Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

タグ:ヨークタウンの戦い

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ヨークタウン戦勝塔(Yorktown, VA)

1 はじめに

 米国といえば民主主義(democracy)の本家本元で,君主制(monarchy)とは氷炭相容れぬ国柄であるとされています。

 しかしながら,アメリカの建国期においては,実はデモクラシーは理想政体にそぐわないものと考えられており,君主制も全く支持者がいないわけではありませんでした。

 


2 ワシントンを国王に推戴する動き

君主制論者の間では,アメリカ独立戦争を実質的に終結させたヨークタウンの戦いの勝利者ジョージ・ワシントン将軍を新生アメリカの王にしようという動きがありました。

その一例としては,1782522日に大陸軍のルイス・ニコラ大佐からワシントンにあてて送られた書簡があります。当該書簡の中で,ニコラ大佐は,アメリカ諸邦の脆弱,さらには連合会議(178131日に連合規約(The Articles of Confederation)が発効しましたので,それ以降のCongressは,大陸会議ではなく,連合会議と訳すことにします。)の無能ゆえの大陸軍の窮乏について痛憤し,「専制と君主制とを同一視してしまい,両者を分けて考えることが困難になっている人々がいますが・・・しかし,いったん他の事項がしかるべく手当てされれば,王の称号を認めるべきことを推し進める強い議論を提出することができるものと信じます。」と論じて,ワシントンを国王とする政体構想を提示しました。イギリスのKing George IIIの退場の次は,アメリカのKing George Iの登場というわけです。

この書簡に恐慌したワシントンは,同日直ちに回答を発出します。

 



・・・よって貴官に依頼する。貴官にして,国家に対する顧慮,貴官自身若しくは貴官の子孫に対する配慮又は本職に対する敬意を幾分なりとも有せられるものであるならば,かかる思いつきを貴官の思考から排除せられたい。

 


 ワシントンは,ニコラ大佐あての当該回答に封がされ,発送されたことを副官らに確認させるほどの念の入れようでした(これは,弁護士業においてはおなじみの,内容証明郵便物の取扱いですね。)。

 ニコラ大佐は慌てて総司令官にわびを入れました。

(以上Ron Chernow, Washington: a life, p.428参照)

 


 王になろうという野心があると思われたら,カエサルのように暗殺されてしまう,という恐怖があったものでもありましょう。あるいはワシントンの脳裡には,印紙税反対運動において若きパトリック・ヘンリーがヴァジニア植民地議会でした1765年演説に係る次の有名な場面が浮かんでいたかもしれません。

 



○パトリック・ヘンリー君
 ・・・

タルクィニウス及びカエサルには各々彼のブルートゥスあり,チャールズ1世には彼のクロムウェルあり,しかしてジョージ3世に・・・

○議長(ジョン・ロビンソン君) 大逆ですぞ,大逆ですぞ。

(「大逆だ,大逆だ」と呼ぶ者あり。議場騒然)

○パトリック・ヘンリー君 ・・・おかせられては,叡慮をもってこれらの前例をよろしくかんがみられんことを。もしこれをもして大逆であるとせば,よろしくこれを善用せられたし。

 


 さすがはパトリック・ヘンリー弁護士,うまいものです。

 なお,王政ローマ最後の王であるタルクィニウスは当時のブルートゥスらによって追放され,カエサルは暗殺され,チャールズ1世は清教徒革命で処刑され,アメリカ独立革命期のイギリス国王であったジョージ3世は精神病に倒れました。恐ろしいことです。 

 


3 「君主制論者」ハミルトンとワシントン政権

 


(1)ワシントン政権と「君主制」

 ニコラ大佐による君主制構想を直ちに否認抹殺し,17831224日にはメリーランド邦アナポリスにおいて連合会議に大陸軍最高司令官職の任命書を恭しく返上して,王位への野心など全く無いことを示すことに常に努めたワシントンですが,1789年発足のアメリカ合衆国連邦政府の初代ワシントン政権は,底意において君主制を目指しているのではないかとなお疑われ,また,非難され続けました。

 アメリカ独立戦争中はワシントン総司令官の副官を務め,また,178110月のヨークタウンの戦いでは同月14日の夜襲でイギリス軍の第10堡塁(Redoubt No.10)を攻め落とし,その後ワシントン大統領の下,初代財務長官に任命されて実質的な首相格として政権を切り盛りしたアレグザンダー・ハミルトンの政策と思想とのゆえでしょう。

 


(2)ハミルトンの君主制論

 17875月から9月までフィラデルフィアで開催され,現行のアメリカ合衆国憲法を起草した憲法会議(Constitutional Convention)(議長・ワシントン)において,ニュー・ヨーク邦代表の若きハミルトン弁護士(1755111日生まれの32歳。ただし,本人は1757年生まれだと思っていたようでもあります。)は,1787618日,5ないしは6時間に及ぶ長い演説をし,その中で彼の君主政観を展開しています。すなわち,そこにおいてハミルトンは,イギリスの君主政体を最善のものとして賛美し,終身制の大統領(ただし,ハミルトンの原案では,President”ではなく “Governor”の語が用いられています。)制度の導入を提唱したところです。秘密会であったとはいえ,大胆な演説であって(ニュー・ヨーク邦代表団の会議対処方針とは全く異なる。),ハミルトンが後々まで君主制主義者(monarchist)であるとの厳しい批判を受ける一因となりました。

 ニュー・ヨーク邦代表のロバート・イェイツによる記録(イェイツはハミルトンと政見を異にしていましたが,こちらの方が,コンパクトです。)を基に,ヴァジニア邦代表でありこの時点ではハミルトンの協力者であったジェイムズ・マディソンの詳細な記録(斜字体)で適宜補い,また適宜改行しつつ,当該演説の当該部分を御紹介しましょう(The Library of AmericaAlexander Hamilton Writingsによる。)。

 



・・・

 しかし,白状しますと,ふさわしい人物を共同体(the Community)の周辺部から中央にまで集めることは非常に難しいことです。例えば,財産もあり能力もある紳士諸氏を,その家庭と仕事とから離れさせて,毎年,長期間にわたって参集させるものは,何でありましょうか。報酬ではあり得ません。予想するに,その額は小さいものであろうからです。3ドルかそれぐらいがせいぜいでしょう。したがって,権力は,少額の手当又は立身の望みのために候補者として自ら名乗り出る煽動政治屋(demagogue)又は凡庸な政治家の手に帰してしまい,重みと影響力のある真の人物は地元にとどまって邦政府の力を増し加えるということにはならないでしょうか。

私は,どうしたらよいのか途方に暮れています。共和政体(a republican form of government)が,これらの難点を取り除くことができるとは思い得ない(despair)ところです。広大な領域において(over so great an extent)共和政体(a Republican Govt.)は樹立され得ないのではないでしょうか。私の意見はともあれ,しかしながら,当該政体〔註・共和政体〕を変更することは賢明ではないものと思います。

私の信ずるところでは,英国の政府(the British government)が,世界にこれまであったものの中で最も優れたモデルとなっています。そこまで立派なものでなくとも,アメリカではうまく行くなどということは,はなはだ疑わしいことです。多くの人の心の中に広まりつつ,この真理は徐々にその地歩を固めています。かつては,連合会議の権限は,制度目的達成のために十分なものであると考えられていました。現在,その誤りは,すべての人の目に映るところです。私の見るところ,共和主義の最も強固な支持者も,民主主義の悪(the vices of democracy)を他の人々に負けず声高にあげつらっています。公衆の認識のこの進歩は,他の人々も私と同様に,ネッケル氏〔註・フランス国王ルイ16世の財務総監〕によって英国の国制(British Constitution)に捧げられた称賛に賛同されるようになる時が来るということを私に期待させてくれます。すなわち,英国の政府は,「公共の力(public strength)と個人の安全(individual security)とを統一する」世界で唯一の政府なのであります。この政府の目的は,公共の力及び個人の安全です。このことは我々においては達成できないといわれていますが,もし,いったん成立すれば,それは自らを維持していくものでしょう。

産業の進んだ(where industry is encouraged)すべての共同体は,少数者と多数者とに分かれます。前者は豊かで生まれが良い者たち(the rich and well born)で,後者は人民の集団(the mass of the people)です。そこから異なった利害が生じます。債務者,債権者等が現れます。すべての権力を多数者に与えると,彼らは少数者を抑圧します。民の声は天の声といわれておりますが,いかに広くこの格言が引用され,かつ,信じられているとしても,事実においては正しくはありません。人民は動揺し,変心します(turbulent and changing)。彼らが正しく判断し,正しく決定することはめったにありません。他方,少数者にすべての権力を与えると,彼らは多数者を抑圧します。したがって,相互に相手方から自らを守るために,両者とも権力を有するものとすべきです。・・・英国人は,彼らのすぐれた国制(Constitution)によって,適切な調整を行っています。貴族院(house of Lords)は,最も貴い制度です。変化によって望むものはなく,財産を通じて十分な利害を有しており,国益に忠実であることによって,彼らは,国王(Crown)の側から試みられるものにせよ庶民院(Commons)の側から試みられるものにせよ,あらゆる有害な変革に対する恒久的な防壁をなしています。したがって,第1の人々〔註・少数者〕に,政府における画然とした,恒久的な位置(a distinct, permanent share in the government)を与えなければなりません。彼らは第2の人々〔註・多数者〕に係る不安定(unsteadiness)を抑制するでしょうし,彼らは変化から何らの利益を受け得ることもないので,したがって,善き統治(good government)を永く維持し続けるでしょう。毎年人民の集団の中で展開される民衆集会(a democratic assembly)が公共善(the public good)を追求するということが確かなものとして考えられるでしょうか。恒久的な団体(a permanent body)のみが,民衆支配の軽率(imprudence of democracy)を抑制することができるのです。彼らの動揺し,かつ,無規律(uncontrouling sic)な性向は,抑制されなければなりません。

短い任期の上院は,この目的に応じた十分な強靭さを持ちません。ニュー・ヨークの上院は,4年の任期で選任されていますが,十分有効なものではありません(inefficient)。ヴァジニア代表の提案に従って,7年継続するものならばよいのでしょうか。随分言及されるところの多いように見受けられる(メリーランドの)上院〔註・同邦の上院は,選挙民は選挙人団を選ぶ間接選挙制に基づくものであった。〕は,いまだ十分に試験されているものではありません。紙幣発行が求められた最近の要求において,人民が一致団結し真剣であったのなら,彼らは奔流に流されていたことでしょう〔註・メリーランド邦の上院は,同邦代議院からの紙幣発行法案を178512月及び178612月の2度にわたって否決していました。〕。・・・紳士諸氏は上院に必要な強靭さを与えるには7年が十分な期間だと考えていますが,民衆心理(democratic spirit)の驚くべき暴威と激動とを適切に考慮していないからです。民衆の情熱をわしづかみにする政治の重大問題が追求されるとき,その情熱は野火のように拡がり,抵抗できないものとなります。私は,ニュー・イングランド諸邦からの紳士諸氏に,かの地における経験が今申し上げたことを証明するものでないのかどうかお尋ねしたい〔註・ニュー・イングランドでは,増税及び農地差押えに対するマサチューセッツ邦西部の農民の抗議運動から,シェイズの反乱(17869月から17872月まで)が発生していました(首謀者ダニエル・シェイズ大尉はアメリカ独立戦争参加者)。〕

よき執行部(a good executive)は,民主的な構成をもって(upon a democratic plan)〔共和的原則に基づいて(on Republican principles)設けられ得るものではないということは,認められているところです。英国の執行権者の素晴らしさ(the excellency of the British executive)を御覧いただきたい。この問題については,イギリスのモデル(the English model)が唯一結構なものなのであります。彼は誘惑から超然としています。彼は公共の福祉とは別の利害を有していません。国王の世襲の利害は,国民(the Nation)のそれと十分結びつき,彼の個人的収入は十分大きいので,海外勢力から腐敗させられるという危険から超然としているのです。――また同時に,国内の制度目的にこたえるために,十分独立しており(sufficiently independent),かつ,十分規制されています(sufficiently controuled)このような執行権者でなければすべて不十分です。共和政体(a republican government)の弱点は,外国勢力からの影響力の危険性です。第一等の人物たちをその維持のために動員するようにできていない限り,このことは不可避です。小人物(men of little character)は,大きな権力を得ると,簡単に隣国の干渉勢力の手先になってしまいます。したがって,私は,全国政府(general government)を支持するものですが,共和制の原則(republican principles)については,最広義のところまでおし進めたいと思うものです。我々は,共和制の原則が許す限り,安定及び永続性(stability and permanency)を求めて進むべきであります。

 立法府のうち一院は,罪過なき限りの間(during good behaviour),又は終身を任期とする議員によって構成されるものとしましょう。

 その権限を断行し得る(…dares execute his powers)一人の終身の執行権者が任命されるものとしましょう。

 私は,最良の市民たちの奉仕を確保するためのものとして,7年の任期が,公的任務の受諾に伴う私的生活の犠牲を受け容れさせるものであるのかどうか,御出席の代表者の方々の御感想をお尋ねしたいのです。この案〔註・ハミルトン案〕によってこそ,元老院に,本質的目的にこたえるべき恒久的な意思,重要な利害の代表(a permanent will, a weighty interest),を確保することができるのです。

 これは共和制(a republican system)なのか,と問われるかもしれませんが,厳密にいって,そうであります,政府のすべての高官(all the Magistrates)が人民によって,又は人民に由来する選挙で選ばれる限りは。

 更に言わせていただけば,人民の自由にとって,執行権者は,終身その職にあるときの方が7年の任期であるときよりも危険が少ないものであります。7年任期制案では,私は,執行権者にはわずかな権力のみを与えるべきだと思います。彼は,手下となる者を調達する手段を持った野心家でありましょう。そして,彼の野心の目的は,権力をより長く握ることでしょうから,戦争のときには,その地位からの降格を避け,又はそれを拒絶するために,緊急事態であることを恐らく濫用するでしょう。終身執行権者の場合は,忠誠を忘却させるこのような動機を持たないものであって,したがって,権力を委ねるためにはより安全な機関なのであります。

 これは選挙君主制(an elective monarchy)である,といわれるかもしれません。ああ,君主制とは何でしょうか。「君主」とは定義のはっきりしない用語であるものとお答えしましょう。権力の大きさ又は権力を握る期間の長さのいずれを示すものでもありません。もし,この執行長官(Executive Magistrate)が終身君主であるのなら――当会議の全体委員会の報告書によって提案されたものは七年君主ということになります。選挙制であるという事情はともに両者に当てはまるところです。各邦の知事は,そのようなものとして見られ得ないでしょうか。しかし,執行権者が弾劾制度に服せしめられていますので,君主制の語は当てはまり得ません。

賢明な著述家たちは,競争者たちの野心及び策謀によって惹起される動乱(tumults)に対する防止策が講ぜられるのならば,選挙君主制は最良のものであろうと述べています。私は,動乱が,避けることのできない欠点であるものと確言するものではありません。選挙君主制のこの性格論は,むしろ,一般的な原則からというよりは,特定の事例から由来しているものと思います。選挙制君主は,ローマにおいて動乱を引き起こしましたし,ポーランドにおいても同様に平和に対して危険を与えています。ローマ皇帝は,軍隊によって選挙されたところです。ポーランドにおいては,独立した権力,及び騒動を起こすための十分な手段を持った,互いに競争関係にある大貴族たち(princes)によって選挙が行われます。ドイツ帝国〔註・神聖ローマ帝国〕では,密謀集団及び党派を使嗾する同様の動機及び手段を有する選帝侯及び諸侯によって任命が行われています。しかし,このことは,私が選挙について提案するところの方法については当てはまり得ません。執行権者を選挙する選挙人が各邦において任命されるものとしましょう――

(ここで,H氏は,写しがここに添付されているところの彼の案を取り出した。)

・・・執行権者(the executive)は,すべての法律に対して拒否権を持つものとする――元老院の助言により和戦のことを決する(to make war or peace)――彼らの助言により条約を締結する,しかしすべての軍事行動に係る単一の統帥権を有する(to have the sole direction of all military operations),並びに大使を派遣し,及びすべての軍士官を任命する,並びにすべて罪過を犯した者(国家反逆罪を犯した者を除く。ただし,元老院の助言があるときはこの限りでない。)に対する赦免権を有する。彼の死亡又は罷免の場合には,後継者が選挙されるまで,元老院議長(president of the senate)が,同一の権限を持つ代行者となる。最高の司法官らは執行権者及び元老院によって任命される。・・・

 ・・・

 ・・・しかし,人民は,徐々に政府に係る彼らの意見において成熟しつつあります――彼らは,民主政の行き過ぎ(an excess of democracy)に倦み始めています〔,連合(the Union)は分裂しつつあり,又は既に分裂しているものと私は観察します――人民をその民主政体志向(fondness for democracies)から治癒させることになるところの諸悪が,諸邦において猖獗している様子が私には観察されるところです〕――ヴァジニア案であっても,しかし,依然としてソースが少々変わっただけの豚料理であります〔註・憲法会議に提出された憲法構想のうち,ニュー・ジャージー案は既存の連合規約の改正にとどまっていたのに対して,ヴァジニア案は各邦の上に,執行部門,立法部門及び司法部門を有する全国政府を設けることを提案していました。しかし,ヴァジニア案であっても,ハミルトンの過激案に比べればまだ生ぬるいということです。〕。

 


 共和主義(republicanism)が理想として掲げられているのですが,democracy, democratic等民主主義関係用語は否定的な意味で使われています。

 共和政体(gouvernement républicain)と民主政(démocratie)との関係を,当時読まれていたモンテスキューの『法の精神』における分類学でもって説明すると,共和政(république)のうち,人民団(le peuple en corps)が主権を持つものが民主政,人民のうちの一部分が主権を持つものが貴族政(aristocratie)ということになります(第1編第2章第2節)。共和制を主張しつつ民主主義を排斥する者は貴族政主義者,ということになるようです。なお,モンテスキューの分類では,共和政体と対立するのはいずれも一人が統治する政体である君主政体(gouvernement monarchique)及び専制政体(gouvernement despotique)であって,君主政体では法による支配がされるが,専制政体では法によらず,統治者の意思ないしは恣意による支配がされるものと定義されています(第1編第2章第1節)。

 ギリシャ・ローマの古典古代の例が念頭にあったでしょう。(デモクラシーの前例としてアメリカ合衆国を持ち出すわけにはまだいきません。)

ローマも領域が大きくなって,共和政から君主政に移行しました。古代ギリシャで外国からの干渉といえば,ペルシャ帝国からのそれが問題であったでしょう。

なお,ハミルトンが称賛したジョージ3世治下のイギリスの政体における統帥権の所在は,一応,国務大臣輔弼の外に独立していたもののようです。すなわち,1932年の『統帥参考』には,英国における統帥権の位置付けの推移について,「「チャールス」2世ハ国務大臣以外ニ特別ナル軍令機関(「セクレタリー・アット・ワー」)ヲ設ケテ統帥権ノ独立ヲ保障シ更ニ1793年ニハ国王直属ノ総司令官ヲ設ケテ軍隊内部ノ組織,軍ノ規律,指揮運用ニ関スル権限ヲ附与シ国務大臣ト対立セル軍令機関ト為シタリ」とあります(『統帥綱領・統帥参考』(偕行社・1962年)45頁)。(ちなみに,ジョージ3世は,アメリカ独立戦争中は精神病を発症しておらず,1788年から翌年にかけてはそうだったものの,1793年は大丈夫だった時期であるようです。)ただし,その後は,「然ルニ民権ノ伸張,議会政治ノ発達ハ国王ノ軍令権ヲ圧迫蚕食シ1854年従来国王ニ直属シ国務大臣ヨリ独立セル総司令官ヲ国務大臣ノ監督下ニ置クコトニ改メ次テ1870年ノ改革ニ於テ軍令機関タル総司令官ハ陸軍大臣ノ隷下ニ入リ茲ニ現今ノ制度ノ基礎確立シタルナリ」ということになりました(『統帥綱領・統帥参考』5頁)。

 


4 エスマン中尉とハミルトン財務長官

 さて,三つ子の魂百までとやら。人と同様に国も,生まれたころの性格を後々まで引きずるものなのでしょうか。

知米派の日本人の方々がどう言われるのかは分かりませんが,日本国憲法起草時のGHQ民政局内で展開された議論において,強い執行権者を求めた27歳のエスマン中尉の姿が,何やらアメリカ合衆国憲法起草時に選挙制君主的な執行権者を求めた32歳のハミルトン弁護士の面影を宿していたように思われます。(そもそも,連合規約を改正すると言ってアメリカ合衆国憲法を起草してしまった手妻のような手口と,大日本帝国憲法の改正を求めつつ,日本国憲法の草案を起草してしまった仕事ぶりとは,何だかよく似ていますね。)

 それはともかく,元々はイギリス流立憲君主制論者であったハミルトン初代財務長官が,時代を超えてトルーマン政権の国務長官であったのなら,伊東巳代治が『憲法義解』を訳した “Commentaries on the Constitution of the Empire of Japan”を読んでも,それほど機嫌が悪くはならず,時代に合わせた立憲君主制の改善のための大日本帝国憲法の改正はあっても,新しい日本国憲法の制定がされるということまでにはならなかったのではないかとも空想されます。

 とはいえ,国務省はハミルトンにとって鬼門です。

 ワシントン政権内で,初代国務長官ジェファソンは,政見において真っ向からハミルトンと対立します。例えば,ハミルトンが執行権の強化を目指せば,ジェファソンは議会の権限や州権を重視するという具合です。両者の対立は,やがてハミルトンらのフェデラリスト党とジェファソン=マディソンらのリパブリカン党という二つの党派及び両者間の抗争を生むに至ります。(なお,系譜的にはジェファソンの党が現在のアメリカ民主党につながるのですが,前記のとおり,アメリカの建国当初は“democratic”はよい意味の言葉では必ずしもなかったところです。リパブリカン党への悪口として, Democraticリパブリカン党と言われるようになり, 後にリパブリカンが落ちたものです。アメリカ合衆国憲法4条で連邦が各州に保障しているのは,共和政体(a Republican Form of Government)であって,民主政体(a Democratic Form of Government)ではありません。)

こうしてみると,日本国憲法における内閣の章の規定をめぐるエスマン中尉とハッシー中佐との対立も,米国の知識人の間における建国以来の政治思想の対立を反映していたものと思えなくはありません。

 


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イギリス軍第10堡塁(Yorktown, VA) 


 


長い記事をお読みいただき毎度ありがとうございます。

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1 また『この国のかたち』から

 司馬遼太郎の『この国のかたち』を読むと,統帥権の独立の制度については,1908年の制度改正が画期であったとされています。




 参謀本部にもその成長歴があって,当初は陸軍の作戦に関する機関として,法体制のなかで謙虚に活動した。

 日露戦争がおわり,明治41年(1908年),関係条例が大きく改正され,内閣どころか陸軍大臣からも独立する機関になった。やがて参謀本部は“統帥権”という超憲法的な思想(明治憲法が三権分立である以上,統帥権は超憲法的である)をもつにいたる・・・(司馬遼太郎「3 “雑貨屋”の帝国主義」『この国のかたち 一』)

 

 明治憲法はりっぱに三権分立の憲法で,三権に統帥権は入らない。

 が,やがてこの憲法思想外の権がガン細胞のように内閣から独立し(1908年),昭和10年以後はあらゆる国家機関を超越する権能を示しはじめた。このことへいたる情念の歴史として,前記の正成の劇的情景〔楠木正成湊川出陣決定御前会議〕がある。(司馬遼太郎「5 正成と諭吉」『この国のかたち 一』)

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 (皇居前広場楠木正成像)

 上記の各文章によれば,1908年の参謀本部条例の改正によって,それまで内閣及び陸軍大臣に属していた参謀本部が,新たにこれらの機関から独立することになったということのようです。



2 参謀本部条例の1908年改定の前と後




(1)1908年改定前後の参謀本部条例

 190812月の改正前後の新旧参謀本部条例を見てみましょう。

 まずは,新参謀本部条例。




朕参謀本部条例ヲ改定シ之カ施行ヲ命ス

 御 名 御 璽

  明治411218日〔官報・同月19日〕

     陸軍大臣 子爵 寺内正毅

軍令陸第19

   参謀本部条例

第1条 参謀本部ハ国防及用兵ノ事ヲ掌ル所トス

第2条 参謀総長ハ陸軍大将若ハ陸軍中将ヲ以テ親補シ 天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル計画ヲ掌リ参謀本部ヲ統轄ス

第3条 参謀総長ハ参謀ノ職ニ在ル陸軍将校ヲ統督シ其ノ教育ニ任シ陸軍大学校及陸地測量部ヲ管轄ス

第4条 参謀次長ハ参謀総長ヲ輔佐シ本部一切ノ事務整理ニ任ス

第5条 参謀本部部長ハ参謀総長ノ命ヲ承ケ課長以下ヲ指揮シ其ノ主務ヲ掌理ス

第6条 参謀本部ノ編制ハ別ニ定ムル所ニ拠ル

第7条 参謀本部ニ於ケル服務規則ハ参謀総長之ヲ定ム



 なるほど,第2条で参謀総長は「天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画」するとありますから,天皇直属であって,内閣からも陸軍大臣からも独立しているわけです。

 司馬遼太郎によれば,当該規定は,1908年の改定前の旧参謀本部条例にはなかったということでしょう。旧参謀本部条例(1905年の第4条改正後のもの)は,次のとおり。




朕参謀本部条例ノ改正ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 御 名 御 璽

  明治32年1月14日〔官報・同月16日〕

     内閣総理大臣 侯爵 山縣有朋

     陸軍大臣 子爵 桂太郎

勅令第6号

   参謀本部条例

第1条 参謀本部ハ国防及用兵ノ事ヲ掌ル所トス

第2条 参謀総長ハ陸軍大将若クハ陸軍中将ヲ以テ親補シ

 天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル一切ノ計画ヲ掌リ又参謀本部ヲ統轄ス

第3条 参謀総長ハ国防ノ計画及用兵ニ関スル命令ヲ立案シ

 親裁ノ後之ヲ陸軍大臣ニ移ス

第4条 参謀総長ハ陸軍参謀将校ヲ統督シ其教育ヲ監視シ陸軍大学校,陸地測量部,陸軍文庫並在外国大使館附及公使館附陸軍武官ヲ統轄ス

第5条 参謀本部次長ハ陸軍中将若クハ陸軍少将ヲ以テ之ニ補シ参謀総長ヲ輔佐シ本部一切ノ事務整理ニ任ス

第6条 参謀本部ノ編制ハ別ニ定ムル所ニ拠ル



おやおや,ほとんど同じですね。特に新旧条例各2条の「参謀総長ハ・・・天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ」は,全く同一です。



(2)1878年の参謀本部条例と統帥権の独立

実は,参謀本部の独立は,187812月5日の参謀本部条例(右大臣岩倉具視から参謀本部あて「其部条例別冊ノ通被定候条此旨相達候事」との達)によって既に達成されていたのでした。




・・・従来の参謀局は陸軍省に隷属し,参謀局長は陸軍卿に隷してゐたけれども,参謀本部は陸軍省より独立し,本部長は天皇の「帷幕ノ機務ニ参画スルヲ司トル」〔
1878年参謀本部条例2条〕ところの最高の統帥機関となつたのである。即ち参謀本部長は統帥権に関する天皇の幕僚長として「軍中ノ機務,戦略上ノ動静,進軍,駐軍,転軍ノ令,行軍路程ノ規,運輸ノ方法,軍隊ノ発差等,其軍令ニ関スル者」を管知し,之を「参画シ,親裁ノ後直ニ之ヲ陸軍卿ニ下シテ施行セシム」〔同5条〕るものであり,又「戦時ニ在テハ凡テ軍令ニ関スルモノ,親裁ノ後直ニ之ヲ監軍部長,若クハ特命司令将官ニ下ス」〔同6条〕ものである。従つて参謀本部長は,統帥権に関する最高の輔弼機関である関係上,軍政に於ける陸軍卿の地位にあるのではなくて,寧ろ其の上の太政大臣〔三条実美〕に相等する地位に在るものである。何となれば陸軍卿は直接天皇輔弼の責に任ずるものではなく,それは専ら太政官の三職〔太政大臣・左右大臣・参議〕,就中太政大臣にあつたからである。換言すれば参謀本部長の権限は,従来の陸軍卿及び太政大臣の権限より統帥権に関する部分を独立せしめたものといふことが出来る。従つて参謀本部長の地位は,陸軍卿に優越するものと解せられるのである。

 かくして陸軍に在つては,明治11年に於て名実共に統帥部の独立が実現したのである。・・・(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)227228頁)



3 勅令から軍令へ

 さて,それでは,司馬遼太郎は1908年の参謀本部条例のどこに注目して警鐘を鳴らしたのでしょうか。

 法形式と副署者に注目しましょう。

 1899年の参謀本部条例は,勅令であって,内閣総理大臣及び陸軍大臣が副署しています。

 これに対して,1908年の参謀本部条例は,軍令であって,副署者は陸軍大臣だけです。



(1)勅令

 勅令は,「旧憲法時代,天皇によって制定された法形式の一つで,天皇の権能に属する事項(皇室の事務及び統帥の事務を除く。)について抽象的な法規を定立する場合に用いられた法形式」です(前田正道編『ワークブック法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)49頁)。美濃部達吉は次のように説明しています。

 


・・・〔公文式(明治
19年勅令第1号)〕は,等しく天皇の勅定したまふ国家の意思表示の中に,法律と勅令との2種の形式を区別したのであるが,併し憲法実施までは,法律と勅令とは唯名称だけの区別で,何等法律上の意義ある区別ではなかつた。憲法の実施に依りて,それは単に名称だけの区別ではなく,(1)その制定手続に於いて,(2)その規定し得べき内容に於いて,(3)及びその効力に於いて相異なるものとなつたのである。(1)制定手続に於いては,法律は議会の議決を経て定められ,勅令はその議決を経ずして定められる。(2)内容に於いては,法律は原則として如何なる事項でも定むることが出来るが,勅令は唯憲法上限られた事項だけを定むることができる。(3)効力に於いては,法律は勅令の上に在り,法律を以ては勅令を変更することが出来るが,勅令を以ては法律を変更することは出来ない。(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)168169頁)

 ・・・勅令が他の国務上の詔勅と区別せらるゝ所以は,勅令は国民に向つて法規を定めることを主たる目的とすることに在る。固より勅令を以て規定せらるゝ所が常に法規のみに限るといふのではない。行政命令〔「電信規則・電話規則・各種の学校令・鉄道乗車規程の如く,全然国民の権利義務に付いての規律を定むるものではなく,唯人民が自己の自由意思を以て之を利用するに付いての条件たるに止まる」もの〕の性質を有するものが,勅令を以て定めらるゝものは甚だ多いけれども,その主たる目的とする所が,法規を定むるに在ることは疑を容れぬ所である。・・・(美濃部・235頁,232頁)



(2)軍令及びその誕生




ア 軍令

 軍令は,軍令に関する件(明治40911日軍令第1号。同令には題名なし。件名をもって,軍令に関する件と呼ばれています。)の第1条において,「陸海軍ノ統帥ニ関シ勅定ヲ経タル規程ハ之ヲ軍令トス」と定められていたものです。(なお,軍令に関する件の官報掲載日は1907912日ですが,上諭の日付は同月11日であって,同令4条は「軍令ハ別段ノ施行時期ヲ定ムルモノノ外直ニ之ヲ施行ス」と規定しています。)「統帥権の作用として定めらるゝ命令」であって,「国務上の命令ではない」ものであり,「唯統帥権に服する者即ち平時に於いては唯軍人に対してのみ効力を有するもので,一般の人民に対して効力を有するものではない」ものです(美濃部261頁)。「軍隊内部の命令たるに止まるのであるから,国の法令に牴触することを得ないのは勿論」です(同)。公布によって初めて「以て臣民遵行の効力を生ず」る(『憲法義解』)法規とは異なり,軍令は正式に公布されませんでした(軍令に関する件2条参照)。「公示」を要する軍令は,官報で公示されました(同令3条)。「故らに公布なる文字を用ひないのは,軍令は勅令と其の性質を同じくせざることを示し,以て軍令を特殊の勅令と認むるが如き嫌ひを避けたもの」と考えられています(山崎248頁)。

 「予算に影響を及ぼさない限度に於いて,軍隊の内部の編制を定むるの権」は「内部的編制権」であり,内部的編制権は,美濃部においても大日本帝国憲法11条(「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」)の統帥権の範囲内にあるものとされていました(美濃部259頁)。参謀本部条例は,統帥権の一環たる内部的編制権の発動により参謀本部の構成について天皇が定める規程であるから,1908年の参謀本部条例については軍令の形式が採られたということでしょう。



イ 軍令の誕生

 それでは,1899年の参謀本部条例はなぜ軍令の形式ではなく,勅令の形式で定められたのでしょうか。理由は簡単です。軍令の形式は,1907年の明治40年軍令第1号によって初めてできたものであって,それ以前には軍令の形式は存在しておらず,当該形式の採りようがなかったからです。



(ア)公式令制定に伴う内閣総理大臣の副署対象の全勅令への拡大

 それでは更に,なぜ1907年9月に軍令という形式が定められたのでしょうか。これは,同年2月1日から施行されていた公式令(明治40年勅令第6号)7条2項の規定が原因です。勅令に係る国務大臣の副署(大日本帝国憲法552項「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」)については,それまでの公文式3条が「法律及一般ノ行政ニ係ル勅令ハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ主任大臣ト倶ニ之ニ副署ス其各省専任ノ事務ニ属スルモノハ主任大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス」と規定していて,各省専任の事務に属する勅令については内閣総理大臣の副署を要さず主任の国務大臣の副署だけで足りるものとしていたのに対して,新しい公式令7条2項は,「〔勅令〕ノ上諭ニハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ国務各大臣若ハ主任ノ国務大臣ト倶ニ之ニ副署ス」と規定し,各省専任の事務に属する勅令をも含めて例外なく,すべての勅令について内閣総理大臣が副署するものとしていたからです。

 勅令に対する国務大臣の副署の効力については,「法律勅令及其の他国事に係る詔勅は大臣の副署に依て始めて実施の力を得。大臣の副署なき者は従て詔命の効なく,外に付して宣下するも所司の官吏之を奉行することを得ざるなり。」とされていました(『憲法義解』)。



(イ)公文式時代の慣行及びその維持

 明治40年軍令第1号の起案を担当したのは,陸軍省軍務局軍事課です(陸軍省であって,参謀本部ではないですね。)。同課によれば,軍令の形式を定める「理由」は,次のとおりでした(中尾裕次「史料紹介「軍令ニ関スル件」」戦史研究年報4号(防衛省防衛研究所(20013月))。




従来軍機軍令ニ関スル事項ハ内閣官制第7条ニ依リ陸軍大臣海軍大臣ヨリ帷幄上奏ヲ以テ親栽ヲ仰キ而シテ陸海軍部外ニ発表ヲ要スルモノハ公文式第3条ニ依リ単ニ陸軍大臣海軍大臣ノ副署ノミヲ以テ公布シ来レリ然ルニ先般公式令制定ト共ニ公文式ヲ廃止セラレタル結果勅令ハ総テ内閣総理大臣ノ副署ヲ要スルコトトナレリ抑モ事ノ軍機軍令ニ関シ若ハ之レト同一ノ性質ヲ有スル軍事命令ハ憲法第
11条同第12条ノ統帥大権ノ行使ヨリ生スルモノニシテ普通行政命令ト全ク其性質軌道ヲ異ニシ専門以外ノ立法機関若ハ行政機関ノ干与ヲ許ササルヲ以テ建軍ノ要義ト為ス

統帥大権ノ行使夫レ斯ノ如ク又内閣官制第7条ハ現行法トシテ尚ホ存在スルカ故ニ此際統帥事項ニ関スル命令ハ特別ノ形式即チ軍令ヲ以テ公布シ主任大臣ノミ之ニ副署スルコトト為シ以テ行政事項ニ属スル命令ト判然之ヲ区別シ統帥大権ノ発動ヲ明確ナラシメントス

 

 お前のサインなどもらわないぞと,内閣総理大臣も嫌われたものですね。しかし,確かに,内閣総理大臣もいろいろではあります。

 内閣官制(明治22年勅令第135号)7条は,「事ノ軍機軍令ニ係リ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニ依リ之ヲ内閣ニ下付セラルノ件ヲ除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」と規定していました。いわゆる帷幄上奏に関する規定です。内閣官制7条の前は,1885年の内閣職権6条ただし書で「但事ノ軍機ニ係リ参謀本部長ヨリ直ニ上奏スルモノト雖トモ陸軍大臣ハ其事件ヲ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」と規定されていました。帷幄上奏は「本来参謀総長・海軍軍令部長の職務として規定せられたのであるが,其の後陸軍大臣又は海軍大臣からも帷幄上奏を為し得る慣習が開かれ,陸軍及び海軍大臣だけは,総理大臣を経由せず単独に上奏し得ることが慣習上認められて居」たものです(美濃部532533頁)。これに対して,陸海軍大臣以外の国務大臣の上奏については,内閣総理大臣が「機務ヲ奏宣スル」(内閣官制2条)ものとされていることから,「総理大臣を経由するか,又は少くとも総理大臣の承認を得た場合であることを要するので,総理大臣の知らぬ間に,各大臣から直接に上奏することは,総理大臣の職責から見て,許されない」とされていました(美濃部532頁)。

 従来陸軍大臣は,統帥事項については内閣総理大臣にも内緒で勅令案を持って行って天皇に上奏して綸言汗のごとき裁可を得て,自分一人がその勅令に副署してそうして施行できたのだから,今更公式令ができたからといって,(政党政治家である可能性もある)内閣総理大臣に「そんな勅令の話,おれは聞いてない。だから,統帥事項だか何だか知らぬがこの勅令には副署しない。」といやがらせをされ得るようになるのはいやだ,ということだったのでしょう。性格の悪い内閣総理大臣との悶着を避けるべく,軍令に関する件2条は,「軍令ニシテ公示ヲ要スルモノニハ上諭ヲ附シ親署ノ後御璽ヲ鈐シ主任ノ陸軍大臣海軍大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス」と規定していました。軍部の主観的意見としては,軍令の形式は部外者には一見あやしげに見えるといっても,統帥事項に係る勅令に関する従来の権限・慣行を維持せしめただけで,「ガン細胞」呼ばわりは心外だ,ということになるのでしょう。

 なお,軍令に対する陸軍大臣又は海軍大臣の副署は,「是は国務大臣としての副署ではなく,帷幄の機関として奉行の任に当たることを証明する行為たるに止まるものと見るべき」とされています(美濃部261頁)。「蓋し我が国法に於ける副署には2種の意義がある。即ち一は憲法第55条の大臣副署と,他は憲法以前より行ひ来りたる副署とである。・・・後者は単に執行当局者たることを表明するものである。宮内大臣の皇室令に副署し,賞勲局総裁の勲記に副署するが如きは専ら後者に属する。陸海軍大臣の軍令に副署するのも亦之と其の性質を同じくするもの」というわけです(山崎249250頁)。



(3)「一般行政」から統帥権の聖域へ

 しかし,1899年の段階では参謀本部条例はなお「一般行政ニ係ル」ものとして内閣総理大臣の副署をも受けていたのに対して(公文式3条),1908年になると,参謀本部条例は純粋な統帥事項に係るものであるとして,内閣総理大臣の副署を要さぬ軍令の形式が採用されるに至っています。この点においては,「一般行政」の領域から自らを引き離すことによって政治の統制から離れ,統帥権が「ガン細胞」化して「一般行政」を侵食することが可能になり始めたといえそうです。

 さらにいえば,「行政各部ノ官制其ノ他ノ官規ニ関スル重要ノ勅令」は枢密院に諮詢することになっていて(枢密院官制69号)厄介でしたが,参謀本部条例が軍令であるということになると,堂々と当然「枢密院ノ諮詢ヲ経ヘキモノニアラス」ということになりました(『統帥綱領・統帥参考』(偕行社・1962年)18頁)。

 いずれにせよ,公文式時代においても,軍部関係の勅令について「傾向としては年を経るにしたがい,軍部大臣だけの副署によるものが多くなったようである」そうです(戸部良一『日本の近代9 逆説の軍隊』(中央公論社・1998年)158頁)。



4 統帥権の独立の「効用」:福沢諭吉の『帝室論』等
 ところで一体,先の大戦以前における我が統帥権の独立の「効用」としては,何が考えられていたのでしょうか。最後は「ガン細胞」になったとはいえ,そもそもの初めには,もっともな目的のために働くべき正常細胞であったはずです。

 「統帥権の独立は,軍の政治介入を意図してつくられた制度ではない。むしろそれは,軍の政治的中立性を確保し,軍人の政治不関与を保証するものとさえ,期待されたのである。」とされています(戸部77頁)。

(1)政治の統帥関与の弊害防止
 政治家が統帥に関与し,あるいは統帥権を握った場合の弊害について,美濃部達吉は「軍人以外の政治家が兵馬の事に容喙することが軍の戦闘力を弱くする虞」がある旨軍事側から見た危惧に言及しているところですが(美濃部257頁),他方,1932年にまとめられた陸軍大学校の『統帥参考』においては,次のように述べられていました。




抑々統帥ノ独立ハ反面ヨリ観レハ政治ノ独立少クモ其保障ニシテ我国ニ於ケル往昔ノ武家政治又ハ現代労農露国ノ政治ノ如ク政府カ兵権ト政権トヲ把握行使スルトキハ政権ノ自然ナル移動授受カ行ハレサルノ虞アリ(『統帥綱領・統帥参考』
7頁)

 

 統帥権の独立は,政府に対抗する在野勢力をもその対象に含めた「政治ノ独立」のためのものだというのです。

先の大戦末期満洲国等に侵入して大暴れした恐ろしい「労農赤軍ノ如キハ彼等ノ意識ヲ以テスレハ元首ノ軍隊ニモアラス所謂国家ノ軍隊ニモアラス全ク共産党ノ軍隊」であったところ(『統帥綱領・統帥参考』1頁),共産党支配下のソ聯においては,「政権ノ自然ナル移動授受」は行われてはいませんでした。

 軍隊の政党化は,明治十四年の政変後,立憲政治の導入に向けた動きの中で,福沢諭吉も憂慮したところでした。




・・・然るに爰に恐る可きは政党の一方が兵力に依頼して兵士が之に左袒するの一事なり国会の政党に兵力を貸す時は其危害実に言ふ可らず仮令ひ全国人心の多数を得たる政党にても其議員が議に在る時に一小隊の兵を以て之を解散し又捕縛すること甚だ易し殊に我国の軍人は自から旧藩士族の流を汲て政治の思想を抱く者少なからざれば各政党の孰れかを見て自然に好悪親疎の情を生じ我は夫れに与せんなどと云ふ処へ其政党も亦これを利して暗に之を引くが如きあらば国会は人民の論場に非ずして軍人の戦場たる可きのみ斯の如きは則ち最初より国会を開かざる方,万々の利益と云ふ可し・・・(福沢諭吉『帝室論』(
1882年))



 1776年7月4日のアメリカ合衆国の独立宣言では,イギリス国王について,「彼は,平時において,我々の立法機関の同意なしに,我々の間において常備軍を保持した」ことが非難されています。そもそも軍隊は,外国と無名の戦争をすることが問題であるばかりではなく,それによって国内において市民の自由が抑圧されることが恐れられていたのでした。同年6月12日のヴァジニア権利章典の第13条は「人民団体によって組成され,武器の使用について訓練された紀律正しい民兵は,自由な邦にふさわしく,自然かつ安全な防衛者である。平時における常備軍は,自由にとって危険なものとして避けられるべきである。あらゆる場合において,軍隊は,市民の権力(the civil power)に厳格に服し,規制されるべきである。」と規定しています。これに対して,自由民主党の日本国憲法改正草案(2012427日決定)9条の2第1項では,「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため,・・・国防軍を保持する。」と,高らかに常備軍の設置がうたわれています。国王に反逆したアメリカ人らの常備軍に対する暗い猜疑の目と比べて,長い歴史にはぐくまれた日本人同士の厚い信頼をそこに見るべきでしょう。いわゆる「安保闘争」に係る1960年6月10日のハガチー事件後,「同事件の原因を「警察力の脆弱さ」に求める岸〔信介内閣総理大臣〕は,・・・〔赤城宗徳〕防衛庁長官にたいして,今度は「研究」ではなく,実際に「自衛隊出動」そのものを求め〔たが〕(結局,防衛庁内の「反対」を岸が受け入れて,これは実現しなかった)」といった激動の時代(原彬久『岸信介―権勢の政治家―』(岩波新書・1995年)220頁)は,遠い過去のことになりました。なお,ちなみに,「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため」に必要な最低限以上の戦力を保持することが憲法上の要請ということになると,財務省の主計官殿がうっかり国防予算に厳しい査定をすると,「国防権干犯!」といって怒られるようになるかもしれません。また,自由民主党の日本国憲法改正草案9条の2第1項の規定する国防軍の目的は,自衛隊法31項の文言を基礎に,そこに「国民の安全」の確保が加えられたもののようですが,ここにいう「国民」には,外国在留の我が同胞が含まれるのでしょうか(同草案25条の3参照)。「居留民保護其他我権益擁護ノ為必要已ムヲ得サル場合ニ於テハ断然目的ヲ達成スル為十分ナル兵力ヲ出動セシメ速ニ其目的ヲ達成」する必要があるとされていたところです(『統帥綱領・統帥参考』29頁)。

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ヴァジニア植民地議会議事堂(Williamsburg, VA)
(ヴァジニア権利章典はジョージ・メイソンの起草に係ります。)

(2)天皇統帥の必要性及び功徳
 統帥権者が政治家ではなく,天皇でなければならない理由は,取り戻すべき日本のかたちとして,軍人勅諭(188214日)において明らかにされていました。いわく,「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある」,「夫兵馬の大権は朕か統ぶる所なれば其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を伝へ天子は文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降の如き失体なからむことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそ」と。
 さらに,実際的な理由としては,福沢諭吉が次のように述べています(『帝室論』)。

 まず,軍人に政治的中立を守らせること。




・・・今この軍人の心を収攬して其運動を制せんとするには必ずしも〔ママ〕帝室に依頼せざるを得ざるなり帝室は遥に政治社会の外に在り軍人は唯この帝室を目的にして運動するのみ,帝室は偏なく党なく政党の孰れを捨てず又孰れをも援けず軍人も亦これに関し,固より今の軍人なれば陸海軍卿の命に従て進退す可きは無論なれども卿は唯其形体を支配して其外面の進退を司るのみ内部の精神を制して其心を収攬するの引力は独り帝室の中心に在て存するものと知る可し・・・



 また,命を賭して戦う戦士の心を受けとめて支えることは,議会政治家の大臣ごときでは,器量不足です。




・・・仮令ひ其大臣が如何なる人物にても其人物は国会より出たるものにして国会は元と文を以て成るものなれば名を重んずるの軍人にして之に心服せざるや明なり唯帝室の尊厳と神聖なるものありて政府は和戦の二議を帝室に奏し其最上の一決御親裁に出るの実を見て軍人も始めて心を安んじ銘々の精神は恰も帝室の直轄にして帝室の為に進退し帝室の為に生死するものなりと覚悟を定めて始めて戦陣に向つて一命をも致す可きのみ帝室の徳至大至重と云ふ可し・・・



 さらに,いったん戦いがあり,それが終わった後に,なお殺気立った戦場帰りの大軍を平穏に日常生活に復帰させることは,議院内閣制政府の首班ごときでは到底無理な大事業であろうと考えられていました。(兵士らのみならず,栄光に包まれた凱旋将軍も危険でしょう。アメリカ独立戦争のときも,ジョージ3世の軍をヨークタウンで破ったジョージ・ワシントン将軍を立てて,王制を樹立しようという動きがあったようです。)




・・・〔
1877年の西南戦争の徴募巡査らは〕戦場には屈強の器械なれども事収るの後に至て此臨時の兵を解くの法は如何す可きや殺気凛然たる血気の勇士,今日より無用に属したれば各故郷に帰りて旧業に就けよと命ずるも必ず風波を起すことならんと我輩は其徴募の最中より後日の事を想像して窃に憂慮したりしが同年9月変乱も局を結で臨時兵は次第に東京に帰りたり我輩は尚当時に至る迄も不安心に思ひし程なるに兵士を集めて吹上の禁苑に召し簡単なる慰労の詔を以て幾万の兵士一言の不平を唱る者もなく唯殊恩の渥きを感佩して郷里に帰り曽て風波の痕を見ざりしは世界中に比類少なき美事と云ふ可し仮に国会の政府にて議員の中より政府の首相を推撰し其首相が如何なる英雄豪傑にても明治10年の如き時節に際してよく此臨時兵を解くの工夫ある可きや我輩断じて其力に及ばざるを信ずるなり

 

 福沢諭吉は不安心のため西南戦争中お腹が痛くなったことでしょうが,偉大な明治天皇の力をもって,無事に兵らは復員して行きました。同様のことが,先の大戦の終了時にも起こったわけです(194581415日夜の宮城を舞台としたクーデタ未遂事件等いろいろありましたが。)。

 自由民主党の日本国憲法改正草案は,天皇を日本国の元首としつつも(同1条),その第9条の2第1項及び第72条3項において,内閣総理大臣をもって国防軍の最高指揮官としています。福沢諭吉がその将来を懸念し,帝室への依頼をなお不可欠と考えていた明治の日本から,今の日本は随分変わり,進歩したわけです。「慶応ブランド」創始者の福沢諭吉も,時代遅れになりました。

現在の問題はむしろ,ゆるゆると続く不況に伴う心優しい閉塞状況の副作用なのか,貔貅たるべき我が国の男児から,真面目な獰猛さが失われてしまってはいないか,ということかもしれません。

(3)蛇足
 なお,憲法に統帥権者を書き込んでしまった場合,「聯合作戦ニ際シ外国軍司令官ヲシテ一時タリトモ帝国軍隊〔国防軍〕ヲ統帥指揮セシムルハ法律的ニ言ヘハ憲法違反ナリ」(『統帥綱領・統帥参考』12頁)というようなうるさいことにならないでしょうか。ちなみに,あるいは意外なことながら,先の大戦前の陸軍(少なくとも陸軍大学校の教官)は「政略上ノ目的ヲ以テ平時妄リニ海外ニ軍隊ヲ出動セシムルコトハ努メテ之ヲ避ケサルヘカラス」と考えていたようです(『統帥綱領・統帥参考』29頁)。「帝国軍ハ皇軍ニシテ皇道ヲ擁護シ皇威ヲ発揚スル為ニ設ケ置カルルモノナリ故ニ妄リニ政略的ニ兵ヲ動カスコトハ之ヲ慎マサルヘカラス」ということで(同),政治家のみだりな政略の道具にされたくはないということだったのでしょう。「而シテ国際関係ノ錯綜,世相ノ変化等ノ為海外出兵ニ依リ所望ノ政略目的ヲ達成スルノ如何ニ困難ナルカハ往年の西伯利出兵並最近ニ於ケル支那出兵ノ明証スル所ナリ」と(同書2930頁),少なくとも当時は懲りていたようです。シベリア出兵において,日米両国は同盟国の関係にあったはずですが,うまくいかなくなったようです。


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ヨークタウン古戦場(Yorktown, VA)
(ヨークタウンに陣取ったコーンウォリス将軍のイギリス軍は優勢な米仏連合軍の攻撃を受けて,1781年10月19日,終に降伏。敗報に接したイギリスのノース首相は「神よ,すべては終わった!」と叫び,アメリカ独立戦争は実質的に終結しました。降伏式においてイギリス側は最初,連合軍の主力だったフランス軍のロシャンボー将軍にコーンウォリス将軍の剣を渡そうとしましたが,こっちじゃないよあっちだよとジョージ・ワシントン将軍を示されて,降伏の印の剣はアメリカ大陸軍が受け取りました。フランスの王さまルイ16世は,いい人でしたね。)

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イギリス軍降伏の場所(Surrender Field, Yorktown, VA) 

 弁護士 齊藤雅俊
  大志わかば法律事務所
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