Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

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1 高輪会議(1887年3月20日)と内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文の「高裁」

1887年3月20日に内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文,賞勲局総裁柳原前光,宮内省図書頭井上毅及び伊藤の秘書官伊東巳代治が高輪の伊藤博文別邸において行った「高輪会議」は,柳原の同月14日付け伊藤宛て書簡によれば,当時柳原が起案していた「皇室典範再稿」等について「井上毅・前光等貴館へ参会,大小(るち)縷陳(んにおよび)(こう)高裁(さいをえ)(そうら)()()公私ノ幸也(さいわいなり)不堪仰望(ぎょうぼうにたえず)(そうろう)」という趣旨で行われたものです(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立(木鐸社・1988年)187頁(振り仮名,読点及び中黒は筆者によるもの))。皇室典範の成案作成に向け,松下村塾生徒利助たりし維新の元勲・内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文の「高裁」を得ようとするものですから,はなはだ重い。この高輪会議については,筆者も当ブログで何度か御紹介したところです。

 

「明治皇室典範10条に関して」

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.html

「続・明治皇室典範10条に関して」

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060127005.html

 

 同会議において,柳原「皇室典範再稿」の「第1章 皇位継承」中「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」と規定する第12条が伊藤及び柳原の首唱で削られ(小嶋「明治皇室典範」190頁),それに伴い同「第2章 尊号践祚」中第17条の「天皇崩シ又ハ譲位ノ日皇嗣践祚シテ即チ尊号ヲ襲ヒ祖宗以来ノ神器ヲ承ク」との規定が伊藤の首唱によって「第10条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と修正されました(小嶋「明治皇室典範」191頁)(章名も伊藤の首唱で「第2章 践祚即位」に変更(小嶋「明治皇室典範」190頁))。その結果,天皇の生前退位は,明治天皇の裁定に係る1889年2月11日の皇室典範(第10条が「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定)及び昭和天皇の裁可(1947年1月15日)に係る昭和22年1月16日法律第3号の皇室典範(第4条が「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」と規定)を通じて一貫して認められないもの(無効である,ということでしょう。)とされているものと広く解されていることは周知のとおりです(ただし,岩井克己「宮中取材余話・皇室の風103」選択43巻3号(2017年3月1日号)88頁を参照)。

 伊藤博文の「高裁」の重みは()くの如し,というべきか。

 実務上,伊藤博文名義の『皇室典範義解』の記述(「本条〔明治皇室典範10条〕に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はる者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」(下線は筆者によるもの)。なお,筆者は岩波文庫版の宮沢俊義校註『憲法義解』(1940年)を用いています。)は,皇室典範の本文それ自体に勝るとも劣らぬ解釈上の権威を有するものなり,というべきでしょうか。

 しかしながら,伊藤の「高裁」ないしは『皇室典範義解』における託宣にも,動揺し,遂に後には撤回変更に至らざるを得なくなった例があるところです。長州出身の大宰相だからとて,なかなか信用し切るわけにはいきません。

 永世皇族制(皇族は子々孫々永世皇族であるものとする制度)の採否をめぐる問題がそれです。

 

2 高輪会議における臣籍降下制度の採用と伊藤の変心・食言

 1887年3月20日の高輪会議の冒頭,柳原前光は,伊藤博文の見解を質し,「皇玄孫以上ヲ親王ト称シ以下ヲ諸王ニ列シ皇系疎遠ナルモノハ逓次臣籍ニ降シ世襲皇族ノ制ヲ廃スル事。附山階宮久邇宮庶子ヲ臣籍ニ列セラルル事」との確認を得ています(小嶋「明治皇室典範」188頁)。すなわち,臣籍降下制度を伴うことのない永世皇族制を採らないとの言質を内閣総理大臣兼宮内大臣から取ったわけです。柳原の「皇室典範再稿」の第105条には「皇位継承権アル者10員以上ニ充ル時ハ皇玄孫以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍ニ列スルコトアルヘシ」とあり,高輪会議を経て「第64条 皇位継承権アル皇族ノ増加スルニ随ヒ皇玄孫以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍ニ列スヘシ」となっています(小嶋「明治皇室典範」199頁)。「臣籍ニ列スルコトアルヘシ」から「臣籍ニ列スヘシ」へと,天皇から遠縁の皇族にとっては厳しい表現になっています。(なお,明治天皇の権典侍柳原愛子の兄である柳原前光は,後の大正天皇である嘉仁親王(1887年3月当時満7歳)の実の伯父に当たります。)

高輪会議を承けて同年4月25日に伊藤博文に,同月27日に井上毅にそれぞれ提出された柳原の「皇室典範草案」では「第71条 皇位継承権アル者増加スルニ従ヒ皇位ヲ距ルコト5世以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍ニ列スヘシ」となっており,それを井上は同年8月より前の段階で「第 条 皇族ノ増加スルニ従ヒ5世以下ノ疎属ハ逓次臣籍ニ列スヘシ」と修正しています(小嶋「明治皇室典範」202頁・206頁・208頁。ここで修正された皇室典範案は「井上の七七ヶ条草案」と呼称されています。)。

 しかし高輪会議におけるこの伊藤の「高裁」は動揺し,食言となります。すなわち,井上毅の前記七七ヶ条草案に対し,伊藤は変心したのか,「皇族ヲ臣籍ニ列スル2条削ルベシ」と指示するに至っているところです(小嶋「明治皇室典範」209頁・220頁)。

 

3 永世皇族制論者井上毅の1888年3月20日「修正意見」

とはいえこれは,井上毅にとっては喜ぶべき食言だったでしょう。18821218日に岩倉具視が総裁心得となった宮内省の内規取調局(駐露公使であった柳原前光とも連絡)による1883年の皇族令案には「親王ヨリ5世ニ至リ姓ヲ賜ヒ華族ニ列シ家産ヲ賜ヒ帝室ノ支給ヲ止ム/但シ養子トナルモ(なお)其ノ世数ヲ変スルコトナシという規定があったのでしたが,同年7月付けの「参謀山県有朋」名義の文書を代筆して,井上は・・・果シテ然ラハ四親王家ノ如キモ終ニ之ヲ廃セントスル() 按スルニ伏見宮ハ崇光ノ皇子栄仁親王ヲ祖トシ其ノ後八条宮今ノ桂宮高松宮今ノ有栖川宮閑院宮ヲ立テラレ(おのおの)猶子親王ヲ以テ世襲ノサマトナリ来レルハ・・・朝議継嗣ヲ広メ皇基ヲ固ウスルノ深慮ヨリ創設セラレシ者ナラン ・・・五百年ノ久シキニ因襲シ来ルトキハ今日ニ在リテ容易ニ廃絶ス()キニ非ス ・・・将来皇胤縄々ノ盛ナルニ拘ラス旧ニ依テ此ノ四家ヲ存シ四家(もし)継嗣ナキトキハ(すなわち)他ノ皇親ヲ以テ之ヲ継カシメ永ク小宗支流トナサンコト遠大ノ計ナルヘキ() 又5世ニ至リ華族ニ列スルノ議ハ周ノ礼ニ五世而親尽トイヒ大宝令ニ自親王(しんのうより)五世(おうのな)(をえた)王名(りといえども)不在皇親之限(こうしんのかぎりにあらず)トイヘルニ拠レルカ 然ルニ右ニ親尽トイフモ族尽トイハス 不在皇親之限(こうしんのかぎりにあらず)トイフモ不在皇族之限(こうぞくのかぎりにあらず)トイハス 故ニ5世以下ハ挙ケテ皇族ニ非ストナスコト(また)古典ニ(そむ)クニ似タリ ・・・」と批判していたところでした(小嶋和司「帝室典則について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』119頁‐124頁。振り仮名は筆者によるもの)。

1888年3月20日の井上の「修正意見」においては,井上の七七ヶ条草案から「第70条 皇族増加スルニ従ヒ5世以下疎属ヨリ逓次臣籍ニ列スヘシ」及び「第71条 皇族臣籍ニ列スル時ハ姓ヲ賜ヒ爵ヲ授ク」の2箇条はざっくり削られています(小嶋「明治皇室典範」210頁・220頁)。

 

4 枢密院審議における議長・伊藤の動揺

ところが,枢密院における皇室典範案の審議が始まり,1888年6月4日午後,皇室典範案第33条(「皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ生レナカラ男ハ親王女ハ内親王ト称フ5世以下ハ生レナカラ王女王ト称フ」)に関し,三条実美内大臣が口火を切って臣籍降下制度の必要を説き(「或ハ但シ書キヲ以テスルモ可ナリ桓武天皇以来ノ成例ヲ存シ姓ヲ賜フテ臣下ニ列スルノ余地ヲ存シ置タシ」),枢密顧問官ら(土方久元宮内大臣兼枢密顧問官,山田顕義司法大臣,榎本武揚逓信大臣兼農商務大臣,佐野常民枢密顧問官及び吉井友実枢密顧問官並びに次の伊藤議長発言後には寺島宗則枢密院副議長及び大木喬任枢密顧問官)からも例外なき永世皇族制採用に対する疑問ないしは臣籍降下制度に賛成する意見が次々と提示されると,伊藤博文枢密院議長は動揺します(これらの枢密院の議事の筆記は,アジア歴史資料センターのウェッブ・サイトで見ることができます。)。

 

議長 各位ノ修正説モ種々起リタレトモ,本条ニハ決シテ人臣ニ下スヲ得スト云フ(こと)ナシ。説明モ人臣ニ下スヲ禁スルノ意ニアラス。抑モ典範ハ未タ人臣ニ下ラサル皇族以上ノ為メニ設クルモノニシテ,既ニ人臣ニ降リタル者ハ典範ノ支配スル所ニアラス。又外国ノ例ヲ引テ皇族ノ人臣ニ列スルノ可否ヲ論セラルレトモ,外国ニ於テハ皇族ノ臣ニ列スルニ姓ヲ賜フト云フカ如キ厳格ナルモノアラス。故ニ比類シテ論スヘキニアラス。要スルニ此問題ハ典範中ノ難件ニシテ,最初原案取調ノ際ニハ5世以下人臣ニ下スノ条ヲ設ケ漸次疎遠ノ皇族ヨリ人臣ニ下スヿヲ載セタリシカ,種々穏カナラサル所アリテ遂ニ削除シタリシナリ。(振り仮名及び句読点は筆者によるもの)

 

 要は,伊藤博文が言いたかったのは,皇室典範案の文言だけ見ると例外なき永世皇族制度であって皇族の臣籍降下はないように見えるがそうではないのだよ,現に我々も原案においては臣籍降下制度の明文化を考えていたけれども「種々穏カナラサル所アリテ遂ニ削除シタ」だけなのだよ,オレが悪いんじゃないよ,ということのようです。

 しかし,このような説明が通るのであれば,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定する明治皇室典範10条についても,「本条ニハ決シテ譲位スルヲ得スト云フヿナシ説明〔「上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり」〕モ譲位ヲ禁スルノ意ニアラス・・・要スルニ此問題ハ典範中ノ難件ニシテ最初原案取調ノ際ニハ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得ノ規定ヲ設ケ譲位ノヿヲ載セタリシカ種々穏カナラサル所アルト思ヒテツイ削除シタリシナリ」といい得てしまうことになりそうです。
 なお,皇室典範枢密院諮詢案
33条について伊藤博文が言及する「説明」は,『皇室典範義解』の基となった枢密院の審議資料として配布されたコンニャク版(小嶋「明治皇室典範」258頁)の「皇室典範義解草案 第一」のことでしょう(伊藤博文編,金子堅太郎・栗野愼一郎・尾佐竹猛・平塚篤校訂『帝室制度資料 上巻〔秘書類纂第19巻〕』(秘書類纂刊行会・1936年)81頁以下。なお,『秘書類纂』も国立国会図書館のウェッブ・サイトで見ることができます。)。「皇室典範義解草案 第一」における枢密院諮詢案第32条(「皇族ト称フルハ太皇太后皇太后皇后皇子孫皇女孫及皇子孫ノ妃ヲ謂フ」)の説明には,「凡ソ皇族ノ男子ハ皆皇位継承ノ権利ヲ有スルモノナリ。・・・蓋シ5世ノ内外ハ親等ヲ分ツ所以ニシテ,其ノ宗族ヲ絶ツニ非ザルナリ。故ニ中世以来,(かたじけなく)累封邑(ふうゆうをかさね)空費府庫(むなしくふこをついやす)ヲ以テ(嵯峨天皇詔)姓ヲ賜ヒ臣籍ニ列スルノ例ハ本条ノ取ラザル所ナリ。・・・(之ヲ外国ニ参照スルニ,凡ソ王位継承ノ権アル者ハ総テ王族ト称ス,而シテ君主ノ子孫兄弟伯叔姪ノミヲ称ヘテ専ラ王族ト謂ヘル場合アルハ,其ノ等親及ビ特別ノ敬礼ニ就テ謂ヘルナリ,・・・若シ(それ)姓ヲ改メテ臣ト為ルノ事ハ各国ノ見ザル所ナリ)とあります(伊藤編『帝室制度資料 上巻』109110頁。振り仮名は筆者によるもの)。「中世以来・・・ノ例ハ本条ノ取ラザル所ナリ」は,「中古以来・・・の慣例を改むる者なり」と酷似した理由付けです。

 1888年6月4日に続く同月6日午前の枢密院の審議において,永世皇族制の推奨者である井上毅枢密院書記官長の見解は,伊藤議長を厳しく叱咤するごとし。

 

 ・・・議長ト其意見ヲ異ニセサルヲ得ス。本条〔枢密院諮詢案第33条〕正文ノ構成ヲ正当ニ読下セハ,天皇ノ御子孫ハ万世王女王ナリ。(句読点は筆者によるもの)

 

「・・・5世以下ハ生レナカラ王女王ト称フ」なのですから,「本条正文ノ構成ヲ正当ニ読下セハ天皇ノ御子孫ハ万世王女王ナリ」であることは当然のことです。問題は,「本条ニハ決シテ人臣ニ下スヲ得スト云フヿナシ」と言う伊藤「議長ト其意見ヲ異ニセサルヲ得ス」の部分ですが,これは,「生レナカラ王女王」として皇室典範の条文上有する特権を皇室典範における明文の根拠なしに当人の意思を無視して一方的に剥奪して「人臣ニ下ス」ことができないことはもちろんだ,ということでしょう。天皇ないしは天皇及び皇嗣自らの意思に基づくものである生前退位ないしは譲位とは,問題の場面が異なるようです。

臣籍降下制度の規定を設けるかどうかに係る前記の問題は,1888年6月6日午前,ついに採決となり,当該規定を設けることに賛成する者は10名,原案そのままに賛成する者14名で,1889年2月11日の皇室典範においては皇族の臣籍降下の制度は設けられないこととなりました(なお,小嶋「明治皇室典範」244頁)。

さて,賛成者・反対者の色分けはどうだったのでしょうか。伊藤議長及び寺島副議長以外の皇族,国務大臣及び枢密顧問官の出席者は合計24名でした。これらのうち,臣籍降下制度条項に賛成する発言をしていた者は,三条,土方,山田,榎本,佐野,吉井及び大木の7名,臣籍降下制度条項を不要とする発言をしていた者は松方正義大蔵大臣,副島種臣枢密顧問官及び河野敏鎌枢密顧問官の3名。残り14票は,熾仁親王,彰仁親王,能久親王,威仁親王,黒田清隆内閣総理大臣,山県有朋内務大臣,大隈重信外務大臣,大山巌陸軍大臣,森有礼文部大臣,福岡孝弟枢密顧問官,佐々木高行枢密顧問官,東久世通禧枢密顧問官,元田永孚枢密顧問官及び吉田清成枢密顧問官。これら14票はどう分かれたものでしょうか。柳原,三条等に見られるように一般に永世皇族制に冷淡なような公家の出身者の東久世枢密顧問官は臣籍降下制度条項に賛成したでしょうか。永世皇族制度を説く井上毅に名義を貸したことのある山県有朋は不要論でしょう。審議中沈黙を守っていた宮様ブロックの4名は,一致して臣籍降下条項不要の側に立ったことでしょう。

5 明治皇室典範30条及び31条と井上毅及び柳原前光

 

(1)井上毅

最終的に,1889年2月11日の皇室典範の第30条及び第31条は,次のとおりとなりました。

 

30条 皇族ト称フルハ太皇太后皇太后皇后皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃内親王王王妃女王ヲ謂フ

31条 皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ内親王トシ5世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス

 

皇室典範に別に特則が設けられなければ,当該皇族の同意なき一方的臣籍降下はないわけですが,「本条ニハ決シテ人臣ニ下スヲ得スト云フヿナシ」との伊藤博文発言が飛び出すような状況では,永世皇族制論者としての井上毅は不安であったでしょう。また,後に皇室典範の改正又は増補がされてしまうかもしれません。条文の外に「説明」においても強固な防備をしておく必要が感じられたもののようです。明治皇室典範10条に係る「・・・中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」との説明だけでは天皇の終身在位論の理由付けとしては弱いものとつとに考えていたであろう井上は(注),「皇室典範義解草案 第一」にあった「・・・故ニ中世以来,辱累封邑空費府庫ヲ以テ(嵯峨天皇詔)姓ヲ賜ヒ臣籍ニ列スルノ例ハ本条ノ取ラザル所ナリ。」だけでは同様に不十分であると当然思ったことでしょう(1888年6月4日午後の枢密院会議において松方大蔵大臣は,「断言」する強い表現だと受け取ってくれていたのですが。)。

(注)ついでながら,明治皇室典範10条の説明は,「皇室典範義解草案 第一」では「・・・中古権臣ノ強迫ニ因リ,両統互譲十年ヲ限トスルニ至ル。而シテ南北朝ノ乱亦此ニ源因セリ。故ニ後醍醐天皇ハ遺勅シテ在世ノ中譲位ナク,又剃髪ナカラシム(細々要記)。本条ニ践祚ヲ以テ先帝崩御ノ後ニ行ハルルモノト定メタルハ,上代ノ恒典ニ因リ中古以来譲位ノ慣例ヲ改ムルモノナリ。」となっていました(伊藤編『帝室制度資料 上巻』93頁。下線は筆者によるもの)。非妥協的かつ戦闘的な御性格であらせられた『太平記』の大主人公・後醍醐天皇の遺勅であるから終身在位なのだ,持明院統には互譲などせず皇位は譲らないのだ,ということではかえって剣呑であるようです(現皇室は持明院統の裔)。そもそも後醍醐天皇(大覚寺統傍系)は,文保の和談を承けて,在位10年の花園天皇(持明院統)から譲位を受けることができたところです。『皇室典範義解』においては書き改められて,後醍醐天皇云々が消えているのはあるいは当然の措置でしょう。

 したがって,『皇室典範義解』においては,「凡そ皇族の男子は皆皇位継承の権利を有する者なり。故に,中古以来
空費府庫(むなしくふこをついやす)を以て姓を賜ひ臣籍に列するの例は本条の取らざる所なり。」との説明(第30条解説)に加えて,1888年6月4日午後の枢密院会議で井上が弁じた永世皇族制弁護論の要旨が第31条解説に次のように付加されています。「皇室典範義解草案 第一」の枢密院諮詢案33条解説にはなかったものです。

 

 大宝令5世以下は皇親の限に在らず。而して正親司(おおきみのつかさ)司る所は4世以上に限る。然るに,継体天皇の皇位を継承したまへるは実に応神天皇5世の孫を以てす。此れ(すなわ)ち中古の制は(かならず)しも先王の遺範に非ざりしなり。本条に5世以下王・女王たることを定むるは,宗室の子孫は5世の後に至るも,亦皇族たることを失はざらしめ,以て親々の義を広むるなり・・・。

 
 井上は,前記枢密院会議において,「不幸ニシテ皇統ノ微継体天皇ノ時ノ如キことアラハ5世6世ハ申スまでモナシ百世ノ御裔孫ニ至ル迠モ皇族ニテハサンヿヲ希望セサルベカラス」「姓ヲ賜フテ臣籍ニ列スルノヿハ大宝令ニモ之ヲ載セス畢竟中古以後王室式微ノ時代一時ノ便宜ニ従テ御処分アリシ事ナルカ如シ」「皇葉ノ御繁栄マシマサハ是レ誠ニ喜フベキ事ニシテ継体天皇宇多天皇ノ御場合ノ如キハ大ニ不祥ノ事ト云ハサルヘカラス然ラハ仮令多少ノ支障ハアラントモ成ルベク皇族ノ区域ヲ拡張スルヿ誠ニ皇室将来ノ御利益ト云フヘシ」等と熱弁をふるっていたところです。
 

(2)柳原前光

 臣籍降下制度設置論者である柳原前光は,当該制度を皇室典範に設けないという食言的決定に対して,1888年5月頃伊藤博文宛てに次のように書き送っていました(「皇室典範箋評」。小嶋「明治皇室典範」238頁。振り仮名は筆者によるもの)。

 

 拙者ハ祖宗ノ例ヲ保守シ疎属ヨリ逓次臣籍ニ列スルノ持説ナリ 但シ本案永世皇族ヲ設クルニ決セラレタル上ハ波瀾ヲ避ケ謹テ緘黙傍観ス (より)テ安意ヲ乞フ 但シ遅ク(さんじゅう)年以内ヲ出テス実際大ニ(くるし)ミ必ス此事件ヨリ典範修正アラン 若シ不幸ニシテ其事ニ()閣下(こいねがわ)クハ僕ノ先見者タルヲ保証セラレンコトヲ願フ(のみ) 恐(しょう)々々

 

柳原は,枢密顧問官になるには年齢が足りず,枢密院における皇室典範案の審議に参加することができませんでした。

 

6 1907年の皇室典範増補と臣籍降下制度の(再)導入

 

(1)1907年皇室典範増補

しかしてその後,1889年の明治皇室典範の裁定から18年しかたたぬ1907年2月11日,皇族の臣籍降下制度を定める皇室典範増補が明治天皇により裁定され,同日公布(公式令(明治40年勅令第6号)4条1項)されました。

 

第1条 王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムルコトアルヘシ

 第2条 王ハ勅許ニ依リ華族ノ家督相続人トナリ又ハ家督相続ノ目的ヲ以テ華族ノ養子トナルコトヲ得

 第4条 特権ヲ剥奪セラレタル皇族ハ勅旨ニ由リ臣籍ニ降スコトアルヘシ

  〔第2項略〕

 第5条 第1条第2条第4条ノ場合ニ於テハ皇族会議及枢密顧問ノ諮詢ヲ経ヘシ

 第6条 皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス

 

(2)草葉の陰

 

ア 山田顕義

 1888年6月6日午前の枢密院会議で,「種々穏カナラサル所」からの影響のゆえか何のゆえか臣籍降下制度不要論を強硬に吠えた河野敏鎌(この人物は,司馬遼太郎の『歳月』において,「いい親分がみつかると,河野はどんなことでもする」と書かれてしまっていて損をしています。筆者は『歳月』に関して本ブログに記事(「司馬遼太郎の『歳月』の謎の読み方」)を書いたことがあります。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1842010.html)の発言に関して,「・・・本条原案ノ(まま)ニ存シ置クハ典範上ノ体面ハ美ナルカ(ごと)シト(いえど)モ,18番〔河野敏鎌〕自身ニモ既ニ陳述シタル如ク,本条将来ノ変換ハ勢ヒ免レ難キ所トス。賜姓列臣ヲ明条ニ掲クルハ忍ヒサル所ナリト雖モ,皇室万世ノ為メニ模範ヲ(のこ)サントスル今日ニ於テ,姑息ニ流レ徒ラニ体面(よそおう)ハ本官ノ取ラサル所ナリ。其変換ニシテ予期スヘカラサラシメハ止マン。(いやしく)モ予期スヘクンハ,他日典範ヲ変換シテ賜姓列臣ノ例ヲ開カサルヘカラサルノ時期ニ際会シ,何ノ必要アリテ祖宗千年ノ習慣ヲ此ノ中間ニ特ニ変更シタルカヲ(わら)フヘシ・・・次ニ18番ハ,御先代ノ経験ヲ鑑ミ帝室将来ノ利益ヲ(おもんぱかっ)テ之ヲ今日ニ改ムルハ忠精ヲ(つく)所以(ゆえん)ナリト論シタリ。然レトモ,他日必ス御先代ノ例ニ復スヘキヲ期シナカラ差シタル必要ナクシテ(みだ)リニ之ヲ改ムルハ,遂ニ後世ノ(わらい)ヲ免レス。各位幸ヒニ18番ノ説ニ迷ハス,23番〔佐野常民〕6番〔三条実美〕ノ修正ニ賛成アリタシ」(振り仮名及び句読点は筆者によるもの)と,臣籍降下制度を結局は導入する破目になって嗤われ者になるなとの警告を発していたこちらは長州の武家出身の山田顕義は,18921111に急死していました。山田がボアソナアドの協力を得てその編纂に心血を注いだ(旧)民商法の施行延期法(明治25年法律第8号(民法及商法施行延期法律))が明治天皇によって裁可されたのは山田急死の月の22日(副署した内閣総理大臣は伊藤博文,司法大臣は山県有朋),公布されたのは同月24日でした。


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山田顕義胸像(東京都千代田区三崎町の日本大学法学部前)

イ 柳原前光

臣籍降下制度導入に係る「先見者タルヲ保証セラレ」ることを見ることなく,柳原前光は,日清戦争の対清宣戦布告の翌月,1894年9月2日に早逝しました。

 

ウ 井上毅

 永世皇族制の防衛者たるべかりし井上毅は,1895年3月17日,宿痾の結核で不帰の客となりました。伊藤博文が陸奥宗光と共に下関・春帆楼で李鴻章と第1回日清講和会談を行う3日前のことでした。

 

 「国家多事の日に際して,蒲団の上に死す。斯る不埒者には,黒葬礼こそ相当なれ」(長尾龍一「陰沈たる鬼才の謀臣 井上毅」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)3738頁参照)

 

(3)生き残る男・伊藤博文

ところで,1907年の皇室典範増補裁定の仕掛け人はだれだったでしょうか。ほかでもない,高輪会議での決定を翻して井上毅の七七ヶ条草案に対し「皇族ヲ臣籍ニ列スル2条削ルベシ」と食言的な指示をするに至った夫子御自身――伊藤博文その人でした。

19041012日に帝室制度調査局総裁として伊藤博文が明治天皇に対して行った上奏にいわく。

 

  臣博文帝室制度調査ノ

大命ヲ(つつし)ミ伏シテ(おもんみ)ルニ,皇室典範ハ

陛下立憲ヲ経始(けいし)〔開始〕シタマヘル制作ノ一ニシテ,帝国憲法ト並ニ不刊(ふかん)〔摩滅しない〕ニ垂ル,(しこう)シテ国家ノ景運蒸々(じょうじょう)向上するさまトシテ()(へん)〔大いに変ずる〕シ,皇室ノ基礎益々鞏固ニシテ文経武緯国光(あまね)寰宇(かんう)〔天子の治める土地全体〕ニ顕揚スルコト,今ハ(はるか)(ちゅう)(せき)ノ比ニアラズ。・・・是ニ於テ()皇室ノ宝典モ(また)(いささ)カ其ノ未ダ備ハラザルモノヲ増補シテ以テ(こう)(こん)〔後の子孫〕ニ昭示スルノ必要ヲ生ズ。即チ皇族支胤ノ繁盛ト皇室費款ノ増益トニ視テ,其ノ疎通ヲ図ルガ如キ・・・ハ特ニ其ノ(ゆう)ナルモノニシテ,実ニ日新ノ時宜ニ鑑ミ乾健ノ宏綱ヲ進張スル所以(ゆえん)ノ道ナルコトヲ信ズ。(ここ)ニ別冊皇室典範増補条項ニ付キ慎重審議ヲ()ヘ,其ノ事由ヲ前条ノ下ニ注明セシメ謹デ上奏シ(うやうやし)

 聖裁ヲ仰グ。(伊藤博文編,金子堅太郎・栗野愼一郎・尾佐竹猛・平塚篤校訂『雑纂 其壱〔秘書類纂第24巻〕』(秘書類纂刊行会・1936年)2526頁。振り仮名は筆者によるもの

 

 「何が今更「是ニ於テ乎皇室ノ宝典モ亦聊カ其ノ未ダ備ハラザルモノヲ増補シテ以テ後昆ニ昭示スルノ必要ヲ生ズ」だ,最初から臣籍降下制度がのちのち必要になるって分かっていたくせに。自分の失敗を棚に上げて。」と,1888年6月4日午後及び同月6日午前の枢密院会議のいずれにも臨御していた明治天皇は,内心苦笑いしていたことでしょう。

 とはいえ,山田,柳原,井上らは既に亡し。「何ノ必要アリテ祖宗千年ノ習慣ヲ此ノ中間ニ特ニ変更シタ」んだったっけねと嗤われもせず,それみたことか「僕ノ先見者タルヲ保証セ」よと嫌味を言われもせず,「其意見ヲ異ニセサルヲ得ス」と叱られもせず,政治家たるもの,長生きするのが勝ちです。

 

7 皇室典範の「増補」について

 しかしながら,「改正」といわず,「亦聊カ其ノ未ダ備ハラザルモノヲ増補」という方が法典に手を入れやすいですね。「改正」ですと,被改正条項が将来のことをよく考えていなかったから状況の変化に対応しきれずに駄目になったので改めて正されねばならないのか,あるいは最初から駄目だったので改めて正されねばならないのか,ということでそもそもの立法者の面子の問題になってしまいます。その点を避けることのできる「増補」概念は,皇室典範自身の規定するものです。

 

 第62条 将来此ノ典範ノ条項ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要アルニ当テハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シテ之ヲ勅定スヘシ

 

状況が変化してしまったので足らざるところが生じたところ,当該変化に素直に応じた増補である,という方が,説明がしやすい。「増補」概念がそもそも組み込まれている点において,皇室典範は動的かつ柔軟ないわば開かれた規範体系である,ともいい得るかもしれません。伊藤博文は,自身の失敗指示の回復策である1907年皇室典範増補の実現に向けて,当該「増補」概念をうまく活用したということであるようにも思われます。(ただし,公式令4条1項における整理では,「増補」は「改正」に含まれるものとされているようです。)

 しかしてこの「増補」概念の導入者はだれでしょうか。

 柳原前光です。

1887年3月20日の高輪会議後の同年4月25日に伊藤博文に,同月27日に井上毅にそれぞれ提出された柳原の前記「皇室典範草案」において,「此典範ヲ改正増補セント欲スル時ハ皇族会議及ヒ内閣,宮中顧問官ニ諮詢シ之ヲ決定ス」との条項が新加されていたところです(小嶋「明治皇室典範」202203頁。下線は筆者によるもの)。井上毅はその七七ヶ条草案に至る過程において,当該条項については,「此ノ典範ハ改正増補スヘカラザル者ナリ 改正増補ハ不得已(やむをえざる)ノ必要ニ限ルヘキナリ 故ニ左ノ如ク修正スヘシ/将来此ノ典範ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要ヲ見ルニ当テハ皇族会議及内閣宮中顧問官ニ諮詢シ之ヲ決定スヘシ」とています(小嶋「明治皇室典範」207頁。振り仮名は筆者によるもの)。確かに「欲スル」だけで改正増補がされ得るのはおかしい。しかしながら,「増補」概念は維持されています。

上記高輪会議の結果としては「天皇譲位の制度の否認されたことがもっとも注目される」ところですが(小嶋「明治皇室典範」200頁),その直後における皇室典範に係る「増補」概念の導入に当たって柳原及び井上の念頭に共通にあったのは,生前退位ないしは譲位に関する規定の「増補」だったのかもしれません。(臣籍降下制度についてまず「増補」がされることになるとは,高輪会議の終了時点では予想されていなかったでしょう。)

 

・・・是ニ於テ乎皇室ニ関スル法典モ亦聊カ其ノ未タ備ハラサルモノヲ増補シテ以テ後昆ニ昭示スルノ必要ヲ生ス即チ 聖上及ヒ皇族ノ御長寿ト国事行為及ヒ象徴トシテノオ務メノ御増益トニ視テ皇位ノ疎通ヲ図ルカ如キハ特ニ其ノ尤ナルモノニシテ実ニ日新ノ時宜ニ鑑ミ乾健ノ宏綱ヲ進張スル所以ノ道ナルコトヲ信ス・・・

 

 無論,臣下による天皇の廃位に関する規定の増補ということは全く考えられていなかったはずです。
 また,そのような国賊的なことを,長州出身の元尊皇の志士・俊輔伊藤博文が許したわけがありません。文久二年十二月二十一日(1863年2月9日),和学講談所の塙忠宝は,「天皇廃立の先例を調べているとの風聞によって」,伊藤博文(当時21歳)らによって暗殺されています(伊藤博文伝(春畝公追頌会編)に基づく『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)の記載。塙は翌二十二日死亡)。 

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

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1 我が国初の刑事弁護

 

  我が国において初めて刑事弁護らしいものが認められたのは明治8年の広沢参議暗殺事件である。同事件の審理に特別な裁判所が構成されたが,その際弁護官が裁判所から任命された。しかし,弁護官はこの事件限りで広く一般の制度として認められたものではなかった。(司法研修所『平成18年度 刑事弁護実務』10頁)

 

 我が国初めての刑事弁護を担ったこの弁護官の一人が,後に鷗外森林太郎の岳父となる荒木博臣でした。すなわち,森鷗外記念会の雑誌『鷗外』24号(1979年1月号)88頁以下の荒木博臣の略年譜によれば(坂本秀次「森鷗外と岳父荒木博臣―漢詩文集『猶存詩鈔』を中心に―」),明治8年(1875年)に数え39歳の荒木博臣について「2月14日,広沢参議暗殺事件弁護官に任ず(我が国最初の官選弁護人となる)。」とあるところです。

 

2 広沢参議暗殺事件と臨時裁判所別局及び弁護官

 さて,広沢参議暗殺事件とは何か,そして我らが荒木弁護官の弁護振りはいかん。

 

  ・・・「広沢参議暗殺事件」とは,明治四年(1871)一月九日〔グレゴリオ暦1871年2月27日〕未明,参議広沢真臣が麹町の自邸で斬殺された事件である。犯人は逃走し・・・「政敵による暗殺」を捜査し尽くした挙句の果てに,広沢が殺された寝室にいたにも関わらず軽傷で証言のあやふやな「妾」福井かねが逮捕され,彼女が「私通」を自白した家令の起田正一との共犯として両者に拷問を加えて「自白」させたのである。五年四月,司法省に送られてきた起田は自白を翻し,事態は膠着したまま明治7年が暮れ,ようやく8年になって「参座」の特別規則を設けた臨時裁判所別局で公判が開廷することになったのである。

  3月19日の開廷初日には司法卿大木喬任はじめ10名,外務卿寺島宗則,参座12名,弁護官2名,原告官7名が列席するという「空前絶後の大法廷」であった。・・・

  荒木博臣はこの2名の弁護官のうちの一人で,官職は明法中法官となっている。裁判官が「弁護官弁護の次第あらば参座に向ひ陳述ありたし」と述べたのに対し,弁護官は「別に弁護すべき意見なし,縦令抑圧せらるとも,真正の事実を述べられざる道理なき故,特に弁護するに及ばずと信ず」と陳述したという。・・・7月,参座の投票によって,起田とかねは「無罪ニ決スルヲ以テ解放候事」となり,事件は迷宮入りしたのである。(古澤夕紀子「鷗外岳父となった荒木博臣という人」言語文化論叢4巻(京都橘大学文学部野村研究室編・2010年8月)1516頁)

 

 「刑弁スピリット」もあらばこそ。
 輝かしかるべき我が国初の刑事弁護における弁論は,「別に弁護すべき意見なし・・・特に弁護するに及ばずと信ず」だったのでした。明治8年(1875年)7月10日のことです(尾佐竹猛『明治文化史としての日本陪審史』(邦光堂書店・1926年)123頁)。「弁論は,被告人の権利を擁護するための第一審最後の機会である。弁論を行うのは権利であり義務ではないが,これまでの弁護活動の集大成として裁判所を説得する重要な機会であるので,弁護人は,いかなる事案にあっても,十分な準備のもとに熱意を持って弁論をすべきであり,弁論をしなかったり,弁論をしても形式的,抽象的な内容に止まるのであれば,弁護人としての責任を果たしたことにはならない。」と熱く語る司法研修所の刑事弁護教官は(『平成18年度 刑事弁護実務』350頁。なお,下線は筆者によるもの),おかんむりだったのでしょう。刑事弁護教官室作成の教材において,広沢参議暗殺事件における刑事弁護に関する言及が淡泊になるわけです。

 なお,荒木博臣の同僚弁護官は長野文炳で,官職は明法権中法官となっています(尾佐竹119頁)。荒木の方が長野よりも位が上ですから,弁護官として「別に弁護すべき意見なし・・・特に弁護するに及ばずと信ず」と述べるべく判断したその判断は,やはり荒木に帰せられるべきでしょう。

 「薩の西郷と並び称された長州第一の人物」であると評価され,かつ,「参議の顕職に在つた」のに(尾佐竹95頁),広沢真臣は,現在では余り知られない人物になってしまっていますね。ただし,太っ腹の人だったようです。かねは「広沢の妾となつてからも起田との関係ばかりでなく広沢の甥とも関係し,従者の誰彼とも関係があり,来る若侍には巫山戯る,大酒呑みのズボラと来て居る,これを広沢に忠告してもそれでも広沢は寵愛して居つたといふ」ことで,広沢家の閨門は紊れていたそうです(尾佐竹108頁)。ところで,「かねは当時妊娠中で且つ持病のあつたのが拘留せられ,拘留中に分娩し,其子は広沢家に引取られたが,分娩後75日経たぬ内に拷問せられ・・・」とありますが(尾佐竹100頁),広沢家に引き取られた「其子」こそ,後の広沢金次郎伯爵なのでしょうか。

 起田及びかねの被疑事件については,警視庁で捜査の局に当った(ということで拷問についても責任者であり,かつ,「正直漢で鼻柱は強かつたが頭が単純では一度こうと思ひ込んでは思ひ返す事の出来ない男」(尾佐竹100頁)である)安藤則命中警視は張り切っていたのですが,司法省で取調べに当った判事たちは物にならないだろうとの見解,しかし広沢参議暗殺事件については明治天皇から「賊ヲ必獲ニ帰セヨ」との詔書が明治四年二月二十五日〔グレゴリオ暦1871年4月14日〕に発せられており(尾佐竹97頁),更に明治7年〔1874年〕8月11日には大木喬任司法卿が明治天皇に召されて「猶々精々尽力捜索を遂げよ」とのお言葉を賜ってしまっているので(尾佐竹107頁),司法省としてはなかなか引っ込みがつかず,そこで「空前絶後の大法廷」を設けて何とか事件に区切りをつけたということでしょうか。一種の「勧進帳」ですね。

ところで,広沢参議暗殺被告事件を取り扱う臨時裁判所別局の公判に付されたのは起田とかねとの事件だけではなく,「窃盗の為め忍入り,広沢参議に発見せられ,之を殺したといふ白状」を別途していた「無頼漢」青木鉄五郎及び「つまらぬ関係者」である坂口匡の事件もまた付されています(尾佐竹115頁)。起田が有罪ならば青木が無罪,青木が有罪なら起田は無罪,両者無罪はあっても両者有罪はあり得ません(なお,結論を先にいえば,青木及び坂口も無罪になっています(尾佐竹125127頁)。)。現在の「検察の実務においては,的確な証拠に基づき有罪判決が得られる高度の見込みがある場合に限って起訴するという原則に厳格に従っている」ので(司法研修所検察教官室『平成18年度 検察講義案』67頁),相互に有罪が両立しない二つの公訴を提起などしたら検察庁は一体どうなってしまったのかということになるのでしょうが,明治の昔はおおらかです。また,弁護人としても,起田と青木とは利害が相反するようにも思われるので厄介です。「〔弁護士〕職務〔基本〕規程上,利害相反する被疑者・被告人から弁護の依頼を受けても,これを受任することは許されない(職務規程28③)」とされています(『平成18年度 刑事弁護実務』49頁)。しかしながら,荒木・長野両弁護官は,起田も青木も一緒くたにして弁護するものとされていたようです。1875年7月13日の弁護官発言をより正確に引用すると「青木,坂口,起田,かね等に付き,別に弁護すべき意見なし,仮令抑圧せらるゝとも,真正の事実を述べられざる道理なき故,特に弁護するに及ばずと信ず」となっています(尾佐竹123124頁。下線は筆者によるもの)。 刑事訴訟規則29条5項は国選弁護人について「被告人又は被疑者の利害が相反しないときは,同一の弁護人に数人の弁護をさせることができる。」と規定していますが,起田と青木とは利害が相反していなかったということでしょうか。そもそもからして,両者とも有罪になる見込みが薄いので,実質的に考えて,利害相反など気にしなくともよいよと司法省は考えていたということでしょうか。

 

3 「正直」な裁判官となる。

弁護官としては「別に弁護すべき意見なし・・・特に弁護するに及ばずと信ず」で終始した荒木博臣でしたが,その分その後裁判官としての実質的弁護で埋め合わせをしてくれたのでしょうか。(「実質的弁護」とは,「裁判所や検察官も,勿論被告人の権利を護ってやらなければならない」ということです(平野龍一『刑事訴訟法』(有斐閣・1958年)73頁)。)しかしながら,どうもそうでもないようです。大阪で有名であった代言人・砂川(かつ)(たか)1918年の『法曹紙屑籠』で荒木博臣判事を評していわく。

 

裁判官は正直でなければならぬことは勿論であるが,余り(・・)正直すぎて(・・・・・)道徳(・・)()観念(・・)高い(・・)()刑事(・・)裁判(・・)など(・・)()()()失する(・・・)虞れ(・・)()ある(・・)。当時有名であつた判事荒木博臣氏は,最も正直謹厳而も温厚な人であつたが,同氏の裁判は刑が重いとて被告人等は恐れて居つた。知らず識らず自己の高尚なる道徳観念を標準とするためではなからうか。(圏点原文のまま。坂本82頁に引用されているもの)

 

 塩っ辛いというべきか,北海道弁でしょっぱいというべきか。ますます刑事弁護の側から遠いところに,司法官としての自己を規定していたようです。
 前記『鷗外』24号の略年譜によれば,広沢参議暗殺事件の弁護官を務めていた1875年5月にその年にできた大審院勤務を命ぜられていた荒木は,翌年の1876年9月23日に大阪上等裁判所詰,1877年6月29日に福島裁判所長,1880年3月19日に大審院刑事課勤務,1886年7月10日に大阪控訴院評定官,1890年10月22日に数え54歳で大審院判事,1893年3月19日に退職,という裁判官としての経歴であって,1914年4月17日に数え78歳で直腸癌で歿,長女志げが鷗外森林太郎と婚姻して「鷗外岳父」となったのは1902年1月4日のことでした(坂本89‐90頁)。 

 

4 文豪との縁と人気作家との薄い縁

 

(1)松本清張と『両像・森鷗外』

 若き日(といっても43歳の時ですが)『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞した松本清張は,1992年4月に病に倒れるまで(同年8月4日満82歳で死去)遺作となった『両像・森鷗外』(文藝春秋・1994年)の加筆を続けていました。書かれていたのは「鷗外の二人の岳父・赤松則良と荒木博臣のプロフィール」でした(『両像・森鷗外』編集部註)。しかしながら,当該「未整理の追加原稿」から『両像・森鷗外』の単行本に掲載された荒木博臣に関する記述は,なお次のものにすぎませんでした。

 

  荒木博臣は肥前佐賀藩の士族というだけで,これといった有力な背景がなかった。討幕運動は薩・長・土・肥の連合といわれるが,藩主鍋島直正(閑叟)は早くから藩士の人材登用に心をもちい,大隈重信,江藤新平,副島種臣などが新政府に参加し得たのは直正の後押しによった。

  荒木博臣のことはこれまでよくわからなかった。(ママ)艸太郎氏の『鷗外岳父・荒木博臣』は,同人雑誌の掲載ながら彼を知る労作である」(『両像・森鷗外』第1刷286頁)

 

『両像・森鷗外』の単行本は,ここで終わっています。

しかしながら,荒木博臣は,とことんよくわからなくなる定めにあるようです。松本清張の絶筆ともいうべき上記掲載部分の最後に登場する「山中艸太郎氏」とは,当該『鷗外岳父・荒木博臣』論文を読むべく筆者が国立国会図書館の蔵書検索をしたところ,実は「田中艸太郎氏」であるようでした。「田中艸太郎」で検索して,何とか国立国会図書館で同氏の論文「鷗外岳父・荒木博臣のこと」(九州文学197111月号(第34巻第11号・通巻第321号)16頁)を見ることができたのですが,これは何と1頁足らずの小品であって,娘・志げが鷗外に嫁して鷗外の岳父となったこと,鷗外と漢詩・漢籍に関してやり取りがあったこと及び「明治二年に東京に出て江藤新平を頼り,その奔走で官途に就」くまでの略歴が記されているばかりで,「彼を知る労作」とまではなかなかいいにくいようです。松本清張は最晩年に至ってどうしてしまったのだろうとまで頭を悩ませたのですが,インターネットのウェッブ・ページをうろうろしたところ,雑誌『西日本文化』の第83号及び第84号に著者を田中艸太郎とする「鷗外岳父・荒木博臣のこと」が2回にわたって掲載されているようです。なるほど,大部の労作のようです。しかし,いやはや,また出直しです。(なお, 「田中」を「山中」にしてしまった『両像・森鷗外』第1刷の誤植は, 当然のことながら, 文藝春秋社によって後に改められています。)

 

(2)司馬遼太郎とここでも『歳月』

小倉時代の鷗外の事績を追う孤独な青年の情熱を描いた『或る「小倉日記」伝』から『両像・森鷗外』まで,鷗外を終生一つの執筆テーマとして執念を燃やし続けていた松本清張とは残念ながら縁の薄かった荒木博臣ですが,松本清張と並ぶ昭和の人気作家であって,幕末・明治の時代を舞台とした作品を数多く残した司馬遼太郎からは,冷淡かつあっさり無視されています。

 ことは,明治二年十二月二十日(グレゴリオ暦1870年1月21日)の江藤新平暗殺未遂事件にかかります。

 当該事件の経過は,荒木博臣の次男・三雄が発起人となって今から百年前の1916年に虎ノ門に建てられ(商船三井のビルの脇にあります。)同年1112日に除幕された江藤新平の遭難遺址碑の碑文には次のようにあるところです。

 

 明治二年十二月二十日中辨従五位江藤君新平訪阪部長照於赤坂葵街佐賀藩邸会西岡逾明荒木博臣在座歓晤至夜半君先去竹輿出邸僅数歩暴客猝狙撃君躍身避溝中三人聞急提刀走出護君入邸招医療創・・・(下線は筆者によるもの)

 

(大意)明治二年十二月二十日に中辨で従五位の江藤新平が赤坂葵町の佐賀藩邸に阪部長照を訪ねて行ったら,西岡逾明と荒木博臣がいたので皆で夜半まで(酒を飲みながらでしょうね)面白く話をした。江藤新平は先に帰ることにしたが,かごが藩邸を出てわずか数歩のところで暴漢が突然江藤に襲いかかった。江藤は身を躍らせて溝の中に入って難を避けた。阪部,西岡及び荒木の三人は急を聞いて刀をひっつかんで走り出て,江藤を護って藩邸に入り,医者を招いて(きず)の治療をさせた。


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 これが,司馬遼太郎が江藤新平の生涯を小説として描いた『歳月』の「闇討ち」の章では,次のように改められています。すなわち,

 明治二年十二月二十日に江藤が訪れた佐賀藩邸は,赤坂葵町の藩邸ではなく溜池の藩邸とされ(同じ中屋敷のことをいっているのでしょうが,「溜池」といわれると今日の読者には今の溜池交差点辺りの印象であるのに対して,実際には現在虎の門病院などがある辺りです。),

 訪問相手は,佐賀藩士の阪部長照ではなく佐賀藩主の鍋島(なお)(ひろ)及び藩父閑叟とされ,

 酒は,阪部長照,西岡逾明(江藤の1歳年下)及び荒木博臣(江藤の3歳年下)とくつろいで飲んだのではなく謹直な閑叟と飲んだとされ,

 藩邸と襲撃場所との間の隔たりは,藩邸を出てわずか数歩ではなく駈けて1丁も行った時間及び距離とされ(1町は約109メートルです。),

 江藤は,ちょっと格好悪く溝の中に逃げたのではなく(なお,この「溝」は外堀のことでしょうか。),「脇差を片手頭上にかざして曲者のほうに突進」して「無礼であろう」と吠えて襲撃者らを追い払ったものとされ,

 阪部,西岡及び荒木が江藤を救出した武士の義侠話はまるまる消えて,お伴の黒沢鐘次郎という十五歳の少年が逃走してしまった幕府瓦解後の薄情話に差し替えられ,

 阪部,西岡及び荒木に護られて葵町の藩邸に担ぎ込まれた話もまるまる消えて,流血の江藤は傷を負ったまま琴平神社前から溜池藩邸まで独りでとぼとぼ歩いたとされ,更に江藤の策士性及びすさまじさを強調するためか,溜池藩邸前でそこにいた襲撃犯の一味二人に対して仲間を装って名を聞き出そうとした上「虎のように口をあけ,「わしは江藤新平だ」と,わめい」て両名を退散させた,という話が付加せられています。

 司馬遼太郎は小説家であり,『歳月』は飽くまでも小説です。

 なお,西岡逾明は,広沢参議暗殺事件の臨時裁判所別局の裁判官で,1875年7月13日に被告人らに無罪の言渡しをしています(尾佐竹120121頁,125127頁)。荒木博臣は司法卿・江藤新平の引きで明治五年十月(グレゴリオ暦1872年11月)に地方官から中央の司法官となったのですが(坂本79頁),西岡逾明も同様だったのでしょう。出世するためには,偉い人,偉くなる人とお酒を飲んでおくべきものです。

  少々遅れましたが,明けましておめでとうございます。

 今年の初記事です

 また長々しいものになってしまいました。しかし,あえて開き直ってしまえば,生産性の高い一年の幕開けにふさわしい,ということではありましょう。


1 はじめに

 大陸軍(ダイリクグン)をもってヨーロッパを席捲したフランス皇帝ナポレオン1世(1769815日生まれ,18215551歳で没)には,複数の子どもがあったと伝えられています。(他方,大西洋の彼方のタイリクグンを率い,後にナポレオンの仇敵となるイギリスを相手に独立戦争を戦ったアメリカ合衆国のワシントン大統領には子どもは生まれませんでした。)

 公式には,皇后ジョゼフィーヌとの離婚後1810年に再婚したオーストリア皇女マリー・ルイーズとの間に生まれた夭折の嫡男ナポレオン2世(ローマ王,ライヒシュタット公。1811320日生まれ,183272221歳で没)の存在が認められているだけです。しかしながら,ナポレオンには,その他幾人かの「隠し子」があったところです。

 これらの子どもとナポレオンとの「父子」関係を,ナポレオンが自らの名の下に公布した1804年のフランス民法典(以下「ナポレオンの民法典」)を仏和辞書片手に参照しつつ,見てみることとしましょう。フランス法については門外漢であるとはいえ,ナポレオンの民法典における具体的な規定が,その後ヨーロッパ大陸法を継受して形成された我が国の民法の関係諸制度にどのような影響を与えているのかは,日本の法律家として,いささか興味のあるところです。

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立法者ナポレオン,Hôtel des Invalides, Paris

(ナポレオンの右手は「ローマ法/ユスティニアヌスの法学提要」を,左手は「ナポレオン法典/万人に平等かつ理解可能な正義」を指す。足下の言葉は「私の一箇の法典が,その簡明さによって,先行するすべての法律の総体よりも多大な福祉をフランスにもたらした。」)



2 実子かつナポレオンの嫡出子:ナポレオン2世 

 まず,ナポレオン2世。

 ナポレオン2世には,ナポレオンの民法典の「第1編 人事」,「第7章 父性(paternité)及び親子関係(filiation)」,「第1節 嫡出ないしは婚内子(enfans légitimes ou nés dans le mariage)の親子関係」(第312条から第318条まで)における次の規定がそのまま適用になります。



3121

 婚姻中に懐胎された子は,夫を父とする。

L'enfant conçu pendant le mariage, a pour père le mari.


 これは,我が民法7721項が「妻が婚姻中に懐胎した子は,夫の子と推定する。」として,慎重な規定ぶりになっているのと比べると,子を主語とした,堂々たる原則宣言規定になっています。

 (なお,我が民法の規定からは,嫡出子は妻と「夫との性的交渉によって懐胎された子でなければならない」(我妻栄『親族法』(1961年)214頁)のが原則であるということになるようです。これに対して,「嫡出親子関係に関する限り,フランス法の出発点は『人為』にあり,『自然』は『人為』の枠の中で一定の役割を占めるに過ぎない」とされています(大村敦志『フランス民法―日本における研究状況』96頁)。ちなみに,明治23年法律第98号として公布されながら施行されないまま廃止された旧民法人事編911項は,ナポレオンの民法典3121項と同様「婚姻中ニ懐胎シタル子ハ夫ノ子トス」と規定していました。)

 ナポレオンとマリー・ルイーズとのパリでの結婚式は18104月のことだったそうですから,マリー・ルイーズがナポレオンとの婚姻中にナポレオン2世を懐胎したことについては問題はありません(妊娠期間はおおよそ9箇月)。2世は,1世の嫡出の子です。

 なお,わが民法7722項の「婚姻の成立の日から200日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から300日以内に生まれた子は,婚姻中に懐胎したものと推定する。」との規定に対応する規定は,ナポレオンの民法典では次のようになっています。



314

 婚姻から180日目より前に生まれた子は,次の各場合には,夫によって否認され得ない。第1,同人が婚姻前に妊娠を知っていた場合,第2,同人が出生証書に関与し(s'il a assisté à l'acte de naissance),かつ,当該証書が同人によって署名され,又は署名することができない旨の同人の宣言が記されている場合,第3,子が生育力あるもの(viable)と認められない場合。


315

 婚姻の解消から300日後に生まれた子の嫡出性は,争うことができる。


 なお,l'acte de naissance「出生証書」ではなく,「出生届」としたくもなったところですが,我が旧民法の規定から推すに,同法の母法国であるフランスにおいては,出生の届出があると証書(acte)が身分取扱吏の関与の下で作られるとともに,身分登録簿(le registre de l'état civil)に登録(inscrire)されていたもののようです。すなわち,旧民法によれば,出生があれば「届出」がされ(旧民法人事編95条,99条参照),当該「出生・・・ハ身分取扱吏ノ主管スル帳簿ニ之ヲ記載ス可」きものであるところ(同289条),その「帳簿ニ記載シタル証書ハ公正証書ノ証拠力ヲ有」するものとされ(同2901項本文),また,「身分取扱吏ノ詐欺若クハ過失ニ因リテ証書ヲ作ラサリシトキ」があるもの(同291条)とされている一方,本人は,出生証書を婚姻等の場合に提出すべきものとされていたところです(同441号等)。


3 実子であるが他の男性の嫡出子:アレクサンドル及びジョゼフィーヌ


(1)アレクサンドル・ヴァレウスキ伯爵

 ナポレオンの隠し子で最も有名なのは,ポーランド生まれで,後にナポレオン3世の政府の外務大臣にもなったアレクサンドル・ヴァレウスキ伯爵(181054日生まれ)でしょう。甥の3世よりも息子の方が当然1世によく似ているので,ヴァレウスキ家の外務大臣がボナパルト家の皇帝と勘違いされることも間々あったとか。ちなみに,1858年の日仏修好通商条約の締結は,アレクサンドル・ヴァレウスキ外務大臣時代の出来事です。

 さて,アレクサンドルの母親は,マリア・ヴァレウスカ。しかし,マリアは,1807年の初めポーランドでナポレオンに出会った当時既に,同地の貴族であるヴァレウスキ伯爵の妻でした。すなわち,アレクサンドルは,母マリアとヴァレウスキ伯爵との婚姻中に懐胎された子です。

 アレクサンドルが生まれた当時のポーランド(ワルシャワ大公国)における民法がどのようなものであったかはつまびらかにできないのですが,ナポレオンの民法典に則って考えると,前記3121項(同項の原則によれば,アレクサンドルの父は母の夫であるヴァレウスキ伯爵になる。)のほか次の条項が問題になります。



3122

 しかしながら,夫は,子の出生前300日目から同じく180日目までの期間において,遠隔地にいたこと(éloignement)により,又は何らかの事故により(par l'effet de quelque accident),その妻と同棲(cohabiter)することが物理的に不可能であったこと(l'impossibilité physique)を証明した場合には,その子を否認することができる。


313

 夫は,自己の性的不能(son impuissance naturelle)を理由として,子を否認することはできない。夫は,同人に子の出生が隠避された場合を除き(à moins que la naissance ne lui ait été cachée),妻の不倫を理由としても(même pour cause d'adultère)その子を否認することはできない。ただし,上記の場合においては,夫は,その子の父ではないことを理由づけるために適当なすべての事実を主張することが許される。


316

 夫が異議を主張(réclamer)することが認められる場合には,同人がその子の出生の場所にあるときは(s'il se trouve sur le lieux de la naissance de l'enfant),1箇月以内にしなければならない。

 出生時に不在であったときは,帰還後2箇月以内にしなければならない。

 同人にその子の出生が隠避されていたときは,欺罔の発見後2箇月以内にしなければならない。


 ヴァレウスキ伯爵がアレクサンドルの嫡出を否認することができた場合(アレクサンドルの出生は伯爵に隠避されていなかったようですから,ナポレオンの民法典313条ではなく3122項が問題になるのでしょう。また,マリア夫人は長くポーランドの家を離れてナポレオンと一緒にいたようです。)であっても,最短では, 181064日までに否認しなかったのであれば(同法典3161項参照),ことさら「認知」をするまでもなく,アレクサンドルの父はヴァレウスキ伯爵であると確定したわけです。


(2)モントロン伯爵令嬢ジョゼフィーヌ

 ナポレオンは,皇帝退位後も,別の機会に人妻に子を産ませています。

 1815年にセント・ヘレナ島に流されたナポレオンに,同島においてなおも仕えた側近の中に,モントロン伯爵夫妻がありました。その間無聊をかこつナポレオンとモントロン伯爵夫人との間には,一人の女児が生まれています。しかし,幼女ジョゼフィーヌ(1818126日生まれ,1819930日没)の父が,ナポレオンの民法典によれば,母の夫であるモントロン伯爵であることは,動かせないでしょう。

 すなわち,ジョゼフィーヌの出生はモントロン伯爵に隠避されていたわけではなく(ナポレオンの民法典313条参照),モントロン伯爵夫妻はどちらも狭いセント・ヘレナ島で生活していたのですから,「同棲することが物理的に不可能であった」わけでもないところです(同法典3122項参照)。したがって,夫であるモントロン伯爵による否認はできず,「婚姻中に懐胎された子は,夫を父とする。」とするナポレオンの民法典第3121項の原則が貫徹するのでしょう。


4 実子であるが「父が不在である子」:シャルル・レオン

 180612月(出生日は,インターネット上では,13日,15日等あって十分一定していません。)にエレオノール・ドゥニュエルから生まれたシャルル・レオンの場合は,法律の適用関係がどうなっていたのかまた難しいところです(なお,Léonというのは,Napoléonの最後の4文字ですね。。シャルル・レオンの身分登録簿には,母はエレオノール・ドゥニュエルであるが,父は不在(absent)として登録されていた(officiellement inscrit)とされています(La Fondation NapoléonのサイトにあるHenri Ramé氏による記事)。


(1)母の前夫の嫡出子とされる可能性

 ところで,実は,エレオノール・ドゥニュエルは1806429日に離婚が成立するまでは,ルヴェルという男の妻であったところです。

 通常の妊娠期間の長さから考えると,ルヴェルとの離婚の前にシャルル・レオンが懐胎されたのでしょうから,前記のとおり,ナポレオンの民法典の第3121項(また,同法典315条参照)によれば,シャルル・レオンはルヴェルの嫡出の子となるのが順当であったところです。どうしたものでしょう。

 とはいえ,実は,シャルル・レオンが懐胎されたころには,母エレオノール・ドゥニュエルの夫であるルヴェルは詐欺罪で収監されていたようですから(夫の収監で困ったエレオノールは,そこで,ナポレオンの妹であるカトリーヌの「朗読係」をすることになっていたわけです。),ナポレオンの民法典3122項に基づき,ルヴェルからシャルル・レオンが子であることを否認することは可能ではあったわけです。しかし,そのような訴訟沙汰が本当にあったものかどうか(なお,ナポレオンの民法典318条によれば,夫が訴訟外で子の否認をしても,1箇月内に訴え(une action en justice)を提起しなければ効力のないものとされています。)。いろいろと面倒ではなかったでしょうか。


(2)嫡出でない子の場合


ア ナポレオンによる認知に対する障害

 フランスにおける身分登録の手続に関する実際の詳細に立ち入るのはまた大変ですから,取りあえず,シャルル・レオンは,改めてルヴェルの嫡出子とされる可能性はないものと考えましょう。すなわち,シャルル・レオンは,婚姻外(hors mariage)で生まれた,嫡出でない子(enfant naturel)であるものとしましょう。

 その場合,ナポレオンによるシャルル・レオンの認知のいかんが次の問題になります。

 ナポレオンの民法典第1編第7章の「第3節 嫡出でない子」,「第2款 嫡出でない子の認知」(第334条から第342条まで)における第334条は,認知の手続について次のように規定しています。



334

 嫡出でない子の認知は,その出生証書においてされていなかった場合は,公署証書によって(par un acte authentique)されるものとする。


 一見単純です。しかしながら,1806年当時,ナポレオンにはジョゼフィーヌという正妻がいたところです。したがって,ナポレオンの民法典の次の条項の存在は,ナポレオンによるシャルル・レオンの認知の障害となったものでしょう。

 


335

 近親間又は不倫の関係から生まれた子(enfans nés d'un commerce incestueux ou adultérin)のためには,認知をすることができない。


 さすがに,皇帝陛下の不倫行為を示唆してしまうような身分登録はまずかったわけでしょう。


イ 「父の捜索」の否定

 同様に,エレオノール・ドゥニュエルの子であるシャルル・レオンから,ジョゼフィーヌという正妻のいるナポレオンに対して認知を求めることもできなかったところです。ナポレオンの民法典の次の条項は,このことを明らかにしています。



342

 第335条により認知が許されない場合においては,子は,父の捜索をすることも母の捜索をすることも許されない。


 ちなみに,母子関係は母の認知をまたず分娩の事実によって発生するとするのが我が国の判例(最判昭37427民集1671247)ですが,これに対して,民法の条文の文言どおり母の認知を要するものとする谷口知平教授の説は「母の姦通の子や未婚の子が虚偽の届出または棄児として,身分をかくそうとしている場合に,第三者から出生の秘密をあばくことは許さるべきではない。子の朗らかな成人のためにその意思を尊重し,母または子のいずれかの発意と希望があるときにのみ母子関係を認むべきだ」ということを実質的な根拠の一つとしているものとされているところ,当該谷口説を,我妻教授は,「虚偽の出生届を公認してまで,人情を尊重すべしとの立場には賛成しえない」,谷口「教授の懸念されることは,社会教育その他の手段によって解消すべきもの」と批判していたところです(我妻『親族法』248-249頁)。我妻教授は「非嫡出子と母との関係は,その成立についても,成立した関係の内容についても,嫡出子と区別しない,というのが立法の進路であり,その途に横たわる障害については合理性を見出しえない」として,フランス民法よりもドイツ民法・スイス民法(いずれも当時のもの)を評価して(同232頁,234頁)上記判例を先取りする説を唱えていました。

 しかしながら,ナポレオンの民法典については,その第335条との関係からして,「人情」論を別としても,認知を介さずに分娩の事実のみから直ちに母子関係を認めるものとすることに対するためらいが,立法者においてあったのではないでしょうか。

 なお,そもそもナポレオンの民法典340条が,「父の捜索は許さず」の原則を明らかにしていたところです。



340

 父の捜索は禁止される(La recherche de la paternité est interdite.)。かどわかし(enlèvement)の場合においては,当該かどわかしの時期が懐胎の時期と符合するときは,利害関係者の請求により,かどわかしを行った者(ravisseur)を子の父と宣言することができる。


 この規定と「同一」(我妻『親族法』233頁)とされるのが,我が民法施行前の,次に掲げる明治6年太政官21号の布告です(1873118日)。



妻妾ニ非サル婦女ニシテ分娩スル児子ハ一切私生ヲ以テ論シ其婦女ノ引受タルヘキ事

 但男子ヨリ己レノ子ト見留メ候上ハ婦女住所ノ戸長ニ請テ免許ヲ得候者ハ其子其男子ヲ父トスルヲ可得事


 父に対する認知請求権は,フランス革命時代に否定されるに至ったものとされますが,その理由としては,「革命以前にこの請求権が濫用されたこと」のほか,「平等の理想の他に,男女関係において,愛情とそこに向かう意思を尊重した(離婚の自由もそこから出てくる)」フランス革命時代において,「親子関係においても同様に血のつながりでなく,父としての愛情とそのような父になる意思が父子関係の基礎であると考えた」当該時代の法律家の「奇妙な論理」が挙げられています(星野英一『家族法』(1994年)112-113頁)。「通常生理的な父は子に対して愛情を持ち,父となる意思を持つが,そうでない場合には,父たることを強制することはできない」とされたわけです(同)。


(余話として)「司馬遼太郎の『歳月』の謎の読み方」補遺

 なお,明治6年太政官21号の布告は江藤新平司法卿時代のものですが,当該布告では妾(「妻妾」の「妾」)が公認されていたことになります。

 以前御紹介した司馬遼太郎の『歳月』には,江藤司法卿がフランスからの御雇外国人ブスケと「蓄妾問答」を行った場面があり,そこでは,ブスケとの議論に負けて妾の制度を「民法に組み入れる思案をすてた以上,江藤の法家的気分からいえば積極的にこの蓄妾の風を禁止する覚悟をした。上は当然,公卿,旧大名家にまで及ぶことであり,どのような排撃をうけるかわからなかったが,とにかくもここ数年のあいだには断固としてこの禁止を立法化し,違反の者に対しては容赦なく法をもってさばくつもりであった。」と,江藤司法卿の断固たる決意が力強く叙述されています。しかしながら,そもそも当該江藤司法卿の下で,妾の禁止はしないまま,かえってわざわざそれを公認してしまったような形の布告が出されてしまっていたことになります。

 となると,明治6年太政官21号の布告は上記「蓄妾問答」の前に出されたものでしょうか。しかしながら,「父の捜索は許さず」がフランス法由来の原則であるのならば,あえて当該原則を導入しようとする当該布告がフランスの法律家であるブスケの意見を徴さずに制定されたということは考えられにくいところです。『歳月』の描くような「蓄妾問答」がその際されたとなると,江藤新平は,実際には,「妾廃止」という考えに必ずしも小説で描かれているほどには固執していなかったということになるわけで,当該小説から受ける印象とは異なり,意外と妥協的ないしは便宜主義的な人物ということになるのかもしれません。

 井上清教授は,江藤新平の人物について,「本質的に保守官僚主義者であり,急進主義と見えるものは功業欲の発現にすぎない」,「貧窮のなかに成長した秀才官僚型の大物で,立身出世の機を見るに敏」と評しています(『日本の歴史20 明治維新』(中央公論社・1966年)350頁。なお,同書のしおりは,同教授と司馬遼太郎との対談)。


(余話の余話:補遺の補遺)

 江藤新平が妾廃止論者であった証拠としては,「明治五年十一月二十一日,司法卿江藤新平,司法大輔福岡孝悌両人より,「自今妾の名義を廃し,一家一夫一婦と定め度の件」を太政官に建議せり。」という事実があります(石井研堂『明治事物起原Ⅰ』(ちくま学芸文庫・1997年)269頁)。しかしながら,「翌6115なお,明治五年の十二月は2日間しかなかった。,太政官が,「伺の趣,御沙汰に不被及候事」と指令」し,江藤及び福岡の建白は採用されませんでした(石井・前掲270頁)。司法卿及び司法大輔の当該建議が退けられた明治6年(1873115日の3日後に,前記明治6年太政官21号の布告が出ています。なお,この布告は,同月13日の太政官宛て司法省伺が契機となって出されたものです(二宮周平「認知制度は誰のためにあるのか」立命館法学310号(2006年6号)316頁,村上一博「明治6年太政官第21号布告と私生子認知請求」法学論叢67巻2=3号(1995年1月)512頁)。ちなみに,当時戸籍事務を所管していたのは,民部省から当該事務を吸収していた大蔵省であって,司法省ではありませんでした(戸籍事務は,内務省設立以後は内務省に移る。)。江藤とブスケとのせっかくの「蓄妾問答」も,江藤のせっかくの妾廃止の「覚悟」も,政府内において十分かつ決定的な重要性を持ち得なかったということのようです。しかしながらそもそも,明治五年十一月二十一日(なお,村上一博「明治前期における妾と裁判」法律論叢71234頁では,同月二十三日に正院に提出されたとされる。)の妾廃止の建白は,上司である江藤新平と部下である福岡孝悌との連名で提出されています。偉い人とそうでない人との連名文書に係る通常の作成実態からすると,当該文書の実質的作成主体は偉くない方の人であるはずです。となると,妾廃止を言い出した本当の妾廃止論者は福岡孝悌であって,江藤は福岡ほどではなかったかもしれません。


5 実子ではないが「証明されない嫡出子」:アルベルティーヌ及びギヨーム

 以上は,ナポレオンが嫡出子又は隠し子の実父となった場合です。しかし,ナポレオンの「隠し子」というよりはナポレオンに隠された子ということになりますが,ナポレオンの妻がナポレオン以外の者を実父とする子を産んだ場合もあったところです。 


(1)マリー・ルイーズとナイペルク伯爵

 ナポレオンの妻マリー・ルイーズは,実は,ナポレオンの没落後,オーストリア貴族のナイペルク伯爵と愛人関係になってしまい,二人の間には1817年にアルベルティーヌという女児が,1819年にはギヨームという男児が生まれています(名前はここではフランス語読みです。)。

 さて困ったことになりました。1819年には,マリー・ルイーズの夫であるナポレオンはまだセント・ヘレナ島で生きています。マリー・ルイーズが女公となったイタリアのパルマ公国の臣民の手前も問題です。上記の子らをマリー・ルイーズが分娩した事実は,秘密とされることになりました。

 この隠避は少なくともナポレオンに対しては成功し,最期までナポレオンは,前記事情は御存知なかったものと思われます。すなわち,ナポレオンは,1821年に死ぬ前のその遺言で,「私は最愛の妻マリ=ルイーズに満足の意を表したいと常に思っていた。私は最後の瞬間まで妻に対して最もやさしい感情を抱きつづけている。妻に頼む,どうか気を配って,私の息子(mon fils)の子供時代をまだ取りかこんでいる数々の陥穽から私の息子を守ってもらいたい。」(大塚幸男訳『ナポレオン言行録』(岩波文庫)201頁)と述べているからです。当該遺言での「私の息子(mon fils)」は単数形ですので,ナポレオン2世のみを指し,ギヨームは含まれないものでしょう。


(2)否認の不存在

 ナポレオンは大西洋の孤島であるセント・ヘレナ島に流されており,マリー・ルイーズがそこを訪れていないことは明らかですから,ナポレオンは,その民法典の第3122項に基づき,あるいはまた,子の出生が隠避されたことから第313条に基づき,第3121項によって自分の子であるとされているアルベルティーヌ及びギヨームについて,子であることの否認をすることができ,その際その否認は,同法典3163項により「欺罔の発見後2箇月以内」にすべきであったところです。しかしながら,当該否認をしないまま,ナポレオンは死んでしまいました。ナポレオンの民法典第1編第7章「第1節 嫡出ないしは婚内子の親子関係」の規定の建前からすると,ナポレオンの側からの否認(なお,同法典317条は夫の相続人(les héritiers)による否認が認められる場合について規定しています。)がされない以上,パルマのアルベルティーヌ及びギヨームは,ナポレオンの嫡出子であったわけです。


(3)証明の不存在

 しかしながら,ナポレオンとアルベルティーヌ及びギヨームとの父子関係は,ナポレオンの民法典第1編第7章「第2節 嫡出子の親子関係の証明」(第319条から第330条まで)との関係で,証明ができないもの,というのが正確なところであったようです。アルベルティーヌ及びギヨームには,ナポレオンの嫡出子としての出生証書及び身分登録(ナポレオンの民法典319条)も身分占有(同法典320条)もなかったはずだからです。

 アルベルティーヌ及びギヨームにはvon Montenuovo(モンテヌオヴォ)という氏が与えられていたところです(NeippergNeuberg(ドイツ語で「新山」)→Montenuovo(イタリア語で「新山」))。(なお,Wilhelm (ギヨーム)von Montenuovoは,オーストリア帝国のFürst(公爵又は侯爵)となりました。)



319

 嫡出子の親子関係は,身分登録簿(le registre de l'état civil)に登録された出生証書によって証明される。


320

 前条による証書(titre)がないときは,嫡出子身分の継続的占有(la possession constante de l'état d'enfant légitime)による。


322

 何人も,その出生の証書(titre de naissance)及び当該証書に合致する身分の占有によって与えられる身分と異なる身分を主張することはできない。

 また,反対に,何人も,出生の証書に合致する身分を占有している者の身分を争うことはできない。


 無論,身分登録が虚偽の場合については,ナポレオンの民法典3231項は,「・・・又は子が,虚偽の名前で(soit sous de faux noms),若しくは知れない父及び母から生まれたものとして(soit comme né de père et mère inconnus)登録された場合には,親子関係の証明は,証拠によることができる。」と規定していました。民事裁判所(tribunaux civils)のみが管轄を有する事件です(同法典326条)。

 しかしながら,身分登録と異なる親子関係の証明が認められる場合については制限的な規定があったのみならず(ナポレオンの民法典3232項,324条,325条),そもそもアルベルティーヌ及びギヨームが法律上はナポレオンの子であることをわざわざ証明しようとする者はいなかったようです。

 ちなみに,我が旧民法の親子法も「フランス法と同様」に,「証拠法的な色彩を強く帯びていた」ところです(大村『フランス民法』91頁)。

画像 003

ナポレオンの墓,Hôtel des Invalides, Paris



6 おわりに:最高裁判所平成25年12月10日決定

 実は,今回の記事を書くきっかけになったのは,先月出た,我が最高裁判所の平成251210日第三小法廷決定(平成25年(許)第5号戸籍訂正許可申立て却下審判に対する抗告棄却決定に対する許可抗告事件)でした。次にその一部を掲げます。



「特例法
性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(平成15年法律第111号)41項は,性別の取扱いの変更の審判を受けた者は,民法その他の法令の規定の適用については,法律に別段の定めがある場合を除き,その性別につき他の性別に変わったものとみなす旨を規定している。したがって,特例法31項の規定に基づき男性への性別の取扱いの変更の審判を受けた者は,以後,法令の規定の適用について男性とみなされるため,民法の規定に基づき夫として婚姻することができるのみならず,婚姻中にその妻が子を懐胎したときは,同法772条の規定により,当該子は当該夫の子と推定されるというべきである。もっとも,民法7722項所定の期間内に妻が出産した子について,妻がその子を懐胎すべき時期に,既に夫婦が事実上の離婚をして夫婦の実態が失われ,又は遠隔地に居住して,夫婦間に性的関係を持つ機会がなかったことが明らかであるなどの事情が存在する場合には,その子は実質的には同条の推定を受けないことは,当審の判例とするところであるが(最高裁昭和43年(オ)第1184号同44529日第一小法廷判決・民集2361064頁,最高裁平成8年(オ)第380号同12314日第三小法廷判決・裁判集民事189497頁参照),性別の取扱いの変更の審判を受けた者については,妻との性的関係によって子をもうけることはおよそ想定できないものの,一方でそのような者に婚姻することを認めながら,他方で,その主要な効果である同条による嫡出の推定についての規定の適用を,妻との性的関係の結果もうけた子であり得ないことを理由に認めないとすることは相当でないというべきである。」


 ナポレオンが現在も生きているものとした場合,性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律が立法されたこと及び当該法律の第41項に係る最高裁判所の上記解釈についてどのような態度をとるのかは,分かりません。しかしながら,上記決定の引用部分の「もっとも」以下の判示については,ナポレオンは,その民法典の第3122項の規定(我が民法の第772条の推定を実質的に受けない場合に係る判例(特に上記決定において引用されている平成12年最高裁判決参照)のいわゆる外観説に符合)及び第313条の規定(「夫は,自己の性的不能を理由として,子を否認することはできない。」)に照らせば,是認できるものであるとの見解を表明するのではないでしょうか。

 ただし,「最後の瞬間まで・・・最もやさしい感情を抱きつづけてい」た「最愛の妻マリ=ルイーズ」に,アルベルティーヌ及びギヨームという自分のあずかり知らぬ子が生まれていたと知ったならば,嫡出父子関係ないしは嫡出否認の在り方について,改めてその見解に変化を生じさせるかもしれませんが。

 前記最高裁判所平成251210日決定においても,裁判官の意見は32に分かれていました。
(追記:最高裁判所第一小法廷平成26年7月17日判決は,DNA鑑定の結果生物学上は99.99パーセント以上他の男の子であるとされた子であっても,妻が婚姻中に懐胎した子であって嫡出推定が働く以上なお法律上は夫の子である,としました。)


補遺 出生証書に関するナポレオンの民法典の規定(抄)

  「2 実子かつナポレオンの嫡出子:ナポレオン2」の最後の部分で紹介した出生証書に関する旧民法の規定に対応するナポレオンの民法典の規定は,次のとおりです。



55

 出生届(déclarations de naissance)は,分娩から3日以内に(dans les trois jours de l'accouchement),その地の身分取扱吏に対してされるものとし,当該身分取扱吏に子が示されるものとする。


56

 子の出生は,父によって,若しくは父によることができないときは,医師,助産婦,衛生担当吏その他の分娩に立ち会った者によって,又は母がその住所外(hors de son domicile)で分娩した場合においては,分娩がされた場所を管理する者によって,届けられるものとする。

 続いて,2名の証人の立会いの下に,出生証書(l'acte de naissance)が作成されるものとする。


57

 出生証書(l'acte de naissance)には,出生の日,時刻及び場所,子の性別並びにその子に与えられる名,父母の氏名,職業及び住所並びに証人の氏名,職業及び住所が記載されるものとする。


40

 身分証書は,各市町村において,一つ又は複数の登録簿に(sur un ou plusieurs registres tenus doubles)登録されるものとする(seront inscrits)。


70

 身分取扱吏は,これから婚姻しようとする各配偶者の出生証書(l'acte de naissance)を提出させるものとする。同条以下略

1 江藤新平司法卿の司法事務と司法職務定制


(1)司馬遼太郎の『歳月』

 前回の記事(「大審院の読み方の謎:呉音・漢音,大阪・パリ」)において,明治五年(1872)八月三日の司法職務定制と,大審院の設置に伴い司法卿が「裁判ニ干預セス」ということになった187558日の司法省職制(明治8年司法省達第10号達)とを紹介していて(なお,漢数字の日付は太陰太陽暦である天保暦(旧暦),算用数字の日付はグレゴリオ暦(明治6年(1873年)からの現行暦)によるものです。),江藤新平の生涯を描いた司馬遼太郎の小説『歳月』の次のくだりとの関係が気になりだしました。



┉┉
中弁(官房長官兼法制局長官のようなもの)時代明治四年(1871)の文部大輔就任までの江藤はこれ大蔵省及び府県知事が司法権を持つような体制を不合理とし,西洋流の司法権を考え,

 ――司法権は行政から独立させるべきである。

 とし,その制度を立案し,ついにそれが採択されるや,江藤自身が司法卿になって明治五年四月二十五日(辞令の日付。ただし,蕪山厳『司法官試補制度沿革―続 明治前期の司法について』(慈学社・2007年)338頁は,同月二十七日就任とする。)この方面のいっさいを整備することになったのである。

 ┉┉┉┉

 江藤が書いた司法省の事務分掌は5ヶ条にわかれている。その第1条には「本省は全国の裁判所を総括し,諸般の事務をとる。ただし裁判のことには関係しない」とあり,裁判はあくまでも裁判所の権限で司法省はそれに容喙しないという点,司法行政の近代的基礎としてはみごとなほどであった。(「蓄妾問答」の章の三)


 1875年の大阪会議及びそれをうけた大審院の設置をまたずに,江藤司法卿の下で既に裁判機関(裁判所)と司法行政機関(司法省)との分離が達成されていたかのような印象を受ける記述です(江藤は,征韓論政変に敗れ,18731025日に下野)。さて,どういうことでしょうか。


(2)司法職務定制

 実は江藤司法卿時代,「各裁判所ノ上ニ位スル」司法省裁判所について,司法職務定制46条は,「別ニ所長ヲ置カス司法卿之ヲ兼掌ス」と規定していたところです。江藤新平は,自分は司法卿ながら,司法省裁判所の所長として裁判のことに関係してもよろしいと考えていたわけです。また,例えば,司法職務定制52号は,司法卿は「┉┉疑讞ぎげん。讞は,はかること,罪を取り調べること,罪をさばくこと(『角川新字源』)。ノ審定重要ナル罪犯ノ論決ヲ総提ス」るものとし,同「第3章 本省章程」における第9条から第11条まではそれぞれ,「必ス上奏制可ヲ経テ然ル後ニ施行ス」る前提で本省が,「国家ノ大事ニ関スル犯罪ヲ論決」し,「全国ノ死罪ヲ論決」し,「勅奏官及華族ノ犯罪ヲ論決」するものとし,これらに応じて同「第5章 判事職制」における第20条の判事に係る第2号は「奏請スヘキ条件及疑讞ハ決ヲ卿ニ取リ輙クたやすく論決スルコトヲ得ス」と規定していたところです。


(3)司法事務

 いずれにせよ,まず,「江藤が書いた司法省の事務分掌」とは何であったのか調べなければなりません。これは,「司法事務」として,『法規分類大全』に次のようにあるところです。



   司法省伺
うかがい 明治五年五月二十日

 別紙司法事務ノ儀至急御差図有之度これありたく此段相伺候也

 (別紙)

 司法事務

1条 本省ハ全国ノ裁判所ヲ総括シ諸般ノ事務ヲ掌ル但シ裁判ノ事ニ関係スルコトナシ

2条 上裁ヲ仰クヘキ事件ハ総テ本省ヨリ奏請スヘシ

3条 卿輔ノ任ハ裁判官ヲ総括シ新法ノ草案ヲ起シ各裁判所ノ疑讞ヲ決シ諸裁判官ヲ監督シ進退黜陟ちゅつちょく。黜陟は,功の無い者を降職・免職にし,功のある者を登用・昇進させること(『角川新字源』)。スルノ権アリ

4条 諸裁判官軽重罪ヲ犯ス時ハ本省ニオヰテ論決スヘシ

5条 事件政府ニ関係スル犯罪ハ卿輔聴許セサレハ裁判官論決スルヲ得ス

 (参考)司法省記註

壬申明治五年五月二十二日江藤卿持参大隈参議差出即日御聞置ノ旨同人ヨリ口達ノ事 


 第1条でいう「本省」は,第2条及び第4条における用法との並びで考えると,全体としての司法省という意味ではなくて,司法本省ということのようです。すなわち,司法本省は,司法省に属するからといって地方の裁判所の裁判にすべていちいち関係しないよ,ということなのでしょう。明治五年八月の司法職務定制の第1条にも,「各課権限アリテ互ニ相干犯スルコトヲ得ス」とあります。

 「――司法権は行政から独立させるべきである。」といっても,江藤司法卿時代には,大蔵省及び地方官からの司法権の分離並びに司法省への接収がなお第一段階の課題であったということでしょう(司法職務定制2条は「司法省ハ全国法憲ヲ司」るものと規定。ただし,司法省もなお行政の一部ではあります。)。

 ところで,司法事務の「(参考)」を見ると,明治五年五月二十二日に江藤司法卿が,太政官の正院に「伺」の形で「司法事務」案を持参し,同じ佐賀出身の大隈重信参議に提出したところ,即日大隈参議から,聞き置かれたよと口頭で話があったということのようです。翌日の同月二十三日は明治天皇の中国・西国巡幸(明治天皇の六大巡幸の最初のもの)の出発日であって忙しいところに,「至急御差図」してくれといきなり重要な伺い案件を持ち込まれても(困りますね。),確かに,「聞置」くしかできないでしょう。江藤の司法事務は,少なくとも司法省内においては司法卿の決定として大原則を定める効力を有していたのでしょうが,太政官における扱いは以上のようであった次第です。


2 各省と太政官(内閣)


(1)太政官

 ここで,司法省と太政官との関係がまた問題になります。明治五年当時の中央官制は,明治四年(1871年)七月十四日の廃藩置県による国制の大改革後同月二十九日に発布された太政官職制(太政官第386)に基づくものであったところです。

 この明治四年七月の太政官職制によって,初めて太政官に太政大臣が置かれ,「天皇ヲ輔翼シ庶政ヲ総判」することになりました。

 また,太政官が正院,左院及び右院から構成されることになりましたが,正院が従来の太政官に相当するもの(正院事務章程によれば「正院ハ 天皇臨御シテ万機ヲ総判シ大臣納言実際には納言に代わって左右大臣が置かれた(下記の明治四年太政官第400参照)。之ヲ輔弼シ参議之ニ参与シテ庶政ヲ奨督スル所」)であった一方,左院は立法に関する審議機関(左院事務章程によれば「左院ハ議員諸立法ノ事ヲ議スル所」)であり(ただし,立法については,正院事務章程において「凡立法施政司法ノ事務ハ其章程ニ照シテ左右院ヨリ之ヲ上達セシメ本院之ヲ裁制ス」とされていました。),各省の長官及び次官によって構成される右院はいわば各省の連絡機関(右院事務章程によれば「右院ハ各省ノ長官当務ノ法ヲ案シ及行政実際ノ利害ヲ審議スル所」)でした。

 各省は,太政官の下に置かれ(なお,正院事務章程において「諸官省等ヲ廃立分合スルモ本院ノ特権タリ」と規定されていました。),卿は各省の長官です。

 太政官と各省との関係は,明治四年八月十日の官制等級の改定(太政官第400)において,「太政官是ヲ本官トシ諸省是ヲ分官トス」,「太政大臣左右大臣参議ノ三職ハ 天皇ヲ輔翼スルノ重官ニシテ諸省長官ノ上タリ」と定められていました。

 太政官時代はなお封建的身分関係の旧習が残っており,「太政摂関の職は,中世以来政事の変遷種々多様なりしと雖も,常に春日明神の子孫にあらざれば之に近付く能はず」ということで,太政大臣は三条実美,左右大臣には宮(有栖川宮熾仁左大臣),公卿(岩倉具視右大臣)又は諸侯(島津久光左大臣)しかなれず,維新の三傑であった西郷隆盛,大久保利通及び木戸孝允であっても参議(「太政ニ参与シ官事ヲ議判シ大臣納言ヲ補佐シ庶政ヲ賛成スルヲ掌ル」)が上りポストでした。しかしながら,無論,政府の実権は,実力参議のもとにあったところです。

 (以上,太政官については山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)3037頁,76‐77頁,80頁を参照


(2)内閣(太政官)と各省との分離論

 なお,18751‐2月の大阪会議では内閣(太政官)と各省との分離が図られることになりましたが,これは,太政官の参議が太政官の下の各省の卿(長官)をも兼任していたところ,「諸参議が太政官に於て政務を議するに際して,他の省務に就いて云為することは,恰も他の担任領域に容喙するが如き嫌ひあり,従つて多くは互ひに相憚つて言を為さるの傾向があつた。そこで閣議は,国家凡百の政務を決すべき最も重要なものでありながら,其の実際はいつも長官会議の如き状態となり,甚だ低調なものとなるのを免れなかつた」ので,「参議は内閣に在つて専念国務の議判に当たること」にしようとのことだったようです(山崎・前掲64頁,66頁参照)。また,有力省の卿を兼任する参議に権勢が集中することになるのが面白くないということもあったようです(山崎・前掲64頁参照)。


(3)太政官職制における「内閣」

 ちなみに,内閣ですが,187352日の太政官職制の「潤飾」により,太政官正院の参議は「内閣ノ議官ニシテ諸機務議判ノ事ヲ掌ル」とされ,ここで初めて「内閣」の文字が使用されました(山崎・前掲38)。ただし,それまでは「太政大臣左右大臣参議ノ三職ハ 天皇ヲ輔翼スルノ重官」(明治四年八月の官制等級)であったのに対して,18735月の太政官職制では,天皇を輔弼する者は,太政大臣及び「職掌太政大臣ニ亜ク」左右大臣のみとされたところです(正院事務章程は「正院ハ 天皇陛下臨御シテ万機ヲ総判シ太政大臣左右大臣之ヲ輔弼シ参議之ヲ議判シテ庶政ヲ奨督スル所ナリ」と規定。)。


3 江藤新平司法卿v.井上馨大蔵大輔


(1)明治6年の予算問題

 政府における有力省といえば大蔵省です。明治の初年において既に「其の勢力は頗る強大」であり,「往々内閣の議を待たないで其の省務を専決するの風があり,為めに他省との間に摩擦を生ずることが一再ではなかつた」ため,「そこで之が匡正の一方策としてこに内閣の強化が企図され」,187352日の太政官職制の改正がされたとされています(山崎・前掲44‐46)。

 当時における大蔵省と他省との間の「摩擦」とは,司法省その他の省からの予算要求に対する大蔵省による大幅減額査定をめぐる紛争でしょうか(『歳月』の「長閥退治」の章の三。司法省からの要求額965744円が大蔵大輔(次官)井上馨によって45万円に削られたそうです。)。江藤新平は,後藤象二郎及び大木喬任と共に1873419日に参議に任じられていましたが,「内閣と大蔵省の間は愈々意思の疎通を缺くに至り,遂に後藤・江藤の2参議の如きは大蔵省の事務を調査せんことを主張するに至つた」ため,「於是時の大蔵大輔井上馨は大いに之を憤慨し,大蔵省三等出仕渋沢栄一と共に,財政に関し一編の建議書を上つて同年57日其の職を辞」することとなりました(山崎・前掲46頁。なお,『歳月』は,井上馨の辞任の日を7日ではなく14日としています。岩波『近代日本総合年表 第四版』によれば,7日に建議,14日に免官)。「当時此の建議書が一度世に伝はるや,朝野共に政府の財政に危懼の念を懐き議論大いに沸騰」ということでした(山崎・前掲46頁)。井上馨としては,政府は本当に財政難なのに他省はとんでもない額の予算要求をしてきて,仕方がないから削ると,上の内閣は他省の肩を持って,大蔵省は強大過ぎていかん,調査をするぞと言ってくるんだからやってられないよ,ということだったのでしょう。

 ここで江藤は,なおもしつこく井上馨を追撃します。すなわち,井上馨及び渋沢栄一は,財政に関する上記建議書を各種新聞紙に掲載させたのですが,井上「公と氷炭相容れなかつた江藤参議の如きは,之を黙過すべきで無い。彼は先頭に立つて公並びに渋沢を弾劾し,政府の秘事を故らに世に泄したのであるから,彼等を捕縛すべしなどと壮語した。かくて司法省当局者の活動となり」ということで(井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝 第一巻』(内外書籍・1933年)565頁),1873720日,司法省臨時裁判所は,次のような裁判を井上馨に申し渡します(同書567‐568頁)。



                          従四位 井上馨

 其方儀大蔵大輔在職中,兼テ御布告ノ旨ニ悖リ,渋沢栄一両名ノ奏議書各種新聞紙ヱ掲載致ス段,右科雑犯律違令ノ重キニ擬シ,懲役40日ノ閏刑禁錮40日ノ処,

特命ヲ以テ贖罪金3円申付ル。

  明治6720日               司法省臨時裁判所


 井上=渋沢の建議書公表によって国の財政状況が暴露されたことは,江藤の言うように「政府の秘事を故らに世に泄した」重い悪事であるのかどうか。「内閣は,国会及び国民に対し,定期に,少なくとも毎年1回,国の財政状況について報告しなければならない。」とする現行憲法の第91条を前提に考えると,いささか言い過ぎのように思われます。江藤は,人民の権利保護のチャンピオンであったと紹介されますが,国民の政治参加にはなお消極的であったということになるのでしょうか。これに対して,井上馨の伝記作家は,当然,財政状況に関する建議書が井上=渋沢によって公表されたこと及びそれがもたらした慣行を積極的に評価しており,「これより以後,政府は予算表を公示するを憚らなく為つたことは,真に美政といはねばならぬ」と述べています(『世外井上公伝 第一巻570頁)。


(2)尾去沢事件


ア 明治五年司法省第46号

 井上馨に対する江藤新平の追及第2弾として,『歳月』は「尾去沢事件」の章を設けて,大蔵大輔井上馨の「腐敗」と,司法卿江藤新平の「正義感」とを描きます。

 しかしながら,『歳月』は,飽くまでも小説であって,歴史書,いわんや法律書ではありません。「尾去沢事件」の章で大きな役割を果たす次の「司法省達第46号」なるもの(同章の一)は,実はフィクションなのです。



地方人民にして,官庁より迫害を受くる者は,進んで府県裁判所,もしくは司法省裁判所に出訴すべし。

――司法省達第46号――


 原典との照合はされなかったのでしょうか。特に「官庁より迫害」の「官庁」がいけません。これでは大蔵省その他の中央官庁も含まれることになってしまいます。(なお,井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝 第二巻』(内外書籍・1933年)66‐67頁に,江藤新平は「司法権の独立を主唱し,明治五年十一月二十八日に,司法省達第46号を以て,地方人民にして官庁等から不法の迫害を受けた者は,進んでその地方裁判所若しくは司法省裁判所へ出訴すべしとの令を出した」との記述があります。)

 実際の明治五年十一月二十八日司法省第46号は,次のような規定からなっています。

 


一 地方官及ヒ其戸長等ニテ太政官ノ御布告及ヒ諸省ノ布達ニ悖リ規則ヲ立或ハ処置ヲ為ス時ハ各人民 
華士族卒平民ヲ併セ称ス ヨリ其地方裁判所ヘ訴訟シ又ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラサル事

一 地方官及ヒ其戸長等ニテ各人民ヨリ願伺届等ニ付之ヲ壅閉スル時ハ各人民ヨリ其地方裁判所エ訴訟シ亦ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラサル事

一 各人民此地ヨリ彼地ヘ移住シ或ハ此地ヨリ彼地ヘ往来スルヲ地方官ニテ之ヲ抑制スル等人民ノ権利ヲ妨ル時ハ各人民ヨリ其地方ノ裁判所亦ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラサル事

一 太政官ノ御布告及ヒ諸省ノ布達ヲ地方官ニテ其隣県ノ地方掲示ノ日ヨリ10日ヲ過クルモ猶延滞布達セサル時ハ各人民ヨリ其地方ノ裁判所ヘ訴訟シ亦ハ司法省裁判所エ訴訟苦シカラサル事

一 太政官ノ御布告及ヒ諸省ノ布達ニ付地方官ニテ誤解等ノ故ヲ以テ右御布告布達ノ旨ニ悖ル説得書等ヲ頒布スル時ハ各人民ヨリ其地方裁判所亦ハ司法省裁判所エ訴訟苦シカラサル事

一 各人民ニテ地方裁判所及ヒ地方官ノ裁判ニ服セサル時ハ司法省裁判所ニ訴訟苦シカラサル事


 飽くまでも対象は,「地方官及ヒ其戸長等」の処分等にすぎません。また,「進んで出訴すべし」とまではされておらず,なおも「訴訟苦シカラ」ずです。『歳月』の「司法省達第46号」ほど開明的かつ進歩的なものではありません。

 (とはいえ,我が明治の人民は遠慮会釈なく,「明治五年司法省第46号達は凡そ地方官を訴ふる者皆裁判所に於てせしめたりしに,地方官吏を訴ふるの文書法廷に蝟集し,俄に司法官行政を牽制するの弊端を見るに至れり。」(『憲法義解』帝国憲法61条解説)という状態ではありましたが。)

 中央の大蔵省が,南部の商人・村井茂兵衛の「借金」証文(実は同人の南部藩主に対する貸金であるが,はばかって村井茂兵衛の南部藩主からの「借金」として証文を作成していた。廃藩置県により各藩の債権債務は中央政府が承継。)に基づき同人に「貸金」の返還を求め,支払がないために同人の財産を差し押さえて競売に付したこと(『歳月』「尾去沢事件」の章の二)が,地方官に係る明治五年司法省第46号の規定の対象に入るものとは,なかなかいい難いでしょう。

 しかしながら,『歳月』においては,村井茂兵衛は「司法省達第46号」に基づいて「司法裁判所」に出訴し,「司法裁判所」はそれを受理し,審査の結果訴えを却下することもなく,江藤司法卿以下は勇躍して大蔵省の調査を始めたことになっています。ちょっと変ではあります。刑事事件の捜査の端緒として村井茂兵衛の「出訴」が取り扱われたというのならば分かるのですが(そういうことなのでしょう。)。

 18751226日に至って,尾去沢事件に関して東京上等裁判所が井上馨に申し渡した裁判は,次のとおりです(『世外井上公伝 第二巻』104‐105頁)。



   申渡

                           従四位 井上馨

其方儀,大蔵大輔在職中,旧藩々外国負債取調の際,村井茂兵衛ヨリ取立ベキ金円多収スルトノ文案ニ連署セシ科,名例律同僚犯公罪条ニ依リ,KSの第三従トナシ,2等ヲ減ジ懲役2年ノ所,平民贖罪例図ニ照シ,贖罪金30円申付候事。

 但,多収シタル金25000円ハ,大蔵省ヨリ追徴シテ村井茂兵衛ヘ還付イタス間,其旨可相心得候事。

明治812月                     東京上等裁判所


 大蔵省の下僚のKSが25000円余計に村井茂兵衛から債権を回収する間違った文案を作成し,上申してきたのに対してうっかり連署してしまった,という監督不行き届きの罪で罰金30円ということです。本体部分は,確かに刑事裁判ですね。

 ただし書には,過払いを受けた25000円は大蔵省から追徴して村井茂兵衛に還付させると書いてありますが,これは,被告人井上馨に対する裁判ではありませんから,いわば無用のことながら参考までに書いておいたということでしょうか。いずれにせよ,村井茂兵衛と南部藩との金銭貸借関係が私法上の関係であったのであれば,南部藩の当該債権債務を承継した政府と相手方村井茂兵衛との間の関係も私法関係ということになるはずですが,明治五年司法省第46号は,なお,行政裁判の制度の嚆矢とされています。これは,むしろ,人民ヨリ院省使府県ニ対スル訴訟仮規則(明治792日司法省第24号達)1条の「院省使府県ノ会計及ヒ金銀貸借ニ関シタル事」に係る「一般公同ニアラサル人民一個ノ訴訟」として「司法官ニ於テ受理」されたものでしょう。

 主犯である下僚KSに対する裁判は,次のとおりでした(『世外井上公伝 第二巻』105‐106頁)。25000円の過剰請求は「過誤失錯ニ出ル」ものとされており,大蔵省の「陰謀」のようなものの存在は認定されなかったわけです。



                            紙幣大属 KS

其方儀,大蔵省十等出仕ニテ判理局勤務中,旧藩々外国負債取調ノ際,村井茂兵衛ヨリ旧盛岡藩ヘ係ル貸上ゲ金ノ内ヘ償却シタル25000円,同藩ヨリ貸付ト見做シ徴収セシ科,職制律出納有違条ニ依リ,座賍ヲ以テ論ジ懲役3年ノ所,過誤失錯ニ出ルヲ以テ,官吏公罪罰俸例図ニ照シ,罰俸3箇月申付候事。

 但,村井茂兵衛稼ギ尾去沢銅山附属品買上ゲ代価同人承諾証取置カザルハ,違式ノ軽ニ問ヒ,懲役10日。

 以下略


イ 「辞めても辞めぬ」

 ところが,『歳月』の「尾去沢事件」の章には,またほかに,分かりづらいところがあります。

 明治五年十一月二十八日の司法省第46号らしき「司法省達第46号」を読んだ村井茂兵衛が出訴し,それを受けて司法省が調査を行っていたところ,井上馨は「うかつに」にも「司法省がその能力をあげて自分を監視しているのも気づかず,尾去沢銅山の今後の経営について準備をすすめ」,同鉱山を視察することにして「馬車をつらねて東京を出発したのが88日」,同月「29日,問題の尾去沢鉱山に入」り,同所に「従四位井上馨所有地」との榜柱を立て,「翌月28日」に帰京,江藤新平は「従四位大蔵大輔」の「現職の顕官」である井上馨を東京において拘引すべく内閣の会議に案件をかけたのですが,議事は紛糾,副島種臣が「井上馨は,辞職する」,「君はこれをもってなっとくせよ」と江藤を説得して,結局本件はうやむやになった,と『歳月』では物語られています(「尾去沢事件」の章の三)。

 「従四位大蔵大輔」の「現職の顕官」である井上馨の拘引問題が内閣で問題になったのは,明治6年(1873年)の9月から10月にかけてのことのようです。当時,井上馨は,「辞職して平人にくだる」べき官職を持っていたことになっています。しかし,おかしいですね。井上馨は,前記のとおり,同年5月に既に大蔵大輔を辞職していたのですから。

 司馬遼太郎は,聞多井上馨の絶倫の生命力について『死んでも死なぬ』という作品を書いていますが,『歳月』においては,井上馨は「辞めても辞めぬ」怪人として描かれたということになります。

 堀雅明『井上馨開明的ナショナリズム』(弦書房・2013年)によれば,井上馨が18735月に大蔵大輔を辞めた理由としては尾去沢鉱山をめぐる非難が既にあったということがあり,また,同年8月に確かに井上馨は尾去沢鉱山を視察しているけれども,これはやはり退官後のことであるということです。当該視察の際,井上馨は釜石鉱山も見学したところ,「鉱業はなるほど大蔵省の管轄であったが,井上の随員には本省の鉱山技師がひとりも加わっておらず,かれをとりまいているのは,小野組の番頭やえたいの知れぬ利権屋ふうの連中ばかり」であって,「釜石の技師たちは不審におもった」そうですが(『歳月』「尾去沢事件」の章の三),大蔵省を辞めてしまっている以上はむしろ当然のことで,釜石の技師たちのところには,同年5月の井上馨大蔵大輔辞任のニュースは届いていなかったのでしょう。

 ところで,堀氏の著作からは,なお,井上馨の大蔵大輔辞任は,国家の財政の問題という堂々たる理由ではなく,やはり尾去沢事件のスキャンダルによるものだという印象を受けるのですが,井上馨側の主張では,尾去沢事件を江藤がぶつけてきたのは井上退官後のことであり,かつ,江藤は村井茂兵衛の訴えを待たずに,それ以前から井上をつけ狙っていたということになっています。

 すなわち,まず,明治五年司法省第46号に基づく村井茂兵衛の出訴は,明治「618731218日を以て,司法省裁判所検事局に出訴」ということだったようで(『世外井上公伝 第二巻』67),これでは,征韓論政変による同年10月の江藤の下野後のことになってしまいます。

 また,前々から「司法卿江藤新平は尾去沢銅山が収公されたことを聞くや,予て井上馨公とは快からず常に公の間隙を狙つてゐたことであるから,機乗ずべしとなし,司法大丞兼大検事警保頭島本仲道に内命を下して,密かに本件の内容を調査せしめつあつた」ところです(『世外井上公伝 第二巻』65)。

 問題の太政官における尾去沢事件に係る井上馨弾劾は,『歳月』から示唆される前後関係とは異なり,18735月の井上馨の大蔵大輔辞任後だったようです。いわく,



江藤は公を拘引する議を太政官に持出した,併し三条・木戸の回護もあつて,その事は行はれなかつた。もとより公を拘引するに足るほどの明確な証拠とては有らう筈は無かつたからである。大隈侯八十五年史には,該事件が司法裁判所の手に移つたのを
618735月としてある。然らば公が辞職を聞届けられた月であるから,江藤は公が重職を去るのを待つてゐて,こに本件を公然告発することに為つたのではないかと思はれる。而してこれは村井から訴状が出たので始めたものではない。(『世外井上公伝 第二巻』66


 『歳月』の江藤新平とはまた少し違った印象の江藤新平が,ここにはいます。

 (ところで,明治初めの村井家当主・京助村井茂兵衛は,既に1873523日に享年53歳(文政四年生まれ)で大阪で没していますから,187312月に出訴した茂兵衛はその次の代の茂兵衛でしょう。なお,村井京助は,南部藩内では実はむしろ長州派で,嘉永年間に盛岡を訪問した吉田松陰は京助と歓談していますし,戊辰戦争の時には,奥羽越列藩同盟派の家老・楢山佐渡と所見を異にする勤皇派南部藩士を京助が京都「三条通の長藩邸に潜伏せしめたと言はれ」ています。(『興亜の礎石:近世尊皇興亜先覚者列伝』(大政翼賛会岩手県支部・1944年)48‐50頁)『歳月』において江藤司法卿が会った「村井茂兵衛」は「齢は45だという」とされていますから年齢が合わず,京助村井茂兵衛ではないことになります。)


4 締めくくり:大阪会議の主役はだれか

 1875年の大阪会議をうけた大審院の設置による司法の行政からの分離と,江藤新平司法卿下での「司法権の独立」との関係について図らずも論ずることとなってしまった本稿の締めとしては,小説風に,「江藤の言う「司法権の独立」など,実は奴の権力欲の隠れ蓑にすぎなかったのだよ。まったく,奴にはひどい目に遭ったが・・・しかし,江藤のあの梟首の写真・・・一番恐ろしいのは大久保参議だよなぁ・・・タイシンインねぇ・・・うむ,司法権の行政からの真の独立をもたらすことになった欧化の本当の貢献者は,実は,木戸,大久保,板垣という難しい大物たちを何とかまとめて,大阪会議を開くべく奔走した不肖この我輩なのだよ。」との,酒盃片手の元大蔵大輔・井上馨の独白にしましょうか。それともやはり,「長州ぎらいであるはずの江藤にどういうわけか好意をもちつづけていた」とされる木戸孝允(『歳月』「長崎の宿」の章の一)こそが,江藤の遺志を継いで,大阪会議を通じて司法の行政からの分離をもたらした立役者であった,という見解を表明しておくことにしましょうか。大阪会議の舞台となった料亭・加賀伊も,木戸の揮毫の「花外楼」が気に入ったようですし・・・

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 東京都港区西麻布の長谷寺(ちょうこくじ)にある従一位大勲位侯爵井上馨の墓

 


付録:本文と関係の無いつけたり

 大審院については,タイシンインと読んでもダイシンインと読んでも指し示すものは同じでした。

 しかし,


 大陸軍


 の場合はそうはいきません。

 ダイリクグンであれば,ナポレオンのグラン・ダルメー(Grande Armée),タイリクグンであればジョージ・ワシントン率いるコンティネンタル・アーミー(Continental Army)ということになります。



120108_064055
ペンシルヴァニア州ヴァレー・フォージ(
Valley Forge, PA)のワシントンの旧司令本部(苦しい対英独立戦争を戦うアメリカ諸邦の大陸軍は,フィラデルフィア陥落後の1777-1778年の冬をヴァレー・フォージの宿営地で耐え忍び,かつ,自らを鍛え上げました。)

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