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1 ベルギー国憲法の王朝関係条項

 

   ベルギーは1830年の革命の結果生まれたヨーロッパの小国であるが,その憲法には,いろいろの点で,われわれの興味をそそるものがある。1831年に制定され,成典憲法としては古いものであるが,今日〔1976年〕まで145年の長命を保っている。19世紀前半につくられたものとしては,かなり進歩的な内容をもち,しかも,法典として割合によくまとまっていたので,外国の憲法でこれにならったものも少なくない。1948年のドイツのフランクフルト憲法,1849年のオーストリア憲法,1850年のプロイセン憲法などは,そのいちじるしい例であり,わが明治13年〔1880年〕の元老院の憲法および〔1889年の〕明治憲法も影響をうけている。

   この憲法には,規模は小さいが,立憲君主制のもとに,自由主義的議会民主制のひとつの見本が示されている。そうして,形式的には,君主制をとりながら,その基礎原理は民主主義と自由主義であり,そのうえに君主制をみとめているところにこの憲法の本領がある。すべての権力は国民に由来し(第〔33〕条),国王は,憲法の制定者ではなく,憲法の所産であって,政治の実権をもたない装飾的な存在にすぎず,日本国憲法における天皇の国事行為の場合と同じように,憲法および憲法にもとづく特別の法律の明文によって与えられた権能のみをもつ。

  (清宮四郎;宮沢俊義編『世界憲法集 第二版』(岩波文庫・1976年)66頁)

 ベルギー国を訪問した皇太子裕仁親王に対し,1921610日,アルベール1世国王は,その歓迎の辞の中で特に次のように同国憲法に言及しています(宮内庁『昭和天皇実録 第三』(東京書籍・2015年)293頁)。

 

  殿下は我が国において其の国民が憲法の下に,克く自らの運命を支配し,且つ狭小な地域において欧洲強国の間に伍しつゝ其の国民的個性を保持し,自由を愛好し,以て社会に於ける知識,道徳の向上並に物質上の繁栄に資する諸種の事業を起し,且つこれを確立せんとして努力し居るを看取せられるでありませう。


  ちなみに,1830年にベルギー国憲法草案の起草を中心となって担ったのは25歳のジャン=バティスト・ノトン(Jean-Baptiste Nothomb)と29歳のポール・ドゥヴォー(Paul Devaux)との二人であって,最初の原案(なお,立憲君主制になるか共和制になるかは当時未定)は両名によって同年1012日から同月16日までの間に作成されたそうです(Dimitri Vanoverbeke, The Development of Belgian Constitutional Practice: the Head of State Between Law and Custom, 憲法論叢第8号(20023月)32頁)。少数の若者による短期間の制作という事実は,某国の憲法草案の19462月における起草作業を彷彿とさせます。

 ベルギー国憲法には,次のような条項があります(拙訳は,清宮86-87頁・90頁を参照しました。)。

 

Art. 85


Les pouvoirs constitutionnels du Roi sont héréditaires dans la descendance directe, naturelle et légitime de S.M. Léopold, Georges, Chrétien, Frédéric de Saxe-Cobourg, par ordre de primogéniture.

Sera déchu de ses droits à la couronne, le descendant visé à l'alinéa 1er, qui se serait marié sans le consentement du Roi ou de ceux qui, à son défaut, exercent ses pouvoirs dans les cas prévus par la Constitution.

Toutefois il pourra être relevé de cette déchéance par le Roi ou par ceux qui, à son défaut, exercent ses pouvoirs dans les cas prévus par la Constitution, et ce moyennant l'assentiment des deux Chambres.

 

85条 国王の憲法上の権能は,レオポルド・ジョルジュ・クレティアン・フレデリック・ド・サクス・コブール陛下の直系,実系かつ嫡系の子孫が,長子継承の順序により,これを世襲する。

  第1項に規定する子孫であって,国王又は憲法によって定められた場合に国王に代わって国王の権能を行う者の同意なしに婚姻したものは,王位につく権利を失う。

  ただし,当該子孫は,国王又は憲法によって定められた場合に国王に代わって国王の権能を行う者によって,かつ,両議院の同意を得て,王位につく権利の回復を受けることができる。

 

Art. 86

A défaut de descendance de S.M. Léopold, Georges, Chrétien, Frédéric de Saxe-Cobourg, le Roi pourra nommer son successeur, avec l'assentiment des Chambres, émis de la manière prescrite par l'article 87.

S'il n'y a pas eu de nomination faite d'après le mode ci-dessus, le trône sera vacant.

 

  第86条 レオポルド・ジョルジュ・クレティアン・フレデリック・ド・サクス・コブール陛下の子孫がないときは,国王は,第87条に規定する方法で表明された議院の同意を得て,その継承者を指名することができる。

    前項に掲げた方法による指名が行われない場合は,王位は空位となる。

 

Art. 87

Le Roi ne peut être en même temps chef d'un autre État, sans l'assentiment des deux Chambres.

Aucune des deux Chambres ne peut délibérer sur cet objet, si deux tiers au moins des membres qui la composent ne sont présents, et la résolution n'est adoptée qu'autant qu'elle réunit au moins les deux tiers des suffrages.

 

  第87条 国王は,両議院の同意がなければ,同時に他国の元首となることができない。

    両議院のいずれも,その総議員の3分の2以上が出席しなければ,前項の同意に関する議事を行うことができない。また,3分の2以上の多数によらなければ,可決の議決をすることができない。

 

Art. 95

En cas de vacance du trône, les Chambres, délibérant en commun, pourvoient provisoirement à la régence, jusqu'à la réunion des Chambres intégralement renouvelées; cette réunion a lieu au plus tard dans les deux mois. Les Chambres nouvelles, délibérant en commun, pourvoient définitivement à la vacance.

 

  第95条 王位が空位の場合は,全部改選された両議院が会同するまで,両議院の合同会で,暫定的に摂政職について措置する。新議院の会同は,2箇月以内にこれを行う。新議院の合同会は,確定的に空位を補充する。

 

 ベルギー国憲法851項は,当初は,「・・・男系に従って,長子継承の順序により,・・・女子及び女系の子孫は,永久に継承の権利を有しない。」(de mâle en mâle, par ordre de primogéniture, et à l’exclusion perpétuelle des femmes et de leur descendance)とされていたところです。その後ベルギー国にあっては,「永久に(perpétuel)」の文言もものかは,憲法の改正があったわけです(1991年)。なお,ベルギー国の先王アルベール2世には非嫡出子がありますが,嫡系(légitime)ではないので,当該非嫡出子たる女性は王位継承とは無縁です(我が最大決平成2594日(民集6761320頁)などからするといかがなものでしょうか。)。

 

2 日本国憲法における「「王朝」形成原理」

 

(1)明治典憲体制における「原理」の「維持」が求められているとの説

 かつて小嶋和司教授は,「〔日本国〕憲法2条は「王朝」形成原理を無言の前提として内包しているとなすか,それとも「国会の議決した皇室典範」はそれをも否認しうるとなすかは憲法論上の問題とすべきものである。」とされ(「「女帝」論議」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』(木鐸社・1988年)65頁),かつ,憲法に内包される当該「無言の前提」たり得る「「王朝」形成原理」に関しては,いわゆる「マッカーサー・ノート」における“dynastic”との用語から,大日本帝国憲法改正時にマッカーサー連合国軍総司令官は,「現王朝(dynasty)を前提として,王朝に属する者が王朝にふさわしいルールで継承すべきことを要求」するとともに当該王朝の「王朝形成原理の維持を要求」していたのではないかと示唆されていました(同64頁。下線は筆者によるもの)。すなわち,「憲法論的に男帝制を指示するとも考えうる史実」があったところです(小嶋・女帝63頁)。

確かに,大日本帝国憲法の改正に係る1946213日のGHQ草案の第2条(Article II. Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.)及び第4条(Article IV. When a regency is instituted in conformity with the provisions of such Imperial House Law as the Diet may enact, the duties of the Emperor shall be performed by the Regent in the name of the Emperor; and the limitations on the functions of the Emperor contained herein shall apply with equal force to the Regent.)においては“such Imperial House Law as the Diet may enact”なる法規の存在が現れていましたが,これは,当時の皇室典範(明治皇室典範(1889年)並びに明治40年皇室典範増補(1907年)及び大正7年皇室典範増補(1918年))の改正憲法下での存続を前提に,皇位継承及び摂政設置に関して,天皇と競合し,かつ,優越する立法権(ただし,憲法の枠内であることは当然。)を国会に与えるとの趣旨ではなかったかとは,両条に係る「国会ノ制定スル皇室典範」との外務省による翻訳以来の定訳に対して,不遜にも異見を提示する筆者の思い付きでありました(「日本国憲法2条に関する覚書」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065867686.html)。

 

(2)明治典憲体制における三大則

明治皇室典範における皇位継承の大原則は,その第1条(「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」)に係る『皇室典範義解』の解説によれば,「祖宗以来皇祚継承の大義炳焉(へいえん)として日星の如く,万世に亙りて易ふべからざる者,(けだし)左の三大則とす。/第一 皇祚を践むは皇胤に限る。/第二 皇祚を践むは男系に限る。/第三 皇祚は一系にして分裂すべからず。」であったそうです。この三大則は,「世襲」の意味内容たる,又は昭和22年法律第3号がなおも皇室典範たる以上その当然の前提とするところの「「王朝」形成原理」として,日本国憲法2条に内包されているものでしょうか。

(ちなみに,男系ノ女子による皇位継承までならば,前記「皇祚継承の大義」には抵触しないようですので,「皇祚継承の大義」をも圧伏し得る人民の主権意思(the sovereign will of the People)の発動たる憲法改正までは要さず,法律の形での皇室典範改正によって可能なのでしょう。)

 

ア 皇胤主義

「皇胤」とはだれのことかというと,『皇室典範義解』には「祖宗の皇統とは一系の正統を承くる皇胤を謂ふ。而して和気清麻呂の所謂皇緒なる者と其の解義を同くする者なり。」とあって,宇佐八幡宮からの和気清麻呂の還奏(「我国家開闢以来,君臣分定矣,以臣為君未之有也,天之日嗣,必立皇緒」)を見よ,ということになっています。道鏡が皇位に就くことを排斥する理窟は,単に道鏡は臣下だからということ(「以臣為君未之有也」)だったというわけなのですね。「我国家開闢以来,君臣分定矣,以臣為君未之有也」なので,明治40年皇室典範増補6条において「皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス」とされたものなのでしょう(また,昭和22年法律第315条)。「皇統トハ唯皇族タル身分ヲ有スル者ノミヲ意味シ,既ニ臣籍ニ入リタル者ヲ含マズ。一タビ皇族ノ身分ヲ脱シテ臣籍ニ降ルトキハ,皇位継承ノ資格ハ消滅シテ又之ヲ復スルヲ得ザルコトハ,当然ノ原則トシテ認メラルル所ナリ」というわけです(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)178頁)。

しかし,「吾是去来(いざ)穂別(ほわけの)天皇(すめらみこと)〔履中天皇〕之孫〔同天皇の皇子である市辺(いちのべの)忍歯別(おしはわけ)王の子〕なのだけれども播磨国において困事於人(ひとにたしなみつかへて)(うし)牧牛(うまを)(かふ)境遇にまで(新編日本古典文学全集3『日本書紀②』(小学館・1996年)230-231頁)いったん下った後に(雄略天皇は市辺忍歯別王を自ら射殺し給うていますから,同王の子らは雄略朝期には皇族扱いなどつゆされなかったものでしょうが,同天皇も崩御して既に暫くたった時期に)宴会で踊りと歌とを披露して山部連(やまべのむらじが)先祖(とほつおや)()(よの)来目部(くめべの)小楯(おだて)身分を顕わし再上昇して皇位を継承し給うた顕宗・仁賢の兄弟天皇の古例があり,藤原高子(白玉か何ぞと人の問ひしとき露とこたへて消えなましものを)系は勘弁してくれということで光孝天皇(君がため春の野に出でて若菜が衣手に雪はりつつ)の子である源定省が皇族に復帰して皇位を継承した宇多天皇前例ありますから,皇祚を践むは皇胤に限る。」とは明治天皇の決意ではあっても,例外を一切許さぬ「炳焉として日星の如く,万世に亙りて易ふべからざる」ものとまでいえるかどうか。

 

イ 一系主義

「皇祚は一系にして分裂すべからず。」については,『皇室典範義解』自ら「後深草天皇以来数世の間,両統互に代り,終に南北二朝あるを致しゝは,皇家の変運にして,祖宗典憲の存する所に非ざるなり。」と嘆きつつも大覚寺統の諸天皇の在位を否認することはしていませんから,できちゃったものは仕方ないが,以後気を付けよう,という位置付けでしょうか。ただし,美濃部達吉によれば,一系主義は世襲主義からの説明が可能です。いわく,「純粋の世襲主義に於いては,必ず単一の系統に於いて之を世襲するものでなければならぬことは,当然である。若し皇統が2系以上に分たれ,その各系の出が対等の権利を以て皇位の継承を主張し得ることが認めらるゝならば,それは世襲主義の思想とは相容れないものである。」と(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)105頁)。

しかし,古代スパルタ人に言わせれば,二系の王家があって王が二人いたってええじゃないか,ということになるのでしょう。

 

ウ 男系主義

最後に,「皇祚を践むは男系に限る。」については,これは『皇室典範義解』も安心してか,「先王の遺意を紹述する者にして,苟も新例を創むるに非ざるなり。」と記しています。「日本における「帝室ノ眷族」の形成原理は,父母の同等婚を要求しないかわり,たんに片親の皇統性で足りるとはせず,厳格に父系の皇族性を要求した。明治憲法第1条のいう「万世一系ノ天皇」が男系に着目しての一系制で,「皇統ハ男系ニ限リ女系ノ所出ニ及ハサルハ皇家ノ成法」(『典範義解』)である」こと(小嶋・女帝60-61頁)に留意せよということになります。「〔昭和22年法律第3号たる〕皇室典範を改正して女の天皇を認めることは,もとより可能である。」(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)132頁。下線は筆者によるもの)といわれる場合において,ここでの「女性」に「女」までをも読者において読み込み得るものかどうかは,難しいところです。

女系の皇統を認めるということは,従来の皇室=皇族の範囲・枠組みを抜本的に変更することになるようですから,憲法改正の革命的手続によるのが無難でしょうか。というのは,皇室典範は本来皇室の家法であり,かつ,日本国憲法も「皇室典範」の文字によって当該性格を承認していると考えるならば(しかしこれは,「戦後日本社会の支配層は,明治期に確立した皇室関係法の特殊性を何とかして残し,天皇の「萬世一系」性を日本人たちに納得させる一助たることを期待して,憲法第2条の異例な言葉遣いにこだわった。この作戦は,かなり成功した気味がある。この言葉遣いが持つ特殊な煙幕効果のゆえに,相当の知識人・文化人でさえも,「皇室典範」というものは,憲法規範の一部と誤解したり,そうでないとしても何か特別な法であって,その修正には特別な手続が必要であると勘違いしている向きがある。そういう誤謬をおかす点において,「ふつうの日本人」は――自ら気づかないままに――天皇制の明治的伝統を引き継いでいるというわけである。」というだけのことかもしれませんが(奥平康弘『「萬世一系」の研究(上)』(岩波現代文庫・2017年)17頁)。),昭和天皇の裁可に係る昭和22年法律第3号について国会が法律で改正を加えるに当たっては(「宮内府」が「宮内庁」になった昭和24年法律第134号による改正のようなものを除き),少なくとも事実上,皇室(又はその家長たる天皇)の同意が必要不可欠であるのだと考えることも可能であるようなのですが19466月の法制局「憲法改正草案に関する想定問答(増補第1輯)」では,法律としての皇室典範の取扱いについて,「国会の側から皇室について謂はば差出がましい発案は行はないと云ふ様な慣習法が成立することもあらうか,と考へる。」との希望や,「国会その他の意思をも反映させるための方法」として「特殊の諮詢機関の議を経べきこと」もあり得べきか,というようなアイデアが示されています。同月8日,帝国議会の議に付される帝国憲法改正案が可決された枢密院会議において,昭和天皇の弟宮である崇仁親王から「皇室典範改正への皇族の参与につき再考を願」う旨の発言があり,かつ,同親王は棄権し退席していたところです(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)136頁)。,その場合,天皇は「国政に関する権能を有しない。」という例の日本国憲法41項後段との関係が大問題になり得るからです(「日本国憲法41項及び元法制局長官松本烝治ニ関スル話」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065184807.html)。

 

3 王朝交代に係る憲法規定について

 

(1)ベルギー国憲法における存在と日本国憲法における不存在と

「皇統の全く絶ゆることは,わが憲法の予想しないところで,皇統連綿天壌と共に窮なかるべきことを前提として居る」ので(美濃部・精義106頁),「王統の絶えた場合を予想して,之に応ずべき処置を定めて居る」ベルギー国憲法の規定は,我が神州の憲法にとっては,正に単なる「備考」に止まるべきものです(同頁)。

しかし,ついベルギー国憲法86条を眺めると,「はて,これは我が憲法では「神武天皇の子孫がないときは」と書くべきところかな。それとも「明治天皇の子孫がないときは」かな。」などと余計なことを考えてしまいます。これについては,少なくとも「明治天皇の子孫がないときは」とはならないようです。明治典憲体制下においては,後花園天皇の弟宮の貞常親王系である伏見宮系の皇族も皇位継承の可能性があるものとされていました。したがって,「崇光天皇の子孫がないときは」とすべきでしょうか。しかし,それでは,我々臣民がその意思をもって折角推戴し奉った後光厳天皇(崇光天皇の弟)から始まった皇統(ただし,一休さんは継承できず。)は何だったのだということになりますから(「「日本国民の総意に基づく」ことなどについて」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1003236277.html),「光厳天皇の子孫がないときは」でしょうか。しかしまたそれでは,吉野方贔屓の方々の御不満もあることでしょう。結局,持明院統・大覚寺統どちらも仲良く「後嵯峨天皇の子孫がないときは」でしょうか。仁治三年正月四日(1242年)の四条天皇の崩御後「承久の乱の再発を恐れる〔北条〕泰時は,その際討幕派であった順徳院の皇子の即位を喜ばず,〔非戦派であった〕土御門の皇子を推し,鶴ヶ岡八幡宮の神意によると称して,その旨を京都に伝えた。泰時は順徳院の皇子の即位が実現するようなことがあれば,退位させよという決意を,使者の安達義景に伝えたという。さて,土御門院の皇子は,幕府の推戴をうけ,仁治三年正月二十日元服して邦仁と名乗り,冷泉(れいぜい)万里(までの)小路(こうじ)殿(どの)(せん)()した。後嵯峨(ごさが)天皇である。」ということですから上横手雅敬『北条泰時』(吉川弘文館・1958年)197頁),鶴ヶ岡八幡宮の神意並びに承久三年における我ら人民の達成及びその保持の必要性に鑑みるに,「後嵯峨天皇の子孫がないときは」でよいのでしょう。後鳥羽院=順徳院系の皇位継承は,避けられるべきものでした。

 

  奥山のおどろが下も踏み分けて道ある世ぞと人に知らせん

 

 なお,19471013日の皇室会議の議による同月14日の伏見宮系11宮家の皇籍離脱に係る昭和天皇の叡旨はいかんといえば(これら両日には,実は昭和天皇は長野県及び山梨県を行幸中でした(実録第十486-499頁)。),19461227日公布の明治40年皇室典範増補の改正(同皇室典範増補1条が「王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムルコトアルヘシ」から「内親王王女王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ臣籍ニ入ラシムルコトアルヘシ」に改められました。)について19461229日に伊勢の皇大神宮において勅使掌典室町公藤が奏した祭文には「今し国情の推移に伴ひ内親王王女王にして臣籍に入るへき途を広むるはむへくも有らぬ事となもおもほしきこしめし今回皇室典範増補の規定に改正を加へ其か事を制定さだめ給ひぬ」とあったところからみると(同書262頁。また,神武天皇山陵,明治天皇山陵及び大正天皇山陵にもそれぞれ奉告されています。),当該皇籍離脱は飽くまでも「国情の推移に伴」う「已むへくも有らぬ事」であって,皇考大正天皇の子孫以外の皇族を皇統から除かむとすなどという後醍醐天皇的に積極的ないしは苛烈なものではなかったようです(昭和22年法律第3号の第11条の手続においては天皇の意思表示は不要である建前ですので,昭和天皇もやや気楽に甲信の秋を楽しめたものでしょう。)。(これに対して,19471013日の皇室会議の議長たりし内閣総理大臣片山哲は,我が国史的には,華府ならぬ鎌倉の指令に従った承久三年夏の京都における北条泰時・時房的立場に置かれたものというべきなお当該皇室会議皇族議員出席二方高松親王秩父親王親王妃た(議案全会一致可決)。秩父高松絶家っていす。親王194672日の皇族討論会において「皇族の特権剥奪に対する批評の如き言辞は慎むよう」兄の昭和天皇から「仰せ」を受けており,その場で「御討論」(兄弟げんかということでしょう。)になっていましたが(実録第十155頁),19471013日には沈黙を守っておられたものでしょう。

 

(2)1810年スウェーデン王位継承法の前例

 王位継承問題に係るベルギー国憲法86条的解決の前例としては,スウェーデン王国の議会が議決し国王カール13世が裁可した同王国の1810926日王位継承法を考えるべきでしょうか。同法に基づき,同王国においては,1818年,ホルシュタイン=ゴットルプ王朝からベルナドッテ王朝への王朝交代がなされています。

ベルナドッテ朝の初代国王カール14世ヨハンは,元はフランスの一将軍であったジャン=バティスト・ベルナドットです。毎年12月,寒いストックホルムまでわざわざ出かけてベルナドッテ朝の王様からノーベル賞を貰って皆感謝感激するのですが,当該王朝には,その歴史にも由来にも,万世一系の神聖は全くありません。1763年に南仏ベアルンのポーで生まれたジャン=バティストは,同市で法律事務見習いをした後1780年に一兵卒として軍隊に入り,革命を経て累進,マルセイユの商人の娘であるデジレ・クラリーと1798年に結婚します(その翌年のクーデタでフランス共和国の政権を奪取したボナパルト第一執政は,彼女の元婚約者)。ベルナドット元帥は,1810年にスウェーデンの王太子。翌々1812年のロシア遠征の段階における元上司・フランス皇帝と元部下・スウェーデン王太子との関係は,次のように描かれています(長谷川哲也『ナポレオン~覇道進撃~第14巻』(少年画報社・2018年)134-136頁)。

 

  ベルティエ元帥  悪いニュースが〔中略〕スウェーデン王太子のベルナドットがロシアと密約を結んでおります

  ナポレオン1世 (あのくそ野郎/さっそく俺の敵に回ったか/イエナ・アウエルシュタット戦の時に銃殺しておくべきだった)

 

 余りお上品な人たちではないようです。

 ルイ16世らを血祭りに上げたフランス大革命を経て成り上がったベルナドットは,1810821日にスウェーデン議会によって王太子に選ばれていますが,その約2箇月前の段階においては,Ancien Régimeの粋・『ベルサイユのばら』のあの人物が,スウェーデンの王位をその近くから窺覦する者の一人として考えられていたようです。

 

  彼の敵は,この厚顔な封建貴族がフランスに復讐するためにみずからスウェーデン王となって国民を戦争に引きずりこもうとしている,と,ひそかに言いふらした。そして18106月にスウェーデンの王位継承者が急死すると,フェルセン名誉元帥がみずから王冠をつかまんがために毒を盛って片づけたのだという,とんでもない,危険なうわさが,わけのわからぬうちにストックホルムじゅうにひろがった。この瞬間から,革命のときのマリー・アントワネットとまったく同じように,フェルセンは人民の怒りに生命をおびやかされることとなった。このため,いろんな計画のたてられていることを知っていた好意的な友人たちは,埋葬の日に強情なフェルセンに警告して,葬式には出ないで用心深く家にいた方がいいとすすめた。しかしこの日は620日,フェルセンの神秘的な運命の日である〔1791620日にルイ16世一家のヴァレンヌ逃亡事件発生〕。〔略〕儀装馬車が(やかた)を出るか出ないかに,たけり狂う(ママ)民の一団が軍隊の警戒線を突破し,こぶしを固めて,白髪の老人を馬車から引きずり出し,防ぐすべもない彼をステッキや石で打ち倒した。620日の幻像はここに実現されたのである。マリー・アントワネットを断頭台に連れて行ったのと同じ,狂暴でどうもうな分子に踏みにじられて,「美しいフェルセン」,最後の王妃の最後の騎士の死体は,血を流し,見るも無残なすがたとなってストックホルムの市役所の前に横たわっていた。(ツワイク,関楠生訳『マリー・アントワネット』(河出書房・1967年)440-441頁)

 ベルナドッテ王朝は,気さくで人懐っこいというべきでしょうか。万世一系の我が皇室が苦難の中にあった19461128日,「これより先,スウェーデン国皇帝グスタフ5世より,皇孫ヴェステルボッテン公グスタフ・アドルフの皇子イェムトランド公カール・グスタフ誕生去る430を報じる510日付の親書が寄せられ,この日答翰を発せられる。これは終戦後初めて外国元首から送られた親書にて,聯合国最高司令部を経由して送付された。また答翰についても,最高司令部の検閲があるため,開封のまま外務省に送付される。なお,この答翰は平仮名混じり口語体とされ,初めて「当用漢字表」及び「現代かなづかい」が用いられた。」(実録第十244頁)ということがありました。1946430日生まれのイェムトランド公は,現在のカール16世グスタフ国王です。1945429日の天長節に際しても「スウェーデン国・満洲国・アフガニスタン国・タイ国の各皇帝,並びに中華民国国民政府主席代理より祝電が寄せられ,それぞれ答電を発せられる。なお,ドイツ国総統からの祝電はこの日の時点において到着なく,電信連絡も途絶状態にあり。」ということで(宮内庁『昭和天皇実録 第九』(東京書籍・2016年)656頁),グスタフ5世は義理堅いところを見せていました。昭和天皇がお下品に「あのくそ野郎/さっそく俺の敵に回ったか」とジャン=バティスト・ベルナドットの子孫について独白することは全くあり得なかったわけです。 

4 同君国関係

 ベルギー国憲法871項も面白いですね。

 大日本帝国憲法下でも「天皇が同時に或る外国の君主として,2箇国又は数箇国に君臨したまふことも,憲法上敢て不可能ではない。同君国関係には偶然の同君関係(Personal Union)と法律上の同君関係(Real Union)との2種が有る。前の場合には,日本とその外国との間には何等の法律上の関係も無く,唯2国が同一君主を戴いて居るといふだけに止まるもので,仮令それが起り得るとしても,日本の憲法には何の関係も無い。後の場合は,2国(時としては数国のことも有り得る)間の条約に依り永久に2国とも同一の君主を戴くことを約するものであり,此の如き条約を結ぶことは固より憲法(第13条)上の天皇の大権に依るものであるが,併しその条約に基き天皇が外国の君主として行はせたまふところは,外国の憲法に依るのであつて,日本の憲法には関しない,それは外国の統治権であつて,全く日本の統治権ではない。法律上の同君関係の場合には,単に同君であるばかりではなく,之に伴うて一定の範囲に於いて政務を共同にすることを約するのが通常で,此の場合にはその共同の政務に関しては両国の合同の意思に依つて之を処理することを要し,随つてその共同の機関を設くることが必要であるが,此の共同の機関を如何に組織するかも,亦日本の憲法に依つて定まるものではなく,専ら両国間の協定に依つて定まるものであり,その共同政務の処理に関しても日本の憲法は適用せられない。日本の憲法は日本の単独の統治権に関する規定で,此の場合は憲法以外に,共同的の統治権が成立するのである。」ということでした(美濃部・精義98-99頁)。

しかし,19108月の条約は,大日本帝国と大韓帝国とは後嵯峨天皇の子孫たる同一の君主(条約発効時には睦仁天皇兼皇帝)を戴くことを約す,というものではありませんでした。(すなわち,大韓帝国の国璽・皇帝御璽等(大韓国璽,皇帝之宝,勅命之宝2種,制誥之宝,大元帥宝,内閣之印及び内閣総理大臣章)は,無慈悲に破壊・亡失されることはなく大日本帝国の宮内省に保管されていましたが(実録第十170頁参照),使用される機会はなかったところです。これらは,GHQを通じて返還されたものの,大韓国璽等は朝鮮戦争の際亡失したそうです。

 閑話休題。

 

5 王朝選択の重要性

 ベルギー国憲法95条に関して,例のトニセン本(「大日本帝国憲法19条とベルギー国憲法(1831年)6条」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1038090379.html)に次のような一節があります。

 

   この場合,事は新王朝の開基に(de fonder une dynastie nouvelle)かかわるので,受任者の選任という形で,少なくとも間接的に選挙民団(le corps électoral)の意思が問われるべきこと(soit consulté)が至当(juste)である。国家の命運(les destinées du pays)は,君臨する一族(la famille régnante)の徳及び智(des vertus et des lunières)に大きくかかっているのである。(Thonissen, J.J., Constitution Belge annotée, offrant, sous chaque article, l’état de la doctrine, de la jurisprudence et de la législation; Hasselt, 1844. p.227)

 

「国家の命運は,君臨する一族(famille)の徳及び智に大きくかかっている」のです。「日本では,君主政というと「上御一人の支配」のごとく考え,目を君主にのみ注いでしまう」が,世襲君主制が前提とする基礎的事項は,君主は「支配王朝(dynasty)の所属者,すなわち「王族」であること」であって,「君主制政体を,君主の支配政体であるよりも王朝の支配政体と考えるが故に,これが「第一主義」とされ」,「「王族」とされるための条件の確定が,憲法上「之ニ次グ」重要性をもつ」(小嶋・女帝58-59頁)という西洋流の思考の片鱗がここにあります。

 

6 人臣摂政の憲法問題

 

(1)QUI REGIT IN INTERREGNO

なお,ベルギー国憲法95条の暫定的な摂政職は,レオポルド・ジョルジュ・クレティアン・フレデリック・ド・サクス・コブールを初代の王とする王朝の子孫が絶えてしまったときに設けられるものですから,王族ではなく(王族が残っていれば即位すべきです。),我が藤原良房から二条斉敬までの先例同様,人臣が就くものでしょう。

なるほど。我が国でも政権の粗相で皇位の安定的継承が確保できず,古事記の清寧天皇伝(清寧天皇は雄略天皇の子)の伝える「此〔清寧〕天皇,無皇后,亦無御子。〔略〕故,天皇崩後,無可(あめのした)(しらし)天下之王也(めすべきみこなかりき)。」というような状況になった場合は,当時採られた()(こに)(ひつ)日継所知之(ぎしらしめすみこを)(とふに)市辺忍歯別(いろも)忍海(おしぬみの)郎女,(またの)(なは)飯豊(いひとよの)王,坐葛城忍海之高木角刺宮也(かつらぎのおしぬみのたかきのつのさしのみやにいましましき)。」飯豊(いひとよ)(あをの)(みこと)(倉野憲司校注『古事記』(岩波文庫・1963年)195頁・300頁)の例のように女性皇族の摂政で暫時凌いで(ただし,昭和22年法律第31713号から6号までは,摂政就任可能女性皇族を皇后,皇太后,太皇太后,内親王及び女王に限っています。)顕宗=仁賢=武烈的新王朝の出現を待つべし,女性皇族も不在となれば人臣摂政でいくべし,ということでよいのでしょうか。

摂政については,明治皇室典範19条(昭和22年法律第316条に対応)の解説において『皇室典範義解』は「本条は摂政を認めて摂位を認めず。以て大統を厳慎にするなり。」と述べていますが,空位時に摂位を行うRegentは認めないといい得るのは,万世一系の建前により「皇統の全く絶ゆることは,わが憲法の予想しないところで」あるとともに,明治皇室典範10条が「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定して「皇位の一日も曠闕すべからざるを示し」ているからでしょう(『皇室典範義解』。また,昭和22年法律第34条)。現実に空位が生じてしまえば,必要に応じて,摂位的摂政も認められざるを得ないはずです。なお,「摂位トハ皇位曠シキガ故ニ一時仮ニ皇位ヲ充タシ正常ナル皇祚定マルヲ待ツヲ謂」います(美濃部・撮要237頁)。

先の大戦における我が同盟国たりしハンガリー王国においても,人臣摂政による摂位がされていました。

 

 〔19401121〕 日独伊三国条約にハンガリー国加盟日本時間1120日午後730につき,同国摂政ホルティ・ミクローシュと祝電を交換になる。(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(東京書籍・2016年)242頁)

 

(2)日本国憲法5条

ところで,最終手段としての人臣摂政を可能にするためには,摂政就任資格者を皇族に限定している昭和22年法律第3号の第17条を改正しなければなりません。

 

ア 日本国憲法5条の「皇室典範」の法的性質

そこで,念のため,日本国憲法5条を見てみると,同条も難しい。「皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは,摂政は,天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には,前条第1項の規定を準用する。」とあって,「国会の議決した」なしに「皇室典範」が裸で出て来ます。この「皇室典範」は,皇室の家法として,国会の関与なしに天皇によって裁定され得るものなのでしょうか。そうであると,明治典憲体制的でなかなか由々しい。しかし,ここでの一般的説明は,日本国憲法2条で「国会の議決した皇室典範」とあるので皇室典範は今や法律であり,したがって同5条の皇室典範も法律なのだ,というものでしょう。

いやいや皇室典範も複数あり得て「国会の議決しない皇室典範」も存在し得るのではないですか,という反論が許されないのは,皇位継承及び摂政設置に関する条項を含めて,皇室典範は「皇室典範」という題名の単一の法典として制定されていなければならないのだ(したがって法的性質も同一),皇室典範事項をばらばら分けて複数の法典にしてはならないのだ,という暗黙かつ強固な前提があるからでしょう(これに対して,Kaiserliche Hausgesetzeが複数であり得ることについては,小嶋和司「ロエスレル「日本帝國憲法草案」について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)58頁参照)。そうであると,皇室典範は単一の法典でなければならない,という当該要請は憲法的なものとなります。天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)においてわざわざ昭和22年法律第3号の附則に「この法律の特例として天皇の退位について定める天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)は,この法律と一体を成すものである。」との呪文的第4項が加えられたのは,日本国憲法5条の「皇室典範」の法律性を確保するためでもあったものでしょう。なお,日本国憲法5条がGHQの米国人らをクリアしたのは,同条の英文は“When, in accordance with the Imperial House Law, a Regency is established…”であるので,ここの定冠詞付きの“the Imperial House Law”は第2条の“the Imperial House Law passed by the Diet”を承けたものでございます,との説明が可能だったからでしょうか。

 

イ 皇室典範事項について規定するものたる法律が定め得る内容の範囲

さて,人臣摂政の可能性なのですが,普通の法律ではなく,皇室典範事項について規定するものたる法律によって摂政の設置について定める以上は,皇室典範事項という枠をなお尊重して,摂政は皇室の家法の適用されるべき者(皇族)でなければならないという憲法的要請までをも日本国憲法5条の「皇室典範」との文言に見出すべきものかどうか。19211125日の「朕久キニ亙ルノ疾患ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルヲ以テ皇族会議及枢密顧問ノ議ヲ経テ皇太子裕仁親王摂政ニ任ス茲ニ之ヲ宣布ス」との詔書の副署者は,牧野伸顕宮内大臣及び高橋是清内閣総理大臣でしたが(宮内庁『昭和天皇実録 第三』(東京書籍・2015年)525頁),これは摂政の設置は「大権ノ施行ニ関スル」ものではなく,「皇室ノ大事」であったことを示しています(公式令(明治40年勅令第6号)12項参照)。確かに,明治皇室典範35条は「皇族ハ天皇之ヲ監督ス」と規定していたところ,同36条は「摂政在任ノ時ハ前条ノ事ヲ摂行ス」と規定し,同条について『皇室典範義解』は「(つつしみ)て按ずるに,摂政は大政を摂行するのみならず,兼て又皇室家父たるの事を摂行す。故に,皇族各人は摂政に対し家人従順の義務を有すべし。と解説していました。明治皇室典範19条に関しても『皇室典範義解』は「摂政は天皇の天職を摂行し,一切の大政及皇室の内事皆天皇に代り之を総攬す。而して至尊の名位に居らざるなり。」と述べています(下線は筆者によるもの)。

しかし,天皇が不在であり,かつ,皇族も不在となって摂政も不在となれば,天皇又は摂政が行うものと日本国憲法の定める国事に関する行為を行う者がいなくなり,国家として不便でしょう。そうであれば,摂政に関する皇室典範事項について国会の立法権があえて及ぶ以上,「皇嗣発見」までの期間における人臣による摂政事務管理に関する規定を憲法改正によらず法律の制定の形で行いおくことも許されるもの()そもそも明治皇室典範21条に関して『皇室典範義解』は,「而して本条皇后・皇女に摂政の権を付与するは,(けだし)上古以来の慣例に遵ひ,且摂政其の人を得るの道を広くし,人臣に下及するの漸を(ふさ)がむとなり。」と述べており,皇族摂政たり得る者がいなくなれば,やむを得ず摂政職が「人臣に下及」することもあり得るものと考えられていたものでしょう((ぜん)は,ここでは「いとぐち」の意味でしょう(『角川新字源』1978年))。)。「已ヲ得ザル事実上ノ必要ハ明文ノ定ムルモノナシトスルモ尚必然ニ国法ノ認容スル所ト認メザルベカラズ」です(美濃部・撮要245頁参照)。人臣主導の機関たる皇室会議の設置も既に昭和天皇の裁可せられたところです(皇室会議については,1946920日に昭和天皇が皇族及び王公族に語ったところによると「国政の問題」であるところです(実録第十186頁)。皇室会議は,皇家の機関ではなく,六波羅探題的な国家の機関であるということなのですね。)


(3)日本国憲法4条2項

 摂政の話をしてしまうと,つい国事行為臨時代行についても調べてみたくなります。

監国という言葉があります。「天子が征伐などで都をはなれるとき,皇太子が代理で国政を統べること」です(『角川新字源』)。『皇室典範義解』は,明治皇室典範19条解説において,「(もし)天皇一時の疾病違和又は国彊の外に(いま)すの故を以て,皇太子皇太孫に命じ代理監国せしむるが如きは,大宝令「以令(りやうをもつて)(ちよくに)(かへよ)」の制に依り,別に摂政を置かず(欧洲各国亦此の例を(おなじ)くす)。」と述べています。「監国ハ摂政ト異ナリ勅命ニ依リ其ノ任ニ就クモノニシテ,摂政ガ法定代表ノ機関ナルニ反シテ監国ハ授権ニ基ク代表機関ナリ。」,「監国ハ大権ヲ代表スル機関ナルヲ以テ摂政ニ準ジテ皇太子皇太孫ヲシテ之ニ当ラシムルヲ正則トシ,皇太子皇太孫ナキトキ又ハ未成年ナルトキハ皇位継承ノ順序ニ従ヒ他ノ皇族ヲシテ其ノ任ニ就カシムルヲ当然ト為スベシ。」,「憲法及皇室典範ニ別段ノ規定ナシト雖モ,是レ摂政ヲ置クベキ場合ニ非ズシテ而モ天皇大政ヲ親ラスル能ハザル故障アル場合ナルヲ以テ,一時大権ヲ代行スベキ機関ヲ置クコトハ缺クベカラザル事実上ノ必要ナリ。其ノ憲法ノ禁止スル所ニ非ザルコトハ明瞭であると美濃部達吉は説いています(美濃部・撮要245-246頁)。(なお,これに対して上杉慎吉は,「憲法の規定以外に自由に所謂る監国を置きて大権の行使を委任することを得ざるもの」との監国不可論を主張していました(上杉慎吉『訂正増補帝国憲法述義』(有斐閣書房・1916年)269頁)。)

 現在では,国事行為の臨時代行に関する法律(昭和39年法律第83号)による国事行為臨時代行が,監国に相当することになるようです(同法2条参照)。

 しかしながら,天皇を代表し「摂政ニ準」ずる機関ならば1964428日の参議院内閣委員会において高辻正巳政府委員(内閣法制次長)も「摂政の場合と実は行為の性格は同じようになります」と答弁しています(46回国会参議院内閣委員会会議録第284頁)。),天皇の国事に関する行為の委任による臨時代行についても皇室典範で定められるべきであって(日本国憲法5条前段),単なる法律で定められること(同42項)はおかしい,ということになりそうです(上記委員会における「これは単独の国事行為の臨時代行に関する法律ということでなく,〔憲法〕第5条の皇室典範の改正ということでもいいのじゃないのですか。」との山本伊三郎委員の問題意識です(同頁)。)

 この点,実は,GHQ草案33項において“The Emperor may delegate his functions in such manner as may be provided by law.”と規定されており,1946620日の帝国議会提出案においては「天皇は,法律の定めるところにより,その権能を委任することができる。」との文言であった日本国憲法42項は,当時の政府の考えによれば,監国に直接かつ積極的に関係する規定とは必ずしも考えられてはいなかったようなのでした。

 19464月の法制局の「憲法改正草案に関する想定問答(第2輯)」においては,「権能委任は,一般的に又は個別的に何れも差支へなきや」との問いに対し,「大体左様であります。然し一般的といひましても例へば第7条第2号なり第3号なりを全部委任してしまふが如きは予想して居りません。/而して天皇の例へば外国旅行中一般的に権能委任者を置き得るか否か,例へば監国の如き制度を設け得ることが出来るか否かは,必ずしも否定出来ないのでありますが,かかる場合には寧ろ摂政制度を活用すべきものではないかと考へて居ります。」との回答が準備されていました(抹消線は原資料鉛筆書き)。監国制度に対応するものと前向きかつ素直に受け取られていません。同年5月の法制局の「憲法改正草案逐条説明(第1輯)」には「本条第2項には更にこの権能が法律の定める所により内閣その他の機関に委任されることを定めて居るのであります。/従来と雖も例へば三級事務官の任免等のやうに大権事項に関して一部委任が認められて居りましたが,それは憲法を俟たずして行はれて居たものでありますが,本条はその根拠を憲法上明かに規定したのであります。/この委任の範囲は明かにはされて居らず従つて全部委任も亦認められるかの様でありますが,天皇の象徴たる御地位に不可分に伴ふ権能まで一括委任することは許されぬ所と解すべきであります。」と記されています。同年6月の法制局「憲法改正案に関する想定問答(増補第2輯)」では「元来第4条第2項の規定は,かりにこれがないとしても,委任はできるはずである。しかるにこの規定を置いたのは,事が重大であるからであるが,同時に天皇の大権の特殊性〔略〕に鑑み,その委任につき法律で定める必要があることを明らかにするためであると考へられる。差当り〔略〕委任の限度は法律で明定されることとならう。」との記述が見られます。行政庁間の委任のイメージです。法律が必要であって,勅旨ないしは政令その他の命令に基づく委任は認められない,ということでしょう。「国事行為の中の比較的軽度であり,しかも相当頻度が高いというようなものにつきまして〔特定の事項を限って〕,天皇が一定の機関に対して権能を授与してその行為を行わせる」場合です(第46回国会参議院内閣委員会会議録第284頁(高辻政府委員))

 その後,1964年に国事行為の臨時代行に関する法律が単独の法律として制定されることとされて,昭和22年法律第3号の改正という形にならなかったことについては,「皇室典範に規定しても間違いとは言えないと思」われつつも,「憲法の4条の2項で委任することができる」ことには国事行為の臨時代行に関する法律が考えている監国的なことも正に含まれるので,「第4条第2項の「法律の定めるところにより,」というふうに出ておりますので,やはりこれは単独の法律で第4条第2項の「法律(ママ)定めるところにより,」の法律として立案するのが適当であろうというふうに考えた」のだとの説明が政府からされるに至っています(第46回国会参議院内閣委員会会議録第284頁(高辻政府委員))。はしなくも憲法42項によって,監国関係事項は皇室典範事項から外れて国会立法専管事項に移管されたものと解されるのだあっさりと単独の法律として立法した方が皇室典範の改正の在り方という問題との関係で余計な議論をせずに済んでよいのだ,ということになったということでしょうか。

 なお,日本国憲法42項の法律を活用して,当該法律をもって制度的に,天皇の行う国事行為の範囲を絞ることができるかといえば,そうはならないようです。つとに19466月の法制局「憲法改正案に関する想定問答(増補第2輯)」において,「法定委任はみとめられない。これは,天皇が親ら委任することができるといふ趣旨に規定してある文理上からも明白である。又,天皇の大権と無関係に成立する法律で,憲法上天皇に帰属させた大権事項を,第三者の手に実際上任せてしまふことは,憲法の精神からも承服しかねる。」との解釈が準備されていました。

 

7 三種の神器その他の由緒物の管理に関する問題

 

(1)皇位継承なき天皇崩御の場合における由緒物の行方

ところで,天皇又は摂政が行うものと日本国憲法が定める国事に関する行為をどうするかの問題より先に,天皇の私有財産としての「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」(三種の神器を含む。)に関する相続問題が起こりそうです。

皇室経済法(昭和22年法律第4号)7条は,「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。」と規定しています。これは民法の分割相続原則に対する例外を定める規定のようなのですが,天皇崩御の際皇位継承がされない場合においては,民法の原則にやはり戻って,皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,大行天皇の配偶者(同法890条)と女系卑属(同法887条)又は直系尊属(同法88911号)若しくは姉妹(同項2号)若しくは姉妹の子たる甥姪(同条2項)との間で共同相続されて,各物件は共同相続人間の共有物となるのでしょう(同法898条・899条)。しかして,当該相続において皇嗣ではない方々によって相続せられた「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」は,相続税法(昭和25年法律第73号)1211号の「皇位とともに皇嗣が受けた物」には該当しないことになるので,相続税の課税価格に算入されます。

 

(2)三種の神器と民法897条と

 三種の神器は,民法8971項の祭具に該当するのでしょう。「祭具とは,祖先の祭祀,礼拝の用に供されるもの(位牌,仏壇,霊位,十字架やそれらの従物など)」(谷口知平=久貴忠彦編『新版注釈民法(27)相続(2)(補訂版)』(有斐閣・2013年)82頁(小脇一梅・二宮周平)),あるいは「位牌・仏壇その他祖先を祭る用に供するもの。〔旧〕民事訴訟法第570条第10の「神体,仏像其他礼拝ノ用ニ供スル物」よりも――祖先を祭るためのものに限定されるから――狭いと解されている。」とされています(我妻榮=立石芳枝『親族法・相続法』(日本評論新社・1952年)411頁(我妻))。祭具は動産であるものと想定されているようです。

宮中三殿については,これらは不動産でしょうし,系譜にも墳墓にも該当しないでしょうから,民法897条の適用はなさそうです。系譜は「歴代の家長を中心に祖先以来の系統(家系)を表示するもの」であり(谷口=久貴82頁(小脇=二宮)),墳墓は「遺体や遺骨を葬っている設備(墓石・墓碑などの墓標,土葬のときの埋棺など)」であって「その設置されている相当範囲の土地(墓地)は,墳墓そのものではないが,それに準じて同様に取り扱うべきものであろう」とされています(同頁)。

相続税法1212号は,墓所,霊廟及び祭具並びにこれらに準ずるものは,相続税の課税価格に算入されないものとしています。

天皇崩御の際皇位継承がされないとき(皇室経済法7条が働かないとき)には,祭具たる三種の神器の所有権は誰に移転するのでしょうか。

まず,祖先の祭祀を主宰すべき者に係る大行天皇による指定があれば,それによります(民法8971項ただし書)。民法上,指定の方法及び被指定者の資格については,「被相続人が指定するその方法は,生前行為でも遺言でもよく,また,それらは口頭,書面,明示,黙示のいかんを問わず〔略〕,いかなる仕方によるも指定の意思が外部から推認されるものであればよい。被指定者の資格についても別段の制限はない(通説)。」とのことです(谷口=久貴84頁(小脇=二宮))。そもそも祭祀財産の承継者は,「必ずしも被相続人の親族関係者殊に相続人にかぎらず,かつまた,同氏者たるを要しない」ところです(同頁)。

しかし,三種の神器の承継者の指定は,正に祖先の祭祀を主宰すべき天皇の祭祀大権を承継すべき者の指定でしょう(なお,祭祀大権については「大日本帝国憲法下における祭祀大権の摂政による代行に関して」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060801001.htmlを参照)。「国政に関する権能を有しない」はずの天皇が(日本国憲法41項後段),そのような際どい指定行為をしてよいのか,との懸念が生じないものでしょうか。上皇から今上天皇への「贈与」(天皇の退位等に関する皇室典範特例法附則7条参照)がせられたときと同様に済ますわけにはいきません(なお,「三種ノ神器と天皇の退位等に関する皇室典範特例法案要綱とに関して」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065923275.html参照)。しかし,飽くまでも単なる財産の授受関係と見れば,皇室内限りであれば(皇位の継承がないときですから,被指定者たり得る皇族として残っている方々は,皇后,太皇太后,皇太后,親王妃,内親王,王妃若しくは女王又は上皇若しくは上皇后ということになります。),日本国憲法8条の国会の議決という形で臣民が容喙すべきものではないようではあります。

被相続人による指定に次ぐ祭祀財産承継者決定の方法に係る民法8971項本文の「慣習」は,「祭祀財産承継の問題の起こっているその地方の慣習あるいは被相続人の出身地の慣習またはその職業に特有の慣習などである」そうです(谷口=久貴85頁(小脇=二宮))。しかし,三種の神器の承継に係る慣習(すなわちこれは祭祀大権を伴うところの皇位の継承に係る慣習ということになります。)が確立していれば,皇位の継承もそれに従って安定的にされるはずですが,皇位の安定的継承の方法が議論の対象になっているということは,そもそもそのような確立した慣習がないということでしょう。

祖先の祭祀を主宰すべき者に係る被相続人による指定もなく,慣習も明らかではないときは,系譜,祭具及び墳墓の所有権の承継者は家庭裁判所が定めます(民法8972項)。この家庭裁判所による承継者指定の基準については,「「承継候補者と被相続人との間の身分関係や事実上の生活関係,承継候補者と祭具等との間の場所的関係,祭具等の取得の目的や管理等の経緯,承継候補者の祭祀主宰の意思や能力,その他一切の事情(例えば利害関係人全員の生活状況及び意見等)を総合して判断すべきであるが,祖先の祭祀は,今日もはや義務ではなく,死者に対する慕情,愛情,感謝の気持ちといった心情により行われるものであるから,被相続人と緊密な生活関係・親和関係にあって,被相続人に対し上記のような心情を最も強く持ち,他方,被相続人からみれば,同人が生存していたのであれば,おそらく指定したであろう者をその承継者と定めるのが相当である」とする(東京高決平18419判タ1239289〔略〕)」のが判例であるそうです(谷口=久貴87頁(小脇・二宮))。しづなる庶民感覚をもってされてしまう裁判ということになりましょうか。

民法897条で解決がつかない場合には,「特別の規定が用意されていないので,普通の相続財産と同様に,相続人もいなければ,最後は国庫に帰属すると解すべきであろう」とされています(谷口=久貴84頁(小脇・二宮))。

 

(3)「由緒物法人」案

皇位の継承はされず,大行天皇は祖先の祭祀を主宰すべき者の指定をしておらず(遺言もなく),慣習も明らかではなく,東京家庭裁判所(家事事件手続法(平成23年法律第52号)1901項・民法883条)に対する承継者指定の審判の申立てがされるような関係者の不穏な動きもないときは,結局三種の神器も法定相続されるようです。そうなると,後になって「皇嗣発見」があったとき,新天皇は果たして無事かつ円滑に三種の神器その他の皇位とともに伝わるべき由緒ある物を大行天皇の相続人(並びに更にそれらの方々の相続人及び由緒物の即時取得主張者等々)から回復できるものかどうか。

あるいは用心のため,皇室経済法に次のような規定を加えおくべきでしょうか。

 

  第7条の2 天皇が崩じた時に皇嗣が明らかでないときは,前条の物(以下「由緒物」という。)は,法人とする。

  第7条の3 前条の場合には,家庭裁判所は,検察官の請求によって,由緒物の管理人を選任しなければならない。

  第7条の4 民法(明治29年法律第89号)第955条の規定は,第7条の2の法人について準用する。

  2 民法第27条から第29条まで,第952条第2項及び第956条第2項の規定は,前条の由緒物の管理人について準用する。この場合において,同法第27条第1項及び第29条第2項中「不在者の財産の中から」とあるのは「国庫から」と読み替えるものとする。

 

万世一系ですから,皇嗣が不存在であるとき(「皇嗣のあることが明らかでない」場合に含まれます。)という事態は観念上許されないのでしょう。

飽くまでも私物の管理の問題ですので,内閣総理大臣,宮内庁長官その他の行政官庁を煩わすべきものでもないのでしょう。特に,由緒物には宗教的な物が含まれているところが剣呑です。

管理人の選任の公告(民法9522項)の趣旨が「一つには,相続財産上に利害関係を有する者に対し,この「管理人ニ対シテ必要ナル行為ヲ為スノ便」を与えるためで,もう一つは,相続人捜索の第1回の公告を意味しており,「若シ相続権ヲ有スル者アラバ,此公告ヲ見テ速ニ其権利ヲ主張スルノ便」を与えるため(梅〔謙次郎『民法要義巻之五(相続編)』(有斐閣・1900年)〕246-247)」ならば(谷口=久貴694頁(金山正信=高橋朋子)),この場合,当該公告規定の準用は,本来は不要でしょう。皇嗣にあらざるにもかかわらず由緒物について利害関係を有する旨主張する者(大行天皇の債権者又は大行天皇から由緒物の賜与若しくは遺贈を受けた者であると主張するもの,ということになりましょうか。)にわざわざ便宜を与える必要はないでしょうし,「皇嗣発見」のために,現代の忠臣小楯は既に活発な活動議論を行っているであろうからです。とはいえ,人民の相続に関する手続においては公告がされることが,畏き辺りでは公告されない,というのも変ではあります。

皇嗣が明らかになったときには法人は存立しなかったものとし,しかもなお管理人の権限内の行為は効力を失わないものとする「技巧」を用いるのは,「あまり優れた立法技術といえない」わけです(我妻=立石534頁(我妻))。しかし,由緒物に係る所有権の相続による移転という建前を維持すれば,折角の相続税法1211号の規定を生かすことができるでしょう。

由緒物の管理の費用は,由緒物を消尽散逸させてはならないということで国庫から出すことになるのでしょうが(由緒物の拝観料を取ってそれで支弁しろなどというのも不謹慎だとお叱りを受けるのでしょう。),本来ならば内廷費から出ていたものなのでしょうから,その分皇室経済法施行法(昭和22年法律第113号)7条などに必要な修正が施されるものでしょう。

    


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1 承久三年の宇治川渡河戦

 当ブログにおける今年(2017年)最初の前々回の記事(「カエサルのルビコン川渡河の日付について」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1063677215.html)においては,共和政から帝政に向け古代ローマの歴史を大きく変えた紀元前49年のカエサルによるルビコン川の渡河について書きました。

 となれば渡河つながりで,我が国の歴史を大きく変えたものとして一番重要な渡河は何であっただろうかと考えれば,公家の世から武家の世に向かう歴史の流れの節目となった承久の変における,承久三年(1221年)六月十四日に敢行された北条泰時率いる鎌倉方の軍勢による宇治川渡河こそがそれでありましょうか。


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宇治橋から宇治川上流方向を望む(京都府宇治市)


  明けて十四日の宇治川合戦も必ずしも幕軍に有利ではなかった。〔その前日,「足利義氏・三浦義村は,泰時に連絡せず宇治に進出した。そのため京方の猛反撃をうけて死者続出,平等院(京都府宇治市)にたてこもり,栗子山(宇治市西南部)の泰時に援軍を求めた」ところです。〕ここ〔宇治〕は近江から山城への要衝で京方の抵抗もきびしかった。泰時はこの日,元服の際〔建久五年(1194年)〕に〔源〕頼朝から与えられた剣を帯びていた。泰時の命により芝田兼義,春日貞幸,佐々木信綱等が敵前渡河を試みた。・・・

  京方の激しい抵抗と,宇治の急流〔前夜は豪雨〕に,幕軍の犠牲はおびただしかった。泰時は「味方の敗色濃く,今や大将の死すべき時。河を渡り軍陣に命を棄てよ」と〔数え年〕十九歳になる子の時氏〔経時及び時頼の父〕に命じた。三浦泰村らも渡河を試みた。泰時は黙然として,不利な戦局を見詰める目も血走っていた。京方には勝ち誇る気色があった。「あたら侍共を失い,わが身一人残り止っても益なし。運尽きた今は死あるのみ」と意を決した泰時は,自ら乗馬して渡河しようとした。これを留めたのは〔春日〕貞幸であった。・・・そして宇治川先陣の殊勲は佐々木信綱に輝いた。〔なお,佐々木信綱が先か芝田兼義が先だったかは,勲功調査において問題となったところです。〕

  抗戦をしりぞけ幕軍は遂に宇治川渡河に成功した。その夜泰時は,深草河原(京都市伏見区)に陣取った。・・・(上横手雅敬『北条泰時』(吉川弘文館・1958年)3739頁)

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201711月撮影)暑苦しい関東武者の勲功争いは,一時お上の預りです。なお,「『平家物語』に有名な佐々木高綱(信綱の叔父)と梶原景季の先陣争いは,〔承久三年の佐々木・芝田間の〕この事件を素材として作り上げたものだという説」(上横手48頁)を筆者は採用しましょう。
 

承久の変の戦後処理は,「在位わずか七十余日〔承久三年四月二十日「即位」(児玉幸多編『日本の歴史 別巻5 年表・地図』(中央公論社・1967年)469頁)〕の天皇は廃位され(当時は九条廃帝,または半帝とよばれ,明治時代になって初めて仲恭天皇とおくり名された)〔承久三年七月九日「譲位」,同日後堀河天皇「践祚」(児玉編108頁)〕,後鳥羽上皇の兄(ぎょう)(じょ)法親王の子が新たに天皇の位をついだ〔同年十二月一日即位(児玉編469頁)〕。後堀河天皇である。・・・」ということになりました(石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』(中央公論社・1965年)380頁)。

仲恭天皇は,臣下によって廃位されたというわけです。

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京方が陣取った宇治川右岸にあるモニュメント。さすがに京方は(みやび)す。

ここで用語法について一言しておくと,君主がその意思表示に基づきその位を去ることを退位(Abdankung)といい,君主に当該意思表示が無いにもかかわらずその位から去らしめられることを廃位(Absetzung)ということにしましょう。『岩波国語辞典 第四版』(1986年)においては,「退位」は「帝王が位を退くこと。」と,「廃位」は「君主をその位から去らせること。」と定義されています。

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常楽寺(鎌倉市大船)にある北条泰時の墓 
(北条泰時は仁治三年(1242年)「六月十五日亥刻(午後10時)に永眠した。享年六十歳。死因は過労の上に,赤痢を併発したためという。」(上横手199頁)宇治川渡河戦の勝利の翌日入京してから奇しくも21年目の当日でした。)
 

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常楽寺山門


 
2 皇統における仲恭天皇の位置等


(1)明治三年に諡号が追贈された三天皇:弘文,淳仁及び仲恭 

明治三年七月二十三日(1870年8月19日)に弘文天皇,淳仁天皇及び仲恭天皇の諡号が追贈されています。しかし,現実に皇位についてはいたものの怖い太上天皇(孝謙=稱德女帝)によって廃位されたということが明らかな奈良時代の淳仁天皇はともかくも,7世紀天智天皇の崩御後の皇位争いにおいて大海人皇子(天武天皇)に敗れた弘文天皇(太政大臣大友皇子)及び鎌倉時代の仲恭天皇については,皇位についていたこと自体がはっきりしていなかったのではないでしょうか。

(2)牧野伸顕宮内大臣の懸念及び考査対象からの除外:弘文天皇及び仲恭天皇 

大正時代,皇統譜令案の施行を全うするために必要な史実を明確にするために1924年3月7日に設置された臨時御歴代史実考査委員会に対して,同年4月21日に牧野伸顕宮内大臣から諮問事項が示されたところですが,その際牧野宮内大臣から同委員会の伊東巳代治総裁に対して,「弘文・仲恭両天皇に関しては,すでに御歴代に数え,皇霊殿に奉祀されているため,今更問題にすべからざることなどの指示があった」そうです(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)547549頁)。これは,反対解釈すると,「今更問題にす」ると,弘文・仲恭両天皇についてはやはり皇位についていなかったという結論となることが十分あり得るということが宮中自身の認識であったということでしょう。

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 弘文天皇陵(滋賀県大津市)

(3)『神皇正統記』における仲恭天皇:日嗣にくはへたてまつられざる廃帝 

仲恭天皇の皇統における位置付けについて,現在はともかく,承久の変から百二十年ほど後の当時における公家知識人の認識はいかん。

 

 廃帝。諱は(かね)(なり),順徳の太子。御母東一条院,藤原立子(のりつこ),故摂政太政大臣良経(のむすめ)也。

 承久三年春の比より〔順徳〕上皇おぼしめしたつことありければ,にはかに譲国したまふ。順徳御身をかろめて合戦の事をも(ひとつ)御心にせさせ給はん御はかりことにや,新主に譲位ありしかど,即位登壇までもなくて軍やぶれしかば(ははかたの)(をぢ)摂政道家の大臣の九条の(てい)へのがれさせ給。三種(さんしゅの)神器をば閑院の内裏にすて((お))かれにき。譲位の後七十七ヶ日のあひだ,しばらく神器を伝給しかども,日嗣にはくはへたてまつらず(イ﹅)(とよ)の天皇の(ためし)になぞらへ申べきにこそ。元服などもなくて十七歳にてかくれまします。北畠親房(岩佐正校注『神皇正統記』(岩波文庫・1975年)152頁。下線は筆者)

 

北畠親房はその『神皇正統記』において,「第八十四代,(じゅん)(とくの)院。」,「第八十五代,()堀河(ほりかわの)院。」と記していて北畠149頁,154頁),その間仲恭天皇はスキップされています(なお,何の位の第何代かといえば,神武天皇が「(にん)(わう)第一代」とされていますから(北畠45頁),順徳天皇は人皇第84代,御堀河天皇は人皇第85代ということになります。人皇の前は(あま)(てらす)(おほ)(みかみ)以下地神(ちじん)五代です北畠29頁,44頁)。ちなみに,前記伊東巳代治の臨時御歴代史実考査委員会には牧野宮内大臣から附帯事項として「皇統譜中太古ノ神系ハ之ヲ神武天皇ノ前ニ特書スベキヤ否」について参考意見が求められたところ(『昭和天皇実録 第四』548頁),同委員会の意見は積極だったようで,旧皇統譜令(大正15年皇室令第6号)39条は「神代ノ大統ハ勅裁ヲ経テ大統譜ノ首部ニ登録スヘシ」と規定しています。)。

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 仲恭天皇陵(京都市伏見区)

(4)『神皇正統記』における淳仁天皇:人皇第四十七代たる淡路廃帝 

淳仁天皇についてはさすがに,北畠親房によっても「第四十七代,淡路廃(あはぢのはい)(たい)一品(いつぽん)舎人(とねりの)親王の子,天武の御孫也。・・・(つちのえ)(いぬの)年即位。/天下を治給こと六年。事ありて淡路国にうつされ給き。三十三歳おましましき。と記されて北畠8990頁),人皇第47代にしっかりカウントされています。

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 淳仁天皇を祭る白峯神宮(京都市上京区)

(5)飯豊天皇:日嗣にはかぞへたてまつられざる「女帝」 

仲恭天皇というよりは九条廃帝ないしは半帝がその「例になぞらへ申すべき」ものとされた飯豊の天皇とはだれかといえば,清寧天皇と顯宗(けんぞう)天皇(在位期間は宮内庁ウェッブ・サイトの「天皇系図」によればそれぞれ西暦480年から484年まで及び同485年から487年まで)の間「しばらく位に居給」うた「天皇」であるそうです。すなわち,清寧天皇の後は本来顯宗の「御(このかみ)仁賢(まづ)位に(つき)(たまふ)べかりしを,〔仁賢・顯宗の兄弟は〕相共に(ゆづり)ましまししかば,同母の御姉飯豊(いひとよ)の尊しばらく位に居給き。されどやがて顯宗定りましまししによりて,飯豊天皇をば日嗣にはかぞへたてまつらぬなり。」ということです(北畠69頁)。伊藤博文の『皇室典範義解』における明治皇室典範1条(「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」)の解説には「飯豊(いひとよ)(あをの)(みこと)政を摂し清寧天皇の後を承けしも,亦未だ皇位に即きたまはず。」とあります(同じく『皇室典範義解』における明治皇室典範19条解説では,「飯豊青尊の摂政に居たまへるは此れ〔「君祚を仮摂」〕に近し。」とあり,「人臣を以て大政を摂行」する「摂政」とは異なるものとされています。)。推古天皇以来女帝の例もあったのですから,現在の女帝可不可論の問題は別にして,仲恭天皇を歴代天皇に数えることにしたのならば飯豊天皇飯豊青尊代に列せしめることにしてもよかったように思われますが,どうでしょうか。とはいえ,吉野の長慶天皇を1926年に皇代に列した際には「宮内大臣一木喜徳郎は,御歴代大統中に御一代を加えることは皇室の大事にして,詔書を以て宣誥せらるべきもの」とし,同年1021日に摂政宮裕仁親王により詔書が出されていますが(『昭和天皇実録 第四』549550頁),「皇室ノ大事ヲ宣誥」するための詔書(公式令(明治40年勅令第6号)1条1項)という形式は現在もそのようなものとしてあるものかどうか。

(6)順徳天皇・後堀河天皇間における「空位」の意味等 

ところで,『神皇正統記』の記載から窺われる,承久三年四月二十日に順徳天皇が退位し同年七月九日に後堀河天皇が践祚するまでは実は皇位は空位であったことにしよう,という整理ないし事件処理は,敢えて絶妙であったというべきでしょう。関東の東夷どもが人民の分際であるにもかかわらず畏れ多くも現在の天皇を廃位申し上げてしまったのだなどというスキャンダラスな事態(美濃部達吉は,大日本帝国憲法3条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」との規定に関して,「日本ではその固有の歴史的成果として古来既に久しく認められて居た」原則であり,当該原則によれば「既に践祚あつた後に於いては,如何なる事由の起ることが有つても・・・皇位を廃することは法律上絶対に不可能」,「天皇の廃位は絶対に不可能」と強調しています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)115頁,118頁,120頁)。)は,実は我が光輝ある国史においてはなかったのだ,北条義時・泰時父子は,天皇OBの後鳥羽上皇・順徳上皇父子の勢力と争ったものではあるが,現役の天皇に対して刃向かったものではないのだ,空位期間だったのだ,すなわち明治大帝が大日本帝国憲法発布の勅語において畏くも確認しておられるように,日本国民の祖先は全て飽くまでも一貫して,天皇たる「祖宗ノ忠良ナル臣民」であったのである,ということになり得るからです。だからこそ北畠親房も安心して承久三年の宇治川渡河戦の勝利者にして京都への乱入者である北条泰時をほめ,「大方泰時心ただしく(まつりこと)すなほにして,人をはぐくみ物におごらず,公家の御ことをおもくし,本所のわづらひをとどめしかば,風の前にちりなくして,天の下すなはちしづまりき。かくて年代をかさねしこと,ひとへに泰時が力とぞ申伝ぬる。」と記すことができたのでしょう(北畠156頁)。

承久の変の際仲恭天皇はなお満3歳に満たない幼児であらせられました。物心もついておられたものかどうか。飯豊青皇女は自ら政を摂したとのことですが,仲恭天皇の場合はそれもなかったわけです。また,意思能力も有しておられなかったわけで,退位の意思表示は無理だったわけでしょう。摂政が天皇を代理して,退位の意思表示をするわけにもいかなかったでしょう。しかも当時は人臣摂政の時代。ちなみに, 仲恭天皇の摂政であった九条道家は, 次代鎌倉将軍予定者たる三寅(頼経)の実父でもありました。

なお,源平合戦期に後白河法皇が後鳥羽天皇を立てた際安德天皇は同法皇によって廃位されたのかどうかが問題になり得,前記臨時御歴代史実考査委員会には牧野宮内大臣から附帯事項として「安德天皇ノ御在位年数後鳥羽院天皇登極ノ時期ハ如何ニ定ムベキカ」についても参考意見が求められていたところ(『昭和天皇実録 第四』548頁),「記載は原則として皇統譜に基づく」ものとされる宮内庁ウェッブ・サイトの「天皇系図」によれば,第81代の安德天皇は壇ノ浦の戦いの西暦1185年まで在位していたものとされている一方,第82代の後鳥羽天皇は平家都落ちの同1183年から在位していたものとされています。治天の君たる後白河法皇といえども,二人目の天皇を立てることはできても現天皇を一方的に廃位することはできなかった,ということでしょうか(なお, 時代は近いもののまた別の話ですが,当時3歳児であらせられた第79代六条天皇から第80代高倉天皇(安徳天皇の父, その中宮は平清盛の娘である徳子)への「譲位」の有効性については,そもそも問題にされていないようです。)。承久の変後,高倉天皇の皇子である行助法親王が後高倉院として院政を始めましたが,その後高倉院にとっては,後白河法皇は余り手本にしたくはない祖父だったかもしれません(平家都落ち後の新天皇選びの際後高倉院は後白河法皇に気に入られずに践祚できなかったとも伝えられています(代わりに弟の後鳥羽天皇が践祚)。すなわち,現役の天皇がなお在位しているのに,治天の君があえて新天皇を践祚させるというあくの強いなしざまの際の一種の被害者であった者としては,自ら同様のことはしたくはなかったことでしょう。)。他方,孝謙太上天皇による淳仁天皇の廃位はどう考えるべきかということについては,「太上天皇とは・・・律令の規定では,天皇と同じ待遇と政治的権限を有していた」ところであり,かつ,「8世紀においては,まだ権力を天皇一人のみに集中させることはできず,太上天皇や皇后・皇太后など,2~3名の皇族による権力の分掌体制が残っていたのである。」ということ(大隅清陽「君臣秩序と儀礼」大津透=大隅清陽=関和彦=熊田亮介=丸山裕美子=上島享=米谷匡史『日本の歴史08 古代天皇制を考える』(講談社・2001年)65頁,66頁)並びに,つとに淳仁天皇在位中の「天平宝字六年(762)六月孝謙上皇は,「政事は,常の(まつり)へ。国家大事賞罰(もと)(われ)天皇さい賞罰国家大事宣言ていと(丸山裕美子天皇祭祀変容大津218頁)などを参考にすべきでしょうか。

 

3 我が国史における皇位に係る空位の存否

しかし,我が国の皇位に空位期間があってよいものでしょうか。『皇室典範義解』の明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)の解説は「本条は皇位の一日も曠闕すべからざるを示」すと記しています。

しかしこれは,明治皇室典範以降のことであって,万古不易の定則ではなかったところです。

美濃部達吉も「皇位の継承には何等の時間の経過なく,先帝位を去りたまふ瞬間は即ち新帝の践祚したまふ瞬間であり,皇位は寸毫の間隙も無く連続する。此の原則も亦純粋の意義に於いての世襲主義から生ずる当然の結果である。」と唱えつつも,「日本の歴史に於いても,例へば清寧天皇崩ずるの後皇嗣定まらざること3年に及び,その間飯豊青皇女が政を摂せられたやうな例も有る。」という事実は認めざるを得なかったところです(美濃部103頁)。

そもそも前記臨時御歴代史実考査委員会には宮内大臣から附帯事項として「天智天皇持統天皇ノ称制年間ハ御在位中ト見ルベキヤ否」及び「我国古代ニ於ケル皇位継承ノ際ノ空位ハ之ヲ如何ニ取扱フベキカ」についても参考意見が求められていましたが(『昭和天皇実録 第四』548頁),宮内庁ウェッブ・サイトの前記「天皇系図」によれば,結局皇位継承に当たって空位期間が生じることはあり得べきことであったものとされています。第37代の齊明天皇の在位は西暦661年までであるのに対して第38代の天智天皇の在位は同668年から始まったことになっており,かつ,第40代の天武天皇の在位は同686年で終わったものとされる一方第41代持統天皇の在位は同690年から始まったものとされています。他方,古代最初の皇位継承があった神武天皇と綏靖天皇との間で早速空位期間(西暦紀元前585年と同581年との間)が生じています。また,第14代の仲哀天皇の在位期間は西暦200年までとされているのに対して第15應神天皇の在位期間は同270年から始まったことになっていて,その間の空位期間は極めて長い。『神皇正統記』では,仲哀天皇と應神天皇との間のこの長い期間において「第十五代」として神功皇后が人皇の位にあったこととされています(北畠57頁)。承久の変後にも,1242年,第87代四条天皇と第88代後嵯峨天皇との間には「空位期間12日」(上横手197頁)がありました(皇子のないまま突如崩御した四条天皇(後高倉院の孫)の後は承久の変に関与していなかった土御門天皇の皇子である後嵯峨天皇(後高倉院の大甥)が践祚すべき旨は,鎌倉の鶴ケ岡八幡宮の神意として鎌倉から京都に伝えられ,その際,北条「泰時は順徳院の皇子の即位が実現するようなことがあれば,退位させよという決意を,使者の安達義景に伝えた」そうであるところ(上横手197頁),ここでうっかり「皇位は一日も曠闕すべからず」などとしてお公家さんらが間の悪い順徳上皇(なお佐渡で存命)の皇子を勝手に践祚させていたならば承久三年の二の舞。空位に効用があったわけです。)。そもそも,第121代孝明天皇の在位期間が西暦1866年までとされ,第122代明治天皇の在位期間が同1867年から始まったものとされているのは,実に明治時代の直前まで皇位継承に当たって空位期間が生ずることが容認されていたということでしょうか(なお,孝明天皇の崩御日は慶応二年(十一月二十五日まで1866年)十二月二十五日ではありますが,グレゴリオ暦では1867年1月30日になります。)。

1887年3月20日の伊藤博文邸における高輪会議に提出された柳原前光の「皇室典範再稿」第39条柱書きには「空位又ハ左ノ事項ニ関シ天皇政ヲ親ラスル能ハサル間ハ摂政一員ヲ置クコト神功皇后以来ノ例ニ依ル」とあったところ,同会議の決定によって「空位」が削られていますから(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」同『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)193頁),「皇位の一日も曠闕すべからざる」原則も,同会議において初めて決定されたものでしょう(伊東巳代治も当該会議に出席していました。)。(なお,柳原前光は神功皇后を摂政の原型としていましたが,「本朝には應神うまれ給て襁褓にましまししかば,神功皇后天位にゐ給。しかれども摂政と申伝たり。これは今の儀にはことなり。」(北畠107頁。下線は筆者)という認識の存在を前提とすれば,天皇が皇位にあることを前提とした摂政を説明するのに適当な先例であったとはいえないでしょう。「神功皇后ヲ皇代ニ列スベキヤ否」は前記臨時御歴代史実考査委員会に対し1924年4月21日に諮問された事項の第一であり,その答申は皇代に列せざるを可とすだったのですが(『昭和天皇実録 第四』548‐549頁),換言すれば,神功皇后の皇統中の位置付けは,大正時代の末まではっきりしていなかったということです。)

 

4 「国政に関する権能を有しない」ことと天皇の退位の意思

日本国憲法4条1項は「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」と規定していることから,国事行為の臨時代行に関する法律(昭和39年法律第83号)に基づく天皇によるその国事に関する行為の委任における天皇の意思の位置付けが問題になり得ます(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)139頁参照)。当該委任及びその解除について,天皇の意思が実質的に働く余地が認められるのか認められないのか。天皇の国事行為の委任及びその解除には内閣の助言と承認が必要とされているところ(国事行為の臨時代行に関する法律2条,3条),国事に関する行為の委任もまた国政に関することであるとして天皇の意思が実質的に働く余地が認められないということでしょうか,そうであるのならば,その延長で,天皇の意思に基づく退位(国事行為の臨時代行の委任よりも極めて重大な行為です。)は認められないことになるのでしょうか(2017年1月1日に毎日新聞ウェッブ・サイトに掲載された野口武則記者の記事によると「政府は,〔今上〕天皇陛下に限り退位を認める特別立法に関し,退位の要件として「天皇の意思」は書き込まない方針を固めた。・・・内閣法制局は天皇の意思を退位の要件とすることは「憲法改正事項になる」との見解を示しているという。・・・法制局は,天皇の意思による退位を法律で明記すると・・・天皇が政治に影響を及ぼす可能性が残るとする。」ということですが,この「政府方針」は,同様の消極解釈に基づくものでしょう。)。それともやはり,退位となると次元の異なる場面であるということで,ベルギー国憲法の解釈(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060127005.html)に倣って,究極的には天皇個人の決断に基づく退位が認められるものかどうか。

天皇の退位の意思表示を要件とせずに天皇をその位から去らしめることは,これはもはや退位ではなく廃位であるといい得るように思われます(無論,言葉の問題に過ぎないということであれば,そうなのでしょう。)。国会においてみんなで決めた法律である退位特例法によるのだからよいのだ,廃位特例法などと変な言い方で言うのはやめろ,和を尊べ,と言われても,天皇には国会議員の選挙権はありませんから,そこでの「みんな」に含まれておられるものと直ちに解し得るものかどうか。また,英国とは異なり,現行憲法下,天皇には名目的にも立法に係る裁可権はありませんから,1936年のエドワード8世のように,自分の意思に基づく裁可によって自らを王位から去らしめる法律を制定したという形にもなりません。(なお,園部逸夫『皇室法概論』(第一法規・2002年)462頁は,「天皇の自由意思によらない廃立であっても,象徴性・世襲制に反しない場合もあり得ないとは言えず,直ちに違憲とは考えない。」と述べています。美濃部のような廃位ダメ絶対論は,飽くまでも,天皇の神聖不可侵を規定する大日本帝国憲法3条があってのものである,ということになるのでしょう(「諸国の立憲主義憲法は「国王の身体は〔原文は傍点〕不可侵」とするにとどまる。この体制において廃位の考えられるこというまでもないが,明治憲法第3条は意図してこれを避けたのである。」との指摘があります(小嶋和司「再び天皇の権能について」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』(木鐸社・1988年)118頁)。)。「廃立」とは,『岩波国語辞典 第四版』によれば,「臣下が勝手に今の君主をやめさせて別人を君主にすること」です。)

 

5 北条義時の最期

仲恭天皇を廃位したものではない建前とはなった模様である北条義時でしたが,承久の変の後3年で急死しています。「吾妻鏡では脚気の上に霍乱をわずらって死んだとあるが,保暦間記四には「元仁元年〔1224年〕六月十五日義時思ひの外めしつかひける若侍に突き殺されける」と述べて,承久の乱における身の業因の然らしめるところで「とりわきかかるむくい」と覚えて恐ろしい限りだと評している。」とのことです(北畠233頁(岩佐正の補注))。ただし,「六月十五日」は承久の変における鎌倉方の入京日なので,日付には作為があるのかもしれません。一般には義時の死亡日は六月十三日と伝えられています(上横手58頁)。義時の死因には上記の近侍による殺害説のほか,妻による毒殺説もありますが,「・・・上皇を配流したり,道徳的には道ならぬ事の限りをつくしたこのあくの強い人物の死については・・・噂こそが真実だったのかもしれない。」とされています(上横手60頁)。

 山の端に隠れし人は見えもせで入りにし月はめぐり来にけり 泰時

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北条義時の墳墓堂たる法華堂の跡地(鎌倉市。源頼朝の墓の東)

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義時法華堂とは別にインターネット情報の伝える「義時やぐら」(義時法華堂跡から更に東。向かって右側の穴がそれであるようです。)

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(承久三年の勝報を受けて「今ハ義時,思フ事ナシ。義時ハ,果報ハ,王ノ果報ニハ猶勝リマイラセタリケレ」(上横手41頁における『承久記』からの引用)とまでの揚言をあえてした北条義時も空しくなりました。)   

 

6 ロマノフ王朝の最期

しかしながらそもそも,今年(2017年)から百年前のロシア革命のことを思えば,王家に生まれた者にとっては,退位の自由や践祚拒否の自由があったとしても,詮無いことかもしれません。革命騒擾の中,グレゴリオ暦1917年3月15日にロシア帝国の皇帝ニコライ2世は退位宣言に署名して帝位を弟のミハイル大公に譲り,同大公は翌同月16日に帝位を拒否してロマノフ王朝は終焉を迎えましたが,このように降りかかる火の粉を払い,火中の栗を避けてはみたものの,ニコライもミハイルも,結局,ボルシェヴィキによる虐殺の赤い魔の手からは逃れることはできなかったところです。1918年7月17日にニコライとその家族はエカテリンブルクで皆殺しにされ,ミハイルもその前に殺されています。

 
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1891年5月11日に発生した大津事件の現場(滋賀県大津市)

大津では助かったニコライも,エカテリンブルクでは助かりませんでした。ボルシェヴィキは,津田三蔵よりも上手(うわて)


弁護士 齊藤雅俊

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大志わかば法律事務所

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1 「譲位の慣例を改むる者」の強行規定性の有無

 明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)に関する前回のブログ記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.html)においては,同条に関する伊藤博文の『皇室典範義解』の解説(「本条に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はるゝ者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」(宮沢俊義校註『憲法義解』岩波文庫(1940年)137頁))をもって,同条及び現在の皇室典範(昭和22年法律第3号)4条には「天皇の生前譲位を排除する趣旨」があるものとあっさり記しました。しかしながらよく考えるとその先の問題として,「譲位の慣例を改むる」ことによって,実際に天皇が「退位」した場合(「・・・花山寺におはしましつきて御髪おろさせたまひ・・・」)に退位によってもはや天皇ではなくなるという法律効果までも無効になるものかどうか,なお議論の余地があるようです。

(なお,「譲位」というと皇嗣に皇位を譲るという先帝の意思の存在及び更には当該先帝の意思と皇位を譲られる皇嗣の意思との合致が含意されるようでもありますが,「退位」ならば先帝の単独の行為であり,かつ,皇嗣に皇位を譲る効果意思を必ずしも含まないものとするとのニュアンスがより強いようです。美濃部達吉は「皇位ノ継承ハ法律行為ニ非ズシテ法律上当然ニ発生スル事実ナリ」と述べていますが(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)183頁),皇位継承は天皇の効果意思に基づくものではないということでしょう。)

譲位を慣例とはしないということのみであれば,「例外的」譲位は有効にあり得るようにも思われます。明治皇室典範の性格に関して『皇室典範義解』は「祖宗国を肇め,一系相承け,天壌と与に無窮に垂る。此れ(けだし)言説を仮らずして既に一定の模範あり。以て不易の規準たるに因るに非ざるはなし。今人文漸く進み,遵由の路(かならず)憲章に依る。而して皇室典範の成るは実に祖宗の遺意を明徴にして子孫の為に永遠の銘典を(のこ)す所以なり。」と説いていますが(岩波文庫127頁),従来多くの天皇が行った生前譲位を有効と認める以上は,生前譲位は「不易の規準」に反して本来的に無効であるということにはならないでしょう。そもそも明治皇室典範については「既に君主の任意に制作する所に非ず。」とされていますから(『皇室典範義解』岩波文庫127頁),従来有効であった生前譲位ないしは退位を明治天皇の「任意に制作する所」の強行規定をもって1889年2月11日以降無効化したとまでいい得るものでしょうか。『皇室典範義解』の説明文は,退位の有効性を前提としつつも,あえて生前に退位はしないという「上代の恒典」への運用の復帰を求めているものというようにも解することができそうです。そう考えて明治皇室典範10条を見ると,確かに同条の文言自体は,それだけで退位有効論を完全に排除するものとまではいえません。また,現在の皇室典範の法案が審議された1946年12月の第91回帝国議会においても,政府は天皇の「退位」はおよそ無効であるとまでは答弁していません。同議会における金森徳次郎国務大臣の答弁の言葉尻を見てみると,「・・・天皇に私なし,すべてが公事であるという所に重点をおきまして,御譲位の規定は,すなわち御退位の規定は,今般の典範においてこれを予期しなかった次第でございます。」(第91回帝国議会衆議院議事速記録第6号67頁),「・・・かような〔天皇の〕地位は,その基本の原則に照して処置せらるべきものでありまするが故に,一人々々の御都合によつてこれをやめて,たとえば御退位になるというような筋合いのものではなかろうと思うのであります」(同議会衆議院皇室典範案委員会議録(速記)第4回20頁),「退位の問題につきましては,相当理論的にも実際的にも考慮すべき点が残されておるように思うのでありまして・・・」(同26頁),「・・・或はお叱りを受けるか知りませんが,まずそういう場面〔「天皇が自発的に退位されたいという場合」,「天皇が希望される婚姻をどうしても皇室会議が承認できないというような場合」〕が起らないように,適当に事実が実質において調節せらるゝものであろうということを仮定をして,この皇室典範ができておるわけでありまして・・・」(同33頁),「・・・しかして国民はかような場合におきまして,御退位のあることを制度の上に書くことは希望していない,かように考えます」(同33頁),「事実としてそういう考え〔「象徴の地位におられることを欲しないという精神作用」〕が起るかどうかということにつきましては,歴史の示す所は,事実としてかような考えが起つておることを認め得るがごとくであります,しかし事実ではない,かくあるべきものとしての姿としてそれを認めるかどうかということになりますれば,私自身の見解から言えば,日本の皇位は万世一系の血統を流れるものである,しかもそれは一定の原理に従つて流れるものであるということを前提として,憲法はこれを掲げております,従つてそれを打切ることはできないものであると,かように考えております」(34頁),「・・・細かい理窟を抜きに致しまして,国民は矢張り御退位を予想するやうな規定を設けないことに賛成をせらるゝのではなからうか,斯う云ふ前提の下に皇室典範の起草を致しました・・・」(同議会貴族院議事速記録第6号88頁)等々,生前退位はあるべきものではないとしつつ,そこから先は,「予期しなかった」ということで,必ずしも詰めてはいなかったようです。 

 

2 1887年3月20日の高輪会議再見

 伊藤博文,井上毅,柳原前光らの1887年3月20日の高輪会議(憲法案に係る同年1015日のものとは異なります。)において柳原前光の「皇室典範再稿」12条(「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」)が削られるに至った過程について,前回のブログでは,伊藤博文の削るべしとの首唱に柳原が「迎合」したと書きました。しかしながら,柳原前光は,何の考えもなしに伊藤に対して単純に迎合したわけではなかったようです。

柳原は「但書ヲ削除スルナレハ寧ロ全文ヲ削ルヘシ」と言っています。肥後人井上毅の「人間だもの」論(「至尊ト(いえども)人類ナレハ其欲セサル時ハ何時ニテモ其位ヨリ去ルヲ得ベシ」)くらいでは生前退位を排除しようとする長州藩の足軽出身の権力者・内閣総理大臣伊藤博文の翻意は無理と見て取った京都の公家出身の柳原は,「但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」として退位を容認することとしていたただし書のみならず,「天皇ハ終身大位ニ当ル」として終身在位を制度化する本文も併せて削られることを確保することとして,生前退位容認論と終身在位制度化論との間での法文上でのいわば相討ちを図ったのではないでしょうか。

高輪会議後の1887年4月25日に伊藤に提出された柳原の「皇室典範草案」では,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」との高輪会議決定案10条が二つの条に分割され,当該「皇室典範草案」を検討して井上毅が作成した「七七ヶ条草案」においても「第10条 天皇崩スル時ハ皇嗣即チ践()ス」及び「第11条 皇嗣践()スル時ハ祖宗ノ神器ヲ承ク」とされ崩御による践祚についての規定と践祚の際(先帝の崩御によるものに限定はされていません。)の剣璽渡御についての規定との別立て維持されていました。結局両条は再統合されますが,生前退位容認論者であったの立法技術的操作には,それなりの含意があったというべきでしょう。
 なお,「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」と規定する大日本帝国憲法2条に関する『憲法義解』の解説は,「恭て按ずるに,皇位ノ継承ハ祖宗以来既に明訓あり。以て皇子孫に伝へ,万世易ふること無し。若夫継承の順序に至つては,新に勅定する所の皇室典範に於て之を詳明にし,以て皇室の家法とし,更に憲法の条章に之を掲ぐることを用ゐざるは,将来に臣民の干渉を容れざることを示すなり。」というものです(岩波文庫25頁。下線は筆者によるもの)。井上毅が書いたものとして,新たな明治皇室典範は専ら皇位「継承の順序」を「詳明」にすべきものであって,継承の原因等は依然「祖宗以来」の「明訓」のままでよいのだという趣旨まで深読みしてよいものかどうか。はてさて。 


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 東京都港区高輪四丁目の伊藤博文高輪邸宅地跡(1889年,岩崎久弥に売却)
 

3 『皇室典範義解』の拘束力の射程

 現在の皇室典範4条の文言(「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」)は,剣璽渡御に関係する明治皇室典範10条後段を削ったことによって,むしろ井上毅の「七七ヶ条草案」10条と対応するものになっています。(なお,法文からは削られたもののやはり必要な儀式ということでしょうが,今上天皇践祚に当たって「剣璽等承継の儀」が新天皇の国事行為として行われています。これは先帝が崩じたから伝統的な意味での践祚をするために行われたものか,皇嗣が既に「直ちに即位」したから行われたものか。)

明治皇室典範10条に係る『皇室典範義解』の解釈に過度に拘束されずに,現在の皇室典範4条は,単に「皇位ノ継承ハ法律行為ニ非ズシテ法律上当然ニ発生スル事実」であること(また,「皇位の一日も曠闕すべからざる」こと(『皇室典範義解』岩波文庫137頁)),皇位継承に新天皇の宣誓(例えば,1831年のベルギー国憲法80条2項は「国王は,両議院合同会の前で,厳粛に次の宣誓をするまでは,王位につくことができない。/「余は,ベルギー国民の憲法および法律を遵守し,国の独立および領土の保全を維持することを誓う。」」と規定していました(清宮四郎訳『世界憲法集 第二版』(岩波文庫・1976年)89頁)。)は不要であるということ,先帝崩御は皇位継承をもたらす一つの法律事実であること,を意味するものにすぎないと解することは可か不可か。

 大日本帝国憲法と『憲法義解』との関係について,小嶋和司教授は,「『憲法義解』は法源ではないが,政府の憲法解釈を拘束した」が,大日本帝国憲法の「わずか4人の起草関係者の間に存した・・・解釈の対立は,それが法の指示においてさえ完璧でなかったことを断定せしめる」ところ,「今日,明治憲法典の起草趣旨を簡単に知る方法として『憲法義解』の参照がおこなわれる」が「しかし,それが叙述しないか,叙述を不明確にしている場合に,起草者は問題を知らなかったとか看過したと断定してはならない。それ〔は〕学問的には怠惰な即断となる」と述べています(小嶋和司「明治二三年法律第八四号の制定をめぐって」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)441頁,440頁)。明治皇室典範ないしは現在の皇室典範と『皇室典範義解』との関係も,同様に考えるべきでしょう。そう簡単ではありません。ちなみに,『皇室典範義解』における明治皇室典範10条解説の結語である「本条に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はるゝ者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」は,高輪会議の前月である1887年2月段階における井上毅の「皇室典範」案13条の「説明」案に「本条ハ実ニ上代ノ恒典ニ因リ断シテ中古以来ノ慣例ヲ改ムル者ナリ」とあったものを(園部逸夫『皇室法概論』(第一法規・2002年)438頁参照)承けたものでしょう。しかしながら,当の井上自身は当該理由付けをもって例外を許さないほど強いものとは評価していなかったところです。その上記「皇室典範」案13条は生前譲位についても定めているのです。いわく,「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ノ重患アルトキハ皇位継承法ニ因リ其位ヲ譲ルコトヲ得」と(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』185‐186頁参照)。明治皇室典範10条に関する『皇室典範義解』の解説について奥平康弘教授は「譲位制度はよろしくなく,「上古ノ恒典」に戻るべきであるとする説明に『皇室典範義解』は,十分に成功していないというのが,私の印象である。」と述べていますが(同「明治皇室典範に関する一研究―「天皇の退位」をめぐって―」神奈川法学第36巻第2号(2003年)159頁),当該「印象」は,井上毅の立場からすると,むしろ正しい読み方に基づくものということになるのかもしれません。

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 東京都台東区谷中の瑞輪寺にある井上毅の墓

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 「病弱な井上は,その後〔1893年・第2次伊藤内閣〕文部大臣にもなったが,明治28年〔1895年〕に逝去し,はやく忘れられた。」(小嶋「明治二三年法律第八四号」442頁)

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 瑞輪寺山門の扁額は井上毅の揮毫したもの 

 
4 英国における特別法による国王退位

 しかしながら,事実として,国王による単独の法律行為としての退位は無効であるとする法制は可能ではあります。

英国がその例です。

エドワード8世は,19361210日に退位声明を発しましたが(いわゆる「王冠を賭けた恋」事件),当該退位が効力を発するためには議会及び国王による同月11日の立法を要しました。次に,19361211日の「国王陛下の退位宣言に効力を与え,及び関連する事項のための法律(An Act to give effect to His Majesty’s declaration of abdication; and for purposes connected therewith.)」を訳出します。

 

  国王陛下は,本年1210日の勅語(His Royal Message)において陛下御自身及びその御子孫のために王位を放棄する不退転の御決意(irrevocably determined)である旨声明あそばされ,並びに当該目的のために本法の別記に掲載された退位詔書(Instrument of Abdication)を作成され,並びにそれに対して効力が直ちに与えられるべき旨の御要望を表明されたところ,

  並びに,国王陛下の前記声明及び要望の海外領土に対する伝達を承け,カナダは1931年のウェストミンスター憲章第4節の規定に従い本法の立法を要求しかつそれを承認し,並びにオーストラリア,ニュー・ジーランド及び南アフリカはそれに同意したところ,

  よって,至尊なる国王陛下により,現議会に召集された聖俗の貴族及び庶民の助言及び承認によりかつそれらと共に,並びに現議会の権威により,次のように立法されるべし。

  1(1)本法が裁可されたときに,現国王陛下が19361210日に作成した本法の別記に掲載されている退位詔書は直ちに効力を発し,並びにそれに伴い国王陛下は国王ではなくなり(His Majesty shall cease to be King),及び王位継承(a demise of the Crown)が生じ,並びにしたがって次の王位継承順位にある王族の一員が王位並びにそれに附随する権利,特権及び栄誉を承継する。

  (2)国王陛下の退位後には,陛下,もし誕生があればそのお子及び当該お子の子孫は,王位の継承において又はそれに対して何らの権利,権原又は利益を有さず,並びに王位継承法(Act of Settlement)第1節はそれに応じて読み替えられるものとする。

  (3)御退位後には,1772年の王室婚姻法は,陛下にも,もし誕生があれば陛下の子又は当該子の子孫にも適用されない。

  2 本法は,1936年の国王陛下退位宣言法(His Majesty’s Declaration of Abdication Act, 1936)として引用されることができる。

 

  別記

  

  余,グレート・ブリテン,アイルランド及び英国海外領土の王,インド皇帝であるエドワード8世は,王位を余自身及び余の子孫のために放棄する余の不退転の決意並びにこの退位詔書に直ちに効力が与えられるべしとの余の要望をここに宣言する。

  上記の証として,下記署名に係る証人の立会いの下,19361210日,ここに余が名を記したるものなり。

                           国王・皇帝 エドワード

  アルバート

  ヘンリー

  ジョージ

  の立会いの下,フォート・ベルヴェデールで署名

 

なお,英国の1689年の権利章典は,「ウエストミンスタに召集された前記の僧俗の貴族および庶民は,次のように決議する。すなわち,オレンヂ公および女公であるウィリアムとメアリは,イングランド,フランス,アイルランド,およびそれに属する諸領地の国王および女王となり,かれらの在世中,およびその一方が死亡した後は他の一方の在世中,前記諸王国および諸領地の王冠および王位を保有するものとし,かつその旨宣言される。王権は,公および女公双方の在世中は,王権は〔ママ〕,公および女公の名において,前記オレンヂ公が単独かつ完全に行使するものとし,公および女公ののちは,前記の諸王国および諸領地の王冠および王位は,女公の自然血族たる直系卑属の相続人に伝えられ」,「王権および王政は,両陛下とも在世のうちは,両陛下の名において,国王陛下のみによって,完全無欠に行使さるべきこと。両陛下とも崩御されたのちは,前記王位および諸事項は,女王陛下の自然血族たる直系卑属に帰すべきこと。」と規定しています(田中英夫訳『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)83‐84頁,86‐87頁)。議会によって,「在世中」(during their lives)は王位にあるべきもの(to hold the crown and royal dignity)とされ,法律となっています。
 エドワード8世の退位問題には昭和天皇が深い関心を持っていました。宮内庁の『昭和天皇実録第七』(東京書籍・2016年)の1936年12月4日の項には「侍従長百武三郎に対し,新聞報道されている英国皇帝エドワード8世に関する件につき,外務省とよく連絡を取り報告するよう命じられる。後刻,侍従長より,本日英国駐箚特命全権大使よりもたらされた情報として,同皇帝が米国人ウォリス・シンプソンとの御結婚に固執のため内閣と衝突状態にある旨の言上を受けられる。翌日午後,侍従長より,英国首相スタンリー・ボールドウィンの憲法上の理由により御結婚に反対する旨の声明につき言上を受けられる。また8日にも侍従長より,外務省からの情報の言上を受けられる。なお,エドワード8世は皇位放棄を決意され11日に御退位,皇弟ヨーク公がジョージ6世として皇位に就かれる。」とあります(240‐241頁)。立憲君主とその内閣とが衝突すれば,君主が引っ込まざるを得ないということでしょうか。ボールドウィンは,同月10日の英国庶民院における演説において"We have, after all, as the guardians of democracy in this little island to see that we do our work to maintain the integrity of that democracy and of the monarchy, which, as I said at the beginning of my speech, is now the sole link of our whole Empire and the guardian of our freedom."と述べています。『昭和天皇実録第七』の同月11日の項においては「午前,侍従長百武三郎が入手した英国皇帝エドワード8世の御退位に関する英国駐箚特命全権大使の電報を御覧になり,侍従長に対し,同皇帝御退位に関して発する電報の内容につき,式部職と連絡し処理するよう命じられる。13日,英国大使より外務省を経て新皇帝即位の公報到達につき,新皇帝ジョージ6世に対し祝電を御発送になる。なお,前皇帝御退位については触れられず,新皇帝即位に対する祝意のみを伝えられる。15日,答電が寄せられる。」と記録されています(244‐245頁)。

 

5 ベルギー国における憲法に規定のない国王退位の実例

大日本帝国憲法がその手本の一つとしたベルギー国憲法においては,明治皇室典範(及び現行の皇室典範)同様に崩御による王位継承に関する条項しかないにもかかわらず,同国においては国王の生前退位が認められています。

リエージュ大学教授クリスチャン・ベーレント(Christian Behrendt)及び同大学准教授フレデリック・ブオン(Frédéric Bouhon)の『一般国法学入門・教科書(Introduction à la Théorie générale de l’État. Manuel)』(Larcier, 2009年)には次のようにあります(138頁)。こちらの国では,国王の退位を有効ならしめるための立法までは必要としないようです。

 

 ベルギー法においては,国王の公的生活に係る全ての行為は,大臣副署の義務に服する。純粋に私的な行為のみが当該憲法規律に服さないところである。公的生活においては,退位が,大臣副署なしに国王が実現できる唯一の行為である。ベルギーの歴史において,レオポルド3世が,退位した(1951年7月16日)唯一の〔2013年7月21日のアルベール2世の退位前の記述です。〕国王である(註)。ベルギー国憲法が国王に対して退位する権利を明示的に認めていないとしても,そこでは条文の沈黙の中においても存在する権能(faculté)が問題となっていると考えることについて意見は一致している。もはや彼の務めを果たそうという気を全く失っている人物,又は――レオポルド3世が退く前がそうであったように――叛乱の雰囲気を醸成し,及び本格的内乱のおそれが国家の上に漂うことを許すまでに全国の国民を分極化せしめる人物を頭に戴き続けることは,実際のところ明らかに,国家の利益にかなうものではない。

 

(註)彼の退位詔書(acte d’abdication)は1951年7月1617日の官報(Moniteur belge)に掲載された。レオポルド3世が実際に退位した唯一の国王であるとしても,退位の権利の存在は,王国の始めに遡るようである。1859年に国王レオポルド1世は,彼の心に特にかかる事案に関して国会議員らに圧力を加えるために,退位に訴える旨威嚇した。当該君主は,本当に退位する気は恐らくなかったであろう。しかしながら,当該権利を有していることを彼が確信していたことは明らかである(ジャン・スタンジャ(Jean Stengers)『1831年以来のベルギー国における国王の行動 権力及び影響力(L’action du Roi en Belgique depuis 1831. Pouvoir et influence)』(第3版,ブリュッセル,Racine, 2008年)195頁参照)。ベルギー国王は退位する権限(prérogative)を有するという考えは,彼の息子のレオポルド2世の治下において更に確認された。1892年,深刻な消沈の際,当該国王は真剣に退位を考えたが,その後よりよい決意(à de meilleures résolutions)に立ち戻った(ジャン・スタンジャ・前掲書125頁参照)

 

 ド・ミュレネル(De Muelenaere)記者が2013年7月3日付けでベルギー国のLe Soir紙のウェッブ・ページに掲載した記事(“Abdication, comment ça marche?”)によると,同国における国王の生前退位から次期国王の即位への流れは次のようなものだそうです(同月のアルベール2世の生前退位及びフィリップ現国王の即位に関する予想記事)。

 

  1 首相によって査証された(visée)アルベール2世の退位宣言(Une déclaration d’abdication

  2 退位の日(7月21日)

  3 両議院合同会の前におけるフィリップの宣誓

  4 直ちに宣誓が行われれば「空位期間」は生じない。そうでない場合であっても,国王の憲法上の権限を内閣(le conseil des ministres)が確保するから,摂政の必要はない。

 

議会は新国王の宣誓(即位の効力要件)に立ち会うだけで,前国王の退位に効力を与えるための行為をすることはないようです。首相の「査証」と訳しましたが,これは憲法上の副署(contreseing)ではないわけです。退位宣言の詔書は,官報に掲載されたものでしょう。ド・ミュレネル記者によれば,前記のベーレント教授は「国王は退位詔書を作成し,当該詔書は決定の公式性(caractère public de la décision)を確保するために続いて官報に掲載されなければならない。」と述べていました。

 

6 ドイツにおける国王退位に関する学説など

 ベルギー国憲法の話が出たとなると,大日本帝国憲法のもう一つのお手本であったプロイセン憲法の話をせざるを得ません。19世紀のドイツ国法において国王の退位はどのように考えられていたものか。

ズーザン・リヒター(Susan Richter)及びディルク・ディルバッハ(Dirk Dirbach)編の『王位放棄 中世から近代までの君主政における退位(Thronverzicht: die Abdankung in Monarchien vom Mittelalter bis in die Neuzeit)』(Böhlau, 2010年)中のカロラ・シュルツェ(Carola Schulze)による論文「王権神授説からドイツ立憲主義までの法秩序観念における退位(Die Abdankung in den rechtlichen Ordnungsvorstellung vom Gottesgnadentum bis zum deutschen Konstitutionalismus)」には次のようにあります(68頁)。

 

  絶対王政の下では王室法(Hausgesetz)によってのみ規制された王位継承及び摂政の問題を,立憲国家は王室立法権(Hausgesetzgebung)から引き離し,憲法典(Verfassungsrecht)の領域に移管した。もっとも,憲法典に記載された君主の神聖不可侵性(Heiligkeit und Unverletzlichkeit)のゆえに,退位――及びそれと共に廃位(Absetzung)――は,ドイツ連邦諸国の国法自体においては明定されなかった(wurde…nicht fixiert)。したがって,国家元首としての君主の地位(Stellung des Monarchen als Staatsoberhaupt)及びその王位継承に関する規律との関連において退位の制度(das Rechtsinstitut der Abdikation)を定めてあった初期立憲主義憲法は存在しない。唯一,184812月5日の押し付けプロイセン憲法が,第55条において,国王が統治不能(in der Unmöglichkeit zu regieren)であるときは, 特別法によってそれらについて手当てされていない限りにおいて,次の王位継承権者又は王室法によりそれに代わる者が,合同会で摂政及び後見について第54条〔国王未成年の場合の摂政及び後見に関する規定〕に準じて定めるために両議院を召集する旨規定していた。当該規定は,改訂された1850年のプロイセン憲法にはもう既になくなっていたが,君主の統治不能は退位及び王位継承者に対する王位の移行の意味においても理解されるべきだ(auch im Sinne einer Abdankung und des Übergangs der Krone auf den Nachfolger zu verstehen ist)との確たる解釈を許すものであった。

     要するに,次のようにいうことができる。初期立憲主義諸憲法が退位について沈黙していたとしても,国民意識,国の歴史,学説の伝統又は思考の必然からして規範的地位(normativer Rang)を与えられていた19世紀の一般ドイツ国法において,退位は,正規の王位継承に対して補充的な(subsidiär)例外的王位継承の形式として(als Form der außerordentlichen Thronfolge)認められ,かつ,そのようにしてドイツ立憲主義の秩序観念中に位置付けられていたのである。

 

「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」だから譲位の規定はいらないのだ,とは伊藤博文の発想の源でもありました(「余ハ将ニ天子ノ犯冒スヘカラサルト均シク天子ハ位ヲ避クヘカラスト云ハントス」と高輪会議で発言しています。)。
 プロイセン国王ヴィルヘルム1世は議会との対立の中で退位を考えましたし,その孫ヴィルヘルム2世は第1次世界大戦の最終段階におけるドイツ革命の渦中で,ドイツ皇帝としては退位するがプロイセン国王としては退位しないと頑張ります。これらは生前退位が有効であるとの理解を前提としています。

ところで,シュルツェの議論では君主の統治不能(die Unmöglichkeit des Monarchen zu regiern)には退位(Abdankung)も含まれるということのようですが,そうだとすると1848年のプロイセン憲法的には,国王が「退位する。」と宣言した場合には統治不能の当該国王は押し込められ,両議院合同会によって摂政及び後見人が任命され,かつ,当該状況は国王の生存中続くということにはならなかったでしょうか。ちょっと分かりづらい。あるいは,1850年のプロイセン憲法56条は「国王が未成年であるとき又はその他継続的に自ら統治することが妨げられている(dauernd verhindert ist, selbst zu regieren)ときに」摂政を置くとの規定になっていますので,継続的な故障程度ではいまだ統治不能ではないから摂政設置で対応するが,退位されてしまうと統治不能であるので摂政どころではなくなって直ちに新国王即位になる,というように理解すべきなのでしょうか。
 この点明治皇室典範
19条2項は「天皇久シキニ亘ルノ故障ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルトキハ皇族会議及枢密顧問ノ議ヲ経テ摂政ヲ置ク」となっていて,1850年のプロイセン憲法56条的です。これは1889年1月18日の枢密院再審会議(小嶋「明治皇室典範」249250頁)を経た段階では「天皇未タ成年ニ達セサルカ又ハ精神若ハ身体ノ不治ノ重患ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサル間ハ摂政一員ヲ置ク」であったものが(同228頁),正にドイツ人であるロエスレルの修正意見に基づき(同251頁),同月24日に「精神若ハ身体ノ不治ノ重患」が「久シキニ亙ルノ故障」に修正され,更にその後最終的な形に修正されて(同254頁),同年2月5日の枢密院会議を経たものです(同255頁)。ロエスレルの修正案は「天皇未タ成年ニ達セサルカ又ハ其ノ他ノ故障ニ由リ久シク大政ヲ親ラスルコト能ハスシテ臨時ニ応スル為ニ予シメ親ラ計画ヲ為サス若クハ為シ能ハサルトキハ次条ノ明文ニ循ヒ摂政ヲ置クヘシ」というものでした(小嶋「明治皇室典範」251頁)。「其ノ他ノ故障」との文言は「疾病ノ外ニ於テモ亦他ノ事由ノ生スルコトアラン例ヘハ・・・」ということで用いられることになったもので(小嶋「明治皇室典範」251頁),「久シク本国ニ在ラサルトキ,戦時ニ当テ俘虜トナリタルトキ,又高齢ニナリタルトキノ如キ是ナリ」とされています(小林宏・島善高編著『明治皇室典範〔明治22年〕(下) 日本立法資料全集17』(信山社・1997年)642頁)。
  またそもそも「不治ノ重患」の「不治ノ」は「啻ニ贅字タルノミナラズ甚シキ危険アル」ことがロエスレルによって述べられていました(小嶋「明治皇室典範」
251頁)。しかし,「不治ノ」は「甚シキ危険アル」言葉であるのに,皇位継承順位の変更に係る明治皇室典範9条では「皇嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シ前数条ニ依リ継承ノ順序ヲ換フルコトヲ得」となっていて「不治ノ」が維持されています(現在の皇室典範3条も同様)。ということは,「不治ノ」は天皇についてだけ「甚シキ危険アル」言葉なのでしょう。しかしながら,天皇が「不治ノ重患」であると発表してしまうと摂政どころではなく譲位が問題になってしまうという意味での「甚シキ危険」であったのかとまで考えるのは考え過ぎで,飽くまでロエスレルは摂政を置くべきか否かを検討する場面に留まりつつ「凡ソ疾病ノ治不治ハ,医家ニ在テモ亦一ノ争論点ニシテ,之カ為ニ紛議ノ種因ヲ他日ニ貽スノ恐レアレハナリ。而シテ摂政ヲ置クノ当否ニ関スルコトヲ以テ,此ノ如キ曖昧ノ間ニ附シ去ルハ大ニ不可ナリ。」と「甚シキ危険」について述べ,更に「・・・大政ヲ親ラスルコト能ハスト謂ハ丶,先ツ疾病ノ有無ヲ問ハス,果シテ大政ヲ親ラスルコト能ハサルカ否ヲ立証セサルヘカラス。現ニ君主重病ニ罹リテ尚ホ大政ヲ自ラ総攬シ得ルコトアリ。又総攬スルノ精神ヲ有スルコト屢々之レ有リ。例ヘハ「ポーランド」瓦敦堡〔ヴュルテンベルク〕ノ今王及び「メクレンボルグ」大公等ハ,既ニ不治ノ重患ニ罹ルト雖,尚大政ヲ親ラスルニアラスヤ。・・・」と述べています(小林・島641頁)。

ロエスレルの修正意見に基づく1889年1月24日の修正前の明治皇室典範19条案にいう「精神若ハ身体ノ不治ノ重患ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサル間」という摂政設置の前提状態たる不治ノ重患は,実は,1887年3月20日の高輪会議にかけられた柳原前光の前記「皇室典範再稿」では天皇の譲位を可能とする状態(「精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時」)でした。柳原の「皇室典範再稿」39条では,摂政を置く場合は,「天皇幼年ノ時」,「天皇本邦ニ在サル時」又は「天皇ノ精神又ハ身体ノ重患アル時」が挙げられていました(小嶋「明治皇室典範」193頁)。柳原前光の段階論では,「精神又ハ身体ノ重患アル時」はまだ摂政設置相当だけれども,「精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時」まで至ってしまうとむしろ譲位すべきだという判断だったのでしょう。現在の皇室典範16条2項は「天皇が,精神若しくは身体の重患・・・により,国事に関する行為をみずからすることができないときは,皇室会議の議により,摂政を置く。」と規定していますが,柳原の「皇室典範再稿」39条における摂政設置の場合の考え方におおよそ符合しています(ちなみに,ロエスエルは「精神又ハ身体ノ重患」の字は「不快ノ感ヲ喚起スル」と述べており(小林・島641頁),明治皇室典範19条2項には当該表現は用いられませんでしたが,現在の皇室典範においては復活したわけです。)。

なお,カロラ・シュルツェは,ドイツの学者らしく,法的意味における退位の成立に必要な構成要件のメルクマールを次のように分析的に述べています。

 

単独の公的行為(einseitige obrigkeitliche Maßnahme)であって,

君主によってされ(eines Monarchen),

君主の位の放棄,すなわち王位及びそれに附随する権利の放棄に向けられたものであり(die auf die Niederlegung der monarchischen Würde bzw. auf den Verzicht des Throns sowie der damit verbundenen Rechte gerichtet ist),

自由意思性及び自主性により,並びに(die sich durch Freiwilligkeit und Selbständigkeit sowie durch

補充性によって特徴付けられるものであり(Subsidiarität auszeichnet),

並びに不可撤回性を有するもの(und die unwiderrufbar ist.),

 

ということだそうです(シュルツェ69頁)。
 さて,シュルツェによれば「絶対王政の下では王室法(Hausgesetz)によってのみ規制された王位継承及び摂政の問題を,立憲国家は王室立法権(Hausgesetzgebung)から引き離し,憲法典(Verfassungsrecht)の領域に移管した」わけですが,このことについては,1850年のプロイセン憲法53条を素材に,美濃部達吉が次のように説明しています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)108109頁)。

 

  プロイセン旧憲法53条にも略本条〔大日本帝国憲法2条「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」〕と同様に,Die Krone ist, den Königlichen Hausgesetzen gemäss, erblich in dem Mannesstamme des Königlichen Hauses nach dem Rechte der Erstgeburt und der agnatischen Linealfolgeといふ規定が有る。その他のドイツ諸邦にも同様の規定の有るものが尠くない。文言に於いては極めて本条の規定と類似して居るけれども,趣意に於いては甚だ異なつて居つて,ドイツの学者は一般に,憲法の此の規定に依つて従来の王室家法が憲法の内容の一部を為すに至つたもので,随つて此の以後に於いては王室家法の変更は,憲法改正の法律に依つてのみ為すことを得べく,勿論議会の議決を必要とする・・・。即ちドイツ諸邦の憲法に於いては『王室家法ノ定ムル所ニ依リ』といふ明文が有つても,それは王室の自律権を認めたものではなく,却つて王室家法をして憲法の一部たらしめたもの・・・。

 

日本国憲法2条は「皇位は,世襲のものであつて,国会の議決した皇室典範の定めるところにより,これを継承する。」と規定しています(下線は筆者によるもの)。(同条の英文は,“The Imperial Throne shall be dynastic and succeeded to in accordance with the Imperial House Law passed by the Diet.”です。)ここでの「国会の議決した」は,その第74条1項で「皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス」と規定していた大日本帝国憲法との違いを示すものでしょう。現在の皇室典範の法形式は(皇室典範の「法律案」を審議した第91回帝国議会で問題にする議員がありましたが)法律ですが,少なくともその皇位継承(日本国憲法2条)及び摂政(同5条)に係る部分の改正は,19世紀ドイツ国法学的には,憲法改正と同等の重みのある行為であるということになります。「而して皇位継承に関する法則は,決して皇室御一家の内事ではなく,最も重要なる国家の憲法の一部を為すもの」なのです(美濃部『憲法精義』110頁)。

この点,1946年2月13日に我が国政府に提示されたGHQの憲法改正草案には“Article II. Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.”(外務省罫紙に記された閣議提出の訳文では「第2条 皇位ノ継承ハ世襲ニシテ国会ノ制定スル皇室典範ニ依ルヘシ」)及び“Article IV. When a regency is instituted in conformity with the provisions of such Imperial House Law as the Diet may enact, the duties of the Emperor shall be performed by the Regent in the name of the Emperor; and the limitations on the functions of the Emperor contained herein shall apply with equal force to the Regent.”(「第4条 国会ノ制定スル皇室典範ノ規定ニ従ヒ摂政ヲ置クトキハ皇帝ノ責務ハ摂政之ヲ皇帝ノ名ニ於テ行フヘシ而シテ此ノ憲法ニ定ムル所ノ皇帝ノ機能ニ対スル制限ハ摂政ニ対シ等シク適用セラルヘシ」)とあって,“such Imperial House Law”は国会の単独立法に係るものですから,やはり法律が想定されていたようで,皇室の家法たることを強く含意する「皇室典範」との訳は余り良い訳ではなかったようです。ところで,“in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact”であって,“in accordance with the Imperial House Law enacted by the Diet”ではありませんから,第2条の訳としては「皇位ノ継承ハ世襲テアリ且ツ国会ノ制定スルコトアル皇室法ニ従フモノトス」というものもあり得なかったでしょうか。このように解すると,たとい皇室典範という法形式が日本国憲法の施行に伴い消滅しても,国会が別異に立法しない限りは皇位の継承は従来の慣習に従う,ということにはならなかったものでしょうか。

しかし,我が国政府は皇位の継承に関する成文規範の存在及び皇室典範という法形式の存続にこだわったものか,憲法改正に係るその1946年3月2日案においては次のような条文が用意されています。

 

  第1章 天皇

第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ世襲シテ之ヲ継承ス。

第3条 天皇ノ国事ニ関スル一切ノ行為ハ内閣ノ輔弼ニ依ルコトヲ要ス。内閣ハ之ニ付其ノ責ニ任ズ。

  第9章 補則

106条 皇室典範ノ改正ハ天皇第3条ノ規定ニ従ヒ議案ヲ国会ニ提出シ法律案ト同一ノ規定ニ依リ其ノ議決ヲ経ベシ。

  前項ノ議決ヲ経タル皇室典範ノ改正ハ天皇第7条ノ規定ニ従ヒ之ヲ公布ス。

 

これに対して,佐藤達夫法制局第一部長の記す次のような1946年「三月四,五両日司令部ニ於ケル顛末」を経て,皇室典範の議案に係る天皇の発議権は消え,憲法2条は少なくとも英文については現在の形になっています。

 

第2条 皇室典範ガ国会ノ議決ヲ経ベキ条項ナシトテ相当強硬ナル発言アリ,補則ニ規定セリ,今回ハ全面的ニ補則ニ依リ改正セラルルコトデモアリ茲ニ特記スル要ナシ,又法律ト同一手続ニ依ルハ当然ナルモ,皇室ノ家法故発議ハ天皇ニ依リ為サルルコトトシタリト言フモ第1章ハ交付案ガ絶対ナリトテ全然応ゼズ,「国会ノ議決ヲ()タル(○○)passed by the Diet)(交付案ハ(as the Diet may enact))トシテ挿入スルコトトス(「経タル」ガ将来提案権ノ問題ニ関聯シテ万一何等カノ手懸ニナリ得ベキカトノ考慮モアリテ)。
 

ただし,佐藤部長の「考慮」にもかかわらず,現在の日本国憲法2条の当該部分の文言は「国会の議決した皇室典範」であって,「国会の議決を経た皇室典範」ではありません。現在の皇室典範は,昭和22年法律第3号です。
 (以上の日本国憲法の制定経緯については,国立国会図書館ウェッブ・サイトの「電子展示会」における「日本国憲法の誕生」を参照)
 


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1 大日本帝国憲法草案からの「法律ノ前ニ於テ平等トス」規定の消失

 1889年2月11日に発布された大日本帝国憲法にはそれとしての平等条項が無いところですが,その第19条は「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得」と規定しています。これは,1888年3月の「浄写三月案」(国立国会図書館の電子展示会「史料にみる日本の近代―開国から戦後政治までの軌跡」の「第2章 明治国家の展開」27ウェッブ・ページ参照)の段階で既にこの形になっていました(ただし,「其他」の「」は朱筆で追記)

 しかし,伊東巳代治関係文書の「憲法説明 説明(第二)」は,1888年1月17日付けで作成され同年2月に条文が修正されたものですが(国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができます。),そこでの「第22条」は,「日本臣民タル者法律ノ前ニ於テ平等トス又法律命令ニ由リ定メタル資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其他ノ公務ニ就クコトヲ得」とありました(なお,「法律ノ前ニ於テ平等」は「法律ニ対シ」とすべきか「法律ニ於テ」とすべきか迷いがあったようで,「ニ対シ」及び「ニ於テ」の書き込みがあります。)。すなわち,1888年1月段階では「法律ノ前ニ於テ平等」という文言があったところです。

 188710月の修正後の夏島草案(「浄写三月案」と同様に国立国会図書館のウェッブ・ページを参照)では「日本臣民タル者ハ法律ノ前ニ於テ平等トス又適当ノ法律命令ニ由リ定メタル資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其他ノ公務ニ就クコトヲ得」とありました。同年8月作成時の夏島草案では「第50条 日本臣民タル者ハ政府ノ平等ナル保護ヲ受ケ法律ノ前ニ於テ平等トス又適当ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其他ノ公務ニ就クコトヲ得」とあり,「政府ノ平等ナル保護」まであったところです。

 夏島草案の1887年8月版は,同年4月30日に成立した(小嶋和司「ロエスレル「日本帝國憲法草案」について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)4頁)ロエスレルの草案の第52条の影響を受けたものでしょう。

 

 第52条 何人タリトモ政府ノ平等ナル保護,法律ニ対スル平等及凡テ公務ニ従事シ得ルノ平等ヲ享有ス

 Art. 52.  Jeder geniesst den gleichen Schütz des Staats, Gleichheit vor dem Gesetz und die gleiche Zulassung zu allen öffentlichen Ämtern.

  (小嶋24-25頁参照)

 

「法律ニ対スル平等Gleichheit vor dem Gesetz」は,もっと直訳風にすると「法律の前の平等」になりますね。

なお,「政府」の語は,本来「国家」であるべきものStaatの誤りです(小嶋53頁)

DSCF0773
神奈川県横須賀市夏島(現在は埋立てで地続きになっており,かつ,日産自動車株式会社の工場の敷地内となっています。)

 

2 1831年ベルギー国憲法,1849年フランクフルト憲法及び1850年プロイセン憲法

ところで,ロエスレル草案の「表現は,あくまでロエスレルの脳漿に発するロエスレルの言葉でおこなわれた」ところですが(小嶋39頁),そもそも,臣民権利義務に係る大日本帝国憲法第2章については,「その規定の内容に於いて最も多くプロイセンの1850年1月の憲法の影響を受けて居ることは,両者の規定を対照比較することに依つて容易に知ることが出来る,而してプロイセンの憲法は,此の点に於いて,最も多く1831年のベルジツク憲法及び1848年のフランクフルト国民会議に於いて議決せられた『ドイツ国民の基礎権』の影響を受けて居るもので,随つてわが憲法も亦間接には此等の影響の下に在るものと謂ふことが出来る。」ということですから(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)329頁)1831年ベルギー国憲法,1849年フランクフルト憲法及び1850年プロイセン憲法の当該条文をそれぞれ見てみましょう。

 

(1)ベルギー国憲法6条

まず,1831年ベルギー国憲法。

 

第6条 国内にいかなる身分の区別も存してはならない。

  ベルギー国民は,法律の前に平等である。ベルギー国民でなければ,文武の官職に就くことができない。ただし,特別の場合に,法律によって例外を設けることを妨げない。

  (清宮四郎訳『世界憲法集 第二版』(岩波文庫・1976年)71頁)

 Article 6

    Il n’y a dans l’État aucune distinction d’ordres.

    Les Belges sont égaux devant la loi; seuls ils sont admissibles aux emplois civils et militaires, sauf les exceptions qui peuvent être établies par une loi pour des cas particuliers.

 

(2)フランクフルト憲法137

次に1849年フランクフルト憲法。

 

137条(1)法律の前に,身分Ständeの区別は存しない。身分としての貴族は廃止されたものとする。

 (2)すべての身分的特権は,除去されたものとする。

 (3)ドイツ人は,法律の前に平等である。

 (4)すべての称号は,役職とむすびついたものでないかぎり,廃止されたものとし,再びこれをみとめてはならない。

 (5)邦籍を有する者は,何人も,外国から勲章を受領してはならない。

 (6)公職は,能力ある者がすべて平等にこれにつくことができる。

 (7)国防義務は,すべての者にとって平等である,国防義務における代理はみとめられない。

  (山田晟訳『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)172頁)

§.137.

  [1]Vor dem Gesetze gilt kein Unterschied der Stände. Der Adel als Stand ist aufgehoben.

[2]Alle Standesvorrechte sind abgeschafft.

[3]Die Deutschen sind vor dem Gesetze gleich.

[4]Alle Titel, in so weit sie nicht mit einem Amte verbunden sind, sind aufgehoben und dürfen nie wieder eingeführt werden.

[5]Kein Staatsangehöriger darf von einem auswärtigen Staate einen Orden annehmen.

[6]Die öffentlichen Aemter sind für alle Befähigten gleich zugänglich.

[7]Die Wehrpflicht ist für Alle gleich; Stellvertretung bei derselben findet nicht statt.

 

 なお,美濃部達吉の言う「1848年のフランクフルト国民会議に於いて議決せられた『ドイツ国民の基礎権』」とは,後にフランクフルト憲法に取り入れられた18481227日のドイツ国民の基本権に関する法律Gesetz, betreffend die Grundrechte des deutschen Volksのことでしょうか(山田170頁参照)

 

(3)プロイセン憲法4条

最後に1850年プロイセン憲法。

 

 第4条(1)すべてのプロイセン人は,法律の前に平等である。身分的特権は,みとめられない。公職は,法律の定める条件のもとに,その能力あるすべての者が,平等にこれにつくことができる。

   (山田訳189頁)

 Art.4.  Alle Preußen sind vor dem Gesetz gleich. Standesvorrechte finden nicht statt. Die öffentlichen Aemter sind, unter Einhaltung der von den Gesetzen festgestellten Bedingungen, für alle dazu Befähigten gleich zugänglich.

 

(4)大日本帝国憲法19条との比較

 これらの条項を眺めていると,お話の流れとしては,①身分制を廃止し(ベ1項,フ1項),身分的特権を除去すれば(フ2項,プ2文),②国民は法律の前に平等になり(ベ2項前段,フ3項,プ1文),③その結果国民は均しく公職に就くことができるようになる(ベ2項後段,フ6項,プ3文)ということのようです。フランクフルト憲法137条4項及び5項は身分制の復活の防止,同条7項は平等の公職就任権の裏としての平等の兵役義務ということでしょうか。①は前提,②は宣言,③がその内容ということであれば,我が大日本帝国憲法19条は,前提に係る昔話や難しい宣言などせずに,単刀直入に法律の前の平等が意味する内容(③)のみを規定したものということになるのでしょう。

なお,『憲法義解』における第2章の冒頭解説の部分では,「抑中古,武門の政,士人と平民との間に等族を分ち,甲者公権を専有して乙者預らざるのみならず,其の私権を併せて乙者其の享有を全くすること能はず。公民〔おほみたから〕の義,是に於て滅絶して伸びざるに近し。維新の後,屢大令を発し,士族の殊権を廃し,日本臣民たる者始めて平等に其の権利を有し其の義務を尽すことを得せしめたり。本章の載する所は実に中興の美果を培殖し,之を永久に保明する者なり。」とあって,「士族の殊権を廃し」,すなわち身分的特権を除去して(①),「日本臣民たる者始めて平等に其の権利を有しその義務を尽す」,すなわち法律の前の平等が達成されたものとする(②)との趣旨であろうところの補足的説明がされています1888年3月の「浄写三月案」における当該部分の朱字解説にはなかった文章です。「浄写三月案」では,代わりに,「彼ノ外国ニ於テ上下相怨ムノ余リニ国民ノ権利ヲ宣告シテ以テ譲予ノ契約トナスカ如キハ固ヨリ我カ憲法ノ例ヲ取ル所ニ非サルナリ」とのお国自慢が記されています。)

 

3 ベルギー国憲法流の「法律の前の平等」の意味

 しかし,身分的特権を除去して国民が均しく公職に就けるようにすることのみが法律の前の平等の意味だったのでしょうか。「法律の前の平等」にはもう少し多くの内容があってもよさそうな気もします。そもそもの規定である1831年ベルギー国憲法6条2項における“Les Belges sont égaux devant la loi”の意味を詳しく見てみる必要があるようです。

 便利になったことに,Jean Joseph ThonissenLa Constitution belge annotée, offrant, sous chaque article, l’état de la doctrine, de la jurisprudence et de la legislation1844 年版が現在インターネットで読むことができるようになっています(「東海法科大学院論集」3号(2012年3月)113頁以下の「憲法21条の「通信の秘密」について」を書く際には国立国会図書館まで行って,「これってもしかしたら井上毅も読んだのだろうか」というような古い現物の本(1876年版)に当たったものでした。ちなみに,上記論文執筆当時,1831年ベルギー国憲法の解説本を読もうとして国立国会図書館でフランス語本を探したとき見つかった一番古い本が,当該トニセン本でした。トニセンは,1844年には27歳。刑法学者,後にベルギー国王の大臣)。その22頁以下に第6条の解説があります。

 

 22 立憲国家において法律の前の平等l’égalité devant la loiは,主に4種の態様において現れる。①全ての身分ordresの区別の不在において,②全ての市民が差別なく全ての文武の官職に就任し得ることにおいて,③裁判権juridictionに関する全ての特権の不在において,④課税に関する全ての特権の不在において。平等l’égalitéに係る前2者の態様が第6条によって承認されている。他の2者は,第7条,第8条,第92条及び第112条において検討するものとする。Thonissen, p.23

 

ベルギー国憲法7条は「個人の自由は,これを保障する。/何人も,あらかじめ法律の定めた場合に,法律の定める形式によるのでなければ,訴追されない。/現行犯の場合をのぞいては,何人も,裁判官が理由を付して発する令状によらなければ,逮捕されない。逮捕状は,逮捕のとき,または遅くとも逮捕ののち24時間以内に,これを示さなければならない。」と,第8条は「何人もその意に反して,法律の定める裁判官の裁判を受ける権利を奪われない。」と規定していました(清宮訳71頁)。第92条は「私権にかかわる争訟は,裁判所の管轄に専属する。」と規定しており(同92頁),第112条は「租税に関して特権を設けることはできない。/租税の減免は,法律でなければ,これを定めることができない。」と規定していました(同99頁)。これらはそれぞれ,大日本国帝国憲法23条,24条,57条1項及び62条1項に対応します。

 

 23 このように理解された法律の前の平等は,いわば,立憲的政府の決定的特徴を成す。それは,フランス革命の最も重要,最も豊饒な成果である。かつては,特権privilège及び人々の間の区別distinctions personnellesが,人間精神,文明及び諸人民の福祉の発展に対する障碍を絶えずもたらしていた。ほとんど常に,人は,出生の偶然が彼を投じたその境遇において生まれ,そして死んでいった。立憲議会は,それ以後全ての自由な人民の基本法において繰り返されることになる次の原則を唱えることによって新しい時代を開いた。いわく,「人は,自由かつ権利において平等なものとして出生し,かつ生存する。社会的差別は,共同の利益の上にのみ設けることができる。・・・憲法は,自然的及び市民的権利として次のものを保障しなければならない。第一,全て市民は徳性及び才能以外の区別なしに地位及び職務に就任し得ること。第二,全ての税contributionsは,全ての市民の間においてその能力に応じて平等に配分されること。第三,人による区別なく,同一の犯罪には同一の刑罰が科されること。」と(1791年憲法,人権宣言,第1条及び第1編唯一の条)。Thonissen, p.23

 

「人は,自由かつ権利において平等なものとして出生し,かつ生存する。社会的差別は,共同の利益の上にのみ設けることができる。」とは,1789年の人及び市民の権利宣言の第1条の文言です(山本桂一訳『人権宣言集』(岩波文庫)131頁)1789年の人及び市民の権利宣言は,1791年の立憲君主制フランス憲法の一部となっています(当時の王は,ルイ16世)。トニセンがした上記引用部分の後半は,フランス1791年憲法の第1編(憲法によって保障される基本条項(Dispositions fondamentales garanties par la Constitution))の最初の部分です(ただし,フランス憲法院のウェッブ・ページによると,原文は,「保障しなければならない(doit garantir)」ではなく,単に「保障する(garantit)」であったようです。)

前記伊東巳代治関係文書の「憲法説明 説明(第二)」の第22条(大日本帝国憲法19条)の朱書解説1888年1月)は「本条ハ権利ノ平等ヲ掲ク蓋臣民権利ノ平等ナルコト及自由ナルコトハ立憲ノ政体ニ於ケル善美ノ両大結果ナリ所謂平等トハ左ノ3点ニ外ナラズ第一法律ハ身分ノ貴賤ト資産ノ貧富ニ依テ差別ヲ存スルヿナク均ク之ヲ保護シ又均ク之ヲ処罰ス第二租税ハ各人ノ財産ニ比例シテ公平ニ賦課シ族類ニ依テ特免アルコトナシ第三文武官ニ登任シ及其他ノ公務ニ就クハ門閥ニ拘ラズ之ヲ権利ノ平等トス」と述べていますが,トニセンの書いていることとよく似ていますね。日本がベルギーから知恵を借りたのか,それとも両者は無関係だったのか。最近似たようなことが問題になっているようでもありますが,井上毅はフランス語を読むことができたところです(と勿体ぶるまでもなく,トニセン本及びその訳本は,大日本帝国憲法草案の起草に当たっての参考書でした(山田徹「井上毅の「大臣責任」観に関する考察:白耳義憲法受容の視点から」法学会雑誌(首都大学東京)48巻2号(2007年12月)453頁)。)。ただし,上記引用部分に続く「彼ノ平等論者ノ唱フル所ノ空理ニ仮托シテ以テ社会ノ秩序ヲ紊乱シ財産ノ安全ヲ破壊セントスルカ如キハ本条ノ取ル所ニ非サルナリ」の部分は,トニセンのベルギー国憲法6条解説からとったものではありません。

なお,「①全ての身分ordresの区別の不在」については,「憲法説明 説明(第二)」の第22条(大日本帝国憲法19条)朱書解説は,「維新ノ後陋習ヲ一洗シテ門閥ノ弊ヲ除キ又漸次ニ刑法及税法ヲ改正シテ以テ臣民平等ノ主義ニ就キタリ而シテ社会組織ノ必要ニ依リ華族ノ位地ヲ認メ以テ自然ノ秩序ヲ保ツト雖亦法律租税及就官ノ平等タルニ於テ其分毫ヲ妨クルナシ此レ憲法ノ保証スル所ナリ」と述べています。「法律租税及就官ノ平等タルニ於テ其分毫ヲ妨クルナシ」なのだから,華族制度も問題は無い,ということのようです。

 

 24 1815年の基本法は,この関係において,大いに足らざるところがあった。同法は,三身分ordresの封建的区別を再定立していた。すなわち,貴族又は騎士団身分,都市身分及び村落身分である。主にこの階層化classificationこそが,国民会議Congrès nationalが,国内にいかなる身分の区別も存してはならないと決定して禁止しようとしたものであった(第75〔国王の栄典授与権に関する条項〕のレオポルド勲章を制定した法律に関する議論の分析を参照)。Thonissen, p.23

 

 25 第6条第2項は,全ての市民は全ての文武の官職に差別なしに就任し得ることを宣言するものである。この規定は,法律の前の平等の原則を採用したことの必然的帰結であった。「第二次的な法律において初めてseulement規定されるべきではなく,憲法自身において規定されるべきものである原則は,公職に対する全ての市民の平等な就任可能性の原則である。実際,この種の特典faveursの配分における特権及び偏頗ほど,市民を傷つけ,落胆させるものはない。そして,ふさわしくかつ有能な人物のみを招聘するための唯一の方法は,職を才能及び徳性によるせりにかける以外にはない〔Macarel1833年版Élèm. de dr. pol. (『政治法綱要』とでも訳すべきか)246頁からの引用〕。」Thonissen, pp.23-24

 

 上杉慎吉は,大日本帝国憲法19条について「第19条は仏蘭西人権宣言の各人平等の原則に当たるものである,我憲法は各人平等の原則を定めずして,唯た文武官に任ぜられ公務に就くの資格は法律命令を以て予め定むべく,而して法律命令が予め之を定むるには均しくと云ふ原則に依らなければならぬことを定めたのである・・・均くと云ふのは門閥出生に依りて資格の差等を設けざるの意味である,諸国の憲法が此規定を設けたる理由は従来門閥出生に依つて官吏に任じ公務に就かしめたることあるのを止める趣意でありまするから,均くと云ふのは必しも文字通りに解すべきではありませぬ,例へば男女に就て差等を設くるとも第19条の趣意に反するものではない」と述べていました(同『訂正増補帝国憲法述義』(有斐閣書房・1916年)294-295頁)。大日本帝国憲法19条と1789年のフランスの人及び市民の権利宣言とのつながりがこれだけでは分かりにくかったのですが,その間に1791年フランス憲法並びに1831年ベルギー国憲法及び1850年プロイセン憲法が介在していたのでした。

 しかし,ヨーロッパAncien Régimeの身分制のえげつなさが分からなければ,当時唱えられるに至った「法律の前の平等」の意味もまたなかなか分からないようです。
 なお,尊属殺人罪に係る刑法200条を違憲とした最高裁判所大法廷昭和48年4月4日判決(刑集27巻3号265頁)に対する下田武三裁判官の反対意見では「わたくしは,憲法14条1項の規定する法の下における平等の原則を生んだ歴史的背景にかんがみ,そもそも尊属・卑属のごとき親族間の身分関係は,同条にいう社会的身分には該当しないものであり,したがつて,これに基づいて刑法上の差別を設けることの当否は,もともと同条項の関知するところではないと考えるものである。」と述べられていましたが,そこにいう「歴史的背景」とは,前記のようなものだったわけでしょう。 


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1 『東海法科大学院論集』第3号の「憲法21条の「通信の秘密」について」論文

 前回の記事(201484日,「「携帯電話サービス契約の中途解約金条項と消費者契約法」(東海法科大学院論集5号)校正中」)で御紹介した『東海法科大学院論集』は,2006年7月に第1号(創刊の辞は亀山継夫元最高裁判所判事の執筆)が出て,2010年3月に第2号,2012年3月に第3号,2013年3月に第4号が発行されています。

当該紀要の上記第3号(宇都木伸教授退職記念論文集)に,「研究ノート」として,「憲法21条の「通信の秘密」について」という論文を出しました。A5判で26頁強の分量です(うち,注が7頁分)。

 目次は,次のようになります。

 


 1 「通信の秘密」の保障の趣旨

(1)裁判例,行政解釈及び学説

(2)憲法21条の起草経緯

(3)解釈論的論点

 2 帝国憲法26

(1)ベルギー憲法,プロイセン憲法等の影響

(2)前提としての郵便国営

(3)私的生活の不可侵としての人権体系中の位置付け

 3 19世紀ヨーロッパ憲法における信書の秘密とキャビネ・ノワール

(1)精神活動の自由としての位置付け

(2)キャビネ・ノワール

 4 憲法21条の帝国憲法26条的理解の限界

(1)通信事業者の公権力性という前提の消失

(2)プライバシー保護の確立

(3)帝国憲法26条の理解に関する日本的事情

   ア 公権力に対する無警戒

   イ 出版物流通における郵便の役割の副次性

 5 人のコミュニケーションに係るプライバシー権と市民のための「通信の自由」

 


 ここ数年,急激に「通信の秘密」をめぐる議論が活性化していますが,2011年ころまではなお,30年以上前の佐藤幸治教授の「通信の秘密」論文(芦部信喜編『憲法Ⅱ 人権(1)』(有斐閣・1978年)所載)が「通信の秘密」に関して本格的な憲法学的議論をするための必読文献であり(ただし,実際に読んでいた人は,通信関係者間でも必ずしも多くはなかったようですが。),学説的に阪本昌成教授が興味深い見解を発表していたほかは(「「通信の自由・通信の秘密」への新たな視点」法セミ364号(19854月)),「通信の秘密」条項の制定・解釈に係る経緯等について,インターネット上で高橋郁夫弁護士の仕事を見ることができた程度であったように記憶します。

 「憲法21条の「通信の秘密」について」の執筆に当たっては,GHQ民政局における憲法21条2項の起草過程にまでさかのぼる高橋弁護士の仕事等に刺激を受け,「通信の秘密」条項の由来について,手の及ぶ限り(国立国会図書館に通い,恵比寿の日仏会館の図書館からも資料を借り出しました。)歴史的・比較法的調査を行ったわけですが(資料の中では,18世紀の北米やフランスにまで出かけました。),その結果,佐藤教授の見解とはまた異なった角度からの憲法21条2項の見方にたどり着けたように思います。

例えば,佐藤教授の見解においては,「通信の秘密」と表現の自由とを分離せずに同一の条において規定する日本国憲法21条は比較憲法論的には「異例」なものであるとされますが(佐藤「通信の秘密」635頁),大日本帝国憲法に先行した1831年のベルギー憲法,1850年のプロイセン憲法及び1887年のロエスレル草案における人権条項の配列においては,実は「通信の秘密」条項は精神活動の自由に係る諸条項とまとめられていました。これらの例に倣わずに,「信書の秘密」に係る条項(26条)を,言論著作印行集会及結社ノ自由に係る条項(29条)から分離して,私生活の不可侵に係る住居の不可侵条項(25条)の次に置いたのは,大日本帝国憲法における選択でした。その意味では,同一の条に規定する必要まではともかくも,表現の自由と「通信の秘密」とが並んで規定される現行憲法21条は,19世紀西欧憲法的な論理に回帰したものともいえそうであり,そう「異例」でもないように思われます。

(ちなみに,かつての岩波文庫『世界憲法集』(宮沢俊義編)には清宮四郎教授訳のベルギー国憲法が収録されていましたが,現在の同文庫『新版世界憲法集』(高橋和之編)からはベルギー憲法は落ちています。専ら「現代」国家の在り方を知るための手引きたることを目的にして編集されたということでしょうが,大日本帝国憲法等に影響を与えたベルギー憲法の歴史的重要性からすると,ちょっと残念です。憲法における「通信の秘密」条項の淵源は,ベルギー憲法にあったのですから。)

 1789年のフランス人権宣言11条においては,思想及び意見の自由なコミュニケーションは人(homme)の権利であるとされているのに対して,自由に話し,書き(écrire),出版することは市民(citoyen)の権利であるとされています。書く(écrire)ものには当然手紙が含まれるでしょうが,自由に手紙を書く権利は,人(homme)ではなく,市民(citoyen)の権利であるとされています。市民たる以上,そこには公的なもの(res publica)とのかかわりがあるものでしょう。18世紀における手紙は,「個人が特定の少数者と向き合う世界」における通信(佐藤幸治憲法学に関する蟻川恒正「体系と差異」法時82535頁参照)に必ずしもとどまらなかったもののようです。

 


 The etiquette of letters in the eighteenth century was different from today’s. It was assumed that a letter, especially one crossing an ocean, would be read aloud or handed around, as it was such a precious instrument. (Randall, W.S. Thomas Jefferson: a life. New York: HarperCollins Publications, Inc. (1994): 247)

  18世紀における手紙に係るエチケットは,今日のそれとは異なっていた。手紙は――特に大洋を越えて届いたものは――貴重な文書として,人々に読み聞かせられ,又は回し読みされるものと了解されていた。)

 


 手紙は政治的なものでもあったわけです。「国家内部における陰謀は困難になった。なぜなら,郵便制度の創設以来,個々人のあらゆる秘密は国家権力の手のうちにあるからである。」とは国営郵便制度に関する1734年におけるモンテスキューの観察です(『ローマ人盛衰原因論』(田中治男・栗田伸子訳,岩波文庫・1989年)241頁)。そこからして,特定多数者にあてた通信に係る「通信の秘密」の保障は,特定多数者により構成されるものである憲法21条1項の結社の自由の保障にも仕え得るものではないかとまで考えが及んだところです(『憲法義解』においては,大日本帝国憲法29条が結社等の自由を規定するのは正に「思想の交通」を発達させるためであるとされています。)。ただし,「通信の秘密」とパラレルに考えると出て来そうな概念である「結社の秘密」,すなわち秘密結社の権利性いかんまでは当該論文においては検討が及んでいません。ちなみに,大日本帝国憲法下の治安警察法(明治33年法律第36号)14条は「秘密ノ結社ハ之ヲ禁ス」と規定し,秘密結社の組織者・加入者は6月以上1年以下の軽禁錮に処せられるものとされていました(同法28条)。この点,佐藤幸治教授の『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)においては,現行憲法21条1項の解釈として次のように述べられています。

 


  「結社のプライヴァシー」が認められるか否かについては,議論がありうる。仮にプライヴァシーと呼ぶことが適切でないとしても,それに相当するものは,「結社の自由」の内実もしくはそのコロラリーとして憲法上の保障対象であると解される。したがって,公益上のやむをえざる必要性に基づくものでない限り,公権力は,結社の成員その他活動状況に関する資料の提出・開示を強制することは許されない。(551頁)

 


 上記の議論のために憲法21条2項後段の「通信の秘密」を援用するのは,あるいは,あながちこじつけということにはならないようにも思われます。

 他にもいろいろ論点があるのですが,それは論文に直接当たっていただくこととして,当該論文の1(3)で提起した「解釈論的論点」の部分だけ抜き書きしておきます。

 


  第1に,帝国憲法26条は,臣民の私生活上の自由ないしはプライバシーの保護のみを目的としたものとは解されない。そこでは通信事業の国営が前提とされていたものと解されるのであって,政府の行うべき行政事務に関する統治機構関連規定としての側面をも有していたところである。

  第2に,したがって,1985年4月の日本電信電話公社,200710月の日本郵政公社の各民営化を経た今日にあっては,通信事業の国営を前提としていた帝国憲法26条的理解のままで現行憲法21条2項後段を意義付けることはできないはずである。憲法の人権規定の私人間適用についてどう考えるかの問題ともからみ,新たな解釈論が必要とされるところである。

  第3に,現行憲法21条の起草過程からは,GHQは,やはり公的な言論の自由を支えるものとして,「通信の秘密」の保障を考えていたことがうかがわれるところであり,かつ,そのような「立憲民主主義」の要請を同条に読み込む解釈の存在も,政府において現に認められているところである。同条の解釈論を考えるに当たっては,「言論,出版その他一切の表現の自由」の中に「通信の自由」ないしは「コミュニケーションの自由」が含まれるという理解に対する再評価がされるべきように思われる。

 


なお,当該論文の対象を「憲法21条の「通信の秘密」」に限定して「通信の秘密」一般としなかったのは,通信事業民営化後の電気通信事業法等における「通信の秘密」規制は,飽くまでも当該法律に基づくものであって,直接憲法に基づくものとは解されなかったからです(片桐裕「電話の逆探知,通話の録音等」前田正道編『法制意見百選』(ぎょうせい・1986年)547548頁等参照)。

 

2 しょんぼり,発表後

 「憲法21条の「通信の秘密」について」論文掲載の『東海法科大学院論集』3号は2012年の春に出たものの,大学の紀要ですから書店で市販されたり,一般の図書館に架蔵されるものではありません。したがって,研究者等関係者の注意を喚起し,目に触れるための頼みの綱は国立国会図書館の検索データベースということになりました。しかしながら,いつまでたっても当該論文のデータが国立国会図書館において入力された気配は無く,しかるべきキーワードを入力して検索しても梨のつぶてという状態が続きました。

 折しも,「通信の秘密」に関する議論が活性化しだしました。業界における有力な発表の場ないしは媒体において,論者それぞれの思いを込めた理論がいろいろ表明されていました。「通信の秘密」の「現段階」が論じられ,「その先の議論」が華やかに展開されました。それらに対して,国立国会図書館に行ってベルギー憲法に係る19世紀出版の註釈本のフランス語をとぼとぼと読んだような仕事は,発表と同時に忘れられ,過去のものとなったように思われました。(なお,東海大学の創立者である松前重義は,逓信院総裁まで務めた電気通信関係者だったのですが,「法制局を支配する,国家行政の権限は法律または経済の勉強をした者に限るとの思想」に対して「技術者としての偏見」をもって技官の地位向上のための「技術者運動」を主導した技術官僚でしたので(同「逓信省を中心とした技術者運動」『逓信史話 中』(電気通信協会・1962年)参照),事務官僚的法律論は生前その好むところであったものかどうか,いささか因縁話的なことも考えたものです。)

 


3 えへん,権威づけ

 ところが,昨年(2013年)の暮れになって,京都大学の曽我部真裕教授の「通信の秘密の憲法解釈論」(Nextcom1614頁)及び東京大学の宍戸常寿教授の「通信の秘密に関する覚書」(『現代立憲主義の諸相―高橋和之先生古稀記念』(有斐閣)下巻所載)において,立て続けに我が論文が,憲法学界の諸碩学のものと並んで引用されました。

 理科系の論文の評価基準としては,当該論文がどれだけ他の論文において引用されているかということがあるそうですが,東西両旧帝国大学の憲法学教授の作品において引用を受けるとは,ちょっと以上晴れがましく感じられるところです。しかし,検索の便の悪い中,恐らく広大な大学図書館の紀要コーナーの片隅にひっそりと存在していたであろう我が論文がよく見つけられたものです。さすが横着ならざる一流の学者は,仕事が周到・丁寧です。

なお,曽我部教授の「通信の秘密と憲法解釈論」論文は,インターネット上で公表されています。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/179540/1/nextcom_16_15.pdf

最近になって,改めて我が論文について国立国会図書館の論文検索を試してみると,こちらもようやく,ヒットするようになっていました。

 曽我部・宍戸両教授によるお墨付きに力を得て,今年の正月,大学時代の恩師である憲法学の大先生のお宅に年始に伺った際「憲法21条の「通信の秘密」について」の抜き刷りを,おそるおそる献上申し上げました。大先生は,「ほう」という表情で当該抜き刷りを受け取られましたが,その後間もなく,悪くはないねとの御趣旨のはがきを頂戴しました。御査読何とか通過。有り難いことです。ただし,文体的に,「ところである」が濫用されているねとの御注意を申し受けました。

 この「ところである」濫発の原因は,反省してみると,自ら書く主題に対して少し距離を置いてみせようという潜在意識の反映であったようです。簡明直截に言い切らないで,文末に一つ屈折したような表現を置くのは,照れているのか拗ねているのか。既製品のカテゴリーの単なる当てはめ・書き写しを越えた新たな知見に係る学問的な仕事について,いかにももったいぶった人たちがちゃんと理解できているのか理解できるのか,それまで意外の感を覚え,不信を感ずることが多かったせいか,いざ学界に自らの名で自らの仕事を提出するに当たって,身構えてしまっていたのかもしれません。

 


4 抜き刷り差し上げます

 と,以上,いろいろ自分の論文についていわくありげな御紹介をしたわけですが,じゃあその内容はどうなっているのだという御関心及び御質問があろうかと思います。そこでということで,実は当該論文の抜き刷りが手元にまだ大量に残っておりますので,在庫がある限り,希望される読者の方に,無料で差し上げたく思います。(とはいえ,郵送料の御負担をお願い申し上げます。)

 具体的には,返信用封筒に返信用切手を添えて,郵便でお申込みください。あて先は下記のとおりになります。また,抜き刷りはA5判の大きさですので,折らずにお送りするには定形外郵便物の封筒が必要になります(この場合の郵便料金は120円)。定形郵便物の封筒の場合は,抜き刷りを封入するためには折らざるを得なくなりますが,郵便料金は92円です

(追記)
 その後,本件論文がインターネットで公表されるに至っています。こちらにアクセスされた方が簡便ですね。

https://opac.time.u-tokai.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=TC10000241&elmid=Body&fname=a18812791-00-000030113.pdf 

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電話:0368683194

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

 

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