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1 大喪の礼経費の国庫負担

 1947年(昭和22年)53日から施行されている「皇室典範」という題名の昭和22年法律第3号の第24条は「皇位の継承があつたときは,即位の礼を行う。」と,同法25条は「天皇が崩じたときは,大喪の礼を行う。」と規定しています。この両条の規定の趣旨は即位の礼及び大喪の礼は国の事務として国費をもって行われるということだよね,と筆者は理解しています。皇室典範たる明治22年(1889年)の皇室典範等の下において,美濃部達吉が次のように説いていたところを承けた理解です。

 

  皇室ニ関スル儀礼ノ中或ハ国ノ大典トシテ国家ニ依リテ行ハルルモノアリ,①即位ノ礼,②大嘗祭,③大喪儀其ノ他ノ国葬ハ是ナリ。即位ノ礼及大嘗祭ハ皇室ノ最モ重要ナル儀礼ニシテ其ノ式ハ皇室令(〔明治〕42年皇室令1登極令)ノ定ムル所ナレドモ,同時ニ国家ノ大典ニ属スルガ故ニ,国ノ事務トシテ国費を以テ挙行セラル。其ノ事務ヲ掌理セシムル為ニ設置セラルル大礼使ハ皇室ノ機関ニ非ズシテ国家ノ機関ナリ〔大礼使は内閣総理大臣の管理に属し,その官制は皇室令ではなく勅令で定められました(大正2年勅令第303号(これは,1914411日に昭憲皇太后の崩御があったところ,同日付けの大正3年勅令第53号によりいったん廃止)・大正4年勅令第51号,昭和2年勅令第382号)。〕国葬モ亦国ノ事務ニ属ス,国葬令(大正15勅令324)ニ依レバ大喪儀,皇太子皇太子妃,皇太孫皇太孫妃,摂政ノ喪儀ハ国葬トシ〔同令1条・2条〕,其ノ他国家ニ偉勲アル者ニ付テモ特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアリ〔同令31項〕。国葬ヲ賜フ特旨ハ勅書ヲ以テシ,内閣総理大臣之ヲ公告ス〔同条2項〕。此等ノ外皇室ノ儀礼ハ総テ皇室ノ事務トシテ行ハル。

  (美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)217-218頁。丸数字及び下線は筆者によるもの)

 

 即位の礼及び大嘗祭については,明治22年の皇室典範11条に「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」と規定されていたところです。大嘗祭については,『皇室典範義解』の説明に「大嘗の祭は神武天皇元年以来歴代相因て大典とはせられたり。(けだし)天皇位に即き天祖及天神地祇を請饗(せいきやう)せらるゝの礼にして,一世に一たび行はるゝ者なり(天武天皇以来年毎に行ふを新嘗とし,一世に一たび行ふを大嘗とす)。」とあります。ただし,「第1代神武天皇が,倭の国の八十(やそ)(たけ)()を討つさい,タカミムスビノカミを祀って新嘗祭とみられる祭りを行った記事が,「日本書紀・神武紀」にある」ものの(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)12-13頁),『日本書紀』の神武天皇元年条に大嘗祭挙行の記事はありません。

 法律たる「皇室典範」24条及び25条の規定をお金の問題に関するものとする理解は,筆者一人のものではありません。

 1946927日開催の臨時法制調査会第一部会に係るその議事要録には,次のような問答が記録されています。

 

  鈴木 即位の大礼,大(ママ)費は法律で予算を組むのか。

  高尾 しかり。

 

 ここでの「鈴木」は臨時法制調査会委員の衆議院議員・鈴木義男,「高尾」は同幹事の宮内省出仕・高尾亮一でしょう。

 

2 大喪の礼(非宗教的)≠大喪儀

 19461026日付けの臨時法制調査会の答申書に,皇室典範改正(ママ)法案要綱の一つの項として,

 

  即位の礼及び大喪儀に関し,規定を設けること。

 

とあります。

 上記臨時法制調査会の要綱に関し,明治22年の皇室典範11条並びに出来上がりの「皇室典範」法24条及び25条との比較においてここで注目すべきことは二つあります。既に大嘗祭が落ちていること及び「大喪」であっていまだに「大喪の礼」ではないことです。(なお,京都市民にとっては即位の礼の同市における挙行がなくなったことこそが最重大問題であるかもしれませんが,「〔明治〕13年〔1880年〕車駕京都に駐まる。〔明治天皇は〕旧都の荒廃を嘆惜したまひ,後の大礼を行ふ者は宜く此の地に於てすべしとの旨あり。」との立法事実(『皇室典範義解』)は,連合国軍の空襲で荒廃した他の諸都市を尻目に,戦災の無かった京都市にはもはや妥当しなかったものでしょう。)

 大嘗祭が落ちたのは,やはり,日本国憲法のいわゆる政教分離原則のゆえでしょう。19461217日の第91回帝国議会貴族院皇室典範案特別委員会において,元逓信省通信局外信課長の渡部信委員が「皇室典範」法案中になぜ大嘗祭の規定を設けなかったのかと質疑をしたところ,金森徳次郎国務大臣は,「此の憲法の下に,及び之に附随して出来て来まする所の諸般の制度は,宗教と云ふことを離れて設けられて行く,斯う云ふ原理を推論し得るものと思つて居ります」,「宗教的なる規定は,之を設けることは憲法の趣旨と背馳するもののやうに思はるゝのであります」ということを前提とした上で,「即位の礼と大嘗祭は,程度の差はありまするが,固より或思想を以て今迄一貫されて居つたものであらうと考へて居ります,けれども今後の合理的なる政治の面に於きましては,信仰に関係のない部面だけを採入れると云ふことにして大礼の規定を皇室典範に織込みまして,信仰的なる部面のことは国の制度の外に置くと云ふ考になつて居ります,従つてそれ〔大嘗祭〕は制度自身の上から見ますると,矢張り外に出てしまふことになりまして,恐らくは皇室の御儀式として,皇室内部の御儀式として続行せられて行くことであらうと想像を致して居ります」と答弁しています(同委員会議事速記録第26頁。また,同議会衆議院議事速記録第664頁及び69頁の同国務大臣答弁参照)。

 他方,「大喪儀」が「大喪の礼」になぜ変わったのかということについては,「皇室典範」法案に全員起立で賛成がされた19461125日の枢密院本会議における,当該法案に関する潮恵之輔審査委員長報告の次の部分に注目すべきでしょう。

 

  その他,新たに,即位の礼に対応して,天皇が崩じたときは,大喪の礼を行うことを定め,また,従前皇室陵墓令中に規定された事項を本案に移して陵墓に関する規定を置く。(第25条及び第27条)

 

専ら即位の礼に対応して大喪の礼を行うということですから,大喪の礼には大嘗祭に対応する宗教的な儀礼は含まれないということでしょう。大喪儀ならぬ大喪の礼を行うものとする規定となったのは,「大喪儀」との文言のままではそこには宗教的儀礼が含まれてしまう,ということにだれかが気付いた上での文言修正であったのではないでしょうか。

 

3 即位の礼に対応するものは大喪の礼か退位の礼か

と,ここまで調べが進んだところで,不図,安倍晋三内閣が2017519日に法案を提出し,全国民を代表する議員をもって組織される衆議院及び参議院によって構成される国会が当該法案に係る両議院の可決をもって同年69日に制定した法律であって,同月16日に当時の天皇たる現在の上皇がそれを公布することとなった天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)を,関連する法律として見てみると,その第33項に次のような規定があって,いささか筆者を悩ませるのでした。

 

 上皇の身分に関する事項の登録,喪儀及び陵墓については,天皇の例による。

 

ここでの悩みの種は,「上皇の喪儀については,天皇の例による。」の部分です。

(「例による」の意味については,「ある事項について,他の法令の下における制度又は手続を包括的に当てはめて適用することを表現する語として用いる。その意味では「準用する」〔略〕と余り変わらないともいえるが,「準用する」の場合はそこに示された法令の規定だけが準用の対象となるのに対し,「例による」の場合は,ある一定の手続なり事項なりが当該法律及びこれに基づく政令,省令等を含めて包括的に,その場合に当てはめられる点において異なる。」と説明されています(前田正道編『ワークブック法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)653頁)。)

「喪礼」ではなく「喪儀」なのですが,ひとまず単純に考えれば,「皇室典範」法25条の規定が「上皇が崩じたときは,大喪の礼を行う。」というふうに読み替えて適用されるのかな,と思われるところです。

しかしここで枢密院における説明を想起すると,「皇室典範」法25条の大喪の礼は,即位の礼に対応するものなのでした。天皇は崩御するまで在位する建前なので(明治22年の皇室典範10条・「皇室典範」法4条参照),退位の礼ならぬ大喪の礼がその在位せられた御代の締め括りとして即位の礼に対応するのだな,また,明治22年の皇室典範には無い天皇御大喪の際の儀礼に係る規定を昭和22年の「皇室典範」法に導入するためには前者の11条にある即位の礼との対応を指摘することによる新たな意義付けを行うことが必要だったのだな,と筆者は「対応して」の意味を解していたのですが・・・そういえば,上皇については,天皇の退位等に関する皇室典範特例法附則9(「この法律に定めるもののほか,この法律の施行に関し必要な事項は,政令で定める。」)に基づき当時の安倍内閣が制定した天皇の退位等に関する皇室典範特例法施行令(平成3039日政令第44号)1条の規定(「天皇の退位等に関する皇室典範特例法(以下「法」という。)第2条の規定による天皇の退位に際しては,退位の礼を行う。」)による退位の礼が,その天皇としての在位の最終日である平成31年(2019年)430日に既に挙行済みだったのでした。平成2年(1990年)1112日の即位の礼に対応するものは,一見するに,この退位の礼でしょう。

 

4 2019430日の退位の礼:象徴≦代表

平成30年(2018年)43日の安倍内閣の閣議決定「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う国の儀式等の挙行に係る基本方針について」の第4によれば,天皇の退位等に関する皇室典範特例法施行令1条にいう退位の礼とは,2019430日に宮中において行われた退位礼正殿の儀のことでした。すなわち,退位礼正殿の儀は,国事行為である国の儀式であって(退位礼正殿の儀以外の退位関連の儀式は,国の儀式ではなかった(皇室の儀式であった)ということでしょう。),その事務は宮内庁が行ったのでした(なお,平成31419日の閣議決定「退位礼正殿の儀を国の儀式として行うことについて」参照)。

ところで,退位礼正殿の儀の趣旨は,上記平成3043日の閣議決定によれば「天皇陛下が御退位前に最後に国民の代表に会われる儀式」とあるので(下線は筆者によるもの),筆者は,今更ながらぎょっとしたものでした。すなわち,日本国及び日本国民統合の象徴と日本国民の代表との顔合わせとは,Doppelgänger現象を連想させるところではありますが,それだけではありません。その地位が「日本国民の総意に基く」ものでしかない象徴の前に当の「主権の存する日本国民」の代表がぬっと現れるのは,象徴にその憲法的非力を感じさせるべきいささか威迫的ともいい得る絵柄ではないでしょうか。しかし,日本国憲法1(「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く。」)及び専ら国会の制定法によって天皇の廃立を定めるものである天皇の退位等に関する皇室典範特例法2(「天皇は,この法律の施行の日限り,退位し,皇嗣が,直ちに即位する。」)の法意をあえて視覚化するとなると,こうなるのでしょう。

「国民代表の辞」を述べたのは安倍晋三内閣総理大臣であり,それに対する天皇の「おことば」でも「国民を代表して,安倍内閣総理大臣の述べられた言葉」とありますから,退位礼正殿の儀においては,Citoyen安倍晋三が,主権の存する国民を一人で代表して,天皇の前に立ったわけです(2019419日に宮内庁長官が決定した「退位礼正殿の儀の細目について」には,「次に内閣総理大臣が御前に参進し,国民代表の辞を述べる。/次に天皇のおことばがある。」とあります。)。「大」がついても内閣総理大であることにとどまるのならば,文字の上だけでも下として天皇の前に謙遜なのですが(日本国憲法61項では,天皇が内閣総理大臣を任命します。),ここでの力点は,国民の代表であることにあるのでしょう。

あるいは特段深い考え無しに,無邪気に「国民代表」の語が用いられたのかもしれません。しかし,憲法的場面においては,日本国の主権は国民に存し(日本国憲法前文1項第1文・1条),国民の代表者は国政の権力を行使する者です(同前文1項第2文)。その前では天皇ないしは太上天皇も隠岐や佐渡まで吹っ飛んだ歴史的事実をも背景に有する我が乱臣賊子たる国民(北一輝の表現です。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1066681538.html)の代表は,無力であるものでは全くなく,その正反対であって,そう無垢・無害な存在ではあり得ません。2019430日の安倍晋三国民代表の天皇に対する辞においても,「天皇陛下におかれましては,皇室典範特例法の定めるところにより,本日をもちまして御退位されます。」と,天皇の退位等に関する皇室典範特例法2条の趣旨の読み聞かせ(中川八洋筑波大学名誉教授ならば,もっと激しい表現であるところです。)がされています。退位の礼は,はなはだ重い儀式であったと評価すべきでしょう。(ちなみに隠岐・佐渡といえば,かのルイ16世に派遣せられたラ・ペルーズは,日本海を北上するその探検航海において,これらの島々を望見したことでしょうか。)

なお,一夜明けて令和元年(2019年)51日の今上天皇の即位後朝見の儀も「御即位後初めて国民の代表に会われる儀式」であって(前記平成3043日の閣議決定の第521)。下線は筆者によるもの),「次に天皇のおことばがある。/次に内閣総理大臣が御前に参進し,国民代表の辞を述べる。」という式次第でした(201951日の宮内庁長官決定「即位後朝見の儀の細目について」)。天皇が自らその「おことば」の冒頭において「日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより,ここに皇位を継承しました。」と宣言していますので,安倍晋三国民代表の天皇に対する辞においては「天皇陛下におかれましては,本日,皇位を継承されました。国民を挙げて心からお(よろこ)び申し上げます。」と,天皇の退位等に関する皇室典範特例法2条の法意に係るくどい念押し無しに,当該継承の事実の確認のみがされています。主権の存する国民は,「お慶び」です。これを平成元年(1989年)19日の即位後朝見の儀の前例と比較すると,当時の竹下登内閣総理大臣が述べたのは「国民代表の辞」というような高ぶったものではなく,「内閣総理大臣の奉答」というものでありました。20221010日追記:なお,令和元年51日の即位後朝見の儀における国民代表の辞の締め括りは「ここに,令和の御代(みよ)の平安と,皇室の弥栄(いやさか)をお祈り申し上げます。」であるのですが,「令和の御代」の意味するところは実は深長ではないかと気が付きました。令和の元号は,その前月,安倍国民代表の内閣自身が定めたものであって(平成31年政令第143号),その決定過程から排除されていた天皇にその「在位ノ称号」(美濃部185頁)として押し付けるのは厚かまし過ぎるでしょう。そうであれば,(安倍国民代表に率いられた)日本国民の令和の御代が銃撃事件などなく平安であることが祈念されるとともに,併せて皇室の弥栄もお祈り申し上げられた,ということになるのでしょう。ちなみに,平成元年19日の内閣総理大臣の奉答には,「平成の御代」という言葉はありませんし,天皇のおことばを承けて天皇に対して「国民一同,日本国憲法の下,天皇陛下を国民統合の象徴と仰ぎ,世界に開かれ,活力に満ち,文化豊かな日本を建設し,世界の平和と人類福祉の増進のため,更に最善の努力を尽くすことをお誓い申し上げます。」という形で締め括られています(下線は筆者によるもの)。これに対して令和元年51日の国民代表の辞における上記締め括り文の前の文は「私たちは,天皇陛下を国及び国民統合の象徴と仰ぎ,激動する国際情勢の中で,平和で,希望に満ちあふれ,誇りある日本の輝かしい未来,人々が美しく心を寄せ合う中で,文化が生まれ育つ時代を,創り上げていく決意であります。」というもので(下線は筆者によるもの),主権者国民らしい一方的宣言の形になっています。更に余計な感想を付け加えると,30年間の平成の衰退を経て,令和の初めの日本国民は,「世界に開かれ」た国民であることを諦めつつ「激動する国際情勢」に背を向けた一国的平和を望み,animal spirit的ないしは物的な「活力に満ち」ることはもうないものの,希望,誇り,美しい心の寄せ合いといった情緒的慰めをなおも求める文弱的存在となっていたということだったのだな,と改めて気付いたことでもありました。令和年間の新型コロナウイルスをめぐる動きは,当該傾向を更に促進するものでしょう。)

以上脱線が過ぎました。天皇の退位等に関する皇室典範特例法33項に戻りましょう。

 

5 退位の礼を前提とした皇室典範特例法33項の解釈論

19901112日の即位の礼に対応するものとしては既に退位の礼が2019430日に行われているのだから,上皇が崩じたときに大喪の礼を行うにはもはや及ばないのだ,とすることは可能でしょうか。

 

昭和天皇の大喪の礼は,国の儀式として,平成元年224日,新宿御苑において行われ,また,同日の(同所における)葬場殿の儀と(武蔵陵墓地内における)陵所の儀を中心として,昭和天皇の大喪儀が皇室の行事として行われました。陵名は,武蔵野陵(むさしののみささぎ)と定められました。

  (宮内庁「昭和天皇・香淳皇后」ウェブページ)

 

 昭和天皇崩御の際の前例を反対解釈すると,国の儀式たる大喪の礼が行われなくとも,なおも皇室の行事たる大喪儀は行われるわけです。大喪の礼がなければ喪儀全体が行なわれなくなるというものではありません。

 ということで,それでは全ては皇室にお任せして上皇の大喪の礼のことは放念しよう,それでいいよね(退位の礼と大喪の礼とを重ねて行うことは国費の無駄遣いである,などと細かく責め立てられても面倒だし,「〔1989〕年224日に,昭和天皇の「大喪の礼」が国事行為として挙行されたが,その際,皇室の宗教的行事としての「葬場殿の儀」と,場所的にも時間的にも区別が不分明な仕方で,国事行為としての大喪の礼が行われたことの憲法適合性が,〔政教分離の観点から〕問題とされた。」(樋口陽一『憲法』(青林書院・1998年)112頁)といわれているし,我が国からは天皇及び皇后しかその女王の国葬に参列ができなかったかの英国では1936年に自らの意思で退位したエドワード8世について1972528日のそれは「崩御」ではなくて「薨去」であって,国葬はされず(同年「65日にウィンザー城内セント・ジョージ教会にて〔略〕葬儀」),「若き日に会ひしはすでにいそとせまへけふなつかしくも君とかたりぬ」(1971104日パリ西郊ブローニュの森における御製)ということで1921年の訪英時以来仲良しだった昭和天皇もその葬儀には柩前に花環を供えただけだったから(宮内庁『昭和天皇実録 第十五』(東京書籍・2017年)561頁・353頁),まあ「弔問外交」にもならないだろうし,そもそも「国葬」にはもう懲りた。),ということになるかといえば,上皇の大喪の礼を行わないとなれば「上皇の喪儀については,天皇の例による。」という天皇の退位等に関する皇室典範特例法33項の規定はみっともない空振り規定となってしまうではないか,そんな解釈が許されてよいのか,という問題が残ります。

 皇室の行事としてのみ上皇の喪儀は行われるがそれは1989年に不文法として確立されたものである昭和天皇の大喪儀の例によるべしという規範が,日本国家の法律として,皇家を対象として定立されたのだ,との解釈を採れば辻褄は合うでしょうか。しかし,皇家の内事たる事項(皇室喪儀令は大正15年皇室令第11号であって,摂政が裁可したものの,法律でも勅令でもありませんでした。明治典憲体制下,皇室令は,大日本帝国憲法ならぬ皇室典範系列の法規範でした(公式令(明治40年勅令第6号)51項参照)。)についてあえて国家が前例踏襲を強いる規制は,皇室自治の大権の干犯でなければ天皇・皇族に対する人権侵害となるようにも思われます。とはいえ,天皇・皇族は日本国民の権利及び義務(日本国憲法3章)を有しない非国民であるからいいのだ,と強弁することもあるいは可能かもしれません。

 しかしながら,実は現在,上皇は,火葬を望む等,自らの喪儀等の在り方を昭和天皇のそれとは別のものとしようとしているそうです(20131114日付け宮内庁の「今後の御陵及び御喪儀のあり方についての天皇皇后両陛下のお気持ち」及び「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」)。そうであれば,天皇の退位等に関する皇室典範特例法33項について妙な解釈を採用してあえて妙な波風を立てるべきではないでしょう。やはり,退位の礼は実施済みではあるものの,国の儀式として上皇の大喪の礼をも行うものとすることが,無難な選択ではないでしょうか。(当該大喪の礼も,平成元年内閣告示第4号「昭和天皇の大喪の礼の細目に関する件」の例によれば,天皇及び皇后が葬場殿前に進んだ上での一同黙祷,内閣総理大臣の拝礼・弔辞,衆議院議長の拝礼・弔詞,参議院議長の拝礼・弔詞及び最高裁判所長官の拝礼・弔辞並びに外国代表者の各拝礼及び参列者の一斉拝礼並びにその前後における葬場及び陵所への各葬列といったことどもで構成されることになるのでしょう。)

 横死した安倍晋三国民代表についても,国の儀式としての国葬儀が,岸田文雄内閣によって敢然挙行されたところです(2022927日)。

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1 成年年齢引下げ

平成30年法律第59号によって,202241日から(同法附則1条)民法(明治29年法律第89号)4条が「年齢20歳をもって,成年とする。」から「年齢18歳をもって,成年とする。」に改まります。いかにも「やってる感」ある法改正でした。しかしながら,大学生が1年生及び2年生をも含めて堂々とお酒を飲んで仲間と楽しくコンパできるようになってキャンパス・ライフが昭和化するというわけではありません(平成30年法律第59号附則7条参照)。

ちなみに昭和とは,我が国が「激動の日々を経て,復興を遂げた」栄光の時代です(国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)2条)。「復興」とはどの時代との対比でいうのかといえば,皇室は正嫡の四皇子(皇太子裕仁親王,雍仁親王,宣仁親王及び崇仁親王)が揃っておられて盤石,国家はパリ講和会議における戦勝五大国のメンバーにして国際聯盟の四常任理事国(日本,英国,仏国及び伊国)の一,人民は当時のスペイン風邪(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1077312171.html)など令和の新型コロナウイルス感染症が深刻な情況をもたらしているほど気には病まずに四大政策(教育の改善,交通通信機関の整備,国防の充実及び産業の奨励)を掲げる原敬内閣の下に活気をもってデモクラシーに邁進していた若々しかりし大正の御代との対比においてでしょう。

 

2 改正後民法4条と皇室典範22条と

ところで,皇室典範(昭和22年法律第3号)22条は「天皇,皇太子及び皇太孫の成年は,18年とする。」と現在規定しているところ,平成30年法律第59号による民法4条の改正に伴って同条と重複した規定となるので「削除」となる,とはならないことになっています。天皇及び皇族に民法の適用があり,したがって皇室典範22条が単に民法4条の特則であるのならば,本則が特則に揃った以上不要となった特則は引っ込むべきなのですが,引っ込まずにそのまま居残るとはこれいかに。

201828日付けの産経ニュース・ウェブサイトの記事によれば「法務省は〔同月〕8日,成年年齢を20歳から18歳に引き下げる民法改正案の概要を与党に示した。成年年齢引き下げに併せて皇室典範の成年年齢条文の削除も検討されているが,自民党の法務部会など合同会議では,この点について議員から「皇室典範を議論に入れるのは不敬なのでは」などとの発言があり紛糾した。」ということですから,法務省の法案作成担当者は確かに「皇室典範22条=民法4条の特則」説を採っていたものの,それを条文の改正で示すことは「不敬」であるということで皇室典範22条の削除は諦めたということのようです。

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Nolite majestatem laedere!


3 平成30年法律第59号施行後の皇室典範22条

で,そのように諦めた上での皇室典範22条存置の理由付けはどうだったのでしょうか。平成30年法律第59号の法案審議がされた第196回国会では明らかにされなかったようです(国立国会図書館の国会会議録検索システムで筆者が「皇室典範」の検索語で検索をかけてもヒットしませんでした。)。言いっぱなしで,とどめを刺すべき後の始末が尻抜けということでは,「不敬!」と怒号せられた自由民主党の国会議員諸賢も法制的な詰めが甘い。当該理由付けを,なお考えねばならないことになります。

 

(1)意図的「立法ミス」説

理由付けとして考えられるものの一つは,天皇及び皇族に民法の適用があることを前提とした上で,法制執務の美学を犠牲にして意図的に「立法ミス」を犯したことによる規定の重複であるとするものです。

しかし,「通常国会に法案を提出する期限だった〔20213月〕9日。坂井学官房副長官は衆院議院運営委員会理事会で4件の法案をめぐる問題を説明したうえで,陳謝した。/デジタル改革関連法案の誤字や表記ミス▽地域的包括的経済連携(RCEP)協定承認案の日本語訳の欠落や重複▽保険料誤徴収などの発覚による貿易保険法改正案提出見送り▽与党内の調整が進まず,土地規制強化法案の提出期限が間に合わなかったこと――の4件だ。/高木毅議運委員長(自民)は「国会に対して,少し緊張感を持って対応して頂かないと困る」と苦言を呈した。小川淳也・野党筆頭理事(立憲)は「前代未聞の緩みだ」と指摘した。」ということですから(202139日付け朝日新聞Digitalウェブサイト),「意図的に緊張感を解き,気を緩めて法制上の不体裁をあえてやっちゃいました。」というテヘペロ的言い訳が通るかどうか。「霞が関官僚たる上級国民のくせになんだ!業者から国家公務員倫理法違反の74203円の高額接待ばっかり受けていい気になってるんじゃないよ。」と再び怒号の渦が逆巻くとすれば,恐ろしいことです。

 

(2)独自「成年」説の挫折

それでは,皇室典範22条の「成年」は,人の行為能力に係る民法4条の成年とは異なる皇室典範独自の「成年」なのだ,それは,それ未満であれば摂政を置くべきこととなる天皇の年齢(同法161項),摂政に就任可能な皇族の年齢(同法171項・19条)並びに皇族会議議員及び同予備議員に係る互選権を有し,かつ,就任可能な皇族の年齢(皇室典範283項・302項)のみに係る「成年」なのだ,という主張は可能か。

しかしこれは,皇太子又は皇太孫以外の皇族に係る「成年」の年齢については皇室典範中には規定がないのですがどこから持って来るのですか,との質問で倒れます。皇太子又は皇太孫以外の皇族の「成年」は,他の法律仲間を見渡して,やはり民法4条から持って来た成年であると答えざるを得ないでしょう(園部逸夫博士も「皇太子及び皇太孫以外の成年は,民法により満20年と定められることになる。」と説いています(同『皇室法概論―皇室制度の法理と運用―(復刻版)』(第一法規・2016年)253頁)。)。そうであれば皇室典範22条の「成年」も,民法4条の成年を前提とした上での年齢の数字に係るその特則と解すべきものとなるようです。したがって,平成30年法律第59号の施行後は,やはり皇室典範22条は民法4条と重複する盲腸規定(この表現も「不敬」でしょうか?)となりそうです。

 このままでは,故意に法制的不体裁を作出した「意図的「立法ミス」説」を採らざるを得ないようです。美しくないですね。

 

(3)国の儀式たる成年式根拠説

 しかし諦めるわけにはいきません。どう考えるべきか。そうだ,残される皇室典範22条に,天皇並びに皇太子及び皇太孫に係る行為能力規定であるとの意味を超えた何らかの独自の意味を持たせればよいではないか。

 ということで思い付いたのが,天皇並びに皇太子及び皇太孫の成年式を国事行為たる国の儀式として行うための根拠規定説です。確かに,その第13条で「天皇及皇太子皇太孫ハ満18年ヲ以テ成年トス」と,第14条で「前条ノ外ノ皇族ハ満20年ヲ以テ成年トス」と規定していた明治皇室典範の下,皇室成年式令(明治42年皇室令第4号)は,天皇(同令1条)並びに皇太子,皇太孫,親王及び王(同令9条)について成年式を行うべきことを定めていました。日本国憲法及び現行皇室典範下において満18歳となって成年に達した天皇又は皇太子(今上天皇が皇太子となったのは,28歳の時です。)若しくは皇太孫は,19511223日が満18歳の誕生日であった皇太子明仁親王(現在の上皇)のみですが,サン・フランシスコ講和条約発効(1952428日)後の19521110日に,立太子の礼(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1077209171.html)と併せて,皇太子成年式加冠の儀及び皇太子成年式・立太子の礼朝見の儀が国事行為たる国の儀式として行われています(更に同月12日から14日まで皇太子成年式・立太子の礼宮中饗宴の儀を開催)(園部262頁・263頁)。(なお,19511223日当日に祝賀行事が行われなかったのは,昭和天皇が依然御母・貞明皇后の崩御(同年517日)後の服喪中(期間は1年)であったためだそうです(宮内庁『昭和天皇実録 第十一』(東京書籍・2017年)323頁)。)他方,日本国憲法及び現行皇室典範下における他の親王及び王の成年式6件(王については例がありませんが。)については,国事行為たる儀式とはされなかったようです(園部263-264頁)。

ちなみに,人民の子女に係る「成人の日」(国民の祝日に関する法律2条)が初めて「国民の祝日」として祝われたのは,1949115日のことでした。

(なお,明治典憲体制下では,皇室の儀礼中,国の大典となるものは即位の礼,大嘗祭及び大喪儀その他の国葬のみだったようです(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)217頁。現行皇室典範24条・25条参照)。)

 

4 17歳天皇に対する18歳摂政に係る不権衡問題等

 

(1)17歳天皇に対する18歳摂政に係る不権衡問題

 やれやれ,こじつけがましいけど,霞が関法制官僚の無謬性はこうして守られたわい,と思ったものでしたが,一難去ってまた一難,今度は実質面でまた別の問題が見つかりました。皇太子又は皇太孫以外の皇族の摂政就任可能年齢を,民法4条改正の効果に流されるまま漫然と20歳から18歳に引き下げてよいのか,との問題です。

 明治皇室典範14条が皇太子又は皇太孫以外の皇族の成年を満20年としたのには,実は由々しく重いおもんぱかりがあったのでした。すなわち,当該成案が得られるまでには次のような議論があったところです。いわく,「〔明治皇室典範の〕柳原案ニ摂政ノ成年ハ天皇及皇族ノ例ト同シク18歳トシタリ然ルニ今茲ニ17歳ノ天子アルノ場合ニ当リ最近ノ皇族摂政ノ順位ニ当レル人ハ僅カニ18歳ヲ踰エ現在天皇ト1歳ノ差アラント仮定セハ仍ホ其人ハ家憲ニ依リ摂政トナルヘシ此レ事情ニ適セサルニ似タリ故ニ仏国葡国ノ例ニ依リ摂政ノ為ノ成年ヲ25歳ト定ムルカ又ハ伊国ニ依リ21歳ト定ムヘキカ如シ」と(園部258頁註(4)が引用する小林宏=島善高編著『日本立法資料全集・16 明治皇室典範(明治22年)(上)』(信山社・1996年)391頁「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々(井上毅,1887年2月)」)。またいわく,「17歳ノ帝ニ18歳ノ摂政不権衡ノ説ハ正理ユ(ママ)摂政ハ本邦一般ノ丁年ニ依リ満20歳以上トセハ可ナラン」と(園部258頁註(4)が引用する小林=島399頁「疑題件々ニ付柳原伯意見(柳原前光,1887年)」)。この結果,現行皇室典範についても,「皇太子及び皇太孫以外の皇族であっても国事行為を18年で行うことは〔内閣の助言と承認によるものである〕国事行為の性質上可能であると考えられるが,天皇との関係では,例えば,天皇が17歳の場合に18歳の皇族が摂政となることは適当ではないことにより,皇太子及び皇太孫以外の皇族の成年を20歳としているものと考える。」と説かれています(園部255頁)。

 さて,我々人民のおませな子女の成年が年齢20歳から年齢18歳へと早熟化することをもって(おませといっても,女子の婚姻適齢は平成30年法律第59号によって16歳以上から18歳以上に引き上げられ,むしろ晩稲(おくて)になるのですが),従来の天皇と摂政との年齢関する不権衡論17歳の天皇に対して18歳の摂政が置かれるのはおかしい,との議論。なお,皇太子又は皇太孫が,父又は祖父である天皇が17歳のときに18歳で摂政となることはありません。)までが当然のこととして無効化されてしまうものでしょうか。少々関連性が薄いように思われます。天皇の尊厳を懸命に護持せんとする誠忠の士による真摯な公論を更に経る必要が,なおあるのではないかと心配されるところです。「不敬!」と哀れなお役人を怒鳴りつけるだけで済ますのでは,折角の尊皇の真心があるにもかかわらず,なお丁寧な目配りが足りず点睛を欠くということになるのではないでしょうか。「保守」とは,不作為,偸安,知的怠惰を意味するものでは決してありません。

 

(2)皇室典範及び国事行為の臨時代行に関する法律の改正案

 しかし,筆者も言いっぱなしではいけません。

 次のような改正はいかがでしょうか。すなわち,現行皇室典範161項を「天皇が年齢18に達しないときは,摂政を置く。」と,同法171項柱書きを「摂政は,皇族であって年齢20年(皇太子又は皇太孫の場合にあっては,年齢18年。第19条及び第28条第3項(第30条第2項において準用する場合を含む。)において同じ。)に達したものが,左の順序により,これに就任する。」と(同項については,書かれざる第7号として,皇女たらざる親王妃及び王妃も摂政となり得るように解され得るかもしれませんが,あえてそのままにしました(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1077588867.html)。),同法第19条を「摂政となる順位にあたる者が,年齢20に達しないため,又は前条の故障があるために,他の皇族が,摂政となつたときは,先順位にあたつていた皇族が,年齢20に達し,又は故障がなくなつたときでも,皇太子又は皇太孫に対する場合を除いては,摂政の任を譲ることがない。」と,同法283項を「議員となる皇族及び最高裁判官の長たる裁判官以外の裁判官は,各々年齢20に達した皇族又は最高裁判所の長たる裁判官以外の裁判官の互選による。」と,国事行為の臨時代行に関する法律(昭和39年法律第83号)22項を「前項の場合において,同項の皇族が年齢20年(皇太子又は皇太孫の場合にあつては,年齢18年。以下本項及び次条において同じ。)に達しないとき,又はその皇族に精神若しくは身体の疾患若しくは事故があるときは,天皇は,内閣の助言と承認により,皇室典範第17条に定める順序に従つて,年齢20に達し,かつ,故障がない他の皇族に同項の委任をするものとする。」と,同法3条を「天皇は,その故障がなくなつたとき,前条の規定による委任を受けた皇族に故障が生じたとき,又は同条の規定による委任をした場合において,先順位にあたる皇族が年齢20に達し,若しくはその皇族に故障がなくなつたときは,内閣の助言と承認により,同条の規定による委任を解除する。」と改めるわけです。

 

5 昭和22年法律第3号に対する畏怖の由来論

 とはいえ,前記のような改正に対しても,少なくとも昭和22年法律第3号(題名は「皇室典範」)のそれについては「皇室典範を〔国会の〕議論に入れるのは不敬なのでは」という懸念がやはりなおあるかもしれません。(例えば,土屋正忠衆議院議員の20161021日付けウェブページには「そもそも皇室典範は「憲法第1章・天皇」の条項から直接導き出されている特別法で,一般法の延長ではない。」との認識が示されています。)

 

(1)明治40年皇室典範増補7条及び8条

「皇室典範」という題名の法規に係る前記「不敬なのでは」的畏怖の由来するところは,そもそもは1907年(明治40年)211日公布の皇室典範増補(1889年の明治皇室典範62条参照)の次の2箇条ではないでしょうか。

 

  第7条 皇族ノ身位其ノ他ノ権義ニ関スル規程ハ此ノ典範ニ定メタルモノノ外別ニ之ヲ定ム

皇族ト人民トニ渉ル事項ニシテ各々適用スヘキ法規ヲ異ニスルトキハ前項ノ規程ニ依ル

 

  第8条 法律命令中皇族ニ適用スヘキモノトシタル規定ハ此ノ典範又ハ之ニ基ツキ発スル規則ニ別段ノ条規ナキトキニ限リ之ヲ適用ス

 

 美濃部達吉は説明していわく。

 

  (イ)皇室に関する事項は原則として皇室の自ら定むる所に依る。皇室に関する事項とは天皇及皇族の御一身に属する権利義務に関する定を謂ふ。皇室の自ら定むる所の法規は即ち皇室典範及皇室令にして,天皇及皇族の権利義務は総て此等の皇室法に依り之を定むることを原則とするなり。明治40年の典範増補(71項)は此の趣意を言明して〔いる〕。『別ニ之ヲ定ム』とは別の皇室法即ち皇室令を以て之を定むるの意なり。其の皇族と曰へるは天皇に付ては言を待たずと為せるなり。

  (ロ)皇室に関する事項については皇室の定むる所の法が同時に国法として国家及国民を拘束する力を有す。即ち国家の統治権が事の皇室に関する限度に於て皇室に委任せらるるなり。〔略〕〔大日本帝国〕憲法(2条,171項)は皇位の継承及摂政の設置に付ては明文を以て之を皇室の自ら定むる所に任ずることを明にせり。其の他の事項に付ては明白には之を規定せずと雖も,憲法(741項)が『皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セズ』と曰へるは,総て皇室法は議会の議を経るを要せざるの意にして,而して議会の議を経るを要せずとは本来議会の議を経るを要する性質の事項なることを示す。本来議会の議を経るを要する事項は即ち性質上国の立法権に属するものならざるべからず。換言すれば此の憲法の規定は皇室に関する事項に付ては国の立法権を皇室に委任し,皇室の定むる所の法が国法たる効力を有することを示せるなり。典範増補(72項)は此の趣意を言明〔する〕。即ち皇族と人民との法律関係に付ても皇室法を以て之を定むることを得べく,人民は之に遵由することを要するの趣意なり。〔略〕是れ敢て典範増補に依り始めて定まれるものに非ず,憲法に於て既に定まれるものにして,典範増補は唯之を明白ならしめたるのみ。

  (ハ)一般の法律命令は原則として皇室に対し其の効力を及ぼすことなし。法律命令が皇室に適用せらるるは唯皇室が自ら其の適用を忍容する場合に限る。之を皇室の治外法権と謂ふことを得。典範増補(8条)は此の趣意を言明して〔いる〕。即ち皇室法を以て一般国法の皇室に対する適用を排除することを得べく,皇室に関する事項に付ては皇室法の規定が法律勅令に勝る効力を有す,一般国法は皇室法に反対の規定なき範囲に於てのみ皇室に其の効力を及ぼすことを得るに止まるなり。是も典範増補に依り始めて定まりたるものに非ず,憲法には此の点に付き別段の明文なしと雖も,是れ皇室自治の原則より生ずる当然の結果に外ならず。何となれば皇室の事は皇室自ら之を定むと謂ふは,其の反面に於て皇室の事は皇室の意に反しては国の立法に依り之を定むることなしと謂ふの意を含むものなればなり。

   以上の原則に基き,総て皇室に関する事項は単に皇室一家の内事に関するものは勿論,事同時に国家及人民に関渉あるものと雖も,尚皇室に於て自ら之を定め自ら之を処理するの権能を有す。之を皇室自治の大権と謂ひ,又は単に皇室大権と謂ふ。(美濃部210-213頁。原文の片仮名書きを平仮名書きに改めました。)

 

 明治典憲体制下においては,「総て皇室に関する事項」について皇室法が一般国法に優先するものとされています。両法とも制定権は天皇にあったわけですが(ただし,皇室法の制定には帝国議会は関与不可(大日本帝国憲法741項参照)である一方,一般国法たる法律の制定には帝国議会の協賛を要しました(同537条)。),前者に係る天皇は「皇室の家長たる天皇」,後者に係る天皇は「国の元首たる天皇」でした。何やら同君連合めいていますね。先の大戦において大日本帝国は連合国に敗れたのですが,当該敗戦に伴い,大日本帝国と大日本国皇室との関係にも大きな変動が生じたのでした。

 

(2)日本国憲法下における天皇及び皇族の国法上の地位

 日本国憲法下においては,「皇室に関する事項」であっても「国家及人民に関渉あるもの」は専ら一般国法の管轄となり,皇室法はそこから排除されるに至ったものと解されます(明治40年皇室典範増補72項の規定が一般国法絶対優位にひっくり返った,ということになります。)。また,皇室自ら「皇族ノ身位其ノ他ノ権義ニ関スル規程」を定めること(明治40年皇室典範増補71項参照)についても,天皇及び皇族の「国法上ノ地位」を定めるものはもはや皇室典範(これは憲法でも法律でもない正に皇室典範です。)以下の皇室法ではなく「普通ノ法律命令」それ自体ということになるのでしょうから(伊藤博文編『秘書類纂 雑纂 其壱』(秘書類纂刊行会・1936年)33頁の「皇室典範増補上議文案」第7条解説の記述参照),それは一般国法の許容する範囲内でしか認められないわけでしょう(なお,一般国法において皇室に関する事項について規定することが可能であることは,そもそも明治40年皇室典範増補8条自身がその前提としていました。)。皇室典範(1889年の皇室典範及び1907年の皇室典範増補のほか,1918年の皇室典範増補がありました。)及びそれ以下の皇室法が,194751日裁可同日公布の皇室典範及び同日裁可同月2日公布の昭和22年皇室令第12号によって同日限り全て「廃止」されということは,この意味でしょう。明治40年皇室典範増補の「廃止」は,明治天皇によるその裁定前の「従来此ノ点〔皇族の国法上ノ地位〕ニ関スル解釈区々ニ出テ法制亦帰一セザル」状態(伊藤編33頁)への単なる消極的な復帰をもたらすものではなく,より積極的に,天皇及び皇族の「国法上ノ地位」は,皇室典範(皇室法)及び帝国憲法(一般国法)の並立下にあって前者の下に位置付けられていた時のものとはもはや同じではなく,一般国法の下に位置付けられることになったことを明らかにするものでしょう。

昭和22年法律第3号(現行「皇室典範」)は,皇室に関する事項であって国家及び人民に関渉あるもの(国家に関渉ある事項中の皇位継承及び摂政に関するものは,国家の憲法事項ということになります(日本国憲法2条及び5条)。)等について,日本国憲法の施行前に国家の立法権が発動され置かれたものでしょう。皇室自治権が発動され得る範囲も,昭和22年法律第3号及び関係法令から読み取ることになるのでしょう。例えば,昭和22年法律第326条は「天皇及び皇族の身分に関する事項は,これを皇統譜に登録する。」と規定して天皇及び皇族に対する戸籍法(昭和22年法律第224号)の適用を排除していますので(園部613-614頁の引用する1979417日の衆議院内閣委員会における真田秀夫内閣法制局長官答弁参照),民法の規定事項中戸籍を前提にしたものについては,皇室自治権で補充されるものということになるのでしょう。

 皇室一家の内事についてなお残る皇室自治権については,次のような記述があります。

 

   なお,天皇と皇族との関係について,国としては,皇族を皇位継承資格者とし(〔現行皇室典範〕第2条),皇族の範囲につき天皇を中心とした規定(同第6条)を定める外,天皇が国の機関として行う国事行為についての制度化(摂政,国事行為の臨時代行)及び皇室経済〔筆者註:日本国憲法8条及び88条に基づき国家化されています。〕についての制度化(天皇と内廷皇族との関係)をしているものの,他には法制度上は存在しない。これは,天皇と皇族との関係の在り方は,国の機関としての地位にかかわる事項以外は皇室内の規範であるとして,国が積極的に関与することとしていないことによるものであると考える。仮に皇室内部の規範につき皇室からの要請があれば,皇室に関する事務として国がその制定を手伝うことはあるとしても,その制定権限は国にではなく,皇室にあり,そこで定められる規範は国法としての位置付けは有しないことになる。(園部479頁)

 

(3)昭和天皇の「御会釈」

 しかしなお,国会単独立法が可能な法律(日本国憲法41条・59条)ではあるとはいえ,現行皇室典範に対する畏怖はなかなか振り払い得ないものか。現行皇室典範の制定者であった昭和天皇(大日本帝国憲法5条)と当該大権行使の協賛機関であった帝国議会(同37条)の衆議院議員らとの間に同法の「不磨ノ大典」性に関して何らかの黙契があったものでもありましょうか(なお,当時はまだ参議院はありません。)。19461213日金曜日,衆議院皇室典範案委員に対して昭和天皇が「御会釈」をしています。

 

  午後,内廷庁舎御車寄前において衆議院皇室典範案委員会委員一行に御会釈を賜う。同委員会は,1126日衆議院に提出された皇室典範案の審議のため,去る125日院内に設置され,衆議院議員〔筆者註:前同議院議長〕樋貝詮三を委員長として,7日以降,実質審議を開始し,14日に賛成多数により原案どおり可決する。さらに同委員会においては,1210日に衆議院に提出された皇室経済法案についても審議を行い,19日全会一致を以て可決する。(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)249頁)

 

 龍顔厳粛にして,重い叡旨があった(と委員らは感じて圧倒された)のかもしれません。

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1 ベルギー国憲法の王朝関係条項

 

   ベルギーは1830年の革命の結果生まれたヨーロッパの小国であるが,その憲法には,いろいろの点で,われわれの興味をそそるものがある。1831年に制定され,成典憲法としては古いものであるが,今日〔1976年〕まで145年の長命を保っている。19世紀前半につくられたものとしては,かなり進歩的な内容をもち,しかも,法典として割合によくまとまっていたので,外国の憲法でこれにならったものも少なくない。1848年のドイツのフランクフルト憲法,1849年のオーストリア憲法,1850年のプロイセン憲法などは,そのいちじるしい例であり,わが明治13年〔1880年〕の元老院の憲法および〔1889年の〕明治憲法も影響をうけている。

   この憲法には,規模は小さいが,立憲君主制のもとに,自由主義的議会民主制のひとつの見本が示されている。そうして,形式的には,君主制をとりながら,その基礎原理は民主主義と自由主義であり,そのうえに君主制をみとめているところにこの憲法の本領がある。すべての権力は国民に由来し(第〔33〕条),国王は,憲法の制定者ではなく,憲法の所産であって,政治の実権をもたない装飾的な存在にすぎず,日本国憲法における天皇の国事行為の場合と同じように,憲法および憲法にもとづく特別の法律の明文によって与えられた権能のみをもつ。

  (清宮四郎;宮沢俊義編『世界憲法集 第二版』(岩波文庫・1976年)66頁)

 ベルギー国を訪問した皇太子裕仁親王に対し,1921610日,アルベール1世国王は,その歓迎の辞の中で特に次のように同国憲法に言及しています(宮内庁『昭和天皇実録 第三』(東京書籍・2015年)293頁)。

 

  殿下は我が国において其の国民が憲法の下に,克く自らの運命を支配し,且つ狭小な地域において欧洲強国の間に伍しつゝ其の国民的個性を保持し,自由を愛好し,以て社会に於ける知識,道徳の向上並に物質上の繁栄に資する諸種の事業を起し,且つこれを確立せんとして努力し居るを看取せられるでありませう。


  ちなみに,1830年にベルギー国憲法草案の起草を中心となって担ったのは25歳のジャン=バティスト・ノトン(Jean-Baptiste Nothomb)と29歳のポール・ドゥヴォー(Paul Devaux)との二人であって,最初の原案(なお,立憲君主制になるか共和制になるかは当時未定)は両名によって同年1012日から同月16日までの間に作成されたそうです(Dimitri Vanoverbeke, The Development of Belgian Constitutional Practice: the Head of State Between Law and Custom, 憲法論叢第8号(20023月)32頁)。少数の若者による短期間の制作という事実は,某国の憲法草案の19462月における起草作業を彷彿とさせます。

 ベルギー国憲法には,次のような条項があります(拙訳は,清宮86-87頁・90頁を参照しました。)。

 

Art. 85


Les pouvoirs constitutionnels du Roi sont héréditaires dans la descendance directe, naturelle et légitime de S.M. Léopold, Georges, Chrétien, Frédéric de Saxe-Cobourg, par ordre de primogéniture.

Sera déchu de ses droits à la couronne, le descendant visé à l'alinéa 1er, qui se serait marié sans le consentement du Roi ou de ceux qui, à son défaut, exercent ses pouvoirs dans les cas prévus par la Constitution.

Toutefois il pourra être relevé de cette déchéance par le Roi ou par ceux qui, à son défaut, exercent ses pouvoirs dans les cas prévus par la Constitution, et ce moyennant l'assentiment des deux Chambres.

 

85条 国王の憲法上の権能は,レオポルド・ジョルジュ・クレティアン・フレデリック・ド・サクス・コブール陛下の直系,実系かつ嫡系の子孫が,長子継承の順序により,これを世襲する。

  第1項に規定する子孫であって,国王又は憲法によって定められた場合に国王に代わって国王の権能を行う者の同意なしに婚姻したものは,王位につく権利を失う。

  ただし,当該子孫は,国王又は憲法によって定められた場合に国王に代わって国王の権能を行う者によって,かつ,両議院の同意を得て,王位につく権利の回復を受けることができる。

 

Art. 86

A défaut de descendance de S.M. Léopold, Georges, Chrétien, Frédéric de Saxe-Cobourg, le Roi pourra nommer son successeur, avec l'assentiment des Chambres, émis de la manière prescrite par l'article 87.

S'il n'y a pas eu de nomination faite d'après le mode ci-dessus, le trône sera vacant.

 

  第86条 レオポルド・ジョルジュ・クレティアン・フレデリック・ド・サクス・コブール陛下の子孫がないときは,国王は,第87条に規定する方法で表明された議院の同意を得て,その継承者を指名することができる。

    前項に掲げた方法による指名が行われない場合は,王位は空位となる。

 

Art. 87

Le Roi ne peut être en même temps chef d'un autre État, sans l'assentiment des deux Chambres.

Aucune des deux Chambres ne peut délibérer sur cet objet, si deux tiers au moins des membres qui la composent ne sont présents, et la résolution n'est adoptée qu'autant qu'elle réunit au moins les deux tiers des suffrages.

 

  第87条 国王は,両議院の同意がなければ,同時に他国の元首となることができない。

    両議院のいずれも,その総議員の3分の2以上が出席しなければ,前項の同意に関する議事を行うことができない。また,3分の2以上の多数によらなければ,可決の議決をすることができない。

 

Art. 95

En cas de vacance du trône, les Chambres, délibérant en commun, pourvoient provisoirement à la régence, jusqu'à la réunion des Chambres intégralement renouvelées; cette réunion a lieu au plus tard dans les deux mois. Les Chambres nouvelles, délibérant en commun, pourvoient définitivement à la vacance.

 

  第95条 王位が空位の場合は,全部改選された両議院が会同するまで,両議院の合同会で,暫定的に摂政職について措置する。新議院の会同は,2箇月以内にこれを行う。新議院の合同会は,確定的に空位を補充する。

 

 ベルギー国憲法851項は,当初は,「・・・男系に従って,長子継承の順序により,・・・女子及び女系の子孫は,永久に継承の権利を有しない。」(de mâle en mâle, par ordre de primogéniture, et à l’exclusion perpétuelle des femmes et de leur descendance)とされていたところです。その後ベルギー国にあっては,「永久に(perpétuel)」の文言もものかは,憲法の改正があったわけです(1991年)。なお,ベルギー国の先王アルベール2世には非嫡出子がありますが,嫡系(légitime)ではないので,当該非嫡出子たる女性は王位継承とは無縁です(我が最大決平成2594日(民集6761320頁)などからするといかがなものでしょうか。)。

 

2 日本国憲法における「「王朝」形成原理」

 

(1)明治典憲体制における「原理」の「維持」が求められているとの説

 かつて小嶋和司教授は,「〔日本国〕憲法2条は「王朝」形成原理を無言の前提として内包しているとなすか,それとも「国会の議決した皇室典範」はそれをも否認しうるとなすかは憲法論上の問題とすべきものである。」とされ(「「女帝」論議」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』(木鐸社・1988年)65頁),かつ,憲法に内包される当該「無言の前提」たり得る「「王朝」形成原理」に関しては,いわゆる「マッカーサー・ノート」における“dynastic”との用語から,大日本帝国憲法改正時にマッカーサー連合国軍総司令官は,「現王朝(dynasty)を前提として,王朝に属する者が王朝にふさわしいルールで継承すべきことを要求」するとともに当該王朝の「王朝形成原理の維持を要求」していたのではないかと示唆されていました(同64頁。下線は筆者によるもの)。すなわち,「憲法論的に男帝制を指示するとも考えうる史実」があったところです(小嶋・女帝63頁)。

確かに,大日本帝国憲法の改正に係る1946213日のGHQ草案の第2条(Article II. Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.)及び第4条(Article IV. When a regency is instituted in conformity with the provisions of such Imperial House Law as the Diet may enact, the duties of the Emperor shall be performed by the Regent in the name of the Emperor; and the limitations on the functions of the Emperor contained herein shall apply with equal force to the Regent.)においては“such Imperial House Law as the Diet may enact”なる法規の存在が現れていましたが,これは,当時の皇室典範(明治皇室典範(1889年)並びに明治40年皇室典範増補(1907年)及び大正7年皇室典範増補(1918年))の改正憲法下での存続を前提に,皇位継承及び摂政設置に関して,天皇と競合し,かつ,優越する立法権(ただし,憲法の枠内であることは当然。)を国会に与えるとの趣旨ではなかったかとは,両条に係る「国会ノ制定スル皇室典範」との外務省による翻訳以来の定訳に対して,不遜にも異見を提示する筆者の思い付きでありました(「日本国憲法2条に関する覚書」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065867686.html)。

 

(2)明治典憲体制における三大則

明治皇室典範における皇位継承の大原則は,その第1条(「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」)に係る『皇室典範義解』の解説によれば,「祖宗以来皇祚継承の大義炳焉(へいえん)として日星の如く,万世に亙りて易ふべからざる者,(けだし)左の三大則とす。/第一 皇祚を践むは皇胤に限る。/第二 皇祚を践むは男系に限る。/第三 皇祚は一系にして分裂すべからず。」であったそうです。この三大則は,「世襲」の意味内容たる,又は昭和22年法律第3号がなおも皇室典範たる以上その当然の前提とするところの「「王朝」形成原理」として,日本国憲法2条に内包されているものでしょうか。

(ちなみに,男系ノ女子による皇位継承までならば,前記「皇祚継承の大義」には抵触しないようですので,「皇祚継承の大義」をも圧伏し得る人民の主権意思(the sovereign will of the People)の発動たる憲法改正までは要さず,法律の形での皇室典範改正によって可能なのでしょう。)

 

ア 皇胤主義

「皇胤」とはだれのことかというと,『皇室典範義解』には「祖宗の皇統とは一系の正統を承くる皇胤を謂ふ。而して和気清麻呂の所謂皇緒なる者と其の解義を同くする者なり。」とあって,宇佐八幡宮からの和気清麻呂の還奏(「我国家開闢以来,君臣分定矣,以臣為君未之有也,天之日嗣,必立皇緒」)を見よ,ということになっています。道鏡が皇位に就くことを排斥する理窟は,単に道鏡は臣下だからということ(「以臣為君未之有也」)だったというわけなのですね。「我国家開闢以来,君臣分定矣,以臣為君未之有也」なので,明治40年皇室典範増補6条において「皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス」とされたものなのでしょう(また,昭和22年法律第315条)。「皇統トハ唯皇族タル身分ヲ有スル者ノミヲ意味シ,既ニ臣籍ニ入リタル者ヲ含マズ。一タビ皇族ノ身分ヲ脱シテ臣籍ニ降ルトキハ,皇位継承ノ資格ハ消滅シテ又之ヲ復スルヲ得ザルコトハ,当然ノ原則トシテ認メラルル所ナリ」というわけです(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)178頁)。

しかし,「吾是去来(いざ)穂別(ほわけの)天皇(すめらみこと)〔履中天皇〕之孫〔同天皇の皇子である市辺(いちのべの)忍歯別(おしはわけ)王の子〕なのだけれども播磨国において困事於人(ひとにたしなみつかへて)(うし)牧牛(うまを)(かふ)境遇にまで(新編日本古典文学全集3『日本書紀②』(小学館・1996年)230-231頁)いったん下った後に(雄略天皇は市辺忍歯別王を自ら射殺し給うていますから,同王の子らは雄略朝期には皇族扱いなどつゆされなかったものでしょうが,同天皇も崩御して既に暫くたった時期に)宴会で踊りと歌とを披露して山部連(やまべのむらじが)先祖(とほつおや)()(よの)来目部(くめべの)小楯(おだて)身分を顕わし再上昇して皇位を継承し給うた顕宗・仁賢の兄弟天皇の古例があり,藤原高子(白玉か何ぞと人の問ひしとき露とこたへて消えなましものを)系は勘弁してくれということで光孝天皇(君がため春の野に出でて若菜が衣手に雪はりつつ)の子である源定省が皇族に復帰して皇位を継承した宇多天皇前例ありますから,皇祚を践むは皇胤に限る。」とは明治天皇の決意ではあっても,例外を一切許さぬ「炳焉として日星の如く,万世に亙りて易ふべからざる」ものとまでいえるかどうか。

 

イ 一系主義

「皇祚は一系にして分裂すべからず。」については,『皇室典範義解』自ら「後深草天皇以来数世の間,両統互に代り,終に南北二朝あるを致しゝは,皇家の変運にして,祖宗典憲の存する所に非ざるなり。」と嘆きつつも大覚寺統の諸天皇の在位を否認することはしていませんから,できちゃったものは仕方ないが,以後気を付けよう,という位置付けでしょうか。ただし,美濃部達吉によれば,一系主義は世襲主義からの説明が可能です。いわく,「純粋の世襲主義に於いては,必ず単一の系統に於いて之を世襲するものでなければならぬことは,当然である。若し皇統が2系以上に分たれ,その各系の出が対等の権利を以て皇位の継承を主張し得ることが認めらるゝならば,それは世襲主義の思想とは相容れないものである。」と(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)105頁)。

しかし,古代スパルタ人に言わせれば,二系の王家があって王が二人いたってええじゃないか,ということになるのでしょう。

 

ウ 男系主義

最後に,「皇祚を践むは男系に限る。」については,これは『皇室典範義解』も安心してか,「先王の遺意を紹述する者にして,苟も新例を創むるに非ざるなり。」と記しています。「日本における「帝室ノ眷族」の形成原理は,父母の同等婚を要求しないかわり,たんに片親の皇統性で足りるとはせず,厳格に父系の皇族性を要求した。明治憲法第1条のいう「万世一系ノ天皇」が男系に着目しての一系制で,「皇統ハ男系ニ限リ女系ノ所出ニ及ハサルハ皇家ノ成法」(『典範義解』)である」こと(小嶋・女帝60-61頁)に留意せよということになります。「〔昭和22年法律第3号たる〕皇室典範を改正して女の天皇を認めることは,もとより可能である。」(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)132頁。下線は筆者によるもの)といわれる場合において,ここでの「女性」に「女」までをも読者において読み込み得るものかどうかは,難しいところです。

女系の皇統を認めるということは,従来の皇室=皇族の範囲・枠組みを抜本的に変更することになるようですから,憲法改正の革命的手続によるのが無難でしょうか。というのは,皇室典範は本来皇室の家法であり,かつ,日本国憲法も「皇室典範」の文字によって当該性格を承認していると考えるならば(しかしこれは,「戦後日本社会の支配層は,明治期に確立した皇室関係法の特殊性を何とかして残し,天皇の「萬世一系」性を日本人たちに納得させる一助たることを期待して,憲法第2条の異例な言葉遣いにこだわった。この作戦は,かなり成功した気味がある。この言葉遣いが持つ特殊な煙幕効果のゆえに,相当の知識人・文化人でさえも,「皇室典範」というものは,憲法規範の一部と誤解したり,そうでないとしても何か特別な法であって,その修正には特別な手続が必要であると勘違いしている向きがある。そういう誤謬をおかす点において,「ふつうの日本人」は――自ら気づかないままに――天皇制の明治的伝統を引き継いでいるというわけである。」というだけのことかもしれませんが(奥平康弘『「萬世一系」の研究(上)』(岩波現代文庫・2017年)17頁)。),昭和天皇の裁可に係る昭和22年法律第3号について国会が法律で改正を加えるに当たっては(「宮内府」が「宮内庁」になった昭和24年法律第134号による改正のようなものを除き),少なくとも事実上,皇室(又はその家長たる天皇)の同意が必要不可欠であるのだと考えることも可能であるようなのですが19466月の法制局「憲法改正草案に関する想定問答(増補第1輯)」では,法律としての皇室典範の取扱いについて,「国会の側から皇室について謂はば差出がましい発案は行はないと云ふ様な慣習法が成立することもあらうか,と考へる。」との希望や,「国会その他の意思をも反映させるための方法」として「特殊の諮詢機関の議を経べきこと」もあり得べきか,というようなアイデアが示されています。同月8日,帝国議会の議に付される帝国憲法改正案が可決された枢密院会議において,昭和天皇の弟宮である崇仁親王から「皇室典範改正への皇族の参与につき再考を願」う旨の発言があり,かつ,同親王は棄権し退席していたところです(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)136頁)。,その場合,天皇は「国政に関する権能を有しない。」という例の日本国憲法41項後段との関係が大問題になり得るからです(「日本国憲法41項及び元法制局長官松本烝治ニ関スル話」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065184807.html)。

 

3 王朝交代に係る憲法規定について

 

(1)ベルギー国憲法における存在と日本国憲法における不存在と

「皇統の全く絶ゆることは,わが憲法の予想しないところで,皇統連綿天壌と共に窮なかるべきことを前提として居る」ので(美濃部・精義106頁),「王統の絶えた場合を予想して,之に応ずべき処置を定めて居る」ベルギー国憲法の規定は,我が神州の憲法にとっては,正に単なる「備考」に止まるべきものです(同頁)。

しかし,ついベルギー国憲法86条を眺めると,「はて,これは我が憲法では「神武天皇の子孫がないときは」と書くべきところかな。それとも「明治天皇の子孫がないときは」かな。」などと余計なことを考えてしまいます。これについては,少なくとも「明治天皇の子孫がないときは」とはならないようです。明治典憲体制下においては,後花園天皇の弟宮の貞常親王系である伏見宮系の皇族も皇位継承の可能性があるものとされていました。したがって,「崇光天皇の子孫がないときは」とすべきでしょうか。しかし,それでは,我々臣民がその意思をもって折角推戴し奉った後光厳天皇(崇光天皇の弟)から始まった皇統(ただし,一休さんは継承できず。)は何だったのだということになりますから(「「日本国民の総意に基づく」ことなどについて」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1003236277.html),「光厳天皇の子孫がないときは」でしょうか。しかしまたそれでは,吉野方贔屓の方々の御不満もあることでしょう。結局,持明院統・大覚寺統どちらも仲良く「後嵯峨天皇の子孫がないときは」でしょうか。仁治三年正月四日(1242年)の四条天皇の崩御後「承久の乱の再発を恐れる〔北条〕泰時は,その際討幕派であった順徳院の皇子の即位を喜ばず,〔非戦派であった〕土御門の皇子を推し,鶴ヶ岡八幡宮の神意によると称して,その旨を京都に伝えた。泰時は順徳院の皇子の即位が実現するようなことがあれば,退位させよという決意を,使者の安達義景に伝えたという。さて,土御門院の皇子は,幕府の推戴をうけ,仁治三年正月二十日元服して邦仁と名乗り,冷泉(れいぜい)万里(までの)小路(こうじ)殿(どの)(せん)()した。後嵯峨(ごさが)天皇である。」ということですから上横手雅敬『北条泰時』(吉川弘文館・1958年)197頁),鶴ヶ岡八幡宮の神意並びに承久三年における我ら人民の達成及びその保持の必要性に鑑みるに,「後嵯峨天皇の子孫がないときは」でよいのでしょう。後鳥羽院=順徳院系の皇位継承は,避けられるべきものでした。

 

  奥山のおどろが下も踏み分けて道ある世ぞと人に知らせん

 

 なお,19471013日の皇室会議の議による同月14日の伏見宮系11宮家の皇籍離脱に係る昭和天皇の叡旨はいかんといえば(これら両日には,実は昭和天皇は長野県及び山梨県を行幸中でした(実録第十486-499頁)。),19461227日公布の明治40年皇室典範増補の改正(同皇室典範増補1条が「王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムルコトアルヘシ」から「内親王王女王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ臣籍ニ入ラシムルコトアルヘシ」に改められました。)について19461229日に伊勢の皇大神宮において勅使掌典室町公藤が奏した祭文には「今し国情の推移に伴ひ内親王王女王にして臣籍に入るへき途を広むるはむへくも有らぬ事となもおもほしきこしめし今回皇室典範増補の規定に改正を加へ其か事を制定さだめ給ひぬ」とあったところからみると(同書262頁。また,神武天皇山陵,明治天皇山陵及び大正天皇山陵にもそれぞれ奉告されています。),当該皇籍離脱は飽くまでも「国情の推移に伴」う「已むへくも有らぬ事」であって,皇考大正天皇の子孫以外の皇族を皇統から除かむとすなどという後醍醐天皇的に積極的ないしは苛烈なものではなかったようです(昭和22年法律第3号の第11条の手続においては天皇の意思表示は不要である建前ですので,昭和天皇もやや気楽に甲信の秋を楽しめたものでしょう。)。(これに対して,19471013日の皇室会議の議長たりし内閣総理大臣片山哲は,我が国史的には,華府ならぬ鎌倉の指令に従った承久三年夏の京都における北条泰時・時房的立場に置かれたものというべきなお当該皇室会議皇族議員出席二方高松親王秩父親王親王妃た(議案全会一致可決)。秩父高松絶家っていす。親王194672日の皇族討論会において「皇族の特権剥奪に対する批評の如き言辞は慎むよう」兄の昭和天皇から「仰せ」を受けており,その場で「御討論」(兄弟げんかということでしょう。)になっていましたが(実録第十155頁),19471013日には沈黙を守っておられたものでしょう。


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神奈川県藤沢市・秩父宮記念体育館近傍


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東京都世田谷区船橋(なお高からずとも,やはり,松です。)



(2)1810年スウェーデン王位継承法の前例

 王位継承問題に係るベルギー国憲法86条的解決の前例としては,スウェーデン王国の議会が議決し国王カール13世が裁可した同王国の1810926日王位継承法を考えるべきでしょうか。同法に基づき,同王国においては,1818年,ホルシュタイン=ゴットルプ王朝からベルナドッテ王朝への王朝交代がなされています。

ベルナドッテ朝の初代国王カール14世ヨハンは,元はフランスの一将軍であったジャン=バティスト・ベルナドットです。毎年12月,寒いストックホルムまでわざわざ出かけてベルナドッテ朝の王様からノーベル賞を貰って皆感謝感激するのですが,当該王朝には,その歴史にも由来にも,万世一系の神聖は全くありません。1763年に南仏ベアルンのポーで生まれたジャン=バティストは,同市で法律事務見習いをした後1780年に一兵卒として軍隊に入り,革命を経て累進,マルセイユの商人の娘であるデジレ・クラリーと1798年に結婚します(その翌年のクーデタでフランス共和国の政権を奪取したボナパルト第一執政は,彼女の元婚約者)。ベルナドット元帥は,1810年にスウェーデンの王太子。翌々1812年のロシア遠征の段階における元上司・フランス皇帝と元部下・スウェーデン王太子との関係は,次のように描かれています(長谷川哲也『ナポレオン~覇道進撃~第14巻』(少年画報社・2018年)134-136頁)。

 

  ベルティエ元帥  悪いニュースが〔中略〕スウェーデン王太子のベルナドットがロシアと密約を結んでおります

  ナポレオン1世 (あのくそ野郎/さっそく俺の敵に回ったか/イエナ・アウエルシュタット戦の時に銃殺しておくべきだった)

 

 余りお上品な人たちではないようです。

 ルイ16世らを血祭りに上げたフランス大革命を経て成り上がったベルナドットは,1810821日にスウェーデン議会によって王太子に選ばれていますが,その約2箇月前の段階においては,Ancien Régimeの粋・『ベルサイユのばら』のあの人物が,スウェーデンの王位をその近くから窺覦する者の一人として考えられていたようです。

 

  彼の敵は,この厚顔な封建貴族がフランスに復讐するためにみずからスウェーデン王となって国民を戦争に引きずりこもうとしている,と,ひそかに言いふらした。そして18106月にスウェーデンの王位継承者が急死すると,フェルセン名誉元帥がみずから王冠をつかまんがために毒を盛って片づけたのだという,とんでもない,危険なうわさが,わけのわからぬうちにストックホルムじゅうにひろがった。この瞬間から,革命のときのマリー・アントワネットとまったく同じように,フェルセンは人民の怒りに生命をおびやかされることとなった。このため,いろんな計画のたてられていることを知っていた好意的な友人たちは,埋葬の日に強情なフェルセンに警告して,葬式には出ないで用心深く家にいた方がいいとすすめた。しかしこの日は620日,フェルセンの神秘的な運命の日である〔1791620日にルイ16世一家のヴァレンヌ逃亡事件発生〕。〔略〕儀装馬車が(やかた)を出るか出ないかに,たけり狂う(ママ)民の一団が軍隊の警戒線を突破し,こぶしを固めて,白髪の老人を馬車から引きずり出し,防ぐすべもない彼をステッキや石で打ち倒した。620日の幻像はここに実現されたのである。マリー・アントワネットを断頭台に連れて行ったのと同じ,狂暴でどうもうな分子に踏みにじられて,「美しいフェルセン」,最後の王妃の最後の騎士の死体は,血を流し,見るも無残なすがたとなってストックホルムの市役所の前に横たわっていた。(ツワイク,関楠生訳『マリー・アントワネット』(河出書房・1967年)440-441頁)

 ベルナドッテ王朝は,気さくで人懐っこいというべきでしょうか。万世一系の我が皇室が苦難の中にあった19461128日,「これより先,スウェーデン国皇帝グスタフ5世より,皇孫ヴェステルボッテン公グスタフ・アドルフの皇子イェムトランド公カール・グスタフ誕生去る430を報じる510日付の親書が寄せられ,この日答翰を発せられる。これは終戦後初めて外国元首から送られた親書にて,聯合国最高司令部を経由して送付された。また答翰についても,最高司令部の検閲があるため,開封のまま外務省に送付される。なお,この答翰は平仮名混じり口語体とされ,初めて「当用漢字表」及び「現代かなづかい」が用いられた。」(実録第十244頁)ということがありました。1946430日生まれのイェムトランド公は,現在のカール16世グスタフ国王です。1945429日の天長節に際しても「スウェーデン国・満洲国・アフガニスタン国・タイ国の各皇帝,並びに中華民国国民政府主席代理より祝電が寄せられ,それぞれ答電を発せられる。なお,ドイツ国総統からの祝電はこの日の時点において到着なく,電信連絡も途絶状態にあり。」ということで(宮内庁『昭和天皇実録 第九』(東京書籍・2016年)656頁),グスタフ5世は義理堅いところを見せていました。昭和天皇がお下品に「あのくそ野郎/さっそく俺の敵に回ったか」とジャン=バティスト・ベルナドットの子孫について独白することは全くあり得なかったわけです。 

4 同君国関係

 ベルギー国憲法871項も面白いですね。

 大日本帝国憲法下でも「天皇が同時に或る外国の君主として,2箇国又は数箇国に君臨したまふことも,憲法上敢て不可能ではない。同君国関係には偶然の同君関係(Personal Union)と法律上の同君関係(Real Union)との2種が有る。前の場合には,日本とその外国との間には何等の法律上の関係も無く,唯2国が同一君主を戴いて居るといふだけに止まるもので,仮令それが起り得るとしても,日本の憲法には何の関係も無い。後の場合は,2国(時としては数国のことも有り得る)間の条約に依り永久に2国とも同一の君主を戴くことを約するものであり,此の如き条約を結ぶことは固より憲法(第13条)上の天皇の大権に依るものであるが,併しその条約に基き天皇が外国の君主として行はせたまふところは,外国の憲法に依るのであつて,日本の憲法には関しない,それは外国の統治権であつて,全く日本の統治権ではない。法律上の同君関係の場合には,単に同君であるばかりではなく,之に伴うて一定の範囲に於いて政務を共同にすることを約するのが通常で,此の場合にはその共同の政務に関しては両国の合同の意思に依つて之を処理することを要し,随つてその共同の機関を設くることが必要であるが,此の共同の機関を如何に組織するかも,亦日本の憲法に依つて定まるものではなく,専ら両国間の協定に依つて定まるものであり,その共同政務の処理に関しても日本の憲法は適用せられない。日本の憲法は日本の単独の統治権に関する規定で,此の場合は憲法以外に,共同的の統治権が成立するのである。」ということでした(美濃部・精義98-99頁)。

しかし,19108月の条約は,大日本帝国と大韓帝国とは後嵯峨天皇の子孫たる同一の君主(条約発効時には睦仁天皇兼皇帝)を戴くことを約す,というものではありませんでした。(すなわち,大韓帝国の国璽・皇帝御璽等(大韓国璽,皇帝之宝,勅命之宝2種,制誥之宝,大元帥宝,内閣之印及び内閣総理大臣章)は,無慈悲に破壊・亡失されることはなく大日本帝国の宮内省に保管されていましたが(実録第十170頁参照),使用される機会はなかったところです。これらは,GHQを通じて返還されたものの,大韓国璽等は朝鮮戦争の際亡失したそうです。

 閑話休題。

 

5 王朝選択の重要性

 ベルギー国憲法95条に関して,例のトニセン本(「大日本帝国憲法19条とベルギー国憲法(1831年)6条」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1038090379.html)に次のような一節があります。

 

   この場合,事は新王朝の開基に(de fonder une dynastie nouvelle)かかわるので,受任者の選任という形で,少なくとも間接的に選挙民団(le corps électoral)の意思が問われるべきこと(soit consulté)が至当(juste)である。国家の命運(les destinées du pays)は,君臨する一族(la famille régnante)の徳及び智(des vertus et des lunières)に大きくかかっているのである。(Thonissen, J.J., Constitution Belge annotée, offrant, sous chaque article, l’état de la doctrine, de la jurisprudence et de la législation; Hasselt, 1844. p.227)

 

「国家の命運は,君臨する一族(famille)の徳及び智に大きくかかっている」のです。「日本では,君主政というと「上御一人の支配」のごとく考え,目を君主にのみ注いでしまう」が,世襲君主制が前提とする基礎的事項は,君主は「支配王朝(dynasty)の所属者,すなわち「王族」であること」であって,「君主制政体を,君主の支配政体であるよりも王朝の支配政体と考えるが故に,これが「第一主義」とされ」,「「王族」とされるための条件の確定が,憲法上「之ニ次グ」重要性をもつ」(小嶋・女帝58-59頁)という西洋流の思考の片鱗がここにあります。

 

6 人臣摂政の憲法問題

 

(1)QUI REGIT IN INTERREGNO

なお,ベルギー国憲法95条の暫定的な摂政職は,レオポルド・ジョルジュ・クレティアン・フレデリック・ド・サクス・コブールを初代の王とする王朝の子孫が絶えてしまったときに設けられるものですから,王族ではなく(王族が残っていれば即位すべきです。),我が藤原良房から二条斉敬までの先例同様,人臣が就くものでしょう。

なるほど。我が国でも政権の粗相で皇位の安定的継承が確保できず,古事記の清寧天皇伝(清寧天皇は雄略天皇の子)の伝える「此〔清寧〕天皇,無皇后,亦無御子。〔略〕故,天皇崩後,無可(あめのした)(しらし)天下之王也(めすべきみこなかりき)。」というような状況になった場合は,当時採られた()(こに)(ひつ)日継所知之(ぎしらしめすみこを)(とふに)市辺忍歯別(いろも)忍海(おしぬみの)郎女,(またの)(なは)飯豊(いひとよの)王,坐葛城忍海之高木角刺宮也(かつらぎのおしぬみのたかきのつのさしのみやにいましましき)。」飯豊(いひとよ)(あをの)(みこと)(倉野憲司校注『古事記』(岩波文庫・1963年)195頁・300頁)の例のように女性皇族の摂政で暫時凌いで(ただし,昭和22年法律第31713号から6号までは,摂政就任可能女性皇族を皇后,皇太后,太皇太后,内親王及び女王に限っています。)顕宗=仁賢=武烈的新王朝の出現を待つべし,女性皇族も不在となれば人臣摂政でいくべし,ということでよいのでしょうか。

摂政については,明治皇室典範19条(昭和22年法律第316条に対応)の解説において『皇室典範義解』は「本条は摂政を認めて摂位を認めず。以て大統を厳慎にするなり。」と述べていますが,空位時に摂位を行うRegentは認めないといい得るのは,万世一系の建前により「皇統の全く絶ゆることは,わが憲法の予想しないところで」あるとともに,明治皇室典範10条が「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定して「皇位の一日も曠闕すべからざるを示し」ているからでしょう(『皇室典範義解』。また,昭和22年法律第34条)。現実に空位が生じてしまえば,必要に応じて,摂位的摂政も認められざるを得ないはずです。なお,「摂位トハ皇位曠シキガ故ニ一時仮ニ皇位ヲ充タシ正常ナル皇祚定マルヲ待ツヲ謂」います(美濃部・撮要237頁)。

先の大戦における我が同盟国たりしハンガリー王国においても,人臣摂政による摂位がされていました。

 

 〔19401121〕 日独伊三国条約にハンガリー国加盟日本時間1120日午後730につき,同国摂政ホルティ・ミクローシュと祝電を交換になる。(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(東京書籍・2016年)242頁)

 

(2)日本国憲法5条

ところで,最終手段としての人臣摂政を可能にするためには,摂政就任資格者を皇族に限定している昭和22年法律第3号の第17条を改正しなければなりません。

 

ア 日本国憲法5条の「皇室典範」の法的性質

そこで,念のため,日本国憲法5条を見てみると,同条も難しい。「皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは,摂政は,天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には,前条第1項の規定を準用する。」とあって,「国会の議決した」なしに「皇室典範」が裸で出て来ます。この「皇室典範」は,皇室の家法として,国会の関与なしに天皇によって裁定され得るものなのでしょうか。そうであると,明治典憲体制的でなかなか由々しい。しかし,ここでの一般的説明は,日本国憲法2条で「国会の議決した皇室典範」とあるので皇室典範は今や法律であり,したがって同5条の皇室典範も法律なのだ,というものでしょう。

いやいや皇室典範も複数あり得て「国会の議決しない皇室典範」も存在し得るのではないですか,という反論が許されないのは,皇位継承及び摂政設置に関する条項を含めて,皇室典範は「皇室典範」という題名の単一の法典として制定されていなければならないのだ(したがって法的性質も同一),皇室典範事項をばらばら分けて複数の法典にしてはならないのだ,という暗黙かつ強固な前提があるからでしょう(これに対して,Kaiserliche Hausgesetzeが複数であり得ることについては,小嶋和司「ロエスレル「日本帝國憲法草案」について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)58頁参照)。そうであると,皇室典範は単一の法典でなければならない,という当該要請は憲法的なものとなります。天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)においてわざわざ昭和22年法律第3号の附則に「この法律の特例として天皇の退位について定める天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)は,この法律と一体を成すものである。」との呪文的第4項が加えられたのは,日本国憲法5条の「皇室典範」の法律性を確保するためでもあったものでしょう。なお,日本国憲法5条がGHQの米国人らをクリアしたのは,同条の英文は“When, in accordance with the Imperial House Law, a Regency is established…”であるので,ここの定冠詞付きの“the Imperial House Law”は第2条の“the Imperial House Law passed by the Diet”を承けたものでございます,との説明が可能だったからでしょうか。

 

イ 皇室典範事項について規定するものたる法律が定め得る内容の範囲

さて,人臣摂政の可能性なのですが,普通の法律ではなく,皇室典範事項について規定するものたる法律によって摂政の設置について定める以上は,皇室典範事項という枠をなお尊重して,摂政は皇室の家法の適用されるべき者(皇族)でなければならないという憲法的要請までをも日本国憲法5条の「皇室典範」との文言に見出すべきものかどうか。19211125日の「朕久キニ亙ルノ疾患ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルヲ以テ皇族会議及枢密顧問ノ議ヲ経テ皇太子裕仁親王摂政ニ任ス茲ニ之ヲ宣布ス」との詔書の副署者は,牧野伸顕宮内大臣及び高橋是清内閣総理大臣でしたが(宮内庁『昭和天皇実録 第三』(東京書籍・2015年)525頁),これは摂政の設置は「大権ノ施行ニ関スル」ものではなく,「皇室ノ大事」であったことを示しています(公式令(明治40年勅令第6号)12項参照)。確かに,明治皇室典範35条は「皇族ハ天皇之ヲ監督ス」と規定していたところ,同36条は「摂政在任ノ時ハ前条ノ事ヲ摂行ス」と規定し,同条について『皇室典範義解』は「(つつしみ)て按ずるに,摂政は大政を摂行するのみならず,兼て又皇室家父たるの事を摂行す。故に,皇族各人は摂政に対し家人従順の義務を有すべし。と解説していました。明治皇室典範19条に関しても『皇室典範義解』は「摂政は天皇の天職を摂行し,一切の大政及皇室の内事皆天皇に代り之を総攬す。而して至尊の名位に居らざるなり。」と述べています(下線は筆者によるもの)。

しかし,天皇が不在であり,かつ,皇族も不在となって摂政も不在となれば,天皇又は摂政が行うものと日本国憲法の定める国事に関する行為を行う者がいなくなり,国家として不便でしょう。そうであれば,摂政に関する皇室典範事項について国会の立法権があえて及ぶ以上,「皇嗣発見」までの期間における人臣による摂政事務管理に関する規定を憲法改正によらず法律の制定の形で行いおくことも許されるもの()そもそも明治皇室典範21条に関して『皇室典範義解』は,「而して本条皇后・皇女に摂政の権を付与するは,(けだし)上古以来の慣例に遵ひ,且摂政其の人を得るの道を広くし,人臣に下及するの漸を(ふさ)がむとなり。」と述べており,皇族摂政たり得る者がいなくなれば,やむを得ず摂政職が「人臣に下及」することもあり得るものと考えられていたものでしょう((ぜん)は,ここでは「いとぐち」の意味でしょう(『角川新字源』1978年))。)。「已ヲ得ザル事実上ノ必要ハ明文ノ定ムルモノナシトスルモ尚必然ニ国法ノ認容スル所ト認メザルベカラズ」です(美濃部・撮要245頁参照)。人臣主導の機関たる皇室会議の設置も既に昭和天皇の裁可せられたところです(皇室会議については,1946920日に昭和天皇が皇族及び王公族に語ったところによると「国政の問題」であるところです(実録第十186頁)。皇室会議は,皇家の機関ではなく,六波羅探題的な国家の機関であるということなのですね。)


(3)日本国憲法4条2項

 摂政の話をしてしまうと,つい国事行為臨時代行についても調べてみたくなります。

監国という言葉があります。「天子が征伐などで都をはなれるとき,皇太子が代理で国政を統べること」です(『角川新字源』)。『皇室典範義解』は,明治皇室典範19条解説において,「(もし)天皇一時の疾病違和又は国彊の外に(いま)すの故を以て,皇太子皇太孫に命じ代理監国せしむるが如きは,大宝令「以令(りやうをもつて)(ちよくに)(かへよ)」の制に依り,別に摂政を置かず(欧洲各国亦此の例を(おなじ)くす)。」と述べています。「監国ハ摂政ト異ナリ勅命ニ依リ其ノ任ニ就クモノニシテ,摂政ガ法定代表ノ機関ナルニ反シテ監国ハ授権ニ基ク代表機関ナリ。」,「監国ハ大権ヲ代表スル機関ナルヲ以テ摂政ニ準ジテ皇太子皇太孫ヲシテ之ニ当ラシムルヲ正則トシ,皇太子皇太孫ナキトキ又ハ未成年ナルトキハ皇位継承ノ順序ニ従ヒ他ノ皇族ヲシテ其ノ任ニ就カシムルヲ当然ト為スベシ。」,「憲法及皇室典範ニ別段ノ規定ナシト雖モ,是レ摂政ヲ置クベキ場合ニ非ズシテ而モ天皇大政ヲ親ラスル能ハザル故障アル場合ナルヲ以テ,一時大権ヲ代行スベキ機関ヲ置クコトハ缺クベカラザル事実上ノ必要ナリ。其ノ憲法ノ禁止スル所ニ非ザルコトハ明瞭であると美濃部達吉は説いています(美濃部・撮要245-246頁)。(なお,これに対して上杉慎吉は,「憲法の規定以外に自由に所謂る監国を置きて大権の行使を委任することを得ざるもの」との監国不可論を主張していました(上杉慎吉『訂正増補帝国憲法述義』(有斐閣書房・1916年)269頁)。)

 現在では,国事行為の臨時代行に関する法律(昭和39年法律第83号)による国事行為臨時代行が,監国に相当することになるようです(同法2条参照)。

 しかしながら,天皇を代表し「摂政ニ準」ずる機関ならば1964428日の参議院内閣委員会において高辻正巳政府委員(内閣法制次長)も「摂政の場合と実は行為の性格は同じようになります」と答弁しています(46回国会参議院内閣委員会会議録第284頁)。),天皇の国事に関する行為の委任による臨時代行についても皇室典範で定められるべきであって(日本国憲法5条前段),単なる法律で定められること(同42項)はおかしい,ということになりそうです(上記委員会における「これは単独の国事行為の臨時代行に関する法律ということでなく,〔憲法〕第5条の皇室典範の改正ということでもいいのじゃないのですか。」との山本伊三郎委員の問題意識です(同頁)。)

 この点,実は,GHQ草案33項において“The Emperor may delegate his functions in such manner as may be provided by law.”と規定されており,1946620日の帝国議会提出案においては「天皇は,法律の定めるところにより,その権能を委任することができる。」との文言であった日本国憲法42項は,当時の政府の考えによれば,監国に直接かつ積極的に関係する規定とは必ずしも考えられてはいなかったようなのでした。

 19464月の法制局の「憲法改正草案に関する想定問答(第2輯)」においては,「権能委任は,一般的に又は個別的に何れも差支へなきや」との問いに対し,「大体左様であります。然し一般的といひましても例へば第7条第2号なり第3号なりを全部委任してしまふが如きは予想して居りません。/而して天皇の例へば外国旅行中一般的に権能委任者を置き得るか否か,例へば監国の如き制度を設け得ることが出来るか否かは,必ずしも否定出来ないのでありますが,かかる場合には寧ろ摂政制度を活用すべきものではないかと考へて居ります。」との回答が準備されていました(抹消線は原資料鉛筆書き)。監国制度に対応するものと前向きかつ素直に受け取られていません。同年5月の法制局の「憲法改正草案逐条説明(第1輯)」には「本条第2項には更にこの権能が法律の定める所により内閣その他の機関に委任されることを定めて居るのであります。/従来と雖も例へば三級事務官の任免等のやうに大権事項に関して一部委任が認められて居りましたが,それは憲法を俟たずして行はれて居たものでありますが,本条はその根拠を憲法上明かに規定したのであります。/この委任の範囲は明かにはされて居らず従つて全部委任も亦認められるかの様でありますが,天皇の象徴たる御地位に不可分に伴ふ権能まで一括委任することは許されぬ所と解すべきであります。」と記されています。同年6月の法制局「憲法改正案に関する想定問答(増補第2輯)」では「元来第4条第2項の規定は,かりにこれがないとしても,委任はできるはずである。しかるにこの規定を置いたのは,事が重大であるからであるが,同時に天皇の大権の特殊性〔略〕に鑑み,その委任につき法律で定める必要があることを明らかにするためであると考へられる。差当り〔略〕委任の限度は法律で明定されることとならう。」との記述が見られます。行政庁間の委任のイメージです。法律が必要であって,勅旨ないしは政令その他の命令に基づく委任は認められない,ということでしょう。「国事行為の中の比較的軽度であり,しかも相当頻度が高いというようなものにつきまして〔特定の事項を限って〕,天皇が一定の機関に対して権能を授与してその行為を行わせる」場合です(第46回国会参議院内閣委員会会議録第284頁(高辻政府委員))

 その後,1964年に国事行為の臨時代行に関する法律が単独の法律として制定されることとされて,昭和22年法律第3号の改正という形にならなかったことについては,「皇室典範に規定しても間違いとは言えないと思」われつつも,「憲法の4条の2項で委任することができる」ことには国事行為の臨時代行に関する法律が考えている監国的なことも正に含まれるので,「第4条第2項の「法律の定めるところにより,」というふうに出ておりますので,やはりこれは単独の法律で第4条第2項の「法律(ママ)定めるところにより,」の法律として立案するのが適当であろうというふうに考えた」のだとの説明が政府からされるに至っています(第46回国会参議院内閣委員会会議録第284頁(高辻政府委員))。はしなくも憲法42項によって,監国関係事項は皇室典範事項から外れて国会立法専管事項に移管されたものと解されるのだあっさりと単独の法律として立法した方が皇室典範の改正の在り方という問題との関係で余計な議論をせずに済んでよいのだ,ということになったということでしょうか。

 なお,日本国憲法42項の法律を活用して,当該法律をもって制度的に,天皇の行う国事行為の範囲を絞ることができるかといえば,そうはならないようです。つとに19466月の法制局「憲法改正案に関する想定問答(増補第2輯)」において,「法定委任はみとめられない。これは,天皇が親ら委任することができるといふ趣旨に規定してある文理上からも明白である。又,天皇の大権と無関係に成立する法律で,憲法上天皇に帰属させた大権事項を,第三者の手に実際上任せてしまふことは,憲法の精神からも承服しかねる。」との解釈が準備されていました。

 

7 三種の神器その他の由緒物の管理に関する問題

 

(1)皇位継承なき天皇崩御の場合における由緒物の行方

ところで,天皇又は摂政が行うものと日本国憲法が定める国事に関する行為をどうするかの問題より先に,天皇の私有財産としての「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」(三種の神器を含む。)に関する相続問題が起こりそうです。

皇室経済法(昭和22年法律第4号)7条は,「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。」と規定しています。これは民法の分割相続原則に対する例外を定める規定のようなのですが,天皇崩御の際皇位継承がされない場合においては,民法の原則にやはり戻って,皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,大行天皇の配偶者(同法890条)と女系卑属(同法887条)又は直系尊属(同法88911号)若しくは姉妹(同項2号)若しくは姉妹の子たる甥姪(同条2項)との間で共同相続されて,各物件は共同相続人間の共有物となるのでしょう(同法898条・899条)。しかして,当該相続において皇嗣ではない方々によって相続せられた「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」は,相続税法(昭和25年法律第73号)1211号の「皇位とともに皇嗣が受けた物」には該当しないことになるので,相続税の課税価格に算入されます。

 

(2)三種の神器と民法897条と

 三種の神器は,民法8971項の祭具に該当するのでしょう。「祭具とは,祖先の祭祀,礼拝の用に供されるもの(位牌,仏壇,霊位,十字架やそれらの従物など)」(谷口知平=久貴忠彦編『新版注釈民法(27)相続(2)(補訂版)』(有斐閣・2013年)82頁(小脇一梅・二宮周平)),あるいは「位牌・仏壇その他祖先を祭る用に供するもの。〔旧〕民事訴訟法第570条第10の「神体,仏像其他礼拝ノ用ニ供スル物」よりも――祖先を祭るためのものに限定されるから――狭いと解されている。」とされています(我妻榮=立石芳枝『親族法・相続法』(日本評論新社・1952年)411頁(我妻))。祭具は動産であるものと想定されているようです。

宮中三殿については,これらは不動産でしょうし,系譜にも墳墓にも該当しないでしょうから,民法897条の適用はなさそうです。系譜は「歴代の家長を中心に祖先以来の系統(家系)を表示するもの」であり(谷口=久貴82頁(小脇=二宮)),墳墓は「遺体や遺骨を葬っている設備(墓石・墓碑などの墓標,土葬のときの埋棺など)」であって「その設置されている相当範囲の土地(墓地)は,墳墓そのものではないが,それに準じて同様に取り扱うべきものであろう」とされています(同頁)。

相続税法1212号は,墓所,霊廟及び祭具並びにこれらに準ずるものは,相続税の課税価格に算入されないものとしています。

天皇崩御の際皇位継承がされないとき(皇室経済法7条が働かないとき)には,祭具たる三種の神器の所有権は誰に移転するのでしょうか。

まず,祖先の祭祀を主宰すべき者に係る大行天皇による指定があれば,それによります(民法8971項ただし書)。民法上,指定の方法及び被指定者の資格については,「被相続人が指定するその方法は,生前行為でも遺言でもよく,また,それらは口頭,書面,明示,黙示のいかんを問わず〔略〕,いかなる仕方によるも指定の意思が外部から推認されるものであればよい。被指定者の資格についても別段の制限はない(通説)。」とのことです(谷口=久貴84頁(小脇=二宮))。そもそも祭祀財産の承継者は,「必ずしも被相続人の親族関係者殊に相続人にかぎらず,かつまた,同氏者たるを要しない」ところです(同頁)。

しかし,三種の神器の承継者の指定は,正に祖先の祭祀を主宰すべき天皇の祭祀大権を承継すべき者の指定でしょう(なお,祭祀大権については「大日本帝国憲法下における祭祀大権の摂政による代行に関して」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060801001.htmlを参照)。「国政に関する権能を有しない」はずの天皇が(日本国憲法41項後段),そのような際どい指定行為をしてよいのか,との懸念が生じないものでしょうか。上皇から今上天皇への「贈与」(天皇の退位等に関する皇室典範特例法附則7条参照)がせられたときと同様に済ますわけにはいきません(なお,「三種ノ神器と天皇の退位等に関する皇室典範特例法案要綱とに関して」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065923275.html参照)。しかし,飽くまでも単なる財産の授受関係と見れば,皇室内限りであれば(皇位の継承がないときですから,被指定者たり得る皇族として残っている方々は,皇后,太皇太后,皇太后,親王妃,内親王,王妃若しくは女王又は上皇若しくは上皇后ということになります。),日本国憲法8条の国会の議決という形で臣民が容喙すべきものではないようではあります。

被相続人による指定に次ぐ祭祀財産承継者決定の方法に係る民法8971項本文の「慣習」は,「祭祀財産承継の問題の起こっているその地方の慣習あるいは被相続人の出身地の慣習またはその職業に特有の慣習などである」そうです(谷口=久貴85頁(小脇=二宮))。しかし,三種の神器の承継に係る慣習(すなわちこれは祭祀大権を伴うところの皇位の継承に係る慣習ということになります。)が確立していれば,皇位の継承もそれに従って安定的にされるはずですが,皇位の安定的継承の方法が議論の対象になっているということは,そもそもそのような確立した慣習がないということでしょう。

祖先の祭祀を主宰すべき者に係る被相続人による指定もなく,慣習も明らかではないときは,系譜,祭具及び墳墓の所有権の承継者は家庭裁判所が定めます(民法8972項)。この家庭裁判所による承継者指定の基準については,「「承継候補者と被相続人との間の身分関係や事実上の生活関係,承継候補者と祭具等との間の場所的関係,祭具等の取得の目的や管理等の経緯,承継候補者の祭祀主宰の意思や能力,その他一切の事情(例えば利害関係人全員の生活状況及び意見等)を総合して判断すべきであるが,祖先の祭祀は,今日もはや義務ではなく,死者に対する慕情,愛情,感謝の気持ちといった心情により行われるものであるから,被相続人と緊密な生活関係・親和関係にあって,被相続人に対し上記のような心情を最も強く持ち,他方,被相続人からみれば,同人が生存していたのであれば,おそらく指定したであろう者をその承継者と定めるのが相当である」とする(東京高決平18419判タ1239289〔略〕)」のが判例であるそうです(谷口=久貴87頁(小脇・二宮))。しづなる庶民感覚をもってされてしまう裁判ということになりましょうか。

民法897条で解決がつかない場合には,「特別の規定が用意されていないので,普通の相続財産と同様に,相続人もいなければ,最後は国庫に帰属すると解すべきであろう」とされています(谷口=久貴84頁(小脇・二宮))。

 

(3)「由緒物法人」案

皇位の継承はされず,大行天皇は祖先の祭祀を主宰すべき者の指定をしておらず(遺言もなく),慣習も明らかではなく,東京家庭裁判所(家事事件手続法(平成23年法律第52号)1901項・民法883条)に対する承継者指定の審判の申立てがされるような関係者の不穏な動きもないときは,結局三種の神器も法定相続されるようです。そうなると,後になって「皇嗣発見」があったとき,新天皇は果たして無事かつ円滑に三種の神器その他の皇位とともに伝わるべき由緒ある物を大行天皇の相続人(並びに更にそれらの方々の相続人及び由緒物の即時取得主張者等々)から回復できるものかどうか。

あるいは用心のため,皇室経済法に次のような規定を加えおくべきでしょうか。

 

  第7条の2 天皇が崩じた時に皇嗣が明らかでないときは,前条の物(以下「由緒物」という。)は,法人とする。

  第7条の3 前条の場合には,家庭裁判所は,検察官の請求によって,由緒物の管理人を選任しなければならない。

  第7条の4 民法(明治29年法律第89号)第955条の規定は,第7条の2の法人について準用する。

  2 民法第27条から第29条まで,第952条第2項及び第956条第2項の規定は,前条の由緒物の管理人について準用する。この場合において,同法第27条第1項及び第29条第2項中「不在者の財産の中から」とあるのは「国庫から」と読み替えるものとする。

 

万世一系ですから,皇嗣が不存在であるとき(「皇嗣のあることが明らかでない」場合に含まれます。)という事態は観念上許されないのでしょう。

飽くまでも私物の管理の問題ですので,内閣総理大臣,宮内庁長官その他の行政官庁を煩わすべきものでもないのでしょう。特に,由緒物には宗教的な物が含まれているところが剣呑です。

管理人の選任の公告(民法9522項)の趣旨が「一つには,相続財産上に利害関係を有する者に対し,この「管理人ニ対シテ必要ナル行為ヲ為スノ便」を与えるためで,もう一つは,相続人捜索の第1回の公告を意味しており,「若シ相続権ヲ有スル者アラバ,此公告ヲ見テ速ニ其権利ヲ主張スルノ便」を与えるため(梅〔謙次郎『民法要義巻之五(相続編)』(有斐閣・1900年)〕246-247)」ならば(谷口=久貴694頁(金山正信=高橋朋子)),この場合,当該公告規定の準用は,本来は不要でしょう。皇嗣にあらざるにもかかわらず由緒物について利害関係を有する旨主張する者(大行天皇の債権者又は大行天皇から由緒物の賜与若しくは遺贈を受けた者であると主張するもの,ということになりましょうか。)にわざわざ便宜を与える必要はないでしょうし,「皇嗣発見」のために,現代の忠臣小楯は既に活発な活動議論を行っているであろうからです。とはいえ,人民の相続に関する手続においては公告がされることが,畏き辺りでは公告されない,というのも変ではあります。

皇嗣が明らかになったときには法人は存立しなかったものとし,しかもなお管理人の権限内の行為は効力を失わないものとする「技巧」を用いるのは,「あまり優れた立法技術といえない」わけです(我妻=立石534頁(我妻))。しかし,由緒物に係る所有権の相続による移転という建前を維持すれば,折角の相続税法1211号の規定を生かすことができるでしょう。

由緒物の管理の費用は,由緒物を消尽散逸させてはならないということで国庫から出すことになるのでしょうが(由緒物の拝観料を取ってそれで支弁しろなどというのも不謹慎だとお叱りを受けるのでしょう。),本来ならば内廷費から出ていたものなのでしょうから,その分皇室経済法施行法(昭和22年法律第113号)7条などに必要な修正が施されるものでしょう。

    


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1 新型コロナ・ウイルス問題猖獗中の立皇嗣の礼

 来月の2020419日には,それぞれ国事行為たる国の儀式である立皇嗣宣明の儀及び朝見の儀を中心に,立皇嗣の礼が宮中において行われる予定であるそうです。しかし,新型コロナ・ウィルス問題の渦中にあって,立皇嗣宣明の儀の参列者が制限されてその参列見込み数が約320人から約40人に大幅縮小になるほか(同年318日に内閣総理大臣官邸大会議室で開催された第10回天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典委員会において配付された資料1-1),当該儀式の挙行の翌々日(同年421日)にこれも国の儀式として開催することが予定されていた宮中饗宴の儀が取りやめになり,波瀾含みです。

 

2 立皇嗣の礼における宣明の主体

 立皇嗣の礼は,なかなか難しい。

 立皇嗣の礼に関する理解の現状については,2020321日付けの産経新聞「産経抄」における次のような記述(同新聞社のウェブ・ページ)が,瞠目に値するもののように思われます。

 

   政府は皇位継承順位1位の秋篠宮さまが,自らの立皇嗣(りつこうし)を国の内外に宣明される「立皇嗣の礼」の招待者を減らし,賓客と食事をともにする「宮中饗宴(きょうえん)の儀」は中止することを決めた。肺炎を引き起こす新型コロナウィルスが世界で猖獗(しょうけつ)を極める中では,やむを得ないこととはいえ残念である。

 

筆者が目を剥いたのは,「皇位継承順位1位の秋篠宮さまが,自らの立皇嗣(りつこうし)を国の内外に宣明される「立皇嗣の礼」」との部分です。

産経抄子は,執筆参考資料としては,ウィキペディア先生などというものを専ら愛用しているものでしょうか。ウィキペディアの「立皇嗣の礼」解説には,「立皇嗣の礼(りっこうしのれい),または立皇嗣礼(りっこうしれい)は,日本の皇嗣である秋篠宮文仁親王が,自らの立皇嗣を国の内外に宣明する一連の国事行為で,皇室儀礼。」と書かれてあるところです。

しかし,1991223日に挙行された今上天皇の立太子の礼に係る立太子宣明の儀においては,父である上皇(当時の天皇)から「本日ここに,立太子宣明の儀を行い,皇室典範の定めるところにより徳仁親王が皇太子であることを,広く内外に宣明します。」との「おことば」があったところです(宮内庁ウェブ・ページ)。「平成の御代替わりに伴い行われた式典は,現行憲法下において十分な検討が行われた上で挙行されたものであるから,今回の各式典についても,基本的な考え方や内容は踏襲されるべきものであること。」とされているところ(201843日閣議決定「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う国の儀式等の挙行に係る基本方針について」第12),「文仁親王殿下が皇嗣となられたことを広く国民に明らかにする儀式として,立皇嗣の礼を行う」もの(同閣議決定第571))として行われる今次立皇嗣の礼においても,「宣明します。」との宣明の主体は,むしろ天皇であるように思われます。

現行憲法下時代より前の時代とはなりますが,大日本帝国憲法時代の明治皇室典範16条は「皇后皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と規定していました。「詔書」ですので,当該文書の作成名義は,飽くまでも天皇によるものということになります。

 

3 裕仁親王(昭和天皇)の立太子の礼

1916113日に行われた昭和天皇の立太子の礼について,宮内庁の『昭和天皇実録 第二』(東京書籍・2015年)は,次のように伝えています。

 

 3日 金曜日 皇室典範及び立儲令の規定に基づき,立太子の礼が行われる。立太子の礼は皇太子の身位を内外に宣示するための儀式である。裕仁親王はすでに大正元年〔1912年〕,御父天皇の践祚と同時に皇太子の身位となられていたが,昨4年〔1915年〕に即位の礼が挙行されたことを踏まえ,勅旨により本日立太子の礼を行うこととされた。(241頁)

 

当時の立太子の礼は,1909年の立儲令(明治42年皇室令第3号)4条により,同令の「附式ノ定ムル所ニ依リ賢所大前ニ於テ之ヲ行フ」ものとされていました。

伊藤博文の『皇室典範義解』の第16条解説には,「(けだし)皇太子・皇太孫は祖宗の正統を承け,皇位を継嗣せむとす。故に,皇嗣の位置は立坊の儀に由り始めて定まるに非ず。而して立坊の儀は此に由て以て臣民の(せん)(ぼう)()かしむる者なり。」とありました。「立坊」とは,『角川新字源(第123版)』によれば「皇太子を定めること。坊は春坊,皇太子の御殿。」ということです。つまり『皇室典範義解』にいう「立坊の儀」とは,立儲令にいう「立太子ノ礼」又は「立太孫ノ礼」(同令9条)のことということになります。「瞻望」とは,「はるかにあおぎ見る。」又は「あおぎしたう。」との意味です(『角川新字源』)。「饜」は,ここでは「食いあきる。」又は「いやになる。」の意味ではなくて,「あきたりる。満足する。」の意味でしょう(同)。また,明治皇室典範15条は「儲嗣タル皇子ヲ皇太子トス皇太子在ラサルトキハ儲嗣タル皇孫ヲ皇太孫トス」と規定していました。「儲嗣(ちょし)」とは,「世継ぎのきみ。皇太子。との意味です(『角川新字源』)。現行皇室典範(昭和22年法律第3号)8条は「皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは,皇嗣たる皇孫を皇太孫という。」と規定しています。

立太子の礼を行うことを勅旨(「天子のおおせ。」(『角川新字源』))によって決めることについては,立儲令1条に「皇太子ヲ立ツルノ礼ハ勅旨ニ由リ之ヲ行フ」とありました。閣議決定によるものではありません。

さて,1916113日の賢所(かしこどころ)大前の儀の次第は次のとおり(実録第二241-242頁)。

 

 9時,天皇が賢所内陣の御座に出御御都合により皇后は出御なし,御拝礼,御告文を奏された後外陣の御座に移御される。925分,皇太子は賢所に御参進,掌典次長東園基愛が前行,御裾を東宮侍従亀井玆常が奉持し,御後には東宮侍従土屋正直及び東宮侍従長入江為守が候する。賢所に御一拝の後,外陣に参入され内陣に向かい御拝礼,天皇に御一拝の後,外陣の御座にお着きになる。天皇より左の勅語を賜わり,壺切御剣を拝受される。

   壺切ノ剣ハ歴朝皇太子ニ伝ヘ以テ朕カ躬ニ(およ)ヘリ今之ヲ汝ニ伝フ汝其レ之ヲ体セヨ 

 この時,陸軍の礼砲が執行される。皇太子は壺切御剣を土屋侍従に捧持せしめ,内陣及び天皇に御一拝の後,簀子(すのこ)に候される。935分,天皇入御。続いて皇太子が御退下,綾綺殿(りょうきでん)にお入りになる。この後,皇族以下諸員の拝礼が行われる。

 

「裕仁親王が,自らの立太子を国の内外に宣明」する,というような場面は無かったようです。

今次立皇嗣の礼においては,皇嗣に壺切御剣親授の行事は,立皇嗣宣明の儀とは分離された上で,皇室の行事として行われます。

しかしながら,皇后御欠席とは,何事があったのでしょうか。貞明皇后は,立太子の礼と同日の参内朝見の儀(立儲令7条に「立太子ノ礼訖リタルトキハ皇太子皇太子妃ト共ニ天皇皇后太皇太后皇太后ニ朝見ス」と規定されていました。)等にはお出ましになっていますから,お病気ということではなかったようです。

なお,今次立皇嗣の礼に係る朝見の儀においては,上皇及び上皇后に対する朝見は予定されていないようです(第10回天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典委員会の資料2)。

明治皇室典範16条本体に係る大正天皇の詔書については,次のとおり(実録第二242頁)。

 

 賢所大前の儀における礼砲執行と同時に,左の詔書が宣布される。

   朕祖宗ノ遺範ニ遵ヒ裕仁親王ノ為ニ立太子ノ礼ヲ行ヒ茲ニ之ヲ宣布ス

 

立儲令5条に「立太子ノ詔書ハ其ノ礼ヲ行フ当日之ヲ公布ス」とあったところです。

なお,今次立皇嗣の礼においては,立皇嗣宣明の儀の2日後(前記のとおり2020421日)に当初予定されていた宮中饗宴の儀が新型コロナ・ウィルス問題のゆえに取りやめになっていますが,191611月の立太子の礼に係る宮中饗宴の儀(立儲令8条に「立太子ノ礼訖リタルトキハ宮中ニ於テ饗宴ヲ賜フ」と規定されていました。)も「コレラ流行のため」その開催が同月3日から3週間以上経過した同月27日及び同月28日に延引されています(実録第二252頁)。延引にとどまらず取りやめまでをも強いた21世紀の新型コロナ・ウィルスは,20世紀のコレラ菌よりも凶悪であるようです。ちなみに,立太子の礼に係る宮中饗宴の儀の主催者は飽くまでも天皇であって,19161127日及び同月28日の上記宮中饗宴に「皇太子御臨席のことはなし。」であったそうです(実録第二252頁)。

 

4 明治皇室典範の予定しなかった「立皇嗣の礼」

ところで,以上,今次立皇嗣の礼について,明治皇室典範及び立儲令を参照しつつ解説めいたものを述べてきたところですが,実は,現行憲法下,天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)の成立・施行までをも見た今日,明治皇室典範及び立儲令の参照は,不適当であったようにも思われるところです。

「平成の御代替わりに伴い行われた式典は,現行憲法下において十分な検討が行われた上で挙行されたものであるから,今回の各式典についても,基本的な考え方や内容は踏襲」するのだとして,立太子の礼の前例を踏襲するものとして立皇嗣の礼を行うこととした安倍晋三内閣の決定は,保守的というよりはむしろ明治典憲体制における制度設計を超えた,明治皇室典範の裁定者である明治天皇並びに起案者である伊藤博文,井上毅及び柳原前光の予定していなかった革新的新例であったことになるようであるからです。

問題は,明治皇室典範15条の解説に係る『皇室典範義解』の次の記載にあります。

 

 今既に皇位継承の法を定め,明文の掲ぐる所と為すときは,立太子・立太孫の外,支系より入りて大統を承くるの皇嗣は立坊の儀文に依ることを(もち)ゐず。而して皇太子・皇太孫の名称は皇子皇孫に限るべきなり。

 

 天皇から皇太子又は皇太孫への皇位の直系継承とはならない場合,すなわち,今上天皇と秋篠宮文仁親王との間の皇位継承関係(「皇兄弟以上ノ継承」)のようなときには,以下に見るように,皇嗣は「践祚ノ日迄何等ノ宣下モナク」――立坊の儀文(これは立太子又は立太孫の場合に限る。)を須いず――「打過ギ玉フ」ことになるのだ,ということのようです。

 1887125日提出の柳原前光の「皇室法典初稿」を承けて,伊藤博文の「指揮」を仰ぐために作成された井上毅の「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々」(小島和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)178-179頁・172頁参照)に次のようにあるところです(伊藤博文編,金子堅太郎=栗野慎一郎=尾佐竹猛=平塚篤校訂『帝室制度資料 上巻』(秘書類纂刊行会・1936年)247-248頁)。

 

一,皇太子ノ事。

    皇太子ノ事ハ上代ノ日嗣御子ヨリ伝来シタル典故ナレバ之ヲ保存セラルハ当然ノ事ナルベシ。但シ左ノ疑題アリ。

甲,往古以来太子ノ名義ハ御父子ニ拘ラズシテ一ノ宣下ノ性質ヲ為シタリ。故ニ御兄弟ノ間ニハ立太弟ト宣命アルノ外,皇姪ヲ立坊アルモ亦太子ト呼ビ(成務天皇日本武尊ノ第2子ナル足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)立テヽ皇太子ト為ス,即チ仲哀天皇ナリ)従姪孫ノ天皇ヨリ族叔祖ヲ立坊アルモ亦太子ト呼ベリ(孝謙天皇ノ淳仁天皇ニ於ケル)。今皇位継承ノ順序ヲ定メラレ,皇子孫ナキトキハ皇兄弟(ママ)皇伯叔ニ伝フトセラレンニ,此時立太子ノ冊命アルベキ乎

    乙,若シ立太子ハ皇子,皇孫,皇姪ノ卑属親ニ限リ,其他ノ同等親以上ニハ行ハルベキニ非ラズトセバ,皇兄弟以上ノ継承ノ時ニハ践祚ノ日迄何等ノ宣下モナクシテ打過ギ玉フベキ乎。

      前ノ議ニ従ヘバ立太子ハ養子ノ性質ノ如クナリテ名義穏ナラズ,後ノ議ニ依レバ実際ノ事情ニハ稍ヤ穏当ヲ缺クニ似タリ。

      又履中天皇,反正天皇(皇弟)ヲ以テ儲君トシ玉ヒシ例ニ依リ,儲君ノ名義ヲ法律上ニ定メラレ宣下公布アルベシトノ議モアルベシ。此レモ当時ハ「ヒツギノミコ」ト称フル名号ハアリシナルベケレドモ,儲君ノ字ハ史家ノ当テ用ヒタルニテ,綽号ニ類シ,今日法律上正当ノ名称トハナシ難キニ似タリ。

此ノ事如何御決定アルベキカ(叙品ヲ存セラレ一品親王宣下ヲ以テ換用アルモ亦一ノ便宜法ナルニ似タルカ)。

        乙ニ従フ,一品親王ノ説不取

 

 朱記部分は,1888年まで下り得る「かなり後になっての書き込み」です(小嶋・典範179頁)。「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々」の冒頭には同じく朱記で「疑題中ノ重件ハ既ニ総理大臣ノ指揮ヲ得,更ニ柳原伯ノ意見ヲ酌ミ立案セリ。此ノ巻ハ存シテ以テ後日ノ考ニ備フ」とありました(『帝室制度資料 上巻』229頁)。

 前記部分で「(てつ)」は,「めい」ではなく,「兄弟の生んだ男子を称する」「おい」のことになります(『角川新字源』)。「従姪孫」は,いとこの孫(淳仁天皇から見た孝謙天皇)です。「伯叔」は「兄と弟」又は「父の兄と父の弟。伯父叔父。」という意味です(『角川新字源』)。「綽号(しゃくごう)」は,「あだな。」(同)。『日本書紀』の履中天皇二年春正月丙午朔己酉(四日)条に「立(みづ)()別皇子(わけのみこ)為儲君」とあります。小学館の新編日本古典文学全集版では「儲君」の振り仮名は「ひつぎのみこ」となっており,註して「「儲君」の初出。皇太子。」と記しています。

 井上毅は,卑属以外の皇嗣(卑属ではないので,世代的に,皇太()又は皇太()となるのはおかしい。)に「儲君」の名義を与えるべきかと一応検討の上,同案を捨てています。「皇太()については,「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫(●●)之ヲ継承ス」る原則(大日本帝国憲法2条)の下,皇兄弟は「皇子孫皆在ラサルトキ」に初めて皇位継承者となるのであって(明治皇室典範5条),兄弟間継承は例外的位置付けだったのですから,当該例外を正統化するような名義であって採り得ないとされたもののように筆者には思われます。(なお,『皇室典範義解』15条解説においては,「其の皇子に非ずして入て皇嗣となるも,史臣亦皇太子を以て称ふ〔略〕。但し,或は立太子を宣行するあり,或は宣行せざるありて,其の実一定の成例あらず。皇弟を立つるに至ては或は儲君と称へ(反正天皇の履中天皇に於ける),或は太子と称へ(後三条天皇の後冷泉天皇に於ける),或は太弟と称ふ(嵯峨・淳和・村上・円融・後朱雀・順徳・亀山)。亦未だ画一ならず。」と史上の先例を整理した上で,前記の「立太子・立太孫の外,支系より入て大統を承くるの皇嗣は立坊の儀文に依ることを須ゐず。而して皇太子・皇太孫の名称は皇子皇孫に限るべきなり。」との結論が述べられています。)また,宣下すべき名義として,「皇嗣」はそもそも思案の対象外だったようです。旧民法に「推定家督相続人」の語がありましたが,「皇嗣」はその皇室版にすぎないという理解だったものでしょうか。

 

5 明治皇室典範16条の立案経過

 

(1)高輪会議における皇太子・皇太孫冊立関係規定の削除

 「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々」については乙案が採用されることになり,それが後の明治皇室典範16条の規定につながるわけですが,1887320日のかの高輪会議(「明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)ニ関して」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.html,「続・明治皇室典範10に関して:高輪会議再見,英国の国王退位特別法,ベルギーの国王退位の実例,ドイツの学説等」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060127005.html)においては,実は,立坊(立太子又は立太孫)の儀は行わないものとする決定がされたもののようです。すなわち,当該会議の結果,当該会議における検討の叩き台であった柳原前光の「皇室典範再稿」にあった「第26条 天皇践祚ノ日嫡出ノ皇子アル時ハ直チニ之ヲ皇太子ニ冊立ス」及び「第27条 第24条〔太皇太妃,皇太妃及び皇后〕第25条〔皇太子及び皇太孫〕ノ諸号ハ冊立ノ日詔書ヲ以テ之ヲ冊立ス」の両条が削られているからです(小嶋・典範192頁)。恐らくは伊藤博文において,「皇太子・皇太孫は祖宗の正統を承け,皇位を継嗣せむとす。故に,皇嗣の位置は立坊の儀に由り始めて定まるに非ず」なので,そもそも立坊の儀は必要ないのだとの結論にその場においては至ったもの,ということでしょうか(伊東巳代治の「皇室典範・皇族令草案談話要録」には「嫡出ノ皇子ハ冊立ヲ待タスシテ皇太子為リ故ニ此2条〔26条及び27条〕ハ削除ス」とあります(小林宏=島善高編著『明治皇室典範(上) 日本立法資料全集16』(信山社出版・1996年)456頁)。)。(これに対して,柳原は削られた原案の作成者でありましたし,井上毅も,前記「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々」の記載からすると,立太子の宣下はあるべきものと考えていたはずです。)

「立太子の詔は始めて光仁天皇紀に見ゆ。」ということだけれども(『皇室典範義解』16条解説),そもそもの光仁期の先例自体余り縁起がよくなかったのだからそんなにこだわらなくともよいではないか,ということもあったものかどうか。すなわち,「天皇の即位とほぼ同時に皇太子が定められ,原則としてその皇太子が即位するのが通例となってくるのは,じつは(こう)(にん)770781年)以後のことであり」(大隅清陽「君臣秩序と儀礼」大津透=大隅清陽=関和彦=熊田亮介=丸山裕美子=上島享=米谷匡史『古代天皇制を考える』(講談社・2001年)68頁),「(こう)(にん)天皇即位白壁一人であった井上(いのうえ)内親王(ないしんのう)聖武天皇(あがた)犬養(いぬかい)(うじ)皇后(おさ)()親王皇太子と」,「772年(宝亀三),藤原(ふじわらの)百川(ももかわ)策謀皇后・皇太子罪(冤罪(えんざい)可能性れ」(大隅69頁),後に不審死しているところです(他戸親王に代わって皇太子に立ったのが,光仁天皇の後任の桓武天皇でした。)。

  

(2)皇太子・皇太孫冊立関係規定の復活から明治皇室典範16条まで

 高輪会議後,柳原は,18874月に「皇室典範草案」を作成し(小嶋・典範202頁),同月25日に伊藤博文に,同月27日に井上毅に差し出しています(小林=島83頁(島))。そこでは「天皇践祚ノ日嫡出ノ皇子アル時ハ直チニ皇太子ト称ス 刪除」とされつつ(小嶋・典範203頁),小嶋和司教授によれば当該草案では前月の高輪会議における「皇室典範再稿」26条(「二六条」)に係る削除決定が無視されていたとされています(小嶋・典範204頁)。「皇室典範再稿」26条に係るものである皇太子冊立関係規定が再出現したものかのようですが,ここで小嶋教授の記した「二六条」は,「二七条」の誤記であったものと解した方が分かりやすいようです。(すなわち,上記柳原「皇室典範草案」においては,「第3章 貴号敬称」に,第16条として「天皇ノ祖母ヲ太皇太后母ヲ皇太后妻ヲ皇后ト号ス」との規定,第17条として「儲嗣タル皇子孫ヲ皇太子皇太孫ト号ス」との規定が設けられ(小林=島459頁),これらを受けて第18として「前両条ノ諸号ハ冊立ノ日詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と規定されていたところです(小林=島460)。なお,井上毅の梧陰文庫に所蔵(小林=島83頁(島))の同草案18条には井上の手になるものと解される(小林=島219)朱書附箋が付されており,そこには「18条修正 皇后及皇太子皇太孫ヲ冊立スルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス此ノ1条ノ目的ハ冊立ニ在テ尊号ニ在ラザルヘシ故ニ17条ヲ併セ第4章ニ加ヘ4章ヲ以テ成年立后立太子及嫁娶トスヘシ4章の章名を「成年嫁娶」から「成年立后立太子」にせよの意〕」と記されていました(小林=島460)。嫡出ノ皇子ハ冊立ヲ待タスシテ皇太子為リ故ニ此2条〔26条及び27条〕ハ削除ス」と高輪会議ではいったん決めたものの,嫡出ノ皇子の当然皇太子性との関係で冊立に重複性が生ずるのは「皇室典範再稿」の第26の場合であって,庶出の皇子にも関係する同27条の冊立規定までをも削る必要は実はなかったのではないですか,とでも伊藤には説明されたものでしょうか。

 その後の井上毅の77ヶ条草案には「第19条 皇后及皇太子皇太孫ヲ冊立スルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」という条項があり,柳原の「皇室典範再稿」27条に対応する規定の復活が見られます(小嶋・典範213頁。前掲の柳原「皇室典範草案」18条に係る朱書附箋参照)。77ヶ条草案の第19条は,1888320日の井上毅の修正意見の結果(小嶋・典範210-211頁),「第17条 皇后及皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と改まり,その理由は井上によって「冊立トハ詔書ヲ以テ立ツルノ意ナリ故ニ1文中重意ヲ覚フ」とされています(小嶋・典範213頁)。1888525日から枢密院で審議された明治皇室典範案においては「第17条 皇后又ハ皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」となっています(小嶋・典範228頁)。

 上記枢密院提出案に対して,柳原前光は1888524日に「欽定皇室典範」といわれる意見を伊藤博文に送付しています(小嶋・典範236頁)。枢密院提出案17条に対する「欽定皇室典範」における柳原の修正は,章名を「第3章 成年立后立太子」から「第3章 成年冊立」とした上で(理由は「立后,立太子ト題シ,太孫ノコトナシ,故ニ冊立ト改ム。」),「冊立ノ字,題号ニ応ズ」という理由で「第17条 皇后又ハ皇太子,皇太孫ヲ冊立スルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」とするものでした(『帝室制度資料 上巻』143-144頁)。前記井上毅の77ヶ条草案19条とほぼ同じ文面となっています。

 更に1889110日,柳原から伊藤博文に対し,明治皇室典範案に係る帝室制度取調局の修正意見書が送付されます(小嶋・典範247頁)。そこには,第3章の章名を「第3章 成年立后立太子孫」とし,第17条については「第17条 皇后皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ宣布ス」とすべきものとする意見が含まれていました(『帝室制度資料 上巻』5-6頁)。

 最終的な明治皇室典範16条は,前記のとおり,「皇后皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」との条文になっています。

 6 みたび,柳原前光の「深謀」

 筆者としては,高輪会議で一度消えた立坊の儀について定める条文の復活(明治皇室典範16条)も,柳原前光の深謀であったものと考えたいところです。(「伊藤博文の変わり身と柳原前光の「深謀」」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065458056.html

 

(1)「帝室典則」に関する宮中顧問官らの立坊論

 明治皇室典範に係る有名な前記高輪会議が開催された1887年の前年のことですが,1886年の610日の宮内省第3稿「帝室典則」案の第1は,「皇位ハ皇太子ニ伝フヘシ」と規定していました(小嶋和司「帝室典則について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』138頁)。当該「帝室典則」610日案に係る宮中顧問官による評議を経た修正を記録した井上毅所蔵(梧陰文庫)本には,上記第1について,次のような朱書註記(記載者を示す史料はなし。)があったところです(小嶋・典則159-160頁,161)。(なお,当該第1については,宮中顧問官の評議の結果,「第1」が「第1条」になりましたが,文言自体には変更はありませんでした(小嶋・典則150頁)。)

 

  皇太子ハ冊立ヲ以テ之ヲ定ム嫡長男子ノ立坊ハ其丁年ト未丁年トヲ問ハズ叡旨ヲ以テ宣下

  庶出長皇子ノ立坊ハ皇后宮御受胎有ルマシキ御年齢ニ至ラセラレタル上宣下

  庶出皇子立坊ノ後若シ皇后宮受胎降誕在ラセラルトモ其為メ既ニ冊立ノ太子ヲ換フルヘカラス

 

当該朱書註記は「610日案への青色罫紙貼付意見に答えるもので,おそらく顧問官評議において右のように諒解され,それが記載されたのであろう。」というのが,小嶋和司教授の推測です(小嶋・典則161頁)。

「帝室典則」610日案の第1への「青色罫紙貼付意見」(何人の意見であるか不明(小嶋・典則147頁))とは,「立太子式有無如何/其式無之(これなく)シテ太子ト定ムル第6条ノ場合差支アルカ如シ」というものでした(小嶋・典則150頁)。

「帝室典則」610日案の第6は「凡皇子孫ノ皇位ヲ継承スルハ嫡出ヲ先ニス皇庶子孫ノ位ヲ嗣クハ皇嫡子孫在ラサルトキニ限ルヘシ/皇兄弟皇伯叔父以上ハ同等皇親内ニ於テ嫡ヲ先ニシ庶ヲ後ニス」というもので(小嶋・典則140頁),これに対する「青色罫紙貼付意見」は「庶出ヲ以テ太子トセル際後ニ嫡出アラハ前ニ太子ヲ称セシヲ廃スルカ如何」というものでした(小嶋・典則152頁)。

「帝室典則」610日案の第6には,宮中顧問官の評議の後,第63項として「嫡出庶出皆長ヲ先ニシ幼ヲ後ニス」が加えられていますところ(小嶋・典則152頁(また,第1項の「ヘシ」も削られています。)),専ら,皇后に皇子が生まれていない状態(「皇嫡子孫在ラサル」「6条ノ場合」)が続く場合,皇位継承順位第1位の皇族(前記朱書においては,側室から生まれた庶出の最年長皇子)はいつまでも皇太子にならないまま践祚を迎えることになってしまうのではないか,という具体的問題意識が宮中顧問官の間にあったということになるようです。

せっかく天皇に皇子があるのに,庶出であるばかりに,いつ皇后が皇子を生むか分からないからということで皇太子不在という状態を続けてよいのか,やはりどこかで区切りを付けて当該庶出の皇子を皇太子に冊立すべし,ということのようです。しかし,いったん庶出の皇子を皇太子に冊立した後に皇后が嫡出の皇子を生んでしまうと大変なので(さすがに,いったん皇太子となった皇子について廃太子の手続を執るというのはスキャンダラスに過ぎるでしょう。),「庶出長皇子ノ立坊ハ皇后宮御受胎有ルマシキ御年齢ニ至ラセラレタル上宣下」というように皇后に受胎能力がなくなったことを十分見極めてから皇太子冊立をしましょうね,ということになったようです。とはいえ,当の皇后にとっては,失礼な話ですね。明治の宮中顧問官閣下ら(川村純義・福岡孝弟・佐々木高行・寺島宗則・副島種臣・佐野常民・山尾庸三・土方久元・元田永孚・西村茂樹(小嶋・典則146))も,令和の御代においては,ただのセクハラおじいちゃん集団歟。

 

(2)柳原の「帝室典則修正案」における立坊関係規定の採用

その後(ただし,1886107日より前)柳原前光が作成した「帝室典則修正案」においては(小嶋・典則166-167頁),その第9条に「皇太子皇太孫ト号スルハ詔命ニ依ル」という規定が置かれました(小嶋・典則164頁)。同条の規定は,直前の「帝室典則」案には無かったものです。小嶋教授は,「「典則」での採択を覆すもの」と評しています(小嶋・典則166頁)。すなわち,「帝室典則」に先立つ1885(小嶋・典則64「皇室制規」の第10には「立太子ノ式ヲ行フトキハ此制規ニヨルヘシ」との規定があったのですが,当該規定は「帝室典則」では削られていたところです(小嶋・典則125頁・140頁・153)。とはいえ,「帝室典則」案に対する宮中顧問官の評議を経た修正結果においては,2条ただし書として「但皇次子皇三子ト雖モ立坊ノ後ハ直ニ其子孫ニ伝フ」との規定が設けられてありました(小嶋・典則151頁。下線は筆者によるもの)。

「帝室典則修正案」に,前記の「皇室法典初稿」(1887125日)が続きます。

 

(3)嘉仁親王(大正天皇)の立太子

庶出ではあるが唯一人夭折を免れた皇子である嘉仁親王(後の大正天皇)について,明治皇室典範裁定後の1889113日,立太子の礼が行われました。明治天皇の正妻である昭憲皇太后は,その日満40歳でした。(なお,嘉仁親王は,その8歳の誕生日である1887831日に,既に昭憲皇太后の実子として登録されていたところではあります(奥平康弘『「萬世一系」の研究(下)』(岩波現代文庫・2017年)16頁等参照)。ちなみに,1886年の「帝室典則」610日案第7には「庶出ノ皇子皇女ハ降誕ノ後直チニ皇后ノ養子トナス」とあったところ(飽くまでも養子です。),同年中の顧問官評議を経て当該規定は削られており,その間副島種臣から「庶出ト雖嫡后ヲ以テ亦母ト称ス」との修正案が提出されていたところです(小嶋・典則140頁・153)。

ところで,嘉仁親王の生母である愛子の兄こそ,柳原前光おじさんでありました。

 

7 現行皇室典範における立坊関係規定の不在と立太子の礼の継続

庶出の天皇が践祚する可能性を排除した現行皇室典範においては,明治皇室典範16条に相当する立太子・立太孫関係規定は削られています。

しかしながら,庶出の天皇(皇族)の排除と立坊関係規定の不在との間に何らかの関係があるかどうかは,194612月の第91回帝国議会における金森徳次郎国務大臣の答弁からは分からないところです。同大臣は,立太子の礼に関しては,立太子の儀式を今後も行うかどうかは「今の所何らまだ確定した結論に到達しておりません。」(第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会議録(速記)第422頁),「決まっておりません。」(同会議録23頁),「本当の皇室御一家に関しまするものは,是は法律は全然与り知らぬ,皇室御内部の規定として御規定になる,斯う云ふことになつて居りますが,さうでない,色々儀式等に関しまする若干の問題は,今まだ具体的に迄掘下げては居りませぬけれども,例へば立太子の式とかなんとか云ふ方面を考へる必要が起りますれば,それは多分政令等を以て規定されることと考へて居ります」(第91回帝国議会貴族院皇室典範案特別委員会議事速記録第27頁)というような答弁のみを残しています。立太子・立太孫ないしは立皇嗣の礼に係る立儲令のような政令等の法令は,いまだ存在していないところです。
 194612月段階では行われるかどうか未定でしたが,立太子の礼を行うことは継続されることになりました。

1952年(昭和271110日,〔現上皇〕皇太子継宮(つぐのみや)明仁(1933-)の立太子礼が,旧立儲令に従って挙行され,報道機関は,皇室は日本再興のシンボル,と書き立てた。内閣総理大臣吉田茂は,立太子礼の寿()(ごと)で「臣茂」と名乗り,その時代錯誤ぶりで,世人を驚かせた。」とのことです(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)207-208頁)。「旧立儲令に従って」とのことですが,立儲令附式には賢所大前の儀において内閣総理大臣が「御前に参進し,寿詞を述べる」ということは規定されておらず,臣下の分際で立太子の礼にしゃしゃり出てよいものかどうか,吉田茂は恐懼したものでしょう。

 

(追記)

なお,19521110日の立太子の礼宣制の儀に係る式次第は,次のとおりでした(宮内庁『昭和天皇実録 第十一』(東京書籍・2017年)445-446頁)。当該式次第は,「旧立儲令に従って」はいません。

 

 午前11時より表北の間において,立太子の礼宣制の儀を行われる。黄丹袍を着して参入の皇太子〔現上皇〕に続き,〔香淳〕皇后と共に〔昭和天皇は〕同所に出御される。ついで宮内庁長官田島道治が宣制の座に進み,次の宣制を行う。

  昭和271110日立太子ノ礼ヲ挙ケ明仁親王ノ皇嗣タルコトヲ周ク中外ニ宣ス 

次に皇太子より敬礼をお受けになる。ついで内閣総理大臣〔吉田茂〕より寿詞をお受けになり,入御される。

 

 ところで,1916113日の詔書の前例及び1989223日のおことばの後例に鑑みても,「皇太子」を立てることに係る立太子の礼における宣制中の「皇嗣タルコトヲ」の部分は,田島長官が余計,かつ,儀式の本来の趣旨からすると不正確なことを言った,ということにならないでしょうか。皇太子であれば,皇嗣たることは自明です。19521110日の宣制の考え方は,立太子の礼とは,某親王が皇嗣であること(皇太子であること,ではない。)をあまねく中外に宣するための儀式である,ということでしょうか。

 令和の御代における立皇嗣の礼催行の正統性は,この辺において見出されるべきものかもしれません。そうであれば,吉田茂内閣の「時代錯誤」とは,明治典憲体制への退行というよりも,令和・天皇の退位等に関する皇室典範特例法体制を先取りしたその先行性にあったということになるのでしょう。

 しかし,この先見の功は,吉田茂一人に帰して済まし得るものかどうか。19521114日には,昭和天皇から「皇太子成年式及び立太子の礼に当たり,皇太子のお言葉及び宣制の起草に尽力した元宮内府御用掛加藤虎之亮東洋大学名誉教授に金一封を賜う。」ということがあったそうです(実録第十一453頁。下線は筆者によるもの)。

 19331223日の明仁親王誕生までの昭和天皇の皇嗣は弟宮の雍仁親王(1902625日生。秩父宮)であったところですが,雍仁親王は1940年以降胸部疾患により神奈川県葉山町,静岡県御殿場町及び神奈川県藤沢市鵠沼の別邸での長期療養生活を余儀なくされ,皇太子明仁親王が「皇嗣タルコトヲ周ク中外ニ宣ス」る宣制がせられた儀式に病身をおして参列した195211月の翌月である同年「12月より容態が悪化し」,195314日午前220分に薨去せられています(実録第十一447, 479-481頁)。


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旧秩父宮ヒュッテ(札幌市南区空沼岳万計沼畔)



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1 元号と追号との関係

 近々元号法(昭和54年法律第43号)2項の事由に基づき平成の元号が改まるということで,元号に関する議論がにぎやかです。

 ところで,150年前の明治元年九月八日(18681023日)の改元の詔には「其改慶応四年,為明治元年,自今以後,革易旧制,一世一元,以為永式。主者施行。」とありますところ,「一世一元」であるゆえに(元号法2項も「元号は,皇位の継承があつた場合に限り改める。」と規定しており,「実質は一世一元でございます。」とされています(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第421頁)。),元号はすなわち天皇の追号となるべきもの,と考えたくなるところです。

 

(1)元号≠追号

 しかしながら,元号と追号とは制度的には無関係であるという見解が,1979年の元号法案の国会審議時において政府から何度も表明されています。例えば,次のとおり。

 

   次に,元号名と天皇の贈り名のことについてお尋ねがあったわけでございます。

   御承知のように,明治,大正という元号がそれぞれ天皇の贈り名とされましたのは事実でございますが,贈り名と元号との関係につきましては,従前も,制度上元号が必ず贈り名になると定められていたわけではございません。この法案のもとにおいても直接に結びつきはないものと考えております。戦前におきましては,登極令におきまして元号の問題が取り上げられており,あるいは追号の問題は皇室喪儀令に分かれて取り上げられておった。戦前でもそうでございます。そういうことでございますので,戦前におきましても,いま申し上げましたように,追号と元号とは制度的に関係がないものと承知をいたしておるところでございます。(三原朝雄国務大臣(総理府総務長官)・第87回国会衆議院会議録第155頁)

 

   いまお答え申し上げている元号法案による元号と追号とは全然関係がないと承知いたしております。(大平正芳内閣総理大臣・第87回国会参議院内閣委員会会議録第1422頁)

 

 また,細かい規定はないとしても,新天皇が大行天皇の追号を勅定するということは明らかにされています。例えば,次のとおり。

 

   追号につきましては,現在は法令がないというような状況になっていると存じます。したがいまして,過去の法令,法規等を参考にいたしまして定められてくるというようなことになると思うわけでございますが,過去の例は御案内のとおり,新帝が勅定をされた,こういうことでございまして,その旨が宮内大臣と内閣総理大臣が連署して告示された,こういうことでございます。

   こういったような過去の例というのを十分考えながら,今後いろいろと研究を続けていかなければならない事項と思っておるわけでございます。ただいま,どういうかっこうでどうなるということを申し上げるのは差し控えさせていただきたいと存じます。(山本悟政府委員(宮内庁次長)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第519頁)

 

   お答えを申し上げますが,元号と追号とはこれは全く性格が違うわけなんですね。追号は,これは皇室の行事で,新天皇が亡くなられた天皇に贈り名としてお名前をおつけになるということでございますし,元号というのは陛下が御在世中に国民なり役所なりがその年をあらわす紀年法として用いる呼び名でございまして,この二つは全然違うわけなのです。御質問の将来陛下が崩御になったときにどういう追号をお持ちになるかということは,それは現在の段階ではこれは私何とも申し上げられません。これは新天皇がお決めになることでございまして,まあ現在ではもう想像の域を出ないと,こういうお答えしかできないわけでございます。(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会参議院内閣委員会会議録第711頁)

 

   これは先ほどもお答え申し上げたつもりでございますけれども,元号と追号とは全然これは別問題でございまして,追号の方は天皇が先帝に対して贈られるものでございます。政府のかかわるところではございません。(大平内閣総理大臣・第87回国会参議院内閣委員会会議録第1427頁)

 

 「一世一元の制で重要なのは,後に元号が天皇の諡号(高徳の人に没後おくる名)になることです。中国でも一世一元の元号は,皇帝の諡号になっています。日本では明治以降,元号=諡号となります。」といわれていますが(所功「平成の「次の元号」に使われる漢字」文藝春秋20187月号188頁),少なくとも我が国では,在位中の元号=追号となるのは,新帝がそのように先帝の追号を治定した例が1912年,1926年及び1989年と続いたからにすぎないものであって制度的なものではない,ということになります。在位中の元号をもって1912年に大行天皇が明治天皇と追号されたことについては,当時,「和漢其の例を見ず」,「史上曽て見ざる新例」と評されました(井田敦彦「改元をめぐる制度と歴史」レファレンス811号(20188月)96頁(宮内庁編『明治天皇紀 第十二』(吉川弘文館・1975833頁及び読売新聞1912828日「御追号明治天皇 史上曽て見ざる新例」を引用))。
 元号を皇帝の追号にすることは漢土に例を見ずといわれても,明の初代洪武帝朱元璋以下の明・清の歴代皇帝は一体どういうことになるのだという疑問が湧くのですが,『明史』の本紀第一の太祖一の冒頭部分を見ると「太祖開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高皇帝,諱元璋,字国瑞,姓朱氏。」とあるところです。在位中の元号を洪武とした皇帝朱元璋の廟号は太祖で,諡号は開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高皇帝であるということのようです。要は明の太祖以降の漢土皇帝に係る在位中の元号に基づく洪武帝等の呼び方は,廟号又は諡号ではないことはもちろん,そもそも正式のものではなかったのでした。いわく,「〔明の〕太祖は在位31年,歳71で,皇太孫〔建文帝〕の将来の運命を案じながら,孤独のうちに病死する(1398年)。その年号は終始洪武と称して改元することがなく,以後中国においては一世一元の習慣が確立する。そこで天子を呼ぶにも,従来の諡号,廟号に代えて,年号をもって称するようになった。天子の諡号は古代には極めて簡単な美称を12字ですませたが,後世それが次第に長くなり,明の太祖は21字を重ねるに至ったので,臣下としてはこれを省略して呼んでは失礼にならぬとも限らない。廟号は常に1字であるが,各王朝とも廟号に用いる字はおおむね定まっていて,太祖,太宗,仁宗といった名が頻出するので,前朝と紛らわしくなる。そこで年号によって,たとえば洪武帝のように呼べば,これは正式の名称ではないが,一目瞭然で間違えたり,混同したりするおそれがなくてすみ,甚だ便利なのである。」と(宮崎市定『中国史(下)』(岩波文庫・2015年)175-176頁。下線は筆者によるもの)。これに対して,我が国においては,明治天皇より前に一世一元であった過去の天皇について,例えば平城天皇は,現在一般には元号により大同天皇と呼ばれてはいません。そうしたからとて特に「甚だ便利」というわけでもなく,かつ,本来の追号・諡号がむやみに長くなることもなかったからでしょう。

なお,明治天皇より前に一代の間に改元が1度だけであった天皇としては,元明,桓武,平城,嵯峨,淳和,清和,陽成,光孝,宇多,冷泉,花山,三条,後三条,後白河,六条,御嵯峨,後伏見,後亀山,後小松,称光,後桜町及び後桃園の22天皇が挙げられていました(清水汪政府委員(内閣官房内閣審議室長兼内閣総理大臣官房審議室長)・第87回国会参議院内閣委員会会議録第122頁)。これら各天皇と元号との関係について見ていくと,元明天皇の改元に係る新元号は和銅,桓武天皇のそれは延暦,平城天皇については上記のとおり大同,嵯峨天皇については弘仁,淳和天皇については天長,清和天皇については貞観,陽成天皇については元慶,光孝天皇については仁和,宇多天皇については寛平,冷泉天皇については安和,花山天皇については寛和,三条天皇については長和,後三条天皇については延久,後白河天皇については保元,六条天皇については仁安,後嵯峨天皇については寛元,後伏見天皇については正安,後亀山天皇については元中,称光天皇については正長(ただし,同天皇践祚から17年目の崩御の年に至ってやっと改元),後桜町天皇については明和,後桃園天皇については安永となります。ただし,後小松天皇は一代の間に明徳から応永へ1度しか改元しなかったというのは南朝正統論の行き過ぎで,実は同天皇は在位中に,永徳から至徳へ,至徳から嘉慶へ,嘉慶から康応へ,康応から明徳へ及び明徳から応永へと,5回改元を行っています。また,光厳天皇は元徳から正慶への改元しかしていませんし,崇光天皇も貞和から観応への改元しか行っていません。ちなみに,皇位の継承があったことに基づき行われる代始改元の時期については,「踰年改元,つまり皇位の継承をなさいました年の翌年のある時期,あるいは翌年以降のある時期,そういう意味におきまして,その年を越してからの改元ということでございますが,そのような例は過去の元号の歴史の中ではむしろ非常に多かったということは御案内のとおり」であり,「奈良時代におきましては特にすぐ改元したということがあったわけでございますが,平安時代の初期と申しますか,第51代の平城天皇のときにその年のうちに改元をしたということがございましたが,それが大体最後でございまして,それから後は年を越してからの改元ということが例でございました。」とされています(清水汪政府委員・第87回国会参議院内閣委員会会議録第77頁)。この大同改元については,『日本後紀』の記者によって,「改元大同。非礼也。国君即位,踰年而後改元者,縁臣子之心不忍一年而有二君也。今未踰年而改元,分先帝之残年,成当身之嘉号。失慎終无改之義,違孝子之心也。稽之旧典,可謂失也。」と,踰年改元でなかったことが正に厳しく批判されていたところです(巻第十四大同元年五月辛巳〔十八日〕条)。

 

(2)皇室喪儀令及び追号奉告の儀

 さて,追号について定めていた皇室喪儀令とは,枢密顧問の諮詢(枢密院官制(明治21年勅令第22号)61号参照)を経た旨が記された上諭が附され(公式令(明治40年勅令第6号)53項),一木喜徳郎宮内大臣並びに若槻禮次郎内閣総理大臣並びに主任の国務大臣たる宇垣一成陸軍大臣,財部彪海軍大臣及び濱口雄幸内務大臣が副署し(同条2項),摂政宮裕仁親王が裁可し(同条1項,明治皇室典範36条)19261021日に官報によって公布された(公式令12条)大正15年皇室令第11号です。同令は194752日限り廃止されていますが,「2日,皇室令をもって皇室令及び附属法令をこの日限りにて廃止することが公布される。なお53日,従前の規程が廃止となったもののうち,新しい規程が出来ていないものは,従前の例に準じて事務を処理する旨の〔宮内府長官官房〕文書課長名による依命通牒が出される。」という取り運びとなっています(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)316頁)。

皇室喪儀令の第1条から第3条までは次のとおりでした。

 

第1条 天皇崩御シタルトキハ宮内大臣内閣総理大臣ノ連署ヲ以テ直ニ之ヲ公告ス

 太皇太后皇太后皇后崩御シタルトキハ宮内大臣直ニ之ヲ公告ス

第2条 天皇太皇太后皇太后皇后崩御シタルトキハ追号ヲ勅定ス

第3条 大行天皇ノ追号ハ宮内大臣内閣総理大臣ノ連署ヲ以テ之ヲ公告ス

 太皇太后皇太后皇后ノ追号ハ宮内大臣之ヲ公告ス

 

 皇室喪儀令11条に基づく同令附式第1編第1の天皇大喪儀に「追号奉告ノ儀」が規定されており,そこにおいて「天皇御拝礼御誄ヲ奏シ追号ヲ奉告ス」とあります。

 皇室喪儀令施行の月(公式令11条により19261110日から施行)の翌月25日に崩御した大正天皇のための1927120日の追号奉告ノ儀においては,秩父宮雍仁親王が兄である新帝・昭和天皇の名代となり(昭和天皇は同年元日の晩から風邪(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)620頁)),次の御誄を奏して追号を奉告しています(同626-627頁)。

 

  裕仁敬ミテ

  皇考在天ノ神霊ニ白ス

  皇考位ニ在シマスコト十有五年

  明治ノ顕朝ヲ承ケサセラレ迺チ其ノ明ヲ継カセタマヒ

  大正ノ昭代ヲ啓カセラルル夙ニ其ノ正ヲ養ハセタマヘリ茲ニ

  遺制ニ遵ヒ追号ヲ奉ケ

  大正天皇ト称シタテマツル

 

DSCF1300(大正天皇多摩陵)
大正天皇多摩陵(東京都八王子市)

 
198917日に崩御した昭和天皇のための同月31日の追号奉告の儀における今上天皇の御誄は,次のとおりです(宮内庁ウェブ・サイト)。

 

明仁謹んで

御父大行天皇の御霊に申し上げます。

大行天皇には,御即位にあたり,国民の安寧と世界の平和を祈念されて昭和と改元され,爾来,皇位におわしますこと六十有余年,ひたすらその実現に御心をお尽くしになりました。

ここに,追号して昭和天皇と申し上げます。

 

DSCF1296(昭和天皇武蔵野陵)
昭和天皇武蔵野陵(東京都八王子市)

 同じ
1989131日平成元年内閣告示第3号によって大行天皇の追号が昭和天皇となった旨公告されましたが,「宮内大臣内閣総理大臣ノ連署ヲ以テ」の公告ではなかったのは,宮内大臣が廃されてしまっている以上そうなるべきものだったのでしょう。(なお,平成元年内閣告示第3号には「大行天皇の追号は,平成元年113日,次のとおり定められた。」とのくだりがありますが,これは,皇統譜(皇室典範(昭和22年法律第3号)26条)における天皇に係る登録事項には「追号及追号勅定ノ年月日」があるところ(皇統譜令(大正15年皇室令第6号)1213号。昭和22年政令第1号たる皇統譜令の第1条は「この政令に定めるものの外,皇統譜に関しては,当分の間,なお従前の例による。」と規定),追号のみならずその勅定日も「公告ニ依リ」登録(皇統譜令施行規則(大正15年宮内省令第7号)附録参照)するからでしょう。)

 ところで,「大行天皇には,御即位にあたり,国民の安寧と世界の平和を祈念されて昭和と改元され」という表現を見ると,やはり昭和天皇の追号が昭和天皇となったのは在位中の元号が昭和(「百姓昭明,協和万邦」)だったからだ,したがって第87回国会で大平内閣総理大臣以下政府当局者が何やかやと言っていたが元号法施行後も結局元号が天皇の追号となるべきものなのだ,と早分かりしたくなるのですが,それでよいのでしょうか。単に在位中の元号が昭和だったからではなく,19261225日の「御即位にあたり」「昭和と改元」したのは大行天皇自身であったからこそその追号が昭和天皇と治定されたように筆者には思われるのですが,どうでしょうか。

 (ついでながら,天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)33項は「上皇の身分に関する事項の登録,喪儀及び陵墓については,天皇の例による。」と規定しています。なお,「天皇の例による」としても,大正15年皇室令第6号たる皇統譜令12条においては退位の年月日(時)は天皇に係る登録事項とはなっておらず,昭和22年政令第1号たる皇統譜令にも特段の定めはないようであるところ,この辺はどうなるものでしょうか。

 

2 元号を定める権限の所在

 

(1)明治皇室典範・登極令と元号法との相違

 明治皇室典範12条は「践祚ノ後元号ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ従フ」と,登極令(明治42年皇室令第1号)2条は「天皇践祚ノ後ハ直ニ元号ヲ改ム/元号ハ枢密顧問ニ諮詢シタル後之ヲ勅定ス」と,同令3条は「元号ハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と規定していました。「勅」定ですから天皇が定めるのですし,「詔」書だからこそ天皇名義の文書なのです。

これに対して現在の元号法1項は「元号は,政令で定める。」と規定しており,すなわち元号を改める権限(「新しい元号の名前」及び「いつ改元が効力を持つか」という2点を規定する政令(清水汪政府委員(内閣官房内閣審議室長兼内閣総理大臣官房審議室長)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第440頁)を制定する権限)は,天皇ではなく,政令を制定する機関である内閣が有しているところです(日本国憲法736号)。天皇ではなく内閣が決めるのであれば元号とはいえないのではないか,という見解を我が政府は採っておらず,「元号だから天皇が決める,それが伝統であって,そうでなければ元号という制度になじまないとか,そういう気持ちは毛頭ありません。」,「決して天皇が決めなければ元号とは言わないなんというような気持ちは毛頭ございません。」という国会答弁がされています(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会参議院内閣委員会会議録第123頁)。

(なお,先帝崩御日と新元号建定日とを一致させるのは明治皇室典範レヴェルでの要請ではなく,登極令21項(「直ニ」)の要請であるということになります(現に,慶応四年を改めて明治元年としましたが,孝明天皇が崩御したのは慶応四年元日より1年以上前の慶応二年十二月二十五日のことでした。)。1909127日に開かれた枢密院会議の筆記には,登極令案は「従来ノ慣例ヲ取捨折衷シテ作ラレタルモノ」だとの細川潤次郎枢密顧問官の発言が記されていますが,代始改元を践祚後直ちに行うのが「従来ノ慣例」だったのかどうかについては前記『日本後紀』の記述等に鑑みても議論がありそうです(所功「昭和の践祚式と改元」別冊歴史読本1320号(198811月)186頁に引用された「登極令制定関係者である多田好問の『登極令義解』草稿」(井田98頁・注(48))によれば「古例に於ける・・・如く事実を稽延することを得ず」ということだったそうですから(井田98頁),この場合の「古例」ないしは「従来ノ慣例」は,むしろ意識的に「捨」てられたもののようです。)。現在の元号法においては,「事情の許す限り速やかに改元を行う」のが「法の趣旨」だとされていますが(三原朝雄国務大臣(総理府総務長官)・第87回国会衆議院会議録第155頁),これは登極令21項的運用を念頭に置いていたということでしょう。ただし,元号法2項の「皇位の継承があつた場合」との表現については「「場合」という表現をとっておりますのは,そこにある程度の時間的なゆとりというものを政府にゆだねていただきたいという考え方からそのような表現をとっているということ」になっています(清水汪政府委員・第87回国会参議院内閣委員会会議録第1229頁)。)

 

(2)明治皇室典範・登極令下の大権ノ施行たる元号建定における内閣の関与

 とはいえ,天皇が元号を勅定するものとされていた明治皇室典範時代も,元号建定に当たっては,内閣が中心となっていました。

すなわち,大正天皇崩御の「日午前330分,内閣総理大臣若槻礼次郎以下の閣僚は〔葉山〕御用邸附属邸より本邸に戻り,直ちに緊急閣議を開き,登極令に基づき元号建定の件を上程し,元号建定の詔書案,大喪使官制,東宮武官官制廃止の件その他を閣議決定し,直ちに元号建定の詔書案の枢密院への御諮詢を奏請する。枢密院は御諮詢を受け,午前645分より副議長平沼騏一郎を委員長とし,内閣総理大臣以下関係諸員出席のもと,元号建定の審査委員会を開く。元号案は全会一致を以て可決され,詔書案の文言に関しては,討議を重ねた上,原案に修正を加えることにて可決される。それより枢密院は修正案を作成し,内閣総理大臣の同意を得て午前915分本会議を開催,元号案並びに詔書修正案を全会一致を以て可決し,〔倉富勇三郎〕枢密院議長は直ちに奉答する。ついで奉答書が内閣に下付され,直ちに内閣は再度の閣議を開き,元号建定の詔書案につき,枢密院の奉答のとおり公布することを閣議決定する。天皇は945分より10時過ぎまで,内閣総理大臣若槻礼次郎に謁を賜い,元号建定の件につき上奏を受けられる。よって御裁可になり,1020分,詔書に御署名になる。ついで再び若槻に謁を賜う。詔書は直ちに官報号外を以て公布され,ここに元号を「昭和(せうわ)」と改められる。」ということでした(『昭和天皇実録 第四』602頁)。なお,内閣の活動のみならず,枢密顧問に諮詢する手続がありますが(登極令22項),これは「元号ハ昔時ニ於テモ廷臣ヲシテ勘文ヲ作ラシメ問難論議ヲ経テ之ヲ定メ難陳ト号セリ今本〔登極〕令ニ於テモ枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ之ヲ定ムルコトトシタルハ事重大ナルノミナラス古ノ難陳ノ意ヲモ加ヘテ此ノ如ク規定シタルナリ」ということでした(1909127日に開かれた枢密院会議の筆記にある奥田義人宮中顧問官の説明)。

 昭和改元の詔書の文言は「朕皇祖皇宗ノ威霊ニ頼リ大統ヲ承ケ万機ヲ総フ茲ニ定制ニ遵ヒ元号ヲ建テ大正151225日以後ヲ改メテ昭和元年ト為ス」というものでしたが(『昭和天皇実録 第四』603頁),当該詔書に副署した者は内閣総理大臣及び国務各大臣であって,そこには宮内大臣は含まれていませんでした。これは,明治皇室典範の第12条に規定があるにもかかわらず,元号建定は「皇室ノ大事」に関するものではなく,「大権ノ施行」に関するものであることを意味します。すなわち,公式令12項は「詔書ニハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ其ノ皇室ノ大事ニ関スルモノニハ宮内大臣年月日ヲ記入シ内閣総理大臣ト倶ニ之ニ副署ス其ノ大権ノ施行ニ関スルモノニハ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ国務各大臣ト倶ニ之ニ副署ス」と規定していたところです。元号を建定することは「万機ヲ総フ」る大権の施行の一環であるということでしょう。(ただし,宮内省図書寮編修官吉田増蔵が若槻内閣の委嘱を受けて起草した元号建定の詔書案(『昭和天皇実録 第四』605頁)の文言は「朕皇祖皇宗ノ威霊ニ頼リ茲ニ大統ヲ承ケ一世一元ノ永制ニ遵ヒ以テ大号ヲ定ム廼チ大正15年ヲ改メテ昭和元年トシ1225日ヲ以テ改元ノ期ト為ス」というもので,「万機ヲ総フ」がありませんでした。ちなみに,1912730日の大正改元に係る詔書の文言は「朕菲徳ヲ以テ大統ヲ承ケ祖宗ノ霊ニ誥ケテ万機ノ政ヲ行フ茲ニ/先帝ノ定制ニ遵ヒ明治45730日以後ヲ改メテ大正元年ト為ス主者施行セヨ」というものでした。「先帝ノ定制ニ遵ヒ」の部分は,前記『日本後紀』の記者に対する,年を踰えることを待つことなく改元するのは先帝陛下の定制(登極令21項)によるものであって自分勝手な親不孝ではありませんからね,との言い訳のようにも読み得る気がします。なお,こうして見ると,吉田案では「万機ヲ総フ」のみならず,「主者施行セヨ」も落ちています。)

日本国憲法下においても,「そういうような経過から申し上げましても元号に関することは国務として,現在で言えば総理府本府〔当時〕におきまして取り扱われるべきものでございまして,宮内庁の所掌事務ということにはならないと存じます」とされています(山本悟政府委員(宮内庁次長)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第420頁)。日本国憲法公布後の1946118日に𠮷田茂内閣総理大臣が昭和天皇に上奏した元号法案(GHQとの関係もあり,結局帝国議会には提出せず。)も現在の元号法とよく似た内容で,本則は「皇位の継承があつたときは,あらたに元号を定め,一世の間,これを改めない。/元号は,政令で,これを定める。」,附則は「この法律は,日本国憲法施行の日から,これを施行する。/現在の元号は,この法律による元号とする。」というものでした。

美濃部達吉の説明によれば,「元号ヲ建ツルハ事直接ニ国民ノ生活ニ関シ,性質上純然タル国務ニ属スルコトハ勿論ニシテ,固ヨリ単純ナル皇室ノ内事ニ非ズ。故ニ之ヲ憲法ニ規定セズシテ,皇室典範ニ規定シタルハ恐クハ適当ノ場所ニ非ズ。其ノ皇室典範ニ規定セラレタルニ拘ラズ,大正又ハ昭和ノ元号ヲ定メタル詔書ガ宮内大臣ノ副署ニ依ラズ,各国務大臣ノ副署ヲ以テ公布セラレタルハ蓋シ至当ノ形式ナリ。」ということになります(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)185頁)。(なお,先例となった大正改元の際の内閣総理大臣は公家の西園寺公望であって,宮内大臣の渡辺千秋は元は諏訪高島藩士でしかありませんでしたから,西園寺が明治天皇崩御を承けての元号建定事務を主管したことはいかにも自然であったということかもしれません。)「事直接ニ国民ノ生活ニ関シ」とは,「とにかく旧憲法下における元号は,国の元首であり,かつ統治権の総覧者である天皇がお決めになったものであって,はっきり使用についての規定はございませんけれども,恐らくその趣旨は,朕が定めた元号だから国民よ使えよという御趣旨がその裏にはあったのだろうと思うのですよね。」ということでしょう(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第58頁)。(ちなみに,詔書と同様天皇が親署して御璽を鈐する勅令については,「他の国務上の詔勅と区別せらるゝ所以は,勅令は国民に向つて法規を定めることを主たる目的とすることに在る」とされていましたが(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)235頁),勅令の副署者については「内閣総理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ国務各大臣若ハ主任ノ国務大臣ト倶ニ之ニ副署ス」るものとされていました(公式令72項)。宮内大臣の副署はなかったわけです。)元号の建定は国務事項である以上,「この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない」ものとされる(日本国憲法41項)194753日以降の天皇については,「天皇に元号の決定権を与えるような法律をつくることは憲法違反でございます。」ということになります(真田秀夫政府委員・第87回国会参議院内閣委員会会議録第123頁)。「世の様の移り換りて斯なれるは人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから且は我国体に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき」とは,天皇が「政治の大権」を失った時代に係る明治天皇の慨嘆です(188214日の軍人勅諭)。

 1889211日の「皇室典範第12条に建元大権の事を定めて居るのは,事純然たる国務に関するもので,皇室に関係の有るものではなく,宜しく憲法中に規定せらるべきものである。」(美濃部・精義113頁)という記述に出て来る「建元大権」とは,漢の武帝以来の「王が時間をも支配するとして,支配下の人民に使用させた年を数える数詞」である「元号をさだめ,あるいは改める権限」(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)121頁)という意味の東洋の皇帝的な建元大権のことだったのでしょうか。(なお,明治皇室典範12条は,践祚後の改元を義務付けると共にそれ以外の場合の改元を禁じており,むしろ天皇の権限を制約する規定のようにも思われます。)


3 大日本帝国憲法制定前期における元号等についての意見:井上毅及び伊知地正治

 しかし,元号に関する規定を憲法に設けるべきだとの方向性は,明治維新の功臣である岩倉具視右大臣の考え方においてはあったものと考えられ得るところです。岩倉右大臣は「奉儀局或ハ儀制局開設建議」を18783月に太政官に提出しますが,当該奉儀局又は儀制局が開設されたならばそこにおいて帝室の制規天職に関し調査起草されるべき「議目」として掲げられたもののうち,「憲法」の部には次のようなものがありました(小嶋和司「帝室典則について―明治皇室典範制定初期史の研究―」同『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)73-74頁)。

 

  改元 一代数改 一代一元 不用元号称紀元何年

  諡号 史記諡法 漢籍抄出美字 地名院 国風諡号

 

 上記「奉儀局或ハ儀制局開設建議」に対して井上毅が「奉儀局取調不可挙行意見」を岩倉右大臣に提出し,同右大臣の当該建議は実現されずに終わりますが,井上の当該「意見」においては「国体ト云即位宣誓式ト云 皇上神聖不可侵ト云国政責任ト云ガ如キハ其標目簡単ナルガ為ニ一覧ノ間ニ深キ感触ヲナサゞルモ其義ヲ推窮シテ其末来ノ結果ヲ想像スルニ至テハ真ニ至大ノ議題ニシテ果シテ其深ク慎重ヲ加フベクシテ躁急挙行スベカラザルヲ信ズ」とされていた一方,「改元」等に関しては「奉儀局議目中国号改元ノ類大半ハ儀文名称ノ類ニシテ政体上ニ甚シク関係アラザル者トス」とあったところです(小嶋73-74頁)。

「改元ノ類」は「儀文名称ノ類ニシテ政体上ニ甚シク関係アラザル者」にすぎないというのですから,建元大権もあらばこそ。したがって,井上毅が起草作業の重要な一翼を担った大日本帝国憲法においては元号に関する条項が設けられなかったことはむべなるかな,とは筆者の感想です。

なお,前記「議目」について宮内省一等出仕の伊知地正治(1873年に左院副議長として「帝室王章」を取り調べ,1874年以後国憲編纂担当議官(小嶋65頁))の口述を宮島誠一郎が筆記したもの(1882121日)があり,そこには次のような意見が記されていました(伊藤博文編・金子堅太郎=栗野慎一郎=伊藤博精=尾佐竹猛=平塚篤校訂『秘書類纂 憲法資料 下巻』(秘書類纂刊行会・1935年)497頁)。

 

 改元 神武紀元何千何百年モ民間通用ニハ少シク難渋ナリ。漢土モ明代ヨリ一代一元ノ制ヲ定メ今日清朝之ニ沿襲ス其制頗ル傚フベシ。御維新後一代一元ノ姿ナレバ此レニテ当然ナルベシ。御一代数度ノ改元ハ已ニ無用ナルベシ。

 諡号 近世ハ白河家ニ御委任ノ様ニ覚ユ,御維新後ハ内閣ニテ御選定当然ナリ。

 

 明治政府は「1873年(明治6)年の改暦にともない,公式に干支を廃し,新たにさだめた皇紀と元号を用いて年を数えることとした」のでしたが(村上123頁),「神武紀元何千何百年モ民間通用ニハ少シク難渋ナリ。」ということであったのであれば,ハイカラな「耶蘇紀元何千何百年」も当時の我が国の民間においてはそもそもその通用は論外だったということでしょう。なお,神武紀元(皇紀)については明治五年十一月十五日(18721215日)の太政官布告第342号が根拠とされており,当該布告は「今般太陽暦頒行 神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被為告候為メ来ル廿五日 御祭典被執行候事〔後略〕」というものでした。ただし,当該布告については,「神武天皇の御即位のときが建国の日であるぞということをここで宣明されたというふうに考えられるわけでございますが,そうなりますと,したがいましてこれは年の数え方というのを決めたのではございませんで,建国の日から何年かということを数えるときには神武天皇の御即位のときが始まりなんだということを書いてあるわけでございます。したがいまして,元号のように年の数え方を書いたというものではございません。そして,これが一体現在どのような意味,内容を持っているのか,これは一体国民に対して強制力を持っていたのか持っていなかったのか,さらに,現在の科学的知見でもって神武天皇の御即位というのは一体いつであったのかというようなことを確定いたしませんと,どうもこの太政官布告の現在における効力というのは確定はできない。ところが,私どももいろいろ調べてはみたのでございますが,何分古いものでございまして,文献等もございませんし,さらにその神武天皇の御即位の時期がいつかというようなことは歴史的事実に属しまして私どものまだ何とも確定できる状況ではございませんので,現段階におきましてはなかなかこれの法的効力というものにつきまして断定ができるような状況に立ち至っていないということを御了解いただきたいと存じます。」と解されています(味村治政府委員(内閣法制局第二部長)・第87回国会参議院内閣委員会会議録第1415頁)。

「御一代数度ノ改元ハ已ニ無用ナルベシ。」とわざわざ言わざるを得なかったということは,江戸時代最長の元号は享保及び寛永の各21年であったので,明治も10年を過ぎるともうそろそろ改元で縁起直しをしたい,数字が大きくなると面倒臭い,というような昔ながらの欲求がやはり感じられていたということでしょうか。(なお,「未開人」は3までしか数えられない一方「むかしのタイ国の法廷でもやはり証人に10までの数を数えさせてみて,数えられなかったら,一人前の証人としての資格をみとめなかった」そうです(遠山啓『数学入門(上)』(岩波新書・1959年)1頁)。)

太政官の内閣で諡号を選ぶ云々ということは,1882年当時は宮中府中の区別がいまだにされていなかったからでしょう(近代的内閣制度の創設は18851222日)。

 

4 元号の示すもの

 

(1)天皇在位ノ称号

 元号が「儀文名称ノ類」であるのならば,それは明治皇室典範下において具体的には何を示すのかといえば,美濃部達吉によれば「天皇在位ノ称号」です。いわく,「即チ元号ハ明治元年ノ定制ニ依リ其ノ法律上ノ性質ヲ変ジタルモノニシテ,旧制ニ於テハ元号ハ単純ナル年ノ名称ナリシニ反シテ,現時ノ制ニ於テハ天皇在位ノ称号トシテ其ノ終始ハ全ク在位ト相一致ス,天皇崩御ノ瞬間ハ即チ旧元号ノ終リテ同時ニ新元号ノ始マル瞬間ナリ。元号ヲ改ムル詔書ノ公布セラルルニハ多少ノ時間ヲ要スルハ勿論ナレドモ,其ノ公布ガ如何ニ後レタリトスルモ,常ニ先帝崩御ノ瞬間ニ迄遡リテ其ノ効力ヲ生ズベキモノナリ。」と(美濃部・撮要184-185頁)。

 「年を帝王の治世何年で数える例は,古代ローマ帝国にも,イギリス等の君主制国家にもみられる」ところ(村上122頁),我が国においては実名敬避俗があるから天皇の御名の代わりにその践祚時に建定する「天皇在位ノ称号」を使用するのだ,といえば,他国の例と比較を絶する奇天烈なものではないということにはなるのでしょう。(英国の例を見ると,「制定法は,1962年までは,正式には,国王の治世第何年の議会で制定された法律第何号という形で呼ばれていた。」とされています(田中英夫『英米法総論下』(東京大学出版会・1980年)675頁)。また,「イギリスでは,即位の日から丸1年を治世第1年,次の1年を第2年とし,暦年で数えるのではない」とされています(同頁)。)漢土においても,武帝より前の「従来の紀年法は君主が先代を継承すると,その翌年を元年として数え始めた。」そうです(宮崎市定『中国史(上)』(岩波文庫・2015年)214頁)。

 

(2)漢の武帝

漢の武帝による年号制度の創始も,実は前記の「年を帝王の治世何年で数える」制度の延長線上にあったところです。いわく。「戦国時代は七国がそれぞれの君主の即位年数を用いたのはもちろんであるが,漢代に入っても封建君主はその領内で,その君の即位年で年を記したのである。中央では〔漢3代目の〕文帝の時,在位がやや長くなったので,17年目にまた元年として数え直した。これを()元年として区別するのは後世の加筆である。次の景帝〔武帝の先代〕8年目が(ちゅう)元年,更に7年目が後元年と,2回の改元を行った。こういう方法は記録を整理する時に紛らわしくて甚だ不便である。特に皇帝には死んでから諡号を贈られるまでは名がなく,後世でこそ景帝の中二年と言えるが,その当時においては,ただ皇帝二年とだけしか言えない。更に地方の封建君主の即位年があるからいよいよ混雑しやすい。武帝の世になっては,6年を一区切りとし,7年目になると元年に戻したが,改元が何回か繰返されると,前後の区別がつかなくなった。そこで5回目の改元の際に,その元年に元封(げんぽう)元年という年号を制定して数え始めた。更に前へ戻って,最初から建元,元光,元朔,元狩,元鼎と,6年ずつひとまとめにして年号を追命した。これは当時においては大へん進んだ便利な制度で,中央で定めた年号は国内至る所に通用し,またこれによって何年たった後でも,すぐあの年だということが分る。更に国内のみならず,中国の主権を認める異民族の国にも年号を用いさせれば,それだけ年代を共通にする範囲が広くなるわけである。中国にはキリスト教紀元のようにある起点を定めて元年とし,永久に数えて行く考えは遂に発生しなかった。」と(宮崎214-215頁)。

なお,漢の元封元年(西暦紀元前110年ほぼ対応します。)は武帝が今の山東省の泰山において封禅を行った年であって,その「大礼の記念として,天下の民に爵一級を賜わり,女子と百戸には牛酒を賜わった。人民の全部が大礼記念章もしくは酒肴料をいただいたのである。/年号が元封(・・)と改元されたのも,またその記念のひとつである。」とされています(吉川幸次郎『漢の武帝』(岩波新書・1963年)164頁)。

 (「現時点の年を表すものとしては,西暦前113年に「元鼎」と号したのが最初とされる」ともされています(井田95頁・注(22))。なお,藤田至善「史記漢書の一考察―漢代年号制定の時期に就いて―」(東洋史研究15号(1936年)420-433頁)によれば,漢の武帝の五元の三年(西暦紀元前114年にほぼ対応します。)に有司から,元は宜しく天瑞を以て命ずべし,一二を以て数へるは宜しからず,一元を建と曰ひ,二元は長星を以て光と曰ひ,ママ一角獣史記封禅というがあって,(年号制定である。」というったそう420-421頁,426頁)。五元の年号である元鼎は,五元の四年(西暦紀元前113年にほぼ対応します。)に宝鼎が得られたことから追称されたものであって,改元と年号の制定とが初めて同時に行われたのは元封元年のことであった(漢書武帝紀・元封元年の条に「詔曰,其以十月為元封元年」,郊祀志上に「下詔改元為元封」とあるそうです。)とされています(藤田432頁註⑥)。

 

(3)国民元号

ところで,現在の元号法に基づく元号は「天皇在位ノ称号」とはいえないのでしょう。

元号と皇位の継承とは直ちに連動するのかという質疑に対して政府は「直接的には皇室典範4条が働く場合にいまの改元が行われるわけでございますが,ただ,おっしゃいましたように,直接皇位の継承と,観念上といいますか考え方として元号とすぐ結びつけたというものではむしろなくて,元号制度について国民が持っているイメージ,それはやはり日本国憲法のもとにおける象徴たる天皇の御在位中に関連せしめて元号を定めていくんだという事実たる慣習を踏まえまして,このような条文の仕方にしたわけでございます。」と答弁しています(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第514頁)。国民の持っているイメージに従っただけであって政府自身の考え方は無い,そもそも,「元号は,国民の日常生活におきまして,長年使用されて広く国民の間に定着しており,かつ,大多数の国民がその存続を望んでおるもの」であるところ「また,現在46都道府県,千を超える市町村が法制化の決議を行い,その速やかな法制化を望んでおります」から「政府としては,こういう事実を尊重いたしまして,元号制度を明確で安定したものとするため,元号法案を提出」した(大平正芳内閣総理大臣・第87回国会衆議院会議録第154頁)だけなのだ,「深いイデオロギー的なものではな」いのだ(大平内閣総理大臣・同会議録9頁)ということでしょう。

また,ここで皇位継承と元号との結び付きを仲介するものとされる「元号制度について国民が持っているイメージ」は更に,精確には,改元の時期についてかかるものなのでしょう。「その元号をどういう場合に改める,つまり改元をするかという点につきましては,これは申し上げるまでもなく,旧憲法の時代に戻るというのではなくて,現在,日本の国民の多くの方々が持っていらっしゃる元号についてのイメージ,それは天皇の御在位中に一世一代の元号を用いるのだというイメージがあるわけなんで,それを忠実に制度化するというのが本意でございまして,無論,天皇の性格が旧憲法と現在の憲法との間において非常な違いがあるということは百も承知でございまして,それと混同するようなつもりは毛頭ございません。」という答弁もあります(真田秀夫政府委員・第87回国会衆議院内閣委員会議録第511-12頁)。

改元という区切りを重視した結果,「年号法」とはならず元号法となったのでしょう。「本来的には,年号といい元号といい,年の表示の仕方,つまり紀年方式の一つでございますが,年号の方は単純にその年を表示するという感覚が主になっているというふうに考えるわけなんで,その年号を幾つか区切りをつけて,古くは大化,白雉,朱鳥というふうに区切りをつけまして,それから新しくは明治,大正,昭和というふうにある区切りをつけていく。その区切りをつけたその期間の始まりが,その区切りの名前の第1年であるというふうな扱いになる。そういう区切りの初年度であるという点に重点を置いて名前をつければ,まあ元号という言葉になじむような感じがいたします。本来的には,先ほど申しましたように,元号といい年号といい,そんなに違うものではないと思いますけれども,あえて区別をつければ,ただいま申し上げましたような,その区切りに重点を置いて呼び名をつけた場合に,元号という言葉の方がぴったりくるという感じがいたします。」ということでした(真田政府委員・第87回国会衆議院内閣委員会議録第511頁)。

「神武紀元何千何百年モ民間通用ニハ少シク難渋」であるのに対して元号はちょくちょく改元があるからこそよいのであるが,「屢〻年号を改め」過ぎて「徒に史乗の煩きを為すに至」った(伊藤博文『皇室典範義解』第12条解説),そこで1868年に改元事由を整理して「是迄吉凶之象兆に随ひ屢〻改号有之候へ共,自今御一代一号に被定候」(明治元年九月八日の行政官布告)としたところ,百十余年後の1979年には,元号について「国民が持っているイメージ」においては天皇の践祚時にされる改元以外の改元のイメージが失われてしまうに至っていた(「代始め改元以外の改元の方法というのが,過去百年間では整理されて,ないわけでございます。そうなりますと,元号が変わるということについて国民が考えるとすれば,恐らくそれは代始め改元で変わるというイメージが一般的に残っているのだろうというふうに言えるのじゃなかろうかと思います。」(清水汪政府委員(内閣官房内閣審議室長兼内閣総理大臣官房審議室長)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第846頁)),すなわち,同年制定の元号法2項における「元号は,皇位の継承があつた場合に限り改める。」という規定はそういう主権者「国民が持っているイメージ」を承けた結果である,ということになるのでしょうか。元号法においては「たまたま改元を,昔よくありましたような祥瑞改元とか言ったのだそうですが,それだとか,あるいは国家について重大な事件があった場合とか,そういうようなことではやらないで,憲法第1条に書いてある象徴たる天皇の地位の承継があった場合に限ってやる,そういう改元のきっかけをそこへ求めただけ」だということですが(真田政府委員・第87回国会衆議院内閣委員会議録第716頁),これをもって,践祚時改元制は積極的選択の結果ではなく吉凶之象兆等を理由とする改元を整理した消極的選択の結果にすぎないことになるのである,というように理解するのは善解でしょうか誤解でしょうか。しかし確かに,改元事由は限定されるべきであって,明和(めいわ)九年は迷惑(めいわく)だから物価安が永く続くように安永元年に改元しよう,というような洒落で内閣が次々と元号を改め始めのならばそれこそ迷惑です。

元号法制定は「国民のためよき元号を策定することが主たる目的」であるところ,同法に基づく元号は,「国民に十分開かれた国民元号」としての性格を有するものということになります(三原朝雄国務大臣(総理府総務長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第744頁)。すなわち,「今度の法律〔元号法〕によって委任を受けた内閣が政令を出して,そして年号を定めるということでございまして,天皇のお名前を使って年の表示をするという考えではございません。」というわけです(真田政府委員・第87回国会参議院内閣委員会会議録第711頁)。

総理府からの19791023日の閣議報告である「元号選定手続について」においては,元号の候補名の整理に当たっての留意事項の筆頭に「国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つものであること。」を掲げています(22)ア。下線は筆者によるもの)。余りにも高邁な元号であると,我々人民としては理想負けしてしまうわけです。これに対して,昭和の元号名の勘進者である前記宮内省図書寮吉田増蔵編修官(192279日に死去した図書頭鷗外森林太郎の元部下(ちなみに,鷗外最晩年の日記『委蛇録』の1922620日の項には「二十日。火。〔在家〕第六日。呼吉田増蔵託事。」とあり,同月30日から同年75日までの最後の6日分については,吉田が鷗外のために代筆をしています。))に一木宮内大臣が与えた5項目の元号の条件中第2項は「元号ハ,国家一大理想ヲ表徴スルニ足ルモノナルベキコト。」としていました(『昭和天皇実録 第四』603頁。下線は筆者によるもの)。


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吉田編修官の元上司である帝室博物館総長兼図書頭森林太郎墓(東京都三鷹市禅林寺)

森図書頭のなした仕事として,正に元号及び追号に係る『元号考』及び『帝諡考』が残されています。(ただし,大正改元の際に西園寺内閣総理大臣と渡辺宮内大臣との間でなされた事務分配の前例によれば建元は「大権ノ施行ニ関スル」ものとされていたのですから,内閣総理大臣の下の内閣(これは,国務大臣によって組織される現憲法にいう内閣とは異なります。)ではなく宮内大臣の下の宮内省(図書頭)が元号を云々したのは,厳密には越権(ないしはあえて建元を「皇室ノ大事」と捉え直そうとするもの)だったのかもしれません。)

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禅林寺山門
 

5 大宝律令と大宝建元及び三田の詐偽

 ところで,現在我が国に元号があるのはなぜかという問いに対して,元号法という法律がある以上はいずれにせよ皇位継承の都度内閣は改元して新しい元号を定めなければならないのだと官僚的に答えることは,不真面目な答えであるということでお叱りを受けてしまうことなのでしょうか。(ただし,政府は法律たる元号法の効果として「憲法73条第1号によりまして,内閣は法律を誠実に執行しなければならないということで,今度の法律案が成立した場合の元号法の本則第1項によって,政府は〔同法本則2項の〕改元の事由が出た場合には改元をしなさいという効果が出てくるわけなんです。」と答弁されてはいます(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第732頁)。)

しかるに,その後中断なく継続して元号が現在まで使用されるようになった最初の元号である大宝については,正に,新しい令(大宝令)に年号を使えと書いてあるからその指令を役人らに守らせるために年号を定めるのだ,ということで建元されたもののようにも思われるところです。さらには,当該大宝建元の事由たる祥瑞も,実は小役人の手になるいんちきであったというところが味わい深い。

 

   8世紀の最初の年〔701年〕の晩春三月(本書ではすべて陰暦)二十一日,藤原宮の大極殿をかこむ朝堂院では,即位や新年の拝賀におとらない盛大な式典が挙行された。

   式は,黄金献上の儀から始まる。それまで日本にはないと思われていた金山が,さきごろ対馬で発見されたとの内報をえた大納言大伴御行(みゆき)は,技術者を派遣,鋭意精錬させていたのだが,ようやく間にあって,この盛大な式典の劈頭をかざることになったのである。しかし御行自身はこの日をまたず,さる正月に56歳で病没した。〔文武〕天皇は深く悼んで,即日右大臣に昇任させた。

   式は荘重な宣命の朗読にうつる。大極殿前の広場に参列する百官にもよくとおる声である。

   「対馬に産した黄金は,神々が新しい律令〔大宝律令〕の完成を祝いたもうた瑞祥(めでたいしるし)である。よって年号を大宝と定め,新令によって官名・位号を改正する・・・」

年号は,大化改新に始まったが,大化・白雉以後は天武朝の末年に朱鳥としただけで,ひさしく公的には使われていなかった。しかし今度の令は,つねに年号を用いることを命じていた。(青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』(中央公論社・1965年)25-26頁。下線は筆者によるもの。儀制令第26条(公文条)に「凡公文応記年者,皆用年号。」とあったそうです(窪美昌保『大宝令新解 第3冊』(橘井堂蔵・1916年)553頁)。

 

   だが,この式典の劈頭をかざった黄金は,日本で産したものではなかった。対馬に金山などはなかったのである。『続日本紀』の大宝元年(701年)八月条には,金を精錬した技術者三田五(みたのいつ)(),対馬で金山を発見したという島民や嶋司(国司にあたる役人),そして紹介者である故右大臣にたいする行賞の記事があるが,続紀の編纂者は記事の注に「年代暦」という書物を引用して,後年,五瀬の詐偽だったことが発覚した,故右大臣はあざむかれたのである,とのべている。(青木2729頁)

 

   三田氏は任那王の後裔と称しながら,代々金工を業としていたために,大化改新にさいしても朝廷から解放されず,賤民ではないけれども良民のなかでいちばん低い雑戸という身分に指定され,差別待遇されていたのである。「年代暦」が詐偽と記したのは,五瀬が対馬の金山からではなく,どこからか,おそらくは朝鮮から手に入れた金を,島民と共謀して対馬産といったためであろう。

   五瀬は行賞によって雑戸から解放された。のみならず,正六位上という貴族に近い位や,絹・布・鍬など,あまたの賞品をもらった。自分で手に入れた金を献納しても,当座は引きあったわけである。ただ発覚したあとどうなったかは,なにも知られていない。

   かれが金を発見しなければ,大宝という年号もできなかったろうし,高官たちが新令施行の式典をはなやかにかざることもむずかしかったであろう。かれが何者かに命ぜられた役割は,もうすんだのであり,歴史は使い捨てた小道具の最期を語ろうとはしない。(青木29-30頁)

 

 大宝ではなく実は「韓宝」であったのか,などと言えばまたお叱りを受けるのでしょうか。

しかし,青木和夫山梨大学助教授(当時)が,三田五瀬のしてしまった「忖度」ゆえの過ちについて,歴史学的というよりはあるいは文学的な,極めて同情的な口吻を漏らしているところが,刑事弁護も時に行う筆者には印象深いところです。

 

  五瀬としても,詐偽を働いてはいけないということぐらいはじゅうぶん知っていたであろう。ただ,正直に精錬できない旨を朝廷に復命したばあいに自分を待っている将来と,金を精錬した功によって雑戸という身分から抜けだせるかも知れないという誘惑とをくらべたとき,誘惑の強さには,ついに勝てなかったのであろうか。(青木30頁)

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002 東京都渋谷区渋谷三丁目516 渋谷三丁目スクエアビル2

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp





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歴史は厳粛なる判官(はんがん)なり。(しか)るにこの判官の前に立ちて今の日本国民は(すべ)て事実を(ママ)蔽し解釈を迂曲(うきょく)して虚偽を陳述しつゝあり。〔略〕(いわ)く,日本民族の凡ては忠臣義士にして乱臣賊子は例外なりと。〔略〕(しか)しながら吾人(ごじん)〔われわれ〕は断言す,――太陽が〔天動説に従って〕世界の東より西を()ぐる者に(あら)らざることの明らかなりしが(ごと)く,必ず一たび地動説の出()ゝ,例外は皇室の忠臣義士にして日本国民の(ほとん)ど凡ては皇室に対する乱臣賊子なりとの真実に顚倒(てんとう)されざるべからずと。(北輝次郎『国体論及び純正社会主義』(北輝次郎1906年)619頁)

 

 当時23歳の若き天才の言は,百十余年を経た今日更にその真理たるの輝きを増しつつあるものか。ふと気が付けば,今年(2017年)8月19日は,二・二六叛乱事件に連座した「乱臣賊子」・一輝北輝次郎54歳にしての銃殺による刑死から80年になります。

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北一輝先生之墓(東京都目黒区の瀧泉寺(目黒不動)墓地)
 

第1 一輝北輝次郎の刑死

 

1 銃殺

宮内庁の『昭和天皇実録 第七』(東京書籍・2016年)1937年8月19日(木曜日)の項にいわく。

 

 午前1140分,二・二六事件被告の村中孝次・磯部浅一・北輝次郎・西田税の死刑執行この日午前5時50に関する陸軍上聞を受けられる。

 

銃殺は,陸軍刑法(明治41年法律第46号)21条の定める死刑の執行方法です(「陸軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ陸軍法()ヲ管轄スル長官ノ定ムル場所ニ於テ銃殺ス」)。これに対して,通常の死刑の執行は,「死刑は,刑事施設内において,絞首して執行する。」ということになっています(刑法(明治40年法律第45号)11条1項)。法文上は絞首とされていますが,法医学的には縊首(首を吊った状態での死亡)ということになります(前田雅英『刑法総論講義 第4版』(東京大学出版会・2006年)519頁)。

通常の死刑の執行は司法大臣の命令によるもの(旧刑事訴訟法(大正11年法律第75号)538条)であったのに対して,陸軍軍法会議法(大正10年法律第85号)の適用される場合においては,死刑の執行は陸軍大臣の命令によるものとされていました(同法502条)。1937年8月の陸軍大臣は,第1次近衛内閣の杉山元でした。

 

2 反乱の首魁

 

(1)罰条及び罪名

北死刑囚の罰条及び罪名は,陸軍刑法25条1号の反乱の首魁ということだったそうです(なお,陸軍刑法第2編第1章(25条から34条まで)の章名には()乱とありますが,25条では()乱となっています。)。陸軍刑法25条は,次のとおり。

 

25条 党ヲ結ヒ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス

 一 首魁ハ死刑ニ処ス

 二 謀議ニ参与シ又ハ群衆ノ指揮ヲ為シタル者ハ死刑,無期若ハ5年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他諸般ノ職務ニ従事シタル者ハ3年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

 三 附和随行シタル者ハ5年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

 

 刑法77条の内乱罪がつい彷彿とされる規定振りです。

 

(2)内乱罪との関係

内乱罪と軍刑法の反乱罪との関係については,海軍刑法(明治41年法律第48号)20条の反乱罪(陸軍刑法25条と同一文言)との関連で,五・一五事件に係る昭和10年(1935年)1024日の大審院判決が「〔海軍〕刑法20条に依り構成すべき所謂(いわゆる)反乱罪とは海軍軍人党を結び兵器を執り官憲に反抗して多衆的暴動を為すを()ひ,内乱罪の如く朝憲を紊乱(ぶんらん)することを目的とするものに限らず,其の他の公憤又は私憤に出づる場合をも包含し,その目的には拘らざるを以て,軍人たる身分及び犯罪の目的に於て内乱罪とは其の構成を異にすることあるべき特別罪なりと解するを相当とす」と判示しています(日高巳雄『軍事法規』(日本評論社・1938年)635頁における引用)。内乱罪の目的は,当該判決においては朝憲紊乱(憲法の定める統治の基本秩序の壊乱)のみが挙げられていますが,政府の顚覆(国の統治機構の破壊)又は邦土の僭窃(国の領土における国権を排除しての権力の行使)も含まれます。

 

(3)共犯と身分

ところで,陸軍刑法は身分犯に係る法律でした。同法1条は「本法ハ陸軍軍人ニシテ罪ヲ犯シタル者ニ之ヲ適用ス」と規定しています。ただし,陸軍軍人ではない者が犯しても陸軍刑法が適用される同法の罪が同法2条に掲げられています。しかしながら,二・二六事件で問題となった陸軍刑法25条の罪は,同法2条に掲げられていません。陸軍軍人にあらざる北輝次郎に陸軍刑法25条が適用されるに当たっては,刑法8条(「この編〔刑法総則〕の規定は,他の法令の罪についても,適用する。ただし,その法令に特別の規定があるときは,この限りでない。」)により,同法65条1項(「犯人の身分によって構成すべき犯罪行為に加功したときは,身分のない者であっても,共犯とする。」)が発動されたものでしょう。前記昭和101024日大審院判決は,海軍刑法20条の反乱罪につき,「(しこう)して被告人大川周明,頭山秀三,本間憲一郎は(いず)れも軍人たる身分なきも資金又は拳銃弾を供与し〔海軍軍人である〕古賀清志,中村義雄等の上の反乱行為を幇助し之に加〔功〕したるものなれば刑法第65条第1項,第62条第1項〔「正犯を幇助した者は,従犯とする。」〕に依り右反乱罪の従犯として処断すべきもの」と判示しています(日高634頁における引用)。ちなみに,大川周明らは反乱幇助ということで,刑法65条1項の「共犯」は教唆・幇助に限るという説によっても説明可能でしたが,北輝次郎の場合は首魁ということであって首魁の教唆・幇助ではないのですから,同項の「共犯」には共同正犯が含まれるという判例・通説に拠るべきでしょう(前田総論473頁参照)。二・二六事件の判決においては,多数の者が首魁とされています。内乱罪においても,「首謀者は必ずしも1人とは限らない」とされています(前田雅英『刑法各論講義 第4版』(東京大学出版会・2007年)504頁)。

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大川周明の墓(瀧泉寺墓地)
北一輝先生之墓とは,墓1基を隔てて向かい側です。墓地は芝貼り作業中。後方は,林試の森公園です。

 

(4)騒乱罪との関係

ところで,刑法77条の内乱罪について「首謀者〔首魁〕は必ず存在しなければならない点が騒乱罪との相違点である」とされていますが(前田各論504頁),これは条文の書き振りからの解釈なのでしょうか。しかしながら,同様の書き振りである海軍刑法20条の反乱罪においては首魁の存在は必須ではなかったようで,五・一五事件の犯人で死刑になった者はいません(同条1号において,首魁の法定刑は死刑のみ。)。前記昭和101024日の大審院判決においても「就中(なかんずく)海軍軍人古賀清志,中村義雄両名は主として同志の糾合(きゅうごう)連絡実行計画の起案武器及資金の調達等の任に当り,其の他本件犯罪遂行に(つき)画策謀議を為したるものなれば,右両名の行為は本件犯行の謀議に参与したるものとして海軍刑法第20条第2号前段に該当する反乱罪を構成するものと謂ふべく,之を以て単に海陸軍人及軍人に非ざる者多衆聚合して暴行又は脅迫を為したる騒擾(そうじょう)〔現在は騒乱罪〕を構成するに止まるものと()すを得ず」と判示されており(日高633634頁における引用),反乱罪においてはむしろ謀議参与者こそが必須であると解されたように思われるところです。海軍の東京軍法会議(海軍軍法会議法(大正10年法律第91号)8条2号)における公判においては,検察官は古賀中尉に対して海軍刑法20条1号の首魁として死刑を求刑していましたが(山本政雄「旧陸海軍軍法会議法の意義と司法権の独立―五・一五及び二・二六事件裁判に見る同法の本質に関する一考察―」戦史研究年報(防衛省防衛研究所戦史部編)11号(2008年3月)71頁),1933年11月9日言渡しの判決では古賀は同条2号の謀議参与者ということに格落ち認定されています(山本72‐73頁)。

 

3 陸軍軍法会議の裁判権

陸軍刑法が陸軍軍人にあらざる者に適用される場合があることは分かりましたが,陸軍軍法会議の裁判権が北輝次郎ら陸軍軍人にあらざる者に及ぶ場合はいかなる場合でしょうか。

 

(1)陸軍軍法会議法

陸軍軍法会議法1条及び3条1項によれば,陸軍軍法会議の裁判権は,通常,陸軍の現役にある者,召集中の在郷軍人,召集によらず部隊にあって陸軍軍人の勤務に服する在郷軍人,現に服役上の義務履行中の在郷軍人,志願により国民軍隊に編入され服役中の者,陸軍所属の学生・生徒,陸軍軍属及び陸軍の勤務に服する海軍軍人(同法1条1項1号),陸軍用船の船員(同項2号),陸軍の部隊に属し又は従う者(同項3号)並びに俘虜(同項4号)に対してその犯罪について(身分発生前の犯罪を含み(同条2条1項),身分継続中に捜査の報告又は逮捕,勾引若しくは勾留があったときは身分喪失後も裁判権は存続(同条2項)),並びに制服着用中の在郷軍人に対しその犯した陸軍刑法の罪について(陸軍軍法会議法3条1項。同法2条2項が準用される。)及ぶものとされていました。陸軍軍法会議法4条は合囲地境(戒厳令(明治15年太政官布告第36号)2条第2号)にある者に対する裁判権について規定し,同法5条は「軍法会議ハ戒厳令ニ定メタル特別裁判権ヲ行フ」と規定し,同法6条は「戦時事変ニ際シ軍ノ安寧ヲ保持スル為必要アルトキ」の裁判権の拡張について規定していましたが,二・二六事件の際は戒厳令に基づき戒厳が宣告されたわけではなく(1936年2月27日の昭和11年勅令第18号(大日本帝国憲法8条1項の法律に代わるべき緊急勅令。同年1月21日の衆議院解散により帝国議会は閉会中でした。)により「一定ノ地域ヲ限リ別ニ勅令ノ定ムル所ニ依リ戒厳令中必要ノ規定ヲ適用スルコトヲ得」るものとした上で,同じ2月27日の昭和11年勅令第18号によって東京市に戒厳令9条(臨戦地境内においては地方行政事務及び司法事務(司法行政事務であっていわゆる審判は包含せず(日高665頁)。)の軍事に関係ある事件は司令官の管掌下に入る。)及び14条(司令官の強制権限を挙示)の規定が適用されることになっただけです。),二・二六事件は戦時事変でもないでしょうしその鎮圧後は軍の安寧を保持するための必要もなかったでしょう。

 

(2)昭和11年勅令第21

結論的には,1936年3月4日の昭和11年勅令第21号(東京陸軍軍法会議に関する勅令(件名)。これも大日本帝国憲法8条1項の法律に代わるべき緊急勅令)第5条(「東京陸軍軍法会議ハ陸軍軍法会議法第1条乃至第3条ニ記載スル者以外ノ者ガ同法第1条乃至第3条ニ記載スル者ト共ニ昭和十一年二月二十六日事件ニ於テ犯シタル罪ニ付裁判権ヲ行フコトヲ得」)によって北輝次郎らに陸軍軍法会議の裁判権が及ぶことになったものです。

上記昭和11年勅令第21号の味噌は,第5条と共にその第6条(「東京陸軍軍法会議ハ陸軍軍法会議法ノ適用ニ付テハ之ヲ特設軍法会議ト看做ス」)であって(戦時事変に際し必要により特設され,又は合囲地境に特設される特設軍法会議(陸軍軍法会議法9条2項から4項まで)があれば,それに対応するものとして常設軍法会議があるわけですが,常設軍法会議は,高等軍法会議及び師団軍法会議でした(同条1項)。),特設軍法会議である結果,裁判官を5人から3人に減員すること(ただし,上席判士及び法務官たる裁判官は減員の対象外。)が可能になり(同法47条3項),予審官及び検察官の職務を陸軍法務官ではなく陸軍将校が行うことが可能になり(同法63条,70条),裁判官,予審官及び録事の除斥及び回避の規定の適用がなく(同法86条)(この結果,同法81条7号の規定にかかわらず,北輝次郎・西田税の予審官を務めた伊藤章信法務官が当該被告人らの裁判官ともなっています(山本78頁)。),被告人の弁護人選任権は認められず(同法93条,また同法370条),審判の公開に関する規定の適用がなく(同法417条),師団軍法会議ではないので高等軍法会議に対する上告ができない(同法418条)というようなことになったわけです。

昭和11年勅令第21号の案は,二・二六事件鎮定(1936年2月29日)早々の1936年3月1日に閣議決定がされ,同日昭和天皇に書類上奏がされています。

 

本日閣議決定の東京陸軍軍法会議に関する緊急勅令を枢密院に御諮詢の件につき,書類上奏を受けられる。後刻,侍従武官長本庄繁をお召しになり,同勅令につき言上を受けられる。(昭和天皇実録七48頁)

 

更に同月2日には,二・二六事件参加者の詳細について,戒厳司令官から昭和天皇に言上がされています。

 

午後2時15分,御学問所において戒厳司令官香椎浩平に謁を賜い,叛乱軍参加将兵及び叛乱に関与の民間人の詳細につき言上を受けられ,叛乱事件の根底は極めて広汎・深刻にて迅速かつ徹底的検挙を要する旨の奏上を受けられる。(昭和天皇実録七50頁)

 その午後に昭和11年勅令第21号が裁可公布された同月4日,昭和天皇に次の発言があったとされます。


本庄〔繁〕武官長によれば,「此日,午後2時御召アリ,已ニ,軍法会議ノ構成モ定マリタルコトナルガ,〔1935年8月12日に永田鉄山陸軍軍務局長を斬殺した〕相沢〔三郎〕中佐ニ対スル裁判ノ如ク,優柔ノ態度ハ,却テ累ヲ多クス,此度ノ軍法会議ノ裁判長,及ビ判士ニハ,正シク強キ将校ヲ任ズルヲ要ス,ト仰セラレタリ」とある。(大江志乃夫『戒厳令』(岩波新書・1978年)194頁)


 ただし,『昭和天皇実録 第七』においては,上記御召に係る言及がありません(
5152頁)。


(3)通常裁判所の裁判権との関係

軍法会議と裁判所構成法(明治23年法律第6号)に基づく通常裁判所との関係については,「軍法会議に属する事件に付き通常裁判所は裁判権を有せぬ。此の種の事件に付ては被告人に対し裁判権を有せざるものとして,公訴棄却を言渡さねばならぬ(〔旧〕刑訴第315条第1号,第364条第1号)」と説明されています(小野清一郎『刑事訴訟法講義』(有斐閣・1933年)8081頁)。管轄(ちがい)(旧刑事訴訟法309条・355条)ではなく「被告人ニ対シテ裁判権ヲ有セサルトキ」として公訴棄却の決定(旧刑事訴訟法315条1号(予審判事によるもの))又は判決(同法364条1号(公判の裁判))をすべきものとすることについては,大審院の判例もあるそうです(小野81頁)。裁判所構成法2条1項は「通常裁判所〔区裁判所,地方裁判所,控訴院及び大審院(同法1条)〕ニ於テハ民事刑事ヲ裁判スルモノトス但シ法律ヲ以テ特別裁判所ノ管轄ニ属セシメタルモノハ此ノ限ニ在ラス」と規定していますが,ここでは,裁判権が問題になっているわけです。現行刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)に関して,裁判権については,「刑事裁判権は,わが国にいるすべての者に及ぶ。日本人であると,外国人であるとを問わない。」とされつつ,当該裁判権から「国法上,天皇および摂政は,除外されるものと解される(皇典21条)」とされ,「国際慣習法上,外国の君主,使節およびその随員は,いわゆる治外法権を持っており,これらの者には,わが国の裁判権は及ばない。」とされています(平野龍一『刑事訴訟法』(有斐閣・1958年)55頁)。大日本帝国時代においては,通常裁判所から見ると,陸軍軍人等及び海軍軍人等はあたかも治外法権を持っているような具合になっていたわけです。

ところで,東京陸軍軍法会議に関する昭和11年勅令第21号の第5条が存在せず,北輝次郎が通常裁判所において,旧刑事訴訟法の手続によって裁かれ,刑法65条1項を介して陸軍刑法25条1号の反乱の首魁(の共同正犯)とされて死刑判決が下され,確定した場合,その執行方法は,銃殺ではなく,やはり司法大臣の命令により絞首ということになったのでしょう。陸軍刑法21条は,飽くまでも「陸軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ」と規定していたところです。

 

第2 一輝北輝次郎の乱臣賊子論

 

1 『国体論及び純正社会主義』

本ブログ筆者の悪癖でつい回り道をしました。二・二六事件発生からちょうど30年前,1906年に一輝北輝次郎が自費出版したのが『国体論及び純正社会主義』です(発行日付は同年5月9日)。ただし,同書の書名は「内容に即していないばかりでなく,読まずに偏見だけで判断する世人をミスリードする」ものであって,「内容に即した命名をするとすれば,『社会民主主義の進化論的基礎づけ――併せて講壇社会主義と国体論の徹底的批判』というようなものとなろう」とされています(長尾龍一「『国体論及び純正社会主義』ノート」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)88頁)。『国体論及び純正社会主義』は,現在,国立国会図書館デジタルコレクションで自由に見ることができます。第4編(第9章から第14章まで)が「所謂国体論の復古的革命主義」と題され,国体論の批判がされている部分です。以下本稿は,この第4編(及び第5編「社会主義の啓蒙運動」)を読んでの抜き書きということになります。

批判の対象たる国体論は,北の説くところでは次のとおり。

 

吾人は始めに本編の断案として世の所謂『国体論』とは決して今日の国体に非らず,又過去の日本民族の歴史にても非らず,明らかに今日の国体を破壊する『復古的革命主義』なりと命名し置く。(北484頁)

 

 また,北のいう社会民主主義とは,次のとおり。

 

  『社会民主々義』とは個人主義の覚醒を受けて国家の凡ての分子に政権を普及せしむることを理想とする者にして個人主義の誤れる革命論の如く国民に主権存すと独断する者に非らず。主権は社会主義の名が示す如く国家に存することを主張する者にして,国家の主権を維持し国家の目的を充たし国家に帰属すべき利益を全からしめんが為めに,国家の凡ての分子が政権を有し最高機関の要素たる所の民主的政体を維持し若しくは獲得せんとする者なり。(北566頁)

 

「当時の第一級の学者と見えていた人々を,客観的に見ても相当程度,主観的には恐らく完膚なきまでに論駁し,人類史の発展方向を予言した青年北は,非常な抱負を抱いて本書を自費出版したものと思われる。西園寺内閣〔内務大臣は原敬〕の開明性,(天皇制の正当化,革命方法の議会主義など)主張の一定の穏健さからしても,本書は発禁にならず,学界・思想界に革命的衝撃を与えると期待していたに相違ない。それが直ちに発禁処分にされたことは,非常な衝撃で,北は生涯それから立ち直れなかった。」ということですが(長尾107108頁),『国体論及び純正社会主義』の国立国会図書館デジタルコレクション本は,帝国図書館の蔵書印が押捺された「北輝次郎寄贈本」であって,1906年5月9日に寄贈された旨の押印があります。出版法(明治26年法律第15号)19条は「安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムル文書図画ヲ出版シタルトキハ内務大臣ニ於テ其ノ発売頒布ヲ禁シ其ノ刻版及印本ヲ差押フルコトヲ得」と規定していますが,焚書までは行われなかったものです。

しかし,青年北の文体は,なかなか口汚い。「穂積博士は最も価値なき頭脳にして歯牙にだも掛くるの要なき者なりしに係らず,法科大学長帝国大学教授の重大なる地位にあるが為めに吾人の筆端に最も多く虐待されたる者なり。」(北834835頁),「更に〔穂積〕氏にして拙者と天子様とは血を分けたる兄弟分なりと云は査公必ず手帳を出して一応の尋問あるべく,子が産れた親類の天子様に知らせよと云は産褥の令夫人は驚きて逆上すべく,大道に立ちて穂積家は皇室の分家なりと云は腕白の小学生徒等は必ず馬鹿よ々々よと喚めきて尾行し来るべし。」(北596頁),「若し〔穂積博士の〕銅像が建てらるゝならば必ず両頭を要し,而して各々の頭に黄色の脱糞を要す。」(北771頁)等々とまで書かれ嘲弄された穂積八束が訴えたのならば,北方ジャーナル事件に係る最高裁判所大法廷昭和61年6月11日判決(民集40巻4号872頁)よりもはるか前に,人格権に基づく出版差止めの判例が出たかもしれません。

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隅田川越しに東京都墨田区方面を望む(駒形橋の東京都台東区浅草側から)


 なお,腕白小僧らは,路上で風変わりなおじさんにつきまとって馬鹿よ馬鹿よとはやし立てるに当たっては,よくよく注意すべきでしょう。

 

And he went up from thence unto Beth-el: and as he was going up by the way, there came forth little children out of the city, and mocked him, and said unto him, Go up, thou bald head; go up, thou bald head.

And he turned back, and looked on them, and cursed them in the name of the LORD. And there came forth two she bears out of the wood, and tare forty and two children of them. (II Kings 2.23-24)
 

(ただし,穂積八束の写真を見るに,エリシャのごとく禿頭ではなかったようです。) 

 

2 日本国民=乱臣賊子論

さて,青年北は,日本国民の正体は,当時のいわゆる国体論者の説くがごとく,()く忠孝に万世一系の皇位を扶翼して万邦無比の国体を成せるものでは全くないと主張します。

 

茲に於て所謂国体論者は云ふべし,〔略〕日本国民は克く忠孝に万世一系の皇位を扶翼して万国無比の国体を成せるなりと。是れ忠孝主義と系統主義とが東洋の土人部落に取られたるが為めに前提と結論とを顚倒せられたる者なり。――日本民族は系統主義を以て家系を尊崇せしが故に皇室を迫害し忠孝主義を以て忠孝を最高善とせしが故に皇室を打撃したるなり。(北617618頁)

 

 189010月の明治天皇の教育勅語に「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世()ノ美ヲ()セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ」及び「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(かく)ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ(なんじ)祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」とあります。ただし,北によれば,これは天皇の側からする社交辞令のごときものであって,「教育勅語中の其文字の如きは単に天皇の国民を称揚したる者として見れ〔ば〕可なり。幾多の戦争に於て勝利を得る毎に,天皇より受くる称讃に対して皆型の如く,是れ皆大元帥陛下の御稜威に依るとして辞退しつゝあるに非ずや。」ということになります(北622頁)。

 なお,「系統主義」及び「忠孝主義」については,まず次のように説明されています。

 

一家と云ひ一致と云ふが如き誠に迷信者の捏造(ねつぞう)に過ぎずと雖も,君臣一家論の拠て生ずる根本思想たる『系統主義』と,忠孝一致論の基く『忠孝主義』とは決して軽々に看過すべからざることなり。

固より特殊に日本民族のみに限らず如何なる民族と雖も社会意識の覚醒が全民族全人類に拡張せられざる間は,系統を辿りて意識が漸時的に拡張するの外なきを以て血縁関係に社会意識が限定せられて系統主義となり,従て其進化の過程に於て生ずる家長国に於ては当然に忠孝主義を産むべきものにして,天下凡て系統主義と忠孝主義とを経過せざる国民は無し。(北616617頁)

 

 北は,我が国民による皇室に対する迫害打撃の歴史をこれでもかとばかりに書き連ねるのですが,以下はそのほんの一部です。

 

吾人は学理攻究の自由によりて,皇室の常に優温閑雅なりしにも係らず,国民の祖先は常に皇室を迫害打撃し,万世一系の傷けられざりしは皇室自家の力を以て護りしなりと断定するに於て何の憚りあらんや。(北621頁)

 

例外の乱臣賊子は彼等〔いわゆる国体論者〕の考ふる如く〔北条〕義時一人に止まるべき者に非らずして,義時の共犯或は従犯として〔承久三年(1221年)の変の後〕3帝〔後鳥羽上皇,土御門上皇及び順徳上皇〕を鳥も通はぬ遠島〔ただし,土御門上皇の配流先は土佐〕に放逐せし他の十九万の下手人,尚後より進撃せんと待ちつゝありし二十万の共謀者を忠臣義士の中に数ふることは国体論をして神聖ならしむる所以(ゆえん)に非らず。〔現在の立場から歴史を逆進的に見る〕逆進的批判者が3帝を遷し奉れりと云ふに対して吾人は放逐の文字を用ゆ。何となれば(かか)る潤飾を極めたる文字は戦々競々の尊崇を以てする行動を表白すべく,後鳥羽天皇が隠岐に39年間〔ママ。現実には承久三年から18年後の延応元年(1239年)に崩御〕巌崛に小屋を差し掛けて住ひ,順徳帝が佐渡に於て今日尚順徳坊様と呼ばれつゝあるが如く物を乞ひて過ごせし如き極度迄の迫害窮(ママ)を表はすべき言葉に非らず。〔略〕居住の自由を奪ひて都会の栄華より無人島に流竄(りゅうざん)したることは明白なる放逐非らずや。神官が恭敬恐縮を以て旧殿より大神宮を捕へて新殿に放逐したりと云ふものあらば発狂視せらるべきが如く,義時が兵力を以て3帝を隠岐佐渡に移し奉れりと云ふが如き文字の使用は逆進的叙述も沙汰の限りと云ふべし。(北649650頁)

 

 乱臣賊子による仲恭天皇(九条廃帝)廃位の事実も,「日本国民は克く忠孝に万世一系の皇位を扶翼して万国無比の国体を成せるなり」なのだとの前提に基づく「逆進的叙述」によれば,特例による御「譲位」ないしは生前御「退位」ということになるのでしょう。

 

  明かに降服の態度を示して東軍を迎へたるに係らず全国民の一人として死より苦痛なる3帝の流竄を護らんとせし者なきは,外国干渉の口実を去らんが為めの余儀なき必要ながら而も僅かに1票の差を以て〔ルイ16世の〕死刑を決せし〔1793年の〕仏蘭西国民よりも遥かに残忍なる報復に非ざりしか。(吾人は今尚故郷なる〔佐渡の〕順徳帝の(ママ)〔陵〕に到る毎に詩人の断腸を思ふて涙流る。(北749頁)

 

 なお,承久の変に関しては,今年(2017年)2月のブログ記事である「北条泰時の宇治川渡河の結果について:廃位及び空位」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1064426577.htmlも御参照ください。

 

14世紀半ばの〕高師直のごときは『都に王と云ふ人のまし〔まし〕て若干の所領を塞げ,内裏,院,御所と云ふ所ありて馬より降るむつかしさよ。若し王なくして叶ふまじき道理あらば木にて造るか金にて鋳るかして,生きたる院国王をば何方へも流し捨て奉らばや』と放言したり。〔略〕今日,幾多の政党者流が穂積〔八束〕忠臣等の憂慮するが如く事実上の共和政体――若しくは共和政体を慣習によりて実現する不文憲法たるべき政党内閣,責任内閣を主張し,政党内閣責任内閣に於ては亦実に穂積忠臣等の憂慮するが如く天皇の意義に大なる変動を及ぼすべきを知りつゝも,尚且つ民主々義を解せざるかの如き面貌を装ふ国民の狡猾とは反対なる露骨なりと雖も〔,〕而も全国民が彼〔高師直〕を〔1898年8月に〕共和演説を為せる〔尾崎行雄文部〕大臣を打撃したる如く排斥せずして,〔足利〕尊氏に次ぐ権力者として奉戴せるは〔略〕祖先たるに恥(ママ)ざる乱臣賊子の国民と云ふべし。(北652653頁)

 

 上記高師直の放言に関しては,こちらは昨年(2016年)10月のブログ記事である「「木を以て作るか,金を以て鋳るかして,生きたる院,国王をば,いづくへも皆流し捨てばや」発言とそれからの随想」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1062095479.htmlを御参照ください。

 「事実上の共和政体――若しくは共和政体を慣習によりて実現する不文憲法たるべき政党内閣,責任内閣を主張し」,「天皇の意義に大なる変動を及ぼすべきを知りつゝも,尚且つ民主々義を解せざるかの如き面貌を装ふ国民の狡猾」とありますが,この「国民の狡猾」は蒲魚(かまとと)流のものかあるいは無意識に行われていたものなのか。いずれにせよ,無意識の狡猾というのが,一番たちが悪そうです。輓近の様子にもかんがみるに,天皇に関するこの「国民の狡猾」は,無意識裡に,主観的「善意」の不離の反面として生ずるもののようです。(Pater, dimitte illis; non enim sciunt quid faciunt.)

 

あゝ今日四千五百万〔現在であれば一億二千万〕の国民は殆ど挙りて乱臣賊子及び其の共犯者の後裔なり。吾人は日本歴史の如何なる頁を開きて之が反証たるべき事実を発見し,億兆心を一にして克く忠に万世一系の皇室を奉戴せりと主張し得るや。

而しながら万世一系の一語に殴打されたる白痴は斯る事実の指示のみを以ては僅かに疑問を刺激さるゝに止まるべし。(北670頁)

 

乱臣賊子は義時と尊氏とのみにして其他の日本国民は皆克く忠に万世一系の皇統を扶翼せる皇室の忠臣義士なりきと云ふが如き痴呆は土人部落に非らずして何ぞ。歴史は二三人物の(ほしいまま)なる作成に非らず。彼らは単に民族の思想を表白する符号として歴史(ママ)の上に民族の行為を代表して其所為を印するに過ぎず。故に〔略〕民族の歴史としての日本史は実に皇室に対する乱臣賊子の物語を以て補綴せられたるものなり。記録せられたる代表者若しくは符号のみが乱臣賊子に非らず,其の下に潜在する『日本民族』が即ち皇室に対する乱臣賊子なりしなり。(北677678頁)

 

 「系統主義」及び「忠孝主義」が,何故皇室に対する乱臣賊子を生ずるのかについて,改めて説明がされます。

 まず「系統主義」。

 

系統崇拝は海洋の封鎖によりて進化の急速なる能はざりし日本の中世史に於ては特に甚しく,如何なる乱臣賊子も自家の系統の尊貴なることによりて国民の崇拝を集め以て乱臣賊子を働くを得たりしなり。(北695696頁)

 

而して系統主義は一面下層階級に対して系統崇拝たると共に,崇拝さるべき系統の貴族階級に取りては天皇と自家とが同一の天皇より分れたる同一系統の同一なる枝なりと云ふ理由によりて平等主義の殺伐なる実行に於て説明なりき。平氏の将門が『我は桓武の末なり』として自立せんとしたる如き,源氏の足利義満が『我れ清和の末なれば非理の道に非らず』〔と〕して簒奪せんとしたる如き実に系統を辿りて平等観の漸時に発展したる者に外ならざるなり。(北699頁)

 

 次に「忠孝主義」。

 

源平以後の貴族国時代に入りては同じき強力による土地の掠奪によりて経済上の独立を得たる貴族階級は天皇に対して政治的道徳的の自由独立を以て被治者たるべき政治的義務と奴隷的服従の道徳的義務を拒絶し,而して其等の乱臣賊子の下に在る家の子郎等武士或は()百姓(ーフ)は其等の貴族階級に対する経済的従属関係よりして貴族を主君として奉戴すべき政治的義務と其下に奴隷的に服従すべき道徳的義務とを有して従属したりしなり。従て其従属する所の貴族が其の政治的道徳的の自由独立を所謂乱臣賊子の形に於て主張する場合に於ては,貴族の下に生活する中世史の日本民族は,其経済的従属関係よりして忠の履行者となり,以て乱臣賊子の加担者となりて皇室を打撃迫害したりしなり。(北709710頁)

 

維新革命に至るまでの上古中世を通じての階級国家は実に此の眼前の君父と云ふこと〔水戸斉昭のいう『人々天祖の御恩を報ひんと悪しく心得違ひて眼前の君父を差し置きて直ちに天朝皇辺に忠を尽くさんと思は却て(ママ)〔僭〕乱の罪逃るまじく候ということ。〕を以て一貫したるなり。此の『眼前の君父』を外にして真の忠孝なし。(北717頁)

 

故に吾人は断言す,皇室を眼前の君父として忠臣義士たりし者は其れに経済的従属関係を有する公(ママ)〔卿〕のみにして,(即ち今日の公〔卿〕華族の祖先のみにして,日本民族の凡ては貴族階級の下に隷属して皇室の乱臣賊子なりしなりと。而して貴族の萌芽は歴史的生活時代の始めより存したるを以て,日本民族は其の歴史の殆ど凡てを挙げて皇室の乱臣賊子なりしなりと。(北719720頁)

 

3 「万世一系」の維持をもたらした事由

 「万世一系の傷けられざりしは皇室自家の力を以て護りしなり」と断定するについては,次のような理由が挙げられています。

 神道の国家起原論の力がなおあっただろうとされ,更に系統主義は皇室迫害につながる面もあったがやはり最も尊貴な系統としての皇室を侵犯から守る面を有していたとされます。

 

  神道の信仰よりしたる攘夷論が其の信仰の経典によりて尊王論と合体したる如く,斯る〔神道の〕国家起原論ある間国家の起原と共に存すと信仰せらるゝ皇室に対して平等主義の制限せられたるは想像せらるべし。加ふるに系統の尊卑によりて社会の階級組織なりし系統主義の古代中世なりしを以て,優婉閑雅なりし皇室が理由なき侵犯の外に在りしは誠に想像せらるべし。彼の藤原氏に於て,其族長の下に忠孝主義を奉ずる家族々党は其族長の命ならば内閣全員のストライキをも憚らざりしに係らず,尚その族長〔が〕其の団結的強力を〔率ゐ〕て皇位を奪ふに至らざりし者,実に皇族と云ふ大族が最も貴き系統の直孫なりとせられたればなり。(北737738頁)

 

ヨーロッパ中世のローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝との関係になぞらえて,武家政権時代の天皇は「神道の羅馬法王」,将軍は「鎌倉の神聖皇帝」とそれぞれ称されます。

 

 吾人は実に考ふ――中世史の天皇は其所有する土地と人民との上に家長君主たりしと共に全国の家長君主等の上に『神道の羅馬法王』として立ちたるなりと。(北740頁)

 

 当時の征夷大将軍とは其の所有する土地人民の上に全部の統治権を有すること恰も天皇及び他の群雄諸侯等が其れぞれの土地人民の上に家長君主として其れぞれ家長君主たりしがごとく,只異なる所は神道の羅馬法王としての天皇によりて冠を加へらるゝ『鎌倉の神聖皇帝』なりしなり。(北740741頁)

 

 この関係から,皇室から皇位が奪われ,又は皇位が廃されることがなかった理由が説明されます。両者の存在意義が異なったものだったからだということです。

 

 欧州の神聖皇帝が自ら立ちて基督教の羅馬法王の位を奪ひしことなく又其の必要なかりし如く,神道の羅馬法王が天下を取て最上の強者たることを目的とせる鎌倉の神聖皇帝によりて奪はれざりしは各々存在の意義を異にせるよりの必要なかりしを以てなり。(北745頁)

 

貴族階級(北の用語法では,武家も含まれます。)が乱臣賊子であったにもかかわらず「万世一系」が維持されたということから,天皇は「神道の羅馬法王」であったということが裏側からも論証されるとされます。乱臣賊子がボルシェヴィキのごとく天皇及び皇族の生命・身体に手をかけなかった理由は,「絶望」した天皇及び皇族が「優温閑雅なる詩人として政権争奪の外に隔たりて傍観者たりしが故」であったにすぎないとされます。

 

 〔吾人は〕中世の天皇が神道の羅馬法王としての万世一系なりしことを,貴族階級の乱臣賊子なりし事実によりて亦何者よりも強烈に主張す。

 あゝ国体論者よ,この意味に於ける万世一系は国民の克く忠なりしことを贅々する国体論者に対して無恥の面上に加へらるべき大鉄槌なり。即ち,天皇は深厚に徳を樹てゝ全人民全国土の上に統治者たらんことを要求したりき,実に如何なる迫害の中に於ても衣食の欠乏に陥れる窮迫の間に於ても寤寐に忘れざる要求なりき,然るに国民は強力に訴へて常に之を拒絶したりと云ふことなり。――何の国体論ぞ,斯る歴史の国民が克く忠に万世一系の皇室を奉戴せりと云は義時も尊氏も大忠臣大義士にして,楠公父子〔楠木正成・正行〕は何の面目ありや。或は云ふべし,而しながら万世一系に刃を加へざりしと。――亦何の国体論ぞ,是れ国民の凡てが悉く乱臣賊子に加担して天皇をして其の要求の実現を絶望せしめたればなり。斯ることが誠忠の奉戴ならば北条氏の両統迭立と徳川氏の不断の脅迫譲位は何よりも誠忠なる万世一系の奉戴にして幽閉の安全によりて系統は断絶する者ならんや。問題は万世一系の継続其事に非らずして如何にして万世一系が継続せしかの理由に在り。――斯る理由によりて継続されたる万〔世一〕系は誠に以て乱臣賊子が永続不断なりしことの表白に過ぎずして,誠忠を強(ママ)する国体論者は宮城の門前に拝謝して死罪を待て!何の奉戴ぞ。日本民族の性格はルヰ16世を斬殺せる仏蘭西人と同一なりと云はれつゝあるに非らずや,只皇室が日本最高の強者たりし間は二三のものを除きて多くルヰ14世の如くならず殆ど良心の無上命令として儒教の国家主権論を政治道徳として遵奉し,皇室の其れが他の強者の権利に圧伏せられたる時には優温閑雅なる詩人として政権争奪の外に隔たりて傍観者たりしが故なり。万世一系は皇室の高遠なる道徳の顕現にして誇栄たるべきものは日本国中皇室を外にして一人だもあらず,国民に取りては其の乱臣賊子たりし所以の表白なり。(北747749頁)

 

 なお,「天皇は深厚に徳を樹てゝ全人民全国土の上に統治者たらんことを要求したりき」とは,教育勅語冒頭の「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」に対応するものでしょう。

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 桜井駅址楠公父子像(大阪府三島郡島本町)
 

4 維新革命後の天皇

 青年北の冷静な観察によれば,維新革命時の勤皇運動における天皇に対する「忠」は,「眼前の君父」に対する忠からの民主主義的解放のための方便にすぎなかったということになります。

 

 〔維新革命においては〕天皇に対する忠其事は志士艱難の目的にあらず,貴族階級に対する忠を否認すること其事が目的なりき。貴族階級は(すで)に忠を否認して独立したり,一般階級は更に其れに対する忠を否認して自由ならざるべからず。(北807頁)

 

 彼等は嘗て貴族階級に対する忠を以て皇室を打撃迫害せる如く,皇室に対する忠の名に於て貴族階級をも顚覆せんと企てたり。貴族階級に対する古代中世の忠は誠のものなりき,今の忠は血を以て血を洗はんとせる民主々義の仮装なり。〔略〕曰く――幕府諸侯が土地人民の上に統治者たるは覇者の強のみと,而して是れに対抗して皇室は徳を以て立てる王者なりと仮定したり。国民は切り取り強盗に過ぎざる幕府諸侯に〔対〕して忠順の義務なしと,而して是れに対抗して皇室は高天か原より命を受けたる全日本の統治者なりと仮定したり。

 維新革命は国家間の接触によりて覚醒せる国家意識と〔大化革命後〕一千三百年の社会進化による平等観の普及とが,未だ国家国民主義(即ち社会民主々義)の議論を得ずして先づ爆発したる者なり。決して一千三百年前の太古に逆倒せる奇蹟にあらず。(北810頁)

 

 維新革命の国体論は天皇と握手して貴族階級を顚覆したる形に於て君主々義に似たりと雖も,天皇も国民も共に国家の分子として行動したる絶対的平等主義の点に於て堂々たる民主々義なりとす。(北812頁)

 

 維新革命を経た後の明治天皇は,日本史上の伝統的天皇というよりは,広義の国民の一員にして国家機関たる天皇ということになります。「民主々義の大首領として英雄の如く活動」したというのですから,日本版ジョージ・ワシントン()

 

 而して現天皇〔明治天皇〕は維新革命の民主々義の大首領として英雄の如く活動したりき。『国体論』は貴族階級打破の為めに天皇と握手したりと雖も,その天皇とは国家の所有者たる家長と云ふ意味の古代の内容にあらずして,国家の特権ある一分子,美濃部〔達吉〕博士の所謂広義の国民なり。即ち 天皇其者が国民と等しく民主々義の一国民として天智〔天皇〕の理想を実現して始めて理想国の国家機関となれるなり。――維新革命以後は『天皇』の内容を斯る意味に進化せしめたり。(北814頁)

 

 ただし,維新革命は民主主義の建設という課題を残したものであって,貴族主義の復活に抗して社会民主主義者は,大日本帝国憲法に基づく国体及び政体を承けて,理想の実現に向けて努力を続けなければなりません。

 

 維新革命は〔戊〕辰戦役に於て貴族主義に対する破壊を為したるのみにして,民主々義の建設は帝国憲法によりて一段落を劃せられたる23年間の継続運動なりとす。明らかに維新革命の本義を解せよ。『藩閥』と『政党』との名に於て貴族主義と民主々義は建設の上により多くの勢力を占めんことを争ひぬ。(北815頁)

 

 伊藤博文の帝国憲法は独乙的専制の飜訳に更に一段の専制を加へて,敗乱せる民主党の残兵の上に雲に轟くの凱歌を挙げたり。――あゝ民主党なる者顧みて感や如何に!〔衆議院〕解散の威嚇と黄白〔金銭〕の誘惑の下に徒らに政友会と云ひ進歩党と云ふのみ。(北817頁)

 

 社会民主々義は維新革命の歴史的連続を承けて理想の完き実現に努力しつゝある者なり。(北818頁)

 

 社会民主々義と云ふは彼の個人主義時代の革命の如く国家を個人の利益の為めに離合せしめんとするものにあらずして,個人の独立は『国家の最高の所有権』と云ふ経済的従属関係の下に条件附なり。而して社会国家と云ふ自覚は維新前後の社会単位の生存競争に非ずして社会主義の理想を道徳法律の上に表白したり。国民(広義の)凡てが政権者たるべきことを理想とし,国民の如何なる者と雖も国家の部分にして,国家の目的の為め以外に犠牲たるべからずとの信念は普及したり。即ち民主々義なり。――故に吾人は決して或る社会民主々義者の如く現今の国体と政体とを顚覆して社会民主々義の実現さるゝものと解せず,維新革命其の事より厳然たる社会民主々義たりしを見て無限の歓喜を有するものなり。(実例を挙ぐれば彼の勝海舟が自己を天皇若しくは将軍と云ふが如き忠順の義務の外に置きて国家単位の行動を曲げざりし如きこれなりとす)(北827828頁)

 

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隅田川畔の海舟勝麟太郎像(東京都墨田区)

 

 「万世一系」を歴史的真実であるかのように取り扱うことに対して批判的な北は,天皇の位置付けについて乾いた考え方をしていたように思われます。

 

 憲法第1条の『大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す』とある『万世一系』の文字は皇室典範の皇位継承法に譲りて棄却して考へて可なり〔略〕。何となれば,〔略〕現〔明治〕天皇以後の天皇が国家の最も重大なる機関に就くべき権利は現憲法によりて大日本帝国の明らかに維持する所なるを以てなり。〔略〕而して又『天皇』と云ふとも時代の進化によりて其の内容を進化せしめ,万世の長き間に於て未だ嘗て現天皇の如き意義の天皇なく,従て憲法の所謂『万世一系の天皇』とは現天皇を以て始めとし,現天皇より以後の直系或は傍系を以て皇位を万世に伝ふべしと云ふ将来の規定に属す。憲法の文字は歴史学の真理を決定するの権なし。従て『万世一系』の文字を歴史以来の天皇が傍系を交へざる直系にして,万世の天皇皆現天皇の如き国家の権威を表白せる者なりとの意義に解せば,重大なる誤謬なり。故に『万世一系』の文字に対しては多くの憲法学者が〔大日本帝国憲法3条(「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」)の〕『神聖』の文字に対して棄却を主張しつゝあるが如く棄却すべきか,或は吾人の如く憲法の精神によりて法文の文字に歴史的意義を附せず万世に皇位を伝ふべしとの将来の規定と解するかの二なり。而して後者とせば一系とは皇室典範によりて拡張されたる意義を有す。(北829830頁)

 

 大日本帝国憲法1条は将来に向かってのみの規定だといわれれば,明治天皇を初代とする新しい天皇制が大日本帝国憲法によって創始されたようにも受け取られ得ます。

 国家主権論者たる北にとって天皇は,飽くまでも国家の機関であって,その地位は国家の法たる憲法に基づくものでした。

 

 吾人は〔略〕,日本の現代は国家主権の国体にして天皇と国民とは階級国家時代の如く契約的対立にあらず,〔略〕従て日本現時の憲法は天皇と国民との権利義務を規定せず,広義の国民〔天皇を含む。〕が国家に対する関係の表白なりと云へり。(北830頁)

 

 天皇は国家の利益の為めに国家の維持する制度たるが故に天皇なり。如何なる外国人と雖も,末家と雖も一家と雖も,全く血縁的関係なき多数国民と雖も,この重大なる国家機関の存在を無視することは大日本帝国の許容せざる犯罪なり。(北839840頁)

 

「神道の羅馬法王」としての万世一系の維持も,伝統的系統崇拝による万世一系の維持も,鎖国を脱して文明開化した明治の御代においては時代遅れであるというのが北の認識であったようです。

 

 若し『国体論』の如く現今の天皇が国家機関たるが故に天皇にあらず,其の天皇なるは原始的宗教の信仰あるが故なりと云は,是れ今日の仏教徒と基督教徒と旧宗教の何者をも信ぜざる科学者と〔を〕して〔崇仏派であった〕蘇我の馬子たるべき権利を附与するものにして〔,〕内地雑居によりて帰化せる外国人の凡てをして〔崇峻天皇の暗殺者である〕〔(やまと)()(あや)氏の駒たるべき道徳上の放任に置くものなり。(北838頁)

 

 又或は,万世一系連綿たりと云ふ系統崇拝を以て天皇と国民との道徳関係を説かんとする者あるべし。固より〔略〕日本の下層的智識の部分に於ては日本天皇の意義を解せずして中世的眼光を以て仰ぎつゝある者の多かるべきは論なし。而しながら〔略〕未開国の良心を以て日本国民の現代に比することは国民に対する無礼たる外に皇室を以て斯る浮ける基礎に立てりとの推論に導きて皇室其者に対する一個の侮辱なり。否!系統崇拝を以て中世的良心が支配されしが為めに皇統より分派したる将軍諸侯の乱臣賊子となり,今日其の乱臣賊子を回護して尊王忠君なりと云ふ所の穂積〔八束〕博士の如きが君臣一家論を唱へて下賤なる穂積家を皇室の親類なり〔末〕家なりと云ふ精神病者が生ずるなり。(北840頁)

 

伝統による支え無く,実定憲法にのみ基づく国家の利益のための国家機関となると,北の見る天皇は,むしろ世襲の大統領とでもいうべきものでしょうか。

『天』は幾多貴族の手より〔天下を〕奪ひて現〔明治〕天皇の賢に与へたり,而して『天』は更に帝国憲法に於て後世子孫たとへ現天皇の如く賢ならずとも子に与ふべきことを国家の生存進化の目的の為めに命令しつゝあり。〔略〕機関の発生するは発生を要する社会の進化にして其の継続を要する進化は継続する機関を発生せしむ。日本の天皇は国家の生存進化の目的の為めに発生し継続しつゝある機関なり。(北975976頁)

 
 ちなみに,北は,湯武放伐論の孟子を高く評価しています。
 なお,天皇をめぐる理想と現実との齟齬の可能性についても論じられています。

 

 天皇が家長君主にして忠の目的が天皇の利己的慾望の満足に向つての努力なるならば,論理的進行の当然として例へば諸侯将軍等の如く天皇の個人性が其の社会性を圧伏して(即ち国家の機関として存する国家の意志を圧伏して)働くときに於ては,国民は圧伏されたる天皇の社会性を保護することなく,国家機関たる地位を逸出せる個人としての天皇と共に国家に向つて叛逆者とならざるべからず。斯る場合を仮想する時に於て,天皇は政治道徳以外に法律的責任なきは論なしと雖も,国家は其の森厳なる司法機関の口を通じて国民を責罰すべき法律を有す。是れ忠君愛国一致論の矛盾すべき時にあらずや。天皇なるが故に斯る矛盾なし,若し蛮神の土偶が天皇を駆逐して蛮神の個人的利益の為めに国家の臣民に忠を命ずるならば,国家の生存進化の為めに国家の全部を成せる天皇と国民とは必ず之を粉砕せざるべからず。〔略〕

 即ち,〔教育勅語にいう〕『爾臣民克く忠に』とある忠の文字の内容は上古及び近世の其れの内容とは全たく異なりて,国家の利益の為めに天皇の政治的特権を尊敬せよと云ふことなり。(北847848頁)

 

承詔必謹することがかえって「国家に向つて叛逆者」となることとなる場合があるのだ,という認識は,冷たい。(ただし,「天皇なるが故に斯る矛盾なし」であって,「みずか民主的革命首領明治天皇歴史以来事実日本今後天皇高貴愛国心喪失推論皇室典範規定摂政場合想像余地し。」ていす。(965966頁))

なお,ここにいう「蛮神の土偶」とは,固有の文脈においては教育勅語を盾に取った「国体論」のことでしょうが,「君側の奸」と言い換えてしまうと,「国家の生存進化の為めに国家の全部を成せる天皇と国民とは必ず之〔君側の奸〕を粉砕せざるべからず」という剣呑なことともなり得るわけだったようです。しかして当該君側の奸としては,あるいは「資本家地主等」ないしはそれらの走狗が想定されていたもの歟。

明治23年〔1890年〕の帝国憲法〔施行〕以後は国家が其の主権の発動によりて最高機関の組織を変更し天皇と帝国議会とによりて組織し,以て『統治者』とは国家の特権ある一分子と他の多くの分子との意(ママ)の合致せる一団となれり。従て〔略〕孟子の如く天皇をのみ社会民主々義者たらしめて足れりとする能はず,資本家地主等が上下の議院に拠りて天皇の社会民主々義国家経済的源泉主権体土地生産機関経営」(958頁)〕を実現せざらしむる法理的可能を予想せざるべからず。(北961962頁。下線は筆者によるもの)

 

DSCF0572
渋谷税務署脇の二・二六事件慰霊像(東京都渋谷区)

 

1936年7月〕12日 日曜日 この日早朝,二月二十六日の事件において死刑判決を受けた17名のうち香田清貞以下15名に対する刑の執行が行われる。天皇は昨日,侍従武官より香田以下の死刑執行予定に関して上聞を受けられ,この日,死刑が執行されたことを改めて侍従武官よりお聞きになる。刑の執行のため,この日思召しにより特に御運動も行われず,終日御奥においてお過ごしになる。(昭和天皇実録七138139頁)


1936年〕8月11

悪臣どもの上奏した事をそのままうけ入れ遊ばして,忠義の赤子を銃殺なされました所の 陛下は,不明であられると云うことはまぬかれません,此の如き不明を御重ね遊ばすと,神々の御いかりにふれますぞ,如何に陛下でも,神の道を御ふみちがえ遊ばすと,御皇運の(ママ)〔果〕てす(磯部獄中日記獄中手記中公文庫・2016年)95頁)


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二十二士之墓(東京都港区元麻布賢崇寺)

 

なお,1920223日,当時18歳の皇太子であった昭和天皇に対し「東宮御学問所幹事小笠原長生より,北輝次郎献上の「法華経」が伝献される。」ということがあったところです(宮内庁『昭和天皇実録 第二』(東京書籍・2015年)547頁)。その時,青年裕仁親王に,何らかの不吉な予感がきざしたものかどうか。


弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

              



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画像
 Imperial Palace, Tokyo

According to an article of The Economist (“Banyan/ The shrinking monarchy”, May 27, 2017), “the cabinet of Shinzo Abe, the prime minister, approved a bill last week
[May 19, 2017] to allow for the emperor’s abdication” and “the Diet is likely to pass an abdication law next month [June 2017]”.

Under the new law His Imperial Majesty Emperor Akihito is thought to abdicate in late 2018 with dignity (though He “is said to have been offended when conservative scholars last year [in 2016] said he should just stick to praying and carrying out Shinto rituals” in the pre-drafting hearings for the “abdication” law), unlike the hapless infantile Emperor Chûkyô, who was deposed ignominiously by rampant savage samurai subjects nearly eight hundred years ago. (On the other hand, though the recalcitrant barons had gone so far as to force King John to sign the Magna Carta in 1215, the English subjects were lenient enough to let him remain king. In the 13th century, at least, the Japanese may have been more republican than the English. Later, in 1688/89 even the Convention Parliament of England dared not depose King James II, but found instead the Throne already vacated.(...whereas the said late King James the Second haveing Abdicated the Government and the Throne thereby Vacant...))

Unlike in Japan, where “Mr. Abe, an arch-conservative himself on matters of the imperial family”, is now the Prime Minister, in this age of republicanism monarchies elsewhere may be being threatened by silent revolutions proceeding slowly with such innocent-looking legislations as shown below.  

 

Special Act to the Royal House Law for the King’s Retirement, etc.

 

Article 1

Considering that having performed sincerely as the Symbol of the State and of the unity of the people such official activities as visits to various parts of the country and consolation of those affected by disasters as well as the acts provided for in the Constitution in matters of state for the very long period of nearly thirty years since His Ascension to the Royal Throne on the first day of His Reign and attained more than eighty years of high age, His Majesty King is now deeply concerned that it should become difficult for Him to continue to perform such activities by Himself as King;

Considering on the other hand that the Good People of this country are adoring deeply His Majesty King, who has sincerely performed such activities mentioned above into such high age, understanding such feelings of His Majesty King as mentioned above, and sympathizing with such feelings;

And considering that the His Highness Crown Prince, the Royal Heir, has attained nearly sixty years of age and has been performing diligently such official activities as the acts provided for in the Constitution in matters of state as Delegate of His Majesty King for long time by now;

We [, the representatives of the Good People of this country in the National Convention assembled,] do now ordain and establish this Act [without the Sanction by His Majesty King Himself] to provide for the realization of His Majesty King’s retirement from the Throne and of the Enthronement of the Royal Heir, as an exception of the existing provisions of the Royal House Law, and for supplementary arrangements, including those concerning His Majesty King’s status after the retirement.

 

Article 2

When the first day of the enforcement of this Act has passed, the King shall be made [by this Act] to have retired from the Throne [with no particular Royal Will to have been expressed] and the Royal Heir shall be made to have ascended to the Throne immediately.

 

……………….

 

Supplementary Article 1

This Act shall come into force within three years from the day of its promulgation, with the date of enforcement to be determined by a Cabinet Order [, the enactment of which does not require any Sanction by His Majesty King]. (…)

When the Cabinet Order of the precedent paragraph is to be enacted, the Prime Minister must consult beforehand opinions of the Royal House Council [, of which His Majesty King is not a member].

 

……………….

 

Is the above-provided king’s retirement a case of abdication or deposition (dethronement)?

Though said to be concerned with his very old age and accompanying fragility, the king does not seem to have expressed explicitly his will to abdicate. His ministers and the representatives of the people, on their part, do not seem to consider the will of the king essential. Isn’t an abdication to be based on the clearly-expressed will of the monarch to do so? When the will of the people makes the royal throne vacant through the form of democratic legislation, with the very will of the monarch playing no formal role, shouldn't it be called a dethronement?

If it is a case of abdication, the above law can be called monarchist. (Being a human being himself, a monarch should be allowed to abdicate when circumstances require.) If deposition (dethronement), it is rashly and rudely republican.

A rudimentary non-native user of English, however, I cannot decide by myself by which term the above-shown royal retirement act should be titled: an “abdication” law or a “deposition” law.


Le Roi est déposé,

Vive le Roi!

Vive la République! 


 

Masatoshi Saitoh, attorney at law

Taishi-Wakaba Law Office

2nd floor, Shibuya 3-chome Square Building,

5-16, Shibuya 3-chome, Shibuya-ku, Tokyo. 150-0002

e-mail: saitoh@taishi-wakaba.jp


2頭の一角獣
  Duo unicornui bene dicunt novae publicae REI VAlde! (Meijijingu-gaien, Tokyo) 


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1 三種ノ神器と後鳥羽天皇及び後醍醐天皇

 安徳天皇を奉じ三種ノ神器を具しての平家都落ちを承けて前年急遽践祚した第82代後鳥羽天皇の即位の大礼を,後白河法皇が翌七月に行おうとしていることに関する元暦元年(寿永三年)(1184年)六月廿八日の九条兼実日記(『玉葉』)の批判的記述。

 

 ・・・何況(なんぞいわんや)不帯剣璽(けんじをおびざる)即位之例出来者(いできたらば),後代乱逆之(もとい),只可在(このことに)此事(あるべし)・・・

 

 壇ノ浦の合戦において安徳天皇が崩御し,平家は滅亡,三種ノ神器のうち鏡及び璽は回収されたものの剣は失われてしまったのは,その翌年のことでした。
 承久三年の乱逆は,元暦元年から37年後のことです。九条家は,兼実の孫の道家の代となっていました。 

 また,頼山陽『日本外史』巻之五新田氏前記楠氏にいわく。

 

 〔建武三年(1336年),後醍醐〕帝の(けつ)(かえ)るや,〔足利〕尊氏(すで)に新帝〔光厳天皇〕の弟を擁立す。これを北朝光明帝となす。帝に神器を伝へんことを請ふ。〔後醍醐〕帝(ゆる)さず。尊氏,〔後醍醐〕帝を花山院に(とら)へ,従行の者僧(ゆう)(かく)らを殺し,その余を(こう)(しゅう)す。・・・〔三条〕(かげ)(しげ)(ひそか)に計を進め,(のが)れて大和に(みゆき)せしむ。〔後醍醐〕帝,夜,婦人の()を服し,(かい)(しょう)より出づ。(たす)けて馬に(のぼ)せ,景繁,神器を(にな)つて従ふ。・・・ここにおいて,行宮(あんぐう)を吉野に(),四方に号令す。(頼成一=頼惟勤訳『日本外史(上)』(岩波文庫・1976年)313314頁)

 

 同じく巻之七足利氏正記足利氏上にいわく。

 

 〔後醍醐〕帝,〔新田〕義貞をして,太子を奉じ越前に赴かしめ,(しこう)して()を命じて闕に還る。〔足利〕直義,兵に将としてこれを迎へ,(すなわ)ち新主〔光明天皇〕のために剣璽を請ふ。〔後醍醐〕帝,偽器(ぎき)を伝ふ。(頼成一=頼惟勤訳『日本外史(中)』(岩波文庫・1977年)26頁)

 

 しかし,偽器まで使って(あざむ)き給うのは,さすがにどうしたものでしょうか。

 

2 天皇の退位等に関する皇室典範特例法案要綱

昨日(2017年5月10日),京都新聞のウェッブ・サイトに「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案要綱」というものが掲載されていました。当該要綱(以下「本件要綱」といいます。)の第二「天皇の退位及び皇嗣の即位」には「天皇は,この法律の施行の日限り,退位し,皇嗣が,直ちに即位するものとすること。」とあり,第六「附則」の一「施行期日」には「1 この法律は,公布の日から起算して3年を超えない範囲内において政令で定める日から施行するものとすること。」とあります。すなわち,全国民を代表する議員によって組織された我が国会が,3年間の期間限定ながら,内閣(政令の制定者)に対し,在位中の天皇を皇位から去らしめ(「天皇は,この法律の施行の日限り,退位し」というのは,法律施行日の夜24時に天皇は退位の意思表示をするものとし,かつ,当該意思表示は直ちに効力を生ずるものとするという意味ではなくて,シンデレラが変身したごとく同時刻をもって天皇は自動的に皇位を失って上皇となるという意味でしょう。),皇嗣をもって天皇とする権限を授権するような形になっています。

 

3 「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承と三種ノ神器

「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承の際三種ノ神器はどうなるのかが気になるところです。

手がかりとなる規定は,本件要綱の第六の七「贈与税の非課税等」にあります。いわく,

 

第二により皇位の継承があった場合において皇室経済法第7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物については,贈与税を課さないものとすること。

 

 皇室経済法(昭和22年法律第4号)7条は,次のとおり。

 

 第7条 皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。

 

(1)皇室経済法7条をめぐる解釈論:相続法の特則か「金森徳次郎の深謀」か

 本件要綱の第六の七には「皇室経済法第7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物」とあります。ところで,これは,皇位継承があったときに,皇室経済法7条によって直接,三種ノ神器その他の「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」の所有権は,特段の法律行為を要さずに前天皇から新天皇に移転するということでしょうか。見出しには「贈与税の非課税等」とありますが,ここでの「等」は,皇室経済法7条のこの効力を指し示すものなのでしょうか。

 皇室経済法7条については,筆者はかつて(2014年5月)「「日本国民の総意に基づく」ことなどについて」と題するブログ記事で触れたことがあります。ここに再掲すると,次のごとし。

 

皇室経済法7条は「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。」と規定しています。同条の趣旨について,19461216日,第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会において,金森徳次郎国務大臣は次のように説明しています。天皇にも「民」法の適用があることが前提とされています。

 

次ぎに第7条におきまして,日本国の象徴である天皇の地位に特に深い由緒ある物につきましては,一般相続財産に関する原則によらずして,これらのものが常に皇位とともに,皇嗣がこれを受けらるべきものなる旨を規定いたしております,このことはだいたいこの皇室経済法で考えておりまするのは,民法等に規定せられることを念頭にはおかないのでありまするけれども,しかし特に天皇の御地位に由緒深いものの一番顕著なものは,三種の神器などが,物的な面から申しましてここの所にはいるかとも存じますが,さようなものを一般の相続法等の規定によつて処理いたしますることは,甚はだ目的に副わない結果を生じまするので,かようなものは特別なるものとして相続法より除外して,皇位のある所にこれが帰属するということを定めたわけであります。

 

  天皇に民法の適用があるのならば相続税法の適用もあるわけで,19461217日,第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会におけるその点に関する小島徹三委員の質疑に対し,金森徳次郎国務大臣は次のように答弁しています。

 

・・・だいたい〔皇室経済法〕第7条で考えております中におきましては,はつきり念頭に置いておりますのは,三種の神器でありますけれども,三種の神器を物の方面から見た場合でありますけれども,そのほかにもここに入り得る問題があるのではないか,かように考えております,所がその中におきまして,極く日本の古典的な美術の代表的なものというようなものがあります時に,一々それが相続税の客体になりますと,さような財産を保全することもできないというふうな関係になりまして,制度の関係はよほど考えなければなりませんので,これもまことに卑怯なようでありますけれども,今後租税制度を考えます時に,はっきりそこをきめたい,かように考えております

 

  相続税法12条1項1号に,皇室経済法7条の皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,相続税の非課税財産として掲げられています。

  三種の神器は,国有財産ではありません。19461221日,第91回帝国議会貴族院皇室経済法案特別委員会における大谷正男委員の質疑に対する金森徳次郎国務大臣の答弁は,次のとおり。

 

此の皇位に非常に由緒のあると云ふもの・・・今の三種の神器でありましても,皇位と云ふ公の御地位に伴ふものでありますが故に,本当から云へば国の財産として移るべきものと考ふることが,少くとも相当の理由があると思つて居ります,処がさう云ふ風に致しますると,どうしても神器などは,信仰と云ふものと結び付いて居りまする為に,国の方にそれは物的関係に於ては移つてしまふ,それに籠つて居る精神の関係に於ては皇室の方に置くと云ふことが,如何にも不自然な考が起りまして,取扱上の上にも面白くない点があると云ふのでありまするが故に,宗教に関しまするものは国の方には移さない方が宜いであらう,と致しますると,皇室の私有財産の方に置くより外に仕様がない,こんな考へ方で三種の神器の方は考へて居ります・・・

 

  http://donttreadonme.blog.jp/archives/1003236277.html

 

 要するに筆者の理解では,皇室経済法7条は民法の相続法の特則であって,崩御によらない皇位継承の場合(相続が伴わない場合)には適用がないはずのものでした。生前退位の場合にも適用があるとすれば(確かに適用があるように読み得る文言とはなっています。),これは,皇位継承の原因は崩御のみには限られないのだという理解が,皇室典範(昭和22年法律第3号)及び皇室経済法の起草者には実はあったということになりそうです(両法の昭和天皇による裁可はいずれも同じ1947年1月15日にされています。)。「金森徳次郎の深謀」というべきか。

 しかし,皇室経済法7条が生前退位をも想定していたということになると,現行皇室典範4条の規定(「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」)は崩御以外の皇位継承原因を排除しているのだという公定解釈の存立基盤があやしくなります。そうなると,本件要綱の第一にある「皇室典範(昭和22年法律第3号)第4条の規定の特例として」との文言は,削るべきことになってしまうのではないでしょうか。

 

(2)贈与税課税の原因となる贈与と所得税の課税対象となる一時所得

 更に困ったことには,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承に伴い直ちに皇室経済法7条によって「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」の所有権が前天皇から新天皇に移転するのであれば,これは新旧天皇間の贈与契約に基づく財産の授受ではなく,そもそも贈与税の課税対象とはならないのではないでしょうか。

相続税法(昭和25年法律第73号)1条の4第1項は,贈与税の納税義務者を「贈与により財産を取得した個人」としていますが,ここでいう「贈与」とは民法549条の贈与契約のことでしょう(金子宏『租税法(第17版)』(弘文堂・2012年)543頁参照)。相続税法5条以下には贈与により取得したものとみなす場合が規定されていますが,それらは,保険契約に基づく保険金,返還金等(同法5条),定期金給付契約に基づく定期金,返還金等(同法6条),著しく低い価額の対価での財産譲渡(同法7条),債務の免除,引受け及び第三者のためにする債務の弁済(同法8条),信託受益権(同法第1章第3節),並びにその他対価を支払わないで,又は著しく低い価額の対価で利益を受けること(同法9条)であるところ,皇室経済法7条による「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」の所有権の移転がみなし贈与であるためには, 相続税法9条の規定するところに該当するか否かが問題になるようです。しかしながら,相続税法9条の適用がある事例として挙げられているのは,同族会社等における跛行増資,同族会社に対する資産の低額譲渡及び妻が夫から無償で土地を借り受けて事業の用に供している場合(金子546頁)といったものですから,どうでしょうか。同条の「当該利益を受けさせた者」という文言からは,当該利益を受けさせた者の効果意思に基づき利益を受ける場合に限られると解すべきではないでしょうか。

むしろ新天皇(若しくは宮内庁内廷会計主管又は麹町税務署長若しくは麻布税務署長)としては,一時所得(所得税法(昭和40年法律第33号)34条1項)があったものとして所得税が課されるのではないか,ということを心配すべきではないでしょうか。一時所得とは「利子所得,配当所得,不動産所得,事業所得,給与所得,退職所得,山林所得及び譲渡所得以外の所得のうち,営利を目的とする継続的行為から生じた所得以外の一時の所得で労務その他の役務又は資産の譲渡の対価としての性質を有しないもの」をいいます。(ちなみに,所得税法上の各種所得中最後に定義される雑所得は,「利子所得,配当所得,不動産所得,事業所得,給与所得,退職所得,山林所得,譲渡所得及び一時所得のいずれにも該当しない所得」です(同法35条1項)。)個人からの贈与により取得する所得には所得税は課税されませんが(所得税法9条1項16号),そうではない所得については,所得税の課税いかんを考えるべきです。(なお,民法958条の3第1項の特別縁故者に対する相続財産の分与については,1964年の相続税法改正後は遺贈による取得とみなされることとなって相続税が課されることになっていますが(相続税法4条),1962年の制度発足当初は,「相続財産法人からの贈与とされるところから」ということで所得税法による課税対象となっていたとのことです(久貴忠彦=犬伏由子『新版注釈民法(27)相続(2)(補訂版)』(有斐閣・2013年)958条の3解説・767頁。また,阿川清道「民法の一部を改正する法律について」曹時14巻4号66頁)。ただし,「贈与」とした上で「法人からの贈与」だからという理由付けで贈与税非課税(相続税法21条の3第1項1号)とせずとも,所得税の課される一時所得であることの説明は可能であったように思われます。1964年3月26日の参議院大蔵委員会において泉美之松政府委員(大蔵省主税局長)は「従来は一時所得といたしておりました」と答弁していますが(第46回国会参議院大蔵委員会会議録第20号10頁),そこでは「法人からの贈与」だからとの言及まではされていません。そして,神戸地方裁判所昭和58年11月14日判決・行集34巻11号1947頁は「財産分与は,従前は,相続財産法人に属していた財産を同法人から役務又は資産の譲渡の対価としてではなく取得するものであるから,所得税法に規定する一時所得に該当するものとして,所得税が課税されていた。」と判示していて,「贈与」の語を用いていません。)

しかし,今井敬座長以下「高い識見を有する人々の参集」を求めて開催された天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(2016年9月23日内閣総理大臣決裁)の最終報告(2017年4月21日)のⅣ2には「天皇の退位に伴い,三種の神器(鏡・剣・璽)や宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)などの皇位と共に伝わるべき由緒ある物(由緒物)は,新たな天皇に受け継がれることとなるが,これら由緒物の承継は,現行の相続税法によれば,贈与税の対象となる「贈与」とみなされる。」と明言されてしまっています。贈与税課税規定非適用説は,今井敬座長らの高い識見に盾突く不敬の解釈ということになってしまいます。

 

(3)本件要綱の第六の七の解釈論:贈与契約介在説

そうであれば,三種ノ神器等の受け継ぎが相続税法上の贈与税の課税原因たる「贈与」に該当することになるように,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承に際しての三種ノ神器等の承継の法律構成を,本件要綱の第六の七の枠内で考えなければなりません。

 

第二により皇位の継承があった場合において皇室経済法第7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物については,贈与税を課さないものとすること。

 

とあるのは,

 

第二により皇位の継承があった場合において皇室経済法第7条の規定の趣旨に基づく前天皇との贈与契約により皇位とともに皇嗣が受けた物については,贈与税を課さないものとすること。

 

との意味であるものと理解すべきでしょうか。(「贈与税の対象となる「贈与」と見なされる。」との文言からは贈与それ自体ではないはずなのですが,みなし贈与に係る相続税法9条該当説は難しいと思われることは前記のとおりです。)

皇室経済法7条により直接三種ノ神器等の所有権が移転するとしても,その原因たる「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承は実のところ現天皇の「譲位意思」に基づくものなのだから広く解して贈与に含まれるのだ,と頑張ろうにも,そもそも「83歳と御高齢になられ,今後これらの御活動〔国事行為その他公的な御活動〕を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じ」ていること(本件要綱の第一)のみから一義的に退位の意思,更に三種ノ神器の贈与の意思までを読み取ってしまうのは,いささか忖度に飛躍があるように思われるところです。

新旧天皇間の贈与については日本国憲法8条の規定(「皇室に財産を譲り渡し,又は皇室が,財産を譲り受け,若しくは賜与することは,国会の議決に基かなければならない。」)の適用いかんが一応問題となりますが,同条は皇室内での贈与には適用がないものと解することとすればよいのでしょう。

贈与税の非課税措置の発効は「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日の午前零時からです(本件要綱の第六の一)。課税問題を避けるためには,新旧天皇間の贈与契約の効力発生(書面によらない贈与の場合はその履行の終了(金子543頁))はそれ以後でなければならないということになります(国税通則法(昭和37年法律第66号)15条2項5号は贈与による財産の取得の時に贈与税の納税義務が成立すると規定)。しかし,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日当日の24時間中においてはなおも皇位継承は生じないところ(本件要綱の第二参照),その日のうちに三種ノ神器の所有権が次期天皇に移ってしまうのはフライングでまずい。そうであれば,あらかじめ天皇と皇嗣との間で,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日の翌日午前零時をもって三種ノ神器その他の皇位とともに伝わるべき由緒ある物の所有権が前天皇から新天皇に移転する旨の贈与契約を締結しておくべきことになるのでしょう(午前零時きっかりに意思表示を合致させて贈与契約を締結するのはなかなか面倒でしょう。)。

ちなみに,上の行うことには下これに倣う。相続税については,皇室経済法7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物の価額は相続税の課税価格に算入しないものとされていること(相続税法12条1項1号)にあたかも対応するように,人民らの墓所,霊廟及び祭具並びにこれらに準ずるものの価額も相続税の課税価格に算入しないこととされています(同項2号)。そうであれば,贈与税について,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承に際して皇嗣が贈与を受けた皇位とともに伝わるべき由緒ある物については贈与税を課さないものとするのであれば,人民向けにも同様の非課税措置(高齢による祭祀困難を理由とした祭祀主宰者からの墓所,霊廟及び祭具並びにこれらに準ずるものの贈与について非課税措置を講ずるといったようなもの)が考えられるべきなのかもしれません。

 

(4)三種ノ神器贈与の意思表示の時期

とここまで考えて,一つ難問が残っていることに気が付きました。

天皇から皇嗣に対する三種ノ神器の贈与は,正に皇室において新天皇に正統性を付与する行為(更に人によっては三種ノ神器の授受こそが「譲位」の本体であると思うかもしれません。)であって,三種ノ神器も国法的には天皇の私物にすぎないといえども,当該贈与の意思表示を華々しく天皇がすることは日本国憲法4条1項後段の厳しく禁ずるところとされている「国政に関する権能」の行使に該当してしまうのではないか,という問題です。皇位継承が既成事実となった後に,もはや天皇ではなくなった上皇からひそやかに贈与の意思表示があるということが憲法上望ましい,ということにもなるのではないでしょうか。(三種ノ神器の取扱いいかんによっては信教の自由に関する問題も生じ得るようなので,その点からも三種ノ神器を受けることが即位の要件であるという強い印象が生ずることを避けるべきだとする配慮もあり得るかもしれません。「天皇に対してはもろに政教分離の原則が及ぶ,と考えざるを得ない。なぜか。憲法第20条第3項は「国及びその機関は,宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定しているからである。実際のところ,神道儀式を日常的に公然とおこなう天皇が,神道以外のありとあらゆる宗教・宗派を信奉する国民たちの「統合の象徴」であるというのは,おかしな話である。天皇は「象徴」であるためには,宗教的に中立的であらねばならない。」と説く論者もあるところです(奥平康弘『「萬世一系」の研究(下)』(岩波現代文庫・2017年(単行本2005年))264頁)。)

しかしそうなると,新天皇は「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日の翌日午前零時に即位した時点においては三種ノ神器の所有権を有しておらず,当該即位は,九条兼実の慨嘆した不帯剣璽(けんじをおびざる)即位之例となるということもり得るようです。ただし,後醍醐前天皇が光明天皇にしたような三種ノ神器を受けさせないいやがらせは,現在では考えられぬことでしょう。(後醍醐前天皇としては,光明天皇の贈与税御負担のことを忖度したのだと主張し給うのかもしれませんが。)

なお,三種ノ神器は,国法上は不融通物ではありませんが(世伝御料と定められた物件は分割譲与できないものとする明治皇室典範45条も1947年5月2日限り廃止されています。),天皇といえども任意に売却等できぬことは(ただし,日本国憲法8条との関係では,相当の対価による売買等通常の私的経済行為を行う限りにおいてはその度ごとの国会の議決を要しません(皇室経済法2条)。なお,相当の対価性確保のためには,オークション等を利用するのがよろしいでしょうか。),皇室の家法が堅く定めているところでしょう。

面倒な話をしてしまいました。しかし,源義経のように三種ノ神器をうっかり長州の海の底に取り落としてしまうようなわけにはなかなかいきません。

ところで,長州といえば,尊皇,そして明治維新。現在,政府においては,明治元年(1868年)から150年の来年(2018年)に向け「明治150年」関連施策をすることとしているそうです。明治期の立憲政治の確立等に貢献した先人の業績等を次世代に(のこ)す取組もされるそうですが,ここでの「先人」に大日本帝国憲法の制定者である明治大帝は含まれるものか否か。
 大日本帝国憲法3条は,規定していわく。

 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

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仲恭天皇九条陵(京都市伏見区)(2017年11月撮影)
(後鳥羽天皇の孫である仲恭天皇は,武装関東人らが京都に乱入した承久三年(1221年)の乱逆の結果,在位の認められぬ廃帝扱いとされてしまいました。)
 
(ところで,その仲恭天皇陵の手前の敷地に,長州出身の昭和の内閣総理大臣2名が記念植樹をしています。)
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「明治維新百年記念植樹 佐藤榮作」(佐藤は,東京オリンピック後の1964年11月9日から沖縄の本土復帰後の1972年7月6日まで内閣総理大臣在職)
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「明治維新百年記念植樹 岸信介」(岸は,1957年2月25日から現行日米安全保障条約発効後の1960年7月19日まで内閣総理大臣在職)
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(1868年1月27日(慶応四年一月三日)から翌日にかけての鳥羽伏見の戦いにおける防長殉難者之墓が実は仲恭天皇陵の手前にあるところ,1867年11月9日(慶応三年十月十四日)の大政奉還上表提出(有名な徳川慶喜の二条城の場面はその前日)から100年たったことを記念して,1967年(昭和42年)11月に信介・榮作の兄弟は東福寺(京都市東山区)の退耕庵に共に宿して秋の京都を楽しみ,かつ,長州・防州(山口県)の尊皇の先達の霊を慰めた,ということなのでしょう。当時現職の内閣総理大臣であった榮作は,この月12日から20日まで訪米し(米国大統領はジョンソン),15日ワシントンD.C.で発表された日米共同声明においては,沖縄返還の時期を明示せず,小笠原は1年以内に返還ということになりました。帰国後11月21日の記者会見において佐藤内閣総理大臣は,国民の防衛努力を強調しています。)

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東福寺の紅葉
(東福寺を造営した人物は,仲恭天皇の叔父にして,かつ,摂政だった九条道家。しかし,ふと思えば,承久の変の際箱根迎撃論を抑えて先制的京都侵攻を主張し,鎌倉方の勝利並びに仲恭天皇の廃位及び後鳥羽・順徳・土御門3上皇の配流に貢献してしまった大江広元は,長州藩主毛利氏の御先祖でした。その藩主の御先祖のいわば被害者である仲恭天皇の陵の前で,長州人らが自らの尊皇を誇り,明治維新百年を祝うことになったとは・・・。) 


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1 現行皇室典範の性質問題

 現行皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号。昭和24年法律第134号1条により一部改正(第28条2項及び第30条6項中「宮内府」を「宮内庁」に改める。))に関して,日本国憲法2条は「皇位は,世襲のものであつて,国会の議決した皇室典範の定めるところにより,これを継承する。」と規定しています。英語文では,“The Imperial Throne shall be dynastic and succeeded to in accordance with the Imperial House Law passed by the Diet.”となっています。

 「皇位ノ継承ハ世襲ニシテ国会ノ制定スル皇室典範ニ依ルヘシ」と外務省によって訳され,1946年2月25日の閣議に仮訳として配布された同月13日のGHQ草案2条の当該日本語訳文言(佐藤達夫著=佐藤功補訂『日本国憲法成立史 第三巻』(有斐閣・1994年)18頁,33, 68 頁)と,日本国憲法2条の文言とはほぼ同じです。ただし,GHQ草案2条の原文は“Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.” であって(国立国会図書館ウェッブ・サイト電子展示会の「日本国憲法の誕生」における「資料と解説」の「3‐15 GHQ草案 1946年2月13日」参照),“such Imperial House Law as the Diet may enact.”の部分などが日本国憲法2条の英語文と異なります。

 今回は,日本国憲法2条にいう「国会の議決した皇室典範(the Imperial House Law passed by the Diet)」の法的性質をめぐる問題について,GHQ民政局における動きなどを見ながら,若干考えてみたいと思います。時間的には,帝国議会に提出された1946年6月20日の帝国憲法改正案作成の頃までの出来事が取り上げられます。

 

2 用語について

 議論に入る前に,用語法を整理しておきましょう。

 単に皇室典範という場合は,法形式の一たる皇室典範をいうことにします。大日本帝国憲法が発布された1889年2月11日の明治天皇の告文には「茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス」とあり,そこでは皇室典範は,憲法と並び立つ独立の法形式と解されていたわけです。

 今回の主題である日本国憲法2条にいう「皇室典範」は,そもそもその法的性質が論じられているわけですから,そこから括弧を外すわけにはいきません。

 「皇室典範」という題名の昭和22年法律第3号は,「現行皇室典範」ということにします。

1889年2月11日の「皇室典範」という題名の皇室典範(公布はされず。)は,以下「明治皇室典範」ということにします。

明治皇室典範並びに1907年2月11日公布(公式令(明治40年勅令第6号)4条1項)の「皇室典範増補」という題名の皇室典範及び19181128日公布の「皇室典範増補」という題名の皇室典範を総称して,以下「旧皇室典範」ということにします。

 

3 GHQ草案2条成立までの経緯

1946年2月13日のGHQ草案2条の成立までの経緯を見て行きましょう。

 

(1)大日本帝国憲法2条及びその英語訳文

まずは,1889年2月11日に発布された大日本帝国憲法2条の条文から。

 

第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス

 

大日本帝国憲法2条の英語訳(伊東巳代治によるもの)は,次のとおりです(Commentaries on the Constitution of the Empire of Japan(中央大学・1906年(第2版))。同書は『憲法義解』の英語訳本です。)。

 

ARTICLE II

The Imperial Throne shall be succeeded to by Imperial male descendants, according to the provisions of the Imperial House Law.

 

ここでのImperial House Lawは,それだけではImperial-House Law(皇室に関する国法たる法律)なのか Imperial House-Law(皇室の家法)なのか解釈が分かれそうですが,これについては後者である旨明らかにされています。

 

…This law [the Imperial House Law, lately determined by His Imperial Majesty] will be regarded as the family law of the Imperial House.

(新たに勅定する所の皇室典範に於て之を詳明にし,)以て皇室の家法〔family law〕とし・・・

 

なお,ここで,“the Imperial House Law”と単数形となっていることについては,1887年4月30日に成立したロエスレルの「日本帝国憲法草案」に関して,「第16条第2項〔„Die Kaiserlichen Hausgesetze bedürfen nicht der Zustimmung des Reichstags; jedoch können durch sie die Bestimmungen der Verfassung nicht abgeändert werden.“〕の「帝室家憲」はDie Kaiserlichesic Hausgesetzeと複数形で述べられている。それは単一の成文法ではなく,たとえば皇位継承にかんする帝室の家法,摂政設置にかんする家法等々,複数のものがありうることを意味するが,〔伊藤博文編『秘書類纂』中の〕邦訳文は単数形,複数形を区別せず,右のように〔「帝室家憲ハ国会ノ承諾ヲ受クルヲ要セス但此レニ依テ憲法ノ規定ヲ変更スルコトヲ得ス」と〕訳した。後に皇室典範が単一の成文法とされたことに,この邦訳もまた一の役割を果たしたと言える。」との小嶋和司教授の評(小嶋和司「ロエスレル「日本帝國憲法草案」について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)4頁,1213頁,58頁)が想起されます。単数複数を区別しない日本語訳から明治皇室典範は単一の成文法とされ,それが英語訳にも跳ね返って来た,ということになるようです。この点,日本国憲法2条の「皇室典範」に関して,当該「皇室典範」は単一の成文の法律であることまでを憲法は要求しているのだという解釈が広く存在していることは周知の事実です。しかし,前記GHQ草案2条のsuch Imperial House Lawは,「皇室典範」であって「皇位継承に関する」もの,という意味でしょうから,GHQは「皇室典範」は単一の成文法でなければならないとまでは要求していなかったと考えてよいようです。

大日本帝国憲法劈頭の第1条(「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」)の伊東巳代治による英語訳は,次のとおりです。

 

 ARTICLE I

 The Empire of Japan shall be reigned over and governed by a line of Emperors unbroken for ages eternal.

 

「統治ス」といってもreignの部分とgovernの部分とがあるわけです。『憲法義解』(筆者は1940年の宮沢俊義校註の岩波文庫版を使用しています。)における当該部分の説明は,「統治は大位に居り,大権を統べて国土及臣民を治むるなり。」となっています。伊東巳代治の英語訳では,By “reigned over and governed” it is meant that the Emperor on His Throne combines in Himself the sovereignty of the State and the government of the country and of His subjects.”と敷衍されています。天皇は皇位にあって国家の主権並びに国土及び臣民に係る政治ないしは国政(government)をその一身にcombineするもの,とされているので,天皇が政治ないしは国政を直接行うということではないようです。

以上の大日本帝国憲法及び『憲法義解』の英語訳文は,1946年2月に日本国憲法の草案作りに携わったプール少尉らGHQ民政局の真面目かつ熱心な知日派の米国人たち(「「知日派の米国人」考」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1000220558.html参照)は当然読んでいたところです(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川文庫・2014年(単行本1995年))128頁参照)。(なお,「日本国憲法4条1項及び元法制局長官松本烝治ニ関スル話」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065184807.htmlも御参照ください。)

 

(2)プール少尉らの天皇,条約及び授権委員会案

 

ア 案文

プール海軍少尉及びネルソン陸軍中尉を構成員とするGHQ民政局の天皇,条約及び授権委員会(Emperor, Treaties and Enabling Committee)が同局の運営委員会(ケーディス陸軍大佐,ハッシー海軍中佐及びラウエル陸軍中佐並びにエラマン女史)に1946年2月6日に提出したものと考えられる(“1st draft”と手書きの書き込みがあります。)皇位の継承に関する憲法条項案は,次のようになっていました(「日本国憲法の誕生」の「3‐14 GHQ原案」参照)。

 

     Article II. The Japanese Nation shall be reigned over by a line of Emperors, whose succession is dynastic. The Imperial Throne shall be the symbol of the State and of the Unity of the People, and the Emperor shall be the symbolic personification thereof, deriving his position from the sovereign will of the People, and from no other source.

Article III. The Imperial Throne shall be succeeded to in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.

 

第2条にdynastic云々が出て来るのは,同月2日ないしは3日に決定された「マッカーサー・ノート」の第1項の第2文に“His [Emperor’s] succession is dynastic.”とあったからと解されます(鈴木24頁,35頁)。米国人は横着ではなく,真面目なので,上司をしっかり立てます。

“The Japanese Nation shall be reigned over by a line of Emperors ”“The Imperial Throne shall be succeeded to”の表現など,伊東巳代治のCommentaries on the Constitution of the Empire of Japanの影響が歴然としています。

「日本(The Japanese Nation)ハ,dynasticニ皇位ヲ継承スル一系の天皇(a line of Emperors)之ニ君臨ス(reign over)。」ということのようですから,プール少尉らは,dynasticであるということは「万世一系」と親和的であるものと理解したということでしょうか。

 

明治の俳人・内藤(めい)(せつ)の「元日や一系の天子不二の山」は,絶世の名吟として知る人ぞ知る,であるらしい。〔中略〕この句は,三つの象徴を並べて日本人の感性の特色を浮び上がらせ,そしてそのことにおいて,みごとに成功している,と理解できる。(奥平康弘『「萬世一系」の研究(上)』(岩波現代文庫・2017年(単行本2005年))2頁)

 

代々日本に縁の深い一族の一員として関東大震災前の横浜に生まれた「知日派の米国人」たるリチャード・プール少尉(本職は外交官)の面目躍如というべきでしょうか。Dynasticのみにとどまることなく,日本人の琴線に触れる「一系ノ天皇(天子)」との表現を加えてくれました。(同少尉の人柄については,GHQ民政局における同僚であったベアテ・シロタ・ゴードン女史による「プールさんも,日本人の天皇に対する気持ちを知っていただけでなく,もともと保守的な人でした。ですから始めのころの草稿などは,明治時代の人も喜ぶくらい保守的でしたね」との証言があります(鈴木127頁)。)ただし,「万世」(unbroken for ages eternal)一系となるかどうか,将来のことには留保がされて,単なる「一系」となったわけです(この辺は,大日本帝国憲法の制定に向けて,「ロェスラーは,滅びるかも知れない天皇制に,未来永劫続くかの如き「万世一系」という表現を用いることに反対し,未来に言及しない「開闢以来一系」という用語を提案したが,これは問題にされなかった。」という挿話(長尾龍一「明治憲法と日本国憲法」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)10頁)を想起させるところがあります。)。

 

なお,「万世一系」ということの意味は,「〈天皇の統治は(あま)(てらす)大神(おおみかみ)をはじめとする皇祖皇宗の神勅に由来するものであって,その神勅は子々孫々が皇位に就き,日本国(葦原之(あしはらの)瑞穂(みずほ)(のくに)を王として治むべしと命じているとして,神々のお告げにもとづき,神々につながる子々孫々がこの国を支配することを正当化した。このばあい,神々の系統につながる子孫が一本の糸のようにずっと続いているということに,なによりものポイントが置かれた。(奥平56頁)というようなことでよろしいでしょう。

 

ただし,エラマン・ノートによると,1946年2月6日の会議において運営委員会はreignの語の使用に反対しており,そのゆえでしょうが“The Japanese Nation shall be reigned over by a line of Emperors, whose succession is dynastic.”の文は削られ,マッカーサー元帥由来の大事なdynasticの語はその後次の条に移ることになります。当該会議においてラウエル中佐は「日本語では“reign” “govern”の意味をも含意する。」と指摘していますから,「reign=統治」と翻訳されることを警戒したのでしょう。プール少尉らとしては,「マッカーサー・ノート」の第1項第1文の“Emperor is at the head of the state.”をそのまま生かして,“A line of Emperors, whose succession is dynastic, shall be at the head of the Japanese State.”とでもすればよかったものか。

 

イ 訳文及びその前提

 

(ア)訳文

天皇,条約及び授権委員会の第1案の前記両条項の拙訳は,次のとおり。

 

第2条 日本ハ,皇室ニアリテ皇位ヲ世襲スル(dynastic)一系ノ天皇之ニ君臨ス。皇位ハ国家及ビ人民統合ノ象徴デアリ,天皇ハ其ノ象徴的人格化(symbolic personification)デアル。天皇ノ地位ハ,人民ノ主権意思(sovereign will)ニ基ヅキ,他ノ源泉(source)ヲ有サズ。

第3条 皇位ノ継承ハ,国会ノ制定スルコトアル皇室典範ニ代ルベキ法律(Imperial House Law)ニ従フモノトス。

 

訳をつける以上は,当然その前提となる解釈があります。

 

()Dynastic”:王朝

まず,通常単に「世襲」と訳されるdynasticですが,「皇室ニアリテ皇位ヲ世襲スル」というぎこちない訳としました。Dynasticに係る小嶋和司教授の次の指摘に得心してのことです。確かに,単なる“hereditary”ではありません。

 

  〔前略〕いわゆる「マカーサー・ノート」は次の内容をもっている。

  「The Emperorは,国の元首の地位にある。His successiondynasticである。」

  皇位就任者を男性名詞・男性代名詞で指示するほか,その継承をdynasticであるべきものとしていることが注目される。それは,立憲君主制を王朝支配的にとらえ,現王朝(dynasty)を前提として,王朝に属する者が王朝にふさわしいルールで継承すべきことを要求するものだからである。これは,王朝形成原理の維持を要求するとは解せても,その変更を要求するとは解しえない。(小嶋和司「「女帝」論議」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』(木鐸社・1988年)64頁。下線は筆者によるもの)

 

  しかし,王朝(dynasty)交替の歴史をもたず,現王朝所属者の継承を当然とする日本の政府当局者は,右のdynasticを,たんに「世襲」と訳して,現行憲法第2条にいたらしめた。皇室典範も現王朝を無言の前提として,その第1章を「皇位継承」とし,「王朝」観念がその後の憲法論に登場することもなかった。(小嶋「女帝」65頁)

 

  〔前略〕比較法的および歴史的に十分な知識を思考座標として「世襲」制の要求をみるとき,それは単に世々襲位することではなく,継承資格者の範囲には外縁があるとしなければならない。単なる財産相続や芸能家元身分の「世襲」にも,資格要件の外縁は存するのである。ここに思いいたるとき,憲法第2条は「王朝」形成原理を無言の前提として内包しているとなすか,それとも「国会の議決した皇室典範」はそれをも否認しうるとなすかは憲法論上の問題とすべきものである。(小嶋「女帝」65頁。下線は筆者によるもの)

 

上記小嶋教授の議論は,男女不平等撤廃条約との関係における1983年当時の国会における議論に触発されて,「憲法思考の結論如何によっては,立法論として賢明ともおもえぬ女帝制しか許さぬものとなることを指摘して問題提起」されたものですので(小嶋「女帝」65頁),「女帝」とその(皇族ではない)皇配との間の子らに係る皇位継承権に関する「王朝形成原理」等が主に問題として取り上げられています。しかしながら,皇位を「王朝にふさわしいルールで継承すべきこと」をも日本国憲法2条の「世襲」の語は要求しているのではないか,という指摘は深い意味を有するものと考えられるところです。皇位継承のルールは当然継承原因をも含むものでありますが,当該継承原因は,「支配王朝」たるdynasty(小嶋「女帝」58頁参照)の家長にふさわしい尊厳あるものたるべきでしょう。「憲法が世襲的天皇制を規定するのは,伝統的なものの価値を尊重して」であるとすれば(小嶋「女帝」62頁参照),皇位継承原因についても伝統が尊重されるべきでしょう。国民の側の自意識(敬愛,理解・共感)による決定は,伝統の尊重というよりはむしろ,国民主権の日本国憲法によって天皇制に係る「正統性の切断」があったものとする論(小嶋「女帝」6163頁参照)に棹さすものでしょう。「日本国は,長い歴史と固有の文化を持ち,国民統合の象徴である天皇を戴く国家」でありますところ(自由民主党「日本国憲法改正草案」(2012年4月27日)前文),当該言明を素直に順序どおり読み下すと,皇位継承原因を含む天皇に関する制度はせっかくの「長い歴史と固有の文化」を尊重し,かつ,そこに根差したものであるということが憲法上の要請となるのではないでしょうか。

なお,辞書的には,英語のdynastyについては“series of rulers all belonging to the same family: the Tudor dynastyとあり(Oxford Advanced Learner’s Dictionary of Current English, 4th edition, 1989),フランス語のdynastieについては“succession des souverains d’une même famille. Le chef, le fondateur d’une dynastie. La dynastie mérovingienne, capétienne.”とあります(Le Nouveau Petit Robert, 1993)。家(皇室,family, famille)こそが鍵概念となるようです。

ここでの家は単なる自然的な存在ではなく,同時に法的な存在でしょう。それではそこでの法はどのようなものか。上杉慎吉の述べるところによれば,ヨーロッパの中世にあっては「一家の私事を定るの法」であったそうです(上杉慎吉『訂正増補帝国憲法述義 第九版』(有斐閣書房・1916年)259頁)。「一家の私事を定るの法」であるのならば,本来的には王室の自ら定める家法であったのでしょう。
 ちなみに,ドイツ人ロエスレルの前記「日本帝国憲法草案」
12項は,„Die Krone ist erblich in dem Kaiserlichen Hause nach den Bestimmungen der Kaiserlichen Haus-gesetze.“(「帝位ハ帝室家憲ノ規定ニ従ヒ帝室ニ於テ之ヲ世襲ス」)と規定していました(小嶋「ロエスレル」1011)。

ところで,家といえば民法旧規定ですが,民法旧規定には,隠居制度というものがありました。隠居においては,隠居する本人の意思表示が要素でした(民法旧757条は「隠居ハ隠居者及ヒ其家督相続人ヨリ之ヲ戸籍吏ニ届出ヅルニ因リテ其効力ヲ生ス」と規定)。民法旧754条2項には「法定隠居」の規定がありましたが,これは「戸主カ隠居ヲ為サスシテ婚姻ニ因リ他家ニ入ラント欲スル場合ニ於テ戸籍吏カ其届出ヲ受理シタルトキ」に生ずるものであって,やはり本人の何らかの意思表示(この場合は他家に入る婚姻をする意思表示)に基づくものでした。

ちなみに,隠居も天皇の譲位のように,浮屠氏の流弊より来由するところがあるようで,「もっとも,隠居は日本に固有の制度というわけでもなく,中国から継受され,かつ,仏教の影響を受けているとされる。「『功成り名を遂げて身を退く』を潔しとする支那流の考へ」と「老後には『後生願ひ』を専一とする仏教的宗教心」とが隠居の風習を生み出したという」と,穂積重遠の著書から引用しつつ大村敦志教授が紹介しています(大村敦志『民法読解 親族編』(有斐閣・2015年)362頁)。

民法旧規定においては廃位のごとき戸主の強制隠居というものはあったのか否かといえば,答えは否でした。1925年の臨時法制審議会決議「民法親族編中改正ノ要綱」の第10にあった「廃戸主」の制度(「一 戸主ニ戸主権ヲ行ハシムベカラザル事由アルトキハ家事審判所ハ戸主権ノ喪失ヲ宣告スルコトヲ得ルモノトスルコト但事情ニ依リ之ニ相当ノ財産ヲ与フルコトヲ得ルモノトスルコト」)は採用されずに終わりました。臣民においては,本人の意思表示に基づかぬ隠居というものはないものとされていたわけです。

 

(ウ)「君臨ス」

 天皇,条約及び授権委員会の第1案の第2条には,reigned overとのみあって,governedは含まれていません。したがって,大日本帝国憲法1条の英語訳との対比でも,「統治ス」とまではいえないところです。大日本帝国憲法1条では“Rex regnat et gubernat.”であったのを“Rex regnat, sed non gubernat.”に改めるわけですから,「国王は,君臨すれども統治せず。」ということで,「君臨ス」の語を用いました。ちなみに,『憲法義解』の大日本帝国憲法1条の説明では,「所謂『しらす』とは即ち統治の義に外ならず。」とされています。「統治」は,大日本帝国憲法制定作業当時の新語であったようです(島善高「井上毅のシラス論註解」『明治国家形成と井上毅』(木鐸社・1992年)291292頁参照)。(なお,“Le roi règne, mais il ne gouverne pas.”とは,ティエール(L.A. Thière, 1797-1877)によって初めて述べられたとされています(小嶋和司「「政治」と「統治」」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』395頁)。)

 

(エ)「天皇ノ地位ハ,人民ノ主権意思ニ基ヅキ」

 1946年2月13日のGHQ草案1条は“The Emperor shall be the symbol of the State and of the Unity of the People, deriving his position from the sovereign will of the People, and from no other source.”であって,その外務省訳は「皇帝ハ国家ノ象徴ニシテ又人民ノ統一ノ象徴タルヘシ彼ハ其ノ地位ヲ人民ノ主権意思ヨリ承ケ之ヲ他ノ如何ナル源泉ヨリモ承ケス」となっていました。

ところで,最終的には現行日本国憲法1条は「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く。」(The Emperor shall be the symbol of the State and of the unity of the people, deriving his position from the will of the people with whom resides sovereign power.)となっており,その結果,同条のみから発して直ちに, 国民の意思(ないしは総意)すなわちthe will of the peopleの発現たる国会制定法をもって天皇を廃立することも可能とするかのごとき解釈が一部で採られるに至っているようでもあります。しかしながら,GHQの考えでは天皇の地位を人民の主権意思(the sovereign will of the people)に基づかせていたところ,当該主権意思の発動は,憲法改正という法形式でされるものと想定されていたはずです。日本国憲法1条のみから発して直ちに, 日本の人民(より正確には国会議員の多数)が単なる法律をもって天皇を廃立することを可能にするに至るという解釈には,泉下のマッカーサーも瞠目することでしょう。「押し付け憲法」といわれますが,GHQはそこまで押し込んではいなかったつもりのはずです。

 

(オ)「国会ノ制定スルコトアル」:皇室自律主義と国会の立法権の範囲との関係

ところで,プール少尉らが Imperial House Lawを単なる法律,すなわちImperial-House Lawだと思っていた,ということはないでしょう。そう思っていたのなら,lawが日本国憲法下の国会によってenactされることは当り前のことですから,“as the Diet may enactという文言は出てこないはずです。やはりプール少尉らは大日本帝国憲法の伊東巳代治による英語訳を読んでおり,皇室典範と同じ語であるということを意識しつつ,“ Imperial House Law”の語を用いたと解すべきでしょう。奥平康弘教授は,「〔GHQの案に現れる“ Imperial House Law”を「皇室典範」と〕翻訳しなければならない理由はまったく無かったはずである。この文脈における“ Imperial House Law”なることばは,特定(﹅﹅)具体的(﹅﹅﹅)()なにものかをコノート(内容的に指示)しているのではなくて,「皇室法」あるいは「皇室に関する法律などを意味する一般名辞以外のなにものでもない。」,「文章作成者からみれば,どのみちここでは,当該法律の規律対象は,“ Imperial House”であるに決まっているのだから,ただ“law”とするよりも,特定内容をこめた形で“ Imperial House Law”とすることを良しとみただけのことだと思われる。」と熱弁をふるっておられますが(奥平57頁,98頁),どうでしょうか。

若きプール少尉は,日本国憲法案に内大臣及び宮内大臣という宮務大臣の規定まで書き込もうとして運営委員会の大人組から叱られていますが,内大臣及び宮内大臣は,皇室典範の世界における主要登場人物であったものです(1946年2月6日の当該会議については「「知日派の米国人」考」参照)。すなわち,皇室典範の改正及び皇室令の上諭にまず副署するのは宮内大臣であり(公式令4条2項,5条2項),宮内大臣を任ずるの官記に副署し,及び免ずるの辞令書を奉ずるのは内大臣であり(同令14条2項,15条2項),皇族会議に枢密院議長,司法大臣及び大審院長と共に参列するのは内大臣及び宮内大臣でした(明治皇室典範55条。なお,同条によれば,現行皇室典範の皇室会議とは異なり,内閣総理大臣及び議院の議長副議長は皇族会議に参列せず。)。また,宮内省官制及び内大臣府官制は,いずれも皇室令(公式令5条1項参照)とされています(それぞれ明治40年皇室令第3号及び明治40年皇室令第4号)。皇室典範と同じ語である“ Imperial House Law”の語をそれとして意識して使用したことこそが,内大臣及び宮内大臣の任命に係る規定の憲法における必要性にプール少尉が思い至った理由の一つだったとも考え得るのではないでしょうか。

そうであれば天皇,条約及び授権委員会の第1案の第3条における“ Imperial House Law”は単に「皇室典範」と訳されるべきものであったのであって,拙訳において「皇室典範ニ代ルベキ法律」とくどくど訳されているのはおかしい,と御批判を受けることになるかもしれません。しかしながら,「皇室典範」の語のみでは法形式としての皇室典範との紛れが生ずるようで,いかにも落ち着かなかったところです。

とはいえ,GHQの係官らは“ Imperial House Law”の語を皇室典範と同じ語だと知っていて使用していたはずであるとの推測に筆者がこだわるのは,“ Imperial House Law”が「皇室典範」とも「皇室法」とも訳し得ることから,あるいは無意識のうちに一種のjeu de mots(言葉のあそび)がここに仕掛けられていたのだろうと思うからです。その仕掛けを解いて,天皇,条約及び授権委員会の第1案の第3条を敷衍して訳すると次のとおりとなります。

 

第3条 皇位ノ継承ハ,皇室典範(Imperial House Law)ノ定ムル所ニ依ル(according to)。但シ,国会ガ皇室典範ニ代ルベキ法律(Imperial House Law)ヲ制定シタルトキハ,当該法律ニ従フモノトス(in accordance with)。

 

問題は,“such Imperial House Law as the Diet may enact”における助動詞mayにありました。Shallではなくmayでありますので,これでは国会(日本国憲法下の国会であって,天皇の立法権に対する協賛機関である帝国議会(Imperial Diet)とは考えられてはいなかったでしょう。)が,Imperial House Lawを制定するようでもあり,しないようでもあり,それではImperial House Lawを国会が制定しないうちに崩御があったならばその際拠るべき皇位継承の準則が無くて困るではないか,というのが筆者の当初覚えた困惑でした。(英語文では“as may be provided by law”(ここでもmay)となっている日本国憲法4条2項の「法律」たる国事行為の臨時代行に関する法律(昭和39年法律第83号)が制定されたのは,日本国憲法の施行から17年たってからのことでした。)

前記のとおり,1946年2月13日のGHQ草案2条(Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact. )が外務省によって「皇位ノ継承ハ世襲ニシテ国会ノ制定スル皇室典範ニ依ルヘシ」と訳されているように,一般の日本語訳ではこのmayは無視されています。無視して済むのならそれでよいのでしょうが,それでは,一般の空気を読むとの大事に名を借りた,怠惰ということにはならないでしょうか。

従来の上記のような日本語訳では,元のGHQ草案の英文が“Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with the Imperial House Law enacted by the Diet.となるようで,快刀乱麻を断ち過ぎた訳ではないかとはかつて筆者が悩んだところです。「皇位ノ継承ハ世襲テアリ且ツ国会ノ制定スルコトアル皇室法ニ従フモノトス」という訳を考えてみたところでした(「続・明治皇室典範10条に関して:高輪会議再見,英国の国王退位特別法,ベルギーの国王退位の実例,ドイツの学説等」参照)。とはいえ,こう訳しただけではなお,「皇室法」制定前に崩御があったときに係る問題は残ってしまうところでした。

当該困惑を筆者なりに解消できたのは,1946年2月22日の松本烝治憲法担当国務大臣とホイットニーGHQ民政局長らとの会談に係る次の議事録(エラマン女史作成)に接したことによります(「日本国憲法の誕生」の「3‐19 松本・ホイットニー会談 1946年2月22日」参照。日本語訳は拙訳)。

 

Matsumoto:  Is it essential that the Imperial House Law be enacted by the Diet? Under the present Japanese Constitution the Imperial House Law is made up by members of the Imperial Household. The Imperial Household has autonomy.

(松本: 「皇室典範」は国会によって制定されるべきだということは必須なのでしょうか。現在の日本の憲法の下では,皇室典範は,皇室の成員によって作成されます。皇室は,自律権を有しているのです。)

 

General Whitney:  Unless the Imperial House Law is made subject to approval by the representatives of the people, we pay only lip service to the supremacy of the people.

(ホイットニー将軍: 「皇室典範」が人民の代表者たちの承認に服するようにならなければ,我々は人民の至高性に対してリップサービスをしただけということになります。)

 

Col. Kades:  We have placed the Emperor under the law, as in England.

(ケーディス大佐: 我々は,イングランドにおけると同じように,天皇を法の下に置いたのです。)

 

Col. Rowell:  At present the Imperial House Law is above the Constitution.

(ラウエル中佐: 現状では,皇室典範は憲法の上にありますね。)

 

General Whitney:  Unless the Imperial House Law is enacted by the Diet the purpose of Constitution is vitiated. This is an essential article.

(ホイットニー将軍: 「皇室典範」が国会によって制定されるのでなければ,憲法の目的は弱められたものとなります。これは,必須の条項です。)

 

Matsumoto:  Is this, control of the Imperial House Law by the Diet, a basic principle?

(松本: 国会による「皇室典範」のコントロールは,基本的原則なのですか。)

 

General Whitney:  Yes.

(ホイットニー将軍: そうです。)

 

「「皇室典範」」と括弧付きで訳した語は,括弧なしの「皇室典範」(皇室典範)と訳すべきか,「皇室典範ニ代ルベキ法律」(法律)と訳すべきか決めかねた部分です。(なお,奥平康弘教授は「1946年2月22日における松本烝治らとホイットニーら民(ママ)局員とのあいだの意見交換にあっては,「皇室典範」という語によって意味する中身に彼此双方のあいだで大きな違いがあることが,ついに顕在化しないまま終始したように思う。」と述べておられますが(奥平101102頁。また,5758頁,99頁),上記ラウエル中佐の発言などからは,民政局側は“Imperial House Law”が皇室典範と解されることも,皇室典範の法的性質も理解していたように思われます。この点,同教授は,「私の解明は憲法・皇室典範改正の監視役を務めたマッカーサー司令部(GHQ)の担当係官のうごきなどについて,詰めが甘いといったような弱みがある」とは自認されていたところです(奥平1617頁)。)

それはともかく,筆者にとって助け舟になったのは,ケーディス大佐の「イングランドにおけると同じように」発言でした。なるほど,王室制度に関して英米法系の法律家連中の考えていることを知るには,イギリス(イングランド及びウェイルズ)法史に当たるべし。

 

〔イギリスの〕国会主権の原理は,〔略〕長い期間をかけて徐々に成立したものである。従って,その端緒は,16世紀に見出される。とくに,1530年代の宗教改革は,それまで国会の権限外だと考えられていた大問題が,国会の立法という形で解決された例として注目される。〔中略〕その後も,国会の立法権が事項的に無制限であるという考え方は,一般の考えではなかった。とくに王位継承権の問題など王室に関する事項は,国会のタッチすべき事項でないと考えられていたのである。〔1689年の〕Bill of Rights, 1701年の〕Act of Settlementによって初めて,国会の立法権が事項的に無制限であるということが,確立されるのである。(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)137138頁。下線は筆者によるもの)

 

皇位継承等に関する事項は元来自律権を有する皇室の立法権下のみにあり,皇室典範によって規定されていたものであるが,オレンジ公ウィリアムが168811月オランダから上陸したイギリスにおける名誉革命に匹敵する日本における1945年の「八月革命」の下,米国から上陸せられたマッカーサー元帥の親身の御指導による日本国憲法の制定によって,臣民の代表機関たる国会の立法権も当該旧来の皇室典範事項に及び得るようになるのだ,という意味が“as the Diet may enact”には込められていたのだと解釈すれば,筆者としては一応納得できたところです。

無論,国会の立法権が及ぶからとて直ちに法律を制定しなくてはならないわけではなく,その間は従来の皇室の家法の適用が認められるということだったのではないでしょうか。GHQとしては,皇位継承に関する事項については皇室の自律権及び国会の立法権の競合を認めつつ,その際国会の立法権を優位に置いたということだったのではないでしょうか。(しかし,あるいはこれは,王朝の家法の効力に関して,dynastic概念の射程を拡張し過ぎた解釈ということになるのかもしれません。)

なお,明治皇室典範案に係る枢密院会議のために用意された「皇室典範義解草案 第一」には明治皇室典範62条(「将来此ノ典範ノ条項ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要アルニ当テハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シテ之ヲ勅定スヘシ」)に対応する説明の「附記」として,次のようにありました。

 

欧洲ノ或国ニ於テ(英国)王位ノ世襲ハ議会ノ制限ニ従属スルモノトシ,議会ニ於テ屢々其ノ法ヲ変革シ,終ニ国王ト議会トノ主権〔“King in Parliament”のことでしょう(田中140頁参照)。〕ヲ以テ王位継承法ヲ制定スルコト能ハズトノ説ヲ主張スル者ハ之ヲ逆罪ト為シタリ(女王「ア(ママ)ン」ノ時),此ノ主義ニ依ルトキハ王位ノ空缺ハ議会以テ之ヲ補填スベク,王位ノ争議ハ議会以テ之ヲ判決スベク(1688年ノ革命),而シテ議会ハ独リ王位世襲ヲ与奪スルノ権アリト謂フニ至ル(「チヤルス」第2世ノ末下院ノ決議〔1679年に下院がカトリック教徒である後のジェイムズ2世を王位継承から排除する法案(Exclusion Bill)を通過させたのに対してジェイムズの兄であるチャールズ2世が下院を解散し,翌年も同様の法案が提出されたが上院で否決されたというExclusion Crisisのことでしょう(田中134135頁)。〕),抑モ大義一タビ謬マルトキハ冠履倒置ノ禍,何ノ至ラザル所ゾ,故ニ我ガ皇室典範ノ憲法ニ於ケル其ノ変更訂正ノ方法ヲ同ジクセザルハ,我ガ国体ノ重キ之ヲ皇宗ニ承ク,而シテ民議ノ得テ左右スル所ニ非ザレバナリ。(伊藤博文編・金子堅太郎=栗野慎一郎=尾佐竹猛=平塚篤校訂『帝室制度資料 上巻』(秘書類纂刊行会・1936年)132133頁)

 

 「王位ノ世襲ハ議会ノ制限ニ従属スルモノトシ」なので,イギリス議会といえども,いわば王位の世襲を外から制限することはあっても,王位世襲の内側に立ち入った介入はしないということでしょうか。

名誉革命でジェイムズ2世に勝利した議会側も,あえて同王を積極的に廃位することはなく,グレゴリオ暦1689年2月7日(なお,当時のイギリスの暦では同日は1688January28日とされていました。)に国民協議会(Convention Parliament)が王位の空位を宣言したところです。すなわち,権利章典において,「前国王ジェイムズ2世は,政務を放棄し,そのため王位は空位となった」と述べられているところであって(田中英夫訳『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)81頁),これは黙示の意思表示による退位という構成なのでしょう。高齢となったので,国王としての活動を今後自ら続けることが困難となることを深く案じているくらいでは,まだ退位の(黙示の)意思表示があるとはいえないのでしょう。

(カ)「従フモノトス」:「定ムル所ニ依ル」との相違

 日本国憲法2条では「定めるところにより」と「訳」されている英語文の“in accordance with”は,「従フモノトス」としました。「定めるところにより」は,恐らく大日本国帝国憲法2条の「定ムル所ニ依リ」との表現をそのまま引き継いだものでしょう。しかしながら,大日本憲法2条の当該部分の伊東巳代治による英語訳は“according to”となっていて,“in accordance with”ではありません。プール少尉らが“according to”をそのまま襲用せずに“in accordance with”に差し替えたのには,何らか意図するところ,すなわち意味の変更があったはずです。それは何か。この点の英語文の読み方として参考となるのは,ポツダム宣言第12条の「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルル」の部分(there has been established in accordance with the freely expressed will of the Japanese people a peacefully inclined and responsible government)と1945年8月11日付け聯合国回答における当該部分に対応する部分(「日本国ノ最終的ノ政治形態ハ「ポツダム」宣言ニ遵ヒ日本国国民ノ自由ニ表明スル意思ニ依リ決定セラルベキモノトス」(The ultimate form of government of Japan shall in accordance with the Potsdam Declaration be established by the freely expressed will of the Japanese people))との相違に関する長尾龍一教授の次の指摘です。

 

 『宣言』においては,政府の樹立は,日本国民の意思に「一致する形で」(in accordance with)行なわれればよいが,『回答』においては政治形態の決定は,日本国民の意思によって(by)決定される。(長尾龍一『憲法問題入門』(ちくま新書・1997年)53頁)

 

すなわち,プール少尉らは,皇位ノ継承ハ国会ノ制定スルコトアル皇室典範ニ代ルベキ法律(Imperial House Law)ニ「一致する形で」行われるべきだとまでしか言っていなかったようなのです。皇位ノ継承のいわば原動力は,皇室典範ニ代ルベキ法律とは別のところにあるとされていたように思われます。それは何か。後嵯峨天皇の意思のようなそのときどきの天皇の意思では正に「南北朝の乱亦此に源因せり」ということになってしまいそうです。やはりそれは,祖宗の遺意を明徴にした銘典たる皇室の家法(Imperial House Law)なのだ,ということがプール少尉らの理解だったのではないでしょうか。 

 

ウ 委員会最終報告案及びGHQ草案2条

天皇,条約及び授権委員会の最終報告では,当該条項は次のようになっています(「日本国憲法の誕生」の「3‐14 GHQ原案」参照)。この段階で,前記1946年2月13日のGHQ草案2条と同じ文言となっています。

 

Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.

 

皇位ノ継承ハ,皇室ニ於テ世襲ニ依リ行ハルルモノトシ,国会ノ制定スルコトアル皇室典範ニ代ルベキ法律ニ従フモノトス(拙訳)

 

4 大日本帝国政府3月2日案

GHQ草案を承けた大日本帝国政府側の1946年3月2日案では,次のように規定されていました(佐藤94頁,104頁)。

 

 第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ世襲シテ之ヲ継承ス。

 第3条 天皇ノ国事ニ関スル一切ノ行為ハ内閣ノ輔弼ニ依ルコトヲ要ス。内閣ハ之ニ付其ノ責ニ任ズ。

 第7条 天皇ハ内閣ノ輔弼ニ依リ国民ノ為ニ左ノ国務ヲ行フ。

  一 憲法改正,法律,閣令及条約ノ公布

  〔第2号以下略〕

 第106条 皇室典範ノ改正ハ天皇第3条ノ規定ニ従ヒ議案ヲ国会ニ提出シ法律案ト同一ノ規定ニ依リ其ノ議決ヲ経ベシ。

  前項ノ議決ヲ経タル皇室典範ノ改正ハ天皇第7条ノ規定ニ従ヒ之ヲ公布ス。

 

5 1946年3月4日から5日にかけてのGHQとの交渉

 

(1)概要

前記1946年3月2日案をめぐる佐藤達夫法制局第一部長とGHQ民政局との間における同月4日から5日までにかけての徹夜での交渉を経て日本国憲法案から「皇室典範の議案に係る天皇の発議権は消え,憲法2条は少なくとも英文については現在の形になってい」るようであること及び当該徹夜交渉に係る同部長の「三月四,五両日司令部ニ於ケル顛末」と題した当時の手記における同条関係部分については,当ブログの「続・明治皇室典範10条に関して:高輪会議再見,英国の国王退位特別法,ベルギーの国王退位の実例,ドイツの学説等」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060127005.html)において御紹介したところです。

後年更にまとめられた当該交渉の状況は,次のとおりです(佐藤111頁)。

 

  第2条では,先方〔GHQ民政局〕は皇室典範について,それが国会によって制定されるものであることが出ていない・と相当強硬にねじ込んで来た。これに対して,Imperial House Lawとあれば,それは法律であり国会の議決によることは当然であるし,そのことは日本案第106条でも明らかになっている。ただ,皇室の家法という意味で,その発議は天皇によってなされることにしたい・と述べたが,第1章はマ草案が絶対である・といって全然受け付けず,「国会ノ議決ヲ経タル」passed by the Diet――ただし,マ草案はas the Diet may enactとなっていた――を加えることとした。

 

 交渉のすぐ後にまとめられた手記には「「経タル」ガ将来提案権ノ問題ニ関聯シテ万一何等カノ手懸ニナリ得ベキカトノ考慮モアリテ」との括弧書きがありましたが,上記の状況報告からは脱落しています。その後日本国憲法2条の「皇室典範」は法律であるものと法制局で整理され,したがって天皇の発議権は全く断念されたということで,後年の取りまとめ文からは余計な感慨だとして落とされたものでしょうか。

 皇室典範改正の発議権留保の可否は,1946年3月5日1743分から1910分まで行われた御文庫における内閣総理大臣幣原喜重郎及び憲法担当国務大臣松本烝治に対する賜謁及び両大臣からの憲法改正草案要綱に係る奏上聴取の際に,昭和天皇から御下問があったところですが,時既に遅く,同夜の閣議において「司法大臣岩田宙造〔元第一東京弁護士会会長〕より,このような大変革の際に,天皇の思召しによる提案が出ること自体が問題になるとの意見が出され,修正は断念」されました(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)6163頁)。

 

(2)忖度

 さて,日本側3月2日案に対して「皇室典範について,それが国会によって制定されるものであることが出ていない・と相当強硬にねじ込んで来」,「第1章はマ草案が絶対である・といって全然受け付けず」という姿勢であったGHQ民政局が,GHQ草案2条の“as the Diet may enact”“passed by the Diet”に変更することに応じたのはなぜでしょうか。

 佐藤達夫部長の「「経タル」ガ将来提案権ノ問題ニ関聯シテ万一何等カノ手懸ニナリ得ベキカトノ考慮モアリテ」との願いがGHQ側によって受け容れられたわけではありません。法律たる現行皇室典範の改正法案が天皇から提出されるなどということは現在だれも考えておらず,そもそもそれ以前に,日本国憲法4条1項後段を理由として天皇の政治的発言ないし行為は極めて厳格に規制を受けるに至っています。

 佐藤部長のあだな望みが,GHQ側によって逆手に取られてしまったものか。

 実は,“passed by the Diet”版の文言によれば,新しい日本国憲法の施行と同時に,新しく既に準備されてある「国会の議決を経た「皇室典範」」が効力を発していなければいけないように読まれ得るところです。筆者の解釈によれば,GHQ草案2条の“as the Diet may enact”版では,新憲法施行後も国会はいつまでもImperial House Lawを制定せず,一部不適当となった箇所を除いて,旧皇室典範が依然効力を有しているということもあり得たところです。

 なるほど,国会がせっかく与えられた立法権を行使せずいつまでもImperial House Lawを制定しないという困った事態を免れ得るという実によい前倒し策の提案が,何と日本側から出てきたわいと,ひとしきり考えた末にGHQの係官たちは莞爾としたのかもしれません。しかしながら,法律の制定を表わすenactが,単なる議決をしたとの意となるpassedになることについてはどう考えるか。いやそれは,新しい憲法の施行の前に準備のために制定される法律(日本国憲法100条2項参照)については,制定権者はなお飽くまでも天皇であって帝国議会は協賛機関にすぎないのだから(大日本帝国憲法5条等),確かにenacted by the Dietでは不正確であってpassed by the Dietでなければおかしい,ということで得心されたのではないでしょうか。帝国議会の協賛を経た法律として「皇室典範」がいったん成立すれば,その後の改正法律は当然国会が制定すること(the Diet enacts)になる,これでいいんじゃないの,ということになったのではないでしょうか。

 ただし,法律ではないものの帝国議会の議を経た皇室典範なるもの(大日本帝国憲法74条1項参照。また,奥平43頁)が出て来ると面倒なことになるので,飽くまでも新しい「皇室典範」は帝国議会の議を経た法律として制定されるよう,その点は厳しくコントロールすることとしたものでしょう。(しかし,美濃部達吉は,大日本帝国憲法74条1項(「皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス」)について,「本条に『議会ノ議ヲ経ルヲ要セス』とあるのは,単にその議を経ることが必要でないことを示すに止まらず,全然議会の権限外に在ることを示すものである。」と説いていました(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)731頁)。)

 

6 憲法改正草案要綱(1946年3月6日)から憲法改正草案(同年4月17日)まで

 1946年3月6日17時に内閣から発表された「憲法改正草案要綱」では「第2 皇位ハ国会ノ議決ヲ経タル皇室典範ノ定ムル所ニ依リ世襲シテ之ヲ継承スルコト」となっていましたが(佐藤200頁,189頁),同年4月17日に発表された同月13日の「憲法改正草案」(佐藤347頁,336頁)の段階からは現在の日本国憲法2条の文言(「皇位は,世襲のものであつて,国会の議決した皇室典範の定めるところにより,これを継承する。」)となっており(口語体になっています。),その後変化はありません。なお,法制局においては,日本国憲法案の「口語化の作業については,渡辺参事官を通じて山本有三氏に,口語体の案を作ってもらい,これをタイプで複写して立案の参考にし」,その山本案では第2条は「皇位は国会の決定した皇室法(﹅﹅﹅)に従つて世襲してこれをうけつぐ。」となっていたそうですが(佐藤275頁),結局「皇室典範」の文言が維持されています。

 

7 枢密院審査委員会での議論(1946年4月から5月まで)

 日本国憲法案2条の「皇室典範」の法的性質の問題は,1946年4月22日から宮城内枢密院事務局で開催された枢密院審査委員会で早速取り上げられています。政府側の答弁の要点は「皇室典範は,法律である。はじめは法律と異るものにしようとしたが,目的を達し得なかった。「皇室法」としなかったのは,従来の用例を適当と認めたによる。その内容は,現在の典範そのままではなく,一般国務に関係ある皇室事項を規定し,皇室の家憲のようなものは皇室かぎりで定められることとなろう。」ということでした(佐藤392頁)。具体的には以下のとおりです(同委員会の審査記録は,「日本国憲法の誕生」の「4‐1 枢密院委員会記録1946年4月~5月」によります。)。

 

(1)河原枢密顧問官による質疑

 1946年4月24日の審査における河原春作枢密顧問官と松本烝治憲法担当国務大臣とのやり取り。

 

 河原 皇室典範は法律なりや。

 松本 法律なり。特別の形式とするやうに交渉したが,意を達しなかつた。

 

 なお,ここでの「交渉」について,余白に鉛筆書きで,次のように筆者には読める書き込みがあります。

 

 これは,やはり国会の議決にかけるが,形式上法律(国民の権利ギムに関する国法)とは別の皇室典範とする意味と主張したが,先方はてんで受けつけなかつた(石)

 

 同年5月3日,河原枢密顧問官は,なおも皇室典範の法的性質について入江俊郎法制局長官に質します。

 

 河原顧問官 国会の議決云々といふことで皇室典範は法律だといはれたが憲法と国法と典範と3系統のやうに考へられる。皇室法といへば勿論さうだが〔以下略〕

 入江法制局長官 皇室典範といふのが習熟したからかいた。法といふ語を抜いたから議決がいらぬやうに見えるから議決したとかいた。又これをかゝぬと議決がいらぬ従前のもののやうに考へられる。他の系統のもののやうに考へるがといはれるが,公布の処や,最高法規の処にもかいてないからそんなことにはならぬ。

 

(2)美濃部枢密顧問官による追及

 1946年5月3日,美濃部達吉枢密顧問官からも厳しい追及があります。

 

 美濃部顧問官 皇室典範は法律の一種なりといふことに対しては疑あり。法律第 号として公布せらるるか。然らば皇室典範の特質に反す。皇室典範は一部国法なるも同時に皇室内部の法にすぎぬものあり。此の後者に天皇は発案(ママ)も御裁可権もないことは(ママ)かしい。普通の法律とは違つたものである。天皇が議会の議を経ておきめになることにせぬと困る。

 入江法制局長官 内容は現在の皇室典範がそのまゝと考へぬ〔筆者は「ぬ」と読みましたが,国立国会図書館のテキスト版は「る」と読んでいます。〕。将来は国務に関する事項のみとし度い。内部のことは皇室自らおきめになるとよいと考へた。

 美濃部顧問官 然らば皇室典範といふ名称はやめぬといかぬ。この名称は皇室の家法といふべきものなり。憲法と合併してその一部にするか普通の法律とすべし。〔以下略〕

 

ここでの美濃部枢密顧問官の議論は,次の2点にまとめられるでしょうか。

第1。「皇室典範」という題名は,本来,皇室内部のことを皇室自ら決める皇室の家法という意味を有するものである。皇室内部のことを皇室自ら決める皇室の家法は,国務に関するものである法律とは異なる。したがって,当該家法は,議会の議を経るにしても,飽くまでも天皇が発議権と裁定権とを有すべきものである。

第2。他方,旧皇室典範中「国務に関する事項」を規定するものは,「憲法と合併してその一部にするか普通の法律とすべ」きであり,かつ,当該法律に「皇室典範」という題名を付すべきものではない。(美濃部は,かねてから,皇位継承に係る大日本帝国憲法2条について「皇位継承に関する法則は,決して皇室一家の内事ではなく,最も重要なる国家の憲法の一部を為すものである。」,「言ひ換ふれば憲法は本来その自ら規定すべき事項を皇室の権能に委任して居るのであって,就中本条は皇位継承に関する皇室の自律権を認めたものである。」と(美濃部110頁,111頁),摂政に係る同17条について「摂政を置くことは固より単純な皇室御一家の内事ではなく,国家の大事であることは勿論であるから,本来の性質から言へば王室の家法を以て規定し得べき事柄ではな」い(美濃部317頁)と説いていました。しかしながら,1946年5月の枢密院における議論においては,「皇室典範」に係る美濃部の「憲法と合併」論は発展を見せずに終わりました。さすがに,大日本帝国憲法の全部改正として日本国憲法を制定した後に,続いて日本国憲法と合して日本国の憲法たるべき「皇室典範」を大日本帝国憲法の改正手続で制定するのでは,皆さんお疲れが過ぎるということでもあったのでしょう。)

 

8 法制局における整理(1946年4月から6月まで)

その間法制局において,日本国憲法2条にいう「皇室典範」に関する解釈が以下のように整理され,まとめられています(「日本国憲法の誕生」の「4‐4 「憲法改正草案に関する想定問答・同逐条説明」1946年4月~6月」参照)。

 

(1)「皇室典範」=法律(1946年4月)

1946年4月の段階で,日本国憲法2条にいう「皇室典範」は少なくとも形式的には法律であるものと整理する旨法制局において判断がされたようです。

すなわち,同月の「憲法改正草案逐条説明(第1輯)」では,第2条につき,皇位の「継承は国会の議決する皇室典範の定むる所に依ることと致しました。」とのみ書いてあって当該「皇室典範」の法的性質については踏み込んでいなかったのですが,同じ月の「憲法改正案に関する想定問答(第2輯)」には「皇室典範は法律なりや」との想定問に対して「形式的には法律でありますが,皇位継承,摂政其の他皇室の国務に関係する事項を規定内容とするものを皇室典範として立法する心算であります。」と答えるべき旨記されています。端的に法律であると断言することとはせずに,「形式的には法律でありますが」という表現を採用しているところに,なおためらいがあったことが窺われます。

なお,同じ想定問答集の「皇室典範の内容たる事項は如何」との想定問に対しては,「皇位継承,摂政その他皇室関係にして国務に関係する事項のみであります。/従前の宮務法中単なる皇室の内部に係る事項は今後公の法制上からは之を省くを至当と考へます。」と答えるものとされていました。

 

(2)国会の議決の意義付け及び「皇室典範」との指称の理由(1946年5月)

 1946年5月の「憲法改正草案逐条説明(第1輯)」において,法制局は,日本国憲法2条の「皇室典範」に係る国会の議決の意義付け及び当該指称の理由を記すに至っています。いわく。

 

 〔前略〕従来も皇位継承,摂政その他皇室に関する事項は皇室典範の定むる所として居りましたが,この皇室典範は憲法とは独立に制定せられその改正にも帝国議会の議決を必要としなかつたのであります。即ち皇室典範は,皇位継承,摂政等皇室の国務に関する事項を内容とするにも拘らず,皇室の家内法であるかの様に考へられて居たのでありますが,この考へ方は,君民一体の我国体より見て決して適当なものではないのであります。本条がこの欠点を改め,皇室典範を国会の議決により定めることとしましたのは,即ち第1条の精神に即応し,皇室を真に国民生活の中心的地位に置き,皇室と国民との直結を図らんとする趣旨であります。

 国会の議決によるのでありますから皇室典範も固より法律でありまして,皇室法とでも称して差支へないのでありますが,従来の名称を尊重して同じ名称を存置したのであります。

 

(3)法律たる「皇室典範」の発案権に係る制限ないしは工夫の模索(1946年6月)

 前記(2)においては前向きな説明をしたものの,法制局としては「皇室典範」=他の法律と全く同様の法律とまでは割り切りきれなかったようです。皇室に関する事項について国会議員の諸先生方が「差出がましい」ことをする心配もありますし,やはり政府又は国会以外の 利害関係の直接なあたりからの「その他の意思」が「皇室典範」に反映されるようにする工夫が必要であることが気付かれるに至ったのでしょう。したがって,1946年6月の「憲法改正草案に関する想定問答(増補第1輯)」には,次のような興味深い記述が見られます。

 

 問 皇室典範の制定手続は一般法律と同様か。

 答 抑々従来憲法と典範が二本建になつて居たことは天皇と国家とを合一せしめ,天衣無縫の法秩序をつくる上には望ましいことではなかつたと考へられるので,それを憲法の下にある法律たらしめたのであるからその制定手続も一般の法律と同様である。

   た国会の側から皇室について謂はば差出がましい発案は行はないと云ふ様な慣習法が成立することもあらうか,と考へる。

   又政府のみの発案に任せることなく何等かの形で,国会その他の意思をも反映させるための方法として,皇室典範の中でその改正に際して特殊