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 先般筆者の母方の祖父の十七回忌法要があり,親戚が集まったところで当該故人及びその父(すなわち筆者の母方の曽祖父)の残した書き物が印刷物とされて一同に配付されました。これがなかなか興味深い。

 曽祖父の「由緒」書きにおけるその兵役に関する記録中最初の部分は次のとおり。中国地方の山中から広島の第五師団に騎兵として入営して約半年で直ちに半島に出動,日清戦争前夜からその終結まで,我が大日本帝国陸軍の主要な軍事行動の現場にあってその当事者であり続けたのでした。

 曽祖父・祖父の記録癖に付加せらるるところの筆者の悪癖は考証癖でありますが,いささか註釈を施してみる次第です。今回は,最初の1行の部分です。

 

明治26年〔1893年〕11月1日徴兵ニ合格シテ騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ〔今回はここまで〕

明治27年〔1894年〕6月朝鮮国ニ東学党蜂起シ韓国居留民保護ノ目的ヲ以ツテ(どう)年6月11日混成旅団ヲ編成セラ(ママ)大島義昌少将ヲ旅団長トシ平城盛次少尉ヲ小隊長トシ選抜セラレテ山城丸ニ乗舶シ宇品港出帆玄海灘ヲ経テ仁川ニ向フ此ノ日山陽鉄道広島駅()()開通ノ日ナリ

明治27年8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル

仝7月23日京城ノ変ニ出張爾来成歓ニ牙山ニ平壌義洲鴨緑江鳳凰城塞馬集崔家房礬家台竜頭塞興隆勾瀇嶺海城牛荘田庄台ト転戦ス

明治27年9月15日大本営ヲ広島旧城エ進メ給ヘリ

明治28年〔1895年〕6月5日講和トナリ凱旋

仝年1112日日清戦役ノ功ニ依リ瑞宝章勲八等及び金50円幷ニ従軍徽章下賜セラル

明治29年〔1896年〕1130日善行証書ヲ授与セラレ満期除隊トナル

 

1 1893年の徴兵に関する状況

 

(1)明治22年徴兵令

1893年当時施行されていた兵役法令は,明治22年法律第1号(1889121日裁可,同月22日官報で公布)の「徴兵令」を頂点とするものでした。ところで,同令の下で「徴兵ニ合格」するとはどういうことかといえば,そもそも「日本帝国臣民ニシテ満17歳ヨリ満40歳迄ノ男子ハ総テ兵役ニ服スルノ義務アルモノトス」ることが原則とされていたところ(同令1条),「陸軍現役兵ハ毎年所要ノ人員ニ応シ壮丁ノ身材芸能職業ニ従ヒ歩兵騎兵砲兵工兵輜重兵職工及雑卒ニ区別シ抽籤ノ法ニ依リ当籤ノ者ヲ以テ之ニ充ツ」ということでしたから(同令8条1項),通常は,むしろ「合格」というよりは「当籤」といったほうが法令用語としては正しかったように思われます。

「合格」又は「不合格」の概念は,徴兵検査規則(明治25年陸軍省令第3号)に出てきます。同規則1条は「徴兵検査ハ徴兵令ニ拠リ兵役ニ服スヘキモノ体格ヲ検査シ其適否ヲ定ムルモノトス/此検査ハ学術上諸種ノ方法ヲ施スコトヲ得」と規定し,第2条1項に「不合格」となるべき「疾病畸形」を23号にわたって掲げ(ただし,同条2項は「前項ノ疾病畸形中軽症ニシテ服役シ得ヘキモノハ合格トシ爾余ノ疾病畸形ト雖モ服役シ得ヘカラサルモノハ不合格トス」と規定),第3条において甲種(身長5尺以上にして身体強健なるもの),乙種(身長5尺以上にして身体甲種に()ぐもの),丙種(身長5尺以上にして身体乙種に亜ぐもの及び身長5尺未満4尺8寸以上にして丁種戊種に当らざるもの),丁種(第2条に当るもの及び身長4尺8寸に満たざるもの)及び戊種明治22年徴兵令第18条第1項(体格完全且強壮なるも身幹未だ定尺に満たざる者)第2項(疾病中又は病後にして労役に堪へざる者)に当るもの)を定義した上で,第4条において「第3条ノ甲種乙種丙種ヲ合格トシ其甲種乙種ハ現役ニ徴スヘキモノ丙種ハ国民兵役ニ置クモノトシ丁種ヲ不合格戊種ヲ徴集延期トス」と規定していました。

丙種合格者が置かれる国民兵役とは「国民兵役ハ満17歳ヨリ満40歳迄ノ者ニシテ常備兵役及後備兵役ニ在ラサル者之ニ服ス」ものと規定されており(明治22年徴兵令5条),具体的には「国民兵ハ戦時若クハ事変ニ際シ後備兵ヲ召集シ仍ホ兵員ヲ要スルトキニ限リ之ヲ召集ス」るものにすぎませんでした(同令16条)。これでも徴兵検査に「合格」というのはややおこがましい。

現役は「満20歳ニ至リタル者之ニ服」するものでした(明治22年徴兵令3条2項)。徴兵検査との関係での「満20歳」の意味は,「毎年1月ヨリ12月迄ニ満20歳ト為ル者ハ其年ノ1月1日ヨリ同月31日迄ニ書面ヲ以テ戸主ニ非サル者ハ其戸主ヨリ本籍ノ市町村長ニ届出可シ」とあって(同令25条本文),それを承けて「町村長ハ毎年徴兵令第25条ノ届書ヲ戸籍簿ニ照較シ壮丁名簿ヲ作リ2月15日迄ニ島司又ハ郡長ニ差出シ島司郡長ハ点検ノ後之ヲ1徴募区ニ取纏メ前年仮決ノ諸名簿ト共ニ大隊区徴兵署又ハ警備隊区徴兵署ニ提出ス可シ/市長ハ前項ノ例ニ依リ壮丁名簿ヲ作リ前年仮決ノ諸名簿ト共ニ大隊区徴兵署ニ提出ス可シ」(徴兵事務条例(明治22年勅令第13号。明治25年勅令第33号で一部改正)23条)ということになって,その年(満20歳になる年)の徴兵検査及び抽籤を受けることとなるというものでした。

 明治22年徴兵事務条例26条1項は,徴兵検査について,「兵役ノ適否ヲ定ムル為メ大隊区徴兵署又ハ警備隊区徴兵署及検査所ニ於テ壮丁ノ身体検査ヲ行フ其検査ハ徴兵官及徴兵参事員ノ面前ニ於テスルモノトス」と規定していました。「大隊区徴兵署警備隊区徴兵署及徴兵検査所ハ島司郡市長ニ於テ適当ノ家屋ヲ選定シ大隊区司令官又ハ警備隊司令官到著ノ上之ヲ開設ス可シ」とされていました(徴兵事務条例施行細則(明治22年陸軍省令第1号)4条1項)。

 明治22年徴兵令8条の「抽籤ノ法」については,明治22年徴兵事務条例34条1項及び2項に「身体検査ニ合格シ現役ニ徴スヘキ壮丁ハ徴集順序ヲ定ムル為メ徴募区毎ニ体格ノ等位及兵種ヲ分チ旅管徴兵署ニ於テ抽籤ヲ行フ」及び「抽籤ハ旅管徴兵官旅管徴兵参事員及大隊区徴兵官又ハ警備隊区徴兵官ノ面前ニ於テ抽籤総代人之ヲ為スモノトス」と規定されていました。徴募区については,「徴募区ハ1郡又ハ1市ヲ以テ1区ト為ス」のが原則でした(同条例3条1項)。旅管徴兵署とはどこかといえば,「毎年徴募事務執行ノトキハ旅管内府県毎ニ旅管徴兵署ヲ設ク」るものとされていました(同条例32条)。抽籤総代人については「身体検査終ルノ後大隊区徴兵官又ハ警備隊区徴兵官ハ合格者ヲシテ抽籤総代人ヲ選ハシメ其人名ヲ旅管徴兵官ニ報告スヘシ」とされていました(明治22年徴兵事務条例施行細則9条。明治22年徴兵事務条例34条3項は「抽籤総代人ハ籤丁ノ選ヲ以テ徴募区毎ニ2名若クハ3名ヲ出スモノトス」と規定していました。)。

 

(2)1893年の徴兵状況

 ここで,1893年に行われた徴兵の状況を計数的に見てみようとすると,陸軍省大臣官房副官部編纂の『陸軍省第7回統計年報』(189411月)という便利なものがあります。

 1893年の我が国における20歳の壮丁の総員は384536人であったところ,①現役として当籤した者は1万9040人で,その4.95パーセントということになりました95頁)。その外に②志願者が769(この「志願者」は,明治22年徴兵事務条例施行細則8条に「身体検査ノ際現役ニ服センコトヲ志願スル者アルトキハ大隊区徴兵官ハ本人ノ身元ヲ調査シ其景況書ヲ添ヘ旅管徴兵官ニ具申ス可シ/其志願者ハ体格甲種ニシテ身元確実ト認ムル者ハ旅管徴兵官ニ於テ之ヲ許可スルコトヲ得」と規定されていたもので,「甲種合格者ニシテ抽籤ノ者」より先に現役兵に編入されました(同細則23条)。これらの者にとっては,現役兵編入は「当籤」ではなく「合格」ということになります。他方,同年報100102頁の「現役兵志願者人員」の表の「現役兵志願者」は,明治22年徴兵令10条(満17歳以上20歳未満の現役兵志願者)及び11条(一年志願兵志願者)に係る現役の志願者であって,また別のカテゴリーでした。)及び③明治22年徴兵令28条によって徴集された者が11人ありましたから,20歳の壮丁中現役として徴集された者は①から③までの合計1万9820人で,全体の5.15パーセントということになります95頁)。3年の現役に服することがなければ予備役に服することはなく(明治22年徴兵令3条2項参照),更に後備兵役にも服することはなくなりますから(同令4条参照),結局日本男児20人中約19人はせいぜい国民兵役に服するのみで(同令5条),兵士となることは実質的にはなかったということになります(同令16条)。

 なお,上記明治22年徴兵令28条は「兵役ヲ免レンカ為メ身体ヲ毀傷シ疾病ヲ作為シ其他詐偽ノ所為ヲ用ヒ又ハ逃亡若クハ潜匿シタル者又ハ正当ノ事故ナク身体ノ検査ヲ受ケサル者ハ抽籤ノ法ニ依ラスシテ之ヲ徴集ス」ると規定していましたので(甲種合格者及び乙種合格者のそれぞれにつき最優先で現役兵に編入(明治22年徴兵事務条例施行細則23条)),同条に基づき徴集された兵士らは,いじめられるしか外にすることはなさそうです。ちなみに,1893年中の陸軍内での自殺者数は35人で,兵員千人につき0.64人ということになっていました182頁)。また,同年中に神経系病を発した者は826164頁),陸軍刑法の逃亡罪による行刑者数は555人でした198頁)

 1893年の徴兵検査の前の段階において,同年の20歳の壮丁中6101人は,「逃亡失踪」しています96頁)。全体の1.59パーセント。

 逃亡失踪するようなあからさまな非国民でなくとも,我が日本男児は,実は相当非軍国的なのです。1893年の徴兵手続において,20歳の壮丁中,身長が5尺に足らず徴集延期となった者(明治22年徴兵令18条第1)が153人,疾病で徴集延期となった者(同条第2)が1557人(この両者は徴兵検査では戊種ということになります。),身長4尺8寸未満又は癈疾不具ということで兵役が免ぜられた者(同令17条)が2万9352人(徴兵検査不合格の丁種),「身体検査上徴集ニ適セサル者」が101110人(徴兵検査での丙種でしょう。)であって,その合計132171人は20歳の壮丁全体の34.37パーセントに達します96頁)。分母から逃亡失踪者等を除けばその比率はもう少し高いはずです。みやびやかなる我が大和民族は,少なくとも20歳の男性の3分の1は身体的に兵士たり得ぬ民族なのですな。これに加えるに,『陸軍省第7回統計年報』を見ると,「身体検査上徴集ニ適セサル者」の外に「選兵上徴集ニ適セサル者」とのカテゴリーが徴集を免ぜられる者の諸カテゴリー中に更にあって,これは同年報の対象である1893年には,20歳の壮丁について122050人に上っていました96頁)

 中国四国地方を管轄する第五師管から1893年に騎兵現役兵に徴集された20歳の壮丁は101人(うち12人は近衛師団へ),その外21歳以上の壮丁からは8人(うち3人は近衛師団へ)が徴集されています9899頁)。騎兵は,「成ル可ク馬匹ノ使用ニ慣レ体格ハ軽捷ニシテ筋肉肥満ニ過キサル者」が選ばれています(明治22年徴兵事務条例施行細則11条1項2号)。

 

(3)入営期日

 「現役年期ノ計算ハ総テ其入営スル年ノ12月1日ヨリ起算」するものとされていたところ(明治22年徴兵令29条),明治22年徴兵事務条例47条1項は「新兵入営期日ハ毎年12月1日トス但疾病犯罪其他ノ事故ニ由リ12月1日ニ入営シ難キ者ハ同月31日迄ニ入営セシム」と規定していましたから,筆者の曽祖父による「明治2611月1日・・・騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ」との記載は,本来「明治2612月1日・・・騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ」とあるべきものの誤記でしょう。

 

2 騎兵第五大隊の幹部

 

(1)野津師団長,木村大隊長及び豊辺・吉良両中隊長

 189312月1日現在の騎兵第五大隊関係の幹部人事はいかんというに,1893年7月1日調べ及び1894年7月1日調べの陸軍現役将校同相当官実役定年名簿を併せ見て検討するに,所属の第五師団(広島)の師団長閣下は子爵野津道貫中将(1894年7月1日で年齢52年9箇月),大隊長は兵庫県士族従六位勲六等の木村重騎兵少佐(1894年7月1日で年齢41年5箇月),大隊の二つの中隊のうち,一方の中隊長は奈良県平民正七位の吉良秀識騎兵大尉(1894年7月1日で年齢37年1箇月。189211月1日任官)であったことは,その間に異動がなく,はっきりしています。これに対して,もう一方の中隊長は,佐賀県士族従六位勲五等の梅崎信量騎兵大尉が留任していたのか,新潟県士族正七位豊辺新作騎兵大尉(1894年7月1日で年齢32年3箇月。18901110日任官)に既に交代していたのかが若干問題となります。しかしながら,梅崎大尉は1893年7月19日に騎兵少佐に任官していますから昇進後も中隊長を続けられるものではなく,これは豊辺大尉です。1894年1月1日調査の印刷局の職員録を見ると,豊辺大尉が騎兵第五大隊の中隊長として,吉良大尉の上席となる右側に記載されています。

 

(2)第一中隊長豊辺新作大尉

 1894年6月に半島に出動した筆者の曽祖父が所属した騎兵第五大隊第一中隊の中隊長は豊辺大尉及び吉良大尉のうちいずれかといえば,豊辺大尉であったということになります(外山操=森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧第1巻』(芙蓉書房・1993年)171頁参照)。豊辺大尉は同年7月2617時に漢城の南方にある素沙場において騎兵中隊の戦闘詳報を作成しており当時既に半島に出動していたことは明らかですが(当該戦闘詳報はアジア歴史資料センターのウェブ・ページにあります。),吉良大尉は同年9月10日においてまだ広島にいたところです。すなわち,アジア歴史資料センターのウェブ・ページにある両大尉の「結婚願之件」書類(陸軍省受領番号は豊辺大尉につき肆第902号,吉良大尉につき肆第1061号)を見てみると,豊辺大尉の結婚願は同年7月18日に作成され野津第五師団長を経て大山巌陸軍大臣に提出されていますが,同年9月10日に作成された吉良大尉の結婚願は山沢静吾留守第五師団長事務取扱を通じて陸軍大臣に提出されています。「留守第五師団」であって,「第五師団」ではありません。

 豊辺新作の人物については,自ら書いた『万朝報』の連載月旦記事をまとめた燧洋高橋鉄太郎の『当面の人物フースヒー』(フースヒー社・1913年)に次のようにあります。表題は,「第二の乃木将軍豊辺新作」。

 

   帝国陸軍に於て騎兵科の模範戦将と唄はれて()る騎兵四旅団長豊辺新作を評論する,彼は一見婦人の如き柔和温厚の極て(やさし)い将軍で,(おほき)い声で物もいはねば,虫も殺さぬ様な風だが,一度戦場に臨むと勇猛豪胆,鬼神の如き勢で奮戦する勇将で,乃木将軍を猶少しく地味にした様な(いは)沈勇の人だ

   彼の沈勇気胆が陸軍部内に認識されて騎兵科中の模範将軍と唄はる様になつたのは日清戦争以来のことで,(その)以前は彼は無能平凡の一軍人として無視されて()た,元来日本は蕞爾たる島国(たうこく)で,馬術といふものは一向発達せず,奥州野辺地馬なども亜刺比(あらび)()(たね)には追附(おつつか)ぬので封建時代から馬に(のつ)た兵隊といふのは土佐と紀州にあつたのみだから騎兵の進歩は(おほい)に遅れた,彼は(この)幼稚の時代の騎兵科の青年将校として当時騎兵科の総大将たる大蔵平三などに聯盟反抗を企てたので,()られる所を日清戦争に従軍して偉勲を(たて)たので初めて威名を博した,彼は越後長岡の藩士で郷党勇武の感化がある,長岡は河合蒼龍窟〔河井継之助〕の出たけに越後式ではない,彼は長岡武士の面目を辱めないものだ

   人に全きを求むるは素より酷だが,彼は温情沈勇は即ち余りあるが,惜むらくは彼には行政的才幹手腕がない,秋山好古(かうこ)が先輩中将でありながら()だ師団長にもなれないのは,一は騎兵監の後任に人物が無い為で,順番からいへば()()だが他の特科兵監に対し樽俎折衝に適しない,さらばとて本多道純では徳望が(たら)(こまつ)たものだが,軍人は戦争(いくさ)にさへ強ければ()いから,彼の如きも第二の乃木将軍として天分を尽すべきだ179181頁)

 

 筆者の曽祖父も自分の中隊長殿を見て,「おとなしい,優しい人だな。軍人といっても怖い人ばかりじゃないんだな。けれどあまりパッとしないから,大丈夫かなぁ。」などと思ったものでしょうか。

 豊辺新作は,司馬遼太郎の『坂の上の雲』では日露戦争黒溝台会戦の場面で登場します。

 

脱線その1:夏目金之助青年の兵役回避策

 明治二十年代の徴兵事情を検討していると,漱石夏目金之助が1892年(明治25年)4月に北海道後志国岩内に本籍を移したという有名な挿話をつい思い出してしまったところです。当該転籍の理由は,兵役回避のためだとされています。当該挿話をめぐる兵役法令関係を少々検討してみましょう。(なお,慶応三年(1867年)生まれの漱石の満年齢は明治の年と一致するので,この部分は元号優先で記述します。)

 明治20年に適用されていた兵役法令は,明治16年太政官布告第46号「徴兵令」(明治19年勅令第73号で一部改正)を頂点とするものでした。明治16年徴兵令3条は「常備兵役ハ別チテ現役及ヒ予備役トス其現役ハ3個年ニシテ年齢満20歳ニ至リタル者之ニ服シ其予備役ハ4個年ニシテ現役ヲ終リタル者之ニ服ス」と規定し,同令8条1項は「陸軍現役兵ハ毎年所要ノ人員ニ応シ壮丁ノ身材芸能職業ニ従ヒ歩兵騎兵砲兵工兵輜重兵及ヒ雑卒職工ニ区別シ抽籤ノ法ニ依リ当籤ノ者ヲ以テ之ニ充ツ」と規定していましたが,明治20年に第一高等中学校予科在学中であった塩原金之助(塩原家に養子に出されていた金之助青年が夏目家に復籍するのは明治21年1月)のためには,明治16年徴兵令19条の「官立府県立学校小学校ヲ除ク及ヒ文部大臣ニ於テ認タル之ト同等ノ学校ニ於テ修業1個年以上ノ課程ヲ卒リタル生徒ハ6個年以内徴集ヲ猶予ス」との規定が働いていました(いまだ同令18条第3項の「官立大学校及ヒ之ニ準スル官立学校本科生徒」として「其事故ノ存スル間徴集ヲ猶予ス」ということにはならなかったはずです。)。明治16年徴兵令19条については「課程を終りたる生徒とある上は数年前入学しあるも落第せるものは或ハ1箇年に足らざるものもあるべく又入学の時上級に入れば1箇年に満たずとも猶予を受くるを得べきなり」と説かれていました(今村長善『徴兵令詳解(増補再版)』(1889年)46頁)。塩原金之助青年は,明治19年7月には進学試験を受けられずに留年してしまいましたが,明治17年に第一高等中学校予科(当時は東京大学予備門予科)に入学していたところです。

 明治21年9月に夏目金之助青年は第一高等中学校本科第一部(文科)に進学しましたが,第一高等中学校本科在学中に明治16年徴兵令が明治22年徴兵令に代わります。経過措置規定として明治22年徴兵令41条は「旧令第18条第3項若クハ第19条ニ依リ徴集猶予ニ属シ在校ノ者ハ其事故6箇年以内ニ止ミタルトキ又ハ6箇年ヲ過クルモ仍ホ止マサルトキハ抽籤ノ法ニ依リ徴集ス但一年志願兵ヲ志願スルコトヲ得」と規定していました。

 夏目青年は明治23年9月に帝国大学文科大学英文学科に入学し,その後明治26年7月には帝国大学大学院に入ったので,明治16年徴兵令「19条ニ依リ徴集猶予ニ属シ在校ノ者」という状態は続いていたのですが,「6箇年ヲ過クルモ仍ホ止マサルトキ」の期限が迫って来ました。仮に1箇年徴集猶予ならば明治21年に徴兵検査を受けなければならない計算ですから,そう数えると,6箇年の猶予を得ても明治26年(1893年)の徴兵検査を筆者の曽祖父同様に受けなければならないことになります。明治25年中に何かをせねばならない。(なお,実は明治26年法律第4号(同年3月3日公布)によって,明治22年徴兵令41条の「6箇年」は「8箇年」に延長されたところではありました。)

 そこで明治22年徴兵令についていろいろ調べたところ,同令33条が発見されたものでしょう。同条は「本令ハ北海道ニ於テ函館江差福山ヲ除クノ外及沖縄県並東京府管下小笠原島ニハ当分之ヲ施行セス」としていました。

 ということで,明治25年4月段階における漱石の北海道後志国岩内への転籍ということになったのでしょうか,どうでしょうか。なお,明治22年徴兵令31条は「兵役ヲ免レンカ為メ逃亡シ又ハ潜匿シ若クハ身体ヲ毀傷シ疾病ヲ作為シ其他詐偽ノ所為ヲ用ヒタル者ハ1月以上1年以下ノ重禁錮ニ処シ3円以上30円以下ノ罰金ヲ附加ス」と規定していたところ,「民刑局長明30年甲第124号回答に依れば「徴兵を免れんが為の目的を以て虚偽の転籍を為したる事実あるに於ては徴兵令第31条の犯罪を構成す」と判示して居る」とのことで(日高巳雄『軍事法規』(日本評論社・1938年)39頁),漱石先生は少なくとも李下の冠的な危険なことをしてしまったことにはなります。

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「吾輩は北海道平民である。名前は既に夏目金之助である。」(東京都新宿区早稲田南町漱石公園)


 その後明治22年徴兵令33条は,明治28年法律第15号によって明治28年4月1日から「本令ハ北海道ニ於テ函館江差福山ノ外及沖縄県並東京府管下小笠原島ニハ漸ヲ以テ施行ス其時期区域及特ニ徴集ヲ免除シ若クハ猶予ス可キモノハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム」に改められました。当該勅令たる明治28年勅令第126号の第1条は「明治29年1月1日ヨリ北海道渡島,後志,胆振,石狩ノ4箇国ニ徴兵令ヲ施行ス」と規定していましたので,漱石はヒヤリとしたかもしれません。しかしながら,同勅令においては特段難しい経過措置規定は無かったので,結局明治9年以後に生まれた大日本帝国臣民男子にのみ関係があるものということでよかったのでしょう。現に明治31年1月発行の『陸軍省第10回統計年報』を見ると,北海道を管轄する第七師管における明治29年の20歳の壮丁は4409人であって前年の798人から大幅に増加している一方,明治29年の21歳以上の壮丁は535人にすぎません(109頁。明治28年の第七師管における21歳以上の壮丁の数は『陸軍省第10回統計年報』では417人と読めますが109頁),明治30年3月発行の『陸軍省第9回統計年報』では447人となっています49頁)。)。函館,江差及び福山以外の渡島,後志,胆振及び石狩に本籍を有するところの明治29年に21歳から40歳までになる日本男児までもが,同年からの徴兵令の施行に伴いどっと徴兵検査を受けなくてはならなくなった(したがって,徴兵令施行の最初の年である同年には20歳の壮丁よりも21歳以上の壮丁の方が何倍もの大きい人数になる。),ということはなかったわけです。

なお,明治30年勅令第257号により,明治31年1月1日から天塩,北見,日高,十勝,釧路,根室及び千島の7箇国にまで北海道における徴兵令の施行が拡大されました。また,明治22年徴兵令33条自体は,大正7年法律第24号によって191912月1日から削られています。

脱線その2:昭和18年法律第4号の経過措置規定並びに1944年及び1945年における朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者の徴兵状況

 

(1)昭和18年法律第4号の経過措置規定

 

ア 昭和18年法律第4号

 北海道内における明治22年徴兵令の施行拡大に係る明治28年勅令第126号及び明治30年勅令第257号におけるものとは異なり,朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に対して兵役法(昭和2年法律第47号。明治22年徴兵令を全部改正したもの)の適用を拡大する昭和18年法律第4号の経過措置規定は読みごたえのあるものです。

 1943年3月1日裁可,同月2日公布の昭和18年法律第4号によって,1943年8月1日から(同法附則1項),朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者も兵役法9条2項に基づき第二国民兵役に服し,同法23条1項に基づき徴兵検査を受けることになりました1943年1月30日の貴族院兵役法中改正法律案特別委員会における木村兵太郎政府委員(陸軍次官)の法案趣旨説明(第81回帝国議会貴族院兵役法中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1頁)及び同年2月17日の衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会における同政府委員の法案趣旨説明(第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第2回3頁)参照)

 

イ 昭和18年法律第4号附則2項及び3項

昭和18年法律第4号は,次のような経過措置規定を設けています(附則2項及び3項)。

 

  第9条第2項及第23条第1項の改正規定ハ本法施行ノ際徴兵適齢ヲ過ギ居ル者及徴兵適齢ノ者ニシテ其ノ際現ニ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クルモノ又ハ本法施行後其ノ適用ヲ受クルニ至リタルモノ(第3条ノ規定ニ該当スル者ヲ除ク)ニ之ヲ適用セズ

  前項ノ規定ニ該当スル者ニ付テハ第52条第1項ノ改正規定ニ拘ラズ従前ノ例ニ依ル

 

 どう読んだものやら,難しい。

 

(ア)昭和18年法律第4号附則2項前段

まず附則2項前段ですが,これは「本法施行ノ際」である1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」であって同日午前零時に「現ニ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クルモノ」については,徴兵検査はしないし(兵役法23条1項改正規定の不適用),第二国民兵ともしない(同法9条2項改正規定の不適用),ということのようです。

 

なお,附則2項における「者」と「モノ」との使い分けですが,「者」は「法令上,自然人,法人を通じ,法律上の人格を有するものを指称する場合に用いる」ところ(前田正道編『ワークブック法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)650頁),同項での「者」は自然人を指称しているものであり,「もの」は「あるものに更に要件を重ねて限定する場合(この場合には,外国語における関係代名詞に相当する用法となる。)」に用いられるところ(前田650頁),同項での「モノ」はその前の「者」に更に要件を重ねて限定しているものと読み解くべきでしょう。

また,「徴兵適齢」(兵役法23条2項)の概念も難しいのですが,「陸軍省軍務局・陸軍大学教官歩兵中佐」の肩書の中井良太郎による『兵役法綱要 附徴発法大要』(松華堂書店・1928年)によると,「前年ノ12月1日ヨリ其ノ年1130日迄ノ間ニ於テ年齢20年ニ達スル年ヲ徴兵適齢ト称ス」85頁)ということになっています。兵役法23条は当時「戸籍法ノ適用ヲ受クル者ニシテ前年12月1日ヨリ其ノ年1130日迄ノ間ニ於テ年齢20年ニ達スル者ハ本法中別段ノ規定アルモノヲ除クノ外徴兵検査ヲ受クルコトヲ要ス/前項ニ規定スル年齢ハ之ヲ徴兵適齢ト称ス」と規定していました。

 

そもそも昭和18年法律第4号の施行日が1943年8月1日とされたことについては,「本法ハ協賛ヲ得マスレバ,一日モ速カニ施行致シマシテ,2千4百万ノ朝鮮同胞ト,其ノ慶ビヲ共ニ致シタイト存ズルノデアリマスガ,7月31日迄ハ本年ノ徴兵検査ガ実施セラレマスノデ,其ノ以前ニ施行セラレマスルト,現役志願ノ者ガ徴兵検査ヲ受検スルコトトナリ,諸般ノ徴集準備ノ円滑ヲ害シマスノデ,其ノ終了ノ後,即チ昭和18年8月1日ト致シタイト存ズルノデアリマス」と木村兵太郎政府委員から説明がありました(第81回帝国議会貴族院兵役法中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1頁。また第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第2回3‐4頁)。したがって,朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に係る最初の徴兵検査は1944年に行われました。昭和18年法律第4号の法案に係る貴衆両議院の本会議における趣旨弁明の段階で既に「昭和19年ヨリ朝鮮同胞ヲ徴集」するものと明言されていたところです1943年1月29日貴族院本会議における木村政府委員弁明(第81回帝国議会貴族院議事速記録第3号40頁)及び同年2月12日衆議院本会議における東条英機国務大臣(陸軍大臣)弁明(第81回帝国議会衆議院議事速記録第10213頁))

附則2項前段は,要するに,「本法施行ノ際,朝鮮同胞ノ中デ徴兵適齢ヲ過ギテ居ル者,及ビ本年ノ徴兵適齢者ニ付キマシテハ,志願ニ依リマシテ兵籍ニ入ッテ居リマス者ヲ除キ,其ノ他ハ依然従来通リ兵役ニ服セシメナイコトト致シタイト存ズルノデアリマス」ということでした(第81回帝国議会貴族院兵役法中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1頁及び第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第2回4頁(木村政府委員))

 

(イ)昭和18年法律第4号附則2項後段

附則2項後段は,1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」であって,同日以後に「朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クルニ至リタルモノ」についての規定です。(なお,兵役法3条は「志願ニ依リ兵籍ニ編入セラルル者」に関する規定です。)1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」である台湾人が,同日以降に朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者になっても今更兵役を課さないということでしょう(大日本帝国の臣民男子ではあっても,台湾人にはいまだ兵役義務はありませんでした。)。(ちなみに,兵役法52条2項は「徴兵適齢ヲ過ギ帝国ノ国籍ヲ取得シ又ハ回復シタル者」に対しては「徴集ヲ免除ス」る旨規定していました。)

戸籍法の適用を受ける内地人であって1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」であり,同日以後に「朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クルニ至リタルモノ」があればどうかといえば, 1943年8月1日から共通法(大正7年法律第39号)3条3項を「戸籍法ノ適用ヲ受クル者ハ兵役ニ服スル義務ナキニ至リタル者ニ非サレハ他ノ地域ノ家ニ入ルコトヲ得ス」から「戸籍法又ハ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者ハ兵役ニ服スル義務ナキニ至リタル者ニ非サレハ内地及朝鮮以外ノ地域ノ家ニ入ルコトヲ得ス」へと改正する法律である昭和18年法律第5号の附則2項に「本法施行ノ際〔同法附則1項により同法は兵役法の一部改正に係る昭和18年法律第4号と同時に施行〕徴兵適齢ヲ過ギ居ル者及徴兵適齢ノ者ニシテ其ノ際現ニ戸籍法ノ適用ヲ受クルモノ又ハ本法施行後其ノ適用ヲ受クルニ至リタルモノニ付テハ〔共通法〕第3条第3項ノ改正規定ニ拘ラズ仍従前ノ例ニ依ル」とありましたので,そもそも兵役義務がなくなるまでは改正前共通法3条3項の例により朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者になる(朝鮮ノ家ニ入ル)ことは法律上不能なのであって,心配には及ばぬよう手当てされていたのでした。すなわち,昭和18年法律第5号の附則2項によって「尚内地人で〔1943年8月1日に〕徴兵適齢ガ過ギテ居ル者,及ビ徴兵適齢ノ者ハ,既ニ兵役ノ義務ヲ荷ッテ居リマスガ,朝鮮デハ〔昭和18年法律第4号附則2項後段により〕兵役ノ義務ガアリマセヌノデ,朝鮮同胞ノ家ニ入ルノハ兵役ノ義務ヲ終ッタ後ニ限定セムトスルモノデアリアス」ということでした(第81回帝国議会貴族院兵役法中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1頁(木村政府委員)。また,第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第2回4頁(同政府委員))

 

(ウ)昭和18年法律第4号附則3項

附則3項は,「本法施行ノ際徴兵適齢ヲ過ギ居ル者及徴兵適齢ノ者ニシテ其ノ際現ニ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クルモノ又ハ本法施行後其ノ適用ヲ受クルニ至リタルモノ(第3条ノ規定ニ該当スル者ヲ除ク)」には兵役法52条1項の改正規定(「戸籍法及朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受ケザル者ニシテ徴兵適齢ヲ過ギ戸籍法又ハ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者ノ家ニ入リタルモノニ対シテハ徴集ヲ免除ス」)の適用はなく「従前ノ例ニ依ル」ということになります。すなわち改正前の兵役法52条1項は「戸籍法ノ適用ヲ受ケザル者ニシテ徴兵適齢ヲ過ギ戸籍法ノ適用ヲ受クル者ノ家ニ入リタル者ニ対シテハ徴集ヲ免除ス」と規定しており,なおこれによるわけです。改正後の兵役法52条1項は,台湾人が対象です(「戸籍法及朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受ケザル者」としては「台湾人」が考えられていたことについては,1943年2月18日の帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会における那須義雄政府委員の答弁を参照(第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第3回23頁))。
 なお,
「徴集」とは,「広義では強制的に現役又は補充兵役に就かしむべき行政作用即ち徴兵検査に出頭を命じ徴兵検査を受けしめ現役又は補充兵役に就かしむる迄の一切の作用を謂ひ,狭義では現役又は補充兵役編入を決し之を本人に通告する行為換言すると現役又は補充兵役編入の行政処分を意味」します(日高12頁)


(2)1944年及び1945年における朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者の徴兵状況

 

ア 「朝鮮軍歴史別冊 朝鮮人志願兵・徴兵の梗概」

1944年に始められた朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に対する我が兵役法に基づく徴兵検査,徴集及び入営に関する状況については,朝鮮軍残務整理部が残した「朝鮮軍歴史別冊 朝鮮人志願兵・徴兵の梗概」というガリ版刷り文書があり,アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることができます(なお,ここでいう「朝鮮軍」は我が帝国陸軍の朝鮮駐屯軍のことであり,外国の軍隊ではありません。)。当該「梗概」の作成者は,末尾に「元朝鮮軍徴兵主任参謀/吉田俊隈記す」と記載されています。「梗概」が作成された時期は明示されていませんが,「朝鮮軍関係資料」として「梗概」と共に合冊されている「朝鮮に於ける戦争準備」という文書の表紙には「昭和21年2月/朝鮮軍残務整理部/昭和27年2月復員課複写」と記されているところ,やはり1946年1月前後に作成されたものと考えるべきでしょうか。

以下本稿は,1944年及び1945年における朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者の徴兵状況に関し,「朝鮮軍歴史別冊 朝鮮人志願兵・徴兵の梗概」の更に梗概を紹介するものです。

 

イ 1943年の臨時特別志願兵と高橋留守第三十師団長閣下解職

早速1944年の話に入りたいのですが,その前,194310月以降の「臨時特別志願兵」騒動がちょっと見逃せないところです。「梗概」にいわく。

 

 昭和18年〔1943年〕10月朝鮮に於ては明春よりの歴史的第1回徴兵検査を目前に控え最後の準備完整に大童(おおわらわ)の時,戦局の要請に基き内地人学生に対する従来の徴集延期制度の一部改正せられ大学,高等,専門学校の法文系学生は,同年11月より臨時徴兵検査を実施せられ翌19年〔1944年〕1月より入営せしめらるる事となれり。

 本制度の実施に伴い,同じく法文系に籍を有し,内地学生と机を並べ,勉学の途にいそしめる朝鮮人学生にも同窓の内地人学生と共に相携へ祖国の急に馳せ参じ得るの臨時特別志願兵の途を開かれたり。

 

 いい話じゃないですか,ということで,「俄然朝野の視聴を集め志願慫慂,全員受検の民間運動が内鮮全体に亘り活発に展開」されたそうです。大人はいい気なものです。しかし,当事者学生にとってはなかなか煩わしい。

 

  当時内地に在りし朝鮮人学生中には父母の同意を得るに名を藉り,休学帰鮮する者多く又鮮内学生に在りては無断休学し居所を杳晦する者等相次いで出で一時は相当の混乱状態を呈せるも逐次先輩有志の説得官民の熱誠なる支援,学生自身の自覚に依り検査開始迄には在鮮学徒の約90%は志願するに至りたり。

 

後日「梗概」は自ら,「或は一部野心家の後日の社会的地位獲得の為の裏面的策動に依る強制受検等の多少ありたるは否めざる事実なりしも」と述べてはいますが,やはり,これら「約90%」の学徒は公式的には飽くまでも自発的に志願したものなのでしょう。

詮衡検査は194311月から同年12月にかけて行われ,朝鮮内での受検者総数は3366人,うち現役兵として徴集された者2735人,補充兵として徴集された者382人,不合格者249人でした(「梗概」第7表の2)。この外,朝鮮軍管外の受検で721人が現役兵として徴集されています(同)

「軍に於ては同志願兵の部隊配当を実施するに方り素質優秀なるものは鮮外部隊に充当し,多少とも強制志願と目せらるるが如き明朗性を欠くものは鮮内部隊へ充当」したそうです。「梗概」の第7表の2を見ると,朝鮮軍管内採用の現役兵たる臨時特別志願兵の入隊先を見ると朝鮮軍に423人(羅南師団127人,京城師団106人,平壌師団153人及び軍直部隊37人),内地の東部軍,中部軍及び西部軍に1279人並びに当時戦闘中であった支那派遣軍に996人となっています(同表ではこれらの合計が「2732」人であるとしていますが,筆者の電卓検算では2698人で,どうも34人分数字が合いません。)。

これでめでたしめでたしかといえば,なかなかそうは問屋が卸しません。

 

 昭和19年〔1944年〕1月平壌留守第三十師団に入営せる志願兵中(これ)()自発的に依らざりし者は入営せば必ず将校たり得るの既得権を有する如く誤信しありし者或は入営前の放逸なる生活に憧るゝ者等の不平分子は幹部候補生甲,乙決定の際甲種の詮衡率僅少(約3%)なりしに端を発し,部隊相互に(ママ)密裡に連絡し,党与して鮮外に逃亡せんと謀りしが事前に発覚し事件は大事に至らずして解決せるも時の師団長高橋中将は引責解職せらるるに至りたり。

 

 お気の毒なのは高橋留守第三十師団長閣下です。鬼畜米英撃滅以前に,隷下の自軍兵士に足元をすくわれました。しかし,「進級等自己ノ意ニ満タサル場合著シク性格上ノ缺陥ヲ暴露」すること1943年8月14日陸軍省副官からの昭和18年陸密第2848号通牒の一節(アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることができます。))は,だれにでもあることです。

 気の毒ついでにこの高橋中将はどの高橋中将なのかインターネットで調べてみたのですが,Hiroshi Nishida氏のウェブ・サイトに,1944年4月29日に予備役から留守第三十師団長に返り咲き,1945年3月31日に召集解除となった高橋中将として,高橋多賀二の名が出ていました。岡山出身,陸軍士官学校第22期,陸軍大学校第35期だそうです。

 ウ 1944年の徴兵

 

(ア)徴兵検査

朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に対する最初の徴兵検査の実施時期について「梗概」は,昭和「19年〔1944年〕4月より8月に亘り此の歴史的第1回徴兵検査を各兵事部主宰の下に全鮮に亘り一斉に開始せり」と述べています。(なお,兵役法施行規則(昭和2年陸軍省令第22号)103条1項は「聯隊区徴兵署ノ事務ハ毎年4月16日ヨリ7月31日迄ノ間ニ於テ之ヲ行フヲ例トス」と規定していましたが,19431224日公布,同日施行の昭和18年陸軍省令第69号の第3条が「昭和19年ニ於ケル徴兵検査ハ昭和19年4月1日ヨリ概ネ同年8月末日迄ノ間ニ実施スルモノトス」と規定していました。)

「検査は順調且成功裡に終始するを得たり」とはいえ,「珍談奇景」はやはり生じたそうで,「梗概」はそのうち4話を紹介しています。いわく。①病気で「晴の入営の能はざるは男子として不名誉此の上なきも未だ五体には愛国の熱血を存すとの意志を表示する為め机上の小刀を以て指を斬り血書せんとしたる」壮丁に対して,その場にいた徴兵署事務員は自分が斬りつけられるのかとびっくりして「格斗の末之を憲兵に引渡」した。②徴用されて労務者として内地に滞在している兄に代わってその弟が代人として受検に来たが,「(これ)本人の無智もさる事(なが)ら検査の当日には何はともあれ頭数だけ何とか揃えんとの末端邑面吏員の知識の一端を窺ひ知るを得べし」。邑は内地の町,面は村に相当します。③「徴兵検査は検査場より直ちに本人を入営せしむるものと誤解せる母親は数里の山奥より多量の餅を携え吾が愛子と最後の別れをなさんと悲壮な面持にて検査場を訪れたるものあり」。④学力調査のため片仮名平仮名を示しても「唯頭を横に振るばかり」の壮丁であったが「自己の本籍地氏名を漢字にて鮮かに書流せるを以て調査の結果書堂にて儒学を若干習ひ漢字ならお手の物と判明」して「(これ)(また)唖然」。

「本検査を機とし畏き辺におかせられては5月侍従武官尾形健一中佐を御差遣あらせられ(つぶさ)に徴兵検査の状況を視察せしめられ其の労を(ねぎらわ)せ給ひたり」と「梗概」述べるところ,宮内庁の『昭和天皇実録第九』(東京書籍・2016年)によれば,1944年6月1日に「御文庫において侍従武官尾形健一に謁を賜い,朝鮮軍及び朝鮮における民間軍需品製造工場への御差遣につき復命を受けられる。尾形は昨月2日出発,28日帰京する。」とのことでした361頁)。無論,昭和天皇の耳には前記のような「珍談奇景」の話は入っていないでしょう。

「逃亡,自傷,詐病等の犯罪を犯せる者も多少ありたるも之等は総員の僅か1%程度に過ぎざる状況なりき」だったそうです。そうであれば,逃亡失踪率1.59パーセントだった1893年の我が日本内地内の徴兵検査受検状況に比べて,真面目さにおいて勝るとも劣りません。なお,アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることのできる内務省用紙に和文タイプ打ちの194412月付け「朝鮮ノ統治事情説明」の第1の2「徴兵制実施ノ状況」によれば「半島人壮丁予定総員231424名ニ対シ受験者総数(222295名)ハ其ノ9割6分ニ達シ,不参者ハ0.06(ママ)(1万2905名)此ノ大半ハ疾病,受刑中,兵籍編入,在外延期其ノ他已ムヲ得サル事由ニ依ルモノ多ク,所在不明ノ為ノ不参加者ハ6228名(予定総員ノ0.027)ニ過キス此ノ所在不明者中ニハ徴兵制度発表以前ヨリ所在不明ノ者ガ大部分テアツテ,真ニ忌避的手段ニ出テタル者ハ極メテ少数ト判断セラレ,同様事故不参者ハ僅ニ422名テアツテ,総括的ニ見ル時順調ナル経過ヲ以テ終了シタノテアル」ということでした。

また,「梗概」によれば,「検査の結果甲種は30%国語理解者60%の成績」だったそうです。

 

 受検壮丁は内外地を合し約23万にして其の中5万ママを現役兵として徴集し検査終了後より所要の入営準備教育を実施し〔昭和〕19年〔1945年〕9月より逐次入営せしめられたり

 

「梗概」の第8表によれば,1944年の徴兵検査で現役兵として徴集された朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者は,朝鮮軍管区から5万1737人(うち1万人は海軍兵),関東軍管区からは3260人及び台湾軍管区から3人の合計5万5000人となっています。(南方軍及びフィリピンの第十四軍地区に残留するものは上記とは別に徴兵検査を受けたものとされています。)

 

(イ)部隊配当

 「梗概」には,第1回徴兵検査後「朝鮮兵の部隊配当は全軍に亘り且其の入営の要領は〔1944年〕9月より逐次先づ朝鮮軍司令官の定むる鮮内部隊に入営せしめ軍隊生活に若干馴れしめたる後本属の内外地入営部隊に転属することとせられたり」とあります。

配当先の「内外地入営部隊」はどのようなものかと「梗概」の第9表(「昭19朝鮮現役兵各軍配当区分表」)を見ると,内地及び樺太の東部軍,中部軍,西部軍及び北方軍に合計8245人,朝鮮軍に1585人,台湾軍に3人,関東軍に9925人,戦闘中の支那派遣軍に1万0445人,同じく戦闘中の南方軍に7647人,蘭印(インドネシア)の第二方面軍に1540人,ラバウルの第八方面軍に2710人,第一航空軍(司令部は東京)に2300人及び船舶司令部(司令部は広島の宇品)に600人並びに鎮海鎮守府に海軍兵を1万人となっていました。合計5万5000人。しかしながら,当該「第9表」は徴兵検査前の計画値を示しているもののようで,その備考欄には「各軍司令官は本配当表に基き〔中略〕細部の部隊配当を定め昭和19年4月末日迄に朝鮮軍司令官に通報し朝鮮軍司令官は之に基き部隊配当を行ふものとす」と記されています。

その後の1944年5月26日付けの東条英機陸軍大臣からの陸機第129号昭和19年徴集現役兵ノ入営及外地派遣等ニ関スル件達(アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることができます。)を見ると,同年徴集の「朝鮮人初年兵(航空,船舶部隊ノ要員及び海軍兵ヲ除ク)ノ入営及外地派遣等」について,改めて次のように定められています。

まず,「関東軍,支那派遣軍,第五方面軍〔北方軍の改組されたもの〕,朝鮮軍及び内地各軍要員(朝鮮以外ノ地ニ在リテ直接現地ノ部隊ニ入営スルモノヲ除ク)ハ概ネ当該内地人要員ノ入営日ニ朝鮮軍司令官ノ定ムル其ノ隷下部隊ニ入営セシメ関係部隊長相互協議ノ上所属部隊ニ転属スルモノトス但シ関東軍及支那派遣軍ノ要員(満洲,支那ニ在ル大本営直轄部隊ノ要員ヲ含ム)ハ成ル可ク当該部隊内地人初年兵ノ朝鮮通過時之ニ合スル如ク転属スルモノトス」とされています。これは,「梗概」の記すところとほぼ同じですが,「関東軍及支那派遣軍ノ要員」については,「軍隊生活に若干馴れしめたる後本属の内外地入営部隊に転属」ではなく,「成ル可ク当該部隊内地人初年兵ノ朝鮮通過時之ニ合スル如ク転属スルモノ」とされています。

南方軍,第二方面軍及び第八方面軍への配当予定初年兵は宙ぶらりんになったようです。すなわち,「南方軍,第八方面軍,第二十七軍〔択捉島〕,第三十一軍〔サイパン〕,第三十一軍(ママ)及小笠原兵団ノ要員ハ昭和19年陸密第513号ノ規定ニ拘ラズ之ヲ配当残余人員トス」ということとなり,かつ,「配当残余人員ノ処理ニ関シテハ別ニ示ス」とされています。

台湾軍に配当されたものについては「在台湾部隊ノ要員タル初年兵(台湾ニ於テ徴集セル朝鮮人ヲ含ム)」ということで,内地人初年兵と一緒にされています。

「航空部隊及船舶部隊ノ要員タル初年兵(朝鮮人ヲ含ム)」については,「内地,朝鮮,台湾及満州国(関東洲ヲ含ム)ニ於テ徴集セル初年兵ニシテ当該地区以外ノ部隊ニ入営スルモノハ航空総軍司令官若ハ船舶司令官,関係軍司令官ト相互協議ノ上当該地区内ノ適宜ノ場所ニ集合地〔ママ〕入営セシムルモノトス」とありますから,結局地元に留まっていたことになるのでしょう。

(ウ)入営

 前出194412月付け「朝鮮ノ統治事情説明」いわく。

 

  合格者ノ入営ニ際シテハ母子相擁シテ号泣スルトカ,自暴自棄的トナツテ遊興,暴行ヲスルトカ目ニ余ル事例モ無イテハナカツタカ大体ニ於テハ各方面ノ壮行,見送リヲ受ケテ感奮シツツ入隊シ〔タ〕

 

「梗概」いわく。

 

斯くて朝鮮出身兵は〔1944年〕9月より逐次入営せしめらるるに至りたるも漸次後退の途を辿りありたる戦況の推移とも関聯し入営後脱営するもの或は鮮外部隊に転属の途次逃亡するもの等頻発し一時は相当の苦慮を要せしも日を経るに従ひ次第に落着きを取り戻し大なる考慮を要せざるに至りしも直接入営業務を担任する部隊側の苦心は(ママ)大抵のものにては非らざりき

一時逃亡者続出せる時代に在りては某部隊の如きは之が防止対策として巡察不寝番の増加潜伏斥候分哨の配置,兵営周囲の鉄柵の補修増強等本末を顚倒せる挙に出でたるものもあり其の苦心の一端を察するを得べし

 

 1944年6月15日米軍はサイパン島に上陸,同月19日のマリアナ沖海戦で我が連合艦隊は惨敗,7月4日には大本営はようやくインパール作戦中止を命令,同月7日サイパン島の我が守備隊玉砕,同月18日東条英機内閣総辞職,8月3日我がテニアン守備隊玉砕,同月10日グアムの我が守備隊玉砕,1020日米軍レイテ島上陸,同月24日のレイテ沖海戦で連合艦隊は大敗,同月25日海軍神風特別攻撃隊の初めての体当たり攻撃,1124日にはマリアナ基地のB29による東京初空襲といった戦況ですから(『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)参照),なかなか勇ましい気分にはなれなかったものでしょう。

 なお,現役兵の入営期日が兵役法施行規則231条による同規則附表第1に規定されているものと異なるではないかと怪訝に思われる向きもあるかもしれませんが,これについては,193910月2日に公布され同日から施行された昭和14年陸軍省令第52号が「当分ノ内陸軍現役兵ノ入営期日ハ兵役法施行規則附表第1ノ規定ニ拘ラズ別ニ定ムル所ニ依ル」としてしまっていたところです。したがって,9月ないしは11月生まれの者はあるいは19歳で現役兵として入営ということになるのですが,明治22年徴兵令3条の「現役ハ〔略〕満20歳ニ至リタル者之ニ服シ」のような規定は,兵役法にはありませんでした(同法5条参照)。

 

 又入営後に在りても面会人は踵を接して至れり

 特に母親の如きは毎日営庭を見渡し得る場所に腰を下し終日吾が愛児の身の上を案じ続ける者も相当数ありて部隊側の之等(これら)面会人に対する応接整理は想像に余りあるものありたり

 

 母の愛。これを受けてしまえば「即チ孝ヲ第一義トシ直接的孝養ヲ以テ最高ノ道徳ト思惟」することになります(前出昭和18年陸密第2848号通牒)

 現役兵のほか,補充兵についても,「約23万の壮丁中より現役として入営せるは僅か4万5千名(別に海軍兵1万名)にして他の大部分は補充兵として在郷に待機しありしも本土の兵備鞏化に伴い逐次各勤務隊現地自活要員として召集せらるるに至りたり」とあります。しかしながら,飽くまでも「現地自活要員」ですから,兵士としての戦闘は期待されていなかったのでしょう。この辺の数字については,アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることのできる「支那事変・大東亜戦争間動員概史(草稿)」(表紙には「第一復員局」とあります。)の「第9章 異民族ノ使用」において,1944年及び1945年の両年で朝鮮人兵を「35000」人を「召集」したとの記載があります。「召集」とは「帰休兵,予備兵,後備兵,補充兵又は国民兵を軍隊に編入する為に召致し集める行政作用を謂ふ」ものとされています(日高2829頁)

 

エ 1945年の徴兵

 

(ア)朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者

 1945年2月10日から,昭和20年法律第3号によって,「戦時又ハ事変ノ際其ノ他特ニ必要アル場合ニ於テハ命令ノ定ムル所ニ依リ徴兵検査ノ執行ヲ次年ニ延期スルコトヲ得」とする弱気な兵役法44条の2が同法に挿入されました。

 しかしながら,朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に対する第2回の徴兵検査は,「梗概」のいうところ,「戦局の要請に応じ〔1945年〕2月より5月に亘りて早期に実施」されています。「梗概」の第10表によれば,陸軍の現役兵は,朝鮮軍管区で4万1965人,関東軍管区で3035人の合計4万5000人を徴集しています(同表の合計欄の「46,000」は誤記でしょう。)。前年と同数ということになります。同第11表によれば海軍兵の現役徴集数は1万人ですが,これらについての入団期日は194511月以降になっていますので,これらの海軍兵は結局入団しなかったわけです(降伏文書署名は同年9月2日)。

 陸軍現役兵は果たして入営に至ったかどうかについては,「梗概」は,「又入営準備訓練も前年度に準じ着々実施しつありしが8月15日遂に終戦の大詔を拝し茲に朝鮮徴兵史も終焉を告ぐるに至りたり」とのみ記しています。


(イ)戸籍法の適用を受ける者の例(脱線の脱線)

 ちなみに,1945年の内地における戸籍法の適用を受ける者に係る徴兵状況については,民法の星野英一教授の回想があります。

星野教授は,1926年7月8日生まれなので,その年の7月に19歳になる1945年に徴兵検査を受けることになりました。先の大戦の末期には戸籍法の適用を受ける者に係る徴兵適齢は20年ではなく19年に引き下げられていたことについては,筆者はかつて本ブログにおいて紹介したことがあります(「兵役法(昭和2年法律第47号)等瞥見(後編)」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1013932816.html)。

   ところが,私は不幸にして,兵隊にとられました。割合年は若く18歳でしたが。もともと徴兵年齢が20歳で,20歳の12月に徴兵検査を受けるのです。それが戦争で1年短く19歳になり,私の年から18歳になってしまったのです。確か1944年の末に決まったので,45年の1月だかに徴兵検査を受けました。ただ,まさかと思っていたのに徴兵令状が来てしまいました。6月の中旬か下旬か,正確には覚えていませんが,甲府の連隊に入れということです。(星野英一『ときの流れを超えて』(有斐閣・2006年)40頁)

 

 1945年の徴兵検査は,兵役法23条及び徴兵適齢臨時特例(昭和18年勅令第939号)によって194412月1日から19451130日までの間に年齢19年に達する者が受けることになっていたので,誕生日が徴兵検査の日より後の者については18歳で徴兵検査を受けることになることは実は当然あり得たところです。「私の年から18歳になってしまったのです」ということではありません。また,徴兵適齢臨時特例による徴兵適齢の20年から19年への引き下げは19431223日の昭和天皇の裁可で決まったのであって(公布・施行は同月24日),「1944年の末」に決まったものではありません。(この徴兵適齢臨時特例は「兵役法第24条ノ2ノ規定ニ依リ当分ノ内同法第23条第1項及第24条ニ規定スル年齢ハ之ヲ19年ニ変更ス」としたものです。ただし,当該特例は,内地人にのみ適用されました(同特例附則1項ただし書(昭和19年勅令第2812条による改正後は附則2項))。)新年を迎えて早々1月に徴兵検査をすることについては,19441116日公布・同日施行の昭和19年陸軍省令第51号の第2条1項が,1945年における徴兵検査は同年1月15日から同年4月30日までの間に行うものと定めていたところでした。また,「徴兵令状」というのは,兵役法施行規則218条及び附録第3様式からすると,「現役兵証書」であったようです。   

                                  (つづく)

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

 



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(前編からの続き)

 

3 その後の兵役法令改正

 岩波書店の『近代日本総合年表 第四版』から1938年9月以降の兵役法関係の記事を拾うと,次のようなものがあります。

 

1939年3月9日 兵役法改正公布〔法〕(兵役期間延長,短期現役制廃止)。

19391111日 兵役法施行令改正公布〔勅〕(徴兵合格に第3乙種設定)。

1943年3月2日 兵役法改正公布〔法〕(朝鮮に徴兵制を施行)。8.1施行。

1943年9月21日 陸軍省,兵役法施行規則改正公布〔省〕(’30年以前検査の第2国民兵も召集)。

1943年9月23日 閣議,台湾に’45年度より徴兵制実施を決定。

194310月2日 在学徴集延期臨時特例公布〔勅〕(学生・生徒の徴兵猶予停止)。12.1第1回学徒兵入隊(学徒出陣)。

19431021日 文部省・学校報国団本部,徴兵延期停止により出陣する学徒壮行大会を神宮外苑競技場で挙行。東京近在77校の学徒数万,雨中に劇的の分列行進。

194311月1日 兵役法改正公布〔法〕(国民兵役を45歳まで延長)。

19431224日 徴兵適齢臨時特例公布〔勅〕(適齢を1年引下げ)。

 

 1939年3月9日の年表記事にある兵役法改正(昭和14年法律第1号によるもの)による兵役期間延長は,陸軍関係では(海軍は世帯が小さいので,陸軍で代表させます。),補充兵役が12年4月から17年4月になっています(兵役法8条改正)。現役2年,予備役5年4月及び後備兵役10年の合計17年4月とそろったことになります。また,教育のための召集は第一補充兵のみならず第二補充兵も受け得ることになりました(同法57条改正)。なお,兵役法41条が次のようになっています。

 

 第41条 徴兵検査ヲ受クベキ者ニシテ勅令ノ定ムル学校ニ在学スル者ニ対シテハ勅令ノ定ムル所ニ依リ年齢26年迄ヲ限トシ其ノ徴集ヲ延期ス

  〔第2項及び第3項略〕

 ④戦時又ハ事変ニ際シ特ニ必要アル場合ニ於テハ勅令ノ定ムル所ニ依リ徴集ヲ延期セザルコトヲ得

 

 兵役法41条1項の当該改正に基づき昭和14年勅令第75号で改正された兵役法施行令101条1項においては,大学医学部は大学の他学部とは別格にされました。すなわち,徴集延期が年齢26年までなのは医学部だけで,他学部は25年までになっています。

 また,兵役法は,昭和16年法律第2号によっても改正されています。その結果,1941年4月1日から後備役が廃止され(兵役法7条削除),予備役に併合されました。

 さらに,兵役法は,対米英蘭戦開始後の昭和17年法律第16号によっても改正されており(公布日である1942218日から施行),国民兵も簡閲点呼を受けることがあり得るようになった(兵役法60条改正)ほか,徴兵適齢等に関して,第24条ノ2として「前2条ニ規定スル年齢及時期ハ戦時又ハ事変ノ際其ノ他特ニ必要アル場合ニ於テハ勅令ノ定ムル所ニ依リ之ヲ変更スルコトヲ得」という条項が加えられました。

 1943年3月2日の年表記事では,兵役法の改正により同年8月1日から「朝鮮に徴兵制を施行」とありますが,兵役義務は属人的なものであって現に居住滞在する地域を問わないので(美濃部『憲法精義』354頁参照),ちょっと不正確な記述です。それまでは帝国臣民男子のうち(兵役法1条),戸籍法の適用を受ける者(内地人)にのみ兵役義務が課されることになっていたところ,「朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者」にも兵役義務が課されるようになった改正です(兵役法92項,231項等改正(昭和18年法律第4号))。

 1943年9月23日の年表記事にある閣議決定に基づく兵役法改正は,同年11月1日公布の昭和18年法律第110号によるものでしょう。同法(公布日から施行)によって,大日本帝国臣民の兵役期間も古代ローマ市民並みとなった(兵役法9条2項及び18条の「40年迄」を「年齢45年に満ツル年ノ3月31日迄」に改める。)ほか,帝国臣民男子すべてに兵役義務がかかるようになりました(同法9条2項及び23条1項から「戸籍法又ハ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者ニシテ」を削る。)。ただし,台湾人の兵役義務に係る後者の改正の施行日は,別に勅令で定めるものとされました(昭和18年法律第110号附則1項ただし書。昭和19年勅令第2811条により,当該改正は1944年9月1日から施行)。

 194310月2日に公布され同日から施行された在学徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755号)は,「兵役法第41条第4項ノ規定ニ依リ当分ノ内在学ノ事由ニ因ル徴集ノ延期ハ之ヲ行ハズ」としたものです。

 しかし,在学徴集延期臨時特例の上記文言を見ると,文科の学生も理科の学生も等しく学徒出陣ということになりそうですが,確か,学徒出陣といえば文科の学生だったはず。実は理科の学生を救出するタネは,昭和18年法律第110号によって194311月1日から兵役法に挿入された同法45条ノ2にありました。

 

 第45条ノ2 第41条第4項ノ規定ニ依リ徴集ヲ延期セラレザルニ至リタル者現役兵トシテ入営スベキ場合ニ於テ軍事上仍修学ヲ継続セシムルノ必要アルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ其ノ入営ヲ延期スルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ当該期間ニ相当スル期間現役期間ヲ延長ス

   〔第2項略〕

 

 兵役法45条ノ2第1項の命令として,19431113日に公布され同日から施行された昭和18年陸軍省令第54号(修学継続の為の入営延期等に関する件)があり,当該省令1条に基づく同日の昭和18年陸軍省告示第54号において,理科系(師範学校系も)の学生が入営延期の対象者とされたのでした(大学院又は研究科の特別研究生も当該告示に掲げられた。)。

 19431224日に公布され同日から施行された徴兵適齢臨時特例(昭和18年勅令第939号)は,「兵役法第24条ノ2ノ規定ニ依リ当分ノ内同法第23条第1項及第24条ニ規定スル年齢ハ之ヲ19年ニ変更ス」としたものです。ただし,当該特例は,内地人にのみ適用されました(徴兵適齢臨時特例附則1項ただし書(昭和19年勅令第2812条による改正後は附則2項)。)。

 1945年2月10日に公布され同日から施行された昭和20年法律第3号による兵役法の改正は,徴兵適齢前の17歳・18歳の少年をも召集することが日程に上っていたことがうかがわれる改正です。当該改正後の兵役法67条(及び第67条ノ2)には「第二国民兵ニシテ未ダ徴兵検査ヲ受ケザル者(徴集ヲ延期セラレアル者ヲ含ム以下同ジ)ヲ召集シタル場合」という表現が見られます。つとに1944年10月18日公布の昭和19年陸軍省令第45号によって,同年11月1日から(同省令附則1条),兵役法施行規則(昭和2年陸軍省令第24号)50条は「・・・徴兵終結処分ヲ経ザル第二国民兵(海軍ニ召集セラレタル者及船舶国籍証書ヲ有スル船舶ノ船員ヲ除ク以下同ジ)ハ之ヲ本籍所在ノ連隊区ノ兵籍ニ編入シ当該連隊区司令官ノ管轄ニ属セシム」と規定していました。

 

4 義勇兵役法

 「兵役義務はその性質上日本臣民にのみ限らるのみならず,日本臣民の中でも男子に限」るとは美濃部達吉の主張でしたが(同『憲法精義』354頁),大日本帝国憲法20条の「日本臣民」は,文言上,男子に限られていませんでした(大日本帝国憲法2条と対照せよ。)。

 大日本帝国憲法は男女同権を排斥するものではありませんでした。

 1945年6月23日には,義勇兵役法(昭和20年法律第39号)というすさまじい法律が公布され,同日から施行されています。

すさまじいというのは,上諭からして異例だからです。

 

朕ハ曠古ノ難局ニ際会シ忠良ナル臣民ガ勇奮挺身皇土ヲ防衛シテ国威ヲ発揚セムトスルヲ嘉シ帝国議会ノ協賛ヲ経タル義勇兵役法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 

普通の上諭ならば,「朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル義勇兵役法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム」となったはずです。(ちなみに,義勇兵役法が公布された日の19時25分には,阿南惟幾陸軍大臣が「国民義勇兵役法公布ノ上諭ヲ拝ス」と題してラジオによる全国放送を行っています(宮内庁『昭和天皇実録 第九』(東京書籍・2016年)709頁)。)

義勇兵役法の主な条項を見ると,次のとおり。義勇兵役といっても,臣民の義務であって,volunteerではありません。

 

第1条 大東亜戦争ニ際シ帝国臣民ハ兵役法ノ定ムル所ニ依ルノ外本法ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ服ス

②本法ニ依ル兵役ハ之ヲ義勇兵役ト称ス

  〔第3項略〕

第2条 義勇兵役ハ男子ニ在リテハ年齢15年ニ達スル年ノ1月1日ヨリ年齢60年ニ達スル年ノ1231日迄ノ者(勅令ヲ以テ定ムル者ヲ除ク),女子ニ在リテハ年齢17年ニ達スル年ノ1月1日ヨリ年齢40年ニ達スル年ノ1231日迄ノ者之ニ服ス

  〔第2項略〕

第5条 義勇兵ハ必要ニ応ジ勅令ノ定ムル所ニ依リ之ヲ召集シ国民義勇戦闘隊ニ編入ス

②本法ニ依ル召集ハ之ヲ義勇召集ト称ス

第7条 義勇召集ヲ免ルル為逃亡シ若ハ潜匿シ又ハ身体ヲ毀傷シ若ハ疾病ヲ作為シ其ノ他詐偽ノ行為ヲ為シタル者ハ2年以下ノ懲役ニ処ス

②故ナク義勇召集ノ期限ニ後レタル者ハ1年以下ノ禁錮ニ処ス

 

女性も兵役に服したのですから,男女平等。次の衆議院議員総選挙で婦人参政権が認められたのは当然のことでした(市川房枝は陸軍省兵務課主催の「婦人義勇戦闘隊ニ関スル懇談」に出席しています。)。女性もSHINE!です。
 なお,昭和20年秋の凄惨な「本土決戦」を描いた小松左京の小説『地には平和を』においては,15歳の主人公・河野康夫が属した「本土防衛特別隊」である黒桜隊は,「隊員は15歳から18歳までで,一応志願制度だった」ということになっています。しかし,兵役法及び義勇兵役法を素直に読むと,本土決戦があれば,17歳以上の少年は第二国民兵として陸軍に召集され(海軍はもうないでしょう。),15歳及び16歳の少年はそれとは別に義勇兵として国民義勇戦闘隊に義勇召集されていたことになるようですから,黒桜隊の法的位置付けはちょっと難しいようです。
 ところで,国民義勇戦闘隊はどのように武装する予定だったかというと,次のようなものだったそうです。鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長(現在の内閣官房長官。内閣官房長官の英訳名Chief Cabinet Secretaryは「内閣書記官長」のままですね。)であった後の郵政大臣たる迫水久常が回想していわく。「国民義勇隊の問題が論議されていた当時のある日の閣議のとき,私は陸軍の係官から,国民義勇戦闘隊に使用せしむべき兵器を別室に展示してあるから,閣議後見てほしいという申入れを受けた。総理を先頭にその展示を見にいって,一同腹の底から驚き,そして憤りと絶望を感じたのであった。さすがに物に動じない鈴木〔貫太郎〕首相も唖然として,側にいた私に「これはひどいなあ」とつぶやかれた。展示してある兵器というのは,手榴弾はまずよいとして,銃というのは単発であって,銃の筒先から,まず火薬を包んだ小さな袋を棒で押しこみ,その上に鉄の丸棒を輪ぎりにした弾丸を棒で押しこんで射撃するものである。それに日本在来の弓が展示してあって麗々しく,射程距離,おおむね三,四十米,通常射手における命中率50%とかいてある。私は一高時代,弓術部の選手だったから,これには特に憤激を感じた。人を馬鹿にするのも程があると思った。その他は文字どおり,竹槍であり,昔ながらのさす又である。いったい陸軍では,本気にこんな武器で国民を戦わせるつもりなのか,正気の沙汰とも覚えず」云々と(迫水久常『機関銃下の首相官邸』(恒文社・1964年)220-221頁)。阿南惟幾陸軍大臣はそれでも胸を張っていたものかどうか。しかしながら,内閣総理大臣自ら「これはひどいなあ」と思いつつも,義勇兵役法案が閣議を通ってしまい(内閣官制(明治22年勅令第135号)5条1項1号),帝国議会も協賛してしまうのですから(大日本帝国憲法5条,37条),安全保障関連法案の取扱いが苦手なのは,我が日本のお国柄でしょう。
 

5 カイロ宣言

 19431122日から同月26日まで,ルーズベルト,蒋介石及びチャーチルの第1回カイロ会談が開催され,同月27日,三者は「カイロ宣言」に署名し,当該宣言は同年12月1日に発表されました。ところで,当該宣言中に次のようなくだりがあります。

 

  前記の三大国は,朝鮮の人民の奴隷状態に留意し,やがて朝鮮を自主独立のものにする決意を有する。

 

 「奴隷状態」とはゆゆしい言葉ですが,上記のくだりの英文は,次のとおり。

 

 The aforesaid three great powers, mindful of the enslavement of the people of Korea, are determined that in due course Korea shall become free and independent.

 

朝鮮の人民はenslaveされているということですが,どういうことでしょうか。大日本帝国においてはかつてのアメリカ合衆国のようには奴隷制(slavery)は無かったところです。しかしながら,日付に注目すると,1943年8月1日からは,内地人(「祖宗ノ忠良ナル臣民ノ子孫」である臣民(大日本帝国憲法発布勅語)にして「朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所」の「朕カ親愛スル所ノ臣民」(大日本帝国憲法上諭))でもないのに,朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル男子も兵役法により兵役義務を課されて,involuntary servitudeたる「その意に反する苦役に服」することになっていました。この点をとらえてのenslavementとの表現なのでしょうか。兵役義務が認められることに係る大日本帝国憲法20条は「日本臣民」といっていても,「憲法の総ての規定がそのまゝ新附の人民に適用せらるゝものでない」とされていました(美濃部『憲法精義』351頁)。
 なお,朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者の先の大戦に対する態度については,清沢洌の『暗黒日記』1944年8月27日の条に「・・・鮮人である平山君は公然曰く,大東亜戦争は,日本が勝っても,敗けても朝鮮にいい。勝てば朝鮮を優遇するだろうし,敗ければ独立するのだと。大熊真君の話しでは,外務省に朝鮮人の官吏がいるが,明らかに日本が敗けてくれることを希望するような口吻であると。」とありました。

(朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者に対する我が兵役法の適用により先の大戦中半島において行われた徴兵検査,徴集,入営その他に関する情況の実際については,「一騎兵の日清戦争(1):徴兵令,騎兵第五大隊第一中隊その他」中後半の「脱線その2」を御覧ください。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1071646839.html

  

 

弁護士 齊藤雅俊

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(弊事務所の鈴木宏昌弁護士が,週刊ダイヤモンドの20141011日号において,労働問題,損害賠償事件等に強い辣腕弁護士として紹介されました。)

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 日本国憲法18 何人も,いかなる奴隷的拘束も受けない。又,犯罪に因る処罰の場合を除いては,その意に反する苦役に服させられない。

 Article 18. No person shall be held in bondage of any kind. Involuntary servitude, except as punishment of crime, is prohibited.

 

1 兵役義務の違憲性

 2014年7月1日の我が閣議決定「国の存立を全うし,国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」を受けて,内閣官房国家安全保障局は,ウェッブ・サイトに「「国の存立を全うし,国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」の一問一答」という記事を掲載しています。その15番目及び16番目の問答は次のとおりです。

 

 【問15】徴兵制が採用され,若者が戦地へと送られるのではないか?

 【答】全くの誤解です。例えば,憲法第18条で「何人も(中略)その意に反する苦役に服させられない」と定められているなど,徴兵制は憲法上認められません。

 

【問16】今回,集団的自衛権に関して憲法解釈の変更をしたのだから,徴兵制も同様に,憲法解釈を変更して導入する可能性があるのではないか?

【答】徴兵制は,平時であると有事であるとを問わず,憲法第13条(個人の尊重・幸福追求権等),第18条(苦役からの自由等)などの規定の趣旨から見て許容されるものではなく,解釈変更の余地はありません。

 

 これは,1980年8月15日に鈴木善幸内閣がした閣議決定,すなわち,「閣議,稲葉誠一社会党代議士提出の〈徴兵制問題に関する質問主意書〉につき〈徴兵は違憲,有事の際も許されない〉との答弁書決定(初の体系的統一見解)」(『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年))との立場の確認ですね。つとに,19701028日の衆議院内閣委員会での高辻正己内閣法制局長官の答弁及び同年11月5日の参議院決算委員会での中曽根康弘防衛庁長官の答弁を受けて,憲法「第9条が自衛隊の存在を容認すると解する政府も,徴兵制は,憲法第13条ないし第18条に反し違憲だとしているようである。」と観察されていたところです(宮沢俊義『憲法Ⅱ〔新版〕』(有斐閣・1971年)335頁)。

 政府の見解と学説との関係を見ると,憲法18条「にいう「苦役」が兵役の義務をも含むと解することは,この規定の歴史的意味からいって,あまり自然ではない。しかし,日本国憲法では,戦争を放棄し,軍隊を否認している第9条の規定からいって,兵役の義務は,みとめられる余地がないだろう。」(宮沢335頁)として兵役義務の違憲性について第9条を決め手とするものと解される学説と,政府の見解とは直ちには符合しませんね。「憲法18条は,「その意に反する苦役」,すなわち強制的な労役を,刑罰の場合を除いて禁止する。徴兵制は,憲法9条だけでなく本条にも違反すると考えるべきである。」(樋口陽一『憲法』(創文社・1992年)244頁)として第9条と第18条とを並置するものと解される学説と,より符合するものでしょう。

 「非常災害などの緊急の必要がある場合に,応急的な措置として労務負担が課されることがあるが(災害対策基本法65条・71条,災害救助法〔7〕条・〔8〕条,水防法〔24〕条,消防法29条5項など),これは,災害防止・被害者救済という限定された緊急目的のため必要不可欠で,かつ応急一時的な措置であるという点で,本条〔憲法18条〕に反するものとはいえない。しかし,明治憲法下にみられた国民徴用のように,積極的な産業計画のために長期にわたって労務負担を課すことは許されない。」ということですから(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)585-586頁),徴用が許されないのならばいわんや徴兵をやということでしょう(ただし,国民徴用は,「むしろ,職業選択の自由(憲22条)に含まれると解される勤労の自由に対する侵害と見るほうが,いいのではないか。」ともされています(宮沢336337頁)。)。

 ちなみに,我が憲法18条のモデルであるアメリカ合衆国憲法修正13条1節(Neither slavery nor involuntary servitude, except as a punishment for crime whereof the party shall have been duly convicted, shall exist within the United States, or any place subject to their jurisdiction.)の「その意に反する隷属状態(involuntary servitude)」には,債務の履行としての強制労役たる債務労働(peonage)は含まれるが,「国民が国に対して負う義務」の履行たる兵役や陪審員になる義務などは含まれないとされています(宮沢333334335頁)。修正13条は,米国政府を縛るための規定というよりは,むしろ私人間効力のための規定であるということでしょうか。確かに,南部の私人が奴隷を所有していたのですよね。

我が政府は,徴兵制が違憲であるとの解釈を導き出すために,憲法18条になお同13条を加えての合わせ技にしています。とはいえ憲法13条は,そもそも「立法その他の国政」について広くかかっていますが。

 政府の憲法解釈によれば,国民に兵役義務を課するには,大日本帝国憲法20条(「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」)のような条項を,憲法を改正して設けなければならないということのようです。

 美濃部達吉は,大日本帝国憲法20条について,同条に「或る特別なる法律上の意義を附せんとする見解は,総て正当とは認め難い。」との見解を述べていましたが(同『憲法精義』(有斐閣・1927年)352頁),現在の日本国憲法については状況が異なっているということになります。

 なお,伊藤博文の『憲法義解』は,大日本国憲法20条について,明治「5年古制に基き徴兵の令を頒行し,全国男児20歳に至る者は陸軍海軍の役に充たしめ,平時毎年の徴員は常備軍の編制に従ひ,而して17歳より40歳迄の人員は尽く国民軍とし,戦時に当り臨時召集するの制としたり。此れ徴兵法の現行する所なり。本条〔大日本帝国憲法20条〕は法律の定むる所に依り全国臣民をして兵役に服するの義務を執らしめ,類族門葉に拘らず,又一般に其の志気身体を併せて平生に教養せしめ,一国雄武の風を保持して将来に失墜せしめざらむことを期するなり。」と解説していました。美濃部的には,大日本帝国憲法20条は,「志気身体を併せて平生に教養」して「一国雄武の風を保持」するという「臣民の道徳的本分を明にする」ものにすぎない(美濃部『憲法精義』351352頁),ということでしょう。

 

2 1938年の兵役法紹介

 前置きが長くなりました。

前回(20141115日)の記事(「離婚と「カエサルの妻」」補遺(裁判例紹介)」)を書いていて,描写が又太郎の愛情生活に及ぶうちに,先の大戦中における我が臣民の兵役への服役状況が気になりだしたのですが,今回は,当時兵役義務について定めていた兵役法(昭和2年法律第47号)等についてのお話です。

 なお,そもそも兵とは,美濃部達吉によれば,「単に公務を担任する義務を意味するのではなく,忠実に無定量の勤務に服すべき公法上の義務」であるところの「公法上の勤務義務(öffentliche Dienstpflicht)」を国家に対して官吏と並んで負う者です。兵と官吏との相違は,「一に兵は臣民たる資格から生ずる当然の義務として其の関係に立つものであり,仮令本人の志願に依つて現役に服する場合でも,それは唯義務の変形であるに止まるに反して,官吏は一般臣民の法律上の義務に基づくのではなく,常に本人の自由意思に依る同意に基づいてのみ任命せらるるものであることに在る。」とされています。(同『日本行政法 上』(有斐閣・1936年)676-677頁)

 

兵役法の主要規定は次のとおりです(19389月当時)。

   

 第1条 帝国臣民タル男子ハ本法ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ服ス

 第2条 兵役ハ之ヲ常備兵役,後備兵役,補充兵役及国民兵役ニ分ツ

 ②常備兵役ハ之ヲ現役及予備役ニ,補充兵役ハ之ヲ第一補充兵役及第二補充兵役ニ,国民兵役ハ之ヲ第一国民兵役及第二国民兵役ニ分ツ

 第4条 6年ノ懲役又ハ禁錮以上ノ刑ニ処セラレタル者ハ兵役ニ服スルコトヲ得ズ

 第5条 現役ハ陸軍ニ在リテハ2年,海軍ニ在リテハ3年トシ現役兵トシテ徴集セラレタル者之ニ服ス

 ②現役兵ハ現役中之ヲ在営セシム

 第6条 予備役ハ陸軍ニ在リテハ5年4月,海軍ニ在リテハ4年トシ現役ヲ終リタル者之ニ服ス

 第7条 後備兵役ハ陸軍ニ在リテハ10年,海軍ニ在リテハ5年トシ常備兵役ヲ終リタル者之ニ服ス

 第8条 第一補充兵役ハ陸軍ニ在リテハ12年4月,海軍ニ在リテハ1年トシ現役ニ適スル者ニシテ其ノ年所要ノ現役兵員ニ超過スル者ノ中所要ノ人員之ニ服ス

 ②第二補充兵役ハ12年4月トシ現役ニ適スル者ノ中現役又ハ第一補充兵役ニ徴集セラレザル者及海軍ノ第一補充兵役ヲ終リタル者之ニ服ス但シ海軍ノ第一補充兵役ヲ終リタル者ニ在リテハ11年4月トス

 第9条 第一国民兵役ハ後備兵役ヲ終リタル者及軍隊ニ於テ教育ヲ受ケタル補充兵ニシテ補充兵役ヲ終リタル者之ニ服ス

 ②第二国民兵役ハ戸籍法ノ適用ヲ受クル者ニシテ常備兵役,後備兵役,補充兵役及第一国民兵役ニ在ラザル年齢17年ヨリ40年迄ノ者之ニ服ス

 18 第5条乃至第8条,第9条第1項及第10条〔師範学校卒業者の短期現役兵〕ニ規定スル服役ハ其ノ期間ニ拘ラズ年齢40年ヲ以テ限トス

23 戸籍法ノ適用ヲ受クル者ニシテ前年12月1日ヨリ其ノ年1130日迄ノ間ニ於テ年齢20年ニ達スル者ハ本法中別段ノ規定アルモノヲ除クノ外徴兵検査ヲ受クルコトヲ要ス

②前項ニ規定スル年齢ハ之ヲ徴兵適齢ト称ス

 32条1項 身体検査ヲ受ケタル者ハ左ノ如ク之ヲ区分ス

  一 現役ニ適スル者

  二 国民兵役ニ適スルモ現役ニ適セザル者

  三 兵役ニ適セザル者

  四 兵役ノ適否ヲ判定シ難キ者

 34 国民兵役ニ適スルモ現役ニ適セザル者ハ之ヲ徴集セズ

 54 帰休兵,予備兵,後備兵,補充兵又ハ国民兵ハ戦時又ハ事変ニ際シ必要ニ応ジ之ヲ召集ス

 

 兵役法1条及び9条2項の意味は,「内地人たる男子は満17年に達するに因り,何等の行為を待たず,法律上当然に兵役義務に服するのであるが,此の意義に於ける兵役義務は,現に軍事上の勤務に服する義務ではなくして,唯国家より勤務に服することを命ぜられ得べき状態に在るに止まる。・・・随つて又兵役義務に服する者の総てが軍人であるのではなく,唯或る条件の下に其の自由意思に依らずして軍人となるべき地位に在るのである。」ということになります(美濃部達吉『日本行政法 下』(有斐閣・1940年)1321-1322頁)。

手元の辞書を見ると,ラテン語のjunioresの定義は,“les plus jeunes=les jeunes gens destinés à former l’armée active, de 17 ans à 45 ans, les citoyens capables de porter les armes”となっていて,古代ローマでは17歳から45歳までの男性市民は武器を執って軍務に服すべきものとされていたようです。40歳で打ち止めとする大日本帝国(兵役法92項,18条)は,若者には古代ローマ並みに厳しいものの,中年には優しかったということになります(それとも日本男児には早老の気があるということでしょうか。)。

 兵役法4条は,兵役に服することの「権利たる性質を明示して居るもの」です(美濃部『日本行政法 下』1322頁)。また,「兵役義務は憲法に定むる義務であるが,兵役義務に服するが為に刑罰に服する義務を無視することの出来ないことは勿論で,兵役に服することが出来なくなつても,尚刑罰に服しなければならぬ」ところでもありました(美濃部『憲法精義』353354頁)。すなわち我が軍には「囚人部隊」というものはなかったわけです。

徴兵検査は「(1)身体検査(2)身上に関する調査(3)徴兵処分の三を包含し,徴兵官がこれを行ふ」ものとされていました(美濃部『日本行政法 下』1324頁)。

徴兵検査後の兵役の流れには,次のように大きく3系統がありました。太字部分が常備兵役です。「「常備兵役」は軍編成上の骨幹を為す兵員を包含する兵役で,常時国防の義務ありとの観念に立脚せるもの」です(日高巳雄『軍事法規』(日本評論社・1938年)2頁)。

 

現役→予備役→後備役→第一国民兵役

 ②第一又は第二補充兵役→第一又は第二国民兵役

 ③第二国民兵役

 

この外,「兵役ニ適セザル者」(兵役法3213号)があって,兵役を免除されました(同法35条)。

現役兵が「現役ニ適スル者」であることは当然ですが,補充兵もまた「現役ニ適スル者」であるものとされています(兵役法8条,331項・3項。補充兵のうち第一補充兵は現役兵闕員の場合の補闕要員となり(同法481項),また,教育のため召集されることがありました(同法571項)。)。

これに対して,第二国民兵役に服する者はそもそも現役に適さない者(兵役法3212号の「国民兵役ニ適スルモ現役ニ適セザル者」)ということになります。なお,兵役法34条の「徴集」は,ここでは現役又は補充兵役編入を決してこれを本人に通告する行為の意味と解されます(日高12頁参照)。

さて,徴兵検査中の身体検査の結果区分(①現役に適する者,②国民兵役に適するも現役に適せざる者,③兵役に適せざる者及び④兵役の適否を判定し難き者(兵役法321項))の標準は勅令で定めるものとされ(同条2項),兵役法施行令(昭和2年勅令第330号)68条1項1号の第2項は「現役ニ適スル者ハ其ノ体格ノ程度ニ応ジ之ヲ甲種及乙種ニ,乙種ハ之ヲ第一乙種及第二乙種ニ分ツ」と,同条1項2号は「国民兵役ニ適スルモ現役ニ適セザル者」を「丙種トス」と,同項3号は「兵役ニ適セザル者」を「丁種トス」と,同項4号は「兵役ノ適否ヲ判定シ難キ者」を「戊種トス」と規定し,更に同条2項は「疾病其ノ他身体又ハ精神ノ異常ニ因リ第一乙種,第二乙種,丙種又は丁種ト為スベキ細部ノ標準ハ陸軍大臣之ヲ定ム」と規定していました。

すなわち,甲乙ならば現役に適して現役兵又は補充兵であるのに対し,丙ならば第二国民兵であって徴集されず,丁ならば兵役免除となる,というわけです。

ところで,昔から視力検査となると0.1が見えずにじりじりと前に進んでは恥ずかしい思いをしていた筆者は,徴兵検査を受けたならば,丙種で第二国民兵相当だったようです。すなわち,兵役法施行令68条2項に基づき制定された陸軍身体検査規則(昭和3年陸軍省令第9号)の制定当初の規定によれば,同規則18条4項は「各眼ノ裸視力(以下単ニ視力ト称ス)「0.6」ニ満チザル者ハ甲種ト為スコトヲ得ズ」と規定している一方,同規則6条1項本文(「疾病其ノ他身体又ハ精神ノ異常ニ因リ第一乙種,第二乙種,丙種及丁種ト為スベキ標準ハ附録第2ニ因ル」)に基づく附録第2の表の第18号を見ると,「近視又ハ近視性乱視ニシテ視力右眼「0.4」左眼「0.3」以上ノモノ及5「ヂオプトリー」以下ノ球面鏡ニ依ル各眼ノ矯正視力「0.6」以上ノモノ」は第二乙種であるのに対し「近視又ハ近視性乱視ニシテ球面鏡ニ依ル矯正視力良キ方ノ眼ニテ「0.3」以上ノモノ」が丙種であり,「近視又ハ近視性乱視ニシテ球面鏡ニ依ル矯正視力良キ方ノ眼ニテ「0.3」ニ満タザルモノ」は丁種だったからです。

なお,上記陸軍身体検査規則附録第2の表の第15号には不思議な規定があります。「著シキ頭蓋,顔面ノ変形」のある者及び「全禿頭」の者は丙種とされ,その結果第二国民兵になるというものです。毛が無いと軍隊で怪我無いことになるということのようですが,どういうことでしょうか。兵役法33条2項においては,現役兵及び第一補充兵の属すべき兵種は「身材,芸能及職業ニ依リ之ヲ定ム」るものとされ,「身材」とは「独り身体と謂ふのみでなく容姿,気品等を包含する」とされていますから(日高17頁),「全禿頭」の者は身材的に難ありということだったのでしょうか。陸軍の軍医であった森鷗外の小説『金貨』(1909年)には「八は子供の時に火傷をして, 右の外眥(めじり)から顳顬(こめかみ)に掛けて, 大きな引弔(ひつつり)があるので, 徴兵に取られなかつた。」というくだりがあります。著シキ顔面ノ変形の一例ということでしょう。

 

 とこの辺で,本件記事は一つのブログ記事として掲載するには分量が多くなり過ぎたので前編を終わります。続きは後編をどうぞ。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

(弊事務所の鈴木宏昌弁護士が,週刊ダイヤモンドの20141011日号において,労働問題,損害賠償事件等に強い辣腕弁護士として紹介されました。)

電話:0368683194

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