Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

カテゴリ:

1 新元号特需,我が国の元号制度の歴史論及び令和の元号の典拠論

 新元号特需というのでしょうか,最近は当ブログ20181213日掲載の「元号と追号との関係等について」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1073399256.html)へのアクセス数が多くなっているところです。しかしこの元号人気,いつまで続くものでしょうか。

 我が国の元号制度の歴史論及び令和の元号の典拠論もひとしきりにぎやかでしたが,一応既に十分なのでしょう。日本書紀巻第二十五に「乙卯〔六月十九日〕,天皇・々祖母尊・皇太子於大槻樹之下召集群臣,盟曰。告天神地祇曰,天覆地載。帝道唯一。而末代澆薄,君臣失序。皇天仮手於我,誅殄暴虐。今共瀝心血。而自今以後,君無二政,臣無弐朝。若弐此盟,天災地妖,鬼誅人伐。皎如日月也。/改天豊財重日足姫天皇四年,為大化元年。」とあります。元号を令和に改める政令(平成31年政令第143号)を元号法(昭和54年法律第43号)第1項の規定に基づき201941日に制定した内閣の内閣官房長官による同日の記者会見で「新元号の典拠について申し上げます。「令和」は万葉集の梅の花の歌,三十二首の序文にある,「初春の令月にして 気(きよ)く風(やはら)ぎ 梅は鏡前の粉を(ひら)き (らん)(はい)()の香を(かをら)す」から引用したものであります。」との説明があったところです。

 とはいえ,令和の典拠論においては,漢籍に詳しい方々から,万葉集の当該序文のそのまた典拠として,後漢の張衡の帰田賦における「於是仲春月 時気清 原隰鬱茂 百草滋栄」の部分がそうであるものとして更に指摘がされてもいます(下線は筆者によるもの)。なお,張衡は政府高官であったそうで,「都邑に遊びて以て永く久く,明略を以て時を(たす)くる無し川に臨んで以て魚を羨,河清を俟つに未だ期あらず。蔡子の慷慨に感じ,唐生に従ひて以て疑ひを決す。(まこと)に天道の微昧なる,漁夫を追ひて以て同嬉す。埃塵を超えて以て()逝し,世事と長辞す。やら,「(いやしく)も域外に縦心せば(いづくん)ぞ栄辱の所如を知らむ。」などといったところからは,それらしいぼやきのようなものが読み取られ得るように思われます

 

2 漢における元号制度創始の事情論

 しかしながら,西暦紀元前2世紀の終盤における漢の七代目皇帝孝武帝(武帝)劉徹による元号制度の創始に関しての込み入った事情についてまでの,漢学者ないしは東洋史学者からの一般向けの解説は,筆者の管見の限り,令和改元の前後においてはなかったようです。筆者としては宮崎市定『中国史』に先ず拠り,更に令和改元後,インターネット上の京都大学学術リポジトリ「(くれない)」で東洋史研究第1巻第5号(1936年)掲載の藤田至善「史記漢書の一考察―漢代年号制定の時期に就いて―」論文(420-433頁)に逢着し得て,前記「元号と追号との関係等について」記事を補訂することができたばかりでした。

 当該藤田論文によれば,西暦紀元前2世紀の半ば過ぎにおける即位の翌年の初元以来元を改めることを重ねて既に五元(初元を含む。)に及んでいた漢の武帝が,それぞれの元から始まる年について建元,元光,元朔及び元狩の各()号を最初の四元について事後的に追命したのは五元の第三年であり(420-421頁,426頁),当の五元についてはその第四年になってから元鼎という年号が付されたものであって(したがって,人がその現在においてその(●●)()()年号を語ることができるようになった最初の年は元鼎四年であったことになります。),改元と年号の付与とが初めて一致した(すなわち現在のもののような()号の始まり)は元鼎の次の元封の元号からであった(432頁註⑥),ということでした。

 

3 元狩元年元号制度創始説

 しかしながら,元号の創始時期については,藤田論文では排斥(426頁)されているものの,漢書の著者である班固が提唱し,宋代の司馬光(資治通鑑巻十九)及び朱熹(資治通鑑綱目巻之四)という大碩学が支持している(同422頁)元狩元年説というものがあります。元狩元年に当該元狩の元号が定められるとともに,それより前の建元,元光及び元朔の年号が追命されたとするものです(藤田420頁)。漢書武帝紀に「元狩元年冬十月,行幸雍,祠五畤,獲白麟,作白麟之歌。」(元狩元年冬十月,(よう)に行幸し,五()(まつ)る。白麟を(),白麟之歌を作る。)とある獲麟事件に(ちな)んで,三元から四元に改元がされ,かつ,当該四元の年に初めて年号(元狩)が付されたのだ,という説です(藤田421頁)。ちなみに,雍州とは,『角川新字源』によると,陝西省北部・甘粛省北西部地方です(なお,以下筆者が漢語漢文解読に当たって当該辞書を使用する場合,いちいち註記はしません。)畤は,祭場です。麟は,あるいは「大きなめすのしか。一説に大きなおすのしか。」とされ,あるいは「「麒麟(きりん)」のこと」とされています。

 さて,なにゆえここで元狩元年元号制度創始説が出て来るのか。実は,あえてこの元狩元年元号制度創始説を採用することによって,万葉集か帰田賦か,国風か漢風か等をめぐる令和の元号に係る華麗かつ高雅な典拠論争に,ささやかかつ遅れ馳せながらも班固の漢書をかついでのこじつけ論的参入・にぎやかしが可能になるのではないか,というのが今回の記事の執筆(モチ)動機(ーフ)なのであります。

 なお,『世界史小辞典』(山川出版社・1979年(219刷))の「東洋年代表」(付録78頁)を見ると,武帝の建元元年は西暦紀元前1401120日から始まり,元狩元年は同122112日から,元鼎3年は同1141117日から,元鼎4年は同113116日から,元封元年は同110113日から始まっていることになっています。立春の頃から年が始まるようになったのは,太初暦の採用からのようです(太初元年は西暦紀元前1041125日から始まったものとされているのに対して,太初二年は同103211日から始まったものとされています。)。それまでは,十月が歳首であったようです。史記巻二十八封禅書第六には,秦の始皇帝について「秦始皇既幷天下而帝。或曰,〔略〕今秦周変,水徳之時,昔秦文公出猟獲黒龍,此其水徳之瑞。於是秦更命河曰徳水。以冬十月為年首,色上黒,度以六為名,音上大呂,事統上法。」(秦の始皇既に天下をあはり。あるひといは文公黒龍此れ水徳り。なづ冬十月を以て年首と為し,色は黒をたふとをはりぶ。高祖つい高祖豊枌祠蚩尤,釁鼓旗。遂以十月至灞上,与諸侯平咸陽立為漢王。因以十月為年首。而色上赤。」(高祖初め起るとき,豊のふんいのる。とな則ち蚩尤しいうまつりちぬる。十月諸侯咸陽立ちて十月を以て年首と為す。色は赤をたふとぶ。武帝つい改暦正月官名太初元年。正月を以て歳首と為す。而して色は黄をたふと官名印章あらた五字す。太初元年と為す。)とあります。ただし,太初改暦の日程については,『世界史小辞典』の「東洋年代表」では太初元年は西暦の11月から始まって次の2月には終わってしまっている形になっているので,何だか分かりづらいところです。

 暦法は,難しい(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1916178.html)。

 

4 終軍の対策と「元狩」改元及び「令和」抽出

 班固が元狩元年元号制度創始説を提唱するに至ったのは,前記の元狩元年十月の獲麟事件に当たって武帝に(たてまつ)られた終軍という名の若者による対策に接したからであると考証されています(藤田422-423頁)。「対策」とは,「漢代の官吏採用法の一つ。策にこたえる意で,策(木の札)に書いて出題された試験問題に対して見解を書いて答える。また,その答案。」と説明されています。終軍の当該対策については,「その文章の典雅にして,義理の整斉なる点優に漢代文苑の英華であつて,有名なる対策の一つである。」との文学的評価がされているところです(藤田422頁)。当該対策の次の一節が,問題になります。

 

  今郊祀未見於神祇,而獲獣以饋,此天之所以示饗而上通之符合也,宜因昭時令日改定告元(師古曰,昭明也,令善也,) 

  (今,郊祀に未だ神祇を見ずして獣を()以て()とす。此れ天()饗して上通するを示す所以(ゆえん)()符合(なり)。宜しく昭時令日に()りて,改定し元を告ぐべし。(師古曰く,昭は明也,令は善也,と。)

 

 班固は「この文中にある「宜因昭時令日改定告元」の語に非常なる重点を置き,武帝は終軍のこの対策に従つて白麟奇木を得た瑞祥を記念するため,この年を以て元狩元年と云ふ年号を制定したものゝ如くに考へたのである。故に班固は漢書終軍伝にこの対策を全部収録して,その最後に,/対奏,上甚異之,由是改元為元狩〔(こた)(そう)す。上,甚だ之を異とす。(これ)()りて改元し元狩と為す。〕/との結論を下し,この対策を史料とすることに依つて得た自己の解釈を明記してゐるのである。」と藤田論文は述べています(422-423頁)。

しかして,令和の元号の典拠に係る前記内閣官房長官説明に接した後において当該部分を読むと,

 

宜しく昭時令日()りて,改定し元を告ぐべし。」ということであれば「令月」が「令日」になっているだけであるのだから,「(きよ)く風(やはら)」に相当する語句が終軍の対策中において文脈上「令日」につながる箇所にうまい具合にあれば,漢の武帝による史上最初の元号は,我が安倍晋三内閣的発想に従えば,実は元狩ではなく令和であったかもしれないのだ,と言い得るのではないか,  

 

とつい考えてしまったわけです。

 ということで,漢書巻六十四下の終軍伝に収録されている当該対策を調べてみると・・・ありました。「和」の含まれた語句がありました。

 

  陛下盛日月之光,垂聖思於勒成,専神明之敬,奉燔瘞於郊宮。献享之精交神,積和之気塞明(師古曰,塞荅也,明者明霊亦謂神也)。而異獣来獲宜矣。

  (陛下は日月之光を盛んにし,聖思を(ろく)成に垂れ,神明之敬を専らにし,燔瘞(はんえい)を郊宮に(たてまつ)る。(けん)(きやう)〔ごちそうをしてもてなす〕()精は神と交り,積之気は明に(こた)ふ。(師古曰く,塞は(たふ)〔答〕也,明は明霊(また)は神を謂ふ也,と。)而して,異獣の来たりて()るは(むべ)なり。

 

すなわち,天子の篤い敬神の念及びまごころを込めた祭祀の実践による之気は(かみさま)(こた)えて,したがって白い麒麟も天子様こんにちはと出て来る冬十月の(あかるい)(とき)(よい)()となり,それに因んでめでたく改元し,年号を定めるのであるのなら,当然その元号は「令和」が宜しいのではないですか,と終軍の名対策に便乗し,かつ,未来の偉い人発想に忖度しつつ武帝に上奏する辣腕の有司があってもよかったように思われるところです。

 

5 残念な終軍

 とはいえ以上は,完全な無駄話です。

終軍の手になるとされる当該対策は,元狩二年以降の未来の出来事(霍去病の驃騎将軍任命,昆邪の来降)を元狩元年段階においての作文であるはずなのに大預言書的に書き込んでしまっているものであって後世の偽作っぽく(藤田423-424頁参照),また,改元といっただけでは当時は年号を付することとは必ずしも結び付かず,むしろ武帝は年号のないまま問題意識なく改元を重ねていたところであって,「宜しく・・・改定し元を告ぐべし。」と奏上するだけでは,「年号」なる革新的アイデアを奏上したことにはならない(同424-426頁参照),したがって終軍の当該対策に基づく元狩元年元号創始説は採用するを得ない,とされているところです(同426頁)。

 終軍及びその名による対策は,残念でした。すなわちここからは,元号制定に中心となって関与したということで安易に人気を博そうとしても人の目は実はなかなか厳しい,という教訓を引き出すべきものでしょうか。

残念な終軍は,その後外交外事関係に注力します。当時の南越国今の広東省・広西壮族自治区の辺り)における漢化体制を確立すべく,勇躍同国に使いします。しかしながら,漢と南越国との関係は一筋縄ではいかず(実は,終軍は,南越王相手には縄一筋もあれば十分であるとの壮語を実はしたようではありますが),同国内における根強い反対勢力の反撃を受けて,若い身空で異郷に思わぬ横死をすることとなりました。

さて,この終軍の蹉跌からは,元号関係で思わぬ人気を得て気をよくして更に隣国との外交(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1073895005.html)及び多文化共生ないしは受入れ(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1072912488.html)においても一層大きな歴史的成果を挙げようなどと自らを恃んで張り切ると,そこには陥穽(おとしあな)が待っていますよ,という教訓をも引き出すべきでしょうか。

しかし,何でも教訓に結び付けようとするのはうがちが過ぎるというもので,また,うがちの精神は,実は息苦しい忖度の精神とかえって親和的なのかもしれません。

 

 Si mihi pergit quae vult dicere,

    ea quae non vult audiet.

    (Terentius, Andria)

 

 (うがった意訳)

うがったことばかり勝手に言い募りやがってうざい野郎め,

そのうち反転攻勢で,「忖度が足りないんだ,不謹慎だ,いーけないんだ」って言い込めてやるぞ。

   

(漢書巻六十四下の終軍伝における関係部分に係る筆者我流の読み下し文は,次のとおりです。)

 

6 漢書巻六十四下・終軍伝(抄)

 

終軍。(あざな)は子雲。済南の人(なり)

(わかく)して学を好む。辯(ひろ)()く文を(つく)るを(もつ)て,郡中に聞ゆ。年十八,(えらばれ)て博士の弟子と()り,府に至り,遣を受く。()()(いは)く,博士の弟子は太常〔太常は,宗廟の儀礼をつかさどる官〕に属す〔なお、太常博士は,天子の車の先導をしたり王公以下のおくり名を決めたりする宮中の式典係〕,遣を受くる者は郡に()りて京師に遣詣せらる,と。)太守〔郡の長官〕()の異才()るを聞き,軍を召見し,(はなは)(これ)を奇として(とも)に交を結ぶ。軍,太守に(いふ)し,(しかう)して去る。

長安に至り,上書して事を言ふ。武帝,其の文を異とし,軍に(さづ)けて謁者〔宮中で来客の取次ぎをつかさどる役〕と為し,事に(あた)るを給す〔「給事中」は,加官といって他の官の者が兼任し,天子の諮問に答える官〕

上の(よう)幸して五()(まつ)るに従ふ。白麟を()る。一角にして五蹄なり。(師古曰く,毎一足に五蹄有る也,と。)時に(また)奇木を得る。其の枝は旁出して,(すなはち)(また)木上に合す。上,()の二物を異とし,(ひろ)く群臣に(はか)る。(師古曰く,其の徴応を訪ぬる也,と。)

DSCF1211
 一角獣(東京都新宿区明治神宮外苑聖徳記念絵画館前)(ただし,これは五蹄ではないようです。)

軍,(こた)へて上に曰く。

 

臣聞くに,詩は君徳を頌し,楽は后功〔后は,天子〕に舞す。経は異なれども指すは同じく,盛徳()隆たる所を(あきらか)にする(なり)

南越は()()竄屏(ざんへい)し,鳥魚と群す。(師古曰く,葭は(あし)也,成長して(すなは)ち葦と()ふ,葭の音は(),と。正朔其の俗に及ばず。有司境に臨み,而して東(おう)〔今の浙江省温州市の辺り〕内附し,(びん)〔閩は今の福建省〕()に伏す。南越,(さいはひ)に救はる。北胡は畜に随ひ,(せん)居す。(蘇林曰く,薦は草也,と。師古曰く,蘇説は非也,と。薦は読みて(せん)と曰ふ。荐は()也。言ふならく,畜牧に随ひ(しばしば)()へ,(ゆゑ)に居に安住せざる也,左伝に戎狄は荐居する者也,と。禽獣の行ひ,虎狼の心,上古(いま)(をさめること)を能くせず。大将軍(ゑつ)()り,単于(ぜんう)幕に(はし)。票騎(せい)()げ,(こん)()(じん)を右にす。(師古曰く,抗は挙也,衽を右にするとは中国の化に従ふ也,昆の音は下門反,と。)(これ),沢は南(あまね),而して威は北に(のぶ)る也。

()近くに(おもね)らず,挙を遠くに遺さず,官を設け,賢を()ち,賞を()け,功を待ば,能者は進んで以て禄を保し,()者は退いて力を労す。(師古曰く,罷は職任に堪へざる者を()ふ也,力を労すとは農畝に帰する也,と。)宇内に(のり)なす。(師古曰く,刑は法也,と。言ふならく,宇内に法を成す也,と。一に曰く,刑は見也,と。)衆美を()みて足らず,聖明を懐きて専らにせず。三宮()文質を建て,(その)()(よろ)しき所を(あきらかに)にす。(服虔曰く,三宮は明堂〔政教を行う所〕・辟雍〔太学〕・霊台〔天文台〕也,と。鄭氏曰く,三宮に()いて政教に班するは,文に質有る者也,と。封禅()君,聞く()し。(張晏曰く,前世の封禅之君,()くの(ごと)きの美を聞かざる也,と。)

()れ天命初めて定まり,万事草創,六合〔天地(上下)と東西南北〕(ふう)を同じくし,九州〔冀・(えん)・青・徐・揚・荊・予・梁・雍の9州〕(くゎん)を共にして(しん)に及必ず明聖を待ち,祖業を潤色し,無窮に伝ふ。故に周は成王に至り,然る後に制を定め,而して休徴〔めでたいしるし〕()を見る。

陛下は日月之光を盛んにし,聖思を(ろく)成に垂れ,神明之敬を専らにし,燔瘞(はんえい)を郊宮に(たてまつ)る。(師古曰く,燔は天を祭る也,瘞は地を祭る也,天を祭るには則ち之を焼き,地を祭るには則ち之を()む,郊宮は泰畤及び后土(なり),と。)(けん)(きやう)()は神と交り,積和之気は明に(こた)ふ。(師古曰く,塞は(たふ)〔答〕也,明は明(また)は神を謂ふ也,と。)而して,異獣の来たりて()るは(むべ)なり。昔,武王の中流にて未だ(わたら)ざるに,白魚王舟に入り,俯して取りて以て燎す。群公(みな)曰く,(めでたい)(かな)と。今,郊祀に未だ神祇を見ずして獣を()以て()とす。(師古曰く,以て饋とすとは,祭俎に充つるを謂ふ也,と。)此れ天()饗して上通するを示す所以(ゆえん)()符合(なり)。宜しく昭時令日に()りて,改定し元を告ぐべし。(師古曰く,昭は明也,令は善也,と。張晏曰く,年を改元して以て神祇に告ぐる也,と。)()〔草をたばねたしきもの〕は白茅の江淮に於けるを以てし,嘉号を営丘に発さば,以て(まさ)緝熙(しふき)〔徳が光り輝くこと〕すべし。(服虔曰く,苴は席を作る也,と。張晏曰く,江淮職は三脊茅を貢して藉を為す也,と。孟康曰く,嘉号は封禅(なり),泰山は斉の分野に()り,故に丘と曰ふ也,或いは曰く,泰山に登封し以て姓号を明らかにする也,と。師古曰く,苴の音は(),又の音は子予反,苞苴(はうしよ)〔みやげもの〕()苴には(あら)ざる也,と。事を著す者に紀()らしむべし。(師古曰く,史官を謂ふ也,紀は記(なり),と。)

(けだ)し六兒鳥〔兒の偏に鳥の旁の字〕の退き飛ぶは逆(なり)(張晏曰く,六兒鳥の退き飛ぶは諸侯(はん)(ぎゃく)(かたど),宋の襄公は伯道退く也,と。)白魚の舟に登るは(じゅん)也。(張晏曰く,周は木徳(なり),舟は木(なり),殷は水徳にして,魚は水物,魚の躍りて舟に登るは諸侯の周に(したが)ひ紂を以て武王に(あた)(かたど)る也,と。臣(さん)曰く,時論者は未だ周を以て木と為し,殷を以て水と為さざる也,謂ふならく,武王の殷を()たむとして魚の王舟に入るを,征して必ず()るに(かたど)り,故に順と曰ふ也,と。師古曰く,瓚の説が(なり),と。夫れ明闇()徴,上に飛鳥乱れ,下に淵魚動く。(師古曰く,乱は変(なり),と。)(おのおの)類を以て推すに,今野獣の角を(あわ)すに本の同じきは明らか也。(師古曰く,幷は合(なり),獣は皆両角なるに,今此れは独一,故に幷と云ふ也,と。)衆支は内附して外無きを示す也。(かく)(ごと)()(しるし)(ほとん)(まさ)に編髪を解き,左衽を削り,冠帯を(かさ)ね,衣裳を要し,而して化を蒙る者()らむとす。(師古曰く,衣裳を要するとは中国之衣裳を著するの謂ひ也,編は読みて(べん)と曰ふ,要の音は一遥反,と。)(すなは)(こまぬ)きて(これ)()(のみ)(こた)(そう)す。


上,甚だ之を異とす。(これ)()りて改元し元狩と為す。後数月,越地及び匈奴の名王の衆を率ゐて来降する者有り。時に皆軍の言を以て(あた)ると為す。

 

〔中略〕

 

南越と漢とは和親たり。(すなは)ち軍を遣はし南越に使して其の王を説き,入朝せしめ,内諸侯に(なら)べむと欲す。軍,自ら請願して長(えい)を受く。必ず南越王を(つな)て之を闕下〔宮門の下。また朝廷,天子をいう。〕に致す,と。(師古曰く,言は馬羈の如き也,と。)軍,遂に往きて越王を説き,越王聴許す。国を挙げて内属せむことを請ふ。天子,大いに(よろこ)び,南越大臣の印綬を賜ふ。壱に漢の法を用ゐ,以て新たに其の俗を改め,使者を留め之を〔民心をしずめおさめる〕せしむ。(師古曰く,塡の音は竹刃反,と。)越相の呂嘉,内属を欲せず。兵を発し,其の王及び漢の使者を攻殺す。皆死す。語,南越伝に在り。軍の死時の年,二十余。故に世,之を(しゅうの)(ぼうや)と謂ふ。


DSCF1213
   
Fili Caeli, salve!


DSCF1215
   奇木・なんじゃもんじゃ(聖徳記念絵画館前)
 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002 東京都渋谷区渋谷三丁目5-16 渋谷三丁目スクエアビル2
電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp 



このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

第1 「北方領土の日」

 我が国においては,鈴木善幸内閣時代の198116日の閣議了解によって,毎年27日は「北方領土の日」となっています。

上記閣議了解によれば,「北方領土問題に対する国民の関心と理解を更に深め,全国的な北方領土返還運動の一層の推進を図るため「北方領土の日」を設ける」ものであり,「行事」としては,「北方領土問題関係機関,民間団体等の協力を得て集会,講演会,研修会その他この日の趣旨に沿った行事を全国的に実施するものとする」そうです。飽くまでも主体はお国であって,お国のお許しを得て「北方領土問題関係機関,民間団体等」として御「協力」申し上げるという形で参加する以外は,我々一般人民はお呼びでない,ということで安心してよいようです。

 とはいえ,「北方領土問題」に「関心」を持つこと程度までは,その結果としての「理解」がたとえ忖度(そんたく)不足の粗笨なものにとどまるとしても,そのような粗「理解」的雑音ごときはものともせずに正しい理解のみが最終的に残るものである以上,直ちに非国民の所行ということにはならないでしょう。

 

第2 グレゴリオ暦185527

 実は,かねてから暦の多様性に係る問題にこだわりがある筆者(「暦に係る法制に関する覚書」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1916178.html参照)としては,「27日」という日付自体を面白く思っているところです。

前記閣議決定に付された「「北方領土の日」設定の理由書」を見ると最後に「なお,27日は,1855年〔略〕日魯通好条約が調印された日である。」とありますので,当該条約の調印日にちなんでの日付の選択であったものと解されます。しかしながら,当該条約に下田で署名したロシア帝国代表のプチャーチンに対して当該署名がされた月はфевраль (February)であったものと皇帝に報告したのかと問えば,恐らくнет(ニェット)との回答が返って来,日本代表に対して「川路〔聖謨〕殿,安政二年二月の下田における魯国人との条約調印の儀,御苦労でござった」と言っても,ぽかんとした顔をされただけでしょう。グレゴリオ暦185527は,依然ユリウス暦を使用していた正教国ロシアでは1855126日であり,明治6年(1873年)の改暦より前の段階であって太陰太陽暦を使用していた我が国においてはなお正月前の慌ただしい年末である安政元年十二月二十一日だったのでした(上記「理由書」引用部分における〔略〕の箇所には,「(安政元年1221日)」とありました。)。

「北方領土の日」の日付を,当の日魯通好条約調印時においては両当事国のいずれもその日と認識していなかった「27日」と設定したということは,「北方領土問題」自体が日露それぞれの愛国的観点のみからしてはよく分からず,かつ,解けないものなのだよ,という寓意を込めてのことだったのでしょうか。いずれにせよ,鈴木善幸内閣総理大臣は,なかなか奥の深い人物でした(「北方領土の日」設定の前記閣議了解がされた日の前日に,真藤恒氏が日本電信電話公社総裁に就任していますが,鈴木内閣総理大臣がその前月に白羽の矢を立てていた真藤総裁の実現(内閣総理大臣ではなく内閣の任命によるもの)は,198541日からの同公社民営化及び我が国の電気通信自由化に向けての最初の布石であったように思われます(『コンメンタールNTT法』(三省堂・2011年)2頁以下。また,同書268頁以下参照)。)。

 

第3 「北方領土問題」

 「北方領土問題」とは,前記閣議了解「理由書」によれば,「我が国の固有の領土である歯舞群島,色丹島,国後島及び択捉島の北方四島は,戦後35年〔73年〕を経過した今日,なおソ連〔ロシア〕の不当な占拠下にある」ことであるものと解されます。

その「問題」の解決の形は,当該「理由書」に「これら北方領土の一括返還を実現して日ソ〔露〕平和条約を締結し,両国の友好関係を真に安定した基礎の上に発展させるという政府の基本方針」とありますから,「北方領土の一括返還」であるようです(なお,「これら」は「歯舞群島,色丹島,国後島及び択捉島の北方四島」を承けるのでしょうから,「北方領土」の語は歯舞群島,色丹島,国後島及び択捉島の北方四島を意味するものと解されます。)。

そうであれば,「日ソ〔露〕平和条約」は「北方領土の一括返還」のための手段にすぎないようです。しかしながら,我が政府の基本方針は,「日ソ〔露〕平和条約」という一つの石で二羽の鳥を獲ろうとしているようでもあって,「北方領土の一括返還」の外に,日露「両国の友好関係を真に安定した基礎の上に発展させる」ことも目的であるようです。「日露平和条約」の締結に向け現に交渉されている政府御当局が,この二羽の鳥のうちどちらが重要であると実は考えておられるのか,あるいは手段としての石の投擲たるべき「日露平和条約」の締結そのものが最重要の目的となっていないかは,正に忖度するしかありません。2019130日に掲載された読売新聞オンライン版の記事「北方領土の日,「島を返せ」たすきの使用中止」を読むと,同年の「北方領土の日」根室管内住民大会では「例年,参加者が着用している「島を返せ」と書いたたすきの使用を取りやめ」,「はちまきも「返せ!北方領土」から「平和条約の早期締結を」などに変更する」そうですが,これは,根室市ないしは北方領土隣接地域振興対策根室管内市町村連絡協議会なりの忖度の結果であるものと思われます(「名は体を表す」ものであるならば,当該協議会の目的は,まずは当該地域(北方四島自体は含まれない。)の振興なのでしょう。)。

 

第4 北方四島一括返還に係る「請求原因」

 とはいえ,やはり,我が国政府はロシアの「不当な占拠下」にある北方四島について北方「領土」の飽くまで一括しての返還を実現しようとしているのでしょう。領土権に基づいて,当該領土の返還を当該領土の無権原占拠国に対して要求するものと解されます。

領土権と土地の所有権とは異なるものの,日本民法における法律構成との類比で考えると,「北方領土の一括返還」の請求は,占有者に対する所有権に基づく不動産明渡請求訴訟の場面に似ています。以下,この類比の構図に沿って,要件事実論などの復習をしてみましょう。

まず,訴訟物は「所有権に基づく返還請求権としての土地明渡請求権」です(司法研修所『改訂 紛争類型別の要件事実』(司法研修所・2006年)46頁)。訴訟物の個数ですが,「所有権に基づく物権的請求権が訴訟物である場合の訴訟物の個数は,侵害されている所有権の個数と所有権侵害の個数によって定ま」るところ(司法研修所『改訂 問題研究 要件事実』(司法研修所・2006年)57頁),筆数を数えるのも何ですし「一括」返還ということですから北方四島をまとめて所有権は1個として,侵害態様も北方四島を「一括」した「不当な占拠」であって1個ということで,1個の訴訟物ということになるのでしょうか。
 上記請求権の発生要件は①原告X(日本)が不動産を所有していること及び②被告Y(ロシア)がその不動産を占有していることとなります(類型別
47頁)。

まず②から見れば,これについては,現在ロシアが占有していること(現占有説(類型別50頁))について当事者間に争いがないということで,「概括的抽象的事実としての「占有」について自白が成立したもの」(類型別51頁)としてよいわけでしょう。

次に①の「要件事実は,Xの所有権取得原因となる具体的事実であるが,現在若しくは過去の一定時点におけるX又はその前主等の所有について権利自白が成立する場合には,Xは,X又はその前主等の所有権取得原因となる具体的事実を主張立証する必要がない」ところです(類型別47頁)。

「権利自白」については,「請求の当否の判断の前提をなす先決的な権利・法律関係についての自白」のことであって「通説・判例は,権利自白がなされると相手方は一応その権利主張を根拠づける必要はなくなるが,なお裁判所の事実認定権は排除されず,当事者はいつでも撤回できるとみる。ただし,権利自白であっても,売買や賃貸借のような日常的な法律概念を用いている場合には具体的な事実の陳述と解して自白の成立を認める」と説明されています(上田徹一郎『民事訴訟法(第二版)』(法学書院・1997年)348頁)。

「①の要件事実が,Xの所有権取得原因となる具体的な事実であると考えると,Xは,究極的には甲土地が原始取得された時まで遡り,その後の所有権の移転をすべて主張しなければならず,これが立証できなければ請求が棄却される」ことになってしまうところ,「これではXに不可能を強いることになりますし,他方,所有という概念は日常生活にとけ込んでおり,一般人にとっても理解が容易ですから,これについて自白を認めても不当な結果は生じないと考えられます。そこで,所有権については,権利自白が認められる」ものと考えられています(問題研究61-62頁)。領土権も国家にとっては理解が容易でしょう。

権利自白の成立時点としては現在に最も近い時点を把握すべきところ(問題研究63頁),北方四島の日本による領有を認めるロシアの権利自白は,その第2条で「今より後日本国と魯西亜国との境「ヱトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし」と規定した1855年の日魯通好条約の時点においてまず確かに成立していますが,その第1条で「両締約国ハ両国間ニ平和及友好ノ関係ヲ維持シ且相互ニ他方締約国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スヘキコトヲ約ス」と協定した19414月の日ソ中立条約で再成立したと解してもよいように思われます。1941413日にモスクワで署名され,同月25日に両国が批准した日ソ中立条約の方が現在により近いところです。

以上の請求原因(日本の「もと所有」(問題研究62頁)及びロシアの現占有)が認められるとなると,土地の明渡請求に係る民事訴訟ならば,ロシアとしては,有効な抗弁を提出しないと負けてしまうような成り行きとなります。(なお,我が国は北方四島の返還のみを現在要求していますが,南樺太及びこれに近接する諸島並びに得撫島から占守島までの諸島も1941年の日ソ中立条約による権利自白の対象になっていたはずです。)

DSCF1067 

択捉島ゆかりの高田屋嘉兵衛(北海道函館市)


第5 領有権喪失の「抗弁」

ロシアは我が国の北方四島一括返還要求に対して,北方四島は自国の領土だと主張しているようですから,日本の領有権喪失の抗弁を提出しているものと解されます。

北方四島に係る日本の領有権喪失の事由は1941年の日ソ中立条約より後のものとなるわけですが,当該事由としては,①1945年のヤルタ協定,②同年のポツダム宣言及び③1951年のサン・フランシスコ平和条約が挙げられているようです。

 

1 ヤルタ協定

1945211日のヤルタ協定では,“The leaders of the three Great Powers—the Soviet Union, the United States of America and Great Britain—have agreed that in two or three months after Germany has surrendered and the war in Europe has terminated the Soviet Union shall enter into the war against Japan on the side of the Allies on condition that […]3. The Kuril islands shall be handed over to the Soviet Union.”(三大国,すなわちソヴィエト連邦,アメリカ合衆国及びグレート・ブリテンの指導者は,ソヴィエト連邦が,ドイツが降伏し,かつ,欧州における戦争が終了した後2箇月又は3箇月で,次のことを条件として,連合国に味方して日本国に対する戦争に参加すべきことを協定した。〔略〕3.千島列島がソヴィエト連邦に引き渡されること。)及び “The Heads of the three Great Powers have agreed that these claims of the Soviet Union shall be unquestionably fulfilled after Japan has been defeated.”(三大国の首脳はこれらのソヴィエト連邦の要求が日本国が敗北した後に確実に満たされるべきことを合意した。)と合意されています。

「ローマ法では,契約は,当事者以外の者に利益を与えることも不利益を与えることもできないという原則があった」ところです(我妻榮『債権各論 上巻(民法講義Ⅴ₁)』(岩波書店・1954年)114頁)。ヤルタ協定の当事国であった米国も,195697日にダレス国務長官から駐ワシントンの我が国の谷正之大使に手交された覚書(aide-mémoire)において,“the United States regards the so-called Yalta agreement as simply a statement of common purposes by the then heads of the participating powers, and not as a final determination by those powers or of any legal effect in transferring territories.”(米国はいわゆるヤルタ協定なるものは,単にその当事国の当時の首脳者が共通の目標を陳述した文書にすぎないものと認め,その当事国によるなんらの最終的決定をなすものでなく,また領土移転のいかなる法律的効果を持つものではないと認めるものである。)との見解を表明しています。日本はそもそもヤルタ協定の当事国ではないことに加え,当該協定の当事国によってもロシアの解釈が否定されているわけです。

 

2 ポツダム宣言

 

(1)第8項及びカイロ宣言

合衆国大統領,中華民国政府主席及びグレート・ブリテン国総理大臣の名で1945726日に発せられたポツダム宣言の第8項は,“The terms of the Cairo Declaration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, Shikoku and such minor islands as we determine.”(「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州,北海道,九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ)とするものです。そこで引用されるローズヴェルト大統領,蒋介石総統及びチャーチル総理大臣の名で出されたカイロ宣言(19431127日)には, “The Three Great Allies are fighting this war to restrain and punish the aggression of Japan. They covet no gain for themselves and have no thought of territorial expansion. It is their purpose that Japan shall be stripped of all the islands in the Pacific which she has seized or occupied since the beginning of the first World War in 1914, and that all the territories Japan has stolen from the Chinese, such as Manchuria, Formosa, and The Pescadores, shall be restored to the Republic of China. Japan will also be expelled from all other territories which she has taken by violence and greed. The aforesaid three great powers, mindful of the enslavement of the people of Korea, are determined that in due course Korea shall become free and independent.”(三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ズ又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ/右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ1914年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国ガ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲,台湾及澎湖島ノ如キ日本国ガ中国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニアリ/日本国ハ又暴力及貪欲ニ依リ日本国ガ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルベシ/前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ(やが)朝鮮自由独立ノモノタラシムルノ決意)とありました。

ポツダム宣言にはその後ソヴィエト社会主義共和国連邦が参加します(adhered to by the Union of Soviet Socialist Republics194592日の降伏文書の文言))。194588日のモロトフ・ソ連外務人民委員から佐藤尚武駐モスクワ大使に手交した対日宣戦布告書にソ連政府は「本年726日の連合国宣言に参加せり」とあったところです(迫水久常『機関銃下の首相官邸』(恒文社・1964年)249頁の引用する外務省編「日ソ外交交渉記録」)。同月14日の同宣言受諾に係る「帝国政府の米英ソ支4国政府宛通告文は,現地時間の14日午後85分,帝国公使よりスイス国外務次官に手交」されています(宮内庁『昭和天皇実録第九』(東京書籍・2016年)770頁)。ポツダム宣言第8項にいう,日本がその主権を保持することを認められる「諸小島」の範囲を決定すべき「吾等」(we)は,米国,英国,中華民国及びソ連の四大国であったと解し得るように思われます。しかしてその「決定」は,そうであれば,四大国の一致によってされるべきものだったのでしょう。(ただし,米国国務省のOffice of Historian(「史料室」とでも訳すのでしょうか。)ウェブ・サイトに掲載されている195697日のダレス国務長官の谷大使との会見記録によれば,同長官は「“we”は〔ポツダム宣言の〕条項を作成した三国〔米国,英国及び中華民国〕を指し,それらの国々は特別の発言権を有する(entitled to an exceptional voice)。例えば,これら三国の政府の共同見解を得ることができて,かつ,公表されたならば,それは大きな重みを持つであろう。」というような発言をしています。)

 

(2)美濃部達吉の解釈

ポツダム宣言第8項について美濃部達吉は,同宣言の受諾によって直ちに領土権の変動がもたらされる部分とそうでない部分とがあるものと解釈していたようです。194641日付けの序文が付された美濃部の著作にいわく。「而シテポツダム宣言ニハ『日本国ノ主権ハ本州,北海道,九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ』トアリ,即チ明治二十七八年ノ日清戦役以後日本ノ取得シタル新領土ハ租借地及委任統治区域ト共ニ総テ之ヲ喪失スルコトトナレリ。台湾及澎湖列島ハ関東州租借地ト共ニ支那ニ復帰シ,朝鮮ハ独立ノ国家トナリ,樺太ハ蘇聯邦ニ帰属シ,南洋群島ハ米国ノ占領スル所トナリタリ。〔略〕支那事変及太平洋戦争中日本ノ占領シタル地域ガ各其ノ本国ニ復帰シタルコトハ言ヲ俟タズ。/此ノ如クシテ現在ニ於ケル帝国ノ領土ハ,明治二十七八年戦役以前ノ旧来ノ領土即チ本州,四国,九州,北海道及附属諸島ニ止マリ,而モ附属諸島ニ付テハ,追テ平和条約ニ依リ其ノ範囲ヲ確定セラルルニ至ル迄ハ,其ノ領土権ハ尚不確定ノ状態ニ在リ。」と(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)125頁)。

美濃部がなぜ1894-1895年の日清戦争以後とそれより前との間に線を引いたのかはなおはっきりしませんが,美濃部が引用していないポツダム宣言第8項前段の「「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク」の部分の解釈によるものでしょうか。「樺太ハ蘇聯邦ニ帰属シ」の部分はカイロ宣言に直接出ていないのですが,日清戦争の結果得た「台湾及澎湖島」も「暴力及貪欲ニ依リ日本国が略取シタル」ものであって「中華民国ニ返還」されるものならば,日露戦争の結果得た樺太も同様にソ連に返還されるのだと考えられたものでしょうか(国際法事例研究会『日本の国際法事例研究(3)領土』(慶応通信・1990年)22頁(芹田健太郎)参照)。「諸小島」は “minor islands”であって,minorは本来ラテン語parvusの比較級の「より小さい」という意味であるから,四国より広い南樺太は「諸小島」としてその主権が日本に保持されることはないのだ,という算数的解釈もあったものかどうか。

 

(3)連合国の解釈

しかしながら,四大国は,ポツダム宣言の受諾によって直ちに大日本帝国の領土に変更が生じたものとは解していなかったようです。
 1946129日段階におけるGHQの「若干の外廓地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」 “Governmental and Administrative Separation of Certain Outlying Areas from Japan”の第4項において,わざわざ「(a1914年の世界大戦以来,日本が委任統治その他の方法で,奪取又は占領した全太平洋諸島,(b)満洲,台湾,澎湖列島,(c)朝鮮及び(d)樺太(Karafuto)」を「更に,日本帝国政府の政治上行政上の管轄権から特に除外せられる地域」(Further areas specifically excluded from the governmental and administrative jurisdiction of the Imperial Japanese Government)としています。また,19501124日に米国国務省によって公表されたいわゆる対日講和七原則においても「日本国は〔略〕(c)台湾・澎湖諸島・南樺太・千島列島の地位に関しては連合王国・ソヴィエト連邦・中国及び合衆国の将来の決定を受諾する。条約が効力を生じた後1年以内に決定がなかった場合には,国際連合総会が決定する。中国に於ける特殊な権利及び利益は放棄する。」とあったところです(国際法事例研究会24頁(芹田)参照)。

ところで,上記1946129日の覚書において北方四島は,その第3項後段において「(c)千島列島,歯舞群島(水晶,勇留,秋勇留,志発,多楽島を含む),色丹島」((c) the Kurile (Chishima) Islands, the Habomai (Hapomaze) Island Group (including Suisho, Yuri, Akiyuri, Shibotsu and Taraku Islandsand Shikotan Island)として当該指令の目的からする(For the purpose of this directive)日本(Japan)の定義において日本から除かれています。ここでは国後島及び択捉島は特に挙示されていませんので千島列島(the Kurile Islands)に含まれているのでしょう。ただし,第4項において除かれている満洲,台湾,澎湖島,朝鮮等と比べると,第3項では日本(Japan)から除く旨わざわざ言及されていますから,千島列島,歯舞群島及び色丹島は,第4項で除かれる樺太などと比べるとより日本に近いものとして分類されたものなのでしょう。もっとも,当該覚書の第6項は「この指令中の条項は何れも,ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。」(Nothing in this directive shall be construed as an indication of Allied policy relating to the ultimate determination of the minor islands referred to in Article 8 of the Potsdam Declaration.)と規定しています。

 

3 サン・フランシスコ平和条約

 

(1)第2条(c)

問題は,195198日に調印され,1952428日に発効したサン・フランシスコ平和条約です。北方四島については,同条約の第2条(c)が “Japan renounces all right, title and claim to the Kurile Islands, and to that portion of Sakhalin and the islands adjacent to it over which Japan acquired sovereignty as a consequence of the Treaty of Portsmouth of September 5, 1905”(日本語文では「日本国は,千島列島並びに日本国が190595日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄する。」)と規定しています。

ここで若干,ここでの「放棄」の字義解釈をすると,まず,当該「放棄」によってどこかの国が当該「放棄」に係る領土権を取得するということはありません。19515月の米英暫定草案では「ソ連に割譲する旨」が記されていたのが,同年7月の段階になって「アメリカはソ連に直接利益を与える形式を好まないほか,ソ連の条約不参加の場合に譲渡方式では現実に支配するソ連と日本との間の紛争にまきこまれることを懸念し,領土条項のなかで,朝鮮・台湾・南樺太・千島などを一括して取り扱い,統一的に日本による主権放棄のみを規定することを〔英国に〕提案し,結局これが採用された」ものです(国際法事例研究会26頁(芹田))。また,当該「放棄」に係る地域が,単純な先占により領土権を取得し得る無主地になるわけでもありません。後に見るように,日本が「放棄」した地域の「最終処分」に係る「未決の点は将来この条約外の国際的解決策で解きほごしていく」べきであるとするのが,サン・フランシスコ講和会議で示された,共同起草国中の一国である米国の意思でした。

ちなみに,所有権の放棄については現行日本民法に規定はありませんが,旧民法財産編(明治23年法律第28号)42条の第5は「物ヲ処分スル能力アル所有者ノ任意ノ遺棄」によって所有権は消滅するものと規定されていました。「所有権は〔略〕放棄により,目的物は無主物あるいは国有となって存続しても,元の所有権は観念的にその存在を失って消滅する」ところ(我妻榮著=有泉亨補訂『新訂物権法(民法講義Ⅱ)』(岩波書店・1983年)247頁),物権の放棄は単独行為であって,「所有権〔略〕の放棄は,特定の人に対する意思表示を必要としない(承役地の所有権を地役権者に対して委棄する場合は例外である。287条〔略〕参照)。占有の放棄その他によって,放棄の意思が表示されればよい。ただし,不動産所有権の放棄は,登記官に申請して登記の抹消をしなければ第三者に対抗しえないといわねばならない」とされています(我妻=有泉248頁)。国家の国土領有権についての登記官は考え難いところです。なお,注意すべきは,「物権の放棄も公序良俗に反してはならない(例えば危険な土地の工作物の放棄。717条参照)が,さらに,これによって他人の利益を害さない場合にだけ認められる」ものとされていることです(我妻=有泉249頁)。美濃部達吉は領土の放棄について,「無人地を抛棄するのは,何人の権利をも侵害するものではないから,敢て立法権の行為を必要とすべき理由は無いのである〔勅令をもって無人地たる領土の放棄は可能〕。之に反して現に臣民の居住して居る土地を抛棄することは之を独立の一国として承認する場合にのみ可能であつて,之を無主地として全く領土の外に置くことは,憲法上許されないところと見るのが正当である。何となれば臣民は国家の保護を要求する権利を有するもので,国家は之をその保護から排除することを得ないものであるからである。」と述べています(美濃部達吉『逐条民法精義』(有斐閣・1927年)83頁)。ただし,ここでは単独行為としての領土の抛棄について論ぜられているものでしょう。北方四島に居住していた我が国民については,「戦前,北方四島には,約17千人の日本人が住んでいましたが,その全員が,1948年までに強制的に日本本土に引き揚げさせられました。」とのことです(外務省「北方領土に関するQ&A」ウェブ・ページ(A4))。すなわち,サン・フランシスコ平和条約調印の時点において北方四島は「現に臣民の居住して居る土地」ではなかったようではあります。

  

(2)「千島列島」の範囲論による領有権喪失の否認

 

ア 北方四島=非「千島列島」

サン・フランシスコ平和条約2条(c)に関して,内閣府北方対策本部の「北方領土問題とは」ウェブ・ページには,「サン・フランシスコ平和条約で我が国は,千島列島に対する領土権を放棄しているが,我が国固有の領土である北方領土はこの千島列島には含まれていない。このことについては,樺太千島交換条約の用語例があるばかりでなく,米国政府も公式に明らかにしている(195697日付け対日覚書)。」とあります。サン・フランシスコ平和条約において日本は北方四島を放棄していない,それは,北方四島は同条約2条(c)にいう「千島列島」に含まれていないからだ,したがって結局日本は同条約によっても北方四島の領有権を喪失していない,ということのようです。

しかしながら,日本語でいう「千島列島」はどの範囲の島々を意味するのかということであれば日本語話者間における用法でもって決まるということでよいのでしょうが,サン・フランシスコ平和条約の正文は英語,フランス語及びスペイン語です。

 

イ 樺太千島交換条約

1875年の樺太千島交換条約はフランス語によるものなので,内閣府北方対策本部のウェブ・ページは同条約における用語例を援用したのでしょうか。

確かに,半年に及ぶ対露交渉の末同条約に調印した榎本武揚による和訳文を見ると,前文では「大日本国皇帝陛下ハ樺太島即薩哈嗹島上ニ存スル領地ノ権理/全魯西亜国皇帝陛下ハ「クリル」群島上ニ存スル領地ノ権理ヲ互ニ相交換スルノ約ヲ結ント欲シ」とありますから,同条約によって日本に譲与された島々イコール「クリル群島」なのだ,ということになりそうです。しかしながら,ここで相交換される「「クリル」群島」はフランス語文では “le groupe des îles Kouriles”です。“un groupe des îles Kouriles”でないのはよいのですが,端的に“les îles Kouriles”でないところが少々面白くないところです。

しかして,同条約第2款には「全魯西亜皇帝陛下ハ〔略〕現今所領「クリル」群島(le groupe des îles dites Kouriles qu’Elle [Sa Majesté l’Empereur de toutes les Russies] possède actuellement)即チ第1「シュムシュ」島〔中略〕第18「ウルップ」島共計18島ノ権理及ビ君主ニ属スル一切ノ権理ヲ大日本国皇帝陛下ニ譲リ而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ(désormais ledit groupe des Kouriles appartiendra à l’Empire du Japon)〔以下略〕」とあります。“le groupe des îles dites Kouriles, qu’Elle possède actuellement”というようにカンマがあるわけでもないので,「クリル全島中のうち現在ロシア領であるもの」が譲られるのだ,とも読み得るものでしょうか。“ledit groupe des Kouriles”であって“le groupe des Kouriles”ではないことも,“le groupe des îles Kouriles”が固有名詞ではないようでいやらしい。サン・フランシスコ平和条約2条(c)のフランス語文は,“Le Japon renounce à tous droits, titres et revendications sur les îles Kouriles, ainsi que sur la partie de l’île Sakhaline et sur les îles y adjacentes passées sous la souveraineté du Japon en vertu du Traité de Portsmouth du 5 septembre 1905.”です(イタリックは筆者によるもの)。「樺太千島交換条約」(これに相当するフランス語による題名も,日本外交文書デジタルコレクション掲載の当該条約を見る限りは無いようです。ただし,外務省条約局『旧条約彙纂第1巻第2部』(1934年)680頁には表題として“Traité d’Échange de l’Île de Sakhaline contre le Groupe des Îles Kouriles”とあります。)における「用語例」から北方四島は「千島列島」には含まれないのだ,と直ちに言い切って済ましては,不全感が残るようです。

ちなみに,1855年の日魯通好条約2条における択捉・得撫両島間国境関係部分のフランス語訳文は “La frontière entre la Russie et le Japon passera désormais entre les îles Itouroup et Ouroup. L’île Itouroup appartient tout entière au Japon, et l’île Ouroup, ainsi que les autres îles Kouriles situées au nord de cette île, appartiennent à la Russie.”となっています(『旧条約彙纂第1巻第2部』523頁)。

   

ウ ダレス9月覚書

 

(ア)「日本国の主権下にあるものとして認められなければならない」国後・択捉両島並びに北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島

内閣府北方対策本部が援用した195697日付けの前記ダレス米国国務長官の対日覚書(両国政府の協議の後同月12日に公表。当時の「日ソ平和条約交渉中に提起された諸問題」に関するもの。以下「ダレス9月覚書」といいます。)には,確かに,「米国は,歴史上の事実を注意深く検討した結果,択捉,国後両島は(北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島とともに)常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり,かつ,正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に達した。米国は,このことにソ連邦が同意するならば,それは極東における緊張の緩和に積極的に寄与することになるであろうと考えるものである。」(The United States has reached the conclusion after careful examination of the historical facts that the islands of Etorofu and Kunashiri (along with the Habomai Islands and Shikotan which are a part of Hokkaido) have always been part of Japan proper and should in justice be acknowledged as under Japanese sovereignty. The United States would regard Soviet agreement to this effect as a positive contribution to the reduction of tension in the Far East.)とあります。しかし,これでは,「北海道の一部」である歯舞群島及び色丹島はthe Kurile Islandsに含まれないものであると英語では理解されていることは分かりますが(また,19515月の対日平和条約米英暫定合同草案の段階において英語の本家の「英の解釈では,歯舞・色丹は千島列島の範囲に含まれていなかった」そうです(国際法事例研究会26頁(芹田))。),国後島及び択捉島は「千島列島」には含まれないのであるぞ,とまでは明文で述べられてはいません。

 

(イ)国後・択捉両島と「千島列島」

国後島及び択捉島と「千島列島」との関係については,米国国務省のOffice of Historianウェブ・サイトに掲載されている195693日付け極東担当国務次官(ロバートソン)発国務長官宛てメモ(Memorandum From the Assistant Secretary of State for Far Eastern Affairs (Robertson) to the Secretary of State)において,「しかしながら,これらの島〔国後島及び択捉島〕は日本の,及び国際的用法においては千島弧の一部として記述されてきており,サン・フランシスコ条約において用いられた語であるところの千島列島の一部ではないということは難しいであろう。」(The islands have been described in Japanese and international usage as part of the Kurile chain, however, and it would be difficult to prove that they are not a part of the Kurile Islands as the term is used in the San Francisco treaty.)と記されており,かつ,Office of Historianの註するところでは,同年8月に国務省歴史部政策研究課のハーバート・スピールマン(Herbert Spielman, Policy Studies Branch, Historical Division)が行った調査の結論は,「本件に関する米国文書のほとんど(most)において,国後及び択捉は千島列島(the Kuriles)の一部であるものとして認識されている。また,日本国内閣総理大臣〔吉田茂〕は平和条約調印のために招集されたサン・フランシスコ会議〔195197日の第8回全体会議〕において演説しつつ,「南千島に属するもの」(‘Of the South Kuriles’)であるものとしてこれら二島に特に言及している。」であったものとされています(スピールマンの調査結果については,溝口修平「日ソ国交正常化交渉に対する米国の政策の変化と連続性」国際政治(日本国際政治学会)第176号(20143月)119頁参照)

(なお,195197日の吉田茂発言は,内閣府北方対策本部の「北方領土問題」ウェブ・サイトの「外交文書(11)」では同月「8日」に行われたものとされていますが,「7日」の間違いです。当該発言は,日本外交文書デジタルコレクションの「平和条約の締結に関する調書第4冊」の「平和条約の締結に関する調書Ⅶ」中「Ⅱ桑港編」でも読むことができます(128-129頁(118-119頁)。1970年になってからの外務省条約局法規課作成の資料)。ただし,そこでは「千島南部の二島,択捉,国後両島」との日本語となっています。千島があって,その外の南側に位置する二島ということでしょうか。しかしながら,前後を含めて当該部分の英文は,“With respect to the Kuriles and South Sakhalin, I cannot yield to the claim of the Soviet Delegate that Japan had grabbed them by aggression. At the time of the opening of Japan, her ownership of two islands of Etoroff and Kunashiri of the South Kuriles was not questioned at all by the Czarist government. But the North Kuriles north of Urruppu and the southern half of Sakhalin were areas open to both Japanese and Russian settlers. On May 7, 1875 the Japanese and Russian Governments effected through peaceful negotiations an arrangement under which South Sakhalin was made Russian territory, and the North Kuriles were in exchange made Japanese territory.”となっています(日本外交文書デジタルコレクション「平和条約の締結に関する調書Ⅶ」の「付録3150325頁(313頁))。ただし,185527日調印の日魯通好条約では得撫島以北はロシア領とされたはずであり,また,1853年の交渉中にプチャーチンは我が国代表者に対して択捉島の分割を提案していたそうです(国際法事例研究会94頁(安藤仁介))。ちなみに,1956824日にロンドンの米国大使邸で行われた重光外務大臣とダレス国務長官等との会談において,重光大臣は“The legal question is clear. The Japanese surrendered this territory [Etorofu and Kunashiri (perhaps)] under the San Francisco Treaty with the Allies, among whom the Soviets were not included.”と口走り,ダレス長官は「サン・フランシスコ平和条約の時には,吉田政府から,歯舞及び色丹はthe Kurilesの一部ではないという立場を採るよう米国は頼まれていた。択捉及び国後については,彼らは同様の依頼をしてこなかった。」と述べています(米国国務省Office of Historianウェブ・サイト)。)

 

エ 国後・択捉両島=非「千島」の事実に対する雑音について

樺太千島交換条約及びダレス9月覚書を援用して国後島及び択捉島はサン・フランシスコ平和条約2条(c)の「千島列島」に含まれないものとする主張は,愛国的かつ真摯なものではありますが,なお全ての雑音を一掃し去るには至っていないようです。
 所有権に基づく土地明渡請求の例え話に戻れば,
Y(ロシア)によるサン・フランシスコ平和条約の調印・発効に係る事実の主張は,歯舞諸島及び色丹島に係るX(日本)の所有権喪失の抗弁を成り立たせるものではないものの,国後島及び択捉島についての当該抗弁に係る主張としては,当該条約の殊更な反日的解釈においては――天道(てんどう)()()非邪(ひか)――ひょっとすると成功することになるかもしれぬという懸念は完全には払拭できません(当該懸念が仮に現実のものとなるとしたら,同条約によって北方四島が,歯舞・色丹と国後・択捉との2筆に分筆されてしまったことにもなるものか)。ただし,サン・フランシスコ平和条約によるXの所有権の当該喪失は,Yによる当該所有権の取得までを意味するものではありません。

 

(3)サン・フランシスコ講和会議における米英全権の説明

ここで,サン・フランシスコ講和会議において対日平和条約案を共同提案した米英の代表がした演説中,サン・フランシスコ平和条約2条に関する部分を紹介しておきましょう。いずれも195195日午後の第2回全体会議でされたものです。

まず,米国全権のダレスいわく,「第2章(領域)は日本の領域について規定する。日本は6年前現実に実施された降伏条項の領土条項をここで正式に承認することになる。ポツダム降伏条項は日本と連合国が全体として拘束される唯一の平和条項の規定である。23の連合国政府間の私的了解が23あるけれどもそれらは日本や他の連合国を拘束しない。だから,条約は,降伏条項第8項を具体化した。第2章第2条の定める放棄は厳格に降伏条項に一致している。/第2条,(c)の千島列島(“Kurile Islands”)という地理的称呼がハボマイ諸島(the Habomai Islands)をふくむかどうかの問題が提起されたが,ふくまないというのが合衆国の見解である。この点について紛争があれば,紛争は第22条によって国際司法裁判所に付託しうる。/第2条は日本に主権を放棄させるだけでなく当該領域の最終処分を規定すべきであるという連合国もあった。しかし,どちらに与ゆべきであるかの問題の起る地域がある。ポツダム降伏条項にしたがつて日本に平和を与えるか,それとも,日本が放棄する用意があり放棄を求められる地域をどうするか連合国が争う間日本に平和を与えないかのどちらかである。日本に関するかぎり,今平和を与え未決の点は将来この条約外の国際的解決策で解きほごしていくのが明らかに賢明ないきかたである。(Clearly, the wise course was to proceed now, so far as Japan is concerned, leaving the future to resolve doubts by invoking international solvents other than this treaty.)」と(日本外交文書デジタルコレクション「Ⅱ桑港編」75頁(65頁))。

次に英国全権のヤンガーいわく,「これらの条項はポツダム宣言の規定を基礎にするものである。ポツダム宣言の規定は日本の主権が四大島と後日宣言署名国の決定する諸島に制限されることを規定している。琉球諸島と小笠原諸島については条約はこれらの諸島を日本の主権から切り離さない。条約は北緯29度以南の琉球諸島にたいする合衆国管治の継続を規定する。すなわち日本に至近の島々は日本の主権のもとに残るばかりでなく日本の管治のもとに残ることになる。これは,日本本土にきわめて接近しそして現在ソヴィエト連邦によつて占領されているも一つの重要な群島である千島列島にたいする日本主権の完全放棄の規定と顕著な対照をなすものである。われわれは千島列島にたいする日本主権の放棄に合意したが,より南にある琉球諸島と小笠原諸島に関する規定を非難する人たちはこの比較を銘記すべきであると思う。」と(日本外交文書デジタルコレクション「Ⅱ桑港編」90頁(80頁))。

ちなみに,第2回全体会議でソ連全権グロムイコは「琉球・小笠原諸島・西之島・火山列島・沖鳥島・南鳥島」に日本の主権を及ぼさせるべきだと主張しましたが(南西諸島等に係るサン・フランシスコ平和条約3条に反対。日本外交文書デジタルコレクション「Ⅱ桑港編」108頁(98頁)),翌6日午前の第4回全体会議においてセイロン代表は当該主張に痛烈な批評を加え,「ソヴィエト連邦は西南諸島を日本に返還せよという。では,南樺太・千島列島を日本に返還してはどうか。ソヴィエト連邦は日本は基本的人権を享有すべきであるといわれるが,その自由はソヴィエト国民こそ欲しているものである。」と述べています(日本外交文書デジタルコレクション「Ⅱ桑港編」113頁(103頁))。サン・フランシスコ平和条約3条に規定された諸島は,1972515日の沖縄の本土復帰を最後に既に米国から日本に返還されています。

 

(4)ダレス9月覚書における国後・択捉両島問題の位置付けに関する仮定論

 

ア ダレス9月覚書の関係部分

なお念のため,国後島及び択捉島がサン・フランシスコ平和条約2条(c)の「千島列島」に仮に含まれるのならば,同条約によって「放棄」された日本の領土に係るダレス9覚書における次の部分が,両島についても適用されることになるようです。
 いわく,「サンフランシスコ平和条約――この条約はソ連邦が署名を拒否したから同国に対してはなんらの権利を付与するものではないが――は,日本によって放棄された領土の主権帰属を決定しておらず,この問題は,サンフランシスコ会議で米国代表が述べたとおり,同条約とは別個の国際的解決手段に付せられるべきものとして残されている。/いずれにしても日本は,同条約で放棄した領土に対する主権を他に引き渡す権利を持っていないのである。このような性質のいかなる行為がなされたとしても,それは,米国の見解によれば,サンフランシスコ条約の署名国を拘束し得るものではなく,また同条約署名国は,かかる行為に対してはおそらく同条約によって与えられた一切の権利を留保するものと推測される。」(
The San Francisco Peace Treaty (which conferred no rights upon the Soviet Union because it refused to sign) did not determine the sovereignty of the territories renounced by Japan, leaving that question, as was stated by the Delegate of the United States at San Francisco, to ‘international solvents other than this treaty’. / It is the considered opinion of the United States that by virtue of the San Francisco Peace Treaty Japan does not have the right to transfer sovereignty over the territories renounced by it therein. In the opinion of the United States, the signatories of the San Francisco Treaty would not be bound to accept any action of this character and they would, presumably, reserve all their rights thereunder.)と。

 

イ “demonstration of moral support”

それでは「択捉,国後両島は・・・常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり,かつ,正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論」とは何だったのかといえば,ダレス9月覚書の原案作成者であるロバートソン国務次官の前記195693日付けメモ(以下「ロバートソン・メモ」といいます。)によれば,“demonstration of moral support”ということのようです。

つまり,“If we cannot directly assist Japan in its negotiations, there may be steps which would strengthen our bonds with Japan by way of contrast with Soviet imperialism. Any demonstration of moral support would be of some value from this standpoint, such as a declaration that we believe Japanese claims to Etorofu and Kunashiri are just.”(日本をその〔対ソ国交回復・北方四島返還〕交渉において我々は直接支援できないとしても,ソヴィエト帝国主義との対比によって我々の日本との絆を強化することとなるであろう方策はあり得るところである。この観点からすると,択捉島及び国後島に対する日本の請求権は正しいものであると我々は信ずる旨の宣言のような精神的弾込め(demonstration of moral support)には意味があるであろう。)という考え方が,ダレス9月覚書の背景にはあったのでした。

「精神的弾込め」とは意訳が過ぎるようですが,当該語句を筆者がつい用いた理由は,当時の重光葵外務大臣は前月の1956年「8月中旬,歯舞・色丹引き渡しを条件とするソ連案での妥協を日本政府に請訓したが,日本政府がこれを拒否した」という状態であって(国際法事例研究会108頁(安藤)),重光外務大臣には相当の叱咤が必要であったようであるからです(同年819日には,ロンドンにおいて同大臣に対する「ダレスの恫喝」として知られる「パワハラ」事件が起きています。なお,同月14日付けの在東京米国大使館から同国国務省への電報は,ソ連案で妥協するとの方針には外務大臣以外の日本の閣僚は一致して反対であるとの消息筋の情報を既に伝えていました(同月19日のダレス=重光会談に係る米国国務省のメモランダムに付された註参照(同省Office of Historianウェブ・サイト))。「ダレスの恫喝」といっても米国国務長官ダレスのみの発意によるものではなく,当の鳩山一郎内閣に代わって,その方針を同内閣の外務大臣に改めて告げたというお節介の側面もあったものでしょう(日本国憲法732号及び3に明らかなように,外務省は内閣の方針に従わなければなりません。)。同年1122日の衆議院日ソ共同宣言等特別委員会において重光外務大臣は,米国からの「俗にいうハッパ」について語っています(第25回国会衆議院日ソ共同宣言等特別委員会議録第519頁)。同年822日のダレス長官からの国務省宛て電報には「ソヴィエトとの平和条約締結交渉の頓挫(collapse)の結果,重光が憂慮し,取り乱した状態(in worried and distraught condition)にあるのは明白であった。彼は,最終的に地域の帰属を決定する(final territorial dispositions)問題を検討するための日ソ英及び恐らくその他による会議を米国が招集することが望ましいことを何度か仄めかした。」とあります(同省Office of Historianウェブ・サイト)。)。

 

ウ 日本の権能

なお,ロバートソン・メモは更にいわく。“In the light of Japanese reactions, it appears wise to […] assert simply that having renounced sovereignty over the territories, Japan does not have the right to determine the question, which is of concern to the community of nations, not to Japan and the Soviet Union alone. This formulation would enable the United States to reserve all its rights, whatever they may be, and to refuse to recognize Soviet sovereignty even if Japan should ultimately purport to do so.”(日本の反応に鑑みると,〔略〕当該地域に係る主権を放棄した以上,日本は,日本及びソヴィエト連邦のみの課題ではなく国際社会の課題であるところの〔当該地域の主権に係る〕当該問題を決する権利を有していないと簡潔に述べることが賢明であるものと思われる。この方法によって,米国は,いかなるものであってもその全ての権利を留保することができ,また,たとえ日本が最終的にそのようにしようとしても,ソヴィエトの主権を承認することを拒否することができる。)と。

さて,国後島及び択捉島に係る主権の所在が「国際社会の課題」であるのならば,皆で国際的に話し合えばよいかといえば,そうもいきません。195697日の会見においてダレス長官が谷大使に口頭で述べたところ(Oral Points)によれば「米国政府は,関係諸国による国際会議が領土問題を決することの助けになるものかどうか真剣に検討したが,現段階においては,そのような会議は当該問題に係る望ましい解決(a desired solution)を促進しないであろうという結論に達した。」とのことでした。ロバートソン・メモには,具体的な問題点として,そのような国際会議に仮にソ連が参加したとしても当該会議を「台湾,朝鮮,そして恐らく琉球の地位問題を含む全般的極東問題会議にしようとする」だろうし,「ソヴィエト連邦は,中共が招待されるべきことに恐らく固執するであろう。」との懸念が記載されています。(現在ではまた,国際的な紛争の一つの焦点たる海域である南シナ海の問題も,サン・フランシスコ平和条約2条(f)との関係で,提起されてしまう可能性がないでしょうか。(「南シナ海における大日本帝国」参照http://donttreadonme.blog.jp/archives/1043946377.html))

「日本は・・・当該問題を決する権利を有していない」との前提である結果,ロバートソン・メモに添付されていたダレス9月覚書の原案では「サン・フランシスコ平和条約によれば(by virtue of the San Francisco Peace Treaty),日本は同条約において放棄した地域に係る主権に関する決定権(the right to determine the sovereignty over the territories renounced by it)を有さず,かつ,それは,日本と連合国のいずれか一国との間の合意によって解決されるべき事項ではない,というのが米国の熟慮の末の意見である。米国は,当該性格のいかなる行為についても承諾すべく拘束されることはないであろうし,かつ,その全ての権利を留保しなければならないであろう。」との記載がありました。しかしこれでは,歯舞群島及び色丹島の返還(明渡)問題は別として,日ソ二国間交渉で国後島及び択捉島の主権の問題を決めることはできず,当該二島については交渉それ自体が無意味である(しかも米国の目からは越権行為)ということになります。

そこで,ダレス9月覚書では原案に変更を加え,上記の点については,「日本は,同条約で放棄した領土に対する主権を他に引き渡す権利を持っていないのである。」ということで,対ソ関係の「千島列島並びに日本国が190595日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島」ないしは少なくとも国後島及び択捉島については,日本がその「放棄」した領土権を回復することは妨げられない,という反対解釈がされるように書き直されたものなのでしょう。カイロ宣言では「日本国ハ又暴力及貪欲ニ依リ日本国ガ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルベシ」とありますが,いったん「駆逐」された後の復帰は可能と解するものか,それともそもそも千島列島等は「暴力及貪欲ニ依リ日本国ガ略取シタル」地域ではないので「駆逐」される必要性は最初から無かったと解するものか。

ちなみに,1956827日付け(ただし,「?」が付されています。)の米国国務省北東アジア室の在東京米国大使館宛て週報には,「法務顧問室はハイド(Hyde)の「国際法」を掘り返して,日本は,その放棄した主権が他の国に移転されるまでは,the Kuriles及び樺太にresidential sovereignty(我々が考えるには,琉球におけるresidual sovereigntyとは違うものではあるが,恐らくその発想の源(inspiration)であろう。)を有している,との長官の見解を支持するであろう理論を見つけ出した。」との記述があったところです(同省Office of Historianウェブ・サイト)。

(なお,「日本は,〔サン・フランシスコ〕平和条約で放棄した領土に対する主権を他に引き渡す権利を持っていない」にもかかわらずそのような僭越なことをした場合(例えば,本来日本が領土権を「放棄」しただけの島について,更に完全な主権をソ連に認めた場合)には同条約26条後段が働き,「これと同一の利益は,この条約の当事国にも及ぼされなければならない」ことになるとされていました(その場合,琉球に係る完全な主権を米国にも認めて,せっかくの琉球に係る潜在主権を日本は失うべし。だから譲歩せずに頑張れ。)。この機序の説明がいわゆる「ダレスの恫喝」になったわけです。)

 

エ 「国際的解決手段(international solvents)」とは

国後島及び択捉島の領土権の回復は妨げられないとして,それではそのための,ダレス9月覚書にいう「〔サン・フランシスコ平和〕条約とは別個の国際的解決手段に付せられるべき」ところの「国際的解決手段(international solvents)」とは――国際会議の招集は先にみたように論外であるとして――両島については何なのだ,という問題が残っています。
 この点に関しては,ダレス
9月覚書を手交された際に谷大使が正に当該国際的解決手段に関してした質問に対する同長官の発言を,米国国務省の記録は次のように伝えています。いわく,“He would say that the processes that he had in mind […] are the whole series of processes that are under way at present. The negotiation between Japan and the Soviet Union are a part, as are our own efforts to assist together with any pressures which we may possibly be able to bring about from other government. […]”(私の念頭にあるプロセスとは,〔略〕現在進行中の一連のプロセス全てであるというべきだろう。日本とソヴィエト連邦との間の交渉は〔その〕一部であるし,他の政府から我々が恐らく引き出すことのできるであろう圧力と共に〔日本を〕支援する我々自身の努力もそうである。〔略〕)と。いずれにせよ,日ソ二国間限りで決まる問題ではない,というのが米国の認識であったようです。一回の国際会議によってきっぱり綺麗に決まればよいのでしょうが,サン・フランシスコ講和会議がそれをできなかったように,やはりそうはいかないのでしょう。ただし,国後島及び択捉島に係る領土権の日本帰属は正当なものであると判断した以上,米国としては,日ソ間での当該趣旨での合意後に他国からの苦情紛糾があっても,結果よければ全てよしということで当該日ソ間合意を認容することとしてその辺のことは見切った,ということでありましょうか。

 

第6 日ソ共同宣言と「占有権原の抗弁」等

 19561019日にモスクワで署名され,同年1212日に発効した日ソ共同宣言の第9項は「日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は,両国間に正常な外交関係が回復された後,平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。/ソヴィエト社会主義共和国連邦は,日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して,歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡すことに同意する。ただし,これらの諸島は,日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。」と規定しています(日本側全権委員:内閣総理大臣鳩山一郎,農林大臣河野一郎及び衆議院議員松本俊一)。ここでの「平和条約の締結に関する交渉」は,同年929日付け松本俊一全権委員書簡及び同書簡に対する同日付けグロムイコ・ソ連第一外務次官書簡を根拠として,「領土問題をも含む」ものと,我が国では理解されています。(ただし,共同宣言案にあった「領土問題を含む」との文言が同年1018日にフルシチョフ・ソ連共産党第一書記の要求により落ちたという経緯があり,かつ,同第一書記は同月16日には「歯舞・色丹を書いてもよいが,その場合は平和条約交渉で領土問題を扱うことはない,歯舞・色丹で領土問題は解決する旨主張」したとされています(塚本孝「北方領土問題の経緯【第4版】」調査と情報(国立国会図書館)第697号(2011年)5-6頁)。)

 一読すると「なんだ,歯舞群島と色丹島とは返してもらえるんだね,よかったね。」ということになるのですが,よく読むと,日ソ(日露間)間の平和条約締結後まではソ連(ロシア)は歯舞群島及び色丹島の占拠を継続してよい旨日本側が認めてしまったようにも読めます。1945年のヤルタ協定,同年のポツダム宣言及び1951年のサン・フランシスコ平和条約のいずれによっても日本の歯舞群島及び色丹島に係る領土権の喪失はもたらされていないということで,X(日本)に対するY(ソ連)からの所有権喪失の抗弁が認められないとしても,1956年の日ソ共同宣言に至ってその第9項に基づくYの占有権原の抗弁は成り立って,XYに対する明渡請求は失敗してしまうかもしれません。また,当該占有権原はいつまで続くかといえば,XY間の平和条約締結のいかんはYの意思次第なので,いわばYは欲する限り日ソ共同宣言9項に基づき歯舞群島及び色丹島の占有を継続できるということになりそうです。何だか変ですね。しかしこの辺については,参議院外務委員会において19561129日,下田武三政府委員(外務省条約局長)が説明しています。いわく,「従来は,これらの島々に対するソ連の占領は戦時占領でございましたことは仰せの通りでございまするが,しかし共同宣言が発効いたしますと,第1項の規定によりまして戦争状態は終了するわけでございますから,その後におきましては,もはや戦時占領でなくなるわけでございます。しからば戦争状態終了後,歯舞,色丹をソ連が引き続き占拠しておることが不法であるかと申しますと,これはこの第9項で,平和条約終了後に引き渡すと,現実の引き渡しが行われるということを日本が認めておるのでありまするから,一定の期限後に日本に返還されることを条件として,それまで事実上ソ連がそこを支配することを日本はまあ認めたわけでございまするから,ソ連の引き続き占拠することが不法なりとは,これまた言えない筋合いであると思います。/それから国後,択捉等につきましては,これも日本はすぐ取り返すという主張をやめまして,継続審議で解決するという建前をとっております。従いまして,これにつきましても事実上ソ連が解決がつくまで押えてあるということを,日本は不問に付するという意味合いを持っておるのでありまするから,これもあながち不法占拠だということは言えません。要するに日本はあくまでも日本の領土だという建前を堅持しておりまして,実際上しばらくソ連による占拠を黙認するというのが現在の状態かと思います。」と(第25回国会参議院外務委員会会議録第66-7頁)。確かに,「北方領土の日」の前記閣議了解の「理由書」でも,「不当な占拠」とは言っていても,「不法な占拠」とは言っていませんでした。

 また,「日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して」という文言だけでも恩着せがましくて違和感があるのですが(日本の領土権が無視されています。),更に「引き渡す」との用語はいかがなものでしょうか。サン・フランシスコ平和条約6条では,占領軍の日本国からの「撤退」という表現をしています。「引き渡す」ということは領土権の移転である,ということであれば,歯舞群島及び色丹島に係るソ連の「領土権」を認める旨の日本の「権利自白」が1956年の日ソ共同宣言によってされてしまったことになるのかどうか。同年1125日の衆議院日ソ共同宣言等特別委員会において,同様の懸念を大橋武夫委員が表明しています(第25回国会衆議院日ソ共同宣言等特別委員会議録第74頁)。同委員の当該突っ込みに対しては,松本俊一全権委員及び下田武三政府委員が,日本文では「引き渡す」と表現されたロシア文のпередать(ペレダーチ)とは「単なる物理的な占有の移転」を意味するものなのですと答弁して頑張っています(同議事録5頁)。しかし,筆者の手元の『博友社ロシア語辞典』(1975年)でпередатьを引いてみると,「財産に対する権利を譲渡する」や「全権を譲り渡す」といった文章における「譲渡する」「譲り渡す」を意味する動詞でもあるようです。

 なお,軍事占領下の統治の法的性格について美濃部達吉は,「或る地域が既に平定して完全にわが軍の勢力の下に置かれた後には,その地域に於いては敵国の統治権を排除し,軍隊の実力を以てその統治を行ふことになるのであつて,その占領中は一時〔わが国〕の統治権がその地域に行はれる。併し此の場合の〔わが国〕の統治は一時の経過的現象であつて,法律上の権利として統治権が成立するのではなく,実力に依る統治に外ならぬ。それが結局に於いて,〔わが国〕の権利として承認せらるゝや又は原状に回復せらるゝやは,講和条約に待たねばならぬのである。」と説明しています(美濃部・精義96頁)。

 第198回国会における安倍晋三内閣総理大臣の施政方針演説(2019128日)においては,「ロシアとは,〔略〕領土問題を解決して,平和条約を締結する。〔略〕この課題について,〔略〕必ずや終止符を打つ,との強い意志を,プーチン大統領と共有しました。〔略〕1956年宣言を基礎として,交渉を加速してまいります。」と述べられています(下線は筆者によるもの)。

 

第7 燕雲十六州問題に係る澶淵の盟の前例

 しかし,形はどうであれ「領土問題を解決」することは,もちろんよいことなのでしょう。

漢族固有の地である長城内の燕雲十六州を異民族国家であるモンゴル系の遼(契丹)から取り戻すことを諦め,遼による領有の現状を認めた北宋の真宗が遼の聖宗と結んだ1004年の澶淵の盟(「宋からは以後毎年,銀10万両,絹20万匹を歳幣(毎年贈る金品)として贈り,互いに国境を侵犯しないことを誓約」したもの(宮崎市定『中国史(下)』(岩波文庫・2015年)16頁))も,“The peace signed by Song with the Liao (Khitan) in 1004 was the first in a series of acts of national disgrace.1004年に宋が遼(契丹)と締結した平和条約は,一連の国恥の最初のものであった。)と言われはしますが(Jian Bozan, Shao Xunzheng and Hu Hua, A Concise History of China (Beijing: Foreign Language Press, 1986), p.60),悪くはなかったとされているところです。

いわく,「この条約は宋側にとって非常な屈辱とされるのは,歳幣を贈る義務を負わされた上に,異民族王朝の君主を皇帝と称して,これと対等の立場で国交を行わねばならなかったからである。しかしながら宋側にとって有利な点があったことを見逃してはならない。従来中国は,万里の長城によって北方遊牧民の南下を遮断して自衛してきた,〔略〕もし相互不可侵条約を結ぼうとしても,その相手が見つからない。砂漠の政権は絶えず移動するからである。しかるに今度,遼王朝という安定政権の成立により,宋は恰好な交渉相手に直面することになった。歳幣は経済的の負担でもあり,不名誉な義務には相違ないが,しかし平和の代償と思えば,特に高価に過ぎるものではなかった。経済的先進の大国である中国が,発達途上国の遼に対して,経済援助の無償援助を行って悪い理由はなかった。/遼に対する歳幣は,宋政府の財政から見ても,大して痛痒を感ずるほどのものではなかった。それどころではない。国初以来の経済成長はなお持続し,これに伴って国庫収入も増加し続けた。」と(宮崎16-17頁)。

ただし,真宗は,遼軍が燕雲十六州から更に南下して黄河に到達し澶州(澶淵)に迫ったという苦難の遼宋戦争状態終結の必要のために澶淵の盟を提議したものです(宮崎16頁参照)。

 真宗(趙恒)は,何もないのに,「遼とは,国民同士,互いの信頼と友情を深め,燕雲十六州問題を解決して,盟約を締結する。後晋の石敬瑭〔936年〕以来七十年近く残されてきた,この課題について,次の世代に先送りすることなく,必ずや終止符を打つ,との強い意志を,耶律隆緒皇帝〔聖宗〕と共有しました。首脳間の深い信頼関係の上に,交渉を加速してまいります。」と見栄を切って,勇躍首脳外交のために開封を発したわけではありません。  

遼宋間の平和は澶淵の盟以後百十年以上続きますが,1115年には遼の東方で完顔阿骨打に率いられた女真人が金を建国,北宋(風流天子こと徽宗の時代)は新興の金を利用して「固有の領土」燕雲十六州を遼から奪回することを謀ります。

1125年,金宋同盟によって首尾よく遼は駆逐されます。しかし今度は,北宋の背信をとがめ,余勢を駆って南進して来た金(皇帝は阿骨打の弟・太宗晟)の軍隊によって北宋は首都開封を囲まれること2度,終に欽宗皇帝及びその父の徽宗上皇は人質となって金の内地に連行され(1127年。我が正平一統の際に崇光天皇並びに光厳太上天皇及び光明太上天皇が吉野方から被った取扱いに似ていますね。),北宋は滅亡するに至ります。嗚呼。かくも「固有の領土」の恢復は難しく,危険なものであったのでした。

宮崎市定教授は嘆じていわく。「このように宋金の交渉は宋側にとって惨憺たる結末に終った。これはむしろ宋側にその責任の大半があり,外交策の拙劣が自ら禍を招いたのであった。すなわち打つ手,打つ手がことごとく裏目に出て,次から次へと最悪の事態が展開して行ったのである。これは宋の政治家の本質を暴露したものであって,宋の国内で通用してきた最も効果的な政略は,対外的には最も愚劣な猿知恵に外ならなかったことを物語る。〔略〕もし宋の方から対応を誤らなければ,災害は途中で喰いとめる余地があったはずであると思われる。そしてこのような最悪の事態に陥ったことについては,盲目的な強硬論を唱えた愛国者の方にも責任がある。すべて国が滅亡に陥る時には,最も不適当な人間が国政の衝に当るように出来ているものなのだ。」と(宮崎83-84頁)。


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

前編(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1070538939.html)の続き

10
 小泉純一郎内閣総理大臣

 平成13年(2001年)5月7日の第151回国会における内閣発足後最初の小泉純一郎内閣総理大臣による所信表明演説では「安心」は4回登場しました。国家ないしは国民の目的(①)として「生きがいを持って,安心して暮らすことができる社会」が掲げられ,社会保障(②)に関して2回,並びに高齢者(③)及び障害者(④)(「バリアフリー」)並びに治安・防災(⑤)に関して1回。

 平成13年9月27日の第153回国会における所信表明演説では3回登場。国家ないしは国民の目的(①)たるべき「小泉構造改革五つの目標」の一つとして「人をいたわり,安全で安心に暮らせる社会」が掲げられました。社会保障(②)に関して1回。消費者(⑦)に関して1回(証券市場関係)。

 平成14年(2002年)2月4日の第154回国会における施政方針演説では3回登場。政治の目的(①)として「人をいたわり,安全で安心して暮らせる社会」が再び掲げられます。当該疾病に罹患した牛の肉を食べた人も発症するとされた牛海綿状脳症(BSE)の問題(⑨)を承けて「食の安全」が重視されるようになり,それに関して2回言及(「今後とも,食肉を始めとする「食の安全」と国民の安心を確保するため,最善を尽くします。」「消費者の求める安心・安全な農産物」)されています(⑦の消費者)。

 平成141018日の第155回国会における所信表明演説では1回でした。同月12日に発生したバリ島での爆弾テロ事件を承けての国際テロリズム対策に関してのものです(⑤)。

 平成15年(2003年)1月31日の第156回国会における施政方針演説では2回。「暮らしの構造改革を進め,国民が安心して将来を設計することのできる社会を構築してまいります。」の部分(①なのでしょう。)及びバリアフリー化(③④)に関してのものです。「暮らしの構造改革」などを政府に勝手にされると国民は不安になり迷惑しそうですが,あえて難しく考える必要はないでしょう。

 平成15年9月26日の第157回国会における所信表明演説では3回。「国民の安全と安心の確保は,政府の基本的な責務です。」と表明された上で(①),社会保障に関して言及され(②),更に「今の小学生が社会に出るころまでに,あらゆる分野で女性が指導的地位の3割を占めることを目指し,女性が安心して仕事ができ,個性と能力を発揮できる環境を整備します。」と述べられています(⑥のうち女性に係るもの)。しかしながら,女性ならぬ男性なれども既に皆「安心して仕事ができ,個性と能力を発揮でき」ていたわけではないでしょう。男性においてできなかったものが,女性においてはできるというのは,やはり女性の方が男性よりも「個性と能力」とにおいて優れているからでしょうか。苦労や不安なしに「安心して仕事」をしているうちにするすると「指導的地位」に就けるということは,素晴らしいことです。

 平成16年(2004年)1月19日の第159回国会における施政方針演説では3回。「国は,国民の安全と安心を確保しなければなりません。」と述べられた上で(①),「安心の確保」の見出しの下,社会保障(②)及び子育て(⑥)に関して各1回言及されています。

 平成161012日の第161回国会における所信表明演説では,見出しに「暮らしの安心と安全」はありましたが,演説本体で「安心」の語が発せられることはありませんでした。

 平成17年(2005年)1月21日の第162回国会における施政方針演説では5回と回復しました。「私は就任以来,「民間にできることは民間に」「地方にできることは地方に」との改革を進める一方,国民の安全と安心を確保することこそ国家の重要な役割と考え,その実現に向け努力してまいりました。」と改めて言明されるとともに(①),治安・防災関係(⑤)で3回(前年の新潟県中越地震等との関係では⑨でしょうか。),「国民の「安心」の確保」の見出しの下に子育て(⑥)の関係で1回言及されています。

 参議院において郵政改革法案が否決されたため平成17年8月8日に解散された衆議院の議員総選挙たるいわゆる「郵政選挙」における政権側の大勝を承けた同年9月26日の第163回国会における所信表明演説は,正に小泉節の真骨頂たるべきものでしたが,そこでは「安心」は2回しか登場していません。「郵政事業は,26万人の常勤の国家公務員を擁しています。国民の安全と安心をつかさどる全国の警察官が25万人,陸・海・空すべての自衛官は24万人,そして霞が関と全世界百数十か国の在外公館に勤務している外務省職員に至っては6千人にも及びません。今後も公務員が郵政事業を運営する必要があるのでしょうか。」という部分における「安心」は,安全を担当する夜警国家部門に係る定型的文飾にすぎず,要は,日本郵政公社の連中得々として安心(あんしん)してるんじゃねえよ,ということでしょうか。「国民の安全と安心」との見出しの下の「先日の台風などの災害〔略〕により被害に遭われた方々に対し,心からお見舞いを申し上げます。被災者が一日も早く安心した生活を送れるよう,国内の被災地の復旧と復興に万全を期すとともに,建築物の耐震化を促進するなど災害に強い国づくりを進めてまいります。」の部分は,防災関係(⑤)ですが,時事トピックでもあるのでしょう(⑨)。

 郵政民営化法が成立し,念願を果たした後の平成18年(2006年)1月20日の第164回国会における施政方針演説においては,小泉内閣総理大臣は「安心」に4回言及しています。「主要銀行の不良債権残高はこの3年半で20兆円減少し,金融システムの安定化が実現した今日,「貯蓄から投資へ」の流れを進め,国民が多様な金融商品やサービスを安心して利用できるよう,法制度を整備します。」の部分は郵政民営化以外の「経済の活性化」における政権の成果を誇るものでしょう(⑧)。残りの3回のうち,2回は「暮らしの安心の確保」の見出しの下に放課後児童クラブの整備に関して(⑥の子育て)及び「食の安全と安心」に関して(⑦の消費者。ただし,200512月の米国産牛肉の輸入再開を承けての言及という意味では⑨),1回は犯罪被害者及びその遺族に関して(⑤の治安)言及されています。

 小泉内閣総理大臣にとっては,「安心」はそれ自体としての意義を特に大きく強調すべきものではないもののようにとらえられていたように思われます。人気の高かった小泉内閣総理大臣が退任した後,小泉政権時代は「格差拡大」の時代であったと非難されるようになります。

 

11 安倍晋三内閣総理大臣(第1次内閣)

 その第1次内閣時代,安倍晋三内閣総理大臣は,3回の施政方針演説ないしは施政方針演説を行っています。

 平成18年(2006年)9月29日の第165回国会における所信表明演説では,安倍内閣総理大臣の「美しい国」の理念が披露されています。

 

私が目指すこの国のかたちは,活力とチャンスと優しさに満ちあふれ,自律の精神を大事にする,世界に開かれた,「美しい国,日本」であります。この「美しい国」の姿を,私は次のように考えます。 

 1つ目は,文化,伝統,自然,歴史を大切にする国であります。

 2つ目は,自由な社会を基本とし,規律を知る,凛とした国であります。 

 3つ目は,未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国であります。

 4つ目は,世界に信頼され,尊敬され,愛される,リーダーシップのある国であります。 

 

 「優しさに満ちあふれ」といわれれば,村山内閣総理大臣の「人にやさしい政治」の理念が想起されます。「心の豊かな美しい国家」は,既に森内閣総理大臣が提唱していたところです。

 「美しい国」の理念に係る文言には「安心」は含まれていませんでしたが,当該所信表明演説において,「安心」は2回登場します。「健全で安心できる社会の実現」との見出しの下,社会保障に関して(②)2回登場したものです。「本格的な人口減少社会の到来に備え,老後や暮らしに心配なく,国民一人ひとりが豊かな生活を送ることができる,安心の社会を構築しなければなりません。」と宣言されるとともに,公的年金制度に対して「若い世代も安心できる」ようにすべきことが述べられています。

 平成19年(2007年)1月26日の第166回国会における施政方針演説では,「安心」は4回登場しています。社会保障に関して(②)1回,「「健全で安心できる社会」の実現」の見出しの下に医療(②)及び子育て(⑥)に関して各1回,並びに治安・防災(⑤)に関して1回です。

 夏の参議院議員選挙での大敗を承けた平成19年9月10日の第168回国会における所信表明演説では,出現回数は5回です。最初の「自由民主党及び公明党の連立政権の下,「政策実行内閣」として一丸となり,地に足のついた政策を着実に進めてまいります。将来にわたり国民の皆様が安心して暮らせるよう,堂々と政策論を展開し,野党の皆様とも建設的な議論を深め,一つ一つ丁寧に答えを出していくことに最善を尽くします。」の部分は,参議院議員選挙敗北の総括結果の一環でしょうか(①)。「安心して暮らせる社会を実現する」との見出しの下に表明された「安心して暮らせる社会は,国づくりの土台です。国民の皆様が日々の暮らしの中で感じる不安に常に心を配り,迅速に対応します。」との政治理念(①)は,御用聞き的低姿勢ともいうべきでしょうか。その他子育て(⑥)に関し1回及び公的年金に関し(②)1回「安心」が言及されています。「安全・安心な食を生み出す日本の農林水産業が活力を持ち続けることは,我が国の将来にとって,極めて大切なことです。」の部分における「安心」は,消費者対応に係るものというよりは,農山漁村施策の根拠に係る枕詞的修飾語でしょう。

 

12 福田康夫内閣総理大臣と「国民の安全・安心を重視する政治への転換」

 第1次安倍内閣が1年で倒れた後は,福田康夫内閣が発足しました。福田内閣総理大臣にとって「安心」概念は,大きな意味を持っていたようです。国会演説におけるその出現頻度が,急上昇しています。

 平成19年(2007年)10月1日の第168回国会における最初の所信表明演説においては,そもそも「国民の安全・安心を重視する政治への転換」という見出しが登場していますが(これは,反対解釈すると,第1次安倍内閣以前は「国民の安全・安心」が重視されていなかったということでしょう。),「安心」が,何と12回も出現しています。「成熟した先進国となった我が国においては,生産第一という思考から,国民の安全・安心が重視されなければならないという時代になったと認識すべきです。」という見解に基づくものでしょう(①)。「私は,「自立と共生」を基本に,政策を実行してまいりたいと思います。老いも若きも,大企業も中小企業も,そして都市も地方も,自助努力を基本としながらも,お互いに尊重し合い,支え,助け合うことが必要であるとの考えの下,温もりのある政治を行ってまいります。その先に,若者が明日に希望を持ち,お年寄りが安心できる,「希望と安心」の国があるものと私は信じます。」ということですが(①及び③),これを,「老人が希望で若者を釣って安心する国」などと言い換えてみるのは誤読でしょう。残りの9回の内訳は,社会保障(②)に関して1回,防災(⑤)に関して1回,子育て(⑥)に関して1回,消費者(⑦)に関して4回(消費者保護に関して1回,耐震偽装問題に関して1回及び食卓・食品に関して2回)及び農山漁村施策に関して2回(「安全・安心な食」及び「高齢者や小規模な農家も安心」)となっています。

 平成20年(2008年)1月18日の第169回国会における施政方針演説においては,「安心」の登場は8回です。まずは,福田内閣の五つの基本方針のうちの一つとして登場します(①及び②)。

 

第1に,生活者・消費者が主役となる社会を実現する「国民本位の行財政への転換」

第2に,国民が安心して生活できる「社会保障制度の確立と安全の確保」

第3に,国民が豊かさを実感できる「活力ある経済社会の構築」

第4に,地球規模の課題の解決に積極的に取り組む「平和協力国家日本の実現」

第5に,地球温暖化対策と経済成長を同時に実現する「低炭素社会への転換」

以上5つの基本方針に基づき,私は,国政に取り組んでまいります。

 

 その他7回の内訳は,国の予算における重要政策課題の一つとしての「国民の安全・安心」として1回,社会保障・医療(②)に関して4回,「安全・安心の確保」との見出しの下治安(⑤)に関して1回,更に小規模・高齢農家に関して1回です。

 

13 麻生太郎内閣総理大臣と「安心と活力ある社会」

 平成20年(2008年)9月24日には麻生太郎内閣が発足します。同月29日の第170回国会における所信表明演説において麻生内閣総理大臣は「安心」の語を3回用いています。まずは,同年のいわゆるリーマン・ショック不況に対する経済対策に関して(⑧)2回です(「政府・与党には「安心実現のための緊急総合対策」があります。その名のとおり,物価高,景気後退の直撃を受けた人々や農林水産業・中小零細企業,雇用や医療に不安を感じる人々に,安心をもたらすとともに,改革を通じて経済成長を実現するものです。」)。更には「暮らしの安心」との見出しの下,「暮らしの安心」についても論じられています。「不満とは,行動のバネになる。不安とは,人をしてうつむかせ,立ちすくませる。実に忌むべきは,不安であります。」とは麻生内閣総理大臣の人間哲学でしょうが,続く「国民の暮らしから不安を取り除き,強く,明るい日本を,再び我が物としなくてはなりません。」とはその政治哲学でしょう(①)。暮らしの中における国民の不安の有無を尺度とした政治ということのようです。

 平成21年(2009年)1月28日の第171回国会における施政方針演説において,麻生内閣総理大臣は「安心」の語を10回用いるに至ります。平成19年(2007年)10月の福田内閣総理大臣の12回に次ぐものです。演説の初めの部分で「日本自身もまた,時代の変化を乗り越えなければなりません。目指すべきは,「安心と活力ある社会」です。 」という国の目的が提示されています(①)。当該「安心と活力」とのそれぞれの内容については,「世界に類を見ない高齢化を社会全体で支え合う,安心できる社会。世界的な課題を創意工夫と技術で克服する,活力ある社会です。」と説明されています(①及び③)。「創意工夫と技術」に係る能力のある人が社会の活力維持を担当して,「世界に類を見ない高齢化」の結果たる老人人口の「安心」を確保するということのようです。当該「安心と活力ある社会」との関係で「安心」は4回登場しています。残り6回中5回は社会保障(②)に関するもの,1回は「食料の安全・安心」にからめた農政関係での言及です。

 

14 鳩山及び菅両内閣総理大臣

 平成21年(2009年)9月には,今はその名すら失われた民主党の政権ができました。

 

(1)鳩山由紀夫

 平成21年(2009年)1026日の第173回国会における鳩山由紀夫の内閣総理大臣所信表明演説では「安心」が5回登場しました。いずれも社会保障(②)に関するものです。すなわち,「国民皆年金や国民皆保険の導入から約五十年が経った今,生活の安心,そして将来への安心が再び大きく揺らいでいます。これを早急に正さなければなりません。」,「公平・透明で,かつ,将来にわたって安心できる新たな年金制度の創設に向けて,着実に取り組んでまいります。」,「年金,医療,介護など社会保障制度への不信感からくる,将来への漠然とした不安を拭い去ると同時に,子ども手当の創設,ガソリン税の暫定税率の廃止,さらには高速道路の原則無料化など,家計を直接応援することによって,国民が安心して暮らせる「人間のための経済」への転換を図っていきます。」,及び「暮らしの安心を支える医療や介護〔略〕などの分野で,しっかりとした産業を育て,新しい雇用と需要を生み出してまいります。」と唱えるものです。国が「家計を直接応援する」といってもその財源はどうするんだとか,「医療や介護」の分野で「新しい雇用」と言うけれども随分疲弊している現場もあるやに聞くぞ,などと言うことは野暮だったのでしょう。

 平成22年(2010年)1月29日の第174回国会における施政方針演説では,「安心」は「誰もが安心して医療を受けられるよう」にする(②)ということで1度だけ出て来ます。しかし当該演説については,「安心」云々以前に,冒頭の,「いのちを,守りたい。/いのちを守りたいと,願うのです。/生まれくるいのち,そして,育ちゆくいのちを守りたい。」云々の絶唱に度肝を抜かれたものでした。ルソー的には“quand le prince lui (au citoyen) a dit: Il est expédient à l’État que tu meures, il doit mourir”のはずであり(Du contrat social, Chapitre V du Livre II),所詮国家にできることできたことは伝統的にはその程度であったものと思っていたので,余りにも大胆かつ臆面のないものと感じたことでした。

 

(2)菅直人

 平成22年(2010年)6月11日の第174回国会における菅直人の内閣総理大臣所信表明演説では「安心」の登場は5回。医療・介護等の社会保障(②)に関して4回,子育てに関して1回。

 同人による同年10月1日の第176回国会における所信表明演説では「安心」の登場は3回。「ものづくりでも,サービス産業でも,業種を問わず,新しい需要を引き出し,豊かで安心な暮らしを実現するイノベーションを起こすことが重要です。」とは,日本経済の将来について語ったというよりは,「豊かで安心な暮らしを実現」することが日本の国家目的だということでしょう(①)。社会保障(②)に関する「一般論として,多少の負担をしても安心できる社会を作っていくことを重視するのか,それとも,負担はできる限り少なくして,個人の自己責任に多くを任せるのか,大きく二つの道があります。私は,多少の負担をお願いしても安心できる社会を実現することが望ましいと考えています。」との価値判断については議論があり得るでしょう。ただし,「負担」といっても,それが結局自分に全て戻って来るのならばそもそもその多少がそれほど問題にされることはないでしょう(朝三暮四ということはありますが。)。

 平成23年(2011年)1月24日の第177回国会における施政方針演説における「安心」の登場は5回。社会保障(②)に関して4回及び「この国会では,来年度予算と関連法案を成立させ,早期のデフレ脱却により,国民の皆様に安心と活気を届けなければなりません。」の部分で1回でした。「安心と活気」といえば麻生内閣総理大臣の「安心と活力ある社会」が想起されるのですが,民主党による「政権交代」にかかわらず,結局同じようなところに落ち着くものであったということでしょうか。

 

15 野田佳彦内閣総理大臣と「明日の安心」及びエネルギー構成の「安心」

 民主党政権最後の野田佳彦内閣総理大臣による「安心」言及は尻上がりに増え,最後は「明日の安心」を提唱するに至ります。「明日の安心」は,野田内閣総理大臣の早稲田大学の先輩である小渕内閣総理大臣の最初の所信表明演説で用いられていた表現です。また,原子力ないしは放射線に対する「安心」が問題とされます。

 平成23年(2011年)9月13日の第178回国会における所信表明演説では「安心」は3回登場しました。消費者(⑦)に係る「食品の安全・安心」,農林漁業施策を論じるに当たっての枕詞としての食の「安全・安心」及びエネルギー構成に関するもの(「エネルギー安全保障の観点や,費用分析などを踏まえ,国民が安心できる中長期的なエネルギー構成の在り方を,幅広く国民各層の御意見を伺いながら,冷静に検討してまいります。」)です。

 平成231028日の第179回国会における所信表明演説では「安心」は4回。農林漁業施策に関する「農林漁業者」の「安心」以外は同年3月11日の東日本大震災及びそれに伴い発生した福島第1原子力発電所の事故に関連(⑨)するもので,「被災者のこれからの暮らしの安心」,放射線量に係る「周辺住民の方々」の「安心」及び「原子力への依存度を最大限減らし,国民が安心できるエネルギー構成を実現するためのエネルギー戦略の見直し」について言及されています。原子力への依存度を減らすと「国民が安心」するというのですから,素直に考えると,国民の完全な「安心」のためには,エネルギー構成において原子力への依存度を零にしなければならないことになります。

 平成24年(2012年)1月24日の第180回国会における施政方針演説では6回。東日本大震災(⑨)の被災者に係る「安心して暮らせる生活環境の再建」で1回,原子力発電問題で2回(エネルギー政策における「国民の安心・安全」(これは「安心」が「安全」に先行しています。)及び「国民が安心できる中長期的なエネルギー構成」),社会保障(②)について2回及び子育て(⑥)について1回でした。

 民主党政権最後のものとなった平成241029日の第181回国会における所信表明演説では,野田内閣総理大臣はdesperatelyに「安心」を9回繰り返すことになりました。「明日(あした)の安心」及び「明日(あす)への責任」をもって政権回生のキャッチ・フレーズとする試みがされたところです。

 

   「明日の安心」を生み出したい。私は,雇用を守り,格差を無くし,分厚い中間層に支えられた公正な社会を取り戻したいのです。原発に依存しない,安心できるエネルギー・環境政策を確立したいのです。

   「明日への責任」を果たしたい。私は,子や孫たち,そして,まだ見ぬ将来世代のために,今を生きる世代としての責任を果たしたいのです。

   「決断する政治」は,今を生きる私たちに「明日の安心」をもたらし,未来を生きる者たちに向けた「明日への責任」を果たすために存在しなければなりません。

 

 「明日の安心」は,演説の最終部において更に3回連呼されています。

 残り3回の「安心」は各論的なものとなりますが,経済問題(⑧)中特に雇用について2回(「日本経済の再生に道筋を付け,雇用と暮らしに安心感をもたらすことは,野田内閣が取り組むべき現下の最大の課題です。」及び「経済全体の再生やミスマッチの解消を通じて,雇用への安心感を育みます。」)及び社会保障(②)について1回(「年金や高齢者医療など,そのあるべき姿を見定め,社会保障の将来に揺るぎない安心感を示していこうではありませんか。」)言及されています。

 「安心感」の大売り出しです。

 

   For courage – not complacency – is our need today – leadership – not salesmanship.

  (J.F.K., op. cit.


16 安倍晋三内閣総理大臣(第2次内閣以降)

 第2次内閣以降の安倍晋三内閣総理大臣の施政方針演説ないしは所信表明演説においては,「安心」が特に強調されるということはなくなっています。

 政権復帰後平成25年(2013年)1月28日の第183回国会における所信表明演説では「安心」は2回登場しています。社会保障(②)に関し1回及び補正予算の3本の柱(「復興・防災対策」「成長による富の創出」「暮らしの安心・地域活性化」)のうちの一つとして1回言及されています。

 平成25年2月28日の第183回国会における施政方針演説では3回。社会保障(②)に関して1回言及されたほか,「世界一安全・安心な国」の見出しの下に,インフラストラクチュア改修(笹子トンネル事故関連⑨),防災・治安(⑤)及び悪徳商法に対し「消費者の安全・安心」を守ること(⑦)に取り組む「世界一安心な国」が目指される旨言明されています。

 夏の参議院議員選挙勝利を承けた平成251015日の第185回国会における所信表明演説では2回。高齢者(③)及び防災(⑤)に関して各1回です。

 平成26年(2014年)1月24日の第186回国会における施政方針演説では4回。年金(②),農業経営者,悪質商法等に対する消費者保護(⑦)及び自衛隊の防災活動(⑤)に関して各1回です。

 平成26年9月29日の第187回国会における所信表明演説では2回。3年半前の東日本大震災の被災者の暮らし及び被災地の子供のそれぞれに関するものでした。

 衆議院議員総選挙勝利を承けた第3次内閣発足後最初の平成27年(2015年)2月12日の第189回国会における施政方針演説では1回。「安心なまちづくり」の見出しの下,治安(⑤)に関して言及されています。

 平成28年(2016年)1月22日の第190回国会における施政方針演説では3回。TPPTrans-Pacific Partnership)協定がらみで(⑨)農業生産者に関して1回,「安全で安心な暮らしを守る」としてサイバー犯罪対策,消費者に対する悪徳商法対策等に関して(⑤及び⑦)1回及び社会保障(②)に関して1回です。

 夏の参議院議員選挙を経た平成28年9月26日の第192回国会では2回。その夏のリオデジャネイロ・オリンピックにあやかった(⑨)シリア難民のユスラ・マルディニ選手(難民選手団の女子バタフライ選手。ドイツ在住)の紹介に関して1回及び割賦販売法(昭和36年法律第159号)の改正に関する「クレジットカードのIC対応を義務化し, 外国人観光客の皆さんが安心して決済できる環境を整えます。」で更に1回でした。(なお,同国会において成立した平成28年法律第99号による割賦販売法の改正は今年2018年6月1日からです。決済端末のIC対応は改正後割賦販売法35条の1715に基づくものとなります。同条は「クレジットカード等購入あつせん関係販売業者又はクレジットカード等購入あつせん関係役務提供事業者は,経済産業省令で定める基準に従い,利用者によるクレジットカード番号等の不正な利用を防止するために必要な措置を講じなければならない。」と規定しており,当該経済産業省令である平成29年内閣府・経済産業省令第2号による改正後の割賦販売法施行規則(昭和36年通商産業省令第95号)133条の14第1号は「クレジットカード番号等の通知を受けたとき,当該通知がクレジットカード等購入あつせん業者から当該クレジットカード番号等の交付又は付与を受けた利用者によるものであるかの適切な確認その他の不正利用を防止するために必要かつ適切な措置を講ずること。」を基準として定めています。決済端末の「IC対応を義務化」したということは,法令の文言自体からは必ずしも明らかではありません。経済産業省も,「改正割賦販売法の施行後,決済端末のIC対応は加盟店の義務となる」としつつも,「加盟店に対する直接の改善命令や罰則は規定されていない」ことを認めています(平成29年内閣府・経済産業省令第2号案に係るパブリック・コメントに対する同省の考え方資料(20171122日))。同省の当該解釈に基づき,直接的には,クレジットカード番号等取扱契約締結事業者をして加盟店を指導させしめようとするもののようです(改正後割賦販売法施行規則133条の9参照)。)

 平成29年(2017年)1月20日の第193回国会における施政方針演説では,「安心」の発語はありませんでした。ただし,大見出しに「安全・安心の国創り」,小見出しに「生活の安心」というものがありました。

 野党の希望が潰えた衆議院議員総選挙を経て第4次内閣の発足後最初の平成291117日の第195回国会における所信表明演説では3回。子育て(⑥),社会保障(②)及び農業従事者に関して各1回「安心」に言及がされています。

 そうして冒頭の第196回国会における施政方針演説に至るわけです。

 

17 安心(あんじん)について

 ところで,「安心」は,元々は仏教用語の安心(あんじん)です。『岩波国語辞典第四版』によれば「仏に帰依して心に疑いをもたない意」ということになります。

 であれば,「お年寄りも若者も安心(あんじん)できる「全世代型」の社会保障制度」とは,老いも若きもお寺に対して十分お布施をすべきことを旨として給付を行う社会保障制度,ということになるのでしょうか。「子育て安心(あんじん)プラン」とは,幼いうちから御仏の教えに親しみ安心(あんじん)を得るようにしようという,幼児に対する仏道英才教育プランということでしょうか(頓智小僧一休さんのような子供が増えるのでしょうか。)。「お年寄りや障害のある方が安心(あんじん)して旅行できるよう」という場合の旅行とはお遍路のことで,「あらゆる交通手段のバリアフリー化」は四国から進められるのでしょうか。「危機管理に万全を期すとともに,サイバーセキュリティ対策,テロなど組織犯罪への対策など,世界一安全・安心(あんじん)な国創りを推し進めます。」といった場合,危機に対しては管理するのみならず危機を前にして安心(あんじん)を保つよう日頃から仏道修行を怠らず,仏の正しい教えの情報に係るサイバーセキュリティ特に注意し,テロリストらに対しても仏教による充実した教誨活動(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律(平成17年法律第50号)68条参照)を行って安心(あんじん)世界一の仏国を創ろうということになるのでしょうか。

 

    十戒の歌よみ侍りけるに 不殺生戒   寂然法師

  わたつ海の深きに沈むいさりせで保つかひある法を求めよ

    不偸盗戒

  浮草のひと葉なりとも磯隠れ思ひなかけそ沖つ白波

 

 澄むと濁るとでは大違いです。

 とはいえ,仏教については,聖徳太子は「篤く三宝を敬へ。三宝とは仏法僧(なり)。」とその憲法の第2条に記され,北条泰時らも「寺塔を修造し,仏事等を勤行す()き事」を御成敗式目の第2条に掲げています。更に『続日本紀』巻十七の天平勝宝元年(749年)夏四月甲午朔の条には,「〔聖武〕天皇東大寺ニ幸シ,廬舎那仏ノ像ノ前殿ニ御シテ,北面シテ像ニ対ス。〔中略〕勅シテ左大臣橘ノ宿祢諸兄ヲ遣シテ,仏ニ白サク。三宝ノ(ヤツコ)(ツカヘ)(マツレ)天皇(スメ)ラガ命廬舎那仏像ノ大前ニ(マヲ)シ賜ヘト(マヲサ)ク。〔中略〕陸奥国守従五位上百済(クダラノ)(コニキシ)敬福イ部内(クニノウチ)少田(ヲダ)郡ニ黄金(イデ)(タリト)(マヲシ)(タテマツレリ)。〔中略〕廬舎那仏ノ(メグミ)賜ヒ(サキ)ハフ賜物ニ(アリ)(オモ)(ウケ)賜リ(カシコマ)戴持(イタダキモチ)百官ノ(ヒト)(ビトヲ)(ヒキヰ)礼拝(ヲロガミ)仕奉(ツカヘマツル)事ヲ(カケマクモ)(カシコキ)三宝ノ大前ニ(カシコ)(カシコ)ムモ(マヲシ)賜ハクト(マヲス)」云々とあったところです(下線は筆者)。

 

    比叡山中堂建立の時          伝教大師

  阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわが立つ杣に冥加あらせたまへ
 DSCF0818

 滋賀県大津市から見る比叡山

我が国においては,20世紀の半ばまでは,「〔前略〕仏教各宗派は其の我が国に於ける歴史的伝統に基づき,他の一般の宗教とは異なり,従来常に国家から特別の保護を受け又国家の特別の監督に服して来た。其の保護の最も著しいのは各〔略〕宗派の管長は勅任官の待遇を与へらるること(明治17・8・11太政官達68号〔「神仏各宗派一般」宛てに「管長身分ノ儀ハ総テ勅任官取扱ノ例ニ依ル」と達〕)で,それは固より待遇上の特典なるに止まり,管長が国家の公の職員たるのでないことは勿論であるが,此の如き特別の待遇を賜はることのみに依つても,各〔略〕宗派が国家の特別の保護を受くる宗教であることが知られ得る。其の外寺院には国有財産の無償貸付が行はれて居り(国有財産法〔大正10年法律第43号〕24条),又寺院の資産状態を安全ならしむる為めに,其の債務の負担に付き特別の制限を定め(明治10太政官布告43号),其の境内地の使用しついても法律上の制限が有る(明治36内令12)。/要するに,神道及び仏教は他の一般の宗教とは異なり国家の公認教として行政上特別の保護及び統制を受けて居たものである。」ということであったところです(美濃部達吉『日本行政法下巻』(有斐閣・1940年)564565頁)。

大日本帝国憲法28条は「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と規定していましたが,仏教を信ずることなく“Non veni pacem mittere sed gladium."と公然宣言する者については,「やさしい国」である我が国の「安寧秩序ヲ妨」げるものとせざるを得なかったものでしょう。
 なお,現在,日本国憲法
20条1項後段は「いかなる宗教団体も,国から特権を受け,又は政治上の権力を行使してはならない。」と,同条3項は「国及びその機関は,宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定しています。

                    

    不酤酒戒               寂然法師

  花のもと露の情はほどもあらじ酔ひなすすめそ春の山風

DSCF0838
 寂然法師隠棲の地・
大原(京都市左京区)の春:菜の花と桜

DSCF0833
 
大原の春:観光客を招く桜

DSCF0831
 
大原の春:桜と椿


  Venit enim ... neque manducans neque bibens
    et dicunt daemonium habet.
    Venit Filius hominis manducans et bibens
    et dicunt
    ecce homo vorax et potator vini
    ... peccatorum amicus.

IMG_0029つるとんたん

DSCF0886
 Manducemus atque bibamus!

 Ego homo vorax et potator vini sum.

 Causidicus amicus peccantium est.



弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002 東京都渋谷区渋谷三丁目5-16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp                  

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

Das frägt und frägt und wird nicht müde: wie erhält sich der Mensch, am besten, am längsten, am angenehmsten? Damit – sind sie die Herrn von Heute. Vom höheren Menschen

 

1 内閣総理大臣の国会演説と「安心」

 

(1)平成30年(2018年)1月22日の内閣総理大臣施政方針演説と「安心」

 今上天皇の御宇29年を経たる平成30年(2018年)1月22日,安倍晋三内閣総理大臣は第196回国会の両議院において施政方針演説を行いました。そこにおいては,「安心」という言葉が4回出て来ました。

 

   来年〔2019年〕10月に引き上げる予定の消費税財源を活用し,お年寄りも若者も安心できる「全世代型」の社会保障制度へと,大きく転換してまいります。・・・

 

   女性活躍の旗を高く掲げ,引き続き,待機児童の解消に全力で取り組みます。補正予算の活用に加え,経済界の拠出金負担を引き上げ,「子育て安心プラン」を前倒しします。待機児童対策の主体である市区町村への支援を都道府県が中心となって強化します。2020年度までに32万人分の受け皿整備を目指し,来年度10万人分以上を整備いたします。

 

そして,「地方創生」と題された部分のうちの,更に「安全と安心の確保」との見出しが付された部分。

 

  2年後の東京オリンピック・パラリンピックを目指し,受動喫煙防止対策を徹底します。お年寄りや障害のある方が安心して旅行できるよう,あらゆる交通手段のバリアフリー化を進めます。成人年齢を18歳に引き下げる中で,消費者契約法を改正し,若者などを狙った悪質商法の被害を防ぎます。

  危機管理に万全を期すとともに,サイバーセキュリティ対策,テロなど組織犯罪への対策など,世界一安全・安心な国創りを推し進めます。

  災害時に,国が主要な道路の復旧を代行する制度を創設し,より早く人命救助や生活必需品の輸送を行えるようにします。防災インフラの整備が迅速に進められるよう,所有者が不明な土地を自治体が利用するための手続を整備します。

  昨年〔2017年〕も,全国各地で自然災害が相次ぎました。防災,減災に取り組み,国土強靭化を進めるとともに,熊本地震や九州北部豪雨をはじめとする災害からの復旧・復興を引き続き,力強く支援してまいります。

 

(2)安心(あんしん)について

 安全についてならばなお客観的な指標が探し出せそうですが(とはいえ,100パーセントの安全は不可能でしょう。),安心(あんしん)(『岩波国語辞典 第四版』(1986年)によれば「気にかかる事がなく,またはなくなって,心が安らかなこと。」ないしは「物事が安全・完全で,人に不安を感じさせないこと。」)ということになると主観的な感覚ないしは感情の問題ですから,「やっぱり気にかかってしまう」性分の人とか「どうしても不安だ」と感じてしまう人が一定数以上いる限りにおいては「安心(あんしん)目標」は常に未達に終わらざるを得ないことになるよう筆者などには思われます

「法律行為の目的が,事実上〔略〕,実現することのできないものであれば,法律は,その実現に助力することができない。従って,その法律行為は無効である。このことを明言する立法例もあるが(ド民306条。ス債20条に契約について同旨を定める),当然のことである。」と説かれ(我妻榮『新訂民法総則』(岩波書店・1972年)260頁),平成29年法律第44号による改正後の民法412条の2第1項には「債務の履行が契約その他の債務の発生原因及び取引上の社会通念に照らして不能であるときは,債権者は,その債務の履行を請求することはできない。」とあり,更にちなみにドイツ民法306条3項は「契約は,その維持(das Festhalten an ihm)が前項の規定による変更〔契約を構成せず又は無効である条項に係る法令の規定による契約内容の補充〕を考慮に入れてもなお一方の当事者に期待すべからざる困難(eine unzumutbare Härte)をもたらすべきときは,無効である。」と規定しているので,十二分の政策の実行にもかかわらずなお「心配性のおれを安心(あんしん)させろ」と言い募っていつまでも安心(あんしん)しない人々についてできないものはできないと無視してしまってよいのかといえば,苦戦の選挙活動中には選挙民の方々の前につい土下座までしてしまう政治家の方々にとっては,難しいことでしょう。

 

2 平成の初めにおける「安心」の空白

 現在においては,責任ある政治家が「国民の皆さまに安心(あんしん)を与えます」と頻繁かつ継続的公約することは当然のことですが,実はこれは,平成の時代入ってからの現象であるようです。

 

(1)竹下登内閣総理大臣

 平成になった時点で政権の座にあったのは竹下登内閣総理大臣でしたが,平成元年(1989年)2月10日の第114回国会における同内閣総理大臣の施政方針演説では「安心」という語は全く使われていません(政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所のデータベース「世界と日本」にあるデータに指定語検索をかけた結果。指定語検索機能は便利で面白いですね。以下羽田孜内閣総理大臣までについては同データベースを使用。)。

竹下内閣総理大臣は,昭和天皇の在位中には,①昭和62年(1987年)1127日に第111回国会で所信表明演説,②昭和63年(1988年)1月25日に第112回国会で施政方針演説及び③同年7月29日に第113回国会で所信表明演説を行っていますが,これら3回の国会演説中「安全」の語が発語されたのは2回目の昭和63年1月25日演説における2箇所だけでした。「広く国民に不安を与えるテロ・ゲリラ事件について,国民の皆様の御協力を得てその防圧に努めるなど法秩序の維持,犯罪の防圧,検挙に努めるとともに,事故や災害に強い国土づくりを進め,人を信じ,まじめに働いている者が報われる社会,国民が安心して生活することができるような社会づくりに努めてまいります。」及び「国民一人一人が健やかに生きがいをもって安心して暮らすことができるよう,健康づくり対策を推進するとともに,老人保健事業の充実,在宅保健福祉サービスの拡充や特別養護老人ホームなどの整備等を進めてまいります。また,がん対策,エイズ対策を初め難病の克服に万全の努力を傾注していくほか,精神保健対策,精神障害者の社会復帰の促進等心の健康づくりを進めてまいります。」の部分です。ここでいう「テロ・ゲリラ事件」は,北朝鮮による昭和621129日の大韓航空機爆破事件のことですね。厚生省エイズ調査検討委員会による我が国におけるエイズ初患者確認の発表は昭和60年(1985年)3月22日のことでしたが,同省エイズ対策専門家会議は昭和62年1月17日に初の女性患者を認定,同年末のエイズ患者数は約千人となっていました(『近代日本史総合年表 第四版』(岩波書店・2001年))。

 

(2)宇野宗佑内閣総理大臣及び海部俊樹内閣総理大臣

竹下内閣総理大臣の次の宇野宗佑内閣総理大臣が第114回国会において平成元年(1989年)6月5日に行った所信表明演説においても「安心」は全く登場しませんでした。

海部俊樹内閣総理大臣は,施政方針演説ないしは所信表明演説を5回行っていますが(①平成元年10月2日第116回国会所信表明演説,②平成2年(1990年)3月2日第118回国会施政方針演説,③同年1012日第119回国会所信表明演説,④平成3年(1991年)1月25日第120回国会施政方針演説及び⑤同年8月5日第121回国会所信表明演説),そのうち「安心」の語が唯一登場したのは最初の平成元年10月2日の所信表明演説においてでした。しかも,当該部分は「先般の抜本的な税制改革は,来るべき高齢化社会を展望し,すべての人々が社会共通の費用を公平に分かち合うとともに,税負担が給与所得に偏ることなどによる国民の重税感,不公平感をなくすことを目指したものであります。私は,この改革によってもたらされる安定的な税体系こそが,安心して暮らせる福祉社会をつくる基礎となるものと確信いたしております。消費税は,税負担の公平や我が国の将来展望から見て必要不可欠であり,これを廃止することは全く考えておりません。」というもので,安心(あんしん)を与えることを約束するというよりは,「消費税を払わないと老後が不安になりますよ。だから消費税を払いましょうね。」という趣旨の文脈での使用であったものでした消費税法(昭和63年法律第108号)は,19881224日に成立し,平成元年4月1日から適用されています(同法附則1条1項)。


DSCF1123

今上天皇による初めての任命(平成元年(1989年)63日)に係る内閣総理大臣・宇野宗佑(滋賀県守山市)
DSCF1121
DSCF1124

Non tres, sed quinque digiti.
DSCF1132


3 宮沢喜一内閣総理大臣と「生活大国」構想

宮沢喜一内閣総理大臣は,注目すべき国会演説を行っています。宮沢内閣総理大臣は4回の施政方針演説ないしは所信表明演説を行っていますが(①平成3年(1991年)11月8日第122回国会所信表明演説,②平成4年(1992年)1月24日第123回国会施政方針演説,③同年1030日第125回国会所信表明演説及び④平成5年(1993年)1月22日第126回国会施政方針演説),2回目となる平成4年1月24日の施政方針演説において「生活大国」構想を打ち出し,そこに「安心」が4回登場したのでした(ただし,他の3回の演説においては,平成5年1月22日の施政方針演説において後述のように1回登場する外は「安心」は現れていません。)。

「生活大国」の6本の柱のうちの第3の柱が,「高齢者や障害者が,就業機会の整備などを通じ社会参加が適切に保障され,生きがいを持って安心して暮らせる社会」ということになっていました。しかしながら,「安心」はなお専ら高齢者及び障害者向けのものであったようで,「我が国の人口は今後急速に高齢化に向かい,30年後には国民の四人に一人が高齢者という本格的な高齢化社会となることが予測されます。「少しのことにも,先達はあらまほしき事なり。」と申しますが,高齢者の豊富な人生経験や知識は,我々の社会にとって貴重な資産であります。私は,高齢者の方々がこれを社会で生かしつつ,生き生きと安心してその人生を送ることができるような社会をつくりたいと考えます。このため,雇用・就業環境の整備などにより社会参加を促進するとともに,揺るぎない年金制度を確立し,また,適時に適切な保健,医療,介護が安心して受けられるような社会の実現に向けて真剣に努力してまいります。特に,今後一層困難になると見込まれる看護職員,福祉施設職員,ホームヘルパーなどの確保は重要な課題であり,その勤務条件の改善,養成の強化などに総合的な対策を講じてまいります。」及び「本年は,「国連障害者の10年」の最終年に当たります。障害を持つ人々が家庭や地域で安心して暮らすことができるよう,完全参加と平等の理念に沿ってきめ細かな施策を講じてまいります。」との追加的説明がされています。

宮沢内閣総理大臣が理想としていた国及び社会は,「ゆたかさ」に加わるに「ゆとり」の「生活大国」であって,労働時間が短縮され(第2の柱),「創造性,国際性を重んじる教育が普及し,国民が芸術,スポーツに親しみ,豊かな個性や香り高い文化が花開く社会」(第6の柱)であったようです。実は既にバブル経済は終わり(1991年中に潮目が変わっていたようです。),日本経済はそのピークを過ぎていたのですが,バブル的「ゆたかさ」をなおも以後継続的に,しかも苛烈なanimal spirit無しに「ゆとり」をもって享受できるとの「大国」意識は,今にして思えばやはりバブル()けででもあったものか1992年1月の米国ブッシュ(父)大統領訪日に向けて,日米ビジネス・グローバル・パートナーシップ(略して「ビジグロ」)などという構想を喧伝する向きもありました。)。26年を経た今年(2018年)読み返すと,いろいろ考えさせられます。

「高齢者の豊富な人生経験や知識は,我々の社会にとって貴重な資産であります。私は,高齢者の方々がこれを社会で生かしつつ,生き生きと安心してその人生を送ることができるような社会」云々の部分など,後期高齢者(高齢者の医療の確保に関する法律(昭和57年法律第80号)50条1号参照)の窃盗常習犯(累犯常習窃盗ということになると,法定刑は3年以上の懲役に跳ね上がります(盗犯等の防止及び処分に関する法律(昭和5年法律第9号)3条)。)の弁護人をもしなくてはならない弁護士には,ちょっと悪い冗談のように印象されるかもしれません。豊富な窃盗経験や刑事制度に関する知識という「貴重な資産」を生かしつつ生き生きと,窃盗という形で社会参加し,安心(あんしん)して国選弁護を受けることがいつまでも続いてしまっては困ります。とはいえ安心(あんしん)についていえば,わざわざ刑務所に入らなくとも,生活保護等娑婆(しゃば)の社会保障はなお機能しているところです。かつては日雇労働者のたむろする荒くれたイメージだったドヤ街も,今は身寄りのない生活保護受給の貧困老人たちの徘徊する何とも哀愁漂う街となっています。「香り高い文化が花開く」日本というよりは,よそから訪れた者にはちょっと居心地悪く,かつ鼻がむずむずする感じです。

「生活大国」演説から1年後の平成5年1月22日の施政方針演説において宮沢内閣総理大臣は,さすがにバブル経済の崩壊を承け,「現在,我が国経済は極めて厳しい状況にあります。今,国民は景気の早期回復を心から待ち望んでおり,これは官民が力を合わせて全力で取り組んでいかなければならない緊急の課題であります。他方,国民の意識は,これまでの成長や効率優先主義から,ゆとりや安心,公平,公正を重んずるものへと変化しつつあることも見逃せません。一日も早く景気の回復を図るとともに,国民一人一人が心からゆとりと豊かさを実感できる経済社会の実現に着実に進んでいく必要がございます。」と述べています。ただし,これは国民意識についての秀才の評言であって,内閣総理大臣が安心を約束するというものではありませんね。なお,「ゆとり,安心,公平,公正」の優先は経済成長とは親和的ではないという認識が窺われるようにも思われます。事実においては,その後の日本経済が停滞を続けていることは周知のとおりです。

 

4 細川内閣総理大臣及び羽田内閣総理大臣

 

(1)細川護熙内閣総理大臣

 1955年(昭和30年)以来長く続いていた当時の自由民主党政権を倒して組閣した細川護熙内閣総理大臣は,3回の所信表明演説ないしは施政方針演説を行っています(①平成5年(1993年)8月23日第127回国会所信表明演説,②同年9月21日第128回国会所信表明演説及び③平成6年(1994年)3月4日第129回国会施政方針演説)。

最初の2回の演説には「安心」の語は登場しませんが,最後の平成6年3月4日の施政方針演説においては4箇所「安心」が出て来ます。

第1は「安全で安心な生活は日本が世界に誇るべき財産ともいうべきものであり,これを守っていくことは政府の重要な役割であります。暴力団犯罪の悪質・巧妙化、薬物・けん銃事犯の多発化に加え,犯罪が広域化,国際化するなど最近の治安情勢には極めて厳しいものがある一方,交通死亡事故も高水準で推移しております。私は,法秩序の維持や安全の確保に遺漏なきよう取り組んでまいる所存であります。」の部分。これは新規に何かをするというよりは現状の維持でしょうか。しかし,日本国内で生活する者はそのあるがままに置かれた状態で安心できているのが当然,ということにはなるようです。

第2は「次に,高齢期にも健康で安心できる社会を築くために,財源の確保に配慮しつつ,「高齢者保健福祉推進10か年戦略」,いわゆるゴールドプランを抜本的に見直し,ホームヘルパーなど介護サービスの充実を図ってまいります。また,医療保険制度や老人保健制度については,付添看護に伴う患者負担の解消や保険給付の範囲,内容の見直しなどを行い,医療サービスの質の向上や患者ニーズの多様化に適切に対応できるようにしてまいりたいと思います。」の部分。高齢者の「安心」は,平成4年1月24日の宮沢「生活大国」演説にも出ていました。

第3は「出生率の低下や女性の社会進出など,子供や家庭を取り巻く環境は近年大きく変化してきております。ことしはちょうど国際家族年でもありますが,これを契機として,保育対策の充実や児童環境基金の創設など安心して子供を生み育てる環境づくりに取り組んでまいります。さらに,仕事と家庭が両立できるように雇用保険における育児休業給付制度の創設や介護休業の法制化の検討を含めた介護休業制度の充実を図るとともに,パー卜タイム労働対策なども進めてまいりたいと思います。」の部分。子を生むことは女性しかできませんので,これは「案ずるより生むが(やす)しだよ」と,出産に不安を感ずる若い女性を励ますものだったのでしょうか。しかし,「保育対策の充実や児童環境基金の創設」は出産それ自体に係るものではないですね。子を生んでしまってもその先は気にしなくても大丈夫,ということでしょうか。父たる若い男性の甲斐性云々を専ら気にするのはアナクロニズムなのでしょう。

最後に第4は「農業に携わる人々の不安感を払拭し,安心して営農にいそしむことができるよう政府として万全を期していかなければならないと考えております。昨年〔1993年〕末に設置された緊急農業農村対策本部の陣頭に立って,農業再生のビジョンづくりと国内対策に全力で取り組んでまいる決意であります。」の部分。これは,「昨年〔1993年〕12月,7年以上にわたったウルグアイ・ラウンド交渉がついに妥結した」ことを承けての緊急措置でしょう。「米は関税化の特例措置が認められる一方,米以外の農産物については関税化するという内容の農業合意案を受け入れ」たものの,なお不安だとの声があるので,とにかく新協定を呑んでもらうための状況対処型政治的措置ということでしょう。

 

(2)羽田孜内閣総理大臣

 細川内閣総理大臣が辞任した後を襲った羽田孜内閣総理大臣は,第129回国会において平成6年(1994年)5月10日,結局唯一かつ最後となった所信表明演説を行います。そこでの「安心」の登場は2回です。「私は,今後,開かれた中での政策決定を旨とし,国民の皆様と積極的に意見を交わしながら我が国の進むべき方向を見定めてまいるつもりであります。そうした国民合意のもとで,より豊かで安心のできる社会をつくり,国際社会の中で信頼される国となるために,着実に改革を進めてまいる決意であります。」及び「私は,普通の言葉で政治を語り,国民の皆様とともに,だれもが安心して生活のできる国,そして世界に日本人であることを誇りに思える国づくりを目指してまいりたいと思います。」の部分です。「ゆたかさ」及び「安心」は,政策目標として掲げるのが既にお約束になっていたということでしょうか。

 

5 「人にやさしい政治」,「安心できる政治」の村山富市内閣総理大臣

 羽田内閣が短期間で倒れた後の,自由民主党,日本社会党及び新党さきがけの3党連立政権の首班たる村山富市内閣総理大臣は,「人にやさしい政治」,「安心できる政治」を標榜します。ここに至って,「安心」が政権の表看板になるようになったわけです。「安心」の連呼が始まります。

村山内閣総理大臣は,4回の施政方針演説ないしは所信表明演説を行っています(①平成6年(1994年)7月18日第130回国会所信表明演説,②同年9月30日第131回国会所信表明演説,③平成7年(1995年)1月20日第132回国会施政方針演説及び④同年9月29日第134回国会所信表明演説)。

 

(1)脱思想・脱イデオロギーの時代の「やさしさ」と「安心」

注目すべきは最初の平成6年(1994年)7月18日所信表明演説です(村山内閣総理大臣以後のデータは,内閣総理大臣官邸ホームページのもの。ただし,前記政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所のデータベース「世界と日本」のデータも参照)。当該国会演説においては,「安心」が7回出現します。まずは「安心」を登場させる前の背景説明から。

 

冷戦の終結によって,思想やイデオロギーの対立が世界を支配するといった時代は終わりを告げ,旧来の資本主義対社会主義の図式を離れた平和と安定のための新たな秩序が模索されています。このような世界情勢に対応して,我が国も戦後政治を特色づけた保革対立の時代から,党派を超えて現実に即した政策論争を行う時代へと大きく変わろうとしています。

この内閣は,こうした時代の変化を背景に,既存の枠組みを超えた新たな政治体制として誕生いたしました。今求められているのは,イデオロギー論争ではなく,情勢の変化に対応して,闊達な政策論議が展開され,国民の多様な意見が反映される政治,さらにその政策の実行が確保される政治であります。これまで別の道を歩んできた3党派〔自由民主党,日本社会党及び新党さきがけ〕が,長く続いたいわゆる55年体制に終止符を打ち,さらに,1年間の連立政権の経験を検証する中から,より国民の意思を反映し,より安定した政権を目指して,互いに自己変革を遂げる決意の下に結集したのがこの内閣であります。〔後略〕

 

 日本社会党の党首たる村山内閣総理大臣が自ら「社会主義」離れを宣言し,1991年(平成3年)末に消滅してしまったソ同盟を母国とする「イデオロギー」ではなく,日本の「国民の意思」を反映した政治体制を目指すのだというわけです。日本にインターナショナルな社会主義をもたらすべき日本・社会党から,日本社会に寄り添う日本社会・党になりました,ということでしょう。すなわち,社会党としての日本社会党の終焉は既にここにおいて明らかだった,ということになるわけでしょう。とはいえ,「旧来の資本主義対社会主義の図式を離れ」るということは,資本主義からも離れるのであってその全面受容まではしませんよということで,これは社会党党首としての最後の意地であったものか。

 それでは,「旧来の資本主義対社会主義の図式を離れた」ところの日本の「国民の意思を反映」した政治とはどういうものかといえば,次のとおり。ここに2度「安心」が出て来ます。

 

我々が目指すべき政治は,まず国家あり,産業ありという発想ではなく,額に汗して働く人々や地道に生活している人々が,いかに平和に,安心して,豊かな暮らしを送ることができるかを発想の中心に置く政治,すなわち,「人にやさしい政治」,「安心できる政治」であります。内にあっては,常に一庶民の目の高さで物事を見つめ直し,生活者の気持ちに軸足を置いた政策を心かけ,それをこの国の政治風土として根付かせていくことを第一に考えます。

   世界に向かっては,先の大戦の反省の下に行った平和国家への誓いを忘れることなく,我が国こそが世界平和の先導役を担うとの気概と情熱をもって,人々の人権が守られ,平和で安定した生活を送ることができるような国際社会の建設のために積極的な役割を果たしてまいりたいと思います。我々の進むべき方向は,強い国よりもやさしい国,であると考えます。

 

要は,日本国民が真に求めているものは「やさしさ」及び「安心」なのだ,ということです。なるほど。確かに平成の時代を振り返ってみると,我々は一貫していました。

しかし,脱国家,脱産業であって,飽くまでも額に汗し続ける地道な庶民たる個人をモデルとし,かつ,その目の高さを尺度とする社会ですか。(なお,ここで「個人」といったのは,当該村山演説においては,「家庭」は2箇所,「これまでの人や物の流れを変え,家庭の生活様式や企業活動を根底から変革する可能性のある,情報化の推進が重要であります。」及び「男女が政治にも,仕事にも,家庭にも,地域にも,ともに参加し,生き生きと充実した人生を送れるよう,最善を尽くしてまいります。」の場面にしか出て来ず,また,「家族」の語は全く用いられなかったからです。これに対して,その施政方針演説ないしは所信表明演説において初めて「安心」に言及したとき(昭和58年(1983年)1月24日第98回国会施政方針演説),中曽根康弘内閣総理大臣は,「社会的連帯の中で新しい生きがいと安心を見出させ」るものとし,併せて「政治の光を家庭に当てること」を付言しています。)
 また,村山内閣総理大臣は,世
界に向かって「先導役を担うとの気概と情熱をもって」「積極的な役割を果たしてまい」ると力んではいますが,余り広がりは感じられません。夫子御自身が,当該演説と同じ月の8日からのナポリにおける7箇国〔米英仏独伊加〕首脳会談でぶっ倒れてしまっており,外国及び外国人が苦手であったようです。所詮日本は,「強い国」ではなく,「やさしい国」なのです。

 

  我が国は,世界第2位の経済大国でありながら,生活者の視点からは真の豊かさを実感できない状況にあります。加えて,人口構成上最も活力のある時代から最も困難な時代に急速に移行しつつあります。こうした情勢の中で,お年寄りや社会的に弱い立場にある人々を含め,国民一人一人がゆとりと豊かさを実感し,安心して過ごせる社会を建設することが,私のいう「人にやさしい政治」,「安心できる政治」の最大の眼目であります。同時に,そうした社会を支える我が国経済が力強さを失わないよう,中長期的に,我が国経済フロンティアの開拓に努めていくことも忘れてはなりません。このような経済社会の実現に向けての改革は,21世紀の本格的な高齢社会を迎えてからの対応では間に合いません。今こそ,行財政,税制,経済構造の変革など内なる改革を勇気をもって断行すべき時期であります。

 

 日本が「世界第2位の経済大国」だったことがあるとは,中華人民共和国からの観光客・買い物客が大勢闊歩している最近の日本の子供にはよく分からない既に遠い歴史上の事実かもしれません。

 しかし,「最も困難な時代に急速に移行」しつつあるのならば,何もしなければ「我が国経済が力強さを失わない」どころか当然活力を失い,「豊かさ」もそれと共に消え去っていくはずなのですが,それにもかかわらず,のんびり「ゆとり」を実感できるしぜひ実感しよう,ということはどういうことなのでしょうか。「我が国経済フロンティアの開拓」がされるから大丈夫だということでしょうか。しかし,だれがその「我が国経済フロンティアの開拓」をするのでしょうか。正に「額に汗して働く人々や地道に生活している人々」なのでしょうか。それとも,「中長期的に」ということなので,現在世代ではなく将来世代が何とかしてくれるよ,ということでしょうか。

 「ゆとり」と「勇気をもって断行」してやっと確保される「豊かさ」との二者択一を前にすると,やさしい選択として,つい前者が採られてしまうように思われます。

 

私は,国づくりの神髄は,常に視点の基本を「人」に置き,人々の心がやすらぎ,安心して暮らせる生活環境を作っていくことにあると信じます。そのため,安定した年金制度の確立,介護対策の充実などにより,安心して老いることのできる社会にしていくこと,子育てへの支援の充実により次代を担う子どもたちが健やかに育つ環境を整備していくこと,また,体が弱くなっても,障害を持っていても,できる限り自立した個人として参加していける社会を築くことなど,人々が安心できる暮らしの実現に全力を挙げる決意であります。さらに,人々が落ち着いて暮らしていける個性のある美しい景観や街並を築き,緑豊かな国土と地球を作り上げていくため,環境間題にも十分意を用いてまいります。

 

 安心(あんしん)して落ち着き,やすらいだ生活をしている人と,危機感を持った改革断行者や冒険的フロンティア開拓者とが同一人格内で共存することは難しいように思われるのですが,どうしたものなのでしょうか。「しかしながら,わたくしのいう新しい(ニュー)フロンティアは,お約束promises)の一揃いではありません。一連の挑戦(challenges)なのであります。それは,わたくしが〔略〕国民の皆さんに提供させていただこうと思っているものではなく,国民から要求しようと意図しているものの総体なのであります。〔略〕それが示すものは,より大きな安全(more security)ではなく,より多くの犠牲(more sacrifice)の見込みなのであります。〔略〕/このフロンティアから逃避すること,過ぎた日の安全な凡庸(safe mediocrity)を当てにすること並びに善意(good intentions)及び美しい修辞に慰撫されること(to be lulled)の方が簡単なのではありましょう――そして,その方がよいと思う方々は,支持政党のいかんにかかわらず,私に投票すべきではありません。」などと,格好をつけてジョン・F・ケネディ的修辞(Brian MacArthur, ed. The Penguin Book of Twentieth-Century Speeches, 1999, pp.295-296)を弄ぶ選挙候補者に対しては,そうですかそれでは投票しませんよという我が日本の選挙民による冷厳な対応が待っていることでしょう。


(2)その後の展開

 村山内閣総理大臣2回目の平成6年(1994年)9月30日演説においては「安心」は4回登場しています。総論部分に3回であって,いわく「政権を安定させ,国民から安心感をもって迎えられる政治を実現することは,山積する課題に対処するためにも,我が国への国際社会の高まる期待に応えるためにも急務と言わねばなりません。それには,「人にやさしい政治」,「安心できる政治」を目指すという私の政治理念を現実の政策に具体化し,この内閣の誕生で何が変わったか,何を変えようとしているのかを国民の前に明らかにしていく努力が求められます。〔中略〕この内閣がその真価を問われるのはこれからであります。改革を更に押し進め,世界から信頼され,国民が安心して暮らせる社会の実現へと結実させていけるかどうかは,今後の努力にかかっております。」各論部分に1回であって,いわく「我々は豊かさを手に入れるため懸命に走り続けてきた結果,ややもすれば,利潤追求と物質万能の考えに偏りがちな側面があったことは否定できません。私は,国民一人一人が,その人権を尊重され,家庭や地域に安心と温もりを感ずることのできる社会を作り上げていくことが「人にやさしい政治」の真骨頂ではないかと考えます。このため,迫りくる本格的少子・高齢社会に備え,年金,医療,福祉等の社会保障についてその再構築を図ります。」

しかし,利潤及び物質並びにその結果としての豊かさがあると,かえって「安心」できなくなるのだという発想が窺われるようなのですが,どうしたものなのでしょうか。

 3回目の平成7年(1995年)1月20日演説は,同月17日に発生した阪神・淡路大震災の直後に行われました。「安心」の登場は5回です。

 

平成7年,1995年は,戦後50年の節目の年であります。私は,あらためて,これまでの50年を振り返り,来るべき50年を展望して,世界の平和と繁栄に貢献し,国民に安心とゆとりを約束する国づくりに取り組む決意を新たにいたしております。この年を過去の50年から未来の50年へとつなぐ大きな転機の年としたい,年の初めに当たっての私の願いであります。

 

 豊後人村山富市個人の単なる新年の誓いではなく,日本の国家は国民に「安心」及び「ゆとり」を「約束」するのだという内閣総理大臣の宣言ということになります(「豊かさ」は抜けています。)。「約束」という言葉は重いですね。

 

 思い切った改革によって「自由で活力のある経済社会」,「次の世代に引き継いでいける知的資産」,「安心して暮らせるやさしい社会」を創造していくこと,また,世界に向かっては,「我が国にふさわしい国際貢献による世界平和」の創造に取り組んでいくこと,この四つの目標が私の「人にやさしい政治」の目指すところであります。

 

 「人にやさしい政治」と「安心できる政治」との関係は,前者が後者を包括するもののようです。

 

まず,老後の最も大きな不安要因である介護問題に対処し,安心して老後を迎えることができる社会を築くために,高齢者介護サービスの整備目標を大幅に引き上げるなど施策の基本的枠組みを強化した新ゴールドプランを推進するとともに,新しい公的介護システムの検討を進めてまいります。

 

国民生活の安全は,「安心できる政治」の実現の上で不可欠な要素であります。製造物責任法が本年7月に施行されますが,製品の安全性に関する消費者利益の増進を図る観点から,総合的な消費者被害防止・救済策の確立に努めてまいります。最近,一般市民を対象とした凶悪な発砲事件や薬物をめぐる事件が多発しております。良好な治安は,世界に誇るべき我が国の最も貴重な財産とも言うべきものであります。これを守るために,国民の皆様とともに,今後とも全力を尽くす所存であります。

 

 老人及び消費者並びに治安維持が「安心」の約束の対象として特に言及されています。

 

以上申し述べました,「自由で活力のある経済社会の創造」,「次の世代に引き継いでいける知的資産の創造」,「安心して暮らせるやさしい社会の創造」という政策目標の達成のためには,相互に連関した各種の課題を総合的にとらえ,計画的に解決していかなければなりません。このため,政府として,21世紀に向け,新たな経済社会の創造や国土づくりの指針となる,経済計画や全国総合開発計画を策定し,これらの「創造」のための施策を積極的に展開してまいります。

 

 「経済計画」や「全国総合開発計画」というものは,かつては随分重みのあるものだったわけです。「総合的計画経済体制の確立」があれば,「日本の経済は醇化せられ強化せられ」,「生産拡充を断行」することができ,「経済的にも必勝不敗の強力なる体制が確立」されるものとは我が国の革新官僚が説いたところです(奥村喜和男『尊皇攘夷の血戦』(旺文社・1943年)372373頁)。ソ同盟型社会主義計画経済に倣わんとしたもの()しかして社会主義計画経済建設の指導者であるスターリンは何でもお見通しのはずでした。

 

   スターリンが生活の現実を考慮しようとしなかったこと及び地方における現実の状況について無知であったとの事実は,彼の農業政策指導によって明らかにされ得るものであります。少しでも国の状況に関心のある者は全て,農業の置かれた困難な状況を見て取っていたのでありますが,しかしながら,スターリンは,そのことの認識をすらしなかったのであります。我々はそのことについてスターリンに意見したでありましょうか?もちろん,我々は彼に意見したのであります,しかし彼は我々の意見を支持しなかったのであります。なぜでありましょうか?スターリンはどこにも全く旅行しなかったからであります,都市及びコルホーズ(集団農場)の労働者と会わなかったからであります。彼は,地方における実際の状況を知らなかったのであります。彼は,田舎と農業とについては,映像フィルムによってのみ知っていたのであります。しかしてそれらの映像フィルムは,農業において実存しているところの状況を粉飾し,かつ,美化していたのであります。

   多くの映像フィルムがコルホーズ生活を,食卓が七面鳥及び鵞鳥の重みでたわんでいるもののように描いていたのであります。明らかに,スターリンは,それは実際にそうなのだと考えていたのであります。(1956年2月25日フリシチョフ演説。MacArthur, ed. pp.272-273

 

ところが,村山内閣総理大臣の最後の所信表明演説である平成7年9月29日の演説からは,「ゆとり」,「やさしさ」及び「やさしい」といった言葉が消滅しています。阪神・淡路大震災に加え,同年3月20日には尊師・麻原彰晃率いるオウム真理教団による首都東京の霞が関官庁街を狙った地下鉄サリン事件が発生していますから,さすがに村山内閣総理大臣にも理想を語る余裕がなくなってきたのでしょうか。しかし,「安心」はなお4回登場します。まずは「安全で安心できる社会の構築」との見出しが付された部分において3回です。

 

 震災や無差別テロ事件などにより,国民の安全への危惧が強まっておりますが,安全で安心できる社会を構築することは,国政の基本であり,本内閣が最も重視する課題の一つであります。〔中略〕私は,今回の震災の経験から得た貴重な教訓を風化させることなく,総合的な災害対策の一層の充実・強化に取り組むことが,尊い犠牲を無駄にしない唯一の道であると信じるものであります。

  無差別テロ事件や銃器を用いた凶悪犯罪の頻発は,私たちが目指す安全で安心できる社会への許しがたい挑戦であります。特に,オウム真理教信者らによる一連の事件においては,平穏な市民社会においてサリン等の大量殺戮兵器として使用しうる物質が使用されたことが内外に大きな衝撃を与えたことを踏まえ,関係国との国際協力を推進するとともに,再発防止のため政府が一体となった対策を講じてまいりました。〔後略〕

  また,国民が健康で安心して暮らすことのできる公正な社会を構築することを忘れてはなりません。高齢化や核家族化の進展により深刻化している高齢者介護や少子化の問題への対応を図るとともに,ハンディキャップを背負った人々が普通の生活ができるよう,今後とも,保健・福祉施策の一層の充実にも力を注いでいくほか,人権が守られ差別のない社会の建設を推進してまいります。

 

4回目は結論部で出て来ます。

 

戦後50年を経て,今私たちは,幾多の困難な課題を抱えるとはいえ,過去の苦難の 時代を振り返るに,それらの時代とは比較にならない,豊かさと安寧を享受いたしております。このような時代にあればこそ,私たちに求められていることは,先人が築き上げた貴重な資産の浪費ではなく,現在の平和と繁栄を土台として、次なる50年のこの国と世界のありように思いを巡らせ,21世紀に生きる我々の子供や孫が安心して豊かに暮らせる世界,この国に生まれてよかったと思える日本を創出することであろうと考えます。
 

平成30年(2018年)3月現在では,「次なる50年」のうち22年半は既に過ぎてしまいましたが,その間現在の青少年とその子供の世代のために日本において「創出」されたものは何であったのか。携帯電話及びインターネットの普及でしょうか。

 

6 橋本龍太郎内閣総理大臣

平成8年(1996年)早々村山内閣総理大臣が辞意を表明し,その後任となった自由民主党総裁の橋本龍太郎内閣総理大臣は,施政方針演説ないしは所信表明演説を5回行っています(①平成8年1月22日第136回国会施政方針演説,②同年1129日第139回国会所信表明演説,③平成9年(1997年)1月20日第140回国会施政方針演説,④同年9月29日第141回国会所信表明演説及び⑤平成10年(1998年)2月16日第142回国会施政方針演説)。様々な「改革」に取り組むこととなった橋本内閣総理大臣の当該5回の国会演説においては,「やさしさ」又は「やさしい」との語が1度も使用されていないことが,前任の村山内閣総理大臣との最も顕著な相違点ということになるでしょう。また,「安心」の語も,最初の平成8年1月22日演説では全く登場していません。改革は,「やさしい」ものではないとともに,当然変化を伴うものであって,変化はそもそも安心(あんしん)とは両立し難いということでしょうか。

ただし,「安心」の語は,2回目の国会演説以降は復活します。しかしながら,総論における堂々たる柱というよりは,各論における定型的表現の一部として用いられていると観察すべきでしょう。

2回目の平成8年1129日演説には2回登場していて,福祉・医療に関して「構造的赤字体質に陥っている医療保険の現状を直視し,21世紀にも安心して適切かつ効率的な医療サービスを人々が受けられるよう,医療提供体制と医療保険制度全般にわたる総合的な改革を段階的に実施することとし,医療保険改革法案を次期通常国会に提出する考えです。 」の部分及び地域開発,防災,治安等に関して「これらの課題とともに,豊かさを実感し,安心して暮らすことのできる国づくりも重要です。東京圏への一極集中や,阪神・淡路大震災の教訓などを踏まえ,複数の国土軸の形成を含む新しい全国総合開発計画の策定,災害対策の充実,危機管理体制の強化に努めるとともに,移転先候補地の選定という段階を迎えた首都機能移転に積極的に取り組みます。」の部分に現れます。防災及び治安と安心(あんしん)との関係は分かりやすいのですが,東京以外の地域の開発が安心(あんしん)どうつながるものか,それともつなげる必要はないのか。東京は不安だけれどもそれ以外の場所は安心(あんしん)であるということならば東京を安心(あんしん)にすればよいわけですので,地方であっても東京に置いて行かれず遅れないということについての安心(あんしん)が問題になっているのでしょうか。

3回目の平成9年1月20日の演説においては,「安全で安心できる国民生活」という見出しの部分が再登場したということが重要でしょうか。「安全と安心」はその後橋本内閣総理大臣の国会演説における構成部分となります。ただし,当該平成9年1月20日演説における「安心」への言及は2箇所のみです。医療制度に関する「大幅な赤字体質となっている医療保険制度をこのまま放置することは許されません。国民皆保険の仕組みを維持しながら,適切かつ効率的な医療サービスを安心して受けられるよう,今国会に提出する法案を出発点として,医療の提供体制と保険制度全般にわたる総合的な改革を行います。」との前回に引き続いての言及と,同月2日にロシア船籍のタンカーであるナホトカが島根県沖で沈没したことに伴う大量の重油流出事故というその当時のトピックに関する「日本海で発生したタンカー海難事故により流出した重油は,広い範囲の海岸に漂着しており,自然環境や漁業への影響が懸念されます。いち早く重油の回収に当たられた地域の皆様方やボランティアの方々に一日も早く安心して頂けるよう,政府としては,地方公共団体と緊密に連携を取りながら,また,民間のご協力を得ながら,関係省庁が一体となって被害の拡大防止に万全を期します。」との部分における言及とがあったところです。

4回目の平成9年9月29日の演説においては「安全で安心できる国民生活」という見出しの項目は立っていますが,演説の本文自体では「安心」は登場しません。

最後となった5回目の平成10年2月16日の演説には「かけがえのない環境,国土と伝統・文化,暮らしの安全と安心」という長くなった見出しの項目が登場しています。「安心」の語は,演説本文では3回登場しています。福祉・医療に関して2回(「社会保障に係る負担の増大が見込まれる中で,国民皆年金・皆保険制度を守り,安心して給付を受けられる制度を維持していくためには,少子高齢化や経済成長率の低下という環境の変化などに対応し,改革を進めなければなりません。」「医療については,いつでも安心して医療を受けられるよう,医療費の適正化と負担の公平の観点から,薬価,診療報酬の見直しをはじめ,抜本的な改革を段階的に行います。」)及び「かけがえのない環境,国土と伝統・文化,暮らしの安全と安心」という見出しに対応する「かけがえのない環境,国土,伝統・文化を大切に守り,暮らしの安全と安心を確保することは,国の果たすべき責務であり,なかでも,地球環境を守り,子孫に引き継ぐことは,最も重い責任の一つです。」の部分に1回です。「伝統・文化を大切に守」るというのは,若干「改革」疲れも出て来たゆえだったのでしょうか。

「人にやさしい政治」,「安心できる政治」を標榜した前任の村山内閣総理大臣に比べると,橋本内閣総理大臣の政見における「安心」の位置付けは高くはなかったようです。

7 「明日の安心」,「安心への架け橋」及び「安心への挑戦」の小渕恵三内閣総理大臣

平成9年(1997年)11月には三洋証券,北海道拓殖銀行,そして山一証券が次々と破綻し,橋本内閣総理大臣は,翌平成10年(1998年)7月12日の参議院議員選挙における自由民主党の惨敗を承けてその職を退きます。その後任に選ばれた小渕恵三内閣総理大臣は,自らの内閣を「経済再生内閣」であるものと位置付けます。更に小渕内閣総理大臣は,村山内閣総理大臣に続いて,「安心」を重視します。

小渕内閣総理大臣は,施政方針演説ないしは所信表明演説を5回行っています(①平成10年8月7日第143回国会所信表明演説,②同年1127日第144回国会所信表明演説,③平成11年(1999年)1月19日第145回国会施政方針演説,④同年1029日第146回国会所信表明演説及び⑤平成12年(2000年)1月28日第147回国会施政方針演説)。

 

(1)「明日の安心」

最初の平成10年(1998年)8月7日演説においては「安心」の語は3回しか登場しませんが,既にその政見の重要部分に据えられています。ただし,冒頭部分における「安心」の登場は次の部分で,いわば定型的です。(なお,政治に与えてもらわなければ夢も希望も無い国民というのは一体どういう国民なのだろうか,という感想は余計なことです。)

 

  今日,わが国は,急速な少子高齢化,情報化,国際化などが進展する中で,大きな変革期に直面しております。国民の間に,わが国経済・社会の将来に対する不安感が生まれています。政治は,国民の不安感を払拭し,国民に夢と希望を与え,そして国民から信頼されるものでなければなりません。私は,この難局を切り拓き豊かで安心できる社会を築き上げるため,政治主導の下,責任の所在を明確にしながらスピーディーに政策を実行してまいります。

 

 締めくくりの部分が注目すべきところです。

 

   〔前略〕日本の経済的な基礎条件は極めて強固です。他方,社会秩序は良好であり,国民の教育水準,勤労モラルは極めて高い水準にあります。日本は,社会的にも実に強固な基盤を有しております。国民の皆様には,日本という国に自信と誇りを持っていただきたいのです。

   こうした力強い基盤を持つわが国は,現在の厳しい状況を乗り切れば,再び力強く前進すると考えます。私は,この国に「今日の信頼」を確立することで,「明日の安心」を確実なものといたします。

   21世紀を目前に控え,私は,この国のあるべき姿として,経済的な繁栄にとどまらず国際社会の中で信頼されるような国,いわば「富国有徳」を目指すべきと考えます。来るべき新しい時代が,私たちや私たちの子孫にとって明るく希望に満ちた世の中であるために,「鬼手仏心」を信条として,国民の叡智を結集して次の時代を築く決意であります。私は,日本を信頼と安心のできる国にするため,先頭に立って死力を尽くします。

 

「信頼」及び「安心」を鍵概念として,不安になっていた国民を力づけようということであったようです。なおも日本は一等国であり日本国民は一流国民であるので,明日の日本には安心(あんしん)が間違いなく訪れるものと今日の日本において信頼していてよいのだ,という論理のようです。(明日の安心(あんしん)に今日既に信頼していてよいのなら,今日はゆとりをもって仕事を切り上げて明日安心(あんしん)が向こうからやって来るのを懐手で待っていよう・・・などとの怠け心を起こしてはなりませ

 金融対策関係立法を前国会で終え,景気回復のため過去最大規模(総額239000億円)の緊急経済対策が打ち出され,補正予算等を審議すべく召集された臨時会における小渕内閣総理大臣の2回目の平成101127日演説では,「安心」の登場は1回のみです。「景気回復策の第1の柱である「21世紀先導プロジェクト」は,先端電子立国の形成,未来都市の交通と生活,安全・安心,ゆとりの暮らしの創造,高度技術と流動性のある安定雇用社会の構築の4テーマにつき,未来を先取りするプロジェクトの実現に取り組み,日本全体を活性化させることを狙いとするものであります。特に,情報通信など多くの省庁に関連するプロジェクトにつきましては,私が直轄する,いわばバーチャル・エージェンシーとでも呼ぶべき体制を設け,省庁の枠にとらわれることなく力を結集して,その推進を図ってまいります。」という忙しくかつ賑やかな補正予算の内容に関する説明の中で触れられたものでした。「安全・安心,ゆとりの暮らし」をテーマに掲げられれば,大蔵省も財布の紐を緩めざるを得なかったということでしょうか。

 

(2)「安心への架け橋」

 3回目の平成11年(1999年)1月19日演説においては,「安心」が6回登場します。当該演説において小渕内閣総理大臣が目玉としてぶち上げた「21世紀への五つの架け橋」のうちの一つが「安心への架け橋」でした(「私は,21世紀に向けた国政運営を,次の「五つの架け橋」を基本にして考えてまいります。第1に「世界への架け橋」,第2に「繁栄への架け橋」,第3に「安心への架け橋」,第4に「安全への架け橋」,第5に「未来への架け橋」であります。」)。

小渕内閣総理大臣の基本認識においては,「もとより最も重要なのは,国民おひとりおひとりが豊かで幸せに安心して暮らせる社会を築くことであります。」ということでしたから,「安心への架け橋」は他の四つの架け橋よりも政治の究極目的により近いということになるのでしょう(「繁栄の架け橋」は経済的豊かさにつながるのでしょうが,「豊か」さとの関係はなお間接的ということになるのでしょう。「幸せ」は,「五つの架け橋」の総合的併せ技によって達成されるものなのでしょう。)。「「他人にやさしく,美しきものを美しいとごく自然に感じ取ることのできる」社会,隣人がやさしく触れ合うことのできる社会,そして何よりも住みやすい地域社会を建設することが必要だと考えるものであります。」との小渕内閣総理大臣の政見は,「人にやさしい政治」を目指した村山内閣総理大臣のそれを彷彿とさせるものがあります。

 ただし,具体的には,「安心への架け橋」は高齢者を対象にした老後の不安対策ということのようでした。「今日,日本国民の多くが,人類の古くからの願いである長寿を享受できるようになりました。その一方で,国民の中には老後の生活に対する不安も広がっております。21世紀の本格的な少子高齢社会に向けて,「安心への架け橋」を今から整備し,明るく活力あるわが国社会を築き上げていかなければなりません。 」と述べられています。

 「安全への架け橋」と表裏一体をなすものとして「安心」もまたあるわけで,「国民が安心して暮らせる安全な国土,社会の整備も,政府が引き続き取り組むべき重要な課題であり,阪神・淡路大震災や昨年の度重なる豪雨災害等の教訓を踏まえ,災害対策や危機管理の充実に最大限努力してまいります。また,国の発展は良好な治安に支えられるものであり,情報通信技術を悪用したハイテク犯罪や市民生活の安全を脅かす毒物犯罪,組織的な犯罪,更に深刻さを増す国境を越えた薬物犯罪に断固として対処してまいります。 」ということになります。

 「未来への架け橋」における「未来」には当然「安心」が用意されているものでした。「本格的な少子高齢社会の到来に備え,国民一人一人が将来に夢を持ち,生涯の生活に安心を実感できるような社会基盤を整備していくことが必要であります。このため,広く快適な住空間や高齢者にやさしい空間などの実現を目指し,かねてより私が提唱してきた「生活空間倍増戦略プラン」を今月末を目途に取りまとめ,向こう5年間を視野に入れた「明日への投資」を推進するとともに,バリアフリー化への取組などの「安心への投資」に重点的に取り組んでまいります。」と述べられています。すなわち,21世紀において日本の各個人が持つ将来の「夢」とは,老人が転んでけがなどすることは許されない「バリアフリー」な社会における「安心」かつ「やさしい」空間における老後を前提とするもののようです。“Quid est autem tam secundum naturam quam senibus emori?”Marcus Tullius Cicero, Cato Major, De Senectute 19.)などという不埒かつ乱暴なことを言ったり書いたりしておしまいということは許されません。そのような者の首と手とは,ぶった切られなければなりません(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1438013.html)。

 4回目の平成111029日演説においては,「安心」の語は2回しか出て来ません。しかしながら「安心」は,当該所信表明演説における3本柱の一つです(「「1000年代」という一つのミレニアムの締めくくりの時期に開かれる今国会を実り多いものとすべく,本日は,今国会でご審議願いたいと考えているテーマを中心に,特に当面する,経済,安全,安心の三つの課題に絞り、国民の皆様に内閣の基本方針をお示しいたします。」)。ここでの「安心」は老人対策でした。

 

少子高齢化が急速に進展する中で,将来にわたり国民が安心して暮らせる活力ある社会を築くためには,社会保障制度の構造改革を進め,安定的に運営できる制度を構築することが重要な課題であります。

とりわけ年金につきましては,将来世代の過重な負担を防ぐとともに確実な給付を約束するとの考え方に立ち,制度全般を見直すための法案を先の国会に提出いたしました。年金制度に対する国民の信頼を揺るぎないものとするため,その一日も早い成立に向け全力で取り組んでまいります。

また,介護保険につきましては,老後の最大の不安要因である高齢者の介護を社会全体で支えるべく,来年〔2000年〕4月からの実施に向けた準備に万全を期してまいります。なお,高齢者の負担軽減や財政支援など制度の円滑な実施のための対策につきましては,与党間の協議を踏まえ適切に対応してまいります。

 

「安心」と共に社会の「活力」の必要性が言及されていますが,これは「将来世代の過重な負担を防ぐ」ことによって社会の活力を維持しようということだったのでしょうか。しかし,「安心」と「活力」とが現前においてトレード・オフの関係にあるのならば,優先されるのはもちろん前者でしょう。

 

(3)「安心への挑戦」

 小渕内閣総理大臣の最後の施政方針演説となった平成12年(2000年)1月28日演説では,「安心」は6回登場しました。「「経済再生内閣」と銘打って内閣をお預かりしてから1年半が過ぎました。まだまだ安心できるような状況ではありませんが,時折ほのかな明るさが見えるところまでたどり着いたように思います。「立ち向かう楽観主義」で,この明るさを確かなものとするため,更なる努力を傾注してまいることをお誓いいたします。」との部分で登場した1回を除いて,他の5回は(今度は)「五つの挑戦」のうちの「安心への挑戦」に係るものです。

 

   昨年〔1999年1月19日〕の施政方針演説で掲げました「五つの架け橋」を更に進め,国民の決意と叡智を持って取り組むべき課題に,私は本年「五つの挑戦」と名づけました。「創造への挑戦」,「安心への挑戦」,「新生への挑戦」,「平和への挑戦」,「地球への挑戦」の五つであります。

 

   人々が生き生きと,しかも安心して暮らせる社会,そのような社会を築くことは政治にとって最も重要な責任であります。青少年も,働き盛りの世代も,そして老後を暮らす人々も,みな健康で豊かで安心して生活できる社会をつくるために,私は「安心への挑戦」に取り組みます。

   充実した人生を送るために必要な教育,雇用,育児,社会保障などを国民一人一人が自ら選択し,人生設計ができるようにしていかなければなりません。

   世界に例を見ない少子高齢化が進行する中で,国民の間には社会保障制度の将来に不安を感じる声も出ております。医療,年金,介護など,制度ごとに縦割りに検討するのではなく,実際に費用を負担し,サービスを受ける国民の視点から,税制を始め関連する諸制度まで含めた総合的な検討が求められております。

 

 なお,「安全」施策は「安心への挑戦」に含まれるものとされたようです。

 

   安心できる生活の基盤は,良好な治安によってもたらされます。治安を支える警察は国民と共になければなりません。一連の不祥事によって揺らいだ警察に対する国民の信頼を回復するため,公安委員会制度の充実強化を始め,必要な施策を推進いたします。また,時代の変化に対応し,国民にとって利便性の高い司法制度にするために必要な改革を行います。

   阪神・淡路大震災から5年が経ちました。多くの犠牲者の上に得られた教訓を決して忘れてはなりません。災害対策を始めとする危機管理に終わりはなく,更なる対策の充実・強化に努めてまいります。

 

ここでいう警察の不祥事とは,平成11年(1999年)秋に発覚した一連の神奈川県警の不祥事(女子大生恐喝,署内での集団暴行,元警部補の覚醒剤使用を組織ぐるみでもみ消し等(『近代日本史総合年表 第四版』650頁))に代表されるものでしょう(平成12年1月11日に関口祐弘警察庁長官が辞任しています。)。「国民にとって利便性の高い司法制度」にするために弁護士の数は増えましたが,さて現在(2018年)のその結果は如何(いかん)

 平成12年4月2日に小渕内閣総理大臣は脳梗塞で倒れ,同月5日森喜朗内閣が成立しました。


 
8 森喜朗内閣総理大臣

平成12年(2000年)4月5日に内閣を発足させた森喜朗内閣総理大臣(https://www.kantei.go.jp/jp/morisouri/mori_photo/2000/04/moritoku_01/index.html)は,施政方針演説ないしは所信表明演説を4回行っています(①平成12年4月7日第147回国会所信表明演説,②同年7月28日第149回国会所信表明演説,③同年9月21日第150回国会所信表明演説及び④平成13年(2001年)1月31日第151回国会施政方針演説)。

 

(1)平成12年4月7日演説

最初の平成12年4月7日演説においては小渕前内閣総理大臣の施政方針の継承が表明され,「安心」が4回登場しています。

 

「次なる時代」への改革を躊躇してはなりません。私は本内閣を「日本新生内閣」として,「安心して夢を持って暮らせる国家」,「心の豊かな美しい国家」,「世界から信頼される国家」,そのような国家の実現を目指してまいります。このため,前総理の施政方針を継承しながら施策の発展を図り,内政・外交の各分野にわたり,果断に政策に取り組んでまいります。

 

 「安心して夢を持って暮らせる国家」における「安心」の中核は,やはり「老後の安心」でした。

 

  わが国が目指すべき姿の第1は,「安心して夢を持って暮らせる国家」であります。

  〔中略〕

急速な少子高齢化の進展の中で生涯を安心して暮らせる社会を築くため,意欲と能力に応じて生涯働くことができる社会の実現を目指すとともに,老後の安心を確保すべく社会保障構造改革を推進してまいります。既に,世代間の負担の公平化を図るための年金制度改正法案が国会で成立し,またこの4月からは介護保険制度がスタートするなど,取り巻く環境の変化に対応した制度の整備を着実に進めているところであります。今後さらに,先に設置された「社会保障構造の在り方について考える有識者会議」における議論を踏まえ,私は,年金,医療,介護などの諸制度について横断的な観点から検討を加え,将来にわたり持続的・安定的で効率的な社会保障制度の構築に全力を挙げてまいります。

 

 なお,「心の豊かな美しい国家」が目標として掲げられつつも,この演説では「やさしさ」の語の登場はありませんでした。

 ちなみに,「IT革命を起爆剤とした経済発展を目指す」ことが,既に森内閣発足当初の当該演説において表明されています。

 

(2)平成12年7月28日演説

 森内閣総理大臣2回目の平成12年(2000年)7月28日演説において「安心」は3回登場しています。

「本年4月に内閣総理大臣に就任した際,私は国民の皆様に,「安心して夢を持って暮らせる国家」,「心の豊かな美しい国家」,「世界から信頼される国家」の実現を目指す「日本新生」に取り組んでいくことを申し上げました。次なる時代への改革のプログラムである「日本新生プラン」を政策の基本に据え,大胆かつ的確にその実現を図ってまいります。」として発表された「日本新生プラン」は,「経済の新生」,「社会保障の新生」,「教育の新生」,「政府の新生」(平成13年(2001年)1月6日から中央省庁等再編が行われることになっていました。)及び「外交の新生」(平成12年7月に九州・沖縄サミットが開催されたばかりでした。)の5本の柱からなっていましたが,そのうち「社会保障の新生」の項において,働く女性の託児及び各国民の生涯(要は老後でしょうか。)のそれぞれに係る「安心」に言及がされています。

 

少子化の急激な進行を踏まえ,働く女性が安心して子どもを預けられるよう,保育サービスの整備,充実を図るなど,社会全体で子育てへの支援に取り組んでまいります。また,女性も男性も喜びと責任を分かち合える男女共同参画社会の実現に向けて,引き続き努力してまいります。

   さらに,次世代の先端科学や医療技術の活用により,がん,心臓病の克服と,寝たきりや痴呆にならない健康な高齢期の実現を目指して,メディカル・フロンティア戦略を推進します。

   これらの施策をライフステージに応じて有効に機能するよう総合的に推進し,国民が生涯にわたって可能な限り身体的,精神的,経済的に自立し,安心して暮らせる社会の実現を目指してまいります。

 

(3)平成12年9月21日演説

 3回目の平成12年(2000年)9月21日演説では,「安心」は2回登場します。社会保障改革に関して1回及び経済対策に関して1回です。

 まずは社会保障改革に関して。

 

   人生八十年時代と言われて既に久しく,今日,我々は,世界一の長寿を享受できるようになり,これまで高齢者と言われてきた65歳の方々も,いまや十分現役世代であります。来るべき世紀を活力に満ちた高齢社会とするため,豊かな知識,経験を有する高齢者が意欲と能力に応じて多様な働き方ができるよう「70歳まで働くことを選べる社会」の実現に向けて努力してまいります。さらに,その後も,社会に参加し,安心して自立した生活を送ることができる「明るく活力ある高齢社会」を実現してまいります。

 

 次は経済対策に関して。

 

   近く取りまとめる経済対策の主眼は,我が国経済を,量的拡大指向から夢と安心と個性が沸き立つ世の中に変えることであります。この眼目は,IT革命の飛躍的推進,循環型社会の構築など環境問題への対応,少子高齢化対策及び便利で住みやすい街づくりなど都市基盤の整備の4分野にあります。

 

(4)平成13年1月31日演説

森内閣総理大臣最後の平成13年(2001年)1月31日演説においては,21世紀が「希望の世紀」,「人間の世紀」,「信頼の世紀」及び「地球の世紀」であるべき旨が表明されました。「安心」は6回登場しています。

まずは,「希望の世紀」の項で2回です。

 

今般の中央省庁再編において,有識者の参加を得て,内閣府に経済財政諮問会議を設置しました。景気を着実な自律的回復軌道に乗せるための経済財政運営とともに,財政を含む我が国の経済社会全体の構造改革に向けた諸課題について,具体的な政策を主導するとの決意を持って,実質的かつ包括的な検討を行うこととしております。会議では,マクロ経済モデル等も活用し,中長期的な経済社会全体の姿を展望しつつ議論を行い,国民が安心と希望を持てる処方箋を示してまいります。

 

誰もが安心して参加できる制度基盤と市場ルールを整備するため,電子商取引の特質に応じた新たなルールを定めるとともに,個人情報の取扱いに関する基本原則,取扱い事業者の義務等を定める個人情報の保護のための法律案を提出します。さらに,セキュリティ確保のための技術開発や安全性・信頼性確保策を推進し,ハイテク犯罪への対応を含め,情報セキュリティ対策を強力に推進してまいります。 

 

次に「人間の世紀」の項に3回出て来ます。

 

社会保障制度は,老齢期を迎え,また,疾病,失業などの人生の困難に直面したときに,社会全体で支え合う仕組みとして,国民の「安心」や社会経済の「安定」に欠かせないものとなっています。今世紀,我が国は世界でも類を見ない急速な少子高齢化に直面し,経済の伸びを大きく上回って社会保障の給付と負担が増大することが見込まれていますが、このような中にあって,持続可能な社会保障制度を再構築し,後代に継承していくことは,我々に課された重要な務めであると考えております。

 

   男女共同参画社会の実現は,我が国社会の在り方を決定する重要課題の一つであり,昨年〔2000年〕12月に決定された男女共同参画基本計画を着実に推進し,一層の努力を継続してまいります。また,新たに設置された男女共同参画会議において,「仕事と子育ての両立支援策」について早急に取りまとめ,子どもを産むという尊い役割を果たす女性が,社会で活躍できる可能性を広げ,女性にとっても男性にとっても,家庭と仕事が両立し,安心して子育てができる社会を築いてまいります。

 「人間の世紀」を支えるためには,便利で,暮らしに楽しさがある都市づくりを目指すことは,極めて重要であります。国境を越えた都市間競争の時代を迎えた今,世界に誇れる都市づくりを国家的課題として明確に位置付け,官民の力を結集して,生き生きとした都市生活や経済活動を支える都市基盤を整備してまいります。特に,大規模な工場跡地を活用した拠点づくりや,まちの中心となるターミナル駅などの交通結節点の総合的整備など,魅力的な都市拠点の創造に努めてまいります。また,高齢者が安心して生活できる居住環境を実現するため,高齢者の居住の安定確保に関する法律案を提出するとともに,生活空間,公共交通機関のバリアフリー化を推進してまいります。

 

最後に「地球の世紀」で1回出て来ます。

 

「地球の世紀」たる21世紀において,国民が真に豊かで安心できる暮らしを実現していく上で,その基盤となる恵み豊かな環境を守り,我々の子孫に引き継いでいくことは,我が国のみならず世界においても最も重要な課題の一つであります。地球温暖化問題については,2002年までの京都議定書発効を目指し,本年開催が予定されているCOP6再開会合に向け,最大限努力するとともに,国際交渉の進捗状況も踏まえつつ,国民の理解と協力を得て,温室効果ガスの6%削減目標を達成するための国内制度に総力で取り組んでまいります。さらに,大量生産・大量消費・大量廃棄という経済社会の在り方から脱却するため,循環型社会の構築に向け,関連する法律の施行を通じ,具体的な取組を進めてまいります。これらの課題を着実に解決し,21世紀において地球との共生を実現してまいります。

 

9 中間まとめ

 以上平成最初の12年間の内閣総理大臣国会演説(施政方針演説及び所信表明演説)における「安心」概念の使われ方を見て来て,今世紀(21世紀)の初頭に至りました。ここで,一応の中間まとめをしてみようと思います。平成13年(2001年)1月21日の森内閣総理大臣演説における6回の「安心」は,次のように分類され得るようです。

 

ア 国家ないしは国民の目的としての「安心」(「豊かで安心できる暮らし」)

イ 社会保障に対する「安心」

ウ 高齢者の「安心」

エ 子育てに係る「安心」

オ IT社会における「安心」

  カ 日本経済の将来に対する「安心」

 

 上記に加えてそれまでの内閣総理大臣演説に現れた「安心」概念をも勘案すると,「安心」は次の9項目において問題となると整理できます。

 

①国家ないしは国民の目的

②社会保障(医療を含む。)

③高齢者

④障害者

⑤治安・防災

⑥子育て・女性

IT社会・消費者

⑧日本経済の将来

  ⑨その他トピック的なもの(ウルグアイ・ラウンドと農業,重油流出事故)

 

 我が国(State & Nation)の目的は,国民の生活における「豊かさ」及び「安心」ということでしょう。しかし,「豊かさ」は経済の発展を前提とし,経済発展は当然変化を伴うところ,変化は必ずしも「安心」とは両立しません。どちらかを選ばなければなりませんが,現在の日本では,「安心」が変化に優先されるということでしょうか。皆齢を取りましたからね。

 上記9分類を用いて,小泉純一郎内閣総理大臣以降の各内閣総理大臣の施政方針演説ないしは所信表明演説を見て行きましょう。

 

後編に続く(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1070539114.html


 


  


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 判決主文,事案,関係条文及び争点

(1)判決主文

原告ら及び被告らがいずれも電気通信事業者である平成23年(ワ)第32660号独占禁止法第24条に基づく差止請求事件に係る東京地方裁判所の判決が,平成26年(2014年)6月19日に出ました。

 主文は,


 1 原告らの主位的請求をいずれも棄却する。

 2 原告らの予備的請求に係る訴えをいずれも却下する。

 3 訴訟費用は原告らの負担とする。


 というものです。請求棄却に訴え却下,更に訴訟費用負担と,正に一刀両断真っ向唐竹割りです。武士の情けもあらばこそ,優秀な弁護士らを訴訟代理人に擁した原告らの残念・無残な敗北です。


(2)事案の概要

 当該事案の概要は,判決書における東京地方裁判所の整理によれば,次のようなものでした。


  本件は,戸建て向けFTTHサービス(Fiber To The Home, 光ファイバによる家庭向けのデータ通信サービス)を提供するために被告らの設置する設備に接続しようとする原告らが,被告らに対し,接続の単位を1分岐単位としOSUOptical Subscriber Unit, 被告ら局舎内の光信号主端末回線収容装置〕等を原告らと被告らが共用する方式での接続を,被告らが拒否したことは,電気通信事業法に基づく接続義務に違反するものであり,不当に原告らとの取引を拒絶し,又は被告らの優越的地位を濫用するものであるから,私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(以下「独占禁止法」という。)19条に違反する等と主張して,独占禁止法24条に基づき,主位的に,①8分岐単位での接続を強要しないこと,②1分岐単位での接続の申込みを拒否しないこと,③被告らが原告らとの間でOSUの共用に応じること,④被告らの設備を別紙1〔別紙は本記事では略〕のAないしDの接続箇所で原告らの設備と接続することを請求し,予備的に,被告らが,原告らに対し,①8分岐単位での接続を強要してはならない義務,②1分岐単位での接続の申込みを拒否してはならない義務,③被告らが原告らとの間でOSUの共用に応じる義務,④被告らの設備を別紙1のAないしDの接続箇所で原告らの設備と接続する義務を負うことの確認を求める事案である。


(3)関係条文

昭和22年法律第54号(独禁法。これは,201422日の記事で御紹介したように,題名の無い法律です。)19条及び24条は,次のとおり。


19条 事業者は,不公正な取引方法を用いてはならない。


24条 第8条第5号〔事業者団体が事業者に不公正な取引方法に該当する行為をさせるようにすること。〕又は第19条の規定に違反する行為によつてその利益を侵害され,又は侵害されるおそれがある者は,これにより著しい損害を生じ,又は生ずるおそれがあるときは,その利益を侵害する事業者若しくは事業者団体又は侵害するおそれがある事業者若しくは事業者団体に対し,その侵害の停止又は予防を請求することができる。


 なお,後にしばしば出てくる電気通信事業法(昭和59年法律第86号)32条をここで掲げると,次のとおり。


 32条 電気通信事業者は,他の電気通信事業者から当該他の電気通信事業者の電気通信設備をその設置する電気通信回線設備に接続すべき旨の請求を受けたときは,次に掲げる場合を除き,これに応じなければならない。

  一 電気通信役務の円滑な提供に支障が生ずるおそれがあるとき。

  二 当該接続が当該電気通信事業者の利益を不当に害するおそれがあるとき。

  三 前2号に掲げる場合のほか,総務省令で定める正当な理由があるとき。


(4)争点

 本件事案における争点は,東京地方裁判所の整理によると,次の8項目になりました。


 1 主位的請求に係る作為命令が独占禁止法24条の対象となるか否か

 2 主位的請求と接続約款及び電気通信事業法32条について

 3 確認の利益(予備的請求)

 4 被告らの原告らに対する優越的地位(独占禁止法295号)の有無

 5 優越的地位の濫用行為(独占禁止法295号)の有無

 6 取引内容等の制限(独占禁止法296号,一般指定2項)の有無

 7 公正競争阻害性(独占禁止法296号)の有無その1―参入を著しく困難にする効果の有無

 8 公正競争阻害性(独占禁止法296号)の有無その2―電気通信事業法32条の接続拒否事由の有無


原告らは,第1の争点はクリアしたものの(それに伴い,第3の争点である予備的請求の確認の利益は否定された。),第2の争点の段階であえなく討ち死に。第4の争点以下に関する経済法に係る高邁な議論は,そのために費やされた時間,労力及び費用と共に空しく無駄となってしまいました。

第4ないし第7の争点が,「独禁法に基づく本件請求の本質的な論点」ということになるようですが,東京地方裁判所が当該各論点に関する判断を避けるまでもなく,電気通信事業法がらみの第2の争点を,電気通信事業者である原告らが越えることができずに終わってしまったということのようです。例えていえば,富士山頂を目指したが,登山道にたどりつく前に,ふもとの段階で樹海に迷い込んでしまったようなものでしょうか。それとも,五合目登山口から登るつもりで富士スバルラインを自動車で走っていたら,途中で自動車がエンコしたようなものか。


すこしの事にも先達はあらまほしきことなり(徒然草・第52段)


2 独禁法関係の判示

無論,本件判決が,独禁法に関する論点に全く触れなかったわけではありません。インターネットに掲載された白石忠志東京大学教授の法科大学院の「経済法」用レジュメには,本件判決に関して,「24条による作為命令は可能」及び「事業法で強制された行為は独禁法に違反しない」との二つの命題が示されています。


(1)「24条による作為命令は可能」

独禁法「24条による作為命令は可能」という点について,本件判決の該当部分は,次のとおり。第1の争点である「主位的請求に係る作為命令が独占禁止法24条の対象となるか否か」に関係します。


 独占禁止法24条は,不公正な取引方法に係る規制に違反する行為によってその利益を侵害され又は侵害されるおそれがある者は,その利益を侵害し又は侵害するおそれがある事業者に対し,「その侵害の停止又は予防」を請求することができると規定しているところ,ここでいう不公正な取引方法に係る規制に違反する行為が不作為によるものである場合もあり得ることから考えると,差止請求の対象である「その侵害の停止又は予防」は,不作為による損害を停止又は予防するための作為を含むと解するのが相当である。この点,被告らは,独占禁止法24条に基づき作為命令を求めることはできないと主張するが,上記に判示したところに照らし,被告らの主張は採用できない。


 とはいえ,原告らの独禁法24条に基づく差止請求は別の理由で棄却されたのですから,以上は一般論にすぎません。なお,当該判示は,三光丸事件判決(東京地判平成16415判タ1163235)が独禁法24条に基づく引渡請求を作為命令の請求であることを理由として不適法却下したことに対する学説の批判(白石忠志『独禁法事例の勘所〔第2版〕』(有斐閣・2010年)191192頁参照)にこたえたものでしょう。


(2)「事業法で強制された行為は独禁法に違反しない」

「事業法で強制された行為は独禁法に違反しない」という点について,本件判決の該当部分は,次のとおり。第2の争点である「主位的請求と接続約款及び電気通信事業法32条について」に関係します。


・・・被告らの設置する加入者光回線設備は,〔電気通信事業〕法上の第一種指定電気通信設備に当たるから,本件請求に係る接続は,同法33条2項所定の接続に当たると認められ・・・そうすると,被告らは,〔総務大臣から〕電気通信事業法33条2項の接続約款の認可又は同条10項の接続に関する協定の認可を受けていない以上,本件請求に係る接続に関する協定を締結するなどして,このような接続をさせることはできないのであって,接続約款の認可を受けずに原告らとの間で本件請求に係る接続に関する協定又は契約を締結すれば,刑罰法規の構成要件に該当することになる(同法1864号,339項)。

 もとより,電気通信事業法による規制は,独占禁止法による規制を排除するものではなく,電気通信事業法に基づき総務大臣が認可した接続約款による接続が,具体的な事案において,独占禁止法違反の要件を満たす場合に,独占禁止法に基づく規制に服することがあり得ることは否定できない(・・・最高裁平成221217日第二小法廷判決参照)。しかしながら,前記のとおり,被告らは,本件請求に係る接続に関する接続約款等についての総務大臣の認可がない以上,電気通信事業法上,このような接続に応じてはならない義務を課されている状況にあるといえるのであって,にもかかわらず,独占禁止法により,このような接続をしなければならない義務を被告らに課すことは,被告らに相互に矛盾する法的義務を課すことにほかならないことを考えると,独占禁止法24条に基づき,被告らに対してこのような接続を請求することはできないと解される。


注意深い読者であれば,接続協定と接続との関係が気になると思います。この点に関する東京地方裁判所の判示は,次のとおり。


原告らは,電気通信事業者の接続義務を定める電気通信事業法32条を根拠に,被告らに対する接続請求権があると主張する。しかしながら,同条は,接続という行為義務自体を定めたものではなく,接続に関する協定を締結しこれを維持しなければならないことを定めたものであると解される。


 ここで東京地方裁判所がいいたいのは,「原告らは,電気通信事業法32条から直ちに,被告らの局舎に立ち入って被告らの電気通信回線設備との接続工事をする権利が発生するかのように思っているかもしれないが,立入りや工事の権利は同条から直接生ずるものではなく,同条に促されて事業者間で締結される接続協定によって初めて生ずるのだよ。」ということでしょう。確かに,「電気通信事業法32条の権利の行使だっ。」と称して,いきなり,勝手に人様の局舎に侵入して勝手に接続工事をするのは,刑罰法規に触れる行為でしょう。また,高らかに電気通信事業法32条を理由に掲げて「直ちに接続工事をせい。」と言われても,献身的に黙々と, 気持ちよく仕事をしてくれる都合のいい人ならざる電気通信回線設備設置事業者としては,具体的な費用負担やら接続の条件について接続協定の合意のないまま,一方的に自腹で,かつ,接続請求者の言いなりに接続工事をするわけにはいかないでしょう。

 ところで,原告らがそこに接続させたいと言っている被告らの加入者光回線設備は電気通信事業法上の第一指定電気通信設備なので,当該設備との接続に係る協定を,総務大臣の認可なしに締結すると,被告らは同法33条9項の禁止に違反することになり,同法186条4号によって200万円以下の罰金に処せられてしまいます。独禁法24条に基づき裁判所が,総務大臣の認可をバイパスして,「総務大臣の認可の必要なんか無視していいからこの差止命令に従って接続せよ。電気通信事業法1864号の罰則の適用の有無など心配するな。」と被告らに言っていいのかどうかが問題となるわけです。電気通信事業法が青信号を出したものに対して独禁法が「いや,やっぱり独禁法上はいけないんです。」と赤信号を出すことは認められています。しかし,電気通信事業法がなお赤信号を出しているとき,それにもかかわらず,電気通信関係の諸立法も経済法である以上独禁法の方が偉いのである,普遍的・一般的思考による問題解決が必要なのであって,区々たる法文の単なる当てはめに拘泥してはいけないのである云々などと言って,裁判所が独禁法の名の下にあえて,被告らに対して電気通信事業法の赤信号を無視させてよいのかどうかが問題になったわけです。電気通信事業法も独禁法も法形式は同じ法律ですし,また,独禁法は「一般競争法」にすぎないのならば,特別法は一般法を破るでしょう。結論として,東京地方裁判所は,独禁法が電気通信事業法と別個にgo-stopの信号を出してもよいが,電気通信事業法の赤信号を青信号に変えることまではできない,と判断したもののようです。両法間(お役所間)で赤か青か信号が一致しないときは,結局事業者にとっては「赤信号」ということになるわけです。


3 協定の申込みに対する承諾の意思表示を求める請求権の存否

 なお,以上の議論は,独禁法24条に基づく裁判所に対する差止請求の名の下に,電気通信事業法上の総務大臣による接続協定認可制度をバイパスしてはいけないということでもありました。第一種指定電気通信設備への新たな接続は,これまで電気通信事業法32条等における接続義務に基づき,被告らと事業者間とで協議した上で,被告らが総務大臣に接続約款認可申請又は協定認可申請を行うという手順で実現してきた,というのならば正に当該手順を踏むべく,独禁法の名の下に裁判所を使って事業者間の協議及び総務大臣の認可をバイパスするという一見容易そうでありながら実は荒涼索漠たる樹海への道をとるな,ということでしょう。

 ということで,「これまでの手順」の道になるべく沿うべく東京地方裁判所は丁寧に,「総務大臣の認可がない場合であっても,原告らが,被告らに対し,協定の内容についての承諾の意思表示を求める請求権が発生し得ると解する余地があるかも問題となり得るところ」である,という問題を自ら提起し,検討しています。同裁判所は,原告らからの接続協定の内容に係る申込みに対して被告らに承諾の意思表示をさせ,その上で当該内容に係る合意における債務として被告らに当該協定に係る認可申請をさせるという「手順」を考えたのかもしれません(厳密にいうと総務大臣の認可前に協定を締結してしまうと犯罪構成要件に触れることになるので,正式な協定の締結は認可取得後にすることになるのでしょう。)。独禁法24条に基づきそのような作為(承諾)をさせることができるのであれば,原告らの請求にもまだまだ脈はあります。


(1)本件請求の場合に係る否定

 しかしながら,原告らの請求においては,接続協定の内容たるべき具体的内容(接続料及び接続条件)がそもそも欠けていましたから,原告らの本件訴訟は,やはりここで倒れてしまいました(被告らが仮に承諾し,又は裁判所が承諾の意思表示を命じてもそもそも有効な接続協定として成立しない。)。


(2)独禁法24条に基づく場合に係る否定

 とはいえ,東京地方裁判所は,なお不屈の親切さをもって考察を進めます。


  なお,本件で,仮に原告らが,協定の具体的な内容を定めた上で,独占禁止法24条又は電気通信事業法32条に基づき,被告らに対し承諾の意思表示を請求することができるかを検討するに,まず,独占禁止法24条については,同条に基づく差止めとして意思表示を命じることができるか否かはともかくとして,接続の単位についてのみ不公正な取引方法に当たるとして独占禁止法上の救済を与えるべき場合に,このような接続の単位を超える協定のその他の具体的な内容を被告らに強制すべき理由はないから,同条に基づく請求としては失当であるといわざるを得ない。(下線は筆者)


独禁法24条の差止めは,「その侵害の停止又は予防」の限度でされるべきであって,その先の事細かな当事者間の法律関係の形成までは独禁法では面倒を見られないよということでしょうか。
    ところで,「現行〔独禁法〕24条の判決例には,作為命令の請求を不適法として却下したものがあるが(・・・東京地判平成16415日〔三光丸〕),全く説得力がない・・・。本判決は,それが机上の空論であることを静かに物語っている」(白石・勘所188頁)とされる蒜山酪農農業協同組合事件判決(岡山地判平成16413(平成8年(ワ)第1089号))の主文1項においては,「・・・被告蒜山酪農農業協同組合は,・・・乙事件原告らに対し,岡山県真庭郡八束村大字中福田地内に設置の八束村公共育成牧場の利用を正当な理由なく拒否してはならない」とされています(白石・勘所184頁に引用)。蒜山酪農農業協同組合が乙事件原告らに対し「・・・系統外取引を開始したことを理由に本件公共育成牧場の利用を拒否することは,事業者団体の内部において特定の事業者を不当に差別的に取り扱うことにより,その事業活動を困難にするものであり一般指定5項に該当し,独占禁止法19条に違反することとなる。」と判断された事案です(白石・勘所185186頁に引用)。しかし,当該判決主文との関係はどうなるかというと,当該判決主文における蒜山酪農農業協同組合に対する作為命令は,独禁法違反のみがその根拠ではなかったように思われます。独禁法19法違反の認定に続いて,「従って,原告らが組合員たる地位に基づき,本件公共育成牧場を利用することを拒否することは許されない。」とされているからです(白石・勘所186頁に引用。下線は筆者)。まず,原告らの組合員としての公共育成牧場利用権が,独禁法違反云々以前に成立していたことが前提になっていたように思われます(ただし, 現行の独禁法24条が導入される前の事案ではあります。)。  


(3)電気通信事業法32条に基づく場合に係る否定

独禁法19条及び24条において不作為が問題になる場合には作為義務が前提としてあるはずですが,本件において原告らが主張していた被告らの作為義務の根拠は,電気通信事業法32条のようです。同条が,接続を要求する当事者が協定の具体的内容を定めてその承諾の意思表示を相手方に請求することまでを認めるものであるかどうかについての東京地方裁判所の見解は,次のとおり。


・・・電気通信事業法は,同法32条により接続に関する協定を締結し維持しなければならない場合であっても,当事者間に協議が調わなかったときには,総務大臣の裁定により協定の具体的内容を定めることとし,これにより同条の規定を担保することとしたものと解されるのであって,当事者の協議が調わない場合に,このような裁定の手続を経ないまま,一方の当事者が協定の具体的内容を定め,その承諾の意思表示を請求することにより,相手方にその内容を強制できるとする理由は見出し難く,このような事態は電気通信事業法32条の想定するところではないと解されるから,同条に基づく請求としても理由がないというほかはない。


 これに対して,総務大臣の裁定の制度(電気通信事業法35条)は司法手続に加えて導入されたものであって,民事訴訟による解決を否定するものではないとの主張がありますが,どうでしょうか。当該主張の根拠とするところは,2012年7月付け総務省作成の「事業者間の協議の円滑化に関するガイドライン」に「「協議が整わなかった場合,当事者は法令の定める紛争処理スキーム(総務大臣による協議命令・裁定及び電気通信紛争処理委員会によるあっせん・仲裁)を利用することができる」と記述しているとおり,これ以外に,接続請求事業者が裁判所に対して民事的救済を求めることを排除するものではありません。」ということのようですが(原告ら訴訟代理人弁護士らの第14準備書面),強い理由づけではあるとはいい得ないでしょう。無論,裁判を受ける権利は何人にも認められているのですが(憲法32条),紛争の解決は,残念ながら,自らが正義であると信ずる原告の無念の敗訴という形によっても達成され得るところです。そもそも電気通信事業法32条によって接続請求事業者に認められる具体的な権利は,電気通信回線設備設置事業者に対して誠実に協議に応ずることを求めるところまでではないかとも考えられているところです(東京弁護士会所属の宮下和昌弁護士による論文「電気通信事業法32条の「応じなければならない」の法的意味」(2012年)を参照)。


4 独禁法戦線から電気通信事業法32条ラインへの後退可能性

 ところで,本件における原告らは,被告らとの紛争を解決しようとするに当たって,あるいは併せて独禁法24条の万能性をも立証しようとして,そのいわば学問的情熱に引っ張られ過ぎたのかもしれません。万能条項存在の立証を急ぐ余りに,結局よろずのものを失ってしまったようにも思われます。(万能細胞をめぐる騒動もありましたね。学者の世界は大変です。)経済法あるいは競争法の考え方を正確に理解して問題の解決に結び付けることができる実務家が不足していたものでもありましょうか。

本件訴訟における原告らと被告らとの間の争点は8項目になったところですが,実は,第8項目(公正競争阻害性(独占禁止法296号)の有無その2―電気通信事業法32条の接続拒否事由の有無)のみを争う確認訴訟という形もあり得たのではないでしょうか。被告らが原告らの1分岐接続請求に対して当該「接続に関する協定を締結しこれを維持しなければならない」義務を有するのかどうかが双方の間における電気通信事業法上の争いに係る本来の中心の一つであったようですから,当該義務の存否を明らかにすれば,紛争の解決に大きく進むことがあるいはできたのではないでしょうか。公法上の法律関係に関する確認の訴えとしての当事者訴訟(行政事件訴訟法4条)ということになるのでもありましょう。原告らがそこでも武運つたなく敗訴すればそれまでですが,勝訴すれば,その後の協議に対する追い風になり,総務大臣の裁定等の手続も円滑に進むことになったのではないでしょうか。

とはいえやはり,華やかかつ理念的な独禁法の旗を降ろして,官僚臭のする伝統的業法の流れを汲む野暮な電気通信事業法の旗の下で戦うことは,原告らにおける新進・優秀な人々はいさぎよしとしなかったものでしょう。(控訴せず。)

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

このページのトップヘ