タグ:アメリカ独立革命

(上)「違法の後法」ならぬ「違法の現法」問題:

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(中)平成28年法律第49号附則5条と「民意」:

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079288885.html

 

(3)「全国民を代表する国会議員」の解釈論

平成28年法律第49号附則5条(改めて法文を確認すると,「この法律の施行後においても,全国民を代表する国会議員を選出するための望ましい選挙制度の在り方については,民意の集約と反映を基本としその間の適正なバランスに配慮しつつ,公正かつ効果的な代表という目的が実現されるよう,不断の見直しが行われるものとする。」です。)には「全国民を代表する国会議員を選出するための望ましい選挙制度」とあるところ,まず「全国民を代表する国会議員」の意味に関する憲法431項(「両議院は,全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」)の解釈問題が一応あります。全国民を代表するのは()議員なのでしょうか,議員ら全員で全国民を代表するのでしょうか。日本語は,単数か複数かがはっきりしないので難しいのです。(「おれは主権者国民だぞ」と役所の窓口において一人で頑張る難しい方々もいます。しかし,一人で日本国における主権を保持するとなると,明治天皇,大正天皇及び進駐軍上陸前の昭和天皇並みの至高の権力者ということになります。)

 

ア 通説・判例

「〔憲法〕431項が①両議院が「選挙された議員」で構成されること,しかもとくに②その議員は「全国民(の)代表」であること,を明記していることには特別の意味がある。すなわち,国会は,それを構成する議員がとくに選挙によって選ばれるということによって,民意を忠実に反映すべき機関であるとともに,同時に,その議員が単にその選挙区や特定の団体などの利益ではなく,国民全体の「福利」の実現を目指すべき存在にして,かつ法上その存在にふさわしい行動をとる自由を保障されるということによって,統一的な国家意思を形成決定できる機関であるということである(狭義の代表観念)。」ということですから(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)136頁),各議員が全国民を代表するということでしょう。判例も同様です。あるいは,「日本国憲法431項が「全国民を代表する選挙された議員」とのべるとき,そこでの定式化は,議員が地域や職能など部分の代表であることを禁止すると同時に,全国民の意思をできるだけ反映すべしという積極的要請を含む。」ともいわれています(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)152-153頁)。しかしながら,国会は「民意を忠実に反映すべ」しといわれれば«peuple»主権的である一方,議員は国民を代表して「国民全体の「福利」の実現を目指す」といわれれば«nation»主権的ではあります。要は我が選良諸賢は(ぬえ)的存在であるということでしょうか。

ちなみに,各議員が全国民を代表するのならば,全国1区制度がいいじゃないか,とも考えられます。広過ぎて大変だと言われるかもしれませんが,米国のアラスカ州及びモンタナ州選出の連邦下院議員は,2年ごとの改選(米国憲法121項)の都度日本よりも広い当該各州内を駆け回っているのです(両州から選出される連邦下院議員はそれぞれ1名のみ)。しかし全国1区論は,極論でしょう。

 

イ 憲法431項の英語文から

 

(ア)英語文

ところで,ここで憲法431項の英語文を見ると,実は難しい。

“Both Houses shall consist of elected members, representative of all the people.”とあります。“elected members”は,“representative of all the people”ではあるが, “representatives of all the people”ではないのです。後者の複数形名詞であれば,各議員が全国民の代表であると素直に解釈できます。しかし,現実の正文は単数形ですので,議員ら全体で全国民を代表する(各議員についてはその限りでない。)という解釈が可能になりそうです。立法経緯に基づく解釈を試みてみましょうか。しかしそのためには同項の発案者を知らねばなりません。GHQ民政局か,それとも日本側か。少し調べてみると,どうもやはりこれも,GHQの権威下に定められた条項であるようです。

 

(イ)GHQ民政局

1946213日に日本国政府に交付されたGHQ草案においては一院制が採用されており,その第41条は“The Diet shall consist of one House of elected representatives with a membership of not less than 300 nor more than 500.”(国会は,300人以上500人以上の選挙された代議員によって組織される一つの議院によって構成される。)というものでしたが,両院制を採るに至った現在の日本国憲法の第431項もまたGHQの発案によるものなのでした。

日本国憲法431項に対応する条項については,194634日から同月5日までのGHQ民政局と日本政府との徹宵協議の場において「両議院共通ノ条文トスベシ,各院別々ノ規定ハ不可ト云フ。「国民ニ依リ選挙セラレ国民全体ヲ代表スル議員ヲ以テ組織ス」ト為スベシトス。(然ルニ決定案ニハ「国民ニ依リ」ニ当ルベキ英文ナシ理由不明)定数ハ法律ヲ以テ定ムルコトト為ル」との指示が日本側に対してあったそうです(佐藤達夫(法制局第一部長)「三月四,五両日司令部ニ於ケル顚末」)。GHQ側は既にあらかじめ準備を整えていたようで,「先方ニテ対案ヲ予メ準備セルモノノ如ク逐一,松本案ニ付修正申入アリ」ということでした(佐藤達夫・同)。194636日付けのGHQ資料(同日発表の日本国政府による憲法改正案草案要綱の英語版)を見ると,日本国憲法431項に対応する条項の英語文は,既に現在のものと同じです。佐藤達夫部長に対してされた修正申入れの英語も,当該英語文に対応するものだったのでしょう。

 

(ウ)アメリカ的な立場:議員=選挙区の代表者

 各議員が全国民を代表することを明示するrepresentativesの語が用いられなかったことは,あるいはアメリカ独立革命の精神からすると当然のことであったように思われます。イギリス領時代の北米植民地における議会の議員の性格について,田中英夫教授はいわく。

 

   ここで注目すべきことは,議員は何よりもまずその選挙区の代表者であるというアメリカ的な立場が,すでにこの時期に確立されていることである。議員に選ばれる者は,その選挙区に住所を有していなければならないとされた〔筆者註:米国憲法122項及び第33項は,選挙された時点で選出州の住民でない者は連邦議会の議員たり得ないと規定しています。〕。また,その選挙区の住民が具体的問題について議員は議会においてこう行動しなければならないという決議をしたときは,それに従うのが議員としての道であるという考え方が,支配的であった。イギリスでも,中世にはこのような考え方が存在したことがあるが,この時期においては,国会議員は(地方の利益を離れて)国全体の利益を代表し国全体のために討議すべきであるという観念が確立されていたのである。代議制観における本国と植民地の間の差異は,独立に際しての両者の間の憲法上の主張の対立の背景の一つとなるのである。

  (田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)190-191頁。下線は筆者によるもの)

 

「代表なければ課税なし」とのアメリカ独立革命の有名なスローガンを掲げるためには,北米植民地人は,イギリス本国的なvirtual representation(観念的代表制)の考え方を採るわけにはいかなかったわけです(田中200-201頁参照)。

(なお,GHQ「全国民を代表する」との文言を入れさせたことについては,「我帝国議会は主権者であり,又は固有の参政権を有つて居る所の人民を代表するものでないことは申すまでもない,〔略〕我国に於て国会を以て人民全体であるといふ法律上の擬制を立てたと見るべき根拠は全く無いのである,又政治上の精神と致しても人民を代表するといふことは出来ぬのである」(上杉慎吉『訂正増補帝国憲法述義(第九版)』(有斐閣書房・1916年)329頁),「帝国議会は一個の官府である,独立固有の存在を有つて居るものでなくして,天皇の意思を本として其存在を有して居るものであります」(同331-332頁)というような学説に対して念を入れた警戒をしたということもあるかもしれません。)

 以上のようなことであれば,各議員はその選挙区を代表するものの,議員ら全体(国会)においては全国民を代表するのだ,という憲法431項解釈の定式化も実は可能ではあったかもしれません。(ルソーの『社会契約論』第2編第3章には,「〔私的利害しか考慮しない全員(みんな)の意思(la volonté de tous)は,〕各個の意思の総和にすぎない。しかし,これらの意思から,相殺する(プラス)(マイナス)とを取り除けば,差の総和として,一般意思(la volonté générale)が残るのである。」とあります。また,検察審査会がその「域内の人々全体を真実に代表する」ものである(the body is truly representative of the people as a whole)ことを確保するために,検察審査員候補者の予定者に係る選挙人名簿からの抽籤による選定制(検察審査会法101項)が採用されたと説明する前記GHQ担当者による記者会見も想起されるところです。

 

(エ)ベルギー的定式の可能性:全国民と選挙区との二重代表

あるいは,「アメリカ的な立場」の例に加えて,ベルギー国憲法42条のLes membres des deux Chambres représentent la Nation, et non uniquement ceux qui les ont élus.”(両議院の議員は全国民(la Nation)を代表し,彼らを選出した者のみを代表するものではない。)との規定の後段の反対解釈を援用し,日本国憲法431項の解釈として,同項は各国会議員に係る全国民の代表たる性格を規定するものの,他方,彼(女)がその選挙区を同時に代表することを否定してはいないのだ,と主張することは可能ということにはならないでしょうか。

すなわち,ベルギー国のトニセンは,その同国憲法逐条解説書の第32条(「両議院ノ議員ハ国民ヲ代表スル者ニシテ之ヲ選挙シタル州又ハ州ノ一部ノミヲ代表スルニ非ス」(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)448-449頁記載の訳)。現行42条に対応)解説においていわく。「議員は国家の受託者であり,彼らが当選した選挙区のそれではない」し,同条は「命令的委任(mandat impératif)と両立するものではない」,しかしながら,「疑いなく,議員は,彼がより直接代表する(représente plus directement)選挙区の期待や必要を等閑に付してはならない。しかしながら,地域の利害が国の一般的利害に反する全ての場合においては,祖国が,州,更にいわずもがなであるが郡(arrondissement)及び市町村(commune)に優先しなければならないということを彼は決して忘却してはならない。」と(J.-J. Thonissen, La Constitution belge annotée, offrant, sous chaque article, l’état de la doctrine, de la jurisprudence et de la législation (Bruylant-Christophe, Bruxelles; 1879) p.135)。これは,政治の実際に照らして,現実的な解釈論ではないでしょうか。(「単にその選挙区や特定の団体などの利益ではなく」云々と説く,日本国憲法に関する前記の学説も,「憲法は,議員が選挙区単位で選任され,各議員が各選挙区の選挙人の意向を忠実にくみとるべきことを期待しつつ,同時に,そのことを前提にして,自由な討論・表決を通じて国会が統一的な国家意思を形成することを期待しているもの」と解釈しています(佐藤幸治141頁。下線は筆者によるもの)。)

ただし,美濃部達吉は,ベルギー国憲法旧32条を「両議院の議員が共に全国民を代表する者であることは,多くの国の憲法に明言せられて居る」うちの一つとして紹介しつつ,その著書の本文においては大日本帝国憲法の解釈として「衆議院の議員は各選挙区に於いて選挙せられるにしても,法律上はその選挙区を代表する者ではなく,等しく全国民を代表する者である。」と,衆議院議員がその選挙区を代表することをばっさりと否定しています(美濃部448-449頁。下線は筆者によるもの)。

 

(4)「民意の集約と反映」及び「その間の適正なバランス」

 平成28年法律第49号附則5条においては更に「民意の集約と反映を基本としその間の適正なバランスに配慮」すべきことが規定されています。どう読むべきなのでしょうか。

 まず,この「配慮」は,「選挙制度」にかかるものでしょう。「民意の集約と反映」とを行うべく国会内における議論・折衝をどのように行うかの話ではありません。(また,「不断の見直し」にかかるものでもないでしょう。)当選した国会議員が登院して来た時において既に一定の「民意の集約と反映」とがなされてあることになります。

しかし,各議員の全国民代表性をとことん追求する議論をして,いったん選ばれた各議員は等しく純粋に全国民の代表であるものであるとすれば,選挙制度がどのようなものであったのかは問題にならないことになってしまうように思われます(なお,「1票の格差」問題は,専ら純粋に個々の有権者の1票の重みに係る平等問題として考えれば,ゲリマンダリングによる是正でもよいのでしょうし(あるいは,ふるさと納税式のふるさと投票というのはどうでしょうか。),地域ごとの民意がどう国政において反映されるかの問題にはならないわけです。)。しかし,やはり議員はその選挙区における実在の民意を代表するものであるからこそ,選挙制度が問題となるのでしょう。

判例は,議席の多数を確保する政権政党への民意の「集約」を考えているようです。いわく,「小選挙区制は,全国的にみて国民の高い支持を集めた政党等に所属する者が得票率以上の割合で議席を獲得する可能性があって,民意を集約し政権の安定につながる特質を有する反面,このような支持を集めることができれば,野党や少数派政党等であっても多数の議席を獲得することができる可能性があ」る,と(最大判平成111110日民集5381704頁)。ここでは各議員ではなく政党が単位となっており,政権政党が「得票率以上の割合で議席を獲得」することが「民意の集約」であるということになっています。野党の観点からすれば,「民意の集約」だと上品に言ってはいるが要は少数民意の切捨てだ,ということになるかもしれません。

政党という書かれざる要素を算入して解釈すれば,平成28年法律第49号附則5条においては,「集約」(これは各議員に対するものではなく,政党に対するもの)は政権の安定(それと同時に,政権交代の可能性)という価値(小選挙区制)であり,「反映」は得票率に応じた議席数を各政党が確保することの価値(比例代表制)を意味するということになるのでしょう。

 なお,「憲法は,政党について規定するところがないが,その存在を当然に予定しているものであり,政党は,議会制民主主義を支える不可欠の要素であって,国民の政治意思を形成する最も有力な媒体であるから,国会が,衆議院議員の選挙制度の仕組みを決定するに当たり,政党の右のような重要な国政上の役割にかんがみて,選挙制度を政策本位,政党本位のものとすることは,その裁量の範囲に属することが明らかであるといわなければならない。」というのが判例です(前掲最大判平成111110日)。しかし,これに対しては,「政党の存在を憲法上「当然に予定」されたものという説明は,近代憲法=議会制の発展史からして,自明のものとはいえない。もともと憲法が「無視」さらには「敵視」さえしてきた政党が,そのはたらきの重要性ゆえに憲法上「予定」され,さらには,明記されるようになる例もあらわれるようになったことを,「当然」のこととしてでなく,緊張関係の経過の認識でとらえる必要がある。そうすれば,政党を法が処遇すること自体,結社しない自由を含む結社の自由を侵す可能性をもたらすことにならないか,という問題が意識されることになろう。」という批判的見解があります(樋口・憲法Ⅰ・191-192頁)。憲法13条の「すべて国民は,個人として尊重される。」との規定によれば国家創設の社会契約の当事者は個人であったはずなのに,当該国家の国政運営に関与する段階になると,「すべて国民は,政党員ないしは政党支持者として尊重される(respiciuntur)。」ということになるのかいな,という感慨が生ずるところです。「「代表」の禁止的規範意味は,「地域」や「職能」や「身分」を基礎単位とする社会編成原理を否定し,諸個人(●●)の自由な結合として国民(●●)を想定する近代個人主義の世界観を反映するもの」です(樋口・憲法Ⅰ・154頁)。

 

(5)「公正かつ効果的な代表という目的」

「公正かつ効果的な代表」という文言も,判例に基づくものでしょう。「代表民主制の下における選挙制度は,選挙された代表者を通じて,国民の利害や意見が公正かつ効果的に国政の運営に反映されることを目標とし,他方,政治における安定の要素をも考慮しながら,それぞれの国において,その国の実情に即して具体的に決定されるべきものであり,そこに論理的に要請される一定不変の形態が存在するわけではない。我が憲法もまた,右の理由から,国会の両議院の議員の選挙について,およそ議員は全国民を代表するものでなければならないという制約の下で,議員の定数,選挙区,投票の方法その他選挙に関する事項は法律で定めるべきものとし(43条,47条),両議院の議員の各選挙制度の仕組みの具体的決定を原則として国会の広い裁量にゆだねているのである。」とともに「国会は,その裁量により,衆議院議員及び参議院議員それぞれについて公正かつ効果的な代表を選出するという目標を実現するために適切な選挙制度の仕組みを決定することができる」というわけです(前掲最大判平成111110日等)。選挙後の国政運営の在り方も当該理念の射程に含まれるのでしょう。平成28年法律第49号附則5条の「公正かつ効果的な代表」とは,「国民の利害や意見が公正かつ効果的に国政の運営に反映」されている代表民主政の状態を意味するようです。「公正かつ効果的な代表を選出」するための,各候補者の資質を測定・判断する仕組みが整っている状態を指すものではないのでしょう。「国民の利害や意見」は,「民意」とほぼ同視してよいのでしょう。

「公正かつ効果的」とは何か。「公正」は,『岩波国語辞典 第四版』(1986年)によれば「かたよりがなく正当なこと」又は「はっきりしていて正しいこと」です。「効果」は,同じ辞書によれば「よい結果。望ましい結果。ききめ。」です。民意の国政への反映が効果的であるということは,国政が民意に忠実に従って運営されることの確保であり,民意の国政への反映が公正であるということは,国政が民意に従うに当たっては偏りなく総花的たるべしということである,と解すべきでしょうか。ただし,なおいろいろな解釈の余地がありそうです。

ところで,「およそ議員は全国民を代表するものでなければならない」ということは,判例のいうように「制約」でしょうか。筆者には,むしろ「制約」を緩和してしまうもののように思われます。すなわち,名誉革命後の混合政体下イギリスにおける選挙制度及びその考え方は次のようなものだったといわれています。

 

    (iii)議員数は人口に比例すべきだという考えは,とられなかった。

    (iv)選出された議員は,選挙民の意思には拘束されないものとされた。

   この(iii)と(iv)は,virtual representation(観念的代表制)の理論で説明される。すなわち,議員は,どこの選挙区から選ばれていようと,常に全国民の代表なのである;従って,選挙民の意思には拘束されない;ある地区が人口に相応する数の議員を送っていないということがあっても,その地区は,その議員によってのみ代表されるのでなく,庶民院の全議員によって代表されているのであるから,不都合はない,とされた。

  (田中141頁)

 

4 再び細野議長発言に関して

 細田議長は,小選挙区選出の各衆議院議員に係るその選挙区の人口数を彼此比較した場合の多寡・較差を問題とはせず(これはいわゆるアダムズ方式で是正されます。),むしろその先の,そもそも都会地から選出された議員の比率が増えることが問題なのだ,と考えておられます。

確かに,「人口の都市集中化の現象等の社会情勢の変化を選挙区割りや議員定数の配分にどのように反映させるかという点も,国会が政策的観点から考慮することができる要素の一つである」ところです(前掲最大判平成111110日等)。しかし,だから当該反映の速度は今回は緩和されるべきなのだという主張に対しては,それは前から分かっていた上で決めた話なのだし(前掲小池日本共産党書記局長発言参照。第190回国会の衆議院本会議で,不断の見直しに当たっては「特に人口が急激に減少している地域の民意を適切に反映させることに留意す」べしとする民進党提出法案(同法案附則42項)は否決されています(2016428日)。日本共産党は当該法案に反対しているので一貫しているのですが,旧民進党系の方々はどうするのでしょうか。),これからの制度としても,2020年の国勢調査結果による今次改正に続く公職選挙法別表110年ごと改正に係る10年という期間は十分長いではないか(「十年一昔」),という反論が可能なようであります。これに対する再反論は,高齢化社会における正統な多数派である老人にとって,頭も体も錆びついてからの変化は過酷であり,「十年一日」のancien régime(現在の日本においては,昭和的なるもの,でしょうか。)の維持こそが望ましいのだ,平成28年法律第49号の制定当時(2016年)の我々はまだ元気だったので分からなかったが,最近になって寄る年波でつくづくそう実感するのだ,ということになりましょうか。なるほどもっともではあります。(Mais, “ils n’ont rien appris, ni rien oublié.”

あるいは,都会地選出議員の比率が高まると,「民意の集約」に係る利点たる「政権の安定」効果及び「政権の交代を促す特質」が弱まる,ということでしょうか。しかし,ここでの「政権の安定」は,議会における与党現有議席数が十二分に多いことによる専ら当該議員らの任期中における政権の安定であって,「政権の交代を促す特質」と矛盾してはならないものでしょう。むしろ,選挙ごとに与野党間における大幅な議席の入れ替わりを伴う政権交代が可能であることが期待されていたはずです。そうであれば,仮に都会の方が人心の変化が速くてかつ大きいのであれば,都会地選出議員の比率が高まることは,むしろ当該効能に親和的であるように思われます。

マディソン的に細田議長の前記危惧を正当化するならば,都会地出身の議員の比率が増加すると多数党派による弊害・抑圧が起こりやすい,ということでしょうか(しかしこれは,多数派の意思たる民意は実は必ずしも無謬ではない,「代表」の(ふるい)による是正が必要である,という認識を含意することになりそうです。確かに,「おかしな思い込み若しくはいかがわしい利得に衝き動かされ,又は利害関係者による巧妙なまやかしに誤導されて,人民が,彼ら自身後になって思いきり悔やみかつ非難することになる政策を求める常ならざる事態が,政事においては起こるものである」(Madison, op. cit. No. 63)ところではあります。)。都会地からより多くの議員が選出される場合,都会地は狭い地域なので,彼らはその近接性によって利害をより強く共同にし,かつ,その間の連絡協働も容易であり,党派をなした上で国全体に害を及ぼす危険が地方選出の議員らの場合に係るそれよりも大きい,というような説明が試みられるのでしょうか。地方人一人の方が都会人一人よりも人として価値があるのだ,とか,浮華の巷における積極的堕落のゆえ,あるいは消極的遊惰のゆえ,都会人の民意の内容は地方人の民意のそれよりも劣っているのだ,などとはなかなか言えないでしょう。(マディソンは,都会人たる古代アテネ市民の資質に対して偏見を持っていたようですが。)

 地方は弱いから弱者を救済してくれ,でしょうか。しかし,弱者救済という崇高な政策に対してならば,当該地方からの選出議員ならずとも,全国民を代表する高潔な議員ならば皆々賛成してくれるのではないでしょうか。それとも弱者救済は,実は国民全体の利益にはならないのでしょうか。

 無論,国会は,平成28年法律第49号附則5条に規定する見直しをするに当たって,専ら同条の枠組みに拘束されるものではありません(なお,同条自体が「集約と反映」との「適正なバランス」をいっていますから,小選挙区の方における何らかの無理の辻褄を比例代表区の方で合わせるということも,あるいはあるかもしれません。)。2016427日の衆議院政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会の附帯決議においては,「本改正案附則第5条に規定する選挙制度の見直しに際しては,1票の較差の是正,定数等の在り方の検討という課題への対応のみにとどまらず,国会の果たすべき役割といった立法府の在り方についても議論を深め,全国民を代表する国会議員を選出するためのより望ましい制度の検討を行うものとする。」とされています(第190回国会衆議院政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会議録第921頁)。「立法府の在り方」ですから,極めて間口が広い。また,理論的一貫性も重視し過ぎてはならないのでしょう。18世紀のイギリス混合政体論からすると「民主制がいかにたてまえとして優れ,理論として一貫しているとしても,それは結局は暴民政治に走り,やがてはその反動として専制をもたらすことは,人類の歴史の明示するところ」なのでした(田中142頁。下線は筆者によるもの)。

細田議長発言による問題提起はどのような波動を起しつつ,我が国の空気中に伝播していくのでしょうか。いずれにせよ,主権が国民に存する我が日本国においては,全てはその時々の民意という風次第です。しかして,1828年には,風を呼ぶ男・ジャクソンに,いわゆるアダムズ方式のアダムズは敗れたのでした。

 

 〔前略〕民主政の時代が来たのである(Democracy was in)。エリートの時代は終わった。新しい力が解き放たれつつあり,新しい方途がとられつつあった。「彼は,風と共にやって来る。(When he comes, he will bring a breeze with him.)」と〔ダニエル・〕ウェブスターはジャクソンについて語った。「どちらの方角にそれが吹くのか,私には,分からない。」分からないのは,彼一人だけではなかった。

 (Jon Meacham, American Lion: Andrew Jackson in the White House (Random House, New York; 2008) p.51

 

Hütet euch gegen den Wind zu speien!

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1 「すべて国民は,個人として尊重される。」

 「すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。」と規定する日本国憲法13条は,憲法条文中もっとも有名なもののうち一つでしょう。英語文では“All of the people shall be respected as individuals. Their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extent that it does not interfere with the public welfare, be the supreme consideration in legislation and in other governmental affairs.”です。

 「戦後,日本国憲法を手にした日本社会にとって,日本国憲法の何がいちばん肝心なのか。それをあえて条文の形で言うと,憲法第13条の「すべて国民は,個人として尊重される」という,この短い一句に尽きています。」といわれています(樋口陽一『個人と国家』(集英社新書・2000年)204頁)。

 しかしながら,「すべて国民は,個人として尊重される。」との規定における「個人として尊重される」とはどういう意味でしょうか。

 

2 「かけがえのない個人として尊重される」

 

(1)五つの法律

我が国国権の最高機関たる国会(憲法41条)の解釈するところを知るべく,現行法律における「個人として尊重」の用例を法令検索をかけて調べてみると,5例ありました。①障害者基本法(昭和45年法律第84号)1条,②障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律(平成17年法律第123号)1条の2,③自殺対策基本法(平成18年法律第85号)21項,④部落差別の解消の推進に関する法律(平成28年法律第109号)2条及び⑤ユニバーサル社会の実現に向けた諸施策の総合的かつ一体的な推進に関する法律(平成30年法律第100号)1条です。

このうち,障害者基本法1条に「全ての国民が,障害の有無にかかわらず,等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念にのつとり,全ての国民が,障害の有無によつて分け隔てられることなく,相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会を実現するため」の部分が加えられたのは同法の平成23年法律第90号による改正によってであり,障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律に1条の2が挿入されたのは同法が,地域社会における共生の実現に向けて新たな障害保健福祉施策を講ずるための関係法律の整備に関する法律(平成24年法律第51号)によって改正されたことによってであり,自殺対策基本法21項が追加されたのは同法の平成28年法律第11号による改正によってでありました。

すなわち,現行法律中に存在する「個人として尊重される」概念のうち初めて登場したものは障害者基本法1条のそれであり,同条に当該概念が導入されたのは,日本国憲法公布後65年となろうとする2011年の民主党菅直人政権下のことでありました。

 

(2)「かけがえのない」性の追加修正

 平成23年法律第90号に係る政府提出の当初法案では,障害者基本法1条に挿入されるべき語句は「全ての国民が,障害の有無にかかわらず,等しく基本的人権を享有する個人として尊重されるものであるとの理念にのつとり,全ての国民が,障害の有無によつて分け隔てられることなく,相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会を実現するため」とのものでした。この政府提出案に対して,2011615日の衆議院内閣委員会において西村智奈美委員外2名から民主党・無所属クラブ,自由民主党・無所属の会及び公明党の共同提案による修正案が提出され(第177回国会衆議院内閣委員会議録第143頁・22頁),その結果「等しく基本的人権を享有する個人として尊重される」の部分が「等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重される」に改まっています(同会議録18頁)。

この,個人に係る「かけがえのない」性の追加修正は広く与野党の賛成を得てのものですから,政府案に最初から「かけがえのない」があってもよかったもののようにも思われます。しかしながらそのようにはならなかったのは,これは,「かけがえのない個人」との文言は法制上問題があって剣呑だ云々というような余計なことを言い立てる内閣法制局筋によって阻止されていたものでしょう。

 「個人として尊重される」との文言が「かけがえのない個人として尊重される」へと敷衍された結果,どのような法的効果が生ずるのかについては,提出者代表である高木美智代委員が次のように答弁しています(第177回国会衆議院内閣委員会議録第1416頁)。

 

この表現を「かけがえのない個人」と修正することにしましたのは,社会の中において,各個人が,障害の有無にかかわらず,それぞれ本質的価値を有することを一層明確にするためでございます。これによりまして,障害者基本法の理念が国民にとってわかりやすい言葉で示されることになると考えております。

この基本法で示された理念は,関係法令の運用や整備の指導理念となることは御承知のとおりでございます。したがいまして,今後の障害者施策におきましては,国民一人一人がかけがえのない存在であるということを基本とした運用等が要請されることとなります。

この結果,障害者基本法が目指している共生社会,すなわち,すべての国民が相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現が促進されることになることを期待いたしております。

 

 各個人の「本質的価値」とは,それぞれが「かけがえのない存在」であるということになるようです。全ての国民が「かけがえのない個人として尊重される」べきであるということは,前記①から⑤までの5法の全てが当該文言を採用して,前提としているところです(なお,自殺対策基本法21項は,「全ての国民」よりも広く,「全ての人」となっています。)。だとすると,憲法13条前段も今や,「すべて国民は,かけがえのない個人として尊重される。」という意味であるものとして読まれるべきもののようです。「「個人として尊重される」ト云フコトハ,結局是ダケノ意味デアリマシテ,国民ト云フ言葉ガ集団的ナ意味ニモ使ハレテ居リマスシ,各個ノ人間トシテモ国民ト云フ文字ハ使ハレテ居リマス,此処ノ所ハ集団的デハナイ国民ト云フモノハ,国家ヲ構成シテ居ル単位トシテノ人間トシテ大イニ尊重サレルト云フ原則ヲ此処デ声明シタ訳デアリマス,サウ特別ニ深イ意味デハナイ,此ノ原則ノ発展トシテ,是カラ出テ来ル具体的ナ規定ガ生レテ来ル,斯ウ云フ風ニ考ヘマス」(1946916日貴族院帝国憲法改正案特別委員会における金森徳次郎国務大臣の答弁(第90回帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員会議事速記録第149頁))というような素っ気ないものでは,もはやありません。全て国民は,「国家ヲ構成シテ居ル単位トシテノ人間」であるにとどまらず,「かけがえのないもの」として尊重されなければなりません。

 

(3)「共生」社会から,支え合う「ユニバーサル社会」へ

 「全ての国民が・・・等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念」が目指すところは「共生」社会であり,当該「共生」社会においては「全ての国民が,・・・分け隔てられることなく,相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する」ものであるようです(障害者基本法1条,障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律1条の2各参照)。

 具体的な生活の場(障害者基本法3条並びに障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律1条及び1条の2は身近なものたる「地域社会」における「共生」を問題としています。)において「相互に人格と個性を尊重し合いながら共生」しなければならない責務を負う者は私人たる各日本人でしょうから(障害者基本法8条,障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律3条各参照),憲法13条前段の射程は私人間関係にも及ぶもののようであり,単なる「国政の上」での「最大の尊重」を問題とする同条後段のそれよりもはるかに広いものなのでした。

 しかしてこの「共生社会」の内実は,2018年のユニバーサル社会の実現に向けた諸施策の総合的かつ一体的な推進に関する法律において,同法21号が規定する「ユニバーサル社会」として,より具体的に規定されるに至っています。

  

  一 ユニバーサル社会 障害の有無,年齢等にかかわらず,国民一人一人が,社会の対等な構成員として,その尊厳が重んぜられるとともに,社会のあらゆる分野における活動に参画する機会の確保を通じてその能力を十分に発揮し,もって国民一人一人が相互に人格と個性を尊重しつつ支え合いながら共生する社会をいう。

 

 なお,「ユニバーサル社会」に係る同号の定義については,議案を提出した衆議院国土交通委員会の盛山正仁委員長代理から更に,「一般的に,ユニバーサル社会というのは,障害の有無,年齢,性別,国籍,文化などの多様な違いにかかわらず,一人一人が社会の対等な構成員として尊重され,共生する社会を意味」するものであるとの説明がありました(第197回国会参議院国土交通委員会会議録第54頁)。

 しかして,「相互に人格と個性を尊重し合いながら共生」するということは,ユニバーサル社会の実現に向けた諸施策の総合的かつ一体的な推進に関する法律21号の定義によれば,現実に,具体的な一人一人が相互に「支え合」うということになるのでした。

 その結果,国民は,「職域,学校,地域,家庭その他の社会のあらゆる分野において,ユニバーサル社会の実現に寄与するように努めなければならない」ものとされています(ユニバーサル社会の実現に向けた諸施策の総合的かつ一体的な推進に関する法律5条)。これは,「その他の法令で,国民の努力という規定につきましては様々な法律において既に定められているところ」であって「国民の言わば心構えを定めるようなもの」であり,「この規定を根拠にして国民の皆様に義務を押し付けようというものではございません」が,「全ての国民が配慮すべきであるというふうに考えるものですからこのような規定を設けたもの」だそうです(盛山衆議院国土交通委員長代理・第197回国会参議院国土交通委員会会議録第54頁)。憲法13条前段解釈の現段階は,「是ハ矢張リ国家ガ国民ニ対スル心構ヘト云フ風ニ思ッテ居リマスガ」(佐々木惣一委員)との問いかけに対して「其ノ通リデアリマス」(金森国務大臣)と簡単に答えて済むもの(1946916日貴族院帝国憲法改正案特別委員会(第90回帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員会議事速記録第149頁))ではなくなっているもののようです。国家のみの問題ではありません。

 ユニバーサルは元々英語のuniverseの形容詞形のuniversalなのでしょうが,当該universeの語源は「L ūnus (one)L vertere (to turn)の過去分詞versusから成るL ūniversus (turned into one; combined into one; whole; entire)」ということですから(梅田修『英語の語源辞典』(大修館書店・1990年)212頁),「ユニバーサル社会」とは,一なる全体社会ということでしょうか,全一社会というべきでしょうか。全国民は,「個人として尊重」されつつ最後は全一社会実現への寄与を求められることになる,ということのようです。

 

(4)「支え」られる「かけがえのない個人」

 「かけがえのない個人として尊重される」ものであるところの国民の一人を「支え」る場合,どこまでの「支え」が必要になるのでしょうか。

「かけがえ」とは「掛(け)替え」であって,「必要な時のために備えておく同じ種類のもの。予備のもの。かわり。」ということですから(『岩波国語辞典第4版』(1986年)),かけがえのない物は亡失してしまっては大変であり,かけがえのない人は死亡させてしまってはいけないことになるのでしょう。自殺対策基本法21項は「自殺対策は,生きることの包括的な支援として,全ての人がかけがえのない個人として尊重されるとともに,生きる力を基礎として生きがいや希望を持って暮らすことができるよう,その妨げとなる諸要因の解消に資するための支援とそれを支えかつ促進するための環境の整備充実が幅広くかつ適切に図られることを旨として,実施されなければならない。」と規定していますから,「かけがえのない個人として尊重される」者は,正に「生きることの包括的な支援」までをも受けることが保障されるのでした。

 この高邁な理念の前に,人が「生きること」に対する昔風のつまらぬ悪意などいかほどのことがありましょう。

 

quia pulvis es et in pulverem reverteris (Gn 3, 19)

  Viel zu viele leben und viel zu lange hängen sie an ihren Ästen. Möchte ein Sturm kommen, der all diess Faule und Wurmfressne vom Baume schüttelt! (Vom freien Tode)

   Quid est autem tam secundum naturam quam senibus emori? (De Senectute

高齢者の医療・福祉政策に係る政府の失態等に対して「お前たちは,老人に死ねというのか。」とお年寄りの方々が激怒されている旨の報道に度々接しますが,お怒りは全く当然のことです。「かけがえのない個人として尊重される」我々個々人は,その代わりがないにもかかわらず死亡してしまわないように,「生きることの包括的な支援」までをも受けるべき権利を有しているのです。「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」などという言葉は,弱い者をたすけるべき立場にある者にあるまじき最低の暴言である,謝罪せよ,ということに,188214日から137年半後の今日ではなるようです。

 以上,各日本人は,日本国憲法13条前段に基づき「個人として尊重される」結果,自己が生きるに当たって他者からの支えを期待する権利を有し,当該支えを得る際にも自己のあるがままの人格及び個性は差別を受けることなく,むしろ傷つけられないように優しく配慮され,かつ,尊重され,更にその前提として,全一(ユニバーサル)社会においてそのような人々に囲まれて「共生」していることを当然のこととして期待することが許されている存在である,ということになるようです。

 

  et sumat etiam de ligno vitae

       et comedat et vivat in aeternum (Gn 3, 22)


3 束にならず,寂しい個人主義者たち

 ところで,個人に係る個人主義といえば夏目漱石や永井荷風が有名ですが,漱石・荷風流の「個人主義」は,上記のような「共生」的日本国憲法13条前段解釈とはどのような関係に立つことになるのでしょうか。

 

   〔前略〕夏目漱石の『私の個人主義』という学習院で行った講演1914(大正3)年が,有名です。個人というのは寂しさに耐えるんだ。その辺の雑木の薪なんていうのも束になっていれば気持ちが楽だ。しかし,個人というのは自分自身で自分の去就を決め,自分で腹を決めるということだ。だから,本来寂しいことなんだという,ズバリ個人の尊重ということの重みを語っています。〔略〕

   他方で文字どおり個人であることに徹したのが荷風散人(永井荷風)だったのです。その点について彼から引用しようと思えば枚挙にいとまがないのですけれども,あえて一つ。――「わたくしは元来その習癖よりして党を結び群をなし,その威を借りて事をなすことを欲しない。・・・わたくしは芸林に遊ぶものの往々社を結び党を立てて,己に与するを掲げ与せざるを抑えようとするものを見て,これを怯となし,陋となすのである」(『濹東綺譚』)。文字どおり彼は名実ともに「個」であることの純粋さを貫いたのです。(樋口・個人と国家205頁)

 

 ここに現れる漱石も荷風も,心温まる,かつ,素晴らしい「共生社会」の住人ではなさそうです。束になれず,群れから離れ,党を立てず,結社に属し得ず,寂しい。分離の感覚。

 しかし,分離(separate)してあることこそが,individualなのだということになるのでしょう。筆者の手許のOxford Advanced Lerner’s Dictionary of Current English, 6th edition (2000)には,名詞individualの語義として冒頭 “a person considered separately rather than as part of a group”と,形容詞individualの語義として冒頭“considered separately rather than as part of a group”と記載されてあります。個人(individual)は本来,束(fascis),群れ,党,結社その他のグループの一員として存在するものとしては観念されていないのです。

個人主義は,ぬるい生き方ではないようです。

 

 scio opera tua

    quia neque frigidus es neque calidus

    utinam frigidus esses aut calidus

    sed quia tepidus es et nec frigidus nec calidus

    incipiam te evomere ex ore meo (Apc. 3, 15-16)

 

4 GHQ草案12条の起草

 さて,個人主義は本来非日本的なものであり(「個人の欠如というのは長い間,いわば,日本の知識人を悩ませてきたオブセッション(強迫観念)だったのです。」(樋口・個人と国家206頁)),西洋由来のもののようですが,西洋人の一種たるGHQの米国人らは,日本国憲法13条の原案を起草するに当たって一体そこにどのような意味を込めていたのでしょうか。

 1946213日に我が松本烝治国務大臣らに手交されたGHQ草案の第3章(Chapter III  Rights and Duties of the People)中の第12条には次のようにありました。

 

  Article XII. The feudal system of Japan shall cease. All Japanese by virtue of their humanity shall be respected as individuals. Their right to life, liberty and the pursuit of happiness within the limits of the general welfare shall be the supreme consideration of all law and of all governmental action.

 

これが外務省罫紙に和文タイプ打ちされた我が国政府の翻訳では次のようになっています(1946225日)。

 

 第12条 日本国ノ封建制度ハ終止スヘシ一切ノ日本人ハ其ノ人類タルコトニ依リ個人トシテ尊敬セラルヘシ一般ノ福祉ノ限度内ニ於テ生命,自由及幸福探求ニ対スルソノ権利ハ一切ノ法律及一切ノ政治的行為ノ至上考慮タルヘシ

 

 GHQ民政局内国民の権利委員会(Committee on Civil Rights)が194628日に同局内運営委員会(Steering Committee)に提出した原案は,次のとおり(Civil Rightsの章の第1節総則(General)(この総則は,現行憲法の11条から17条までに当たります。)中の第5条)。同日の両委員会の会合で運営委員会側から意見があり,これに“within the general welfare”という限定句が挿入されることになりました(エラマン・ノート)。

 

  5. All Japanese by virtue of their humanity shall be respected as individuals. Their right to life, liberty and the pursuit of happiness shall be the supreme consideration of all law, and all governmental action.

 

そこで第2稿では次のようになり,更に最終的に“The feudal system of Japan shall cease.”が加えられて国民の権利委員会最終報告版となっています。

 

 All Japanese by virtue of their humanity shall be respected as individuals. Their right to life, liberty and the pursuit of happiness within the limits of the general welfare shall be the supreme consideration of all law, and all governmental action.

 

 “The feudal system of Japan shall cease.”は後付けとはなりましたが,重要な規定です。194623日の日本国憲法改正案起草に関するマッカーサー三原則(マッカーサー・ノート)第3項の冒頭に“The feudal system of Japan will cease.”とあったからです。

 マッカーサー三原則の第3項には続けて“No rights of peerage except those of the Imperial family will extend beyond the lives of those now existent.”(「貴族の権利は,皇族を除き,現在生存する者一代以上には及ばない。」(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川文庫・2014年)22頁))及び“No patent of nobility will from this time forth embody within itself any National or Civic power of government.”(「華族の地位は,今後どのような国民的または市民的な政治権力も伴うものではない。」(鈴木22頁))とありましたから,“The feudal system of Japan will cease.”(「日本国ノ封建制度ハ終止スヘシ」)は平等条項(日本国憲法14条)の冒頭に来てもよかったように思われるのですが,あえて「一切ノ日本人ハ其ノ人類タルコトニ依リ個人トシテ尊敬セラルヘシ一般ノ福祉ノ限度内ニ於テ生命,自由及幸福探求ニ対スルソノ権利ハ一切ノ法律及一切ノ政治的行為ノ至上考慮タルヘシ」の前に置かれています。


5 アメリカ独立宣言,ヴァジニア権利章典及びトーマス・ジェファソン

 

(1)アメリカ独立宣言

 GHQ草案12条の原起草者はロウスト中佐であったのか,又はワイルズ博士であったのか。しかしいずれにせよ,トーマス・ジェファソンらの手になる北米十三植民地独立宣言(177674日)の影響は歴然としています。

 

  〔日本国憲法13条の〕規定は,〔略〕独立宣言にその思想的淵源をもつことは,文言自体からして明瞭であり,さらにはロックの「生命,自由および財産」と何らかの関連を有するであろうことも推察される。(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)443頁)

 

 独立宣言は,いわく。

 

   We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal; that they are endowed by their Creator with certain inalienable rights; that among these, are life, liberty, and the pursuit of happiness. That, to secure these rights, governments are instituted among men, deriving their just powers from the consent of the governed; that, whenever any form of government becomes destructive of these ends, it is the right of the people to alter or to abolish it, and to institute a new government, laying its foundation on such principles, and organizing its powers in such form, as to them shall seem most likely to effect their safety and happiness.(我々は,以下の諸真理を自明のことと認識する。すなわち,全ての人々(メン)は平等なものとして創造されていること,彼らは彼らの創造主によって一定の不可譲の権利を付与されていること, これらのうちには,生命,自由及び幸福の追求があること。これらの権利を保全するために,統治体(ガヴァメンツ)が,その正当な権力を被治者の同意から得つつ,人々(メン)の間に設立されていること,いかなる政体であっても,これらの目的にとって破壊的なものとなるときにはいつでもそれを廃止し,又は変更し,並びにその基礎がその上に据えられるところ及びその権力がそれに従って組織されるところ彼らの安全及び幸福を実現する見込みの最も高いものとして彼らに映ずる諸原則及び政体であるところの新しい統治体(ガヴァメント)を設立することは,人民(ピープル)の権利であること。

 

 GHQ民政局の運営委員会によって挿入せしめられた語句に対応する「公共の福祉に反しない限り」を除いて,同局の国民の権利委員会による原案流に日本国憲法13条後段を読むと「生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。」となりますが,それらの権利について「立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする」ことが必要なのは,そうしないと,アメリカ独立宣言的世界観によれば,人民によって政体(form of government)の変更又は廃止(to alter or to abolish)がされてしまう革命が起きてしまうからなのでした。

 

(2)トーマス・ジェファソンとジョン・ロック

 なお,ジェファソンは,ロックの崇拝者でした。

 

  しかし,ロックは,ジェファソンのウィリアム・アンド・メアリー大学在学並びにスモール博士,フォーキエ知事及びジョージ・ウィスとの食卓討論の時代から,ジェファソンのお気に入りであった。彼は,〔パリから〕1789年〔215日〕にジョン・トランブルに対して書くには,ロックを「全くの例外なしに,かつて生きた者の中での最大の三偉人」のうちの一人であるものとみなすようになっていた。(他の二人は,アイザック・ニュートン及びフランシス・ベーコンであった。)ジェファソンは,スモール博士によって,〔1772年の〕十年も前から啓蒙の三英雄全員について手ほどきを受けていた。1771年〔83日〕に,ジェファソンは,スキップウィッズの蔵書として推薦する政治関係本のショート・リストに,「ロックの政治本」,すなわち明らかにその『統治二論』を含めていた。彼がこの精選本リストに前書きして言うには「政治と交易とについては,私は君に,最善の本を少数のみ提示したものである。」ということであったが,これは,この頃までにこれらの本の全てに彼自身精通しているものと彼が思っていたことを明瞭に示している。(Randall, Willard Sterne. Thomas Jefferson: a life. New York: HarperPerennial, 1994. p.164

 

(3)ヴァジニア権利章典1条からの変更

 ところで,独立宣言で確認された「生命,自由及び幸福追求」の諸権利は,その前月の1776612日にジェファソンの出身地であるヴァジニア邦でジョージ・メイソンの主導で採択された権利章典の第1条では「財産(property)の取得及び保持並びに幸福及び安全の追求及び獲得に係る手段を伴う,生命及び自由の享受」の諸権利ということになっていました。ジェファソンは,財産の取得及び保持,幸福の獲得並びに安全の追求及び獲得に係る手段までをも人間の不可譲の権利に伴うものとして主張することは欲張りに過ぎる,と判断した上で,生命,自由及び幸福の追求に絞ったのでしょうか。ただし,生命及び自由に並んで,幸福の追求自体も人々の不可譲の権利であるものとされた形になっています。(なお,独立宣言においては,人民の安全及び幸福を実現することが統治体(ガヴァメント)の目的に含まれることは認められています。換言すると,手段としての政府なしには人民の安全及び幸福の実現は難しいということでしょうか。なお,人民(ピープル)人々(メン)との語の使い分けにも注意すべきなのでしょう。ちなみに,ロックの『統治二論』第二論文第95節では,人々が共同体コミュニティー設立目的彼ら固有プロパテものィーズ確実享受当該共同体安全保障相互快適安全平穏生活comfortable, safe, and peaceable living)であるものとされていました。

 

  SECTION 1.   That all men are by nature equally free and independent, and have certain inherent rights, of which, when they enter into a state of society, they cannot, by any compact, deprive or divest their posterity; namely, the enjoyment of life and liberty, with the means of acquiring and possessing property, and pursuing and obtaining happiness and safety.(全ての人々は本来均しく自由かつ独立であり,かつ,彼らが社会状態に入るときにおいていかなる協定によっても彼らの子孫から剥奪し,又は奪い去るこのとできない一定の生得の権利,すなわち,財産の取得及び保持並びに幸福及び安全の追求及び獲得に係る手段を伴う,生命及び自由の享受の権利を有していること。)

 

ジョージ・メイソン主導のヴァジニア邦の政体案は,ジェファソンには不満をもたらすものだったようです。

 

 このヴァジニアの文書は,一世紀半にわたってヴァジニアを支配してきた荘園(プラン)(ター)寡頭(・オリ)体制(ガーキー)の手中に権力を保持せしめるとともに,現状を維持る,深く保守的な代物であった。メイソンの宣言は投票資格のための財産所有要件を保存しており人口の1パーセントの10分の1未満の手中に権力を留め続けていた。

  自身で彼の反対意見及び修正案を提出できないため,古い郷紳(ジェントリー)支配体制が永続化されてしまうばかりということになるのではないかと深く憂慮するジェファソンは,フィラデルフィアとしては珍しい涼しい期間を,ヴァジニアの国憲に係る彼自身の案を次々と起草するために利用した。ジェファソンのものは,主に,〔略〕はるかに広い投票権を認める点において異なっていた。〔中略〕メイソンのものは,権力を有する少数の富裕な大土地所有エリートの支配の継続にとって有利なものであって,当該事実は1776年のこの夏においてジェファソンを警戒させた。彼は生涯,「建国者(ファウンディング)(・グレ)大家系(ート・ファミリーズ)」に対して米国人が夢中になることに苦言を呈し続けた。(Randall pp.268-269

 

大きな財産を保持する幸福かつ安全な保守的荘園(プラン)(ター)寡頭(・オリ)体制(ガーキー)に対する敵対者としては,財産の取得及び保持,幸福の獲得並びに安全の追求及び獲得に係る手段までをも人間の不可譲の権利伴うものとして言及して現状の変革を難しくするわけにはいかなかった,ということになるのでしょうか。なお,ジェファソンについて,「ジョン・ロックの「財産(プロパティ)」に代わる彼の「幸福の追求」の語の選択は,イングランド中産階級の財産権に係るホイッグ主義からの鋭い断絶を示している。」と評されています(Randall p.275)。

1776年夏のフィラデルフィアにおける大陸会議出席期間中,33歳のジェファソンが独立宣言の原案を起草する様子は,次のようなものだったそうです。

 

  それ〔アメリカ独立宣言案〕は,委員会会合及び拡大する内戦の最新状況を憂慮する論議の日々のかたわら,この激動の1776年夏,朝早くそして夜遅く,ジェファソンがものした多量の文書のうちの一つにすぎなかった。613日から28日までの2週間,涼しい朝,蒸し暑い夕べ,ジェファソンは彼の風通しのよい部屋にいくらかの平和及び静寂を求め,彼の周りに書類を拡げ,彼の新しい持ち運び机の上でせっせと仕事をした。〔略〕ジェファソンはいかなる書物にも当たる必要はなかったにしろ,彼は少なくとも一つの文書を所持していた。ヴァジニアのための彼の心を込めた憲法の最終草案である。そこから彼は,国王に対する苦情の長いリストを書き写すことになる。ジェファソンには何か独自なものを創出することは求められていなかった。その正反対であった。しかし彼は,古代ギリシア時代からつい先般のトム・ペインの熱のこもった修辞まで,百もの著述家から,彼の選ぶ言葉を摘み出す自由を有していた。(Randall pp.272-273

 

6 アメリカ独立宣言,ヴァジニア権利章典及び日本国憲法13

 

(1)「平等なものとして創造されている」又は「本来均しく自由かつ独立」と「個人として尊重される」と

日本国憲法13条前段の「すべて国民は,個人として尊重される。」の部分は,GHQ草案12条では“All Japanese by virtue of their humanity shall be respected as individuals.”となっています。しかし,何ゆえに“All Japanese are created equal. ”(アメリカ独立宣言流)とか“All Japanese are by nature equally free and independent.”(ヴァジニア権利章典流)という表現ではなかったのでしょうか。

「全ての日本人は,平等なものとして創造されている。」又は「全ての日本人は,本来均しく自由かつ独立である。」という前提からでは,それら日本人の有する生命,自由及び幸福追求に対する権利について国は「立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする」こととがうまく結び付かないからでしょうか。確かに,「平等」には悪平等もあるので,平等に「最大の尊重」をするのではなく平等に「踏みにじる」こともあり得るのでしょう(これに対して,日本人内限りでの「平等」であるからこそ,むしろそのようなことはないのだ,とはいい得るものでしょうか。)。(なお,ジョン・ロック的な平等(equality)は,およそ全ての事柄における平等といったものではなく,「各人が,他者の意思又は権威に服することなく,彼の自然の自由に対して有するところの平等な権利」でした(『統治二論』第二論文第54節)。)また,「自由かつ独立」ならば(なお,ここでは"equally""equally as Japanese"を含意しないものと解します。),そもそもそんな人たちは国家以前の存在で,直ちに「国政の上で,最大の尊重」をされる必要もないのでしょう。さらには,占領下の敗戦国民に対して,実は君たちは本来自由かつ独立なのだよ,と当の占領軍当局からわざわざ言ってやるのも余計なことだと思われたのかもしれません。「全ての人々は平等なものとして創造されている」又は「全ての人々は本来均しく自由かつ独立」と米国の原典からそのまま引き写すのも同様,戦争で負けた日本人が,それにもかかわらず米国その他の戦勝国の人々とも「全ての人々」仲間で平等ということになってしまって具合が悪かったのでしょう。(反抗的といえば反抗的な文言であるわけですが,1776年のヴァジニアの指導者たちは正にそのような人たちだったのでした。)

 

(2)日本国憲法13条前段と後段との間の社会契約

日本国憲法13条後段における国の義務の発生に係る直接の論理的前提は,日本国という統治体の設立に係る社会契約なのでしょう。ヴァジニア権利章典では“when they enter into a state of society…by…compactとあり,アメリカ独立宣言では“to secure these rights, governments are instituted among men, deriving their just powers from the consent of the governed”といっているところです。(なお,ヴァジニア権利章典2条には“That all power is vested in, and consequently derived from, the people; that magistrates are their trustees and servants, and at all times amenable to them.”(全ての権力は,人民に帰属し,したがって人民に由来すること。官職保有者は彼らの受託者かつ使用人であり,及び常に彼らに従属するものであること。)と,同章典3条終段には“that, when any government shall be found inadequate or contrary to these purposes, a majority of the community hath an indubitable, inalienable, and indefeasible right to reform, alter, or abolish it, in such manner as shall be judged most conductive to the public weal.”(いかなる統治体であっても,これらの目的について不十分又は反するものとみなされるようになった場合には,共同体の多数は,公共の福祉にとって最も親和的であると判断される方法に従って,それを改善し,変更し,又は廃止する不可疑,不可譲かつ不壊の権利を有する。)とあります。) 

そうであれば,日本国憲法13条前段と同条後段との間には,社会契約があることになるようです。日本国は国民国家なのでしょうが,「「国民国家」は,諸個人のあいだの社会契約によってとりむすばれるという論理の擬制のうえに成り立つ人為の産物であり,そのようなものとして,身分制や宗教団体の拘束から個人を解放することによって,人一般としての個人を主体とする「人」権と表裏一体をなすものだった。」とされているところです(樋口陽一『国法学』(有斐閣・2004年)25頁。また同104頁)。ただし,社会契約説は,「契約説ハ国民ガ国家ノ権力ニ服従スルノ根拠ヲ国民自身ノ意思ニ帰セシメントスルモノナルコトニ於テ,近世ノ民主主義ノ根柢ヲ為セルモノナリト雖モ,歴史的ノ事実トシテ此ノ如キ契約ノ存在ヲ認ムベカラザルハ勿論,論理上ノ仮定説トシテモ,此ノ如キ契約ガ何故ニ永久ニ子孫ヲ拘束スルカヲ説明スル能ハザルノ弱点ヲ有ス」と(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)11頁),また,「之は種々の点に誤もあるけれども,其根本に於て人性を見誤つたものと申さなければならぬ,国家を成すのは之を成さずとも宜いのであるが,利害得失を比較して,強て之を造り成したるものではなくして,人間の本質上自然に国家を成すに至るものであるから,人の意思を以て国家存立の基礎とする社会契約説は其根本に於て誤であると言はなければならぬ」(上杉慎吉『訂正増補帝国憲法述義』(有斐閣・1916年)34-35頁)と批判されていたところではあります。

しかしながら,18世紀後半の北米十三植民地の知識人の間では,社会契約説こそが常識だったのでした。母国政府との関係におけるマサチューセッツでの険悪な情勢等を承けて大量に政治小冊子が書かれた1774年のヴァジニアでは,次のごとし。

 

 教育を構成するものは何かということに人々がなお合意することができた時代に教育を受けた人間であるジェファソンは,政治小冊子の全論文執筆者中の典型であった。彼ら全てが――更に全読者についても前提されていたのだが――政治哲学者であるハリントン,ヒューム,ロック,ハリファックス,モンテスキュー,シドニー及びボリングブロークの,並びにグロチウス,フランシス・ハッチソン,プーフェンドルフ及びヴァッテルのような道徳哲学者の著作に精通していた。それに加えて,全員がトゥキディデス及びタキトゥスからクラレンドン伯爵に至るまでの歴史家の見解を諳んずることができた。全員が抑制と均衡のシステム並びにイングランドの憲法を構成する法律及び伝統に詳しかった。「これらは皆,我々の耳に余りにも何度も繰り返し叩き込まれたので,政治についての全くの素人でもそれから長いこと暗記してしまっていたはずだ。」と〔ロバート・カーター・〕ニコラスはぼやいた。全ての学識ある自由()保有(リー)不動産(ホール)保有者(ダー)は,国制上の「イングランド人の権利」を構成するものは何か,「自然法」とは何か――それが「自然」によって定立されて以来何が正しいとされ何が誤っているとされてきたか――及び彼らの「自然権」,すなわち,自然状態から人は契約によって社会に入ったのであり,したがって人は,彼自身又は彼の子孫のいずれによっても失われ,又は処分することのできない権利を保有しているとの彼らの確信, とは何か,並びに以上の結果として,正にその財産(プロパティー)に課税する権力を有するあらゆる政府においては財産(プロパティー)が代表されなければならないことを理解しているものと想定されていた。人民(ピープル)」とは何者かということは必ずしも常に明瞭ではなかったが,主権は人民(ピープル)属すると彼らは信ずるに至っていた。このような同一のイデオロギー基盤を政治小冊子論文執筆者らと自由保有不動産保有者らとは有していたものの,自由に関するこの夏の論争において,確認された論文執筆者中において唯一ジェファソンのみが,いかなる人も他の人を拘束する権利を有しないと主張して奴隷制問題を取り上げた。Randall p.201

 

ということであれば,日本国憲法13条前段の「個人」は,社会契約と何らかの関係があるのだろうということになります。

 

(3)社会契約の当事者としての個人(individuals

すなわち,個人(individuals)こそが,社会契約の当事者なのでした。正にジョン・ロックの『統治二論』の第二論文の第96節にいわく。

 

 For when any number of men have, by the consent of every individual, made a community, they have thereby made that community one body, with a power to act as one body, which is only by the will and determination of the majority… (というのは,任意の数の人々が,各個人の同意によって(by the consent of every individual共同体(コミュニティ)を作ったときには,彼らは,そのことによって当該共同体(コミュニティ)を,多数の意思及び決定によってのみであるが,一体として活動する力を有する一体のものとしたところなのである。)

 

(4)「尊重される」の意味

 さて,それでは,“All of the people shall be respected as individuals.”(「すべて国民は,個人として尊重される。」)における“shall be respected”(「尊重される」)の意味は何でしょうか。ここでの「個人」は日本国定立の社会契約の当事者の地位にある個人であるとして,彼らの「生命,自由及び幸福追求」に対する権利の保全(to secure)が不十分であるときには暴れて革命を起こす人民(ピープル)の構成員としての尊重でしょうか。それとも,社会契約を締結して国家(コミュニティー)の構成員となったとはいえ,彼らの生得不可譲の権利である「生命,自由及び幸福追求」の権利にはなお国家は手を触れるべからず,という意味での尊重(ただし,さすがに公共の福祉に反するようになれば介入して規制するのでしょう。)でしょうか。

「国政の上で,最大の尊重を必要」とするときの「尊重」はconsiderationですが,「consider(考える)は,L com- (intensive)L sīdus〔星,天体〕からなるL cōnsīderāre (to observe attentively; to contemplate; to examine mentally)が語源である。古典ラテン語においては占星術用語としての用法はないが,原義はto observe the starsであったと考えられている。」(梅田109頁)といわれれば,「生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政において遠くに輝く導きの星か,はた妖星か。

 日本国憲法13条の二つの「尊重」はそれぞれrespect及びconsiderationですが,後者の語源は上記のとおり,前者の語源もラテン語のrespicereですからどちらも「見ること」から派生した言葉です。見るということは距離・分離を含意し,手を差し伸ばして触れ合ったり支え合ったり,助け合ったりすることには直接結び付かないようです。

19464月付け法制局の「憲法改正草案に関する想定問答(第3輯)」においては,日本国憲法13条(政府提出案では第12条)前段の「個人として」に関する「個人としてとの意味如何」との想定問に対して,「個々一人一人の人間としてと言ふ意味であり,個人の人格尊重を規定したもので,全体の利益の為に,部分を不当に無視することなきの原則を明にしたものである」との回答が準備されていましたが,確かに,全体のために不当に無視しません,視ていますよとの消極的な性格のものとしての「個人の人格尊重」の位置付けでした。

19465月付け法制局の「憲法改正草案逐条説明(第1輯の2)」ではやや敷衍されて,次のように説明されています。

 

 本条前段は国民が各個人として尊重せらるべきものなることを定めて居ります。即ち従来稍〻もすれば全体を尊重する結果,誤まつて個人を無視し,全体の利益のために部分の利益を犠牲にする傾向に陥ることがあり,特に我国に於てこの弊が大きかつたと言ふことができるのでありますが,前段は国民の個人々々が何れも完全なる人格を有するものとして尊重されねばならぬとし,不当なる外力によつて国民の個性が抑圧せられることを防止しようとする趣旨であります。蓋し民主政治は自主独立なる個人の国政に対する積極的参与を精神とするものであるからであります。而して個人の人格を尊重すると言ふことは,要するに前2条に定めた所の基本的人権の尊重を,立法その他万般の国政の施行の際の基調とせねばならぬと言ふに帰着するのでありまして,本条後段はこの趣旨であります。

 

なお,日本国憲法13条後段の「最大の尊重」との表現については,「大イニ考慮ヲ払ツテ」という意味ではないかとの質疑(佐々木惣一委員)に対して,「サウ云フ意味デアラウト存ジテ居リマス,唯考慮スルト云フヤウナコトニナルト,専門家ガ御使ヒニナル言葉トシテハ,ソレデ十分デアリマセウケレドモ,一般的ニ国民ニ見セル法ト致シマシテ,左様ナ専門家的ナ渋イ描写デハ響キマセヌ,ソコデ政府ハ,サウ云フコトハ最モ尊重シテヤラナケレバナラヌ,斯ウ云フ気持ヲ現シタノデアリマス」との国務大臣答弁があったところです(1946916日の貴族院帝国憲法改正案特別委員会における金森国務大臣答弁(第90回帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員会議事速記録第149-10頁))。「渋イ」ものではいけないとなると,口当たりよく,甘やかで優しくなるのでしょうか。

 

7 GHQ草案12条釈義

 

(1)「日本国ノ封建制度ハ終止スヘシ」

 GHQ草案12条に戻ってアメリカ独立宣言及びヴァジニア権利章典との読み合わせをすれば,冒頭の「日本国ノ封建制度ハ終止スヘシ」は,最高上司のものしたマッカーサー三原則の第3項に敬意を表しつつ,当該一文によって大日本帝国憲法から日本国憲法への社会契約の変更が必要となった事由を示したものなのでしょう。アメリカ独立宣言であれば,北米十三植民地が独立を余儀なくされた理由としての英国ジョージ3世王の悪口が延々と続くところですが,まさか大日本帝国憲法下における昭和天皇の失政をあげつらうわけにもいかず,さらりと「日本国ノ封建制度ハ終止スヘシ」と書かれたものでしょう。明治の聖代における1869725日の版籍奉還,1871829日の廃藩置県の詔書などは高く評価されなかったようです。

 

(2)天皇の臣民(subjects)から社会契約の当事者たる個人(individuals)へ

 次の「一切ノ日本人ハ其ノ人類タルコトニ依リ個人トシテ尊(ママ)セラルヘシ」の部分は,「全ての日本人(又は人々)は,平等なものとして創造されている。」又は「全ての日本人(又は人々)は,本来(均しく)自由かつ独立である。」とも書かないこととしつつ,日本人を,続く後段の不可譲権(生命,自由及び幸福追求に対する権利)を有する自由,平等かつ独立である社会契約の当事者として位置付けようとしたものでしょうか。ロックの個人(individual)も,『統治二論』の第二論文第95節に“Men being, as has been said, by nature all free, equal, and independent, no one can be put out of this estate, and subjected to the political power of another without his own consent.”(今まで述べられてきたように,人々は本来全て自由,平等かつ独立であるので,だれも彼自身の同意なしにこの状態の外に置かれ,及び他者の政治権力に服せしめられることはない。)と紹介されています。
 ここで,“
not subjected to the political power of another”ということは重要です。それまでの日本人は,他者たる天皇の政治権力に,同意などという畏れ多いこともなしにひたすら服する臣民(subjects)でしたが,individualsとなることによって,明文では書かれずとも,アメリカ独立革命期における自由,平等かつ独立の愛国者(ペイトリオッツ)並みの存在たり得るもの位置付けられ得ることができたのでした。ただし,愛国者ペイトリオッツ英国国王ジョージ3世陛下に叛逆した乱臣賊子らでありましたから,「初より本質上日本人の活動は此御一人〔天祖及天祖の系統の御子孫〕の意思を基礎として存在するものであつた,各人は己を没却して絶対的に此御一人の意思に憑依するに由つて自己を完成し永遠ならしむることを得たのであります〔中略〕此御一人の意思は其以外に人性の活動を支配すべき意思あることなき各人が絶対的に憑依し奉る唯一の意思であります」(上杉229頁)ということにその道徳的存在性の基礎を置き,歴代天皇から恵撫慈養されてきた忠良な日本臣民としては,乱臣賊子ら並みになったといわれると,若干の没落ないしは堕落感があったものでしょうか。

 なお,「其ノ人類タルコトニ依リ」と書かれると,日本人はそれまでは人類として認められていなかったのか失礼な,という感じを受けるのですがどうでしょうか。あるいはこれは,最初はby natureと書いたところ,それでは「一切の日本人はその日本人たることにより個人として尊重せらるべし」ということになってかえって日本人ではない者は個人として尊重されなくなってしまうことになるので,くどくはなるものの,by virtue of their humanityと書くことになった(くどくそう書いたのは,個人として尊重されることには憲法までを要しない,という趣旨でしょう。「(法によって権利が認められるのではなく)権利はそれ自身で存在し,憲法・法律は権利の保護のためにあるという自然法的立場」をとる「既得権(vested right)の理論」が,正にロックを通じて米国に導入されていたところです(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)248頁)。),ということでしょうか。

 

(3)「生命,自由及幸福探求ニ対スルソノ権利ハ一切ノ法律及一切ノ政治的行為ノ至上考慮タルヘシ」

 「生命,自由及幸福探求ニ対スルソノ権利ハ一切ノ法律及一切ノ政治的行為ノ至上考慮タルヘシ」の部分は,国家設立の社会契約の目的の再確認ではありますし,日本国憲法においては,その第15条から第17条までの伏線となるところでしょう。日本国憲法14条の位置が問題になりますが,アメリカ独立宣言でもヴァジニア権利章典でも人々の平等ということが政府の位置付け論に対して先行しているところ,1946年の日本国においては,平等だと宣言するだけでは足りない積極的に片付けるべき封建遺制がなおあるものと認められたので,第14条が第13条に直ちに続いて,第15条以下の前に設けられたということでしょうか。

 なお,「幸福追求」について,法制局の「憲法改正草案逐条説明(第1輯の2)」は,「新しい表現でありますが,この語を用ひた気持ちとしましては,権利にも現状を維持するための権利と,一歩幸福の方に進めるための権利との区別があり,この後者の種類のものを表現したのであります。語感として享楽主義の誤解を招くとの非難があり得るかとも存じますが,従来の如く犠牲の面のみを強調することから生ずる暗さを払拭して,社会生活,国家生活の上に明るさを齎すと云ふ方針を表現し得たと考へて居ります。」と説明しています。「享楽主義の誤解を招くとの非難」に係る心配とは,専ら天皇に「其ノ康福ヲ増進」(ただし,「康福」は,伊東巳代治訳ではwelfare)することを願ってもらう(大日本帝国憲法上諭)受け身の姿勢には慣れてはいても,自分で自分の幸福を主体的かつ能動的に追求するとなると,生来享楽を求める己れの本性が下品に暴露されてしまいそうでかえって怖い,ということもあったのでしょうか。
 ちなみに,ジェファソン自身は,18191031日付けウィリアム・ショート宛て書簡において,自分も「古代ギリシア及びローマが我々に遺した道徳哲学における合理的なもの全て」がその教説にあるところのエピクロスの信奉者であると述べつつ,エピクロスの教説では幸福(happiness)が人生(life)の目的であり,その幸福の基礎は徳(virtue)であり,徳は①賢慮(Prudence),②節度(Temperance),③剛毅(Fortitude)及び④正義(Justice)から構成される,とまとめています(まとめ自体は書簡執筆時から二十年ほど前のものだと述べられています。)。享楽主義ではありません。

   

 8 「個人の尊厳」

 ところで,日本国憲法13条前段(「すべて国民は,個人として尊重される。」)は,「「個人の尊厳」を定めた規定であると一般に説明され」ているそうで(樋口陽一=石川健治=蟻川恒正=宍戸常寿=木村草太『憲法を学問する』(有斐閣・2019年)151頁(蟻川恒正)),さらには当該「「個人の尊厳」については尊厳こそが重要だ」ともされています(樋口等153頁(蟻川))。「〔日本国〕憲法13条は,「個人の尊重」(前段)と「幸福追求権」(後段)との二つの部分からなる。前段は,後段の「立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする」と一体化して,個人は国政のあらゆる場において最大限尊重されなければならないという要請を帰結せしめる。これは,一人ひとりの人間が「人格」の担い手として最大限尊重されなければならないという趣旨であって,これを「人格の尊厳」ないし「個人の尊厳」原理と呼ぶことにする。」とも説かれていたところです(佐藤444頁)。

この「尊厳」という概念については,「本気で使うなら,高い身分と不可分のものであるという,ヨーロッパの伝統社会でずっと引き継がれてきた理解を簡単に捨ててはいけない」ということで,「近代社会というのは身分が撤廃された社会というわけではない,そう見えるかもしれないけどもそうではない,では何なのか,みなが高い身分になった社会なのだと考える」べきなのだとの主張があります(樋口等155頁・156頁(蟻川))。当該論者によれば,「重い義務を引き受け,それを履行する人が高い身分の人であるという感覚」から,「尊厳というものは,義務を前提としてでなければ成り立たない。高い身分の人というのは,それだけ普通の人より重い義務を負う存在でなければならない」ということになるそうです(樋口等158頁・159頁(蟻川))。「自分は社会の基本的な構成員だという自覚を与えることが,その人を尊厳ある存在として認めることになるし,そういう社会を作っていくという社会自身のミッションでもある」ということだそうです(樋口等200頁(蟻川))。

民法2条の「個人の尊厳」については,「個人の尊厳とは,すべての個人は,個人として尊重され(憲13条参照),人格の主体として独自の存在を認められるべきもので,他人の意思によって支配されまたは他の目的の手段とされてはならない,ということである。」と説かれています(我妻榮『新訂民法総則(民法講義Ⅰ)』(岩波書店・1965年)29頁)。「他の目的の手段とされてはならない」となると,カント的ですね。教養主義的とも申せましょう。

 

 Handle so, daß du die Menschheit sowohl in deiner Person, als in der Person eines jeden andern jederzeit zugleich als Zweck, niemals bloß als Mittel brauchest. (Grundlegung zur Metaphysik der Sitten)

 

ところで「人格」ですが,これは「近世法が,すべての個人に権利能力を認め,これを人格者(Person)とする」ということですから(我妻46頁),権利能力の主体という意味でしょうか。仮にそうだとすると「人格の尊厳」とは,権利能力の「尊厳」ということになりそうです。何だかこれでは味気ない。であるとすれば,「ここにおいて,現代法は,個人を抽象的な「人格」とみることから一歩を進め,これを具体的な「人間」(Mensch)とみて,これに「人間らしい生存能力(menschenwürdige Existenzfähigkeit)を保障しようと努めるようになった(ワイマール憲法151条)。わが新憲法第25条もこの思想を表明するものである。」(我妻47頁)とはむべなるかな,ということになります。2012427日決定の自由民主党の日本国憲法改正草案では第13条は「全て国民は,人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公益及び公の秩序に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大限に尊重されなければならない。」と改正されることになっていて,「個人」が「人」になっています。


9 GHQ草案12条の「個人」の肖像

最後に,GHQ草案12条の想定していたindividualsとはどのような人々だったのでしょうか。

ロックの説くところでは,自然法の違反者を処罰する自然法執行の任に当たり,また,自らに対する損害賠償を求める自力救済をも行う者でした(『統治二論』第二論文第2章)。なかなか能動的です。自らのproperty(もの)である労働(labour)によって彼に固有のもの(プロパティ)を取得する者であり『統治二論』第二論文27節・第32節),理性の法に服し(同第57節),それに足る精神的能力を有していなくてはならず(同第60節),配偶者,子供及び召使からなる家庭を有する者ともなり(同第77節), 彼に固有のもの(プロパティ),すなわち彼の生命,自由及び財産(estate)を他の人々による侵害又はその試みに抗して保持する権力(a power)を生来(by nature)有する者でありました(同第87節)。

米国的文脈では,独立宣言の最後でアメリカ独立革命の大義のために“we mutually pledge to each other our lives, our fortunes, and our sacred honor.”(我々は,相互に,我々の生命,我々の運命(財産)及び我々の神聖な名誉をかけることを誓う。)と誓った「壮麗に古代ローマ的な」(Randall p.273愛国者(ペイトリオッツ)でしょうか。それとも後の大統領フーヴァーが19281022日に説いた,分権的自治,秩序ある自由,平等な機会及び個人の自由の諸原則(the principles of decentralized self-government, ordered liberty, equal opportunity, and freedom to the individual)を奉ずるrugged individualism(徹底的個人主義)の信奉者でしょうか。「アメリカは,英国の公共の負担によってではなく,諸個人(individuals)の負担によって征服され,並びにその定住地が建設され,及び確立されたものである。彼ら自らの血が彼らの定住地の土地を確保するために流され,彼ら自らの財産が当該定住地を持続可能とするために費やされた。彼ら自身で彼らは戦った,彼ら自身で彼らは征服した,そして彼ら自身のみのために彼らは保持の権利を有するのである。」とは17747月にジェファソンが執筆した「ブリティッシュ・アメリカの権利の概観」の一説です。

フーヴァーは,その米国式徹底的個人主義の対極にあるものとして欧州の家父(パター)長主義(ナリズム)及び国家(ステート)社会(・ソーシ)主義(ャリズム)を挙げていました。

全ての国民を「かけがえのない個人として尊重」する国家及び社会においては,徹底的個人主義を奉ずる個人は稀であり,むしろフーヴァーのいう欧州的な哲学を奉ずる者が大多数なのでしょう。

  



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1 2015年4月の日米防衛協力のための指針と米国からの電子メール
 

(1)米国内での報道

 今年(2015年)4月末の安倍晋三内閣総理大臣の米国訪問に際して米国ABCのウェッブサイトに「米日防衛協定:中国に対する懸念の中,日本軍により幅広い役割を認める「歴史的」な新ルール」(US-Japan defence deal: Historic new rules to allow Japanese forces wider role amid concerns over China)と題するニュース記事が掲載されました。

 そこでは,「改訂されたガイドラインにおいては,日本は,第三国から脅威を受けている米国軍のために来援することができ,又は,例えば,中東地域での活動のために掃海艇を派遣することができる。」(Under the revised guidelines, Japan could come to the aid of US forces threatened by a third country or, for example, deploy minesweeper ships to a mission in the Middle East.)と報ぜられています。これに対して従前のルールでは,「日本軍は,日本を直接防衛する行動をしている米国兵のみを支援することができた」(Under the previous rules, Japanese forces could assist American troops only if they were operating in the direct defence of Japan.)ものにすぎなかったとされるところです。米国のケリー国務長官は,共同記者会見において,「本日(2015年4月27日),我々は,日本が自国の領土のみならず,必要であれば米国及び他のパートナーをも防衛する権能を確立したことを確認するものであります。」("Today we mark the establishment of Japans capacity to defend not just its own territory, but also the United States and other partners as needed.)と発言したとされています。


(2)米国からの電子メール

 このニュースを読んだ米国人の知人から早速電子メールが届きました。



  どのようにして事態は変わったものやら。今や日本は,米国が第三者によって攻撃されたときには来援してくれるし,中東での
○○対策で私たちを助けてくれるのですね。

 

 実はいささか返事に困っているところです。
 

(3)日米防衛協力のための指針

 2015年4月27日の日米防衛協力のための指針The Guidelines for Japan-U.S. Defense CooperationⅣ章「日本の平和及び安全の切れ目のない確保」(Seamlessly Ensuring Japan's Peace and Security)のD「日本以外の国に対する武力攻撃への対処行動」(Actions in Response to an Armed Attack against a Country other than Japan)には,「自衛隊は,日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し,これにより日本の存立が脅かされ,国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態に対処し,日本の存立を全うし,日本国民を守るため,武力の行使を伴う適切な作戦を実施する。」とあります。米国が第三者(a third party)によって攻撃されたときの我が自衛隊の米国来援は,この部分に基づいてされるのでしょう。英文では次のとおりです。

     The Self-Defense Forces will conduct appropriate operations involving the use of force to respond to situations where an armed attack against a foreign country that is in a close relationship with Japan occurs and as a result, threatens Japan's survival and poses a clear danger to overturn fundamentally its people's right to life, liberty, and pursuit of happiness, to ensure Japan's survival, and to protect its people. 


(4)ワシントン陥落の場合における我が国の存立いかん

 しかし,コロンビア特別区ワシントンに向けて第三国軍の兵士がその南東方面の上陸地点から進軍し,迎え撃つ米国大統領直率の民兵等部隊はあえなく敗走して当該第三国軍の首都侵入を許し,同大統領夫人は初代大統領の肖像画を抱えてほうほうの態でホワイト・ハウスを脱出し,侵入軍兵士らは残された大統領官邸正餐の食事に舌鼓を打った上で上機嫌をもって同官邸等の政府庁舎に放火したからといって,我が日本国の存立が脅かされるわけでもなければ,日本人の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があったわけでもないでしょう。少なくとも光格天皇の御代たる文化十一年(1814)夏の我が国は,百姓一揆等はあれども,天下泰平でありました(征夷大将軍は徳川家斉)。


2 我が国における安全保障法制の整備に向けた動き


(1)
2014年7月1日閣議決定

 前記日米防衛協力のための指針Ⅳ章Dの部分は,2014年7月1日の閣議決定「国の存立を全うし,国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」の3(3)における次の部分に対応するものと解されます。いわく,「・・・我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず,我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し,これにより我が国の存立が脅かされ,国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において,これを排除し,我が国の存立を全うし,国民を守るために他に適当な手段がないときに,必要最小限度の実力を行使することは,従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として,憲法上許容されると考えるべきであると考えるに至った。」(英訳では,...the Government has reached a conclusion that not only when an armed attack against Japan occurs but also when an armed attack against a foreign country that is in a close relationship with Japan occurs and as a result threatens Japan's survival and poses a clear danger to fundamentally overturn people's right to life, liberty and pursuit of happiness, and when there is no other appropriate means available to repel the attack and ensure Japan's survival and protect its people, use of force to the minimum extent necessary should be interpreted to be permitted under the Constitution as measures for self-defense in accordance with the basic logic of the Government's view to date.


(2)武力攻撃事態等法等の改正法案等

 2015年5月14日に閣議決定された「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案」の予定する改正後の武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(平成15年法律第79号。以下「改正武力攻撃事態等法」)の改正2条4号は「存立危機事態」を「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し,これにより我が国の存立が脅かされ,国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態をいう。」と規定しています。

 前記2014年7月1日閣議決定の「他に適当な手段がないときに,必要最小限度の実力を行使すること」の部分に対応するものとしては,改正武力攻撃事態等法改正9条2項1号ロが,武力攻撃事態等又は存立危機事態に至ったときに政府が定める対処基本方針(同条1項。内閣総理大臣が案を作成して閣議決定を受け(同条6項),更に国会の承認を承ける(同条7項)。)においては「事態が武力攻撃事態又は存立危機事態であると認定する場合にあっては,我が国の存立を全うし,国民を守るために他に適当な手段がなく,事態に対処するため武力の行使が必要であると認められる理由」を定めるものとし,同法改正3条4項は「存立危機事態においては,存立危機武力攻撃を排除しつつ,その速やかな終結を図らなければならない。ただし,存立危機武力攻撃を排除するに当たっては,武力の行使は,事態に応じ合理的に必要と判断される限度においてなされなければならない。」と規定しています。

 存立危機事態においては,対処基本方針の定めるところに基づき,内閣総理大臣は国会の事前の承認を受け,又は特に緊急の必要があり事前に国会の承認を得るいとまがないときは当該承認なしに,自衛隊法76条1項の防衛出動を命ずることができるとされています(改正武力攻撃事態等法9条4項)。自衛隊法76条1項の規定により出動を命ぜられた自衛隊は,我が国を防衛するため,必要な武力を行使することができることはもちろんです(同法88条1項)。

 米「国に対する武力攻撃が発生し,これにより我が国の存立が脅かされ」るという事態における政府の対処基本方針においては,次のような文言が見られることになるのでしょうか。



・・・帝国ノ重ヲ米国ノ保全ニ置クヤ一日ノ故ニ非ス是レ両国累世ノ関係ニ因ルノミナラス米国ノ存亡ハ実ニ帝国安危ノ繋ル所タレハナリ然ルニ・・・某国ハ既ニ帝国ノ提議ヲ容レス米国ノ安全ハ方ニ危急ニ瀕シ帝国ノ国利ハ将ニ侵迫セラレムトス事既ニ茲ニ至ル帝国カ平和ノ交渉ニ依リ求メムトシタル将来ノ保障ハ今日之ヲ旗鼓ノ間ニ求ムルノ外ナシ政府ハ汝有衆ノ忠実勇武ナルニ倚頼シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス

  
  20世紀初頭風の文章ですが,これではまだ,存立危機事態の認定には足りないでしょうか。なお,「我が国と密接な関係にある他国」は,米国だけではないでしょう。


3 存立危機事態


(1)我が国の存立と生命,自由及び幸福追求の権利

 しかし,「他国に対する武力攻撃が発生し,これにより我が国の存立が脅かされ,国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」との存立危機事態の定式における前半部分と後半部分との関係は分かりにくいところです。「我が国の存立が脅かされ」,かつ,「国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があるときにのみ存立危機事態が認定されるとすると,「国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があっても「我が国の存立が脅かされ」なければ自衛隊の防衛出動はないわけですが,「我が国の存立が脅かされ」ても「国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」が無い場合も存立危機事態ではないことになり,自衛隊の防衛出動はないということでよいのでしょうか。

 この点2015年5月15日付けの自由民主党安全保障法制整備推進本部「切れ目のない「平和安全法制」に関するQ&A」の「答40」では,「存立危機事態」とは,「他国に対する武力攻撃が発生した場合において,そのままでは,すなわち,その状況の下,武力を用いた対処をしなければ,国民に我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な,深刻,重大な被害が及ぶことが明らかな状況」をいうものであって,「事態の個別具体的な状況に即して,主に攻撃国の意思,能力,事態の発生場所,その規模,態様,推移などの要素を総合的に考慮し,我が国に戦禍が及ぶ蓋然性,国民が被ることとなる犠牲の深刻性,重大性などから客観的,合理的に判断する」ものとされています。「我が国の存立」に対する脅威には直接言及されていません。また,急迫性も明示的には要件にされていないようです。


(2)自衛権と生命,自由及び幸福追求の権利

 前記2014年7月1日閣議決定は,その3(2)において,憲法13条の「生命,自由及び幸福追求の権利」に言及します。いわく,「憲法9条はその文言からすると,国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えるが,憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法13条が「生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると,憲法9条が,我が国が自国の平和と安全を維持し,その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されない。一方,この自衛の措置は,あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫,不正の事態に対処し,国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり,そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容される。これが,憲法第9条の下で例外的に許容される「武力の行使」について,従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹,いわば基本的な論理であ」ると。


(3)アメリカ独立宣言における生命,自由及び幸福追求の権利と抵抗権

 憲法13条の「生命,自由及び幸福追求の権利」は,1776年のアメリカ独立宣言に由来します。

     We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal; that they are endowed by their Creator with certain inalienable rights; that among these, are life, liberty, and the pursuit of happiness. That, to secure these rights, governments are instituted among men, deriving their just powers from the consent of the governed; that, whenever any form of government becomes destructive of these ends, it is the right of the people to alter or to abolish it, and to institute a new government...     

 (我々にとって,以下の真理は自明のことである。すなわち,全ての人は平等に創造されていること。彼らは,彼らの造物主によって,一定の不可譲の権利を付与されていること。それらの権利のうちには,生命,自由及び幸福の追求があること。政府は,当該権利を確保するため,被治者の同意にその正当な権限を基礎付けられつつ,人々の間に設立されるものであること。いかなる形体の政府であっても,これらの目的に対して有害となったときにはいつでも,これを変更又は廃止し,及び新たな政府を設立することは人民の権利であること。)

 「生命,自由及び幸福追求の権利」は,北アメリカ植民地人のジョージ3世の英国政府に対する叛逆を,抵抗権の行使として大義付けるために持ち出されたものでした。

 さて,そうであれば,「すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。」との我が憲法13条の規定(All of the people shall be respected as individuals. Their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extend that it does not interfere with the public welfare, be the supreme consideration in legislation and in other governmental affairs.)を,そのそもそも由来するアメリカ独立宣言風に理解すると,「各個人の生命,自由及び幸福追求の権利を政府が尊重しないと,ジョージ3世の政府に対して北アメリカ植民地人がしたように,抵抗権が発動されて独立革命を起こされても文句は言えないぞ。すなわち国家の存立が脅かされるぞ。」ということになるでしょうか。物騒な条文です。

 なお,アメリカ独立宣言には,ジョージ3世の秕政として,植民地議会の同意なしに平時に常備軍を駐屯させたこと(He has kept among us, in time of peace, standing armies, without the consent of our legislatures.)及び軍を市民の政府から独立し,かつ,優越するものとしようとしたこと(He has affected to render the military independent of, and superior to, the civil power.)が挙げられています。北アメリカ植民地人は,自分たちの防衛のためには本国の常備軍になど頼らず,自ら武器を所持しつつ,民兵組織で対処するつもりだったのでしょう。(とはいえ,アメリカ独立戦争においてはルイ16世のフランス王国と同盟し,フランス軍の来援を受けていますが。)

 抵抗権は,権利であるばかりではなく,その行使が義務である場合もあるとされます。再びアメリカ独立宣言。

     ...But, when a long train of abuses and usurpations, pursuing invariably the same object, evinces a design to reduce them* under absolute despotism, it is their right, it is their duty, to throw off such government and to provide new guards for their future security...(* このthemmankindを受ける。)

 (しかしながら,長期の連続した権限の濫用及び簒奪が,一貫して同一の目的を追求し,人類を絶対的専制の下へ引き下ろそうとする意図を明らかにするときにあっては,そのような政府を投げ棄て,彼らの将来の安全のための新たな防護を講ずることは,彼らの権利であり,義務である。)

 ジョージ3世治下の英国のような悪の帝国による世界征服(world conquest)ノ挙は,国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険であって,それに対して積極的に抵抗する権利(英国臣民ならば抵抗権ですが,外国人にとっては自衛権ということになるのでしょう。)を行使するのが,生命,自由及び幸福追求の権利を有する人たるものの権利であり,かつ,義務であるということになるようです。

 ルイ16世は,このような高邁な考えを持っていたのでしょうか。

 しかし,アメリカ独立戦争の支援等によってルイ16世の政府の財政は破綻し,やがてフランス革命が起きて1792年9月には王制廃止,1793年1月21日にルイ16世は処刑されてしまいます(かくして一つのレジームからの脱却がされたわけです。)。財政的に無理がある国がアメリカに肩入れするのは剣呑ですね。戦費調達が大変です。そのために国債を発行した場合,国債が値崩れしないかどうか。

 ところで,アメリカ独立宣言の起草者ジェファソンは,やがて国王の処刑に至る血なまぐさいフランスの動向に対して冷静でした。1793年1月3日付けのジェファソン国務長官のウィリアム・ショート(駐ハーグ米国公使)あて書簡にいわく。



 ・・・全地上の自由は,この抗争の結果いかんにかかっていたのです。そして,このような貴重な獲得物が,かつてこれほど少ない無辜の血によってあがなわれたことがあったでしょうか。私自身の愛情は,この大義のための殉難者らによって深く傷つけられています。しかし,それが失敗するのを見るよりは,地上の半分が無人の地となるのを見る方がましです。それぞれの国にアダムとイヴとだけが残されることになっても,自由な者として残されるのならば, 今よりましなのです。・・・

 
  同年3月24日付けの同郷(ヴァジニア)の後輩マディソン(1814年夏の米国大統領)あて書簡において,ジェファソンは,ある夕食会でルイ16世の処刑が話題になったことを取り上げていますが,同席者の政治的傾向の分析(最左翼のジャコバン支持者から最右翼の貴族政論者まで各人をその傾向に従って順番付けた。)を書くためのものだったようです。アメリカ独立革命の恩人の死に対して,ジェファソンは冷淡ですね。

 「人命は地球より重い。」とか,「国民の命と平和な暮らしを守り抜く。」などと考えていた人ではないようですね。実際ジェファソンは,1787年1月30日付けのマディソンあてのパリからの書簡において,マサチューセッツ邦でのシェイズの叛乱を論じつつ,叛乱が起こることはよいことだとまで言っています。いわく,「小さな叛乱が時々起こることはよいことであり,物質界において嵐がそうであるように,政治の世界において必要なものだと思います。失敗に終わった叛乱は,実際のところ,その原因となった人民の権利に対する制限(incroachments)を確立(establish)するのが一般です。この真理の認識は,叛乱を過度に抑制(discourage)しないように,正直な共和国の知事ら(honest republican governors)を,叛乱の処罰において穏和にすべきものです。これは,政府の健全性のために必要な薬なのです。」


(4)存立危機事態認定要請への対処

 存立危機事態の認定をするよう米国から要請があることもあるのでしょう。

 前記自由民主党Q&Aの「答12」には,「平和安全法制の整備は,国民の命と平和な暮らしを守り抜くために,我が国として主体的に取り組んでいるものです。我が国の存立と国民の命や平和な暮らしに関係のない集団的自衛権の行使の要請が,仮に米国からあったとしても,断るのは当然のことです。」とあります。

 しかし,そのようにピシャリとはねつけることができるような明らかに無理無体な要請ではない,それなりの理屈付けがされた要請が来ると面倒ですね。第一次世界大戦中の欧州派兵要請への対処問題の再演ということになりましょうか。

http://donttreadonme.blog.jp/archives/944591.html

 米国側にそれなりの期待を持たせてしまっているということでもあると,厄介ですね。

 なお,前記日米防衛協力のための指針の第Ⅳ章Dには,「日米両国が,各々,米国又は第三国に対する武力攻撃に対処するため,主権の十分な尊重を含む国際法並びに各々の憲法及び国内法に従い,武力の行使を伴う行動をとることを決定する場合であって,日本が武力攻撃を受けるに至っていないとき,日米両国は,当該武力攻撃への対処及び更なる攻撃の抑止において緊密に協力する。共同対処は,政府全体にわたる同盟調整メカニズムを通じて調整される。」とあります。同盟調整メカニズムまで用意されているのですから,米国からの要請をそう容易に振り切ることはできないでしょう。


 結局,米国の知人からの電子メールに対する返信の内容は,国会での議論を見ながら考えるということになりました。


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1 1860年春のカリフォルニア州における福沢諭吉のワシントンの「子孫」問答

 福沢諭吉の『福翁自伝』(1899年)に,次の有名なくだりがあります。

 時は1860年3月18日(安政七年二月二十六日)ないしは5月9日(万延元年閏三月十九日),所はアメリカ合衆国カリフォルニア州(1848年3月メキシコから割譲。1850年9月州昇格)のサン・フランシスコ又はその近郊(咸臨丸の一行はサン・フランシスコ近傍メールアイランドの米国海軍港官舎に止宿)。

 

  ところで私がふと胸に浮んである人に聞いてみたのは,ほかでない,いまワシントンの子孫はどうなっているかと尋ねたところが,その人の言うに,ワシントンの子孫には女があるはずだ,いまどうしているか知らないが,なんでもだれかの内室になっている様子だと,いかにも冷淡な答でなんとも思っておらぬ。これは不思議だ。もちろん私もアメリカは共和国,大統領は4年交代ということは百も承知のことながら,ワシントンの子孫といえばたいへんな者に違いないと思うたのは,こっちの脳中には源頼朝,徳川家康というような考えがあってソレから割り出して聞いたところが,いまのとおりの答に驚いてこれは不思議と思うたことはいまでもよく覚えている。理学上のことについては少しも肝をつぶすということはなかったが,一方の社会上のことについては全く方角がつかなかった。(テキストは,慶応義塾創立百年記念版(1958年)104頁)

 

 これは質問がよろしくないです。日本人のアメリカ合衆国理解に,若干の不正確を生じさせたように思われる問答です。また,サン・フランシスコ(又はその近傍)の「ある人」も,親切なようでいて知ったかぶりはいけない。「いかにも冷淡」だったのは,知識が必ずしも十分ではなかったゆえでしょう。

 アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンには子どもが生まれませんでした。子どものいないワシントンの「子孫」について訊かれても,本来答えようがありません。

 

2 初代アメリカ合衆国大統領にとっての子の不在の意味

 実は,子どもがいなかったからこそ,ワシントンが初代大統領に選ばれたふしがあります。

 

  ワシントンが大統領になるべきだとの輿論は,彼の英雄的行動,彼の無私の愛国心及び戦時の統帥権を進んで返上した彼の意志から生じた。もう一つの――大きなものではないにしても――要因は,彼には見たところ生殖能力が欠けており(apparent sterility),かつ,子どもがいないことであった。このことは,彼は,神意によって,彼の国の国父(the Father of His Country)となるべき清浄なる地位(immaculate state)に定められているように思わせるものであった。1788年3月に「マサチューセッツ・センティネル」紙は,ワシントンを選出すべき理由を枚挙して掲載したが,その中には「息子がいない――したがって,世襲の後継者という危険に我々をさらすことがない」というものが含まれていた。このことは,諸君主が政略結婚を当然のこととし(routinely made dynastic marriages),また,欧州列強による新しい共和制政府の転覆を人々がおそれていた当時にあっては,もっともな懸念であった。ジョン・アダムズは,ジェファソンに対して,ワシントンが子どものいない大統領となることに覚えた安堵について述べている。「ワシントン将軍に娘がいたら,フランスかイングランドの王室,若しくはおそらく両方から,求婚されたものと私は堅く信じます。また,もし彼に息子がいたら,彼は花嫁さがしの旅にヨーロッパに招待されたことでしょう。」と。ワシントンに出馬を説得するため,彼に子どもがいない事実を示唆しつつ,グーヴェルヌール・モリスは茶目に言った。いわく,「あなたは三百万人を超える子どもらの父になるのですぞ。〔178812月6日付け書簡〕」(Chernow, Ron. Washington: a life. Penguin, 2010. pp.549-550

 

ワシントンに子どもができなかったのは,マーサ夫人に原因があったのか,ワシントン自身の若いころの病気によるものか,議論があるようです。

 

・・・この子どもの生まれなかった婚姻について説明する多くの仮説(theories)が提示された。マーサは,彼女の最後の子であるパッツィー(Martha Parke Custis)の分娩の際に傷害を負い,その後の出産が不可能になったのかもしれない。ジョージの若いころの天然痘又は他の病気が, 彼から生殖能力を奪ったのではないかと考える学者もいる。・・・(Chernow, p.103

 

 ワシントンと結婚した時(1759年1月6日),マーサ・ダンドリッジは二人の子持ちの富裕な未亡人でした(亡夫はDaniel Parke Custis)。二人の連れ子のうち,兄のジャッキー(John Parke Custis)は,178110月のヨークタウン戦に参加しますが陣中で病を得て翌11月に幼い3人の娘と一人の息子(George Washington Parke Custis)を残して死亡しました。妹のパッツィーは,てんかんに苦しんで早逝しています。

 
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ヴァジニア州マウント・ヴァーノンのワシントン邸
 

3 息子の不在と人妻:初期アメリカ合衆国大統領の妻子について

 

(1)息子の不在

どうもアメリカ合衆国大統領は,息子と縁のない人物が多いようです。福沢諭吉の渡米時までに2期8年を務め上げた大統領はワシントンのほか次の4名がいますが,みな男児には恵まれていません。

 第3代(18011809年)のジェファソンには娘はいましたが,アメリカ独立宣言起草後の9月にジェファソンがMonticelloの妻のもとに戻った時に懐胎され,1777年5月28日に生まれたただ一人の息子は,洗礼を受ける間もなく死亡してしまいました(Randall, Willard Sterne. Thomas Jefferson: a life. HarperPerennial, 1994 (H. Holt, 1993). pp.282, 305)。

第4代(1809年‐1817年)の虚弱なマディソンには子どもがありませんでした。

第5代(18171825年)のモンローの一人息子は夭折しています。

第7代(18291837年)の武闘派ジャクソンにも子どもがいませんでした。

 

(2)人妻ないしは未亡人

 ちなみにこれらの大統領は,5代目のモンローを除いて,人妻であった女性と結婚しています。

ジェファソン夫人もマーサですが,また未亡人でもありました(亡夫はBathhurst Skelton)。マディソン夫人のドリーも未亡人で(亡夫はJohn Todd),連れ子のジョン・ペイン(John Payne Todd)は浪費家となってマディソン家の頭痛の種になりました。ジャクソン夫人のレイチェルもジャクソンと婚姻する前から人妻でした(夫はLewis Robards)。文字どおりの人妻で,レイチェルに懸想しているジャクソンが「おれにこんな素敵な女房がいたら,かわいい瞳に涙を浮かべさせるようなことをわざわざしたりはしないぜ。」と言えば,「ほう,多分な・・・けれど,あの女はてめえの女房じゃないよ。」と亭主のロバーズが言い返すという西部劇的場面もテネシーはナッシュヴィルの街であったそうです(Meacham, Jon. American Lion. Random House, 2008. p.22)。ジャクソン夫妻は,妻の前夫との離婚が法的に完了する前に結婚してしまい,その後不倫・重婚の非難に悩まされることになりました。1828年の大統領選挙の時のネガティヴ・キャンペーンは大変なもので,心痛のレイチェル夫人は,ジャクソンの大統領当選後,ホワイト・ハウス入りすることなく亡くなりました。

 

4 福沢諭吉のワシントンの「子孫」架空問答

 

(1)ヴァジニア州編

 ところで,1860年の春,福沢諭吉が太平洋岸のカリフォルニア州ではなく,首都ワシントンに隣接する南部のヴァジニア州(アーリントン付近)にいたらどうだったでしょうか。

 

  ・・・私がふと胸に浮んである人に聞いてみたのは,ほかでない,いまワシントンの子孫はどうなっているかと尋ねたところが,その人の言うに,ワシントンにはそもそも子どもが生まれなかった,ただ内室の連れ子から,男児の孫が一人いて,それに女(むすめ)がある,その女がいまどうしているかといえば,メキシコとの戦争で手柄を立て,去年当州のハーパーズ・フェリーで黒人奴隷解放の叛乱の陰謀を粉砕した当州出身のロバート・リーという陸軍軍人の内室になっていると。なるほどワシントンの縁者だけあって武門の家柄のようだ。・・・

 

 ロバート・E・リー将軍は,1861年からの米国の南北戦争において,南軍の総司令官になる人物ですね。妻は前記のGeorge Washington Parke Custisの娘です。

 

(2)マサチューセッツ州編

 それではヴァジニア州ではなく,北東部ニュー・イングランドのマサチューセッツ州(ボストン近辺)だったらどうでしょうか。

 

  ・・・私がふと胸に浮んである人に聞いてみたのは,ほかでない,いまワシントンの子孫はどうなっているかと尋ねたところが,その人の言うに,ワシントンには子どもが生まれなかったと。こっちの脳中には源頼朝,徳川家康というような考えがあってソレから割り出して聞いたところがいかにも淡泊な答で拍子抜けだ。これは参った。そこで初代に子孫がいないのなら,2代目はどうかと聞いてみたところが,その人が嬉しそうに言うには,2代目大統領はアダムズというが,当地の出身で,その同名の長男は6代目の大統領になったと。6代目も今は亡くなったが,その息子も政事家であって,黒人奴隷の解放を主張する党派に属して大統領の札入れの際副大統領候補に推されたことがあり,現在は当地からの代議員としてワシントン府で公議に参与している,これもナカナカの人物だという。これは不思議だ。私は,アメリカは共和国,大統領は4年交代ということを承知していたが,アメリカでも大統領の子が大統領になるということで,いまのとおりの答に驚いてこれは不思議と思うたことはいまでもよく覚えている。理学上のことについては少しも肝をつぶすということはなかったが,一方の社会上のことについてはそれまで全く方角がつかなかったのだけれども,子は親に似て親の稼業を継ぐものであるということは不思議なことにやはり東西変わらぬものだと思うたわけだ。

 

2代目のジョン・アダムズと区別するため,6代目はジョン・クインジー・アダムズ又はジョン・Q・アダムズと表記されることになります(6代目はQですが,41代目H.Wの子の43代目はWですね。)。ジョン・クインジー・アダムズの人となりについては,「少年期から(あるいは外交官であった父に随行しあるいは単独で留学して)しばしばヨーロッパで生活し,アメリカに帰ってはハーヴァード大学を卒業し,11歳の時から名文で自己反省に満ちた日記をつけ,大統領となってからも早朝4時に起きて読書を楽しんでいた物静かで学究的」な人物であったと紹介されています(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)258頁)。

6代目大統領ジョン・Q・アダムズの息子で1860年当時マサチューセッツ州選出の連邦下院議員(1858年当選)をしていたのは,三男のチャールズ・フランシスです。チャールズ・フランシスが,奴隷制の新しい州への拡大に反対する自由土地党(Free Soil Party)から副大統領候補として,同党の大統領候補である元大統領(8代目)ヴァン・ビューレンと共に出馬したのは,1848年の大統領選挙です。チャールズ・フランシス・アダムズは,南北戦争中には,リンカン大統領に駐英公使に任命されて活躍しています(なお,祖父のジョン及び父のジョン・クインジーも駐英公使経験者でした。)。

 

5 米国における自然の貴族

 

(1)ジェファソン書簡

米国にも名家名門というものがあるのですね。4代目マディソン大統領時代の1813年,ジョン・クインジーの父にしてチャールズ・フランシスの祖父たる前々大統領ジョン・アダムズあての書簡(同年1028日付け)において,前大統領トーマス・ジェファソンは,自然の貴族(natural aristocracy)と人造の貴族(artificial aristocracy)に関して次のように論じています。

 

 ・・・というのは,私は,人々の間には自然の貴族がいるのだということについてあなたに同意するからです。徳と才と(virtue and talents)に基づくものです。・・・また,徳も才もないのではあるが,富と家柄と(wealth and birth)に基づいた人造の貴族もいます。・・・社会の教化,信託及び統治のため,自然の貴族は,自然の与える最も貴重な賜物であると思います。・・・政府の官職にこれら自然の貴族たち(natural aristoi)をこそ選任するために最も効果的な方策を講じた政府の形体が最善のものであるとまで,我々は言わないものでしょうか。人造の貴族は,政府にとって有害な分子であって,その進出を抑える方策が講じられるべきです。何が最善の方策かという問題においては,あなたと私の意見は分かれます。・・・あなたは,擬似貴族(pseudo-aristoi)を立法府の一院に置くのが最善だと考えています。そこでは,彼らの策謀は他の部門(co-ordinate branches)によって妨げられるのでしょうし,また,彼らは人民の多数による土地分配的かつ収奪的な試みに対する富のための防壁となるのでしょう。私の方は,彼らの策謀を抑えるために彼らに権力を与えることは,そのために彼らを武装させるものであり,害悪を匡正するのではなくかえって増大させるものだと考えます。というのは,他の部門が彼らの行動を停止させることができるのならば,彼らも他の部門に対して同じことができるだろうからです。策謀は,積極的にのみならず,消極的にも行い得るものです。このことについては,合衆国元老院(Senate)における一徒党が多くの証拠を提供しています。富者を守るために必要だとも思われません。すなわち,彼らのうちから十分な数の者が,彼ら自身を守るため,立法府の全ての部門に入り込むことだろうからです。・・・最善の解決策は,正に全ての我々の憲法において講じられているところのものであると考えます。すなわち,市民に,自由な選挙及び擬似貴族からの貴族のより分け,小麦のもみ殻からのより分けを委ねることです。一般的に,彼らは真に善い者及び賢い者を選ぶものです。時には富が彼らを腐敗させ,家柄が彼らの目を曇らせることがあるでしょう。しかしながら,社会を危険に陥らせるほどのものではありません。

  私たちの意見の相違は,ある程度は,我々の住む地域の人々の性格の相違に由来するものでもあるようです。私自身がマサチューセッツ及びコネチカットで見たところ,並びに更に私が聞いたところ,及び両州についてよりよく御存じのあなたが御自身の著作において示された前者の性格によりますと,これらの両州においてはいくつかの名家に対する伝統的な崇敬(traditionary reverence)があるようで,それによって政府の官職がこれらの名家にとって世襲のものに近いものになっているようです。あなたがたの歴史の初期の段階から,たまたまこれらの名家の人々は徳と才との所有者であって,人民の利益のためにそれらを公正に行使し,そして彼らの奉仕によって彼らの家名を人民にとって親しいものにしたものであると想像します。・・・しかしながら,あなたがたのもとにおけるこの官職の世襲的継承は,ある程度は真の一族の実力に基づくものでしょうが,より多くは,あなたがたのもとにおける政教の緊密な協調関係(your strict alliance of Church and State)に由来するものです。それらの名家は,人民の見るところにあっては,「あなたが私を掻き,私はあなたを掻いてあげよう。」との共通原則において列聖されているのです。我々のヴァジニアにあっては,そのようなことは全くありません。革命前,我々の聖職者たちは,固定給によって競争者から保護されていて,人民に対する影響力を獲得しようとする努力をしませんでした。富については,イングランドの継嗣限定法の下,世代から世代に受け継がれて特定の家への大きな集中が存在していました。しかしながら,富裕者の唯一の野心の目標は,政府の参議会(King’s Council)における議席でした。彼らは王冠とその取り巻きの機嫌ばかり伺っていました。・・・したがって,彼らは不人気でした。そして,その不人気は彼らの家名になおも付着しています。・・・独立宣言後最初に開かれた我々の議会の会期においては,継嗣限定法を廃止する法律を制定しました。長子の特権を廃止するとともに無遺言被相続人の土地を全ての子又は他の相続人に平等に分割するものとする法律が続きました。私自身によって起草されたこれらの法律は,擬似貴族(pseudo-aristocracy)の根本に大なたをふるったものです。そして,私の準備したもう一つの法案が議会によって採択されていれば,我々の仕事は完了していたところでした。それは,より全般的に知識を広めるための法案でした。・・・各学区に読み書き及び基礎的な算数のための無料の学校を設立するようにします。これらの学校から最優秀の生徒を毎年選抜するようにし,それらの生徒は公費でより高等な教育を地区の学校で受けることができるようにします。そして,これらの地区学校から,一定数の最も前途有望な生徒を選ぶようにし,全ての有益な科学が教授される大学において学業を完了させるようにします。このようにして,あらゆる境遇の中から,ふさわしい者及び天才が探し出され,公共の信託をめぐる競争において富と家柄とに基づく競争者を打ち倒すべく教育によって完全に準備されるのです。・・・聖職貴族(aristocracy of the clergy)を押さえ付けることによってこのシステムの一部をなすとともに市民に精神の自由を回復させた信教自由法並びに市民間の条件の平等を促進する継嗣限定及び不動産相続に関する各法律。この教育に関する法律は,人民大衆を,彼ら自身の安全及び秩序ある統治のために必要な道徳的立派さの高みにまで向上させるはずのものであって,偽者(pseudalists)を排除し,統治の信託のために真の貴族を選び得る資質を彼らに備えさせるという大目標を完結させるはずのものでありました。・・・

 貴族というもの(aristocracy)については,我々は更に次のことを考えなければなりません。すなわち,アメリカ各邦の成立前には,歴史において,狭く又は混雑した境界内にあくせくし,そのような環境がもたらす悪習に染まった旧世界の人間しか知られていなかったということです。そのような連中に適合する政府というものは一つあります。しかし,我らが各州の人間に適合する政府とは非常に異なったものです。こちらにおいては,そう望めば,だれもがそこで自らのために働くべき土地を取得することができます。また,他の仕事をするのが好みであれば,相当の生活(comfortable subsistence)ができるのみならず仕事をやめた老後に備えることもできるだけの収入をそこから得ることができます。全ての人が,彼の財産ないしは満足すべき境遇からして,法と秩序との擁護に利益を有しています。そして,そのような人々は,安全かつ有益に,彼らの公共事務に係る堅実な監理並びに,ヨーロッパの都市のごろつきどもの手に落ちたならば公私にわたる全てのものの解体及び破壊に直ちに変ぜられてしまうこととなるところの高度の自由までを自ら保持することができるのです。過去25年間のフランスの歴史及び過去40年,否,過去二百年間のアメリカの歴史は,この観察の双方の真実を証明してくれます。

 しかし,ヨーロッパでも,目立って人間の精神に変化が生じています。科学が,読みかつ考える人たちの考え方を解放し,アメリカの範例が,人民の権利の感情を喚起しました。続いて,軽蔑されるようになった地位及び家柄に対する,科学,才能及び勇気の叛乱が始まりました。それは,最初の試みにおいては失敗しました。というのは,その達成のために使われた道具たる都市の群衆(mobs)は,無知,貧困及び悪習によって堕落しており,理性的な行動の枠内にとどめることができなかったからです。しかしながら,世界はこの最初の惨害の恐慌から回復するでしょう。科学は進歩しつつあり,才能と企業心は覚醒しています。かれらの節操及び従順からしてより統御可能な勢力であるところの地方人民に対する働きかけがされることでしょう。そして,地位及び家柄並びに虚飾の貴族制度(tinsel-aristocracy)は,かの地においても小さなものとなって最終的に意義薄きものとなるでしょう。しかしながら,このことには,我々は介入する権利を有しておりません。我々にとっては,不忠実なしもべが企む策謀が取り返しのつかない段階に進む前に彼を取り除くことができるように短い期間を置いて行われるものとされた選挙制度の下,我々自身の市民の精神的及び物質的な条件(moral and physical condition)が,彼らを彼らの政府の運営のために有能かつ善良な者を選ぶことができるものと資格づけるものであれば,十分です。

私はこのようにして,我々の意見が相違する点について私の意見を申し述べましたが,これは論争のためではありません。研究及び思索に過ごした長い人生の結果である意見を変えるには,我々は齢を取り過ぎているからです。あなたの以前のお手紙にあった,我々は我々自身をお互いに説明する前には死ぬべきではない,との御提案に従った次第です。・・・

 

 181310月といえば,同月16日からのライプツィヒにおける「諸国民の戦いVölkerschlacht」でナポレオンは敗れ,フランス第一帝政は既に終末期となっていました。しかし,この段階ではジェファソンも,フランス革命は失敗だったと認めていたのですね。ワシントン政権内におけるアレグザンダー・ハミルトンとの抗争の際には,ジェファソンはフランス革命を支持していたはずであり,1792年に王政が廃止されて共和国となり過激化するフランス革命について,「全地上の自由は,この抗争の結果いかんにかかっていたのです。そして,このように貴重な獲得物が,かつてこれほど少ない無辜の血によってあがなわれたことがあったでしょうか。」,「かの地における停滞は,他の諸国における自由の回復を遅らせるでしょう。私は,彼らの政府の確立とその成功とを,我々自身の政府を支持し,かつ,それが英国的国制なる中途半端なものへ転落することを防ぐために必要なものであるとみなしています。」と言って弁護していたのですが(1793年1月3日付けWilliam Shortあて書簡。Randall, p.512)。

 
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ジェファソンを創立者とするヴァジニア大学 (ヴァジニア州シャーロッツヴィル)
 

(2)ジョン・アダムズ家の場合

 ジョン・アダムズの長男の第6代アメリカ合衆国大統領ジョン・クインジーは,徳と才とに満ちた自然の貴族(natural aristocrat)だったのでしょう。ところでそれでは,ジョン・クインジーの二人の弟たちはどのような人物だったのでしょうか。

 第2代大統領の次男のチャールズは,十代の半ばには既に両親の心配の種で,ハーヴァード大学の学部学生時代にはアルコール中毒(母方に,アルコール中毒で若くして死んだおじがいました。)の兆候を示しており,更に独立戦争の功労者ながら同性愛者であると見られていたフォン・シュトイベン将軍とニュー・ヨークで同居するなど一般的ならざる性癖を示していたようです(Ferling, John. John Adams: a life. Oxford University Press, 2010 (The University of Tennessee Press, 1992), pp.322-323)。1792年には弁護士業を始めましたが,結局アルコール中毒で肝臓を壊し,父のジョンが大統領選挙でジェファソンのリパブリカン党に敗れた年である1800年の1130日に30歳で死亡しました。チャールズの死の前年の秋,回復不能のダメ人間になっていた次男をニュー・ヨークで見たアダムズ大統領は激怒し,「放蕩者」,「けだもの」,「悪魔に取りつかれた狂人」とののしり,もう二度と会わないし,かかわりも持たないと宣言して,結局そのとおりとなってしまっています(Ferling, p.386)。

 「幸せなワシントン!子どもがないのは幸せだ!」「私の子どもたちは,私の敵全体からよりも多くの苦痛を私に与える。」とは,妻アビゲイルへの書簡中におけるジョン・アダムズの嘆きです(Ferling, p.388)。

 三男のトーマス・ボイルストンも弁護士になりましたが,結局当該稼業は好きになれず,フィラデルフィアからマサチューセッツの地元に移って「青い悪魔」と自ら呼んだ憂鬱の発作に悩まされるようになりました。33歳で結婚し,それから偉大な親のプレッシャーを感じてマサチューセッツ州議会議員となりますが,1年もたたないうちに辞任しています。彼をも蝕むようになったアルコール中毒に関係があるようです。(Ferling, pp.420-42118181028日に母アビゲイルが亡くなった後,父の住むピースフィールド(マサチューセッツ州クインジーにある1788年からのアダムズ邸)に妻と6人の子どもと共に移って来ますが,それには,老父を介助するという目的だけではなく,経済的な理由もあったところです。長兄のジョン・クインジーはワシントンでモンロー政権の国務長官になっていましたが,トーマス・ボイルストンはアルコール中毒が進み,頼りない初老の男になっていました。父の元大統領は,次男チャールズに係る辛い思い出のゆえか,三男のアルコール中毒にかかわることから逃げています。(Ferling, p.438

 

 酒は恐ろしく,子育ては難しい。

 

6 再び福沢諭吉

 

(1)酒

 ところで,酒といえば,我らが福沢諭吉先生も大変なものでした。『福翁自伝』にいわく。

 

  ・・・そもそも私の酒癖は,年齢の次第に成長するにしたがって飲み覚え飲み慣れたというでなくして,生まれたまま物心のできたときから自然に好きでした。いまに記憶していることを申せば,幼少のころ月代をそるとき頭のぼんのくぼをそると痛いからいやがる。スルトそってくれる母が「酒をたべさせるからここをそらせろ」というその酒が飲みたさばかりに,痛いのをがまんして泣かずにそらしていたことは,かすかに覚えています。天性の悪癖,まことに恥ずべきことです。・・・(慶応義塾創立百年記念版48頁)

  ・・・年25歳のとき江戸に来て以来,嚢中も少し暖かになって酒を買うくらいのことはできるようになったから,勉強のかたわら飲むことを第一の楽しみにして,朋友の家に行けば飲み,知る人が来ればスグに酒を命じて,客に勧めるよりも主人の方がうれしがって飲むというようなわけで,朝でも昼でも晩でも時をきらわずよくも飲みました。(同293頁)

 

しかしながら,福沢諭吉は,32ないし33歳のころ,節酒を決意し,3年ほどかけて成功します。健康な人物です。

 

 ・・・支那人が阿片をやめるようなものでずいぶん苦しいが,まず第一に朝酒を廃し,しばらくして次に昼酒を禁じたが,客のあるときはやはり客来を名にして飲んでいたのを,ようやくがまんして,のちにはその客ばかりにすすめて自分は一杯も飲まぬことにして,これだけはどうやらこうやら首尾よくできて,サア今度は晩酌の一段になって,その全廃はとても行われないから,そろそろ量を減ずることにしようと方針を定め,口では飲みたい,心では許さず,口と心と相反してけんかをするように争いながら,次第次第に減量して,やや穏やかになるまでには3年もかかりました・・・私が生涯鯨飲の全盛はおよそ10年間と思われる。その後酒量は減ずるばかりで増すことはない。初めの間はみずから制するようにしていたが,自然に減じて飲みたくも飲めなくなったのは,道徳上の謹慎というよりも年齢老却のせいでしょう。・・・(同293頁)

 

(2)子どもの教育

 さて,子どもの教育は,自然の貴族たるべく厳しくしつけるべきかどうか。

 

  ・・・長男一太郎と次男捨次郎と両人を帝国大学の予備門に入れて修学させていたところが,とかく胃が悪くなる,ソレカラ宅に呼び返していろいろ手当すると次第によくなる。よくなるからまた入れるとまた悪くなる。とうとう3度入れて3度失敗した。・・・なにぶんらちがあかず,子供は相変わらず3ヵ月やっておけば3ヵ月引かしておかなければならぬというようなわけで,なんとしても予備門の修業に堪えず,私もついに断念してしもうて,それからこちらの塾(慶応義塾なり)に入れて普通の学科を卒業させて,アメリカにやって,かの大学校の世話になりました。・・・なんとしてもからだが大事だと思います。(『福翁自伝』慶応義塾創立百年記念版269頁)

 

 優しいお父さんでよかったですね。

まずは独立自尊。

「心身の独立を全うし,自ら其身を尊重して,人たるの品位を辱めざるもの,之を独立自尊の人と云ふ。」ですね(修身要領第2条『福沢諭吉選集第3巻』(岩波書店・1980年)293頁)。自然の貴族となるまでの無理はしなくともよいのでしょう。


諭吉墓
His admirers know well that he adores alcoholic drinks. (東京都港区麻布山善福寺

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1 法律家を志すまで

 マサチューセッツ湾植民地のブレイントリー村で僕は生まれた。親父は,百姓と靴屋をやっていて,村で尊敬されていた人物の一人,会衆派教会の役職者だ。僕は,親父が44歳,お袋が24歳の時の長男だ。弟たちは,3歳年下のピーター・ボイルストンと6歳年下のエリヒュー。5歳の時からお袋に字を読むことを教わった。

 弟たちは家の野良仕事を手伝うことになっていたけど,長男の僕は,じいさんやおじさんのように学問をしろと言われていた。6歳のころから村の塾に行って,それからクレヴァリーという若い教師がやっているラテン語学校に通った。クレヴァリーは,cleverどころか,怠け者で,生徒には無関心で意地悪だった。学校は面白くなかった。くそっ,たばこでも吸うか・・・(僕は8歳の時からたばこを吸った。)。

 親父に,僕は百姓をやりたいと言った。叱られた。

 マーシュ先生のところに通うことにした。18箇月で,植民地の首都近郊にある大学で勉強しても大丈夫だろうと言われるまで進歩した。15歳の春だった。大学の入学試験を受けるのは不安でいっぱいだったけど,試験官の教授たちは親切で,合格することができた。

 最初はどうなることかと思っていたけど,我が植民地における最高学府での学生生活の4年間は楽しかった。

 大学4年生になった。僕は進路について決めかねていた。親父は僕に牧師になってもらいたがっていたが,どうも牧師職は男らしくないようで,魅力を感じなかった。困った人たちに寄り添うというのは,僕らしくなく思われた。教区の病人や教会税の滞納者を訪問して日々を送るよりは,読書や研究をして過ごしたかった。聖職者には,それらしくあるために守るべき規則や, 機嫌を損ねないようにしなければならない人が多過ぎるのだ。

 真面目な清教徒の親父は法律家を三百代言呼ばわりして嫌っていたけど,僕は法律家の仕事に魅力を感じていた。そのころには,名門の出身者も弁護士になるようになっていた。

 僕は,名誉と名声とが欲しかった。偉大な人間になりたかった。そのために僕は,法律家になりたいと思ったんだ。

 けれど,牧師にならずに,せっかく僕のために学費を負担してくれた両親をがっかりさせるのは気が重かった。小さな村の狭い事務所で無意味な書類の山に埋もれてあくせくする貧乏弁護士で終わってしまうのではないかという不安もあった。聖職者か法律家か,僕は決めかねていた。そこで,ウスターの町でラテン語の教師をすることにした。

 ウスターは田舎で,うんざりした。生徒たちにもうんざりした。進路に関する悩みは続いた。けれども,とうとう僕は決心した。21歳になる少し前の夏(僕の誕生日は,ユリウス暦だと1019日,今のグレゴリオ暦だと1030日だ。),ウスターのジェイムズ・パトナム弁護士のもとに2年の期間で弟子入りをした(そのころは,ロー・スクールなんてものは無かった。)。

 


2 苦労時代(法律修業時代から駆出し弁護士時代まで)

 2年間の法律修業時代は辛かった。同年代の友人はいなかったし,やるべきことは多かった。パトナム先生は親切で正直だったけど,まだ28歳で,ちょっと物足りないところもあったかな。法律修業は,僕が22歳の時の8月に終わった。ウスターに残って弁護士をやれと言ってくれる人もいたけど,僕はブレイントリーの親父のもとに戻って弁護士を開業することにした。何といってもブレイントリーは首都の裁判所の管轄区域内だから,その分弁護士として活躍の機会も多いというわけだ。

 その年の秋,僕は首都に出かけた。市の弁護士会の長老であるジェレマイア・グリドレー先生はすっかり僕を気に入ってくれて,僕に二つの忠告をしてくれた。一つ目は,早く結婚するな,だった。二つ目は,富を求めて法律業をするな,法に対する愛からしろ,だった。

 開業直後の競争は人生で最も厳しかった。同年輩のライヴァルには,ネッド・クインジーとサミュエル・クインジー,ロバート・トリート・ペインなどがいた。ペインの方が僕よりできるようだった。クインジー家の連中には,実家のコネがあった。ところが僕ときたら,書斎にろくな本はないし,有力な友人もいなかった。つるはしなしで,自分の爪で,埋もれた金をかき出さなきゃならなかった。法律で食っていくためには,すべての石をひっくり返して仕事を探さなけりゃならなかった。クインジーの連中もペインも意地悪で,「あいつはばかだ,とんまだ」と僕の悪口を言い触らしているようだった。ライヴァルたちに負けないように狡猾に立ち回ることが,僕にはできないのではないかと不安だった。

 最初の事件が来た。隣家の馬に畑を荒らされたジョーゼフ・フィールドさんの代理人としての損害賠償請求事件だ。ところが,実務経験不足の僕は, まずい準備書面を書いてしまって敗けてしまった。ペインにばかにされるのではないかと怖かった。一流の法律家には金輪際なれないのではないかとの不安にさいなまれた。そして, フィールドさん, ごめんなさい。

 23歳になっていた僕には,好きな娘ができた。しかし,うまくいかなかった。続いてハンナ・クインジーに僕は夢中になった。僕は彼女に駆出し弁護士の苦労について語った。彼女は貧乏を気にしないと言ってくれた。けれど僕がもたもたしているうちに,ハンナは医者のベラ・リンカンに取られてしまった。ハンナはリンカンと婚約してやがて結婚し,僕は全く落ち込んでしまった。

 最初の2年間,僕の弁護士業は結局立ち行かないのではないかと思われた。仕事のことを考えると,胸が苦しくなった。僕は有名になりたかった。けれども,僕が輝くことはあり得ないことのようだった。

 有名になるために法学研究をするのは迂遠で時間がかかる。人脈を作ろうにも僕の性格はそれには向いていない。そうだ,何かの運動に参加してみよう。まずは禁酒運動だ。ブレイントリーの飲み屋の数は減らすべきだ。次は,ちゃんと修業をしていない三百代言征伐だ。

 2年たって,やっと仕事が増えてきた。相続問題が多かった。25歳になる秋には,陪審裁判で初めて勝訴した。心が軽くなった。僕はこしゃくな奴(saucy)だってさ,ははは。

  それからは仕事がうまく行き始めた。僕は自信を持つことができるようになった。当植民地の法曹界でだんだん一目置かれるようになってきた。26歳になった翌月の11月には,最高裁判所で弁論することが認められるようになった。

 ただ,残念だったのは,僕が25歳の時の5月に,親父がインフルエンザで亡くなったことだった。(とはいえ,親父の遺産の3分の1を相続して,僕は初めて事務所を構えることができた。)

 


3 新婚時代

 27歳の時の2月に,フランス人及びインディアンとの戦争が終わった。

 その年の春から夏にかけて,僕は首都の新聞のために匿名論文を書いた。新聞記事掲載はこれが初めてだった。お偉方を風刺したり,望ましい政体について論じたものだ。望ましい政体というのは,君主政,貴族政及び民衆政の混合政体だね。

 29歳になる直前の1025日,僕は結婚した。妻は19歳。ウエイマスのウィリアム・スミス牧師の中の娘で,黒髪の才女だ。スミス家は裕福で,牧師としての収入のほかに二つの農場からのあがりがあり,奴隷も4人所有している。

 翌年の1月から,僕はグリドレー先生に誘われて,当地の限られた最優秀の法律家の勉強会であるソダリタス(Sodalitas)に参加するようになった。その勉強会での僕の報告は,新聞にも掲載された。

 その年の7月,長女アビゲイルが生れた。僕は29歳で父親になった。仕事も順調だし,僕は幸せだった。だけど,ぽっちゃりしてきたみたい。

 


4 最初の反税闘争

 ところが突然,反税闘争が起きた。本国政府に対する反抗だ。おいおいよしてくれ,せっかくクライアントが増えてきて何とかなってきた僕の法律家としての地位がだめになってしまうかもしれないじゃないか。

 僕のまたいとこのサミュエルが暴れていた。最高学府まで行っていながら,起業しては失敗し,遺産を食いつぶした挙句に税務署の小役人をしている43歳の中年男だ。サミュエルは,僕にもっと大っぴらに反税闘争に参加しろと言う。そうすればもっと有名になれるぞと言う。そりゃ本国政府の当該施策は間違っているし,賢明でもない。けれども,騒動が終わった後の反政府派の末路を思うと,前年に租税徴収官として業務上横領に問われかけたばかりのこの貧乏おじさんの口車に簡単に乗るわけにはいかないな。

 問題の新税法は,僕の30歳の誕生日の翌々日である11月1日から施行された。しかし,反税闘争のおかげで,当該税の徴収官はいなかったし,裁判所も休業状態だ。

 翌年の5月,問題の新税法は廃止された。裁判所業務も再開された。植民地議会には多くの反税派が選ばれていた。サミュエルもその一人だ。僕もまあ,目立たぬながらも反税派の側に立って活動していたんで,初当選を期待していないではなかった。ところがどうしたことだろう,ブレイントリー村の連中は,僕を代議員に選ばなかった。民兵大尉で居酒屋の親父のゼイヤーが,またまた選ばれたんだ。くそっ,残念。更にけしからぬことには,ゼイヤーの親父は,ちゃんとした法律修業をしていないくせに弁護士業務をしている代言人なんだ。しかも,あろうことか,ゼイヤー親父はたびたび法廷で僕を立往生させやがっていた曲者なんだ。二重三重に悔しかった。預言者は家郷に容れられずということか。田舎者どもめっ。

 


5 一人前の弁護士に

 32歳になるまでには,僕はひとかどの弁護士になっていた。当植民地の若手弁護士の中ではトップ・スリーに入るものとひそかに自負していた。金持ちというわけではないが,家族には余裕のある生活をさせることができた。巡回裁判のために家族と離れなくてはならないのは辛いし,仕事の性格上,孤独や退屈にさいなまれることはあった。けれども,満足していい境涯だと思った。

 僕が31歳の時の7月,長男が生れた。長男のミドルネームはクインジーだ。むむむ,あのハンナと関係が無いわけではない。母方の曽祖父にあやかって付けた名前なのだが,妻の母の実家はクインジー家で,妻とハンナとはまたいとこなんだよね。

 32歳の時の4月,僕の家族はブレイントリーから10マイル離れた首都に引っ越した。最初は,近所の人々から「ホワイト・ハウス」と呼ばれている家を借りた。それから約1年たって別の家に移り,その後また中心街に引っ越した。「ホワイト・ハウス」といえば合衆国大統領官邸みたいだって?何だいそりゃ,「アメリカ合衆国大統領」ってのは。そんな官職聞いたことないぞ。いずれにせよ,「ホワイト・ハウス」には長居は無用さ。「ホワイト・ハウス」時代に生まれた二女のスザンナは病弱で,2歳になる前に死んでしまったんだ。

 


6 キング・ストリート殺傷事件弁護

 


(1)事件

 ところで本国がまた新らたな税金をかけてきて,今度は正規軍まで駐屯させて来た。サミュエルたちはまた反対運動だ。

本国正規軍の駐屯兵と植民地の住人とのけんかざたが,たびたび起こった。ただでさえうさんくさがられて警戒されていた正規軍の兵隊たちは,非番のときにはアルバイトをして,未熟練労働者の職まで奪って迷惑がられていた。更に悪いことには,連中,地元の女の子たちとデートをするという図々しい所業にまで及んでいたんだ。一触即発。

 こうした状況の中で,僕は34歳の春を迎えようとしていた。

 その3月5日の月曜日,冷たい夜にその事件は起きた。

午後8時過ぎ,首都の税関の前で,棍棒を持ち罵詈雑言を浴びせかける約4百人の群衆と,40歳のアイルランド人であるトーマス・プレストン大尉に率いられた8人の正規軍兵士とがにらみ合っていた。(その晩僕はソダリタスの会合に出ていたので直接見たわけではない。各種の証拠から認定した事実だ。)兵士たちは銃剣付きのマスケット銃を持ち,半円形の隊形を作っていた。撃てるもんなら撃ってみろと兵士を挑発する奴がいた。射撃命令を出すなと言って来る者もいた。大勢の群衆の敵意に囲まれたプレストン大尉は戦慄した。彼にとっては悪夢のような場面だった。

 棍棒を投げつけて来た奴がいた。棍棒が兵士に当たった。発砲。6秒の間を置いて,更に連続発砲。けが人が出た。5人は瀕死だ。雪の上に血が飛び散っていた。命令なしの発砲に慌てたプレストンは,打ち方止めを叫びながら駆け回った。群衆は驚愕し,呆然としていた。プレストンは兵士らをまとめると,帰営した。帰営を妨害する者はいなかった。

 これが「キング・ストリート殺傷事件(Slaughter in King Street)」のあらましだ。

 


(2)裁判

 サミュエルたちは,自分らの反本国政府運動のために,この宣伝機会を逃さなかった。犠牲者のために盛大な葬儀が挙行された。当該事件は反対派を黙らせるために計画された税関と軍との陰謀の結果だ,と主張するパンフレットの出版がそれに続いた。

 3月中に,大陪審はプレストンと兵士らを起訴した。ハンナの兄のクインジーが特別検察官に任命された。あのペインも訴追チームに加わった。

 弁護人の選任は難航した。そりゃ地元の住民を5人も殺したよそ者を弁護するんだもの,後の業務のことを考えると地元の弁護士は尻込みするよね。東洋の賢しらな学者ならば,「君子危うきに云々」とでも言うんだろうね。

 で,だれがそんな大変な仕事を引き受けたかって?

 僕だ。

 すべての人には,公正な裁判を受ける権利があるからだ。

 弁護団は,僕のほか,特別検察官の弟であるジョサイア・クインジーほか2名の合計4名で構成されることになった。

 プレストンと兵士らの裁判は,夏が過ぎるまで始まらなかった。(それまでの間に,僕は植民地議会の代議員に補欠選任されていた。サミュエルが陰で動いていたって?その話の真偽について論ずべき場所は,ここではないね。なお,5月には次男のチャールズが生れた。)

 9月の初めに罪状認否があった。その6週間後に,新しい裁判所の建物の2階にある法廷で,審理が始まった。大勢の傍聴人が詰めかけていた。

 僕はまず,プレストンの弁論と兵士らの弁論とを分離することに成功した。プレストンは直接人を殺傷したものとしては起訴されていなかったから,発砲命令があったとの主張に係る立証を崩せばよいわけだ。

 プレストンの審理は5日間かかった。発砲命令の存在を立証すべき検察側の証人は15人いたが,我々の反対尋問でぐらぐらになった。それに対する弁護側の証人は23人。事件の晩,混乱の中にあって,兵士らは圧倒的多数の暴徒に取り囲まれて挑発と威嚇とを受けていたことをしっかり証言してくれた。3時間の評議で,陪審員はプレストン大尉の無罪を評決した。(無論,陪審員を選ぶところから,僕らは本国びいきの人が残るようにしていたからね。)

 11月(僕は35歳になっていた。)に,兵士らの審理が始まった。

 検察側はヘマだった。検察側の最初の証人は,こともあろうに,事件の晩,実はキング・ストリートにいなかったと言い出した。他の検察側の証人も,群衆が「撃てみやがれ!撃ってみやがれ!(Fire! Fire!)」と不安な情況にある兵士らを挑発していたと証言してしまった。群衆がたびたび兵士らに物を投げつけていたという証言も取れた。そうだよ, そうだよ, 事実ってやつは, 強情なものだからね(Facts are stubborn things.)。僕は陪審員に対して,兵士らが侵害にさらされていたとすれば,そのようなことをしている「a motley rabble of saucy boys, negroes and mulattoes, Irish teagues and outlandish jack tars〔注・差別用語が含まれているようです。〕」に対して自衛のために発砲する権利があったのだし,侵害にさらされていなかったとしても挑発されたのであったならば,謀殺故殺ではなく,殺傷の罪にすぎないと弁論した。陪審員(実はまた僕らはうまくやって,陪審員中には地元である首都の市民は一人もいなかった。)は僕の弁論に同意してくれて,8人の兵士中,6人は無罪となった。残る2人は殺傷の件で有罪とされたけれども,初犯だったので「聖職者の特権(benefit of clergy)」を行使して(聖職者でなくとも, 詩篇第51篇のneck verseを知っていればいいのだ。),親指に烙印されるだけですんだ(この烙印は,当該特権を同人は「使用済み」との印だ。)。

 この年は,めでたく終わった。キング・ストリート殺傷事件の弁護のせいで仕事が減るかと思ったけれども,かえって僕の賢明な弁護士という評判が高くなった。しかも今や議会の代議員さまでもある。年間の取扱事件数は約450件に達し,僕は当植民地の最も売れっ子の弁護士の一人となった。ロー・クラークも常時2,3人雇っている。クライアントは当地のエリートぞろいだ。議会の議長を最近二人出したボードイン一族,大商人のジョン・ハンコック,財務監のグレイ,前総督のバーナード閣下等々。隣のニュー・ハンプシャー植民地のウェンワーズ総督閣下も僕のクライアントだ。お金も入るようになった。ブレイントリーの地所と家屋のほか,首都にも家があり,教会のいい席も買った。蔵書も大充実した・・・。

 


7 1773年3月

 ところで,1773年の今日は,1770年3月5日に起きたキング・ストリート殺傷事件の3周年記念式典の日だ。

この前,例のまたいとこのサミュエルが,僕に式典でスピーチしてくれと言ってきたけど,プレストンと兵士らの弁護人であった僕としては,断った。37歳にもなって,齢を取り過ぎたと言ってやった。大体サミュエルはいい齢のじいさんなのに過激でいけない。何が虐殺(「ボストン虐殺事件(Boston Massacre)」)だ。大げさで不正確だ。僕が無罪を取ったあの事件は飽くまでもキング・ストリート殺傷事件だ。同じアダムズ一族でも,同じハーヴァード大学の卒業生でも,首都ボストンのサミュエル・アダムズとブレイントリーのジョン・アダムズとは違うのだ。サミュエルは,馬にも乗れやしないのだ。

しかし,ああ,あの事件における兵士らの刑事弁護活動は,これまでの僕の人生における無私の行動の中で,最も勇ましく,かつ,太っ腹なものの一つだったのだ。中年期を迎え,大英帝国の植民地におけるジョージ3世の臣民として,今後僕の人生はどうなって行くのだろうか。あの裁判での勝利のとき以上の栄光は,再び僕に訪れるのだろうか。このくににおける長男のジョン・クインジーら子どもたちの未来はどうなるのだろうか。どういう栄光と偉大とがあるのだろうか。まあ,腹をさすり,茶でも飲みながら考えるとしよう・・・。


Cheers for the Sons of Liberty! trimmed2
Dump the tea boxes into the harbor! Drink, instead, Sam's beer! Cheers for the Sons of Liberty!


(参考文献)Ferling, John E., John Adams: a life (Oxford University Press, New York, N.Y., 2010)



弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

渋谷区渋谷三丁目5-16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電話:0368683194

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp


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1 リップ・ヴァン・ウィンクル

 米国の小説家ワシントン・アーヴィングに“Rip van Winkle”という作品があります。18世紀,北アメリカはハドソン川流域のオランダ系植民者の村に住んでいたリップ・ヴァン・ウィンクルを主人公とした物語です。森鷗外による邦題は,『新浦島』。

アメリカ独立革命が起こる前のこと,怖い奥さんを苦手とするリップが,難を避け,いつも仲間とその前のベンチにたむろして駄弁っていた旅館には「ジョージ3世陛下の血色のよい肖像(a rubicund portrait of His Majesty George III)」が目印の看板として掲げられていました。ところが,リップがうっかりキャッツキルの山中に入って一眠りして20年を過ごしてしまってから村に戻って来た時には,その間に建て替えられた旅館の看板に依然として描かれてある赤々とした顔(ruby face of King George)はかつてと同じようであっても,赤い袍は青と淡黄褐色のコートに変わっていて,手は笏の代わりに剣を持っており,頭には三角帽,そして看板の下部には大きな文字で「ワシントン将軍(GENERAL WASHINGTON)」と書いてありました・・・というようなお話です。

 

2 ジョージ3世

 ところでリップの村の旅館の看板になっていたアメリカ独立革命時の英国及び北米13植民地の王であったジョージ3世とは,どのような人だったのでしょうか。

 

ジョージ3世は,〔ドイツから来たハノーヴァー朝の〕先代のジョージ1世や2世と異なり,イギリスで生まれ,イギリス風の教育を受けた生粋のイギリス人で,母からつねに「ジョージよ,王者たれ」とはげまされ,テューターのボリングブルックから「愛国王の思想」を吹きこまれていた。ジョージ3世は王権の回復をめざし,ウォルポール以来の議会政治を変更しようと試みたが,ステュアート朝の諸王のような絶対君主たらんとしたわけではない。ただ曽祖父〔ジョージ1世〕や祖父〔ジョージ2世〕が失った権力をとりかえして,ウィリアム3世〔名誉革命で即位した王〕の昔に帰り,一政党,一党派ではなく,あらゆる政党,党派のベストメンバーをすぐって王に奉仕させようとしたにとどまる。王は,「王の側近(キングス‐フレンド)」を中心として親政を行ない,「君臨すれども統治せず」の原則に暗影を投じたが,アメリカの植民地の独立やアイルランド問題などで失敗した。そして1783年,24歳の青年小ピットが首相の地位につくにおよび,議会政治がふたたび回復にむかったのである。(大野真弓『世界の歴史8絶対君主と人民』(中央公論社・1961年)475476頁)

 

  1760年に即位したジョージ3世は,国王が自らCabinetに臨み,行政権の首長として行動するという体制を復活しようとした。ビュート(Earl of Bute; John Stuart)がPrime Minister176263年,ノース(Frederick North)がPrime Minister177082年と,ジョージ3世は国王親政を試みる。

  ・・・

  もしジョージ3世がその統治に成功していれば,あるいは,国王が名実ともに行政権の首長であるという体制が〔英国に〕一時復活したかもしれない。しかし彼は,アメリカ植民地問題をかかえて,結局その処理に失敗し,アメリカの独立を招いた。この失敗がどこまで国王個人に帰せられるべきかは,はっきりしないが,失敗したという事実は決定的である。また,ジョージ3世の政治指導力が,例えば〔その孫の〕ヴィクトリア女王などに比べれば劣っていることは否めまい。また彼が,1765年,178889年,180304年と精神病にかかったことも,その指導力を低下させたに違いない。(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)143頁)

 

 アメリカ独立宣言では暴君呼ばわりされていて,ややお気の毒な王様です。

 

3 トーマス・ジェファソン

これに対して,ジョージ3世の当該悪口をアメリカ独立宣言に書き連ね,かつ,同王治下の英国が大嫌いであったトーマス・ジェファソンの人柄は,どのようなものだったのでしょうか。

 ジェファソン(5セント玉)の宿命の政敵であったワシントン政権の元財務長官アレグザンダー・ハミルトン(10ドル札)が,ジェファソンが第3代大統領に当選した1801年の米国大統領選挙(連邦議会下院における投票にまでもつれ込んだもの)の際,フェデラリスト党の仲間であるJ.A.Bayardあてに同年1月16日付けで書いた書簡にいわく。

 

 ・・・恐らく私が最初に,自分の不人気と引換えにジェファソンの正体(true character)をあばいたわけですから,今更彼の弁護人(apologist)になるのには遅過ぎますし,その気にもなれません。私は,彼の政見(politics)には狂信(fanaticism)の気味があること,彼がその民衆政治論(democracy)において大真面目に過ぎること,彼は我らが今までの政権〔初代ワシントン及び第2代ジョン・アダムズ政権〕の主要政策に対して有害な敵(mischevoussic enemy)であったこと,彼はその目的のためには狡猾かつ執拗(crafty & persevering)であること,彼は成功のためには手段を選ばない(not scrupulous)こと,彼は真実を必ずしも尊重しないこと(not very mindful of truth),そして彼は見下げ果てた偽善者(contemptible hypocrite)であることを認めます。・・・

 

なかなか取り柄がなさそうです。しかし,不幸中の幸い,その悪さには限界があるようです。

 

・・・彼は,私の知る他の人間と同様に俗物的です(to temporize)――何が彼自身の評判を高め,彼の有利に働くだろうかを計算するわけです。そして,このような気質から想定される結果は,当初は反対したとはいえ,いったん出来上がった以上は,それを試みる者に対する危険なしにはそれを覆し得ないところの諸制度の維持ということになります。私の思うところでは,J氏の性格の正確な衡量からは,暴力的なシステムというよりは妥協的なシステム(a temporizing rather than a violent system)を期待することが保障されるところです。・・・彼が腐敗させられ得るとの考えを支持すべき相当な理由はない(no fair reason)ということもつけ加えましょう。このことは,彼はある一定の限度を越えることはないということの保証になります。・・・

 

 同じくハミルトンの18001226日付けG.Morrisあて書簡には次のとおり。

 

 ・・・この世界において私が憎むべき者がいるならば,それは,ジェファソンです。・・・

 

というのは,ジェファソンは,「宗教においては無神論者(Atheist),政治においては狂信者(Fanatic)」だったからでしょう(A.ハミルトン・同年5月7日付けJ.Jayあて書簡)。「無神論者」は,米国では負の評価を帯びた由々しい言葉です。

自分と同じくヴァジニア出身である国務長官ジェファソンと独立戦争における有能な副官であった財務長官ハミルトン(こちらはカリブ海出身)との不仲は,初代大統領ジョージ・ワシントンにとって心痛の種でした。両者の和解の勧試がされたものの,両雄は並び立ちません。

 

・・・私〔ハミルトン〕は,ジェファソン氏が同氏の現在の職〔国務長官〕に就くためにニュー・ヨーク市〔アメリカ合衆国の最初の首都〕に来着した当初〔1790年〕から,私が同氏からの変わることなき妨害(uniform opposition)の対象であったことを知っています。最も信頼の置ける情報源から,私がしばしば当該方面からの意地悪なささやき(most unkind whispers)やあてこすりの対象とされていたことを知らされています。私は,彼の後援の下に私を失脚させようとして形成された党派〔Republicans又はDemocratic-Republicans。ただし,現在の共和党の前身ではなく,民主党の前身〕が,立法府に存在しているのを見てきました。私の手元にある証拠からして,〔ワシントン政権を攻撃する〕ナショナル・ガゼット紙が政治的目的のために彼によって設立されたこと,並びに同紙の主要目的の一つが,私及び私の省が関係する政策のすべてが可能な限りいとわしいものとして認識されるようにすることであったことを疑うことはできません。・・・(A.ハミルトン・1792年9月9日付けG.ワシントンあて書簡)

 

 ハミルトンの言い分ばかり伝えるのは不公平でしょうか。とはいえ筆者には,ハミルトンについては格別の思い出があります。

 初めて米国に渡った時,同国のお札に肖像が出ている人物中,ベンジャミン・フランクリン(100ドル札),グラント(50ドル札),ジャクソン(20ドル),リンカン(5ドル)及びワシントン(1ドル)は何者だか分かっていても(フランクリン,リンカン及びワシントンについては我が国に子供向けの伝記もあって周知。グラントは,南北戦争の北軍の有名な司令官であって後に大統領になったということで記憶がありました(なお,グラントは実は尖閣諸島問題にもからむ人のようです。)。ジャクソンについては,山川の高校世界史の教科書に「ジャクソニアン・デモクラシー」ということが書かれていて,これは大学受験勉強的には何やら重要なのであろうという認識がありました。まあ,ジャクソンは,簡単にいえばOKの人なのですが。),しかし10ドル札のハミルトンというのが分からない。大統領でもないのになぜお札に顔が出ているのか。田舎の街の雑貨用品店で,他にお客もいないようなので,レジの中年女性に,10ドル札を出しながら,それまでなかなか通じず苦労した下手な英語で図々しく“Who is he?”と訊いてみたところ,怪しい東洋人の妙な質問でありながらも親切にも理解してくれて,

 

 “Ooh, Alexander Hamilton. Our first Secretary of the Treasury!”

  (うーん,アレグザンダー・ハミルトン。初代の財務長官ね。)

 

 とのご名答。

 アメリカの女性は偉いものだ,と思ったことです。

 
U. Grant
こちらは,第18代アメリカ合衆国大統領ユーリシーズ・
Sグラント(東京都台東区上野公園)


4 ジョージ3世vs.ジェファソン

 この性格の悪いジェファソンが,北米独立13邦の駐仏公使として,ロンドンで「暴君」ジョージ3世に接見せられたことがあります。1786年3月17日,セント・ジェイムズ宮殿における接見会でのことでした。35年後のジェファソンの自伝にいわく。

 

  例によって私が接見会(levees)に国王及び王妃に伺候したところ,アダムズ氏〔当時の駐英公使〕及び私を見た彼らの態度ほど不快(ungracious)なものはなかった。私は,このラバ的生物(mulish being)の狭隘な精神に生じている潰瘍からして,私の伺候からは何も期待できないことを直ちに了知した。(Randall, W.S. Thomas Jefferson: a life. New York; HarperPerennial, 1994. P.412

 

分かりにくいのですが,どうも,駐英公使アダムズが接見会において駐仏公使ジェファソンをジョージ3世及びシャルロット王妃に紹介して両公使がお辞儀をしたところ,王及び王妃はつと玉座から立ち上がって両者に背を向け,満座の外交団の前で北アメリカ13邦を代表する両閣下(しかも両者とも将来の合衆国大統領)に恥をかかせた,ということのようです(Randall, p.413)。

しかし,極めて几帳面なジョン・アダムズ自身がこの時のことを書いておらず,また,シャルロット王妃はジョージ3世の接見会には臨席しない仕来りだったようで,上記の話には疑わしいところがあります。つまり,実際のところは違うようです。すなわち,ジョージ3世の接見会は,弧状に並んだ外交官たちの前を,お付き二人を従えただけの国王が,その右側に立つ各国外交官と短い会話を交わしながら歩いて行くという格式張らない形式のものであって,華麗なヴェルサイユ宮殿の儀式に慣れたジェファソンとしては興ざめし,かつ,ジョージ3世もジェファソンとは特に話すべき話題はなかったので(さすがにアメリカ独立宣言の内容について「あれはひどいね」と議論するわけにはいかなかったでしょう。)さっさと次の外交官との会話に移ってしまったということだったようです。英国の歴史家Ritchesonによれば,ジョージ3世自身は,公の場で横柄な態度をとること(public rudeness)は国王のすべきこととは考えていなかったようで,また,「彼の親しみやすさ,礼儀正しさ,打ち解けやすさ並びに小咄,お上手及び冗談の種を豊富に持っていることは称賛されていた。」とのことでありました。(以上,Randall, p.413

ジェファソンとしてはジョージ3世に馬鹿にされたように感じたのかもしれませんが,確かに,ハミルトンによれば,ジェファソンは「真実を必ずしも尊重しない」人物でありました。

 

5 二人のジョージ

ジェファソンにかかるとラバ並みの扱いですが,ジョージ3世は,むしろ公正な人物であったように思われます。

パリ条約(1783年)後の北米13邦からの初代駐英公使であるアダムズ(彼もアメリカ独立宣言起草委員の一人でしたね。)の英国国王による接受(1785年)は,「アダムズにとって感動的な経験(moving experience)であった」そうです。「かつての叛臣であるアダムズは,神経質に震える声で,今や連合13邦は英国との友誼を求めている旨言上した。国王は,アメリカの離脱を押しとどめることはできなかったが,今やそれがなされてしまった以上,彼も同様に友好関係を望むと答えた。会見は短かった。ジョージ3世は,堅苦しくお辞儀をして,アダムズに下がってよい旨を伝えた。当該使節は外交儀礼に従い3度お辞儀をし,おぼつかなく後ずさりして接受の間から引き下がった。直後のロンドン・クロニクル紙は「ジョン・アダムズ閣下は,極めて丁重に(most graciously)接受された。」と報道した。」ということです(Ferling, John. John Adams: a life.  New York; Oxford University Press, 2010. p.280)。「うわさ好きの外交団の間では,アダムズが信任状を捧呈した後,アダムズを歓迎するに当たって国王の目には涙があり,そして,胸がいっばいであるとの様子であったとの話までが伝えられた。」ともいわれています(Randall, p.412)。

ジョージ3世は,ジョージ・ワシントンの偉大さを,率直に評価していました。

北アメリカ出身の宮廷画家ベンジャミン・ウェストとの間での会話。

 

・・・ある日,国王〔ジョージ3世〕はウェストに対し,〔アメリカ独立〕戦争が終わったときにワシントンは軍の最高司令官になるのか国家元首になるのかどちらかと訊いた。ワシントンの唯一の望みは自分の地所に戻ることだとウェストが答えると,雷に撃たれたようになって国王は叫んだ。「もし彼がそうするとなると,彼は世界で最も偉大な男だということになる。」と。(Chernow, Ron. Washington: a life. New York; Penguin, 2010. P.454

 

その後,ワシントンが2期8年をもって合衆国の大統領を辞するに当たってのジョージ3世の総括。

 

・・・最初は統帥権を,そして今,統治権を返上することによって,彼は「現代最大の偉人」として屹立した,とジョージ3世は言ったと伝えられている(By giving up first military and now political power, he stood out as “the greatest character of the age” according to George III)。彼は,かつての敵を,遅ればせながら評価するようになっていた。・・・(Chernow, p.757

 

 ジョージ3世にとって,ジョージ・ワシントンはやはり格別の存在だったのです。

 

・・・〔1789年〕2月末には二人のジョージの奇妙に対照的な運命は更に一層奇妙なものになったところであって,パリからグーヴェルヌール・モリスが,王の狂気の思いがけぬ進行について報告してきた。「ところで」と彼はワシントンに書いた。「哀れなイングランド国王が陥った悲しむべき情況についてなのですが,あなたとの関係で私が聞いたところによりますと,何やら妙なことがあったようです。」狂気の発作の中で――モリスが書くには――王は「自分のことを,何とだれあろう,アメリカ軍の先頭に立つジョージ・ワシントンだと思っていたのです。つまりあなたは,彼のはらわたに一番ひどくわだかまっている何やらをやったのだったというわけですね。」妄想は一過性のものであった。1789年4月23日,すなわちジョージ・ワシントンが群衆の歓呼の中で大統領に就任する精確に1週間前に,ジョージ3世は奇跡的に譫妄状態から回復し,ロンドンのセント・ポール教会では感謝の儀式が執り行われた。彼は,稀な遺伝性疾患であるporphyria(ポルフィリン症。20世紀になるまでは正確に診断することができなかった。)を患っていたのではないかとの仮説が提出されている。・・・(Chernow, p .570

 

 ジョージ3世とジョージ・ワシントンとを区別することが難しかったのは,リップ・ヴァン・ウィンクルばかりではなかったわけです。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所(弊事務所の鈴木宏昌弁護士が,週刊ダイヤモンドで辣腕弁護士として紹介されました。)

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ヨークタウン戦勝塔(Yorktown, VA)

1 はじめに

 米国といえば民主主義(democracy)の本家本元で,君主制(monarchy)とは氷炭相容れぬ国柄であるとされています。

 しかしながら,アメリカの建国期においては,実はデモクラシーは理想政体にそぐわないものと考えられており,君主制も全く支持者がいないわけではありませんでした。

 


2 ワシントンを国王に推戴する動き

君主制論者の間では,アメリカ独立戦争を実質的に終結させたヨークタウンの戦いの勝利者ジョージ・ワシントン将軍を新生アメリカの王にしようという動きがありました。

その一例としては,1782522日に大陸軍のルイス・ニコラ大佐からワシントンにあてて送られた書簡があります。当該書簡の中で,ニコラ大佐は,アメリカ諸邦の脆弱,さらには連合会議(178131日に連合規約(The Articles of Confederation)が発効しましたので,それ以降のCongressは,大陸会議ではなく,連合会議と訳すことにします。)の無能ゆえの大陸軍の窮乏について痛憤し,「専制と君主制とを同一視してしまい,両者を分けて考えることが困難になっている人々がいますが・・・しかし,いったん他の事項がしかるべく手当てされれば,王の称号を認めるべきことを推し進める強い議論を提出することができるものと信じます。」と論じて,ワシントンを国王とする政体構想を提示しました。イギリスのKing George IIIの退場の次は,アメリカのKing George Iの登場というわけです。

この書簡に恐慌したワシントンは,同日直ちに回答を発出します。

 



・・・よって貴官に依頼する。貴官にして,国家に対する顧慮,貴官自身若しくは貴官の子孫に対する配慮又は本職に対する敬意を幾分なりとも有せられるものであるならば,かかる思いつきを貴官の思考から排除せられたい。

 


 ワシントンは,ニコラ大佐あての当該回答に封がされ,発送されたことを副官らに確認させるほどの念の入れようでした(これは,弁護士業においてはおなじみの,内容証明郵便物の取扱いですね。)。

 ニコラ大佐は慌てて総司令官にわびを入れました。

(以上Ron Chernow, Washington: a life, p.428参照)

 


 王になろうという野心があると思われたら,カエサルのように暗殺されてしまう,という恐怖があったものでもありましょう。あるいはワシントンの脳裡には,印紙税反対運動において若きパトリック・ヘンリーがヴァジニア植民地議会でした1765年演説に係る次の有名な場面が浮かんでいたかもしれません。

 



○パトリック・ヘンリー君
 ・・・

タルクィニウス及びカエサルには各々彼のブルートゥスあり,チャールズ1世には彼のクロムウェルあり,しかしてジョージ3世に・・・

○議長(ジョン・ロビンソン君) 大逆ですぞ,大逆ですぞ。

(「大逆だ,大逆だ」と呼ぶ者あり。議場騒然)

○パトリック・ヘンリー君 ・・・おかせられては,叡慮をもってこれらの前例をよろしくかんがみられんことを。もしこれをもして大逆であるとせば,よろしくこれを善用せられたし。

 


 さすがはパトリック・ヘンリー弁護士,うまいものです。

 なお,王政ローマ最後の王であるタルクィニウスは当時のブルートゥスらによって追放され,カエサルは暗殺され,チャールズ1世は清教徒革命で処刑され,アメリカ独立革命期のイギリス国王であったジョージ3世は精神病に倒れました。恐ろしいことです。 

 


3 「君主制論者」ハミルトンとワシントン政権

 


(1)ワシントン政権と「君主制」

 ニコラ大佐による君主制構想を直ちに否認抹殺し,17831224日にはメリーランド邦アナポリスにおいて連合会議に大陸軍最高司令官職の任命書を恭しく返上して,王位への野心など全く無いことを示すことに常に努めたワシントンですが,1789年発足のアメリカ合衆国連邦政府の初代ワシントン政権は,底意において君主制を目指しているのではないかとなお疑われ,また,非難され続けました。

 アメリカ独立戦争中はワシントン総司令官の副官を務め,また,178110月のヨークタウンの戦いでは同月14日の夜襲でイギリス軍の第10堡塁(Redoubt No.10)を攻め落とし,その後ワシントン大統領の下,初代財務長官に任命されて実質的な首相格として政権を切り盛りしたアレグザンダー・ハミルトンの政策と思想とのゆえでしょう。

 


(2)ハミルトンの君主制論

 17875月から9月までフィラデルフィアで開催され,現行のアメリカ合衆国憲法を起草した憲法会議(Constitutional Convention)(議長・ワシントン)において,ニュー・ヨーク邦代表の若きハミルトン弁護士(1755111日生まれの32歳。ただし,本人は1757年生まれだと思っていたようでもあります。)は,1787618日,5ないしは6時間に及ぶ長い演説をし,その中で彼の君主政観を展開しています。すなわち,そこにおいてハミルトンは,イギリスの君主政体を最善のものとして賛美し,終身制の大統領(ただし,ハミルトンの原案では,President”ではなく “Governor”の語が用いられています。)制度の導入を提唱したところです。秘密会であったとはいえ,大胆な演説であって(ニュー・ヨーク邦代表団の会議対処方針とは全く異なる。),ハミルトンが後々まで君主制主義者(monarchist)であるとの厳しい批判を受ける一因となりました。

 ニュー・ヨーク邦代表のロバート・イェイツによる記録(イェイツはハミルトンと政見を異にしていましたが,こちらの方が,コンパクトです。)を基に,ヴァジニア邦代表でありこの時点ではハミルトンの協力者であったジェイムズ・マディソンの詳細な記録(斜字体)で適宜補い,また適宜改行しつつ,当該演説の当該部分を御紹介しましょう(The Library of AmericaAlexander Hamilton Writingsによる。)。

 



・・・

 しかし,白状しますと,ふさわしい人物を共同体(the Community)の周辺部から中央にまで集めることは非常に難しいことです。例えば,財産もあり能力もある紳士諸氏を,その家庭と仕事とから離れさせて,毎年,長期間にわたって参集させるものは,何でありましょうか。報酬ではあり得ません。予想するに,その額は小さいものであろうからです。3ドルかそれぐらいがせいぜいでしょう。したがって,権力は,少額の手当又は立身の望みのために候補者として自ら名乗り出る煽動政治屋(demagogue)又は凡庸な政治家の手に帰してしまい,重みと影響力のある真の人物は地元にとどまって邦政府の力を増し加えるということにはならないでしょうか。

私は,どうしたらよいのか途方に暮れています。共和政体(a republican form of government)が,これらの難点を取り除くことができるとは思い得ない(despair)ところです。広大な領域において(over so great an extent)共和政体(a Republican Govt.)は樹立され得ないのではないでしょうか。私の意見はともあれ,しかしながら,当該政体〔註・共和政体〕を変更することは賢明ではないものと思います。

私の信ずるところでは,英国の政府(the British government)が,世界にこれまであったものの中で最も優れたモデルとなっています。そこまで立派なものでなくとも,アメリカではうまく行くなどということは,はなはだ疑わしいことです。多くの人の心の中に広まりつつ,この真理は徐々にその地歩を固めています。かつては,連合会議の権限は,制度目的達成のために十分なものであると考えられていました。現在,その誤りは,すべての人の目に映るところです。私の見るところ,共和主義の最も強固な支持者も,民主主義の悪(the vices of democracy)を他の人々に負けず声高にあげつらっています。公衆の認識のこの進歩は,他の人々も私と同様に,ネッケル氏〔註・フランス国王ルイ16世の財務総監〕によって英国の国制(British Constitution)に捧げられた称賛に賛同されるようになる時が来るということを私に期待させてくれます。すなわち,英国の政府は,「公共の力(public strength)と個人の安全(individual security)とを統一する」世界で唯一の政府なのであります。この政府の目的は,公共の力及び個人の安全です。このことは我々においては達成できないといわれていますが,もし,いったん成立すれば,それは自らを維持していくものでしょう。

産業の進んだ(where industry is encouraged)すべての共同体は,少数者と多数者とに分かれます。前者は豊かで生まれが良い者たち(the rich and well born)で,後者は人民の集団(the mass of the people)です。そこから異なった利害が生じます。債務者,債権者等が現れます。すべての権力を多数者に与えると,彼らは少数者を抑圧します。民の声は天の声といわれておりますが,いかに広くこの格言が引用され,かつ,信じられているとしても,事実においては正しくはありません。人民は動揺し,変心します(turbulent and changing)。彼らが正しく判断し,正しく決定することはめったにありません。他方,少数者にすべての権力を与えると,彼らは多数者を抑圧します。したがって,相互に相手方から自らを守るために,両者とも権力を有するものとすべきです。・・・英国人は,彼らのすぐれた国制(Constitution)によって,適切な調整を行っています。貴族院(house of Lords)は,最も貴い制度です。変化によって望むものはなく,財産を通じて十分な利害を有しており,国益に忠実であることによって,彼らは,国王(Crown)の側から試みられるものにせよ庶民院(Commons)の側から試みられるものにせよ,あらゆる有害な変革に対する恒久的な防壁をなしています。したがって,第1の人々〔註・少数者〕に,政府における画然とした,恒久的な位置(a distinct, permanent share in the government)を与えなければなりません。彼らは第2の人々〔註・多数者〕に係る不安定(unsteadiness)を抑制するでしょうし,彼らは変化から何らの利益を受け得ることもないので,したがって,善き統治(good government)を永く維持し続けるでしょう。毎年人民の集団の中で展開される民衆集会(a democratic assembly)が公共善(the public good)を追求するということが確かなものとして考えられるでしょうか。恒久的な団体(a permanent body)のみが,民衆支配の軽率(imprudence of democracy)を抑制することができるのです。彼らの動揺し,かつ,無規律(uncontrouling sic)な性向は,抑制されなければなりません。

短い任期の上院は,この目的に応じた十分な強靭さを持ちません。ニュー・ヨークの上院は,4年の任期で選任されていますが,十分有効なものではありません(inefficient)。ヴァジニア代表の提案に従って,7年継続するものならばよいのでしょうか。随分言及されるところの多いように見受けられる(メリーランドの)上院〔註・同邦の上院は,選挙民は選挙人団を選ぶ間接選挙制に基づくものであった。〕は,いまだ十分に試験されているものではありません。紙幣発行が求められた最近の要求において,人民が一致団結し真剣であったのなら,彼らは奔流に流されていたことでしょう〔註・メリーランド邦の上院は,同邦代議院からの紙幣発行法案を178512月及び178612月の2度にわたって否決していました。〕。・・・紳士諸氏は上院に必要な強靭さを与えるには7年が十分な期間だと考えていますが,民衆心理(democratic spirit)の驚くべき暴威と激動とを適切に考慮していないからです。民衆の情熱をわしづかみにする政治の重大問題が追求されるとき,その情熱は野火のように拡がり,抵抗できないものとなります。私は,ニュー・イングランド諸邦からの紳士諸氏に,かの地における経験が今申し上げたことを証明するものでないのかどうかお尋ねしたい〔註・ニュー・イングランドでは,増税及び農地差押えに対するマサチューセッツ邦西部の農民の抗議運動から,シェイズの反乱(17869月から17872月まで)が発生していました(首謀者ダニエル・シェイズ大尉はアメリカ独立戦争参加者)。〕

よき執行部(a good executive)は,民主的な構成をもって(upon a democratic plan)〔共和的原則に基づいて(on Republican principles)設けられ得るものではないということは,認められているところです。英国の執行権者の素晴らしさ(the excellency of the British executive)を御覧いただきたい。この問題については,イギリスのモデル(the English model)が唯一結構なものなのであります。彼は誘惑から超然としています。彼は公共の福祉とは別の利害を有していません。国王の世襲の利害は,国民(the Nation)のそれと十分結びつき,彼の個人的収入は十分大きいので,海外勢力から腐敗させられるという危険から超然としているのです。――また同時に,国内の制度目的にこたえるために,十分独立しており(sufficiently independent),かつ,十分規制されています(sufficiently controuled)このような執行権者でなければすべて不十分です。共和政体(a republican government)の弱点は,外国勢力からの影響力の危険性です。第一等の人物たちをその維持のために動員するようにできていない限り,このことは不可避です。小人物(men of little character)は,大きな権力を得ると,簡単に隣国の干渉勢力の手先になってしまいます。したがって,私は,全国政府(general government)を支持するものですが,共和制の原則(republican principles)については,最広義のところまでおし進めたいと思うものです。我々は,共和制の原則が許す限り,安定及び永続性(stability and permanency)を求めて進むべきであります。

 立法府のうち一院は,罪過なき限りの間(during good behaviour),又は終身を任期とする議員によって構成されるものとしましょう。

 その権限を断行し得る(…dares execute his powers)一人の終身の執行権者が任命されるものとしましょう。

 私は,最良の市民たちの奉仕を確保するためのものとして,7年の任期が,公的任務の受諾に伴う私的生活の犠牲を受け容れさせるものであるのかどうか,御出席の代表者の方々の御感想をお尋ねしたいのです。この案〔註・ハミルトン案〕によってこそ,元老院に,本質的目的にこたえるべき恒久的な意思,重要な利害の代表(a permanent will, a weighty interest),を確保することができるのです。

 これは共和制(a republican system)なのか,と問われるかもしれませんが,厳密にいって,そうであります,政府のすべての高官(all the Magistrates)が人民によって,又は人民に由来する選挙で選ばれる限りは。

 更に言わせていただけば,人民の自由にとって,執行権者は,終身その職にあるときの方が7年の任期であるときよりも危険が少ないものであります。7年任期制案では,私は,執行権者にはわずかな権力のみを与えるべきだと思います。彼は,手下となる者を調達する手段を持った野心家でありましょう。そして,彼の野心の目的は,権力をより長く握ることでしょうから,戦争のときには,その地位からの降格を避け,又はそれを拒絶するために,緊急事態であることを恐らく濫用するでしょう。終身執行権者の場合は,忠誠を忘却させるこのような動機を持たないものであって,したがって,権力を委ねるためにはより安全な機関なのであります。

 これは選挙君主制(an elective monarchy)である,といわれるかもしれません。ああ,君主制とは何でしょうか。「君主」とは定義のはっきりしない用語であるものとお答えしましょう。権力の大きさ又は権力を握る期間の長さのいずれを示すものでもありません。もし,この執行長官(Executive Magistrate)が終身君主であるのなら――当会議の全体委員会の報告書によって提案されたものは七年君主ということになります。選挙制であるという事情はともに両者に当てはまるところです。各邦の知事は,そのようなものとして見られ得ないでしょうか。しかし,執行権者が弾劾制度に服せしめられていますので,君主制の語は当てはまり得ません。

賢明な著述家たちは,競争者たちの野心及び策謀によって惹起される動乱(tumults)に対する防止策が講ぜられるのならば,選挙君主制は最良のものであろうと述べています。私は,動乱が,避けることのできない欠点であるものと確言するものではありません。選挙君主制のこの性格論は,むしろ,一般的な原則からというよりは,特定の事例から由来しているものと思います。選挙制君主は,ローマにおいて動乱を引き起こしましたし,ポーランドにおいても同様に平和に対して危険を与えています。ローマ皇帝は,軍隊によって選挙されたところです。ポーランドにおいては,独立した権力,及び騒動を起こすための十分な手段を持った,互いに競争関係にある大貴族たち(princes)によって選挙が行われます。ドイツ帝国〔註・神聖ローマ帝国〕では,密謀集団及び党派を使嗾する同様の動機及び手段を有する選帝侯及び諸侯によって任命が行われています。しかし,このことは,私が選挙について提案するところの方法については当てはまり得ません。執行権者を選挙する選挙人が各邦において任命されるものとしましょう――

(ここで,H氏は,写しがここに添付されているところの彼の案を取り出した。)

・・・執行権者(the executive)は,すべての法律に対して拒否権を持つものとする――元老院の助言により和戦のことを決する(to make war or peace)――彼らの助言により条約を締結する,しかしすべての軍事行動に係る単一の統帥権を有する(to have the sole direction of all military operations),並びに大使を派遣し,及びすべての軍士官を任命する,並びにすべて罪過を犯した者(国家反逆罪を犯した者を除く。ただし,元老院の助言があるときはこの限りでない。)に対する赦免権を有する。彼の死亡又は罷免の場合には,後継者が選挙されるまで,元老院議長(president of the senate)が,同一の権限を持つ代行者となる。最高の司法官らは執行権者及び元老院によって任命される。・・・

 ・・・

 ・・・しかし,人民は,徐々に政府に係る彼らの意見において成熟しつつあります――彼らは,民主政の行き過ぎ(an excess of democracy)に倦み始めています〔,連合(the Union)は分裂しつつあり,又は既に分裂しているものと私は観察します――人民をその民主政体志向(fondness for democracies)から治癒させることになるところの諸悪が,諸邦において猖獗している様子が私には観察されるところです〕――ヴァジニア案であっても,しかし,依然としてソースが少々変わっただけの豚料理であります〔註・憲法会議に提出された憲法構想のうち,ニュー・ジャージー案は既存の連合規約の改正にとどまっていたのに対して,ヴァジニア案は各邦の上に,執行部門,立法部門及び司法部門を有する全国政府を設けることを提案していました。しかし,ヴァジニア案であっても,ハミルトンの過激案に比べればまだ生ぬるいということです。〕。

 


 共和主義(republicanism)が理想として掲げられているのですが,democracy, democratic等民主主義関係用語は否定的な意味で使われています。

 共和政体(gouvernement républicain)と民主政(démocratie)との関係を,当時読まれていたモンテスキューの『法の精神』における分類学でもって説明すると,共和政(république)のうち,人民団(le peuple en corps)が主権を持つものが民主政,人民のうちの一部分が主権を持つものが貴族政(aristocratie)ということになります(第1編第2章第2節)。共和制を主張しつつ民主主義を排斥する者は貴族政主義者,ということになるようです。なお,モンテスキューの分類では,共和政体と対立するのはいずれも一人が統治する政体である君主政体(gouvernement monarchique)及び専制政体(gouvernement despotique)であって,君主政体では法による支配がされるが,専制政体では法によらず,統治者の意思ないしは恣意による支配がされるものと定義されています(第1編第2章第1節)。

 ギリシャ・ローマの古典古代の例が念頭にあったでしょう。(デモクラシーの前例としてアメリカ合衆国を持ち出すわけにはまだいきません。)

ローマも領域が大きくなって,共和政から君主政に移行しました。古代ギリシャで外国からの干渉といえば,ペルシャ帝国からのそれが問題であったでしょう。

なお,ハミルトンが称賛したジョージ3世治下のイギリスの政体における統帥権の所在は,一応,国務大臣輔弼の外に独立していたもののようです。すなわち,1932年の『統帥参考』には,英国における統帥権の位置付けの推移について,「「チャールス」2世ハ国務大臣以外ニ特別ナル軍令機関(「セクレタリー・アット・ワー」)ヲ設ケテ統帥権ノ独立ヲ保障シ更ニ1793年ニハ国王直属ノ総司令官ヲ設ケテ軍隊内部ノ組織,軍ノ規律,指揮運用ニ関スル権限ヲ附与シ国務大臣ト対立セル軍令機関ト為シタリ」とあります(『統帥綱領・統帥参考』(偕行社・1962年)45頁)。(ちなみに,ジョージ3世は,アメリカ独立戦争中は精神病を発症しておらず,1788年から翌年にかけてはそうだったものの,1793年は大丈夫だった時期であるようです。)ただし,その後は,「然ルニ民権ノ伸張,議会政治ノ発達ハ国王ノ軍令権ヲ圧迫蚕食シ1854年従来国王ニ直属シ国務大臣ヨリ独立セル総司令官ヲ国務大臣ノ監督下ニ置クコトニ改メ次テ1870年ノ改革ニ於テ軍令機関タル総司令官ハ陸軍大臣ノ隷下ニ入リ茲ニ現今ノ制度ノ基礎確立シタルナリ」ということになりました(『統帥綱領・統帥参考』5頁)。

 


4 エスマン中尉とハミルトン財務長官

 さて,三つ子の魂百までとやら。人と同様に国も,生まれたころの性格を後々まで引きずるものなのでしょうか。

知米派の日本人の方々がどう言われるのかは分かりませんが,日本国憲法起草時のGHQ民政局内で展開された議論において,強い執行権者を求めた27歳のエスマン中尉の姿が,何やらアメリカ合衆国憲法起草時に選挙制君主的な執行権者を求めた32歳のハミルトン弁護士の面影を宿していたように思われます。(そもそも,連合規約を改正すると言ってアメリカ合衆国憲法を起草してしまった手妻のような手口と,大日本帝国憲法の改正を求めつつ,日本国憲法の草案を起草してしまった仕事ぶりとは,何だかよく似ていますね。)

 それはともかく,元々はイギリス流立憲君主制論者であったハミルトン初代財務長官が,時代を超えてトルーマン政権の国務長官であったのなら,伊東巳代治が『憲法義解』を訳した “Commentaries on the Constitution of the Empire of Japan”を読んでも,それほど機嫌が悪くはならず,時代に合わせた立憲君主制の改善のための大日本帝国憲法の改正はあっても,新しい日本国憲法の制定がされるということまでにはならなかったのではないかとも空想されます。

 とはいえ,国務省はハミルトンにとって鬼門です。

 ワシントン政権内で,初代国務長官ジェファソンは,政見において真っ向からハミルトンと対立します。例えば,ハミルトンが執行権の強化を目指せば,ジェファソンは議会の権限や州権を重視するという具合です。両者の対立は,やがてハミルトンらのフェデラリスト党とジェファソン=マディソンらのリパブリカン党という二つの党派及び両者間の抗争を生むに至ります。(なお,系譜的にはジェファソンの党が現在のアメリカ民主党につながるのですが,前記のとおり,アメリカの建国当初は“democratic”はよい意味の言葉では必ずしもなかったところです。リパブリカン党への悪口として, Democraticリパブリカン党と言われるようになり, 後にリパブリカンが落ちたものです。アメリカ合衆国憲法4条で連邦が各州に保障しているのは,共和政体(a Republican Form of Government)であって,民主政体(a Democratic Form of Government)ではありません。)

こうしてみると,日本国憲法における内閣の章の規定をめぐるエスマン中尉とハッシー中佐との対立も,米国の知識人の間における建国以来の政治思想の対立を反映していたものと思えなくはありません。

 


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イギリス軍第10堡塁(Yorktown, VA) 


 


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1 また『この国のかたち』から

 司馬遼太郎の『この国のかたち』を読むと,統帥権の独立の制度については,1908年の制度改正が画期であったとされています。




 参謀本部にもその成長歴があって,当初は陸軍の作戦に関する機関として,法体制のなかで謙虚に活動した。

 日露戦争がおわり,明治41年(1908年),関係条例が大きく改正され,内閣どころか陸軍大臣からも独立する機関になった。やがて参謀本部は“統帥権”という超憲法的な思想(明治憲法が三権分立である以上,統帥権は超憲法的である)をもつにいたる・・・(司馬遼太郎「3 “雑貨屋”の帝国主義」『この国のかたち 一』)

 

 明治憲法はりっぱに三権分立の憲法で,三権に統帥権は入らない。

 が,やがてこの憲法思想外の権がガン細胞のように内閣から独立し(1908年),昭和10年以後はあらゆる国家機関を超越する権能を示しはじめた。このことへいたる情念の歴史として,前記の正成の劇的情景〔楠木正成湊川出陣決定御前会議〕がある。(司馬遼太郎「5 正成と諭吉」『この国のかたち 一』)

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 (皇居前広場楠木正成像)

 上記の各文章によれば,1908年の参謀本部条例の改正によって,それまで内閣及び陸軍大臣に属していた参謀本部が,新たにこれらの機関から独立することになったということのようです。



2 参謀本部条例の1908年改定の前と後




(1)1908年改定前後の参謀本部条例

 190812月の改正前後の新旧参謀本部条例を見てみましょう。

 まずは,新参謀本部条例。




朕参謀本部条例ヲ改定シ之カ施行ヲ命ス

 御 名 御 璽

  明治411218日〔官報・同月19日〕

     陸軍大臣 子爵 寺内正毅

軍令陸第19

   参謀本部条例

第1条 参謀本部ハ国防及用兵ノ事ヲ掌ル所トス

第2条 参謀総長ハ陸軍大将若ハ陸軍中将ヲ以テ親補シ 天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル計画ヲ掌リ参謀本部ヲ統轄ス

第3条 参謀総長ハ参謀ノ職ニ在ル陸軍将校ヲ統督シ其ノ教育ニ任シ陸軍大学校及陸地測量部ヲ管轄ス

第4条 参謀次長ハ参謀総長ヲ輔佐シ本部一切ノ事務整理ニ任ス

第5条 参謀本部部長ハ参謀総長ノ命ヲ承ケ課長以下ヲ指揮シ其ノ主務ヲ掌理ス

第6条 参謀本部ノ編制ハ別ニ定ムル所ニ拠ル

第7条 参謀本部ニ於ケル服務規則ハ参謀総長之ヲ定ム



 なるほど,第2条で参謀総長は「天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画」するとありますから,天皇直属であって,内閣からも陸軍大臣からも独立しているわけです。

 司馬遼太郎によれば,当該規定は,1908年の改定前の旧参謀本部条例にはなかったということでしょう。旧参謀本部条例(1905年の第4条改正後のもの)は,次のとおり。




朕参謀本部条例ノ改正ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 御 名 御 璽

  明治32年1月14日〔官報・同月16日〕

     内閣総理大臣 侯爵 山縣有朋

     陸軍大臣 子爵 桂太郎

勅令第6号

   参謀本部条例

第1条 参謀本部ハ国防及用兵ノ事ヲ掌ル所トス

第2条 参謀総長ハ陸軍大将若クハ陸軍中将ヲ以テ親補シ

 天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル一切ノ計画ヲ掌リ又参謀本部ヲ統轄ス

第3条 参謀総長ハ国防ノ計画及用兵ニ関スル命令ヲ立案シ

 親裁ノ後之ヲ陸軍大臣ニ移ス

第4条 参謀総長ハ陸軍参謀将校ヲ統督シ其教育ヲ監視シ陸軍大学校,陸地測量部,陸軍文庫並在外国大使館附及公使館附陸軍武官ヲ統轄ス

第5条 参謀本部次長ハ陸軍中将若クハ陸軍少将ヲ以テ之ニ補シ参謀総長ヲ輔佐シ本部一切ノ事務整理ニ任ス

第6条 参謀本部ノ編制ハ別ニ定ムル所ニ拠ル



おやおや,ほとんど同じですね。特に新旧条例各2条の「参謀総長ハ・・・天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ」は,全く同一です。



(2)1878年の参謀本部条例と統帥権の独立

実は,参謀本部の独立は,187812月5日の参謀本部条例(右大臣岩倉具視から参謀本部あて「其部条例別冊ノ通被定候条此旨相達候事」との達)によって既に達成されていたのでした。




・・・従来の参謀局は陸軍省に隷属し,参謀局長は陸軍卿に隷してゐたけれども,参謀本部は陸軍省より独立し,本部長は天皇の「帷幕ノ機務ニ参画スルヲ司トル」〔
1878年参謀本部条例2条〕ところの最高の統帥機関となつたのである。即ち参謀本部長は統帥権に関する天皇の幕僚長として「軍中ノ機務,戦略上ノ動静,進軍,駐軍,転軍ノ令,行軍路程ノ規,運輸ノ方法,軍隊ノ発差等,其軍令ニ関スル者」を管知し,之を「参画シ,親裁ノ後直ニ之ヲ陸軍卿ニ下シテ施行セシム」〔同5条〕るものであり,又「戦時ニ在テハ凡テ軍令ニ関スルモノ,親裁ノ後直ニ之ヲ監軍部長,若クハ特命司令将官ニ下ス」〔同6条〕ものである。従つて参謀本部長は,統帥権に関する最高の輔弼機関である関係上,軍政に於ける陸軍卿の地位にあるのではなくて,寧ろ其の上の太政大臣〔三条実美〕に相等する地位に在るものである。何となれば陸軍卿は直接天皇輔弼の責に任ずるものではなく,それは専ら太政官の三職〔太政大臣・左右大臣・参議〕,就中太政大臣にあつたからである。換言すれば参謀本部長の権限は,従来の陸軍卿及び太政大臣の権限より統帥権に関する部分を独立せしめたものといふことが出来る。従つて参謀本部長の地位は,陸軍卿に優越するものと解せられるのである。

 かくして陸軍に在つては,明治11年に於て名実共に統帥部の独立が実現したのである。・・・(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)227228頁)



3 勅令から軍令へ

 さて,それでは,司馬遼太郎は1908年の参謀本部条例のどこに注目して警鐘を鳴らしたのでしょうか。

 法形式と副署者に注目しましょう。

 1899年の参謀本部条例は,勅令であって,内閣総理大臣及び陸軍大臣が副署しています。

 これに対して,1908年の参謀本部条例は,軍令であって,副署者は陸軍大臣だけです。



(1)勅令

 勅令は,「旧憲法時代,天皇によって制定された法形式の一つで,天皇の権能に属する事項(皇室の事務及び統帥の事務を除く。)について抽象的な法規を定立する場合に用いられた法形式」です(前田正道編『ワークブック法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)49頁)。美濃部達吉は次のように説明しています。

 


・・・〔公文式(明治
19年勅令第1号)〕は,等しく天皇の勅定したまふ国家の意思表示の中に,法律と勅令との2種の形式を区別したのであるが,併し憲法実施までは,法律と勅令とは唯名称だけの区別で,何等法律上の意義ある区別ではなかつた。憲法の実施に依りて,それは単に名称だけの区別ではなく,(1)その制定手続に於いて,(2)その規定し得べき内容に於いて,(3)及びその効力に於いて相異なるものとなつたのである。(1)制定手続に於いては,法律は議会の議決を経て定められ,勅令はその議決を経ずして定められる。(2)内容に於いては,法律は原則として如何なる事項でも定むることが出来るが,勅令は唯憲法上限られた事項だけを定むることができる。(3)効力に於いては,法律は勅令の上に在り,法律を以ては勅令を変更することが出来るが,勅令を以ては法律を変更することは出来ない。(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)168169頁)

 ・・・勅令が他の国務上の詔勅と区別せらるゝ所以は,勅令は国民に向つて法規を定めることを主たる目的とすることに在る。固より勅令を以て規定せらるゝ所が常に法規のみに限るといふのではない。行政命令〔「電信規則・電話規則・各種の学校令・鉄道乗車規程の如く,全然国民の権利義務に付いての規律を定むるものではなく,唯人民が自己の自由意思を以て之を利用するに付いての条件たるに止まる」もの〕の性質を有するものが,勅令を以て定めらるゝものは甚だ多いけれども,その主たる目的とする所が,法規を定むるに在ることは疑を容れぬ所である。・・・(美濃部・235頁,232頁)



(2)軍令及びその誕生




ア 軍令

 軍令は,軍令に関する件(明治40911日軍令第1号。同令には題名なし。件名をもって,軍令に関する件と呼ばれています。)の第1条において,「陸海軍ノ統帥ニ関シ勅定ヲ経タル規程ハ之ヲ軍令トス」と定められていたものです。(なお,軍令に関する件の官報掲載日は1907912日ですが,上諭の日付は同月11日であって,同令4条は「軍令ハ別段ノ施行時期ヲ定ムルモノノ外直ニ之ヲ施行ス」と規定しています。)「統帥権の作用として定めらるゝ命令」であって,「国務上の命令ではない」ものであり,「唯統帥権に服する者即ち平時に於いては唯軍人に対してのみ効力を有するもので,一般の人民に対して効力を有するものではない」ものです(美濃部261頁)。「軍隊内部の命令たるに止まるのであるから,国の法令に牴触することを得ないのは勿論」です(同)。公布によって初めて「以て臣民遵行の効力を生ず」る(『憲法義解』)法規とは異なり,軍令は正式に公布されませんでした(軍令に関する件2条参照)。「公示」を要する軍令は,官報で公示されました(同令3条)。「故らに公布なる文字を用ひないのは,軍令は勅令と其の性質を同じくせざることを示し,以て軍令を特殊の勅令と認むるが如き嫌ひを避けたもの」と考えられています(山崎248頁)。

 「予算に影響を及ぼさない限度に於いて,軍隊の内部の編制を定むるの権」は「内部的編制権」であり,内部的編制権は,美濃部においても大日本帝国憲法11条(「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」)の統帥権の範囲内にあるものとされていました(美濃部259頁)。参謀本部条例は,統帥権の一環たる内部的編制権の発動により参謀本部の構成について天皇が定める規程であるから,1908年の参謀本部条例については軍令の形式が採られたということでしょう。



イ 軍令の誕生

 それでは,1899年の参謀本部条例はなぜ軍令の形式ではなく,勅令の形式で定められたのでしょうか。理由は簡単です。軍令の形式は,1907年の明治40年軍令第1号によって初めてできたものであって,それ以前には軍令の形式は存在しておらず,当該形式の採りようがなかったからです。



(ア)公式令制定に伴う内閣総理大臣の副署対象の全勅令への拡大

 それでは更に,なぜ1907年9月に軍令という形式が定められたのでしょうか。これは,同年2月1日から施行されていた公式令(明治40年勅令第6号)7条2項の規定が原因です。勅令に係る国務大臣の副署(大日本帝国憲法552項「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」)については,それまでの公文式3条が「法律及一般ノ行政ニ係ル勅令ハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ主任大臣ト倶ニ之ニ副署ス其各省専任ノ事務ニ属スルモノハ主任大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス」と規定していて,各省専任の事務に属する勅令については内閣総理大臣の副署を要さず主任の国務大臣の副署だけで足りるものとしていたのに対して,新しい公式令7条2項は,「〔勅令〕ノ上諭ニハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ国務各大臣若ハ主任ノ国務大臣ト倶ニ之ニ副署ス」と規定し,各省専任の事務に属する勅令をも含めて例外なく,すべての勅令について内閣総理大臣が副署するものとしていたからです。

 勅令に対する国務大臣の副署の効力については,「法律勅令及其の他国事に係る詔勅は大臣の副署に依て始めて実施の力を得。大臣の副署なき者は従て詔命の効なく,外に付して宣下するも所司の官吏之を奉行することを得ざるなり。」とされていました(『憲法義解』)。



(イ)公文式時代の慣行及びその維持

 明治40年軍令第1号の起案を担当したのは,陸軍省軍務局軍事課です(陸軍省であって,参謀本部ではないですね。)。同課によれば,軍令の形式を定める「理由」は,次のとおりでした(中尾裕次「史料紹介「軍令ニ関スル件」」戦史研究年報4号(防衛省防衛研究所(20013月))。




従来軍機軍令ニ関スル事項ハ内閣官制第7条ニ依リ陸軍大臣海軍大臣ヨリ帷幄上奏ヲ以テ親栽ヲ仰キ而シテ陸海軍部外ニ発表ヲ要スルモノハ公文式第3条ニ依リ単ニ陸軍大臣海軍大臣ノ副署ノミヲ以テ公布シ来レリ然ルニ先般公式令制定ト共ニ公文式ヲ廃止セラレタル結果勅令ハ総テ内閣総理大臣ノ副署ヲ要スルコトトナレリ抑モ事ノ軍機軍令ニ関シ若ハ之レト同一ノ性質ヲ有スル軍事命令ハ憲法第
11条同第12条ノ統帥大権ノ行使ヨリ生スルモノニシテ普通行政命令ト全ク其性質軌道ヲ異ニシ専門以外ノ立法機関若ハ行政機関ノ干与ヲ許ササルヲ以テ建軍ノ要義ト為ス

統帥大権ノ行使夫レ斯ノ如ク又内閣官制第7条ハ現行法トシテ尚ホ存在スルカ故ニ此際統帥事項ニ関スル命令ハ特別ノ形式即チ軍令ヲ以テ公布シ主任大臣ノミ之ニ副署スルコトト為シ以テ行政事項ニ属スル命令ト判然之ヲ区別シ統帥大権ノ発動ヲ明確ナラシメントス

 

 お前のサインなどもらわないぞと,内閣総理大臣も嫌われたものですね。しかし,確かに,内閣総理大臣もいろいろではあります。

 内閣官制(明治22年勅令第135号)7条は,「事ノ軍機軍令ニ係リ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニ依リ之ヲ内閣ニ下付セラルノ件ヲ除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」と規定していました。いわゆる帷幄上奏に関する規定です。内閣官制7条の前は,1885年の内閣職権6条ただし書で「但事ノ軍機ニ係リ参謀本部長ヨリ直ニ上奏スルモノト雖トモ陸軍大臣ハ其事件ヲ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」と規定されていました。帷幄上奏は「本来参謀総長・海軍軍令部長の職務として規定せられたのであるが,其の後陸軍大臣又は海軍大臣からも帷幄上奏を為し得る慣習が開かれ,陸軍及び海軍大臣だけは,総理大臣を経由せず単独に上奏し得ることが慣習上認められて居」たものです(美濃部532533頁)。これに対して,陸海軍大臣以外の国務大臣の上奏については,内閣総理大臣が「機務ヲ奏宣スル」(内閣官制2条)ものとされていることから,「総理大臣を経由するか,又は少くとも総理大臣の承認を得た場合であることを要するので,総理大臣の知らぬ間に,各大臣から直接に上奏することは,総理大臣の職責から見て,許されない」とされていました(美濃部532頁)。

 従来陸軍大臣は,統帥事項については内閣総理大臣にも内緒で勅令案を持って行って天皇に上奏して綸言汗のごとき裁可を得て,自分一人がその勅令に副署してそうして施行できたのだから,今更公式令ができたからといって,(政党政治家である可能性もある)内閣総理大臣に「そんな勅令の話,おれは聞いてない。だから,統帥事項だか何だか知らぬがこの勅令には副署しない。」といやがらせをされ得るようになるのはいやだ,ということだったのでしょう。性格の悪い内閣総理大臣との悶着を避けるべく,軍令に関する件2条は,「軍令ニシテ公示ヲ要スルモノニハ上諭ヲ附シ親署ノ後御璽ヲ鈐シ主任ノ陸軍大臣海軍大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス」と規定していました。軍部の主観的意見としては,軍令の形式は部外者には一見あやしげに見えるといっても,統帥事項に係る勅令に関する従来の権限・慣行を維持せしめただけで,「ガン細胞」呼ばわりは心外だ,ということになるのでしょう。

 なお,軍令に対する陸軍大臣又は海軍大臣の副署は,「是は国務大臣としての副署ではなく,帷幄の機関として奉行の任に当たることを証明する行為たるに止まるものと見るべき」とされています(美濃部261頁)。「蓋し我が国法に於ける副署には2種の意義がある。即ち一は憲法第55条の大臣副署と,他は憲法以前より行ひ来りたる副署とである。・・・後者は単に執行当局者たることを表明するものである。宮内大臣の皇室令に副署し,賞勲局総裁の勲記に副署するが如きは専ら後者に属する。陸海軍大臣の軍令に副署するのも亦之と其の性質を同じくするもの」というわけです(山崎249250頁)。



(3)「一般行政」から統帥権の聖域へ

 しかし,1899年の段階では参謀本部条例はなお「一般行政ニ係ル」ものとして内閣総理大臣の副署をも受けていたのに対して(公文式3条),1908年になると,参謀本部条例は純粋な統帥事項に係るものであるとして,内閣総理大臣の副署を要さぬ軍令の形式が採用されるに至っています。この点においては,「一般行政」の領域から自らを引き離すことによって政治の統制から離れ,統帥権が「ガン細胞」化して「一般行政」を侵食することが可能になり始めたといえそうです。

 さらにいえば,「行政各部ノ官制其ノ他ノ官規ニ関スル重要ノ勅令」は枢密院に諮詢することになっていて(枢密院官制69号)厄介でしたが,参謀本部条例が軍令であるということになると,堂々と当然「枢密院ノ諮詢ヲ経ヘキモノニアラス」ということになりました(『統帥綱領・統帥参考』(偕行社・1962年)18頁)。

 いずれにせよ,公文式時代においても,軍部関係の勅令について「傾向としては年を経るにしたがい,軍部大臣だけの副署によるものが多くなったようである」そうです(戸部良一『日本の近代9 逆説の軍隊』(中央公論社・1998年)158頁)。



4 統帥権の独立の「効用」:福沢諭吉の『帝室論』等
 ところで一体,先の大戦以前における我が統帥権の独立の「効用」としては,何が考えられていたのでしょうか。最後は「ガン細胞」になったとはいえ,そもそもの初めには,もっともな目的のために働くべき正常細胞であったはずです。

 「統帥権の独立は,軍の政治介入を意図してつくられた制度ではない。むしろそれは,軍の政治的中立性を確保し,軍人の政治不関与を保証するものとさえ,期待されたのである。」とされています(戸部77頁)。

(1)政治の統帥関与の弊害防止
 政治家が統帥に関与し,あるいは統帥権を握った場合の弊害について,美濃部達吉は「軍人以外の政治家が兵馬の事に容喙することが軍の戦闘力を弱くする虞」がある旨軍事側から見た危惧に言及しているところですが(美濃部257頁),他方,1932年にまとめられた陸軍大学校の『統帥参考』においては,次のように述べられていました。




抑々統帥ノ独立ハ反面ヨリ観レハ政治ノ独立少クモ其保障ニシテ我国ニ於ケル往昔ノ武家政治又ハ現代労農露国ノ政治ノ如ク政府カ兵権ト政権トヲ把握行使スルトキハ政権ノ自然ナル移動授受カ行ハレサルノ虞アリ(『統帥綱領・統帥参考』
7頁)

 

 統帥権の独立は,政府に対抗する在野勢力をもその対象に含めた「政治ノ独立」のためのものだというのです。

先の大戦末期満洲国等に侵入して大暴れした恐ろしい「労農赤軍ノ如キハ彼等ノ意識ヲ以テスレハ元首ノ軍隊ニモアラス所謂国家ノ軍隊ニモアラス全ク共産党ノ軍隊」であったところ(『統帥綱領・統帥参考』1頁),共産党支配下のソ聯においては,「政権ノ自然ナル移動授受」は行われてはいませんでした。

 軍隊の政党化は,明治十四年の政変後,立憲政治の導入に向けた動きの中で,福沢諭吉も憂慮したところでした。




・・・然るに爰に恐る可きは政党の一方が兵力に依頼して兵士が之に左袒するの一事なり国会の政党に兵力を貸す時は其危害実に言ふ可らず仮令ひ全国人心の多数を得たる政党にても其議員が議に在る時に一小隊の兵を以て之を解散し又捕縛すること甚だ易し殊に我国の軍人は自から旧藩士族の流を汲て政治の思想を抱く者少なからざれば各政党の孰れかを見て自然に好悪親疎の情を生じ我は夫れに与せんなどと云ふ処へ其政党も亦これを利して暗に之を引くが如きあらば国会は人民の論場に非ずして軍人の戦場たる可きのみ斯の如きは則ち最初より国会を開かざる方,万々の利益と云ふ可し・・・(福沢諭吉『帝室論』(
1882年))



 1776年7月4日のアメリカ合衆国の独立宣言では,イギリス国王について,「彼は,平時において,我々の立法機関の同意なしに,我々の間において常備軍を保持した」ことが非難されています。そもそも軍隊は,外国と無名の戦争をすることが問題であるばかりではなく,それによって国内において市民の自由が抑圧されることが恐れられていたのでした。同年6月12日のヴァジニア権利章典の第13条は「人民団体によって組成され,武器の使用について訓練された紀律正しい民兵は,自由な邦にふさわしく,自然かつ安全な防衛者である。平時における常備軍は,自由にとって危険なものとして避けられるべきである。あらゆる場合において,軍隊は,市民の権力(the civil power)に厳格に服し,規制されるべきである。」と規定しています。これに対して,自由民主党の日本国憲法改正草案(2012427日決定)9条の2第1項では,「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため,・・・国防軍を保持する。」と,高らかに常備軍の設置がうたわれています。国王に反逆したアメリカ人らの常備軍に対する暗い猜疑の目と比べて,長い歴史にはぐくまれた日本人同士の厚い信頼をそこに見るべきでしょう。いわゆる「安保闘争」に係る1960年6月10日のハガチー事件後,「同事件の原因を「警察力の脆弱さ」に求める岸〔信介内閣総理大臣〕は,・・・〔赤城宗徳〕防衛庁長官にたいして,今度は「研究」ではなく,実際に「自衛隊出動」そのものを求め〔たが〕(結局,防衛庁内の「反対」を岸が受け入れて,これは実現しなかった)」といった激動の時代(原彬久『岸信介―権勢の政治家―』(岩波新書・1995年)220頁)は,遠い過去のことになりました。なお,ちなみに,「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため」に必要な最低限以上の戦力を保持することが憲法上の要請ということになると,財務省の主計官殿がうっかり国防予算に厳しい査定をすると,「国防権干犯!」といって怒られるようになるかもしれません。また,自由民主党の日本国憲法改正草案9条の2第1項の規定する国防軍の目的は,自衛隊法31項の文言を基礎に,そこに「国民の安全」の確保が加えられたもののようですが,ここにいう「国民」には,外国在留の我が同胞が含まれるのでしょうか(同草案25条の3参照)。「居留民保護其他我権益擁護ノ為必要已ムヲ得サル場合ニ於テハ断然目的ヲ達成スル為十分ナル兵力ヲ出動セシメ速ニ其目的ヲ達成」する必要があるとされていたところです(『統帥綱領・統帥参考』29頁)。

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ヴァジニア植民地議会議事堂(Williamsburg, VA)
(ヴァジニア権利章典はジョージ・メイソンの起草に係ります。)

(2)天皇統帥の必要性及び功徳
 統帥権者が政治家ではなく,天皇でなければならない理由は,取り戻すべき日本のかたちとして,軍人勅諭(188214日)において明らかにされていました。いわく,「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある」,「夫兵馬の大権は朕か統ぶる所なれば其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を伝へ天子は文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降の如き失体なからむことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそ」と。
 さらに,実際的な理由としては,福沢諭吉が次のように述べています(『帝室論』)。

 まず,軍人に政治的中立を守らせること。




・・・今この軍人の心を収攬して其運動を制せんとするには必ずしも〔ママ〕帝室に依頼せざるを得ざるなり帝室は遥に政治社会の外に在り軍人は唯この帝室を目的にして運動するのみ,帝室は偏なく党なく政党の孰れを捨てず又孰れをも援けず軍人も亦これに関し,固より今の軍人なれば陸海軍卿の命に従て進退す可きは無論なれども卿は唯其形体を支配して其外面の進退を司るのみ内部の精神を制して其心を収攬するの引力は独り帝室の中心に在て存するものと知る可し・・・



 また,命を賭して戦う戦士の心を受けとめて支えることは,議会政治家の大臣ごときでは,器量不足です。




・・・仮令ひ其大臣が如何なる人物にても其人物は国会より出たるものにして国会は元と文を以て成るものなれば名を重んずるの軍人にして之に心服せざるや明なり唯帝室の尊厳と神聖なるものありて政府は和戦の二議を帝室に奏し其最上の一決御親裁に出るの実を見て軍人も始めて心を安んじ銘々の精神は恰も帝室の直轄にして帝室の為に進退し帝室の為に生死するものなりと覚悟を定めて始めて戦陣に向つて一命をも致す可きのみ帝室の徳至大至重と云ふ可し・・・



 さらに,いったん戦いがあり,それが終わった後に,なお殺気立った戦場帰りの大軍を平穏に日常生活に復帰させることは,議院内閣制政府の首班ごときでは到底無理な大事業であろうと考えられていました。(兵士らのみならず,栄光に包まれた凱旋将軍も危険でしょう。アメリカ独立戦争のときも,ジョージ3世の軍をヨークタウンで破ったジョージ・ワシントン将軍を立てて,王制を樹立しようという動きがあったようです。)




・・・〔
1877年の西南戦争の徴募巡査らは〕戦場には屈強の器械なれども事収るの後に至て此臨時の兵を解くの法は如何す可きや殺気凛然たる血気の勇士,今日より無用に属したれば各故郷に帰りて旧業に就けよと命ずるも必ず風波を起すことならんと我輩は其徴募の最中より後日の事を想像して窃に憂慮したりしが同年9月変乱も局を結で臨時兵は次第に東京に帰りたり我輩は尚当時に至る迄も不安心に思ひし程なるに兵士を集めて吹上の禁苑に召し簡単なる慰労の詔を以て幾万の兵士一言の不平を唱る者もなく唯殊恩の渥きを感佩して郷里に帰り曽て風波の痕を見ざりしは世界中に比類少なき美事と云ふ可し仮に国会の政府にて議員の中より政府の首相を推撰し其首相が如何なる英雄豪傑にても明治10年の如き時節に際してよく此臨時兵を解くの工夫ある可きや我輩断じて其力に及ばざるを信ずるなり

 

 福沢諭吉は不安心のため西南戦争中お腹が痛くなったことでしょうが,偉大な明治天皇の力をもって,無事に兵らは復員して行きました。同様のことが,先の大戦の終了時にも起こったわけです(194581415日夜の宮城を舞台としたクーデタ未遂事件等いろいろありましたが。)。

 自由民主党の日本国憲法改正草案は,天皇を日本国の元首としつつも(同1条),その第9条の2第1項及び第72条3項において,内閣総理大臣をもって国防軍の最高指揮官としています。福沢諭吉がその将来を懸念し,帝室への依頼をなお不可欠と考えていた明治の日本から,今の日本は随分変わり,進歩したわけです。「慶応ブランド」創始者の福沢諭吉も,時代遅れになりました。

現在の問題はむしろ,ゆるゆると続く不況に伴う心優しい閉塞状況の副作用なのか,貔貅たるべき我が国の男児から,真面目な獰猛さが失われてしまってはいないか,ということかもしれません。

(3)蛇足
 なお,憲法に統帥権者を書き込んでしまった場合,「聯合作戦ニ際シ外国軍司令官ヲシテ一時タリトモ帝国軍隊〔国防軍〕ヲ統帥指揮セシムルハ法律的ニ言ヘハ憲法違反ナリ」(『統帥綱領・統帥参考』12頁)というようなうるさいことにならないでしょうか。ちなみに,あるいは意外なことながら,先の大戦前の陸軍(少なくとも陸軍大学校の教官)は「政略上ノ目的ヲ以テ平時妄リニ海外ニ軍隊ヲ出動セシムルコトハ努メテ之ヲ避ケサルヘカラス」と考えていたようです(『統帥綱領・統帥参考』29頁)。「帝国軍ハ皇軍ニシテ皇道ヲ擁護シ皇威ヲ発揚スル為ニ設ケ置カルルモノナリ故ニ妄リニ政略的ニ兵ヲ動カスコトハ之ヲ慎マサルヘカラス」ということで(同),政治家のみだりな政略の道具にされたくはないということだったのでしょう。「而シテ国際関係ノ錯綜,世相ノ変化等ノ為海外出兵ニ依リ所望ノ政略目的ヲ達成スルノ如何ニ困難ナルカハ往年の西伯利出兵並最近ニ於ケル支那出兵ノ明証スル所ナリ」と(同書2930頁),少なくとも当時は懲りていたようです。シベリア出兵において,日米両国は同盟国の関係にあったはずですが,うまくいかなくなったようです。


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ヨークタウン古戦場(Yorktown, VA)
(ヨークタウンに陣取ったコーンウォリス将軍のイギリス軍は優勢な米仏連合軍の攻撃を受けて,1781年10月19日,終に降伏。敗報に接したイギリスのノース首相は「神よ,すべては終わった!」と叫び,アメリカ独立戦争は実質的に終結しました。降伏式においてイギリス側は最初,連合軍の主力だったフランス軍のロシャンボー将軍にコーンウォリス将軍の剣を渡そうとしましたが,こっちじゃないよあっちだよとジョージ・ワシントン将軍を示されて,降伏の印の剣はアメリカ大陸軍が受け取りました。フランスの王さまルイ16世は,いい人でしたね。)

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イギリス軍降伏の場所(Surrender Field, Yorktown, VA) 

 弁護士 齊藤雅俊
  大志わかば法律事務所
  東京都渋谷区代々木一丁目57番2号ドルミ代々木1203
  電話: 03-6868-3194 (法律問題について,何でも,お気軽にお問い合わせください。)
  電子メール: saitoh@taishi-wakaba.jp

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 以前の記事「看板は簡潔たるべきこと」(
20131110日)では,フィラデルフィアでの大陸会議においてされたアメリカ独立宣言の原案修正に対して,原案起草者であったトマス・ジェファソンは心穏やかではなく,177674日に採択された独立宣言の出来上がりには当初不満足であったとの話を紹介しました。

 ジェファソンは,大陸会議による修正をmutilationsと呼んでいますから,当該「修正」は彼の原案に対する不当な毀損行為であるものと感じていたのでしょう。(Mutilationは,手足切断の意味です。)

 前の記事で取り上げた古代ローマの毒舌弁護士キケローが法廷で揶揄嘲笑した「天分も学識もないくせに法律家を自称している男」(河野与一教授の注によると,この男の名前についてはカストゥスその他諸説あるようです。よくあるタイプの人間なのでしょう。)のような気取った似非エリートらが北アメリカの大陸会議にもおり,もったいぶった態度で,青年ジェファソン渾身の仕事に対して不遜かつ不適正な削除・改変を加え,しかもさもありがたいことをしてやったかのような恩着せがましい顔をしていたのでしょうか。ありそうな話ではあります。

 しかしながら,大陸会議においてされた独立宣言案修正の実際を見ると,さすがは米国の建国の父たち(Founding Fathers)であって,"mutilations"といわれることから想像されるような余計な台無し仕事のようなものではなかったところです。「トムくん,まあ,そうカリカリしなさんな」とは,ジョン・トンプソンの小咄をしている際にベンジャミン・フランクリンが思っていたところでしょう。

 以下,米国の独立記念館協会のushistory.orgウェッブ・サイトにある資料に基づき,大陸会議において独立宣言案から削除された部分のうち主なものを見てみましょう。



 「未来においては,一人の人間
イギリス現国王(ジョージ3世)が大胆不敵にも,わずか12年の短い期間中に,自由の原則において育まれ,かつ,その下に定住する北アメリカ植民地の人民に対して,専制のためのかくも広範かつ無差別的な基礎を築くことを敢えてしたということが,ほとんど信じられないことであろう。」


 この部分は,その前の部分で,ジョージ3世(在位1760‐1820年)について,植民地人からの重ね重ねの請願に対して侮辱の繰り返しのみによって応じたことから,「このように専制者的行為によって特徴づけられる性格を有している君主は,自由な人民の支配者としてふさわしくない。」と既に書かれてあるので,余計ではあったところでしょう。いずれにせよ,人民からの請願に誠実に対応しない,仁愛なき君主とされたジョージ3世は,植民地人の叛乱という大きな困難に逢着してしまったところです。



 我々(北アメリカ植民地人)の移住及び植民の事情の「いずれも,
イギリス立法府が我々に対する管轄を有しているとの当該奇妙な主張を基礎付けるものではない。すなわち,それらは,イギリスの富及び力に頼ることなく,我々が自ら血を流し,及び財を費やすことによってなされたものである。また,我々の各種政体を実際に樹立するに当たっては,我々は一人の共通の王を戴くことにし,彼らイギリスの同胞との恒久的連盟及び友好の基礎を置いたところであるが,彼らの議会に対して服従することは,我々の国制の一部をなすものではなく,歴史の伝えるところを信ずれば,そのようなことは考えられてもいなかったところである。


 七年戦争(1756‐1763年)において,イギリスは北アメリカでフランス及びアメリカ原住民族の連合軍と戦い(フレンチ=インディアン戦争),その出費で国庫が疲弊したために,相応の分担を求めて当の現地である植民地に対する課税が試みられたという経緯であるはずなのに┉┉ちょっと恩知らずに聞こえますね。また,17世紀末の名誉革命の後はイギリスは議会主権の国制(正確にいうと,ここで主権を有する「議会」は"King in Parliament"であって,国王は議会の外にあってこれと対抗するのではなく,議会の一構成要素と観念されます。)となっていたので,90年近くたってから今更,イギリス国王とは関係があるが,イギリス議会とは関係が無い,と言うのも,これまたちょっと難しいですね。

 なお,大英帝国ならぬ大日本帝国においては,美濃部達吉によれば,日本内地と法域の異なる「殖民地に於ける立法権は憲法上当然に天皇の大権に属し,初より議会の協賛を必要としない」とされつつも(『逐条憲法精義』159頁。すなわち,大日本帝国憲法5条は内地にのみ係る属地的規定であるものと説かれたわけです。),「帝国議会┉┉は天皇に協賛るもので,天皇の統治の及ぶ限りは,┉┉当然之に追随してその権限を有し,帝国議会に関する大日本帝国憲法の規定も亦施行区域を限らるべきものでないことは明瞭」とされていました(同37頁)。すなわち,「敢て殖民地に関する立法に付いては議会は全く之に協賛するの権が無いといふのではない。議会は広く天皇の立法権に協賛する権能を有するもので,それは内地と殖民地とに依つて異なるものではなく,随つて殖民地に施行せらるべき立法についても,議会の協賛を経て行はることは,勿論差支ないのみならず,事情の許す限りはそれが正則の方法である。┉┉唯殖民地の立法に付いて一々議会の協賛を経ることは,事情の許さない所であるから,それを以て憲法上の要件と認むることが出来ぬといふに止まる。」とされていたところです(同150‐151頁)。朝鮮においては,内地では法律をもって規定されるべき事項を朝鮮総督の発する「制令」をもって定めることができ(ただし,天皇の勅裁を要する。),台湾では同様に,台湾総督の「律令」によって定めることができたところです。



 「彼ら
イギリスの同胞が,彼らの法律による通常の手続に従い,我々の間の調和を乱す者たちを彼らの諸院から排除する機会を有したときにおいても,彼らは,その自由な選挙によって,その者たちを再び権力の座につけた。正に現時においても,彼らは,我々と同血の兵士たちのみならず,スコットランド人及び外国人の傭兵を,我々を侵略し,破壊するために派遣することを,彼らの政府(their chief magistrate)に対して許容している。これらの事実は,悩める情愛に対して最後の一刺しを加えたものであって,男性的精神は,我らをして,これら無情の同胞(unfeeling brethren)を永遠に否認せしめるものである。我々は,彼らに対するかつての愛を忘れるべく努めなければならない┉┉。我々は共にあって自由かつ偉大な国民であり得たかもしれない。しかし,見るところ,偉大及び自由を共にすることは,彼らの潔しとしないところである。そうあらしめよ, 彼らがそれを欲するのであるから。幸福と栄光とへの道は,我々にも開かれている。我々は,彼らとは別個に,その道を歩むものである。」


 「スコットランド人の傭兵」という文言は,スコットランド出身の代議員のお気に召さなかったそうです。

 しかし,イギリスの同胞(British Brethren)に対して何やら恨みがましいですね。男性的精神(manly spirit)をもって男らしく,つれない彼女と別れて,昔の愛も忘れるんだぁ,とわざわざ言うのは,かえって未練があるようでもあり,何だか心配です。「これからは,いいお友だちでいましょうね。」ということにするのなら,むしろ余計なことを言わない方がいいわけです。あるいは,後にフランス革命戦争の時代に親仏派を率いることとなるジェファソンとしては,文字どおりイギリスとは縁切りするつもりだったようでもありますが。



 我々(大陸会議代議員)は,これら植民地の善き人民の名及び権威において,「イギリス国王に対するすべての忠誠及び服従(王により,王を通じ,又は王の下でそれらを要求する者に対するものを含む。)を拒否し,かつ,否認する。我々は,我々とイギリスの人民又は議会との間にこれまで存在したとされるすべての政治的関係を完全に解除する。」


 イギリスの人民及び議会の中には,なお良好な関係を保つに値する勢力が存在すると考えることは,ジェファソンが非難するように,怯懦な考え(pusillanimous idea)であると単純にいうわけにはいかないでしょう。後々のことを考えれば,余計な敵を作る必要はないでしょう。しかしながら,イギリス人民及び議会に対する直接の非難の言葉が削られた結果,ジョージ3世ばかりが悪者にされる形になったことは,何やらお気の毒ではあります。(ジョージ3世は,1765年,17881789年及び18031804年に精神病を発症し,1811年からのそれは,その最期まで治癒しませんでした。

 

 次の削除部分が,最も議論を喚起しているところです。



 「彼
現国王(ジョージ3世)は,人間性それ自体に対する残酷な戦争を遂行した。すなわち,彼は,彼に何らの害をも加えたことのない遠い土地の人々に対して,身体に係る生命及び自由という人間性にとって最も神聖な権利の侵害をしたのであって,それは,他の半球において奴隷にするために,又はそこへ彼らを運送する過程において悲惨な死を被らしめるために,彼らを捕らえ,運搬することによって遂行された。異教国にとっておぞましいこの海賊的戦争行為は,キリスト教徒たるイギリス国王による戦争行為である。人間が売買される市場が開かれてあることを維持せんがために,彼はその拒否権を濫用し,この忌まわしい商取引を禁止し,又は制限しようとするすべての立法の試みを抑圧した。そして,that this assemblage of horrors might want no fact of distinguished die, 今や彼は,この当の人々黒人奴隷が我々のただ中において武装蜂起し,正に彼によって彼らを押し付けられた(obtruded)ところの人々を彼らが殺すことによって,彼らから彼が奪った当の自由をあがなうように彼らをけしかけている。このようにして彼は,一方の人々の自由に対して犯した以前の犯罪を,その人々が犯すべくそそのかしている他の人々の生命に対する犯罪によって,清算するのである。


 奴隷の輸入を求めていたサウス・カロライナ及びジョージアの代議員の強い反対によって,奴隷貿易を激しく非難するこの部分は削除されたそうです。また,北部植民地の商人も奴隷貿易に関与していないわけではなかったところです。


 しかし,奴隷制度を非難する,この理想主義的な一節を書いたジェファソン自身が,終生奴隷所有主であったところです。

 なぜ奴隷所有主がこのようなことが書けたのでしょうか。矛盾を感じなかったのでしょうか。飽くまでも悪いのはジョージ3世で,ジェファソンが奴隷を所有していたのは,悪いイギリス国王によって押し付けられた(obtruded)仕方のない事情によるものだったからでしょうか。それとも,ジェファソンはジェファソンだったからでしょうか。

 

 アメリカ独立革命期において既に大きな問題であった奴隷制が廃止されるためには,南北戦争を待たなければならなかったところでした。(リンカンによる奴隷解放は1863年のことであって,我が国へのペリー来航から10年後のことです。) 


 ジェファソンの人物論は難しいところですが,また,"that this assemblage of horrors might want no fact of distinguished die"の部分をどう訳すかも少々首をひねるところです。

 常識的なところでは,ここでの"die""dye"のことであるとして(ushistory.orgウェッブ・サイトにおける独立宣言案の文言変化比較表では,最初の"die"が次には"dye"になっています。),「これら一連の恐るべきことどもがおどろおどろしさを欠くことのないように」とでも訳すべきでしょうか。『リーダーズ英和辞典』には,"of the deepest dye"をもって,「第一級の,極悪の」という意味であるとあります。

 ただし,Greg Warnusz氏のウェッブ・ページでは,"fact""facet"又は"facets"の誤りであって,"want no facet of distinguished die"切り出されたさいころ(die)の六つの面がすべてそろっていること,すなわち完全であることを意味し,問題の部分は,「これら一連の恐るべきことどもを完結させるために」という意味ではないか,としています。


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(旧ジェファソン邸: Monticello, VA


(参考)田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980140頁,143Randall, W.S., Thomas Jefferson: a life: 276-278

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 「我に自由を与えよ,しからずんば死を与えよ。」


有名なこの言葉は,アメリカ独立革命が胎動していた1775323日,イギリス総督が駐在する首都ウィリアムズバーグを避けてリッチモンドのセント・ジョン教会に集会していた植民地人の第2回ヴァジニア会議(Virginia Convention)において,植民地人の武装防衛準備を主張するパトリック・ヘンリーの名演説中の名せりふです。



……後退は,屈服及び隷従以外の何物でもない。我々の鉄鎖が準備されている。ボストンの平原では,その金属音が鳴っているのが聞こえているであろう。戦争は避けられない。では,それを来たらしめよ。私は繰り返す,議長,それを来たらしめよ。

議長,事態を緩和しようとしても,それはむなしい。紳士諸君は唱えるであろう,平和,平和と。しかし,平和は存在しない。戦争は現実に始まっているのである。北部から吹き付ける次の強風は,大いなる剣戟の響きを我々の耳にもたらすであろう。我々の同胞は,既に戦場にある。なぜ我々は,手をつかねたままここにいるのか。

紳士諸君は何を求めているのか。彼らは何を得るのであろうか。

鉄鎖と隷従とをもってあがなうべきほど,生命は貴く,平和は甘美なものであるのか。やめていただきたい,全能の神よ。

他の人々がどのような途をとろうとするのか,私は知らない。しかし, as for me, GIVE ME LIBERTY OR GIVE ME DEATH!



 米国建国史中の劇的場面の一つです。

 赤毛で大柄な,当時38歳のパトリック・ヘンリーの雄弁の力があずかり,また,新開の西部諸郡及び若手の代議員の賛成があって,武装防衛準備案は辛くも6560で可決されました。

 売れっ子弁護士であったパトリック・ヘンリーは,ヴァジニアにおける対イギリス独立革命の指導者となります。

 パトリック・ヘンリーの「自由か死か」演説があった翌月の19日には,緊張が高まっていたマサチューセッツ(首都ボストン)のレキシントン及びコンコードでイギリス本国軍と植民地人との間に武力衝突が発生。アメリカ独立戦争が始まります。

1776年にヴァジニアイギリスから独立を宣言。パトリック・ヘンリーは13邦中の最大邦である独立ヴァジニアの初代知事に選出され,合衆国の建国の父の一人として米国史に名をとどめることになります。


 さて,このパトリック・ヘンリー大弁護士,政治家として偉大であったのみならず,弁護士業においても売れっ子だったということですから,さぞや弁護士資格試験も優秀な成績で合格したのだろうな,とつい考えてしまうところです。


 ところがさにあらず。


 商店経営に2度失敗し,義父の居酒屋でバーテンダーをし,そして法律家道を志したパトリック・ヘンリー先生の弁護士資格試験に向けての法律修行は,極めて横着かつ短いものでありました。6週間ほど法律書を読んだだけであります。(とはいえ,法律教育の制度がいまだに整備されていなかった当時のヴァジニアでは,下級裁判所又は郡裁判所だけで仕事をするつもりであれば,法律書を読み,無給の法律事務員をして,数箇月から数年がたったところで,筆記試験及び口頭試験からなる弁護士資格試験を受けてしまうのが普通であったそうです。)

有名な法学者で,かつ,ジェファソンや後の米国連邦最高裁判所首席判事であるジョン・マーシャルの師匠でもあったジョージ・ウィス(Wythe)が試験委員の一人であったのですが,真面目なウィス先生はパトリック・ヘンリー受験生の前記修行成果にぞっとした余り,当該受験生に与える弁護士免許状への署名を拒否したと伝えられております。


知人の一人であった秀才ジェファソンは,弁護士パトリック・ヘンリーの能力について,その得意とする雄弁が物をいう郡裁判所での「陪審裁判案件以外については,全くなってなかった」との評価を後に下しています。更にいわく,パトリック・ヘンリーは「最も簡単な案件についても,法律的な批判はいうもおろか,文体及び思考の正しさに係る通常の批判に耐えられる書面を書くことができなかった。というのも,彼の頭の中には,思考の正確というものが全く欠落していたからだ。彼の想像力は,豊富で,詩的で,崇高だったが,しかし漠然としていた。彼は最美の言葉で最強のことを語った。しかし,論理がなく,構成もなかった。」と。


 しかし,パトリック・ヘンリー弁護士は実務において高く評価されていました。財産を分与せよと未亡人が亡夫の家族を訴えて勝訴した,ウィリアムズバーグの社交界で評判になった訴訟における原告訴訟代理人の一人であった彼が,「法によって裏付けながら正義主張してい彼は,輝いていた。」と依頼人の母親からベタぼめされた旨の記録が残っています。


  なお,上記事件に係る夫婦の関係は,夫の生前,余計な話ですが,京都地方裁判所昭和62512日判決(判時125992頁)のものと同様でした。京都地方裁判所の当該判決は,夫婦の重要事ができない夫に対する妻からの離婚請求を民法77015号に基づき認めたものですが(更に200万円の慰謝料支払が認められました。),ヴァジニアの夫婦については,夫の家族から依頼を受けたジェファソンが,夫の側からする請求をうけて植民地議会の個別立法によって離婚が認められないか(裁判での離婚は無理だったそうです。),イギリス本国と北アメリカ植民地との法域の相違に関連する問題をも含種々法的な調査研究を行っていたところでした。


 ところで,パトリック・ヘンリーの法律家としての能力に辛口の評価を下していた秀才弁護士ジェファソンでしたが,それでは,夫子御自身の弁護士業の業況はどのようなものだったのでしょうか。

 

 うまくいかなかったようです。


 嫌気がさして1774年に弁護士業をやめるまでの平均収入は,依頼者からの報酬の徴収率がなかなか5割を超えず,1993年の貨幣価値で年2万ドル程度であったといわれています。

 奴隷をも抱える地主としての収入がなければ,弁護士業だけではジェントルマンとしてやっていけなかったわけです。ジェントルマンの余技として法律家をやっているような形になっていたようです。
 (なお,ジェファソンは,晩年,巨額の負債に苦しめられます。)



 さて,前回に続いて「二回試験」に向けて司法修習生を励ますつもりで書き始めた今回の記事ですが,これをどう締めくくるべきでしょうか。


 弁護士資格を得る「二回試験」での成績が悪かったパトリック・ヘンリーはそれでも弁護士として輝き,他方ジョージ・ウィス門下の秀才であったジェファソンは弁護士報酬債権を厳しく取り立てるわけにもいかずに苦しむ羽目に陥ったのだから,実務は実務,成績にまで今からそう神経質にならず,まずは司法修習生考試に合格することを考えて,効率よく考試対策をしようよ,と言えば,司法修習生に対する励ましになるでしょうか。


 無論,「えっ,この成績ではもしかしたら合格させられないんじゃないの。」と,かつてのジョージ・ウィスのごとく司法修習生考試委員会委員長が懸念されるような司法修習生であっても,運命の力によって明日の日本の偉人となる多様な可能性は,常に存在しているところです。



(つけ足しの後日談: アメリカ独立戦争終盤の1781年にイギリス軍のヴァジニア邦侵寇がありましたが,その当時の同邦知事であったジェファソンの「ヘマ」に関する邦議会における調査をめぐって,ジェファソンとジェファソンの先代知事パトリック・ヘンリーとは仇敵の間柄となります。その後1784年12月8日付けのジェイムズ・マディソンあての書簡においてジェファソンなおいわく。「ヘンリー氏が生きておられる限り,また変な憲法が作られて我々にとって永久に厄介なことになるのではないでしょうか。・・・我々がなすべきことは,私が思うには,敬虔な心をもって,彼に死が与えられんことを祈ることであります。(What we have to do, I think, is devoutly to pray for his death.) 」セント・ジョン教会でのGIVE ME DEATH「死を与えよ」演説から9年余を経ての,救国の雄弁家パトリック・ヘンリーに対する「死ねよ」との辛辣な批評でありました。パトリック・ヘンリーは,ジェファソンの毒気を浴びながらも1799年まで生きます。)


(参考)Randall, W.S., Thomas Jefferson: a life33-34, 45-46, 75, 163-164, 167-168, 222-227, 344-345



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ウィリアムズバーグ旧市街の裁判所の建物(手前にさらし台があります。)

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  (Independence Hall, Philadelphia, PA)

 
 昨日始めたこのブログに最初に掲載した記事は,つい力が入り過ぎたようです。読まれる方々は長さに辟易されるでしょうし,書く方も同じ調子で続けるわけにはとてもいきません。このままでは龍頭蛇尾が避け難いのではないかという悪い予感が自ずから生じてくるところです。

 ということで,今回は軽い話題です。
 本プログ名が,気取った工夫のあるものではなく,「Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)」と,短く無愛想なものになった理由は何かというお話です。

 なぜか時代はさかのぼって1776年7月の初め,北アメリカはペンシルヴァニアのフィラデルフィアが舞台となります。大陸会議(Continental Congress)の議場では,トマス・ジェファソンが原案を起草したイギリスからの独立宣言案が,同月2日から同月4日にかけて審議されておりました。
 独立宣言案は,ジェファソンの原案に,凧と雷のベンジャミン・フランクリン及び後の2代目合衆国大統領ジョン・アダムズが若干手を加え,この3人並びにロジャー・シャーマン及びロバート・リヴィングストンによって構成される五人委員会が実質的な変更なしにそのまま採択し,同年6月28日に大陸会議に提出されたものでした。すなわちジェファソンの作品であったところです。

 しかし,提出された委員会案には,大陸会議の保守派によって,相当の斧鉞が加えられることになりました。したがって,実は,1776年7月4日に採択されたアメリカ独立宣言は,当時必ずしもジェファソンの満足する形のものではありませんでした。
 大陸会議の議場において,目前で展開されるこれらの原案毀損行為に心穏やかでなかった(not insensible to these mutilations)33歳のジェファソンの隣に座っていたのは,70歳のベンジャミン・フランクリン。老フランクリンは大要次のような小咄をささやいて,心痛のジェファソンを慰めました。


 「私は,後で人様から手直しを受けることになる文案を書かされるような羽目にならないように注意しているんだよ。まあ,これから話すようなことがあったからね。昔,私の印刷職人時代の仲間の帽子職人が,いよいよ独立して,自分の店を開くことになったんだな。そこでやっこさんが最初に気をつかったのは,うまい文句の書いてあるかっこのいい看板を用意することだったんだよ。で,自分でまあ書いたわけさ。「ジョン・トンプソン。帽子職人。現金払いにて帽子を製作販売仕り候。」と,帽子の絵を添えることにしてね。ところが,やっこさん,どこか直すところがないか友だちに見てもらうことにしちまったんだな。で,一人目が言うには,「帽子職人」は余計だというんだよ。「帽子を製作」でそのことは分かるというんだね。で,「帽子職人」は削られた。二人目は今度は「製作」は要らないと言う。品物が良くて気に入りさえすれば,客はだれがその帽子を作ったかなんぞには頓着しないで買ってくれるというわけさ。で,「製作」は削られた。三人目は,こちらは,「現金払いにて」とわざわざ書く必要はないとの御託宣だ。この近隣では掛売りの習慣はない,皆即金で支払ってくれるということだ。で,その部分も削られて,今や看板の案は「ジョン・トンプソン。帽子を販売仕り候。」に縮まってしまった。で,次の友だちが言ったものさ。「帽子を販売だって?だれもお前さんがただで帽子をくれるなんて思いやしないよ。余計な文句だよ。」とね。で,「販売仕り候」が削られ,「帽子を」も帽子の絵があるから要らないということになった。結局,やっこさんの看板は,めでたく「ジョン・トンプソン」ということに落ち着いたわけさ。」(Randall, W.S., Thomas Jefferson: a life. New York, NY: HarperCollins (1994): 278-279参照)


 自分の精魂込めた仕事が冒涜されたと感じたであろうジェファソンの憤りは,理解できるところです。
 しかし,自分の文案が全部削除されてしまった人の好いジョン・トンプソンに比べれば,それでも原案の大部分が残されたジェファソンは,なお幸運でありました。

 独立宣言採択の日からちょうど50年後の1826年7月4日に,ジェファソンは亡くなります。ジェファソンは,自らの墓碑銘において,その生涯の業績を三つ挙げておりますが,合衆国第3代大統領であったことはそこには含まれておらず,その筆頭は,アメリカ独立宣言の起草者であったことでありました(残りの二つは,ヴァジニアの信教自由法の起草者であったこと及びヴァジニア大学の創立者であったこと。)。その長い生涯におけるその後の偉大な政治活動の数々が,苦い思い出から若き日の仕事を救い出し,その歴史的価値を再認識・再評価する幸福に至らしめたということでしょうか。

 さて,では以上の話と当ブログ名との関係は一体何なんだ,ということになります。

 自らの看板を簡潔にすることによって,かのジョン・トンプソンを常に想起するようにする。そのことによって,無用無益な言辞を慎むようにし,さらには,つまらないと判断された文章が読者の批評において「全削除」の扱いを受けることを甘受する覚悟を保つようにする。

 以上の次第です。

120107_020023

ジェファソンの墓,Monticello, VA (Here was buried / Thomas Jefferson / Author of the Declaration of American Independence / of the Statute of Virginia for religious freedom / and Father of the University of Virginia)












 

 
 

 
 

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