Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

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1 ポンペイヤとクロディウス

 「カエサルの妻」(uxor caesaris)といった場合,「薬鑵頭の女たらし」であったカエサルの女性遍歴が問題になるというよりは,「李下の冠」又は「瓜田の履」といった意味になります。

 故事にいわく。

 

  〔カエサルは〕コルネリアの後添えとして,クィントゥス・ポンペイユスの娘で,ルキウス・スラの孫娘でもあるポンペイヤを家に迎えた。やがて彼女を,プブリウス・クロディウスに犯されたと考えて離婚した。この男は女に変装し,公けの祭礼の中に忍びこみ,ポンペイヤに不倫な関係をせまったという噂がたって,なかなか消えず,ついに元老院は,祭儀冒涜の件に関して真相を究明することを決議したほどであった。

  ・・・

  プブリウス・クロディウスがカエサルの妻ポンペイヤを犯した罪で,そして同じ理由で聖儀冒涜の罪で告発されたとき,カエサルは証人として呼び出されても,「私は何も知らない」と主張した。母アウレリアも姉ユリアも,同じ審判人の前で一部始終を自信たっぷりと陳述していたのであるが。「ではどうして妻を離婚したのか」と尋ねられ,カエサルはこう答えた。

  「私の家族は,罪を犯してはならぬことは勿論,その嫌疑すらかけられてはならぬと考えているからだ〔Quoniam meos tam suspicione quam crimine iudico carere oportere〕」と。

(スエトニウス『ローマ皇帝伝』「カエサル」6,74(国原吉之助訳・岩波文庫))

 

  ・・・カエサルに有難くない出来事がその家庭に起つて来た。プーブリウス クローディウスは家柄が貴族で財産も弁舌も立派であつたが,傲慢と横暴にかけては厚顔で有名な何人にも劣らなかつた。この男がカエサルの妻のポンペーイアに恋慕し,女の方も厭とは云はなかつたが,女たちの部屋の警戒が厳重であつた上,カエサルの母アウレーリアは貞淑な人で嫁を監視してゐたので,二人の密会はいつも困難で危険を伴なつてゐた。

  ・・・

  この祭〔男子禁制のボナ・デアの祭。男は皆家を出て,家に残った妻が主宰。主要な行事は夜営まれる。女たちで戯れ,音楽が盛んに催される。〕をこの頃(前6212月)ポンペーイアが催ほしたが,クローディウスはまだ髭が生えてゐなかつたので人目に附かないと考へ,琴弾き女の衣装と飾りを著け,若い女のやうな風をしてその家へ向つた。行つて見ると,門が開いてゐて,諜し合はせて置いた召使の女の手で無事に引入れられたが・・・クローディウスは,入れてくれた召使の部屋に逃げ込んでゐるのを発見され,何者だか明らかになつた上,女たちに戸口から追ひ出された。この事をそこから出て来た女たちが夜の間に直ぐ夫に話し,夜が明ける頃には,クローディウスが不敬な行為をして,その侮辱を受けた人々ばかりでなく国家及び神々からも裁きを受けなければならないといふ噂が町中に弘まつた。そこでトリブーヌス プレービスの一人がクローディウスを不敬の廉で告発し(前61年),元老院の有力者はこれを有罪にするために協力・・・した。しかしこれらの人の努力に対抗した民衆はクローディウスを擁護し,それに驚き恐れてゐた裁判官を向ふに廻してクローディウスに非常な援助を与へた。カエサルは直ちに(前61年1月)ポンペーイアを離別したが,法廷に証人として呼び出された時にはクローディウスに対して述べられた事実は何も知らないと云つた。その言葉が背理と思はれたので,告発者が「ではどうして妻を離別したのか。」と訊くと,「私の妻たるものは嫌疑を受ける女であつてはならないから。」と云つた。

  或る人はこれをカエサルが考へてゐる通り述べたのだと云ひ,或る人はクローディウスを一心に救はうとしてゐる民衆の機嫌を取つたのだと云つてゐる。とにかくクローディウス〔は〕この告発に対して無罪となつた・・・

(『プルターク英雄伝』「カエサル」9,10(河野与一訳・岩波文庫))

 

2 離婚原因としての「不貞な行為」

 我が民法770条1項1号によれば,「配偶者に不貞な行為があったとき」は,夫婦の一方は離婚の訴えを提起することができる(つまり,離婚できる。)と規定しています。

 カエサルの妻ポンペイヤは「不貞な行為」をしたのでしょうか。

 

 「不貞行為とは,夫婦間の貞節義務(守操義務)に反する行為をいう。姦通がその代表的な場合であり,実際上も姦通の事例が多い。しかし,不貞行為の概念はかなり漠然としている。」とされます(阿部徹『新版注釈民法(22)親族(2)』(有斐閣・2008年)360頁)。微妙な言い回しですが,これは,不貞行為を姦通の場合に限定すべきか否かについては学説上の対立があり,判例の立場も必ずしも明らかではないからです(阿部徹362頁)。「不貞行為」に含まれ得る姦通以外の性関係としては,「不正常な異性関係,同性愛,獣姦・鶏姦など」が考えられています(阿部徹363頁参照。ただし,鶏姦といっても相手は鶏ではないはずです。)。

 「姦通」は,フランス語のadultèreですね。

 1804年のナポレオンの民法典にいわく。

 

   229

 Le mari pourra demander le divorce pour cause d’ adultère de sa femme.

 (夫は,妻の姦通を原因として離婚を請求することができる。)

 

      230.

  La femme pourra demander le divorce pour cause d’ adultère de son mari, lorsqu’il aura tenu sa concubine dans la maison commune.

 (妻は,夫の姦通を原因として離婚を請求することができる。ただし,夫が姦通の相手を共同の家に同居させたときに限る。)

 

詰まるところ,おれは浮気はするけれどジョゼフィーヌに妻妾同居を求めることまではしないよ,というのがナポレオンの考えであったようです。

昭和22年法律第222号で1948年1月1日から改正される前の我が民法813条は,「妻カ姦通ヲ為シタルトキ」には夫が(2号),「夫カ姦淫罪ニ因リテ刑ニ処セラレタルトキ」には妻が(3号)離婚の訴えを提起することができるものと規定していました。

 昭和22年法律第124号により19471115日から削除される前の我が刑法183条は次のとおり。人妻でなければよかったようです。したがって,ナポレオンの民法典が気にしたようには妻妾同居は問題にならなかったようです。

 

 第183条 有夫ノ婦姦通シタルトキハ2年以下ノ懲役ニ処ス其相姦シタル者亦同シ

  前項ノ罪ハ本夫ノ告訴ヲ待テ之ヲ論ス但本夫姦通ヲ縦容シタルトキハ告訴ノ効ナシ

 

 ところで,民法の旧813条3号及び刑法旧183条並びにそれぞれの改正日付だけを見ると,19471115日から同年1231日までは,夫はいくら姦通をしても妻から離婚の訴えを提起されることはなかったようにも思われるのでドキドキしますが,その辺は大丈夫でした。昭和22年法律第74号(「日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律」は件名)によって,日本国憲法施行の日(1947年5月3日)から19471231日までは(同法附則),「配偶者の一方に著しい不貞の行為があつたときは,他の一方は,これを原因として離婚の訴を提起することができる。」とされていました(同法5条3項)。なお,ここでの「著しい不貞の行為」の意味は,「姦通も場合によっては著しい不貞の行為とならず,また反対に,姦通まで至らなくとも場合によっては著しい不貞の行為となりうるという趣旨であった,と解するのが正しいであろう。」とされています(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)176頁注1)。

 それでは,ポンペイヤとクロディウスとの関係が,1回限りの過ちであった場合はどうでしょうか。

 

 ・・・実際の離婚訴訟では,原告はさまざまの事実を併せて主張するのが普通であり,裁判所も,1度の性交渉が証明されただけで離婚を認めることはまずない。しかし,ときには被告が,性交渉の事実を認めながらも,それは「一時の浮気」にすぎないとか,「酔余の戯れ」でしかないといった抗弁を出すことがあり,下級審判例の中には,2ヵ月に及ぶ異性関係を「一時の迷と考えられぬことはない」として,不貞行為の成立を否定した例もある(名古屋地判昭26627下民集26824)。しかし,一時的な関係は不貞ではないとの解釈は無理であり,学説は一般に,不貞行為にあたると解している・・・(阿部徹360頁)

 

これによれば,学説では,1度限りの姦通でもやはり不貞行為になるということのようです。「離婚請求の最低線」(「裁判官の自由裁量の余地なく,必ず離婚が認められるという保障」(我妻121122頁参照))を維持するためにこそ,学説は,「不貞な行為」を「姦通(性交関係)に限ると解したい。」としています(我妻171頁)。「例えば,夫に不貞の行為があった場合にも,裁判官の裁量によって離婚の請求を棄却することができるとすることは,妻の離婚請求の最低線を崩すことになって不当ではないか。」というわけです(我妻124頁)。

「姦通の事実がある場合にも離婚の請求を認めないのは,〔民法770条〕2項〔「裁判所は,前項第1号から第4号までに掲げる事由がある場合であっても,一切の事情を考慮して婚姻の継続を相当と認めるときは,離婚の請求を棄却することができる。」〕の適用に限る。」とされ(我妻171頁),「原告が事後的にこれを「宥恕」したとか,異性関係を知りつつ黙認していたような場合は本条〔民法770条〕2項の問題になる。」とされています(阿部徹360頁)。

 

3 「婚姻を継続し難い重大な事由」

しかし,カエサルは,法廷において,そもそもポンペイヤとクロディウスとの間に姦通があったとの主張をしていません。(なお,「不貞行為の証明責任は〔離婚を求める〕原告側にあ」ります(阿部徹363頁)。)

そうであれば,カエサルは,我が民法でいえば第770条1項5号の「その他婚姻を継続し難い重大な事由」があるものとしてポンペイヤと離婚したものでしょうか。「厳格な意味で姦通といえない場合(肉体的関係の存在までは立証されない場合)・・・などにも,それらの事由によって婚姻が明らかに破綻しているときは,この〔民法770条1項5号の〕重大な事由にあたる。」とされています(我妻174頁)。ちなみに,「婚姻を継続し難い重大な事由」とは,「一般に,婚姻関係が深刻に破綻し,婚姻の本質に応じた共同生活の回復の見込みがない場合をいうもの」と解されています(阿部徹375頁)。(なお,婚姻を継続し難い重大な事由存在の「証明責任は〔離婚を求める〕原告にあ」ります(阿部徹382頁)。)

 

 不貞行為には該当しないとされる貞節義務違反(性的非行)が破綻離婚(770)の一要素として考慮され,結局,離婚が認められるに至る場合も少なくない(・・・東京高判昭37226〔妻の同意のもとでの夫の女性関係〕,名古屋地判昭47229判時67077〔同性愛〕,東京高判昭471130判時68860〔特定の女性を中心とした徹夜麻雀・グループ旅行などの交遊関係を夫が婚姻後も継続〕など)。本条〔民法770条〕1項5号は具体的離婚原因に該当しない場合を包摂する離婚原因であるから,実体法の理論としては,とくに問題はないであろう。(阿部徹366頁)

 

 実際の訴訟では,「不貞行為が認定されることはそれほどないのです。」とされています(阿部潤「「離婚原因」について」『平成17年度専門弁護士養成連続講座・家族法』(東京弁護士会弁護士研修センター運営委員会編,商事法務・2007年)16頁)。「もちろん,被告が不貞の事実を認めている場合は認定します。また,絶対的な証拠がある場合にも認定します。」とは裁判官の発言ですが,「しかし,多くの場合には,怪しいという程度にとどまるのです。」ということのようです(阿部潤16頁)。

 そこで,民法770条1項5号が登場します。「離婚訴訟を認容するには,不貞行為の存在は必要条件ではありません。婚姻が破綻していれば,不貞行為が認定できなくても,離婚請求は認容されます。例えば,婚姻関係にありながら,正当化されない親密な交際の事実が立証できれば十分です。」ということになるわけです(阿部潤16頁)。民法770条1項1号ばかりが念頭にあると,「親密な交際の事実を認めながら,性的関係はないので,離婚原因はないとの答弁をする場合がありますが,これは正しくはありません(これまた,弁護士が被告代理人となっていながら,このような答弁書が多いのです)。」ということになってしまいます(阿部潤1617頁)。他方,同項5号の「婚姻を継続し難い重大な事由があるかどうかという観点」からは,「夫が妻以外の女性と,複数回,ラブホテルに宿泊」した場合には,被告である夫がいくら「性的関係をもたなかった」と主張しても,「すでに,自白が成立しているようなもの」だとされてしまうわけです(阿部潤17頁)。

 なお,不貞行為の立証のための証拠収集作業としては,「不貞行為の相手の住民票及び戸籍謄本の徴求,写真,録音テープ,メールの保存,携帯電話の受信・着信履歴の保存,クレジットカードの利用明細書の収集等」及び「興信所による素行調査報告書」が挙げられています(東京弁護士会法友全期会家族法研究会編『離婚・離縁事件実務マニュアル(改訂版)』(ぎょうせい・2008年)87頁)。「夫と交際相手の女性との間の不貞行為について争われた事案において,妻や娘等が夫を尾行して見た夫と交際相手の女性との行動,交際相手の女性のことで夫と妻が争っている際の夫の妻に対する発言内容,盗聴によって録音された夫と交際相手の女性との電話での会話内容などから,夫の不貞行為の存在を推定できるとした裁判例がある(水戸地判平成3年1月・・・)。」とされていますが,「収集方法によってはプライバシーの侵害,違法収集証拠性が問題となる」のはもちろんです(東京弁護士会法友全期会家族法研究会8788頁)。

 

4 ローマの離婚

 古代ローマの離婚制度に関しては,初代王ロムルスについて次のように伝えられています。

 

 ・・・ロームルスは尚幾つかの法律を定めた。その中でも烈しいのは,妻が夫を見棄てることを禁じながら,毒を盛つたり代りの子供をそつと連れて来たり鍵を偽造したり姦通する妻を追ひ出すことを認めた法律である。但し他の理由で妻を離別した夫の財産は一部分妻のものとして残りをケレース(収穫の女神)に献ぜさせ,その夫は地下の神々に犠牲を供へるやうに命じてゐる。・・・(『プルターク英雄伝』「ロームルス」22(河野・岩波文庫))

 

離婚貧乏ですね。

なお,古代アテネの法におけると同様,古代ローマの女性も,夫を離別する権利を保持していたとされています(De l’Espris des lois, Livre XVI, Chapitre XVI)。「合意による離婚の自由は,婚姻自由に対応するものとして,少なくとも古典期末までは不可侵とされてい」ました(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法―ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)146頁)。「というのは,妻又は夫がそれぞれ離別権を有する以上,両者は協議により,すなわち合意によって別れることができることはもちろんのことであったのである。」というわけです(De l’Espris des lois, Livre XVI, Chapitre XVI)。

ここで,divorcerépudiationとの意味は異なるとされています。同じ離婚の結果を生ずるとしても,前者は配偶者両者の合意によるもの,後者は配偶者の一方のみの意思によるものとされています(De l’Espris des lois, Livre XVI, Chapitre XV)。カエサルとポンペイヤとの離婚はどちらだったのでしょうか。スエトニウスは,divortium facereであったとしつつ(Divus Julius 6),法廷ではカエサルはなぜポンペイヤをrepudiareしたのかと訊問されたと伝えています(Divus Julius 74)。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

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1 ワシントンの二つの生年月日:"Calendar (New Style) Act 1750"の前と後

 アメリカ独立戦争における大陸軍(タイリクグン)の総司令官ジョージ・ワシントンの誕生日は,222日です。しかしながら,ワシントンの生前には,211日にもワシントンの誕生日のお祝いがされていました。

 この11日の日付のずれはなぜかといえば,ユリウス暦(211)とグレゴリオ暦(222)との相違です。グレゴリオ暦はローマ教皇が定めたために,非カトリック諸国では採用が遅れ,ワシントンが生まれた時点においては,イギリスはなおユリウス暦を使用していたものです。正教会のロシアで起きた1917年の革命が,「3月革命」・「11月革命」ともいわれながらも,一般には現地での呼称に従いロシア二月革命・十月革命といわれているのと同じ仕組みです。

 ところで,ワシントン家の聖書には,ジョージ・ワシントンの誕生日時について,"was born ye 11th Day of February 1731/2 about 10 in the Morning."と,恐らく若きジョージ・ワシントンによって書かれたものと考えられている頁が貼り付けられています(マウント・ヴァーノンのGeorge Washington Wiredウェッブ・サイト)。さて,"ye 11th Day of February"はユリウス暦ということで分かるのですが(yeは,theのこと),"1731/2"とは何のことでしょうか。「1731年又は1732年」ということでしょうが,ワシントンは,うかつにも,自分の生まれた年がどちらの年だったのか実は分からなかったのでしょうか。ホワイト・ハウスのウェッブ・サイトにおけるワシントンの伝記では,アメリカ合衆国初代大統領の生まれた年を1732年としていますが,このように断定する自信はどこから来るのでしょうか。

 実は,年の初めは,必ずしもthe first day of Januaryではなかったところです。日本語では,月に序数詞を付けて1月,2月,3月・・・と呼称するので問題が分かりにくいのですが,January, February, March...との月の名は,大文字から始まることからも分かるように,固有名詞であって,実はJanuaryには,「第1の月」という意味は本来ありません。

 で,何を申し上げたいかというと,1751年までは,イギリスにおいては,大天使ガブリエルによるマリアに対する受胎告知の日であるthe 25th day of Marchから一年が始まっていたという事実です(ちなみに,わが民法でも,胎児は,不法行為の損害賠償請求及び相続については出生したものとみなされています(721条,886条。また,7831項)。)。1750年の法律(Calendar (New Style) Act 1750)によって,イギリスでは,1751年のthe 31st day of Decemberの翌日であるthe first day of January1752年の初日となり,1752年のSeptember2日の翌日が同月14日となるとともに(春分の日がMarch9日又は10日になっていたのを,325年のニケーア公会議の時の同月21日ころに戻す。),うるう日の置き方が,グレゴリオ暦方式になりました(1800年,1900年はうるう年ではない。)。

 すなわち,ワシントンが生まれた日は,グレゴリオ暦では1732年のthe 22nd day of Februaryであると同時に,当時のイギリスの暦では1731年のthe 11th day of Februaryだったのでした。

 ちなみに,マリアに対する受胎告知があった月は,福音書では「6番目の月」(ルカ1:26)とされていて,年の初めの月とは表示されていません。紀元前6世紀のバビロン捕囚後は,ユダヤ人の世俗暦の新年はティシュリの月(September-October)から始まっていたそうです。1年が12箇月だとすると,イエスが生まれたのは3番目の月(キスレヴの月:November-December)でしょうか。イエスが割礼を受け,命名されたのは,その誕生の1週間後とされていますが(ルカ2:21),なるほど,年の初めのthe first day of January1週間前がクリスマスになっていますね。(なお,"In the sixth month"は,福音書の前後の文脈からは,「(エリザベトが洗礼者ヨハネを身ごもった)6箇月目に」と解されているところです。その旨紛れのないように"In the sixth month of Elizabeth's pregnancy"と補って訳してある英文福音書もあります。とはいえ,洗礼者ヨハネの誕生日はJuneの24日に祝われますので,正に世俗暦の新年が始まるSeptember下旬のティシュリ月初めに懐妊があったということでしょうか。)


2 古代ローマの年初月: 軍国か平和か

 年の始まりは,春であったり,秋であったり,冬であったりいろいろです。要は立法者の決めの問題ということでしょう。

 現在のヨーロッパ語の月の名前は,古代ローマの月の名前に由来していますが,古代ローマでは,当初はMarchが年の1番目の月だったのが,後にJanuary1番目の月に変更されています。プルタルコスによれば,紀元前8世紀の初代王のロームルスはMarch1番目の月にしていましたが,2代目王のヌマがJanuary1番目の月に変更したそうです(その結果,7番目の月の意味のSeptember9番目の月になり,10番目の月の意味のDecember12番目の月へと,ずれが生じています。)。



 ヌマは又月の順序を変更した。第1の月であつたマルスの月を第3に置きヤーヌスの月を第1に置いたが,これはロームルスの時には第11で今第2にしてあるフェブルア(贖罪の浄め)の月は第12で最後になつてゐた。しかしこの二つの月ヤーヌアーリウスとフェブルアーリウスとはヌマが附加へたもので,最初は1年に10箇月しかなかつたと云つてゐる人も多い。

 

 ヌマが附け加へたもしくは置き換へた月の中・・・1月ヤーヌアーリウスの名はヤーヌスから来てゐる。私の解釈ではヌマはマルティウスがマルスの名を持つてゐるので首位から移し,あらゆる場合に武力よりも政治力を重んじようと欲したのだと思ふ。ヤーヌスは非常に古い時代の,精であつたか王であつたか,政治的な社交的な人で,人間の生活を動物的な野蛮なところから変化させたと云はれてゐる。このために人々はこれを顔の二つあるものとして表現し,人間の生活に一つの形から別の形を与へたものとしてゐる。

(以上,河野与一訳『プルターク英雄伝』(岩波文庫)第1173頁,174-175頁)



 双子の兄弟のレムスを殺したり,サビーニー人の娘を略奪したりした,戦争好きのロームルス王は軍神マルスのMarchを年の初めとしたのに対し,平和主義の哲人王ヌマは,それを改め,平和的かつ文化的なヤーヌス神のJanuaryを第1の月にしたわけです。年の初めの月は,みんなが睦む月ということになるわけでしょう。

 前記引用の後半部分は,Drydenの英訳では,河野与一訳の「あらゆる場合に武力よりも政治力を重んじようと欲したのだと思ふ」が「あらゆる機会をとらえて平和の術及び研究(arts and studies of peace)が戦争に係るそれら(those of war)より優先されるべきことを示そうとしたのだと思う」に,「政治的な社交的な人」が「市民的及び社会的な協和を重んじる人(a great lover of civil and social unity)」になっていますが,こちらの方がヌマの平和主義が分かりやすいでしょう。また,「顔の二つあるものとして表現し,人間の生活に一つの形から別の形を与へたものとしてゐる」も,Drydenでは「,それらのうちの一つから彼が人類を他の一つに移行せしめた二つの状態を示すために,顔の二つあるものとして表現している」になっています。

 古代ローマの暦法に紀元前45年から太陽暦を採用したのはカエサルです(1365日,4年ごとに1日のうるう日の,当人の名をとって呼ばれるユリウス暦)。その際,暦と季節とのずれを修正し「新しい年の11Kalendis Januariisから将来にかけて,季節の正しい推移と,いっそうぴったり符合するように」,前46年の「11月と12月の間inter Novembrem ac Decembremに,2ヶ月をはさ」んだため,もとからあったうるう月と合わせて,同年は15箇月になったそうです(国原吉之助訳・スエトニウス『ローマ皇帝伝』(岩波文庫)上巻48頁)。

 カエサルの時に季節との関係で2箇月ずらされてはいるのですが,プルタルコスによるヌマ暦の説明と,国原吉之助教授の上記スエトニウスの翻訳からすると,カエサルが年の初めの月を2箇月ずらしてMarchからJanuaryにしたというわけではないことになります。

 また,紀元前153年から執政官の就任日がthe first day of Januaryになったのでこの時からthe first day of Januaryが年の初めになったのだともいわれていますが,英語版のWikipedia"Roman Calendar"の項は,紀元前153年より前から年の初めはthe first day of Januaryだったらしい,としています。ただし,古代ローマでは,執政官(定員2名)の名前で呼ばれるその就任期(任期1年間)をもって年代を特定して表すことになっていたので(例えば「カエサルとビブルスが執政官のとき」),確かに,執政官の任期がいつから始まるかは重要であったところです。


3 現在の我が国の暦法法制: 明治五年太政官第337号の布告の効力

 我が国においては,年の初めは,かつての太陰太陽暦においては立春の日の近くの新月の日(ついたち)ということになっていました。太陽暦を採用し,年初日をグレゴリオ暦のthe first day of Januaryにしたのは,明治五年(1872年)十一月九日の太政官第337号の布告によってです。これにより,明治五年十二月二日の翌日が,明治6年すなわち1873年の11日となりました。

 この太政官の布告は,総務省の法令データ提供システムによって見ることができますから,現在も効力を持っている法令として扱われているようです(また,195037日の参議院文部委員会では,杉山専一郎法制局参事が,明治五年太政官第337号の布告は「廃止されていないという考え方でおります。」と答弁しています。)。

 暦法は,国民生活に大きな影響を与えますから,法の形式としては,政令以下の命令ではなくて,国会によって定められるべき法律として扱われるべきものでしょう。明治五年太政官第337号の布告は時刻に関する時刻ノ儀是迄昼夜長短ニ随ヒ十二時ニ相分チ候処今後改テ時辰儀時刻昼夜平分二十四時ニ定メ子刻ヨリ午刻迄ニ十二時ニ分チ午前幾時ト称シ午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分チ午後幾時ト称候事」という規定を含んでいましたが,同じく時刻に関する夏時刻法(昭和23年法律第29号)は,法律でした(同法は昭和27年法律第84号により廃止)。

 そうであれば,すなわち,明治五年太政官第337号の布告は,大日本帝国憲法761項の「法律規則命令又ハ何等ノ名称ヲ用ヰタルニ拘ラス此ノ憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ総テ遵由ノ効力ヲ有ス」との規定に基づき大日本帝国憲法下において法律として遵由の力を有し,引き続き194753日からは,日本国憲法98条の「この憲法は,国の最高法規であつて,その条規に反する法律,命令,詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は,その効力を有しない。」の反対解釈によって,日本国憲法の条規に反しない法律としてその効力を維持しているものと考えられることになります(例えば,明治17年太政官布告第32号の爆発物取締罰則のごとし。)。

 しかし,そうは簡単に問屋が卸しません。

 明治改暦に係る明治五年太政官第337号の布告は,大日本帝国憲法下では,帝国議会の協賛を経るべき法律としては扱われていなかったようであるからです。すなわち,当該布告は「4年毎ニ1日ノ閏ヲ置候事」とのみ規定していたので,グレゴリオ暦の置閏法では平年であるはずの1900年(明治33年)もうるう年になってしまうことが発覚して,同年を平年とすべく明治31年勅令第90号が追加で定められたのですが,当該追加改正の法形式は,法律ではなく勅令によるものでした(「神武天皇即位紀元年数ノ4ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス但シ紀元年数ヨリ660ヲ減シテ100ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ4ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス」との内容。内閣総理大臣伊藤博文及び文部大臣外山正一が副署)。伊藤博文自身の『憲法義解』の第76条解説が,大日本帝国憲法施行前の法令について「而して法律として遵由の力あらしむる者にして若将来に於て改正を要するときは,其の前日に勅令布達を以て公布したるに拘らず,総て皆法律を以て挙行するを要すること知るべきなり。」と説いていたところです。其の前日に布告を以て公布したるに拘らず改正が勅令によって挙行されるものは,法律としてではなく,勅令として遵由の力あらしむる者でしょう。

 明治五年太政官第337号の布告が法律ではなく勅令だということになると,昭和22年法律第72号(日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律)1条との関係で問題が生じます。同条は,「日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定で,法律を以て規定すべき事項を規定するものは,昭和221231日まで,法律と同一の効力を有するものとする。」と規定しているからです。すなわち,明治五年太政官第337号の布告は明治31年勅令第90号と共に大日本帝国憲法下では勅令という命令として効力を有していたところ,その規定事項が日本国憲法下では法律をもって定めるものであるのならば,1948年(昭和23年)11日以降は失効したものと解され得るところです。

 しかしながら,明治五年太政官第337号の布告及び明治31年勅令第90号はいずれも総務省の法令データ提供システムにあり,なおも効力を有しているものとされています。そうだとすると,当該布告及び勅令は,日本国憲法下でも「法律を以て規定すべき事項を規定するもの」ではなく,したがって昭和22年法律第721条に規定する命令ではないものとして,昭和22年政令第14号(日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定の効力等に関する政令)1項の「日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定は,昭和22年法律第72号第1条に規定するものを除くの外,政令と同一の効力を有するものとする。」との規定に基づき,政令として扱われているということになりそうです。

 であれば,内閣限りで,政令でもって,次のような改革を行うことも可能ということになりそうです。


 「会計年度と暦年がずれているのは不便だから,暦年においても,41日を年の初めとしよう。」

 「平和的かつ文化的なヤヌスの月を年の初めとするのはいかにも平和国家的・文化国家的で軟弱だから,武闘派のロームルス王に倣って,軍神マルスの月である3月を年の初めにしよう。」

 「ローマ教皇が定めたグレゴリオ暦を使用するのは,キリスト教国風でもあって面白くないから,古き良き日本を取り戻すべく,天保暦を復活させよう。」

 等々


 しかし,内閣限りの政令でこのようなことができるというのは,どうも変ですね。明治五年太政官第337号の布告及び明治31年勅令第90号は,やはり「法律を以て規定すべき事項を規定するもの」と解すべきように思われます。

 そうであれば,昭和22年法律第721条との関係で,194811日以降はこれらの布告及び勅令が廃止されているものとされるときにはどのように理解すべきでしょうか。これらの布告及び勅令は形式上は廃止されているものの,その規定内容は,法の適用に関する通則法3条の慣習法の内容をなしているものと解することになるのでしょうか。悩ましいところです。


4 暦法と翻訳

 さて,日本と西洋諸国とは,明治6年すなわち1873年より前には異なった暦法をそれぞれ用いていたため,明治五年以前の出来事をヨーロッパ語に翻訳するときは注意しなければなりません。

 例えば,第20代の内閣総理大臣である高橋是清の生年月日などは難しい。

 高橋是清は,嘉永七年閏七月二十七日生まれですが,嘉永七年は大体グレゴリオ暦の1854年に重なることから「嘉永七年=1854年」とし,かつ,明治五年以前はうるう月というものがあったことを現在の感覚で失念して(「閏」の文字をわけが分からないまま無視して)翻訳して,27th July 1854と訳すると,これはいけません。グレゴリオ暦の27th July 1854は,嘉永七年の七月(閏七月の前の月)三日になってしまいます。グレゴリオ暦への換算が面倒なときは,the 27th day of the intercalary month following the Seventh month of the 7th year of Kaei (ca. 1854)とでもすべきでしょうか。

 孝明天皇崩御は慶応二年十二月二十五日ですが,慶応二年は1866年に大部分重なることから早合点して,25th December 1866としてもいけません。孝明天皇崩御の日は,グレゴリオ暦では30th January 1867です。

   またお盆の「旧暦七月」を説明するのに,"July of the old lunisolar calendar"とするのもどうでしょうか。古代のローマ暦の由来を知っている人はかえって,「カエサルによる暦法改革以前のヌマ暦のJulyかな。カエサルの時には2箇月ずれていたそうだから,今のMayくらいの季節か。しかし,Julyの月名は太陽暦になってからのもののはずだが。変だな。」などと余計なことを考えてしまうかもしれません。"The Seventh month of the old lunisolar calendar"くらいでどうでしょうか。

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ワシントン生誕の地(George Washington Birthplace, Westmoreland Co., VA


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