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 令和の御代の現在から百年ほど前の大正時代,スペイン風邪というものがはやったそうです。

 

1 1918年春

 1918年(大正7年)の春から兆しがありました。「この年〔1918年〕は,普段なら流行が終息するはずの5月頃になってもインフルエンザ様の疾患があちこちで発生しました。例えば軍の営舎に居住する兵士や紡績工場の工員,相撲部屋の関取など,集団生活をしている人たちの間で流行が目立ちました。これらは季節性インフルエンザの流行が春過ぎまで長引いたものなのか,スペインインフルエンザ〔スペイン風邪〕の始まりだったのかは不明です。しかし米国からスペインインフルエンザ第1波(春の流行)が世界に拡散していた時期に一致しますので,この時ウイルスが日本に入ったとも考えられます。」とのことです(川名明彦「スペインインフルエンザ(後半)」内閣官房ウェブサイト・新型インフルエンザ等対策ウェブページ(20181225日掲載))。『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)は,東京朝日新聞を典拠に,1918年「春.― 世界的インフルエンザとなったスペイン風邪,わが国に伝わり,翌年にかけ大流行(死者15万人に及ぶ)」と記しています(234頁)。すなわち,「スペインフルの第一波は1918年の3月に米国とヨーロッパにて始まります」とされているところです(国立感染症研究所感染症情報センター「インフルエンザ・パンデミックに関するQ&A」(200612月))。なお,「スペインフル」の「フル」とは“flu”のことで,influenza(インフルエンザ)の略称です。

世界史年表的には,19183月には,3日にブレスト=リトウスク講和条約が調印されて東部戦線のソヴィエト=ロシアが第一次世界大戦から脱落,21日にドイツ軍が西部戦線で大攻勢を開始します。

 

1918321日,濃い霧が発生した。偶然にも,この日はドイツ軍のソンム川における攻勢予定日であった。ドイツ歩兵は,ほとんど察知されずに英軍の機関銃座を蹂躙した。すぐに,全戦線の崩壊が始まった。英兵は,士官の大部分を含めて,当該大戦中に徴募された兵士であった。彼らが訓練を受けたのは,塹壕を固守し,時折そこから攻撃をしかけることであった。彼らには開豁地での戦闘の経験はなかった。念入りに構築された塹壕システムから追い立てられ,彼らは狼狽した。彼らは何とかしのぎつつも,大幅に後退した。ヘイグの〔英〕予備軍は,はるか北方のかなたにあった。(Taylor, A.J.P., The First World War. Penguin Books, 1966. p.218

 

2 1918年初夏

ところで,相撲部屋には,十両以上の「関取」のみならず幕下以下の汗臭い(ふんどし)担ぎもいるわけですが,19185月段階における「インフルエンザ様の疾患」の流行の際(同月「8日付の新聞は「流行する相撲風邪――力士枕を並べて倒れる」という見出しで,「力士仲間にたちの悪い風邪がはやり始めた。太刀山部屋などは18人が枕を並べて寝ていた。友綱部屋では10人くらいがゴロゴロしている」と伝え」,「花形力士の欠場続出で番付も組み替えられた。」という状況であったそうです(「朝日新聞創刊130周年記念事業 明治・大正データベース」ウェブページ)。)角界においては特段の「自粛」はされなかったようです。同月27日月曜日午後の皇太子裕仁親王(当時17歳)について,「水交社において開催の明治三十七八年戦役海軍記念日第13回祝賀会に行啓される〔日露両海軍の日本海海戦は1905527日に発生〕。水交社総裁〔東伏見宮〕依仁親王に御対顔になり,水交社長加藤友三郎海軍大臣以下の親任官及び同待遇に賜謁の後,余興の大相撲を御覧になる。」と伝えられています(宮内庁『昭和天皇実録 第二』(東京書籍・2015年)376-377頁)。

当該相撲見物(海軍)のせいかそれともその前日の千葉の鉄道聯隊等行啓(陸軍)のせいかどちらかはっきりしないのですが,裕仁親王は同年6月「7日 金曜日 前月26日の千葉行啓以来,御体調不良のこと多く,本日より当分の間,〔東宮御学問所における〕月曜日から金曜日の授業を1時間減じられる。この措置は,第1学期の間,継続される。」ということになっています(実録二378頁)。東宮御学問所における裕仁親王の授業の時間は,月曜日から金曜日までは本来第5時限まで,土曜日は第2時限までであって,第1時限は午前8時に開始され,第5時限(これは武課及び体操並びに馬術)は午後130分に終了ということでありました(実録二367頁)。ちなみに,東宮御学問所総裁は,海軍大将である東郷平八郎元帥でした。

なお,19185月には横綱になったばかりの栃木山守也は,同月27日に裕仁親王の前でその大技量を発揮したものと想像されますが,歿後,昭和天皇から勲四等瑞宝章を授けられています。

裕仁親王が海軍接待の大相撲を楽しんだ頃,我が友邦フランス共和国に危機が訪れます。

 

 〔1918年〕527日,ドイツ軍14箇師団は戦線を突破し,1日のうちに10マイル前進した。遠い昔の19148月以来,そのようなものとしては最大の前進であった。63日までにドイツ軍はマルヌ川に達し,パリまでわずか56マイルの距離にあった。またしても〔ドイツの〕ルーデンドルフは成功に幻惑された。彼は新兵力を投入したが,それらは〔フランスの〕フォッシュが最終的に予備軍を動かすにつれ,勢いを失い,停止した。彼らはフランス軍の戦線を破摧してはいなかったのであって,ドイツ兵は再び袋の中に向かって進軍してしまっていたのである。また,彼らは北方に控置されていたフォッシュの予備軍を大いに引き寄せてもいなかった。そうではあるものの,ドイツ軍の当該前進は,多大の警報を発せしめた。フランスの新聞に再び「マルヌ川」が現れると,1914年の恐怖の記憶がよみがえった。代議院における非難は高まった。〔フランス首相の〕クレマンソーは頑張り,自己の威信を危険にさらすことまでしてフォッシュをかばった。多くの下位の将軍たちは,相変わらずのやり方で罷免された。事態を更に悪化させることには,軍は疫病(エピデミック)に襲われていた。スペイン流行性(インフル)感冒(エンザ)として知られる20世紀最大の殺人者である。それは世界を席巻し,秋には銃後の市民を次々と斃した。インドだけでも,4年間の大戦の全戦場で死んだ者の総数よりも多くの数の者がそれによって死亡した。大戦はクライマックスに達し,人々は高熱にあえいだ。(Taylor. pp.228-229

 

3 1918年のスペイン風邪流行の始まり

 我が国における本格的なスペイン風邪の流行はいつからかといえば,公益社団法人全国労働衛生団体連合会のウェブサイトにある小池慎也編「全衛連創立50周年事業健康診断関係年表」(201910月)は,「欧州のインフルエンザ流行より34ヵ月遅れて,わが国では〔1918年〕8月下旬から9月上旬にかけて蔓延の兆しを示した。」とあり,防衛医科大学病院副院長の川名明彦教授は「本格的なスペインインフルエンザが日本を襲ったのは19189月末から10月初頭と言われています。」と述べています(川名前掲)。池田一夫=藤谷和正=灘岡陽子=神谷信行=広門雅子=柳川義勢「日本におけるスペインかぜの精密分析」(東京都健康安全研究センター年報56369-374頁(2005年))の引用する内務省衛生局の『流行性感冒』(1922年)によると,「本流行ノ端ヲ開キタルハ大正7年〔1918年〕8月下旬ニシテ9月上旬ニハ漸ク其ノ勢ヲ増シ,10月上旬病勢(とみ)ニ熾烈トナリ,数旬ヲ出テスシテ殆ト全国ニ蔓延シ11月最モ猖獗ヲ極メタリ,12月下旬ニ於テ稍々下火トナリシモ翌〔大正〕8年〔1919年〕初春酷寒ノ候ニ入リ再ヒ流行ヲ逞ウセリ」とあります。8月下旬発端説を採るべきでしょうか。

 

4 米騒動とスペイン風邪ウイルスと

ところで,1918723日には「富山県下新川郡魚津町の漁民妻女ら数十人,米価高騰防止のため米の県外への船積み中止を荷主に要求しようとして海岸に集合(米騒動の始まり)」という小事件があったところ(近代日本総合年表234頁),問題の同年8月には,3日の富山県中新川郡西水橋町での騒動を皮切りに,10日には名古屋・京都両市に騒動が波及,13日及び14日の両日には全国の大・中都市において米騒動が絶頂に達しています(同236頁)。Social distancingもあらばこそ,当該大衆行動は当然人々の密集ないしは密接を伴い,スペイン風邪ウイルスの伝播を促して同月下旬からの流行開始を準備してしまったものではないでしょうか。

内務省衛生局によれば,スペイン風邪が「最モ早ク発生ヲ見タルハ神奈川,静岡,福井,富山,茨城,福島ノ諸県」であって(池田ほか前掲),正に富山県がそこに含まれています。1918917日までに,37市・134町・139村で米騒動の大衆行動,検挙者数万,起訴7708人ということですが(近代日本総合年表236頁),混雑した留置所はもちろん密閉・密集・密接状態であって,三密理念型の絵にかいたような顕現です。

当該流行性感冒の伝播の状況については,最初の前記6県に続いて「之ト相前後シテ埼玉,山梨,奈良,島根,徳島,等ノ諸県ヲ襲ヒ,九州ニ於テハ9月下旬ヨリ10月上旬ニ渉リ熊本,大分,長崎,宮崎,福岡,佐賀ノ各地ヲ襲ヒ,10月中旬ニハ山口,広島,岡山,京都,和歌山,愛知ヲ侵シ,同時ニ東京,千葉,栃木,群馬等ノ関東方面ニ蔓延シ,爾余ノ諸県モ殆ント1旬ノ差ヲ見スシテ悉ク本病ノ侵襲ヲ蒙レリ,10月下旬北海道ニ入リ11月上旬ニハ遠ク沖縄地方ニ及ヒタリ」と内務省衛生局は記録しています(池田ほか前掲)。

 

5 寺内正毅「スペイン風邪対策本部長」による「スペイン風邪緊急事態宣言」及び臣民の「自粛」

軍隊を出動させたり,新聞記事を差し止めたりするばかりの当時の寺内正毅内閣の米騒動対応は,見当違いの大間違いでありました。それに対して,人智の進んだ2020年の第4次安倍晋三内閣時代における我々の目から見た正解はどのようなものであったかといえば,次のごとし。

衛生行政所管の水野錬太郎内務大臣がいち早くスペイン風邪の「まん延のおそれが高いと認め」た上で(新型インフルエンザ等対策特別措置法(平成24年法律第31号。以下「新型インフルエンザ法」といいます。)附則1条の22項参照),寺内内閣総理大臣にスペイン風邪の発生の状況,スペイン風邪にかかった場合の病状の程度その他の必要な情報の報告をします(新型インフルエンザ法14条参照)。

それを承けて寺内内閣は,後付け気味ながらも政府行動計画を閣議決定して(新型インフルエンザ法62項・4項参照),更に――スペイン風邪の病状は普通のインフルエンザ(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(平成10年法律第114号)661号)のそれよりも重いわけですから(新型インフルエンザ法151項参照)――大正天皇の勅裁を得て(大日本帝国憲法10条の官制大権)臨時に内閣にスペイン風邪対策本部を設置し(新型インフルエンザ法151項参照),同対策本部(その長たるスペイン風邪対策本部長は,寺内内閣総理大臣(新型インフルエンザ法161項参照))は政府行動計画に基づいてスペイン風邪に係る基本的対処方針を定めます(新型インフルエンザ法181項・2項参照)。

寺内内閣総理大臣兼スペイン風邪対策本部長はスペイン風邪対策本部の設置及びスペイン風邪に係る基本的対処方針を公示し(新型インフルエンザ法152項,183項参照),スペイン風邪の脅威という命にかかわる大問題を前にして米の値段がちいと高いぞ云々とたかが経済の問題にすぎないつまらないことで暴れまわっているんじゃないよ,経済よりも人命だぞ,と人民に警告を発しおきます。

しかしてスペイン風邪が国内で発生したことが確認され次第直ちに――スペイン風邪には「国民の生命及び健康に著しく重大な被害を与えるおそれ」があり,かつ,「その全国的かつ急速なまん延により国民生活及び国民経済に甚大な影響」を及ぼすおそれがあることは自明ですから――寺内正毅スペイン風邪対策本部長はスペイン風邪緊急事態宣言をおごそかに発し(新型インフルエンザ法321項参照),かつ,直ちに北海道庁長官,府県知事及び警視総監をして,住民に対しては「生活の維持に必要な場合を除きみだりに当該者の居宅又はこれに相当する場所から外出しないことその他の」スペイン風邪の「感染の防止に必要な協力を要請」(新型インフルエンザ法451項参照)せしめ,多数の者が利用する施設を管理する者又は当該施設を利用して催物を開催する者に対しては「当該施設の使用の制限若しくは停止又は催物の開催の制限若しくは停止その他」を指示(新型インフルエンザ法452項・3項参照)せしめます(新型インフルエンザ法201項・331項参照)。

事業者及び臣民は政府のスペイン風邪対策に「協力するよう努めなければならない」責務を有するのですから(新型インフルエンザ法41項参照),非国民ならざる忠良な臣民は当然真摯に自粛してみだりに「居宅又はこれに相当する場所から外出」することはなくなって街頭の米騒動は直ちに終息,「即ち当時欧洲大戦の影響に因り,物価の昂騰著しきものあり,特に生活必需品の大宗たる米価は奔騰に奔騰を重ねて正に其の極を知らざる状態であつた。かくして国民の多数は,著しく生活の脅威に曝さるゝに至り,遂に所謂米騒動なるものが随所に勃発し,暴行掠奪の限りが尽さるゝに至つた。かくして寺内内閣は,これが責任を負ふて遂に退陣の止むなきに至つたのである。」(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)357頁)ということにはならなかったことでありましょう。(現実には1918921日に寺内内閣総理大臣は辞表を提出,西園寺公望の大命拝辞を経て同月29日に原敬内閣が成立しました(近代日本総合年表236頁)。)

 

6 原敬内閣の初期の取組

原内閣は初の本格的政党内閣といわれていますが,ウイルス様からしてみれば官僚と政党人との区別はつかないのでしょうから,スペイン風邪の前には,政党主導の政府も無力であったようです。事実,原敬自身慎重で,「原は新聞記者の前田まえだ蓮山れんざんに,「あまり吾輩に期待すると失望するぜ。年をとると,いろいろと周囲の事情が複雑になってね。なかなか身動きが自由にならん」と語っていた」そうです(今井清一『日本の歴史23大正デモクラシー』(中央公論社・1966年)186頁)。

所管の床次竹二郎内務大臣は,就任後半月を経た19181016日の段階における原内閣閣僚による皇太子裕仁親王拝謁の際独り「所労」のため拝謁をしていませんが(実録二412頁),果たして何をしていて疲労していたのでしょうか。同月10日には友愛会東京鉄工組合創立総会が開催されていますが(近代日本総合年表236頁),内務省は,そのような多人数の集まる危険な企てに対して,「いのちを守るStay Home/ウチで過ごそう」と要請して当該総会の開催を阻止することはできなかったようです。また,床次内務大臣が総裁を兼務していた鉄道院は,同年116日から2等寝台2人床の大人2人による使用を禁止することとしていますが,その理由は「風紀維持」という艶めかしいものであって(近代日本総合年表236頁),命にかかわるスペイン風邪に対する三密禁止を徹底せんとの真剣な危機感が感じられないところです。
 原内閣総理大臣自身,「大正7年(1918年)1011日,原首相は東京商業会議所主催の内閣成立祝賀午餐会にのぞんで,教育の改善・交通通信機関の整備・国防の充実・物価の自然調節という積極政策をとることを明らかにした。この最後の項目を産業の奨励とさしかえたものが,いわゆる政友会の四大政策である。」ということで(今井221頁),三密午餐会に得々として出席しているのですから,そもそも示しがつかない。更に「四大政策」についていえば,教育の改善は「この増設案では,高等学校10校,高等商業7校,高等工業6校,高等農林4校,外国語学校・薬学専門学校各1校,計29校と,ほぼこれまでの学校数を倍増することにしたのをはじめ,総合大学の学部増設,専門学校の単科大学への昇格などがふくまれていた。またあらたに大学令が公布され,帝国大学のほかに官立・公立・私立の大学を認め,これまで専門学校として扱ってきった私立大学にも,名実ともに大学となる道を開いた。」(今井222頁)という青年らが集まってクラスターとなりかねない施設の増設をもって「改善」と称するものであって遠隔教育という最重要課題に対する取組が欠落しており,交通機関を整備してしまうとかえって人的接触が増大してスペイン風邪の流行を助長するのでまずく,国防を充実して鎖国に戻って海外からのウイルス侵入を防ぐのはよいとしても,本来は自粛してあるべき産業の奨励なんぞより先に,命を守るためのマスク及び現金の支給を全臣民に対して直ちに行うべきでありました。

Abenomask

The Abenomask of 2020: a humanely-advanced brave countermeasure of the 21st century against the stale coronavirus-pandemic of lurid public hallucinations in Japan
 

ということで,「インフルエンザは各地の学校や軍隊を中心に1カ月ほどのうちに全国に広がりました。〔1918年〕10月末になると,郵便・電話局員,工場・炭鉱労働者,鉄道会社従業員,医療従事者なども巻き込み,経済活動や公共サービス,医療に支障が出ます。新聞紙面には「悪性感冒猖獗(しょうけつ)」,「罹患者の5%が死亡」,山間部では「感冒のため一村全滅」といった報道が見られるようになります。この頃,死者の増加に伴う火葬場の混雑も記録されています。」という状況になります(川名前掲)。

我が国におけるスペイン風邪の「第1回目の流行による死亡者数は,191810月より顕著に増加をはじめ,同年11月には男子21,830名,女子22,503名,合計44,333名のピークを示した後,同年12月,19191月と2か月続けて減少したが,2月には男子5,257名,女子5,146名,合計10,403名と一時増加し,その後順調に減少した。」ということで(池田ほか前掲),これだけの数の国民をみすみす死なせてしまった(11月の44333人は,死亡者数であって,単なる感染者数ではありません。)原内閣はなぜ早々に崩壊しなかったのかと,今からすると不思議に思われます。(19191月に内務省衛生局は「流行性(はやり)感冒(かぜ)予防心得」なるものを公開して現在いうところの「咳エチケット」的なことを唱道していますが(川名前掲)手ぬるかったようで,翌月には,上記のとおり,スペイン風邪の死者数が再び増加してしまっているところです。

しかも,流行ピークの191811月には,(かしこ)き辺りにおいても恐るべき事態となっていたのでした。

 

7 191811

 

(1)裕仁親王の流行性感冒感染

 

 〔191811月〕3 日曜日 午前10時御出門,新宿御苑に行啓され,〔皇太子は〕供奉員・出仕をお相手にゴルフをされる。御体調不良のため,予定を早め午後115分御出門にて御帰還になる。流行性感冒と診断され,直ちに御仮床にお就きになり,以後15日の御床払まで安静に過ごされる。御学問所へは18日より御登校になる。なお,この御病気のため,9日に予定されていた近衛師団機動演習御覧のための茨城県土浦付近への行啓はお取り止めとなる。(実録二416頁)

 

 結果としては回復せられたのですから結構なことです。しかし,皇太子裕仁親王殿下がスペイン風邪という命にかかわる恐ろしい病に冒されたというのに,原内閣総理大臣も,床次内務大臣も,波多野敬直宮内大臣も,東郷東宮御学問所総裁も,だれも恐懼して腹を切らなかったのですね。(さすがに,御親であらせられる大正天皇及び貞明皇后からは同月6日には御病気御尋があり,同月11日には貞明皇后から更に御尋がありました(実録二417頁)。なお,原内閣総理大臣は,同年1025日(金曜日)夜の北里研究所社団法人化祝宴において夫子自らスペイン風邪に罹患してしまって翌同月26日(土曜日)晩には腰越の別荘で38.5度の熱を発したものの,同月29日(火曜日)の日記の記述においては「風邪は近来各地に伝播せし流行感冒(俗に西班牙風といふ)なりしが,2日斗りに下熱し,昨夜は全く平熱となりたれば今朝帰京せしなり。」と豪語していますから(曽我豪「スペイン風邪に感染した平民宰相・原敬。米騒動から見えたコロナ禍に通じる教訓」朝日新聞・論座ウェブサイト(2020411日)における引用による),みんな騒いでいるようだがスペイン風邪など実は大したことなどなかったのだよと不謹慎に高を括っていたのかもしれません。事実,問題の1918113日には芝公園広場における政党内閣成立の祝賀会に出席し,密集した人々と密接しつつ,「平民宰相」は御満悦の笑顔を見せておりました(今井221頁の写真)。

「天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ承継シ」た(大日本帝国憲法告文)大正天皇の下のいわゆる大正デモクラシーの時代は,「57歳となられ,これまで国事行為の臨時代行等の御公務に長期にわたり精勤されておられる」こと等に鑑みてその即位が全国民を代表する議員で組織された国会の立法により実現せしめられた(天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)1条・2条,日本国憲法431項・591項)今上天皇を戴く我らが令和の聖代に比べて,尊皇心に欠けるけしからぬ時代であったものか。それとも単に,たとい皇太子であっても人命尊重には限界があり,かつ,「当時は抗菌薬や抗インフルエンザウイルス薬は無く,安静,輸液,解熱剤など対症療法が主」であったので(川名前掲。なお,現在においても新型ウイルス感染症などについては,せっかく高い期待をもって検査をしてもらっても肝腎の陽性の人のための抗ウイルス薬はなく,安静にして対症療法を受けるしかないという何だがっかりの状況もあるでしょう。),所詮医学は天命の前には無力であり,医師も当てにはならぬとの無学野蛮な諦念があったものか。

 

(2)医学及び医師に対する信頼の新規性(脱線)

医学及び医師の威信が甚だしく向上したのは,実は20世紀もしばらくたってからのことなのでしょう。例えば18世紀末には依然,医師など呼ぶとかえって碌なことにならなかったようです。17991214日,ただの風邪だと思っていた病気を悪化させ,喉に炎症を発し呼吸困難となっていた67歳のジョージ・ワシントン最期の日・・・

 

   彼らが〔アレクサンドリア在のスコットランド系の医師でフレンチ=インディアン戦争以来ワシントンに献身的に仕えてきた〕クレイク医師を待つ間,マーサ〔夫人〕はポート・タバコ在の有名なガステイヴァス・リチャード・ブラウン医師を呼んだ。クレイク医師は最初に到着し,更に瀉血を行い,かつ,炎症を表に出すために,干した甲虫〔Spanish fly〕から作られた薬であるキャンサラディーズを喉に施して,既に行われていた中世の療法を継続した。彼はまた,ワシントンに,酢と湯とで満たされたティーポットから蒸気を吸引させた。酢を混ぜたサルビアの葉の煎薬でうがいをしようと頭をのけぞらせたとき,ワシントンは窒息しそうになった。クレイク医師は驚駭し,第3の医師,すなわちベンジャミン・ラッシュ医師の下で学んだアレクサンドリア在の若いフリー・メイソン会員であるエリシャ・カレン・ディックを呼んだ。彼は到着すると,クレイクと一緒に更に多くの血液を抜き出すことに加わった。それは「ゆっくりと流れ出,濃く,何らかの気絶の症状をもたらす様子はなかった。」と〔秘書の〕リアは記録している。彼らはまた,浣腸剤を使ってワシントンの腸を空にした。とうとうブラウン医師も加わって,彼らは既に消耗しているワシントンの肉体から更に2パイント〔1パイントは約0.47リットル〕の血を抜いた。ワシントンは合計5パイント,あるいは彼の肉体中の全血液量の約半分を失うことになったと見積もられている。ディック医師は,なお一般的ではなく,かつ,高度に実験的であった治療法――呼吸を楽にするために,ワシントンの気管に穴を穿(うが)ち開ける気管切開術――を提案したが,これはクレイク及びブラウンによって却下された。「あの手術がされなかったことを,私はずっと後悔し続けるでしょう。」と,当該3医師を,溺れて藁をもつかもうとする者に例えつつ,後にディックは述べている。しかし,既に衰弱していた彼の状態を前提とすると,ワシントンがそのような施術を受けて生き延び得たということはとてもありそうにないことである。(Chernow, Ron, Washington: a Life. Penguin Press, 2010. p.807

 

溺れて藁をもつかもうとするというような殊勝な話ではなく,上記3医師が医療の名のもとにやらかした行為は,むしろ猟奇的血抜きの悪魔的狂乱のようでもあります(更に浣腸までしている。)。

 

  人体にはおよそ4ℓから5ℓの血液があり・・・

  君の体格なら・・・

  おそらく・・・4.5ℓといったところか

  君は・・・

  その血液を賭ける・・・!

  〔略〕

  通常「死」は総血液量の1/3程が

  失われる頃から

  そろりそろりと忍び寄り

  1/2を失うのを待たず・・・

  まず・・・絶命する・・・!

  〔略〕

  もっともそれより早く死ぬこともあり得る

  急激に抜けば

  1/3・・・

  つまり1500ccでも充分死に至る

  仮に死なないとしても意識混濁は激しく・・・

  まず・・・麻雀など興じている状態ではあるまい(福本伸行『アカギ――闇に降り立った天才』第67話)

 

(3)少年の生と老人の死と

 17歳の裕仁親王は1918113日の流行性感冒の診断から十余日で回復し,免疫を獲得してしまいましたが,『昭和天皇実録』の1918113日条は,若き裕仁親王の流行性感冒感染経験の記述に続いて,84歳の老人の死を伝えます。

 

  臨時帝室編修局総裁伯爵土方久元大患につき,御尋として鶏卵を下賜される。土方は4日死去する。〔略〕土方は旧土佐藩出身にて武市半平太の土佐勤王党に参加し討幕運動にも加わる。維新後は,元老院議官,宮中顧問官,農商務大臣などを経て,明治20年より31年まで宮内大臣を務めた。その後は帝室制度取調局総裁心得などを経て,臨時帝室編修局総裁として明治天皇の御紀編修に尽力した。一方で,明宮御用係,明宮御教養主任,東宮輔導顧問なども務め,〔大正〕天皇の御教育・御輔導にも深く関わり,皇太子に対しても,皇孫・皇太子時代を通じ,しばしば御殿・御用邸に参殿・参邸し,御機嫌を奉伺するところがあった。(実録二416-417頁)

 

 武市半平太も同じ土佐の坂本龍馬も三十代で非命に斃れたことを思えば,土方は大臣にもなって八十代半ばまで生きたのですから,とても悔しいです土方伯爵のかけがえのない尊い命が84歳の若さで奪われたことは到底許せません,などと言い募るべきものかどうかは考えさせられるところがあります。なお,土方は死の8日前の19181027日には日本美術協会において同協会の会頭として裕仁親王に拝謁していますから(実録二414頁),確かに突然の死ではありました。(ちなみに,19181027日の鷗外森林太郎の日記『委蛇録』には,「27日。日。雨。皇儲駕至文部省展覧会,日本美術協会。予往陪観。」とあります(『鷗外選集第21巻 日記』(岩波書店・1980年)278頁)。また,1918113日には,森帝室博物館総長兼図書頭は正倉院曝涼監督のために東京から奈良に移動しています。同日は好天で,富士山が美しかったようです。いわく,「是日天新霽。自車中東望。不二山巓被雪。皓潔射目。雪之下界。作長短縷之状。如乱流蘇。」(鷗外279頁)。不要不急の出張ではなかったものでしょう。)

 

(4)第一次世界大戦の戦いの終了

 欧州では,裕仁親王が流行性感冒と診断された113日にはオーストリア=ハンガリー帝国が連合国と休戦協定を調印し,ドイツのキール軍港では水兵が叛乱を起していました。119日にはベルリンで宰相マックス公が社会民主党のエーベルトに政権を移譲し,ドイツ共和国の成立が宣言されます。同月10日,ドイツのヴィルヘルム2世はオランダへと蒙塵。同月11日午前5時にはドイツと連合国との間に休戦協定が調印され,当該協定は同日午前11時に発効しています。第一次世界大戦の戦いは終わりました。

 昭和天皇統治下の大日本帝国敗北の27年前のことでした。


8 3回のスペイン風邪流行

 我が国のスペイン風邪流行は,前記『近代日本総合年表 第四版』によれば1918年春から1919年にかけての1回限りであったように思われるところですが,実は3にわたったようです。第1回の流行は19188月から19197月まで(小池年表,川名前掲,池田ほか前掲),第2回の流行は19198月(池田ほか前掲),9月(川名前掲)又は10月下旬(小池年表)から19207月まで(小池年表,川名前掲,池田ほか前掲),第3回の流行は19208月から(小池年表,川名前掲,池田ほか前掲)19215月(小池年表)又は7月(川名前掲,池田ほか前掲)までと分類されています。

 

(1)第1回流行(1918-1919年):竹田宮恒久王の薨去

 第1回流行時の患者数は,21168398人(池田ほか前掲,川名前掲)又は21618388人(小池年表)とされ(こうしてみると,小池年表は数字を書き写し間違えたものかもしれません。),19181231日現在の日本の総人口56667328人に対する罹患率は37.3パーセントとなりました(池田ほか前掲。川名前掲は「日本国内の総人口5,719万人に対し」罹患率「約37」としています。)。第1回流行時の総死亡者数は257363人(小池年表,池田ほか前掲(内務省衛生局『流行性感冒』(1922年)に基づくもの)。川名前掲は「257千人」)又は103288人(池田ほか前掲(人口動態統計を用いて集計したもの))であって,前者の死亡者数に基づく患者の死亡率は1.22パーセントでした(小池年表,池田ほか前掲。川名前掲は「1.2」)。

 第1回流行時には,皇族に犠牲者が出ています。

 

  〔1919423日〕午後735分,〔竹田宮〕恒久王が薨去する。恒久王は本月12日より感冒に罹り,17日より肺炎を併発,20日には重態の報が伝えられる。よって皇太子よりは,その病気に際して御尋として鶏卵を贈られ,重態に際しては東宮侍従牧野貞亮を遣わし葡萄酒を御贈進になる。また,この日危篤との報に対し,急遽牧野侍従を竹田宮邸へ遣わされる。(実録二446頁)

 

 恒久王の父は,原敬内閣総理大臣の出身藩である南部藩等によって戊辰戦争の際結成された奥羽越列藩同盟の盟主たりし輪王寺宮こと北白川宮能久親王でした。日清戦争の下関講和条約後の台湾接収の際近衛師団長を務めて同地で病歿した「能久親王は幕末期には公現法親王と称し,日光東照宮を管理する輪王寺宮として関東に下向した。幕府崩壊時には江戸を脱出して宮城白石にあって奥羽越列藩同盟の精神的盟主となり,天皇に即位したとも言われている人物である。仙台藩降伏後は謹慎処分となったが,還俗してドイツに留学,北白川家を継いで陸軍軍人とな」った宮様であるとのことです(大谷正『日清戦争』(中公新書・2014年)223頁)。しかし,明治大帝に抗する対立天皇として立ったとは,北白川宮家及び竹田宮家は,御謀叛のお家柄歟。

 恒久王薨去のため,当初1919429日に予定されていた皇太子裕仁親王の成年式(明治皇室典範13条により皇太子は満18年をもって成年)は延期となり(同月25日発表),同年51日に至って同月7日に挙行の旨が告示され(実録二448),同日無事挙行され(実録二453-457。「7日。水。天候如昨〔暄晴〕。皇儲加冠。予参列賢所。詣宮拝賀。」(鷗外293頁)とあります。),また翌同月8日には宮中饗宴の儀が行われました(実録二457-458。「木。晴。赴宮中饗宴。」(鷗外293頁)。)。恒久王の薨去に係る服喪に伴う延期はあっても(同年4月「30日。水。陰雨。会恒久王葬乎豊島岡。」(鷗外293頁)とあります。),スペイン風邪の流行については,三密回避など全くどこ吹く風という扱いです。

 

(2)第2回流行(1919年‐1920年):雍仁親王の罹患

 第2回流行時においては,患者数が2412097人(池田ほか前掲,川名前掲),死亡者数は127666人(池田ほか前掲(内務省衛生局『流行性感冒』に基づくもの)。川名前掲は「128千人」)又は111423人(池田ほか前掲(人口動態統計を用いて集計したもの))であって,前者の死亡者数に基づく患者の死亡率は5.29パーセント(池田ほか前掲。川名前掲は「5.3」)でした。

2回流行時における患者死亡率については,内務省衛生局の『流行性感冒』は「患者数ハ前流行ニ比シ約其ノ10分ノ1ニ過キサルモ其病性ハ遥ニ猛烈ニシテ患者ニ対スル死亡率非常ニ高ク〔1920年〕34月ノ如キハ10%以上ニ上リ全流行ヲ通シテ平均5.29%ニシテ前回ノ約4倍半ニ当レリ」と述べています(池田ほか前掲の引用)。「流行時期によりウイルスが変異することが往々にして観察される」ところ,「スペインかぜ流行の際にも原因ウイルスが変異し,その結果として死亡率が大幅に増加したものと考えることができる。」とされています(池田ほか前掲)。

「大正78年〔19181919年〕ニ亘ル前回〔第1回〕ノ流行ハ〔略〕春夏ノ交ニ至リ全ク終熄ヲ告ケタレトモ再ヒ〔大正〕8年〔1919年〕10月下旬,向寒ノ候ニ及ヒテ神奈川,三重,岐阜,佐賀,熊本,愛媛等ニ流行再燃ノ報アリ,次テ11月ニ至リ東京,京都,大阪ヲ始メトシ茨城,福島,群馬,長野,新潟,富山,石川,鳥取,静岡,愛知,奈良,和歌山,広島,山口,香川,福岡,大分,鹿児島,青森,北海道等ニ相前後シテ散発性流行ヲ見,爾余ノ諸県モ漸次流行ヲ来スニ至」っていたところ(池田ほか引用の内務省衛生局『流行性感冒』),死亡者数は,「191912月より増加を開始し,19201月に〔略〕ピークを示した後順調に減少」しています(池田ほか前掲)。「斯クテ各地ニ散発セル病毒ハ再ヒ漸次四囲ニ伝播シ,遂ニ一二県ヲ除キテハ何レモ患者ノ発生ヲ見サル処ナキニ至リ,翌春〔1920年〕1月に及ヒ猖獗ヲ極メ多数ノ患死者ヲ出シタリ,3月ヨリ漸次衰退シテ67月ニ至リ全ク終熄シタリ」というわけです(池田ほか引用の内務省衛生局『流行性感冒』)。

 第2回流行時には,後に19261225日から19331223日まで皇嗣殿下(ただし,立皇嗣の礼は行われず。)となられる淳宮雍仁親王(裕仁親王の1歳違いの弟宮)が,第1回流行時よりも「遥ニ猛烈」な病性となったスペイン風邪に感染したようです。

 

  雍仁親王は去る〔19201月〕16日以来,流行性感冒のため病臥につき,〔同月20日〕皇太子〔裕仁親王〕より御尋として5種果物1籠を贈進される。〔同月〕22日,東宮侍従本多正復を御使として遣わされ,鶏卵・盆栽を御贈進になり,222日には同甘露寺受長を御使として差し遣わされる。雍仁親王の違例は34日に至る。(実録第二543頁)

 

正に19201月は,スペイン風邪の第2回流行時の死亡者ピーク月です(男子19835人,女子19727人の合計39362人(池田ほか前掲))。やんごとなき皇族の方々にあらせられても,ロックダウンなどという大袈裟かつよそよそしいことはされておられなかったので(ただし,同月8日に予定されていた宮城前外苑における陸軍始観兵式は,「感冒流行の理由をもって〔大正〕天皇は臨御されざることとなり,観兵式は中止」ということになっています(実録二541頁)。その後,大正天皇は,同年49日以降「御座所における御政務以外は,一切の公式の御執務を止められ,専ら御摂養に努めらるること」となっています(実録二574頁)。),もったいなくも,我ら草莽の人民と休戚のリズムを共にせられていたということでしょうか。しかして,雍仁親王は1箇月半以上もダウンせざるを得なかったのですから,確かに重い流行性感冒です。

ところで,皇太子殿下から御尋で5種果物や鶏卵などを贈られてしまうと,兄弟愛云々ということももちろんあるのでしょうが,191964日の徳大寺実則(同日「元侍従長大勲位公爵徳大寺実則病気危篤の報に接し,〔裕仁親王は〕御尋として葡萄酒を下賜される。また,去る〔同月〕2日には病気御尋として5種果物1籠を下賜される。実則はこの日午後7時死去する。」(実録二469-470頁)),191811月の前記土方久元(鶏卵)及び19194月の同じく前記竹田宮恒久王(鶏卵及び葡萄酒)の各例などからすると,5種果物の次はとうとう鶏卵を下されたのだね僕もいよいよ最期かな,しかし兄貴はうまい具合に先に軽く感染して免疫ができてずるいよなあ,これまで18年近く生きてきたけど兄貴を一生立てるべき次男坊に生まれてはさして面白いこともなかったよ,三好愛吉傅育官長も去年の紀元節の日にインフルエンツア肺炎で逝っちゃたけど確かにインフルエンツアがこう彼方にも此方にも流行しては居る処が無いような気がするなぁ,などと雍仁親王におかせられてはひそかに御覚悟せられるところがひよっとしたらあったかもしれません。(しかし,鶏卵の例についていえば,1919213日(この月は,前記のとおり,スペイン風邪第1回流行時において流行の再燃があった月です。)には小田原滞在中の山県有朋に対し,「感冒症より肺炎を発し重患の趣につき,病気御尋として鶏卵」が皇太子裕仁親王から下賜されているにもかかわらず(実録二435。確かに同日の山県の容態は重篤であったようで,森林太郎図書頭も図書寮から小田原に駆けつけています。いわく,「13日。木。朝晴暮陰。参寮。問椿山公病乎古稀庵。船越光之丞,安広伴一郎及河村金五郎接客。清浦奎吾,井上勝之助,中村雄次郎,穂積陳重等在座。出門邂逅古市公威。」(鷗外289頁)。),この80歳の奇兵隊おじいさんはしぶとく回復し,同年69日には裕仁親王の前に現れています(実録二470頁)。また,差遣先の山梨県下で罹病して1920119日から山梨県立病院に入院した東宮武官浜田豊城にも,裕仁親王から「病気御尋として鶏卵」が下賜されていますが,浜田東宮武官は1週間で退院しています(実録二542頁)。果物1籃だけならば,雍仁親王は1919420日に不例の際御尋として裕仁親王から贈進を受けたことがあり,その後同月29日に床払いに至っています(実録二446頁)。とはいえ,192035日に死亡した内匠頭馬場三郎(元東宮主事)の病気に際しては裕仁親王から「御尋として果物を下賜」されていたところではあります(実録二549頁)。なお,医者も不養生で病気に罹っており,陸軍省医務局長軍医総監たりし森林太郎も1918124日には「水。晴。参館。還家病臥。」と寝込んでしまい,同月7日には「土。晴。在蓐。従4日至是日絶粒。是日飲氵重〔さんずいに重で一字〕。」,同月9日になって粥が食べられるようになり(「夕食粥」),「10日。火。晴。在蓐。食粥如前日。起坐。」,同月14日にようやく普通の食事ができるようになって(「土。陰。園猶有雪。食家常飯。」),同月16日にやっと「月。晴。病寖退。而未出門。」,職務復帰は同月20日のこととなりました(鷗外284-285頁)。時期からいって,これはスペイン風邪でしょう。長期病欠の帝室博物館総長兼図書頭には,皇室から鹿肉や見舞金が下賜されています。すなわち,「〔191812月〕18日。水。晴。在家。上賜鹿肉。所獲於天城山云。東宮賜金。/19日。木。陰。猶在家。両陛下賜金。」(鷗外285頁)。さすがにもうそろそろ出勤しないとまずい頃合いとはなったようです。

スペイン風邪の第2回流行時においては「感染者ノ多数ハ前流行ニ罹患ヲ免レタルモノニシテ病性比較的重症ナリキ,前回ニ罹患シ尚ホ今回再感シタル者ナキニアラサルモ此等ハ大体ニ軽症ナリシカ如シ」ということだったそうですから(池田ほか引用の内務省衛生局『流行性感冒』),接触8割削減を目指して第1回流行時に真面目に自粛して引きこもった真摯な人々よりも,ままよと己が免疫力及び自然治癒力の強さを信じて第1回流行時に早々に感染して免疫をつけてしまった横着な人々の方がいい思いをしたということでしょうか。ただし,スペイン風邪に係る感染遷延策が常に裏目に出たわけではないようで,「このなかでオーストラリアは特筆すべき例外事例でした。厳密な海港における検疫,すなわち国境を事実上閉鎖することによりスペインフルの国内侵入を約6ヶ月遅らせることに成功し,そしてこのころには,ウイルスはその病原性をいくらかでも失っており,そのおかげで,オーストラリアでは,期間は長かったものの,より軽度の流行ですんだとされています。」ともいわれています(感染症情報センター前掲)。

いずれにせよ「感染伝播をある程度遅らせることはできましたが,患者数を減らすことはできませんでした。」(感染症情報センター前掲)ということになるのでしょうか。「西太平洋の小さな島では〔オーストラリア〕同様の国境閉鎖を行って侵入を食い止めたところがありましたが,これらのほんの一握りの例外を除けば,世界中でこのスペインフルから逃れられた場所はなかったのです。」とされています(感染症情報センター前掲)。 

 

  Etiam si quis timiditate est et servitute naturae, coronas congressusque ut hominum fugiat atque oderit, tamen is pati non possit, ut non anquirat aliquem, apud quem emovat virus aegritudinis suae. 

 

(3)第3回流行(1920年‐1921年):杉浦重剛の仮病

3回流行時においては,患者数が224178人(小池年表,池田ほか前掲,川名前掲),死亡者数は3698人(小池年表,池田ほか前掲(内務省衛生局『流行性感冒』に基づくもの),川名前掲)又は11003人(池田ほか前掲(人口動態統計を用いて集計したもの))であって,前者の死亡者数に基づく患者の死亡率は1.65パーセント(小池年表,池田ほか前掲。川名前掲は「1.6%」)でした。

「わが国のスペインインフルエンザもその後国民の大部分が免疫を獲得するにつれて死亡率も低下し」,第3回の流行時には「総患者数からみてもすでに季節性インフルエンザに移行していると見たほうが良いかもしれません。」ということになったようです(川名前掲)。

ところで,スペイン風邪の第3回流行時である1920124日,東宮御学問所御用掛杉浦重剛は病気を理由に辞表を提出し,同月6日から翌年の東宮御学問所の終業まで,次代の天皇の君徳涵養にかかわる倫理の講義は行われないこととなってしまいました(実録二663664頁)。これについて,杉浦重剛もとうとうスペイン風邪に罹患してしまったが当時は遠隔授業を行い得る設備は東宮御学問所といえども存在せず嗚呼忠臣杉浦天台は涙を呑んで「いのちを守るStay Home」をしたのか健気なことである,と考えるのは早とちりであって,これは杉浦の仮病です。1921218日の東宮御学問所終業式に,辞めたはずの杉浦は出席整列しています(宮内庁『昭和天皇実録 第三』(東京書籍・2015年)1819頁)。

この間の事情について,『昭和天皇実録』の1921210日条はいわく。

 

 10日 木曜日 この日夕方,皇太子と良子(ながこ)女王との御婚約内定に変更なきことにつき,内務省,ついで宮内省より発表される。宮内省発表は左の如し。

   良子女王東宮妃御内定の事に関し世上種々の噂あるやに聞くも右御決定は何等変更せず

これより先,元老山県有朋らが,良子女王の子孫に色盲が遺伝する可能性があることをもって,女王の父〔久邇宮〕邦彦王に対し婚約辞退を求めた問題につき,当局は一切の新聞報道を禁止していた。しかし,昨年124日に辞表を提出した東宮御学問所御用掛杉浦重剛が,一部関係者に顛末を語って御婚約決行を求める運動を行ったことなどにより,この問題の存在が徐々に知られ,政界の一部,とりわけ右翼方面において,御婚約の取り消しに反対するとともに,宮内省や山県有朋を攻撃する運動が広まっていた。昨月下旬には久邇宮を情報源とし内情を暴露する「宮内省ノ横暴不逞」なる小冊子が各方面に配布されるなど各種怪文書が横行し,問題は議会においても取り上げられ,本月11日の紀元節には明治神宮において御婚約決行を祈願するという,右翼諸団体による大決起大会が計画された。こうした事態の中,山県ら元老は御婚約を辞退すべきとして譲らず,一方で具体的報道は一切禁止されたものの,新聞の報道ぶりから一般国民にも宮中方面に重大問題が進行中であることは明らかであり,宮内大臣中村雄次郎は何らかの決着を早期に図ることを迫られた。その結果,中村宮内大臣は自身の責任において事態を早期収拾することを決意し,この日良子女王の御婚約内定に変更なきことを発表するとともに,自身の辞職も表明する。(実録三1213頁)

 

いわゆる宮中某重大事件です。右翼の諸君明治神宮での集会はやめろよ「いのちを守るStay Home」なんだから「ウチで過ごそう」よ,と原内閣総理大臣も床次内務大臣も中村宮内大臣も言うことができず,元老(山県,松方正義及び西園寺公望)及び宮内省に反対する勢力の側も自粛せず,結局すなわちスペイン風邪は既に賞味期限切れだったようです。

 

9 スペイン風邪によって奪われた命について

以上,我が国における1918年から1921年までの合計では,スペイン風邪の患者数は23804673人,死者数は388727人(内務省衛生局『流行性感冒』)又は225714人(人口動態統計)ということになるようです(池田ほか前掲)。「歴史人口学的手法を用いた死亡45万人(速水,2006)という推計」もあるそうです(感染症情報センター前掲)。

死亡者の中で大きな比率を占めたのは0-2歳の乳幼児であったとされます(池田ほか前掲)。東京日日新聞の報ずるところでは,1918年には「1歳未満乳児の死亡率増大18.9%(336910人)。最高は大阪府・富山県の25.2%。東京府は18.8%」であったそうです(近代日本総合年表236頁)。生まれた赤ん坊のうち大体5人に1人は死んでしまったという計算です。

乳幼児以外について死亡者数の数を世代別に見ると,「男子では191719年においては2123歳の年齢域で大きなピークを示したが,192022年には3335歳の年齢域でピークを示し」,「女子ではいずれの期間においても2426歳の年齢域でピークを示して」いたそうです(池田ほか前掲)。海外では1918年の「(北半球の)晩秋からフランス,シエラレオネ,米国で同時に始まった〔スペイン風邪の〕第二波は〔同年春の第一波の〕10倍の致死率となり,しかも1535歳の健康な若年者層においてもっとも多くの死がみられ,死亡例の99%が65歳以下の若い年齢層に発生したという,過去にも,またそれ以降にも例のみられない現象が確認され」ていたところ(感染症情報センター前掲),我が国においても,「季節性インフルエンザでは,死亡例は65歳以上の高齢者が大部分で,あとは年少児に少し見られるのが一般的ですので,スペインインフルエンザでは青壮年層でも亡くなる人が多かったことは極めて特徴的です。」ということになっています(川名前掲)。この点については,National Geographicのウェブサイトの記事「スペインかぜ5000万人死亡の理由」(201452日)によれば,「答えは驚くほどシンプルだ。1889年以降に生まれた人々は,1918年に流行した種類のインフルエンザウイルスを子どもの頃に経験(曝露)していなかったため,免疫を獲得していなかったのだ。一方,それ以前に生まれた人々は,1918年に流行したインフルエンザと似た型のウイルスを経験しており,ある程度の免疫があった。」ということであったものとされています。(追記:これに関連して,The Economist2020425日号の記事(“A lesson from history”)は,1918年のスペイン風邪流行時においては28歳の年齢層の死亡率が特に高かったところ,これは,彼らが生まれた1890年に流行した別の種類のインフルエンザであるロシア風邪フルーの影響であるという説を紹介しています。すなわち,乳幼児期にあるウイルスにさらされると,後年別種のウイルスに感染したときに通常よりも重篤な症状を示す可能性があるというのです。乳児期にロシア風邪ウイルスに曝されて形成された免疫機構は,スペイン風邪ウイルスに対して,本来はロシア風邪ウイルスに対すべきものである誤った反応をしてしまったのだというわけです。)

 ところで,我が国においてはスペイン風邪流行期に「いのちを守るStay Home」が真摯に実行されていなかったように思われるのは,青壮年の命はくたびれて脆弱となった高齢者のそれとは違って対人接触の絶滅に向けた自粛までをもわざわざして守るべき命ではない,という認識が存在していたということででもあったものでしょうか。あるいは当時の青壮年は,死すべき存在たる人間として避けることのできない死の存在を知りつつも淡然とそれを無視し得るほどの覇気と希望とデモクラティックな情熱とに満ちた人間好きな人々だったのでしょうか。考えさせられるところです。  


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1 「食育」

「食育」という法令用語があるのですが,筆者においてはかねてからその意味するところがよく分からずにおりました。最近出て来た言葉のようです。

しかし,調べれば分かるであろうことを調べずにいて横着に「分かんねーょ」で済ますのは,人間頽廃の第一歩でしょう。そこで,大きな六法全書にも収載されていない2005年の食育基本法(平成17年法律第63号)等をインターネットで調べてみたところです。

なお,食育基本法161項及び2621号に基づき国の食育推進会議によって作成された2016年度から2020年度までの5箇年計画Пятилеткаたる第3次食育推進基本計画においては,「我が国の食育の理念や取組等を積極的に海外に発信し,「食育(Shokuiku)」という言葉が日本語のまま海外で理解され,通用することを目指す。」という記述が見られます(第372))。実は「食育」概念は既に成熟し,その内容もはっきりしているものとして扱われているようです。当該概念をなお十分理解していない筆者による試みである本ブログ記事は,あるいは食育推進会議の公定解釈から大きく逸脱したものとなるかもしれません。しかし,やってみましょう。

まず,法令用語としての「食育」の定義は,食育基本法の前文第2項にあるということでよいようです。そこでは「様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し,健全な食生活を実践することができる人間を育てる食育」とありますから,「食育」とは「様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し,健全な食生活を実践することができる人間を育てる」こと,ということになります。同法の本則においては,特段「食育」に係る定義規定を設けずに,第1条から「食育」の語が自明のものとして用いられています。

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「様々な経験」1:ちゃんぽんうどん,サラダうどん,ビール及びワイン

また,食育は,食育基本法によって「生きる上での基本であって,知育,徳育及び体育の基礎となるべきものと位置付け」られています(前文第2項)。食育がないと生きていけそうもないということですから,食育は人生の最初段階において受けるものであって,「知育,徳育及び体育」がいわゆる教育ならば,教育より前のいわば無意識のレヴェルに刷り込まれるべきものということになるようでもあります。少なくとも,字を覚えることよりも優先されるべきものなのでしょう。

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「様々な経験」2()()塩辛

全き食育の成果たる人間はどのようなものかといえば,「様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し,健全な食生活を実践することができる」人間ということになります。したがって,様々な経験を通じて「食」に関する知識及び選択力を習得し得る能力が要素であって,「健全な食生活を実践すること」は可能性にとどまるわけです。食育を受けた国民全員による輝かしき「健全な食生活」の実践は必ず実現するものとは限らないし,またその必要もない(個人の選択に委ねられる。),ということになり得るところです。

 

2 「健全な食生活」

しかしながら,食育基本法の第2条から第8条までに掲げられた食育に関する「基本理念」(同法9条)に基づき推進される食育は,当該基本理念の実現までを目指すものとならざるを得ません。同法2条は「食育は,食に関する適切な判断力を養い,生涯にわたって健全な食生活を実現することにより,国民の心身の健康の増進と豊かな人間形成に資することを旨として,行われなければならない。」と規定していますから(下線は筆者によるもの),食育は,食育を受けた人間が「生涯にわたって健全な食生活を実現」する者となるようにすることを目指すのだということになります。

「健全な食生活」とは何かといえば,まずは「心身の健康の増進と豊かな人間形成に資する」ものであるということになるのでしょう(食育基本法2条。また,同法1条にも「国民が生涯にわたって健全な心身を培い,豊かな人間性を育むための食育」との文言があります。)。十分な栄養を摂って身体が健康になりその結果心が健康になる(mens sana in corpore sano erit.)というだけではなく,「豊かな人間形成」までされるというものですから仰々しいところです。

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「様々な経験」
3:ワイン及びオリーブの実

 Oleam quam primum terra tollito. Si inquinata erit, lavito, a foliis et stercore purgato.

 「オリーブの実が落ちちまっても急いで拾って,葉っぱでも糞でも汚れはきれいに洗っちまえばいいんだよ。」とは,いかにもあの大カトー流です(「偉大な人物と「せこさ」とに関して」参照http://donttreadonme.blog.jp/archives/1067827246.html)。

食育基本法8条には「食品の安全性が確保され安心して消費できることが健全な食生活の基礎である」とありますから,「健全な食生活」においては,安全な食品を消費して身体が健康になるだけではだめで,そこに「安心」がなければ心は病んでしまって健康ではなく,かつ,「豊かな人間形成」もなされない,ということになるようです。不殺生戒・不飲酒戒等を安全にクリアした食事を安心(あんじん)と共に摂っていればこそ,そこにおいて初めて仏教者としての「豊かな人間形成」も達成されるのだということになるのでしょうか当ブログの2018321日付けの記事である「内閣総理大臣の国会演説に見る「安心」の平成史(後編)」の17を参照http://donttreadonme.blog.jp/archives/1070539114.html)。

「健全な食生活」における「健全」な料理は更に,伝統的な日本食にして地元食であって,かつ,その食材は国内産であるものと理解されているようでもあります。食育基本法7条は「食育は,我が国の伝統のある優れた食文化,地域の特性を生かした食生活〔略〕に配意し,〔略〕農山漁村の活性化と我が国の食料自給率の向上に資するよう,推進されなければならない。」と規定しています(同法前文第4項も「食料自給率の向上に寄与すること」がされることを期待)。この「食料自給率の向上」がどんどん進めば,最終的には外国産食料は我が豊葦原瑞穂国においては一切消費されない姿となります(食育基本法前文第3項は「「食」の海外への依存」を「問題」であるものと認識)。であれば,「様々な経験を通じて」の「様々な経験」は,国産食品に係る範囲内においてという制限下のものであるということなのでしょう。とはいえ,「(ここに)大気都比売(おほげつひめ)自鼻口及(はなくちまたしり)(より)種種(くさぐさの)味物(ためつものを)取出(),種種作具(つくりそなへ)()(たてまつる)」(古事記』(岩波文庫・1963年)上巻)というふうに,我が国における食料は本来,女神の鼻孔,口腔及び肛門から安易かつ豊富に出て来るはずものでありましたから,外国の産物が食べられないことなどを心配するのは無用のことです。

また,「豊かな人間形成」がされた人間は,具体的には,「食生活が,自然の恩恵の上に成り立っており,また,食に関わる人々の様々な活動に支えられていることについて,感謝の念や理解が深ま」っている人間ということのようであります(食育基本法3条。また,同法前文第5項)。当該「感謝の念や理解」を端的に表明するためには,食事の際に祝福(benedicere)あるべし,さすれば少量の食材(quinque panes et duo pisces)でも豊かに満腹(saturatum esse)あるべしということになるのでしょうか。

 

 et acceptis quinque panibus et duobus piscibus

   intuens in caelum benedixit et fregit panes

   et dedit discipulis suis ut ponerent ante eos

   et duos pisces divisit omnibus

   et manducaverunt omnes et saturati sunt

 (secundum Marcum 6.41-42)

 

 なお,アメリカ合衆国の感謝祭(Thanksgiving)においては,感謝の対象は「自然の恩恵」でも「食に関わる人々」でもありません。

 

  …Washington also signed a proclamation for the first Thanksgiving on November 26,1789,declaring that “Almighty God” should be thanked for the abundant blessings bestowed on the American people, including victory in the war against England, creation of the Constitution, establishment of the new government, and the “tranquility, union, and plenty” that the country now enjoyed.

      (Chernow, Ron. Washington: a life. (2010) p.609)   

  ワシントンは,また,〔1789年〕1126日の最初の感謝祭のための宣言書に署名した。そこにおいては,対イングランド戦争における勝利,憲法の制定,新政府の設立並びに国家が現在享受している「安寧,統一及び豊穣」を含むアメリカ人民に与えられた惜しみない祝福に対して「全能の神」に感謝すべき旨が表明されていた。


 ところで,食について「自然の恩恵」や「食に関わる人々」に対して感謝すべしとする
2005年の我が食育基本法は,その60年前の先の大戦における敗戦によりもたらされた我が国における「我国体に戻り」たる「浅間しき次第」(1882年の明治天皇の軍人勅諭に見られる表現)を反映するものとも解し得るかもしれません。すなわち,皇室祭祀の新嘗祭に関する明治元年(
1868)十一月十五日の政府の布告は人民に対し「面々,毎日食し候米穀は,其元,天祖の賜物なる事を知り,御国恩のかたじけなき事を相わきまへ候はば,遊興安臥して在るべきにあらず。寒村僻邑の土民,雨を祈り晴を願ひ候も,必ず感応之有り,況や天下一同,至尊の御仁慮を体認し奉り,共に祈請し奉るに於ては,神祇の冥感,殊にすみやかなるべき事に候。」と「天祖の賜物」について「御国恩の辱き事を相弁へ」るべきことを訓戒していたところでしたが(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)69頁参照),食育基本法の文言からは,食が「天祖の賜物」であることも「御国恩の辱き事を相弁へ」るべきことも読み取り難くなっているからです。なお,上記布告での「天祖の賜物なる事」とは,「まず,皇国の稲穀は,天照大神,うつしき蒼生あおひとぐさの食して活すべきものなりと詔命あらせられ,天上に於て,,長田に殖えさせ給ひし稲を,皇孫降臨の時,下し給へる」との「神恩」の働きを意味します(村上68頁参照)。

 

3 我が国民の正しい在り方

 現在の我が国では「国民は,家庭,学校,保育所,地域その他の社会のあらゆる分野において,〔食育基本法の〕基本理念にのっとり,生涯にわたり健全な食生活の実現に自ら努めるとともに,食育の推進に寄与するよう努めるものとする。」との責務が全国民に負わされています(食育基本法13条)。この責務を果たそうと努めない者は非国民であるということになります。しかしながら,「健全な食生活」とは何かということがはっきりしなければ,愛国的国民は一向安心できません。また,「食育の推進に寄与」するためには具体的に何をすべきかが明らかでなくてはなりません。

 

4 第3次食育推進基本計画における具体的目標

 国の食育推進会議による第3次食育推進基本計画(2016年度から2020年度まで)を見てみましょう。

 第3次食育推進基本計画は,その第22において「食育の推進に当たっての目標」を掲げています。そこにある15の見出しは,①食育に関心を持っている国民を増やす,②朝食又は夕食を家族と一緒に食べる「共食」の回数を増やす(この「共食」は,トモグイと読んではいけないのでしょう。),③地域等で共食したいと思う人が共食する割合を増やす,④朝食を欠食する国民を減らす,⑤中学校における学校給食の実施率を上げる,⑥学校給食における地場産物等を使用する割合を増やす,⑦栄養バランスに配慮した食生活を実践する国民を増やす,⑧生活習慣病の予防や改善のために,ふだんから適正体重の維持や減塩等に気をつけた食生活を実践する国民を増やす,⑨ゆっくりよく噛んで食べる国民を増やす,⑩食育の推進に関わるボランティアの数を増やす,⑪農林漁業体験を経験した国民を増やす,⑫食品ロス削減のために何らかの行動をしている国民を増やす,⑬地域や家庭で受け継がれてきた伝統的な料理や作法等を継承し,伝えている国民を増やす,⑭食品の安全性について基礎的な知識を持ち,自ら判断する国民を増やす及び⑮推進計画を作成・実施している市町村を増やす,というものです。

 

1)食育に関心を持っている国民を増やす

 「食育に関心を持っている国民を増やす」との目標については,2015年度においては国民の75パーセントしか食育に関心を持っていなかったところ,2020年度までには90パーセント以上を目指すそうです。最終的には全国民が食育に関心を持たねばならないのです。日本国憲法19条には「思想及び良心の自由は,これを侵してはならない。」などと書いてありますが,食育に係る関心の有無それ自体に限れば,思想でもなければ良心でもないということでしょう。「「思想及び良心」の自由の保障すなわち沈黙の自由の保障の対象は宗教上の信仰に準ずべき世界観,人生観等個人の人格形成の核心をなすものに限られ,一般道徳上,常識上の事物の是非,善悪の判断や一定の目的のための手段,対策としての当不当の判断を含まない」とする長野地方裁判所昭和3962日判決(判時3748頁)を引用しつつ,当該判決の採用する憲法19条の解釈を是とする説があります(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)485486頁)。

 「食育に関心を持っている国民を増やす」ことにあるいはつながるであろうこのブログ記事を書いている筆者などは,「食育の推進に寄与するよう努め」ている(食育基本法13条)愛国的国民として,お上からほめていただけるものでしょうか。

 

2)朝食又は夕食を家族と一緒に食べる「共食」の回数を増やす

 「朝食又は夕食を家族と一緒に食べる「共食」の回数を増やす」ことについては,当該共食回数を2015年度の現状値週9.7回から2020年度は週11回以上にするそうです。これも将来的には週14回が達成されるべきものでしょう。婚姻の実体意思(真に婚姻をする意思)の内容は「常識的には,ローマで言われていたという「食卓と床をともにする関係」に入る意思といえる」とされており(星野英一『家族法』(放送大学教育振興会・1994年)55頁),更に「ローマ法における最も古い宗教上の婚姻方式は,「パン共用式婚姻(confarreatio)」と称するもので,ローマのパンの最古の形である「ファール(far)」を,儀式的に男女が共同で食した。」とのことですから(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法――ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)141頁),我が食育推進会議の婚姻観,ひいては家族観は古代ローマ以来の伝統的なものである,ということになるのでしょう。父たるもの,妻子を食わせるべし。

 

  Pater noster…

       panem nostrum supersubstantialem da nobis hodie

       (secundum Mattheum 6.9, 11)

  父ちゃん・・・腹ペコだからおいらたちのパンを今ちょうだい。

 

3)地域等で共食したいと思う人が共食する割合を増やす

「地域等で共食したいと思う人が共食する割合を増やす」ことについては,当該共食がされる割合を,2015年度の現状値64.6パーセントを2020年度には70パーセント以上にするそうです。「地域や所属するコミュニティ(職場等を含む)」とありますから(下線は筆者によるもの),仕事上の接待での共食も含まれるものと解してよいのでしょう。「家族との共食は難しいが,共食により食を通じたコミュニケーション等を図りたい」お得意さまについて,そのような思いを忖度(そんたく)して差し上げ,料理屋等で接待申し上げるのは,単なる利己的な営利営業活動といったまらないものにとどまるものではなく,我が国における食育の推進に寄与する活動でもあるのでした。

ところで,非婚少子化が進み伝統的家族の減少しつつある我が国においては,将来は,「彼らは共同食堂で共食し,駐屯地の兵士らのような共同生活を行うものとする。」(プラトン『国家』416 e)というところまで行くものかどうか。しかし,食育推進会議もさすがにそこまでは考えてはいないようです。

 

4)朝食を欠食する国民を減らす

「朝食を欠食する国民を減らす」ことについては,朝食を欠食する子供の割合を2015年度の現状値4.4パーセントから2020年度には零パーセントに,朝食を欠食する20歳代及び30歳代の男女の割合を2015年度の現状値24.7パーセントから2020年度には15パーセント以下にするそうです。40歳代以上となれば,朝食は食べなくてもよいようです(反対解釈)。それとも,40歳以上はもはや国民の数には入らないのでしょうか。確かに,40歳を過ぎた臣民には第二国民兵役すらも既にお役御免ではありました(1943111日改正前兵役法(昭和2年法律第47号)92項)。

しかし,そもそも朝食については「〔中世の〕修道院では,ローマ時代の慣習に従い,第9時(nona hora),すなわち午後3時に最も大切なお祈りをしてからその日の唯一の食事をした。〔略〕この時の食事をフランス語ではdéjeunerと言ったのである。ところが,厳しい労働のために,ただ1回の食事では空腹に悩まされることが多く,déjeunerまでに軽い食事をする習慣が生まれ,この食事をフランス語でpetit déjeunersmall breakfast)と呼んだ。今日では一般に「朝食」という意味をもつ。」ということではあったそうです(梅田修『英語の語源事典』(大修館書店・1990年)209頁)。厳格に一日一食をなお守る伝統主義的修道院において祈り,かつ,働く(orant et laborant)清らかな生活を送る若き僧尼らに対して,いやしくも日本国民たる者は必ず朝食を摂るべしと啓蒙・食育することは,信教の自由(日本国憲法20条1項前段)を侵す余計なお世話であるということにはならないのでしょうか。それとも,朝食を摂らないということは,そもそもからして我が国の安寧秩序を妨げることになるのか,臣民たるの義務に背くことになるのか(大日本帝国憲法28条参照)。いずれにせよ,30歳代前半の元肉体労働者系の男性がつい長いこと絶食してふらふらになっているのを見ると,ちゃんと朝から食事をしろよパンでいいからさ(でも石は食べられないよね),と声をかけるのが親切な心というものでしょう。

 

 Et cum jejunasset quadraginta diebus et quadraginta noctibus postea esuriit

   et accedens temptator dixit ei

   si Filius Dei es dic ut lapides isti panes fiant

   qui respondens dixit

   scriptum est

   non in pane solo vivet homo sed in omni verbo quod procedit de ore Dei

   

   vade Satanas

 (secundum Mattheum 4.2-4, 10) 

 

せっかくの親切な声かけに対して,偉い本には何やらが書いてあると理屈で返した上で相手を悪魔(Satanas)呼ばわりすることも,信教の自由の認めるところなのでしょう。

 

5)中学校における学校給食の実施率を上げる

 「中学校における学校給食の実施率を上げる」ことについては,2014年度の実施率現状値87.5パーセントを2020年度には90パーセント以上にするそうです。「栄養バランスのとれた豊かな食事」であり,かつ,「食事について理解を深め,望ましい食習慣を養う」ことのできる素晴らしい学校給食に対して,家人の作った弁当その他の食事はそうではない,ということゆえのようです。そうであればやはり,ちまちまと中学校に限ることはせず,プラトンの理想国ないしは古代スパルタのように,日本国民は全員,共同食堂で学校給食業者の提供する給食を共食することが究極の理想であるということになるようです。

 

更に〔古代スパルタのリュクールゴスは〕最も立派な政策を取り入れた。それは会食の制度である。市民たちは互ひに共通な一定の料理とパンのあるところに集まつて食事し,家で豪奢な臥椅子や食卓に依つて,暗い処で食を貪る獣のように召使ひや料理人の手で肥らされ,性格のみならず身体までも台無しにして,長い眠りや温浴や多くの安息や云はば日毎の看病を必要とするすべての欲望と奢侈に身を委ねるやうなことを許されなかつた。確かにこれは大事業であつた〔中略〕。家で先に食事を済ませて,満腹のまま会食に行くことは許されなかった。他の人々が念入りに見張りをしてゐて,自分たちと一緒に飲みも食べもしないものを,自制力のない,共通の食物を食べようとしない意気地無しだと非難したからである。(河野与一訳『プルターク英雄伝(一)』(岩波文庫・1952年)116117頁)

 

6)学校給食における地場産物等を使用する割合を増やす

「学校給食における地場産物等を使用する割合を増やす」ことについては,学校給食における地場産物(都道府県単位)を使用する割合を2014年度の現状値である26.9パーセントから2020年度には30パーセント以上に,学校給食における国産食材を使用する割合を2014年度における現状値77.3パーセントから2020年度には80パーセント以上にするそうです。「食料安全保障」の観点からは,これらの数字は多々益々弁ず,ということになるのでしょう。最終的には自給自足の江戸時代への復帰が理想,ということなのでしょう。

 

  Edo solum cibum Japonem.

 

   〔前略〕どの国でも食糧は重要なことで,船を使はないやうにその国で賄はねばならんのであります。それが世界の戦争国家の共通的な方法であります。 

   この日本において遠く南洋の天地から何十万トン何百万トンの船を使つて外米を輸入して,その外米を食はなければならんといふ食ひ方ではならんのであります。われわれは玄米でも何でも,無駄のないやうに食はなければならんのであります。国が亡んだら元も子もないのであります。我々は千早城に立て籠つた〔楠木〕正成の様に,畳を食つても生きて行かねばならぬのであります。然も肉がない,魚がないなどと,さういふことをいつて居つて一体この戦争が出来ると思つてゐてよいでせうか。われわれの生活を最小限度に切詰めて,さうしてその輸送力や凡てのエネルギーを,戦争に全部集中しなければならんのであります。〔後略〕

  (奥村喜和男(情報局次長)『尊皇攘夷の血戦』(旺文社・1943年)183184頁)

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 a tatami-eater facing the Imperial Palace, Tokyo


(7)栄養バランスに配慮した食生活を実践する国民を増やす
 「栄養バランスに配慮した食生活を実践する国民を増やす」ことについては,主食・主菜・副菜を組み合わせた食事を12回以上ほぼ毎日食べている国民の割合を2015年度の現状値57.7パーセントから2020年度には70パーセント以上にし,20歳代及び30歳代の男女については2015年度の現状値43.2パーセントから2020年度には55パーセント以上にするそうです。主食は米その他の穀物でしょうが,更に主菜及び副菜とあります。主菜は「魚,肉等」,副菜は「野菜,海藻等」であるようです(第3次食育推進基本計画の第331)注1)。

主食は,米よりも他の雑穀の方が何かとよいようです。

 

  〔前略〕食物を大切ニ可仕(つかまつるべく)候ニ付,雑穀専一ニ候(あいだ),麦(あわ)(ひえ)()大根,其外何に()も雑穀を作り,米を多く喰つ()し候ハぬ様に可仕(つかまつるべく)候,〔略〕大豆の葉あ()きの葉さゝ()の葉大角(ささ)()はまめ科の一年生植物で,さや・種子が食用になります。〕いもの落葉なと,むさとすて候儀ハ,もつたいなき事に候(慶安御触書(慶安二年(1649年)))

 

主菜として,牛肉,馬肉,犬肉,猿肉又は鶏肉を食べる者は,乱臣賊子です。

 

  庚寅,詔諸国曰,自今以後,〔中略〕莫食牛馬犬猿鶏之宍。以外不在禁例。若有犯者罪之。(『日本書紀』(新編日本古典文学全集(小学館・1998年))天武天皇四年(675年)四月庚寅(十七日)条)

  庚寅に諸国に(みことのり)して(のたま)はく,今より以後,〔中略〕牛・馬・犬・猿・鶏の(しし)を食ふこと莫れ。以外は禁例にあらず。し犯す者あらば罪せむ」とのたまふ。

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 乱臣賊子の食物:馬刺しユッケ

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 馬の次は,鹿(「持鹿献於二世曰。馬也。二世笑曰。丞相誤邪。謂鹿為馬。問左右。左右或黙或言馬。以阿順趙高。」『史記』秦始皇本紀)


 我が国では,畏くも天武天皇の詔において許されてある豚肉を食べるべきなのです。

 しかしながら,

    …

 et sus qui cum ungulam dividat non ruminat

    horum carnibus non vescemini nec cadavera contingetis quia inmunda sunt vobis

    (Liber Levitici 11.7-8)

 

豚さんは爪は割れているかもしれないけれども反芻はしないから食べてもいけないし死体に触ってもいけないんだよ,だって(きたな)いんだもーん,などとのたまう理屈っぽいへそ曲がりは,やはり「安寧秩序ヲ妨ケ」る輩でしょう。

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「様々な経験」4:旭川しょうゆ豚丼駅弁


8)生活習慣病の予防や改善のために,ふだんから適正体重の維持や減塩等に気をつけた食生活を実践する国民を増やす

「生活習慣病の予防や改善のために,ふだんから適正体重の維持や減塩等に気をつけた食生活を実践する国民を増やす」については,当該実践を行う国民の割合を2015年度の現状値69.4パーセントから2020年度には75パーセントにし,あわせて食品中の食塩や脂肪の低減に取り組む食品会社の登録数を2014年度の67社から2020年度には100社以上にするそうです。

「適正体重の維持・・・に気をつけた食生活を実践」しさえすればよいので,それでも適正体重を維持できずに「肥満ややせ」になった残念な姿をさらしていても直ちに非国民ということにはならないようです。また,単位ごとに食品中の食塩や脂肪が低減されていればよいので,物足りないなと思ったら,おかわりをして追加摂取すればよいのでしょう。

しかし,塩味であることが畏怖すべき存在との重いお約束になっている場合,そもそも減塩などという罪が赦されるのでしょうか。

 

  quicquid obtuleris sacrificii sale condies

       nec auferes sal foederis Dei tui de sacrificio tuo

       in omni oblatione offeres sal

       (Liber Levitici 2.13)

  上納した食品は何でも塩で味付けすべし。

  お前の親分である恐ろしい御方との契りの塩をお前の上納食品から欠かしてはならぬ。

  全ての貢の食品には塩を加えなければならぬ。

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 後鳥羽院ゆかりの水無瀬神宮(大阪府三島郡島本町)

 もしほやく(あま)もいき 遠島首)


(9)ゆっくりよく噛んで食べる国民を増やす
 「ゆっくりよく噛んで食べる国民を増やす」ことについては,そのような食べ方をする国民の割合を2015年度の現状値49.2パーセントから2020年度には55パーセント以上にするそうです。生きたまま踊り食いをされるシロウオなどは大変でしょう。

“Festina lente”(ゆっくり急げ)をモットーとしていた初代ローマ皇帝アウグストゥスでしたが,死を間近にして,陰鬱な2代目皇帝となるティベリウスに関して曰く。

 

  “Miserum populum R., qui sub tam lentis maxillis erit.”

  (Suetonius, Vita Tiberi 21)

  「あんなに(のろ)い顎で咀嚼されるローマ人は可哀想だ」(国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(上)』(岩波文庫・1986年)251頁)

 

10)食育の推進に関わるボランティアの数を増やす

「食育の推進に関わるボランティアの数を増やす」ことについては,食育の推進に関わるボランティア団体等において活動している国民の数を2014年度の現状値である34.4万人から2020年度は37万人以上にするそうです。きっちりとした「食生活改善推進員等のボランティア」のみがカウントされるようなので,このブログ記事などに漫筆を動かすのみの筆者などは員数外です。

 

11)農林漁業体験を経験した国民を増やす

「農林漁業体験を経験した国民を増やす」ことについては,当該経験をした国民(世帯)の割合を2015年度の現状値36.2パーセントから2020年度には40パーセント以上にするそうです。

これは,かつて中華人民共和国にあったという下放運動のようなものでしょうか。

しかし,「農林漁業体験」といっても,農林漁業従事労働者となって働かされるというわけでもなく,また,政策として農林漁業への新規参入が推進されるというわけでもないようです。

 

12)食品ロス削減のために何らかの行動をしている国民を増やす

「食品ロス削減のために何らかの行動をしている国民を増やす」ことについては,当該行動をしている国民の割合を2014年度の現状値67.4パーセントから2020年度には80パーセント以上にするそうです。当該「何らかの行動」には,次のような結果をもたらす食べ方に対してmottainai!と苦情を言うことも含まれるのでしょうか。

  

    et sustulerunt reliquias fragmentorum duodecim cofinos plenos et de piscibus

    (secundum Marcum 6.43)

 〔食後には〕12の大かごにいっぱいのパンのかけら及び魚の残りが取り集められた。

 

13)地域や家庭で受け継がれてきた伝統的な料理や作法等を継承し,伝えている国民を増やす

「地域や家庭で受け継がれてきた伝統的な料理や作法等を継承し,伝えている国民を増やす」ことについては,そのような国民の割合を2015年度の現状値41.6パーセントから2020年度には50パーセント以上にし,そのような20歳代及び30歳代の男女の割合を2015年度の現状値49.3パーセントから2020年度には60パーセント以上にするそうです。

現に存在する「地域や家庭」の「伝統的な料理や作法等」でさえあればたとえどんなものであってもそのまま継承されるべきものなのであって,変によその地域や家庭の真似をして,上品ぶったりかしこぶったりグルメぶったりカッコつけたりするんじゃねぇよ,ということでしょうか。

 

 われわれの子供時代のことを考へても,私は九州の田舎で育ちましたが,生魚といへば御祭の時か,正月に食つた位のものなのであります。簡単な質素な生活であつたのであります。(奥村194頁)

 

「主食であるごはんを中心に,魚,肉等の主菜,野菜,海藻等の副菜,牛乳・乳製品,果物等の多様な副食等を組み合わせた栄養バランスに優れた食生活」こそが「日本型食生活」であるとされていますが(第3次食育推進基本計画の第331)注1),これは,我が国の現実具体の歴史に根差すものではない思弁的構想物であるようです。

なお,「作法等」には「箸使い」が含まれています。しかしながら,魏志倭人伝には「食飲用籩豆手食」とあります。3世紀の倭人は,飲食に(へん)(とう)これは『角川新字源』によれば,「まつりや宴会に用いる器の名。籩は竹製で,果実などをもる。豆は木製で塩などをもる。」というものです。)は用いたものの,食べ方は手づかみ(手食)であったようです。箸を使うということは,我が国独自かつ有史以来連綿の「日本人の伝統的な食文化」というわけではないようです。とはいえ今や,正しく箸を使えぬ者は,非国民なのでしょう。

 

14)食品の安全性について基礎的な知識を持ち,自ら判断する国民を増やす

「食品の安全性について基礎的な知識を持ち,自ら判断する国民を増やす」ことについては,そのような国民の割合を2015年度の現状値72.0パーセントから2020年度には80パーセント以上にし,20歳代及び30歳代の男女については2015年度の現状値56.8パーセントから2020年度には65パーセント以上にするそうです。

12千万国民の3割弱が食品の安全性について基礎的な知識を持たず,又は食品の安全性について自ら判断できないというのですから,我が国においては食中毒が猖獗を極めているということが憂慮されます。しかしながら,厚生労働省のウェブサイトにある2017年の我が国の食中毒統計によると,同年中の食中毒発生件数は1014件で患者数は16464人,死者は3人だったそうです。家庭での食中毒に限ると,件数は100件,患者数は179人,死者2人ということでした。食中毒の発生件数が一番多かった場所は飲食店で598件,死者は1人でした。この数字を大きいと見るべきか,小さいと見るべきか。しかし,死はあってはならないということであれば,3を零にするための資源の投入をためらい,怠るわけにはいきません。人は,長い老後を生き続けねばなりません。

 

  abstulit clarum cita mors Achillem,

       longa Tithonum minuit senectus.

       (Horatius, Carmina 2.16.29)

  輝けるアキレウスを速やかな死が奪った。

  長い老後がティトノスを衰廃させた。

 

15)推進計画を作成・実施している市町村を増やす

「推進計画を作成・実施している市町村を増やす」ことについては,当該作成・実施市町村の割合を2015年度の現状値76.7パーセントから2020年度には100パーセントにするそうです。食育基本法の文言上は市町村が市町村食育推進計画を作成することは努力義務にとどまるのですが(同法181項),食育の推進という素晴らしいことをすべきときに当たって,「いやこれは努力義務だから,努力しても食育推進計画が出来なければそれはそれでいいんです。」などとつまらぬ理屈を言って抵抗することは許されません。

 

5 「健康美」

食育基本法は一つの美のイデアを前提としています。すなわち,その第19条において,国及び地方公共団体は家庭における食育の推進に関して「健康美に関する知識の啓発」をするものとされているところです。
 しかしながら,この「健康美」のイデアは,なおはっきりしません。(ちなみに,健康の女神であるHygieiaないしはSalusは,容姿云々よりは蛇と一緒ということが特徴です。)

食育基本法案を審議する200546日の衆議院内閣委員会において,小宮山洋子委員が同法案19条に関して「だからそんな,料理教室とか健康美なんということまで,何で基本法でこんなことをやるんですか。」と怒りをこめて質疑したところ,提案者西川京子衆議院議員の答弁は「もちろんこれは一つの例示でありまして,そこに必ず行ってくれと言っているわけではないわけでございまして,あくまでもこれは特定の価値観を国民に押しつけるようなことは毛頭ございません。/そういう中で,やはりこういうメニューがあると,今現実に,そういうアンバランスな食生活をしている子供たちや若い人が大変ふえている現実が目の当たりにあるわけですね。そういう中で,できれば家庭,学校教育の場,そういうところでこういうことにお互いにもうちょっと積極的にかかわる中で,健全な生活を営めるような体づくり,こころの健康性,そういうものについてこういうメニューをそろえますよ,そういう程度と考えていただけたらいいと思います。」と飽くまで低姿勢でした(第162回国会衆議院内閣委員会議録第79頁)。低姿勢のゆえ積極的な定義付けはされていないのですが,少なくとも「健康美」の構成要素としては,「健全な生活を営めるような体」があって,「こころ」も「健康」であるということが含まれているようです。

「肥満」の増加及び「過度の痩身志向」が「問題」とされていますから(食育基本法前文第3項。また,同法20条),肥満者及び過度痩身者は「健康美」ではないということでしょう。しかし,「健康美」ではないからといって美ではないということではないのであって,「特定の価値観」が国民に押し付けられることはなく,「肥満美」及び「過度痩身美」も美としては「健康美」と平等の価値を有するものなのでしょう。実に価値観は様々であって,若くて健康な奴など不愉快だとまでのたまう気難しいおじさんも現に存在します。

 

 友とするにわろき者,七つあり。一つは高くやんごとなき人。二つには若き人。三つには病なく身強き人。四つには酒を好む人。五つにはたけく勇める(つはもの)。六つには虚言(そらごと)する人。七つには欲深き人。(『徒然草』第117段)

 

しかし,まあ,人それぞれです。酒嫌いの草食偏屈タイプは,またその好むように食事をすればよいのです。

 

  Sei guter Dinge, antwortete ihm Zarathustra, wie ich es bin. Bleibe bei deiner Sitte, du Trefflicher, malme deine Körner, trink dein Wasser, lobe deine Küche: wenn sie dich nur fröhlich macht!

(Das Abendmahl) 

 

水しか飲まないのならば仕方がありませんが,葡萄酒は結構なものです。疲労困憊からの急激な回復及び即興的健康。

 

  Wasser taugt auch nicht für Müde und Verwelkte: uns gebührt Wein, --- der erst giebt plötzliches Genesen und stegreife Gesundheit!

 

葡萄酒に羊肉。羊の肉は,天武天皇の禁制にも含まれてはいません。セージで味付けし,根菜及び果実並びに胡桃を添える。

 

  Aber der Mensch lebt nicht vom Brod allein, sondern auch vom Fleische guter Lämmer, deren ich zwei habe:

--- Die soll man geschwinde schlachten und würzig, mit Salbei, zubereiten: so liebe ich’s. Und auch an Wurzeln und Früchten fehlt es nicht, gut genug selbst für Lecker- und Schmeckerlinge; noch an Nüssen und andern Räthseln zum Knacken.

 

そして,陽気な宴会。
 骨つよく足かろき者の健康及び元気を賛美し,たけく勇み,欲深く嘯きます。

 

  Wer aber zu mir gehört, der muss von starken Knochen sein, auch von leichten Füssen, ---

      --- lustig zu Kriegen und Festen, kein Düsterling, kein Traum-Hans, bereit zum Schwersten wie zu seinem Feste, gesund und heil.

   Das Beste gehört den Meinen und mir; und giebt man’s uns nicht, so nehmen wir’s: --- die beste Nahrung, den reinsten Himmel, die stärksten Gedanken, die schönsten Fraun!  

   

  食は人の天なり。よく味はひを調へ知れる人,大きなる徳とすべし。(『徒然草』第122段)



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 偉大な人物にも小さい側面――具体的には,「せこい」ところ――があることがあります。

 その「せこさ」ゆえにますますうんざりさせられる大人物もあれば,思わずにやりとさせられる偉い人もあります。要は普段の行い次第ということになるのでしょう。

 

1 大カトー

前者の代表人物として挙げられるのは,紀元前3世紀から同2世紀にかけての古代ローマの大カトーです。「ローマの周囲にある村や町で,これ〔弁舌〕を身につけるために練習し,頼んで来る人があるとその度毎に法廷で弁護に立ち,先づ熱心な論戦家,やがて有能な弁論家といふ名を取つた」後,「ローマの町に移ると直ぐ,法廷の弁護によつて自分でも崇拝者や友人を得」つつ(河野与一訳『プルターク英雄伝(五)』(岩波文庫・1954年)49頁,51頁)成り上がった弁護士上がりの名物政治家でした。

 

  ・・・〔大カトーは,〕様々の色をしたバビュロニア製の絨氈(じゅうせん) (embroidered Babylonian tapestry) を遺産として手に入れても直ぐ売払ひ,その別荘 (farmhouses) は一つとして壁土が塗つて (plastered) なく,1500ドラクメー以上出して奴隷を買つたこともなく,必要なのは洒落た美しい奴隷ではなくて,仕事をよくする丈夫な奴隷,例へば馬丁や牛飼のやうなものであるとした。しかもそれらの奴隷が年を取つて来ると,役に立たなくなつたものを養つて置かずに売払ふべきだと考へてゐた。・・・

  これを或るものはこの人の吝嗇(りんしょく) (petty avarice) な点に帰し,又或るものは他の人々を矯正して節度を教へるために自分も内輪に控へたのだと認めてゐる。但し奴隷を駄獣 (brute beasts) のやうに年を取るまで使ひ尽してから追ひ出したり売つたりするのはあまり冷酷な性格 (over-rigid temper ) から来るもので,人間と人間との間に利用 (profit) 以外の繫がりがないと考へてゐるやうに私〔プルタルコス〕は思ふ。しかしながら好意 (kindness or humanity) は正義心 (bare justice) よりも広い場所を占めてゐると私は見る。と云ふのは,我々は本来人間に対してだけ正義 (law and justice) といふものを当嵌(あては)めるが,恩恵や慈愛 (goodness and charity) となると物の言へない動物に対してまで豊富な泉から流れるやうに温和な心持 (gentle nature) から出て来る場合がある。年のためにはたらけなくなつた馬 (worn-out horses) を養つたり,若い犬を育てるばかりでなく年取つた犬の面倒を見たりするのは深切な人 (kind-natured man) の義務である。

  ・・・

  実際,生命を持つてゐるもの (living creatures) を靴や道具のやうに扱ひ,散々使つて(いた)んだからと云つて棄てて顧みないのは(よろし)しくない。他に理由がないとしても,深切な心持を養ふために (by way of study and practice in humanity) もそれらに対して柔和な態度 (a kind and sweet disposition) を取る癖をつけなければならない。少くとも私ははたらかした牛 (draught ox) を年を取つたからと云つて売ることはしない。(いわんや)して年を取つた人間をその祖国 (his own country) ともいふべき育つた場所 (the place where he has lived a long while) ()れた生活から僅かばかりの銅貨のために追出して,売つた人にも買つた人にも役に立たないやうな目に会はせたくない。ところがカトーはかういふ事を誇つてでもゐるやうに,コーンスル〔統領〕として数々の戦闘に使つた馬をヒスパニア (Spain) に残して来て,その船賃を国家に払はせまいとした (only because he would not put the public to the charge of his freight) と云つてゐる。・・・(河野訳5355頁。英語は,John Drydenの訳です。河野与一の文章は難しいのですが,そもそもその人物については,「仙台駅裏のガードをくぐり,狭いうらぶれた土の道を歩いていって,とある家の古風な土蔵の中に,この先生が縹緲(ひょうびょう)〔遠くはるかに見えるさま。ぼんやりしていてかすかなさま。〕と住んでいた。見ると,汚ない着物にチャンチャンコを着,一般地球人類とは様子が異なるお(じい)さんであった。頭蓋(ずがい)がでっかくて額がでっぱっていて,これはウエルズの火星人が化けているのではあるまいかと,ひそかに私は考えたものだ。」(北杜夫『どくとるマンボウ青春記』(新潮文庫・2000年)301頁)と報告されているような様子だったのですから,さもありなんです。)

 

大カトーがローマの統領(コンスル)となったのは紀元前2世紀初めの同195年,同194年にはヒスパニアからの凱旋式を挙げています。

 

2 馬の売却交渉

ところで,紀元18世紀の末の1797年3月に,アメリカ合衆国において,初めての大統領(プレジデント)の交代がありました。

 

 〔ペンシルヴァニア州フィラデルフィア市において1797年3月4日土曜日昼に行われた2代目大統領の就任式を終えて〕彼〔ジョン・アダムズ〕はフランシス・ホテルの宿所に戻った。ワシントン一家が「大統領の家」 (President’s House) をゆっくりと引き払う間,彼はその1週間の残りを同ホテルで過ごすことになっていた。その最初の午後には,彼への訪問客が途切れなく続いた。大多数は彼の幸運を祈り,一部の者は彼の就任演説を称賛した。彼と近しい一,二の者が急ぎやって来て,連邦(フェデラ)党員(リスツ)中に,就任演説が野党の共和党(リパブリカンズ)に対して宥和的に過ぎたと文句を言っている者がいると告げた。ワシントンは,アダムズをその午後遅く,そして再びの終わりに訪問した。当該1の半ばの一夜には,ワシントン夫妻は,新正副大統領〔新副大統領はトーマス・ジェファソン〕のための晩餐会を主催した。ワシントンによるフランシス・ホテル訪問は,主として社交的性格のものであったが,ビジネス的ないくつかの取引も行われた。ワシントンは,大統領の家」の全ての家具調度を執行の長としての報酬から支出して購入していた。不要な家財道具を〔ワシントンの自宅及び農園があるヴァジニア州の〕マウント・ヴァーノンに輸送することにより生ずる費用を負担することを望まないワシントンは,家具類についてアダムズの関心を惹くことを試みた。アダムズは,そのうちいくつかについて入手することにした。しかし,彼は,ワシントンが更に売ろうと望んだ2頭の馬の購入は断った。後にアダムズは,前任大統領は彼からぼったくろうgouge〕としていたのだと示唆している。おそらく彼の意見は正しかったであろう。ワシントンは,それらの馬は,彼がそうだと表明していたところよりも齢を取っていたのだよと友人に明かしていた。(Ferling, John E., John Adams: a life (Oxford University Press, 2010) pp.335-336. 日本語は拙訳。なお,ワシントン夫妻がアダムズ及びジェファソンを招いた上記晩餐会は3月6日のことだったようです(see Ferling p.341)。)

 

 「せこいぞ,ジョージくん!」と叫ぶべきでしょうか。

 ファーリングの上記文章に係る註 (Ferling p.497) によれば,アダムズがワシントン=不実な博労(ばくろう)説を唱えたのは,1797年3月5日又は同月9日付けの妻アビゲイル宛の書簡においてのようです(おそらく9日付けの方なのでしょう。)。また,ワシントンの「友人」とは,ダンドリッジか(1797年4月3日付けワシントン書簡。ダンドリッジ家は,ワシントンのマーサ夫人の実家です。),メアリー・ホワイト・モリスか(同年5月1日付けワシントン書簡)。フィラデルフィアの「大統領の家」の最初の賃貸人であり,かつ,ワシントンの友人であったロバート・モリスの妻であったのが,メアリー・ホワイト・モリスです。後に見るように,ワシントンは,家具調度売却に係る対アダムズ交渉についてメアリー・ホワイト・モリスに報告していますから,モリス夫人が当該「友人」であったように筆者には思われます。

 ロバート・モリス(1734年生,1806年歿)は,商人にして銀行家,大陸会議代議員及びペンシルヴァニア邦議会議員,独立宣言には採択の数週間後に署名,アメリカ独立戦争中・戦争後は財政面で活躍,1789年から1795年までは合衆国上院議員,商業・銀行業から土地投機に転じたもののやがて破産し,1801年まで3年以上債務者監獄に収監されています。(see Encyclopaedia Britannica, Founding Fathers: the essential guide to the men who made America (Wiley & Sons, 2007) p.175

 President’s Houseを「大統領の家」と訳して大統領「官」邸と訳さなかったのは,当該不動産はアメリカ合衆国の国有財産ではなかったからです。1790年に合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンがニュー・ヨーク市からフィラデルフィア市に移った際「シティ・タヴァン (City Tavern) では,彼のがっしりとして外向的な友人であるロバート・モリスが手をさし伸ばして待っていた。フィラデルフィア市は,六番街との角に近いハイ・ストリート(後にマーケット・ストリート)190番地のモリスの屋敷を,新しい大統領邸宅として借り受けていた (had rented)。」と報告されています(Chernow, Ron, Washington: a life (Penguin Press, 2010) p.633. 日本語は拙訳)。我が民法用語によれば,ロバート・モリスが賃貸人,フィラデルフィア市が賃借人,ジョージ・ワシントンが転借人ということになっていたようです。

 ところで,「せこいぞ,ジョージくん!」と叫ぶよりも,「あっ,ジョンくん,暗い。」と慨嘆すべきではないかとの解釈もあるようです。チェーナウのワシントン伝にいわく。

 

 ・・・ワシントンは,鷹揚に,〔「大統領の家」の〕二つの大きな客間 (drawing rooms) の家具調度を値引いた価格で提供する旨〔アダムズに対して〕申し込み,その際「一番良いものを取りのけておいて,残りの余り物を彼に提供する」ということはしなかった〔1797年5月1日付けメアリー・ホワイト・モリス宛ワシントン書簡〕。しかしながら,アダムズ夫妻 (the Adamses) は,それらの物件に手を出そうとはしなかった。さらには,つまらぬ悪口 (petty sniping) の発作を起こしたアダムズは,ワシントンは2頭の老いぼれ馬を2000ドルで彼につかませようとまでしたのだ (even tried to palm off two old horses on him for $2,000),とぶつぶつ文句を言った。(Chernow p.769

 

合衆国2代目大統領の年俸は2万5000ドルで,アダムズは既に馬車を1500ドルで買ってしまっていたところでした (Ferling p.334)。また,アダムズの支払に係るフィラデルフィアの「大統領の家」の転借料は,月225ドルだったそうです (Ferling p.336)

 

3 馬齢詐称と詐欺未遂とに関して

 

(1)詐欺未遂罪容疑に関して

我が刑法246条1項は詐欺罪について「人を欺いて財物を交付させた者は,10年以下の懲役に処する。」と規定し,同法250条により詐欺罪の未遂も罰せられます。無論,日本国民ではない者が日本国外で詐欺未遂罪を犯しても日本刑法が適用されることはないのですが(同法2条参照),ペンシルヴァニア州フィラデルフィア市において1797年3月4日から同月8日(同月9日木曜日早朝にワシントン一家は同市を退去 (Ferling p.336))までの間にヴァジニア州で農場を経営するジョージ・ワシントン氏(当時65歳)が,実際の齢よりも若いものと偽って老馬2頭をアメリカ合衆国大統領ジョン・アダムズ氏(当時61歳)に対して売り付けようとした行為は,仮に日本刑法が適用される場合,詐欺未遂で有罪でしょうか。

 

 日常の商取引においては,例えば販売者,購買者ともに自己に有利になるように駆引きを行い,地域や職種によっては一定の誇張・虚偽の宣伝が通常のものとなっている。これらの行為を,形式的に一般人を錯誤に陥らせるものとして,これらのすべてを処罰することは明らかに妥当ではない。刑法上の詐欺は,ある程度強度なものに限る。誇大広告も,著しいもの以外は詐欺罪には該当しない。(前田雅英『刑法各論講義 第4版』(東京大学出版会・2007年)266頁)

 

アダムズに一蹴されてしまっている程度のようですから,詐欺未遂罪容疑云々で騒ぎ立てるほどのことではないのでしょう。

 

(2)民事法における詐欺に関して

他方,我が民事法の方面での詐欺とは,どのようなものでしょうか。日本民法96条1項は「詐欺又は強迫による意思表示は,取り消すことができる。」と規定しています。

 

違法性のあるもの,すなわち,信義の原則に反するものでなければ,詐欺ではない。社会生活上,多少の欺罔行為は,放任されるべきだからである。ドイツ民法(ド民123条)にarglistige Täuschung(悪意の欺罔)というのは,善意に対する悪意というだけでなく,倫理的な意義を含むものと解されている〔略〕。この意味で,沈黙・意見の陳述などは,詐欺とならない場合が多いのである。(我妻榮『新訂民法総則』(岩波書店・1965年)310頁)

 

ドイツ民法123条1項は„Wer zur Abgabe einer Willenserklärung durch arglistige Täuschung oder widerrechtlich durch Drohung bestimmt worden ist, kann die Erklärung anfechten.“と規定しています。すなわち,「悪意の欺罔により,又は違法に強迫によって意思表示をさせられた者は,当該意思表示を取り消すことができる。」とあります。Arglistigの訳語には,手元の独和辞典によれば「悪だくみのある,邪悪な奸知にたけた」(小学館『独和大辞典〔第2版〕』),「悪がしこい,悪ぢえのある」(三修社『現代独和辞典』)というような言葉が当てられています。

(ちなみに,「《ドイツ民族》,つまり,だまし民族と呼ばれたのは(うべ)なるかなだ。――」(木場深定訳のニーチェ『善悪の彼岸』244の最終文)と註釈なしに言われるだけでは何のことやらよく分かりませんが,原文は„man heisst nicht umsonst das »tiusche« Volk, das Täusche-Volk ...“で,何のことはない,Deutsche(ドイッチェ)täuschen(トイッシェン)(動詞で,「だます」)との駄洒落でした。さらには,Tauschen(タウッシェン) ist Täuschen(トイッシェン) .“(交換とはだますことである。)ともいいます。

馬の売買は,絵画の売買と並んで社会生活上買主側に大きな注意ないしは判断力の働きが要求される取引領域である,といい得たようです。

 

・・・イギリスのコモン・ローでは,売買,殊に動産売買には「買主をして注意せしめよ」(caveat emptor)のマキシムが適用され,売主の明示の担保があるか,売主に詐欺があるかするのでなければ,たとえ売買の目的物に隠れた瑕疵があっても売主の責任を追及しえないのが一般的ルールであった。・・・

 アメリカにおける売主の瑕疵担保責任の出発点をなしたのも,イギリスのコモン・ローであり,やはりcaveat emptor のマキシムが適用され,売買の目的物について売主による黙示の担保がないのを一般的ルールとしつつ,それに対する例外としての黙示の担保をみとめ,その範囲を拡大する傾向にあったが,統一売買法はその傾向に沿って制定され多くの州で採用され,現在では統一商事法典がそれに代っている。

 ・・・

 このように,動産売買においてはcaveat emptorの一般的ルールに対して,その例外として商品性と特定目的への適性の黙示の担保がみとめられているが,その例外が広汎にみとめられてきたので,caveat emptorは実際には例外となったといわれる(イギリス)。或いは「caveat emptorは,かつてはいかに活力をもっていたとしても,死にかかっている」。「現在のルールは『売主をして注意せしめよ』であるし,またあるべきである」ともいわれる(アメリカ)。

 それでは,現在,caveat emptorはどんな場合に適用されるかというに――買主が任意に買う物を選んだとき適用されるのであるが,特に適用されるのは――買主が自分自身の判断を行使しうるし,また通常行使する特定物売買,例えば,絵とか,なかんずく馬などの売買である。(来栖三郎『契約法』(有斐閣・1974年)7779頁)
 

(3)馬齢及び歯に関して

 馬の齢は,馬の歯を調べれば分かるといいますから,隠れた瑕疵にもなるのかどうか。

 とはいえ,歯の話は,1797年3月当時,新旧のアメリカ合衆国大統領としては避けたかった話題でしょう。歯の弱かった初代大統領の最後の歯(左下の小臼歯)は1796年に抜かれてしまっており,大統領退任時のワシントンは既に歯の無い老人となっていました(see Chernow pp. 642, 644)。第2代大統領は,副大統領時代の1792年から歯槽膿漏を患って歯が抜けてしまうようになっており,発音も悪くなっていたところです(see Ferling p.319)。

 

4 「大統領の家」をめぐって

ところで,フィラデルフィアの「大統領の家」の所有者は,1795年3月,ロバート・モリスからアンドリュー・ケネディに代わっていました。

 

 1790年代の半ば,ワシントン大統領の居住中に,ロバート・モリスは,チェストナット,ウォルナット,七番及び八番の各ストリートに囲まれたブロックに建設を計画していた宏壮な邸宅のための費用を調達するために,彼のマーケット・ストリートの全不動産を売却した。「大統領の家」及び東側の林園 (wood yard) は,1795年3月にアンドリュー・ケネディに3万7000ドルで売却されたのである。ケネディは,裕福な商人であって,執行権の長の邸宅として当該不動産を市に対して賃貸することを継続した。(Lawler, Edward, Jr., The President’s House in Philadelphia: The Rediscovery of a Last Landmark (The Pennsylvania Magazine of History of Biography, January 2002 (Parts I&II)) Part II. 日本語は拙訳)

 

「売買は賃貸借を破る。」かどうかが問題となるところですが(我が国法では,売買が不動産賃貸借を破らないようにするためには,賃借権の登記をし(民法605条,不動産登記法3条8号・81条),建物所有目的の土地の賃貸借については土地の上に借地権者が登記されている建物を所有し(借地借家法10条1項),又は建物の賃貸借については建物の引き渡し(同法31条1項)をすることになります。),新しい所有者が現状維持を認めたのですから問題はなかったのでしょう。

フィラデルフィアは1800年にコロンビア特別区ワシントンに合衆国の首都が移転するまでの暫定首都とされていましたが,フィラデルフィア市当局は,合衆国の首都としての地位を恒久化すべく,同市の九番街に大統領用の邸宅を建造していました。

 

 ワシントンの第2の任期が終了するまでに,及び11万ドル以上の費用をかけた上で,九番街の大統領用邸宅が完成した。新しい建物は巨大だった。面積ではマーケット・ストリートの家屋の3倍以上,独立記念館 (Independence Hall) の2倍以上の大きさがあった。ペンシルヴァニア州知事は,当該邸宅の賃貸を,次期大統領に選出されたアダムズに対して,「フィラデルフィアにおいて他の適当な家屋を使用することが (obtain) できる額の賃料」であればよいと,いささか必死になって申し込んだ。アダムズは「合衆国憲法の素直な解釈からして,議会の意思及び権威の無いまま貴申込みを承諾する自由が私にあるのかどうか,大きな疑問を有しているところです・・・」と回答しつつ,申込みを拒絶した。当該大邸宅の占用――当該動きは,全国の首都にとどまることに係るフィラデルフィアの沈下しつつあるチャンスを回復させるものとなった可能性がある――をするように彼に加えられる圧力をおそらく増大させるためであろうが,市当局は,マーケット・ストリートの家屋の年間賃料額をペンシルヴァニア通貨1000ポンド(約2666ドル)に倍増させた。新大統領は頑張り,1797年3月半ばにはマーケット・ストリートの建物に移り住んだ。アダムズ一家の家事使用人団は,ワシントン一家のものよりも少人数であり,かつ,彼らの社交活動はより質素であったようである。(ワシントンは大統領在任中ほとんどの年において報酬額以上の出費をしていたところ,彼の後継者は報酬の15パーセント以上を貯蓄するようにやり繰りをした。)1790年の首都法 (Residence Act of 1790) 180012月の第1月曜日からコロンビア特別区が正式に全国の首都となるものとしていた。マサチューセッツの彼の農場に滞在後,アダムズは11月1日に新しい連邦市 (Federal City) に移転した。

 アダムズはフィラデルフィアの「大統領の家」を1800年5月遅くまで占用した。彼の退去後数週間で,当該家屋はジョン・フランシスに貸し出された。フランシスは,アダムズ及びジェファソンがそれぞれの副大統領時代に宿所にした滞在施設の所有者であり,それまでの「大統領の家」はフランシス・ユニオン・ホテルとなった。(Lawler Part II

 

なお,アンドリュー・ケネディは独身のまま1800年2月に死亡しており,前の「大統領の家」をホテル用にフランシスに貸し出したのはアンドリューの同胞(きょうだい)で相続人のアンソニーであったということになります(see Lawler Part II)。

フィラデルフィアは,当時は夏になるごとに黄熱病が流行していたそうですから,そもそも合衆国の恒久首都となる見込みは薄かったところです。

 さて,1797年3月9日に行われたフィラデルフィアの「大統領の家」からのワシントン一家の退去は,あまり見事ではなかったようです。ワシントン一家の退去後,アダムズ新大統領は「大統領の家」に入ったのですが・・・

 

 ・・・しかしながら,その優美さにかかわらず,当該邸宅はワシントン一家の出発後きちんと清掃されていなかったこと,及び前大統領の召使らが,酔いどれて,おそらく主人のポトマック河畔の邸宅〔マウント・ヴァーノン〕における厳しい労働の生活に戻る将来の悲観のゆえ,彼の新しい調度類のいくつかを損壊してしまっていることを発見したアダムズは,ショックを受けた。更にアダムズは,いくつかの部屋が小さな役に立たない小部屋に没論理的に分割されていることを見出した。したがって,広い家屋の一隅に落ち着きつつ,彼は,他の場所について小修繕がされるように指示をした。(Ferling p.336

 

ジョン・アダムズ夫人アビゲイルは1797年3月にはフィラデルフィアには未着であって,マサチューセッツ州から同市に到着したのは同年5月の中旬でした(Ferling p.346)。したがって,アビゲイルの意見はジョンからの伝聞に基づくもののように思われるのですが,ワシントン一家退去直後の「大統領の家」の状況について,アビゲイルの批評は殊更厳しかったとチェーナウは伝えます。

 

・・・執行権の長の邸宅がだらしのない状態にあることにぞっとしたとジョン及びアビゲイル・アダムズは主張した。特にアビゲイルは当該家屋を,「私が今まで聞いた中で (that I ever heard of) 最もスキャンダラスな,召使ら仲間による飲酒及び無秩序の現場」であるところの豚小屋 (pigsty) といってけなした。・・・(Chernow p.769

 

 

5 「大統領の家」におけるワシントン一家の家事使用人団に関して

 フィラデルフィアの「大統領の家」でワシントン一家に仕えていた召使らとは,アフリカ系奴隷やらドイツ系の年季奉公人やらだったようです。「ワシントンは大体20人から24人ほどの家事使用人団をフィラデルフィアにおいて維持していた――これらのうち,アフリカ系奴隷の数は,同市において職務を開始した直後の8名から最後の2ないしは3名へと推移した。」及び「アフリカ系奴隷の大部分は,ドイツ系の年季奉公人 (German indentured servants) に置き換えられた。」とあります(Lawler Part I)。ドイツ人は,das Täusche-Volkであるとともに,ビール等のお酒を飲むのが好きそうです。アフリカ系奴隷の一人,料理長のハーキュリーズは,1797年3月9日のワシントン一家フィラデルフィア退去の際に逃亡しています。

 

  ハーキュリーズは,1797年3月に自由に向けて逃亡した。伝えられるところによると,引退したばかりの大統領とその家族とがヴァジニアへ帰る旅行を開始した朝のことである。当該逃亡から1箇月たたないうちにルイ=フィリップ(後のフランス国王)がマウント・ヴァーノンを訪れた。彼の男性召使の一人がハーキュリーズの娘と言葉を交わし,「小さなお嬢ちゃんはお父さんと二度と会えなくなったことについてきっと深く動転しているのだろうと言ってみた。彼女は,とんでもありません,だんなさま,とても喜んでいます,だって父は今や自由なのですから,と答えた。」

  ワシントンの遺言の規定によって,ハーキュリーズは1801年に解放され,彼は逃亡奴隷ではなくなった。彼についてはそれ以上のことは知られていない。〔ハーキュリーズの子である〕リッチモンド,エヴェイ及びデリアは母を通じて寡婦産奴隷であり,奴隷のままでとどめおかれた。(Lawler, Edward, Jr., The President’s House in Philadelphia: The Rediscovery of a Last Landmark (The Pennsylvania Magazine of History of Biography, October 2005) Revisited

 

ハーキュリーズがフィラディフィアで謳歌した自由は,逃亡に向け彼を大胆ならしめる一方,ヴァジニアに帰るという将来像をより抑圧的なものに感じさせただけであっただろう。(Chernow p.762

 

アメリカ南部・ヴァジニア州のマウント・ヴァーノンは評判が悪く,ワシントンの大統領任期末期には,フィラデルフィアの家事使用人団の士気は頽廃していたということでしょうか。
 (
なお,マサチューセッツ人であるアダムズは,奴隷を所有していませんでした。)

料理長ハーキュリーズは逃亡したものの,アダムズから引取りを拒否された2頭の老馬は,ぽっくりぽっくり,フィラデルフィアからマウント・ヴァーノンへの陸路6日間の旅(see Chernow p.769)に同行したものでしょうか。まさか,泥酔した召使たちに食べられてしまっていたわけではないでしょう。

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マウント・ヴァーノン

 

6 古代ローマの奴隷所有者とアメリカ合衆国建国期の奴隷所有者

遺言で自分の奴隷(ただし,妻の寡婦産に属するものではありません。)を解放するなど,奴隷に対するワシントンの態度は,大カトーほどドライではなかったようです。

大カトーは「友人や同僚を饗応した時に,食事が終ると直ぐ,何事についても粗略な振舞をした給仕人や料理人を笞で懲らしめ」,「何か死罪に当るやうな事を犯したと思はれるものはすべての奴隷のゐるところで裁判に掛け,有罪と決まればこれを殺した」りしたようです(河野訳77頁。なお,Dryden訳によれば,有罪判決は奴隷仲間に出させしめたようです。)。

これに対して,ワシントンは,「通常は奴隷が鞭打たれることを許さなかったが,他の方法が尽きたときはときどき (sometimes) それを許した。「無精」かつ「怠惰」とマーサが認定したシャーロットという名の奴隷に係る1793年1月の一件は,その一例である。」といった具合にとどまり,「〔アメリカ独立〕戦争前にワシントンは,困った奴隷2名を西インド諸島に船で送り出した。同地においては,熱帯性気候のため,想定される余命は短かった。」程度であったそうではあります(Chernow p.640)。

 

7 時効管理

しかしながら,大カトーとワシントンと,どちらがより「せこい」かというと,むしろワシントンだったかもしれません。

 

1791年4月の初め,司法長官エドモンド・ランドルフがワシントン夫妻に驚くべきニュースを告げた。1780年のペンシルヴァニア法により,6箇月連続して同州〔当時のアメリカ合衆国の首都は同州のフィラデルフィア市にあったことは前記のとおりです。〕に居住する成人奴隷は自動的に自由民となるのであった。〔ヴァジニア出身の〕ランドルフ自身の奴隷のうち3名が,彼らの自由となる権利を行使する予定である旨通告してきていた。奇態なことであるが,合衆国の司法長官は,大統領及びファースト・レディに対して,当該現地法を潜脱 (evade) することを勧めた。どうしたらよいかと説明しつつ,彼が言うには,いったん奴隷がペンシルヴァニア州外に移出されて,それからまた移入されたのならば,時計の針は元に戻るのであって,それから彼らが自由民となることを請求することができるためには,また6箇月が経過しなければならないのであった。(Chernow p.637

 

 ランドルフ司法長官の「ニュース」とは,1780年の上記ペンシルヴァニア法(漸次奴隷制廃止法 Gradual Abolition Law)の適用除外対象を,連邦議会の議員及び彼らの奴隷の外(1780年当時には,連邦の行政府も司法府も存在していませんでした。),合衆国大統領,副大統領及び各省長官並びに合衆国最高裁判所判事と彼らの奴隷とに拡張しようというペンシルヴァニア州議会に1791年2月に提出された法案(連邦の首都がコロンビア特別区に更に移転することを阻止するために必要だという考えも同州においてはあったのでしょう。)が,ペンシルヴァニア奴隷制廃止協会(Pennsylvania Abolition Society)の強力な反対運動等によって同議会において否決されたことだったようです(see Lawler Revisited)。

 

  間違いが起きないように,ワシントンは,6箇月の制限期間が経過してしまわないうちに,彼の奴隷らを〔ペンシルヴァニア州外での〕短期間の滞在のためにマウント・ヴァーノンとの間で往復させるよう決定した。クリストファー・シールズ〔その後1799年9月に逃亡計画が発覚しましたが,同年1214日のワシントンの最期に立ち会うことになったワシントンの従者です(see Chernow p.801, 809)。〕,リッチモンド〔前記ハーキュリーズの息子。後に金を盗みますが,当該窃盗はハーキュリーズと共に逃亡する計画があったがゆえのようです(see Chernow p.763)。〕及びオネィ・ジャッジ〔ワシントン夫人マーサの女召使。1796年5月に逃亡し,ニュー・ハンプシャー州ポーツマスに居住(see Chernow p.759)。同州グリーンランドで1848年2月25日に死亡しましたが,1793年にワシントン大統領の署名した逃亡奴隷法の下で最後まで逃亡奴隷身分でした(see Lawler Revisited)。〕は未成年者であったので,皆,自由民身分の取得からは除外されていた。成人の奴隷を奴隷身分にとどめるために,ワシントンは様々な策略 (ruses) を用い,彼らがなぜ短期間家に帰されるのかが彼らに知られないようにした。彼がずばり言うには,「彼ら(すなわち奴隷ら)及び公衆双方を欺き (deceive) おおせるような口実でもって本件を処理したい。」ということであった〔1791年4月12日付けの秘書トビアス・リア宛書簡〕。これは,ジョージ・ワシントンによる密謀 (scheming) の稀有の例であり,マーサ・ワシントンとトビアス・リアとはその間彼との秘密の共謀関係にあった。(Chernow p.638

 

時効管理も大変です。

我が民法は,平成29年法律第44号によって一部改正されることになり,同法施行後の民法(以下「改正後民法」といいます。)からは,3年,2年又は1年の短期消滅時効に関する条項(民法170条から174条まで)は削除されます。「飲み屋のツケの消滅時効は1年」ということで有名な民法174条4号等も当該被削除条項に含まれますが,平成29年法律第44号の附則10条4項は同法の施行日前に債権が生じた場合(当該施行日以後に債権が生じた場合であって,その原因である法律行為が施行日前にされたときを含む。)におけるその債権の消滅時効の期間については,なお従前の例によるものとしています。平成29年法律第44号施行日の前夜には不良呑み助が酒場を徘徊して「最後の晩だからツケで飲ませろ。」と飲み屋の経営者らにせこく迷惑をかけまくるなどということがあるのでしょうか(法律行為が施行日前であればよいので,注文をして,「ヘーイ,承りましたぁ。」という返事が返ってきた時が正子前であればよいのでしょう。)。弁護士の職務に関する債権に係る短期消滅時効期間の規定(民法172条。同条1項は「弁護士・・・の職務に関する債権は,その原因となった事件が終了した時から2年間行使しないときは,消滅する。」)も削除されます。

現在の民法167条1項は「債権は,10年間行使しないときは,消滅する。」と規定していますが,改正後民法166条1項は次のように規定しています。

 

166条 債権は,次に掲げる場合には,時効によって消滅する。

 一 債権者が権利を行使することができることを知った時から5年間行使しないとき。

 二 権利を行使することができる時から10年間行使しないとき。

 

 商事消滅時効に係る商法522条(「商行為によって生じた債権は,この法律に別段の定めがある場合を除き,5年間行使しないときは,時効によって消滅する。ただし,他の法令に5年間より短い時効期間の定めがあるときは,その定めるところによる。」)も,民法の一部を改正する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律(平成29年法律第45号)3条によって削除されます。経過規定として同法4条7項は「施行日前にされた商行為によって生じた債権に係る消滅時効の期間については,なお従前の例による。」としています。

 不法行為による損害賠償の請求権は「被害者又はその法定代理人が損害及び加害者を知った時から3年間行使しないときは,時効によって消滅」しますが(民法724条前段),この消滅時効期間は,「人の生命又は身体を害する不法行為」については3年から5年に延ばされます(改正後民法724条の2)。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002  東京都渋谷区渋谷三丁目5-16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール: saitoh@taishi-wakaba.jp

 

民法改正への対応準備も重要です。

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1 1860年春のカリフォルニア州における福沢諭吉のワシントンの「子孫」問答

 福沢諭吉の『福翁自伝』(1899年)に,次の有名なくだりがあります。

 時は1860年3月18日(安政七年二月二十六日)ないしは5月9日(万延元年閏三月十九日),所はアメリカ合衆国カリフォルニア州(1848年3月メキシコから割譲。1850年9月州昇格)のサン・フランシスコ又はその近郊(咸臨丸の一行はサン・フランシスコ近傍メールアイランドの米国海軍港官舎に止宿)。

 

  ところで私がふと胸に浮んである人に聞いてみたのは,ほかでない,いまワシントンの子孫はどうなっているかと尋ねたところが,その人の言うに,ワシントンの子孫には女があるはずだ,いまどうしているか知らないが,なんでもだれかの内室になっている様子だと,いかにも冷淡な答でなんとも思っておらぬ。これは不思議だ。もちろん私もアメリカは共和国,大統領は4年交代ということは百も承知のことながら,ワシントンの子孫といえばたいへんな者に違いないと思うたのは,こっちの脳中には源頼朝,徳川家康というような考えがあってソレから割り出して聞いたところが,いまのとおりの答に驚いてこれは不思議と思うたことはいまでもよく覚えている。理学上のことについては少しも肝をつぶすということはなかったが,一方の社会上のことについては全く方角がつかなかった。(テキストは,慶応義塾創立百年記念版(1958年)104頁)

 

 これは質問がよろしくないです。日本人のアメリカ合衆国理解に,若干の不正確を生じさせたように思われる問答です。また,サン・フランシスコ(又はその近傍)の「ある人」も,親切なようでいて知ったかぶりはいけない。「いかにも冷淡」だったのは,知識が必ずしも十分ではなかったゆえでしょう。

 アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンには子どもが生まれませんでした。子どものいないワシントンの「子孫」について訊かれても,本来答えようがありません。

 

2 初代アメリカ合衆国大統領にとっての子の不在の意味

 実は,子どもがいなかったからこそ,ワシントンが初代大統領に選ばれたふしがあります。

 

  ワシントンが大統領になるべきだとの輿論は,彼の英雄的行動,彼の無私の愛国心及び戦時の統帥権を進んで返上した彼の意志から生じた。もう一つの――大きなものではないにしても――要因は,彼には見たところ生殖能力が欠けており(apparent sterility),かつ,子どもがいないことであった。このことは,彼は,神意によって,彼の国の国父(the Father of His Country)となるべき清浄なる地位(immaculate state)に定められているように思わせるものであった。1788年3月に「マサチューセッツ・センティネル」紙は,ワシントンを選出すべき理由を枚挙して掲載したが,その中には「息子がいない――したがって,世襲の後継者という危険に我々をさらすことがない」というものが含まれていた。このことは,諸君主が政略結婚を当然のこととし(routinely made dynastic marriages),また,欧州列強による新しい共和制政府の転覆を人々がおそれていた当時にあっては,もっともな懸念であった。ジョン・アダムズは,ジェファソンに対して,ワシントンが子どものいない大統領となることに覚えた安堵について述べている。「ワシントン将軍に娘がいたら,フランスかイングランドの王室,若しくはおそらく両方から,求婚されたものと私は堅く信じます。また,もし彼に息子がいたら,彼は花嫁さがしの旅にヨーロッパに招待されたことでしょう。」と。ワシントンに出馬を説得するため,彼に子どもがいない事実を示唆しつつ,グーヴェルヌール・モリスは茶目に言った。いわく,「あなたは三百万人を超える子どもらの父になるのですぞ。〔178812月6日付け書簡〕」(Chernow, Ron. Washington: a life. Penguin, 2010. pp.549-550

 

ワシントンに子どもができなかったのは,マーサ夫人に原因があったのか,ワシントン自身の若いころの病気によるものか,議論があるようです。

 

・・・この子どもの生まれなかった婚姻について説明する多くの仮説(theories)が提示された。マーサは,彼女の最後の子であるパッツィー(Martha Parke Custis)の分娩の際に傷害を負い,その後の出産が不可能になったのかもしれない。ジョージの若いころの天然痘又は他の病気が, 彼から生殖能力を奪ったのではないかと考える学者もいる。・・・(Chernow, p.103

 

 ワシントンと結婚した時(1759年1月6日),マーサ・ダンドリッジは二人の子持ちの富裕な未亡人でした(亡夫はDaniel Parke Custis)。二人の連れ子のうち,兄のジャッキー(John Parke Custis)は,178110月のヨークタウン戦に参加しますが陣中で病を得て翌11月に幼い3人の娘と一人の息子(George Washington Parke Custis)を残して死亡しました。妹のパッツィーは,てんかんに苦しんで早逝しています。

 
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ヴァジニア州マウント・ヴァーノンのワシントン邸
 

3 息子の不在と人妻:初期アメリカ合衆国大統領の妻子について

 

(1)息子の不在

どうもアメリカ合衆国大統領は,息子と縁のない人物が多いようです。福沢諭吉の渡米時までに2期8年を務め上げた大統領はワシントンのほか次の4名がいますが,みな男児には恵まれていません。

 第3代(18011809年)のジェファソンには娘はいましたが,アメリカ独立宣言起草後の9月にジェファソンがMonticelloの妻のもとに戻った時に懐胎され,1777年5月28日に生まれたただ一人の息子は,洗礼を受ける間もなく死亡してしまいました(Randall, Willard Sterne. Thomas Jefferson: a life. HarperPerennial, 1994 (H. Holt, 1993). pp.282, 305)。

第4代(1809年‐1817年)の虚弱なマディソンには子どもがありませんでした。

第5代(18171825年)のモンローの一人息子は夭折しています。

第7代(18291837年)の武闘派ジャクソンにも子どもがいませんでした。

 

(2)人妻ないしは未亡人

 ちなみにこれらの大統領は,5代目のモンローを除いて,人妻であった女性と結婚しています。

ジェファソン夫人もマーサですが,また未亡人でもありました(亡夫はBathhurst Skelton)。マディソン夫人のドリーも未亡人で(亡夫はJohn Todd),連れ子のジョン・ペイン(John Payne Todd)は浪費家となってマディソン家の頭痛の種になりました。ジャクソン夫人のレイチェルもジャクソンと婚姻する前から人妻でした(夫はLewis Robards)。文字どおりの人妻で,レイチェルに懸想しているジャクソンが「おれにこんな素敵な女房がいたら,かわいい瞳に涙を浮かべさせるようなことをわざわざしたりはしないぜ。」と言えば,「ほう,多分な・・・けれど,あの女はてめえの女房じゃないよ。」と亭主のロバーズが言い返すという西部劇的場面もテネシーはナッシュヴィルの街であったそうです(Meacham, Jon. American Lion. Random House, 2008. p.22)。ジャクソン夫妻は,妻の前夫との離婚が法的に完了する前に結婚してしまい,その後不倫・重婚の非難に悩まされることになりました。1828年の大統領選挙の時のネガティヴ・キャンペーンは大変なもので,心痛のレイチェル夫人は,ジャクソンの大統領当選後,ホワイト・ハウス入りすることなく亡くなりました。

 

4 福沢諭吉のワシントンの「子孫」架空問答

 

(1)ヴァジニア州編

 ところで,1860年の春,福沢諭吉が太平洋岸のカリフォルニア州ではなく,首都ワシントンに隣接する南部のヴァジニア州(アーリントン付近)にいたらどうだったでしょうか。

 

  ・・・私がふと胸に浮んである人に聞いてみたのは,ほかでない,いまワシントンの子孫はどうなっているかと尋ねたところが,その人の言うに,ワシントンにはそもそも子どもが生まれなかった,ただ内室の連れ子から,男児の孫が一人いて,それに女(むすめ)がある,その女がいまどうしているかといえば,メキシコとの戦争で手柄を立て,去年当州のハーパーズ・フェリーで黒人奴隷解放の叛乱の陰謀を粉砕した当州出身のロバート・リーという陸軍軍人の内室になっていると。なるほどワシントンの縁者だけあって武門の家柄のようだ。・・・

 

 ロバート・E・リー将軍は,1861年からの米国の南北戦争において,南軍の総司令官になる人物ですね。妻は前記のGeorge Washington Parke Custisの娘です。

 

(2)マサチューセッツ州編

 それではヴァジニア州ではなく,北東部ニュー・イングランドのマサチューセッツ州(ボストン近辺)だったらどうでしょうか。

 

  ・・・私がふと胸に浮んである人に聞いてみたのは,ほかでない,いまワシントンの子孫はどうなっているかと尋ねたところが,その人の言うに,ワシントンには子どもが生まれなかったと。こっちの脳中には源頼朝,徳川家康というような考えがあってソレから割り出して聞いたところがいかにも淡泊な答で拍子抜けだ。これは参った。そこで初代に子孫がいないのなら,2代目はどうかと聞いてみたところが,その人が嬉しそうに言うには,2代目大統領はアダムズというが,当地の出身で,その同名の長男は6代目の大統領になったと。6代目も今は亡くなったが,その息子も政事家であって,黒人奴隷の解放を主張する党派に属して大統領の札入れの際副大統領候補に推されたことがあり,現在は当地からの代議員としてワシントン府で公議に参与している,これもナカナカの人物だという。これは不思議だ。私は,アメリカは共和国,大統領は4年交代ということを承知していたが,アメリカでも大統領の子が大統領になるということで,いまのとおりの答に驚いてこれは不思議と思うたことはいまでもよく覚えている。理学上のことについては少しも肝をつぶすということはなかったが,一方の社会上のことについてはそれまで全く方角がつかなかったのだけれども,子は親に似て親の稼業を継ぐものであるということは不思議なことにやはり東西変わらぬものだと思うたわけだ。

 

2代目のジョン・アダムズと区別するため,6代目はジョン・クインジー・アダムズ又はジョン・Q・アダムズと表記されることになります(6代目はQですが,41代目H.Wの子の43代目はWですね。)。ジョン・クインジー・アダムズの人となりについては,「少年期から(あるいは外交官であった父に随行しあるいは単独で留学して)しばしばヨーロッパで生活し,アメリカに帰ってはハーヴァード大学を卒業し,11歳の時から名文で自己反省に満ちた日記をつけ,大統領となってからも早朝4時に起きて読書を楽しんでいた物静かで学究的」な人物であったと紹介されています(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)258頁)。

6代目大統領ジョン・Q・アダムズの息子で1860年当時マサチューセッツ州選出の連邦下院議員(1858年当選)をしていたのは,三男のチャールズ・フランシスです。チャールズ・フランシスが,奴隷制の新しい州への拡大に反対する自由土地党(Free Soil Party)から副大統領候補として,同党の大統領候補である元大統領(8代目)ヴァン・ビューレンと共に出馬したのは,1848年の大統領選挙です。チャールズ・フランシス・アダムズは,南北戦争中には,リンカン大統領に駐英公使に任命されて活躍しています(なお,祖父のジョン及び父のジョン・クインジーも駐英公使経験者でした。)。

 

5 米国における自然の貴族

 

(1)ジェファソン書簡

米国にも名家名門というものがあるのですね。4代目マディソン大統領時代の1813年,ジョン・クインジーの父にしてチャールズ・フランシスの祖父たる前々大統領ジョン・アダムズあての書簡(同年1028日付け)において,前大統領トーマス・ジェファソンは,自然の貴族(natural aristocracy)と人造の貴族(artificial aristocracy)に関して次のように論じています。

 

 ・・・というのは,私は,人々の間には自然の貴族がいるのだということについてあなたに同意するからです。徳と才と(virtue and talents)に基づくものです。・・・また,徳も才もないのではあるが,富と家柄と(wealth and birth)に基づいた人造の貴族もいます。・・・社会の教化,信託及び統治のため,自然の貴族は,自然の与える最も貴重な賜物であると思います。・・・政府の官職にこれら自然の貴族たち(natural aristoi)をこそ選任するために最も効果的な方策を講じた政府の形体が最善のものであるとまで,我々は言わないものでしょうか。人造の貴族は,政府にとって有害な分子であって,その進出を抑える方策が講じられるべきです。何が最善の方策かという問題においては,あなたと私の意見は分かれます。・・・あなたは,擬似貴族(pseudo-aristoi)を立法府の一院に置くのが最善だと考えています。そこでは,彼らの策謀は他の部門(co-ordinate branches)によって妨げられるのでしょうし,また,彼らは人民の多数による土地分配的かつ収奪的な試みに対する富のための防壁となるのでしょう。私の方は,彼らの策謀を抑えるために彼らに権力を与えることは,そのために彼らを武装させるものであり,害悪を匡正するのではなくかえって増大させるものだと考えます。というのは,他の部門が彼らの行動を停止させることができるのならば,彼らも他の部門に対して同じことができるだろうからです。策謀は,積極的にのみならず,消極的にも行い得るものです。このことについては,合衆国元老院(Senate)における一徒党が多くの証拠を提供しています。富者を守るために必要だとも思われません。すなわち,彼らのうちから十分な数の者が,彼ら自身を守るため,立法府の全ての部門に入り込むことだろうからです。・・・最善の解決策は,正に全ての我々の憲法において講じられているところのものであると考えます。すなわち,市民に,自由な選挙及び擬似貴族からの貴族のより分け,小麦のもみ殻からのより分けを委ねることです。一般的に,彼らは真に善い者及び賢い者を選ぶものです。時には富が彼らを腐敗させ,家柄が彼らの目を曇らせることがあるでしょう。しかしながら,社会を危険に陥らせるほどのものではありません。

  私たちの意見の相違は,ある程度は,我々の住む地域の人々の性格の相違に由来するものでもあるようです。私自身がマサチューセッツ及びコネチカットで見たところ,並びに更に私が聞いたところ,及び両州についてよりよく御存じのあなたが御自身の著作において示された前者の性格によりますと,これらの両州においてはいくつかの名家に対する伝統的な崇敬(traditionary reverence)があるようで,それによって政府の官職がこれらの名家にとって世襲のものに近いものになっているようです。あなたがたの歴史の初期の段階から,たまたまこれらの名家の人々は徳と才との所有者であって,人民の利益のためにそれらを公正に行使し,そして彼らの奉仕によって彼らの家名を人民にとって親しいものにしたものであると想像します。・・・しかしながら,あなたがたのもとにおけるこの官職の世襲的継承は,ある程度は真の一族の実力に基づくものでしょうが,より多くは,あなたがたのもとにおける政教の緊密な協調関係(your strict alliance of Church and State)に由来するものです。それらの名家は,人民の見るところにあっては,「あなたが私を掻き,私はあなたを掻いてあげよう。」との共通原則において列聖されているのです。我々のヴァジニアにあっては,そのようなことは全くありません。革命前,我々の聖職者たちは,固定給によって競争者から保護されていて,人民に対する影響力を獲得しようとする努力をしませんでした。富については,イングランドの継嗣限定法の下,世代から世代に受け継がれて特定の家への大きな集中が存在していました。しかしながら,富裕者の唯一の野心の目標は,政府の参議会(King’s Council)における議席でした。彼らは王冠とその取り巻きの機嫌ばかり伺っていました。・・・したがって,彼らは不人気でした。そして,その不人気は彼らの家名になおも付着しています。・・・独立宣言後最初に開かれた我々の議会の会期においては,継嗣限定法を廃止する法律を制定しました。長子の特権を廃止するとともに無遺言被相続人の土地を全ての子又は他の相続人に平等に分割するものとする法律が続きました。私自身によって起草されたこれらの法律は,擬似貴族(pseudo-aristocracy)の根本に大なたをふるったものです。そして,私の準備したもう一つの法案が議会によって採択されていれば,我々の仕事は完了していたところでした。それは,より全般的に知識を広めるための法案でした。・・・各学区に読み書き及び基礎的な算数のための無料の学校を設立するようにします。これらの学校から最優秀の生徒を毎年選抜するようにし,それらの生徒は公費でより高等な教育を地区の学校で受けることができるようにします。そして,これらの地区学校から,一定数の最も前途有望な生徒を選ぶようにし,全ての有益な科学が教授される大学において学業を完了させるようにします。このようにして,あらゆる境遇の中から,ふさわしい者及び天才が探し出され,公共の信託をめぐる競争において富と家柄とに基づく競争者を打ち倒すべく教育によって完全に準備されるのです。・・・聖職貴族(aristocracy of the clergy)を押さえ付けることによってこのシステムの一部をなすとともに市民に精神の自由を回復させた信教自由法並びに市民間の条件の平等を促進する継嗣限定及び不動産相続に関する各法律。この教育に関する法律は,人民大衆を,彼ら自身の安全及び秩序ある統治のために必要な道徳的立派さの高みにまで向上させるはずのものであって,偽者(pseudalists)を排除し,統治の信託のために真の貴族を選び得る資質を彼らに備えさせるという大目標を完結させるはずのものでありました。・・・

 貴族というもの(aristocracy)については,我々は更に次のことを考えなければなりません。すなわち,アメリカ各邦の成立前には,歴史において,狭く又は混雑した境界内にあくせくし,そのような環境がもたらす悪習に染まった旧世界の人間しか知られていなかったということです。そのような連中に適合する政府というものは一つあります。しかし,我らが各州の人間に適合する政府とは非常に異なったものです。こちらにおいては,そう望めば,だれもがそこで自らのために働くべき土地を取得することができます。また,他の仕事をするのが好みであれば,相当の生活(comfortable subsistence)ができるのみならず仕事をやめた老後に備えることもできるだけの収入をそこから得ることができます。全ての人が,彼の財産ないしは満足すべき境遇からして,法と秩序との擁護に利益を有しています。そして,そのような人々は,安全かつ有益に,彼らの公共事務に係る堅実な監理並びに,ヨーロッパの都市のごろつきどもの手に落ちたならば公私にわたる全てのものの解体及び破壊に直ちに変ぜられてしまうこととなるところの高度の自由までを自ら保持することができるのです。過去25年間のフランスの歴史及び過去40年,否,過去二百年間のアメリカの歴史は,この観察の双方の真実を証明してくれます。

 しかし,ヨーロッパでも,目立って人間の精神に変化が生じています。科学が,読みかつ考える人たちの考え方を解放し,アメリカの範例が,人民の権利の感情を喚起しました。続いて,軽蔑されるようになった地位及び家柄に対する,科学,才能及び勇気の叛乱が始まりました。それは,最初の試みにおいては失敗しました。というのは,その達成のために使われた道具たる都市の群衆(mobs)は,無知,貧困及び悪習によって堕落しており,理性的な行動の枠内にとどめることができなかったからです。しかしながら,世界はこの最初の惨害の恐慌から回復するでしょう。科学は進歩しつつあり,才能と企業心は覚醒しています。かれらの節操及び従順からしてより統御可能な勢力であるところの地方人民に対する働きかけがされることでしょう。そして,地位及び家柄並びに虚飾の貴族制度(tinsel-aristocracy)は,かの地においても小さなものとなって最終的に意義薄きものとなるでしょう。しかしながら,このことには,我々は介入する権利を有しておりません。我々にとっては,不忠実なしもべが企む策謀が取り返しのつかない段階に進む前に彼を取り除くことができるように短い期間を置いて行われるものとされた選挙制度の下,我々自身の市民の精神的及び物質的な条件(moral and physical condition)が,彼らを彼らの政府の運営のために有能かつ善良な者を選ぶことができるものと資格づけるものであれば,十分です。

私はこのようにして,我々の意見が相違する点について私の意見を申し述べましたが,これは論争のためではありません。研究及び思索に過ごした長い人生の結果である意見を変えるには,我々は齢を取り過ぎているからです。あなたの以前のお手紙にあった,我々は我々自身をお互いに説明する前には死ぬべきではない,との御提案に従った次第です。・・・

 

 181310月といえば,同月16日からのライプツィヒにおける「諸国民の戦いVölkerschlacht」でナポレオンは敗れ,フランス第一帝政は既に終末期となっていました。しかし,この段階ではジェファソンも,フランス革命は失敗だったと認めていたのですね。ワシントン政権内におけるアレグザンダー・ハミルトンとの抗争の際には,ジェファソンはフランス革命を支持していたはずであり,1792年に王政が廃止されて共和国となり過激化するフランス革命について,「全地上の自由は,この抗争の結果いかんにかかっていたのです。そして,このように貴重な獲得物が,かつてこれほど少ない無辜の血によってあがなわれたことがあったでしょうか。」,「かの地における停滞は,他の諸国における自由の回復を遅らせるでしょう。私は,彼らの政府の確立とその成功とを,我々自身の政府を支持し,かつ,それが英国的国制なる中途半端なものへ転落することを防ぐために必要なものであるとみなしています。」と言って弁護していたのですが(1793年1月3日付けWilliam Shortあて書簡。Randall, p.512)。

 
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ジェファソンを創立者とするヴァジニア大学 (ヴァジニア州シャーロッツヴィル)
 

(2)ジョン・アダムズ家の場合

 ジョン・アダムズの長男の第6代アメリカ合衆国大統領ジョン・クインジーは,徳と才とに満ちた自然の貴族(natural aristocrat)だったのでしょう。ところでそれでは,ジョン・クインジーの二人の弟たちはどのような人物だったのでしょうか。

 次男のチャールズは,十代の半ばには既に両親の心配の種で,ハーヴァード大学の学部学生時代にはアルコール中毒(母方に,アルコール中毒で若くして死んだおじがいました。)の兆候を示しており,更に独立戦争の功労者ながら同性愛者であると見られていたフォン・シュトイベン将軍とニュー・ヨークで同居するなど一般的ならざる性癖を示していたようです(Ferling, John. John Adams: a life. Oxford University Press, 2010 (The University of Tennessee Press, 1992), pp.322-323)。1792年には弁護士業を始めましたが,結局アルコール中毒で肝臓を壊し,父のジョンが大統領選挙でジェファソンのリパブリカン党に敗れた年である1800年の1130日に30歳で死亡しました。チャールズの死の前年の秋,回復不能のダメ人間になっていた次男をニュー・ヨークで見たアダムズ大統領は激怒し,「放蕩者」,「けだもの」,「悪魔に取りつかれた狂人」とののしり,もう二度と会わないし,かかわりも持たないと宣言して,結局そのとおりとなってしまっています(Ferling, p.386)。

 「幸せなワシントン!子どもがないのは幸せだ!」「私の子どもたちは,私の敵全体からよりも多くの苦痛を私に与える。」とは,妻アビゲイルへの書簡中におけるジョン・アダムズの嘆きです(Ferling, p.388)。

 三男のトーマス・ボイルストンも弁護士になりましたが,結局当該稼業は好きになれず,フィラデルフィアからマサチューセッツの地元に移って「青い悪魔」と自ら呼んだ憂鬱の発作に悩まされるようになりました。33歳で結婚し,それから偉大な親のプレッシャーを感じてマサチューセッツ州議会議員となりますが,1年もたたないうちに辞任しています。彼をも蝕むようになったアルコール中毒に関係があるようです。(Ferling, pp.420-42118181028日に母アビゲイルが亡くなった後,父の住むピースフィールド(マサチューセッツ州クインジーにある1788年からのアダムズ邸)に妻と6人の子どもと共に移って来ますが,それには,老父を介助するという目的だけではなく,経済的な理由もあったところです。長兄のジョン・クインジーはワシントンでモンロー政権の国務長官になっていましたが,トーマス・ボイルストンはアルコール中毒が進み,頼りない初老の男になっていました。父の元大統領は,次男チャールズに係る辛い思い出のゆえか,三男のアルコール中毒にかかわることから逃げています。(Ferling, p.438

 

 酒は恐ろしく,子育ては難しい。

 

6 再び福沢諭吉

 

(1)酒

 ところで,酒といえば,我らが福沢諭吉先生も大変なものでした。『福翁自伝』にいわく。

 

  ・・・そもそも私の酒癖は,年齢の次第に成長するにしたがって飲み覚え飲み慣れたというでなくして,生まれたまま物心のできたときから自然に好きでした。いまに記憶していることを申せば,幼少のころ月代をそるとき頭のぼんのくぼをそると痛いからいやがる。スルトそってくれる母が「酒をたべさせるからここをそらせろ」というその酒が飲みたさばかりに,痛いのをがまんして泣かずにそらしていたことは,かすかに覚えています。天性の悪癖,まことに恥ずべきことです。・・・(慶応義塾創立百年記念版48頁)

  ・・・年25歳のとき江戸に来て以来,嚢中も少し暖かになって酒を買うくらいのことはできるようになったから,勉強のかたわら飲むことを第一の楽しみにして,朋友の家に行けば飲み,知る人が来ればスグに酒を命じて,客に勧めるよりも主人の方がうれしがって飲むというようなわけで,朝でも昼でも晩でも時をきらわずよくも飲みました。(同293頁)

 

しかしながら,福沢諭吉は,32ないし33歳のころ,節酒を決意し,3年ほどかけて成功します。健康な人物です。

 

 ・・・支那人が阿片をやめるようなものでずいぶん苦しいが,まず第一に朝酒を廃し,しばらくして次に昼酒を禁じたが,客のあるときはやはり客来を名にして飲んでいたのを,ようやくがまんして,のちにはその客ばかりにすすめて自分は一杯も飲まぬことにして,これだけはどうやらこうやら首尾よくできて,サア今度は晩酌の一段になって,その全廃はとても行われないから,そろそろ量を減ずることにしようと方針を定め,口では飲みたい,心では許さず,口と心と相反してけんかをするように争いながら,次第次第に減量して,やや穏やかになるまでには3年もかかりました・・・私が生涯鯨飲の全盛はおよそ10年間と思われる。その後酒量は減ずるばかりで増すことはない。初めの間はみずから制するようにしていたが,自然に減じて飲みたくも飲めなくなったのは,道徳上の謹慎というよりも年齢老却のせいでしょう。・・・(同293頁)

 

(2)子どもの教育

 さて,子どもの教育は,自然の貴族たるべく厳しくしつけるべきかどうか。

 

  ・・・長男一太郎と次男捨次郎と両人を帝国大学の予備門に入れて修学させていたところが,とかく胃が悪くなる,ソレカラ宅に呼び返していろいろ手当すると次第によくなる。よくなるからまた入れるとまた悪くなる。とうとう3度入れて3度失敗した。・・・なにぶんらちがあかず,子供は相変わらず3ヵ月やっておけば3ヵ月引かしておかなければならぬというようなわけで,なんとしても予備門の修業に堪えず,私もついに断念してしもうて,それからこちらの塾(慶応義塾なり)に入れて普通の学科を卒業させて,アメリカにやって,かの大学校の世話になりました。・・・なんとしてもからだが大事だと思います。(『福翁自伝』慶応義塾創立百年記念版269頁)

 

 優しいお父さんでよかったですね。

まずは独立自尊。

「心身の独立を全うし,自ら其身を尊重して,人たるの品位を辱めざるもの,之を独立自尊の人と云ふ。」ですね(修身要領第2条『福沢諭吉選集第3巻』(岩波書店・1980年)293頁)。自然の貴族となるまでの無理はしなくともよいのでしょう。

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1 リップ・ヴァン・ウィンクル

 米国の小説家ワシントン・アーヴィングに“Rip van Winkle”という作品があります。18世紀,北アメリカはハドソン川流域のオランダ系植民者の村に住んでいたリップ・ヴァン・ウィンクルを主人公とした物語です。森鷗外による邦題は,『新浦島』。

アメリカ独立革命が起こる前のこと,怖い奥さんを苦手とするリップが,難を避け,いつも仲間とその前のベンチにたむろして駄弁っていた旅館には「ジョージ3世陛下の血色のよい肖像(a rubicund portrait of His Majesty George III)」が目印の看板として掲げられていました。ところが,リップがうっかりキャッツキルの山中に入って一眠りして20年を過ごしてしまってから村に戻って来た時には,その間に建て替えられた旅館の看板に依然として描かれてある赤々とした顔(ruby face of King George)はかつてと同じようであっても,赤い袍は青と淡黄褐色のコートに変わっていて,手は笏の代わりに剣を持っており,頭には三角帽,そして看板の下部には大きな文字で「ワシントン将軍(GENERAL WASHINGTON)」と書いてありました・・・というようなお話です。

 

2 ジョージ3世

 ところでリップの村の旅館の看板になっていたアメリカ独立革命時の英国及び北米13植民地の王であったジョージ3世とは,どのような人だったのでしょうか。

 

ジョージ3世は,〔ドイツから来たハノーヴァー朝の〕先代のジョージ1世や2世と異なり,イギリスで生まれ,イギリス風の教育を受けた生粋のイギリス人で,母からつねに「ジョージよ,王者たれ」とはげまされ,テューターのボリングブルックから「愛国王の思想」を吹きこまれていた。ジョージ3世は王権の回復をめざし,ウォルポール以来の議会政治を変更しようと試みたが,ステュアート朝の諸王のような絶対君主たらんとしたわけではない。ただ曽祖父〔ジョージ1世〕や祖父〔ジョージ2世〕が失った権力をとりかえして,ウィリアム3世〔名誉革命で即位した王〕の昔に帰り,一政党,一党派ではなく,あらゆる政党,党派のベストメンバーをすぐって王に奉仕させようとしたにとどまる。王は,「王の側近(キングス‐フレンド)」を中心として親政を行ない,「君臨すれども統治せず」の原則に暗影を投じたが,アメリカの植民地の独立やアイルランド問題などで失敗した。そして1783年,24歳の青年小ピットが首相の地位につくにおよび,議会政治がふたたび回復にむかったのである。(大野真弓『世界の歴史8絶対君主と人民』(中央公論社・1961年)475476頁)

 

  1760年に即位したジョージ3世は,国王が自らCabinetに臨み,行政権の首長として行動するという体制を復活しようとした。ビュート(Earl of Bute; John Stuart)がPrime Minister176263年,ノース(Frederick North)がPrime Minister177082年と,ジョージ3世は国王親政を試みる。

  ・・・

  もしジョージ3世がその統治に成功していれば,あるいは,国王が名実ともに行政権の首長であるという体制が〔英国に〕一時復活したかもしれない。しかし彼は,アメリカ植民地問題をかかえて,結局その処理に失敗し,アメリカの独立を招いた。この失敗がどこまで国王個人に帰せられるべきかは,はっきりしないが,失敗したという事実は決定的である。また,ジョージ3世の政治指導力が,例えば〔その孫の〕ヴィクトリア女王などに比べれば劣っていることは否めまい。また彼が,1765年,178889年,180304年と精神病にかかったことも,その指導力を低下させたに違いない。(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)143頁)

 

 アメリカ独立宣言では暴君呼ばわりされていて,ややお気の毒な王様です。

 

3 トーマス・ジェファソン

これに対して,ジョージ3世の当該悪口をアメリカ独立宣言に書き連ね,かつ,同王治下の英国が大嫌いであったトーマス・ジェファソンの人柄は,どのようなものだったのでしょうか。

 ジェファソン(5セント玉)の宿命の政敵であったワシントン政権の元財務長官アレグザンダー・ハミルトン(10ドル札)が,ジェファソンが第3代大統領に当選した1801年の米国大統領選挙(連邦議会下院における投票にまでもつれ込んだもの)の際,フェデラリスト党の仲間であるJ.A.Bayardあてに同年1月16日付けで書いた書簡にいわく。

 

 ・・・恐らく私が最初に,自分の不人気と引換えにジェファソンの正体(true character)をあばいたわけですから,今更彼の弁護人(apologist)になるのには遅過ぎますし,その気にもなれません。私は,彼の政見(politics)には狂信(fanaticism)の気味があること,彼がその民衆政治論(democracy)において大真面目に過ぎること,彼は我らが今までの政権〔初代ワシントン及び第2代ジョン・アダムズ政権〕の主要政策に対して有害な敵(mischevoussic enemy)であったこと,彼はその目的のためには狡猾かつ執拗(crafty & persevering)であること,彼は成功のためには手段を選ばない(not scrupulous)こと,彼は真実を必ずしも尊重しないこと(not very mindful of truth),そして彼は見下げ果てた偽善者(contemptible hypocrite)であることを認めます。・・・

 

なかなか取り柄がなさそうです。しかし,不幸中の幸い,その悪さには限界があるようです。

 

・・・彼は,私の知る他の人間と同様に俗物的です(to temporize)――何が彼自身の評判を高め,彼の有利に働くだろうかを計算するわけです。そして,このような気質から想定される結果は,当初は反対したとはいえ,いったん出来上がった以上は,それを試みる者に対する危険なしにはそれを覆し得ないところの諸制度の維持ということになります。私の思うところでは,J氏の性格の正確な衡量からは,暴力的なシステムというよりは妥協的なシステム(a temporizing rather than a violent system)を期待することが保障されるところです。・・・彼が腐敗させられ得るとの考えを支持すべき相当な理由はない(no fair reason)ということもつけ加えましょう。このことは,彼はある一定の限度を越えることはないということの保証になります。・・・

 

 同じくハミルトンの18001226日付けG.Morrisあて書簡には次のとおり。

 

 ・・・この世界において私が憎むべき者がいるならば,それは,ジェファソンです。・・・

 

というのは,ジェファソンは,「宗教においては無神論者(Atheist),政治においては狂信者(Fanatic)」だったからでしょう(A.ハミルトン・同年5月7日付けJ.Jayあて書簡)。「無神論者」は,米国では負の評価を帯びた由々しい言葉です。

自分と同じくヴァジニア出身である国務長官ジェファソンと独立戦争における有能な副官であった財務長官ハミルトン(こちらはカリブ海出身)との不仲は,初代大統領ジョージ・ワシントンにとって心痛の種でした。両者の和解の勧試がされたものの,両雄は並び立ちません。

 

・・・私〔ハミルトン〕は,ジェファソン氏が同氏の現在の職〔国務長官〕に就くためにニュー・ヨーク市〔アメリカ合衆国の最初の首都〕に来着した当初〔1790年〕から,私が同氏からの変わることなき妨害(uniform opposition)の対象であったことを知っています。最も信頼の置ける情報源から,私がしばしば当該方面からの意地悪なささやき(most unkind whispers)やあてこすりの対象とされていたことを知らされています。私は,彼の後援の下に私を失脚させようとして形成された党派〔Republicans又はDemocratic-Republicans。ただし,現在の共和党の前身ではなく,民主党の前身〕が,立法府に存在しているのを見てきました。私の手元にある証拠からして,〔ワシントン政権を攻撃する〕ナショナル・ガゼット紙が政治的目的のために彼によって設立されたこと,並びに同紙の主要目的の一つが,私及び私の省が関係する政策のすべてが可能な限りいとわしいものとして認識されるようにすることであったことを疑うことはできません。・・・(A.ハミルトン・1792年9月9日付けG.ワシントンあて書簡)

 

 ハミルトンの言い分ばかり伝えるのは不公平でしょうか。とはいえ筆者には,ハミルトンについては格別の思い出があります。

 初めて米国に渡った時,同国のお札に肖像が出ている人物中,ベンジャミン・フランクリン(100ドル札),グラント(50ドル札),ジャクソン(20ドル),リンカン(5ドル)及びワシントン(1ドル)は何者だか分かっていても(フランクリン,リンカン及びワシントンについては我が国に子供向けの伝記もあって周知。グラントは,南北戦争の北軍の有名な司令官であって後に大統領になったということで記憶がありました(なお,グラントは実は尖閣諸島問題にもからむ人のようです。)。ジャクソンについては,山川の高校世界史の教科書に「ジャクソニアン・デモクラシー」ということが書かれていて,これは大学受験勉強的には何やら重要なのであろうという認識がありました。まあ,ジャクソンは,簡単にいえばOKの人なのですが。),しかし10ドル札のハミルトンというのが分からない。大統領でもないのになぜお札に顔が出ているのか。田舎の街の雑貨用品店で,他にお客もいないようなので,レジの中年女性に,10ドル札を出しながら,それまでなかなか通じず苦労した下手な英語で図々しく“Who is he?”と訊いてみたところ,怪しい東洋人の妙な質問でありながらも親切にも理解してくれて,

 

 “Ooh, Alexander Hamilton. Our first Secretary of the Treasury!”

  (うーん,アレグザンダー・ハミルトン。初代の財務長官ね。)

 

 とのご名答。

 アメリカの女性は偉いものだ,と思ったことです。

 
U. Grant
こちらは,第18代アメリカ合衆国大統領ユーリシーズ・
Sグラント(東京都台東区上野公園)


4 ジョージ3世vs.ジェファソン

 この性格の悪いジェファソンが,北米独立13邦の駐仏公使として,ロンドンで「暴君」ジョージ3世に接見せられたことがあります。1786年3月17日,セント・ジェイムズ宮殿における接見会でのことでした。35年後のジェファソンの自伝にいわく。

 

  例によって私が接見会(levees)に国王及び王妃に伺候したところ,アダムズ氏〔当時の駐英公使〕及び私を見た彼らの態度ほど不快(ungracious)なものはなかった。私は,このラバ的生物(mulish being)の狭隘な精神に生じている潰瘍からして,私の伺候からは何も期待できないことを直ちに了知した。(Randall, W.S. Thomas Jefferson: a life. New York; HarperPerennial, 1994. P.412

 

分かりにくいのですが,どうも,駐英公使アダムズが接見会において駐仏公使ジェファソンをジョージ3世及びシャルロット王妃に紹介して両公使がお辞儀をしたところ,王及び王妃はつと玉座から立ち上がって両者に背を向け,満座の外交団の前で北アメリカ13邦を代表する両閣下(しかも両者とも将来の合衆国大統領)に恥をかかせた,ということのようです(Randall, p.413)。

しかし,極めて几帳面なジョン・アダムズ自身がこの時のことを書いておらず,また,シャルロット王妃はジョージ3世の接見会には臨席しない仕来りだったようで,上記の話には疑わしいところがあります。つまり,実際のところは違うようです。すなわち,ジョージ3世の接見会は,弧状に並んだ外交官たちの前を,お付き二人を従えただけの国王が,その右側に立つ各国外交官と短い会話を交わしながら歩いて行くという格式張らない形式のものであって,華麗なヴェルサイユ宮殿の儀式に慣れたジェファソンとしては興ざめし,かつ,ジョージ3世もジェファソンとは特に話すべき話題はなかったので(さすがにアメリカ独立宣言の内容について「あれはひどいね」と議論するわけにはいかなかったでしょう。)さっさと次の外交官との会話に移ってしまったということだったようです。英国の歴史家Ritchesonによれば,ジョージ3世自身は,公の場で横柄な態度をとること(public rudeness)は国王のすべきこととは考えていなかったようで,また,「彼の親しみやすさ,礼儀正しさ,打ち解けやすさ並びに小咄,お上手及び冗談の種を豊富に持っていることは称賛されていた。」とのことでありました。(以上,Randall, p.413

ジェファソンとしてはジョージ3世に馬鹿にされたように感じたのかもしれませんが,確かに,ハミルトンによれば,ジェファソンは「真実を必ずしも尊重しない」人物でありました。

 

5 二人のジョージ

ジェファソンにかかるとラバ並みの扱いですが,ジョージ3世は,むしろ公正な人物であったように思われます。

パリ条約(1783年)後の北米13邦からの初代駐英公使であるアダムズ(彼もアメリカ独立宣言起草委員の一人でしたね。)の英国国王による接受(1785年)は,「アダムズにとって感動的な経験(moving experience)であった」そうです。「かつての叛臣であるアダムズは,神経質に震える声で,今や連合13邦は英国との友誼を求めている旨言上した。国王は,アメリカの離脱を押しとどめることはできなかったが,今やそれがなされてしまった以上,彼も同様に友好関係を望むと答えた。会見は短かった。ジョージ3世は,堅苦しくお辞儀をして,アダムズに下がってよい旨を伝えた。当該使節は外交儀礼に従い3度お辞儀をし,おぼつかなく後ずさりして接受の間から引き下がった。直後のロンドン・クロニクル紙は「ジョン・アダムズ閣下は,極めて丁重に(most graciously)接受された。」と報道した。」ということです(Ferling, John. John Adams: a life.  New York; Oxford University Press, 2010. p.280)。「うわさ好きの外交団の間では,アダムズが信任状を捧呈した後,アダムズを歓迎するに当たって国王の目には涙があり,そして,胸がいっばいであるとの様子であったとの話までが伝えられた。」ともいわれています(Randall, p.412)。

ジョージ3世は,ジョージ・ワシントンの偉大さを,率直に評価していました。

北アメリカ出身の宮廷画家ベンジャミン・ウェストとの間での会話。

 

・・・ある日,国王〔ジョージ3世〕はウェストに対し,〔アメリカ独立〕戦争が終わったときにワシントンは軍の最高司令官になるのか国家元首になるのかどちらかと訊いた。ワシントンの唯一の望みは自分の地所に戻ることだとウェストが答えると,雷に撃たれたようになって国王は叫んだ。「もし彼がそうするとなると,彼は世界で最も偉大な男だということになる。」と。(Chernow, Ron. Washington: a life. New York; Penguin, 2010. P.454

 

その後,ワシントンが2期8年をもって合衆国の大統領を辞するに当たってのジョージ3世の総括。

 

・・・最初は統帥権を,そして今,統治権を返上することによって,彼は「現代最大の偉人」として屹立した,とジョージ3世は言ったと伝えられている(By giving up first military and now political power, he stood out as “the greatest character of the age” according to George III)。彼は,かつての敵を,遅ればせながら評価するようになっていた。・・・(Chernow, p.757

 

 ジョージ3世にとって,ジョージ・ワシントンはやはり格別の存在だったのです。

 

・・・〔1789年〕2月末には二人のジョージの奇妙に対照的な運命は更に一層奇妙なものになったところであって,パリからグーヴェルヌール・モリスが,王の狂気の思いがけぬ進行について報告してきた。「ところで」と彼はワシントンに書いた。「哀れなイングランド国王が陥った悲しむべき情況についてなのですが,あなたとの関係で私が聞いたところによりますと,何やら妙なことがあったようです。」狂気の発作の中で――モリスが書くには――王は「自分のことを,何とだれあろう,アメリカ軍の先頭に立つジョージ・ワシントンだと思っていたのです。つまりあなたは,彼のはらわたに一番ひどくわだかまっている何やらをやったのだったというわけですね。」妄想は一過性のものであった。1789年4月23日,すなわちジョージ・ワシントンが群衆の歓呼の中で大統領に就任する精確に1週間前に,ジョージ3世は奇跡的に譫妄状態から回復し,ロンドンのセント・ポール教会では感謝の儀式が執り行われた。彼は,稀な遺伝性疾患であるporphyria(ポルフィリン症。20世紀になるまでは正確に診断することができなかった。)を患っていたのではないかとの仮説が提出されている。・・・(Chernow, p .570

 

 ジョージ3世とジョージ・ワシントンとを区別することが難しかったのは,リップ・ヴァン・ウィンクルばかりではなかったわけです。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所(弊事務所の鈴木宏昌弁護士が,週刊ダイヤモンドで辣腕弁護士として紹介されました。)

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ヨークタウン戦勝塔(Yorktown, VA)

1 はじめに

 米国といえば民主主義(democracy)の本家本元で,君主制(monarchy)とは氷炭相容れぬ国柄であるとされています。

 しかしながら,アメリカの建国期においては,実はデモクラシーは理想政体にそぐわないものと考えられており,君主制も全く支持者がいないわけではありませんでした。

 


2 ワシントンを国王に推戴する動き

君主制論者の間では,アメリカ独立戦争を実質的に終結させたヨークタウンの戦いの勝利者ジョージ・ワシントン将軍を新生アメリカの王にしようという動きがありました。

その一例としては,1782522日に大陸軍のルイス・ニコラ大佐からワシントンにあてて送られた書簡があります。当該書簡の中で,ニコラ大佐は,アメリカ諸邦の脆弱,さらには連合会議(178131日に連合規約(The Articles of Confederation)が発効しましたので,それ以降のCongressは,大陸会議ではなく,連合会議と訳すことにします。)の無能ゆえの大陸軍の窮乏について痛憤し,「専制と君主制とを同一視してしまい,両者を分けて考えることが困難になっている人々がいますが・・・しかし,いったん他の事項がしかるべく手当てされれば,王の称号を認めるべきことを推し進める強い議論を提出することができるものと信じます。」と論じて,ワシントンを国王とする政体構想を提示しました。イギリスのKing George IIIの退場の次は,アメリカのKing George Iの登場というわけです。

この書簡に恐慌したワシントンは,同日直ちに回答を発出します。

 



・・・よって貴官に依頼する。貴官にして,国家に対する顧慮,貴官自身若しくは貴官の子孫に対する配慮又は本職に対する敬意を幾分なりとも有せられるものであるならば,かかる思いつきを貴官の思考から排除せられたい。

 


 ワシントンは,ニコラ大佐あての当該回答に封がされ,発送されたことを副官らに確認させるほどの念の入れようでした(これは,弁護士業においてはおなじみの,内容証明郵便物の取扱いですね。)。

 ニコラ大佐は慌てて総司令官にわびを入れました。

(以上Ron Chernow, Washington: a life, p.428参照)

 


 王になろうという野心があると思われたら,カエサルのように暗殺されてしまう,という恐怖があったものでもありましょう。あるいはワシントンの脳裡には,印紙税反対運動において若きパトリック・ヘンリーがヴァジニア植民地議会でした1765年演説に係る次の有名な場面が浮かんでいたかもしれません。

 



○パトリック・ヘンリー君
 ・・・

タルクィニウス及びカエサルには各々彼のブルートゥスあり,チャールズ1世には彼のクロムウェルあり,しかしてジョージ3世に・・・

○議長(ジョン・ロビンソン君) 大逆ですぞ,大逆ですぞ。

(「大逆だ,大逆だ」と呼ぶ者あり。議場騒然)

○パトリック・ヘンリー君 ・・・おかせられては,叡慮をもってこれらの前例をよろしくかんがみられんことを。もしこれをもして大逆であるとせば,よろしくこれを善用せられたし。

 


 さすがはパトリック・ヘンリー弁護士,うまいものです。

 なお,王政ローマ最後の王であるタルクィニウスは当時のブルートゥスらによって追放され,カエサルは暗殺され,チャールズ1世は清教徒革命で処刑され,アメリカ独立革命期のイギリス国王であったジョージ3世は精神病に倒れました。恐ろしいことです。 

 


3 「君主制論者」ハミルトンとワシントン政権

 


(1)ワシントン政権と「君主制」

 ニコラ大佐による君主制構想を直ちに否認抹殺し,17831224日にはメリーランド邦アナポリスにおいて連合会議に大陸軍最高司令官職の任命書を恭しく返上して,王位への野心など全く無いことを示すことに常に努めたワシントンですが,1789年発足のアメリカ合衆国連邦政府の初代ワシントン政権は,底意において君主制を目指しているのではないかとなお疑われ,また,非難され続けました。

 アメリカ独立戦争中はワシントン総司令官の副官を務め,また,178110月のヨークタウンの戦いでは同月14日の夜襲でイギリス軍の第10堡塁(Redoubt No.10)を攻め落とし,その後ワシントン大統領の下,初代財務長官に任命されて実質的な首相格として政権を切り盛りしたアレグザンダー・ハミルトンの政策と思想とのゆえでしょう。

 


(2)ハミルトンの君主制論

 17875月から9月までフィラデルフィアで開催され,現行のアメリカ合衆国憲法を起草した憲法会議(Constitutional Convention)(議長・ワシントン)において,ニュー・ヨーク邦代表の若きハミルトン弁護士(1755111日生まれの32歳。ただし,本人は1757年生まれだと思っていたようでもあります。)は,1787618日,5ないしは6時間に及ぶ長い演説をし,その中で彼の君主政観を展開しています。すなわち,そこにおいてハミルトンは,イギリスの君主政体を最善のものとして賛美し,終身制の大統領(ただし,ハミルトンの原案では,President”ではなく “Governor”の語が用いられています。)制度の導入を提唱したところです。秘密会であったとはいえ,大胆な演説であって(ニュー・ヨーク邦代表団の会議対処方針とは全く異なる。),ハミルトンが後々まで君主制主義者(monarchist)であるとの厳しい批判を受ける一因となりました。

 ニュー・ヨーク邦代表のロバート・イェイツによる記録(イェイツはハミルトンと政見を異にしていましたが,こちらの方が,コンパクトです。)を基に,ヴァジニア邦代表でありこの時点ではハミルトンの協力者であったジェイムズ・マディソンの詳細な記録(斜字体)で適宜補い,また適宜改行しつつ,当該演説の当該部分を御紹介しましょう(The Library of AmericaAlexander Hamilton Writingsによる。)。

 



・・・

 しかし,白状しますと,ふさわしい人物を共同体(the Community)の周辺部から中央にまで集めることは非常に難しいことです。例えば,財産もあり能力もある紳士諸氏を,その家庭と仕事とから離れさせて,毎年,長期間にわたって参集させるものは,何でありましょうか。報酬ではあり得ません。予想するに,その額は小さいものであろうからです。3ドルかそれぐらいがせいぜいでしょう。したがって,権力は,少額の手当又は立身の望みのために候補者として自ら名乗り出る煽動政治屋(demagogue)又は凡庸な政治家の手に帰してしまい,重みと影響力のある真の人物は地元にとどまって邦政府の力を増し加えるということにはならないでしょうか。

私は,どうしたらよいのか途方に暮れています。共和政体(a republican form of government)が,これらの難点を取り除くことができるとは思い得ない(despair)ところです。広大な領域において(over so great an extent)共和政体(a Republican Govt.)は樹立され得ないのではないでしょうか。私の意見はともあれ,しかしながら,当該政体〔註・共和政体〕を変更することは賢明ではないものと思います。

私の信ずるところでは,英国の政府(the British government)が,世界にこれまであったものの中で最も優れたモデルとなっています。そこまで立派なものでなくとも,アメリカではうまく行くなどということは,はなはだ疑わしいことです。多くの人の心の中に広まりつつ,この真理は徐々にその地歩を固めています。かつては,連合会議の権限は,制度目的達成のために十分なものであると考えられていました。現在,その誤りは,すべての人の目に映るところです。私の見るところ,共和主義の最も強固な支持者も,民主主義の悪(the vices of democracy)を他の人々に負けず声高にあげつらっています。公衆の認識のこの進歩は,他の人々も私と同様に,ネッケル氏〔註・フランス国王ルイ16世の財務総監〕によって英国の国制(British Constitution)に捧げられた称賛に賛同されるようになる時が来るということを私に期待させてくれます。すなわち,英国の政府は,「公共の力(public strength)と個人の安全(individual security)とを統一する」世界で唯一の政府なのであります。この政府の目的は,公共の力及び個人の安全です。このことは我々においては達成できないといわれていますが,もし,いったん成立すれば,それは自らを維持していくものでしょう。

産業の進んだ(where industry is encouraged)すべての共同体は,少数者と多数者とに分かれます。前者は豊かで生まれが良い者たち(the rich and well born)で,後者は人民の集団(the mass of the people)です。そこから異なった利害が生じます。債務者,債権者等が現れます。すべての権力を多数者に与えると,彼らは少数者を抑圧します。民の声は天の声といわれておりますが,いかに広くこの格言が引用され,かつ,信じられているとしても,事実においては正しくはありません。人民は動揺し,変心します(turbulent and changing)。彼らが正しく判断し,正しく決定することはめったにありません。他方,少数者にすべての権力を与えると,彼らは多数者を抑圧します。したがって,相互に相手方から自らを守るために,両者とも権力を有するものとすべきです。・・・英国人は,彼らのすぐれた国制(Constitution)によって,適切な調整を行っています。貴族院(house of Lords)は,最も貴い制度です。変化によって望むものはなく,財産を通じて十分な利害を有しており,国益に忠実であることによって,彼らは,国王(Crown)の側から試みられるものにせよ庶民院(Commons)の側から試みられるものにせよ,あらゆる有害な変革に対する恒久的な防壁をなしています。したがって,第1の人々〔註・少数者〕に,政府における画然とした,恒久的な位置(a distinct, permanent share in the government)を与えなければなりません。彼らは第2の人々〔註・多数者〕に係る不安定(unsteadiness)を抑制するでしょうし,彼らは変化から何らの利益を受け得ることもないので,したがって,善き統治(good government)を永く維持し続けるでしょう。毎年人民の集団の中で展開される民衆集会(a democratic assembly)が公共善(the public good)を追求するということが確かなものとして考えられるでしょうか。恒久的な団体(a permanent body)のみが,民衆支配の軽率(imprudence of democracy)を抑制することができるのです。彼らの動揺し,かつ,無規律(uncontrouling sic)な性向は,抑制されなければなりません。

短い任期の上院は,この目的に応じた十分な強靭さを持ちません。ニュー・ヨークの上院は,4年の任期で選任されていますが,十分有効なものではありません(inefficient)。ヴァジニア代表の提案に従って,7年継続するものならばよいのでしょうか。随分言及されるところの多いように見受けられる(メリーランドの)上院〔註・同邦の上院は,選挙民は選挙人団を選ぶ間接選挙制に基づくものであった。〕は,いまだ十分に試験されているものではありません。紙幣発行が求められた最近の要求において,人民が一致団結し真剣であったのなら,彼らは奔流に流されていたことでしょう〔註・メリーランド邦の上院は,同邦代議院からの紙幣発行法案を178512月及び178612月の2度にわたって否決していました。〕。・・・紳士諸氏は上院に必要な強靭さを与えるには7年が十分な期間だと考えていますが,民衆心理(democratic spirit)の驚くべき暴威と激動とを適切に考慮していないからです。民衆の情熱をわしづかみにする政治の重大問題が追求されるとき,その情熱は野火のように拡がり,抵抗できないものとなります。私は,ニュー・イングランド諸邦からの紳士諸氏に,かの地における経験が今申し上げたことを証明するものでないのかどうかお尋ねしたい〔註・ニュー・イングランドでは,増税及び農地差押えに対するマサチューセッツ邦西部の農民の抗議運動から,シェイズの反乱(17869月から17872月まで)が発生していました(首謀者ダニエル・シェイズ大尉はアメリカ独立戦争参加者)。〕

よき執行部(a good executive)は,民主的な構成をもって(upon a democratic plan)〔共和的原則に基づいて(on Republican principles)設けられ得るものではないということは,認められているところです。英国の執行権者の素晴らしさ(the excellency of the British executive)を御覧いただきたい。この問題については,イギリスのモデル(the English model)が唯一結構なものなのであります。彼は誘惑から超然としています。彼は公共の福祉とは別の利害を有していません。国王の世襲の利害は,国民(the Nation)のそれと十分結びつき,彼の個人的収入は十分大きいので,海外勢力から腐敗させられるという危険から超然としているのです。――また同時に,国内の制度目的にこたえるために,十分独立しており(sufficiently independent),かつ,十分規制されています(sufficiently controuled)このような執行権者でなければすべて不十分です。共和政体(a republican government)の弱点は,外国勢力からの影響力の危険性です。第一等の人物たちをその維持のために動員するようにできていない限り,このことは不可避です。小人物(men of little character)は,大きな権力を得ると,簡単に隣国の干渉勢力の手先になってしまいます。したがって,私は,全国政府(general government)を支持するものですが,共和制の原則(republican principles)については,最広義のところまでおし進めたいと思うものです。我々は,共和制の原則が許す限り,安定及び永続性(stability and permanency)を求めて進むべきであります。

 立法府のうち一院は,罪過なき限りの間(during good behaviour),又は終身を任期とする議員によって構成されるものとしましょう。

 その権限を断行し得る(…dares execute his powers)一人の終身の執行権者が任命されるものとしましょう。

 私は,最良の市民たちの奉仕を確保するためのものとして,7年の任期が,公的任務の受諾に伴う私的生活の犠牲を受け容れさせるものであるのかどうか,御出席の代表者の方々の御感想をお尋ねしたいのです。この案〔註・ハミルトン案〕によってこそ,元老院に,本質的目的にこたえるべき恒久的な意思,重要な利害の代表(a permanent will, a weighty interest),を確保することができるのです。

 これは共和制(a republican system)なのか,と問われるかもしれませんが,厳密にいって,そうであります,政府のすべての高官(all the Magistrates)が人民によって,又は人民に由来する選挙で選ばれる限りは。

 更に言わせていただけば,人民の自由にとって,執行権者は,終身その職にあるときの方が7年の任期であるときよりも危険が少ないものであります。7年任期制案では,私は,執行権者にはわずかな権力のみを与えるべきだと思います。彼は,手下となる者を調達する手段を持った野心家でありましょう。そして,彼の野心の目的は,権力をより長く握ることでしょうから,戦争のときには,その地位からの降格を避け,又はそれを拒絶するために,緊急事態であることを恐らく濫用するでしょう。終身執行権者の場合は,忠誠を忘却させるこのような動機を持たないものであって,したがって,権力を委ねるためにはより安全な機関なのであります。

 これは選挙君主制(an elective monarchy)である,といわれるかもしれません。ああ,君主制とは何でしょうか。「君主」とは定義のはっきりしない用語であるものとお答えしましょう。権力の大きさ又は権力を握る期間の長さのいずれを示すものでもありません。もし,この執行長官(Executive Magistrate)が終身君主であるのなら――当会議の全体委員会の報告書によって提案されたものは七年君主ということになります。選挙制であるという事情はともに両者に当てはまるところです。各邦の知事は,そのようなものとして見られ得ないでしょうか。しかし,執行権者が弾劾制度に服せしめられていますので,君主制の語は当てはまり得ません。

賢明な著述家たちは,競争者たちの野心及び策謀によって惹起される動乱(tumults)に対する防止策が講ぜられるのならば,選挙君主制は最良のものであろうと述べています。私は,動乱が,避けることのできない欠点であるものと確言するものではありません。選挙君主制のこの性格論は,むしろ,一般的な原則からというよりは,特定の事例から由来しているものと思います。選挙制君主は,ローマにおいて動乱を引き起こしましたし,ポーランドにおいても同様に平和に対して危険を与えています。ローマ皇帝は,軍隊によって選挙されたところです。ポーランドにおいては,独立した権力,及び騒動を起こすための十分な手段を持った,互いに競争関係にある大貴族たち(princes)によって選挙が行われます。ドイツ帝国〔註・神聖ローマ帝国〕では,密謀集団及び党派を使嗾する同様の動機及び手段を有する選帝侯及び諸侯によって任命が行われています。しかし,このことは,私が選挙について提案するところの方法については当てはまり得ません。執行権者を選挙する選挙人が各邦において任命されるものとしましょう――

(ここで,H氏は,写しがここに添付されているところの彼の案を取り出した。)

・・・執行権者(the executive)は,すべての法律に対して拒否権を持つものとする――元老院の助言により和戦のことを決する(to make war or peace)――彼らの助言により条約を締結する,しかしすべての軍事行動に係る単一の統帥権を有する(to have the sole direction of all military operations),並びに大使を派遣し,及びすべての軍士官を任命する,並びにすべて罪過を犯した者(国家反逆罪を犯した者を除く。ただし,元老院の助言があるときはこの限りでない。)に対する赦免権を有する。彼の死亡又は罷免の場合には,後継者が選挙されるまで,元老院議長(president of the senate)が,同一の権限を持つ代行者となる。最高の司法官らは執行権者及び元老院によって任命される。・・・

 ・・・

 ・・・しかし,人民は,徐々に政府に係る彼らの意見において成熟しつつあります――彼らは,民主政の行き過ぎ(an excess of democracy)に倦み始めています〔,連合(the Union)は分裂しつつあり,又は既に分裂しているものと私は観察します――人民をその民主政体志向(fondness for democracies)から治癒させることになるところの諸悪が,諸邦において猖獗している様子が私には観察されるところです〕――ヴァジニア案であっても,しかし,依然としてソースが少々変わっただけの豚料理であります〔註・憲法会議に提出された憲法構想のうち,ニュー・ジャージー案は既存の連合規約の改正にとどまっていたのに対して,ヴァジニア案は各邦の上に,執行部門,立法部門及び司法部門を有する全国政府を設けることを提案していました。しかし,ヴァジニア案であっても,ハミルトンの過激案に比べればまだ生ぬるいということです。〕。

 


 共和主義(republicanism)が理想として掲げられているのですが,democracy, democratic等民主主義関係用語は否定的な意味で使われています。

 共和政体(gouvernement républicain)と民主政(démocratie)との関係を,当時読まれていたモンテスキューの『法の精神』における分類学でもって説明すると,共和政(république)のうち,人民団(le peuple en corps)が主権を持つものが民主政,人民のうちの一部分が主権を持つものが貴族政(aristocratie)ということになります(第1編第2章第2節)。共和制を主張しつつ民主主義を排斥する者は貴族政主義者,ということになるようです。なお,モンテスキューの分類では,共和政体と対立するのはいずれも一人が統治する政体である君主政体(gouvernement monarchique)及び専制政体(gouvernement despotique)であって,君主政体では法による支配がされるが,専制政体では法によらず,統治者の意思ないしは恣意による支配がされるものと定義されています(第1編第2章第1節)。

 ギリシャ・ローマの古典古代の例が念頭にあったでしょう。(デモクラシーの前例としてアメリカ合衆国を持ち出すわけにはまだいきません。)

ローマも領域が大きくなって,共和政から君主政に移行しました。古代ギリシャで外国からの干渉といえば,ペルシャ帝国からのそれが問題であったでしょう。

なお,ハミルトンが称賛したジョージ3世治下のイギリスの政体における統帥権の所在は,一応,国務大臣輔弼の外に独立していたもののようです。すなわち,1932年の『統帥参考』には,英国における統帥権の位置付けの推移について,「「チャールス」2世ハ国務大臣以外ニ特別ナル軍令機関(「セクレタリー・アット・ワー」)ヲ設ケテ統帥権ノ独立ヲ保障シ更ニ1793年ニハ国王直属ノ総司令官ヲ設ケテ軍隊内部ノ組織,軍ノ規律,指揮運用ニ関スル権限ヲ附与シ国務大臣ト対立セル軍令機関ト為シタリ」とあります(『統帥綱領・統帥参考』(偕行社・1962年)45頁)。(ちなみに,ジョージ3世は,アメリカ独立戦争中は精神病を発症しておらず,1788年から翌年にかけてはそうだったものの,1793年は大丈夫だった時期であるようです。)ただし,その後は,「然ルニ民権ノ伸張,議会政治ノ発達ハ国王ノ軍令権ヲ圧迫蚕食シ1854年従来国王ニ直属シ国務大臣ヨリ独立セル総司令官ヲ国務大臣ノ監督下ニ置クコトニ改メ次テ1870年ノ改革ニ於テ軍令機関タル総司令官ハ陸軍大臣ノ隷下ニ入リ茲ニ現今ノ制度ノ基礎確立シタルナリ」ということになりました(『統帥綱領・統帥参考』5頁)。

 


4 エスマン中尉とハミルトン財務長官

 さて,三つ子の魂百までとやら。人と同様に国も,生まれたころの性格を後々まで引きずるものなのでしょうか。

知米派の日本人の方々がどう言われるのかは分かりませんが,日本国憲法起草時のGHQ民政局内で展開された議論において,強い執行権者を求めた27歳のエスマン中尉の姿が,何やらアメリカ合衆国憲法起草時に選挙制君主的な執行権者を求めた32歳のハミルトン弁護士の面影を宿していたように思われます。(そもそも,連合規約を改正すると言ってアメリカ合衆国憲法を起草してしまった手妻のような手口と,大日本帝国憲法の改正を求めつつ,日本国憲法の草案を起草してしまった仕事ぶりとは,何だかよく似ていますね。)

 それはともかく,元々はイギリス流立憲君主制論者であったハミルトン初代財務長官が,時代を超えてトルーマン政権の国務長官であったのなら,伊東巳代治が『憲法義解』を訳した “Commentaries on the Constitution of the Empire of Japan”を読んでも,それほど機嫌が悪くはならず,時代に合わせた立憲君主制の改善のための大日本帝国憲法の改正はあっても,新しい日本国憲法の制定がされるということまでにはならなかったのではないかとも空想されます。

 とはいえ,国務省はハミルトンにとって鬼門です。

 ワシントン政権内で,初代国務長官ジェファソンは,政見において真っ向からハミルトンと対立します。例えば,ハミルトンが執行権の強化を目指せば,ジェファソンは議会の権限や州権を重視するという具合です。両者の対立は,やがてハミルトンらのフェデラリスト党とジェファソン=マディソンらのリパブリカン党という二つの党派及び両者間の抗争を生むに至ります。(なお,系譜的にはジェファソンの党が現在のアメリカ民主党につながるのですが,前記のとおり,アメリカの建国当初は“democratic”はよい意味の言葉では必ずしもなかったところです。リパブリカン党への悪口として, Democraticリパブリカン党と言われるようになり, 後にリパブリカンが落ちたものです。アメリカ合衆国憲法4条で連邦が各州に保障しているのは,共和政体(a Republican Form of Government)であって,民主政体(a Democratic Form of Government)ではありません。)

こうしてみると,日本国憲法における内閣の章の規定をめぐるエスマン中尉とハッシー中佐との対立も,米国の知識人の間における建国以来の政治思想の対立を反映していたものと思えなくはありません。

 


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イギリス軍第10堡塁(Yorktown, VA) 


 


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1 また『この国のかたち』から

 司馬遼太郎の『この国のかたち』を読むと,統帥権の独立の制度については,1908年の制度改正が画期であったとされています。




 参謀本部にもその成長歴があって,当初は陸軍の作戦に関する機関として,法体制のなかで謙虚に活動した。

 日露戦争がおわり,明治41年(1908年),関係条例が大きく改正され,内閣どころか陸軍大臣からも独立する機関になった。やがて参謀本部は“統帥権”という超憲法的な思想(明治憲法が三権分立である以上,統帥権は超憲法的である)をもつにいたる・・・(司馬遼太郎「3 “雑貨屋”の帝国主義」『この国のかたち 一』)

 

 明治憲法はりっぱに三権分立の憲法で,三権に統帥権は入らない。

 が,やがてこの憲法思想外の権がガン細胞のように内閣から独立し(1908年),昭和10年以後はあらゆる国家機関を超越する権能を示しはじめた。このことへいたる情念の歴史として,前記の正成の劇的情景〔楠木正成湊川出陣決定御前会議〕がある。(司馬遼太郎「5 正成と諭吉」『この国のかたち 一』)

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 (皇居前広場楠木正成像)

 上記の各文章によれば,1908年の参謀本部条例の改正によって,それまで内閣及び陸軍大臣に属していた参謀本部が,新たにこれらの機関から独立することになったということのようです。



2 参謀本部条例の1908年改定の前と後




(1)1908年改定前後の参謀本部条例

 190812月の改正前後の新旧参謀本部条例を見てみましょう。

 まずは,新参謀本部条例。




朕参謀本部条例ヲ改定シ之カ施行ヲ命ス

 御 名 御 璽

  明治411218日〔官報・同月19日〕

     陸軍大臣 子爵 寺内正毅

軍令陸第19

   参謀本部条例

第1条 参謀本部ハ国防及用兵ノ事ヲ掌ル所トス

第2条 参謀総長ハ陸軍大将若ハ陸軍中将ヲ以テ親補シ 天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル計画ヲ掌リ参謀本部ヲ統轄ス

第3条 参謀総長ハ参謀ノ職ニ在ル陸軍将校ヲ統督シ其ノ教育ニ任シ陸軍大学校及陸地測量部ヲ管轄ス

第4条 参謀次長ハ参謀総長ヲ輔佐シ本部一切ノ事務整理ニ任ス

第5条 参謀本部部長ハ参謀総長ノ命ヲ承ケ課長以下ヲ指揮シ其ノ主務ヲ掌理ス

第6条 参謀本部ノ編制ハ別ニ定ムル所ニ拠ル

第7条 参謀本部ニ於ケル服務規則ハ参謀総長之ヲ定ム



 なるほど,第2条で参謀総長は「天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画」するとありますから,天皇直属であって,内閣からも陸軍大臣からも独立しているわけです。

 司馬遼太郎によれば,当該規定は,1908年の改定前の旧参謀本部条例にはなかったということでしょう。旧参謀本部条例(1905年の第4条改正後のもの)は,次のとおり。




朕参謀本部条例ノ改正ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 御 名 御 璽

  明治32年1月14日〔官報・同月16日〕

     内閣総理大臣 侯爵 山縣有朋

     陸軍大臣 子爵 桂太郎

勅令第6号

   参謀本部条例

第1条 参謀本部ハ国防及用兵ノ事ヲ掌ル所トス

第2条 参謀総長ハ陸軍大将若クハ陸軍中将ヲ以テ親補シ

 天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル一切ノ計画ヲ掌リ又参謀本部ヲ統轄ス

第3条 参謀総長ハ国防ノ計画及用兵ニ関スル命令ヲ立案シ

 親裁ノ後之ヲ陸軍大臣ニ移ス

第4条 参謀総長ハ陸軍参謀将校ヲ統督シ其教育ヲ監視シ陸軍大学校,陸地測量部,陸軍文庫並在外国大使館附及公使館附陸軍武官ヲ統轄ス

第5条 参謀本部次長ハ陸軍中将若クハ陸軍少将ヲ以テ之ニ補シ参謀総長ヲ輔佐シ本部一切ノ事務整理ニ任ス

第6条 参謀本部ノ編制ハ別ニ定ムル所ニ拠ル



おやおや,ほとんど同じですね。特に新旧条例各2条の「参謀総長ハ・・・天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ」は,全く同一です。



(2)1878年の参謀本部条例と統帥権の独立

実は,参謀本部の独立は,187812月5日の参謀本部条例(右大臣岩倉具視から参謀本部あて「其部条例別冊ノ通被定候条此旨相達候事」との達)によって既に達成されていたのでした。




・・・従来の参謀局は陸軍省に隷属し,参謀局長は陸軍卿に隷してゐたけれども,参謀本部は陸軍省より独立し,本部長は天皇の「帷幕ノ機務ニ参画スルヲ司トル」〔
1878年参謀本部条例2条〕ところの最高の統帥機関となつたのである。即ち参謀本部長は統帥権に関する天皇の幕僚長として「軍中ノ機務,戦略上ノ動静,進軍,駐軍,転軍ノ令,行軍路程ノ規,運輸ノ方法,軍隊ノ発差等,其軍令ニ関スル者」を管知し,之を「参画シ,親裁ノ後直ニ之ヲ陸軍卿ニ下シテ施行セシム」〔同5条〕るものであり,又「戦時ニ在テハ凡テ軍令ニ関スルモノ,親裁ノ後直ニ之ヲ監軍部長,若クハ特命司令将官ニ下ス」〔同6条〕ものである。従つて参謀本部長は,統帥権に関する最高の輔弼機関である関係上,軍政に於ける陸軍卿の地位にあるのではなくて,寧ろ其の上の太政大臣〔三条実美〕に相等する地位に在るものである。何となれば陸軍卿は直接天皇輔弼の責に任ずるものではなく,それは専ら太政官の三職〔太政大臣・左右大臣・参議〕,就中太政大臣にあつたからである。換言すれば参謀本部長の権限は,従来の陸軍卿及び太政大臣の権限より統帥権に関する部分を独立せしめたものといふことが出来る。従つて参謀本部長の地位は,陸軍卿に優越するものと解せられるのである。

 かくして陸軍に在つては,明治11年に於て名実共に統帥部の独立が実現したのである。・・・(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)227228頁)



3 勅令から軍令へ

 さて,それでは,司馬遼太郎は1908年の参謀本部条例のどこに注目して警鐘を鳴らしたのでしょうか。

 法形式と副署者に注目しましょう。

 1899年の参謀本部条例は,勅令であって,内閣総理大臣及び陸軍大臣が副署しています。

 これに対して,1908年の参謀本部条例は,軍令であって,副署者は陸軍大臣だけです。



(1)勅令

 勅令は,「旧憲法時代,天皇によって制定された法形式の一つで,天皇の権能に属する事項(皇室の事務及び統帥の事務を除く。)について抽象的な法規を定立する場合に用いられた法形式」です(前田正道編『ワークブック法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)49頁)。美濃部達吉は次のように説明しています。

 


・・・〔公文式(明治
19年勅令第1号)〕は,等しく天皇の勅定したまふ国家の意思表示の中に,法律と勅令との2種の形式を区別したのであるが,併し憲法実施までは,法律と勅令とは唯名称だけの区別で,何等法律上の意義ある区別ではなかつた。憲法の実施に依りて,それは単に名称だけの区別ではなく,(1)その制定手続に於いて,(2)その規定し得べき内容に於いて,(3)及びその効力に於いて相異なるものとなつたのである。(1)制定手続に於いては,法律は議会の議決を経て定められ,勅令はその議決を経ずして定められる。(2)内容に於いては,法律は原則として如何なる事項でも定むることが出来るが,勅令は唯憲法上限られた事項だけを定むることができる。(3)効力に於いては,法律は勅令の上に在り,法律を以ては勅令を変更することが出来るが,勅令を以ては法律を変更することは出来ない。(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)168169頁)

 ・・・勅令が他の国務上の詔勅と区別せらるゝ所以は,勅令は国民に向つて法規を定めることを主たる目的とすることに在る。固より勅令を以て規定せらるゝ所が常に法規のみに限るといふのではない。行政命令〔「電信規則・電話規則・各種の学校令・鉄道乗車規程の如く,全然国民の権利義務に付いての規律を定むるものではなく,唯人民が自己の自由意思を以て之を利用するに付いての条件たるに止まる」もの〕の性質を有するものが,勅令を以て定めらるゝものは甚だ多いけれども,その主たる目的とする所が,法規を定むるに在ることは疑を容れぬ所である。・・・(美濃部・235頁,232頁)



(2)軍令及びその誕生




ア 軍令

 軍令は,軍令に関する件(明治40911日軍令第1号。同令には題名なし。件名をもって,軍令に関する件と呼ばれています。)の第1条において,「陸海軍ノ統帥ニ関シ勅定ヲ経タル規程ハ之ヲ軍令トス」と定められていたものです。(なお,軍令に関する件の官報掲載日は1907912日ですが,上諭の日付は同月11日であって,同令4条は「軍令ハ別段ノ施行時期ヲ定ムルモノノ外直ニ之ヲ施行ス」と規定しています。)「統帥権の作用として定めらるゝ命令」であって,「国務上の命令ではない」ものであり,「唯統帥権に服する者即ち平時に於いては唯軍人に対してのみ効力を有するもので,一般の人民に対して効力を有するものではない」ものです(美濃部261頁)。「軍隊内部の命令たるに止まるのであるから,国の法令に牴触することを得ないのは勿論」です(同)。公布によって初めて「以て臣民遵行の効力を生ず」る(『憲法義解』)法規とは異なり,軍令は正式に公布されませんでした(軍令に関する件2条参照)。「公示」を要する軍令は,官報で公示されました(同令3条)。「故らに公布なる文字を用ひないのは,軍令は勅令と其の性質を同じくせざることを示し,以て軍令を特殊の勅令と認むるが如き嫌ひを避けたもの」と考えられています(山崎248頁)。

 「予算に影響を及ぼさない限度に於いて,軍隊の内部の編制を定むるの権」は「内部的編制権」であり,内部的編制権は,美濃部においても大日本帝国憲法11条(「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」)の統帥権の範囲内にあるものとされていました(美濃部259頁)。参謀本部条例は,統帥権の一環たる内部的編制権の発動により参謀本部の構成について天皇が定める規程であるから,1908年の参謀本部条例については軍令の形式が採られたということでしょう。



イ 軍令の誕生

 それでは,1899年の参謀本部条例はなぜ軍令の形式ではなく,勅令の形式で定められたのでしょうか。理由は簡単です。軍令の形式は,1907年の明治40年軍令第1号によって初めてできたものであって,それ以前には軍令の形式は存在しておらず,当該形式の採りようがなかったからです。



(ア)公式令制定に伴う内閣総理大臣の副署対象の全勅令への拡大

 それでは更に,なぜ1907年9月に軍令という形式が定められたのでしょうか。これは,同年2月1日から施行されていた公式令(明治40年勅令第6号)7条2項の規定が原因です。勅令に係る国務大臣の副署(大日本帝国憲法552項「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」)については,それまでの公文式3条が「法律及一般ノ行政ニ係ル勅令ハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ主任大臣ト倶ニ之ニ副署ス其各省専任ノ事務ニ属スルモノハ主任大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス」と規定していて,各省専任の事務に属する勅令については内閣総理大臣の副署を要さず主任の国務大臣の副署だけで足りるものとしていたのに対して,新しい公式令7条2項は,「〔勅令〕ノ上諭ニハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ国務各大臣若ハ主任ノ国務大臣ト倶ニ之ニ副署ス」と規定し,各省専任の事務に属する勅令をも含めて例外なく,すべての勅令について内閣総理大臣が副署するものとしていたからです。

 勅令に対する国務大臣の副署の効力については,「法律勅令及其の他国事に係る詔勅は大臣の副署に依て始めて実施の力を得。大臣の副署なき者は従て詔命の効なく,外に付して宣下するも所司の官吏之を奉行することを得ざるなり。」とされていました(『憲法義解』)。



(イ)公文式時代の慣行及びその維持

 明治40年軍令第1号の起案を担当したのは,陸軍省軍務局軍事課です(陸軍省であって,参謀本部ではないですね。)。同課によれば,軍令の形式を定める「理由」は,次のとおりでした(中尾裕次「史料紹介「軍令ニ関スル件」」戦史研究年報4号(防衛省防衛研究所(20013月))。




従来軍機軍令ニ関スル事項ハ内閣官制第7条ニ依リ陸軍大臣海軍大臣ヨリ帷幄上奏ヲ以テ親栽ヲ仰キ而シテ陸海軍部外ニ発表ヲ要スルモノハ公文式第3条ニ依リ単ニ陸軍大臣海軍大臣ノ副署ノミヲ以テ公布シ来レリ然ルニ先般公式令制定ト共ニ公文式ヲ廃止セラレタル結果勅令ハ総テ内閣総理大臣ノ副署ヲ要スルコトトナレリ抑モ事ノ軍機軍令ニ関シ若ハ之レト同一ノ性質ヲ有スル軍事命令ハ憲法第
11条同第12条ノ統帥大権ノ行使ヨリ生スルモノニシテ普通行政命令ト全ク其性質軌道ヲ異ニシ専門以外ノ立法機関若ハ行政機関ノ干与ヲ許ササルヲ以テ建軍ノ要義ト為ス

統帥大権ノ行使夫レ斯ノ如ク又内閣官制第7条ハ現行法トシテ尚ホ存在スルカ故ニ此際統帥事項ニ関スル命令ハ特別ノ形式即チ軍令ヲ以テ公布シ主任大臣ノミ之ニ副署スルコトト為シ以テ行政事項ニ属スル命令ト判然之ヲ区別シ統帥大権ノ発動ヲ明確ナラシメントス

 

 お前のサインなどもらわないぞと,内閣総理大臣も嫌われたものですね。しかし,確かに,内閣総理大臣もいろいろではあります。

 内閣官制(明治22年勅令第135号)7条は,「事ノ軍機軍令ニ係リ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニ依リ之ヲ内閣ニ下付セラルノ件ヲ除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」と規定していました。いわゆる帷幄上奏に関する規定です。内閣官制7条の前は,1885年の内閣職権6条ただし書で「但事ノ軍機ニ係リ参謀本部長ヨリ直ニ上奏スルモノト雖トモ陸軍大臣ハ其事件ヲ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」と規定されていました。帷幄上奏は「本来参謀総長・海軍軍令部長の職務として規定せられたのであるが,其の後陸軍大臣又は海軍大臣からも帷幄上奏を為し得る慣習が開かれ,陸軍及び海軍大臣だけは,総理大臣を経由せず単独に上奏し得ることが慣習上認められて居」たものです(美濃部532533頁)。これに対して,陸海軍大臣以外の国務大臣の上奏については,内閣総理大臣が「機務ヲ奏宣スル」(内閣官制2条)ものとされていることから,「総理大臣を経由するか,又は少くとも総理大臣の承認を得た場合であることを要するので,総理大臣の知らぬ間に,各大臣から直接に上奏することは,総理大臣の職責から見て,許されない」とされていました(美濃部532頁)。

 従来陸軍大臣は,統帥事項については内閣総理大臣にも内緒で勅令案を持って行って天皇に上奏して綸言汗のごとき裁可を得て,自分一人がその勅令に副署してそうして施行できたのだから,今更公式令ができたからといって,(政党政治家である可能性もある)内閣総理大臣に「そんな勅令の話,おれは聞いてない。だから,統帥事項だか何だか知らぬがこの勅令には副署しない。」といやがらせをされ得るようになるのはいやだ,ということだったのでしょう。性格の悪い内閣総理大臣との悶着を避けるべく,軍令に関する件2条は,「軍令ニシテ公示ヲ要スルモノニハ上諭ヲ附シ親署ノ後御璽ヲ鈐シ主任ノ陸軍大臣海軍大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス」と規定していました。軍部の主観的意見としては,軍令の形式は部外者には一見あやしげに見えるといっても,統帥事項に係る勅令に関する従来の権限・慣行を維持せしめただけで,「ガン細胞」呼ばわりは心外だ,ということになるのでしょう。

 なお,軍令に対する陸軍大臣又は海軍大臣の副署は,「是は国務大臣としての副署ではなく,帷幄の機関として奉行の任に当たることを証明する行為たるに止まるものと見るべき」とされています(美濃部261頁)。「蓋し我が国法に於ける副署には2種の意義がある。即ち一は憲法第55条の大臣副署と,他は憲法以前より行ひ来りたる副署とである。・・・後者は単に執行当局者たることを表明するものである。宮内大臣の皇室令に副署し,賞勲局総裁の勲記に副署するが如きは専ら後者に属する。陸海軍大臣の軍令に副署するのも亦之と其の性質を同じくするもの」というわけです(山崎249250頁)。



(3)「一般行政」から統帥権の聖域へ

 しかし,1899年の段階では参謀本部条例はなお「一般行政ニ係ル」ものとして内閣総理大臣の副署をも受けていたのに対して(公文式3条),1908年になると,参謀本部条例は純粋な統帥事項に係るものであるとして,内閣総理大臣の副署を要さぬ軍令の形式が採用されるに至っています。この点においては,「一般行政」の領域から自らを引き離すことによって政治の統制から離れ,統帥権が「ガン細胞」化して「一般行政」を侵食することが可能になり始めたといえそうです。

 さらにいえば,「行政各部ノ官制其ノ他ノ官規ニ関スル重要ノ勅令」は枢密院に諮詢することになっていて(枢密院官制69号)厄介でしたが,参謀本部条例が軍令であるということになると,堂々と当然「枢密院ノ諮詢ヲ経ヘキモノニアラス」ということになりました(『統帥綱領・統帥参考』(偕行社・1962年)18頁)。

 いずれにせよ,公文式時代においても,軍部関係の勅令について「傾向としては年を経るにしたがい,軍部大臣だけの副署によるものが多くなったようである」そうです(戸部良一『日本の近代9 逆説の軍隊』(中央公論社・1998年)158頁)。



4 統帥権の独立の「効用」:福沢諭吉の『帝室論』等
 ところで一体,先の大戦以前における我が統帥権の独立の「効用」としては,何が考えられていたのでしょうか。最後は「ガン細胞」になったとはいえ,そもそもの初めには,もっともな目的のために働くべき正常細胞であったはずです。

 「統帥権の独立は,軍の政治介入を意図してつくられた制度ではない。むしろそれは,軍の政治的中立性を確保し,軍人の政治不関与を保証するものとさえ,期待されたのである。」とされています(戸部77頁)。

(1)政治の統帥関与の弊害防止
 政治家が統帥に関与し,あるいは統帥権を握った場合の弊害について,美濃部達吉は「軍人以外の政治家が兵馬の事に容喙することが軍の戦闘力を弱くする虞」がある旨軍事側から見た危惧に言及しているところですが(美濃部257頁),他方,1932年にまとめられた陸軍大学校の『統帥参考』においては,次のように述べられていました。




抑々統帥ノ独立ハ反面ヨリ観レハ政治ノ独立少クモ其保障ニシテ我国ニ於ケル往昔ノ武家政治又ハ現代労農露国ノ政治ノ如ク政府カ兵権ト政権トヲ把握行使スルトキハ政権ノ自然ナル移動授受カ行ハレサルノ虞アリ(『統帥綱領・統帥参考』
7頁)

 

 統帥権の独立は,政府に対抗する在野勢力をもその対象に含めた「政治ノ独立」のためのものだというのです。

先の大戦末期満洲国等に侵入して大暴れした恐ろしい「労農赤軍ノ如キハ彼等ノ意識ヲ以テスレハ元首ノ軍隊ニモアラス所謂国家ノ軍隊ニモアラス全ク共産党ノ軍隊」であったところ(『統帥綱領・統帥参考』1頁),共産党支配下のソ聯においては,「政権ノ自然ナル移動授受」は行われてはいませんでした。

 軍隊の政党化は,明治十四年の政変後,立憲政治の導入に向けた動きの中で,福沢諭吉も憂慮したところでした。




・・・然るに爰に恐る可きは政党の一方が兵力に依頼して兵士が之に左袒するの一事なり国会の政党に兵力を貸す時は其危害実に言ふ可らず仮令ひ全国人心の多数を得たる政党にても其議員が議に在る時に一小隊の兵を以て之を解散し又捕縛すること甚だ易し殊に我国の軍人は自から旧藩士族の流を汲て政治の思想を抱く者少なからざれば各政党の孰れかを見て自然に好悪親疎の情を生じ我は夫れに与せんなどと云ふ処へ其政党も亦これを利して暗に之を引くが如きあらば国会は人民の論場に非ずして軍人の戦場たる可きのみ斯の如きは則ち最初より国会を開かざる方,万々の利益と云ふ可し・・・(福沢諭吉『帝室論』(
1882年))



 1776年7月4日のアメリカ合衆国の独立宣言では,イギリス国王について,「彼は,平時において,我々の立法機関の同意なしに,我々の間において常備軍を保持した」ことが非難されています。そもそも軍隊は,外国と無名の戦争をすることが問題であるばかりではなく,それによって国内において市民の自由が抑圧されることが恐れられていたのでした。同年6月12日のヴァジニア権利章典の第13条は「人民団体によって組成され,武器の使用について訓練された紀律正しい民兵は,自由な邦にふさわしく,自然かつ安全な防衛者である。平時における常備軍は,自由にとって危険なものとして避けられるべきである。あらゆる場合において,軍隊は,市民の権力(the civil power)に厳格に服し,規制されるべきである。」と規定しています。これに対して,自由民主党の日本国憲法改正草案(2012427日決定)9条の2第1項では,「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため,・・・国防軍を保持する。」と,高らかに常備軍の設置がうたわれています。国王に反逆したアメリカ人らの常備軍に対する暗い猜疑の目と比べて,長い歴史にはぐくまれた日本人同士の厚い信頼をそこに見るべきでしょう。いわゆる「安保闘争」に係る1960年6月10日のハガチー事件後,「同事件の原因を「警察力の脆弱さ」に求める岸〔信介内閣総理大臣〕は,・・・〔赤城宗徳〕防衛庁長官にたいして,今度は「研究」ではなく,実際に「自衛隊出動」そのものを求め〔たが〕(結局,防衛庁内の「反対」を岸が受け入れて,これは実現しなかった)」といった激動の時代(原彬久『岸信介―権勢の政治家―』(岩波新書・1995年)220頁)は,遠い過去のことになりました。なお,ちなみに,「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため」に必要な最低限以上の戦力を保持することが憲法上の要請ということになると,財務省の主計官殿がうっかり国防予算に厳しい査定をすると,「国防権干犯!」といって怒られるようになるかもしれません。また,自由民主党の日本国憲法改正草案9条の2第1項の規定する国防軍の目的は,自衛隊法31項の文言を基礎に,そこに「国民の安全」の確保が加えられたもののようですが,ここにいう「国民」には,外国在留の我が同胞が含まれるのでしょうか(同草案25条の3参照)。「居留民保護其他我権益擁護ノ為必要已ムヲ得サル場合ニ於テハ断然目的ヲ達成スル為十分ナル兵力ヲ出動セシメ速ニ其目的ヲ達成」する必要があるとされていたところです(『統帥綱領・統帥参考』29頁)。

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ヴァジニア植民地議会議事堂(Williamsburg, VA)
(ヴァジニア権利章典はジョージ・メイソンの起草に係ります。)

(2)天皇統帥の必要性及び功徳
 統帥権者が政治家ではなく,天皇でなければならない理由は,取り戻すべき日本のかたちとして,軍人勅諭(188214日)において明らかにされていました。いわく,「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある」,「夫兵馬の大権は朕か統ぶる所なれば其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を伝へ天子は文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降の如き失体なからむことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそ」と。
 さらに,実際的な理由としては,福沢諭吉が次のように述べています(『帝室論』)。

 まず,軍人に政治的中立を守らせること。




・・・今この軍人の心を収攬して其運動を制せんとするには必ずしも〔ママ〕帝室に依頼せざるを得ざるなり帝室は遥に政治社会の外に在り軍人は唯この帝室を目的にして運動するのみ,帝室は偏なく党なく政党の孰れを捨てず又孰れをも援けず軍人も亦これに関し,固より今の軍人なれば陸海軍卿の命に従て進退す可きは無論なれども卿は唯其形体を支配して其外面の進退を司るのみ内部の精神を制して其心を収攬するの引力は独り帝室の中心に在て存するものと知る可し・・・



 また,命を賭して戦う戦士の心を受けとめて支えることは,議会政治家の大臣ごときでは,器量不足です。




・・・仮令ひ其大臣が如何なる人物にても其人物は国会より出たるものにして国会は元と文を以て成るものなれば名を重んずるの軍人にして之に心服せざるや明なり唯帝室の尊厳と神聖なるものありて政府は和戦の二議を帝室に奏し其最上の一決御親裁に出るの実を見て軍人も始めて心を安んじ銘々の精神は恰も帝室の直轄にして帝室の為に進退し帝室の為に生死するものなりと覚悟を定めて始めて戦陣に向つて一命をも致す可きのみ帝室の徳至大至重と云ふ可し・・・



 さらに,いったん戦いがあり,それが終わった後に,なお殺気立った戦場帰りの大軍を平穏に日常生活に復帰させることは,議院内閣制政府の首班ごときでは到底無理な大事業であろうと考えられていました。(兵士らのみならず,栄光に包まれた凱旋将軍も危険でしょう。アメリカ独立戦争のときも,ジョージ3世の軍をヨークタウンで破ったジョージ・ワシントン将軍を立てて,王制を樹立しようという動きがあったようです。)




・・・〔
1877年の西南戦争の徴募巡査らは〕戦場には屈強の器械なれども事収るの後に至て此臨時の兵を解くの法は如何す可きや殺気凛然たる血気の勇士,今日より無用に属したれば各故郷に帰りて旧業に就けよと命ずるも必ず風波を起すことならんと我輩は其徴募の最中より後日の事を想像して窃に憂慮したりしが同年9月変乱も局を結で臨時兵は次第に東京に帰りたり我輩は尚当時に至る迄も不安心に思ひし程なるに兵士を集めて吹上の禁苑に召し簡単なる慰労の詔を以て幾万の兵士一言の不平を唱る者もなく唯殊恩の渥きを感佩して郷里に帰り曽て風波の痕を見ざりしは世界中に比類少なき美事と云ふ可し仮に国会の政府にて議員の中より政府の首相を推撰し其首相が如何なる英雄豪傑にても明治10年の如き時節に際してよく此臨時兵を解くの工夫ある可きや我輩断じて其力に及ばざるを信ずるなり

 

 福沢諭吉は不安心のため西南戦争中お腹が痛くなったことでしょうが,偉大な明治天皇の力をもって,無事に兵らは復員して行きました。同様のことが,先の大戦の終了時にも起こったわけです(194581415日夜の宮城を舞台としたクーデタ未遂事件等いろいろありましたが。)。

 自由民主党の日本国憲法改正草案は,天皇を日本国の元首としつつも(同1条),その第9条の2第1項及び第72条3項において,内閣総理大臣をもって国防軍の最高指揮官としています。福沢諭吉がその将来を懸念し,帝室への依頼をなお不可欠と考えていた明治の日本から,今の日本は随分変わり,進歩したわけです。「慶応ブランド」創始者の福沢諭吉も,時代遅れになりました。

現在の問題はむしろ,ゆるゆると続く不況に伴う心優しい閉塞状況の副作用なのか,貔貅たるべき我が国の男児から,真面目な獰猛さが失われてしまってはいないか,ということかもしれません。

(3)蛇足
 なお,憲法に統帥権者を書き込んでしまった場合,「聯合作戦ニ際シ外国軍司令官ヲシテ一時タリトモ帝国軍隊〔国防軍〕ヲ統帥指揮セシムルハ法律的ニ言ヘハ憲法違反ナリ」(『統帥綱領・統帥参考』12頁)というようなうるさいことにならないでしょうか。ちなみに,あるいは意外なことながら,先の大戦前の陸軍(少なくとも陸軍大学校の教官)は「政略上ノ目的ヲ以テ平時妄リニ海外ニ軍隊ヲ出動セシムルコトハ努メテ之ヲ避ケサルヘカラス」と考えていたようです(『統帥綱領・統帥参考』29頁)。「帝国軍ハ皇軍ニシテ皇道ヲ擁護シ皇威ヲ発揚スル為ニ設ケ置カルルモノナリ故ニ妄リニ政略的ニ兵ヲ動カスコトハ之ヲ慎マサルヘカラス」ということで(同),政治家のみだりな政略の道具にされたくはないということだったのでしょう。「而シテ国際関係ノ錯綜,世相ノ変化等ノ為海外出兵ニ依リ所望ノ政略目的ヲ達成スルノ如何ニ困難ナルカハ往年の西伯利出兵並最近ニ於ケル支那出兵ノ明証スル所ナリ」と(同書2930頁),少なくとも当時は懲りていたようです。シベリア出兵において,日米両国は同盟国の関係にあったはずですが,うまくいかなくなったようです。


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ヨークタウン古戦場(Yorktown, VA)
(ヨークタウンに陣取ったコーンウォリス将軍のイギリス軍は優勢な米仏連合軍の攻撃を受けて,1781年10月19日,終に降伏。敗報に接したイギリスのノース首相は「神よ,すべては終わった!」と叫び,アメリカ独立戦争は実質的に終結しました。降伏式においてイギリス側は最初,連合軍の主力だったフランス軍のロシャンボー将軍にコーンウォリス将軍の剣を渡そうとしましたが,こっちじゃないよあっちだよとジョージ・ワシントン将軍を示されて,降伏の印の剣はアメリカ大陸軍が受け取りました。フランスの王さまルイ16世は,いい人でしたね。)

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イギリス軍降伏の場所(Surrender Field, Yorktown, VA) 

 弁護士 齊藤雅俊
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1 ワシントンの二つの生年月日:"Calendar (New Style) Act 1750"の前と後

 アメリカ独立戦争における大陸軍(タイリクグン)の総司令官ジョージ・ワシントンの誕生日は,222日です。しかしながら,ワシントンの生前には,211日にもワシントンの誕生日のお祝いがされていました。

 この11日の日付のずれはなぜかといえば,ユリウス暦(211)とグレゴリオ暦(222)との相違です。グレゴリオ暦はローマ教皇が定めたために,非カトリック諸国では採用が遅れ,ワシントンが生まれた時点においては,イギリスはなおユリウス暦を使用していたものです。正教会のロシアで起きた1917年の革命が,「3月革命」・「11月革命」ともいわれながらも,一般には現地での呼称に従いロシア二月革命・十月革命といわれているのと同じ仕組みです。

 ところで,ワシントン家の聖書には,ジョージ・ワシントンの誕生日時について,"was born ye 11th Day of February 1731/2 about 10 in the Morning."と,恐らく若きジョージ・ワシントンによって書かれたものと考えられている頁が貼り付けられています(マウント・ヴァーノンのGeorge Washington Wiredウェッブ・サイト)。さて,"ye 11th Day of February"はユリウス暦ということで分かるのですが(yeは,theのこと),"1731/2"とは何のことでしょうか。「1731年又は1732年」ということでしょうが,ワシントンは,うかつにも,自分の生まれた年がどちらの年だったのか実は分からなかったのでしょうか。ホワイト・ハウスのウェッブ・サイトにおけるワシントンの伝記では,アメリカ合衆国初代大統領の生まれた年を1732年としていますが,このように断定する自信はどこから来るのでしょうか。

 実は,年の初めは,必ずしもthe first day of Januaryではなかったところです。日本語では,月に序数詞を付けて1月,2月,3月・・・と呼称するので問題が分かりにくいのですが,January, February, March...との月の名は,大文字から始まることからも分かるように,固有名詞であって,実はJanuaryには,「第1の月」という意味は本来ありません。

 で,何を申し上げたいかというと,1751年までは,イギリスにおいては,大天使ガブリエルによるマリアに対する受胎告知の日であるthe 25th day of Marchから一年が始まっていたという事実です(ちなみに,わが民法でも,胎児は,不法行為の損害賠償請求及び相続については出生したものとみなされています(721条,886条。また,7831項)。)。1750年の法律(Calendar (New Style) Act 1750)によって,イギリスでは,1751年のthe 31st day of Decemberの翌日であるthe first day of January1752年の初日となり,1752年のSeptember2日の翌日が同月14日となるとともに(春分の日がMarch9日又は10日になっていたのを,325年のニケーア公会議の時の同月21日ころに戻す。),うるう日の置き方が,グレゴリオ暦方式になりました(1800年,1900年はうるう年ではない。)。

 すなわち,ワシントンが生まれた日は,グレゴリオ暦では1732年のthe 22nd day of Februaryであると同時に,当時のイギリスの暦では1731年のthe 11th day of Februaryだったのでした。

 ちなみに,マリアに対する受胎告知があった月は,福音書では「6番目の月」(ルカ1:26)とされていて,年の初めの月とは表示されていません。紀元前6世紀のバビロン捕囚後は,ユダヤ人の世俗暦の新年はティシュリの月(September-October)から始まっていたそうです。1年が12箇月だとすると,イエスが生まれたのは3番目の月(キスレヴの月:November-December)でしょうか。イエスが割礼を受け,命名されたのは,その誕生の1週間後とされていますが(ルカ2:21),なるほど,年の初めのthe first day of January1週間前がクリスマスになっていますね。(なお,"In the sixth month"は,福音書の前後の文脈からは,「(エリザベトが洗礼者ヨハネを身ごもった)6箇月目に」と解されているところです。その旨紛れのないように"In the sixth month of Elizabeth's pregnancy"と補って訳してある英文福音書もあります。とはいえ,洗礼者ヨハネの誕生日はJuneの24日に祝われますので,正に世俗暦の新年が始まるSeptember下旬のティシュリ月初めに懐妊があったということでしょうか。)


2 古代ローマの年初月: 軍国か平和か

 年の始まりは,春であったり,秋であったり,冬であったりいろいろです。要は立法者の決めの問題ということでしょう。

 現在のヨーロッパ語の月の名前は,古代ローマの月の名前に由来していますが,古代ローマでは,当初はMarchが年の1番目の月だったのが,後にJanuary1番目の月に変更されています。プルタルコスによれば,紀元前8世紀の初代王のロームルスはMarch1番目の月にしていましたが,2代目王のヌマがJanuary1番目の月に変更したそうです(その結果,7番目の月の意味のSeptember9番目の月になり,10番目の月の意味のDecember12番目の月へと,ずれが生じています。)。



 ヌマは又月の順序を変更した。第1の月であつたマルスの月を第3に置きヤーヌスの月を第1に置いたが,これはロームルスの時には第11で今第2にしてあるフェブルア(贖罪の浄め)の月は第12で最後になつてゐた。しかしこの二つの月ヤーヌアーリウスとフェブルアーリウスとはヌマが附加へたもので,最初は1年に10箇月しかなかつたと云つてゐる人も多い。

 

 ヌマが附け加へたもしくは置き換へた月の中・・・1月ヤーヌアーリウスの名はヤーヌスから来てゐる。私の解釈ではヌマはマルティウスがマルスの名を持つてゐるので首位から移し,あらゆる場合に武力よりも政治力を重んじようと欲したのだと思ふ。ヤーヌスは非常に古い時代の,精であつたか王であつたか,政治的な社交的な人で,人間の生活を動物的な野蛮なところから変化させたと云はれてゐる。このために人々はこれを顔の二つあるものとして表現し,人間の生活に一つの形から別の形を与へたものとしてゐる。

(以上,河野与一訳『プルターク英雄伝』(岩波文庫)第1173頁,174-175頁)



 双子の兄弟のレムスを殺したり,サビーニー人の娘を略奪したりした,戦争好きのロームルス王は軍神マルスのMarchを年の初めとしたのに対し,平和主義の哲人王ヌマは,それを改め,平和的かつ文化的なヤーヌス神のJanuaryを第1の月にしたわけです。年の初めの月は,みんなが睦む月ということになるわけでしょう。

 前記引用の後半部分は,Drydenの英訳では,河野与一訳の「あらゆる場合に武力よりも政治力を重んじようと欲したのだと思ふ」が「あらゆる機会をとらえて平和の術及び研究(arts and studies of peace)が戦争に係るそれら(those of war)より優先されるべきことを示そうとしたのだと思う」に,「政治的な社交的な人」が「市民的及び社会的な協和を重んじる人(a great lover of civil and social unity)」になっていますが,こちらの方がヌマの平和主義が分かりやすいでしょう。また,「顔の二つあるものとして表現し,人間の生活に一つの形から別の形を与へたものとしてゐる」も,Drydenでは「,それらのうちの一つから彼が人類を他の一つに移行せしめた二つの状態を示すために,顔の二つあるものとして表現している」になっています。

 古代ローマの暦法に紀元前45年から太陽暦を採用したのはカエサルです(1365日,4年ごとに1日のうるう日の,当人の名をとって呼ばれるユリウス暦)。その際,暦と季節とのずれを修正し「新しい年の11Kalendis Januariisから将来にかけて,季節の正しい推移と,いっそうぴったり符合するように」,前46年の「11月と12月の間inter Novembrem ac Decembremに,2ヶ月をはさ」んだため,もとからあったうるう月と合わせて,同年は15箇月になったそうです(国原吉之助訳・スエトニウス『ローマ皇帝伝』(岩波文庫)上巻48頁)。

 カエサルの時に季節との関係で2箇月ずらされてはいるのですが,プルタルコスによるヌマ暦の説明と,国原吉之助教授の上記スエトニウスの翻訳からすると,カエサルが年の初めの月を2箇月ずらしてMarchからJanuaryにしたというわけではないことになります。

 また,紀元前153年から執政官の就任日がthe first day of Januaryになったのでこの時からthe first day of Januaryが年の初めになったのだともいわれていますが,英語版のWikipedia"Roman Calendar"の項は,紀元前153年より前から年の初めはthe first day of Januaryだったらしい,としています。ただし,古代ローマでは,執政官(定員2名)の名前で呼ばれるその就任期(任期1年間)をもって年代を特定して表すことになっていたので(例えば「カエサルとビブルスが執政官のとき」),確かに,執政官の任期がいつから始まるかは重要であったところです。


3 現在の我が国の暦法法制: 明治五年太政官第337号の布告の効力

 我が国においては,年の初めは,かつての太陰太陽暦においては立春の日の近くの新月の日(ついたち)ということになっていました。太陽暦を採用し,年初日をグレゴリオ暦のthe first day of Januaryにしたのは,明治五年(1872年)十一月九日の太政官第337号の布告によってです。これにより,明治五年十二月二日の翌日が,明治6年すなわち1873年の11日となりました。

 この太政官の布告は,総務省の法令データ提供システムによって見ることができますから,現在も効力を持っている法令として扱われているようです(また,195037日の参議院文部委員会では,杉山専一郎法制局参事が,明治五年太政官第337号の布告は「廃止されていないという考え方でおります。」と答弁しています。)。

 暦法は,国民生活に大きな影響を与えますから,法の形式としては,政令以下の命令ではなくて,国会によって定められるべき法律として扱われるべきものでしょう。明治五年太政官第337号の布告は時刻に関する時刻ノ儀是迄昼夜長短ニ随ヒ十二時ニ相分チ候処今後改テ時辰儀時刻昼夜平分二十四時ニ定メ子刻ヨリ午刻迄ニ十二時ニ分チ午前幾時ト称シ午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分チ午後幾時ト称候事」という規定を含んでいましたが,同じく時刻に関する夏時刻法(昭和23年法律第29号)は,法律でした(同法は昭和27年法律第84号により廃止)。

 そうであれば,すなわち,明治五年太政官第337号の布告は,大日本帝国憲法761項の「法律規則命令又ハ何等ノ名称ヲ用ヰタルニ拘ラス此ノ憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ総テ遵由ノ効力ヲ有ス」との規定に基づき大日本帝国憲法下において法律として遵由の力を有し,引き続き194753日からは,日本国憲法98条の「この憲法は,国の最高法規であつて,その条規に反する法律,命令,詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は,その効力を有しない。」の反対解釈によって,日本国憲法の条規に反しない法律としてその効力を維持しているものと考えられることになります(例えば,明治17年太政官布告第32号の爆発物取締罰則のごとし。)。

 しかし,そうは簡単に問屋が卸しません。

 明治改暦に係る明治五年太政官第337号の布告は,大日本帝国憲法下では,帝国議会の協賛を経るべき法律としては扱われていなかったようであるからです。すなわち,当該布告は「4年毎ニ1日ノ閏ヲ置候事」とのみ規定していたので,グレゴリオ暦の置閏法では平年であるはずの1900年(明治33年)もうるう年になってしまうことが発覚して,同年を平年とすべく明治31年勅令第90号が追加で定められたのですが,当該追加改正の法形式は,法律ではなく勅令によるものでした(「神武天皇即位紀元年数ノ4ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス但シ紀元年数ヨリ660ヲ減シテ100ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ4ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス」との内容。内閣総理大臣伊藤博文及び文部大臣外山正一が副署)。伊藤博文自身の『憲法義解』の第76条解説が,大日本帝国憲法施行前の法令について「而して法律として遵由の力あらしむる者にして若将来に於て改正を要するときは,其の前日に勅令布達を以て公布したるに拘らず,総て皆法律を以て挙行するを要すること知るべきなり。」と説いていたところです。其の前日に布告を以て公布したるに拘らず改正が勅令によって挙行されるものは,法律としてではなく,勅令として遵由の力あらしむる者でしょう。

 明治五年太政官第337号の布告が法律ではなく勅令だということになると,昭和22年法律第72号(日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律)1条との関係で問題が生じます。同条は,「日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定で,法律を以て規定すべき事項を規定するものは,昭和221231日まで,法律と同一の効力を有するものとする。」と規定しているからです。すなわち,明治五年太政官第337号の布告は明治31年勅令第90号と共に大日本帝国憲法下では勅令という命令として効力を有していたところ,その規定事項が日本国憲法下では法律をもって定めるものであるのならば,1948年(昭和23年)11日以降は失効したものと解され得るところです。

 しかしながら,明治五年太政官第337号の布告及び明治31年勅令第90号はいずれも総務省の法令データ提供システムにあり,なおも効力を有しているものとされています。そうだとすると,当該布告及び勅令は,日本国憲法下でも「法律を以て規定すべき事項を規定するもの」ではなく,したがって昭和22年法律第721条に規定する命令ではないものとして,昭和22年政令第14号(日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定の効力等に関する政令)1項の「日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定は,昭和22年法律第72号第1条に規定するものを除くの外,政令と同一の効力を有するものとする。」との規定に基づき,政令として扱われているということになりそうです。

 であれば,内閣限りで,政令でもって,次のような改革を行うことも可能ということになりそうです。


 「会計年度と暦年がずれているのは不便だから,暦年においても,41日を年の初めとしよう。」

 「平和的かつ文化的なヤヌスの月を年の初めとするのはいかにも平和国家的・文化国家的で軟弱だから,武闘派のロームルス王に倣って,軍神マルスの月である3月を年の初めにしよう。」

 「ローマ教皇が定めたグレゴリオ暦を使用するのは,キリスト教国風でもあって面白くないから,古き良き日本を取り戻すべく,天保暦を復活させよう。」

 等々


 しかし,内閣限りの政令でこのようなことができるというのは,どうも変ですね。明治五年太政官第337号の布告及び明治31年勅令第90号は,やはり「法律を以て規定すべき事項を規定するもの」と解すべきように思われます。

 そうであれば,昭和22年法律第721条との関係で,194811日以降はこれらの布告及び勅令が廃止されているものとされるときにはどのように理解すべきでしょうか。これらの布告及び勅令は形式上は廃止されているものの,その規定内容は,法の適用に関する通則法3条の慣習法の内容をなしているものと解することになるのでしょうか。悩ましいところです。


4 暦法と翻訳

 さて,日本と西洋諸国とは,明治6年すなわち1873年より前には異なった暦法をそれぞれ用いていたため,明治五年以前の出来事をヨーロッパ語に翻訳するときは注意しなければなりません。

 例えば,第20代の内閣総理大臣である高橋是清の生年月日などは難しい。

 高橋是清は,嘉永七年閏七月二十七日生まれですが,嘉永七年は大体グレゴリオ暦の1854年に重なることから「嘉永七年=1854年」とし,かつ,明治五年以前はうるう月というものがあったことを現在の感覚で失念して(「閏」の文字をわけが分からないまま無視して)翻訳して,27th July 1854と訳すると,これはいけません。グレゴリオ暦の27th July 1854は,嘉永七年の七月(閏七月の前の月)三日になってしまいます。グレゴリオ暦への換算が面倒なときは,the 27th day of the intercalary month following the Seventh month of the 7th year of Kaei (ca. 1854)とでもすべきでしょうか。

 孝明天皇崩御は慶応二年十二月二十五日ですが,慶応二年は1866年に大部分重なることから早合点して,25th December 1866としてもいけません。孝明天皇崩御の日は,グレゴリオ暦では30th January 1867です。

   またお盆の「旧暦七月」を説明するのに,"July of the old lunisolar calendar"とするのもどうでしょうか。古代のローマ暦の由来を知っている人はかえって,「カエサルによる暦法改革以前のヌマ暦のJulyかな。カエサルの時には2箇月ずれていたそうだから,今のMayくらいの季節か。しかし,Julyの月名は太陽暦になってからのもののはずだが。変だな。」などと余計なことを考えてしまうかもしれません。"The Seventh month of the old lunisolar calendar"くらいでどうでしょうか。

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ワシントン生誕の地(George Washington Birthplace, Westmoreland Co., VA


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