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 民法733条 女は,前婚の解消又は取消しの日から6箇月を経過した後でなければ,再婚をすることができない。

 2 女が前婚の解消又は取消しの前から懐胎していた場合には,その出産の日から,前項の規定を適用しない。

 

1 最高裁判所大法廷平成271216日判決

 最近の最高裁判所大法廷平成271216日判決(平成25年(オ)第1079号損害賠償請求事件。以下「本件判例」といいます。)において,法廷意見は,「本件規定〔女性について6箇月の再婚禁止期間を定める民法733条1項の規定〕のうち100日の再婚禁止期間を設ける部分は,憲法14条1項にも,憲法24条2項にも違反するものではない。」と判示しつつ,「本件規定のうち100日超過部分〔本件規定のうち100日を超えて再婚禁止期間を設ける部分〕が憲法24条2項にいう両性の本質的平等に立脚したものでなくなっていたことも明らかであり,上記当時〔遅くとも上告人が前婚を解消した日(平成20年3月の某日)から100日を経過した時点〕において,同部分は,憲法14条1項に違反するとともに,憲法24条2項にも違反するに至っていた」ものとの違憲判断を示しています。

 女性が再婚する場合に係る待婚期間の制度については,かねてから「待婚期間の規定は、十分な根拠がなく,立法論として非難されている。」と説かれていましたが(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)31頁。なお,下線は筆者によるもの),最高裁判所は本件判例において違憲であるとの判断にまで踏み込んだのでした。

 

2 我妻榮の民法733条批判

 待婚期間規定に対して,我妻榮は次のように批判を加えていました(我妻3132頁)。

 

  第1に,この制度が父性決定の困難を避けるためなら,後婚がいやしくも成立した後は,〔民法744条に基づき〕取り消しても意味がない。少なくとも,この制度を届書受理の際にチェックするだけのものとして,取消権を廃止すべきである。

  第2に,父性推定の重複を避けるためには,――父性の推定は・・・,前婚の解消または取消後300日以内であって後婚の成立の日から200日以後だから〔民法772条〕――待婚期間は100日で足りるはずである。

  第3に,待婚期間の制限が除かれる場合(733条2項)をもっと広く定むべきである。

  第4に,以上の事情を考慮すると,待婚期間という制限そのものを廃止するのが一層賢明であろう。ことにわが国のように,再婚は,多くの場合,前婚の事実上の離婚と後婚の事実上の成立(内縁)を先行している実情の下では,弊害も多くはないであろう。

 

 民法733条を批判するに当たって我妻榮は,同条は「専ら父性確定に困難を生ずることに対する配慮」から設けられたものと解する立場を採っています(我妻3031頁)。

 

  妻は,婚姻が解消(夫の死亡または離婚)しても,あまりに早く再婚すべきものではない,とする制限は,以前から存在したが,それは別れた夫に対する「貞」を守る意味であった・・・。しかし,現在の待婚期間には,そうした意味はなく,専ら父性確定に困難を生ずることに対する配慮である。第2項の規定は,このことを示す。

 

3 待婚期間に係る梅謙次郎の説明

民法起草者の一人梅謙次郎は,民法733条の前身である民法旧767条(「女ハ前婚ノ解消又ハ取消ノ日ヨリ6个月ヲ経過シタル後ニ非サレハ再婚ヲ為スコトヲ得ス/女カ前婚ノ解消又ハ取消ノ前ヨリ懐胎シタル場合ニ於テハ其分娩ノ日ヨリ前項ノ規定ヲ適用セス」)に関して,次のように説明しています(梅謙次郎『民法要義 巻之四 親族編 訂正増補第二十版』(法政大学・中外出版社・有斐閣書房・1910年)9193頁)。

 

 本条ノ規定ハ血統ノ混乱ヲ避ケンカ為メニ設ケタルモノナリ蓋シ一旦婚姻ヲ為シタル女カ其婚姻消滅ニ帰シタル後直チニ再婚ヲ為ストキハ其後生マレタル子ハ果シテ前婚ノ子ナルカ将タ後婚ノ子ナルカ之ヲ判断シ難キコト稀ナリトセス而シテ若シ其判断ヲ誤レハ竟ニ血統ヲ混乱スルニ至ルヘシ故ニ前婚消滅ノ後6个月ヲ経過スルニ非サレハ再婚ヲ為スコトヲ得サルモノトセリ而シテ此6个月ノ期間ハ法医学者ノ意見〔本件判例に係る山浦善樹裁判官反対意見における説明によれば「懐胎の有無が女の体型から分かるのは6箇月であるとの片山国嘉医学博士(東京帝国大学教授)の意見」〕ヲ聴キテ之ヲ定メタルモノナリ

 ・・・

 民法施行前ニ在リテハ婚姻解消ノ後300日ヲ過クルニ非サレハ再婚ヲ為スコトヲ得サルヲ原則トシ唯医師ノ診断書ニ由リ遺胎ノ徴ナキコトヲ証明スルトキハ例外トシテ再婚ヲ許シ若シ遺胎ノ徴アルトキハ分娩ノ後ニ非サレハ之ヲ許ササルコトトセリ〔明治7年(1874年)9月29日の太政官指令では「自今婦タル者夫死亡セシ日又ハ離縁ヲ受ケシ日ヨリ300日ヲ過サレハ再婚不相成候事/但遺胎ノ徴ナキ旨2人以上ノ証人アル者ハ此限ニアラス」とされていました。〕是レ稍本条ノ規定ニ類スルモノアリト雖モ若シ血統ノ混乱ヲ防ク理由ノミヨリ之ヲ言ヘハ300日ハ頗ル長キニ失スルモノト謂ハサルコトヲ得ス蓋シ仏国其他欧洲ニ於テハ300日ノ期間ヲ必要トスル例最モ多シト雖モ是レ皆沿革上倫理ニ基キタル理由ニ因レルモノニシテ夫ノ死ヲ待チテ直チニ再婚スルハ道義ニ反スルモノトスルコト恰モ大宝律ニ於テ夫ノ喪ニ居リ改嫁スル者ヲ罰スルト同一ノ精神ニ出タルモノナリ(戸婚律居夫喪改嫁条)然ルニ近世ノ法律ニ於テハ此理由ニ加フルニ血統ノ混乱ヲ防クノ目的ヲ以テシタルカ故ニ分娩後ハ可ナリトカ又ハ遺胎ノ徴ナケレハ可ナリトカ云ヘル例外ヲ認ムルニ至リシナリ然リト雖モ一旦斯ノ如キ例外ヲ認ムル以上ハ寧ロ血統ノ混乱ヲ防クノ目的ヲ以テ唯一ノ理由ト為シ苟モ其混乱ノ虞ナキ以上ハ可ナリトスルヲ妥当トス殊ニ再婚ヲ許ス以上ハ6月〔約180〕ト10月〔約300〕トノ間ニ倫理上著シキ差異アルヲ見ス是新民法ニ於テモ旧民法ニ於ケルカ如ク右ノ期間ヲ6个月トシタル所以ナリ 

 
4 6箇月の待婚期間の立法目的

 

(1)山浦反対意見

 梅謙次郎の上記『民法要義 巻之四』等を検討した山浦善樹裁判官は,本件判例に係る反対意見において「男性にとって再婚した女性が産んだ子の生物学上の父が誰かが重要で,前夫の遺胎に気付かず離婚直後の女性と結婚すると,生まれてきた子が自分と血縁がないのにこれを知らずに自分の法律上の子としてしまう場合が生じ得るため,これを避ける(つまりは,血統の混乱を防止する)という生物学的な視点が強く意識されていた。しかし,当時は血縁関係の有無について科学的な証明手段が存在しなかった(「造化ノ天秘ニ属セリ」ともいわれた。)ため,立法者は,筋違いではあるがその代替措置として一定期間,離婚等をした全ての女性の再婚を禁止するという手段をとることにしたのである。・・・多数意見は,本件規定の立法目的について,「父性の推定の重複を回避し,もって父子関係をめぐる紛争の発生を未然に防ぐこと」であるとするが,これは,血縁判定に関する科学技術の確立と家制度等の廃止という社会事情の変化により血統の混乱防止という古色蒼然とした目的では制度を維持し得なくなっていることから,立法目的を差し替えたもののように思える。・・・単に推定期間の重複を避けるだけであれば,重複も切れ目もない日数にすれば済むことは既に帝国議会でも明らかにされており,6箇月は熟慮の結果であって,正すべき計算違いではない。・・・民法の立案者は妻を迎える側の立場に立って前夫の遺胎を心配していたのであって,生まれてくる子の利益を確保するなどということは,帝国議会や法典調査会等においても全く述べられていない。」と述べています(下線は筆者によるもの)。

 しかし,「蓋シ一旦婚姻ヲ為シタル女カ其婚姻消滅ニ帰シタル後直チニ再婚ヲ為ストキハ其後生マレタル子ハ果シテ前婚ノ子ナルカ将タ後婚ノ子ナルカ之ヲ判断シ難キコト稀ナリトセス而シテ若シ其判断ヲ誤レハ竟ニ血統ヲ混乱スルニ至ルヘシ」といった場合の「血統」の「混乱」とは,再婚した母の出産した子について前夫及び後夫に係る嫡出の推定(民法772条2項,旧820条2項)が重複してしまうこと(前婚解消の日及び後婚成立の日が同日であれば,その日から200日経過後300日以内の100日間においては嫡出推定が重複によって父を定めることを目的とする訴え(同法773条,旧821条)が提起されたところ,生物学上の父でない方を父と定める判決又は合意に相当する審判(家事事件手続法277条)がされてしまう事態を指すように一応思われます(重複なく嫡出推定が働いていれば,少なくとも法律上の父子関係については「混乱」はないはずです。)。嫡出の推定が重複するこの場合を除けば,「生物学な視点」から問題になるのは,「前夫の子と推定されるが事実は後夫の子なので,紛争を生じる」場合(前夫との婚姻期間中にその妻と後夫とが関係を持ってしまった場合)及び「後夫の子と推定されるが事実は前夫の子なので,紛争を生じる」場合(妻が離婚後も前夫と関係を持っていた場合。後夫の視点からする,山浦裁判官のいう前記「血統の混乱」はこの場合を指すのでしょう。)であるようですが,これらの紛争は,嫡出推定の重複を防ぐために必要な期間を超えて再婚禁止期間をいくら長く設けても回避できるものではありません(本件判例に係る木内道祥裁判官の補足意見参照)。確かに,“Omnia vincit Amor et nos cedamus Amori.”(Vergilius)です。

 

(2)再婚の元人妻に係る妊娠の有無の確認及びその趣旨

 「血統ノ混乱ヲ避ケンカ為メ」には,元人妻を娶ろうとしてもちょっと待て,妊娠していないことがちゃんと分かってから嫁に迎えろよ,ということでしょうか。

旧民法人事編32条(「夫ノ失踪ニ原因スル離婚ノ場合ヲ除ク外女ハ前婚解消ノ後6个月内ニ再婚ヲ為スコトヲ得ス/此制禁ハ其分娩シタル日ヨリ止ム」)について,水内正史編纂の『日本民法人事編及相続法実用』(細謹舎・1891年)は「・・・茲ニ一ノ論スヘキハ血統ノ混淆ヨリ婚姻ヲ防止スルモノアルコト是ナリ即夫ノ失踪シタル為ニ婦ヲ離婚シタル場合ヲ除キ其他ノ原因ヨリ離婚トナル場合ニ於テハ女ハ前婚期ノ解消シタル後6ヶ月ハ必ス寡居ス可キモノニシテ6ヶ月以内ハ再婚スルコトヲ得ス是レ6ヶ月以内ニ再婚スルヿヲ許ストキハ其生レタル子ハ前夫ノ子ナルカ将タ後夫ノ子ナルカ得テ知リ能ハサレハナリ而シテ寡居ノ期間ヲ6ヶ月ト定メタルハ子ノ懐胎ヨリ分娩ニ至ル期間ハ通常280日ナレトモ時トシテハ180日以後ハ分娩スルコトアルヲ以テ180日即6ヶ月ヲ待ツトキハ前夫ノ子ヲ懐胎シタルニ於テハ其懐胎ヲ知リ得ヘク従テ其生レタル子ハ前夫ノ子ナルコトヲ知リ得レハナリ此故ニ此制禁ハ其胎児ノ分娩シタルトキハ必スシモ6ヶ月ヲ待ツヲ要セス其時ヨリ禁制ハ息ムモノトス(32)」と説いており(2728頁。下線は筆者によるもの),奥田義人講述の『民法人事編』(東京専門学校・1893年)は「()()失踪(・・)()源因(・・)する(・・)離婚(・・)()場合(・・)()除く(・・)外女(・・)()前婚(・・)解消(・・)()()6ヶ月内(・・・・)()再離(・・)〔ママ〕()()さる(・・)もの(・・)()なす(・・)()()()()制限(・・)()()なり(・・)(第32条)而して此の制限の目的は血統の混合を防止するに外ならさるものとす蓋し婚姻解消の後直ちに再婚をなすを許すことあらんか再婚の後生れたる子ハ果して前夫の子なるか将た又後夫の子なるか之れを判明ならしむるに難けれはなり其の前婚解消の後6ヶ月の経過を必要となすは懐胎より分娩に至るまての最短期を採りたること明かなり去りなから若充分に血統の混淆を防止せんと欲せハ此の最短期を採るを以て決して足れりとすへからさるは勿論なるのみならす既に通常出産の時期を300日となす以上は少なく共此時限間の経過を必要となさるへからさるか如し・・・」と説いていました(85頁)。ちなみに,旧民法人事編91条2項は「婚姻ノ儀式ヨリ180後又ハ夫ノ死亡若クハ離婚ヨリ300日内ニ生マレタル子ハ婚姻中ニ懐胎シタルモノト推定ス」と規定していました(下線は筆者によるもの)。

 しかし,民法旧767条1項の文言からすると,女性の前婚解消後正に6箇月がたってその間前婚期間中に懐胎したことが分かってしまった場合であっても,当事者がこれでいいのだと決断すれば,再婚は可能ということになります。ところが,これでいいのだと言って再婚したとしても,後婚夫婦間に生まれた子が直ちに後夫の法律上の子になるわけではありません。民法旧820条も「妻カ婚姻中ニ懐胎シタル子ハ夫ノ子ト推定ス/婚姻成立ノ日ヨリ200日後又ハ婚姻ノ解消若クハ取消ノ日ヨリ300日内ニ生レタル子ハ婚姻中ニ懐胎シタルモノト推定ス」と規定していました。すなわち,前婚中前夫の子を懐胎していた女性とその前婚解消後6箇月たって当該妊娠を確実に承知の上これでいいのだと婚姻した後夫にとって,新婚後3箇月足らずで妻から生まれてくる子(通常の妊娠期間は9箇月)は自分の子であるものとは推定されません(3箇月は約90日であって,200日には足りません。)。そうであれば,後の司法大臣たる奥田義人の前記講述中「もし充分に血統の混淆を防止せんと欲せハ此の最短期を採るを以て決して足れりとすへからさるは勿論なるのみならす既に通常出産の時期を300日となす以上は少なく共此時限間の経過を必要となさるへからさるか如し」の部分に注目すると,「血統の混淆」とは,再婚した元人妻が新しい夫との婚姻早々,前夫の子であることが嫡出推定から明らかな子を産む事態を実は指しているということでしょうか。本件判例に係る木内裁判官の補足意見における分類によれば,「前夫の子と推定され,それが事実であるが,婚姻後に前夫の子が出生すること自体により家庭の不和(紛争)が生じる」事態でしょう。

旧民法人事編32条及び民法旧767条は,嫡出推定の重複を避けることに加えて,当該重複を避けるために必要な期間(旧民法で120日,民法で100日)を超える部分については,恋する男性に対して,ほれた元人妻とはいえ,前夫の子を妊娠しているかいないかを前婚解消後6箇月の彼女の体型を自分の目で見て確認してから婚姻せよ,と確認の機会を持つべきものとした上で,当該確認の結果妊娠していることが現に分かっていたのにあえて婚姻するのならば「婚姻後に前夫の子が出生すること自体により家庭の不和(紛争)が生じる」ことは君の新家庭ではないものと我々は考えるからあとは自分でしっかりやってよ,と軽く突き放す趣旨の条項だったのでしょうか。彼女が妊娠しているかどうか分からないけどとにかく早く結婚したい,前夫の子が産まれても構わない,ぼくは彼女を深く愛しているから家庭の平和が乱されることなんかないんだと言い張るせっかちな男性もいるのでしょうが,実際に彼女が前夫の子かもしれない子を懐胎しているのが分かったら気が変わるかもしれないよなとあえて自由を制限する形で醒めた配慮をしてあげるのが親切というものだったのでしょうか。そうだとすると,一種の男性保護規定ですね。大村敦志教授の紹介による梅謙次郎の考え方によると,「兎に角婚姻をするときにまだ前の種を宿して居ることを知らぬで妻に迎へると云ふことがあります・・・さう云ふことと知つたならば夫れを貰うのでなかつたと云ふこともあるかも知れぬ」ということで〔(梅・法典調査会六93頁)〕,「「6ヶ月立つて居れば先夫の子が腹に居れば,・・・もう表面に表はれるから夫れを承知で貰つたものならば構はぬ」(法典調査会六94頁)ということ」だったそうです(大村敦志『民法読解 親族編』(有斐閣・2015年)2829頁)。なお,名古屋大学のwww.law.nagoya-ふu.ac.jp/jalii/arthis/1890/oldcivf2.htmlウェッブページによれば,旧民法人事編の待婚期間の長さは,第1草案及び再調査案においては嫡出推定の重複を避け,かつ,切れ目がないようにするためのきっちり4箇月(約120日)であったところ,法取委〔法律取調委員会〕上申案以後6箇月になっています。旧民法人事編の「第1草案」については「明治21年〔1888年〕7月頃に,「第1草案」の起草が終わった。分担執筆した幾人かの委員とは,熊野敏三,光明寺三郎,黒田綱彦,高野真遜,磯部四郎,井上正一であり,いずれもフランス法に強い「報告委員」が担当した。「第1草案」の内容は,かなりヨオロッパ的,進歩的なものであった。」と述べられ(大久保泰甫『日本近代法の父 ボアソナアド』(岩波新書・1998年)157頁),更に「その後,法律取調委員会の・・・本会議が開かれ,「第1案」「第2按」「再調査案」「最終案」と何回も審議修正の後,ようやく明治23年〔1890年〕4月1日に人事編が・・・完成し,山田〔顕義〕委員長から〔山県有朋〕総理大臣に提出された。」と紹介されています(同158頁)。

 

(3)本件判例

 本件判例の法廷意見は,民法旧767条が目的としたところは必ずしも一つに限られてはいなかったという認識を示しています。いわく,「旧民法767条1項において再婚禁止期間が6箇月と定められたことの根拠について,旧民法起訴時の立案担当者の説明等からすると,その当時は,専門家でも懐胎後6箇月程度経たないと懐胎の有無を確定することが困難であり,父子関係を確定するための医療や科学技術も未発達であった状況の下において,①再婚後に前夫の子が生まれる可能性をできるだけ少なくして家庭の不和を避けるという観点や,②再婚後に生まれる子の父子関係が争われる事態を減らすことによって,父性の判定を誤り血統に混乱が生ずることを避けるという観点から,再婚禁止期間を厳密に父性の推定が重複するための期間に限定せず,一定の期間の幅を設けようとしたものであったことがうかがわれる。③また,諸外国の法律において10箇月の再婚禁止期間を定める例がみられたという事情も影響している可能性がある。」と(①②③は筆者による挿入)。続けて,法廷意見は「しかし,その〔昭和22年法律第222号による民法改正〕後,医療や科学技術が発達した今日においては,上記のような各観点から,再婚禁止期間を厳密に父性の推定が重複することを回避するための期間に限定せず,一定の期間の幅を設けることを正当化することは困難になったといわざるを得ない。」と述べていますが,ここで維持できなくなった観点は,②の「父子関係が争われる事態」における「父子関係」とは飽くまでも法的なものであると解せば,①及び③であろうなと一応思われます(③については判決文の後の部分で「また,かつては再婚禁止期間を定めていた諸外国が徐々にこれを廃止する立法をする傾向にあり,ドイツにおいては1998年(平成10年)施行の「親子法改革法」により,フランスにおいては2005年(平成17年)施行の「離婚に関する2004年5月26日の法律」により,いずれも再婚禁止期間の制度を廃止するに至っており,世界的には再婚禁止期間を設けない国が多くなっていることも公知の事実である。」と述べられています。)。

 ところで,本件判例の法廷意見は更にいわく,「・・・妻が婚姻前から懐胎していた子を産むことは再婚の場合に限られないことをも考慮すれば,再婚の場合に限って,①前夫の子が生まれる可能性をできるだけ少なくして家庭の不和を避けるという観点や,②婚姻後に生まれる子の父子関係が争われる事態を減らすことによって,父性の判定を誤り血統に混乱が生ずることを避けるという観点から,厳密に父性の推定が重複することを回避するための期間を超えて婚姻を禁止する期間を設けることを正当化することは困難である。他にこれを正当化し得る根拠を見いだすこともできないことからすれば,本件規定のうち100日超過部分は合理性を欠いた過剰な制約を課すものとなっているというべきである。」と(①②は筆者による挿入)。さて,100日を超えた約80日の超過部分を設けることによって防止しようとした「婚姻後に生まれる子の父子関係が争われる事態」とはそもそも何でしょう。当該約80日間が設けられたことによって,前婚解消後6箇月で直ちに再婚した妻の産む子のうち後婚開始後約120日経過後200日経過前の期間内に生まれた子には前夫及び後夫いずれの嫡出推定も及ばないことになります。むしろ(認知のいかんをめぐって)父子関係が争われやすくなるようでもありました(昭和15年(1940年)1月23日の大審院連合部判決以前は,婚姻成立の日から200日たたないうちに生まれた子を非嫡出子としたものがありました(我妻215頁参照)。)。嫡出推定の切れ目がないよう前婚解消後100日経過時に直ちに再婚したがる女性には何やら後夫に対する隠し事があるように疑われ,後夫が争って,つい嫡出否認の訴えを提起したくなるということでしょうか。しかし,(DNA鑑定を通じて)嫡出否認の訴えが成功すればそもそも父子関係がなくなるので,この争い自体から積極的な「血統に混乱」は生じないでしょう。(なお,前提として,「厳密に父性の推定が重複することを回避するための期間」の範囲内については②の観点は依然として有効であることが認められていると読むべきでしょうし,そう読まれます。)「再婚禁止期間を厳密に父性の推定が重複するための期間に限定せず,一定の期間の幅を設けようとした」ことと②の「再婚後に生まれる子の父子関係が争われる事態を減らすことによって,父性の判定を誤り血統に混乱が生ずることを避けるという観点」との結び付きはそもそも強いものではなかったように思われます。また,前夫の嫡出推定期間内に生まれる子の生物学上の父が実は後夫である場合は,むしろ嫡出推定が重複する期間を設けて紛戦に持ち込み,父を定めることを目的とする訴えを活用して生物学上の父と法律上の父とが合致するようにし,もって「血統の混乱」を取り除くことにする方がよいのかもしれません。しかし,そのためには逆に,待婚期間は短ければ短い方がよく,理想的には零であるのがよいということになってしまうようです(なお,待婚期間がマイナスになるのは,重婚ということになります。)。この点については更に,大村教授は「嫡出推定は婚姻後直ちに働くとしてしまった上で,二つの推定の重複を正面から認めよう,という発想」があることを紹介しています(大村29頁)。

それでは,①の「再婚後に前夫の子が生まれる可能性をできるだけ少なくして家庭の不和を避けるという観点」と現在は「医療や科学技術が発達した」こととの関係はどうでしょうか。現在は6箇月たたなくとも妊娠の有無が早期に分かるから,そこまでの待婚期間は不要だということでしょう。しかし,「懐胎の有無が女の体型から分かるのは6箇月であるとの片山国嘉医学博士(東京帝国大学教授)の意見」においては「女の体型」という外見が重視されているようであり,女性が妊娠を秘匿している事態も懸念されているようではあります。妊娠検査薬があるといっても,女性の協力がなければ検査はできないでしょうが,その辺の事情には明治や昭和の昔と平成の現代とで変化が生じているものかどうか。

本件判例の法廷意見は,憲法24条1項は「婚姻をするかどうか,いつ誰と婚姻をするかについては,当事者の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨を明らかにしたもの」と解した上で「上記のような婚姻をするについての自由」は「十分尊重に値するもの」とし,さらには,再婚について,「昭和22年民法改正以降,我が国においては,社会状況及び経済状況の変化に伴い婚姻及び家族の実態が変化し,特に平成期に入った後においては,晩婚化が進む一方で,離婚件数及び再婚件数が増加するなど,再婚をすることについての制約をできる限り少なくするという要請が高まっている事情も認めることができる」ものとしています。「婚姻をするについての自由」に係る憲法24条1項は昭和22年民法改正のそもそもの前提だったのですから,その後に①の「再婚後に前夫の子が生まれる可能性をできるだけ少なくして家庭の不和を避けるという観点」の有効性が減少したことについては,やはり,後者の「再婚をすることについての制約をできる限り少なくするという要請が高まっている事情」が大きいのでしょうか。「再婚」するにはそもそも主に離婚が前提となるところ,離婚の絶対数が増えれば早く再婚したいという人の絶対数も増えているのでしょう。ちなみに,女性が初婚時よりも再婚時の方が良い妻になることが多いという精神分析学説がありますが(„Ich meine, es muß dem Beobachter auffallen, in einer wie ungewönlich großen Anzahl von Fällen das Weib in einer ersten Ehe frigid bleibt und sich unglücklich fühlt, während sie nach Lösung dieser Ehe ihrem zweiten Manne eine zärtliche und beglückende Frau wird.“(Sigmund Freud, Das Tabu der Virginität, 1918)),これは本件判例には関係ありません。

しかし,現代日本の家族は核家族化したとはいえ,「家庭の不和」の当事者としては,夫婦のみならず,子供も存在し得るところです。

 

5 待婚期間を不要とした実例:アウグストゥス

 

(1)アウグストゥスとリウィアとリウィアの前夫の子ドルスス

 ところで,前夫の子を懐胎しているものと知りつつ,当該人妻の前婚解消後直ちにこれでいいのだと婚姻してしまった情熱的な男性の有名な例としては,古代ローマの初代皇帝アウグストゥスがいます。

 

  〔スクリボニアとの〕離婚と同時にアウグストゥスは,リウィア・ドルシラを,ティベリウス・ネロの妻でたしかに身重ですらあったのにその夫婦仲を裂き,自分の妻とすると(前38年),終生変らず比類なく深く愛し大切にした。(スエトニウス「アウグストゥス」62(国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(上)』(岩波文庫・1986年)))

 

 前63年生まれのアウグストゥスは,前38年に25歳になりました。リウィアは前58年の生まれですから,アウグストゥスの5歳年下です。両者の婚姻後3箇月もたたずに生まれたリウィアの前夫ティベリウス・クラウディウス・ネロの息子がドルススです。

 

  〔4代目皇帝〕クラウディウス・カエサルの父ドルススは,かつて個人名をデキムスと,その後でネロと名のった。リウィアは,この人を懐妊したまま,アウグストゥスと結婚し,3ヶ月も経たぬ間に出産した(前38年)。そこでドルススは,継父の不義の子ではないかと疑われた。たしかにドルススの誕生と同時に,こんな詩句が人口に膾炙した。

  「幸運児には子供まで妊娠3ヶ月で生れるよ」

  ・・・

  ・・・アウグストゥスは,ドルススを生存中もこよなく愛していて,ある日元老院でも告白したように,遺書にいつも,息子たちと共同の相続人に指名していたほどである。

  そして〔前9年に〕彼が死ぬと,アウグストゥスは,集会で高く賞揚し,神々にこう祈ったのである。「神々よ,私の息子のカエサルたちも,ドルススのごとき人物たらしめよ。いつか私にも,彼に授けられたごとき名誉ある最期をたまわらんことを」

  アウグストゥスはドルススの記念碑に,自作の頌歌を刻銘しただけで満足せず,彼の伝記まで散文で書いた。(スエトニウス「クラウディウス」1(国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(下)』(岩波文庫・1986年)))

 

(2)アウグストゥス家の状況

しかし,共和政ローマの名門貴族クラウディウス一門(アッピア街道で有名なアッピウス・クラウディウス・カエクスもその一人)のティベリウス・クラウディウス・ネロ(前33年没)を法律上の父として持つドルススは,母の後夫であり,自分の生物学上の父とも噂されるアウグストゥスの元首政に対して批判的であったようです。

 

 〔ドルススの兄で2代目皇帝の〕ティベリウスは・・・弟ドルスス・・・の手紙を公開・・・した。その手紙の中で弟は,アウグストゥスに自由の政体を復活するように強制することで兄に相談をもちかけていた。(スエトニウス「ティベリウス」50(国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(上)』(岩波文庫・1986年)))

 

 少なくとも皇帝としてのアウグストゥスに対しては,反抗の意思があったわけです。

 

 ところでドルススには名声欲に劣らぬほど,民主的な性格が強かったと信じられている。

 ・・・彼はそうする力を持つ日がきたら,昔の共和政を復活させたいという希望を,日頃から隠していなかったといわれているからである。

 ここに,ある人らが大胆にも次のような説を伝えている根拠があると私は思うのである。

 ドルススはアウグストゥスに不信の念を抱かれ,属州から帰還を命じられても逡巡していて毒殺されたと。この説を私が紹介したのは,これが真実だとか,真相に近いと思ったからではなく,むしろこの説を黙殺したくなかったからにすぎない。(スエトニウス「クラウディウス」1)

 

 自分の本当の父親が誰であるのか悩むことがあったであろうドルススの心事を忖度することには興味深いものがあります。

 アウグストゥスの家庭は,余り平和ではありませんでした。

 

 〔アウグストゥスは,リウィアと再婚する際離婚した〕スクリボニアからユリアをもうける。リウィアからは熱烈に望んでいたのに一人の子供ももうけなかった。もっとも胎内に宿っていた赤子が月足らずで生まれたことはあるが。(スエトニウス「アウグストゥス」63

 

  娘と孫娘のユリアは,あらゆるふしだらで穢れたとして島に流した。(スエトニウス「アウグストゥス」65

 

6 待婚期間を回避した実例:ナポレオン

 

(1)ナポレオンの民法典

 「我々は,良俗のためには,離婚と2度目の婚姻との間に間隔を設けることが必要であると考えた。(Nous avons cru, pour l’honnêteté publique, devoir ménager une intervalle entre le divorce et un second mariage.)」と述べたのは,ナポレオンの民法典に係る起草者の一人であるポルタリスです(Discours préliminaire du premier projet de Code civil, 1801)。1804年のナポレオンの民法典における待婚期間に関する条項にはどのようなものがあったでしょうか。

 

 第228条 妻は,前婚の解消から10箇月が経過した後でなければ,新たに婚姻することができない。(La femme ne peut contracter un nouveau mariage qu’après dix mois révolus depuis la dissolution du mariage précédent.

 

これは我が民法733条1項及び旧767条1項並びに旧民法民事編32条1項に対応する規定ですね。ただし,待婚期間が6箇月ではなく10箇月になっています。また,ナポレオンの民法典228条は,離婚以外の事由による婚姻の解消(主に死別)の場合に適用がある規定です。

共和国10年葡萄月(ヴァンデミエール)14日(180110月6日)に国務院(コンセイユ・デタ)でされた民法典に関する審議の議事(同議事録http://archives.ih.otaru-uc.ac.jp/jspui/handle/123456789/53301第1巻294295頁)を見ると,同条の原案には,décence”(品位,節度)がそれを要請するであろうとして(ブーレ発言),後段として「夫も,当該解消から3箇月後でなければ,2度目の婚姻をすることができない。(le mari ne peut non plus contracter un second mariage qu’après trois mois depuis cette dissolution.)」という規定が付け足されていました。同条の原案に対する第一執政官ナポレオンの最初の感想は,「10箇月の期間は妻には十分長くはないな。」であり,司法大臣アブリアルが「我々の風習では,その期間は1年間で,喪の年(l’an de deuil)と呼ばれています。」と合の手を入れています。トロンシェが,「実際のところ,妻に対する禁制の目的は,la confusion de partを防ぐことであります。夫についてはそのような理由はありません。彼らの家計を維持する関係で妻の助力を必要とする耕作者,職人,そして人民階級の多くの諸個人にとっては,提案された期間は長過ぎます。」と発言しています。議長であるナポレオンが「アウグストゥスの例からすると妊娠中の女とも婚姻していたのだから,古代人はla confusion de partの不都合ということを気にしてはいなかったよな。夫の方については,規定せずに風習と慣例とに委ねるか,もっと長い期間婚姻を禁ずるかのどちらかだな。この点で民法典が,慣習よりもぬるいということになるのはまずい。」と総括し,結局同条については,後段を削った形で採択されています。しかして残った同条は,端的にla confusion de partを防ぐための条項であるかといえば,アウグストゥスの例に触れた最終発言によれば第一執政官はその点を重視していたようには見えず,さりとて「喪の年」を2箇月縮めたものであるとも言い切りにくいところです。(ただし,この10箇月の期間にはいわれがあるところで,古代ローマの2代目国王「ヌマは更に喪を年齢及び期間によつて定めた。例へば3歳以下の幼児が死んだ時には喪に服しない。もつと年上の子供も10歳まではその生きた年数だけの月数以上にはしない。如何なる年齢に対してもそれ以上にはせず,一番長い喪の期間は10箇月であつて,その間は夫を亡くした女たちは寡婦のままでゐる。その期限よりも前に結婚した女はヌマの法律に従つて胎児を持つてゐる牝牛を犠牲にしなければならな」かった,と伝えられています(プルタルコス「ヌマ」12(河野与一訳『プルターク英雄伝(一)』(岩波文庫・1952年)))。また,ヌマによる改暦より前のローマの暦では1年は10箇月であったものともされています(プルタルコス「ヌマ」18・19)。なお,“La confusion de part”“part”は「新生児」の意味で,「新生児に係る混乱」とは,要は新生児の父親が誰であるのか混乱していることです。これが我が国においては「血統ノ混乱」と訳されたものでしょうか。

離婚の場合については,特別規定があります。

 

296条 法定原因に基づき宣告された離婚の場合においては,離婚した女は,宣告された離婚から10箇月後でなければ再婚できない。(Dans le cas de divorce prononcé pour cause déterminée, la femme divorcée ne pourra se remarier que dix mois apès le divorce prononcé.

 

297条 合意離婚の場合においては,両配偶者のいずれも,離婚の宣告から3年後でなければ新たに婚姻することはできない。(Dans le cas de divorce par consentement mutuel, aucun des deux époux ne pourra contracter un nouveau mariage que trois ans après la pronunciation du divorce.

 

 面白いのが297条ですね。合意離婚の場合には,男女平等に待婚期間が3年になっています。ポルタリスらは当初は合意離婚制度に反対であったので(Le consentement mutuel ne peut donc dissoudre le mariage, quoiqu’il puisse dissoudre toute autre société.(ibid)),合意離婚を認めるに当たっては両配偶者に一定の制約を課することにしたのでしょう。男女平等の待婚期間であれば,我が最高裁判所も,日本国憲法14条1項及び24条2項に基づき当該規定を無効と宣言することはできないでしょう。

 ただ,ナポレオンの民法典297条が皇帝陛下にも適用がある(ないしは国民の手前自分の作った民法典にあからさまに反することはできない)ということになると,一つ大きな問題が存在することになったように思われます。

 18091215日に皇后ジョゼフィーヌと婚姻解消の合意をしたナポレオンが,どうして3年間待たずに1810年4月にマリー・ルイーズと婚姻できたのでしょうか。

 ジョゼフィーヌの昔の浮気を蒸し返して法定原因に基づく離婚(ナポレオンの民法典296条参照)とするのでは,皇帝陛下としては恰好が悪かったでしょう。どうしたものか。

 

(2)18091216日の元老院令

 実は,18091215日のナポレオンとジョゼフィーヌとの合意に基づく婚姻解消は,合意離婚ではなく,立法(同月16日付け元老院令)による婚姻解消という建前だったのでした。合意離婚でなければ,夫であるナポレオンが再婚できるまで3年間待つ必要はありません。

 上記元老院令は,その第1条で「皇帝ナポレオンと皇后ジョゼフィーヌとの間の婚姻は,解消される。(Le mariage contracté entre l’Empereur Napoléon et l’Impératrice Joséphine est dissous.)」と規定しています。

 大法官は,カンバセレス。ナポレオンに最終的に「婚姻解消,やらないか。」と言ったのは,フーシェでもタレイランでもなく彼だったものかどうか。いずれにせよ,厄介な法律問題を処理してくれたカンバセレスの手際には,皇帝陛下も「いい男」との評価を下したことでしょう。

 こじつけのようではありますが,1809年においても2015年においても,1216日は,離婚後の長い待婚期間の問題性が表面化された日でありました。



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1 ワシントンの二つの生年月日:"Calendar (New Style) Act 1750"の前と後

 アメリカ独立戦争における大陸軍(タイリクグン)の総司令官ジョージ・ワシントンの誕生日は,222日です。しかしながら,ワシントンの生前には,211日にもワシントンの誕生日のお祝いがされていました。

 この11日の日付のずれはなぜかといえば,ユリウス暦(211)とグレゴリオ暦(222)との相違です。グレゴリオ暦はローマ教皇が定めたために,非カトリック諸国では採用が遅れ,ワシントンが生まれた時点においては,イギリスはなおユリウス暦を使用していたものです。正教会のロシアで起きた1917年の革命が,「3月革命」・「11月革命」ともいわれながらも,一般には現地での呼称に従いロシア二月革命・十月革命といわれているのと同じ仕組みです。

 ところで,ワシントン家の聖書には,ジョージ・ワシントンの誕生日時について,"was born ye 11th Day of February 1731/2 about 10 in the Morning."と,恐らく若きジョージ・ワシントンによって書かれたものと考えられている頁が貼り付けられています(マウント・ヴァーノンのGeorge Washington Wiredウェッブ・サイト)。さて,"ye 11th Day of February"はユリウス暦ということで分かるのですが(yeは,theのこと),"1731/2"とは何のことでしょうか。「1731年又は1732年」ということでしょうが,ワシントンは,うかつにも,自分の生まれた年がどちらの年だったのか実は分からなかったのでしょうか。ホワイト・ハウスのウェッブ・サイトにおけるワシントンの伝記では,アメリカ合衆国初代大統領の生まれた年を1732年としていますが,このように断定する自信はどこから来るのでしょうか。

 実は,年の初めは,必ずしもthe first day of Januaryではなかったところです。日本語では,月に序数詞を付けて1月,2月,3月・・・と呼称するので問題が分かりにくいのですが,January, February, March...との月の名は,大文字から始まることからも分かるように,固有名詞であって,実はJanuaryには,「第1の月」という意味は本来ありません。

 で,何を申し上げたいかというと,1751年までは,イギリスにおいては,大天使ガブリエルによるマリアに対する受胎告知の日であるthe 25th day of Marchから一年が始まっていたという事実です(ちなみに,わが民法でも,胎児は,不法行為の損害賠償請求及び相続については出生したものとみなされています(721条,886条。また,7831項)。)。1750年の法律(Calendar (New Style) Act 1750)によって,イギリスでは,1751年のthe 31st day of Decemberの翌日であるthe first day of January1752年の初日となり,1752年のSeptember2日の翌日が同月14日となるとともに(春分の日がMarch9日又は10日になっていたのを,325年のニケーア公会議の時の同月21日ころに戻す。),うるう日の置き方が,グレゴリオ暦方式になりました(1800年,1900年はうるう年ではない。)。

 すなわち,ワシントンが生まれた日は,グレゴリオ暦では1732年のthe 22nd day of Februaryであると同時に,当時のイギリスの暦では1731年のthe 11th day of Februaryだったのでした。

 ちなみに,マリアに対する受胎告知があった月は,福音書では「6番目の月」(ルカ1:26)とされていて,年の初めの月とは表示されていません。紀元前6世紀のバビロン捕囚後は,ユダヤ人の世俗暦の新年はティシュリの月(September-October)から始まっていたそうです。1年が12箇月だとすると,イエスが生まれたのは3番目の月(キスレヴの月:November-December)でしょうか。イエスが割礼を受け,命名されたのは,その誕生の1週間後とされていますが(ルカ2:21),なるほど,年の初めのthe first day of January1週間前がクリスマスになっていますね。(なお,"In the sixth month"は,福音書の前後の文脈からは,「(エリザベトが洗礼者ヨハネを身ごもった)6箇月目に」と解されているところです。その旨紛れのないように"In the sixth month of Elizabeth's pregnancy"と補って訳してある英文福音書もあります。とはいえ,洗礼者ヨハネの誕生日はJuneの24日に祝われますので,正に世俗暦の新年が始まるSeptember下旬のティシュリ月初めに懐妊があったということでしょうか。)


2 古代ローマの年初月: 軍国か平和か

 年の始まりは,春であったり,秋であったり,冬であったりいろいろです。要は立法者の決めの問題ということでしょう。

 現在のヨーロッパ語の月の名前は,古代ローマの月の名前に由来していますが,古代ローマでは,当初はMarchが年の1番目の月だったのが,後にJanuary1番目の月に変更されています。プルタルコスによれば,紀元前8世紀の初代王のロームルスはMarch1番目の月にしていましたが,2代目王のヌマがJanuary1番目の月に変更したそうです(その結果,7番目の月の意味のSeptember9番目の月になり,10番目の月の意味のDecember12番目の月へと,ずれが生じています。)。



 ヌマは又月の順序を変更した。第1の月であつたマルスの月を第3に置きヤーヌスの月を第1に置いたが,これはロームルスの時には第11で今第2にしてあるフェブルア(贖罪の浄め)の月は第12で最後になつてゐた。しかしこの二つの月ヤーヌアーリウスとフェブルアーリウスとはヌマが附加へたもので,最初は1年に10箇月しかなかつたと云つてゐる人も多い。

 

 ヌマが附け加へたもしくは置き換へた月の中・・・1月ヤーヌアーリウスの名はヤーヌスから来てゐる。私の解釈ではヌマはマルティウスがマルスの名を持つてゐるので首位から移し,あらゆる場合に武力よりも政治力を重んじようと欲したのだと思ふ。ヤーヌスは非常に古い時代の,精であつたか王であつたか,政治的な社交的な人で,人間の生活を動物的な野蛮なところから変化させたと云はれてゐる。このために人々はこれを顔の二つあるものとして表現し,人間の生活に一つの形から別の形を与へたものとしてゐる。

(以上,河野与一訳『プルターク英雄伝』(岩波文庫)第1173頁,174-175頁)



 双子の兄弟のレムスを殺したり,サビーニー人の娘を略奪したりした,戦争好きのロームルス王は軍神マルスのMarchを年の初めとしたのに対し,平和主義の哲人王ヌマは,それを改め,平和的かつ文化的なヤーヌス神のJanuaryを第1の月にしたわけです。年の初めの月は,みんなが睦む月ということになるわけでしょう。

 前記引用の後半部分は,Drydenの英訳では,河野与一訳の「あらゆる場合に武力よりも政治力を重んじようと欲したのだと思ふ」が「あらゆる機会をとらえて平和の術及び研究(arts and studies of peace)が戦争に係るそれら(those of war)より優先されるべきことを示そうとしたのだと思う」に,「政治的な社交的な人」が「市民的及び社会的な協和を重んじる人(a great lover of civil and social unity)」になっていますが,こちらの方がヌマの平和主義が分かりやすいでしょう。また,「顔の二つあるものとして表現し,人間の生活に一つの形から別の形を与へたものとしてゐる」も,Drydenでは「,それらのうちの一つから彼が人類を他の一つに移行せしめた二つの状態を示すために,顔の二つあるものとして表現している」になっています。

 古代ローマの暦法に紀元前45年から太陽暦を採用したのはカエサルです(1365日,4年ごとに1日のうるう日の,当人の名をとって呼ばれるユリウス暦)。その際,暦と季節とのずれを修正し「新しい年の11Kalendis Januariisから将来にかけて,季節の正しい推移と,いっそうぴったり符合するように」,前46年の「11月と12月の間inter Novembrem ac Decembremに,2ヶ月をはさ」んだため,もとからあったうるう月と合わせて,同年は15箇月になったそうです(国原吉之助訳・スエトニウス『ローマ皇帝伝』(岩波文庫)上巻48頁)。

 カエサルの時に季節との関係で2箇月ずらされてはいるのですが,プルタルコスによるヌマ暦の説明と,国原吉之助教授の上記スエトニウスの翻訳からすると,カエサルが年の初めの月を2箇月ずらしてMarchからJanuaryにしたというわけではないことになります。

 また,紀元前153年から執政官の就任日がthe first day of Januaryになったのでこの時からthe first day of Januaryが年の初めになったのだともいわれていますが,英語版のWikipedia"Roman Calendar"の項は,紀元前153年より前から年の初めはthe first day of Januaryだったらしい,としています。ただし,古代ローマでは,執政官(定員2名)の名前で呼ばれるその就任期(任期1年間)をもって年代を特定して表すことになっていたので(例えば「カエサルとビブルスが執政官のとき」),確かに,執政官の任期がいつから始まるかは重要であったところです。


3 現在の我が国の暦法法制: 明治五年太政官第337号の布告の効力

 我が国においては,年の初めは,かつての太陰太陽暦においては立春の日の近くの新月の日(ついたち)ということになっていました。太陽暦を採用し,年初日をグレゴリオ暦のthe first day of Januaryにしたのは,明治五年(1872年)十一月九日の太政官第337号の布告によってです。これにより,明治五年十二月二日の翌日が,明治6年すなわち1873年の11日となりました。

 この太政官の布告は,総務省の法令データ提供システムによって見ることができますから,現在も効力を持っている法令として扱われているようです(また,195037日の参議院文部委員会では,杉山専一郎法制局参事が,明治五年太政官第337号の布告は「廃止されていないという考え方でおります。」と答弁しています。)。

 暦法は,国民生活に大きな影響を与えますから,法の形式としては,政令以下の命令ではなくて,国会によって定められるべき法律として扱われるべきものでしょう。明治五年太政官第337号の布告は時刻に関する時刻ノ儀是迄昼夜長短ニ随ヒ十二時ニ相分チ候処今後改テ時辰儀時刻昼夜平分二十四時ニ定メ子刻ヨリ午刻迄ニ十二時ニ分チ午前幾時ト称シ午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分チ午後幾時ト称候事」という規定を含んでいましたが,同じく時刻に関する夏時刻法(昭和23年法律第29号)は,法律でした(同法は昭和27年法律第84号により廃止)。

 そうであれば,すなわち,明治五年太政官第337号の布告は,大日本帝国憲法761項の「法律規則命令又ハ何等ノ名称ヲ用ヰタルニ拘ラス此ノ憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ総テ遵由ノ効力ヲ有ス」との規定に基づき大日本帝国憲法下において法律として遵由の力を有し,引き続き194753日からは,日本国憲法98条の「この憲法は,国の最高法規であつて,その条規に反する法律,命令,詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は,その効力を有しない。」の反対解釈によって,日本国憲法の条規に反しない法律としてその効力を維持しているものと考えられることになります(例えば,明治17年太政官布告第32号の爆発物取締罰則のごとし。)。

 しかし,そうは簡単に問屋が卸しません。

 明治改暦に係る明治五年太政官第337号の布告は,大日本帝国憲法下では,帝国議会の協賛を経るべき法律としては扱われていなかったようであるからです。すなわち,当該布告は「4年毎ニ1日ノ閏ヲ置候事」とのみ規定していたので,グレゴリオ暦の置閏法では平年であるはずの1900年(明治33年)もうるう年になってしまうことが発覚して,同年を平年とすべく明治31年勅令第90号が追加で定められたのですが,当該追加改正の法形式は,法律ではなく勅令によるものでした(「神武天皇即位紀元年数ノ4ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス但シ紀元年数ヨリ660ヲ減シテ100ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ4ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス」との内容。内閣総理大臣伊藤博文及び文部大臣外山正一が副署)。伊藤博文自身の『憲法義解』の第76条解説が,大日本帝国憲法施行前の法令について「而して法律として遵由の力あらしむる者にして若将来に於て改正を要するときは,其の前日に勅令布達を以て公布したるに拘らず,総て皆法律を以て挙行するを要すること知るべきなり。」と説いていたところです。其の前日に布告を以て公布したるに拘らず改正が勅令によって挙行されるものは,法律としてではなく,勅令として遵由の力あらしむる者でしょう。

 明治五年太政官第337号の布告が法律ではなく勅令だということになると,昭和22年法律第72号(日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律)1条との関係で問題が生じます。同条は,「日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定で,法律を以て規定すべき事項を規定するものは,昭和221231日まで,法律と同一の効力を有するものとする。」と規定しているからです。すなわち,明治五年太政官第337号の布告は明治31年勅令第90号と共に大日本帝国憲法下では勅令という命令として効力を有していたところ,その規定事項が日本国憲法下では法律をもって定めるものであるのならば,1948年(昭和23年)11日以降は失効したものと解され得るところです。

 しかしながら,明治五年太政官第337号の布告及び明治31年勅令第90号はいずれも総務省の法令データ提供システムにあり,なおも効力を有しているものとされています。そうだとすると,当該布告及び勅令は,日本国憲法下でも「法律を以て規定すべき事項を規定するもの」ではなく,したがって昭和22年法律第721条に規定する命令ではないものとして,昭和22年政令第14号(日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定の効力等に関する政令)1項の「日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定は,昭和22年法律第72号第1条に規定するものを除くの外,政令と同一の効力を有するものとする。」との規定に基づき,政令として扱われているということになりそうです。

 であれば,内閣限りで,政令でもって,次のような改革を行うことも可能ということになりそうです。


 「会計年度と暦年がずれているのは不便だから,暦年においても,41日を年の初めとしよう。」

 「平和的かつ文化的なヤヌスの月を年の初めとするのはいかにも平和国家的・文化国家的で軟弱だから,武闘派のロームルス王に倣って,軍神マルスの月である3月を年の初めにしよう。」

 「ローマ教皇が定めたグレゴリオ暦を使用するのは,キリスト教国風でもあって面白くないから,古き良き日本を取り戻すべく,天保暦を復活させよう。」

 等々


 しかし,内閣限りの政令でこのようなことができるというのは,どうも変ですね。明治五年太政官第337号の布告及び明治31年勅令第90号は,やはり「法律を以て規定すべき事項を規定するもの」と解すべきように思われます。

 そうであれば,昭和22年法律第721条との関係で,194811日以降はこれらの布告及び勅令が廃止されているものとされるときにはどのように理解すべきでしょうか。これらの布告及び勅令は形式上は廃止されているものの,その規定内容は,法の適用に関する通則法3条の慣習法の内容をなしているものと解することになるのでしょうか。悩ましいところです。


4 暦法と翻訳

 さて,日本と西洋諸国とは,明治6年すなわち1873年より前には異なった暦法をそれぞれ用いていたため,明治五年以前の出来事をヨーロッパ語に翻訳するときは注意しなければなりません。

 例えば,第20代の内閣総理大臣である高橋是清の生年月日などは難しい。

 高橋是清は,嘉永七年閏七月二十七日生まれですが,嘉永七年は大体グレゴリオ暦の1854年に重なることから「嘉永七年=1854年」とし,かつ,明治五年以前はうるう月というものがあったことを現在の感覚で失念して(「閏」の文字をわけが分からないまま無視して)翻訳して,27th July 1854と訳すると,これはいけません。グレゴリオ暦の27th July 1854は,嘉永七年の七月(閏七月の前の月)三日になってしまいます。グレゴリオ暦への換算が面倒なときは,the 27th day of the intercalary month following the Seventh month of the 7th year of Kaei (ca. 1854)とでもすべきでしょうか。

 孝明天皇崩御は慶応二年十二月二十五日ですが,慶応二年は1866年に大部分重なることから早合点して,25th December 1866としてもいけません。孝明天皇崩御の日は,グレゴリオ暦では30th January 1867です。

   またお盆の「旧暦七月」を説明するのに,"July of the old lunisolar calendar"とするのもどうでしょうか。古代のローマ暦の由来を知っている人はかえって,「カエサルによる暦法改革以前のヌマ暦のJulyかな。カエサルの時には2箇月ずれていたそうだから,今のMayくらいの季節か。しかし,Julyの月名は太陽暦になってからのもののはずだが。変だな。」などと余計なことを考えてしまうかもしれません。"The Seventh month of the old lunisolar calendar"くらいでどうでしょうか。

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ワシントン生誕の地(George Washington Birthplace, Westmoreland Co., VA


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