Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

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1 戦後70

 今年(2015年)は,先の大戦が終わってから70周年ということで,「節目」の年ということになっています。

 

  なお,先の大戦の終結の日には諸説があり得ます。

終戦の詔書は1945年8月14日付けで作成され,同日付けの官報号外で公布されています。中立国経由の連合国に対するポツダム宣言受諾の通知もこの日にされています。

他方,1945年9月2日には,重光葵及び梅津美治郎がポツダム宣言の条項を「日本国天皇,日本国政府及び日本帝国大本営ノ命ニ依リ且ツ之ニ代リ受諾」し,並びに「日本帝国大本営並ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ聯合国ニ対スル無条件降伏ヲ布告」し,及び「日本帝国大本営ガ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ指揮官ニ対シ自身及其ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ガ無条件ニ降伏スベキ旨ノ命令ヲ直ニ発スルコトヲ命」ずる「降伏文書」が東京湾上において署名され,かつ,聯合国最高司令官及び各聯合国代表者によって受諾されました。

1945年8月15日は,正午に社団法人日本放送協会によって前記終戦の詔書(・・・「朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇4国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ・・・」)の玉音放送がされた日です。

 

 2015年2月25日に内閣総理大臣官邸4階の大会議室で開催された20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会(21世紀構想懇談会。「戦後70年談話」にかかわるものだそうです。)の第1回会合において,同懇談会座長の西室泰三日本郵政株式会社取締役兼代表執行役社長は「戦後70周年という節目の年に,大変重要な任務を果たす懇談会の座長にご指名いただき,非常に光栄であると同時に,身が引き締まる思いである」と挨拶したそうですが(内閣総理大臣官邸のウェッブサイトにある議事要旨),そこでは「70周年」が他の「○十周年」と異なる特段の「節目」である理由までは明らかにされていません。そこで,当該会合の冒頭でされた安倍晋三内閣総理大臣の挨拶(内閣総理大臣官邸ウェッブサイト)を見てみるのですが,「今年は,戦後70年目に当たる年であります。戦後産まれた赤ちゃんが,70歳を迎えることになります。」ということを超えた「70年目」の特別な意味についての言及はありません。初めはどんなに可愛い赤ちゃんでも,死なずに生きていれば,だれでもいつかは70歳の老爺老婆になるのは当たり前のことであって,1945年生れの赤ん坊についても変わりはありません。「未来の土台は過去と断絶したものではあり得ません。今申し上げたような先の大戦への反省,戦後70年の平和国家としての歩み,そしてその上に,これからの80年,90年,100年があります。」ということで,「70年」は,安倍内閣総理大臣によって80年,90年及び100年と単純に並べられていますから,むしろ,数ある十年区切りの中の単なる一つとしての「70年目」ということであるようです。さらにいえば, 20世紀を振り返り21世紀を構想する時期としてならば, 21世紀もなお浅かった戦後60年目の2005年の方がよかったようにも思われます。

 

2 「四十年」

 

(1)ドイツの戦後40

 政治家としては,自分の任期中にたまたま何かの「○十周年」があれば,これは幸いとその機会を活用して名を上げたいというのが普通かつ健康な反応でしょうが,それをそのまま言ってしまうと芸がないところです。この点,外国の政治家などはうまい。リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(Richard von Weizsäcker)は1984年にドイツ連邦共和国の大統領に就任しましたが,たまたまその翌年の1985年の5月8日は,ヨーロッパにおける第二次世界大戦の終戦40周年記念日に当たりました。当日,ボンの連邦議会の演壇においてヴァイツゼッカーは,その記念演説を歴史に刻みつけるべく,40周年が25周年又は30周年とは異なった特別の意味のある節目であるゆえんを,ユダヤ教及びキリスト教の聖典を引きつつ解き明かします。

 

  多くの若い人たちが,この数箇月,自ら,そして私たちに問いかけました。なぜ,終戦後40年たって,過去についてのこんなにも活発な議論が起こったのであろうかと。なぜ,25年又は30年のときよりも,より活発なのであろうか?その内的必然性は,どこにあるのであろうか?

  このような質問に答えることは簡単ではありません。しかしながら,我々はその理由を,外からの影響に主として求めてはいけません。確かに,そのような影響は疑いもなく存在しましたが。

  四十年は,人の一生及び民族の運命に係る期間として,大きな役割を演ずるものであります。

  ここにおいても,私に,改めて旧約聖書を参照することをお許しいただきたい。その信仰にかかわりなく,すべての人のための深い洞察を蔵する旧約聖書を。そこでは,四十年は,何度も回帰し,かつ,本質にかかわる役割を演じております。

  四十年,歴史の新たな段階が約束の地への侵入と共に始まる前に,イスラエルの民は荒れ野に留まっていなければなりませんでした。

  四十年が,当初責任を有していた父の世代が完全に更迭されるために必要でした。

  また,他の場所(士師記)においては,援助及び救済の経験の記億がいかにしばしば四十年しか持続しなかったかが明らかにされています。記憶が剥落したとき,平穏の時は終わりました。

  すなわち,四十年は,常に大きな刻み目を意味するのです。当該期間は,人間の意識において作用します。それは,あるいは,新しくかつ善い未来への自信と共に来る,暗い時代の終わりとしてであります。あるいはまた,忘却の危険又は次代の人々への警告としてであります。両側面のいずれも,よくよくの考慮に値するものであります。

  我々のもとでは,政治責任の分野に,新たな世代が成長してきました。若者は,かつて起こったことには責任を負いません。しかしながら,彼らは,そこから歴史において生ずることに対して責任を負うのです。

 

当該演説の岩波書店による邦訳名である「荒れ野の40年」は,「四十年,歴史の新たな段階が約束の地への侵入と共に始まる前に,イスラエルの民は荒れ野に留まっていなければなりませんでした。」(Vierzig Jahre sollte Israel in der Wüste bleiben, bevor der neue Abschnitt in der Geschichte mit dem Einzug ins verheißene Land begann.)の部分から採ったものなのでしょうね。ドイツ連邦共和国大統領がドイツ終戦40周年記念日に「荒れ野の40年」なる演説をしたといわれれば,第二次世界大戦後のドイツ連邦共和国国民は40年間荒れ野にあるがごとき試練に気高く耐え,「対立を超え,寛容を求め,歴史に学ぶ」立派な道徳的国民になったのか,と思ってしまうのですが,看板に若干分かりにくいところがありました。実は「荒れ野の40年」は,直接には20世紀のドイツ人の話ではなくて,紀元前13世紀,モーセに率いられてエジプトを脱出したもののカナンの地に侵入するまで荒れ野を四十年さまよったイスラエルの民の内部における指導世代の交代についてのことでした。

 

(2)曠野の四十年

それではイスラエルの民はなぜ「荒れ野の40年」を経験しなければならなかったかといえば,その直接の原因は,かえって侵略のいくさ(「・・・汝の神ヱホバの汝に与へて産業となさしめたまふこの国々〔約束の地カナン〕の邑々(まちまち)においては呼吸(いき)する者を一人も生し存(おく)べからず 即ちヘテ人(びと)アモリ人カナン人ペリジ人ヒビ人ヱブズ人などは汝かならずこれを滅ぼし尽して汝の神ヱホバの汝に命じたまへる如くすべし」(申命記第2016-17))を避けたからのようでもありました。

エジプト脱出後,モーセは約束の地カナンに先遣隊を派遣して状況を偵察させます。

ところが,偵察の報告にいわく。

 

・・・その地に住む民は猛(たけ)くその邑々(まちまち)は堅固にして甚だ大(おほい)なり・・・(民数紀略1328)・・・我等はかの民の所に攻上ることを得ず彼らは我らよりも強ければなりと 彼等すなはちその窺ひたりし地の事をイスラエルの子孫(ひとびと)の中に悪(あし)く言ふらして云(いは)く我等が行巡りて窺ひたる地は其中に住む者を呑みほろぼす地なり且またその中に我等が見し民はみな身幹(たけ)たかき人なりし 我等またアナクの子ネピリムを彼処(かしこ)に見たり是ネピリムより出(いで)たる者なり我儕(われら)は自ら見るに蝗(いなご)のごとくまた彼らにも然(しか)見なされたり(同章31-33

 

カナンの住人は大きく強い。簡単には同地に侵入できないと知ったイスラエルの民は一晩中泣き叫び,モーセとアロンとを非難します。もうこんなのいやだ帰りたい,と。

 

・・・嗚呼我等はエジプトの国に死たらば善(よか)りしものを又はこの曠野(あらの)に死(しな)ば善らんものを 何とてヱホバ我等をこの地に導きいりて剣(つるぎ)に斃れしめんとし我らの妻子(つまこ)をして掠(かす)められしめんとするやエジプトに帰ること反(かへつ)て好からずやと 互に相語り我等一人の長(かしら)を立てエジプトに帰らんと云(いへ)り 是をもてモーセとアロンはイスラエルの子孫(ひとびと)の全会衆の前において俯伏(ひれふし)たり(民数紀略第142-5

 

俯伏す(ひれふす)というのですから,モーセとアロンとは土下座です。民衆を指導すべき政治家が人々の前で土下座するのは我が国の選挙運動ばかりではありません。

しかし,偉そうな態度で文句ばかり言って,言うことを聞かないイスラエルの民に対して神は怒ります。もうお前らのうち大人は約束の地に入れてやらん,四十年かけて総入れ替えだと。

 

・・・ヱホバ曰ふ我は活く汝等が我耳に言しごとく我汝等になすべし 汝らの屍はこの曠野に横(よこた)はらん即ち汝ら核数(かぞへ)られたる二十歳以上の者の中我に対ひて呟ける者は皆ことごとく此に斃るべし ヱフンネの子カルブとヌンの子ヨシュアを除くの外汝等は我が汝らを住(すま)しめんと手をあげて誓ひたりし地に至ることを得ず 汝等が掠められんと言たりし汝等の子女等(こどもら)を我導きて入ん彼等は汝らが顧みざるところの地を知るに至るべし 汝らの屍はかならずこの曠野に横はらん 汝らの子女等は汝らが屍となりて曠野に朽るまで四十年の間曠野に流蕩(さまよひ)て汝らの悸逆(はいぎやく)の罪にあたらん 汝らはかの地を窺ふに日数四十日を経たれば其一日を一年として汝等四十年の間その罪を任(お)ひ我(わ)が汝らを離(はなれ)たるを知べし 我ヱホバこれを言(いへ)り必ずこれをかの集(あつま)りて我に敵する悪(あし)き会衆に尽く行なふべし彼らはこの曠野に朽ち此に死(しに)うせん(民数紀略第1428-35

 

神のイスラエルの民総入れ替えは徹底していました。四十年のうちに曠野に朽ちて死に,約束の地カナンに入ることができなかった者には,モーセも含まれます。

メリバの地で,水が無いぞと荒れ狂う民を鎮めるべく,モーセは岩から水を出すことになりました。その際の神の指示は,杖を持って岩に向かって水を出すよう命ぜよ,でした。

 

モーセすなはちその命ぜられしごとくヱホバの前より杖を取り アロンとともに会衆を磐(いは)の前に集めて之に言けるは汝ら背反者等(そむくものども)よ聴け我等水をしてこの磐より汝らのために出しめん歟と モーセその手を挙げ杖をもて磐を二度(ふたたび)撃(うち)けるに水多く湧出(わきいで)たれば会衆とその獣畜(けもの)ともに飲り 時にヱホバ,モーセとアロンに言たまひけるは汝等は我を信ぜずしてイスラエルの子孫(ひとびと)の目の前に我の聖(きよき)を顕さざりしによりてこの会衆をわが之に与へし地に導きいることを得じと(民数紀略第209-12

 

 何で神が怒ってモーセとアロンとはカナンに入れさせないぞと決めたのか,一読しただけではちょっとよく分かりません。

 しかし,神をSuica式カード開発に携わった誇り高い電波技術者であるものとして考えると納得がいきます。せっかく非接触で水が出る(改札機を通ることができる)ようにしたのに何でわざわざ杖で磐を撃つ(カードで改札機をタッチする)必要があるのですか,わたくしの開発した技術を信用しないのですか,いつになったら分かってくれるんですか,というわけです。Suicaの場合は,実際の運用上,やはり電波の強さの関係でカードを改札機にぐっと近づけないとうまく作動しないので,それならいっそのことタッチするものであると利用方法を説明することにしてしまえ,ということになったそうですが,毎日Suicaで改札機を通る際メリバの水の話を思い出す筆者は,あえてSuicaを改札機に触れさせないようにして通ってみたりしています。

 

(3)日本の戦後40

 ところで,『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)によれば,1985年8月14日に,「藤波官房長官,閣僚の靖国神社参拝につき,おはらい・玉ぐし捧呈・拍手は行わず一礼,供花の実費を公費とする公式参拝の新見解を発表」し,同月15日には,「中曽根首相,初めて内閣総理大臣の資格で参拝(野党・市民団体,一斉に抗議)」ということになっています。日本でも,戦後40年たって「新しくかつ善い未来への自信と共に来る,暗い時代の終わり」(Ende einer dunklen Zeit mit der Zuversicht auf eine neue und gute Zukunft)が感じられたものでしょうか。

 

3 「七十年」

 

(1)ユダ王国の滅亡とバビロン捕囚

 さて,戦後70年。

しかし,ヴァイツゼッカーの顰(ひそみ)に倣って旧約聖書に敗戦後「七十年」の用例を探すと,どうも紀元前6世紀初めの新バビロニア(カルデア)帝国に対するユダ王国の敗北(紀元前597年)及び滅亡(紀元前587年)並びにそれに伴うユダヤ民族指導層のバビロン捕囚(第1次連行(紀元前597年)及び第2次連行(紀元前587年))の話になってしまうようです。

 

 ・・・万軍のヱホバかく云たまふ汝ら我言(ことば)を聴かざれば 視よ我(われ)北の諸(すべて)の族(やから)と我僕(わがしもべ)なるバビロンの王ネブカデネザルを招きよせ此地(このくに〔ユダ王国〕)とその民と其四囲(そのまはり)の諸国(くにぐに)を攻滅(せめほろぼ)させしめて之を詫異物(おどろくべきもの)となし人の嗤笑(わらひ)となし永遠の荒地となさんとヱホバいひたまふ またわれ欣喜(よろこび)の声歓楽(たのしみ)の声新夫(はなむこ)の声新婦(はなよめ)の声磐磨(ひきうす)の音および燈(ともしび)の光を彼らの中にたえしめん この地はみな空曠(あれち)となり詫異物(おどろくべきもの)とならん又その諸国(くにぐに)は七十年の間バビロンの王につかふべし ヱホバいひたまふ七十年のをはりし後我バビロンの王と其民とカルデヤの地をその罪のために罰し永遠の空曠(あれち)となさん(ヱレミヤ記第258-12。紀元前605年のエレミヤの預言)

 

 ヱホバかくいひたまふバビロンに於て七十年満ちなばわれ汝らを眷(かへり)み我嘉言(わがよきことば)を汝らになして汝らをこの処に帰らしめん(ヱレミヤ記第第2910

 

 即ちヱホバ,カルデヤ人(びと)の王を之〔ヱルサレム〕に攻きたらせたまひければ彼その聖所の室(いへ)にて剣(つるぎ)をもて少者(わかきもの)を殺し童男(わらべ)をも童女(わらはめ)をも老人(おいびと)をも白髪(しらが)の者をも憐まざりき皆ひとしく彼の手に付(わた)したまへり 神の室(いへ)の諸(もろもろ)の大小の器皿(うつはもの)ヱホバの室(いへ)の貨財王とその牧伯等(つかさたち)の貨財など凡て之をバビロンに携へゆき 神の室(いへ)を焚(や)きヱルサレムの石垣を崩しその中の宮殿(みやみや)を尽く火にて焚(や)きその中(うち)の貴き器を尽く壊(そこ)なへり また剣(つるぎ)をのがれし者等(ものども)はバビロンに虜(とらは)れゆきて彼処(かしこ)にて彼とその子等(こら)の臣僕(しもべ)となりペルシヤの国の興るまで斯(かく)てありき 是ヱレミヤの口によりて伝はりしヱホバの言(ことば)の応ぜんがためなりき斯(かく)この地遂にその安息を享(うけ)たり即ち是はその荒をる間安息して終に七十年満ちぬ ペルシヤ王クロスの元年に当りヱホバ曩(さき)にヱレミヤの口によりて伝へたまひしその聖言(みことば)を成(なさ)んとてペルシヤ王クロスの心を感動したまひければ王すなはち宣命(みことのり)をつたへ詔書を出(いだ)して徧(あまね)く国中(こくちう)に告示(つげしめ)して云(いは)く ペルシヤ王クロスかく言ふ天の神ヱホバ地上の諸国を我に賜へりその家をユダのエルサレムに建(たつ)ることを我に命ず凡そ汝らの中(うち)もしその民たる者あらばその神ヱホバの助を得て上りゆけ(歴代志略下第3617-23

 

ネブカドネザル2世の新バビロニア軍によるエルサレムの破壊は紀元前587年,新バビロニアの滅亡は紀元前539年,ペルシヤ帝国のキュロス2世のエルサレム帰還の詔書は紀元前538年のことです(ただし,諸本によって年代が微妙に異なります。)。エレミヤは「七十年」続くと言ったものの,ユダ王国滅亡後,新バビロニア帝国は五十年ほどしか続かなかったことになります。

なお,エレミヤについては,後の東京大学教養学部長・総長である矢内原忠雄による伝記(『余の尊敬する人物』)が,先の大戦における対米英蘭戦前の1940年に岩波新書で出ていました。

 

(2)バビロン捕囚期の意義:Erinnerung

新バビロニアによってユダ王国は滅ぼされ,ダビデの子孫はもはや王ではなく,エルサレムの神殿も破壊され,民族の指導層はバビロンに連行されてしまいました。このバビロン捕囚期,ユダヤ人は全てを失ったかのように見えました。

 

・・・神とのつながりを保証する具体的なものは,すべて失われてしまったかのような状況だった。けれども全くすべてが失われてしまったのでもなかった,残っていたのは「思い出」である。(加藤隆『旧約聖書の誕生』(筑摩書房・2008年)205頁)

 

・・・捕囚の状態では,過去の出来事を想起することで,現在の神と民との関係が確認されている。・・・そして過去を想起して現在の神と民との関係を確認するというメンタリティーは,今日も存続している。(同206-207頁)

 

・・・出エジプトの出来事は捕囚時代のユダヤ人にとって,たいへん重要な意味をもつことになった。エジプトで奴隷状態にあったヘブライ人たちを,出エジプトの際に神が導いて解放した。捕囚時代のユダヤ人たちは,現在,バビロニア帝国の支配下で奴隷のような状態に置かれている。過去において神は自分たちの祖先を奴隷状態から解放したのだから,今,奴隷状態にある我々も神は必ず解放するに違いないと考えたのである。(同207頁)

 

 ここで,「思い出」ないしは「想起」が出て来ます。

 ヴァイツゼッカーの「荒れ野の40年」演説にも次のくだりがあったところです。

 

 ・・・思い出(Erinnerung)は,ユダヤ人の信仰を構成する(gehört)ものだからです。

  「忘却しようとする意思は,捕囚(Exil)を長引かせる。

 そして,救済の秘密は,思い出(Erinnerung)と言われる。」

  このよく引用されるユダヤ人の知恵の言葉が言わんとしていることは,確かに,神に対する信仰は歴史における神の働きに対する信仰である,ということであります。

 

(3)再び戦後70

 

ア Japanische Erinnerung?

 さて,日本は,戦後70年間,過去の何を思い出し,何を想起し続けたものか。

 どちらかというと,1945年の日本の敗戦は,紀元前587年のユダ王国の滅亡よりは紀元前597年の同王国の敗戦に似ていて,ただし,戦勝帝国に無謀な叛乱を起こして亡国にまで至るものではなかったもの(しかも,占領期間が七十年どころか7年(1952年4月28日の「主権回復」)で終わったもの),ということのように見えなくもないところです。亡国もなく離散もなければ,思い出,想起又はErinnerungに係る特段の必要は感じられなかったということでしょうか。基本的に我が国民は,人として自然なことですが,現在志向であるように思われます。

 

イ Das Joch des Imperiums

 紀元前597年のユダ王国の敗戦後の紀元前594年,預言者エレミヤは,同王国の新バビロニア帝国に対する服従の必要を説き,かつ,可視化させるべく,索(なわ)と軛(くびき)とを作って自分の項(うなじ)に置きます(エレミヤ記第272)。その姿で首都エルサレムをうろうろするのですから,嫌味で目障りですね。何だこんなもんみっともないと,卑屈な軛をエレミヤの項(うなじ)から取り上げて壊した上で,ネブカドネザルの覇権など2年のうちにこんなふうにぶっ壊されるのだ,と会衆の前で見得を切る預言者ハナニア(エレミヤ記第2810-11)の方が普通の「愛国者」らしいところです。エレミヤはいつも売国奴っぽい。しかし,こういう「愛国者」の熱気に当てられてしまって敗戦ユダ王国は新バビロニア帝国に叛旗を翻し,紀元前587年の悲惨な滅亡・亡国を招いたのですから,そういう勇ましい有力者のいなかった戦後日本は結構なことでした。

 

ウ Weltmachtwechsel

 とはいえ,「七十年」が経過して,さしもの戦勝帝国の覇権も揺らぎ,次の新秩序が見えて来たときにどう対処するのかは難しい問題です。仮にユダ王国が新バビロニア帝国下の優等生的属国として存続していた場合,キュロス大王率いるペルシヤ帝国勃興の新事態にはどのように対応したものでしょうか。「エレミヤ先生は「70年」と言っておられたから,まだ70年たっていない以上飽くまで新バビロニア帝国の軛を担い,共にペルシヤ人に抵抗すべきだ。必要ならばバビロニア様のために国外派兵もあり得べし。」と妙に杓子定規過ぎるのも,勝ち馬に乗り損ねてしまうようでいけなかったでしょう。

 しかし,機会主義的なのも,余り格調が高くないですね。

 「捕囚の七十年」でなければ,「古希の七十年」ですか。確かに,戦後70周年の今年2015年,我が国民の高齢化は,我が国にとって避けて通れない大問題です。

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 東京大学教養学部の矢内原公園(目黒区駒場)

1 「ゴールデン・ウィーク」と「国民の祝日」

 世は「ゴールデン・ウィーク」。これも国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)のおかげです。

 ということで,今回は国民の祝日に関する法律について書いてみようと思ったのですが,手元の「実務家向け」と銘打たれている六法を開いても,同法が掲載されていないのには閉口しました。かつては小さな六法にも掲載されていた記憶があるのですが,どうしたものでしょう。最近の六法編集委員・編集者には,「国民」の祝日を軽視する「非国民」が多いのでしょうか。

 ともあれ,いざというときのトホホのお上頼みで総務省行政管理局提供の法令データ提供システムで国民の祝日に関する法律を見ると,その第1条では「自由と平和を求めてやまない日本国民は,美しい風習を育てつつ,よりよき社会,より豊かな生活を築きあげるために,ここに国民こぞつて祝い,感謝し,又は記念する日を定め,これを「国民の祝日」と名づける。」とうたわれおり,第2条柱書きでは「「国民の祝日」を次のように定める。」と規定され,同条中「ゴールデン・ウィーク」関係部分は次のとおりとなっています。



 昭和の日  4月29日 激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代を顧み,国の将来に思いをいたす。

 憲法記念日 5月3日  日本国憲法の施行を記念し,国の成長を期する。

 みどりの日 5月4日  自然に親しむとともにその恩恵に感謝し,豊かな心をはぐくむ。

 こどもの日 5月5日  こどもの人格を重んじ,こどもの幸福をはかるとともに,母に感謝する。



 なかなか味わい深い文章が並んでいますね。

 第1条冒頭の「自由と平和を求めてやまない日本国民」というのは,1948年当時の我が国民の実感だったものでしょう。しかしながら当該文言については,



・・・紳士諸君は唱えるであろう,平和,平和と。しかし,平和は存在しない。戦争は現実に始まっているのである。・・・鉄鎖と隷従とをもってあがなうべきほど,生命は貴く,平和は甘美なものであるのか。やめていただきたい,全能の神よ。・・・我に自由を与えよ,しからずんば死を与えよ。



と,平和と自由との野蛮な二者択一間において獅子吼したパトリック・ヘンリーを建国の父の一人に持つ米国人ら当時の占領当局の人々からしてみると,自由も平和もと欲張ってこともなげに両立せしめ得るものとする我が国の驚嘆すべき文化水準の高さを示すものと思われたことでしょう。

 昭和の日の項にいう「激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代」という昭和時代の性格づけは,現在の平成の時代との対比においてされたものでしょうか(平成17年法律第43号)。しかしながら,まさか,我が国会議員の選良諸氏が,平成の時代について,「人に優しい穏便の日々を経て,衰退を遂げた平成の時代」になるものと考えているわけではないのでしょう。けれども,無論,国の将来に「思いをいたす」だけで実行が伴わないと,困るところではあります。

 憲法記念日の項の「国の成長を期する。」という文言も,高齢社会の現在からすると,感慨深いものがありますね。日本国憲法を教科書としてそこに書かれたことを学習しつつ成長すべき,なお成熟していない若き日本国とその国民という自己認識だったものでしょうか。(なお,1948年の国民の祝日に関する法律の制定当初には,9月の敬老の日はいまだありませんでした。「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し,長寿を祝う。」といっても,多くの青年兵士の犠牲の末先の大戦をしくじったことについては,国家の指導的地位にあった老人たちはなかなか敬愛してもらうわけにはいかなかったのでしょう。敬老の日は,10月の体育の日と一緒に,建国記念の日が制定されたことで有名な昭和41年法律第86号による1966年の改正によって追加されたものです。ところで,この昭和41年法律第86号を見ると,「スポーツにしたしみ」(体育の日),かつ,「老人を敬愛」(敬老の日)すると「国を愛する心」(建国記念の日)が養われるようでもあり,何だか三題噺みたいでもあります。ちなみに,昭和41年法律第86号の法案は,議員立法主導の国民の祝日に関する法律の歴史では珍しく,内閣(佐藤榮作内閣)提出でした。もう一つ法案が内閣から提出された国民の祝日に関する法律の改正法は,今上天皇の誕生日である12月23日を天皇誕生日とし,4月29日を(旧)みどりの日とした平成元年法律第5号でした。)

 みどりの日の項は,苦労して書かれています。しかし,春分の日が既に「自然をたたえ,生物をいつくしむ。」ことになっているので,趣旨が重複しているようではあります。むしろ,憲法記念日とこどもの日という二つの「国民の祝日」の中間にはさまれた日であるミドル(middle)の日が転訛したものと解すべきか。(というのは後付けの理屈で,4月29日だったみどりの日が5月4日になったのは平成17年法律第43号によってです。)

 こどもの日は,母に感謝する日でもありました。しかし,男女共同参画社会の手前,父が感謝される日が無いということは不当な差別ではないでしょうか。国民の祝日に関する法律を合憲的に解釈するとして,父は,生物として,春分の日においていつくしまれる生物に含まれるということでしょうか,それともあるいは,男は,父になっても依然としてこどもだから,いつまでもこどもの日にこどもとして人格を重んじてもらい,幸福をはかってもらえるということでしょうか。



2 国民の祝日に関する法律に規定する休日

 さて,定められた「国民の祝日」の効果についてですが,これは,国民の祝日に関する法律の第3条に書かれています。



 第3条 「国民の祝日」は,休日とする。

 2 「国民の祝日」が日曜日に当たるときは,その日後においてその日に最も近い「国民の祝日」でない日を休日とする。

 3 その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(「国民の祝日」でない日に限る。)は,休日とする。

 

国民の祝日に関する法律の制定当初は,振替休日等に係る第2項以下は無かったんですけどねえ。

今年(2014年)の「ゴールデン・ウィーク」では5月6日の火曜日までが休日になっているのは,国民の祝日に関する法律3条2項の適用の結果です。5月4日のみどりの日が日曜日に当たったので,「その日後においてその日に最も近い「国民の祝日」でない日」である5月6日が休日になったものです(月曜日の5月5日はこどもの日であって「国民の祝日」だから,翌火曜日に繰り越し。)。

国民の祝日に関する法律3条3項は,現在,9月の第3月曜日である敬老の日と秋分の日との間において機能する規定となっています。来年(2015年)は,9月21日が敬老の日で,同月23日が秋分の日ですから,同月22日が同項の適用を受け,同月19日の土曜日から同月23日の水曜日までの5日間は,お役所等はお休みです。



3 法律と休日

 さて,上記のように,国民の祝日に関する法律は多大の効果を発揮しています。同法の規定次第で,皆さん休めることになったり休めなかったり一喜一憂です。我が国の①法律で,②休日であると規定されている以上,その日休まないのでは非国民みたいですからね。



(1)休む義務及び仕事をする権利の制限に係る法規性の問題



ア モーセの十戒

 休む義務(義務ですぞ。)ということについては,モーセの十戒が有名な先例です。いわく,「安息日を覚えて,これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神,主の安息であるから,なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ,娘,しもべ,はしため,家畜,またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに,天と地と海と,その中のすべてのものを造って,七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」(出エジプト記20811。また,申命記51215)。

この安息日を守らないと,死刑,であったようです。

「六日のあいだは仕事をしなさい。七日目は全き休みの安息日で,主のために聖である。すべて安息日に仕事をする者は必ず殺されるであろう」(出エジプト記3115)。「六日の間は仕事をしなさい。七日目はあなたがたの聖日で,主の全き休みの安息日であるから,この日に仕事をする者はだれでも殺されなければならない」(同352)。また,「七月の十日」の「贖罪の日」についても同様でした。いわく,「その日には,どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのために,あなたがたの神,主の前にあがないをなすべき贖罪の日だからである。すべてその日に身を悩まさない者は,民のうちから断たれるであろう。またすべてその日にどのような仕事をしても,その人をわたしは民のうちから滅ぼし去るであろう。あなたがたはどのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて,代々ながく守るべき定めである。これはあなたがたの全き休みの安息日である。あなたがたは身を悩まさなければならない。またその月の九日の夕には,その夕から次の夕まで安息を守らなければならない」(レビ記232632)。なお,古代ユダヤでは,一日は日没に始まり,日没に終わったそうです(だから,キリストの最後の晩餐は木曜日のことではなくて金曜日)。



イ 昭和天皇の昭和2年勅令第25号と国民の祝日に関する法律

 しかし,国民の祝日に関する法律は,法形式としては「法律」なのですが,モーセの律法のように,国民に休む義務を課し,又は国民の仕事をする権利を制限するいわゆる法規たる事項を定めたものではありません。同法の附則2項は「昭和2年勅令第25号は,これを廃止する。」と規定していて,同法が昭和2年勅令第25号(休日に関する件)に代わるものであることを明らかにしていますが,日本国憲法下では,昭和2年勅令第25号は政令と同一の効力を有するものでしかなかったからです(昭和22年政令第14号1項)。政令で決め得る事項の限界について内閣法11条は,「政令には,法律の委任がなければ,義務を課し,又は権利を制限する規定を設けることができない。」と規定しています。昭和2年勅令第25号は法律の委任を受けたものではありませんでしたから,当然当該勅令の規定をもって国民に義務が課され,権利が制限されたものではなく,また,そうであれば,それを引き継いだ国民の祝日に関する法律も,直接国民に義務を課し,その権利を制限するものとは解されないものであるわけです。

そもそも同法が議員立法により第2回国会で制定されることになったきっかけは,新しい休日に関する命令を政令で定めるという動きが194712月上旬に政府においてあったことに対する国会側の反発であったそうです(194874日衆議院本会議における小川半次同議院文化委員長の発言参照)。本来は内閣制定の政令で決め得ることではあるが,内閣に代わって国会が定めることにした以上,鶏を割くに牛刀の類とはなりますが,法形式としては国会制定の法律となってしまったということのようです。

 なお,昭和2年勅令第25号は,次のとおり。



朕大正元年勅令第19号休日ニ関スル件改正ノ件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 御 名 御 璽

  昭和2年3月3日〔公布同月4日〕

     内閣総理大臣 若槻礼次郎

勅令第25

左ノ祭日及祝日ヲ休日トス

  元始祭    1月3日

  新年宴会   1月5日

  紀元節    2月11

  神武天皇祭  4月3日

  天長節    4月29

  神嘗祭    1017

  明治節    11月3日

  新嘗祭    1123

  大正天皇祭  1225

  春季皇霊祭  春分日

  秋季皇霊祭  秋分日

   附 則

本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス



 おや,キリスト教国同様1225日もお休みだったのですね。

 ただし,同日は大正天皇の命日ということで休日なので,そうそうはしゃぐわけにはいかなかったものでしょう。
 ちなみに,昭和2年勅令第25号にいう「祭日及祝日」のうち,祭日は元始祭,神武天皇祭,神嘗祭,新嘗祭,大正天皇祭,春季皇霊祭及び秋季皇霊祭であって,祝日は新年宴会,紀元節,天長節及び明治節です。
 元始祭は,「年のはじめに天孫降臨,すなわち天津日嗣(皇位)の始源を祝う祭り」です(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)76頁)。明治三年(1870年)一月三日に神祇官の八神殿に八神,天神地祇,歴代皇霊を鎮祭したことが起源ですから(村上76頁),必ずしも古来のものではありません。1月3日が元始祭の日となったのは,直接には上記明治三年一月三日の鎮祭に由来しますが,「1月4日には政始(まつりごとはじめ)の朝儀が行われるので,その前日で,宮中参賀〔元日及び2日〕のない3日が,元始祭の祭日として選ばれたのであろう。」とされています(村上77頁)。天皇守護の「八神」は,カミムスビ,タカミムスビ,タマツメムスビ,イクムスビ,タルムスビ,オホミヤノメ,ミケ及びコトシロヌシです(村上15頁)。「天神」は「ヤマト政権が信仰する神々」,「地祇」は「もともとの土地神」である「国神(くにつかみ)」です(村上9頁)。「皇霊」は,「神武天皇から前天皇にいたる歴代の天皇の霊と,故人となった皇后,皇妃,皇親等の霊の総称であり,天皇ないし皇室の祖先の霊」を意味します(村上87頁)。
 「元始祭は祝祭であるが,当日には宮中の祝宴はなく,1月5日に宮中で「新年宴会」が開かれるきまりになっていた」そうです(村上77頁)。
 神武天皇の崩御日は三月十一日と伝えられており,明治改暦後初年の1873年(明治6年)には天保暦三月十一日に当たる4月7日が神武天皇祭でしたが,古代には用いられていなかった天保暦に基づき,かつ,毎年移動する「この祭日には難点があるため,紀元節を2月11日と算出したのとは別の計算によったらしく,1874年(明治7)から,祭日を4月3日とさだめ」られました(村上86頁)。
 神嘗祭と新嘗祭との違いは何かといえば,「近代の皇室祭祀において,新嘗祭は,天皇が親祭する13の祭典中で,古代の皇室祭祀を受けついだ唯一の祭り」であるのに対し,「伊勢神宮の収穫祭である神嘗祭」は明治四年(1871年)から「新たに天皇が親祭する皇室祭祀に加えられた」ものです(村上71頁,73頁)。「新嘗祭の祭日は,701年(大宝元)の大宝令において,十一月下卯日,同月に3度卯日があるときは中卯日とさだめられた。この祭日は,イネの収穫期よりもかなり遅く,収穫祭としては不自然な感じを受ける。もともと新嘗祭は,晩秋の祭りであったろうが,5世紀ごろ,それまで宮中に祀っていたアマテラスオホミカミを外に遷して伊勢に祀ったのちは,皇祖神に新穀をささげる伊勢神宮の神嘗祭がまず行われ,そののちに重ねて新嘗祭が行われるようになったのであろう。また皇室神道の新嘗祭は,天皇の再生の儀礼としての性格が強いため,農耕社会でひろく見られる生命の再生の祭りである冬至祭と複合して,この祭日となったのかもしれない。」と考えられています(村上13‐14頁)。神嘗祭は九月十七日でしたが,「太陽暦の9月中旬では,新穀がまだ稔らないことから」,「1879年(明治12)にいたり,祭日を1ヵ月ずらして10月17日に改め」られました(村上74頁)。新嘗祭の日が11月23日なのは,明治改暦後初年の1873年(明治6年)11月の下卯日が23日だったからです(村上70頁)。天保暦の十一月下卯日は,グレゴリオ暦では12月下旬頃に当っていました。
 「神仏分離以前には,宮中の祖先祭祀は仏教式であったから,一般と同じく,春秋の彼岸会に,祖先の祭りが営まれてい」ました(村上89頁)。1878年(明治11年)に「綏靖天皇以下後桜町院天皇迄,御歴代の御式年御正辰共廃せられ」(歴代天皇の正辰日(命日)の祭祀だけで年百祭を超えてしまうので,整理して,まとめて祭祀することにしたわけです。),春分日及び秋分日にそれぞれ春季皇霊祭及び秋季皇霊祭を新設したことについては,「国民の生活に仏教行事として定着している春秋の彼岸の祖先まつりを,皇室祭祀の皇霊祭と直結するねらいがあったためであろう。」とされています(村上90‐91頁)。
 明治節は昭和2年勅令第25号で設けられ,明治天皇の誕生日(天保暦九月二十二日,グレゴリオ暦11月3日)は,明治時代の天長節,昭和時代からの明治節及び現在の文化の日と三つの祝日となったことになります。昭和天皇の誕生日(4月29日)も,天長節,天皇誕生日,(旧)みどりの日及び昭和の日と四つの祝日となりました。しかし,この点で最も偉大だったのは大正天皇だったかもしれません。大正元年9月4日勅令第19号(裁可同月3日)は大正天皇の誕生日である8月31日を天長節としましたが,「暑中のため」(村上126頁),大正2年7月18日勅令第259号(裁可同月16日)によって10月31日が天長節祝日として更に休日に加えられています。大正2年7月18日宮内省告示第15号によれば,8月31日には天長節祭のみが行われ,宮中における拝賀宴会は10月31日に行われました。大正時代は15年しかありませんでしたが,天皇の誕生日にちなむ休日は28日あったことになるようです。
 

(2)「休日」の性格の問題

 ところで,そもそも国民の祝日に関する法律その他の法令にいうところの「休日」とはどういう意味でしょうか。



ア 3種類の「休日」

実は,休日にも三つの種類があります。

すなわち,休日とは「一般には,業務を行わない日をいう」のですが,第1には「ある種の事業や一定の地域において,一般的に業務の執行をしないものと慣習上定まっている日」と,民法142条等の用例が挙げられ(慣習によるもの),第2に「国,地方公共団体等の一般の機関が原則として職務の執行をしないものと定められた日」がそうであるとされ(お役所に係るもの),最後に「労働者が労働を休む日をいう」と労働基準法35条の意味での休日(契約によるもの)が挙げられています(吉国一郎ほか『法令用語辞典【第八次改訂版】』(学陽書房・2001年))。労働基準法35条は,その第1項で「使用者は,労働者に対して,毎週少くとも1回の休日を与えなければならない。」と,第2項で「前項の規定は,4週間を通じ4日以上の休日を与える使用者については適用しない。」と規定しています。



イ 国民の祝日に関する法律に規定する休日と慣習又は労働契約に基づく休日との別次元性 

 国民の祝日に関する法律3条にいう休日は,前記休日の3種類のうち,第1及び第3のものではどうやらない旨,1948年7月4日の衆議院本会議で,法案を提出した同議院文化委員会の小川半次委員長が言明しています。



 国民の祝日に関する法律3条の「この休日とは,いわゆる一般の休日の意味でありますので,これ以外の休日を決して排除するものではありません。すなわち第1には,ある社会,階級,地方の全般を通じて業務を休み,取引をなさない日,すなわち日曜日とか土曜日午後のいわゆる銀行休日とか,ぼんとかひがんなども,民法第142条,手形法第72条,第87条,なお小切手法第60条,第75条などに,いわゆる休日として当然残されるのであります。第2には,労働者が就業制限の一方法として毎週少くとも1回休む日も労働基準法上の休日となるわけであり,また,年末,年始にかけてのいわゆる官庁の休暇日なども依然として生きているわけであります。この点,世間に往々誤解がありますので,一応お断り申し上げておきます。」



 かつての民法142条は「期間ノ末日カ大祭日,日曜日其他ノ休日ニ当タルトキハ其日ニ取引ヲ為ササル慣習アル場合ニ限リ期間ハ其翌日ヲ以テ満了ス」と規定しており,よく読むと,「休日」であっても取引はされるものであることが原則となっていました。これは,現在の同条の規定である「期間の末日が日曜日,国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)に規定する休日その他の休日に当たるときは,その日に取引をしない慣習がある場合に限り,期間は,その翌日に満了する。」においてむしろより明らかになっており,国民の祝日に関する法律で定められた休日であっても,同法のみによっては当該休日に取引が行われることを妨げる効力はないことを前提とした規定になっています(取引が行われないものとされるのは,直接には同法によってではなく,慣習によってである。)。

これに対して,我が民法に影響を与えたドイツ民法を見ると,同法の193条は,現在,„Ist an einem bestimmten Tage oder innerhalb einer Frist eine Willenserklärung abzugeben oder eine Leistung zu bewirken und fällt der bestimmte Tag oder der letzte Tag der Frist auf einen Sonntag, einen am Erklärungs- oder Leistungsort staatlich anerkannten allgemeinen Feiertag oder einen Sonnabend, so tritt an die Stelle eines solchen Tages der nächste Werktag.(意思表示又は履行をある期日又はある期間内にすべき場合であって,当該期日又は当該期間の末日が,日曜日,意思表示若しくは履行の場所において国家的に認められた一般の休日又は土曜日に当たるときは,次の取引日をもってその日に替えるものとする。)と規定していて,取引をしない慣習の存在をまたずに,期日又は期間の末日が日曜日等に当たるときは端的にその日を次の取引日に振り替えるものとしています。こちらは,モーセの十戒以来,安息日には仕事をしないものだということが確乎たる法的確信となっているからでしょうか。(ちなみに,1919年のヴァイマル憲法の「第2編 ドイツ人の基本権および基本的義務」における「第3章 宗教および宗教団体」中第139条は,「日曜日および国の承認した祭日は,仕事の休日および精神的向上の日として,法律上保護される。」と規定しており(山田晟訳『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)208-209頁),同条は現在もドイツ連邦共和国基本法の構成部分です(同法140条)。)ドイツにおける日曜日の様子は具体的にはどのようなものかといえば,少々昔の話になりますが小塩節教授によれば,「・・・友人の話で,彼は医者なのだが,週末に買ってきた苗木を1本,ある晴れた初夏の日曜日の午後,自分の家の広い庭の一隅に植えた。休息の日である日曜日に働いたかどで彼は訴えられ,裁判所に呼び出されて,有罪の判決を言い渡された。誰の邪魔をしたわけでもない。自分のホビーでやったことだ,と言い張ったがだめだった。/かなり距離のある隣家の3階か4階から,植え込み越しに望遠鏡で一生懸命彼の仕事を見ていたヒマな人が二,三人いたのである。彼らが,法によって定まっている安息日に精神的な被害を受けた,と告訴したのだという。」というようなものだそうです(小塩節『ドイツ語とドイツ人気質』(講談社学術文庫・1988年)91‐92頁)。民法起草者の一人である梅謙次郎は,「西洋ニ於テハ日曜日,大祭日等ニハ各人大抵皆其業ヲ休ミ一切ノ取引ヲ為ササルヲ以テ常トスルカ故ニ広ク本条〔日本民法142条〕ノ規定ヲ適用スルコト或ハ穏当ナラン」と述べていました(梅謙次郎『訂正増補第31版 民法要義 巻之一 総則編』(法政大学・有斐閣書房・1910年)362頁)。

なお,そもそも日本において日曜日を休むことにしたのは,院省使庁府県のお役人あての明治9年太政官達第27号が「従前一六日休暇ノ処来ル4月ヨリ日曜日ヲ以テ休暇ト被定候条此旨相達候事/但土曜日ハ正午12時ヨリ休暇タルヘキ事」(1876312日)と定めて以来,お役人の世界から始まったことであって,国民こぞってキリスト教に改宗して安息日を守ることにしたものではありません(なお,お役人の休みは一六日とされていても,31日は休みではありませんでした(下記明治6年太政官第2号布告参照)。)。梅謙次郎は「我邦ニ於テハ日曜日,大祭日等ニ其業ヲ休ム者ハ極メテ少数ニシテ未タ西洋ノ如キ慣習アラサルカ故ニ一般ニ此規定〔民法142条の規定〕ヲ適用セハ頗ル不当ノ結果ニ陥ルヘシ故ニ本条ニ於テハ此等ノ日ニ取引ヲ為ササル慣習アル場合ニ限リ此規定ヲ適用セリ」と言っていました(梅364頁)。
 (民法が制定された1896年当時における「大祭日」の用法について参考となるものとしては,1891年の小学校祝日大祭日儀式規程(明治24年文部省令第4号)があります。そこでは「祝日大祭日」として,紀元節,天長節,元始祭,神嘗祭及び新嘗祭(同規程1条),孝明天皇祭,春季皇霊祭,神武天皇祭及び秋季皇霊祭(同2条)並びに1月1日(同3条)が挙げられています。紀元節及び天長節並びに1月1日が祝日で(「1月1日も,「四方拝」の名称で,祝日の扱いを受けるようになった。」とされています(村上126頁)。),それ以外が大祭日ということになるのでしょうか。ただし,紀元節の日及び天長節の日並びに1月1日には宮中でそれぞれ紀元節祭及び天長節祭並びに歳旦祭が行われるので(皇室祭祀令(明治41年項皇室令第1号)9条,21条),これらについても祭日ではないとはいえません。しかしながら,紀元節祭は天皇が親祭する大祭であるのに対して(皇室祭祀令8条1項,9条),天長節祭及び歳旦祭は掌典長が祭典を行って天皇が拝礼する小祭です(同令20条1項,21条)。四方拝は,歳旦祭の当日にそれに先立ち(皇室祭祀令23条2項)天皇によって行われる儀式です。)
 ちなみに,民法142条の「その他の休日」について梅謙次郎は,「各地方ノ慣習上ノ休日ヲ云ヘルナリ例ヘハ1月2日ハ大祭日ニ非サルモ往往其業ヲ休ムノ慣習アリ又氏神ノ祭礼ニハ其業ヲ休ムノ慣習稀ナリトセス又旧外国人居留地ニ於テハ耶蘇教ノ祭日ニ其業ヲ休ムカ如キ是ナリ」と説明しています(梅364頁)。
 国民の祝日に関する法律に規定する休日が,ある労働者にとって労働基準法35条の休日になるかどうかも,直接には,当該労働者とその使用者との間の労働契約関係いかんによって決まります。国民の祝日に関する法律によって直ちに決まるものではありません。(「国民の祝日」に働いている労働者はたくさんおり,かつ,だからといって非国民であるわけではありません。「労基法上付与すべき休日は週1日であるので,「国民の祝日に関する法律」の定める「国民の祝日」は,労基法上の休日ではなく,週休日を与えている限り労基法上,休日としなくとも労基法違反は生じない」こととなっています(荒木尚志『労働法 第2版』(有斐閣・2013年)143頁)。)



ウ 官庁執務日と国民の祝日に関する法律

 となると,慣習も要さず,契約も要さずに,「「国民の祝日」は,休日とする。」等との国民の祝日に関する法律3条の規定の適用を直接受け得る受益者は,だれなのでしょうか。

 お役人のようです。

 

 ・・・国の制定した今の祝祭日は,当然官庁の休日になるわけであります・・・

 (苫米地義三国務大臣(内閣官房長官)の1948622日参議院文化委員会における国民の祝日に関する法律案に関する答弁)



そもそも昭和2年勅令第25号の休日に関する件も,本来は官吏の執務日に関する規定であって,直接人民の生活を規制するものではなかったはずです。美濃部達吉は『日本行政法 上巻』(有斐閣・1936年)の「第2編 行政組織法」,「第3章 公の勤務法」,「第2節 官吏法」,「4 官吏の義務」という場所において,当該勅令に言及しています(次の最初の括弧書き)。



(ロ)官吏は休日(明治6太政官布告2号に依り1月1日より3日まで1229日より31日までを休暇とし,明治9太政官達27号に依り同年4月より日曜日を休暇とし,昭和2勅令25号により大祭祝日を改定し,これを休日と定めらる)又は賜暇休養・忌服等特別の場合を除くの外,執務時間(大正11閣令6号官庁執務時間)中は執務の場所に現在して執務を為すべき義務が有る。(711頁)

 

 なお,明治6年太政官第2号布告(187317日)は次のとおりでした(ただし,下線部は,同年623日の太政官221号布告で朝令暮改的に取消し)。



 自今休暇左ノ通被定候事

  1月1日ヨリ3日迄 6月28日ヨリ30日迄 1229日ヨリ31日迄

  毎月休暇是迄ノ通

   但大ノ月31日ハ休暇ニ非ス



 現在は法律が整備され,国民の祝日に関する法律に規定する休日とお役所の閉庁日とは明文をもって連動します。



    行政機関の休日に関する法律(昭和63年法律第91号)

  (行政機関の休日)

第1条 次の各号に掲げる日は,行政機関の休日とし,行政機関の執務は,原則として行わないものとする。

  一 日曜日及び土曜日

  二 国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)に規定する休日

  三 1229日から翌年の1月3日までの日(前号に掲げる日を除く。)

2 前項の「行政機関」とは,法律の規定に基づき内閣に置かれる各機関,内閣の統轄の下に行政事務をつかさどる機関として置かれる各機関及び内閣の所轄の下に置かれる機関並びに会計検査院をいう。

3 第1項の規定は,行政機関の休日に各行政機関(前項に掲げる一の機関をいう。以下同じ。)がその所掌事務を遂行することを妨げるものではない。



    裁判所の休日に関する法律(昭和63年法律第93号)

  (裁判所の休日)

第1条 次の各号に掲げる日は,裁判所の休日とし,裁判所の執務は,原則として行わないものとする。

  一 日曜日及び土曜日

  二 国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)に規定する休日

  三 1229日から翌年の1月3日までの日(前号に掲げる日を除く。)

2 前項の規定は,裁判所の休日に裁判所が権限を行使することを妨げるものではない。



 しかし,お役人のみならず,立派な大企業にお勤めの方々も,多くは,国民の祝日に関する法律に規定する休日がそのまま休業日に連動する形の労働契約を締結されていることでしょう。

 なお,銀行法15条1項は「銀行の休日は,日曜日その他政令で定める日に限る。」と規定し,同項を承けた銀行法施行令5条1項は「法第15条第1項に規定する政令で定める日は,次に掲げる日とする。」と規定して,そこでは,国民の祝日に関する法律に規定する休日1231日から翌年の1月3日までの日(国民の祝日に関する法律に規定する休日を除く。)及び土曜日を掲げています(銀行法施行令5条1項1号から3号まで)。要は,国民の祝日に関する法律に規定する休日には銀行での振込送金はできず,また,自分の預金を引き出すときでも,わざわざ休日勤務してくださったATMさまに休日手数料を余計に支払わねばならないということになるわけです。



4 新たな「国民の祝日」としての「山の日」

 ところで,再来年(2016年)から,8月11日が新たに「国民の祝日」に加わるようです。



(1)第186回国会の国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律案

 国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律案が衛藤征士郎衆議院議員ほか9名から現在の第186回国会に提出され(衆第9号),衆議院内閣委員会で可決された後,今年(2014年)4月25日に衆議院本会議で可決され,現在参議院で審議中です。



    国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律案

  国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)の一部を次のように改正する。

  第2条海の日の項の次に次のように加える。

   山の日  8月11日  山に親しむ機会を得て,山の恩恵に感謝する。

    附 則

  この法律は,平成28年1月1日から施行する。



 ここでの「山に親しむ機会を得て,山の恩恵に感謝する。」との「山の日」の趣旨は,さきに春分の日との関係で苦労しているように思われる旨申し述べたみどりの日の趣旨とまた重複していますね。みどりの日は「自然に親しむとともにその恩恵に感謝し,豊かな心をはぐくむ」ことになっているので,「山の日」にいう「山」が自然の一部ということになると,なぜ既に自然全般に係るみどりの日があるのにまた殊更に山についてだけ別の「国民の祝日」が要るのか,ということになりそうです。みどりの日は「豊かな心」まで育まなくてはならなくて面倒だから,「山の日」の場合は山に親しんでも,気楽に,貧しい心のまま下山してよいよ,ということでしょうか。それとも「山の日」の「山」は,自然の山ではないのでしょうか。古文で山といえば延暦寺を指す場合もあるそうですから,比叡山延暦寺に親しむ機会を得て伝教大師最澄の恩恵に感謝する,ということでしょうか。三井寺や興福寺の僧兵が暴れそうですね。それとも,安息日に係るものをも含む十戒がモーセに授けられたシナイ山の「山の日」でしょうか。海の日の場合は「海の恩恵に感謝するとともに,海洋国日本の繁栄を願う。」ということで,通商の道としての海を考えれば,必ずしも自然としての海ばかりを見ているということにはならないようなのですが,「山の日」の場合はどう解すべきか。

また,国際連合総会決議による国際山の日(International Mountain Day)1211日という立派な日にあるのに,どうしてまた8月11日が「山の日」なのか。

国会の関係議事録がまだ国立国会図書館のウェッブ・サイトに掲載されていない段階で本稿を書いているのでなおよく分かりませんが,昨年(2013年)1030日の共同通信社のインターネット記事によると,「山の日」の議員連盟の事務局が同日の当該議員連盟の会合に,「山の日」の候補日として,①6月上旬,②海の日(7月第3月曜日)の翌日,③8月のお盆前又は④日曜日を祝日に定め振替休日を設けないとの4案を提示したところ,経済活動に影響の小さいお盆時期の8月12日にまずは決まったそうです。ところが,8月12日は1985年に日本航空ジャンボ機が御巣鷹の尾根に墜落した大事故の日であるために,避けてくれということになり,結局20131122日の議員連盟の会合で,「企業が夏休みに入るお盆の時期を中心に再検討し,「家族で山に親しみ,国民全体が有効利用できる」として8月11日に落ち着いた。」ということだったそうです(20131122日共同通信社インターネット・ニュース)。
(注)なお,第186回国会衆議院内閣委員会議録第15号11頁(2014年4月23日の同委員会)及び同国会参議院内閣委員会会議録第16号1頁(同年5月22日の同委員会)を見ると,発議者の衛藤征士郎衆議院議員は「大自然の根本たる山と向き合い,その恩恵に感謝し,山との共存,共生を図ることは極めて有意義であります。」と説明していますから,「山の日」の「山」は,やはり自然の山ですね。また,同議員は,「多くの国民がお盆休み,夏休みでもあるこの期間に,大人も子供も,こぞって山に親しみ,山を考える日となるものと考えております。」とも更に述べています。


(2)弁護人は非国民か

「企業が夏休みに入るお盆の時期」であるのならば,正に慣習によって既に人民の世界は夏休み=休日であるので,国民の祝日に関する法律3条を発動して重ねて休日にし,お役人の勤務日を公的に減らして差し上げ,ATMについてわざわざ銀行に手数料を払うことにする必要はないように思うのですが,どうでしょう。

というのは,刑事弁護も行う弁護士として,「国民の祝日」ということでお役所や銀行が閉まってしまう休日が増えると困ってしまうことがあるからです。例えば,平日ではありませんから,拘置所における刑事被告人との接見・面会がどうしても制約されることになりますし(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律118条1項,刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律施行令2条1項),保釈請求をしたときも,検察官の意見及び裁判所の決定をじりじりしながら待ち,また,保釈金を調達するについても,休日には銀行送金ができないことになります。

「国民の祝日」が増えてみんなせっかく単純に喜んでいるのに何だ,和を乱すな,弁護士なんぞ非国民だ,との非難を覚悟してあえて申し上げれば,国民の祝日に関する法律という題名はややミスリーディングであり,やはり昭和2年勅令第25号の伝統等をも踏まえますと,「官公署及び銀行等の休日に関する法律」などという題名の方がより正確なものなのではないでしょうか。その方が,「国民の祝日」という言葉の輝きに幻惑されずに,より実質的な議論ができるように思われます。国民と一口にいいますが,現実には多様な立場の個人の集まりなのです。

無論,「国民の祝日」であろうが何であろうが,その日に仕事をすると死刑になるわけではない以上,正当な依頼者の方の信頼に応える必要のために休まず仕事をすることは,必ずしも平和でなければ豊かでもないわけではありますが,自由な弁護士の名誉とするところであります。


110822_120505
八幡平( ここも日本百名山の一つです。)


  弁護士 齊藤雅俊
  大志わかば法律事務所 

  東京都渋谷区代々木一丁目57番2号ドルミ代々木1203

  電話: 03-6868-3194 (法律に関する問題について,お気軽に御相談ください。) 


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