Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

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歴史は厳粛なる判官(はんがん)なり。(しか)るにこの判官の前に立ちて今の日本国民は(すべ)て事実を(ママ)蔽し解釈を迂曲(うきょく)して虚偽を陳述しつゝあり。〔略〕(いわ)く,日本民族の凡ては忠臣義士にして乱臣賊子は例外なりと。〔略〕(しか)しながら吾人(ごじん)〔われわれ〕は断言す,――太陽が世界の東より西を()ぐる者に(あら)らざることの明らかなりしが(ごと)く,必ず一たび地動説の出()ゝ,例外は皇室の忠臣義士にして日本国民の(ほとん)ど凡ては皇室に対する乱臣賊子なりとの真実に顚倒(てんとう)されざるべからずと。(北輝次郎『国体論及び純正社会主義』(北輝次郎1906年)619頁)

 

 当時23歳の若き天才の言は,百十余年を経た今日更にその真理たるの輝きを増しつつあるものか。ふと気が付けば,今年(2017年)8月19日は,二・二六叛乱事件に連座した「乱臣賊子」・一輝北輝次郎54歳にしての銃殺による刑死から80年になります。

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北一輝先生之墓(東京都目黒区の瀧泉寺(目黒不動)墓地)
 

第1 一輝北輝次郎の刑死

 

1 銃殺

宮内庁の『昭和天皇実録 第七』(東京書籍・2016年)1937年8月19日(木曜日)の項にいわく。

 

 午前1140分,二・二六事件被告の村中孝次・磯部浅一・北輝次郎・西田税の死刑執行この日午前5時50に関する陸軍上聞を受けられる。

 

銃殺は,陸軍刑法(明治41年法律第46号)21条の定める死刑の執行方法です(「陸軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ陸軍法()ヲ管轄スル長官ノ定ムル場所ニ於テ銃殺ス」)。これに対して,通常の死刑の執行は,「死刑は,刑事施設内において,絞首して執行する。」ということになっています(刑法(明治40年法律第45号)11条1項)。法文上は絞首とされていますが,法医学的には縊首(首を吊った状態での死亡)ということになります(前田雅英『刑法総論講義 第4版』(東京大学出版会・2006年)519頁)。

通常の死刑の執行は司法大臣の命令によるもの(旧刑事訴訟法(大正11年法律第75号)538条)であったのに対して,陸軍軍法会議法(大正10年法律第85号)の適用される場合においては,死刑の執行は陸軍大臣の命令によるものとされていました(同法502条)。1937年8月の陸軍大臣は,第1次近衛内閣の杉山元でした。

 

2 反乱の首魁

 

(1)罰条及び罪名

北死刑囚の罰条及び罪名は,陸軍刑法25条1号の反乱の首魁ということだったそうです(なお,陸軍刑法第2編第1章(25条から34条まで)の章名には()乱とありますが,25条では()乱となっています。)。陸軍刑法25条は,次のとおり。

 

25条 党ヲ結ヒ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス

 一 首魁ハ死刑ニ処ス

 二 謀議ニ参与シ又ハ群衆ノ指揮ヲ為シタル者ハ死刑,無期若ハ5年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他諸般ノ職務ニ従事シタル者ハ3年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

 三 附和随行シタル者ハ5年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

 

 刑法77条の内乱罪がつい彷彿とされる規定振りです。

 

(2)内乱罪との関係

内乱罪と軍刑法の反乱罪との関係については,海軍刑法(明治41年法律第48号)20条の反乱罪(陸軍刑法25条と同一文言)との関連で,五・一五事件に係る昭和10年(1935年)1024日の大審院判決が「〔海軍〕刑法20条に依り構成すべき所謂(いわゆる)反乱罪とは海軍軍人党を結び兵器を執り官憲に反抗して多衆的暴動を為すを()ひ,内乱罪の如く朝憲を紊乱(ぶんらん)することを目的とするものに限らず,其の他の公憤又は私憤に出づる場合をも包含し,その目的には拘らざるを以て,軍人たる身分及び犯罪の目的に於て内乱罪とは其の構成を異にすることあるべき特別罪なりと解するを相当とす」と判示しています(日高巳雄『軍事法規』(日本評論社・1938年)635頁における引用)。内乱罪の目的は,当該判決においては朝憲紊乱(憲法の定める統治の基本秩序の壊乱)のみが挙げられていますが,政府の顚覆(国の統治機構の破壊)又は邦土の僭窃(国の領土における国権を排除しての権力の行使)も含まれます。

 

(3)共犯と身分

ところで,陸軍刑法は身分犯に係る法律でした。同法1条は「本法ハ陸軍軍人ニシテ罪ヲ犯シタル者ニ之ヲ適用ス」と規定しています。ただし,陸軍軍人ではない者が犯しても陸軍刑法が適用される同法の罪が同法2条に掲げられています。しかしながら,二・二六事件で問題となった陸軍刑法25条の罪は,同法2条に掲げられていません。陸軍軍人にあらざる北輝次郎に陸軍刑法25条が適用されるに当たっては,刑法8条(「この編〔刑法総則〕の規定は,他の法令の罪についても,適用する。ただし,その法令に特別の規定があるときは,この限りでない。」)により,同法65条1項(「犯人の身分によって構成すべき犯罪行為に加功したときは,身分のない者であっても,共犯とする。」)が発動されたものでしょう。前記昭和101024日大審院判決は,海軍刑法20条の反乱罪につき,「(しこう)して被告人大川周明,頭山秀三,本間憲一郎は(いず)れも軍人たる身分なきも資金又は拳銃弾を供与し〔海軍軍人である〕古賀清志,中村義雄等の上の反乱行為を幇助し之に加〔功〕したるものなれば刑法第65条第1項,第62条第1項〔「正犯を幇助した者は,従犯とする。」〕に依り右反乱罪の従犯として処断すべきもの」と判示しています(日高634頁における引用)。ちなみに,大川周明らは反乱幇助ということで,刑法65条1項の「共犯」は教唆・幇助に限るという説によっても説明可能でしたが,北輝次郎の場合は首魁ということであって首魁の教唆・幇助ではないのですから,同項の「共犯」には共同正犯が含まれるという判例・通説に拠るべきでしょう(前田総論473頁参照)。二・二六事件の判決においては,多数の者が首魁とされています。内乱罪においても,「首謀者は必ずしも1人とは限らない」とされています(前田雅英『刑法各論講義 第4版』(東京大学出版会・2007年)504頁)。

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大川周明の墓(瀧泉寺墓地)
北一輝先生之墓とは,墓1基を隔てて向かい側です。墓地は芝貼り作業中。後方は,林試の森公園です。

 

(4)騒乱罪との関係

ところで,刑法77条の内乱罪について「首謀者〔首魁〕は必ず存在しなければならない点が騒乱罪との相違点である」とされていますが(前田各論504頁),これは条文の書き振りからの解釈なのでしょうか。しかしながら,同様の書き振りである海軍刑法20条の反乱罪においては首魁の存在は必須ではなかったようで,五・一五事件の犯人で死刑になった者はいません(同条1号において,首魁の法定刑は死刑のみ。)。前記昭和101024日の大審院判決においても「就中(なかんずく)海軍軍人古賀清志,中村義雄両名は主として同志の糾合(きゅうごう)連絡実行計画の起案武器及資金の調達等の任に当り,其の他本件犯罪遂行に(つき)画策謀議を為したるものなれば,右両名の行為は本件犯行の謀議に参与したるものとして海軍刑法第20条第2号前段に該当する反乱罪を構成するものと謂ふべく,之を以て単に海陸軍人及軍人に非ざる者多衆聚合して暴行又は脅迫を為したる騒擾(そうじょう)〔現在は騒乱罪〕を構成するに止まるものと()すを得ず」と判示されており(日高633634頁における引用),反乱罪においてはむしろ謀議参与者こそが必須であると解されたように思われるところです。海軍の東京軍法会議(海軍軍法会議法(大正10年法律第91号)8条2号)における公判においては,検察官は古賀中尉に対して海軍刑法20条1号の首魁として死刑を求刑していましたが(山本政雄「旧陸海軍軍法会議法の意義と司法権の独立―五・一五及び二・二六事件裁判に見る同法の本質に関する一考察―」戦史研究年報(防衛省防衛研究所戦史部編)11号(2008年3月)71頁),1933年11月9日言渡しの判決では古賀は同条2号の謀議参与者ということに格落ち認定されています(山本72‐73頁)。

 

3 陸軍軍法会議の裁判権

陸軍刑法が陸軍軍人にあらざる者に適用される場合があることは分かりましたが,陸軍軍法会議の裁判権が北輝次郎ら陸軍軍人にあらざる者に及ぶ場合はいかなる場合でしょうか。

 

(1)陸軍軍法会議法

陸軍軍法会議法1条及び3条1項によれば,陸軍軍法会議の裁判権は,通常,陸軍の現役にある者,召集中の在郷軍人,召集によらず部隊にあって陸軍軍人の勤務に服する在郷軍人,現に服役上の義務履行中の在郷軍人,志願により国民軍隊に編入され服役中の者,陸軍所属の学生・生徒,陸軍軍属及び陸軍の勤務に服する海軍軍人(同法1条1項1号),陸軍用船の船員(同項2号),陸軍の部隊に属し又は従う者(同項3号)並びに俘虜(同項4号)に対してその犯罪について(身分発生前の犯罪を含み(同条2条1項),身分継続中に捜査の報告又は逮捕,勾引若しくは勾留があったときは身分喪失後も裁判権は存続(同条2項)),並びに制服着用中の在郷軍人に対しその犯した陸軍刑法の罪について(陸軍軍法会議法3条1項。同法2条2項が準用される。)及ぶものとされていました。陸軍軍法会議法4条は合囲地境(戒厳令(明治15年太政官布告第36号)2条第2号)にある者に対する裁判権について規定し,同法5条は「軍法会議ハ戒厳令ニ定メタル特別裁判権ヲ行フ」と規定し,同法6条は「戦時事変ニ際シ軍ノ安寧ヲ保持スル為必要アルトキ」の裁判権の拡張について規定していましたが,二・二六事件の際は戒厳令に基づき戒厳が宣告されたわけではなく(1936年2月27日の昭和11年勅令第18号(大日本帝国憲法8条1項の法律に代わるべき緊急勅令。同年1月21日の衆議院解散により帝国議会は閉会中でした。)により「一定ノ地域ヲ限リ別ニ勅令ノ定ムル所ニ依リ戒厳令中必要ノ規定ヲ適用スルコトヲ得」るものとした上で,同じ2月27日の昭和11年勅令第18号によって東京市に戒厳令9条(臨戦地境内においては地方行政事務及び司法事務(司法行政事務であっていわゆる審判は包含せず(日高665頁)。)の軍事に関係ある事件は司令官の管掌下に入る。)及び14条(司令官の強制権限を挙示)の規定が適用されることになっただけです。),二・二六事件は戦時事変でもないでしょうしその鎮圧後は軍の安寧を保持するための必要もなかったでしょう。

 

(2)昭和11年勅令第21

結論的には,1936年3月4日の昭和11年勅令第21号(東京陸軍軍法会議に関する勅令(件名)。これも大日本帝国憲法8条1項の法律に代わるべき緊急勅令)第5条(「東京陸軍軍法会議ハ陸軍軍法会議法第1条乃至第3条ニ記載スル者以外ノ者ガ同法第1条乃至第3条ニ記載スル者ト共ニ昭和十一年二月二十六日事件ニ於テ犯シタル罪ニ付裁判権ヲ行フコトヲ得」)によって北輝次郎らに陸軍軍法会議の裁判権が及ぶことになったものです。

上記昭和11年勅令第21号の味噌は,第5条と共にその第6条(「東京陸軍軍法会議ハ陸軍軍法会議法ノ適用ニ付テハ之ヲ特設軍法会議ト看做ス」)であって(戦時事変に際し必要により特設され,又は合囲地境に特設される特設軍法会議(陸軍軍法会議法9条2項から4項まで)があれば,それに対応するものとして常設軍法会議があるわけですが,常設軍法会議は,高等軍法会議及び師団軍法会議でした(同条1項)。),特設軍法会議である結果,裁判官を5人から3人に減員すること(ただし,上席判士及び法務官たる裁判官は減員の対象外。)が可能になり(同法47条3項),予審官及び検察官の職務を陸軍法務官ではなく陸軍将校が行うことが可能になり(同法63条,70条),裁判官,予審官及び録事の除斥及び回避の規定の適用がなく(同法86条)(この結果,同法81条7号の規定にかかわらず,北輝次郎・西田税の予審官を務めた伊藤章信法務官が当該被告人らの裁判官ともなっています(山本78頁)。),被告人の弁護人選任権は認められず(同法93条,また同法370条),審判の公開に関する規定の適用がなく(同法417条),師団軍法会議ではないので高等軍法会議に対する上告ができない(同法418条)というようなことになったわけです。

昭和11年勅令第21号の案は,二・二六事件鎮定(1936年2月29日)早々の1936年3月1日に閣議決定がされ,同日昭和天皇に書類上奏がされています。

 

本日閣議決定の東京陸軍軍法会議に関する緊急勅令を枢密院に御諮詢の件につき,書類上奏を受けられる。後刻,侍従武官長本庄繁をお召しになり,同勅令につき言上を受けられる。(昭和天皇実録七48頁)

 

更に同月2日には,二・二六事件参加者の詳細について,戒厳司令官から昭和天皇に言上がされています。

 

午後2時15分,御学問所において戒厳司令官香椎浩平に謁を賜い,叛乱軍参加将兵及び叛乱に関与の民間人の詳細につき言上を受けられ,叛乱事件の根底は極めて広汎・深刻にて迅速かつ徹底的検挙を要する旨の奏上を受けられる。(昭和天皇実録七50頁)

 その午後に昭和11年勅令第21号が裁可公布された同月4日,昭和天皇に次の発言があったとされます。


本庄〔繁〕武官長によれば,「此日,午後2時御召アリ,已ニ,軍法会議ノ構成モ定マリタルコトナルガ,〔1935年8月12日に永田鉄山陸軍軍務局長を斬殺した〕相沢〔三郎〕中佐ニ対スル裁判ノ如ク,優柔ノ態度ハ,却テ累ヲ多クス,此度ノ軍法会議ノ裁判長,及ビ判士ニハ,正シク強キ将校ヲ任ズルヲ要ス,ト仰セラレタリ」とある。(大江志乃夫『戒厳令』(岩波新書・1978年)194頁)


 ただし,『昭和天皇実録 第七』においては,上記御召に係る言及がありません(
5152頁)。


(3)通常裁判所の裁判権との関係

軍法会議と裁判所構成法(明治23年法律第6号)に基づく通常裁判所との関係については,「軍法会議に属する事件に付き通常裁判所は裁判権を有せぬ。此の種の事件に付ては被告人に対し裁判権を有せざるものとして,公訴棄却を言渡さねばならぬ(〔旧〕刑訴第315条第1号,第364条第1号)」と説明されています(小野清一郎『刑事訴訟法講義』(有斐閣・1933年)8081頁)。管轄(ちがい)(旧刑事訴訟法309条・355条)ではなく「被告人ニ対シテ裁判権ヲ有セサルトキ」として公訴棄却の決定(旧刑事訴訟法315条1号(予審判事によるもの))又は判決(同法364条1号(公判の裁判))をすべきものとすることについては,大審院の判例もあるそうです(小野81頁)。裁判所構成法2条1項は「通常裁判所〔区裁判所,地方裁判所,控訴院及び大審院(同法1条)〕ニ於テハ民事刑事ヲ裁判スルモノトス但シ法律ヲ以テ特別裁判所ノ管轄ニ属セシメタルモノハ此ノ限ニ在ラス」と規定していますが,ここでは,裁判権が問題になっているわけです。現行刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)に関して,裁判権については,「刑事裁判権は,わが国にいるすべての者に及ぶ。日本人であると,外国人であるとを問わない。」とされつつ,当該裁判権から「国法上,天皇および摂政は,除外されるものと解される(皇典21条)」とされ,「国際慣習法上,外国の君主,使節およびその随員は,いわゆる治外法権を持っており,これらの者には,わが国の裁判権は及ばない。」とされています(平野龍一『刑事訴訟法』(有斐閣・1958年)55頁)。大日本帝国時代においては,通常裁判所から見ると,陸軍軍人等及び海軍軍人等はあたかも治外法権を持っているような具合になっていたわけです。

ところで,東京陸軍軍法会議に関する昭和11年勅令第21号の第5条が存在せず,北輝次郎が通常裁判所において,旧刑事訴訟法の手続によって裁かれ,刑法65条1項を介して陸軍刑法25条1号の反乱の首魁(の共同正犯)とされて死刑判決が下され,確定した場合,その執行方法は,銃殺ではなく,やはり司法大臣の命令により絞首ということになったのでしょう。陸軍刑法21条は,飽くまでも「陸軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ」と規定していたところです。

 

第2 一輝北輝次郎の乱臣賊子論

 

1 『国体論及び純正社会主義』

本ブログ筆者の悪癖でつい回り道をしました。二・二六事件発生からちょうど30年前,1906年に一輝北輝次郎が自費出版したのが『国体論及び純正社会主義』です(発行日付は同年5月9日)。ただし,同書の書名は「内容に即していないばかりでなく,読まずに偏見だけで判断する世人をミスリードする」ものであって,「内容に即した命名をするとすれば,『社会民主主義の進化論的基礎づけ――併せて講壇社会主義と国体論の徹底的批判』というようなものとなろう」とされています(長尾龍一「『国体論及び純正社会主義』ノート」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)88頁)。『国体論及び純正社会主義』は,現在,国立国会図書館デジタルコレクションで自由に見ることができます。第4編(第9章から第14章まで)が「所謂国体論の復古的革命主義」と題され,国体論の批判がされている部分です。以下本稿は,この第4編(及び第5編「社会主義の啓蒙運動」)を読んでの抜き書きということになります。

批判の対象たる国体論は,北の説くところでは次のとおり。

 

吾人は始めに本編の断案として世の所謂『国体論』とは決して今日の国体に非らず,又過去の日本民族の歴史にても非らず,明らかに今日の国体を破壊する『復古的革命主義』なりと命名し置く。(北484頁)

 

 また,北のいう社会民主主義とは,次のとおり。

 

  『社会民主々義』とは個人主義の覚醒を受けて国家の凡ての分子に政権を普及せしむることを理想とする者にして個人主義の誤れる革命論の如く国民に主権存すと独断する者に非らず。主権は社会主義の名が示す如く国家に存することを主張する者にして,国家の主権を維持し国家の目的を充たし国家に帰属すべき利益を全からしめんが為めに,国家の凡ての分子が政権を有し最高機関の要素たる所の民主的政体を維持し若しくは獲得せんとする者なり。(北566頁)

 

「当時の第一級の学者と見えていた人々を,客観的に見ても相当程度,主観的には恐らく完膚なきまでに論駁し,人類史の発展方向を予言した青年北は,非常な抱負を抱いて本書を自費出版したものと思われる。西園寺内閣〔内務大臣は原敬〕の開明性,(天皇制の正当化,革命方法の議会主義など)主張の一定の穏健さからしても,本書は発禁にならず,学界・思想界に革命的衝撃を与えると期待していたに相違ない。それが直ちに発禁処分にされたことは,非常な衝撃で,北は生涯それから立ち直れなかった。」ということですが(長尾107108頁),『国体論及び純正社会主義』の国立国会図書館デジタルコレクション本は,帝国図書館の蔵書印が押捺された「北輝次郎寄贈本」であって,1906年5月9日に寄贈された旨の押印があります。出版法(明治26年法律第15号)19条は「安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムル文書図画ヲ出版シタルトキハ内務大臣ニ於テ其ノ発売頒布ヲ禁シ其ノ刻版及印本ヲ差押フルコトヲ得」と規定していますが,焚書までは行われなかったものです。

しかし,青年北の文体は,なかなか口汚い。「穂積博士は最も価値なき頭脳にして歯牙にだも掛くるの要なき者なりしに係らず,法科大学長帝国大学教授の重大なる地位にあるが為めに吾人の筆端に最も多く虐待されたる者なり。」(北834835頁),「更に〔穂積〕氏にして拙者と天子様とは血を分けたる兄弟分なりと云は査公必ず手帳を出して一応の尋問あるべく,子が産れた親類の天子様に知らせよと云は産褥の令夫人は驚きて逆上すべく,大道に立ちて穂積家は皇室の分家なりと云は腕白の小学生徒等は必ず馬鹿よ々々よと喚めきて尾行し来るべし。」(北596頁),「若し〔穂積博士の〕銅像が建てらるゝならば必ず両頭を要し,而して各々の頭に黄色の脱糞を要す。」(北771頁)等々とまで書かれ嘲弄された穂積八束が訴えたのならば,北方ジャーナル事件に係る最高裁判所大法廷昭和61年6月11日判決(民集40巻4号872頁)よりもはるか前に,人格権に基づく出版差止めの判例が出たかもしれません。

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隅田川越しに東京都墨田区方面を望む(駒形橋の東京都台東区浅草側から)


 なお,腕白小僧らは,路上で風変わりなおじさんにつきまとって馬鹿よ馬鹿よとはやし立てるに当たっては,よくよく注意すべきでしょう。

 

And he went up from thence unto Beth-el: and as he was going up by the way, there came forth little children out of the city, and mocked him, and said unto him, Go up, thou bald head; go up, thou bald head.

And he turned back, and looked on them, and cursed them in the name of the LORD. And there came forth two she bears out of the wood, and tare forty and two children of them. (II Kings 2.23-24)
 

(ただし,穂積八束の写真を見るに,エリシャのごとく禿頭ではなかったようです。) 

 

2 日本国民=乱臣賊子論

さて,青年北は,日本国民の正体は,当時のいわゆる国体論者の説くがごとく,()く忠孝に万世一系の皇位を扶翼して万邦無比の国体を成せるものでは全くないと主張します。

 

茲に於て所謂国体論者は云ふべし,〔略〕日本国民は克く忠孝に万世一系の皇位を扶翼して万国無比の国体を成せるなりと。是れ忠孝主義と系統主義とが東洋の土人部落に取られたるが為めに前提と結論とを顚倒せられたる者なり。――日本民族は系統主義を以て家系を尊崇せしが故に皇室を迫害し忠孝主義を以て忠孝を最高善とせしが故に皇室を打撃したるなり。(北617618頁)

 

 189010月の明治天皇の教育勅語に「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世()ノ美ヲ()セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ」及び「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(かく)ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ(なんじ)祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」とあります。ただし,北によれば,これは天皇の側からする社交辞令のごときものであって,「教育勅語中の其文字の如きは単に天皇の国民を称揚したる者として見れ〔ば〕可なり。幾多の戦争に於て勝利を得る毎に,天皇より受くる称讃に対して皆型の如く,是れ皆大元帥陛下の御稜威に依るとして辞退しつゝあるに非ずや。」ということになります(北622頁)。

 なお,「系統主義」及び「忠孝主義」については,まず次のように説明されています。

 

一家と云ひ一致と云ふが如き誠に迷信者の捏造(ねつぞう)に過ぎずと雖も,君臣一家論の拠て生ずる根本思想たる『系統主義』と,忠孝一致論の基く『忠孝主義』とは決して軽々に看過すべからざることなり。

固より特殊に日本民族のみに限らず如何なる民族と雖も社会意識の覚醒が全民族全人類に拡張せられざる間は,系統を辿りて意識が漸時的に拡張するの外なきを以て血縁関係に社会意識が限定せられて系統主義となり,従て其進化の過程に於て生ずる家長国に於ては当然に忠孝主義を産むべきものにして,天下凡て系統主義と忠孝主義とを経過せざる国民は無し。(北616617頁)

 

 北は,我が国民による皇室に対する迫害打撃の歴史をこれでもかとばかりに書き連ねるのですが,以下はそのほんの一部です。

 

吾人は学理攻究の自由によりて,皇室の常に優温閑雅なりしにも係らず,国民の祖先は常に皇室を迫害打撃し,万世一系の傷けられざりしは皇室自家の力を以て護りしなりと断定するに於て何の憚りあらんや。(北621頁)

 

例外の乱臣賊子は彼等〔いわゆる国体論者〕の考ふる如く〔北条〕義時一人に止まるべき者に非らずして,義時の共犯或は従犯として〔承久三年(1221年)の変の後〕3帝〔後鳥羽上皇,土御門上皇及び順徳上皇〕を鳥も通はぬ遠島〔ただし,土御門上皇の配流先は土佐〕に放逐せし他の十九万の下手人,尚後より進撃せんと待ちつゝありし二十万の共謀者を忠臣義士の中に数ふることは国体論をして神聖ならしむる所以(ゆえん)に非らず。〔現在の立場から歴史を逆進的に見る〕逆進的批判者が3帝を遷し奉れりと云ふに対して吾人は放逐の文字を用ゆ。何となれば(かか)る潤飾を極めたる文字は戦々競々の尊崇を以てする行動を表白すべく,後鳥羽天皇が隠岐に39年間〔ママ。現実には承久三年から18年後の延応元年(1239年)に崩御〕巌崛に小屋を差し掛けて住ひ,順徳帝が佐渡に於て今日尚順徳坊様と呼ばれつゝあるが如く物を乞ひて過ごせし如き極度迄の迫害窮(ママ)を表はすべき言葉に非らず。〔略〕居住の自由を奪ひて都会の栄華より無人島に流竄(りゅうざん)したることは明白なる放逐非らずや。神官が恭敬恐縮を以て旧殿より大神宮を捕へて新殿に放逐したりと云ふものあらば発狂視せらるべきが如く,義時が兵力を以て3帝を隠岐佐渡に移し奉れりと云ふが如き文字の使用は逆進的叙述も沙汰の限りと云ふべし。(北649650頁)

 

 乱臣賊子による仲恭天皇(九条廃帝)廃位の事実も,「日本国民は克く忠孝に万世一系の皇位を扶翼して万国無比の国体を成せるなり」なのだとの前提に基づく「逆進的叙述」によれば,特例による御「譲位」ないしは生前御「退位」ということになるのでしょう。

 

  明かに降服の態度を示して東軍を迎へたるに係らず全国民の一人として死より苦痛なる3帝の流竄を護らんとせし者なきは,外国干渉の口実を去らんが為めの余儀なき必要ながら而も僅かに1票の差を以て〔ルイ16世の〕死刑を決せし〔1793年の〕仏蘭西国民よりも遥かに残忍なる報復に非ざりしか。(吾人は今尚故郷なる〔佐渡の〕順徳帝の(ママ)〔陵〕に到る毎に詩人の断腸を思ふて涙流る。(北749頁)

 

 なお,承久の変に関しては,今年(2017年)2月のブログ記事である「北条泰時の宇治川渡河の結果について:廃位及び空位」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1064426577.htmlも御参照ください。

 

14世紀半ばの〕高師直のごときは『都に王と云ふ人のまし〔まし〕て若干の所領を塞げ,内裏,院,御所と云ふ所ありて馬より降るむつかしさよ。若し王なくして叶ふまじき道理あらば木にて造るか金にて鋳るかして,生きたる院国王をば何方へも流し捨て奉らばや』と放言したり。〔略〕今日,幾多の政党者流が穂積〔八束〕忠臣等の憂慮するが如く事実上の共和政体――若しくは共和政体を慣習によりて実現する不文憲法〔略〕を主張し,〔略〕亦実に穂積忠臣等の憂慮するが如く天皇の意義に大なる変動を及ぼすべきを知りつゝも,尚且つ民主々義を解せざるかの如き面貌を装ふ国民の狡猾とは反対なる露骨なりと雖も〔,〕而も全国民が彼〔高師直〕を〔1898年8月に〕共和演説を為せる〔尾崎行雄文部〕大臣を打撃したる如く排斥せずして,〔足利〕尊氏に次ぐ権力者として奉戴せるは〔略〕祖先たるに恥(ママ)ざる乱臣賊子の国民と云ふべし。(北652653頁)

 

 上記高師直の放言に関しては,こちらは昨年(2016年)10月のブログ記事である「「木を以て作るか,金を以て鋳るかして,生きたる院,国王をば,いづくへも皆流し捨てばや」発言とそれからの随想」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1062095479.htmlを御参照ください。

 「事実上の共和政体――若しくは共和政体を慣習によりて実現する不文憲法たるべき政党内閣,責任内閣を主張し」,「天皇の意義に大なる変動を及ぼすべきを知りつゝも,尚且つ民主々義を解せざるかの如き面貌を装ふ国民の狡猾」とありますが,この「国民の狡猾」は蒲魚(かまとと)流のものかあるいは無意識に行われていたものなのか。いずれにせよ,無意識の狡猾というのが,一番たちが悪そうです。輓近の様子にもかんがみるに,天皇に関するこの「国民の狡猾」は,無意識裡に,主観的「善意」の不離の反面として生ずるもののようです。(Pater, dimitte illis; non enim sciunt quid faciunt.)

 

あゝ今日四千五百万〔現在であれば一億二千万〕の国民は殆ど挙りて乱臣賊子及び其の共犯者の後裔なり。吾人は日本歴史の如何なる頁を開きて之が反証たるべき事実を発見し,億兆心を一にして克く忠に万世一系の皇室を奉戴せりと主張し得るや。

而しながら万世一系の一語に殴打されたる白痴は斯る事実の指示のみを以ては僅かに疑問を刺激さるゝに止まるべし。(北670頁)

 

乱臣賊子は義時と尊氏とのみにして其他の日本国民は皆克く忠に万世一系の皇統を扶翼せる皇室の忠臣義士なりきと云ふが如き痴呆は土人部落に非らずして何ぞ。歴史は二三人物の(ほしいまま)なる作成に非らず。彼らは単に民族の思想を表白する符号として歴史(ママ)の上に民族の行為を代表して其所為を印するに過ぎず。故に〔略〕民族の歴史としての日本史は実に皇室に対する乱臣賊子の物語を以て補綴せられたるものなり。記録せられたる代表者若しくは符号のみが乱臣賊子に非らず,其の下に潜在する『日本民族』が即ち皇室に対する乱臣賊子なりしなり。(北677678頁)

 

 「系統主義」及び「忠孝主義」が,何故皇室に対する乱臣賊子を生ずるのかについて,改めて説明がされます。

 まず「系統主義」。

 

系統崇拝は海洋の封鎖によりて進化の急速なる能はざりし日本の中世史に於ては特に甚しく,如何なる乱臣賊子も自家の系統の尊貴なることによりて国民の崇拝を集め以て乱臣賊子を働くを得たりしなり。(北695696頁)

 

而して系統主義は一面下層階級に対して系統崇拝たると共に,崇拝さるべき系統の貴族階級に取りては天皇と自家とが同一の天皇より分れたる同一系統の同一なる枝なりと云ふ理由によりて平等主義の殺伐なる実行に於て説明なりき。平氏の将門が『我は桓武の末なり』として自立せんとしたる如き,源氏の足利義満が『我れ清和の末なれば非理の道に非らず』〔と〕して簒奪せんとしたる如き実に系統を辿りて平等観の漸時に発展したる者に外ならざるなり。(北699頁)

 

 次に「忠孝主義」。

 

源平以後の貴族国時代に入りては同じき強力による土地の掠奪によりて経済上の独立を得たる貴族階級は天皇に対して政治的道徳的の自由独立を以て被治者たるべき政治的義務と奴隷的服従の道徳的義務を拒絶し,而して其等の乱臣賊子の下に在る家の子郎等武士或は()百姓(ーフ)は其等の貴族階級に対する経済的従属関係よりして貴族を主君として奉戴すべき政治的義務と其下に奴隷的に服従すべき道徳的義務とを有して従属したりしなり。従て其従属する所の貴族が其の政治的道徳的の自由独立を所謂乱臣賊子の形に於て主張する場合に於ては,貴族の下に生活する中世史の日本民族は,其経済的従属関係よりして忠の履行者となり,以て乱臣賊子の加担者となりて皇室を打撃迫害したりしなり。(北709710頁)

 

維新革命に至るまでの上古中世を通じての階級国家は実に此の眼前の君父と云ふこと〔水戸斉昭のいう『人々天祖の御恩を報ひんと悪しく心得違ひて眼前の君父を差し置きて直ちに天朝皇辺に忠を尽くさんと思は却て(ママ)〔僭〕乱の罪逃るまじく候ということ。〕を以て一貫したるなり。此の『眼前の君父』を外にして真の忠孝なし。(北717頁)

 

故に吾人は断言す,皇室を眼前の君父として忠臣義士たりし者は其れに経済的従属関係を有する公(ママ)〔卿〕のみにして,(即ち今日の公〔卿〕華族の祖先のみにして,日本民族の凡ては貴族階級の下に隷属して皇室の乱臣賊子なりしなりと。而して貴族の萌芽は歴史的生活時代の始めより存したるを以て,日本民族は其の歴史の殆ど凡てを挙げて皇室の乱臣賊子なりしなりと。(北719720頁)

 

3 「万世一系」の維持をもたらした事由

 「万世一系の傷けられざりしは皇室自家の力を以て護りしなり」と断定するについては,次のような理由が挙げられています。

 神道の国家起原論の力がなおあっただろうとされ,更に系統主義は皇室迫害につながる面もあったがやはり最も尊貴な系統としての皇室を侵犯から守る面を有していたとされます。

 

  神道の信仰よりしたる攘夷論が其の信仰の経典によりて尊王論と合体したる如く,斯る〔神道の〕国家起原論ある間国家の起原と共に存すと信仰せらるゝ皇室に対して平等主義の制限せられたるは想像せらるべし。加ふるに系統の尊卑によりて社会の階級組織なりし系統主義の古代中世なりしを以て,優婉閑雅なりし皇室が理由なき侵犯の外に在りしは誠に想像せらるべし。彼の藤原氏に於て,其族長の下に忠孝主義を奉ずる家族々党は其族長の命ならば内閣全員のストライキをも憚らざりしに係らず,尚その族長〔が〕其の団結的強力を〔率ゐ〕て皇位を奪ふに至らざりし者,実に皇族と云ふ大族が最も貴き系統の直孫なりとせられたればなり。(北737738頁)

 

ヨーロッパ中世のローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝との関係になぞらえて,武家政権時代の天皇は「神道の羅馬法王」,将軍は「鎌倉の神聖皇帝」とそれぞれ称されます。

 

 吾人は実に考ふ――中世史の天皇は其所有する土地と人民との上に家長君主たりしと共に全国の家長君主等の上に『神道の羅馬法王』として立ちたるなりと。(北740頁)

 

 当時の征夷大将軍とは其の所有する土地人民の上に全部の統治権を有すること恰も天皇及び他の群雄諸侯等が其れぞれの土地人民の上に家長君主として其れぞれ家長君主たりしがごとく,只異なる所は神道の羅馬法王としての天皇によりて冠を加へらるゝ『鎌倉の神聖皇帝』なりしなり。(北740741頁)

 

 この関係から,皇室から皇位が奪われ,又は皇位が廃されることがなかった理由が説明されます。両者の存在意義が異なったものだったからだということです。

 

 欧州の神聖皇帝が自ら立ちて基督教の羅馬法王の位を奪ひしことなく又其の必要なかりし如く,神道の羅馬法王が天下を取て最上の強者たることを目的とせる鎌倉の神聖皇帝によりて奪はれざりしは各々存在の意義を異にせるよりの必要なかりしを以てなり。(北745頁)

 

貴族階級(北の用語法では,武家も含まれます。)が乱臣賊子であったにもかかわらず「万世一系」が維持されたということから,天皇は「神道の羅馬法王」であったということが裏側からも論証されるとされます。乱臣賊子がボルシェヴィキのごとく天皇及び皇族の生命・身体に手をかけなかった理由は,「絶望」した天皇及び皇族が「優温閑雅なる詩人として政権争奪の外に隔たりて傍観者たりしが故」であったにすぎないとされます。

 

 〔吾人は〕中世の天皇が神道の羅馬法王としての万世一系なりしことを,貴族階級の乱臣賊子なりし事実によりて亦何者よりも強烈に主張す。

 あゝ国体論者よ,この意味に於ける万世一系は国民の克く忠なりしことを贅々する国体論者に対して無恥の面上に加へらるべき大鉄槌なり。即ち,天皇は深厚に徳を樹てゝ全人民全国土の上に統治者たらんことを要求したりき,実に如何なる迫害の中に於ても衣食の欠乏に陥れる窮迫の間に於ても寤寐に忘れざる要求なりき,然るに国民は強力に訴へて常に之を拒絶したりと云ふことなり。――何の国体論ぞ,斯る歴史の国民が克く忠に万世一系の皇室を奉戴せりと云は義時も尊氏も大忠臣大義士にして,楠公父子〔楠木正成・正行〕は何の面目ありや。或は云ふべし,而しながら万世一系に刃を加へざりしと。――亦何の国体論ぞ,是れ国民の凡てが悉く乱臣賊子に加担して天皇をして其の要求の実現を絶望せしめたればなり。斯ることが誠忠の奉戴ならば北条氏の両統迭立と徳川氏の不断の脅迫譲位は何よりも誠忠なる万世一系の奉戴にして幽閉の安全によりて系統は断絶する者ならんや。問題は万世一系の継続其事に非らずして如何にして万世一系が継続せしかの理由に在り。――斯る理由によりて継続されたる万〔世一〕系は誠に以て乱臣賊子が永続不断なりしことの表白に過ぎずして,誠忠を強(ママ)する国体論者は宮城の門前に拝謝して死罪を待て!何の奉戴ぞ。日本民族の性格はルヰ16世を斬殺せる仏蘭西人と同一なりと云はれつゝあるに非らずや,只皇室が日本最高の強者たりし間は二三のものを除きて多くルヰ14世の如くならず殆ど良心の無上命令として儒教の国家主権論を政治道徳として遵奉し,皇室の其れが他の強者の権利に圧伏せられたる時には優温閑雅なる詩人として政権争奪の外に隔たりて傍観者たりしが故なり。万世一系は皇室の高遠なる道徳の顕現にして誇栄たるべきものは日本国中皇室を外にして一人だもあらず,国民に取りては其の乱臣賊子たりし所以の表白なり。(北747749頁)

 

 なお,「天皇は深厚に徳を樹てゝ全人民全国土の上に統治者たらんことを要求したりき」とは,教育勅語冒頭の「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」に対応するものでしょう。

 

4 維新革命後の天皇

 青年北の冷静な観察によれば,維新革命時の勤皇運動における天皇に対する「忠」は,「眼前の君父」に対する忠からの民主主義的解放のための方便にすぎなかったということになります。

 

 〔維新革命においては〕天皇に対する忠其事は志士艱難の目的にあらず,貴族階級に対する忠を否認すること其事が目的なりき。貴族階級は(すで)に忠を否認して独立したり,一般階級は更に其れに対する忠を否認して自由ならざるべからず。(北807頁)

 

 彼等は嘗て貴族階級に対する忠を以て皇室を打撃迫害せる如く,皇室に対する忠の名に於て貴族階級をも顚覆せんと企てたり。貴族階級に対する古代中世の忠は誠のものなりき,今の忠は血を以て血を洗はんとせる民主々義の仮装なり。〔略〕曰く――幕府諸侯が土地人民の上に統治者たるは覇者の強のみと,而して是れに対抗して皇室は徳を以て立てる王者なりと仮定したり。国民は切り取り強盗に過ぎざる幕府諸侯に〔対〕して忠順の義務なしと,而して是れに対抗して皇室は高天か原より命を受けたる全日本の統治者なりと仮定したり。

 維新革命は国家間の接触によりて覚醒せる国家意識と〔大化革命後〕一千三百年の社会進化による平等観の普及とが,未だ国家国民主義(即ち社会民主々義)の議論を得ずして先づ爆発したる者なり。決して一千三百年前の太古に逆倒せる奇蹟にあらず。(北810頁)

 

 維新革命の国体論は天皇と握手して貴族階級を顚覆したる形に於て君主々義に似たりと雖も,天皇も国民も共に国家の分子として行動したる絶対的平等主義の点に於て堂々たる民主々義なりとす。(北812頁)

 

 維新革命を経た後の明治天皇は,日本史上の伝統的天皇というよりは,広義の国民の一員にして国家機関たる天皇ということになります。「民主々義の大首領として英雄の如く活動」したというのですから,日本版ジョージ・ワシントン()

 

 而して現天皇〔明治天皇〕は維新革命の民主々義の大首領として英雄の如く活動したりき。『国体論』は貴族階級打破の為めに天皇と握手したりと雖も,その天皇とは国家の所有者たる家長と云ふ意味の古代の内容にあらずして,国家の特権ある一分子,美濃部〔達吉〕博士の所謂広義の国民なり。即ち 天皇其者が国民と等しく民主々義の一国民として天智の理想を実現して始めて理想国の国家機関となれるなり。――維新革命以後は『天皇』の内容を斯る意味に進化せしめたり。(北814頁)

 

 ただし,維新革命は民主主義の建設という課題を残したものであって,貴族主義の復活に抗して社会民主主義者は,大日本帝国憲法に基づく国体及び政体を承けて,理想の実現に向けて努力を続けなければなりません。

 

 維新革命は〔戊〕辰戦役に於て貴族主義に対する破壊を為したるのみにして,民主々義の建設は帝国憲法によりて一段落を劃せられたる23年間の継続運動なりとす。明らかに維新革命の本義を解せよ。『藩閥』と『政党』との名に於て貴族主義と民主々義は建設の上により多くの勢力を占めんことを争ひぬ。(北815頁)

 

 伊藤博文の帝国憲法は独乙的専制の飜訳に更に一段の専制を加へて,敗乱せる民主党の残兵の上に雲に轟くの凱歌を挙げたり。――あゝ民主党なる者顧みて感や如何に!〔衆議院〕解散の威嚇と黄白〔金銭〕の誘惑の下に徒らに政友会と云ひ進歩党と云ふのみ。(北817頁)

 

 社会民主々義は維新革命の歴史的連続を承けて理想の完き実現に努力しつゝある者なり。(北818頁)

 

 社会民主々義と云ふは彼の個人主義時代の革命の如く国家を個人の利益の為めに離合せしめんとするものにあらずして,個人の独立は『国家の最高の所有権』と云ふ経済的従属関係の下に条件附なり。而して社会国家と云ふ自覚は維新前後の社会単位の生存競争に非ずして社会主義の理想を道徳法律の上に表白したり。国民(広義の)凡てが政権者たるべきことを理想とし,国民の如何なる者と雖も国家の部分にして,国家の目的の為め以外に犠牲たるべからずとの信念は普及したり。即ち民主々義なり。――故に吾人は決して或る社会民主々義者の如く現今の国体と政体とを顚覆して社会民主々義の実現さるゝものと解せず,維新革命其の事より厳然たる社会民主々義たりしを見て無限の歓喜を有するものなり。(実例を挙ぐれば彼の勝海舟が自己を天皇若しくは将軍と云ふが如き忠順の義務の外に置きて国家単位の行動を曲げざりし如きこれなりとす)(北827828頁)

 

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隅田川畔の海舟勝麟太郎像(東京都墨田区)

 

 「万世一系」を歴史的真実であるかのように取り扱うことに対して批判的な北は,天皇の位置付けについて乾いた考え方をしていたように思われます。

 

 憲法第1条の『大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す』とある『万世一系』の文字は皇室典範の皇位継承法に譲りて棄却して考へて可なり〔略〕。何となれば,〔略〕現〔明治〕天皇以後の天皇が国家の最も重大なる機関に就くべき権利は現憲法によりて大日本帝国の明らかに維持する所なるを以てなり。〔略〕而して又『天皇』と云ふとも時代の進化によりて其の内容を進化せしめ,万世の長き間に於て未だ嘗て現天皇の如き意義の天皇なく,従て憲法の所謂『万世一系の天皇』とは現天皇を以て始めとし,現天皇より以後の直系或は傍系を以て皇位を万世に伝ふべしと云ふ将来の規定に属す。憲法の文字は歴史学の真理を決定するの権なし。従て『万世一系』の文字を歴史以来の天皇が傍系を交へざる直系にして,万世の天皇皆現天皇の如き国家の権威を表白せる者なりとの意義に解せば,重大なる誤謬なり。故に『万世一系』の文字に対しては多くの憲法学者が〔大日本帝国憲法3条(「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」)の〕『神聖』の文字に対して棄却を主張しつゝあるが如く棄却すべきか,或は吾人の如く憲法の精神によりて法文の文字に歴史的意義を附せず万世に皇位を伝ふべしとの将来の規定と解するかの二なり。而して後者とせば一系とは皇室典範によりて拡張されたる意義を有す。(北829830頁)

 

 大日本帝国憲法1条は将来に向かってのみの規定だといわれれば,明治天皇を初代とする新しい天皇制が大日本帝国憲法によって創始されたようにも受け取られ得ます。

 国家主権論者たる北にとって天皇は,飽くまでも国家の機関であって,その地位は国家の法たる憲法に基づくものでした。

 

 吾人は〔略〕,日本の現代は国家主権の国体にして天皇と国民とは階級国家時代の如く契約的対立にあらず,〔略〕従て日本現時の憲法は天皇と国民との権利義務を規定せず,広義の国民〔天皇を含む。〕が国家に対する関係の表白なりと云へり。(北830頁)

 

 天皇は国家の利益の為めに国家の維持する制度たるが故に天皇なり。如何なる外国人と雖も,末家と雖も一家と雖も,全く血縁的関係なき多数国民と雖も,この重大なる国家機関の存在を無視することは大日本帝国の許容せざる犯罪なり。(北839840頁)

 

「神道の羅馬法王」としての万世一系の維持も,伝統的系統崇拝による万世一系の維持も,鎖国を脱して文明開化した明治の御代においては時代遅れであるというのが北の認識であったようです。

 

 若し『国体論』の如く現今の天皇が国家機関たるが故に天皇にあらず,其の天皇なるは原始的宗教の信仰あるが故なりと云は,是れ今日の仏教徒と基督教徒と旧宗教の何者をも信ぜざる科学者と〔を〕して〔崇仏派であった〕蘇我の馬子たるべき権利を附与するものにして〔,〕内地雑居によりて帰化せる外国人の凡てをして〔崇峻天皇の暗殺者である〕〔(やまと)()(あや)氏の駒たるべき道徳上の放任に置くものなり。(北838頁)

 

 又或は,万世一系連綿たりと云ふ系統崇拝を以て天皇と国民との道徳関係を説かんとする者あるべし。固より〔略〕日本の下層的智識の部分に於ては日本天皇の意義を解せずして中世的眼光を以て仰ぎつゝある者の多かるべきは論なし。而しながら〔略〕未開国の良心を以て日本国民の現代に比することは国民に対する無礼たる外に皇室を以て斯る浮ける基礎に立てりとの推論に導きて皇室其者に対する一個の侮辱なり。否!系統崇拝を以て中世的良心が支配されしが為めに皇統より分派したる将軍諸侯の乱臣賊子となり,今日其の乱臣賊子を回護して尊王忠君なりと云ふ所の穂積〔八束〕博士の如きが君臣一家論を唱へて下賤なる穂積家を皇室の親類なり〔末〕家なりと云ふ精神病者が生ずるなり。(北840頁)

 

伝統による支え無く,実定憲法にのみ基づく国家の利益のための国家機関となると,北の見る天皇は,むしろ世襲の大統領とでもいうべきものでしょうか。

『天』は幾多貴族の手より〔天下を〕奪ひて現〔明治〕天皇の賢に与へたり,而して『天』は更に帝国憲法に於て後世子孫たとへ現天皇の如く賢ならずとも子に与ふべきことを国家の生存進化の目的の為めに命令しつゝあり。〔略〕機関の発生するは発生を要する社会の進化にして其の継続を要する進化は継続する機関を発生せしむ。日本の天皇は国家の生存進化の目的の為めに発生し継続しつゝある機関なり。(北975976頁)

 
 ちなみに,北は,湯武放伐論の孟子を高く評価しています。
 なお,天皇をめぐる理想と現実との齟齬の可能性についても論じられています。

 

 天皇が家長君主にして忠の目的が天皇の利己的慾望の満足に向つての努力なるならば,論理的進行の当然として例へば諸侯将軍等の如く天皇の個人性が其の社会性を圧伏して(即ち国家の機関として存する国家の意志を圧伏して)働くときに於ては,国民は圧伏されたる天皇の社会性を保護することなく,国家機関たる地位を逸出せる個人としての天皇と共に国家に向つて叛逆者とならざるべからず。斯る場合を仮想する時に於て,天皇は政治道徳以外に法律的責任なきは論なしと雖も,国家は其の森厳なる司法機関の口を通じて国民を責罰すべき法律を有す。是れ忠君愛国一致論の矛盾すべき時にあらずや。天皇なるが故に斯る矛盾なし,若し蛮神の土偶が天皇を駆逐して蛮神の個人的利益の為めに国家の臣民に忠を命ずるならば,国家の生存進化の為めに国家の全部を成せる天皇と国民とは必ず之を粉砕せざるべからず。〔略〕

 即ち,〔教育勅語にいう〕『爾臣民克く忠に』とある忠の文字の内容は上古及び近世の其れの内容とは全たく異なりて,国家の利益の為めに天皇の政治的特権を尊敬せよと云ふことなり。(北847848頁)

 

承詔必謹することがかえって「国家に向つて叛逆者」となることとなる場合があるのだ,という認識は,冷たい。(ただし,「みずか民主的革命首領明治天皇歴史以来事実日本今後天皇高貴愛国心喪失推論皇室典範規定摂政場合想像余地し。」ていす。(965966頁))

なお,ここにいう「蛮神の土偶」とは,固有の文脈においては教育勅語を盾に取った「国体論」のことでしょうが,「君側の奸」と言い換えてしまうと,「国家の生存進化の為めに国家の全部を成せる天皇と国民とは必ず之〔君側の奸〕を粉砕せざるべからず」という剣呑なことともなり得るわけだったようです。

明治23年〔1890年〕の帝国憲法〔施行〕以後は国家が其の主権の発動によりて最高機関の組織を変更し天皇と帝国議会とによりて組織し,以て『統治者』とは国家の特権ある一分子と他の多くの分子との意(ママ)の合致せる一団となれり。従て〔略〕孟子の如く天皇をのみ社会民主々義者たらしめて足れりとする能はず,資本家地主等が上下の議院に拠りて天皇の社会民主々義国家経済的源泉主権体土地生産機関経営」(958頁)〕を実現せざらしむる法理的可能を予想せざるべからず。(北961962頁)

 

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渋谷税務署脇の二・二六事件慰霊像(東京都渋谷区)

 

1936年7月〕12日 日曜日 この日早朝,二月二十六日の事件において死刑判決を受けた17名のうち香田清貞以下15名に対する刑の執行が行われる。天皇は昨日,侍従武官より香田以下の死刑執行予定に関して上聞を受けられ,この日,死刑が執行されたことを改めて侍従武官よりお聞きになる。刑の執行のため,この日思召しにより特に御運動も行われず,終日御奥においてお過ごしになる。(昭和天皇実録七138139頁)


1936年〕8月11

悪臣どもの上奏した事をそのままうけ入れ遊ばして,忠義の赤子を銃殺なされました所の 陛下は,不明であられると云うことはまぬかれません,此の如き不明を御重ね遊ばすと,神々の御いかりにふれますぞ,如何に陛下でも,神の道を御ふみちがえ遊ばすと,御皇運の(ママ)〔果〕てす(磯部獄中日記獄中手記中公文庫・2016年)95頁)


 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

              


1 大日本帝国憲法草案からの「法律ノ前ニ於テ平等トス」規定の消失

 1889年2月11日に発布された大日本帝国憲法にはそれとして平等条項が無いところですが,その第19条は「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得」と規定しています。これは,1888年3月の「浄写三月案」(国立国会図書館の電子展示会「史料にみる日本の近代―開国から戦後政治までの軌跡」の「第2章 明治国家の展開」27ウェッブ・ページ参照)の段階で既にこの形になっていました(ただし,「其他」の「」は朱筆で追記)

 しかし,伊東巳代治関係文書の「憲法説明 説明(第二)」は,1888年1月17日付けで作成され同年2月に条文が修正されたものですが(国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができます。),そこでの「第22条」は,「日本臣民タル者法律ノ前ニ於テ平等トス又法律命令ニ由リ定メタル資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其他ノ公務ニ就クコトヲ得」とありました(なお,「法律ノ前ニ於テ平等」は「法律ニ対シ」とすべきか「法律ニ於テ」とすべきか迷いがあったようで,「ニ対シ」及び「ニ於テ」の書き込みがあります。)。すなわち,1888年1月段階では「法律ノ前ニ於テ平等」という文言があったところです。

 188710月の修正後の夏島草案(「浄写三月案」と同様に国立国会図書館のウェッブ・ページを参照)では「日本臣民タル者ハ法律ノ前ニ於テ平等トス又適当ノ法律命令ニ由リ定メタル資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其他ノ公務ニ就クコトヲ得」とありました。同年8月作成時の夏島草案では「第50条 日本臣民タル者ハ政府ノ平等ナル保護ヲ受ケ法律ノ前ニ於テ平等トス又適当ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其他ノ公務ニ就クコトヲ得」とあり,「政府ノ平等ナル保護」まであったところです。

 夏島草案の1887年8月版は,同年4月30日に成立した(小嶋和司「ロエスレル「日本帝國憲法草案」について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)4頁)ロエスレルの草案の第52条の影響を受けたものでしょう。

 

 第52条 何人タリトモ政府ノ平等ナル保護,法律ニ対スル平等及凡テ公務ニ従事シ得ルノ平等ヲ享有ス

 Art. 52.  Jeder geniesst den gleichen Schütz des Staats, Gleichheit vor dem Gesetz und die gleiche Zulassung zu allen öffentlichen Ämtern.

  (小嶋24-25頁参照)

 

「法律ニ対スル平等Gleichheit vor dem Gesetz」は,もっと直訳風にすると「法律の前の平等」になりますね。

なお,「政府」の語は,本来「国家」であるべきものStaatの誤りです(小嶋53頁)

 

2 1831年ベルギー国憲法,1849年フランクフルト憲法及び1850年プロイセン憲法

ところで,ロエスレル草案の「表現は,あくまでロエスレルの脳漿に発するロエスレルの言葉でおこなわれた」ところですが(小嶋39頁),そもそも,臣民権利義務に係る大日本帝国憲法第2章については,「その規定の内容に於いて最も多くプロイセンの1850年1月の憲法の影響を受けて居ることは,両者の規定を対照比較することに依つて容易に知ることが出来る,而してプロイセンの憲法は,此の点に於いて,最も多く1831年のベルジツク憲法及び1848年のフランクフルト国民会議に於いて議決せられた『ドイツ国民の基礎権』の影響を受けて居るもので,随つてわが憲法も亦間接には此等の影響の下に在るものと謂ふことが出来る。」ということですから(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)329頁)1831年ベルギー国憲法,1849年フランクフルト憲法及び1850年プロイセン憲法の当該条文をそれぞれ見てみましょう。

 

(1)ベルギー国憲法6条

まず,1831年ベルギー国憲法。

 

第6条 国内にいかなる身分の区別も存してはならない。

  ベルギー国民は,法律の前に平等である。ベルギー国民でなければ,文武の官職に就くことができない。ただし,特別の場合に,法律によって例外を設けることを妨げない。

  (清宮四郎訳『世界憲法集 第二版』(岩波文庫・1976年)71頁)

 Article 6

    Il n’y a dans l’État aucune distinction d’ordres.

    Les Belges sont égaux devant la loi; seuls ils sont admissibles aux emplois civils et militaires, sauf les exceptions qui peuvent être établies par une loi pour des cas particuliers.

 

(2)フランクフルト憲法137

次に1849年フランクフルト憲法。

 

137条(1)法律の前に,身分Ständeの区別は存しない。身分としての貴族は廃止されたものとする。

 (2)すべての身分的特権は,除去されたものとする。

 (3)ドイツ人は,法律の前に平等である。

 (4)すべての称号は,役職とむすびついたものでないかぎり,廃止されたものとし,再びこれをみとめてはならない。

 (5)邦籍を有する者は,何人も,外国から勲章を受領してはならない。

 (6)公職は,能力ある者がすべて平等にこれにつくことができる。

 (7)国防義務は,すべての者にとって平等である,国防義務における代理はみとめられない。

  (山田晟訳『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)172頁)

§.137.

  [1]Vor dem Gesetze gilt kein Unterschied der Stände. Der Adel als Stand ist aufgehoben.

[2]Alle Standesvorrechte sind abgeschafft.

[3]Die Deutschen sind vor dem Gesetze gleich.

[4]Alle Titel, in so weit sie nicht mit einem Amte verbunden sind, sind aufgehoben und dürfen nie wieder eingeführt werden.

[5]Kein Staatsangehöriger darf von einem auswärtigen Staate einen Orden annehmen.

[6]Die öffentlichen Aemter sind für alle Befähigten gleich zugänlich.

[7]Die Wehrpflicht ist für Alle gleich; Stellvertretung bei derselben findet nicht statt.

 

 なお,美濃部達吉の言う「1848年のフランクフルト国民会議に於いて議決せられた『ドイツ国民の基礎権』」とは,後にフランクフルト憲法に取り入れられた18481227日のドイツ国民の基本権に関する法律Gesetz, betreffend die Grundrechte des deutschen Volksのことでしょうか(山田170頁参照)

 

(3)プロイセン憲法4条

最後に1850年プロイセン憲法。

 

 第4条(1)すべてのプロイセン人は,法律の前に平等である。身分的特権は,みとめられない。公職は,法律の定める条件のもとに,その能力あるすべての者が,平等にこれにつくことができる。

   (山田訳189頁)

 Art.4.  Alle Preußen sind vor dem Gesetz gleich. Standesvorrechte finden nicht statt. Die öffentlichen Aemter sind, unter Einhaltung der von den Gesetzen festgestellten Bedingungen, für alle dazu Befähigten gleich zugänglich.

 

(4)大日本帝国憲法19条との比較

 これらの条項を眺めていると,お話の流れとしては,①身分制を廃止し(ベ1項,フ1項),身分的特権を除去すれば(フ2項,プ2文),②国民は法律の前に平等になり(ベ2項前段,フ3項,プ1文),③その結果国民は均しく公職に就くことができるようになる(ベ2項後段,フ6項,プ3文)ということのようです。フランクフルト憲法137条4項及び5項は身分制の復活の防止,同条7項は平等の公職就任権の裏としての平等の兵役義務ということでしょうか。①は前提,②は宣言,③がその内容ということであれば,我が大日本帝国憲法19条は,前提に係る昔話や難しい宣言などせずに,単刀直入に法律の前の平等が意味する内容(③)のみを規定したものということになるのでしょう。

なお,『憲法義解』における第2章の冒頭解説の部分では,「抑中古,武門の政,士人と平民との間に等族を分ち,甲者公権を専有して乙者預らざるのみならず,其の私権を併せて乙者其の享有を全くすること能はず。公民〔おほみたから〕の義,是に於て滅絶して伸びざるに近し。維新の後,屢大令を発し,士族の殊権を廃し,日本臣民たる者始めて平等に其の権利を有し其の義務を尽すことを得せしめたり。本章の載する所は実に中興の美果を培殖し,之を永久に保明する者なり。」とあって,「士族の殊権を廃し」,すなわち身分的特権を除去して(①),「日本臣民たる者始めて平等に其の権利を有しその義務を尽す」,すなわち法律の前の平等が達成されたものとする(②)との趣旨であろうところの補足的説明がされています1888年3月の「浄写三月案」における当該部分の朱字解説にはなかった文章です。「浄写三月案」では,代わりに,「彼ノ外国ニ於テ上下相怨ムノ余リニ国民ノ権利ヲ宣告シテ以テ譲予ノ契約トナスカ如キハ固ヨリ我カ憲法ノ例ヲ取ル所ニ非サルナリ」とのお国自慢が記されています。)

 

3 ベルギー国憲法流の「法律の前の平等」の意味

 しかし,身分的特権を除去して国民が均しく公職に就けるようにすることのみが法律の前の平等の意味だったのでしょうか。「法律の前の平等」にはもう少し多くの内容があってもよさそうな気もします。そもそもの規定である1831年ベルギー国憲法6条2項における“Les Belges sont égaux devant la loi”の意味を詳しく見てみる必要があるようです。

 便利になったことに,Jean Joseph ThonissenLa Constitution belge annotée, offrant, sous chaque article, l’état de la doctrine, de la jurisprudence et de la legislation1844 年版が現在インターネットで読むことができるようになっています(「東海法科大学院論集」3号(2012年3月)113頁以下の「憲法21条の「通信の秘密」について」を書く際には国立国会図書館まで行って,「これってもしかしたら井上毅も読んだのだろうか」というような古い現物の本(1876年版)に当たったものでした。ちなみに,上記論文執筆当時,1831年ベルギー国憲法の解説本を読もうとして国立国会図書館でフランス語本を探したとき見つかった一番古い本が,当該トニセン本でした。トニセンは,1844年には27歳。刑法学者,後にベルギー国王の大臣)。その22頁以下に第6条の解説があります。

 

 22 立憲国家において法律の前の平等l’égalité devant la loiは,主に4種の態様において現れる。①全ての身分ordresの区別の不在において,②全ての市民が差別なく全ての文武の官職に就任し得ることにおいて,③裁判権juridictionに関する全ての特権の不在において,④課税に関する全ての特権の不在において。平等l’égalitéに係る前2者の態様が第6条によって承認されている。他の2者は,第7条,第8条,第92条及び第112条において検討するものとする。Thonissen, p.23

 

ベルギー国憲法7条は「個人の自由は,これを保障する。/何人も,あらかじめ法律の定めた場合に,法律の定める形式によるのでなければ,訴追されない。/現行犯の場合をのぞいては,何人も,裁判官が理由を付して発する令状によらなければ,逮捕されない。逮捕状は,逮捕のとき,または遅くとも逮捕ののち24時間以内に,これを示さなければならない。」と,第8条は「何人もその意に反して,法律の定める裁判官の裁判を受ける権利を奪われない。」と規定していました(清宮訳71頁)。第92条は「私権にかかわる争訟は,裁判所の管轄に専属する。」と規定しており(同92頁),第112条は「租税に関して特権を設けることはできない。/租税の減免は,法律でなければ,これを定めることができない。」と規定していました(同99頁)。これらはそれぞれ,大日本国帝国憲法23条,24条,57条1項及び62条1項に対応します。

 

 23 このように理解された法律の前の平等は,いわば,立憲的政府の決定的特徴を成す。それは,フランス革命の最も重要,最も豊饒な成果である。かつては,特権privilège及び人々の間の区別distinctions personnellesが,人間精神,文明及び諸人民の福祉の発展に対する障碍を絶えずもたらしていた。ほとんど常に,人は,出生の偶然が彼を投じたその境遇において生まれ,そして死んでいった。立憲議会は,それ以後全ての自由な人民の基本法において繰り返されることになる次の原則を唱えることによって新しい時代を開いた。いわく,「人は,自由かつ権利において平等なものとして出生し,かつ生存する。社会的差別は,共同の利益の上にのみ設けることができる。・・・憲法は,自然的及び市民的権利として次のものを保障しなければならない。第一,全て市民は徳性及び才能以外の区別なしに地位及び職務に就任し得ること。第二,全ての税contributionsは,全ての市民の間においてその能力に応じて平等に配分されること。第三,人による区別なく,同一の犯罪には同一の刑罰が科されること。」と(1791年憲法,人権宣言,第1条及び第1編唯一の条)。Thonissen, p.23

 

「人は,自由かつ権利において平等なものとして出生し,かつ生存する。社会的差別は,共同の利益の上にのみ設けることができる。」とは,1789年の人及び市民の権利宣言の第1条の文言です(山本桂一訳『人権宣言集』(岩波文庫)131頁)1789年の人及び市民の権利宣言は,1791年の立憲君主制フランス憲法の一部となっています(当時の王は,ルイ16世)。トニセンがした上記引用部分の後半は,フランス1791年憲法の第1編(憲法によって保障される基本条項(Dispositions fondamentales garanties par la Constitution))の最初の部分です(ただし,フランス憲法院のウェッブ・ページによると,原文は,「保障しなければならない(doit garantir)」ではなく,単に「保障する(garantit)」であったようです。)

前記伊東巳代治関係文書の「憲法説明 説明(第二)」の第22条(大日本帝国憲法19条)の朱書解説1888年1月)は「本条ハ権利ノ平等ヲ掲ク蓋臣民権利ノ平等ナルコト及自由ナルコトハ立憲ノ政体ニ於ケル善美ノ両大結果ナリ所謂平等トハ左ノ3点ニ外ナラズ第一法律ハ身分ノ貴賤ト資産ノ貧富ニ依テ差別ヲ存スルヿナク均ク之ヲ保護シ又均ク之ヲ処罰ス第二租税ハ各人ノ財産ニ比例シテ公平ニ賦課シ族類ニ依テ特免アルコトナシ第三文武官ニ登任シ及其他ノ公務ニ就クハ門閥ニ拘ラズ之ヲ権利ノ平等トス」と述べていますが,トニセンの書いていることとよく似ていますね。日本がベルギーから知恵を借りたのか,それとも両者は無関係だったのか。最近似たようなことが問題になっているようでもありますが,井上毅はフランス語を読むことができたところです(と勿体ぶるまでもなく,トニセン本及びその訳本は,大日本帝国憲法草案の起草に当たっての参考書でした(山田徹「井上毅の「大臣責任」観に関する考察:白耳義憲法受容の視点から」法学会雑誌(首都大学東京)48巻2号(2007年12月)453頁)。)。ただし,上記引用部分に続く「彼ノ平等論者ノ唱フル所ノ空理ニ仮托シテ以テ社会ノ秩序ヲ紊乱シ財産ノ安全ヲ破壊セントスルカ如キハ本条ノ取ル所ニ非サルナリ」の部分は,トニセンのベルギー国憲法6条解説からとったものではありません。

なお,「①全ての身分ordresの区別の不在」については,「憲法説明 説明(第二)」の第22条(大日本帝国憲法19条)朱書解説は,「維新ノ後陋習ヲ一洗シテ門閥ノ弊ヲ除キ又漸次ニ刑法及税法ヲ改正シテ以テ臣民平等ノ主義ニ就キタリ而シテ社会組織ノ必要ニ依リ華族ノ位地ヲ認メ以テ自然ノ秩序ヲ保ツト雖亦法律租税及就官ノ平等タルニ於テ其分毫ヲ妨クルナシ此レ憲法ノ保証スル所ナリ」と述べています。「法律租税及就官ノ平等タルニ於テ其分毫ヲ妨クルナシ」なのだから,華族制度も問題は無い,ということのようです。

 

 24 1815年の基本法は,この関係において,大いに足らざるところがあった。同法は,三身分ordresの封建的区別を再定立していた。すなわち,貴族又は騎士団身分,都市身分及び村落身分である。主にこの階層化classificationこそが,国民会議Congrès nationalが,国内にいかなる身分の区別も存してはならないと決定して禁止しようとしたものであった(第75〔国王の栄典授与権に関する条項〕のレオポルド勲章を制定した法律に関する議論の分析を参照)。Thonissen, p.23

 

 25 第6条第2項は,全ての市民は全ての文武の官職に差別なしに就任し得ることを宣言するものである。この規定は,法律の前の平等の原則を採用したことの必然的帰結であった。「第二次的な法律において初めてseulement規定されるべきではなく,憲法自身において規定されるべきものである原則は,公職に対する全ての市民の平等な就任可能性の原則である。実際,この種の特典faveursの配分における特権及び偏頗ほど,市民を傷つけ,落胆させるものはない。そして,ふさわしくかつ有能な人物のみを招聘するための唯一の方法は,職を才能及び徳性によるせりにかける以外にはない〔Macarel1833年版Élèm. de dr. pol. (『政治法綱要』とでも訳すべきか)246頁からの引用〕。」Thonissen, pp.23-24

 

 上杉慎吉は,大日本帝国憲法19条について「第19条は仏蘭西人権宣言の各人平等の原則に当たるものである,我憲法は各人平等の原則を定めずして,唯た文武官に任ぜられ公務に就くの資格は法律命令を以て予め定むべく,而して法律命令が予め之を定むるには均しくと云ふ原則に依らなければならぬことを定めたのである・・・均くと云ふのは門閥出生に依りて資格の差等を設けざるの意味である,諸国の憲法が此規定を設けたる理由は従来門閥出生に依つて官吏に任じ公務に就かしめたることあるのを止める趣意でありまするから,均くと云ふのは必しも文字通りに解すべきではありませぬ,例へば男女に就て差等を設くるとも第19条の趣意に反するものではない」と述べていました(同『訂正増補帝国憲法述義』(有斐閣書房・1916年)294-295頁)。大日本帝国憲法19条と1789年のフランスの人及び市民の権利宣言とのつながりがこれだけでは分かりにくかったのですが,その間に1791年フランス憲法並びに1831年ベルギー国憲法及び1850年プロイセン憲法が介在していたのでした。

 しかし,ヨーロッパAncien Régimeの身分制のえげつなさが分からなければ,当時唱えられるに至った「法律の前の平等」の意味もまたなかなか分からないようです。
 なお,尊属殺人罪に係る刑法200条を違憲とした最高裁判所大法廷昭和48年4月4日判決(刑集27巻3号265頁)に対する下田武三裁判官の反対意見では「わたくしは,憲法14条1項の規定する法の下における平等の原則を生んだ歴史的背景にかんがみ,そもそも尊属・卑属のごとき親族間の身分関係は,同条にいう社会的身分には該当しないものであり,したがつて,これに基づいて刑法上の差別を設けることの当否は,もともと同条項の関知するところではないと考えるものである。」と述べられていましたが,そこにいう「歴史的背景」とは,前記のようなものだったわけでしょう。 

1 2015年4月の日米防衛協力のための指針と米国からの電子メール
 

(1)米国内での報道

 今年(2015年)4月末の安倍晋三内閣総理大臣の米国訪問に際して米国ABCのウェッブサイトに「米日防衛協定:中国に対する懸念の中,日本軍により幅広い役割を認める「歴史的」な新ルール」(US-Japan defence deal: Historic new rules to allow Japanese forces wider role amid concerns over China)と題するニュース記事が掲載されました。

 そこでは,「改訂されたガイドラインにおいては,日本は,第三国から脅威を受けている米国軍のために来援することができ,又は,例えば,中東地域での活動のために掃海艇を派遣することができる。」(Under the revised guidelines, Japan could come to the aid of US forces threatened by a third country or, for example, deploy minesweeper ships to a mission in the Middle East.)と報ぜられています。これに対して従前のルールでは,「日本軍は,日本を直接防衛する行動をしている米国兵のみを支援することができた」(Under the previous rules, Japanese forces could assist American troops only if they were operating in the direct defence of Japan.)ものにすぎなかったとされるところです。米国のケリー国務長官は,共同記者会見において,「本日(2015年4月27日),我々は,日本が自国の領土のみならず,必要であれば米国及び他のパートナーをも防衛する権能を確立したことを確認するものであります。」("Today we mark the establishment of Japans capacity to defend not just its own territory, but also the United States and other partners as needed.)と発言したとされています。


(2)米国からの電子メール

 このニュースを読んだ米国人の知人から早速電子メールが届きました。



  どのようにして事態は変わったものやら。今や日本は,米国が第三者によって攻撃されたときには来援してくれるし,中東での
○○対策で私たちを助けてくれるのですね。

 

 実はいささか返事に困っているところです。
 

(3)日米防衛協力のための指針

 2015年4月27日の日米防衛協力のための指針The Guidelines for Japan-U.S. Defense CooperationⅣ章「日本の平和及び安全の切れ目のない確保」(Seamlessly Ensuring Japan's Peace and Security)のD「日本以外の国に対する武力攻撃への対処行動」(Actions in Response to an Armed Attack against a Country other than Japan)には,「自衛隊は,日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し,これにより日本の存立が脅かされ,国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態に対処し,日本の存立を全うし,日本国民を守るため,武力の行使を伴う適切な作戦を実施する。」とあります。米国が第三者(a third party)によって攻撃されたときの我が自衛隊の米国来援は,この部分に基づいてされるのでしょう。英文では次のとおりです。

     The Self-Defense Forces will conduct appropriate operations involving the use of force to respond to situations where an armed attack against a foreign country that is in a close relationship with Japan occurs and as a result, threatens Japan's survival and poses a clear danger to overturn fundamentally its people's right to life, liberty, and pursuit of happiness, to ensure Japan's survival, and to protect its people. 


(4)ワシントン陥落の場合における我が国の存立いかん

 しかし,コロンビア特別区ワシントンに向けて第三国軍の兵士がその南東方面の上陸地点から進軍し,迎え撃つ米国大統領直率の民兵等部隊はあえなく敗走して当該第三国軍の首都侵入を許し,同大統領夫人は初代大統領の肖像画を抱えてほうほうの態でホワイト・ハウスを脱出し,侵入軍兵士らは残された大統領官邸正餐の食事に舌鼓を打った上で上機嫌をもって同官邸等の政府庁舎に放火したからといって,我が日本国の存立が脅かされるわけでもなければ,日本人の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があったわけでもないでしょう。少なくとも光格天皇の御代たる文化十一年(1814)夏の我が国は,百姓一揆等はあれども,天下泰平でありました(征夷大将軍は徳川家斉)。


2 我が国における安全保障法制の整備に向けた動き


(1)
2014年7月1日閣議決定

 前記日米防衛協力のための指針Ⅳ章Dの部分は,2014年7月1日の閣議決定「国の存立を全うし,国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」の3(3)における次の部分に対応するものと解されます。いわく,「・・・我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず,我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し,これにより我が国の存立が脅かされ,国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において,これを排除し,我が国の存立を全うし,国民を守るために他に適当な手段がないときに,必要最小限度の実力を行使することは,従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として,憲法上許容されると考えるべきであると考えるに至った。」(英訳では,...the Government has reached a conclusion that not only when an armed attack against Japan occurs but also when an armed attack against a foreign country that is in a close relationship with Japan occurs and as a result threatens Japan's survival and poses a clear danger to fundamentally overturn people's right to life, liberty and pursuit of happiness, and when there is no other appropriate means available to repel the attack and ensure Japan's survival and protect its people, use of force to the minimum extent necessary should be interpreted to be permitted under the Constitution as measures for self-defense in accordance with the basic logic of the Government's view to date.


(2)武力攻撃事態等法等の改正法案等

 2015年5月14日に閣議決定された「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案」の予定する改正後の武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(平成15年法律第79号。以下「改正武力攻撃事態等法」)の改正2条4号は「存立危機事態」を「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し,これにより我が国の存立が脅かされ,国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態をいう。」と規定しています。

 前記2014年7月1日閣議決定の「他に適当な手段がないときに,必要最小限度の実力を行使すること」の部分に対応するものとしては,改正武力攻撃事態等法改正9条2項1号ロが,武力攻撃事態等又は存立危機事態に至ったときに政府が定める対処基本方針(同条1項。内閣総理大臣が案を作成して閣議決定を受け(同条6項),更に国会の承認を承ける(同条7項)。)においては「事態が武力攻撃事態又は存立危機事態であると認定する場合にあっては,我が国の存立を全うし,国民を守るために他に適当な手段がなく,事態に対処するため武力の行使が必要であると認められる理由」を定めるものとし,同法改正3条4項は「存立危機事態においては,存立危機武力攻撃を排除しつつ,その速やかな終結を図らなければならない。ただし,存立危機武力攻撃を排除するに当たっては,武力の行使は,事態に応じ合理的に必要と判断される限度においてなされなければならない。」と規定しています。

 存立危機事態においては,対処基本方針の定めるところに基づき,内閣総理大臣は国会の事前の承認を受け,又は特に緊急の必要があり事前に国会の承認を得るいとまがないときは当該承認なしに,自衛隊法76条1項の防衛出動を命ずることができるとされています(改正武力攻撃事態等法9条4項)。自衛隊法76条1項の規定により出動を命ぜられた自衛隊は,我が国を防衛するため,必要な武力を行使することができることはもちろんです(同法88条1項)。

 米「国に対する武力攻撃が発生し,これにより我が国の存立が脅かされ」るという事態における政府の対処基本方針においては,次のような文言が見られることになるのでしょうか。



・・・帝国ノ重ヲ米国ノ保全ニ置クヤ一日ノ故ニ非ス是レ両国累世ノ関係ニ因ルノミナラス米国ノ存亡ハ実ニ帝国安危ノ繋ル所タレハナリ然ルニ・・・某国ハ既ニ帝国ノ提議ヲ容レス米国ノ安全ハ方ニ危急ニ瀕シ帝国ノ国利ハ将ニ侵迫セラレムトス事既ニ茲ニ至ル帝国カ平和ノ交渉ニ依リ求メムトシタル将来ノ保障ハ今日之ヲ旗鼓ノ間ニ求ムルノ外ナシ政府ハ汝有衆ノ忠実勇武ナルニ倚頼シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス

  
  20世紀初頭風の文章ですが,これではまだ,存立危機事態の認定には足りないでしょうか。なお,「我が国と密接な関係にある他国」は,米国だけではないでしょう。


3 存立危機事態


(1)我が国の存立と生命,自由及び幸福追求の権利

 しかし,「他国に対する武力攻撃が発生し,これにより我が国の存立が脅かされ,国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」との存立危機事態の定式における前半部分と後半部分との関係は分かりにくいところです。「我が国の存立が脅かされ」,かつ,「国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があるときにのみ存立危機事態が認定されるとすると,「国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があっても「我が国の存立が脅かされ」なければ自衛隊の防衛出動はないわけですが,「我が国の存立が脅かされ」ても「国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」が無い場合も存立危機事態ではないことになり,自衛隊の防衛出動はないということでよいのでしょうか。

 この点2015年5月15日付けの自由民主党安全保障法制整備推進本部「切れ目のない「平和安全法制」に関するQ&A」の「答40」では,「存立危機事態」とは,「他国に対する武力攻撃が発生した場合において,そのままでは,すなわち,その状況の下,武力を用いた対処をしなければ,国民に我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な,深刻,重大な被害が及ぶことが明らかな状況」をいうものであって,「事態の個別具体的な状況に即して,主に攻撃国の意思,能力,事態の発生場所,その規模,態様,推移などの要素を総合的に考慮し,我が国に戦禍が及ぶ蓋然性,国民が被ることとなる犠牲の深刻性,重大性などから客観的,合理的に判断する」ものとされています。「我が国の存立」に対する脅威には直接言及されていません。また,急迫性も明示的には要件にされていないようです。


(2)自衛権と生命,自由及び幸福追求の権利

 前記2014年7月1日閣議決定は,その3(2)において,憲法13条の「生命,自由及び幸福追求の権利」に言及します。いわく,「憲法9条はその文言からすると,国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えるが,憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法13条が「生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると,憲法9条が,我が国が自国の平和と安全を維持し,その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されない。一方,この自衛の措置は,あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫,不正の事態に対処し,国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり,そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容される。これが,憲法第9条の下で例外的に許容される「武力の行使」について,従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹,いわば基本的な論理であ」ると。


(3)アメリカ独立宣言における生命,自由及び幸福追求の権利と抵抗権

 憲法13条の「生命,自由及び幸福追求の権利」は,1776年のアメリカ独立宣言に由来します。

     We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal; that they are endowed by their Creator with certain inalienable rights; that among these, are life, liberty, and the pursuit of happiness. That, to secure these rights, governments are instituted among men, deriving their just powers from the consent of the governed; that, whenever any form of government becomes destructive of these ends, it is the right of the people to alter or to abolish it, and to institute a new government...     

 (我々にとって,以下の真理は自明のことである。すなわち,全ての人は平等に創造されていること。彼らは,彼らの造物主によって,一定の不可譲の権利を付与されていること。それらの権利のうちには,生命,自由及び幸福の追求があること。政府は,当該権利を確保するため,被治者の同意にその正当な権限を基礎付けられつつ,人々の間に設立されるものであること。いかなる形体の政府であっても,これらの目的に対して有害となったときにはいつでも,これを変更又は廃止し,及び新たな政府を設立することは人民の権利であること。)

 「生命,自由及び幸福追求の権利」は,北アメリカ植民地人のジョージ3世の英国政府に対する叛逆を,抵抗権の行使として大義付けるために持ち出されたものでした。

 さて,そうであれば,「すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。」との我が憲法13条の規定(All of the people shall be respected as individuals. Their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extend that it does not interfere with the public welfare, be the supreme consideration in legislation and in other governmental affairs.)を,そのそもそも由来するアメリカ独立宣言風に理解すると,「各個人の生命,自由及び幸福追求の権利を政府が尊重しないと,ジョージ3世の政府に対して北アメリカ植民地人がしたように,抵抗権が発動されて独立革命を起こされても文句は言えないぞ。すなわち国家の存立が脅かされるぞ。」ということになるでしょうか。物騒な条文です。

 なお,アメリカ独立宣言には,ジョージ3世の秕政として,植民地議会の同意なしに平時に常備軍を駐屯させたこと(He has kept among us, in time of peace, standing armies, without the consent of our legislatures.)及び軍を市民の政府から独立し,かつ,優越するものとしようとしたこと(He has affected to render the military independent of, and superior to, the civil power.)が挙げられています。北アメリカ植民地人は,自分たちの防衛のためには本国の常備軍になど頼らず,自ら武器を所持しつつ,民兵組織で対処するつもりだったのでしょう。(とはいえ,アメリカ独立戦争においてはルイ16世のフランス王国と同盟し,フランス軍の来援を受けていますが。)

 抵抗権は,権利であるばかりではなく,その行使が義務である場合もあるとされます。再びアメリカ独立宣言。

     ...But, when a long train of abuses and usurpations, pursuing invariably the same object, evinces a design to reduce them* under absolute despotism, it is their right, it is their duty, to throw off such government and to provide new guards for their future security...(* このthemmankindを受ける。)

 (しかしながら,長期の連続した権限の濫用及び簒奪が,一貫して同一の目的を追求し,人類を絶対的専制の下へ引き下ろそうとする意図を明らかにするときにあっては,そのような政府を投げ棄て,彼らの将来の安全のための新たな防護を講ずることは,彼らの権利であり,義務である。)

 ジョージ3世治下の英国のような悪の帝国による世界征服(world conquest)ノ挙は,国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険であって,それに対して積極的に抵抗する権利(英国臣民ならば抵抗権ですが,外国人にとっては自衛権ということになるのでしょう。)を行使するのが,生命,自由及び幸福追求の権利を有する人たるものの権利であり,かつ,義務であるということになるようです。

 ルイ16世は,このような高邁な考えを持っていたのでしょうか。

 しかし,アメリカ独立戦争の支援等によってルイ16世の政府の財政は破綻し,やがてフランス革命が起きて1792年9月には王制廃止,1793年1月21日にルイ16世は処刑されてしまいます(かくして一つのレジームからの脱却がされたわけです。)。財政的に無理がある国がアメリカに肩入れするのは剣呑ですね。戦費調達が大変です。そのために国債を発行した場合,国債が値崩れしないかどうか。

 ところで,アメリカ独立宣言の起草者ジェファソンは,やがて国王の処刑に至る血なまぐさいフランスの動向に対して冷静でした。1793年1月3日付けのジェファソン国務長官のウィリアム・ショート(駐ハーグ米国公使)あて書簡にいわく。



 ・・・全地上の自由は,この抗争の結果いかんにかかっていたのです。そして,このような貴重な獲得物が,かつてこれほど少ない無辜の血によってあがなわれたことがあったでしょうか。私自身の愛情は,この大義のための殉難者らによって深く傷つけられています。しかし,それが失敗するのを見るよりは,地上の半分が無人の地となるのを見る方がましです。それぞれの国にアダムとイヴとだけが残されることになっても,自由な者として残されるのならば, 今よりましなのです。・・・

 
  同年3月24日付けの同郷(ヴァジニア)の後輩マディソン(1814年夏の米国大統領)あて書簡において,ジェファソンは,ある夕食会でルイ16世の処刑が話題になったことを取り上げていますが,同席者の政治的傾向の分析(最左翼のジャコバン支持者から最右翼の貴族政論者まで各人をその傾向に従って順番付けた。)を書くためのものだったようです。アメリカ独立革命の恩人の死に対して,ジェファソンは冷淡ですね。

 「人命は地球より重い。」とか,「国民の命と平和な暮らしを守り抜く。」などと考えていた人ではないようですね。実際ジェファソンは,1787年1月30日付けのマディソンあてのパリからの書簡において,マサチューセッツ邦でのシェイズの叛乱を論じつつ,叛乱が起こることはよいことだとまで言っています。いわく,「小さな叛乱が時々起こることはよいことであり,物質界において嵐がそうであるように,政治の世界において必要なものだと思います。失敗に終わった叛乱は,実際のところ,その原因となった人民の権利に対する制限(incroachments)を確立(establish)するのが一般です。この真理の認識は,叛乱を過度に抑制(discourage)しないように,正直な共和国の知事ら(honest republican governors)を,叛乱の処罰において穏和にすべきものです。これは,政府の健全性のために必要な薬なのです。」


(4)存立危機事態認定要請への対処

 存立危機事態の認定をするよう米国から要請があることもあるのでしょう。

 前記自由民主党Q&Aの「答12」には,「平和安全法制の整備は,国民の命と平和な暮らしを守り抜くために,我が国として主体的に取り組んでいるものです。我が国の存立と国民の命や平和な暮らしに関係のない集団的自衛権の行使の要請が,仮に米国からあったとしても,断るのは当然のことです。」とあります。

 しかし,そのようにピシャリとはねつけることができるような明らかに無理無体な要請ではない,それなりの理屈付けがされた要請が来ると面倒ですね。第一次世界大戦中の欧州派兵要請への対処問題の再演ということになりましょうか。

http://donttreadonme.blog.jp/archives/944591.html

 米国側にそれなりの期待を持たせてしまっているということでもあると,厄介ですね。

 なお,前記日米防衛協力のための指針の第Ⅳ章Dには,「日米両国が,各々,米国又は第三国に対する武力攻撃に対処するため,主権の十分な尊重を含む国際法並びに各々の憲法及び国内法に従い,武力の行使を伴う行動をとることを決定する場合であって,日本が武力攻撃を受けるに至っていないとき,日米両国は,当該武力攻撃への対処及び更なる攻撃の抑止において緊密に協力する。共同対処は,政府全体にわたる同盟調整メカニズムを通じて調整される。」とあります。同盟調整メカニズムまで用意されているのですから,米国からの要請をそう容易に振り切ることはできないでしょう。


 結局,米国の知人からの電子メールに対する返信の内容は,国会での議論を見ながら考えるということになりました。

1 また『この国のかたち』から

 司馬遼太郎の『この国のかたち』を読むと,統帥権の独立の制度については,1908年の制度改正が画期であったとされています。




 参謀本部にもその成長歴があって,当初は陸軍の作戦に関する機関として,法体制のなかで謙虚に活動した。

 日露戦争がおわり,明治41年(1908年),関係条例が大きく改正され,内閣どころか陸軍大臣からも独立する機関になった。やがて参謀本部は“統帥権”という超憲法的な思想(明治憲法が三権分立である以上,統帥権は超憲法的である)をもつにいたる・・・(司馬遼太郎「3 “雑貨屋”の帝国主義」『この国のかたち 一』)

 

 明治憲法はりっぱに三権分立の憲法で,三権に統帥権は入らない。

 が,やがてこの憲法思想外の権がガン細胞のように内閣から独立し(1908年),昭和10年以後はあらゆる国家機関を超越する権能を示しはじめた。このことへいたる情念の歴史として,前記の正成の劇的情景〔楠木正成湊川出陣決定御前会議〕がある。(司馬遼太郎「5 正成と諭吉」『この国のかたち 一』)

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 (皇居前広場楠木正成像)

 上記の各文章によれば,1908年の参謀本部条例の改正によって,それまで内閣及び陸軍大臣に属していた参謀本部が,新たにこれらの機関から独立することになったということのようです。



2 参謀本部条例の1908年改定の前と後




(1)1908年改定前後の参謀本部条例

 190812月の改正前後の新旧参謀本部条例を見てみましょう。

 まずは,新参謀本部条例。




朕参謀本部条例ヲ改定シ之カ施行ヲ命ス

 御 名 御 璽

  明治411218日〔官報・同月19日〕

     陸軍大臣 子爵 寺内正毅

軍令陸第19

   参謀本部条例

第1条 参謀本部ハ国防及用兵ノ事ヲ掌ル所トス

第2条 参謀総長ハ陸軍大将若ハ陸軍中将ヲ以テ親補シ 天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル計画ヲ掌リ参謀本部ヲ統轄ス

第3条 参謀総長ハ参謀ノ職ニ在ル陸軍将校ヲ統督シ其ノ教育ニ任シ陸軍大学校及陸地測量部ヲ管轄ス

第4条 参謀次長ハ参謀総長ヲ輔佐シ本部一切ノ事務整理ニ任ス

第5条 参謀本部部長ハ参謀総長ノ命ヲ承ケ課長以下ヲ指揮シ其ノ主務ヲ掌理ス

第6条 参謀本部ノ編制ハ別ニ定ムル所ニ拠ル

第7条 参謀本部ニ於ケル服務規則ハ参謀総長之ヲ定ム



 なるほど,第2条で参謀総長は「天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画」するとありますから,天皇直属であって,内閣からも陸軍大臣からも独立しているわけです。

 司馬遼太郎によれば,当該規定は,1908年の改定前の旧参謀本部条例にはなかったということでしょう。旧参謀本部条例(1905年の第4条改正後のもの)は,次のとおり。




朕参謀本部条例ノ改正ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 御 名 御 璽

  明治32年1月14日〔官報・同月16日〕

     内閣総理大臣 侯爵 山縣有朋

     陸軍大臣 子爵 桂太郎

勅令第6号

   参謀本部条例

第1条 参謀本部ハ国防及用兵ノ事ヲ掌ル所トス

第2条 参謀総長ハ陸軍大将若クハ陸軍中将ヲ以テ親補シ

 天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル一切ノ計画ヲ掌リ又参謀本部ヲ統轄ス

第3条 参謀総長ハ国防ノ計画及用兵ニ関スル命令ヲ立案シ

 親裁ノ後之ヲ陸軍大臣ニ移ス

第4条 参謀総長ハ陸軍参謀将校ヲ統督シ其教育ヲ監視シ陸軍大学校,陸地測量部,陸軍文庫並在外国大使館附及公使館附陸軍武官ヲ統轄ス

第5条 参謀本部次長ハ陸軍中将若クハ陸軍少将ヲ以テ之ニ補シ参謀総長ヲ輔佐シ本部一切ノ事務整理ニ任ス

第6条 参謀本部ノ編制ハ別ニ定ムル所ニ拠ル



おやおや,ほとんど同じですね。特に新旧条例各2条の「参謀総長ハ・・・天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ」は,全く同一です。



(2)1878年の参謀本部条例と統帥権の独立

実は,参謀本部の独立は,187812月5日の参謀本部条例(右大臣岩倉具視から参謀本部あて「其部条例別冊ノ通被定候条此旨相達候事」との達)によって既に達成されていたのでした。




・・・従来の参謀局は陸軍省に隷属し,参謀局長は陸軍卿に隷してゐたけれども,参謀本部は陸軍省より独立し,本部長は天皇の「帷幕ノ機務ニ参画スルヲ司トル」〔
1878年参謀本部条例2条〕ところの最高の統帥機関となつたのである。即ち参謀本部長は統帥権に関する天皇の幕僚長として「軍中ノ機務,戦略上ノ動静,進軍,駐軍,転軍ノ令,行軍路程ノ規,運輸ノ方法,軍隊ノ発差等,其軍令ニ関スル者」を管知し,之を「参画シ,親裁ノ後直ニ之ヲ陸軍卿ニ下シテ施行セシム」〔同5条〕るものであり,又「戦時ニ在テハ凡テ軍令ニ関スルモノ,親裁ノ後直ニ之ヲ監軍部長,若クハ特命司令将官ニ下ス」〔同6条〕ものである。従つて参謀本部長は,統帥権に関する最高の輔弼機関である関係上,軍政に於ける陸軍卿の地位にあるのではなくて,寧ろ其の上の太政大臣〔三条実美〕に相等する地位に在るものである。何となれば陸軍卿は直接天皇輔弼の責に任ずるものではなく,それは専ら太政官の三職〔太政大臣・左右大臣・参議〕,就中太政大臣にあつたからである。換言すれば参謀本部長の権限は,従来の陸軍卿及び太政大臣の権限より統帥権に関する部分を独立せしめたものといふことが出来る。従つて参謀本部長の地位は,陸軍卿に優越するものと解せられるのである。

 かくして陸軍に在つては,明治11年に於て名実共に統帥部の独立が実現したのである。・・・(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)227228頁)



3 勅令から軍令へ

 さて,それでは,司馬遼太郎は1908年の参謀本部条例のどこに注目して警鐘を鳴らしたのでしょうか。

 法形式と副署者に注目しましょう。

 1899年の参謀本部条例は,勅令であって,内閣総理大臣及び陸軍大臣が副署しています。

 これに対して,1908年の参謀本部条例は,軍令であって,副署者は陸軍大臣だけです。



(1)勅令

 勅令は,「旧憲法時代,天皇によって制定された法形式の一つで,天皇の権能に属する事項(皇室の事務及び統帥の事務を除く。)について抽象的な法規を定立する場合に用いられた法形式」です(前田正道編『ワークブック法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)49頁)。美濃部達吉は次のように説明しています。

 


・・・〔公文式(明治
19年勅令第1号)〕は,等しく天皇の勅定したまふ国家の意思表示の中に,法律と勅令との2種の形式を区別したのであるが,併し憲法実施までは,法律と勅令とは唯名称だけの区別で,何等法律上の意義ある区別ではなかつた。憲法の実施に依りて,それは単に名称だけの区別ではなく,(1)その制定手続に於いて,(2)その規定し得べき内容に於いて,(3)及びその効力に於いて相異なるものとなつたのである。(1)制定手続に於いては,法律は議会の議決を経て定められ,勅令はその議決を経ずして定められる。(2)内容に於いては,法律は原則として如何なる事項でも定むることが出来るが,勅令は唯憲法上限られた事項だけを定むることができる。(3)効力に於いては,法律は勅令の上に在り,法律を以ては勅令を変更することが出来るが,勅令を以ては法律を変更することは出来ない。(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)168169頁)

 ・・・勅令が他の国務上の詔勅と区別せらるゝ所以は,勅令は国民に向つて法規を定めることを主たる目的とすることに在る。固より勅令を以て規定せらるゝ所が常に法規のみに限るといふのではない。行政命令〔「電信規則・電話規則・各種の学校令・鉄道乗車規程の如く,全然国民の権利義務に付いての規律を定むるものではなく,唯人民が自己の自由意思を以て之を利用するに付いての条件たるに止まる」もの〕の性質を有するものが,勅令を以て定めらるゝものは甚だ多いけれども,その主たる目的とする所が,法規を定むるに在ることは疑を容れぬ所である。・・・(美濃部・235頁,232頁)



(2)軍令及びその誕生




ア 軍令

 軍令は,軍令に関する件(明治40911日軍令第1号。同令には題名なし。件名をもって,軍令に関する件と呼ばれています。)の第1条において,「陸海軍ノ統帥ニ関シ勅定ヲ経タル規程ハ之ヲ軍令トス」と定められていたものです。(なお,軍令に関する件の官報掲載日は1907912日ですが,上諭の日付は同月11日であって,同令4条は「軍令ハ別段ノ施行時期ヲ定ムルモノノ外直ニ之ヲ施行ス」と規定しています。)「統帥権の作用として定めらるゝ命令」であって,「国務上の命令ではない」ものであり,「唯統帥権に服する者即ち平時に於いては唯軍人に対してのみ効力を有するもので,一般の人民に対して効力を有するものではない」ものです(美濃部261頁)。「軍隊内部の命令たるに止まるのであるから,国の法令に牴触することを得ないのは勿論」です(同)。公布によって初めて「以て臣民遵行の効力を生ず」る(『憲法義解』)法規とは異なり,軍令は正式に公布されませんでした(軍令に関する件2条参照)。「公示」を要する軍令は,官報で公示されました(同令3条)。「故らに公布なる文字を用ひないのは,軍令は勅令と其の性質を同じくせざることを示し,以て軍令を特殊の勅令と認むるが如き嫌ひを避けたもの」と考えられています(山崎248頁)。

 「予算に影響を及ぼさない限度に於いて,軍隊の内部の編制を定むるの権」は「内部的編制権」であり,内部的編制権は,美濃部においても大日本帝国憲法11条(「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」)の統帥権の範囲内にあるものとされていました(美濃部259頁)。参謀本部条例は,統帥権の一環たる内部的編制権の発動により参謀本部の構成について天皇が定める規程であるから,1908年の参謀本部条例については軍令の形式が採られたということでしょう。



イ 軍令の誕生

 それでは,1899年の参謀本部条例はなぜ軍令の形式ではなく,勅令の形式で定められたのでしょうか。理由は簡単です。軍令の形式は,1907年の明治40年軍令第1号によって初めてできたものであって,それ以前には軍令の形式は存在しておらず,当該形式の採りようがなかったからです。



(ア)公式令制定に伴う内閣総理大臣の副署対象の全勅令への拡大

 それでは更に,なぜ1907年9月に軍令という形式が定められたのでしょうか。これは,同年2月1日から施行されていた公式令(明治40年勅令第6号)7条2項の規定が原因です。勅令に係る国務大臣の副署(大日本帝国憲法552項「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」)については,それまでの公文式3条が「法律及一般ノ行政ニ係ル勅令ハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ主任大臣ト倶ニ之ニ副署ス其各省専任ノ事務ニ属スルモノハ主任大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス」と規定していて,各省専任の事務に属する勅令については内閣総理大臣の副署を要さず主任の国務大臣の副署だけで足りるものとしていたのに対して,新しい公式令7条2項は,「〔勅令〕ノ上諭ニハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ国務各大臣若ハ主任ノ国務大臣ト倶ニ之ニ副署ス」と規定し,各省専任の事務に属する勅令をも含めて例外なく,すべての勅令について内閣総理大臣が副署するものとしていたからです。

 勅令に対する国務大臣の副署の効力については,「法律勅令及其の他国事に係る詔勅は大臣の副署に依て始めて実施の力を得。大臣の副署なき者は従て詔命の効なく,外に付して宣下するも所司の官吏之を奉行することを得ざるなり。」とされていました(『憲法義解』)。



(イ)公文式時代の慣行及びその維持

 明治40年軍令第1号の起案を担当したのは,陸軍省軍務局軍事課です(陸軍省であって,参謀本部ではないですね。)。同課によれば,軍令の形式を定める「理由」は,次のとおりでした(中尾裕次「史料紹介「軍令ニ関スル件」」戦史研究年報4号(防衛省防衛研究所(20013月))。




従来軍機軍令ニ関スル事項ハ内閣官制第7条ニ依リ陸軍大臣海軍大臣ヨリ帷幄上奏ヲ以テ親栽ヲ仰キ而シテ陸海軍部外ニ発表ヲ要スルモノハ公文式第3条ニ依リ単ニ陸軍大臣海軍大臣ノ副署ノミヲ以テ公布シ来レリ然ルニ先般公式令制定ト共ニ公文式ヲ廃止セラレタル結果勅令ハ総テ内閣総理大臣ノ副署ヲ要スルコトトナレリ抑モ事ノ軍機軍令ニ関シ若ハ之レト同一ノ性質ヲ有スル軍事命令ハ憲法第
11条同第12条ノ統帥大権ノ行使ヨリ生スルモノニシテ普通行政命令ト全ク其性質軌道ヲ異ニシ専門以外ノ立法機関若ハ行政機関ノ干与ヲ許ササルヲ以テ建軍ノ要義ト為ス

統帥大権ノ行使夫レ斯ノ如ク又内閣官制第7条ハ現行法トシテ尚ホ存在スルカ故ニ此際統帥事項ニ関スル命令ハ特別ノ形式即チ軍令ヲ以テ公布シ主任大臣ノミ之ニ副署スルコトト為シ以テ行政事項ニ属スル命令ト判然之ヲ区別シ統帥大権ノ発動ヲ明確ナラシメントス

 

 お前のサインなどもらわないぞと,内閣総理大臣も嫌われたものですね。しかし,確かに,内閣総理大臣もいろいろではあります。

 内閣官制(明治22年勅令第135号)7条は,「事ノ軍機軍令ニ係リ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニ依リ之ヲ内閣ニ下付セラルノ件ヲ除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」と規定していました。いわゆる帷幄上奏に関する規定です。内閣官制7条の前は,1885年の内閣職権6条ただし書で「但事ノ軍機ニ係リ参謀本部長ヨリ直ニ上奏スルモノト雖トモ陸軍大臣ハ其事件ヲ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」と規定されていました。帷幄上奏は「本来参謀総長・海軍軍令部長の職務として規定せられたのであるが,其の後陸軍大臣又は海軍大臣からも帷幄上奏を為し得る慣習が開かれ,陸軍及び海軍大臣だけは,総理大臣を経由せず単独に上奏し得ることが慣習上認められて居」たものです(美濃部532533頁)。これに対して,陸海軍大臣以外の国務大臣の上奏については,内閣総理大臣が「機務ヲ奏宣スル」(内閣官制2条)ものとされていることから,「総理大臣を経由するか,又は少くとも総理大臣の承認を得た場合であることを要するので,総理大臣の知らぬ間に,各大臣から直接に上奏することは,総理大臣の職責から見て,許されない」とされていました(美濃部532頁)。

 従来陸軍大臣は,統帥事項については内閣総理大臣にも内緒で勅令案を持って行って天皇に上奏して綸言汗のごとき裁可を得て,自分一人がその勅令に副署してそうして施行できたのだから,今更公式令ができたからといって,(政党政治家である可能性もある)内閣総理大臣に「そんな勅令の話,おれは聞いてない。だから,統帥事項だか何だか知らぬがこの勅令には副署しない。」といやがらせをされ得るようになるのはいやだ,ということだったのでしょう。性格の悪い内閣総理大臣との悶着を避けるべく,軍令に関する件2条は,「軍令ニシテ公示ヲ要スルモノニハ上諭ヲ附シ親署ノ後御璽ヲ鈐シ主任ノ陸軍大臣海軍大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス」と規定していました。軍部の主観的意見としては,軍令の形式は部外者には一見あやしげに見えるといっても,統帥事項に係る勅令に関する従来の権限・慣行を維持せしめただけで,「ガン細胞」呼ばわりは心外だ,ということになるのでしょう。

 なお,軍令に対する陸軍大臣又は海軍大臣の副署は,「是は国務大臣としての副署ではなく,帷幄の機関として奉行の任に当たることを証明する行為たるに止まるものと見るべき」とされています(美濃部261頁)。「蓋し我が国法に於ける副署には2種の意義がある。即ち一は憲法第55条の大臣副署と,他は憲法以前より行ひ来りたる副署とである。・・・後者は単に執行当局者たることを表明するものである。宮内大臣の皇室令に副署し,賞勲局総裁の勲記に副署するが如きは専ら後者に属する。陸海軍大臣の軍令に副署するのも亦之と其の性質を同じくするもの」というわけです(山崎249250頁)。



(3)「一般行政」から統帥権の聖域へ

 しかし,1899年の段階では参謀本部条例はなお「一般行政ニ係ル」ものとして内閣総理大臣の副署をも受けていたのに対して(公文式3条),1908年になると,参謀本部条例は純粋な統帥事項に係るものであるとして,内閣総理大臣の副署を要さぬ軍令の形式が採用されるに至っています。この点においては,「一般行政」の領域から自らを引き離すことによって政治の統制から離れ,統帥権が「ガン細胞」化して「一般行政」を侵食することが可能になり始めたといえそうです。

 さらにいえば,「行政各部ノ官制其ノ他ノ官規ニ関スル重要ノ勅令」は枢密院に諮詢することになっていて(枢密院官制69号)厄介でしたが,参謀本部条例が軍令であるということになると,堂々と当然「枢密院ノ諮詢ヲ経ヘキモノニアラス」ということになりました(『統帥綱領・統帥参考』(偕行社・1962年)18頁)。

 いずれにせよ,公文式時代においても,軍部関係の勅令について「傾向としては年を経るにしたがい,軍部大臣だけの副署によるものが多くなったようである」そうです(戸部良一『日本の近代9 逆説の軍隊』(中央公論社・1998年)158頁)。



4 統帥権の独立の「効用」:福沢諭吉の『帝室論』等
 ところで一体,先の大戦以前における我が統帥権の独立の「効用」としては,何が考えられていたのでしょうか。最後は「ガン細胞」になったとはいえ,そもそもの初めには,もっともな目的のために働くべき正常細胞であったはずです。

 「統帥権の独立は,軍の政治介入を意図してつくられた制度ではない。むしろそれは,軍の政治的中立性を確保し,軍人の政治不関与を保証するものとさえ,期待されたのである。」とされています(戸部77頁)。

(1)政治の統帥関与の弊害防止
 政治家が統帥に関与し,あるいは統帥権を握った場合の弊害について,美濃部達吉は「軍人以外の政治家が兵馬の事に容喙することが軍の戦闘力を弱くする虞」がある旨軍事側から見た危惧に言及しているところですが(美濃部257頁),他方,1932年にまとめられた陸軍大学校の『統帥参考』においては,次のように述べられていました。




抑々統帥ノ独立ハ反面ヨリ観レハ政治ノ独立少クモ其保障ニシテ我国ニ於ケル往昔ノ武家政治又ハ現代労農露国ノ政治ノ如ク政府カ兵権ト政権トヲ把握行使スルトキハ政権ノ自然ナル移動授受カ行ハレサルノ虞アリ(『統帥綱領・統帥参考』
7頁)

 

 統帥権の独立は,政府に対抗する在野勢力をもその対象に含めた「政治ノ独立」のためのものだというのです。

先の大戦末期満洲国等に侵入して大暴れした恐ろしい「労農赤軍ノ如キハ彼等ノ意識ヲ以テスレハ元首ノ軍隊ニモアラス所謂国家ノ軍隊ニモアラス全ク共産党ノ軍隊」であったところ(『統帥綱領・統帥参考』1頁),共産党支配下のソ聯においては,「政権ノ自然ナル移動授受」は行われてはいませんでした。

 軍隊の政党化は,明治十四年の政変後,立憲政治の導入に向けた動きの中で,福沢諭吉も憂慮したところでした。




・・・然るに爰に恐る可きは政党の一方が兵力に依頼して兵士が之に左袒するの一事なり国会の政党に兵力を貸す時は其危害実に言ふ可らず仮令ひ全国人心の多数を得たる政党にても其議員が議に在る時に一小隊の兵を以て之を解散し又捕縛すること甚だ易し殊に我国の軍人は自から旧藩士族の流を汲て政治の思想を抱く者少なからざれば各政党の孰れかを見て自然に好悪親疎の情を生じ我は夫れに与せんなどと云ふ処へ其政党も亦これを利して暗に之を引くが如きあらば国会は人民の論場に非ずして軍人の戦場たる可きのみ斯の如きは則ち最初より国会を開かざる方,万々の利益と云ふ可し・・・(福沢諭吉『帝室論』(
1882年))



 1776年7月4日のアメリカ合衆国の独立宣言では,イギリス国王について,「彼は,平時において,我々の立法機関の同意なしに,我々の間において常備軍を保持した」ことが非難されています。そもそも軍隊は,外国と無名の戦争をすることが問題であるばかりではなく,それによって国内において市民の自由が抑圧されることが恐れられていたのでした。同年6月12日のヴァジニア権利章典の第13条は「人民団体によって組成され,武器の使用について訓練された紀律正しい民兵は,自由な邦にふさわしく,自然かつ安全な防衛者である。平時における常備軍は,自由にとって危険なものとして避けられるべきである。あらゆる場合において,軍隊は,市民の権力(the civil power)に厳格に服し,規制されるべきである。」と規定しています。これに対して,自由民主党の日本国憲法改正草案(2012427日決定)9条の2第1項では,「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため,・・・国防軍を保持する。」と,高らかに常備軍の設置がうたわれています。国王に反逆したアメリカ人らの常備軍に対する暗い猜疑の目と比べて,長い歴史にはぐくまれた日本人同士の厚い信頼をそこに見るべきでしょう。いわゆる「安保闘争」に係る1960年6月10日のハガチー事件後,「同事件の原因を「警察力の脆弱さ」に求める岸〔信介内閣総理大臣〕は,・・・〔赤城宗徳〕防衛庁長官にたいして,今度は「研究」ではなく,実際に「自衛隊出動」そのものを求め〔たが〕(結局,防衛庁内の「反対」を岸が受け入れて,これは実現しなかった)」といった激動の時代(原彬久『岸信介―権勢の政治家―』(岩波新書・1995年)220頁)は,遠い過去のことになりました。なお,ちなみに,「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため」に必要な最低限以上の戦力を保持することが憲法上の要請ということになると,財務省の主計官殿がうっかり国防予算に厳しい査定をすると,「国防権干犯!」といって怒られるようになるかもしれません。また,自由民主党の日本国憲法改正草案9条の2第1項の規定する国防軍の目的は,自衛隊法31項の文言を基礎に,そこに「国民の安全」の確保が加えられたもののようですが,ここにいう「国民」には,外国在留の我が同胞が含まれるのでしょうか(同草案25条の3参照)。「居留民保護其他我権益擁護ノ為必要已ムヲ得サル場合ニ於テハ断然目的ヲ達成スル為十分ナル兵力ヲ出動セシメ速ニ其目的ヲ達成」する必要があるとされていたところです(『統帥綱領・統帥参考』29頁)。

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ヴァジニア植民地議会議事堂(Williamsburg, VA)
(ヴァジニア権利章典はジョージ・メイソンの起草に係ります。)

(2)天皇統帥の必要性及び功徳
 統帥権者が政治家ではなく,天皇でなければならない理由は,取り戻すべき日本のかたちとして,軍人勅諭(188214日)において明らかにされていました。いわく,「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある」,「夫兵馬の大権は朕か統ぶる所なれば其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を伝へ天子は文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降の如き失体なからむことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそ」と。
 さらに,実際的な理由としては,福沢諭吉が次のように述べています(『帝室論』)。

 まず,軍人に政治的中立を守らせること。




・・・今この軍人の心を収攬して其運動を制せんとするには必ずしも〔ママ〕帝室に依頼せざるを得ざるなり帝室は遥に政治社会の外に在り軍人は唯この帝室を目的にして運動するのみ,帝室は偏なく党なく政党の孰れを捨てず又孰れをも援けず軍人も亦これに関し,固より今の軍人なれば陸海軍卿の命に従て進退す可きは無論なれども卿は唯其形体を支配して其外面の進退を司るのみ内部の精神を制して其心を収攬するの引力は独り帝室の中心に在て存するものと知る可し・・・



 また,命を賭して戦う戦士の心を受けとめて支えることは,議会政治家の大臣ごときでは,器量不足です。




・・・仮令ひ其大臣が如何なる人物にても其人物は国会より出たるものにして国会は元と文を以て成るものなれば名を重んずるの軍人にして之に心服せざるや明なり唯帝室の尊厳と神聖なるものありて政府は和戦の二議を帝室に奏し其最上の一決御親裁に出るの実を見て軍人も始めて心を安んじ銘々の精神は恰も帝室の直轄にして帝室の為に進退し帝室の為に生死するものなりと覚悟を定めて始めて戦陣に向つて一命をも致す可きのみ帝室の徳至大至重と云ふ可し・・・



 さらに,いったん戦いがあり,それが終わった後に,なお殺気立った戦場帰りの大軍を平穏に日常生活に復帰させることは,議院内閣制政府の首班ごときでは到底無理な大事業であろうと考えられていました。(兵士らのみならず,栄光に包まれた凱旋将軍も危険でしょう。アメリカ独立戦争のときも,ジョージ3世の軍をヨークタウンで破ったジョージ・ワシントン将軍を立てて,王制を樹立しようという動きがあったようです。)




・・・〔
1877年の西南戦争の徴募巡査らは〕戦場には屈強の器械なれども事収るの後に至て此臨時の兵を解くの法は如何す可きや殺気凛然たる血気の勇士,今日より無用に属したれば各故郷に帰りて旧業に就けよと命ずるも必ず風波を起すことならんと我輩は其徴募の最中より後日の事を想像して窃に憂慮したりしが同年9月変乱も局を結で臨時兵は次第に東京に帰りたり我輩は尚当時に至る迄も不安心に思ひし程なるに兵士を集めて吹上の禁苑に召し簡単なる慰労の詔を以て幾万の兵士一言の不平を唱る者もなく唯殊恩の渥きを感佩して郷里に帰り曽て風波の痕を見ざりしは世界中に比類少なき美事と云ふ可し仮に国会の政府にて議員の中より政府の首相を推撰し其首相が如何なる英雄豪傑にても明治10年の如き時節に際してよく此臨時兵を解くの工夫ある可きや我輩断じて其力に及ばざるを信ずるなり

 

 福沢諭吉は不安心のため西南戦争中お腹が痛くなったことでしょうが,偉大な明治天皇の力をもって,無事に兵らは復員して行きました。同様のことが,先の大戦の終了時にも起こったわけです(194581415日夜の宮城を舞台としたクーデタ未遂事件等いろいろありましたが。)。

 自由民主党の日本国憲法改正草案は,天皇を日本国の元首としつつも(同1条),その第9条の2第1項及び第72条3項において,内閣総理大臣をもって国防軍の最高指揮官としています。福沢諭吉がその将来を懸念し,帝室への依頼をなお不可欠と考えていた明治の日本から,今の日本は随分変わり,進歩したわけです。「慶応ブランド」創始者の福沢諭吉も,時代遅れになりました。

現在の問題はむしろ,ゆるゆると続く不況に伴う心優しい閉塞状況の副作用なのか,貔貅たるべき我が国の男児から,真面目な獰猛さが失われてしまってはいないか,ということかもしれません。

(3)蛇足
 なお,憲法に統帥権者を書き込んでしまった場合,「聯合作戦ニ際シ外国軍司令官ヲシテ一時タリトモ帝国軍隊〔国防軍〕ヲ統帥指揮セシムルハ法律的ニ言ヘハ憲法違反ナリ」(『統帥綱領・統帥参考』12頁)というようなうるさいことにならないでしょうか。ちなみに,あるいは意外なことながら,先の大戦前の陸軍(少なくとも陸軍大学校の教官)は「政略上ノ目的ヲ以テ平時妄リニ海外ニ軍隊ヲ出動セシムルコトハ努メテ之ヲ避ケサルヘカラス」と考えていたようです(『統帥綱領・統帥参考』29頁)。「帝国軍ハ皇軍ニシテ皇道ヲ擁護シ皇威ヲ発揚スル為ニ設ケ置カルルモノナリ故ニ妄リニ政略的ニ兵ヲ動カスコトハ之ヲ慎マサルヘカラス」ということで(同),政治家のみだりな政略の道具にされたくはないということだったのでしょう。「而シテ国際関係ノ錯綜,世相ノ変化等ノ為海外出兵ニ依リ所望ノ政略目的ヲ達成スルノ如何ニ困難ナルカハ往年の西伯利出兵並最近ニ於ケル支那出兵ノ明証スル所ナリ」と(同書2930頁),少なくとも当時は懲りていたようです。シベリア出兵において,日米両国は同盟国の関係にあったはずですが,うまくいかなくなったようです。


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ヨークタウン古戦場(Yorktown, VA)
(ヨークタウンに陣取ったコーンウォリス将軍のイギリス軍は優勢な米仏連合軍の攻撃を受けて,1781年10月19日,終に降伏。敗報に接したイギリスのノース首相は「神よ,すべては終わった!」と叫び,アメリカ独立戦争は実質的に終結しました。降伏式においてイギリス側は最初,連合軍の主力だったフランス軍のロシャンボー将軍にコーンウォリス将軍の剣を渡そうとしましたが,こっちじゃないよあっちだよとジョージ・ワシントン将軍を示されて,降伏の印の剣はアメリカ大陸軍が受け取りました。フランスの王さまルイ16世は,いい人でしたね。)

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イギリス軍降伏の場所(Surrender Field, Yorktown, VA) 

 弁護士 齊藤雅俊
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