Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

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 内閣総理大臣官邸ホームページの「内閣総理大臣一覧」の表を見ると,昭和15年(1940年)7月22日に昭和天皇によって2度目に内閣総理大臣に任じられ,翌年昭和16年(1941年)1016日に内閣総辞職して政権を投げ出すこととなった近衛文麿を首班とする内閣は,その間昭和16年(1941年)7月18日を境にして,それ以前が第2次近衛内閣,それ以後同年1018日の東条英機内閣の成立までが第3次近衛内閣であるものとされています。これに対して,大正13年(1924年)6月11日に摂政宮裕仁親王によって内閣総理大臣に任じられた加藤高明は,その死亡の日である大正15年(1926年)1月28日まで一貫して一つの加藤高明内閣の内閣総理大臣であり続けていたものとされています。

http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html

 この取扱いについては,我が国の近代史に詳しい向きから疑問を呈せられることがあります。

 

ものの本には,大正14年(1925年)8月2日以後を第2次加藤高明内閣とし,それ以前を第1次加藤高明内閣としているものがあるが,内閣総理大臣官邸ホームページはそのように取り扱っていないのはなぜか。

 

 内閣総理大臣官邸ホームページにおける「内閣総理大臣一覧」の表の記載を所与のものとしていた者にとっては意表を衝かれる質問です。「内閣総理大臣官房の人事課がそう言ったのだ。」だけでは回答にはならないでしょう。

そこで,そもそも1925年8月2日に加藤高明内閣に何が起こったのかから調べなければなりません。

 宮内庁の『昭和天皇実録 第四』(2015年・東京書籍)の1925年7月30日の項を見ると,当時の摂政宮裕仁親王は,「午後4時,内閣総理大臣加藤高明参殿につき謁を賜い,税制整理案をめぐり,政友会の2閣僚の反対により閣内不一致に陥った状況につき,奏上を受けられる。・・・政局紛糾につき,明日の日光行啓はお取り止めとなる。」とあって(295頁),翌31日については次のとおり(同頁)。

 

 31 金曜日 午前1110分,内閣総理大臣加藤高明に謁を賜い,国務大臣全員の辞表の捧呈を受けられる。同25分,内大臣牧野伸顕をお召しになり,爾後の措置につき御下問になり,牧野は公爵西園寺公望の意見を徴すべき旨を奉答する。・・・東宮侍従長入江為守をお召しになり,御殿場の西園寺の許へ赴くことを命じられる。入江は正午出発,西園寺と面会するも,西園寺は,時局に鑑み,熟慮の間しばらく奉答を猶予せられたき旨を回答する。午後9時45分,入江は摂政に復命する。

 

 これは,加藤高明内閣総辞職ということでしょう。

 しかして,それに続く1925年8月1日には「午後5時10分,内閣総理大臣加藤高明をお召しになり,加藤に内閣の再組織を命じられる。加藤は,熟慮の上奉答する旨を言上し,退下する」ということになり(『昭和天皇実録 第四』297頁),同月2日の日曜日に「〔午前10時〕35分内閣総理大臣加藤高明参殿につき,内謁見所において謁を賜い,大命拝受の言上並びに閣員名簿の捧呈を受けられる。」(同頁)という運びになっています。

「大正13年〔1924年〕6月清浦内閣の後を襲つた加藤高明内閣(大正13年6月より同14年〔1925年〕8月まで)は・・・所謂(いわゆる)「護憲三派」(憲政会,政友会,国民党)の聯立内閣であつたところ,「大正14年8月,護憲三派の聯立が破れて,加藤高明が再び組閣の命を受けた」ということになるわけですから(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)281頁),確かに,政治的に加藤高明内閣の性格は変化し,第1次加藤高明内閣から第2次加藤高明内閣への交替があったといってもよいようではあります。

 どうしたものでしょうか。加藤高明内閣総理大臣の内閣に係る1925年8月2日の取扱い(同年7月31日に国務大臣全員の辞表の捧呈があったものの,内閣の交替がなかったものとする。)と近衛文麿内閣総理大臣の内閣に係る1941年7月18日の取扱い(以下に見るように同月16日に全閣僚の辞表捧呈があったところ,内閣総理大臣は変わらずとも内閣の交替があったものとする。)との違いはどう説明されるものか。

安直にWikipediaでもって「加藤高明」及び「加藤高明内閣」について調べると,ネット上の賢者らは,1941年7月18日の第2次近衛内閣から第3次近衛内閣への交替の際においては「この時には辞表の差し戻しがなく」,又「辞表差し戻しが行われておらず,再度の首相拝命扱いとなっている」ものとしています。すなわち,1925年7月31日に捧呈された加藤高明内閣総理大臣の辞表は摂政宮裕仁親王から差し戻されたのに対して,1941年7月16日に捧呈された近衛文麿内閣総理大臣の辞表は昭和天皇から差し戻されることなくそのまま受理された,この点に両者の違いがあるのだ,ということのようです。

なるほど。

加藤高明内閣総理大臣の前例に係る『昭和天皇実録 第四』1925年8月2日の記載は,次のとおり。

 

・・・〔午前10時〕40分,内謁見所において加藤総理に謁を賜い,総理の辞表をお下げ戻しの上,閣僚人事の内奏を受けられる。1140分,狩ノ間において加藤総理侍立のもと親任式を行われ,内閣書記官長江木翼を司法大臣に,大蔵政務次官早速整爾を農林大臣に,内務政務次官片岡直温を商工大臣に任じられ,ついで留任閣僚の辞表を下げ渡される。(297298頁。下線は筆者)

 

辞表の提出だけでは内閣総理大臣辞職の効力は生じていなかったということでしょう。

「国務大臣の任免は,憲法上 天皇の大権事項に属する。従つて内閣総理大臣の罷免――内閣の退陣は,一に聖旨に存する。例へば内閣総理大臣が,闕下に伏して骸骨を乞ひ奉るが如き場合に於ても,其の之を聴許し給ふと否とは,全く天皇の御自由である。」とされていました(山崎326頁)。1925年7月31日に加藤高明内閣総理大臣は摂政宮裕仁親王に辞表を捧呈して骸骨を乞うたものの,聴許せられなかったということになるわけです。(なお,「骸骨を乞う」とは,三省堂『新明解国語辞典 第五版』によれば,「在任中,主君に捧げた身の残骸をもらい受ける意で,高官が辞職を願い出ること」とあります。)

それでは1941年7月18日の場合はどうであったのでしょうか。

まず,同15日,昭和天皇は「午後4時15分,内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜う。首相は,大本営政府連絡懇談会における日米諒解案の交渉継続の決定経緯を説明の上,昨14日夜,外相〔松岡洋右〕が自分の意向に反し,独断にて国務長官のオーラル・ステートメントに対する拒否回答のみを駐米大使に電訓したこと,さらに米国には未提示の日本側修正対案をドイツ側に内報する挙に出たことを問題視し,本日の閣議が終了した後,首内陸海四相協議の結果,外相更迭又は内閣総辞職との結論に至りし旨を奏上する。天皇は,外相のみ更迭の可否を御下問になり,首相より慎重熟慮の上善処する旨の奉答を受けられる。」という状況だったところ(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(2016年・東京書籍)429頁),同月16日の項には次のようにあります(同431頁・432頁)。

 

・・・午後4時15分,再び内大臣〔木戸幸一〕に謁を賜い,内閣が午後5時30分より臨時閣議を開き,総辞職を決定する旨の情報をお聞きになる。

・・・

午後9時頃,内閣総理大臣近衛文麿参邸〔葉山御用邸〕につき,謁を賜い,全閣僚の辞表捧呈を受けられる。首相に対し,何分の沙汰あるまで国務を執るよう仰せになる。・・・

 

同月17日には事態は次のように推移します(『昭和天皇実録 第八』432頁)。

 

午後3時30分,内大臣木戸幸一をお召しになる。内大臣より,本日午後1時,枢密院議長〔原嘉道〕及び首相経験者男爵若槻礼次郎・海軍大将岡田啓介・従二位広田弘毅・陸軍大将林銑十郎・同阿部信行・海軍大将米内光政が西溜ノ間に参集し,全員一致を以て公爵近衛文麿を後継首班に推薦した旨の言上を受けられる。・・・5時15分,参内の公爵近衛文麿内閣総理大臣に謁を賜い,内閣組織を命じられる。

 

そしていよいよ1941年7月18日。

 

午後4時23分,内大臣木戸幸一をお召しになり,組閣の状況を御聴取になる。7時13分,御学問所において公爵近衛文麿内閣総理大臣に謁を賜い,閣員名簿の捧呈を受けられる。御下問の後,閣員名簿を御聴許になる。ついで内大臣をお召しになり,閣員名簿の閲覧を許され,同30分,閣僚人事に関する内閣上奏書類を御裁可になる。8時50分,近衛をお召しになり,留任となる首相及び陸軍大臣東条英機・海軍大臣及川古志郎・文部大臣橋田邦彦・逓信大臣村田省蔵・農林大臣井野碩哉・国務大臣兼企画院総裁鈴木貞一の辞表を下げ渡される。9時,鳳凰ノ間において親任式を行われ,商工大臣豊田貞次郎海軍大将を外務大臣兼拓務大臣に,従三位勲二等田辺治通を内務大臣に,国務大臣小倉正恒を大蔵大臣に,海軍中将左近司政三を商工大臣に,逓信大臣村田省蔵を兼鉄道大臣に,陸軍軍医中将小泉親彦を厚生大臣に,内務大臣平沼騏一郎を国務大臣に,司法大臣柳川平助陸軍中将を国務大臣にそれぞれ任じられる。また,内閣総理大臣近衛文麿を兼司法大臣に任じられる。(『昭和天皇実録 第八』433434頁。下線は筆者)

 

「辞表差し戻しが行われておらず,再度の首相拝命扱いとなっている」ではなく,内閣総理大臣辞任の辞表は,骸骨は返さないよ留任だよと近衛文麿に下げ渡され,また,近衛は兼司法大臣に任じられてはいるものの改めて内閣総理大臣に任じられているものではありません。せっかくのWikipediaにおける理由付けではありましたが,なかなか成り立たないものであるようです。加藤高明内閣に係る1925年8月2日の前例どおり,1941年7月18日には第2次近衛内閣は一部閣僚の更迭はあったもののそのまま継続したものと取り扱うべきもののようではあります。山崎丹照法制局参事官は,その『内閣制度の研究』(1942年)の「附録」の「歴代内閣一覧表」において,加藤高明内閣は1925年8月2日の前後を通じて一つの内閣とする一方(附録16頁),1941年7月18日以前の内閣を「第二次近衛内閣」としつつ(附録26頁)同日以後の内閣を「所謂第三次近衛内閣」としていますが(附録27頁),ここに「所謂(いわゆる)」とあることに大いに注目すべきでしょう。

法制局参事官的な厳格な法制思考においては,「所謂第三次近衛内閣」は,実は法的には「第2次近衛内閣改造内閣」であるということであるようです。

それでは,なぜ「第三次近衛内閣」という呼称が生まれたのでしょうか。

1941年7月162315分の段階で,次のように勇ましい「政府発表」をしてしまったからでしょうか(山崎356頁)。

 

現内閣は昨夏大命を拝して以来閣内一致内外諸般の施策に最善の努力を致し来つたのであるが,変転極まりなき世界の情勢に善処してますます国策の遂行を活溌ならしめん為めには,先づ国内態勢の急速なる整備強化を必要とし,従つて内閣の構成も亦一大刷新を加ふるの要あることを痛感し,こゝに内閣総辞職を決行することゝなり,近衛内閣総理大臣は本日の臨時閣議に於て閣僚の辞表を取り纏め午後9時葉山御用邸に伺候して,之を御前に捧呈した。陛下より何分の沙汰あるまで国務を見よとの優諚を賜はつたので,近衛内閣総理大臣は恐懼して御前を退下し,待機中の各閣僚に報告した。(昭和16年7月17日 朝日新聞所載)

 

 閣内問題児である外務大臣一人を辞めさせることに手を焼いて,閣僚総出で「一緒に辞めよう」と偽装心中まがいの大げさな内閣総辞職をしたものの,お騒がせしましたが実は閣内痴話げんかの末の単なる内閣改造でしたではいかにも恰好が悪いので,これは「国内態勢の急速なる整備強化を必要とし,従つて内閣の構成も亦一大刷新を加ふるの要あることを痛感し,こゝに内閣総辞職を決行」した結果の新内閣なのだ,最早古い第2次近衛内閣ではないのだ,ヴァージョン・アップされ,「一大刷新」された「第三次近衛内閣」なのだ,と内閣自ら言い張ったのだということでしょうか。

 これに対して加藤高明としては,政友会の連中が何と言って騒ごうともやはり摂政宮殿下の信任は我にありなのだ,「護憲三派内閣」云々よりも先に飽くまで加藤高明内閣であって,それは一貫していたのだ,と自己規定した方が,元気が出たものではないのでしょうか。

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(Champagne, France)


 19181111日午前11時に連合国とドイツとの間の休戦協定が発効し,第一次世界大戦の戦闘は終了しました。

昨日はその記念日でした。

1111日を休日として今も記念式典を行うフランスにとっては,第一次世界大戦こそが悲惨な大戦争であって,第二次世界大戦2年目の1940年にフランスがドイツにいわばあっさりと降参してしまったのは,ヴェルサイユ条約の恨みを抱いていたドイツとは異なり,第一次世界大戦でもう戦争は懲り懲りになっていたからだ,と以前英国の歴史家の本で読んだ記憶があります。

今でもフランスのシャンパーニュ地方の田舎道をドライブすると,白い墓標の群れが各所に現われ,町々の広場にはフランス軍兵士の像が東方をにらんで立っているのが見られます。

 第一次世界大戦には,日本も連合国側に立って参戦しました。中学校・高等学校で教わったところを思い返すと,日英同盟のよしみで参戦した日本は,少ない犠牲で山東省青島のドイツ租借地及びドイツ領南洋群島を占領し,他方国内では戦争景気で成金続出,戦後のパリ講和会議では,欧州正面での苛烈な戦闘には参加しなかったにもかかわらず,米国,英国,フランス及びイタリアと並んで,五大国の一つに数えられるに至った,というようなところでしょうか。

 

 日本の対独宣戦の理由に関しては,大正3年(1914年)8月23日付けの大正天皇の詔書は次のように述べています。


  ……朕ハ深ク現時欧州戦乱ノ殃禍ヲ憂ヒ専ラ局外中立ヲ恪守シ以テ東洋ノ平和ヲ保持スルヲ念トセリ此ノ時ニ方リ独逸国ノ行動ハ遂ニ朕ノ同盟国タル大不列顛国ヲシテ戦端ヲ開クノ已ムナキニ至ラシメ其ノ租借地タル膠州湾ニ於テモ亦日夜戦備ヲ修メ其ノ艦隊荐ニ東亜ノ海洋ニ出没シテ帝国及与国ノ通商貿易為ニ威圧ヲ受ケ極東ノ平和ハ正ニ危殆ニ瀕セリ是ニ於テ朕ノ政府ト大不列顛国皇帝陛下ノ政府トハ相互隔意ナキ協議ヲ遂ケ両国政府ハ同盟協約ノ予期セル全般ノ利益ヲ防護スルカ為必要ナル措置ヲ執ルニ一致シタリ朕ハ此ノ目的ヲ達セムトスルニ当リ尚努メテ平和ノ手段ヲ悉サムコトヲ欲シ先ツ朕ノ政府ヲシテ誠意ヲ以テ独逸帝国政府ニ勧告スル所アラシメタリ然レトモ所定ノ期日ニ及フモ朕ノ政府ハ終ニ其ノ応諾ノ回牒ヲ得ルニ至ラス……


ドイツ艦隊がしきりに「東亜ノ海洋ニ出没」シテ「帝国及与国ノ通商貿易」を「威圧」したために「極東ノ平和」が「正ニ危殆ニ瀕」したことが日本の対独開戦の直接の理由であり,攻撃目標はまず「東亜ノ海洋」のドイツ艦隊及びその根拠地であるということでしょうか。


 当時の第三回日英同盟協約(1911713日ロンドンで調印。「日本外交文書」明治44年第12110377頁以下))は,その目的を「東亜及印度ノ地域ニ於ケル全局ノ平和ヲ確保スルコト」,「清帝国ノ独立及領土保全並清国ニ於ケル列国ノ商工業ニ対スル機会均等主義ヲ確実ニシ以テ清国ニ於ケル列国ノ共通利益ヲ維持スルコト」及び「東亜及印度ノ地域ニ於ケル両締盟国ノ領土権ヲ保持シ並該地域ニ於ケル両締盟国ノ特殊利益ヲ防護スルコト」と定めていました(前文)。

したがって,「両締盟国ノ一方カ挑発スルコトナクシテ(unprovoked)一国若ハ数国ヨリ攻撃(attack)ヲ受ケタルニ因リ又ハ一国若ハ数国ノ侵略的行動(aggressive action)ニ因リ該締盟国ニ於テ本協約前文ニ記述セル其ノ領土権又ハ特殊利益ヲ防護セムカ為交戦スルニ至リタルトキハ前記ノ攻撃又ハ侵略的行動カ何レノ地ニ於テ発生スルヲ問ハス他ノ一方ノ締盟国ハ直ニ(will at once)来リテ其ノ同盟国ニ援助ヲ与ヘ協同戦闘ニ当リ講和モ亦双方合意ノ上ニ於テ之ヲ為スヘシ」との規定(同協約2条)があったものの,東アジア及びインドの地域(the regions of Eastern Asia and of India)以外の地域,すなわち欧州等は,その守備範囲外であったところです。


 しかし,日本海軍は,地中海にまで駆逐艦等による特務艦隊を派遣して,連合国から感謝されています。また,陸軍についても対独苦戦の連合諸国から累次の欧州派兵要請が我が国政府にあり,歴史のifとしては,シャンパーニュの美しくなだらかな丘陵地帯のあちらこちらに,日本兵の墓標が並んでいるという可能性もあったところでした。


 これら連合国からの欧州派兵要請に対して19141114日,時の大隈内閣の外務大臣加藤高明は,駐日英国大使に派兵不可の旨覚書を手交しています(「日本外交文書」大正3年第310621643頁以下)参照)。


 当該加藤メモランダムが,昨今の政治の動きをめぐる最近の論説において,次のように紹介されています。



  いったん国防の役割を越えた国防軍が,それこそ地球の裏側まで戦闘行為をしに行くことを押しとどめる力量を,日本の議会政治が発揮できるのか。対イラク戦争でのブッシュ政権への協力についての総括をも果たしていない中で,9条の歯止めを取り払おうという主張はあまりに無責任ではないでしょうか。かつて第一次大戦の開戦直後,どこまで積極的に連合諸国側に立ってドイツと戦うかの真剣な議論の中で,当時の外務大臣は,日英同盟の相手方の出兵要請に対し,「帝国軍隊ノ唯一ノ目的ハ国防ニ在ルカ故ニ,国防ノ性質ヲ完備セサル目的ノ為帝国軍隊ヲ遠ク国外ニ出征セシムルコトハ其組織ノ根本タル主義ト相容レサル所」という覚書を英国大使に手交しています(加藤高明)。日米同盟一本槍の今の政治家たちと違って,そのような認識を持ちながらも,その後の大日本帝国がどんな途に突き進んだか,痛切な教訓ではないでしょうか。(樋口陽一「なぜ立憲主義を破壊しようとするのか―現状を見定めることの責任」『世界』201312月号66-67頁)



 日本はかつて,大日本帝国憲法下において,
“The dispatch of the Imperial army far away from home for purposes other than those partaking of the nature of national defence is  .incompatible with the fundamental principle of its system and was never contemplated in its organization.” との主義を,世界に対して明らかにしていたところでありました。


 それでは特務艦隊の地中海派遣はどのように説明されたのでしょうか。1917年6月26日,第39回帝国議会衆議院本会議において,島田三郎議員の問いに対し,加藤友三郎海軍大臣は,「我国旗ヲ樹ッテ居リマストコロノ船舶ガ,欧洲海面ニ於テ沈没ヲ致シマスル数ガ漸次殖エテ」いるので「軍事当局者ト致シマシテハ,是等我船舶ヲ保護致シマスル上ニ,多少ノ考慮ヲ費サナクテハナラナイ」と考え「腹案」を立てていたところ,「英国政府ヨリ地中海方面ニ或一隊ノ派遣方ノ交渉」が「敵ノ潜水艦ニ対スル作戦上必要」であるところからあったため,「或一隊ヲ地中海ニ派遣シタト云フ次第デゴザイマス」と答弁しており,「聯合作戦ヲ実施」するためという理由のみをもっては説明していなかったところです(第39回帝国議会衆議院議事速記録316-17頁)。本野一郎外務大臣も,「共同作戦ノ必要」に加えて「帝国ノ航海ノ保護ノ必要」を特務艦隊派遣の理由として挙げています(同速記録17頁)。「共同作戦ノ必要」だけでは,島田前衆議院議長以下の議会政治家たちを納得させられなかったということでしょう。


 日本が戦間期「いわゆるワシントン体制の枠組みの中で逐次孤立」していったことについて,「一次大戦における欧州派兵問題もその原因の一つではあるまいか」,「言を左右にして小さな艦隊しか援軍を派遣しなかった「頼りにならない同盟国」日本と,一度参戦するや2百万の将兵を始め陸海軍の総力を挙げて救援に馳せ参じた「頼りになる同盟国」アメリカとの「信頼性の差」は影響していないか」とする意見があります(永井煥生「第一次世界大戦における欧州戦線派兵要求と日本の対応」防衛研究所戦史部年報1号(19983月)18頁)。


 しかし,米国は,第一次世界大戦で約12万人の戦死者(American Battle Monuments Commissionのウェッブサイトによれば116,516人)を出し,戦間期は孤立主義に回帰。国際連盟にも加盟していません。欧州で第二次世界大戦が始まり,フランスが敗れ,英国が苦戦していても,「頼りになる同盟国」は,なお欧州戦線派兵を行いませんでした。苦戦中の英国宰相チャーチルがこれで勝ったと歓喜したのは,実は日本の真珠湾攻撃(1941127日(ハワイ現地時間))のニュースを聞いた時でした。

19411211日に,日独伊三国同盟条約の当事国であるドイツ及びイタリアが米国に対して宣戦。これは,ヒトラーの失敗だといわれています。ドイツの対米国宣戦通告文では,米国軍によるドイツ潜水艦の攻撃及びドイツ商船の拿捕を挙げて,米国がドイツに対してopen acts of warを行っているものと主張していますが,同日ヒトラーがドイツ国会議事堂でした長い演説が同じ月の30日付けで日独旬刊社出版局から『一千年の歴史を作らん』(「ヒトラー総統の対米宣戦布告の大演説」)との題名で出版されているところ,そこには次のようなくだりがあります。いわく,「茲に於いて独伊両国は,遂ひに,1940年9月27日附の三国条約の規定に遵ひ(getreu den Bestimmungen des  Dreimaechtepakts vom 27. September 1940),日本と相携へて,それら三国とその国民とを防衛し,且つそれに依つてその自由と独立とを維持せんがために,アメリカ合衆国と英国とに対する戦ひを開始するの止むなきに至つたのである(haben...sich...gezwungen gesehen)。」と(61頁。ドイツ文はWorld Future Fundのウェッブページから)。)


 また,12万の戦死者数は,日露戦争における我が戦死者数約8万4千人を大きく超えるものです(約84千人は,アジア歴史資料センターの「日露戦争特別展」ウェッブサイトの「はやわかり」ウェッブページが紹介する数字。当該サイトの「統計」ウェッブページには別に戦死者数55,655人という数字が出ています。)。旅順で苦戦中の乃木希典将軍の留守邸が投石を受け,ポーツマス条約の講和条件が「勝者」にとって不十分であるとして日比谷で焼き打ち事件が起こったのは,第一次世界大戦の当時,遠い昔の話ではありませんでした。


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(ヴェルダンの地下要塞見学コース)


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