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1 三種ノ神器と後鳥羽天皇及び後醍醐天皇

 安徳天皇を奉じ三種ノ神器を具しての平家都落ちを承けて前年急遽践祚した第82代後鳥羽天皇の即位の大礼を,後白河法皇が翌七月に行おうとしていることに関する元暦元年(寿永三年)(1184年)六月廿八日の九条兼実日記(『玉葉』)の批判的記述。

 

 ・・・何況(なんぞいわんや)不帯剣璽(けんじをおびざる)即位之例出来者(いできたらば),後代乱逆之(もとい),只可在(このことに)此事(あるべし)・・・

 

 壇ノ浦の合戦において安徳天皇が崩御し,平家は滅亡,三種ノ神器のうち鏡及び璽は回収されたものの剣は失われてしまったのは,その翌年のことでした。
 承久三年の乱逆は,元暦元年から37年後のことです。九条家は,兼実の孫の道家の代となっていました。 

 また,頼山陽『日本外史』巻之五新田氏前記楠氏にいわく。

 

 〔建武三年(1336年),後醍醐〕帝の(けつ)(かえ)るや,〔足利〕尊氏(すで)に新帝〔光厳天皇〕の弟を擁立す。これを北朝光明帝となす。帝に神器を伝へんことを請ふ。〔後醍醐〕帝(ゆる)さず。尊氏,〔後醍醐〕帝を花山院に(とら)へ,従行の者僧(ゆう)(かく)らを殺し,その余を(こう)(しゅう)す。・・・〔三条〕(かげ)(しげ)(ひそか)に計を進め,(のが)れて大和に(みゆき)せしむ。〔後醍醐〕帝,夜,婦人の()を服し,(かい)(しょう)より出づ。(たす)けて馬に(のぼ)せ,景繁,神器を(にな)つて従ふ。・・・ここにおいて,行宮(あんぐう)を吉野に(),四方に号令す。(頼成一=頼惟勤訳『日本外史(上)』(岩波文庫・1976年)313314頁)

 

 同じく巻之七足利氏正記足利氏上にいわく。

 

 〔後醍醐〕帝,〔新田〕義貞をして,太子を奉じ越前に赴かしめ,(しこう)して()を命じて闕に還る。〔足利〕直義,兵に将としてこれを迎へ,(すなわ)ち新主〔光明天皇〕のために剣璽を請ふ。〔後醍醐〕帝,偽器(ぎき)を伝ふ。(頼成一=頼惟勤訳『日本外史(中)』(岩波文庫・1977年)26頁)

 

 しかし,偽器まで使って(あざむ)き給うのは,さすがにどうしたものでしょうか。

 

2 天皇の退位等に関する皇室典範特例法案要綱

昨日(2017年5月10日),京都新聞のウェッブ・サイトに「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案要綱」というものが掲載されていました。当該要綱(以下「本件要綱」といいます。)の第二「天皇の退位及び皇嗣の即位」には「天皇は,この法律の施行の日限り,退位し,皇嗣が,直ちに即位するものとすること。」とあり,第六「附則」の一「施行期日」には「1 この法律は,公布の日から起算して3年を超えない範囲内において政令で定める日から施行するものとすること。」とあります。すなわち,全国民を代表する議員によって組織された我が国会が,3年間の期間限定ながら,内閣(政令の制定者)に対し,在位中の天皇を皇位から去らしめ(「天皇は,この法律の施行の日限り,退位し」というのは,法律施行日の夜24時に天皇は退位の意思表示をするものとし,かつ,当該意思表示は直ちに効力を生ずるものとするという意味ではなくて,シンデレラが変身したごとく同時刻をもって天皇は自動的に皇位を失って上皇となるという意味でしょう。),皇嗣をもって天皇とする権限を授権するような形になっています。

 

3 「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承と三種ノ神器

「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承の際三種ノ神器はどうなるのかが気になるところです。

手がかりとなる規定は,本件要綱の第六の七「贈与税の非課税等」にあります。いわく,

 

第二により皇位の継承があった場合において皇室経済法第7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物については,贈与税を課さないものとすること。

 

 皇室経済法(昭和22年法律第4号)7条は,次のとおり。

 

 第7条 皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。

 

(1)皇室経済法7条をめぐる解釈論:相続法の特則か「金森徳次郎の深謀」か

 本件要綱の第六の七には「皇室経済法第7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物」とあります。ところで,これは,皇位継承があったときに,皇室経済法7条によって直接,三種ノ神器その他の「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」の所有権は,特段の法律行為を要さずに前天皇から新天皇に移転するということでしょうか。見出しには「贈与税の非課税等」とありますが,ここでの「等」は,皇室経済法7条のこの効力を指し示すものなのでしょうか。

 皇室経済法7条については,筆者はかつて(2014年5月)「「日本国民の総意に基づく」ことなどについて」と題するブログ記事で触れたことがあります。ここに再掲すると,次のごとし。

 

皇室経済法7条は「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。」と規定しています。同条の趣旨について,19461216日,第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会において,金森徳次郎国務大臣は次のように説明しています。天皇にも「民」法の適用があることが前提とされています。

 

次ぎに第7条におきまして,日本国の象徴である天皇の地位に特に深い由緒ある物につきましては,一般相続財産に関する原則によらずして,これらのものが常に皇位とともに,皇嗣がこれを受けらるべきものなる旨を規定いたしております,このことはだいたいこの皇室経済法で考えておりまするのは,民法等に規定せられることを念頭にはおかないのでありまするけれども,しかし特に天皇の御地位に由緒深いものの一番顕著なものは,三種の神器などが,物的な面から申しましてここの所にはいるかとも存じますが,さようなものを一般の相続法等の規定によつて処理いたしますることは,甚はだ目的に副わない結果を生じまするので,かようなものは特別なるものとして相続法より除外して,皇位のある所にこれが帰属するということを定めたわけであります。

 

  天皇に民法の適用があるのならば相続税法の適用もあるわけで,19461217日,第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会におけるその点に関する小島徹三委員の質疑に対し,金森徳次郎国務大臣は次のように答弁しています。

 

・・・だいたい〔皇室経済法〕第7条で考えております中におきましては,はつきり念頭に置いておりますのは,三種の神器でありますけれども,三種の神器を物の方面から見た場合でありますけれども,そのほかにもここに入り得る問題があるのではないか,かように考えております,所がその中におきまして,極く日本の古典的な美術の代表的なものというようなものがあります時に,一々それが相続税の客体になりますと,さような財産を保全することもできないというふうな関係になりまして,制度の関係はよほど考えなければなりませんので,これもまことに卑怯なようでありますけれども,今後租税制度を考えます時に,はっきりそこをきめたい,かように考えております

 

  相続税法12条1項1号に,皇室経済法7条の皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,相続税の非課税財産として掲げられています。

  三種の神器は,国有財産ではありません。19461221日,第91回帝国議会貴族院皇室経済法案特別委員会における大谷正男委員の質疑に対する金森徳次郎国務大臣の答弁は,次のとおり。

 

此の皇位に非常に由緒のあると云ふもの・・・今の三種の神器でありましても,皇位と云ふ公の御地位に伴ふものでありますが故に,本当から云へば国の財産として移るべきものと考ふることが,少くとも相当の理由があると思つて居ります,処がさう云ふ風に致しますると,どうしても神器などは,信仰と云ふものと結び付いて居りまする為に,国の方にそれは物的関係に於ては移つてしまふ,それに籠つて居る精神の関係に於ては皇室の方に置くと云ふことが,如何にも不自然な考が起りまして,取扱上の上にも面白くない点があると云ふのでありまするが故に,宗教に関しまするものは国の方には移さない方が宜いであらう,と致しますると,皇室の私有財産の方に置くより外に仕様がない,こんな考へ方で三種の神器の方は考へて居ります・・・

 

  http://donttreadonme.blog.jp/archives/1003236277.html

 

 要するに筆者の理解では,皇室経済法7条は民法の相続法の特則であって,崩御によらない皇位継承の場合(相続が伴わない場合)には適用がないはずのものでした。生前退位の場合にも適用があるとすれば(確かに適用があるように読み得る文言とはなっています。),これは,皇位継承の原因は崩御のみには限られないのだという理解が,皇室典範(昭和22年法律第3号)及び皇室経済法の起草者には実はあったということになりそうです(両法の昭和天皇による裁可はいずれも同じ1947年1月15日にされています。)。「金森徳次郎の深謀」というべきか。

 しかし,皇室経済法7条が生前退位をも想定していたということになると,現行皇室典範4条の規定(「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」)は崩御以外の皇位継承原因を排除しているのだという公定解釈の存立基盤があやしくなります。そうなると,本件要綱の第一にある「皇室典範(昭和22年法律第3号)第4条の規定の特例として」との文言は,削るべきことになってしまうのではないでしょうか。

 

(2)贈与税課税の原因となる贈与と所得税の課税対象となる一時所得

 更に困ったことには,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承に伴い直ちに皇室経済法7条によって「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」の所有権が前天皇から新天皇に移転するのであれば,これは新旧天皇間の贈与契約に基づく財産の授受ではなく,そもそも贈与税の課税対象とはならないのではないでしょうか。

相続税法(昭和25年法律第73号)1条の4第1項は,贈与税の納税義務者を「贈与により財産を取得した個人」としていますが,ここでいう「贈与」とは民法549条の贈与契約のことでしょう(金子宏『租税法(第17版)』(弘文堂・2012年)543頁参照)。相続税法5条以下には贈与により取得したものとみなす場合が規定されていますが,それらは,保険契約に基づく保険金,返還金等(同法5条),定期金給付契約に基づく定期金,返還金等(同法6条),著しく低い価額の対価での財産譲渡(同法7条),債務の免除,引受け及び第三者のためにする債務の弁済(同法8条),信託受益権(同法第1章第3節),並びにその他対価を支払わないで,又は著しく低い価額の対価で利益を受けること(同法9条)であるところ,皇室経済法7条による「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」の所有権の移転がみなし贈与であるためには, 相続税法9条の規定するところに該当するか否かが問題になるようです。しかしながら,相続税法9条の適用がある事例として挙げられているのは,同族会社等における跛行増資,同族会社に対する資産の低額譲渡及び妻が夫から無償で土地を借り受けて事業の用に供している場合(金子546頁)といったものですから,どうでしょうか。同条の「当該利益を受けさせた者」という文言からは,当該利益を受けさせた者の効果意思に基づき利益を受ける場合に限られると解すべきではないでしょうか。

むしろ新天皇(若しくは宮内庁内廷会計主管又は麹町税務署長若しくは麻布税務署長)としては,一時所得(所得税法(昭和40年法律第33号)34条1項)があったものとして所得税が課されるのではないか,ということを心配すべきではないでしょうか。一時所得とは「利子所得,配当所得,不動産所得,事業所得,給与所得,退職所得,山林所得及び譲渡所得以外の所得のうち,営利を目的とする継続的行為から生じた所得以外の一時の所得で労務その他の役務又は資産の譲渡の対価としての性質を有しないもの」をいいます。(ちなみに,所得税法上の各種所得中最後に定義される雑所得は,「利子所得,配当所得,不動産所得,事業所得,給与所得,退職所得,山林所得,譲渡所得及び一時所得のいずれにも該当しない所得」です(同法35条1項)。)個人からの贈与により取得する所得には所得税は課税されませんが(所得税法9条1項16号),そうではない所得については,所得税の課税いかんを考えるべきです。(なお,民法958条の3第1項の特別縁故者に対する相続財産の分与については,1964年の相続税法改正後は遺贈による取得とみなされることとなって相続税が課されることになっていますが(相続税法4条),1962年の制度発足当初は,「相続財産法人からの贈与とされるところから」ということで所得税法による課税対象となっていたとのことです(久貴忠彦=犬伏由子『新版注釈民法(27)相続(2)(補訂版)』(有斐閣・2013年)958条の3解説・767頁。また,阿川清道「民法の一部を改正する法律について」曹時14巻4号66頁)。ただし,「贈与」とした上で「法人からの贈与」だからという理由付けで贈与税非課税(相続税法21条の3第1項1号)とせずとも,所得税の課される一時所得であることの説明は可能であったように思われます。1964年3月26日の参議院大蔵委員会において泉美之松政府委員(大蔵省主税局長)は「従来は一時所得といたしておりました」と答弁していますが(第46回国会参議院大蔵委員会会議録第20号10頁),そこでは「法人からの贈与」だからとの言及まではされていません。そして,神戸地方裁判所昭和58年11月14日判決・行集34巻11号1947頁は「財産分与は,従前は,相続財産法人に属していた財産を同法人から役務又は資産の譲渡の対価としてではなく取得するものであるから,所得税法に規定する一時所得に該当するものとして,所得税が課税されていた。」と判示していて,「贈与」の語を用いていません。)

しかし,今井敬座長以下「高い識見を有する人々の参集」を求めて開催された天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(2016年9月23日内閣総理大臣決裁)の最終報告(2017年4月21日)のⅣ2には「天皇の退位に伴い,三種の神器(鏡・剣・璽)や宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)などの皇位と共に伝わるべき由緒ある物(由緒物)は,新たな天皇に受け継がれることとなるが,これら由緒物の承継は,現行の相続税法によれば,贈与税の対象となる「贈与」とみなされる。」と明言されてしまっています。贈与税課税規定非適用説は,今井敬座長らの高い識見に盾突く不敬の解釈ということになってしまいます。

 

(3)本件要綱の第六の七の解釈論:贈与契約介在説

そうであれば,三種ノ神器等の受け継ぎが相続税法上の贈与税の課税原因たる「贈与」に該当することになるように,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承に際しての三種ノ神器等の承継の法律構成を,本件要綱の第六の七の枠内で考えなければなりません。

 

第二により皇位の継承があった場合において皇室経済法第7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物については,贈与税を課さないものとすること。

 

とあるのは,

 

第二により皇位の継承があった場合において皇室経済法第7条の規定の趣旨に基づく前天皇との贈与契約により皇位とともに皇嗣が受けた物については,贈与税を課さないものとすること。

 

との意味であるものと理解すべきでしょうか。(「贈与税の対象となる「贈与」と見なされる。」との文言からは贈与それ自体ではないはずなのですが,みなし贈与に係る相続税法9条該当説は難しいと思われることは前記のとおりです。)

皇室経済法7条により直接三種ノ神器等の所有権が移転するとしても,その原因たる「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承は実のところ現天皇の「譲位意思」に基づくものなのだから広く解して贈与に含まれるのだ,と頑張ろうにも,そもそも「83歳と御高齢になられ,今後これらの御活動〔国事行為その他公的な御活動〕を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じ」ていること(本件要綱の第一)のみから一義的に退位の意思,更に三種ノ神器の贈与の意思までを読み取ってしまうのは,いささか忖度に飛躍があるように思われるところです。

新旧天皇間の贈与については日本国憲法8条の規定(「皇室に財産を譲り渡し,又は皇室が,財産を譲り受け,若しくは賜与することは,国会の議決に基かなければならない。」)の適用いかんが一応問題となりますが,同条は皇室内での贈与には適用がないものと解することとすればよいのでしょう。

贈与税の非課税措置の発効は「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日の午前零時からです(本件要綱の第六の一)。課税問題を避けるためには,新旧天皇間の贈与契約の効力発生(書面によらない贈与の場合はその履行の終了(金子543頁))はそれ以後でなければならないということになります(国税通則法(昭和37年法律第66号)15条2項5号は贈与による財産の取得の時に贈与税の納税義務が成立すると規定)。しかし,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日当日の24時間中においてはなおも皇位継承は生じないところ(本件要綱の第二参照),その日のうちに三種ノ神器の所有権が次期天皇に移ってしまうのはフライングでまずい。そうであれば,あらかじめ天皇と皇嗣との間で,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日の翌日午前零時をもって三種ノ神器その他の皇位とともに伝わるべき由緒ある物の所有権が前天皇から新天皇に移転する旨の贈与契約を締結しておくべきことになるのでしょう(午前零時きっかりに意思表示を合致させて贈与契約を締結するのはなかなか面倒でしょう。)。

ちなみに,上の行うことには下これに倣う。相続税については,皇室経済法7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物の価額は相続税の課税価格に算入しないものとされていること(相続税法12条1項1号)にあたかも対応するように,人民らの墓所,霊廟及び祭具並びにこれらに準ずるものの価額も相続税の課税価格に算入しないこととされています(同項2号)。そうであれば,贈与税について,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承に際して皇嗣が贈与を受けた皇位とともに伝わるべき由緒ある物については贈与税を課さないものとするのであれば,人民向けにも同様の非課税措置(高齢による祭祀困難を理由とした祭祀主宰者からの墓所,霊廟及び祭具並びにこれらに準ずるものの贈与について非課税措置を講ずるといったようなもの)が考えられるべきなのかもしれません。

 

(4)三種ノ神器贈与の意思表示の時期

とここまで考えて,一つ難問が残っていることに気が付きました。

天皇から皇嗣に対する三種ノ神器の贈与は,正に皇室において新天皇に正統性を付与する行為(更に人によっては三種ノ神器の授受こそが「譲位」の本体であると思うかもしれません。)であって,三種ノ神器も国法的には天皇の私物にすぎないといえども,当該贈与の意思表示を華々しく天皇がすることは日本国憲法4条1項後段の厳しく禁ずるところとされている「国政に関する権能」の行使に該当してしまうのではないか,という問題です。皇位継承が既成事実となった後に,もはや天皇ではなくなった上皇からひそやかに贈与の意思表示があるということが憲法上望ましい,ということにもなるのではないでしょうか。(三種ノ神器の取扱いいかんによっては信教の自由に関する問題も生じ得るようなので,その点からも三種ノ神器を受けることが即位の要件であるという強い印象が生ずることを避けるべきだとする配慮もあり得るかもしれません。「天皇に対してはもろに政教分離の原則が及ぶ,と考えざるを得ない。なぜか。憲法第20条第3項は「国及びその機関は,宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定しているからである。実際のところ,神道儀式を日常的に公然とおこなう天皇が,神道以外のありとあらゆる宗教・宗派を信奉する国民たちの「統合の象徴」であるというのは,おかしな話である。天皇は「象徴」であるためには,宗教的に中立的であらねばならない。」と説く論者もあるところです(奥平康弘『「萬世一系」の研究(下)』(岩波現代文庫・2017年(単行本2005年))264頁)。)

しかしそうなると,新天皇は「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日の翌日午前零時に即位した時点においては三種ノ神器の所有権を有しておらず,当該即位は,九条兼実の慨嘆した不帯剣璽(けんじをおびざる)即位之例となるということもり得るようです。ただし,後醍醐前天皇が光明天皇にしたような三種ノ神器を受けさせないいやがらせは,現在では考えられぬことでしょう。(後醍醐前天皇としては,光明天皇の贈与税御負担のことを忖度したのだと主張し給うのかもしれませんが。)

なお,三種ノ神器は,国法上は不融通物ではありませんが(世伝御料と定められた物件は分割譲与できないものとする明治皇室典範45条も1947年5月2日限り廃止されています。),天皇といえども任意に売却等できぬことは(ただし,日本国憲法8条との関係では,相当の対価による売買等通常の私的経済行為を行う限りにおいてはその度ごとの国会の議決を要しません(皇室経済法2条)。なお,相当の対価性確保のためには,オークション等を利用するのがよろしいでしょうか。),皇室の家法が堅く定めているところでしょう。

面倒な話をしてしまいました。しかし,源義経のように三種ノ神器をうっかり長州の海の底に取り落としてしまうようなわけにはなかなかいきません。

ところで,長州といえば,尊皇,そして明治維新。現在,政府においては,明治元年(1868年)から150年の来年(2018年)に向け「明治150年」関連施策をすることとしているそうです。明治期の立憲政治の確立等に貢献した先人の業績等を次世代に(のこ)す取組もされるそうですが,ここでの「先人」に大日本帝国憲法の制定者である明治大帝は含まれるものか否か。
 大日本帝国憲法3条は,規定していわく。

 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

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仲恭天皇九条陵(京都市伏見区)(2017年11月撮影)
(後鳥羽天皇の孫である仲恭天皇は,武装関東人らが京都に乱入した承久三年(1221年)の乱逆の結果,在位の認められぬ廃帝扱いとされてしまいました。)
 
(ところで,その仲恭天皇陵の手前の敷地に,長州出身の昭和の内閣総理大臣2名が記念植樹をしています。)
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「明治維新百年記念植樹 佐藤榮作」(佐藤は,東京オリンピック後の1964年11月9日から沖縄の本土復帰後の1972年7月6日まで内閣総理大臣在職)
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「明治維新百年記念植樹 岸信介」(岸は,1957年2月25日から現行日米安全保障条約発効後の1960年7月19日まで内閣総理大臣在職)
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(1868年1月27日(慶応四年一月三日)から翌日にかけての鳥羽伏見の戦いにおける防長殉難者之墓が実は仲恭天皇陵の手前にあるところ,1867年11月9日(慶応三年十月十四日)の大政奉還上表提出(有名な徳川慶喜の二条城の場面はその前日)から100年たったことを記念して,1967年(昭和42年)11月に信介・榮作の兄弟は東福寺(京都市東山区)の退耕庵に共に宿して秋の京都を楽しみ,かつ,長州・防州(山口県)の尊皇の先達の霊を慰めた,ということなのでしょう。当時現職の内閣総理大臣であった榮作は,この月12日から20日まで訪米し(米国大統領はジョンソン),15日ワシントンD.C.で発表された日米共同声明においては,沖縄返還の時期を明示せず,小笠原は1年以内に返還ということになりました。帰国後11月21日の記者会見において佐藤内閣総理大臣は,国民の防衛努力を強調しています。)

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東福寺の紅葉
(東福寺を造営した人物は,仲恭天皇の叔父にして,かつ,摂政だった九条道家。しかし,ふと思えば,承久の変の際箱根迎撃論を抑えて先制的京都侵攻を主張し,鎌倉方の勝利並びに仲恭天皇の廃位及び後鳥羽・順徳・土御門3上皇の配流に貢献してしまった大江広元は,長州藩主毛利氏の御先祖でした。その藩主の御先祖のいわば被害者である仲恭天皇の陵の前で,長州人らが自らの尊皇を誇り,明治維新百年を祝うことになったとは・・・。) 


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(前編からの続き)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1054087409.html

 

4 GHQ法務局とラジオ・コード的規定の採否

 

(1)第2回国会提出の放送法案とGHQのラジオ・コード

しかし,「日本側として何とかして復活実現させよう」と最終的には頑張ることになったにもかかわらず,第7回国会における内閣提出の放送法案においては現在の放送法4条1項(同法原始規定44条3項・53条)のような規定が当初は設けられていなかったのは,そもそもなぜだったのでしょうか。

実は,第2回国会に出した放送法案について194812月2日にGHQ法務局(LS)からされた罵倒が,逓信省(1949年6月1日から電気通信省電波庁)及びGHQ民間通信局のトラウマになっていたようです。

第2回国会に内閣が提出した放送法案には,次のような規定がありました(放送法制立法過程研究会164166頁,182183頁,189190頁参照)。

 

 (定義)

第2条 この法律においては,左の用語を各下記の意義に用いる。

  〔第1号から第8号まで略〕

 九 「一般放送局」とは,日本放送協会が施設した以外の放送局をいう。

  〔第10号及び第11号略〕

 十二 「放送番組」とは,公衆に直接提供する目的で行なわれる電気通信の内容をいう。

 

 (ニユース放送)

第4条 ニユース記事の放送については,左に掲げる原則に従わなければならない。

 一 厳格に真実を守ること。

 二 直接であると間接であるとにかかわらず,公安を害するものを含まないこと。

 三 事実に基き,且つ,完全に編集者の意見を含まないものであること。

 四 何等かの宣伝的意図に合うように着色されないこと。

 五 一部分を特に強調して何等かの宣伝的意図を強め,又は展開させないこと。

 六 一部の事実又は部分を省略することによつてゆがめられないこと。

 七 何等かの宣伝的意図を設け,又は展開するように,一の事項が不当に目立つような編集をしないこと。

2 時事評論,時事分析及び時事解説の放送についてもまた前項各号の原則に従わなければならない。〔参議院における修正案(194810月9日付け同議院通信委員会資料)では「時事分析及び時事解説の放送についても前号〔ママ〕の原則に従わなければならない。評論,演芸その他の放送であつて,その内容に明らかにニユース記事,時事分析及〔ママ〕時事解説を含むものも,また同様とする。」とされ(放送法制立法過程研究会200頁参照),全ての放送に適用があるものとされています。〕

3 〔放送法現行9条に相当する規定〕

 

 (放送番組の編集)

46条2項 〔日本放送〕協会は,放送番組の編集に当つては,左の各号の定めるところによらなければならない。

 一 公衆に対し,できるだけ完全に,世論の対象となつている事項を編集者の意見を加えないで放送すること。

 二 意見が対立している問題については,それぞれの意見を代表する者を通じて,あらゆる角度から論点を明らかにすること。

 三 成人教育及び学校教育の進展に寄与すること。

 四 音楽,文学及び娯楽等の分野において,常に最善の文化的な内容を保持すること。

 

 (政治的公平)

47条 協会の放送番組の編集は,政治的に公平でなければならない。

2 公選による公職の候補者に政見放送その他選挙運動に関する放送をさせたときは,その選挙における他の候補者に対しても申出により同一放送設備を使用し,同等な条件の時間において,同一時間数を与えなければならない。

 

 (免許の取消又は業務の停止)

68条1項 放送委員会は,免許人〔一般放送局(法案2条9号)の設置の免許を受けた者(法案58条1項)。なお,法案38条2項の規定では日本放送協会の設置する放送局に法案68条の準用はなし。〕が,左の各号の一に該当すると認めた場合には,当該免許を取り消し,又は1箇月以内の期間を定めて,業務の停止を命ずることができる。

 〔第1号略〕

 二 この法律又はこの法律に基く放送委員会規則に違反した場合

 〔第3号から第5号まで略〕

 

第2回国会の放送法案の第4条1項及び2項と同法案68条1項2号との関係は,現在の放送法4条1項と電波法76条1項との関係と極めてよく似ています。第2回国会の放送法案4条1項1号と放送法4条1項3号と, 及び第2回国会の放送法案4条1項2号と放送法4条1項1号とはいずれも対応関係がはっきりしています。放送法4条1項2号の「政治的に公平であること」が政治的「宣伝的意図」を排除すべきことを意味するのならば,同号は, 第2回国会の放送法案4条1項の4号,5号及び7号と対応することになります。

なお,1945年9月22日にGHQから我が国に下されたラジオ・コードと第2回国会の放送法案4条との承継関係は歴然としており,同法案4条1項各号及び第2項は,それぞれラジオ・コードの「一,報道番組」のAB及びFからJまでの各項並びにK項に対応し(なお,CからEまでの各項は聯合国批判及び進駐軍批判の禁止並びに聯合軍の動静の秘密保持に関するもの),参議院通信委員会の意図した第2回国会の放送法案4条2項の改正案も「劇,風刺物,脚色物,詩,寄席演劇,喜劇等ヲ含ム慰安番組ハ・・・報道放送ニ関スル第1項中ニ挙ゲラレタル諸要求ニ合致スベシ」とするラジオ・コードの「二,慰安番組」の規制に正に合致していました(放送法制立法過程研究会2324頁参照)。

 

(2)GHQ法務局の見解:ラジオ・コード的規定違憲論

このような第2回国会の放送法案に対するGHQ法務局の託宣(194812月2日)は,次のとおりでした(放送法制立法過程研究会207208頁,212213頁参照)。

 

・・・

二,第4条

 A この条文には,強く反対する。何故ならば,それは憲法第21条に規定せられている「表現の自由の保証〔ママ〕」と全く相容れないからである。現在書かれているまの第4条を適用するとすれば絶えずこの条文に違反しないで放送局を運用することは不可能であろう。反対の側から言えば,政府にその意志があれば,あらゆる種類の報道の真実〔realistic reporting〕あるいは,批評を抑えることに,この条文を利用することができるであろう。この条文は,戦前の警察国家〔former police state〕のもつていた思想統制機構〔thought control devices〕を再現し,放送を権力〔forces in power〕の宣伝機関〔propaganda vehicle〕としてしまう恐れがある。――これは,この立法の目的としているところは〔ママ〕,正反対である。放送が現在日本において,公の報道〔public information〕,教育機関として最も重要な手段〔most important means of communication〕であることを考えれば,上記の如き方向への発展(への可能性)の危険性は,如何に声を大にしても過ぎるということはない。

   例えば,第2項は,ニユース評論(News Comentary (sic))は,厳密に真実であり,編集者の意見を含まず,「着色」していないことを要求している。しかし「評論」とは,定義によれば「個人の意見」の発表であり,「報道上及び教育上の価値判断」の顕現である。条文にあるような制限の下に「評論」が不可能であること〔deprive … of their informative and educational values〕は,自明の理であろう。政治の面を離れても「制限」を実行することはむづかしい〔not workable〕。例えば,台風その他全国的天災等も第2項〔ママ〕第2号によつて報道するわけにはゆかなくなる。何故ならば,その報道は,公安を害する〔disturb public tranquility〕かもしれないからである。

 B この条文を,弁護するものは,それが1945年9月19SCAPIN33号〔ラジオ・コードの3日前に出されたプレス・コード「日本新聞規則ニ関スル覚書」〕に基いているというかもしれない。然し,SCAPINの内容と国内法とは,相違がなくてはならない。このSCAPIN33号は純然たる国内事件を規律しようとしたものではない。それは「占領に」関係あることのみを目的としている。このSCAPINは意見の制限や抑圧に用いられたことがないのみならず〔has this SCAPIN never been used for restriction or suppression of opinion〕,国内事件に関しては,それは1945年9月第660号及び1946年第99SCAPINによつて置きかえられている。

 C 言論の自由抑圧を一掃するため〔because of the sweeping prohibition of freedom of speechLSはこの第4条の全文削除を勧告する。何故なら放送の本来の目的は,「不偏不党」をも含めて第3章〔日本放送協会の章〕第46条,第47条で尽されているからである〔in as much as the reasonable objectives of broadcasting, including impartiality, are covered by the standards expressed in Chapter III, Articles 46 and 47〕。

  ・・・

 

 逓信省及びGHQ民間通信局の事務方としては,参りました,といったところだったのでしょう。「適切な意見と思はれるのでこれを取入れることとした」と伝えられています(荘=松田=村井37頁)。

  しかし,第2回国会の放送法案4条1項及び2項には, 「編集の詐術」等を防止するための真面目かつ立派でごもっともなことばかり書いてあるのですが,意外にもそれらを非難するGHQ法務局の前記意見をどう読むべきでしょうか。もしかしたら,「ごもっとも」なことばかり言う「真面目」かつ「立派」な人々こそが実は,言論の自由を扼殺して警察国家を招来する最も恐るべき危険な人々だということなのでしょうか。なかなか米国人の言うことは,我々善良かつ真面目な日本人にとっては難しいところです。

 また,LS意見のC項の意味するところは正確には何でしょうか。第2回国会の放送法案46条2項及び47条に書かれてある程度の番組準則であれば,日本放送協会のみならず一般的にも許されるということでしょうか。しかし,GHQ法務局は,番組準則については直接語らず,放送に係る妥当な目的(the reasonable objectives of broadcasting)が日本放送協会について定める上記法案の46条及び47条において準則(standards)の形で書かれてあるんだから,同法案4条までは不要であると言っているようです。日本における放送の目的が問題であり,それについては真面目な日本放送協会が果たすのであるから,他の「一般放送事業者」については気にしなくともよい,ということのように解釈され得ます。「一般放送事業者」の放送番組の編集に係る条項を設けなかったところからすると,第7回国会に放送法案を提出するに当たって,我が国政府はそのように理解していたように思われます。
 (なお,B項に出てくるプレス・コードについては,メリーランド大学プランゲ文書に保存されているものとしてインターネット上で紹介されている1945年9月21日版があり,それには前文が付いていて,当該前文によれば,プレス・コードは「日本に出版の自由を確立するため」発令されたものとされ,「出版を制限するもので無く,寧ろ日本の出版機関を教育し,出版の自由の責任と,重要性とを示さうとするものである(This PRESS CODE, rather than being one of restrictions of the press, is one which is designed to educate the press of the Japanese in the responsibilities and meaning of a free press.)。従って報道の真実性と宣伝の排除といふことに重点を置いてゐる(Emphasis is placed on the truth of news and the elimination of propaganda.)」ものであるとされていました。プランゲ文庫版の日本語訳は,日本の新聞記者諸賢の自尊心をおもんぱかった言葉づかいになっています。直訳調だと,「このプレス・コードは,取締り云々以前に,日本原住民連中の「報道機関」に,自由なプレスに伴う責任及びそもそも自由なプレスの何たるかを教育してやるために作成されたものなんだよ。うそニュースはいかんし,どこかの宣伝ばかりするようになってはいかんということを分からせてやろうってものなんだよ。」とも訳せそうな気がします。)
 

5 高塩修正のGHQ通過並びにGHQ説得の技術及びその副産物

 

(1)目糞鼻糞,袈裟の下の鎧等

 しかし,我が国においては,「一般放送事業者」だから「不真面目」でよい,ということにはなりません。やはり,せいぜい「おもしろまじめ」であって,飽くまでも真面目でなければ許されないのです。日本放送協会及び「一般放送事業者」を通じて適用されるべき番組準則は,やはり必要だったのです。

番組準則を導入する高塩修正に向けて,中村純一衆議院電気通信委員以下日本側は,どのようにGHQ民政局を説得したのか。

やはり,目糞鼻糞論というべきか(余り上品な比喩ではないですが。),GHQのラジオ・コードは御立派なものであったので今後とも当該御指導に引き続きあやかりたい,という方向からの口説きがあったようです。

 

塩野〔宏〕 放送法〔原始規定〕第44条第3項が〔1950年4月7日の〕衆議院修正で四原則をもって規律することとされたのですが,こういった文句もFCC〔米国の連邦通信委員会〕のレギュレーションを参考にしたのですか。

野村〔義男〕 これは,大体司令部〔GHQ〕から日本側に出たラジオ・コードあるいはプレス・コードをここへ入れたわけです。だから通ったので,日本側の発案で持って行ったらおそらく通らなかったでしょうね。・・・

  (1978年3月11日に東京・内幸町の飯野ビル(改築前)のレストラン・キャッスルでされた座談会から。放送法制立法過程研究会564頁)

 

自らが散々活用したラジオ・コードの例を出されてしまうとGHQもなかなか強い姿勢を続けられなかったようです(なお,前記GHQのGS文書に係るBox No.2205の26‐27コマ目にある1950年3月30日付け民政局宛て民間情報教育局(CIE)の照会回答文書では,「聯合国最高司令官のラジオ・コードの規定を採用することによって,修正案は,原案のいくつかの重要な点(several important details)を失うことになっている。協会は今や「公衆に関係がある事項について報道すること(inform listeners of all public issues)」を義務付けられないし,事実をまげてはならないとの制約が適用される範囲も「ニュース」のみに狭められている。これは,他の番組においては事実をまげてよいことを含意するものである。」と述べられています。)。それでも,袈裟衣の下の鎧たる電波法76条1項の修正案は,やはり見とがめられたのかもしれません(ただし,主役の民政局及び民間通信局はともかく民間情報教育局は,上記Box No.2205の33コマ目の1950年3月30日付け民政局宛て照会回答文書で「民間情報教育局は,このような性格の技術的立法には直接関係しないものであるが,〔電波法案に係る〕当該修正案に対する反対は無いところである。」と述べています。)。以下は想像になりますが,そこで日本側としてはGHQ法務局の以前の見解の手前もあり(そこでは,GHQのプレス・コードといえども占領目的に関するものはともかくも純粋の日本の内国事項に係る意見の制限又は抑圧にまでは用いられたことはないとの主張もされていました。自由と民主主義の国たることを標榜する米国の軍人としては,そういう建前でなければ受け付けられないのでしょう。),いやいやGHQさま放送法案の新しい第44条3項は「道徳的,社会的な基準」にすぎないものでありましてこれでもって電波法76条1項の行政処分をして憲法21条1項を弑逆するようなことはありません,御ラジオ・コードを超えるようなあつかましいことに用いるような意図は毛頭ございません,といったような言い訳がされたのではないかと思われます(飽くまでも想像です。なお,1950年3月16日付けの辻衆議院電気通信委員長からホイットニーGHQ民政局長宛ての前記書簡においては,「私どもが御提案申し上げた修正は占領政策に合致し(the amendments we proposed will coincide with the occupation policies),また,我が国の民主化を推進するものと確信しております。」と述べられていました。)。これが,1950年4月7日の衆議院電気通信委員会における,高塩修正に対する中村純一委員の賛成討論における前記発言につながったのではないでしょうか(飽くまでも想像です。)。

 

(2)取りもどすべき日本及び合格すべき司法試験答案について

さて,放送法4条1項に基づく電波法76条1項の処分の可否の問題に戻ります。

「できる」という側には,1945年9月22日のGHQのラジオ・コードを依然奉戴しているみたいで,「主権回復」から60年以上たち占領体制を脱却する自由と民主の我が国にふさわしくないという非難が可能なようではあります。しかし,「できない」という側にも,194812月2日のGHQ法務局の「押し付け憲法解釈」を依然奉戴しているみたいで,これも同じく,「主権回復」から60年以上たち占領体制を脱却する自由と民主の我が国にふさわしくないという非難が可能なようであります。はてさて,取りもどすべき日本は,どちらの側にあるのでしょうか。

とはいえ,194812月2日のGHQ法務局の意見のとおり,1995年の司法試験における憲法の前記設問に回答していたらどうなっていたことでしょうか。合憲性審査に係る「二重の基準」やら精神的自由権に係る「厳格な審査基準」やら「明白かつ現在の危険」基準やら「より制限的でないほかに選び得る手段の原則」やらがちゃんと書かれていないので,落第点でしょうか。そうだとすると,司法試験受験生的には,前記GHQ法務局的論証パターンは論外であって,したがって,放送法4条1項違反を理由に電波法76条1項の処分をすることは違憲であるとは電波法・放送法の立法過程の実務において正しく論証されてはいなかったのだ,日本の司法試験に合格していない米国人は困ったものだったのだ,ということになるようにも思われます。

(3)岸信介内閣による放送法改正(昭和34年法律第30号)

 ところで,1950年に成立した放送法の最初の本格的改正は,第2次岸信介内閣時代の1959年に成立した昭和34年法律第30号によってされたものです。電波法・放送法の運用も8年を超えたところでの改正であって,当時の政府当局の見解が反映されたものであったわけです。放送法の当該改正に向けた岸内閣の郵政大臣ら(電波監理委員会は,1952年に廃止され,放送を含む電波監理行政は郵政省に引き継がれていました。)の精励については,次のように紹介されています。(紹介者は,例の荘宏氏。荘氏は,1952年8月に電波監理総局の文書課長から郵政省電波監理局次長となって,その後1959年6月に東京郵政局長として転出するまで7年近く電波の「万年次長」を務めておられました。いやしくも「高級官僚」たる者は短い期間で「無責任に」ポストからポストへどんどん異動しては偉くなっていくはずなのですが,この塩漬け人事はなかなかのもの,郵政省は違ったようです。)

 

  かくて,この時期〔第1次岸内閣改造内閣発足時,すなわち1957年7月10日〕に就任した郵政大臣田中角栄氏は,テレビジョン局開設について全国的に大量の予備免許を与えるとともに,永年の懸案であった放送法の改正法律案を閣議を経て国会に提出した。予備免許は世人も驚くほどまことに迅速且つ果断の措置であったが,法案は政府の権力を番組面に加うることは毫もなく,番組についてはあくまで放送事業者の自主的規律を重んずるものであった。

  この法律案は国会審議の都合で成立するに至らなかったが,この案を基礎としこれに若干の修正を加えた案が,次の郵政大臣寺尾豊氏〔1958年6月12日就任〕によって作成され,閣議を経て国会に提出された。この案は国会において部分的に若干の修正を受けたが,大綱においては変わることなく成立した〔昭和34年法律第30号〕。その結果が現行〔19639月当時〕の放送法である。この改正の主要眼目は,良質放送番組の確保にあり,しかもその方法としては,法律において番組のあり方について明文を以て指示する以外は,一切を放送事業者の自律に求めることとし,官の権力はいささかも及ぼさないというものであった。

  この法律案の立案及び国会説明に,寺尾大臣は非常な努力をされた。夜も官舎に係官を呼び自ら逐条審議を続け,早朝も4時頃には起きて国会への準備をされたのである。しかもこの際見落してならないことは,この肝胆をくだいての努力が,放送の自由,言論表現の自由をまもるためのものであったことである。法律の立案権をもつということは,極めて大きな権力である。その力をもつ人が,この方向にこれほどの積極性を示したその良識と信念とには,十分の敬意が払われて然るべきである。(荘宏『放送制度論のために』(日本放送出版協会・1963年)221222頁)

 

 「法案は政府の権力を番組面に加うることは毫もなく,番組についてはあくまで放送事業者の自主的規律を重んずるものであった。」,「改正の主要眼目は,良質放送番組の確保にあり,しかもその方法としては,法律において番組のあり方について明文を以て指示する以外は,一切を放送事業者の自律に求めることとし,官の権力はいささかも及ぼさないというものであった。」ということです(下線は筆者)。したがってこれは,当時の政府当局者は,当時の放送法44条3項(現在の第4条1項)は「道徳的,社会的な基準」にすぎないとの中村純一委員の前記解釈を依然採用しており,かつ,それを前提としていたということでしょう。

 昭和34年法律第30号によって,番組基準(放送法現行5条参照)及び放送番組審議機関(同法現行6条及び7条参照)に関する制度が導入されたのですが,これらは,「放送法は,・・・各放送事業者が自らの判断と力によって自らの放送番組を適正なものにすることを求めている。そこには官憲の介入,干渉は全くない。放送番組については必要最少限度の準則を法が直接に定め,それ以外はすべて放送事業者の自律にまかされているのである。」という法制度を前提に,「そこでもう一段の工夫を加え」たものとされています(荘289頁)。

 どうも当時の政府当局は,放送法原始規定44条3項及び53(なお,高塩修正によって「一般放送事業者」にも放送法原始規定44条3項の準用が同53条を通じてあることになったの理由の一つとしては,「一般放送事業者」にも土地収用法の適用があるようにしようという(放送法原始規定49条参照)虫のよい提案が衆議院電気通信委員会からの原案段階であったからのようです。高塩修正の原案に係る放送法案53条について,GHQ民間情報教育局の前記1950年3月30日文書(Box No.2205の27コマ目)は,「第53条第3項――民間放送事業者に土地収用法の特権を認めることは,不必要であり,かつ,財産所有者に対して有害であるようである。私立の学校,新聞社及び劇団が同様の特権を有するものであるのかどうか,考えさせられる。」と批判しています。)に基づく電波法76条1項の運用停止等の処分はないものと考えていたようです。この状況において,それでは,当時の岸信介内閣総理大臣はどのように考えていたかというと,次のような答弁が,1959年3月10日の参議院逓信委員会でされています。

 

 ○森中守義君 ・・・あなたの手によって出される法案に対しては,すべての国民が不安と疑惑と嫌悪を持っておる。そういう岸内閣によっていずれ,先刻あなたのお答えからいくならば用意したいという放送法の改正は,防諜法あるいは軍機保護法の制定がそうそう簡単にいかぬ。従ってこの機会に事務的あるいは法体系の整備という一つの口実を設けて,その裏に隠れて日本放送協会や一般放送事業者に対する悪らつな政治的意図のもとに法改正が用意されないとは,私は残念ながら岸総理のもとにおいてはどうしても信頼ができません。・・・

 ○国務大臣(岸信介君)・・・しかしいずれの意味にいたしましても,今森中委員のお話のように,私は放送法を根本的に検討して,そして何かここに言論統制の意図を持ってこれを改正するというような考えは毛頭持っておりません。・・・決して政治的な特殊の意図をもって,特に言論の自由を統制し制限するというような意図のもとに,いかなる意味においても将来も放送法をそういう意図をもって改正するとか,検討するという意思は毛頭持っておらないことをここに明白に申し上げておきます。

 (第31回国会参議院逓信委員会会議録第1110頁)

 

放送法を改正せず,検討もしないというのですから,当然「言論の自由を統制し制限する」方向での解釈変更もしないということのようです。「いかなる意味においても将来も」というのですから,非常に重い言葉です。

岸信介の衣鉢を継ぐものと自己規定する政治家であれば,放送法4条1項と電波法76条1項との関係についての見解表明においてやや窮屈を感じざるを得ないことになるようです。

とはいえ,「不安と疑惑と嫌悪」やら「悪らつ」やら,一国の内閣総理大臣をボロクソに言う日本社会党の森中守義委員はなかなかのものでしたが,その同委員も見逃していた昭和34年法律第30号による「悪らつ」な改正条項が実は存在していたのではないでしょうか。同法による改正後の放送法44条4項及び51条に係る「・・・国内放送の放送番組の編集に当つては,・・・教養番組又は教育番組並びに報道番組及び娯楽番組を設け,放送番組の相互の間の調和を保つようにしなければならない。」との規定(前出)が,それです。娯楽番組をしっかり放送して庶民を満足させなければならないと法認したというのがよいところです。現在はとんと見かけなくなりましたが,かつてはプロ野球中継が大人気の放送番組でした。昭和34年法律第30号成立の翌年である1960年の1月19日,米国ワシントン市で新たな日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約が調印され,同条約をめぐっては,国会の承認(憲法61条・602項)を経ての同年6月23日の発効に向けて世情は騒然としたと伝えられていますが,無論,後楽園球場などは善良な庶民で満員でありました。難しい報道番組などを視聴して悲憤慷慨するよりも,ひいきのプロ野球チームを楽しく応援する方が,気が利いているようです。(とはいえ,「プロ野球」といわれると,覚せい剤取締法違反被疑事件ないしは被告事件弁護を最近は思い出してしまって楽しめないのは,弁護士の職業病でしょうか。) 


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1 大同の元号

 9世紀初めの我が平城天皇時代の元号は,大同でした。

 ところでこの大同という元号はなかなか人気があり,我が国のほか,六朝の梁においても(535546年),契丹族の遼においても(947年)採用されています。

 最近の例としては,1932年3月1日の満洲国建国宣言発表に当たって採用されています(1934年に満洲国の帝制移行とともに康徳に改元)。

 


2 大同元年の日満議定書

 この満洲国の大同元年の9月15日,同国と我が国との間で議定書(日満議定書)が署名調印され,条約として即日発効しました(昭和7年条約第9号)。日満議定書の内容は,次のとおりです。

 


         議 定 書

 日本国ハ満洲国ガ其ノ住民ノ意思ニ基キテ自由ニ成立シ独立ノ一国家ヲ成スニ至リタル事実ヲ確認シタルニ因リ

 満洲国ハ中華民国ノ有スル国際約定ハ満洲国ニ適用シ得ベキ限リ之ヲ尊重スベキコトヲ宣言セルニ因リ

 日本国政府及満洲国政府ハ日満両国間ノ善隣ノ関係ヲ永遠ニ鞏固ニシ互ニ其ノ領土権ヲ尊重シ東洋ノ平和ヲ確保センガ為左ノ如ク協定セリ

 一 満洲国ハ将来日満両国間ニ別段ノ約定ヲ締結セザル限リ満洲国領域内ニ於テ日本国又ハ日本国臣民ガ従来ノ日支間ノ条約,協定其ノ他ノ取極及公私ノ契約ニ依リ有スル一切ノ権利利益ヲ確認尊重スベシ

 二 日本国及満洲国ハ締約国ノ一方ノ領土及治安ニ対スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約国ノ他方ノ安寧及存立ニ対スル脅威タルノ事実ヲ確認シ両国共同シテ国家ノ防衛ニ当ルベキコトヲ約ス之ガ為所要ノ日本国軍ハ満洲国内ニ駐屯スルモノトス

 本議定書ハ署名ノ日ヨリ効力ヲ生ズベシ

本議定書ハ日本文及漢文ヲ以テ各2通ヲ作成ス日本文本文ト漢文本文トノ間ニ解釈ヲ異ニスルトキハ日本文本文ニ依ルモノトス

 


右証拠トシテ下名ハ各本国政府ヨリ正当ノ委任ヲ受ケ本議定書ニ署名調印セリ

 


昭和7年9月15日即チ大同元年9月15日新京ニ於テ之ヲ作成ス

 


               日本帝国特命全権大使 武藤信義(印)

 


               満洲国国務総理    鄭 孝胥(印)

 


3 日満議定書と日米安保条約

 


(1)旧日米安保条約

 日満議定書については,旧日米安全保障条約との「類似性」がしばしば指摘されました。

1951年9月8日にサンフランシスコで調印され,1952年4月28日に発効した旧日米安保条約1条は次のとおり。

 


  平和条約及びこの条約の効力発生と同時に,アメリカ合衆国の陸軍,空軍及び海軍を日本国及びその附近に配備する権利を,日本国は許与し,アメリカ合衆国はこれを受諾する。この軍隊は極東における国際の平和と安全の維持に寄与し,並びに,1又は2以上の外部の国による教唆又は干渉によって引き起こされた,日本国における大規模の内乱及び騒擾を鎮圧するため,日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて,外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。

 


旧日米安保条約は,「「アメリカの日本防衛義務」を欠落させるという「本質的欠陥」を残したまま,単なる駐軍協定となった」と評されています(原彬久『岸信介―権勢の政治家―』(岩波新書・1995年)227頁)。同条約において日本が「従属的地位」にあることが日本国民の怒りをかっているとは,1957年,内閣総理大臣就任時の岸信介が米国側に述べた認識でもありました(原187頁)。

なるほど,日満議定書が旧日米安保条約と類似しているのならば,我が国は満洲国内に駐軍権を確保しつつもうまい具合に満洲国防衛の義務は免れていたのか,とも思われるところです。しかし,日満議定書の文言からは直ちにはそうともいえないようです。

19511018日,第12回国会衆議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会において,西村榮一衆議院議員は,片務的(米国に日本防衛義務が無い。)な旧日米安保条約に比べて,(少なくとも文言上は)双務的な日満議定書の方が「平等にして友好的にして,また筋道が立つて」いる旨指摘して,吉田内閣の見解を問うています。

 


○西村(榮)委員 ・・・その日満議定書の共同防衛の中には,満洲国の攻撃は日本に対する攻撃と見なし,日本国に対する攻撃は,満洲国また共同の責任をもつてこの日満両国の防衛に当らねばならぬということが,明確にされておるのでありまして,今から20年前に締結されたこの日満議定書には,日満両国は平等の立場に立つて,領土権は尊重して,同時に満洲国の一寸の土といえども侵された場合においては,日本は全生命を賭してこれを防衛するということが明示せられておるのであります。・・・少くとも日本が満洲国にとつた日満議定書の方が,この日米防衛協定よりもはるかに平等にして友好的にして,また筋道が立つて,共同防衛の立場に立つておるということだけは,私は申し上げておきたいのでありますが。総理大臣のこの日満議定書をごらんになつての御感想はいかがですか。

 


 答弁の難しい質疑であって,西村熊雄外務省条約局長も吉田茂内閣総理大臣も,日満議定書は実は日本が駐軍権を持つだけの片務的なものだったとも,旧日米安保条約は米国が日本防衛義務をしっかり負う双務的なものだとも言わずに,いわゆるすれ違い答弁に徹しています。(なお,我が国に満洲国防衛義務が無かったのならば,我が軍苦戦の1938年の張鼓峰事件,大損害を受けた1939年のノモンハン事件等は何だったのかということになりかねません。)

 


 ○西村(熊)政府委員 私は日満議定書における満洲国の立場に立つよりも,日米間の保障条約における日本の立場に立つことを,今日の日本国民の絶対多数は支持すると思います。

 


  ・・・

 


 ○吉田国務大臣 西村条約局長の申したところ,すなわち私の所見であります。

 


旧日米安保条約作成の過程においては,「吉田〔茂内閣総理大臣〕がアメリカ側に「対等の協力者」でありたいと申し出たとき,アメリカはこれを一蹴した。日本が米軍を受け入れることと,米軍が日本を防衛することとを等価交換することによって,「日米対等」を立証しようとした吉田の提案は完全に斥けられた。アメリカはいわゆるバンデンバーグ決議(1948年,上院で採択)第3項によって,「自助および相互援助」の力を日本が備えない限り,「対等の協力者」として日本を遇することはできないと主張したのである。/しかも,この「自助および相互援助」の力とは軍事力そのものであって,それ以外の何物でもない,というのがアメリカの立場であった。」という事情があったそうです(原226227頁)。満洲国ですら,西太平洋に広がる大日本帝国の「領土及治安ニ対スル一切ノ脅威」に対して健気に「両国共同シテ国家ノ防衛ニ当ルベキコトヲ約」したのにお前は何だ,とでもいうことでしょうか。

なお,日米安保条約体制の文脈でいわれる「日米対等」とは,我が国の敗戦以来の米軍の我が国土への駐留を所与のものとしつつ,その見返りに確実に米国に日本防衛義務を負わせる,ということのように解されます。

 


(2)新日米安保条約

前記のような情況下,1960年の新日米安保条約(同年119日ワシントンで署名,同年623日発効)に向けた内閣総理大臣「岸〔信介〕の狙いは,第1に「対等の協力者」の証しとして「アメリカの日本防衛義務」を条文化することであり,そのためには第2に,「自助および相互援助」の力すなわち日本の防衛力増強の努力をアメリカに認めさせて,新しく「相互防衛条約」をつくろうということであった」そうです(原227228頁)。

それでは,新日米安保条約における米国の「日本防衛義務」はどのようなものになったのでしょうか。

 


・・・第一に新条約に「日米対等」を求めるとすれば,「アメリカの日本防衛義務」を同条約に組み込むことは,論理必然的に「日本のアメリカ防衛義務」を何らかの形で条文化することにつながるはずである。しかし「日本のアメリカ防衛義務」が,「戦力」と「海外派兵」を許さない日本国憲法に阻まれるのは当然であった。したがって新条約第5条は,・・・アメリカが日本領土を防衛し,日本が日本の施政下にある米軍基地を防衛するという,いささかトリッキーな内容をもつことになるのである。

 ところが,第5条はそれだけをみれば確かにトリッキーだが,この第5条の仕掛けをそれでよしとするほどアメリカは甘くない。第6条のいわゆる極東条項がこの「仕掛け」を十分説明している。つまりアメリカは,この第6条によって,「極東における国際の平和と安全の維持に寄与するため」に在日基地を使用することができるとなれば,同国は「極東の平和と安全」の「ため」とみずから判断して,その世界戦略に在日基地を利用できる。第5条におけるアメリカの日本にたいする「貸し」は,第6条の極東条項によって埋め合わせがつくという仕組みである。・・・(原229頁)

 


 「トリッキー」ではありますが,一応つじつまを合わせて「アメリカの日本防衛義務」を認めさせているようではあります。岸信介は鼻高々であったでしょうか。実はそうではありませんでした。

 


 ・・・みずから「命をかけた」安保改定がいかに不十分,不本意であるかは,彼〔岸〕自身が最もよく知っている。彼はこういう。「もし憲法の制約がなければ,日本が侵略された場合にアメリカが,アメリカが侵略された場合に日本が助けるという完全な双務条約になっただろう」(〔原彬久による岸インタビュー〕)。岸にとって現行憲法は,ここでも「独立の完成」を妨げる「元凶」としてあらわれるのである。新安保条約が完成されたとはいえ,同条約への新たなフラストレーションが,ほかでもない,「憲法改正」にたいする岸の執念を膨らませていく。(原230頁)

 


 岸信介の不満は,双務性の不十分性にあるようですが,やはり「アメリカの日本防衛義務」がなお不十分であるということでしょうか。

現在の日米安保条約の第5条1項及び第6条1項は次のとおりです。

 


 第5条1項 各締約国は,日本国の施政の下にある領域における,いずれか一方に対する武力攻撃が,自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め,自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。

 


 第6条1項 日本国の安全に寄与し,並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため,アメリカ合衆国は,その陸軍,空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。

 


(3)日米安保条約5条1項とNATO条約5条1項との比較

現行日米安保条約5条1項の日本語は,一見,米国の日本防衛義務をきちんと規定しているようですが,岸信介はどこが不満だったのか。同項の英文を見てみましょう。

 


Each Party recognizes that an armed attack against either Party in the territories under the administration of Japan would be dangerous to its own peace and safety and declares that it would act to meet the common danger in accordance with its constitutional provisions and processes.

 


 これを,次の北大西洋条約(NATO条約)5条1項と比較してみましょう。

 


The Parties agree that an armed attack against one or more of them in Europe or North America shall be considered an attack against them all and consequently, they agree that, if such an armed attack occurs, each of them, in exercise of the right of individual or collective self-defence recognised by Article 51 of the Charter of the United Nations, will assist the Party or Parties so attacked by taking forthwith, individually and in concert with the other Parties, such action as it deems necessary, including the use of armed force, to restore and maintain the security of the North Atlantic area.

  (加盟国は,欧州又は北米における1又は2以上の加盟国に対する武力攻撃は全加盟国に対する攻撃であるものととみなすことに合意し,したがって,加盟国は,そのような攻撃が発生したときは,各加盟国が,国際連合憲章第51条によって認められた個別的又は集団的自衛権の行使として,個別に及び他の加盟国と協力して,北大西洋地域における安全の回復及び維持のためにその必要と認める行動(武力の使用を含む。)を直ちに執って,そのように攻撃を受けた加盟国を援助するものとすることに合意する。)

 


なるほど。北大西洋条約5条1項前段の場合には欧州又は北米における1又は2以上の加盟国に対する武力攻撃は全加盟国に対する攻撃であるものとみなす(shall be considered an attack against them all)旨合意する(agee)と端的に規定されているのに対して,日米安保条約5条1項前段の場合,「各締約国は,日本国の施政の下にある領域における,いずれか一方に対する武力攻撃が,自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め」の部分における「危うくするものであること」とは,would be dangerous”であって,これは推量のwouldを用いた表現ですね。だから両締約国が合意(agee)するのではなくて,各締約国が各別に認める(recognizes(三単現のs付き))わけなのですか。となると,北大西洋条約の「みなす」との相違が明らかになるように訳するとなると,「各締約国は,日本国の施政の下にある領域における,いずれか一方に対する武力攻撃が,自国の平和及び安全を危うくするものと推定されるものであることを認め」でしょうか。英文ではshallではなく,せっかくwouldが用いられているのですから,日米安保条約の適用を受ける「日本国の施政の下にある領域」における日本に対する武力攻撃であっても,米国の平和及び安全にとっては危険を及ぼさないものであるとされる可能性はなお排除されないわけです。

北大西洋条約5条1項後段では,端的に,攻撃を受けた加盟国を直ちに援助する(will assist the Party or Parties so attacked….forthwith)」旨合意(agee)されています。これに対して,日米安保条約5条1項後段は,ここでも両締約国の合意ではなく各締約国個別の宣言(declares)となっており,さらに,「直ちに(forthwith)」援助してくれるのではなく,「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」から「共通の危険に対処するように行動する」ものとされています。日本のために宣戦してあげましょう,ということになると,合衆国大統領の一存というわけにはいかず,合衆国憲法上,連邦議会が決定権を持つことになります。(また,更に1973年戦争権限法が連邦議会の関与について定めています。)最後にまた,「共通の危険に対処するように行動」するといっても,そこでの助動詞は,北大西洋条約のように端的なwillではなく,またまたwouldであって不確実です(would act to meet the common danger)。英和辞典には,“I would if I could.”などという頼りなげな例文が出ています。ここでも,せっかくのwouldを強調して訳すると,「自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動するであろうことを宣言する。」となりましょうか。

「各締約国は,日本国の施政の下にある領域における,いずれか一方に対する武力攻撃が,自国の平和及び安全を危うくするものと推定されるものであることを認め,自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動するであろうことを宣言する。」ということになると,確かに,「アメリカの日本防衛義務」は,文言上はなお頼りないものです。対処の対象は飽くまでも「共通の危険」なので,日本国の施政の下にある領域における日本に対する武力攻撃であっても,米国の平和及び安全にとっては危険を及ぼさないものであるとされた場合には,日本単独の危険であっても共通の危険ではないものとされ,また,共通の危険であると認められても,「直ちに(forthwith)」ではなく「自国の憲法上の規定及び手続」を経た上で援助が与えられ,しかもとどのつまりが,“I would if I could.”なのですから。

無論,以上は英語の素人の素人考えであって,外務省等の英語の達人の方々が別異に解釈されるのならば,それに従うべきことはもちろんです。(しかし,1854年の日米和親条約では,和文と英文との相違による混乱がありましたね。)

 


(4)岸信介の憲法改正構想と日米安保条約「再改定」

岸信介の憲法改正構想は,なお米軍の我が国土への駐留を所与のものとしつつ,その見返りである米国による日本防衛義務を,北大西洋条約加盟国に対する米国の防衛義務と同程度に完全ならしめるため,同条約5条1項にいう「国際連合憲章第51条によって認められた・・・集団的自衛権の行使」が我が国もできるようにしよう,というものだったのでしょう。(なお,2012年4月27日決定の自由民主党憲法改正草案では,憲法9条2項を「前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。国の交戦権は,これを認めない。」から「前項の規定は,自衛権の発動を妨げるものではない。」に改め,憲法上「自衛権の行使には,何らの制約もないように規定し」たとし(同党『QA』),集団的自衛権の行使が可能になるようにするものとされています。これも同様のねらいを有するものでしょう。)

日本の集団的自衛権行使を前提として,米国の日本防衛義務を完全ならしめるため,現在の日米安保条約5条1項及び6条1項を合わせて,北大西洋条約5条1項に倣って再改定すると,次のようになるのでしょうか。

 


 締約国は,日本国又はアメリカ合衆国の施政の下にある領域における,いずれか一方に対する武力攻撃が,両締約国に対する攻撃であるものととみなすことに合意し,したがって,締約国は,そのような攻撃が発生したときは,各締約国が,国際連合憲章第51条によって認められた個別的又は集団的自衛権の行使として,個別に及び他の締約国と協力して,北太平洋地域における安全の回復及び維持のためにその必要と認める行動(武力の使用を含む。)を直ちに執って,そのように攻撃を受けた締約国を援助するものとすることに合意する。

 前項の目的のため,アメリカ合衆国は,その陸軍,空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。

 


 日満議定書第2項に倣った場合は,次のとおり。

 


日本国及亜米利加合衆国ハ締約国ノ一方ノ領土及治安ニ対スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約国ノ他方ノ安寧及存立ニ対スル脅威タルノ事実ヲ確認シ両国共同シテ国家ノ防衛ニ当ルベキコトヲ約ス之ガ為所要ノ合衆国軍ハ日本国内ニ駐屯スルモノトス

 


 集団的自衛権を行使できるようにすることによって初めて,米国との関係で我が国は,日満議定書における満洲国並みの地位を確保できることになるということでしょうか。米軍の我が国駐留を出発点としつつ,せっかくの在日米軍を活用して米国に我が国防衛義務を負わせようとすると,かえって我が国が,大西洋・カリブ海にまで及ぶ米国の共同防衛義務を負わされることになるというのは,なかなかですね。

 しかし,「私は日満議定書における満洲国の立場に立つよりも,日米間の〔旧安全〕保障条約における日本の立場に立つことを,今日の日本国民の絶対多数は支持すると思います。」との前記西村外務省条約局長の答弁は,問題は,条約の一条項における文面上の対等性ばかりではないということをかえって証するものでしょう。

 


4 鄭孝胥国務総理の煩悶

 日本軍駐屯の見返りに(日本に対する共同防衛義務も負うものの)しっかり日本の満洲国防衛義務を確保したのであったなら,日満議定書は,日米安保条約における吉田茂及び岸信介両内閣総理大臣に比すれば,満洲国国務総理鄭孝胥の外交的大成功であったということになるようですが,そうでもなかったようです。

 


 ・・・1932年9月15日の日満議定書調印式に「武藤全権大使随員として立ち会った米沢菊二一等書記官が書き残したメモによれば,武藤の挨拶に対して鄭孝胥が示した反応は・・・。

   鄭総理は早速に答辞を陳べんとして陳べ得ず,いたずらに口をもぐもぐさせ,顔面神経を極度にぴりぴり動かし,泣かんばかりの顔を5秒,10秒,30秒,発言せんと欲して能はず。心奥の動揺,暴風の如く複雑なる激情の交錯するを思わせるに十分であった。(米沢『日満議定書調印記録』)

鄭孝胥は調印6日前になって突然辞任を申し出,国務院への登院を拒んでいた・・・。・・・米沢は鄭孝胥の辞意は単なる駒井〔徳三総務長官〕排斥の意図にとどまらないのではないか,との判断をもっていた。すなわち「調印により売国奴の汚名を冠せられ,支那4億の民衆よりのちのちに至るまで満洲抛棄の元凶と目されんことを恐れ,調印の日の切迫するにつれ煩悶の末,その責任を遁れんがため,辞職を申し出たるにあらざるか」(同前)と推測していたのである。そのため,最終局面で鄭孝胥が調印を拒絶するのではないかとの危惧が去らず,鄭総理の顔面の異常な痙攣を見て,米沢は一刻も早く調印をすませるべく,本来先に行なうべき日付の記入を後回しにしてまず署名を求めたという。」(山室信一『キメラ―満洲国の肖像』(中公新書・1993年)211212頁)

 


 鄭孝胥は,「満洲国は抱かれたる小児の如し。今手を放してこれを歩行せしめんと欲す。・・・然るに児を抱く者,もしいたずらに長くこれを手に抱かんか児ついに自立の日なし。・・・ここに至りて我満洲国の未だよく立つあたわざるの状,日本政府あえて手を放して立たしめざるの状況,これ今日自明の所ならん。」程度の日本批判を関東軍にとがめられて,1935年辞任。憲兵の監視下にあって,家に閉じこもって書道に歳月を費やし,1938年,風邪に腸疾を併発し,新京で死亡しました。(山室218219頁)

日本人は真面目なのですが,真面目な分だけちょっとした当てこすりにも過敏に反応して,陰険な意地悪をするものです。戒心しましょう。


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1 また『この国のかたち』から

 司馬遼太郎の『この国のかたち』を読むと,統帥権の独立の制度については,1908年の制度改正が画期であったとされています。




 参謀本部にもその成長歴があって,当初は陸軍の作戦に関する機関として,法体制のなかで謙虚に活動した。

 日露戦争がおわり,明治41年(1908年),関係条例が大きく改正され,内閣どころか陸軍大臣からも独立する機関になった。やがて参謀本部は“統帥権”という超憲法的な思想(明治憲法が三権分立である以上,統帥権は超憲法的である)をもつにいたる・・・(司馬遼太郎「3 “雑貨屋”の帝国主義」『この国のかたち 一』)

 

 明治憲法はりっぱに三権分立の憲法で,三権に統帥権は入らない。

 が,やがてこの憲法思想外の権がガン細胞のように内閣から独立し(1908年),昭和10年以後はあらゆる国家機関を超越する権能を示しはじめた。このことへいたる情念の歴史として,前記の正成の劇的情景〔楠木正成湊川出陣決定御前会議〕がある。(司馬遼太郎「5 正成と諭吉」『この国のかたち 一』)

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 (皇居前広場楠木正成像)

 上記の各文章によれば,1908年の参謀本部条例の改正によって,それまで内閣及び陸軍大臣に属していた参謀本部が,新たにこれらの機関から独立することになったということのようです。



2 参謀本部条例の1908年改定の前と後




(1)1908年改定前後の参謀本部条例

 190812月の改正前後の新旧参謀本部条例を見てみましょう。

 まずは,新参謀本部条例。




朕参謀本部条例ヲ改定シ之カ施行ヲ命ス

 御 名 御 璽

  明治411218日〔官報・同月19日〕

     陸軍大臣 子爵 寺内正毅

軍令陸第19

   参謀本部条例

第1条 参謀本部ハ国防及用兵ノ事ヲ掌ル所トス

第2条 参謀総長ハ陸軍大将若ハ陸軍中将ヲ以テ親補シ 天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル計画ヲ掌リ参謀本部ヲ統轄ス

第3条 参謀総長ハ参謀ノ職ニ在ル陸軍将校ヲ統督シ其ノ教育ニ任シ陸軍大学校及陸地測量部ヲ管轄ス

第4条 参謀次長ハ参謀総長ヲ輔佐シ本部一切ノ事務整理ニ任ス

第5条 参謀本部部長ハ参謀総長ノ命ヲ承ケ課長以下ヲ指揮シ其ノ主務ヲ掌理ス

第6条 参謀本部ノ編制ハ別ニ定ムル所ニ拠ル

第7条 参謀本部ニ於ケル服務規則ハ参謀総長之ヲ定ム



 なるほど,第2条で参謀総長は「天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画」するとありますから,天皇直属であって,内閣からも陸軍大臣からも独立しているわけです。

 司馬遼太郎によれば,当該規定は,1908年の改定前の旧参謀本部条例にはなかったということでしょう。旧参謀本部条例(1905年の第4条改正後のもの)は,次のとおり。




朕参謀本部条例ノ改正ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 御 名 御 璽

  明治32年1月14日〔官報・同月16日〕

     内閣総理大臣 侯爵 山縣有朋

     陸軍大臣 子爵 桂太郎

勅令第6号

   参謀本部条例

第1条 参謀本部ハ国防及用兵ノ事ヲ掌ル所トス

第2条 参謀総長ハ陸軍大将若クハ陸軍中将ヲ以テ親補シ

 天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル一切ノ計画ヲ掌リ又参謀本部ヲ統轄ス

第3条 参謀総長ハ国防ノ計画及用兵ニ関スル命令ヲ立案シ

 親裁ノ後之ヲ陸軍大臣ニ移ス

第4条 参謀総長ハ陸軍参謀将校ヲ統督シ其教育ヲ監視シ陸軍大学校,陸地測量部,陸軍文庫並在外国大使館附及公使館附陸軍武官ヲ統轄ス

第5条 参謀本部次長ハ陸軍中将若クハ陸軍少将ヲ以テ之ニ補シ参謀総長ヲ輔佐シ本部一切ノ事務整理ニ任ス

第6条 参謀本部ノ編制ハ別ニ定ムル所ニ拠ル



おやおや,ほとんど同じですね。特に新旧条例各2条の「参謀総長ハ・・・天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ」は,全く同一です。



(2)1878年の参謀本部条例と統帥権の独立

実は,参謀本部の独立は,187812月5日の参謀本部条例(右大臣岩倉具視から参謀本部あて「其部条例別冊ノ通被定候条此旨相達候事」との達)によって既に達成されていたのでした。




・・・従来の参謀局は陸軍省に隷属し,参謀局長は陸軍卿に隷してゐたけれども,参謀本部は陸軍省より独立し,本部長は天皇の「帷幕ノ機務ニ参画スルヲ司トル」〔
1878年参謀本部条例2条〕ところの最高の統帥機関となつたのである。即ち参謀本部長は統帥権に関する天皇の幕僚長として「軍中ノ機務,戦略上ノ動静,進軍,駐軍,転軍ノ令,行軍路程ノ規,運輸ノ方法,軍隊ノ発差等,其軍令ニ関スル者」を管知し,之を「参画シ,親裁ノ後直ニ之ヲ陸軍卿ニ下シテ施行セシム」〔同5条〕るものであり,又「戦時ニ在テハ凡テ軍令ニ関スルモノ,親裁ノ後直ニ之ヲ監軍部長,若クハ特命司令将官ニ下ス」〔同6条〕ものである。従つて参謀本部長は,統帥権に関する最高の輔弼機関である関係上,軍政に於ける陸軍卿の地位にあるのではなくて,寧ろ其の上の太政大臣〔三条実美〕に相等する地位に在るものである。何となれば陸軍卿は直接天皇輔弼の責に任ずるものではなく,それは専ら太政官の三職〔太政大臣・左右大臣・参議〕,就中太政大臣にあつたからである。換言すれば参謀本部長の権限は,従来の陸軍卿及び太政大臣の権限より統帥権に関する部分を独立せしめたものといふことが出来る。従つて参謀本部長の地位は,陸軍卿に優越するものと解せられるのである。

 かくして陸軍に在つては,明治11年に於て名実共に統帥部の独立が実現したのである。・・・(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)227228頁)



3 勅令から軍令へ

 さて,それでは,司馬遼太郎は1908年の参謀本部条例のどこに注目して警鐘を鳴らしたのでしょうか。

 法形式と副署者に注目しましょう。

 1899年の参謀本部条例は,勅令であって,内閣総理大臣及び陸軍大臣が副署しています。

 これに対して,1908年の参謀本部条例は,軍令であって,副署者は陸軍大臣だけです。



(1)勅令

 勅令は,「旧憲法時代,天皇によって制定された法形式の一つで,天皇の権能に属する事項(皇室の事務及び統帥の事務を除く。)について抽象的な法規を定立する場合に用いられた法形式」です(前田正道編『ワークブック法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)49頁)。美濃部達吉は次のように説明しています。

 


・・・〔公文式(明治
19年勅令第1号)〕は,等しく天皇の勅定したまふ国家の意思表示の中に,法律と勅令との2種の形式を区別したのであるが,併し憲法実施までは,法律と勅令とは唯名称だけの区別で,何等法律上の意義ある区別ではなかつた。憲法の実施に依りて,それは単に名称だけの区別ではなく,(1)その制定手続に於いて,(2)その規定し得べき内容に於いて,(3)及びその効力に於いて相異なるものとなつたのである。(1)制定手続に於いては,法律は議会の議決を経て定められ,勅令はその議決を経ずして定められる。(2)内容に於いては,法律は原則として如何なる事項でも定むることが出来るが,勅令は唯憲法上限られた事項だけを定むることができる。(3)効力に於いては,法律は勅令の上に在り,法律を以ては勅令を変更することが出来るが,勅令を以ては法律を変更することは出来ない。(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)168169頁)

 ・・・勅令が他の国務上の詔勅と区別せらるゝ所以は,勅令は国民に向つて法規を定めることを主たる目的とすることに在る。固より勅令を以て規定せらるゝ所が常に法規のみに限るといふのではない。行政命令〔「電信規則・電話規則・各種の学校令・鉄道乗車規程の如く,全然国民の権利義務に付いての規律を定むるものではなく,唯人民が自己の自由意思を以て之を利用するに付いての条件たるに止まる」もの〕の性質を有するものが,勅令を以て定めらるゝものは甚だ多いけれども,その主たる目的とする所が,法規を定むるに在ることは疑を容れぬ所である。・・・(美濃部・235頁,232頁)



(2)軍令及びその誕生




ア 軍令

 軍令は,軍令に関する件(明治40911日軍令第1号。同令には題名なし。件名をもって,軍令に関する件と呼ばれています。)の第1条において,「陸海軍ノ統帥ニ関シ勅定ヲ経タル規程ハ之ヲ軍令トス」と定められていたものです。(なお,軍令に関する件の官報掲載日は1907912日ですが,上諭の日付は同月11日であって,同令4条は「軍令ハ別段ノ施行時期ヲ定ムルモノノ外直ニ之ヲ施行ス」と規定しています。)「統帥権の作用として定めらるゝ命令」であって,「国務上の命令ではない」ものであり,「唯統帥権に服する者即ち平時に於いては唯軍人に対してのみ効力を有するもので,一般の人民に対して効力を有するものではない」ものです(美濃部261頁)。「軍隊内部の命令たるに止まるのであるから,国の法令に牴触することを得ないのは勿論」です(同)。公布によって初めて「以て臣民遵行の効力を生ず」る(『憲法義解』)法規とは異なり,軍令は正式に公布されませんでした(軍令に関する件2条参照)。「公示」を要する軍令は,官報で公示されました(同令3条)。「故らに公布なる文字を用ひないのは,軍令は勅令と其の性質を同じくせざることを示し,以て軍令を特殊の勅令と認むるが如き嫌ひを避けたもの」と考えられています(山崎248頁)。

 「予算に影響を及ぼさない限度に於いて,軍隊の内部の編制を定むるの権」は「内部的編制権」であり,内部的編制権は,美濃部においても大日本帝国憲法11条(「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」)の統帥権の範囲内にあるものとされていました(美濃部259頁)。参謀本部条例は,統帥権の一環たる内部的編制権の発動により参謀本部の構成について天皇が定める規程であるから,1908年の参謀本部条例については軍令の形式が採られたということでしょう。



イ 軍令の誕生

 それでは,1899年の参謀本部条例はなぜ軍令の形式ではなく,勅令の形式で定められたのでしょうか。理由は簡単です。軍令の形式は,1907年の明治40年軍令第1号によって初めてできたものであって,それ以前には軍令の形式は存在しておらず,当該形式の採りようがなかったからです。



(ア)公式令制定に伴う内閣総理大臣の副署対象の全勅令への拡大

 それでは更に,なぜ1907年9月に軍令という形式が定められたのでしょうか。これは,同年2月1日から施行されていた公式令(明治40年勅令第6号)7条2項の規定が原因です。勅令に係る国務大臣の副署(大日本帝国憲法552項「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」)については,それまでの公文式3条が「法律及一般ノ行政ニ係ル勅令ハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ主任大臣ト倶ニ之ニ副署ス其各省専任ノ事務ニ属スルモノハ主任大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス」と規定していて,各省専任の事務に属する勅令については内閣総理大臣の副署を要さず主任の国務大臣の副署だけで足りるものとしていたのに対して,新しい公式令7条2項は,「〔勅令〕ノ上諭ニハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ国務各大臣若ハ主任ノ国務大臣ト倶ニ之ニ副署ス」と規定し,各省専任の事務に属する勅令をも含めて例外なく,すべての勅令について内閣総理大臣が副署するものとしていたからです。

 勅令に対する国務大臣の副署の効力については,「法律勅令及其の他国事に係る詔勅は大臣の副署に依て始めて実施の力を得。大臣の副署なき者は従て詔命の効なく,外に付して宣下するも所司の官吏之を奉行することを得ざるなり。」とされていました(『憲法義解』)。



(イ)公文式時代の慣行及びその維持

 明治40年軍令第1号の起案を担当したのは,陸軍省軍務局軍事課です(陸軍省であって,参謀本部ではないですね。)。同課によれば,軍令の形式を定める「理由」は,次のとおりでした(中尾裕次「史料紹介「軍令ニ関スル件」」戦史研究年報4号(防衛省防衛研究所(20013月))。




従来軍機軍令ニ関スル事項ハ内閣官制第7条ニ依リ陸軍大臣海軍大臣ヨリ帷幄上奏ヲ以テ親栽ヲ仰キ而シテ陸海軍部外ニ発表ヲ要スルモノハ公文式第3条ニ依リ単ニ陸軍大臣海軍大臣ノ副署ノミヲ以テ公布シ来レリ然ルニ先般公式令制定ト共ニ公文式ヲ廃止セラレタル結果勅令ハ総テ内閣総理大臣ノ副署ヲ要スルコトトナレリ抑モ事ノ軍機軍令ニ関シ若ハ之レト同一ノ性質ヲ有スル軍事命令ハ憲法第
11条同第12条ノ統帥大権ノ行使ヨリ生スルモノニシテ普通行政命令ト全ク其性質軌道ヲ異ニシ専門以外ノ立法機関若ハ行政機関ノ干与ヲ許ササルヲ以テ建軍ノ要義ト為ス

統帥大権ノ行使夫レ斯ノ如ク又内閣官制第7条ハ現行法トシテ尚ホ存在スルカ故ニ此際統帥事項ニ関スル命令ハ特別ノ形式即チ軍令ヲ以テ公布シ主任大臣ノミ之ニ副署スルコトト為シ以テ行政事項ニ属スル命令ト判然之ヲ区別シ統帥大権ノ発動ヲ明確ナラシメントス

 

 お前のサインなどもらわないぞと,内閣総理大臣も嫌われたものですね。しかし,確かに,内閣総理大臣もいろいろではあります。

 内閣官制(明治22年勅令第135号)7条は,「事ノ軍機軍令ニ係リ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニ依リ之ヲ内閣ニ下付セラルノ件ヲ除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」と規定していました。いわゆる帷幄上奏に関する規定です。内閣官制7条の前は,1885年の内閣職権6条ただし書で「但事ノ軍機ニ係リ参謀本部長ヨリ直ニ上奏スルモノト雖トモ陸軍大臣ハ其事件ヲ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」と規定されていました。帷幄上奏は「本来参謀総長・海軍軍令部長の職務として規定せられたのであるが,其の後陸軍大臣又は海軍大臣からも帷幄上奏を為し得る慣習が開かれ,陸軍及び海軍大臣だけは,総理大臣を経由せず単独に上奏し得ることが慣習上認められて居」たものです(美濃部532533頁)。これに対して,陸海軍大臣以外の国務大臣の上奏については,内閣総理大臣が「機務ヲ奏宣スル」(内閣官制2条)ものとされていることから,「総理大臣を経由するか,又は少くとも総理大臣の承認を得た場合であることを要するので,総理大臣の知らぬ間に,各大臣から直接に上奏することは,総理大臣の職責から見て,許されない」とされていました(美濃部532頁)。

 従来陸軍大臣は,統帥事項については内閣総理大臣にも内緒で勅令案を持って行って天皇に上奏して綸言汗のごとき裁可を得て,自分一人がその勅令に副署してそうして施行できたのだから,今更公式令ができたからといって,(政党政治家である可能性もある)内閣総理大臣に「そんな勅令の話,おれは聞いてない。だから,統帥事項だか何だか知らぬがこの勅令には副署しない。」といやがらせをされ得るようになるのはいやだ,ということだったのでしょう。性格の悪い内閣総理大臣との悶着を避けるべく,軍令に関する件2条は,「軍令ニシテ公示ヲ要スルモノニハ上諭ヲ附シ親署ノ後御璽ヲ鈐シ主任ノ陸軍大臣海軍大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス」と規定していました。軍部の主観的意見としては,軍令の形式は部外者には一見あやしげに見えるといっても,統帥事項に係る勅令に関する従来の権限・慣行を維持せしめただけで,「ガン細胞」呼ばわりは心外だ,ということになるのでしょう。

 なお,軍令に対する陸軍大臣又は海軍大臣の副署は,「是は国務大臣としての副署ではなく,帷幄の機関として奉行の任に当たることを証明する行為たるに止まるものと見るべき」とされています(美濃部261頁)。「蓋し我が国法に於ける副署には2種の意義がある。即ち一は憲法第55条の大臣副署と,他は憲法以前より行ひ来りたる副署とである。・・・後者は単に執行当局者たることを表明するものである。宮内大臣の皇室令に副署し,賞勲局総裁の勲記に副署するが如きは専ら後者に属する。陸海軍大臣の軍令に副署するのも亦之と其の性質を同じくするもの」というわけです(山崎249250頁)。



(3)「一般行政」から統帥権の聖域へ

 しかし,1899年の段階では参謀本部条例はなお「一般行政ニ係ル」ものとして内閣総理大臣の副署をも受けていたのに対して(公文式3条),1908年になると,参謀本部条例は純粋な統帥事項に係るものであるとして,内閣総理大臣の副署を要さぬ軍令の形式が採用されるに至っています。この点においては,「一般行政」の領域から自らを引き離すことによって政治の統制から離れ,統帥権が「ガン細胞」化して「一般行政」を侵食することが可能になり始めたといえそうです。

 さらにいえば,「行政各部ノ官制其ノ他ノ官規ニ関スル重要ノ勅令」は枢密院に諮詢することになっていて(枢密院官制69号)厄介でしたが,参謀本部条例が軍令であるということになると,堂々と当然「枢密院ノ諮詢ヲ経ヘキモノニアラス」ということになりました(『統帥綱領・統帥参考』(偕行社・1962年)18頁)。

 いずれにせよ,公文式時代においても,軍部関係の勅令について「傾向としては年を経るにしたがい,軍部大臣だけの副署によるものが多くなったようである」そうです(戸部良一『日本の近代9 逆説の軍隊』(中央公論社・1998年)158頁)。



4 統帥権の独立の「効用」:福沢諭吉の『帝室論』等
 ところで一体,先の大戦以前における我が統帥権の独立の「効用」としては,何が考えられていたのでしょうか。最後は「ガン細胞」になったとはいえ,そもそもの初めには,もっともな目的のために働くべき正常細胞であったはずです。

 「統帥権の独立は,軍の政治介入を意図してつくられた制度ではない。むしろそれは,軍の政治的中立性を確保し,軍人の政治不関与を保証するものとさえ,期待されたのである。」とされています(戸部77頁)。

(1)政治の統帥関与の弊害防止
 政治家が統帥に関与し,あるいは統帥権を握った場合の弊害について,美濃部達吉は「軍人以外の政治家が兵馬の事に容喙することが軍の戦闘力を弱くする虞」がある旨軍事側から見た危惧に言及しているところですが(美濃部257頁),他方,1932年にまとめられた陸軍大学校の『統帥参考』においては,次のように述べられていました。




抑々統帥ノ独立ハ反面ヨリ観レハ政治ノ独立少クモ其保障ニシテ我国ニ於ケル往昔ノ武家政治又ハ現代労農露国ノ政治ノ如ク政府カ兵権ト政権トヲ把握行使スルトキハ政権ノ自然ナル移動授受カ行ハレサルノ虞アリ(『統帥綱領・統帥参考』
7頁)

 

 統帥権の独立は,政府に対抗する在野勢力をもその対象に含めた「政治ノ独立」のためのものだというのです。

先の大戦末期満洲国等に侵入して大暴れした恐ろしい「労農赤軍ノ如キハ彼等ノ意識ヲ以テスレハ元首ノ軍隊ニモアラス所謂国家ノ軍隊ニモアラス全ク共産党ノ軍隊」であったところ(『統帥綱領・統帥参考』1頁),共産党支配下のソ聯においては,「政権ノ自然ナル移動授受」は行われてはいませんでした。

 軍隊の政党化は,明治十四年の政変後,立憲政治の導入に向けた動きの中で,福沢諭吉も憂慮したところでした。




・・・然るに爰に恐る可きは政党の一方が兵力に依頼して兵士が之に左袒するの一事なり国会の政党に兵力を貸す時は其危害実に言ふ可らず仮令ひ全国人心の多数を得たる政党にても其議員が議に在る時に一小隊の兵を以て之を解散し又捕縛すること甚だ易し殊に我国の軍人は自から旧藩士族の流を汲て政治の思想を抱く者少なからざれば各政党の孰れかを見て自然に好悪親疎の情を生じ我は夫れに与せんなどと云ふ処へ其政党も亦これを利して暗に之を引くが如きあらば国会は人民の論場に非ずして軍人の戦場たる可きのみ斯の如きは則ち最初より国会を開かざる方,万々の利益と云ふ可し・・・(福沢諭吉『帝室論』(
1882年))



 1776年7月4日のアメリカ合衆国の独立宣言では,イギリス国王について,「彼は,平時において,我々の立法機関の同意なしに,我々の間において常備軍を保持した」ことが非難されています。そもそも軍隊は,外国と無名の戦争をすることが問題であるばかりではなく,それによって国内において市民の自由が抑圧されることが恐れられていたのでした。同年6月12日のヴァジニア権利章典の第13条は「人民団体によって組成され,武器の使用について訓練された紀律正しい民兵は,自由な邦にふさわしく,自然かつ安全な防衛者である。平時における常備軍は,自由にとって危険なものとして避けられるべきである。あらゆる場合において,軍隊は,市民の権力(the civil power)に厳格に服し,規制されるべきである。」と規定しています。これに対して,自由民主党の日本国憲法改正草案(2012427日決定)9条の2第1項では,「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため,・・・国防軍を保持する。」と,高らかに常備軍の設置がうたわれています。国王に反逆したアメリカ人らの常備軍に対する暗い猜疑の目と比べて,長い歴史にはぐくまれた日本人同士の厚い信頼をそこに見るべきでしょう。いわゆる「安保闘争」に係る1960年6月10日のハガチー事件後,「同事件の原因を「警察力の脆弱さ」に求める岸〔信介内閣総理大臣〕は,・・・〔赤城宗徳〕防衛庁長官にたいして,今度は「研究」ではなく,実際に「自衛隊出動」そのものを求め〔たが〕(結局,防衛庁内の「反対」を岸が受け入れて,これは実現しなかった)」といった激動の時代(原彬久『岸信介―権勢の政治家―』(岩波新書・1995年)220頁)は,遠い過去のことになりました。なお,ちなみに,「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため」に必要な最低限以上の戦力を保持することが憲法上の要請ということになると,財務省の主計官殿がうっかり国防予算に厳しい査定をすると,「国防権干犯!」といって怒られるようになるかもしれません。また,自由民主党の日本国憲法改正草案9条の2第1項の規定する国防軍の目的は,自衛隊法31項の文言を基礎に,そこに「国民の安全」の確保が加えられたもののようですが,ここにいう「国民」には,外国在留の我が同胞が含まれるのでしょうか(同草案25条の3参照)。「居留民保護其他我権益擁護ノ為必要已ムヲ得サル場合ニ於テハ断然目的ヲ達成スル為十分ナル兵力ヲ出動セシメ速ニ其目的ヲ達成」する必要があるとされていたところです(『統帥綱領・統帥参考』29頁)。

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ヴァジニア植民地議会議事堂(Williamsburg, VA)
(ヴァジニア権利章典はジョージ・メイソンの起草に係ります。)

(2)天皇統帥の必要性及び功徳
 統帥権者が政治家ではなく,天皇でなければならない理由は,取り戻すべき日本のかたちとして,軍人勅諭(188214日)において明らかにされていました。いわく,「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある」,「夫兵馬の大権は朕か統ぶる所なれば其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を伝へ天子は文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降の如き失体なからむことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそ」と。
 さらに,実際的な理由としては,福沢諭吉が次のように述べています(『帝室論』)。

 まず,軍人に政治的中立を守らせること。




・・・今この軍人の心を収攬して其運動を制せんとするには必ずしも〔ママ〕帝室に依頼せざるを得ざるなり帝室は遥に政治社会の外に在り軍人は唯この帝室を目的にして運動するのみ,帝室は偏なく党なく政党の孰れを捨てず又孰れをも援けず軍人も亦これに関し,固より今の軍人なれば陸海軍卿の命に従て進退す可きは無論なれども卿は唯其形体を支配して其外面の進退を司るのみ内部の精神を制して其心を収攬するの引力は独り帝室の中心に在て存するものと知る可し・・・



 また,命を賭して戦う戦士の心を受けとめて支えることは,議会政治家の大臣ごときでは,器量不足です。




・・・仮令ひ其大臣が如何なる人物にても其人物は国会より出たるものにして国会は元と文を以て成るものなれば名を重んずるの軍人にして之に心服せざるや明なり唯帝室の尊厳と神聖なるものありて政府は和戦の二議を帝室に奏し其最上の一決御親裁に出るの実を見て軍人も始めて心を安んじ銘々の精神は恰も帝室の直轄にして帝室の為に進退し帝室の為に生死するものなりと覚悟を定めて始めて戦陣に向つて一命をも致す可きのみ帝室の徳至大至重と云ふ可し・・・



 さらに,いったん戦いがあり,それが終わった後に,なお殺気立った戦場帰りの大軍を平穏に日常生活に復帰させることは,議院内閣制政府の首班ごときでは到底無理な大事業であろうと考えられていました。(兵士らのみならず,栄光に包まれた凱旋将軍も危険でしょう。アメリカ独立戦争のときも,ジョージ3世の軍をヨークタウンで破ったジョージ・ワシントン将軍を立てて,王制を樹立しようという動きがあったようです。)




・・・〔
1877年の西南戦争の徴募巡査らは〕戦場には屈強の器械なれども事収るの後に至て此臨時の兵を解くの法は如何す可きや殺気凛然たる血気の勇士,今日より無用に属したれば各故郷に帰りて旧業に就けよと命ずるも必ず風波を起すことならんと我輩は其徴募の最中より後日の事を想像して窃に憂慮したりしが同年9月変乱も局を結で臨時兵は次第に東京に帰りたり我輩は尚当時に至る迄も不安心に思ひし程なるに兵士を集めて吹上の禁苑に召し簡単なる慰労の詔を以て幾万の兵士一言の不平を唱る者もなく唯殊恩の渥きを感佩して郷里に帰り曽て風波の痕を見ざりしは世界中に比類少なき美事と云ふ可し仮に国会の政府にて議員の中より政府の首相を推撰し其首相が如何なる英雄豪傑にても明治10年の如き時節に際してよく此臨時兵を解くの工夫ある可きや我輩断じて其力に及ばざるを信ずるなり

 

 福沢諭吉は不安心のため西南戦争中お腹が痛くなったことでしょうが,偉大な明治天皇の力をもって,無事に兵らは復員して行きました。同様のことが,先の大戦の終了時にも起こったわけです(194581415日夜の宮城を舞台としたクーデタ未遂事件等いろいろありましたが。)。

 自由民主党の日本国憲法改正草案は,天皇を日本国の元首としつつも(同1条),その第9条の2第1項及び第72条3項において,内閣総理大臣をもって国防軍の最高指揮官としています。福沢諭吉がその将来を懸念し,帝室への依頼をなお不可欠と考えていた明治の日本から,今の日本は随分変わり,進歩したわけです。「慶応ブランド」創始者の福沢諭吉も,時代遅れになりました。

現在の問題はむしろ,ゆるゆると続く不況に伴う心優しい閉塞状況の副作用なのか,貔貅たるべき我が国の男児から,真面目な獰猛さが失われてしまってはいないか,ということかもしれません。

(3)蛇足
 なお,憲法に統帥権者を書き込んでしまった場合,「聯合作戦ニ際シ外国軍司令官ヲシテ一時タリトモ帝国軍隊〔国防軍〕ヲ統帥指揮セシムルハ法律的ニ言ヘハ憲法違反ナリ」(『統帥綱領・統帥参考』12頁)というようなうるさいことにならないでしょうか。ちなみに,あるいは意外なことながら,先の大戦前の陸軍(少なくとも陸軍大学校の教官)は「政略上ノ目的ヲ以テ平時妄リニ海外ニ軍隊ヲ出動セシムルコトハ努メテ之ヲ避ケサルヘカラス」と考えていたようです(『統帥綱領・統帥参考』29頁)。「帝国軍ハ皇軍ニシテ皇道ヲ擁護シ皇威ヲ発揚スル為ニ設ケ置カルルモノナリ故ニ妄リニ政略的ニ兵ヲ動カスコトハ之ヲ慎マサルヘカラス」ということで(同),政治家のみだりな政略の道具にされたくはないということだったのでしょう。「而シテ国際関係ノ錯綜,世相ノ変化等ノ為海外出兵ニ依リ所望ノ政略目的ヲ達成スルノ如何ニ困難ナルカハ往年の西伯利出兵並最近ニ於ケル支那出兵ノ明証スル所ナリ」と(同書2930頁),少なくとも当時は懲りていたようです。シベリア出兵において,日米両国は同盟国の関係にあったはずですが,うまくいかなくなったようです。


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ヨークタウン古戦場(Yorktown, VA)
(ヨークタウンに陣取ったコーンウォリス将軍のイギリス軍は優勢な米仏連合軍の攻撃を受けて,1781年10月19日,終に降伏。敗報に接したイギリスのノース首相は「神よ,すべては終わった!」と叫び,アメリカ独立戦争は実質的に終結しました。降伏式においてイギリス側は最初,連合軍の主力だったフランス軍のロシャンボー将軍にコーンウォリス将軍の剣を渡そうとしましたが,こっちじゃないよあっちだよとジョージ・ワシントン将軍を示されて,降伏の印の剣はアメリカ大陸軍が受け取りました。フランスの王さまルイ16世は,いい人でしたね。)

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イギリス軍降伏の場所(Surrender Field, Yorktown, VA) 

 弁護士 齊藤雅俊
  大志わかば法律事務所
  東京都渋谷区代々木一丁目57番2号ドルミ代々木1203
  電話: 03-6868-3194 (法律問題について,何でも,お気軽にお問い合わせください。)
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 我が国の憲法においては,「公務員を選定し,及びこれを罷免することは,国民固有の権利」であり(日本国憲法151項),「公務員の選挙については,成年者による普通選挙を保障する」ものとされています(同条3項)。


 また,選挙に行くのは,国民の義務であるとされています。


 すなわち,選挙権の性質としては,「機関としての公務という側面と,そのような公務に参与することを通じて国政に関する自己の意思を表明することができるという個人の主観的権利という側面の二面性を有する」と解されています(佐藤幸治『憲法第三版』(青林書院・1995年)108頁)。帝国憲法時代から,「選挙投票は公務たる性質を有つて居り・・・憲法に於て衆議院議員は人民の公選に依ること定められた趣旨は,所謂る臣民翼賛の途を広めらるのである,重大なる公務である」とされていたところです(上杉慎吉『帝国憲法述義』(第9版)(有斐閣書房・1916年)400-401)。「選挙ハ公ノ職務ナルヲ以テ,選挙権ハ権利ナルト共ニ必然ニ義務タル性質ヲ有ス。法律ハ其ノ義務ノ不履行ニ対シ別段ノ制裁ヲ課セズト雖モ,選挙権ハ決シテ単ニ選挙人ノ利益ノ為ニノミ認メラルルモノニ非ズ,寧ロ主トシテハ国家ノ利益ノ為ニ認メラルルモノニシテ,随テ選挙人ハ国家ニ対シ忠実ニ其ノ権利ヲ行使スベキ義務ヲ負フモノナリ。」ということになるわけです(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)308頁)。


 しかし,著名な憲法学者でありながら,しかも,東京帝国大学法学部教授という要職にありながら,「重大なる公務」たる選挙権の行使を横着にも怠る常習犯がいました。

 上杉慎吉です。


 無論,上杉も,選挙権の行使は,臣民翼賛の途たる重大な公務であることは重々承知していました。しかし,上杉の投票意欲を萎えさせ,その投票所に向かおうとする気力及び体力を奪う,やむにやまれぬ深刻な事情があったのです。

 上杉は,次のように告白しています。



・・・投票せざる者は悉く皆怠慢者のみではないのであります,現に斯く申す所の私も投票をしたことは殆んどありませぬが選挙には候補者といふものが立つのてある,此候補者に投票をしなければ実際上有効な投票は出来ぬのであります,此事は選挙の無意味なる一の理由でありますが,大勢の人の中から適任者を出すといふのが選挙の立て前でありませう,然らば誰でも自分の適当と思ふ人を投票紙に書いて来ればよいのである,然らば多数の者が適当と思ふ人が多数の投票を得て当選することが実際であるかと申すに,決してさうではないのであつて,私が或る人を衆議院議員として最も適当なる人である,是れ以上の人は無いと思つて,其人に投票をしても無駄であります,候補者として看板を上げて居る人に投票をしなければならぬ,有効な投票をしやうとすれば不適任であると思ふ人でも候補者となつて居る人に投票しなければならぬ,それ故にどの候補者も皆不満足であると思ふ人は投票をしないのであります,私の如きも其一人であります,斯かる意味の棄権は或る意味における投票であると申すことが出来る,単純な怠慢ではありませぬ,之を強制するといふことは誠に不都合であると申さなければなりませぬ。(上杉・前掲
402-403


 ろくな候補者がいないから,投票所に行くのは面倒なだけで,時間と手間との無駄だ,無意味だ,と開き直っているわけです。

 ついでに上杉は,選挙義務の強制のような投票を強いる動きに対しても八つ当たりしています。



・・・近来諸国に於て投票せざる者即ち棄権者の数が非常に多い或は半数以上にも上ぼることがある,棄権者の割合が斯様に多くなつては,当選者は実は多数を得たものと言ふことができぬ,人民多数の意思を代表するといふが如きことは全然嘘であることが最も明かになるのであります,それ故に段々此
選挙義務を強制する制度が行はれて居るのであります・・・(上杉・前掲400-401


 なかなか率直な物言いです。後の内閣総理大臣である岸信介が上杉に師事したのは,上杉のこのような性格に魅かれるところがあったからでしょう。    
 原彬久『岸信介―権勢の政治家―』(岩波新書・1995年)は,岸と上杉との出会いを次のように伝えています。

・・・岸は入学早々上杉の講義に示された国体論に共鳴するとともに,すでに上杉門下にあった山口中学の先輩たちに手引きされて上杉邸に出入りする。岸が晩年,「私は初めは上杉先生の思想よりも,その人柄に惚れた」(岸インタビュー)と回想しているように,晩酌をしながら学生たちを相手に磊落な話術を展開する上杉のその人柄は,岸を大いに魅了したらしい。紋付き袴姿で重厚,流麗に講義する上杉の国士的風格もまた,いたく岸の心を捉えたようである。(23頁)

 ちなみに,岸内閣時代の
1957827日,我が国初の原子炉である日本原子力研究所のJRR-1原子炉が臨界に達し,日本の原子の火がともりました。

 しかしそれにつけても,この日曜日,東京で気になるのは大雪とソチ・オリンピックとですね。
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(大雪の翌日)




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1 「等」に注意すべきこと

 官庁文を読むに当たっては「等」に注意し,その「等」が具体的に何を意味しているかを適宜よろしく確認しおくべきことを,前回の記事(「会社法改正の年に当たって(又は「こっそり」改正のはなし)」)中において御注意申し上げました。

 「えっ,この文章から何でこういうことになるんだ。そういうことは書かれてなかったぞ。」

 「いえいえ先生,それはここの「等」に含まれてございます。で,具体的には,こちらのより詳しい文書に書かれてございます。」

 といったやり取りが,日常的にされているものと思われます。お役人としては大真面目です。我が国のお役人には物堅いところがあって,「等」による合図も無いまま,書かれていないものを書かれているものとするまでの強弁は,さすがにしないところです。

 ――この先生,学問があるからってプライドが高いのはいいけど,自分で実際に資料に当たるっていう基本動作はしないのかい。横着だねぇ,あぶないねぇ・・・。

 などとは,内心思っているかもしれませんが。


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等々力渓谷(東京都世田谷区)

2 輸出入品等に関する臨時措置に関する法律等

(1)吉野信次元商工大臣の回想

 この「等」の威力を示す適例と思われるものに,第一次近衛内閣下の19379月に成立した輸出入品等に関する臨時措置に関する法律(昭和12年法律第92号)という法律がありました。ここでは,「輸出入品等」における「等」の字を見落としてはいけないのです。

 当時の吉野信次商工大臣の回想にいわく。



 一見貿易関係を律する法律のように思われるが,「等」という一字がくせものですね。輸出入関係以外になんでもやれるという法律なんです。・・・実際問題としては,原料などでは輸出入品に関係のない重要物資というものはほとんどないわけですから,物資の全面的統制の法律といってよいわけです。だから,代議士諸君の中には,輸出入品とあるから貿易統制の立法だと思ったら,なんぞ知らんや全面的に物資統制をやるので,看板に偽りがあるのではないかというような話をした人もありました。
(長尾龍一「帝国憲法と国家総動員法」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)126-127頁において引用されている『昭和史の天皇』(読売新聞社)1681頁)


(2)1937年の日中衝突

 強力かつ広範な統制立法である輸出入品等に関する臨時措置に関する法律が制定された背景には,日中間の全面軍事衝突がありました。193764日の第一次近衛内閣発足の翌月,同年77日に華北において発生した盧溝橋事件を発端として,戦火が上海周辺にまで「飛び火」したものとされているものです。

 盧溝橋事件は,義和団事件を処理する北清事変最終議定書(1901年)に基づき北平(北京)・天津間の平津地区に駐屯していた我が支那駐屯軍(天津軍)の部隊が盧溝橋(Marco Polo Bridge)付近で夜間演習中,同軍と宋哲元(地方軍閥出身)の第29軍との間で起こった衝突ですが,事件発生から約1箇月後の193786日,中華民国中央の国防会議で蒋介石の構想,すなわち「華北の日本軍が南下して心臓部の武漢地区で中国を東西に分断されるのを防ぐため,華北では一部で遅滞作戦をやりつつ後退,主力を上海に集中し増兵してくると予想された日本軍に攻勢をかけ,主戦場を華北から華東へ誘致する戦略」が合意されて「国府は上海を戦場とする対日決戦」に進みます(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会・1996年)345-346頁)。盧溝橋事件後の「平津作戦における第29軍の急速崩壊を見た蒋介石は華北決戦を断念し,「日本軍を上海に増兵させ,日本軍の作戦方向を変更させる」(蒋緯国『抗日戦争八年』57ページ)戦略を採用した」わけです(秦・前掲321頁)

 「1932年の第一次上海事件で戦った〔中華民国〕中央軍の精鋭第87師と第88師は,〔1937年〕811日に上海郊外の包囲攻撃線へ展開を終り,海軍も揚子江の江陰水域を封鎖・・・張治中将軍は13日未明を期し日本軍へ先制攻撃をかけたいと南京に要請し」,その日の夕方に日中両軍(日本側は兵力4000に増勢されていた海軍陸戦隊。これに対して,優勢な中華民国中央軍が攻勢的に進出。)の間で本格的戦闘が始まっています(秦・前掲346頁,322頁注(2))。中華民国中央軍にはファルケンハウゼン将軍以下46人の軍事顧問団がナチス政権下のドイツから派遣されており,ファルケンハウゼン将軍は自信満々,上海決戦の前月である1937721日のドイツ国防相への報告では,「蒋介石は戦争を決意した。これは局地戦ではなく,全面戦争である。ソ連の介入を懸念する日本は,全軍を中国に投入できないから,中国の勝利は困難ではない。中国軍の歩兵は優秀で,空軍はほぼ同勢,士気も高く,日本の勝利は疑わしい(Hsi-Huey Liang, pp.126-127)。」と述べていたとされています(秦・前掲372頁)

 盧溝橋事件から始まった日中間の事変処理のための動きとしては,ドイツが仲介する和平工作(トラウトマン工作)がありました。しかし,19371213日の南京占領を経て,1938116日,我が国政府はドイツの駐華大使トラウトマンを通じて蒋介石政権に対して和平交渉打切りを通告し,更に「爾後国民政府を対手とせず」との声明を発表して当該工作による和平の途を閉ざします。前日の同月15日に開催された大本営と政府との連絡会議においては,陸軍の参謀本部が,政府の和平交渉打切り案に強く反対しましたが,最後にはやむなく屈服しています。その時,前日の家族の慶事もあって近衛文麿内閣総理大臣は高揚していたのでしょうか。同月14日,近衛総理の次女である温子とその夫・細川護貞との間に長男が誕生しています。近衛総理のその孫息子には,護煕という名がつけられました。


(3)法律の概要

 193793日に召集され,同月4日に開会,同月8日に閉会した第72回帝国議会において協賛され(貴族院・衆議院いずれも反対無し。),同月9日に昭和天皇の裁可があって成立した輸出入品等に関する臨時措置に関する法律の主要部分は,成立時において次のとおりです1937815日の南京政府断固膺懲声明から1箇月足らずでの,迅速な立法です。我が国のお役人は優秀ですね。)

 


朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 御名御璽

昭和1299

 内閣総理大臣 公爵 近衛文麿

 外務大臣      廣田弘毅

 大蔵大臣      賀屋興宣

 農林大臣   伯爵 有馬頼寧

 商工大臣      吉野信次


法律第92

1 政府ハ支那事変ニ関聯シ国民経済ノ運行ヲ確保スル為特ニ必要アリト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ物品ヲ指定シ輸出又ハ輸入ノ制限又ハ禁止ヲ為スコトヲ得

2 政府ハ支那事変ニ関聯シ国民経済ノ運行ヲ確保スル為特ニ必要アリト認ムルトキハ輸入ノ制限其ノ他ノ事由ニ因リ需給関係ノ調整ヲ必要トスル物品ニ付左ノ措置ヲ為スコトヲ得

一 命令ノ定ムル所ニ依リ当該物品ヲ原料トスル製品ノ製造ニ関シ必要ナル事項ヲ命ジ又ハ制限ヲ為スコト

二 当該物品又ハ之ヲ原料トスル製品ノ配給,譲渡,使用又ハ消費ニ関シ必要ナル命令ヲ為スコト

3条略

第4条 第1条ノ規定ニ依リテ為ス制限又ハ禁止ニ違反シテ輸出又ハ輸入ヲ為シ又ハ為サントシタル者ハ3年以下ノ懲役又ハ1万円以下ノ罰金ニ処ス

前項ノ場合ニ於テハ輸出又ハ輸入ヲ為シ又ハ為サントシタル物品ニシテ犯人ノ所有シ又ハ所持スルモノヲ没収スルコトヲ得若シ其ノ全部又ハ一部ヲ没収スルコト能ハザルトキハ其ノ価額ヲ追徴スルコトヲ得

第5条 第2条ノ規定ニ依ル命令若ハ処分又ハ其ノ命令ニ基キテ為ス処分ニ違反シタル者ハ1年以下ノ懲役又ハ5000円以下ノ罰金ニ処ス

6条から第8条まで略

   附 則

本法ハ公布ノ日1937910ヨリ之ヲ施行ス

本法ハ支那事変終了後1年内ニ之ヲ廃止スルモノトス


 なるほど。天皇の上諭中「輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律」の部分にある「等」に,強力かつ広範な第2条の規定が含まれていたわけです。「これが配給制,代用品の強制などの根拠法規」となったものです(長尾・前掲127頁)

 輸出入品等に関する臨時措置に関する法律に基づき,1940年までに「物資節約の為めにする統制」として,「主として商工省令を以つて,鉄鋼・鉄屑・銅・白金・鉛・錫・アルミニウム・綿糸・綿製品・毛製品・皮革・揮発油及重油・新聞用巻取紙等種種の物資に付き,其の配給・売買・使用に関する厳重な制限」が設けられており(美濃部達吉『日本行政法 下巻』(有斐閣・1940年)433-434,また,  同法の「広汎な委任に基づき政府は其の需給関係の調整を必要とする物品に付き当該物品又は之を原料とする製品の譲渡価格をも調整する権限を有するものと解せられ」(同435-436頁),「物品販売価格取締規則(昭和13商令56)が発せられ,これに依り物価の統制を行つて居」たところです(同519頁)。ただし,物品販売価格取締規則は,国家総動員法(昭和13年法律第55号)19条に基づく価格等統制令(昭和14年勅令703号。同令21項本文によって原則として1939918日の価格が価格の上限とされる。同令17条により,内地では同年1020日から施行。)191項によって,後に廃止されています。


(4)法案の提出理由

ア 吉野商工大臣の説明

 輸出入品等に関する臨時措置に関する法律の法案提出の理由として,吉野信次商工大臣は,193795日の衆議院本会議で次のように述べています。(なお,帝国議会議事録の原文は片仮名書き)

 


 今次の事変の推移に鑑みまして,此非常時に対応しまするやうに,我が産業経済の体制を整へなければならないことは申す迄もないのでありまして,殊に軍需及び国防用として,或は又時局に緊要適切なる色々な事業用と致しまして,相当巨額の物資の需要があるのでありますから,是等の物資を潤沢且つ円滑に供給することに努めなければならないのであります,然るに我国資源の現状から申しますと,差当って外国から輸入致しまして,急の間に合せなければならない物が少くないのであります,そこで国際収支の関係から致しまして,或は物資の輸出制限を致しましたり,或は比較的不急不要なる物資は勿論のこと,国家産業上有用なる物に付きましても,尚幾許かの数量の輸入を抑制しまして,以て必要物資の輸入の増大に努めなければならない必要があるのであります,是が即ち本法案に於きまして,政府は必要に応じて輸出又は輸入の禁止制限を為し得ることを規定致しました理由であります,而して斯く物資の輸入を抑制致しまする結果,之を其儘自然に放置致して置きまする時は,価格の暴騰,供給の不安定などを来しまして,国民経済の運行に著しい支障を及ぼす虞がありますが故に,本法案は又需給関係の調整を必要とする物品に付きまして,政府は必要に応じて適当なる措置を為し得ることと致したのであります
(第72回帝国議会衆議院議事速記録第223-24


 「輸入の増大に努め」るために「輸入の禁止制限」をするというのは,矛盾した行動のようで,一読して分かりにくいところがあります。吉野商工大臣の言う「国際収支の関係」が,疑問を解くかぎのようです。



・・・然るに我国の最近の貿易の情勢は,申上ぐる迄もなく入超でございまして,国際収支の関係に於きまして,唯自然の成行に放任致して置きましたのでは,此上必要な物資を海外から輸入するの余地が乏しいのでありますから,どう致しましても必要な物資と云ふものの輸入を図りまして,戦闘行為の遂行と云ふものに妨げがないやうに致します為には,輸出入に関しまして相当な手加減と申しますか,制限の措置を講ずる必要がございますので,本法案の第
1条に於きまして,其趣旨を明に致しました次第であります・・・(吉野商工大臣・第72回帝国議会衆議院輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律案委員会議録(速記)第12頁)


 国際収支が「入超」だと,「自然の成行に放任致して置きましたのでは,此上必要な物資を海外から輸入するの余地が乏しい」ことになるとは,国際収支が入超で赤字であると円安になり,そうなると円建ての輸入品価額が高額になって輸入が大変になるということでしょうか。確かに,吉野商工大臣の答弁に,そのような趣旨のものがあります。



私も大体
賀屋興宣大蔵大臣と同じやうな考であります,此際此秋としては有ゆる努力を払ひまして,為替の水準を是非とも堅持致したいと考へます72回帝国議会衆議院輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律案委員会議録(速記)第239


 自国通貨の外国為替相場が高いことを喜び,安いことを憂うるというのは,現在の某国政府の外国為替相場に対する姿勢と正反対ですね。


イ 当時の通貨制度との関係

 当時の我が国の通貨制度は,次のようなものでした。

 


 
193112月以降「貨幣法が形式上に改正せられたのではないが,同法の定むる金本位の貨幣制度は停止せられ・・・即ち現在に於ける我が貨幣制度は,経済情勢から生じた已むを得ざる変態として,金本位制を離脱し紙幣本位制となつたものと謂ひ得べく,通貨の価格は金の相場に依つて定まらず,国の財政的信用,国際収支勘定,其の他国内国外の経済事情に依つて定まり,金本位制に於けるが如き貨幣価値の安定性を缺くこととなつた。・・・兌換の停止及び金輸出禁止の結果は,必然に銀行券の価格と金の価格との間に隔離を来すことは已むを得ない結果であり,随つて及ぶべきだけ通貨としての銀行券価格の動揺を避くる為めには,特別の統制作用が必要となる。外国為替管理法・産金法・金使用規則・金準備評価法・輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律等は何れも主として此の目的のために定められたものである。」(美濃部・前掲298-299頁)


 「外国為替管理法(昭和8法律28号)及びこれに基づく命令(昭和8大令7)は,昭和7年の資本逃避防止法に代ふる為めに制定せられたもので,これと等しく,主として資本の国外逃避及び為替の思惑取引を防止することを目的とするもの」でした(美濃部・前掲299-300頁)

 「産金法(昭和12法律59)・同法施行令(昭和12勅令454)・同法施行規則(昭和12商令16)・産金買上規則(昭和12大令32)は,国際収支勘定の不均衡より生ずる金の対外現送の必要に応じ金準備を成るべく豊富ならしむる為めに,国内の産金を増加しこれを政府に集中せしめんとすることを目的とするもの」でした(美濃部・前掲301頁) 

 「金使用規則(昭和12大令60)に依り,金を用ゐた製品の製造を制限し,及び金箔・金糸・金粉・金液の使用をも制限」されていましたが,これは,「金は国際収支の調整・邦貨価格の維持に缺くべからざるものであるから,已むを得ざる必要の外は,他の目的に使用することを禁止し,成るべく多くの金を貨幣制度の安定に資せしめよう」とするものとされていました(美濃部・前掲302頁)

 「金準備評価法(昭和1260)は,日本銀行(朝鮮銀行券・台湾銀行券を発行する朝鮮銀行・台湾銀行もこれに準ず)の兌換準備として保有する金の評価を,国際的時価に近き程度に換算することを目的とするもの」でした(美濃部・前掲302頁)

 そして,「輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律・・・の中輸入貨物の制限は主として国際収支の調整を目的とするもので,臨時輸出入許可規則(昭和12商令23)に依り,政府の許可が無ければ輸入するを得ない品目を列記指定」していたわけです(美濃部・前掲303-304頁)


 しかしまた,円高維持のために国際収支の赤字縮小ないしは黒字化を目指し,そのために輸入規制を行うというのは,理論的にはそうなのでしょうが,今にしてみれば,真面目かつ先回りし過ぎる対策であったようにも思われます。「通貨の価格は金の相場に依つて定まらず,国の財政的信用,国際収支勘定,其の他国内国外の経済事情に依つて定ま」るわけなのですが,現在の某国は,国の財政は慢性的な赤字であり,貿易収支も赤字に転じているにもかかわらず,「其の他国内国外の経済事情」のゆえか,なお当該某国通貨の為替相場は高きにあって輸出が十分に伸びていないものとされているところです。


ウ クレジット設定・外債募集に係る消極見通し

 貿易収支が赤字でも,信用(クレジット)の供与を受けることができれば,輸入継続は可能であるはずですが,我が国のお役人は,真面目なので,なかなか楽観的な発想にはなれません。



・・・棉花の輸入に付きましても,若しクレヂットが設定出来ますれば,之に越したことはないのでありまして・・・其方面と話をするやうに進めて居る次第であります,唯計画を立てます時に,相手があることでありますから・・・出来ないものとしての計画は立てて居ります・・・
(吉野商工大臣・72回帝国議会衆議院輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律案委員会議録(速記)第220-21


・・・政府としては大体日本帝国の外債と云ふものを此の際募るかどうかと云ふことに付ては,必ずしも容易に募れるものとは考へて居らぬのであります・・・(吉野商工大臣・第72回帝国議会貴族院輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律案特別委員会議事速記録第23頁)


 相手方の中華民国はともかくも,そもそも諸外国が日本帝国の債券を買ってくれないだろうという状況認識です。前年1936731日の国際オリンピック委員会において,同年のベルリン・オリンピックに続く第12回オリンピックの開催地に首都・東京が,世界から評価されて選ばれた国の政府の大臣がする発言としては,元気が出ていないように思われます。世界に日本の力と心とが通ずるとの自信が感じられません。(東京における第12回オリンピック開催の返上決定は,1938715日になってからのことですので,当時の我が国はなお次期オリンピックのホスト国でした。)あるいは,外国の力など借りるには及ばないとの自負心の,屈折した現れでもあったのでしょうか。


(5)「ぐるりから鋏を入れて,根さへ枯れぬ程度にして」おくことへの懸念

 衆議院の輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律案委員であった田中源三郎代議士は,クレジット問題に触れつつ,我が国政府の真面目な秀才的こだわりに対する心配を表明していました。



・・・頑になって,さうして自分自身だけが何処も相手にして呉れないと云ふやうな,自分自らが卑屈な考を持たないでも宜しいと思ふ,私はもっとのんびりした考を以て,商売は別問題だと云ふ考でやれば,十分茲にクレヂットを民間側が為すことも出来るのでありまして,唯為替の基準が大切である,もう之に一生懸命になってしまって,何も彼も周囲から伐って行く,丁度伸び切って居る木をぐるりから鋏を入れて,根さへ枯れぬ程度にして置いたら宜い,さう云ふやり方のやうに思はれる・・・
72回帝国議会衆議院輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律案委員会議録(速記)第220


 田中代議士の心配した,「為替の基準」の一事にこだわって木をぐるりから鋏を入れて,根さへ枯れぬ程度にして置」くやり方というのは,恐らく,次のように想定されていた政府施策のことでしょう。



・・・仮に棉花なら棉花と云ふものを輸入を制限致しました,或は羊毛なら羊毛と云ふものを輸入を制限したと云ふ時には,国民に対して消費の節約,其のものだけに付いての節約と云ふことも御願する必要もありませうが,是等を原料とする生産業者・・・さう云ふものの仕事に対しまして,或は代用品と致しましてステーブル,フアイバーと云ふやうなものの混用を命ずるとか,それから又原料が国全体としては当分間に合ふ,唯何の某が余計持ち過ぎて居って,何の某が少く持って居ると云ふ場合には,若し之を其業全体として平均致します時には,当分輸入する必要がないと云ふ場合も生じて参ります,其時に多く持って居る人に対して,乏しい方にそれを分けてやると云ふやうなことを,御願する必要も段々生じて来ようかと思ふのであります・・・
(吉野商工大臣・第72回帝国議会衆議院輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律案委員会議録(速記)第12頁)


 大いに持てる活力を発揮し,生産力を拡大しようというときに,将来の円相場の下落予感に今からくよくよ反応して,いきなり消費の節約やら品質の落ちる代用品の使用やら自分の仕事に集中する前に他人の仕事準備の心配をするやら,身を縮めるところから始まるというのは,若干陰性かつ窮屈であるようにも思われますが,無論贅沢は敵であり,国を愛する心をもって努力せねばならなかったところであります。

 なお,吉野信次商工大臣は,民本主義の吉野作造の弟。その商工官僚時代の部下に,岸信介がいました。


(6)1941年改正時の状況

 その後,昭和16年法律第20号によって,輸出入品等に関する臨時措置に関する法律5条の罰則の「1年」が「7年」に,「5000円」が「5万円」に改められ,輸出入品に係る同法1条よりも,国内統制に係る同法2条の方がその違反に対する刑罰が重くされています。輸出入品等に関する臨時措置に関する法律による統制の中心は「輸出入品」ではなく,「等」であることが明らかになったわけです。そもそもからして,物品について「需給関係ノ調整ヲ必要トスル」事由は,「輸入ノ制限」には限られず,「其ノ他ノ事由」でもよかったものでありました。

 前記の吉野元商工大臣の回想にある「看板に偽りがあるのではないかというような話をした」代議士とは,194127日,第76回帝国議会の衆議院昭和12年法律第92号中改正法律案(輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル件)委員会において次のような発言をした森田福市衆議院議員であったように思われます。



―― 一体此の臨時輸出入措置法は,御承知の通りに是が出た時には臨時輸出入措置に関する法律だと思つて吾々議員は皆賛成した,所が其の後之に依つて国内の経済統制を行ふのだと云ふので,何に依つてそんなことが出来るかと言つたら,それは「其ノ他」と云ふ字があるではないか,「其ノ他」で全部やるのだ,本題の方は目的ぢやなかつた,実は「其ノ他」を使ふのにやつたのだと云ふ意味のことを後で聴いたのであります・・・
76回帝国議会衆議院昭和12年法律第92号中改正法律案(輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル件)委員会議録(速記)第319頁)


 「本題の方は目的ぢやなかつた,実は「其ノ他」を使ふのにやつたのだ」というのが本当であれば,商工省には,知恵の黒光りする秀才官僚がいたものです。

 輸出入品等に関する臨時措置に関する法律5条の罰則強化に係る昭和16年法律第20号の法案の提出理由中関係部分は次のとおりでした。

 


・・・事変下に於ける経済統制に関する諸方策は,主として本法律
輸出入品等に関する臨時措置に関する法律と昭和13年公布せられました国家総動員法の運用に依つてなされて居るのであります,経済統制に当りましては,極力経済界の実情に即したる方策を講じますると共に,其の実施に当りましても国民の自発的協力を期待致して居るのでありますが,経済統制違反件数が現に相当多数に上り,而も一度処罰を受けたにも拘らず尚ほ再三違反を繰返す者すら少くない実情でありまして,経済統制の効果を減殺して居りますことは,事変下真に遺憾に堪へぬ次第でございます,経済統制違反を敢てする事情は,色々の理由があらうと思ひまするが,現在の罰則は犯罪状況に照し軽きに失する点がございますので,此の際同法の罰則の一部を強化致し,以て戦時経済政策の実施を確保致したいと存ずる次第でございます・・・(小林一三商工大臣・第76回帝国議会衆議院議事速記録第1080頁)


 ここでいう「経済統制違反件数が現に相当多数に上」る状況とは具体的にはどのようなものかといえば,これはなかなかのものです。



・・・然るに経済統制法令違反の状況を見まするに,其の数に於て著しくなりまして,是は国家総動員法に基づくものとの合計ではありますが,昭和1511月末までに全国検事局に於て受理致しましたものが既に15万人を超え,殊に昨年下半期に於ける激増振は洵に著しきものがありまして,前年同期に比して数倍に上つて居りますのみならず,其の質に於ても悪化の一途を辿り,種々の脱法手段を弄し,或は証拠煙滅を図り,検挙に困難を加へつつあるのであります・・・
(秋山要政府委員(司法省刑事局長)・76回帝国議会衆議院昭和12年法律第92号中改正法律案(輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル件)委員会議録(速記)第23


 15万人といえば,2013331日の我が陸上自衛隊の定員が151063人です。検事局としては,帝国臣民相手の経済統制戦において,既に赫々たる大戦果を挙げていたということになるのでしょうか。議員からも,決められた統制価格で売っては赤字になってしまう業者等の実例が多々委員会において紹介されており,不条理な状況下での混乱と違反とが日常化してしまっていたようです。

 しかしながら,喧嘩両成敗でしょう。国家総動員法の改正法案の審議も行われていた第76回帝国議会の開会中,同法の実施機関たる企画院の統制官僚たちが治安維持法違反で次々検挙されるという「企画院事件」が進行していました。当時の第二次近衛内閣の内務大臣は,「赤を潰すことと涜職官吏の征伐一点張」の平沼騏一郎でありました(長尾・前掲148-149頁参照。同「二つの「悪法」」ジュリ769号)また,商工次官となっていた岸信介は,企画院事件に関係しているとして小林一三商工大臣から引責を迫られ,1941年1月に商工次官の職から退いています(原彬久『岸信介』(岩波新書・1995年)84頁参照)。(ただし,岸は同年10月には東條内閣の商工大臣として大きく復活しています。) 

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