Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

タグ:司法職務定制

1 三百代言

 我が国の「訴訟における代理人制度は,明治5年〔1872年〕の司法職務定制(同年8月3日太政官無号達)によって最初に認められた。職務定制は江藤新平が司法卿に就任してのち,フランス法の影響下で訴状の作成をする代書人と民事訴訟における弁論の代理をする代言人とを認めた。ここに初めて訴訟行為における代理制度が成立したのであり,日本の伝統的な司法制度の重大な変革が行われた。司法職務定制による代言人は,我が国の弁護士制度の始まりである。」とされています(司法研修所『平成18年度 刑事弁護実務』2頁)。ところが,江戸時代に訴訟関係人を泊める旅館(公事宿)の経営者であった「公事師からの系譜を受けた代言人も多く,同業者間に依頼者の獲得競争を生じ,報酬のダンピングも行われ,青銭三百文,玄米1升という低価で事件を引き受ける代言人もあったので,この時代に「三百代言」という蔑称も生まれた」そうです(同4‐5頁)

 司法職務定制の第10章「証書人代書人代言人職制」中第42条及び第43条は次のとおり。

 

 第42

  代書人

  第1 各区代書人ヲ置キ各人民ノ訴状ヲ調成シテ其詞訟ノ遺漏無カラシム

    但シ代書人ヲ用フルト用ヒサルトハ其本人ノ情願ニ任ス

  第2 訴状ヲ調成スルヲ乞フ者ハ其世話料ヲ出サシム

 第43

  代言人

  第1 各区代言人ヲ置キ自ラ訴フル能ハサル者ノ為ニ之ニ代リ其訴ノ事情ヲ陳述シテ枉冤無カラシム

    但シ代言人ヲ用フルト用ヒサルトハ其本人ノ情願ニ任ス

  第2 代言人ヲ用フル者ハ其世話料ヲ出サシム

    証書人代書人代言人世話料ノ数目ハ後日ヲ待テ商量スヘシ

 

1893年に旧々弁護士法(明治26年法律第7号)が施行されて(同年5月1日施行(同法38条1項)),代言人の称は弁護士に変わっています(同法38条2項により明治13年司法省甲第1号布達代言人規則は廃止。同法35条は「現在ノ代言人ハ本法施行ノ日ヨリ60日以内ニ弁護士名簿ニ登録ヲ請フトキハ試験ヲ要セスシテ弁護士タルコトヲ得」と規定)

ところで,三百代言諸氏がそれで訴訟代理活動等を行ったという「青銭三百文,玄米1升」という世話料は,どれくらいの価値があったものでしょうか。

 

2 青波銭(寛永通宝四文銭)の新貨換算

明治四年(1871年)五月に出た新貨条例は,我が通貨単位に円を採用し,1円を100銭,1銭を10厘としました。「新貨幣ト在来通用貨幣トノ価格ハ1円ヲ以テ1両即チ永1貫文ニ充ツヘシ」とされています。

 同年十二月十九日に出た太政官第658(新貨並ニ金札ノ比較及ヒ旧銅貨ノ品位ヲ定ム)は,「旧銅貨ノ儀去ル辰年定価被 仰出候処今般新貨御発行ニ付各種比較商量ノ上当分左ノ通品位被相定候条其旨相心得新貨幣並金札共取交聊無差支通用可致事」と定め,その「旧銅貨品位」の表では,「青波銭ト唱へ元四文銭ナリ」との寛永通宝を「10枚ヲ以テ2銭トス」る二厘銭としています。

青銭とは青波銭のことのようですから,当該寛永通宝四文銭が75枚で「三百文」になります。しかしそれは二厘銭が75枚ということですから,150厘,すなわち15銭ということになるようです。これが「青銭三百文」の世話料の額であるようです。

なお,旧銅貨たる寛永通宝には「耳白銭或ハ其外」の「元一文銭」もあり,こちらは一厘銭とされていました(明治四年太政官第658

同じ「寛永通宝」でも四文銭があったり,一文銭があったり,一筋縄ではいきません。貨幣制度の歴史は,小アジアの古代リュディアから始まるそうですが(ヘロドトス『歴史』巻1の94節),なかなか複雑です。


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 寛永通宝四文銭(青波銭) 
 

3 明治の物価等

 

(1)明治五年(1872年)

 その五月に新貨条例,十二月十九日に太政官第658が出た明治四年の翌年であり,かつ,司法職務定制が定められた明治五年(1872年)の官吏の給与及び東京における物価はどれくらいであったでしょうか。

 

・・・優は此年四月十二日に〔埼玉県出仕の〕権少(さくわん)になつて,月給僅に25円である。これに当時の潤沢なる巡回旅費を加へても,尚70円許に過ぎない。しかし其意気は今の勅任官に匹敵してゐた。(森鷗外『澀江抽斎』その九十四)

 

・・・師範学校は此年始て設けられて,文部省は上等生に10円,下等生に8円を給した。(同・その九十五)

 

・・・文部省は当時頗る多く名流を羅致してゐた。・・・諸家が皆九等乃至十等出仕を拝して月に四五十円を給せられてゐたのである。(同)

 

  〔前記の優いわく〕「・・・今浅草見附の所を遣つて来ると,旨さうな茶飯餡掛を食べさせる店が出来てゐました。そこに腰を掛けて,茶飯を2杯,餡掛を2杯食べました。どつちも50文づつで,丁度200文でした。(やす)いぢやありませんか。」(同)

 

夕食200文。一文銭の寛永通宝の200文ということならば,200厘の20銭でしょう。勅任官に匹敵する意気の優の夕食ですから,けちなものではないはずです。

 

  ・・・保は鈴木の女主人(あるじ)に月2両の下宿代を払ふ約束をしてゐながら,学資の方が足らぬ勝なので,まだ一度も払はずにゐた。」(同・その九十六)

 

元船宿の未亡人宅2階(同・その九十三参照)を借りる師範学校生徒である保のこの下宿代は,月2円ということになります。

 

(2)1874年(明治7年)

 明治五年の2年後の1874年(明治7年)頃の東京では10銭で何が買えたかというと,「僕は外へ出て最中を10銭買つて来た。その頃は10銭最中を買ふと,大袋に一ぱいあつた。」とあります(森鷗外『ヰタ・セクスアリス』の十三歳の段)。また,その頃の語学学校寄宿舎では「大抵間食は弾豆か焼芋で,生徒は醵金をして,小使に2銭の使賃を遣つて,買つて来させるのである」そうでした(同)。こうしてみると,三百代言の15銭は,寄宿舎の小使さんのお使い7回半分です。

 

(3)1885年(明治18年)

 森林太郎一等軍医が1885年(明治18年)1010日に脱稿した『日本兵食論大意』によれば,当時「我邦ノ兵ハ毎人毎日米6合(約1「キロ」)ト金6銭,士官学校生徒ハ米6合ト金8銭ヲ給与セラル」ることになっていたそうです。「然レドモ士官学校生徒ノ食シタル米量ハ6合ニ達セズ何トナレバ其乾燥分ハ643瓦,3〔643.3g〕ニシテ721瓦,5ノ未炊米ニ当レバナリ(算法之ヲ略ス)一般ノ兵卒モ6合ノ米ヲ食ヒ尽ス者ハ少ナカルベシ」ということでした。若い健康な壮丁兵士が1日に食べるべき米の量は平均約4.5合ということでしょうか。なお,「「ショイベ」氏ノ試験セル強壮ナル日本人ハ1日平均6百02瓦ノ未炊米ヲ食ヘリ」とされています。森一等軍医は更に,在営兵卒1人1日の食量を試算した上で,「其代価ハ之ヲ概算セシニ米価ヲ合シテ約10銭ナリ(算法之ヲ略ス)」と述べています。すなわち,1885年当時の我が国では,1日10銭あれば,健康な食生活は可能であったようです。(ただし, 脚気問題はここでは取り上げません。)

 

(4)明治末年の一厘事件判決(1910年)

 なお,明治の末期には,「“半銭”と刻印された五厘銅貨があったが,その頃でさえ五厘銅貨1枚で買えるものはほとんどなくなりつつあった。」とされます(鈴木武雄『おかねの話』(岩波新書・1967年)60頁)

 いわんや1厘をや。すなわち,有名な一厘事件(煙草専売法違犯ノ件)に係る1910年の大審院(たいしんいん)明治431011日判決(刑録161620頁)は,「此種ノ反法行為ハ刑罰法条ニ規定スル物的条件ヲ具フルモ罪ヲ構成セサルモノト断定スヘク其行為ノ零細ニシテ而モ危険性ヲ有セサルカ為メ犯罪ヲ構成セサルヤ否ヤハ法律上ノ問題ニシテ其分界ハ物理的ニ之ヲ設クルコトヲ得ス健全ナル共同生活上ノ観念ヲ標準トシテ之ヲ決スルノ外ナシトス」と述べ,1909年度煙草耕作人でありながら政府に納入すべき煙草7分(価額金1厘相当)を手刻みとして消費した被告人を無罪としています。(当時の葉煙草専売法(明治29年法律第35号)21条は「葉煙草ヲ耕作スル者政府ニ納付スヘキ葉煙草ヲ他ニ譲渡シ若ハ消費シタルトキ又ハ葉煙草ノ譲渡ヲ受クルコトヲ得サル者葉煙草ノ譲渡ヲ受ケタルトキ又ハ煙草製造ヲ業トスル者若ハ葉煙草売買ヲ業トスル者情ヲ知リ政府ヨリ売渡ササル葉煙草ノ譲渡ヲ受ケタルトキ若ハ葉煙草ノ譲渡ヲ受クルコトヲ得サル者ヨリ葉煙草ノ譲渡ヲ受ケタルトキ若ハ氏名居所不明ノ者ヨリ葉煙草ヲ譲受ケタルトキハ10円以上300円以下ノ罰金ニ処シ其ノ犯罪ニ係ル葉煙草ノ現存スルトキハ之ヲ没収シ既ニ譲渡シ又ハ消費シタルトキハ其ノ代金ヲ追徴ス」と詳細に規定していました。なお,上記判決は行為の零細性のみならずその危険性も問題にしていますから,「判例も,一厘事件判決(大判明43・10・11刑録16・1620)以来,処罰に値しない法益侵害を,構成要件に該当しないとしてきた」として(前田雅英『刑法総論講義[第4版]』(東京大学出版会・2006年)103頁),「軽微」性は指摘するものの行為又は犯人(上記判決引用部分の前の部分には「犯人ニ危険性アリト認ムヘキ特殊ノ情況ノ下ニ決行セラレタルモノニアラサル限リ」という表現がありました。)の危険性の問題に言及しないのでは少し物足りない気がします。)ここでいう7分は,2.625グラムです(度量衡法(明治42年法律第4号)1条は「衡ハ貫ヲ以テ基本トス」とし,第2条はキログラム原器の「分銅ノ質量4分ノ15ヲ貫」とし,第3条の衡の項では分を貫の1万分の1としています。計量法施行法(昭和26年法律第208号)4条2号及び5条3号参照)。一厘事件の添田増男弁護人は「1厘ノ金実ニ1枚ノ青銅此カ如何ニ活躍ヲ恣ニスト雖モ其影響ノ及フ処夫幾程ソヤ之ヲ善用シテ益スル所数ナラス之ヲ悪用シテ毒スル所看ルヲ得ス否寧ロ共ニ社会反応ヲ呼起スルニ足ラサルモノト云フヘシ」と論じていますが,そこでいう「1枚ノ青銅」は明治政府の発行した新貨条例にある一厘銅貨だったものか,それとも寛永通宝一文銭だったものか。ちなみに,1897年の貨幣法(明治30年法律第16号)の下においては,青銅貨幣の最小は五厘ということになっていて(同法3条等),一厘青銅貨の発行はなかったようです。

 

(5)和歌山県における「一厘銭」

 ところで,少なくとも和歌山県では,20世紀の初頭において一厘銭といえば,なお寛永通宝一文銭であったようです。1894年生まれの松下幸之助の回想にいわく。

 

  私は和歌山の家で母と貧乏暮しをしておったとき,学校から帰ってくると,「お母さん,おやつ」というと,母はまん中に穴のあいた一厘銭をくれた。それを持って駄菓子屋へ飛んでいくと,アメ玉を2個くれる。それが日課になっておった。(松下幸之助『物の見方考え方』(PHP文庫・1986年)。下線は筆者)

 

なお,いたいけな幸之助少年から寛永通宝一文銭を強取すると,さすがにこれは被害額1厘とはいえ無罪とはなし難いでしょう。旧刑法(明治13年太政官布告第36号)378条は「人ヲ脅迫シ又ハ暴行ヲ加ヘテ財物ヲ強取シタル者ハ強盗ノ罪ト為シ軽懲役ニ処ス」と規定していました。軽懲役は,重罪の刑で(同法7条7号),6年以上8年以下です(同法22条2項後段)。

 
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 穴のない一厘銭と穴のあいた「一厘銭」(寛永通宝一文銭)
 

5 米1升の食いで

 青銭三百文の値打ちは以上のとおり。しかし,米1升の食いでは,なかなかばかにできません。

 筆者は学生時代のある夏,ワンダーフォーゲル部員として,山形県と新潟県との境にある朝日連峰を藪漕ぎ藪抜け,長期縦走したのですが(石見堂岳,赤見堂岳,枯松山,大桧原山,障子ヶ岳,天狗角力取山,三方境,寒江山,竜門山,西朝日岳,大朝日岳,平岩山,祝瓶山,御影森山),新潟県は村上海岸で夏合宿山行の各パーティが集結してキャンプをし,今夜は打ち上げというその日の午後,地元で調達した本場コシヒカリの飯盒1発分すなわち米1升(これは炊き上がった状態で,元の生米は4合です。)の単独カッポジリ(スプーンでかっぽじりながら食べること)に挑戦したことがあります。山の中ではとにかく腹が減っていて何でも貪り食う状態でしたから,うまそうな銀シャリ1升(生米4合)などペロリだぞという勢いでカッポジリを始めて途中まで順調,あっぱれ胃の腑まで頑丈な山男なりと自賛していたのですが,残り数口というところで突然の腹痛に襲われ,七転八倒のたうち回りました。心配した先輩が,

 「齊藤,どうした?」

と声をかけてくれたのですが,

 「ハイ。飯盒1発メシのカッポジリに挑戦しての名誉の戦死であります。」

 ということで,

 「バカ。」

 というお言葉でした。

 しばらく苦しんで更にじっとしていると,腹痛はやがておさまりました。

 米の飯も恐ろしいものです。

 なお,食べた分量は炊き上がった玄米1升ならぬ白米1升弱でしたが無論脚気にはならず,結構なことでした。
 1升の生米は,炊き上げれば2升5合でしょうから,七転八倒2回半分ということになります。 
 

1 江藤新平司法卿の司法事務と司法職務定制


(1)司馬遼太郎の『歳月』

 前回の記事(「大審院の読み方の謎:呉音・漢音,大阪・パリ」)において,明治五年(1872)八月三日の司法職務定制と,大審院の設置に伴い司法卿が「裁判ニ干預セス」ということになった187558日の司法省職制(明治8年司法省達第10号達)とを紹介していて(なお,漢数字の日付は太陰太陽暦である天保暦(旧暦),算用数字の日付はグレゴリオ暦(明治6年(1873年)からの現行暦)によるものです。),江藤新平の生涯を描いた司馬遼太郎の小説『歳月』の次のくだりとの関係が気になりだしました。



┉┉
中弁(官房長官兼法制局長官のようなもの)時代明治四年(1871)の文部大輔就任までの江藤はこれ大蔵省及び府県知事が司法権を持つような体制を不合理とし,西洋流の司法権を考え,

 ――司法権は行政から独立させるべきである。

 とし,その制度を立案し,ついにそれが採択されるや,江藤自身が司法卿になって明治五年四月二十五日(辞令の日付。ただし,蕪山厳『司法官試補制度沿革―続 明治前期の司法について』(慈学社・2007年)338頁は,同月二十七日就任とする。)この方面のいっさいを整備することになったのである。

 ┉┉┉┉

 江藤が書いた司法省の事務分掌は5ヶ条にわかれている。その第1条には「本省は全国の裁判所を総括し,諸般の事務をとる。ただし裁判のことには関係しない」とあり,裁判はあくまでも裁判所の権限で司法省はそれに容喙しないという点,司法行政の近代的基礎としてはみごとなほどであった。(「蓄妾問答」の章の三)


 1875年の大阪会議及びそれをうけた大審院の設置をまたずに,江藤司法卿の下で既に裁判機関(裁判所)と司法行政機関(司法省)との分離が達成されていたかのような印象を受ける記述です(江藤は,征韓論政変に敗れ,18731025日に下野)。さて,どういうことでしょうか。


(2)司法職務定制

 実は江藤司法卿時代,「各裁判所ノ上ニ位スル」司法省裁判所について,司法職務定制46条は,「別ニ所長ヲ置カス司法卿之ヲ兼掌ス」と規定していたところです。江藤新平は,自分は司法卿ながら,司法省裁判所の所長として裁判のことに関係してもよろしいと考えていたわけです。また,例えば,司法職務定制52号は,司法卿は「┉┉疑讞ぎげん。讞は,はかること,罪を取り調べること,罪をさばくこと(『角川新字源』)。ノ審定重要ナル罪犯ノ論決ヲ総提ス」るものとし,同「第3章 本省章程」における第9条から第11条まではそれぞれ,「必ス上奏制可ヲ経テ然ル後ニ施行ス」る前提で本省が,「国家ノ大事ニ関スル犯罪ヲ論決」し,「全国ノ死罪ヲ論決」し,「勅奏官及華族ノ犯罪ヲ論決」するものとし,これらに応じて同「第5章 判事職制」における第20条の判事に係る第2号は「奏請スヘキ条件及疑讞ハ決ヲ卿ニ取リ輙クたやすく論決スルコトヲ得ス」と規定していたところです。


(3)司法事務

 いずれにせよ,まず,「江藤が書いた司法省の事務分掌」とは何であったのか調べなければなりません。これは,「司法事務」として,『法規分類大全』に次のようにあるところです。



   司法省伺
うかがい 明治五年五月二十日

 別紙司法事務ノ儀至急御差図有之度これありたく此段相伺候也

 (別紙)

 司法事務

1条 本省ハ全国ノ裁判所ヲ総括シ諸般ノ事務ヲ掌ル但シ裁判ノ事ニ関係スルコトナシ

2条 上裁ヲ仰クヘキ事件ハ総テ本省ヨリ奏請スヘシ

3条 卿輔ノ任ハ裁判官ヲ総括シ新法ノ草案ヲ起シ各裁判所ノ疑讞ヲ決シ諸裁判官ヲ監督シ進退黜陟ちゅつちょく。黜陟は,功の無い者を降職・免職にし,功のある者を登用・昇進させること(『角川新字源』)。スルノ権アリ

4条 諸裁判官軽重罪ヲ犯ス時ハ本省ニオヰテ論決スヘシ

5条 事件政府ニ関係スル犯罪ハ卿輔聴許セサレハ裁判官論決スルヲ得ス

 (参考)司法省記註

壬申明治五年五月二十二日江藤卿持参大隈参議差出即日御聞置ノ旨同人ヨリ口達ノ事 


 第1条でいう「本省」は,第2条及び第4条における用法との並びで考えると,全体としての司法省という意味ではなくて,司法本省ということのようです。すなわち,司法本省は,司法省に属するからといって地方の裁判所の裁判にすべていちいち関係しないよ,ということなのでしょう。明治五年八月の司法職務定制の第1条にも,「各課権限アリテ互ニ相干犯スルコトヲ得ス」とあります。

 「――司法権は行政から独立させるべきである。」といっても,江藤司法卿時代には,大蔵省及び地方官からの司法権の分離並びに司法省への接収がなお第一段階の課題であったということでしょう(司法職務定制2条は「司法省ハ全国法憲ヲ司」るものと規定。ただし,司法省もなお行政の一部ではあります。)。

 ところで,司法事務の「(参考)」を見ると,明治五年五月二十二日に江藤司法卿が,太政官の正院に「伺」の形で「司法事務」案を持参し,同じ佐賀出身の大隈重信参議に提出したところ,即日大隈参議から,聞き置かれたよと口頭で話があったということのようです。翌日の同月二十三日は明治天皇の中国・西国巡幸(明治天皇の六大巡幸の最初のもの)の出発日であって忙しいところに,「至急御差図」してくれといきなり重要な伺い案件を持ち込まれても(困りますね。),確かに,「聞置」くしかできないでしょう。江藤の司法事務は,少なくとも司法省内においては司法卿の決定として大原則を定める効力を有していたのでしょうが,太政官における扱いは以上のようであった次第です。


2 各省と太政官(内閣)


(1)太政官

 ここで,司法省と太政官との関係がまた問題になります。明治五年当時の中央官制は,明治四年(1871年)七月十四日の廃藩置県による国制の大改革後同月二十九日に発布された太政官職制(太政官第386)に基づくものであったところです。

 この明治四年七月の太政官職制によって,初めて太政官に太政大臣が置かれ,「天皇ヲ輔翼シ庶政ヲ総判」することになりました。

 また,太政官が正院,左院及び右院から構成されることになりましたが,正院が従来の太政官に相当するもの(正院事務章程によれば「正院ハ 天皇臨御シテ万機ヲ総判シ大臣納言実際には納言に代わって左右大臣が置かれた(下記の明治四年太政官第400参照)。之ヲ輔弼シ参議之ニ参与シテ庶政ヲ奨督スル所」)であった一方,左院は立法に関する審議機関(左院事務章程によれば「左院ハ議員諸立法ノ事ヲ議スル所」)であり(ただし,立法については,正院事務章程において「凡立法施政司法ノ事務ハ其章程ニ照シテ左右院ヨリ之ヲ上達セシメ本院之ヲ裁制ス」とされていました。),各省の長官及び次官によって構成される右院はいわば各省の連絡機関(右院事務章程によれば「右院ハ各省ノ長官当務ノ法ヲ案シ及行政実際ノ利害ヲ審議スル所」)でした。

 各省は,太政官の下に置かれ(なお,正院事務章程において「諸官省等ヲ廃立分合スルモ本院ノ特権タリ」と規定されていました。),卿は各省の長官です。

 太政官と各省との関係は,明治四年八月十日の官制等級の改定(太政官第400)において,「太政官是ヲ本官トシ諸省是ヲ分官トス」,「太政大臣左右大臣参議ノ三職ハ 天皇ヲ輔翼スルノ重官ニシテ諸省長官ノ上タリ」と定められていました。

 太政官時代はなお封建的身分関係の旧習が残っており,「太政摂関の職は,中世以来政事の変遷種々多様なりしと雖も,常に春日明神の子孫にあらざれば之に近付く能はず」ということで,太政大臣は三条実美,左右大臣には宮(有栖川宮熾仁左大臣),公卿(岩倉具視右大臣)又は諸侯(島津久光左大臣)しかなれず,維新の三傑であった西郷隆盛,大久保利通及び木戸孝允であっても参議(「太政ニ参与シ官事ヲ議判シ大臣納言ヲ補佐シ庶政ヲ賛成スルヲ掌ル」)が上りポストでした。しかしながら,無論,政府の実権は,実力参議のもとにあったところです。

 (以上,太政官については山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)3037頁,76‐77頁,80頁を参照


(2)内閣(太政官)と各省との分離論

 なお,18751‐2月の大阪会議では内閣(太政官)と各省との分離が図られることになりましたが,これは,太政官の参議が太政官の下の各省の卿(長官)をも兼任していたところ,「諸参議が太政官に於て政務を議するに際して,他の省務に就いて云為することは,恰も他の担任領域に容喙するが如き嫌ひあり,従つて多くは互ひに相憚つて言を為さるの傾向があつた。そこで閣議は,国家凡百の政務を決すべき最も重要なものでありながら,其の実際はいつも長官会議の如き状態となり,甚だ低調なものとなるのを免れなかつた」ので,「参議は内閣に在つて専念国務の議判に当たること」にしようとのことだったようです(山崎・前掲64頁,66頁参照)。また,有力省の卿を兼任する参議に権勢が集中することになるのが面白くないということもあったようです(山崎・前掲64頁参照)。


(3)太政官職制における「内閣」

 ちなみに,内閣ですが,187352日の太政官職制の「潤飾」により,太政官正院の参議は「内閣ノ議官ニシテ諸機務議判ノ事ヲ掌ル」とされ,ここで初めて「内閣」の文字が使用されました(山崎・前掲38)。ただし,それまでは「太政大臣左右大臣参議ノ三職ハ 天皇ヲ輔翼スルノ重官」(明治四年八月の官制等級)であったのに対して,18735月の太政官職制では,天皇を輔弼する者は,太政大臣及び「職掌太政大臣ニ亜ク」左右大臣のみとされたところです(正院事務章程は「正院ハ 天皇陛下臨御シテ万機ヲ総判シ太政大臣左右大臣之ヲ輔弼シ参議之ヲ議判シテ庶政ヲ奨督スル所ナリ」と規定。)。


3 江藤新平司法卿v.井上馨大蔵大輔


(1)明治6年の予算問題

 政府における有力省といえば大蔵省です。明治の初年において既に「其の勢力は頗る強大」であり,「往々内閣の議を待たないで其の省務を専決するの風があり,為めに他省との間に摩擦を生ずることが一再ではなかつた」ため,「そこで之が匡正の一方策としてこに内閣の強化が企図され」,187352日の太政官職制の改正がされたとされています(山崎・前掲44‐46)。

 当時における大蔵省と他省との間の「摩擦」とは,司法省その他の省からの予算要求に対する大蔵省による大幅減額査定をめぐる紛争でしょうか(『歳月』の「長閥退治」の章の三。司法省からの要求額965744円が大蔵大輔(次官)井上馨によって45万円に削られたそうです。)。江藤新平は,後藤象二郎及び大木喬任と共に1873419日に参議に任じられていましたが,「内閣と大蔵省の間は愈々意思の疎通を缺くに至り,遂に後藤・江藤の2参議の如きは大蔵省の事務を調査せんことを主張するに至つた」ため,「於是時の大蔵大輔井上馨は大いに之を憤慨し,大蔵省三等出仕渋沢栄一と共に,財政に関し一編の建議書を上つて同年57日其の職を辞」することとなりました(山崎・前掲46頁。なお,『歳月』は,井上馨の辞任の日を7日ではなく14日としています。岩波『近代日本総合年表 第四版』によれば,7日に建議,14日に免官)。「当時此の建議書が一度世に伝はるや,朝野共に政府の財政に危懼の念を懐き議論大いに沸騰」ということでした(山崎・前掲46頁)。井上馨としては,政府は本当に財政難なのに他省はとんでもない額の予算要求をしてきて,仕方がないから削ると,上の内閣は他省の肩を持って,大蔵省は強大過ぎていかん,調査をするぞと言ってくるんだからやってられないよ,ということだったのでしょう。

 ここで江藤は,なおもしつこく井上馨を追撃します。すなわち,井上馨及び渋沢栄一は,財政に関する上記建議書を各種新聞紙に掲載させたのですが,井上「公と氷炭相容れなかつた江藤参議の如きは,之を黙過すべきで無い。彼は先頭に立つて公並びに渋沢を弾劾し,政府の秘事を故らに世に泄したのであるから,彼等を捕縛すべしなどと壮語した。かくて司法省当局者の活動となり」ということで(井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝 第一巻』(内外書籍・1933年)565頁),1873720日,司法省臨時裁判所は,次のような裁判を井上馨に申し渡します(同書567‐568頁)。



                          従四位 井上馨

 其方儀大蔵大輔在職中,兼テ御布告ノ旨ニ悖リ,渋沢栄一両名ノ奏議書各種新聞紙ヱ掲載致ス段,右科雑犯律違令ノ重キニ擬シ,懲役40日ノ閏刑禁錮40日ノ処,

特命ヲ以テ贖罪金3円申付ル。

  明治6720日               司法省臨時裁判所


 井上=渋沢の建議書公表によって国の財政状況が暴露されたことは,江藤の言うように「政府の秘事を故らに世に泄した」重い悪事であるのかどうか。「内閣は,国会及び国民に対し,定期に,少なくとも毎年1回,国の財政状況について報告しなければならない。」とする現行憲法の第91条を前提に考えると,いささか言い過ぎのように思われます。江藤は,人民の権利保護のチャンピオンであったと紹介されますが,国民の政治参加にはなお消極的であったということになるのでしょうか。これに対して,井上馨の伝記作家は,当然,財政状況に関する建議書が井上=渋沢によって公表されたこと及びそれがもたらした慣行を積極的に評価しており,「これより以後,政府は予算表を公示するを憚らなく為つたことは,真に美政といはねばならぬ」と述べています(『世外井上公伝 第一巻570頁)。


(2)尾去沢事件


ア 明治五年司法省第46号

 井上馨に対する江藤新平の追及第2弾として,『歳月』は「尾去沢事件」の章を設けて,大蔵大輔井上馨の「腐敗」と,司法卿江藤新平の「正義感」とを描きます。

 しかしながら,『歳月』は,飽くまでも小説であって,歴史書,いわんや法律書ではありません。「尾去沢事件」の章で大きな役割を果たす次の「司法省達第46号」なるもの(同章の一)は,実はフィクションなのです。



地方人民にして,官庁より迫害を受くる者は,進んで府県裁判所,もしくは司法省裁判所に出訴すべし。

――司法省達第46号――


 原典との照合はされなかったのでしょうか。特に「官庁より迫害」の「官庁」がいけません。これでは大蔵省その他の中央官庁も含まれることになってしまいます。(なお,井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝 第二巻』(内外書籍・1933年)66‐67頁に,江藤新平は「司法権の独立を主唱し,明治五年十一月二十八日に,司法省達第46号を以て,地方人民にして官庁等から不法の迫害を受けた者は,進んでその地方裁判所若しくは司法省裁判所へ出訴すべしとの令を出した」との記述があります。)

 実際の明治五年十一月二十八日司法省第46号は,次のような規定からなっています。

 


一 地方官及ヒ其戸長等ニテ太政官ノ御布告及ヒ諸省ノ布達ニ悖リ規則ヲ立或ハ処置ヲ為ス時ハ各人民 
華士族卒平民ヲ併セ称ス ヨリ其地方裁判所ヘ訴訟シ又ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラサル事

一 地方官及ヒ其戸長等ニテ各人民ヨリ願伺届等ニ付之ヲ壅閉スル時ハ各人民ヨリ其地方裁判所エ訴訟シ亦ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラサル事

一 各人民此地ヨリ彼地ヘ移住シ或ハ此地ヨリ彼地ヘ往来スルヲ地方官ニテ之ヲ抑制スル等人民ノ権利ヲ妨ル時ハ各人民ヨリ其地方ノ裁判所亦ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラサル事

一 太政官ノ御布告及ヒ諸省ノ布達ヲ地方官ニテ其隣県ノ地方掲示ノ日ヨリ10日ヲ過クルモ猶延滞布達セサル時ハ各人民ヨリ其地方ノ裁判所ヘ訴訟シ亦ハ司法省裁判所エ訴訟苦シカラサル事

一 太政官ノ御布告及ヒ諸省ノ布達ニ付地方官ニテ誤解等ノ故ヲ以テ右御布告布達ノ旨ニ悖ル説得書等ヲ頒布スル時ハ各人民ヨリ其地方裁判所亦ハ司法省裁判所エ訴訟苦シカラサル事

一 各人民ニテ地方裁判所及ヒ地方官ノ裁判ニ服セサル時ハ司法省裁判所ニ訴訟苦シカラサル事


 飽くまでも対象は,「地方官及ヒ其戸長等」の処分等にすぎません。また,「進んで出訴すべし」とまではされておらず,なおも「訴訟苦シカラ」ずです。『歳月』の「司法省達第46号」ほど開明的かつ進歩的なものではありません。

 (とはいえ,我が明治の人民は遠慮会釈なく,「明治五年司法省第46号達は凡そ地方官を訴ふる者皆裁判所に於てせしめたりしに,地方官吏を訴ふるの文書法廷に蝟集し,俄に司法官行政を牽制するの弊端を見るに至れり。」(『憲法義解』帝国憲法61条解説)という状態ではありましたが。)

 中央の大蔵省が,南部の商人・村井茂兵衛の「借金」証文(実は同人の南部藩主に対する貸金であるが,はばかって村井茂兵衛の南部藩主からの「借金」として証文を作成していた。廃藩置県により各藩の債権債務は中央政府が承継。)に基づき同人に「貸金」の返還を求め,支払がないために同人の財産を差し押さえて競売に付したこと(『歳月』「尾去沢事件」の章の二)が,地方官に係る明治五年司法省第46号の規定の対象に入るものとは,なかなかいい難いでしょう。

 しかしながら,『歳月』においては,村井茂兵衛は「司法省達第46号」に基づいて「司法裁判所」に出訴し,「司法裁判所」はそれを受理し,審査の結果訴えを却下することもなく,江藤司法卿以下は勇躍して大蔵省の調査を始めたことになっています。ちょっと変ではあります。刑事事件の捜査の端緒として村井茂兵衛の「出訴」が取り扱われたというのならば分かるのですが(そういうことなのでしょう。)。

 18751226日に至って,尾去沢事件に関して東京上等裁判所が井上馨に申し渡した裁判は,次のとおりです(『世外井上公伝 第二巻』104‐105頁)。



   申渡

                           従四位 井上馨

其方儀,大蔵大輔在職中,旧藩々外国負債取調の際,村井茂兵衛ヨリ取立ベキ金円多収スルトノ文案ニ連署セシ科,名例律同僚犯公罪条ニ依リ,KSの第三従トナシ,2等ヲ減ジ懲役2年ノ所,平民贖罪例図ニ照シ,贖罪金30円申付候事。

 但,多収シタル金25000円ハ,大蔵省ヨリ追徴シテ村井茂兵衛ヘ還付イタス間,其旨可相心得候事。

明治812月                     東京上等裁判所


 大蔵省の下僚のKSが25000円余計に村井茂兵衛から債権を回収する間違った文案を作成し,上申してきたのに対してうっかり連署してしまった,という監督不行き届きの罪で罰金30円ということです。本体部分は,確かに刑事裁判ですね。

 ただし書には,過払いを受けた25000円は大蔵省から追徴して村井茂兵衛に還付させると書いてありますが,これは,被告人井上馨に対する裁判ではありませんから,いわば無用のことながら参考までに書いておいたということでしょうか。いずれにせよ,村井茂兵衛と南部藩との金銭貸借関係が私法上の関係であったのであれば,南部藩の当該債権債務を承継した政府と相手方村井茂兵衛との間の関係も私法関係ということになるはずですが,明治五年司法省第46号は,なお,行政裁判の制度の嚆矢とされています。これは,むしろ,人民ヨリ院省使府県ニ対スル訴訟仮規則(明治792日司法省第24号達)1条の「院省使府県ノ会計及ヒ金銀貸借ニ関シタル事」に係る「一般公同ニアラサル人民一個ノ訴訟」として「司法官ニ於テ受理」されたものでしょう。

 主犯である下僚KSに対する裁判は,次のとおりでした(『世外井上公伝 第二巻』105‐106頁)。25000円の過剰請求は「過誤失錯ニ出ル」ものとされており,大蔵省の「陰謀」のようなものの存在は認定されなかったわけです。



                            紙幣大属 KS

其方儀,大蔵省十等出仕ニテ判理局勤務中,旧藩々外国負債取調ノ際,村井茂兵衛ヨリ旧盛岡藩ヘ係ル貸上ゲ金ノ内ヘ償却シタル25000円,同藩ヨリ貸付ト見做シ徴収セシ科,職制律出納有違条ニ依リ,座賍ヲ以テ論ジ懲役3年ノ所,過誤失錯ニ出ルヲ以テ,官吏公罪罰俸例図ニ照シ,罰俸3箇月申付候事。

 但,村井茂兵衛稼ギ尾去沢銅山附属品買上ゲ代価同人承諾証取置カザルハ,違式ノ軽ニ問ヒ,懲役10日。

 以下略


イ 「辞めても辞めぬ」

 ところが,『歳月』の「尾去沢事件」の章には,またほかに,分かりづらいところがあります。

 明治五年十一月二十八日の司法省第46号らしき「司法省達第46号」を読んだ村井茂兵衛が出訴し,それを受けて司法省が調査を行っていたところ,井上馨は「うかつに」にも「司法省がその能力をあげて自分を監視しているのも気づかず,尾去沢銅山の今後の経営について準備をすすめ」,同鉱山を視察することにして「馬車をつらねて東京を出発したのが88日」,同月「29日,問題の尾去沢鉱山に入」り,同所に「従四位井上馨所有地」との榜柱を立て,「翌月28日」に帰京,江藤新平は「従四位大蔵大輔」の「現職の顕官」である井上馨を東京において拘引すべく内閣の会議に案件をかけたのですが,議事は紛糾,副島種臣が「井上馨は,辞職する」,「君はこれをもってなっとくせよ」と江藤を説得して,結局本件はうやむやになった,と『歳月』では物語られています(「尾去沢事件」の章の三)。

 「従四位大蔵大輔」の「現職の顕官」である井上馨の拘引問題が内閣で問題になったのは,明治6年(1873年)の9月から10月にかけてのことのようです。当時,井上馨は,「辞職して平人にくだる」べき官職を持っていたことになっています。しかし,おかしいですね。井上馨は,前記のとおり,同年5月に既に大蔵大輔を辞職していたのですから。

 司馬遼太郎は,聞多井上馨の絶倫の生命力について『死んでも死なぬ』という作品を書いていますが,『歳月』においては,井上馨は「辞めても辞めぬ」怪人として描かれたということになります。

 堀雅明『井上馨開明的ナショナリズム』(弦書房・2013年)によれば,井上馨が18735月に大蔵大輔を辞めた理由としては尾去沢鉱山をめぐる非難が既にあったということがあり,また,同年8月に確かに井上馨は尾去沢鉱山を視察しているけれども,これはやはり退官後のことであるということです。当該視察の際,井上馨は釜石鉱山も見学したところ,「鉱業はなるほど大蔵省の管轄であったが,井上の随員には本省の鉱山技師がひとりも加わっておらず,かれをとりまいているのは,小野組の番頭やえたいの知れぬ利権屋ふうの連中ばかり」であって,「釜石の技師たちは不審におもった」そうですが(『歳月』「尾去沢事件」の章の三),大蔵省を辞めてしまっている以上はむしろ当然のことで,釜石の技師たちのところには,同年5月の井上馨大蔵大輔辞任のニュースは届いていなかったのでしょう。

 ところで,堀氏の著作からは,なお,井上馨の大蔵大輔辞任は,国家の財政の問題という堂々たる理由ではなく,やはり尾去沢事件のスキャンダルによるものだという印象を受けるのですが,井上馨側の主張では,尾去沢事件を江藤がぶつけてきたのは井上退官後のことであり,かつ,江藤は村井茂兵衛の訴えを待たずに,それ以前から井上をつけ狙っていたということになっています。

 すなわち,まず,明治五年司法省第46号に基づく村井茂兵衛の出訴は,明治「618731218日を以て,司法省裁判所検事局に出訴」ということだったようで(『世外井上公伝 第二巻』67),これでは,征韓論政変による同年10月の江藤の下野後のことになってしまいます。

 また,前々から「司法卿江藤新平は尾去沢銅山が収公されたことを聞くや,予て井上馨公とは快からず常に公の間隙を狙つてゐたことであるから,機乗ずべしとなし,司法大丞兼大検事警保頭島本仲道に内命を下して,密かに本件の内容を調査せしめつあつた」ところです(『世外井上公伝 第二巻』65)。

 問題の太政官における尾去沢事件に係る井上馨弾劾は,『歳月』から示唆される前後関係とは異なり,18735月の井上馨の大蔵大輔辞任後だったようです。いわく,



江藤は公を拘引する議を太政官に持出した,併し三条・木戸の回護もあつて,その事は行はれなかつた。もとより公を拘引するに足るほどの明確な証拠とては有らう筈は無かつたからである。大隈侯八十五年史には,該事件が司法裁判所の手に移つたのを
618735月としてある。然らば公が辞職を聞届けられた月であるから,江藤は公が重職を去るのを待つてゐて,こに本件を公然告発することに為つたのではないかと思はれる。而してこれは村井から訴状が出たので始めたものではない。(『世外井上公伝 第二巻』66


 『歳月』の江藤新平とはまた少し違った印象の江藤新平が,ここにはいます。

 (ところで,明治初めの村井家当主・京助村井茂兵衛は,既に1873523日に享年53歳(文政四年生まれ)で大阪で没していますから,187312月に出訴した茂兵衛はその次の代の茂兵衛でしょう。なお,村井京助は,南部藩内では実はむしろ長州派で,嘉永年間に盛岡を訪問した吉田松陰は京助と歓談していますし,戊辰戦争の時には,奥羽越列藩同盟派の家老・楢山佐渡と所見を異にする勤皇派南部藩士を京助が京都「三条通の長藩邸に潜伏せしめたと言はれ」ています。(『興亜の礎石:近世尊皇興亜先覚者列伝』(大政翼賛会岩手県支部・1944年)48‐50頁)『歳月』において江藤司法卿が会った「村井茂兵衛」は「齢は45だという」とされていますから年齢が合わず,京助村井茂兵衛ではないことになります。)


4 締めくくり:大阪会議の主役はだれか

 1875年の大阪会議をうけた大審院の設置による司法の行政からの分離と,江藤新平司法卿下での「司法権の独立」との関係について図らずも論ずることとなってしまった本稿の締めとしては,小説風に,「江藤の言う「司法権の独立」など,実は奴の権力欲の隠れ蓑にすぎなかったのだよ。まったく,奴にはひどい目に遭ったが・・・しかし,江藤のあの梟首の写真・・・一番恐ろしいのは大久保参議だよなぁ・・・タイシンインねぇ・・・うむ,司法権の行政からの真の独立をもたらすことになった欧化の本当の貢献者は,実は,木戸,大久保,板垣という難しい大物たちを何とかまとめて,大阪会議を開くべく奔走した不肖この我輩なのだよ。」との,酒盃片手の元大蔵大輔・井上馨の独白にしましょうか。それともやはり,「長州ぎらいであるはずの江藤にどういうわけか好意をもちつづけていた」とされる木戸孝允(『歳月』「長崎の宿」の章の一)こそが,江藤の遺志を継いで,大阪会議を通じて司法の行政からの分離をもたらした立役者であった,という見解を表明しておくことにしましょうか。大阪会議の舞台となった料亭・加賀伊も,木戸の揮毫の「花外楼」が気に入ったようですし・・・

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 東京都港区西麻布の長谷寺(ちょうこくじ)にある従一位大勲位侯爵井上馨の墓

 


付録:本文と関係の無いつけたり

 大審院については,タイシンインと読んでもダイシンインと読んでも指し示すものは同じでした。

 しかし,


 大陸軍


 の場合はそうはいきません。

 ダイリクグンであれば,ナポレオンのグラン・ダルメー(Grande Armée),タイリクグンであればジョージ・ワシントン率いるコンティネンタル・アーミー(Continental Army)ということになります。



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ペンシルヴァニア州ヴァレー・フォージ(
Valley Forge, PA)のワシントンの旧司令本部(苦しい対英独立戦争を戦うアメリカ諸邦の大陸軍は,フィラデルフィア陥落後の1777-1778年の冬をヴァレー・フォージの宿営地で耐え忍び,かつ,自らを鍛え上げました。)

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