Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

タグ:ジョン・アダムズ

 偉大な人物にも小さい側面――具体的には,「せこい」ところ――があることがあります。

 その「せこさ」ゆえにますますうんざりさせられる大人物もあれば,思わずにやりとさせられる偉い人もあります。要は普段の行い次第ということになるのでしょう。

 

1 大カトー

前者の代表人物として挙げられるのは,紀元前3世紀から同2世紀にかけての古代ローマの大カトーです。「ローマの周囲にある村や町で,これ〔弁舌〕を身につけるために練習し,頼んで来る人があるとその度毎に法廷で弁護に立ち,先づ熱心な論戦家,やがて有能な弁論家といふ名を取つた」後,「ローマの町に移ると直ぐ,法廷の弁護によつて自分でも崇拝者や友人を得」つつ(河野与一訳『プルターク英雄伝(五)』(岩波文庫・1954年)49頁,51頁)成り上がった弁護士上がりの名物政治家でした。

 

  ・・・〔大カトーは,〕様々の色をしたバビュロニア製の絨氈(じゅうせん) (embroidered Babylonian tapestry) を遺産として手に入れても直ぐ売払ひ,その別荘 (farmhouses) は一つとして壁土が塗つて (plastered) なく,1500ドラクメー以上出して奴隷を買つたこともなく,必要なのは洒落た美しい奴隷ではなくて,仕事をよくする丈夫な奴隷,例へば馬丁や牛飼のやうなものであるとした。しかもそれらの奴隷が年を取つて来ると,役に立たなくなつたものを養つて置かずに売払ふべきだと考へてゐた。・・・

  これを或るものはこの人の吝嗇(りんしょく) (petty avarice) な点に帰し,又或るものは他の人々を矯正して節度を教へるために自分も内輪に控へたのだと認めてゐる。但し奴隷を駄獣 (brute beasts) のやうに年を取るまで使ひ尽してから追ひ出したり売つたりするのはあまり冷酷な性格 (over-rigid temper ) から来るもので,人間と人間との間に利用 (profit) 以外の繫がりがないと考へてゐるやうに私〔プルタルコス〕は思ふ。しかしながら好意 (kindness or humanity) は正義心 (bare justice) よりも広い場所を占めてゐると私は見る。と云ふのは,我々は本来人間に対してだけ正義 (law and justice) といふものを当嵌(あては)めるが,恩恵や慈愛 (goodness and charity) となると物の言へない動物に対してまで豊富な泉から流れるやうに温和な心持 (gentle nature) から出て来る場合がある。年のためにはたらけなくなつた馬 (worn-out horses) を養つたり,若い犬を育てるばかりでなく年取つた犬の面倒を見たりするのは深切な人 (kind-natured man) の義務である。

  ・・・

  実際,生命を持つてゐるもの (living creatures) を靴や道具のやうに扱ひ,散々使つて(いた)んだからと云つて棄てて顧みないのは(よろし)しくない。他に理由がないとしても,深切な心持を養ふために (by way of study and practice in humanity) もそれらに対して柔和な態度 (a kind and sweet disposition) を取る癖をつけなければならない。少くとも私ははたらかした牛 (draught ox) を年を取つたからと云つて売ることはしない。(いわんや)して年を取つた人間をその祖国 (his own country) ともいふべき育つた場所 (the place where he has lived a long while) ()れた生活から僅かばかりの銅貨のために追出して,売つた人にも買つた人にも役に立たないやうな目に会はせたくない。ところがカトーはかういふ事を誇つてでもゐるやうに,コーンスル〔統領〕として数々の戦闘に使つた馬をヒスパニア (Spain) に残して来て,その船賃を国家に払はせまいとした (only because he would not put the public to the charge of his freight) と云つてゐる。・・・(河野訳5355頁。英語は,John Drydenの訳です。河野与一の文章は難しいのですが,「仙台駅裏のガードをくぐり,狭いうらぶれた土の道を歩いていって,とある家の古風な土蔵の中に,この先生が縹緲(ひょうびょう)〔遠くはるかに見えるさま。ぼんやりしていてかすかなさま。〕と住んでいた。見ると,汚ない着物にチャンチャンコを着,一般地球人類とは様子が異なるお(じい)さんであった。頭蓋(ずがい)がでっかくて額がでっぱっていて,これはウエルズの火星人が化けているのではあるまいかと,ひそかに私は考えたものだ。」(北杜夫『どくとるマンボウ青春記』(新潮文庫・2000年)301頁)というような人物だったそうですから,さもありなんです。)

 

大カトーがローマの統領(コンスル)となったのは紀元前2世紀初めの同195年,同194年にはヒスパニアからの凱旋式を挙げています。

 

2 馬の売却交渉

ところで,紀元18世紀の末の1797年3月に,アメリカ合衆国において,初めての大統領(プレジデント)の交代がありました。

 

 〔ペンシルヴァニア州フィラデルフィア市において1797年3月4日土曜日昼に行われた2代目大統領の就任式を終えて〕彼〔ジョン・アダムズ〕はフランシス・ホテルの宿所に戻った。ワシントン一家が「大統領の家」 (President’s House) をゆっくりと引き払う間,彼はその1週間の残りを同ホテルで過ごすことになっていた。その最初の午後には,彼への訪問客が途切れなく続いた。大多数は彼の幸運を祈り,一部の者は彼の就任演説を称賛した。彼と近しい一,二の者が急ぎやって来て,連邦(フェデラ)党員(リスツ)中に,就任演説が野党の共和党(リパブリカンズ)に対して宥和的に過ぎたと文句を言っている者がいると告げた。ワシントンは,アダムズをその午後遅く,そして再びの終わりに訪問した。当該1の半ばの一夜には,ワシントン夫妻は,新正副大統領〔新副大統領はトーマス・ジェファソン〕のための晩餐会を主催した。ワシントンによるフランシス・ホテル訪問は,主として社交的性格のものであったが,ビジネス的ないくつかの取引も行われた。ワシントンは,大統領の家」の全ての家具調度を執行の長としての報酬から支出して購入していた。不要な家財道具を〔ワシントンの自宅及び農園があるヴァジニア州の〕マウント・ヴァーノンに輸送することにより生ずる費用を負担することを望まないワシントンは,家具類についてアダムズの関心を惹くことを試みた。アダムズは,そのうちいくつかについて入手することにした。しかし,彼は,ワシントンが更に売ろうと望んだ2頭の馬の購入は断った。後にアダムズは,前任大統領は彼からぼったくろうgouge〕としていたのだと示唆している。おそらく彼の意見は正しかったであろう。ワシントンは,それらの馬は,彼がそうだと表明していたところよりも齢を取っていたのだよと友人に明かしていた。(Ferling, John E., John Adams: a life (Oxford University Press, 2010) pp.335-336. 日本語は拙訳。なお,ワシントン夫妻がアダムズ及びジェファソンを招いた上記晩餐会は3月6日のことだったようです(see Ferling p.341)。)

 

 「せこいぞ,ジョージくん!」と叫ぶべきでしょうか。

 ファーリングの上記文章に係る註 (Ferling p.497) によれば,アダムズがワシントン=不実な博労(ばくろう)説を唱えたのは,1797年3月5日又は同月9日付けの妻アビゲイル宛の書簡においてのようです(おそらく9日付けの方なのでしょう。)。また,ワシントンの「友人」とは,ダンドリッジか(1797年4月3日付けワシントン書簡。ダンドリッジ家は,ワシントンのマーサ夫人の実家です。),メアリー・ホワイト・モリスか(同年5月1日付けワシントン書簡)。フィラデルフィアの「大統領の家」の最初の賃貸人であり,かつ,ワシントンの友人であったロバート・モリスの妻であったのが,メアリー・ホワイト・モリスです。後に見るように,ワシントンは,家具調度売却に係る対アダムズ交渉についてメアリー・ホワイト・モリスに報告していますから,モリス夫人が当該「友人」であったように筆者には思われます。

 ロバート・モリス(1734年生,1806年歿)は,商人にして銀行家,大陸会議代議員及びペンシルヴァニア邦議会議員,独立宣言には採択の数週間後に署名,アメリカ独立戦争中・戦争後は財政面で活躍,1789年から1795年までは合衆国上院議員,商業・銀行業から土地投機に転じたもののやがて破産し,1801年まで3年以上債務者監獄に収監されています。(see Encyclopaedia Britannica, Founding Fathers: the essential guide to the men who made America (Wiley & Sons, 2007) p.175

 President’s Houseを「大統領の家」と訳して大統領「官」邸と訳さなかったのは,当該不動産はアメリカ合衆国の国有財産ではなかったからです。1790年に合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンがニュー・ヨーク市からフィラデルフィア市に移った際「シティ・タヴァン (City Tavern) では,彼のがっしりとして外向的な友人であるロバート・モリスが手をさし伸ばして待っていた。フィラデルフィア市は,六番街との角に近いハイ・ストリート(後にマーケット・ストリート)190番地のモリスの屋敷を,新しい大統領邸宅として借り受けていた (had rented)。」と報告されています(Chernow, Ron, Washington: a life (Penguin Press, 2010) p.633. 日本語は拙訳)。我が民法用語によれば,ロバート・モリスが賃貸人,フィラデルフィア市が賃借人,ジョージ・ワシントンが転借人ということになっていたようです。

 ところで,「せこいぞ,ジョージくん!」と叫ぶよりも,「あっ,ジョンくん,暗い。」と慨嘆すべきではないかとの解釈もあるようです。チェーナウのワシントン伝にいわく。

 

 ・・・ワシントンは,鷹揚に,〔「大統領の家」の〕二つの大きな客間 (drawing rooms) の家具調度を値引いた価格で提供する旨〔アダムズに対して〕申し込み,その際「一番良いものを取りのけておいて,残りの余り物を彼に提供する」ということはしなかった〔1797年5月1日付けメアリー・ホワイト・モリス宛ワシントン書簡〕。しかしながら,アダムズ夫妻 (the Adamses) は,それらの物件に手を出そうとはしなかった。さらには,つまらぬ悪口 (petty sniping) の発作を起こしたアダムズは,ワシントンは2頭の老いぼれ馬を2000ドルで彼につかませようとまでしたのだ (even tried to palm off two old horses on him for $2,000),とぶつぶつ文句を言った。(Chernow p.769

 

合衆国2代目大統領の年俸は2万5000ドルで,アダムズは既に馬車を1500ドルで買ってしまっていたところでした (Ferling p.334)。また,アダムズの支払に係るフィラデルフィアの「大統領の家」の転借料は,月225ドルだったそうです (Ferling p.336)

 

3 馬齢詐称と詐欺未遂とに関して

 

(1)詐欺未遂罪容疑に関して

我が刑法246条1項は詐欺罪について「人を欺いて財物を交付させた者は,10年以下の懲役に処する。」と規定し,同法250条により詐欺罪の未遂も罰せられます。無論,日本国民ではない者が日本国外で詐欺未遂罪を犯しても日本刑法が適用されることはないのですが(同法2条参照),ペンシルヴァニア州フィラデルフィア市において1797年3月4日から同月8日(同月9日木曜日早朝にワシントン一家は同市を退去 (Ferling p.336))までの間にヴァジニア州で農場を経営するジョージ・ワシントン氏(当時65歳)が,実際の齢よりも若いものと偽って老馬2頭をアメリカ合衆国大統領ジョン・アダムズ氏(当時61歳)に対して売り付けようとした行為は,仮に日本刑法が適用される場合,詐欺未遂で有罪でしょうか。

 

 日常の商取引においては,例えば販売者,購買者ともに自己に有利になるように駆引きを行い,地域や職種によっては一定の誇張・虚偽の宣伝が通常のものとなっている。これらの行為を,形式的に一般人を錯誤に陥らせるものとして,これらのすべてを処罰することは明らかに妥当ではない。刑法上の詐欺は,ある程度強度なものに限る。誇大広告も,著しいもの以外は詐欺罪には該当しない。(前田雅英『刑法各論講義 第4版』(東京大学出版会・2007年)266頁)

 

アダムズに一蹴されてしまっている程度のようですから,詐欺未遂罪容疑云々で騒ぎ立てるほどのことではないのでしょう。

 

(2)民事法における詐欺に関して

他方,我が民事法の方面での詐欺とは,どのようなものでしょうか。日本民法96条1項は「詐欺又は強迫による意思表示は,取り消すことができる。」と規定しています。

 

違法性のあるもの,すなわち,信義の原則に反するものでなければ,詐欺ではない。社会生活上,多少の欺罔行為は,放任されるべきだからである。ドイツ民法(ド民123条)にarglistige Täuschung(悪意の欺罔)というのは,善意に対する悪意というだけでなく,倫理的な意義を含むものと解されている〔略〕。この意味で,沈黙・意見の陳述などは,詐欺とならない場合が多いのである。(我妻榮『新訂民法総則』(岩波書店・1965年)310頁)

 

ドイツ民法123条1項は„Wer zur Abgabe einer Willenserklärung durch arglistige Täuschung oder widerrechtlich durch Drohung bestimmt worden ist, kann die Erklärung anfechten.“と規定しています。すなわち,「悪意の欺罔により,又は違法に強迫によって意思表示をさせられた者は,当該意思表示を取り消すことができる。」とあります。Arglistigの訳語には,手元の独和辞典によれば「悪だくみのある,邪悪な奸知にたけた」(小学館『独和大辞典〔第2版〕』),「悪がしこい,悪ぢえのある」(三修社『現代独和辞典』)というような言葉が当てられています。

(ちなみに,「《ドイツ民族》,つまり,だまし民族と呼ばれたのは(うべ)なるかなだ。――」(木場深定訳のニーチェ『善悪の彼岸』244の最終文)と註釈なしに言われるだけでは何のことやらよく分かりませんが,原文は„man heisst nicht umsonst das »tiusche« Volk, das Täusche-Volk ...“で,何のことはない,Deutsche(ドイッチェ)täuschen(トイッシェン)(動詞で,「だます」)との駄洒落でした。さらには,Tauschen(タウッシェン) ist Täuschen(トイッシェン) .“(交換とはだますことである。)ともいいます。

馬の売買は,絵画の売買と並んで社会生活上買主側に大きな注意ないしは判断力の働きが要求される取引領域である,といい得たようです。

 

・・・イギリスのコモン・ローでは,売買,殊に動産売買には「買主をして注意せしめよ」(caveat emptor)のマキシムが適用され,売主の明示の担保があるか,売主に詐欺があるかするのでなければ,たとえ売買の目的物に隠れた瑕疵があっても売主の責任を追及しえないのが一般的ルールであった。・・・

 アメリカにおける売主の瑕疵担保責任の出発点をなしたのも,イギリスのコモン・ローであり,やはりcaveat emptor のマキシムが適用され,売買の目的物について売主による黙示の担保がないのを一般的ルールとしつつ,それに対する例外としての黙示の担保をみとめ,その範囲を拡大する傾向にあったが,統一売買法はその傾向に沿って制定され多くの州で採用され,現在では統一商事法典がそれに代っている。

 ・・・

 このように,動産売買においてはcaveat emptorの一般的ルールに対して,その例外として商品性と特定目的への適性の黙示の担保がみとめられているが,その例外が広汎にみとめられてきたので,caveat emptorは実際には例外となったといわれる(イギリス)。或いは「caveat emptorは,かつてはいかに活力をもっていたとしても,死にかかっている」。「現在のルールは『売主をして注意せしめよ』であるし,またあるべきである」ともいわれる(アメリカ)。

 それでは,現在,caveat emptorはどんな場合に適用されるかというに――買主が任意に買う物を選んだとき適用されるのであるが,特に適用されるのは――買主が自分自身の判断を行使しうるし,また通常行使する特定物売買,例えば,絵とか,なかんずく馬などの売買である。(来栖三郎『契約法』(有斐閣・1974年)7779頁)
 

(3)馬齢及び歯に関して

 馬の齢は,馬の歯を調べれば分かるといいますから,隠れた瑕疵にもなるのかどうか。

 とはいえ,歯の話は,1797年3月当時,新旧のアメリカ合衆国大統領としては避けたかった話題でしょう。歯の弱かった初代大統領の最後の歯(左下の小臼歯)は1796年に抜かれてしまっており,大統領退任時のワシントンは既に歯の無い老人となっていました(see Chernow pp. 642, 644)。第2代大統領は,副大統領時代の1792年から歯槽膿漏を患って歯が抜けてしまうようになっており,発音も悪くなっていたところです(see Ferling p.319)。

 

4 「大統領の家」をめぐって

ところで,フィラデルフィアの「大統領の家」の所有者は,1795年3月,ロバート・モリスからアンドリュー・ケネディに代わっていました。

 

 1790年代の半ば,ワシントン大統領の居住中に,ロバート・モリスは,チェストナット,ウォルナット,七番及び八番の各ストリートに囲まれたブロックに建設を計画していた宏壮な邸宅のための費用を調達するために,彼のマーケット・ストリートの全不動産を売却した。「大統領の家」及び東側の林園 (wood yard) は,1795年3月にアンドリュー・ケネディに3万7000ドルで売却されたのである。ケネディは,裕福な商人であって,執行権の長の邸宅として当該不動産を市に対して賃貸することを継続した。(Lawler, Edward, Jr., The President’s House in Philadelphia: The Rediscovery of a Last Landmark (The Pennsylvania Magazine of History of Biography, January 2002 (Parts I&II)) Part II. 日本語は拙訳)

 

「売買は賃貸借を破る。」かどうかが問題となるところですが(我が国法では,売買が不動産賃貸借を破らないようにするためには,賃借権の登記をし(民法605条,不動産登記法3条8号・81条),建物所有目的の土地の賃貸借については土地の上に借地権者が登記されている建物を所有し(借地借家法10条1項),又は建物の賃貸借については建物の引き渡し(同法31条1項)をすることになります。),新しい所有者が現状維持を認めたのですから問題はなかったのでしょう。

フィラデルフィアは1800年にコロンビア特別区ワシントンに合衆国の首都が移転するまでの暫定首都とされていましたが,フィラデルフィア市当局は,合衆国の首都としての地位を恒久化すべく,同市の九番街に大統領用の邸宅を建造していました。

 

 ワシントンの第2の任期が終了するまでに,及び11万ドル以上の費用をかけた上で,九番街の大統領用邸宅が完成した。新しい建物は巨大だった。面積ではマーケット・ストリートの家屋の3倍以上,独立記念館 (Independence Hall) の2倍以上の大きさがあった。ペンシルヴァニア州知事は,当該邸宅の賃貸を,次期大統領に選出されたアダムズに対して,「フィラデルフィアにおいて他の適当な家屋を使用することが (obtain) できる額の賃料」であればよいと,いささか必死になって申し込んだ。アダムズは「合衆国憲法の素直な解釈からして,議会の意思及び権威の無いまま貴申込みを承諾する自由が私にあるのかどうか,大きな疑問を有しているところです・・・」と回答しつつ,申込みを拒絶した。当該大邸宅の占用――当該動きは,全国の首都にとどまることに係るフィラデルフィアの沈下しつつあるチャンスを回復させるものとなった可能性がある――をするように彼に加えられる圧力をおそらく増大させるためであろうが,市当局は,マーケット・ストリートの家屋の年間賃料額をペンシルヴァニア通貨1000ポンド(約2666ドル)に倍増させた。新大統領は頑張り,1797年3月半ばにはマーケット・ストリートの建物に移り住んだ。アダムズ一家の家事使用人団は,ワシントン一家のものよりも少人数であり,かつ,彼らの社交活動はより質素であったようである。(ワシントンは大統領在任中ほとんどの年において報酬額以上の出費をしていたところ,彼の後継者は報酬の15パーセント以上を貯蓄するようにやり繰りをした。)1790年の首都法 (Residence Act of 1790) 180012月の第1月曜日からコロンビア特別区が正式に全国の首都となるものとしていた。マサチューセッツの彼の農場に滞在後,アダムズは11月1日に新しい連邦市 (Federal City) に移転した。

 アダムズはフィラデルフィアの「大統領の家」を1800年5月遅くまで占用した。彼の退去後数週間で,当該家屋はジョン・フランシスに貸し出された。フランシスは,アダムズ及びジェファソンがそれぞれの副大統領時代に宿所にした滞在施設の所有者であり,それまでの「大統領の家」はフランシス・ユニオン・ホテルとなった。(Lawler Part II

 

なお,アンドリュー・ケネディは独身のまま1800年2月に死亡しており,前の「大統領の家」をホテル用にフランシスに貸し出したのはアンドリューの同胞(きょうだい)で相続人のアンソニーであったということになります(see Lawler Part II)。

フィラデルフィアは,当時は夏になるごとに黄熱病が流行していたそうですから,そもそも合衆国の恒久首都となる見込みは薄かったところです。

 さて,1797年3月9日に行われたフィラデルフィアの「大統領の家」からのワシントン一家の退去は,あまり見事ではなかったようです。ワシントン一家の退去後,アダムズ新大統領は「大統領の家」に入ったのですが・・・

 

 ・・・しかしながら,その優美さにかかわらず,当該邸宅はワシントン一家の出発後きちんと清掃されていなかったこと,及び前大統領の召使らが,酔いどれて,おそらく主人のポトマック河畔の邸宅〔マウント・ヴァーノン〕における厳しい労働の生活に戻る将来の悲観のゆえ,彼の新しい調度類のいくつかを損壊してしまっていることを発見したアダムズは,ショックを受けた。更にアダムズは,いくつかの部屋が小さな役に立たない小部屋に没論理的に分割されていることを見出した。したがって,広い家屋の一隅に落ち着きつつ,彼は,他の場所について小修繕がされるように指示をした。(Ferling p.336

 

ジョン・アダムズ夫人アビゲイルは1797年3月にはフィラデルフィアには未着であって,マサチューセッツ州から同市に到着したのは同年5月の中旬でした(Ferling p.346)。したがって,アビゲイルの意見はジョンからの伝聞に基づくもののように思われるのですが,ワシントン一家退去直後の「大統領の家」の状況について,アビゲイルの批評は殊更厳しかったとチェーナウは伝えます。

 

・・・執行権の長の邸宅がだらしのない状態にあることにぞっとしたとジョン及びアビゲイル・アダムズは主張した。特にアビゲイルは当該家屋を,「私が今まで聞いた中で (that I ever heard of) 最もスキャンダラスな,召使ら仲間による飲酒及び無秩序の現場」であるところの豚小屋 (pigsty) といってけなした。・・・(Chernow p.769

 

 

5 「大統領の家」におけるワシントン一家の家事使用人団に関して

 フィラデルフィアの「大統領の家」でワシントン一家に仕えていた召使らとは,アフリカ系奴隷やらドイツ系の年季奉公人やらだったようです。「ワシントンは大体20人から24人ほどの家事使用人団をフィラデルフィアにおいて維持していた――これらのうち,アフリカ系奴隷の数は,同市において職務を開始した直後の8名から最後の2ないしは3名へと推移した。」及び「アフリカ系奴隷の大部分は,ドイツ系の年季奉公人 (German indentured servants) に置き換えられた。」とあります(Lawler Part I)。ドイツ人は,das Täusche-Volkであるとともに,ビール等のお酒を飲むのが好きそうです。アフリカ系奴隷の一人,料理長のハーキュリーズは,1797年3月9日のワシントン一家フィラデルフィア退去の際に逃亡しています。

 

  ハーキュリーズは,1797年3月に自由に向けて逃亡した。伝えられるところによると,引退したばかりの大統領とその家族とがヴァジニアへ帰る旅行を開始した朝のことである。当該逃亡から1箇月たたないうちにルイ=フィリップ(後のフランス国王)がマウント・ヴァーノンを訪れた。彼の男性召使の一人がハーキュリーズの娘と言葉を交わし,「小さなお嬢ちゃんはお父さんと二度と会えなくなったことについてきっと深く動転しているのだろうと言ってみた。彼女は,とんでもありません,だんなさま,とても喜んでいます,だって父は今や自由なのですから,と答えた。」

  ワシントンの遺言の規定によって,ハーキュリーズは1801年に解放され,彼は逃亡奴隷ではなくなった。彼についてはそれ以上のことは知られていない。〔ハーキュリーズの子である〕リッチモンド,エヴェイ及びデリアは母を通じて寡婦産奴隷であり,奴隷のままでとどめおかれた。(Lawler, Edward, Jr., The President’s House in Philadelphia: The Rediscovery of a Last Landmark (The Pennsylvania Magazine of History of Biography, October 2005) Revisited

 

ハーキュリーズがフィラディフィアで謳歌した自由は,逃亡に向け彼を大胆ならしめる一方,ヴァジニアに帰るという将来像をより抑圧的なものに感じさせただけであっただろう。(Chernow p.762

 

アメリカ南部・ヴァジニア州のマウント・ヴァーノンは評判が悪く,ワシントンの大統領任期末期には,フィラデルフィアの家事使用人団の士気は頽廃していたということでしょうか。
 (
なお,マサチューセッツ人であるアダムズは,奴隷を所有していませんでした。)

料理長ハーキュリーズは逃亡したものの,アダムズから引取りを拒否された2頭の老馬は,ぽっくりぽっくり,フィラデルフィアからマウント・ヴァーノンへの陸路6日間の旅(see Chernow p.769)に同行したものでしょうか。まさか,泥酔した召使たちに食べられてしまっていたわけではないでしょう。

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マウント・ヴァーノン

 

6 古代ローマの奴隷所有者とアメリカ合衆国建国期の奴隷所有者

遺言で自分の奴隷(ただし,妻の寡婦産に属するものではありません。)を解放するなど,奴隷に対するワシントンの態度は,大カトーほどドライではなかったようです。

大カトーは「友人や同僚を饗応した時に,食事が終ると直ぐ,何事についても粗略な振舞をした給仕人や料理人を笞で懲らしめ」,「何か死罪に当るやうな事を犯したと思はれるものはすべての奴隷のゐるところで裁判に掛け,有罪と決まればこれを殺した」りしたようです(河野訳77頁。なお,Dryden訳によれば,有罪判決は奴隷仲間に出させしめたようです。)。

これに対して,ワシントンは,「通常は奴隷が鞭打たれることを許さなかったが,他の方法が尽きたときはときどき (sometimes) それを許した。「無精」かつ「怠惰」とマーサが認定したシャーロットという名の奴隷に係る1793年1月の一件は,その一例である。」といった具合にとどまり,「〔アメリカ独立〕戦争前にワシントンは,困った奴隷2名を西インド諸島に船で送り出した。同地においては,熱帯性気候のため,想定される余命は短かった。」程度であったそうではあります(Chernow p.640)。

 

7 時効管理

しかしながら,大カトーとワシントンと,どちらがより「せこい」かというと,むしろワシントンだったかもしれません。

 

1791年4月の初め,司法長官エドモンド・ランドルフがワシントン夫妻に驚くべきニュースを告げた。1780年のペンシルヴァニア法により,6箇月連続して同州〔当時のアメリカ合衆国の首都は同州のフィラデルフィア市にあったことは前記のとおりです。〕に居住する成人奴隷は自動的に自由民となるのであった。〔ヴァジニア出身の〕ランドルフ自身の奴隷のうち3名が,彼らの自由となる権利を行使する予定である旨通告してきていた。奇態なことであるが,合衆国の司法長官は,大統領及びファースト・レディに対して,当該現地法を潜脱 (evade) することを勧めた。どうしたらよいかと説明しつつ,彼が言うには,いったん奴隷がペンシルヴァニア州外に移出されて,それからまた移入されたのならば,時計の針は元に戻るのであって,それから彼らが自由民となることを請求することができるためには,また6箇月が経過しなければならないのであった。(Chernow p.637

 

 ランドルフ司法長官の「ニュース」とは,1780年の上記ペンシルヴァニア法(漸次奴隷制廃止法 Gradual Abolition Law)の適用除外対象を,連邦議会の議員及び彼らの奴隷の外(1780年当時には,連邦の行政府も司法府も存在していませんでした。),合衆国大統領,副大統領及び各省長官並びに合衆国最高裁判所判事と彼らの奴隷とに拡張しようというペンシルヴァニア州議会に1791年2月に提出された法案(連邦の首都がコロンビア特別区に更に移転することを阻止するために必要だという考えも同州においてはあったのでしょう。)が,ペンシルヴァニア奴隷制廃止協会(Pennsylvania Abolition Society)の強力な反対運動等によって同議会において否決されたことだったようです(see Lawler Revisited)。

 

  間違いが起きないように,ワシントンは,6箇月の制限期間が経過してしまわないうちに,彼の奴隷らを〔ペンシルヴァニア州外での〕短期間の滞在のためにマウント・ヴァーノンとの間で往復させるよう決定した。クリストファー・シールズ〔その後1799年9月に逃亡計画が発覚しましたが,同年1214日のワシントンの最期に立ち会うことになったワシントンの従者です(see Chernow p.801, 809)。〕,リッチモンド〔前記ハーキュリーズの息子。後に金を盗みますが,当該窃盗はハーキュリーズと共に逃亡する計画があったがゆえのようです(see Chernow p.763)。〕及びオネィ・ジャッジ〔ワシントン夫人マーサの女召使。1796年5月に逃亡し,ニュー・ハンプシャー州ポーツマスに居住(see Chernow p.759)。同州グリーンランドで1848年2月25日に死亡しましたが,1793年にワシントン大統領の署名した逃亡奴隷法の下で最後まで逃亡奴隷身分でした(see Lawler Revisited)。〕は未成年者であったので,皆,自由民身分の取得からは除外されていた。成人の奴隷を奴隷身分にとどめるために,ワシントンは様々な策略 (ruses) を用い,彼らがなぜ短期間家に帰されるのかが彼らに知られないようにした。彼がずばり言うには,「彼ら(すなわち奴隷ら)及び公衆双方を欺き (deceive) おおせるような口実でもって本件を処理したい。」ということであった〔1791年4月12日付けの秘書トビアス・リア宛書簡〕。これは,ジョージ・ワシントンによる密謀 (scheming) の稀有の例であり,マーサ・ワシントンとトビアス・リアとはその間彼との秘密の共謀関係にあった。(Chernow p.638

 

時効管理も大変です。

我が民法は,平成29年法律第44号によって一部改正されることになり,同法施行後の民法(以下「改正後民法」といいます。)からは,3年,2年又は1年の短期消滅時効に関する条項(民法170条から174条まで)は削除されます。「飲み屋のツケの消滅時効は1年」ということで有名な民法174条4号等も当該被削除条項に含まれますが,平成29年法律第44号の附則10条4項は同法の施行日前に債権が生じた場合(当該施行日以後に債権が生じた場合であって,その原因である法律行為が施行日前にされたときを含む。)におけるその債権の消滅時効の期間については,なお従前の例によるものとしています。平成29年法律第44号施行日の前夜には不良呑み助が酒場を徘徊して「最後の晩だからツケで飲ませろ。」と飲み屋の経営者らにせこく迷惑をかけまくるなどということがあるのでしょうか(法律行為が施行日前であればよいので,注文をして,「ヘーイ,承りましたぁ。」という返事が返ってきた時が正子前であればよいのでしょう。)。弁護士の職務に関する債権に係る短期消滅時効期間の規定(民法172条。同条1項は「弁護士・・・の職務に関する債権は,その原因となった事件が終了した時から2年間行使しないときは,消滅する。」)も削除されます。

現在の民法167条1項は「債権は,10年間行使しないときは,消滅する。」と規定していますが,改正後民法166条1項は次のように規定しています。

 

166条 債権は,次に掲げる場合には,時効によって消滅する。

 一 債権者が権利を行使することができることを知った時から5年間行使しないとき。

 二 権利を行使することができる時から10年間行使しないとき。

 

 商事消滅時効に係る商法522条(「商行為によって生じた債権は,この法律に別段の定めがある場合を除き,5年間行使しないときは,時効によって消滅する。ただし,他の法令に5年間より短い時効期間の定めがあるときは,その定めるところによる。」)も,民法の一部を改正する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律(平成29年法律第45号)3条によって削除されます。経過規定として同法4条7項は「施行日前にされた商行為によって生じた債権に係る消滅時効の期間については,なお従前の例による。」としています。

 不法行為による損害賠償の請求権は「被害者又はその法定代理人が損害及び加害者を知った時から3年間行使しないときは,時効によって消滅」しますが(民法724条前段),この消滅時効期間は,「人の生命又は身体を害する不法行為」については3年から5年に延ばされます(改正後民法724条の2)。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002  東京都渋谷区渋谷三丁目5-16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール: saitoh@taishi-wakaba.jp

 

民法改正への対応準備も重要です。

1 1860年春のカリフォルニア州における福沢諭吉のワシントンの「子孫」問答

 福沢諭吉の『福翁自伝』(1899年)に,次の有名なくだりがあります。

 時は1860年3月18日(安政七年二月二十六日)ないしは5月9日(万延元年閏三月十九日),所はアメリカ合衆国カリフォルニア州(1848年3月メキシコから割譲。1850年9月州昇格)のサン・フランシスコ又はその近郊(咸臨丸の一行はサン・フランシスコ近傍メールアイランドの米国海軍港官舎に止宿)。

 

  ところで私がふと胸に浮んである人に聞いてみたのは,ほかでない,いまワシントンの子孫はどうなっているかと尋ねたところが,その人の言うに,ワシントンの子孫には女があるはずだ,いまどうしているか知らないが,なんでもだれかの内室になっている様子だと,いかにも冷淡な答でなんとも思っておらぬ。これは不思議だ。もちろん私もアメリカは共和国,大統領は4年交代ということは百も承知のことながら,ワシントンの子孫といえばたいへんな者に違いないと思うたのは,こっちの脳中には源頼朝,徳川家康というような考えがあってソレから割り出して聞いたところが,いまのとおりの答に驚いてこれは不思議と思うたことはいまでもよく覚えている。理学上のことについては少しも肝をつぶすということはなかったが,一方の社会上のことについては全く方角がつかなかった。(テキストは,慶応義塾創立百年記念版(1958年)104頁)

 

 これは質問がよろしくないです。日本人のアメリカ合衆国理解に,若干の不正確を生じさせたように思われる問答です。また,サン・フランシスコ(又はその近傍)の「ある人」も,親切なようでいて知ったかぶりはいけない。「いかにも冷淡」だったのは,知識が必ずしも十分ではなかったゆえでしょう。

 アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンには子どもが生まれませんでした。子どものいないワシントンの「子孫」について訊かれても,本来答えようがありません。

 

2 初代アメリカ合衆国大統領にとっての子の不在の意味

 実は,子どもがいなかったからこそ,ワシントンが初代大統領に選ばれたふしがあります。

 

  ワシントンが大統領になるべきだとの輿論は,彼の英雄的行動,彼の無私の愛国心及び戦時の統帥権を進んで返上した彼の意志から生じた。もう一つの――大きなものではないにしても――要因は,彼には見たところ生殖能力が欠けており(apparent sterility),かつ,子どもがいないことであった。このことは,彼は,神意によって,彼の国の国父(the Father of His Country)となるべき清浄なる地位(immaculate state)に定められているように思わせるものであった。1788年3月に「マサチューセッツ・センティネル」紙は,ワシントンを選出すべき理由を枚挙して掲載したが,その中には「息子がいない――したがって,世襲の後継者という危険に我々をさらすことがない」というものが含まれていた。このことは,諸君主が政略結婚を当然のこととし(routinely made dynastic marriages),また,欧州列強による新しい共和制政府の転覆を人々がおそれていた当時にあっては,もっともな懸念であった。ジョン・アダムズは,ジェファソンに対して,ワシントンが子どものいない大統領となることに覚えた安堵について述べている。「ワシントン将軍に娘がいたら,フランスかイングランドの王室,若しくはおそらく両方から,求婚されたものと私は堅く信じます。また,もし彼に息子がいたら,彼は花嫁さがしの旅にヨーロッパに招待されたことでしょう。」と。ワシントンに出馬を説得するため,彼に子どもがいない事実を示唆しつつ,グーヴェルヌール・モリスは茶目に言った。いわく,「あなたは三百万人を超える子どもらの父になるのですぞ。〔178812月6日付け書簡〕」(Chernow, Ron. Washington: a life. Penguin, 2010. pp.549-550

 

ワシントンに子どもができなかったのは,マーサ夫人に原因があったのか,ワシントン自身の若いころの病気によるものか,議論があるようです。

 

・・・この子どもの生まれなかった婚姻について説明する多くの仮説(theories)が提示された。マーサは,彼女の最後の子であるパッツィー(Martha Parke Custis)の分娩の際に傷害を負い,その後の出産が不可能になったのかもしれない。ジョージの若いころの天然痘又は他の病気が, 彼から生殖能力を奪ったのではないかと考える学者もいる。・・・(Chernow, p.103

 

 ワシントンと結婚した時(1759年1月6日),マーサ・ダンドリッジは二人の子持ちの富裕な未亡人でした(亡夫はDaniel Parke Custis)。二人の連れ子のうち,兄のジャッキー(John Parke Custis)は,178110月のヨークタウン戦に参加しますが陣中で病を得て翌11月に幼い3人の娘と一人の息子(George Washington Parke Custis)を残して死亡しました。妹のパッツィーは,てんかんに苦しんで早逝しています。

 
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ヴァジニア州マウント・ヴァーノンのワシントン邸
 

3 息子の不在と人妻:初期アメリカ合衆国大統領の妻子について

 

(1)息子の不在

どうもアメリカ合衆国大統領は,息子と縁のない人物が多いようです。福沢諭吉の渡米時までに2期8年を務め上げた大統領はワシントンのほか次の4名がいますが,みな男児には恵まれていません。

 第3代(18011809年)のジェファソンには娘はいましたが,アメリカ独立宣言起草後の9月にジェファソンがMonticelloの妻のもとに戻った時に懐胎され,1777年5月28日に生まれたただ一人の息子は,洗礼を受ける間もなく死亡してしまいました(Randall, Willard Sterne. Thomas Jefferson: a life. HarperPerennial, 1994 (H. Holt, 1993). pp.282, 305)。

第4代(1809年‐1817年)の虚弱なマディソンには子どもがありませんでした。

第5代(18171825年)のモンローの一人息子は夭折しています。

第7代(18291837年)の武闘派ジャクソンにも子どもがいませんでした。

 

(2)人妻ないしは未亡人

 ちなみにこれらの大統領は,5代目のモンローを除いて,人妻であった女性と結婚しています。

ジェファソン夫人もマーサですが,また未亡人でもありました(亡夫はBathhurst Skelton)。マディソン夫人のドリーも未亡人で(亡夫はJohn Todd),連れ子のジョン・ペイン(John Payne Todd)は浪費家となってマディソン家の頭痛の種になりました。ジャクソン夫人のレイチェルもジャクソンと婚姻する前から人妻でした(夫はLewis Robards)。文字どおりの人妻で,レイチェルに懸想しているジャクソンが「おれにこんな素敵な女房がいたら,かわいい瞳に涙を浮かべさせるようなことをわざわざしたりはしないぜ。」と言えば,「ほう,多分な・・・けれど,あの女はてめえの女房じゃないよ。」と亭主のロバーズが言い返すという西部劇的場面もテネシーはナッシュヴィルの街であったそうです(Meacham, Jon. American Lion. Random House, 2008. p.22)。ジャクソン夫妻は,妻の前夫との離婚が法的に完了する前に結婚してしまい,その後不倫・重婚の非難に悩まされることになりました。1828年の大統領選挙の時のネガティヴ・キャンペーンは大変なもので,心痛のレイチェル夫人は,ジャクソンの大統領当選後,ホワイト・ハウス入りすることなく亡くなりました。

 

4 福沢諭吉のワシントンの「子孫」架空問答

 

(1)ヴァジニア州編

 ところで,1860年の春,福沢諭吉が太平洋岸のカリフォルニア州ではなく,首都ワシントンに隣接する南部のヴァジニア州(アーリントン付近)にいたらどうだったでしょうか。

 

  ・・・私がふと胸に浮んである人に聞いてみたのは,ほかでない,いまワシントンの子孫はどうなっているかと尋ねたところが,その人の言うに,ワシントンにはそもそも子どもが生まれなかった,ただ内室の連れ子から,男児の孫が一人いて,それに女(むすめ)がある,その女がいまどうしているかといえば,メキシコとの戦争で手柄を立て,去年当州のハーパーズ・フェリーで黒人奴隷解放の叛乱の陰謀を粉砕した当州出身のロバート・リーという陸軍軍人の内室になっていると。なるほどワシントンの縁者だけあって武門の家柄のようだ。・・・

 

 ロバート・E・リー将軍は,1861年からの米国の南北戦争において,南軍の総司令官になる人物ですね。妻は前記のGeorge Washington Parke Custisの娘です。

 

(2)マサチューセッツ州編

 それではヴァジニア州ではなく,北東部ニュー・イングランドのマサチューセッツ州(ボストン近辺)だったらどうでしょうか。

 

  ・・・私がふと胸に浮んである人に聞いてみたのは,ほかでない,いまワシントンの子孫はどうなっているかと尋ねたところが,その人の言うに,ワシントンには子どもが生まれなかったと。こっちの脳中には源頼朝,徳川家康というような考えがあってソレから割り出して聞いたところがいかにも淡泊な答で拍子抜けだ。これは参った。そこで初代に子孫がいないのなら,2代目はどうかと聞いてみたところが,その人が嬉しそうに言うには,2代目大統領はアダムズというが,当地の出身で,その同名の長男は6代目の大統領になったと。6代目も今は亡くなったが,その息子も政事家であって,黒人奴隷の解放を主張する党派に属して大統領の札入れの際副大統領候補に推されたことがあり,現在は当地からの代議員としてワシントン府で公議に参与している,これもナカナカの人物だという。これは不思議だ。私は,アメリカは共和国,大統領は4年交代ということを承知していたが,アメリカでも大統領の子が大統領になるということで,いまのとおりの答に驚いてこれは不思議と思うたことはいまでもよく覚えている。理学上のことについては少しも肝をつぶすということはなかったが,一方の社会上のことについてはそれまで全く方角がつかなかったのだけれども,子は親に似て親の稼業を継ぐものであるということは不思議なことにやはり東西変わらぬものだと思うたわけだ。

 

2代目のジョン・アダムズと区別するため,6代目はジョン・クインジー・アダムズ又はジョン・Q・アダムズと表記されることになります(6代目はQですが,41代目H.Wの子の43代目はWですね。)。ジョン・クインジー・アダムズの人となりについては,「少年期から(あるいは外交官であった父に随行しあるいは単独で留学して)しばしばヨーロッパで生活し,アメリカに帰ってはハーヴァード大学を卒業し,11歳の時から名文で自己反省に満ちた日記をつけ,大統領となってからも早朝4時に起きて読書を楽しんでいた物静かで学究的」な人物であったと紹介されています(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)258頁)。

6代目大統領ジョン・Q・アダムズの息子で1860年当時マサチューセッツ州選出の連邦下院議員(1858年当選)をしていたのは,三男のチャールズ・フランシスです。チャールズ・フランシスが,奴隷制の新しい州への拡大に反対する自由土地党(Free Soil Party)から副大統領候補として,同党の大統領候補である元大統領(8代目)ヴァン・ビューレンと共に出馬したのは,1848年の大統領選挙です。チャールズ・フランシス・アダムズは,南北戦争中には,リンカン大統領に駐英公使に任命されて活躍しています(なお,祖父のジョン及び父のジョン・クインジーも駐英公使経験者でした。)。

 

5 米国における自然の貴族

 

(1)ジェファソン書簡

米国にも名家名門というものがあるのですね。4代目マディソン大統領時代の1813年,ジョン・クインジーの父にしてチャールズ・フランシスの祖父たる前々大統領ジョン・アダムズあての書簡(同年1028日付け)において,前大統領トーマス・ジェファソンは,自然の貴族(natural aristocracy)と人造の貴族(artificial aristocracy)に関して次のように論じています。

 

 ・・・というのは,私は,人々の間には自然の貴族がいるのだということについてあなたに同意するからです。徳と才と(virtue and talents)に基づくものです。・・・また,徳も才もないのではあるが,富と家柄と(wealth and birth)に基づいた人造の貴族もいます。・・・社会の教化,信託及び統治のため,自然の貴族は,自然の与える最も貴重な賜物であると思います。・・・政府の官職にこれら自然の貴族たち(natural aristoi)をこそ選任するために最も効果的な方策を講じた政府の形体が最善のものであるとまで,我々は言わないものでしょうか。人造の貴族は,政府にとって有害な分子であって,その進出を抑える方策が講じられるべきです。何が最善の方策かという問題においては,あなたと私の意見は分かれます。・・・あなたは,擬似貴族(pseudo-aristoi)を立法府の一院に置くのが最善だと考えています。そこでは,彼らの策謀は他の部門(co-ordinate branches)によって妨げられるのでしょうし,また,彼らは人民の多数による土地分配的かつ収奪的な試みに対する富のための防壁となるのでしょう。私の方は,彼らの策謀を抑えるために彼らに権力を与えることは,そのために彼らを武装させるものであり,害悪を匡正するのではなくかえって増大させるものだと考えます。というのは,他の部門が彼らの行動を停止させることができるのならば,彼らも他の部門に対して同じことができるだろうからです。策謀は,積極的にのみならず,消極的にも行い得るものです。このことについては,合衆国元老院(Senate)における一徒党が多くの証拠を提供しています。富者を守るために必要だとも思われません。すなわち,彼らのうちから十分な数の者が,彼ら自身を守るため,立法府の全ての部門に入り込むことだろうからです。・・・最善の解決策は,正に全ての我々の憲法において講じられているところのものであると考えます。すなわち,市民に,自由な選挙及び擬似貴族からの貴族のより分け,小麦のもみ殻からのより分けを委ねることです。一般的に,彼らは真に善い者及び賢い者を選ぶものです。時には富が彼らを腐敗させ,家柄が彼らの目を曇らせることがあるでしょう。しかしながら,社会を危険に陥らせるほどのものではありません。

  私たちの意見の相違は,ある程度は,我々の住む地域の人々の性格の相違に由来するものでもあるようです。私自身がマサチューセッツ及びコネチカットで見たところ,並びに更に私が聞いたところ,及び両州についてよりよく御存じのあなたが御自身の著作において示された前者の性格によりますと,これらの両州においてはいくつかの名家に対する伝統的な崇敬(traditionary reverence)があるようで,それによって政府の官職がこれらの名家にとって世襲のものに近いものになっているようです。あなたがたの歴史の初期の段階から,たまたまこれらの名家の人々は徳と才との所有者であって,人民の利益のためにそれらを公正に行使し,そして彼らの奉仕によって彼らの家名を人民にとって親しいものにしたものであると想像します。・・・しかしながら,あなたがたのもとにおけるこの官職の世襲的継承は,ある程度は真の一族の実力に基づくものでしょうが,より多くは,あなたがたのもとにおける政教の緊密な協調関係(your strict alliance of Church and State)に由来するものです。それらの名家は,人民の見るところにあっては,「あなたが私を掻き,私はあなたを掻いてあげよう。」との共通原則において列聖されているのです。我々のヴァジニアにあっては,そのようなことは全くありません。革命前,我々の聖職者たちは,固定給によって競争者から保護されていて,人民に対する影響力を獲得しようとする努力をしませんでした。富については,イングランドの継嗣限定法の下,世代から世代に受け継がれて特定の家への大きな集中が存在していました。しかしながら,富裕者の唯一の野心の目標は,政府の参議会(King’s Council)における議席でした。彼らは王冠とその取り巻きの機嫌ばかり伺っていました。・・・したがって,彼らは不人気でした。そして,その不人気は彼らの家名になおも付着しています。・・・独立宣言後最初に開かれた我々の議会の会期においては,継嗣限定法を廃止する法律を制定しました。長子の特権を廃止するとともに無遺言被相続人の土地を全ての子又は他の相続人に平等に分割するものとする法律が続きました。私自身によって起草されたこれらの法律は,擬似貴族(pseudo-aristocracy)の根本に大なたをふるったものです。そして,私の準備したもう一つの法案が議会によって採択されていれば,我々の仕事は完了していたところでした。それは,より全般的に知識を広めるための法案でした。・・・各学区に読み書き及び基礎的な算数のための無料の学校を設立するようにします。これらの学校から最優秀の生徒を毎年選抜するようにし,それらの生徒は公費でより高等な教育を地区の学校で受けることができるようにします。そして,これらの地区学校から,一定数の最も前途有望な生徒を選ぶようにし,全ての有益な科学が教授される大学において学業を完了させるようにします。このようにして,あらゆる境遇の中から,ふさわしい者及び天才が探し出され,公共の信託をめぐる競争において富と家柄とに基づく競争者を打ち倒すべく教育によって完全に準備されるのです。・・・聖職貴族(aristocracy of the clergy)を押さえ付けることによってこのシステムの一部をなすとともに市民に精神の自由を回復させた信教自由法並びに市民間の条件の平等を促進する継嗣限定及び不動産相続に関する各法律。この教育に関する法律は,人民大衆を,彼ら自身の安全及び秩序ある統治のために必要な道徳的立派さの高みにまで向上させるはずのものであって,偽者(pseudalists)を排除し,統治の信託のために真の貴族を選び得る資質を彼らに備えさせるという大目標を完結させるはずのものでありました。・・・

 貴族というもの(aristocracy)については,我々は更に次のことを考えなければなりません。すなわち,アメリカ各邦の成立前には,歴史において,狭く又は混雑した境界内にあくせくし,そのような環境がもたらす悪習に染まった旧世界の人間しか知られていなかったということです。そのような連中に適合する政府というものは一つあります。しかし,我らが各州の人間に適合する政府とは非常に異なったものです。こちらにおいては,そう望めば,だれもがそこで自らのために働くべき土地を取得することができます。また,他の仕事をするのが好みであれば,相当の生活(comfortable subsistence)ができるのみならず仕事をやめた老後に備えることもできるだけの収入をそこから得ることができます。全ての人が,彼の財産ないしは満足すべき境遇からして,法と秩序との擁護に利益を有しています。そして,そのような人々は,安全かつ有益に,彼らの公共事務に係る堅実な監理並びに,ヨーロッパの都市のごろつきどもの手に落ちたならば公私にわたる全てのものの解体及び破壊に直ちに変ぜられてしまうこととなるところの高度の自由までを自ら保持することができるのです。過去25年間のフランスの歴史及び過去40年,否,過去二百年間のアメリカの歴史は,この観察の双方の真実を証明してくれます。

 しかし,ヨーロッパでも,目立って人間の精神に変化が生じています。科学が,読みかつ考える人たちの考え方を解放し,アメリカの範例が,人民の権利の感情を喚起しました。続いて,軽蔑されるようになった地位及び家柄に対する,科学,才能及び勇気の叛乱が始まりました。それは,最初の試みにおいては失敗しました。というのは,その達成のために使われた道具たる都市の群衆(mobs)は,無知,貧困及び悪習によって堕落しており,理性的な行動の枠内にとどめることができなかったからです。しかしながら,世界はこの最初の惨害の恐慌から回復するでしょう。科学は進歩しつつあり,才能と企業心は覚醒しています。かれらの節操及び従順からしてより統御可能な勢力であるところの地方人民に対する働きかけがされることでしょう。そして,地位及び家柄並びに虚飾の貴族制度(tinsel-aristocracy)は,かの地においても小さなものとなって最終的に意義薄きものとなるでしょう。しかしながら,このことには,我々は介入する権利を有しておりません。我々にとっては,不忠実なしもべが企む策謀が取り返しのつかない段階に進む前に彼を取り除くことができるように短い期間を置いて行われるものとされた選挙制度の下,我々自身の市民の精神的及び物質的な条件(moral and physical condition)が,彼らを彼らの政府の運営のために有能かつ善良な者を選ぶことができるものと資格づけるものであれば,十分です。

私はこのようにして,我々の意見が相違する点について私の意見を申し述べましたが,これは論争のためではありません。研究及び思索に過ごした長い人生の結果である意見を変えるには,我々は齢を取り過ぎているからです。あなたの以前のお手紙にあった,我々は我々自身をお互いに説明する前には死ぬべきではない,との御提案に従った次第です。・・・

 

 181310月といえば,同月16日からのライプツィヒにおける「諸国民の戦いVölkerschlacht」でナポレオンは敗れ,フランス第一帝政は既に終末期となっていました。しかし,この段階ではジェファソンも,フランス革命は失敗だったと認めていたのですね。ワシントン政権内におけるアレグザンダー・ハミルトンとの抗争の際には,ジェファソンはフランス革命を支持していたはずであり,1792年に王政が廃止されて共和国となり過激化するフランス革命について,「全地上の自由は,この抗争の結果いかんにかかっていたのです。そして,このように貴重な獲得物が,かつてこれほど少ない無辜の血によってあがなわれたことがあったでしょうか。」,「かの地における停滞は,他の諸国における自由の回復を遅らせるでしょう。私は,彼らの政府の確立とその成功とを,我々自身の政府を支持し,かつ,それが英国的国制なる中途半端なものへ転落することを防ぐために必要なものであるとみなしています。」と言って弁護していたのですが(1793年1月3日付けWilliam Shortあて書簡。Randall, p.512)。

 
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ジェファソンを創立者とするヴァジニア大学 (ヴァジニア州シャーロッツヴィル)
 

(2)ジョン・アダムズ家の場合

 ジョン・アダムズの長男の第6代アメリカ合衆国大統領ジョン・クインジーは,徳と才とに満ちた自然の貴族(natural aristocrat)だったのでしょう。ところでそれでは,ジョン・クインジーの二人の弟たちはどのような人物だったのでしょうか。

 次男のチャールズは,十代の半ばには既に両親の心配の種で,ハーヴァード大学の学部学生時代にはアルコール中毒(母方に,アルコール中毒で若くして死んだおじがいました。)の兆候を示しており,更に独立戦争の功労者ながら同性愛者であると見られていたフォン・シュトイベン将軍とニュー・ヨークで同居するなど一般的ならざる性癖を示していたようです(Ferling, John. John Adams: a life. Oxford University Press, 2010 (The University of Tennessee Press, 1992), pp.322-323)。1792年には弁護士業を始めましたが,結局アルコール中毒で肝臓を壊し,父のジョンが大統領選挙でジェファソンのリパブリカン党に敗れた年である1800年の1130日に30歳で死亡しました。チャールズの死の前年の秋,回復不能のダメ人間になっていた次男をニュー・ヨークで見たアダムズ大統領は激怒し,「放蕩者」,「けだもの」,「悪魔に取りつかれた狂人」とののしり,もう二度と会わないし,かかわりも持たないと宣言して,結局そのとおりとなってしまっています(Ferling, p.386)。

 「幸せなワシントン!子どもがないのは幸せだ!」「私の子どもたちは,私の敵全体からよりも多くの苦痛を私に与える。」とは,妻アビゲイルへの書簡中におけるジョン・アダムズの嘆きです(Ferling, p.388)。

 三男のトーマス・ボイルストンも弁護士になりましたが,結局当該稼業は好きになれず,フィラデルフィアからマサチューセッツの地元に移って「青い悪魔」と自ら呼んだ憂鬱の発作に悩まされるようになりました。33歳で結婚し,それから偉大な親のプレッシャーを感じてマサチューセッツ州議会議員となりますが,1年もたたないうちに辞任しています。彼をも蝕むようになったアルコール中毒に関係があるようです。(Ferling, pp.420-42118181028日に母アビゲイルが亡くなった後,父の住むピースフィールド(マサチューセッツ州クインジーにある1788年からのアダムズ邸)に妻と6人の子どもと共に移って来ますが,それには,老父を介助するという目的だけではなく,経済的な理由もあったところです。長兄のジョン・クインジーはワシントンでモンロー政権の国務長官になっていましたが,トーマス・ボイルストンはアルコール中毒が進み,頼りない初老の男になっていました。父の元大統領は,次男チャールズに係る辛い思い出のゆえか,三男のアルコール中毒にかかわることから逃げています。(Ferling, p.438

 

 酒は恐ろしく,子育ては難しい。

 

6 再び福沢諭吉

 

(1)酒

 ところで,酒といえば,我らが福沢諭吉先生も大変なものでした。『福翁自伝』にいわく。

 

  ・・・そもそも私の酒癖は,年齢の次第に成長するにしたがって飲み覚え飲み慣れたというでなくして,生まれたまま物心のできたときから自然に好きでした。いまに記憶していることを申せば,幼少のころ月代をそるとき頭のぼんのくぼをそると痛いからいやがる。スルトそってくれる母が「酒をたべさせるからここをそらせろ」というその酒が飲みたさばかりに,痛いのをがまんして泣かずにそらしていたことは,かすかに覚えています。天性の悪癖,まことに恥ずべきことです。・・・(慶応義塾創立百年記念版48頁)

  ・・・年25歳のとき江戸に来て以来,嚢中も少し暖かになって酒を買うくらいのことはできるようになったから,勉強のかたわら飲むことを第一の楽しみにして,朋友の家に行けば飲み,知る人が来ればスグに酒を命じて,客に勧めるよりも主人の方がうれしがって飲むというようなわけで,朝でも昼でも晩でも時をきらわずよくも飲みました。(同293頁)

 

しかしながら,福沢諭吉は,32ないし33歳のころ,節酒を決意し,3年ほどかけて成功します。健康な人物です。

 

 ・・・支那人が阿片をやめるようなものでずいぶん苦しいが,まず第一に朝酒を廃し,しばらくして次に昼酒を禁じたが,客のあるときはやはり客来を名にして飲んでいたのを,ようやくがまんして,のちにはその客ばかりにすすめて自分は一杯も飲まぬことにして,これだけはどうやらこうやら首尾よくできて,サア今度は晩酌の一段になって,その全廃はとても行われないから,そろそろ量を減ずることにしようと方針を定め,口では飲みたい,心では許さず,口と心と相反してけんかをするように争いながら,次第次第に減量して,やや穏やかになるまでには3年もかかりました・・・私が生涯鯨飲の全盛はおよそ10年間と思われる。その後酒量は減ずるばかりで増すことはない。初めの間はみずから制するようにしていたが,自然に減じて飲みたくも飲めなくなったのは,道徳上の謹慎というよりも年齢老却のせいでしょう。・・・(同293頁)

 

(2)子どもの教育

 さて,子どもの教育は,自然の貴族たるべく厳しくしつけるべきかどうか。

 

  ・・・長男一太郎と次男捨次郎と両人を帝国大学の予備門に入れて修学させていたところが,とかく胃が悪くなる,ソレカラ宅に呼び返していろいろ手当すると次第によくなる。よくなるからまた入れるとまた悪くなる。とうとう3度入れて3度失敗した。・・・なにぶんらちがあかず,子供は相変わらず3ヵ月やっておけば3ヵ月引かしておかなければならぬというようなわけで,なんとしても予備門の修業に堪えず,私もついに断念してしもうて,それからこちらの塾(慶応義塾なり)に入れて普通の学科を卒業させて,アメリカにやって,かの大学校の世話になりました。・・・なんとしてもからだが大事だと思います。(『福翁自伝』慶応義塾創立百年記念版269頁)

 

 優しいお父さんでよかったですね。

まずは独立自尊。

「心身の独立を全うし,自ら其身を尊重して,人たるの品位を辱めざるもの,之を独立自尊の人と云ふ。」ですね(修身要領第2条『福沢諭吉選集第3巻』(岩波書店・1980年)293頁)。自然の貴族となるまでの無理はしなくともよいのでしょう。

1 法律家を志すまで

 マサチューセッツ湾植民地のブレイントリー村で僕は生まれた。親父は,百姓と靴屋をやっていて,村で尊敬されていた人物の一人,会衆派教会の役職者だ。僕は,親父が44歳,お袋が24歳の時の長男だ。弟たちは,3歳年下のピーター・ボイルストンと6歳年下のエリヒュー。5歳の時からお袋に字を読むことを教わった。

 弟たちは家の野良仕事を手伝うことになっていたけど,長男の僕は,じいさんやおじさんのように学問をしろと言われていた。6歳のころから村の塾に行って,それからクレヴァリーという若い教師がやっているラテン語学校に通った。クレヴァリーは,cleverどころか,怠け者で,生徒には無関心で意地悪だった。学校は面白くなかった。くそっ,たばこでも吸うか・・・(僕は8歳の時からたばこを吸った。)。

 親父に,僕は百姓をやりたいと言った。叱られた。

 マーシュ先生のところに通うことにした。18箇月で,植民地の首都近郊にある大学で勉強しても大丈夫だろうと言われるまで進歩した。15歳の春だった。大学の入学試験を受けるのは不安でいっぱいだったけど,試験官の教授たちは親切で,合格することができた。

 最初はどうなることかと思っていたけど,我が植民地における最高学府での学生生活の4年間は楽しかった。

 大学4年生になった。僕は進路について決めかねていた。親父は僕に牧師になってもらいたがっていたが,どうも牧師職は男らしくないようで,魅力を感じなかった。困った人たちに寄り添うというのは,僕らしくなく思われた。教区の病人や教会税の滞納者を訪問して日々を送るよりは,読書や研究をして過ごしたかった。聖職者には,それらしくあるために守るべき規則や, 機嫌を損ねないようにしなければならない人が多過ぎるのだ。

 真面目な清教徒の親父は法律家を三百代言呼ばわりして嫌っていたけど,僕は法律家の仕事に魅力を感じていた。そのころには,名門の出身者も弁護士になるようになっていた。

 僕は,名誉と名声とが欲しかった。偉大な人間になりたかった。そのために僕は,法律家になりたいと思ったんだ。

 けれど,牧師にならずに,せっかく僕のために学費を負担してくれた両親をがっかりさせるのは気が重かった。小さな村の狭い事務所で無意味な書類の山に埋もれてあくせくする貧乏弁護士で終わってしまうのではないかという不安もあった。聖職者か法律家か,僕は決めかねていた。そこで,ウスターの町でラテン語の教師をすることにした。

 ウスターは田舎で,うんざりした。生徒たちにもうんざりした。進路に関する悩みは続いた。けれども,とうとう僕は決心した。21歳になる少し前の夏(僕の誕生日は,ユリウス暦だと1019日,今のグレゴリオ暦だと1030日だ。),ウスターのジェイムズ・パトナム弁護士のもとに2年の期間で弟子入りをした(そのころは,ロー・スクールなんてものは無かった。)。

 


2 苦労時代(法律修業時代から駆出し弁護士時代まで)

 2年間の法律修業時代は辛かった。同年代の友人はいなかったし,やるべきことは多かった。パトナム先生は親切で正直だったけど,まだ28歳で,ちょっと物足りないところもあったかな。法律修業は,僕が22歳の時の8月に終わった。ウスターに残って弁護士をやれと言ってくれる人もいたけど,僕はブレイントリーの親父のもとに戻って弁護士を開業することにした。何といってもブレイントリーは首都の裁判所の管轄区域内だから,その分弁護士として活躍の機会も多いというわけだ。

 その年の秋,僕は首都に出かけた。市の弁護士会の長老であるジェレマイア・グリドレー先生はすっかり僕を気に入ってくれて,僕に二つの忠告をしてくれた。一つ目は,早く結婚するな,だった。二つ目は,富を求めて法律業をするな,法に対する愛からしろ,だった。

 開業直後の競争は人生で最も厳しかった。同年輩のライヴァルには,ネッド・クインジーとサミュエル・クインジー,ロバート・トリート・ペインなどがいた。ペインの方が僕よりできるようだった。クインジー家の連中には,実家のコネがあった。ところが僕ときたら,書斎にろくな本はないし,有力な友人もいなかった。つるはしなしで,自分の爪で,埋もれた金をかき出さなきゃならなかった。法律で食っていくためには,すべての石をひっくり返して仕事を探さなけりゃならなかった。クインジーの連中もペインも意地悪で,「あいつはばかだ,とんまだ」と僕の悪口を言い触らしているようだった。ライヴァルたちに負けないように狡猾に立ち回ることが,僕にはできないのではないかと不安だった。

 最初の事件が来た。隣家の馬に畑を荒らされたジョーゼフ・フィールドさんの代理人としての損害賠償請求事件だ。ところが,実務経験不足の僕は, まずい準備書面を書いてしまって敗けてしまった。ペインにばかにされるのではないかと怖かった。一流の法律家には金輪際なれないのではないかとの不安にさいなまれた。そして, フィールドさん, ごめんなさい。

 23歳になっていた僕には,好きな娘ができた。しかし,うまくいかなかった。続いてハンナ・クインジーに僕は夢中になった。僕は彼女に駆出し弁護士の苦労について語った。彼女は貧乏を気にしないと言ってくれた。けれど僕がもたもたしているうちに,ハンナは医者のベラ・リンカンに取られてしまった。ハンナはリンカンと婚約してやがて結婚し,僕は全く落ち込んでしまった。

 最初の2年間,僕の弁護士業は結局立ち行かないのではないかと思われた。仕事のことを考えると,胸が苦しくなった。僕は有名になりたかった。けれども,僕が輝くことはあり得ないことのようだった。

 有名になるために法学研究をするのは迂遠で時間がかかる。人脈を作ろうにも僕の性格はそれには向いていない。そうだ,何かの運動に参加してみよう。まずは禁酒運動だ。ブレイントリーの飲み屋の数は減らすべきだ。次は,ちゃんと修業をしていない三百代言征伐だ。

 2年たって,やっと仕事が増えてきた。相続問題が多かった。25歳になる秋には,陪審裁判で初めて勝訴した。心が軽くなった。僕はこしゃくな奴(saucy)だってさ,ははは。

  それからは仕事がうまく行き始めた。僕は自信を持つことができるようになった。当植民地の法曹界でだんだん一目置かれるようになってきた。26歳になった翌月の11月には,最高裁判所で弁論することが認められるようになった。

 ただ,残念だったのは,僕が25歳の時の5月に,親父がインフルエンザで亡くなったことだった。(とはいえ,親父の遺産の3分の1を相続して,僕は初めて事務所を構えることができた。)

 


3 新婚時代

 27歳の時の2月に,フランス人及びインディアンとの戦争が終わった。

 その年の春から夏にかけて,僕は首都の新聞のために匿名論文を書いた。新聞記事掲載はこれが初めてだった。お偉方を風刺したり,望ましい政体について論じたものだ。望ましい政体というのは,君主政,貴族政及び民衆政の混合政体だね。

 29歳になる直前の1025日,僕は結婚した。妻は19歳。ウエイマスのウィリアム・スミス牧師の中の娘で,黒髪の才女だ。スミス家は裕福で,牧師としての収入のほかに二つの農場からのあがりがあり,奴隷も4人所有している。

 翌年の1月から,僕はグリドレー先生に誘われて,当地の限られた最優秀の法律家の勉強会であるソダリタス(Sodalitas)に参加するようになった。その勉強会での僕の報告は,新聞にも掲載された。

 その年の7月,長女アビゲイルが生れた。僕は29歳で父親になった。仕事も順調だし,僕は幸せだった。だけど,ぽっちゃりしてきたみたい。

 


4 最初の反税闘争

 ところが突然,反税闘争が起きた。本国政府に対する反抗だ。おいおいよしてくれ,せっかくクライアントが増えてきて何とかなってきた僕の法律家としての地位がだめになってしまうかもしれないじゃないか。

 僕のまたいとこのサミュエルが暴れていた。最高学府まで行っていながら,起業しては失敗し,遺産を食いつぶした挙句に税務署の小役人をしている43歳の中年男だ。サミュエルは,僕にもっと大っぴらに反税闘争に参加しろと言う。そうすればもっと有名になれるぞと言う。そりゃ本国政府の当該施策は間違っているし,賢明でもない。けれども,騒動が終わった後の反政府派の末路を思うと,前年に租税徴収官として業務上横領に問われかけたばかりのこの貧乏おじさんの口車に簡単に乗るわけにはいかないな。

 問題の新税法は,僕の30歳の誕生日の翌々日である11月1日から施行された。しかし,反税闘争のおかげで,当該税の徴収官はいなかったし,裁判所も休業状態だ。

 翌年の5月,問題の新税法は廃止された。裁判所業務も再開された。植民地議会には多くの反税派が選ばれていた。サミュエルもその一人だ。僕もまあ,目立たぬながらも反税派の側に立って活動していたんで,初当選を期待していないではなかった。ところがどうしたことだろう,ブレイントリー村の連中は,僕を代議員に選ばなかった。民兵大尉で居酒屋の親父のゼイヤーが,またまた選ばれたんだ。くそっ,残念。更にけしからぬことには,ゼイヤーの親父は,ちゃんとした法律修業をしていないくせに弁護士業務をしている代言人なんだ。しかも,あろうことか,ゼイヤー親父はたびたび法廷で僕を立往生させやがっていた曲者なんだ。二重三重に悔しかった。預言者は家郷に容れられずということか。田舎者どもめっ。

 


5 一人前の弁護士に

 32歳になるまでには,僕はひとかどの弁護士になっていた。当植民地の若手弁護士の中ではトップ・スリーに入るものとひそかに自負していた。金持ちというわけではないが,家族には余裕のある生活をさせることができた。巡回裁判のために家族と離れなくてはならないのは辛いし,仕事の性格上,孤独や退屈にさいなまれることはあった。けれども,満足していい境涯だと思った。

 僕が31歳の時の7月,長男が生れた。長男のミドルネームはクインジーだ。むむむ,あのハンナと関係が無いわけではない。母方の曽祖父にあやかって付けた名前なのだが,妻の母の実家はクインジー家で,妻とハンナとはまたいとこなんだよね。

 32歳の時の4月,僕の家族はブレイントリーから10マイル離れた首都に引っ越した。最初は,近所の人々から「ホワイト・ハウス」と呼ばれている家を借りた。それから約1年たって別の家に移り,その後また中心街に引っ越した。「ホワイト・ハウス」といえば合衆国大統領官邸みたいだって?何だいそりゃ,「アメリカ合衆国大統領」ってのは。そんな官職聞いたことないぞ。いずれにせよ,「ホワイト・ハウス」には長居は無用さ。「ホワイト・ハウス」時代に生まれた二女のスザンナは病弱で,2歳になる前に死んでしまったんだ。

 


6 キング・ストリート殺傷事件弁護

 


(1)事件

 ところで本国がまた新らたな税金をかけてきて,今度は正規軍まで駐屯させて来た。サミュエルたちはまた反対運動だ。

本国正規軍の駐屯兵と植民地の住人とのけんかざたが,たびたび起こった。ただでさえうさんくさがられて警戒されていた正規軍の兵隊たちは,非番のときにはアルバイトをして,未熟練労働者の職まで奪って迷惑がられていた。更に悪いことには,連中,地元の女の子たちとデートをするという図々しい所業にまで及んでいたんだ。一触即発。

 こうした状況の中で,僕は34歳の春を迎えようとしていた。

 その3月5日の月曜日,冷たい夜にその事件は起きた。

午後8時過ぎ,首都の税関の前で,棍棒を持ち罵詈雑言を浴びせかける約4百人の群衆と,40歳のアイルランド人であるトーマス・プレストン大尉に率いられた8人の正規軍兵士とがにらみ合っていた。(その晩僕はソダリタスの会合に出ていたので直接見たわけではない。各種の証拠から認定した事実だ。)兵士たちは銃剣付きのマスケット銃を持ち,半円形の隊形を作っていた。撃てるもんなら撃ってみろと兵士を挑発する奴がいた。射撃命令を出すなと言って来る者もいた。大勢の群衆の敵意に囲まれたプレストン大尉は戦慄した。彼にとっては悪夢のような場面だった。

 棍棒を投げつけて来た奴がいた。棍棒が兵士に当たった。発砲。6秒の間を置いて,更に連続発砲。けが人が出た。5人は瀕死だ。雪の上に血が飛び散っていた。命令なしの発砲に慌てたプレストンは,打ち方止めを叫びながら駆け回った。群衆は驚愕し,呆然としていた。プレストンは兵士らをまとめると,帰営した。帰営を妨害する者はいなかった。

 これが「キング・ストリート殺傷事件(Slaughter in King Street)」のあらましだ。

 


(2)裁判

 サミュエルたちは,自分らの反本国政府運動のために,この宣伝機会を逃さなかった。犠牲者のために盛大な葬儀が挙行された。当該事件は反対派を黙らせるために計画された税関と軍との陰謀の結果だ,と主張するパンフレットの出版がそれに続いた。

 3月中に,大陪審はプレストンと兵士らを起訴した。ハンナの兄のクインジーが特別検察官に任命された。あのペインも訴追チームに加わった。

 弁護人の選任は難航した。そりゃ地元の住民を5人も殺したよそ者を弁護するんだもの,後の業務のことを考えると地元の弁護士は尻込みするよね。東洋の賢しらな学者ならば,「君子危うきに云々」とでも言うんだろうね。

 で,だれがそんな大変な仕事を引き受けたかって?

 僕だ。

 すべての人には,公正な裁判を受ける権利があるからだ。

 弁護団は,僕のほか,特別検察官の弟であるジョサイア・クインジーほか2名の合計4名で構成されることになった。

 プレストンと兵士らの裁判は,夏が過ぎるまで始まらなかった。(それまでの間に,僕は植民地議会の代議員に補欠選任されていた。サミュエルが陰で動いていたって?その話の真偽について論ずべき場所は,ここではないね。なお,5月には次男のチャールズが生れた。)

 9月の初めに罪状認否があった。その6週間後に,新しい裁判所の建物の2階にある法廷で,審理が始まった。大勢の傍聴人が詰めかけていた。

 僕はまず,プレストンの弁論と兵士らの弁論とを分離することに成功した。プレストンは直接人を殺傷したものとしては起訴されていなかったから,発砲命令があったとの立証を崩せばよいわけだ。

 プレストンの審理は5日間かかった。発砲命令を立証すべき検察側の証人は15人いたが,我々の反対尋問でぐらぐらになった。それに対する弁護側の証人は23人。事件の晩,混乱の中にあって,兵士らは圧倒的多数の暴徒に取り囲まれて挑発と威嚇とを受けていたことをしっかり証言してくれた。3時間の評議で,陪審員はプレストン大尉の無罪を評決した。(無論,陪審員を選ぶところから,僕らは本国びいきの人が残るようにしていたからね。)

 11月(僕は35歳になっていた。)に,兵士らの審理が始まった。

 検察側はヘマだった。検察側の最初の証人は,こともあろうに,事件の晩,実はキング・ストリートにいなかったと言い出した。他の検察側の証人も,群衆が「撃てみやがれ!撃ってみやがれ!(Fire! Fire!)」と不安な情況にある兵士らを挑発していたと証言してしまった。群衆がたびたび兵士らに物を投げつけていたという証言も取れた。そうだよ, そうだよ, 事実ってやつは, 強情なものだからね(Facts are stubborn things.)。僕は陪審員に対して,兵士らが侵害にさらされていたとすれば,そのようなことをしている「a motley rabble of saucy boys, negroes and mulattoes, Irish teagues and outlandish jack tars〔注・差別用語が含まれているようです。〕」に対して自衛のために発砲する権利があったのだし,侵害にさらされていなかったとしても挑発されたのであったならば,謀殺故殺ではなく,殺傷の罪にすぎないと弁論した。陪審員(実はまた僕らはうまくやって,陪審員中には地元である首都の市民は一人もいなかった。)は僕の弁論に同意してくれて,8人の兵士中,6人は無罪となった。残る2人は殺傷の件で有罪とされたけれども,初犯だったので「聖職者の特権(benefit of clergy)」を行使して(聖職者でなくとも, 詩篇第51篇のneck verseを知っていればいいのだ。),親指に烙印されるだけですんだ(この烙印は,当該特権を同人は「使用済み」との印だ。)。

 この年は,めでたく終わった。キング・ストリート殺傷事件の弁護のせいで仕事が減るかと思ったけれども,かえって僕の賢明な弁護士という評判が高くなった。しかも今や議会の代議員さまでもある。年間の取扱事件数は約450件に達し,僕は当植民地の最も売れっ子の弁護士の一人となった。ロー・クラークも常時2,3人雇っている。クライアントは当地のエリートぞろいだ。議会の議長を最近二人出したボードイン一族,大商人のジョン・ハンコック,財務監のグレイ,前総督のバーナード閣下等々。隣のニュー・ハンプシャー植民地のウェンワーズ総督閣下も僕のクライアントだ。お金も入るようになった。ブレイントリーの地所と家屋のほか,首都にも家があり,教会のいい席も買った。蔵書も大充実した・・・。

 


7 1773年3月

 ところで,1773年の今日は,1770年3月5日に起きたキング・ストリート殺傷事件の3周年記念式典の日だ。

この前,例のまたいとこのサミュエルが,僕に式典でスピーチしてくれと言ってきたけど,プレストンと兵士らの弁護人であった僕としては,断った。37歳にもなって,齢を取り過ぎたと言ってやった。大体サミュエルはいい齢のじいさんなのに過激でいけない。何が虐殺(「ボストン虐殺事件(Boston Massacre)」)だ。大げさで不正確だ。僕が無罪を取ったあの事件は飽くまでもキング・ストリート殺傷事件だ。同じアダムズ一族でも,同じハーヴァード大学の卒業生でも,首都ボストンのサミュエル・アダムズとブレイントリーのジョン・アダムズとは違うのだ。サミュエルは,馬にも乗れやしないのだ。

しかし,ああ,あの事件における兵士らの刑事弁護活動は,これまでの僕の人生における無私の行動の中で,最も勇ましく,かつ,太っ腹なものの一つだったのだ。中年期を迎え,大英帝国の植民地におけるジョージ3世の臣民として,今後僕の人生はどうなって行くのだろうか。あの裁判での勝利のとき以上の栄光は,再び僕に訪れるのだろうか。このくににおける長男のジョン・クインジーら子どもたちの未来はどうなるのだろうか。どういう栄光と偉大とがあるのだろうか。まあ,腹をさすり,茶でも飲みながら考えるとしよう・・・。

 


(参考文献)Ferling, John E., John Adams: a life (Oxford University Press, New York, N.Y., 2010)



弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

渋谷区代々木一丁目57番2号ドルミ代々木1203(代々木駅北口そば。新宿駅南口からも近いです。)

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電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

1 リップ・ヴァン・ウィンクル

 米国の小説家ワシントン・アーヴィングに“Rip van Winkle”という作品があります。18世紀,北アメリカはハドソン川流域のオランダ系植民者の村に住んでいたリップ・ヴァン・ウィンクルを主人公とした物語です。森鷗外による邦題は,『新浦島』。

アメリカ独立革命が起こる前のこと,怖い奥さんを苦手とするリップが,難を避け,いつも仲間とその前のベンチにたむろして駄弁っていた旅館には「ジョージ3世陛下の血色のよい肖像(a rubicund portrait of His Majesty George III)」が目印の看板として掲げられていました。ところが,リップがうっかりキャッツキルの山中に入って一眠りして20年を過ごしてしまってから村に戻って来た時には,その間に建て替えられた旅館の看板に依然として描かれてある赤々とした顔(ruby face of King George)はかつてと同じようであっても,赤い袍は青と淡黄褐色のコートに変わっていて,手は笏の代わりに剣を持っており,頭には三角帽,そして看板の下部には大きな文字で「ワシントン将軍(GENERAL WASHINGTON)」と書いてありました・・・というようなお話です。

 

2 ジョージ3世

 ところでリップの村の旅館の看板になっていたアメリカ独立革命時の英国及び北米13植民地の王であったジョージ3世とは,どのような人だったのでしょうか。

 

ジョージ3世は,〔ドイツから来たハノーヴァー朝の〕先代のジョージ1世や2世と異なり,イギリスで生まれ,イギリス風の教育を受けた生粋のイギリス人で,母からつねに「ジョージよ,王者たれ」とはげまされ,テューターのボリングブルックから「愛国王の思想」を吹きこまれていた。ジョージ3世は王権の回復をめざし,ウォルポール以来の議会政治を変更しようと試みたが,ステュアート朝の諸王のような絶対君主たらんとしたわけではない。ただ曽祖父〔ジョージ1世〕や祖父〔ジョージ2世〕が失った権力をとりかえして,ウィリアム3世〔名誉革命で即位した王〕の昔に帰り,一政党,一党派ではなく,あらゆる政党,党派のベストメンバーをすぐって王に奉仕させようとしたにとどまる。王は,「王の側近(キングス‐フレンド)」を中心として親政を行ない,「君臨すれども統治せず」の原則に暗影を投じたが,アメリカの植民地の独立やアイルランド問題などで失敗した。そして1783年,24歳の青年小ピットが首相の地位につくにおよび,議会政治がふたたび回復にむかったのである。(大野真弓『世界の歴史8絶対君主と人民』(中央公論社・1961年)475476頁)

 

  1760年に即位したジョージ3世は,国王が自らCabinetに臨み,行政権の首長として行動するという体制を復活しようとした。ビュート(Earl of Bute; John Stuart)がPrime Minister176263年,ノース(Frederick North)がPrime Minister177082年と,ジョージ3世は国王親政を試みる。

  ・・・

  もしジョージ3世がその統治に成功していれば,あるいは,国王が名実ともに行政権の首長であるという体制が〔英国に〕一時復活したかもしれない。しかし彼は,アメリカ植民地問題をかかえて,結局その処理に失敗し,アメリカの独立を招いた。この失敗がどこまで国王個人に帰せられるべきかは,はっきりしないが,失敗したという事実は決定的である。また,ジョージ3世の政治指導力が,例えば〔その孫の〕ヴィクトリア女王などに比べれば劣っていることは否めまい。また彼が,1765年,178889年,180304年と精神病にかかったことも,その指導力を低下させたに違いない。(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)143頁)

 

 アメリカ独立宣言では暴君呼ばわりされていて,ややお気の毒な王様です。

 

3 トーマス・ジェファソン

これに対して,ジョージ3世の当該悪口をアメリカ独立宣言に書き連ね,かつ,同王治下の英国が大嫌いであったトーマス・ジェファソンの人柄は,どのようなものだったのでしょうか。

 ジェファソン(5セント玉)の宿命の政敵であったワシントン政権の元財務長官アレグザンダー・ハミルトン(10ドル札)が,ジェファソンが第3代大統領に当選した1801年の米国大統領選挙(連邦議会下院における投票にまでもつれ込んだもの)の際,フェデラリスト党の仲間であるJ.A.Bayardあてに同年1月16日付けで書いた書簡にいわく。

 

 ・・・恐らく私が最初に,自分の不人気と引換えにジェファソンの正体(true character)をあばいたわけですから,今更彼の弁護人(apologist)になるのには遅過ぎますし,その気にもなれません。私は,彼の政見(politics)には狂信(fanaticism)の気味があること,彼がその民衆政治論(democracy)において大真面目に過ぎること,彼は我らが今までの政権〔ワシントン及びアダムズ政権〕の主要政策に対して有害な敵(mischevoussic enemy)であったこと,彼はその目的のためには狡猾かつ執拗(crafty & persevering)であること,彼は成功のためには手段を選ばない(not scrupulous)こと,彼は真実を必ずしも尊重しないこと(not very mindful of truth),そして彼は見下げ果てた偽善者(contemptible hypocrite)であることを認めます。・・・

 

なかなか取り柄がなさそうです。しかし,不幸中の幸い,その悪さには限界があるようです。

 

・・・彼は,私の知る他の人間と同様に俗物的です(to temporize)――何が彼自身の評判を高め,彼の有利に働くだろうかを計算するわけです。そして,このような気質から想定される結果は,当初は反対したとはいえ,いったん出来上がった以上は,それを試みる者に対する危険なしにはそれを覆し得ないところの諸制度の維持ということになります。私の思うところでは,J氏の性格の正確な衡量からは,暴力的なシステムというよりは妥協的なシステム(a temporizing rather than a violent system)を期待することが保障されるところです。・・・彼が腐敗させられ得るとの考えを支持すべき相当な理由はない(no fair reason)ということもつけ加えましょう。このことは,彼はある一定の限度を越えることはないということの保証になります。・・・

 

 同じくハミルトンの18001226日付けG.Morrisあて書簡には次のとおり。

 

 ・・・この世界において私が憎むべき者がいるならば,それは,ジェファソンです。・・・

 

というのは,ジェファソンは,「宗教においては無神論者(Atheist),政治においては狂信者(Fanatic)」だったからでしょう(A.ハミルトン・同年5月7日付けJ.Jayあて書簡)。「無神論者」は,米国では負の評価を帯びた由々しい言葉です。

同じくヴァジニア出身である国務長官ジェファソンと独立戦争における有能な副官であった財務長官ハミルトン(こちらはカリブ海出身)との不仲は,初代大統領ジョージ・ワシントンにとって心痛の種でした。両者の和解の勧試がされたものの,両雄は並び立ちません。

 

・・・私〔ハミルトン〕は,ジェファソン氏が同氏の現在の職〔国務長官〕に就くためにニュー・ヨーク市〔アメリカ合衆国の最初の首都〕に来着した当初〔1790年〕から,私が同氏からの変わることなき妨害(uniform opposition)の対象であったことを知っています。最も信頼の置ける情報源から,私がしばしば当該方面からの意地悪なささやき(most unkind whispers)やあてこすりの対象とされていたことを知らされています。私は,彼の後援の下に私を失脚させようとして形成された党派〔Republicans又はDemocratic-Republicans。ただし,現在の共和党の前身ではなく,民主党の前身〕が,立法府に存在しているのを見てきました。私の手元にある証拠からして,〔ワシントン政権を攻撃する〕ナショナル・ガゼット紙が政治的目的のために彼によって設立されたこと,並びに同紙の主要目的の一つが,私及び私の省が関係する政策のすべてが可能な限りいとわしいものとして認識されるようにすることであったことを疑うことはできません。・・・(A.ハミルトン・1792年9月9日付けG.ワシントンあて書簡)

 

 ハミルトンの言い分ばかり伝えるのは不公平でしょうか。とはいえ筆者には,ハミルトンについては格別の思い出があります。

 初めて米国に渡った時,同国のお札に肖像が出ている人物中,ベンジャミン・フランクリン(100ドル札),グラント(50ドル札),ジャクソン(20ドル),リンカン(5ドル)及びワシントン(1ドル)は何者だか分かっていても(フランクリン,リンカン及びワシントンについては我が国に子供向けの伝記もあって周知。グラントは,南北戦争の北軍の有名な司令官であって後に大統領になったということで記憶がありました(なお,グラントは実は尖閣諸島問題にもからむ人のようです。)。ジャクソンについては,山川の高校世界史の教科書に「ジャクソニアン・デモクラシー」ということが書かれていて,これは大学受験勉強的には何やら重要なのであろうという認識がありました。まあ,ジャクソンは,簡単にいえばOKの人なのですが。),しかし10ドル札のハミルトンというのが分からない。大統領でもないのになぜお札に顔が出ているのか。田舎の街の雑貨用品店で,他にお客もいないようなので,レジの中年女性に,10ドル札を出しながら,それまでなかなか通じず苦労した下手な英語で図々しく“Who is he?”と訊いてみたところ,怪しい東洋人の妙な質問でありながらも親切にも理解してくれて,

 

 “Ooh, Alexander Hamilton. Our first Secretary of the Treasury!”

  (うーん,アレグザンダー・ハミルトン。初代の財務長官ね。)

 

 とのご名答。

 アメリカの女性は偉いものだ,と思ったことです。

 

4 ジョージ3世vs.ジェファソン

 この性格の悪いジェファソンが,北米独立13邦の駐仏公使として,ロンドンで「暴君」ジョージ3世に接見せられたことがあります。1786年3月17日,セント・ジェイムズ宮殿における接見会でのことでした。35年後のジェファソンの自伝にいわく。

 

  例によって私が接見会(levees)に国王及び王妃に伺候したところ,アダムズ氏〔当時の駐英公使〕及び私を見た彼らの態度ほど不快(ungracious)なものはなかった。私は,このラバ的生物(mulish being)の狭隘な精神に生じている潰瘍からして,私の伺候からは何も期待できないことを直ちに了知した。(Randall, W.S. Thomas Jefferson: a life. New York; HarperPerennial, 1994. P.412

 

分かりにくいのですが,どうも,駐英公使アダムズが接見会において駐仏公使ジェファソンをジョージ3世及びシャルロット王妃に紹介して両公使がお辞儀をしたところ,王及び王妃はつと玉座から立ち上がって両者に背を向け,満座の外交団の前で北アメリカ13邦を代表する両閣下に恥をかかせた,ということのようです(Randall, p.413)。

しかし,極めて几帳面なジョン・アダムズ自身がこの時のことを書いておらず,また,シャルロット王妃はジョージ3世の接見会には臨席しない仕来りだったようで,上記の話には疑わしいところがあります。つまり,実際のところは違うようです。すなわち,ジョージ3世の接見会は,弧状に並んだ外交官たちの前を,お付き二人を従えただけの国王が,その右側に立つ各国外交官と短い会話を交わしながら歩いて行くという格式張らない形式のものであって,華麗なヴェルサイユ宮殿の儀式に慣れたジェファソンとしては興ざめし,かつ,ジョージ3世もジェファソンとは特に話すべき話題はなかったので(さすがにアメリカ独立宣言の内容について「あれはひどいね」と議論するわけにはいかなかったでしょう。)さっさと次の外交官との会話に移ってしまったということだったようです。英国の歴史家Ritchesonによれば,ジョージ3世自身は,公の場で横柄な態度をとること(public rudeness)は国王のすべきこととは考えていなかったようで,また,「彼の親しみやすさ,礼儀正しさ,打ち解けやすさ並びに小咄,お上手及び冗談の種を豊富に持っていることは称賛されていた。」とのことでありました。(以上,Randall, p.413

ジェファソンとしてはジョージ3世に馬鹿にされたように感じたのかもしれませんが,確かに,ハミルトンによれば,ジェファソンは「真実を必ずしも尊重しない」人物でありました。

 

5 二人のジョージ

ジェファソンにかかるとラバ並みの扱いですが,ジョージ3世は,むしろ公正な人物であったように思われます。

パリ条約(1783年)後の北米13邦からの初代駐英公使であるアダムズ(彼もアメリカ独立宣言起草委員の一人でしたね。)の英国国王による接受(1785年)は,「アダムズにとって感動的な経験(moving experience)であった」そうです。「かつての叛臣であるアダムズは,神経質に震える声で,今や連合13邦は英国との友誼を求めている旨言上した。国王は,アメリカの離脱を押しとどめることはできなかったが,今やそれがなされてしまった以上,彼も同様に友好関係を望むと答えた。会見は短かった。ジョージ3世は,堅苦しくお辞儀をして,アダムズに下がってよい旨を伝えた。当該使節は外交儀礼に従い3度お辞儀をし,おぼつかなく後ずさりして接受の間から引き下がった。直後のロンドン・クロニクル紙は「ジョン・アダムズ閣下は,極めて丁重に(most graciously)接受された。」と報道した。」ということです(Ferling, John. John Adams: a life.  New York; Oxford University Press, 2010. p.280)。「うわさ好きの外交団の間では,アダムズが信任状を捧呈した後,アダムズを歓迎するに当たって国王の目には涙があり,そして,胸がいっばいであるとの様子であったとの話までが伝えられた。」ともいわれています(Randall, p.412)。

ジョージ3世は,ジョージ・ワシントンの偉大さを,率直に評価していました。

北アメリカ出身の宮廷画家ベンジャミン・ウェストとの間での会話。

 

・・・ある日,国王〔ジョージ3世〕はウェストに対し,〔アメリカ独立〕戦争が終わったときにワシントンは軍の最高司令官になるのか国家元首になるのかどちらかと訊いた。ワシントンの唯一の望みは自分の地所に戻ることだとウェストが答えると,雷に撃たれたようになって国王は叫んだ。「もし彼がそうするとなると,彼は世界で最も偉大な男だということになる。」と。(Chernow, Ron. Washington: a life. New York; Penguin, 2010. P.454

 

その後,ワシントンが2期8年をもって合衆国の大統領を辞するに当たってのジョージ3世の総括。

 

・・・最初は統帥権を,そして今,統治権を返上することによって,彼は「現代最大の偉人」として屹立した,とジョージ3世は言ったと伝えられている(By giving up first military and now political power, he stood out as “the greatest character of the age” according to George III)。彼は,かつての敵を,遅ればせながら評価するようになっていた。・・・(Chernow, p.757

 

 ジョージ3世にとって,ジョージ・ワシントンはやはり格別の存在だったのです。

 

・・・〔1789年〕2月末には二人のジョージの奇妙に対照的な運命は更に一層奇妙なものになったところであって,パリからグーヴェルヌール・モリスが,王の狂気の思いがけぬ進行について報告してきた。「ところで」と彼はワシントンに書いた。「哀れなイングランド国王が陥った悲しむべき情況についてなのですが,あなたとの関係で私が聞いたところによりますと,何やら妙なことがあったようです。」狂気の発作の中で――モリスが書くには――王は「自分のことを,何とだれあろう,アメリカ軍の先頭に立つジョージ・ワシントンだと思っていたのです。つまりあなたは,彼のはらわたに一番ひどくわだかまっている何やらをやったのだったというわけですね。」妄想は一過性のものであった。1789年4月23日,すなわちジョージ・ワシントンが群衆の歓呼の中で大統領に就任する精確に1週間前に,ジョージ3世は奇跡的に譫妄状態から回復し,ロンドンのセント・ポール教会では感謝の儀式が執り行われた。彼は,稀な遺伝性疾患であるporphyria(ポルフィリン症。20世紀になるまでは正確に診断することができなかった。)を患っていたのではないかとの仮説が提出されている。・・・(Chernow, p .570

 

 ジョージ3世とジョージ・ワシントンとを区別することが難しかったのは,リップ・ヴァン・ウィンクルばかりではなかったわけです。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

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  (Independence Hall, Philadelphia, PA)

 
 昨日始めたこのブログに最初に掲載した記事は,つい力が入り過ぎたようです。読まれる方々は長さに辟易されるでしょうし,書く方も同じ調子で続けるわけにはとてもいきません。このままでは龍頭蛇尾が避け難いのではないかという悪い予感が自ずから生じてくるところです。

 ということで,今回は軽い話題です。
 本プログ名が,気取った工夫のあるものではなく,「Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)」と,短く無愛想なものになった理由は何かというお話です。

 なぜか時代はさかのぼって1776年7月の初め,北アメリカはペンシルヴァニアのフィラデルフィアが舞台となります。大陸会議(Continental Congress)の議場では,トマス・ジェファソンが原案を起草したイギリスからの独立宣言案が,同月2日から同月4日にかけて審議されておりました。
 独立宣言案は,ジェファソンの原案に,凧と雷のベンジャミン・フランクリン及び後の2代目合衆国大統領ジョン・アダムズが若干手を加え,この3人並びにロジャー・シャーマン及びロバート・リヴィングストンによって構成される五人委員会が実質的な変更なしにそのまま採択し,同年6月28日に大陸会議に提出されたものでした。すなわちジェファソンの作品であったところです。

 しかし,提出された委員会案には,大陸会議の保守派によって,相当の斧鉞が加えられることになりました。したがって,実は,1776年7月4日に採択されたアメリカ独立宣言は,当時必ずしもジェファソンの満足する形のものではありませんでした。
 大陸会議の議場において,目前で展開されるこれらの原案毀損行為に心穏やかでなかった(not insensible to these mutilations)33歳のジェファソンの隣に座っていたのは,70歳のベンジャミン・フランクリン。老フランクリンは大要次のような小咄をささやいて,心痛のジェファソンを慰めました。


 「私は,後で人様から手直しを受けることになる文案を書かされるような羽目にならないように注意しているんだよ。まあ,これから話すようなことがあったからね。昔,私の印刷職人時代の仲間の帽子職人が,いよいよ独立して,自分の店を開くことになったんだな。そこでやっこさんが最初に気をつかったのは,うまい文句の書いてあるかっこのいい看板を用意することだったんだよ。で,自分でまあ書いたわけさ。「ジョン・トンプソン。帽子職人。現金払いにて帽子を製作販売仕り候。」と,帽子の絵を添えることにしてね。ところが,やっこさん,どこか直すところがないか友だちに見てもらうことにしちまったんだな。で,一人目が言うには,「帽子職人」は余計だというんだよ。「帽子を製作」でそのことは分かるというんだね。で,「帽子職人」は削られた。二人目は今度は「製作」は要らないと言う。品物が良くて気に入りさえすれば,客はだれがその帽子を作ったかなんぞには頓着しないで買ってくれるというわけさ。で,「製作」は削られた。三人目は,こちらは,「現金払いにて」とわざわざ書く必要はないとの御託宣だ。この近隣では掛売りの習慣はない,皆即金で支払ってくれるということだ。で,その部分も削られて,今や看板の案は「ジョン・トンプソン。帽子を販売仕り候。」に縮まってしまった。で,次の友だちが言ったものさ。「帽子を販売だって?だれもお前さんがただで帽子をくれるなんて思いやしないよ。余計な文句だよ。」とね。で,「販売仕り候」が削られ,「帽子を」も帽子の絵があるから要らないということになった。結局,やっこさんの看板は,めでたく「ジョン・トンプソン」ということに落ち着いたわけさ。」(Randall, W.S., Thomas Jefferson: a life. New York, NY: HarperCollins (1994): 278-279参照)


 自分の精魂込めた仕事が冒涜されたと感じたであろうジェファソンの憤りは,理解できるところです。
 しかし,自分の文案が全部削除されてしまった人の好いジョン・トンプソンに比べれば,それでも原案の大部分が残されたジェファソンは,なお幸運でありました。

 独立宣言採択の日からちょうど50年後の1826年7月4日に,ジェファソンは亡くなります。ジェファソンは,自らの墓碑銘において,その生涯の業績を三つ挙げておりますが,合衆国第3代大統領であったことはそこには含まれておらず,その筆頭は,アメリカ独立宣言の起草者であったことでありました(残りの二つは,ヴァジニアの信教自由法の起草者であったこと及びヴァジニア大学の創立者であったこと。)。その長い生涯におけるその後の偉大な政治活動の数々が,苦い思い出から若き日の仕事を救い出し,その歴史的価値を再認識・再評価する幸福に至らしめたということでしょうか。

 さて,では以上の話と当ブログ名との関係は一体何なんだ,ということになります。

 自らの看板を簡潔にすることによって,かのジョン・トンプソンを常に想起するようにする。そのことによって,無用無益な言辞を慎むようにし,さらには,つまらないと判断された文章が読者の批評において「全削除」の扱いを受けることを甘受する覚悟を保つようにする。

 以上の次第です。

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ジェファソンの墓,Monticello, VA (Here was buried/Thomas Jefferson/Author of the Declaration of  American Independence/of the Statute of Virginia for religious freedom/and Father of the University of Virginia)












 

 
 

 
 

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