Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

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1 紀元前49年1月10日,11日又は12

紀元前49年「1月10日の夜,カエサル,ルビコン川を越え内乱始まる。」と,スエトニウス=国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(上)』(岩波文庫・1986年)330頁のローマ史年表にあります。また,プルタルコス=河野与一訳『プルターク英雄伝(八)』(岩波文庫・1955年)197頁(「ポンペーイウス」60)の割注も,ルビコン川渡河を「前49年1月10日」のこととしています。村川堅太郎教授は「1月7日,元老院はシーザー〔カエサル〕の召還をきめ,戒厳令を発布してポンペイウスに指揮をゆだねた。3日後にこの情報を得たシーザーは,しばらく熟慮したのち,古代にも諺となっていた「骰子は投げられた」の句を吐いて,自分の任地の属州とイタリアとの境をなすルビコン川を渡り,10日の夜のうちにアドリア海岸の要衝アリミㇴムを占領した。」と記しています(村川編『世界の歴史2 ギリシアとローマ』(中央公論社・1961年)311‐312頁)。一見簡単です。しかしながら,実際にはいつのことだったのか,よく考えると難しいところがあります。

(1)季節 :秋

まず季節は,冬ではなく,秋でしょう。紀元前45年のユリウス暦開始に当たって,「この太陽暦が新しい年の1月1日から将来にかけて,季節の正しい推移と,いっそうぴったり符合するように,前の年の11月と12月の間に,2ヶ月をはさむ。/このように調整されたその年は,それまでの慣例上,この年のために設けられていた1ヶ月の閏月も加えて,ついに1年が15ヶ月となった」という季節調整が必要だったのですから(スエトニウス「カエサル」40・スエトニウス=国原前掲書48頁)。

(2)一日が始まる時(暦日の区切り):正子 

次に,ローマ暦では一日は何時から始まったのか。これは意外なことに,根拠と共に明言してくれる日本語文献が少ないようです。真夜中の正子(午前零時)から始まるのが当然だからと思われているからでしょうか。手元にある「ローマ人の一日の時間配分」の表(塩野七生『ローマ人への20の質問』(文春新書・2000年)145頁)も,特段の説明なく正子から一日が始まることになっています。

しかしながら,せっかくインターネットによって世界中から情報を入手できる時代ですので,何らかの文献的根拠ではっきりさせたいところです。そこで英語のウェッブ・サイトをいろいろ調べてみると,紀元2世紀の人であるアウルス・ゲッリウスの『アッティカ夜話』のBook3の2に説明がありました。以下,J.C. RolfeLoeb Classical Library版(1927, Revised 1947)の英訳からの重訳です。

 

どの日が,夜の第三時,第四時及び他の時間に生まれた者の誕生日とみなされ,かつ,そう唱えられるべきかは,よく問われる問題である。すなわち,その夜の前の日なのか,後の日なのか。マルクス・ワッロ〔カエサルの同時代人〕は,彼の書いた『古代史』の「日について」においていわく,「一正子から次の正子までの24時間中に生まれた者らは,同一の日に生まれたものとみなされるものである。」これらの言葉から,日没後ではあるが正子前に生まれた者の誕生日は,そののちに当該夜が始まったところの日であるものとするように,彼は日を分けて数えていたことが分かる。しかしながら他方,夜の最後の六時間中〔「ローマの一時間は日出から日没までを12等分したものなので,夏季と冬季とでは,また昼と夜とでも,長さが違っていた。」(スエトニウス=国原前掲書338頁)〕に生まれた者は,その夜の後に明けた日に生まれたものとみなされるのである。

しかしながら,ワッロはまた同じ書において,アテネ人たちは違った数え方であり,一日没から次の日没までの間の全ての時間を単一の日とみなしている,と書いていた。バビロニア人はまた異なった数え方をしていたとも書いていた,すなわち,彼らは一つの日の出から次の日の出の始まりまでの間の全ての時間を一日の名で呼んでいたからである。しかしウンブリアの地では,多くの人々が正午から次の正午までが同一の日だと言っていたとも,書いていた。・・・

しかしながら,ワッロが述べたように,ローマの人民は毎日を正子から次の正子までで数えていたことは,豊富な証拠によって示されている。・・・

 

 そうであれば,問題は,カエサルがルビコン川を渡ったのは,1月9日の夜が更けて正子を過ぎた同月10日の未明であったのか,それとも1月11日になろうとする同月10日の晩(正子前)であったのか,ということになります。

(3)スエトニウスとプルタルコス 

 

  ・・・カエサルはキサルピナ・ガリアにやってきて巡回裁判を終えると,ラウェンナに踏みとどまる,自分のため拒否権を行使するはずの護民官に対し,もし元老院が何か重大な決定を行なったら武力で復讐してやろうと覚悟して。

  ・・・

  さてカエサルは,護民官の拒否権が無効とされ,彼ら自身首都から脱出した〔「1月7日,門閥派がカエサルの軍隊の解体を決議し,ポンペイユスに独裁官の権限を与える。」とされています(スエトニウス=国原前掲書330頁の年表)。この1月7日の日付は,カエサルの『内乱記』のBook 1, Chapter 5に,a.d. VII Id. Ian.と言及されています。〕という知らせを受けとると,直ちに数箇大隊をこっそりと先発させる。しかし疑惑の念を一切与えぬように表面をいつわり,公けの見世物に出席し,建てる手筈をととのえていた剣闘士養成所の設計図を検討し,いつものように盛大な宴会にも姿を見せた。

  日が暮れると近くの製粉所から驢馬を借り,車につけると,最も人目にたたない道を,わずかの護衛者らとともに出発した。

  松明が消えて正道からそれ,長い間迷い,夜明けにやっと道案内を見つけて,非常に狭い道を徒歩で通り抜けた。

  先発の大隊に追いついたのは,ルビコン川である。この川は彼の治めている属州の境界線であった。しばらく立ち停り,「われながらなんと大それたことをやることか」と反省し,近くに居合わせた者を振り返り,こう言った。

  「今からでも引き返せるのだ。しかしいったん,この小さな橋を渡ってしまうと,すべてが武力で決められることになろう」

  こう遅疑逡巡していたとき,じつに奇蹟的な現象が起った。体格がずばぬけて大きく容貌のきわだって美しい男が,忽然として近くに現われ,坐ったまま葦笛を吹いている。これを聞こうと大勢の牧人ばかりでなく,兵士らも部署から離れて駆け寄った。兵士の中に喇叭吹きもいた。その一人から喇叭をとりあげると,その大男は川の方へ飛び出し,胸一杯息を吸い,喇叭を吹き始めた。そしてそのまま川の向う岸へ渡った。

  このときカエサルは言った。

  「さあ進もう。神々の示現と卑劣な政敵が呼んでいる方へ。賽は投げられた(Iacta alea est)」と。

  こうして軍隊を渡した・・・(スエトニウス「カエサル」30‐33・スエトニウス=国原前掲書384041頁)

 

 これは,夜間渡河ではなく,早朝渡河ですね。 
 しかし,プルタルコスによれば,夜明け前の夜間渡河ということになっています。

 

・・・そこで将軍や隊長に,他の武器は措いて剣だけを持ち,できる限り殺戮と混乱を避けてガリアの大きな町アリーミヌム〔現在のリミニ〕を占領するやうに命じ,ホルテーンシウスに軍勢を託した。

さうして自分は昼間は公然と格闘士の練習に顔を出して見物しながら過ごし,日の暮れる少し前に体の療治をしてから宴会場に入り,食事に招いた人々と暫く会談し,既に暗くなつてから立上つたが・・・自分は1台の貸馬車に乗つて最初は別の道を走らせたが,やがてアリーミヌムの方へ向けさせ,アルプスの内側のガリアとイタリアの他の部分との境界を流れてゐるルービコーと呼ばれる河に達すると,思案に耽り始め大事に臨んで冒険の甚しさに眩暈を覚えて速力を控へた。遂に馬を停めて長い間黙つたまま心の中にあれかこれかと決意を廻らして時を過ごした際には計画が幾変転を重ね,アシニウス ポㇽリオーも含めて居合はせた友人たちにも長い間難局について諮り,この河を渡ることが,すべての人々にとつてどれ程大きな不幸の源となるか,又後世の人人にどれ程多くの論議を残すかを考慮した。しかし結局,未来に対する思案を棄てた人のやうに,その後誰でも見当のつかない偶然と冒険に飛込むものが弘く口にする諺となつた,あの『賽は投げることにしよう。』といふ言葉を勢よく吐いて,河を渡る場所に急ぎ,それから後は駈足で進ませ,夜が明ける前にアリーミヌムに突入してこれを占領した。・・・(「カエサル」32・河野与一訳『プルターク英雄伝(九)』(岩波文庫・1956年)140‐141頁)

 

 渡河の時点において「1月10日」であるということであれば,スエトニウスによれば,1月9日の夕暮れに出発して翌同月10日の早朝にルビコン川を渡ったようでもあります。しかしながら,プルタルコスによれば,1月10日の夕暮れに出発してその夜のうち(正子前)にルビコン川を渡ったように読めます。

(4)距離と移動速度 

 さて,ラヴェンナ・リミニ間の距離は約50キロメートル, ローマ・ラヴェンナ間の距離は350キロメートル超。これらの距離と時間との関係をどう見るかについてギボンの『ローマ帝国衰亡史』を参照すると,同書のVol. I, Chap.Iにはローマの「軍団兵らは,特に荷物とも思わなかった彼らの兵器のほか,炊事用具,築城用具及び幾日分にも及ぶ糧食類を背負っていた。彼らは,恵まれた近代の兵士では耐えられないであろうこの重量下において,歩武を揃えて約6時間で約20マイル移動するよう訓練されていた。(Besides their arms, which the legionaries scarcely considered as an encumbrance, they were laden with their kitchen furniture, the instruments of fortification, and provision of many days. Under this weight, which would oppress the delicacy of a modern soldier, they were trained by a regular step to advance, in about six hours, near twenty miles.)」と,同Chap. IIには,皇帝らの設けた駅逓制度(institution of posts)を利用すれば「ローマ街道伝いに一日で100マイル移動することは容易であった。(it was easy to travel an hundred miles in a day along the Roman roads.)」とあります。古代のローマの1マイルは1480メートルで(スエトニウス=国原前掲書401頁),英国の1マイルは1609メートル。1日で100ローマ・マイルの移動は神速ということのようで,「〔カエサルは〕長距離の征旅は,軽装で雇った車にのり,信じ難い速さで1日ごとに100マイルも踏破した。・・・その結果,カエサルが彼の到着を知らせるはずの伝令よりも早く着くようなことも再三あった。」とあります(スエトニウス「カエサル」57・スエトニウス=国原前掲書65頁)。

 「他の武器は措いて剣だけを持」ったとしても,50キロメートルは兵士らにとってはやはり2日行程であるべきものとすれば,50キロメートル先を1月10日の払暁に襲撃するためにはできれば同月8日に出発すべきということになります。しかし,350キロメートル超離れたところからの1月7日発の連絡の到着にはやはり2日以上はかかって,早くとも同月9日着ということにはならないでしょうか。

(5)1月11日未明ないしは早朝か 

 結局,通常「1月10日の夜」といわれれば,同日の日没から翌11日の夜明けまでのことでしょうから(現在の我々がそうなので古代ローマ人もそうであったと一応考えることにします。),カエサルのラウェンナ出発は,紀元前49年1月10日の夕方ということでよいのではないでしょうか。

しかし,プルタルコス流に夜中に橋をぞろぞろどやどや渡ったというのでは夜盗のようで恰好が悪いので,早朝,神の示現にも祝福されつつ太陽と共に爽やかにかつ勇ましくルビコン川を渡って世界制覇が始まった,というスエトニウス流のお話が作られたのでしょう。

(なお,11日朝ルビコン川渡河ということでも時間的にはぎりぎりのようですから,11日出発,12日朝に渡河のスケジュールの方が現実的であると判断されるのももっともではあります。キケロー=中務哲郎訳『老年について』(岩波文庫・2004年)のキケロー「年譜」(兼利琢也作成)の13頁では「49年 1月12日,カエサル,ルビコーン川を越え,内乱始まる。」とされています。)

2 2017年1月10日

(1)勝訴
 ところで,筆者にとっての2017年1月10日は,幸先よく勝訴判決を頂くことから始まりました。損害賠償請求事件の被告代理人を務めたものです。「・・・原告の前記(1)主張を認めるに足りる証拠はない。/・・・よって,その余の争点について判断するまでもなく,原告の請求は理由がないから,これを棄却することとし,訴訟費用の負担につき,民事訴訟法61条を適用して,主文のとおり判決する。」というのが当該地方裁判所判決の結論部分で,主文は,「1 原告の請求を棄却する。/2 訴訟費用は原告の負担とする。」というものでした。

 敗訴した原告側としては,証拠が無くとも慰謝料等の損害賠償請求自体はできるものの,裁判になった場合には証拠がないと請求が認められない,という当該分野の専門弁護士の説く一般論そのままの結果に終わったわけです。

(2)「問状」の効力いかん 

損害賠償金の支払を得るべくせっかく弁護士に頼んでお金を払って内容証明郵便や訴状を書いてもらったのに何だ,何の効果もなかったではないか,というのが敗訴原告の憤懣の内容となるでしょうか。

しかしながら,「就訴状被下問状者定例也」(訴状につきて問状を下さるるは定例なり)であるからといって(すなわち,訴状が裁判所に提出されて訴えが提起されると(民事訴訟法133条),裁判長の訴状審査(同法137条)を経て訴状が被告に送達され(同法138条1項),これに対して被告は,口頭弁論を準備する書面として(同法161条),答弁書(民事訴訟規則80条)を裁判所に提出し(同規則79条),かつ,原告に直送することになるところ(同規則83条),実務では,裁判所は,「問状を下す」のではなくて呼出状(当事者の呼出しについて民事訴訟法139条,呼出状の送達に関して同法94条)と一体となった「第1回口頭弁論期日呼出状及び答弁書催告状」といった書面を訴状の副本(民事訴訟規則58条1項)と共に被告に送達します。),それを承けた原告が被告に対して「以問状致狼藉事」(問状をもって狼藉を致すこと)をすること(例えば,「「第1回口頭弁論期日呼出状及び答弁書催告状」と題した問状を裁判所がお前にお下しになっただろう。これは,裁判官様がこちらの訴えが正しいと既にお認めになった証拠である。したがって,往生際悪く裁判所で無慈悲に拷問されるより前にさっさと素直にゲロして答弁書に「私が悪うございました。全て原告の言うとおりです。」と書け。」と迫る詐欺ないしは強迫的な狼藉を致すようなことなど)ができるかといえばそれは「姦濫之企」であって,「難遁罪科」(罪科遁れ難し)であることは,貞永元年(1232年)七月の御成敗式目によっても明らかなことです(第51条。なお,当時は問状は原告が自ら被告に交付していたそうです(山本七平『日本的革命の哲学』(祥伝社・2008年)424頁参照)。)。
 訴状提出による訴訟提起等の直接的効果に関して過大な期待を煽ってはいけませんし,また,「裁判所から書面が送達されて来た。」といってもいたずらに過剰に反応する必要もありません。まずは事実及び証拠です。信用のできる弁護士に相談すべきです。

3 ポンペーイウスの大弁護士 

 話はまた古代ローマに戻って,「賽を投げろ」と賭博的にルビコン川を渡河した(これは「名()○○号に乗()する」のような重複表現なのですが,御容赦ください。)カエサルの攻勢に対しっし対応,ポンペーイウスにはよい参謀はついていなかったものでしょうか。これについては,少なくとも弁護士の選択については,それまでの赫々たる名声だけで「弁護士」ありがたがって安易に帷幄に参じさせてはならないもの
 マルクス・トウㇽリウス・キケロー大弁護士は,カエサルルビコン渡河直後「戦争に対して名誉のある立派な理由を持ってゐた」ポンペーイウスと「情勢をうまく利用して自分自身ばかりでなく仲間のものの安全を図つていた」カエサルとの間で右顧左眄していましたが(プルタルコス「キケロー」
37・プルタルコス=河野与一訳『プルターク英雄伝(十)』(岩波文庫・1956年)209頁),紀元前49年4月のカエサルのイスパニア向け発足後に至って同年6月にギリシヤに向け「ポンペーイウスのところへ渡つた」ものの,そこにおいて「ポンペーイウスがキケローを一向重く用ゐないことが,キケローの意見を変へさせ」,キケロー大弁護士は「後悔してゐることを否定せず,ポンペーイウスの戦備をけなし,その計画を密かに不満とし,味方の人々を嘲弄して絶えず警句を慎しまず,自分はいつも笑はず渋面を作つて陣営の中を歩き廻りながら,笑ひたくもない他の人々を笑はせてゐた」そうです(プルタルコス「キケロー」38・河野訳上掲書210頁)。大先生自らお気に入りの下手なおやじギャグは,味方をまず腐らせるということでしょうか。
 紀元前
48年8月のファルサーロスの「敗北の後に,ノンニウスが,ポンペーイウスの陣営には鷲が7羽(軍旗が7本)残つてゐるからしつかり希望を持たなければならないと云ふと,キケローは『我々が小鴉と戦争をしてゐるのなら君の勧告も結構なのだが。』と云」い,「又,ラビエーヌスが或る託宣を引合に出して,ポンペーイウスが勝つ筈になつてゐると云ふと,キケローは『全くだ。その戦術を使つて今度我々は陣営を失つてしまつた。』と云つた」そうです(プルタルコス「キケロー」38・河野訳前掲書211212頁)。何でしょうねぇ, この当事者意識の欠如は。しかもこの口の達者な大先生は,肝腎の天下分け目の「ファルサーロスの戦には病気のためキケローは加はらなかつた」ものであったのみならず,カエサルに敗れて「ポンペーイウスも逃亡したので,デュㇽラキオンに多数の軍隊と有力な艦隊を持つてゐた〔小〕カトーは,法律に従つてコーンスルの身分で上官に当るキケローに軍の統率を依頼した」ところ,「キケローは支配を辞退したばかりでなく全然軍事に加はることを避けたため,ポンペーイウスの息子や友人たちがキケローを裏切者と呼んで剣を抜いたので,〔小〕カトーがそれを止めてキケローを陣営から脱出させなかつたならば,もう少しで殺されるところであつた」との頼りない有様であったとのことでした(プルタルコス「キケロー」39・河野訳前掲書212頁)。

 

 という難しい大先生がかつていたとはいえ,それでも弁護士は使いようであります。まるっきり法的にも見通しなしの賭博として「賽を投げる」ことはやはり危険でしょう。大事を前にして,信頼できる弁護士を探しておくことは無価値ではないものと思います。

 

 弁護士 齊藤雅俊

 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

 大志わかば法律事務所

 電話:0368683194

 電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

 

1 法律家を志すまで

 マサチューセッツ湾植民地のブレイントリー村で僕は生まれた。親父は,百姓と靴屋をやっていて,村で尊敬されていた人物の一人,会衆派教会の役職者だ。僕は,親父が44歳,お袋が24歳の時の長男だ。弟たちは,3歳年下のピーター・ボイルストンと6歳年下のエリヒュー。5歳の時からお袋に字を読むことを教わった。

 弟たちは家の野良仕事を手伝うことになっていたけど,長男の僕は,じいさんやおじさんのように学問をしろと言われていた。6歳のころから村の塾に行って,それからクレヴァリーという若い教師がやっているラテン語学校に通った。クレヴァリーは,cleverどころか,怠け者で,生徒には無関心で意地悪だった。学校は面白くなかった。くそっ,たばこでも吸うか・・・(僕は8歳の時からたばこを吸った。)。

 親父に,僕は百姓をやりたいと言った。叱られた。

 マーシュ先生のところに通うことにした。18箇月で,植民地の首都近郊にある大学で勉強しても大丈夫だろうと言われるまで進歩した。15歳の春だった。大学の入学試験を受けるのは不安でいっぱいだったけど,試験官の教授たちは親切で,合格することができた。

 最初はどうなることかと思っていたけど,我が植民地における最高学府での学生生活の4年間は楽しかった。

 大学4年生になった。僕は進路について決めかねていた。親父は僕に牧師になってもらいたがっていたが,どうも牧師職は男らしくないようで,魅力を感じなかった。困った人たちに寄り添うというのは,僕らしくなく思われた。教区の病人や教会税の滞納者を訪問して日々を送るよりは,読書や研究をして過ごしたかった。聖職者には,それらしくあるために守るべき規則や, 機嫌を損ねないようにしなければならない人が多過ぎるのだ。

 真面目な清教徒の親父は法律家を三百代言呼ばわりして嫌っていたけど,僕は法律家の仕事に魅力を感じていた。そのころには,名門の出身者も弁護士になるようになっていた。

 僕は,名誉と名声とが欲しかった。偉大な人間になりたかった。そのために僕は,法律家になりたいと思ったんだ。

 けれど,牧師にならずに,せっかく僕のために学費を負担してくれた両親をがっかりさせるのは気が重かった。小さな村の狭い事務所で無意味な書類の山に埋もれてあくせくする貧乏弁護士で終わってしまうのではないかという不安もあった。聖職者か法律家か,僕は決めかねていた。そこで,ウスターの町でラテン語の教師をすることにした。

 ウスターは田舎で,うんざりした。生徒たちにもうんざりした。進路に関する悩みは続いた。けれども,とうとう僕は決心した。21歳になる少し前の夏(僕の誕生日は,ユリウス暦だと1019日,今のグレゴリオ暦だと1030日だ。),ウスターのジェイムズ・パトナム弁護士のもとに2年の期間で弟子入りをした(そのころは,ロー・スクールなんてものは無かった。)。

 


2 苦労時代(法律修業時代から駆出し弁護士時代まで)

 2年間の法律修業時代は辛かった。同年代の友人はいなかったし,やるべきことは多かった。パトナム先生は親切で正直だったけど,まだ28歳で,ちょっと物足りないところもあったかな。法律修業は,僕が22歳の時の8月に終わった。ウスターに残って弁護士をやれと言ってくれる人もいたけど,僕はブレイントリーの親父のもとに戻って弁護士を開業することにした。何といってもブレイントリーは首都の裁判所の管轄区域内だから,その分弁護士として活躍の機会も多いというわけだ。

 その年の秋,僕は首都に出かけた。市の弁護士会の長老であるジェレマイア・グリドレー先生はすっかり僕を気に入ってくれて,僕に二つの忠告をしてくれた。一つ目は,早く結婚するな,だった。二つ目は,富を求めて法律業をするな,法に対する愛からしろ,だった。

 開業直後の競争は人生で最も厳しかった。同年輩のライヴァルには,ネッド・クインジーとサミュエル・クインジー,ロバート・トリート・ペインなどがいた。ペインの方が僕よりできるようだった。クインジー家の連中には,実家のコネがあった。ところが僕ときたら,書斎にろくな本はないし,有力な友人もいなかった。つるはしなしで,自分の爪で,埋もれた金をかき出さなきゃならなかった。法律で食っていくためには,すべての石をひっくり返して仕事を探さなけりゃならなかった。クインジーの連中もペインも意地悪で,「あいつはばかだ,とんまだ」と僕の悪口を言い触らしているようだった。ライヴァルたちに負けないように狡猾に立ち回ることが,僕にはできないのではないかと不安だった。

 最初の事件が来た。隣家の馬に畑を荒らされたジョーゼフ・フィールドさんの代理人としての損害賠償請求事件だ。ところが,実務経験不足の僕は, まずい準備書面を書いてしまって敗けてしまった。ペインにばかにされるのではないかと怖かった。一流の法律家には金輪際なれないのではないかとの不安にさいなまれた。そして, フィールドさん, ごめんなさい。

 23歳になっていた僕には,好きな娘ができた。しかし,うまくいかなかった。続いてハンナ・クインジーに僕は夢中になった。僕は彼女に駆出し弁護士の苦労について語った。彼女は貧乏を気にしないと言ってくれた。けれど僕がもたもたしているうちに,ハンナは医者のベラ・リンカンに取られてしまった。ハンナはリンカンと婚約してやがて結婚し,僕は全く落ち込んでしまった。

 最初の2年間,僕の弁護士業は結局立ち行かないのではないかと思われた。仕事のことを考えると,胸が苦しくなった。僕は有名になりたかった。けれども,僕が輝くことはあり得ないことのようだった。

 有名になるために法学研究をするのは迂遠で時間がかかる。人脈を作ろうにも僕の性格はそれには向いていない。そうだ,何かの運動に参加してみよう。まずは禁酒運動だ。ブレイントリーの飲み屋の数は減らすべきだ。次は,ちゃんと修業をしていない三百代言征伐だ。

 2年たって,やっと仕事が増えてきた。相続問題が多かった。25歳になる秋には,陪審裁判で初めて勝訴した。心が軽くなった。僕はこしゃくな奴(saucy)だってさ,ははは。

  それからは仕事がうまく行き始めた。僕は自信を持つことができるようになった。当植民地の法曹界でだんだん一目置かれるようになってきた。26歳になった翌月の11月には,最高裁判所で弁論することが認められるようになった。

 ただ,残念だったのは,僕が25歳の時の5月に,親父がインフルエンザで亡くなったことだった。(とはいえ,親父の遺産の3分の1を相続して,僕は初めて事務所を構えることができた。)

 


3 新婚時代

 27歳の時の2月に,フランス人及びインディアンとの戦争が終わった。

 その年の春から夏にかけて,僕は首都の新聞のために匿名論文を書いた。新聞記事掲載はこれが初めてだった。お偉方を風刺したり,望ましい政体について論じたものだ。望ましい政体というのは,君主政,貴族政及び民衆政の混合政体だね。

 29歳になる直前の1025日,僕は結婚した。妻は19歳。ウエイマスのウィリアム・スミス牧師の中の娘で,黒髪の才女だ。スミス家は裕福で,牧師としての収入のほかに二つの農場からのあがりがあり,奴隷も4人所有している。

 翌年の1月から,僕はグリドレー先生に誘われて,当地の限られた最優秀の法律家の勉強会であるソダリタス(Sodalitas)に参加するようになった。その勉強会での僕の報告は,新聞にも掲載された。

 その年の7月,長女アビゲイルが生れた。僕は29歳で父親になった。仕事も順調だし,僕は幸せだった。だけど,ぽっちゃりしてきたみたい。

 


4 最初の反税闘争

 ところが突然,反税闘争が起きた。本国政府に対する反抗だ。おいおいよしてくれ,せっかくクライアントが増えてきて何とかなってきた僕の法律家としての地位がだめになってしまうかもしれないじゃないか。

 僕のまたいとこのサミュエルが暴れていた。最高学府まで行っていながら,起業しては失敗し,遺産を食いつぶした挙句に税務署の小役人をしている43歳の中年男だ。サミュエルは,僕にもっと大っぴらに反税闘争に参加しろと言う。そうすればもっと有名になれるぞと言う。そりゃ本国政府の当該施策は間違っているし,賢明でもない。けれども,騒動が終わった後の反政府派の末路を思うと,前年に租税徴収官として業務上横領に問われかけたばかりのこの貧乏おじさんの口車に簡単に乗るわけにはいかないな。

 問題の新税法は,僕の30歳の誕生日の翌々日である11月1日から施行された。しかし,反税闘争のおかげで,当該税の徴収官はいなかったし,裁判所も休業状態だ。

 翌年の5月,問題の新税法は廃止された。裁判所業務も再開された。植民地議会には多くの反税派が選ばれていた。サミュエルもその一人だ。僕もまあ,目立たぬながらも反税派の側に立って活動していたんで,初当選を期待していないではなかった。ところがどうしたことだろう,ブレイントリー村の連中は,僕を代議員に選ばなかった。民兵大尉で居酒屋の親父のゼイヤーが,またまた選ばれたんだ。くそっ,残念。更にけしからぬことには,ゼイヤーの親父は,ちゃんとした法律修業をしていないくせに弁護士業務をしている代言人なんだ。しかも,あろうことか,ゼイヤー親父はたびたび法廷で僕を立往生させやがっていた曲者なんだ。二重三重に悔しかった。預言者は家郷に容れられずということか。田舎者どもめっ。

 


5 一人前の弁護士に

 32歳になるまでには,僕はひとかどの弁護士になっていた。当植民地の若手弁護士の中ではトップ・スリーに入るものとひそかに自負していた。金持ちというわけではないが,家族には余裕のある生活をさせることができた。巡回裁判のために家族と離れなくてはならないのは辛いし,仕事の性格上,孤独や退屈にさいなまれることはあった。けれども,満足していい境涯だと思った。

 僕が31歳の時の7月,長男が生れた。長男のミドルネームはクインジーだ。むむむ,あのハンナと関係が無いわけではない。母方の曽祖父にあやかって付けた名前なのだが,妻の母の実家はクインジー家で,妻とハンナとはまたいとこなんだよね。

 32歳の時の4月,僕の家族はブレイントリーから10マイル離れた首都に引っ越した。最初は,近所の人々から「ホワイト・ハウス」と呼ばれている家を借りた。それから約1年たって別の家に移り,その後また中心街に引っ越した。「ホワイト・ハウス」といえば合衆国大統領官邸みたいだって?何だいそりゃ,「アメリカ合衆国大統領」ってのは。そんな官職聞いたことないぞ。いずれにせよ,「ホワイト・ハウス」には長居は無用さ。「ホワイト・ハウス」時代に生まれた二女のスザンナは病弱で,2歳になる前に死んでしまったんだ。

 


6 キング・ストリート殺傷事件弁護

 


(1)事件

 ところで本国がまた新らたな税金をかけてきて,今度は正規軍まで駐屯させて来た。サミュエルたちはまた反対運動だ。

本国正規軍の駐屯兵と植民地の住人とのけんかざたが,たびたび起こった。ただでさえうさんくさがられて警戒されていた正規軍の兵隊たちは,非番のときにはアルバイトをして,未熟練労働者の職まで奪って迷惑がられていた。更に悪いことには,連中,地元の女の子たちとデートをするという図々しい所業にまで及んでいたんだ。一触即発。

 こうした状況の中で,僕は34歳の春を迎えようとしていた。

 その3月5日の月曜日,冷たい夜にその事件は起きた。

午後8時過ぎ,首都の税関の前で,棍棒を持ち罵詈雑言を浴びせかける約4百人の群衆と,40歳のアイルランド人であるトーマス・プレストン大尉に率いられた8人の正規軍兵士とがにらみ合っていた。(その晩僕はソダリタスの会合に出ていたので直接見たわけではない。各種の証拠から認定した事実だ。)兵士たちは銃剣付きのマスケット銃を持ち,半円形の隊形を作っていた。撃てるもんなら撃ってみろと兵士を挑発する奴がいた。射撃命令を出すなと言って来る者もいた。大勢の群衆の敵意に囲まれたプレストン大尉は戦慄した。彼にとっては悪夢のような場面だった。

 棍棒を投げつけて来た奴がいた。棍棒が兵士に当たった。発砲。6秒の間を置いて,更に連続発砲。けが人が出た。5人は瀕死だ。雪の上に血が飛び散っていた。命令なしの発砲に慌てたプレストンは,打ち方止めを叫びながら駆け回った。群衆は驚愕し,呆然としていた。プレストンは兵士らをまとめると,帰営した。帰営を妨害する者はいなかった。

 これが「キング・ストリート殺傷事件(Slaughter in King Street)」のあらましだ。

 


(2)裁判

 サミュエルたちは,自分らの反本国政府運動のために,この宣伝機会を逃さなかった。犠牲者のために盛大な葬儀が挙行された。当該事件は反対派を黙らせるために計画された税関と軍との陰謀の結果だ,と主張するパンフレットの出版がそれに続いた。

 3月中に,大陪審はプレストンと兵士らを起訴した。ハンナの兄のクインジーが特別検察官に任命された。あのペインも訴追チームに加わった。

 弁護人の選任は難航した。そりゃ地元の住民を5人も殺したよそ者を弁護するんだもの,後の業務のことを考えると地元の弁護士は尻込みするよね。東洋の賢しらな学者ならば,「君子危うきに云々」とでも言うんだろうね。

 で,だれがそんな大変な仕事を引き受けたかって?

 僕だ。

 すべての人には,公正な裁判を受ける権利があるからだ。

 弁護団は,僕のほか,特別検察官の弟であるジョサイア・クインジーほか2名の合計4名で構成されることになった。

 プレストンと兵士らの裁判は,夏が過ぎるまで始まらなかった。(それまでの間に,僕は植民地議会の代議員に補欠選任されていた。サミュエルが陰で動いていたって?その話の真偽について論ずべき場所は,ここではないね。なお,5月には次男のチャールズが生れた。)

 9月の初めに罪状認否があった。その6週間後に,新しい裁判所の建物の2階にある法廷で,審理が始まった。大勢の傍聴人が詰めかけていた。

 僕はまず,プレストンの弁論と兵士らの弁論とを分離することに成功した。プレストンは直接人を殺傷したものとしては起訴されていなかったから,発砲命令があったとの立証を崩せばよいわけだ。

 プレストンの審理は5日間かかった。発砲命令を立証すべき検察側の証人は15人いたが,我々の反対尋問でぐらぐらになった。それに対する弁護側の証人は23人。事件の晩,混乱の中にあって,兵士らは圧倒的多数の暴徒に取り囲まれて挑発と威嚇とを受けていたことをしっかり証言してくれた。3時間の評議で,陪審員はプレストン大尉の無罪を評決した。(無論,陪審員を選ぶところから,僕らは本国びいきの人が残るようにしていたからね。)

 11月(僕は35歳になっていた。)に,兵士らの審理が始まった。

 検察側はヘマだった。検察側の最初の証人は,こともあろうに,事件の晩,実はキング・ストリートにいなかったと言い出した。他の検察側の証人も,群衆が「撃てみやがれ!撃ってみやがれ!(Fire! Fire!)」と不安な情況にある兵士らを挑発していたと証言してしまった。群衆がたびたび兵士らに物を投げつけていたという証言も取れた。そうだよ, そうだよ, 事実ってやつは, 強情なものだからね(Facts are stubborn things.)。僕は陪審員に対して,兵士らが侵害にさらされていたとすれば,そのようなことをしている「a motley rabble of saucy boys, negroes and mulattoes, Irish teagues and outlandish jack tars〔注・差別用語が含まれているようです。〕」に対して自衛のために発砲する権利があったのだし,侵害にさらされていなかったとしても挑発されたのであったならば,謀殺故殺ではなく,殺傷の罪にすぎないと弁論した。陪審員(実はまた僕らはうまくやって,陪審員中には地元である首都の市民は一人もいなかった。)は僕の弁論に同意してくれて,8人の兵士中,6人は無罪となった。残る2人は殺傷の件で有罪とされたけれども,初犯だったので「聖職者の特権(benefit of clergy)」を行使して(聖職者でなくとも, 詩篇第51篇のneck verseを知っていればいいのだ。),親指に烙印されるだけですんだ(この烙印は,当該特権を同人は「使用済み」との印だ。)。

 この年は,めでたく終わった。キング・ストリート殺傷事件の弁護のせいで仕事が減るかと思ったけれども,かえって僕の賢明な弁護士という評判が高くなった。しかも今や議会の代議員さまでもある。年間の取扱事件数は約450件に達し,僕は当植民地の最も売れっ子の弁護士の一人となった。ロー・クラークも常時2,3人雇っている。クライアントは当地のエリートぞろいだ。議会の議長を最近二人出したボードイン一族,大商人のジョン・ハンコック,財務監のグレイ,前総督のバーナード閣下等々。隣のニュー・ハンプシャー植民地のウェンワーズ総督閣下も僕のクライアントだ。お金も入るようになった。ブレイントリーの地所と家屋のほか,首都にも家があり,教会のいい席も買った。蔵書も大充実した・・・。

 


7 1773年3月

 ところで,1773年の今日は,1770年3月5日に起きたキング・ストリート殺傷事件の3周年記念式典の日だ。

この前,例のまたいとこのサミュエルが,僕に式典でスピーチしてくれと言ってきたけど,プレストンと兵士らの弁護人であった僕としては,断った。37歳にもなって,齢を取り過ぎたと言ってやった。大体サミュエルはいい齢のじいさんなのに過激でいけない。何が虐殺(「ボストン虐殺事件(Boston Massacre)」)だ。大げさで不正確だ。僕が無罪を取ったあの事件は飽くまでもキング・ストリート殺傷事件だ。同じアダムズ一族でも,同じハーヴァード大学の卒業生でも,首都ボストンのサミュエル・アダムズとブレイントリーのジョン・アダムズとは違うのだ。サミュエルは,馬にも乗れやしないのだ。

しかし,ああ,あの事件における兵士らの刑事弁護活動は,これまでの僕の人生における無私の行動の中で,最も勇ましく,かつ,太っ腹なものの一つだったのだ。中年期を迎え,大英帝国の植民地におけるジョージ3世の臣民として,今後僕の人生はどうなって行くのだろうか。あの裁判での勝利のとき以上の栄光は,再び僕に訪れるのだろうか。このくににおける長男のジョン・クインジーら子どもたちの未来はどうなるのだろうか。どういう栄光と偉大とがあるのだろうか。まあ,腹をさすり,茶でも飲みながら考えるとしよう・・・。

 


(参考文献)Ferling, John E., John Adams: a life (Oxford University Press, New York, N.Y., 2010)



弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

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1 ワシントンの二つの生年月日:"Calendar (New Style) Act 1750"の前と後

 アメリカ独立戦争における大陸軍(タイリクグン)の総司令官ジョージ・ワシントンの誕生日は,222日です。しかしながら,ワシントンの生前には,211日にもワシントンの誕生日のお祝いがされていました。

 この11日の日付のずれはなぜかといえば,ユリウス暦(211)とグレゴリオ暦(222)との相違です。グレゴリオ暦はローマ教皇が定めたために,非カトリック諸国では採用が遅れ,ワシントンが生まれた時点においては,イギリスはなおユリウス暦を使用していたものです。正教会のロシアで起きた1917年の革命が,「3月革命」・「11月革命」ともいわれながらも,一般には現地での呼称に従いロシア二月革命・十月革命といわれているのと同じ仕組みです。

 ところで,ワシントン家の聖書には,ジョージ・ワシントンの誕生日時について,"was born ye 11th Day of February 1731/2 about 10 in the Morning."と,恐らく若きジョージ・ワシントンによって書かれたものと考えられている頁が貼り付けられています(マウント・ヴァーノンのGeorge Washington Wiredウェッブ・サイト)。さて,"ye 11th Day of February"はユリウス暦ということで分かるのですが(yeは,theのこと),"1731/2"とは何のことでしょうか。「1731年又は1732年」ということでしょうが,ワシントンは,うかつにも,自分の生まれた年がどちらの年だったのか実は分からなかったのでしょうか。ホワイト・ハウスのウェッブ・サイトにおけるワシントンの伝記では,アメリカ合衆国初代大統領の生まれた年を1732年としていますが,このように断定する自信はどこから来るのでしょうか。

 実は,年の初めは,必ずしもthe first day of Januaryではなかったところです。日本語では,月に序数詞を付けて1月,2月,3月・・・と呼称するので問題が分かりにくいのですが,January, February, March...との月の名は,大文字から始まることからも分かるように,固有名詞であって,実はJanuaryには,「第1の月」という意味は本来ありません。

 で,何を申し上げたいかというと,1751年までは,イギリスにおいては,大天使ガブリエルによるマリアに対する受胎告知の日であるthe 25th day of Marchから一年が始まっていたという事実です(ちなみに,わが民法でも,胎児は,不法行為の損害賠償請求及び相続については出生したものとみなされています(721条,886条。また,7831項)。)。1750年の法律(Calendar (New Style) Act 1750)によって,イギリスでは,1751年のthe 31st day of Decemberの翌日であるthe first day of January1752年の初日となり,1752年のSeptember2日の翌日が同月14日となるとともに(春分の日がMarch9日又は10日になっていたのを,325年のニケーア公会議の時の同月21日ころに戻す。),うるう日の置き方が,グレゴリオ暦方式になりました(1800年,1900年はうるう年ではない。)。

 すなわち,ワシントンが生まれた日は,グレゴリオ暦では1732年のthe 22nd day of Februaryであると同時に,当時のイギリスの暦では1731年のthe 11th day of Februaryだったのでした。

 ちなみに,マリアに対する受胎告知があった月は,福音書では「6番目の月」(ルカ1:26)とされていて,年の初めの月とは表示されていません。紀元前6世紀のバビロン捕囚後は,ユダヤ人の世俗暦の新年はティシュリの月(September-October)から始まっていたそうです。1年が12箇月だとすると,イエスが生まれたのは3番目の月(キスレヴの月:November-December)でしょうか。イエスが割礼を受け,命名されたのは,その誕生の1週間後とされていますが(ルカ2:21),なるほど,年の初めのthe first day of January1週間前がクリスマスになっていますね。(なお,"In the sixth month"は,福音書の前後の文脈からは,「(エリザベトが洗礼者ヨハネを身ごもった)6箇月目に」と解されているところです。その旨紛れのないように"In the sixth month of Elizabeth's pregnancy"と補って訳してある英文福音書もあります。とはいえ,洗礼者ヨハネの誕生日はJuneの24日に祝われますので,正に世俗暦の新年が始まるSeptember下旬のティシュリ月初めに懐妊があったということでしょうか。)


2 古代ローマの年初月: 軍国か平和か

 年の始まりは,春であったり,秋であったり,冬であったりいろいろです。要は立法者の決めの問題ということでしょう。

 現在のヨーロッパ語の月の名前は,古代ローマの月の名前に由来していますが,古代ローマでは,当初はMarchが年の1番目の月だったのが,後にJanuary1番目の月に変更されています。プルタルコスによれば,紀元前8世紀の初代王のロームルスはMarch1番目の月にしていましたが,2代目王のヌマがJanuary1番目の月に変更したそうです(その結果,7番目の月の意味のSeptember9番目の月になり,10番目の月の意味のDecember12番目の月へと,ずれが生じています。)。



 ヌマは又月の順序を変更した。第1の月であつたマルスの月を第3に置きヤーヌスの月を第1に置いたが,これはロームルスの時には第11で今第2にしてあるフェブルア(贖罪の浄め)の月は第12で最後になつてゐた。しかしこの二つの月ヤーヌアーリウスとフェブルアーリウスとはヌマが附加へたもので,最初は1年に10箇月しかなかつたと云つてゐる人も多い。

 

 ヌマが附け加へたもしくは置き換へた月の中・・・1月ヤーヌアーリウスの名はヤーヌスから来てゐる。私の解釈ではヌマはマルティウスがマルスの名を持つてゐるので首位から移し,あらゆる場合に武力よりも政治力を重んじようと欲したのだと思ふ。ヤーヌスは非常に古い時代の,精であつたか王であつたか,政治的な社交的な人で,人間の生活を動物的な野蛮なところから変化させたと云はれてゐる。このために人々はこれを顔の二つあるものとして表現し,人間の生活に一つの形から別の形を与へたものとしてゐる。

(以上,河野与一訳『プルターク英雄伝』(岩波文庫)第1173頁,174-175頁)



 双子の兄弟のレムスを殺したり,サビーニー人の娘を略奪したりした,戦争好きのロームルス王は軍神マルスのMarchを年の初めとしたのに対し,平和主義の哲人王ヌマは,それを改め,平和的かつ文化的なヤーヌス神のJanuaryを第1の月にしたわけです。年の初めの月は,みんなが睦む月ということになるわけでしょう。

 前記引用の後半部分は,Drydenの英訳では,河野与一訳の「あらゆる場合に武力よりも政治力を重んじようと欲したのだと思ふ」が「あらゆる機会をとらえて平和の術及び研究(arts and studies of peace)が戦争に係るそれら(those of war)より優先されるべきことを示そうとしたのだと思う」に,「政治的な社交的な人」が「市民的及び社会的な協和を重んじる人(a great lover of civil and social unity)」になっていますが,こちらの方がヌマの平和主義が分かりやすいでしょう。また,「顔の二つあるものとして表現し,人間の生活に一つの形から別の形を与へたものとしてゐる」も,Drydenでは「,それらのうちの一つから彼が人類を他の一つに移行せしめた二つの状態を示すために,顔の二つあるものとして表現している」になっています。

 古代ローマの暦法に紀元前45年から太陽暦を採用したのはカエサルです(1365日,4年ごとに1日のうるう日の,当人の名をとって呼ばれるユリウス暦)。その際,暦と季節とのずれを修正し「新しい年の11Kalendis Januariisから将来にかけて,季節の正しい推移と,いっそうぴったり符合するように」,前46年の「11月と12月の間inter Novembrem ac Decembremに,2ヶ月をはさ」んだため,もとからあったうるう月と合わせて,同年は15箇月になったそうです(国原吉之助訳・スエトニウス『ローマ皇帝伝』(岩波文庫)上巻48頁)。

 カエサルの時に季節との関係で2箇月ずらされてはいるのですが,プルタルコスによるヌマ暦の説明と,国原吉之助教授の上記スエトニウスの翻訳からすると,カエサルが年の初めの月を2箇月ずらしてMarchからJanuaryにしたというわけではないことになります。

 また,紀元前153年から執政官の就任日がthe first day of Januaryになったのでこの時からthe first day of Januaryが年の初めになったのだともいわれていますが,英語版のWikipedia"Roman Calendar"の項は,紀元前153年より前から年の初めはthe first day of Januaryだったらしい,としています。ただし,古代ローマでは,執政官(定員2名)の名前で呼ばれるその就任期(任期1年間)をもって年代を特定して表すことになっていたので(例えば「カエサルとビブルスが執政官のとき」),確かに,執政官の任期がいつから始まるかは重要であったところです。


3 現在の我が国の暦法法制: 明治五年太政官第337号の布告の効力

 我が国においては,年の初めは,かつての太陰太陽暦においては立春の日の近くの新月の日(ついたち)ということになっていました。太陽暦を採用し,年初日をグレゴリオ暦のthe first day of Januaryにしたのは,明治五年(1872年)十一月九日の太政官第337号の布告によってです。これにより,明治五年十二月二日の翌日が,明治6年すなわち1873年の11日となりました。

 この太政官の布告は,総務省の法令データ提供システムによって見ることができますから,現在も効力を持っている法令として扱われているようです(また,195037日の参議院文部委員会では,杉山専一郎法制局参事が,明治五年太政官第337号の布告は「廃止されていないという考え方でおります。」と答弁しています。)。

 暦法は,国民生活に大きな影響を与えますから,法の形式としては,政令以下の命令ではなくて,国会によって定められるべき法律として扱われるべきものでしょう。明治五年太政官第337号の布告は時刻に関する時刻ノ儀是迄昼夜長短ニ随ヒ十二時ニ相分チ候処今後改テ時辰儀時刻昼夜平分二十四時ニ定メ子刻ヨリ午刻迄ニ十二時ニ分チ午前幾時ト称シ午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分チ午後幾時ト称候事」という規定を含んでいましたが,同じく時刻に関する夏時刻法(昭和23年法律第29号)は,法律でした(同法は昭和27年法律第84号により廃止)。

 そうであれば,すなわち,明治五年太政官第337号の布告は,大日本帝国憲法761項の「法律規則命令又ハ何等ノ名称ヲ用ヰタルニ拘ラス此ノ憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ総テ遵由ノ効力ヲ有ス」との規定に基づき大日本帝国憲法下において法律として遵由の力を有し,引き続き194753日からは,日本国憲法98条の「この憲法は,国の最高法規であつて,その条規に反する法律,命令,詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は,その効力を有しない。」の反対解釈によって,日本国憲法の条規に反しない法律としてその効力を維持しているものと考えられることになります(例えば,明治17年太政官布告第32号の爆発物取締罰則のごとし。)。

 しかし,そうは簡単に問屋が卸しません。

 明治改暦に係る明治五年太政官第337号の布告は,大日本帝国憲法下では,帝国議会の協賛を経るべき法律としては扱われていなかったようであるからです。すなわち,当該布告は「4年毎ニ1日ノ閏ヲ置候事」とのみ規定していたので,グレゴリオ暦の置閏法では平年であるはずの1900年(明治33年)もうるう年になってしまうことが発覚して,同年を平年とすべく明治31年勅令第90号が追加で定められたのですが,当該追加改正の法形式は,法律ではなく勅令によるものでした(「神武天皇即位紀元年数ノ4ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス但シ紀元年数ヨリ660ヲ減シテ100ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ4ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス」との内容。内閣総理大臣伊藤博文及び文部大臣外山正一が副署)。伊藤博文自身の『憲法義解』の第76条解説が,大日本帝国憲法施行前の法令について「而して法律として遵由の力あらしむる者にして若将来に於て改正を要するときは,其の前日に勅令布達を以て公布したるに拘らず,総て皆法律を以て挙行するを要すること知るべきなり。」と説いていたところです。其の前日に布告を以て公布したるに拘らず改正が勅令によって挙行されるものは,法律としてではなく,勅令として遵由の力あらしむる者でしょう。

 明治五年太政官第337号の布告が法律ではなく勅令だということになると,昭和22年法律第72号(日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律)1条との関係で問題が生じます。同条は,「日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定で,法律を以て規定すべき事項を規定するものは,昭和221231日まで,法律と同一の効力を有するものとする。」と規定しているからです。すなわち,明治五年太政官第337号の布告は明治31年勅令第90号と共に大日本帝国憲法下では勅令という命令として効力を有していたところ,その規定事項が日本国憲法下では法律をもって定めるものであるのならば,1948年(昭和23年)11日以降は失効したものと解され得るところです。

 しかしながら,明治五年太政官第337号の布告及び明治31年勅令第90号はいずれも総務省の法令データ提供システムにあり,なおも効力を有しているものとされています。そうだとすると,当該布告及び勅令は,日本国憲法下でも「法律を以て規定すべき事項を規定するもの」ではなく,したがって昭和22年法律第721条に規定する命令ではないものとして,昭和22年政令第14号(日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定の効力等に関する政令)1項の「日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定は,昭和22年法律第72号第1条に規定するものを除くの外,政令と同一の効力を有するものとする。」との規定に基づき,政令として扱われているということになりそうです。

 であれば,内閣限りで,政令でもって,次のような改革を行うことも可能ということになりそうです。


 「会計年度と暦年がずれているのは不便だから,暦年においても,41日を年の初めとしよう。」

 「平和的かつ文化的なヤヌスの月を年の初めとするのはいかにも平和国家的・文化国家的で軟弱だから,武闘派のロームルス王に倣って,軍神マルスの月である3月を年の初めにしよう。」

 「ローマ教皇が定めたグレゴリオ暦を使用するのは,キリスト教国風でもあって面白くないから,古き良き日本を取り戻すべく,天保暦を復活させよう。」

 等々


 しかし,内閣限りの政令でこのようなことができるというのは,どうも変ですね。明治五年太政官第337号の布告及び明治31年勅令第90号は,やはり「法律を以て規定すべき事項を規定するもの」と解すべきように思われます。

 そうであれば,昭和22年法律第721条との関係で,194811日以降はこれらの布告及び勅令が廃止されているものとされるときにはどのように理解すべきでしょうか。これらの布告及び勅令は形式上は廃止されているものの,その規定内容は,法の適用に関する通則法3条の慣習法の内容をなしているものと解することになるのでしょうか。悩ましいところです。


4 暦法と翻訳

 さて,日本と西洋諸国とは,明治6年すなわち1873年より前には異なった暦法をそれぞれ用いていたため,明治五年以前の出来事をヨーロッパ語に翻訳するときは注意しなければなりません。

 例えば,第20代の内閣総理大臣である高橋是清の生年月日などは難しい。

 高橋是清は,嘉永七年閏七月二十七日生まれですが,嘉永七年は大体グレゴリオ暦の1854年に重なることから「嘉永七年=1854年」とし,かつ,明治五年以前はうるう月というものがあったことを現在の感覚で失念して(「閏」の文字をわけが分からないまま無視して)翻訳して,27th July 1854と訳すると,これはいけません。グレゴリオ暦の27th July 1854は,嘉永七年の七月(閏七月の前の月)三日になってしまいます。グレゴリオ暦への換算が面倒なときは,the 27th day of the intercalary month following the Seventh month of the 7th year of Kaei (ca. 1854)とでもすべきでしょうか。

 孝明天皇崩御は慶応二年十二月二十五日ですが,慶応二年は1866年に大部分重なることから早合点して,25th December 1866としてもいけません。孝明天皇崩御の日は,グレゴリオ暦では30th January 1867です。

   またお盆の「旧暦七月」を説明するのに,"July of the old lunisolar calendar"とするのもどうでしょうか。古代のローマ暦の由来を知っている人はかえって,「カエサルによる暦法改革以前のヌマ暦のJulyかな。カエサルの時には2箇月ずれていたそうだから,今のMayくらいの季節か。しかし,Julyの月名は太陽暦になってからのもののはずだが。変だな。」などと余計なことを考えてしまうかもしれません。"The Seventh month of the old lunisolar calendar"くらいでどうでしょうか。

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ワシントン生誕の地(George Washington Birthplace, Westmoreland Co., VA


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