreadonme.blog.jp/archives/2015-02-04.html)。

 

2 会社法における「組織再編」

 ところで,「組織再編」とは何かを最初に明らかにしておきましょう。「組織再編は,会社法上の概念ではない」ところです(稲葉威雄『会社法の解明』(中央経済社・2010年)654頁)。

 

(1)組織変更

 まず,「組織変更」とは違います。組織変更については,会社法2条26号に次のような定義があります。

 

 二十六 組織変更 次のイ又はロに掲げる会社がその組織を変更することにより当該イ又はロに定める会社となることをいう。

  イ 株式会社 合名会社,合資会社又は合同会社

  ロ 合名会社,合資会社又は合同会社 株式会社

 

持分会社(合名会社,合資会社又は合同会社(会社法5751項))相互間においては,組織変更とはいわず,「定款の変更による持分会社の種類の変更」(同法638条見出し)ということになるそうです。「内部規律は共通であるため,相互間の種類の変更は,・・・定款の変更による社員の責任の態様の変更とされている」わけです(江頭憲治郎『株式会社法』(有斐閣・2006年)856頁)。しかしながら,「会社法制定前は,株式会社・有限会社相互間という物的会社間の組織変更・・・,または,合名会社・合資会社という人的会社相互間の組織変更・・・を認め,他を認めていなかった」ところです(江頭856頁)。「社員の責任形態を無視した組織変更概念のおかしさは,どうしようもない。」,「会社の種類の変更を即ち組織変更とする従来の制度設計を変更すべき合理的な理由はない。」ともいわれています(稲葉119頁・656頁)。

 

(2)改正会社法784条の2,796条の2及び805条の2からの帰納

平成26年法律第90号の法案作成関係者による『一問一答 平成26年改正会社法』(坂本三郎編著・商事法務・2014年)によれば,「改正法では,株主が不利益を受けるような組織再編に対する事前の救済手段として,一般的な組織再編の差止請求に係る明文の規定を新設することとしています。具体的には,組織再編が法令または定款に違反し,当事会社の株主が不利益を受けるおそれがあるときは,株主は,当該組織再編の差止めを請求することができることとしています(第784条の2,第796条の2,第805条の2)。」とされています(307頁。下線は筆者)。平成26年法律第90号による改正後の会社法(改正会社法)の第784条の2,第796条の2又は第805条の2に基づいて差止めがされ得るものが「組織再編」であるということになります。

そこで,改正会社法の当該条文を見てみるのですが,同法784条の2及び796条の2では「吸収合併等」をやめることを,同法805条の2では「新設合併等」をやめることを請求できる旨規定しています。「等」があるので,外延がはっきりしませんね。今度は,これらの概念における「等」とは何なのだということになります。なかなか会社法にはいらいらさせられます。「吸収合併等」とは,「吸収合併,吸収分割又は株式交換」のことであり(同法7821項),「新設合併等」とは,「新設合併,新設分割又は株式移転」のことです(同法8044項)。すなわち,「組織再編」とは,吸収合併,新設合併,吸収分割,新設分割,株式交換及び株式移転(会社法227号から32号まで)のことであって,そこには組織変更は含まれません。

ちなみに,会社計算規則(平成18年法務省令第13号)2条3項33号は,吸収合併,吸収分割及び株式交換を「吸収型再編」と定義し,同項41号は,新設合併,新設分割及び株式移転を「新設型再編」と定義しています。

なお,会社法の第5編(組織変更,合併,会社分割,株式交換及び株式移転)については,「実体規定と手続規定の分離(規定が分かれている),横断的な手続規定の構成をしながら個別規定が紛れ込み,他方で重複する規定が多い。・・・ともかく分かりにくい。会社法の問題点が集約されているような編である」(稲葉68頁)と酷評されています。

 

3 組織再編に対する差止請求

(1)必要性

組織再編に対する差止請求を認める理由は,「現行法上株主や債権者が組織再編の効力を争う手段としては,組織再編の無効の訴えがありますが(第828条〔17号から12号まで〕),事後的に組織再編の効力が否定されることは法律関係を複雑・不安定にするおそれもあります。そうであれば,株主が,当該組織再編の効力発生前に,その差止めを請求することができることとするのが相当と考えられます。」ということです(坂本307頁)。かねてから,「組織再編無効は,遡及効はないし,実際上は機能しない。株主総会決議に瑕疵がある蓋然性が高い場合には,その効力発生前に,手続を停止して(差止め),瑕疵の有無について決着をつけるべきもの・・・(それでないと救済の実効性はない)」と説かれていたところでありました(稲葉670頁)。

なお,組織変更については,差止め云々以前に,会社法以前はそもそもその無効の訴えに関する規定からして欠けており,設立無効に関する規定を類推適用ないしは準用していた状態だったので(江頭863864頁),なお当分無効の訴え(会社法828162)をもって満足せよということでしょうか。

 

(2)無効の訴えの制度に加わる差止請求制度

 

ア 合併についての制度整備の流れ

しかし,組織再編の元祖たる合併に係る無効の訴えに関する規定(商法旧415条)も,昭和13年法律第72号による商法改正によって初めて入ったところです。

昭和13年法律第72号による無効の訴えに係る制度の整備については,次のように説明されています。

 

 凡そ会社の設立,解散其他之に準ずべき重大事項(例へば株式会社の資本の増加又は減少)に付ては,其効力の有無は何人に対しても劃一的に決定せらるべきものである。会社なる一人格者の設立又は解散が甲に対しては無効であるが,乙に対しては有効であると謂ふが如きは,意味を為さざると同時に,法律関係を錯綜不可解ならしむるものである。然るに従来の立法例を観るに,此点に留意して周到なる規定を設けて居るものは殆ど存在して居らない。我が商法も亦独商法に倣つて僅に会社設立無効の訴に付て特別規定を設けて居るに止まつて居る(商法99条ノ2〔合名「会社カ事業ニ著手シタル後社員カ其設立ノ無効ナルコトヲ発見シタルトキハ訴ヲ以テノミ其無効ヲ主張スルコトヲ得」。これは明治44年法律第73号によって追加された。〕以下,232条〔株式会社の設立無効についての同様の規定〕,独商法309条,311条)。改正要綱は右に述べた点に付て,出来得る限り従来各国の立法の缺漏を補完せんことを期し,第47〔合名会社の合併の無効の訴え〕,第120〔株主総会決議の無効の訴え〕,第162〔資本増加の無効の訴え〕,第168〔資本減少の無効の訴え〕,第183〔株式会社の合併の無効の訴え〕等の各要綱を定めたものであつて此等の諸要綱は其内容の適否に付ては暫く措き,新規の考案たる点に至つては聊か誇るに足るべきものがあるかと考へる。(松本烝治「商法改正要綱解説」同『私法論文集 続編』(巌松堂書店・1938年)6364頁)

 

「新規の考案」ですから,無効の訴えに関する規定の整備は,当時のイノベーションであったわけです。

なお,昭和13年法律第72号による改正前の商法旧99条ノ2ないしは同232条の規定は,合併による新設会社の設立無効については適用されないものとされていました。

 

合併ニ因リテ設立シタル会社ニ対シ商法第99条ノ2又ハ第232条ノ規定ニ依ル設立無効ノ訴ヲ提起スルコトヲ得ルヤ否ヤ

・・・此規定ハ通常ノ会社設立行為カ無効ナル場合ニ限リテ適用セラルヘキモノニシテ合併ニ依リテ設立シタル会社ニ適用セラルヘキモノニ非ス・・・

果シテ然ラハ新設合併ノ場合ニ於テ合併カ無効ナルモ仍ホ其無効ヲ主張スルニ途ナキカト謂フニ決シテ然ラス利害関係人ハ何人ト雖モ其攻撃又ハ防禦ノ方法トシテ会社合併ノ無効従テ新会社設立ノ無効ヲ援用スルコトヲ得ヘク又無効確認ノ訴ヲ提起スルコトヲモ得ヘシ只商法第99条ノ2又ハ第232条ノ特殊ノ訴訟ヲ許サスト謂フノミ(松本烝治「商法雑題」同『私法論文集』(巌松堂書店・1926年)11271128頁・1130頁)

 

 合併について見れば,昭和13年法律第72号によって無効の訴えの制度が整備され,平成26年法律第90号によって更に差止請求制度が導入されるわけです。立法の進化というべきでしょう。

 

イ 差止請求制度の導入(昭和25年改正)

 なお,差止請求制度の導入の経緯については,会社法360条1項の株主による取締役の行為の差止め(「6箇月(これを下回る期間を定款で定めた場合にあっては,その期間)前から引き続き株式を有する株主は,取締役が株式会社の目的の範囲外の行為その他法令若しくは定款に違反する行為をし,又はこれらの行為をするおそれがある場合において,当該行為によって当該株式会社に著しい損害が生ずるおそれがあるときは,当該取締役に対し,当該行為をやめることを請求することができる。」)について,「取締役の違法行為の事前阻止は,本来,・・・会社の機関内部で行われることが期待されるが,それが行われない場合に備え,昭和25年改正の際に株主の代表訴訟と同じ発想の下に,株主の差止請求権が規定された〔商法旧272条〕。改正前は,取締役の職務執行停止以外に,個々の具体的行為を差し止める制度はなかった。現行法上「会社の目的の範囲外の行為」・・・がとくに例示されているのは,・・・アメリカ州会社法の伝統に基づく(デ州会1241〔号〕参照)。」と紹介されています(江頭451頁)。

また,会社法210条の「株主が不利益を受けるおそれがあるとき」における募集株式の発行又は自己株式の処分をやめることの株主による請求(法令・定款違反の場合のほか,当該株式の発行又は自己株式の処分が著しく不公正な方法により行われる場合に可能です。)については,「株主のこの差止請求権は,昭和25年改正により募集株式の発行が取締役会の権限とされ,株主がそれに関与しなくなった際に,株主に不利益が生ずることを防止するために設けられた。アメリカの各州法上「株主自身の権利に基づく個人的訴権」として認められた権利に由来し・・・,アメリカには,会社360条タイプ・・・の例が乏しいのに比し,このタイプの差止訴訟の数は多い。」とされています(江頭680頁)。

 改正会社法784条の2,796条の2又は805条の2は,いずれも「株主が不利益を受けるおそれがあるとき」が要件になっていますから,会社法210条型の差止請求ということになるようです。

 

(3)「法令又は定款」違反要件について

なお,組織再編の差止請求における要件たる「法令又は定款」違反には,取締役の善良な管理者の注意義務や忠実義務の違反は含まれず,組織再編において当事会社の株主に交付される対価が不相当である場合も含まれないものと解されています(坂本309頁)。

 

4 組織再編等(組織再編を除く。)に対する差止請求

 

(1)三つの「等」

 ところで,「等」を気にする方々は,「株主による組織再編の差止請求制度の拡充」における「等」の差止請求制度の「等」とは何かが知りたくてうずうずされているでしょう。

 ここでもまた『一問一答 平成26年改正会社法』を参照することになるのですが,当該「等の差止請求」とは,

 

①全部取得条項付種類株式の取得の差止請求

改正会社法171条の3 第171条第1項の規定による全部取得条項付種類株式の取得が法令又は定款に違反する場合において,株主が不利益を受けるおそれがあるときは,株主は,株式会社に対し,当該全部取得条項付種類株式の取得をやめることを請求することができる。

 

②株式の併合の差止請求

改正会社法182条の3 株式の併合が法令又は定款に違反する場合において,株主が不利益を受けるおそれがあるときは,株主は,株式会社に対し,当該株式の併合をやめることを請求することができる。

 

③新設の株式等売渡請求制度における売渡株式等の全部の取得の差止請求

改正会社法179条の7第1項 次に掲げる場合において,売渡株主が不利益を受けるおそれがあるときは,売渡株主は,特別支配株主に対し,株式等売渡請求に係る売渡株式等〔売渡株式及び売渡新株予約権〕の全部の取得をやめることを請求することができる。

 一 株式売渡請求が法令に違反する場合

 二 対象会社が第179条の4第1項第1号(売渡株主に対する通知に係る部分に限る。)又は第179条の5〔事前開示手続〕の規定に違反した場合

 三 第179条の2第1項第2号又は第3号に掲げる事項〔対価関係事項〕が対象会社の財産の状況その他の事情に照らして著しく不当である場合

 

の三つということになるそうです(307308頁)。

 

(2)全部取得条項付種類株式制度について

全部取得条項付種類株式制度については,かねてから批判がありました。

 

 ・・・株主が、その意思によることなく,資本多数決によって,株主たる地位を奪われること(会社の出資者たる地位が奪われ,会社事業から切り離されること)は,最も重大な平等原則の侵害ということができる。

 これが,株主の締出し(スクウィーズ・アウト)の問題である。会社法では,これを安易に特別決議によってする余地を認めており,その立法としての妥当性には大きな疑問がある・・・

〔会社法における〕新しい制度としては,全部取得条項付種類株式(108①七)という制度が認められている。これは,会社がある種類の株式全部を取得することができる制度である。もともとは,債務超過の会社において,会社更生等の手続による裁判所の関与なく,100%減資を認め,新しい株主構成にするための制度として考案された,といわれる。

 しかし,そのような実体要件がなくても〔立法過程で債務超過の要件は不要とされた(江頭151頁)。〕,手続(種類株式にする定款変更の上,1112項〔既発行の株式を全部取得条項付種類株式にする定款変更〕と1711項〔当該全部取得条項付種類株式の会社による取得〕の株主総会・種類株主総会の特別決議を経ることになるが,まとめて同一機会にすることができる。反対株主の相当価格での株式買取請求権および取得価格決定申立権は認められる)だけで,株主の地位の剥奪を認める制度として,汎用化されている(種類株式にするのは,現実に他の種類の株式を発行する必要はなく,定款にその定めさえすればよい)。特別の決議要件は,定められていない。

 つまりは,少数株主は,裁判所への株式の価格決定申立権(172)といった対抗手段(これが,少数株主の保護手段として,不備なものであることは,後記のとおりである)があるだけで,株主の地位から放逐される。(稲葉318319頁)

 

 スクィーズ・アウトの実務としては,「税制上の理由等」により,全部取得条項付種類株式の取得の形(株式を対価とする全部取得条項付種類株式の取得により,少数株主の有する株式の全部をいったん端数株式とした後,端数の処理(第234条)により,当該端数株式の売却代金を少数株主に交付する。)をとることが「通例」であるとされています(坂本229頁)。

 

(3)株式の併合について

 株式の併合についても,「株式併合がスクウィーズ・アウトに利用される場合(支配株主以外〔ママ〕の持株以外の株式をすべて1株未満の端数とするような株式併合)については,適正な補償についての手当てが欠けている(〔株式の併合によって生ずる1株未満の端数について,端数の合計数に相当する数の株式の売却等によって得られた代金を端数に応じて株主に交付する〕235条では,意味がない)」とされていました(稲葉320頁)。

「株式の併合は,その結果端数が生ずる株主に対して不利に働くという理由から,平成13年改正(法79号)前は,法律がとくに必要性を認めた場合にしか行うことができないものとされていた」のですが,「平成13年改正〔議員立法〕は,出資単位に関する会社の自治の尊重という観点・・・から,株式の併合が許容される事由に関する規制を撤廃し,一定の手続を踏めば事由のいかんを問わず株式の併合をできるものとし」ています(江頭260頁。下線は筆者)。

 

(4)株式等売渡請求制度について

 株式等売渡請求制度(改正会社法179条以下)とは,「株式会社の総株主の議決権の10分の9以上を有する株主〔特別支配株主〕が,他の株主の全員に対し,その有する当該株式会社の株式の全部を売り渡すことを請求することができることとする制度」であって,「特別支配株主が株式売渡請求をすることを認めるほか,これに併せて,新株予約権や新株予約権付社債についても売渡請求をすることを認める」こととされていることから,「株式等売渡請求」制度と呼ばれているものです(坂本227頁)。「特別支配株主が,対象会社の株主総会の決議を要することなく,キャッシュ・アウト(支配株主が,少数株主の有する株式の全部を,少数株主の個別の承諾を得ることなく,金銭を対価として取得すること)を行うことを可能とするもの」であって,「これにより,特別支配株主は,機動的にキャッシュ・アウトを行い,そのメリットを実現することができる」ようになるとされています(坂本227頁)。

 スクウィーズ・アウトのための全部取得条項付種類株式の利用に対する批判において,「この場合,少数株主を締め出すことに利益があるのは,会社というより,多数株主であることを看過してはならない。全部取得条項付株式のように会社が取得するという道筋はおかしく,状況に応じ,直截に多数株主ないし支配株主が取得する仕組みを採用すべきである。」との議論があったところから(稲葉319頁),それではということで「直截に多数株主ないし支配株主が取得する仕組み」を作ったということでしょうか。

 株式等売渡請求制度によって実現されるキャッシュ・アウトの「メリット」として,次のものが例示されています(坂本228頁)。

 

 ①長期的視野に立った柔軟な経営の実現(積極的な事業の改革等を行うことにより会社の短期的な収益が悪化する場合には,少数株主から代表訴訟等による経営責任の追及を受けるリスクをおそれて,取締役がこのような改革等を躊躇する可能性があるが,ある株主が株式会社の全ての株式を有するという支配関係を形成することにより,このようなリスクを払拭し,柔軟かつ積極的な経営を行うことができるようになる。)

  ②株主総会に関する手続の省略による意思決定の迅速化(株主が1人であれば,実際に株主総会を開催するのではなく,書面による株主総会決議の制度(第319条)を利用することが容易になる。)

  ③株主管理コストの削減

 

 株主は少なければ少ないほどよいということでしょうか。株主総会はない方がよいということでしょうか。

 そうだとすると,「民間出資が認められるものであっても,「株式会社に於ける株主総会に該当するものがない」ものであって,その「企業の経営はその資本的所有と切り離され国家の直接の管理に属して居」たところ(山崎32参照)」の営団制度(コンメンタールNTT法(三省堂・2011年)244頁参照)など,今日再評価されるべきでしょうか。我が国政府が,「長期的視野に立った柔軟な」姿勢で,かつ,短期的収益悪化についても鷹揚に,各営団経営陣をそれぞれの改革に向けて鼓舞してくれることを期待することはできないものでしょうか。

 「経営責任の追及」はやはり悪でしょうか。確かに,聖徳太子は,その憲法の第一条において「以和為貴」と説いておられます。しかし,その第十一条においては,「明察功過賞罰必当」と言っておられて,信賞必罰の必要性も指摘しておられます。

 いずれにせよ,少数者をsqueeze outすることによって,会社が,おしゃれで気持ちのよい快適な場所になるのならば,結構なことです。

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

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1 今次会社法改正の目玉:監査等委員会設置会社制度の導入

 会社法の一部を改正する法律(平成26年法律第90号)の内閣からの提案の「理由」では「株式会社をめぐる最近の社会経済情勢に鑑み,社外取締役等による株式会社の経営に対する監査等の強化並びに株式会社及びその属する企業集団の運営の一層の適正化等を図るため」,まず第一に「監査等委員会設置会社制度を創設する」ものとされていました(2014115日の記事「会社法改正の年に当たって(又は「こっそり」改正のはなし)」http://donttreadonme.blog.jp/archives/2471090.html参照)。

 法務省民事局において平成26年法律第90号の立案事務に関与した人たちによって書かれた坂本三郎法務省大臣官房参事官編著の『一問一答 平成26年改正会社法』(商事法務・2014年)の編別も,第1編「総論」に続く第2編「コーポレート・ガバナンスの強化に関する改正」の第1章「取締役会の監督機能の強化」における最初の部分は「第1 監査等委員会設置会社制度」となっています。

 監査等委員会設置会社制度こそが,平成26年法律第90号による会社法(平成17年法律第86号)改正(「今次会社法改正」。201551日からの施行が予定されています。)の第一の目玉であるようです。

 「日本企業では,十分なコーポレート・ガバナンスが行なわれておらず,このことが,外国企業と比較して日本企業の収益力が低く,株価も低迷している原因となっているという,内外の投資家の不信感があると考えられ」ているところ,「会社法におけるコーポレート・ガバナンスについては,経営者から独立した社外取締役の機能を活用するなど,取締役に対する監査・監督の在り方を見直すべきである等の指摘」がされていたので(坂本2頁),「社外取締役の機能を活用」するための主な改正点の第1として「①新たな機関設計である監査等委員会設置会社制度の創設」がされたのですから(坂本3頁),我が国の企業が監査等委員会設置会社制度を大いに導入することにより,「日本企業に対する内外の投資家からの信頼が高まることとなり,日本企業に対する投資が促進され,ひいては,日本経済の成長に寄与することが期待」されているわけです(坂本2頁)。

 我が国経済の困難な情況にかんがみると,このようにすばらしい成長促進効果を有する監査等委員会設置会社制度をもって,株式会社における当然の機関設計として採用すべきもののように思われます。

 


2 監査等委員会の非必置性

 しかしながら,監査等委員会設置会社制度の採用は,義務付けられていません。今次会社法改正後の会社法(「改正会社法」)326条(株主総会以外の機関の設置)2項は「株式会社は,定款の定めによって,取締役会,会計参与,監査役,監査役会,会計監査人,監査等委員会又は指名委員会等を置くことができる。」と規定しており,監査等委員会設置会社制度は多くの機関設計の選択肢の中の一つにとどめられています。

「これまでの監査役設置会社制度および指名委員会等設置会社制度の意義を否定するものではありません。」ということです(坂本20頁)。監査役制度については,商法の数次にわたる改正及び会社法の制定を経ていますから,これを今更否定するとなると,今まで長いこと一生懸命やってきたことは何だったのかっ,という反発をかうことにもなるのでしょう。指名委員会等設置会社制度についても,「2010年当時,東京証券取引所上場会社に占める委員会設置会社〔指名委員会等設置会社〕の割合は,2.2パーセント」にすぎないとはいえ(坂本19頁(注2)の引用する同取引所『東証上場会社コーポレート・ガバナンス白書201115頁),「取締役会の中に,メンバーの過半数を社外取締役とする指名委員会,監査委員会,報酬委員会の3委員会を設けて,取締役会の監督機能を強化するとともに,業務執行を担当する執行役を設け,取締役会が執行役に対して決議事項を大幅に委任することができるようにし,機動的な業務決定を可能」とするものとして(森山眞弓法務大臣・第154回国会衆議院法務委員会議録721頁),2003年4月1日からせっかく華々しく導入せしめた当該制度を軽々に廃止するわけにはいかなかったのでしょう。とはいえ,指名委員会等設置会社制度については,「社外取締役が過半数を占める指名委員会および報酬委員会に,取締役候補者の指名や取締役および執行役の報酬の決定を委ねることへの抵抗感等がある」ということですから(坂本18頁),当該制度は我が国の主流経営層からはなお嫌われているのでしょうが。(指名委員会等設置会社制度は「日本企業の主流となっておらず,実績が評価されるようにもなっていない(そのパフォーマンスは,必ずしも良好ではない)」ところです(稲葉威雄『会社法の解明』(中央経済社・2010年)455頁)。)

監査等委員会設置会社制度は選択肢の一つにすぎないというのであれば,オプションのやたらに多い情報通信機器をうまく使いこなせずせっかくのスマート・フォンでも電話機能,電子メール機能及びインターネット閲覧機能しか使用しないおじさんのように,昔ながらのやり方(監査役制度)を続けていけばよいようです。

 


3 社外取締役選任促進の動きと監査等委員会設置会社制度

 


(1)社外取締役を置いていない場合の理由の開示制度

 


ア 改正会社法327条の2

しかしながら,面倒だからといって監査等委員会設置会社制度を完全に無視するわけにいかない株式会社もあるでしょう。改正会社法327条の2の関係で,監査等委員会設置会社制度の採用を考える会社も出て来そうです。同条は,次のとおり。

 


 (社外取締役を置いていない場合の理由の開示)

327条の2 事業年度の末日において監査役会設置会社(公開会社であり,かつ,大会社であるものに限る。)であって金融商品取引法第24条第1項の規定によりその発行する株式について有価証券報告書を内閣総理大臣に提出しなければならないものが社外取締役を置いていない場合には,取締役は,当該事業年度に関する定時株主総会において,社外取締役を置くことが相当でない理由を説明しなければならない。

 


 「社外取締役が業務執行者に対する監督上重要な役割を果たし得ることに鑑み,社外取締役の選任の義務付けに代え」て設けられた(坂本79頁),「株主に対する情報提供および毎年の定時株主総会でこの説明をしなければならなくなることを前提に社外取締役を置くかどうかを会社において検討することによる社外取締役の選任の促進という趣旨・目的に基づく」規定です(坂本91頁)。

 改正会社法327条の2は「監査役会設置会社」を対象としますが,公開会社である大会社は,そもそも監査役会の設置が義務付けられている株式会社です(会社法3281項(指名委員会等設置会社である場合を除く。))。公開会社である大会社は,「類型的にみて,株主構成が頻繁に変動することや会社の規模に鑑みた影響力の大きさから,社外取締役による業務執行者に対する監督の必要性が高く,また,その会社の規模から,社外取締役の人材確保に伴うコストを負担し得ると考えられ」ている類型の会社です(坂本82頁)。

 そうだとすると,社外取締役の選任こそが日本経済を救う鍵であるのならば,株式について有価証券報告書の提出義務を負う株式会社であることとの限定を付加して,改正会社法327条2の規律の対象を「不特定多数の株主が存在する可能性が高いことから,社外取締役による業務執行者に対する監督の必要性が特に高いとかんがえられるもの」(坂本8283頁。下線は筆者)にまで更に限定する必要はないようでもあります。しかしながら,当該有価証券報告書提出義務会社という限定が更に付されたのは,やはり社外取締役選任の義務付けを見送らせるに至った(「改正法においては,社外取締役の選任を義務付ける旨の規定を設けていません」(坂本77頁)。)反対意見に相応の理由があったということでしょう。また,「社外取締役をより積極的に活用すべきであるとの指摘は,特に上場企業について,強くされてい」た(坂本82頁)ので,取りあえず当該指摘対象企業を中心に手当てすることにしたということでもありましょう。

 


イ 「理由を説明」の内容

 改正会社法327条の2の「説明」は,厄介です。社外取締役を置くことが「「相当でない」理由を説明したというためには,社外取締役を置くことがかえってその会社にマイナスの影響を及ぼすというような事情を説明する必要があります。また,例えば,「社外監査役が○名おり,社外者による監査・監督として十分に機能している」と説明するだけでは,社外取締役を置くことが「必要でない」理由の説明にすぎず,社外取締役を置くことが「相当でない」理由の説明とは認められません。」と解説されています(坂本85頁)。「このほか,例えば,「適任者がいない」ということのみの説明も,「社外取締役を置くことが相当でない理由」の説明とは認められないこととなり得るものと考えられ」るとされています(坂本85頁(注3))。

20141125日に法務省から意見募集手続に付された会社法施行規則の改正案(「会社法施行規則改正案」)の第124条(社外役員等に関する特則)2項及び3項は次のとおり。各事業年度の事業報告(会社法4352項)の内容に関する規定です。

 


2 事業年度の末日において監査役会設置会社(大会社に限る。)であって金融商品取引法第24条第1項の規定によりその発行する株式について有価証券報告書を内閣総理大臣に提出しなければならないものが社外取締役を置いていない場合には,株式会社の会社役員に関する事項として,第121条〔(株式会社の会社役員に関する事項)〕に規定する事項のほか,社外取締役を置くことが相当でない理由を事業報告の内容に含めなければならない。

3 前項の理由は,当該監査役会設置会社の当該事業年度における事情に応じて記載し,又は記録しなければならない。この場合において,社外監査役が2人以上あることのみをもって当該理由とすることはできない。

 


 会社法施行規則改正案124条2項の括弧書きが「(大会社に限る。)」であって,「(公開会社であり,かつ,大会社であるものに限る。)」ではないのは,同条自体が既に会社法施行規則第2編「株式会社」第5章「計算等」第2節「事業報告」第2款「事業報告等の内容」第2目「公開会社における事業報告の内容」の一部であって,公開会社についての規定だからですね。

 取締役が取締役の選任に関する議案を提出する場合における株主総会参考書類(会社法3011項)の記載事項に関する会社法施行規則改正案74条の2は,次のとおり。

 


  (社外取締役を置いていない場合等の特則)

 第74条の2 前条第1項に規定する場合〔取締役が取締役(監査等委員である取締役を除く。)の選任に関する議案を提出する場合〕において,株式会社が社外取締役を置いていない特定監査役会設置会社(当該株主総会の終結の時に社外取締役を置いていないこととなる見込みであるものを含む。)であって,かつ,取締役に就任したとすれば社外取締役となる見込みである者を候補者とする取締役の選任に関する議案を当該株主総会に提出しないときは,株主総会参考書類には,社外取締役を置くことが相当でない理由を記載しなければならない。

 2 前項に規定する「特定監査役会設置会社」とは,監査役会設置会社(公開会社であり,かつ,大会社であるものに限る。)であって金融商品取引法第24条第1項の規定によりその発行する株式について有価証券報告書を内閣総理大臣に提出しなければならないものをいう。

 3 第1項の理由は,当該株式会社のその時点における事情に応じて記載しなければならない。この場合において,社外監査役が2人以上あることのみをもって当該理由とすることはできない。

 


ウ 「理由を説明」に失敗した場合

 


(ア)そもそも説明せず,又は虚偽の説明をしたとき

事業年度の末日に置いて社外取締役を置いていない特定監査役会設置会社(会社法施行規則改正案74条の22項)の取締役が,定時株主総会において,「社外取締役を置くことが相当でない理由」を説明せず,又は説明はしたもののその説明が虚偽であったときには,取締役はその善良な管理者の注意義務(会社法330条,民法644条)に違反した状態になるとされています(坂本89頁)。社長は怒られざるを得ませんね。しかしこれは,全く説明をせず,又は説明が虚偽であった場合のことでしょう。

 


(イ)説明はしたが,不合理・不十分であるとき

一応説明自体はされ,うそでもないが,ただ,「社外取締役を置くことが相当でない理由」としてはなお不合理又は不十分であった場合はどうでしょう。

 


・・・各会社において取締役が説明した具体的な内容が,当該会社について「社外取締役を置くことが相当でない理由」として十分なものであるかどうかの判断は,第一次的には,当該会社の株主(株主総会)において行われることとなると考えられます。

 したがって,「社外取締役を置くことが相当でない理由」の説明が,客観的に見て不合理・不十分であるということのみから,直ちに第327条の2に違反したことになるものではなく,また,当該定時株主総会における株主総会の決議に瑕疵があること等になるものでもないと解されます。(坂本91頁)

 


 株主総会が無事終われば結果オーライということのようです。しかし,「社外取締役の選任の促進」を願う御当局としては,むしろ,「こらっ,社長!それじゃ説明になっていないじゃないか」というような追及があって,多少荒れる総会になってくれる方が実は望ましいということになってしまうのでしょうか。

 そこまではいかなくとも,御当局としては,説明がされたものと認められる場合自体を限定することに腐心しておられるようです。「「社外取締役を置くことが相当でない理由」の説明については,各会社において,その個別の事情に応じて,社外取締役を置くことがかえってその会社にマイナスの影響を及ぼすというような事情を説明しなければならず,例えば,「社外監査役が○名おり,社外者による監査・監督としては十分に機能している」ことのみをもって説明されたりしたような場合には,「社外取締役を置くことが相当でない理由」の説明とは認められないと解され」る(説明がされていない)というように(坂本91頁),外堀が埋められてあります。

 いずれにせよ,特定監査役会設置会社としては,社外取締役を置かないとやはりいろいろ面倒そうです。

 


(2)監査等委員会設置会社制度採用のすすめ

 そこで,そのような特定監査役会設置会社が,改正会社法327条の2に係る奔命に疲れて新たに社外取締役を置くこととした場合,是非併せて監査等委員会設置会社制度を導入してもらいたいというのが御当局のお考えのようです。

 すなわち,改正会社法327条の2のところにおいて「・・・取締役会設置会社(公開会社であり,かつ,大会社であるものに限る。)であって金融商品取引法第24条第1項の規定によりその発行する株式について有価証券報告書を内閣総理大臣に提出しなければならないもの・・・」と定義せずにわざわざ「・・・監査役会設置会社(公開会社であり,かつ,大会社であるものに限る。)であって金融商品取引法第24条第1項の規定によりその発行する株式について有価証券報告書を内閣総理大臣に提出しなければならないもの」と定義し(下線筆者),会社法施行規則74条の2第2項では正に「特定監査役会設置会社」という名称を採用しているのは,「社外取締役を置くことが相当でない理由」の説明という厄介なことをさせられる原因は監査役会が設置されていることであるという印象を当該特定監査役会設置会社の取締役に与えるためであるようにも思われるところです。公開会社である大会社がその本来的必置機関である監査役会の設置義務を免れる場合は,当該大会社が指名委員会等設置会社又は監査等委員会設置会社である場合(なお,両者とも社外取締役を置くものです(改正会社法3316項,4003項)。)ですから(改正会社法3281項),監査役会を廃止したいのならば,まずは指名委員会等設置会社よりもお手軽な監査等委員会設置会社制度を採用されてはいかがですか,というように思考を誘導しようということだったのではないでしょうか。(「社外監査役に加え,社外取締役の選任を義務付けることには,重複感・負担感がある」(坂本78頁(注)で紹介されている社外取締役選任義務付けに対する反対意見の主なものの一つ)というのであれば,社外役員枠を監査役から取締役に移されてはどうですか,ということででもあるのでしょうか。監査役会設置会社における監査役は3人以上でそのうち半数以上は社外監査役でなければならないとされている一方(会社法3353項),それに対応するかのように,「監査等委員会設置会社においては,監査等委員である取締役は,3人以上で,その過半数は,社外取締役でなければならない。」(改正会社法3316項)とされています。)「社外取締役を置いていない監査役会設置会社は,社外監査役をそのまま社外取締役とすればそれだけで監査等委員会設置会社に移行できるので,移行することは比較的容易であると言われている」そうです(神田秀樹「平成26年会社法改正と社外取締役」自正201412月号46頁)。

 「社外取締役については,・・・取締役会の決議における議決権を行使すること等を通じて業務執行者を適切に監督すること等を期待」されているのですから(坂本77頁),社外取締役の機能は,取締役会で発揮されることを前提としていると考えられます。「「社外取締役を置くことが相当でない理由」の説明に係る規定は,取締役会設置会社・・・のうちの一定の株式会社に係る社外取締役の不設置に関するものである」とそもそも理解されているのならば(坂本81頁(注1)。下線は筆者),改正会社法327条の2では「監査役会設置会社」ではなく本来「取締役会設置会社」が出てくるべきであったはずです。むろん,監査役会設置会社はすべて取締役会設置会社なのですが(会社法32712号)。

 


4 監査役制度と社外取締役制度

 


(1)ドイツ法とイギリス法

 しかし,やはり,監査役制度と社外取締役制度とは,食い合わせが悪いということなのでしょうか。ちなみに,前者はドイツ法由来,後者はイギリス法由来の制度ということのようです。

 

  先づ沿革に付て論ぜんに,中世時代に続起したる株式会社には,大株主会ありて会社重役の相談役の如き位置に立ち,重大なる事件に就て重役の諮詢に応じ,又会社の諸般の業務の監督を掌れり。此大株主会は,独逸法に於ては種々の変遷の末,終に法律上独立せる会社の監督機関として認めらるるに至りたり。之を独逸法に於ける株式会社の監査役(Aufsichtsrat)とす。然るに英法に於ては,大に沿革の趣を異にし,此大株主会は漸次変更して,終に会社重役と合同するに至りたり。故に英法に於ては,重役会(board of directors)自身が会社業務の最高監督機関の機能を掌れるなり。即ち,重役中に主として業務の執行を司るものと多少監督者の地位を有するものとの2種あるを常とす。学者或は此前者を名けて業務執行重役会(Managing board)と謂ひ,後者を称して業務監督重役会(Controling board)と謂ふは此故なり。此の如く重役自身が会社の業務を執行し,又同時に之を監督するに於ては,別に株主の為めに会社会計の正否を検査する機関を置くの必要を感ぜずんばあらず。此必要を充す為めに生じ来りたる機関が,即ち英国会社法の常任検査役〔Auditor〕なり。・・・故に英法の検査役は会計の正否を審査するの機関たるに止まり,独法の監査役の如き会社業務一般の監督機関に非ざるなり。我商法の監査役は,次に述ぶる如く会社業務の最高監督機関にして,主として独法の監査役に倣ひて設けられたる制度なり。故に英法の常任検査役とは沿革上全然別物なりと謂はざるべからず。(松本烝治「監査役制度ノ改正問題ニ付テ」(初出19105月発行法協285号)『私法論文集』(巌松堂書店・1926年(復刻版・有斐閣・1989年))6667頁(原文は片仮名書き,句読点なし。))

 


昭和13年法律第72号による改正前の商法(明治32年法律第48号)の規定中監査役の主な権限に係るものとしては,同法181条(「監査役ハ何時ニテモ取締役ニ対シテ営業ノ報告ヲ求メ又ハ会社ノ業務及ヒ会社財産ノ状況ヲ調査スルコトヲ得」),183条(「監査役ハ取締役カ株主総会ニ提出セントスル書類ヲ調査シ株主総会ニ其意見ヲ報告スルコトヲ要ス」),182条(「監査役ハ株主総会ヲ招集スル必要アリト認メタルトキハ其招集ヲ為スコトヲ得此総会ニ於テハ会社ノ業務及ヒ会社財産ノ状況ヲ調査セシムル為メ特ニ検査役ヲ選任スルコトヲ得」),184条(「監査役ハ取締役又ハ支配人ヲ兼ヌルコトヲ得ス但取締役中ニ欠員アルトキハ取締役及ヒ監査役ノ協議ヲ以テ監査役中ヨリ一時取締役ノ職務ヲ行フヘキ者ヲ定ムルコトヲ得」〔第2項略〕),185条(「会社カ取締役ニ対シ又ハ取締役カ会社ニ対シ訴ヲ提起スル場合ニ於テハ其訴ニ付テハ監査役会社ヲ代表ス但株主総会ハ他人ヲシテ之ヲ代表セシムルコトヲ得」〔第2項略〕),168条(「取締役ハ定款ニ定メタル員数ノ株券ヲ監査役ニ供託スルコトヲ要ス」)及び176条(「取締役ハ監査役ノ承認ヲ得タルトキニ限リ自己又ハ第三者ノ為メニ会社ト取引ヲ為スコトヲ得此場合ニ於テハ民法第108条ノ規定ヲ適用セス」)が挙げられ,「此の如くにして,我商法の監査役は会社業務の一般的監督機関として取締役と対立するものたり。英法の常任検査役の如く会計検査の一事のみを司掌するものに非ざるなり。」とされています(松本69頁)。

ところで,我が商法が取締役会制度を導入したのは先の大戦後のことであって,GHQ時代の昭和25年法律第167号による改正の結果です。同法によってまた,監査役の任務は会計監査に限定されました。当該1950年改正に基づく株式会社の機関構成は,むしろ,board of directors及びAuditorとを有する前記イギリス法的構成のようですね。その後の監査役の強化の歴史は,ドイツ法的なものに戻るべき失地回復の歴史でもあったということになるようです。しかしてその間,Controling board的なものの導入強化は閑却されていたわけです。

 

  英米では,オーディター(auditor)には会計専門家の資格が要求され,したがって同人は,わが国の会計監査人に相当する。わが国の監査役に近い機能は,社外取締役によって構成され,オーディターおよび内部統制部門の経営者からの独立性を保障するために監視する監査委員会(audit committee)により担われており・・・わが国が平成14年改正で導入した委員会設置会社は,基本的にそれをモデルとしている。

  ドイツの株式会社では,監査役会が取締役を選任(重大事由があるときは解任)する

権限を有し(ド株式84条),特定の業務執行に対する同意権限も保有できるので(ド株式1114項),わが国でいえば社外取締役のみから構成された取締役会に近い。また,共同決定制度により,労働者代表の監査役が選任される・・・。・・・(江頭憲治郎『株式会社法』(有斐閣・2006年)460461頁注(1))

 


 監査等委員会設置会社及び指名委員会等設置会社は会計監査人を置かなければなりませんが(改正会社法3275項),これは,英米法式の社外取締役と会計専門家たるauditorとの組合せの採用ですね。

 なお,会社法331条2項の「株式会社は,取締役が株主でなければならない旨を定款で定めることができない。ただし,公開会社でない株式会社においては,この限りでない。」(同法3351項で監査役に準用)との規定については,「取締役に広く適材を求めることが公開会社制度の理念と認識された結果であろう。」(江頭351頁)と説明されていますが,これは昭和13年法律第72号による改正前の商法164条1項が「取締役ハ株主総会ニ於テ株主中ヨリ之ヲ選任ス」(下線筆者。同法189条で監査役に準用)と規定していたことを前提に考えるべき規定です。すなわち,反面として,取締役及び監査役は株主でなければならないという考えにもそれなりの正統性があるわけです。「我商法は,監査役は株主中より之を選任すべきものとす・・・。此,制度沿革上は頗る根拠あり。何となれば,我商法の監査役は,前述せる如く独法の監査役と同く,中世時代の株式会社の大株主会を起源とするものなればなり。又,監査役を会社事業に直接の利害関係を有する株主中より選任するは,其職務に忠実なるべきの利益あり。」というわけです(松本70頁)。

 


(2)監査役の監査と監査等委員会の監査

 


ア 独任制の機関の自らする監査と会議体の組織的監査

 監査役の監査と監査等委員会の監査とは違います。「監査役は,独任制の機関として,通常,自ら会社の業務財産の調査等を行うという方法で監査を行う」のに対し(なお,監査役会が置かれても,監査役が独任制の機関であることは維持されています(会社法3902項ただし書参照)。),「監査等委員会は,指名委員会等設置会社の監査委員会と同様に,会議体であり,組織的な監査を行う」こととなるとされています(坂本54頁)。すなわち,「監査等委員会は,内部統制システムが取締役会により適切に構築・運営されているかを監視し,他方で,当該内部統制システムを利用して監査に必要な情報を入手し,また,必要に応じて内部統制部門に対して具体的指示を行うという方法で監査を行う」ことになります(坂本54頁)。監査等委員会設置会社の取締役会が決定しなければならない事項として「監査等委員会の職務の執行のため必要なものとして法務省令で定める事項」及び「取締役の職務の執行が法令及び定款に適合することを確保するための体制その他株式会社の業務並びに当該株式会社及びその子会社から成る企業集団の業務の適正を確保するために必要なものとして法務省令で定める体制の整備」が掲げられています(改正会社法399条の1311号ロ・ハ,第2項)。

 


イ NTT法15条及び18条の2

 この点,会社法の一部を改正する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律(平成26年法律第91号)60条によって挿入される日本電信電話株式会社等に関する法律(昭和59年法律第85号)18条の2第1項は,「総務大臣は,この法律を施行するため必要があると認めるときは,会社又は地域会社の監査役を指名して,特定の事項を監査させ,当該監査の結果を報告させることができる。」との同法15条1項の規定に関し,「会社又は地域会社が監査等委員会設置会社である場合における第15条の規定の適用については,同条中「監査役」とあるのは,「監査等委員」とする。」と規定していますが,監査役による監査と監査等委員会による監査との性格の違いにかんがみて,どうでしょうか(『コンメンタールNTT法』(三省堂・2011年)226頁・260頁参照)。監査等委員による監査は,監査等委員会からの選定をまって初めてされるもののようですし(改正会社法399条の31項・2項),監査に当たっても,当該監査等委員は,監査等委員会の決議に従わねばなりません(同条4項)。とはいえ,いずれにせよ,NTTに対する「監査機能の強化」に係る日本電信電話株式会社等に関する法律第15条の規定に係る政府案は,日本電信電話株式会社法案をめぐって当時激しく争っていた郵政・通商産業両省に対する1984年4月4日の自由民主党の「裁定案」をうけ,同日から翌5日にかけての一夜漬けで作られたものなので(同月6日に法案閣議決定),同条の解釈には難しいところがあるのはしかたのないことなのでしょう(『コンメンタールNTT法』225234頁参照)。

 

1984年4月「5日午前4時,〔内閣〕法制局で郵政,通産両省をはさんでの法案づくりが始まった。しかし,自民党裁定がもうひとつ不明確で作業は遅々として進まない。同午前9時半,自民党政調正副会長会議が開かれ,藤尾〔正行〕政調会長が前日の裁定案についての統一見解を提示した。初めて文章化された裁定案が出たのである。(日本経済新聞198446日朝刊5面。下線は筆者)

 


城山三郎の『官僚たちの夏』的おおわらわとでもいうべきでしょうか。昔の日本には元気がありましたよね。

 


5 会社法制改正論今昔

日本の元気は変動し,昨今は低下傾向を示しているところですが,変わらないのは会社法制変更に向けた情熱でしょうか。とはいえ,当該情熱に対する回答もそれほど変わるべきものとは思われません。今から百余年前の1910年における会社法制改正論議の中にあって,後の憲法改正担当国務大臣・松本烝治既にいわく,

 


監査役制度改正問題に関する世論の批評は,略ぼ上述せる所を以て尽せりと信ず。之を要するに,研究不十分にして議論浅薄なりとの誹を免れざるなり。而して此問題に関する余の提案自身は,未だ定見として之を公表すべきものなきなり。然れども,仮に法律の改正に因りて近時続出せる会社の不始末を剿絶することを得べきものと思料するものあらば,其根本的の誤謬なることを一言せんと欲す。実業社会に法律思想が普及せられ法律を遵法するの精神が汎布せらるるの方法を講ぜず,区区たる法条の改正に因りて之が救済を図らんとするは,所謂百年河清を待つの類のみ。問題は,世道人心に在り。法は抑も末なり。(松本7273頁)

 


しかし,こう言われてしまうと困りますね。

平成26年法律第90号附則25条は,「政府は,この法律の施行後2年を経過した場合において,社外取締役の選任状況その他の社会経済情勢の変化等を勘案し,企業統治に係る制度の在り方について検討を加え,必要があると認めるときは,その結果に基づいて,社外取締役を置くことの義務付け等所要の措置を講ずるものとする。」と規定しています。会社法の改正は,まだまだ続くようです。

 


弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

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JR北海道・札幌駅の特急オホーツク


1 鉄道をめぐる父と子

 前回の記事(「鉄音を聞きながら:鉄道関係法のささやかな愉しみ」)では,鉄道営業法(明治33年法律第65号)の罰則関係の話などをしてしまいましたが,無論,鉄道関係法規は,刑事法ばかりではなく,民事法,行政法まで多様な広がりを持ちます。

 民事法中,鉄道運輸に関係するのは,商法(明治32年法律第48号)の運送営業の章(第28章。第569条以下)になります。

 ところで,我が国の商法学者中,鉄道とのかかわりが深い人物といえば,やはり松本烝治博士(東京帝国大学教授・法制局長官・関西大学学長・商工大臣・憲法担当国務大臣・第一東京弁護士会会長。18771014日生れ・1954108日没)でしょう。父の荘一郎は我が国の鉄道官僚のトップに上り(鉄道庁長官,逓信省鉄道局長,鉄道作業局長官),自らも南満洲鉄道株式会社の理事,副総裁となっています。

 松本烝治博士の「風ぼうは,丸いチーズに細い眼と口ヒゲをはめこんだように,一見して春風を感じさせるふくよかな温容」で,「人あたりもよく,誰にたいしてもいんぎん,丁寧」でありましたが,「かんしゃく持ち」で「なかなかの激情家」でもありました(児島襄『史録 日本国憲法』(文春文庫・1986年(単行本1972年))86頁)。女婿・田中耕太郎(東京帝国大学教授・文部大臣・最高裁判所長官)には,「考え方や頭の働き方は社会科学的または哲学的思想的というよりも,自然科学的という感じ」で,「技術家的な自由主義者」と評されています(児島89頁)。松本烝治博士は「分析的緻密な法律論を展開」したのに対し,田中耕太郎教授は「総合的な方面に商法研究を進められて,松本先生の説を乗り越えようとし,商法学はさらに新しい進展を遂げた」と評されています(鈴木竹雄「松本烝治先生の人と業績」(1989年)・松本烝治『私法論文集』(巌松堂書店・1926年,有斐閣・1989年復刻版))。

 さて,今回は,鉄道ネタの中でも,商法の問題を取り上げます。乗車券の法的性格に関する問題です。

 


2 松本烝治の乗車券論

 


(1)鉄道の乗車券

松本烝治博士の鉄道乗車券論は,次のとおり。当時のドイツの学説に,まずは依拠したものでした。

 


  鉄道乗車券の性質に付ては,独逸に於ては学者の之を論議するもの少からずと雖も,之を以て鉄道をして運送を為さしむべき契約上の権利を表彰する有価証券と解するを通説とす。其説明に依れば,乗車券を買求むるに当りて旅客運送契約が締結せられ,乗車券は其運送契約上の旅客の権利を表彰し,鉄道は其所持人に対して義務を履行すべきものなるを以て,一個の無記名証券に外ならずとす。・・・余も亦,此通説を正当とす。(松本「電車乗車券ノ性質ヲ論シテ岡松博士ノ説ヲ駁ス」(1916年)『私法論文集』962963頁(同書の原文は,片仮名書き,濁点・半濁点,句読点無し。))

 


 そこから更に松本博士の学説が展開されます。

 


 ・・・唯,鉄道乗車券を買求むるを以て運送契約の締結と観るは一般社会見解に反するが故に,寧ろ運送契約上の(精確に言へば運送契約より生ずるものと同一の)権利を表彰する有価証券が売買授受せらるるものと解すること,却て適切ならむと思料す。・・・而して卑見に依れば,乗車券が有価証券たる性質は,運送の開始のためにする改鋏に因りて終了するものたり。何となれば,鉄道は特定の道程,特定の一人を運送する義務を負ふ者なるが故に,運送の開始に因り其乗車券の表彰する債権の履行が始まり,復之を他人に譲渡することを得ざるに至るものなればなり。即ち,鉄道乗車券は,無記名有価証券なれども,改鋏に因りて単純なる証拠の為めにする証券と変化するなり。精確に言へば・・・改鋏は,有価証券たる乗車券を回収し,之に代ふるに単純なる証拠の為めにする乗車券を交付するの行為と観察すべきなり。・・・(「電車乗車券ノ性質ヲ論シテ岡松博士ノ説ヲ駁ス」『私法論文集』963964頁)

 


 この松本説が,大体において,鉄道乗車券についての我が商法学会の通説であるようです。(なお,鋏を入れる改鋏は,今はスタンプを挟み押すことをもって代替されていますね。)

 


  通説によれば,運送契約は乗車券購入のとき成立し,乗車券は運送債権を表章する有価証券とみとめられる。すなわち,通常の乗車券は特定区間の個別的運送についての通用期限付きの無記名証券(ただし鋏を入れた後は証拠証券となる)とされ〔る。〕(鈴木竹雄『新版 商行為法・保険法・海商法 全訂第二版』(弘文堂・1993年)54頁。ただし, これはドイツの通説寄りですね。

 


  ・・・乗車前に発行される〔乗車券〕は,通常は運送債権を表彰する有価証券と解される。したがって,一般の無記名式乗車券は,証券の引渡により自由に譲渡することができる。しかし,一旦運送が開始された後(改札制度のあるときは,改札の後)は,運送人は特定人に対してのみ義務を負い,乗車券の譲渡は許されなくなる。以上に対し,乗車後に発行されるものは,運送賃の支払を証明する単なる証拠証券である。(西原寛一『商行為法』(有斐閣・1960年)333頁)

 


  通常の無記名乗車券は,通説によれば,運送請求権を表章する有価証券であり,引渡により自由に譲渡することができる。ただし,改鋏後は,特定人を運送する義務を負担するから,譲渡は許されない。しかし,乗車中請求あり次第いつでも呈示し,また取集めに際しては渡さなければならない(鉄道営業18条)から,有価証券としての性質を有する。(河本一郎『手形法・小切手法 商法講義』(上柳克郎=北沢正啓=鴻常夫=竹内昭夫編,有斐閣・1978年)26頁)

 


 なお,改鋏後の鉄道乗車券が有価証券であるとするか否かは,有価証券の定義いかんによります。「「有価証券とは,財産的価値のある私権を表章する証券であって,その権利を移転しまたは行使するのに,証券を交付しまたは占有することを必要とするものをいう」との定義が通説になっている。」とされているのに対して(河本24頁),権利の移転及び行使に証券が必要だとする説も有力だからです。なお,鉄道営業法18条は,「旅客ハ鉄道係員ノ請求アリタルトキハ何時ニテモ乗車券ヲ呈示シ検査ヲ受クヘシ/有効ノ乗車券ヲ所持セス又ハ乗車券ノ検査ヲ拒ミ又ハ収集ノ際之ヲ渡ササル者ハ鉄道運輸規程ノ定ムル所ニ依リ割増運賃ヲ支払フヘシ/前項ノ場合ニ於テ乗車停車場不明ナルトキハ其ノ列車ノ出発停車場ヨリ運賃ヲ計算ス」と規定しています。

 


(2)電車(軌道)の乗車券

 さて,松本烝治博士は,鉄道の乗車券が「鉄道をして運送を為さしむべき契約上の権利を表彰する有価証券」であるという解釈は,「其儘之を電車の復券及び回数券に応用して毫も不可なる所あるを観ず。」としています(「電車乗車券ノ性質ヲ論シテ岡松博士ノ説ヲ駁ス」『私法論文集』964頁)。「是等の乗車券は,亦運送契約上の権利を表彰する無記名証券たり。之を売買贈与するは実際上頻繁に行はるる所にして,電気局自身も亦回数券が年末年始の贈答用に供せらるることを期待して特に之を売出すを常とす」るからです(同頁)。権利の移転及び行使に用いられる電車の復券及び回数券は当然有価証券であって,そうであればそこに表章されている権利は「運送契約上の(精確に言へば運送契約より生ずるものと同一の)権利」だということのようです。

 なお,松本烝治博士の立論においては,電車の片道券及び往復券の往券は,回数券及び往復券の復券とは異なるものとされています。なぜ異なるのかを理解するには,当時の路面電車の乗車方法を知らなければなりません。

 


 ・・・片道券及び往券は,乗客が之を買求めたる電車に於ける運送の賃金を支払ひたることを証する単純なる証票たるに過ぎずして,有価証券に非ず。車掌は之を乗客に交付するに当りて必ず入鋏することを要す。又,乗客は之を他人に譲渡すことを得ざるや勿論なり。(「電車乗車券ノ性質ヲ論シテ岡松博士ノ説ヲ駁ス」『私法論文集』962頁)・・・鉄道に於ては乗車券所持人に非ざれば之が運送を開始せざるを常とするも,電車に於ては別に車内に於て賃金を支払ふ方法を認め,乗車券所持人に非ざるも之が乗車を拒むことな〔し〕・・・(同964頁)

 


・・・之に反して〔電車の〕復券及び回数券は乗客の請求に因りて始めて入鋏せらるるものにして,其入鋏前に於ては自由に之を譲渡すことを得。余は之を以て通常の鉄道乗車券と全然同一性質を有する有価証券なりとす。(「電車乗車券ノ性質ヲ論シテ岡松博士ノ説ヲ駁ス」『私法論文集』962頁)

 


 軌道条例(明治23年法律第71号)に基づく軌道である路面電車では,あらかじめ乗車券を買っておくのは例外であって,正則は,電車に乗車後車内で賃金を支払って入鋏された片道券を受け取ることだったようです。

 


3 岡松参太郎及び大審院の乗車券論

 


(1)電車乗車券に係る岡松説

 ところで,松本烝治博士の論敵の岡松参太郎博士は,電車片道券の正則性から,その性質を復券及び回数券にも推し及ぼしたようです。

 


  岡松博士は,電車乗車券は其回数券なると復券なると将た片道券なるとに依り異ることなしとする前提に立ち,片道券は有価証券に非ずして単純なる賃金支払の証拠に過ぎざるを以て,回数券又は復券も亦有価証券たることなしと断定せらる。(「電車乗車券ノ性質ヲ論シテ岡松博士ノ説ヲ駁ス」『私法論文集』965頁)

 


 それでは,岡松説では電車の乗車券の性質はどのようなものかといえば,次のようなものだったそうです。

 


  岡松博士は又「現に電車に乗車し其運送の為めに利用する乗車券なるも,運送契約の成立其ものとは無関係なり。即ち営業者の為に賃銭支払の認識票となり,之が為に乗客は降車の請求を受けず,又再度支払の請求を受けざるに至るの便益あるに過ぎず。未だ使用せざる乗車券は,若し電車に乗車する際之を提示せば其金額に相当する支払ありたることを認識する証票と為るべきものたるに過ぎず。」云云勿論法律上の性質には差異あるも,郵便切手の売下は其売下に因り運送契約を締結するものにあらざるに於ては一なり。従て,其売下の後郵便税を改正するも旧税に従ひ運送すべき義務なきと一般なり。」と論結せらる。(「電車乗車券ノ性質ヲ論シテ岡松博士ノ説ヲ駁ス」『私法論文集』967頁)

 


 電車の乗車券は電車の乗車券なのだから性質はいずれも同じと考える岡松博士に対して,「分析的緻密な」松本博士は,電車の乗車券であっても,証拠証券にすぎない片道券及び往券と有価証券である復券及び回数券とは厳格に分別せられねばならないとするものでありました。

 


(2)電車乗車券に係る大審院の判例

 松本=岡松論争の翌年の大審院(たいしんいん)大正6年2月3日判決(民録2335頁)は,岡松説を採用します。

 


 Y(東京市)と乗客との間に於ける乗車契約は,乗車の時を以て成立するものにして,Yは其当時に於て実施せらるる運送条件に従ひ乗客を運送する私法上の義務を負担すると同時に,乗客も亦其当時に於て効力ある賃金率に従ひ乗車賃を支払ふ義務あるものとす。」

 「往復券・回数券の発行は,他日に於けるYと乗客との運送契約を予想し,之を以て乗車賃の支払に充つるの目的を以て発行せらるるものにして,其票券は,現行の乗車賃4銭と通行税を支払ひたることを証し乗車賃に代用せらるる一種の票券なりと解するを相当とす。故に,此票券の授受に因りYは其所持人に対して運送義務を負担するものにあらずして,唯票券を所持する乗客が乗車の際其票券を提出するに於ては,乗車賃金に代へて之を受領するの責務を負担するに過ぎざるものとす。」

 「是等票券を以て一種の無記名証券なりとし,之を発行したるYをして其所持人に対し運送の義務を負担せしむべきものと解釈すべきの問題に付きては,Yが内務省の認可を経て告示したる賃金表中此解釈を是認すべき何等の憑拠なく,此種の票券を以て無記名証券と看作すべき何等法律の規定なく,票券の内容も亦往復券・回数券たることを表示するに止まり,Yに於て運送義務を負担したることを表示すべき文言の記載あることなければ,他に其無記名証券性を肯定すべき事由の存せざる限りは,之を否定するを相当とす。」

 「往復券の復券殊に回数券が取引上に於て融通性を有することは,毫も其証券的性質を肯定するの根拠たるを得ず。何となれば,是等票券は縦令其性質に於て無記名証券にあらざるも,電車賃に代用せられ其所持人は乗車の際之を車掌に交付するに因りて電車賃の支払を免がるる以上は,其票券は,一種の有価物として売買譲与の目的たるを得ること郵便切手に於けると毫も異なる所なきを以てなり。」

「当院は・・・往復券・回数乗車券の性質より演繹し,其証券的性質を否定すると同時に,回数乗車券の発売に際しYと乗客との間に於ける運送契約若くは其予約の存在を否定し,是等票券を以て乗車賃に代用せらるる票券なりと断定するものなり。従て,往復券・回数券を購買したる者及其承継人は,乗車賃低減の場合に於て過払金として差額の返還を請求し得ると同時に,其増額の場合に付き其差額を支払ふことを要し,乗車賃を前払したるの故を以て其差額を僥倖することを得ざるものとす。」(原文は,片仮名書き,濁点・半濁点,句読点無し。) 

 


(3)電車乗車券判例に対する学説の批判

 「本件回数乗車券はその所持人を運送するというYに対する請求権が表章されている有価証券と解される」とされ(柴田和史「102 回数乗車券の性質」別冊ジュリ『商法(総則・商行為)判例百選[第5版]』(2008年)207頁),「問題となるのは,回数乗車券である。判例は,それが運送債権を表彰するものでなく,運送賃の前払を証する単なる票券ないし運送賃代用の票券にすぎないとする。しかし,旅客が最大の義務である運送賃の支払を終えながら,何らの権利の発生をも認められないのは,当事者の意思に適合しない。回数乗車券も,通用区間の指定(時には通用期間も指定)のある包括的運送契約上の権利を表彰する有価証券と解してよい」と述べられ(西原333頁),また,「回数乗車券も,包括的な運送についての無記名証券となるが,それでは,運賃値上げのとき追加払の要求がみとめられなくなるとして,回数乗車券は運送賃の前払を証する単なる票券にすぎないと解する説もある。しかし,有価証券と解したところで,通用期限の定めのない場合に,当然に追加払を要求できないことになるわけではないと思う。」とされており(鈴木54頁),電車の回数乗車券の無記名有価証券性を否定した上記大審院判例は,一般に学説の反対を受けているようです。

 中でも法政大学の柴田和史教授は研究熱心で,松本=岡松論争時における東京市の路面電車の回数乗車券の現物を確認した上で,いわく。

 


 ・・・最初に本件回数乗車券の外観形状を確認しておくことが重要である。本件回数乗車券の単券には,発行者である「東京市」の記載および「回数乗車券」の記載があるものの,乗車区間,有効期限,発行年月日および金額の記載はなかった(林順信『東京・市電と街並み』[1983]152頁の写真参照。なお,金額について,松本烝治「電車乗車券ノ性質ヲ論シテ岡松博士ノ説ヲ駁ス」〔『私法論文集』967頁〕)。この点,一般的に発行されている回数乗車券の単券に金額が記載されていることから,近時の多くの学説が本件回数乗車券の単券にも金額の記載があるものとして本件判決を論じているが,事実と議論の前提に齟齬があると思われる。単券に金額の記載がないのであるから,票券説,金銭代用(証)券説・・・は立論の根拠を欠くことになろう〔。〕(柴田207頁)

 


 「近時の多くの学説」の一例としては,次のようなものがあります。

 


  無記名回数乗車券については,包括的運送債権を表章した有価証券か,後日成立すべき運送契約を予想してその運賃の前払があったことを証明する金銭代用証券かで争いがある。このような無記名回数乗車券の法的性格を論じる実益としては,発効後運賃の値上りがあったときに,回数券の所持人が運送を請求するためには,追加払が必要か,そのような必要はないのかという形で問題になる。

  大審院は,市電の回数乗車券について,運送人である東京市は,その所持人に運送債務を負担するものではなく,証券を所持する乗客が乗車の際にその証券を提出する場合に乗車賃に代えてこれを受領する債務を負担するにすぎないとして,差額を支払わなければならないという後者の立場をとった(大判大正623日民録2335頁〔百選〔第5版〕102〕)。

 この問題については,無記名回数乗車券といっても,一律に解すべきではないであろう。東京市電の回数乗車券のように,乗車区間も通用期間も限定していないで単に金額のみを表示した回数乗車券については,その証券所持人と運送人との間に運送契約が締結されており,したがって回数乗車券が運送債権を表章しているとは解し難く,大審院の判例の立場を支持すべきであろう。しかし,これに対して,乗車区間も通用期限も限定したものについては,すでに所持人と運送人との間に運送契約が締結されたものと考えるべきであり,したがって追加払は必要ないと解すべきであろう。(近藤光男『商法総則・商行為法〔第5版補訂版〕』(有斐閣・2008年)223224頁。下線は引用者)

 


 近藤光男教授は,丁寧に,自説と共に柴田教授の前記辛口判例評釈を併読するように指示しています。

 ところで,柴田教授は,「本件回数乗車券の券面には発行者Y,および,乗車券である旨の記載があることから,債務者であるYがその営業している乗車区間の範囲内において電車運送をなすべき給付の約束を表示しているものと考えることができる(松本烝治「電車乗車券の性質に関して岡松博士に答ふ」〔『私法論文集』975頁〕)。筆者もこの立場に従い本件回数乗車券の法的性質は有価証券であると考える。」とされた上で,「なお,乗車区間の記載も金額の記載もなければ,どこからどこまでの運送債権を表章するか確定できないのではないかとする反論が予想されるが,当時の東京市電は全区間一律料金だったのでそのような記載がなくても問題はなかったのである。」と述べられていますが(柴田207頁),ここのなお書き部分は,両刃の剣ともなりそうです。「全区間一律料金」だったので当然のこととして区間の記載がなくても問題がなかったのだとするのならば,乗車賃が4銭であることも当然のこととして,回数券の単券に金額の記載がなくとも問題がなかったものといい得るであろうからです。

 


(4)乗合自動車乗車券に係る大審院の判例

 ところで,大審院は,昭和14年2月1日判決(民集18277頁)で,今度は乗合自動車の回数券(「発行者ノ名義其ノ回数乗車券ナルコト各停留所区間料金等ヲ印刷シ其ノ特定ノ宛名ヲ記載シ居ラサル」もの)について,「本件ノ如キ回数乗車券ハ運送業者ト公衆トノ間ニ他日成立スヘキ運送契約ヲ予想シ其ノ乗車賃ノ前払アリタルコトヲ証シ即チ乗車賃ニ代用セラルル一種ノ票券ニシテ之カ発行ニヨリ其ノ所持人トノ間ニ旅客運送契約又ハ其ノ予約成立スルモノニアラス右運送契約ハ唯公衆カ乗車ノ都度乗客ト運送業者トノ間ニ成立スルモノト解スルヲ相当トス之ト同趣旨ノ見解ハ当院判決ノ曩ニ判示セル所ニシテ(大正・・・6年2月3日判決参照)・・・本件ニ付敢テ別異ノ解釈ヲ容ルヘキ特殊ノ事情アルヲ見ス」と判示しています。市電の回数券における東京市の記載ほど横着ではなく,「各停留所区間料金等」まで記載されていましたが,なお「乗車賃ニ代用セラルル一種ノ票券」にすぎないとされています。「各停留所・区間」(上柳克郎「回数乗車券の性質」別冊ジュリ『運輸判例百選』(1971年)160頁)が記載されていても,依然として「運送契約上の(精確に言へば運送契約より生ずるものと同一の)権利」を表章した有価証券にはならないようです(なお,「料金」の記載があることだけでもって直ちに「乗車賃ニ代用セラルル一種ノ票券」にされたということではないでしょう。)。

 判例と学説が,真っ向から対立しているように見えます。

 


4 無記名有価証券性認定のための要件論

 


(1)大審院の立場

 ここで改めて注目すべきものと思われるのが,大審院の大正6年2月3日判決のうち次の部分です。

 


  是等票券を以て一種の無記名証券なりとし,之を発行したるYをして其所持人に対し運送の義務を負担せしむべきものと解釈すべきの問題に付きては,Yが内務省の認可を経て告示したる賃金表中此解釈を是認すべき何等の憑拠なく,此種の票券を以て無記名証券と看作すべき何等法律の規定なく,票券の内容も亦往復券・回数券たることを表示するに止まり,Yに於て運送義務を負担したることを表示すべき文言の記載あることなければ,他に其無記名証券性を肯定すべき事由の存せざる限りは,之を否定するを相当とす。

 


 大審院は,票券の無記名有価証券性を認めるのに慎重であり,契約におけるその旨の規定,法律の規定又は当該義務を負担した旨を表示する当該票券上の記載がなければ,容易には有価証券とは認めないという立場を採っているものと解し得る判示です。

 


(2)松本=岡松論争

 これは,松本=岡松論争における岡松博士の立場に近いもののようです。

 


  岡松博士は無記名証券たるには一定の形式を要すとし,鉄道乗車券,電車回数券の如き類は,此形式を缺くを以て無記名証券たることなしとす。是れ博士論文の中核にして,余の架空の謬想とする所なり。更に詳言すれば,博士は第一に無記名証券たる為めには,(一)一定の給付の約束,(二)所持人に弁済すべき約束,(三)債務者の署名又は記名を記載せるものたるを要すとし,其結果,乗車券類は此形式を具備せざるを以て無記名証券たることなしとし,第二に乗車券類は,若し其所持人に対して債務を負担する意思を以て発行せられたる場合に於ては,独逸民法第807条の特別規定に依り無記名票として無記名証券と同視せらるることを得べきも,此の如き特別規定なき我法律の下に於ては同一の効力を生ずることを得ざるものとす。(松本烝治「電車乗車券ノ性質ニ関シテ岡松博士ニ答フ」(1916年)松本『私法論文集』973974頁)

 


 岡松博士の無記名有価証券三要件は,ドイツ民法793条によるものとされます(「電車乗車券ノ性質ニ関シテ岡松博士ニ答フ」『私法論文集』974頁)。同条は,次のとおり。

 


 793 ある者が,当該証券(Urkunde)の所持人に一定の給付(eine Leistung)を約束する(所持人に対する債務文言(Schuldverschreibung))証券を発行した場合においては,同人から所持人は,当該証券について無権利者であるときを除き,約束に応じた給付を請求することができる。ただし,発行者は,無権利者である所持人に対して給付をしたときは,債務を免れる。

 2 記名(Unterzeichnung)の効力は,当該証券に記載された条件により,特別の形式の遵守にかからしめることができる。記名は,機械的に複製される署名(Namensunterschrift)をもって足りる。

 


「独逸民法は通常の無記名証券に上述の要件の定を為すが故に,乗車券,入場券の類に付て第807条の規定に依り特に無記名証券に関する多数の規定を準用する旨を定むるの必要を生じたもの」とされています(「電車乗車券ノ性質ニ関シテ岡松博士ニ答フ」『私法論文集』974頁)。ドイツ民法807条は,次のとおり。

 


807 債権者が記載されていない票券(Karten, Marken)又は類似の証券が,所持人に一定の給付をすることを同人が義務付けられる意思であるものとみなされる(sich ergibt)状況において発行者から交付された場合においては,第793条第1項並びに第794条,第796条及び第797条の規定が準用される。

 


松本烝治博士は,我が国の民商法にはドイツ民法793条に対応する規定がないことから,同法807条に対応する規定がなくとも,我が国においては「寧ろ所持人に対して義務を負担する意思を以て発行せられたる乗車券,入場券の類は多くは我法律の下に於ける真正の無記名証券なりとする直接方法を採」るものとしています(「電車乗車券ノ性質ニ関シテ岡松博士ニ答フ」『私法論文集』975頁)。「余が通常の鉄道乗車券又は問題の電車復券又は回数券を無記名証券なりとするは,其発行者が所持人に対して義務を負担する意思を以て発行したるものと認定するが故なり」というわけです(同976頁)。

しかしながら,この松本博士の論理の弱点は,発行者から「いやいやそんな意思はありませんでした」と否認されてしまうと窮してしまうことです。「独逸民法前の学説に依りて,積極的に所持人に弁済すべき旨の記載なきも,其所持人証券たるを得べきもの」(「電車乗車券ノ性質ニ関シテ岡松博士ニ答フ」『私法論文集』975頁)も,「証券面の文言又は発行に関する規約若くは慣習」ないしは「他の事情」によって認定されていたようです(同974頁)。発行者の意思の独断的「認定」だけではなかなか弱いでしょう。松本博士はまた,「我国に行はるる無記名社債券には、所持人に弁済すべき旨の明瞭なる記載を缺くもの少なからず存在するが如し。〔岡松〕博士の説に依れば,是等の社債券は無記名証券に非ざるものと為る。」とも反論していますが(同975頁),社債券については,その有価証券性について定める法令が存在しているところです。

 


5 鉄道の王国と長官の息子

軌道である路面電車(大正6年判決)及び乗合自動車(昭和14年判決)の回数乗車券について,大審院は松本烝治博士の無記名有価証券説を排斥しました。松本説は,学説の中にのみ生きて,判例には全く容れられないものなのでしょうか。否,松本烝治博士の父である荘一郎長官が準備した鉄道営業法の世界では,息子の説が生きることができます。「旅客ハ営業上別段ノ定アル場合ノ外運賃ヲ支払ヒ乗車券ヲ受クルニ非サレハ乗車スルコトヲ得ス」と規定する鉄道営業法15条1項があるのであって,鉄道と旅客との間においては,軌道や乗合自動車の場合のように「乗車契約は,乗車の時を以て成立するもの」というわけにはいかないことになっています。やはり,鉄道の乗車券は「鉄道をして運送を為さしむべき契約上の権利を表彰する有価証券」なのでしょう。鉄道営業法15条1項の規定が,鉄道の乗車券の無記名有価証券性の「何等法律の規定」たる根拠となるものでしょう。鉄道に係る当該解釈を「其儘之を〔軌道である〕電車の復券及び回数券に応用」しようとする試みは大審院の容れるところとはなりませんでしたが,鉄道の世界にまで軌道及び乗合自動車に係る大審院判例が跳ね返ってくるわけではありません。

鉄道営業法15条1項は,次のように説明されています。

 


鉄道運送契約の性質に付ては多少の議論ありて或は雇用契約の性質に属するものなりと云ふものあれとも普通法即ち民法に於ては請負契約の一種として之を認めたり蓋し運送契約は人又は物を目的地まて運送することを目的とする契約なれはなり(民法第632条)故に運送賃は其の運送を終了したるとき即ち人又は物の到達地に到達したるときに非されは之か請求を為すことを得さるなり(民法第624条及第633条)然れとも鉄道運送に付ては独り我邦のみならす各国に於ても運賃は乗車又は物品託送の前若は其の際に之か支払を為すへきものとし或は法令を以てし或は運送条件を以て之を規定すること殆と一般鉄道営業の慣例たり旧法即ち鉄道略則第1条に於ても(賃金の事「何人に不限鉄道の列車にて旅行せんと欲する者は先賃金を払ひ手形を受取るへし然らされは決して列車に乗るへからす」)と規定せり本条は之を襲用し従前の如く普通法の例外を認め本条第1項の規定を設けたるものなり即ち旅客は先つ運賃を支払ひて乗車券を受くるに非されば乗車するの権利なきものとす故に若し乗車券なくして乗車したる場合に於て運賃を免るるの目的に出てたるものなるときは50円以下の罰金に処せらる(第〔29〕条第1号)運賃を免るるの目的にあらすして全く乗車券を購求するの暇なく鉄道係員の認諾を得て乗車したる場合に於ては20銭以内の増払を請求せられ又其の認諾を得すして乗車したる場合に於ては普通運賃2倍以内の割増運賃を請求せらるるものとす(鉄道運輸規程第23条)然れとも鉄道に於て営業上別段の定め例へは乗車後に於て乗車券を発売し又は多人数乗車特約の場合に於て運賃の後払を認諾し又は特約にあらさるも乗車賃を後払とするの運送条件を提供しあるの場合の如きは増払又は割増運賃の支払を請求せらるることなくして乗車することを得るなり(『鉄道営業法註釈』(帝国鉄道協会・1901年)2930頁)

 


請負契約の成立を前提に,その報酬の支払時期についてまず特則が設けられたものと解するのが素直でしょう。「乗車券を受くるに非されば乗車するの権利なきものとす」ですから,「乗車するの権利」が乗車券に化体されているものでしょう。鉄道係員の認諾を受けても乗車券なしの乗車の場合には「20銭以内の増払」を請求されるのですから,「乗車契約は,乗車の時を以て成立する」のが正則であるわけはありません。鉄道営業法16条1項が「旅客カ乗車前旅行ヲ止メタルトキハ鉄道運輸規程ノ定ムル所ニ依リ運賃ノ払戻ヲ請求スルコトヲ得」とわざわざ規定しているのは,運送契約が既に成立しているからでしょう。「鉄道の詐欺又は強迫に因り乗車券を購求したる者又は乗車契約の要素に錯誤ありたる場合に於ては其の契約は取消又は無効となる」(帝国鉄道協会33頁)との表現は,「乗車券を買求むるに当りて旅客運送契約が締結せられ」ることを前提としています。鉄道営業法29条の罰則(「鉄道係員ノ許諾ヲ受ケスシテ左ノ所為ヲ為シタル者ハ50円以下ノ罰金又ハ科料ニ処ス/一 有効ノ乗車券ナクシテ乗車シタルトキ/二 乗車券ニ指示シタルモノヨリ優等ノ車ニ乗リタルトキ/三 乗車券ニ指示シタル停車場ニ於テ下車セサルトキ」)は,乗車券が「鉄道をして運送を為さしむべき契約上の権利を表彰する有価証券」であることを前提にしたものと解さなければ理解が難しいところです。

鉄道運輸規程(明治33逓信省令第36号)14条は,「乗車券ニハ通用区間及期限,客車ノ等級,運賃額並発行ノ日附ヲ記載スヘシ/特殊及臨時発行ノ乗車券ニ在リテハ前項ノ記載事項ヲ省略スルコトヲ得」と規定していました。これを見ると,前記東京市の路面電車の回数券は,堂々たる鉄道の乗車券と比べるといかにも横着でしたね。「本件回数乗車券に関しては,単券に金額も有効期限も記載しなかった発行者側の落ち度があまりにも大きく,このような迂闊な当事者を救済するために無理な理論を展開する必要はない」とも主張されるわけですが(柴田207頁),かえって鉄道の乗車券と同様に扱わない理由ともなります。

軌道と鉄道との違いにこだわるのも,いわゆる鉄道オタクの矜持でしょう。

 




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1 はじめに

 日本国憲法74条は,「法律及び政令には,すべて主任の国務大臣が署名し,内閣総理大臣が連署することを必要とする。」と規定しています。

 同条にいう主任の国務大臣の署名及び内閣総理大臣の連署とは何だ,ということが今回の主題です。

 例のごとく,またまた長大なものになってしまいましたが,御寛恕ください。

  ただし,お急ぎの方のために憲法74条の由来に関する本件小咄の主要点のみ述べれば,19462月のGHQ内における日本国憲法の草案作成作業段階においては,①同条の前身規定は,当初は「首相」による法令の公布に関するものであったこと及び②できあがった同条においては主任の国務大臣が署名して内閣総理大臣が連署するということで主従が逆転したような規定になっていますが,この逆転については,GHQ内において強い首相(a strong executive)を設けるべきだとする意見がある程度認められかけて条文が作成された後に逆転があって,連帯責任制の集団である内閣に行政権が属するものとする現行憲法65条等の条文ができた,という流れの中で解釈論を考える必要性があるのではないか,ということです。


2 政府の憲法74条解釈


(1)現行解釈

 憲法74条の署名及び連署は,官庁筋においては,次のように解されています。

 


・・・主任の国務大臣の署名が,当該法律又は政令についての執行責任(この場合の「執行」とは,憲法73条でいう「執行」と同様に,法律制定の目的が具体的に達せられるために必要と考えられるあらゆる措置をとることをいうと考えられる。)を明らかにするものであるのに対して,内閣総理大臣の連署は,内閣の首長であり,代表者である資格において,その責任を明らかにするためにするものである。内閣総理大臣も,その法律又は政令について「主任の国務大臣」である場合は,署名の順位は,内閣総理大臣を冒頭とし,その他の主任の大臣は,これに次ぐものとする取扱いである。・・・(吉国一郎ほか共編『法令用語辞典
<第八次改訂版>』(学陽書房・2001年)759頁)


・・・右の署名とは自らその氏名を記すことをいい,連署とは他の者の署名に添えて自らその氏名を記すことをいう。法律及び政令について,主任の国務大臣の署名及び内閣の首長たる内閣総理大臣の連署が必要とされるのは,法律にあってはその執行の責任を,政令にあってはその制定及び執行の責任を明らかにするためにほかならない。(前田正道編『ワークブック法制執務<全訂>』(ぎょうせい・1983年)26頁)


・・・「副署」は,憲法74条によつて法律及び政令についてされる主任の国務大臣の「署名」及び内閣総理大臣の「連署」とは,その性質を異にする。前者は,内閣の助言と承認があつた証拠としてされるものであり,後者は,法律及び政令の執行責任・・・を明らかにするためにされるものである。したがつて,法律及び政令については,まず主任の国務大臣の署名及び内閣総理大臣の連署がされた後,その公布をするについて更に天皇の親署に添えて内閣総理大臣の副署がされることが必要である(なお,公布されるべき条約についても,同様の取扱いがされており,憲法改正の際にも同様の取扱いがされるべきものであろう。けだし,憲法改正及び条約についても,法律及び政令の場合と取扱いを異にすべき理由はないからである。)。(吉国ほか・前掲643頁)


 法律及び政令を公布するに当たって必要とされる主任の国務大臣の署名及び内閣総理大臣の連署は,法令の末尾においてされる。(前田・前掲660頁)


 そもそもにさかのぼると,1946921日,第90回帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員会において,子爵松平親義委員の質疑に対する金森徳次郎国務大臣の答弁は,次のとおりでした。



・・・今回の法律及び政令と,是は天皇の御裁可を本質的には要しないものであります,公布は天皇の御権能に属して居りまするけれども,決定は天皇の御権能に属して居りませぬ,そこで国務大臣が署名すると云ふことは,在来の如く,
法律勅令の裁可に対する輔弼と云ふ意味を直接には持ち得ない訳でありますけれども,既に法律及び政令が出来ますれば,それに対して十分執行の責任を負はなければならぬのであります,法律に付きましては,是はまあ国会で出来ましたものでありますから,執行責任と云ふことに重点が置かれるものと思ふのであります,政令に付きましては,是は内閣が議決したものでありますが故に,其の方面の責任と,執行の責任と云ふものを明かにする何等かの形式上の要請があると思ひます,併し是は勿論署名したから責任が出るかと云ふことではありませぬけれども,署名した限りは,責任の所在は非常にはつきりして居る,詰り自分の知らない書類ではありませぬ,署名すれば必ず中身に付いて熟知して判断して居る筈でありますから,それで法律の場合には執行責任を明かにすることになり,政令の場合にはその制定と執行との両面に於て,責任を或意味に於て明かにする,斯う云ふ効果を持つものと考ふる次第であります(第90回帝国議会帝国憲法改正案特別委員会議事速記録第1941頁。原文は片仮名書き)


 法律の執行責任については,従来は,大日本帝国憲法6条(「天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス」)に関して「併し法律の執行を命ずる行為は,各個の法律に付いて別々に行はるのではなく,官制現在の各省設置法等に対応に依つて一般的に命ぜられて居るに止まる。官制に依り法律を執行すべき職務を有つて居る者は,各個の法律に付き特別の命令あるを待たずして,当然にその執行の任に当るのである。」とされていたのですが(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)178頁),敗戦を経ると,やはり,国務大臣以下敗戦国政府の行政各部がちゃんと法律を執行するのか信用ならぬ,署名せよ,ということになったのでしょうか。

 また,金森国務大臣の答弁がところどころにおいて,「ものと思ふのであります」,「あると思ひます」,「或意味に於て」等断定口調になり得ていないのは,同国務大臣が自ら起草したわけではないことによる心のひるみの現れでしょうか。

 この点,確かに,大日本帝国憲法改正案の帝国議会提出に先立って,政府の法制局内部においても,見解は当初から一定のものとして確立してはいなかったようです。


(2)政府解釈確立までの揺らぎ


ア 1946年4月

 大日本帝国憲法改正案審議に向けた,19464月の法制局の「憲法改正草案逐条説明(第4輯)」には,いわく。



70日本国憲法74

 本条は法律及び政令の形式の一端を規定致したものでありまして,此等には,すべて主任の国務大臣が署名し尚内閣総理大臣が連署すべきものと致したのであります。これは,特に政令については,現行制度の下に於ける副署と同じ様に国務大臣の責任を明ならしめるものであると共に,国の法律及び政令としての体を整備せしめんとするものであります。


 (なお,以下,日本国憲法制定経緯に係る関係資料については,国立国会図書館ウェッブサイト電子展示会「日本国憲法の誕生」参照。関係資料がこのように使いやすい形で提供されている以上は使わなければならず,便利であるということはかえって大変になるということでもあります。) 


 「現行制度の下に於ける副署と同じ様に国務大臣の責任を明ならしめるものである」というのは,「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」と規定する大日本帝国憲法552項の規定に係る国務大臣の責任と同じ,ということでしょうか。しかし,同項の副署に係る国務大臣の責任は,統治権の総攬者にして神聖不可侵である天皇に対する輔弼責任でしょう。上記「逐条説明」の文言は,日本国憲法下では,ちょっと問題のある言い回しのようです。

 帝国憲法552項については,「副署を為した大臣はそれに依つて当然その責任者であることが証明せられるのであるが,副署に依つて始めて責任を生ずるのではなく,輔弼したことに因つて責任を生ずるので,輔弼者としてその議に預つた者は仮令副署せずとも,その責を免ることを得ないのである。此の点に於いても,憲法義解に『副署ハ以テ大臣ノ責任ヲ表示スヘキモ副署ニ依テ始メテ責任ヲ生スルニ非サルナリ』と曰つて居るのは,正当な説明である。」(美濃部・前掲519-520頁),「副署は輔弼を外形的に証明するもので,輔弼の範囲と副署すべき範囲とは当然一致しなければならぬことは,言ふまでもない。」(同516頁)と説明されていました。『憲法義解』の解説は,「大臣の副署は左の二様の効果を生ず。一に,法律勅令及其の他国事に係る詔勅は大臣の副署に依て始めて実施の力を得。大臣の副署なき者は従て詔命の効なく,外に付して宣下するも所司の官吏之を奉行することを得ざるなり。二に,大臣の副署は大臣担当の権と責任の義を表示する者なり。蓋国務大臣は内外を貫流する王命の溝渠たり。而して副署に依て其の義を昭明にするなり。」となっています。

 「特に政令」といわれているのは,政令という法形式が日本国憲法によって初めて導入されたからでしょう。


 また,同じく19464月付けの法制局「憲法改正草案に関する想定問答」(第6輯)には日本国憲法74条の規定について,次のように記されていました。



問 法律の署名は,いかなる意味をもつか。

答 法律は,原則として,両院の可決のあつたときに成立する(5559)。

 そこでこの署名は法律成立後の手続となるのであるが,法律公布の際,天皇に対し補佐と同意に任ずる者は,内閣であるし,又法律を施行し,その実施のための政令を制定するのも,内閣であるので,成立後主任の大臣に副署させ,成立の事実を確認して,次の事実に移らせることとしたのである。


問 政令はこの署名のあつたときに成立するか。

答 然り,この点法律と異なる


問 主任の国務大臣の意義如何

答 各国務大臣は,それぞれ主務をもつことを予定した規定である。従つて各省大臣の制か,これに近き制度が新憲法でも考へられてゐると見ねばならない。なほ内閣総理大臣もその主務については,ここにいはゆる主任の国務大臣であることは,言をまたない。


問 内閣総理大臣の連署はいかなる意味か。

答 内閣総理大臣は内閣の首長だからであるとともに,またその行政各部の指揮監督権に基くものである。


 2番目の問答では,政令は主任の国務大臣の署名(及び内閣総理大臣の連署)があった時に成立するものとしていますが,この見解は,帝国議会における前記の金森国務大臣答弁においては放棄されています(「既に法律及び政令が出来ますれば」,「政令に付きましては,是は内閣が議決したもの」)。 

 1番目の問答には,「法律公布の際,天皇に対し補佐と同意に任ずる者は,内閣であるし」及び「副署」という文言があります。憲法74条の署名及び連署は天皇の公布行為に対する助言と承認の証拠であるという方向での解釈のようです。ここでの副署の語は,「西洋諸国のcounter-signature, contreseing, Gegenzeichnungの制に倣つたもので,副署とは天皇の御名に副へて署名することを謂ひ,単純な署名とは異なり,御名の親署あることを前提とするのである。」という解説(美濃部・前掲514頁)における意味で使われているものでしょう。


イ 1946年6月

 現在は,天皇に対する内閣の助言と承認に係る内閣総理大臣の副署と憲法74条の署名及び連署とは別のものであるという整理になっていますが,当該整理に至るまでには,なかなか時間がかかっています。

 19466月の法制局の「憲法改正草案に関する想定問答(増補第1輯)」には,なお次の記述(「備考」の部分)があります。



問 国務大臣が,天皇の行為に副署する規定をなぜ置かぬか。(現行
帝国憲法55Ⅱ参照

答 副署といふ制度は,内閣の助言と承認のあつたことの公証方法として今後もこれを残すことは考へられる。しかしかかる形式的制度は,憲法に明文ををく必要はなく,公式法とでもいつた法律で規定すれば十分である。

(備考)

 なほ法律及び政令については,70日本国憲法74の署名及び連署と公布の副署とをいかに考へるか研究を要する。


 憲法改正草案は19464月から5月にかけて既に枢密院審査委員会にかけられていたのですが,6月になっても依然考え中です。ちなみに,当該審査委員会においては,日本国憲法74条の署名及び連署についての直接の議論はありませんでした。


3 学説の憲法74条批判

 憲法74条の署名及び連署について,政府当局は苦心の末現行解釈にたどり着いたわけですが,苦労するということは実はそもそもの条文に問題があるということで,せっかくの苦労にもかかわらず,結局同条はよく分からん,という次のような学説の批判があります(宮沢俊義著・芦部信喜補訂『全訂 日本国憲法』(日本評論社・1978年))。



 法律および政令に対し,「主任の国務大臣」が署名することが,どういう意味をもつかは,かならずしも明確でない。

 法律についていえば,法律の制定者は国会である。したがって,制定者として署名するならば,国会の代表者としての衆議院議長が署名するのが適当であり,「主任の国務大臣」の署名は適当でないと考えられる。法律を執行することは,内閣の職務であるから,その法律の執行の責任者を示すことが趣旨であるならば,その内閣の代表者としての内閣総理大臣が署名することが適当と考えられるであろう。本条が特に「主任の国務大臣」の署名を必要としているのは,内閣の指揮監督のもとにおいて,その法律の執行を分担管理する責任者としての署名ということになるのであろう。(582頁)


 政令は内閣が制定するものであるから,制定者を明らかにするためには,内閣の代表者としての内閣総理大臣の署名が適当であると考えられる。それに対して「主任の大臣」の署名を必要とするのは,法律の場合についてのべられたと同様の趣旨と解するほかはない。(583頁)


 本条の定める「署名」または「連署」は,「主任の国務大臣」および内閣総理大臣にとって義務であり,これを拒否することは許されない。法律または政令は,それぞれ国会または内閣によって制定されるものであり,それらによって議決された以上,完全に成立したものである。本条に定める「主任の国務大臣」および内閣総理大臣の「署名」および「連署」は,まったく形式的なものにすぎず,これを拒否することはできないものと見るべきである。(584頁)


・・・「主任の国務大臣」または内閣総理大臣の署名または連署の有無が,その効力に影響をおよぼし得るものと解するのは妥当ではない。本条のいう「主任の国務大臣」の署名および内閣総理大臣の連署は,単に公証の趣旨をもつだけであり,それが欠けたとしても(実際問題としては,ほとんど生じ得ないことであるが),その効力には関係がないと見るのが正当であろう。(584頁) 


 かように,公布文における天皇の署名および内閣総理大臣の副署のほかに,本条による署名および連署が必要とされる理由は,十分とはいえないようである。

 ・・・要するに,本条の趣旨は十分に明確とはいいがたい。

 さきに指摘されたように,もしそれが制定者による公証の意味であるならば,法律の場合は,国会を代表して衆議院議長が署名するのが相当であろうし,政令の場合は,内閣を代表して内閣総理大臣が署名するのが相当であろう。また,執行の責任者としての公証の趣旨であるならば,行政権の主体である内閣の代表者としての内閣総理大臣が署名するのが相当であろう。すくなくとも,まず内閣総理大臣が署名し,第二次的に,主任の国務大臣が署名(連署)するほうが合理的なようにおもわれる。(585頁)


4 憲法74条の制定経緯


(1)1946年3月以降の案文の変遷

 法令における変な条文というのは,畢竟,その制定経緯に原因があります。

 そこで,日本国憲法74条の由来をさかのぼって行きましょう。

 同条の規定は,194632日の日本政府の憲法案(「松本烝治国務大臣案」)において既に次のようにあります。



77条 凡テノ法律及命令ハ主務大臣署名シ,内閣総理大臣之ニ副署スルコトヲ要ス


 同月4日から5日にかけてのGHQにおける法制局の佐藤達夫部長とGHQ民政局(Government Section)との折衝においては,「同年213日のGHQ草案66条(同年36日の要綱第70)問題ナシ 松本案ニアリ」ということで(佐藤達夫「三月四,五両日司令部ニ於ケル顛末」),その結果,日本政府の憲法改正草案要綱(同月6日)では次のとおりとなっています。



70 法律及命令ハ凡テ主務大臣署名シ内閣総理大臣之ニ副署スルコトヲ要スルコト


 現在の第74条の姿となったのは,194645日の口語化第1次草案で,これが同月17日に憲法改正草案として発表されています。次のとおり。



70条 法律及び政令には,すべて主任の国務大臣が署名し,内閣総理大臣が連署することを必要とする。


 英文は,次のとおり。



All laws and cabinet orders shall be signed by the competent Minister of State and countersigned by the Prime Minister.


 上記憲法改正草案70条(現行憲法74条)と同年36日の要綱とは,「命令」が「政令」に代わったところが大きな変化ですが,これは同年42日に法制局幹部がGHQに民政局次長のケーディス大佐を訪問して了解を取ったようで,同日の訪問に係る「要綱の一部訂正の入江・佐藤・ケーヂス会談の覚」に挟まれた英文記載紙に"Following the discussion at the GHQ we have studied the draft constitution and desire to present the following observations:……Article 70. "Orders" is understood to be "cabinet orders"."とタイプ打ちされていました。


 結局,憲法74条の淵源は,1946213日に日本政府に交付されたGHQ草案66条にあって,「松本烝治国務大臣案」以降それが踏襲されているわけです。松本国務大臣が既に呑んでいたのですから,同年34日から5日にかけての折衝で「問題ナシ」であったのは当然でした。


(2)1946年2月のGHQ草案


ア 案文

 1946213日のGHQ草案66条は,次のとおりでした。



Article LXVI. The competent Minister of State shall sign and the Prime Minister shall countersign all acts of the Diet and executive orders.


一切ノ国会制定法及行政命令ハ当該国務大臣之ヲ署名シ総理大臣之ニ副署スヘシ(外務省罫紙の日本政府仮訳) 


イ ピーク委員会における案文作成

 GHQ民政局のPublic Administration Division内における憲法改正草案起草のための執行部担当委員会(The Committee on the Executive. Chairman: Cyrus H. Peake)での検討の跡を見てみましょう(Hussey Papers: Drafts of the Revised Constitution)。

 なお,同委員会委員長のサイラス・ピークは,コロンビア大学教授であったそうで(児島襄『史録 日本国憲法』(文春文庫・1986年(単行本は1972年))270頁),インターネットを調べると,同氏は,1933年には『フォーイン・アフェアーズ』誌に"Nationalism and Education in Modern China"という論説を発表しており,1961年にはコロンビア大学の企画に応じて,日本占領の思い出についてインタヴュー記録を残しているようです。1946223日にGHQ民政局に初めて出頭してそこで働き始めたドイツ出身のオプラー博士の回想によれば,ピーク博士は「親切で進歩的な学究であり,すぐに友達になった。彼は仕事初めの私を助けてくれた。彼は後に,かなりの期間国務省の学術研究課長をつとめ,その後カリフォルニア大学で教職についた。」とあります(アルフレッド・オプラー著,内藤頼博監訳,納谷廣美=高地茂世訳『日本占領と法制改革―GHQ担当者の回顧』(日本評論社・1990年)15頁・21頁)。

 さて,憲法74条に相当する条項のピーク委員会における最初の案は,タイプ打ちで次のとおりでした。



Article 8. Acts of the legislature and Executive Orders shall be promulgated by the Prime Minister after they are signed by him and countersigned by the competent Minister of State.

(第8条 立府部制定法及び執行部命令は,Prime Minister(首相)によって署名され,及び主任の国務大臣によって副署された後に,首相によって公布される。)


 これが,手書きで次のように直されて,日本国政府に交付されたGHQ草案になったようです(手書き部分はイタリック)。



Article 
6.  Acts of the Diet and Executive Orders shall be signed by the competent M. of State & countersigned by the P.M.

(第6条 国会制定法及び執行部命令は,主任の国務大臣によって署名され,及び首相によって連署されるものとする。)


 民政局のホイットニー局長に提出された報告書では,清書されて,次のようになっていました。



Article XXXIII. Acts of the Diet and executive orders shall be signed by the competent Minister of State and countersigned by the Prime Minister.


 単純に見ると,元々は法律及び命令の公布に関する規定ですね。執行部担当委員会では当初,法律及び命令はPrime Minister(首相)が公布(promulgate)するものと考えていたようです。

  (なお,"Prime Minister"をどう訳すかも実は頭をひねるところで,伊東巳代治による『憲法義解』の英訳では,内閣総理大臣は"Minister President of State"であって"Prime Minister"ではありません。そして,最初の日本政府のGHQ草案仮訳ではPrime Ministerは「総理大臣」であって,「内閣総理大臣」ではありませんでした。また,議院内閣制の本家である英国の首相のofficial title"First Lord of the Treasury"であると同国庶民院はウェッブサイトで紹介しており,10 Downing StreetFirst Lord of the Treasuryの官邸であると同国政府のウェッブサイトは説明しています。)

 これが,主任の国務大臣の署名及び首相の副署ないしは連署(countersign)のみに関し規定し,公布については言及しない形の条項となったのは,法律及び政令は天皇が御璽を鈐して公布(proclaim)するという天皇,条約及び授権担当委員会(Emperor, Treaties and Enabling Committee)の次の条項(手書きで"1st draft"と記入あり。前掲Hussey Papers: Drafts of the Revised Constitution)との調整の結果,修正されたものでしょうか。



Article V. The Emperor's duties shall be:

To affix his official seal to and proclaim all Laws enacted by the Diet, all Cabinet Ordinances, all Amendments to this Constitution, and all Treaties and international Conventions;以下略

(第5条 天皇の義務は,

国会によって制定されたすべての法律,すべての内閣の命令,すべての憲法改正,並びにすべての条約及び国際協定に御璽を鈐し,並びに布告すること。以下略


 GHQによる日本国憲法草案の作成作業の開始に当たって194624日に行われた民政局の冒頭会議の議事記録(Summary Report on Meeting of the Government Section, 4 February 1946)の自由討議の概要(Points in Open Discussion)として,「憲法の起草に当たっては,民政局は,構成,見出し等(structure, headings, etc.)については現行の日本の憲法に従う。」,「・・・新しい憲法は,恐らく英国のものほど柔軟なものであるべきでない。なぜならば,英国のものは,憲法的権利についての単一かつな基本的な定義(single and cardinal definition of constitutional rights)を有していないからである。しかし,フランスのものほど精細に起草されたものではあるべきではない(but less precisely drawn-up than the French)。」などという発言が記録されていますから(児島・前掲269頁によればケーディス大佐の発言),GHQとしては,少なくとも成文憲法として,大日本帝国憲法及びフランスの憲法は参照したようです。

 そうなると,GHQ草案66条は,やはり,「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」と規定する大日本帝国憲法552項の規定を引き継いだものと解すべきでしょうか。同項の伊東巳代治による英訳は,次のとおり。



All Laws, Imperial Ordinances and Imperial Rescripts of whatever kind, that relate to the affairs of the State, require the countersignature of a Minister of State.


 公式令61項によれば「法律ハ上諭ヲ附シテ之ヲ公布ス」るものとされ,同条2項は「前項ノ上諭ニハ帝国議会ノ協賛ヲ経タル旨ヲ記載シ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ国務各大臣若ハ主任ノ国務大臣ト倶ニ之ニ副署ス」と規定していました。帝国憲法552項は,法律の公布に係る同憲法6条と関連した規定だったわけです。

 フランス第三共和政の1875225日の公権力の構成に関する法律3条は,大統領は「両議院によって可決されたときは法律を公布し,それら法律に注意し,かつ,それらの執行を確保する。」,「共和国大統領のすべての文書は,大臣によって副署されなければならない。(Chacun des actes du président de la République doit être contresigné par un ministre.)」と規定していました。同法6条によれば,大臣が政府の一般政策について両議院に対して連帯して責任を負うものとされる一方,大統領は国家反逆罪の場合以外は無答責とされているので(Le Président de la République n'est responsable que dans le cas de haute trahison.),同法3条の大臣の副署は,輔弼の副署ということであったようです。

 

 法律の公布をだれが行うかは,ピーク教授が気にしていたところです。GHQにおける日本の憲法草案起草作業開始直後の194625日の民政局の会議で,次のようなやり取りがありました(Ellerman Notes on Minutes of Government Section, Public Administration Division Meetings and Steering Committee Meetings between 5 February and 12 February inclusive)。



 ピーク氏が,執行権者(the executive)のいくつかの権限について,憲法に書き込むべきかどうかの問題を提起した。例えば,執行権者が首相の任命を宣すべきことを明記すべきかどうか?執行権者がすべての法律に押印し,それらを彼の名で公布する(promulgate)のか?ケーディス大佐は,これらの比較的重要でない権限は明記されるべきものではないと発言した。もしそれらの事項が憲法に書かれてしまうと,将来の手続変更は正式の憲法改正によってしかできないことになると。ハッシー中佐は,天皇又は執行権者は立法府に責任を負う内閣(Cabinet)の助言と承認とに基づいてのみ行為するということが明確に示されれば,国璽を鈐すること(the affixing of the state seal)は儀礼的手続と同様のものになる,と指摘した。


 アルフレッド・R・ハッシー中佐は,主に会社法専攻の民事弁護士であったそうです(児島・前掲270頁)。同中佐の人物は,前記オプラー博士によれば,次のようなものでした。いわく,「私の直接の上官であるハッセーは,軍に入る前はマサチューセッツで弁護士をしていたが,海軍の制服を誇りを持って着ていた。彼は有能な法曹であり,なかなか洗練された文章を書いたが,私には彼の日本人への接し方があまりにも権威主義的で,少し威張りすぎるように思えた。彼は英米法の教育を受け,そこで経験を積んできたので,大陸法や日本法の体系に対する理解を欠いており,この点で私が役に立つことになることは明らかであった。私のハッセーに対する関係はまずいものではなかったが,どちらかというと職務上のつきあいに限られていた。」と(オプラー20-21頁)。

  ピーク教授の委員会は,ハッシー中佐の意見を採り入れて,まず天皇ではなく内閣の首相(Prime Minister)を執行権者(the executive)として法律の公布者とした上で,当該公布に対する責任を明らかにするために主任の国務大臣による副署(countersigned by the competent Minister of State)を要するものとする第1次案を作成したのでしょうか。これは一つの仮説です。


ウ 強い首相の個人責任か内閣の集団責任か(エスマン中尉対ハッシー中佐)

 当初は首相が署名して主任の国務大臣が副署するものとされていたピーク委員会の案が,主任の国務大臣の署名があってそれに首相が連署するものという主従逆転の形になったことについては,GHQ草案作成の最終段階である1946212日の運営委員会(Steering Committee)会合における, 修正後草案の見直しに係る下記の逆転劇の前段階におけるピーク委員会における整理について考えるべきものと思われます。

 当該逆転劇の前提段階における事情としては,上記会合に先立つ同月8日の運営委員会とピーク委員会との打合せにおいて,ピーク委員会のミルトン・J・エスマン中尉が「執行権(the executive power)は,彼の内閣(his Cabinet)の首長としての首相に明確に属すべきものであって,集合体(a collective body)としての内閣に属すべきではない。」と強い執行権者(a strong executive)を求めて頑張り,ケーディス大佐及びピーク教授は同意はしなかったものの,ケーディス大佐は譲歩はして,「明確に他に配分されていない執行権(the residual executive power)は首相に属すべきものとし,執行権の章の最初の条は"The executive power is vested in the Cabinet."から「執行権は,内閣の首長としての首相に属する。(The executive power is vested in the Prime Minister as the head of the Cabinet.)」となるように改めればよい」と勧告していたところです。

  ケーディス大佐の上記譲歩を得て,ピーク委員会は勇躍,最終報告書作成に向けて,次のような修正案を起草します(以下この修正を「エスマン修正」といいましょう。)。

 まず,執行権の所在。執行権は,内閣にではなく,「他の国務大臣とともに内閣を構成する首相」に属するものとされます。


 The executive power is vested in the Prime Minister who together with other Ministers of State shall constitute the Cabinet. In the exercise of its power the Cabinet shall be collectively responsible to the Diet.

(執行権は,他の国務大臣とともに内閣を構成する首相に属する。その権限の行使において,内閣は,国会に対し連帯して責任を負う。)


 執行権者は首相なので,現行憲法731号(内閣は「法律を誠実に執行し,国務を総理する」。)及び第6号(内閣による政令の制定)に相当する規定は,主語が異なり,内閣の首長としての首相が主語になっています。


 In addition to other executive responsibilities, the Prime Minister as the head of the Cabinet shall:

  ...

 Faithfully execute laws and administer the affairs of State;

  ...

  Issue orders and regulations to carry out the provisions of this Constitution and the law, but no such order or regulation shall contain a penal provision;

 ...

(他の執行上の任務のほか,首相は,内閣の首長として,・・・法を誠実に執行し,及び国務を総理する・・・この憲法及び法律の規定を実行するために命令及び規則を発する。ただし,当該命令又は規則には罰則を設けることができない・・・)


 以上のような条項が設けられた一方,現行憲法74条に相当する条項は,既にこの段階で現在の姿に近い形に出来上がっていました。


 Acts of the Diet and executive orders shall be signed by the competent Minister of State and countersigned by the Prime Minister.

(国会制定法及び執行部命令は,主任の国務大臣によって署名され,及び首相によって連署されるものとする。)


 「エスマン修正」によれば,法の執行及び執行部命令の発出は内閣ではなくその首長である首相の任務なので,上記条項における主任の国務大臣の署名は,閣外に向けた意義を有するものというよりも,まず首相向けのものでしょう。国会に対する内閣の連帯責任とも関係はするのでしょうが,第一には閣内統制手続ということになりそうです。この考え方の元となるべき発想は,「エスマン修正」前のピーク委員会の当初の原案における,首相と国務大臣との関係についての次のような規定に既に表れていたというべきでしょう。



 The Prime Minister and his Cabinet discharge the following functions:

  ...

  See that the laws are faithfully and efficiently enforced. The efficient management of public business by the Ministers of State shall be his ultimate responsibility.

  ...

(首相及びその内閣は,次の事務を行う。・・・法律が誠実かつ効率的に施行されるようにすること。国務大臣による公務の効率的運営について,首相は最終責任を負う。・・・)


 Each Minister of State shall be guided by and personally responsible to the Prime Minister for the administration of his department.

(各国務大臣は,その主任の行政部門の管理について,首相の指示を受け,かつ,個別に首相に責任を負う。)


 ピーク委員会の案においては,章名は「執行権(The Executive)」とされていたので,その点執行権者が首相であっても問題がなかったところです。この点,GHQ草案以降は章名が「内閣(The Cabinet)」になってしまい,「エスマン修正」的考え方の余地が無くなっています。

 同月12日の運営委員会で,ハッシー中佐が,上記「エスマン修正」を覆します(児島・前掲294頁参照)。



 金曜午後の「執行権」についての会合に出席していなかったハッシー中佐が,文言の修正に対して重大な反対を表明した。ハッシー中佐は,我々は国会に連帯して責任を負う内閣制度(a cabinet system collectively responsible to the Diet)を設立しなければならないものであって,首相であろうが天皇であろうが,独任制の執行権者によって支配される政府の制度(a system of government dominated by the individual executive)を設立してはならない,と主張した。集団的ではなく個人的な責任(individual rather than collective responsibility)は,SWNCC228に反するばかりではなく,日本において物事がなされる流儀に全く一致しないのである(entirely inconsistent with the way things are done in Japan)。執行権の章の第1条は,最初の形の「執行権は,内閣に属する。(The executive power is vested in a Cabinet.)」に戻された。


 日本人は集団主義者であるから,個人責任には耐えられないだろう,ということでしょうか。

 ハッシー中佐は,親切な人だったのでしょう。

 ハッシー中佐による上記再修正によって振り子が逆方向に大きく振れて首相権限縮小の方向で見直しがされたので,法律命令すべてを首相一人が個人責任を負う形で署名するのは精神的,更には肉体的に耐えられないだろうから,主任の国務大臣にそれぞれ署名を割り振って首相は連署にとどまるということにすれば集団責任的でよいではないか,という発想で現行憲法74条の文言をあるいは解釈し直すべきことになったのではないか,という仮説が,ここで可能になるように思われます。(とはいえ,そもそもの「エスマン修正」をも踏まえて考えると,現在の政府の憲法74条解釈は,なかなか落ち着くべきところに落ち着いているようでもあります。)

 ちなみに,主任の国務大臣は,GHQ草案では,現行憲法の条項におけるものよりも国会に対してより直接的に責任を負い得るような形になっていました。すなわち,日本政府の仮訳で説明すると,「国会ハ諸般ノ国務大臣ヲ設定スヘシ(The Diet shall establish the several Ministers of State.)」(第552項),「内閣ハ其ノ首長タル総理大臣及国会ニ依リ授権セラルル其ノ他ノ国務大臣ヲ以テ構成ス(The Cabinet consists of a Prime Minister, who is its head, and such other Ministers of State as may be authorized by the Diet.)」(第611項),「総理大臣ハ国会ノ輔弼及協賛ヲ以テ国務大臣ヲ任命スヘシ(The Prime Minister shall with the advice and consent of the Diet appoint Ministers of State.)」(第621項)のような条項が存在していました。

 なお,SWNCC228はアメリカ合衆国の国務・陸軍・海軍調整委員会(State-War-Navy Coordinating Committee)のGHQあて指令文書「日本の統治体制の改革(Reform of the Japanese Governmental System)」(19461月7日改訂)で,そこでは,天皇制が維持される場合には,代議制立法部の助言と同意によって選ばれた国務大臣らが,立法部に連帯して責任を負う内閣を組織すべきもの(That the Ministers of State, chosen with the advice and consent of the representative legislative body, shall form a Cabinet. )とされていました(4.d.(1))。ここで国務大臣を任命する者としては,やはり通常の立憲君主制の例に倣い,天皇が想定されていたのでしょうか。憲法上のPrime-Ministershipは,ピーク委員会の発意によるものだったようです。SWNCCは,形式的とはいえ執行権者が天皇である場合を想定しており,執行権者を民主的正統性を持つPrime Ministerにする可能性までは考えていなかったとすれば,エスマン中尉的な強力な首相制度も,前提が異なるのであるからあえてSWNCC228に反するもの(hostile)ではないと解する余地があったように思われます。そうであれば,1946212日の運営委員会において現行憲法65条の規定を実質的に確定したハッシー中佐の議論の結局の決め手は,「日本において物事がなされる流儀」だったということが言い得るようにも思われます。

  ところで,エスマン中尉は,1918915日ペンシルヴァニア州ピッツバーグ市生まれで当時は27歳。実は問題の1946年2月12日には職務命令で日光観光中でした(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川文庫・2014年(単行本は1995年))317頁,267-268頁)。「彼は前途有望で分析的思考をする爽やかで率直な男であり,ずっと公務員をしていた。」とはオプラー博士によるエスマン中尉評です(オプラー23頁)。現在はコーネル大学の政治学名誉教授として,まだ存命のようです。((注)2015年2月7日に96歳で亡くなりました。)


5 おわりに:現代日本に生きる「良き伝統」


(1)自由民主党改憲草案

 ここで,「占領体制から脱却」した「自主憲法」を制定すべく2012427日に自由民主党が決定した同党の日本国憲法改正草案を見ると,第65条は「行政権は,この憲法に特別の定めのある場合を除き,内閣に属する。」と,第74条は「法律及び政令には,全て主任の国務大臣が署名し,内閣総理大臣が連署することを必要とする。」となっています。

 第74条は平仮名を漢字に改めただけですね。(しかし,非常事態における法律に代わる政令について,特別の規定は不要なのでしょうか。)

  第65条の改正については,これは,会計検査院及び地方自治の存在との関係をはっきりさせるためだけのものだというのならば,現在と実質的な変りはないということになります。しかし,これは,新たに規定されようとしている内閣総理大臣の権限,すなわち国防軍の最高指揮官としての権限,衆議院の解散の決定権及び行政各部の指揮監督・総合調整権との関係で改められるものとされています。これらの権限は,内閣総理大臣が内閣とは独立に行使するものとされているものです。確かに,天皇による衆議院の解散に対する「進言」は,内閣ではなく内閣総理大臣が単独でするという規定になっています(しかし,衆議院解散の進言について「内閣総理大臣がその責任を負う」とまで書いてないのはなぜでしょうか。天皇が責任を負うわけにはいかないので,やはり内閣が連帯責任で責任をかぶるのでしょうか。それとも,どうせ総選挙後に総辞職するからいいんでしょうか。)。そうであれば,内閣総理大臣は,憲法上,内閣の首長及び国務大臣であるだけの存在ではないことになるのでしょうから,第5章の章名が「内閣」のままでよいことにはならないのではないでしょうか。「内閣総理大臣及び内閣」とでも改めた方がよいのではないでしょうか。

 ただし,第5章の章名に変更がない以上は,上記の例外を除けば,いずれにせよ,「日本において物事がなされる流儀」である集団責任主義は,やはり,「和を尊び」,「互いに助け合う」我が国のなお「良き伝統」であるもの(自由民主党改憲草案の前文参照)として,少なくとも形式的には原則として尊重されているように思われます。

 ところでちなみに,現在の諸六法においては,日本国憲法及び大日本帝国憲法のいずれについても上諭が掲載され,それぞれ副署した吉田内閣及び黒田内閣の全閣僚の名前が冒頭において壮観に並ぶということになっています。しかしながら,現在の運用を前提にした現行憲法74条が憲法改正の場合にも類推適用されるとすれば,成立した憲法改正に係る天皇の公布文に副署者として名前が出るのは内閣総理大臣だけで,閣僚の署名は末尾に回るということになります。しかも,日本国憲法の改正手続に関する法律1411号などを見ますと,憲法改正案とは別にその新旧対照表が存在するものとされていますから,憲法の一部改正案は「改める」文によって作成されるもののように思われます。すなわち,そうであると,憲法の一部改正も「溶け込み方式」によるわけでして,苦心の末日本国憲法を改正し,各閣僚が力を込めてその末尾に署名をしてみても,憲法がいったん「溶け込み」を受けてしまうとそれらは行き場を失い,六法編集者によって,公布文ともども無情にも切り捨てられる運命をたどることになるようです(憲法改正の附則中の必要部分は編集者の判断を経て掲載されるでしょうが。)。「溶け込み」を受けつつも,「マッカーサー憲法」は形式においてなお健在というような出来上がりの姿になります。内閣の全精力を傾けてせっかく憲法を改正しても,だれの名前も六法には残らずに,結局相変わらず吉田内閣の閣僚名が冒頭に鎮座するというのでは,ちょっと悔しく,がっかりですね。そうであれば,全部改正の形式を採るべきか(しかし,自由民主党自身シングル・イシューごとの改正になろうと考えているようで,全部改正ということにはならないようです。また,国会法68条の3),又は帝国憲法時代の皇室典範が皇室典範増補という形で改正を受けたように,日本国憲法増補というような形式を考えるべきか。確かに,少なくとも,「日本国憲法の一部を改正する憲法案」という議案名や「日本国憲法の一部を改正する憲法」という題名は,ちょっと耳慣れないですね(「憲法改正」ということになるのでしょう。)。憲法96条2項の「この憲法と一体を成すものとして」という規定も考慮する必要があります。アメリカ合衆国憲法の改正は, 増補方式ですね。

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(黒田清隆銅像・札幌市大通公園)

(2)和を尊び,互いに助け合う日本人

 ところで,世界に冠たるそのharakiriが米国でも有名なはずの日本人が,個人責任主義者であると錯覚されなかったのはどういうことだったのでしょう。ハッシー中佐は,日本人のハラキリは,個人責任の結果ではなく,実は集団主義の意地悪のしわ寄せの結果なのではないか,と見るような,うがった観察眼を持つ嫌味な人物だったのでしょうか。しかし,そのような嫌味な知性の働きは,少なくとも今の日本社会では,パワハラでしょう。

 和を尊び,互いに助け合う日本人。

 しかし,皆が優秀,正直かつ優しく麗しくて,仕事は順調,したがって,割拠独善反目嫉視悪口告げ口サボタージュ,出る釘を叩き打ち,足を引っ張るなどは思いもよらず,そもそも鬱病になるような人など更に無い理想社会のお花畑にあっては,因果な話ではありますが,弁護士は居場所が無くなってしまうかもしれません。痛し痒しです。しかし,ハッシー弁護士ならば,「そりや洋の東西を問わず,杞憂だよ。日本人には独特なところもあるけど,だからといって特別上等なわけじゃないよ。」と威張って嫌味に笑ってすましてくれたような気がします。

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