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1 新型コロナ・ウイルス問題猖獗中の立皇嗣の礼

 来月の2020419日には,それぞれ国事行為たる国の儀式である立皇嗣宣明の儀及び朝見の儀を中心に,立皇嗣の礼が宮中において行われる予定であるそうです。しかし,新型コロナ・ウィルス問題の渦中にあって,立皇嗣宣明の儀の参列者が制限されてその参列見込み数が約320人から約40人に大幅縮小になるほか(同年318日に内閣総理大臣官邸大会議室で開催された第10回天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典委員会において配付された資料1-1),当該儀式の挙行の翌々日(同年421日)にこれも国の儀式として開催することが予定されていた宮中饗宴の儀が取りやめになり,波瀾含みです。

 

2 立皇嗣の礼における宣明の主体

 立皇嗣の礼は,なかなか難しい。

 立皇嗣の礼に関する理解の現状については,2020321日付けの産経新聞「産経抄」における次のような記述(同新聞社のウェブ・ページ)が,瞠目に値するもののように思われます。

 

   政府は皇位継承順位1位の秋篠宮さまが,自らの立皇嗣(りつこうし)を国の内外に宣明される「立皇嗣の礼」の招待者を減らし,賓客と食事をともにする「宮中饗宴(きょうえん)の儀」は中止することを決めた。肺炎を引き起こす新型コロナウィルスが世界で猖獗(しょうけつ)を極める中では,やむを得ないこととはいえ残念である。

 

筆者が目を剥いたのは,「皇位継承順位1位の秋篠宮さまが,自らの立皇嗣(りつこうし)を国の内外に宣明される「立皇嗣の礼」」との部分です。

産経抄子は,執筆参考資料としては,ウィキペディア先生などというものを専ら愛用しているものでしょうか。ウィキペディアの「立皇嗣の礼」解説には,「立皇嗣の礼(りっこうしのれい),または立皇嗣礼(りっこうしれい)は,日本の皇嗣である秋篠宮文仁親王が,自らの立皇嗣を国の内外に宣明する一連の国事行為で,皇室儀礼。」と書かれてあるところです。

しかし,1991223日に挙行された今上天皇の立太子の礼に係る立太子宣明の儀においては,父である上皇(当時の天皇)から「本日ここに,立太子宣明の儀を行い,皇室典範の定めるところにより徳仁親王が皇太子であることを,広く内外に宣明します。」との「おことば」があったところです(宮内庁ウェブ・ページ)。「平成の御代替わりに伴い行われた式典は,現行憲法下において十分な検討が行われた上で挙行されたものであるから,今回の各式典についても,基本的な考え方や内容は踏襲されるべきものであること。」とされているところ(201843日閣議決定「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う国の儀式等の挙行に係る基本方針について」第12),「文仁親王殿下が皇嗣となられたことを広く国民に明らかにする儀式として,立皇嗣の礼を行う」もの(同閣議決定第571))として行われる今次立皇嗣の礼においても,「宣明します。」との宣明の主体は,むしろ天皇であるように思われます。

現行憲法下時代より前の時代とはなりますが,大日本帝国憲法時代の明治皇室典範16条は「皇后皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と規定していました。「詔書」ですので,当該文書の作成名義は,飽くまでも天皇によるものということになります。

 

3 裕仁親王(昭和天皇)の立太子の礼

1916113日に行われた昭和天皇の立太子の礼について,宮内庁の『昭和天皇実録 第二』(東京書籍・2015年)は,次のように伝えています。

 

 3日 金曜日 皇室典範及び立儲令の規定に基づき,立太子の礼が行われる。立太子の礼は皇太子の身位を内外に宣示するための儀式である。裕仁親王はすでに大正元年〔1912年〕,御父天皇の践祚と同時に皇太子の身位となられていたが,昨4年〔1915年〕に即位の礼が挙行されたことを踏まえ,勅旨により本日立太子の礼を行うこととされた。(241頁)

 

当時の立太子の礼は,1909年の立儲令(明治42年皇室令第3号)4条により,同令の「附式ノ定ムル所ニ依リ賢所大前ニ於テ之ヲ行フ」ものとされていました。

伊藤博文の『皇室典範義解』の第16条解説には,「(けだし)皇太子・皇太孫は祖宗の正統を承け,皇位を継嗣せむとす。故に,皇嗣の位置は立坊の儀に由り始めて定まるに非ず。而して立坊の儀は此に由て以て臣民の(せん)(ぼう)()かしむる者なり。」とありました。「立坊」とは,『角川新字源(第123版)』によれば「皇太子を定めること。坊は春坊,皇太子の御殿。」ということです。つまり『皇室典範義解』にいう「立坊の儀」とは,立儲令にいう「立太子ノ礼」又は「立太孫ノ礼」(同令9条)のことということになります。「瞻望」とは,「はるかにあおぎ見る。」又は「あおぎしたう。」との意味です(『角川新字源』)。「饜」は,ここでは「食いあきる。」又は「いやになる。」の意味ではなくて,「あきたりる。満足する。」の意味でしょう(同)。また,明治皇室典範15条は「儲嗣タル皇子ヲ皇太子トス皇太子在ラサルトキハ儲嗣タル皇孫ヲ皇太孫トス」と規定していました。「儲嗣(ちょし)」とは,「世継ぎのきみ。皇太子。との意味です(『角川新字源』)。現行皇室典範(昭和22年法律第3号)8条は「皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは,皇嗣たる皇孫を皇太孫という。」と規定しています。

立太子の礼を行うことを勅旨(「天子のおおせ。」(『角川新字源』))によって決めることについては,立儲令1条に「皇太子ヲ立ツルノ礼ハ勅旨ニ由リ之ヲ行フ」とありました。閣議決定によるものではありません。

さて,1916113日の賢所(かしこどころ)大前の儀の次第は次のとおり(実録第二241-242頁)。

 

 9時,天皇が賢所内陣の御座に出御御都合により皇后は出御なし,御拝礼,御告文を奏された後外陣の御座に移御される。925分,皇太子は賢所に御参進,掌典次長東園基愛が前行,御裾を東宮侍従亀井玆常が奉持し,御後には東宮侍従土屋正直及び東宮侍従長入江為守が候する。賢所に御一拝の後,外陣に参入され内陣に向かい御拝礼,天皇に御一拝の後,外陣の御座にお着きになる。天皇より左の勅語を賜わり,壺切御剣を拝受される。

   壺切ノ剣ハ歴朝皇太子ニ伝ヘ以テ朕カ躬ニ(およ)ヘリ今之ヲ汝ニ伝フ汝其レ之ヲ体セヨ 

 この時,陸軍の礼砲が執行される。皇太子は壺切御剣を土屋侍従に捧持せしめ,内陣及び天皇に御一拝の後,簀子(すのこ)に候される。935分,天皇入御。続いて皇太子が御退下,綾綺殿(りょうきでん)にお入りになる。この後,皇族以下諸員の拝礼が行われる。

 

「裕仁親王が,自らの立太子を国の内外に宣明」する,というような場面は無かったようです。

今次立皇嗣の礼においては,皇嗣に壺切御剣親授の行事は,立皇嗣宣明の儀とは分離された上で,皇室の行事として行われます。

しかしながら,皇后御欠席とは,何事があったのでしょうか。貞明皇后は,立太子の礼と同日の参内朝見の儀(立儲令7条に「立太子ノ礼訖リタルトキハ皇太子皇太子妃ト共ニ天皇皇后太皇太后皇太后ニ朝見ス」と規定されていました。)等にはお出ましになっていますから,お病気ということではなかったようです。

なお,今次立皇嗣の礼に係る朝見の儀においては,上皇及び上皇后に対する朝見は予定されていないようです(第10回天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典委員会の資料2)。

明治皇室典範16条本体に係る大正天皇の詔書については,次のとおり(実録第二242頁)。

 

 賢所大前の儀における礼砲執行と同時に,左の詔書が宣布される。

   朕祖宗ノ遺範ニ遵ヒ裕仁親王ノ為ニ立太子ノ礼ヲ行ヒ茲ニ之ヲ宣布ス

 

立儲令5条に「立太子ノ詔書ハ其ノ礼ヲ行フ当日之ヲ公布ス」とあったところです。

なお,今次立皇嗣の礼においては,立皇嗣宣明の儀の2日後(前記のとおり2020421日)に当初予定されていた宮中饗宴の儀が新型コロナ・ウィルス問題のゆえに取りやめになっていますが,191611月の立太子の礼に係る宮中饗宴の儀(立儲令8条に「立太子ノ礼訖リタルトキハ宮中ニ於テ饗宴ヲ賜フ」と規定されていました。)も「コレラ流行のため」その開催が同月3日から3週間以上経過した同月27日及び同月28日に延引されています(実録第二252頁)。延引にとどまらず取りやめまでをも強いた21世紀の新型コロナ・ウィルスは,20世紀のコレラ菌よりも凶悪であるようです。ちなみに,立太子の礼に係る宮中饗宴の儀の主催者は飽くまでも天皇であって,19161127日及び同月28日の上記宮中饗宴に「皇太子御臨席のことはなし。」であったそうです(実録第二252頁)。

 

4 明治皇室典範の予定しなかった「立皇嗣の礼」

ところで,以上,今次立皇嗣の礼について,明治皇室典範及び立儲令を参照しつつ解説めいたものを述べてきたところですが,実は,現行憲法下,天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)の成立・施行までをも見た今日,明治皇室典範及び立儲令の参照は,不適当であったようにも思われるところです。

「平成の御代替わりに伴い行われた式典は,現行憲法下において十分な検討が行われた上で挙行されたものであるから,今回の各式典についても,基本的な考え方や内容は踏襲」するのだとして,立太子の礼の前例を踏襲するものとして立皇嗣の礼を行うこととした安倍晋三内閣の決定は,保守的というよりはむしろ明治典憲体制における制度設計を超えた,明治皇室典範の裁定者である明治天皇並びに起案者である伊藤博文,井上毅及び柳原前光の予定していなかった革新的新例であったことになるようであるからです。

問題は,明治皇室典範15条の解説に係る『皇室典範義解』の次の記載にあります。

 

 今既に皇位継承の法を定め,明文の掲ぐる所と為すときは,立太子・立太孫の外,支系より入りて大統を承くるの皇嗣は立坊の儀文に依ることを(もち)ゐず。而して皇太子・皇太孫の名称は皇子皇孫に限るべきなり。

 

 天皇から皇太子又は皇太孫への皇位の直系継承とはならない場合,すなわち,今上天皇と秋篠宮文仁親王との間の皇位継承関係(「皇兄弟以上ノ継承」)のようなときには,以下に見るように,皇嗣は「践祚ノ日迄何等ノ宣下モナク」――立坊の儀文(これは立太子又は立太孫の場合に限る。)を須いず――「打過ギ玉フ」ことになるのだ,ということのようです。

 1887125日提出の柳原前光の「皇室法典初稿」を承けて,伊藤博文の「指揮」を仰ぐために作成された井上毅の「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々」(小島和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)178-179頁・172頁参照)に次のようにあるところです(伊藤博文編,金子堅太郎=栗野慎一郎=尾佐竹猛=平塚篤校訂『帝室制度資料 上巻』(秘書類纂刊行会・1936年)247-248頁)。

 

一,皇太子ノ事。

    皇太子ノ事ハ上代ノ日嗣御子ヨリ伝来シタル典故ナレバ之ヲ保存セラルハ当然ノ事ナルベシ。但シ左ノ疑題アリ。

甲,往古以来太子ノ名義ハ御父子ニ拘ラズシテ一ノ宣下ノ性質ヲ為シタリ。故ニ御兄弟ノ間ニハ立太弟ト宣命アルノ外,皇姪ヲ立坊アルモ亦太子ト呼ビ(成務天皇日本武尊ノ第2子ナル足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)立テヽ皇太子ト為ス,即チ仲哀天皇ナリ)従姪孫ノ天皇ヨリ族叔祖ヲ立坊アルモ亦太子ト呼ベリ(孝謙天皇ノ淳仁天皇ニ於ケル)。今皇位継承ノ順序ヲ定メラレ,皇子孫ナキトキハ皇兄弟(ママ)皇伯叔ニ伝フトセラレンニ,此時立太子ノ冊命アルベキ乎

    乙,若シ立太子ハ皇子,皇孫,皇姪ノ卑属親ニ限リ,其他ノ同等親以上ニハ行ハルベキニ非ラズトセバ,皇兄弟以上ノ継承ノ時ニハ践祚ノ日迄何等ノ宣下モナクシテ打過ギ玉フベキ乎。

      前ノ議ニ従ヘバ立太子ハ養子ノ性質ノ如クナリテ名義穏ナラズ,後ノ議ニ依レバ実際ノ事情ニハ稍ヤ穏当ヲ缺クニ似タリ。

      又履中天皇,反正天皇(皇弟)ヲ以テ儲君トシ玉ヒシ例ニ依リ,儲君ノ名義ヲ法律上ニ定メラレ宣下公布アルベシトノ議モアルベシ。此レモ当時ハ「ヒツギノミコ」ト称フル名号ハアリシナルベケレドモ,儲君ノ字ハ史家ノ当テ用ヒタルニテ,綽号ニ類シ,今日法律上正当ノ名称トハナシ難キニ似タリ。

此ノ事如何御決定アルベキカ(叙品ヲ存セラレ一品親王宣下ヲ以テ換用アルモ亦一ノ便宜法ナルニ似タルカ)。

        乙ニ従フ,一品親王ノ説不取

 

 朱記部分は,1888年まで下り得る「かなり後になっての書き込み」です(小嶋・典範179頁)。「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々」の冒頭には同じく朱記で「疑題中ノ重件ハ既ニ総理大臣ノ指揮ヲ得,更ニ柳原伯ノ意見ヲ酌ミ立案セリ。此ノ巻ハ存シテ以テ後日ノ考ニ備フ」とありました(『帝室制度資料 上巻』229頁)。

 前記部分で「(てつ)」は,「めい」ではなく,「兄弟の生んだ男子を称する」「おい」のことになります(『角川新字源』)。「従姪孫」は,いとこの孫(淳仁天皇から見た孝謙天皇)です。「伯叔」は「兄と弟」又は「父の兄と父の弟。伯父叔父。」という意味です(『角川新字源』)。「綽号(しゃくごう)」は,「あだな。」(同)。『日本書紀』の履中天皇二年春正月丙午朔己酉(四日)条に「立(みづ)()別皇子(わけのみこ)為儲君」とあります。小学館の新編日本古典文学全集版では「儲君」の振り仮名は「ひつぎのみこ」となっており,註して「「儲君」の初出。皇太子。」と記しています。

 井上毅は,卑属以外の皇嗣(卑属ではないので,世代的に,皇太()又は皇太()となるのはおかしい。)に「儲君」の名義を与えるべきかと一応検討の上,同案を捨てています。「皇太()については,「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫(●●)之ヲ継承ス」る原則(大日本帝国憲法2条)の下,皇兄弟は「皇子孫皆在ラサルトキ」に初めて皇位継承者となるのであって(明治皇室典範5条),兄弟間継承は例外的位置付けだったのですから,当該例外を正統化するような名義であって採り得ないとされたもののように筆者には思われます。(なお,『皇室典範義解』15条解説においては,「其の皇子に非ずして入て皇嗣となるも,史臣亦皇太子を以て称ふ〔略〕。但し,或は立太子を宣行するあり,或は宣行せざるありて,其の実一定の成例あらず。皇弟を立つるに至ては或は儲君と称へ(反正天皇の履中天皇に於ける),或は太子と称へ(後三条天皇の後冷泉天皇に於ける),或は太弟と称ふ(嵯峨・淳和・村上・円融・後朱雀・順徳・亀山)。亦未だ画一ならず。」と史上の先例を整理した上で,前記の「立太子・立太孫の外,支系より入て大統を承くるの皇嗣は立坊の儀文に依ることを須ゐず。而して皇太子・皇太孫の名称は皇子皇孫に限るべきなり。」との結論が述べられています。)また,宣下すべき名義として,「皇嗣」はそもそも思案の対象外だったようです。旧民法に「推定家督相続人」の語がありましたが,「皇嗣」はその皇室版にすぎないという理解だったものでしょうか。

 

5 明治皇室典範16条の立案経過

 

(1)高輪会議における皇太子・皇太孫冊立関係規定の削除

 「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々」については乙案が採用されることになり,それが後の明治皇室典範16条の規定につながるわけですが,1887320日のかの高輪会議(「明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)ニ関して」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.html,「続・明治皇室典範10に関して:高輪会議再見,英国の国王退位特別法,ベルギーの国王退位の実例,ドイツの学説等」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060127005.html)においては,実は,立坊(立太子又は立太孫)の儀は行わないものとする決定がされたもののようです。すなわち,当該会議の結果,当該会議における検討の叩き台であった柳原前光の「皇室典範再稿」にあった「第26条 天皇践祚ノ日嫡出ノ皇子アル時ハ直チニ之ヲ皇太子ニ冊立ス」及び「第27条 第24条〔太皇太妃,皇太妃及び皇后〕第25条〔皇太子及び皇太孫〕ノ諸号ハ冊立ノ日詔書ヲ以テ之ヲ冊立ス」の両条が削られているからです(小嶋・典範192頁)。恐らくは伊藤博文において,「皇太子・皇太孫は祖宗の正統を承け,皇位を継嗣せむとす。故に,皇嗣の位置は立坊の儀に由り始めて定まるに非ず」なので,そもそも立坊の儀は必要ないのだとの結論にその場においては至ったもの,ということでしょうか(伊東巳代治の「皇室典範・皇族令草案談話要録」には「嫡出ノ皇子ハ冊立ヲ待タスシテ皇太子為リ故ニ此2条〔26条及び27条〕ハ削除ス」とあります(小林宏=島善高編著『明治皇室典範(上) 日本立法資料全集16』(信山社出版・1996年)456頁)。)。(これに対して,柳原は削られた原案の作成者でありましたし,井上毅も,前記「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々」の記載からすると,立太子の宣下はあるべきものと考えていたはずです。)

「立太子の詔は始めて光仁天皇紀に見ゆ。」ということだけれども(『皇室典範義解』16条解説),そもそもの光仁期の先例自体余り縁起がよくなかったのだからそんなにこだわらなくともよいではないか,ということもあったものかどうか。すなわち,「天皇の即位とほぼ同時に皇太子が定められ,原則としてその皇太子が即位するのが通例となってくるのは,じつは(こう)(にん)770781年)以後のことであり」(大隅清陽「君臣秩序と儀礼」大津透=大隅清陽=関和彦=熊田亮介=丸山裕美子=上島享=米谷匡史『古代天皇制を考える』(講談社・2001年)68頁),「(こう)(にん)天皇即位白壁一人であった井上(いのうえ)内親王(ないしんのう)聖武天皇(あがた)犬養(いぬかい)(うじ)皇后(おさ)()親王皇太子と」,「772年(宝亀三),藤原(ふじわらの)百川(ももかわ)策謀皇后・皇太子罪(冤罪(えんざい)可能性れ」(大隅69頁),後に不審死しているところです(他戸親王に代わって皇太子に立ったのが,光仁天皇の後任の桓武天皇でした。)。

  

(2)皇太子・皇太孫冊立関係規定の復活から明治皇室典範16条まで

 高輪会議後,柳原は,18874月に「皇室典範草案」を作成し(小嶋・典範202頁),同月25日に伊藤博文に,同月27日に井上毅に差し出しています(小林=島83頁(島))。そこでは「天皇践祚ノ日嫡出ノ皇子アル時ハ直チニ皇太子ト称ス 刪除」とされつつ(小嶋・典範203頁),小嶋和司教授によれば当該草案では前月の高輪会議における「皇室典範再稿」26条(「二六条」)に係る削除決定が無視されていたとされています(小嶋・典範204頁)。「皇室典範再稿」26条に係るものである皇太子冊立関係規定が再出現したものかのようですが,ここで小嶋教授の記した「二六条」は,「二七条」の誤記であったものと解した方が分かりやすいようです。(すなわち,上記柳原「皇室典範草案」においては,「第3章 貴号敬称」に,第16条として「天皇ノ祖母ヲ太皇太后母ヲ皇太后妻ヲ皇后ト号ス」との規定,第17条として「儲嗣タル皇子孫ヲ皇太子皇太孫ト号ス」との規定が設けられ(小林=島459頁),これらを受けて第18として「前両条ノ諸号ハ冊立ノ日詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と規定されていたところです(小林=島460)。なお,井上毅の梧陰文庫に所蔵(小林=島83頁(島))の同草案18条には井上の手になるものと解される(小林=島219)朱書附箋が付されており,そこには「18条修正 皇后及皇太子皇太孫ヲ冊立スルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス此ノ1条ノ目的ハ冊立ニ在テ尊号ニ在ラザルヘシ故ニ17条ヲ併セ第4章ニ加ヘ4章ヲ以テ成年立后立太子及嫁娶トスヘシ4章の章名を「成年嫁娶」から「成年立后立太子」にせよの意〕」と記されていました(小林=島460)。嫡出ノ皇子ハ冊立ヲ待タスシテ皇太子為リ故ニ此2条〔26条及び27条〕ハ削除ス」と高輪会議ではいったん決めたものの,嫡出ノ皇子の当然皇太子性との関係で冊立に重複性が生ずるのは「皇室典範再稿」の第26の場合であって,庶出の皇子にも関係する同27条の冊立規定までをも削る必要は実はなかったのではないですか,とでも伊藤には説明されたものでしょうか。

 その後の井上毅の77ヶ条草案には「第19条 皇后及皇太子皇太孫ヲ冊立スルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」という条項があり,柳原の「皇室典範再稿」27条に対応する規定の復活が見られます(小嶋・典範213頁。前掲の柳原「皇室典範草案」18条に係る朱書附箋参照)。77ヶ条草案の第19条は,1888320日の井上毅の修正意見の結果(小嶋・典範210-211頁),「第17条 皇后及皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と改まり,その理由は井上によって「冊立トハ詔書ヲ以テ立ツルノ意ナリ故ニ1文中重意ヲ覚フ」とされています(小嶋・典範213頁)。1888525日から枢密院で審議された明治皇室典範案においては「第17条 皇后又ハ皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」となっています(小嶋・典範228頁)。

 上記枢密院提出案に対して,柳原前光は1888524日に「欽定皇室典範」といわれる意見を伊藤博文に送付しています(小嶋・典範236頁)。枢密院提出案17条に対する「欽定皇室典範」における柳原の修正は,章名を「第3章 成年立后立太子」から「第3章 成年冊立」とした上で(理由は「立后,立太子ト題シ,太孫ノコトナシ,故ニ冊立ト改ム。」),「冊立ノ字,題号ニ応ズ」という理由で「第17条 皇后又ハ皇太子,皇太孫ヲ冊立スルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」とするものでした(『帝室制度資料 上巻』143-144頁)。前記井上毅の77ヶ条草案19条とほぼ同じ文面となっています。

 更に1889110日,柳原から伊藤博文に対し,明治皇室典範案に係る帝室制度取調局の修正意見書が送付されます(小嶋・典範247頁)。そこには,第3章の章名を「第3章 成年立后立太子孫」とし,第17条については「第17条 皇后皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ宣布ス」とすべきものとする意見が含まれていました(『帝室制度資料 上巻』5-6頁)。

 最終的な明治皇室典範16条は,前記のとおり,「皇后皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」との条文になっています。

 6 みたび,柳原前光の「深謀」

 筆者としては,高輪会議で一度消えた立坊の儀について定める条文の復活(明治皇室典範16条)も,柳原前光の深謀であったものと考えたいところです。(「伊藤博文の変わり身と柳原前光の「深謀」」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065458056.html

 

(1)「帝室典則」に関する宮中顧問官らの立坊論

 明治皇室典範に係る有名な前記高輪会議が開催された1887年の前年のことですが,1886年の610日の宮内省第3稿「帝室典則」案の第1は,「皇位ハ皇太子ニ伝フヘシ」と規定していました(小嶋和司「帝室典則について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』138頁)。当該「帝室典則」610日案に係る宮中顧問官による評議を経た修正を記録した井上毅所蔵(梧陰文庫)本には,上記第1について,次のような朱書註記(記載者を示す史料はなし。)があったところです(小嶋・典則159-160頁,161)。(なお,当該第1については,宮中顧問官の評議の結果,「第1」が「第1条」になりましたが,文言自体には変更はありませんでした(小嶋・典則150頁)。)

 

  皇太子ハ冊立ヲ以テ之ヲ定ム嫡長男子ノ立坊ハ其丁年ト未丁年トヲ問ハズ叡旨ヲ以テ宣下

  庶出長皇子ノ立坊ハ皇后宮御受胎有ルマシキ御年齢ニ至ラセラレタル上宣下

  庶出皇子立坊ノ後若シ皇后宮受胎降誕在ラセラルトモ其為メ既ニ冊立ノ太子ヲ換フルヘカラス

 

当該朱書註記は「610日案への青色罫紙貼付意見に答えるもので,おそらく顧問官評議において右のように諒解され,それが記載されたのであろう。」というのが,小嶋和司教授の推測です(小嶋・典則161頁)。

「帝室典則」610日案の第1への「青色罫紙貼付意見」(何人の意見であるか不明(小嶋・典則147頁))とは,「立太子式有無如何/其式無之(これなく)シテ太子ト定ムル第6条ノ場合差支アルカ如シ」というものでした(小嶋・典則150頁)。

「帝室典則」610日案の第6は「凡皇子孫ノ皇位ヲ継承スルハ嫡出ヲ先ニス皇庶子孫ノ位ヲ嗣クハ皇嫡子孫在ラサルトキニ限ルヘシ/皇兄弟皇伯叔父以上ハ同等皇親内ニ於テ嫡ヲ先ニシ庶ヲ後ニス」というもので(小嶋・典則140頁),これに対する「青色罫紙貼付意見」は「庶出ヲ以テ太子トセル際後ニ嫡出アラハ前ニ太子ヲ称セシヲ廃スルカ如何」というものでした(小嶋・典則152頁)。

「帝室典則」610日案の第6には,宮中顧問官の評議の後,第63項として「嫡出庶出皆長ヲ先ニシ幼ヲ後ニス」が加えられていますところ(小嶋・典則152頁(また,第1項の「ヘシ」も削られています。)),専ら,皇后に皇子が生まれていない状態(「皇嫡子孫在ラサル」「6条ノ場合」)が続く場合,皇位継承順位第1位の皇族(前記朱書においては,側室から生まれた庶出の最年長皇子)はいつまでも皇太子にならないまま践祚を迎えることになってしまうのではないか,という具体的問題意識が宮中顧問官の間にあったということになるようです。

せっかく天皇に皇子があるのに,庶出であるばかりに,いつ皇后が皇子を生むか分からないからということで皇太子不在という状態を続けてよいのか,やはりどこかで区切りを付けて当該庶出の皇子を皇太子に冊立すべし,ということのようです。しかし,いったん庶出の皇子を皇太子に冊立した後に皇后が嫡出の皇子を生んでしまうと大変なので(さすがに,いったん皇太子となった皇子について廃太子の手続を執るというのはスキャンダラスに過ぎるでしょう。),「庶出長皇子ノ立坊ハ皇后宮御受胎有ルマシキ御年齢ニ至ラセラレタル上宣下」というように皇后に受胎能力がなくなったことを十分見極めてから皇太子冊立をしましょうね,ということになったようです。とはいえ,当の皇后にとっては,失礼な話ですね。明治の宮中顧問官閣下ら(川村純義・福岡孝弟・佐々木高行・寺島宗則・副島種臣・佐野常民・山尾庸三・土方久元・元田永孚・西村茂樹(小嶋・典則146))も,令和の御代においては,ただのセクハラおじいちゃん集団歟。

 

(2)柳原の「帝室典則修正案」における立坊関係規定の採用

その後(ただし,1886107日より前)柳原前光が作成した「帝室典則修正案」においては(小嶋・典則166-167頁),その第9条に「皇太子皇太孫ト号スルハ詔命ニ依ル」という規定が置かれました(小嶋・典則164頁)。同条の規定は,直前の「帝室典則」案には無かったものです。小嶋教授は,「「典則」での採択を覆すもの」と評しています(小嶋・典則166頁)。すなわち,「帝室典則」に先立つ1885(小嶋・典則64「皇室制規」の第10には「立太子ノ式ヲ行フトキハ此制規ニヨルヘシ」との規定があったのですが,当該規定は「帝室典則」では削られていたところです(小嶋・典則125頁・140頁・153)。とはいえ,「帝室典則」案に対する宮中顧問官の評議を経た修正結果においては,2条ただし書として「但皇次子皇三子ト雖モ立坊ノ後ハ直ニ其子孫ニ伝フ」との規定が設けられてありました(小嶋・典則151頁。下線は筆者によるもの)。

「帝室典則修正案」に,前記の「皇室法典初稿」(1887125日)が続きます。

 

(3)嘉仁親王(大正天皇)の立太子

庶出ではあるが唯一人夭折を免れた皇子である嘉仁親王(後の大正天皇)について,明治皇室典範裁定後の1889113日,立太子の礼が行われました。明治天皇の正妻である昭憲皇太后は,その日満40歳でした。(なお,嘉仁親王は,その8歳の誕生日である1887831日に,既に昭憲皇太后の実子として登録されていたところではあります(奥平康弘『「萬世一系」の研究(下)』(岩波現代文庫・2017年)16頁等参照)。ちなみに,1886年の「帝室典則」610日案第7には「庶出ノ皇子皇女ハ降誕ノ後直チニ皇后ノ養子トナス」とあったところ(飽くまでも養子です。),同年中の顧問官評議を経て当該規定は削られており,その間副島種臣から「庶出ト雖嫡后ヲ以テ亦母ト称ス」との修正案が提出されていたところです(小嶋・典則140頁・153)。

ところで,嘉仁親王の生母である愛子の兄こそ,柳原前光おじさんでありました。

 

7 現行皇室典範における立坊関係規定の不在と立太子の礼の継続

庶出の天皇が践祚する可能性を排除した現行皇室典範においては,明治皇室典範16条に相当する立太子・立太孫関係規定は削られています。

しかしながら,庶出の天皇(皇族)の排除と立坊関係規定の不在との間に何らかの関係があるかどうかは,194612月の第91回帝国議会における金森徳次郎国務大臣の答弁からは分からないところです。同大臣は,立太子の礼に関しては,立太子の儀式を今後も行うかどうかは「今の所何らまだ確定した結論に到達しておりません。」(第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会議録(速記)第422頁),「決まっておりません。」(同会議録23頁),「本当の皇室御一家に関しまするものは,是は法律は全然与り知らぬ,皇室御内部の規定として御規定になる,斯う云ふことになつて居りますが,さうでない,色々儀式等に関しまする若干の問題は,今まだ具体的に迄掘下げては居りませぬけれども,例へば立太子の式とかなんとか云ふ方面を考へる必要が起りますれば,それは多分政令等を以て規定されることと考へて居ります」(第91回帝国議会貴族院皇室典範案特別委員会議事速記録第27頁)というような答弁のみを残しています。立太子・立太孫ないしは立皇嗣の礼に係る立儲令のような政令等の法令は,いまだ存在していないところです。
 194612月段階では行われるかどうか未定でしたが,立太子の礼を行うことは継続されることになりました。

1952年(昭和271110日,〔現上皇〕皇太子継宮(つぐのみや)明仁(1933-)の立太子礼が,旧立儲令に従って挙行され,報道機関は,皇室は日本再興のシンボル,と書き立てた。内閣総理大臣吉田茂は,立太子礼の寿()(ごと)で「臣茂」と名乗り,その時代錯誤ぶりで,世人を驚かせた。」とのことです(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)207-208頁)。「旧立儲令に従って」とのことですが,立儲令附式には賢所大前の儀において内閣総理大臣が「御前に参進し,寿詞を述べる」ということは規定されておらず,臣下の分際で立太子の礼にしゃしゃり出てよいものかどうか,吉田茂は恐懼したものでしょう。

 

(追記)

なお,19521110日の立太子の礼宣制の儀に係る式次第は,次のとおりでした(宮内庁『昭和天皇実録 第十一』(東京書籍・2017年)445-446頁)。当該式次第は,「旧立儲令に従って」はいません。

 

 午前11時より表北の間において,立太子の礼宣制の儀を行われる。黄丹袍を着して参入の皇太子〔現上皇〕に続き,〔香淳〕皇后と共に〔昭和天皇は〕同所に出御される。ついで宮内庁長官田島道治が宣制の座に進み,次の宣制を行う。

  昭和271110日立太子ノ礼ヲ挙ケ明仁親王ノ皇嗣タルコトヲ周ク中外ニ宣ス 

次に皇太子より敬礼をお受けになる。ついで内閣総理大臣〔吉田茂〕より寿詞をお受けになり,入御される。

 

 ところで,1916113日の詔書の前例及び1989223日のおことばの後例に鑑みても,「皇太子」を立てることに係る立太子の礼における宣制中の「皇嗣タルコトヲ」の部分は,田島長官が余計,かつ,儀式の本来の趣旨からすると不正確なことを言った,ということにならないでしょうか。皇太子であれば,皇嗣たることは自明です。19521110日の宣制の考え方は,立太子の礼とは,某親王が皇嗣であること(皇太子であること,ではない。)をあまねく中外に宣するための儀式である,ということでしょうか。

 令和の御代における立皇嗣の礼催行の正統性は,この辺において見出されるべきものかもしれません。そうであれば,吉田茂内閣の「時代錯誤」とは,明治典憲体制への退行というよりも,令和・天皇の退位等に関する皇室典範特例法体制を先取りしたその先行性にあったということになるのでしょう。

 しかし,この先見の功は,吉田茂一人に帰して済まし得るものかどうか。19521114日には,昭和天皇から「皇太子成年式及び立太子の礼に当たり,皇太子のお言葉及び宣制の起草に尽力した元宮内府御用掛加藤虎之亮東洋大学名誉教授に金一封を賜う。」ということがあったそうです(実録第十一453頁。下線は筆者によるもの)。

 19331223日の明仁親王誕生までの昭和天皇の皇嗣は弟宮の雍仁親王(1902625日生。秩父宮)であったところですが,雍仁親王は1940年以降胸部疾患により神奈川県葉山町,静岡県御殿場町及び神奈川県藤沢市鵠沼の別邸での長期療養生活を余儀なくされ,皇太子明仁親王が「皇嗣タルコトヲ周ク中外ニ宣ス」る宣制がせられた儀式に病身をおして参列した195211月の翌月である同年「12月より容態が悪化し」,195314日午前220分に薨去せられています(実録第十一447, 479-481頁)。


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旧秩父宮ヒュッテ(札幌市南区空沼岳万計沼畔)



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1 元号と追号との関係

 近々元号法(昭和54年法律第43号)2項の事由に基づき平成の元号が改まるということで,元号に関する議論がにぎやかです。

 ところで,150年前の明治元年九月八日(18681023日)の改元の詔には「其改慶応四年,為明治元年,自今以後,革易旧制,一世一元,以為永式。主者施行。」とありますところ,「一世一元」であるゆえに(元号法2項も「元号は,皇位の継承があつた場合に限り改める。」と規定しており,「実質は一世一元でございます。」とされています(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第421頁)。),元号はすなわち天皇の追号となるべきもの,と考えたくなるところです。

 

(1)元号≠追号

 しかしながら,元号と追号とは制度的には無関係であるという見解が,1979年の元号法案の国会審議時において政府から何度も表明されています。例えば,次のとおり。

 

   次に,元号名と天皇の贈り名のことについてお尋ねがあったわけでございます。

   御承知のように,明治,大正という元号がそれぞれ天皇の贈り名とされましたのは事実でございますが,贈り名と元号との関係につきましては,従前も,制度上元号が必ず贈り名になると定められていたわけではございません。この法案のもとにおいても直接に結びつきはないものと考えております。戦前におきましては,登極令におきまして元号の問題が取り上げられており,あるいは追号の問題は皇室喪儀令に分かれて取り上げられておった。戦前でもそうでございます。そういうことでございますので,戦前におきましても,いま申し上げましたように,追号と元号とは制度的に関係がないものと承知をいたしておるところでございます。(三原朝雄国務大臣(総理府総務長官)・第87回国会衆議院会議録第155頁)

 

   いまお答え申し上げている元号法案による元号と追号とは全然関係がないと承知いたしております。(大平正芳内閣総理大臣・第87回国会参議院内閣委員会会議録第1422頁)

 

 また,細かい規定はないとしても,新天皇が大行天皇の追号を勅定するということは明らかにされています。例えば,次のとおり。

 

   追号につきましては,現在は法令がないというような状況になっていると存じます。したがいまして,過去の法令,法規等を参考にいたしまして定められてくるというようなことになると思うわけでございますが,過去の例は御案内のとおり,新帝が勅定をされた,こういうことでございまして,その旨が宮内大臣と内閣総理大臣が連署して告示された,こういうことでございます。

   こういったような過去の例というのを十分考えながら,今後いろいろと研究を続けていかなければならない事項と思っておるわけでございます。ただいま,どういうかっこうでどうなるということを申し上げるのは差し控えさせていただきたいと存じます。(山本悟政府委員(宮内庁次長)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第519頁)

 

   お答えを申し上げますが,元号と追号とはこれは全く性格が違うわけなんですね。追号は,これは皇室の行事で,新天皇が亡くなられた天皇に贈り名としてお名前をおつけになるということでございますし,元号というのは陛下が御在世中に国民なり役所なりがその年をあらわす紀年法として用いる呼び名でございまして,この二つは全然違うわけなのです。御質問の将来陛下が崩御になったときにどういう追号をお持ちになるかということは,それは現在の段階ではこれは私何とも申し上げられません。これは新天皇がお決めになることでございまして,まあ現在ではもう想像の域を出ないと,こういうお答えしかできないわけでございます。(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会参議院内閣委員会会議録第711頁)

 

   これは先ほどもお答え申し上げたつもりでございますけれども,元号と追号とは全然これは別問題でございまして,追号の方は天皇が先帝に対して贈られるものでございます。政府のかかわるところではございません。(大平内閣総理大臣・第87回国会参議院内閣委員会会議録第1427頁)

 

 「一世一元の制で重要なのは,後に元号が天皇の諡号(高徳の人に没後おくる名)になることです。中国でも一世一元の元号は,皇帝の諡号になっています。日本では明治以降,元号=諡号となります。」といわれていますが(所功「平成の「次の元号」に使われる漢字」文藝春秋20187月号188頁),少なくとも我が国では,在位中の元号=追号となるのは,新帝がそのように先帝の追号を治定した例が1912年,1926年及び1989年と続いたからにすぎないものであって制度的なものではない,ということになります。在位中の元号をもって1912年に大行天皇が明治天皇と追号されたことについては,当時,「和漢其の例を見ず」,「史上曽て見ざる新例」と評されました(井田敦彦「改元をめぐる制度と歴史」レファレンス811号(20188月)96頁(宮内庁編『明治天皇紀 第十二』(吉川弘文館・1975833頁及び読売新聞1912828日「御追号明治天皇 史上曽て見ざる新例」を引用))。
 元号を皇帝の追号にすることは漢土に例を見ずといわれても,明の初代洪武帝朱元璋以下の明・清の歴代皇帝は一体どういうことになるのだという疑問が湧くのですが,『明史』の本紀第一の太祖一の冒頭部分を見ると「太祖開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高皇帝,諱元璋,字国瑞,姓朱氏。」とあるところです。在位中の元号を洪武とした皇帝朱元璋の廟号は太祖で,諡号は開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高皇帝であるということのようです。要は明の太祖以降の漢土皇帝に係る在位中の元号に基づく洪武帝等の呼び方は,廟号又は諡号ではないことはもちろん,そもそも正式のものではなかったのでした。いわく,「〔明の〕太祖は在位31年,歳71で,皇太孫〔建文帝〕の将来の運命を案じながら,孤独のうちに病死する(1398年)。その年号は終始洪武と称して改元することがなく,以後中国においては一世一元の習慣が確立する。そこで天子を呼ぶにも,従来の諡号,廟号に代えて,年号をもって称するようになった。天子の諡号は古代には極めて簡単な美称を12字ですませたが,後世それが次第に長くなり,明の太祖は21字を重ねるに至ったので,臣下としてはこれを省略して呼んでは失礼にならぬとも限らない。廟号は常に1字であるが,各王朝とも廟号に用いる字はおおむね定まっていて,太祖,太宗,仁宗といった名が頻出するので,前朝と紛らわしくなる。そこで年号によって,たとえば洪武帝のように呼べば,これは正式の名称ではないが,一目瞭然で間違えたり,混同したりするおそれがなくてすみ,甚だ便利なのである。」と(宮崎市定『中国史(下)』(岩波文庫・2015年)175-176頁。下線は筆者によるもの)。これに対して,我が国においては,明治天皇より前に一世一元であった過去の天皇について,例えば平城天皇は,現在一般には元号により大同天皇と呼ばれてはいません。そうしたからとて特に「甚だ便利」というわけでもなく,かつ,本来の追号・諡号がむやみに長くなることもなかったからでしょう。

なお,明治天皇より前に一代の間に改元が1度だけであった天皇としては,元明,桓武,平城,嵯峨,淳和,清和,陽成,光孝,宇多,冷泉,花山,三条,後三条,後白河,六条,御嵯峨,後伏見,後亀山,後小松,称光,後桜町及び後桃園の22天皇が挙げられていました(清水汪政府委員(内閣官房内閣審議室長兼内閣総理大臣官房審議室長)・第87回国会参議院内閣委員会会議録第122頁)。これら各天皇と元号との関係について見ていくと,元明天皇の改元に係る新元号は和銅,桓武天皇のそれは延暦,平城天皇については上記のとおり大同,嵯峨天皇については弘仁,淳和天皇については天長,清和天皇については貞観,陽成天皇については元慶,光孝天皇については仁和,宇多天皇については寛平,冷泉天皇については安和,花山天皇については寛和,三条天皇については長和,後三条天皇については延久,後白河天皇については保元,六条天皇については仁安,後嵯峨天皇については寛元,後伏見天皇については正安,後亀山天皇については元中,称光天皇については正長(ただし,同天皇践祚から17年目の崩御の年に至ってやっと改元),後桜町天皇については明和,後桃園天皇については安永となります。ただし,後小松天皇は一代の間に明徳から応永へ1度しか改元しなかったというのは南朝正統論の行き過ぎで,実は同天皇は在位中に,永徳から至徳へ,至徳から嘉慶へ,嘉慶から康応へ,康応から明徳へ及び明徳から応永へと,5回改元を行っています。また,光厳天皇は元徳から正慶への改元しかしていませんし,崇光天皇も貞和から観応への改元しか行っていません。ちなみに,皇位の継承があったことに基づき行われる代始改元の時期については,「踰年改元,つまり皇位の継承をなさいました年の翌年のある時期,あるいは翌年以降のある時期,そういう意味におきまして,その年を越してからの改元ということでございますが,そのような例は過去の元号の歴史の中ではむしろ非常に多かったということは御案内のとおり」であり,「奈良時代におきましては特にすぐ改元したということがあったわけでございますが,平安時代の初期と申しますか,第51代の平城天皇のときにその年のうちに改元をしたということがございましたが,それが大体最後でございまして,それから後は年を越してからの改元ということが例でございました。」とされています(清水汪政府委員・第87回国会参議院内閣委員会会議録第77頁)。この大同改元については,『日本後紀』の記者によって,「改元大同。非礼也。国君即位,踰年而後改元者,縁臣子之心不忍一年而有二君也。今未踰年而改元,分先帝之残年,成当身之嘉号。失慎終无改之義,違孝子之心也。稽之旧典,可謂失也。」と,踰年改元でなかったことが正に厳しく批判されていたところです(巻第十四大同元年五月辛巳〔十八日〕条)。

 

(2)皇室喪儀令及び追号奉告の儀

 さて,追号について定めていた皇室喪儀令とは,枢密顧問の諮詢(枢密院官制(明治21年勅令第22号)61号参照)を経た旨が記された上諭が附され(公式令(明治40年勅令第6号)53項),一木喜徳郎宮内大臣並びに若槻禮次郎内閣総理大臣並びに主任の国務大臣たる宇垣一成陸軍大臣,財部彪海軍大臣及び濱口雄幸内務大臣が副署し(同条2項),摂政宮裕仁親王が裁可し(同条1項,明治皇室典範36条)19261021日に官報によって公布された(公式令12条)大正15年皇室令第11号です。同令は194752日限り廃止されていますが,「2日,皇室令をもって皇室令及び附属法令をこの日限りにて廃止することが公布される。なお53日,従前の規程が廃止となったもののうち,新しい規程が出来ていないものは,従前の例に準じて事務を処理する旨の〔宮内府長官官房〕文書課長名による依命通牒が出される。」という取り運びとなっています(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)316頁)。

皇室喪儀令の第1条から第3条までは次のとおりでした。

 

第1条 天皇崩御シタルトキハ宮内大臣内閣総理大臣ノ連署ヲ以テ直ニ之ヲ公告ス

 太皇太后皇太后皇后崩御シタルトキハ宮内大臣直ニ之ヲ公告ス

第2条 天皇太皇太后皇太后皇后崩御シタルトキハ追号ヲ勅定ス

第3条 大行天皇ノ追号ハ宮内大臣内閣総理大臣ノ連署ヲ以テ之ヲ公告ス

 太皇太后皇太后皇后ノ追号ハ宮内大臣之ヲ公告ス

 

 皇室喪儀令11条に基づく同令附式第1編第1の天皇大喪儀に「追号奉告ノ儀」が規定されており,そこにおいて「天皇御拝礼御誄ヲ奏シ追号ヲ奉告ス」とあります。

 皇室喪儀令施行の月(公式令11条により19261110日から施行)の翌月25日に崩御した大正天皇のための1927120日の追号奉告ノ儀においては,秩父宮雍仁親王が兄である新帝・昭和天皇の名代となり(昭和天皇は同年元日の晩から風邪(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)620頁)),次の御誄を奏して追号を奉告しています(同626-627頁)。

 

  裕仁敬ミテ

  皇考在天ノ神霊ニ白ス

  皇考位ニ在シマスコト十有五年

  明治ノ顕朝ヲ承ケサセラレ迺チ其ノ明ヲ継カセタマヒ

  大正ノ昭代ヲ啓カセラルル夙ニ其ノ正ヲ養ハセタマヘリ茲ニ

  遺制ニ遵ヒ追号ヲ奉ケ

  大正天皇ト称シタテマツル

 

DSCF1300(大正天皇多摩陵)
大正天皇多摩陵(東京都八王子市)

 
198917日に崩御した昭和天皇のための同月31日の追号奉告の儀における今上天皇の御誄は,次のとおりです(宮内庁ウェブ・サイト)。

 

明仁謹んで

御父大行天皇の御霊に申し上げます。

大行天皇には,御即位にあたり,国民の安寧と世界の平和を祈念されて昭和と改元され,爾来,皇位におわしますこと六十有余年,ひたすらその実現に御心をお尽くしになりました。

ここに,追号して昭和天皇と申し上げます。

 

DSCF1296(昭和天皇武蔵野陵)
昭和天皇武蔵野陵(東京都八王子市)

 同じ
1989131日平成元年内閣告示第3号によって大行天皇の追号が昭和天皇となった旨公告されましたが,「宮内大臣内閣総理大臣ノ連署ヲ以テ」の公告ではなかったのは,宮内大臣が廃されてしまっている以上そうなるべきものだったのでしょう。(なお,平成元年内閣告示第3号には「大行天皇の追号は,平成元年113日,次のとおり定められた。」とのくだりがありますが,これは,皇統譜(皇室典範(昭和22年法律第3号)26条)における天皇に係る登録事項には「追号及追号勅定ノ年月日」があるところ(皇統譜令(大正15年皇室令第6号)1213号。昭和22年政令第1号たる皇統譜令の第1条は「この政令に定めるものの外,皇統譜に関しては,当分の間,なお従前の例による。」と規定),追号のみならずその勅定日も「公告ニ依リ」登録(皇統譜令施行規則(大正15年宮内省令第7号)附録参照)するからでしょう。)

 ところで,「大行天皇には,御即位にあたり,国民の安寧と世界の平和を祈念されて昭和と改元され」という表現を見ると,やはり昭和天皇の追号が昭和天皇となったのは在位中の元号が昭和(「百姓昭明,協和万邦」)だったからだ,したがって第87回国会で大平内閣総理大臣以下政府当局者が何やかやと言っていたが元号法施行後も結局元号が天皇の追号となるべきものなのだ,と早分かりしたくなるのですが,それでよいのでしょうか。単に在位中の元号が昭和だったからではなく,19261225日の「御即位にあたり」「昭和と改元」したのは大行天皇自身であったからこそその追号が昭和天皇と治定されたように筆者には思われるのですが,どうでしょうか。

 (ついでながら,天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)33項は「上皇の身分に関する事項の登録,喪儀及び陵墓については,天皇の例による。」と規定しています。なお,「天皇の例による」としても,大正15年皇室令第6号たる皇統譜令12条においては退位の年月日(時)は天皇に係る登録事項とはなっておらず,昭和22年政令第1号たる皇統譜令にも特段の定めはないようであるところ,この辺はどうなるものでしょうか。

 

2 元号を定める権限の所在

 

(1)明治皇室典範・登極令と元号法との相違

 明治皇室典範12条は「践祚ノ後元号ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ従フ」と,登極令(明治42年皇室令第1号)2条は「天皇践祚ノ後ハ直ニ元号ヲ改ム/元号ハ枢密顧問ニ諮詢シタル後之ヲ勅定ス」と,同令3条は「元号ハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と規定していました。「勅」定ですから天皇が定めるのですし,「詔」書だからこそ天皇名義の文書なのです。

これに対して現在の元号法1項は「元号は,政令で定める。」と規定しており,すなわち元号を改める権限(「新しい元号の名前」及び「いつ改元が効力を持つか」という2点を規定する政令(清水汪政府委員(内閣官房内閣審議室長兼内閣総理大臣官房審議室長)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第440頁)を制定する権限)は,天皇ではなく,政令を制定する機関である内閣が有しているところです(日本国憲法736号)。天皇ではなく内閣が決めるのであれば元号とはいえないのではないか,という見解を我が政府は採っておらず,「元号だから天皇が決める,それが伝統であって,そうでなければ元号という制度になじまないとか,そういう気持ちは毛頭ありません。」,「決して天皇が決めなければ元号とは言わないなんというような気持ちは毛頭ございません。」という国会答弁がされています(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会参議院内閣委員会会議録第123頁)。

(なお,先帝崩御日と新元号建定日とを一致させるのは明治皇室典範レヴェルでの要請ではなく,登極令21項(「直ニ」)の要請であるということになります(現に,慶応四年を改めて明治元年としましたが,孝明天皇が崩御したのは慶応四年元日より1年以上前の慶応二年十二月二十五日のことでした。)。1909127日に開かれた枢密院会議の筆記には,登極令案は「従来ノ慣例ヲ取捨折衷シテ作ラレタルモノ」だとの細川潤次郎枢密顧問官の発言が記されていますが,代始改元を践祚後直ちに行うのが「従来ノ慣例」だったのかどうかについては前記『日本後紀』の記述等に鑑みても議論がありそうです(所功「昭和の践祚式と改元」別冊歴史読本1320号(198811月)186頁に引用された「登極令制定関係者である多田好問の『登極令義解』草稿」(井田98頁・注(48))によれば「古例に於ける・・・如く事実を稽延することを得ず」ということだったそうですから(井田98頁),この場合の「古例」ないしは「従来ノ慣例」は,むしろ意識的に「捨」てられたもののようです。)。現在の元号法においては,「事情の許す限り速やかに改元を行う」のが「法の趣旨」だとされていますが(三原朝雄国務大臣(総理府総務長官)・第87回国会衆議院会議録第155頁),これは登極令21項的運用を念頭に置いていたということでしょう。ただし,元号法2項の「皇位の継承があつた場合」との表現については「「場合」という表現をとっておりますのは,そこにある程度の時間的なゆとりというものを政府にゆだねていただきたいという考え方からそのような表現をとっているということ」になっています(清水汪政府委員・第87回国会参議院内閣委員会会議録第1229頁)。)

 

(2)明治皇室典範・登極令下の大権ノ施行たる元号建定における内閣の関与

 とはいえ,天皇が元号を勅定するものとされていた明治皇室典範時代も,元号建定に当たっては,内閣が中心となっていました。

すなわち,大正天皇崩御の「日午前330分,内閣総理大臣若槻礼次郎以下の閣僚は〔葉山〕御用邸附属邸より本邸に戻り,直ちに緊急閣議を開き,登極令に基づき元号建定の件を上程し,元号建定の詔書案,大喪使官制,東宮武官官制廃止の件その他を閣議決定し,直ちに元号建定の詔書案の枢密院への御諮詢を奏請する。枢密院は御諮詢を受け,午前645分より副議長平沼騏一郎を委員長とし,内閣総理大臣以下関係諸員出席のもと,元号建定の審査委員会を開く。元号案は全会一致を以て可決され,詔書案の文言に関しては,討議を重ねた上,原案に修正を加えることにて可決される。それより枢密院は修正案を作成し,内閣総理大臣の同意を得て午前915分本会議を開催,元号案並びに詔書修正案を全会一致を以て可決し,〔倉富勇三郎〕枢密院議長は直ちに奉答する。ついで奉答書が内閣に下付され,直ちに内閣は再度の閣議を開き,元号建定の詔書案につき,枢密院の奉答のとおり公布することを閣議決定する。天皇は945分より10時過ぎまで,内閣総理大臣若槻礼次郎に謁を賜い,元号建定の件につき上奏を受けられる。よって御裁可になり,1020分,詔書に御署名になる。ついで再び若槻に謁を賜う。詔書は直ちに官報号外を以て公布され,ここに元号を「昭和(せうわ)」と改められる。」ということでした(『昭和天皇実録 第四』602頁)。なお,内閣の活動のみならず,枢密顧問に諮詢する手続がありますが(登極令22項),これは「元号ハ昔時ニ於テモ廷臣ヲシテ勘文ヲ作ラシメ問難論議ヲ経テ之ヲ定メ難陳ト号セリ今本〔登極〕令ニ於テモ枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ之ヲ定ムルコトトシタルハ事重大ナルノミナラス古ノ難陳ノ意ヲモ加ヘテ此ノ如ク規定シタルナリ」ということでした(1909127日に開かれた枢密院会議の筆記にある奥田義人宮中顧問官の説明)。

 昭和改元の詔書の文言は「朕皇祖皇宗ノ威霊ニ頼リ大統ヲ承ケ万機ヲ総フ茲ニ定制ニ遵ヒ元号ヲ建テ大正151225日以後ヲ改メテ昭和元年ト為ス」というものでしたが(『昭和天皇実録 第四』603頁),当該詔書に副署した者は内閣総理大臣及び国務各大臣であって,そこには宮内大臣は含まれていませんでした。これは,明治皇室典範の第12条に規定があるにもかかわらず,元号建定は「皇室ノ大事」に関するものではなく,「大権ノ施行」に関するものであることを意味します。すなわち,公式令12項は「詔書ニハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ其ノ皇室ノ大事ニ関スルモノニハ宮内大臣年月日ヲ記入シ内閣総理大臣ト倶ニ之ニ副署ス其ノ大権ノ施行ニ関スルモノニハ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ国務各大臣ト倶ニ之ニ副署ス」と規定していたところです。元号を建定することは「万機ヲ総フ」る大権の施行の一環であるということでしょう。(ただし,宮内省図書寮編修官吉田増蔵が若槻内閣の委嘱を受けて起草した元号建定の詔書案(『昭和天皇実録 第四』605頁)の文言は「朕皇祖皇宗ノ威霊ニ頼リ茲ニ大統ヲ承ケ一世一元ノ永制ニ遵ヒ以テ大号ヲ定ム廼チ大正15年ヲ改メテ昭和元年トシ1225日ヲ以テ改元ノ期ト為ス」というもので,「万機ヲ総フ」がありませんでした。ちなみに,1912730日の大正改元に係る詔書の文言は「朕菲徳ヲ以テ大統ヲ承ケ祖宗ノ霊ニ誥ケテ万機ノ政ヲ行フ茲ニ/先帝ノ定制ニ遵ヒ明治45730日以後ヲ改メテ大正元年ト為ス主者施行セヨ」というものでした。「先帝ノ定制ニ遵ヒ」の部分は,前記『日本後紀』の記者に対する,年を踰えることを待つことなく改元するのは先帝陛下の定制(登極令21項)によるものであって自分勝手な親不孝ではありませんからね,との言い訳のようにも読み得る気がします。なお,こうして見ると,吉田案では「万機ヲ総フ」のみならず,「主者施行セヨ」も落ちています。)

日本国憲法下においても,「そういうような経過から申し上げましても元号に関することは国務として,現在で言えば総理府本府〔当時〕におきまして取り扱われるべきものでございまして,宮内庁の所掌事務ということにはならないと存じます」とされています(山本悟政府委員(宮内庁次長)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第420頁)。日本国憲法公布後の1946118日に𠮷田茂内閣総理大臣が昭和天皇に上奏した元号法案(GHQとの関係もあり,結局帝国議会には提出せず。)も現在の元号法とよく似た内容で,本則は「皇位の継承があつたときは,あらたに元号を定め,一世の間,これを改めない。/元号は,政令で,これを定める。」,附則は「この法律は,日本国憲法施行の日から,これを施行する。/現在の元号は,この法律による元号とする。」というものでした。

美濃部達吉の説明によれば,「元号ヲ建ツルハ事直接ニ国民ノ生活ニ関シ,性質上純然タル国務ニ属スルコトハ勿論ニシテ,固ヨリ単純ナル皇室ノ内事ニ非ズ。故ニ之ヲ憲法ニ規定セズシテ,皇室典範ニ規定シタルハ恐クハ適当ノ場所ニ非ズ。其ノ皇室典範ニ規定セラレタルニ拘ラズ,大正又ハ昭和ノ元号ヲ定メタル詔書ガ宮内大臣ノ副署ニ依ラズ,各国務大臣ノ副署ヲ以テ公布セラレタルハ蓋シ至当ノ形式ナリ。」ということになります(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)185頁)。(なお,先例となった大正改元の際の内閣総理大臣は公家の西園寺公望であって,宮内大臣の渡辺千秋は元は諏訪高島藩士でしかありませんでしたから,西園寺が明治天皇崩御を承けての元号建定事務を主管したことはいかにも自然であったということかもしれません。)「事直接ニ国民ノ生活ニ関シ」とは,「とにかく旧憲法下における元号は,国の元首であり,かつ統治権の総覧者である天皇がお決めになったものであって,はっきり使用についての規定はございませんけれども,恐らくその趣旨は,朕が定めた元号だから国民よ使えよという御趣旨がその裏にはあったのだろうと思うのですよね。」ということでしょう(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第58頁)。(ちなみに,詔書と同様天皇が親署して御璽を鈐する勅令については,「他の国務上の詔勅と区別せらるゝ所以は,勅令は国民に向つて法規を定めることを主たる目的とすることに在る」とされていましたが(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)235頁),勅令の副署者については「内閣総理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ国務各大臣若ハ主任ノ国務大臣ト倶ニ之ニ副署ス」るものとされていました(公式令72項)。宮内大臣の副署はなかったわけです。)元号の建定は国務事項である以上,「この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない」ものとされる(日本国憲法41項)194753日以降の天皇については,「天皇に元号の決定権を与えるような法律をつくることは憲法違反でございます。」ということになります(真田秀夫政府委員・第87回国会参議院内閣委員会会議録第123頁)。「世の様の移り換りて斯なれるは人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから且は我国体に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき」とは,天皇が「政治の大権」を失った時代に係る明治天皇の慨嘆です(188214日の軍人勅諭)。

 1889211日の「皇室典範第12条に建元大権の事を定めて居るのは,事純然たる国務に関するもので,皇室に関係の有るものではなく,宜しく憲法中に規定せらるべきものである。」(美濃部・精義113頁)という記述に出て来る「建元大権」とは,漢の武帝以来の「王が時間をも支配するとして,支配下の人民に使用させた年を数える数詞」である「元号をさだめ,あるいは改める権限」(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)121頁)という意味の東洋の皇帝的な建元大権のことだったのでしょうか。(なお,明治皇室典範12条は,践祚後の改元を義務付けると共にそれ以外の場合の改元を禁じており,むしろ天皇の権限を制約する規定のようにも思われます。)


3 大日本帝国憲法制定前期における元号等についての意見:井上毅及び伊知地正治

 しかし,元号に関する規定を憲法に設けるべきだとの方向性は,明治維新の功臣である岩倉具視右大臣の考え方においてはあったものと考えられ得るところです。岩倉右大臣は「奉儀局或ハ儀制局開設建議」を18783月に太政官に提出しますが,当該奉儀局又は儀制局が開設されたならばそこにおいて帝室の制規天職に関し調査起草されるべき「議目」として掲げられたもののうち,「憲法」の部には次のようなものがありました(小嶋和司「帝室典則について―明治皇室典範制定初期史の研究―」同『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)73-74頁)。

 

  改元 一代数改 一代一元 不用元号称紀元何年

  諡号 史記諡法 漢籍抄出美字 地名院 国風諡号

 

 上記「奉儀局或ハ儀制局開設建議」に対して井上毅が「奉儀局取調不可挙行意見」を岩倉右大臣に提出し,同右大臣の当該建議は実現されずに終わりますが,井上の当該「意見」においては「国体ト云即位宣誓式ト云 皇上神聖不可侵ト云国政責任ト云ガ如キハ其標目簡単ナルガ為ニ一覧ノ間ニ深キ感触ヲナサゞルモ其義ヲ推窮シテ其末来ノ結果ヲ想像スルニ至テハ真ニ至大ノ議題ニシテ果シテ其深ク慎重ヲ加フベクシテ躁急挙行スベカラザルヲ信ズ」とされていた一方,「改元」等に関しては「奉儀局議目中国号改元ノ類大半ハ儀文名称ノ類ニシテ政体上ニ甚シク関係アラザル者トス」とあったところです(小嶋73-74頁)。

「改元ノ類」は「儀文名称ノ類ニシテ政体上ニ甚シク関係アラザル者」にすぎないというのですから,建元大権もあらばこそ。したがって,井上毅が起草作業の重要な一翼を担った大日本帝国憲法においては元号に関する条項が設けられなかったことはむべなるかな,とは筆者の感想です。

なお,前記「議目」について宮内省一等出仕の伊知地正治(1873年に左院副議長として「帝室王章」を取り調べ,1874年以後国憲編纂担当議官(小嶋65頁))の口述を宮島誠一郎が筆記したもの(1882121日)があり,そこには次のような意見が記されていました(伊藤博文編・金子堅太郎=栗野慎一郎=伊藤博精=尾佐竹猛=平塚篤校訂『秘書類纂 憲法資料 下巻』(秘書類纂刊行会・1935年)497頁)。

 

 改元 神武紀元何千何百年モ民間通用ニハ少シク難渋ナリ。漢土モ明代ヨリ一代一元ノ制ヲ定メ今日清朝之ニ沿襲ス其制頗ル傚フベシ。御維新後一代一元ノ姿ナレバ此レニテ当然ナルベシ。御一代数度ノ改元ハ已ニ無用ナルベシ。

 諡号 近世ハ白河家ニ御委任ノ様ニ覚ユ,御維新後ハ内閣ニテ御選定当然ナリ。

 

 明治政府は「1873年(明治6)年の改暦にともない,公式に干支を廃し,新たにさだめた皇紀と元号を用いて年を数えることとした」のでしたが(村上123頁),「神武紀元何千何百年モ民間通用ニハ少シク難渋ナリ。」ということであったのであれば,ハイカラな「耶蘇紀元何千何百年」も当時の我が国の民間においてはそもそもその通用は論外だったということでしょう。なお,神武紀元(皇紀)については明治五年十一月十五日(18721215日)の太政官布告第342号が根拠とされており,当該布告は「今般太陽暦頒行 神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被為告候為メ来ル廿五日 御祭典被執行候事〔後略〕」というものでした。ただし,当該布告については,「神武天皇の御即位のときが建国の日であるぞということをここで宣明されたというふうに考えられるわけでございますが,そうなりますと,したがいましてこれは年の数え方というのを決めたのではございませんで,建国の日から何年かということを数えるときには神武天皇の御即位のときが始まりなんだということを書いてあるわけでございます。したがいまして,元号のように年の数え方を書いたというものではございません。そして,これが一体現在どのような意味,内容を持っているのか,これは一体国民に対して強制力を持っていたのか持っていなかったのか,さらに,現在の科学的知見でもって神武天皇の御即位というのは一体いつであったのかというようなことを確定いたしませんと,どうもこの太政官布告の現在における効力というのは確定はできない。ところが,私どももいろいろ調べてはみたのでございますが,何分古いものでございまして,文献等もございませんし,さらにその神武天皇の御即位の時期がいつかというようなことは歴史的事実に属しまして私どものまだ何とも確定できる状況ではございませんので,現段階におきましてはなかなかこれの法的効力というものにつきまして断定ができるような状況に立ち至っていないということを御了解いただきたいと存じます。」と解されています(味村治政府委員(内閣法制局第二部長)・第87回国会参議院内閣委員会会議録第1415頁)。

「御一代数度ノ改元ハ已ニ無用ナルベシ。」とわざわざ言わざるを得なかったということは,江戸時代最長の元号は享保及び寛永の各21年であったので,明治も10年を過ぎるともうそろそろ改元で縁起直しをしたい,数字が大きくなると面倒臭い,というような昔ながらの欲求がやはり感じられていたということでしょうか。(なお,「未開人」は3までしか数えられない一方「むかしのタイ国の法廷でもやはり証人に10までの数を数えさせてみて,数えられなかったら,一人前の証人としての資格をみとめなかった」そうです(遠山啓『数学入門(上)』(岩波新書・1959年)1頁)。)

太政官の内閣で諡号を選ぶ云々ということは,1882年当時は宮中府中の区別がいまだにされていなかったからでしょう(近代的内閣制度の創設は18851222日)。

 

4 元号の示すもの

 

(1)天皇在位ノ称号

 元号が「儀文名称ノ類」であるのならば,それは明治皇室典範下において具体的には何を示すのかといえば,美濃部達吉によれば「天皇在位ノ称号」です。いわく,「即チ元号ハ明治元年ノ定制ニ依リ其ノ法律上ノ性質ヲ変ジタルモノニシテ,旧制ニ於テハ元号ハ単純ナル年ノ名称ナリシニ反シテ,現時ノ制ニ於テハ天皇在位ノ称号トシテ其ノ終始ハ全ク在位ト相一致ス,天皇崩御ノ瞬間ハ即チ旧元号ノ終リテ同時ニ新元号ノ始マル瞬間ナリ。元号ヲ改ムル詔書ノ公布セラルルニハ多少ノ時間ヲ要スルハ勿論ナレドモ,其ノ公布ガ如何ニ後レタリトスルモ,常ニ先帝崩御ノ瞬間ニ迄遡リテ其ノ効力ヲ生ズベキモノナリ。」と(美濃部・撮要184-185頁)。

 「年を帝王の治世何年で数える例は,古代ローマ帝国にも,イギリス等の君主制国家にもみられる」ところ(村上122頁),我が国においては実名敬避俗があるから天皇の御名の代わりにその践祚時に建定する「天皇在位ノ称号」を使用するのだ,といえば,他国の例と比較を絶する奇天烈なものではないということにはなるのでしょう。(英国の例を見ると,「制定法は,1962年までは,正式には,国王の治世第何年の議会で制定された法律第何号という形で呼ばれていた。」とされています(田中英夫『英米法総論下』(東京大学出版会・1980年)675頁)。また,「イギリスでは,即位の日から丸1年を治世第1年,次の1年を第2年とし,暦年で数えるのではない」とされています(同頁)。)漢土においても,武帝より前の「従来の紀年法は君主が先代を継承すると,その翌年を元年として数え始めた。」そうです(宮崎市定『中国史(上)』(岩波文庫・2015年)214頁)。

 

(2)漢の武帝

漢の武帝による年号制度の創始も,実は前記の「年を帝王の治世何年で数える」制度の延長線上にあったところです。いわく。「戦国時代は七国がそれぞれの君主の即位年数を用いたのはもちろんであるが,漢代に入っても封建君主はその領内で,その君の即位年で年を記したのである。中央では〔漢3代目の〕文帝の時,在位がやや長くなったので,17年目にまた元年として数え直した。これを()元年として区別するのは後世の加筆である。次の景帝〔武帝の先代〕8年目が(ちゅう)元年,更に7年目が後元年と,2回の改元を行った。こういう方法は記録を整理する時に紛らわしくて甚だ不便である。特に皇帝には死んでから諡号を贈られるまでは名がなく,後世でこそ景帝の中二年と言えるが,その当時においては,ただ皇帝二年とだけしか言えない。更に地方の封建君主の即位年があるからいよいよ混雑しやすい。武帝の世になっては,6年を一区切りとし,7年目になると元年に戻したが,改元が何回か繰返されると,前後の区別がつかなくなった。そこで5回目の改元の際に,その元年に元封(げんぽう)元年という年号を制定して数え始めた。更に前へ戻って,最初から建元,元光,元朔,元狩,元鼎と,6年ずつひとまとめにして年号を追命した。これは当時においては大へん進んだ便利な制度で,中央で定めた年号は国内至る所に通用し,またこれによって何年たった後でも,すぐあの年だということが分る。更に国内のみならず,中国の主権を認める異民族の国にも年号を用いさせれば,それだけ年代を共通にする範囲が広くなるわけである。中国にはキリスト教紀元のようにある起点を定めて元年とし,永久に数えて行く考えは遂に発生しなかった。」と(宮崎214-215頁)。

なお,漢の元封元年(西暦紀元前110年ほぼ対応します。)は武帝が今の山東省の泰山において封禅を行った年であって,その「大礼の記念として,天下の民に爵一級を賜わり,女子と百戸には牛酒を賜わった。人民の全部が大礼記念章もしくは酒肴料をいただいたのである。/年号が元封(・・)と改元されたのも,またその記念のひとつである。」とされています(吉川幸次郎『漢の武帝』(岩波新書・1963年)164頁)。

 (「現時点の年を表すものとしては,西暦前113年に「元鼎」と号したのが最初とされる」ともされています(井田95頁・注(22))。なお,藤田至善「史記漢書の一考察―漢代年号制定の時期に就いて―」(東洋史研究15号(1936年)420-433頁)によれば,漢の武帝の五元の三年(西暦紀元前114年にほぼ対応します。)に有司から,元は宜しく天瑞を以て命ずべし,一二を以て数へるは宜しからず,一元を建と曰ひ,二元は長星を以て光と曰ひ,ママ一角獣史記封禅というがあって,(年号制定である。」というったそう420-421頁,426頁)。五元の年号である元鼎は,五元の四年(西暦紀元前113年にほぼ対応します。)に宝鼎が得られたことから追称されたものであって,改元と年号の制定とが初めて同時に行われたのは元封元年のことであった(漢書武帝紀・元封元年の条に「詔曰,其以十月為元封元年」,郊祀志上に「下詔改元為元封」とあるそうです。)とされています(藤田432頁註⑥)。

 

(3)国民元号

ところで,現在の元号法に基づく元号は「天皇在位ノ称号」とはいえないのでしょう。

元号と皇位の継承とは直ちに連動するのかという質疑に対して政府は「直接的には皇室典範4条が働く場合にいまの改元が行われるわけでございますが,ただ,おっしゃいましたように,直接皇位の継承と,観念上といいますか考え方として元号とすぐ結びつけたというものではむしろなくて,元号制度について国民が持っているイメージ,それはやはり日本国憲法のもとにおける象徴たる天皇の御在位中に関連せしめて元号を定めていくんだという事実たる慣習を踏まえまして,このような条文の仕方にしたわけでございます。」と答弁しています(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第514頁)。国民の持っているイメージに従っただけであって政府自身の考え方は無い,そもそも,「元号は,国民の日常生活におきまして,長年使用されて広く国民の間に定着しており,かつ,大多数の国民がその存続を望んでおるもの」であるところ「また,現在46都道府県,千を超える市町村が法制化の決議を行い,その速やかな法制化を望んでおります」から「政府としては,こういう事実を尊重いたしまして,元号制度を明確で安定したものとするため,元号法案を提出」した(大平正芳内閣総理大臣・第87回国会衆議院会議録第154頁)だけなのだ,「深いイデオロギー的なものではな」いのだ(大平内閣総理大臣・同会議録9頁)ということでしょう。

また,ここで皇位継承と元号との結び付きを仲介するものとされる「元号制度について国民が持っているイメージ」は更に,精確には,改元の時期についてかかるものなのでしょう。「その元号をどういう場合に改める,つまり改元をするかという点につきましては,これは申し上げるまでもなく,旧憲法の時代に戻るというのではなくて,現在,日本の国民の多くの方々が持っていらっしゃる元号についてのイメージ,それは天皇の御在位中に一世一代の元号を用いるのだというイメージがあるわけなんで,それを忠実に制度化するというのが本意でございまして,無論,天皇の性格が旧憲法と現在の憲法との間において非常な違いがあるということは百も承知でございまして,それと混同するようなつもりは毛頭ございません。」という答弁もあります(真田秀夫政府委員・第87回国会衆議院内閣委員会議録第511-12頁)。

改元という区切りを重視した結果,「年号法」とはならず元号法となったのでしょう。「本来的には,年号といい元号といい,年の表示の仕方,つまり紀年方式の一つでございますが,年号の方は単純にその年を表示するという感覚が主になっているというふうに考えるわけなんで,その年号を幾つか区切りをつけて,古くは大化,白雉,朱鳥というふうに区切りをつけまして,それから新しくは明治,大正,昭和というふうにある区切りをつけていく。その区切りをつけたその期間の始まりが,その区切りの名前の第1年であるというふうな扱いになる。そういう区切りの初年度であるという点に重点を置いて名前をつければ,まあ元号という言葉になじむような感じがいたします。本来的には,先ほど申しましたように,元号といい年号といい,そんなに違うものではないと思いますけれども,あえて区別をつければ,ただいま申し上げましたような,その区切りに重点を置いて呼び名をつけた場合に,元号という言葉の方がぴったりくるという感じがいたします。」ということでした(真田政府委員・第87回国会衆議院内閣委員会議録第511頁)。

「神武紀元何千何百年モ民間通用ニハ少シク難渋」であるのに対して元号はちょくちょく改元があるからこそよいのであるが,「屢〻年号を改め」過ぎて「徒に史乗の煩きを為すに至」った(伊藤博文『皇室典範義解』第12条解説),そこで1868年に改元事由を整理して「是迄吉凶之象兆に随ひ屢〻改号有之候へ共,自今御一代一号に被定候」(明治元年九月八日の行政官布告)としたところ,百十余年後の1979年には,元号について「国民が持っているイメージ」においては天皇の践祚時にされる改元以外の改元のイメージが失われてしまうに至っていた(「代始め改元以外の改元の方法というのが,過去百年間では整理されて,ないわけでございます。そうなりますと,元号が変わるということについて国民が考えるとすれば,恐らくそれは代始め改元で変わるというイメージが一般的に残っているのだろうというふうに言えるのじゃなかろうかと思います。」(清水汪政府委員(内閣官房内閣審議室長兼内閣総理大臣官房審議室長)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第846頁)),すなわち,同年制定の元号法2項における「元号は,皇位の継承があつた場合に限り改める。」という規定はそういう主権者「国民が持っているイメージ」を承けた結果である,ということになるのでしょうか。元号法においては「たまたま改元を,昔よくありましたような祥瑞改元とか言ったのだそうですが,それだとか,あるいは国家について重大な事件があった場合とか,そういうようなことではやらないで,憲法第1条に書いてある象徴たる天皇の地位の承継があった場合に限ってやる,そういう改元のきっかけをそこへ求めただけ」だということですが(真田政府委員・第87回国会衆議院内閣委員会議録第716頁),これをもって,践祚時改元制は積極的選択の結果ではなく吉凶之象兆等を理由とする改元を整理した消極的選択の結果にすぎないことになるのである,というように理解するのは善解でしょうか誤解でしょうか。しかし確かに,改元事由は限定されるべきであって,明和(めいわ)九年は迷惑(めいわく)だから物価安が永く続くように安永元年に改元しよう,というような洒落で内閣が次々と元号を改め始めのならばそれこそ迷惑です。

元号法制定は「国民のためよき元号を策定することが主たる目的」であるところ,同法に基づく元号は,「国民に十分開かれた国民元号」としての性格を有するものということになります(三原朝雄国務大臣(総理府総務長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第744頁)。すなわち,「今度の法律〔元号法〕によって委任を受けた内閣が政令を出して,そして年号を定めるということでございまして,天皇のお名前を使って年の表示をするという考えではございません。」というわけです(真田政府委員・第87回国会参議院内閣委員会会議録第711頁)。

総理府からの19791023日の閣議報告である「元号選定手続について」においては,元号の候補名の整理に当たっての留意事項の筆頭に「国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つものであること。」を掲げています(22)ア。下線は筆者によるもの)。余りにも高邁な元号であると,我々人民としては理想負けしてしまうわけです。これに対して,昭和の元号名の勘進者である前記宮内省図書寮吉田増蔵編修官(192279日に死去した図書頭鷗外森林太郎の元部下(ちなみに,鷗外最晩年の日記『委蛇録』の1922620日の項には「二十日。火。〔在家〕第六日。呼吉田増蔵託事。」とあり,同月30日から同年75日までの最後の6日分については,吉田が鷗外のために代筆をしています。))に一木宮内大臣が与えた5項目の元号の条件中第2項は「元号ハ,国家一大理想ヲ表徴スルニ足ルモノナルベキコト。」としていました(『昭和天皇実録 第四』603頁。下線は筆者によるもの)。


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吉田編修官の元上司である帝室博物館総長兼図書頭森林太郎墓(東京都三鷹市禅林寺)

森図書頭のなした仕事として,正に元号及び追号に係る『元号考』及び『帝諡考』が残されています。(ただし,大正改元の際に西園寺内閣総理大臣と渡辺宮内大臣との間でなされた事務分配の前例によれば建元は「大権ノ施行ニ関スル」ものとされていたのですから,内閣総理大臣の下の内閣(これは,国務大臣によって組織される現憲法にいう内閣とは異なります。)ではなく宮内大臣の下の宮内省(図書頭)が元号を云々したのは,厳密には越権(ないしはあえて建元を「皇室ノ大事」と捉え直そうとするもの)だったのかもしれません。)

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禅林寺山門
 

5 大宝律令と大宝建元及び三田の詐偽

 ところで,現在我が国に元号があるのはなぜかという問いに対して,元号法という法律がある以上はいずれにせよ皇位継承の都度内閣は改元して新しい元号を定めなければならないのだと官僚的に答えることは,不真面目な答えであるということでお叱りを受けてしまうことなのでしょうか。(ただし,政府は法律たる元号法の効果として「憲法73条第1号によりまして,内閣は法律を誠実に執行しなければならないということで,今度の法律案が成立した場合の元号法の本則第1項によって,政府は〔同法本則2項の〕改元の事由が出た場合には改元をしなさいという効果が出てくるわけなんです。」と答弁されてはいます(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第732頁)。)

しかるに,その後中断なく継続して元号が現在まで使用されるようになった最初の元号である大宝については,正に,新しい令(大宝令)に年号を使えと書いてあるからその指令を役人らに守らせるために年号を定めるのだ,ということで建元されたもののようにも思われるところです。さらには,当該大宝建元の事由たる祥瑞も,実は小役人の手になるいんちきであったというところが味わい深い。

 

   8世紀の最初の年〔701年〕の晩春三月(本書ではすべて陰暦)二十一日,藤原宮の大極殿をかこむ朝堂院では,即位や新年の拝賀におとらない盛大な式典が挙行された。

   式は,黄金献上の儀から始まる。それまで日本にはないと思われていた金山が,さきごろ対馬で発見されたとの内報をえた大納言大伴御行(みゆき)は,技術者を派遣,鋭意精錬させていたのだが,ようやく間にあって,この盛大な式典の劈頭をかざることになったのである。しかし御行自身はこの日をまたず,さる正月に56歳で病没した。〔文武〕天皇は深く悼んで,即日右大臣に昇任させた。

   式は荘重な宣命の朗読にうつる。大極殿前の広場に参列する百官にもよくとおる声である。

   「対馬に産した黄金は,神々が新しい律令〔大宝律令〕の完成を祝いたもうた瑞祥(めでたいしるし)である。よって年号を大宝と定め,新令によって官名・位号を改正する・・・」

年号は,大化改新に始まったが,大化・白雉以後は天武朝の末年に朱鳥としただけで,ひさしく公的には使われていなかった。しかし今度の令は,つねに年号を用いることを命じていた。(青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』(中央公論社・1965年)25-26頁。下線は筆者によるもの。儀制令第26条(公文条)に「凡公文応記年者,皆用年号。」とあったそうです(窪美昌保『大宝令新解 第3冊』(橘井堂蔵・1916年)553頁)。

 

   だが,この式典の劈頭をかざった黄金は,日本で産したものではなかった。対馬に金山などはなかったのである。『続日本紀』の大宝元年(701年)八月条には,金を精錬した技術者三田五(みたのいつ)(),対馬で金山を発見したという島民や嶋司(国司にあたる役人),そして紹介者である故右大臣にたいする行賞の記事があるが,続紀の編纂者は記事の注に「年代暦」という書物を引用して,後年,五瀬の詐偽だったことが発覚した,故右大臣はあざむかれたのである,とのべている。(青木2729頁)

 

   三田氏は任那王の後裔と称しながら,代々金工を業としていたために,大化改新にさいしても朝廷から解放されず,賤民ではないけれども良民のなかでいちばん低い雑戸という身分に指定され,差別待遇されていたのである。「年代暦」が詐偽と記したのは,五瀬が対馬の金山からではなく,どこからか,おそらくは朝鮮から手に入れた金を,島民と共謀して対馬産といったためであろう。

   五瀬は行賞によって雑戸から解放された。のみならず,正六位上という貴族に近い位や,絹・布・鍬など,あまたの賞品をもらった。自分で手に入れた金を献納しても,当座は引きあったわけである。ただ発覚したあとどうなったかは,なにも知られていない。

   かれが金を発見しなければ,大宝という年号もできなかったろうし,高官たちが新令施行の式典をはなやかにかざることもむずかしかったであろう。かれが何者かに命ぜられた役割は,もうすんだのであり,歴史は使い捨てた小道具の最期を語ろうとはしない。(青木29-30頁)

 

 大宝ではなく実は「韓宝」であったのか,などと言えばまたお叱りを受けるのでしょうか。

しかし,青木和夫山梨大学助教授(当時)が,三田五瀬のしてしまった「忖度」ゆえの過ちについて,歴史学的というよりはあるいは文学的な,極めて同情的な口吻を漏らしているところが,刑事弁護も時に行う筆者には印象深いところです。

 

  五瀬としても,詐偽を働いてはいけないということぐらいはじゅうぶん知っていたであろう。ただ,正直に精錬できない旨を朝廷に復命したばあいに自分を待っている将来と,金を精錬した功によって雑戸という身分から抜けだせるかも知れないという誘惑とをくらべたとき,誘惑の強さには,ついに勝てなかったのであろうか。(青木30頁)

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002 東京都渋谷区渋谷三丁目516 渋谷三丁目スクエアビル2

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp





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1 高輪会議(1887年3月20日)と内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文の「高裁」

1887年3月20日に内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文,賞勲局総裁柳原前光,宮内省図書頭井上毅及び伊藤の秘書官伊東巳代治が高輪の伊藤博文別邸において行った「高輪会議」は,柳原の同月14日付け伊藤宛て書簡によれば,当時柳原が起案していた「皇室典範再稿」等について「井上毅・前光等貴館へ参会,大小(るち)縷陳(んにおよび)(こう)高裁(さいをえ)(そうら)()()公私ノ幸也(さいわいなり)不堪仰望(ぎょうぼうにたえず)(そうろう)」という趣旨で行われたものです(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立(木鐸社・1988年)187頁(振り仮名,読点及び中黒は筆者によるもの))。皇室典範の成案作成に向け,松下村塾生徒利助たりし維新の元勲・内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文の「高裁」を得ようとするものですから,はなはだ重い。この高輪会議については,筆者も当ブログで何度か御紹介したところです。

 

「明治皇室典範10条に関して」

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.html

「続・明治皇室典範10条に関して」

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060127005.html

 

 同会議において,柳原「皇室典範再稿」の「第1章 皇位継承」中「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」と規定する第12条が伊藤及び柳原の首唱で削られ(小嶋「明治皇室典範」190頁),それに伴い同「第2章 尊号践祚」中第17条の「天皇崩シ又ハ譲位ノ日皇嗣践祚シテ即チ尊号ヲ襲ヒ祖宗以来ノ神器ヲ承ク」との規定が伊藤の首唱によって「第10条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と修正されました(小嶋「明治皇室典範」191頁)(章名も伊藤の首唱で「第2章 践祚即位」に変更(小嶋「明治皇室典範」190頁))。その結果,天皇の生前退位は,明治天皇の裁定に係る1889年2月11日の皇室典範(第10条が「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定)及び昭和天皇の裁可(1947年1月15日)に係る昭和22年1月16日法律第3号の皇室典範(第4条が「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」と規定)を通じて一貫して認められないもの(無効である,ということでしょう。)とされているものと広く解されていることは周知のとおりです(ただし,岩井克己「宮中取材余話・皇室の風103」選択43巻3号(2017年3月1日号)88頁を参照)。

 伊藤博文の「高裁」の重みは()くの如し,というべきか。

 実務上,伊藤博文名義の『皇室典範義解』の記述(「本条〔明治皇室典範10条〕に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はる者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」(下線は筆者によるもの)。なお,筆者は岩波文庫版の宮沢俊義校註『憲法義解』(1940年)を用いています。)は,皇室典範の本文それ自体に勝るとも劣らぬ解釈上の権威を有するものなり,というべきでしょうか。

 しかしながら,伊藤の「高裁」ないしは『皇室典範義解』における託宣にも,動揺し,遂に後には撤回変更に至らざるを得なくなった例があるところです。長州出身の大宰相だからとて,なかなか信用し切るわけにはいきません。

 永世皇族制(皇族は子々孫々永世皇族であるものとする制度)の採否をめぐる問題がそれです。

 

2 高輪会議における臣籍降下制度の採用と伊藤の変心・食言

 1887年3月20日の高輪会議の冒頭,柳原前光は,伊藤博文の見解を質し,「皇玄孫以上ヲ親王ト称シ以下ヲ諸王ニ列シ皇系疎遠ナルモノハ逓次臣籍ニ降シ世襲皇族ノ制ヲ廃スル事。附山階宮久邇宮庶子ヲ臣籍ニ列セラルル事」との確認を得ています(小嶋「明治皇室典範」188頁)。すなわち,臣籍降下制度を伴うことのない永世皇族制を採らないとの言質を内閣総理大臣兼宮内大臣から取ったわけです。柳原の「皇室典範再稿」の第105条には「皇位継承権アル者10員以上ニ充ル時ハ皇玄孫以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍ニ列スルコトアルヘシ」とあり,高輪会議を経て「第64条 皇位継承権アル皇族ノ増加スルニ随ヒ皇玄孫以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍ニ列スヘシ」となっています(小嶋「明治皇室典範」199頁)。「臣籍ニ列スルコトアルヘシ」から「臣籍ニ列スヘシ」へと,天皇から遠縁の皇族にとっては厳しい表現になっています。(なお,明治天皇の権典侍柳原愛子の兄である柳原前光は,後の大正天皇である嘉仁親王(1887年3月当時満7歳)の実の伯父に当たります。)

高輪会議を承けて同年4月25日に伊藤博文に,同月27日に井上毅にそれぞれ提出された柳原の「皇室典範草案」では「第71条 皇位継承権アル者増加スルニ従ヒ皇位ヲ距ルコト5世以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍ニ列スヘシ」となっており,それを井上は同年8月より前の段階で「第 条 皇族ノ増加スルニ従ヒ5世以下ノ疎属ハ逓次臣籍ニ列スヘシ」と修正しています(小嶋「明治皇室典範」202頁・206頁・208頁。ここで修正された皇室典範案は「井上の七七ヶ条草案」と呼称されています。)。

 しかし高輪会議におけるこの伊藤の「高裁」は動揺し,食言となります。すなわち,井上毅の前記七七ヶ条草案に対し,伊藤は変心したのか,「皇族ヲ臣籍ニ列スル2条削ルベシ」と指示するに至っているところです(小嶋「明治皇室典範」209頁・220頁)。

 

3 永世皇族制論者井上毅の1888年3月20日「修正意見」

とはいえこれは,井上毅にとっては喜ぶべき食言だったでしょう。18821218日に岩倉具視が総裁心得となった宮内省の内規取調局(駐露公使であった柳原前光とも連絡)による1883年の皇族令案には「親王ヨリ5世ニ至リ姓ヲ賜ヒ華族ニ列シ家産ヲ賜ヒ帝室ノ支給ヲ止ム/但シ養子トナルモ(なお)其ノ世数ヲ変スルコトナシという規定があったのでしたが,同年7月付けの「参謀山県有朋」名義の文書を代筆して,井上は・・・果シテ然ラハ四親王家ノ如キモ終ニ之ヲ廃セントスル() 按スルニ伏見宮ハ崇光ノ皇子栄仁親王ヲ祖トシ其ノ後八条宮今ノ桂宮高松宮今ノ有栖川宮閑院宮ヲ立テラレ(おのおの)猶子親王ヲ以テ世襲ノサマトナリ来レルハ・・・朝議継嗣ヲ広メ皇基ヲ固ウスルノ深慮ヨリ創設セラレシ者ナラン ・・・五百年ノ久シキニ因襲シ来ルトキハ今日ニ在リテ容易ニ廃絶ス()キニ非ス ・・・将来皇胤縄々ノ盛ナルニ拘ラス旧ニ依テ此ノ四家ヲ存シ四家(もし)継嗣ナキトキハ(すなわち)他ノ皇親ヲ以テ之ヲ継カシメ永ク小宗支流トナサンコト遠大ノ計ナルヘキ() 又5世ニ至リ華族ニ列スルノ議ハ周ノ礼ニ五世而親尽トイヒ大宝令ニ自親王(しんのうより)五世(おうのな)(をえた)王名(りといえども)不在皇親之限(こうしんのかぎりにあらず)トイヘルニ拠レルカ 然ルニ右ニ親尽トイフモ族尽トイハス 不在皇親之限(こうしんのかぎりにあらず)トイフモ不在皇族之限(こうぞくのかぎりにあらず)トイハス 故ニ5世以下ハ挙ケテ皇族ニ非ストナスコト(また)古典ニ(そむ)クニ似タリ ・・・」と批判していたところでした(小嶋和司「帝室典則について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』119頁‐124頁。振り仮名は筆者によるもの)。

1888年3月20日の井上の「修正意見」においては,井上の七七ヶ条草案から「第70条 皇族増加スルニ従ヒ5世以下疎属ヨリ逓次臣籍ニ列スヘシ」及び「第71条 皇族臣籍ニ列スル時ハ姓ヲ賜ヒ爵ヲ授ク」の2箇条はざっくり削られています(小嶋「明治皇室典範」210頁・220頁)。

 

4 枢密院審議における議長・伊藤の動揺

ところが,枢密院における皇室典範案の審議が始まり,1888年6月4日午後,皇室典範案第33条(「皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ生レナカラ男ハ親王女ハ内親王ト称フ5世以下ハ生レナカラ王女王ト称フ」)に関し,三条実美内大臣が口火を切って臣籍降下制度の必要を説き(「或ハ但シ書キヲ以テスルモ可ナリ桓武天皇以来ノ成例ヲ存シ姓ヲ賜フテ臣下ニ列スルノ余地ヲ存シ置タシ」),枢密顧問官ら(土方久元宮内大臣兼枢密顧問官,山田顕義司法大臣,榎本武揚逓信大臣兼農商務大臣,佐野常民枢密顧問官及び吉井友実枢密顧問官並びに次の伊藤議長発言後には寺島宗則枢密院副議長及び大木喬任枢密顧問官)からも例外なき永世皇族制採用に対する疑問ないしは臣籍降下制度に賛成する意見が次々と提示されると,伊藤博文枢密院議長は動揺します(これらの枢密院の議事の筆記は,アジア歴史資料センターのウェッブ・サイトで見ることができます。)。

 

議長 各位ノ修正説モ種々起リタレトモ,本条ニハ決シテ人臣ニ下スヲ得スト云フ(こと)ナシ。説明モ人臣ニ下スヲ禁スルノ意ニアラス。抑モ典範ハ未タ人臣ニ下ラサル皇族以上ノ為メニ設クルモノニシテ,既ニ人臣ニ降リタル者ハ典範ノ支配スル所ニアラス。又外国ノ例ヲ引テ皇族ノ人臣ニ列スルノ可否ヲ論セラルレトモ,外国ニ於テハ皇族ノ臣ニ列スルニ姓ヲ賜フト云フカ如キ厳格ナルモノアラス。故ニ比類シテ論スヘキニアラス。要スルニ此問題ハ典範中ノ難件ニシテ,最初原案取調ノ際ニハ5世以下人臣ニ下スノ条ヲ設ケ漸次疎遠ノ皇族ヨリ人臣ニ下スヿヲ載セタリシカ,種々穏カナラサル所アリテ遂ニ削除シタリシナリ。(振り仮名及び句読点は筆者によるもの)

 

 要は,伊藤博文が言いたかったのは,皇室典範案の文言だけ見ると例外なき永世皇族制度であって皇族の臣籍降下はないように見えるがそうではないのだよ,現に我々も原案においては臣籍降下制度の明文化を考えていたけれども「種々穏カナラサル所アリテ遂ニ削除シタ」だけなのだよ,オレが悪いんじゃないよ,ということのようです。

 しかし,このような説明が通るのであれば,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定する明治皇室典範10条についても,「本条ニハ決シテ譲位スルヲ得スト云フヿナシ説明〔「上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり」〕モ譲位ヲ禁スルノ意ニアラス・・・要スルニ此問題ハ典範中ノ難件ニシテ最初原案取調ノ際ニハ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得ノ規定ヲ設ケ譲位ノヿヲ載セタリシカ種々穏カナラサル所アルト思ヒテツイ削除シタリシナリ」といい得てしまうことになりそうです。
 なお,皇室典範枢密院諮詢案
33条について伊藤博文が言及する「説明」は,『皇室典範義解』の基となった枢密院の審議資料として配布されたコンニャク版(小嶋「明治皇室典範」258頁)の「皇室典範義解草案 第一」のことでしょう(伊藤博文編,金子堅太郎・栗野愼一郎・尾佐竹猛・平塚篤校訂『帝室制度資料 上巻〔秘書類纂第19巻〕』(秘書類纂刊行会・1936年)81頁以下。なお,『秘書類纂』も国立国会図書館のウェッブ・サイトで見ることができます。)。「皇室典範義解草案 第一」における枢密院諮詢案第32条(「皇族ト称フルハ太皇太后皇太后皇后皇子孫皇女孫及皇子孫ノ妃ヲ謂フ」)の説明には,「凡ソ皇族ノ男子ハ皆皇位継承ノ権利ヲ有スルモノナリ。・・・蓋シ5世ノ内外ハ親等ヲ分ツ所以ニシテ,其ノ宗族ヲ絶ツニ非ザルナリ。故ニ中世以来,(かたじけなく)累封邑(ふうゆうをかさね)空費府庫(むなしくふこをついやす)ヲ以テ(嵯峨天皇詔)姓ヲ賜ヒ臣籍ニ列スルノ例ハ本条ノ取ラザル所ナリ。・・・(之ヲ外国ニ参照スルニ,凡ソ王位継承ノ権アル者ハ総テ王族ト称ス,而シテ君主ノ子孫兄弟伯叔姪ノミヲ称ヘテ専ラ王族ト謂ヘル場合アルハ,其ノ等親及ビ特別ノ敬礼ニ就テ謂ヘルナリ,・・・若シ(それ)姓ヲ改メテ臣ト為ルノ事ハ各国ノ見ザル所ナリ)とあります(伊藤編『帝室制度資料 上巻』109110頁。振り仮名は筆者によるもの)。「中世以来・・・ノ例ハ本条ノ取ラザル所ナリ」は,「中古以来・・・の慣例を改むる者なり」と酷似した理由付けです。

 1888年6月4日に続く同月6日午前の枢密院の審議において,永世皇族制の推奨者である井上毅枢密院書記官長の見解は,伊藤議長を厳しく叱咤するごとし。

 

 ・・・議長ト其意見ヲ異ニセサルヲ得ス。本条〔枢密院諮詢案第33条〕正文ノ構成ヲ正当ニ読下セハ,天皇ノ御子孫ハ万世王女王ナリ。(句読点は筆者によるもの)

 

「・・・5世以下ハ生レナカラ王女王ト称フ」なのですから,「本条正文ノ構成ヲ正当ニ読下セハ天皇ノ御子孫ハ万世王女王ナリ」であることは当然のことです。問題は,「本条ニハ決シテ人臣ニ下スヲ得スト云フヿナシ」と言う伊藤「議長ト其意見ヲ異ニセサルヲ得ス」の部分ですが,これは,「生レナカラ王女王」として皇室典範の条文上有する特権を皇室典範における明文の根拠なしに当人の意思を無視して一方的に剥奪して「人臣ニ下ス」ことができないことはもちろんだ,ということでしょう。天皇ないしは天皇及び皇嗣自らの意思に基づくものである生前退位ないしは譲位とは,問題の場面が異なるようです。

臣籍降下制度の規定を設けるかどうかに係る前記の問題は,1888年6月6日午前,ついに採決となり,当該規定を設けることに賛成する者は10名,原案そのままに賛成する者14名で,1889年2月11日の皇室典範においては皇族の臣籍降下の制度は設けられないこととなりました(なお,小嶋「明治皇室典範」244頁)。

さて,賛成者・反対者の色分けはどうだったのでしょうか。伊藤議長及び寺島副議長以外の皇族,国務大臣及び枢密顧問官の出席者は合計24名でした。これらのうち,臣籍降下制度条項に賛成する発言をしていた者は,三条,土方,山田,榎本,佐野,吉井及び大木の7名,臣籍降下制度条項を不要とする発言をしていた者は松方正義大蔵大臣,副島種臣枢密顧問官及び河野敏鎌枢密顧問官の3名。残り14票は,熾仁親王,彰仁親王,能久親王,威仁親王,黒田清隆内閣総理大臣,山県有朋内務大臣,大隈重信外務大臣,大山巌陸軍大臣,森有礼文部大臣,福岡孝弟枢密顧問官,佐々木高行枢密顧問官,東久世通禧枢密顧問官,元田永孚枢密顧問官及び吉田清成枢密顧問官。これら14票はどう分かれたものでしょうか。柳原,三条等に見られるように一般に永世皇族制に冷淡なような公家の出身者の東久世枢密顧問官は臣籍降下制度条項に賛成したでしょうか。永世皇族制度を説く井上毅に名義を貸したことのある山県有朋は不要論でしょう。審議中沈黙を守っていた宮様ブロックの4名は,一致して臣籍降下条項不要の側に立ったことでしょう。

5 明治皇室典範30条及び31条と井上毅及び柳原前光

 

(1)井上毅

最終的に,1889年2月11日の皇室典範の第30条及び第31条は,次のとおりとなりました。

 

30条 皇族ト称フルハ太皇太后皇太后皇后皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃内親王王王妃女王ヲ謂フ

31条 皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ内親王トシ5世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス

 

皇室典範に別に特則が設けられなければ,当該皇族の同意なき一方的臣籍降下はないわけですが,「本条ニハ決シテ人臣ニ下スヲ得スト云フヿナシ」との伊藤博文発言が飛び出すような状況では,永世皇族制論者としての井上毅は不安であったでしょう。また,後に皇室典範の改正又は増補がされてしまうかもしれません。条文の外に「説明」においても強固な防備をしておく必要が感じられたもののようです。明治皇室典範10条に係る「・・・中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」との説明だけでは天皇の終身在位論の理由付けとしては弱いものとつとに考えていたであろう井上は(注),「皇室典範義解草案 第一」にあった「・・・故ニ中世以来,辱累封邑空費府庫ヲ以テ(嵯峨天皇詔)姓ヲ賜ヒ臣籍ニ列スルノ例ハ本条ノ取ラザル所ナリ。」だけでは同様に不十分であると当然思ったことでしょう(1888年6月4日午後の枢密院会議において松方大蔵大臣は,「断言」する強い表現だと受け取ってくれていたのですが。)。

(注)ついでながら,明治皇室典範10条の説明は,「皇室典範義解草案 第一」では「・・・中古権臣ノ強迫ニ因リ,両統互譲十年ヲ限トスルニ至ル。而シテ南北朝ノ乱亦此ニ源因セリ。故ニ後醍醐天皇ハ遺勅シテ在世ノ中譲位ナク,又剃髪ナカラシム(細々要記)。本条ニ践祚ヲ以テ先帝崩御ノ後ニ行ハルルモノト定メタルハ,上代ノ恒典ニ因リ中古以来譲位ノ慣例ヲ改ムルモノナリ。」となっていました(伊藤編『帝室制度資料 上巻』93頁。下線は筆者によるもの)。非妥協的かつ戦闘的な御性格であらせられた『太平記』の大主人公・後醍醐天皇の遺勅であるから終身在位なのだ,持明院統には互譲などせず皇位は譲らないのだ,ということではかえって剣呑であるようです(現皇室は持明院統の裔)。そもそも後醍醐天皇(大覚寺統傍系)は,文保の和談を承けて,在位10年の花園天皇(持明院統)から譲位を受けることができたところです。『皇室典範義解』においては書き改められて,後醍醐天皇云々が消えているのはあるいは当然の措置でしょう。

 したがって,『皇室典範義解』においては,「凡そ皇族の男子は皆皇位継承の権利を有する者なり。故に,中古以来
空費府庫(むなしくふこをついやす)を以て姓を賜ひ臣籍に列するの例は本条の取らざる所なり。」との説明(第30条解説)に加えて,1888年6月4日午後の枢密院会議で井上が弁じた永世皇族制弁護論の要旨が第31条解説に次のように付加されています。「皇室典範義解草案 第一」の枢密院諮詢案33条解説にはなかったものです。

 

 大宝令5世以下は皇親の限に在らず。而して正親司(おおきみのつかさ)司る所は4世以上に限る。然るに,継体天皇の皇位を継承したまへるは実に応神天皇5世の孫を以てす。此れ(すなわ)ち中古の制は(かならず)しも先王の遺範に非ざりしなり。本条に5世以下王・女王たることを定むるは,宗室の子孫は5世の後に至るも,亦皇族たることを失はざらしめ,以て親々の義を広むるなり・・・。

 
 井上は,前記枢密院会議において,「不幸ニシテ皇統ノ微継体天皇ノ時ノ如キことアラハ5世6世ハ申スまでモナシ百世ノ御裔孫ニ至ル迠モ皇族ニテハサンヿヲ希望セサルベカラス」「姓ヲ賜フテ臣籍ニ列スルノヿハ大宝令ニモ之ヲ載セス畢竟中古以後王室式微ノ時代一時ノ便宜ニ従テ御処分アリシ事ナルカ如シ」「皇葉ノ御繁栄マシマサハ是レ誠ニ喜フベキ事ニシテ継体天皇宇多天皇ノ御場合ノ如キハ大ニ不祥ノ事ト云ハサルヘカラス然ラハ仮令多少ノ支障ハアラントモ成ルベク皇族ノ区域ヲ拡張スルヿ誠ニ皇室将来ノ御利益ト云フヘシ」等と熱弁をふるっていたところです。

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桓武天皇及び継体天皇ゆかりの交野天神社(大阪府枚方市)

(2)柳原前光

 臣籍降下制度設置論者である柳原前光は,当該制度を皇室典範に設けないという食言的決定に対して,1888年5月頃伊藤博文宛てに次のように書き送っていました(「皇室典範箋評」。小嶋「明治皇室典範」238頁。振り仮名は筆者によるもの)。

 

 拙者ハ祖宗ノ例ヲ保守シ疎属ヨリ逓次臣籍ニ列スルノ持説ナリ 但シ本案永世皇族ヲ設クルニ決セラレタル上ハ波瀾ヲ避ケ謹テ緘黙傍観ス (より)テ安意ヲ乞フ 但シ遅ク(さんじゅう)年以内ヲ出テス実際大ニ(くるし)ミ必ス此事件ヨリ典範修正アラン 若シ不幸ニシテ其事ニ()閣下(こいねがわ)クハ僕ノ先見者タルヲ保証セラレンコトヲ願フ(のみ) 恐(しょう)々々

 

柳原は,枢密顧問官になるには年齢が足りず,枢密院における皇室典範案の審議に参加することができませんでした。

 

6 1907年の皇室典範増補と臣籍降下制度の(再)導入

 

(1)1907年皇室典範増補

しかしてその後,1889年の明治皇室典範の裁定から18年しかたたぬ1907年2月11日,皇族の臣籍降下制度を定める皇室典範増補が明治天皇により裁定され,同日公布(公式令(明治40年勅令第6号)4条1項)されました。

 

第1条 王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムルコトアルヘシ

 第2条 王ハ勅許ニ依リ華族ノ家督相続人トナリ又ハ家督相続ノ目的ヲ以テ華族ノ養子トナルコトヲ得

 第4条 特権ヲ剥奪セラレタル皇族ハ勅旨ニ由リ臣籍ニ降スコトアルヘシ

  〔第2項略〕

 第5条 第1条第2条第4条ノ場合ニ於テハ皇族会議及枢密顧問ノ諮詢ヲ経ヘシ

 第6条 皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス

 

(2)草葉の陰

 

ア 山田顕義

 1888年6月6日午前の枢密院会議で,「種々穏カナラサル所」からの影響のゆえか何のゆえか臣籍降下制度不要論を強硬に吠えた河野敏鎌(この人物は,司馬遼太郎の『歳月』において,「いい親分がみつかると,河野はどんなことでもする」と書かれてしまっていて損をしています。筆者は『歳月』に関して本ブログに記事(「司馬遼太郎の『歳月』の謎の読み方」)を書いたことがあります。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1842010.html)の発言に関して,「・・・本条原案ノ(まま)ニ存シ置クハ典範上ノ体面ハ美ナルカ(ごと)シト(いえど)モ,18番〔河野敏鎌〕自身ニモ既ニ陳述シタル如ク,本条将来ノ変換ハ勢ヒ免レ難キ所トス。賜姓列臣ヲ明条ニ掲クルハ忍ヒサル所ナリト雖モ,皇室万世ノ為メニ模範ヲ(のこ)サントスル今日ニ於テ,姑息ニ流レ徒ラニ体面(よそおう)ハ本官ノ取ラサル所ナリ。其変換ニシテ予期スヘカラサラシメハ止マン。(いやしく)モ予期スヘクンハ,他日典範ヲ変換シテ賜姓列臣ノ例ヲ開カサルヘカラサルノ時期ニ際会シ,何ノ必要アリテ祖宗千年ノ習慣ヲ此ノ中間ニ特ニ変更シタルカヲ(わら)フヘシ・・・次ニ18番ハ,御先代ノ経験ヲ鑑ミ帝室将来ノ利益ヲ(おもんぱかっ)テ之ヲ今日ニ改ムルハ忠精ヲ(つく)所以(ゆえん)ナリト論シタリ。然レトモ,他日必ス御先代ノ例ニ復スヘキヲ期シナカラ差シタル必要ナクシテ(みだ)リニ之ヲ改ムルハ,遂ニ後世ノ(わらい)ヲ免レス。各位幸ヒニ18番ノ説ニ迷ハス,23番〔佐野常民〕6番〔三条実美〕ノ修正ニ賛成アリタシ」(振り仮名及び句読点は筆者によるもの)と,臣籍降下制度を結局は導入する破目になって嗤われ者になるなとの警告を発していたこちらは長州の武家出身の山田顕義は,18921111に急死していました。山田がボアソナアドの協力を得てその編纂に心血を注いだ(旧)民商法の施行延期法(明治25年法律第8号(民法及商法施行延期法律))が明治天皇によって裁可されたのは山田急死の月の22日(副署した内閣総理大臣は伊藤博文,司法大臣は山県有朋),公布されたのは同月24日でした。


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山田顕義胸像(東京都千代田区三崎町の日本大学法学部前)

イ 柳原前光

臣籍降下制度導入に係る「先見者タルヲ保証セラレ」ることを見ることなく,柳原前光は,日清戦争の対清宣戦布告の翌月,1894年9月2日に早逝しました。

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右から4行目に「俊德院殿頴譽巍寂大居士 明治二十七年九月二日薨光愛卿二男/正二位勲一等伯爵柳原前光行年四十五歳」と彫られてあります(祐天寺(東京都目黒区中目黒)の柳原家墓所。なお,右後方に見えるのは,大正天皇の生母である柳原愛子の墓です。)。
 

ウ 井上毅

 永世皇族制の防衛者たるべかりし井上毅は,1895年3月17日,宿痾の結核で不帰の客となりました。伊藤博文が陸奥宗光と共に下関・春帆楼で李鴻章と第1回日清講和会談を行う3日前のことでした。

 

 「国家多事の日に際して,蒲団の上に死す。斯る不埒者には,黒葬礼こそ相当なれ」(長尾龍一「陰沈たる鬼才の謀臣 井上毅」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)3738頁参照)

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井上毅の墓(東京都台東区瑞輪寺)

(3)生き残る男・伊藤博文

ところで,1907年の皇室典範増補裁定の仕掛け人はだれだったでしょうか。ほかでもない,高輪会議での決定を翻して井上毅の七七ヶ条草案に対し「皇族ヲ臣籍ニ列スル2条削ルベシ」と食言的な指示をするに至った夫子御自身――伊藤博文その人でした。

19041012日に帝室制度調査局総裁として伊藤博文が明治天皇に対して行った上奏にいわく。

 

  臣博文帝室制度調査ノ

大命ヲ(つつし)ミ伏シテ(おもんみ)ルニ,皇室典範ハ

陛下立憲ヲ経始(けいし)〔開始〕シタマヘル制作ノ一ニシテ,帝国憲法ト並ニ不刊(ふかん)〔摩滅しない〕ニ垂ル,(しこう)シテ国家ノ景運蒸々(じょうじょう)向上するさまトシテ()(へん)〔大いに変ずる〕シ,皇室ノ基礎益々鞏固ニシテ文経武緯国光(あまね)寰宇(かんう)〔天子の治める土地全体〕ニ顕揚スルコト,今ハ(はるか)(ちゅう)(せき)ノ比ニアラズ。・・・是ニ於テ()皇室ノ宝典モ(また)(いささ)カ其ノ未ダ備ハラザルモノヲ増補シテ以テ(こう)(こん)〔後の子孫〕ニ昭示スルノ必要ヲ生ズ。即チ皇族支胤ノ繁盛ト皇室費款ノ増益トニ視テ,其ノ疎通ヲ図ルガ如キ・・・ハ特ニ其ノ(ゆう)ナルモノニシテ,実ニ日新ノ時宜ニ鑑ミ乾健ノ宏綱ヲ進張スル所以(ゆえん)ノ道ナルコトヲ信ズ。(ここ)ニ別冊皇室典範増補条項ニ付キ慎重審議ヲ()ヘ,其ノ事由ヲ前条ノ下ニ注明セシメ謹デ上奏シ(うやうやし)

 聖裁ヲ仰グ。(伊藤博文編,金子堅太郎・栗野愼一郎・尾佐竹猛・平塚篤校訂『雑纂 其壱〔秘書類纂第24巻〕』(秘書類纂刊行会・1936年)2526頁。振り仮名は筆者によるもの

 

 「何が今更「是ニ於テ乎皇室ノ宝典モ亦聊カ其ノ未ダ備ハラザルモノヲ増補シテ以テ後昆ニ昭示スルノ必要ヲ生ズ」だ,最初から臣籍降下制度がのちのち必要になるって分かっていたくせに。自分の失敗を棚に上げて。」と,1888年6月4日午後及び同月6日午前の枢密院会議のいずれにも臨御していた明治天皇は,内心苦笑いしていたことでしょう。

 とはいえ,山田,柳原,井上らは既に亡し。「何ノ必要アリテ祖宗千年ノ習慣ヲ此ノ中間ニ特ニ変更シタ」んだったっけねと嗤われもせず,それみたことか「僕ノ先見者タルヲ保証セ」よと嫌味を言われもせず,「其意見ヲ異ニセサルヲ得ス」と叱られもせず,政治家たるもの,長生きするのが勝ちです。

 

7 皇室典範の「増補」について

 しかしながら,「改正」といわず,「亦聊カ其ノ未ダ備ハラザルモノヲ増補」という方が法典に手を入れやすいですね。「改正」ですと,被改正条項が将来のことをよく考えていなかったから状況の変化に対応しきれずに駄目になったので改めて正されねばならないのか,あるいは最初から駄目だったので改めて正されねばならないのか,ということでそもそもの立法者の面子の問題になってしまいます。その点を避けることのできる「増補」概念は,皇室典範自身の規定するものです。

 

 第62条 将来此ノ典範ノ条項ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要アルニ当テハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シテ之ヲ勅定スヘシ

 

状況が変化してしまったので足らざるところが生じたところ,当該変化に素直に応じた増補である,という方が,説明がしやすい。「増補」概念がそもそも組み込まれている点において,皇室典範は動的かつ柔軟ないわば開かれた規範体系である,ともいい得るかもしれません。伊藤博文は,自身の失敗指示の回復策である1907年皇室典範増補の実現に向けて,当該「増補」概念をうまく活用したということであるようにも思われます。(ただし,公式令4条1項における整理では,「増補」は「改正」に含まれるものとされているようです。)

 しかしてこの「増補」概念の導入者はだれでしょうか。

 柳原前光です。

1887年3月20日の高輪会議後の同年4月25日に伊藤博文に,同月27日に井上毅にそれぞれ提出された柳原の前記「皇室典範草案」において,「此典範ヲ改正増補セント欲スル時ハ皇族会議及ヒ内閣,宮中顧問官ニ諮詢シ之ヲ決定ス」との条項が新加されていたところです(小嶋「明治皇室典範」202203頁。下線は筆者によるもの)。井上毅はその七七ヶ条草案に至る過程において,当該条項については,「此ノ典範ハ改正増補スヘカラザル者ナリ 改正増補ハ不得已(やむをえざる)ノ必要ニ限ルヘキナリ 故ニ左ノ如ク修正スヘシ/将来此ノ典範ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要ヲ見ルニ当テハ皇族会議及内閣宮中顧問官ニ諮詢シ之ヲ決定スヘシ」とています(小嶋「明治皇室典範」207頁。振り仮名は筆者によるもの)。確かに「欲スル」だけで改正増補がされ得るのはおかしい。しかしながら,「増補」概念は維持されています。

上記高輪会議の結果としては「天皇譲位の制度の否認されたことがもっとも注目される」ところですが(小嶋「明治皇室典範」200頁),その直後における皇室典範に係る「増補」概念の導入に当たって柳原及び井上の念頭に共通にあったのは,生前退位ないしは譲位に関する規定の「増補」だったのかもしれません。(臣籍降下制度についてまず「増補」がされることになるとは,高輪会議の終了時点では予想されていなかったでしょう。)

 

・・・是ニ於テ乎皇室ニ関スル法典モ亦聊カ其ノ未タ備ハラサルモノヲ増補シテ以テ後昆ニ昭示スルノ必要ヲ生ス即チ 聖上及ヒ皇族ノ御長寿ト国事行為及ヒ象徴トシテノオ務メノ御増益トニ視テ皇位ノ疎通ヲ図ルカ如キハ特ニ其ノ尤ナルモノニシテ実ニ日新ノ時宜ニ鑑ミ乾健ノ宏綱ヲ進張スル所以ノ道ナルコトヲ信ス・・・

 

 無論,臣下による天皇の廃位に関する規定の増補ということは全く考えられていなかったはずです。
 また,そのような国賊的なことを,長州出身の元尊皇の志士・俊輔伊藤博文が許したわけがありません。文久二年十二月二十一日(1863年2月9日),和学講談所の塙忠宝は,「天皇廃立の先例を調べているとの風聞によって」,伊藤博文(当時21歳)らによって暗殺されています(伊藤博文伝(春畝公追頌会編)に基づく『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)の記載。塙は翌二十二日死亡)。
森鷗外の『澀江抽斎』(1916年)のその七十六には,「此年〔文久二年〕十二月二十一日の夜,塙次郎が三番町で刺客せきかくおとた。岡本さうである。次郎温古た。保己一四谷寺町祖父である。当時流言次郎安藤対馬のぶゆき廃立先例取り調わうくわである。遺骸大逆天罰があた。次郎文化十一年四十九歳わかであた。」とあす。

 
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 大勲位伊藤博文公墓所(東京都品川区西大井)

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19091026日午前狙撃を受け清国ハルビン駅の〕車室内に横臥した〔伊藤〕博文は,小山医師及び出迎への露国医師の応急手当てを受けながら,

大分(だいぶ)弾丸(たま)やうだ。何奴(どいつ)だ」た。

「朝鮮人ださうです。」

 中村〔是公〕満鉄総裁が説明すると,

「馬鹿」と言つたがその時,彼の顔色が急変して,脂汗が流れ出した。(久米正雄『伊藤博文伝』(改造社・1931年)384頁)

 

 同日午前10時死亡。享年69歳。190911月4日日比谷公園で国葬。

 

 葬儀が済む頃は雨になつた。濡れそぼつた柩は,数個中隊の騎兵に護られ,少数の親戚知友に送られて,大森なる恩賜館附近,(たに)(だれ)(うづ)められた。(久米390頁)


弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

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1 「譲位の慣例を改むる者」の強行規定性の有無

 明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)に関する前回のブログ記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.html)においては,同条に関する伊藤博文の『皇室典範義解』の解説(「本条に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はるゝ者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」(宮沢俊義校註『憲法義解』岩波文庫(1940年)137頁))をもって,同条及び現在の皇室典範(昭和22年法律第3号)4条には「天皇の生前譲位を排除する趣旨」があるものとあっさり記しました。しかしながらよく考えるとその先の問題として,「譲位の慣例を改むる」ことによって,実際に天皇が「退位」した場合(「・・・花山寺におはしましつきて御髪おろさせたまひ・・・」)に退位によってもはや天皇ではなくなるという法律効果までも無効になるものかどうか,なお議論の余地があるようです。

(なお,「譲位」というと皇嗣に皇位を譲るという先帝の意思の存在及び更には当該先帝の意思と皇位を譲られる皇嗣の意思との合致が含意されるようでもありますが,「退位」ならば先帝の単独の行為であり,かつ,皇嗣に皇位を譲る効果意思を必ずしも含まないものとするとのニュアンスがより強いようです。美濃部達吉は「皇位ノ継承ハ法律行為ニ非ズシテ法律上当然ニ発生スル事実ナリ」と述べていますが(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)183頁),皇位継承は天皇の効果意思に基づくものではないということでしょう。)

譲位を慣例とはしないということのみであれば,「例外的」譲位は有効にあり得るようにも思われます。明治皇室典範の性格に関して『皇室典範義解』は「祖宗国を肇め,一系相承け,天壌と与に無窮に垂る。此れ(けだし)言説を仮らずして既に一定の模範あり。以て不易の規準たるに因るに非ざるはなし。今人文漸く進み,遵由の路(かならず)憲章に依る。而して皇室典範の成るは実に祖宗の遺意を明徴にして子孫の為に永遠の銘典を(のこ)す所以なり。」と説いていますが(岩波文庫127頁),従来多くの天皇が行った生前譲位を有効と認める以上は,生前譲位は「不易の規準」に反して本来的に無効であるということにはならないでしょう。そもそも明治皇室典範については「既に君主の任意に制作する所に非ず。」とされていますから(『皇室典範義解』岩波文庫127頁),従来有効であった生前譲位ないしは退位を明治天皇の「任意に制作する所」の強行規定をもって1889年2月11日以降無効化したとまでいい得るものでしょうか。『皇室典範義解』の説明文は,退位の有効性を前提としつつも,あえて生前に退位はしないという「上代の恒典」への運用の復帰を求めているものというようにも解することができそうです。そう考えて明治皇室典範10条を見ると,確かに同条の文言自体は,それだけで退位有効論を完全に排除するものとまではいえません。また,現在の皇室典範の法案が審議された1946年12月の第91回帝国議会においても,政府は天皇の「退位」はおよそ無効であるとまでは答弁していません。同議会における金森徳次郎国務大臣の答弁の言葉尻を見てみると,「・・・天皇に私なし,すべてが公事であるという所に重点をおきまして,御譲位の規定は,すなわち御退位の規定は,今般の典範においてこれを予期しなかった次第でございます。」(第91回帝国議会衆議院議事速記録第6号67頁),「・・・かような〔天皇の〕地位は,その基本の原則に照して処置せらるべきものでありまするが故に,一人々々の御都合によつてこれをやめて,たとえば御退位になるというような筋合いのものではなかろうと思うのであります」(同議会衆議院皇室典範案委員会議録(速記)第4回20頁),「退位の問題につきましては,相当理論的にも実際的にも考慮すべき点が残されておるように思うのでありまして・・・」(同26頁),「・・・或はお叱りを受けるか知りませんが,まずそういう場面〔「天皇が自発的に退位されたいという場合」,「天皇が希望される婚姻をどうしても皇室会議が承認できないというような場合」〕が起らないように,適当に事実が実質において調節せらるゝものであろうということを仮定をして,この皇室典範ができておるわけでありまして・・・」(同33頁),「・・・しかして国民はかような場合におきまして,御退位のあることを制度の上に書くことは希望していない,かように考えます」(同33頁),「事実としてそういう考え〔「象徴の地位におられることを欲しないという精神作用」〕が起るかどうかということにつきましては,歴史の示す所は,事実としてかような考えが起つておることを認め得るがごとくであります,しかし事実ではない,かくあるべきものとしての姿としてそれを認めるかどうかということになりますれば,私自身の見解から言えば,日本の皇位は万世一系の血統を流れるものである,しかもそれは一定の原理に従つて流れるものであるということを前提として,憲法はこれを掲げております,従つてそれを打切ることはできないものであると,かように考えております」(34頁),「・・・細かい理窟を抜きに致しまして,国民は矢張り御退位を予想するやうな規定を設けないことに賛成をせらるゝのではなからうか,斯う云ふ前提の下に皇室典範の起草を致しました・・・」(同議会貴族院議事速記録第6号88頁)等々,生前退位はあるべきものではないとしつつ,そこから先は,「予期しなかった」ということで,必ずしも詰めてはいなかったようです。 

 

2 1887年3月20日の高輪会議再見

 伊藤博文,井上毅,柳原前光らの1887年3月20日の高輪会議(憲法案に係る同年1015日のものとは異なります。)において柳原前光の「皇室典範再稿」12条(「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」)が削られるに至った過程について,前回のブログでは,伊藤博文の削るべしとの首唱に柳原が「迎合」したと書きました。しかしながら,柳原前光は,何の考えもなしに伊藤に対して単純に迎合したわけではなかったようです。

柳原は「但書ヲ削除スルナレハ寧ロ全文ヲ削ルヘシ」と言っています。肥後人井上毅の「人間だもの」論(「至尊ト(いえども)人類ナレハ其欲セサル時ハ何時ニテモ其位ヨリ去ルヲ得ベシ」)くらいでは生前退位を排除しようとする長州藩の足軽出身の権力者・内閣総理大臣伊藤博文の翻意は無理と見て取った京都の公家出身の柳原は,「但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」として退位を容認することとしていたただし書のみならず,「天皇ハ終身大位ニ当ル」として終身在位を制度化する本文も併せて削られることを確保することとして,生前退位容認論と終身在位制度化論との間での法文上でのいわば相討ちを図ったのではないでしょうか。

高輪会議後の1887年4月25日に伊藤に提出された柳原の「皇室典範草案」では,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」との高輪会議決定案10条が二つの条に分割され,当該「皇室典範草案」を検討して井上毅が作成した「七七ヶ条草案」においても「第10条 天皇崩スル時ハ皇嗣即チ践()ス」及び「第11条 皇嗣践()スル時ハ祖宗ノ神器ヲ承ク」とされ崩御による践祚についての規定と践祚の際(先帝の崩御によるものに限定はされていません。)の剣璽渡御についての規定との別立て維持されていました。結局両条は再統合されますが,生前退位容認論者であったの立法技術的操作には,それなりの含意があったというべきでしょう。
 なお,「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」と規定する大日本帝国憲法2条に関する『憲法義解』の解説は,「恭て按ずるに,皇位ノ継承ハ祖宗以来既に明訓あり。以て皇子孫に伝へ,万世易ふること無し。若夫継承の順序に至つては,新に勅定する所の皇室典範に於て之を詳明にし,以て皇室の家法とし,更に憲法の条章に之を掲ぐることを用ゐざるは,将来に臣民の干渉を容れざることを示すなり。」というものです(岩波文庫25頁。下線は筆者によるもの)。井上毅が書いたものとして,新たな明治皇室典範は専ら皇位「継承の順序」を「詳明」にすべきものであって,継承の原因等は依然「祖宗以来」の「明訓」のままでよいのだという趣旨まで深読みしてよいものかどうか。はてさて。 


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 東京都港区高輪四丁目の伊藤博文高輪邸宅地跡(1889年,岩崎久弥に売却)
 

3 『皇室典範義解』の拘束力の射程

 現在の皇室典範4条の文言(「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」)は,剣璽渡御に関係する明治皇室典範10条後段を削ったことによって,むしろ井上毅の「七七ヶ条草案」10条と対応するものになっています。(なお,法文からは削られたもののやはり必要な儀式ということでしょうが,今上天皇践祚に当たって「剣璽等承継の儀」が新天皇の国事行為として行われています。これは先帝が崩じたから伝統的な意味での践祚をするために行われたものか,皇嗣が既に「直ちに即位」したから行われたものか。)

明治皇室典範10条に係る『皇室典範義解』の解釈に過度に拘束されずに,現在の皇室典範4条は,単に「皇位ノ継承ハ法律行為ニ非ズシテ法律上当然ニ発生スル事実」であること(また,「皇位の一日も曠闕すべからざる」こと(『皇室典範義解』岩波文庫137頁)),皇位継承に新天皇の宣誓(例えば,1831年のベルギー国憲法80条2項は「国王は,両議院合同会の前で,厳粛に次の宣誓をするまでは,王位につくことができない。/「余は,ベルギー国民の憲法および法律を遵守し,国の独立および領土の保全を維持することを誓う。」」と規定していました(清宮四郎訳『世界憲法集 第二版』(岩波文庫・1976年)89頁)。)は不要であるということ,先帝崩御は皇位継承をもたらす一つの法律事実であること,を意味するものにすぎないと解することは可か不可か。

 大日本帝国憲法と『憲法義解』との関係について,小嶋和司教授は,「『憲法義解』は法源ではないが,政府の憲法解釈を拘束した」が,大日本帝国憲法の「わずか4人の起草関係者の間に存した・・・解釈の対立は,それが法の指示においてさえ完璧でなかったことを断定せしめる」ところ,「今日,明治憲法典の起草趣旨を簡単に知る方法として『憲法義解』の参照がおこなわれる」が「しかし,それが叙述しないか,叙述を不明確にしている場合に,起草者は問題を知らなかったとか看過したと断定してはならない。それ〔は〕学問的には怠惰な即断となる」と述べています(小嶋和司「明治二三年法律第八四号の制定をめぐって」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)441頁,440頁)。明治皇室典範ないしは現在の皇室典範と『皇室典範義解』との関係も,同様に考えるべきでしょう。そう簡単ではありません。ちなみに,『皇室典範義解』における明治皇室典範10条解説の結語である「本条に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はるゝ者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」は,高輪会議の前月である1887年2月段階における井上毅の「皇室典範」案13条の「説明」案に「本条ハ実ニ上代ノ恒典ニ因リ断シテ中古以来ノ慣例ヲ改ムル者ナリ」とあったものを(園部逸夫『皇室法概論』(第一法規・2002年)438頁参照)承けたものでしょう。しかしながら,当の井上自身は当該理由付けをもって例外を許さないほど強いものとは評価していなかったところです。その上記「皇室典範」案13条は生前譲位についても定めているのです。いわく,「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ノ重患アルトキハ皇位継承法ニ因リ其位ヲ譲ルコトヲ得」と(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』185‐186頁参照)。明治皇室典範10条に関する『皇室典範義解』の解説について奥平康弘教授は「譲位制度はよろしくなく,「上古ノ恒典」に戻るべきであるとする説明に『皇室典範義解』は,十分に成功していないというのが,私の印象である。」と述べていますが(同「明治皇室典範に関する一研究―「天皇の退位」をめぐって―」神奈川法学第36巻第2号(2003年)159頁),当該「印象」は,井上毅の立場からすると,むしろ正しい読み方に基づくものということになるのかもしれません。

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 東京都台東区谷中の瑞輪寺にある井上毅の墓

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 「病弱な井上は,その後〔1893年・第2次伊藤内閣〕文部大臣にもなったが,明治28年〔1895年〕に逝去し,はやく忘れられた。」(小嶋「明治二三年法律第八四号」442頁)

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 瑞輪寺山門の扁額は井上毅の揮毫したもの 

 
4 英国における特別法による国王退位

 しかしながら,事実として,国王による単独の法律行為としての退位は無効であるとする法制は可能ではあります。

英国がその例です。

エドワード8世は,19361210日に退位声明を発しましたが(いわゆる「王冠を賭けた恋」事件),当該退位が効力を発するためには議会及び国王による同月11日の立法を要しました。次に,19361211日の「国王陛下の退位宣言に効力を与え,及び関連する事項のための法律(An Act to give effect to His Majesty’s declaration of abdication; and for purposes connected therewith.)」を訳出します。

 

  国王陛下は,本年1210日の勅語(His Royal Message)において陛下御自身及びその御子孫のために王位を放棄する不退転の御決意(irrevocably determined)である旨声明あそばされ,並びに当該目的のために本法の別記に掲載された退位詔書(Instrument of Abdication)を作成され,並びにそれに対して効力が直ちに与えられるべき旨の御要望を表明されたところ,

  並びに,国王陛下の前記声明及び要望の海外領土に対する伝達を承け,カナダは1931年のウェストミンスター憲章第4節の規定に従い本法の立法を要求しかつそれを承認し,並びにオーストラリア,ニュー・ジーランド及び南アフリカはそれに同意したところ,

  よって,至尊なる国王陛下により,現議会に召集された聖俗の貴族及び庶民の助言及び承認によりかつそれらと共に,並びに現議会の権威により,次のように立法されるべし。

  1(1)本法が裁可されたときに,現国王陛下が19361210日に作成した本法の別記に掲載されている退位詔書は直ちに効力を発し,並びにそれに伴い国王陛下は国王ではなくなり(His Majesty shall cease to be King),及び王位継承(a demise of the Crown)が生じ,並びにしたがって次の王位継承順位にある王族の一員が王位並びにそれに附随する権利,特権及び栄誉を承継する。

  (2)国王陛下の退位後には,陛下,もし誕生があればそのお子及び当該お子の子孫は,王位の継承において又はそれに対して何らの権利,権原又は利益を有さず,並びに王位継承法(Act of Settlement)第1節はそれに応じて読み替えられるものとする。

  (3)御退位後には,1772年の王室婚姻法は,陛下にも,もし誕生があれば陛下の子又は当該子の子孫にも適用されない。

  2 本法は,1936年の国王陛下退位宣言法(His Majesty’s Declaration of Abdication Act, 1936)として引用されることができる。

 

  別記

  

  余,グレート・ブリテン,アイルランド及び英国海外領土の王,インド皇帝であるエドワード8世は,王位を余自身及び余の子孫のために放棄する余の不退転の決意並びにこの退位詔書に直ちに効力が与えられるべしとの余の要望をここに宣言する。

  上記の証として,下記署名に係る証人の立会いの下,19361210日,ここに余が名を記したるものなり。

                           国王・皇帝 エドワード

  アルバート

  ヘンリー

  ジョージ

  の立会いの下,フォート・ベルヴェデールで署名

 

なお,英国の1689年の権利章典は,「ウエストミンスタに召集された前記の僧俗の貴族および庶民は,次のように決議する。すなわち,オレンヂ公および女公であるウィリアムとメアリは,イングランド,フランス,アイルランド,およびそれに属する諸領地の国王および女王となり,かれらの在世中,およびその一方が死亡した後は他の一方の在世中,前記諸王国および諸領地の王冠および王位を保有するものとし,かつその旨宣言される。王権は,公および女公双方の在世中は,王権は〔ママ〕,公および女公の名において,前記オレンヂ公が単独かつ完全に行使するものとし,公および女公ののちは,前記の諸王国および諸領地の王冠および王位は,女公の自然血族たる直系卑属の相続人に伝えられ」,「王権および王政は,両陛下とも在世のうちは,両陛下の名において,国王陛下のみによって,完全無欠に行使さるべきこと。両陛下とも崩御されたのちは,前記王位および諸事項は,女王陛下の自然血族たる直系卑属に帰すべきこと。」と規定しています(田中英夫訳『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)83‐84頁,86‐87頁)。議会によって,「在世中」(during their lives)は王位にあるべきもの(to hold the crown and royal dignity)とされ,法律となっています。
 エドワード8世の退位問題には昭和天皇が深い関心を持っていました。宮内庁の『昭和天皇実録第七』(東京書籍・2016年)の1936年12月4日の項には「侍従長百武三郎に対し,新聞報道されている英国皇帝エドワード8世に関する件につき,外務省とよく連絡を取り報告するよう命じられる。後刻,侍従長より,本日英国駐箚特命全権大使よりもたらされた情報として,同皇帝が米国人ウォリス・シンプソンとの御結婚に固執のため内閣と衝突状態にある旨の言上を受けられる。翌日午後,侍従長より,英国首相スタンリー・ボールドウィンの憲法上の理由により御結婚に反対する旨の声明につき言上を受けられる。また8日にも侍従長より,外務省からの情報の言上を受けられる。なお,エドワード8世は皇位放棄を決意され11日に御退位,皇弟ヨーク公がジョージ6世として皇位に就かれる。」とあります(240‐241頁)。立憲君主とその内閣とが衝突すれば,君主が引っ込まざるを得ないということでしょうか。ボールドウィンは,同月10日の英国庶民院における演説において"We have, after all, as the guardians of democracy in this little island to see that we do our work to maintain the integrity of that democracy and of the monarchy, which, as I said at the beginning of my speech, is now the sole link of our whole Empire and the guardian of our freedom."と述べています。『昭和天皇実録第七』の同月11日の項においては「午前,侍従長百武三郎が入手した英国皇帝エドワード8世の御退位に関する英国駐箚特命全権大使の電報を御覧になり,侍従長に対し,同皇帝御退位に関して発する電報の内容につき,式部職と連絡し処理するよう命じられる。13日,英国大使より外務省を経て新皇帝即位の公報到達につき,新皇帝ジョージ6世に対し祝電を御発送になる。なお,前皇帝御退位については触れられず,新皇帝即位に対する祝意のみを伝えられる。15日,答電が寄せられる。」と記録されています(244‐245頁)。

 

5 ベルギー国における憲法に規定のない国王退位の実例

大日本帝国憲法がその手本の一つとしたベルギー国憲法においては,明治皇室典範(及び現行の皇室典範)同様に崩御による王位継承に関する条項しかないにもかかわらず,同国においては国王の生前退位が認められています。

リエージュ大学教授クリスチャン・ベーレント(Christian Behrendt)及び同大学准教授フレデリック・ブオン(Frédéric Bouhon)の『一般国法学入門・教科書(Introduction à la Théorie générale de l’État. Manuel)』(Larcier, 2009年)には次のようにあります(138頁)。こちらの国では,国王の退位を有効ならしめるための立法までは必要としないようです。

 

 ベルギー法においては,国王の公的生活に係る全ての行為は,大臣副署の義務に服する。純粋に私的な行為のみが当該憲法規律に服さないところである。公的生活においては,退位が,大臣副署なしに国王が実現できる唯一の行為である。ベルギーの歴史において,レオポルド3世が,退位した(1951年7月16日)唯一の〔2013年7月21日のアルベール2世の退位前の記述です。〕国王である(註)。ベルギー国憲法が国王に対して退位する権利を明示的に認めていないとしても,そこでは条文の沈黙の中においても存在する権能(faculté)が問題となっていると考えることについて意見は一致している。もはや彼の務めを果たそうという気を全く失っている人物,又は――レオポルド3世が退く前がそうであったように――叛乱の雰囲気を醸成し,及び本格的内乱のおそれが国家の上に漂うことを許すまでに全国の国民を分極化せしめる人物を頭に戴き続けることは,実際のところ明らかに,国家の利益にかなうものではない。

 

(註)彼の退位詔書(acte d’abdication)は1951年7月1617日の官報(Moniteur belge)に掲載された。レオポルド3世が実際に退位した唯一の国王であるとしても,退位の権利の存在は,王国の始めに遡るようである。1859年に国王レオポルド1世は,彼の心に特にかかる事案に関して国会議員らに圧力を加えるために,退位に訴える旨威嚇した。当該君主は,本当に退位する気は恐らくなかったであろう。しかしながら,当該権利を有していることを彼が確信していたことは明らかである(ジャン・スタンジャ(Jean Stengers)『1831年以来のベルギー国における国王の行動 権力及び影響力(L’action du Roi en Belgique depuis 1831. Pouvoir et influence)』(第3版,ブリュッセル,Racine, 2008年)195頁参照)。ベルギー国王は退位する権限(prérogative)を有するという考えは,彼の息子のレオポルド2世の治下において更に確認された。1892年,深刻な消沈の際,当該国王は真剣に退位を考えたが,その後よりよい決意(à de meilleures résolutions)に立ち戻った(ジャン・スタンジャ・前掲書125頁参照)

 

 ド・ミュレネル(De Muelenaere)記者が2013年7月3日付けでベルギー国のLe Soir紙のウェッブ・ページに掲載した記事(“Abdication, comment ça marche?”)によると,同国における国王の生前退位から次期国王の即位への流れは次のようなものだそうです(同月のアルベール2世の生前退位及びフィリップ現国王の即位に関する予想記事)。

 

  1 首相によって査証された(visée)アルベール2世の退位宣言(Une déclaration d’abdication

  2 退位の日(7月21日)

  3 両議院合同会の前におけるフィリップの宣誓

  4 直ちに宣誓が行われれば「空位期間」は生じない。そうでない場合であっても,国王の憲法上の権限を内閣(le conseil des ministres)が確保するから,摂政の必要はない。

 

議会は新国王の宣誓(即位の効力要件)に立ち会うだけで,前国王の退位に効力を与えるための行為をすることはないようです。首相の「査証」と訳しましたが,これは憲法上の副署(contreseing)ではないわけです。退位宣言の詔書は,官報に掲載されたものでしょう。ド・ミュレネル記者によれば,前記のベーレント教授は「国王は退位詔書を作成し,当該詔書は決定の公式性(caractère public de la décision)を確保するために続いて官報に掲載されなければならない。」と述べていました。

 

6 ドイツにおける国王退位に関する学説など

 ベルギー国憲法の話が出たとなると,大日本帝国憲法のもう一つのお手本であったプロイセン憲法の話をせざるを得ません。19世紀のドイツ国法において国王の退位はどのように考えられていたものか。

ズーザン・リヒター(Susan Richter)及びディルク・ディルバッハ(Dirk Dirbach)編の『王位放棄 中世から近代までの君主政における退位(Thronverzicht: die Abdankung in Monarchien vom Mittelalter bis in die Neuzeit)』(Böhlau, 2010年)中のカロラ・シュルツェ(Carola Schulze)による論文「王権神授説からドイツ立憲主義までの法秩序観念における退位(Die Abdankung in den rechtlichen Ordnungsvorstellung vom Gottesgnadentum bis zum deutschen Konstitutionalismus)」には次のようにあります(68頁)。

 

  絶対王政の下では王室法(Hausgesetz)によってのみ規制された王位継承及び摂政の問題を,立憲国家は王室立法権(Hausgesetzgebung)から引き離し,憲法典(Verfassungsrecht)の領域に移管した。もっとも,憲法典に記載された君主の神聖不可侵性(Heiligkeit und Unverletzlichkeit)のゆえに,退位――及びそれと共に廃位(Absetzung)――は,ドイツ連邦諸国の国法自体においては明定されなかった(wurde…nicht fixiert)。したがって,国家元首としての君主の地位(Stellung des Monarchen als Staatsoberhaupt)及びその王位継承に関する規律との関連において退位の制度(das Rechtsinstitut der Abdikation)を定めてあった初期立憲主義憲法は存在しない。唯一,184812月5日の押し付けプロイセン憲法が,第55条において,国王が統治不能(in der Unmöglichkeit zu regieren)であるときは, 特別法によってそれらについて手当てされていない限りにおいて,次の王位継承権者又は王室法によりそれに代わる者が,合同会で摂政及び後見について第54条〔国王未成年の場合の摂政及び後見に関する規定〕に準じて定めるために両議院を召集する旨規定していた。当該規定は,改訂された1850年のプロイセン憲法にはもう既になくなっていたが,君主の統治不能は退位及び王位継承者に対する王位の移行の意味においても理解されるべきだ(auch im Sinne einer Abdankung und des Übergangs der Krone auf den Nachfolger zu verstehen ist)との確たる解釈を許すものであった。

     要するに,次のようにいうことができる。初期立憲主義諸憲法が退位について沈黙していたとしても,国民意識,国の歴史,学説の伝統又は思考の必然からして規範的地位(normativer Rang)を与えられていた19世紀の一般ドイツ国法において,退位は,正規の王位継承に対して補充的な(subsidiär)例外的王位継承の形式として(als Form der außerordentlichen Thronfolge)認められ,かつ,そのようにしてドイツ立憲主義の秩序観念中に位置付けられていたのである。

 

「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」だから譲位の規定はいらないのだ,とは伊藤博文の発想の源でもありました(「余ハ将ニ天子ノ犯冒スヘカラサルト均シク天子ハ位ヲ避クヘカラスト云ハントス」と高輪会議で発言しています。)。
 プロイセン国王ヴィルヘルム1世は議会との対立の中で退位を考えましたし,その孫ヴィルヘルム2世は第1次世界大戦の最終段階におけるドイツ革命の渦中で,ドイツ皇帝としては退位するがプロイセン国王としては退位しないと頑張ります。これらは生前退位が有効であるとの理解を前提としています。

ところで,シュルツェの議論では君主の統治不能(die Unmöglichkeit des Monarchen zu regiern)には退位(Abdankung)も含まれるということのようですが,そうだとすると1848年のプロイセン憲法的には,国王が「退位する。」と宣言した場合には統治不能の当該国王は押し込められ,両議院合同会によって摂政及び後見人が任命され,かつ,当該状況は国王の生存中続くということにはならなかったでしょうか。ちょっと分かりづらい。あるいは,1850年のプロイセン憲法56条は「国王が未成年であるとき又はその他継続的に自ら統治することが妨げられている(dauernd verhindert ist, selbst zu regieren)ときに」摂政を置くとの規定になっていますので,継続的な故障程度ではいまだ統治不能ではないから摂政設置で対応するが,退位されてしまうと統治不能であるので摂政どころではなくなって直ちに新国王即位になる,というように理解すべきなのでしょうか。
 この点明治皇室典範
19条2項は「天皇久シキニ亘ルノ故障ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルトキハ皇族会議及枢密顧問ノ議ヲ経テ摂政ヲ置ク」となっていて,1850年のプロイセン憲法56条的です。これは1889年1月18日の枢密院再審会議(小嶋「明治皇室典範」249250頁)を経た段階では「天皇未タ成年ニ達セサルカ又ハ精神若ハ身体ノ不治ノ重患ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサル間ハ摂政一員ヲ置ク」であったものが(同228頁),正にドイツ人であるロエスレルの修正意見に基づき(同251頁),同月24日に「精神若ハ身体ノ不治ノ重患」が「久シキニ亙ルノ故障」に修正され,更にその後最終的な形に修正されて(同254頁),同年2月5日の枢密院会議を経たものです(同255頁)。ロエスレルの修正案は「天皇未タ成年ニ達セサルカ又ハ其ノ他ノ故障ニ由リ久シク大政ヲ親ラスルコト能ハスシテ臨時ニ応スル為ニ予シメ親ラ計画ヲ為サス若クハ為シ能ハサルトキハ次条ノ明文ニ循ヒ摂政ヲ置クヘシ」というものでした(小嶋「明治皇室典範」251頁)。「其ノ他ノ故障」との文言は「疾病ノ外ニ於テモ亦他ノ事由ノ生スルコトアラン例ヘハ・・・」ということで用いられることになったもので(小嶋「明治皇室典範」251頁),「久シク本国ニ在ラサルトキ,戦時ニ当テ俘虜トナリタルトキ,又高齢ニナリタルトキノ如キ是ナリ」とされています(小林宏・島善高編著『明治皇室典範〔明治22年〕(下) 日本立法資料全集17』(信山社・1997年)642頁)。
  またそもそも「不治ノ重患」の「不治ノ」は「啻ニ贅字タルノミナラズ甚シキ危険アル」ことがロエスレルによって述べられていました(小嶋「明治皇室典範」
251頁)。しかし,「不治ノ」は「甚シキ危険アル」言葉であるのに,皇位継承順位の変更に係る明治皇室典範9条では「皇嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シ前数条ニ依リ継承ノ順序ヲ換フルコトヲ得」となっていて「不治ノ」が維持されています(現在の皇室典範3条も同様)。ということは,「不治ノ」は天皇についてだけ「甚シキ危険アル」言葉なのでしょう。しかしながら,天皇が「不治ノ重患」であると発表してしまうと摂政どころではなく譲位が問題になってしまうという意味での「甚シキ危険」であったのかとまで考えるのは考え過ぎで,飽くまでロエスレルは摂政を置くべきか否かを検討する場面に留まりつつ「凡ソ疾病ノ治不治ハ,医家ニ在テモ亦一ノ争論点ニシテ,之カ為ニ紛議ノ種因ヲ他日ニ貽スノ恐レアレハナリ。而シテ摂政ヲ置クノ当否ニ関スルコトヲ以テ,此ノ如キ曖昧ノ間ニ附シ去ルハ大ニ不可ナリ。」と「甚シキ危険」について述べ,更に「・・・大政ヲ親ラスルコト能ハスト謂ハ丶,先ツ疾病ノ有無ヲ問ハス,果シテ大政ヲ親ラスルコト能ハサルカ否ヲ立証セサルヘカラス。現ニ君主重病ニ罹リテ尚ホ大政ヲ自ラ総攬シ得ルコトアリ。又総攬スルノ精神ヲ有スルコト屢々之レ有リ。例ヘハ「ポーランド」瓦敦堡〔ヴュルテンベルク〕ノ今王及び「メクレンボルグ」大公等ハ,既ニ不治ノ重患ニ罹ルト雖,尚大政ヲ親ラスルニアラスヤ。・・・」と述べています(小林・島641頁)。

ロエスレルの修正意見に基づく1889年1月24日の修正前の明治皇室典範19条案にいう「精神若ハ身体ノ不治ノ重患ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサル間」という摂政設置の前提状態たる不治ノ重患は,実は,1887年3月20日の高輪会議にかけられた柳原前光の前記「皇室典範再稿」では天皇の譲位を可能とする状態(「精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時」)でした。柳原の「皇室典範再稿」39条では,摂政を置く場合は,「天皇幼年ノ時」,「天皇本邦ニ在サル時」又は「天皇ノ精神又ハ身体ノ重患アル時」が挙げられていました(小嶋「明治皇室典範」193頁)。柳原前光の段階論では,「精神又ハ身体ノ重患アル時」はまだ摂政設置相当だけれども,「精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時」まで至ってしまうとむしろ譲位すべきだという判断だったのでしょう。現在の皇室典範16条2項は「天皇が,精神若しくは身体の重患・・・により,国事に関する行為をみずからすることができないときは,皇室会議の議により,摂政を置く。」と規定していますが,柳原の「皇室典範再稿」39条における摂政設置の場合の考え方におおよそ符合しています(ちなみに,ロエスエルは「精神又ハ身体ノ重患」の字は「不快ノ感ヲ喚起スル」と述べており(小林・島641頁),明治皇室典範19条2項には当該表現は用いられませんでしたが,現在の皇室典範においては復活したわけです。)。

なお,カロラ・シュルツェは,ドイツの学者らしく,法的意味における退位の成立に必要な構成要件のメルクマールを次のように分析的に述べています。

 

単独の公的行為(einseitige obrigkeitliche Maßnahme)であって,

君主によってされ(eines Monarchen),

君主の位の放棄,すなわち王位及びそれに附随する権利の放棄に向けられたものであり(die auf die Niederlegung der monarchischen Würde bzw. auf den Verzicht des Throns sowie der damit verbundenen Rechte gerichtet ist),

自由意思性及び自主性により,並びに(die sich durch Freiwilligkeit und Selbständigkeit sowie durch

補充性によって特徴付けられるものであり(Subsidiarität auszeichnet),

並びに不可撤回性を有するもの(und die unwiderrufbar ist.),

 

ということだそうです(シュルツェ69頁)。
 さて,シュルツェによれば「絶対王政の下では王室法(Hausgesetz)によってのみ規制された王位継承及び摂政の問題を,立憲国家は王室立法権(Hausgesetzgebung)から引き離し,憲法典(Verfassungsrecht)の領域に移管した」わけですが,このことについては,1850年のプロイセン憲法53条を素材に,美濃部達吉が次のように説明しています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)108109頁)。

 

  プロイセン旧憲法53条にも略本条〔大日本帝国憲法2条「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」〕と同様に,Die Krone ist, den Königlichen Hausgesetzen gemäss, erblich in dem Mannesstamme des Königlichen Hauses nach dem Rechte der Erstgeburt und der agnatischen Linealfolgeといふ規定が有る。その他のドイツ諸邦にも同様の規定の有るものが尠くない。文言に於いては極めて本条の規定と類似して居るけれども,趣意に於いては甚だ異なつて居つて,ドイツの学者は一般に,憲法の此の規定に依つて従来の王室家法が憲法の内容の一部を為すに至つたもので,随つて此の以後に於いては王室家法の変更は,憲法改正の法律に依つてのみ為すことを得べく,勿論議会の議決を必要とする・・・。即ちドイツ諸邦の憲法に於いては『王室家法ノ定ムル所ニ依リ』といふ明文が有つても,それは王室の自律権を認めたものではなく,却つて王室家法をして憲法の一部たらしめたもの・・・。

 

日本国憲法2条は「皇位は,世襲のものであつて,国会の議決した皇室典範の定めるところにより,これを継承する。」と規定しています(下線は筆者によるもの)。(同条の英文は,“The Imperial Throne shall be dynastic and succeeded to in accordance with the Imperial House Law passed by the Diet.”です。)ここでの「国会の議決した」は,その第74条1項で「皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス」と規定していた大日本帝国憲法との違いを示すものでしょう。現在の皇室典範の法形式は(皇室典範の「法律案」を審議した第91回帝国議会で問題にする議員がありましたが)法律ですが,少なくともその皇位継承(日本国憲法2条)及び摂政(同5条)に係る部分の改正は,19世紀ドイツ国法学的には,憲法改正と同等の重みのある行為であるということになります。「而して皇位継承に関する法則は,決して皇室御一家の内事ではなく,最も重要なる国家の憲法の一部を為すもの」なのです(美濃部『憲法精義』110頁)。

この点,1946年2月13日に我が国政府に提示されたGHQの憲法改正草案には“Article II. Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.”(外務省罫紙に記された閣議提出の訳文では「第2条 皇位ノ継承ハ世襲ニシテ国会ノ制定スル皇室典範ニ依ルヘシ」)及び“Article IV. When a regency is instituted in conformity with the provisions of such Imperial House Law as the Diet may enact, the duties of the Emperor shall be performed by the Regent in the name of the Emperor; and the limitations on the functions of the Emperor contained herein shall apply with equal force to the Regent.”(「第4条 国会ノ制定スル皇室典範ノ規定ニ従ヒ摂政ヲ置クトキハ皇帝ノ責務ハ摂政之ヲ皇帝ノ名ニ於テ行フヘシ而シテ此ノ憲法ニ定ムル所ノ皇帝ノ機能ニ対スル制限ハ摂政ニ対シ等シク適用セラルヘシ」)とあって,“such Imperial House Law”は国会の単独立法に係るものですから,やはり法律が想定されていたようで,皇室の家法たることを強く含意する「皇室典範」との訳は余り良い訳ではなかったようです。ところで,“in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact”であって,“in accordance with the Imperial House Law enacted by the Diet”ではありませんから,第2条の訳としては「皇位ノ継承ハ世襲テアリ且ツ国会ノ制定スルコトアル皇室法ニ従フモノトス」というものもあり得なかったでしょうか。このように解すると,たとい皇室典範という法形式が日本国憲法の施行に伴い消滅しても,国会が別異に立法しない限りは皇位の継承は従来の慣習に従う,ということにはならなかったものでしょうか。

しかし,我が国政府は皇位の継承に関する成文規範の存在及び皇室典範という法形式の存続にこだわったものか,憲法改正に係るその1946年3月2日案においては次のような条文が用意されています。

 

  第1章 天皇

第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ世襲シテ之ヲ継承ス。

第3条 天皇ノ国事ニ関スル一切ノ行為ハ内閣ノ輔弼ニ依ルコトヲ要ス。内閣ハ之ニ付其ノ責ニ任ズ。

  第9章 補則

106条 皇室典範ノ改正ハ天皇第3条ノ規定ニ従ヒ議案ヲ国会ニ提出シ法律案ト同一ノ規定ニ依リ其ノ議決ヲ経ベシ。

  前項ノ議決ヲ経タル皇室典範ノ改正ハ天皇第7条ノ規定ニ従ヒ之ヲ公布ス。

 

これに対して,佐藤達夫法制局第一部長の記す次のような1946年「三月四,五両日司令部ニ於ケル顛末」を経て,皇室典範の議案に係る天皇の発議権は消え,憲法2条は少なくとも英文については現在の形になっています。

 

第2条 皇室典範ガ国会ノ議決ヲ経ベキ条項ナシトテ相当強硬ナル発言アリ,補則ニ規定セリ,今回ハ全面的ニ補則ニ依リ改正セラルルコトデモアリ茲ニ特記スル要ナシ,又法律ト同一手続ニ依ルハ当然ナルモ,皇室ノ家法故発議ハ天皇ニ依リ為サルルコトトシタリト言フモ第1章ハ交付案ガ絶対ナリトテ全然応ゼズ,「国会ノ議決ヲ()タル(○○)passed by the Diet)(交付案ハ(as the Diet may enact))トシテ挿入スルコトトス(「経タル」ガ将来提案権ノ問題ニ関聯シテ万一何等カノ手懸ニナリ得ベキカトノ考慮モアリテ)。
 

ただし,佐藤部長の「考慮」にもかかわらず,現在の日本国憲法2条の当該部分の文言は「国会の議決した皇室典範」であって,「国会の議決を経た皇室典範」ではありません。現在の皇室典範は,昭和22年法律第3号です。
 (以上の日本国憲法の制定経緯については,国立国会図書館ウェッブ・サイトの「電子展示会」における「日本国憲法の誕生」を参照)
 


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1 現在の皇室典範4条と明治皇室典範10

 昭和天皇の裁可に係る現在の皇室典範(昭和22年法律第3号。日本国憲法100条2項参照)4条は,「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」と規定しています。この規定の意味するところを知るためには,その前身規定に遡ることが捷径です。

明治天皇の裁定に係る皇室典範(明治22年2月11日。公布されず(ただし,後の公式令(明治40年勅令第6号)4条1項参照)。)10条が,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と定めていたところです。(なお,明治皇室典範は,1947年5月1日昭和天皇裁定(同日付け官報)の皇室典範及皇室典範増補廃止の件によって同月2日限り廃止されたものであり,昭和22年法律第3号の皇室典範によって廃止されたものではありません。)

明治皇室典範10条について伊藤博文の『皇室典範義解』は,「・・・(つつしみ)て按ずるに,神武天皇より舒明天皇に至る迄34世,嘗て譲位の事あらず。譲位の例の皇極天皇に始まりしは,(けだし)女帝仮摂より来る者なり(継体天皇の安閑天皇に譲位したまひしは同日に崩御あり。未だ譲位の始となすべからず)。聖武天皇・光仁天皇に至て遂に定例を為せり。此を世変の一とす。其の後権臣の強迫に因り両統互立を例とするの事あるに至る。而して南北朝の乱亦此に源因せり。本条に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はる者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」と説いています(宮沢俊義校註『憲法義解』(岩波文庫・1940年)137頁による。)。明治皇室典範10条を引き継いだ現在の皇室典範4条は,天皇の生前譲位を排除する趣旨をも有しているわけです。

7世紀の舒明天皇まで生前譲位がなかったことについては,「大和王権における大王位は基本的に終身制であり,大王は生前に新大王に譲位をすることはできなかった。記紀などの記述では,まれに,大王が生前に後継者を指名することもあるが,指名を受けた者が即位しない場合も多く,後継者指名の効力は,実際にはほとんどなかったとみてよい。・・・王位継承の候補者は常に複数おり,5世紀には,候補者同士の熾烈な殺し合いも繰り広げられたが,即位に際しては,大和政権を構成する豪族たちの広範な支持も必要であったことはいうまでもなかった。そして,より発達した政治機構としての畿内政権が形成される6世紀には,群臣による大王の推挙は,王位継承を行ううえで,不可欠の手続きとして確立していったのである。/『日本書記』などの文献から復元される王位継承の手続きでは,まず群臣の議によって大兄などの王族から候補者が絞られ,群臣による即位の要請がなされる。候補者の辞退などで擁立が失敗すると,別の候補者への要請が行われ,候補者がそれを受けた段階で,即位儀礼が挙行された。」と説明されています(大隅清陽「君臣秩序と儀礼」『日本の歴史08 古代天皇制を考える』(大津透・大隅清陽・関和彦・熊田亮介・丸山裕美子・上島享・米谷匡史,講談社・2001年)40‐41頁)。「ある種の選挙王制といってもよい王位継承のシステム」(大隅43頁。また同49頁)ではあるが,現職の大王の意思による「解散総選挙」のようなものは認められなかったということでしょう。なお,現行の皇室典範4条において三種の神器について言及されていないことの意味(皇室経済法7条の趣旨も含む。)及び「南北朝の乱」の「源因」たる「権臣の強迫」については,2014年5月21日付けの本ブログ記事「「日本国民の総意に基づく」ことなどについて」(その6の部分)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1003236277.htmlを御参照ください。

 美濃部達吉は,「皇位ノ継承ハ天皇ノ崩御ノミニ因リテ生ズ。天皇在位中ノ譲位ハ皇室典範ノ全ク認メザル所ニシテ,典範(10条)ニ『天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク』ト曰ヘルハ即チ此ノ意ヲ示スモノナリ。中世以来皇位ノ禅譲ハ殆ド定例ヲ為シ,時トシテハ権臣ノ強迫ニ因リテ譲位ヲ余儀ナクセシムルモノアルニ至リ,(しばしば)禍乱ノ源ヲ為セリ。皇室典範ハ此ノ中世以来ノ慣習ヲ改メタルモノニシテ,其ノ『天皇崩スルトキハ』ト曰ヘルハ,崩スルトキニ限リト謂フノ意ナリ。」と述べていました(美濃部達吉『改訂 憲法撮要』(有斐閣・1946年)183頁)。『皇室典範義解』の説明を承けたものでしょう。

 現行の皇室典範4条の解釈も,いわく。「天皇の「崩御」だけが皇位継承の原因とされる(典範4条)。天皇生前の退位に関しては,皇室典範の審議の際に積極論も主張されたが,結局のところ採用されなかった。皇室典範の改正によって退位制度を設けることは可能であるが,一般的な立法論としていえば,生前退位の可能性を認めることは,皇位を政治的ないし党派的な対立にまきこむおそれがあることを,考慮しなければならない。」と(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)132頁)。

 「女帝仮摂」のゆえならざる生前譲位が始まったことについては,インドからの外来宗教たる仏教の影響があったとは,上杉慎吉の指摘するところです。いわく。「皇位継承の行はるのは天皇崩御の時のみであります,譲位受禅は典範の認めざる所であります,之は我古代の法制であつて神武天皇以下武烈天皇に至りまする迄御譲位と云ふことは無かつた,継体天皇の25年皇太子を立て天皇(ママ)とせられ,天皇即日崩御せられた事があります,其後持統天皇,元明天皇,元正天皇の御譲位の事があります,元来女帝の御即位は皇太子尚幼くまします場合に其成長を待たる意味に出たものでありますから女帝の御譲位の事は例とすることは出来ぬのであります,聖武天皇が位を孝謙天皇に譲られたのが真の譲位の初としなければならぬのであつて,それ以来譲位受禅が頻に行はるに至つたのであります,之は主として仏教の影響に出るものであります,併ながら我皇位継承の本義ではありませぬ,それ故に典範は譲位の事を言はずして天皇崩御の場合にのみ皇位継承あるものとしたのであります,欧羅巴諸国では君主の譲位と云ふことは之を認むるを常とし,明文が無くとも譲位を為し得ることは当然としてあります,我国と制度の根本の趣旨が異ることを見ることが出来ます,多数の国の憲法では一定の原因ある場合には君主が位を譲つたものと認むるものとしてあります,又或は一定の場合には君主を廃することを得るものと定めてある憲法もある」と(上杉慎吉『訂正増補 帝国憲法述義 第九版』(有斐閣書房・1916年)257259頁)。東大寺等の造営で有名な8世紀・奈良時代の聖武天皇は自らを「三宝の奴」として仏教に深く帰依したところですが,確かに 現人神としては,少なくとも神仏分離を前提とすると,いかがなものでしょうか。

 父・聖武天皇からの生前譲位(天平感宝元年(749年))により皇位を継承した孝謙天皇は,自らもいったん大炊王(天武天皇の子である舎人親王の子)に生前譲位したものの(天平宝字二年(758年)),その後大炊王を皇位から追い,重祚します(称徳天皇)。女帝によって淡路に流謫せられた廃帝は,逃亡を図るも急死。この淡路廃帝に淳仁天皇との諡号が贈られたのは,ようやく明治になってからのことでした。

 皇嗣時代の大炊王の御歌にいわく。

 

 天地(あめつち)を照らす日月の極みなくあるべきものを何をか思はむ(万葉集4486

 

 河内出身の僧・道鏡が天皇になることは,和気清麻呂の宇佐八幡宮からの還奏(「我が国開闢より以来(このかた)君臣定まりぬ。臣を以て君となすことは未だこれあらず。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし。」)によって阻止されましたが,その後結局,聖武天皇,孝謙天皇,淳仁天皇らが属したところの,「極みなくあるべきもの」であった天武天皇系の皇統は,断絶しました。称徳天皇崩御後の後任である光仁天皇(天智天皇の孫であり,かつ,嗜酒韜晦の人であった白壁王)の皇子であって,女系で天武天皇系に連なっていた(おさ)()親王(聖武天皇を父とする井上(いのえ)内親王の子)も失脚し,その後急死しています(「光仁の即位も,当初は他戸への中継ぎとしての性格を持っていたのだろう」とされますが(大隅69頁),光仁天皇から譲位を受けることになったのは(天応元年(781年)),百済系の高野新笠の子である桓武天皇でした。)。

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皇居お濠端の和気清麻呂像(2016年9月10日撮影)一見入牢風のこの姿は,皇位継承に関する還奏に係る称徳天皇の勅勘が復活したわけではなく,地下の東京メトロ竹橋駅の工事のためです。 

 

2 明治皇室典範10条の起草過程

 明治皇室典範10条の起草過程をざっと見てみましょう。

(1)高輪会議まで

 187610月の元老院第1次国憲草案第4篇第2章の第11条には「皇帝崩シ又ハ其位ヲ辞スルニ当リ会マ元老院ノ開会セサルトキハ預メ召集ノ命ナクトモ直チニ自ラ集会ス可シ」とありましたから(小嶋和司「帝室典則について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)6970頁),生前譲位制が考えられていたわけです。

1878年3月の岩倉具視の「奉儀局或ハ儀制局開設建議」の「憲法」に関する「議目」には「太上太皇 法皇 贈太上天皇」というものがありました(小嶋「帝室典則」74頁)。これに関して,188212月段階での宮内省一等出仕伊地知正治の口述には「太上天皇並法皇 仙洞ニ被為入候得バ太上天皇尊号贈上ハ勿論ナリ。法皇ノ事ハ院号サヘ御廃止ノ今日ナレバ釈氏ニ出ル法号等ハ皇室ニ於テ口ヲ閉ヂテ可ナリ。」という発言が見られます(小嶋「帝室典則」78頁)。「仙洞(せんとう)」とは,『岩波国語辞典 第四版』(1986年)によれば,「上皇の御所。転じて,上皇の尊称。▷仙人のすみかの意から。」とあります。

 (史上初の太上天皇となったのは,孫の軽皇子(文武天皇)に生前譲位した女帝・持統天皇(在位690697年)です。「696年に太政大臣高市皇子(天武の長男)が亡くなると,持統は宮中に皇族や重臣を召集し,次の皇位継承者について諮問するが,群臣の意見はまとまらず,会議は紛糾した。この時,故大友皇子〔天武天皇に壬申の年に敗れた弘文天皇〕の子である葛野王は,皇位は「子孫相承」するのがわが国古来の法であり,継承が兄弟におよぶのは内乱のもとであるとして,草壁〔持統と天武との間の子〕の異母兄弟である天武天皇の諸皇子の即位に反対し,持統を喜ばせたという(『懐風藻』葛野王伝)。葛野王の発言が,どの程度当時の共通認識であったかには疑問がある・・・」ということですので(大隅6061頁),当時はなお皇位継承者の決定には群臣の議が必要であったようですが,「結局持統は,翌697年二月に軽皇子の立太子を強行し,同八月には皇太子に譲位して文武天皇とし」ています(同61頁)。「8世紀の天皇権力は,皇位継承に群臣を介在させず,独自に直系の継承を行おうとし」ますが(大隅62頁),その努力の始めである7世紀末の文武天皇の即位には,天皇の生前譲位が伴っていたのでした。なお,「太上天皇とは,おそらく大宝律令の制定にともない,譲位した元天皇の称号として新しく設けられたもので,律令の規定では,天皇と同じ待遇と政治的権限を有して」いました(大隅65頁)。「太上天皇制の成立により,8世紀には,天皇が生前のうちに譲位し,自らは太上天皇となって天皇を後見する,という形の皇位継承が一般化する。これは,皇位継承の過程に群臣が介在する余地を結果的に排除したとも言え,天皇権力の群臣からの自立という点で,大きな意味をもっていた」わけです(大隅65頁)。ただし,太上天皇の在り方は嵯峨上皇の時に変化します。「この政変〔薬子の変〕への反省から学んだ 嵯峨天皇は,823年(弘仁十四)に弟の淳和天皇に譲位すると,自らは「後院」とよばれる離宮的な施設に隠居して政治的権限を放棄し,天皇に対しては臣下の礼をとるという新しい試みをする。これをうけた淳和天皇は,嵯峨に「太上天皇」を尊号として奉上し,以後この手続きが通例になるが,この結果,太上天皇がたんなる称号となり,またその授与の権限が現役の天皇に帰したことの意義は大きかった。」ということでした(大隅75頁)。)

しかしながら,1885年又はそれ以前に宮内省で作成された(小嶋「帝室典則」129130頁。なお,1884年3月21日から宮内卿は伊藤博文(同月17日から制度取調局長官であったところに兼任(同局は1885年12月廃止)))「皇室制規」の第9条は「天皇在世中ハ譲位セス登遐ノ時儲君直ニ天皇ト称スヘシ」と規定して生前譲位を認めないものとしたところです(同125頁。ただし,「譲位の制は「皇室制規」の第2稿まで存した」とありますから(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』175頁),この「皇室制規」は第3稿以後のものなのでしょう。)。「登遐(とうか)」とは崩御のこと。これに対する井上毅の「謹具意見」1885年以前のものです(小嶋「帝室典則」130頁,135頁)。)には,「天子違予ニシテ政務ニ堪ヘ玉ハザルノ不幸アラバ,時宜ニ由テハ摂政ヲ置クコトアルベシト雖(議院ニ問ハズ),亦,叡慮次第ニハ並ニ時宜次第ニハ穏ニ譲位アラセ玉フコト尤モ美事タルベシ 起草第9条ノ上項ハ削去アリテ然ルベキカ」との批判がありました(同134頁)。この井上毅の譲位容認論の理由付けについて奥平康弘教授は,「非常に要約」して,「摂政には議会をつうじて人民に宣告し,なんらかの納得を得ることが不可避であるのに,譲位は人民による公知なしに―その理由など明らかにせずに―宮中内かぎりで片付けられ得る,代替りという線でやってのけられる利点があるではないかとする論理」があるものとしています(奥平康弘「明治皇室典範に関する一研究―「天皇の退位」をめぐって―」神奈川法学第36巻第2号(2003年)165‐166頁)。「「天子ノ失徳ヲ宣布スルニ至ラズ人民ヲ激動セズシテ外ハ譲位ノ美名ニ依リ容易ニ国難ヲ排除スル事ヲ得」たという事例〔陽成天皇譲位の例〕がある」旨「謹具意見」では述べられていたとされています(奥平165頁)。

 筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞ積もりて淵となりける(陽成院)
 

1885年の宮内省の「帝室典則」第2稿(小嶋「帝室典則」129頁)では「皇室制規」9条の規定は維持されていましたが,1886年6月10日の「帝室典則」では,同条に該当する規定は削られています(同140頁)。生前譲位がないことは当然とされたゆえ削られたのか(小嶋「皇室典範」175頁参照),それとも反対解釈すべきか(生前譲位を明示的に否認する「帝室典則」第2稿に対して井上毅は「謹具意見」の立場から改めて異議申立てをしています(奥平170‐171頁・註(14))。)。なお,井上毅の梧陰文庫蔵の「帝室家憲 スタイン起草」(用紙として「内閣罫紙」が使用されているため内閣制度が設けられた188512月以降に作成されたものと考えられています(小嶋「帝室典則」108頁)。ただし,小嶋教授は1887年以後に依頼され作成されたのではないかとも考えていました(同118119頁)。)の第7条(伊東巳代治遺文書中にあった下訳と認定される史料による(小嶋「帝室典則」108109頁)。)の第1項は「皇帝譲位セラレントスルノ場合ニ於テハ各高殿下,殿下及高等僧官ヲ招集シテ之ニ其旨ヲ言明シ必ス一定ノ公式ニ依リ書面ヲ以テ之ヲ証明シ譲位セントスル皇帝ノ家事モ亦タ之ニ因テ定ムヘキモノトス」と,第2項末段は「摂政5箇年ノ久シキニ渉リ仍ホ皇帝ノ疾病快癒ノ望ナキトキハ立法院ノ承認ヲ経タル上高殿下一同ニテ皇位継承ノ事ヲ布告スヘシ」と規定していました(小嶋「帝室典則」114115頁)。

 1887年1月25日に「帝室制度取調局総裁」柳原前光(大正天皇の生母・愛子の兄,白蓮の父)が宮内省図書頭・井上毅に提出した「皇室法典初稿」(小嶋「皇室典範」172173頁。伊藤博文(1885年12月22日から1888年4月30日まで内閣総理大臣,1887年9月16日まで宮内大臣兼任)に起草を命じられたものです(同172頁)。なお,小嶋教授は「柳原が当時,帝室制度取調局総裁の地位にあった」と記していますが(同頁),宮内庁の「宮内庁関係年表(慶応3年以後)」ウェッブ・ページを見ると,1885年12月22日に制度取調局が廃止された後,1888年5月31日に「臨時帝室制度取調局を置く。」とありますので,実は1887年初頭当時に「帝室制度取調局」があったものかどうか。岩波書店の『近代日本総合年表 第四版』(2001年)の1887年3月20日の項には「帝室制度取調局総裁柳原前光」との記載があり,これは稲田正次教授の『明治憲法成立史』に基づくものとされています。稲田教授の『明治憲法成立史』については「そこですべてが明らかにされたわけではなく,不明の断点が何ヶ所か残され,重要な事実の脱漏もある」との評価を加えつつも(小嶋「皇室典範」171頁),この部分については,小嶋教授は稲田教授の記述を踏襲したものでしょうか。ちなみに,国立国会図書館の「柳原前光関係文書」ウェッブ・ページの「旧蔵者履歴」欄を検すると,1887年当時,柳原は確かに総裁ではあったものの,賞勲局総裁であったところです。)の第8条には「天皇ハ皇極帝以前ノ例ニ依リ終身其位ニ((ママ))ヲ正当トス但シ心性又ハ外形ノ虧缺(きけつ)ニ係リ快癒シ難ク而シテ嫡出ノ皇太子又ハ皇太孫成年ニ達スル時ハ位ヲ譲ルコトヲ得とありました(小嶋「皇室典範」175頁)。再び生前譲位制が認められています。ただし,例外としての位置付けです。

 1887年2月26日に井上毅が伊藤博文に提出した「皇室典範」(小嶋「皇室典範」179頁)の第13条にも天皇の生前退位の制度が定められていました(同183頁)。「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ノ重患アルトキハ皇位継承法ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」というものでした(小嶋「皇室典範」185186頁)。附属の「説明案」において井上毅は,「天皇重患ニ因リ大位ヲ遜ルゝハ亦一時ノ権宜ニシテ実ニ已ムヲ得サルニ出ルモノアリ」と断じた上で,「大位ヲ遜譲シテ国家ノ福ヲ失ハズ是レ亦変通ノ道ナリ」と述べています(奥平172頁)。

 1887年3月14日に柳原前光から伊藤博文に提出された「皇室典範再稿」(小嶋「皇室典範」184頁)の第12条には「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」とありました(同185186頁,190頁)。当該「皇室典範再稿」では更に,第15条において「譲位ノ後ハ太上天皇ト称スルコト文武天皇大宝令ノ制ニ依ル」と,第16条において「天皇崩後諡号ヲ奉ルコト文武天皇以来ノ制ニ依ル太上天皇ヘモ亦同シ」と,第17条において「天皇崩シ又ハ譲位ノ日皇嗣践祚シテ即チ尊号ヲ襲ヒ祖宗以来ノ神器ヲ承ク」と,第23条において「天皇及皇族ノ位次ヲ定メ左ニ開列ス/第一天皇 第二太上天皇 第三太皇太后〔以下略〕」と,第31条において「天皇太上天皇太皇太后皇太后皇后ヘノ敬称ハ陛下ト定ム」と,第37条において「皇室ノ徽章ハ歴代ノ例ニ依リ菊花ヲ用ヒ桐之ニ亜ク太上天皇ハ菊唐草ヲ用ユ」とも規定していました(小嶋「皇室典範」190193頁)。

 

(2)1887年3月20日高輪会議及びその後

 天皇の生前譲位制が排されたのは,1887年3月20日午前10時半から伊藤博文の高輪別邸において開催された伊藤博文,柳原前光,井上毅及び伊東巳代治による会議(小嶋「皇室典範」187頁)においてでした。すなわち,「典範・皇族令体制の骨子」が定められた当該会議(小嶋「皇室典範」200頁)において,前記柳原「皇室典範再稿」12条の生前譲位規定は,伊藤博文及び柳原前光の首唱により削られることになったのでした(同190頁)。原案作成者の柳原前光が削ることを首唱したというのも不思議ですが,伊藤博文の首唱に対して,なるほどもっともと積極的に賛成したところです。「皇室典範再稿」の第15条及び第16条を削ること並びに第17条を「第10条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と修正すること(この高輪会議決定案は既に明治皇室典範10条と同じですね。)の首唱者も伊藤博文となっています(小嶋「皇室典範」190191頁)。奥平康弘教授の引用する伊東巳代治の「皇室典範・皇族令草案談話要録」によれば,「皇室典範再稿」12条に係る議論においては,まず伊藤博文が「本案ハ其意ノ存スル所ヲ知ルニ困シム天皇ノ終身大位ニ当ルハ勿論ナリ又一タヒ践祚シ玉ヒタル以上ハ随意ニ其位ヲ遜レ玉フノ理ナシ抑継承ノ義務ハ法律ノ定ムル所ニ由ル精神又ハ身体ニ不治ノ重患アルモ尚ホ其君ヲ位ヨリ去ラシメズ摂政ヲ置テ百政ヲ摂行スルニアラスヤ昔時ノ譲位ノ例ナキニアラスト雖モ是レ浮屠氏ノ流弊ヨリ来由スルモノナリ余ハ将ニ天子ノ犯冒スヘカラサルト均シク天子ハ位ヲ避クヘカラスト云ハントス前上ノ理由ニ依リ寧ロ本条ハ削除スヘシ」と宣言し(なお,「浮屠」とは,仏のことです。),これに対して井上毅が抗弁して「『ブルンチェリー』氏ノ説ニ依レハ至尊ト雖人類ナレハ其欲セサル時ハ何時ニテモ其位ヨリ去ルヲ得ベシト云ヘリ」と言ったものの,柳原前光は伊藤内閣総理大臣に迎合して「但書ヲ削除スルナレハ寧ロ全文ヲ削ルヘシ其『ブルンチェリー』氏ノ説ハ一家ノ私語ナリ」と自らの原案を否定し,結論として伊藤博文が「然リ一家ノ学説タルニ相違ナシ本条不用ニ付削除スヘシ」と述べています(奥平177頁)。「至尊ト雖人類ナ(リ)」という議論は斥けられたのでした。
 (「皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは,摂政は,天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には前条第1項の規定〔「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」〕を準用する。」と規定する現行憲法5条を前提とすれば, 摂政は国事行為に係る代理機関にすぎず(また,「摂政は天皇ではないから,「象徴」としての役割を有しない。」とも説かれています(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)259頁)。)祭祀については困る,とあるいは更に反論できたのでしょうが, 大日本帝国憲法下では(その第17条2項は「摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ」と規定。『皇室典範義解』には「摂政は以て皇室避くべからざるの変局を救済し,一は皇統の常久を保持し,二は大政の便宜を疎通し,両つながら失墜の患を免るゝ所以なり。摂政は天皇の天職を摂行し,一切の大政及皇室の内事皆天皇に代り之を総攬す。而して至尊の名位に居らざるなり。」と説明されていました(岩波文庫147頁)。), 「祭祀ニ付テ」も「天皇ノ出御アルコト能ハザル場合ニ於テ摂政之ヲ代行スル」こととなっていました(美濃部239頁。ただし,「祭祀ニ付テ・・・皇室祭祀令ニハ天皇幼年ノ場合ニモ親ラ出御アルベキコトヲ定メ,以テ摂政ノ必ズシモ代行スル所ニ非ザルコト」が示されていたそうです(美濃部239頁)。確かに,皇室祭祀令(明治41年皇室令第1号)の附式には「天皇襁褓ニ在ルトキハ女官之ヲ奉抱ス」等の「注意」が記されています。)。ちなみに,摂政令(明治42年皇室令第2号)1条は「摂政就任スル時ハ附式ノ定ムル所ニ依リ賢所ニ祭典ヲ行ヒ且就任ノ旨ヲ皇霊殿神殿ニ奉告ス」と規定していました。これは,1909年1月27日の枢密院会議における奥田義人宮中顧問官の案文説明によれば,「其〔摂政〕ノ誠実ヲ表明スル為メ設ケタル規定」です。いずれにせよ,大日本帝国憲法下の摂政の制度は特殊なもので,同日の奥田宮中顧問官の説明においてはまた「然ルニ摂政ニツキテハ古来依ルヘキ例ナシ故ニ此ノ〔摂政令〕案ノミハ全ク新タニ出来タルモノト御承知ヲ乞フ」と述べられていました。なお,1945年12月15日のGHQのいわゆる神道指令後には天皇の「祭祀大権は全く失は」れ,宮中祭祀は「純然たる皇室御一家の祭祀」となって「皇室の家長たる御地位に於いて天皇の行はせらるる所」とされています(美濃部555頁)。皇室の家長の交代には,譲位が必要ということになるのでしょうか。)

 明治天皇裁定の皇室「典範は,無能不適格な天皇が位に即く危険を冒し,指名権も譲位も否定して,血統原理をもって一貫した。そのような場合の能力の補充者たるべき摂政についてさえ,天皇の未成年及び「久シキニ亘ルノ故障ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルトキ」という厳重な条件を附し,しかも就任順位を血統原理に従って厳重に法定し,能力原理の介在を一切斥けた。天皇主権の憲法を,天皇の能力に全く依存しない仕方で運用しようとする立法者の強い意思の表明であり,この皇室制度は一番の「利害関係者」である天皇の意思を殆んど徴さないままに創り出された。」と評されていますが(長尾龍一「井上毅と明治皇室典範」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)5152頁),当該「立法者」ないしは「天皇制の完全な制度化を実現した人物」は,「謹具意見」で生前譲位容認説を唱えていた井上毅ではなく,やはり,長州藩の足軽から「能力原理」で立身出世を遂げた伊藤博文だったのでした(同52頁参照)。皇位に係る血統原理の貫徹及び能力原理の排斥は,「下級武士と下級貴族によって形成された明治政府が,幕府や大名などの旧勢力に対する支配の正統性を取得するために,天皇に,実際には与えるつもりのない巨大な権力を帰した」(長尾龍一「天皇制論議の脈絡」『思想としての日本憲法史』207頁)過程における必要な手当てだったわけです。

 前記高輪会議の後1887年4月に,柳原前光は「皇室典範草案」と題するものを作成して伊藤博文(同月25日)及び井上毅(同月27日)に提出しています(小嶋「皇室典範」202頁)。そこでは,高輪会議決定案の前記第10条が2箇条に分割されてしまっており(小嶋「皇室典範」204頁),当該柳原案に手を入れた井上毅の「七七ヶ条草案」では,「第10条 天皇崩スル時ハ皇嗣即チ践()ス」及び「第11条 皇嗣践阼スル時ハ祖宗ノ神器ヲ承ク」となっています(同212頁)。ただし,1888年3月20日の井上毅修正意見においては,「第10条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践阼シ祖宗ノ神器ヲ承ク」に戻っています(小嶋「皇室典範」212頁)。確かに2箇条に分かれていると,先帝崩御に基づかない皇嗣の践祚もあるように解釈する余地がより多く出てきます。

 

(3)枢密院における審議

 皇室典範の枢密院御諮詢案は,1888年3月25日に伊藤博文出席の夏島の会議で決定しています(小嶋「皇室典範」222頁)。御諮詢案の第10条は「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」となっていて,枢密院において修正されることはありませんでした(小嶋「皇室典範」227頁)。なお,柳原前光は枢密顧問官になるには年齢が足らず(枢密院官制(明治21年勅令第22号)4条により40歳に達していることが必要),枢密院における審議には出席できませんでした(小嶋「皇室典範」236頁参照)。

 枢密院の審議において,明治皇室典範10条は,1888年5月25日に第一読会,同月28日に第二読会,同年6月15日に第三読会に付されています(小嶋「皇室典範」240241頁)。しかしながら,それらの読会において同条に関する議論は一切ありませんでした。アジア歴史資料センターのウェッブ・サイトにある枢密院の「皇室典範議事筆記」によれば,第一読会においては「〔伊藤博文〕議長 第10条ニ質問ナケレハ第11条ニ移ルヘシ」とのみあり(第17コマ),第二読会においては「議長 本条ニ付別ニ意見ナケレハ直ニ原案ノ表決ヲ取ルヘシ原案同意者ノ起立ヲ請フ」に対して「総員一致」となって「議長 総員一致ニ付原案ニ決シ本日ハ最早時刻モ後レタレハ是ニテ閉会スヘシ・・・」で終わっており(第65コマ),第三読会では井上毅書記官長による条文朗読のみでした(第294コマ)。
 しかし,同年6月18日の午前,枢密院が大日本帝国憲法の草案の審議に入るに当たって議長・伊藤博文が行った演説中における次の有名なくだりに,明治典憲体制において天皇の生前譲位が排除されることとなった理由が見いだされるように思われます。確かに,我が国未曽有の変革である憲法政治に乗り出したとき,宗教(ヨーロッパ諸国においてはキリスト教)に代わってどっしりと我が日本国家の機軸であることが求められる皇室の長たる天皇が,生前譲位(更には煩悩を逃れての仏門入り)等の非religious institution的な振る舞いをしてしまうということでは,いささか心もとなかったわけでしょう。それはともかく,いわく。「・・・抑欧洲ニ於テハ憲法政治ノ萠芽セルヿ千余年独リ人民ノ此制度ニ習熟セルノミナラス又タ宗教ナル者アリテ之カ機軸ヲ為シ深ク人心ニ浸潤シテ人心此ニ帰一セリ然ルニ我国ニ在テハ宗教ナル者其力微弱ニシテ一モ国家ノ機軸タルヘキモノナシ仏教ハ一タヒ隆盛ノ勢ヲ張リ上下ノ人心ヲ繋キタルモ今日ニ至テハ已ニ衰替ニ傾キタリ神道ハ祖宗ノ遺訓ニ基キ之ヲ祖述スト雖宗教トシテ人心ヲ帰向セシムルノ力ニ乏シ我国ニ在テ機軸トスヘキハ独リ皇室アルノミ是ヲ以テ此憲法草案ニ於テハ専ラ意ヲ此点ニ用ヰ君権ヲ尊重シテ成ルヘク之ヲ束縛セサランコトヲ勉メタリ・・・」と(アジア歴史資料センターのウェッブ・サイトにある「憲法草案枢密院会議筆記」第6コマ)。

 

3 皇位継承の根本義

 ところで,皇位継承の根本義とは何でしょうか。

 

  以上,皇位継承とは,位が主に非ずして(くらゐ)種子(たね)が主である。皇位(みくら)の中核とまします「皇天不二の御神霊」を当然継承し給ひ,此の人格者は即神格者として皇位にましますのである。「御人格(○○○)()()もの(○○)()()()にま(○○)します(○○○)()より(○○)自然(○○)()事実(○○)()変遷(○○)()応じ(○○)自然(○○)()()ながらに(○○○○)皇天二(○○○)()()御延長(○○○)たり(○○)()()」実を,発揮し給ふのである。位といふ有形・無形の座が外に在りて夫を占領し給ふ一種の作用を申すのではない。(筧克彦『大日本帝国憲法の根本義』(岩波書店・1936年)268269頁)

 

 「自然の事実の変遷に応じ」,「御神霊」の「当然継承」がされるのが皇位継承であって,皇嗣たる人格者による皇位の「占領」とは違うということになると,生前譲位は本来の皇位継承ではないということになりそうです。しかし,従来の生前譲位は無効ということになると,万世一系はどうなるのでしょうか。

 

 然しながら,是は第一段の根本につき申すこと故,第二段(○○○)第三段(○○○)()()ては(、、)()()いふ(、、)形式(、、)から(、、)()人格者(、、、)()制約(、、)する(、、)こと(、、)()()つて(、、)来る(、、)。史実としても,皇胤たり給ふ御方様の数多ましませし時には,皇胤ではあらせられても皇位を得給はざりし御方は,具体的には 皇祖の御本系を成就され給ふものといふことが出来ざりし次第であつた。皇胤中に於て御本系を明らかにするには神器(かむだから)の正当なる授受の事実によりて決すべき史実も在つたのである。(筧269頁)

 

「皇天不二の御神霊」の継承は,「神器の正当なる授受」によって生ずるものと考えてよいのでしょうか。

ところが,そうなると,現行の皇室典範4条から「祖宗ノ神器ヲ承ク」を削ってしまったのは早計だったものか。

 しかしながら,今上帝の即位に際しては「臨時閣議において,憲法7条10号,皇室典範4条,皇室経済法7条を根拠に,「剣璽等承継の儀」・・・が()天皇の国事行為と決定され」(昭和64年1月7日内閣告示第4号),1989年1月7日午前10時に行われています(平成元年1月11日宮内庁告示第1号)(佐藤247248頁)。憲法7条10号は「儀式を行ふこと」を天皇の国事行為としています。けれども,現行の皇室典範4条は,信仰にかかわるということから意図的に三種の神器に触れなかったのではないでしょうか。「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。」との皇室経済法7条の規定は,民法の相続に関する規定の例外規定にすぎなかったのではないでしょうか。「神器の正当なる授受」が皇位継承の要素であることは,憲法7条10号に包含された不文の憲法的規範であるということでしょうか。なお,「一定の準備期間を必要とする即位儀とは別に,天皇から皇太子への譲位が決定されると,すぐに剣璽などの宝器(レガリア)を皇太子=新天皇の居所に運んでしまい,それをもって一応の皇位継承が行われたとする「剣璽渡御」(践祚)の儀が成立」するのは「桓武朝以後」と考えられているそうですが(大隅71頁),そうだとすると,「剣璽等承継の儀」は本来的には生前譲位の場合における儀式として始まったということにもなるように思われます。
 ところで,明治天皇は,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚」するものと自ら明治皇室典範10条を裁定したのですが,早くも明治天皇から大正天皇への皇位の継承に当って齟齬が生じています。当時内務大臣であった原敬の記す明治最後の日・1912年7月29日の日記にいわく。
 「午後10時40分天皇陛下崩御あらせらる。実に維新後始めて遭遇したる事として種々に協議を要する事多かりしなり。/崩御は30日零時43分として発表することに宮中に於て御決定ありたり,践祚の御式挙行の時間なき為めならんかと拝察せり」(隅谷三喜男『日本の歴史22 大日本帝国の試煉』(中央公論社・1966年)456頁)
 明治天皇は,現実の崩御後なお2時間3分の間「在位」していることになっており,「死後譲位」がされたのでした。
 なるほど,明治皇室典範10条以来,皇位継承は,天皇自らの意思によってすることのできないことはもちろん,実は崩御によって直ちに生ずるものでもなく,決定的なのは儀式をつかさどる臣下らの都合なのでした。その後も明治天皇祭の祭祀が行われる日は,7月29日ではなく7月30日で一貫します。

柳原家墓
俊德院殿頴譽巍寂大居士正二位勲一等伯爵柳原前光(1894年9月2日死去・行年四十五歳)の眠る東京都目黒区中目黒の祐天寺にある柳原伯爵家の墓(隣には,大正天皇の生母である智孝院殿法譽妙愛日實大姉従一位勲一等柳原愛子の墓があります。)


弁護士 齊藤雅俊
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1 大日本帝国憲法草案からの「法律ノ前ニ於テ平等トス」規定の消失

 1889年2月11日に発布された大日本帝国憲法にはそれとしての平等条項が無いところですが,その第19条は「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得」と規定しています。これは,1888年3月の「浄写三月案」(国立国会図書館の電子展示会「史料にみる日本の近代―開国から戦後政治までの軌跡」の「第2章 明治国家の展開」27ウェッブ・ページ参照)の段階で既にこの形になっていました(ただし,「其他」の「」は朱筆で追記)

 しかし,伊東巳代治関係文書の「憲法説明 説明(第二)」は,1888年1月17日付けで作成され同年2月に条文が修正されたものですが(国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができます。),そこでの「第22条」は,「日本臣民タル者法律ノ前ニ於テ平等トス又法律命令ニ由リ定メタル資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其他ノ公務ニ就クコトヲ得」とありました(なお,「法律ノ前ニ於テ平等」は「法律ニ対シ」とすべきか「法律ニ於テ」とすべきか迷いがあったようで,「ニ対シ」及び「ニ於テ」の書き込みがあります。)。すなわち,1888年1月段階では「法律ノ前ニ於テ平等」という文言があったところです。

 188710月の修正後の夏島草案(「浄写三月案」と同様に国立国会図書館のウェッブ・ページを参照)では「日本臣民タル者ハ法律ノ前ニ於テ平等トス又適当ノ法律命令ニ由リ定メタル資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其他ノ公務ニ就クコトヲ得」とありました。同年8月作成時の夏島草案では「第50条 日本臣民タル者ハ政府ノ平等ナル保護ヲ受ケ法律ノ前ニ於テ平等トス又適当ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其他ノ公務ニ就クコトヲ得」とあり,「政府ノ平等ナル保護」まであったところです。

 夏島草案の1887年8月版は,同年4月30日に成立した(小嶋和司「ロエスレル「日本帝國憲法草案」について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)4頁)ロエスレルの草案の第52条の影響を受けたものでしょう。

 

 第52条 何人タリトモ政府ノ平等ナル保護,法律ニ対スル平等及凡テ公務ニ従事シ得ルノ平等ヲ享有ス

 Art. 52.  Jeder geniesst den gleichen Schütz des Staats, Gleichheit vor dem Gesetz und die gleiche Zulassung zu allen öffentlichen Ämtern.

  (小嶋24-25頁参照)

 

「法律ニ対スル平等Gleichheit vor dem Gesetz」は,もっと直訳風にすると「法律の前の平等」になりますね。

なお,「政府」の語は,本来「国家」であるべきものStaatの誤りです(小嶋53頁)

DSCF0773
神奈川県横須賀市夏島(現在は埋立てで地続きになっており,かつ,日産自動車株式会社の工場の敷地内となっています。)

 

2 1831年ベルギー国憲法,1849年フランクフルト憲法及び1850年プロイセン憲法

ところで,ロエスレル草案の「表現は,あくまでロエスレルの脳漿に発するロエスレルの言葉でおこなわれた」ところですが(小嶋39頁),そもそも,臣民権利義務に係る大日本帝国憲法第2章については,「その規定の内容に於いて最も多くプロイセンの1850年1月の憲法の影響を受けて居ることは,両者の規定を対照比較することに依つて容易に知ることが出来る,而してプロイセンの憲法は,此の点に於いて,最も多く1831年のベルジツク憲法及び1848年のフランクフルト国民会議に於いて議決せられた『ドイツ国民の基礎権』の影響を受けて居るもので,随つてわが憲法も亦間接には此等の影響の下に在るものと謂ふことが出来る。」ということですから(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)329頁)1831年ベルギー国憲法,1849年フランクフルト憲法及び1850年プロイセン憲法の当該条文をそれぞれ見てみましょう。

 

(1)ベルギー国憲法6条

まず,1831年ベルギー国憲法。

 

第6条 国内にいかなる身分の区別も存してはならない。

  ベルギー国民は,法律の前に平等である。ベルギー国民でなければ,文武の官職に就くことができない。ただし,特別の場合に,法律によって例外を設けることを妨げない。

  (清宮四郎訳『世界憲法集 第二版』(岩波文庫・1976年)71頁)

 Article 6

    Il n’y a dans l’État aucune distinction d’ordres.

    Les Belges sont égaux devant la loi; seuls ils sont admissibles aux emplois civils et militaires, sauf les exceptions qui peuvent être établies par une loi pour des cas particuliers.

 

(2)フランクフルト憲法137

次に1849年フランクフルト憲法。

 

137条(1)法律の前に,身分Ständeの区別は存しない。身分としての貴族は廃止されたものとする。

 (2)すべての身分的特権は,除去されたものとする。

 (3)ドイツ人は,法律の前に平等である。

 (4)すべての称号は,役職とむすびついたものでないかぎり,廃止されたものとし,再びこれをみとめてはならない。

 (5)邦籍を有する者は,何人も,外国から勲章を受領してはならない。

 (6)公職は,能力ある者がすべて平等にこれにつくことができる。

 (7)国防義務は,すべての者にとって平等である,国防義務における代理はみとめられない。

  (山田晟訳『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)172頁)

§.137.

  [1]Vor dem Gesetze gilt kein Unterschied der Stände. Der Adel als Stand ist aufgehoben.

[2]Alle Standesvorrechte sind abgeschafft.

[3]Die Deutschen sind vor dem Gesetze gleich.

[4]Alle Titel, in so weit sie nicht mit einem Amte verbunden sind, sind aufgehoben und dürfen nie wieder eingeführt werden.

[5]Kein Staatsangehöriger darf von einem auswärtigen Staate einen Orden annehmen.

[6]Die öffentlichen Aemter sind für alle Befähigten gleich zugänglich.

[7]Die Wehrpflicht ist für Alle gleich; Stellvertretung bei derselben findet nicht statt.

 

 なお,美濃部達吉の言う「1848年のフランクフルト国民会議に於いて議決せられた『ドイツ国民の基礎権』」とは,後にフランクフルト憲法に取り入れられた18481227日のドイツ国民の基本権に関する法律Gesetz, betreffend die Grundrechte des deutschen Volksのことでしょうか(山田170頁参照)

 

(3)プロイセン憲法4条

最後に1850年プロイセン憲法。

 

 第4条(1)すべてのプロイセン人は,法律の前に平等である。身分的特権は,みとめられない。公職は,法律の定める条件のもとに,その能力あるすべての者が,平等にこれにつくことができる。

   (山田訳189頁)

 Art.4.  Alle Preußen sind vor dem Gesetz gleich. Standesvorrechte finden nicht statt. Die öffentlichen Aemter sind, unter Einhaltung der von den Gesetzen festgestellten Bedingungen, für alle dazu Befähigten gleich zugänglich.

 

(4)大日本帝国憲法19条との比較

 これらの条項を眺めていると,お話の流れとしては,①身分制を廃止し(ベ1項,フ1項),身分的特権を除去すれば(フ2項,プ2文),②国民は法律の前に平等になり(ベ2項前段,フ3項,プ1文),③その結果国民は均しく公職に就くことができるようになる(ベ2項後段,フ6項,プ3文)ということのようです。フランクフルト憲法137条4項及び5項は身分制の復活の防止,同条7項は平等の公職就任権の裏としての平等の兵役義務ということでしょうか。①は前提,②は宣言,③がその内容ということであれば,我が大日本帝国憲法19条は,前提に係る昔話や難しい宣言などせずに,単刀直入に法律の前の平等が意味する内容(③)のみを規定したものということになるのでしょう。

なお,『憲法義解』における第2章の冒頭解説の部分では,「抑中古,武門の政,士人と平民との間に等族を分ち,甲者公権を専有して乙者預らざるのみならず,其の私権を併せて乙者其の享有を全くすること能はず。公民〔おほみたから〕の義,是に於て滅絶して伸びざるに近し。維新の後,屢大令を発し,士族の殊権を廃し,日本臣民たる者始めて平等に其の権利を有し其の義務を尽すことを得せしめたり。本章の載する所は実に中興の美果を培殖し,之を永久に保明する者なり。」とあって,「士族の殊権を廃し」,すなわち身分的特権を除去して(①),「日本臣民たる者始めて平等に其の権利を有しその義務を尽す」,すなわち法律の前の平等が達成されたものとする(②)との趣旨であろうところの補足的説明がされています1888年3月の「浄写三月案」における当該部分の朱字解説にはなかった文章です。「浄写三月案」では,代わりに,「彼ノ外国ニ於テ上下相怨ムノ余リニ国民ノ権利ヲ宣告シテ以テ譲予ノ契約トナスカ如キハ固ヨリ我カ憲法ノ例ヲ取ル所ニ非サルナリ」とのお国自慢が記されています。)

 

3 ベルギー国憲法流の「法律の前の平等」の意味

 しかし,身分的特権を除去して国民が均しく公職に就けるようにすることのみが法律の前の平等の意味だったのでしょうか。「法律の前の平等」にはもう少し多くの内容があってもよさそうな気もします。そもそもの規定である1831年ベルギー国憲法6条2項における“Les Belges sont égaux devant la loi”の意味を詳しく見てみる必要があるようです。

 便利になったことに,Jean Joseph ThonissenLa Constitution belge annotée, offrant, sous chaque article, l’état de la doctrine, de la jurisprudence et de la legislation1844 年版が現在インターネットで読むことができるようになっています(「東海法科大学院論集」3号(2012年3月)113頁以下の「憲法21条の「通信の秘密」について」を書く際には国立国会図書館まで行って,「これってもしかしたら井上毅も読んだのだろうか」というような古い現物の本(1876年版)に当たったものでした。ちなみに,上記論文執筆当時,1831年ベルギー国憲法の解説本を読もうとして国立国会図書館でフランス語本を探したとき見つかった一番古い本が,当該トニセン本でした。トニセンは,1844年には27歳。刑法学者,後にベルギー国王の大臣)。その22頁以下に第6条の解説があります。

 

 22 立憲国家において法律の前の平等l’égalité devant la loiは,主に4種の態様において現れる。①全ての身分ordresの区別の不在において,②全ての市民が差別なく全ての文武の官職に就任し得ることにおいて,③裁判権juridictionに関する全ての特権の不在において,④課税に関する全ての特権の不在において。平等l’égalitéに係る前2者の態様が第6条によって承認されている。他の2者は,第7条,第8条,第92条及び第112条において検討するものとする。Thonissen, p.23

 

ベルギー国憲法7条は「個人の自由は,これを保障する。/何人も,あらかじめ法律の定めた場合に,法律の定める形式によるのでなければ,訴追されない。/現行犯の場合をのぞいては,何人も,裁判官が理由を付して発する令状によらなければ,逮捕されない。逮捕状は,逮捕のとき,または遅くとも逮捕ののち24時間以内に,これを示さなければならない。」と,第8条は「何人もその意に反して,法律の定める裁判官の裁判を受ける権利を奪われない。」と規定していました(清宮訳71頁)。第92条は「私権にかかわる争訟は,裁判所の管轄に専属する。」と規定しており(同92頁),第112条は「租税に関して特権を設けることはできない。/租税の減免は,法律でなければ,これを定めることができない。」と規定していました(同99頁)。これらはそれぞれ,大日本国帝国憲法23条,24条,57条1項及び62条1項に対応します。

 

 23 このように理解された法律の前の平等は,いわば,立憲的政府の決定的特徴を成す。それは,フランス革命の最も重要,最も豊饒な成果である。かつては,特権privilège及び人々の間の区別distinctions personnellesが,人間精神,文明及び諸人民の福祉の発展に対する障碍を絶えずもたらしていた。ほとんど常に,人は,出生の偶然が彼を投じたその境遇において生まれ,そして死んでいった。立憲議会は,それ以後全ての自由な人民の基本法において繰り返されることになる次の原則を唱えることによって新しい時代を開いた。いわく,「人は,自由かつ権利において平等なものとして出生し,かつ生存する。社会的差別は,共同の利益の上にのみ設けることができる。・・・憲法は,自然的及び市民的権利として次のものを保障しなければならない。第一,全て市民は徳性及び才能以外の区別なしに地位及び職務に就任し得ること。第二,全ての税contributionsは,全ての市民の間においてその能力に応じて平等に配分されること。第三,人による区別なく,同一の犯罪には同一の刑罰が科されること。」と(1791年憲法,人権宣言,第1条及び第1編唯一の条)。Thonissen, p.23

 

「人は,自由かつ権利において平等なものとして出生し,かつ生存する。社会的差別は,共同の利益の上にのみ設けることができる。」とは,1789年の人及び市民の権利宣言の第1条の文言です(山本桂一訳『人権宣言集』(岩波文庫)131頁)1789年の人及び市民の権利宣言は,1791年の立憲君主制フランス憲法の一部となっています(当時の王は,ルイ16世)。トニセンがした上記引用部分の後半は,フランス1791年憲法の第1編(憲法によって保障される基本条項(Dispositions fondamentales garanties par la Constitution))の最初の部分です(ただし,フランス憲法院のウェッブ・ページによると,原文は,「保障しなければならない(doit garantir)」ではなく,単に「保障する(garantit)」であったようです。)

前記伊東巳代治関係文書の「憲法説明 説明(第二)」の第22条(大日本帝国憲法19条)の朱書解説1888年1月)は「本条ハ権利ノ平等ヲ掲ク蓋臣民権利ノ平等ナルコト及自由ナルコトハ立憲ノ政体ニ於ケル善美ノ両大結果ナリ所謂平等トハ左ノ3点ニ外ナラズ第一法律ハ身分ノ貴賤ト資産ノ貧富ニ依テ差別ヲ存スルヿナク均ク之ヲ保護シ又均ク之ヲ処罰ス第二租税ハ各人ノ財産ニ比例シテ公平ニ賦課シ族類ニ依テ特免アルコトナシ第三文武官ニ登任シ及其他ノ公務ニ就クハ門閥ニ拘ラズ之ヲ権利ノ平等トス」と述べていますが,トニセンの書いていることとよく似ていますね。日本がベルギーから知恵を借りたのか,それとも両者は無関係だったのか。最近似たようなことが問題になっているようでもありますが,井上毅はフランス語を読むことができたところです(と勿体ぶるまでもなく,トニセン本及びその訳本は,大日本帝国憲法草案の起草に当たっての参考書でした(山田徹「井上毅の「大臣責任」観に関する考察:白耳義憲法受容の視点から」法学会雑誌(首都大学東京)48巻2号(2007年12月)453頁)。)。ただし,上記引用部分に続く「彼ノ平等論者ノ唱フル所ノ空理ニ仮托シテ以テ社会ノ秩序ヲ紊乱シ財産ノ安全ヲ破壊セントスルカ如キハ本条ノ取ル所ニ非サルナリ」の部分は,トニセンのベルギー国憲法6条解説からとったものではありません。

なお,「①全ての身分ordresの区別の不在」については,「憲法説明 説明(第二)」の第22条(大日本帝国憲法19条)朱書解説は,「維新ノ後陋習ヲ一洗シテ門閥ノ弊ヲ除キ又漸次ニ刑法及税法ヲ改正シテ以テ臣民平等ノ主義ニ就キタリ而シテ社会組織ノ必要ニ依リ華族ノ位地ヲ認メ以テ自然ノ秩序ヲ保ツト雖亦法律租税及就官ノ平等タルニ於テ其分毫ヲ妨クルナシ此レ憲法ノ保証スル所ナリ」と述べています。「法律租税及就官ノ平等タルニ於テ其分毫ヲ妨クルナシ」なのだから,華族制度も問題は無い,ということのようです。

 

 24 1815年の基本法は,この関係において,大いに足らざるところがあった。同法は,三身分ordresの封建的区別を再定立していた。すなわち,貴族又は騎士団身分,都市身分及び村落身分である。主にこの階層化classificationこそが,国民会議Congrès nationalが,国内にいかなる身分の区別も存してはならないと決定して禁止しようとしたものであった(第75〔国王の栄典授与権に関する条項〕のレオポルド勲章を制定した法律に関する議論の分析を参照)。Thonissen, p.23

 

 25 第6条第2項は,全ての市民は全ての文武の官職に差別なしに就任し得ることを宣言するものである。この規定は,法律の前の平等の原則を採用したことの必然的帰結であった。「第二次的な法律において初めてseulement規定されるべきではなく,憲法自身において規定されるべきものである原則は,公職に対する全ての市民の平等な就任可能性の原則である。実際,この種の特典faveursの配分における特権及び偏頗ほど,市民を傷つけ,落胆させるものはない。そして,ふさわしくかつ有能な人物のみを招聘するための唯一の方法は,職を才能及び徳性によるせりにかける以外にはない〔Macarel1833年版Élèm. de dr. pol. (『政治法綱要』とでも訳すべきか)246頁からの引用〕。」Thonissen, pp.23-24

 

 上杉慎吉は,大日本帝国憲法19条について「第19条は仏蘭西人権宣言の各人平等の原則に当たるものである,我憲法は各人平等の原則を定めずして,唯た文武官に任ぜられ公務に就くの資格は法律命令を以て予め定むべく,而して法律命令が予め之を定むるには均しくと云ふ原則に依らなければならぬことを定めたのである・・・均くと云ふのは門閥出生に依りて資格の差等を設けざるの意味である,諸国の憲法が此規定を設けたる理由は従来門閥出生に依つて官吏に任じ公務に就かしめたることあるのを止める趣意でありまするから,均くと云ふのは必しも文字通りに解すべきではありませぬ,例へば男女に就て差等を設くるとも第19条の趣意に反するものではない」と述べていました(同『訂正増補帝国憲法述義』(有斐閣書房・1916年)294-295頁)。大日本帝国憲法19条と1789年のフランスの人及び市民の権利宣言とのつながりがこれだけでは分かりにくかったのですが,その間に1791年フランス憲法並びに1831年ベルギー国憲法及び1850年プロイセン憲法が介在していたのでした。

 しかし,ヨーロッパAncien Régimeの身分制のえげつなさが分からなければ,当時唱えられるに至った「法律の前の平等」の意味もまたなかなか分からないようです。
 なお,尊属殺人罪に係る刑法200条を違憲とした最高裁判所大法廷昭和48年4月4日判決(刑集27巻3号265頁)に対する下田武三裁判官の反対意見では「わたくしは,憲法14条1項の規定する法の下における平等の原則を生んだ歴史的背景にかんがみ,そもそも尊属・卑属のごとき親族間の身分関係は,同条にいう社会的身分には該当しないものであり,したがつて,これに基づいて刑法上の差別を設けることの当否は,もともと同条項の関知するところではないと考えるものである。」と述べられていましたが,そこにいう「歴史的背景」とは,前記のようなものだったわけでしょう。 


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1 大日本帝国憲法14条と31

 大日本帝国憲法141項は「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」と,同条2項は「戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」と規定しています。これに対して,同憲法31条は「本章〔臣民権利義務の章〕ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」と規定しています。(なお,「戒厳」は,ドイツ語の「Belagerungszustand」,フランス語の「l’état de siège」に対応するものとされていますが,後2者は,直訳風には,「被包囲状態」ということですね。)

 美濃部達吉は,大日本帝国憲法31条に相当する規定として旧プロイセン憲法111条(「戦争又ハ内乱ニ際シ公共ノ安寧ニ対シ危害切迫スルトキハ時及場所ヲ限リ憲法第5条第6条第7条第27条第28条第29条第30条及第36条ノ効力ヲ停止スルコトヲ得。詳細ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」)を挙げつつ「併しプロイセン憲法の此の規定は即ち戒厳の宣告に付いての規定に外ならぬ。然るにわが憲法に於いては第14条に別に戒厳の事を定めて居るのであつて,若し本条〔第31条〕の規定を以てプロイセンの右の規定に相当するものと為さば,本条と第14条とは全く相重複したものとならねばならぬ。本条の規定が甚だ不明瞭な所以は此の点に在る。」と述べています(同『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)415頁)。大日本帝国憲法14条の戒厳の規定と同憲法31条の「非常大権」の規定との違いは何なのかが問題になっているわけです。(美濃部の大日本帝国憲法31条解釈については,「軍事機密『統帥参考』を読んでみる」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1000685083.html参照)

 

2 プロイセン憲法111条と関係条項

 なお,旧プロイセン憲法111条に掲げられた同憲法の諸条項は,次のとおり。

 

第5条 身体の自由(persönliche Freiheit)は,保障される。その制限,特に身柄拘束が許される条件及び方式については,法律で規定される。

第6条 住居は,不可侵である。そこへの立入り及び家宅捜索並びに信書及び書類の押収は,法律によって規定された場合及び方式においてのみ許される。

第7条 何人も,法律で定められた裁判官から阻隔されることはない(Niemand darf seinem gesetzlichen Richter entzogen werden.)。例外裁判所及び非常委員会は,認められない。

27条 各プロイセン人は,言葉,文章,印刷物又は図画的表現をもってその意見を自由に表明する権利を有する。

検閲は,導入され得ない。プレスの自由(Preßfreiheit)に係る全ての他の制限は,立法による。

28条 言葉,文章,印刷物又は図画的表現によって犯された違法行為は,一般の刑法に従って処罰される。

29条 全てのプロイセン人は,事前の官庁の許可を要さずに,平和的に,かつ,武器を携帯しないで,閉鎖された場所で(in geschlossenen Räumen)集会する権利を有する。

当該規定は,屋外での(unter freiem Himmel)集会には関係しない。屋外での集会は,事前の官庁の許可についても,法律の規定に服する。

30条 全てのプロイセン人は,刑法に反しない目的のために,結社する権利を有する。

法律によって,特に公安の維持のために,本条及び上記第29条において保障された権利の行使は規制される。

政治団体は,立法によって,制限及び一時的禁止に服せしめられ得る。

36条 兵力(bewaffnete Macht)は,国内の暴動の鎮圧及び法の執行のために,法律により定められた場合及び方式において,かつ,文官当局(Zivilbehörde)の要請に基づいてのみ使用されることができる。後者に関しては,法律は例外を定めるものとする。

 

3 プロイセン戒厳法とフリードリッヒ=ヴィルヘルム4世

 

(1)プロイセン戒厳法

 我が戒厳令(明治15年太政官布告第36号)はプロイセンの戒厳法(Gesetz über den Belagerungszustand vom 4. Juni 1851)の影響を受けたものでしょうが(ただし,日露戦争前の陸軍省内では「日本の戒厳令が1849年のフランス合囲法を参考に立案された」とされていたようです(大江志乃夫『戒厳令』(岩波新書・1978年)99頁参照)。),それでは当該プロイセン戒厳法はどのようなものであったのか。まずは,以下に訳出を試みます。インターネット上にあるwww.verfassungen.deのテキストが,底本です。

 

第1条 戦時において,敵に脅かされ又は既に一部占領された地方(Provinzen)においては,各要塞司令官は指揮下の要塞及びその周辺地帯(Ravonbezirke)を,ただし軍団司令官(der kommandirende General)は軍団管区又はその一部を,防衛の目的のために,戒厳状態にあると宣告する(in Belagerungszustand zu erklären)権限を有する。

第2条 暴動の場合(Fall eines Aufruhrs)においても,公安(die öffentliche Sicherheit)上急迫の危険があるときは,戒厳は,戦時又は平時を問わず宣告され得る。

戒厳宣告(Erklärung des Belagerungszustandes)は,そこで(alsdann)内閣(Staats-Ministerium)から発せられる。ただし,暫定的(provisorisch)かつ内閣による即時の確認(Bestätigung)又は撤回(Beseitigung)にかからしめられたものであり得る。急迫の場合においては,個別の場所及び地域に関して,該地における最高位軍事指揮官によって(durch den obersten Militairbefehlshaber in denselben),地方長官の要請に基づき(auf den Antrag des Verwaltungschefs des Regierungsbezirks),又は遅滞が危険をもたらすときは当該要請なしに,発せられ得る。

要塞においては,暫定的戒厳宣告は,要塞司令官から発せられる。

第3条 戒厳宣告は,太鼓の打鳴又は喇叭の吹鳴によって公示され,並びに更に地方自治体役場への連絡,公共の広場での掲示及び公衆向け新聞(öffentliche Blätter)によって遅滞なく周知される。戒厳の解止(Aufhebung)は,地方自治体役場への通知及び公衆向け新聞によって周知される。

第4条  戒厳宣告の公示(Bekanntmachung der Erklärung des Belagerungszustandes)に伴い,執行権は軍事指揮官に移譲される。文官当局及び地方自治体役場は,軍事指揮官の命令及び指示に従わなければならない。

その命令について,当該軍事指揮官は,個人的に責任を負う(persönlich verantwortlich)。

第5条  戒厳宣告に当たって憲法第5条,第6条,第7条,第27条,第28条,第29条,第30条及び第36条又はその一部の効力を時及び場所を限って停止することが必要であると認められた場合には,関係する規定が戒厳宣告の公示中に明示されるようにし,又は別の,同様の方法(第3条)で公示される命令において公布されるようにしなければならない。

上記の条項又はその一部の停止は,戒厳状態にあると宣告された地域及び戒厳期間中においてのみ効力を有する。

第6条 軍関係者には,戒厳期間中,戦時のための法令が適用される。この命令の(dieser Verordnung [sic])第8条及び第9条も彼らに適用される。

第7条 戒厳状態にあると宣告された場所及び地域にあっては,部隊の指揮官(要塞においては,司令官)が部隊に所属する軍関係者全体に対して上級軍事裁判権(höhere Militairgerichtsbarkeit)を有する。

彼には,軍関係者に対する戦時法上の裁判(kriegsrechtlichen Erkenntnisse)を認可する(bestätigen)権利も帰属する。そこにおける例外は,平時における死刑判決のみである。これは,地方の軍司令官の認可(Bestätigung des kommandirenden Generals der Provinz)に服する。

下級裁判権の行使については,軍刑法典の規定のとおりである。

第8条 戒厳状態にあると宣告された場所又は地域において,故意による放火,故意による溢水の惹起,又は武装軍人若しくは文武の当局関係者に対する公然たる暴力による,及び武器若しくは危険な道具を用意しての攻撃若しくは反抗の罪を犯した者は,死刑に処する。

酌むべき情状がある場合は,死刑に代えて,10年以上20年以下の懲役に処することができる。

第9条 戒厳状態にあると宣告された場所及び地域において次に掲げる行為をした者は,既存の法律にそれより重い自由刑が規定されていない場合は,1年以下の軽懲役に処せられる。

a)敵又は叛徒の数,進軍方向又は勝利の風聞に関し,文武の当局をしてその措置において過誤を生ぜしめるおそれのある虚偽の風評を故意に拡散し,又は広めること。

b)戒厳宣告に当たって又はその期間中において軍事指揮官が公安のために発した禁制に違反し,又は当該違反をすることを求め,若しくはそそのかすこと。

c)暴動,反抗的行為,囚人の解放の犯罪又はその他第8条に規定された犯罪を行うよう,たとい成功しなくとも,求め,又はそそのかすこと。

d)軍人身分の者に対して,不服従の罪を犯し,又は軍の規律及び秩序に違反するよう誘うことを試みること。

10条 憲法第7条の停止下で軍法会議の管轄が生ずるときは(Wird...zur Anordnung von Kriegsgerichten geschritten),叛逆(Hochverrat),外敵通謀(Landesverrat),謀殺,暴動,反抗行為,鉄道及び電信の破壊,囚人の解放,集団反抗(Meuterei),強盗,略奪,恐喝,兵士の裏切りへ向けた誘惑の犯罪並びに第8条及び第9条において刑罰の定められた犯罪及び違反行為に係る予審(Untersuchung)及び審判(Aburtheilung)は,これらの犯罪及び違反行為が戒厳宣告及び戒厳の公示の後に着手され,又は続行された犯罪である限り,軍法会議が行う。

全王国に統一刑法典が施行されるまでは,ケルンのライン控訴裁判所管区においては,内外に係る国家の安全に対する犯罪及び違反行為(ライン刑法典第75条から第108条まで)は,叛逆及び外敵通謀とみなされる。

憲法第7条の停止が内閣から宣告されない場合は,平時においては,軍法会議によって開始された予審に係る判決の執行は,当該憲法条項の停止が内閣によって承認される(genehmigt ist)まで延期される。

11条 軍法会議は5名の裁判官によって構成される。そのうち2名は該地の司法裁判所の幹部によって指名された司法文官,3名は該地における指揮権を有する軍事指揮官によって任命される士官でなければならない。士官は,大尉以上の階級でなければならない。当該階級の士官が不足するときは,欠員は次位の階級の士官をもって補充される。

敵に包囲されている要塞において必用な数の司法文官がいないときは,責任ある軍事指揮官によって(von dem kommandirenden Militairbefehlshaber),市町村会の議員から(aus den Mitgliedern der Gemeindevertretung)補充される。要塞に司法文官がいない場合でも,軍法会議には一人の文民法務官がいるものとする(Ist kein richterlicher Civilbeamte in der Festung vorhanden, so ist stets ein Auditeur Civilmitglied des Kriegsgerichts)。

一地方全部又はその一部が戒厳状態にあると宣告された場合,軍法会議の数は,必要によって定められる。このような場合において,各軍法会議の管轄区域は,軍団司令官(der kommandirende General)が定める。

12条 軍法会議の期日において,裁判長は司法官(ein richterlicher Beamter)が務める。

裁判長は,軍法会議が事務(seine Geschäfte)を開始する前に,当該軍法会議の裁判官となった士官及び場合によっては司法官ではないにもかかわらず裁判官となった文民に対して,委嘱された司法官としての義務を良心と不偏不党性をもって,法に従って果たす旨宣誓させる。

士官である軍法会議裁判官を任命した軍事指揮官は,一人の法務官(Auditeur)又は法務官がいない場合は一人の士官を報告官(Berichterstatter)〔検察官〕として委嘱する。報告官は,法の適用及び運用に注意し,申立てを通じて真実を捜査することを求める義務を有する。報告官は,評決に加わらない。

手続事項の処理(Führung des Protokolls)のため,軍法会議裁判長によって指名され,同人によって宣誓させられる文官行政官(Beamter der Civilverwaltung)が,裁判所書記官(Gerichtsschreiber)として召致される。

13条 軍法会議における手続には,次の規定が適用される。

1 手続は口頭かつ公開である。ただし,公共の福祉の見地から適当と認めるときは,軍法会議は,公表される決定をもって,公開性を排除することができる。

2 被告人は,一人の弁護人によって弁護されることができる。一般刑法によれば(nach dem allgemeinen Strafrecht)1年以下の軽懲役より重い刑を科される犯罪又は違反行為の場合において,被告人が弁護人を選任しないときは,軍法会議裁判長は,職権で弁護人を付さなければならない。

3 報告官は,被告人出席の下,同人の責めに帰せられる事実を陳述する。

被告人は,当該事実についての意見陳述を求められ,続いて,他の証拠の申出を行う。

次に,報告官に対して尋問の結果及び法の適用に関する陳述が,最後に,被告人及び弁護人に対して意見陳述が認められる。

判決は,即時かつ非公開である軍法会議の評議において多数決で決せられ,直ちに被告人に宣告される。

4 軍法会議は,法定の刑を科し,若しくは無罪を宣告し,又は通常裁判官への(an den ordentlichen Richter)移送を命ずる。

無罪を宣告された者は,直ちに勾留から釈放される。通常裁判官への移送は,軍法会議が管轄を有しないものと認めた場合に行われる。この場合において,軍法会議は,勾留の継続又は終了について,判決において同時に別途定めをする。

5 判決書には,公判の日付,裁判官の氏名,被告人に対する公訴事実に対する同人の弁明の要旨,証拠調べに係る言及並びに事実問題及び法律問題に係る判断並びに当該判決が基づいた法令が記載されなければならず,全ての裁判官及び裁判所書記官によって署名されなければならない。

6 軍法会議の判決に対する上訴は,認められない。ただし,死刑に処する裁判は,第7条に規定する軍事指揮官の認可に服し,平時であれば地方の軍司令官の認可に服する。

7 死刑を除く全ての刑は裁判の宣告の後24時間以内に,死刑はそれに続く認可の公示から同期間内に,被宣告者に対して執行される。

8 死刑は,銃殺によって執行される。死刑に処する裁判が戒厳の解止の時になお執行されていなかった場合においては,その刑は,証明済みのものとして軍法会議によって認められた事実に対する戒厳を除外した場合の法的帰結たるべき刑に,通常裁判所によって(von den ordentlichen Gerichten)変更される。

14条 軍法会議の活動は,戒厳の終結(Beendigung)に伴い終了する。

15条 戒厳の解止後は,関連事項(Belagstücken)及びそれに属する審理(dazu gehörenden Verhandlungen)を含む軍法会議のした全ての判決並びに進行中の予審は,通常裁判所に移管される。通常裁判所は,軍法会議がなお審判していない事項については通常刑法に従い(nach den ordentlichen Strafgesetzen),及び第9条の場合に限り同条において規定された罰則に従って,裁判しなければならない。

16条 戒厳が宣告されていない場合であっても,戦争又は暴動の場合において公安に対する急迫の危険があるときは,憲法第5条,第6条,第27条,第28条,第29条,第30条及び第36条又はその一部は,内閣によって,期間及び場所を定めて,効力を停止されることができる。

17条 戒厳宣告並びにそれに伴う(第5条),又は第16条の場合に行われる,第5条及び第16条に掲げられた憲法の条項の停止(一部の停止を含む。)の宣告については,直ちに,それぞれ次の召集の際に両議院に(den Kammern)報告されなければならない。

18条 この法律と抵触するすべての規定は,廃止される。

この法律は,1849年5月10日の命令及び1849年7月4日の宣言(法律全書165頁及び250頁)に代わるものである。

 

     フリードリッヒ=ヴィルヘルム

     〔以下大臣の署名は略〕

 

 背景事情もよく知らないまま辞書だけを頼りに訳すのは,いささか大きな困難を伴いましたRavonbezirke」及び「Belagstücken」が特に難物で,手元のドイツ語辞書を引いても出てこないので,それぞれの訳は推測によるものです。他日の補正を期せざるを得ません。

 ただし,少なくとも訳してみて分かったのは,プロイセン王国の場合,戒厳宣告を発する主体として法文上,内閣(Staats-Ministerium)や軍の司令官は出てきますが,国王(König)は出てこないことです。

 

(2)フリードリッヒ=ヴィルヘルム4世

 なお,1851年6月4日のプロイセン戒厳法に署名したフリードリッヒ=ヴィルヘルムは,第4世(在位1840年‐1861年)でした。「父王〔フリードリッヒ=ヴィルヘルム3世〕は外交でも内政でも,自由主義と反動主義のあいだをさまよい,軍人気質が強かったが,新しい王は美貌の母ルイゼをしのばせる,ととのった顔つきをし,芸術や学問のディレッタントで,どこか文化のにおいをただよわせていた。国民は,プロイセンにも明るい時代がおとずれることを期待した。」とは,即位時のフリードリッヒ=ヴィルヘルム4世に関する描写です(井上幸治『世界の歴史12 ブルジョワの世紀』(中央公論社・1961年)283頁)。(父王フリードリッヒ=ヴィルヘルム3世とその王妃ルイゼとは,ナポレオン相手の戦いに苦労しています。)ワイマルの老ゲーテも1828年3月11日の段階において当時のプロイセン皇太子フリードリッヒ=ヴィルヘルムを高く評価していました。いわく,「私は今プロイセンの皇太子に,大きな期待を寄せている。私が彼について見聞したことのすべてから推測すると,彼は,そうとうな傑物だよ。また役に立つ才能豊かな人材をみとめて登用するということは,傑物にしてはじめてできることだ。なぜなら,何といっても類は友を呼び,自分自身偉大な才能をそなえている君主だけが,またその臣下や従僕の偉大な才能をそれ相応に認め,評価できるにちがいないからだ。『人材に道をひらけ!』とは,ナポレオンの有名な金言であった・・・」(山下肇訳『ゲーテとの対話』(岩波文庫・2012年))。ところが,フランス二月革命の1848年になると「フリードリヒ=ウィルヘルム4世は,即位以来,しだいに絶対君主になろうとしていた。興奮と銷沈をくりかえす安定性のない性格の持主で,西欧デモクラシーと対決する決意ばかりはかたかった。」というような人物になっていました(井上383頁)。同年3月18日のベルリンでの騒乱に際しては,王宮の窓からその様子を見つつ「「人民の暴力と違法には耳をかさない」と強気なことをいっていた」そうです(井上384頁)。その翌年になると,「〔1849年4月3日,フリードリヒ=ウィルヘルムは,帝冠と憲法をささげるフランクフルト議会の代表をポツダム宮殿に引見した。しかし王は,他の諸王侯の同意のあるまではこれをうけるわけにはいかない,と拒絶した。人民集会の手から,「恥辱の帝冠」をうけることはできないという意味だった。フリードリヒ=ウィルヘルムは,そこで,この憲法を支持した下院を解散し,フランクフルト議会の派遣議員に解任を申しわたした」ところです(井上397398頁)。「恥辱の帝冠」とはSchweinekrone(豚の冠)の訳のようですフリードリッヒ=ヴィルヘルム4世は子の無いまま歿し,プロイセン王位は,弟である後の初代ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルムが継ぎます。
 なお,フリードリッヒ=ヴィルヘルム4世の人材鑑識眼に関する逸話として,同王は1848年の「三月革命のとき,ある書類のビスマルクの名の余白に,「銃剣が無制限の支配をおこなうときにのみ採用すべき人物」と書きつけたといわれ,彼は王の意中の人物であった。」とされています(井上459頁)。 

 

4 フランス1878年戒厳法の場合

 大日本帝国憲法起草期に施行されていたフランスの1878年4月3日の戒厳(l’état de siège)に関する法律においては,戒厳の宣告(déclaration)は法律によってされることが本則とされていました(同法1条2項)。ただし,両議院が会期外にあるときには,共和国大統領が,内閣の意見に基づいて,臨時に戒厳を宣告することができました(同法2条,3条。戒厳の継続又は解止は,両議院の判断に服しました(同法5条)。)。アルジェリアにおいては,通信が途絶した場合には,総督が,アルジェリアの全部又は一部が戒厳下にあることを宣告できました。他のフランス植民地においては,総督が戒厳宣告を行い,本国政府に直ちに報告すべきものとされていました(同法6条によって維持された1849年8月9日の戒厳に係る法律4条)。国境又は国内の要塞(places de guerre)又は軍事基地(postes militaires)においては,1791年7月10日の法律及び18111224日のデクレによって規定された場合には,軍事司令官が戒厳宣告をすることができ,当該司令官は政府に直ちに報告すべきものとされていました(1878年4月3日の法律6条によって維持された1849年8月9日の法律5条)。

 

5 大日本帝国憲法14

 以上,プロイセン及びフランスとの比較で見てみると,大日本帝国憲法14条1項には,戒厳の宣告についてフランス第三共和国流に議会が中心的な役割を果たすことを排除する一方,戒厳の宣告をプロイセン式に軍の司令官や内閣に任せるものとすることもせずに天皇自らが掌理するものとする,という意味があったもののように思われます。

 確かに,国立国会図書館ウェッブ・サイトにある「大日本帝国憲法(浄写三月案)」(1888年3月)記載の第14条の解説を見ると,「(附記)之ヲ欧洲各国ニ参照スルニ戒厳宣告ノ権ヲ以テ或ハ専ラ之ヲ議会ニ帰スルアリ  或ハ之ヲ内閣ニ委ヌルアリ 1881年法 独リ独逸帝国ノ憲法ニ於テ之ヲ皇帝ニ属シタルハ尤立憲ノ精義ヲ得ル者ナリ」とあって,大日本帝国憲法14条の主眼としては,戒厳宣告権を天皇に属するものとしたということがあるようです。

 ただし,大日本帝国憲法における天皇の戒厳宣告の大権については,「特に憲法又は法律に依り之を帷幄の大権に任ずることが明示されて居らぬ限りは,国務上の大権の作用として,言ひ換ふれば内閣の責任に属する行為として行はるのが,当然である。枢密院官制〔6条7号〕に依り戒厳の宣告が枢密院の諮詢を経べき事項として定められて居るのを見ても,わが国法が之を国務上の大権の行為として認めて居ることを知ることが出来る。」ということになっていました(美濃部282頁)。すなわち,天皇の独裁というわけではありません。公式令(明治40年勅令第6号)制定前の日清・日露戦争時の戒厳の宣告は,勅令の形式でされ,陸軍大臣のみならず内閣総理大臣も副署しています(美濃部283頁)。
 ちなみに,1882年に元老院の審査に付された戒厳令案においては,第3条に基づき戒厳の「布告」をする者は太政大臣であるものと記されていました(大江55頁参照)。しかしながら,元老院での審議を経て当該「太政大臣」の文字は削られ,制定された戒厳令では同令3条の「布告」の主体は明示されなくなりましたが,これは,「布告とは布告式にもとづいて勅旨を奉じ太政大臣が布告することに定められた制定公布の手続をへたものに限られ」たからだそうです(大江60頁)。「勅旨を奉」ずるわけですから,天皇の意思に基づくものであるわけです。 

 1887年8月完成同年10月修正の大日本帝国憲法の「夏島憲法案」の画像を見ますと,後の大日本帝国憲法14条については,当初は同条1項の規定に相当するものしかなかったところが,後から同条2項の前身規定(「戒厳ノ要件ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」)が別の筆跡で追記されています。同年4月30日成立のロエスレル草案76条2項「天皇ハ戒厳ヲ宣告スルノ権ヲ有ス其結果ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム(Er der Kaiser hat das Recht, den Belagerungszustand zu erklären; die Folgen desselben werden durch Gesetz bestimmt.)」(小嶋和司「ロエスレル「日本帝國憲法草案」について」『明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)3031頁)の方向に戻ったとも評し得るでしょうか(ただし,「要件」と「効果」(Folgen)とはなお違いますが。)。大日本帝国憲法14条の第2項追加の趣旨は,1888年6月22日午後の枢密院会議において伊藤博文議長から明らかにされています。「外敵内乱其他非常〔「アジア歴史資料センター」のクレジットに隠れて1字見えず〕事変ニ遭遇シタルトキニハ戒厳ノ要件ハ其時機ニ応シテ定ムルモノニシテ予メ法律ヲ以テ之ヲ定メ置クコト頗ル困難ナラントス」云々という森有礼文部大臣の第14条2項削去論に対する回答です。

 

 ・・・抑戒厳令ハ平時ニ之ヲ施行スルモノニアラサレトモ予メ議会ノ議ヲ経タ法律ト為スヘキモノナリ何トナレハ戒厳ヲ宣告スレハ其地方ニ於テハ民権ヲ検束シ人民ノ自由権ヲ禁制スルモノナレハナリ但之ヲ実施スルヤ否ニ至テハ天皇陛下ノ権限ニシテ議会ノ議ヲ経ルニ及ハサルモノナリ

 

ただし,大日本帝国憲法第14条2項に「及効果」が入ったのは,1889年1月16日の枢密院会議の段階でした。大きな変更であるはずですが,その際に議論はありませんでした。なお,法令の形式をそれにより定めた公文式(明治19年勅令第1号)の施行後,戒厳令は,法律ではなく勅令の扱いであったところですが(戒厳令の改正が,法律ではなく,明治19年勅令第74号でされている。),大日本帝国憲法の発布に伴い法律レベル(勅令と異なり, 民選議院を含む帝国議会の協賛を要する。)に昇格したことになります。

 

6 戒厳令と大日本帝国憲法31

大日本憲法14条と31条との関係については,1888年6月27日午後の枢密院会議で,井上毅枢密院書記官長が「本条〔大日本帝国憲法31条〕ハ即チ明治15年発布ノ戒厳令ニ関係アルモノニシテ事変(○○)ノ文字ハ仏語ノニテ「インサルレクシヨン」ト云フ」と述べています。同じ会議で井上はまた,山田顕義司法大臣の大日本帝国憲法31条の「事変(○○)ノ文字ハ意味甚ク漠然タリ日本ノ戒厳令ヨリ転シテ来ルモノナルヤ若シ法律ノ明文ニ此文字ナケレハ本官ハ事変(○○)ノ文字ヲ内乱(○○)ト修正センコトヲ望ム」との発言に対して,「戒厳令第1条ニ「戦時若クハ事変(○○)ニ際シ」云々トアリ是レ即チ法律ノ明文ナリ」と答えています。大日本帝国憲法31条と14条(戒厳令)とは相互に関係あるものとあっさり認めていながら,美濃部達吉のように,両条が「相重複」して第31条の規定が「甚だ不明瞭」になっているとは考えていなかったようです。ただし,前記の1889年1月の修正によって戒厳の効果も法律によって定められることとなる前の段階における議論ではあります(すなわち,戒厳宣告の場合,臣民の権利は法律に基づかずとも制限され得るものとすると構想されていた段階での議論です。)。ちなみに,以上のような枢密院での議論は,美濃部は詳しくは知らなかったようです。1927年の段階で美濃部は,大日本帝国憲法案を審議した「枢密院に於ける議事録も今日まで秘密の中に匿されて居つて,吾々は全く之を知ることの便宜を得ないのは遺憾である。」と述べています(美濃部15頁)。

なお,「事変」に係る大日本帝国憲法31条の用語は,1889年1月29日午後の枢密院会議で,やはり「内乱」に一度改められています。伊藤博文の説明は,「単ニ事変トノミニテハ其区域分明ナラス故ニ内乱ト改ム戦時ハ主トシテ外国ニ対シテ云フ」とのことだったのですが,山田顕義はどう思ったことやら。しかしながら,「内乱」の文字はやはり「穏当ナラサル」ものだったようで,同月31日の枢密院会議の最後になって「国家事変」に最終的に改められています。榎本武揚逓信大臣が「事変」でよいではないかと発言したところ,伊藤枢密院議長の回答は「唯事変ノミニテハ瑣細ノ事変モ含蓄スルノ嫌ヒアリ故ニ国家事変トシタルナリ」ということでした。

大日本帝国憲法31条が戒厳に関係のあることが当然とされていたところで,森有礼の大日本帝国憲法14条2項(戒厳宣告要件法定条項)削去論があえて排斥され,実は1889年1月16日の段階に至ってから戒厳宣告の効果について法律で定める旨枢密院で明文化されているのですから,「本条〔大日本帝国憲法31条〕の規定の結果としては,戒厳の宣告せられた場合の外に,尚大本営の命令に依つても一般人民に対し軍事上必要なる命令を為し得るものと解せねばならぬ」もの(美濃部417418頁)であったと直ちに論断すべきものかどうか。「本条〔大日本帝国憲法31条〕の規定を以て戒厳の場合のみを意味するものと解するならば,本条は第14条と全然相重複し無意味の規定とならねばならぬ。」として(美濃部417頁),わざわざ統帥権の独立を前提とした議論(「本条〔大日本帝国憲法31条〕の大権は政務に関する天皇の大権に属するものではなく,陸海軍の大元帥としての天皇の大権に属するものである」(同416頁)。)までをすべきだったものかどうか。考えさせられるところです。あるいは,1889年1月16日にされた第14条2項の修正がもたらす第31条への跳ね返りを,当時の枢密顧問官らは後の枢密顧問官美濃部達吉ほど鋭く見通してはいなかったということはないでしょうか。(なお,国立国会図書館デジタルコレクションにある伊東巳代治関係文書の「憲法説明 説明(第二)」(1888年1月・同年2月条文修正)における大日本帝国憲法31条に対応する第35条(「本章ニ掲クル条規ハ戦時又ハ事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルヿナシ」)の朱書解説は,あっさりと,「本条ハ即チ・・・非常処分ノ変例ヲ掲ケ以テ本章ノ為ニ非常ノ変ヲ疏通スル者ナリ此ノ非常処分ヲ行フニ一個ノ方法アリ第一戒厳令ヲ宣告ス第二戒厳ノ一部ヲ行フコト是ナリ」と述べています。大日本帝国憲法の「第14条と第31条は完全な重複規定であり,第31条が第14条とは別個の非常大権を規定したものとは考えがたい。」という評価(大江77頁)は,「完全な重複」という表現において強過ぎますが,確かに,第31条が「別個の非常大権を規定したものとは考えがたい」ということでもよかったのではないでしょうか。) 

 

7 ドイツ帝国憲法68

なお,「大日本帝国憲法(浄写三月案)」によれば大日本帝国憲法14条1項の規定が参考としたのは1871年のドイツ帝国憲法ですが,当該憲法における戒厳に関する規定について,美濃部達吉は次のように紹介しています。

 

・・・旧ドイツ帝国憲法(68条)に依れば,皇帝が戒厳宣告の権を有するものとせられて居り,而も,それは第9章の「帝国軍隊」と題する章に規定せられて居り,且つドイツ帝国の前身である北ドイツ聯邦の憲法には,戒厳の宣告は元首(Reichspräsidium)の大権でなくして,大元帥(Bundesfeldherr)の大権であることが明示せられて居つた為に,旧ドイツ憲法に於いてもそれは大元帥としての皇帝の軍令大権に属するものと解せられ,随つてその宣告には国務大臣の副署を要しないものとせられて居た。(美濃部283頁)

 

  1871年ドイツ帝国憲法68条は,「皇帝は,連邦の領域において公安(die öffentliche Sicherheit)が脅かされているときは,当該地域について,戦争状態にあるもの(in Kriegszustand)と宣告できる。そのような宣告の要件,公布の方式及び効果について規定する帝国法律が発せられるまでは,1851年6月4日のプロイセン法(法律全書1851451頁以下)の規定が適用される。」と定めていました。1851年6月4日のプロイセン法とは,プロイセン戒厳法のことです。独立統帥権を有する大元帥が宣告する戒厳であっても,その要件及び効果は,法律で縛られていたのでした。(なお,我が国における戒厳の宣告の方式については,法律ではなく勅令である公式令で定められており,その第1条によって,詔書によるべきものでありましたが(美濃部283284頁参照),公式令施行後は本来の戒厳の宣告はされていません。日比谷焼打ち事件,関東大震災及び二・二六事件の際の「戒厳」は,戒厳令それ自体による本来の戒厳ではありませんでした(行政戒厳)。)。
 ところで,注意すべきは,ドイツ帝国は諸王国・自由都市から構成される連邦国家であったことです。プロイセン国王たる皇帝は,帝国内の他の王国・自由都市については,大元帥ではあっても,軍事その他の帝国管轄事項以外の分野では第一次的統治権者ではなかったはずです。天皇による戒厳の宣告及び戒厳宣告の効果の法定主義を規定するロエスレル草案76条は,「第1章 天皇(Vom Kaiser)」にではなく,「第6章 行政(Von der Verwaltung)」に置かれていたところです(なお,ロエスレル草案でも統帥関係の「第9条 天皇ハ陸海軍ノ最高命令ヲナシ平時戦時ニ於ケル兵員ヲ定メ及兵ニ関スル凡テノ指揮命令ヲナス」及び「第10条 天皇ハ宣戦講和ノ権ヲ有シ戦権ヲ施行スル為必要ナル勅令ヲ発ス」といった規定はやはり,「行政」の章ではなく,「天皇」の章にありました(小嶋12‐13頁)。)。ロエスレルらドイツの法学者も,戒厳の宣告は本来国務であって,ドイツ皇帝の大元帥としての戒厳宣告は,ドイツ帝国が連邦国家であるという事情ゆえのものとしていたと考えられるように思われます。

 

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 1 自由民主党憲法改正草案1条

 日本国憲法1条は,「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く。」と規定しています。これに対し,2012年4月27日決定の自由民主党の日本国憲法改正草案では,「天皇は,日本国の元首であり,日本国及び日本国民統合の象徴であって,その地位は,主権の存する日本国民の総意に基づく。」と改めるものとしています。


2 元首

 自由民主党の日本国憲法改正草案では,元首という言葉が用いられています。

同党の上記草案に係るQ&Aによると,「元首とは,英語ではHead of Stateであり,国の第一人者を意味します。明治憲法には,天皇が元首であるとの規定が存在していました。また,外交儀礼上でも,天皇は元首として扱われています。」といったことから,「したがって,我が国において,天皇が元首であることは紛れもない事実」であるという同党の認識の下,「世俗の地位である「元首」をあえて規定することにより,かえって天皇の地位を軽んずることになるといった意見」はあったものの,同党内の「多数の意見を採用して,天皇を元首と規定することとし」たものとされています。

 ただし,そもそも「『天皇ハ国ノ元首』なりといふ語は,正確なる法律上の観念を言ひ表は」すものではない(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)123頁)ようです。「国の元首といふ語はchef d’état, Staatsoberhauptの語に相当するもので,それは国家を人間に比較し,人間の総ての働きが頭脳にその源を発して居ると同様に,国家の総ての活動は君主にその源を発するが故に,君主は国家の頭脳であり,元首であるといふのである。」とされていますから(美濃部122頁),元首というのは比喩表現なのでしょう。伊藤博文の『憲法義解』の冒頭部分には「・・・上元首の大権を統べ,下股肱の力を展べ・・・」という表現がありますから,元首は股肱(また及びひじ)と対になるべきもののようです。自由民主党憲法改正草案においては,元首たる天皇の股肱として,どのような存在が考えられているのでしょうか。ちなみに,「立法・行政百揆の事,凡そ以て国家に臨御し,臣民を綏撫する所の者,一に皆之を至尊に総べて其の綱領を攬らざることなきは,譬へば,人身の四支百骸ありて,而して精神の経絡は総て皆其の本源を首脳に取るが如きなり。」という『憲法義解』による大日本帝国憲法4条(「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」)の説明は,天皇は統治権を総攬するからこそ元首であるという認識を意味するものでしょう。アジア歴史資料センターのウェッブ・サイトの『憲法草案枢密院会議筆記』によれば,1888年6月18日午後の枢密院の憲法草案第二読会において,東久世通禧顧問官から「国ノ元首ニシテ」の文字の削除論(「本邦ノ天皇ハ憲法ニ記セストモ国ノ元首タルコト天下ノ人皆之ヲ熟知スルモノナリ然ルニ外国ニ於テハ或ハ人民ノ撰挙ニ依リ帝位ニ登リシ者アリ或ハ外国ヨリ来テ帝位ヲ継キタルモノアリテ人民往往主権ノ所在ニ付キ争ヲ惹起シ疑ヲ生シタルモノア〔ママ〕之ヲ憲法ニ明記スルノ必要アリ」との理由付け。山田顕義司法大臣も賛成)が提議されたところ,それに対して議長の伊藤博文は,「国ノ元首ノ文字ハ無用ナリトノ説アレトモ決シテ然ラス天皇ハ国ノ元首ナレハコソ統治権ヲ総攬シ給フモノナリ国ノ元首ト統治権トハ常ニ密着シテ離レサルモノナリ」と説明していました(第37コマから第39コマまで)。元首でなければ統治権を総攬しないというわけです。なお,統治権の総攬者たる元首としての天皇の地位に係る大日本帝国憲法4条は,天皇の「国家機関としての地位を規定せるもの」とされていましたので(美濃部121頁),この「国家機関としての地位」が,自由民主党内の少数意見にいうところの「世俗の地位」なのでしょう。
 ところで,『憲法義解』の原案作成者である井上毅も,「元首」の語には実は反対だったようです。国立国会図書館ウェッブ・サイトにある伊東巳代治関係文書の『井上毅子爵 逐条意見』(1887年8月)には,「帝国ノ元首トハ学理上ノ語ニシテ憲法ノ成文ニ必要ナラス但独乙各邦ノ憲法ニハ多クハ此語ヲ以テ本条ト同一ナル条則ニ冠冒セシメタルハ各邦ニ於テ僅ニ独乙帝国ノ管制ヲ離レテ独立ノ主権ヲ得タルノ時ニ当レルヲ以テ此ノ一句ヲ確定シテ国主無上ノ独立権ヲ表明シタルカ故ニ由レルナリ我邦ハ固ヨリ独乙各小邦ノ如キ歴史上ノ関係アルニ非サレバ此ノ一句ハ幾ト要用ナキノミナラズ亦第1条ト重複ノ意義ヲ顕ス者ニ疑ハシ」とあります(第6コマ)。自由民主党の意識下の認識においては,「独乙帝国」ならぬ「某帝国」に「管制」されている「小邦」のように我が国は見えているから,せっかくの憲法の改正に際して当該「某帝国」に「管制」されるものではない「独立ノ主権」のあることをくどいながらもあえて表明してそのこだわっていたところの鬱懐を晴らそう,という思いもあるものでしょうか。

3 「日本国民の総意に基づく」

 いずれにせよ,自由民主党憲法改正草案においても,天皇の地位が日本国民の総意に基づくものであることには変化はないようです。これこそ,「日本らしい日本の姿」ということなのでしょう。

 『憲法義解』は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定する大日本帝国憲法1条について「・・・本条首めに立国の大義を掲げ,我が日本帝国は一系の皇統と相依て終始し,古今永遠に亙り,一ありて二なく,常ありて変なきことを示し,以て君民の関係を万世に昭かにす。/統治は大位に居り,大権を統べて国土及臣民を治むるなり。古典に天祖の勅を挙げて「瑞穂国是吾子孫可王之地宜爾皇孫就而治焉〔瑞穂の国は,是れ吾が子孫の王たるべきの地なり,宜しく爾皇孫就いて治せ〕」と云へり。・・・」と述べていますが,自由民主党の憲法改正草案は,天皇の地位は神意に基づくものとは解さないものでしょう。美濃部達吉は「わが万世一系の帝位は,民意に基いたものでもなければ,又敢て超人的の神意に基いたものとしても認められぬ,それは一に皇祖皇宗から伝はつた歴史的成果であつて,〔大日本帝国憲法の上諭に〕『祖宗ノ遺烈ヲ承ケ』とあるのは即ち此の意を示されたものである。」と述べており(美濃部54頁),また,「皇嗣が皇位に就きたまふのは,専ら血統上の権利に基くのであつて,民意に基くものでもなければ,西洋の基督教国の思想の如くに神意に基くものでもない。」とされています(同102頁)。この説明に対して,自由民主党憲法改正草案にいう「日本国民の総意」は,どう解されるものか。美濃部的な解釈としては歴史的なものとしての総意ということになりそうですが,畢竟,現在の総意(民意)の方が強そうでもあります。

 なお,1946年1月1日の昭和天皇の詔書においては「朕ト爾等臣民トノ間ノ紐帯ハ,終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ,単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」とされています。我が国民は,終始天皇を信頼し,かつ,敬愛してきたものであり,「日本国民の総意」には,この点も読み込むべきものでしょうか。
 第90回帝国議会において,金森徳次郎憲法担当国務大臣は,1946年7月3日の衆議院帝国憲法改正案委員会で「第1条ニアリマスル日本国民ト申シマスルノハ,理念的ニ申シマスレバ,現在ノ瞬間ニ生キテ居ル日本国民デハナクテ,是ト同一性ヲ認識シ得ル過去及ビ将来ノ人ヲモ併セ考フル考ヘ方デアリマス」と,同月12日の同委員会で「日本国民ノ総意ト云フモノハ,統合シテ一ツニナツテ居ルモノデアリマシテ,一人々々ノ人間ニ繋ガリハ持ツテ居リマスルケレドモ,一人々々ノ人間其ノモノデハアリマセヌ,サウ云フモノガ過去,現在,未来ト云フ区別ナク,一ツノ総意ガアル訳デアルト思ツテ居リマス」と答弁しています(内閣総理大臣の「皇室典範に関する有識者会議」第5回会合(2005年5月11日)資料)。


4 後光厳天皇の践祚

 天皇の地位は歴史的に「日本国民の総意に基く」ものであって「単ナル神話ト伝説トニ」基づくものではないとして,そのようなものであるということの歴史上の根拠を示す事例としてはどのようなものが考えられるでしょうか。

 話は14世紀の南北朝時代にさかのぼります。

 南北朝時代の観応二年(1351年)の正平一統によって,京都の崇光天皇及び皇太子直仁親王が廃され(同年十一月),神器は後村上天皇の吉野方に接収され(同年十二月),3上皇(光厳・光明・崇光)及び廃太子(直仁親王)が京都から吉野方に連れ去られる(正平七年(1352年)閏二月)という事態が生じました。そのため,皇位が空白となった京都の朝廷では,足利義詮の要請により,光厳上皇の第三皇子(光明上皇の甥,崇光上皇の弟)である弥仁王を新天皇(後光厳天皇)に立てることになりましたが,三種の神器もなければ皇位を与えるべき上皇もいないという異例の事態での践祚となりました(観応三年(1352年)八月)。上皇の代わりは新天皇の祖母の広義門院が務め,神器の代わりには神器の容器であった小唐櫃が用いられました。「何事も先例なしではすまない貴族は,継体天皇の例を持ちだしてこの手続きを合理化しようとした」といいます(佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中央公論社・1965年)276頁)。

6世紀初めの継体天皇の即位の事情はどうかというと,「武烈天皇には子がなかったので,大伴金村は,まず丹波の桑田の倭彦王を天皇にしようとして,兵仗を設けて迎えに行った。ところが,その兵を遠くから見た王は色を失って逃げ,ゆくえがわからなくなったので,つぎに〔越前三国出身の〕男大迹王〔継体天皇〕に白羽の矢をたてた。」「使者に迎えられた男大迹王が河内の樟葉宮に到着すると,金村は神器を奉った。王は位につき,金村を大連,許勢男人を大臣,物部麁鹿火を大連とした。」と概略日本書紀では伝えられています(井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』(中央公論社・1965年)450頁)。王朝交替論のうち水野祐説は,「当時,大和朝廷で最大の権力を握っていた大伴金村は,前王朝とは血縁関係のない継体天皇を擁立したのであろう」としています(井上452頁)。「時の権臣豪族の集議に依つて新帝を推戴した」ものです(美濃部102頁)。

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伝継体天皇大阪府枚方神社内
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 こちらの碑は「樟葉宮」
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高龗たかおかみのかみ継体天皇る末社貴船神社

  二月の辛卯の(つきたち)甲午金村大連(おほむらじ)(すなは)(ひざまづ)天子(すめらみこと)(みかがみ)(みつるぎ)(みし)(るし)(たてまつ)再拝(をろが)る。男大迹(をほどの)天皇(すめらみこと)(いな)(のたま)(いか)(わざ)り。寡人(われ)不才(かな)願請(ねが)(おもひ)(めぐら)賢者(さかしきひと)(えら)寡人(われ)ふ。大連(おほむらじ)(つち)固くる。男大迹(をほどの)天皇(すめらみこと)西(みたび)(ふたたび)ふ。大伴大連(たち)(まを)(やつこ)(はかりみ)大王(おほきみ)宜称(かな)り。(やつこ)()()()社稷(いへ)(はか)(いるかせ)ず。(さきはひ)(もろもろ)(ねがひ)()()(ゆるし)()へ」す。天皇(のたま)大臣(おほおみ)大連(おほむらじ)(いくさのきみ)(まへつきみ)諸臣(もろもろのおみたち)(みな)寡人(われ)(そむ)じ」(すなは)(みし)(るし)ふ。

 あまつ天皇ひつぎしろしめす。日本書紀小学館・1996年)289291頁) 

しかし,観応三年当時の宮廷では,「天皇がなければ,幕府以上に皇室・貴族が困る」ところではありつつも(佐藤276頁),継体天皇の前例だけでは,公卿らはなお落ち着かなかったようです。

ここで,我が国のconstitutional historyにおいて注目すべき名啖呵が飛び出します。


・・・公卿,剣璽なくして〔弥仁王の〕位に即くの不可なるを議す。関白藤原良基曰く,

「尊氏,剣となり,良基,璽となる。何ぞ不可ならん」

と。遂に立つ。これを後光厳院となす。(頼山陽『日本外史』巻之七(頼成一・頼惟勤訳))


すなわち足利尊氏が代表する民と二条(藤原)良基が代表する官とによって構成される我が国民の総意こそが天皇の地位が基づくべき最重要の要素であって,上皇の意思表示及び神器の所在といったものによって代表される皇室自律主義は二次的なものにすぎないというのでしょう(なお,神器の無いまま上皇(後白河法皇)の意思に基づいて即位した前例としては,既に寿永二年(1183年),平家都落ち後の後鳥羽天皇の例がありました。)。

二条良基は,文和五年(1356年)に『菟玖波集』を撰し,応安五年(1372年)には「連歌新式追加(応安新式)を定めて,ことばのかけ合いに興味の中心をおいた自由な詠みかたに枠をはめて,連歌の高踏化に一歩をふみ出し」た(佐藤408頁)連歌の大成者であり,能の分野では世阿弥(藤若)を保護したほか,師として足利義満に「宮廷の儀式典礼,貴族の教養と見なされていた和歌・管弦・書道その他」を教えて義満が「儀式に参列するばかりか,節会などの儀式で主役を演じさえ」できるようにする(佐藤447頁)など,主に文化史上の人物としてとらえられているようです。しかしながら,やはりまず,日本の歴史に影響を与えた政治家でありました。

なお,継体天皇推戴の功労者である大伴金村は,二条良基が位人臣を極め,かつ,我が文化史上に名を遺したのとは対照的に,没落しました。大伴金村は,欽明天皇(継体天皇の子)の代には,朝鮮政策の失敗で力を失っていたようです。日本書紀によれば,欽明天皇元年に新羅対策が問題になったとき,「大伴金村は住吉の宅にいて朝廷には出仕していなかった。天皇は人をやってねぎらったが,金村は言った。「わたくしが病気と称して出仕しないわけはほかでもありません。諸臣らは,わたくしが任那を滅ぼしたのだと申しており,わたくしは恐れて出仕しないのです。」と。」いう出来事があったそうです(井上479頁)。我が半島政策は,いつも難しいものです。


5 「南北朝の合体」の意味

 後光厳天皇の皇統(その子である後円融天皇,孫である後小松天皇(一休さんの父)へと続く。)の話に戻ると,「南朝が正平一統のとき,北朝の〔崇光〕天皇を廃して神器を接収したため,その後の北朝は皇位のシンボルを欠くことからくる正統性への不安をいつまでも解消できなかった」ということになり(佐藤441442頁),明徳三年(1392年)閏十月の「南北朝の合体」に当たって足利義満が承諾した条件は「〔南朝〕後亀山天皇は譲国の儀式をもって三種の神器を後小松天皇に渡す。」という「南朝の正統を認めたもの」とならざるを得ませんでした(佐藤443頁)。しかしながら,足利義満がした約束は義満の約束であって,実行においては,三種の神器は後小松天皇が吉野方から回収したものの,後亀山天皇から後小松天皇に対する譲国の儀による「譲位」はされませんでした。


  三種の神器の受け渡しにしても,「譲国之儀式」は実際には行われず,義満の命によって「文治之例」,つまり源平合戦の際に平家方によって安徳天皇とともに西国に持ち去られた神器が平家滅亡の後に京都の後鳥羽天皇のもとに返ってきた際の例,に準拠するとされている。これでは,皇位の受け渡しではなく,正統な天皇のもとから離れていた神器が本来の場所に帰還した,という解釈を許すことになる。さらに実際には「文治之例」そのままではなく,幾つかの儀礼が義満の命によって省略されており,その結果随分と軽い扱いにな〔った。〕(河内祥輔=新田一郎『天皇の歴史04 天皇と中世の武家』(講談社・2011年)246頁(新田一郎執筆))


正に後小松天皇の宮廷は,後亀山天皇と後小松天皇との間に「皇位の受け渡し」があったものとは解釈していませんでした。


〔明徳五年(1394年)に後亀山天皇に太上天皇の尊号が贈られるに際し〕廷臣の間では,皇位に就かず天皇の父でもない人物に尊号を贈ることの是非が議論となり,結局詔書の文面も「準的ノ旧蹤無シトイヘドモ,特ニ礼敬ノ新制ヲ垂レ,ヨロシク尊号ヲタテマツリテ太上天皇トナスベシ」と,前例のない特例であることを強調したものになっている。

  〔左大臣一条〕経嗣はまた,「此ノ尊号,希代ノ珍事ナリ」として,後醍醐天皇の皇胤を断絶させぬことへの批判を記している。後世にはこの尊号一件は「帝位ニアラザル人ノ尊号ノ例」として挙げられており,北朝方廷臣には,後亀山を天皇とし南朝を皇統とする認識は,〔南北朝の〕合一の前にも後にも,なかったに違いない。(河内=新田246頁(新田))


足利幕府の不安がどのようなものであったかはともかく,京都の朝廷内の意識においては,その「正統性への不安」は,正に三種の神器という「皇位のシンボルを欠く」ことだけだったようです。すなわち,臣民が協力輔翼して新たに後光厳天皇を擁立した二条良基的正統性は,それ自体で天皇の地位が基づくに十分であるものと考えられていて,三種の神器が無いことは不安の種ではあったものの,あえて正平一統時の統一天皇である後村上天皇の子孫から譲位を受ける形で正統性を承継し,又は注入・補強する必要は更になかったということでしょう。この二条良基的なものとして始まった後光厳天皇の正統性が継承せられているのが,現在の皇統であります。

南朝正統論を採って少なくとも後光厳天皇以降数代の天皇の正統性を否定する場合には,吉野方から現在の皇統への正統性の接続を,後亀山天皇から後小松天皇への譲位ないしは譲国の儀式による神器の授受をもって説明しなければならないことになります。この点については,「この年〔明徳三年〕冬,〔後亀山天皇は〕遂に法駕を備へて吉野を発し,大覚寺に御し,父子の礼を以て,神器を後小松帝に授く」(『日本外史』巻之五)というのが,幕末維新期までの南朝正統尊王論者の認識だったようです。これならば,現在の皇統の正統性に問題はないですね。1911年段階でも「北朝は辞を厚くして合体の儀を申入れ,南朝の後亀山天皇は父子禅譲の儀にて御承諾ありたるなり。父子禅譲の伝説は固より信ずべし。」と頑張っている者がいます(笹川臨風『南朝正統論』(春陽堂・1911年)21頁)。しかしながら,さきに見たように,歴史学的にはなかなかそのような事実があったとはいいにくいようです。ということで,後亀山天皇から後小松天皇への譲位の儀式がなかったにもかかわらず南朝の正統性が後小松天皇に継承されたことを説明するために,南朝正統論者は次のように工夫して論じます。


 かくて南北合一神器之〔後小松天皇〕に帰し且つ南帝〔後亀山天皇〕好意の承認を経たる上は,また南朝もなく北朝もなく,〔後小松天皇は〕一点曇りなき万世一系の天津日嗣と成らせ給うたのである。此意味に於て余は北朝の御系統を今日に伝へられたる皇室の尊厳が聊も減ずることなく,天壌と共に窮まりなからんことを断言する。(黒板勝美「南北両朝の由来と其正閏を論ず」友声会編『正閏断案国体之擁護』(松風書院・1911年)41頁)


 これは,後小松天皇側からあった正統性移転の黙示の申込みに対して,後亀山天皇が承諾(「好意の承認」)をしたことにより契約が成立し(「接続取引」ということになるのでしょうか。),その効力として正統性が後小松天皇に移ったとするものでしょうか。しかし,前記のとおり,後小松天皇側は,三種の神器の返還は求めたけれども,そもそも正統性を認めていない相手方からの正統性の授与など求めるわけがない,という態度であったようです。

 後小松天皇と後亀山天皇との間の契約構成が採り得ない場合には,後亀山天皇の単独行為としての説明が試みられます。


  ・・・後小松帝が正当の天子と為られたることは,先帝〔後円融天皇〕よりの位を継承せられたるが為めにあらずして,唯後亀山天皇が其の位を抛棄せられ,既に天皇にあらざるが為めに此時より正当の天皇と為られたるなり・・・(副島義一「法理上より観たる南北正閏論争」友声会67頁)


これは,二人共有の場合に,一方がその持分を放棄すると,他の一方の持分がその分膨らんで完全な所有者になる,という共有の性質(民法255条参照)を連想させる説明ですね。しかしながら,そうだとすると,後小松天皇の有していた「持分」は何に由来したのでしょうか。やはり,後光厳天皇即位に当たっての二条良基的正統性ではなかったでしょうか。

 

6 三種の神器など

 なお,三種の神器については,明治22年の皇室典範ではその第10条で「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定していました。同条については,伊藤博文の『皇室典範義解』において,「恭て按ずるに,神祖以来鏡,剣,璽三種の神器を以て皇位の御守と為したまひ,歴代即位の時は必神器を承くるを以て例とせられたり。・・・本条は皇位の一日も曠闕すべからざるを示し,及神器相承の大義を掲げ,以て旧章を昭明にす。若乃継承の大義は践祚の儀文の有無を問はざるは,固より本条の精神なり。」と説かれていました。「践祚に伴うて行はせらる践祚の儀式及び詔勅は,唯皇位継承の事実を公に確認し宣言したまふに止まり,その効力発生の要件ではない」わけです(美濃部104105頁)。

南北朝時代の乱の原因に関して『皇室典範義解』は,「・・・聖武天皇・光仁天皇に至て遂に〔譲位が〕定例を為せり。此を世変の一とす。其の後権臣の強迫に因り両統互立を例とするの事あるに至る。而して南北朝の乱亦此に源因せり。本条〔明治22年皇室典範10条〕に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はる者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」と述べています。選定主義がまずかったということのようです。そこで,明治22年の皇室典範においては「皇位の継承は法律上当然に発生する事実であつて,法律行為ではない」ものとされたわけです(美濃部104頁)。


なお,「権臣の強迫」というのでは,北条時宗に気の毒ですね。持明院統・大覚寺統の両統迭立の始まりについて,『増鏡』第九「草枕」は次のように伝えています。


〔北条〕時宗朝臣もいとめでたきものにて,「本院〔後深草上皇。持明院統の祖〕のかく世を思し捨てんずる〔弟である亀山上皇(大覚寺統の祖)の系統が皇統を継ぐことになることをはかなんで出家しようとする〕,いとかたじけなくあはれなる御ことなり。故院〔後嵯峨上皇。後深草上皇の父〕の御掟〔皇統を亀山天皇系に伝えたいとするもの〕は,やうこそあらめなれど,〔後深草上皇は〕そこらの御このかみ〔兄〕にて,させる御誤りもおはしまさざらん。いかでかはたちまちに,名残なくは物し給ふべき。いと怠々しきわざなり」とて,新院〔亀山上皇〕へも奏し,かなたこなた宥め申して,東御方の若宮〔後深草上皇の子である後の伏見天皇〕を坊〔亀山上皇の子である後宇多天皇の皇太子〕にたてまつりぬ。


怖い顔の人が「誠意を見せろ。」というと恐喝(刑法2491項「人を恐喝して財物を交付させた者は,10年以下の懲役に処する。」)になりますが,鎌倉幕府の執権がマアマアと「かなたこなた宥め申」すのも「強迫」になったようです。北条時宗は,モンゴル大帝国の侵略を受けた国々を助ける集団的自衛権を行使する余裕もあらばこそ,個別的自衛権の発動のみで大陸及び半島からの我が国に対する安全保障上の危険に対処してしまったような強面の人でした。


現在の昭和22年法律第3号「皇室典範」4条は「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」と規定しており,そこでは神器に言及されていません。これについては,194612月5日の第91回帝国議会衆議院本会議において,吉田安議員の質疑に対して金森徳次郎国務大臣が次のように答弁しています。すなわち,政教分離原則に由来する沈黙であるとされているわけです。


 次ぎに皇位の継承と,三種の神器との関係がいかになるかというお尋ねでありましたが,これは皇位が継承せられますれば,三種の神器がそれに追随するということは,こととして当然のことと考えてをります。しかしながらこれに関しまする規定を,皇室典範の中には設けておりません。その次第は,他に考うべき点もありますけれども,主たる点は,三種の神器は一面におきまして信仰ということと結びつけておる場面が非常に多いのでありますから,これを皇室典範そのものの中に表わすことが必ずしも適当でないというふうに考えまして,皇室典範の上にその規定が現れてはいないわけであります。しかしながら三種の神器が皇位の継承と結びついておることはもとよりでありまするので,その物的の面,詰まり信仰の面ではなくして,物的の面におきましての結びつきを,何らか予想しなければなりませんので,その点は,恐らく後に御審議を煩わすことになるであろうと存じまするところの皇室経済法の中に,片鱗を示す規定があることと考えております。


 皇室経済法7条は「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。」と規定しています。同条の趣旨について,19461216日,第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会において,金森徳次郎国務大臣は次のように説明しています。天皇にも「民」法の適用があることが前提とされています。


  次ぎに第7条におきまして,日本国の象徴である天皇の地位に特に深い由緒ある物につきましては,一般相続財産に関する原則によらずして,これらのものが常に皇位とともに,皇嗣がこれを受けらるべきものなる旨を規定いたしております,このことはだいたいこの皇室経済法で考えておりまするのは,民法等に規定せられることを念頭にはおかないのでありまするけれども,しかし特に天皇の御地位に由緒深いものの一番顕著なものは,三種の神器などが,物的な面から申しましてここの所にはいるかとも存じますが,さようなものを一般の相続法等の規定によつて処理いたしますることは,甚はだ目的に副わない結果を生じまするので,かようなものは特別なるものとして相続法より除外して,皇位のある所にこれが帰属するということを定めたわけであります。


 天皇に民法の適用があるのならば相続税法の適用もあるわけで,19461217日,第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会におけるその点に関する小島徹三委員の質疑に対し,金森徳次郎国務大臣は次のように答弁しています。


 ・・・だいたい〔皇室経済法〕第7条で考えております中におきましては,はつきり念頭に置いておりますのは,三種の神器でありますけれども,三種の神器を物の方面から見た場合でありますけれども,そのほかにもここに入り得る問題があるのではないか,かように考えております,所がその中におきまして,極く日本の古典的な美術の代表的なものというようなものがあります時に,一々それが相続税の客体になりますと,さような財産を保全することもできないというふうな関係になりまして,制度の関係はよほど考えなければなりませんので,これもまことに卑怯なようでありますけれども,今後租税制度を考えます時に,はっきりそこをきめたい,かように考えております


 相続税法12条1項1号に,皇室経済法7条の皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,相続税の非課税財産として掲げられています。

 三種の神器は,国有財産ではありません。19461221日,第91回帝国議会貴族院皇室経済法案特別委員会における大谷正男委員の質疑に対する金森徳次郎国務大臣の答弁は,次のとおり。


  此の皇位に非常に由緒のあると云ふもの・・・今の三種の神器でありましても,皇位と云ふ公の御地位に伴ふものでありますが故に,本当から云へば国の財産として移るべきものと考ふることが,少くとも相当の理由があると思つて居ります,処がさう云ふ風に致しますると,どうしても神器などは,信仰と云ふものと結び付いて居りまする為に,国の方にそれは物的関係に於ては移つてしまふ,それに籠つて居る精神の関係に於ては皇室の方に置くと云ふことが,如何にも不自然な考が起りまして,取扱上の上にも面白くない点があると云ふのでありまするが故に,宗教に関しまするものは国の方には移さない方が宜いであらう,と致しますると,皇室の私有財産の方に置くより外に仕様がない,こんな考へ方で三種の神器の方は考へて居ります・・・


 さて,話は14世紀に戻りますが,後光厳天皇は,吉野方から攻撃されていたばかりではなく,延文二年(1357年)二月に崇光上皇が吉野方に許されて帰京してからは,その正統性について兄の上皇からも圧迫を受けていたようです。


・・・〔崇光上皇及び後光厳天皇の父である〕光厳院の没後の応安四年(1371)になって,〔後光厳〕天皇は皇子緒仁親王への譲位を図るが,持明院統の正嫡を自任する崇光院は,皇子栄仁親王の立太子を望んで武家に働きかけた。これに対し,若年の将軍義満を補佐する管領細川頼之は「聖断たるべし」として天皇に判断を返上し,天皇は緒仁親王(後円融天皇)に譲位して院政を執り,その3年後に没した。・・・「天照大神以来一流の正統」を自任する崇光院流の存在は,皇位継承をめぐってなお紛れの余地を残すことになる。(河内=新田207頁(新田))


ところでこの崇光上皇の系統が世襲親王家の伏見宮家で,先の大戦後に至って,この流れの宮家は,皇籍を離脱することになりました。皇籍復帰いかんが時に話題になる旧宮家です(ただし,明治天皇裁定の明治40年皇室典範増補6条は「皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス」と規定していました。)。

 いずれにせよ,そもそもは,足利尊氏が悪いのです。


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 深草北陵(深草十二帝陵)(京都市伏見区)
 後光厳天皇を含む持明院統の12天皇が合葬されています。

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1 大阪・道頓堀から大審院へ

 「カフェ丸玉」事件判決という民法関係の有名な判決があります。当該判決については,その判示するところが民法学上どのように位置付けられるか(「自然債務」だ云々),そもそも「カフェ丸玉」とは何か(大阪は道頓堀にあった丸玉という名前の「カフヱー」であるが,ここでいう「カフヱー」はフランス語で勉強するcafeとはまた違ったものであり,すなわち大正から改元された昭和の初めにおける我が国の「モボ・モガ」その他の言葉で表される世相の中で云々等,いろいろ論ずべき点がありますが,脱線すると例によって長くなりますので,省略します。

 で,そのカフェ丸玉事件についてかつて説明することがあり,

「えー,そこで,約束の400円を払ってくれよと女性の方からお客さんを被告にして訴えが提起されまして,400円上げるよと調子のいい約束をしてしまったお客さんは一審二審と負けてしまったのですが,大審院が昭和10425日に判決を出しまして┉┉

 とまできたところ,

「えっ,タイシンインですか。それは間違っているんじゃないですか。ダイシンインが正しい読み方ではないのですか。」

 と,配布資料に記された「大審院」との漢字表記を見ながらの,思わぬ質問がありました(大審院が現在の最高裁判所の前身であるということは,すんなり理解してもらえたのですが。)。

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 今回の記事は,その,大審院の「大」の読み方について,「タイシンイン」派の立場から,改めて考えてみようとするものです。

 

 まず,日本語は神道をシントウと読むことから分かるように澄んだ音をよしとするから,偉い裁判所は,タイシンインなのですよ,との説明が思いつかれますが,これは,現在の最高裁判所の偉い法廷である大法廷はタイホウテイではなく,ダイホウテイであることから,説得力のある説明ということにはならないようです。そもそも神社も,シンシャではなくジンジャですね。

 事典・辞書類を調べてみると,大審院の読み方については,ダイシンインが多数派です。ただし,タイシンインという読み方もあるものとはされています。穏便に両論併記主義がとられているということは,どちらか一方の読み方が正しいとする決め手となる根拠はいまだに無いということのようです。


2 呉音と漢音


(1)ダイとタイとの相違

 ところで,そもそも大の読み方に,ダイとタイとの2種類があるのはなぜでしょうか。

 前者のダイは,王仁博士によって5世紀前半に我が国に漢字が伝来されて以来の古い音である呉音,後者のタイは,7世紀初めからの遣隋使・遣唐使時代になって導入されたそれより新しい音である漢音です。ダイとタイとの違いは,呉音と漢音との違いということになります。


(2)呉音・漢音「対抗」史

 当初我が国においては,百済経由で渡来したかつての長江沿岸の音である呉音が専ら用いられていたわけですが,隋唐帝国の首都である長安・洛陽の音である漢音が8世紀の「グローバル・スタンダード」であるぞ,ということで,桓武天皇の延暦11年(792)には明経之徒(儒学学生)は漢音を学ぶべしとの勅令が出,翌延暦12年(793年)には仏僧に対しても同様の勅令が出ます。しかしながら,仏教界においては漢音公定化に対する反発が強く,延暦23年(804年)には漢音が必ずできなければならないということではないこととなり,漢音公定化が撤回され,呉音派が巻き返します。その後は仏教界は呉音の支配が続きます。また,律令を学ぶ明法道についても,漢音公定化は及ばず,呉音のまま明治維新まで継承されることになります。

 唐の滅亡(907)後の宋代以降,全般に,我が国においては漢音に対して呉音が優勢な形で時代は推移します。日本人にとって,呉音の方が漢音よりも一般に「やわらかい」感じがするからではないかと考えられています。

 その間,生硬な漢音は「厳格な武家倫理に親和的」ということもあってか,江戸期儒学は,漢音を採用します(中世儒学の担い手は呉音派の仏教僧侶でした。)。江戸時代後期には,「仏教呉音,儒教漢音」という「住み分け」が生じていたとされます。

 そして,明治維新。

 「律令の発音は基本的に呉音だったから,太政大臣とか文部省とか兵部省とか,呉音読みの制度が色々導入された┉┉。しかしこういう復古主義は,革新の時代にはふさわしくなく,ほどなく欧米文物の全面的導入時代となったのだが,その担い手は藩校において漢音で中国古典を学んだ官僚であった。そこで明治10年代には,公文書の世界は基本的に漢音が支配することとなった。熊本藩校出身の井上毅を中心として起稿され,明治22年に刊行された『憲法義解』は,漢音時代のもので,まあ「ぎかい」と読んだだろうな。」ということになりました。

 (以上,呉音と漢音との関係については,長尾龍一教授のウェッブ・サイト「OURANOS」のウェッブ・ページ「日本史の中の呉音と漢音」に掲載されている同教授の論文によりました。同ウェッブ・サイトの「独居独白(July 2013)」ウェッブ・ページの72日の項によると,同論文は紀要に採用されなかったものだそうですが,インターネットでアクセスでき,ありがたいことです。)

 「仏教呉音,儒教漢音」なので,徳高い僧侶は大徳(だいとく),大いに勉強した儒学者は大儒(たいじゅ)ということになるのでしょう。弘法大師はダイシですが,一緒に渡唐した遣唐大使の藤原葛野麻呂が「私は日本のダイシだ」と長安で言うと,「ダイシって何だ」と笑われたものでありましょう。大衆は,ダイシュであればお坊さんの群れ,タイシュウであれば一般の人々。大雪山は,ダイセッセンと読めば仏教発祥の地インドの北のヒマラヤ山脈,これに対して北海道の旭岳を主峰とする山塊は,ダイセツザンと呼ばれたり,タイセツザンと唱えられたり。そして,重大な法規である大法はタイホウですが,ダイホウとなると,世俗を超えた仏の教法ということになります。


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JR北海道の特急大雪1号(旭川駅構内)
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 特急大雪は,漢音で「たいせつ」と読みます。


3 大阪・北浜から大審院へ


(1)大審院の発足

 さて,「明治10年代には,公文書の世界は基本的に漢音が支配することとなった」ということですから,大審院の読み方については,まずその発足の時期が問題になります。

 大審院の発足は,明治8年(1875年)のことです。

 1875524日付け明治8年太政官第91号布告大審院諸裁判所職制章程が大審院の組織を定めており,その大審院章程1条は「大審院ハ民事刑事ノ上告ヲ受ケ上等裁判所以下ノ審判ノ不法ナル者ヲ破毀シテ全国法憲ノ統一ヲ主持スルノ所トス」と規定していました。(明治8612日の太政官の達によれば,控訴上告手続に係る明治8年太政官第93号布告の布告日である1875524日が大審院の開庁日。)

 この大審院諸裁判所職制章程は,その前月1875414日付けの明治8年太政官第59号布告が「┉┉元老院大審院被置候事┉┉」としていたことに基づくものですが,当該布告自体は更に同日付けの明治天皇の次の詔書に基づくものでした。



┉┉
朕今誓文ノ意ヲ拡充シ茲ニ元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ広メ大審院ヲ置キ以テ審判ノ権ヲ鞏クシ又地方官ヲ召集シ以テ民情ヲ通シ公益ヲ図リ漸次ニ国家立憲ノ政体ヲ立テ汝衆庶ト倶ニ其慶ニ頼ラント欲ス┉┉


 立憲政体漸立の詔,あるいは漸次に立憲政体を立てるの詔と呼ばれているものです。

 この詔書はまた,同年1月から2月にかけて,大久保利通,木戸孝允及び板垣退助が大阪の料亭等で行ったいわゆる大阪会議の結果に基づくものでした。


(2)大阪会議

 前年木戸が去った後の政府において,外からは民権派及び鹿児島の西郷隆盛派の攻撃があり,内においては旧主家の島津久光左大臣からことごとに弾劾を受けて孤立感を深める大久保の政権を強化すべく,前々年江藤新平に追い落とされて下野中の井上馨が(江藤は,1874年の佐賀の乱で大久保政権に敗れ,同年4月13日梟首,既に故人。)木戸及び民権派の板垣を政府に復帰させるため画策した18751月から2月にかけての大阪会議は,「往年,坂本龍馬が薩長同盟をはかった故智にならい┉┉┉┉3人それぞれ偶然に落ちあったような形」で行われました(井上清『日本の歴史20 明治維新』(中央公論社・1966年)414頁)。したがって,現在イメージされるところの全員一同に会した「会議」とは異なります。木戸は187311月の段階で,伊藤博文から政体について意見を問われ,司法省と裁判所とを分離すべきこと,大臣・参議が立法・行政を共に行っている現状から他日必ず元老院及び下院の二院を立てるようにすべきことと述べていましたが(井上・前掲380頁),立憲政体漸立の詔の内容は,この線に沿ったものとなっています。すなわち,大阪会議の過程で,木戸は,次のような政府改革図案を作成していたところでしたが,大久保がそれをのんだというわけです。(18753月,木戸及び板垣は参議として政府に復帰。)


              天皇陛下

             ┉┉┉┉┉┉┉┉┉

                            内閣

             太政左右大臣

               参議        


              行 政    大審院    元老院(上)

                     地方官(下)

             

 正確には再現できていないのですが(現物の画像は,国立国会図書館ウェッブ・サイトの電子展示会「資料に見る日本の近代」第1章の110「大阪会議」を参照),天皇及び天皇を輔弼する内閣(大臣(太政大臣,左大臣及び右大臣)及び参議により構成)の下に,行政(参議と各省卿との分離は板垣の持論(井上・前掲417頁)。),大審院並びに元老院及び地方官(地方官会議)が並び,あたかも行政,司法及び立法の三権が分立するような形になっています。

 大阪会議は,1875211日に大久保,木戸,板垣,井上馨及び伊藤博文が集まって,締め。会場となった北浜の料亭加賀伊は,木戸によって新たに花外楼と命名され,政官界の大立者御用達の店に。現在もその名で営業しています(ただし,北浜の本店ビルは現在建替中。)。


4 パリ・セーヌ河畔から大審院へ


(1)フランス帰朝の法制官僚・井上毅

 大審院は,大阪での会合の過程において木戸孝允が既にその名前による設置を主張していたわけですが,木戸の提案の元となった大審院の概念はどこに由来するものだったのでしょうか。立憲政体という近代的な制度を指向しているわけですから,古代以来の律令というわけではないでしょう。 

 実は,大審院は,仏式の概念です。

 しかし,仏式といっても仏さまの仏教式ではなく,おふらんすのフランス式のことです。

 ここでまた,後の『憲法義解』の主起稿者,明治法制官僚の雄,井上毅が登場します。

 1872年から1873年まで司法省からフランスに留学していた井上毅は,滞仏中からフランスの最高裁判所に当たる「大審院」に関するノートないしは覚書を作成しており,帰国後1874年中にはいわゆる彼の司法四部作である『仏国大審院考』,『治罪法備考』,『王国建国法』及び『仏国司法三職考』をほぼまとめ上げ(これは,18751月には筆写のため植木枝盛に貸し出されなどしています。),1874年の「法制を論じ左院の議を駁す」で大審院の設置されるべきことを説き,1875年の大阪会議後の同年311日には大久保利通参議あてに大審院の設置を含む司法改革意見を提出,翌月14日の立憲政体漸立の詔は,実に井上毅自身の起草に係るものであったところです(木野主計『井上毅研究』(続群書類従完成会・1995年)参照)。すなわち,当時「大審院」といえば,井上毅の説く大審院のことであったわけでありましょう。フランス式であります。

 西洋起源の大審院でありますから,律令又は仏教由来の語として,ダイシンインと呉音で読まなければならない,ということにはならないことになります。欧米文物の全面的導入時代の先駆けとしては,むしろ漢音でタイシンインと読むべきだ,ということに一応なりそうです。

 しかしながら,日本語における一般的な呉音の優勢ということも考えなければなりません。大審院が,great審院の意味であるのであれば,実感的には,一般的にはやはりダイシンインと読むべきかと思われます。真面目に立派な仕事をする優秀な研究者を「大先生」と呼ぶときはダイセンセイですが,うっかり優雅な大学者に「先生はタイガクシャですね」とごあいさつ申し上げると大変です。「おれは怠学者かっ」とキレてしまうからです。


(2)Elle n'était pas grande.

 それでは,井上毅の推奨するフランス最終審裁判所である大審院は,フランス語では何といったのでしょうか。フランス語ですから,greatならぬgrandな裁判所という意味の文字が使われているのでしょうか。

 実は,フランスの大審院は,フランス語では別にgrandな裁判所ではありません。La Cour de cassation現在では文字どおりに破毀院と訳される名前の裁判所です。下級裁判所の「審判ノ不法ナル者ヲ破毀シテ全国法憲ノ統一ヲ主持スルノ所」として,即物的かつ無愛想に破毀院と名付けられたのでしょう(なお,我が現行の訴訟法では「破棄」の語が用いられるため,破棄院とも訳されますが,我が大審院の模範となったとのいにしえのゆかりを重視するのであれば,大審院章程の文字に忠実に破毀院とした方がよいのではないでしょうか。)。ルイ16世在位中1791年のフランス王国の憲法典第3篇(公権力について)第5章(司法権について)19条には「立法府のもとに,全王国に唯一の破毀裁判所(un seul tribunal de cassation)を設けるものとする。当該裁判所は,その権能として,裁判所によって下された終審としての裁判に対する破毀の請求について・・・宣告するものとする。」とありますから,そもそもの破毀裁判所は,立法府側の存在として,司法権プロパーの裁判所に対して喧嘩腰です。「破毀院」と訳すと後ろ向きでネガティヴなのですが,確かに仕方のないところです。しかしながら,そのままではとても我が国には受け入れられなかったのでしょうから,一番偉いということが分かり,かつ,ポジティヴでもある「大審院」という訳語が編み出されたものでしょう。(なお,フランスは,アンシャン・レジーム下の特権階級であった法服貴族に対する反感の歴史もあってか,裁判所に対する姿勢は全面肯定的なものではありません。例えば,フランス民法5条は,「裁判官は,係属された訴訟について,一般的及び法規的命題の形で裁判をしてはならない。」と,「判例法」に対して太い釘をさしています。)

 「大審院」という名前になったからとはいえ,井上毅ら政府上層部においては,その立派な名前によってうっかり自ら幻惑されることはなく,大審院は別にgrandeなものではないという事実は忘れられていません。大日本帝国憲法起草仲間の伊東巳代治による『憲法義解』の英訳本"Commentaries on the Constitution of the Empire of Japan (2nd ed.)"(中央大学・1906年)は"In the 8th year (1875), the Court of Cassation was established so as to maintain the unity of the law. In the same year, the functions of the Minister of Justice were settled to consist in exercising control over the judicial administration and not in interfering with trials."と当該部分を訳しており(113頁),飽くまでも大審院は"Court of Cassation"であって,日本語からの逆翻訳において迷走して"Grand Court of Justice"のようなものとされることはなかったところです。 

 明治5年(1872年)83日付け太政官の司法職務定制(司法省職制並ニ事務章程)の第2条は「司法省ハ全国法憲ヲ司リ各裁判所ヲ統括ス」と,第3条は「省務支分スル者3トス/裁判所 検事局/明法寮」と規定しており,裁判所は司法省に属するものとされていたものが,明治8年(1875)太政官第91号布告大審院諸裁判所職制章程によって裁判所は司法省から独立した形になり,それに伴い,明治858日司法省達第10号達の司法省職制における卿に係る条項の第1号ただし書は,確かに,司法卿は「裁判ニ干預セス」と規定していました。しかしながら,なお同号の本文は,司法卿は「諸裁判官ヲ監督シ庶務ヲ総判シ及検事ヲ管摂シ検務ヲ統理スルコトヲ掌ル」と規定しており,司法行政は依然として司法省が所管していたところです。「諸裁判官ヲ監督」する司法省に対しては,大審院もそれほどgreatではなかったものでしょう。

 ところで,そもそも大審院は,大・審院なのでしょうか,大審・院なのでしょうか,それとも三文字熟語なのでしょうか。

 ○審院という語は,現行法令においては,見たところ大審院しかありませんし,旧法令においても同様の結果でありそうです。井上毅の用いた翻訳語には「覆審院」があり(木野・前掲438頁等),また,cour d'assisesを「会審院」と訳しているようですが(木野・前掲75頁,77頁等),「覆審」はそれで一つの熟語ですから,前者は覆審・院ということになり,後者も,会して審理するから「会審」ということならば(assisesには会合・大会の意味があります。),前者に倣って会審・院と解すべきことになるでしょう。

 ということで,大審院は大審・院であると解することになると,下級裁判所の「審判ノ不法ナル者ヲ破毀」するための審判が「大審」ということになりそうです。しかし,下級裁判所の裁判官にとってはそうなのかもしれませんが,大審とは少々大仰なようです。また,現行法令においては,見たところ大審の語は大審院の語中でのみ使われているところであって,旧法令においても同様のこととなっているように思われます。大審なる概念の存在の説明は,なかなか容易なことではなさそうです。

 結局,「大審院」はそもそもが,ネガティヴな「破毀院」の語を避けるための,苦肉の仲人口による新作三文字熟語として考えるべきかもしれません。

 また,ちなみに,大審院の母法国フランスにおいては,現在,日本の地方裁判所に相当する大審裁判所(tribunal de grande instance)及び少額事件を取り扱う小審裁判所(tribunal d'instance)が第一審裁判所として存在しています。ここでの大審(grande instanceは,grandeが入っていること及び小審との対比から,やはりダイシンでしょう。そうであれば,母法国のgrandeな仕事をする第一審裁判所にダイシンを譲ってダイシンサイバンショとし,こちらのかつての終審裁判所はタイシンインであったということで住み分けてはどうでしょうか。


5 おわりに

 大審院はお寺でもなければ律令制官庁でもありませんから,ダイシンインと呉音で読む必要はありません。むしろ,近代フランスのCour de cassationをその原型とするものなのですから,文明開化時代における新規輸入の欧米文物制度の一つとして,藩校で儒学を学んだ士族出身の秀才法制官僚に倣って,漢音でタイシンインと読むべきことになりそうです。日常よく言う「大(だい)○○」と同様に,実感を込めてgreatダイシンインと言おうにも,大審院においては何が大(grande)なのかが具体的にははっきりしないところです。また,大審院法制の母法国であるフランスには現在,大審裁判所という裁判所が存在するので,そちらをダシンサイバンショと読んでこちらをタイシンインと読めば,混乱が避けられるようにも思われます。以上がタイシンイン派としての主張です。

 しかしながら,漢音でタイシンインと読まなければならない,というところまではいきません。呉音優勢下での呉音・漢音混用状態の中,我が国語においては,結局は理論ではなく慣習が決めるべき問題ではあります。そして,慣習を決める日常の運用においては,感覚的なものが占める位置は無視できないものであります。大審院の場合,まず文字面が問題になりますが,何やら寺院関係にありそうな漢字の並びでもあり(妙心寺内に大心院という名前の塔頭があり,ダイシンインと読まれているようです。),また,いよいよここで最後のお裁きかということになれば,やはり深くおごそかに,語頭を濁って読むべきものと感じられるのかもしれません。

 『憲法義解』も,ケンポウギゲと読んだ方が,正統的な漢音のケンポウギカイよりも何やら,御利益(りやく)がありそうに感じられます。


(なお,社団法人日本放送協会の放送用語並発音改善委員会は,1934411日,大審院の読みとして「大審院部内の伝統的な読み方を尊重して」タイシンインを採用していますが(すなわち大審院の人々の自称はタイシンイン),そこに至るまでの調査に係る極めて興味深い報告である塩田雄大「漢語の読み方はどのように決められてきたか」NHK放送文化研究所年報20079094頁)が,インターネットでアクセス可能になっています。1934年当時において既に「現代の中年以下の人は多く「ダイ」なり」という状況だったところ,二十代の青年からは「タイシンインといふと法律に凝り固まつてゐるやるだ」とある意味もっともな違和感が表明される一方,十代の高等女学校5年生の大多数(59名中57名)からは,「ダイシンインといふ方が重重しくて権威がある。タイシンインでは軽いやうで権威がない」という率直な感想が述べられていたそうです。その後,新憲法下の最高裁判所広報室が,1962年当時,日本放送協会に「ダイシンイン」と読むとの回答をしたことがあるようですが,同協会の放送用語委員会は「タイシンイン」を維持しています(同論文102頁注15)。



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