Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

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 空沼岳山頂(札幌市南区) 
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 空沼岳山頂から見る恵庭岳
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 空沼岳から見る札幌岳,その奥に余市岳(札幌市最高峰)


1 『山の大尉』と山岳兵とキスリング・ザック

 『山の大尉』という山の歌があります。元はイタリアの歌(Il testamento del capitano)だったもので,訳詞に「イタリア皇帝」などが出てきます。

 死体を五つに切れとかグロいなぁ,死体の一部を貰ったって迷惑なだけだし嬉しくないぞ,薔薇の肥やしにするといったってかえって山の植生を乱し高山植物に悪影響を与えることになるではないか,そもそも登山(ザング)()が無ければ山で満足に行動できないのは当然であるリソルジメントで成立したサルジニア王家のイタリア統一国家はイタリア「王国」であってイタリア「帝国」ではないぞ,などと突っ込むところの多い歌でしたが(訳詞者の牧野文子様,ごめんなさい。)これをあえて調子を外して歌うのが,筆者の属していたワンダーフォーゲル部ではかわいらしくておしゃれであるものとされていました。

 山の大尉殿の部下は,山岳兵(alpini)。

他に娯楽の無い山の中で何度も『山の大尉』をがなり立てているうちに,筆者らも自分たちがサンガクヘーであるような気持ちになっていました。

 互いに「〇〇ヘー」「××ヘー」と呼び合っているうち,大量の食糧・装備をキスリング・ザックに入れて背負って(重量の圧迫で肩のあたりの神経がやられるのでしょう,腕が動かなくなる「ザック麻痺」というのがありました。)長期間道なき山のその奥で藪また藪を漕ぎ消耗(ショーモー)する夏合宿中,動きが鈍くなって「果て」かけた仲間に対して,「△△ヘー ハ シンデモ ザツク ヲ ハナシマセン デシタ」と呼びかけたり,あるいは疲労の中で苦笑しながら自ら言ったりすることがはやることになりました。無論これは,木口小平の故事にならったものです。

 

  キグチコヘイ ハ テキ ノ

  タマ ニ アタリマシタ ガ,

  シンデモ ラツパ ヲ

 クチ カラ ハナシマセン

  デシタ。

 

 この木口喇叭手の壮烈な戦死があったのが,日清戦争の陸上における初戦(我が騎兵第五大隊第一中隊による1894年7月26日の七原南方におけるロバ捕獲戦を除く。)たる1894年7月29日の成歓の戦いだったのでした。

 

2 今回の記事の対象

 筆者の母方の曽祖父の残した「由緒」書きにおける下記日清戦争関係の記載に係る考証話の第5回は,成歓・牙山の戦いを取り扱います。果たして筆者の曽祖父は,命の限りラッパを吹く木口小平のそのラッパの響きを聞いたのでしょうか。

 

明治26年〔1893年〕11月1日徴兵ニ合格シテ騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ〔第1回はここまで〕

明治27年〔1894年〕6月朝鮮国ニ東学党蜂起シ韓国居留民保護ノ目的ヲ以ツテ(どう)年6月11日混成旅団ヲ編成セラ(ママ)大島義昌少将ヲ旅団長トシ平城盛次少尉ヲ小隊長トシ選抜セラレテ山城丸ニ乗舶シ宇品港出帆玄海灘ヲ経テ仁川ニ向フ此ノ日山陽鉄道広島駅()()開通ノ日ナリ〔第2回はここまで〕

明治27年8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル

〔第3回はここまで〕仝7月23日京城ノ変ニ出張爾来〔前回はここまで〕成歓ニ牙山ニ〔今回はここまで〕平壌義洲鴨緑江鳳凰城(ママ)馬集崔家房(ママ)家台竜頭塞興隆勾瀇嶺海城牛荘田庄台ト転戦ス

明治27年9月15日大本営ヲ広島旧城エ進メ給ヘリ

明治28年〔1895年〕6月5日講和トナリ凱旋

仝年1112日日清戦役ノ功ニ依リ瑞宝章勲八等及び金50円幷ニ従軍徽章下賜セラル 

明治29年〔1896年〕1130日善行証書ヲ授与セラレ満期除隊トナル

 

3 「シンデモラツパヲ」その1:木口小平

 

(1)安城渡の戦いとラッパの響き

 

ア 佳龍里附近(安城渡)の戦い

 成歓の戦いにおける木口小平の戦死の様子が小学校児童にどのように教えられていたかというと,1912年5月に宝文館から出た東京高等師範学校訓導相島亀三郎の『尋常小学修身書例話原拠』という書物があります。同書の「第17 忠義」の「例話 木口小平」の項においては(1014頁),我が成歓攻撃右翼隊(我が軍は漢城から南下して素沙場を経て更に南の成歓に向かい,その際右翼隊及び左翼隊(大島義昌旅団長はこちら)の二手に分かれて進んだので,右翼隊は西側の部隊になります。)の佳龍里(安城川を越えたその南方)附近における戦闘(一般に「安城渡の戦い」といわれています。)の模様を,参謀本部の『明治廿七八年日清戦史 第1巻』(1904年8月)に拠って述べて(相島1112頁),その後に当該戦闘における木口二等卒の戦死状況の描写を付加する順序となっています(相島1314頁)。

 参謀本部『明治廿七八年日清戦史 第1巻』による佳龍里附近の戦闘に関する叙述は次のとおりです(140142頁)。なお,適宜句読点濁点を補うとともに,混成旅団報告第21号「混成旅団戦闘詳報」(アジア歴史資料センター)で補充します(青字)。

 

  又,右翼隊ハ,歩兵第二十一聯隊第十二中隊(長,大尉松崎直臣)〔原書の小文字2行の割注を括弧書きに改めています。〕ヲ以テ前衛(司令官,大尉山田一男(第三大隊長代理))ト為シ,自余ノ諸隊〔「第十第七第九中隊及ヒ工兵中隊(1小隊欠)」(詳報)〕ハ本隊トナリ,29日午前2時(すぎ)素沙場ヲ出発シ銀杏亭高地ニ向ヒ全州街道ヲ前進ス(たま)(たま)満潮ニ際シ,(こと)ニ河川,沼沢多クハ氾濫シ為メニ道路ト水田トヲ弁別スル(あた)行進極テ困難ナリ(しか)シテ尖兵(第十二中隊ノ第二小隊)(かろ)(ママ)テ佳龍里〔「秋八里北方(ママ)6百米突(メートル)ノ「キリン」洞」(詳報)〕附近ニ達スルヤ(午前3時20〔「3時5分」(詳報)〕),(たちま)チ前方約30米突(メートル)ニ於ケル諸家屋内(および)家屋ノ間ヨリ猛烈ナル射撃ヲ受ケタリ〔「敵2大隊(ばかり)(旗2本〔「」の文字を記した旗〕)家屋ニ防禦編制ヲナシ我尖兵10米突(メートル)(ばかり)近接スルヲ待チテ不意ニ急射撃ヲ為セリ(詳報)(より)テ尖兵ハ(ただち)ニ現場(屋後ノ畑地)ニ伏臥シ(これ)ニ応戦ス(第十二中隊長松崎大尉ハ,行進路ヲ確カメンガ為メ(あたか)モ尖兵ノ位置ニ()(この)(とき)自ラ(これ)ヲ指揮セリ〔略〕。)〔「前衛中隊ハ(ただち)ニ田畔ニ散開シ急射撃ヲ行」(詳報)〕

  交戦約10分ノ後,尖兵長山田少尉〔歩兵第二十一聯隊第十二中隊小隊長陸軍歩兵少尉山田四郎(参謀本部・附録第14ノ2)〕()傷ツキ(つい)松崎大尉敵弾ヲ受ケテ(たお)兵卒ニモ(また)数名ノ死傷アリ(しょう)時ニシテ本隊ハ尖兵ノ右側後方ニ達シ(その)(かん)(せい)ヲ揚テ前進スルヤ(本隊ハ,尖兵ト敵ト接触シ()ルヲ認メタルガ故ニ危険ヲ(おもんぱか)リテ射撃ヲ為サズ。(ただ)(ただ)喊声ノミヲ発シテ前進シタリ。),敵兵ノ過半ハ射撃ヲ本隊ノ方向ニ転ゼリ〔「本隊の3中隊ハ漸次右翼ニ至リ工兵中隊ハ後方河川ノ堤防ニ拠レリ敵ノ射撃ハ漸次(さか)ンニナレリ」(詳報)〕須臾(しゅゆ)ニシテ第十二中隊ノ第一,第三小隊ハ佳龍里ノ北方約100米突(メートル)ノ地〔参謀本部142143頁間の地図を見ると尖兵の左後方〕ニ達シ,射撃ヲ開始セリ。〔相島12頁の紹介はここまで〕

  (これ)ヨリ先キ右翼隊司令官武田中佐〔歩兵第二十一聯隊長武田秀山歩兵中佐〕前方ニ銃声ヲ聞クヤ(ただち)ニ其戦況ヲ観察シタル後()(おの)レノ身辺ニ()リシ一上等兵ニ十数名ノ兵ヲ附シテ応援セシメ本隊ニハ右ニ迂回シテ敵ノ左翼ヲ攻撃スキヲ命(この)時,歩兵中尉時山龔造ハ,約3分隊ノ兵員ヲ率テ敵ノ左翼ニ向ハントシ,右方ニ折レ細径ヲ経テ前進シ,一水壕ノ(その)前方ニ(よこたわ)レルニ会シ徒渉シテ進マント欲シ,()自ラ(おどりいり)テ水中ニ入ルヤ部下相続キテ壕心ニ到ル。(この)()ト水多ク,且ツ,河床泥深ク,遂ニ進退ノ自由ヲ失ヒ,中尉以下23名此ニ溺死ス。)。3時30(すぎ)本隊ノ第七中隊及第十中隊(へん)列シテ右方ニ展開シ(つい)前進シ第十二中隊ノ右方ニ達シテ急射撃ヲ行ヒ〔「3時25分第十第七中隊各1小隊ヲ散兵線ノ右翼ニ増加シテ急射撃ヲナセリ」(詳報)〕,4時ニ至リ本隊ノ3中隊ハ敵ノ左翼ニ向テ突撃ヲ行フ。敵兵支ル(あた)南方水田中ヲ跋渉シテ成歓方向ニ敗走ス第十二中隊ハ(すなわ)チ部落ノ南端ニ出テ追撃射撃ヲ行ヘリ〔「(ママ)45分本隊ノ3中隊ハ敵ノ左翼ニ向テ突撃ヲ行ヒ敵兵秋八里ニ退却ス(この)際暗黒ニシテ彼我(ひが)ノ区分判然セス為メニ充分射撃ヲナス(あた)ハサリシ」(詳報)〕

  (この)間武田中佐ハ工兵中隊ヲ招致シ佳龍里部落内ニ敵兵ノ有無ヲ捜索セシテ(つい)諸隊ヲ集合ス(佳龍里ニ在リシ清国兵ハ約百名ニシテ,戦闘少時前成歓ヨリ派出シタルモノナラン。)〔「4時5分集合ヲ命シ各家屋内ヲ捜索セシメ敵兵2名ヲ生獲シタリ/(この)戦闘間カ右翼隊ニ死傷者ヲ生セシ(もっとも)多キ時(なり)」(詳報)〕(しか)シテ午前5時20分,第七中隊(長,大尉田辺光正)ヲ前衛ニ任ジ,当初ノ目的地タル銀杏亭高地ニ向テ佳龍里ヲ出発ス。

 

ラッパの響きの存在は,参謀本部の『明治廿七八年日清戦史』にも混成第九旅団の「混成旅団戦闘詳報」においても言及されていません。

 

イ ラッパの響き

ただし,佳龍里附近の戦いでラッパの響きを聞いたとの従軍記者の報告があります。西川宏『ラッパ手の最後―戦争のなかの民衆―』(青木書店・1984年)において,次のように紹介されています(133135頁)。

 

  大阪毎日新聞の高木利太特派員は,素(ママ)出発のときは右翼隊の後尾にあったが,歩行中水田に転落したので,わらじの緒をしめている間に一行にはぐれ,走って追い着いたところは先鋒軍(前衛である松崎中隊であろう―西川)の後尾であった。彼が危険な位置に来てしまったことを後悔したとき,

    数発の銃声数条の火線を飛ばして暗黒を破るとみるや轟然響を放って発銃は一秒一分愈(さかん)にして火条は右往左往又た縦横無尽開て破裂するあり走って消失するあり高く飛んで雲を磨するあり低く落ちて地に入るあり

     〔略〕

    兎角する程に余の身辺にヒュヒュと弾丸の走る音して危険極りなし暫くは道路に横臥して弾丸を避けたるも時を経るに従って飛散益甚し則ち慌てて水田の中に飛入って腰部を湿すを意とせず畦に拠って身体を隠し時に首も伸して戦争の光景如何に勝負は如何と眺めたり

    銃声漸く減じたる頃ろ喇叭の楽高く聞ゆ吶喚(とつかん)次で大に起る・・・銃声は再び回復されたり縦横左右に飛奔する火条は再び現はれたり然れども暫時にして亦た衰へぬ敵か味方か如法の暗なれば判然せねど一方の射撃は頗る減少せり之を見て取ったる一方は〇〇〇〇より銃声一度に響くこと再度此急激なる発銃は全く戦の終りを告げ後は彼処に五六発此所に三四発又も〇〇〇〇の進行喇叭は一層高く響き吶喚益高し而して銃声は全く憩ひぬ時は天漸く明にして山現はれ家現はれ森林見ゆ(『大阪毎日新聞』8月9日付)

時に5時であった。高木記者は,この戦闘の開始を3時40分と記しているが,『戦史』は3時20分としている。後者の方が正しいと思われる。〔略〕

東京日日新聞の黒田甲子郎特派員は,このとき右翼枝隊に付随していたというから,本隊すなわち第九中隊か第七中隊の中にあったと思われるが,橋を渡ろうとした一刹那,銃撃が始まった。

    我が枝隊は画策未だ全からずして開戦を促され一時喫驚せし色ありしも予てより斯くあるべしと覚悟せしことなれば之に応じて接戦すること殆ど1時間・・・敵兵の銃声多きと我が軍隊の地理に熟せずして掩蔽物(えんぺいぶつ)を利用すること(あた)はざるとの二点よりして我が軍隊に死傷多からんと思ひ居たりしに暫くにして((ママ))翼枝隊の一部は少く((ママ))進し(ちょ)水中に陥りたる兵士十数名は最も憐なる態にて退き来たるを以てこは必竟枝隊の敗戦と見受けられたり遺憾何ぞ極まらん何がな回復の策もあれがしと独語しつる折柄,我が軍隊が吶喊の声は天地も撼かさんまでの響きしたり我進軍喇叭の音は銃声霹靂(へきれき)の中にも最も朗かに聞えたり吶喊(こもご)も響きて音声稍遠ざかり敵の発射漸く減じたり(『東京日日新聞』8月14日付)。

そしてこのとき東の空が明るくなっている。黒田はこの戦闘を「殆ど1時間」と記しているが,時間を正確にはかっていないのであるから,ただ感じからいっているにすぎない。

 

 参謀本部の『明治廿七八年日清戦史』によれば,右翼隊の本隊(第二十一聯隊第十,第七及び第九の3中隊)による吶喊がまずあり,その後になってまた当該本隊による最終的な突撃があったということですから,これは高木記者の2度「吶喚」及びラッパ吹鳴があったとの証言(「銃声漸く減じたる頃ろ喇叭の楽高く聞ゆ吶喚(とつかん)次で大に起る」及び「〇〇〇〇の進行喇叭は一層高く響き吶喚益〻高し而して銃声は全く憩ひぬ時は天漸く明にして」)と符合するようです。1回目の「吶喚」及びラッパ吹鳴が「霎時ニシテ本隊ハ尖兵ノ右側後方ニ達シ其喊声ヲ揚ケテ前進スルヤ(本隊ハ尖兵ト敵ト接触シ在ルヲ認メタルカ故ニ危険ヲ慮リテ射撃ヲ為サス唯〻喊声ノミヲ発シテ前進シタリ)敵兵ノ過半ハ射撃ヲ本隊ノ方向ニ転セリ」の場面に対応し,2回目の「吶喚」及びラッパ吹鳴が「4時ニ至リ本隊ノ3中隊ハ敵ノ左翼ニ向テ突撃ヲ行フ敵兵支ル能ハス南方水田中ヲ跋渉シテ成歓方向ニ敗走ス」の場面に対応するわけでしょう。そうであれば,木口小平は,「吶喊」し,「突撃」をした右翼隊本隊を構成する三つの中隊である歩兵第二十一聯隊の第十,第七又は第九中隊のいずれかに所属するラッパ手であったということになりそうです。


(2)木口小平の戦死

しかしながら,相島亀三郎の『尋常小学修身書例話原拠』における木口小平戦死の描写は次のとおりです(1314頁)。

 

  第二十一聯隊附松崎大尉は,第十二中隊を以て前衛とし,闇夜に乗じて,成歓の城塁さして進み行く,木口小平は,其尖兵となり,勇気を奮ひて前に立ち,盛に突進の喇叭を吹奏す,敵の打出す砲弾は益々激しき中を,我は僅に二十余人のみにして如何ともなし難し,木口小平は,二等卒の身にありながら,勃然たる勇気抑へ難く,敵前五六間の処に進み出て,進め進めと吹奏して,我軍の勇気を振興せしむ,我軍は此勇気に励まされて突進し,遂に敵兵を破る。時に今まで吹き続けたる喇叭の音は俄かに絶えければ,怪しみて之れを見るに,小平は敵弾に中りて勇ましき戦死を遂げたるなりき。其死骸を取片くるに及びてよく見るに,小平は喇叭をしかと握り,之れを口に当てたる儘正しき姿勢をくづさずして斃れ居たり。人之れを見て感嘆せざるはなかりき。嗚呼,忠烈なる小平,死に至るまで己れの任務を尽したる,誠に幾千歳の亀鑑となり,長へに護国の神たらん。小平は実に岡山県川上郡成羽村の産なり。

 

 なお,相島亀三郎の『尋常小学修身書例話原拠』の記述は,上記に続いて直ちに「第19 うそをいふな」と警告します(14頁)。

 さてさて,木口小平は第十二中隊の兵卒でありました。(なお,長岡常男『木口小平』(木口小平伝記刊行所・1932年)5051頁には「第五師団司令部保管の歩兵第二十一聯隊戦死者名簿には左の如く記載し明確に小平の偉勲を証拠立てゐる。」としつつ「歩兵第二十一聯隊第十一(ママ)中隊喇叭卒/木口小平/安城渡に於て左胸部銃創貫通即死」との記載がされていますが,これは校正が甘過ぎます。歩兵第二十一聯隊第十一中隊は,成歓の戦いの当時は遠く仁川兵站守備隊に属していました(参謀本部127頁)。)

 しかし,相島訓導の記述は,まずい。「第二十一聯隊附松崎大尉は,第十二中隊を以て前衛とし,闇夜に乗じて,成歓の城塁さして進み行く,木口小平は,其尖兵となり,勇気を奮ひて前に立ち,盛に突進の喇叭を吹奏す」が,まずまずい。素沙場からラッパをずっと吹いていたのでしょうか。せっかく「闇夜に乗じて」いるのに,にぎやかに「盛に突進の喇叭を吹奏」していたのでは部隊行動の秘匿性はぶち壊しです。混成第九旅団の「混成旅団戦闘詳報」にも,「全団(ばい)(ふく)メ」とあったところです。また,第十二中隊はラッパの響きと共に佳龍里に「突進」したわけではなく,いきなり清国兵の銃撃を受けて不意をつかれたところでした(「一時喫驚」)。

さて,佳龍里附近の戦闘においては,尖兵の第二小隊は射すくめられて「直ニ現場(屋後ノ畑地)ニ伏臥」したのでしょうが,後方の第一小隊及び第三小隊は「直ニ田畔ニ散開」,すなわち高木記者のように「慌てて水田の中に飛入って腰部を湿すを意とせず畦に拠って身体を隠し」たように思われます。「敵の打出す砲弾は益々激しき中を,我は僅に二十余人のみにして如何ともなし難し」ということにはなるのですが,「木口小平は,二等卒の身にありながら,勃然たる勇気抑へ難く,敵前五六間の処に進み出て,進め進めと吹奏して,我軍の勇気を振興せしむ,我軍は此勇気に励まされて突進し,遂に敵兵を破る。」というのはどうでしょう。闇夜でラッパを吹けば当然そこに銃撃は集中し,しかも「敵前五六間」の至近距離であればあっという間に絶命でしょう。「我軍の勇気を振興せしむ」というよりは,その無残さは,畑地に又は田畦に伏臥していたであろう我が軍の兵士らに更に恐怖を与え,士気を阻喪せしめるだけではなかったでしょうか。そもそも,隊長の命令によらず,「勃然たる勇気抑へ難く」勝手に進軍ラッパを吹奏してしまってよいものでしょうか。また,現実には第十二中隊だけの「突進」で佳龍里の清国兵を追い払うことができたわけでもありません。

なお,相島訓導の表現からは,「成歓の城塁」の戦いにおいて木口小平が戦死したものとしているものとも読み得ますが,成歓駅自体を落としたのは旅団長率いる左翼隊であって,牽制役の右翼隊ではありません(参謀本部148頁)。

木口小平の屍体検案書が広瀬寅太編『岡山県人征清報国尽忠録』(岡山県愛国報公義会・1894年)に掲載されているそうですが(西川118頁),この「屍体検案書で注目すべきことは,「左胸乳腺の内方より心臓を貫き後内((ママ))に向ひ深く進入せる創管を認」め,死因を「左胸留丸銃創」と記していることである。弾が当たったのは咽喉ではないのである。そして弾丸が心臓が貫いている以上は即死と判断せざるをえない。」ということでした(西川146147頁)。更にいえば,伏臥の姿勢であるときに撃たれたわけではなさそうです。高い姿勢であるときに胸を撃たれたということになると,不意をつかれた最初の銃撃の時であるとも考えられます。しかしそれで直ちにパタリと斃れてしまっては,「シンデモ ラツパ ヲ クチ カラ ハナシマセン デシタ。」にはならず,困ったことになります。


4 「シンデモラツパヲ」その2:白神源次郎

 

(1)当初の白神源次郎説

とはいえ,木口小平が「シンデモ ラツパ ヲ クチ カラ ハナシマセン デシタ」状態で戦死していたかどうかは,最初からはっきりしていなかったようです。1894年8月9日付け『東京日日新聞』の「戦闘遺聞」欄で「喇叭卒の一名は進軍喇叭を吹奏しつつ敵弾に斃れ斃れ,猶ほ管を口にし」たとの挿話が紹介され(西川31ページ),「29日我兵安城渡に向ふ我喇叭卒某進軍行を鼓吹すること劉喨(りゅうりょう)たり(たまた)ま飛丸あり彼が胸部を撃つ彼倒れて尚鼓吹を(とど)めず瞑目絶息に至り初めて吹奏を絶つ」と『日清戦争実記』第2編(博文館・1894年9月10日)の88頁(「凛然たる勇烈兵士の亀鑑」)に記事が出たラッパ手は,当初は白神源次郎であるとされていたのでした(なお,この氏は,「しろがみ」ではなく「しらが」と読むそうです(西川151頁)。)。

 

 成歓の役第五師団第廿一聯隊正に進軍の喇叭を奏す兵士銃を()つて突進し両軍砲声相交はる忽ち一丸飛来つて喇叭手白神源次郎(二十五年)の胸部を貫ぬく鮮血淋漓(しりえ)(どう)と倒れたれども白神は毫も屈する色なく手に喇叭を放さず喨々として凄まじき進軍喇叭の声を絶たずされども深痛(ふかで)に弱りて呼吸いよいよ迫り吹奏断続其声(いと)の如く次第々々に弱り行きて吹奏止むとき彼は已に絶息して最も名誉の戦死を為したりされば在韓将卒は皆其の勇猛義烈を称して哀惜殊に深かりしが此程其遺髪郷里備中国浅口郡船穂村大字水江に到着したるを以て去4日其葬儀を施行したり当日は浅口郡役所より吏員数名出張して之に臨み会葬者は村役塲吏員一同及び同村小学校教員生徒等無慮4百余名に及び祭文を朗読するもの十数名にして老幼婦女何れも感涙に(むせ)ばぬはなかりしと云ふ(『日清戦争実記』第4編(1894年9月29日)83頁「戦死喇叭手の葬儀」)

 

 「在韓将卒は皆其の勇猛義烈を称して哀惜殊に深かりし」とはいえども,1894年8月15()日付け大島義昌混成旅団長発参謀総長宛て臨着第412号の同年7月29日成歓駅の戦闘に係る戦死傷者名簿(アジア歴史資料センター)においてはなぜか「白神源太郎」となっていて「源次郎」となってはいません。肝腎の戦死者名の取扱いで早速これですから,最初から種々の混迷が予期され得たところでした。(ちなみに,臨着第412号においては,戦死者名「木口小平」はそのままです。なお,「田上岩吉」という第二十一聯隊の戦死者名がそこにあることについては考えさせられます。「田上岩吉」は,7月23日の「京城ノ変」で死亡した同聯隊の兵卒の名前ではなかったでしょうか。同姓同名の兵卒が二人いてどちらも運悪く相次いで死亡したのでしょうか。)

 1895年になると,ラッパ手=木口小平説が出てきています。

 

  成歓の役名誉の戦死を遂げたる喇叭卒は白神源次郎氏にあらずして木口小平氏なるとの説あるより,此頃或人同氏の郷里なる岡山県備中国川上郡成羽村に赴きて其遺族を訪ひしに,其戦死の当時附属の隊長及び其屍体を撿案したる軍医より送越したる報告,慰問状,撿案書等あるも,過日遺族救与金を請求するの際村長に托して悉く之を其筋に差出したるより之を一覧するを得ざりしも,同村役塲員及び遺族の語る処に拠れば,此役木口氏は安城の川を難なく押渡り,岸辺に立ちて音も朗かに進軍の譜を吹奏しつ〻ある折しも,敵弾飛来て其胸部を貫きたれども,氏は屈する色なく依然吹奏して止まず,既にして傍なる一士官を顧み「敵は如何に」と問ひ,士官は「敵は敗れて逃走せり」と答へしかば,木口氏は「然るか」との最期の一言を残して其儘斃れたることは慥に其文中にありしと云ふ。(『日清戦争実記』第40編(1895年9月27日)4142頁「喇叭卒木口小平」)

 

(2)白神説から木口説へ

 1897年には,東京九段の軍事教育会というところが出していた『軍事新報』が「本部調査」の結果として,白神源次郎は専ら銃卒として服務していたとして,ラッパ手=木口小平説への統一を図ります(「木口小平ト白神源次郎」)。

 

  戦場吶嗟ノ際訛伝ノ世ニ流布スルハ古来甚タ其例ニ乏シカラス不幸ニモ成歓駅ノ戦ニ於テ又一ノ訛伝ヲコソ伝ヘヌ然リ世人ハ喇叭手白神源次郎ナルモノヲ知ラン然レ𪜈(とも)未ダ喇叭手木口小平ナルモノヲ知ラサルヘシ否ナ白神ノ当時喇叭手ニアラスシテ彼レハ精鋭勇敢ナル銃卒タリシ(こと)ヲ知ラサルヘシ余輩ハ殆ント功績ニ於テ優劣ナキ此2死者ノ為メニ其事実ヲ世ニ紹介スルノ責アルヲ覚ユ余輩ハ真実吹奏死ニ至リシ木口小平ノ為メニ又此重キ事実ノ為メニ沈黙ヲ守ル可ラサルヲ感セスンハアラサルナリ

  請フ暫ク余輩ヲシテ謂ハシメヨ隊中兵卒間ニ於テハ喇叭手教育ヲ受ケシモノヲ呼フニ多クハ単ニ喇叭ト称シ而シテ概ネ其喇叭手ニ服務スルト銃卒ニ服務スルトヲ問ス之ヲ以テ修羅ノ街ノ常トシテ訛伝ハ此間ニ胚胎セシナラン聞ク白神ハ性活溌ニシテ頗ル勇敢ナリシヲ以テ率先奮闘実ニ美事ナル打死ヲ為セリト然レ𪜈之カ為メニ此ノ重キ名誉ノ行為者タル木口小平ノ名ヲ埋没スルハ余輩ノ忍ハント欲スルモ忍フ能ハサル処ナリ木口ハ岡山県川上郡成羽村ノ人ニシテ明治2512月1日徴兵トシテ歩兵第二十一聯隊第十二中隊ニ入隊シ喇叭手トナル其諸演習ニ於ケルヤ敏捷奇智ノ才ナキモ然カモ胆力剛気ハ他人ニ抜ンヅ

   〔以下略〕(『軍事新報』第1号(1897年6月12日)15頁)

 

  白神源次郎ハ岡山県浅口郡船穂村ノ人ニシテ日清戦役ニ際シ予備トシテ歩兵第二十一聯隊第九中隊ニ入ル彼ハ現役ノ時ハ喇叭手タリシモ当時ハ都合ニ依リ銃卒ト為レリ彼ハ行状方正ニシテ而シテ頗ル元気モノタルヿハ衆ノ知ル処ナリシ之ヲ以テ平素勤務ニ勉励ナルノミナラス戦塲ニ於テハ一層ノ勇気ヲ現ハシ戦塲ノ最先登ニアリテ各兵ノ模範タリシヿハ又衆ノ知ル処ナリシ茲ニ於テカ喇叭手ノ戦死シタルヲ伝フルモノアルニ会スルヤ其別ニ木口小平ナルモノアルヲ知ラスシテ彼レノ平素ヨク勇武ナリシヲ知ルモノカラ遂ニ速断ニモ白神源次郎ノ名ヲ伝ヒシモノナルヘシ以テ彼レカ如何ニ忠勇ナリシカヲ想ヘ

  猶ホ余輩ノ処説ヲ確カムル為メ歩兵第二十一聯隊山田中尉ヨリ某大佐ヘノ書翰中ノ一節ヲ左ニ掲ク

  明治27年7月29日成歓役ニ於クル喇叭吹奏者ハ左記理由ニ依リ木口小平ト断定仕候

   一白神源次郎ハ現役服務中ハ喇叭手ナリシモ充員召集セラレテハ喇叭手ニ非ラス歩兵第二十一聯隊第九中隊ニ属シテ銃卒タリ故ニ成歓ノ役ニ於テ喇叭ヲ所持セス

   一成歓ノ役戦死シタル喇叭手ハ只木口小平一人ニシテ他ニ喇叭手ノ負傷者スラ一人モナシ

   一木口小平ト同中隊同小隊ナル竹田国太藤本徳松ノ目撃セシ所ニ依レハ木口小平ハ劇戦ノ間喇叭ヲ吹奏シ遂ニ戦死シタルヿ明カナリ(別紙)

   一木口小平ノ死後尚喇叭ヲ握リツヽアリシハ前項事実ト其動作ノ勇敢ナリシヲ証スルニ足ル

     30年4月20日     山 田 四 郎

御下問相成候木口小平儀ハ安城渡会戦ノ際中隊長松崎大尉殿ノ御側傍ニ在リテ丁度進撃号音吹奏ノ折柄適々敵ノ銃丸中リテ濠辺ニ倒レ尚喇叭ヲ奏シ絶命ノ後チ水中ニ斃レ込シ者ニシテ其死躰ハ右手ニ喇叭ヲ握リタル儘ニ水中ニ有之候ヲ第二小隊第四分隊ノ兵卒藤本徳松竹田国太ハ現ニ其ノ傍ニ在リテ実見致セシ者ニ御座候此段申上候也

   4月20日       藤 本 軍 曹

     山田中尉殿

          (『軍事新報』第2号(1897年6月19日)1213頁)

 

 白神源次郎が当時喇叭手でなかったことは分かりますが,思わせぶりな「率先奮闘実ニ美事ナル打死」の様子がなおも不明です。

 成歓の役における歩兵第二十一聯隊の下士兵卒戦死者29名(参謀本部・附録第14ノ1)のうち戦死した喇叭手は木口小平一人であるとしても,それだけでは戦死の際ラッパを吹奏していたかどうかは分かりません。藤本軍曹作成の書面にしても,死体が濠の水中にあったなどというところは妙に詳しいのですが,屍体検案書上は心臓を貫かれたはずの木口小平が即死していないことになっていて,なかなか信用性が苦しい「目撃証言」です。

 

(3)白神源次郎溺死説

 ところで白神源次郎の「率先奮闘実ニ美事ナル打死」の様子については,1932年に歩兵第二十一聯隊将校集会所が発行した『我等のほこり』において,「聯隊の戦死者名簿には明に次の如く記載されて居る。」として「白神源(ママ)郎,歩兵第二十一聯隊第九中隊喇叭兵明治27年7月13(ママ)日千秋里にて溺死。」と発表されています(25頁)。何と,溺死ですか。その死体は,水中にあるところを発見されたということなのでしょう。しかし,『我等のほこり』の当該記述については,「私は「聯隊の戦死者名簿」なるものは全く信用できないものであり,それは偽文書か,あるいはもともと存在しない架空の文書ではないかと思う。」と酷評されています(西川124125頁)。死亡日付が変ですし,「千秋里という地名については,中村紀久二氏の詳しい調査があって,結局そのような地名は少なくとも成歓付近には存在しないということが言える(中村,1977年〔「二人のラッパ卒の謎」望星1977年2月号〕)」等不審な点があるからであるとされています(西川124頁)。

 しかしながら,佳龍里附近の戦いにおいて我が軍には確かに溺死者が出たところです。「是時歩兵中尉時山龔造ハ約3分隊ノ兵員ヲ率テ敵ノ左翼ニ向ハントシ右方ニ折レ細径ヲ経テ前進シ一水壕ノ其前方ニ横レルニ会シ徒渉シテ進マント欲シ先ツ自ラ躍テ水中ニ入ルヤ部下相続キテ壕心ニ到ル此壕固ト水多ク且ツ河床泥深ク遂ニ進退ノ自由ヲ失ヒ中尉以下23名此ニ溺死ス」という事態が発生したことは参謀本部の『明治廿七八年日清戦史』の認めているところでした。なるほど時山中尉は白神源次郎らを率いた第九中隊の将校だったのか,ということになれば理解が比較的簡単です(「それにしてもレミングの大移動じゃあるまいし,23人もあと先考えずに次々ぞろぞろ壕にボッチャンボッチャンボッチャンボッチャン飛び込んで溺死するというのは不思議だなぁ。何も見えない真夜中に,深さも幅も分からない大きそうな壕に行き会ってしまったら,もう少し慎重に振る舞うものだろうに。」という疑問は残ります。)。ところが,時山中尉は「歩兵第二十一聯隊第七中隊小隊長陸軍歩兵中尉」なのでした(参謀本部・附録第14ノ2)。第七中隊です。そうであれば,時山小隊長に率いられて溺死する下士兵卒22名は,皆第七中隊の所属者でなければいけないようです。すなわち第九中隊の下士兵卒には溺死者はなかったのである,といいたいところですが,事実はなかなか複雑です。「『靖国神社〔忠〕魂史』第1巻〔靖国神社社務所編・1935年〕によると,第七中隊の当日の死者は8名となっている」一方(西川126頁),「源次郎らの第九中隊の29日における戦死者は15名,そのうちいま死因のはっきりしているのは瀬政治三郎一等卒と阿部林吉上等兵の二人」であり,かつ,それら瀬政治三郎及び阿部林吉のいずれもが溺死したものとされているのです(西川125126頁)。

 実は,成歓の戦いにおける歩兵第二十一聯隊第九師団の戦死者の大部分は,溺死したものと考えてよいように思われます。佳龍里附近の戦いにおける溺死者23名を除いた成歓の戦い全体における我が軍の戦死者は,実は10名(歩兵第二十一聯隊で8名,歩兵第十一聯隊1名,衛生隊1名)でしかないところ(参謀本部・附録第14ノ1),松崎・木口を除く歩兵第二十一聯隊に係る残り6人の枠に第九中隊の兵士が入ることは難しい。第九中隊には戦傷者からして少なかったからです。すなわち,1894年7月31日付け木下俊英臨時衛生隊医長作成の「衛生隊第1回業務報告」(アジア歴史資料センター)における「隊別傷者ノ数幷ニ負傷ノ部位負傷ノ種類」の項を見ると「隊中負傷者ノ最モ多キハ二十一聯隊ノ十二,七,十,十一聯隊ノ八中隊等ニシテ負傷ノ位部ハ前膊下腿大腿ヲ多シトシ負傷ノ種類ハ殆ント皆銃創ナリトス」とあって,右翼隊の歩兵中隊の中で第九中隊だけが言及されていないところです。(ただし,第九中隊長代理陸軍歩兵中尉守田利貞は負傷しています(参謀本部・附録第14ノ2)。しかし,「銃丸頭部擦過」の軽傷で(混成旅団戦闘詳報),8月中旬には全快しています(臨着第412号)。守田中尉は佳龍里の戦いの後の牛歇里に向かっての戦いにおいてなお第九中隊の長代理となっていますから(参謀本部151頁),佳龍里戦終結の段階では無傷だったものと一応考えるべきでしょうか。)なお,歩兵第十一聯隊の第八中隊は,左翼隊の先頭に立った中隊です(参謀本部142頁)。歩兵第十一聯隊の戦死者は1名にすぎません。

 結局,第七中隊の時山中尉と共に溺死したとされる下士兵卒には,第九中隊のものが多く含まれていたようです。これはどう考えるべきか。「枝隊の一部は少く((ママ))進し(ちょ)水中に陥りたる兵士十数名は最も憐なる態にて退き来たる」という前記黒田記者の報告に鑑みると,「霎時ニシテ本隊ハ尖兵ノ右側後方ニ達シ其喊声ヲ揚ケテ前進スルヤ(本隊ハ尖兵ト敵ト接触シ在ルヲ認メタルカ故ニ危険ヲ慮リテ射撃ヲ為サス唯〻喊声ノミヲ発シテ前進シタリ)敵兵ノ過半ハ射撃ヲ本隊ノ方向ニ転セリ」の際敵兵の過半の射撃がこちらに転じられたことに驚き恐れた右翼本隊の第七中隊及び第九中隊の兵士らは算を乱して「((ママ))」すなわち背進し,恐慌状態のまま水壕に駆け入り溺死してしまったのではないかとも想像され得ます(西川137138頁参照)。溺れずにすんだ「兵士十数名」が「最も憐なる態にて退き来たる」ということになったのではないでしょうか。なお,「(本隊ハ尖兵ト敵ト接触シ在ルヲ認メタルカ故ニ危険ヲ慮リテ射撃ヲ為サス唯〻喊声ノミヲ発シテ前進シタリ)」とのくどい部分は,清国兵に一弾もお見舞いせずに逃げ帰って来たことについての言い訳であるようにも感じられます。

 とはいえ,前進攻撃の積極姿勢をもって死を迎えたとされる時山小隊長とその勇敢な部下らとに係る『明治廿七八年日清戦史』の可憐な話は,一時背進の混乱の渦中での無様な溺死事件を糊塗するための創作だったのかしらと考えてみるのは,うがちが過ぎるでしょう。(なお,参謀本部142143頁間の地図を見ると,時山「小隊」だけが,まず全州街道を南南東へ進んだのであろう他の部隊とははぐれたかのように道のない所(水田でしょうか。)を南西方向に単独真っすぐ進んで溺死事件の場所とされるのであろう壕に突き当たった形になっています。)

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「潴水」とは,水溜り,沼又は溜池のことですが,これは空沼岳の万計沼(真駒内川源頭の一つ)
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 空沼岳の真簾沼
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 空沼岳の青沼 
 

(4)時山龔造と時山直八

 ちなみに,我が騎兵第五大隊第一中隊長の豊辺新作大尉は越後長岡藩の出身でしたが,時山龔造中尉は,慶応四年五月十三日(1868年7月2日)に戊辰戦争北越戦線の朝日山の戦いで戦死した奇兵隊士・時山直八の家の令嗣です(谷頭辰兄『日本帝国軍人名誉鑑』(盛文舘・1895年)133134頁)。幕末の長岡藩執政・河井継之助の生涯を描いた司馬遼太郎の『峠』には,次のようにあります(「蹶起」)。ただし,当該作品においては五月「十二日」の出来事とされているのは,飽くまでも歴史小説だからでしょう。

 

   その敵の「気抜け」が,いくさ名人の立見鑑三郎〔尚文〕のつけめであった。

   ――いまだ。

   と小声で〔長岡藩隊長〕安田多膳の袖をひいた。「心得たり」と安田は槍をとりなおし,「よいか,おのおの」と隊士をふりかえり,やがて,

  「かかれえっ」

   と叫び,みずから塁をとびこえ,先頭をきって敵のむれに突入した。

   官軍は仰天した。このおどろきが,戦意をくじかせた。あれほど勇猛だった薩長の兵が別人のように臆病になり,戦うよりも逃げることに専念した。東軍はそれを追った。背後から槍で串刺しするだけであり,獣を狩るよりもやさしかった。やがて霧がはれ,射撃が可能になると,追い落しはさらに楽になった。官軍は山腹まで退却し,もはや隊列をなさず,個々にあちこちの岩や樹の蔭にひそんだが,それを上から狙撃してゆくだけでよかった。

   薩長の人数は,この戦いで長州藩小隊司令山根辰蔵以下おびただしい死傷を出したが,なかでも官軍にとって大きな衝撃になったのは,参謀時山直八の死であった。時山は飛弾のために即死し,兵がその死体を収容しようとしたが戦況がそれをゆるさず,やむなく首を切って退却した。

   

時山龔造は嘉永四年十二月山口県萩の生まれといいますから(谷頭134頁),安城渡の戦いで溺死した時には42歳でした。小隊長として前線で駆け回るのは既に骨だったことでしょう。二日前に起きた歩兵第二十一聯隊第三大隊長古志(こし)正綱少佐の自刃事件のあたりから,嫌な予感がしていたでしょうか。

 

 あだ守る砦のかがり影ふけて夏も身にしむ(こし)の山風   山県有朋

 

 小千谷市船岡山にある時山直八の墓誌の撰文は,「直八の莫逆の友」山県有朋によるものです(安藤英男『河井継之助写真集』(新人物往来社・1986年)122頁)。また,豊辺騎兵第五大隊第一中隊長は,河井継之助の親族です(豊辺中隊長の父の陳善は蒼龍窟継之助秋義と従兄弟,すなわち豊辺中隊長の祖父で河井家から豊辺家に養子に入った輔三郎(半蔵,陳好)は継之助の父・四代目河井代右衛門(秋紀,小雲)の弟でした(安藤27頁・194頁)。)。

 

5 「シンデモラツパヲ」その3:小括

 以上「シンデモラツパヲ」について長々と書いてしまいましたが,結論的には,「「勇ましの喇叭手」は白神でもなければ木口でもないというのが私の結論である。では誰なのか。誰でもない。初めに安城渡の軍歌が作られ,それが一躍有名になると,その戦闘で死んだラッパ手が探し出されたというのが真相であろう。」ということだそうです(西川147頁)。当初日清戦争戦死第1号の「勇士」として喧伝された松崎直臣大尉の物語の「その陰に隠れるように紡がれ始めた別の物語が次第に成長し,彼の物語を圧倒」したのでした(酒井敏「〈勇士〉の肖像―『日清戦争実記』と読者―」日本近代文学第67集(20021015日)9頁)。江川達也『日露戦争物語 第十一巻』(小学館・2004年)では,木口小平も白神源次郎もラッパを吹きながら清国兵の銃弾で撃たれて戦死した形の描写になっています。

 

6 成歓・牙山戦における騎兵第五大隊第一中隊

 さて,我らが騎兵第五大隊第一中隊。

 豊辺騎兵中隊長が「7月29日午後牙山ニ於テ」作成した「戦闘詳報」(アジア歴史資料センター)には,騎兵第五大隊第一中隊の成歓・牙山の戦いの様子が次のように記されています。

 

  一午前2時10分素沙塲露営地ヲ出発シ総予備隊(歩兵第廿一聯隊第一大隊)ノ後方ニ在テ行進シ1在成歓ノ敵ノ右翼ニ迂回運動ヲ為ス

  二午前5時左翼隊砲戦ヲ始ム(2)中隊ハ総予備隊ノ左方ニ在テ行進ス(3)

  三仝5時40分総予備隊展開ヲ為シ前面ノ敵ト対戦シ(4)続テ敵ノ東方幕営地ヲ占領ス(5)此際騎兵中隊ハ敵ノ砲兵陣地ノ南方ニ進ミ敗潰セル敵兵ヲ追撃ス(6)

  四敵ノ砲兵ノ一部退却ニ際シ我騎兵ノ前進ヲ見砲2門ヲ陣地ノ南方山腹マテ引出シ其儘退却セル者ノ如シ

  五西方幕営地ハ歩兵第廿一聯隊ノ前進ニ際会シ仝時侵襲セリ(7)而シテ騎兵ハ牙山方向ニ退却セル敵兵ヲ追撃シ敵ノ歩兵8名ヲ斬ル(8)

  六午前8時30分戦闘終リ成歓西方高地ニ在ル旅団司令部ニ合シ一時人馬ノ給養ヲ為ス(9)

  七午前9時20分牙山方向ニ退却セル敵兵ヲ追撃シツ10午後3時30分三江里ニ着ス11仝所ヨリ曲橋里方向ニ一組ノ将校斥候ヲ出シ中隊ハ直ニ牙山ニ向テ行進セリ12

  八土人ノ言ニ依レハ敗走セル敵ハ本日一部ハ牙山方向ニ一部ハ新昌ノ方向ニ退却セリト云フ13

  九午後5時下士斥候一組春甫方向ニ出セリ

  十曲橋里方位ニ出シ将校斥候午後7時牙山ニ帰隊敵ノ主部新昌方向ニ退走セル者ノ如シ途次清兵ノ被服弾薬等処々ニ散乱セルヲ見ル

  十一本夜中隊ハ歩兵第二十一聯隊ト共ニ牙山ニ露営ス14

  十二午前3時歩兵第二十一聯隊伝騎二等卒松永翠右肩部ニ銃傷ヲ受ク

  

  註(1)独立騎兵隊は左翼隊の最後尾でした(参謀本部140頁)。左翼隊の「行進意ノ如ク速カナル(こと)能ハス遂ニ其後尾ヲ渡河塲ニ於テ一時開進セシメ右翼隊ノ行進路ヲ開カサルヲ得サルニ至レリ」(混成旅団戦闘詳報)ということでしたから,右翼隊が午前2時過ぎに素沙場を出発する際には独立騎兵は道を譲ってまだ素沙場にいたということになるようです。平城盛次騎兵少尉及びその分隊は,さすがにそれまでには牙山から素沙場に戻って来ることができていたかどうか。なお,「是夜陰雨晦冥咫尺ヲ弁セス加フルニ道路泥濘ニシテ間脚ヲ没シ路幅狭小路面粗悪ニシテ往々或ハ水田ニ陥リ先頭或ハ岐路ニ迷ヒ後者或ハ連繋ヲ失フ等隊間ノ断続スルコト数回ニシ行進渋滞」していました(参謀本部140頁)。「伝騎ヲ発セントスルモ道路狭隘ノ為メニ果サス」ということで(混成旅団戦闘詳報),騎兵はなかなか動きようがない。

  註(2)「砲兵大隊長永田亀ハ〔略〕大隊ヲ宝蓮山南方約5百米突(メートル)ノ高地ニ招致シ此ニ放列(第一砲兵陣地)ヲ布キ(午前5時30分)将サニ試射ヲ畢ラントスルニ方リ敵ハ悉ク潜匿ス」(参謀本部142頁)又は「午前5時35分砲兵団芥子坊主山ノ東方ニ放列ヲ布キ射撃ヲ開始ス」(混成旅団戦闘詳報)。

  註(3)「旅団予備隊ハ砲兵隊ノ左翼後ニ開進ヲ終ル/騎兵ハ目下捜索ノ必要ナキヲ以テ予備隊ノ後方若干距離ニ在リ」(混成旅団戦闘詳報)。

  註(4)「〔砲兵大隊は〕新井里東方高地嘴ニ移リ此ニ第二陣地ヲ占領セリ而シテ其再ヒ砲火ヲ開始セルハ午前6時10分頃ナリキ」(参謀本部143頁)。「砲兵第三大隊ハ敵兵ノ漸ク動揺スルヲ見今ヤ前進シテ第三陣地ニ移ラント欲セシモ其護衛歩兵中隊(〔歩兵第十一聯隊〕第十二中隊)頗ル遠隔シ〔略〕其右側前危険ナルニ因リ大隊長ハ旅団予備隊ノ前進ヲ旅団長(開戦後常ニ砲兵陣地附近ニ在リ)ニ請求シ旅団長ハ予備隊(此予備隊及独立騎兵隊ハ開戦後一タヒ砲兵第一陣地ノ後方ニ開進シ後チ砲兵大隊ノ第二陣地ニ移ルヤ之ニ続行シテ又此砲兵陣地ノ後方高地脚ニ開進シ在リタリ)中ヨリ歩兵第二十一聯隊ノ第一中隊(長,大尉服部尚)ヲ前進セシメ〔略〕乃チ服部中隊ハ砲兵大隊ニ先タチ進テ新井里西南方ノ高地ニ達シ月峰山北麓ナル丘稜ニ拠レル敵ニ対シ猛烈ニ之ヲ射撃シ予備隊ニ在リシ歩兵第二十一聯隊ノ第三中隊(長,大尉河村武モ亦命ヲ受ケテ第一中隊ノ左方ニ展開ス是ニ於テ大隊長森祗敬ハ此両中隊ヲ指揮シ交互ニ前進セシメ罌粟坊主山東北方3百米突ノ山稜ニ達シ罌粟坊主山ノ敵ヲ猛射セリ(午前6時30分〔略〕)」(参謀本部144145頁)。

  註(5)「成歓北方ナル幕営ノ囲壁ニ拠リシ清兵ハ最後ノ時期ニ至ルマテ抵抗セリ因テ森少佐ハ罌粟坊主山ノ陥ルヲ見ルヤ〔第二十一聯隊の〕第一,第三中隊ヲ率ヰ〔第十一聯隊の〕第十二中隊(砲兵護衛隊)亦之ニ連ナリ大森林ノ南縁ニ沿ヒ進ミテ共ニ此幕営ヲ攻撃シ〔略〕遂ニ全ク成歓方面ノ敵ヲ駆逐シ森少佐所率ノ2中隊(第一第三)ハ進テ成歓北方ノ2幕営ヲ占領シ」た(参謀本部147148頁)。「午前7時半全ク成歓北方ノ高地ヲ占領シ」た(混成旅団戦闘詳報)。

  註(6)「旅団長ハ成歓方面ノ敵ノ幕営ヲ占領スルヤ独立騎兵(此騎兵中隊ハ戦闘間常ニ砲兵大隊ノ左翼後ニ在テ行進シ来レリ中隊ノ現員此時僅ニ29名)ヲシテ敵ヲ追躡セシム因テ此騎兵ハ先ツ牛歇里高地ニ向ヘリ(此中隊ノ牛歇里高地ニ達セシハ恰モ右翼隊ノ敵塁ニ突入セントセシ時ナリ〔略〕)」(参謀本部149150頁)。なお,牛歇里の清国砲兵は我が左翼隊砲兵団に応射していました(参謀本部148頁・151頁)。

  註(7)「7時40分頃〔右翼隊の〕歩兵ノ全部吶喊シテ幕営内ニ突入シ騎兵中隊(此中隊ハ上記敵兵追躡ノ命ヲ受ケ成歓地方ヨリ出発セルモノナリ)モ亦来リ共ニ此幕営内ニ突入ス清兵大ニ驚キ砲ヲ棄テ西南方ニ向ヒテ敗走シ各線ハ盛ニ追撃射撃ヲ為セリ是ニ於テ牛歇里ノ敵モ全ク敗走」した(参謀本部152頁)。

  註(8)「旅団長ノ直接指揮下ニ属セシ諸隊ハ〔略〕歩兵第二十一聯隊ノ第一中隊ヲ除クノ外旅団長ノ命ニ依リ是時(午前8時30分)牛歇里酒幕ノ西方約千米突ナル高地上ニ集合シタリ而シテ騎兵中隊ハ牛歇里ノ幕営ニ突入シタル後チ牙山方向ニ向ヒ退走セシ敵ヲ追躡シタルモ其大部ハ已ニ遠ク敗走シテ接触ヲ得ス馬首ヲ囘シテ旅団本部ノ集合地ニ復帰シタリ」(参謀本部153頁)。清国歩兵8名の殺生の話は混成旅団戦闘詳報にもあったのですが(「我騎兵ハ敗走スル敵ノ歩兵ヲ襲撃シ其8名ヲ斬殺ス」),『明治廿七八年日清戦史』には記載されていません。いずれにせよ,殺生は少ないに越したことはありません。

  註(9)「午前給養隊ニ命シ可成多数ノ粮食ヲ軍勿浦ニ運搬セシメ且ツ戦勝ヲ大本営及公使舘ニ伝フヘキヿヲ命セリ」(混成旅団戦闘詳報)。「午後零時半〔旅団の〕本隊ヲ止メ大休止ヲナシ給養隊ヨリ駄送シ来リシ昼食ヲ後尾ヨリ分配セシム時ニ暴雨人馬皆濡ル」(混成旅団戦闘詳報)。

  註(10)「此役成歓方面ヲ守リシ清兵ノ首力ハ聶士成之ヲ率ヰ牛歇里戦闘間南方天安ニ向テ退キ牛歇里方面ノ清兵ハ西南方ニ圧迫セラレ一時牙山ノ方向ニ退避シ更ニ転シテ南方ニ走リ首力ニ合シタルモノ如シ然カレトモ大島混成旅団長ハ未タ之ニ関スル精確ノ情報ヲ得ス尚ホ牙山ヲ以テ敵ノ首要ナル根拠地ト信シ且ツ成歓,牛歇里ヲ守レル敵ハ今ヤ其根拠地タル牙山ニ退却シ再ヒ彼地ニ拠テ抵抗スヘシト判断シ此機ヲ逸セス直ニ牙山ニ進ミ本日中ニ其根拠ヲ衝ント決シ午前9時20分ヨリ1030分ノ間ニ於テ旅団ノ全部ヲ出発シセメタリ旅団長ハ諸隊ニ出発ヲ命シタル後昨夜28日)7時半牙山発平城騎兵少尉28日牙山方向ヘ派遣セラレタル斥候)ヨリ清兵ハ成歓及天安ニ移リ牙山ニハ一兵モ見ストノ報告ヲ得タルモ前記ノ判断ヲ有セシヲ以テ其決心ヲ翻サス」(参謀本部154頁)。勇んで成歓から更にその南西の牙山に進み,やっと着いてみると粉砕すべき清国兵は既にいなかったので,大島旅団長としては,自分の判断間違いの照れ隠しに,平城少尉の報告が自分のところに届くのが遅れたのが原因である旨示唆しているということでしょうか。『日露戦争物語 第十一巻』166頁の「じゃけぇ,牙山に敵はおらんと昨日,報告しょうたのに・・・」との感慨は,本来平城少尉のものなのでしょう(なお,平城少尉は,長崎県士族)。

  註(11)「独立騎兵,右翼隊,左翼隊及軍勿浦独立支隊共ニ午後3時前後ニ於テ牙山附近ニ達」した(参謀本部154155頁)。

  註(12)「旅団ノ一部牙山ニ入リ兵器,糧食ヲ押収シ新昌及び白石浦,新院方向ニ対シ前哨ヲ配布シ牙山ノ占領ヲ確実」にした(参謀本部155頁)。

  註(13)「牙山県吏ノ言」により「敵ハ一時成歓方面ヨリ退却シ来リタルモ更ニ新昌方向ニ向ヒ退避シタルコトヲ知」った(参謀本部155頁)。

  註(14)「〔混成旅団の〕一部ハ牙山附近ニ露営シ以テ此夜ヲ徹セリ」(参謀本部155頁)。「此夜敵ノ逃ケ後レシ兵数名右翼隊ノ露営地ヲ射撃シ1名ヲ傷ケタリ」(混成旅団戦闘詳報)。

 

(つづく)

  

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp 

筆者の母方の曽祖父の残した「由緒」書きにおける下記日清戦争関係の記載に係る考証話の第4回です。1894年7月23日の「京城ノ変」及び同月29日の成歓の戦いの直前までを取り扱います。

 

明治26年〔1893年〕11月1日徴兵ニ合格シテ騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ〔第1回はここまで〕

明治27年〔1894年〕6月朝鮮国ニ東学党蜂起シ韓国居留民保護ノ目的ヲ以ツテ(どう)年6月11日混成旅団ヲ編成セラ(ママ)大島義昌少将ヲ旅団長トシ平城盛次少尉ヲ小隊長トシ選抜セラレテ山城丸ニ乗舶シ宇品港出帆玄海灘ヲ経テ仁川ニ向フ此ノ日山陽鉄道広島駅()()開通ノ日ナリ〔第2回はここまで〕

明治27年8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル

〔前回はここまで〕仝7月23日京城ノ変ニ出張爾来〔今回はここまで〕成歓ニ牙山ニ平壌義洲鴨緑江鳳凰城(ママ)馬集崔家房(ママ)家台竜頭塞興隆勾瀇嶺海城牛荘田庄台ト転戦ス

明治27年9月15日大本営ヲ広島旧城エ進メ給ヘリ

明治28年〔1895年〕6月5日講和トナリ凱旋

仝年1112日日清戦役ノ功ニ依リ瑞宝章勲八等及び金50円幷ニ従軍徽章下賜セラル 

明治29年〔1896年〕1130日善行証書ヲ授与セラレ満期除隊トナル

 

1 「京城ノ変」

 

(1)『蹇蹇録』の記載

 我が聯合艦隊第一遊撃隊と清国艦隊との間における豊島沖海戦の発生(1894年7月25日。日清開戦)の前々日,朝鮮国の首都漢城で筆者の曽祖父のいうところの「京城ノ変」が起こっています。

 

  既にして〔1894年7月〕22日の期限は来たれり。朝鮮政府の回答は例に依り漠然として要領を得ず。大鳥〔圭介〕公使は最早寸刻も遅延する能わず,一面には外務督弁趙秉稷に照会し,朝鮮政府は日本政府の勧告に対し期日に至るも満足なる回答を与えず,最早日本政府は当然自らなすべき所をなすの外なし,事宜に依れば我が権利を伸長するため兵力を使用するも計られず,と言明し置き,他の一面には大島〔義昌〕旅団長と協議を凝らし,翌23日の払暁を以て竜山に在営する若干の兵員を急に入京せしめたる際,王宮の近傍において突然韓兵より先ず発砲したるを以て我が軍はこれを追撃し,城門を押し開き闕内に進入したり。朝鮮政府の狼狽は名状すべからず。諸閔,事大党は何方(いずかた)にか遁逃せり。いわゆる開化党は得々たる顔色を顕し大院君は王勅に依り入闕し,(つい)で朝鮮国王は勅使を以て大鳥公使の参内を求め,大院君は国王に代り同公使を引見し,自今国政を総裁すべき勅命を奉じたることを述べ,内政改革の事は必ず同公使と協議に及ぶべしと約せり。朝鮮改革の端緒はここに開けたり。而して朝鮮は公然清韓条約を廃棄する旨を宣言せり。また国王は更に同公使に向かい,牙山駐屯の清軍を駆逐するために援助を与えんことを依頼したり。尋で日本軍隊は牙山,成歓において大いに清軍を打破し,これを遁走せしめたり。(陸奥宗光著・中塚明校注『新訂 蹇蹇録』(岩波文庫・1983年)7475頁)

 

(2)脱線

 

ア 申込みに対する承諾義務の有無

 陸奥宗光が『蹇蹇録』の前記部分で言いたかったのは,締切日を付して回答を求められたのに対してその締切日までに相手方の満足する回答を与え得なかった場合においては,多少の痛い目に遭っても仕方がないのだ,ということでしょうか。

しかしながら,民法学においては契約の申込みに対する承諾に関して,「申込を受けても,承諾をするかどうかは,自由であるのを原則とする。契約自由の原則の一内容だからである。」,「特別の事情がなければ,申込者が勝手に,「お返事がなくばお承諾とみなす」といつても,その効力を生じない。勝手に品物を送付して,購入しなければ返送せよ(返送しなければ購入とみなす)といつても,返送の義務も生じない。」と説かれています(我妻榮『債権各論上巻(民法講義Ⅴ₁)』(岩波書店・1954年)67頁,7172頁。なお,特定商取引に関する法律(昭和51年法律第57号)59条参照)。無論,この原則にも例外があって,例えば医師法(昭和23年法律第201号)19条1項は「診療に従事する医師は,診察治療の求があつた場合には,正当な事由がなければ,これを拒んではならない。」と規定しています。ただし,「その承諾義務違反は,公法的制裁を伴うだけであつて,当事者間において契約の成立を認めることはできないと解すべきであろう。」とはされています(我妻19頁)。

 

イ 医師の応召義務

 しかし,お医者さんは大変です。

医師法19条1項に関して(旧)厚生省は,通知・回答として,昭和24年9月10日医発752号厚生省医務局長通知においては「)医業報酬が不払いであってもこれを理由に診療を拒むことはできない。/)診療時間を制限している場合でも,これを理由に急施を要する患者の診療を拒むことは出来ない。/)天候の不良なども,事実上往診の不可能な場合を除いて「正当な事由」には該当しない。/)医師が自己の標榜する診療科以外の診療科に属する疾患について診療を求められる場合も,患者がこれを了承する場合は一応の理由と認めうるが,了承しないで依然診療を求めるときは,応急の措置その他出来るだけの範囲のことをしなければならない。」と,昭和30年8月12日医収755号厚生省医務局医務課長回答においては「)医師法19条にいう「正当な事由」のある場合とは,医師の不在又は病気等により事実上診療が不可能な場合に限られるのであって,患者の再三の求めにもかかわらず,単に軽度の疲労の程度をもってこれを拒絶することは,第19条の義務違反を構成する。/)医師が第19条の義務違反を行った場合には罰則の適用はないが,医師法第7条にいう「医師としての品位を損するような行為のあったとき」にあたるから,義務違反を反復するが如き場合において同条の規定により医師免許の取消又は停止を命ずる場合もありうる。」と,昭和301026日医収1377号厚生省医務局長回答においては「休診日であっても,急患に対応する応召義務を解除されるものではない。」と表明しているそうです(渋谷真一郎「応召義務を考える」山形県医師会会報785号(2017年1月)11頁)。患者様の尊いお命と御健康の前には医師のわがままごときは許されない,ということでしょうか。深夜の思い詰めた患者様の長いお尋ね・突然の御来訪にもさわやかに応対せねばなりません。

 

ウ 弁護士の自由と独立

これに対して,弁護士職務基本規程(平成16年日本弁護士連合会会規第70号)20条は「弁護士は,事件の受任及び処理に当たり,自由かつ独立の立場を保持するように努める。」と定めているところです。「弁護士は依頼者が少なくとも自分には真実を打ち明けて事件を依頼していると信じて職務を行い,依頼者の側においても弁護士の能力や人格を信じて自分のために最善を尽くしてくれると信じて依頼を行うものであって,両者には高度の信頼関係が必要である。そのため,信頼関係を築けないおそれがあると弁護士が判断した場合には,弁護士は受任を断ることができるのであって,弁護士は,事件の受任義務を負わないとされている。業務の遂行に信頼関係を前提としない司法書士や行政書士に依頼の応諾義務があるのとは異なる(司法書士法21条,行政書士法11条)。医師にも応召義務がある(医師法19条)が,これは患者の生命身体を守る見地からであり,その趣旨は異なる。」と解説されています(日本弁護士連合会弁護士倫理委員会『解説「弁護士職務基本規程」第3版』(日本弁護士連合会・2017年)44頁)。司法書士法(昭和25年法律第197号)21条は「司法書士は,正当な事由がある場合でなければ依頼(簡裁訴訟代理等関係業務に関するものを除く。)を拒むことができない。」と,行政書士法(昭和26年法律第4号)11条は「行政書士は,正当な事由がある場合でなければ,依頼を拒むことができない。」と規定しています。弁護士職務基本規程43条は更に「弁護士は,受任した事件について,依頼者との間に信頼関係が失われ,かつ,その回復が困難なときは,その旨を説明し,辞任その他の事案に応じた適切な措置を採らなければならない。」と規定しています。弁護士の心を無慙に折ってしまっては,次のような弁護士に対する熱い期待の言葉も空しくなります。いわく,「あんな奴に譲歩するなんて絶対いやです。先生は,わたしの味方じゃないんですか。わたしのように弱い者を弁護士が助けなくてだれが弱い者を助けるんです。関係者全員のための円満解決がどうのこうと他人の裁判所に四の五の言わせないで,早く勝訴判決をもらってください。」,「警察官にすぐ後ろから現認されており,かつ,防犯カメラにも写っているからオレの犯行自体は争っても見込みはないだとぉ。おいっ,それで最善の弁護といえるのか。お前はよぉ,弁護士なんだろ。オレを無罪にしろっ,ごるぁ。」等々。「委任は,各当事者がいつでもその解除をすることができる」ものなのです(民法651条1項)。

しかし,仁術の医師とは異なりお客さまを選ぶことができる旨を高々と宣言している弁術の徒輩が,当該資格者の供給過剰の故かどうかはともかくも,貧乏になってしまっていることについては,「自業自得である。」と溜飲を下げる向きもあることでしょう。

 閑話休題。

 

(3)様々な呼称

 1894年7月23日の「京城ノ変」については様々な呼称が提案されています。

 日清戦争を研究した歴史家の意見について見れば,檜山幸夫中京大学教授によればそれは「日朝戦争」であり,原田敬一佛教大学教授によれば「七月二十三日戦争」と呼ばれるべきものであるそうです(大谷正『日清戦争』(中公新書・2014年)243244頁)。

 当時の陸奥外務大臣は「明治二十七年七月二十三日事変」,「七月二十三日事変」などと表現しています(陸奥149頁,152頁)。

 ただし,単に7月23日に漢城で発生した事変といえば,1882年7月23日の壬午事変と紛らわしいところです。壬午事変は,「〔1882年〕7月23日に組織的な行動を始めた〔当時の開化政策のなかで冷遇されていた在来朝鮮国軍の〕兵士たちに,零細商人,手工業者などの〔漢城の〕都市下層民が加わって,〔開化政策を進めた〕閔氏政権の高官の屋敷を破壊し,別技軍教官の堀本礼造少尉を殺害して,さらに奪った武器で武装し,西大門外の日本公使館を襲撃した。公使館を脱出した花房義質(よしもと)公使らは死傷者を出しながら翌24日仁川に逃亡し,最終的にはイギリスの測量船に助けられて長崎に逃げ帰った。24日,兵士たちは王宮(昌徳宮)に向かい,閔氏政権の高官を殺害したが,最大の攻撃目標であった閔妃を発見できなかった。」というものです(大谷8頁)。こちらで痛い目に遭っているのは日本側です。

1894年8月20日に我が大鳥公使と朝鮮国の金允植外務大臣との間で調印された暫定合同条款の日本文では同年7月23日の事変は「日本暦明治二十七年七月二十三日/朝鮮暦開国五百三年六月二十一日漢城ニ於テ両国兵ノ偶爾衝突ヲ興シタル事件」,「本年七月二十三日王宮近傍ニ於テ起リタル両国兵員偶爾衝突事件」と表現され,漢訳文では「朝鮮暦開国五百三年六月二十一日/日本暦明治二十七年七月二十三日両国兵丁在漢城偶爾接仗一事」,「本年七月二十三日在大闕相近之地両国兵丁偶爾接仗」と表記されています。「偶爾衝突」ないしは「偶爾接仗」との表現については,同年8月25日付けの大鳥公使から陸奥外務大臣宛ての報告によれば,「朝鮮政府ノ請求ニ従ヒ両国兵ノ衝突ヲ偶然ノ衝突ト改正致候」ということだったそうです。当該暫定合同条款においては,「本年七月二十三日王宮近傍ニ於テ起リタル両国兵員偶爾衝突事件ハ彼此共ニ之ヲ追究セサル可シ」とされています。(日本外交文書)

「朝鮮王宮の武力占領」という表現もあります(大谷59頁)。しかし,我が軍部隊が朝鮮王宮に武力をもって侵入するという事件は,翌189510月8日未明にも発生しています(閔妃殺害事件)。閔妃は,壬午事変の際1882年7月24日の朝鮮国軍兵士らによる王宮侵入の後に一度「行方不明の閔妃は死亡したとして葬儀」が行われていたのですが(大谷9頁),結局王宮で殺害される運命であったようです。

 

(4)平城盛次騎兵少尉の偵察報告

 1894年7月24日付けの大島混成第九旅団長発有栖川宮参謀総長宛て混成旅団報告第16号(アジア歴史資料センター)には,前日同月23日の「京城ノ変」に係る平城盛次騎兵少尉の偵察報告が記載されています。筆者の曽祖父も平城少尉に従って,当該偵察の一翼を担っていたわけであります。(そうでないと話が面白くなりません。)なお,この日の天候は雨でした。

 

  一〔1894年7月23日〕午前第10時情況視察ニ出セル平城騎兵少尉ノ報告

    7月23日京城王宮附近ニ於ケル情況偵察ノ報告

   本日午前4時49分歩兵第二十一連隊ノ一部ハ迎秋門ニ到着シ第三中隊ヲ王宮ノ西方ヨリ第六中隊ヲ王宮ノ東方ヨリ王宮ノ背後ニ迂回セシメタルニ朝鮮兵ハ射撃ヲ始メタルヲ以テ猶1中隊ヲ増加シ之ニ向テ射撃ヲ始メタリ是ト同時ニ迎秋門ニアリシ一部ハ門ヲ破壊シ王宮内ニ侵シ猶ホ第一大隊ノ一部モ光化門左側ノ壮衛営ヲ襲ヒ内外相応シテ吶喊セリ

   是ニ於テ壮衛営及ヒ王宮内ノ兵ハ尽ク武器ヲ棄テ逃走セリ先ニ我ニ向テ射撃シタルモ多クハ白岳方向ニ逃走シ猶ホ王宮北方ノ村落内ニ両3名宛埋伏シ我斥候等ノ至ルヲ見レハ直チニ出テヽ射撃ヲ行ヘリ然レ𪜈(とも)王宮ノ各門ハ已ニ我手ニ落チ是ニ歩哨ヲ配布セリ

   午前5時30分朝鮮国外務督弁王宮内ヨリ出テ来テ我公使館ニ至ルト称スルヲ以テ之ニ護衛兵ヲ付シ公使館ニ送レリ

   午前5時40分右捕将王宮ニ来レリ是ニ於テ王ノ所在ヲ詰問シ嚮導セシメタルニ雍和門(義和門ナラン)ニ至リ武器アルヲ発見シ之ヲ没収セントス国王出テ来リ之ヲ制シテ曰ク日本公使館ニ向テ外務督弁ヲ遣セリ故ニ()還スル迠猶予アリタシト然レ𪜈(とも)遂ニ武器ハ没収スル(こと)トセリ(其員数ハ取調中ナリ)我兵ヲ以テ国王ヲ護衛シ大ニ之ヲ慰メタリ

   午前6時20分射撃モ殆ント止ミタルヲ以テ6時30分公使館ニ帰還報告セリ

   備考 壮衛営ニハ小銃(スペンセル火縄銃混合)及ヒ刀剣各数百前装黄銅砲約十門後装砲(多分クルツプ山砲ナラン)6門皆我手ニ()セリ又王宮内ノ武器モ大約我手ニ()セリ

 

「我兵ヲ以テ国王ヲ護衛シ大ニ之ヲ慰メタリ」ということになった朝鮮国王李載晃(高宗は廟号)は明治天皇と同年の1852年生まれ。無論,我が混成第九旅団の兵士らに「護衛」されたとしても,心が慰められたことはなかったでしょう。

筆者の曽祖父は,我が軍将兵に猶予を乞い,又は「護衛」せられつつある朝鮮国王の姿を見たのでしょうか。見たとしても印象に残らなかったものでしょうか。

 

(5)文明国の前例

 さて,一公使が自国派遣軍の指揮官と共謀して武力により赴任先国政府を圧迫し,ほしいままにその政権に変動を与えしめるということは行儀が悪いというべきか,何といわんか。

 しかし,そのようなことは,当時は必ずしも天人共に赦さざる極悪非道の所行とは思われていなかったようです。前年の1893年1月に,別の王国で別の文明国公使により似たような事変が惹起せられています。

 

  〔前略〕1893年1月14日,主権独立国たるハワイ王国に駐箚する米国公使ジョン・L・スティーヴンス(以下本決議において「米国公使」という。)は,米国市民を含むハワイ王国在住の非ハワイ人の少数グループと共に現地の正統なハワイ政府の転覆を共謀したところ,

   ハワイ政府転覆の当該陰謀に基づき,米国公使及び米国海軍代表者は,米国の海軍兵力をして1893年1月16日に主権ハワイ国家に侵入せしめ,かつ,リリウオカラニ女王及び彼女の政府を強迫するためにハワイ政府諸庁舎及びイオラニ宮の近傍に配置せしめたところ,

   1893年1月17日の午後,欧米人のサトウキビ農園主,宣教師の子孫及び金融業者を代表する公安委員会が,ハワイの王政を廃し,かつ,臨時政府の設立を宣言したところ,

   それを承けて米国公使は,ハワイ原住国民又は正統ハワイ政府の同意なく,かつ,両国間の諸条約及び国際法に違背して当該臨時政府に外交上の承認を与えたところ,

   〔中略〕

   1893年2月1日,米国公使は米国国旗を掲揚し,かつ,ハワイは米国の保護領であると宣言したところ,〔後略〕

  (19931123日の米国両院合同決議から抜粋)

 

 1894年7月4日,ハワイの臨時政府は共和国宣言を発しています。イオラニ宮に幽閉されていたリリウオカラニ女王は,1895年1月24日,ハワイ共和国の代表者らによって正式に退位せしめられています。


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こちらは日清戦争期間中の在東京駐日米国公使であったエドウィン・ダン(札幌市南区真駒内)
銅像で遊びながらも,当該人物は「エド・ウィンダンじじい」だと思っている子供もいました。


2 七原のロバ等

 

(1)騎兵第五大隊第一中隊経歴書の記載

 1895年8月24日付けの騎兵第五大隊第一中隊経歴書(アジア歴史資料センター)には,1894年「7月23日京城ノ変ニ参与シ即日竜山ニ来〇どう25日中隊ハ前衛騎兵トナリ牙山方向ヘ出発」とあります。

 

(2)7月24

 1894年7月24日は「晴天」,野戦砲兵第五聯隊第三大隊では「午後命令第六中隊第五中隊第一小隊ヲ附シ都合8門ヲ牙山ニ向ケ明25日午前10時出発ノ事,依テ兼而(かねて)恩賜アリタル酒ヲ分配シ別盃ヲナス」という儀式が行われました(原田敬一「混成第九旅団の日清戦争(1)―新出史料の「従軍日誌」に基づいて―」佛教大学歴史学部論集創刊号(2011年3月)36頁)。

 

(3)7月25

 7月25日の龍山は「晴天」(原田36頁)。同月27日付けの大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団報告第18号(アジア歴史資料センター)の別紙によると,豊辺新作中隊長の騎兵第五大隊第一中隊の全員が「前衛騎兵」となったわけではなく,「前衛」に属しているのは「騎兵中隊(1小隊欠)」となっています。「1小隊欠」の騎兵小隊はどこに行ったかといえば,臨津江独立支隊(司令官歩兵少佐山口圭蔵)に「騎兵1小隊(25騎)」,京城守備隊(司令官歩兵少佐一戸兵衛)に「騎兵5騎」,仁川兵站守備隊に「騎兵7騎」,給養隊(司令官歩兵中尉石丸言知)に「伝令騎兵5名」,東路独立枝隊(司令官歩兵大尉小原文平)に「騎兵5騎」,本隊の旅団司令部に「伝令騎兵士官1名下士1名卒19名」及び輜重司令部(司令官砲兵少佐押上森蔵)に「伝令騎兵下士1名卒10名」が属していました。なお,「7月25日になって大島旅団長は混成第九旅団主力(歩兵3000名,騎兵47騎,山砲8門,兵站部隊)を率いて牙山に向かった。」とされています(大谷62頁)。

 この7月25日の朝に日清間の豊島沖海戦が発生しています。ただし,当該海戦の名称については,「大本営命令から考えても「豊島沖輸送船団襲撃戦」と名称変更するべきだろう」とも主張されています(原田36頁)。「大本営が伊東佑亨聯合艦隊司令長官に命じた電文(7月20日佐世保軍港で受領)は,/二,清国更ニ兵員ヲ増加派遣スルニ至ラハ彼レ我ニ敵意ヲ表スルモノト認ム故ニ我艦隊ハ直チニ清国艦隊及運送船ヲ破壊スベシ。」というものだったそうです(原田3536頁)。清国兵を運送する高陞号を東郷平八郎大佐が撃沈したことは,Union Jackが掲揚されていたことを捨象すれば,「事件」というよりは大本営の命令どおりの軍事行動であったようです。

 

(4)7月26日:七原のロバ

 7月26日の騎兵第五大隊第一中隊の行動については,豊辺新作中隊長による「戦闘詳報7月26日午後5時素沙場ニ於テ」があります(アジア歴史資料センター。当該戦闘詳報は,手書き文字のままではなく活字になっています。)。

 

  一前衛司令官ノ命ニ依リ騎兵中隊ハ捜索ニ任セラレ午前3時〔漢城南方の〕水原府出発〔その更に南方の〕牙山方向ニ行進ス途次烏山洞及七原ニ逓騎哨ヲ配布ス

  二午後4時37分七原駅三叉路ノ南(ママ)約千米突(メートル)ナル畑地ニ於テ敵ノ騎兵約十騎ニ遭遇ス中隊ハ直ニ之ヲ射撃シ素沙場北方高地迄追撃ス此際敵ノ通弁ノ使用セシ驢馬(ろば)1頭ヲ捕獲ス而シテ敵ノ騎兵ハ〔更に南方の〕成歓幕営地ニ退却セリ

  三成歓駅幕営地ハ素沙場ト約4千米突(メートル)ノ大水田ヲ隔テ相対セリ未タ詳細ニ偵察スル能ハスト雖𪜈(とも)前方ニ3ヶ所後方独立丘上ニ1ヶ所ヲ発見ス

   午後8時中隊ハ素沙場ニ於テ人馬ノ給養ヲ為シ(どう)1030分素沙場ノ北方約千米突(メートル)ノ森林内ニ露営ス

  (ママ)午前3時水原府ヨリ将校斥候1組(4名)ヲ南陽ヲ経鶏頭津方向ニ出セリ

 

実に七原南方における日清両騎兵隊の衝突こそが,日清戦争における日清両軍陸上戦の始まりだったのでした。我が軍の(さきがけ)たる騎兵第五大隊第一中隊は,幸先よい勝利の戦利品としてロバ1頭を捕獲したのでした。

この7月26日には,混成第九旅団本隊は水原に進み,22時頃に漢城の大鳥公使から次のような申進を受けています(混成旅団報告第18号)。

 

 右牙山清兵ヲ撤回セシムル儀ニ付昨25日朝鮮政府ヨリ外務督弁ノ記名調印ヲ以テ右取計方代弁ノ依頼有之候間(これありそうろうあいだ)御承知ノ上(しかる)(べく)御取計相成度(あいなりたく)此段申進(もうしすすめ)候也

  27年7月26日  特命全権公使大鳥圭介

 

 この「右取計方代弁ノ依頼」は,「国王・大院君・外務督弁(外相)趙秉稷が抵抗するのを,脅迫して出させた公文であった。しかし,朝鮮側が抵抗した結果,曖昧な内容になってしまったらしく公開されなかった。」というものです(大谷62頁)。『蹇蹇録』には,「七月二十三日の事変に乗じ,韓廷より牙山にある清国軍隊を国外に駆逐するの委託を強取するに至りたるもの」とあります(陸奥133134)。

 

(5)7月27日:古志正綱少佐の憤死

 前記混成旅団報告第18号に「本日〔1894年7月27日〕水源府出発前歩兵少佐古志正綱死去ス進級補助ノ権ヲ仮サレサル為メ不得止(やむをえず)代理官ヲ置キタリ代理ヲ以テ実戦ニ望ムハ義昌ノ甚タ遺憾トスル処ナリとあります。これだけではよく分かりませんが,この椿事は,「〔混成第九旅団の龍山からの〕移動に際して軍夫には仁川・漢城の在留邦人を動員したが,人数が限られたので,7月25日の出発時には武力で威嚇して朝鮮人軍夫と牛馬を徴発した。しかし強制的に動員した人夫は,同日深夜,水原で牛馬を連れて逃亡したので,牙山進撃に支障をきたした。このとき,食料のみならず,小銃弾や山砲弾も失われた。歩兵第二十一連隊第三大隊では,所属の人夫と牛馬すべてが逃亡,26日の混成第九旅団の出発が困難になったので,大隊長古志正綱少佐が責任を取って翌日に自刃するという異常事態さえ生じた。」ということでした(大谷63頁)。

 この日混成旅団本隊は振威県まで到達し,「同所ニ於テ聶提督ノ貯蔵シ置キタル精米薪藁凡1日分ヲ徴発ス」ということになりましたが,朝鮮人軍夫が牛馬と共に逃亡してしまう状況にあって「本日迠ニ於テ前記ノ如ク稍軍需品ヲ徴発シ得タリト雖𪜈(とも)当地以南ニ於テハ其見込ナシ輜重不継ノ為メニ作戦ヲ渋滞セシメサルヤノ恐レ之レナキニ非ス」(混成旅団報告第18号)という有様でした。

 

(6)7月28

 1894年7月28日,混成第九旅団本隊は振威県の露営地を出発して素沙場北方高地に進み,そこで露営します(同日付け大島混成第九旅団長発竹内兵站監宛て混成旅団報告第19号(アジア歴史資料センター))。翌日の成歓攻撃に備えた軍隊区分及び「命令大意」によれば,騎兵第五大隊第一中隊(1小隊欠)は独立騎兵中隊ということになって「独立騎兵中隊ハ予備隊ニ在ルヘシ」とされます(混成旅団報告第19号)。ただし,「騎兵第五大隊第一中隊(1小隊欠)」の全員が独立騎兵中隊を構成したわけではありません。独立騎兵中隊以外にも騎兵は配備されており,その内訳は,鶏頭津独立支隊に騎兵3騎,軍勿浦独立支隊に騎兵2騎,東路独立支隊に騎兵5騎,右翼隊(司令官・武田秀山中佐)に騎兵5騎,左翼隊(司令官・歩兵中佐西島助義)に騎兵5騎,予備隊に騎兵1分隊(8騎)となっています(混成旅団報告第19号)。

 ところでこの日,平城盛次騎兵少尉の率いる1分隊(筆者の曽祖父の属する分隊であることにしましょう。)が牙山方向の偵察行に出ています。混成旅団報告第21号たる混成旅団戦闘詳報(アジア歴史資料センター)には次のようにあります。

 

  騎兵将校ニ1分隊ヲ率(ママ)シメ牙山ノ敵情ヲ偵察セシム此斥候ハ翌29日午前10時始メテ報告ヲ出ス曰ク牙山土民ノ報ニ依レハ昨今両日ニテ清兵不残のこらず成歓及天安ニ向ヘリ其兵数約千人ナリ尚紅貝ニ小数ノ清兵残留セリト(平城騎兵少尉報告戦闘后ニ受領シタルモノ)

 

  〔1894年7月28日〕午后11時半攻撃命令ヲ達ス〔略〕(かくの)(ごとく)ニ伝達ノ遅緩セシ所以(ゆえん)ハ牙山ニ出セシ騎兵斥候ノ()来ヲ待チシカ為メナリシモ距離遠大ノ為メ遂ニ其情報ヲ得ル(こと)能ハサリシ

 

さて,平城分隊はいずこにありや。ともあれ1894年7月29日未明,混成第九旅団は素沙場から南下し,成歓の戦いが始まります。「此夜陰雨点々稀ニ星光ヲ見ル全団(ばい)(ふく)零時露営地ヲ出発ス士気(うた)タ盛ナリ(混成旅団報告第21号)。

                             (つづく)

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp



筆者の母方の曽祖父の残した「由緒」書きにおける下記日清戦争関係の記載に係る考証話の第3回です。日清戦争の開戦に関する議論及び曽祖父ら混成第九旅団の1894年6月の仁川宿営から龍山への移動を経て同年7月23日の「京城ノ変」の直前までの様子を取り扱います。

 

明治26年〔1893年〕11月1日徴兵ニ合格シテ騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ〔第1回はここまで〕

明治27年〔1894年〕6月朝鮮国ニ東学党蜂起シ韓国居留民保護ノ目的ヲ以ツテ(どう)年6月11日混成旅団ヲ編成セラ(ママ)大島義昌少将ヲ旅団長トシ平城盛次少尉ヲ小隊長トシ選抜セラレテ山城丸ニ乗舶シ宇品港出帆玄海灘ヲ経テ仁川ニ向フ此ノ日山陽鉄道広島駅()()開通ノ日ナリ〔前回はここまで〕

明治27年8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル

〔今回はここまで〕仝7月23日京城ノ変ニ出張爾来成歓ニ牙山ニ平壌義洲鴨緑江鳳凰城ママ馬集崔家房ママ家台竜頭塞興隆勾瀇嶺海城牛荘田庄台ト転戦ス

明治27年9月15日大本営ヲ広島旧城エ進メ給ヘリ

明治28年〔1895年〕6月5日講和トナリ凱旋

仝年1112日日清戦役ノ功ニ依リ瑞宝章勲八等及び金50円幷ニ従軍徽章下賜セラル 

明治29年〔1896年〕1130日善行証書ヲ授与セラレ満期除隊トナル

 

1 日清開戦

 日清戦争がいつ始まったかについては,『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)の1894年の部分には「8.1 清国に宣戦布告〔詔〕(日清戦争)」「8.1 日清両国,宣戦布告(日清戦争)」とあります。すなわち,日清戦争は1894年8月1日から始まったことになるようです。筆者の曽祖父の認識と同じです。

 1894年8月1日付けの明治天皇の詔勅(公式令(明治40年勅令第6号)の施行前であったので,詔書(同令1条)ではなく詔勅(大日本帝国憲法55条2項参照)ということになっています。)は,次のとおり。

 

  天佑ヲ保全シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国皇帝(1)ハ忠実勇武ナル汝有衆(2)ニ示ス 

  朕茲ニ清国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ百僚有司(3)ハ宜ク朕カ意ヲ体シ陸上ニ海面ニ清国ニ対シテ交戦ノ事ニ従ヒ以テ国家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ苟モ国際法ニ戻ラサル限リ各権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽スニ於テ必ス遺漏ナカラムコトヲ期セヨ

  惟フニ朕カ即位以来茲ニ二十有余年文明ノ化ヲ平和ノ治ニ求メ事ヲ外国ニ構フルノ極メテ不可ナルヲ信シ有司ヲシテ常ニ友邦ノ誼ヲ篤クスルニ努力セシメ幸ニ列国ノ交際ハ年ヲ逐フテ親密ヲ加フ(4)何ソ料ラム清国ノ朝鮮事件ニ於ケル我ニ対シテ著著鄰交ニ戻リ信義ヲ失スルノ挙ニ出テムトハ

  朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ(5)而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ(6)陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ其ノ内乱アルニ於テ口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ(7)朕ハ明治十五年ノ条約(8)ニ依リ兵ヲ出シテ変ニ備ヘシメ(9)更ニ朝鮮ヲシテ禍乱ヲ永遠ニ免レ治安ヲ将来ニ保タシメ以テ東洋全局ノ平和ヲ維持セムト欲シ先ツ清国ニ告クルニ協同事ニ従ハムコトヲ以テシタルニ10清国ハ翻テ種々ノ辞抦ヲ設ケ之ヲ拒ミタリ11帝国ハ是ニ於テ朝鮮ニ勧ムルニ其ノ秕政ヲ釐革シ内ハ治安ノ基ヲ堅クシ外ハ独立国ノ権義ヲ全クセムコトヲ以テシタルニ朝鮮ハ既ニ之ヲ肯諾シタルモ12清国ハ終始陰ニ居テ百方其ノ目的ヲ妨碍シ剰ヘ辞ヲ左右ニ托シ時機ヲ緩ニシ以テ其ノ水陸ノ兵備ヲ整ヘ一旦成ルヲ告クルヤ直ニ其ノ力ヲ以テ其ノ欲望ヲ達セムトシ更にニ大兵ヲ韓土ニ派シ我艦ヲ韓海ニ要撃シ13殆ト亡状14ヲ極メタリ15則チ清国ノ計図タル明ニ朝鮮国治安ノ責ヲシテ帰スル所アラサラシメ帝国カ率先シテ之ヲ諸独立国ノ列ニ伍セシメタル朝鮮ノ地位ハ之ヲ表示スルノ条約ト共ニ之ヲ蒙晦ニ付シ以テ帝国ノ権利利益ヲ損傷シ以テ東洋ノ平和ヲシテ永ク担保ナカラシムルニ存スルヤ疑フヘカラス熟其ノ為ス所ニ就テ深ク其ノ謀計ノ存スル所ヲ揣ルニ実ニ始メヨリ平和ヲ犠牲トシテ其ノ非望ヲ遂ケムトスルモノト謂ハサルヘカラス事既ニ茲ニ至ル朕平和ト相終始シテ以テ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚スルニ専ナリト雖亦公ニ戦ヲ宣セサルヲ得サルナリ汝有衆ノ忠実勇武ニ倚頼シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝国ノ光栄ヲ全クセムコトヲ期ス

    御名 御璽

      明治27年8月1日

             内閣総理大臣 伯爵伊藤博文

             逓信大臣 伯爵黒田清隆

             海軍大臣 伯爵西郷従道

             内務大臣 伯爵井上 馨

             陸軍大臣 伯爵大山 巌

             農商務大臣 子爵榎本武揚

             外務大臣   陸奥宗光

             大蔵大臣   渡辺国武

             文部大臣   井上 毅

             司法大臣   芳川顕正

 

   注(1)「国内的詔勅に於いては,天皇の一人称としては唯『朕』と宣たまふだけであるが,対外的詔勅に於いてのみは『天佑ヲ保有シ万世一系ノ帝祚ヲ践ミタル日本国皇帝』の称号を称したまふ慣例である。外交文書に於いてのみ特に『皇帝』と称せらるのは,恐くは,日本の外交上の用語として,総て君主国の君主はその本国に於いて如何なる称号を称するかを問はず,一様に『皇帝』と訳称する慣例であるからであらう。」(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)264頁)

   注(2)「有衆」は,「たみ。人民。朝廷または君主から人民をよぶことば。有は,意味のない助字。」(『角川新字源』(1968年))

   注(3)「有司」は,「官吏。司(担当)があるの意。」(新字源)

   注(4)1894年7月16日「日英通商航海条約・付属議定書・付属税目調印(領事裁判権廃止・関税率引上げを実現)。8.27公布〔勅〕。’99.7.17施行。」(岩波年表)

   注(5)1876年2月27日に調印され(外務省・日本外交文書の注記にある調印日。文書の日付自体は同月26日),同年3月22日に批准・布告された我が国と朝鮮国との修好条規はその第1款において「朝鮮国ハ自主ノ邦ニシテ日本国ト平等ノ権ヲ保有セリ嗣後両国和親ノ実ヲ表セント欲スルニハ彼此互ニ同等ノ礼儀ヲ以テ相接待シ毫モ侵越猜嫌スル事アルヘカラス先ツ従前交情阻塞ノ患ヲ為セシ諸例規ヲ悉ク革除シ務メテ寛裕弘通ノ法ヲ開拡シ以テ双方トモ安寧ヲ永遠ニ期スヘシ」と規定。

   注(6)1894年8月1日の清国光緒帝の対日宣戦上諭には「朝鮮為我大清藩属二百余年,歳修職貢為中外所共知」云々,すなわち「朝鮮は我が大清の藩属たること二百余年,歳々職貢を修むるは中外の共に知る所となす」とあり(青柳篤恒述『支那時文評釈』(早稲田大学出版部・早稲田大学1906年度講義録)8頁)。

   注(7)光緒帝の対日宣戦上諭には「本年四月間,朝鮮又有土匪変乱,該国王請兵援,情詞迫切,当即諭令李鴻章揆兵赴援,甫抵牙山匪徒星散」,すなわち「本年四月の間,朝鮮また土匪の変乱あり,該国王兵を請ひ援(「剿は絶つなり略取するなり,応援して匪徒を討平するをいふ」(青柳9頁))せしむ,情詞迫切なり,(すな)(はち)李鴻章に諭令し兵を揆して(「揆は分つなり,兵員を分派するなり」(青柳9頁))赴き(すく)はしむ,(はじめ)牙山に(いた)るや匪徒星散(「星の如く散ずるなり」(青柳9頁))せり」とあり(青柳8頁)。

   注(8)1882年の済物浦条約5条に「日本公使館置兵員若干備警事」と規定。

   注(9)前回記事「一騎兵の日清戦争(2):東学党蜂起から仁川上陸まで」参照       (http://donttreadonme.blog.jp/archives/1071722709.html)。

   注(101894年6月17日発遣の在日清国特命全権公使汪鳳藻宛て陸奥外務大臣からの親展送第41号(朝鮮問題処理ニ関スル対談ノ要旨通告ノ件)には次のようにあり(日本外交文書)。

         以書簡(しょかんをもって)(けい)啓上(じょういたし)陳者(のぶれば)朝鮮国ニ於ケル目下ノ事変及善後ノ方法ニ関シ昨日御面晤ノ節帝国政府ノ提案トシテ貴国政府ニ御協議致候要旨ハ左記之通ニ有之(これあり)

         朝鮮事変ニ付テハ日清両国相(りく)力シテ速ニ乱民ノ鎮圧ニ従事スル事

         乱民平定ノ上ハ朝鮮国内政ヲ改良セシムル為メ日清両国ヨリ常設委員若干名ヲ朝鮮ニ派シ先ツ大略左ノ事項ヲ目的トシテ其取調ニ従事セシムル事〔なお,この取調協議について前日6月16日に汪公使は「然ルニ此一条ノ協議纏ラザル間ハ貴国政府ニ於テハ撤兵スルヲ肯セザル様ニ解セラレタリ」と懸念をつとに表明〕

          一財政ヲ調査スルコト

          一中央政府及地方官吏ヲ淘汰スルコト

          一必要ナル警備兵ヲ設置セシメ国内ノ安寧ヲ保持セシムルコト

         右(ねんの)(ため)茲ニ申進候本大臣ハ茲ニ重ネテ敬意ヲ表候敬具

   注(111894年6月22日に我が外務省が接受した陸奥外務大臣宛て汪公使の回答には次のようにあり(日本外交文書)。

         一韓乱告平已不煩中国兵代剿両国会剿之説自無庸議(朝鮮ノ変乱ハ已ニ鎮定シタレハ最早清国兵ノ代テ之ヲ討伐スルヲ煩ハサズ就テハ両国ニシテ会同シテ鎮圧スヘシトノ説ハ之ヲ議スルノ必要ナカルヘシ)

         一善後弁法用意雖美止可由朝鮮自行釐革中国尚不干預其内政日本素認朝鮮自主尤無干預其内政之権(善後ノ方法ハ其意美ナリト雖トモ朝鮮自ラ釐革ヲ行フヘキコトトス清国尚ホ其内政ニ干預セズ日本ハ最初ヨリ朝鮮ノ自主ヲ認メ居レバ尚更其内政ニ干預スルノ権ナカルベシ)

         一乱定撤兵乙酉年両国所定条約具在此時無可更議(変乱平定後兵ヲ撤スルコトハ乙酉ノ年両国ニテ定メシ条約ニ具在スレハ〔天津条約第3款には「将来朝鮮国若シ変乱重大ノ事件アリテ日中両国或ハ一国兵ヲ派スルヲ要スルトキハ応ニ先ツ互ニ行文知照スヘシ其事定マルニ及テハ仍即チ撤回シ再タヒ留防セス」と規定〕今茲ニ又議スベキコトナカルベシ)

また,1894年7月9日の在北京小村寿太郎臨時代理公使から陸奥外務大臣宛ての電報においては,“At an interview 七月九日総理衙門王大臣 declared that Chinese Government would not enter into negotiation until Japan withdrew her troops from Corea because Tientsin Convention required immediate withdrawal of troops on the suppression of disturbance and if China and Japan detained troops there was danger that other powers might claim right to do the same. The effort of British Minister and myself has failed to induce them to make further proposals.”と報ぜられあり(日本外交文書)。

   注(12)清国政府側の認識は,光緒帝の対日宣戦上諭においていわく。「乃倭人無故派兵突入漢城,嗣又増兵万余,迫令朝鮮更改国政,種種要挟,難以理喩」,すなわち,清国が東学党蜂起に苦しむ朝鮮国王の請いに応じて同国に派兵したところ「(すなは)ち倭人故無く兵を派し突として漢城に入り,()いでまた兵万余を増し,迫って朝鮮をして国政を更改せしめ,種々の要挟(「種々の難題を提議して韓廷に要求し之を挟制するなり」(青柳9頁)),理を以て喩へ難し」と(青柳8頁)。またいわく。「日本与朝鮮立約係属与国,更無以重兵欺圧強令革政之理」,すなわち「日本と朝鮮と約を立て,与国に係属す,更に重兵を以て欺圧し強いて政を(あらた)めしむるの理無し」と(青柳8頁)。

   注(13)「要撃」は,「敵を待ちうけて撃つ。」(新字源)

   注(14)「()状」は,「よい態度・行状がないの意で,無礼,無作法。」(新字源)

   注(151894年7月25日「日本艦隊,豊島沖で清国軍艦を攻撃,英国籍の輸送船高陞号を撃沈。」(岩波年表)

        「李鴻章が2300名の兵士と武器を牙山に送るという情報は,清駐在の外交官や武官から次々と伝えられ,7月19日,政府・大本営は対清開戦を決定した。/この日,海軍に対して清軍増派部隊を阻止せよとの命令が下された。」「偵察のため先行した連合艦隊第一遊撃隊の吉野・秋津洲・浪速の俊足巡洋艦群は,7月25日早朝,豊島付近で清海軍の巡洋艦済遠・広乙に遭遇し,戦闘にいたる。いわゆる豊島沖海戦である。」「7月25日の海戦は,済遠が逃亡を図り,広乙は座礁し,日本側優勢のうちに終わろうとした。そのときさらに,砲艦操江に掩護された高陞号(清兵1100名と大砲14門を搭載)が現れる。操江は降伏したが,高陞号は浪速(艦長東郷平八郎大佐)の臨検に際して,降伏を拒んだため,日本は撃沈して,イギリス人高級船員3名だけを救助した。」(大谷正『日清戦争』(中公新書・2014年)56頁,57頁,5758頁)

豊島沖海戦に関する清国側の言い分は,光緒帝の対日宣戦上諭においていわく。「朝鮮百姓及中国商民,日加驚擾,是以添兵前往保護,詎行至中途,突有倭船多隻,乗我不備在牙山口外海面開砲轟撃,傷我運船,変詐情形,殊非意料所及,該国不遵条約,不守公法,任意鴟張専行詭計,釁開自彼,公論昭然」,すなわち日本の兵員(混成第九旅団)増派により「朝鮮の百姓及び中国の商民,日に驚擾を加ふ,是を以て兵を添へ前往して保護せしめたるに,(いづくん)はからむ行を中途に至れば,突として倭船多隻あり,我が備へざるに乗じ牙山口外(「口は港なり」(青柳10頁))の海面にありて砲を開きて轟撃し,我が運船を傷つく,変詐の情形,殊に意料の及ぶ所にあらず,該国条約に遵はず,公法を守らず,意に任せ()(ふくろうがつばさを張ったように,勢いが強くわがままなこと(新字源)。)し専ら詭計を行ひ,(きん)彼より開く,公論昭然たり」と(青柳8頁)。
  五十嵐憲一郎「日清戦争開戦前後の帝国陸海軍の情勢判断と情報活動」(戦史研究年報4号(防衛研究所・2001年3月)17頁)において紹介されている坪井航三常備艦隊司令官の伊東祐亨常備艦隊司令長官宛て1894年7月25日(21時朝鮮群山沖発)付け報告書では「午前7時5分敵艦ト相近ツク殆ト3千「メートル」許リニシテ我ヨリ発砲ヲ始ム」とあり(21頁)。

ところで,明治天皇の対清宣戦の詔勅の作成日付は1894年8月1日ですが,実は同月2日の官報号外に掲載されています。8月2日に至って同日の閣議で当該詔勅の文案について妥協が成立し当該案をもって明治天皇の裁可を受け,同日付けの官報号外に掲載されたものですから(大谷68頁),1894年「8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル」とは本来いえないはずです。8月1日開戦日説は,「最も根拠薄弱」とされています(大谷68頁)。

実のところ,日清戦争の開戦日がいつであるのかについては,7月23日説から8月2日説まで種々の議論があったところです(大谷6869頁参照)。

この点について,美濃部達吉の断案は次のとおり。

すなわち,美濃部は,開戦の決定(大日本帝国憲法13条は「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」と規定)の外部に対する表示は二つの行為に分かれており「一は敵国に対する宣戦の行為であり,一は国民に対する宣戦の布告である」と分析した上で,敵国に対し正式の通告を要するとする明治45年条約第3号たる開戦に関する条約より前の状況について,「敵国に対する宣戦の行為は,対外的の行為であるから,国際法に従つて行はれねばならぬ。従来は此の点に付いての成文法規の定なく,必ずしも形式的に開戦の意思を通知することを要せず,事実上に戦争行為を開始することに依りて開戦し得べきものとせられて居た。明治27年の日清戦役及び明治37年の日露戦役は,共に事実上の戦争行為に依つて開戦せられたのである。」と述べているところです(美濃部267頁)。したがって,日清戦争における日清間の宣戦行為は,「事実上に戦争行為を開始」したものである1894年7月25日の豊島沖海戦ということになります。同年9月10日の伊藤内閣の閣議で,7月25日が開戦日であると決定されているところです(大谷69頁・242頁)。

それでは1894年8月1日の日付で作成・同月2日外部表示の明治天皇の詔勅は何だったのかといえば,美濃部の説明によれば,「国民に対する宣戦の布告は,詔書を以て公布せられる。それは敵国に対して既に開戦せられた後直に発表せらるもので,開戦せられたことの事実を国民に宣示し,以て国内法上に戦時の状態に入れることを明白ならしむるのである。勿論,此の詔書に依つて始めて戦時に移るのではなく,事実上に戦争が開始せられたならば,当然戦時となるのであるが,此の詔書に依つてそれが国民に対し明示せられるのである。」ということでした(美濃部267268頁)。

  

2 仁川宿営の日々(1894年6月23日まで)

 さて,上陸翌日の1894年6月17日に早速怪魚「メタ」に苦しめられ七転八倒する者を出した混成第九旅団の兵士らの仁川宿営の日々はどのようなものだったのでしょうか。原田敬一佛教大学教授の紹介する同旅団の野戦砲兵第五聯隊第三大隊第五中隊の将校の日誌(「混成第九旅団の日清戦争(1)―新出史料の「従軍日誌」に基づいて―」佛教大学歴史学部論集創刊号(2011年3月)。砲兵中隊の将校の日誌ではありますが,気候や周囲の情景は騎兵中隊にも共通でしょう。)及び大島義昌旅団長の参謀総長宛て混成旅団報告第5号ないし第6号(同月21日,22日及び24日付け。22日付け及び24日付けのものはいずれも第6号との番号が付されていて重複。いずれもアジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることができます。)によって見てみましょう

 

  1894年6月18日 「曇午後8時ヨリ降雨」

    前日の雨が止んだゆえか,砲兵部隊は仁川から2里ばかり離れた長山里まで行軍訓練をしています。その際の地元の人々の様子に関する印象は,「其経路中朝鮮町ヲ通過ス,(どう)町ハ(もとよ)リ全国ノ風習トシテ不潔臭気々トシテ鼻ヲ突ク」ということでした「憤々」は「心がおだやかでないさま」(新字源)ですので,あえて「芬々」の誤りと解する必要はないでしょう。

    早速「本日ヨリ酒保ヲ開カル。」「酒保」は,「軍隊で兵士に日用品・飲食物を売る店」です(新字源)。(以上,砲兵中隊従軍日誌)

    混成旅団報告では,この日の天気は「午前晴 午後大雨」でした。筆者の曽祖父の上官たる豊辺新作騎兵第一中隊長は,大島旅団長に随行して漢城に赴いています。いわく,「午前7時旅団長入京〔大鳥〕公使ニ協議ノ為メ発途午後4時40分着(随行長岡参謀,平岡副官,槁本第二大隊長,永田砲兵大隊長,柴田野戦病院長,豊辺騎兵中隊長,列外ニ福島中佐上原少佐騎兵下士卒16内下士1卒10名ハ京城駐屯大隊長〔一戸兵衛少佐〕ニ属スヘキモノ)」。

  6月19日 「雨天」

    「前夜風雨ノ為メ厩破壊シ修繕ス」(以上,砲兵中隊従軍日誌)。砲兵部隊の厩が壊れているのに騎兵中隊の厩は無傷であった,ということではなかなかないでしょう。アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることのできる「第6月16日仁川港居留地舎営割」添付の地図によれば,騎兵及び砲兵の「騎砲各隊馬厩」は宿営地から離れたところの同じ場所に隣接してあったようです。

    混成旅団報告には「京城分屯大隊ノ患者次第ニ減ス済物浦ニ於テ胃加答児多シ」とあります。胃カタルすなわち胃炎は,なお「メタ」の(たた)りの去らざりしものか。

  6月20日 「晴天」(砲兵中隊従軍日誌)

    混成旅団報告によれば「〔大島〕旅団長此日〔漢城から〕帰仁ノ途ニ上ル楊花鎮ノ渡場漲水ノ為メニ渡ル(こと)能ハス汽船ヲ以テ帰着ス」とのことでした。

  6月21日 「晴天」

    「午前砲廠及厩ヲ舎営地ノ東方ニ移転ス」(以上,砲兵中隊従軍日誌)。「騎砲各隊馬厩」は舎営地の北西に離れてあったのですが,この日騎兵の厩も砲兵のそれと一緒に「舎営地ノ東方ニ移転」したものかどうか。「「従軍日記」は,舎営地等を仁川居留地の東方に移した,と淡々と記すが,これらはいずれ確実になるソウル駐屯への準備であった。」と説明されています(原田28頁)。ただし,混成旅団報告の23日の項によれば「其後6月19日〔大島〕旅団長入京ノトキ〔大鳥〕公使ヨリ各国租界ニハ舎営スルヲ断ルトノヿニ付キ電報ヲ以テ其撤去ヲ舎営司令官ニ命シ20日ニ於テ各隊全ク日本居留地幷ニ日本居留民所有地(公園附近)ノミニ幕営スルヿトナレリ」といったことによる移動もあったようです。

  6月22日 「晴天」(砲兵中隊従軍日誌)

    混成旅団報告では「風又雨」とあり,また「午後晴」となっています。

  6月23

    混成旅団報告では,この日は「晴又曇」,「大鳥公使ヨリ清国四五千ノ兵ヲ出ス確報ハ衝突ハ免レサルヘシ速ニ兵ヲ京城ニ入レラレタシ後続兵モ同様ニタノムトノ報アリ」ということになり,しかして「軍機一変セリ午後5時会報ヲ以テ明24日行軍ニ関スル部署ヲ定ム其大要左ノ如シ」とされての大要の「3」は,「本隊ノ行軍序列ハ騎兵中隊歩兵2中隊砲兵大隊(1中隊)歩兵第十一聯隊野戦病院大行李」ということでした。いよいよ翌日は漢城に向けて出発。その本隊の先頭は騎兵でありますから,筆者の曽祖父の「選抜セラレテ」感はひとしおだったことでしょう。 

 

3 龍山屯営(その1:1894年6月24日から同年7月5日まで)

それまで仁川にいた混成第九旅団は,1894年6月24日,朝鮮国の首都である漢城の南郊にしてかつ漢江の北岸である龍山に移動し,そこに留まります。

 

  1894年6月24日 「晴天」(砲兵中隊従軍日誌)

    「23日夜ノ報告ニ於テ記載セシ順序ニヨリ諸隊仁川出発途中大ナル困難ヲ以テ午後6時当幕営地〔龍山〕ニ到着ス輸卒ノ人員行李ニ比シテ小数ナル為メ出発前兵站監ニ命シ人夫ヲ雇ヒ入レシムヘキ筈ナリシカ韓人其命ニ従ハサルモノト見(ママ)1名ヲモ雇入ル(こと)能ハス已ムヲ得ス甚シキモノニアリテハ1駄分ヲ二人ニテ運ハシムルヿトナリ之カ為メ大行李ノ到着ヲ意外ニ遅延シ其全ク到着セシハ翌25日朝ナリシ」(1894年6月26日付け大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団報告第7号(アジア歴史資料センター))

    「此日炎暑甚敷(はなはだしく)整々堂々タル我軍隊ハ兵卒モ飲用水ノ欠乏ヨリ日射病ヲ起シ終ニ路傍ニ倒ルニ至リシ者多数アリ(消し:タルコト)。/本日ノ行程8里ト云フト雖モ実際ハ10里ノ余アリ。」(砲兵中隊従軍日誌)

    「茲ニ悲ムヘキ一事ハ途中ニ於テ歩兵第十一聯隊第六中隊ノ現役兵1名日射病ヲ以テ遂ニ死亡セリ」(前記大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団報告第7号)

    なお,この日水源府に向けて騎兵将校斥候が出されています(1894年6月25日付け混成第九旅団情報(アジア歴史資料センター))。

  6月25日 「晴正午93度〔摂氏33.9度〕」(同日付け前記混成第九旅団情報)

    「午前6時昨夕ノ食事補給トシテ結飯1ケツ分配,(どう)地飲用水不充分ニシテ馬匹水飼ハ露果ト云フ仝地ヲ距ツル約2千米突(メートル)ノ処ニ於テナス。/幕営地ノ南方ニ旅団騎兵工兵隊アリ,背面ヨリ西ニ当リテハ歩兵隊アリ,何レモ幕営。/京城ノ居留民来リ酒保ヲ開キ其物価左ノ如シ。/卵2銭5厘 氷水3銭5厘 手紙3銭 砂糖35銭 酒40銭 牛肉25銭 封筒3銭 菓子ハ本国ニ3倍ス。」(砲兵中隊従軍日誌)

    「明日ヨリ諸隊交番ニ京城及其附近ニ行軍演習ヲ催サシムル筈猶竜山附近測図ニ着手ス又(すう)(まつ)欠乏ノ為メ近郊ニ於テ生草刈取ニ着手セシムル筈ナリ」(同日付け前記混成第九旅団情報)

    行軍演習をしなければ,手持無沙汰のお兄ちゃんたちがとぐろを巻く男の臭い芬々たるただの群衆になってしまいます。

  6月26日 「晴天 朝92度〔摂氏33.3度〕正午102度〔摂氏38.9度〕」(砲兵中隊従軍日誌)

    この日砲兵部隊は漢城まで行軍演習を行っています。

    「午前6時40分ヨリ京城ニ向ケ行軍ヲナス,崇礼門ヲ入テ大道ヲ貫キ迂回シテ我公使館ヘ至ル,時ニ我帝国臣民五六輩ハ軍隊万歳ヲ三称ス,(どう)時清国人ノ在ル者ハ下等社会ノ者ト公使館ニ数十名アルノミナリ,我公使館ハ京城市街(ママ)一眼ニ見下ス可キ高地ニシテ特ニ支那公使館ハ僅カ5百米突(メートル)不過(すぎず),王城所在地ハ千米突以上。/飲用水ハ公使館背後ノ山渓ヨリ流出シ其質尤モ良シ,其山腹ニ於テ砲列ヲ敷キ昼食ヲナス,午後4時帰営ス。/此日炎暑甚敷全身出(ママ)瀧ノ如シ。」(砲兵中隊従軍日誌)

    38度の高温下で昼食が食べられたものかどうか。いずれにせよ,大汗はかいたものの熱中症にならなかったのは何よりでした。

  6月27日 「晴天」

    「当隊ハ当分当地ニ滞在ノ積リニテ仮厩設置。」(以上,砲兵中隊従軍日誌)

    砲兵隊は「当分当地ニ滞在」するのかと腰を落ち着ける気分の模様ですが,豊辺大尉率いる騎兵中隊は偵察活動に忙しい。この日付けの大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団報告第8号には「明28日騎兵1分隊ヲ開城府方向ニ派遣ス」とあります。

  6月28日 「晴天」

    砲兵中隊では「午後中隊ノ馬匹1頭放走ニ探索ノ為メ東方ニ向テ出張仝日帰営ス」との騒動があったようです。(以上,砲兵中隊従軍日誌)

  6月29日 「晴天」(砲兵中隊従軍日誌)

    「水原方向ニ出シタル騎兵斥候ノ報告午後3時10分到着曰ク軍浦塲及水源地方ニ支那兵ヲ見ス/当斥候ハ尚南陽府方向ニ進テ捜索セントス」(1894年6月30日付け大島旅団長発参謀総長宛て第10号報告)

  6月30日 「晴天,午後3時ヨリ雨」

    砲兵中隊は,「午前6時ヨリ東方2里余ノ処ニ行軍,(どう)11時帰営,時ニ韓人我軍隊ノ整トシテ秩序正シキヲ見舌ヲ捲テ感スルノミ」と,地元住民にびっくり感心されて気をよくしています。(以上,砲兵中隊従軍日誌)

  7月1日 「雨」

    砲兵中隊は「午前午後共休業。」(以上,砲兵中隊従軍日誌)

    この日は日曜日でした(原田31頁)。

    なお,この日「両陛下ヨリ渡韓ノ軍人軍属ヘ酒烟草ヲ賜ハルヘキ恩命ヲ受ク依テ各隊長ニ恩命ヲ伝ヘ各隊ニ於テ兵卒ヲ整列セシメ御賜ノ恩ヲ達ス」ということであったそうですが(1894年7月6日付け大島旅団長発参謀総長宛て第11号報告),砲兵中隊の兵卒への伝達は翌7月2日正午になり,かつ,「該品ハ不日到着ノ上分配ノ事」ということだったそうです(砲兵中隊従軍日誌7月2日の項)。

    日曜日ですが騎兵は忙しく,筆者の曽祖父の直属上官たる平城騎兵少尉による坡州及び臨津附近に異常は無い旨の報告がこの日旅団に着いています(上記大島旅団長発参謀総長宛て第11号報告)。

  7月2日 「風雨」

    「天幕中雨(あふれ)甚タ困難,郷里ノ両親ヲ思フノ念交々(こもごも)換ル」(以上砲兵中隊従軍日誌)

  7月3日 「曇」

    「尚雨溢甚敷(はなはだしく)困難不尠(すくなからず)」(以上砲兵中隊従軍日誌)

    「歩兵第十一聯隊第九中隊長大尉岡徳吉病気(胃病)ニテ仁川兵站病院ヘ入院ノ処死去ノ旨通報シ来ル」(前記大島旅団長発参謀総長宛て第11号報告)

    メタその他の朝鮮国の食及び水が,岡大尉の命取りとなってしまったものでしょうか。

  7月4日 「雨」(砲兵中隊従軍日誌)

  7月5日 「時々雨」(砲兵中隊従軍日誌)

    この日午後7時,平城盛次少尉は牙山方向の清国兵の動静を捜索すべしとの旅団長命令を受け,翌同月6日から同月14日まで偵察行に出ています。アジア歴史資料センターのウェブ・サイトに当該偵察行に係る平城少尉の報告書が掲載されていますので,以下に当該報告書を転載します。筆者の曽祖父が当該偵察行に同行したかどうかは不明ですが,同行したものと考えた方が,当然面白い。

 

 4 平城少尉の牙山方向・振威県方面偵察行(1894年7月6日から同月14日まで)

 

7月5日午后7時旅団長(より)将校斥候トナリテ牙山方向清兵ノ動静ヲ捜索スルノ命ヲ受ケタリ猶近日中ニ聶〔士成〕提督朝鮮国王謁見トシテ上京スルニ付キ果シテ謁見ナルヤ否ヲ確ムル任務ヲ与ヘラレタリ是ニ於テ急報告ヲ要スル計ラレサルヲ以テ下士1名兵卒3名(より)成ル逓騎ヲ中途ニ配置スル(こと)ヲ命セラル

7月6日午前6時下士1名兵卒8名ヲ率(ママ)龍山ヲ発シ9時安場ニ達シ此ニ下士1名兵卒3名ヲ逓騎トシテ残留セリ午前1130分軍浦塲ニ於テ先キニ此方向ニ出タル将校斥候ニ出会シ牙山方向ノ情況ヲ聞キ水源ニ向テ出発午后2時水原府ニ達シ尚ホ進テ龍仁県ニ至ル道路ノ岐分点ニ至リ午后5時ニ至リ退却シ水源ニ宿営セリ無異状(いじょうなし)此日ハ公使館(より)出テシ警以下3名モ亦来テ宿営セリ

7月7日午前6時兵卒2名ヲ率(ママ)水原ヲ発シ振威ニ向フ午前11時振威ニ達ス県庁ノ空舎ニ薪炭藁米麦等ノ充実スルヲ見ル県官ニ問フニ支那兵宿泊ノ準備ナリト云フ又(どう)室内ニ左ノ掲示アリタリ

迎接使 道主 軍官1員 従2人 警吏1人 通詞1人 執事1人 旗手10人 夫馬10

右ハ支那兵歓迎ノ準備ナリトス午后1時警部等モ亦振威ニ来リ本日此ニ宿営セリ午后1時振威ヲ発シ水源ニ退テ宿泊セリ別ニ無異状(いじょうなし)

7月8日午前6時3名ヨリナル斥候ヲ龍仁県ニ至ル道路ノ岐分点ニ出セリ午(ママ)9時礼正邪出水原ニ来リ同10時出発振威方向ニ至レリ探求ス(ママ)国王ノ勅詞ヲ奉持シテ全羅道ニ行ク者ナリト云フ午后1時警部等水原ヨリ来リ左ノ報告ヲナセリ(聶氏ハ7日出発全州ニ至レリ支那兵一部ハ天安郡ニアリト)午后3時日本人ノ牙山方向(より)帰リ来ルヲ認メテ聞キタルニ仁川ノ者ニテ牙山ノ方向ニ商用ニ至レリト同人ノ言ニ曰ク(牙山ノ兵ハ徴発セル駄馬ヲ(かい)雇シ(ふね)ヲ集メ居レリ其舩ハ朝鮮舩ニシテ約30艘アリタリト云フ其名義ハ沿海ヲ測量スト云ヘリト)午后5時斥候帰過セルモ異状ナシ

9日前日ノ如ク斥候ヲ出セルモ無異状(いじょうなし)

10日モ亦前日ノ如ク斥候ヲ出セルモ無異状(いじょうなし)午後日本公使舘ニテ使用セル朝鮮人ノ来リ報シテ曰ク牙山方向ヨリ来ル通行人数名ニ聞クニ昨9日夕天安ヨリ支那兵屯浦ニ来リ道路修繕中ナリト云ヘリ其他異状ナシ

11日午前6時30分水源ヲ発シ振威ニ至ルニ支那人10名余七原駅ニアリト土人ノ言故ニ七原駅ニ至レルモ支那人10数名内乗馬者4名アリテ旅装ハ商人風ナルモ馬具長靴等

ヲ以テ見レハ全ク軍人ナリシ此支那人ハ皆水原方向ニ行進セリ午後5時七原駅ヨリ北方約3千(メートル)ノ一軒屋ニ宿泊セリ

12日午前4時振威ニ(かえ)リ7時30分伝騎ヲ以テ旅団長ニ左ノ報告ヲナセリ(在別紙〔筆者註:当該別紙は略〕)此日猶振威ニ止マレリ

13日午前7時30分出発午後1時水源ニ()着シ直ニ官衙内ノ動静ヲ窺シモ別ニ異ナシ只1人支那人昨日官衙ニ来レルノミ其支那人ハ(どう)日振威ニ向ケ(かえ)レリト此日水原ニ宿営セリ此夜官衙ノ役人来リ留守ヨリ判官ニ与ヘタル書面ヲ示シ我斥候ノ官衙内ニ宿営スルヲ謝絶スルヲ以テ之レヲ写シ置ケリ

14日午前5時ヨリ判官宅ニ至リ前夜示セル書面ニ就テ厳重ナル談判ヲナシ午前8時水源ヲ発シ午後2時龍山ノ本隊ニ(かえ)尚ホ左ノ報告ヲナセリ

報告書中天安郡ノ兵屯浦ニ来リ(ママ)云ヘルモ屯浦ニ出テタル支那兵天安郡ニ在ル支那兵ニ非スシテ牙山ヨリ出セルモノナリ天安郡ニハ今猶依然屯在セリ

             明治27年7月15日 陸軍騎兵少尉平城盛次


 5 龍山屯営(その2:1894年7月14日から同月22日まで)

 

  1894年7月14日 「晴天」(砲兵中隊従軍日誌)

    同日付けの長岡外史少佐の混成旅団参謀報告(アジア歴史資料センター)には,「牙山方向騎兵将校斥候交代」との見出しの下,「本方向ノ斥候ハ此迠将校1下士2兵卒8名ノ処本14日旧斥候〔平城少尉〕帰来兵卒人員ノ少キ為メ疲労甚シキ報告アリシヲ以テ明15日交代ノモノヨリ将校1下士2名兵卒14名ニ改メラレタリ/帰営セシ将校斥候ヨリハ一モ新報ナシ只水原牧司両三日前ヨリ外務衙門ノ訓令ヲ受ケタリト称シ宿舎ノ世話食事ノ周旋等ヲ謝絶シ頗ル不自由ナリシトノ報アルノミ亦以テ朝鮮政府ノ日ニ我邦ヲ疎外スルヲ知ルニ足ル事ニ御座候/水源牧司ノ外務衙門訓令ナリトテ我騎兵将校ニ示シタルモノハ明日送呈スヘシ/依テ明日出ス斥候ニハ更ニ綿密ノ方策ヲ授ケ水源牧司ニ厳談スヘキ旨ヲ授ケラル」とあります。朝鮮国の役人が生意気だと息巻くばかりで平城少尉の苦心の偵察については「一モ新報ナシ」と言われてしまうとがっかりです。

  7月15日 「晴天」

    「此日軍楽隊ハ団本部ニ於テ楽奏,其声音絶佳ナリ。」(以上,砲兵中隊従軍日誌)

    この日は日曜日でした(原田33頁)。

  7月16日 「晴天」

    「午前〔砲兵〕大隊行軍予定ノ処降雨ノ為メ見合」「此日安芸宮島神社及ビ加藤清正公ノ守護札寄贈品到着,各人ニ分配。/亦京城居留民一(どう)及ヒ公使書記官等軍人慰労ノ為メ酒1合ツ及牛肉少量ツヽ寄贈。/青色ノ毛布到着,各人1枚支給。」(以上,砲兵中隊従軍日誌)

  7月17日 「晴天」(砲兵中隊従軍日誌)

    この日英国兵及び米国兵が漢城に入るとの報が至り,翌日付けの混成旅団参謀報告第7号(アジア歴史資料センター)において長岡参謀憤慨して曰く。

    「是ヨリハ〔日英米〕3国兵ノ入込ミテ細故ノ衝突多カルヘク特ニ英兵ハ喧嘩買ヒノ為メニ入京セシムル実殆ント確実ナルヲ以テ諸隊ニ厳達シテ可成(なるべく)喧嘩ヲ避ケ多少打タルトモ堪忍シテ大事ノ前ハ小事ト心得談判上ニテ(かたき)ヲ取ル見込ナレハ決シテ衝突ニ買ハル(べか)ラサル(こと)ヲ達セラレタリ軍隊教育上ニ就テハ打タレテモ猶ホ我慢セヨトハ残念至極ノ(こと)ナレ(ども)不得止事(やむをえざること)奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)

    前日(16日)付けでロンドンにおいて日英通商航海条約・付属議定書・付属税目が調印されたはずですが,現場の長岡少佐は英国人が嫌いです。

  7月18日 「晴天」(砲兵中隊従軍日誌)「午前4時温度77度〔摂氏25度〕 午后2時同96度〔摂氏35.6度〕」(同月19日付け大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団報告第11号(アジア歴史資料センター))

    「18日(水)は大本営が開戦へと踏み切る日となった。天津の神尾光臣中佐〔同月20日付け大島旅団長発参謀総長宛て報告第12号(アジア歴史資料センター)では「少佐」〕から,清国軍6営(約3000人)が翌日出発予定,という電報が18日午後3時45分大本営に到着した。同日午後9時発の参謀総長発大島旅団長宛て電報は,聯合艦隊は22日佐世保出航予定,清国軍の増派に「其軍艦輸送船ヲ破砕」せよと命令,混成旅団も,清国軍増派情報を得れば「首力ヲ以テ眼前ノ敵ヲ撃破スベシ」と指示し,開戦へ大きく舵を切っている。/18日午後9時発の参謀総長電報は,混成旅団司令部におそらく19日中には到着しただろう。また19日未明,漢城に帰任する大本営参謀福島安正中佐が龍山の旅団司令部を訪れ,「大本営の内意」として「清国将来若シ軍兵ヲ増発セハ独断事ヲ処スヘシ」と大島旅団長に伝えた。ここに旅団の独断による戦闘開始が許可されたことになる。」(原田3334頁)

  7月19日 「晴 午前4時74度〔摂氏23.3度〕 午后2時95度〔摂氏35度〕」(前記大島旅団長発参謀総長宛て報告第12号)

    「此日山口県有志者ヨリ寄贈シタル夏橙各人ニ二三個ツ給与,時節的尤モ佳評。/午前11時朝鮮国ノ将官洪啓進来リ〔上記大島旅団長発参謀総長宛て報告第12号では「洪啓薫」で「午前10時」来営〕我幕営内ヲ見物ス,帰路歩兵隊ハ演習ヲナス,其規律動作尤モ整頓シ(どう)将軍ノミナラズ我将校ニ至ル迄満足ノ意ヲ表ス。/此日支那公使〔袁世凱〕ハ逃亡シ公使館ハ支那ノ国旗ヲ挙ケタルマ行衛知レズ。」(砲兵中隊従軍日誌)

    「午後3時過キ入京〔大鳥〕公使ニ面会セリ其協議ノ大要左ノ如シ

      旅団ノ首力ヲ以テ明20日中ニ清国増加兵出帆ノ確報ニ接セサルトキハ(確報ニ接スルトキハ大同江ヘノ上陸ヲ慮ル為メ南進スル(こと)能ハス)21日夕方ヨリ行軍ノ名義ヲ以テ牙山方面ニ進ム

      旅団出発ノ翌日公使ヨリ最終ノ談判ヲ朝鮮政府支那公使ニ申込ミ及ヒ各国公使ニ通告ス

      旅団ハ行進ヲ続行シ兵力ヲ以テ牙山ノ清兵ヲ引払ハシム

      朝鮮ノ国有電信線ヲ我有トシ軍用ニ用ユル(こと)

      京城守備隊ハ1大隊(2中隊)トスル(こと)」(同月20日付け大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団秘報(アジア歴史資料センター))

  7月20日 「雨」(砲兵中隊従軍日誌)「前4時75度〔摂氏23.9度〕 后2時91度〔摂氏32.8度〕」(同月21日付け大島旅団長発参謀総長宛て報告第13号(アジア歴史資料センター))

    「午前6時恩賜ノ酒5勺ツヲ分配ス。/此日午後降雨甚シキ天幕内ニ溢ル,雨水全身ヲ潤ス,而シテ実戦将ニ起ラントシ守備(ますます)厳然タリ。」(砲兵中隊従軍日誌)

    7月下旬は「梅雨明け十日」といって夏山の最高のシーズンなのですが,雨は嫌ですね。藪漕ぎテント泊で毎日雨だったワンダーフォーゲル部の南会津夏合宿は消耗ショーモーでした。

    「午後1時頃〔大鳥〕公使ノ命ヲ帯ヒ本野外務参事官来営公使ノ旨ヲ伝フル(こと)大要左ノ如シ

      1 朝鮮政府強硬ニ傾キ本日我公使ニ退兵ヲ請求セリ依テ我凡テノ要求ヲ拒絶シタルモノト見傚シ断然ノ処置ニ出ル(こと)ニ決ス

      2 即チ2日間ヲ期シ清国ノ借来兵ヲ撤回セシムヘシト要求シタリ

      3 若シ2日間ニ確然タル回答無ケレハ猶ホ1大隊入京セシメラレタシ

      4 夫レニテモ行カサレハ王城ヲ囲ム

      5 王城ヲ囲ミタル後ハ大院君日本人若干名ヲ()()入閣スル筈(確カナリヤト問レシニ確カナリト云ヘリ)

      6 大院君入閣ノ上朝鮮兵力ニテ支那兵ヲ撃ツ(こと)能ハサレハ帝国軍隊ヲ以テ之ヲ一撃ノ下ニ打チ掃フ

      7 依テ昨日御協議セシ牙山行ハ暫ク見合セラレタシ

本処置ハ名正シク事後ニハ旅団ノ運動ニ至大ノ便利ヲ与フヘキ見込アルヲ以テ小官ハ之ニ同意ヲ表シタリ

本野参事官去ル後30分大本営電報命令

32号ヲ受領シタリ

    一本命令ニ依リ小官ニ与ヘラレタル任務ヲ果サントスル為メニハ勢ヒ一刻モ速ニ朝鮮政府ノ向背ヲ決セシメサル()カラス依テ小官ハ明日公使ニ協議シ第3項即チ若シ2日間ニ確然タル回答無ケレハ猶1大隊ヲ入京セシムルトノ示威的運動ヲ止メ短兵急ニ王城ヲ囲ムノ策ニ出ル(こと)ヲ勧メントス」(前記大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団秘報)

   「午後4時会報

     一命令ヲ下セシ後二三時内ニ発程スルニ至ルヤモ難計(はかりがたく)背負袋ヲ用(ママ)背嚢ヲ用(ママ)ス行李ハ一切携行セス工兵騎兵衛生隊ノ炊具ハ携行セサル考炊事卒ハ輸卒ヲ用ヒ其残余ハ兵站部ヘ交付スヘシ(此(こと)ハ一般筆記ヲ禁ス)

      部隊長ノミ承知アリテ部下ニ預メ達スヘカラス

     一将校以下不在者ハ其徃先(いきさ)キヲ預知シ得ル如クシ呼集ニ使者ヲ以テ呼帰シ得ル如クスヘシ

     一尚昨日会報ノ如ク外国人ニ対スル(こと)ニ付懇々訓示セラル」

 「午后9時発各隊エ当分行軍スル(こと)ヲ禁セリ」(以上前記大島旅団長発参謀総長宛て報告第13号)

  同日午後1125分発の大鳥公使から陸奥外務大臣宛ての電報は次のとおり(日本外交文書)。

 

   Mutsu,

        Tokio.

         I made the demand to the Corean Government for the construction of barracks for our soldiers 七月十九日 and that of the driving out of Chinese troops now in Corea under the pretext of protecting tributary state 七月廿日 on the ground that their long presence in Corea infringes her independence. Date fixed for answer 七月廿二日. If they fail to give satisfactory answer within date I intend to give great pressure upon the Corean Government and by this opportunity to bring about some radical changes in Corean Government. It appears that on account of sudden departure of 袁世凱 Chinese party in the Corean government seems weakening.

                                                                Otori.

        Seoul July 20, 1894.       11.25 p.m.

        Rec’d  21, 〃     11.45

  7月21日 「大風雨」

    「此日兼而(かねて)命令アリシ恩賜ノ煙草到着,各人ニ1包ツ分配セラル,誠ニ天恩ノ厚キニ感涙スルノ外ナキナリ,此時ニ当リ戦闘既ニ起ラントシ出戦準備(いよいよ)密,各人ノ背嚢ヲ納メ布嚢ヲ渡シ半紙2帖ハ必ス所持ス()キ旨命示セラレタリ。」(以上砲兵中隊従軍日誌)

  7月22日 「風雨」(砲兵中隊従軍日誌)

    「本日午前7時ノ密議,公使ノ求メニ依リ計画及準備セル(こと)左ノ如シ

     一各隊ニ通弁ヲ分付ス

     一明23日午前3時半迠ニ公使ヨリ通牒ナケレバ軍隊ハ直ニ出発王城ヲ脅威ス

     一彼レヨリ発砲スルトキハ正当防禦スル事別ニ通知セス銃声ニテ知ルベシ

     〔以下略〕」(同月23日付け大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団報告第15号)

    「午後3時明2時30分呼集ヲ以テ出師ノ武装ヲ以テ野外演習ヲ行フト示サル」(砲兵中隊従軍日誌)

    「一午後6時報第2号ノ電報ヲ大本営ヘ呈ス

        公使ノ求メニ依リ明朝王宮ヲ囲ム開戦ハ免レザルベシ((ならび)ニ今後ノ決心ヲ述ブ)」(前記大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団報告第15号)

「7月22日夜,朝鮮政府の回答が日本公使館に届く。予想通り拒否の回答であった。」(大谷61頁)

                                  (つづく)
 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp


1894年の夏は暑かったようですが,今年(2018年)の夏も暑い。

夕方に銭湯でひとっ風呂というのはよい消夏策でしょう。

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つるの湯(東京都台東区浅草橋)


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まつの湯(東京都品川区中延)    



 筆者の母方の曽祖父の残した「由緒」書きにおける下記日清戦争関係の記載に係る考証話の今回は第2回です。1894年の朝鮮国における東学党の蜂起から曽祖父の仁川上陸までを取り扱おうと思います。

 

明治26年〔1893年〕11月1日徴兵ニ合格シテ騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ〔前回はここまで〕

明治27年〔1894年〕6月朝鮮国ニ東学党蜂起シ韓国居留民保護ノ目的ヲ以ツテ(どう)年6月11日混成旅団ヲ編成セラ(ママ)大島義昌少将ヲ旅団長トシ平城盛次少尉ヲ小隊長トシ選抜セラレテ山城丸ニ乗舶シ宇品港出帆玄海灘ヲ経テ仁川ニ向フ此ノ日山陽鉄道広島駅()()開通ノ日ナリ〔今回はここまで〕

明治27年8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル

仝7月23日京城ノ変ニ出張爾来成歓ニ牙山ニ平壌義洲鴨緑江鳳凰城ママ馬集崔家房ママ家台竜頭塞興隆勾瀇嶺海城牛荘田庄台ト転戦ス

明治27年9月15日大本営ヲ広島旧城エ進メ給ヘリ

明治28年〔1895年〕6月5日講和トナリ凱旋

仝年1112日日清戦役ノ功ニ依リ瑞宝章勲八等及び金50円幷ニ従軍徽章下賜セラル 

明治29年〔1896年〕1130日善行証書ヲ授与セラレ満期除隊トナル

 

1 東学党の蜂起

 岩波書店の『近代日本総合年表 第四版』(2001年)の1894年の部分を見ると,同年における朝鮮国の東学党蜂起について次のような記載があります。「朝鮮国ニ東学党蜂起」があったのは,いきなり同年6月のことではなく,同年2月頃から動きがあったのでした。

 

   2.15 朝鮮の全羅道古阜郡で,郡主趙秉甲に対する民衆の反乱おこる。2.25自発的に解散,政府は東学に責任ありとして弾圧を始める。

   3.29 朝鮮の全羅道で東学党蜂起。全琫準,総督となる。5.14忠清道・慶尚道に広がる。

   5.31 東学党,全州〔全羅道の首府〕を占領。朝鮮国王〔高宗・李載晃。日韓併合後は徳寿宮李太王〕,総理交渉通商事宜の袁世凱に清軍派遣を要請。6.4李鴻章,900人の派兵を指令。6.9援軍,朝鮮牙山に到着。

   6.7 日本,朝鮮に出兵を通告。6.9李鴻章,英公使に日本の朝鮮派兵阻止を要請。

   6.11 東学軍,全州を撤退。

   10.― 朝鮮,東学農民軍,再蜂起し,日本軍に抗戦。

 

東学党蜂起の時系列の日付は,大谷正『日清戦争』(中公新書・2014年)の説くところは岩波年表によるものと少し違っています。1894年2月15日の古阜における「東学異端派の指導者全琫準が地方官吏の苛斂誅求に蜂起」した事件が「一時収まった」ところまでは同じですが(大谷270頁・40頁),「再蜂起」は同年3月末のことではなく,同年「4月末に再蜂起」したのであって,具体的には4月25日に「朝鮮の全羅道茂長で,東学農民軍が蜂起」したものとされています(大谷40頁・270頁)。なお,同年6月11日の「東学軍,全州を撤退」の具体的事情は,同月1日に全州城外に到着した朝鮮政府軍に対して「農民軍は政府軍陣地を2度にわたって攻撃したが,多数の犠牲者を出して撃退され」,その後「休戦交渉が開始され,農民軍は27ヵ条の弊政改革請願を国王に上達することを条件に,6月11日に和約に応じ,全州から撤退した。」というものでした(大谷41頁)。また,岩波年表では189410月に「東学農民軍,再蜂起」とされていますが,これは11月の「第二次農民戦争」だとされています(大谷269頁)。すなわち,「大院君〔高宗の実父・李昰応〕は国王の密書を偽造して,農民軍の再蜂起を促した。これを受け取った全琫準は秋の収穫が終わるのを待って11月上旬に再蜂起」したという経緯だそうです(大谷106頁)。「東学農民軍との大規模な戦闘は,忠清道の公州に入った〔日本陸軍後備歩兵〕第十九大隊第二中隊と朝鮮政府軍を,北接〔忠清道を中心とする東学の組織〕と南接〔全羅道を中心とする東学の組織〕の東学連合軍が1120日に攻撃したことから始まった。2次にわたる公州の戦闘は12月7日まで続き,農民軍は数に勝っていたにもかかわらず,ライフル銃(スナイドル銃)を装備した日本軍の前に多数の犠牲者を出して敗北した。」とのことでした(大谷108頁)。その後,日本軍の「作戦は当初の予定を2ヵ月近く延長して1895年2月末まで続けられ」ました(大谷110頁)。「第二次農民戦争」における農民軍側の犠牲者数については,趙景達『異端の民衆反乱――東学と甲午農民戦争』(岩波書店・1998年)においては「全体の犠牲者は3万名を優に超えていたのは確実」で,「5万に迫る勢いである,との推計値」が示されているそうですが(大谷110頁),村川堅太郎=江上波夫他編『世界史小辞典』(山川出版社・1979年(第2版第19刷))の「東学党の乱」の項(佐々木正哉執筆)の「3040万の犠牲者」からは随分減っています。

なお,そもそもの東学については,「東学は没落両班(ヤンパン)の崔済愚が1860年に提唱した民衆宗教で,キリスト教を意味する西学に対して東学と称した。崔済愚が処刑された後,第2代教主崔時亨のもとで,東学は朝鮮南部一帯に広がり,さらに拡大した。崔時亨は政府の弾圧を避けるため「守心正気」の内省主義を東学教徒に求めたが,一方で民衆の変革志向に期待する東学異端派も存在した。」と紹介されています(大谷40頁)。

 

2 日本政府による半島派兵決定

当時の我が国は第2次伊藤博文内閣の時代でした。外務大臣陸奥宗光,陸軍大臣大山巌,海軍大臣西郷従道,内務大臣井上馨,文部大臣井上毅,逓信大臣黒田清隆,内閣書記官長伊東巳代治。

しかし,第2次伊藤博文内閣は,第6回帝国議会の衆議院を相手に窮地に陥っていました。(また,貴族院も批判的で,年初の1894年1月24日には「近衛篤麿〔当時2歳の文麿の父〕・谷干城ら貴族院議員38人,首相伊藤博文に忠告書を送り,衆議院の条約励行論〔不平等条約改正交渉を進める政府に対する排外主義的反対運動。居留地外での外国人の活動を現行条約どおり厳格に制限せよとするもの〕抑圧に抗議。」ということが起っています(岩波年表)。)

1894年5月31日,衆議院は内閣弾劾上奏案を可決します。この上奏は,「両議院ハ各天皇ニ上奏スルコトヲ得」との大日本帝国憲法49条に基づくものです。議院法(明治22年法律第2号)51条1項には「各議院上奏セムトスルトキハ文書ヲ奉呈シ又ハ議長ヲ以テ総代トシ謁見ヲ請ヒ之ヲ奉呈スルコトヲ得」とありました。当該弾劾上奏の文章は次のとおり(第6回帝国議会衆議院議事速記録第14369370頁掲載の特別委員長(江原素六)報告書のもの)。

 

     上奏

      衆議院議長楠木正隆誠惶誠恐謹ミ

    奏ス

  叡聖文武天皇陛下登

    極ノ首メ五事ノ誓文ヲ下シ明カニ億兆ニ示シ給ヒ上下心ヲ一ニシ盛ニ経綸ヲ行ハシム

    大詔ノ厳ナル屹トシテ山嶽ノ如ク

  天恩ノ厚キ穆トシテ春風ニ似タリ等瞻迎景従日夜孳々トシテ

    盛徳ヲ翼賛シ

    鴻志ニ奉答セント欲スルモノ年已ニ久シ然ルニ比年閣臣ノ其施設ヲ誤リ内治外交共ニ其職責ヲ失シ動モスレハ則チ累ヲ帝室ニ及ホスニ至ル曩ニ第4期帝国議会ニ方リ閣臣ノ見ト等ノ議ト相触レ等内閣ト並ヒ立ツ能ハス謹テ上奏以テ罪ヲ俟ツ

  陛下畏クモ誓文ノ意ニ基ツカセラレ

    大詔ヲ下シ在廷ノ臣僚及帝国議会ノ各員ニ告ケ和協ノ道ニ由リ以テ大事ヲ補翼シ有終ノ美ヲ成サンコトヲ望ミ特ニ閣臣ニ命スルニ行政各般ノ整理ヲ以テシ給ヘリ国務大臣モ亦隆渥ノ

  聖旨ヲ奉シ第5期帝国議会ヲ期シ政綱ヲ振厲シ政費ヲ節減シ海軍ヲ釐革センコトヲ誓ヘリ是ニ於テカ挙国ノ民

  陛下カ輿論ヲ嘉納シ給フヲ聴キ額手シテ第5期帝国議会ヲ俟チ来蘇ノ慶アランコトヲ翹望セリ然ルニ閣臣ノ経営一時ヲ弥縫スルニ止マリ政綱未タ振厲セス海軍未タ釐革セス惟僅ニ費途ヲ節シ吏員ヲ沙汰シ以テ大事ヲ模稜スルニ過キス特ニ外政ニ至テハ偸安姑息唯外人ノ歓心ヲ失ハンコトヲ是レ畏レ内外親疎軽重ノ弁別ヲ顚倒スルニ至ル是レ等カ偏ヘニ

  聖旨ニ背戻センコトヲ恐レ戦競自ラ安スル能ハサル所以ナリ等区々ノ微衷

    恭ク

    大詔ニ遵ヒ努メテ経綸ヲ画シ至誠以テ

  天意ニ奉答セント欲スト雖モ閣臣常ニ和協ノ道ニ背キ等ヲシテ大政翼賛ノ重責ヲ全フスル能ハサラシム此ヲ以テ等閣臣ニ信ヲ置ク能ハサルナリ今ニシテ之ヲ匡正セスンハ等窃ニ恐ル憲政内ニ紊乱シ国威外ニ失墜センコトヲ是レ等カ黙セント欲シテ黙スル能ハス敢テ赤心ヲ披瀝シ

  闕下ニ陳奏スル所以ナリ仰キ願クハ

  陛下天地覆載ノ恩ヲ敷キ日月ノ照鑿ヲ垂レ玉ハンコトヲ衆議院議長楠木正隆誠惶誠恐謹ミ

    奏ス

 

当該上奏の文書は,1894年6月1日に楠木議長が参内して土方久元宮内大臣経由で奉呈されました(第6回帝国議会衆議院議事速記録第15378頁)。

しかして同じ1894年6月1日,在朝鮮国日本公使館書記生である鄭永邦(明の遺臣・鄭成功の子孫とされます。長崎通事出身)は駐劄朝鮮総理交渉通商事宜の袁世凱を訪ねて会談し,情報を収集,それを承けて日本公使館の杉村(ふかし)一等書記官(大鳥圭介公使が休暇中のため代理公使)は「全州 fell into hands of rebels yesterday. 袁世凱 said Corean Government asked Chinese reinforcement. See 機密第六十三号信 dated 五月廿二日.」という電報を同日発し,当該電報(電受第168号)は翌2日に東京の外務省に到達しました(大谷4345頁,41頁)。なお,当該電報において言及されている杉村一等書記官の同年5月22日付け(同月28日外務省接受)の機密第63号信(「全羅忠清両道ノ民乱ニ付鄙見上申ノ件」)には,「(さて)支那兵カ万一入韓(公然通知ノ手続ヲ践ミ)スルニ至ラバ朝鮮将来ノ形勢ニ向テ或ハ変化ヲ来スモ難計(はかりがたき)ニ付我ニ於テモ差当リ我官民保護ノ為メ又日清両国ノ権衡ヲ保ツカ為メ民乱鎮定清兵引揚迄公使館護衛ノ名義ニ依リ旧約ニ照シ出兵可相成(あひなるべき)ヤ又ハ清兵入韓候トモ我政府ハ別ニ派兵ノ御沙汰ニ及ハレサルヤ右ハ大早計ニ似タリト雖モ(かね)テ御詮議相成候様致度候」とあったところです(日本外交文書)。ここでの「公使館護衛ノ名義ニ依リ旧約ニ照シ出兵」の「旧約」については,1882年8月30日に調印された我が国と朝鮮国との間の済物浦条約の第5条1項に「日本公使館置兵員若干備警事」とありました。また,「公然通知ノ手続」としては,1885年4月18日に伊藤博文と李鴻章とが取りまとめた日清間の天津条約に「将来朝鮮国若シ変乱重大ノ事件アリテ日中両国或ハ1国兵ヲ派スルヲ要スルトキハ応ニ先ツ互ニ行文知照スヘシ其事定マルニ及テハ仍即チ撤回シ再タヒ留防セス」とありました。

 陸奥宗光の『蹇蹇録』には1894年6月2日の我が国政府の動きについて次のようにあります。

  

  〔前略〕6月()1日()〔5月31日〕に至り衆議院は内閣の行為を非難するの上奏案を議決するに至りたれば〔6月1日に議長により上奏〕政府は止むを得ず最後の手段を執り議会解散の詔勅を発せられむことを奏請するの場合に至り翌2日内閣総理大臣の官邸に於て内閣会議を開くことなりたるに(たま)(たま)杉村より電信ありて朝鮮政府は援兵を清国に乞ひしことを報じ来れり是れ実に容易ならざる事件にして若し之を黙視するときは既に偏頗なる日清両国の朝鮮に於ける権力の干繋をして尚ほ一層甚しからしめ我邦は後来朝鮮に対し唯清国の為すが儘に任ずるの外なく日韓条約の精神も為めに或は蹂躙せらるの虞なきに非ざれば余は同日の会議に赴くや開会の初に於て先づ閣僚に示すに杉村の電信を以てし尚ほ余が意見として若し清国にして何等の名義を問はず朝鮮に軍隊を派出するの事実あるときは我国に於ても亦相当の軍隊を同国に派遣し以て不慮の変に備へ日清両国が朝鮮に対する権力の平均を維持せざるべからずと述べたり閣僚皆此議に賛同したるを以て伊藤内閣総理大臣は直に人を派して参謀総長〔有栖川宮〕熾仁親王殿下及参謀本部次長川上〔操六〕陸軍中将の臨席を求め其来会するや(すなは)ち今後朝鮮へ軍隊を派出するの内議を協へ内閣総理大臣は本件及議会解散の閣議を携へ直に参内して式に依り 聖裁を請ひ裁可の上之を執行せり

 

当該閣議において,混成1個旅団の半島派兵が決定され(大谷4546頁,御厨貴『明治国家の完成 18901905』(中央公論新社・2001年)284頁),「距離的な便宜から,広島に師団司令部を置く第五師団の第九旅団(歩兵第十一聯隊と歩兵第二十一聯隊を基幹とする)を抽出して編制」するところまで決まっています(原田敬一「混成第九旅団の日清戦争(1)―新出史料の「従軍日誌」に基づいて―」佛教大学歴史学部論集創刊号(2011年3月)20頁)。

同日,参内の楠木衆議院議長に対して土方宮内大臣から前日の「衆議院ノ上奏ハ御採用ニ相成ラス」との口達があり,更に衆議院は大日本帝国憲法7条により解散せしめられました(第6回帝国議会衆議院議事速記録第16428頁)。貴族院は,停会です(大日本帝国憲法44条2項)。

「条約励行論から間髪をおかず日清戦争へ。この時点で日清戦争が起きたということは,ナショナリスティックな国民の感情のはけ口をつくったという点で,少なくとも日本の統治の安定という意味では,まさに「天佑」であったと言わざるをえないだろう。」ということになります(御厨279280頁)。

 半島派兵決定の閣議があった1894年6月2日に大山陸軍大臣,西郷海軍大臣,有栖川宮参謀総長及び中牟田倉之助海軍軍令部長宛てに下された勅語には,派兵目的として「同国〔朝鮮国〕寄留我国民保護」との文字があったそうです(大谷46頁)。


3 大島混成旅団の編成

 1894年6月3日,寺内正毅参謀本部第一局長は「混成1旅団ノ編制表」を有栖川宮参謀総長に提出します(原田21頁)。当該混成旅団たる混成第九旅団の編制は,原田敬一佛教大学教授によれば,歩兵第九旅団に「野戦砲兵第五聯隊の第三大隊本部と第五中隊(〔略〕野砲6門),工兵第五大隊の第一中隊,騎兵第五大隊,第一野戦病院(師団に属すもの),輜重隊半部,兵站監部・司令部1箇」が付加された「合計約8000名」の規模のものとされています(原田22頁)。大谷専修大学教授によれば「混成旅団は歩兵第九旅団(広島を衛戍地地とする歩兵第十一連隊と二十一連隊が所属)を基幹に,これに騎兵1中隊,砲兵1大隊(山砲),工兵1中隊,輜重兵隊,衛生部,野戦病院および兵站部を加えて編成された」(大谷47頁),「戦時定員で8000名を超える」もの(大谷45頁)ということになります。筆者にとっての最関心事である騎兵部隊について,騎兵第五大隊全部が混成第九旅団に属したのか,それとも同大隊の第一中隊だけだったのか,少々分かりにくい(外山操=森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧第1巻』(芙蓉書房・1993年)171頁においては,騎兵第五大隊第一中隊のみが混成第九旅団に属していたことになっています。)。しかして早くも,参謀総長に編制表が提出されたこの日の「午後9時55分新橋発広島ママ行きの列車には,参謀本部第一局員東条英教少佐〔当時9歳の英機少年の父〕が乗り込み,第五師団司令部に渡す動員計画や戦闘序列などを記した重要書類をしっかりと持っていた。」という運びになります(原田21頁)。ただし,山陽鉄道の「糸崎・広島間開業し,兵庫・広島間の鉄道開業」となったのは同月10日のことなので(岩波年表等),東条少佐が同月3日夜に新橋から乗った列車がそのまま「広島行き」であったということはないでしょう(大谷47頁では,東条少佐の乗った新橋発の列車の行先までは書いてありません。)。

 1894年6月5日,大鳥圭介駐朝鮮国公使は,海軍陸戦隊70名及び巡査21名を伴い巡洋艦八重山に乗り込み朝鮮国の仁川に向かいます(原田21頁)。本野一郎参事官も一緒です(大谷47頁)。陸軍においては,「東条少佐も,この日昼頃ようやく広島に着き,野津道貫第五師団長に大本営命令を直接伝えた。協議の後,午後4時野津師団長は,大島義昌第九旅団長に,充員召集を下令する。」という動きとなりました(原田21頁)。さて,ここに出て来る「大本営」なのですが,参謀本部内に大本営を置くことが決まったのが東条少佐の旅行中の前日4日のことであり(大谷47頁),設置されたのは正に同少佐が広島に到着した6月5日のことでした。同日午後に打合せを行った東条少佐,野津中将等に対して,大本営設置の連絡が既に伝わっていたものかどうか。

 なお,当該大本営は1893年5月19日裁可,同月22日公布の戦時大本営条例(明治23年勅令第52号)に基づくものであって,同条例1条には「天皇ノ大纛下ニ最高ノ統帥部ヲ置キ之ヲ大本営ト称ス」と規定されていました。「大本営ニ在テ帷幄ノ機務ニ参与シ帝国陸海軍ノ大作戦ヲ計画スルハ参謀総長ノ任トス」とされ(同条例2条),当時は参謀総長が海軍の大作戦についても責任者とされていました。1894年「6月5日,愈初の大本営の設置が令せられた。そして時の参謀総長陸軍大将有栖川宮熾仁親王には,大本営幕僚長として輔翼の大任に(あた)らせ給ひ,其の下に於て陸軍高級参謀としては参謀本部次長陸軍中将川上操六,海軍高級参謀としては海軍軍令部長中牟田倉之助の両名が,相並んで総長宮を輔佐し奉つたのである。」ということです(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)269頁)。

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日清戦争開戦時の参謀総長・有栖川宮熾仁親王(東京都港区南麻布有栖川宮記念公園)


 1894年7月1日調べの陸軍現役将校同相当官実役停年名簿によれば,歩兵第九旅団長の大島義昌少将は,山口県士族従四位勲三等,年齢は44年となっていました。

 原田佛教大学教授が「佛教大学歴史学部論集」に連載して紹介する混成第九旅団野戦砲兵第五聯隊第三大隊第五中隊の将校(ただし,氏名不詳)による従軍日誌(原田20頁。以下「砲兵中隊従軍日誌」といいます。)によると,東条少佐広島到着日の翌日である6月6日(晴れ)の夕方には,野戦砲兵第五聯隊第三大隊に動員下令がありました(原田21頁)。騎兵第五大隊第一中隊にも同じ頃動員下令があったかといえば,1895年8月24日付けの同中隊の経歴書(アジア歴史資料センター)によれば,「6月5日動員ノ令下ル」とあります。

 筆者の曽祖父が直属将校として特に名を記している騎兵第五大隊の平城盛次小隊長は,1894年7月1日調べの陸軍現役将校同相当官実役停年名簿によれば,大隊附,長崎県士族正八位,年齢は25年6箇月となっています。筆者の曽祖父からすると,年齢の近い頼れる兄貴のような優秀な騎兵少尉殿であったということでしょう。

 砲兵中隊従軍日誌によれば,6月6日から直ちに「軍医ハ戦役ニ堪ユル者ト堪ヘザルモノヲ区別シ其手続ヲナス」とあります(原田21頁)。「由緒」書きにおける「選抜セラレテ」という力の入った表現に,筆者は曽祖父の誇らしげな自恃を感じたものですが,まずは軍医による「選抜」があった模様です。

 6月7日(晴れ)の砲兵中隊従軍日誌によれば,砲兵は「第一種衣袴(即新絨衣)」の分配を受けています(原田22頁)。

 6月8日(雨)には,「〔前略〕諸隊ハ来ル1011日ノ間ニ宇品港ニ着スル輸送船ニ乗載シ仁川ニ向テ出発セシム可シ/但シ軍艦吉野ヲ以テ護衛セシム」との命令が大本営の「参謀長 有栖川熾仁親王」から到達しています(「砲兵中隊従軍日誌」原田22頁)。砲兵中隊従軍日誌によれば,この日の段階における一般兵士の様子は,「此日下士卒満期々限ヲ延スノ報ニ接シ各兵士ハ始メテ其意ナラザルヲ知リ千差万別ノ評ヲ下スト雖モ未タ其実戦遠ク派遣セラルヽトハ素ヨリ知ル者ナク亦規律厳ニシテ柵ハ空天ニ貫カントスル高柵ノ内ニ別世界ヲ織組シ居ル吾人軍人何ソ之レヲ知ルニ由アラン」というようなものでした(原田22頁)。動員下令はあったものの,いまだに作戦命令は教えられておらず,「千差万別ノ評ヲ下ス」ばかりとの情況です。同日,騎兵第五大隊第一中隊の動員は完成しています(同中隊経歴書)。

 6月9日(晴れ)には,野戦砲兵第五聯隊第三大隊(第六中隊を除く。)は「明日出発」である旨の命令を受けています(「砲兵中隊従軍日誌」原田22頁)。騎兵第五大隊第一中隊等他の部隊も同様出発に関する命令を受けたことでしょう。ただし,一足先に朝鮮国に向かわせられた部隊もあり,「歩兵1大隊(第十一連隊第一大隊,大隊長一戸兵衛少佐)が先発隊として,6月9日に宇品を出航,12日仁川に到着した」ところです(大谷4748頁)。

 

4 大島混成旅団第1次輸送隊の出航

 筆者の曽祖父の記述によれば,曽祖父は山城丸に乗船して6月11日に宇品港を出たようであり,しかしあるいは山陽鉄道の糸崎・広島間の開業日であった6月10日に出港したようにも読み得ます。これについては,騎兵第五大隊第一中隊経歴書によれば「6月11日衛戍地広島出発同日宇品ニ於テ乗舩出発(2ヶ小隊ヲ中隊長自ラ引率)」ということでした。6月11日は,大島旅団長が宇品港を出た日でもあります。

砲兵中隊従軍日誌の6月11日(午前曇り,午後晴れ)の項に「午前5時呉港ヲ抜錨シテ宇品港ニ至リ其間約1時間我旅団長及随行ノ者3名海軍将校2名及信号手3名乗セ(どう)6時10分宇品ヲ発シテ仝6時40分宮島ノ沖ヲ通過ス」とあります(原田23頁)。更に同項には,同日午後「5時25分安岡〔現在は下関市〕ニ着ス,時ニ第1次輸送船中幾分ハ此処ニ集合セリ,之(ママ)昨夜我船ノ呉港ニ至リシ内ニ其レ々当地ヲ指シテ集マリシモノ。/時ニ軍艦吉野ハ既ニ茲ニアリテ信号ニ曰ク(どう)行ス可キ兵庫丸未タ着セザルモ今ヨリ行進ヲ起シ我ニ随行ス可シト,依テ5時40分抜錨。/午後6時10分 連島〔六連島〕ノ北方ヲ進ム,我先登ハ吉野艦ニシテ輸送船中我近江丸ハ先登ニ至リ之レニ次クハ山城酒田遠江越後熊本千代(ママ)住ノ江和可ノ浦等ニシテ縦隊トナリテ進ムとあります(原田23頁)。(なお,アジア歴史資料センターのウェブ・サイトにある大島義昌旅団長作成名義の1894年6月17日付け「広島出発ヨリ仁川到着迠ノ景況報告」によると,宇品抜錨は6月11日「午前5時半」,門司到着は「午后4時」,同日「午後4時過キ六連島附近ニ集マルモノ近江越後酒田熊本遠江ノ5艘ナリ他ノ兵庫仙台住ノ江山城ノ4艘ハ未タ六連島ニ来ラス午后5時30分吉野艦ト共ニ先ツ集合セル5艘ヲ以テ抜錨ス」ということで砲兵中隊従軍日誌の記述と時刻及び同日の輸送船団構成の輸送船名について若干の異同があり,同月「13日午前6時20分兵庫仙台住ノ江山城ノ4艘追尾シ来リ運送船ノ全数始テ集マル」ということとなっていました。)

砲兵中隊従軍日誌の記者の部隊は6月10日(雨)の午前4時30分に広島の屯営を発し,「既ニ大手町一丁目ニ至ルヤ市民起床シ決然トシテ余輩ノ出師ヲ望見ス」との広島市民の見送りを得て午前6時宇品港着,午前10時近江丸に乗船ということになったのですが,「馬ハ常ノ乗船演習ニ熟練シ居ラザルヲ以テ乗船殆ント困難ス」ということで時間がかかり,宇品抜錨は午後6時30分になってしまっていました(「砲兵中隊従軍日誌」原田23頁。それから近江丸は水の積込みのために呉港に寄港しています。)。

広島からの出発に際しての大島義昌旅団長の訓示は次のとおりでした(アジア歴史資料センターのウェブ・サイトにあります。)。

 

 斯ノ名誉ナル出師ニ際シ混成旅団ノ将校以下諸員ニ告ク

 今ヤ朝鮮国ノ匪徒其勢日ニ猖獗ニシテ而シテ朝鮮政府ノ力善ク之ヲ鎮圧スル(こと)能ハス匪徒将ニ京城ニ迫ラントスルノ勢アリ

 陛下至仁在同国帝国公使館及在留帝国人民保護之大御心ヲ以テ我旅団ヲ同国ニ派遣シ玉フ我旅団業已ニ此ノ大任ニ膺ル宜ク忠勇尽職上下一致以テ其奏効ヲ期セサル可カラス

 我旅団素ヨリ朝鮮ノ内治ニ干渉シテ其匪徒ヲ鎮定スルノ当務ヲ有セス即チ当団ノ動作全ク平時姿勢ニ在リ然而事体総テ外国ニ関係ス乃チ一卒ノ動作モ亦大ニ帝国軍隊ノ声誉ニ関スルヲ以テ各幹部宜ク其部下ヲ戒飾シ仮初ニモ粗暴ノ振舞ヲ為スヿナク又朝鮮国官民並ニ同国在留ノ外国人ニ対シテハ侮ラス又懼レス一層ノ穏和ヲ旨トシ以テ帝国軍隊ノ名誉ヲ発揚スルニ勉ム可シ

 支那国モ亦軍隊ヲ朝鮮国ニ発遣セリトノ説アリ果シテ信ナラン乎若シ或ハ相会スルノ時アランカ

 陛下修好善鄰ノ大御心ヲ奉体シ軍隊ノ礼儀ヲ重ンシ其武官ニ対シテハ官等相当ノ敬意ヲ表シ親密ヲ主トシ苟モ喧噪等ノ事アルヘカラス

 飲食ヲ莭シ摂生ヲ守ルハ軍人ノ貴重スヘキ事タリ夫レ祗役中疾病ノ害毒ヲ流スヿ硝烟弾雨ヨリモ尚且ツ甚シキモノアリ前年台湾ノ役ニ徴シテ知ル可キナリ今ヤ我旅団ハ炎暑ノ気候ニ向ヒ水土ニ慣レサルノ地ニ臨マントス各幹部及衛生諸官ハ厚ク注意ヲ加ヘ部下ヲ訓戒シ一人ノ不注意ハ啻ニ自己ノ生命ヲ危フスルノミナラス延イテ全団ノ利害ニ関スル所以ノモノヲ了觧シ自愛摂養セシメ一人ト雖𪜈(とも)疾病ノ為メニ不帰ノ鬼ト為サシムヘカラス

 航海中軍紀風紀ヲ恪守スルハ勿論艦舩事務員ノ通報ハ之ヲ遵行シ仮令異変ノ時ト雖𪜈将校ノ命令アル時ニアラサレハ自席ヲ離レ若クハ騒擾スルヿアルヘカラス

 困苦欠乏ニ耐フルハ軍人ノ本色ナリ朝鮮ノ地供給力ニ乏シ想フニ意外ノ困苦ニ遭遇スルノ時機多カラン我旅団ハ帝国軍人ノ堪忍力ヲ試験スルノ好運ニ際会セリ勉メスンハアルヘカラス

 我旅団出師ノ事皆将来帝国陸軍進歩ノ好材料ナラサルハナシ各官此意ヲ以テ典則其他百般ノ業務ニ就キ彼是参照潜心其利弊ヲ研究シ毎週報告ヲ懈ル勿ランヿヲ


 なお,「第1次輸送船」があれば「第2次輸送隊」があるのですが,筆者の曽祖父の属した「第1次輸送隊(大島旅団長の率いる部隊,混成旅団の約半分)が16日に仁川に到着して上陸を開始した」一方(大谷48頁。なお,到着自体は後に見るように15日からです。),混成第九旅団の残部である「第2次輸送部隊は〔1894年〕6月24日に宇品を出帆し,27日に仁川に着き,29日に漢城郊外の龍山に到着」しています(大谷5152頁)。

 

5 玄海灘を越え仁川港へ

 砲兵中隊従軍日誌によれば,6月11日夜の玄界灘の様子は,「当時音モ名高キ玄海ニシテ鳥モ通ハズ(ひた)スラ大浪ノ織ルカ如キノミ」というものでした(原田23頁)。詩的表現です。

 6月12日(晴れ)には「午前4時左方ニ壱岐ヲ見ル,仝7時対馬ヲ右ニ見ル」ということでしたが,「本日ヨリ船酔ヲ催フスルモノ多」しという状態となりました(「砲兵中隊従軍日誌」原田24頁)。中国山地の盆地出身であった筆者の曽祖父も,山城丸船内で船酔いを催したものか。

 6月13日(晴れ)には遅れていた兵庫丸が第1輸送隊に加わります(「砲兵中隊従軍日誌」原田24頁)。その後「夕食ノ頃海上一面ニ大霧起リ為メニ咫尺弁セズ,各船其序列ヲ失ス」ということになりました(「砲兵中隊従軍日誌」原田24頁)。船酔いに加えて大霧と,海はこわい。

 6月14日(雨)には霧なお濃く,「序列ヲ失」したままの各船は,島嶼及び岩礁の多い半島西側の海を進むのに難渋します。近江丸について見れば,「午前11時頃突然行進ヲ留ム,驚キ右ヲ見レハ島嶼或ハ岩礁嶬峨トシテ並立セリ,其時漸ク霧少シ晴ルヲ以テ之レヲ知ルヲ得タリ,今一歩ヲ進メハ余等将来成ス有ルノ大業ヲ負担セシ身ヲ空シク魚(ママ)ニ葬ルノ惨界危難ニ陥ル可キ,幸ニシテ虎口ヲ逃レ九死ニ一生ヲ得タルモ長大息各兵士顔色生草タリというようなこともありました(「砲兵中隊従軍日誌」原田24頁)。「午後8時〔吉野は〕信号シテ曰ク仁川ニ向ケ各船行進ヲ起シ安全ナル処ニ於テ碇泊ヲナセ,蓋シ前夜来風雨甚シク到底現在ノ位置ニ有ルコト能ザルヲ以テナリ/時ニ山城丸モ亦来リ会セシガ覆盆傾ノ大雨来リ,波浪甚シク烈風ノ為メニ見ル内ニ錨1箇ヲ切断セラレタリ〔後略〕」ということで(「砲兵中隊従軍日誌」原田24頁),仁川への航海は,決して安全・安心かつ快適なものではありませんでした。

 6月15日(霧かつ雨)には,ようやく仁川港到着です(「砲兵中隊従軍日誌」原田25頁)。「大霧のため船団の進行は別れ別れになり,吉野,近江丸,住ノ江丸だけがまず到着し,次いで他の輸送船も着き始めた。15日に巡洋艦吉野に守られて仁川に入港したのは,近江丸,兵庫丸,仙台丸,住ノ江丸,山城丸,酒田丸の6隻。翌16日巡洋艦千代田に護衛されて熊本丸,越後丸,遠江丸の3隻が入港した(『日清戦史』第1巻123頁)。」(原田25頁),ということです。山城丸乗船の筆者の曽祖父も15日に仁川港に着いたわけですが,直ちに上陸することはできませんでした。「混成第九旅団には,仁川港に到着はしたが,上陸はさし止める,という八重山艦経由の大本営命令が伝えられた。これは,混成旅団8000名の派兵というのが「居留民保護」という名目からは多すぎ,欧米公使館の疑惑を招く,という大鳥圭介公使の判断により指示となったもの」だそうです(原田25頁)。しかしながら,結局,「15日に仁川港に到着した第1次輸送隊は,「輜重及荷物ヲ除クノ外16日中ニ悉ク」(〔『日清戦史』第1巻〕111頁)仁川港に上陸し,仁川の日本居留地付近に宿営した(同)。上陸したのは人員2673名と馬匹186頭だった(同)。」ということになりました(原田25頁)。

 

6 仁川上陸

 6月16日(曇り,午後晴れ)の砲兵中隊従軍日誌によれば,「午前7時50分吉野信号シテ曰ク陸兵上陸ヲ始ム可シ」とのことで,「午前8時ヨリ人馬及ヒ材料ノ上陸ニ着手シ(どう)港海岸ニ砲廠ヲ作リ哨兵ヲシテ之レヲ守ラシム」云々ということになりました(原田27頁)。
 
アジア歴史資料センターのウェブ・サイトにある混成第九旅団の「第6月16日仁川港居留地舎営割」を見ると,騎兵の人員は110人で,一人当たり1畳が割り当てられています。他に歩兵2072人,砲兵271人,工兵252人,輜重兵84人,野戦病院人員169人及び兵站部人員54人(合計すると3012人となってしまって,2673という数字と整合しないのが悩ましいところです。)。地図を見ると,騎兵の宿営した場所の南には工兵がいて更にその先は海,騎兵の西隣は兵站部,北には歩兵で更にその先が日本領事館,東も歩兵の大軍です。日本領事館の西に砲兵が陣取り,その西隣には清国租界があり,更にその先の岬には英国領事館がありました。テント生活(幕営)ではなく,まずは「狭縮」ながらも家屋に宿営です。その理由は,1894年6月17日作成の大島旅団長から有栖川宮熾仁参謀総長宛て混成旅団報告第4号(アジア歴史資料センターのウェブ・サイトにあります。)によれば,「目下旅団カ幕営ノ用意アルニ拘ラス幕営ニ決セサルモノハ旅団ハ今日ニモ明日ニモ前進シテ京城ニ侵入スルノ勢ヲ示サンカ為メナリ是レ示威ヲ以テ清兵ノ決心ヲ促サンカ為メナリ」ということでした。しかしながら,「仁川滞在数日ニ渉ルトキハ徒ラニ居留民ノ迷惑ヲ(商売上)起サシムルヲ以テ止ムヲ得ス幕営スルニ至ルヘシ」と予定はされていたところです。

 仁川は「新開地ナルモ日本人最モ多ク,支那人之レニ次キ,米仏英人アリ」という町でした(「砲兵中隊従軍日誌」原田27頁)。前日の第一印象では,近江丸の「甲板上ヨリ仁川港市街ヲ望メハ一面盛ンナル市街ト察セラル,黒灯ハ戸々ニ起リ(ママ)瓦作リノ家ニ至モ亦少カラズシテ其望見最モ佳ナリシ」(「砲兵中隊従軍日誌」原田25頁)との悪くはないものではあったのですが,実際の仁川はどうであるかといえば,これは我が軍兵士らにとってなかなか快適ではなかったようです。砲兵中隊従軍日誌の6月16日の項に更にいわく(原田27頁)。

 

  韓人ハ一斑不潔ニシテ一種ノ臭気アリ,我砲廠ニ接シ亦ハ其間ヲ遮ラントスルヲ禁止スルニ皆畏懼シテ走リ,為メニ相衝突スルヲ見ル,亦其小胆ナル一斑ヲ伺フニ足ル

 

  平時ニ於テモ飲用水乏シク水ヲ売ルモノアリト,特ニ日本ノ大群上陸飲用水ノ欠乏ニ困却ス

 

飲む水が足らぬとても,出る物はまた出る。「ついで屎尿の処理が問題となった。内地の駐屯の場合,農家の肥料として処理していたが,それができず困ったことになった。」と原田佛教大学教授はあっさり記しておられますが(原田27頁),ワンダーフォーゲル用語でいうところのキジ花が宿営地周辺に咲き乱れ,独特の香気芬々ということになってしまっていた,という表象は,余りさわやかではありません。1894年6月21日の大島旅団長の有栖川宮熾仁参謀総長宛て混成旅団報告第5号(アジア歴史資料センターのウェブ・サイトにあります。)には「又下肥排棄ノ為メニモ数多ノ人夫ヲ要スル等予想外ノ出来事多シ」とありますから,一応宿営場所の汲取便所に溜めてはいたものでしょう。)

半島の魚も日本の青年たちに友好的ではありませんでした。砲兵中隊従軍日誌6月17日(雨)の項には,次のように記されています(原田27頁)。

 

 (どう)港ニ滞在

 本夜(ママ)食物ハ「メタ」ト称スル海魚ナリシガ元来本品ハ一夜間水中シテ後之レヲ煮ル可キ者ナルニ之レヲ塩煮セシ故カ忽チニシテ吐瀉シ(ママ)痛甚シク或ハ下痢等ニテ突然患者甚シ。

 

 宿営所には苦痛の声が満ち,便所の奈落に積もるキジ花のお花畑には更に肥やしが加えられたようです。

                                   (つづく)

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

  

 先般筆者の母方の祖父の十七回忌法要があり,親戚が集まったところで当該故人及びその父(すなわち筆者の母方の曽祖父)の残した書き物が印刷物とされて一同に配付されました。これがなかなか興味深い。

 曽祖父の「由緒」書きにおけるその兵役に関する記録中最初の部分は次のとおり。中国地方の山中から広島の第五師団に騎兵として入営して約半年で直ちに半島に出動,日清戦争前夜からその終結まで,我が大日本帝国陸軍の主要な軍事行動の現場にあってその当事者であり続けたのでした。

 曽祖父・祖父の記録癖に付加せらるるところの筆者の悪癖は考証癖でありますが,いささか註釈を施してみる次第です。今回は,最初の1行の部分です。

 

明治26年〔1893年〕11月1日徴兵ニ合格シテ騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ〔今回はここまで〕

明治27年〔1894年〕6月朝鮮国ニ東学党蜂起シ韓国居留民保護ノ目的ヲ以ツテ(どう)年6月11日混成旅団ヲ編成セラ(ママ)大島義昌少将ヲ旅団長トシ平城盛次少尉ヲ小隊長トシ選抜セラレテ山城丸ニ乗舶シ宇品港出帆玄海灘ヲ経テ仁川ニ向フ此ノ日山陽鉄道広島駅()()開通ノ日ナリ

明治27年8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル

仝7月23日京城ノ変ニ出張爾来成歓ニ牙山ニ平壌義洲鴨緑江鳳凰城塞馬集崔家房礬家台竜頭塞興隆勾瀇嶺海城牛荘田庄台ト転戦ス

明治27年9月15日大本営ヲ広島旧城エ進メ給ヘリ

明治28年〔1895年〕6月5日講和トナリ凱旋

仝年1112日日清戦役ノ功ニ依リ瑞宝章勲八等及び金50円幷ニ従軍徽章下賜セラル

明治29年〔1896年〕1130日善行証書ヲ授与セラレ満期除隊トナル

 

1 1893年の徴兵に関する状況

 

(1)明治22年徴兵令

1893年当時施行されていた兵役法令は,明治22年法律第1号(1889121日裁可,同月22日官報で公布)の「徴兵令」を頂点とするものでした。ところで,同令の下で「徴兵ニ合格」するとはどういうことかといえば,そもそも「日本帝国臣民ニシテ満17歳ヨリ満40歳迄ノ男子ハ総テ兵役ニ服スルノ義務アルモノトス」ることが原則とされていたところ(同令1条),「陸軍現役兵ハ毎年所要ノ人員ニ応シ壮丁ノ身材芸能職業ニ従ヒ歩兵騎兵砲兵工兵輜重兵職工及雑卒ニ区別シ抽籤ノ法ニ依リ当籤ノ者ヲ以テ之ニ充ツ」ということでしたから(同令8条1項),通常は,むしろ「合格」というよりは「当籤」といったほうが法令用語としては正しかったように思われます。

「合格」又は「不合格」の概念は,徴兵検査規則(明治25年陸軍省令第3号)に出てきます。同規則1条は「徴兵検査ハ徴兵令ニ拠リ兵役ニ服スヘキモノ体格ヲ検査シ其適否ヲ定ムルモノトス/此検査ハ学術上諸種ノ方法ヲ施スコトヲ得」と規定し,第2条1項に「不合格」となるべき「疾病畸形」を23号にわたって掲げ(ただし,同条2項は「前項ノ疾病畸形中軽症ニシテ服役シ得ヘキモノハ合格トシ爾余ノ疾病畸形ト雖モ服役シ得ヘカラサルモノハ不合格トス」と規定),第3条において甲種(身長5尺以上にして身体強健なるもの),乙種(身長5尺以上にして身体甲種に()ぐもの),丙種(身長5尺以上にして身体乙種に亜ぐもの及び身長5尺未満4尺8寸以上にして丁種戊種に当らざるもの),丁種(第2条に当るもの及び身長4尺8寸に満たざるもの)及び戊種明治22年徴兵令第18条第1項(体格完全且強壮なるも身幹未だ定尺に満たざる者)第2項(疾病中又は病後にして労役に堪へざる者)に当るもの)を定義した上で,第4条において「第3条ノ甲種乙種丙種ヲ合格トシ其甲種乙種ハ現役ニ徴スヘキモノ丙種ハ国民兵役ニ置クモノトシ丁種ヲ不合格戊種ヲ徴集延期トス」と規定していました。

丙種合格者が置かれる国民兵役とは「国民兵役ハ満17歳ヨリ満40歳迄ノ者ニシテ常備兵役及後備兵役ニ在ラサル者之ニ服ス」ものと規定されており(明治22年徴兵令5条),具体的には「国民兵ハ戦時若クハ事変ニ際シ後備兵ヲ召集シ仍ホ兵員ヲ要スルトキニ限リ之ヲ召集ス」るものにすぎませんでした(同令16条)。これでも徴兵検査に「合格」というのはややおこがましい。

現役は「満20歳ニ至リタル者之ニ服」するものでした(明治22年徴兵令3条2項)。徴兵検査との関係での「満20歳」の意味は,「毎年1月ヨリ12月迄ニ満20歳ト為ル者ハ其年ノ1月1日ヨリ同月31日迄ニ書面ヲ以テ戸主ニ非サル者ハ其戸主ヨリ本籍ノ市町村長ニ届出可シ」とあって(同令25条本文),それを承けて「町村長ハ毎年徴兵令第25条ノ届書ヲ戸籍簿ニ照較シ壮丁名簿ヲ作リ2月15日迄ニ島司又ハ郡長ニ差出シ島司郡長ハ点検ノ後之ヲ1徴募区ニ取纏メ前年仮決ノ諸名簿ト共ニ大隊区徴兵署又ハ警備隊区徴兵署ニ提出ス可シ/市長ハ前項ノ例ニ依リ壮丁名簿ヲ作リ前年仮決ノ諸名簿ト共ニ大隊区徴兵署ニ提出ス可シ」(徴兵事務条例(明治22年勅令第13号。明治25年勅令第33号で一部改正)23条)ということになって,その年(満20歳になる年)の徴兵検査及び抽籤を受けることとなるというものでした。

 明治22年徴兵事務条例26条1項は,徴兵検査について,「兵役ノ適否ヲ定ムル為メ大隊区徴兵署又ハ警備隊区徴兵署及検査所ニ於テ壮丁ノ身体検査ヲ行フ其検査ハ徴兵官及徴兵参事員ノ面前ニ於テスルモノトス」と規定していました。「大隊区徴兵署警備隊区徴兵署及徴兵検査所ハ島司郡市長ニ於テ適当ノ家屋ヲ選定シ大隊区司令官又ハ警備隊司令官到著ノ上之ヲ開設ス可シ」とされていました(徴兵事務条例施行細則(明治22年陸軍省令第1号)4条1項)。

 明治22年徴兵令8条の「抽籤ノ法」については,明治22年徴兵事務条例34条1項及び2項に「身体検査ニ合格シ現役ニ徴スヘキ壮丁ハ徴集順序ヲ定ムル為メ徴募区毎ニ体格ノ等位及兵種ヲ分チ旅管徴兵署ニ於テ抽籤ヲ行フ」及び「抽籤ハ旅管徴兵官旅管徴兵参事員及大隊区徴兵官又ハ警備隊区徴兵官ノ面前ニ於テ抽籤総代人之ヲ為スモノトス」と規定されていました。徴募区については,「徴募区ハ1郡又ハ1市ヲ以テ1区ト為ス」のが原則でした(同条例3条1項)。旅管徴兵署とはどこかといえば,「毎年徴募事務執行ノトキハ旅管内府県毎ニ旅管徴兵署ヲ設ク」るものとされていました(同条例32条)。抽籤総代人については「身体検査終ルノ後大隊区徴兵官又ハ警備隊区徴兵官ハ合格者ヲシテ抽籤総代人ヲ選ハシメ其人名ヲ旅管徴兵官ニ報告スヘシ」とされていました(明治22年徴兵事務条例施行細則9条。明治22年徴兵事務条例34条3項は「抽籤総代人ハ籤丁ノ選ヲ以テ徴募区毎ニ2名若クハ3名ヲ出スモノトス」と規定していました。)。

 

(2)1893年の徴兵状況

 ここで,1893年に行われた徴兵の状況を計数的に見てみようとすると,陸軍省大臣官房副官部編纂の『陸軍省第7回統計年報』(189411月)という便利なものがあります。

 1893年の我が国における20歳の壮丁の総員は384536人であったところ,①現役として当籤した者は1万9040人で,その4.95パーセントということになりました95頁)。その外に②志願者が769(この「志願者」は,明治22年徴兵事務条例施行細則8条に「身体検査ノ際現役ニ服センコトヲ志願スル者アルトキハ大隊区徴兵官ハ本人ノ身元ヲ調査シ其景況書ヲ添ヘ旅管徴兵官ニ具申ス可シ/其志願者ハ体格甲種ニシテ身元確実ト認ムル者ハ旅管徴兵官ニ於テ之ヲ許可スルコトヲ得」と規定されていたもので,「甲種合格者ニシテ抽籤ノ者」より先に現役兵に編入されました(同細則23条)。これらの者にとっては,現役兵編入は「当籤」ではなく「合格」ということになります。他方,同年報100102頁の「現役兵志願者人員」の表の「現役兵志願者」は,明治22年徴兵令10条(満17歳以上20歳未満の現役兵志願者)及び11条(一年志願兵志願者)に係る現役の志願者であって,また別のカテゴリーでした。)及び③明治22年徴兵令28条によって徴集された者が11人ありましたから,20歳の壮丁中現役として徴集された者は①から③までの合計1万9820人で,全体の5.15パーセントということになります95頁)。3年の現役に服することがなければ予備役に服することはなく(明治22年徴兵令3条2項参照),更に後備兵役にも服することはなくなりますから(同令4条参照),結局日本男児20人中約19人はせいぜい国民兵役に服するのみで(同令5条),兵士となることは実質的にはなかったということになります(同令16条)。

 なお,上記明治22年徴兵令28条は「兵役ヲ免レンカ為メ身体ヲ毀傷シ疾病ヲ作為シ其他詐偽ノ所為ヲ用ヒ又ハ逃亡若クハ潜匿シタル者又ハ正当ノ事故ナク身体ノ検査ヲ受ケサル者ハ抽籤ノ法ニ依ラスシテ之ヲ徴集ス」ると規定していましたので(甲種合格者及び乙種合格者のそれぞれにつき最優先で現役兵に編入(明治22年徴兵事務条例施行細則23条)),同条に基づき徴集された兵士らは,いじめられるしか外にすることはなさそうです。ちなみに,1893年中の陸軍内での自殺者数は35人で,兵員千人につき0.64人ということになっていました182頁)。また,同年中に神経系病を発した者は826164頁),陸軍刑法の逃亡罪による行刑者数は555人でした198頁)

 1893年の徴兵検査の前の段階において,同年の20歳の壮丁中6101人は,「逃亡失踪」しています96頁)。全体の1.59パーセント。

 逃亡失踪するようなあからさまな非国民でなくとも,我が日本男児は,実は相当非軍国的なのです。1893年の徴兵手続において,20歳の壮丁中,身長が5尺に足らず徴集延期となった者(明治22年徴兵令18条第1)が153人,疾病で徴集延期となった者(同条第2)が1557人(この両者は徴兵検査では戊種ということになります。),身長4尺8寸未満又は癈疾不具ということで兵役が免ぜられた者(同令17条)が2万9352人(徴兵検査不合格の丁種),「身体検査上徴集ニ適セサル者」が101110人(徴兵検査での丙種でしょう。)であって,その合計132171人は20歳の壮丁全体の34.37パーセントに達します96頁)。分母から逃亡失踪者等を除けばその比率はもう少し高いはずです。みやびやかなる我が大和民族は,少なくとも20歳の男性の3分の1は身体的に兵士たり得ぬ民族なのですな。これに加えるに,『陸軍省第7回統計年報』を見ると,「身体検査上徴集ニ適セサル者」の外に「選兵上徴集ニ適セサル者」とのカテゴリーが徴集を免ぜられる者の諸カテゴリー中に更にあって,これは同年報の対象である1893年には,20歳の壮丁について122050人に上っていました96頁)

 中国四国地方を管轄する第五師管から1893年に騎兵現役兵に徴集された20歳の壮丁は101人(うち12人は近衛師団へ),その外21歳以上の壮丁からは8人(うち3人は近衛師団へ)が徴集されています9899頁)。騎兵は,「成ル可ク馬匹ノ使用ニ慣レ体格ハ軽捷ニシテ筋肉肥満ニ過キサル者」が選ばれています(明治22年徴兵事務条例施行細則11条1項2号)。

 

(3)入営期日

 「現役年期ノ計算ハ総テ其入営スル年ノ12月1日ヨリ起算」するものとされていたところ(明治22年徴兵令29条),明治22年徴兵事務条例47条1項は「新兵入営期日ハ毎年12月1日トス但疾病犯罪其他ノ事故ニ由リ12月1日ニ入営シ難キ者ハ同月31日迄ニ入営セシム」と規定していましたから,筆者の曽祖父による「明治2611月1日・・・騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ」との記載は,本来「明治2612月1日・・・騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ」とあるべきものの誤記でしょう。

 

2 騎兵第五大隊の幹部

 

(1)野津師団長,木村大隊長及び豊辺・吉良両中隊長

 189312月1日現在の騎兵第五大隊関係の幹部人事はいかんというに,1893年7月1日調べ及び1894年7月1日調べの陸軍現役将校同相当官実役定年名簿を併せ見て検討するに,所属の第五師団(広島)の師団長閣下は子爵野津道貫中将(1894年7月1日で年齢52年9箇月),大隊長は兵庫県士族従六位勲六等の木村重騎兵少佐(1894年7月1日で年齢41年5箇月),大隊の二つの中隊のうち,一方の中隊長は奈良県平民正七位の吉良秀識騎兵大尉(1894年7月1日で年齢37年1箇月。189211月1日任官)であったことは,その間に異動がなく,はっきりしています。これに対して,もう一方の中隊長は,佐賀県士族従六位勲五等の梅崎信量騎兵大尉が留任していたのか,新潟県士族正七位豊辺新作騎兵大尉(1894年7月1日で年齢32年3箇月。18901110日任官)に既に交代していたのかが若干問題となります。しかしながら,梅崎大尉は1893年7月19日に騎兵少佐に任官していますから昇進後も中隊長を続けられるものではなく,これは豊辺大尉です。1894年1月1日調査の印刷局の職員録を見ると,豊辺大尉が騎兵第五大隊の中隊長として,吉良大尉の上席となる右側に記載されています。

 

(2)第一中隊長豊辺新作大尉

 1894年6月に半島に出動した筆者の曽祖父が所属した騎兵第五大隊第一中隊の中隊長は豊辺大尉及び吉良大尉のうちいずれかといえば,豊辺大尉であったということになります(外山操=森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧第1巻』(芙蓉書房・1993年)171頁参照)。豊辺大尉は同年7月2617時に漢城の南方にある素沙場において騎兵中隊の戦闘詳報を作成しており当時既に半島に出動していたことは明らかですが(当該戦闘詳報はアジア歴史資料センターのウェブ・ページにあります。),吉良大尉は同年9月10日においてまだ広島にいたところです。すなわち,アジア歴史資料センターのウェブ・ページにある両大尉の「結婚願之件」書類(陸軍省受領番号は豊辺大尉につき肆第902号,吉良大尉につき肆第1061号)を見てみると,豊辺大尉の結婚願は同年7月18日に作成され野津第五師団長を経て大山巌陸軍大臣に提出されていますが,同年9月10日に作成された吉良大尉の結婚願は山沢静吾留守第五師団長事務取扱を通じて陸軍大臣に提出されています。「留守第五師団」であって,「第五師団」ではありません。

 豊辺新作の人物については,自ら書いた『万朝報』の連載月旦記事をまとめた燧洋高橋鉄太郎の『当面の人物フースヒー』(フースヒー社・1913年)に次のようにあります。表題は,「第二の乃木将軍豊辺新作」。

 

   帝国陸軍に於て騎兵科の模範戦将と唄はれて()る騎兵四旅団長豊辺新作を評論する,彼は一見婦人の如き柔和温厚の極て(やさし)い将軍で,(おほき)い声で物もいはねば,虫も殺さぬ様な風だが,一度戦場に臨むと勇猛豪胆,鬼神の如き勢で奮戦する勇将で,乃木将軍を猶少しく地味にした様な(いは)沈勇の人だ

   彼の沈勇気胆が陸軍部内に認識されて騎兵科中の模範将軍と唄はる様になつたのは日清戦争以来のことで,(その)以前は彼は無能平凡の一軍人として無視されて()た,元来日本は蕞爾たる島国(たうこく)で,馬術といふものは一向発達せず,奥州野辺地馬なども亜刺比(あらび)()(たね)には追附(おつつか)ぬので封建時代から馬に(のつ)た兵隊といふのは土佐と紀州にあつたのみだから騎兵の進歩は(おほい)に遅れた,彼は(この)幼稚の時代の騎兵科の青年将校として当時騎兵科の総大将たる大蔵平三などに聯盟反抗を企てたので,()られる所を日清戦争に従軍して偉勲を(たて)たので初めて威名を博した,彼は越後長岡の藩士で郷党勇武の感化がある,長岡は河合蒼龍窟〔河井継之助〕の出たけに越後式ではない,彼は長岡武士の面目を辱めないものだ

   人に全きを求むるは素より酷だが,彼は温情沈勇は即ち余りあるが,惜むらくは彼には行政的才幹手腕がない,秋山好古(かうこ)が先輩中将でありながら()だ師団長にもなれないのは,一は騎兵監の後任に人物が無い為で,順番からいへば()()だが他の特科兵監に対し樽俎折衝に適しない,さらばとて本多道純では徳望が(たら)(こまつ)たものだが,軍人は戦争(いくさ)にさへ強ければ()いから,彼の如きも第二の乃木将軍として天分を尽すべきだ179181頁)

 

 筆者の曽祖父も自分の中隊長殿を見て,「おとなしい,優しい人だな。軍人といっても怖い人ばかりじゃないんだな。けれどあまりパッとしないから,大丈夫かなぁ。」などと思ったものでしょうか。

 豊辺新作は,司馬遼太郎の『坂の上の雲』において日露戦争黒溝台会戦の場面で登場します。

 

脱線その1:夏目金之助青年の兵役回避策

 明治二十年代の徴兵事情を検討していると,漱石夏目金之助が1892年(明治25年)4月に北海道後志国岩内に本籍を移したという有名な挿話をつい思い出してしまったところです。当該転籍の理由は,兵役回避のためだとされています。当該挿話をめぐる兵役法令関係を少々検討してみましょう。(なお,慶応三年(1867年)生まれの漱石の満年齢は明治の年と一致するので,この部分は元号優先で記述します。)

 明治20年に適用されていた兵役法令は,明治16年太政官布告第46号「徴兵令」(明治19年勅令第73号で一部改正)を頂点とするものでした。明治16年徴兵令3条は「常備兵役ハ別チテ現役及ヒ予備役トス其現役ハ3個年ニシテ年齢満20歳ニ至リタル者之ニ服シ其予備役ハ4個年ニシテ現役ヲ終リタル者之ニ服ス」と規定し,同令8条1項は「陸軍現役兵ハ毎年所要ノ人員ニ応シ壮丁ノ身材芸能職業ニ従ヒ歩兵騎兵砲兵工兵輜重兵及ヒ雑卒職工ニ区別シ抽籤ノ法ニ依リ当籤ノ者ヲ以テ之ニ充ツ」と規定していましたが,明治20年に第一高等中学校予科在学中であった塩原金之助(塩原家に養子に出されていた金之助青年が夏目家に復籍するのは明治21年1月)のためには,明治16年徴兵令19条の「官立府県立学校小学校ヲ除ク及ヒ文部大臣ニ於テ認タル之ト同等ノ学校ニ於テ修業1個年以上ノ課程ヲ卒リタル生徒ハ6個年以内徴集ヲ猶予ス」との規定が働いていました(いまだ同令18条第3項の「官立大学校及ヒ之ニ準スル官立学校本科生徒」として「其事故ノ存スル間徴集ヲ猶予ス」ということにはならなかったはずです。)。明治16年徴兵令19条については「課程を終りたる生徒とある上は数年前入学しあるも落第せるものは或ハ1箇年に足らざるものもあるべく又入学の時上級に入れば1箇年に満たずとも猶予を受くるを得べきなり」と説かれていました(今村長善『徴兵令詳解(増補再版)』(1889年)46頁)。塩原金之助青年は,明治19年7月には進学試験を受けられずに留年してしまいましたが,明治17年に第一高等中学校予科(当時は東京大学予備門予科)に入学していたところです。

 明治21年9月に夏目金之助青年は第一高等中学校本科第一部(文科)に進学しましたが,第一高等中学校本科在学中に明治16年徴兵令が明治22年徴兵令に代わります。経過措置規定として明治22年徴兵令41条は「旧令第18条第3項若クハ第19条ニ依リ徴集猶予ニ属シ在校ノ者ハ其事故6箇年以内ニ止ミタルトキ又ハ6箇年ヲ過クルモ仍ホ止マサルトキハ抽籤ノ法ニ依リ徴集ス但一年志願兵ヲ志願スルコトヲ得」と規定していました。

 夏目青年は明治23年9月に帝国大学文科大学英文学科に入学し,その後明治26年7月には帝国大学大学院に入ったので,明治16年徴兵令「19条ニ依リ徴集猶予ニ属シ在校ノ者」という状態は続いていたのですが,「6箇年ヲ過クルモ仍ホ止マサルトキ」の期限が迫って来ました。1箇年徴集猶予ならば明治21年に徴兵検査を受けなければならなかったのでしょうから,そう考えると,6箇年の猶予を得ても明治26年(1893年)の徴兵検査を筆者の曽祖父同様に受けなければならないことになります。明治25年中に何かをせねばならない。(なお,実は明治26年法律第4号(同年3月3日公布)によって,明治22年徴兵令41条の「6箇年」は「8箇年」に延長されたところではありました。)

 そこで明治22年徴兵令についていろいろ調べたところ,同令33条が発見されたものでしょう。同条は「本令ハ北海道ニ於テ函館江差福山ヲ除クノ外及沖縄県並東京府管下小笠原島ニハ当分之ヲ施行セス」としていました。

 ということで,明治25年4月段階における漱石の北海道後志国岩内への転籍ということになったのでしょうか,どうでしょうか。なお,明治22年徴兵令31条は「兵役ヲ免レンカ為メ逃亡シ又ハ潜匿シ若クハ身体ヲ毀傷シ疾病ヲ作為シ其他詐偽ノ所為ヲ用ヒタル者ハ1月以上1年以下ノ重禁錮ニ処シ3円以上30円以下ノ罰金ヲ附加ス」と規定していたところ,「民刑局長明30年甲第124号回答に依れば「徴兵を免れんが為の目的を以て虚偽の転籍を為したる事実あるに於ては徴兵令第31条の犯罪を構成す」と判示して居る」とのことで(日高巳雄『軍事法規』(日本評論社・1938年)39頁),漱石先生は少なくとも李下の冠的な危険なことをしてしまったことにはなります。

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「吾輩は北海道平民である。名前は既に夏目金之助である。」(東京都新宿区早稲田南町漱石公園)


 その後明治22年徴兵令33条は,明治28年法律第15号によって明治28年4月1日から「本令ハ北海道ニ於テ函館江差福山ノ外及沖縄県並東京府管下小笠原島ニハ漸ヲ以テ施行ス其時期区域及特ニ徴集ヲ免除シ若クハ猶予ス可キモノハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム」に改められました。当該勅令たる明治28年勅令第126号の第1条は「明治29年1月1日ヨリ北海道渡島,後志,胆振,石狩ノ4箇国ニ徴兵令ヲ施行ス」と規定していましたので,漱石はヒヤリとしたかもしれません。しかしながら,同勅令においては特段難しい経過措置規定は無かったので,結局明治9年以後に生まれた大日本帝国臣民男子にのみ関係があるものということでよかったのでしょう。現に明治31年1月発行の『陸軍省第10回統計年報』を見ると,北海道を管轄する第七師管における明治29年の20歳の壮丁は4409人であって前年の798人から大幅に増加している一方,明治29年の21歳以上の壮丁は535人にすぎません(109頁。明治28年の第七師管における21歳以上の壮丁の数は『陸軍省第10回統計年報』では417人と読めますが109頁),明治30年3月発行の『陸軍省第9回統計年報』では447人となっています49頁)。)。函館,江差及び福山以外の渡島,後志,胆振及び石狩に本籍を有するところの明治29年に21歳から40歳までになる日本男児までもが,同年からの徴兵令の施行に伴いどっと徴兵検査を受けなくてはならなくなった(したがって,徴兵令施行の最初の年である同年には20歳の壮丁よりも21歳以上の壮丁の方が何倍もの大きい人数になる。),ということはなかったわけです。

なお,明治30年勅令第257号により,明治31年1月1日から天塩,北見,日高,十勝,釧路,根室及び千島の7箇国にまで北海道における徴兵令の施行が拡大されました。また,明治22年徴兵令33条自体は,大正7年法律第24号によって191912月1日から削られています。

脱線その2:昭和18年法律第4号の経過措置規定並びに1944年及び1945年における朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者の徴兵状況

 

(1)昭和18年法律第4号の経過措置規定

 

ア 昭和18年法律第4号

 北海道内における明治22年徴兵令の施行拡大に係る明治28年勅令第126号及び明治30年勅令第257号におけるものとは異なり,朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に対して兵役法(昭和2年法律第47号。明治22年徴兵令を全部改正したもの)の適用を拡大する昭和18年法律第4号の経過措置規定は読みごたえのあるものです。

 1943年3月1日裁可,同月2日公布の昭和18年法律第4号によって,1943年8月1日から(同法附則1項),朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者も兵役法9条2項に基づき第二国民兵役に服し,同法23条1項に基づき徴兵検査を受けることになりました1943年1月30日の貴族院兵役法中改正法律案特別委員会における木村兵太郎政府委員(陸軍次官)の法案趣旨説明(第81回帝国議会貴族院兵役法中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1頁)及び同年2月17日の衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会における同政府委員の法案趣旨説明(第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第2回3頁)参照)

 

イ 昭和18年法律第4号附則2項及び3項

昭和18年法律第4号はその附則の第2項及び第3項において次のような経過措置規定を設けています。

 

  第9条第2項及第23条第1項の改正規定ハ本法施行ノ際徴兵適齢ヲ過ギ居ル者及徴兵適齢ノ者ニシテ其ノ際現ニ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クルモノ又ハ本法施行後其ノ適用ヲ受クルニ至リタルモノ(第3条ノ規定ニ該当スル者ヲ除ク)ニ之ヲ適用セズ

  前項ノ規定ニ該当スル者ニ付テハ第52条第1項ノ改正規定ニ拘ラズ従前ノ例ニ依ル

 

 どう読んだものやら,難しい。

 

(ア)昭和18年法律第4号附則2項前段

まず附則2項前段ですが,これは「本法施行ノ際」である1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」であって同日午前零時に「現ニ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クルモノ」については,徴兵検査はしないし(兵役法23条1項改正規定の不適用),第二国民兵ともしない(同法9条2項改正規定の不適用),ということのようです。

 

なお,附則2項における「者」と「モノ」との使い分けですが,「者」は「法令上,自然人,法人を通じ,法律上の人格を有するものを指称する場合に用いる」ところ(前田正道編『ワークブック法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)650頁),同項での「者」は自然人を指称しているものであり,「もの」は「あるものに更に要件を重ねて限定する場合(この場合には,外国語における関係代名詞に相当する用法となる。)」に用いられるところ(前田650頁),同項での「モノ」はその前の「者」に更に要件を重ねて限定しているものと読み解くべきでしょう。

また,「徴兵適齢」(兵役法23条2項)の概念も難しいのですが,「陸軍省軍務局・陸軍大学教官歩兵中佐」の肩書の中井良太郎による『兵役法綱要 附徴発法大要』(松華堂書店・1928年)によると,「前年ノ12月1日ヨリ其ノ年1130日迄ノ間ニ於テ年齢20年ニ達スル年ヲ徴兵適齢ト称ス」85頁)ということになっています。兵役法23条は当時「戸籍法ノ適用ヲ受クル者ニシテ前年12月1日ヨリ其ノ年1130日迄ノ間ニ於テ年齢20年ニ達スル者ハ本法中別段ノ規定アルモノヲ除クノ外徴兵検査ヲ受クルコトヲ要ス/前項ニ規定スル年齢ハ之ヲ徴兵適齢ト称ス」と規定していました。

 

そもそも昭和18年法律第4号の施行日が1943年8月1日とされたことについては,「本法ハ協賛ヲ得マスレバ,一日モ速カニ施行致シマシテ,2千4百万ノ朝鮮同胞ト,其ノ慶ビヲ共ニ致シタイト存ズルノデアリマスガ,7月31日迄ハ本年ノ徴兵検査ガ実施セラレマスノデ,其ノ以前ニ施行セラレマスルト,現役志願ノ者ガ徴兵検査ヲ受検スルコトトナリ,諸般ノ徴集準備ノ円滑ヲ害シマスノデ,其ノ終了ノ後,即チ昭和18年8月1日ト致シタイト存ズルノデアリマス」と木村兵太郎政府委員から説明がありました(第81回帝国議会貴族院兵役法中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1頁。また第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第2回3‐4頁)。したがって,朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に係る最初の徴兵検査は1944年に行われました。昭和18年法律第4号の法案に係る貴衆両議院の本会議における趣旨弁明の段階で既に「昭和19年ヨリ朝鮮同胞ヲ徴集」するものと明言されていたところです1943年1月29日貴族院本会議における木村政府委員弁明(第81回帝国議会貴族院議事速記録第3号40頁)及び同年2月12日衆議院本会議における東条英機国務大臣(陸軍大臣)弁明(第81回帝国議会衆議院議事速記録第10213頁))

附則2項前段は,要するに,「本法施行ノ際,朝鮮同胞ノ中デ徴兵適齢ヲ過ギテ居ル者,及ビ本年ノ徴兵適齢者ニ付キマシテハ,志願ニ依リマシテ兵籍ニ入ッテ居リマス者ヲ除キ,其ノ他ハ依然従来通リ兵役ニ服セシメナイコトト致シタイト存ズルノデアリマス」ということでした(第81回帝国議会貴族院兵役法中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1頁及びた第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第2回4頁(木村政府委員))

 

(イ)昭和18年法律第4号附則2項後段

附則2項後段は,1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」であって,同日以後に「朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クルニ至リタルモノ」についての規定です。(なお,兵役法3条は「志願ニ依リ兵籍ニ編入セラルル者」に関する規定です。)1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」である台湾人が,同日以降に朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者になっても今更兵役を課さないということでしょう(大日本帝国の臣民男子ではあっても,台湾人にはいまだ兵役義務はありませんでした。)。(ちなみに,兵役法52条2項は「徴兵適齢ヲ過ギ帝国ノ国籍ヲ取得シ又ハ回復シタル者」に対しては「徴集ヲ免除ス」る旨規定していました。)

戸籍法の適用を受ける内地人であって1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」であり,同日以後に「朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クルニ至リタルモノ」についてはどうかといえば, 1943年8月1日から共通法(大正7年法律第39号)3条3項を「戸籍法ノ適用ヲ受クル者ハ兵役ニ服スル義務ナキニ至リタル者ニ非サレハ他ノ地域ノ家ニ入ルコトヲ得ス」から「戸籍法又ハ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者ハ兵役ニ服スル義務ナキニ至リタル者ニ非サレハ内地及朝鮮以外ノ地域ノ家ニ入ルコトヲ得ス」へと改正する昭和18年法律第5号の附則2項に「本法施行ノ際〔同法附則1項により同法は兵役法の一部改正に係る昭和18年法律第4号と同時に施行〕徴兵適齢ヲ過ギ居ル者及徴兵適齢ノ者ニシテ其ノ際現ニ戸籍法ノ適用ヲ受クルモノ又ハ本法施行後其ノ適用ヲ受クルニ至リタルモノニ付テハ〔共通法〕第3条第3項ノ改正規定ニ拘ラズ仍従前ノ例ニ依ル」とありましたので,そもそも兵役義務がなくなるまでは改正前共通法3条3項の例により朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者になる(朝鮮ノ家ニ入ル)ことは法律上不能なのであって,心配には及ばぬよう手当てされていたのでした。すなわち,昭和18年法律第5号の附則2項によって「尚内地人で〔1943年8月1日に〕徴兵適齢ガ過ギテ居ル者,及ビ徴兵適齢ノ者ハ,既ニ兵役ノ義務ヲ荷ッテ居リマスガ,朝鮮デハ〔昭和18年法律第4号附則2項後段により〕兵役ノ義務ガアリマセヌノデ,朝鮮同胞ノ家ニ入ルノハ兵役ノ義務ヲ終ッタ後ニ限定セムトスルモノデアリアス」ということでした(第81回帝国議会貴族院兵役法中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1頁(木村政府委員)。また,第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第2回4頁(同政府委員))

 

(ウ)昭和18年法律第4号附則3項

附則3項は兵役法52条1項の改正規定(「戸籍法及朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受ケザル者ニシテ徴兵適齢ヲ過ギ戸籍法又ハ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者ノ家ニ入リタルモノニ対シテハ徴集ヲ免除ス」)を適用しないで「従前ノ例ニ依ル」ということのようです(なお,改正前の兵役法52条1項は「戸籍法ノ適用ヲ受ケザル者ニシテ徴兵適齢ヲ過ギ戸籍法ノ適用ヲ受クル者ノ家ニ入リタル者ニ対シテハ徴集ヲ免除ス」と規定していました。)。台湾人(「戸籍法及朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受ケザル者」としては「台湾人」が考えられていたことについては,1943年2月18日の帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会における那須義雄政府委員の答弁を参照(第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第3回23頁))について「従前ノ例」を考えると,徴兵適齢を過ぎて朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける家に入っても,「徴集ヲ免除」してもらう必要はそもそも無く,最初から懲役検査を受ける義務も第二国民兵役に服する義務もなかったということになります。(「徴集」とは,「広義では強制的に現役又は補充兵役に就かしむべき行政作用即ち徴兵検査に出頭を命じ徴兵検査を受けしめ現役又は補充兵役に就かしむる迄の一切の作用を謂ひ,狭義では現役又は補充兵役編入を決し之を本人に通告する行為換言すると現役又は補充兵役編入の行政処分を意味」します(日高12頁)。)1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」である台湾人については,同日以降もこのような従前ノ例ニ依ル」ということは附則2項後段から読み取られるところですが,改正後の兵役法52条1項を反対解釈すると(徴集免除とは関係のない)第二国民兵役には服することになるので,当該矛盾を排除するために昭和18年法律第4号の附則3項は設けられたのでしょう。

(2)1944年及び1945年における朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者の徴兵状況

 

ア 「朝鮮軍歴史別冊 朝鮮人志願兵・徴兵の梗概」

1944年に始められた朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に対する我が兵役法に基づく徴兵検査,徴集及び入営に関する状況については,朝鮮軍残務整理部が残した「朝鮮軍歴史別冊 朝鮮人志願兵・徴兵の梗概」というガリ版刷り文書があり,アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることができます(なお,ここでいう「朝鮮軍」は我が帝国陸軍の朝鮮駐屯軍のことであり,外国の軍隊ではありません。)。当該「梗概」の作成者は,末尾に「元朝鮮軍徴兵主任参謀/吉田俊隈記す」と記載されています。「梗概」が作成された時期は明示されていませんが,「朝鮮軍関係資料」として「梗概」と共に合冊されている「朝鮮に於ける戦争準備」という文書の表紙には「昭和21年2月/朝鮮軍残務整理部/昭和27年2月復員課複写」と記されているところ,やはり1946年1月前後に作成されたものと考えるべきでしょうか。

以下本稿は,1944年及び1945年における朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者の徴兵状況に関し,「朝鮮軍歴史別冊 朝鮮人志願兵・徴兵の梗概」の更に梗概を紹介するものです。

 

イ 1943年の臨時特別志願兵と高橋留守第三十師団長閣下解職

早速1944年の話に入りたいのですが,その前,194310月以降の「臨時特別志願兵」騒動がちょっと見逃せないところです。「梗概」にいわく。

 

 昭和18年〔1943年〕10月朝鮮に於ては明春よりの歴史的第1回徴兵検査を目前に控え最後の準備完整に大童(おおわらわ)の時,戦局の要請に基き内地人学生に対する従来の徴集延期制度の一部改正せられ大学,高等,専門学校の法文系学生は,同年11月より臨時徴兵検査を実施せられ翌19年〔1944年〕1月より入営せしめらるる事となれり。

 本制度の実施に伴い,同じく法文系に籍を有し,内地学生と机を並べ,勉学の途にいそしめる朝鮮人学生にも同窓の内地人学生と共に相携へ祖国の急に馳せ参じ得るの臨時特別志願兵の途を開かれたり。

 

 いい話じゃないですか,ということで,「俄然朝野の視聴を集め志願慫慂,全員受検の民間運動が内鮮全体に亘り活発に展開」されたそうです。大人はいい気なものです。しかし,当事者学生にとってはなかなか煩わしい。

 

  当時内地に在りし朝鮮人学生中には父母の同意を得るに名を藉り,休学帰鮮する者多く又鮮内学生に在りては無断休学し居所を杳晦する者等相次いで出で一時は相当の混乱状態を呈せるも逐次先輩有志の説得官民の熱誠なる支援,学生自身の自覚に依り検査開始迄には在鮮学徒の約90%は志願するに至りたり。

 

後日「梗概」は自ら,「或は一部野心家の後日の社会的地位獲得の為の裏面的策動に依る強制受検等の多少ありたるは否めざる事実なりしも」と述べてはいますが,やはり,これら「約90%」の学徒は公式的には飽くまでも自発的に志願したものなのでしょう。

詮衡検査は194311月から同年12月にかけて行われ,朝鮮内での受検者総数は3366人,うち現役兵として徴集された者2735人,補充兵として徴集された者382人,不合格者249人でした(「梗概」第7表の2)。この外,朝鮮軍管外の受検で721人が現役兵として徴集されています(同)

「軍に於ては同志願兵の部隊配当を実施するに方り素質優秀なるものは鮮外部隊に充当し,多少とも強制志願と目せらるるが如き明朗性を欠くものは鮮内部隊へ充当」したそうです。「梗概」の第7表の2を見ると,朝鮮軍管内採用の現役兵たる臨時特別志願兵の入隊先を見ると朝鮮軍に423人(羅南師団127人,京城師団106人,平壌師団153人及び軍直部隊37人),内地の東部軍,中部軍及び西部軍に1279人並びに当時戦闘中であった支那派遣軍に996人となっています(同表ではこれらの合計が「2732」人であるとしていますが,筆者の電卓検算では2698人で,どうも34人分数字が合いません。)。

これでめでたしめでたしかといえば,なかなかそうは問屋が卸しません。

 

 昭和19年〔1944年〕1月平壌留守第三十師団に入営せる志願兵中(これ)()自発的に依らざりし者は入営せば必ず将校たり得るの既得権を有する如く誤信しありし者或は入営前の放逸なる生活に憧るゝ者等の不平分子は幹部候補生甲,乙決定の際甲種の詮衡率僅少(約3%)なりしに端を発し,部隊相互に(ママ)密裡に連絡し,党与して鮮外に逃亡せんと謀りしが事前に発覚し事件は大事に至らずして解決せるも時の師団長高橋中将は引責解職せらるるに至りたり。

 

 お気の毒なのは高橋留守第三十師団長閣下です。鬼畜米英撃滅以前に,隷下の自軍兵士に足元をすくわれました。しかし,「進級等自己ノ意ニ満タサル場合著シク性格上ノ缺陥ヲ暴露」すること1943年8月14日陸軍省副官からの昭和18年陸密第2848号通牒の一節(アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることができます。))は,だれにでもあることです。

 気の毒ついでにこの高橋中将はどの高橋中将なのかインターネットをいろいろ調べてみたのですが,Hiroshi Nishida氏のウェブ・サイトに,1944年4月29日に予備役から留守第三十師団長に返り咲き,1945年3月31日に召集解除となった高橋中将として,高橋多賀二の名が出ていました。岡山出身,陸軍士官学校第22期,陸軍大学校第35期だそうです。

 ウ 1944年の徴兵

 

(ア)徴兵検査

朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に対する最初の徴兵検査の実施時期について「梗概」は,昭和「19年〔1944年〕4月より8月に亘り此の歴史的第1回徴兵検査を各兵事部主宰の下に全鮮に亘り一斉に開始せり」と述べています。(なお,兵役法施行規則(昭和2年陸軍省令第22号)103条1項は「聯隊区徴兵署ノ事務ハ毎年4月16日ヨリ7月31日迄ノ間ニ於テ之ヲ行フヲ例トス」と規定していましたが,19431224日公布,同日施行の昭和18年陸軍省令第69号の第3条が「昭和19年ニ於ケル徴兵検査ハ昭和19年4月1日ヨリ概ネ同年8月末日迄ノ間ニ実施スルモノトス」と規定していました。)

「検査は順調且成功裡に終始するを得たり」とはいえ,「珍談奇景」はやはり生じたそうで,「梗概」はそのうち4話を紹介しています。いわく。①病気で「晴の入営の能はざるは男子として不名誉此の上なきも未だ五体には愛国の熱血を存すとの意志を表示する為め机上の小刀を以て指を斬り血書せんとしたる」壮丁に対して,その場にいた徴兵署事務員は自分が斬りつけられるのかとびっくりして「格斗の末之を憲兵に引渡」した。②徴用されて労務者として内地に滞在している兄に代わってその弟が代人として受検に来たが,「(これ)本人の無智もさる事(なが)ら検査の当日には何はともあれ頭数だけ何とか揃えんとの末端邑面吏員の知識の一端を窺ひ知るを得べし」。邑は内地の町,面は村に相当します。③「徴兵検査は検査場より直ちに本人を入営せしむるものと誤解せる母親は数里の山奥より多量の餅を携え吾が愛子と最後の別れをなさんと悲壮な面持にて検査場を訪れたるものあり」。④学力調査のため片仮名平仮名を示しても「唯頭を横に振るばかり」の壮丁であったが「自己の本籍地氏名を漢字にて鮮かに書流せるを以て調査の結果書堂にて儒学を若干習ひ漢字ならお手の物と判明」して「(これ)(また)唖然」。

「本検査を機とし畏き辺におかせられては5月侍従武官尾形健一中佐を御差遣あらせられ(つぶさ)に徴兵検査の状況を視察せしめられ其の労を(ねぎらわ)せ給ひたり」と「梗概」述べるところ,宮内庁の『昭和天皇実録第九』(東京書籍・2016年)によれば,1944年6月1日に「御文庫において侍従武官尾形健一に謁を賜い,朝鮮軍及び朝鮮における民間軍需品製造工場への御差遣につき復命を受けられる。尾形は昨月2日出発,28日帰京する。」とのことでした361頁)。無論,昭和天皇の耳には前記のような「珍談奇景」の話は入っていないでしょう。

「逃亡,自傷,詐病等の犯罪を犯せる者も多少ありたるも之等は総員の僅か1%程度に過ぎざる状況なりき」だったそうです。そうであれば,逃亡失踪率1.59パーセントだった1893年の我が日本内地内の徴兵検査受検状況に比べて,真面目さにおいて勝るとも劣りません。なお,アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることのできる内務省用紙に和文タイプ打ちの194412月付け「朝鮮ノ統治事情説明」の第1の2「徴兵制実施ノ状況」によれば「半島人壮丁予定総員231424名ニ対シ受験者総数(222295名)ハ其ノ9割6分ニ達シ,不参者ハ0.06(ママ)(1万2905名)此ノ大半ハ疾病,受刑中,兵籍編入,在外延期其ノ他已ムヲ得サル事由ニ依ルモノ多ク,所在不明ノ為ノ不参加者ハ6228名(予定総員ノ0.027)ニ過キス此ノ所在不明者中ニハ徴兵制度発表以前ヨリ所在不明ノ者ガ大部分テアツテ,真ニ忌避的手段ニ出テタル者ハ極メテ少数ト判断セラレ,同様事故不参者ハ僅ニ422名テアツテ,総括的ニ見ル時順調ナル経過ヲ以テ終了シタノテアル」ということでした。

また,「梗概」によれば,「検査の結果甲種は30%国語理解者60%の成績」だったそうです。

 

 受検壮丁は内外地を合し約23万にして其の中5万ママを現役兵として徴集し検査終了後より所要の入営準備教育を実施し〔昭和〕19年〔1945年〕9月より逐次入営せしめられたり

 

「梗概」の第8表によれば,1944年の徴兵検査で現役兵として徴集された朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者は,朝鮮軍管区から5万1737人(うち1万人は海軍兵),関東軍管区からは3260人及び台湾軍管区から3人の合計5万5000人となっています。(南方軍及びフィリピンの第十四軍地区に残留するものは上記とは別に徴兵検査を受けたものとされています。)

 

(イ)部隊配当

 「梗概」には,第1回徴兵検査後「朝鮮兵の部隊配当は全軍に亘り且其の入営の要領は〔1944年〕9月より逐次先づ朝鮮軍司令官の定むる鮮内部隊に入営せしめ軍隊生活に若干馴れしめたる後本属の内外地入営部隊に転属することとせられたり」とあります。

配当先の「内外地入営部隊」はどのようなものかと「梗概」の第9表(「昭19朝鮮現役兵各軍配当区分表」)を見ると,内地及び樺太の東部軍,中部軍,西部軍及び北方軍に合計8245人,朝鮮軍に1585人,台湾軍に3人,関東軍に9925人,戦闘中の支那派遣軍に1万0445人,同じく戦闘中の南方軍に7647人,蘭印(インドネシア)の第二方面軍に1540人,ラバウルの第八方面軍に2710人,第一航空軍(司令部は東京)に2300人及び船舶司令部(司令部は広島の宇品)に600人並びに鎮海鎮守府に海軍兵を1万人となっていました。合計5万5000人。しかしながら,当該「第9表」は徴兵検査前の計画値を示しているもののようで,その備考欄には「各軍司令官は本配当表に基き〔中略〕細部の部隊配当を定め昭和19年4月末日迄に朝鮮軍司令官に通報し朝鮮軍司令官は之に基き部隊配当を行ふものとす」と記されています。

その後の1944年5月26日付けの東条英機陸軍大臣からの陸機第129号昭和19年徴集現役兵ノ入営及外地派遣等ニ関スル件達(アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることができます。)を見ると,同年徴集の「朝鮮人初年兵(航空,船舶部隊ノ要員及び海軍兵ヲ除ク)ノ入営及外地派遣等」について,改めて次のように定められています。

まず,「関東軍,支那派遣軍,第五方面軍〔北方軍の改組されたもの〕,朝鮮軍及び内地各軍要員(朝鮮以外ノ地ニ在リテ直接現地ノ部隊ニ入営スルモノヲ除ク)ハ概ネ当該内地人要員ノ入営日ニ朝鮮軍司令官ノ定ムル其ノ隷下部隊ニ入営セシメ関係部隊長相互協議ノ上所属部隊ニ転属スルモノトス但シ関東軍及支那派遣軍ノ要員(満洲,支那ニ在ル大本営直轄部隊ノ要員ヲ含ム)ハ成ル可ク当該部隊内地人初年兵ノ朝鮮通過時之ニ合スル如ク転属スルモノトス」とされています。これは,「梗概」の記すところとほぼ同じですが,「関東軍及支那派遣軍ノ要員」については,「軍隊生活に若干馴れしめたる後本属の内外地入営部隊に転属」ではなく,「成ル可ク当該部隊内地人初年兵ノ朝鮮通過時之ニ合スル如ク転属スルモノ」とされています。

南方軍,第二方面軍及び第八方面軍への配当予定初年兵は宙ぶらりんになったようです。すなわち,「南方軍,第八方面軍,第二十七軍〔択捉島〕,第三十一軍〔サイパン〕,第三十一軍(ママ)及小笠原兵団ノ要員ハ昭和19年陸密第513号ノ規定ニ拘ラズ之ヲ配当残余人員トス」ということとなり,かつ,「配当残余人員ノ処理ニ関シテハ別ニ示ス」とされています。

台湾軍に配当されたものについては「在台湾部隊ノ要員タル初年兵(台湾ニ於テ徴集セル朝鮮人ヲ含ム)」ということで,内地人初年兵と一緒にされています。

「航空部隊及船舶部隊ノ要員タル初年兵(朝鮮人ヲ含ム)」については,「内地,朝鮮,台湾及満州国(関東洲ヲ含ム)ニ於テ徴集セル初年兵ニシテ当該地区以外ノ部隊ニ入営スルモノハ航空総軍司令官若ハ船舶司令官,関係軍司令官ト相互協議ノ上当該地区内ノ適宜ノ場所ニ集合地〔ママ〕入営セシムルモノトス」とありますから,結局地元に留まっていたことになるのでしょう。

(ウ)入営

 前出194412月付け「朝鮮ノ統治事情説明」いわく。

 

  合格者ノ入営ニ際シテハ母子相擁シテ号泣スルトカ,自暴自棄的トナツテ遊興,暴行ヲスルトカ目ニ余ル事例モ無イテハナカツタカ大体ニ於テハ各方面ノ壮行,見送リヲ受ケテ感奮シツツ入隊シ〔タ〕

 

「梗概」いわく。

 

斯くて朝鮮出身兵は〔1944年〕9月より逐次入営せしめらるるに至りたるも漸次後退の途を辿りありたる戦況の推移とも関聯し入営後脱営するもの或は鮮外部隊に転属の途次逃亡するもの等頻発し一時は相当の苦慮を要せしも日を経るに従ひ次第に落着きを取り戻し大なる考慮を要せざるに至りしも直接入営業務を担任する部隊側の苦心は(ママ)大抵のものにては非らざりき

一時逃亡者続出せる時代に在りては某部隊の如きは之が防止対策として巡察不寝番の増加潜伏斥候分哨の配置,兵営周囲の鉄柵の補修増強等本末を顚倒せる挙に出でたるものもあり其の苦心の一端を察するを得べし

 

 1944年6月15日米軍はサイパン島に上陸,同月19日のマリアナ沖海戦で我が連合艦隊は惨敗,7月4日には大本営はようやくインパール作戦中止を命令,同月7日サイパン島の我が守備隊玉砕,同月18日東条英機内閣総辞職,8月3日我がテニアン守備隊玉砕,同月10日グアムの我が守備隊玉砕,1020日米軍レイテ島上陸,同月24日のレイテ沖海戦で連合艦隊は大敗,同月25日海軍神風特別攻撃隊の初めての体当たり攻撃,1124日にはマリアナ基地のB29による東京初空襲といった戦況ですから(『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)参照),なかなか勇ましい気分にはなれなかったものでしょう。

 なお,現役兵の入営期日が兵役法施行規則231条による同規則附表第1に規定されているものと異なるではないかと怪訝に思われる向きもあるかもしれませんが,これについては,193910月2日に公布され同日から施行された昭和14年陸軍省令第52号が「当分ノ内陸軍現役兵ノ入営期日ハ兵役法施行規則附表第1ノ規定ニ拘ラズ別ニ定ムル所ニ依ル」としてしまっていたところです。したがって,9月ないしは11月生まれの者はあるいは19歳で現役兵として入営ということになるのですが,明治22年徴兵令3条の「現役ハ〔略〕満20歳ニ至リタル者之ニ服シ」のような規定は,兵役法にはありませんでした(同法5条参照)。

 

 又入営後に在りても面会人は踵を接して至れり

 特に母親の如きは毎日営庭を見渡し得る場所に腰を下し終日吾が愛児の身の上を案じ続ける者も相当数ありて部隊側の之等(これら)面会人に対する応接整理は想像に余りあるものありたり

 

 母の愛。これを受けてしまえば「即チ孝ヲ第一義トシ直接的孝養ヲ以テ最高ノ道徳ト思惟」することになります(前出昭和18年陸密第2848号通牒)

 現役兵のほか,補充兵についても,「約23万の壮丁中より現役として入営せるは僅か4万5千名(別に海軍兵1万名)にして他の大部分は補充兵として在郷に待機しありしも本土の兵備鞏化に伴い逐次各勤務隊現地自活要員として召集せらるるに至りたり」とあります。しかしながら,飽くまでも「現地自活要員」ですから,兵士としての戦闘は期待されていなかったのでしょう。この辺の数字については,アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることのできる「支那事変・大東亜戦争間動員概史(草稿)」(表紙には「第一復員局」とあります。)の「第9章 異民族ノ使用」において,1944年及び1945年の両年で朝鮮人兵を「35000」人を「召集」したとの記載があります。「召集」とは「帰休兵,予備兵,後備兵,補充兵又は国民兵を軍隊に編入する為に召致し集める行政作用を謂ふ」ものとされています(日高2829頁)

 

エ 1945年の徴兵

 

(ア)朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者

 1945年2月10日から,昭和20年法律第3号によって,「戦時又ハ事変ノ際其ノ他特ニ必要アル場合ニ於テハ命令ノ定ムル所ニ依リ徴兵検査ノ執行ヲ次年ニ延期スルコトヲ得」とする弱気な兵役法44条の2が同法に挿入されました。

 しかしながら,朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に対する第2回の徴兵検査は,「梗概」のいうところ,「戦局の要請に応じ〔1945年〕2月より5月に亘りて早期に実施」されています。「梗概」の第10表によれば,陸軍の現役兵は,朝鮮軍管区で4万1965人,関東軍管区で3035人の合計4万5000人を徴集しています(同表の合計欄の「46,000」は誤記でしょう。)。前年と同数ということになります。同第11表によれば海軍兵の現役徴集数は1万人ですが,これらについての入団期日は194511月以降になっていますので,これらの海軍兵は結局入団しなかったわけです(降伏文書署名は同年9月2日)。

 陸軍現役兵は果たして入営に至ったかどうかについては,「梗概」は,「又入営準備訓練も前年度に準じ着々実施しつありしが8月15日遂に終戦の大詔を拝し茲に朝鮮徴兵史も終焉を告ぐるに至りたり」とのみ記しています。


(イ)戸籍法の適用を受ける者の例(脱線の脱線)

 ちなみに,1945年の内地における戸籍法の適用を受ける者に係る徴兵状況については,民法の星野英一教授の回想があります。

星野教授は,1926年7月8日生まれなので,その年の7月に19歳になる1945年に徴兵検査を受けることになりました。先の大戦の末期には戸籍法の適用を受ける者に係る徴兵適齢は20年ではなく19年に引き下げられていたことについては,筆者はかつて本ブログにおいて紹介したことがあります(「兵役法(昭和2年法律第47号)等瞥見(後編)」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1013932816.html)。

   ところが,私は不幸にして,兵隊にとられました。割合年は若く18歳でしたが。もともと徴兵年齢が20歳で,20歳の12月に徴兵検査を受けるのです。それが戦争で1年短く19歳になり,私の年から18歳になってしまったのです。確か1944年の末に決まったので,45年の1月だかに徴兵検査を受けました。ただ,まさかと思っていたのに徴兵令状が来てしまいました。6月の中旬か下旬か,正確には覚えていませんが,甲府の連隊に入れということです。(星野英一『ときの流れを超えて』(有斐閣・2006年)40頁)

 

 1945年の徴兵検査は,兵役法23条及び徴兵適齢臨時特例(昭和18年勅令第939号)によって194412月1日から19451130日までの間に年齢19年に達する者が受けることになっていたので,誕生日が徴兵検査の日より後の者については18歳で徴兵検査を受けることになることは実は当然あり得たところです。「私の年から18歳になってしまったのです」ということではありません。また,徴兵適齢臨時特例による徴兵適齢の20年から19年への引き下げは19431223日の昭和天皇の裁可で決まったのであって(公布・施行は同月24日),「1944年の末」に決まったものではありません。(この徴兵適齢臨時特例は「兵役法第24条ノ2ノ規定ニ依リ当分ノ内同法第23条第1項及第24条ニ規定スル年齢ハ之ヲ19年ニ変更ス」としたものです。ただし,当該特例は,内地人にのみ適用されました(同特例附則1項ただし書(昭和19年勅令第2812条による改正後は附則2項))。)新年を迎えて早々1月に徴兵検査をすることについては,19441116日公布・同日施行の昭和19年陸軍省令第51号の第2条1項が,1945年における徴兵検査は同年1月15日から同年4月30日までの間に行うものと定めていたところでした。また,「徴兵令状」というのは,兵役法施行規則218条及び附録第3様式からすると,「現役兵証書」であったようです。   

                                  (つづく)

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

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