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五月雨式ですが(しかし,blogという発表形式は本来こうしたものでしょう。),本稿は,前稿である「1818年のオレゴン協定3条と樺太島仮規則との比較に関して」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081497363.html)の続稿となります。


DSCF1412(A Benson Fountain)
 
a fountain from Oregon (in Sapporo, Hokkaido)


改めて確認すると,1818年の米英条約の第3条(オレゴン協定)は次のとおりです。

 

ARTICLE III. It is agreed, that any Country that may be claimed by either Party on the North West Coast of America, Westward of the Stony Mountains, shall, together with it's Harbours, Bays, and Creeks, and the Navigation of all Rivers within the same, be free and open, for the term of ten Years from the date of the Signature of the present Convention, to the Vessels, Citizens, and Subjects of the Two Powers: it being well understood, that this Agreement is not to be construed to the Prejudice of any Claim, which either of the Two High Contracting Parties may have to any part of the said Country, nor shall it be taken to affect the Claims of any other Power or State to any part of the said Country; the only Object of The High Contracting Parties, in that respect, being to prevent disputes and differences amongst Themselves.

  (ストーニー山脈から西側のアメリカ北西岸の地方であって,いずれかの締約国によって領有が主張されることのある地方は,その港,湾及び入江並びに当該地方内の全ての河川の航行を含めて,本協定の調印の日から10年間,両国の船舶,市民及び臣民に対して自由かつ開かれたもの(free and open)とされる。ただし,この合意については,当該地方のどの部分についても,それについて条約締結両国のうちの一が有することのある領有権の主張の当否について予断を与えるものとして解釈されるべきものではなく,かつ,当該地方のどの部分についても,他のいずれかの列強又は国家による領有権の主張について影響を与えるべきものではない旨十分の理解がされているものである。当該事項に係る条約締結両国の唯一の目的は,両国間における論争及び紛争を防止することである。)

 

米国の北西方面たるオレゴン地方(カントリー)における同国の領土権主張に関する1818年のオレゴン協定,1819年の米西間アダムズ=オニス協定及び1824年の米露条約は,いずれも米国モンロー政権(1817-1825年)下で締結されたものです。しかして,当該地方(カントリー)に係る米国の領有権原については,1818年のオレゴン協定との関係で,同政権の国務長官であったジョン・クインジー・アダムズ(JQA)が,184629日(この日,1767711日生まれのJQA78歳でした。),米国連邦代議院(下院)において,本稿でこれから御紹介するように述べていたところです(cf. James Traub, John Quincy Adams: militant spirit (New York, Basic Books, 2016): pp.512-513. ただし,同所でトラウブが「184529日」と記しているのは1年違いの誤りです。)。(ちなみにJQAは,第6代米国大統領を1期のみ(1825-1829年)務めて7代目のアンドリュー・ジャクソン(20ドル札)に敗れて下野した後,1830126日にマサチューセッツ州プリマスから連邦代議員(下院議員)に選出され(Traub: p.390),1848223日に同議院議長室内で死亡するまで,2年ごとに当選を重ねて(選挙区は変動します。)連邦代議員職に在任していました。JQAについては,「いわゆるアダムズ方式に関して」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078277830.html)も御参照ください。)

そこにおいてJQAは,1818年の米英オレゴン協定3条の意味するところに関し,「当該協定を共同占領(joint occupation)の協定であると宣明する誤称」があるとした上で,「委員長,それは共同占領の協定ではありません。それは占領NON-occupation)の協定,すなわち,両当事国において,いずれの当事国も,不定の期間――最初は10年間,次には一方当事国から相手方当事国に対して当該協定は終了せられるべしとの申入れがされるまでの間――当該地域(テリトリー)を占領しない(will not occupy)との約束なのであります。」と述べ(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.340 (right column)),その後再び「それは共同占領でありましょうか,各別の占領でありましょうか?(Is that joint occupation, or separate occupation?)」と自問した上で,「そのようなものではありません。それは,占領(non-occupation)であります。当該地域は,全世界に対して,自由かつ開かれたものたるべきなのであります。」と言明しています(ditto: p.342 (left column))。1818年当時の担当国務長官閣下御自身は,同年の当該条約によってオレゴン地方が米英の「共同領有」(『世界史小辞典』(山川出版社・第2版第19刷(1979年))113頁(有賀貞執筆)参照)になったものとはつゆ思っていなかったわけです。また,北緯42度以北の北米大陸における領有権をスペインが失う1819年のアダムズ=オニス協定の前のものであったところの1818年条約3条にいう「他のいずれかの列強又は国家」は,スペインであったものとJQAは明言しています(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.342 (left column))。自らが国務長官として交渉に臨んで哀れなオニスを締め上げた,勝者の余裕というものでしょう。

 

日露間における1867年の樺太島仮規則においては,樺太島は日露「両国の所領」であるものとされ(前文末段及び第2条),すなわち同島はロシア語でいうところの“общее владение”(共同の所有地,共同の領土)であり,かつ,そこにおいては“общность владения”(所有の共通,支配の共通)が認められていたことになっています(前々稿である「北海道と樺太との分離並びに日魯通好条約2条後段及び樺太島仮規則について」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081414643.html232)参照。なお,同仮規則添付の英語訳ではいずれも“common possession”です。)。1867年の仮規則下の樺太島は,1818年の米英協定下のオレゴン地方(カントリー)とは異なり,日本の武士団(征夷大将軍直参及び奥羽諸藩抱え)とロシアの軍隊とが駐屯する両国の「共同領有」地であったわけでしょう。

 

更にJQAによれば,1818年条約3条においては時間軸が重要でありました。いわく,「さて,この協定は10年間のものとして約束されました。そして,私は本〔全院〕委員会にここのところの表現に注目してもらいたいのですが――これは,それぞれの領有権の主張に係る問題は当該10年の期間中において解決するものではないこと,当該期間の満了と共に再び問題となることを両当事国は理解していたことを示すものであります。これは,我々の〔国務〕長官が現在行っているのと同様の,当該地域全体に対する十全かつ明白な領有権主張(a full, plain claim to the whole territory)に等しいものであります。しかし,そこでいわれていたのは,両当事国はその紛争を解決することを選択せずに,むしろ,10年間――当該期間中はいずれの当事国も排他的管轄権を主張しないものとしつつ(without claiming exclusive jurisdiction)――当該地方はその港,湾,入江及び河川と共に両当事国の航行に対して開かれたものであることに合意する,ということなのであります。それが全てであったのであります。」と(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.342 (left column))。

いわゆる問題の棚上げがされたのだということでしょう。

 

これに対して,1855年の日魯通好条約2条後段では樺太島は日露間で「界を分たす」,“ongedeeld (ungeteilt)”ないしはнеразделённый”であるもの(分割されていないもの=未分割=両国「共有」のもの)とされています(「北海道と樺太との分離並びに日魯通好条約2条後段及び樺太島仮規則について」第22及び5参照)。したがって,ロシアの(「共有」)持分の存在が現に認められてしまったことになりますので,樺太全島に係り,かつ,排他的なものたる「当該地域全体に対する十全かつ明白な領有権主張(a full, plain claim to the whole territory)」の留保は(後日のためにも)されていなかった,ということになるのでしょう。

 

ところで184629日には,領土に係る権原(title)について,JQAは次のような理論を述べています。

 

  これらの全ての権原は不完全であります。したがって,発見は,それ自体では権原ではありません。河川及び土地の発見は,それ自体では権原ではありません。探検が次に来ます。それによって,権原においていくらか付加されるものがあります。連続性及び隣接性の両者は,権原を与えるものとして,共同して働きます。それらは,それらのいずれも,それら自体では完全ではありません。権原ということにおいては,現実の占有actual possession)以外に全きものはありません。しかしてそれこそが,オレゴン地域に対する完全,明確,不可争かつ疑いのない権利を取得するために,我々が現在欲する唯一のものなのであります。それは,占有,もしよろしければ占領(occupation)であります。ところで,委員長,我々は英国と二つの協定を結びましたが――一つは1818年に,もう一つは1827年にです――これらによって我々は,共同占領(joint occupation)というようなものに合意していないのであります。〔中略〕現在,占領は存在しておりません。占領こそが我々が欲するものなのであります。占領こそが,かの協定の終了をもたらすため,私が賛成しているものなのであります。なぜならば,当該協定は,我々は当該地域を占領しないものと定めているからであります。

 (The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.341 (right column)

 

 上記引用部分冒頭の「不完全」な「これら全ての権原」には,発見,探検並びに連続性及び隣接性によるもののほか,詩篇第2篇第8節(「われに求めよ さらば汝にもろもろの國を嗣業としてあたへ地の極をなんぢの有としてあたへん」)に由来する,教皇(及びそれに倣った王)から付与された権原(教皇についてはアレクサンデル6世による1493年のスペイン=ポルトガル発見地間境界設定の事例が,王についてはイングランド国王による北米大陸における土地の付与の例が言及されています。)が含まれます(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.340 (right column) - p.341 (right column))。

 

美濃部達吉は,領土の変更について「領土の変更は新領土を取得する場合と現在の領土の一部を喪失する場合とを含むが,その何れに於いても国際的交渉の結果として国際条約に依つて行はるゝことを普通とする。条約以外の原因に依る場合は,取得原因としては唯無主地を占領して之を領土に編入する場合を,喪失原因としては領土の抛棄及びその自然消滅の場合を想像し得るのみである。」と述べています(同『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)82頁)。無主地の領土編入には占領までが必要であって,発見,探検又は連続性及び隣接性のようなものでは不十分であるということのようです。また,神又はその代理人の命令といったものには出番はないようです(ただし,伊藤博文の『憲法義解』の大日本帝国憲法1条(「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」)解説は,「瑞穂国是(あが)子孫可王(きみたるべき)之地宜(なむぢ)皇孫就而(ゆきて)(しらせ)焉」(小学館『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』(1994年)130頁(一書第一))との「天祖の勅」を引用しています。)。なお,美濃部の上記説明は1927年当時の国際法に基づくものでしょうが,その81年前,領土に係る国際法に関する己れの認識を述べてJQAはいわく,「土地に関するいかなる権利も,個人の間では,立法(レジスレイション)によって規整されるべきものでありました。諸国(ネイションズ)間においては,同意(コンセント)により,協約(コンヴェンション)によって規整されるべきものでありました。しかしてそのようにして,そう呼ばれるところの諸国民(ローズ・オヴ・ネ)(イシ)(ョンズ)(これは,諸国間の慣習(カスタムズ)にすぎません。)並びに諸国による条約及び協約が,どのように各地点,各尺土が占領されるべきかを規整してきたのでありました。」と(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.341 (central column))。無主地の占領による領土編入は,条約又は協約ではなく,諸国民の法に基づくものでしょう。なお,1846年段階において,JQAは征服(conquest)も領土の権原に含めていましたが(ibidem),現在の国際法ではどうでしょうか。

 

 しかしてオレゴン地方については,英国は権原に値するものを実は有していないものとJQAは考えていました。いわく。

 

あの〔1818年条約の〕交渉において,そしてそれ以来その後の,私の信ずるところによれば,恐らく今日に至るまでの諸交渉において,当該地域のいかなる部分についても英国は排他的管轄権を主張していないのであります。同国自身が,同国は同地に係る権原(title)を有していないことを認めております。同国は,無権原であると称しているのです。しかしそれでは,同国は何と言っているのでしょうか。同国は,同地は開かれた地方(an open country)であると言っています。同地は,何らかの占領がされているとしても野蛮(バーバラス・)民族(ネイションズ)によってのみ占領されているところのかの諸地方(カントリーズ)の一つであるもの――全ての関係者に対して開かれている(open to all parties)地方であるものと。同国は,排他的管轄権を主張していないのであります。〔中略〕同国の主張は,そしてそれは当該協定に基づくものですが,当該地方は自由かつ開かれたもの(free and open)たるべしということです――すなわち,同国の狩猟者らのために――ハドソン湾会社の利益のための狩猟のために――同地を未開(サヴィッジ)かつ野蛮な状態のままに留め置くべしということであります。現時においては,同国は,土地の耕作者が同地に入植する日から,同地は同国にとっての価値を全く失うものであることを知っています。その時から,当該価値の破壊が,事物の性質のしからしめるところによって生ずるのです。しかしてここに,同国の主張と我が国の主張との間の相違が存するのであります。

The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.342 (left column))。

 

 無論,英国が権原の主張をしていないというJQAの発言は,英国が行ってきた外交上の主張の意味するところを外交の玄人たるJQAが自分流に解釈した結果を述べているものです。これに対して,一般に分かりやすい言葉として表明された英国の外交姿勢自体は,「英国首相のロバート・ピール卿は,彼の国家はオレゴンについて「明確かつ疑問の余地のない」権原(“clear and unquestionable” title)を有しており,かつ,当該権原を守るためには戦争をも辞さないと言明していた。」というものであって(Traub: p.512),見たところ実に勇ましいものでありました。それはともかく,英国の無権原に対する米国の権原とは何でしょうか。JQAは詩的になります。

 

  我々はかの地方(カントリー)を欲する――そも何のためにか?原始の自然を咲き誇る薔薇となすため,法を定立するため,全能の神の最初の指令において我々が行うことを命ぜられたる事業,すなわち,生み(increase),繁殖()え(multiply),地を()(たが)わせる(subdue the earth)ため〔創世記第1章第28節参照〕であります。これが,かの地の領有を我々が主張する理由であります。(かの)国は,航行に開かれた状態を保つために,同国の狩猟者らが野生動物を捕獲するために同地の領有を主張しています。また,もちろん,未開民族に加えて野生動物の利益のためにかの国は主張をしているところであります。我々の主張の間には,かかる相違があるのであります。

  (The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.342 (left column)

 

  〔前略〕私は,当該地方(カントリー)を,我が国西部(ウエスタン・)開拓者(パイオニー)たち(アーズ)のために欲するのであります。我々の西部地域の住民によって最も典型的に示されている,人間の有するかの資質が発揮せられるための領域を与えんがため,彼らをしてかの地に赴き,その地において興起すべき偉大な国民(ネイション)たらしめるためであります。しかして当該国民は,泉(a fountain)がその水源から由来するように,我々から,自由,独立かつ主権的な共和(リパブリ)(クス)の我々から由来しなければならないのであります。バッファロー,インディアン(ブレイヴ)戦士()及び砂漠の未開人のために,狩猟地から由来すべきものではありません。

  (ditto: p.342 (left-central columns)

 

続いてJQAは,自身が米国大統領であった時代の1827年協定の解説に移ろうとしましたが,そこでJQAの持ち時間が尽きてしまいました。(なお,要するに1827年協定は――1818年協定が10年間という期間の定めのあるものであったのに対し――期間の定めのないものとされ,ただし一の当事国から相手方当事国に対して終了の申入れがあればその12箇月後に効力を失うものとされていたものです。)

生み,繁殖()え,地を()(たが)わせ」云々と,創世記第1章第28節の引用がありました。

実はあらかじめJQAは,創世記第1章第26節から第28節までを議院の書記に読み上げさせ,「これが,委員長,私の判断では,オレゴン地域に対する我々の権原の基礎であるのみならず,全ての人的所有(human possessions)に係る全ての人的権原(human title)の基礎なのであります。これが,あなたが委員長席に,それによってすわっている(occupy)ところの権原の基礎であります。これが,オレゴン地域を占領occupy)すべしと,それによって我々が現在呼びかけられているところの権原の基礎なのであります。」との註釈を加えていたところです(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.340 (right column))。

 

 26 神いひ給ひけるは我儕(われら)(かたど)りて我儕(われら)(かたち)の如くに我儕(われら)人を造り之に海の魚と天空(そら)の鳥と家畜と全地と地に()ふ所の(すべて)(はふ)(もの)を治めしめんと

27 其像(そのかたち)の如くに人を創造(つくり)たまへり即ち神の(かたち)の如くに之を造り之を男と女に創造(つくり)たまへり

28 彼等(かれら)を祝し神彼等(かれら)(いひ)たまひけるは(うめ)繁殖(ふえ)よ地に滿()()よ之を服從(したがは)せよ又海の魚と天空(そら)の鳥と地に動く所の(すべて)生物(いきもの)を治めよ

 

 「(うめ)繁殖(ふえ)よ地に滿()()よ之を服從(したがは)せよ」との神の命令のうち,領土に係る権原にとって最も重要であるのは,「(土地を)服從(したがは)せよ」の部分でしょう。「さて,人に与えられた,生み,繁殖()え,並びに地(the earth)に満盈()ち,及びそれを服従(したがわ)せるsubdue it)というかの一般的権威(オーソリティー)は,人としての人に対して創造主から下賜されたもの(グラント)だったのであります。それは,人類に属する各個人に対して,彼の個人としての資格において下賜されたもの(グラント)だったのであります。」とJQAが語った際(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.341 (left-central columns)),イタリック体によって強調されたのは「服従(したがわ)せるsubdue)」の語だったのでした。河川を遡り若しくは流れ下り,又は未開の土地の上を走り回って狩猟するだけでは,当該土地を(した)(がわ)せること(terram subicere)にはならないものでしょう。「「現実の占有」(“Actual possession”)は,耕作及び管理(tillage and husbandry)を要素とした。したがって,インディアンらは,太古からその上を歩き回っていた土地を占有していたものとの主張ができなかったのである。英国は,インディアンらと同様,毛皮のための獣を狩ることのためにオレゴンを使用していたのである。」とは(Traub: pp.512-513),JQAの思考が敷衍されたものです。ローマ法では,「他人の土地で所有者の意思に反して狩猟をなすときは,否認訴権〔ドイツ普通法時代には占有侵奪以外のあらゆる妨害排除の訴権に高められた役権否認の訴権〕,不動産占有保持の特示命令〔法務官の命令の発せられたときにおいて現占有者に対する暴力を禁止するもの〕,人格権侵害訴権〔窃盗の未遂にも適用が認められた訴権〕の責任を負うことあるも,捕獲した鳥獣は狩猟者の所有に属する。」ということだったそうですが(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)107頁),これは,狩猟者は必ずしも狩猟地の所有権者であるものではないし,そもそも捕獲物の所有権を取得するために狩猟地の所有権が必須の前提であるわけでもないということでしょう。

 

   土地の上での狩猟が領土に係る権原(土地を服従(したがわ)せること)とならないのならば,いわんや海ないしは河川における捕魚においてをやということになるものでしょう。ここで,ロシア側の対日提案を記す樺太島仮規則前文第1が「両国の間にある天然の国界「アニワ」と唱ふる海峡〔宗谷海峡〕を以て両国の境界と為し「カラフト」全島を魯西亜の所領とすへし」としつつ(樺太島の領有に係る我が国の権原を認めないということでしょう。),同第2に「右島上にて方今日本へ属せる漁業等は向後とも総て是まての通り其所得とすへし」,すなわちВсѣ принадлежащіе въ настоящее время Японцамъ на Сахалинѣ рыбные промыслы и на будущее время оставить въ ихъ пользованіи.(現在樺太において日本人らにЯпонцамは,Японецの複数与格形です。)属しているпринадлежащиеは,принадлежатьの能動現在分詞複数形です。)全ての漁獲рыбные промыслыは複数形ですが,単数形ですと「漁業」と訳されます。)は,将来も彼らの利益のためにпользованиеは「利用」,「使用」の意味です。供されるものとすること。)とあるところが,米国のインディアン諸部族(ネイションズ)が,連邦政府との条約下において,保留地外においても固有の狩猟・漁撈権を留保している例と併せて想起されるところです。

(ちなみに,我が国のアイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(平成31年法律第16号。以下「アイヌ施策推進法」と略称します。)によれば,同法105項の内水面さけ採捕事業(アイヌにおいて継承されてきた儀式若しくは漁法(「儀式等」)の保存若しくは継承又は儀式等に関する知識の普及及び啓発に利用するためのさけを内水面において採捕する事業)であって認定アイヌ施策推進地域計画に記載されたものについては,農林水産大臣又は都道府県知事はそれが「円滑に実施されるよう適切な配慮をするもの」とされていますが(同法17条。要は,漁業法(昭和24年法律第267号)1191項若しくは2項又は水産資源保護法(昭和26年法律第313号)41項の規定に基づく農林水産省令又は都道府県の規則による許可が必要とされる場合であっても,不許可処分をせずに許可をするように工夫せよ,ということでしょう。),認定アイヌ施策推進地域計画に記載された内水面さけ採捕事業の主体は専らアイヌ部族(ネイション)であるというわけではなく(ただし,国はアイヌ施策推進地域計画の作成主体である市町村に対し「アイヌの人々の要望等が十分反映されるよう,適切な指導を行」い(アイヌ施策推進法71項の政府の基本方針たる「アイヌ施策の総合的かつ効果的な推進を図るための基本的な方針」(令和元年96日閣議決定)11)),「反社会的勢力やその関係者の行う又は行うことが想定される事業が記載されている」アイヌ施策推進地域計画は内閣総理大臣によって認定されないものとされています(同「基本的な方針」41。),また,その目的もアイヌにおいて継承されてきた儀式若しくは漁法の保存若しくは継承又は当該儀式若しくは漁法に関する知識の普及及び啓発に限定されていて,端的な漁業を行うこととはされていません。川ならぬ山を見れば,アイヌ施策推進法104項にいう「アイヌにおいて継承されてきた儀式の実施その他のアイヌ文化〔アイヌ語並びにアイヌにおいて継承されてきた生活様式,音楽,舞踊,工芸その他の文化的所産及びこれらから発展した文化的所産(同法21項)〕の振興等〔ここの「等」は,アイヌの伝統等(アイヌの伝統及びアイヌ文化)に関する知識の普及及び啓発(同条2項,同法1条第1括弧書き)〕に利用するための林産物を国有林野において採取する事業」に関して,当該事項を記載した認定アイヌ施策推進地域計画を作成した市町村の住民又は当該市町村の一定の区域に住所を有する者に対し,農林水産大臣は,契約により,「国有林野をアイヌにおいて継承されてきた儀式の実施その他のアイヌ文化の振興等に利用するための林産物の採取に共同して使用する権利」を取得させることができるものとされていますが(同法161項),当該権利の主体は飽くまでも当該市町村の住民又は当該市町村の一定の区域に住所を有する者であってアイヌ部族(ネイション)ないしは当該部族(ネイション)の所属員ではなく,また,農林水産大臣と契約を締結する相手方も当該共用者の住所地の属する市町村(ただし,市町村内の一定の区域に住所を有する者を共用者とする場合には,当該共用者の全員を契約当事者とすることも可能)であって(同条2項によって適用される国有林野の管理経営に関する法律(昭和26年法律第246号)183項),インディアン部族(ネイション)ならぬアイヌ部族(ネイション)ではありません。)

   なお,捕魚や狩猟ということになると,「De Comoedia Plauti et Institutionibus Justiniani」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1075842975.html)やら「蜜蜂ノオト」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1076108312.html)といった記事をかつて筆者は書いたことがある旨申し添えます。

 

 1818年(1827年改訂)の米英オレゴン協定は,締結責任者であったJQAにとっても,18462月当時には今や米国による「占領(occupation)を妨げ」,前記の「神の法を施行することを妨げる」ところの「制約,我々の手枷(てかせ)」となっていたのでしたThe Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.340 (right column))。なお,米英両国はキリスト教国であって,当時(チャ)()国人(ニーズ)でも未開のインディアンでもありませんでしたから,「創世記の第1章において土地に対する権原が基礎付けられるのはキリスト教国間でのことであり,また,管轄権(jurisdiction),収用権eminent domain),個人財産に係る権原がそこに基礎を置くのは聖書(このほん)なのであります――これら全ては,書記が朗読した部分に続く箇所の他の源から流出しているものであります。」ということで(ibidem),オレゴン地方問題についてはよかったのでしょう。とはいえ,当該創世記的権原基礎論も,諸国間の慣習たる諸国民の法となるまで普及すれば,宗教の違いを超えた適用を見ることとなるものでしょう。

 なお,オレゴン協定の終了を主張しつつも,JQA(父である第2代米国大統領のジョンと同様,駐英公使を務めていました。息子のチャールズ・フランシスも第16代リンカン大統領の下で駐英公使となります。)は英国に対してなお宥和的でした。いわく。

 

  私は,当該協定の終了を求めます。それを行う形式及び態様については,私は英国に対する最も宥和的な態様(most conciliatory manner)で行いたいところであります。

  (The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.340 (right column)

 

   勃発しなかったもう一つの戦争は,オレゴンをめぐる英国とのそれであった。〔第11代米国大統領〕ポークが彼の当初の要求である北緯5440分の国境線にこだわっていたならば,戦闘が開始され得たところであった。英国側は,既に何度も彼らに対して提案されてきていた北緯49度の国境線を期待する権利を有していたからである。従来彼らは,コロンビア川の北方には米国勢力の存在は全く無いことを理由にそれらを拒絶していた。1846年にはこのことはなおも事実であった。しかしながら,当該方面全域の人口バランスが急速に彼らに不利に傾いてきているのを見て,賢明にも英国側は,ヴァンクーヴァー島全体を保持できるのであれば49度で妥協する旨提議した。ポークはこれでは十分ではないと考えたが,元老院(上院)は,メキシコとの敵対状勢が既に進行中であるという事実に鑑み,当該合意〔1846年のオレゴン協定〕を批准した。

  (Colin McEvedy, The Penguin Atlas of North American History to 1870; Penguin Books, 1988: p.74

 

1846年の米英オレゴン協定は,同年615日にワシントン, D.C.で調印され,同年717日にロンドンで批准書が交換されています。

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1 衆議院議員選挙区画定審議会設置法3条2項及び公職選挙法13条7項

「いわゆるアダムズ方式」というものがあります。

当該方式は,①各都道府県における衆議院小選挙区選出議員の選挙区の数(「小選挙区」なので,各選挙区において選挙すべき議員の数は1人になります(公職選挙法(昭和25年法律第100号)131項後段)。)及び②衆議院比例代表選出議員の各選挙区(北海道,東北,北関東,南関東,東京都,北陸信越,東海,近畿,中国,四国又は九州(同法132項・別表第2))において選挙すべき議員の数の割当てに係る方式です。

衆議院議員選挙区画定審議会設置法及び公職選挙法の一部を改正する法律(平成28年法律第49号)の第1条によって改正された①衆議院議員選挙区画定審議会設置法(平成6年法律第3号)32に「次条第1項の規定〔同法41項は「第2条の規定〔当該規定は「〔衆議院議員選挙区画定〕審議会は,衆議院小選挙区選出議員の選挙区の改定に関し,調査審議し,必要があると認めるときは,その改定案を作成して内閣総理大臣に勧告するものとする。」と定めるもの〕による勧告は,国勢調査(統計法第5条第2項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査に限る。)の結果による人口が最初に官報で公示された日から1年以内に行うものとする。」と規定〕による勧告に係る前項〔衆議院議員選挙区画定審議会設置法31項は「前条〔同法2条〕の規定による改定案の作成は,各選挙区の人口(最近の国勢調査(統計法〔略〕第5条第2項の規定により行われる国勢調査に限る。)の結果による日本国民の人口をいう。以下この条において同じ。)の均衡を図り,各選挙区の人口のうち,その最も多いものを最も少ないもので除して得た数が2以上とならないようにすることとし,行政区画,地勢,交通等の事情を総合的に考慮して合理的に行わなければならない。」と規定〕の改定案の作成に当たっては,各都道府県の区域内の衆議院小選挙区選出議員の選挙区の数は,各都道府県の人口を小選挙区基準除数(その除数で各都道府県の人口を除して得た数(1未満の端数が生じたときは,これを1に切り上げるものとする。)の合計数が公職選挙法(昭和25年法律第100号)第4条第1項に規定する衆議院小選挙区選出議員の定数289人〕に相当する数と合致することとなる除数をいう。)で除して得た数(1未満の端数が生じたときは,これを1に切り上げるものとする。)とする。」(下線は筆者によるもの)と,

同じく平成28年法律第49号のこちらは第2条によって改正された②公職選挙法137項に「別表第2〔衆議院(比例代表選出)議員の選挙区及び各選挙区において選挙すべき議員の数を定めるもの(同条2項)〕は,国勢調査(統計法(平成19年法律第53号)第5条第2項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査に限る。以下この項において同じ。)の結果によつて,更正することを例とする。この場合において,各選挙区の議員数は,各選挙区の人口(最近の国勢調査の結果による日本国民の人口をいう。以下この項において同じ。)を比例代表基準除数(その除数で各選挙区の人口を除して得た数(1未満の端数が生じたときは,これを1に切り上げるものとする。)の合計数が第4条第1項に規定する衆議院比例代表選出議員の定数176人〕に相当する数と合致することとなる除数をいう。)で除して得た数(1未満の端数が生じたときは,これを1に切り上げるものとする。)とする。」(下線は筆者によるもの)と規定されています。

卒然と思い付く筆者の発想であれば,まずそれぞれ小選挙区選出議員定数(289)及び比例代表選出議員定数(176)で日本国民の全国人口を除して小選挙区及び比例代表の各基準除数(議員一人当たりの日本国民の人口に係るあるべき数)を求めて,かつ,それを確定させた上で,当該各基準除数でそれぞれ各都道府県及び比例代表選出議員の各選挙区に係る日本国民の人口を除して,その結果得られた各都道府県及び比例代表選出議員の各選挙区に係る商(都道府県に係るもの47個,比例代表選出議員の選挙区に係るもの11個)を見て,さて端数が出てしまったがこの処理をどうしようか,と考えるところでしょう(この発想に係る方法は,quota methodというそうです(Shannon Guerrero and Charles M. Biles, “The History of the Congressional Apportionment Problem through a Mathematical Lens” (2017), pp.3, 4 (http://digitalcommons.humboldt.edu/apportionment/27))。)。これに対して,衆議院議員選挙区画定審議会設置法32項及び公職選挙法137のいわゆるアダムズ方式は,端数は切上げで処理するとあらかじめ決め置いた上で,議員の各総定数に見合うように基準除数を変動させる操作を行う,というところが,犬(基準除数)が尾を振るのか尾が犬(基準除数)を振るのか的ひねりがあって面白い。いわゆるアダムズ方式の処理の仕方は,後記の修正除数方式(modified divisor method (MDM))の一種ということになります(Guerrero & Biles, pp.8-9)。

平成28年法律第49号は2016527日に公布されているところ,同法における衆議院議員選挙区画定審議会設置法の改正規定(平成28年法律第491条)は同日から施行され(同法附則1条本文),公職選挙法の改正規定(平成28年法律第492条)は,2017716日から施行されています(2017616日に公布・施行された衆議院議員選挙区画定審議会設置法及び公職選挙法の一部を改正する法律の一部を改正する法律(平成29年法律第58号)による改正後の平成28年法律第49号附則1条ただし書)。

 

2 統計法5条2項本文の国勢調査=2020年国勢調査及びその結果公表日程

いわゆるアダムズ方式による公職選挙法別表1(衆議院(小選挙区選出)議員の選挙区を定めるもの(同法131項))の改定(衆議院議員選挙区画定審議会設置法41)及び公職選挙法別表2の更正(同法137項)を発動せしめる「統計法(平成19年法律第53号)第5条第2項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査」とは何かが問題となります。

これは,統計法52項を見ただけでは分かりません(同項は「総務大臣は,前項に規定する全数調査(以下「国勢調査」という。)を10年ごとに行い,国勢統計を作成しなければならない。ただし,当該国勢調査を行った年から5年目に当たる年には簡易な方法による国勢調査を行い,国勢統計を作成するものとする。」と規定)。5年ごとに行われる国勢調査(2020年にもありました。)のうち,統計法52項本文の国勢調査に当たるものは西暦末尾0の年のものか5の年のものかは,同項には書かれていないところです。ではどこを見ればよいのかといえば,統計法の附則4条であって,同条は,「新法第5条第2項本文の規定による最初の国勢調査は,平成22年に行うものとする。」と規定しています。すなわち,統計法52項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査の第1回は2010年に行われ,2020年の国勢調査はその第2回ということになります。

2020年の国勢調査の結果が出ると,いわゆるアダムズ方式による公職選挙法別表第1の改定及び同法別表第2の更正に係る各規定が初作動ということになり,同法の改正関係作業(あるいは,改正をせずに済むかもしれませんが)をしなければならなくなるわけです。

小選挙区の区割りに係る公職選挙法別表1の地理的改定案の勧告は,国勢調査の結果による人口が最初に官報で公示された日から1年以内に行うものとされています(衆議院議員選挙区画定審議会設置法41)。

他方,選挙すべき議員数に係る公職選挙法別表2の算術的更正については,そのスケジュール感を示す規定がありません。これは,同表の更正については,国勢調査の結果がいったん出てしまうと直ちに計算がされて比例代表選出議員の各選挙区の新定数が一義的に明らかになってしまうので,直ちにとまではいわないものの,それだけの改正にすぎないのだから(とはいえ,減員となる選挙区選出の代議士らは心穏やかではないでしょうが。)国会は速やかに公職選挙法を改正せよ,ということなのでしょう。平成28年法律第49号によって削られる前の公職選挙法別表第2の「この表は,国勢調査(統計法(平成19年法律第53号)第5条第2項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査に限る。)の結果によつて,更正することを例とする。」という十分抽象的な規定であれば,そもそもの更正の要否,更正するとした場合の方法等についての議論が更に十分過ぎるほどできたのでしょうが,もはやそのような思弁及び議論にふけって日子を費やすわけにはいきません。

2020年の国勢調査の結果に基づく改定に係る衆議院議員選挙区画定審議会設置法41項の1年の期間はいつから始まるかといえば,同項にいう人口は,日本国民の人口に限られず(同法31項括弧書き対照),かつ,「人口が最初に官報で公示された日」が起算日とされていますので,20216月公表の「人口速報集計」について「人口は公表日に官報に公示」するとの公示措置がされた日からとなるようです(「令和2年国勢調査の集計体系及び結果の公表・提供等一覧」を総務省統計局のウェブページで見ると,20216月に,「男女別人口及び世帯数の早期提供」のための「人口速報集計(要計表による人口集計)」が表章地域を「全国,都道府県,市区町村」として公表され,「人口は公表日に官報に公示」されるそうです。同「一覧」によれば,官報公示がされるのは,当該人口速報集計の人口のほか,202111月公表の「人口等基本集計」の人口及び世帯数(確定・人口世帯数)(こちらの公示日は公表日ではなく,「公表後」)のみです(なお,同「一覧」における国勢調査の結果の公表に係る「インターネットを利用する方法等」の「等」には官報公示は含まれないのでしょう。)。)。

ところで,公職選挙法の別表第1及び第2の改定及び更正は,単なる人口ではなく,日本国民の人口に基づいてされることになっています。人口から日本国民ではない者の人口を減じて初めて得られる日本国民の人口は,「人口,世帯,住居に関する結果及び外国人,高齢者世帯,母子・父子世帯,親子の同居等に関する結果」(下線は筆者によるもの)までが集計された「全国,都道府県,市区町村」を表章地域とする人口等基本集計が202111月に公表されるまでは明らかにならないように思われます。事実,2020226日付けの総務省統計局国勢調査課の「令和2年国勢調査の概要」を見ると,「人口速報集計(速報値)は,調査員が調査活動中に作成する調査世帯一覧を基に作成した要計表を用いて集計⇒外国人人口は把握できない」とあります(10頁)。

しかしながら,上記「概要」には更に,「人口速報集計(2()()),人口基本等集計(9()())の各段階で,選挙区別の「日本国民の人口」を算出する特別集計を実施」とあります(10頁)。(なお,ここで2021年の「2月」及び「9月」というのは,2020226日段階における予定であって,その後の新型コロナウイルス感染症騒動がもたらした遅延によって,現在はそれぞれ20216月及び同年11月に後ろ倒しになっているものでしょう。)この特別集計は,衆議院議員選挙区画定審議会設置法32項及び公職選挙法137項の付託に,国勢調査制度が正に応えようとするものでしょう。20216月の人口速報集計においては,わざわざ「外国人人口は,平成27年国勢調査結果に,住民基本台帳による5年間の増減等を勘案して推計」するそうです(国勢調査課10頁)。ただし,公職選挙法別表第1を見ると,市区町村レヴェルにとどまらずより細かい単位で衆議院(小選挙区選出)議員の選挙区は画定されているところ,これに必要となるのであろう「町丁・字等,基本単位区,地域メッシュ」を表章地域とする小地域集計は,「該当する基本集計等の公表後に集計し,地理データ等を活用して秘匿処理を施した上で,速やかに公表」とされています。公職選挙法別表第1の改定に必要なデータが全部そろうためには時間がかかるものでしょう。

人口速報集計段階における特別集計は,公職選挙法別表第1の改定については,あらかじめ速報値をもって一応の改定案作成作業を進めさせて人口基本等集計公表後の確定を迅速ならしめることが目的であるものと考えるべきものでしょうか。

人口速報集計段階における特別集計と公職選挙法別表第2の更正との関係については,あるいはあえて問題となし得るかもしれません。公職選挙法137項は,当該更正は「国勢調査の結果」によるべきものとのみ規定しています。これに対して,2012年の衆議院小選挙区選出議員の選挙区間における人口較差を緊急に是正するための公職選挙法及び衆議院議員選挙区画定審議会設置法の一部を改正する法律(平成24年法律第95号)附則321号には「人口(官報で公示された平成22年の国勢調査の結果による確定した人口をいう。以下この項において同じ。)」という表現があります(下線は筆者によるもの)。公職選挙法137項の解釈は,平成24年法律第95号附則321号を反対解釈してされるべきものか(確定値によらなくともよいことになります。となると,速報値が出た時及び確定値が出た時の両度にわたって更正をすることになるのでしょうか。),それともあるいは,2012年の立法においては「確定した」を明示したが,「結果」によるべき場合のその結果の数値は確定していなければならないのは当然であるから公職選挙法137項にはくどく「確定した」云々とはあえて書かなかったのだ,というものであるべきか。後者の解釈の方が常識的でしょう。

20171022日を期日とする総選挙において当選した衆議院議員らの任期は20211021日までです(日本国憲法45条,公職選挙法256条)。当該任期中においては――2020年の国勢調査に係る人口基本等集計の公表は202111月ですので――いわゆるアダムズ方式による公職選挙法別表第1の改定及び同法別表第2の更正はないということになるようです。しかし,20216月公表の人口速報集計に伴う特別集計の結果次第では,議員数の増減が確実に生ずることが同年11月の人口基本等集計の公表を待たずに歴然たる都道府県ないしは選挙区が明らかになってしまって,そのまま総選挙が行われると,居心地の悪い当選者,未練たらたらの落選者が出て来る可能性もあるものでしょう。

 

3 JQA及び米国憲法1条2節3項

 いわゆるアダムズ方式のアダムズとはだれかといえば,米国のアダムズ大統領だ,といわれます。しかし,1789年就任のジョージ・ワシントン(1797年まで在任)から2021年就任のジョー・バイデンまでの45人の米国大統領(バイデンは46代目ですが,19世紀後期のグローヴァ―・クリーヴランドが一人で22代目(1885-1889年在任)と24代目(1893-1897年在任)とを兼ねています。)中,アダムズは二人います。しかも,ファースト・ネームはどちらもジョン。父親の2代目ジョン・アダムズ(1797-1801年在任)及び息子の6代目ジョン・クインジー・アダムズ(1825-1829年在任)です。しかしていわゆるアダムズ方式の淵源たる方式の考案者は父子のうちどちらかといえば,息子の6代目の方です(以下当該息子を「JQA」と表記します。JQAといえば35代目のジョン・F・ケネディ(1961-1963年在任)のJFKみたいですが,実はちなみにJFKはその著書『勇気ある人々(Profiles in Courage)』の中でJQAを取り上げて称揚しています。)。なお,アダムズ方式はJQAの大統領時代に考案されたものではなく,1828年の大統領選挙でアンドリュー・ジャクソン(1829-1837年在任)に敗れた後,マサチューセッツ州の地元選出の連邦下院(代議院)議員になってから(1830年の選挙で初当選。その後再選を重ねます。)考案されたものです。1832年のことだとされています(William Lucas and David Housman, “Apportionment: Reflections on the Politics of Mathematics”, Engineering: Cornell Quarterly, Vol. 16 (1981), No.1, p.19)。(なお,JQAを破ったアンドリュー・ジャクソン第7代大統領はどういう人かといえば,「OK」の人であるのみならず(「ジョージ3世と3代のアメリカ合衆国大統領」参照(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1013251045.html)),その肖像画がドナルド・トランプ第45代大統領の執務室に飾ってあった人,といえばイメージがつかめるでしょうか。トランプ政権の終幕は大統領支持派大衆による連邦議会議事堂占拠で味噌が付きましたが,ジャクソン政権の開幕は,合衆国大統領官邸におけるレセプションに蝟集した大統領支持派大衆による大混乱(「「人民の威厳なるもの(Majesty of the People)は消滅して,突進し,喧嘩をし,跳ね回る少年,黒人,女,子供からなる群衆,すなわち暴徒(a rabble, a mob)」にとって代わられた」(Jon Meacham, American lion: Andrew Jackson in the White House (New York: Random House, 2009), p.61)。)によって彩られています。)

 アダムズ方式が考案された前提としては,米国憲法123項の次の規定があります。

 

  Representatives and direct Taxes shall be apportioned among the several States which may be included within this Union, according to their respective Numbers, which shall be determined by adding to the whole Number of free Persons, including those bound to Service for a Term of Years, and excluding Indians not taxed, three fifths of all other Persons. The actual Enumeration shall be made within three Years after the first Meeting of the Congress of the United States, and within every subsequent Term of ten Years, in such Manner as they shall by Law direct. The Number of Representatives shall not exceed one for every thirty Thousand, but each State shall have at Least one Representative; and until such enumeration shall be made, the State of New Hampshire shall be entitled to chuse three, Massachusetts eight, Rhode-Island and Providence Plantations one, Connecticut five, New-York six, New Jersey four, Pennsylvania eight, Delaware one, Maryland six, Virginia ten, North Carolina five, South Carolina five, and Georgia three.

  (下院(代議院)議員及び直接税は,この連邦を構成すべき諸州間において,それぞれの基準数に従って割り当てられる。当該基準数は,課税されないインディアンを除き,年季役務に拘束される者を含む自由人の全数に,それ以外の全ての者の5分の3を加えることによって決定されるものとする。法律によって定められるところにより,実際の人口調査は,合衆国議会の第1回会議の後3年以内に行われるものとし,その後は10年の期間内ごとに行われるものとする。下院議員の数は,3万当たり1人を超えないものとする。ただし,各州は少なくとも1人の下院議員を有するものとする。しかして,当該人口調査が行われるまでは,ニュー・ハンプシャー州は3人,マサチューセッツ州は8人,ロウドアイランド州は1人,コネティカット州は5人,ニューヨーク州は6人,ニュー・ジャージ州は4人,ペンシルヴェイニア州は8人,デラウェア州は1人,メアリランド州は6人,ヴァジニア州は10人,ノース・キャロライナ州は5人,サウス・キャロライナ州は5人及びジョージア州は3人を選出することができるものとする。)

 

4 米国第1回国勢調査,1792年の下院議員数割当法,最初の大統領拒否権発動及びハミルトン対ジェファソン

 米国の第1回の国勢調査(Census)は,1790年,トーマス・ジェファソン国務長官の下で実施され,その結果は,17911028日に連邦議会に提出されました(Guerrero & Biles, p.4)。

15州(建国13州にヴァモント州及びケンタッキー州が加わっています。)の合計基準人口概数3,615,920(「基準人口概数」といって端的に「人口」といわないのは,この数字は奴隷1人を5分の3人として数えた数を含む数字であろうからです。「3/5人間」なる存在は,筆者としてはどうも実感しにくい。そもそも議員について「3/5議員」というような面妖な存在が許されないからこそ議員数割当てにおける端数処理で苦労しているのです。)を30,000で除したところ(合衆国憲法123項により得ることが可能な最大限の下院議員総数を目指したようです。),得られた商が120.531なので下院議員の定員を120人とし(ちなみに,当時の下院定数は67人でした(合衆国憲法123項の65人にヴァモント州分の2人を加えたもの。ケンタッキー州の連邦加入は179261日のことになります。)。),これに各州の基準人口概数を全国合計基準人口概数で除した商(各州の基準人口概数の全国基準人口概数に対する比率)を掛けて得られた積が各州の割当数(quota)になりますが,これには端数が出るのでそれを全部切り捨てた上で合計すると111となって,120の定数を満たすにはまだ9人分余裕がある,そこで,端数部分の値の大きな順に9州に各1議席をプラスして得られた議員数割当ての法案が連邦議会で成立し(この割当方式は,quota methodの一種であり,ハミルトン方式と呼ばれます。アレグザンダー・ハミルトンは,ワシントン政権の財務長官にして,かつ,与党・連邦党(Federalists)の首領でした。),1792326日にワシントン大統領に対しその承認を求めて提出されます(Guerrero & Biles, p.5)。しかし,同年4月,ワシントンは,それまでその行使に消極的であった議会立法に対する大統領拒否権を合衆国史上初めて発動(Ron Chernow, Washington: a life (New York: The Penguin Press, 2010), p.685),その理由は,ワシントンの合衆国憲法解釈によれば当該法案は違憲だからであって,すなわち,当該法案で8議席を得ることとなったコネティカット州の基準人口概数は236,841にすぎないところ,8議席では同州における下院議員1人当たりの基準人口概数は29,605となって「下院議員の数は,3万当たり1人を超えないものとする。」との合衆国憲法123項の規定に違反する(ワシントンは,当該規定は,合衆国全体についてのみならず,各州についてもそれぞれ守られなければならいと解していました。)というものでした(Guerrero & Biles, p.5)。ハミルトンの不倶戴天の敵であるジェファソンからの,拒否権を発動すべしとの進言もあったそうです(Lucas & Hausman, p.18)。

大統領の拒否権発動を承けて議会は,各州の基準人口概数を基準除数33,0003万の1割増しですね。)で除した商の端数を切り捨てた数を各州の下院議員数とする法案(そうして得られた各州の下院議員数の合計が結果的に下院議員の総数となり,この時は105でした。)を新たに可決し,今度はワシントンも承認,当該端数切捨て割当方式(ジェファソン方式といわれます。)が1830年の国勢調査に基づく割当てまで続く方式となります(Guerrero & Biles, pp.5, 8)。ただし,ジェファソン方式は,ワシントンのお目こぼしにはあずかれたものの,小州に比べて大州にとって有利であり(切り捨てられた端数の重みは,割当下院議員数が少ない州の方が重く感ずるところです。),かつ,各州の前記quota(各州の基準人口概数の全国総基準人口概数に対する比率を下院の総議席数に掛けたもの)からその端数を切り上げ,又は切り捨てて得られる数(これは,quota値直近の2個の整数になります。)から外れた数の議席割当てが当該州について生ずる事態(例えば,quota19.531の州に19又は20ではなく,一つ飛んだ21議席が割り当てられるような事態。クォータ原則違反(quota rule violation)といわれます。)の可能性があるところです(Guerrero & Biles, pp.5, 8)。また,1792年法でも,全体の105議席中,ヴァジニア州(基準人口概数630,560)に19議席,デラウェア州(基準人口概数55,540)に1議席が与えられたものの,両州のquotaを計算すると((630,560 or 55,540 / 3,615,920)×105それぞれ18.3101.613とであって,端数部分のより大きいデラウェアが切捨てを被り,端数部分のより小さいヴァジニアが切上げの恩恵に浴するという不体裁を抱えていました(Guerrero & Biles, pp.4, 5)。


5 1832年の下院議員数割当て:アダムズ方式,ディーン方式及びウェブスター方式並びにジェファソン方式継続下でのポークの辣腕

 1830年の国勢調査を承けた州別下院議員数割当法案に係る議論に際して,上院(元老院)の割当委員会(apportionment committee)の委員長であるダニエル・ウェブスター(マサチューセッツ州選出)は,JQAからアダムズ方式(端数切上げ方式)を提案する書簡を受領します(Guerrero & Biles, p.6)。ただし,この原始アダムズ方式は,下院の総議席数の枠をまず前提とはしないものであって,我が国の衆議院議員選挙区画定審議会設置法32項及び公職選挙法137項のそれと全く同一のものではなかったようです。前記ジェファソン方式のように基準除数(divisor. 1792年法における33,000)を先に決めて各州の基準人口概数を除した上でその商の端数を処理してその州の議員割当数を決める方法(しかして,下院の総議員定数は,各州の議員割当数を足し合わせて決まる。)はbasic divisor methodBDM)といわれますが(Guerrero & Biles, p.4),その一種とされています(Guerrero & Biles, p.6)。ジェファソン方式では端数切捨てですが,アダムズ方式は端数切上げです。端数を切り上げるこころは,JQAとしては,「合衆国の人口が西部に向かって拡大することに伴い,下院の議席がマサチューセッツ及びニュー・イングランドから失われて行くことを懸念していた」からとされます(Lucas & Housman, p.19)。

 「アダムズ方式は全然真剣に検討されなかった。それは,ジェファソン方式と同様の欠陥を抱えていた。特に,それはクォータ原則違反を起し得たし,かつ,偏りを示し得た。アダムズ方式の偏りは,常に大州に対して小州を優遇するものであった」(Guerrero & Biles, p.6)。「彼〔JQA〕の提案は,しかしながら,議会に採用されることはつゆなかった」(Lucas & Housman, p.19)。

 米国ではアダムズ方式は全く相手にされなかったとは,JQA前大統領閣下もお気の毒です。

 近年のJQAの伝記においても,下院議員数割当てに係るアダムズ方式の提案に関しては,次のように間接的に触れられているだけです。

                                                                                         

   〔連邦議会閉会後〕アダムズは1832年の夏を,『デルモット』JQAがその前年に執筆した,イングランドに征服された12世紀のアイルランドをめぐる叙事詩。Dermot MacMorroghは当時のアイルランド貴族の名〕の出版の手配をし,時々思い出したように彼の父〔ジョン・アダムズは182674日に死去〕の伝記の執筆を行って1767年まで進め,遺言書を書き直し,マウント・ウォラストン〔マサチューセッツ州クインジー所在のアダムズ家の地所〕に木を植えて過ごした。彼は,ハリソン・グレイ・オーティス〔かつては若きJQAの友人であったが,ジェファソン政権(1801-1809年)の対英強硬政策に対する姿勢(JQAは賛成,JQAの地元は反対)をめぐって政敵になっていたボストンの有力者〕の訪問を受けた。オーティスは,議席割当てに関する連邦議会における激しい議論において,ニュー・イングランドの利益を守ってくれたことについてアダムズに礼を述べた。長かった諍いは終わりを迎えた。アダムズはもはや,ハートフォード会議181412月にニュー・イングランドの親英派がハートフォードで開催した会議。合衆国からの離脱を決議するまでには至らなかった。〕に係る,本一冊ほどの分量のある攻撃文書を公にしようなどという気は起こさない。(James Traub, John Quincy Adams: militant spirit (New York: Basic Books, 2016), p.402. 下線は筆者によるもの)

 

1965年の米国連邦議会下院の文書(89th Congress, 1st Session; House Document No.250)はもう少し詳しく,1832年のJQAの日記“vol. III pp.471-472”とありますが,これは活字印刷された公刊本でしょうか。JQA日記の自筆原本はマサチューセッツ歴史協会のウェブサイトで公開されているのですが(http://www.masshist.org/jqadiaries/php.),筆者にはJQAの手書きの文字は難物で,何月何日の記事であったものかつまびらかにできません。)から,次の記述を引用しています。

 

  私は全く眠れない一夜を過ごした。法案の不正(iniquity)及びかくも偏頗(partial)かつ不正義(unjust)な代表の割当てをもたらしたそのいかがわしい方法論(disreputable means)が私を憤らせ,私は目を閉じることができなかった。私は一晩中,この重大な衝撃をマサチューセッツ及びニュー・イングランドが被ることがないようにする手立て(device)がもしや何かないものかと思いを巡らしていた。(History of the House of Representatives, p.21

 
 JQAからアダムズ方式の提案を受けた同じ頃,ウェブスター委員長は,ヴァモント大学のジェームズ・ディーン教授からもディーン方式(端数の切上げ又は切捨ては,どちらを採用した方が当該州の1議員当たりの基準人口概数が基準除数(1792年法の場合は33,000)に近くなるか(差が小さくなるか)によって決めるBDM)の提案を受け,更には自らもウェブスター方式(端数が0.5を超えれば切上げ,超えなければ切下げとするBDM。どちらを採用した方が当該州の基本人口概数1当たりの議員数が基準除数の想定する基本人口概数1当たり議員数(基準除数の逆数)に近くなるか(差が小さくなるか)によって端数を切り上げるか切り捨てるかを決めるBDMともいえます。)を考案します(Guerrero & Biles, pp.6-7)。切上げ・切捨てを判断するための閾値は,ウェブスター方式ではquota原値の前後の整数に係る算術平均値,ディーン方式では調和平均値である,ということになります(Guerrero & Biles, pp.6-7)。しかしながら,これらジェファソン方式に代わる方式について上院のウェブスター委員会でのアイデア提示はあったものの,連邦議会は結局従来からなじんだジェファソン方式を継続することにしますGuerrero & Biles, p.7。ただし,米国国勢調査局のウェブページによると,JQAは,ウェブスター方式(アダムズ方式ではない!)の採用を求めて頑張っていたそうです(https://www.census.gov/history/www/reference/apportionment/apportionment_legislation_1790_-_1830.html)。)。

 いやはや,やはりまだまだジェファソンですか,と嘆息されたものかどうか。切捨て派ジェファソンの回顧録を1831年に読んだ切上げ派JQAの感想は次のようなものでした。

 

  ジェファソンは,と彼は思った,自分に甘過ぎて,理屈では分かっている奴隷制の悪についてもそうだが,彼自身の幸福のためにならない真実を受け容れることができなかった。彼が有していた「記憶力は,彼の意思のためには実に迎合的なもの(so pandering)であったので,他者を欺くに当たっては,彼は自らを欺くことから始めていたようである。」彼は神も死後の世界も恐れなかった。「偉大な目的と強力な資質とに恵まれた精神におけるこのような情況がもたらすものといえば,不誠実と二枚舌と(insincerity and duplicity)であって,これらは彼の生涯に付きまとう罪であった。」ジェファソンは,一言でいえば,偉大な才能はあるが志操薄弱な(with great talents but weak principles)人間の典型であった。(Traub, p.391

 

 ルイ16世治下ベルサイユのばら時代の1784年のパリで出会った頃には,41歳のジェファソン公使は,17歳の青年JQAの崇拝を享受していたのでしたが・・・。

1832年の下院議員数割当ての際辣腕を振るったのが下院の割当委員会の委員長であり,かつ,数学に強かったジェイムズ・K・ポークであって(ポークは,当時のジャクソン大統領の地元であるテネシー州からの選出。後に第11代大統領(1845-1849年在任)となって米墨戦争を遂行),ジェファソン方式を前提に,基準除数が47,700というあえて丸まっていない数になるよう政略を働かせ,ジョージア,ケンタッキー及びニュー・ヨークというジャクソン大統領にとって政治的に重要とされる州(ただし,ケンタッキーは1832年選挙における対立大統領候補となるヘンリー・クレイ(JQA政権の国務長官)の地元であって,実際にもクレイが獲得しています。)に余分の議席を確保することに成功しています(Guerrero & Biles, p.7)。1832年秋の大統領選挙は,結果としてはジャクソンが大統領選挙人219人を獲得して,同49人のクレイに対して圧勝しますが(一般投票得票率は,ジャクソンが55パーセント弱,クレイは約37パーセント),その直前までは接戦が予想されており,在米の一英国外交官も,選挙は下院での決戦投票に持ち込まれ結果としてジャクソンが敗れるものとの予想をしていたところです(Meacham, p.220)。

なおちなみに,ジェファソン方式下において,1790年国勢調査を承けた下院議席割当てに際しての基準除数は33,000で,結果としての下院総議席数は前記のとおり105でありましたが,1800年の国勢調査を承けた割当てでは基準除数33,000で下院総議席数は1411810年の国勢調査を承けた割当てでは基準除数35,000で下院総議席数は1811820年の国勢調査を承けた割当てでは基準除数40,000で下院総議席数は2141830年の国勢調査を承けた割当てでは基準除数は47,700で下院総議席数は240となっています(Guerrero & Biles, p.5)。ポークは,総議席数が丸くなることをもって,基準除数47,700という中途半端な数を正当化したものでしょうか。

 

6 ウェブスター方式並びにハミルトン方式及びその欠点

 1840年の国勢調査を承けた1842年の割当ての議論においては,十年前のポークの深謀に倣おうということで,実に多くの基準除数の提案がされました。最終的には,後の第15代大統領(1857-1861年在任。リンカンの前任)となるジェイムズ・ブキャナン上院議員が提案した70,680が採用された上,端数処理は新たにウェブスター方式によってなされ,下院総議席数は233となることとなりました(Guerrero & Biles, pp.7-8)。

 1850年にはサミュエル・ヴィントン下院議員(ホィッグ党,オハイオ州)の提案に係る法律(1850年ヴィントン法)が成立し,下院の総議席数をまず決めた上でのハミルトン方式での議席割当てが再導入されます(Guerrero & Biles, p.8)。

しかし,ハミルトン方式は,「アラバマ・パラドクス」(総議席数が増えたのに,割当議席数が減る州が生ずる。),人口増加パラドクス(人口がより早く増加する州が人口増のより遅い州に対して議席を失う。),新加入州パラドクス(新しい州が合衆国に加入し,その分の下院議席の追加割当てを受けた場合において,新たな下院総議席数に基づいて再計算してみると,他の州の割当議席数が変動すること。)のような困難な問題を発生させる欠点を有しており,連邦議会において弥縫策が多々講じられるに至っています(Guerrero & Biles, p.8)。1900年の国勢調査を承けた割当ては,当初はハミルトン方式(総議席数384を前提とする。)で始められたものの,最終的にはウェブスター方式で処理されることになりました(結果として総議席数は386)(ibid.)。

「アラバマ・パラドクス」は,総議席数の増加に伴い各州のquotaの数値も比例的に増加するところ,もとのquotaの数値が小さいとその際端数の増加幅の絶対値も小さくなってしまい,その結果増加幅の絶対値が大きい大quotaの州との間で端数の大小に逆転が生ずることが原因であるようです(大和毅彦「議員定数配分方式について――定数削減,人口変動と整合性の観点から――」オペレーションズ・リサーチ20031月号25頁参照)。人口増加パラドクスが起こる場合については,全国の人口増加速度(増加率)>大州の人口増加速度(増加率)&小州の人口増加速度(増加率)である場合,下院の総議席数が一定であるときには大小両州とも全国との関係でquotaが減少しなければなりませんが,大州の方がquota減少の絶対値が大きくなるので(同じ1割減でも10からのそれと1からのそれとでは絶対値が異なります。),小州の人口増加速度が大州のそれよりも遅い場合であっても,quotaの端数の価の逆転が起こり得るということのようです(大和25-26頁参照)。


7 修正除数方式:ウェブスター方式及びハンティントン=ヒル方式

 1910年に米国連邦議会は,ハミルトン方式から,修正除数方式(MDM)にはっきりと移行します(Guerrero & Biles, p.8)。

MDMにおいては,①総議席数の決定,②基準除数の決定,③各州の人口(南北戦争を経て,合衆国にはもう奴隷はいません。)を基準除数で除してその商(quota)を得る,④③の商の端数処理をして(その処理方式として,ジェファソン方式,アダムズ方式,ディーン方式,ウェブスター方式等),各州の割当議員数候補値を得る,⑤④の各州割当議員数候補値を合計して,合計値が①の総議席数に合致すれば終了,合致しなければ②に戻る,との5段階処理ループが設定されます(Guerrero & Biles, p.9)。すなわち例えば我が公職選挙法137項は,上記①の総議席数を176,④の端数処理方式を切上げ(アダムズ方式)としたMDMですね。

1910年の米国国勢調査に基づく下院議員数割当てに係る①の数は433,④の方式はウェブスター方式であって,1920年の国勢選挙に基づいた下院議員数割当ては禁酒法時代の議会の紛糾で実施できず,1930年の国勢調査に基づく下院議員数割当ての①は435,④はウェブスター方式でした(Guerrero & Biles, p.9)。

 1940年の国勢調査に基づく下院議員数割当てからは,①の数を435,④の方式をハンティントン=ヒル方式(切上げ・切捨てを判断する閾値をquota原値の前後に係る自然数の幾何平均値とする方式。下院議員1人当たりの州人口と基準除数との比率がより1に近くなる方の自然数を割当議員数として採用することになります。)とするMDMが用いられています(Guerrero & Biles, p.9)。国勢調査局(Bureau of the Census)職員のジョーゼフ・A・ヒルが1911年に当該方式を考案し,ハーヴァード大学の数学及び機械工学の教授であるエドワード・V・ハンティントンが1920年から当該方式の採用を提唱していたものです(Lucas & Housman, p.20)。民主党支配下の連邦議会において1942年にハンティントン=ヒル方式が法制化されましたが,早分かりのその採用理由は,ウェブスター方式の端数処理であると共和党優位のミシガン州に1議席が行くが,ハンティントン=ヒル方式であれば,代わって民主党優位のアーカンソー州に1議席が来るからであった(したがって,ハンティントン=ヒル方式に共和党は反対,民主党は賛成(ただし,ミシガン州選出の民主党議員はさすがに反対)),ということだったそうです(Lucas & Housman, p.21)。理論的には,ハンティントン=ヒル方式はquota methodではないところから,「アラバマ・パラドクス」及び「人口パラドクス」を避けることができるが,クォータ原則違反が発生する可能性があり,また,やや小州にとって有利な割当結果をもたらすものであるそうです(ibid.)。

 

ここで算術平均のウェブスター方式,幾何平均のハンティントン=ヒル方式及び調和平均のディーン方式間の具体的違いを見てみましょう。例えば某州についてその人口を基準除数で除して得られた商たるquotaの値が12との間(1<q<2)であれば,当該quota値とその前後1及び2という二つの自然数の平均値(算術平均値,幾何平均値又は調和平均値)との比較をして,quota値が当該平均値より上ならば2議席,下ならば1議席が割り当てられることとなるわけですが,12との算術平均値は1.5=(1+2)/2),幾何平均値は1.41421356…=(1x2)),調和平均値は1.333…=2/(1/1+1/2))となります。したがって,某州のquota1.4であれば,ウェブスター方式では1議席(q<1.5),ハンティントン=ヒル方式でも1議席(q<1.41421356…),ディーン方式なら2議席(q>1.333…)ということになります。切上げ方式のアダムズ方式ならば,細かい計算なしに2議席です。他方,切捨て方式のジェファソン方式ならばquota1.999…でも1議席,ハミルトン方式ならば端数(0.4)の大きさを他州と比べることになります。(なお,23との平均値は,算術平均ならば2.5=(2+3)/2),幾何平均ならば約2.44949(=(2x3)),調和平均なら2.4=2/(1/2+1/3))となります。)


8 ハミルトンからJQAへ,そして日本へ 


(1)1人別枠方式+ハミルトン方式からいわゆるアダムズ方式へ

 1994年の制定時から20121126日公布の平成24年法律第953条によって同日から削られるまでの衆議院議員選挙区画定審議会設置法3条旧2項は,「前項の改定案の作成に当たっては,各都道府県の区域内の衆議院小選挙区選出議員の選挙区の数は,1に,公職選挙法(昭和25年法律第100号)第4条第1項に規定する衆議院小選挙区選出議員の定数に相当する数から都道府県の数を控除した数を人口に比例して各都道府県に配当した数を加えた数とする。」と規定していました。衆議院小選挙区選出議員の定数に相当する数(小選挙区の総数)から,まず各都道府県に1区ずつを配当し(これは,最高裁判所大法廷平成23323日判決・民集652755頁では「1人別枠方式」といわれています。),当該配当後に残った小選挙区数を,今度は「人口に比例して」各都道府県に配当するものでした。しかしてここでの「人口に比例して」部分に係る各都道府県への小選挙区数の配当方式は,法律レヴェルでは規定されていませんでしたが,実はハミルトン方式で行われていました(大和24-25頁及び総務省統計局のなるほど統計学園高等部ウェブサイトの「選挙区割りの見直し」ウェブページ参照)。

 最大判平成23323日が,2009830日施行の衆議院議員総選挙(これは,民主党等による鳩山由紀夫内閣の成立に至ることとなった総選挙でしたね。)に関して,その施行当時には「本件区劃基準〔衆議院議員選挙区画定審議会設置法3条が定めている基準〕のうち1人別枠方式に係る部分は,憲法の投票価値の平等の要求に反するに至っており」と述べて1人別枠方式は憲法の要求に反しているとの判断をしたことにより,平成24年法律第95号によって「1人別枠方式+ハミルトン方式」の衆議院議員選挙区画定審議会設置法3条旧2項が削られ,その後の検討を経た上での平成28年法律49号によっていわゆるアダムズ方式を採用した衆議院議員選挙区画定審議会設置法3条新2項及び公職選挙法137項が設けられるのに至ったのでした。1人別枠方式については,最大判平成23323日の紹介するところでは,「法案提出者である政府側から,各都道府県への定数の配分については,投票価値の平等の確保の必要性がある一方で,過疎地域に対する配慮,具体的には人口の少ない地方における定数の急激な減少への配慮等の視点も重要であることから,人口の少ない県に居住する国民の意思をも十分に国政に反映させるために,定数配分上配慮して,各都道府県にまず1人を配分した後に,残余の定数を人口比で配分することとした旨の説明がされている。」とのことでしたところ,人口の少ない県に特に配慮するものである1人別枠方式は,確かに小州を優遇するアダムズ方式に親和的です。ハミルトン方式に代えるに宿敵ジェファソンの名を冠したジェファソン方式ではハミルトンが可哀想だ,というような,ブロードウェイ・ミュージカルのファン的おもんぱかりがあったわけではありません。大州優遇のジェファソン方式では,ハミルトン云々以前に,1人別枠方式を失うことによって小さな県が被った傷口に更に塩を擦り込むことになるばかりだったということでしょう。

 採用に至った理由はともかくも,ハミルトンを排してJQAを採ったことになる我が国会の判断は,JQAの父たる泉下のジョン・アダムズを喜ばせたことでしょう。ハミルトンは敵の多い人物でしたが,2代目合衆国大統領にも激しく憎まれていました。

 

  彼JQAの父は,アダムズ大統領と決裂して,1800年の選挙〔再選を目指す現職大統領のジョン・アダムズが副大統領のジェファソンに敗れた大統領選挙〕においてはアダムズに代えて副大統領候補のトーマス(ママ)・ピンクニー1800年の選挙についてならばチャールズ・コーツワース・ピンクニーの誤りでしょうか。トーマスがジョン・アダムズと共に候補になったのは,1796年の大統領選挙です。〕を推そうと党員を唆した連邦党員アレグザンダー・ハミルトンに対する預言者的怒りで一杯であった。1802年頃には〕老アダムズは彼の自伝を執筆中であり,そこにおいて彼は,彼に逆らった全ての者を暴き出す計画であった。(Traub, p.115

 

(2)「日米同盟」の同床異夢?

とはいえ,「日米同盟」もあらばこそ,議員数割当方式の呼称は,我が国では必ずしも米国式に統一されていません。ハミルトン方式はヘア式最大剰余法と呼ばれ(前記なるほど統計学園高等部ウェブサイトの「選挙区割りの見直し」ウェブページ参照),ジェファソン方式がドント方式,ウェブスター方式はサンラグ方式と呼ばれています(20141120日に衆議院議長公邸で開催された衆議院選挙制度に関する調査会(第4回)の議事概要を見ると,事務局から「除数方式による定数配分方式のうち,各都道府県の人口を任意に設定した除数(例えば人口何万人というような形で設定)で割り,小数点部分を切り捨てるものがドント方式,四捨五入するものがサンラグ方式,切り上げるものがアダムズ方式であるとの説明の後,アダムズ方式については,最初に配分される定数1は,それ以降の定数と同一の計算から決まるものであり,全ての団体について人口を除数で割った商に小数点以下の端数が立つ場合は,繰り上げてプラス1の形で定数が配分されることになり,計算過程に1人別枠という考え方は一切入っておらず,ディーン方式,ヒル方式についても同様である」との説明がされています。)。

我々日本人は,義務教育段階から英語と格闘させられて,米国のことをお勉強させられたような気分になってよく知っているつもりでいても,所詮内在的理解まで達することは到底できないものか。

(3)日米関係事始におけるフィルモア政権国務長官

アメリカ独立宣言の起草者たるジェファソン,10ドル札のハミルトンを知らないのでは,確かにちょっと「同盟国の知識人」(づら)できなくて恥ずかしいというのは分かるけど,ウェブスターまでは勘弁してよ,との苦情があるかもしれません。とはいえ,ダニエル・ウェブスターは,日本開国のためにペリー艦隊を派遣したフィルモア政権(1850-1853年)の国務長官だったのですぞ(ただし,ペリーが出航する18521124日の1箇月前の同年1024日に死亡)。

ちなみに,1852116日にウェブスターの後任国務長官となり,ミラード・フィルモア大統領から日本帝国皇帝に宛てられた親書(同月13日付け)の起草に当たったエドワード・エヴァレットは,JQAのハーヴァード大学ボイルストン修辞学教授時代(1806-1809年)の学生の一人でした(Traub, p.144)。当該親書は嘉永六年六月九日(1853714日),久里浜において幕府応接掛戸田氏栄に手交されます。当時の和訳には味わいがあってよろしいのですが(https://www.ndl.go.jp/modern/img_t/001/001-002tx.html),つい試みてしまったフィルモア親書に係る屋上屋の拙訳は次のとおりです。

 

   偉大にして善良なる友へ。私は,この公書簡を,合衆国海軍最高位の士官であり,かつ,皇帝陛下の版図を現在訪問中である艦隊の司令官であるマシュー・C・ペリー代将を通じてお届けします。

   私は,ペリー代将に対して,私は陛下御自身及びその政府に対して最も温かい感情を抱懐しており,かつ,合衆国と日本国とが友好関係のうちに共存するとともに相互に通商関係を有すべきことを皇帝陛下に御提案すること以外の目的をもって同人を日本国に派遣するものではないことを皇帝陛下に明らかにするように指示しております。

   合衆国の憲法及び法律は,他国の宗教的又は政治的な問題に係る全ての干渉を禁じています。特に,ペリー代将に対して私は,皇帝陛下の版図の静穏を害する可能性のあるあらゆる行為を行わないように命じております。

   アメリカ合衆国は大洋から大洋までの広がりを有し,我々のオレゴン準州及びキャリフォーニア州は,皇帝陛下の版図に正対して位置しております。我々の蒸気船は,キャリフォーニアから日本国まで18日間で達することができます。

   我々の大いなるキャリフォーニア州は,銀,水銀,宝石及び多くの他の価値ある物産に加えて毎年約6千万ドル相当の金を産出しています。日本国もまた,豊かかつ肥沃な国であり,多くの非常に価値ある物産を産出しています。皇帝陛下の臣民は多くの技芸に長じています。日本国及び合衆国双方の利益のために,我々両国が相互に貿易を行うことを私は望んでおります。

   皇帝陛下の政府の古き法が清人及びオランダ人とのもの以外の外国貿易を許していないことは,我々の承知しているところです。しかしながら,世界の情勢は変化し,かつ,新らたな諸政府が樹立されますところ,時宜に応じて新たな法を定めることが賢明であるものと思われます。皇帝陛下の政府の古き法が初めて定められましたのは,昔のことでありました。

   ほぼ同じ頃,ときに新世界と呼ばれるアメリカが初めて発見され,ヨーロッパ人が入植しました。長いこと人口は少なく,かつ,彼らは貧しくありました。現在に至りまして,彼らの数は非常に多くなり,彼らの商業は大いに拡大し,そして彼らは,もし皇帝陛下によって古き法が改められて両国間の自由な貿易が許されるようになれば双方にとって極めて有益なこととなろうと考えております。

   外国貿易を禁ずる古き法を一挙に廃しても全く安全である,と皇帝陛下が御得心されないのであれば,試験的に5ないしは10年の間それらの法を停止することもあり得ましょう。期待したような利益がないことが明らかになれば,古き法を復活させることができます。合衆国は,しばしば外国との条約に数年の期限を付し,更新の有無をその都度判断しています。

   皇帝陛下にもう一つの事項を申達するよう,私はペリー代将に指示しています。毎年多くの我々の船舶がキャリフォーニアから清国まで航海し,また,多数の我々の人民が日本国近海で捕鯨漁に従事しています。荒天時において,我々の船舶が皇帝陛下の海岸に打ち上げられることが時折生じております。このような全ての場合において,我々が艦船を派遣して彼らを引き取ることができる時まで,我々の不幸な人民が親切に取り扱われ,かつ,彼らの財産が保護されんことを我々は求めるとともに,期待するものであります。我々は,本件について,極めて真剣な関心を有しております。

   更にペリー代将は,日本帝国には石炭及び糧食が極めて豊富であるものと我々は認識していることを皇帝陛下に伝達するよう,私から指示されています。広大な大洋を渡るに当たって,我々の蒸気船は大量の石炭を焚焼させますが,それらをはるばるアメリカから持参することは便利なことではありません。我々の蒸気船及び他の艦船が日本国に寄港し,石炭,糧食及び水の供与を受けることが許されることを我々は望んでいます。支払は,金銭又は皇帝陛下の臣民の好む他の物をもってされるでしょう。また,当該目的のために我々の艦船が寄港することのできる一の便宜な港を,帝国の南部において,皇帝陛下が指定されることを我々は求めるものです。我々のこれを要望するところ,切であります。

   友好,通商,石炭及び糧食の供給並びに海難に遭った我々の人民の保護。これらが,皇帝陛下の誉れ高き江戸市を強力な艦隊と共に訪問すべく私がペリー代将を派遣した目的の全てです。

   いささかの贈り物を皇帝陛下が嘉納されるよう,我々はペリー代将に指示を与えています。それら自身は高価なものではありません。しかしながら,合衆国において製造された物品の見本となるものがありますでしょうし,また,それらは,我々の真摯かつ敬意に満ちた友情の証たるべきものであります。

   全能者の大いにして神聖な加護が皇帝陛下にありますように!

   上記の証として,18521113日,我が政府の所在地であるアメリカのワシントン市において,予は合衆国国璽をここに鈐せしめ,かつ,署名せり。

 

   (国璽印影)

   善良なる友

  ミラード・フィルモア

 

  大統領の命により

   国務長官エドワード・エヴァレット


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A monument at Natsu-shima (Natsu Island), which was once nicknamed WEBSTER Island by the then-Yedo-Bay-intruding Perry squadron (The "island" is now connected by later land reclamation to the Yokosuka mainland, Kanagawa.)

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Commodore Matthew C. Perry (in Hakodate, Japan) 


(4)米国のオレゴン及びキャリフォーニア領有並びにモンロー政権国務長官による大陸横断条約という布石

 「アメリカ合衆国は大洋から大洋までの広がりを有し,我々のオレゴン準州及びキャリフォーニア州は,皇帝陛下の版図に正対して位置しております。(The United States of America reach from ocean to ocean, and our Territory of Oregon and State of California lie directly opposite to the dominions of your imperial majesty.)」ということはすなわち,米国による日本の開国は,米国領土拡大の太平洋到達に続くところの必然的な成り行きであったということでしょう。

 米国によるオレゴン地方(Oregon Country)併合は1846年,キャリフォーニア(通常「カリフォルニア」と表記されますが,これは,英語を片仮名にしたというよりは独自の日本語でしょう。英語の発音に近づけた表記である田中英夫『英米法総論』(東京大学出版会・1980年)の表記を採用してみました。)のメキシコからの獲得は1848年のことでした。

それらの前史として1819222日に米国国務長官とスペイン駐米公使ドン・ルイス・デ・オニスとが署名した米西「大陸横断(Transcontinental)」条約が,北米のスペイン領土と米国との間の国境線を太平洋までの北緯42度線(現在のキャリフォーニア州とオレゴン州との州境)と定めています(ただし,当初米国側は,北緯41度の国境線を要求していました(Traub, p.228)。)。1818年夏のオニス公使との交渉において米国国務長官はその要求するところを地図上の「ミズーリ川の北に線を引き,「そこから太平洋まで真っすぐに」延ばして」示しましたが,「これが,アメリカの主権を大洋から大洋まで拡張することをアメリカの外交官が提議した最初の場面であるとみられる」ところです(Traub, p.224)。北緯42度線の北がオレゴン地方ですが,同地は,米英戦争中に米国勢力が撤退し,英国勢力が進出した後,モンロー大統領(1817-1825年在任)の指示を受けた同政権の国務長官が軍艦オンタリオを派遣してそこに米国国旗を再び掲げしめて巻き返し(Traub, p.225),18181020日にロンドンで署名された米英協定によって米英の共同管理地ということになっていました。

 モンロー政権の国務長官は,もちろんJQAです。

大陸横断条約に関し,「私の人生において,恐らく最も重要な日」たる同条約署名の日の日記にJQAは記していわく,「南海〔the South Sea=太平洋〕に至る確定した国境線の承認は,我々の歴史における偉大な時代(a great Epoch in our History)を画するものである。交渉中,本件に係る最初の提案をした者は,私であった。」と(Traub, p.231)。英国との関係でオレゴン地方がどうなるかは予断を許さないものの(つまり,北からの英国領土が南のスペイン領土に直に接することになって,米国の太平洋への出口がふさがれてしまう可能性はなおあったものの),当該「(ライン)」は,米国の「将来の目的に係る宣明」でありましたTraub, p.228)。JQAの昂揚の理由は,彼による当該布石がもたらすであろう太平洋における米国(及び日本を含む太平洋諸国)の「偉大な時代」に係る予感にあったわけです。

 1846年の米英オレゴン協定(同年615日署名)によって米国がオレゴンを単独領有することになりましたが,当該協定の成立に向けて,モンロー政権の国務長官たりしJQA下院議員は,もちろん強硬な賛成派でした。フィルモア親書中,オレゴン準州への言及部分は,JQAとしては我が意を得たりとするところだったものでしょう。オレゴンの次に,対岸の日本が来るのは自然です(エヴァレットくん,そのとおり!)

 他方,キャリフォーニアの獲得(1846年から始まった米墨戦争の終結に係る184822日署名(ただしその後修正あり。)のグアダルーペ・イダルゴ条約によるもの)については,JQAはそもそもの米墨戦争自体に大反対でした。新領土に対する米国南部からの奴隷制の拡張を恐れたからです(せっかく自分がオニスを締め上げて締結したのに,米国の太平洋岸領土画定に係る大陸横断条約の意義が,メキシコとの新たな講和条約で上塗りされて消されてしまうのが残念だ,というようなけちな料簡ではなかったものでしょう。)。したがって,フィルモア親書中,キャリフォーニア州関係部分は,JQAとしては不本意と感ずるものだったでしょう(なお,キャリフォーニア自体は,ヘンリー・クレイによる「1850年の妥協」の結果,自由州として合衆国に加入しています。)。米墨戦争はJQAに祟っています。

 

   〔18482月〕21日,アダムズは連邦議会に正午頃到着した。彼の前には,恐らくヴァッテマールの図書館提案〔フランス人ヴァッテマールは,図書館間における本の交換制度を提案していました。〕に係るものであろう書類の束があった。目下の議事は,対墨戦争の英雄に対して連邦議会の感謝を表明するとともに8名の功績顕著な将軍のために金貨を鋳造する権限を〔ポーク〕大統領に付与することを内容とする決議に係るものであった。アダムズは,当該戦争に係るあらゆる形態の是認行為に対して反対し続けていた。点呼投票が行われ,アダムズは――一報告者が後に記したところによると――「断乎とした様子で,かつ,常よりも大きな声」で「反対(ノウ)」と叫んだ115分,〔ウィンスロップ〕下院議長は議案を第3回の最終採決にかける準備をしていた。『ボストン解放者・共和主義者』新聞のヘンリー・B・スタントンが15ないし20フィート離れたところにすわって見ていると,アダムズは明らかに興奮して紅潮し,不明瞭な声でいくつかの発言をした。続いて老人80歳〕は,死人のように蒼白になった。「彼の右手は神経質に机の上を動いた。」とスタントンは記している。「それは何物かをつかもうとするかのようだった。」下院議長に向かって発言しようとするかのようにアダムズの唇は動いた。しかし声は出なかった。「次に机上の彼の手の動きはより痙攣的となり,彼はそれを,机の角をつかむために伸ばしているように見えた。」

   人々が立ち上がり動き回っているさなかにあって,老人の苦悶に気が付いていたのは当該記者だけであった。と,身体を真っ直ぐに支えようとしてなお机をつかみつつ,アダムズは左側に倒れ始めた。「アダムズさんが死んでしまう!」との叫び声が上がった。幾人かの議員が,彼を支えようとして駆け寄った。(Traub, pp.525-526

 

  〔前略〕数十年の長い間アダムズのライヴァルであり,かつ,同僚であったヘンリー・クレイが下院議長室にやって来た。彼は無言のままアダムズの傍らに立ち,彼の手を取り,そして泣いた。元大統領は今や昏睡状態にあった。彼はなお,その日及びその翌日一杯を生きた。(Traub, p.526

 

三日目の184822319時過ぎ,米国連邦議会の下院議長室で,JQAは息を引き取りました。

 



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