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1 山口県出身の3人の元内閣総理大臣並びに国葬及び国葬儀

 山口県出身の元内閣総理大臣が202278日に駅前で銃撃によって殺害されたとの報に接し(満67歳歿・享年六十九),同日夜,悪友らと某駅前地下の酒場で飲んだ筆者は,19091026日に駅頭で銃撃によって殺害された山口県出身の元内閣総理大臣の死(満68歳歿・享年六十九)についてこれまた山口県出身の元内閣総理大臣(当時満71歳)が述べたという次の言葉を想起しつつ,「政治家としてはよい死に方だったんじゃないの。国葬になるだろうしさ。」と発言したところです🍶(最近の国葬関連のブログ記事は,当該思い付き発言の後始末でもあります。)

 

   征露戦局〔1904-1905年の日露戦争〕の結果,彼我の情偽が,明白と為り,露国は我が日本を重視し,日本も亦彼を知るに至り,両国親善の度が漸く濃厚を加へ来つた。〔山縣有朋・伊藤博文〕両公の苦心経営は,此に至り徒労に似て徒労にあらず,伊藤が此機に乗じ,日露提携を策して,東邦禍根の発源地なる支那問題を解決せんとしたるは,寔に其機を得たのであつた。然るに,伊藤が不幸にも兇豎の狙撃する所と為りて其志を果さなかつたことは,〔山縣〕公に取りて何等の恨事ぞや。

   伊藤客死の報が,〔山縣〕公の許に達したとき,公は椿山荘にありて,之を聞き,痛嘆するもの之を久うしたが,忽ち左右を顧みて,「伊藤は最後まで好運の人物であつた。予は武弁として,其の最後が如何にも欽羨に勝へない」とて,左の什を詠んだ。

      伊藤公爵をいたみて

    かたりあひて尽しゝ人は先たちぬ

        今より後の世をいかにせむ

  (徳富猪一郎編述『公爵山縣有朋伝 下巻』(山縣有朋公記念事業会・1933年)742-743頁。下線は筆者によるもの)

 

伊藤博文の国葬は,1909114日に日比谷公園で行われています(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065458056.html)。

山縣有朋は,今からちょうど100年前の年である1922年の21日に小田原・古稀の畳の上で薨去し,その国葬は同月9日にこれも日比谷公園で行われましたが(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079865191.html),大阪朝日新聞の同月10日付けの記事によると「4間に18間の幄舎2棟は1万の参列者を入れる為に設けられたものだといふが実際の数は2棟で1千にも満たず雨に濡れた浄白な腰掛はガラ空きであつた」ということでした🎾ただし,帝室博物館総長兼図書頭森林太郎は出席です。鷗外の日記『委蛇録』192229日条にいわく「九日。木。晴。会山県公有朋葬於日比谷公園。久保田米斎来示松崎復書幅。」と(『鷗外選集第21巻 日記』(岩波書店・1980年)341頁)。当日は晴であって,国葬会場を濡らした雨は前日のものだったようです。「八日。水。雨。参館。」とあります(同頁)。(ついでにいえば,前掲徳富編述1030頁には「〔1922年〕23日,第45期帝国議会は,満場一致を以て,〔山縣〕公の薨去に関する国葬費予算を可決した。」とありますが,これは,同日の衆議院本会議における南・森下両代議士による山縣国葬反対の大気焔(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079865197.html:(9)エ(イ))及びその結果たる「議長(奥繁三郎君) 南鼎三君,森下龜太郎君ヲ除クノ外一致賛成デゴザイマス」(第45回帝国議会衆議院議事速記録第10150頁)との同議院における満場一致議決未達の失態をしゃあしゃあと無視する読者誤導の曲筆であって,蘇峰徳富猪一郎が我が国を代表するジャーナリストであったのであれば,我が国のジャーナリズムの水準は,歴史的には,常に誇らしく高いものでは必ずしもないわけです。)

2022927日のこちらは日本武道館で行われる国葬儀も,移り気な我が人民の間における人気は,現在なかなか芳しくはないようです。当該国葬儀を1箇月後に控えた同年827日に西日本新聞ウェブサイトに掲載された「「絶対やって良かったとなる」安倍氏国葬の世論二分・・・弔問外交に託す政権」と題された記事には,次のようにあります。高い意識の諸外国の指導者から示されることとなる正しい認識が頼りであるようです。

 

〔国葬儀実施に対する〕批判の矛先をそらしたい政府,与党は各国の要人が集う「弔問外交」の舞台となる意義を前面に出し,内容も「弔問客を受け入れる最低限の様式で派手にしない」(政府高官)。費用は2020年に行われた中曽根康弘元首相の内閣・自民党合同葬の約19千万円を引き合いに「参列者が大幅に増えることや警備強化を考えれば簡素で妥当だ」(自民党幹部)と訴える。

  国葬まで1カ月。反発がさらに強まるのか,弔いムードの高まりで容認論が広がるのか-。首相周辺は安倍氏が力を注いだ外交実績に期待を込めてこう望みを託す。「海外の評価を見て世論は絶対に国葬をやって良かったとなるはずだ」

 (大坪拓也,岩谷瞬)

 

 今となっては,「Japan’s state funeralであるぞ」ということでどしどし英語を駆使して海外広報に努めるべしということになっているのでしょう。しかし,国葬儀と国葬とは必ずしも同じものではないところ(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079865200.html),国葬儀の英語訳は,state funeralでよいものかどうか。

 

2 国葬儀はstate funeral

 実は,今次国葬儀の英語での正式名称を,筆者は内閣総理大臣官邸及び外務省の各ウェブサイトでいまだに見付けられずにいます。国葬儀をa funeral in the form of a state funeral“state funeral”ないしはstate funeralと表現し,ないしは訳する記者会見の英語訳記事はあるのですが(2022714日の岸田文雄内閣総理大臣記者会見,同月20日の小野日子外務報道官記者会見及び同月22日の林芳正外務大臣記者会見),いずれにも暫定訳(provisional translation)である旨の注意書きが厳めしく付いています。

岸田内閣総理大臣の発言の英語訳には“we will hold a funeral for former Prime Minister Abe this autumn in the form of a state funeral.”とあります。端的に“in the form of state funeral”(国葬の形式で)と述べるものではありません(確かに元の日本語は,「国葬儀の形式で」です。)。“in the form of a state funeral”と,不定冠詞であるaが一つ入って奥歯に物が挟まっています。「国葬儀の形式で」ということは,「いわゆる一つの国葬的な形式で」というようなこころであるわけでしょうか。

 小野外務報道官の記者会見では,「国葬儀」との括弧付きの日本語が,the “state funeral”と,引用符付きの英語に訳されています。国葬ではない国葬儀は飽くまでも引用符付きの“state funeral”であって,引用符抜きの端的なstate funeralではないものと,翻訳業者も外務省の担当者も理解しているということでしょう。

 故安倍晋三国葬儀準備事務局(the Special Secretariat for the State Funeral for former Prime Minister Abe Shinzo)の外務省内設置に係る林外務大臣発言に至って,括弧無しの国葬儀と引用符無しのstate funeralとが等号で結ばれることとなっています。

 

3 State Funerals in the UK

 国葬儀とstate funeralとを同一視することに躊躇があったのは,英語といえば本家の英国英語に厳密に準拠しなければならないという,英語専門家にありがちな囚われた英国本位の観念のゆえだったものでしょうか。

 確かに,我が国でいう国葬儀をstate funeralと訳することは,英国においては許されないことであるようです。(御本家の英国が現在,ボリス・ジョンソン内閣後の政権交代に係る流動期にあって,極東の一国における英語の用法にまでは気が回らないであろうことは,我が国政府にとって結構なことでした。)

 上記の点に関しては,英国庶民院図書館(House of Commons Library)の議会及び憲法センター(Parliament and Constitution Centre)の調査員(なのでしょう)であるポール・バウワーズ(Paul Bowers)氏による「国葬及び公喪儀(State and ceremonial funerals)」という調査ペーパー(2013731日付けSN/PC/06600)をインターネットで読むことができます。そこでは,state funeral(国葬)の定義が,R・アリソン=S・リッデル編の『王室(ザ・ロイヤル)百科(・エンサイク)事典(ロペディア)()1991年)の引用という形で,「一般には国家(ソヴ)元首(リンズ)に限定されるが,在位の君主の勅命及び費用を負担する議会の議決により,偉勲ある者についても行われ得る」(generally limited to Sovereigns, but may, by order of the reigning monarch and by a vote of Parliament providing the fund, be extended to exceptionally distinguished persons)ものと示されているのでした。すなわち,state funeralたるには,君主の勅命と議会の財政議決とが要素となります。

 筆者の脳内対談。

 

   “Oh, you are going to hold a state funeral for the late Prime Minister Abe Shinzo. What was the Imperial Comment by His Majesty Emperor Naruhito, when He sanctioned it? How were the pomps and sincerities of the parliamentary speeches supporting the provision of state fund therefor?”

   “The Emperor and the Diet? Neither of them had any say in making the decision. It has been exclusively the Kishida Cabinet’s business as a matter of the administration of state.”

   “Is it really so? If so, it is my personal understanding that it would not be properly called a state funeral, at least here in Britain.”

   “What? Surely, our Imperial Ordinance concerning State Funerals of 1926 is no longer effective, but no statute law is necessary for the Japanese state to hold ceremonies, since it has nothing to do with rights and duties of people, our opposition parties’ persistent prejudices notwithstanding. Our prudent Prime Minister Kishida, having well considered and studied the matter in consultation with experts of the Cabinet Legislation Bureau, gave a brave go to this issue and will hold for the late prime minister…”

   “I do not say that a state cannot hold legally any ceremonies without explicit legislative authorization given in the form of statute law. Simply, the English word -- state funeral -- is associated with such concepts as the monarchical will and the parliamentary consent thereto.”

 

 在位の君主たる今上天皇の特旨によるわけでもなく,202283日から同月5日までの第209回国会においてそのための費用に係る議案が政府から提出・可決されたわけでもないので,同年927日の我が国葬儀は,確かに英国式のstate funeralであるとは言いにくいところです。国葬儀を直訳してstate-funerary ceremonyとでも称すべきでしょうか。しかしこれでは,羊頭狗肉の誹りを免れるにしても,不格好ですね。とはいえ,kokusōgiのままでは意味不明でしょう。

 更にいえば,英国のstate funeralでは,遺骸が納められた柩が水兵らによって牽かれた砲車によってウェストミンスター・ホールに運ばれて暫く正装安置された上で,ウェストミンスター()会堂(ビー)又はセント・ポール大聖堂で宗教儀式が行われるそうなのですが,いわば主役である遺骸が既に焼かれてお骨になってしまっているというのでは,state funeralとしての絵にならないということもあることでしょう。

 「国家元首以外の者のために国葬がされるときに係る決定手続は,稀に,かつ,長い歴史的な間を置いて起ることであることもあって,余りはっきりしない。公表された公式の手続というものは無いが,過去においては,国家元首,首相及び議会が関与していた。」とは英国における国葬実行決定手続に関するバウワーズ氏の評です。不文憲法の国だけあって,成文法に基づかない国葬はあり得ないというような窮屈な議論はされていません。

 1965124日に死亡し,同月30日にstate funeralが執り行なわれたチャーチルの場合はどうであったかというと,まず,同月25日,庶民院に対してハロルド・ウィルソン首相がエリザベス2世女王の自署のある勅語を提出し,議長がそれを朗読します。

  

 私は,ガーター騎士たるサー・ウィンストン・チャーチル閣下の死去によって私たちが被った喪失に対して最もふさわしい方法による対応がされるべきこと並びに戦争においても平和においても五十年以上にわたってたゆまず彼の国に尽くし,かつ,私たちにとって最大の危険の時において,私たち全てを力づけ,支えてくれた精力的指導者であった偉大な人物に係る喪失の悲しみ及びその記憶に対する敬重を表明する機会を持つべきことが,私の国民全ての望みであることを認識しています。私の忠実な庶民院議員らの支持並びに私たちの感謝の負債の弁済及び国民的悲しみの表明を適切に行うためにふさわしい手配(provision)をするに当たっての彼ら鷹揚(liberality)に信頼し得ることを確信しつつ,私は,サー・ウィンストンの遺骸がウェストミンスター・ホールに正装安置され,かつ,その後に喪儀がセント・ポール大聖堂で行われるよう指示しました。

 

 ウィルソン首相は,女王陛下の最も優渥なる勅語(Her Majesty’s Most Gracious Message)を議題にすべき旨動議し,かつ,次の議案を提出します。

 

   ガーター騎士たるサー・ウィンストン・チャーチル閣下の遺骸がウェストミスター・ホールに正装安置されるべき旨及びセント・ポール大聖堂で喪儀が行なわれるべき旨を指示されたことについて女王陛下に謹んで感謝するため,並びに当議院及び女王陛下の忠実なる臣民全てが保持する当該偉人の記憶に係る愛着及び称賛を表明するためのこれらの手段に対する,我々の真摯な助力及び協賛を女王陛下に確証しつつ,女王陛下に対して恭しい奉答がなされるべし。

 

これに「この動議を可決することにより,当議院,及び当議院において代表されているところに基づき国民は,偉大な政治家,偉大な議会人にしてかつこの国の偉大なる指導者に対する集合的かつ敬虔な敬意を表明することになるのであります」以下の同首相の演説が続き,更にダグラス・ホーム(Douglas-Home),グリモンド(Grimond)及びタートン(Turton)各議員の各賛成演説があって(これらの演説は,精彩に富み,なかなか読み応えがあります。),1965125日中に当該議案は全会一致で可決されています。

 

4 チャーチルの国葬及び吉田茂の国葬儀における山口県出身の元内閣総理大臣及び現職内閣総理大臣

チャーチルの国葬に日本国政府を代表して参列した特使は,これも山口県出身の元内閣総理大臣でした(当時満68歳)。当該元内閣総理大臣は,1965128日の早朝,ロンドンのヒースロー空港で,待ち構えていた朝日新聞の現地特派員に遭遇してしまっています。

 

「お疲れのところ恐縮です」と挨拶したうえで「今回のチャーチル国葬は,参列者の顔ぶれからいって第2次大戦の戦友葬という性格をもっています」。つづけてアイゼンハワー,ドゴール,〔ソ連の〕コーネフら3将軍について手短に説明した。「ところで岸さんは1941128日,東條英機内閣の商工大臣として,米英に対する宣戦の詔書に副署なさっています。そのようなお立場から,チャーチル国葬参列にあたって,どんな感想をお持ちでしょうか」。岸〔信介〕氏は「それはですよ,それはですよ,それはですよ」と3回,繰り返した。

絶句した元総理大臣を,それ以上,問い詰めては礼を失する。そう考えて「敗戦後20年,いまや日本は平和国家として生まれ変わった,ということでしょうか」と問うと,「そうです,その通りです」と。

  (有馬純達「チャーチル国葬」日本記者クラブ・ウェブサイト(20074月))

 

 「弔問外交」といっても,余りお気楽なものではないようです。対独苦戦中のチャーチルは我が海軍による真珠湾攻撃の報を聞いて,これで米国が参戦してくれるぞ助かったと喜んだそうですが,だからといって日本国の特使がチャーチルの国葬において英国民の前で,図々しく恩着せがましい顔をするわけにはいかなかったことでしょう。プリンス・オヴ・ウェイルズ及びレパルスを沈めてしまったし,シンガポールも奪ってしまっていたのでした。何やら肩身の狭い「弔問外交」であったことでしょう。

 19671031日の吉田茂の国葬儀において,葬儀委員長たる現職内閣総理大臣佐藤榮作(山口県出身,当時満66歳)は,その追悼の辞においていわく,「吉田先生,あなたは国家と国民がいちばん苦しんでいるときに登場され,国民の苦悩をよく受けとめ,自由を守り平和に徹する戦後日本の進むべき方向を定め,もっとも困難な時機における指導者としての責務を立派に果たされました。あなたはまさしく歴史が生んだ偉大なる政治家であります。」と。すなわち,「平和に徹する戦後日本」が,その当初指導者の国葬儀をもって,ここで歴史的に大肯定されたということでしょう(「わが国は戦後22年にして,国力は充実し,国際的地位も飛躍的に向上しつつあります」)。「いまや日本は平和国家として生まれ変わった」ところの戦後レジームが,断乎明徴せられています。(しかし,「自由に徹し平和を守る」のではないのですね。)

 

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1 「最悪の事態を想定」しての外国人の入国停止措置をめぐる正しい民意と言論と

 12月に入り,寒くなりました。

 いつまでも秋が続いている気分でうっかりすると,つい風邪をひきやすい季節です。

 しかし,現在は非常時です。従来型の風邪ならばともかくも(とはいえ風邪もなお万病のもとです。),新型コロナウイルス感染症を,たなびく霧(Nebelstreif)のごとき単なる風邪と同一視して軽視するなどという横着な邪見に陥ることは,決して許されることではありません。

 コロナウイルスは,恐ろしい。岸田文雄第101代内閣総理大臣も,2021126日の衆参各議院の本会議における所信表明演説で警鐘を乱打しておられます。

 

大事なのは,最悪の事態を想定することです。

オミクロン株のリスクに対応するため,外国人の入国について,全世界を対象に停止することを決断いたしました。

まだ,状況が十分に分からないのに慎重すぎるのではないか,との御批判は,私が全て負う覚悟です。国民からの負託は,こうした覚悟で,仕事を進めていくために頂いたと理解し,全力で取り組みます。

  (第207回国会における岸田文雄内閣総理大臣の所信表明演説(2021126日)(以下略称として「岸田202112」を用います。))

 

このくだり,「まだ,状況が十分に分からないのに慎重すぎるのではないか,との御批判は,私が全て負う覚悟です。」と一応謙遜しておられます。しかしながら,同日99分付けの「読売新聞オンライン」の記事(「オミクロン株の水際対策「評価」89%,スピード感に肯定的受け止め読売世論調査」)には「読売新聞社は〔202112月〕35日に全国世論調査を実施し,新型コロナウイルスの変異株「オミクロン株」への政府の水際対策を「評価する」との回答が89%に上った。「評価しない」は8%。岸田内閣の支持率は62%で前回(〔2021年〕1112日調査)から6ポイント上昇,不支持率は22%(前回29%)に低下した。/政府は海外でのオミクロン株の感染拡大を受け,11月末に全世界からの外国人の新規入国を停止した。日本着の国際線の予約停止要請を3日間で撤回する混乱はあったものの,スピード感を持って対策を打ち出していることが肯定的に受け止められたようだ。」とあります。御本人としては,内心「してやったり」というところだったのでしょう。

我が神聖清浄なる大八洲国に立ち入りを禁じられた外国の方々から苦情が申し立てられるとしても,「「国民の理解や,後押しのある外交・安全保障ほど強いものはない」。48か月外務大臣を務めた経験から,強くそう感じています。」と(岸田201212),善良かつ主権の存する日本国民の圧倒的民意に支えられ,岸田総理は自信満々です。

国内においても, 8パーセントの不謹慎な開国容(コロナ)派が仮に言挙げをしても,その人心惑乱の暴言は89パーセントの真摯な鎖国攘(コロナ)派によって直ちに発火炎上せしめられて撤回削除に追い込まれ,反省自粛の上,彼らの口は清き心を示す白いマスク(weiße Masken)をもって覆われることとなるのでしょう。80年前,対米英蘭戦開始直後制定の昭和16年法律第97号(19411218日裁可,同月19日公布,同月21日施行(同法附則1項・昭和16年勅令第1077号))の第17条は「時局ニ関シ造言飛語ヲ為シタル者ハ2年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ2000円以下ノ罰金ニ処ス」と,第18条は「時局ニ関シ人心ヲ惑乱スベキ事項ヲ流布シタル者ハ1年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ1000円以下ノ罰金ニ処ス」と規定していましたが,令和の御代の上品かつ自主的な我が国民においては,昭和の昔のお下劣な民草とは異なり,時局にふさわしからぬ言論の規制のために司法御当局の手を煩わすまでの必要はありません。

なお,外国人の新規入国停止の根拠となっているのは,出入国管理及び難民認定法(昭和26年政令第319号)5114号の「前各号に掲げる者を除くほか,法務大臣において日本国の利益又は公安を害する行為を行うおそれがあると認めるに足りる相当の理由がある者」たる外国人は本邦に上陸することができないものとする条項です。同法511号(及び手続について同法92項)では足らずに同法5114号が発動されるのですから,コロナウイルスは,単なる公衆衛生上の問題となるばかりではなく,大きく我が国の国益及び公安までをも脅かす非常に兇悪な存在なのです。正に昭和16年法律第97も,「戦時ニ際シテ」我が国の「安寧秩序ヲ保持スルコトヲ目的トス」るものだったのでした(同法1条)。ちなみに,日本国憲法に拠って出入国管理及び難民認定法5114号の運用を掣肘しようにも,「憲法上,外国人は,わが国に入国する自由を保障されているものでない」ところです(最大判昭和53104日民集3271223頁)。

 

2 「時局ニ関シ人心ヲ惑乱スベキ事項ヲ流布」することの一般的禁止又は回避

ところで,昭和16年法律第9718条の趣旨は,19411216日の東條英機内務大臣(内閣総理大臣が陸軍大臣及び内務大臣を兼任)の議会答弁によれば,それまで不可罰であった「真正ナル事実及ビ意見,信仰,臆説等ノ流布」をも処罰し得るようにするものです(第78回帝国議会衆議院言論,出版,集会,結社等臨時取締法案委員会議録(速記)第12頁。また,第78回帝国議会貴族院言論,出版,集会,結社等臨時取締法案特別委員会議事速記録第12頁)。これについては,一松定吉委員が心配して,「事実ニ即シタコトヲ言ツテモ,ソレガ所謂人心ヲ惑乱スル,米ガナクテハ戦ハ出来ヌヂヤナカラウカト云フノデ人心ヲ惑乱スル,或ハ油ガナケレバ戦サガ出来ヌヂヤナイカト云フコトデ人心ニ動揺ヲ来スト云フヤウナ場合モ,ヤハリ第18条〔略〕ニ当嵌マルト云フコトニナリマスト,一寸シタコトデモ,事実ヲ我々ハ口ニ出シテ言ヘナイト云フヤウナコトニナリハシナイカ」ということで,例示を求める質疑をしていますが,東條内務大臣は「茲ニ一ツノ例ヲ以テ御示シスルコトハ不可能デアラウト思ヒマス」と言って例示をすることを拒んでいます(第78回帝国議会衆議院言論,出版,集会,結社等臨時取締法案委員会議録(速記)第19頁)。そんなの罰しませんよ大丈夫ですよ,とさわやかに言ってもらえてはいません。

翻って,命にかかわるコロナ克服の厳しい戦いが戦われている現在においては,隠しごとありげな見苦しさ及び眼鏡が曇る,息苦しい等々の鬱陶しさを補ってなお余りある感染予防に係る十分な効果が本当にマスク着用にあるのだろうか,「ワクチンについては,医療従事者の方から,3回目の接種を始めました。2回目の接種から8か月以降の方々に順次,接種することを原則としておりましたが,感染防止に万全を期す観点から,既存ワクチンのオミクロン株への効果等を一定程度見極めた上で,優先度に応じ,追加承認されるモデルナを活用して,8か月を待たずに,できる限り前倒しします。」と言われても(岸田202112)ワクチン(Vakzine)の接種(einspritzen)の副反応はひょっとして人によっては結構危険なんじゃないだろうか,というような意見,憶説等を流布することは,仮に造言飛語をなすことには当たらないとしても,少なくとも人心を惑乱すべきものと忖度されるべき悪魔的ないしは魔王的所業なのでしょう。いささか悩ましい。

疑心暗鬼の惑乱に陥らないためには,枯れ葉にさやぐ(in dürren Blättern säuselt)風の音(der Wind)ならぬ新型コロナウイルス感染症対策専門家等からの権威ある御発言及び総務大臣の御監督を受けているテレビ局等による高齢者の魂にも奥深く響く力強くかつ分かりやすい報道を専ら信ずべきでしょう。新型コロナウイルス感染症対策の専門家であると自他共に認めておられるお医者様方(Doktoren)は,藪でないことはもちろん,幽霊のような古柳(alte Weiden)でもありません。

 

3 令和3年度補正予算

岸田総理の御決意は,力強い。

 

   新型コロナについて,細心かつ慎重に対応するとの立場を堅持します。感染状況が落ち着いていますが,コロナ予備費を含めて13兆円規模の財政資金を投入し,感染拡大に備えることとしました。

    

   同時に,一日も早く,日本経済を回復軌道に持っていかなければなりません。新型コロナにより,厳しい状況にある人々,事業者に対して,17兆円規模となる手厚い支援を行います。

    

   危機に対する必要な財政支出は躊躇なく行い,万全を期します。経済あっての財政であり,順番を間違えてはなりません。

 

通常に近い経済社会活動を取り戻すには,もう少し時間がかかります。

それまでの間は,断固たる決意で,新型コロナでお困りの方の生活を支え,事業の継続と雇用を守り抜きます。

かねてより申し上げているとおり,経済的にお困りの世帯,厳しい経済状況にある学生,子育て世帯に対し,給付金による支援を行います。特に生活に困窮されている方には,生活困窮者自立支援金の拡充など,様々なメニューを用意します。総額7兆円規模を投入します。

事業者向けには,2.8兆円規模の給付金により,事業復活に向けた取組を強力に後押しします。

  (以上岸田202112

 

 大盤振る舞いです。

しかもこれは,今次第207回国会で議決予定の令和3年度(2021年度)の補正予算(財政法(昭和22年法律第34号)291号(「法律上又は契約上国の義務に属する経費の不足を補うほか,予算作成後に生じた事由に基づき特に緊要となつた経費の支出(当該年度において国庫内の移換えにとどまるものを含む。)又は債務の負担を行なうため必要な予算の追加を行なう場合」)参照。なお,「現行財政法第29条は,各省の予算要求を抑えようとする大蔵当局の希望で設置されたという。国会修正権への制限論と彼此勘考するとき,筆者には,あまりにも大蔵当局中心的な便宜主義的態度のようにおもえる。」という指摘は面白いですね(小嶋和司「財政法をめぐる最近の問題」『小嶋和司憲法論集三 憲法解釈の諸問題』(木鐸社・1989年)203頁註(3))。「大蔵当局中心的な便宜主義」が昭和の昔には通用していたのです。)における支出であるところ,コロナウイルス感染が続く限り,何だかおかわりがありそうです。「具体的な行動によって,国民の皆さんの安心を取り戻し,何としても,国民の命と健康を守り抜く決意です。」というのですから(岸田202112),もう後には引けません。心配性の(hypochondrisch)人々の心配が絶えることはあり得ません。

ところで,生活向けに7兆円規模,事業向けに2.8兆円といいますから,給付金の規模は合計9.8兆円となるようです。貰う側からすると,有り難い話です。ただし,ばらまきによる人気確保策には,落とし穴がありそうです。

 

 ことに下にては仁政といへば金穀をほどこしたまふものとのみおもへば,いかなる事被仰出(おほせだされ)候ともあきたるべしとも思はず。ことに上京之度々花やかなる振舞なしなば,此のちきたるものも,またおとらじと思ふやうになりもて行て,つゐには下へへつらふといふことにも近かるべし

 (松平定信『宇下人言』(岩波文庫・1942年)79頁)

 

この給付金というものは,要は所得移転です。したがって,無から有が生まれない限りは,左のポケットに9.8兆円入れるためには右のポケットから9.8兆円を取り出さなければなりません。現在ここでの右のポケットは,一見,公債を発行して補正予算の財源を確保する財務省のようですが(なお,財政法41項(「国の歳出は,公債又は借入金以外の歳入を以て,その財源としなければならない。但し,公共事業費,出資金及び貸付金の財源については,国会の議決を経た金額の範囲内で,公債を発行し又は借入金をなすことができる。」)にかかわらず,令和3年法律第13号(202141日から施行(同法附則1条))による改正後の財政運営に必要な財源の確保を図るための公債の発行の特例に関する法律(平成24年法律第101号)31項(「政府は,財政法(昭和22年法律第34号)第4条第1項ただし書の規定により発行する公債のほか,令和3年度から令和7年度までの間の各年度の一般会計の歳出の財源に充てるため,当該各年度の予算をもって国会の議決を経た金額の範囲内で,公債を発行することができる。」)を参照。今次補正予算においては同項の特例公債が192310億円分発行されるそうです(令和3年度一般会計補正予算予算総則補正62項)。),究極的には実は納税者ということになるのでしょう。しかし,合わせて9.8兆円也と抽象的な数字をいわれただけでは,この納税者の負担の程度が実感しにくい。

202110月の我が国の就業者数は6659万人であるそうですから(同年1130日総務省統計局公表・労働力調査(基本集計)),9.8兆円といえば就業者1人当たり147千円余ということになりますか。しかし,就業者でも給付金を貰う側の人がいるのでしょうし,累進課税ということもありますから,いや私は結構高収入だよという人については147千余円では済まないことになるのでしょう。

 国税庁の統計によれば,令和2年度(2020年度)の所得税の収納済額が22412661百万円,消費税及び地方消費税のそれは27051210百万円です(国税全体では70467163百円(地方消費税分5605843百万円を含む。))。9.8兆円を1年で調達するためには(ちなみに,個人の借金については,「住居費を引いた手取り収入の3分の1」を弁済原資の目安として,完済までの分割返済回数が36回(月)(すなわち3年)までならば任意整理が可能であるが,それを超えると破産相当であるといわれています(『クレジット・サラ金処理の手引(5訂版補訂)』(東京弁護士会=第一東京弁護士会=第二東京弁護士会・2014年)40-41頁)。),現在の所得税額を43.7パーセント強増加するか,消費税及び地方消費税の税率が現在10パーセントであるとして(軽減税率があるので面倒なのですが),それを約13.6パーセントに引き上げねばならないことになります。(なお,法人税から取ればよいのだ云々という考えもあるかもしれません。しかし,ここでは,税は究極的には個人(法人税については当該法人の社員(株主)たる個人)が負担することになるものと考えています(現行税制の基礎をなしているシャウプ勧告の考え方と同じです(金子宏『租税法 第十七版』(弘文堂・2012年)265-266頁参照)。)。)

 これでは,臆病(feige)なくらい「細心かつ慎重」であるどころか行政(Verwaltung)による大胆に過ぎる濫費(Verschwendung)であって,経済あっての財政といっても,その財政が経済(Wirtschaft)を破壊してしまっては元も子もないではないか,将来の莫大な負担を考えると,安心を取り戻すどころかかえって投げやりないしは暗い心持ちとなって納税者たる国民の元気が萎えてしまうではないか,と言い募ることもあるいは可能でしょう。しかしそれでは,非国民的に人心を惑乱させてしまうことになってしまいそうでもあります。

そもそも財政の健全化は,難しい。

令和3年法律第13号によって財政運営に必要な財源の確保を図るための公債の発行の特例に関する法律4条が「政府は,前条〔第3条〕第1項の規定により公債を発行する場合においては,平成32年度〔2020年度〕までの国及び地方公共団体のプライマリーバランスの黒字化に向けて経済・財政一体改革を総合的かつ計画的に推進し,中長期的に持続可能な財政構造を確立することを旨として,各年度において同項の規定により発行する公債の発行額の抑制に努めるものとする。」から「政府は,前条第1項の規定により公債を発行する場合においては,同項に定める期間が経過するまでの間,財政の健全化に向けて経済・財政一体改革を総合的かつ計画的に推進し,中長期的に持続可能な財政構造を確立することを旨として,各年度において同項の規定により発行する公債の発行額の抑制に努めるものとする。」に改められ(下線は筆者によるもの),同法2条にあった「国及び地方公共団体のプライマリーバランスの黒字化」に係る定義規定も削られています。これは,20213月末までに国及び地方公共団体のプライマリーバランスの黒字化を達成するという具体的数値目標(平成28年法律第23号(201641日から施行(同法附則1条))による改正によって法文上設定)の達成に安倍晋三=菅義偉政権が失敗したので,令和3年度(2021年度)を迎えるに当たって漠とした未来における「財政の健全化」という抽象的な目的に差し替えたというものとして結局理解されるものでしょう。しかし,政府としては,法律には書いてはいなくとも,今度は2025年度までにプライマリーバランスの黒字化を目指すものとしています。とはいえ,何度電話しても「今そちらに向かっています」との答えばかりが返ってくる蕎麦屋の出前的ではあります。どうしたものでしょう。

個人の多重債務者については,

 

 〔略〕計画性に欠ける,約束を守れない,ときには弁護士に対しても平気で嘘を言うなどの問題のある依頼者が決して少なくないことも間違いはありません。

  しかし,このような問題のある依頼者でも,弁護士による指導監督のよろしきを得れば,多くは経済的更生が可能になります。

 

といわれてはいます(『クレジット・サラ金処理の手引(5訂版補訂)』2頁)。これは,個人債務者の「経済的更生」のためには,「免責許可の決定が確定したときは,破産者は,破産手続による配当を除き,破産債権について,その債務を免れる」ものたらしめる免責(破産法(平成16年法律第75号)2531項本文)という荒技があるからでしょう。しかし,国の場合はどうでしょうか。個子ちゃんが活躍する個人向け国債のにぎやかな広告宣伝を見るたびに,考えさせられてしまいます。

 

4 行動制限の強化と国民の理解との関係等

 

(1)強化された司令塔機能の下の行動制限の強化

 ところで,国民の元気の有無云々以前に,コロナウイルスの元気次第で経済活動の停止がされることがあり得ることも否定されてはいません。

 

   〔略〕来年の6月までに,感染症危機などの健康危機に迅速・的確に対応するため,司令塔機能の強化を含めた,抜本的体制強化策を取りまとめます。

    

   〔略〕感染が再拡大した場合には,国民の理解を丁寧に求めつつ,行動制限の強化を含め,機動的に対応します。

  (以上岸田201212

 

 せっかく抜本的に強化された司令塔機能の下で行動制限が強化されるというのですから,行動制限強化のため(罰則を設け,又は義務を課し,若しくは国民の権利を制限するため)の新規立法がされるのでしょうか。熱烈なファンがなお多そうでもある強力な封城・ロックダウン(der Lockdown)がいよいよ法制度として我が国にも導入されるのでしょうか。しかし,「国民の理解」を前提に「機動的」に対応するというのですから,大袈裟な法的強制ではない従来からの臨機的な自粛要請の手法をより効果的に行うということに落ち着くようでもあります。

そうであると,そこでの「丁寧に求め」は,おいみんなが迷惑するぞ,みんながいやな思いをするぞ云々といった利他道徳的説得がよりもっともらしく,かつ,より執拗に行われてその必達が期されるということになりそうです(しかし,そこでいわれる「みんな」とはそもそも何者なのでしょうか。当該話者が,利己的にそこに含まれていることは確実ですが。)。その場合,理解不能者又は理解した上でむしろ理解したがゆえに賛同しない者の存在は,およそあり得べくもない無能漢又は不道徳漢として,想定されざることとなるのでしょう。すなわち,「若者も,高齢者も,障害のある方も,男性も,女性も,全ての人が生きがいを感じられる,多様性が尊重される社会を目指します。」とは言われるものの(岸田201212),それは,多様な対象を,彼らに共通の「理解」を通じて同一の「正しい」態様・方法をもって振る舞わせることによって(この場合は,白いマスク花盛りの新しい生活様式(die neue Lebensweise)に従わせることによって,ということになるのでしょう。)「尊重」するものであって,それは可能であるし,さらにはそうすればみんな一緒,みんな同じということになって重ね重ねいいことじゃないかね,ということになるのかもしれません。

 

(2)「御理解」と鉄道運輸規程2条と

 ところで,「理解を丁寧に求め」られついでにいえば,筆者が鉄道の電車に乗っていていつもうんざりするのは「皆様の御理解・御協力をお願い申し上げます。」と繰り返される車掌による車内放送中の「御理解」の部分です。鉄道営業法(明治33年法律第65号)2条で「本法其ノ他特別ノ法令ニ規定スルモノノ外鉄道運送ニ関スル特別ノ事項ハ鉄道運輸規程ノ定ムル所ニ依ル/鉄道運輸規程ハ国土交通省令ヲ以テ之ヲ定ム」と根拠付けられている鉄道運輸規程(昭和17年鉄道省令第3号)2条に「旅客,貨主及公衆ハ鉄道係員ノ職務上ノ指図ニ従フベシ」とあるので,車掌のする正当な「職務上ノ指図」に「御協力」して従うことは旅客の当然の法的義務である,したがって,いちいち車掌が「御理解」までを要求するのは無用のことであり,かつ,こちらも「御理解」するためには脳を働かせなければならないので疲れる余計な面倒である(脳は大量にエネルギーを消費します。),また,理解はしても賛同できないという結論に至ってしまった場合においてそれでも鉄道営業法令上の義務として従わねばならないときは,理解しなければ感ずることのなかった,あらずもがなの不快な思いをしなければならないことになってしまう,というわけです。

「御理解」まで馬鹿丁寧に求めるのは,その車掌の当該要請が正当な職務上ノ指図でないからでしょうか。しかし,そうであれば,そんな余計な事項について,うるさいばかりの車内放送はするな,ということになります。

「御理解」までをも下手(したて)になって求めずとも,そもそも「御協力」を求めたにもかかわらず「車内ニ於ケル秩序ヲ紊ルノ所為アリタル」けしからぬ旅客については,鉄道係員において無慈悲に「車外又ハ鉄道地外ニ退去セシ」め,かつ,「既ニ支払ヒタル運賃ハ之ヲ還付セス」ということでよいのでしょう(鉄道営業法4214号・2項)。

なお,話してもらえば分かる風にもっともらしく「お前の言うことは理解できないから従わない」と言う人が間々いますが,実はそういう人は「従わない」という結論を既に決定してしまっている場合が多く,そうですかやはりまず御理解していただくことが必要なのですねとこちらがナイーヴに合点してしまって改めて理解を求めて一生懸命理屈をるる説明しても,先方ははなから「理解」しようなどとはしてはくれず,残念かつ悲しい思いをすることになるようです。(理屈の理解以前に,こちらが下手に出たことそれ自体に満足して「御協力」に転じてくれればよいのですが。)

 

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1 令和3年5月の思索:新型コロナウイルス感染症問題猖獗,ナポレオン歿後200周年及び東京オリンピック問題

 令和の御代(みよ)になってからの日本の4月は,光輝く新学年・新学期を迎えての若さ(みなぎ)放埓(ほうらつ)の季節というよりは,新型コロナウイルス感染症なる空前の業病(ごうびょう)(はら)うべく連年発せらるるところの「緊急事態宣言」を各自粛然として拳々(けんけん)服膺(ふくよう)し,「世界」に遅れぬ高い意識に導かれつつ,人と地球とに優しい深い思いやりの心をもって,「新しい生活様式」を真摯(しんし)かつ厳格に斎行するという気高い精神性に満ちた季節となりました。当該「様式」には,マスクを着用し,かつ,同時に食事もするというが(ごと)き高難度の(いん)(じゅ)的儀礼までもが含まれます。アルコール性飲料の提供は厳禁ですから,もちろんしらふです。同月末から5月初めにかけての連休の時期においても,忠良なる我が日本国民は,門扉を(ちぬ)る必要はありませんがマスクを着用して“STAY HOME”をしつつ,業病の(すぎ)()しを待こととなりました

 

  Transibit enim Dominus percutiens homines qui coronavira non metuunt;

    cumque viderit integumentum medicum in ore,

    transcendet eum et non sinet percussorem ingredi domum ejus et laedere.

(cf. Ex. 12, 23)

 

 とはいえ,自宅にこもってばかりいると辛気臭くなります。今(2021年)からちょうど200年前の182155日に南大西洋の孤島セント・ヘレナで死亡したナポレオン・ボナパルト幽囚の憂苦は,かくの如きものたりしか。つれづれのまま,セント・ヘレナ島には現在新型コロナウイルス感染症は伝播していないのかなとか,ラテン語の“virus”(単数主格)は当該語形(単数属格は“viri”)にもかかわらず男性名詞ではなく中性名詞であって,かつ,古代にはその複数形がなかったところ,兇悪の変異株が多々発生していて複数として表現したいときにはその複数主格・対格の形は“viri”となるのかそれとも“vira”となるのかというような細かいことで悩んだりします(後者のようです。)。セント・ヘレナ島についていえば,同島政府の2021414日付け“Coronavirus (COVID-19) IEG Update”というものを見るに“Management of the first positive cases of COVID-19”(「最初の新型コロナウイルス感染症陽性事例への対処」)という見出しの記事があるので,いよいよ同島にも新型コロナウイルスが上陸したのかと,ざわざわ思いつつ読んでみれば,その結語は,「セント・ヘレナのコミュニティに対するリスクは回避されました。セント・ヘレナは新型コロナウイルス感染症非汚染地のままです。」(“The risk to St Helena’s community was avoided and St Helena remains COVID-19 free.”)という平穏なものでした。ナポレオンは随分文句を言ったようですが,現在のセント・ヘレナは,何とも素晴らしい健康地であるようです。

今年の夏の東京オリンピックはどうなるのだろうかとも心配になります。海外からの観客は謝絶ということですから地元の日本人観客も締め出されての無観客開催は最悪の場合仕方がないとしても,来日できない海外の有名アスリートさまたちが大勢になって,日本人選手だらけの競技ばかりとなってしまってはカッコ悪いなぁ,盛り上がらないなぁ,などとの弱気の意見も出て来そうです。

 

  「わたしは,主に,スポーツイベントをテレビ局に買わせる仕事をやっていたんですが,それで,言いようのないコンプレックスが知らない内に溜まってしまったんです,最初は,アメリカン・フットボールにしてもテニスにしても陸上にしても,金で横つらを引っ叩いて,わが崇高なる日本民族の前で芸をさせてるんだからこんな愉快なことはないと自分に言い聞かせていたんですが,そのうち何だか自分達が昔のバカ殿になったような気がして・・・向こうのスポーツ選手はどうしようもなくきれいなんですよ,うまく言えないんですが,おわかりいただけますか?」(村上龍『愛と幻想のファシズム 下』(講談社・1987年)318頁)

 

 わが崇高なる日本民族の前で芸をすべき,どうしようもなくきれいな向こうのスポーツ選手がいなければ,横つらを引っ叩くつもりのオリンピック大予算も,裏を返せば後進世代に丸投げされる単なる大借金であったものかとの不穏な正体が我々の意識の中に浮かぶばかりとなりましょう。海外から御光臨の有名アスリートさまたちの欠けた,祝祭感無き地味な諸競技であっては,それらを見て,御機嫌のバカ殿となって「あいーん」とはしゃぐこともまた難しい。

これらの冴えない見通しを前にしてもやもやと鬱屈する感情の捌け口は,後期高齢者の方々等の尊い命を守らんとする気高い姿勢の道徳的高みから発せられる「コロナなのに不謹慎だっ!」との魂の叫びとなります。その場合においては,既に多々味噌がついていて迷走感グダグダ感のあるオリンピック東京大会の開催の中止ないしは延期の提案を凛然として申し立てるという角度を選択するのが,高い意識の様式美となるのでしょうか。我が()えある皇紀2600年の年に開催が予定されていた1940年オリンピック東京大会は,大陸における漢口作戦準備中の1938715日に,早々返上が決定されています。当時は(かしこ)くも,昭和天皇(おん)自ら真摯な自粛に努めておられところでした

 

1938712日〕 去月22日に〔池田成彬〕大蔵大臣より経済事情等に関する奏上を御聴取の後,ガソリンを始め種々の節約につき注意を払われ,御自身の御食事についても省略のことに及ばれる。これにつき,この日,侍従長百武三郎は,国家安危を軫念(しんねん)され率先して範を示されることは(おそ)れ多き限りであるものの,常時余りに局部的事項につき御軫念になることは玉体に影響し,重大な御政務に対する精力の集中が不十分となる(おそれ)もあり,また聖旨の影響は(やや)もすれば極端に走ることから,あるいは萎縮退嬰に陥り(かえっ)て成績が挙がらないこともあり,この重大な時局においては,各有司を信頼され,泰然とあらせられることが大切と考える旨を言上する。天皇は,侍従長の言上を御傾聴の上,御聴許になる。(宮内庁『昭和天皇実録 第七』(東京書籍・2016年)598頁)

 

大陸における「暴戻ぼうれい」を「ようちょう」する戦いに伴う困難は,(かしこ)き辺りも「泰然」とすることが許される程度のものだったようです。これに対して,現在我々が直面している大陸発の新型コロナウイルスに対する撲滅の戦いにおいては,「極端に走る」人民の「萎縮退嬰」ごときを小賢しく恐れて気を緩めることはおよそ許されません。

 

2 1904年のセント・ルイス・オリンピック

しかし,筆者は,今次オリンピック東京大会がそれに対照されるべき近代オリンピック夏季大会の前例は,中止された1916年(ベルリン),1940年(東京→ヘルシンキ)及び1944年(ロンドン)の各幻のオリンピックではなく,1904年に71日から1124日まで(国際オリンピック委員会系のhttps://olympics.com/による。日本オリンピック委員会の「オリンピックの歴史(2)」ウェブページでは「1123日」までとされています。A&E Television Networks社のhistory.comに掲載された記事(“8 Unusual Facts About the 1904 St. Louis Olympics”, August 29, 2014 (updated: August 30, 2018))においてEvan Andrews記者は,「後にされた見直し(a review)においては,1904年大会は公式には(officially71日から1123日まで続き,かつ,94のイベントからなるものであったと結論されることとなった。」と述べています。)の5箇月間近くをかけてだらだら,かつ,ばらばらと開催された第3回のセント・ルイス・オリンピックである,とここに強く主張したいところであります。(ただし,セント・ルイス大会の独自性(“Memorable? Absolutely.”「記憶に残る?全くそのとおり。」)を強調するAP通信社のDave Skretta記者は,「米国で開催された最初の夏季オリンピック大会は,それより前にヨーロッパであったものとはまるで違った相貌を呈していた。/あるいは,他の場所でこれからまた行われるものにも。」と述べてはいます(“St. Louis Olympics was really World’s Fair with some sports”, July 25, 2020)。)


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Pierre de Coubertin: “Je n’ai pas visité la cité de St. Louis en 1904.”

 

(1)参加国・地域の多寡心配無用

まず,参加国・地域数(「チーム」数)が少なくなっても気にすることはありません。

olympics.comによれば,夏季オリンピック大会の参加「チーム」数が200を超えたのは2004年のアテネ大会(第2次)からにすぎず(同大会で2012008年の北京及び2012年のロンドン(第3次)各大会はいずれも2042016年のリオ・デ・ジャネイロ大会で207),100を超えたのは1968年のメキシコ大会からで(同大会で1121972年のミュンヘン大会では1211984年のロサンゼルス大会(第2次)で1401988年のソウル大会で1591992年のバルセロナ大会で1691996年のアトランタ大会で1972000年のシドニー大会は199。なお,1976年のモントリオール大会及び1980年のモスクワ大会は,それぞれ92及び80であって,いずれも100に達していません。),そもそも最初の1896年アテネ大会は,14「チーム」(Juergen Wagner氏のhttps://olympic-museum.de/によれば,当該14「チーム」は,オーストラリア,オーストリア,ブルガリア,チリ,デンマーク,フランス,ドイツ,グレート・ブリテン及びアイルランド,ギリシア,ハンガリー,イタリア,スウェーデン,スイス並びに米国とされています。)及び選手総数241名で,簡素に始まったのでした。

しかして,史上最少参加「チーム」数を誇るのが,我らがセント・ルイス大会であって,その数はわずか12olympics.comによる。ただし,日本オリンピック委員会によれば「13カ国」。なお,上記Wagner氏は,オーストラリア,オーストリア,カナダ,キューバ,フランス,ドイツ,グレート・ブリテン,ギリシア,ハンガリー,イタリア,ノルウェー,ニューファウンドランド,南アフリカ,スイス及び米国の15か国から参加があったとしています。しかし,オーストラリア・オリンピック委員会(olympics.com.au)は,英国及びフランスからの参加はなかったものとしています。)。12であれば,1776年の夏にフィラデルフィアにおいて独立宣言にその代表が署名した北米の邦の数よりも少ない。

なお,セント・ルイス大会に何か国から参加があったのかの数字が1213又は15とグダグダになっているのは,「〔1908年に〕ロンドンで開催された第4回大会から,オリンピックへの参加が各国のオリンピック委員会を通して行われるようになりました。それまでは個人やチームで申し込めば参加できたのです。」ということであって(日本オリンピック委員会),換言すれば,それまでは「参加国数」などという概念は存在していなかったということゆえなのでしょう。脚力自慢・腕力自慢が勝手に集まって開かれる,飛び入り歓迎の運動会の如し。グダグダながらも,牧歌的でよいですね。牧歌的運動会といえばセント・ルイス・オリンピックでは綱引き競技も行われ,米国(ミルウォーキー,ニュー・ヨーク及びセント・ルイス2),ギリシア及び南アフリカから計6組が参加,ギリシア及び南アフリカは早々に脱落して,優勝は91日の決勝戦でニュー・ヨーク・アスレチック・クラブを破ったミルウォーキー・アスレチック・クラブ,2位及び3位は,ニュー・ヨーク組が順位決定戦に出てこなかったため,地元セント・ルイスの2組となっています(Andrews)。高校の物理によれば,綱引きは,要は摩擦力の増す体重の重い方が勝ちということでしたが,当時から米国には肥満者が多かったのでしょうか。


NY v. Milwaukee

New York Athletic Club v. Milwaukee Athletic Club   (Missouri History Museum)(過度の肥満者はいないようです。)


 ちなみに,olympics.comによれば,セント・ルイス大会及びアテネ大会(第1次)に次いで参加「チーム」数が少なかったのは,1908年ロンドン大会(第1次)の22,これもまだグダグダ時代の1900年パリ大会(第1次)の24及び大日本体育協会を通じた参加(東京帝国大学の三島弥彦及び東京高等師範学校の金栗四三)が我が国から初めてあった1912年ストックホルム大会の28ということになります。

 セント・ルイス大会における参加選手総数はolympics.comによれば651名ですが,前記Andrews記者は,当該数字を630名とした上で,そのうち523名が米国からの参加者であり(83パーセント),かつ,半数以上の競技が地元選手のみによって行われていたものと述べています(ただし,いまだ米国への帰化が認められていないヨーロッパからの移民も横着に米国選手として取り扱われていたようで,2012年に至ってもなおレスリングの優勝者2名について,ノルウェーは,同国の国民であるものと認められるべきだと国際オリンピック委員会に申し立てているそうです。)。カナダからの参加者は43名とされています(olympic.ca)。

 セント・ルイス大会への北米外からの参加が低調だった原因については,「ヨーロッパから離れたアメリカでの開催のため,〔1900年の〕パリ大会よりも出場選手数が減っています。」とされています(日本オリンピック委員会)。確かに,ミシガン湖に面した当初の開催予定地であるイリノイ州シカゴならばともかくも,更に内陸に位置するミズーリ州セント・ルイスは交通至って不便であったわけですが,これに加えて,当時戦われていた日露戦争の影響もあったことが挙げられています(Skretta)。やはり日本が悪いのです。


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Kanô Jigorô: “MCMXII anno domini Holmiae fui.”

 

(2)メダル寡占遠慮無用

オリンピックの金銀銅メダルの授与はセント・ルイス大会から始まりますが(olympics.com),遠慮も会釈も無い米国人は,金メダル97個中の76個と,その78パーセント強を図々しく確保しています(olympics.com“Medal Table”から筆者が数字を手ずから拾って電卓計算したもの)。ただし,ここの数字も実はグダグダで,Skretta記者はセント・ルイス大会の96個の金メダル中78個を米国勢が得たものとし,オーストラリア・オリンピック委員会は77個を米国が得たものとしています。また,同委員会によると,同大会におけるオリンピック競技と一般的に認められている91イベント中49は米国人のみが参加したものであったとされています。

この図々しい米国人が参加しなかったのが1980年のモスクワ大会です。当該大会において最も多く金メダルを確得したのは開催国であるソヴィエト社会主義共和国聯邦でありましたが,米国人らがいなかったにもかかわらず,その数及び比率は,全204個中の80個,39.2パーセントでありました。人類の理想社会を築くべきものたりし社会主義の力をもってしても,オリンピックでの全勝は難しい。

 今年の夏に東京でオリンピックが開催されるのであれば,我が日本選手団は,1904年の米国選手団の如く無慈悲無作法にメダルの荒稼ぎをすることになるものかどうか。当該荒稼ぎの結果,国際的非難ないしは揶揄を受けることになってしまわないかどうか。しかしこれは杞憂でしょう。20222月に開催される北京冬季オリンピック大会の成功必達を期する中華人民共和国オリンピック委員会としては,先陣の血祭りたるその前年の夏季大会には精鋭すぐって我が帝都に大選手団を派遣してくるでしょうから(確か,同国においては,新型コロナウイルス感染症は既に制圧済みとのことでした。),新型コロナウイルス感染症蔓延で腰砕けになった他の諸国からの有力選手の参加がたとえなくとも,我らの日本人選手らが,全体の8割,4割の金メダルをごっそり確保してウハウハということは,残念ながらあり得ないことでしょう。

 

(3)1年延期の気兼ね無用:ルイジアナ購入百周年博覧会に係る1年のずれ

 でも2021年の東京オリンピックは1年延期されてしまった結果であるけれども,1904年のセント・ルイス・オリンピックはそういう目に遭っていないからね,そこは違うよね,という意見もあるかもしれません。しかし,実はここにおいても両者間には共通性があるのです。

セント・ルイス・オリンピック自体は延期されてはいないとしても,当該大会がそれに併催されていたセント・ルイス万国博覧会(ルイジアナ購入百周年博覧会:Louisiana Purchase Exposition)は当初1903年開催の予定が,1年延期されていたのでした(u-s-history.comは,博覧会の規模が大き過ぎて延期を余儀なくされたものと説明しています。190228日付小村外相宛高平公使公信第19号においては「聞ク所ニ拠レバ本件博覧会ノ招待状発送方余リ遅カリシヲ以テ欧州諸国中露墺ノ如キハ出品準備ノ余日ナキヲ理由トシテ賛同ヲ謝絶シ他ノ諸国ヨリハ未タ確答無之」という状況が報告されています(加藤絵里子「セントルイス万国博覧会における日米関係~世紀転換期の日本の外交的意図に着目して~」お茶の水史学61号(20183月)11頁)。)。米国のトーマス・ジェファソン政権を買主としてフランス共和国のナポレオン・ボナパルト政権がルイジアナ(現在のルイジアナ州を含むが更にその北西方向に広がるミシシッピ川からロッキー山脈までに及ぶ広大な領域)を売却したのは1803年のことだったのです。

なお,セント・ルイスの博覧会とオリンピックとではどちらが親亀でどちらが子亀かといえば,博覧会が親亀です。既に準備が進んでいた博覧会と併せてオリンピックをも開催するために,セント・ルイス側は国際オリンピック委員会に圧力をかけて,シカゴからオリンピックの開催権を奪ったのでした。

 

(4)そもそものルイジアナ購入について

 

   1803411日,モンロー〔米国特使。後の第5代大統領〕がパリに到着する前に,フランス外相タレイランはリビングストン〔駐仏米国公使。独立宣言起草委員の一人〕を呼び出し,米国はルイジアナの購入に興味があるかと訊いた。同日,それより前にナポレオンは,彼の大蔵大臣であり,かつ,ジェファソンのフィラデルフィアにおける旧友であるバルベ=マルボワ〔フィラデルフィア駐在書記官のバルベ=マルボワの問いに答える形でジェファソンの『ヴァジニア覚え書』は書かれています。〕に対して,当該大領域(テリトリー)を売却する意思がある旨告げていた。は,サント・ドミンゴ〔ハイチ〕再征服計画を放棄しよう。英国との戦争再開が近いが,予は,ルイジアナは北方カナダからの英国の侵入に対して脆弱であるものと見ている,と。その余のことについては,バルべ=マルボワはわきまえていたナポレオンには金が必要なのだ。430日までにモンロー及びリビングストンは,1500万ドルでルイジアナを米国に譲渡する合意に頭文字署名した。フランス側〔バルべ=マルボワが交渉担当〕は2日後に署名した。(Willard Sterne Randall, Thomas Jefferson: a life. (HarperCollins, New York, NY,1994) pp.566-567

 

ナポレオンのいうサント・ドミンゴ(フランス語風には「サン・ドマング」)の再征服とは,名目的にはなおフランスの版図内にある同島におけるトゥッサン・ルーヴェルチュール率いる黒人自立政権を打倒する計画でした。当時の同島は,貴重な砂糖利権の中心でありました。ナポレオンの義弟であるルクレール将軍を長とした2万の軍勢が同島に派遣されていました。「ルクレール(ポリーヌの夫)を司令官にしてサン=ドマングに出兵する/うまくいけばルクレールも出世させ/俺も国家も潤う」と,第一統領閣下は皮算用をしたものか(長谷川哲也『ナポレオン―覇道進撃―第3巻』(少年画報社・2012年)182頁)。

 

1799年,ナポレオン・ボナパルトがフランスで政権を奪取し,フランス帝国の名で知られる瞠目の冒険を開始した。本質的にそれはヨーロッパの事件であったが,ナポレオンの野心には彼のエネルギー同様限界が無かったので,彼はその計画にアメリカをも加えるべく時間を割いた。彼の基本的考えは,スペインにルイジアナの返還を強いることによって〔ルイジアナは,ルイ14世にちなむその名が示すとおり元はフランス領でしたので「返還」ということになります。フレンチ=インディアン戦争(1754-1763年)の結果ルイ15世のフランスは北米から撤退することとし,ミシシッピ川以西のルイジアナは同盟国スペインに帰属することとなったものです。なお,ミシシッピ川以東のルイジアナは英国に帰した後,アメリカ独立戦争を終結させた1783年のパリ条約で米国領となっていました。〕,フランスを再び新世界の強国とすることであった。1800年,適切な恫喝的外交(bullying)が効を奏して,スペインはナポレオンの欲した合意に署名した。〔とはいえ,当時のスペイン国王カルロス4世の一族についての「すごい/こいつら全員馬鹿だ」との評価は,文字どおりの漫画的誇張なのでしょう(長谷川哲也『ナポレオン―覇道進撃―第9巻』(少年画報社・2015年)118頁)。〕ただし,実際の移譲は,ナポレオンが総督及び駐屯軍をニュー・オーリンズに置くことができるときまで延期されていた。〔当該実際の移譲は,18031130日のこととなりました(明石紀雄「ジェファソンと「ルイジアナ購入」」同志社アメリカ研究10号(19743月)15頁註(22))。〕

〔略〕メキシコ湾におけるフランスの作戦行動のためにはサン・ドマング島の基地の使用が必要であったが,同島の政治情勢に鑑みるに,それが可能であることをだれも確信することはできなかった。〔略〕

〔略〕

ルクレールは1802年の早期にサン・ドマング島に到着し,夏までに同島の状況をよくコントロールの下に置いた。トゥッサンは逮捕され,フランスに檻送され,翌年同地で死んだ。サン・ドマングの大部分はフランス軍によって占領された。〔略〕

〔略〕

〔略〕次いで彼〔ナポレオン〕はサン・ドマングからの報告を受け,考えを変えた。その年のうちに彼が同島に送った35千の兵員のうち,ルクレール将軍〔1802112日歿〕を含む3分の2が黄熱病のために斃死していた〔ナポレオンがルクレールの死を知ったのは,18031月初めとされています(明石7頁)。〕。フランスによる同地の支配を維持するためには同じような数の兵員をまた派遣しなければならないが,彼らがよりうまくやり,又はより長く生きるとの保証は無かった。更に悪いことには,フランスにとっての機会の扉が閉ざされつつあることが明らかであった。英国は,ナポレオンによるヨーロッパ秩序に再び挑戦する準備をしており,フランスの海運にとって,遠からず海が安全なものとはならなくなる成り行きであった。この情勢下にあって,彼がサン・ドマングを保持し得るということは難しかった。ルイジアナについてはいわずもがなである

Colin McEvedy, The Penguin Atlas of North American History to 1870. (Penguin Books, 1988) p.68)。

 

仏英間のアミアンの和約(1802327日締結)による平和は,18035月までしか続きませんでした。

ボナパルト第一統領がもはや執着しなくなったサン・ドマングにおいては,「世の人の熟く知れる如く,1803年に将官デツサリンが三万の黒人を率ゐてポオル,トオ,プレンスを襲ひしをり,島に住みたる白人といふ白人は悉く興りてこれに抗せんとしき。宜なり,今此島にて仏人の手に残りたるは此一握の土のみにて,これをしも失はん日には白人は夷滅を免かれがたかるべければ。」というような状況となりました(ハインリッヒ・フォン・クライスト『悪因縁』(森鷗外訳『鷗外選集第16巻 翻訳小説一』(岩波書店・1980年)105頁)。「夷滅」とは,一族を皆殺しにすることです。)。その際,「家は大路のほとりに在りて,白人雑種などの余所に奔らむとするが立寄りて,食を乞ひ,宿を求めなどするを,おのれが帰りこむまでは欺きて停めおかせ,帰りて直ちに殺すを常と」していた(クライスト105頁)「おそろしき老黒奴」コンゴ・ホアンゴ(ゴールド・コースト出身のアフリカ人であって,サン・ドマングで「黒人の一揆起りしをり」,それまでに「自由なる身」としてくれ「隠居料あまた取らせ,猶飽かでや,遺言して若干の産を与へむ」とまで言ってくれていた「主人が頭を撃ちぬきて,主人の妻が三たりの子を伴ひて難を避けたりし家に火をかけ,ポオル,トオ,プレンスに住める遺族の手に落つべき開墾地を思ふまゝにあらし,この領内に立たる家をなごりなく打毀ち,相識りたる黒人をつどへて武器をとらせ,これを率ゐて近郷に横行し,黒人方の軍を援けき。」という所業の者)の不在宅に,同人の「妾のやう」なる「あひの子バベガン」(同104頁)に正に欺かれて停めおかれていたPort-au-Princeへ向かう途上のスイス人・グスタアフ・フオン・デル・リイドは,バベガンとフランス商人との間に生まれた娘である15歳のトオニイ・ベルトランに対し,首尾よく共に一夜を過ごした仲(同118頁)となったにもかかわらず,種々悶着のあった後,「歯ぎしりしてトオニイに向ひ,火蓋を切て放しつ。/弾丸はトオニイが胸のたゞ中を打貫きたり。/〔略〕手に持ちし短銃を少女が体に投げつけ,よろめきながら足を挙げてしたゝかに蹴り,一声この淫婦と叫」ぶ(同133-134頁)という無残無慈悲な行為をなし,更には「短銃もてわれと我脳を撃ちぬいたり。再度の変に驚慌てたる人々,いまは少女が屍を打棄てゝ,グスタアフを救はむとしたれど,憫むべし,頭蓋は微塵に砕けて,短銃の火口を我口にあてしことなれば,血にまみれたる骨の片々は,かなた,こなたの壁に飛びかゝりて,そがまゝにつき居たり。」(同136頁)というグダグダ情態を惹起しています。無論,サン・ドマングの白人残存勢力は,ほどなく英雄デサリーヌに打ち破られます。フオン・デル・リイドの親戚「一族英吉利ぶねに便乗して,ふる里なる瑞西にかへり,残り僅かばかりの金にてリギのあたりに地を買ひて住みぬ。」ということにはなりました(クライスト137頁)。デサリーヌは,大西洋の彼方でナポレオンがフランス皇帝となった1804年(5月18日即位ですが,ダヴィッドの絵で有名な戴冠式は同年122日のこととなりました。),こちらはハイチ皇帝となっています(108日戴冠)。

ハイチ北方の米国は,なお1803年の秋です。

 

   彼〔ジェファソン〕が第8議会を18031017日に召集した際,彼はルイジアナ購入を求めたが,憲法問題には言及しなかった。同日上院に提出された当該条約は,わずか3日後に批准された。〔18031020日の上院における表決結果は賛成24名,反対7名であり,批准書の交換は同月21日であったそうです(明石3頁)。〕

   1220日にニュー・オーリンズにおける儀式をもってフランスが米国に対して正式にルイジアナを移譲した際ジェファソンは,議会演説において,「自由の帝国(the empire of liberty)」の領土並びに「我々の子孫に対するその豊富な供給物及び自由の恵沢のための広大な領域」の倍増を祝った。これらの自由については,奴隷制が繁栄することができる領土を倍僧する自由を有する白人に対してのみ及ぶものであることには疑いはなかった。1804年にコネティカットの一上院議員が,奴隷制を禁ずるようにルイジアナ領土(テリトリー)の組織を行う修正案を提出した。18031021日から1804320日まで,米国議会はルイジアナ領土の統治に必要な規定及び規則を審議していました(明石3頁)。〕ジェファソン及び〔民主〕共和党員は当該提案を支持せず,代わりに,外国からの奴隷の輸入を禁ずるというはるかに生ぬるい施策を採用した。(Randall, p.567

 

(5)下品な偏見と高い意識と

 1904年のセント・ルイス・オリンピックはまた,あからさまに人種差別的とされる2日間の「人類学の日(Anthropology Days)」の見世物によって悪名が高いところです。博覧会の「人間動物園(human zoo)」展示に参加していたアイヌ,パタゴニア人,ピグミー,イゴロト族(フィリピン),スー族等が,お金をあげるからと言われて,走り幅跳び,弓術及び槍投げのほか,棒登り,泥投げ勝負等をさせられています。参加者は碌に競技指導を受けておらず,出来栄えは惨めなものだったようで,当該見世物の主催者であるジェイムズ・サリヴァンは「未開人たちは,運動競技能力の観点からすると,過大評価されていたものである」と得々として語ったものと伝えられています。(Andrews

下品だったようですね。

翻って2021年の今次オリンピック東京大会に向けては,差別問題は,差別的意識の抱懐が少しでも疑われた段階で既に当該被疑者が直ちに社会的に抹殺されてしまうという,高い意識に基づいた極めて厳格な取扱いを受けつつあります。あらわれとしては一方は偏見の不当な放置,他方は厳格な是正,と逆方向になっていますが,差別問題が問題になるという点で,やはり両大会は,宿命として密な関係を有しているものといえましょう。

なお,日本は,セント・ルイス・オリンピックには参加していなくとも,博覧会には「1900年のパリ万博に次ぐ80万円の経費を計上して参加」していました(宮武公夫「人類学とオリンピック―アイヌと1904年セントルイス・オリンピック大会―」北大文学研究科紀要108号(200212月)3頁)。しかして,「人類学の日」の開催日は812日及び同月13日で(宮武5頁),18種類の競技が行われたところ(宮武7頁),日本から来ていた,クトロゲ,ゴロ,オオサワ及びサンゲアの4名のアイヌ男性が(宮武6頁),16ポンド投げ,幅跳び,野球投げ,槍投げ及びアーチェリーの5種目に参加していました(宮武8頁)。そこで,彼らこそ「最初にオリンピックに参加した「日本人」と考えるのが妥当ではないだろうか」と主張されています(宮武17頁)。「20世紀初頭のオリンピックは,帝国主義と植民地主義を支えた人種理論に彩られていたとはいえ,多くの人々を一つの世界規模でのスペクタクルの中に包摂するだけの,規模の大きさと異種混合を許すだけの普遍主義的な受容性を持っていた」ところです(宮武19頁)。

ゴロこと辺泥(ぺて)五郎生涯については家族による興味深い講演記録あります近森アイヌ文化祖父・辺五郎足跡たどってhttps://www.ff-ainu.or.jp/about/files/sem2007.pdf)。


(6)東京=セント・ルイス=武漢

 なお,最後に付け加えれば,セント・ルイス市は,同市でオリンピックが開催された年から100年後の2004年の927日以来,中華人民共和国湖北省武漢市と国際友好交流城市関係にあります。後者は,現在流行の新型コロナウイルス感染症とは浅からぬ因縁のあるかの都市です(世界的なlockdownの流行は,「武漢封城」に触発されたchinoiserieでしょう。1938年の我が漢口作戦の漢口は,現在の武漢市の一部です。)。ただし,国際友好交流城市関係は友好城市(姉妹都市)関係とは違うもののようです。しかし,セント・ルイス側は,余り頓着せずに,両市はsister citiesであるものと観念しているようです。Budweiser Beerの工場が,武漢にもあるそうです。Sisters in Budsuitですね。

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1       Semper enim Sinas habetis vobiscum

       In 2020 we have been fundamentally shaken by the covid-19 “pandemic”, originated from Wuhan, People’s Republic of China (PRC). This writer, entrapped in the covid-19-induced economic depression, feels an acute urge to skip the remainder hujus anni horribilis and jump immediately into an uninfected annum novum.

         Next year also, however, the PRC shall still stick around you. The Chinese Communist Party will celebrate the glorious 100th anniversary of its proud foundation (in July 1921 its founding congress was held in Shanghai (the venue was in the unpatriotic French Concession, though (see Miyazaki Ichisada, Chinese History II (2 vols.) (Iwanami, Tokyo, 2015), p.280); more precisely, on July 23rd at 106 Rue Wantz, according to pp.3-4, “Special Report: The Chinese Communist Party” by James Miles, June 26th 2021, The Economist)) with a ruddily healthy economy unscathed by the indigenous covid-19 and is expected to further strengthen its benevolent grip on such still-to-be-educated nations as the Uyghurs, the Tibetans, etc., that happen to exist within the sphere of the PRC. (see “Torment of the Uyghurs”, October 17th, 2020, The Economist)

         As to the minority nations in the PRC, Article 4 of its Constitution solemnly stipulates: “Each autonomous region of such nations constitutes an inseparable part of the PRC. (各民族自治地方都是中華人民共和國不可分離的部分)” (this writer’s translation. The PRC Government’s translation is: “All ethnic autonomous areas are inseparable parts of the People’s Republic of China.”) Id est, those non-Han nations are deemed to be integral elements of the PRC.

         In coming years, we seem to be destined to ask ourselves again and again this one haunting question: “What is China?”

 

2       Washington Conference, Nine-Power Treaty, and Root Resolution

         The year 2021 also marks the centenary of the Washington Conference of 1921-1922, at the end of which (February 6th, 1922) the Treaty between the Nine Powers concerning China (Nine-Power Treaty) was signed. (The Nine Powers are: Japan, the United States of America, Belgium, Great Britain, the Republic of China (ROC), France, Italy, the Netherlands, and Portugal) Though scoffed as “actually an agreement on its [China’s] despoliation” (Jian Bozan et al., A Concise History of China (Foreign Languages Press, Beijing, 1986), p.151), in the said treaty “The Contracting Powers, other than China, agree / (1) To respect the sovereignty, the independence, and the territorial and administrative integrity of China” (Article 1). Consequently, during 1930s and 1940s, the Nine-Power Treaty was repeatedly invoked by those who scolded Japan’s “imperialist” adventures inside the ROC. (For example, as the Manchurian Incident was in progress, a note of U.S. State Secretary Henry L. Stimson dated January 7th, 1932 and addressed to both the Japanese government and the ROC government stated: “[the American Government] cannot admit the legality of any situation de facto nor does it intend to recognize any treaty or agreement entered into between those Governments, or agents thereof, which may impair the treaty rights of the United States or its citizens in China, including those which relate to the sovereignty, the independence, or the territorial and administrative integrity of the Republic of China, or to the international policy relative to China, commonly known as the open door policy”. In the “Quarantine” speech of October 5th, 1937, when “Without a declaration of war and without warning or justification of any kind, civilians, including women and children, are being ruthlessly murdered with bombs from the air”, “ships are being attacked and sunk by submarines without cause of notice”, and “Innocent peoples and nations are being cruelly sacrificed to a greed for power and supremacy which is devoid of all sense of justice and humane consideration”, U.S. President Franklin Roosevelt lamented: “It is true that they [the questions] involve definite violations of agreements, and especially of the Covenant of the League of Nations, the Briand-Kellogg Pact, and the Nine Power Treaty.”) Given such censures, one supposes naturally that an authentic definition of “China” must have been agreed on at the Washington Conference. In other words, precise delineations of the territory of the ROC must have existed as the logical and indispensable precondition when the respect of its very integrity was made a treaty obligation.

In fact, however, the clause was made intentionally vague and the very word “China” was used to that effect.

On November 16th, 1921, at the first meeting of the Committee on Pacific and Far Eastern Questions (CPFEQ) of the Washington Conference (for the regret of this writer, official minutes of the CPFEQ were not made (Japanese Ministry of Foreign Affairs (JMOFA), Japanese Diplomatic Papers: Far Eastern Questions at the Washington Conference (Tokyo, 1976), p.45)), Sao-Ke Alfred Sze of the ROC delegation proposed, as a première diplomatic manoeuvre of theirs, several general-principles as the basis of the CPFEQ’s discussion, Item1. (a) of which read as follows:

 

The Powers engage to respect and observe the territorial integrity and political and administrative independence of the Chinese Republic. (JMOFA, pp.45-46)

 

        On November 19th, 1921, at the second meeting of the CPFEQ, a general discussion concerning the Chinese question was held; wherein future Nobel Peace-Prize Winner (of 1926) Aristide Briand of the French delegation put forward the crucial question: La Chine, qu’est-ce que c’est? (What is China?) (JMOFA, pp.53, 55-56)

Following the general discussion, Nobel Peace-Prize Winner of 1912/13 and former U.S. Secretary of War, former U.S. Secretary of State, and former U.S. Senator Elihu Root of the U.S. delegation took the floor and, while proposing to draft himself a resolution concerning the Chinese question, observed as follows:

 

… while Mr. Briand asked what China is, it would be practically convenient for the proceedings of our talks if it can be understood to mean China Proper and a draft resolution thereon can be allowed to be produced accordingly. (JMOFA, p.56 (original: Japanese))

 

       Though Arthur James Balfour of the British delegation concurred with the U.S. Plenipotentiary, V. E. Wellington Koo of the ROC delegation objected:

 

         The Chinese territory is firmly defined by the Chinese constitution. Hence, it is difficult for the Chinese Plenipotentiaries to discuss such items that would entail alterations of the said provision of our constitution. China means both China Proper and the Outer Vassal Territories. China Proper comprises the Twenty-two Provinces. (JMOFA, p.56 (original: Japanese))

 

        Root rejected Koo by the following words and the committee chairman mandated the former U.S. State Secretary to compose a draft resolution.

 

         Here, we do not discuss the issues as Chinese citizens. Therefore, we are not bound by the Chinese constitution. I bear my own responsibility for the talks by myself. (JMOFA, p.56-57 (original: Japanese))

 

At this point (November 1921), Article 3 of the Provisional Charter of the ROC of March 11th, 1912, that was then in force (restored by President Li Yuan-hung on June 29th, 1916, superseding the May 1st, 1914 Charter of Yuan Shikai), stipulated as follows:

 

The territory of the ROC shall comprise the Twenty-two Provinces, Inner and Outer Mongolias, Tibet, and Qinghai. (中華民國領土爲二十二行省,内外蒙古,西藏,靑海。)

 

        Koo referred to this clause. The “Outer Vassal Territories (外藩)” he mentioned were Inner and Outer Mongolias, Tibet, and Qinghai. Xingjian (East Turkestan) was not included. The reason of Xinjian’s anti-intuitive exclusion was its administrative reorganization into a Province of the Manchu (Qing) Empire in 1884 after the internally and externally tumultuous 1870s (Moslem rebellions, Russian occupation of the Ili region, Ili treaties, etc.). Administratively, while a Province was ruled directly from the Imperial Capital, an Outer Vassal Territory was not. In addition, distinction and separation among the Provincial area and the Outer Vassal Territories were maintained as the linchpin policy of the Manchu Imperium.

        On November 21st, 1921, at the third meeting of the CPFEQ, Root produced his draft resolution, explaining: “…there is nothing novel in the contents. As to the ‘What is China?’ question, to avoid numerous disputes, I have adopted the simple expression of ‘China’.” (JMOFA, p.57 (original: Japanese))

        The first part of Root’s draft resolution read as follows:

 

          It is the firm intention of the powers attending this Conference:

1. To respect the sovereignty, the independence and the territorial and administrative integrity of China. (JMOFA, p.57)

 

        As the ROC delegation asked if “respect” included the meaning of “observe”, Root responded that “respect” was in fact a stronger expression than “observe”. (JMOFA, p.58 (original: Japanese)) The maintenance of the ROC government in Beijing is said to have been common interest of such powers attending the Washington Conference, since “The various imperialist powers continued to freely exploit the Chinese people and impose their will on Chinese affairs by manipulating the so-called ‘Central Government’ at Beijing …” (Bozan et al., p.133) John Hay’s famous Open Door policy of 1899 was in essence, as U.S. State Secretary Stimson explained to U.S. Senator William E. Borah in his letter of February 23rd, 1932: “(1) equality of commercial opportunity among all nations in dealing with China, and (2) as necessary to that equality the preservation of China’s territorial and administrative integrity.” (The underline is this writer’s)

        Since the powers that would express “the firm intention” in the resolution were, strictly speaking, those other than the ROC, on the request of the ROC delegation, an expression clarifying such intent was added to the original draft. (JMOFA, p.60)

        The Root Resolution (as modified on November 21st) was formally adopted at the fourth plenary session of the Conference on December 10th, 1921. (JMOFA, p.60)

        On February 2nd, 1922, the Root Resolution was transposed as “Article 1” into the draft Nine-Power Treaty. (JMOFA, p.353)

          On February 6th, 1922, the Nine-Power Treaty was signed.

         Later, with the evolution in the interpretation of the Nine-Power Treaty as an integral part of the disarmament-including Washington System, which was believed to be the precursor of the global Kellogg-Brian Pact of 1928, the object of attention concerning the respect of the territorial integrity of the said Treaty shifted to the means of infringement, rather than the location of the territory infringed. In 1932, according to the understanding of the then U.S. State Secretary, the Nine-Power Treaty was a treaty that “assured the nations of the world not only of equal opportunity for their Eastern trade but also against the military aggrandizement of any power at the expense of China” and was based on “the policy of self-denial against aggression by a stronger against a weaker power”. (Stimson to Borah, February 23rd, 1932)

 

3      Outside China Proper

        Though purposefully intended to avoid controversies, with the Root Resolution once published, the vagueness of the concept of “China” in the said resolution did not escape the notice of the talkative press. The Japanese delegation in Washington reported to Tokyo that many of them were questioning in their articles how far the so-called “China” encompassed territorially and whether Manchuria and Mongolia were included therein. (JMOFA, p.61)

        The intentional vagueness puzzling the press notwithstanding, it must have been well understood among the Nine Powers (the ROC included) that Taiwan (the Pescadores included), then being a legitimate part of the Empire of Japan, did not belong to “China”.

  As to the Outer Vassal Territories, at the time of the adoption of the Root Resolution, it must have been widely known, at least in the diplomatic circles, that they were no longer ruled effectively by the ROC Government in Beijing. Xinjian was administered as a de facto independent state by Yang Zeng-xin. Tibet had declared independence under Dalai Lama XIII on January 10th, 1913. Outer Mongolia, having first declared independence on November 30th, 1911, was then under the Bolshevik influence. (It would later become a satellite state of the USSR.)

 

4       Last Emperor’s Last Dictum

         Why did the ROC delegation to the Washington Conference still insist on the inclusion of the Outer Vassal Territories (and the non-Han nations therein) into “China”?

         A traditionalist or Imperialist explanation might be made: They had gladly accepted and were loyally following the last decree of the last emperor of the late Manchu Empire.

         On February 12th, 1912, as the Manchu Empire finally expired, Emperor Puyi issued a rescript declaring his abdication, which stated inter alia:

 

        …Then, We have Yuan Shikai organize a Provisional Republican Government with plenipotentiary powers(卽由袁世凱以全權組織臨時共和政府)…accordingly, be the Five Nations of the Manchus, the Hans, the Mongols, the Moslem, and the Tibetans united; be the territories thus complete; and be one Great Most-Civilized Republic established. (仍合滿漢蒙回藏五族完全領土爲一大中華民國)

 

        The new successor-republic under Yuan Shikai was expected to be a union of the Five Nations (Manchus, Hans, Mongols, Moslem, and Tibetans) and the corresponding Five Areas (Manchuria, China Proper, Mongolia, Xinjian, and Tibet) as the former Manchu Empire used to be. Hence, Yuan Shikai, who would later become an unsuccessful pretender to the traditional Imperial Throne in Beijing in 1916, composed Article 3 of his 1914 Charter of the ROC as follows:

 

The territory of the ROC shall consist of the territories possessed by the former Empire. (中華民國之領土依從前帝國所有之疆域)

 

5       Long March of Civilization

         An explanation of the translational difference between “the Most-Civilized Republic” and “the ROC” may be here demanded by careful readers, as both the Most-Civilized Republic and the Republic of China are transcribed in the Chinese characters identically as “中華民國 (Zhonghua-minguo)”.

         It is the common semantic equation of “Chinese” with “Han” that has required this writer to resort to the translational sleight of hand. (The English word “China” is said to have originated from Qin, the name of an ancient state situated in the present-day Shaanxi Province and of the first empire in China Proper (221-206 B.C.E.). The actual usage of the word in English is said to date from the 16th century, when the Ming Emperors reigned in Beijing, with their realm not extending to Mongolia, Turkestan, or Tibet.)

        The title of a new multinational republic (minguo means a republic) conceived by the last Manchu (not a Han) Emperor must not be construed to claim, so long as he did not intend a self-denial of his own nation  (“Sinae captae ferum victorem ceperunt.”), the new entity’s exclusive Chinese-ness (Han-ness). Hence, such translations as “the Republic of China” or “the Chinese Republic” are to be rejected. In fact, zhonghua means, literally,  as an adjective “most civilized” or “of the center of civilization”. It differs semantically from either “China” (a proper name) or “Chinese” (a proper adjective). (Besides, before its transformation to a geographical proper noun in antiquity, the word Qin () had originally meant rustically: “verdant growth of rice plants”.) This writer has thus adopted “Most-Civilized Republic” to designate Puyi’s new, universal Great Republic. (Unfortunately, he can neither access the Manchu version of Puyi’s abdication rescript nor understand the Manchu language.)

        On the other hand, it must have been the Han politicians in Nanjing or Beijing, who adopted “Chinese”, instead of “most-civilized”, as the English translation of zhonghua. They may have wanted humbly to avoid being seen hubristic (or ridiculous) in the English-speaking world; or they may have simply and innocently assumed that the most civilized in the world were exclusively the Hans (Chinese) and the Hans were so supreme among the Five Nations that they were entitled to uniquely represent, roughly comprehend, and kindly absorb the lesser nations.

        The evolution of the nationalistic thought of Sun Yat-sen, a leader of the revolution movement of 1911 (which started in Wuchang, a part of present-day Wuhan) and famous for his Three People’s Principles (Nationalism, Democracy, and the People’s Livelihood), may shed some light in this regard. At first, his nationalism was confined to that of the Hans and he thought it permissible to let other nations and their territories go once a new Han republic was established. (His foremost objective was then the expulsion of the Manchus.) Next, after the start of the revolution, he adopted the Five-Nations Unionism under the new situation. At last, the dream nation of his zhonghua nationalism had evolved, with some influence of communism, to an internationally-competitive (anti-“imperialist”) amalgam of the majority Han nation and those dependent nations that was to be molded together under the civilizing Han leadership. (see Miyazaki, p.287) (Sun died on March 12th, 1925 in Beijing, attended by his wife, Soong Ching Ling, who would later become a Vice-Chairwoman of the PRC, and by a Japanese friend.)

        In the preamble of the current PRC constitution, the PRC is defined as “a unified multinational state, that the peoples of all nations therein have jointly founded (中華人民共和國是全國各族人民共同締造的統一的多民族國家).” The English translation of the PRC Government, which is shown below, is, however, somewhat different from this writer’s rudimentary translation.

 

        The People’s Republic of China is a unified multiethnic state founded by the Chinese people of all ethnic groups.

 

“The Chinese people” of the governmental translation seems to this writer as a creative interpolation of improvement.
        Mais, les Chinois-ci, qui sont-ils? 
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1 新元号特需,我が国の元号制度の歴史論及び令和の元号の典拠論

 新元号特需というのでしょうか,最近は当ブログ20181213日掲載の「元号と追号との関係等について」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1073399256.html)へのアクセス数が多くなっているところです。しかしこの元号人気,いつまで続くものでしょうか。

 我が国の元号制度の歴史論及び令和の元号の典拠論もひとしきりにぎやかでしたが,一応既に十分なのでしょう。日本書紀巻第二十五に「乙卯〔六月十九日〕,天皇・々祖母尊・皇太子於大槻樹之下召集群臣,盟曰。告天神地祇曰,天覆地載。帝道唯一。而末代澆薄,君臣失序。皇天仮手於我,誅殄暴虐。今共瀝心血。而自今以後,君無二政,臣無弐朝。若弐此盟,天災地妖,鬼誅人伐。皎如日月也。/改天豊財重日足姫天皇四年,為大化元年。」とあります。元号を令和に改める政令(平成31年政令第143号)を元号法(昭和54年法律第43号)第1項の規定に基づき201941日に制定した内閣の内閣官房長官による同日の記者会見で「新元号の典拠について申し上げます。「令和」は万葉集の梅の花の歌,三十二首の序文にある,「初春の令月にして 気(きよ)く風(やはら)ぎ 梅は鏡前の粉を(ひら)き (らん)(はい)()の香を(かをら)す」から引用したものであります。」との説明があったところです。

 とはいえ,令和の典拠論においては,漢籍に詳しい方々から,万葉集の当該序文のそのまた典拠として,後漢の張衡の帰田賦における「於是仲春月 時気清 原隰鬱茂 百草滋栄」の部分がそうであるものとして更に指摘がされてもいます(下線は筆者によるもの)。なお,張衡は政府高官であったそうで,「都邑に遊びて以て永く久く,明略を以て時を(たす)くる無し川に臨んで以て魚を羨,河清を俟つに未だ期あらず。蔡子の慷慨に感じ,唐生に従ひて以て疑ひを決す。(まこと)に天道の微昧なる,漁夫を追ひて以て同嬉す。埃塵を超えて以て()逝し,世事と長辞す。やら,「(いやしく)も域外に縦心せば(いづくん)ぞ栄辱の所如を知らむ。」などといったところからは,それらしいぼやきのようなものが読み取られ得るように思われます

 

2 漢における元号制度創始の事情論

 しかしながら,西暦紀元前2世紀の終盤における漢の七代目皇帝孝武帝(武帝)劉徹による元号制度の創始に関しての込み入った事情についてまでの,漢学者ないしは東洋史学者からの一般向けの解説は,筆者の管見の限り,令和改元の前後においてはなかったようです。筆者としては宮崎市定『中国史』に先ず拠り,更に令和改元後,インターネット上の京都大学学術リポジトリ「(くれない)」で東洋史研究第1巻第5号(1936年)掲載の藤田至善「史記漢書の一考察―漢代年号制定の時期に就いて―」論文(420-433頁)に逢着し得て,前記「元号と追号との関係等について」記事を補訂することができたばかりでした。

 当該藤田論文によれば,西暦紀元前2世紀の半ば過ぎにおける即位の翌年の初元以来元を改めることを重ねて既に五元(初元を含む。)に及んでいた漢の武帝が,それぞれの元から始まる年について建元,元光,元朔及び元狩の各()号を最初の四元について事後的に追命したのは五元の第三年であり(420-421頁,426頁),当の五元についてはその第四年になってから元鼎という年号が付されたものであって(したがって,人がその現在においてその(●●)()()年号を語ることができるようになった最初の年は元鼎四年であったことになります。),改元と年号の付与とが初めて一致した(すなわち現在のもののような()号の始まり)は元鼎の次の元封の元号からであった(432頁註⑥),ということでした。

 

3 元狩元年元号制度創始説

 しかしながら,元号の創始時期については,藤田論文では排斥(426頁)されているものの,漢書の著者である班固が提唱し,宋代の司馬光(資治通鑑巻十九)及び朱熹(資治通鑑綱目巻之四)という大碩学が支持している(同422頁)元狩元年説というものがあります。元狩元年に当該元狩の元号が定められるとともに,それより前の建元,元光及び元朔の年号が追命されたとするものです(藤田420頁)。漢書武帝紀に「元狩元年冬十月,行幸雍,祠五畤,獲白麟,作白麟之歌。」(元狩元年冬十月,(よう)に行幸し,五()(まつ)る。白麟を(),白麟之歌を作る。)とある獲麟事件に(ちな)んで,三元から四元に改元がされ,かつ,当該四元の年に初めて年号(元狩)が付されたのだ,という説です(藤田421頁)。ちなみに,雍州とは,『角川新字源』によると,陝西省北部・甘粛省北西部地方です(なお,以下筆者が漢語漢文解読に当たって当該辞書を使用する場合,いちいち註記はしません。)畤は,祭場です。麟は,あるいは「大きなめすのしか。一説に大きなおすのしか。」とされ,あるいは「「麒麟(きりん)」のこと」とされています。

 さて,なにゆえ本稿においてここで元狩元年元号制度創始説が出て来るのか。実は,あえてこの元狩元年元号制度創始説を採用することによって,万葉集か帰田賦か,国風か漢風か等をめぐる令和の元号に係る華麗かつ高雅な典拠論争に,ささやかかつ遅れ馳せながらも班固の漢書をかついでのこじつけ論的参入・にぎやかしが可能になるのではないか,というのが今回の記事の執筆(モチ)動機(ーフ)なのであります。

 なお,『世界史小辞典』(山川出版社・1979年(219刷))の「東洋年代表」(付録78頁)を見ると,武帝の建元元年は西暦紀元前1401120日から始まり,元狩元年は同122112日から,元鼎3年は同1141117日から,元鼎4年は同113116日から,元封元年は同110113日から始まっていることになっています。立春の頃から年が始まるようになったのは,太初暦の採用からのようです(太初元年は西暦紀元前1041125日から始まったものとされているのに対して,太初二年は同103211日から始まったものとされています。)。それまでは,十月が歳首であったようです。史記巻二十八封禅書第六には,秦の始皇帝について「秦始皇既幷天下而帝。或曰,〔略〕今秦周変,水徳之時,昔秦文公出猟獲黒龍,此其水徳之瑞。於是秦更命河曰徳水。以冬十月為年首,色上黒,度以六為名,音上大呂,事統上法。」(秦の始皇既に天下をあはり。あるひといは文公黒龍此れ水徳り。なづ冬十月を以て年首と為し,色は黒をたふとをはりぶ。高祖つい高祖豊枌祠蚩尤,釁鼓旗。遂以十月至灞上,与諸侯平咸陽立為漢王。因以十月為年首。而色上赤。」(高祖初め起るとき,豊のふんいのる。とな則ち蚩尤しいうまつりちぬる。十月諸侯咸陽立ちて十月を以て年首と為す。色は赤をたふとぶ。武帝つい改暦正月官名太初元年。正月を以て歳首と為す。而して色は黄をたふと官名印章あらた五字す。太初元年と為す。)とあります。ただし,太初改暦の日程については,『世界史小辞典』の「東洋年代表」では太初元年は西暦の11月から始まって次の2月には終わってしまっている形になっているので,何だか分かりづらいところです。

 暦法は,難しい(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1916178.html)。

 

4 終軍の対策と「元狩」改元及び「令和」抽出

 班固が元狩元年元号制度創始説を提唱するに至ったのは,前記の元狩元年十月の獲麟事件に当たって武帝に(たてまつ)られた終軍という名の若者による対策に接したからであると考証されています(藤田422-423頁)。「対策」とは,「漢代の官吏採用法の一つ。策にこたえる意で,策(木の札)に書いて出題された試験問題に対して見解を書いて答える。また,その答案。」と説明されています。終軍の当該対策については,「その文章の典雅にして,義理の整斉なる点優に漢代文苑の英華であつて,有名なる対策の一つである。」との文学的評価がされているところです(藤田422頁)。当該対策の次の一節が,問題になります。

 

  今郊祀未見於神祇,而獲獣以饋,此天之所以示饗而上通之符合也,宜因昭時令日改定告元(師古曰,昭明也,令善也,) 

  (今,郊祀に未だ神祇を見ずして獣を()以て()とす。此れ天()饗して上通するを示す所以(ゆえん)()符合(なり)。宜しく昭時令日に()りて,改定し元を告ぐべし。(師古曰く,昭は明也,令は善也,と。)

 

 班固は「この文中にある「宜因昭時令日改定告元」の語に非常なる重点を置き,武帝は終軍のこの対策に従つて白麟奇木を得た瑞祥を記念するため,この年を以て元狩元年と云ふ年号を制定したものゝ如くに考へたのである。故に班固は漢書終軍伝にこの対策を全部収録して,その最後に,/対奏,上甚異之,由是改元為元狩〔(こた)(そう)す。上,甚だ之を異とす。(これ)()りて改元し元狩と為す。〕/との結論を下し,この対策を史料とすることに依つて得た自己の解釈を明記してゐるのである。」と藤田論文は述べています(422-423頁)。

しかして,令和の元号の典拠に係る前記内閣官房長官説明に接した後において当該部分を読むと,

 

宜しく昭時令日()りて,改定し元を告ぐべし。」ということであれば「令月」が「令日」になっているだけであるのだから,「(きよ)く風(やはら)」に相当する語句が終軍の対策中において文脈上「令日」につながる箇所にうまい具合にあれば,漢の武帝による史上最初の元号は,我が安倍晋三内閣的発想に従えば,実は元狩ではなく令和であったかもしれないのだ,と言い得るのではないか,  

 

とつい考えてしまったわけです。

 ということで,漢書巻六十四下の終軍伝に収録されている当該対策を調べてみると・・・ありました。「和」の含まれた語句がありました。

 

  陛下盛日月之光,垂聖思於勒成,専神明之敬,奉燔瘞於郊宮。献享之精交神,積和之気塞明(師古曰,塞荅也,明者明霊亦謂神也)。而異獣来獲宜矣。

  (陛下は日月之光を盛んにし,聖思を(ろく)成に垂れ,神明之敬を専らにし,燔瘞(はんえい)を郊宮に(たてまつ)る。(けん)(きやう)〔ごちそうをしてもてなす〕()精は神と交り,積之気は明に(こた)ふ。(師古曰く,塞は(たふ)〔答〕也,明は明霊(また)は神を謂ふ也,と。)而して,異獣の来たりて()るは(むべ)なり。

 

すなわち,天子の篤い敬神の念及びまごころを込めた祭祀の実践による之気は(かみさま)(こた)えて,したがって白い麒麟も天子様こんにちはと出て来る冬十月の(あかるい)(とき)(よい)()となり,それに因んでめでたく改元し,年号を定めるのであるのなら,当然その元号は「令和」が宜しいのではないですか,と終軍の名対策に便乗し,かつ,未来の偉い人発想に忖度しつつ武帝に上奏する辣腕の有司があってもよかったように思われるところです。

 

5 残念な終軍

 とはいえ以上は,完全な無駄話です。

終軍の手になるとされる当該対策は,元狩二年以降の未来の出来事(霍去病の驃騎将軍任命,昆邪の来降)を元狩元年段階においての作文であるはずなのに大預言書的に書き込んでしまっているものであって後世の偽作っぽく(藤田423-424頁参照),また,改元といっただけでは当時は年号を付することとは必ずしも結び付かず,むしろ武帝は年号のないまま問題意識なく改元を重ねていたところであって,「宜しく・・・改定し元を告ぐべし。」と奏上するだけでは,「年号」なる革新的アイデアを奏上したことにはならない(同424-426頁参照),したがって終軍の当該対策に基づく元狩元年元号創始説は採用するを得ない,とされているところです(同426頁)。

 終軍及びその名による対策は,残念でした。すなわちここからは,元号制定に中心となって関与したということで安易に人気を博そうとしても人の目は実はなかなか厳しい,という教訓を引き出すべきものでしょうか。

残念な終軍は,その後外交外事関係に注力します。当時の南越国今の広東省・広西壮族自治区の辺り)における漢化体制を確立すべく,勇躍同国に使いします。しかしながら,漢と南越国との関係は一筋縄ではいかず(実は,終軍は,南越王相手には縄一筋もあれば十分であるとの壮語をしたようではありますが),同国内における根強い反対勢力の反撃を受けて,若い身空で異郷に思わぬ横死をすることとなりました。

さて,この終軍の蹉跌からは,元号関係で思わぬ人気を得て気をよくして更に隣国との外交(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1073895005.html)及び多文化共生ないしは受入れ(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1072912488.html)においても一層大きな歴史的成果を挙げようなどと自らを恃んで張り切ると,そこには陥穽(おとしあな)が待っていますよ,という教訓をも引き出すべきでしょうか。

しかし,何でも教訓に結び付けようとするのはうがちが過ぎるというもので,また,うがちの精神は,実は息苦しい忖度の精神とかえって親和的なのかもしれません。

 

 Si mihi pergit quae vult dicere,

    ea quae non vult audiet.

    (Terentius, Andria)

 

 (うがった意訳)

うがったことばかり勝手に言い募りやがってうざい野郎め,

そのうち反転攻勢で,「忖度が足りないんだ,不謹慎だ,いーけないんだ」って言い込めてやるぞ。

   

(漢書巻六十四下の終軍伝における関係部分に係る筆者我流の読み下し文は,次のとおりです。)

 

6 漢書巻六十四下・終軍伝(抄)

 

終軍。(あざな)は子雲。済南の人(なり)

(わかく)して学を好む。辯(ひろ)()く文を(つく)るを(もつ)て,郡中に聞ゆ。年十八,(えらばれ)て博士の弟子と()り,府に至り,遣を受く。()()(いは)く,博士の弟子は太常〔太常は,宗廟の儀礼をつかさどる官〕に属す〔なお、太常博士は,天子の車の先導をしたり王公以下のおくり名を決めたりする宮中の式典係〕,遣を受くる者は郡に()りて京師に遣詣せらる,と。)太守〔郡の長官〕()の異才()るを聞き,軍を召見し,(はなは)(これ)を奇として(とも)に交を結ぶ。軍,太守に(いふ)し,(しかう)して去る。

長安に至り,上書して事を言ふ。武帝,其の文を異とし,軍に(さづ)けて謁者〔宮中で来客の取次ぎをつかさどる役〕と為し,事に(あた)るを給す〔「給事中」は,加官といって他の官の者が兼任し,天子の諮問に答える官〕

上の(よう)幸して五()(まつ)るに従ふ。白麟を()る。一角にして五蹄なり。(師古曰く,毎一足に五蹄有る也,と。)時に(また)奇木を得る。其の枝は旁出して,(すなはち)(また)木上に合す。上,()の二物を異とし,(ひろ)く群臣に(はか)る。(師古曰く,其の徴応を訪ぬる也,と。)

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 一角獣(東京都新宿区明治神宮外苑聖徳記念絵画館前)(ただし,これは五蹄ではないようです。)

軍,(こた)へて上に曰く。

 

臣聞くに,詩は君徳を頌し,楽は后功〔后は,天子〕に舞す。経は異なれども指すは同じく,盛徳()隆たる所を(あきらか)にする(なり)

南越は()()竄屏(ざんへい)し,鳥魚と群す。(師古曰く,葭は(あし)也,成長して(すなは)ち葦と()ふ,葭の音は(),と。正朔其の俗に及ばず。有司境に臨み,而して東(おう)〔今の浙江省温州市の辺り〕内附し,(びん)〔閩は今の福建省〕()に伏す。南越,(さいはひ)に救はる。北胡は畜に随ひ,(せん)居す。(蘇林曰く,薦は草也,と。師古曰く,蘇説は非也,と。薦は読みて(せん)と曰ふ。荐は()也。言ふならく,畜牧に随ひ(しばしば)()へ,(ゆゑ)に居に安住せざる也,左伝に戎狄は荐居する者也,と。禽獣の行ひ,虎狼の心,上古(いま)(をさめること)を能くせず。大将軍(ゑつ)()り,単于(ぜんう)幕に(はし)。票騎(せい)()げ,(こん)()(じん)を右にす。(師古曰く,抗は挙也,衽を右にするとは中国の化に従ふ也,昆の音は下門反,と。)(これ),沢は南(あまね),而して威は北に(のぶ)る也。

()近くに(おもね)らず,挙を遠くに遺さず,官を設け,賢を()ち,賞を()け,功を待ば,能者は進んで以て禄を保し,()者は退いて力を労す。(師古曰く,罷は職任に堪へざる者を()ふ也,力を労すとは農畝に帰する也,と。)宇内に(のり)なす。(師古曰く,刑は法也,と。言ふならく,宇内に法を成す也,と。一に曰く,刑は見也,と。)衆美を()みて足らず,聖明を懐きて専らにせず。三宮()文質を建て,(その)()(よろ)しき所を(あきらかに)にす。(服虔曰く,三宮は明堂〔政教を行う所〕・辟雍〔太学〕・霊台〔天文台〕也,と。鄭氏曰く,三宮に()いて政教に班するは,文に質有る者也,と。封禅()君,聞く()し。(張晏曰く,前世の封禅之君,()くの(ごと)きの美を聞かざる也,と。)

()れ天命初めて定まり,万事草創,六合〔天地(上下)と東西南北〕(ふう)を同じくし,九州〔冀・(えん)・青・徐・揚・荊・予・梁・雍の9州〕(くゎん)を共にして(しん)に及必ず明聖を待ち,祖業を潤色し,無窮に伝ふ。故に周は成王に至り,然る後に制を定め,而して休徴〔めでたいしるし〕()を見る。

陛下は日月之光を盛んにし,聖思を(ろく)成に垂れ,神明之敬を専らにし,燔瘞(はんえい)を郊宮に(たてまつ)る。(師古曰く,燔は天を祭る也,瘞は地を祭る也,天を祭るには則ち之を焼き,地を祭るには則ち之を()む,郊宮は泰畤及び后土(なり),と。)(けん)(きやう)()は神と交り,積和之気は明に(こた)ふ。(師古曰く,塞は(たふ)〔答〕也,明は明(また)は神を謂ふ也,と。)而して,異獣の来たりて()るは(むべ)なり。昔,武王の中流にて未だ(わたら)ざるに,白魚王舟に入り,俯して取りて以て燎す。群公(みな)曰く,(めでたい)(かな)と。今,郊祀に未だ神祇を見ずして獣を()以て()とす。(師古曰く,以て饋とすとは,祭俎に充つるを謂ふ也,と。)此れ天()饗して上通するを示す所以(ゆえん)()符合(なり)。宜しく昭時令日に()りて,改定し元を告ぐべし。(師古曰く,昭は明也,令は善也,と。張晏曰く,年を改元して以て神祇に告ぐる也,と。)()〔草をたばねたしきもの〕は白茅の江淮に於けるを以てし,嘉号を営丘に発さば,以て(まさ)緝熙(しふき)〔徳が光り輝くこと〕すべし。(服虔曰く,苴は席を作る也,と。張晏曰く,江淮職は三脊茅を貢して藉を為す也,と。孟康曰く,嘉号は封禅(なり),泰山は斉の分野に()り,故に丘と曰ふ也,或いは曰く,泰山に登封し以て姓号を明らかにする也,と。師古曰く,苴の音は(),又の音は子予反,苞苴(はうしよ)〔みやげもの〕()苴には(あら)ざる也,と。事を著す者に紀()らしむべし。(師古曰く,史官を謂ふ也,紀は記(なり),と。)

(けだ)し六兒鳥〔兒の偏に鳥の旁の字〕の退き飛ぶは逆(なり)(張晏曰く,六兒鳥の退き飛ぶは諸侯(はん)(ぎゃく)(かたど),宋の襄公は伯道退く也,と。)白魚の舟に登るは(じゅん)也。(張晏曰く,周は木徳(なり),舟は木(なり),殷は水徳にして,魚は水物,魚の躍りて舟に登るは諸侯の周に(したが)ひ紂を以て武王に(あた)(かたど)る也,と。臣(さん)曰く,時論者は未だ周を以て木と為し,殷を以て水と為さざる也,謂ふならく,武王の殷を()たむとして魚の王舟に入るを,征して必ず()るに(かたど)り,故に順と曰ふ也,と。師古曰く,瓚の説が(なり),と。夫れ明闇()徴,上に飛鳥乱れ,下に淵魚動く。(師古曰く,乱は変(なり),と。)(おのおの)類を以て推すに,今野獣の角を(あわ)すに本の同じきは明らか也。(師古曰く,幷は合(なり),獣は皆両角なるに,今此れは独一,故に幷と云ふ也,と。)衆支は内附して外無きを示す也。(かく)(ごと)()(しるし)(ほとん)(まさ)に編髪を解き,左衽を削り,冠帯を(かさ)ね,衣裳を要し,而して化を蒙る者()らむとす。(師古曰く,衣裳を要するとは中国之衣裳を著するの謂ひ也,編は読みて(べん)と曰ふ,要の音は一遥反,と。)(すなは)(こまぬ)きて(これ)()(のみ)(こた)(そう)す。


上,甚だ之を異とす。(これ)()りて改元し元狩と為す。後数月,越地及び匈奴の名王の衆を率ゐて来降する者有り。時に皆軍の言を以て(あた)ると為す。

 

〔中略〕

 

南越と漢とは和親たり。(すなは)ち軍を遣はし南越に使して其の王を説き,入朝せしめ,内諸侯に(なら)べむと欲す。軍,自ら請願して長(えい)を受く。必ず南越王を(つな)て之を闕下〔宮門の下。また朝廷,天子をいう。〕に致す,と。(師古曰く,言は馬羈の如き也,と。)軍,遂に往きて越王を説き,越王聴許す。国を挙げて内属せむことを請ふ。天子,大いに(よろこ)び,南越大臣の印綬を賜ふ。壱に漢の法を用ゐ,以て新たに其の俗を改め,使者を留め之を〔民心をしずめおさめる〕せしむ。(師古曰く,塡の音は竹刃反,と。)越相の呂嘉,内属を欲せず。兵を発し,其の王及び漢の使者を攻殺す。皆死す。語,南越伝に在り。軍の死時の年,二十余。故に世,之を(しゅうの)(ぼうや)と謂ふ。


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Fili Caeli, salve!


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   奇木・なんじゃもんじゃ(聖徳記念絵画館前)
 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

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第1 「北方領土の日」

 我が国においては,鈴木善幸内閣時代の198116日の閣議了解によって,毎年27日は「北方領土の日」となっています。

上記閣議了解によれば,「北方領土問題に対する国民の関心と理解を更に深め,全国的な北方領土返還運動の一層の推進を図るため「北方領土の日」を設ける」ものであり,「行事」としては,「北方領土問題関係機関,民間団体等の協力を得て集会,講演会,研修会その他この日の趣旨に沿った行事を全国的に実施するものとする」そうです。飽くまでも主体はお国であって,お国のお許しを得て「北方領土問題関係機関,民間団体等」として御「協力」申し上げるという形で参加する以外は,我々一般人民はお呼びでない,ということで安心してよいようです。

 とはいえ,「北方領土問題」に「関心」を持つこと程度までは,その結果としての「理解」がたとえ忖度(そんたく)不足の粗笨なものにとどまるとしても,そのような粗「理解」的雑音ごときはものともせずに正しい理解のみが最終的に残るものである以上,直ちに非国民の所行ということにはならないでしょう。

 

第2 グレゴリオ暦185527

 実は,かねてから暦の多様性に係る問題にこだわりがある筆者(「暦に係る法制に関する覚書」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1916178.html参照)としては,「27日」という日付自体を面白く思っているところです。

前記閣議決定に付された「「北方領土の日」設定の理由書」を見ると最後に「なお,27日は,1855年〔略〕日魯通好条約が調印された日である。」とありますので,当該条約の調印日にちなんでの日付の選択であったものと解されます。しかしながら,当該条約に下田で署名したロシア帝国代表のプチャーチンに対して当該署名がされた月はфевраль (February)であったものと皇帝に報告したのかと問えば,恐らくнет(ニェット)との回答が返って来,日本代表に対して「川路〔聖謨〕殿,安政二年二月の下田における魯国人との条約調印の儀,御苦労でござった」と言っても,ぽかんとした顔をされただけでしょう。グレゴリオ暦185527は,依然ユリウス暦を使用していた正教国ロシアでは1855126日であり,明治6年(1873年)の改暦より前の段階であって太陰太陽暦を使用していた我が国においてはなお正月前の慌ただしい年末である安政元年十二月二十一日だったのでした(上記「理由書」引用部分における〔略〕の箇所には,「(安政元年1221日)」とありました。)。

「北方領土の日」の日付を,当の日魯通好条約調印時においては両当事国のいずれもその日と認識していなかった「27日」と設定したということは,「北方領土問題」自体が,日露それぞれの愛国的観点のみからしてはよく分からず,かつ,解けないものなのだよ,という寓意を込めてのことだったのでしょうか。いずれにせよ,鈴木善幸内閣総理大臣は,なかなか奥の深い人物でした(「北方領土の日」設定の前記閣議了解がされた日の前日に,真藤恒氏が日本電信電話公社総裁に就任していますが,鈴木内閣総理大臣がその前月に白羽の矢を立てていた真藤総裁の実現(内閣総理大臣ではなく内閣の任命によるもの)は,198541日からの同公社民営化及び我が国の電気通信自由化に向けての最初の布石であったように思われます(『コンメンタールNTT法』(三省堂・2011年)2頁以下。また,同書268頁以下参照)。)。

 

第3 「北方領土問題」

 「北方領土問題」とは,前記閣議了解「理由書」によれば,「我が国の固有の領土である歯舞群島,色丹島,国後島及び択捉島の北方四島は,戦後35年〔73年〕を経過した今日,なおソ連〔ロシア〕の不当な占拠下にある」ことであるものと解されます。

その「問題」の解決の形は,当該「理由書」に「これら北方領土の一括返還を実現して日ソ〔露〕平和条約を締結し,両国の友好関係を真に安定した基礎の上に発展させるという政府の基本方針」とありますから,「北方領土の一括返還」であるようです(なお,「これら」は「歯舞群島,色丹島,国後島及び択捉島の北方四島」を承けるのでしょうから,「北方領土」の語は歯舞群島,色丹島,国後島及び択捉島の北方四島を意味するものと解されます。)。

そうであれば,「日ソ〔露〕平和条約」は「北方領土の一括返還」のための手段にすぎないようです。しかしながら,我が政府の基本方針は,「日ソ〔露〕平和条約」という一つの石で二羽の鳥を獲ろうとしているようでもあって,「北方領土の一括返還」の外に,日露「両国の友好関係を真に安定した基礎の上に発展させる」ことも目的であるようです。「日露平和条約」の締結に向け現に交渉されている政府御当局が,この二羽の鳥のうちどちらが重要であると実は考えておられるのか,あるいは手段としての石の投擲たるべき「日露平和条約」の締結そのものがかえって最重要の目的となっていないかは,正に忖度するしかありません。2019130日に掲載された読売新聞オンライン版の記事「北方領土の日,「島を返せ」たすきの使用中止」を読むと,同年の「北方領土の日」根室管内住民大会では「例年,参加者が着用している「島を返せ」と書いたたすきの使用を取りやめ」,「はちまきも「返せ!北方領土」から「平和条約の早期締結を」などに変更する」そうですが,これは,根室市ないしは北方領土隣接地域振興対策根室管内市町村連絡協議会なりの忖度の結果であるものと思われます(「名は体を表す」ものであるならば,当該協議会の目的は,まずは当該地域(北方四島自体は含まれない。)の振興なのでしょう。)。

 

第4 北方四島一括返還に係る「請求原因」

 とはいえ,やはり,我が国政府はロシアの「不当な占拠下」にある北方四島について北方「領土」の飽くまで一括しての返還を実現しようとしているのでしょう。領土権に基づいて,当該領土の返還を当該領土の無権原占拠国に対して要求するものと解されます。

領土権と土地の所有権とは異なるものの,日本民法における法律構成との類比で考えると,「北方領土の一括返還」の請求は,占有者に対する所有権に基づく不動産明渡請求訴訟の場面に似ています。以下,この類比の構図に沿って,要件事実論などの復習をしてみましょう。

まず,訴訟物は「所有権に基づく返還請求権としての土地明渡請求権」です(司法研修所『改訂 紛争類型別の要件事実』(司法研修所・2006年)46頁)。訴訟物の個数ですが,「所有権に基づく物権的請求権が訴訟物である場合の訴訟物の個数は,侵害されている所有権の個数と所有権侵害の個数によって定ま」るところ(司法研修所『改訂 問題研究 要件事実』(司法研修所・2006年)57頁),筆数を数えるのも何ですし「一括」返還ということですから北方四島をまとめて所有権は1個として,侵害態様も北方四島を「一括」した「不当な占拠」であって1個ということで,1個の訴訟物ということになるのでしょうか。
 上記請求権の発生要件は①原告X(日本)が不動産を所有していること及び②被告Y(ロシア)がその不動産を占有していることとなります(類型別
47頁)。

まず②から見れば,これについては,現在ロシアが占有していること(現占有説(類型別50頁))について当事者間に争いがないということで,「概括的抽象的事実としての「占有」について自白が成立したもの」(類型別51頁)としてよいわけでしょう。

次に①の「要件事実は,Xの所有権取得原因となる具体的事実であるが,現在若しくは過去の一定時点におけるX又はその前主等の所有について権利自白が成立する場合には,Xは,X又はその前主等の所有権取得原因となる具体的事実を主張立証する必要がない」ところです(類型別47頁)。

「権利自白」については,「請求の当否の判断の前提をなす先決的な権利・法律関係についての自白」のことであって「通説・判例は,権利自白がなされると相手方は一応その権利主張を根拠づける必要はなくなるが,なお裁判所の事実認定権は排除されず,当事者はいつでも撤回できるとみる。ただし,権利自白であっても,売買や賃貸借のような日常的な法律概念を用いている場合には具体的な事実の陳述と解して自白の成立を認める」と説明されています(上田徹一郎『民事訴訟法(第二版)』(法学書院・1997年)348頁)。

「①の要件事実が,Xの所有権取得原因となる具体的な事実であると考えると,Xは,究極的には甲土地が原始取得された時まで遡り,その後の所有権の移転をすべて主張しなければならず,これが立証できなければ請求が棄却される」ことになってしまうところ,「これではXに不可能を強いることになりますし,他方,所有という概念は日常生活にとけ込んでおり,一般人にとっても理解が容易ですから,これについて自白を認めても不当な結果は生じないと考えられます。そこで,所有権については,権利自白が認められる」ものと考えられています(問題研究61-62頁)。領土権も国家にとっては理解が容易でしょう。

権利自白の成立時点としては現在に最も近い時点を把握すべきところ(問題研究63頁),北方四島の日本による領有を認めるロシアの権利自白は,その第2条で「今より後日本国と魯西亜国との境「ヱトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし」と規定した1855年の日魯通好条約の時点においてまず確かに成立していますが,その第1条で「両締約国ハ両国間ニ平和及友好ノ関係ヲ維持シ且相互ニ他方締約国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スヘキコトヲ約ス」と協定した19414月の日ソ中立条約で再成立したと解してもよいように思われます。1941413日にモスクワで署名され,同月25日に両国が批准した日ソ中立条約の方が現在により近いところです。

以上の請求原因(日本の「もと所有」(問題研究62頁)及びロシアの現占有)が認められるとなると,土地の明渡請求に係る民事訴訟ならば,ロシアとしては,有効な抗弁を提出しないと負けてしまうような成り行きとなります。(なお,我が国は北方四島の返還のみを現在要求していますが,南樺太及びこれに近接する諸島並びに得撫島から占守島までの諸島も1941年の日ソ中立条約による権利自白の対象になっていたはずです。)

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択捉島ゆかりの高田屋嘉兵衛(北海道函館市)


第5 領有権喪失の「抗弁」

ロシアは我が国の北方四島一括返還要求に対して,北方四島は自国の領土だと主張しているようですから,日本の領有権喪失の抗弁を提出しているものと解されます。

北方四島に係る日本の領有権喪失の事由は1941年の日ソ中立条約より後のものとなるわけですが,当該事由としては,①1945年のヤルタ協定,②同年のポツダム宣言及び③1951年のサン・フランシスコ平和条約が挙げられているようです。

 

1 ヤルタ協定

1945211日のヤルタ協定では,“The leaders of the three Great Powers—the Soviet Union, the United States of America and Great Britain—have agreed that in two or three months after Germany has surrendered and the war in Europe has terminated the Soviet Union shall enter into the war against Japan on the side of the Allies on condition that […]3. The Kuril islands shall be handed over to the Soviet Union.”(三大国,すなわちソヴィエト連邦,アメリカ合衆国及びグレート・ブリテンの指導者は,ソヴィエト連邦が,ドイツが降伏し,かつ,欧州における戦争が終了した後2箇月又は3箇月で,次のことを条件として,連合国に味方して日本国に対する戦争に参加すべきことを協定した。〔略〕3.千島列島がソヴィエト連邦に引き渡されること。)及び “The Heads of the three Great Powers have agreed that these claims of the Soviet Union shall be unquestionably fulfilled after Japan has been defeated.”(三大国の首脳はこれらのソヴィエト連邦の要求が日本国が敗北した後に確実に満たされるべきことを合意した。)と合意されています。

「ローマ法では,契約は,当事者以外の者に利益を与えることも不利益を与えることもできないという原則があった」ところです(我妻榮『債権各論 上巻(民法講義Ⅴ₁)』(岩波書店・1954年)114頁)。ヤルタ協定の当事国であった米国も,195697日にダレス国務長官から駐ワシントンの我が国の谷正之大使に手交された覚書(aide-mémoire)において,“the United States regards the so-called Yalta agreement as simply a statement of common purposes by the then heads of the participating powers, and not as a final determination by those powers or of any legal effect in transferring territories.”(米国はいわゆるヤルタ協定なるものは,単にその当事国の当時の首脳者が共通の目標を陳述した文書にすぎないものと認め,その当事国によるなんらの最終的決定をなすものでなく,また領土移転のいかなる法律的効果を持つものではないと認めるものである。)との見解を表明しています。日本はそもそもヤルタ協定の当事国ではないことに加え,当該協定の当事国によってもロシアの解釈が否定されているわけです。

 

2 ポツダム宣言

 

(1)第8項及びカイロ宣言

合衆国大統領,中華民国政府主席及びグレート・ブリテン国総理大臣の名で1945726日に発せられたポツダム宣言の第8項は,“The terms of the Cairo Declaration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, Shikoku and such minor islands as we determine.”(「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州,北海道,九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ)とするものです。そこで引用されるローズヴェルト大統領,蒋介石総統及びチャーチル総理大臣の名で出されたカイロ宣言(19431127日)には, “The Three Great Allies are fighting this war to restrain and punish the aggression of Japan. They covet no gain for themselves and have no thought of territorial expansion. It is their purpose that Japan shall be stripped of all the islands in the Pacific which she has seized or occupied since the beginning of the first World War in 1914, and that all the territories Japan has stolen from the Chinese, such as Manchuria, Formosa, and The Pescadores, shall be restored to the Republic of China. Japan will also be expelled from all other territories which she has taken by violence and greed. The aforesaid three great powers, mindful of the enslavement of the people of Korea, are determined that in due course Korea shall become free and independent.”(三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ズ又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ/右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ1914年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国ガ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲,台湾及澎湖島ノ如キ日本国ガ中国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニアリ/日本国ハ又暴力及貪欲ニ依リ日本国ガ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルベシ/前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ(やが)朝鮮自由独立ノモノタラシムルノ決意)とありました。

ポツダム宣言にはその後ソヴィエト社会主義共和国連邦が参加します(adhered to by the Union of Soviet Socialist Republics194592日の降伏文書の文言))。194588日のモロトフ・ソ連外務人民委員から佐藤尚武駐モスクワ大使に手交した対日宣戦布告書にソ連政府は「本年726日の連合国宣言に参加せり」とあったところです(迫水久常『機関銃下の首相官邸』(恒文社・1964年)249頁の引用する外務省編「日ソ外交交渉記録」)。同月14日の同宣言受諾に係る「帝国政府の米英ソ支4国政府宛通告文は,現地時間の14日午後85分,帝国公使よりスイス国外務次官に手交」されています(宮内庁『昭和天皇実録第九』(東京書籍・2016年)770頁)。ポツダム宣言第8項にいう,日本がその主権を保持することを認められる「諸小島」の範囲を決定すべき「吾等」(we)は,米国,英国,中華民国及びソ連の四大国であったと解し得るように思われます。しかしてその「決定」は,そうであれば,四大国の一致によってされるべきものだったのでしょう。(ただし,米国国務省のOffice of Historian(「史料室」とでも訳すのでしょうか。)ウェブ・サイトに掲載されている195697日のダレス国務長官の谷大使との会見記録によれば,同長官は「“we”は〔ポツダム宣言の〕条項を作成した三国〔米国,英国及び中華民国〕を指し,それらの国々は特別の発言権を有する(entitled to an exceptional voice)。例えば,これら三国の政府の共同見解を得ることができて,かつ,公表されたならば,それは大きな重みを持つであろう。」というような発言をしています。)

 

(2)美濃部達吉の解釈

ポツダム宣言第8項について美濃部達吉は,同宣言の受諾によって直ちに領土権の変動がもたらされる部分とそうでない部分とがあるものと解釈していたようです。194641日付けの序文が付された美濃部の著作にいわく。「而シテポツダム宣言ニハ『日本国ノ主権ハ本州,北海道,九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ』トアリ,即チ明治二十七八年ノ日清戦役以後日本ノ取得シタル新領土ハ租借地及委任統治区域ト共ニ総テ之ヲ喪失スルコトトナレリ。台湾及澎湖列島ハ関東州租借地ト共ニ支那ニ復帰シ,朝鮮ハ独立ノ国家トナリ,樺太ハ蘇聯邦ニ帰属シ,南洋群島ハ米国ノ占領スル所トナリタリ。〔略〕支那事変及太平洋戦争中日本ノ占領シタル地域ガ各其ノ本国ニ復帰シタルコトハ言ヲ俟タズ。/此ノ如クシテ現在ニ於ケル帝国ノ領土ハ,明治二十七八年戦役以前ノ旧来ノ領土即チ本州,四国,九州,北海道及附属諸島ニ止マリ,而モ附属諸島ニ付テハ,追テ平和条約ニ依リ其ノ範囲ヲ確定セラルルニ至ル迄ハ,其ノ領土権ハ尚不確定ノ状態ニ在リ。」と(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)125頁)。

美濃部がなぜ1894-1895年の日清戦争以後とそれより前との間に線を引いたのかはなおはっきりしませんが,美濃部が引用していないポツダム宣言第8項前段の「「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク」の部分の解釈によるものでしょうか。「樺太ハ蘇聯邦ニ帰属シ」の部分はカイロ宣言に直接出ていないのですが,日清戦争の結果得た「台湾及澎湖島」も「暴力及貪欲ニ依リ日本国が略取シタル」ものであって「中華民国ニ返還」されるものならば,日露戦争の結果得た樺太も同様にソ連に返還されるのだと考えられたものでしょうか(国際法事例研究会『日本の国際法事例研究(3)領土』(慶応通信・1990年)22頁(芹田健太郎)参照)。「諸小島」は “minor islands”であって,minorは本来ラテン語parvusの比較級の「より小さい」という意味であるから,四国より広い南樺太は「諸小島」としてその主権が日本に保持されることはないのだ,という算数的解釈もあったものかどうか。


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(3)連合国の解釈

しかしながら,四大国は,ポツダム宣言の受諾によって直ちに大日本帝国の領土に変更が生じたものとは解していなかったようです。
 1946129日段階におけるGHQの「若干の外廓地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」 “Governmental and Administrative Separation of Certain Outlying Areas from Japan”の第4項において,わざわざ「(a1914年の世界大戦以来,日本が委任統治その他の方法で,奪取又は占領した全太平洋諸島,(b)満洲,台湾,澎湖列島,(c)朝鮮及び(d)樺太(Karafuto)」を「更に,日本帝国政府の政治上行政上の管轄権から特に除外せられる地域」(Further areas specifically excluded from the governmental and administrative jurisdiction of the Imperial Japanese Government)としています。また,19501124日に米国国務省によって公表されたいわゆる対日講和七原則においても「日本国は〔略〕(c)台湾・澎湖諸島・南樺太・千島列島の地位に関しては連合王国・ソヴィエト連邦・中国及び合衆国の将来の決定を受諾する。条約が効力を生じた後1年以内に決定がなかった場合には,国際連合総会が決定する。中国に於ける特殊な権利及び利益は放棄する。」とあったところです(国際法事例研究会24頁(芹田)参照)。

ところで,上記1946129日の覚書において北方四島は,その第3項後段において「(c)千島列島,歯舞群島(水晶,勇留,秋勇留,志発,多楽島を含む),色丹島」((c) the Kurile (Chishima) Islands, the Habomai (Hapomaze) Island Group (including Suisho, Yuri, Akiyuri, Shibotsu and Taraku Islandsand Shikotan Island)として当該指令の目的からする(For the purpose of this directive)日本(Japan)の定義において日本から除かれています。ここでは国後島及び択捉島は特に挙示されていませんので千島列島(the Kurile Islands)に含まれているのでしょう。ただし,第4項において除かれている満洲,台湾,澎湖島,朝鮮等と比べると,第3項では日本(Japan)から除く旨わざわざ言及されていますから,千島列島,歯舞群島及び色丹島は,第4項で除かれる樺太などと比べるとより日本に近いものとして分類されたものなのでしょう。もっとも,当該覚書の第6項は「この指令中の条項は何れも,ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。」(Nothing in this directive shall be construed as an indication of Allied policy relating to the ultimate determination of the minor islands referred to in Article 8 of the Potsdam Declaration.)と規定しています。

 

3 サン・フランシスコ平和条約

 

(1)第2条(c)

問題は,195198日に調印され,1952428日に発効したサン・フランシスコ平和条約です。北方四島については,同条約の第2条(c)が “Japan renounces all right, title and claim to the Kurile Islands, and to that portion of Sakhalin and the islands adjacent to it over which Japan acquired sovereignty as a consequence of the Treaty of Portsmouth of September 5, 1905”(日本語文では「日本国は,千島列島並びに日本国が190595日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄する。」)と規定しています。

ここで若干,ここでの「放棄」の字義解釈をすると,まず,当該「放棄」によってどこかの国が当該「放棄」に係る領土権を取得するということはありません。19515月の米英暫定草案では「ソ連に割譲する旨」が記されていたのが,同年7月の段階になって「アメリカはソ連に直接利益を与える形式を好まないほか,ソ連の条約不参加の場合に譲渡方式では現実に支配するソ連と日本との間の紛争にまきこまれることを懸念し,領土条項のなかで,朝鮮・台湾・南樺太・千島などを一括して取り扱い,統一的に日本による主権放棄のみを規定することを〔英国に〕提案し,結局これが採用された」ものです(国際法事例研究会26頁(芹田))。また,当該「放棄」に係る地域が,単純な先占により領土権を取得し得る無主地になるわけでもありません。後に見るように,日本が「放棄」した地域の「最終処分」に係る「未決の点は将来この条約外の国際的解決策で解きほごしていく」べきであるとするのが,サン・フランシスコ講和会議で示された,共同起草国中の一国である米国の意思でした。

ちなみに,所有権の放棄については現行日本民法に規定はありませんが,旧民法財産編(明治23年法律第28号)42条の第5は「物ヲ処分スル能力アル所有者ノ任意ノ遺棄」によって所有権は消滅するものと規定されていました。「所有権は〔略〕放棄により,目的物は無主物あるいは国有となって存続しても,元の所有権は観念的にその存在を失って消滅する」ところ(我妻榮著=有泉亨補訂『新訂物権法(民法講義Ⅱ)』(岩波書店・1983年)247頁),物権の放棄は単独行為であって,「所有権〔略〕の放棄は,特定の人に対する意思表示を必要としない(承役地の所有権を地役権者に対して委棄する場合は例外である。287条〔略〕参照)。占有の放棄その他によって,放棄の意思が表示されればよい。ただし,不動産所有権の放棄は,登記官に申請して登記の抹消をしなければ第三者に対抗しえないといわねばならない」とされています(我妻=有泉248頁)。国家の国土領有権についての登記官は考え難いところです。なお,注意すべきは,「物権の放棄も公序良俗に反してはならない(例えば危険な土地の工作物の放棄。717条参照)が,さらに,これによって他人の利益を害さない場合にだけ認められる」ものとされていることです(我妻=有泉249頁)。美濃部達吉は領土の放棄について,「無人地を抛棄するのは,何人の権利をも侵害するものではないから,敢て立法権の行為を必要とすべき理由は無いのである〔勅令をもって無人地たる領土の放棄は可能〕。之に反して現に臣民の居住して居る土地を抛棄することは之を独立の一国として承認する場合にのみ可能であつて,之を無主地として全く領土の外に置くことは,憲法上許されないところと見るのが正当である。何となれば臣民は国家の保護を要求する権利を有するもので,国家は之をその保護から排除することを得ないものであるからである。」と述べています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)83頁)。ただし,ここでは単独行為としての領土の抛棄について論ぜられているものでしょう。北方四島に居住していた我が国民については,「戦前,北方四島には,約17千人の日本人が住んでいましたが,その全員が,1948年までに強制的に日本本土に引き揚げさせられました。」とのことです(外務省「北方領土に関するQ&A」ウェブ・ページ(A4))。すなわち,サン・フランシスコ平和条約調印の時点において北方四島は「現に臣民の居住して居る土地」ではなかったようではあります。

  

(2)「千島列島」の範囲論による領有権喪失の否認

 

ア 北方四島=非「千島列島」

サン・フランシスコ平和条約2条(c)に関して,内閣府北方対策本部の「北方領土問題とは」ウェブ・ページには,「サン・フランシスコ平和条約で我が国は,千島列島に対する領土権を放棄しているが,我が国固有の領土である北方領土はこの千島列島には含まれていない。このことについては,樺太千島交換条約の用語例があるばかりでなく,米国政府も公式に明らかにしている(195697日付け対日覚書)。」とあります。サン・フランシスコ平和条約において日本は北方四島を放棄していない,それは,北方四島は同条約2条(c)にいう「千島列島」に含まれていないからだ,したがって結局日本は同条約によっても北方四島の領有権を喪失していない,ということのようです。

しかしながら,日本語でいう「千島列島」はどの範囲の島々を意味するのかということであれば日本語話者間における用法でもって決まるということでよいのでしょうが,サン・フランシスコ平和条約の正文は英語,フランス語及びスペイン語です。

 

イ 樺太千島交換条約

1875年の樺太千島交換条約はフランス語によるものなので,内閣府北方対策本部のウェブ・ページは同条約における用語例を援用したのでしょうか。

確かに,半年に及ぶ対露交渉の末同条約に調印した榎本武揚による和訳文を見ると,前文では「大日本国皇帝陛下ハ樺太島即薩哈嗹島上ニ存スル領地ノ権理/全魯西亜国皇帝陛下ハ「クリル」群島上ニ存スル領地ノ権理ヲ互ニ相交換スルノ約ヲ結ント欲シ」とありますから,同条約によって日本に譲与された島々イコール「クリル群島」なのだ,ということになりそうです。しかしながら,ここで相交換される「「クリル」群島」はフランス語文では “le groupe des îles Kouriles”です。“un groupe des îles Kouriles”でないのはよいのですが,端的に“les îles Kouriles”でないところが少々面白くないところです。

しかして,同条約第2款には「全魯西亜皇帝陛下ハ〔略〕現今所領「クリル」群島(le groupe des îles dites Kouriles qu’Elle [Sa Majesté l’Empereur de toutes les Russies] possède actuellement)即チ第1「シュムシュ」島〔中略〕第18「ウルップ」島共計18島ノ権理及ビ君主ニ属スル一切ノ権理ヲ大日本国皇帝陛下ニ譲リ而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ(désormais ledit groupe des Kouriles appartiendra à l’Empire du Japon)〔以下略〕」とあります。“le groupe des îles dites Kouriles, qu’Elle possède actuellement”というようにカンマがあるわけでもないので,「クリル全島中のうち現在ロシア領であるもの」が譲られるのだ,とも読み得るものでしょうか。“ledit groupe des Kouriles”であって“le groupe des Kouriles”ではないことも,“le groupe des îles Kouriles”が固有名詞ではないようでいやらしい。サン・フランシスコ平和条約2条(c)のフランス語文は,“Le Japon renounce à tous droits, titres et revendications sur les îles Kouriles, ainsi que sur la partie de l’île Sakhaline et sur les îles y adjacentes passées sous la souveraineté du Japon en vertu du Traité de Portsmouth du 5 septembre 1905.”です(イタリックは筆者によるもの)。「樺太千島交換条約」(これに相当するフランス語による題名も,日本外交文書デジタルコレクション掲載の当該条約を見る限りは無いようです。ただし,外務省条約局『旧条約彙纂第1巻第2部』(1934年)680頁には表題として“Traité d’Échange de l’Île de Sakhaline contre le Groupe des Îles Kouriles”とあります。)における「用語例」から北方四島は「千島列島」には含まれないのだ,と直ちに言い切って済ましては,不全感が残るようです。

ちなみに,1855年の日魯通好条約2条における択捉・得撫両島間国境関係部分のフランス語訳文は “La frontière entre la Russie et le Japon passera désormais entre les îles Itouroup et Ouroup. L’île Itouroup appartient tout entière au Japon, et l’île Ouroup, ainsi que les autres îles Kouriles situées au nord de cette île, appartiennent à la Russie.”となっています(『旧条約彙纂第1巻第2部』523頁)。ここで,カンマがあって"les autres îles Kouriles, situées au nord de cette île" であれば,「得撫島及び他のクリル諸島,すなわち該島〔得撫島〕より北に所在する島々は,ロシアに属す」(「「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す」)ということになって正確(つまり,得撫島以北の島々がクリル諸島であるということになります。),かつ,疑問を残さなかったようなのですが(しかし,クリル諸島の範囲が自明であれば不要のはずで,くどいといえばくどい。),カンマが無いばかりに,「得撫島及び他のクリル諸島のうち該島〔得撫島〕より北のもの」と解されて,では得撫島より南にもクリル諸島はあるのだね,との誤解が生じ得てしまうところです(得撫島より南ではなく得撫島以南であって,かつ,以南といえば得撫島を含むが実は同島だけであって,択捉島・国後島は含まれないのだよ,ともなお言い張り得ますが。)。

   

ウ ダレス9月覚書

 

(ア)「日本国の主権下にあるものとして認められなければならない」国後・択捉両島並びに北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島

内閣府北方対策本部が援用した195697日付けの前記ダレス米国国務長官の対日覚書(両国政府の協議の後同月12日に公表。当時の「日ソ平和条約交渉中に提起された諸問題」に関するもの。以下「ダレス9月覚書」といいます。)には,確かに,「米国は,歴史上の事実を注意深く検討した結果,択捉,国後両島は(北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島とともに)常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり,かつ,正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に達した。米国は,このことにソ連邦が同意するならば,それは極東における緊張の緩和に積極的に寄与することになるであろうと考えるものである。」(The United States has reached the conclusion after careful examination of the historical facts that the islands of Etorofu and Kunashiri (along with the Habomai Islands and Shikotan which are a part of Hokkaido) have always been part of Japan proper and should in justice be acknowledged as under Japanese sovereignty. The United States would regard Soviet agreement to this effect as a positive contribution to the reduction of tension in the Far East.)とあります。しかし,これでは,「北海道の一部」である歯舞群島及び色丹島はthe Kurile Islandsに含まれないものであると英語では理解されていることは分かりますが(また,19515月の対日平和条約米英暫定合同草案の段階において英語の本家の「英の解釈では,歯舞・色丹は千島列島の範囲に含まれていなかった」そうです(国際法事例研究会26頁(芹田))。),国後島及び択捉島は「千島列島」には含まれないのであるぞ,とまでは明文で述べられてはいません。

 

(イ)国後・択捉両島と「千島列島」

国後島及び択捉島と「千島列島」との関係については,米国国務省のOffice of Historianウェブ・サイトに掲載されている195693日付け極東担当国務次官(ロバートソン)発国務長官宛てメモ(Memorandum From the Assistant Secretary of State for Far Eastern Affairs (Robertson) to the Secretary of State)において,「しかしながら,これらの島〔国後島及び択捉島〕は日本の,及び国際的用法においては千島弧の一部として記述されてきており,サン・フランシスコ条約において用いられた語であるところの千島列島の一部ではないということは難しいであろう。」(The islands have been described in Japanese and international usage as part of the Kurile chain, however, and it would be difficult to prove that they are not a part of the Kurile Islands as the term is used in the San Francisco treaty.)と記されており,かつ,Office of Historianの註するところでは,同年8月に国務省歴史部政策研究課のハーバート・スピールマン(Herbert Spielman, Policy Studies Branch, Historical Division)が行った調査の結論は,「本件に関する米国文書のほとんど(most)において,国後及び択捉は千島列島(the Kuriles)の一部であるものとして認識されている。また,日本国内閣総理大臣〔吉田茂〕は平和条約調印のために招集されたサン・フランシスコ会議〔195197日の第8回全体会議〕において演説しつつ,「南千島に属するもの」(‘Of the South Kuriles’)であるものとしてこれら二島に特に言及している。」であったものとされています(スピールマンの調査結果については,溝口修平「日ソ国交正常化交渉に対する米国の政策の変化と連続性」国際政治(日本国際政治学会)第176号(20143月)119頁参照)

(なお,195197日の吉田茂発言は,内閣府北方対策本部の「北方領土問題」ウェブ・サイトの「外交文書(11)」では同月「8日」に行われたものとされていますが,「7日」の間違いです。当該発言は,日本外交文書デジタルコレクションの「平和条約の締結に関する調書第4冊」の「平和条約の締結に関する調書Ⅶ」中「Ⅱ桑港編」でも読むことができます(128-129頁(118-119頁)。1970年になってからの外務省条約局法規課作成の資料)。ただし,そこでは「千島南部の二島,択捉,国後両島」との日本語となっています。千島があって,その外の南側に位置する二島ということでしょうか。しかしながら,前後を含めて当該部分の英文は,“With respect to the Kuriles and South Sakhalin, I cannot yield to the claim of the Soviet Delegate that Japan had grabbed them by aggression. At the time of the opening of Japan, her ownership of two islands of Etoroff and Kunashiri of the South Kuriles was not questioned at all by the Czarist government. But the North Kuriles north of Urruppu and the southern half of Sakhalin were areas open to both Japanese and Russian settlers. On May 7, 1875 the Japanese and Russian Governments effected through peaceful negotiations an arrangement under which South Sakhalin was made Russian territory, and the North Kuriles were in exchange made Japanese territory.”となっています(日本外交文書デジタルコレクション「平和条約の締結に関する調書Ⅶ」の「付録3150325頁(313頁))。ただし,185527日調印の日魯通好条約では得撫島以北はロシア領とされたはずであり,また,1853年の交渉中にプチャーチンは我が国代表者に対して択捉島の分割を提案していたそうです(国際法事例研究会94頁(安藤仁介))。ちなみに,1956824日にロンドンの米国大使邸で行われた重光外務大臣とダレス国務長官等との会談において,重光大臣は“The legal question is clear. The Japanese surrendered this territory [Etorofu and Kunashiri (perhaps)] under the San Francisco Treaty with the Allies, among whom the Soviets were not included.”と口走り,ダレス長官は「サン・フランシスコ平和条約の時には,吉田政府から,歯舞及び色丹はthe Kurilesの一部ではないという立場を採るよう米国は頼まれていた。択捉及び国後については,彼らは同様の依頼をしてこなかった。」と述べています(米国国務省Office of Historianウェブ・サイト)。)

 

エ 国後・択捉両島=非「千島」の事実に対する雑音について

樺太千島交換条約及びダレス9月覚書を援用して国後島及び択捉島はサン・フランシスコ平和条約2条(c)の「千島列島」に含まれないものとする主張は,愛国的かつ真摯なものではありますが,なお全ての雑音を一掃し去るには至っていないようです。
 所有権に基づく土地明渡請求の例え話に戻れば,
Y(ロシア)によるサン・フランシスコ平和条約の調印・発効に係る事実の主張は,歯舞諸島及び色丹島に係るX(日本)の所有権喪失の抗弁を成り立たせるものではないものの,国後島及び択捉島についての当該抗弁に係る主張としては,当該条約の殊更な反日的解釈においては――天道(てんどう)()()非邪(ひか)――ひょっとすると成功することになるかもしれぬという懸念は完全には払拭できません(当該懸念が仮に現実のものとなるとしたら,同条約によって北方四島が,歯舞・色丹と国後・択捉との2筆に分筆されてしまったことにもなるものか)。ただし,サン・フランシスコ平和条約によるXの所有権の当該喪失は,Yによる当該所有権の取得までを意味するものではありません。

 

(3)サン・フランシスコ講和会議における米英全権の説明

ここで,サン・フランシスコ講和会議において対日平和条約案を共同提案した米英の代表がした演説中,サン・フランシスコ平和条約2条に関する部分を紹介しておきましょう。いずれも195195日午後の第2回全体会議でされたものです。

まず,米国全権のダレスいわく,「第2章(領域)は日本の領域について規定する。日本は6年前現実に実施された降伏条項の領土条項をここで正式に承認することになる。ポツダム降伏条項は日本と連合国が全体として拘束される唯一の平和条項の規定である。23の連合国政府間の私的了解が23あるけれどもそれらは日本や他の連合国を拘束しない。だから,条約は,降伏条項第8項を具体化した。第2章第2条の定める放棄は厳格に降伏条項に一致している。/第2条,(c)の千島列島(“Kurile Islands”)という地理的称呼がハボマイ諸島(the Habomai Islands)をふくむかどうかの問題が提起されたが,ふくまないというのが合衆国の見解である。この点について紛争があれば,紛争は第22条によって国際司法裁判所に付託しうる。/第2条は日本に主権を放棄させるだけでなく当該領域の最終処分を規定すべきであるという連合国もあった。しかし,どちらに与ゆべきであるかの問題の起る地域がある。ポツダム降伏条項にしたがつて日本に平和を与えるか,それとも,日本が放棄する用意があり放棄を求められる地域をどうするか連合国が争う間日本に平和を与えないかのどちらかである。日本に関するかぎり,今平和を与え未決の点は将来この条約外の国際的解決策で解きほごしていくのが明らかに賢明ないきかたである。(Clearly, the wise course was to proceed now, so far as Japan is concerned, leaving the future to resolve doubts by invoking international solvents other than this treaty.)」と(日本外交文書デジタルコレクション「Ⅱ桑港編」75頁(65頁))。

次に英国全権のヤンガーいわく,「これらの条項はポツダム宣言の規定を基礎にするものである。ポツダム宣言の規定は日本の主権が四大島と後日宣言署名国の決定する諸島に制限されることを規定している。琉球諸島と小笠原諸島については条約はこれらの諸島を日本の主権から切り離さない。条約は北緯29度以南の琉球諸島にたいする合衆国管治の継続を規定する。すなわち日本に至近の島々は日本の主権のもとに残るばかりでなく日本の管治のもとに残ることになる。これは,日本本土にきわめて接近しそして現在ソヴィエト連邦によつて占領されているも一つの重要な群島である千島列島にたいする日本主権の完全放棄の規定と顕著な対照をなすものである。われわれは千島列島にたいする日本主権の放棄に合意したが,より南にある琉球諸島と小笠原諸島に関する規定を非難する人たちはこの比較を銘記すべきであると思う。」と(日本外交文書デジタルコレクション「Ⅱ桑港編」90頁(80頁))。

ちなみに,第2回全体会議でソ連全権グロムイコは「琉球・小笠原諸島・西之島・火山列島・沖鳥島・南鳥島」に日本の主権を及ぼさせるべきだと主張しましたが(南西諸島等に係るサン・フランシスコ平和条約3条に反対。日本外交文書デジタルコレクション「Ⅱ桑港編」108頁(98頁)),翌6日午前の第4回全体会議においてセイロン代表は当該主張に痛烈な批評を加え,「ソヴィエト連邦は西南諸島を日本に返還せよという。では,南樺太・千島列島を日本に返還してはどうか。ソヴィエト連邦は日本は基本的人権を享有すべきであるといわれるが,その自由はソヴィエト国民こそ欲しているものである。」と述べています(日本外交文書デジタルコレクション「Ⅱ桑港編」113頁(103頁))。サン・フランシスコ平和条約3条に規定された諸島は,1972515日の沖縄の本土復帰を最後に既に米国から日本に返還されています。

 

(4)ダレス9月覚書における国後・択捉両島問題の位置付けに関する仮定論

 

ア ダレス9月覚書の関係部分

なお念のため,国後島及び択捉島がサン・フランシスコ平和条約2条(c)の「千島列島」に仮に含まれるのならば,同条約によって「放棄」された日本の領土に係るダレス9覚書における次の部分が,両島についても適用されることになるようです。
 いわく,「サンフランシスコ平和条約――この条約はソ連邦が署名を拒否したから同国に対してはなんらの権利を付与するものではないが――は,日本によって放棄された領土の主権帰属を決定しておらず,この問題は,サンフランシスコ会議で米国代表が述べたとおり,同条約とは別個の国際的解決手段に付せられるべきものとして残されている。/いずれにしても日本は,同条約で放棄した領土に対する主権を他に引き渡す権利を持っていないのである。このような性質のいかなる行為がなされたとしても,それは,米国の見解によれば,サンフランシスコ条約の署名国を拘束し得るものではなく,また同条約署名国は,かかる行為に対してはおそらく同条約によって与えられた一切の権利を留保するものと推測される。」(
The San Francisco Peace Treaty (which conferred no rights upon the Soviet Union because it refused to sign) did not determine the sovereignty of the territories renounced by Japan, leaving that question, as was stated by the Delegate of the United States at San Francisco, to ‘international solvents other than this treaty’. / It is the considered opinion of the United States that by virtue of the San Francisco Peace Treaty Japan does not have the right to transfer sovereignty over the territories renounced by it therein. In the opinion of the United States, the signatories of the San Francisco Treaty would not be bound to accept any action of this character and they would, presumably, reserve all their rights thereunder.)と。

 

イ “demonstration of moral support”

それでは「択捉,国後両島は・・・常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり,かつ,正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論」とは何だったのかといえば,ダレス9月覚書の原案作成者であるロバートソン国務次官の前記195693日付けメモ(以下「ロバートソン・メモ」といいます。)によれば,“demonstration of moral support”ということのようです。

つまり,“If we cannot directly assist Japan in its negotiations, there may be steps which would strengthen our bonds with Japan by way of contrast with Soviet imperialism. Any demonstration of moral support would be of some value from this standpoint, such as a declaration that we believe Japanese claims to Etorofu and Kunashiri are just.”(日本をその〔対ソ国交回復・北方四島返還〕交渉において我々は直接支援できないとしても,ソヴィエト帝国主義との対比によって我々の日本との絆を強化することとなるであろう方策はあり得るところである。この観点からすると,択捉島及び国後島に対する日本の請求権は正しいものであると我々は信ずる旨の宣言のような精神的弾込め(demonstration of moral support)には意味があるであろう。)という考え方が,ダレス9月覚書の背景にはあったのでした。

「精神的弾込め」とは意訳が過ぎるようですが,当該語句を筆者がつい用いた理由は,当時の重光葵外務大臣は前月の1956年「8月中旬,歯舞・色丹引き渡しを条件とするソ連案での妥協を日本政府に請訓したが,日本政府がこれを拒否した」という状態であって(国際法事例研究会108頁(安藤)),重光外務大臣には相当の叱咤が必要であったようであるからです(同年819日には,ロンドンにおいて同大臣に対する「ダレスの恫喝」として知られる「パワハラ」事件が起きています。なお,同月14日付けの在東京米国大使館から同国国務省への電報は,ソ連案で妥協するとの方針には外務大臣以外の日本の閣僚は一致して反対であるとの消息筋の情報を既に伝えていました(同月19日のダレス=重光会談に係る米国国務省のメモランダムに付された註参照(同省Office of Historianウェブ・サイト))。「ダレスの恫喝」といっても米国国務長官ダレスのみの発意によるものではなく,当の鳩山一郎内閣に代わって,その方針を同内閣の外務大臣に改めて告げたというお節介の側面もあったものでしょう(日本国憲法732号及び3に明らかなように,外務省は内閣の方針に従わなければなりません。)。同年1122日の衆議院日ソ共同宣言等特別委員会において重光外務大臣は,米国からの「俗にいうハッパ」について語っています(第25回国会衆議院日ソ共同宣言等特別委員会議録第519頁)。同年822日のダレス長官からの国務省宛て電報には「ソヴィエトとの平和条約締結交渉の頓挫(collapse)の結果,重光が憂慮し,取り乱した状態(in worried and distraught condition)にあるのは明白であった。彼は,最終的に地域の帰属を決定する(final territorial dispositions)問題を検討するための日ソ英及び恐らくその他による会議を米国が招集することが望ましいことを何度か仄めかした。」とあります(同省Office of Historianウェブ・サイト)。)。

 

ウ 日本の権能

なお,ロバートソン・メモは更にいわく。“In the light of Japanese reactions, it appears wise to […] assert simply that having renounced sovereignty over the territories, Japan does not have the right to determine the question, which is of concern to the community of nations, not to Japan and the Soviet Union alone. This formulation would enable the United States to reserve all its rights, whatever they may be, and to refuse to recognize Soviet sovereignty even if Japan should ultimately purport to do so.”(日本の反応に鑑みると,〔略〕当該地域に係る主権を放棄した以上,日本は,日本及びソヴィエト連邦のみの課題ではなく国際社会の課題であるところの〔当該地域の主権に係る〕当該問題を決する権利を有していないと簡潔に述べることが賢明であるものと思われる。この方法によって,米国は,いかなるものであってもその全ての権利を留保することができ,また,たとえ日本が最終的にそのようにしようとしても,ソヴィエトの主権を承認することを拒否することができる。)と。

さて,国後島及び択捉島に係る主権の所在が「国際社会の課題」であるのならば,皆で国際的に話し合えばよいかといえば,そうもいきません。195697日の会見においてダレス長官が谷大使に口頭で述べたところ(Oral Points)によれば「米国政府は,関係諸国による国際会議が領土問題を決することの助けになるものかどうか真剣に検討したが,現段階においては,そのような会議は当該問題に係る望ましい解決(a desired solution)を促進しないであろうという結論に達した。」とのことでした。ロバートソン・メモには,具体的な問題点として,そのような国際会議に仮にソ連が参加したとしても当該会議を「台湾,朝鮮,そして恐らく琉球の地位問題を含む全般的極東問題会議にしようとする」だろうし,「ソヴィエト連邦は,中共が招待されるべきことに恐らく固執するであろう。」との懸念が記載されています。(現在ではまた,国際的な紛争の一つの焦点たる海域である南シナ海の問題も,サン・フランシスコ平和条約2条(f)との関係で,提起されてしまう可能性がないでしょうか。(「南シナ海における大日本帝国」参照http://donttreadonme.blog.jp/archives/1043946377.html))

「日本は・・・当該問題を決する権利を有していない」との前提である結果,ロバートソン・メモに添付されていたダレス9月覚書の原案では「サン・フランシスコ平和条約によれば(by virtue of the San Francisco Peace Treaty),日本は同条約において放棄した地域に係る主権に関する決定権(the right to determine the sovereignty over the territories renounced by it)を有さず,かつ,それは,日本と連合国のいずれか一国との間の合意によって解決されるべき事項ではない,というのが米国の熟慮の末の意見である。米国は,当該性格のいかなる行為についても承諾すべく拘束されることはないであろうし,かつ,その全ての権利を留保しなければならないであろう。」との記載がありました。しかしこれでは,歯舞群島及び色丹島の返還(明渡)問題は別として,日ソ二国間交渉で国後島及び択捉島の主権の問題を決めることはできず,当該二島については交渉それ自体が無意味である(しかも米国の目からは越権行為)ということになります。

そこで,ダレス9月覚書では原案に変更を加え,上記の点については,「日本は,同条約で放棄した領土に対する主権を他に引き渡す権利を持っていないのである。」ということで,対ソ関係の「千島列島並びに日本国が190595日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島」ないしは少なくとも国後島及び択捉島については,日本がその「放棄」した領土権を回復することは妨げられない,という反対解釈がされるように書き直されたものなのでしょう。カイロ宣言では「日本国ハ又暴力及貪欲ニ依リ日本国ガ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルベシ」とありますが,いったん「駆逐」された後の復帰は可能と解するものか,それともそもそも千島列島等は「暴力及貪欲ニ依リ日本国ガ略取シタル」地域ではないので「駆逐」される必要性は最初から無かったと解するものか。

ちなみに,1956827日付け(ただし,「?」が付されています。)の米国国務省北東アジア室の在東京米国大使館宛て週報には,「法務顧問室はハイド(Hyde)の「国際法」を掘り返して,日本は,その放棄した主権が他の国に移転されるまでは,the Kuriles及び樺太にresidential sovereignty(我々が考えるには,琉球におけるresidual sovereigntyとは違うものではあるが,恐らくその発想の源(inspiration)であろう。)を有している,との長官の見解を支持するであろう理論を見つけ出した。」との記述があったところです(同省Office of Historianウェブ・サイト)。

(なお,「日本は,〔サン・フランシスコ〕平和条約で放棄した領土に対する主権を他に引き渡す権利を持っていない」にもかかわらずそのような僭越なことをした場合(例えば,本来日本が領土権を「放棄」しただけの島について,更に完全な主権をソ連に認めた場合)には同条約26条後段が働き,「これと同一の利益は,この条約の当事国にも及ぼされなければならない」ことになるとされていました(その場合,琉球に係る完全な主権を米国にも認めて,せっかくの琉球に係る潜在主権を日本は失うべし。だから譲歩せずに頑張れ。)。この機序の説明がいわゆる「ダレスの恫喝」になったわけです。)

 

エ 「国際的解決手段(international solvents)」とは

国後島及び択捉島の領土権の回復は妨げられないとして,それではそのための,ダレス9月覚書にいう「〔サン・フランシスコ平和〕条約とは別個の国際的解決手段に付せられるべき」ところの「国際的解決手段(international solvents)」とは――国際会議の招集は先にみたように論外であるとして――両島については何なのだ,という問題が残っています。
 この点に関しては,ダレス
9月覚書を手交された際に谷大使が正に当該国際的解決手段に関してした質問に対する同長官の発言を,米国国務省の記録は次のように伝えています。いわく,“He would say that the processes that he had in mind […] are the whole series of processes that are under way at present. The negotiation between Japan and the Soviet Union are a part, as are our own efforts to assist together with any pressures which we may possibly be able to bring about from other government. […]”(私の念頭にあるプロセスとは,〔略〕現在進行中の一連のプロセス全てであるというべきだろう。日本とソヴィエト連邦との間の交渉は〔その〕一部であるし,他の政府から我々が恐らく引き出すことのできるであろう圧力と共に〔日本を〕支援する我々自身の努力もそうである。〔略〕)と。いずれにせよ,日ソ二国間限りで決まる問題ではない,というのが米国の認識であったようです。一回の国際会議によってきっぱり綺麗に決まればよいのでしょうが,サン・フランシスコ講和会議がそれをできなかったように,やはりそうはいかないのでしょう。ただし,国後島及び択捉島に係る領土権の日本帰属は正当なものであると判断した以上,米国としては,日ソ間での当該趣旨での合意後に他国からの苦情紛糾があっても,結果よければ全てよしということで当該日ソ間合意を認容することとしてその辺のことは見切った,ということでありましょうか。

 

第6 日ソ共同宣言と「占有権原の抗弁」等

 19561019日にモスクワで署名され,同年1212日に発効した日ソ共同宣言の第9項は「日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は,両国間に正常な外交関係が回復された後,平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。/ソヴィエト社会主義共和国連邦は,日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して,歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡すことに同意する。ただし,これらの諸島は,日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。」と規定しています(日本側全権委員:内閣総理大臣鳩山一郎,農林大臣河野一郎及び衆議院議員松本俊一)。ここでの「平和条約の締結に関する交渉」は,同年929日付け松本俊一全権委員書簡及び同書簡に対する同日付けグロムイコ・ソ連第一外務次官書簡を根拠として,「領土問題をも含む」ものと,我が国では理解されています。(ただし,共同宣言案にあった「領土問題を含む」との文言が同年1018日にフルシチョフ・ソ連共産党第一書記の要求により落ちたという経緯があり,かつ,同第一書記は同月16日には「歯舞・色丹を書いてもよいが,その場合は平和条約交渉で領土問題を扱うことはない,歯舞・色丹で領土問題は解決する旨主張」したとされています(塚本孝「北方領土問題の経緯【第4版】」調査と情報(国立国会図書館)第697号(2011年)5-6頁)。)

 一読すると「なんだ,歯舞群島と色丹島とは返してもらえるんだね,よかったね。」ということになるのですが,よく読むと,日ソ(日露間)間の平和条約締結後まではソ連(ロシア)は歯舞群島及び色丹島の占拠を継続してよい旨日本側が認めてしまったようにも読めます。1945年のヤルタ協定,同年のポツダム宣言及び1951年のサン・フランシスコ平和条約のいずれによっても日本の歯舞群島及び色丹島に係る領土権の喪失はもたらされていないということで,X(日本)に対するY(ソ連)からの所有権喪失の抗弁が認められないとしても,1956年の日ソ共同宣言に至ってその第9項に基づくYの占有権原の抗弁は成り立って,XYに対する明渡請求は失敗してしまうかもしれません。また,当該占有権原はいつまで続くかといえば,XY間の平和条約締結のいかんはYの意思次第なので,いわばYは欲する限り日ソ共同宣言9項に基づき歯舞群島及び色丹島の占有を継続できるということになりそうです。何だか変ですね。しかしこの辺については,参議院外務委員会において19561129日,下田武三政府委員(外務省条約局長)が説明しています。いわく,「従来は,これらの島々に対するソ連の占領は戦時占領でございましたことは仰せの通りでございまするが,しかし共同宣言が発効いたしますと,第1項の規定によりまして戦争状態は終了するわけでございますから,その後におきましては,もはや戦時占領でなくなるわけでございます。しからば戦争状態終了後,歯舞,色丹をソ連が引き続き占拠しておることが不法であるかと申しますと,これはこの第9項で,平和条約終了後に引き渡すと,現実の引き渡しが行われるということを日本が認めておるのでありまするから,一定の期限後に日本に返還されることを条件として,それまで事実上ソ連がそこを支配することを日本はまあ認めたわけでございまするから,ソ連の引き続き占拠することが不法なりとは,これまた言えない筋合いであると思います。/それから国後,択捉等につきましては,これも日本はすぐ取り返すという主張をやめまして,継続審議で解決するという建前をとっております。従いまして,これにつきましても事実上ソ連が解決がつくまで押えてあるということを,日本は不問に付するという意味合いを持っておるのでありまするから,これもあながち不法占拠だということは言えません。要するに日本はあくまでも日本の領土だという建前を堅持しておりまして,実際上しばらくソ連による占拠を黙認するというのが現在の状態かと思います。」と(第25回国会参議院外務委員会会議録第66-7頁)。確かに,「北方領土の日」の前記閣議了解の「理由書」でも,「不当な占拠」とは言っていても,「不法な占拠」とは言っていませんでした。

 また,「日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して」という文言だけでも恩着せがましくて違和感があるのですが(日本の領土権が無視されています。),更に「引き渡す」との用語はいかがなものでしょうか。サン・フランシスコ平和条約6条では,占領軍の日本国からの「撤退」という表現をしています。「引き渡す」ということは領土権の移転である,ということであれば,歯舞群島及び色丹島に係るソ連の「領土権」を認める旨の日本の「権利自白」が1956年の日ソ共同宣言によってされてしまったことになるのかどうか。同年1125日の衆議院日ソ共同宣言等特別委員会において,同様の懸念を大橋武夫委員が表明しています(第25回国会衆議院日ソ共同宣言等特別委員会議録第74頁)。同委員の当該突っ込みに対しては,松本俊一全権委員及び下田武三政府委員が,日本文では「引き渡す」と表現されたロシア文のпередать(ペレダーチ)とは「単なる物理的な占有の移転」を意味するものなのですと答弁して頑張っています(同議事録5頁)。しかし,筆者の手元の『博友社ロシア語辞典』(1975年)でпередатьを引いてみると,「財産に対する権利を譲渡する」や「全権を譲り渡す」といった文章における「譲渡する」「譲り渡す」を意味する動詞でもあるようです。

 なお,軍事占領下の統治の法的性格について美濃部達吉は,「或る地域が既に平定して完全にわが軍の勢力の下に置かれた後には,その地域に於いては敵国の統治権を排除し,軍隊の実力を以てその統治を行ふことになるのであつて,その占領中は一時〔わが国〕の統治権がその地域に行はれる。併し此の場合の〔わが国〕の統治は一時の経過的現象であつて,法律上の権利として統治権が成立するのではなく,実力に依る統治に外ならぬ。それが結局に於いて,〔わが国〕の権利として承認せらるゝや又は原状に回復せらるゝやは,講和条約に待たねばならぬのである。」と説明しています(美濃部・精義96頁)。

 第198回国会における安倍晋三内閣総理大臣の施政方針演説(2019128日)においては,「ロシアとは,〔略〕領土問題を解決して,平和条約を締結する。〔略〕この課題について,〔略〕必ずや終止符を打つ,との強い意志を,プーチン大統領と共有しました。〔略〕1956年宣言を基礎として,交渉を加速してまいります。」と述べられています(下線は筆者によるもの)。

 

第7 燕雲十六州問題に係る澶淵の盟の前例

 しかし,形はどうであれ「領土問題を解決」することは,もちろんよいことなのでしょう。

漢族固有の地である長城内の燕雲十六州を異民族国家であるモンゴル系の遼(契丹)から取り戻すことを諦め,遼による領有の現状を認めた北宋の真宗が遼の聖宗と結んだ1004年の澶淵の盟(「宋からは以後毎年,銀10万両,絹20万匹を歳幣(毎年贈る金品)として贈り,互いに国境を侵犯しないことを誓約」したもの(宮崎市定『中国史(下)』(岩波文庫・2015年)16頁))も,“The peace signed by Song with the Liao (Khitan) in 1004 was the first in a series of acts of national disgrace.1004年に宋が遼(契丹)と締結した平和条約は,一連の国恥の最初のものであった。)と言われはしますが(Jian Bozan, Shao Xunzheng and Hu Hua, A Concise History of China (Beijing: Foreign Language Press, 1986), p.60),悪くはなかったとされているところです。

いわく,「この条約は宋側にとって非常な屈辱とされるのは,歳幣を贈る義務を負わされた上に,異民族王朝の君主を皇帝と称して,これと対等の立場で国交を行わねばならなかったからである。しかしながら宋側にとって有利な点があったことを見逃してはならない。従来中国は,万里の長城によって北方遊牧民の南下を遮断して自衛してきた,〔略〕もし相互不可侵条約を結ぼうとしても,その相手が見つからない。砂漠の政権は絶えず移動するからである。しかるに今度,遼王朝という安定政権の成立により,宋は恰好な交渉相手に直面することになった。歳幣は経済的の負担でもあり,不名誉な義務には相違ないが,しかし平和の代償と思えば,特に高価に過ぎるものではなかった。経済的先進の大国である中国が,発達途上国の遼に対して,経済援助の無償援助を行って悪い理由はなかった。/遼に対する歳幣は,宋政府の財政から見ても,大して痛痒を感ずるほどのものではなかった。それどころではない。国初以来の経済成長はなお持続し,これに伴って国庫収入も増加し続けた。」と(宮崎16-17頁)。

ただし,真宗は,遼軍が燕雲十六州から更に南下して黄河に到達し澶州(澶淵)に迫ったという苦難の遼宋戦争状態終結の必要のために澶淵の盟を提議したものです(宮崎16頁参照)。

 真宗(趙恒)は,何もないのに,「遼とは,国民同士,互いの信頼と友情を深め,燕雲十六州問題を解決して,盟約を締結する。後晋の石敬瑭〔936年〕以来七十年近く残されてきた,この課題について,次の世代に先送りすることなく,必ずや終止符を打つ,との強い意志を,耶律隆緒皇帝〔聖宗〕と共有しました。首脳間の深い信頼関係の上に,交渉を加速してまいります。」と見栄を切って,勇躍首脳外交のために開封を発したわけではありません。  

遼宋間の平和は澶淵の盟以後百十年以上続きますが,1115年には遼の東方で完顔阿骨打に率いられた女真人が金を建国,北宋(風流天子こと徽宗の時代)は新興の金を利用して「固有の領土」燕雲十六州を遼から奪回することを謀ります。

1125年,金宋同盟によって首尾よく遼は駆逐されます。しかし今度は,北宋の背信をとがめ,余勢を駆って南進して来た金(皇帝は阿骨打の弟・太宗晟)の軍隊によって北宋は首都開封を囲まれること2度,終に欽宗皇帝及びその父の徽宗上皇は人質となって金の内地に連行され(1127年。我が正平一統の際に退位せしめられた崇光天皇並びにその父の光厳太上天皇及び叔父の光明太上天皇が吉野方から被った取扱いに似ていますね。),北宋は滅亡するに至ります。嗚呼。かくも「固有の領土」の恢復は難しく,危険なものであったのでした。

宮崎市定教授は嘆じていわく。「このように宋金の交渉は宋側にとって惨憺たる結末に終った。これはむしろ宋側にその責任の大半があり,外交策の拙劣が自ら禍を招いたのであった。すなわち打つ手,打つ手がことごとく裏目に出て,次から次へと最悪の事態が展開して行ったのである。これは宋の政治家の本質を暴露したものであって,宋の国内で通用してきた最も効果的な政略は,対外的には最も愚劣な猿知恵に外ならなかったことを物語る。〔略〕もし宋の方から対応を誤らなければ,災害は途中で喰いとめる余地があったはずであると思われる。そしてこのような最悪の事態に陥ったことについては,盲目的な強硬論を唱えた愛国者の方にも責任がある。すべて国が滅亡に陥る時には,最も不適当な人間が国政の衝に当るように出来ているものなのだ。」と(宮崎83-84頁)。



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前編(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1070538939.html)の続き

10
 小泉純一郎内閣総理大臣

 平成13年(2001年)5月7日の第151回国会における内閣発足後最初の小泉純一郎内閣総理大臣による所信表明演説では「安心」は4回登場しました。国家ないしは国民の目的(①)として「生きがいを持って,安心して暮らすことができる社会」が掲げられ,社会保障(②)に関して2回,並びに高齢者(③)及び障害者(④)(「バリアフリー」)並びに治安・防災(⑤)に関して1回。

 平成13年9月27日の第153回国会における所信表明演説では3回登場。国家ないしは国民の目的(①)たるべき「小泉構造改革五つの目標」の一つとして「人をいたわり,安全で安心に暮らせる社会」が掲げられました。社会保障(②)に関して1回。消費者(⑦)に関して1回(証券市場関係)。

 平成14年(2002年)2月4日の第154回国会における施政方針演説では3回登場。政治の目的(①)として「人をいたわり,安全で安心して暮らせる社会」が再び掲げられます。当該疾病に罹患した牛の肉を食べた人も発症するとされた牛海綿状脳症(BSE)の問題(⑨)を承けて「食の安全」が重視されるようになり,それに関して2回言及(「今後とも,食肉を始めとする「食の安全」と国民の安心を確保するため,最善を尽くします。」「消費者の求める安心・安全な農産物」)されています(⑦の消費者)。

 平成141018日の第155回国会における所信表明演説では1回でした。同月12日に発生したバリ島での爆弾テロ事件を承けての国際テロリズム対策に関してのものです(⑤)。

 平成15年(2003年)1月31日の第156回国会における施政方針演説では2回。「暮らしの構造改革を進め,国民が安心して将来を設計することのできる社会を構築してまいります。」の部分(①なのでしょう。)及びバリアフリー化(③④)に関してのものです。「暮らしの構造改革」などを政府に勝手にされると国民は不安になり迷惑しそうですが,あえて難しく考える必要はないでしょう。

 平成15年9月26日の第157回国会における所信表明演説では3回。「国民の安全と安心の確保は,政府の基本的な責務です。」と表明された上で(①),社会保障に関して言及され(②),更に「今の小学生が社会に出るころまでに,あらゆる分野で女性が指導的地位の3割を占めることを目指し,女性が安心して仕事ができ,個性と能力を発揮できる環境を整備します。」と述べられています(⑥のうち女性に係るもの)。しかしながら,女性ならぬ男性なれども既に皆「安心して仕事ができ,個性と能力を発揮でき」ていたわけではないでしょう。男性においてできなかったものが,女性においてはできるというのは,やはり女性の方が男性よりも「個性と能力」とにおいて優れているからでしょうか。苦労や不安なしに「安心して仕事」をしているうちにするすると「指導的地位」に就けるということは,素晴らしいことです。

 平成16年(2004年)1月19日の第159回国会における施政方針演説では3回。「国は,国民の安全と安心を確保しなければなりません。」と述べられた上で(①),「安心の確保」の見出しの下,社会保障(②)及び子育て(⑥)に関して各1回言及されています。

 平成161012日の第161回国会における所信表明演説では,見出しに「暮らしの安心と安全」はありましたが,演説本体で「安心」の語が発せられることはありませんでした。

 平成17年(2005年)1月21日の第162回国会における施政方針演説では5回と回復しました。「私は就任以来,「民間にできることは民間に」「地方にできることは地方に」との改革を進める一方,国民の安全と安心を確保することこそ国家の重要な役割と考え,その実現に向け努力してまいりました。」と改めて言明されるとともに(①),治安・防災関係(⑤)で3回(前年の新潟県中越地震等との関係では⑨でしょうか。),「国民の「安心」の確保」の見出しの下に子育て(⑥)の関係で1回言及されています。

 参議院において郵政改革法案が否決されたため平成17年8月8日に解散された衆議院の議員総選挙たるいわゆる「郵政選挙」における政権側の大勝を承けた同年9月26日の第163回国会における所信表明演説は,正に小泉節の真骨頂たるべきものでしたが,そこでは「安心」は2回しか登場していません。「郵政事業は,26万人の常勤の国家公務員を擁しています。国民の安全と安心をつかさどる全国の警察官が25万人,陸・海・空すべての自衛官は24万人,そして霞が関と全世界百数十か国の在外公館に勤務している外務省職員に至っては6千人にも及びません。今後も公務員が郵政事業を運営する必要があるのでしょうか。」という部分における「安心」は,安全を担当する夜警国家部門に係る定型的文飾にすぎず,要は,日本郵政公社の連中得々として安心(あんしん)してるんじゃねえよ,ということでしょうか。「国民の安全と安心」との見出しの下の「先日の台風などの災害〔略〕により被害に遭われた方々に対し,心からお見舞いを申し上げます。被災者が一日も早く安心した生活を送れるよう,国内の被災地の復旧と復興に万全を期すとともに,建築物の耐震化を促進するなど災害に強い国づくりを進めてまいります。」の部分は,防災関係(⑤)ですが,時事トピックでもあるのでしょう(⑨)。

 郵政民営化法が成立し,念願を果たした後の平成18年(2006年)1月20日の第164回国会における施政方針演説においては,小泉内閣総理大臣は「安心」に4回言及しています。「主要銀行の不良債権残高はこの3年半で20兆円減少し,金融システムの安定化が実現した今日,「貯蓄から投資へ」の流れを進め,国民が多様な金融商品やサービスを安心して利用できるよう,法制度を整備します。」の部分は郵政民営化以外の「経済の活性化」における政権の成果を誇るものでしょう(⑧)。残りの3回のうち,2回は「暮らしの安心の確保」の見出しの下に放課後児童クラブの整備に関して(⑥の子育て)及び「食の安全と安心」に関して(⑦の消費者。ただし,200512月の米国産牛肉の輸入再開を承けての言及という意味では⑨),1回は犯罪被害者及びその遺族に関して(⑤の治安)言及されています。

 小泉内閣総理大臣にとっては,「安心」はそれ自体としての意義を特に大きく強調すべきものではないもののようにとらえられていたように思われます。人気の高かった小泉内閣総理大臣が退任した後,小泉政権時代は「格差拡大」の時代であったと非難されるようになります。

 

11 安倍晋三内閣総理大臣(第1次内閣)

 その第1次内閣時代,安倍晋三内閣総理大臣は,3回の所信表明演説ないしは施政方針演説を行っています。

 平成18年(2006年)9月29日の第165回国会における所信表明演説では,安倍内閣総理大臣の「美しい国」の理念が披露されています。

 

私が目指すこの国のかたちは,活力とチャンスと優しさに満ちあふれ,自律の精神を大事にする,世界に開かれた,「美しい国,日本」であります。この「美しい国」の姿を,私は次のように考えます。 

 1つ目は,文化,伝統,自然,歴史を大切にする国であります。

 2つ目は,自由な社会を基本とし,規律を知る,凛とした国であります。 

 3つ目は,未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国であります。

 4つ目は,世界に信頼され,尊敬され,愛される,リーダーシップのある国であります。 

 

 「優しさに満ちあふれ」といわれれば,村山内閣総理大臣の「人にやさしい政治」の理念が想起されます。「心の豊かな美しい国家」は,既に森内閣総理大臣が提唱していたところです。

 「美しい国」の理念に係る文言には「安心」は含まれていませんでしたが,当該所信表明演説において,「安心」は2回登場します。「健全で安心できる社会の実現」との見出しの下,社会保障に関して(②)2回登場したものです。「本格的な人口減少社会の到来に備え,老後や暮らしに心配なく,国民一人ひとりが豊かな生活を送ることができる,安心の社会を構築しなければなりません。」と宣言されるとともに,公的年金制度に対して「若い世代も安心できる」ようにすべきことが述べられています。

 平成19年(2007年)1月26日の第166回国会における施政方針演説では,「安心」は4回登場しています。社会保障に関して(②)1回,「「健全で安心できる社会」の実現」の見出しの下に医療(②)及び子育て(⑥)に関して各1回,並びに治安・防災(⑤)に関して1回です。

 夏の参議院議員選挙での大敗を承けた平成19年9月10日の第168回国会における所信表明演説では,出現回数は5回です。最初の「自由民主党及び公明党の連立政権の下,「政策実行内閣」として一丸となり,地に足のついた政策を着実に進めてまいります。将来にわたり国民の皆様が安心して暮らせるよう,堂々と政策論を展開し,野党の皆様とも建設的な議論を深め,一つ一つ丁寧に答えを出していくことに最善を尽くします。」の部分は,参議院議員選挙敗北の総括結果の一環でしょうか(①)。「安心して暮らせる社会を実現する」との見出しの下に表明された「安心して暮らせる社会は,国づくりの土台です。国民の皆様が日々の暮らしの中で感じる不安に常に心を配り,迅速に対応します。」との政治理念(①)は,御用聞き的低姿勢ともいうべきでしょうか。その他子育て(⑥)に関し1回及び公的年金に関し(②)1回「安心」が言及されています。「安全・安心な食を生み出す日本の農林水産業が活力を持ち続けることは,我が国の将来にとって,極めて大切なことです。」の部分における「安心」は,消費者対応に係るものというよりは,農山漁村施策の根拠に係る枕詞的修飾語でしょう。

 

12 福田康夫内閣総理大臣と「国民の安全・安心を重視する政治への転換」

 第1次安倍内閣が1年で倒れた後は,福田康夫内閣が発足しました。福田内閣総理大臣にとって「安心」概念は,大きな意味を持っていたようです。国会演説におけるその出現頻度が,急上昇しています。

 平成19年(2007年)10月1日の第168回国会における最初の所信表明演説においては,そもそも「国民の安全・安心を重視する政治への転換」という見出しが登場していますが(これは,反対解釈すると,第1次安倍内閣以前は「国民の安全・安心」が重視されていなかったということでしょう。),「安心」が,何と12回も出現しています。「成熟した先進国となった我が国においては,生産第一という思考から,国民の安全・安心が重視されなければならないという時代になったと認識すべきです。」という見解に基づくものでしょう(①)。「私は,「自立と共生」を基本に,政策を実行してまいりたいと思います。老いも若きも,大企業も中小企業も,そして都市も地方も,自助努力を基本としながらも,お互いに尊重し合い,支え,助け合うことが必要であるとの考えの下,温もりのある政治を行ってまいります。その先に,若者が明日に希望を持ち,お年寄りが安心できる,「希望と安心」の国があるものと私は信じます。」ということですが(①及び③),これを,「老人が希望で若者を釣って安心する国」などと言い換えてみるのは誤読でしょう。残りの9回の内訳は,社会保障(②)に関して1回,防災(⑤)に関して1回,子育て(⑥)に関して1回,消費者(⑦)に関して4回(消費者保護に関して1回,耐震偽装問題に関して1回及び食卓・食品に関して2回)及び農山漁村施策に関して2回(「安全・安心な食」及び「高齢者や小規模な農家も安心」)となっています。

 平成20年(2008年)1月18日の第169回国会における施政方針演説においては,「安心」の登場は8回です。まずは,福田内閣の五つの基本方針のうちの一つとして登場します(①及び②)。

 

第1に,生活者・消費者が主役となる社会を実現する「国民本位の行財政への転換」

第2に,国民が安心して生活できる「社会保障制度の確立と安全の確保」

第3に,国民が豊かさを実感できる「活力ある経済社会の構築」

第4に,地球規模の課題の解決に積極的に取り組む「平和協力国家日本の実現」

第5に,地球温暖化対策と経済成長を同時に実現する「低炭素社会への転換」

以上5つの基本方針に基づき,私は,国政に取り組んでまいります。

 

 その他7回の内訳は,国の予算における重要政策課題の一つとしての「国民の安全・安心」として1回,社会保障・医療(②)に関して4回,「安全・安心の確保」との見出しの下治安(⑤)に関して1回,更に小規模・高齢農家に関して1回です。

 

13 麻生太郎内閣総理大臣と「安心と活力ある社会」

 平成20年(2008年)9月24日には麻生太郎内閣が発足します。同月29日の第170回国会における所信表明演説において麻生内閣総理大臣は「安心」の語を3回用いています。まずは,同年のいわゆるリーマン・ショック不況に対する経済対策に関して(⑧)2回です(「政府・与党には「安心実現のための緊急総合対策」があります。その名のとおり,物価高,景気後退の直撃を受けた人々や農林水産業・中小零細企業,雇用や医療に不安を感じる人々に,安心をもたらすとともに,改革を通じて経済成長を実現するものです。」)。更には「暮らしの安心」との見出しの下,「暮らしの安心」についても論じられています。「不満とは,行動のバネになる。不安とは,人をしてうつむかせ,立ちすくませる。実に忌むべきは,不安であります。」とは麻生内閣総理大臣の人間哲学でしょうが,続く「国民の暮らしから不安を取り除き,強く,明るい日本を,再び我が物としなくてはなりません。」とはその政治哲学でしょう(①)。暮らしの中における国民の不安の有無を尺度とした政治ということのようです。

 平成21年(2009年)1月28日の第171回国会における施政方針演説において,麻生内閣総理大臣は「安心」の語を10回用いるに至ります。平成19年(2007年)10月の福田内閣総理大臣の12回に次ぐものです。演説の初めの部分で「日本自身もまた,時代の変化を乗り越えなければなりません。目指すべきは,「安心と活力ある社会」です。 」という国の目的が提示されています(①)。当該「安心と活力」とのそれぞれの内容については,「世界に類を見ない高齢化を社会全体で支え合う,安心できる社会。世界的な課題を創意工夫と技術で克服する,活力ある社会です。」と説明されています(①及び③)。「創意工夫と技術」に係る能力のある人が社会の活力維持を担当して,「世界に類を見ない高齢化」の結果たる老人人口の「安心」を確保するということのようです。当該「安心と活力ある社会」との関係で「安心」は4回登場しています。残り6回中5回は社会保障(②)に関するもの,1回は「食料の安全・安心」にからめた農政関係での言及です。

 

14 鳩山及び菅両内閣総理大臣

 平成21年(2009年)9月には,今はその名すら失われた民主党の政権ができました。

 

(1)鳩山由紀夫

 平成21年(2009年)1026日の第173回国会における鳩山由紀夫の内閣総理大臣所信表明演説では「安心」が5回登場しました。いずれも社会保障(②)に関するものです。すなわち,「国民皆年金や国民皆保険の導入から約五十年が経った今,生活の安心,そして将来への安心が再び大きく揺らいでいます。これを早急に正さなければなりません。」,「公平・透明で,かつ,将来にわたって安心できる新たな年金制度の創設に向けて,着実に取り組んでまいります。」,「年金,医療,介護など社会保障制度への不信感からくる,将来への漠然とした不安を拭い去ると同時に,子ども手当の創設,ガソリン税の暫定税率の廃止,さらには高速道路の原則無料化など,家計を直接応援することによって,国民が安心して暮らせる「人間のための経済」への転換を図っていきます。」,及び「暮らしの安心を支える医療や介護〔略〕などの分野で,しっかりとした産業を育て,新しい雇用と需要を生み出してまいります。」と唱えるものです。国が「家計を直接応援する」といってもその財源はどうするんだとか,「医療や介護」の分野で「新しい雇用」と言うけれども随分疲弊している現場もあるやに聞くぞ,などと言うことは野暮だったのでしょう。

 平成22年(2010年)1月29日の第174回国会における施政方針演説では,「安心」は「誰もが安心して医療を受けられるよう」にする(②)ということで1度だけ出て来ます。しかし当該演説については,「安心」云々以前に,冒頭の,「いのちを,守りたい。/いのちを守りたいと,願うのです。/生まれくるいのち,そして,育ちゆくいのちを守りたい。」云々の絶唱に度肝を抜かれたものでした。ルソー的には“quand le prince lui (au citoyen) a dit: Il est expédient à l’État que tu meures, il doit mourir”のはずであり(Du contrat social, Chapitre V du Livre II),所詮国家にできることできたことは伝統的にはその程度であったものと思っていたので,余りにも大胆かつ臆面のないものと感じたことでした。

 

(2)菅直人

 平成22年(2010年)6月11日の第174回国会における菅直人の内閣総理大臣所信表明演説では「安心」の登場は5回。医療・介護等の社会保障(②)に関して4回,子育てに関して1回。

 同人による同年10月1日の第176回国会における所信表明演説では「安心」の登場は3回。「ものづくりでも,サービス産業でも,業種を問わず,新しい需要を引き出し,豊かで安心な暮らしを実現するイノベーションを起こすことが重要です。」とは,日本経済の将来について語ったというよりは,「豊かで安心な暮らしを実現」することが日本の国家目的だということでしょう(①)。社会保障(②)に関する「一般論として,多少の負担をしても安心できる社会を作っていくことを重視するのか,それとも,負担はできる限り少なくして,個人の自己責任に多くを任せるのか,大きく二つの道があります。私は,多少の負担をお願いしても安心できる社会を実現することが望ましいと考えています。」との価値判断については議論があり得るでしょう。ただし,「負担」といっても,それが結局自分に全て戻って来るのならばそもそもその多少がそれほど問題にされることはないでしょう(朝三暮四ということはありますが。)。

 平成23年(2011年)1月24日の第177回国会における施政方針演説における「安心」の登場は5回。社会保障(②)に関して4回及び「この国会では,来年度予算と関連法案を成立させ,早期のデフレ脱却により,国民の皆様に安心と活気を届けなければなりません。」の部分で1回でした。「安心と活気」といえば麻生内閣総理大臣の「安心と活力ある社会」が想起されるのですが,民主党による「政権交代」にかかわらず,結局同じようなところに落ち着くものであったということでしょうか。

 

15 野田佳彦内閣総理大臣と「明日の安心」及びエネルギー構成の「安心」

 民主党政権最後の野田佳彦内閣総理大臣による「安心」言及は尻上がりに増え,最後は「明日の安心」を提唱するに至ります。「明日の安心」は,野田内閣総理大臣の早稲田大学の先輩である小渕内閣総理大臣の最初の所信表明演説で用いられていた表現です。また,原子力ないしは放射線に対する「安心」が問題とされます。

 平成23年(2011年)9月13日の第178回国会における所信表明演説では「安心」は3回登場しました。消費者(⑦)に係る「食品の安全・安心」,農林漁業施策を論じるに当たっての枕詞としての食の「安全・安心」及びエネルギー構成に関するもの(「エネルギー安全保障の観点や,費用分析などを踏まえ,国民が安心できる中長期的なエネルギー構成の在り方を,幅広く国民各層の御意見を伺いながら,冷静に検討してまいります。」)です。

 平成231028日の第179回国会における所信表明演説では「安心」は4回。農林漁業施策に関する「農林漁業者」の「安心」以外は同年3月11日の東日本大震災及びそれに伴い発生した福島第1原子力発電所の事故に関連(⑨)するもので,「被災者のこれからの暮らしの安心」,放射線量に係る「周辺住民の方々」の「安心」及び「原子力への依存度を最大限減らし,国民が安心できるエネルギー構成を実現するためのエネルギー戦略の見直し」について言及されています。原子力への依存度を減らすと「国民が安心」するというのですから,素直に考えると,国民の完全な「安心」のためには,エネルギー構成において原子力への依存度を零にしなければならないことになります。

 平成24年(2012年)1月24日の第180回国会における施政方針演説では6回。東日本大震災(⑨)の被災者に係る「安心して暮らせる生活環境の再建」で1回,原子力発電問題で2回(エネルギー政策における「国民の安心・安全」(これは「安心」が「安全」に先行しています。)及び「国民が安心できる中長期的なエネルギー構成」),社会保障(②)について2回及び子育て(⑥)について1回でした。

 民主党政権最後のものとなった平成241029日の第181回国会における所信表明演説では,野田内閣総理大臣はdesperatelyに「安心」を9回繰り返すことになりました。「明日(あした)の安心」及び「明日(あす)への責任」をもって政権回生のキャッチ・フレーズとする試みがされたところです。

 

   「明日の安心」を生み出したい。私は,雇用を守り,格差を無くし,分厚い中間層に支えられた公正な社会を取り戻したいのです。原発に依存しない,安心できるエネルギー・環境政策を確立したいのです。

   「明日への責任」を果たしたい。私は,子や孫たち,そして,まだ見ぬ将来世代のために,今を生きる世代としての責任を果たしたいのです。

   「決断する政治」は,今を生きる私たちに「明日の安心」をもたらし,未来を生きる者たちに向けた「明日への責任」を果たすために存在しなければなりません。

 

 「明日の安心」は,演説の最終部において更に3回連呼されています。

 残り3回の「安心」は各論的なものとなりますが,経済問題(⑧)中特に雇用について2回(「日本経済の再生に道筋を付け,雇用と暮らしに安心感をもたらすことは,野田内閣が取り組むべき現下の最大の課題です。」及び「経済全体の再生やミスマッチの解消を通じて,雇用への安心感を育みます。」)及び社会保障(②)について1回(「年金や高齢者医療など,そのあるべき姿を見定め,社会保障の将来に揺るぎない安心感を示していこうではありませんか。」)言及されています。

 「安心感」の大売り出しです。

 

   For courage – not complacency – is our need today – leadership – not salesmanship.

  (J.F.K., op. cit.


16 安倍晋三内閣総理大臣(第2次内閣以降)

 第2次内閣以降の安倍晋三内閣総理大臣の施政方針演説ないしは所信表明演説においては,「安心」が特に強調されるということはなくなっています。

 政権復帰後平成25年(2013年)1月28日の第183回国会における所信表明演説では「安心」は2回登場しています。社会保障(②)に関し1回及び補正予算の3本の柱(「復興・防災対策」「成長による富の創出」「暮らしの安心・地域活性化」)のうちの一つとして1回言及されています。

 平成25年2月28日の第183回国会における施政方針演説では3回。社会保障(②)に関して1回言及されたほか,「世界一安全・安心な国」の見出しの下に,インフラストラクチュア改修(笹子トンネル事故関連⑨),防災・治安(⑤)及び悪徳商法に対し「消費者の安全・安心」を守ること(⑦)に取り組む「世界一安心な国」が目指される旨言明されています。

 夏の参議院議員選挙勝利を承けた平成251015日の第185回国会における所信表明演説では2回。高齢者(③)及び防災(⑤)に関して各1回です。

 平成26年(2014年)1月24日の第186回国会における施政方針演説では4回。年金(②),農業経営者,悪質商法等に対する消費者保護(⑦)及び自衛隊の防災活動(⑤)に関して各1回です。

 平成26年9月29日の第187回国会における所信表明演説では2回。3年半前の東日本大震災の被災者の暮らし及び被災地の子供のそれぞれに関するものでした。

 衆議院議員総選挙勝利を承けた第3次内閣発足後最初の平成27年(2015年)2月12日の第189回国会における施政方針演説では1回。「安心なまちづくり」の見出しの下,治安(⑤)に関して言及されています。

 平成28年(2016年)1月22日の第190回国会における施政方針演説では3回。TPPTrans-Pacific Partnership)協定がらみで(⑨)農業生産者に関して1回,「安全で安心な暮らしを守る」としてサイバー犯罪対策,消費者に対する悪徳商法対策等に関して(⑤及び⑦)1回及び社会保障(②)に関して1回です。

 夏の参議院議員選挙を経た平成28年9月26日の第192回国会では2回。その夏のリオデジャネイロ・オリンピックにあやかった(⑨)シリア難民のユスラ・マルディニ選手(難民選手団の女子バタフライ選手。ドイツ在住)の紹介に関して1回及び割賦販売法(昭和36年法律第159号)の改正に関する「クレジットカードのIC対応を義務化し, 外国人観光客の皆さんが安心して決済できる環境を整えます。」で更に1回でした。(なお,同国会において成立した平成28年法律第99号による割賦販売法の改正は今年2018年6月1日からです。決済端末のIC対応は改正後割賦販売法35条の1715に基づくものとなります。同条は「クレジットカード等購入あつせん関係販売業者又はクレジットカード等購入あつせん関係役務提供事業者は,経済産業省令で定める基準に従い,利用者によるクレジットカード番号等の不正な利用を防止するために必要な措置を講じなければならない。」と規定しており,当該経済産業省令である平成29年内閣府・経済産業省令第2号による改正後の割賦販売法施行規則(昭和36年通商産業省令第95号)133条の14第1号は「クレジットカード番号等の通知を受けたとき,当該通知がクレジットカード等購入あつせん業者から当該クレジットカード番号等の交付又は付与を受けた利用者によるものであるかの適切な確認その他の不正利用を防止するために必要かつ適切な措置を講ずること。」を基準として定めています。決済端末の「IC対応を義務化」したということは,法令の文言自体からは必ずしも明らかではありません。経済産業省も,「改正割賦販売法の施行後,決済端末のIC対応は加盟店の義務となる」としつつも,「加盟店に対する直接の改善命令や罰則は規定されていない」ことを認めています(平成29年内閣府・経済産業省令第2号案に係るパブリック・コメントに対する同省の考え方資料(20171122日))。同省の当該解釈に基づき,直接的には,クレジットカード番号等取扱契約締結事業者をして加盟店を指導させしめようとするもののようです(改正後割賦販売法施行規則133条の9参照)。)

 平成29年(2017年)1月20日の第193回国会における施政方針演説では,「安心」の発語はありませんでした。ただし,大見出しに「安全・安心の国創り」,小見出しに「生活の安心」というものがありました。

 野党の希望が潰えた衆議院議員総選挙を経て第4次内閣の発足後最初の平成291117日の第195回国会における所信表明演説では3回。子育て(⑥),社会保障(②)及び農業従事者に関して各1回「安心」に言及がされています。

 そうして冒頭の第196回国会における施政方針演説に至るわけです。

 

17 安心(あんじん)について

 ところで,「安心」は,元々は仏教用語の安心(あんじん)です。『岩波国語辞典第四版』によれば「仏に帰依して心に疑いをもたない意」ということになります。

 であれば,「お年寄りも若者も安心(あんじん)できる「全世代型」の社会保障制度」とは,老いも若きもお寺に対して十分お布施をすべきことを旨として給付を行う社会保障制度,ということになるのでしょうか。「子育て安心(あんじん)プラン」とは,幼いうちから御仏の教えに親しみ安心(あんじん)を得るようにしようという,幼児に対する仏道英才教育プランということでしょうか(頓智小僧一休さんのような子供が増えるのでしょうか。)。「お年寄りや障害のある方が安心(あんじん)して旅行できるよう」という場合の旅行とはお遍路のことで,「あらゆる交通手段のバリアフリー化」は四国から進められるのでしょうか。「危機管理に万全を期すとともに,サイバーセキュリティ対策,テロなど組織犯罪への対策など,世界一安全・安心(あんじん)な国創りを推し進めます。」といった場合,危機に対しては管理するのみならず危機を前にして安心(あんじん)を保つよう日頃から仏道修行を怠らず,仏の正しい教えの情報に係るサイバーセキュリティ特に注意し,テロリストらに対しても仏教による充実した教誨活動(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律(平成17年法律第50号)68条参照)を行って安心(あんじん)世界一の仏国を創ろうということになるのでしょうか。

 

    十戒の歌よみ侍りけるに 不殺生戒   寂然法師

  わたつ海の深きに沈むいさりせで保つかひある法を求めよ

    不偸盗戒

  浮草のひと葉なりとも磯隠れ思ひなかけそ沖つ白波

 

 澄むと濁るとでは大違いです。

 とはいえ,仏教については,聖徳太子は「篤く三宝を敬へ。三宝とは仏法僧(なり)。」とその憲法の第2条に記され,北条泰時らも「寺塔を修造し,仏事等を勤行す()き事」を御成敗式目の第2条に掲げています。更に『続日本紀』巻十七の天平勝宝元年(749年)夏四月甲午朔の条には,「〔聖武〕天皇東大寺ニ幸シ,廬舎那仏ノ像ノ前殿ニ御シテ,北面シテ像ニ対ス。〔中略〕勅シテ左大臣橘ノ宿祢諸兄ヲ遣シテ,仏ニ白サク。三宝ノ(ヤツコ)(ツカヘ)(マツレ)天皇(スメ)ラガ命廬舎那仏像ノ大前ニ(マヲ)シ賜ヘト(マヲサ)ク。〔中略〕陸奥国守従五位上百済(クダラノ)(コニキシ)敬福イ部内(クニノウチ)少田(ヲダ)郡ニ黄金(イデ)(タリト)(マヲシ)(タテマツレリ)。〔中略〕廬舎那仏ノ(メグミ)賜ヒ(サキ)ハフ賜物ニ(アリ)(オモ)(ウケ)賜リ(カシコマ)戴持(イタダキモチ)百官ノ(ヒト)(ビトヲ)(ヒキヰ)礼拝(ヲロガミ)仕奉(ツカヘマツル)事ヲ(カケマクモ)(カシコキ)三宝ノ大前ニ(カシコ)(カシコ)ムモ(マヲシ)賜ハクト(マヲス)」云々とあったところです(下線は筆者)。

 

    比叡山中堂建立の時          伝教大師

  阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわが立つ杣に冥加あらせたまへ
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 滋賀県大津市から見る比叡山

我が国においては,20世紀の半ばまでは,「〔前略〕仏教各宗派は其の我が国に於ける歴史的伝統に基づき,他の一般の宗教とは異なり,従来常に国家から特別の保護を受け又国家の特別の監督に服して来た。其の保護の最も著しいのは各〔略〕宗派の管長は勅任官の待遇を与へらるること(明治17・8・11太政官達68号〔「神仏各宗派一般」宛てに「管長身分ノ儀ハ総テ勅任官取扱ノ例ニ依ル」と達〕)で,それは固より待遇上の特典なるに止まり,管長が国家の公の職員たるのでないことは勿論であるが,此の如き特別の待遇を賜はることのみに依つても,各〔略〕宗派が国家の特別の保護を受くる宗教であることが知られ得る。其の外寺院には国有財産の無償貸付が行はれて居り(国有財産法〔大正10年法律第43号〕24条),又寺院の資産状態を安全ならしむる為めに,其の債務の負担に付き特別の制限を定め(明治10太政官布告43号),其の境内地の使用しついても法律上の制限が有る(明治36内令12)。/要するに,神道及び仏教は他の一般の宗教とは異なり国家の公認教として行政上特別の保護及び統制を受けて居たものである。」ということであったところです(美濃部達吉『日本行政法下巻』(有斐閣・1940年)564565頁)。

大日本帝国憲法28条は「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と規定していましたが,仏教を信ずることなく“Non veni pacem mittere sed gladium."と公然宣言する者については,「やさしい国」である我が国の「安寧秩序ヲ妨」げるものとせざるを得なかったものでしょう。
 なお,現在,日本国憲法
20条1項後段は「いかなる宗教団体も,国から特権を受け,又は政治上の権力を行使してはならない。」と,同条3項は「国及びその機関は,宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定しています。

                    

    不酤酒戒               寂然法師

  花のもと露の情はほどもあらじ酔ひなすすめそ春の山風

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 寂然法師隠棲の地・
大原(京都市左京区)の春:菜の花と桜

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大原の春:観光客を招く桜

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大原の春:桜と椿


  Venit enim ... neque manducans neque bibens
    et dicunt daemonium habet.
    Venit Filius hominis manducans et bibens
    et dicunt
    ecce homo vorax et potator vini
    ... peccatorum amicus.

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 Manducemus atque bibamus!

 Ego homo vorax et potator vini sum.

 Causidicus amicus peccantium est.



弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002 東京都渋谷区渋谷三丁目5-16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp                  


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Das frägt und frägt und wird nicht müde: wie erhält sich der Mensch, am besten, am längsten, am angenehmsten? Damit – sind sie die Herrn von Heute. Vom höheren Menschen

 

1 内閣総理大臣の国会演説と「安心」

 

(1)平成30年(2018年)1月22日の内閣総理大臣施政方針演説と「安心」

 今上天皇の御宇29年を経たる平成30年(2018年)1月22日,安倍晋三内閣総理大臣は第196回国会の両議院において施政方針演説を行いました。そこにおいては,「安心」という言葉が4回出て来ました。

 

   来年〔2019年〕10月に引き上げる予定の消費税財源を活用し,お年寄りも若者も安心できる「全世代型」の社会保障制度へと,大きく転換してまいります。・・・

 

   女性活躍の旗を高く掲げ,引き続き,待機児童の解消に全力で取り組みます。補正予算の活用に加え,経済界の拠出金負担を引き上げ,「子育て安心プラン」を前倒しします。待機児童対策の主体である市区町村への支援を都道府県が中心となって強化します。2020年度までに32万人分の受け皿整備を目指し,来年度10万人分以上を整備いたします。

 

そして,「地方創生」と題された部分のうちの,更に「安全と安心の確保」との見出しが付された部分。

 

  2年後の東京オリンピック・パラリンピックを目指し,受動喫煙防止対策を徹底します。お年寄りや障害のある方が安心して旅行できるよう,あらゆる交通手段のバリアフリー化を進めます。成人年齢を18歳に引き下げる中で,消費者契約法を改正し,若者などを狙った悪質商法の被害を防ぎます。

  危機管理に万全を期すとともに,サイバーセキュリティ対策,テロなど組織犯罪への対策など,世界一安全・安心な国創りを推し進めます。

  災害時に,国が主要な道路の復旧を代行する制度を創設し,より早く人命救助や生活必需品の輸送を行えるようにします。防災インフラの整備が迅速に進められるよう,所有者が不明な土地を自治体が利用するための手続を整備します。

  昨年〔2017年〕も,全国各地で自然災害が相次ぎました。防災,減災に取り組み,国土強靭化を進めるとともに,熊本地震や九州北部豪雨をはじめとする災害からの復旧・復興を引き続き,力強く支援してまいります。

 

(2)安心(あんしん)について

 安全についてならばなお客観的な指標が探し出せそうですが(とはいえ,100パーセントの安全は不可能でしょう。),安心(あんしん)(『岩波国語辞典 第四版』(1986年)によれば「気にかかる事がなく,またはなくなって,心が安らかなこと。」ないしは「物事が安全・完全で,人に不安を感じさせないこと。」)ということになると主観的な感覚ないしは感情の問題ですから,「やっぱり気にかかってしまう」性分の人とか「どうしても不安だ」と感じてしまう人が一定数以上いる限りにおいては「安心(あんしん)目標」は常に未達に終わらざるを得ないことになるよう筆者などには思われます

「法律行為の目的が,事実上〔略〕,実現することのできないものであれば,法律は,その実現に助力することができない。従って,その法律行為は無効である。このことを明言する立法例もあるが(ド民306条。ス債20条に契約について同旨を定める),当然のことである。」と説かれ(我妻榮『新訂民法総則』(岩波書店・1972年)260頁),平成29年法律第44号による改正後の民法412条の2第1項には「債務の履行が契約その他の債務の発生原因及び取引上の社会通念に照らして不能であるときは,債権者は,その債務の履行を請求することはできない。」とあり,更にちなみにドイツ民法306条3項は「契約は,その維持(das Festhalten an ihm)が前項の規定による変更〔契約を構成せず又は無効である条項に係る法令の規定による契約内容の補充〕を考慮に入れてもなお一方の当事者に期待すべからざる困難(eine unzumutbare Härte)をもたらすべきときは,無効である。」と規定しています。そこで,十二分の政策の実行にもかかわらずなお「心配性のおれを安心(あんしん)させろ」と言い募っていつまでも安心(あんしん)しない人々についてできないものはできないと無視してしまってよいのかといえば,苦戦の選挙活動中には選挙民の方々の前につい土下座までしてしまう政治家の方々にとっては,難しいことでしょう。

 

2 平成の初めにおける「安心」の空白

 現在においては,責任ある政治家が「国民の皆さまに安心(あんしん)を与えます」と頻繁かつ継続的公約することは当然のことですが,実はこれは,平成の時代入ってからの現象であるようです。

 

(1)竹下登内閣総理大臣

 平成になった時点で政権の座にあったのは竹下登内閣総理大臣でしたが,平成元年(1989年)2月10日の第114回国会における同内閣総理大臣の施政方針演説では「安心」という語は全く使われていません(政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所のデータベース「世界と日本」にあるデータに指定語検索をかけた結果。指定語検索機能は便利で面白いですね。以下羽田孜内閣総理大臣までについては同データベースを使用。)。

竹下内閣総理大臣は,昭和天皇の在位中には,①昭和62年(1987年)1127日に第111回国会で所信表明演説,②昭和63年(1988年)1月25日に第112回国会で施政方針演説及び③同年7月29日に第113回国会で所信表明演説を行っていますが,これら3回の国会演説中「安心」の語が発語されたのは2回目の昭和63年1月25日演説における2箇所だけでした。「広く国民に不安を与えるテロ・ゲリラ事件について,国民の皆様の御協力を得てその防圧に努めるなど法秩序の維持,犯罪の防圧,検挙に努めるとともに,事故や災害に強い国土づくりを進め,人を信じ,まじめに働いている者が報われる社会,国民が安心して生活することができるような社会づくりに努めてまいります。」及び「国民一人一人が健やかに生きがいをもって安心して暮らすことができるよう,健康づくり対策を推進するとともに,老人保健事業の充実,在宅保健福祉サービスの拡充や特別養護老人ホームなどの整備等を進めてまいります。また,がん対策,エイズ対策を初め難病の克服に万全の努力を傾注していくほか,精神保健対策,精神障害者の社会復帰の促進等心の健康づくりを進めてまいります。」の部分です。ここでいう「テロ・ゲリラ事件」は,北朝鮮による昭和621129日の大韓航空機爆破事件のことですね。厚生省エイズ調査検討委員会による我が国におけるエイズ初患者確認の発表は昭和60年(1985年)3月22日のことでしたが,同省エイズ対策専門家会議は昭和62年1月17日に初の女性患者を認定,同年末のエイズ患者数は約千人となっていました(『近代日本史総合年表 第四版』(岩波書店・2001年))。

 

(2)宇野宗佑内閣総理大臣及び海部俊樹内閣総理大臣

竹下内閣総理大臣の次の宇野宗佑内閣総理大臣が第114回国会において平成元年(1989年)6月5日に行った所信表明演説においても「安心」は全く登場しませんでした。

海部俊樹内閣総理大臣は,施政方針演説ないしは所信表明演説を5回行っていますが(①平成元年10月2日第116回国会所信表明演説,②平成2年(1990年)3月2日第118回国会施政方針演説,③同年1012日第119回国会所信表明演説,④平成3年(1991年)1月25日第120回国会施政方針演説及び⑤同年8月5日第121回国会所信表明演説),そのうち「安心」の語が唯一登場したのは最初の平成元年10月2日の所信表明演説においてでした。しかも,当該部分は「先般の抜本的な税制改革は,来るべき高齢化社会を展望し,すべての人々が社会共通の費用を公平に分かち合うとともに,税負担が給与所得に偏ることなどによる国民の重税感,不公平感をなくすことを目指したものであります。私は,この改革によってもたらされる安定的な税体系こそが,安心して暮らせる福祉社会をつくる基礎となるものと確信いたしております。消費税は,税負担の公平や我が国の将来展望から見て必要不可欠であり,これを廃止することは全く考えておりません。」というもので,安心(あんしん)を与えることを約束するというよりは,「消費税を払わないと老後が不安になりますよ。だから消費税を払いましょうね。」という趣旨の文脈での使用であったものでした消費税法(昭和63年法律第108号)は,19881224日に成立し,平成元年4月1日から適用されています(同法附則1条1項)。


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今上天皇による初めての任命(平成元年(1989年)63日)に係る内閣総理大臣・宇野宗佑(滋賀県守山市)
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Non tres, sed quinque digiti.
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3 宮沢喜一内閣総理大臣と「生活大国」構想

宮沢喜一内閣総理大臣は,注目すべき国会演説を行っています。宮沢内閣総理大臣は4回の施政方針演説ないしは所信表明演説を行っていますが(①平成3年(1991年)11月8日第122回国会所信表明演説,②平成4年(1992年)1月24日第123回国会施政方針演説,③同年1030日第125回国会所信表明演説及び④平成5年(1993年)1月22日第126回国会施政方針演説),2回目となる平成4年1月24日の施政方針演説において「生活大国」構想を打ち出し,そこに「安心」が4回登場したのでした(ただし,他の3回の演説においては,平成5年1月22日の施政方針演説において後述のように1回登場する外は「安心」は現れていません。)。

「生活大国」の6本の柱のうちの第3の柱が,「高齢者や障害者が,就業機会の整備などを通じ社会参加が適切に保障され,生きがいを持って安心して暮らせる社会」ということになっていました。しかしながら,「安心」はなお専ら高齢者及び障害者向けのものであったようで,「我が国の人口は今後急速に高齢化に向かい,30年後には国民の四人に一人が高齢者という本格的な高齢化社会となることが予測されます。「少しのことにも,先達はあらまほしき事なり。」と申しますが,高齢者の豊富な人生経験や知識は,我々の社会にとって貴重な資産であります。私は,高齢者の方々がこれを社会で生かしつつ,生き生きと安心してその人生を送ることができるような社会をつくりたいと考えます。このため,雇用・就業環境の整備などにより社会参加を促進するとともに,揺るぎない年金制度を確立し,また,適時に適切な保健,医療,介護が安心して受けられるような社会の実現に向けて真剣に努力してまいります。特に,今後一層困難になると見込まれる看護職員,福祉施設職員,ホームヘルパーなどの確保は重要な課題であり,その勤務条件の改善,養成の強化などに総合的な対策を講じてまいります。」及び「本年は,「国連障害者の10年」の最終年に当たります。障害を持つ人々が家庭や地域で安心して暮らすことができるよう,完全参加と平等の理念に沿ってきめ細かな施策を講じてまいります。」との追加的説明がされています。

宮沢内閣総理大臣が理想としていた国及び社会は,「ゆたかさ」に加わるに「ゆとり」の「生活大国」であって,労働時間が短縮され(第2の柱),「創造性,国際性を重んじる教育が普及し,国民が芸術,スポーツに親しみ,豊かな個性や香り高い文化が花開く社会」(第6の柱)であったようです。実は既にバブル経済は終わり(1991年中に潮目が変わっていたようです。),日本経済はそのピークを過ぎていたのですが,バブル的「ゆたかさ」をなおも以後継続的に,しかも苛烈なanimal spirit無しに「ゆとり」をもって享受できるとの「大国」意識は,今にして思えばやはりバブル()けででもあったものか1992年1月の米国ブッシュ(父)大統領訪日に向けて,日米ビジネス・グローバル・パートナーシップ(略して「ビジグロ」)などという構想を喧伝する向きもありました。)。26年を経た今年(2018年)読み返すと,いろいろ考えさせられます。

「高齢者の豊富な人生経験や知識は,我々の社会にとって貴重な資産であります。私は,高齢者の方々がこれを社会で生かしつつ,生き生きと安心してその人生を送ることができるような社会」云々の部分など,後期高齢者(高齢者の医療の確保に関する法律(昭和57年法律第80号)50条1号参照)の窃盗常習犯(累犯常習窃盗ということになると,法定刑は3年以上の懲役に跳ね上がります(盗犯等の防止及び処分に関する法律(昭和5年法律第9号)3条)。)の弁護人をもしなくてはならない弁護士には,ちょっと悪い冗談のように印象されるかもしれません。豊富な窃盗経験や刑事制度に関する知識という「貴重な資産」を生かしつつ生き生きと,窃盗という形で社会参加し,安心(あんしん)して国選弁護を受けることがいつまでも続いてしまっては困ります。とはいえ安心(あんしん)についていえば,わざわざ刑務所に入らなくとも,生活保護等娑婆(しゃば)の社会保障はなお機能しているところです。かつては日雇労働者のたむろする荒くれたイメージだったドヤ街も,今は身寄りのない生活保護受給の貧困老人たちの徘徊する何とも哀愁漂う街となっています。そこは,「香り高い文化が花開く」日本というよりは,よそから訪れた者にはちょっと居心地悪く,かつ鼻がむずむずする感じです。

「生活大国」演説から1年後の平成5年1月22日の施政方針演説において宮沢内閣総理大臣は,さすがにバブル経済の崩壊を承け,「現在,我が国経済は極めて厳しい状況にあります。今,国民は景気の早期回復を心から待ち望んでおり,これは官民が力を合わせて全力で取り組んでいかなければならない緊急の課題であります。他方,国民の意識は,これまでの成長や効率優先主義から,ゆとりや安心,公平,公正を重んずるものへと変化しつつあることも見逃せません。一日も早く景気の回復を図るとともに,国民一人一人が心からゆとりと豊かさを実感できる経済社会の実現に着実に進んでいく必要がございます。」と述べています。ただし,これは国民意識についての秀才の評言であって,内閣総理大臣が安心を約束するというものではありませんね。なお,「ゆとり,安心,公平,公正」の優先は経済成長とは親和的ではないという認識が窺われるようにも思われます。事実においては,その後の日本経済が停滞を続けていることは周知のとおりです。

 

4 細川内閣総理大臣及び羽田内閣総理大臣

 

(1)細川護熙内閣総理大臣

 1955年(昭和30年)以来長く続いていた当時の自由民主党政権を倒して組閣した細川護熙内閣総理大臣は,3回の所信表明演説ないしは施政方針演説を行っています(①平成5年(1993年)8月23日第127回国会所信表明演説,②同年9月21日第128回国会所信表明演説及び③平成6年(1994年)3月4日第129回国会施政方針演説)。

最初の2回の演説には「安心」の語は登場しませんが,最後の平成6年3月4日の施政方針演説においては4箇所「安心」が出て来ます。

第1は「安全で安心な生活は日本が世界に誇るべき財産ともいうべきものであり,これを守っていくことは政府の重要な役割であります。暴力団犯罪の悪質・巧妙化、薬物・けん銃事犯の多発化に加え,犯罪が広域化,国際化するなど最近の治安情勢には極めて厳しいものがある一方,交通死亡事故も高水準で推移しております。私は,法秩序の維持や安全の確保に遺漏なきよう取り組んでまいる所存であります。」の部分。これは新規に何かをするというよりは現状の維持でしょうか。しかし,日本国内で生活する者はそのあるがままに置かれた状態で安心できているのが当然,ということにはなるようです。

第2は「次に,高齢期にも健康で安心できる社会を築くために,財源の確保に配慮しつつ,「高齢者保健福祉推進10か年戦略」,いわゆるゴールドプランを抜本的に見直し,ホームヘルパーなど介護サービスの充実を図ってまいります。また,医療保険制度や老人保健制度については,付添看護に伴う患者負担の解消や保険給付の範囲,内容の見直しなどを行い,医療サービスの質の向上や患者ニーズの多様化に適切に対応できるようにしてまいりたいと思います。」の部分。高齢者の「安心」は,平成4年1月24日の宮沢「生活大国」演説にも出ていました。

第3は「出生率の低下や女性の社会進出など,子供や家庭を取り巻く環境は近年大きく変化してきております。ことしはちょうど国際家族年でもありますが,これを契機として,保育対策の充実や児童環境基金の創設など安心して子供を生み育てる環境づくりに取り組んでまいります。さらに,仕事と家庭が両立できるように雇用保険における育児休業給付制度の創設や介護休業の法制化の検討を含めた介護休業制度の充実を図るとともに,パー卜タイム労働対策なども進めてまいりたいと思います。」の部分。子を生むことは女性しかできませんので,これは「案ずるより生むが(やす)しだよ」と,出産に不安を感ずる若い女性を励ますものだったのでしょうか。しかし,「保育対策の充実や児童環境基金の創設」は出産それ自体に係るものではないですね。子を生んでしまってもその先は気にしなくても大丈夫,ということでしょうか。父たる若い男性の甲斐性云々を専ら気にするのはアナクロニズムなのでしょう。

最後に第4は「農業に携わる人々の不安感を払拭し,安心して営農にいそしむことができるよう政府として万全を期していかなければならないと考えております。昨年〔1993年〕末に設置された緊急農業農村対策本部の陣頭に立って,農業再生のビジョンづくりと国内対策に全力で取り組んでまいる決意であります。」の部分。これは,「昨年〔1993年〕12月,7年以上にわたったウルグアイ・ラウンド交渉がついに妥結した」ことを承けての緊急措置でしょう。「米は関税化の特例措置が認められる一方,米以外の農産物については関税化するという内容の農業合意案を受け入れ」たものの,なお不安だとの声があるので,とにかく新協定を呑んでもらうための状況対処型政治的措置ということでしょう。

 

(2)羽田孜内閣総理大臣

 細川内閣総理大臣が辞任した後を襲った羽田孜内閣総理大臣は,第129回国会において平成6年(1994年)5月10日,結局唯一かつ最後となった所信表明演説を行います。そこでの「安心」の登場は2回です。「私は,今後,開かれた中での政策決定を旨とし,国民の皆様と積極的に意見を交わしながら我が国の進むべき方向を見定めてまいるつもりであります。そうした国民合意のもとで,より豊かで安心のできる社会をつくり,国際社会の中で信頼される国となるために,着実に改革を進めてまいる決意であります。」及び「私は,普通の言葉で政治を語り,国民の皆様とともに,だれもが安心して生活のできる国,そして世界に日本人であることを誇りに思える国づくりを目指してまいりたいと思います。」の部分です。「ゆたかさ」及び「安心」は,政策目標として掲げるのが既にお約束になっていたということでしょうか。

 

5 「人にやさしい政治」,「安心できる政治」の村山富市内閣総理大臣

 羽田内閣が短期間で倒れた後の,自由民主党,日本社会党及び新党さきがけの3党連立政権の首班たる村山富市内閣総理大臣は,「人にやさしい政治」,「安心できる政治」を標榜します。ここに至って,「安心」が政権の表看板になるようになったわけです。「安心」の連呼が始まります。

村山内閣総理大臣は,4回の施政方針演説ないしは所信表明演説を行っています(①平成6年(1994年)7月18日第130回国会所信表明演説,②同年9月30日第131回国会所信表明演説,③平成7年(1995年)1月20日第132回国会施政方針演説及び④同年9月29日第134回国会所信表明演説)。

 

(1)脱思想・脱イデオロギーの時代の「やさしさ」と「安心」

注目すべきは最初の平成6年(1994年)7月18日所信表明演説です(村山内閣総理大臣以後のデータは,内閣総理大臣官邸ホームページのもの。ただし,前記政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所のデータベース「世界と日本」のデータも参照)。当該国会演説においては,「安心」が7回出現します。まずは「安心」を登場させる前の背景説明から。

 

冷戦の終結によって,思想やイデオロギーの対立が世界を支配するといった時代は終わりを告げ,旧来の資本主義対社会主義の図式を離れた平和と安定のための新たな秩序が模索されています。このような世界情勢に対応して,我が国も戦後政治を特色づけた保革対立の時代から,党派を超えて現実に即した政策論争を行う時代へと大きく変わろうとしています。

この内閣は,こうした時代の変化を背景に,既存の枠組みを超えた新たな政治体制として誕生いたしました。今求められているのは,イデオロギー論争ではなく,情勢の変化に対応して,闊達な政策論議が展開され,国民の多様な意見が反映される政治,さらにその政策の実行が確保される政治であります。これまで別の道を歩んできた3党派〔自由民主党,日本社会党及び新党さきがけ〕が,長く続いたいわゆる55年体制に終止符を打ち,さらに,1年間の連立政権の経験を検証する中から,より国民の意思を反映し,より安定した政権を目指して,互いに自己変革を遂げる決意の下に結集したのがこの内閣であります。〔後略〕

 

 日本社会党の党首たる村山内閣総理大臣が自ら「社会主義」離れを宣言し,1991年(平成3年)末に消滅してしまったソ同盟を母国とする「イデオロギー」ではなく,日本の「国民の意思」を反映した政治体制を目指すのだというわけです。日本にインターナショナルな社会主義をもたらすべき日本・社会党から,日本社会に寄り添う日本社会・党になりました,ということでしょう。すなわち,社会党としての日本社会党の終焉は既にここにおいて明らかだった,ということになるわけでしょう。とはいえ,「旧来の資本主義対社会主義の図式を離れ」るということは,資本主義からも離れるのであってその全面受容まではしませんよということで,これは社会党党首としての最後の意地であったものか。

 それでは,「旧来の資本主義対社会主義の図式を離れた」ところの日本の「国民の意思を反映」した政治とはどういうものかといえば,次のとおり。ここに2度「安心」が出て来ます。

 

我々が目指すべき政治は,まず国家あり,産業ありという発想ではなく,額に汗して働く人々や地道に生活している人々が,いかに平和に,安心して,豊かな暮らしを送ることができるかを発想の中心に置く政治,すなわち,「人にやさしい政治」,「安心できる政治」であります。内にあっては,常に一庶民の目の高さで物事を見つめ直し,生活者の気持ちに軸足を置いた政策を心かけ,それをこの国の政治風土として根付かせていくことを第一に考えます。

   世界に向かっては,先の大戦の反省の下に行った平和国家への誓いを忘れることなく,我が国こそが世界平和の先導役を担うとの気概と情熱をもって,人々の人権が守られ,平和で安定した生活を送ることができるような国際社会の建設のために積極的な役割を果たしてまいりたいと思います。我々の進むべき方向は,強い国よりもやさしい国,であると考えます。

 

要は,日本国民が真に求めているものは「やさしさ」及び「安心」なのだ,ということです。なるほど。確かに平成の時代を振り返ってみると,我々は一貫していました。

しかし,脱国家,脱産業であって,飽くまでも額に汗し続ける地道な庶民たる個人をモデルとし,かつ,その目の高さを尺度とする社会ですか。(なお,ここで「個人」といったのは,当該村山演説においては,「家庭」は2箇所,「これまでの人や物の流れを変え,家庭の生活様式や企業活動を根底から変革する可能性のある,情報化の推進が重要であります。」及び「男女が政治にも,仕事にも,家庭にも,地域にも,ともに参加し,生き生きと充実した人生を送れるよう,最善を尽くしてまいります。」の場面にしか出て来ず,また,「家族」の語は全く用いられなかったからです。これに対して,その施政方針演説ないしは所信表明演説において初めて「安心」に言及したとき(昭和58年(1983年)1月24日第98回国会施政方針演説),中曽根康弘内閣総理大臣は,「社会的連帯の中で新しい生きがいと安心を見出させ」るものとし,併せて「政治の光を家庭に当てること」を付言しています。)
 また,村山内閣総理大臣は,世
界に向かって「先導役を担うとの気概と情熱をもって」「積極的な役割を果たしてまい」ると力んではいますが,余り広がりは感じられません。夫子御自身が,当該演説と同じ月の8日からのナポリにおける7箇国〔日米英仏独伊加〕首脳会談でぶっ倒れてしまっており,外国及び外国人が苦手であったようです。所詮日本は,「強い国」ではなく,「やさしい国」なのです。

 

  我が国は,世界第2位の経済大国でありながら,生活者の視点からは真の豊かさを実感できない状況にあります。加えて,人口構成上最も活力のある時代から最も困難な時代に急速に移行しつつあります。こうした情勢の中で,お年寄りや社会的に弱い立場にある人々を含め,国民一人一人がゆとりと豊かさを実感し,安心して過ごせる社会を建設することが,私のいう「人にやさしい政治」,「安心できる政治」の最大の眼目であります。同時に,そうした社会を支える我が国経済が力強さを失わないよう,中長期的に,我が国経済フロンティアの開拓に努めていくことも忘れてはなりません。このような経済社会の実現に向けての改革は,21世紀の本格的な高齢社会を迎えてからの対応では間に合いません。今こそ,行財政,税制,経済構造の変革など内なる改革を勇気をもって断行すべき時期であります。

 

 日本が「世界第2位の経済大国」だったことがあるとは,中華人民共和国からの観光客・買い物客が大勢闊歩している最近の日本の子供にはよく分からない既に遠い歴史上の事実かもしれません。

 しかし,「最も困難な時代に急速に移行」しつつあるのならば,何もしなければ「我が国経済が力強さを失わない」どころか当然活力を失い,「豊かさ」もそれと共に消え去っていくはずなのですが,それにもかかわらず,のんびり「ゆとり」を実感できるしぜひ実感しよう,ということはどういうことなのでしょうか。「我が国経済フロンティアの開拓」がされるから大丈夫だということでしょうか。しかし,だれがその「我が国経済フロンティアの開拓」をするのでしょうか。正に「額に汗して働く人々や地道に生活している人々」なのでしょうか。それとも,「中長期的に」ということなので,現在世代ではなく将来世代が何とかしてくれるよ,ということでしょうか。

 「ゆとり」と「勇気をもって断行」してやっと確保される「豊かさ」との二者択一を前にすると,やさしい選択として,つい前者が採られてしまうように思われます。

 

私は,国づくりの神髄は,常に視点の基本を「人」に置き,人々の心がやすらぎ,安心して暮らせる生活環境を作っていくことにあると信じます。そのため,安定した年金制度の確立,介護対策の充実などにより,安心して老いることのできる社会にしていくこと,子育てへの支援の充実により次代を担う子どもたちが健やかに育つ環境を整備していくこと,また,体が弱くなっても,障害を持っていても,できる限り自立した個人として参加していける社会を築くことなど,人々が安心できる暮らしの実現に全力を挙げる決意であります。さらに,人々が落ち着いて暮らしていける個性のある美しい景観や街並を築き,緑豊かな国土と地球を作り上げていくため,環境間題にも十分意を用いてまいります。

 

 安心(あんしん)して落ち着き,やすらいだ生活をしている人と,危機感を持った改革断行者や冒険的フロンティア開拓者とが同一人格内で共存することは難しいように思われるのですが,どうしたものなのでしょうか。「しかしながら,わたくしのいう新しい(ニュー)フロンティアは,お約束promises)の一揃いではありません。一連の挑戦(challenges)なのであります。それは,わたくしが〔略〕国民の皆さんに提供させていただこうと思っているものではなく,国民から要求しようと意図しているものの総体なのであります。〔略〕それが示すものは,より大きな安全(more security)ではなく,より多くの犠牲(more sacrifice)の見込みなのであります。〔略〕/このフロンティアから逃避すること,過ぎた日の安全な凡庸(safe mediocrity)を当てにすること並びに善意(good intentions)及び美しい修辞に慰撫されること(to be lulled)の方が簡単なのではありましょう――そして,その方がよいと思う方々は,支持政党のいかんにかかわらず,私に投票すべきではありません。」などと,格好をつけてジョン・F・ケネディ的修辞(Brian MacArthur, ed. The Penguin Book of Twentieth-Century Speeches, 1999, pp.295-296)を弄ぶ選挙候補者に対しては,そうですかそれでは投票しませんよという我が日本の選挙民による冷厳な対応が待っていることでしょう。


(2)その後の展開

 村山内閣総理大臣2回目の平成6年(1994年)9月30日演説においては「安心」は4回登場しています。総論部分に3回であって,いわく「政権を安定させ,国民から安心感をもって迎えられる政治を実現することは,山積する課題に対処するためにも,我が国への国際社会の高まる期待に応えるためにも急務と言わねばなりません。それには,「人にやさしい政治」,「安心できる政治」を目指すという私の政治理念を現実の政策に具体化し,この内閣の誕生で何が変わったか,何を変えようとしているのかを国民の前に明らかにしていく努力が求められます。〔中略〕この内閣がその真価を問われるのはこれからであります。改革を更に押し進め,世界から信頼され,国民が安心して暮らせる社会の実現へと結実させていけるかどうかは,今後の努力にかかっております。」各論部分に1回であって,いわく「我々は豊かさを手に入れるため懸命に走り続けてきた結果,ややもすれば,利潤追求と物質万能の考えに偏りがちな側面があったことは否定できません。私は,国民一人一人が,その人権を尊重され,家庭や地域に安心と温もりを感ずることのできる社会を作り上げていくことが「人にやさしい政治」の真骨頂ではないかと考えます。このため,迫りくる本格的少子・高齢社会に備え,年金,医療,福祉等の社会保障についてその再構築を図ります。」

しかし,利潤及び物質並びにその結果としての豊かさがあると,かえって「安心」できなくなるのだという発想が窺われるようなのですが,どうしたものなのでしょうか。

 3回目の平成7年(1995年)1月20日演説は,同月17日に発生した阪神・淡路大震災の直後に行われました。「安心」の登場は5回です。

 

平成7年,1995年は,戦後50年の節目の年であります。私は,あらためて,これまでの50年を振り返り,来るべき50年を展望して,世界の平和と繁栄に貢献し,国民に安心とゆとりを約束する国づくりに取り組む決意を新たにいたしております。この年を過去の50年から未来の50年へとつなぐ大きな転機の年としたい,年の初めに当たっての私の願いであります。

 

 豊後人村山富市個人の単なる新年の誓いではなく,日本の国家は国民に「安心」及び「ゆとり」を「約束」するのだという内閣総理大臣の宣言ということになります(「豊かさ」は抜けています。)。「約束」という言葉は重いですね。

 

 思い切った改革によって「自由で活力のある経済社会」,「次の世代に引き継いでいける知的資産」,「安心して暮らせるやさしい社会」を創造していくこと,また,世界に向かっては,「我が国にふさわしい国際貢献による世界平和」の創造に取り組んでいくこと,この四つの目標が私の「人にやさしい政治」の目指すところであります。

 

 「人にやさしい政治」と「安心できる政治」との関係は,前者が後者を包括するもののようです。

 

まず,老後の最も大きな不安要因である介護問題に対処し,安心して老後を迎えることができる社会を築くために,高齢者介護サービスの整備目標を大幅に引き上げるなど施策の基本的枠組みを強化した新ゴールドプランを推進するとともに,新しい公的介護システムの検討を進めてまいります。

 

国民生活の安全は,「安心できる政治」の実現の上で不可欠な要素であります。製造物責任法が本年7月に施行されますが,製品の安全性に関する消費者利益の増進を図る観点から,総合的な消費者被害防止・救済策の確立に努めてまいります。最近,一般市民を対象とした凶悪な発砲事件や薬物をめぐる事件が多発しております。良好な治安は,世界に誇るべき我が国の最も貴重な財産とも言うべきものであります。これを守るために,国民の皆様とともに,今後とも全力を尽くす所存であります。

 

 老人及び消費者並びに治安維持が「安心」の約束の対象として特に言及されています。

 

以上申し述べました,「自由で活力のある経済社会の創造」,「次の世代に引き継いでいける知的資産の創造」,「安心して暮らせるやさしい社会の創造」という政策目標の達成のためには,相互に連関した各種の課題を総合的にとらえ,計画的に解決していかなければなりません。このため,政府として,21世紀に向け,新たな経済社会の創造や国土づくりの指針となる,経済計画や全国総合開発計画を策定し,これらの「創造」のための施策を積極的に展開してまいります。

 

 「経済計画」や「全国総合開発計画」というものは,かつては随分重みのあるものだったわけです。「総合的計画経済体制の確立」があれば,「日本の経済は醇化せられ強化せられ」,「生産拡充を断行」することができ,「経済的にも必勝不敗の強力なる体制が確立」されるものとは我が国の革新官僚が説いたところです(奥村喜和男『尊皇攘夷の血戦』(旺文社・1943年)372373頁)。ソ同盟型社会主義計画経済に倣わんとしたもの()しかして社会主義計画経済建設の指導者であるスターリンは何でもお見通しのはずでした。

 

   スターリンが生活の現実を考慮しようとしなかったこと及び地方における現実の状況について無知であったとの事実は,彼の農業政策指導によって明らかにされ得るものであります。少しでも国の状況に関心のある者は全て,農業の置かれた困難な状況を見て取っていたのでありますが,しかしながら,スターリンは,そのことの認識をすらしなかったのであります。我々はそのことについてスターリンに意見したでありましょうか?もちろん,我々は彼に意見したのであります,しかし彼は我々の意見を支持しなかったのであります。なぜでありましょうか?スターリンはどこにも全く旅行しなかったからであります,都市及びコルホーズ(集団農場)の労働者と会わなかったからであります。彼は,地方における実際の状況を知らなかったのであります。彼は,田舎と農業とについては,映像フィルムによってのみ知っていたのであります。しかしてそれらの映像フィルムは,農業において実存しているところの状況を粉飾し,かつ,美化していたのであります。

   多くの映像フィルムがコルホーズ生活を,食卓が七面鳥及び鵞鳥の重みでたわんでいるもののように描いていたのであります。明らかに,スターリンは,それは実際にそうなのだと考えていたのであります。(1956年2月25日フリシチョフ演説。MacArthur, ed. pp.272-273

 

ところが,村山内閣総理大臣の最後の所信表明演説である平成7年9月29日の演説からは,「ゆとり」,「やさしさ」及び「やさしい」といった言葉が消滅しています。阪神・淡路大震災に加え,同年3月20日には尊師・麻原彰晃率いるオウム真理教団による首都東京の霞が関官庁街を狙った地下鉄サリン事件が発生していますから,さすがに村山内閣総理大臣にも理想を語る余裕がなくなってきたのでしょうか。しかし,「安心」はなお4回登場します。まずは「安全で安心できる社会の構築」との見出しが付された部分において3回です。

 

 震災や無差別テロ事件などにより,国民の安全への危惧が強まっておりますが,安全で安心できる社会を構築することは,国政の基本であり,本内閣が最も重視する課題の一つであります。〔中略〕私は,今回の震災の経験から得た貴重な教訓を風化させることなく,総合的な災害対策の一層の充実・強化に取り組むことが,尊い犠牲を無駄にしない唯一の道であると信じるものであります。

  無差別テロ事件や銃器を用いた凶悪犯罪の頻発は,私たちが目指す安全で安心できる社会への許しがたい挑戦であります。特に,オウム真理教信者らによる一連の事件においては,平穏な市民社会においてサリン等の大量殺戮兵器として使用しうる物質が使用されたことが内外に大きな衝撃を与えたことを踏まえ,関係国との国際協力を推進するとともに,再発防止のため政府が一体となった対策を講じてまいりました。〔後略〕

  また,国民が健康で安心して暮らすことのできる公正な社会を構築することを忘れてはなりません。高齢化や核家族化の進展により深刻化している高齢者介護や少子化の問題への対応を図るとともに,ハンディキャップを背負った人々が普通の生活ができるよう,今後とも,保健・福祉施策の一層の充実にも力を注いでいくほか,人権が守られ差別のない社会の建設を推進してまいります。

 

4回目は結論部で出て来ます。

 

戦後50年を経て,今私たちは,幾多の困難な課題を抱えるとはいえ,過去の苦難の 時代を振り返るに,それらの時代とは比較にならない,豊かさと安寧を享受いたしております。このような時代にあればこそ,私たちに求められていることは,先人が築き上げた貴重な資産の浪費ではなく,現在の平和と繁栄を土台として、次なる50年のこの国と世界のありように思いを巡らせ,21世紀に生きる我々の子供や孫が安心して豊かに暮らせる世界,この国に生まれてよかったと思える日本を創出することであろうと考えます。
 

平成30年(2018年)3月現在では,「次なる50年」のうち22年半は既に過ぎてしまいましたが,その間現在の青少年とその子供の世代のために日本において「創出」されたものは何であったのか。携帯電話及びインターネットの普及でしょうか。

 

6 橋本龍太郎内閣総理大臣

平成8年(1996年)早々村山内閣総理大臣が辞意を表明し,その後任となった自由民主党総裁の橋本龍太郎内閣総理大臣は,施政方針演説ないしは所信表明演説を5回行っています(①平成8年1月22日第136回国会施政方針演説,②同年1129日第139回国会所信表明演説,③平成9年(1997年)1月20日第140回国会施政方針演説,④同年9月29日第141回国会所信表明演説及び⑤平成10年(1998年)2月16日第142回国会施政方針演説)。様々な「改革」に取り組むこととなった橋本内閣総理大臣の当該5回の国会演説においては,「やさしさ」又は「やさしい」との語が1度も使用されていないことが,前任の村山内閣総理大臣との最も顕著な相違点ということになるでしょう。また,「安心」の語も,最初の平成8年1月22日演説では全く登場していません。改革は,「やさしい」ものではないとともに,当然変化を伴うものであって,変化はそもそも安心(あんしん)とは両立し難いということでしょうか。

ただし,「安心」の語は,2回目の国会演説以降は復活します。しかしながら,総論における堂々たる柱というよりは,各論における定型的表現の一部として用いられていると観察すべきでしょう。

2回目の平成8年1129日演説には2回登場していて,福祉・医療に関して「構造的赤字体質に陥っている医療保険の現状を直視し,21世紀にも安心して適切かつ効率的な医療サービスを人々が受けられるよう,医療提供体制と医療保険制度全般にわたる総合的な改革を段階的に実施することとし,医療保険改革法案を次期通常国会に提出する考えです。 」の部分及び地域開発,防災,治安等に関して「これらの課題とともに,豊かさを実感し,安心して暮らすことのできる国づくりも重要です。東京圏への一極集中や,阪神・淡路大震災の教訓などを踏まえ,複数の国土軸の形成を含む新しい全国総合開発計画の策定,災害対策の充実,危機管理体制の強化に努めるとともに,移転先候補地の選定という段階を迎えた首都機能移転に積極的に取り組みます。」の部分に現れます。防災及び治安と安心(あんしん)との関係は分かりやすいのですが,東京以外の地域の開発が安心(あんしん)どうつながるものか,それともつなげる必要はないのか。東京は不安だけれどもそれ以外の場所は安心(あんしん)であるということならば東京を安心(