Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

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1 紀元前49年1月10日,11日又は12

紀元前49年「1月10日の夜,カエサル,ルビコン川を越え内乱始まる。」と,スエトニウス=国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(上)』(岩波文庫・1986年)330頁のローマ史年表にあります。また,プルタルコス=河野与一訳『プルターク英雄伝(八)』(岩波文庫・1955年)197頁(「ポンペーイウス」60)の割注も,ルビコン川渡河を「前49年1月10日」のこととしています。村川堅太郎教授は「1月7日,元老院はシーザー〔カエサル〕の召還をきめ,戒厳令を発布してポンペイウスに指揮をゆだねた。3日後にこの情報を得たシーザーは,しばらく熟慮したのち,古代にも諺となっていた「骰子は投げられた」の句を吐いて,自分の任地の属州とイタリアとの境をなすルビコン川を渡り,10日の夜のうちにアドリア海岸の要衝アリミㇴムを占領した。」と記しています(村川編『世界の歴史2 ギリシアとローマ』(中央公論社・1961年)311‐312頁)。一見簡単です。しかしながら,実際にはいつのことだったのか,よく考えると難しいところがあります。

(1)季節 :秋

まず季節は,冬ではなく,秋でしょう。紀元前45年のユリウス暦開始に当たって,「この太陽暦が新しい年の1月1日から将来にかけて,季節の正しい推移と,いっそうぴったり符合するように,前の年の11月と12月の間に,2ヶ月をはさむ。/このように調整されたその年は,それまでの慣例上,この年のために設けられていた1ヶ月の閏月も加えて,ついに1年が15ヶ月となった」という季節調整が必要だったのですから(スエトニウス「カエサル」40・スエトニウス=国原前掲書48頁)。

(2)一日が始まる時(暦日の区切り):正子 

次に,ローマ暦では一日は何時から始まったのか。これは意外なことに,根拠と共に明言してくれる日本語文献が少ないようです。真夜中の正子(午前零時)から始まるのが当然だからと思われているからでしょうか。手元にある「ローマ人の一日の時間配分」の表(塩野七生『ローマ人への20の質問』(文春新書・2000年)145頁)も,特段の説明なく正子から一日が始まることになっています。

しかしながら,せっかくインターネットによって世界中から情報を入手できる時代ですので,何らかの文献的根拠ではっきりさせたいところです。そこで英語のウェッブ・サイトをいろいろ調べてみると,紀元2世紀の人であるアウルス・ゲッリウスの『アッティカ夜話』のBook3の2に説明がありました。以下,J.C. RolfeLoeb Classical Library版(1927, Revised 1947)の英訳からの重訳です。

 

どの日が,夜の第三時,第四時及び他の時間に生まれた者の誕生日とみなされ,かつ,そう唱えられるべきかは,よく問われる問題である。すなわち,その夜の前の日なのか,後の日なのか。マルクス・ワッロ〔カエサルの同時代人〕は,彼の書いた『古代史』の「日について」においていわく,「一正子から次の正子までの24時間中に生まれた者らは,同一の日に生まれたものとみなされるものである。」これらの言葉から,日没後ではあるが正子前に生まれた者の誕生日は,そののちに当該夜が始まったところの日であるものとするように,彼は日を分けて数えていたことが分かる。しかしながら他方,夜の最後の六時間中〔「ローマの一時間は日出から日没までを12等分したものなので,夏季と冬季とでは,また昼と夜とでも,長さが違っていた。」(スエトニウス=国原前掲書338頁)〕に生まれた者は,その夜の後に明けた日に生まれたものとみなされるのである。

しかしながら,ワッロはまた同じ書において,アテネ人たちは違った数え方であり,一日没から次の日没までの間の全ての時間を単一の日とみなしている,と書いていた。バビロニア人はまた異なった数え方をしていたとも書いていた,すなわち,彼らは一つの日の出から次の日の出の始まりまでの間の全ての時間を一日の名で呼んでいたからである。しかしウンブリアの地では,多くの人々が正午から次の正午までが同一の日だと言っていたとも,書いていた。・・・

しかしながら,ワッロが述べたように,ローマの人民は毎日を正子から次の正子までで数えていたことは,豊富な証拠によって示されている。・・・

 

 そうであれば,問題は,カエサルがルビコン川を渡ったのは,1月9日の夜が更けて正子を過ぎた同月10日の未明であったのか,それとも1月11日になろうとする同月10日の晩(正子前)であったのか,ということになります。

(3)スエトニウスとプルタルコス 

 

  ・・・カエサルはキサルピナ・ガリアにやってきて巡回裁判を終えると,ラウェンナに踏みとどまる,自分のため拒否権を行使するはずの護民官に対し,もし元老院が何か重大な決定を行なったら武力で復讐してやろうと覚悟して。

  ・・・

  さてカエサルは,護民官の拒否権が無効とされ,彼ら自身首都から脱出した〔「1月7日,門閥派がカエサルの軍隊の解体を決議し,ポンペイユスに独裁官の権限を与える。」とされています(スエトニウス=国原前掲書330頁の年表)。この1月7日の日付は,カエサルの『内乱記』のBook 1, Chapter 5に,a.d. VII Id. Ian.と言及されています。〕という知らせを受けとると,直ちに数箇大隊をこっそりと先発させる。しかし疑惑の念を一切与えぬように表面をいつわり,公けの見世物に出席し,建てる手筈をととのえていた剣闘士養成所の設計図を検討し,いつものように盛大な宴会にも姿を見せた。

  日が暮れると近くの製粉所から驢馬を借り,車につけると,最も人目にたたない道を,わずかの護衛者らとともに出発した。

  松明が消えて正道からそれ,長い間迷い,夜明けにやっと道案内を見つけて,非常に狭い道を徒歩で通り抜けた。

  先発の大隊に追いついたのは,ルビコン川である。この川は彼の治めている属州の境界線であった。しばらく立ち停り,「われながらなんと大それたことをやることか」と反省し,近くに居合わせた者を振り返り,こう言った。

  「今からでも引き返せるのだ。しかしいったん,この小さな橋を渡ってしまうと,すべてが武力で決められることになろう」

  こう遅疑逡巡していたとき,じつに奇蹟的な現象が起った。体格がずばぬけて大きく容貌のきわだって美しい男が,忽然として近くに現われ,坐ったまま葦笛を吹いている。これを聞こうと大勢の牧人ばかりでなく,兵士らも部署から離れて駆け寄った。兵士の中に喇叭吹きもいた。その一人から喇叭をとりあげると,その大男は川の方へ飛び出し,胸一杯息を吸い,喇叭を吹き始めた。そしてそのまま川の向う岸へ渡った。

  このときカエサルは言った。

  「さあ進もう。神々の示現と卑劣な政敵が呼んでいる方へ。賽は投げられた(Iacta alea est)」と。

  こうして軍隊を渡した・・・(スエトニウス「カエサル」30‐33・スエトニウス=国原前掲書384041頁)

 

 これは,夜間渡河ではなく,早朝渡河ですね。 
 しかし,プルタルコスによれば,夜明け前の夜間渡河ということになっています。

 

・・・そこで将軍や隊長に,他の武器は措いて剣だけを持ち,できる限り殺戮と混乱を避けてガリアの大きな町アリーミヌム〔現在のリミニ〕を占領するやうに命じ,ホルテーンシウスに軍勢を託した。

さうして自分は昼間は公然と格闘士の練習に顔を出して見物しながら過ごし,日の暮れる少し前に体の療治をしてから宴会場に入り,食事に招いた人々と暫く会談し,既に暗くなつてから立上つたが・・・自分は1台の貸馬車に乗つて最初は別の道を走らせたが,やがてアリーミヌムの方へ向けさせ,アルプスの内側のガリアとイタリアの他の部分との境界を流れてゐるルービコーと呼ばれる河に達すると,思案に耽り始め大事に臨んで冒険の甚しさに眩暈を覚えて速力を控へた。遂に馬を停めて長い間黙つたまま心の中にあれかこれかと決意を廻らして時を過ごした際には計画が幾変転を重ね,アシニウス ポㇽリオーも含めて居合はせた友人たちにも長い間難局について諮り,この河を渡ることが,すべての人々にとつてどれ程大きな不幸の源となるか,又後世の人人にどれ程多くの論議を残すかを考慮した。しかし結局,未来に対する思案を棄てた人のやうに,その後誰でも見当のつかない偶然と冒険に飛込むものが弘く口にする諺となつた,あの『賽は投げることにしよう。』といふ言葉を勢よく吐いて,河を渡る場所に急ぎ,それから後は駈足で進ませ,夜が明ける前にアリーミヌムに突入してこれを占領した。・・・(「カエサル」32・河野与一訳『プルターク英雄伝(九)』(岩波文庫・1956年)140‐141頁)

 

 渡河の時点において「1月10日」であるということであれば,スエトニウスによれば,1月9日の夕暮れに出発して翌同月10日の早朝にルビコン川を渡ったようでもあります。しかしながら,プルタルコスによれば,1月10日の夕暮れに出発してその夜のうち(正子前)にルビコン川を渡ったように読めます。

(4)距離と移動速度 

 さて,ラヴェンナ・リミニ間の距離は約50キロメートル, ローマ・ラヴェンナ間の距離は350キロメートル超。これらの距離と時間との関係をどう見るかについてギボンの『ローマ帝国衰亡史』を参照すると,同書のVol. I, Chap.Iにはローマの「軍団兵らは,特に荷物とも思わなかった彼らの兵器のほか,炊事用具,築城用具及び幾日分にも及ぶ糧食類を背負っていた。彼らは,恵まれた近代の兵士では耐えられないであろうこの重量下において,歩武を揃えて約6時間で約20マイル移動するよう訓練されていた。(Besides their arms, which the legionaries scarcely considered as an encumbrance, they were laden with their kitchen furniture, the instruments of fortification, and provision of many days. Under this weight, which would oppress the delicacy of a modern soldier, they were trained by a regular step to advance, in about six hours, near twenty miles.)」と,同Chap. IIには,皇帝らの設けた駅逓制度(institution of posts)を利用すれば「ローマ街道伝いに一日で100マイル移動することは容易であった。(it was easy to travel an hundred miles in a day along the Roman roads.)」とあります。古代のローマの1マイルは1480メートルで(スエトニウス=国原前掲書401頁),英国の1マイルは1609メートル。1日で100ローマ・マイルの移動は神速ということのようで,「〔カエサルは〕長距離の征旅は,軽装で雇った車にのり,信じ難い速さで1日ごとに100マイルも踏破した。・・・その結果,カエサルが彼の到着を知らせるはずの伝令よりも早く着くようなことも再三あった。」とあります(スエトニウス「カエサル」57・スエトニウス=国原前掲書65頁)。

 「他の武器は措いて剣だけを持」ったとしても,50キロメートルは兵士らにとってはやはり2日行程であるべきものとすれば,50キロメートル先を1月10日の払暁に襲撃するためにはできれば同月8日に出発すべきということになります。しかし,350キロメートル超離れたところからの1月7日発の連絡の到着にはやはり2日以上はかかって,早くとも同月9日着ということにはならないでしょうか。

(5)1月11日未明ないしは早朝か 

 結局,通常「1月10日の夜」といわれれば,同日の日没から翌11日の夜明けまでのことでしょうから(現在の我々がそうなので古代ローマ人もそうであったと一応考えることにします。),カエサルのラウェンナ出発は,紀元前49年1月10日の夕方ということでよいのではないでしょうか。

しかし,プルタルコス流に夜中に橋をぞろぞろどやどや渡ったというのでは夜盗のようで恰好が悪いので,早朝,神の示現にも祝福されつつ太陽と共に爽やかにかつ勇ましくルビコン川を渡って世界制覇が始まった,というスエトニウス流のお話が作られたのでしょう。

(なお,11日朝ルビコン川渡河ということでも時間的にはぎりぎりのようですから,11日出発,12日朝に渡河のスケジュールの方が現実的であると判断されるのももっともではあります。キケロー=中務哲郎訳『老年について』(岩波文庫・2004年)のキケロー「年譜」(兼利琢也作成)の13頁では「49年 1月12日,カエサル,ルビコーン川を越え,内乱始まる。」とされています。)

2 2017年1月10日

(1)勝訴
 ところで,筆者にとっての2017年1月10日は,幸先よく勝訴判決を頂くことから始まりました。損害賠償請求事件の被告代理人を務めたものです。「・・・原告の前記(1)主張を認めるに足りる証拠はない。/・・・よって,その余の争点について判断するまでもなく,原告の請求は理由がないから,これを棄却することとし,訴訟費用の負担につき,民事訴訟法61条を適用して,主文のとおり判決する。」というのが当該地方裁判所判決の結論部分で,主文は,「1 原告の請求を棄却する。/2 訴訟費用は原告の負担とする。」というものでした。

 敗訴した原告側としては,証拠が無くとも慰謝料等の損害賠償請求自体はできるものの,裁判になった場合には証拠がないと請求が認められない,という当該分野の専門弁護士の説く一般論そのままの結果に終わったわけです。

(2)「問状」の効力いかん 

損害賠償金の支払を得るべくせっかく弁護士に頼んでお金を払って内容証明郵便や訴状を書いてもらったのに何だ,何の効果もなかったではないか,というのが敗訴原告の憤懣の内容となるでしょうか。

しかしながら,「就訴状被下問状者定例也」(訴状につきて問状を下さるるは定例なり)であるからといって(すなわち,訴状が裁判所に提出されて訴えが提起されると(民事訴訟法133条),裁判長の訴状審査(同法137条)を経て訴状が被告に送達され(同法138条1項),これに対して被告は,口頭弁論を準備する書面として(同法161条),答弁書(民事訴訟規則80条)を裁判所に提出し(同規則79条),かつ,原告に直送することになるところ(同規則83条),実務では,裁判所は,「問状を下す」のではなくて呼出状(当事者の呼出しについて民事訴訟法139条,呼出状の送達に関して同法94条)と一体となった「第1回口頭弁論期日呼出状及び答弁書催告状」といった書面を訴状の副本(民事訴訟規則58条1項)と共に被告に送達します。),それを承けた原告が被告に対して「以問状致狼藉事」(問状をもって狼藉を致すこと)をすること(例えば,「「第1回口頭弁論期日呼出状及び答弁書催告状」と題した問状を裁判所がお前にお下しになっただろう。これは,裁判官様がこちらの訴えが正しいと既にお認めになった証拠である。したがって,往生際悪く裁判所で無慈悲に拷問されるより前にさっさと素直にゲロして答弁書に「私が悪うございました。全て原告の言うとおりです。」と書け。」と迫る詐欺ないしは強迫的な狼藉を致すようなことなど)ができるかといえばそれは「姦濫之企」であって,「難遁罪科」(罪科遁れ難し)であることは,貞永元年(1232年)七月の御成敗式目によっても明らかなことです(第51条。なお,当時は問状は原告が自ら被告に交付していたそうです(山本七平『日本的革命の哲学』(祥伝社・2008年)424頁参照)。)。
 訴状提出による訴訟提起等の直接的効果に関して過大な期待を煽ってはいけませんし,また,「裁判所から書面が送達されて来た。」といってもいたずらに過剰に反応する必要もありません。まずは事実及び証拠です。信用のできる弁護士に相談すべきです。

3 ポンペーイウスの大弁護士 

 話はまた古代ローマに戻って,「賽を投げろ」と賭博的にルビコン川を渡河した(これは「名()○○号に乗()する」のような重複表現なのですが,御容赦ください。)カエサルの攻勢に対しっし対応,ポンペーイウスにはよい参謀はついていなかったものでしょうか。これについては,少なくとも弁護士の選択については,それまでの赫々たる名声だけで「弁護士」ありがたがって安易に帷幄に参じさせてはならないもの
 マルクス・トウㇽリウス・キケロー大弁護士は,カエサルルビコン渡河直後「戦争に対して名誉のある立派な理由を持ってゐた」ポンペーイウスと「情勢をうまく利用して自分自身ばかりでなく仲間のものの安全を図つていた」カエサルとの間で右顧左眄していましたが(プルタルコス「キケロー」
37・プルタルコス=河野与一訳『プルターク英雄伝(十)』(岩波文庫・1956年)209頁),紀元前49年4月のカエサルのイスパニア向け発足後に至って同年6月にギリシヤに向け「ポンペーイウスのところへ渡つた」ものの,そこにおいて「ポンペーイウスがキケローを一向重く用ゐないことが,キケローの意見を変へさせ」,キケロー大弁護士は「後悔してゐることを否定せず,ポンペーイウスの戦備をけなし,その計画を密かに不満とし,味方の人々を嘲弄して絶えず警句を慎しまず,自分はいつも笑はず渋面を作つて陣営の中を歩き廻りながら,笑ひたくもない他の人々を笑はせてゐた」そうです(プルタルコス「キケロー」38・河野訳上掲書210頁)。大先生自らお気に入りの下手なおやじギャグは,味方をまず腐らせるということでしょうか。
 紀元前
48年8月のファルサーロスの「敗北の後に,ノンニウスが,ポンペーイウスの陣営には鷲が7羽(軍旗が7本)残つてゐるからしつかり希望を持たなければならないと云ふと,キケローは『我々が小鴉と戦争をしてゐるのなら君の勧告も結構なのだが。』と云」い,「又,ラビエーヌスが或る託宣を引合に出して,ポンペーイウスが勝つ筈になつてゐると云ふと,キケローは『全くだ。その戦術を使つて今度我々は陣営を失つてしまつた。』と云つた」そうです(プルタルコス「キケロー」38・河野訳前掲書211212頁)。何でしょうねぇ, この当事者意識の欠如は。しかもこの口の達者な大先生は,肝腎の天下分け目の「ファルサーロスの戦には病気のためキケローは加はらなかつた」ものであったのみならず,カエサルに敗れて「ポンペーイウスも逃亡したので,デュㇽラキオンに多数の軍隊と有力な艦隊を持つてゐた〔小〕カトーは,法律に従つてコーンスルの身分で上官に当るキケローに軍の統率を依頼した」ところ,「キケローは支配を辞退したばかりでなく全然軍事に加はることを避けたため,ポンペーイウスの息子や友人たちがキケローを裏切者と呼んで剣を抜いたので,〔小〕カトーがそれを止めてキケローを陣営から脱出させなかつたならば,もう少しで殺されるところであつた」との頼りない有様であったとのことでした(プルタルコス「キケロー」39・河野訳前掲書212頁)。

 

 という難しい大先生がかつていたとはいえ,それでも弁護士は使いようであります。まるっきり法的にも見通しなしの賭博として「賽を投げる」ことはやはり危険でしょう。大事を前にして,信頼できる弁護士を探しておくことは無価値ではないものと思います。

 

 弁護士 齊藤雅俊

 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

 大志わかば法律事務所

 電話:0368683194

 電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

 

1 イギリスの弁護士制度瞥見

 

(1)バリスタ

 1981年度夏学期に東京大学教養学部文科一類の1年生を相手に講ぜられた法学の入門講義を基に著された三ケ月章教授の『法学入門』(弘文堂・1982年)を読むと,「イギリスの弁護士はバリスタというのか」と当該講義を受けた初々しい若者たちは理解したもののように思われます。

 

  法律家――法廷実務家――の役割には二つの異なったものがあることが,西欧とくに英米では強調されてきた。その一つは,裁判官として法を運用するという役割であり,もう一つは,相対立する当事者の利益をお互いに代弁しつつ裁判官に働きかけるという役割である。弁護士というものは,もっぱら後者の役割を果たすために存在するものであることはいうまでもない。そして,裁判官層のことをベンチといい,弁護士層のことをバーと呼ぶ慣例がある。裁判官はベンチに腰をかけて訴訟指揮を行ない,弁護士(イギリスにおいてはバリスター)は,法廷に設けられるバー(横木)のところに立って発言するというところから名付けられたものである。(三ケ月122123頁)

 

 「弁護士(イギリスにおいてはバリスター)」といわれれば,日本の弁護士とイギリスのバリスタとが一対一対応するものと理解するのが当然でしょう。

 法学教育に関しても,バリスタのみが言及されています。

 

  ・・・徒弟教育の伝統が現在までなお顕著に認められるのは,イギリスにおける法学教育である。元来イギリスにおいては,コモン・ローは大学での学習の対象ではないという伝統が形づくられており――大学で法が教育されることがあっても,それはローマ法を主軸とするものであった――,ひいてイギリス固有の法を学ぶことを志す青年達は,大学ではなく,法廷実務家――バリスター――の自治的集団ともいえるインズ・オブ・コート(Inns of Court,法曹学院と訳しておく)において,一種の共同生活を通じて法を学ぶという仕組みが確立するに至ったのであった。そして,こうした伝統は現在でも形の上では引き継がれているのである。(三ケ月147148頁)

 

 法廷実務家になるための勉強は大学などでするものではなくて,大学アカデミズム外で先輩後輩関係の下みっちり親身の手ほどきを受けるのが正則だよ,ということであれば,確かになるほどとうなずかれる点があります。これに対して,現在の我が国の法科大学院制度は,文部科学省隷下の大学側が,単なる当てはめに堕することなき知的かつ質の高い研究を本来専らとすべきその教員らを惜しむことなく動員して,法廷実務家育成の領域に大きく踏み込むことを意図した制度のように思われます。ただし,その成果についてはいろいろ議論があるようです。(なお,文部科学省は,国立大学法人には法学教育は余り期待していないようです。千葉大学時代の故星野英一教授が生前同省にわざわざ出頭して陳情しても,同大学に法学部の設立は認められなかったということでした。いわく,「千葉大時代も,千葉大は法経学部法学科だったのですが,法学部を独立させようという運動があり,私も法学科主任として千葉県選出の国会議員や,文部省の大学局長,大学課長,課長補佐の所まで行っています。法経学部長などと一緒でした。しかし,国立の法学部はあまり増やしたくないというのが文部省の戦後一貫した考えだということのようでした。戦後初め九つ,後から増やしたのが六つで止めています。」(星野英一『ときの流れを超えて』(有斐閣・2006年)230‐231頁))

 

(2)バリスタとソリシタ

ところが,現実には,イギリスにおける弁護士に相当する専門家はバリスタばかりではありません。ソリシタという専門家が存在します。

 

ア 両者の概要

両者について,司法研修所『平成18年度 刑事弁護実務』には次のようにあります(16頁)。

 

  イギリスでは,バリスターは原則として主要な裁判所での弁論権を独占し,ソリシターは依頼者から事件の依頼を受け,法律問題について助言し法律的文書を作成する等の法律事務を行っていた。ソリシターは,一定の下級裁判所以外では弁論を行うことはできないし,バリスターは,ソリシターを通じて訴訟事件を受任するので,原則として直接に依頼者に会うことはできなかった。しかし,1990年(平成2年)11月に「裁判所及び法律サービス法」が成立し,一定の要件を満たしたソリシターに上位裁判所の法廷弁論権が認められることになった。また,バリスターもソリシターを介さずに直接依頼者から受任できるようになり,バリスターとソリシターがパートナーシップも組めるようになったので,弁護士職種の区分制度は変更されつつある。

 

 イギリスでは,弁護士職種が2分されている。バリスタ及びソリシタである。少なくとも1990年より前の段階においては,両者はパートナーシップを組むことはなく,依頼者とのアクセスはソリシタが独占していた。一定の下級裁判所で解決できる程度までの法律問題はソリシタが処理してしまい,主要な裁判所での弁論が必要なときにだけバリスタにお呼びがかかっていた,ということのようです。

 兼子一教授の『裁判法』(有斐閣・1959年)では,「各国の弁護士制度」中イギリスの制度については次のように説明されていました(248249頁・注(2))。

 

  弁護士に相当するものとして,バリスター(barrister)とソリシター(solicitor)の2種がある。前者は〔,〕1608年ジェームス1世の時代に特許された法廷弁護士ともいうべきもので,法廷で弁論することを職務とし,特に最高裁判所(註)ではこの資格がなければ出廷できない。バリスターの養成は特殊コースで,インズ・オブ・コート(Inns of Court)の一で,先輩によって法曹及び紳士としての訓練を受けて修業する必要があり,資格取得後もその所属インの監督を受ける。一般には依頼者と直接交渉せず,又報酬も受けないで,ソリシターを通じて事件を引受ける。バリスターは,社会的地位も高く,上級裁判所の裁判官は,この資格を有する者から任用される。ソリシターは,1874年に設けられ,いわば法廷外弁護士で,当事者の依頼を受けて契約書の作成,法律事件の相談に応じ,又訴訟になればバリスターの下準備をする外に,下級裁判所では自ら弁論もできる。資格としては,先輩のソリシターの下で5年間修習して試験に合格することである。・・・

 

(註)なお,兼子教授のいう「最高裁判所」は,「一審の裁判所としてのHigh CourtCrown Court(刑事裁判所),二審のCourt of Appeal(控訴院)――これらを併せてSupreme Court of Judicature(最高法院)とよぶ」(田中英夫『英米法総論 下』(東京大学出版会・1980年)366頁)とされるSupreme Court of Judicatureのことであって,最高の裁判所としてのHouse of Lordsのことではないように思われます。

 

イ バリスタ先生の収入と矜持

「社会的地位も高く」といわれても,我が国でいうところの武士は食わねど高楊枝で(「お武家さま」だから,裁判官はそこから任用されるのでしょうか。),見栄を張って報酬を直接受け取ることもないバリスタ(しかも自らの「報酬額の決定にはいっさい口出しをしてはならないとされている」そうです(田中・下405頁)。)よりは,お客さまを自らしっかり握っているソリシタの方が強いですね,これは。

 

・・・成功したバリスタは高い収入をあげることができるが,若い間は,同じ年頃の開業医,歯科医,ソリシタ,会計士よりもずっと低い収入に甘んじざるをえない。そのために,バリスタになるのは,親が金持ちで,若い時に収入がない間をどうにかやっていけるような人々が多くなった。・・・(田中・下412頁)

 

 バリスタは,ソリシタよりも「ずっと」収入が低いそうです。無論「成功したバリスタ」は別なのでしょうが,成功したバリスタがいるということはその反面として成功しないバリスタもいるということになりますので,成功しないで貧乏なままの(そしてやがて廃業する)バリスタもまた存在するわけでしょう。「バリスタという称号は,正確にいえば学位のようなもので,バリスタ号をもっていても実務に従事しているとは限らないし,実際にも,実務に従事しないバリスタの数はかなり多い」そうです(田中・下404頁)。Superior courts(管轄権について事物・訴額などに制限のない一般的管轄権をもつ裁判所であって,巡回制が活用されているもののイングランド及びウェイルズを通じてロンドンに一つしかない。)で弁論できるのはバリスタに限られるといっても,イギリスの民事・刑事事件の大部分はソリシタが弁論できる裁判所(county court, magistrates’ court, 各種administrative tribunals等。なお,管轄権について事物・訴額などで制限のある裁判所がinferior courts)で処理されているそうですから(田中・下365367頁,407頁),経済的に,バリスタの弁論独占権の有難味は絶対的なものではないようです。(なお,1970年代の観察では,「むしろソリシターの方が試験が難しい」とされています(吉川精一『英国の弁護士制度』(日本評論社・2011年)46頁。また98頁)。バリスタ試験に合格するための試験勉強も,予備校(Crammer School)で3箇月も勉強すればよかったようです(吉川97頁参照)。)

 「依頼者との交渉から解放されているバリスタは,学者的実務家とでもいうべき存在であるといえる」とは田中英夫教授のバリスタ評です(田中・下405頁)。「学者的」という形容詞を,自らも学者である田中教授は肯定的に用いたものか否か。(「英国では大学で法律を教えているのは実務家として成功できないからだといわれている。ラスキは,ある夕食会で,裁判官は「無限の優越感」を,大学の先生は「完全な劣等感」をもっていることを発見したと語っている」そうではあります(吉川97頁・注(8))。)

「社会的地位もバリスタのほうが〔ソリシタよりも〕高く,・・・経験を積んだソリシタが,かけだしのバリスタの事務所におもむき,バリスタの時間の空くのを待つというような現象も起こりうるわけである。」ということで,「バリスタが「先生」的扱いをうける」そうですが(田中・下404頁),確かに大学の「教授」「准教授」というような学者的肩書のある方々のところへはこちらから赴くのが我が国においてもエチケットでしょう。しかしながら,当該作法が示されることをもって直ちに自らの学問ないしは業績に対する評価又は自己に対する献身であるものと勘違いするような軽忽な「先生」は,自得して小さな部屋に閉居してそこに訪れに来る熱意ある少数者と有益な議論をしてさまざまな思考へと導かれているばかりでは,やがてだれからも相手にされなくなるかもしれません。無論杞憂でありましょうが。
 「1970年代のソリシターはパブリック・スクールを卒業しオックスフォードやケンブリッジに学んだ経験のある者が多く,その社会的地位もバリスターに匹敵している」のでした(吉川67頁)。 

 

イギリスの法曹の2部門は,機能を異にしながら,上下関係にはなく対等関係にあることに注意しなければならない。(田中・下406頁)

 

ウ Man of affairs vs.学者的実務家

 ソリシタは,「依頼者からどんな事件を持ち込まれても,それを一応こなしうるだけの能力」を持ち,「family lawyer的な存在」であって,「雑多なトラブルを法律家の眼で整理し,適切な(法律的あるいは実際的)助言を与え,必要があれば法律文書の作成,手紙の起草,交渉等」を主に行うman of affairs”であるとされています(田中・下408409頁)。やり手でなくては務まりませんね。

 「バリスタは,ソリシタによって整理された形で事件を見」ますので,「裁判官になる前から,裁判官の眼に近いような一歩離れた立場で事件を眺める習慣」を有するようになります(田中・下428頁)。バリスタは,田中英夫教授によれば,「専門医的存在」であり,「依頼者との応接から解放され,手紙や電話に煩わされることもずっと少な」く「特定の法分野について深い知識を備えるだけの余裕」を持ち,「学者的実務家とでもいうべき風格を備えるにいたる」ものとされています(田中・下409頁)。ちなみに,田中教授は1982年度から1983年度までの東京大学法学部長でしたが,学内行政に関する応接や手紙・電話は苦手であったのではないかとも想像されます。

 バリスタ・ソリシタの二分主義について,田中英夫教授は,「とくに法曹一元の制度のもとでは,望ましいことのように思われる。」としています(田中・下416頁)。「法曹一元の制度のもとでは」というところが微妙な限定句です。依頼者の時として混乱した言い分を辛抱強く聴き取り,あるいはその欠落した記憶の隙間を埋め,紛失した証拠に代わる証拠を捜索して準備書面等にまとめるというような現場に密着したソリシタ的業務の部分は,裁判官にとっては本来直接関係すべき業務ではないということでしょう(本人訴訟対応の場合はまた別なのでしょうが。)。

 弁護士実務の実際においても,ソリシタ的業務のリズムとバリスタ的業務のリズムとの相違はしばしば感じられるところです。じっくりと問題について調べ,考え,起案するバリスタ的業務のリズムをかき乱す者は,実はman of affairsとしての弁護士に何でも頼ることにしてしまった慌ただしい当の依頼者であることが往々にしてあるようです。

 

2 ソリシタ等の歴史

 

(1)1873年のSupreme Court of Judicature Act

 ところで,前記兼子教授は「ソリシターは,1874年に設けられ」と述べていますが,これでは,我が国の代言人制度が1872年に始まったことと比べても遅いようです。実は,ソリシタ制度にはやはり長い前史があり,「バリスタとの利害の抗争の中で,アトーニ,ソリシタ,プロクタの三者は,一体感を強め」,「その中でソリシタが優位に立つ」ようになったところで,「1873年のSupreme Court of Judicature Actにより,アトーニ,ソリシタ,プロクタの三者が統合され,solicitor of the Supreme Court”となったのである」そうです(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)170頁)。

 

(2)追放されたアトーニ(コモン・ロー系)

 アトーニ(attorney)は,コモン・ロー法曹として,13世紀の中葉に「当事者の代理人として事件を裁判所に持ち出す役」として登場したものだそうです(田中・上76頁)。あるいは,アトーニについては,「訴訟当事者の「身代わり」alter egoたる機能をもつ者として英国裁判史に登場」し,「元来訴訟当事者の身代わりとして出頭義務を果たす機能をもつにすぎなかったので・・・必ずしも弁論術や法知識を必要とせず,当初は,訴訟当事者の身内・知人がこの身代わり役になっていた〔が,やがて〕第三者からも選ばれるに至る。そして,最も多く選任の対象となった者は,裁判手続にも最も関係の深いシェリフ,ベイリフ等の裁判所吏員だった」とされています(吉川8頁)。ただし,アトーニは,13世紀後半に成立した「当事者の主張を法的に構成することをその任としたnarrator」(14世紀からはサージェント(serjeant)。「国王はかなり早くから,その裁判官をサージェントの中から選ぶという政策をとった。」)及びサージェントの下で法曹としての訓練を受けたapprentice14世紀末には今日のバリスタの前身としての性格を持つに至る。)の下位であって,バリスタの属するInns of Courtの従位機関であるInns of Chancery15世紀に発生)に属していました(田中・上7677頁。なお,吉川15頁によればInns of Court構成員中における最上層にあるBencherからサージェントが選ばれる慣行であったわけであり,同16頁によれば主要な国王裁判所における弁論権がバリスタに与えられる慣行については「いつこのような慣行が生じたかは明らかでないが,少なくとも16世紀中期にはバリスターはこの権限を有していた。」とされ,同12頁はInns of CourtとInns of Chanceryとの関係は必ずしも明確ではなかったとし,同17頁によればアトーニもInns of Courtに属するものの「もっとも多くのアトーニーは,インズ・オブ・チャンセリーに所属した」とされています。)。しかしながら,16世紀の中頃にはアトーニはInns of Courtから追い出され(印刷術の発達で書物が容易に入手できるようになり,Inns of Courtの講莚に列することをサボるようになったからだそうです。),17世紀後半にはアトーニからバリスタへの昇進の道も閉ざされ,バリスタとは独立の法律家層を形成し,ソリシタ及びプロクタと肩を並べることになります(田中・上126頁)。このバリスタとアトーニとの分立の理由としては更に,「アトーニーの資格授与およびその監督は当該アトーニーが実務を行う裁判所によって行われたが,バリスターの場合にはその所属するインズ・オブ・コートがこれを行った」という資格授与の方法及び監督に関する相違並びに「アトーニーの業務はプリー〔と呼ばれる書面〕の提出や令状の「購入」〔金を払って発行を受けること〕といった事務的色彩が強く,したがって裁判所の書記官との接触がきわめて多かったのに対し,バリスターの業務は裁判所において法理論を展開し,証人尋問を行うことなど学問的・法廷技術的要素が強かった」という職務内容の違いがあったことも挙げられています(吉川18頁)。
 なお,サージェントも
1873年の改革の際になくなり,バリスタに一本化されます(田中・上170頁参照)。「サージェントが没落していった最も大きな原因は,サージェントが本質的に中世コモン・ローを修めた純粋法律家であって流動的な新時代の要求に応えきれなかった点にある」とされています(吉川21頁)。

 

(2)事件屋ソリシタ(エクイティ系)

 ソリシタは,コモン・ロー法曹ではなく,エクイティを専門とする法曹として登場しています。「エクイティの手続の複雑化に伴い,一定の事項については,書面で答弁することが許されるようになった〔エクイティでは,当事者本人が大法官のもとに出頭して申し開きをするのが本来の原則〕。そして,15世紀に入ると,この書面の起草を引き受ける人間が出て来る。そして,16世紀中葉には,エクイティの手続でソリシタを用いることが一般化し,一つの職業と認められるようになったといわれる。とはいっても,ソリシタは,その言葉の元来の意味通り事件屋的存在であり,この時代には専門職業としての自律もなく,裁判所による規律の手も及んでいなかったといわれる。」とのことでした(田中・上125頁)。ソリシタが事件屋的存在であるということについては,訴訟当事者若しくはアトーニのために「相手方の動きを調査したり,訴訟の状況を当事者に報告したりするような補助者」又は「自分の所属していない裁判所」で「その裁判所所属のアトーニーに依頼して自らの依頼者の事件処理を行った」アトーニもソリシタの母体となったというような由来があるからであるということでしょうか(吉川19頁参照)。

 

(3)アトーニとソリシタとの協力

 アトーニとソリシタとは,18世紀には一つの階層にまとまって行く傾向を示します。バリスタに対して自らの職業的利益を守るために協力した彼らは1729年にSociety of Gentlemen Practisers in the Courts of Law and Equityを結成,また,同じ「1729年のAn Act for the Better Regulation of Attornies and Solicitors(アトーニおよびソリシタの規制の強化に関する法律)は,アトーニとソリシタの訴訟代理権を保障」し,更に「18世紀の中頃には,訴訟に関連のある事務のみならず,訴訟に直接関連のない事務についても,バリスタはアトーニかソリシタの手をへなければ事件を引き受けてはならないという原則が,樹立」されます(田中・上149頁)。

 

(4)少数派プロクタ(ローマ法系)

 「Court of Admiraltyおよび教会裁判所では,中世以来,ローマ法・教会法に詳しい者が弁論していた」ところ,これらローマ法系の法曹におけるサージェントないしバリスタに相当する人々はadvocate”と呼ばれ,そのadvocateの下に「アトーニないしソリシタに相当する階層」として発生して17世紀初めに一つの法律家層として認められるようになったのがプロクタ(proctor)です(田中・上125126頁)。

 

(5)ソリシタへの統合

 1873年にアトーニ,ソリシタ及びプロクタの三者がソリシタに統合された理由は,「プロクタの地位は,彼らが実務に従事していた〔ローマ法系の〕海事裁判所と教会裁判所の重要性の減少とともに,低下した」からであり,「〔コモン・ロー起源の〕アトーニとソリシタの間では,複雑な計算関係を含む――従って商事関係の,利益の多い――事件がエクイティ裁判所の管轄に属していたこともあって,ソリシタのほうが重要な地位を占めるようになった」からだそうです(田中・上170頁)。なお,「アトーニーとソリシターは18世紀初頭までに区分できなくなっていたが,彼らは「アトーニー」よりも「ソリシター」という名称を好んだ。というのは,「ソリシター」という言葉には「三百代言的」などの悪い形容詞との結びつきがな」かったからだともされています(吉川29頁)。18世紀初頭には,追剥ぎ兼業のアトーニや住所不定のvagabond attorneyもいたそうです(吉川24頁注(95))。

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 (東京都大田区の「追剥坂(おいはぎ坂)」。 追剥弁護士が出る坂か,vagabond弁護士が浮浪する坂か。)
 

 ちなみに,「弁護士について単層主義がとられ,かつそれがイギリスのソリシタの線で組み立てられたことが,アメリカの弁護士制度の基本を決定」したそうですが,「ただしその名称としては,エクイティ起源のソリシタでなく,コモン・ロー起源のアトーニという言葉が選ばれた」そうです(田中・上252頁)。

1 三百代言

 我が国の「訴訟における代理人制度は,明治5年〔1872年〕の司法職務定制(同年8月3日太政官無号達)によって最初に認められた。職務定制は江藤新平が司法卿に就任してのち,フランス法の影響下で訴状の作成をする代書人と民事訴訟における弁論の代理をする代言人とを認めた。ここに初めて訴訟行為における代理制度が成立したのであり,日本の伝統的な司法制度の重大な変革が行われた。司法職務定制による代言人は,我が国の弁護士制度の始まりである。」とされています(司法研修所『平成18年度 刑事弁護実務』2頁)。ところが,江戸時代に訴訟関係人を泊める旅館(公事宿)の経営者であった「公事師からの系譜を受けた代言人も多く,同業者間に依頼者の獲得競争を生じ,報酬のダンピングも行われ,青銭三百文,玄米1升という低価で事件を引き受ける代言人もあったので,この時代に「三百代言」という蔑称も生まれた」そうです(同4‐5頁)

 司法職務定制の第10章「証書人代書人代言人職制」中第42条及び第43条は次のとおり。

 

 第42

  代書人

  第1 各区代書人ヲ置キ各人民ノ訴状ヲ調成シテ其詞訟ノ遺漏無カラシム

    但シ代書人ヲ用フルト用ヒサルトハ其本人ノ情願ニ任ス

  第2 訴状ヲ調成スルヲ乞フ者ハ其世話料ヲ出サシム

 第43

  代言人

  第1 各区代言人ヲ置キ自ラ訴フル能ハサル者ノ為ニ之ニ代リ其訴ノ事情ヲ陳述シテ枉冤無カラシム

    但シ代言人ヲ用フルト用ヒサルトハ其本人ノ情願ニ任ス

  第2 代言人ヲ用フル者ハ其世話料ヲ出サシム

    証書人代書人代言人世話料ノ数目ハ後日ヲ待テ商量スヘシ

 

1893年に旧々弁護士法(明治26年法律第7号)が施行されて(同年5月1日施行(同法38条1項)),代言人の称は弁護士に変わっています(同法38条2項により明治13年司法省甲第1号布達代言人規則は廃止。同法35条は「現在ノ代言人ハ本法施行ノ日ヨリ60日以内ニ弁護士名簿ニ登録ヲ請フトキハ試験ヲ要セスシテ弁護士タルコトヲ得」と規定)

ところで,三百代言諸氏がそれで訴訟代理活動等を行ったという「青銭三百文,玄米1升」という世話料は,どれくらいの価値があったものでしょうか。

 

2 青波銭(寛永通宝四文銭)の新貨換算

明治四年(1871年)五月に出た新貨条例は,我が通貨単位に円を採用し,1円を100銭,1銭を10厘としました。「新貨幣ト在来通用貨幣トノ価格ハ1円ヲ以テ1両即チ永1貫文ニ充ツヘシ」とされています。

 同年十二月十九日に出た太政官第658(新貨並ニ金札ノ比較及ヒ旧銅貨ノ品位ヲ定ム)は,「旧銅貨ノ儀去ル辰年定価被 仰出候処今般新貨御発行ニ付各種比較商量ノ上当分左ノ通品位被相定候条其旨相心得新貨幣並金札共取交聊無差支通用可致事」と定め,その「旧銅貨品位」の表では,「青波銭ト唱へ元四文銭ナリ」との寛永通宝を「10枚ヲ以テ2銭トス」る二厘銭としています。

青銭とは青波銭のことのようですから,当該寛永通宝四文銭が75枚で「三百文」になります。しかしそれは二厘銭が75枚ということですから,150厘,すなわち15銭ということになるようです。これが「青銭三百文」の世話料の額であるようです。

なお,旧銅貨たる寛永通宝には「耳白銭或ハ其外」の「元一文銭」もあり,こちらは一厘銭とされていました(明治四年太政官第658

同じ「寛永通宝」でも四文銭があったり,一文銭があったり,一筋縄ではいきません。貨幣制度の歴史は,小アジアの古代リュディアから始まるそうですが(ヘロドトス『歴史』巻1の94節),なかなか複雑です。


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 寛永通宝四文銭(青波銭) 
 

3 明治の物価等

 

(1)明治五年(1872年)

 その五月に新貨条例,十二月十九日に太政官第658が出た明治四年の翌年であり,かつ,司法職務定制が定められた明治五年(1872年)の官吏の給与及び東京における物価はどれくらいであったでしょうか。

 

・・・優は此年四月十二日に〔埼玉県出仕の〕権少(さくわん)になつて,月給僅に25円である。これに当時の潤沢なる巡回旅費を加へても,尚70円許に過ぎない。しかし其意気は今の勅任官に匹敵してゐた。(森鷗外『澀江抽斎』その九十四)

 

・・・師範学校は此年始て設けられて,文部省は上等生に10円,下等生に8円を給した。(同・その九十五)

 

・・・文部省は当時頗る多く名流を羅致してゐた。・・・諸家が皆九等乃至十等出仕を拝して月に四五十円を給せられてゐたのである。(同)

 

  〔前記の優いわく〕「・・・今浅草見附の所を遣つて来ると,旨さうな茶飯餡掛を食べさせる店が出来てゐました。そこに腰を掛けて,茶飯を2杯,餡掛を2杯食べました。どつちも50文づつで,丁度200文でした。(やす)いぢやありませんか。」(同)

 

夕食200文。一文銭の寛永通宝の200文ということならば,200厘の20銭でしょう。勅任官に匹敵する意気の優の夕食ですから,けちなものではないはずです。

 

  ・・・保は鈴木の女主人(あるじ)に月2両の下宿代を払ふ約束をしてゐながら,学資の方が足らぬ勝なので,まだ一度も払はずにゐた。」(同・その九十六)

 

元船宿の未亡人宅2階(同・その九十三参照)を借りる師範学校生徒である保のこの下宿代は,月2円ということになります。

 

(2)1874年(明治7年)

 明治五年の2年後の1874年(明治7年)頃の東京では10銭で何が買えたかというと,「僕は外へ出て最中を10銭買つて来た。その頃は10銭最中を買ふと,大袋に一ぱいあつた。」とあります(森鷗外『ヰタ・セクスアリス』の十三歳の段)。また,その頃の語学学校寄宿舎では「大抵間食は弾豆か焼芋で,生徒は醵金をして,小使に2銭の使賃を遣つて,買つて来させるのである」そうでした(同)。こうしてみると,三百代言の15銭は,寄宿舎の小使さんのお使い7回半分です。

 

(3)1885年(明治18年)

 森林太郎一等軍医が1885年(明治18年)1010日に脱稿した『日本兵食論大意』によれば,当時「我邦ノ兵ハ毎人毎日米6合(約1「キロ」)ト金6銭,士官学校生徒ハ米6合ト金8銭ヲ給与セラル」ることになっていたそうです。「然レドモ士官学校生徒ノ食シタル米量ハ6合ニ達セズ何トナレバ其乾燥分ハ643瓦,3〔643.3g〕ニシテ721瓦,5ノ未炊米ニ当レバナリ(算法之ヲ略ス)一般ノ兵卒モ6合ノ米ヲ食ヒ尽ス者ハ少ナカルベシ」ということでした。若い健康な壮丁兵士が1日に食べるべき米の量は平均約4.5合ということでしょうか。なお,「「ショイベ」氏ノ試験セル強壮ナル日本人ハ1日平均6百02瓦ノ未炊米ヲ食ヘリ」とされています。森一等軍医は更に,在営兵卒1人1日の食量を試算した上で,「其代価ハ之ヲ概算セシニ米価ヲ合シテ約10銭ナリ(算法之ヲ略ス)」と述べています。すなわち,1885年当時の我が国では,1日10銭あれば,健康な食生活は可能であったようです。(ただし, 脚気問題はここでは取り上げません。)

 

(4)明治末年の一厘事件判決(1910年)

 なお,明治の末期には,「“半銭”と刻印された五厘銅貨があったが,その頃でさえ五厘銅貨1枚で買えるものはほとんどなくなりつつあった。」とされます(鈴木武雄『おかねの話』(岩波新書・1967年)60頁)

 いわんや1厘をや。すなわち,有名な一厘事件(煙草専売法違犯ノ件)に係る1910年の大審院(たいしんいん)明治431011日判決(刑録161620頁)は,「此種ノ反法行為ハ刑罰法条ニ規定スル物的条件ヲ具フルモ罪ヲ構成セサルモノト断定スヘク其行為ノ零細ニシテ而モ危険性ヲ有セサルカ為メ犯罪ヲ構成セサルヤ否ヤハ法律上ノ問題ニシテ其分界ハ物理的ニ之ヲ設クルコトヲ得ス健全ナル共同生活上ノ観念ヲ標準トシテ之ヲ決スルノ外ナシトス」と述べ,1909年度煙草耕作人でありながら政府に納入すべき煙草7分(価額金1厘相当)を手刻みとして消費した被告人を無罪としています。(当時の葉煙草専売法(明治29年法律第35号)21条は「葉煙草ヲ耕作スル者政府ニ納付スヘキ葉煙草ヲ他ニ譲渡シ若ハ消費シタルトキ又ハ葉煙草ノ譲渡ヲ受クルコトヲ得サル者葉煙草ノ譲渡ヲ受ケタルトキ又ハ煙草製造ヲ業トスル者若ハ葉煙草売買ヲ業トスル者情ヲ知リ政府ヨリ売渡ササル葉煙草ノ譲渡ヲ受ケタルトキ若ハ葉煙草ノ譲渡ヲ受クルコトヲ得サル者ヨリ葉煙草ノ譲渡ヲ受ケタルトキ若ハ氏名居所不明ノ者ヨリ葉煙草ヲ譲受ケタルトキハ10円以上300円以下ノ罰金ニ処シ其ノ犯罪ニ係ル葉煙草ノ現存スルトキハ之ヲ没収シ既ニ譲渡シ又ハ消費シタルトキハ其ノ代金ヲ追徴ス」と詳細に規定していました。なお,上記判決は行為の零細性のみならずその危険性も問題にしていますから,「判例も,一厘事件判決(大判明43・10・11刑録16・1620)以来,処罰に値しない法益侵害を,構成要件に該当しないとしてきた」として(前田雅英『刑法総論講義[第4版]』(東京大学出版会・2006年)103頁),「軽微」性は指摘するものの行為又は犯人(上記判決引用部分の前の部分には「犯人ニ危険性アリト認ムヘキ特殊ノ情況ノ下ニ決行セラレタルモノニアラサル限リ」という表現がありました。)の危険性の問題に言及しないのでは少し物足りない気がします。)ここでいう7分は,2.625グラムです(度量衡法(明治42年法律第4号)1条は「衡ハ貫ヲ以テ基本トス」とし,第2条はキログラム原器の「分銅ノ質量4分ノ15ヲ貫」とし,第3条の衡の項では分を貫の1万分の1としています。計量法施行法(昭和26年法律第208号)4条2号及び5条3号参照)。一厘事件の添田増男弁護人は「1厘ノ金実ニ1枚ノ青銅此カ如何ニ活躍ヲ恣ニスト雖モ其影響ノ及フ処夫幾程ソヤ之ヲ善用シテ益スル所数ナラス之ヲ悪用シテ毒スル所看ルヲ得ス否寧ロ共ニ社会反応ヲ呼起スルニ足ラサルモノト云フヘシ」と論じていますが,そこでいう「1枚ノ青銅」は明治政府の発行した新貨条例にある一厘銅貨だったものか,それとも寛永通宝一文銭だったものか。ちなみに,1897年の貨幣法(明治30年法律第16号)の下においては,青銅貨幣の最小は五厘ということになっていて(同法3条等),一厘青銅貨の発行はなかったようです。

 

(5)和歌山県における「一厘銭」

 ところで,少なくとも和歌山県では,20世紀の初頭において一厘銭といえば,なお寛永通宝一文銭であったようです。1894年生まれの松下幸之助の回想にいわく。

 

  私は和歌山の家で母と貧乏暮しをしておったとき,学校から帰ってくると,「お母さん,おやつ」というと,母はまん中に穴のあいた一厘銭をくれた。それを持って駄菓子屋へ飛んでいくと,アメ玉を2個くれる。それが日課になっておった。(松下幸之助『物の見方考え方』(PHP文庫・1986年)。下線は筆者)

 

なお,いたいけな幸之助少年から寛永通宝一文銭を強取すると,さすがにこれは被害額1厘とはいえ無罪とはなし難いでしょう。旧刑法(明治13年太政官布告第36号)378条は「人ヲ脅迫シ又ハ暴行ヲ加ヘテ財物ヲ強取シタル者ハ強盗ノ罪ト為シ軽懲役ニ処ス」と規定していました。軽懲役は,重罪の刑で(同法7条7号),6年以上8年以下です(同法22条2項後段)。

 
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 穴のない一厘銭と穴のあいた「一厘銭」(寛永通宝一文銭)
 

5 米1升の食いで

 青銭三百文の値打ちは以上のとおり。しかし,米1升の食いでは,なかなかばかにできません。

 筆者は学生時代のある夏,ワンダーフォーゲル部員として,山形県と新潟県との境にある朝日連峰を藪漕ぎ藪抜け,長期縦走したのですが(石見堂岳,赤見堂岳,枯松山,大桧原山,障子ヶ岳,天狗角力取山,三方境,寒江山,竜門山,西朝日岳,大朝日岳,平岩山,祝瓶山,御影森山),新潟県は村上海岸で夏合宿山行の各パーティが集結してキャンプをし,今夜は打ち上げというその日の午後,地元で調達した本場コシヒカリの飯盒1発分すなわち米1升(これは炊き上がった状態で,元の生米は4合です。)の単独カッポジリ(スプーンでかっぽじりながら食べること)に挑戦したことがあります。山の中ではとにかく腹が減っていて何でも貪り食う状態でしたから,うまそうな銀シャリ1升(生米4合)などペロリだぞという勢いでカッポジリを始めて途中まで順調,あっぱれ胃の腑まで頑丈な山男なりと自賛していたのですが,残り数口というところで突然の腹痛に襲われ,七転八倒のたうち回りました。心配した先輩が,

 「齊藤,どうした?」

と声をかけてくれたのですが,

 「ハイ。飯盒1発メシのカッポジリに挑戦しての名誉の戦死であります。」

 ということで,

 「バカ。」

 というお言葉でした。

 しばらく苦しんで更にじっとしていると,腹痛はやがておさまりました。

 米の飯も恐ろしいものです。

 なお,食べた分量は炊き上がった玄米1升ならぬ白米1升弱でしたが無論脚気にはならず,結構なことでした。
 1升の生米は,炊き上げれば2升5合でしょうから,七転八倒2回半分ということになります。 
 

1 法律家を志すまで

 マサチューセッツ湾植民地のブレイントリー村で僕は生まれた。親父は,百姓と靴屋をやっていて,村で尊敬されていた人物の一人,会衆派教会の役職者だ。僕は,親父が44歳,お袋が24歳の時の長男だ。弟たちは,3歳年下のピーター・ボイルストンと6歳年下のエリヒュー。5歳の時からお袋に字を読むことを教わった。

 弟たちは家の野良仕事を手伝うことになっていたけど,長男の僕は,じいさんやおじさんのように学問をしろと言われていた。6歳のころから村の塾に行って,それからクレヴァリーという若い教師がやっているラテン語学校に通った。クレヴァリーは,cleverどころか,怠け者で,生徒には無関心で意地悪だった。学校は面白くなかった。くそっ,たばこでも吸うか・・・(僕は8歳の時からたばこを吸った。)。

 親父に,僕は百姓をやりたいと言った。叱られた。

 マーシュ先生のところに通うことにした。18箇月で,植民地の首都近郊にある大学で勉強しても大丈夫だろうと言われるまで進歩した。15歳の春だった。大学の入学試験を受けるのは不安でいっぱいだったけど,試験官の教授たちは親切で,合格することができた。

 最初はどうなることかと思っていたけど,我が植民地における最高学府での学生生活の4年間は楽しかった。

 大学4年生になった。僕は進路について決めかねていた。親父は僕に牧師になってもらいたがっていたが,どうも牧師職は男らしくないようで,魅力を感じなかった。困った人たちに寄り添うというのは,僕らしくなく思われた。教区の病人や教会税の滞納者を訪問して日々を送るよりは,読書や研究をして過ごしたかった。聖職者には,それらしくあるために守るべき規則や, 機嫌を損ねないようにしなければならない人が多過ぎるのだ。

 真面目な清教徒の親父は法律家を三百代言呼ばわりして嫌っていたけど,僕は法律家の仕事に魅力を感じていた。そのころには,名門の出身者も弁護士になるようになっていた。

 僕は,名誉と名声とが欲しかった。偉大な人間になりたかった。そのために僕は,法律家になりたいと思ったんだ。

 けれど,牧師にならずに,せっかく僕のために学費を負担してくれた両親をがっかりさせるのは気が重かった。小さな村の狭い事務所で無意味な書類の山に埋もれてあくせくする貧乏弁護士で終わってしまうのではないかという不安もあった。聖職者か法律家か,僕は決めかねていた。そこで,ウスターの町でラテン語の教師をすることにした。

 ウスターは田舎で,うんざりした。生徒たちにもうんざりした。進路に関する悩みは続いた。けれども,とうとう僕は決心した。21歳になる少し前の夏(僕の誕生日は,ユリウス暦だと1019日,今のグレゴリオ暦だと1030日だ。),ウスターのジェイムズ・パトナム弁護士のもとに2年の期間で弟子入りをした(そのころは,ロー・スクールなんてものは無かった。)。

 


2 苦労時代(法律修業時代から駆出し弁護士時代まで)

 2年間の法律修業時代は辛かった。同年代の友人はいなかったし,やるべきことは多かった。パトナム先生は親切で正直だったけど,まだ28歳で,ちょっと物足りないところもあったかな。法律修業は,僕が22歳の時の8月に終わった。ウスターに残って弁護士をやれと言ってくれる人もいたけど,僕はブレイントリーの親父のもとに戻って弁護士を開業することにした。何といってもブレイントリーは首都の裁判所の管轄区域内だから,その分弁護士として活躍の機会も多いというわけだ。

 その年の秋,僕は首都に出かけた。市の弁護士会の長老であるジェレマイア・グリドレー先生はすっかり僕を気に入ってくれて,僕に二つの忠告をしてくれた。一つ目は,早く結婚するな,だった。二つ目は,富を求めて法律業をするな,法に対する愛からしろ,だった。

 開業直後の競争は人生で最も厳しかった。同年輩のライヴァルには,ネッド・クインジーとサミュエル・クインジー,ロバート・トリート・ペインなどがいた。ペインの方が僕よりできるようだった。クインジー家の連中には,実家のコネがあった。ところが僕ときたら,書斎にろくな本はないし,有力な友人もいなかった。つるはしなしで,自分の爪で,埋もれた金をかき出さなきゃならなかった。法律で食っていくためには,すべての石をひっくり返して仕事を探さなけりゃならなかった。クインジーの連中もペインも意地悪で,「あいつはばかだ,とんまだ」と僕の悪口を言い触らしているようだった。ライヴァルたちに負けないように狡猾に立ち回ることが,僕にはできないのではないかと不安だった。

 最初の事件が来た。隣家の馬に畑を荒らされたジョーゼフ・フィールドさんの代理人としての損害賠償請求事件だ。ところが,実務経験不足の僕は, まずい準備書面を書いてしまって敗けてしまった。ペインにばかにされるのではないかと怖かった。一流の法律家には金輪際なれないのではないかとの不安にさいなまれた。そして, フィールドさん, ごめんなさい。

 23歳になっていた僕には,好きな娘ができた。しかし,うまくいかなかった。続いてハンナ・クインジーに僕は夢中になった。僕は彼女に駆出し弁護士の苦労について語った。彼女は貧乏を気にしないと言ってくれた。けれど僕がもたもたしているうちに,ハンナは医者のベラ・リンカンに取られてしまった。ハンナはリンカンと婚約してやがて結婚し,僕は全く落ち込んでしまった。

 最初の2年間,僕の弁護士業は結局立ち行かないのではないかと思われた。仕事のことを考えると,胸が苦しくなった。僕は有名になりたかった。けれども,僕が輝くことはあり得ないことのようだった。

 有名になるために法学研究をするのは迂遠で時間がかかる。人脈を作ろうにも僕の性格はそれには向いていない。そうだ,何かの運動に参加してみよう。まずは禁酒運動だ。ブレイントリーの飲み屋の数は減らすべきだ。次は,ちゃんと修業をしていない三百代言征伐だ。

 2年たって,やっと仕事が増えてきた。相続問題が多かった。25歳になる秋には,陪審裁判で初めて勝訴した。心が軽くなった。僕はこしゃくな奴(saucy)だってさ,ははは。

  それからは仕事がうまく行き始めた。僕は自信を持つことができるようになった。当植民地の法曹界でだんだん一目置かれるようになってきた。26歳になった翌月の11月には,最高裁判所で弁論することが認められるようになった。

 ただ,残念だったのは,僕が25歳の時の5月に,親父がインフルエンザで亡くなったことだった。(とはいえ,親父の遺産の3分の1を相続して,僕は初めて事務所を構えることができた。)

 


3 新婚時代

 27歳の時の2月に,フランス人及びインディアンとの戦争が終わった。

 その年の春から夏にかけて,僕は首都の新聞のために匿名論文を書いた。新聞記事掲載はこれが初めてだった。お偉方を風刺したり,望ましい政体について論じたものだ。望ましい政体というのは,君主政,貴族政及び民衆政の混合政体だね。

 29歳になる直前の1025日,僕は結婚した。妻は19歳。ウエイマスのウィリアム・スミス牧師の中の娘で,黒髪の才女だ。スミス家は裕福で,牧師としての収入のほかに二つの農場からのあがりがあり,奴隷も4人所有している。

 翌年の1月から,僕はグリドレー先生に誘われて,当地の限られた最優秀の法律家の勉強会であるソダリタス(Sodalitas)に参加するようになった。その勉強会での僕の報告は,新聞にも掲載された。

 その年の7月,長女アビゲイルが生れた。僕は29歳で父親になった。仕事も順調だし,僕は幸せだった。だけど,ぽっちゃりしてきたみたい。

 


4 最初の反税闘争

 ところが突然,反税闘争が起きた。本国政府に対する反抗だ。おいおいよしてくれ,せっかくクライアントが増えてきて何とかなってきた僕の法律家としての地位がだめになってしまうかもしれないじゃないか。

 僕のまたいとこのサミュエルが暴れていた。最高学府まで行っていながら,起業しては失敗し,遺産を食いつぶした挙句に税務署の小役人をしている43歳の中年男だ。サミュエルは,僕にもっと大っぴらに反税闘争に参加しろと言う。そうすればもっと有名になれるぞと言う。そりゃ本国政府の当該施策は間違っているし,賢明でもない。けれども,騒動が終わった後の反政府派の末路を思うと,前年に租税徴収官として業務上横領に問われかけたばかりのこの貧乏おじさんの口車に簡単に乗るわけにはいかないな。

 問題の新税法は,僕の30歳の誕生日の翌々日である11月1日から施行された。しかし,反税闘争のおかげで,当該税の徴収官はいなかったし,裁判所も休業状態だ。

 翌年の5月,問題の新税法は廃止された。裁判所業務も再開された。植民地議会には多くの反税派が選ばれていた。サミュエルもその一人だ。僕もまあ,目立たぬながらも反税派の側に立って活動していたんで,初当選を期待していないではなかった。ところがどうしたことだろう,ブレイントリー村の連中は,僕を代議員に選ばなかった。民兵大尉で居酒屋の親父のゼイヤーが,またまた選ばれたんだ。くそっ,残念。更にけしからぬことには,ゼイヤーの親父は,ちゃんとした法律修業をしていないくせに弁護士業務をしている代言人なんだ。しかも,あろうことか,ゼイヤー親父はたびたび法廷で僕を立往生させやがっていた曲者なんだ。二重三重に悔しかった。預言者は家郷に容れられずということか。田舎者どもめっ。

 


5 一人前の弁護士に

 32歳になるまでには,僕はひとかどの弁護士になっていた。当植民地の若手弁護士の中ではトップ・スリーに入るものとひそかに自負していた。金持ちというわけではないが,家族には余裕のある生活をさせることができた。巡回裁判のために家族と離れなくてはならないのは辛いし,仕事の性格上,孤独や退屈にさいなまれることはあった。けれども,満足していい境涯だと思った。

 僕が31歳の時の7月,長男が生れた。長男のミドルネームはクインジーだ。むむむ,あのハンナと関係が無いわけではない。母方の曽祖父にあやかって付けた名前なのだが,妻の母の実家はクインジー家で,妻とハンナとはまたいとこなんだよね。

 32歳の時の4月,僕の家族はブレイントリーから10マイル離れた首都に引っ越した。最初は,近所の人々から「ホワイト・ハウス」と呼ばれている家を借りた。それから約1年たって別の家に移り,その後また中心街に引っ越した。「ホワイト・ハウス」といえば合衆国大統領官邸みたいだって?何だいそりゃ,「アメリカ合衆国大統領」ってのは。そんな官職聞いたことないぞ。いずれにせよ,「ホワイト・ハウス」には長居は無用さ。「ホワイト・ハウス」時代に生まれた二女のスザンナは病弱で,2歳になる前に死んでしまったんだ。

 


6 キング・ストリート殺傷事件弁護

 


(1)事件

 ところで本国がまた新らたな税金をかけてきて,今度は正規軍まで駐屯させて来た。サミュエルたちはまた反対運動だ。

本国正規軍の駐屯兵と植民地の住人とのけんかざたが,たびたび起こった。ただでさえうさんくさがられて警戒されていた正規軍の兵隊たちは,非番のときにはアルバイトをして,未熟練労働者の職まで奪って迷惑がられていた。更に悪いことには,連中,地元の女の子たちとデートをするという図々しい所業にまで及んでいたんだ。一触即発。

 こうした状況の中で,僕は34歳の春を迎えようとしていた。

 その3月5日の月曜日,冷たい夜にその事件は起きた。

午後8時過ぎ,首都の税関の前で,棍棒を持ち罵詈雑言を浴びせかける約4百人の群衆と,40歳のアイルランド人であるトーマス・プレストン大尉に率いられた8人の正規軍兵士とがにらみ合っていた。(その晩僕はソダリタスの会合に出ていたので直接見たわけではない。各種の証拠から認定した事実だ。)兵士たちは銃剣付きのマスケット銃を持ち,半円形の隊形を作っていた。撃てるもんなら撃ってみろと兵士を挑発する奴がいた。射撃命令を出すなと言って来る者もいた。大勢の群衆の敵意に囲まれたプレストン大尉は戦慄した。彼にとっては悪夢のような場面だった。

 棍棒を投げつけて来た奴がいた。棍棒が兵士に当たった。発砲。6秒の間を置いて,更に連続発砲。けが人が出た。5人は瀕死だ。雪の上に血が飛び散っていた。命令なしの発砲に慌てたプレストンは,打ち方止めを叫びながら駆け回った。群衆は驚愕し,呆然としていた。プレストンは兵士らをまとめると,帰営した。帰営を妨害する者はいなかった。

 これが「キング・ストリート殺傷事件(Slaughter in King Street)」のあらましだ。

 


(2)裁判

 サミュエルたちは,自分らの反本国政府運動のために,この宣伝機会を逃さなかった。犠牲者のために盛大な葬儀が挙行された。当該事件は反対派を黙らせるために計画された税関と軍との陰謀の結果だ,と主張するパンフレットの出版がそれに続いた。

 3月中に,大陪審はプレストンと兵士らを起訴した。ハンナの兄のクインジーが特別検察官に任命された。あのペインも訴追チームに加わった。

 弁護人の選任は難航した。そりゃ地元の住民を5人も殺したよそ者を弁護するんだもの,後の業務のことを考えると地元の弁護士は尻込みするよね。東洋の賢しらな学者ならば,「君子危うきに云々」とでも言うんだろうね。

 で,だれがそんな大変な仕事を引き受けたかって?

 僕だ。

 すべての人には,公正な裁判を受ける権利があるからだ。

 弁護団は,僕のほか,特別検察官の弟であるジョサイア・クインジーほか2名の合計4名で構成されることになった。

 プレストンと兵士らの裁判は,夏が過ぎるまで始まらなかった。(それまでの間に,僕は植民地議会の代議員に補欠選任されていた。サミュエルが陰で動いていたって?その話の真偽について論ずべき場所は,ここではないね。なお,5月には次男のチャールズが生れた。)

 9月の初めに罪状認否があった。その6週間後に,新しい裁判所の建物の2階にある法廷で,審理が始まった。大勢の傍聴人が詰めかけていた。

 僕はまず,プレストンの弁論と兵士らの弁論とを分離することに成功した。プレストンは直接人を殺傷したものとしては起訴されていなかったから,発砲命令があったとの立証を崩せばよいわけだ。

 プレストンの審理は5日間かかった。発砲命令を立証すべき検察側の証人は15人いたが,我々の反対尋問でぐらぐらになった。それに対する弁護側の証人は23人。事件の晩,混乱の中にあって,兵士らは圧倒的多数の暴徒に取り囲まれて挑発と威嚇とを受けていたことをしっかり証言してくれた。3時間の評議で,陪審員はプレストン大尉の無罪を評決した。(無論,陪審員を選ぶところから,僕らは本国びいきの人が残るようにしていたからね。)

 11月(僕は35歳になっていた。)に,兵士らの審理が始まった。

 検察側はヘマだった。検察側の最初の証人は,こともあろうに,事件の晩,実はキング・ストリートにいなかったと言い出した。他の検察側の証人も,群衆が「撃てみやがれ!撃ってみやがれ!(Fire! Fire!)」と不安な情況にある兵士らを挑発していたと証言してしまった。群衆がたびたび兵士らに物を投げつけていたという証言も取れた。そうだよ, そうだよ, 事実ってやつは, 強情なものだからね(Facts are stubborn things.)。僕は陪審員に対して,兵士らが侵害にさらされていたとすれば,そのようなことをしている「a motley rabble of saucy boys, negroes and mulattoes, Irish teagues and outlandish jack tars〔注・差別用語が含まれているようです。〕」に対して自衛のために発砲する権利があったのだし,侵害にさらされていなかったとしても挑発されたのであったならば,謀殺故殺ではなく,殺傷の罪にすぎないと弁論した。陪審員(実はまた僕らはうまくやって,陪審員中には地元である首都の市民は一人もいなかった。)は僕の弁論に同意してくれて,8人の兵士中,6人は無罪となった。残る2人は殺傷の件で有罪とされたけれども,初犯だったので「聖職者の特権(benefit of clergy)」を行使して(聖職者でなくとも, 詩篇第51篇のneck verseを知っていればいいのだ。),親指に烙印されるだけですんだ(この烙印は,当該特権を同人は「使用済み」との印だ。)。

 この年は,めでたく終わった。キング・ストリート殺傷事件の弁護のせいで仕事が減るかと思ったけれども,かえって僕の賢明な弁護士という評判が高くなった。しかも今や議会の代議員さまでもある。年間の取扱事件数は約450件に達し,僕は当植民地の最も売れっ子の弁護士の一人となった。ロー・クラークも常時2,3人雇っている。クライアントは当地のエリートぞろいだ。議会の議長を最近二人出したボードイン一族,大商人のジョン・ハンコック,財務監のグレイ,前総督のバーナード閣下等々。隣のニュー・ハンプシャー植民地のウェンワーズ総督閣下も僕のクライアントだ。お金も入るようになった。ブレイントリーの地所と家屋のほか,首都にも家があり,教会のいい席も買った。蔵書も大充実した・・・。

 


7 1773年3月

 ところで,1773年の今日は,1770年3月5日に起きたキング・ストリート殺傷事件の3周年記念式典の日だ。

この前,例のまたいとこのサミュエルが,僕に式典でスピーチしてくれと言ってきたけど,プレストンと兵士らの弁護人であった僕としては,断った。37歳にもなって,齢を取り過ぎたと言ってやった。大体サミュエルはいい齢のじいさんなのに過激でいけない。何が虐殺(「ボストン虐殺事件(Boston Massacre)」)だ。大げさで不正確だ。僕が無罪を取ったあの事件は飽くまでもキング・ストリート殺傷事件だ。同じアダムズ一族でも,同じハーヴァード大学の卒業生でも,首都ボストンのサミュエル・アダムズとブレイントリーのジョン・アダムズとは違うのだ。サミュエルは,馬にも乗れやしないのだ。

しかし,ああ,あの事件における兵士らの刑事弁護活動は,これまでの僕の人生における無私の行動の中で,最も勇ましく,かつ,太っ腹なものの一つだったのだ。中年期を迎え,大英帝国の植民地におけるジョージ3世の臣民として,今後僕の人生はどうなって行くのだろうか。あの裁判での勝利のとき以上の栄光は,再び僕に訪れるのだろうか。このくににおける長男のジョン・クインジーら子どもたちの未来はどうなるのだろうか。どういう栄光と偉大とがあるのだろうか。まあ,腹をさすり,茶でも飲みながら考えるとしよう・・・。

 


(参考文献)Ferling, John E., John Adams: a life (Oxford University Press, New York, N.Y., 2010)



弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

渋谷区代々木一丁目57番2号ドルミ代々木1203(代々木駅北口そば。新宿駅南口からも近いです。)

電話:0368683194

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

1 1999年の児ポ法制定時にさかのぼる

 我が児童買春,児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律(平成11年法律第52号。「児ポ法」)が,その第2条3項3号においていわゆる三号ポルノを「衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって,殊更に児童の性的な部位(性器等若しくはその周辺部,臀部又は胸部をいう。)が露出され又は強調されているものであり,かつ,性欲を興奮させ又は刺激するもの」と定義して,当該三号ポルノをも児童ポルノとして規制するに至った理由については,やはり,1999年の第145回国会における児ポ法法案の審議模様にまでさかのぼって調べる必要があるように思いました。以下は当該審議模様に係る議事録を調べた結果のあらましです。無論,先行研究もあるのですが,やはり自分で原典に当たらないままでは,たとい詰まらないことであっても,もっともらしい顔をして語ってはいけないものでしょう。また,これは人によるのでしょうが,抽象化された命題を抽象的に取り扱うよりも,その根の部分における,必ずしもきれいに割り切れてはいない人間的なやり取りを再確認する方が,法学方法論としても興味深く感じられるところです。

(なお,以下の議事録の略称は,参8・○は第145回国会参議院法務委員会会議録第8号(1999427日の同委員会の議事を記録)○頁の意味,衆10・○は同国会衆議院法務委員会議録第10号(同年511日の同委員会の議事を記録)○頁の意味,衆11・○は同会議録第11号(同月12日の同委員会の議事を記録)○頁の意味,及び衆12・○は同会議録第12号(同月14日の同委員会の議事を記録)○頁の意味です。)

 児ポ法成立当初の同法2条3項3号は,次のとおり。

 

 3 この法律において「児童ポルノ」とは,写真,電磁的記録(電子的方式,磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られる記録であって,電子計算機による情報処理の用に供されるものをいう。以下同じ。)に係る記録媒体その他の物であって,次の各号のいずれかに掲げる児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写したものをいう。

   〔第1号及び第2号省略〕

  三 衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの

 

 児ポ法は,議員立法でした。(ちなみに,議事録の登場人物には弁護士議員が多かったです。)

 1999年4月27日の参議院法務委員会において,児ポ法法案の発議者の一人である林芳正参議院議員(法務委員ではない。)が同法案の趣旨説明を行いましたが,その中には次のような部分があります。

 

 平成6年に批准されました児童の権利に関する条約では,児童はあらゆる形態の性的搾取及び性的虐待から保護されることが定められております。(参81。衆101の清水嘉与子参議院議員説明。また,参88の林議員,参82の円より子委員答弁)

 

 ・・・児童の性的な姿態を描写した写真等であって諸外国において児童ポルノとして取り締まられているものすべてが刑法上のわいせつ図画に該当するものではないのが現状であります。(参81。衆101の清水(嘉)参議院議員説明)

 

 児童の権利に関する条約(平成6年条約第2号)の第34条の英文は,次のとおりです。

 

  Article 34

States Parties undertake to protect the child from all forms of sexual exploitation and sexual abuse. For these purposes, States Parties shall in particular take all appropriate national, bilateral and multilateral measures to prevent:

  (a) The inducement or coercion of a child to engage in any unlawful sexual activity;

  (b) The exploitative use of children in prostitution or other unlawful sexual practices;

  (c) The exploitative use of children in pornographic performances and materials.

 

  児童の権利に関する条約34(c)は「わいせつな演技及び物」と訳されていますが,ここの「わいせつ」は,実は“pornographic”でしたね。(また,exploitativeという修飾語がついています。)

「わいせつ図画の規制は,性的な秩序,道徳,風俗の維持をその目的としておりまして,児童の権利の擁護に資することを目的とするものではありませんので,わいせつ図画に当たらない児童ポルノもあると考えられます。そこで処罰の対象となる範囲も異なります。」(参82円委員答弁。また,参86の大森礼子議員(法務委員でない。)答弁,衆1227林(芳)参議院議員答弁)ということですから,児童ポルノの方がわいせつ図画よりも範囲が広いようです。かつ,「処罰対象となる行為をより具体的に表現すべく,淫行,わいせつ概念を使用せず,最大限の努力をいたしました。」とされています(参82円委員答弁)。

 

2 「児童を性欲の対象としてとらえる風潮」の矯正

 しかし,児童ポルノに係る行為を処罰の対象とする理由は,必ずしも専ら児童の権利の擁護ばかりではないようです。悪しき風潮の矯正も意図されているようです。

 

 ・・・性交または性交類似行為に係る児童の姿態等を描写したもの,これが児童ポルノでございますが,その児童ポルノを製造,頒布する行為は,その児童ポルノに描写された児童の心身に長期にわたって有害な影響を与え続けます。また,このような行為が社会に広がるときには,児童を性欲の対象としてとらえる風潮を助長することになるとともに,身体及び精神的に未熟である児童一般の心身の成長にこれもまた重要な影響を与えるものと思われます。(参83円委員答弁。また,衆127-8,衆1211,衆1213,衆1216同議員答弁,参85,衆1227林議員答弁,参86,衆125の大森議員答弁)

 

 ただし,刑罰法規の部分については,1999年5月12日の衆議院法務委員会において,「こういう理解でよろしいでしょうか。つまり,刑罰法規の部分については,まさに内心の問題ではなくて,実際の侵害の行動を処罰するものだ。これは間違いない。ただ,そういったことの結果として,刑罰法規とは違った意味の部分のところで,そうした風潮を抑止するという効果もある。それも目的に入っている。ただ,あくまでも刑罰法規は行動についてのものである,こういう理解でよろしいですね。」との「理解」が枝野幸男委員から提示され,これについて発議者(円参議院議員)が「はい,枝野先生の御指摘のとおりでございます。」と答弁しています(衆112)。

いずれにせよ,18歳未満の者に対する性欲自体を望ましからぬものとして法は評価しているということになるようです。

この点に関しては,衆議院の日野市朗法務委員が,同月14日,いわゆる援助交際の児童買春性に関してですが,次のような感想を述べています。

 

  よくわからないのですが,そうすると,性行為そのもの,これは悪なんですかな。いや,金を払えば悪になる,こういうわけでしょう。ただし,児童全体が,18歳以下であれば,当然それは被害者であるという前提に立っているわけですね,この法律は。(衆1218

 

 これに対して,発議者は,児童の未熟性に対するpaternalismないしはmaternalismというより高次の理念に立っていたようでした。また,男性優位的な発想での性欲の誇示は無用のものとされています。

 

  援助交際についてはさまざまな意見があることは承知しております。ただ,いわゆる援助交際について悪とか善とかの発想に立っているわけではなくて,性的な虐待や性的搾取が子供たちの人権侵害になるということを,その子供たち自身も今の世の中でわかっていない部分もあると思います。

  ・・・本当に日本のカップルは性的な話し合いもできなければ,豊かな性的関係を持てない方々が多くて,その中から,自分よりも劣った,おとなしい,何も自己主張をしない子供たちをお金で買うというようなケースが多々ございました。そうした,今回の児童に対する性的搾取や性的虐待,それを対償をもってするという中には,どうも性差別的な発想や,また人種差別的な発想,そして性欲を誇示することが男らしいというような社会通念等まであるような感じもいたします。

  ・・・子供たちの人権というものを考えるときに,性的な人権,自己主張,そういったものがしっかりできるようになるには,ただ体の肉体的な発達があってもできない子供たちも大変多いところから,今回の法案はそうした大人の側こそ範を示すべきであるということもありまして,18歳未満の子供たちに対してはこういった法案をつくったわけでございまして,いわゆる援助交際もその中に,法に関する限りは入るものと考えております。(衆1218の円参議院議員答弁)

 

3 三号ポルノと発議者・大森参議院議員の答弁

 

(1)三号ポルノの概要

 三号ポルノについては,大森参議院議員が発議者として答弁しています。

 

  3号に当たります児童ポルノ,いわゆる三号ポルノという言い方をしますが,これは「衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するものを視覚により認識することができる方法により描写した」「写真,ビデオテープその他の物」をいいます。

  具体的な例としましては,全裸または半裸の児童に扇情的なポーズをとらせた姿態を描写した写真等が考えられ,これが性欲を興奮させまたは刺激する姿態であることが視覚により認識することができるものであれば,児童の性器等が描写されておらず,またはその部分にぼかしが施されているものであったとしてもこの児童ポルノに当たることになります。(参84

 

(2)児童の実在性要件と合成写真問題

なお,児童ポルノであるためには,そこにおける児童は実在しているものでなければならないという要件が更にあって,これについていろいろ議論がありました。顔と身体とが別の児童の合成写真はどうなるのだ,というようなことが質疑者と大森参議院議員との間で問題とされたものです。

合成写真問題に関する松尾邦弘政府委員(法務省刑事局長)の岡目八目的な認識は次のとおり。

 

 ・・・発議者の方〔大森参議院議員〕は,顔はある有名な少女にいたしましょうか,その写真である,下がその少女のものとは違う写真がつけられている,あるいはこれに,写真に非常に酷似した,写真と見まがうような模写でもいいかと思いますが,そういったものであれば,体の方もやはりその児童の姿態というふうに大部分が見られるならば,発議者の方もこれは〔顔写真が使われた実在の児童に係る児童ポルノに〕当たると言っているわけでございます。

 ですから,顔がありまして,下が全く児童の姿態と見られないような,そういうものがくっついているような場合にはそれは難しいかと思いますが,全体として発議者のおっしゃっているのは,下半身についても児童の姿態というふうに見られるのであれば,それは〔下半身の写真が使われた児童に係る児童ポルノに〕当たり得るというふうに先ほどお答えになったように思いますので,木島〔日出夫〕先生のお尋ねと,結論の部分においては,余り差がないものというふうに私は理解しています。(衆1229

 

(3)「衣服の全部又は一部を着けない」要件

衣服の全部又は一部を着けない」というのは,状態をいうものであって行為をいうものではないとされています(衆115の大森参議院議員答弁)。また,前記の大森参議院議員答弁にいう「全裸または半裸」については,「この用語につきましては,今枝野先生がおっしゃったように,いわゆる風営法の第2条第6項第3号「衣服を脱いだ人の姿態」という言葉について,警察庁の解釈基準で「全裸又は半裸等社会通念上」「人が着用しているべき衣服を脱いだ人の姿態をいう。」とされていることもありまして,これを念頭に置いて答弁したものでございます。」と説明されています(衆116の大森参議院議員答弁)。

 

(4)要件としての「性欲を興奮させ又は刺激するもの」の広汎性

二号及び三号ポルノの「性欲を興奮させ又は刺激するもの」との規定と刑法のわいせつ物頒布罪等におけるわいせつ概念との関係について,大森議員は端的かつ断乎たる答弁をしています。刑法のわいせつ概念における余計な限定は取り払われています。

 

  いわゆる二号ポルノ,三号ポルノには「性欲を興奮させ又は刺激するもの」という文言がございます。この文言と刑法上のわいせつとはどう異なるかという御質問ですが,刑法175条のわいせつ物頒布等の罪に書かれてありますわいせつの意義につきましては,最高裁の判例がございまして,いたずらに性欲を興奮または刺激せしめ,かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し,善良な性的道義観念に反するものをいうとする判断が出ております。

  これに対しまして,この法案におきましては,「性欲を興奮させ又は刺激するもの」とされていることから,児童ポルノについては刑法のわいせつに該当しないものも含み得ることになります。もう少し詳しく言いますと,最高裁の判例,昭和26年5月10日,「いたずらに」それから「普通人の正常な性的羞恥心を害し,善良な性的道義観念に反するもの」,これをこちらの法案では要求しておりません。

  これにつきましては,児童ポルノの性質上,まず「いたずらに」については,これは過度にという意味ですけれども,これを要しないとしております。それから,「普通人の正常な性的羞恥心を害し,善良な性的道義観念に反するもの」であるかどうかについて論ずるまでもなく規制すべきである,こういう趣旨であります。(参85。また,衆129

 

「衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態」であって少しでも性欲を刺激するものでさえあれば,たとい普通人の正常な性的羞恥心を害さず,かつ,善良な性的道義観念に反するものでなくとも,三号ポルノとして取り締まられるのだということのようです。ただし,ここで興奮させられ又は刺激される性欲は誰のものかといえば,「通常,構成要件に規定してありますことは,一般通常人というものを基準としております。」とされてはいるところです(衆116の大森参議院議員答弁)。

 

(5)具体的事例への当てはめ

 

ア 確答回避と捜査機関等への信頼

と一応の説明はされたとはいえ,具体的事例に係る判断に当たっては,発議者の一員たる大森議員もなかなか慎重で,警察及び検察,最終的には裁判所に下駄を預けたような答弁がされています。

 

 まず,一般論としてでありますが,あるものが児童ポルノに当たるか否か,これは個別具体的な事例ごとにこの法案の要件に該当するか否かを総合的に判断することになりますので,こういう一般的な事例について確定的に答えることは困難でありますし,するべきことでもないだろうと思っております。

 今,中村〔敦夫〕委員から御指摘がありました,川辺などで児童が裸で楽しそうに遊んでいる,この場面を聞いたときに,お互い頭の中で想像している場面というのが違うかもしれません。例えば,川辺で2歳か3歳ぐらいの男の子が裸で遊んでいるそばでお母さんが楽しそうに見守っているとか,こういういわゆる和やかな川遊びの場面もあると思いますし,あるいは川辺で,児童といいましても18歳未満を児童といいますから,では17歳の女性だったらどうかとか,こういう問題が起きます。

 それで,どのように判断するかということにつきましてはいわゆる構成要件の問題になるわけですけれども,児童の姿態がどのようなものであるかによって判断されることになります。今おっしゃったのは,少なくとも一号ポルノ以外の事例だと思いますので,その場合には,一般人から見まして「性欲を興奮させ又は刺激する」と言えるかどうかという,この基準によって判断するとしかちょっとお答えのしようがございません。(参89

 

 今,中村委員がおっしゃったことは,確かに芸術的表現の自由との関係の問題だと思います。

 それから,構図等も大事である,こういうお話がございましたけれども,これは2号,3号につきましては,「性欲を興奮させ又は刺激するもの」とありますので,確かに構図とか場面とか周囲の状況とか姿態とか,こういうことを総合的に判断して,この要件に該当するかどうかということを判断することになると思います。

 ・・・やはり犯罪ありと思料して捜査する場合には,その構成要件該当性については私どもは警察とか検察庁が十分吟味して慎重に取り扱うものと思っておりまして,本来ポルノに当たらないものを警察及び検察が当たると判断するということは考えていないところでございますが,そこのところで争いがあった場合,最終的にだれがその犯罪構成要件に当たるかどうかを決めるのかというと,最終的判断は裁判所という言い方になると思います。(参89

 

イ としまえん水着の安全性

それでも,水着については,「いわゆる通常の,普通の,としまえんのプールあたりでみんなが着ているような水着」の姿態が児童ポルノには「一般的には当たらない」かどうかが衆議院法務委員会の枝野委員によってなおも追及されています。わざわざ「としまえんのプールあたり」との限定が付いていますから,刺激的ではない,むしろ野暮ったい水着なのでしょう。さすがにこれに対しては,大森参議院議員も次のように答弁せざるを得ませんでした。

 

としまえんのプールの水着ですか。(枝野委員「などで着ているような」と呼ぶ)〔児童ポルノに〕ならないと思います。(衆115

 

ウ 下着,入浴,3歳児

しかし,下着姿や入浴の場面となると難しくなります。

大森参議院議員は,下着姿については「あくまで個別具体的な事例に基づきまして,この法案の要件に該当するか否か総合的に判断されるべきもの」として確答を避けています(衆115)。

入浴の場面については,「子供がおふろに入っている姿を見て通常,一般人は性欲を興奮させ,刺激するというところまで至らないと思いますので,そういうところから〔児童ポルノに〕当たらない場合が多いのではないかというふうにお答えできると思います。」と答弁しています(衆115)。

とはいえ,その少し後に大森参議院議員は,次のように付け足します。

 

 ただ,低年齢,3歳とかとおっしゃったのでしょうか,その裸であれば絶対該当しないかということは必ずしも言えません。性的に未熟な女の子,女児の陰部等を描写したものと認める写真についても刑法上のわいせつ図画に当たるとした判例がございます。

 そういったことから,常に否定されるわけではないと考えます・・・(衆116

 

一般通常人の性欲といえども,なかなか油断はできないようです。(児童ポルノの場合は,わいせつ物の場合とは異なって,性欲の興奮又は刺激が過度にまで及ぶ必要はありません。)

 

エ 男子児童ポルノ

この一般通常人には当然女性も含まれるので,女性の性欲を興奮させ又は刺激する男子児童の児童ポルノの存在も,大森参議院議員は否定しません。

 

・・・ジャニーズJrのようなアイドルの男の子の姿態についてはどうかということですが,これも,同じ答弁になりますが,その姿態が「性欲を興奮させ又は刺激するもの」であるかどうかというこの判断基準によることになります。ある程度セクシーとかそれを売り物にする場合もあるかもしれませんし,それによってファンの子が多少性的興奮といいますか,することは否定できないかもしれません。(衆115

 

オ 「芸術性」との関係

芸術作品については,「性欲を興奮させ又は刺激するもの」であっても芸術作品であれば児童ポルノには当たらないという考え方は採用されず,飽くまでも児ポ法2条3項の要件(「性欲を興奮させ又は刺激するもの」か否か)に該当するか否か一本で決すべきものという考え方が示されています(衆115,衆1111-12,衆1210,衆1222の大森参議院議員答弁)。

 

4 余話

 

 当ブログの悪癖ですが,話が飛びます。

 

(1)2014年の日弁連公告

 日本弁護士連合会の『自由と正義』2014年3月号に,岡山弁護士会が同弁護士会の○弁護士にした懲戒処分について,次のような公告が出ていました(122頁)。

 

1処分を受けた弁護士

   〔略〕

2 処分の内容 戒 告

3 処分の理由の要旨

   被懲戒者〔○弁護士〕は,Aから破産手続開始申立事件を受任し,2006年7月6日頃,懲戒請求者に対して受任通知を発送した。また,被懲戒者は,Bから破産手続開始申立事件を受任し,同月25日頃,懲戒請求者に対して受任通知を発送した。さらに,被懲戒者は,Cから破産手続開始申立事件を受任し,2007年5月1日頃,懲戒請求者に対して受任通知を発送した。

   被懲戒者は,上記各事件の処理を事務員に担当させ,201211月に上記事務員の任務懈怠が判明するまでその処理状況の確認を怠った。その結果,被懲戒者は,Cの事件につき2013年2月13日まで破産手続開始申立てを行わず,Bの事件につき同月27日まで破産手続開始申立てを行わず,Aの事件についてはAとの連絡が困難となって,同年3月8日に辞任した。

   被懲戒者の上記行為は,弁護士職務基本規程第19条及び第35条に違反し,弁護士法第56条第1項に定める弁護士としての品位を失うべき非行に該当する。

4 処分が効力を生じた年月日

    20131224

 

 2006年7月ころ及び2007年5月ころ受任した破産手続開始申立事件計3件について,○弁護士は債権者に受任通知を出しっぱなしにして後は事務員任せにし,事務員は事務員で横着をして事件を放置し,201211月に発覚(恐らく「懲戒請求者」の債権者が業を煮やしたのでしょうか。)するまで約6年4月ないしは5年6月の長期間,事件処理を怠っていたという気の長い話でした。

 この弁護士の○先生は,いろいろお疲れだったのでしょう。

 なお,弁護士職務基本規程19条及び35条は,次のとおり。

 

   (事務職員等の指導監督)

 第19条 弁護士は,事務職員,司法修習生その他の自らの職務に関与させた者が,その者の業務に関し違法若しくは不当な行為に及び,又はその法律事務所の業務に関して知り得た秘密を漏らし,若しくは利用することのないように指導及び監督をしなければならない。

 

   (事件の処理)

 第35条 弁護士は,事件を受任したときは,速やかに着手し,遅滞なく処理しなければならない。

 

(2)クレサラ問題における弁護士等の受任通知書の効能:取立て停止

ところで,弁護士のする受任通知の効果としては,貸金業法21条1項に次のような規定があります。

 

   (取立て行為の規制)

 第21条 貸金業を営む者又は貸金業を営む者の貸付けの契約に基づく債権の取立てについて貸金業を営む者その他の者から委託を受けた者は,貸付けの契約に基づく債権の取立てをするに当たつて,人を威迫し,又は次に掲げる言動その他の人の私生活若しくは業務の平穏を害するような言動をしてはならない。

     〔第1号から第8号まで略〕

  九 債務者等〔債務者又は保証人〕が,貸付けの契約に基づく債権に係る債務の処理を弁護士若しくは弁護士法人若しくは司法書士若しくは司法書士法人(以下この号において「弁護士等」という。)に委託し,・・・弁護士等・・・から書面によりその旨の通知があつた場合において,正当な理由がないのに,債務者等に対し,電話をかけ,電報を送達し,若しくはファクシミリ装置を用いて送信し,又は訪問する方法により,当該債務を弁済することを要求し,これに対し債務者等から直接要求しないように求められたにもかかわらず,更にこれらの方法で当該債務を弁済することを要求すること。

  十 債務者等に対し,前各号(第6号を除く。)のいずれかに掲げる言動をすることを告げること。

 

同法47条の3第1項3号により,同法21条1項の規定に違反した者は,2年以下の懲役若しくは300万円以下の罰金に処され,又はこれを併科されるものとされています。

債務者が弁護士等に債務処理を委託して,当該弁護士等が貸金業を営む者に受任通知書を送付すると,通知を受けた業者からの取立てが止まるわけです。いわゆるクレサラ問題における弁護士等の効能の大きな一つがここにあります。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所(過払金返還請求問題等も御相談ください。) www.taishi-wakaba.jp

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1 本人訴訟の状況

 


(1)本人訴訟

 我が国では,民事訴訟は当事者(原告又は被告)御本人でできます。必ず弁護士に訴訟代理人になることを依頼して,代わって訴訟活動をしてもらわなければならないわけではありません。(これに対して,ドイツでは我が国と異なり,同国の民事訴訟法781項は,「地方裁判所及び上級地方裁判所においては,当事者は弁護士(Rechtsanwalt)によって代理されなければならない。ある州において裁判所構成法施行法第8条に基づき最上級地方裁判所が設置されている場合,そこにおいては,当事者は,同じく弁護士によって代理されなければならない。連邦通常裁判所においては,当事者は,連邦通常裁判所において許可されている弁護士によって代理されなければならない。」と規定しています。)

 法律問題を抱えて,自分の権利を実現するため原告として相手方を訴える場合に,また,被告として民事訴訟を提起されてしまった場合に,弁護士(簡易裁判所での場合は,又は司法書士(司法書士法316号))に依頼せずに御本人が自分で訴訟活動をされる訴訟を,本人訴訟といいます。

 裁判所のウェッブ・サイトを見ると,いろいろな書式等,本人訴訟をされる方たちに役立つ情報が提供されています。

 


(2)2012年の本人訴訟状況

 それでは,実際のところ,本人訴訟は一体どれくらいあるものなのでしょうか。

 


ア 地方裁判所:原告の4分の3は弁護士を利用,双方本人訴訟は2割

 2012年中の状況を裁判所ウェッブ・サイトの司法統計で見ると,全地方裁判所の第一審通常訴訟既済事件数168230件のうち,当事者双方に弁護士が付いたのは6万3302件で,全体の37.6パーセントにすぎません。原告は弁護士を立てて訴訟を提起したが,被告は弁護士を依頼しなかったケースは6万5078件で38.7パーセントになります。この両者は原告が弁護士を立てたケースですから,すなわち,地方裁判所に訴えを提起する原告の方の4人に3人(76.3パーセント)は,弁護士を利用されているわけです。残りの23.6パーセント(3万9850件)は,弁護士に依頼せずに原告御本人が訴訟を提起されたケースになりますが,これに対して被告が弁護士を立てたのが7382件で全体の4.4パーセント,原告被告双方とも御本人であるケースは3万2468件で全体の19.3パーセントになります。

 


イ 簡易裁判所

 訴訟の目的の価額が140万円を超えない請求に係る第一審裁判所は簡易裁判所になります(裁判所法3311号。また,同法241項)。簡易裁判所では,「簡素な手続により迅速に紛争を解決するもの」(民事訴訟法270条)とされています。同じく2012年中の簡易裁判所における本人訴訟状況はどうなっていたのでしょうか。

訴訟の目的の価額が60万円以下の金銭の支払請求を目的とする訴えに係る少額訴訟(民事訴訟法3681項。原則として1回の審理で終了します(同法3701項)。)と,それ以外の通常訴訟に分けて統計が出ています。

 


(ア)通常訴訟:3分の2が双方本人訴訟

 まず,通常訴訟から。全簡易裁判所の第一審通常訴訟既済事件数424368件中,当事者双方に弁護士又は司法書士が付いたのは1万7027件で,何と4.0パーセントにすぎません。換言すると,簡易裁判所の通常訴訟では,25件中24件は,当事者のいずれかが御本人ということになります。原告にのみ弁護士又は司法書士が付いているケースが101024件(全体の23.8パーセント)ですから,簡易裁判所での通常訴訟での原告で,弁護士又は司法書士を利用された方は10人中3人にも達していないわけです(118051件,全体の27.8パーセント)。被告のみに弁護士又は司法書士が付いたケースは1万9622件(全体の4.6パーセント)。原被告双方とも御本人であるケースは286695件で,何と全体の3分の2を超えます(67.6パーセント。ただし,簡易裁判所では,裁判所の許可を得て弁護士又は司法書士でない者を訴訟代理人とすることができます(民事訴訟法541項)。)。

 


(イ)少額訴訟:弁護士利用は例外的

 少額訴訟既済事件数1万2754件中,原被告双方に弁護士又は司法書士が付いたのは47件で,実にわずか0.4パーセントです。原被告双方とも御本人ケースが1万1324件で88.8パーセントとなっています。原告のみに弁護士又は司法書士が付いたのが1009件(7.9パーセント),被告のみに弁護士又は司法書士が付いたケースが374件(2.9パーセント)となっています。少額訴訟では,弁護士又は司法書士の訴訟代理人を立てるのがむしろ例外となっています。

 


2 司法研修所編『本人訴訟に関する実証的研究』

 以上は,統計数字に表れた本人訴訟の量的状況についての御紹介です。

 更に本人訴訟の内容に踏み込んだ質的分析をも行ったものとしては,法曹会から2013年5月に出た司法研修所編『本人訴訟に関する実証的研究』(司法研究報告書第64輯第3号)があります。地方裁判所及び高等裁判所の裁判官の目から見た本人訴訟について興味深い調査結果を報告しているものです。以下,当該報告書の内容について若干御紹介したいと思います。

 


(1)分析対象

 


ア 地方裁判所での「実質的紛争のある事件」:2010年度は約2割

 なお,司法研修所の当該報告書で分析の対象となった地方裁判所第一審事件は,2010年度に既済となった事件のうち,実質的紛争のある事件です。すなわち,「実質的紛争がない」又は「明らかに原告又は被告の主張に理由がない」といった事案をふるい落とすため,口頭弁論期日(判決言渡期日を除く。)を3回以上経,又は1回でも弁論準備手続に付された事案のみが取り上げられています(さらには,過払金返還請求事件が主なものである「その他の金銭を目的とする訴え」も除外されています。)(報告書2頁)。

 2010年に既済となった民事第一審通常訴訟(全地方裁判所)において単独事件として審理された事件は227431件のうち,上記のふるいがけに残った「実質的紛争のある事件」は4万3549件だったそうです(報告書2頁)。

こうしてみると,地方裁判所に訴えが提起される訴訟のうち,裁判所から見て「実質的に紛争がある」と思われるのは約2割で,約8割という大部分の事件は,「実質的な紛争がない」若しくは「明らかに原告又は被告の主張に理由がない」といった,何もわざわざ訴訟沙汰にしなくとも・・・とあるいは思わせるものか,又は過払金返還請求事件といった特殊なもの(2010年当時は,裁判所によっては新規事件の4割ないしは5割程度は過払金返還請求事件だったそうです(報告書3頁)。)であったようです。

 また,『本人訴訟に関する実証的研究』のために,司法研修所は,2011年1月20日から同月31日までの間に終了した事件のうち上記のような実質的紛争のある事件について,全国の地方裁判所の民事単独訴訟事件を担当する裁判官の全員にアンケート調査(以下「裁判官アンケート」)を行っており,原告は本人訴訟であるが被告には弁護士が付いた事案(原告本人型)83件,原告は弁護士を立てたが被告は本人訴訟であった事案(被告本人型)169件及び原被告双方とも弁護士を立てず双方とも本人訴訟であった事案(双方本人型)33件の合計285件について回答が寄せられています(報告書23頁)。

 


イ 地裁「実質的紛争のある事件」中の本人訴訟比率:約4分の1

2010年における地方裁判所の上記「実質的に紛争がある」事件4万3549件のうち,原被告双方に弁護士の訴訟代理人が付いていたのは3万2448件とされています(74.5パーセント)。引き算をすると,「実質的に紛争がある」事件で当事者の少なくともどちらかに弁護士がついていない本人訴訟は,4分の1ほどということになります(原被告双方とも弁護士がついていない双方本人型は1559件で3.6パーセント,被告には弁護士がついて防戦しているが原告は本人のみである原告本人型が2455件で5.6パーセント,弁護士を立てた原告に訴えられた被告が弁護士を立てずに自ら応戦した被告本人型が7087件で16.3パーセント)(以上,報告書5頁)。しかし,これは地方裁判所の数字なので,簡易裁判所では,「実質的に紛争がある」事件についても,当然地方裁判所よりも本人訴訟の比率が高いことでしょう。

 


(2)原告と弁護士

当たり前の話ですが,民事訴訟は,原告が訴えを提起するところから始まります。(民事訴訟法133条1項は「訴えの提起は,訴状を裁判所に提出してしなければならない。」と規定しています。)

原告に弁護士がつく場合とつかない場合とが,まず分かれます。

 


ア 弁護士がつく場合

原告に弁護士がつく場合は,弁護士としては,その事件は原告のために何とかものになると考えているわけでしょう。弁護士職務基本規程29条3項は,「弁護士は,依頼者の期待する結果が得られる見込みがないにもかかわらず,その見込みがあるように装って事件を受任してはならない。」と規定しています。

 


イ 弁護士がつかない場合

これに対して,原告に弁護士がつかない場合の理由はいろいろです。

この中で,弁護士側からの難色については,実質的紛争事件に関する裁判官アンケートによれば,原告に弁護士がついていない事件116件(報告書3頁。83件+33件)中,30件(25.9パーセント)については「弁護士側で受任に難色を示すような事件であったから」原告に弁護士がつかなかったのではないかとされています(報告書11頁,資料編123頁)。「原告側本人の事案では,法的保護に値しない感情的な不満を損害賠償として請求するなどいわゆる負け筋の事件が多い」とも指摘されています(報告書12頁)。弁護士側で受任に難色を示すような事件でないと思われるのに原告が弁護士をつけなかったのは116件中43件(37.1パーセント)とされています(資料編123頁)。(別に「分からない」との回答が43件(37.1パーセント)ありました(資料編123頁)。)

なお,116件中原告が弁護士に相談していた件数(相談しただろうと推測するものを含む。)は,17件(14.7パーセント)とされています(報告書12頁,資料編99頁)。

 


(3)弁護士の有無と原告の勝訴率

弁護士をつけることによって,訴訟の勝敗率はどう変化するのでしょうか。原告の勝訴率を見てみましょう。

  

ア 原告に弁護士がついている場合

原告に弁護士がついている場合は,前記のとおり,当該弁護士において,原告のためにいい結果を出せるとの見通しを持っているのが通常でしょう。

 


(ア)被告に弁護士がついた場合(双方弁護士型):原告勝率67.3パーセント

地方裁判所の「実質的紛争のある事件」のうち,原被告両当事者に弁護士がついている場合をまず見てみましょう。訴訟技術の差は弁護士間では弁護士・非弁護士間ほどはないはずですから,本人訴訟において懸念されるほど,訴訟技術の巧拙が勝敗の差に現れたということはないはずです。

双方弁護士型事案における原告勝訴(全部又は一部認容)の比率は,1万2396件中の8337件で,67.3パーセントとなっています(報告書910頁,資料編35頁)。(なお,原被告双方に弁護士がついた事案3万2448件中1万7561件(54.1パーセント)においては,判決ではなく,和解で終結していることに注意してください(報告書9頁,資料編35頁)。)

  

(イ)被告に弁護士がつかない場合(被告本人型):原告勝率91.2パーセント

ところが,弁護士が原告の訴訟代理人として訴訟を追行しているのに対して被告が弁護士を訴訟代理人に付けない被告本人型の場合,原告の勝訴率は,3963件中の3616件,91.2パーセントに跳ね上がります(報告書910頁,資料編35頁)。被告に弁護士が付いているときよりも原告の勝率が23.9ポイント上がっています。この原告側勝訴率の増加の理由を,すべて被告側の弁護士の不在に帰してよいものか。無論,被告が負けを最初から見越していたからこそそもそも弁護士を依頼しなかったという場合もあるでしょうから,被告の勝率低下のすべてを弁護士の不在に帰するわけにはいきません。しかしながら,報告書の分析対象事案は「実質的紛争」がある場合であって,「被告の主張に理由がない」ことが一見極めて明白な場合は除かれているはずですから,やはり,被告の負け筋事件ばかりであったわけではないでしょう。少なくとも,「負け筋の本人には弁護士が選任されていない可能性も考えられるが,本人訴訟の本人と弁護士との力量の差が勝訴率(ないし敗訴の回避率)に影響を与えている可能性がある。」とはいい得るわけです(報告書9頁)。

裁判官アンケートの結果においては,被告のみ本人訴訟型の場合,被告に弁護士がついていれば訴訟の結論において被告に有利な影響があったと考えられる比率が,原告勝訴事案(全部又は一部認容)について27.1パーセントとなっています(報告書58頁)。91.2パーセントの原告勝訴ケースのうち27.1パーセントが被告有利になるとすると,勝率は66.5パーセント(=0.912×(10.271))となって,原被告双方に弁護士がついていた場合の原告の勝率(67.3パーセント)とほぼ同じになりますから,一応もっともらしいですね。ただし,被告のみ弁護士がつかない事案に係る裁判官アンケートにおける原告勝訴事案107件中,弁護士がついていれば被告「有利」となったであろうとされた29件のうち8件ほどは,和解によって被告敗訴が回避されたであろうケースのようですから(報告書59頁,資料編142頁),判決で有利になる比率は21(=298)/99(=1078)の21.2パーセントでしょうか。それでも原告勝率は71.9パーセント(=0.912×(10.212))になるでしょうから,依然としてもっともらしいですね。

 

イ 原告に弁護士がついていない場合

原告に弁護士がついていなくとも,その事件がすべて負け筋であるとは限りません。

 


(ア) 被告に弁護士がついた場合(原告本人型):原告勝率32.4パーセント

被告に弁護士がついても,本人訴訟の原告が勝訴する確率はなお,1421件中の460件,32.4パーセントあります(報告書910頁,資料編35頁)。弁護士側で受任に難色を示すような事件でないと思われるのに(したがって,少なくとも負け筋ではないのに(又は勝ち筋だからこそ))原告が弁護士をつけなかったのは116件中43件(37.1パーセント)あったという前記裁判官アンケートの数字にほぼ符合するように思われます。勝つべき事件は,弁護士の有無にかかわらず勝つであろう,ということでしょう。

なお,裁判官アンケートによれば,原告は本人訴訟・被告は弁護士付きの原告本人型類型について,原告勝訴事案のうち更にその23.8パーセントにおいて,原告に弁護士がついていればその勝ちがより大きくなっただろうと担当裁判官によって考えられているようです(報告書5859頁)。

 


(イ)被告に弁護士がつかない場合(双方本人型):原告勝率67.0パーセント

原告の本人訴訟に対し,被告も弁護士を頼まず本人訴訟で応じた双方本人型の場合の原告勝訴率は,統計データの調査では,864件中の579件,67.0パーセントとなっています(報告書910頁,資料編35頁)。被告に弁護士がついた場合よりも,原告の勝率が34.6ポイント増加しています。

ただし,裁判官アンケートでは,原被告双方本人型訴訟での原告勝訴率は,1211敗の52.2パーセントとなっています(報告書55頁,資料編94頁)

原告に弁護士がついていない事件116件中,30件(25.9パーセント)については「弁護士側で受任に難色を示すような事件であった」とする前記裁判官アンケートの結果からすると,さすがに原告の本人訴訟の場合における勝率が4分の3を超えることはないのでしょうから,非弁護士同士の戦いは,当該勝率と,被告に弁護士がついたときの原告本人訴訟の勝率32.4パーセントとの間の綱引きになるのでしょう。(なお,原告に弁護士が付いていない事件中,「弁護士難色事件」を原告のどうしても勝てない事件と仮定した上で,「弁護士難色事件」を除いた事件の原告勝訴率を,原被告双方弁護士事件における原告の勝訴率67.3パーセントにおけば,原被告双方本人訴訟(双方とも弁護士がついていない)事件での原告勝訴率は5割程度ということになりそうではあります(0.499=(10.259)×0.673)。これは,裁判官アンケートでの原告勝訴率52.2パーセントに符合しますね。)統計データ調査上の双方本人型本人訴訟での原告勝率67.0パーセントという結果は,原告の気迫勝ちということなのでしょうか。裁判官から見た本人訴訟の発生原因において,自分自身で訴訟を追行しようという意欲が強いからと観察される比率(原告本人訴訟中62.9パーセント,被告本人訴訟中40.6パーセント)及び訴訟追行能力に自信があって弁護士を必要としないと考えているからと観察される比率(原告本人訴訟中55.2パーセント,被告本人訴訟中27.7パーセント)が,いずれも原告について高くなっています(報告書11頁)。ただし,「裁判所からみて,本人の訴訟活動は,原告側と被告側とで大きな差はないか,むしろ原告側本人に問題がある割合が高いと映っている」そうです(報告書11頁)。

また,裁判所から見ると,訴訟経験があったからといって,残念ながら,本人訴訟における本人の訴訟活動の質は,向上しないもののようです(報告書2324頁)。

 


(4)本人訴訟の訴訟技術上の問題点

裁判官アンケートによると,仮に本人が弁護士を選任したとすれば訴訟の帰趨に有利な影響があった可能性があるとされた事案について,有利になる原因として挙げられているのは,①適切な主張(本人訴訟類型全体で68.6パーセント),②適切な立証(同66.7パーセント)及び被告のみ本人型事案での③和解の可能性(同15.7パーセント弱)となっています(報告書5859頁)。

 


ア 「適切な主張」

「適切な主張」が問題になるのは,訴訟においては,主張を法律的に適切に構成することが必要だからです(「法律的に」構成するのであって,日本語として意味が通るように主張するだけではまだ足りません(達意の日本語を書くことはそれだけでも難しいことですが。)。)。つまり,法的権利が発生したものと裁判で認めてもらうためには,「そう合意したから」「そう約束したから」との事実だけを主張するのではだめで(いわんや「一貫した思考の結果,そうであるべきものとわたくしがそう思うから」と学者大先生のようにその先の議論を言い張るだけではだめです。),「これこれの権利を発生させるこれこれの法律の仕組みがあって,その仕組みが発動するためのこれこれの要件があって,それらの要件に該当するこれこれの事実が存在するから,要件が充足されて法律の仕組みが発動して,私の主張するこれこれの権利が発生したのだ」と主張しなければならないのです(「法規説」)。「現在の民事裁判実務では,法規説が採用されている。民法が成文法として制定されている以上,法律行為について,「法律の規定なしに法律効果が生ずるという自然法原理のようなものは認めることができない」(我妻〔『民法講義Ⅰ』〕242頁)と解されるからである。契約の拘束力の思想的な根拠が合意にあり,契約の成立には合意が必要であるとしても,権利の発生根拠・契約の拘束力の根拠は法律にあると考えるべきである。」というわけです(村野渉ほか『要件事実論30講〔第2版〕』94頁)。「法規説では,・・・原告は,まず自己が求める権利(請求権)の法的性質を決定し,その権利の発生要件である要件事実を過不足なく主張立証しなければならない。したがって,法律実務家としては,民法等の法律の規定について理解を深めるとともに,契約の内容を緻密かつ合理的に分析するよう努めることが大切である。」という(村野ほか94頁),ちょっと難しいことになっています。

なお,この点に関しては,昨年(2013年)亡くなった法哲学者の碧海純一教授が,裁判官の役割の伝統的な19世紀大陸法学的なとらえ方に係る比喩として「裁判官スロット・マシン説」という説明をしています。「つまり,裁判官というものは,いわば穴の三つあるスロット・マシンであるべきで,上の穴から法律を,中の穴から事件を投げこんでやれば,自動的に下の穴から判決が出てくるようなものでなければならない」というものです(碧海純一『法と社会』(中公新書・522006年)159頁)。上の穴から入れる法律を選び間違えると,本来有利な判決をもらえる事件を中の穴から入れても,下の穴から期待した判決は出てきませんし,上の穴から入れる法律は正しくても,中の穴から入れる事件の入れ方を間違えると,期待した判決はやっぱり出てきません。また,上の穴から入れる法律と中の穴から入れる事件との関係で,下の穴から出てくる判決はあらかじめ決まっているわけですから,当該スロット・マシンの性能上出てこない判決を求めてスロット・マシンの前にすわり続けるのは,残念ながら無駄ということになります。ちょっと一人で操作するのは難しいスロット・マシンであるわけです。

「実務での経験からすると,原告側に弁護士が選任されている場合は,訴状に欠席判決ができる程度の記載がないことはそれほど多くな」いのに反して,裁判官アンケートによると,原告本人が弁護士に依頼せずに自ら作成した訴状の場合,約半数の48.3パーセントの訴状に欠席判決ができる程度の記載がなかった,とされています(報告書1314頁)。本人作成の訴状の2通に1通は,せっかく被告が何もしないでいてくれても,それだけでは勝てない訴状だというわけです。(なお,民事訴訟規則531項は,訴状には「請求を理由づける事実を具体的に記載」すべきものとしています。)

 


イ 「適切な立証」

「適切な立証」とは,訴訟における主張を裏付ける証拠を提出できたか,という証拠収集・提出(説得)能力の問題です。この方面でも経験が物を言いますし,また,本人のみでは見落としてしまうことも,第三者の目からすると気付くことができるということもあるわけです。自分が紛争の当事者になってしまうと,なかなか冷静にはなれませんし,またかえって気が重くなり,手がつけられないということもあるでしょう。

 


ウ 和解

「和解」については,裁判官アンケート分析の結果として,「本人が敗訴判決を受けている事件のうち,弁護士が選任されていても当然に和解を勧試しているとはいえない事案では,敗訴判決を受けた本人が弁護士を選任していれば本人に有利な影響があったとする割合は7.8%にすぎないのに対し,弁護士が選任されていれば当然に和解を勧試している事案では,敗訴判決を受けた本人が弁護士を選任していれば本人に有利な影響があったとする割合は28.7%に上っており,顕著な差を示している。これは,判決となれば本人が敗訴してしまうものの,和解に持ち込める可能性があるのに,本人が和解に消極的なためにそのまま判決に至ってしまったケースが相当数あることを示しているといえようか。」と述べられています(報告書64頁)。「裁判所は,訴訟がいかなる程度にあるかを問わず,和解を試み,又は受命裁判官若しくは受託裁判官に和解を試みさせることができる。」とされていますが(民事訴訟法89条),訴訟が和解で終局する比率は,「実質的紛争あり」事案に係る統計データでは,原被告とも弁護士が付いている場合には54.1パーセントであるのに対して,本人訴訟類型全体では35.4パーセントにとどまっています(報告書9頁,資料編35頁)。このギャップの説明としては,「本人訴訟における和解率が低い理由として,和解に不適切な事案が多いことのほか,和解が相当な事件においても,本人に和解や譲歩の意向がなく,また,本人の理解力やコミュニケーション能力に問題があることが挙げられる。そして,本人に和解や譲歩の意向がないことの原因として,弁護士が選任されていないために,本人が事件の見通しを的確にすることができないことが考えられる。そうすると,仮にこれらの和解が相当な事件で弁護士が選任されれば,弁護士が事件の見通しを示すなどして本人を説得し,また,本人の理解力等を補うことになるので,和解協議が開かれ,ひいては和解が成立するケースもでてくると思われる。」と述べられています(報告書64頁)。裁判官アンケートによると,和解協議をしなかったケースについてその理由として挙げられたもののうち,和解に不適切な事案であるとするものが本人訴訟全類型で和解協議をしなかったケースの45.7パーセント,原告に弁護士の付いていない原告本人型で特に65.4パーセントになっており,本人の理解力等に問題がありとするものが本人訴訟全類型で和解協議をしなかったケースの23.8パーセント,原被告とも本人訴訟である双方本人型では38.5パーセントになっていました(報告書63頁)。

弁護士は,判決に向けて徹底的に戦うことばかりではなく,裁判所からは,望ましい和解に向けた仲介者としての役割も期待されているということのようです。

 


3 まとめ

 以上,司法統計及び『本人訴訟に関する実証的研究』について若干御紹介申し上げました。本人訴訟の全体像についてのイメージを,筆者と共につかんでいただければ幸いです。ありがたいことに,弁護士が付くことにより,原告側・被告側双方において勝率が上昇していることが統計数字に表れていました。

 とはいえ,現実の事件の当事者にとって問題であるのは,現在当面する個別具体的な特定の事件であって,多くの事件から抽象された統計的平均値ではありません。そのような意味では,多くの事件の「全体像」を見るだけではなお不十分で,当面する個々の事件の性格を具体的に知ることが必要になります。

 紛争が生じた場合,その解決のために弁護士に依頼するか,飽くまで御本人で対応されるかは,無論,弁護士に頼むことによってかかる費用とそのことによって得られる利益とを天秤にかけた費用対効果で決まるということになるでしょう。しかし,その具体的紛争における弁護士選任に係る費用対効果を具体的に衡量するためには,やはり,当該紛争の具体的性格を知ることが必要です。そのためにもまず,弁護士に相談されることをお勧めします。

 また,病気と同じで,法的紛争も,その芽のうちに適切な対処をすることが,結局は将来における大きな損害ないしは不利益を未然に防ぐことになります。

 弁護士に法律相談をしたからといって,直ちにその弁護士に事件解決を依頼しなければならないことにはなりません。

 


 なお,本人訴訟をされれば,当然弁護士費用の支出は節約できます。しかし,現実のお金として支出されないので一見存在しないように思われがちですが,御本人の時間,労力等に係る機会費用・機会損失(別のことに従事することによって得べかりし利益の喪失)が発生します。

 ちなみに,最高裁判所事務総局が2013年7月12日に公表した「裁判の迅速化に係る検証に関する報告書(第5回)」(「概要」版でも83葉あります。)によると,2012年の地方裁判所における民事第一審訴訟事件の平均審理期間は7.8月,平均期日回数は4.2回だったそうです(過払金返還請求事件等を除くと,それぞれ8.9月及び4.9回)。

 


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(雨飾山)

 弁護士 齊藤雅俊
 大志わかば法律事務所
 151-0053 東京都渋谷区代々木一丁目57番2号ドルミ代々木1203
 電話:03-6868-3194 (まずは御遠慮なく,お気軽にお電話ください。)
 電子メール: saitoh@taishi-wakaba.jp (電子メールでのお問い合わせにも対応いたします。)

 

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1 はじめに(民事訴訟のイメージをどうつかむか)


 「貸したお金が返ってこない。困った。」


 というときには,最終的には民事訴訟を通じてお金を取り戻すということになります。

 しかし,民事訴訟のイメージは,一般にはやや分かりにくいようです。(大学新入生向けの「法学入門」の講義を担当された民事訴訟法学の大家であった三ケ月章教授も,「民事訴訟法,略して民訴法のミンソとは,眠たくなる眠素の意味だよ」と韜晦されていたところです。)


 「石松が,あっしから5両借りたのに,そんな金を借りた覚えはねぇってシラを切りやがって返さないんでさぁ。石松は江戸で学問も少しはしたと言うから,真っ当な人間になったと思って証文も取らずに貸してやったのに(そういえば,あの時立会人になってくれた遊び人の金さん,あれから姿を消しちゃったけど,どこへ行ってしまったのだろう。),あっしは悔しくて,悔しくて。お奉行さま,何とかしてくだせぇ。」


 と言って訴え出ると,お奉行さまが横着者の石松をお白洲に呼び付けて,


 「石松,その方,ここにおる政五郎から5両を借りたまま返さないであろう。神妙に耳をそろえて早々に5両を返せ。さもないと,お仕置きが待っておるぞよ。」


 と原告のために恐喝してくれ,かつ,


 「とんでもございません,お奉行さま。政五郎はうそをついているのでございます。そもそも,わたくしが政五郎から5両借りたとの証拠が無いではございませんか。5両もの大金,証文もなしに貸すなんてことがあるわけがないではございませんか。」

 

 と横着者が飽くまでもシラを切り通そうとすると,


 「やいやいやいやい。てやんでぇ。この桜吹雪がすべてお見通しでぇ。」

 「あっ,お前はあの時の立会人の,遊び人の金さん・・・。」


 と,お奉行自ら証人にまでなってくれ,


 「石松,その方,家財は没収,打ち首,獄門。」


 と胸のすくような刑罰まで科してくれる・・・というのは時代劇でのお話です。

 

 民事訴訟は,刑事訴訟とは違って,被告に刑を科するためのものではありません。(民事訴訟では「被告」は飽くまで原告から訴えられた立場の被告にすぎず,犯罪行為をした者として検察官から公訴を提起された刑事訴訟での「被告」とは異なります。ここでの「人」の有る無しは,法律の世界ではよくある,一字違うと大違いの一例です。

 また,裁判官が自分で証人になることはできません。証人となると,「除斥」されて,当該事件について裁判官としての職務の執行ができなくなります(民事訴訟法2314号。刑事訴訟でも同じ(刑事訴訟法204号)。)。時代劇の例えでいうと,桜吹雪の北町奉行は証人になってしまったのでお裁きができないから,南町奉行がする,というような感じになりますでしょうか。遊び人の金さんが,評判の悪い南町奉行・鳥居耀蔵のお白洲に,証人としてのこのこ出頭するというのも妙ですね。

 裁判所が原告又は被告のどちらかをえこひいきするということもありません。裁判所は,原告及び被告を公正に取り扱います。(この点については,ただし,明治5年(1872年)810日の司法省第6号が「聴訟之儀ハ人民ノ権利ヲ伸シムル為メニ其曲直ヲ断スルノ設ニ候得者候らえば懇説篤諭シテ能ク其情ヲ尽サシムヘキノ所右事務ヲ断獄ト混同シ訴訟原被告人ヘ笞杖ヲ加ヘ候向モ候ふ向きも有之哉これあるやニ相聞ヘ甚無謂いはれなき次第ニ付自今右様之儀無之様これなきやう注意可致事致すべきこと」と注意していますから,そのころまでは,民事訴訟において原被告に対して裁判所が拷問をすることもあったようです。)


 ということで,時代劇のお白洲と現在の裁判所は違うのだ,ということは分かりますが,これではまだ,民事訴訟のイメージをどうつかむかという,出発点の問題提起から一歩も進んでいません。さて,どうしたものか。

 何事も初めが肝腎ということで,民事訴訟における訴えの提起のために原告から最初に裁判所に提出される「訴状」という書面に着目して,民事訴訟のイメージの説明を試みてみましょう。(民事訴訟法1331項は「訴えの提起は,訴状を裁判所に提出してしなければならない。」と規定しています。ただし,例外として同法271条などがあります。)



2 民事訴訟規則53条1項と訴状の記載事項


 最高裁判所の定めた民事訴訟規則(これは,国会の制定した法律である民事訴訟法とはまた別のもので,民事訴訟法を補充しているものです(同法3条)。「法律」ではありませんが,憲法77条に規定があり,関係者が従うべきことは同じです。)の第531項は,訴状の記載事項について次のように規定しています。



民事訴訟規則53条1項「訴状には,請求の趣旨及び請求の原因(請求を特定するのに必要な事実をいう。)を記載するほか,請求を理由づける事実を具体的に記載し,かつ,立証を要する事由ごとに,当該事実に関連する事実で重要なもの及び証拠を記載しなければならない。」


 わずか1項,これだけの分量の規定なのですが,見慣れない概念というか言葉が,既にぎゅうぎゅう詰まっていますね。最初の「訴状」は,訴えを提起するために原告が裁判所に提出する書面であるということを前に説明したからよいとして,①「請求」,②「請求の趣旨」,③「請求を特定するのに必要な事実」である「請求の原因」,④「請求を理由づける事実」,⑤「立証を要する事由」並びに⑥「当該事実に関連する事実」及び「証拠」について,それぞれいわく因縁があるところです。

 以下順を追って説明します。


(1)「請求」

 「請求」は日常用語なのですが,民事訴訟法令でいう「請求」は,「一定の権利又は法律関係の存否の主張」ということです。(ここでいう「一定の権利又は法律関係」を「訴訟物」といっています。)

 「権利」又は「法律関係」という堅いものに係る主張なので,法律的に根拠のある主張でなければなりません。

 お江戸で学問を少々聞きかじってうぬぼれた石松が,そんな生学問など歯牙にもかけない政五郎に腹を立て,政五郎に尊敬心を持たせようと,同人を被告として裁判所に訴えを提起しようと思って弁護士に相談しても,「はて,政五郎さんの内心の真心において,あなたに対する尊敬心を政五郎さんに持ってもらう・・・政五郎さんの真心に関するあなたの不満に基づくその欲求が,あなたの法的権利といえますかねぇ。難しいですねぇ。」とひたすら困惑されるでしょう。(あるいは,「まあ,石松さん,まずはお寿司でも食べて機嫌を直してくださいよ。けれど,私はおごりませんよ。」とでも当該弁護士は考えているのでしょうが。)

 この点,貸したお金を返せ,という場合は,原告の請求は,「消費貸借契約に基づく貸金返還請求権」という堂々たる権利の存在の主張であるということになります。

 消費貸借契約とはまたいかめしい名前ですが,民法がそういう名前を付けているところです。民法第3編第2章は「契約」の章ですが,その第5節が「消費貸借」の節で,同節冒頭の第587条が「消費貸借は,当事者の一方が種類,品質及び数量の同じ物をもって返還することを約して相手方から金銭その他の物を受け取ることによって,その効力を生ずる。」と規定しているところです。


(2)「請求の趣旨」

 「請求の趣旨」とは,「一定の権利又は法律関係の存否の主張」(請求)をしたことによる結論のことです。訴状においては,裁判所から出してもらいたい判決の主文と同じ文言で書かれます。裁判所は,訴状のこの記載で,原告がどういう裁判を求めているかが分かるわけです。

 例えば,50万円貸したからせめて元本の50万円は返してくれ,という場合,「消費貸借契約に基づく貸金返還請求権」という権利の存在を主張した結論としての「請求の趣旨」は,「被告は,原告に対し,50万円を支払え」との裁判を求める,と書かれることになります。

 なお,元本50万円の返還を求めて請求の趣旨に50万円と書いた以上,「政五郎は50万円と言っているけれども,石松の支払が遅れているんだから,政五郎のために年5パーセントの割合の遅延損害金も石松に払わせてやろう。」と,裁判所が気を利かせて50万円を超える金額の支払を命ずる判決を出してくれることはありません。民事訴訟法246条は,「裁判所は,当事者が申し立てていない事項について,判決をすることができない。」と規定しています。


(3)「請求を特定するのに必要な事実」である「請求の原因」

 「請求の原因」は,つづめて「請求原因」といったり,ここでの原因は「事実」であることから,その旨はっきりさせて「請求原因事実」といったりします。

 「請求を特定」しなければならないのは,確かに,そうです。例えば,原告が被告に対する消費貸借契約に基づく貸金返還請求権の存在を主張して「被告は,原告に対し,50万円を支払え」との裁判を求める場合,原告が被告に対して実は何度も50万円を貸していたときには,どの貸金50万円に係る貸金返還請求権の存在が主張されているのかが分からなければ困ります。このようなときには,消費貸借契約が締結された日付によってどの貸金返還請求権の存在が主張されているのかを特定することになりましょうか。(無論,請求の特定のためにどこまで「請求の原因」を具体的に書くかは,他との誤認混同の恐れの程度によって相対的に決まります。一日中に何度も貸付けがあったのならば,締結の「日」よりも細かい記載が必要になったりするでしょう。)


(4)「請求を理由づける事実」

 ここでの「請求を理由づける事実」の事実とは,「主要事実」のことです。

 しかし,「請求を理由づける事実」の事実とは「主要事実」であると,言葉を言い換えただけでは意味が無いですね。

 それでは主要事実とは何かといえば,「一定の法律効果(権利の発生,障害,消滅,阻止)を発生させる要件に該当する具体的事実」のことです。「要件事実」ともいいます。

 図式化すると,


 主要事実a   

 主要事実b

   

  主要事実x    

     

  法律効果(権利の発生など)


 ということになります。

 要するに,風が吹けば桶屋がもうかるではありませんが,要件(主要事実(要件事実))が充足されれば効果(法律効果)が出てくるというわけです。法律効果とそのための要件事実とを結び付けているのが法律の規定であって,法律学生はそこのところを勉強して,専門家になることを目指しているということになります。

 法律効果として,貸金返還請求権に基づく貸金返還請求が認められるためには,次のaからcまでの主要事実が必要です。

 

 主要事実a:金銭の返還及び弁済期の合意 

 主要事実b:金銭の交付

 主要事実c:弁済期の到来

      

 法律効果:貸金返還請求権に基づく貸金返還請求


 以上まででは,まだ抽象的な枠組みです。訴状には具体的な事実(そもそも事実は具体的なものですね。)を書いていかなければなりません。

 上記主要事実a及びbについては,例えば,次のように書きます。


「原告は,被告に対し,平成○年○月○日,弁済期を平成×年×月×日として,○万円を貸し付けた。」


 「貸し付けた」とは意外に平易な表現ですが,ここでは「貸し付けた」によって,金銭の返還合意及び金銭の交付が共に表現されています。


 政五郎が石松に貸した50万円を民事訴訟を通じて取り戻したいと思って弁護士に相談すると,弁護士としては,訴状を書くためには,いつ石松に50万円を渡したのか(主要事実b関係),いつになったら返すという約束だったのか(弁済期の合意。主要事実a関係)を当該事実の当事者たる政五郎に問いただすことになります。「えっ,先生,何でそんな細かいことを訊くんですか。」と言われるかもしれませんが,求める法律効果を得るために必要な主要事実に係る前記のような事情があるところです。具体的な事実を訴状に書かなければなりません。民事訴訟の場合,裁判所は,当事者の主張しない主要事実をしん酌してくれません。また,弁護士は「真実を尊重」するところであります(弁護士職務基本規程5条)。


(5)「立証を要する事由」

 「事由」というのもまた見慣れない言葉です。事由とは,「理由又は原因となる事実」のことです。抽象的な理由ではなく,その理由となる具体的な事実を指すというわけです。

 民事訴訟規則53条1項の文脈では,同項の「事由」は,「請求を理由づける事実」(前記の請求を理由づける主要事実(要件事実))のことになります。

 さて,「立証を要する事由」と書かれていますが,これは,反対方向から見ると,「立証を要さない主要事実(要件事実)」があるということを前提にしています。

 民事訴訟法179条は「裁判所において当事者が自白した事実及び顕著な事実は,証明することを要しない。」と規定しています。

 貸金返還請求に係る前記の主要事実のうち,弁済期の到来(主要事実c)は,暦を見れば分かる顕著な事実なので,証明(立証)することを要しないことになります。主要事実a及びbについては,そのような事実があった(「はい,わたくし石松は,政五郎さんから,平成○年○月○日,弁済期を平成×年×月×日として,50万円の貸付けを受けました。」)と被告が認めてくれれば(自白してくれれば),原告はそれらの立証を要しないことになります(これに対して,刑事訴訟では,被告人の自白だけでは,その被告人は有罪になりません(憲法38条3項,刑事訴訟法319条2項)。)。

 しかし,被告が金銭借受けの事実を否認した場合,原告は,それらの主要事実を立証しなければいけません。この立証が不十分で失敗すると,法律効果を発生させるために必要な要件が充足されていないというわけで,原告の請求は認められず,請求の趣旨に応じた「被告は,原告に対し,50万円を支払え」との判決がもらえないことになります。 


(6)「当該事実に関連する事実」及び「証拠」

 「証拠」には,証拠書類などの物的なもののほか,証人も含まれます。

 立証を要する主要事実(要件事実)を立証するために証拠が必要なのは,分かりやすいところです。「証拠を出せ,証拠を。」とお白洲で開き直るのは,時代劇で悪役がする定番の作法です。

 しかしながら,刑事訴訟の世界では組織力を持つ警察官等が強制力をも用いて証拠を捜査してくれるのですが,民事訴訟の場合はそうはいきません。

 民事訴訟における証拠調べは,裁判所が職権で行うものではなく,当事者のイニシャティヴに委ねられています。裁判所ではなく,当事者が証拠の収集・提出をしなければなりません。

 石松に貸した50万円を取り戻したいとの相談を政五郎から受けた弁護士は,まずは政五郎に証拠について尋ねることになります。


 「現金を渡したんでしたっけ。証拠になる契約書とか取ってありますか。」

 「うーん,ないんですよ。石松は,口ぶりはかしこぶって偉そうなんだけど,相変わらず,物を書くってことができなくてね。」

 「えっ,それはちょっと・・・。じゃあ,お金を貸す時にだれか一緒にいた人はいませんか。だれかいてくれていたのであれば,証人になってもらうよう頼みましょう。」

 「いやぁ,遊び人の金さんていう人がいて,立会人になってもらったんですがね。金さんあれからどこかへ行っちゃって,今どこにいるか分かんないんですよ。」

 「えっ。いや,その金さんて人の住所とか職場とか家族とか分かりませんかねぇ。」

 「いゃあ,金さんは遊び人だからねぇ。あっしとも,まぁ,行きつけの店での楽しい飲み友だちということで,余り身の上の細かい話は訊かなかったんですよ。そこんところは,先生,何とかなりませんかねぇ。」

 「えっ・・・。私は遊び人じゃないから,その方面には詳しくないですよ・・・。」


 次に,「当該事実に関連する事実」とは,立証を要する主要事実(要件事実)に関連する事実ということになります。しかし,関連する事実といわれるだけでは漠然としています。

 「関連する事実」には,①「間接事実」,②「補助事実」及び③その他の事情が含まれます。


ア 間接事実

 間接事実は,主要事実(要件事実)ではない事実で,その存否を推認させる事実です。

 主要事実の存否は,常に証拠(例えば契約書)によって直接証明され得るものとは限りません。その場合には間接事実を積み重ねて,正に間接的に主要事実の存否が推認されるようにしなければなりません。

 政五郎の主張する貸付日の直前に石松が別の知人に50万円の借金を申し込んで断られ,「こうなったら太っ腹の政五郎に頼るしかないか」と言っていた事実や,政五郎の主張する貸付日の直後にいつも貧乏な石松が「政五郎銀行さまさまだよ」と言いながら50万円の買い物をしたという事実などは,当該主張に係る貸付日に政五郎が石松に50万円を貸し付けたとの主要事実の存在を推認させる方向に働く間接事実といえるでしょう。

 民事訴訟規則53条1項の「関連する事実で重要なもの」としては,まず,重要な間接事実があるところです。

 

    主要事実――――認定――→法律効果

  証明  推認

   証拠   間接事実

    

 補助事実


イ 補助事実

 補助事実は,証拠の証明力(証拠の信用性など)に影響を与える事実です。

 例えば,遊び人の金さんの居場所が分かって証人になってもらう場合,金さんが「遊び人」をしているのは仮の姿で,実は金さんは,うそと不正とを認めることのできない立場である非常にお堅い仕事に就いている人であるという事実などは,当該証人の信用性を高める補助事実といえるでしょう。


ウ その他の事情

 主要事実又は間接事実若しくは補助事実に該当しない事情であっても,紛争の全体像を理解するために重要な役割を果たし,裁判所にとって有益であるものがあるところです。



3 まとめ


 また長い記事になってしまいました。

 反省しつつ,ここで要約をしてみると,次のようなことになるでしょうか。


 民事訴訟の場合,求める判決(「請求の趣旨」として訴状に書かれます。)というアウトプットを得るためには,そのための「一定の権利又は法律関係の存否の主張」(請求)をしなければならず,そこにおいて,一定の権利が存在することを理由づけるためには,まず,その権利が発生したとの法律効果を発生させる要件であるところの主要事実に係る主張をしなければならないこと。

 各種法律効果を発生させるために必要な主要事実は法律で決まっていること。(したがって,分かっている事実の範囲次第で,主張し得る法律効果も決まってくること。主張する権利の種類が変わることによって,そのために主張が必要になる主要事実も変わってくること。)

 相手方が自白してくれない主要事実は証拠等によって立証しなければならないこと。

 以上,民事訴訟においては,法律を介して出てくるアウトプットの前提であるインプットとして,事実の主張及び証拠の提出が必要であるが,このインプットが,実は裁判所ではなく,当事者が自分のイニシャティヴでするものとされていること(弁論主義)。捜査機関が犯人及び証拠を捜査し,検察官が公判で犯罪を証明する刑事訴訟とは異なること。


 やはり,分かりにくいですね。 

 いずれにせよ,依頼者の方々からの信頼に応えるために,まず弁護士が研鑽を積まなければなりません。(弁護士法2条は「弁護士は,常に,深い教養の保持と高い品性の陶やに努め,法令及び法律事務に精通しなければならない。」と規定しています。)

 「我に自由を与えよ,しからずんば死を与えよ。」


有名なこの言葉は,アメリカ独立革命が胎動していた1775323日,イギリス総督が駐在する首都ウィリアムズバーグを避けてリッチモンドのセント・ジョン教会に集会していた植民地人の第2回ヴァジニア会議(Virginia Convention)において,植民地人の武装防衛準備を主張するパトリック・ヘンリーの名演説中の名せりふです。



……後退は,屈服及び隷従以外の何物でもない。我々の鉄鎖が準備されている。ボストンの平原では,その金属音が鳴っているのが聞こえているであろう。戦争は避けられない。では,それを来たらしめよ。私は繰り返す,議長,それを来たらしめよ。

議長,事態を緩和しようとしても,それはむなしい。紳士諸君は唱えるであろう,平和,平和と。しかし,平和は存在しない。戦争は現実に始まっているのである。北部から吹き付ける次の強風は,大いなる剣戟の響きを我々の耳にもたらすであろう。我々の同胞は,既に戦場にある。なぜ我々は,手をつかねたままここにいるのか。

紳士諸君は何を求めているのか。彼らは何を得るのであろうか。

鉄鎖と隷従とをもってあがなうべきほど,生命は貴く,平和は甘美なものであるのか。やめていただきたい,全能の神よ。

他の人々がどういう途をとろうとするのか,私は知らない。しかし, as for me, GIVE ME LIBERTY OR GIVE ME DEATH!



 米国建国史中の劇的場面の一つです。

 赤毛で大柄な,当時38歳のパトリック・ヘンリーの雄弁の力があずかり,また,新開の西部諸郡及び若手の代議員の賛成があって,武装防衛準備案は辛くも6560で可決されました。

 売れっ子弁護士であったパトリック・ヘンリーは,ヴァジニアにおける対イギリス独立革命の指導者となります。

 パトリック・ヘンリーの「自由か死か」演説があった翌月の19日には,緊張が高まっていたマサチューセッツ(首都ボストン)のレキシントン及びコンコードでイギリス本国軍と植民地人との間に武力衝突が発生。アメリカ独立戦争が始まります。

1776年にヴァジニアイギリスから独立を宣言。パトリック・ヘンリーは13邦中の最大邦である独立ヴァジニアの初代知事に選出され,合衆国の建国の父の一人として米国史に名をとどめることになります。


 さて,このパトリック・ヘンリー大弁護士,政治家として偉大であったのみならず,弁護士業においても売れっ子だったということですから,さぞや弁護士資格試験も優秀な成績で合格したのだろうな,とつい考えてしまうところです。


 ところがさにあらず。


 商店経営に2度失敗し,義父の居酒屋でバーテンダーをし,そして法律家道を志したパトリック・ヘンリー先生の弁護士資格試験に向けての法律修行は,極めて横着かつ短いものでありました。6週間ほど法律書を読んだだけであります。(とはいえ,法律教育の制度がいまだに整備されていなかった当時のヴァジニアでは,下級裁判所又は郡裁判所だけで仕事をするつもりであれば,法律書を読み,無給の法律事務員をして,数箇月から数年がたったところで,筆記試験及び口頭試験からなる弁護士資格試験を受けてしまうのが普通であったそうです。)

有名な法学者で,かつ,ジェファソンや後の米国連邦最高裁判所首席判事であるジョン・マーシャルの師匠でもあったジョージ・ウィス(Wythe)が試験委員の一人であったのですが,真面目なウィス先生はパトリック・ヘンリー受験生の前記修行成果にぞっとした余り,当該受験生に与える弁護士免許状への署名を拒否したと伝えられております。


知人の一人であった秀才ジェファソンは,弁護士パトリック・ヘンリーの能力について,その得意とする雄弁が物をいう郡裁判所での「陪審裁判案件以外については,全くなってなかった」との評価を後に下しています。更にいわく,パトリック・ヘンリーは「最も簡単な案件についても,法律的な批判はいうもおろか,文体及び思考の正しさに係る通常の批判に耐えられる書面を書くことができなかった。というのも,彼の頭の中には,思考の正確というものが全く欠落していたからだ。彼の想像力は,豊富で,詩的で,崇高だったが,しかし漠然としていた。彼は最美の言葉で最強のことを語った。しかし,論理がなく,構成もなかった。」と。


 しかし,パトリック・ヘンリー弁護士は実務において高く評価されていました。財産を分与せよと未亡人が亡夫の家族を訴えて勝訴した,ウィリアムズバーグの社交界で評判になった訴訟における原告訴訟代理人の一人であった彼が,「法によって裏付けながら正義主張してい彼は,輝いていた。」と依頼人の母親からベタぼめされた旨の記録が残っています。


  なお,上記事件に係る夫婦の関係は,夫の生前,余計な話ですが,京都地方裁判所昭和62512日判決(判時125992頁)のものと同様でした。京都地方裁判所の当該判決は,夫婦の重要事ができない夫に対する妻からの離婚請求を民法77015号に基づき認めたものですが(更に200万円の慰謝料支払が認められました。),ヴァジニアの夫婦については,夫の家族から依頼を受けたジェファソンが,夫の側からする請求をうけて植民地議会の個別立法によって離婚が認められないか(裁判での離婚は無理だったそうです。),イギリス本国と北アメリカ植民地との法域の相違に関連する問題をも含種々法的な調査研究を行っていたところでした。


 ところで,パトリック・ヘンリーの法律家としての能力に辛口の評価を下していた秀才弁護士ジェファソンでしたが,それでは,夫子御自身の弁護士業の業況はどのようなものだったのでしょうか。

 

 うまくいかなかったようです。


 嫌気がさして1774年に弁護士業をやめるまでの平均収入は,依頼者からの報酬の徴収率がなかなか5割を超えず,1993年の貨幣価値で年2万ドル程度であったといわれています。

 奴隷をも抱える地主としての収入がなければ,弁護士業だけではジェントルマンとしてやっていけなかったわけです。ジェントルマンの余技として法律家をやっているような形になっていたようです。
 (なお,ジェファソンは,晩年,巨額の負債に苦しめられます。)



 さて,前回に続いて「二回試験」に向けて司法修習生を励ますつもりで書き始めた今回の記事ですが,これをどう締めくくるべきでしょうか。


 弁護士資格を得る「二回試験」での成績が悪かったパトリック・ヘンリーはそれでも弁護士として輝き,他方ジョージ・ウィス門下の秀才であったジェファソンは弁護士報酬債権を厳しく取り立てるわけにもいかずに苦しむ羽目に陥ったのだから,実務は実務,成績にまで今からそう神経質にならず,まずは司法修習生考試に合格することを考えて,効率よく考試対策をしようよ,と言えば,司法修習生に対する励ましになるでしょうか。


 無論,「えっ,この成績ではもしかしたら合格させられないんじゃないの。」と,かつてのジョージ・ウィスのごとく司法修習生考試委員会委員長が懸念されるような司法修習生であっても,運命の力によって明日の日本の偉人となる多様な可能性は,常に存在しているところです。



(つけ足しの後日談: アメリカ独立戦争終盤の1781年にイギリス軍のヴァジニア邦侵寇がありましたが,その当時の同邦知事であったジェファソンの「ヘマ」に関する邦議会における調査をめぐって,ジェファソンとジェファソンの先代知事パトリック・ヘンリーとは仇敵の間柄となります。その後1784年12月8日付けのジェイムズ・マディソンあての書簡においてジェファソンなおいわく。「ヘンリー氏が生きておられる限り,また変な憲法が作られて我々にとって永久に厄介なことになるのではないでしょうか。・・・我々がなすべきことは,私が思うには,敬虔な心をもって,彼に死が与えられんことを祈ることであります。(What we have to do, I think, is devoutly to pray for his death.) 」セント・ジョン教会でのGIVE ME DEATH「死を与えよ」演説から9年余を経ての,救国の雄弁家パトリック・ヘンリーに対する「死ねよ」との辛辣な批評でありました。パトリック・ヘンリーは,ジェファソンの毒気を浴びながらも1799年まで生きます。)


(参考)Randall, W.S., Thomas Jefferson: a life33-34, 45-46, 75, 163-164, 167-168, 222-227, 344-345



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ウィリアムズバーグ旧市街の裁判所の建物(手前にさらし台があります。)

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