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五月雨式ですが(しかし,blogという発表形式は本来こうしたものでしょう。),本稿は,前稿である「1818年のオレゴン協定3条と樺太島仮規則との比較に関して」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081497363.html)の続稿となります。


DSCF1412(A Benson Fountain)
 
a fountain from Oregon (in Sapporo, Hokkaido)


改めて確認すると,1818年の米英条約の第3条(オレゴン協定)は次のとおりです。

 

ARTICLE III. It is agreed, that any Country that may be claimed by either Party on the North West Coast of America, Westward of the Stony Mountains, shall, together with it's Harbours, Bays, and Creeks, and the Navigation of all Rivers within the same, be free and open, for the term of ten Years from the date of the Signature of the present Convention, to the Vessels, Citizens, and Subjects of the Two Powers: it being well understood, that this Agreement is not to be construed to the Prejudice of any Claim, which either of the Two High Contracting Parties may have to any part of the said Country, nor shall it be taken to affect the Claims of any other Power or State to any part of the said Country; the only Object of The High Contracting Parties, in that respect, being to prevent disputes and differences amongst Themselves.

  (ストーニー山脈から西側のアメリカ北西岸の地方であって,いずれかの締約国によって領有が主張されることのある地方は,その港,湾及び入江並びに当該地方内の全ての河川の航行を含めて,本協定の調印の日から10年間,両国の船舶,市民及び臣民に対して自由かつ開かれたもの(free and open)とされる。ただし,この合意については,当該地方のどの部分についても,それについて条約締結両国のうちの一が有することのある領有権の主張の当否について予断を与えるものとして解釈されるべきものではなく,かつ,当該地方のどの部分についても,他のいずれかの列強又は国家による領有権の主張について影響を与えるべきものではない旨十分の理解がされているものである。当該事項に係る条約締結両国の唯一の目的は,両国間における論争及び紛争を防止することである。)

 

米国の北西方面たるオレゴン地方(カントリー)における同国の領土権主張に関する1818年のオレゴン協定,1819年の米西間アダムズ=オニス協定及び1824年の米露条約は,いずれも米国モンロー政権(1817-1825年)下で締結されたものです。しかして,当該地方(カントリー)に係る米国の領有権原については,1818年のオレゴン協定との関係で,同政権の国務長官であったジョン・クインジー・アダムズ(JQA)が,184629日(この日,1767711日生まれのJQA78歳でした。),米国連邦代議院(下院)において,本稿でこれから御紹介するように述べていたところです(cf. James Traub, John Quincy Adams: militant spirit (New York, Basic Books, 2016): pp.512-513. ただし,同所でトラウブが「184529日」と記しているのは1年違いの誤りです。)。(ちなみにJQAは,第6代米国大統領を1期のみ(1825-1829年)務めて7代目のアンドリュー・ジャクソン(20ドル札)に敗れて下野した後,1830126日にマサチューセッツ州プリマスから連邦代議員(下院議員)に選出され(Traub: p.390),1848223日に同議院議長室内で死亡するまで,2年ごとに当選を重ねて(選挙区は変動します。)連邦代議員職に在任していました。JQAについては,「いわゆるアダムズ方式に関して」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078277830.html)も御参照ください。)

そこにおいてJQAは,1818年の米英オレゴン協定3条の意味するところに関し,「当該協定を共同占領(joint occupation)の協定であると宣明する誤称」があるとした上で,「委員長,それは共同占領の協定ではありません。それは占領NON-occupation)の協定,すなわち,両当事国において,いずれの当事国も,不定の期間――最初は10年間,次には一方当事国から相手方当事国に対して当該協定は終了せられるべしとの申入れがされるまでの間――当該地域(テリトリー)を占領しない(will not occupy)との約束なのであります。」と述べ(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.340 (right column)),その後再び「それは共同占領でありましょうか,各別の占領でありましょうか?(Is that joint occupation, or separate occupation?)」と自問した上で,「そのようなものではありません。それは,占領(non-occupation)であります。当該地域は,全世界に対して,自由かつ開かれたものたるべきなのであります。」と言明しています(ditto: p.342 (left column))。1818年当時の担当国務長官閣下御自身は,同年の当該条約によってオレゴン地方が米英の「共同領有」(『世界史小辞典』(山川出版社・第2版第19刷(1979年))113頁(有賀貞執筆)参照)になったものとはつゆ思っていなかったわけです。また,北緯42度以北の北米大陸における領有権をスペインが失う1819年のアダムズ=オニス協定の前のものであったところの1818年条約3条にいう「他のいずれかの列強又は国家」は,スペインであったものとJQAは明言しています(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.342 (left column))。自らが国務長官として交渉に臨んで哀れなオニスを締め上げた,勝者の余裕というものでしょう。

 

日露間における1867年の樺太島仮規則においては,樺太島は日露「両国の所領」であるものとされ(前文末段及び第2条),すなわち同島はロシア語でいうところの“общее владение”(共同の所有地,共同の領土)であり,かつ,そこにおいては“общность владения”(所有の共通,支配の共通)が認められていたことになっています(前々稿である「北海道と樺太との分離並びに日魯通好条約2条後段及び樺太島仮規則について」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081414643.html232)参照。なお,同仮規則添付の英語訳ではいずれも“common possession”です。)。1867年の仮規則下の樺太島は,1818年の米英協定下のオレゴン地方(カントリー)とは異なり,日本の武士団(征夷大将軍直参及び奥羽諸藩抱え)とロシアの軍隊とが駐屯する両国の「共同領有」地であったわけでしょう。

 

更にJQAによれば,1818年条約3条においては時間軸が重要でありました。いわく,「さて,この協定は10年間のものとして約束されました。そして,私は本〔全院〕委員会にここのところの表現に注目してもらいたいのですが――これは,それぞれの領有権の主張に係る問題は当該10年の期間中において解決するものではないこと,当該期間の満了と共に再び問題となることを両当事国は理解していたことを示すものであります。これは,我々の〔国務〕長官が現在行っているのと同様の,当該地域全体に対する十全かつ明白な領有権主張(a full, plain claim to the whole territory)に等しいものであります。しかし,そこでいわれていたのは,両当事国はその紛争を解決することを選択せずに,むしろ,10年間――当該期間中はいずれの当事国も排他的管轄権を主張しないものとしつつ(without claiming exclusive jurisdiction)――当該地方はその港,湾,入江及び河川と共に両当事国の航行に対して開かれたものであることに合意する,ということなのであります。それが全てであったのであります。」と(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.342 (left column))。

いわゆる問題の棚上げがされたのだということでしょう。

 

これに対して,1855年の日魯通好条約2条後段では樺太島は日露間で「界を分たす」,“ongedeeld (ungeteilt)”ないしはнеразделённый”であるもの(分割されていないもの=未分割=両国「共有」のもの)とされています(「北海道と樺太との分離並びに日魯通好条約2条後段及び樺太島仮規則について」第22及び5参照)。したがって,ロシアの(「共有」)持分の存在が現に認められてしまったことになりますので,樺太全島に係り,かつ,排他的なものたる「当該地域全体に対する十全かつ明白な領有権主張(a full, plain claim to the whole territory)」の留保は(後日のためにも)されていなかった,ということになるのでしょう。

 

ところで184629日には,領土に係る権原(title)について,JQAは次のような理論を述べています。

 

  これらの全ての権原は不完全であります。したがって,発見は,それ自体では権原ではありません。河川及び土地の発見は,それ自体では権原ではありません。探検が次に来ます。それによって,権原においていくらか付加されるものがあります。連続性及び隣接性の両者は,権原を与えるものとして,共同して働きます。それらは,それらのいずれも,それら自体では完全ではありません。権原ということにおいては,現実の占有actual possession)以外に全きものはありません。しかしてそれこそが,オレゴン地域に対する完全,明確,不可争かつ疑いのない権利を取得するために,我々が現在欲する唯一のものなのであります。それは,占有,もしよろしければ占領(occupation)であります。ところで,委員長,我々は英国と二つの協定を結びましたが――一つは1818年に,もう一つは1827年にです――これらによって我々は,共同占領(joint occupation)というようなものに合意していないのであります。〔中略〕現在,占領は存在しておりません。占領こそが我々が欲するものなのであります。占領こそが,かの協定の終了をもたらすため,私が賛成しているものなのであります。なぜならば,当該協定は,我々は当該地域を占領しないものと定めているからであります。

 (The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.341 (right column)

 

 上記引用部分冒頭の「不完全」な「これら全ての権原」には,発見,探検並びに連続性及び隣接性によるもののほか,詩篇第2篇第8節(「われに求めよ さらば汝にもろもろの國を嗣業としてあたへ地の極をなんぢの有としてあたへん」)に由来する,教皇(及びそれに倣った王)から付与された権原(教皇についてはアレクサンデル6世による1493年のスペイン=ポルトガル発見地間境界設定の事例が,王についてはイングランド国王による北米大陸における土地の付与の例が言及されています。)が含まれます(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.340 (right column) - p.341 (right column))。

 

美濃部達吉は,領土の変更について「領土の変更は新領土を取得する場合と現在の領土の一部を喪失する場合とを含むが,その何れに於いても国際的交渉の結果として国際条約に依つて行はるゝことを普通とする。条約以外の原因に依る場合は,取得原因としては唯無主地を占領して之を領土に編入する場合を,喪失原因としては領土の抛棄及びその自然消滅の場合を想像し得るのみである。」と述べています(同『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)82頁)。無主地の領土編入には占領までが必要であって,発見,探検又は連続性及び隣接性のようなものでは不十分であるということのようです。また,神又はその代理人の命令といったものには出番はないようです(ただし,伊藤博文の『憲法義解』の大日本帝国憲法1条(「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」)解説は,「瑞穂国是(あが)子孫可王(きみたるべき)之地宜(なむぢ)皇孫就而(ゆきて)(しらせ)焉」(小学館『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』(1994年)130頁(一書第一))との「天祖の勅」を引用しています。)。なお,美濃部の上記説明は1927年当時の国際法に基づくものでしょうが,その81年前,領土に係る国際法に関する己れの認識を述べてJQAはいわく,「土地に関するいかなる権利も,個人の間では,立法(レジスレイション)によって規整されるべきものでありました。諸国(ネイションズ)間においては,同意(コンセント)により,協約(コンヴェンション)によって規整されるべきものでありました。しかしてそのようにして,そう呼ばれるところの諸国民(ローズ・オヴ・ネ)(イシ)(ョンズ)(これは,諸国間の慣習(カスタムズ)にすぎません。)並びに諸国による条約及び協約が,どのように各地点,各尺土が占領されるべきかを規整してきたのでありました。」と(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.341 (central column))。無主地の占領による領土編入は,条約又は協約ではなく,諸国民の法に基づくものでしょう。なお,1846年段階において,JQAは征服(conquest)も領土の権原に含めていましたが(ibidem),現在の国際法ではどうでしょうか。

 

 しかしてオレゴン地方については,英国は権原に値するものを実は有していないものとJQAは考えていました。いわく。

 

あの〔1818年条約の〕交渉において,そしてそれ以来その後の,私の信ずるところによれば,恐らく今日に至るまでの諸交渉において,当該地域のいかなる部分についても英国は排他的管轄権を主張していないのであります。同国自身が,同国は同地に係る権原(title)を有していないことを認めております。同国は,無権原であると称しているのです。しかしそれでは,同国は何と言っているのでしょうか。同国は,同地は開かれた地方(an open country)であると言っています。同地は,何らかの占領がされているとしても野蛮(バーバラス・)民族(ネイションズ)によってのみ占領されているところのかの諸地方(カントリーズ)の一つであるもの――全ての関係者に対して開かれている(open to all parties)地方であるものと。同国は,排他的管轄権を主張していないのであります。〔中略〕同国の主張は,そしてそれは当該協定に基づくものですが,当該地方は自由かつ開かれたもの(free and open)たるべしということです――すなわち,同国の狩猟者らのために――ハドソン湾会社の利益のための狩猟のために――同地を未開(サヴィッジ)かつ野蛮な状態のままに留め置くべしということであります。現時においては,同国は,土地の耕作者が同地に入植する日から,同地は同国にとっての価値を全く失うものであることを知っています。その時から,当該価値の破壊が,事物の性質のしからしめるところによって生ずるのです。しかしてここに,同国の主張と我が国の主張との間の相違が存するのであります。

The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.342 (left column))。

 

 無論,英国が権原の主張をしていないというJQAの発言は,英国が行ってきた外交上の主張の意味するところを外交の玄人たるJQAが自分流に解釈した結果を述べているものです。これに対して,一般に分かりやすい言葉として表明された英国の外交姿勢自体は,「英国首相のロバート・ピール卿は,彼の国家はオレゴンについて「明確かつ疑問の余地のない」権原(“clear and unquestionable” title)を有しており,かつ,当該権原を守るためには戦争をも辞さないと言明していた。」というものであって(Traub: p.512),見たところ実に勇ましいものでありました。それはともかく,英国の無権原に対する米国の権原とは何でしょうか。JQAは詩的になります。

 

  我々はかの地方(カントリー)を欲する――そも何のためにか?原始の自然を咲き誇る薔薇となすため,法を定立するため,全能の神の最初の指令において我々が行うことを命ぜられたる事業,すなわち,生み(increase),繁殖()え(multiply),地を()(たが)わせる(subdue the earth)ため〔創世記第1章第28節参照〕であります。これが,かの地の領有を我々が主張する理由であります。(かの)国は,航行に開かれた状態を保つために,同国の狩猟者らが野生動物を捕獲するために同地の領有を主張しています。また,もちろん,未開民族に加えて野生動物の利益のためにかの国は主張をしているところであります。我々の主張の間には,かかる相違があるのであります。

  (The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.342 (left column)

 

  〔前略〕私は,当該地方(カントリー)を,我が国西部(ウエスタン・)開拓者(パイオニー)たち(アーズ)のために欲するのであります。我々の西部地域の住民によって最も典型的に示されている,人間の有するかの資質が発揮せられるための領域を与えんがため,彼らをしてかの地に赴き,その地において興起すべき偉大な国民(ネイション)たらしめるためであります。しかして当該国民は,泉(a fountain)がその水源から由来するように,我々から,自由,独立かつ主権的な共和(リパブリ)(クス)の我々から由来しなければならないのであります。バッファロー,インディアン(ブレイヴ)戦士()及び砂漠の未開人のために,狩猟地から由来すべきものではありません。

  (ditto: p.342 (left-central columns)

 

続いてJQAは,自身が米国大統領であった時代の1827年協定の解説に移ろうとしましたが,そこでJQAの持ち時間が尽きてしまいました。(なお,要するに1827年協定は――1818年協定が10年間という期間の定めのあるものであったのに対し――期間の定めのないものとされ,ただし一の当事国から相手方当事国に対して終了の申入れがあればその12箇月後に効力を失うものとされていたものです。)

生み,繁殖()え,地を()(たが)わせ」云々と,創世記第1章第28節の引用がありました。

実はあらかじめJQAは,創世記第1章第26節から第28節までを議院の書記に読み上げさせ,「これが,委員長,私の判断では,オレゴン地域に対する我々の権原の基礎であるのみならず,全ての人的所有(human possessions)に係る全ての人的権原(human title)の基礎なのであります。これが,あなたが委員長席に,それによってすわっている(occupy)ところの権原の基礎であります。これが,オレゴン地域を占領occupy)すべしと,それによって我々が現在呼びかけられているところの権原の基礎なのであります。」との註釈を加えていたところです(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.340 (right column))。

 

 26 神いひ給ひけるは我儕(われら)(かたど)りて我儕(われら)(かたち)の如くに我儕(われら)人を造り之に海の魚と天空(そら)の鳥と家畜と全地と地に()ふ所の(すべて)(はふ)(もの)を治めしめんと

27 其像(そのかたち)の如くに人を創造(つくり)たまへり即ち神の(かたち)の如くに之を造り之を男と女に創造(つくり)たまへり

28 彼等(かれら)を祝し神彼等(かれら)(いひ)たまひけるは(うめ)繁殖(ふえ)よ地に滿()()よ之を服從(したがは)せよ又海の魚と天空(そら)の鳥と地に動く所の(すべて)生物(いきもの)を治めよ

 

 「(うめ)繁殖(ふえ)よ地に滿()()よ之を服從(したがは)せよ」との神の命令のうち,領土に係る権原にとって最も重要であるのは,「(土地を)服從(したがは)せよ」の部分でしょう。「さて,人に与えられた,生み,繁殖()え,並びに地(the earth)に満盈()ち,及びそれを服従(したがわ)せるsubdue it)というかの一般的権威(オーソリティー)は,人としての人に対して創造主から下賜されたもの(グラント)だったのであります。それは,人類に属する各個人に対して,彼の個人としての資格において下賜されたもの(グラント)だったのであります。」とJQAが語った際(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.341 (left-central columns)),イタリック体によって強調されたのは「服従(したがわ)せるsubdue)」の語だったのでした。河川を遡り若しくは流れ下り,又は未開の土地の上を走り回って狩猟するだけでは,当該土地を(した)(がわ)せること(terram subicere)にはならないものでしょう。「「現実の占有」(“Actual possession”)は,耕作及び管理(tillage and husbandry)を要素とした。したがって,インディアンらは,太古からその上を歩き回っていた土地を占有していたものとの主張ができなかったのである。英国は,インディアンらと同様,毛皮のための獣を狩ることのためにオレゴンを使用していたのである。」とは(Traub: pp.512-513),JQAの思考が敷衍されたものです。ローマ法では,「他人の土地で所有者の意思に反して狩猟をなすときは,否認訴権〔ドイツ普通法時代には占有侵奪以外のあらゆる妨害排除の訴権に高められた役権否認の訴権〕,不動産占有保持の特示命令〔法務官の命令の発せられたときにおいて現占有者に対する暴力を禁止するもの〕,人格権侵害訴権〔窃盗の未遂にも適用が認められた訴権〕の責任を負うことあるも,捕獲した鳥獣は狩猟者の所有に属する。」ということだったそうですが(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)107頁),これは,狩猟者は必ずしも狩猟地の所有権者であるものではないし,そもそも捕獲物の所有権を取得するために狩猟地の所有権が必須の前提であるわけでもないということでしょう。

 

   土地の上での狩猟が領土に係る権原(土地を服従(したがわ)せること)とならないのならば,いわんや海ないしは河川における捕魚においてをやということになるものでしょう。ここで,ロシア側の対日提案を記す樺太島仮規則前文第1が「両国の間にある天然の国界「アニワ」と唱ふる海峡〔宗谷海峡〕を以て両国の境界と為し「カラフト」全島を魯西亜の所領とすへし」としつつ(樺太島の領有に係る我が国の権原を認めないということでしょう。),同第2に「右島上にて方今日本へ属せる漁業等は向後とも総て是まての通り其所得とすへし」,すなわちВсѣ принадлежащіе въ настоящее время Японцамъ на Сахалинѣ рыбные промыслы и на будущее время оставить въ ихъ пользованіи.(現在樺太において日本人らにЯпонцамは,Японецの複数与格形です。)属しているпринадлежащиеは,принадлежатьの能動現在分詞複数形です。)全ての漁獲рыбные промыслыは複数形ですが,単数形ですと「漁業」と訳されます。)は,将来も彼らの利益のためにпользованиеは「利用」,「使用」の意味です。供されるものとすること。)とあるところが,米国のインディアン諸部族(ネイションズ)が,連邦政府との条約下において,保留地外においても固有の狩猟・漁撈権を留保している例と併せて想起されるところです。

(ちなみに,我が国のアイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(平成31年法律第16号。以下「アイヌ施策推進法」と略称します。)によれば,同法105項の内水面さけ採捕事業(アイヌにおいて継承されてきた儀式若しくは漁法(「儀式等」)の保存若しくは継承又は儀式等に関する知識の普及及び啓発に利用するためのさけを内水面において採捕する事業)であって認定アイヌ施策推進地域計画に記載されたものについては,農林水産大臣又は都道府県知事はそれが「円滑に実施されるよう適切な配慮をするもの」とされていますが(同法17条。要は,漁業法(昭和24年法律第267号)1191項若しくは2項又は水産資源保護法(昭和26年法律第313号)41項の規定に基づく農林水産省令又は都道府県の規則による許可が必要とされる場合であっても,不許可処分をせずに許可をするように工夫せよ,ということでしょう。),認定アイヌ施策推進地域計画に記載された内水面さけ採捕事業の主体は専らアイヌ部族(ネイション)であるというわけではなく(ただし,国はアイヌ施策推進地域計画の作成主体である市町村に対し「アイヌの人々の要望等が十分反映されるよう,適切な指導を行」い(アイヌ施策推進法71項の政府の基本方針たる「アイヌ施策の総合的かつ効果的な推進を図るための基本的な方針」(令和元年96日閣議決定)11)),「反社会的勢力やその関係者の行う又は行うことが想定される事業が記載されている」アイヌ施策推進地域計画は内閣総理大臣によって認定されないものとされています(同「基本的な方針」41。),また,その目的もアイヌにおいて継承されてきた儀式若しくは漁法の保存若しくは継承又は当該儀式若しくは漁法に関する知識の普及及び啓発に限定されていて,端的な漁業を行うこととはされていません。川ならぬ山を見れば,アイヌ施策推進法104項にいう「アイヌにおいて継承されてきた儀式の実施その他のアイヌ文化〔アイヌ語並びにアイヌにおいて継承されてきた生活様式,音楽,舞踊,工芸その他の文化的所産及びこれらから発展した文化的所産(同法21項)〕の振興等〔ここの「等」は,アイヌの伝統等(アイヌの伝統及びアイヌ文化)に関する知識の普及及び啓発(同条2項,同法1条第1括弧書き)〕に利用するための林産物を国有林野において採取する事業」に関して,当該事項を記載した認定アイヌ施策推進地域計画を作成した市町村の住民又は当該市町村の一定の区域に住所を有する者に対し,農林水産大臣は,契約により,「国有林野をアイヌにおいて継承されてきた儀式の実施その他のアイヌ文化の振興等に利用するための林産物の採取に共同して使用する権利」を取得させることができるものとされていますが(同法161項),当該権利の主体は飽くまでも当該市町村の住民又は当該市町村の一定の区域に住所を有する者であってアイヌ部族(ネイション)ないしは当該部族(ネイション)の所属員ではなく,また,農林水産大臣と契約を締結する相手方も当該共用者の住所地の属する市町村(ただし,市町村内の一定の区域に住所を有する者を共用者とする場合には,当該共用者の全員を契約当事者とすることも可能)であって(同条2項によって適用される国有林野の管理経営に関する法律(昭和26年法律第246号)183項),インディアン部族(ネイション)ならぬアイヌ部族(ネイション)ではありません。)

   なお,捕魚や狩猟ということになると,「De Comoedia Plauti et Institutionibus Justiniani」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1075842975.html)やら「蜜蜂ノオト」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1076108312.html)といった記事をかつて筆者は書いたことがある旨申し添えます。

 

 1818年(1827年改訂)の米英オレゴン協定は,締結責任者であったJQAにとっても,18462月当時には今や米国による「占領(occupation)を妨げ」,前記の「神の法を施行することを妨げる」ところの「制約,我々の手枷(てかせ)」となっていたのでしたThe Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.340 (right column))。なお,米英両国はキリスト教国であって,当時(チャ)()国人(ニーズ)でも未開のインディアンでもありませんでしたから,「創世記の第1章において土地に対する権原が基礎付けられるのはキリスト教国間でのことであり,また,管轄権(jurisdiction),収用権eminent domain),個人財産に係る権原がそこに基礎を置くのは聖書(このほん)なのであります――これら全ては,書記が朗読した部分に続く箇所の他の源から流出しているものであります。」ということで(ibidem),オレゴン地方問題についてはよかったのでしょう。とはいえ,当該創世記的権原基礎論も,諸国間の慣習たる諸国民の法となるまで普及すれば,宗教の違いを超えた適用を見ることとなるものでしょう。

 なお,オレゴン協定の終了を主張しつつも,JQA(父である第2代米国大統領のジョンと同様,駐英公使を務めていました。息子のチャールズ・フランシスも第16代リンカン大統領の下で駐英公使となります。)は英国に対してなお宥和的でした。いわく。

 

  私は,当該協定の終了を求めます。それを行う形式及び態様については,私は英国に対する最も宥和的な態様(most conciliatory manner)で行いたいところであります。

  (The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.340 (right column)

 

   勃発しなかったもう一つの戦争は,オレゴンをめぐる英国とのそれであった。〔第11代米国大統領〕ポークが彼の当初の要求である北緯5440分の国境線にこだわっていたならば,戦闘が開始され得たところであった。英国側は,既に何度も彼らに対して提案されてきていた北緯49度の国境線を期待する権利を有していたからである。従来彼らは,コロンビア川の北方には米国勢力の存在は全く無いことを理由にそれらを拒絶していた。1846年にはこのことはなおも事実であった。しかしながら,当該方面全域の人口バランスが急速に彼らに不利に傾いてきているのを見て,賢明にも英国側は,ヴァンクーヴァー島全体を保持できるのであれば49度で妥協する旨提議した。ポークはこれでは十分ではないと考えたが,元老院(上院)は,メキシコとの敵対状勢が既に進行中であるという事実に鑑み,当該合意〔1846年のオレゴン協定〕を批准した。

  (Colin McEvedy, The Penguin Atlas of North American History to 1870; Penguin Books, 1988: p.74

 

1846年の米英オレゴン協定は,同年615日にワシントン, D.C.で調印され,同年717日にロンドンで批准書が交換されています。

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今回の記事は,前回の記事である「北海道と樺太との分離並びに日魯通好条約2条後段及び樺太島仮規則について(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081414643.html」の手短な追記となります。

 

1855年の日魯通好条約又は1867年の樺太島仮規則から1875年の千島樺太交換条約まで樺太島は日露間の,1858年の璦琿条約から1860年の北京条約まで現在の沿海州は清露間の「共有」領土であったわけですが,19世紀にはもう一つ有名な,二国間「共同領有」地がありました。現在の米国のオレゴン州,ワシントン州及びアイダホ州並びにカナダのブリティッシュ・コロンビア州を合わせた地域にほぼ相当する北米大陸北西岸のオレゴン地方です(Oregon Country)。同地方は,18181020日にロンドンで調印された米英間の条約(発効は1819130日)から1846615日にワシントン,D.C.調印された両国間の条約(同年717日にロンドンで批准書交換)まで,米英の「共同領有」地であったのでした。山川出版社の『世界史小辞典』(第2版第19刷(1979年))の「オレゴン協定 Oregon Agreement」の項において,これら二つの同名で呼ばれる条約のうち1846年条約ではない方が,「オレゴン地方の共同領有を決めた1818年の英米間の条約」として紹介されているところです(有賀貞執筆。下線は筆者によるもの)。

しかし,オレゴン地方は,「二国(時として数国のことも有り得る)の合同の意思に依つて統治せら」れ,「その統治権は二国の共同の権利たるもの」であり,かつ,「何れの一国にも属しない」区域であるとともに,「之を支配する所の権力は,何れの一国の意思とも異つた二国の合同の意思に成る」ものであって「如何なる機関を以て之を支配するかは専ら両国の協定に依つて定まる」ものとされる美濃部達吉流の「共同領土」の定義(同『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)99頁)に当てはまるものではなかったようです。

すなわち,未決のオレゴン地方におけるそれを除いて米国とカナダとの間の国境を北緯49度にすること(第2条)等を定めた1818年の米英条約の第3条は次のとおりでした。

 

ARTICLE III. It is agreed, that any Country that may be claimed by either Party on the North West Coast of America, Westward of the Stony Mountains, shall, together with it's Harbours, Bays, and Creeks, and the Navigation of all Rivers within the same, be free and open, for the term of ten Years from the date of the Signature of the present Convention, to the Vessels, Citizens, and Subjects of the Two Powers: it being well understood, that this Agreement is not to be construed to the Prejudice of any Claim, which either of the Two High Contracting Parties may have to any part of the said Country, nor shall it be taken to affect the Claims of any other Power or State to any part of the said Country; the only Object of The High Contracting Parties, in that respect, being to prevent disputes and differences amongst Themselves.

  (ストーニー山脈から西側のアメリカ北西岸の地方であって,いずれかの締約国によって領有が主張されることのあるものは,その港,湾及び入江並びに当該地方内の全ての河川の航行を含めて,本協定の調印の日から10年間,両国の船舶,市民及び臣民に対して自由かつ開かれたもの(free and open)たることが合意される。ただし,この合意については,当該地方のどの部分についても,それについて条約締結両国のうちの一が有することのある領有権の主張の当否について予断を与えるものとして解釈されるべきものではなく,かつ,当該地方のどの部分についても,他のいずれかの列強又は国家による領有権の主張について影響を与えるべきものではない旨十分の理解がされているものである。当該事項に係る条約締結両国の唯一の目的は,両国間における論争及び紛争を防止することである。)

 

オレゴン地方が米英両国の市民及び臣民に対して「自由かつ開かれた」ものであることの確認にとどまっているものと解すべきでしょう。米英両国の「合同の意思」による統治に関する条項ではないものでしょう。両国の「合同の意思」の形成方法,当該「合同の意思」による支配の「機関」の組織などについては規定されていません。

なお,両国の市民及び臣民に対して「自由かつ開かれた」ものといわれると,樺太島仮規則2条の「両国の所領たる上は魯西亜人日本人とも全島往来勝手たるへし且いまだ建物並園庭なき所歟総て産業の為に用ひさる場所へは移住建物等勝手たるへし」との規定が想起されるところです(同仮規則添付の英訳では,“In consequence of common possession, the Russians and Japanese are at liberty to circulate upon the whole island, to make settlement and erect buildings in all localities not yet occupied by buildings, industrial establishments or gardens.”。ただし,1818年条約3条において米英両国は,オレゴン地方は「両国の所領」であるもの(“common possession”の下にあるもの)とまでは言っていません。オレゴン地方(全体,あるいはその部分)に関する米英両国の領有主張は,飽くまでもそれぞれの単独領有の主張です。また,他の第三国による領有権主張の可能性も排除されない文言となっています。すなわち,1818年段階では,オレゴン地方北方になおロシア領アラスカがあったところです。北緯5440分以南の北米西岸における権益をロシアが放棄したのは,1824年から1825年にかけての米英それぞれとの条約によってでした(Colin McEvedy, The Penguin Atlas of North American History to 1870; Penguin Books, 1988: p.106. 米露条約は1824年,英露条約は1825)。また,北米大陸におけるスペインの領有権主張を北緯42度以南にとどめるアダムズ=オニス協定(別名,Transcontinental Treaty)の調印がされたのは,1818年の米英条約が発効した後の1819222日のことでした(筆者の「いわゆるアダムズ方式に関して(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078277830.html)」84)参照)。

1818年条約調印当時のオレゴン地方の状勢は,米国ニュー・ヨーク本社のアメリカ毛皮会社(America Fur Company)がコロンビア川の河口部のアストリア(Astoria)に1811年に拠点を設けたものの見事に失敗(signally failed to make a go)していたのに対し,ライバルである英領モントリオール本社の北西毛皮会社(North West Fur Company)は現在のブリティシュ・コロンビア州のフレイザー川から現在のワシントン=オレゴン州境のコロンビア川にかけて一連の拠点を設けて多くの利益を挙げ,1821年にはハドソン湾会社に加わるに至る運びであったということで,英国が優位であったところです(see McEvedy p.70)。

 しかしその後,

 

1841年,男女子供合計69名の一隊が西海岸に向けてミズーリを出発し,半数がオレゴンに,半数がキャリフォーニアに向かった。翌年には百名以上がオレゴンへの(トレイル)たどり翌年にその九百名なった。こうして()馬車(ゴン・)縦隊(トレイン)時代が始まった1843年の部隊は,コネストーガ式の幌馬車百二十台を擁し,五千頭の牛を連れていた。当該移住者たちは,1844年の春までに,〔現在のオレゴン州の〕ウィラメット渓谷において彼らの土地所有権の主張を行った(the settlers were staking out their claims in the Willamette valley)。1846年までには,オレゴンには四千名のアメリカ人がいて,当該地方におけるカナダ人人口を51以上の差で上回った。

McEvedy p.74

 

ということで,状勢は,米国人移民の増加によって米国優位に逆転します。土地を求めて,オレゴン街道(トレイル)をはるばる西にたどり,たくましい米国人開拓農民たちが「自由かつ開かれた」オレゴン地方に続々流入して来ていたわけです。なお,米国内における開拓自営農民による無償での土地確保といえばホームステッド法(Homestead Act)が有名ですが,同法の成立は,奴隷農園主らの支配する南部諸州が同国から離反して後,南北戦争中の1862年のことでした。


Portland Square
ウィラメット川ならぬ札幌の豊平川を跨ぐ幌平橋上のポートランド広場(ポートランドは,オレゴン州最大の都市)


ポートランド広場から南方の眺望

ポートランド広場から北方の眺望
ポートラント広場からの眺望
(上:南方・豊平川上流側,下:北方・同下流側)


 ところで,日露「両国の所領たる」樺太島においては,カナダ人ならぬロシア人を数で圧倒すべく,開拓の意気に燃える我が愛国的日本臣民は明治の初年,津軽及び宗谷の両海峡をはるばる北に越えて続々同島に大挙移住していたのかといえば,事情は次のようなものであったそうです。

 

   明治初年以来,新政府は日本人の存在をロシア側に示すために手厚い扶助を与えて樺太に移民を送ったが,〔略〕ロシア兵や脱走囚人の暴行から彼らを保護することさえ困難になりつつあった。しかも,衣食,器具,種子その他を与えて開拓を奨励したにも拘らず,移住民たちの開墾の成果は挙らず,45年経っても自立し自活できた者はごく僅かであった。さらに移住の当初から身体虚弱を理由に離島する者が続出し,一時帰省のまま帰島しない者もあり,〔略〕新たに移住するものも稀で戸口も年々減少し,明治6年〔1873年〕末には官吏や漁場の季節労働者を除く住民は,出稼ぎを含めても全島で五百数十名にすぎなかった。

  (秋月俊幸「明治初年の樺太――日露雑居をめぐる諸問題――」スラヴ研究40号(1993年)15頁)

 

そもそも,「慶応4年〔1868年〕6月末クシュンコタン(楠渓)に着任」した明治天皇の新政府による樺太行政の最初の管理者たる岡本監輔がその際率いていた「移民男女200余人」からしてが,「彼が箱館において当座の生活の援助を約束して募集した一般人で,多くは生業の目当てのない貧民の群」にすぎず(秋月2頁),また,翌「1869年〔明治二年〕5月末に日本政府の依頼を受けて移民たちを樺太に輸送した英国船のウィル船長は,「彼らはみすぼらしく,移民というよりは流刑者にみえた」と記している。」ということでしたから(秋月16頁註7),なにをかいわんや。輝かしいオレゴン・トレイル伝説とは雲泥の差です。



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第1 一つの蝦夷地(総称)から北海道及び樺太への分離に関して

 

1 北海道には,北海道島は含まれるが樺太島は含まれない。

 前稿である「光格天皇の御代を顧みる新しい「国民の祝日」のために」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081364304.html)においては,つい北海道「命名」150年式典(201885日に札幌で挙行)に関しても論ずることになり,その際明治二年七月八日(1869815日)の職員令により設置された開拓使による開拓の対象には,当初は北海道のみならず樺太も含まれていたことに触れるところがありました。そうであれば,しかし,日本国五畿八道の八道の一たる北海道に,北海道島と同様に開拓がされるべきものであった樺太島の地が含まれなかったのはなぜであるのかが気になってしまうところです。

 

2 明治初年の開拓官庁の変遷

 ところで,2018年において北海道「開拓」(の数えでの)150年が記念されなかったことについては,王政復古後の明治天皇の政府において「諸地開拓を総判(総判諸地開拓)」すべき機関の設置は,実は1869年の開拓使が初めてのものではなかったからであって,折角天皇皇后両陛下の行幸啓を仰いでも,当該趣旨においては十日の菊ということになってしまうのではないかと懸念されたからでもありましょうか。

 

(1)外国事務総督及び外国事務掛から外国事務局を経て外国官まで

すなわち,既に慶応四年=明治元年一月十七日(1868210日)の三職(総裁,議定及び参与)の事務分課に係る規定において,議定中の外国事務総督が「外地交際条約貿易拓地育民ノ事ヲ督ス」るものとされて,「拓地育民」が取り上げられており(併せて,参与の分課中に外国事務掛が設けられました。),同年二月三日(1868225日)には外国事務総督と外国事務掛とが外国事務局にまとめられた上(「外国交際条約貿易拓地育民ノ事ヲ督ス」るものです。),同年閏四月二十一日(1868621日)の政体書の体制においては,外国官が「外国と交際し,貿易を監督し,疆土を開拓することを総判(総判外国交際監督貿易開拓疆土)」するものとされていたのでした(以上につき,山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)4-5頁,7-8頁,1114頁及び2026頁参照)。外国交際と直接関係する疆土(「疆」は,「さかい」・「領土の境界」の意味です(『角川新字源』(1978年))。)の開拓ということですから,当該開拓の事業は,対外問題(有体に言えば,ロシア問題)対策の一環として明治政府によって認識されていたものでしょう。

 

(2)北蝦夷地(樺太)重視からの出発

 ロシア問題対策のための疆土開拓ということであれば蝦夷地開拓ということになりますが,その場合,四方を海に囲まれた北海道(東西蝦夷地)よりも,ロシア勢力と直に接する樺太(北蝦夷地)こそがむしろ重視されていたのではないでしょうか。

 

ア 慶応四年=明治元年三月九日の明治天皇諮詢

 早くも慶応四年=明治元年三月九日(186841(駿府で徳川家家臣の山岡鉄太郎が,江戸攻撃に向けて東進中の官軍を率いる西郷隆盛と談判した日です。))に,明治「天皇太政官代ニ臨ミ三職ヲ召シテ高野保建少将清水谷公考建議ノ蝦夷開拓ノ可否ヲ諮詢ス群議其利ヲ陳ス〔略〕復古記」ということがありましたが(「群議其利ヲ陳ス」の部分は,太政官日誌では「一同大ヒニ開拓可然(しかるべき)()旨ヲ言上ス」ということだったそうです。),そこでの高野=清水谷の建議書(二月二十七日付け)には「蝦夷島周囲二千里中徳川家小吏()一鎮所而已(のみ)無事()時モ懸念御坐(さうらふ)(ところ)今般賊徒 御征討(おほせ) 仰出(いでられ)候ニ付テハ東山道徃来相絶シ徳川荘内等()者共(ものども)彼地(かのち)ニ安居仕事(つかまつること)難相(あひなり)(がたく)島内民夷ニ制度無之(これなく)人心如何(いかが)当惑(つかまつり)候儀ニ有之(これある)ヘクヤ不軌ノ輩御坐候ヘハ(ひそか)ニ賊徒ノ声援ヲナシ(まうす)(べく)難計(はかりがたし)魯戎元来蚕食()念盛ニ候ヘハ此虚ニ乗シ島中ニ横行シ(かね)テ垂涎イタシ候北地()(シュン)古丹(コタン)等ニ割拠シ如何様之(いかやうの)挙動可有之(これあるべく)難計(はかりがたく)候ヘハ一日モ早ク以御人撰(ごじんせんをもつて)鎮撫使等御差下シテ御多務中モ閑暇(なさ)為在(れあり)候勢ヲ示シ御外聞ニモ相成候(あひなりさうらふ)(やう)仕度(つかまつりたく)〔中略〕海氷(りう)()()時節相至(あひいたり)候ヘハ魯人軍艦毎年()春内(シュンナイ)罷出候間(まかりいでさうらふあひだ)当月中ニモ御差下(さしくだし)相成候様(あひなりさうらふやう)被遊度(あそばされたき)積リ〔後略〕」とありました(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070634100)。

()(シア)が元来その地について蚕食之念を有しており,かつ,横行が懸念されること並びに久春古丹(大泊,コルサコフ)及び久春内(樺太島西岸北緯48度付近の地)といった地名からすると,ここでいう「蝦夷島」については,北海道島というよりは「北地」たる樺太島が念頭に置かれていたものでしょう。当該建議については,公家の清水谷公考(きんなる)に対する阿波人・岡本監輔の入れ智恵があったそうですが(秋月俊幸「明治初年の樺太――日露雑居をめぐる諸問題――」スラブ研究40号(1993年)2頁),岡本は「尊皇攘夷時代には珍しい北方問題の先駆者の一人で,文久3年(1863)すすんで樺太詰めの箱館奉行支配在住となり,慶応元年(1865)には間宮林蔵によっても実現できなかった樺太北岸の周廻を計画し,足軽西村伝九郎とともにアイヌ8名の助力をえて,独木舟で北知床岬を廻り,非常な苦労ののち樺太北端のエリザヴェータ岬(ガオト)に達し,西岸経由でクシュンナイに帰着した」という「ロシアの樺太進出に悲憤慷慨して奥地経営の積極化を望んでいた」憂国の士だったそうですから(同頁),当然樺太第一になるべきものだったわけです。

 

イ 慶応四年=明治元年三月二十五日の岩倉策問等(2道設置論)及び箱館府(箱館裁判所)の設置

 慶応四年=明治元年三月二十五日(1868417日)には,議事所において,三職及び徴士列坐の下,「蝦夷地開拓ノ事」について,「箱館裁判所被取建(とりたてられ)候事」,「同所総督副総督参謀等人撰ノ事」及び「蝦夷名目被改(あらためられ)南北二道被立置(たておかれ)テハ何如(いかん)」との3箇条の策問が副総裁である岩倉具視議定からされています(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070634300)。蝦夷地の改称の話は既にこの時点で出て来ていますが,ここでの2道のうち南の道が後の北海道(東蝦夷地及び西蝦夷地)で,北の道は樺太(北蝦夷地)なのでしょう。これらの点については更に,同年四月十七日(186859日)の「蝦夷地開拓ノ規模ヲ仮定ス」と題された「覚」7箇条中の最初の2箇条において「箱館裁判所総督ヘ蝦夷開拓ノ御用ヲモ御委任有之(これあり)候事」及び「追テ蝦夷ノ名目被相改(あひあらためられ)南北二道ニ御立(なら)()早々測量家ヲ差遣(さしつかはし)山川ノ形勢ニ随ヒ新ニ国ヲ分チ名目ヲ御定有之(これあり)候事」と記されているとともに,第6条において「サウヤ辺カラフトヘ近ク相望(あひのぞみ)候場所ニテ一府ヲ被立置度(たておかれたく)候事」と述べられています(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070634500)。箱館裁判所の設置は同月十二日(186854日)に既に決定されており,同裁判所は,同年閏四月二十四日(1868614日)に箱館府と改称されています(秋月2頁)。

 

ウ 明治二年五月二十一日の蝦夷地開拓の勅問

 箱館府を一時排除して五稜郭に拠り,最後まで天朝に反抗していた元幕臣の榎本武揚らが開城・降伏してから3日後の明治二年五月二十一日(1869630日)には,皇道興隆,知藩事被任及び蝦夷地開拓の3件につき明治天皇から政府高官等に勅問が下されています。そのうち蝦夷地開拓の条は次のとおりでした。

 

  蝦夷地ノ儀ハ 皇国ノ北門直チニ山丹満州ニ接シ経界粗々(あらあら)定マルトイヘドモ北部ニ至ツテハ中外雑居イタシ候所(さうらふところ)是レマテ官吏ノ土人ヲ使役スル甚ハタ苛酷ヲ極ハメ外国人ハ頗フル愛恤(あいじゅつ)ヲ施コシ候ヨリ土人往々我カ邦人ヲ怨離シ彼レヲ尊信スルニ至ル一旦民苦ヲ救フヲ名トシ土人ヲ煽動スルモノ()レアルトキハ其ノ禍(たち)マチ函館松前ニ延及スルハ必然ニテ禍ヲ未然ニ防クハ方今ノ要務ニ候間(さうらふあひだ)函館平定ノ上ハ速カニ開拓教導等ノ方法ヲ施設シ人民繁殖ノ域トナサシメラルヘキ儀ニ付利害得失(おのおの)意見忌憚無ク申出ツヘク候事

  (アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070159100

 

ここでの「蝦夷地」は,東蝦夷地,西蝦夷地及び北蝦夷地のうち,北蝦夷地こと樺太のことでしょう。(なお,北蝦夷地ならざる東蝦夷地及び西蝦夷地の振り分けについていえば,明治二年八月十五日(1869920日)の太政官布告による北海道11箇国のうち,東部は胆振,日高,十勝,釧路,根室及び千島の6箇国,西部は後志,石狩,天塩及び北見の4箇国とされていました。11箇国目の渡島国は,東部・西部のいずれにも分類されていません。)山丹は黒龍江下流域のことですが,ユーラシア大陸の「山丹満州ニ接シ」ているのは,地図を見ればすぐ分かるとおり,北海道島ではなく,樺太島でしょう。「経界粗々定マルトイヘドモ北部ニ至ツテハ中外雑居イタシ候所」というのは,185527日に下田で調印された日魯通好条約2条後段の「「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是まて仕来の通たるへし」を承けた樺太島内の状況を述べるものでしょう。「是レマテ官吏ノ土人ヲ使役スル甚ハタ苛酷ヲ極ハメ外国人ハ頗フル愛恤ヲ施コシ候ヨリ土人往々我カ邦人ヲ怨離シ彼レヲ尊信スルニ至ル」については,文久元年(1861年)に,樺太においてトコンベ出奔事件というものがあったそうです。

 

   事件は,文久元年(1861)に北蝦夷地のウショロ場所〔樺太島西岸北緯49度付近〕で漁業に従事していたアイヌのトコンベが,番人の暴力に耐えかねてシリトッタンナイ〔樺太島西岸ウショロより北の地〕のロシア陣営に逃げ込んだことが発端であった。北蝦夷地詰の箱館奉行所官吏はロシア側の責任者であったジャチコーフにトコンベの引き渡しを要求したが,ジャチコーフはアイヌ使役の自由を主張して奉行所官吏の要求を拒否した。その後,トコンベは翌文久二年(1862)正月,ウショロに立ち戻ったところを奉行所役人に捕縛され久春内に移送された。しかし,同年三月にはジャチコーフが久春内に来航し,トコンベの引渡しを要求した。最終的にジャチコーフは暴力を伴いトコンベを「奪還」した。さらに,ウショロに在住したトコンベの家族やその周囲のアイヌ17人を連れ去るという事件に発展した。

  (檜皮瑞樹「19世紀樺太をめぐる「国境」の発見――久春内幕吏捕囚事件と小出秀実の検討から――」早稲田大学大学院文学研究科紀要:第4分冊日本史学・東洋史学・西洋史学・考古学・文化人類学・アジア地域文化学544号(20092月)18-19頁)

 

 ということで,明治二年五月二十一日(1869630日)の勅問は,樺太島重視の姿勢が窺われるものであったのですが,同年七月八日(1869815日)の職員令による開拓使設置を経た同年八月十五日(1869920日)の前記太政官布告においては,道が置かれたのは東西蝦夷地までにとどまり,樺太島は,新しい道たる北海道から外れてしまっています。(当該太政官布告により「蝦夷地自今(いまより)北海道ト被称(しょうされ)11ヶ国ニ分割」なので(下線は筆者によるもの),渡島,後志,石狩,天塩,北見,胆振,日高,十勝,釧路,根室及び千島の11箇国のみが北海道を構成するということになります。一番北の北見国には宗谷,利尻,礼文,枝幸,紋別,常呂,網走及び斜里の8郡が置かれていますが,宗谷郡,利尻郡又は礼文郡に樺太島が属したということはないでしょう。北海道庁版権所有『北海道志 上巻』(北海道同盟著訳館・1892年)5頁によれば,蝦夷地北海道改称の際「樺太ノ称ハ旧ニ仍ル」ということになったそうです。)蝦夷地開拓に係る上記勅問の段階からわずか3箇月足らずの期間中に,樺太の位置付けが低下したようでもあります。この間一体何があったのでしょうか。

 

3 函泊露兵占領事件及び樺太島仮規則(日露雑居制)確認並びにパークス英国公使の勧告 

 

(1)函泊露兵占領事件

 明治二年六月二十四日(186981日)に「露兵,樺太函泊を占領,兵営陣地を構築」(『近代日本史総合年表 第四版』(岩波書店・2001年))という事態が生じています。

「日本の本拠地クシュンコタンの丘一つ隔てた沢にあるハッコトマリ(凾泊)にデ・プレラドヴィチ中佐(この頃大隊長となる)の指揮する50人ほどのロシア兵が上陸し,陣営の構築を始めた。そこは場所請負人伊達林右衛門と栖原小右衛門が共同で経営するアニワ湾の一漁場で,海岸は水産乾場として使われ,多数の鰊釜が敷設されていた。ロシア側は丘の上に兵営を建てるので漁場の邪魔にはならぬと弁解したが,そこもアイヌの墓地となっており,アイヌたちはロシア人の立入りを止めさせるよう繰返し日本の役所に訴えている。しかし,デ・プレラドヴィチは,兵営の設置は本国からの命令によるものとして日本側の抗議を無視した。ロシア側は仮規則〔本稿の主題たる後出1867年の日露間の樺太島仮規則〕を盾にこの地に陣営を設けたのであるが,その意図はクシュンコタンに重圧をかけ,日本人の樺太からの退去を余儀なくする準備であった。やがてここにはトーフツから東シベリア第4正規大隊の本部が移され,多数の徒刑囚も到着して,その後の紛糾のもととなるのである。」(秋月3-4頁)ということです。

 

(2)樺太問題に係るパークス英国公使の寺島外務大輔に対する忠告

樺太担当(久春古丹駐在)の箱館府権判事(開拓使設置後は開拓判官)となっていた「岡本〔監輔〕が上京して開拓長官鍋島直正や岩倉具視,大久保利通らの政府要人たちにロシア軍の凾泊上陸を報告し,日本の出兵を訴えて間もない」(秋月4頁,2頁)同年八月一日(186996日)には,外務省で「寺島〔宗則〕外務大輔はパークス英国公使と会談し,英国側から北地におけるロシアの進出について厳しく忠告を受けた。日本政府は現地の情報に疎く,樺太の情勢だけでなくロシアの動向についてまったくと言ってよいほど捕捉していなかった。〔中略〕「小出大和〔守秀実〕魯都ニ参り雑居之約定取極メ調印致し候ニ付,此約定〔樺太島仮規則〕ハ動(ママ)〔す〕へからさる者に候。恐く唐太全島を失ふ而已(〔のみ〕)ならす蝦夷地に及ふへし」と,パークスの忠告は切迫した内容であった。」ということになっています(笠原英彦「樺太問題と対露外交」法学研究731号(2000年)102-103頁。『大日本外交文書』第2巻第2455-459頁,特に458頁)。更にパークスは,「唐太に於て無用に打捨あるを魯人ひろふて有用の地となす誰も是をこばむ能はさるを万国公法とす」と,日本がむざむざ樺太を喪失した場合における列強の支援は望み薄であるとの口吻でした(『大日本外交文書』第2巻第2458)。

 

(3)樺太島仮規則に係る明治政府官員の当初認識

 パークスが寺島外務大輔に樺太島仮規則の有効性について釘を刺したのは,我が国政府の樺太担当者が当該規則の効力を否認していたからでした。

例えば,樺太島における岡本監輔の明治二年五月二十六日(186975日)付けロシアのデ・プレラドヴィチ宛て書簡では,「貴方所謂(いはゆる)日本大君と(まうす)は国帝に無之(これなく)徳川将軍事にて二百年来国政委任に(あひ)成居候得共(なりをりさうらへども)将軍限りにて外国と国界等取極(さうろふ)(はず)無之処(これなきところ)(その)臣下たる小出大和守〔秀実〕輩一存を(もつて)雑居等相約候(あひやくしさうらふ)は僭越(いたり)申迄も無之(これなく)」して「不都合の次第」であるとし,「吾所有たる此〔樺太〕島を貴国吾国及ひ土人三属の地と御心得被成候(なられさうらふ)余り御鄙見にて貴国皇帝御趣意とは不存(ぞんぜず)ところ,仮規則締結については「貴国にても其権なき者と御約し被成候(なられさうらふ)は御不念事に可有之(これあるべく)と述べて日本側の「小出大和守輩」は無権代理人であったとし,かつ,勿論(もちろん)(この)島の儀未タ荒蕪空間の地所も有之(これある)(つき)土人漁民其外小前の者に至迄(いたるまで)差支無之(これなき)場所は開拓家作等(なら)(れさ)(うらひ)ても(よろ)(しく)御坐候に付此段此方詰合(つめあひ)()御届被成(なられ)差図被受(うけられ)(さうらふ)(やう)致度(いたしたく)候」として(以上『大日本外交文書』第2巻第1933-935頁),樺太島仮規則2条の「魯西亜人〔略〕全島往来勝手たるへし且いまた建物並園庭なき所歟総て産業の為に用ひさる場所へは移住建物等勝手たるへし」との規定にもかかわらず,「荒蕪空間の地所」についてもロシア人の勝手はならず日本国の官庁に届け出た上でその指示に従うべしと,樺太島南部における(同島周廻者である岡本の主観では,樺太全島における)我が国の排他的統治権を主張していました。

「雑居」を認める樺太島仮規則の効力を,小出秀実ら当該規則調印者の権限の欠缺を理由に否定した上で(民法(明治29年法律第89号)113条参照),それに先立つ日魯通好条約2条後段の「界を分たす是まて仕来の通たるへし」との規定は,樺太島における日露雑居を認めるものではなく,日露の各単独領土の範囲は「是まて仕来の通」であることを確認しつつ,その境界(岡本の主観では,間宮海峡がそれであるべきものでしょう。)の劃定がされなかったことを表明するにすぎないもの,と解するものでしょう(以下「境界不劃定説」といいます。)。

(ここで,「境界の劃定」とは何かといえば,その意義について美濃部達吉はいわく,「領土の変更とは領土たることが法律上確定せる土地の境界を変更することであり,境界の劃定とは何処に国の境界が有るかの不明瞭なる場合に実地に就いて之を確認し明瞭ならしむることである。一は権利を変更する行為であり,一は既存の権利を確認する行為である。即ち一は創設行為たり一は宣言行為たるの差がある。境界の確定は殊に陸地に於いて外国と境界を接する場合に必要であつて,ロシアより樺太南半分の割譲を受けた場合には,講和条約附属の追加約款第2に於いて両国より同数の境界劃定委員を任命して実地に就き正確なる境界を劃定すべきことを約し,此の約定に従つて翌年境界の劃定が行はれた。」と(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)88-89頁)。190595日に調印されたポーツマス条約に基づく日露間の境界劃定は北緯50度の線がどこにあるかを測定して決めることであったわけですが,1855年の下田条約(日魯通好条約)に基づく国境劃定を行う場合であれば,まず「是まて〔の〕仕来」が何であるかの確定から始まることになったわけのものでしょう。)

しかし,下田条約2条後段の文言は境界不劃定説によるものであり,かつ,一義的にそう解され得るものであったかどうか。後に考察します。

 

(4)明治政府要人との会見における樺太問題に係るパークスの慎重論

明治二年八月九日(1869914日)には,「パークスは東京運上所において,岩倉〔具視〕大納言・鍋島〔直正〕開拓長官・沢〔宣嘉〕外務卿・大久保〔利通〕参議・寺島〔宗則〕外務大輔・大隈〔重信〕大蔵大輔ら新政府の有力者たちと会見し,再び樺太問題を討議した。さきに寺島との会談で樺太への積極策〔日本側もクシュンコタン近辺に要害の地を占めること(「クシユンコタン辺に要害の地をしむれは唐太の北地処に人をうつすよりも切速なり」(『大日本外交文書』第2巻第2458頁))〕を勧めたパークスは,このたびは一変して「樺太はすでに大半がロシアに属しており,今から日本が着手するのは遅すぎる」ことを力説した。すでに彼は〔英国商船〕ジョリー号船長ウィルソンの〔ロシア軍の凾泊進出に係る〕詳報を検討の結果,ロシアがアニワ湾に2000人の兵力を集結して(これは過大である),日本人の追出しを意図していることを知ったのである。彼は日本側から近く高官とともに多数の移民を送る計画を聞いて,「それは火薬の傍らに火を近づけるのと同じ」といい,北海道の開拓に力をそそぐことを要望した。」という運びになっています(秋月5頁)。

「唯今に至り唐太を御開き被成(なられ)候は御遅延の事と存候」,「唐太を先に御開き被成(なられ)候は住居の屋根(ばか)りあつて礎無之(これなし)と申ものに有之(これあり)候」,「1867年小出大和守の約定は魯西亜と日本との人民雑居と申事に候へは当今同国人参り候ても追出し候権無之(これなき)事と存候」,「サカレン()御心配被成候内(なられさうらふうち)蝦夷は被奪(うばはれ)可申(まうすべく)候」というようなパークスの発言が記録されています(『大日本外交文書』第2巻第2465-478頁のうち,470頁,471頁,474頁及び477頁)。なお,同日段階では我が国政府は北海道島よりも樺太島の開拓を先行させるつもりであったようであり,「同所()は魯国人の来りしに付唐太を先に開らき候事にて蝦夷地ヲ差置候と申事には無之(これなく)候」及び「(まづ)差向唐太の方に尽力いたし候積に候」というような発言がありました(『大日本外交文書』第2巻第2472頁)。 

 蝦夷地改称に係る明治二年八月十五日の前記太政官布告が樺太島について触れなかったのは,樺太はもう駄目ではないかとパークスに冷や水を浴びせかけられてしまったばかりの我が国政府としては,きまりが悪かったからでしょうか。ただし,改称された北海道を11箇国に分割するところの当該太政官布告は,少なくともこれらの国が置かれた東西蝦夷地については,他の五畿七道諸国と同様のものとしてしっかり守ります,との決意表明ではあったのでしょう。なお,八月九日に我が国政府は,パークスからの「〔樺太島における事件に関し〕右様〔「御国内の事件を御存し無之(これなき)事」〕にては蝦夷地を被奪(うばはれ)(さうらふ)(とも)御存し有之(これある)間敷(まじく)」との皮肉に対して,「(これ)(より)開拓の功を成し国割にいたし郡も同しく分割いたし候積に候」と言い訳を述べていますところ(『大日本外交文書』第2巻第2476),そこでは,樺太島にも国及び郡を置くものとまでの明言はされてはいませんでした。

 

4 北海道と樺太との取扱いの区別へ

 

(1)三条右大臣の達し

 蝦夷地を北海道と改称した翌九月には(『法令全書 明治二年』では九月三日(1869107日)付け),三条実美右大臣から開拓使宛てに次のように達せられています(『開拓使日誌明治二年第四』)。

 

                              開拓使

  一北海道ハ

   皇国之北門最要衝之地ナリ今般開拓被仰付(おほせつけられ)候ニ付テハ(ふかく)

   聖旨ヲ奉体シ撫育之道ヲ尽シ教化ヲ広メ風俗ヲ(あつく)()キ事

  一内地人民漸次移住ニ付土人ト協和生業蕃殖(さうろふ)(やう)開化(こころ)ヲ尽ス可キ事

  一樺太ハ魯人雑居之地ニ付専ラ礼節ヲ主トシ条理ヲ尽シ軽率之(ふる)(まひ)曲ヲ我ニ取ルノ事アル可ラス自然(かれ)ヨリ暴慢非義ヲ加ル事アルトモ一人一己ノ挙動アル可カラス(かならず)全府決議之上是非曲直ヲ正シ渠ノ領事官ト談判可致(いたすべく)(その)(うへ)猶忍フ可カラサル儀ハ 廷議ヲ経全圀之力ヲ以テ(あひ)応スヘキ事ニ付平居小事ヲ忍ンテ大謀ヲ誤マラサル様心ヲ尽スヘキ事

  一殊方(しゆはう)〔『角川新字源』では,「異なった地域」・「異域」。もちろんここでは「外国」ではないですね。〕新造之国官員協和戮力ニ非サレハ遠大()業決シテ成功スヘカラサル事ニ付上下高卑ヲ論セス毎事己ヲ推シ誠ヲ(ひら)キ以テ従事決シテ面従腹非()儀アル可カラサル事

    九月        右大臣                                                                               

 

 最北の樺太ではなく,宗谷海峡を隔てたその南の北海道こそが「皇国之北門最要衝之地」であるものとされています。樺太については,ロシア人に気を遣って忍ぶべしと言われるばかりで,どうも面白くありません。東西蝦夷地のみに係る北海道命名の意義とは,東西蝦夷地と北蝦夷地との間のこの相違を際立たせることでもあったのでしょう。最終項に「新造之国」とありますが,当該新造之国11箇国の設置は北海道についてのみであったことは,既に述べたとおりです。

 北海道の命名を華やかに祝うに際しては,陰の主役たる失われた樺太(及び当該陰の主役に対するところの某敵役)をも思い出すべきなのでしょう。

 

(2)樺太放棄論者黒田開拓次官

 明治三年五月九日(187067日)兵部大丞黒田清隆が樺太専務の開拓次官に任ぜられますが,担務地たる樺太を視察した黒田はその年十月に政府に建議を行います。いわく,「夫レ樺太ハ魯人雑居ノ地ナルヲ以テ彼此親睦事変ヲ生セサラシメ(しかる)(のち)漸次手ヲ下シ功ヲ他日ニ収ムルヲ以テ要トス然レトモ今日雑居ノ形勢ヲ以テ(これ)ヲ観レハ僅ニ3年ヲ保チ得ヘシ」云々と(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070638700)。(ちなみに,鷗外森林太郎翻訳の『樺太脱獄記』(コロレンコ原作)において描かれた樺太島から大陸への脱獄劇を演じたロシアの囚人らが同島に到着した時期は,この年の夏のことでした。)また,同年十一月,黒田は「米国ニ官遊」しますが(樺太庁長官官房編纂『樺太施政沿革』(1912年)後篇上・従明治元年至同8年樺太行政施設年譜4頁),その際黒田は「上言シテ(いはく)力ヲ無用ノ地〔筆者註:樺太のことですね。〕ニ用テ他日ニ益ナキハ寧ロ之ヲ顧ミサルニ若カス故ニ之ヲ棄ルヲ上策ト為ス便利ヲ争ヒ紛擾ヲ致サンヨリ一着ヲ譲テ経界ヲ改定シ以テ雑居ヲヤムルヲ中策ト為ス雑居ノ約ヲ持シ百方之ヲ嘗試シ左支右吾遂ニ為ス可カラサルニ至ツテ之ヲ棄ルヲ下策ト為スト」ということがあったそうです(明治62月付け黒田清隆開拓次官上表(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A03023618600))。要は,黒田の樺太放棄論(「上策」)は明治三年中から始まっていたようです。

このようなことになって,「これまで樺太の維持のため努力を重ねてきた岡本監輔は,このような黒田の方針に追従できず,明治3年末に辞表を提出し,許可も届かないうちに離島した〔略〕。その後の樺太行政は,ロシアの軍事力に対抗して開拓を推進するよりは,むしろ移民や出稼人たちの保護に重点が移されたのである。」ということになりました(秋月7頁)。岡本の樺太統治の夢及び努力は,「樺太の行政官として下僚80余名と移民男女200余名を率いて,慶応46月末クシュンコタン(楠渓)に着任」(秋月2頁)してからわずか2年半ほどで終わりを告げたわけです。

その後,187557日にペテルブルクで調印され同年822日に批准書が交換された日露間の千島樺太交換条約によって,全樺太がロシア帝国の単独領有に帰したことは周知のとおりです。


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