Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

カテゴリ: その他の法律

1 新元号特需,我が国の元号制度の歴史論及び令和の元号の典拠論

 新元号特需というのでしょうか,最近は当ブログ20181213日掲載の「元号と追号との関係等について」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1073399256.html)へのアクセス数が多くなっているところです。しかしこの元号人気,いつまで続くものでしょうか。

 我が国の元号制度の歴史論及び令和の元号の典拠論もひとしきりにぎやかでしたが,一応既に十分なのでしょう。日本書紀巻第二十五に「乙卯〔六月十九日〕,天皇・々祖母尊・皇太子於大槻樹之下召集群臣,盟曰。告天神地祇曰,天覆地載。帝道唯一。而末代澆薄,君臣失序。皇天仮手於我,誅殄暴虐。今共瀝心血。而自今以後,君無二政,臣無弐朝。若弐此盟,天災地妖,鬼誅人伐。皎如日月也。/改天豊財重日足姫天皇四年,為大化元年。」とあります。元号を令和に改める政令(平成31年政令第143号)を元号法(昭和54年法律第43号)第1項の規定に基づき201941日に制定した内閣の内閣官房長官による同日の記者会見で「新元号の典拠について申し上げます。「令和」は万葉集の梅の花の歌,三十二首の序文にある,「初春の令月にして 気(きよ)く風(やはら)ぎ 梅は鏡前の粉を(ひら)き (らん)(はい)()の香を(かをら)す」から引用したものであります。」との説明があったところです。

 とはいえ,令和の典拠論においては,漢籍に詳しい方々から,万葉集の当該序文のそのまた典拠として,後漢の張衡の帰田賦における「於是仲春月 時気清 原隰鬱茂 百草滋栄」の部分がそうであるものとして更に指摘がされてもいます(下線は筆者によるもの)。なお,張衡は政府高官であったそうで,「都邑に遊びて以て永く久く,明略を以て時を(たす)くる無し川に臨んで以て魚を羨,河清を俟つに未だ期あらず。蔡子の慷慨に感じ,唐生に従ひて以て疑ひを決す。(まこと)に天道の微昧なる,漁夫を追ひて以て同嬉す。埃塵を超えて以て()逝し,世事と長辞す。やら,「(いやしく)も域外に縦心せば(いづくん)ぞ栄辱の所如を知らむ。」などといったところからは,それらしいぼやきのようなものが読み取られ得るように思われます

 

2 漢における元号制度創始の事情論

 しかしながら,西暦紀元前2世紀の終盤における漢の七代目皇帝孝武帝(武帝)劉徹による元号制度の創始に関しての込み入った事情についてまでの,漢学者ないしは東洋史学者からの一般向けの解説は,筆者の管見の限り,令和改元の前後においてはなかったようです。筆者としては宮崎市定『中国史』に先ず拠り,更に令和改元後,インターネット上の京都大学学術リポジトリ「(くれない)」で東洋史研究第1巻第5号(1936年)掲載の藤田至善「史記漢書の一考察―漢代年号制定の時期に就いて―」論文(420-433頁)に逢着し得て,前記「元号と追号との関係等について」記事を補訂することができたばかりでした。

 当該藤田論文によれば,西暦紀元前2世紀の半ば過ぎにおける即位の翌年の初元以来元を改めることを重ねて既に五元(初元を含む。)に及んでいた漢の武帝が,それぞれの元から始まる年について建元,元光,元朔及び元狩の各()号を最初の四元について事後的に追命したのは五元の第三年であり(420-421頁,426頁),当の五元についてはその第四年になってから元鼎という年号が付されたものであって(したがって,人がその現在においてその(●●)()()年号を語ることができるようになった最初の年は元鼎四年であったことになります。),改元と年号の付与とが初めて一致した(すなわち現在のもののような()号の始まり)は元鼎の次の元封の元号からであった(432頁註⑥),ということでした。

 

3 元狩元年元号制度創始説

 しかしながら,元号の創始時期については,藤田論文では排斥(426頁)されているものの,漢書の著者である班固が提唱し,宋代の司馬光(資治通鑑巻十九)及び朱熹(資治通鑑綱目巻之四)という大碩学が支持している(同422頁)元狩元年説というものがあります。元狩元年に当該元狩の元号が定められるとともに,それより前の建元,元光及び元朔の年号が追命されたとするものです(藤田420頁)。漢書武帝紀に「元狩元年冬十月,行幸雍,祠五畤,獲白麟,作白麟之歌。」(元狩元年冬十月,(よう)に行幸し,五()(まつ)る。白麟を(),白麟之歌を作る。)とある獲麟事件に(ちな)んで,三元から四元に改元がされ,かつ,当該四元の年に初めて年号(元狩)が付されたのだ,という説です(藤田421頁)。ちなみに,雍州とは,『角川新字源』によると,陝西省北部・甘粛省北西部地方です(なお,以下筆者が漢語漢文解読に当たって当該辞書を使用する場合,いちいち註記はしません。)畤は,祭場です。麟は,あるいは「大きなめすのしか。一説に大きなおすのしか。」とされ,あるいは「「麒麟(きりん)」のこと」とされています。

 さて,なにゆえここで元狩元年元号制度創始説が出て来るのか。実は,あえてこの元狩元年元号制度創始説を採用することによって,万葉集か帰田賦か,国風か漢風か等をめぐる令和の元号に係る華麗かつ高雅な典拠論争に,ささやかかつ遅れ馳せながらも班固の漢書をかついでのこじつけ論的参入・にぎやかしが可能になるのではないか,というのが今回の記事の執筆(モチ)動機(ーフ)なのであります。

 なお,『世界史小辞典』(山川出版社・1979年(219刷))の「東洋年代表」(付録78頁)を見ると,武帝の建元元年は西暦紀元前1401120日から始まり,元狩元年は同122112日から,元鼎3年は同1141117日から,元鼎4年は同113116日から,元封元年は同110113日から始まっていることになっています。立春の頃から年が始まるようになったのは,太初暦の採用からのようです(太初元年は西暦紀元前1041125日から始まったものとされているのに対して,太初二年は同103211日から始まったものとされています。)。それまでは,十月が歳首であったようです。史記巻二十八封禅書第六には,秦の始皇帝について「秦始皇既幷天下而帝。或曰,〔略〕今秦周変,水徳之時,昔秦文公出猟獲黒龍,此其水徳之瑞。於是秦更命河曰徳水。以冬十月為年首,色上黒,度以六為名,音上大呂,事統上法。」(秦の始皇既に天下をあはり。あるひといは文公黒龍此れ水徳り。なづ冬十月を以て年首と為し,色は黒をたふとをはりぶ。高祖つい高祖豊枌祠蚩尤,釁鼓旗。遂以十月至灞上,与諸侯平咸陽立為漢王。因以十月為年首。而色上赤。」(高祖初め起るとき,豊のふんいのる。とな則ち蚩尤しいうまつりちぬる。十月諸侯咸陽立ちて十月を以て年首と為す。色は赤をたふとぶ。武帝つい改暦正月官名太初元年。正月を以て歳首と為す。而して色は黄をたふと官名印章あらた五字す。太初元年と為す。)とあります。ただし,太初改暦の日程については,『世界史小辞典』の「東洋年代表」では太初元年は西暦の11月から始まって次の2月には終わってしまっている形になっているので,何だか分かりづらいところです。

 暦法は,難しい(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1916178.html)。

 

4 終軍の対策と「元狩」改元及び「令和」抽出

 班固が元狩元年元号制度創始説を提唱するに至ったのは,前記の元狩元年十月の獲麟事件に当たって武帝に(たてまつ)られた終軍という名の若者による対策に接したからであると考証されています(藤田422-423頁)。「対策」とは,「漢代の官吏採用法の一つ。策にこたえる意で,策(木の札)に書いて出題された試験問題に対して見解を書いて答える。また,その答案。」と説明されています。終軍の当該対策については,「その文章の典雅にして,義理の整斉なる点優に漢代文苑の英華であつて,有名なる対策の一つである。」との文学的評価がされているところです(藤田422頁)。当該対策の次の一節が,問題になります。

 

  今郊祀未見於神祇,而獲獣以饋,此天之所以示饗而上通之符合也,宜因昭時令日改定告元(師古曰,昭明也,令善也,) 

  (今,郊祀に未だ神祇を見ずして獣を()以て()とす。此れ天()饗して上通するを示す所以(ゆえん)()符合(なり)。宜しく昭時令日に()りて,改定し元を告ぐべし。(師古曰く,昭は明也,令は善也,と。)

 

 班固は「この文中にある「宜因昭時令日改定告元」の語に非常なる重点を置き,武帝は終軍のこの対策に従つて白麟奇木を得た瑞祥を記念するため,この年を以て元狩元年と云ふ年号を制定したものゝ如くに考へたのである。故に班固は漢書終軍伝にこの対策を全部収録して,その最後に,/対奏,上甚異之,由是改元為元狩〔(こた)(そう)す。上,甚だ之を異とす。(これ)()りて改元し元狩と為す。〕/との結論を下し,この対策を史料とすることに依つて得た自己の解釈を明記してゐるのである。」と藤田論文は述べています(422-423頁)。

しかして,令和の元号の典拠に係る前記内閣官房長官説明に接した後において当該部分を読むと,

 

宜しく昭時令日()りて,改定し元を告ぐべし。」ということであれば「令月」が「令日」になっているだけであるのだから,「(きよ)く風(やはら)」に相当する語句が終軍の対策中において文脈上「令日」につながる箇所にうまい具合にあれば,漢の武帝による史上最初の元号は,我が安倍晋三内閣的発想に従えば,実は元狩ではなく令和であったかもしれないのだ,と言い得るのではないか,  

 

とつい考えてしまったわけです。

 ということで,漢書巻六十四下の終軍伝に収録されている当該対策を調べてみると・・・ありました。「和」の含まれた語句がありました。

 

  陛下盛日月之光,垂聖思於勒成,専神明之敬,奉燔瘞於郊宮。献享之精交神,積和之気塞明(師古曰,塞荅也,明者明霊亦謂神也)。而異獣来獲宜矣。

  (陛下は日月之光を盛んにし,聖思を(ろく)成に垂れ,神明之敬を専らにし,燔瘞(はんえい)を郊宮に(たてまつ)る。(けん)(きやう)〔ごちそうをしてもてなす〕()精は神と交り,積之気は明に(こた)ふ。(師古曰く,塞は(たふ)〔答〕也,明は明霊(また)は神を謂ふ也,と。)而して,異獣の来たりて()るは(むべ)なり。

 

すなわち,天子の篤い敬神の念及びまごころを込めた祭祀の実践による之気は(かみさま)(こた)えて,したがって白い麒麟も天子様こんにちはと出て来る冬十月の(あかるい)(とき)(よい)()となり,それに因んでめでたく改元し,年号を定めるのであるのなら,当然その元号は「令和」が宜しいのではないですか,と終軍の名対策に便乗し,かつ,未来の偉い人発想に忖度しつつ武帝に上奏する辣腕の有司があってもよかったように思われるところです。

 

5 残念な終軍

 とはいえ以上は,完全な無駄話です。

終軍の手になるとされる当該対策は,元狩二年以降の未来の出来事(霍去病の驃騎将軍任命,昆邪の来降)を元狩元年段階においての作文であるはずなのに大預言書的に書き込んでしまっているものであって後世の偽作っぽく(藤田423-424頁参照),また,改元といっただけでは当時は年号を付することとは必ずしも結び付かず,むしろ武帝は年号のないまま問題意識なく改元を重ねていたところであって,「宜しく・・・改定し元を告ぐべし。」と奏上するだけでは,「年号」なる革新的アイデアを奏上したことにはならない(同424-426頁参照),したがって終軍の当該対策に基づく元狩元年元号創始説は採用するを得ない,とされているところです(同426頁)。

 終軍及びその名による対策は,残念でした。すなわちここからは,元号制定に中心となって関与したということで安易に人気を博そうとしても人の目は実はなかなか厳しい,という教訓を引き出すべきものでしょうか。

残念な終軍は,その後外交外事関係に注力します。当時の南越国今の広東省・広西壮族自治区の辺り)における漢化体制を確立すべく,勇躍同国に使いします。しかしながら,漢と南越国との関係は一筋縄ではいかず(実は,終軍は,南越王相手には縄一筋もあれば十分であるとの壮語を実はしたようではありますが),同国内における根強い反対勢力の反撃を受けて,若い身空で異郷に思わぬ横死をすることとなりました。

さて,この終軍の蹉跌からは,元号関係で思わぬ人気を得て気をよくして更に隣国との外交(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1073895005.html)及び多文化共生ないしは受入れ(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1072912488.html)においても一層大きな歴史的成果を挙げようなどと自らを恃んで張り切ると,そこには陥穽(おとしあな)が待っていますよ,という教訓をも引き出すべきでしょうか。

しかし,何でも教訓に結び付けようとするのはうがちが過ぎるというもので,また,うがちの精神は,実は息苦しい忖度の精神とかえって親和的なのかもしれません。

 

 Si mihi pergit quae vult dicere,

    ea quae non vult audiet.

    (Terentius, Andria)

 

 (うがった意訳)

うがったことばかり勝手に言い募りやがってうざい野郎め,

そのうち反転攻勢で,「忖度が足りないんだ,不謹慎だ,いーけないんだ」って言い込めてやるぞ。

   

(漢書巻六十四下の終軍伝における関係部分に係る筆者我流の読み下し文は,次のとおりです。)

 

6 漢書巻六十四下・終軍伝(抄)

 

終軍。(あざな)は子雲。済南の人(なり)

(わかく)して学を好む。辯(ひろ)()く文を(つく)るを(もつ)て,郡中に聞ゆ。年十八,(えらばれ)て博士の弟子と()り,府に至り,遣を受く。()()(いは)く,博士の弟子は太常〔太常は,宗廟の儀礼をつかさどる官〕に属す〔なお、太常博士は,天子の車の先導をしたり王公以下のおくり名を決めたりする宮中の式典係〕,遣を受くる者は郡に()りて京師に遣詣せらる,と。)太守〔郡の長官〕()の異才()るを聞き,軍を召見し,(はなは)(これ)を奇として(とも)に交を結ぶ。軍,太守に(いふ)し,(しかう)して去る。

長安に至り,上書して事を言ふ。武帝,其の文を異とし,軍に(さづ)けて謁者〔宮中で来客の取次ぎをつかさどる役〕と為し,事に(あた)るを給す〔「給事中」は,加官といって他の官の者が兼任し,天子の諮問に答える官〕

上の(よう)幸して五()(まつ)るに従ふ。白麟を()る。一角にして五蹄なり。(師古曰く,毎一足に五蹄有る也,と。)時に(また)奇木を得る。其の枝は旁出して,(すなはち)(また)木上に合す。上,()の二物を異とし,(ひろ)く群臣に(はか)る。(師古曰く,其の徴応を訪ぬる也,と。)

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 一角獣(東京都新宿区明治神宮外苑聖徳記念絵画館前)(ただし,これは五蹄ではないようです。)

軍,(こた)へて上に曰く。

 

臣聞くに,詩は君徳を頌し,楽は后功〔后は,天子〕に舞す。経は異なれども指すは同じく,盛徳()隆たる所を(あきらか)にする(なり)

南越は()()竄屏(ざんへい)し,鳥魚と群す。(師古曰く,葭は(あし)也,成長して(すなは)ち葦と()ふ,葭の音は(),と。正朔其の俗に及ばず。有司境に臨み,而して東(おう)〔今の浙江省温州市の辺り〕内附し,(びん)〔閩は今の福建省〕()に伏す。南越,(さいはひ)に救はる。北胡は畜に随ひ,(せん)居す。(蘇林曰く,薦は草也,と。師古曰く,蘇説は非也,と。薦は読みて(せん)と曰ふ。荐は()也。言ふならく,畜牧に随ひ(しばしば)()へ,(ゆゑ)に居に安住せざる也,左伝に戎狄は荐居する者也,と。禽獣の行ひ,虎狼の心,上古(いま)(をさめること)を能くせず。大将軍(ゑつ)()り,単于(ぜんう)幕に(はし)。票騎(せい)()げ,(こん)()(じん)を右にす。(師古曰く,抗は挙也,衽を右にするとは中国の化に従ふ也,昆の音は下門反,と。)(これ),沢は南(あまね),而して威は北に(のぶ)る也。

()近くに(おもね)らず,挙を遠くに遺さず,官を設け,賢を()ち,賞を()け,功を待ば,能者は進んで以て禄を保し,()者は退いて力を労す。(師古曰く,罷は職任に堪へざる者を()ふ也,力を労すとは農畝に帰する也,と。)宇内に(のり)なす。(師古曰く,刑は法也,と。言ふならく,宇内に法を成す也,と。一に曰く,刑は見也,と。)衆美を()みて足らず,聖明を懐きて専らにせず。三宮()文質を建て,(その)()(よろ)しき所を(あきらかに)にす。(服虔曰く,三宮は明堂〔政教を行う所〕・辟雍〔太学〕・霊台〔天文台〕也,と。鄭氏曰く,三宮に()いて政教に班するは,文に質有る者也,と。封禅()君,聞く()し。(張晏曰く,前世の封禅之君,()くの(ごと)きの美を聞かざる也,と。)

()れ天命初めて定まり,万事草創,六合〔天地(上下)と東西南北〕(ふう)を同じくし,九州〔冀・(えん)・青・徐・揚・荊・予・梁・雍の9州〕(くゎん)を共にして(しん)に及必ず明聖を待ち,祖業を潤色し,無窮に伝ふ。故に周は成王に至り,然る後に制を定め,而して休徴〔めでたいしるし〕()を見る。

陛下は日月之光を盛んにし,聖思を(ろく)成に垂れ,神明之敬を専らにし,燔瘞(はんえい)を郊宮に(たてまつ)る。(師古曰く,燔は天を祭る也,瘞は地を祭る也,天を祭るには則ち之を焼き,地を祭るには則ち之を()む,郊宮は泰畤及び后土(なり),と。)(けん)(きやう)()は神と交り,積和之気は明に(こた)ふ。(師古曰く,塞は(たふ)〔答〕也,明は明(また)は神を謂ふ也,と。)而して,異獣の来たりて()るは(むべ)なり。昔,武王の中流にて未だ(わたら)ざるに,白魚王舟に入り,俯して取りて以て燎す。群公(みな)曰く,(めでたい)(かな)と。今,郊祀に未だ神祇を見ずして獣を()以て()とす。(師古曰く,以て饋とすとは,祭俎に充つるを謂ふ也,と。)此れ天()饗して上通するを示す所以(ゆえん)()符合(なり)。宜しく昭時令日に()りて,改定し元を告ぐべし。(師古曰く,昭は明也,令は善也,と。張晏曰く,年を改元して以て神祇に告ぐる也,と。)()〔草をたばねたしきもの〕は白茅の江淮に於けるを以てし,嘉号を営丘に発さば,以て(まさ)緝熙(しふき)〔徳が光り輝くこと〕すべし。(服虔曰く,苴は席を作る也,と。張晏曰く,江淮職は三脊茅を貢して藉を為す也,と。孟康曰く,嘉号は封禅(なり),泰山は斉の分野に()り,故に丘と曰ふ也,或いは曰く,泰山に登封し以て姓号を明らかにする也,と。師古曰く,苴の音は(),又の音は子予反,苞苴(はうしよ)〔みやげもの〕()苴には(あら)ざる也,と。事を著す者に紀()らしむべし。(師古曰く,史官を謂ふ也,紀は記(なり),と。)

(けだ)し六兒鳥〔兒の偏に鳥の旁の字〕の退き飛ぶは逆(なり)(張晏曰く,六兒鳥の退き飛ぶは諸侯(はん)(ぎゃく)(かたど),宋の襄公は伯道退く也,と。)白魚の舟に登るは(じゅん)也。(張晏曰く,周は木徳(なり),舟は木(なり),殷は水徳にして,魚は水物,魚の躍りて舟に登るは諸侯の周に(したが)ひ紂を以て武王に(あた)(かたど)る也,と。臣(さん)曰く,時論者は未だ周を以て木と為し,殷を以て水と為さざる也,謂ふならく,武王の殷を()たむとして魚の王舟に入るを,征して必ず()るに(かたど)り,故に順と曰ふ也,と。師古曰く,瓚の説が(なり),と。夫れ明闇()徴,上に飛鳥乱れ,下に淵魚動く。(師古曰く,乱は変(なり),と。)(おのおの)類を以て推すに,今野獣の角を(あわ)すに本の同じきは明らか也。(師古曰く,幷は合(なり),獣は皆両角なるに,今此れは独一,故に幷と云ふ也,と。)衆支は内附して外無きを示す也。(かく)(ごと)()(しるし)(ほとん)(まさ)に編髪を解き,左衽を削り,冠帯を(かさ)ね,衣裳を要し,而して化を蒙る者()らむとす。(師古曰く,衣裳を要するとは中国之衣裳を著するの謂ひ也,編は読みて(べん)と曰ふ,要の音は一遥反,と。)(すなは)(こまぬ)きて(これ)()(のみ)(こた)(そう)す。


上,甚だ之を異とす。(これ)()りて改元し元狩と為す。後数月,越地及び匈奴の名王の衆を率ゐて来降する者有り。時に皆軍の言を以て(あた)ると為す。

 

〔中略〕

 

南越と漢とは和親たり。(すなは)ち軍を遣はし南越に使して其の王を説き,入朝せしめ,内諸侯に(なら)べむと欲す。軍,自ら請願して長(えい)を受く。必ず南越王を(つな)て之を闕下〔宮門の下。また朝廷,天子をいう。〕に致す,と。(師古曰く,言は馬羈の如き也,と。)軍,遂に往きて越王を説き,越王聴許す。国を挙げて内属せむことを請ふ。天子,大いに(よろこ)び,南越大臣の印綬を賜ふ。壱に漢の法を用ゐ,以て新たに其の俗を改め,使者を留め之を〔民心をしずめおさめる〕せしむ。(師古曰く,塡の音は竹刃反,と。)越相の呂嘉,内属を欲せず。兵を発し,其の王及び漢の使者を攻殺す。皆死す。語,南越伝に在り。軍の死時の年,二十余。故に世,之を(しゅうの)(ぼうや)と謂ふ。


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Fili Caeli, salve!


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   奇木・なんじゃもんじゃ(聖徳記念絵画館前)
 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002 東京都渋谷区渋谷三丁目5-16 渋谷三丁目スクエアビル2
電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp 



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第1 Meine Bibliothek ist Makulatur.

 前回2019314日の掲載記事は,「仮想通貨交換業者の分別管理義務に関する思案分別」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1074204067.html)というものでした。ところが早速,当該記事掲載の翌日(15日)の閣議において,情報通信技術の進展に伴う金融取引の多様化に対応するための資金決済に関する法律等の一部を改正する法律案が決定され,当該議案は同日内閣総理大臣から衆議院に提出されました(第198回国会閣法第49号。同日参議院にも予備審査議案として送付されています(国会法(昭和22年法律第79号)58条参照)。)。当該法改正が実現すれば,仮想通貨交換業者等をめぐる法制度に大きな変動がもたらされます。苦心の上記拙文も,あっと言う間に非現行化というわけです。

法律などという当てにならないものを憑代(よりしろ)として学者ぶるなどということは,空しいことです。

 

  Indem die Wissenschaft das Zufällige zu ihrem Gegenstande macht, wird sie selbst zur Zufälligkeit; drei berichtigende Worte des Gesetzgebers und ganze Bibliotheken werden zu Makulatur. (von Kirchmann, Die Wertlosigkeit der Jurisprudenz als Wissenschaft. 1848)

  (当該学問は,不確かなものをその対象とすることによって,自らが不確かなものとなる。立法者が3度訂正の語を発すれば,一大文献群が反故の山となる。(フォン・キルヒマン「法学の学問としての無価値性」1848年))

 

第2 「等」の話

 さて,「・・・資金決済に関する法律等の一部を改正する法律」といった場合の,この題名における「等」は曲者です。この僅か1文字から,3以上の多数の法律が改正されることを読み取って,覚悟しなければなりません。

 

   一部改正法には,その本則において,1の法律を改正するものと2以上の法律を改正するものとがあるが〔略〕,2以上の法律を1の一部改正法の本則で改正する場合において,改正される法律が2であるときと,3以上であるときとでは,題名の付け方に差がある。その数が2であるときは,原則として,〔略〕「A法及びB法の一部を改正する法律」という題名を付け,その数が3以上であるときは,〔略〕「A法等の一部を改正する法律」という題名を付ける。(前田正道編『ワークブック法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)351-352頁)

 

今次国会に提出された情報通信技術の進展に伴う金融取引の多様化に対応するための資金決済に関する法律等の一部を改正する法律案の本則においては,13法律について一部改正が行われます。すなわち,資金決済に関する法律(平成21年法律第59号)(第1条),金融商品取引法(昭和23年法律第25号)(第2条),金融商品の販売等に関する法律(平成12年法律第101号)(第3条),農業協同組合法(昭和22年法律第132号)(第4条),水産業協同組合法(昭和23年法律第242号)(第5条),中小企業等協同組合法(昭和24年法律第181号)(第6条),信用金庫法(昭和26年法律第238号)(第7条),長期信用銀行法(昭和27年法律第187号)(第8条),労働金庫法(昭和28年法律第227号)(第9条),銀行法(昭和56年法律第59号)(第10条),保険業法(平成7年法律第105号)(第11条),農林中央金庫法(平成13年法律第93号)(第12条)及び金融機関等が行う特定金融取引の一括清算に関する法律(平成10年法律第108号)(第13条)の13です。題名の「等」には,12の法律が隠されていたのでした。なお,改正時期は,改正法の公布の日から起算して1年を超えない範囲内において政令で定める日からということになります(附則1条)。あるいは202041日あたりでしょうか。

(なお,「等」に関しては,2014127日に掲載した「「等」に注意すべきこと等」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/2806453.html)も御参照ください。)

 

第3 情報通信技術の進展に伴う金融取引の多様化に対応するための資金決済に関する法律等の一部を改正する法律案1条研究

今回は,情報通信技術の進展に伴う金融取引の多様化に対応するための資金決済に関する法律等の一部を改正する法律(案)の第1条による一部改正によって,資金決済に関する法律(以下「資金決済法」といいます。)が来年以降どのように変わるのかを見ておきたいと思います。

 

1 「仮想通貨」から「暗号資産」へ

まず,「仮想通貨」との呼称が,「暗号資産」に変わります。

これは,先般終了した金融庁の仮想通貨交換業等に関する研究会(座長は神田秀樹教授)の報告書(20181221日。以下「研究会報告書」といいます。)において,「最近では,国際的な議論の場において,“crypto-asset”(「暗号資産」)との表現が用いられつつある。また,現行の資金決済法において,仮想通貨交換業者に対して,法定通貨との誤認防止のための顧客への説明義務を課しているが,なお「仮想通貨」の呼称は誤解を生みやすい,との指摘もある。」ということから「法令上,「仮想通貨」の呼称を「暗号資産」に変更することが考えられる。」と提案されていたものです(31頁)。

 

2 電子記録移転権利を表示するものの暗号資産からの除外(2条5項)

仮想通貨改め暗号資産の定義に係る資金決済法25項には新たに,「ただし,金融商品取引法(昭和23年法律第25号)第2条第3項に規定する電子記録移転権利を表示するものを除く。」とのただし書が付されることになります。改正後の金融商品取引法23項に規定する電子記録移転権利を表示するものであれば,資金決済法25項各号に一見該当するものであっても暗号資産とはならない,ということのようです。

それでは電子記録移転権利とは何かといえば,金融商品取引法22項各号に掲げる権利であって,電子情報処理組織を用いて移転することができる財産的価値(電子機器その他の物に電子的方法により記録されるものに限る。)に表示される場合(流通性その他の事情を勘案して内閣府令で定める場合を除く。)のものであるそうです(改正後金融商品取引法23項の第2括弧書き)。金融商品取引法22項各号に掲げる権利については,そもそも,「証券又は証書に表示されるべき権利以外の権利であつても有価証券とみなして,この法律〔金融商品取引法〕の規定を適用する」とされていたものです(同項柱書)。(なお,従来からも資金決済法25項においては,本邦通貨若しくは外国通貨又は通貨建資産たる財産的価値は,一見仮想通貨に含まれるもののようであっても,仮想通貨に含まれないものとされていました。)

 

3 仮想通貨カストディ業務の暗号資産交換業取り込み(2条7項)

資金決済法27項の改正による新たな「暗号資産交換業」は,従来の仮想通貨交換業よりも広い範囲のものとなります。すなわち,改正後資金決済法27項の新たな第4号は「他人のために暗号資産の管理をすること(当該管理を業として行うことにつき他の法律に特別の規定のある場合を除く。)。」(「暗号資産の管理」)を業として行うことを暗号資産交換業に含まれるものとしているところです。従来は,その行う仮想通貨の交換等に関して利用者の仮想通貨を管理する管理行為に限って仮想通貨交換業に含まれるものとしていましたが(現行資金決済法273号),「その行う前2号の行為〔仮想通貨の交換等〕に関して」との縛りが撤廃されたものです。

これまで,「仮想通貨の売買等〔仮想通貨の売買・交換やそれらの媒介・取次ぎ・代理〕は行わないが,顧客の仮想通貨を管理し,顧客の指図に基づき顧客が指定する先のアドレスに仮想通貨を移転させる業務(以下「仮想通貨カストディ業務」)を行う者も存在するが,当該業務は,仮想通貨の売買等を伴わないため,仮想通貨交換業には該当しない。」とされていたところ(研究会報告書14頁),「決済に関連するサービスとして,一定の規制を設けた上で,業務の適正かつ確実な遂行を確保していく必要があると考えられ」て(同頁),当該仮想通貨カストディ業務も暗号資産交換業に含まれるものとされたわけでしょう。

 

4 一般社団法人日本仮想通貨交換業協会の重用(63条の5第1項6号)

暗号資産交換業者の登録に係る登録拒否事由として,「暗号資産交換業者をその会員(第87条第2号に規定する会員をいう。)とする認定資金決済事業者協会に加入しない法人であって,当該認定資金決済事業者協会の定款その他の規則(暗号資産交換業の利用者の保護又は暗号資産交換業の適正かつ確実な遂行に関するものに限る。)に準ずる内容の社内規則を作成していないもの又は当該社内規則を遵守するための体制を整備していないもの」が加えられています(改正後資金決済法63条の516号)。(なお,改正後資金決済法872号は,「前払式支払手段発行者,資金移動業者又は暗号資産交換業者を社員(以下この章において「会員」という。)とする旨の〔一般社団法人の〕定款の定めがあること。」と規定しています。「社員」(一般社団法人及び一般財団法人に関する法律(平成18年法律第48号)1115号等参照)を「会員」と言い換えてしまっているので特に「(第87条第2号に規定する会員をいう。)」と言及されているのでしょう。)

上記改正後資金決済法63条の516号の事由は,同様に登録制度及び認定資金決済事業者協会制度を採用している第三者型前払式支払手段に係る第三者型発行者又は資金移動業者については規定されていないところの,新たな追加的登録拒否事由となっています(前者については資金決済法10条を,後者については同法40条を参照)。

また,暗号資産交換業者については一般社団法人日本仮想通貨交換業協会が20181024日に資金決済法87条の認定を受けて認定資金決済事業者協会となっているところですが,改正後資金決済法63条の516号は,暗号資産交換業者をその会員とする認定資金決済事業者協会が今後常時存在し続けていくものであることを前提としているようです。一般社団法人日本仮想通貨交換業協会に対して,金融庁は資金決済法962項の認定取消権を発動しないものとしているのでしょうか。美濃部達吉の1940年の著作において,産業統制に係る同業者の協同組合に関して「時としては,啻に組合員に対してのみならず,組合員以外の者でも,組合地区内で同種の産業を営む者に対し,政府が組合の統制決定に従ふべきことを命じ得るものとして居ることが有る。商業組合法(9条)・工業組合法(8条)・貿易組合法(1862条)は其の例である。此の規定あるが為めに,此等の組合は任意加入の組合であるに拘らず,統制決定に関する限りは,行政官庁の監督の下に,強制加入の組合と同様の機能を発動し得るのである。」との記述があったことが想起されなどします(美濃部達吉『日本行政法下巻』(有斐閣・1940年)417-418頁)。

改正後資金決済法63条の516号は,「必要に応じて行政当局による監督権限の行使を可能とする法令に基づく規制と,環境変化に応じて柔軟かつ機動的な対応を行い得る認定協会の自主規制規則との連携が重要であると考えられ」たことにより,求められていた規定です(研究会報告書9頁)。

 

5 「商号」と「名称」とに係る厳密論理ごりごり改正(63条の5第1項7号)

改正後資金決済法63条の517号は,現在の同項6号が「他の仮想通貨交換業者が現に用いている商号若しくは名称と同一の商号若しくは名称又は他の仮想通貨交換業者と誤認されるおそれのある商号若しくは名称を用いようとする法人」(下線は筆者)であることを登録の拒否事由とする旨規定していることを改め,「他の暗号資産交換業者が現に用いている商号と同一の商号又は他の暗号資産交換業者と誤認されるおそれのある商号を用いようとする法人」として,「名称」を排除しています。

これは,資金決済法63条の511号見合いの厳密論理ごりごり改正というべきでしょう。

そもそも暗号資産交換業者は株式会社又は外国会社でしかあり得ないのですが(資金決済法63条の511号参照),株式会社がその一である会社(会社法(平成17年法律第86号)21号)の名称は商号でしかあり得ず(同法61項),外国会社は外国会社の登記をするまでは日本において取引を継続してすることができないところ(同法8181項),外国会社の登記においては「商号」が登記されることになるからでしょう(同法9332項柱書き及び91132号,9122号,9132号又は9142号)。資金移動業者についても,こっそり同様の改正が行われることになります(資金決済法401号及び6号参照)。

(「こっそり」改正については,2014115日掲載の「会社法改正の年に当たって(又は「こっそり」改正のはなし)」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/2471090.html)も御参照ください。)

 

6 金融商品取引法違反の登録拒否事由化(63条の5第1項9号及び11号ニ)

改正後資金決済法63条の519号(現行8号)及び11号ニにおいて金融商品取引法違反の前科が登録拒否事由に加えられるのは,暗号資産関係の規制が改正後金融商品取引法に導入されるからでしょう(例えば,同法2243号の2によって,暗号資産は同法上の「金融商品」とされます(ちなみに,同項3号は,通貨を金融商品としています。)。)。

 

7 取扱暗号資産並びに暗号資産交換業の内容及び方法の変更に係る事前届出義務(65条の6第1項)

 改正後資金決済法63条の61項は,「取り扱う暗号資産の名称」(同法63条の317号)及び「暗号資産交換業の内容及び方法」(同項8号)の変更については従来の仮想通貨交換業者は事後に届け出ればよかったところ,暗号資産交換業者は事前に届け出るべきものと変更しています。

「移転記録が公開されずマネロンに利用されやすいなどの問題がある暗号資産が登場」(金融庁作成の国会審議参考用説明資料(20193月。以下「金融庁説明資料」といいます。)3頁)していることを承けての監督強化ということになります。「仮想通貨交換業者が取り扱う仮想通貨の変更を事前届出の対象とし,行政当局が,必要に応じて,認定協会とも連携しつつ,柔軟かつ機動的な対応を行い得る枠組み」(研究会報告書10頁)が構築されるのだ,ということでしょう。具体的には,一般社団法人日本仮想通貨交換業協会の事務局による快刀乱麻を断つ活躍が期待されているのでしょうか。

 

8 利用者の保護等に関する措置に係る規制強化・罰則導入

 従来の資金決済法63条の10は「仮想通貨交換業者は,内閣府令で定めるところにより,その取り扱う仮想通貨と本邦通貨又は外国通貨との誤認を防止するための説明,手数料その他の仮想通貨交換業に係る契約の内容についての情報の提供その他の仮想通貨交換業の利用者の保護を図り,及び仮想通貨交換業の適正かつ確実な遂行を確保するために必要な措置を講じなければならない。」と規定していましたが(下線は筆者),違反に対する罰則はありませんでした。

 

(1)広告における表示必要事項規制(63条の9の2及び112条9号)

 ところが,改正後資金決済法により新設される同法63条の92は,暗号資産交換業者のする暗号資産交換業に関する広告について,内閣府令で定めるところにより,①暗号資産交換業者の商号,②暗号資産交換業者である旨及びその登録番号,③暗号資産は本邦通貨又は外国通貨ではないこと並びに④暗号資産の性質であって利用者の判断に影響を及ぼすこととなる重要なものとして内閣府令で定めるものを表示すべきことを義務付けており,かつ,同条に規定する事項を表示しなかった者は,同法1129号により,6月以下の懲役若しくは50万円以下の罰金に処され,又はこれを併科されることになります(同法11514号に両罰規定あり。)。

 

(2)禁止行為規制(63条の9の3並びに109条8号及び112条10号)

 また,こちらも新設条項である改正後資金決済法63条の93は,暗号資産交換業者又はその役員若しくは使用人に係る禁止行為を掲げています。当該罪と罰とのカタログは,次のとおりとなります。

改正後資金決済法63条の931号の禁止行為は「暗号資産交換業の利用者を相手方として第2条第7項各号に掲げる行為〔暗号資産交換業に係る行為〕を行うことを内容とする契約の締結又はその勧誘〔略〕をするに際し,虚偽の表示をし,又は暗号資産の性質その他内閣府令で定める事項〔略〕についてその相手方を誤認させるような表示をする行為」です。当該禁止行為を行った者は,同法1098号によって罰せられます(1年以下の懲役若しくは300万円以下の罰金又はこれを併科(同法11512号の両罰規定により法人には特に2億円以下の罰金刑))。

改正後資金決済法63条の932号の禁止行為は「その行う暗号資産交換業に関して広告をするに際し,虚偽の表示をし,又は〔暗号資産の性質その他内閣府令で定める事項〕について人を誤認させるような表示をする行為」であり,第3号の禁止行為は「〔暗号資産交換業の利用者を相手方として第2条第7項各号に掲げる行為〔暗号資産交換業に係る行為〕を行うことを内容とする契約の締結又はその勧誘〕をするに際し,又はその行う暗号資産交換業に関して広告をするに際し,支払手段として利用する目的ではなく,専ら利益を図る目的で暗号資産の売買又は他の暗号資産との交換を行うことを助長するような表示をする行為です(下線は筆者)。これらの禁止行為を行った者は,同法11210号によって罰せられます(6月以下の懲役若しくは50万円以下の罰金又はこれを併科(同法11514号に両罰規定))。

 虚偽の表示や人を誤認させるような表示がいけないのは当然のこととしても(改正後資金決済法63条の931号・2号),「支払手段として利用する目的ではなく,専ら利益を図る目的で暗号資産の売買又は他の暗号資産との交換を行うことを助長するような表示をする行為」が犯罪とされてしまうこと(同条3号)は厄介です。現実には,暗号資産を支払手段として実際に利用しており,又は利用しようとしている人は,多数派ではないようであるからです(例えば老舗のビットコインであっても支払手段としての使い勝手は悪く,「ビットコインの取引は,最大でも世界全体で1秒間に7件しか行うことができませんでした(これは,10分間では4200件,1日では約60万件にあたります)。しかし,ビットコインの取引件数が増える中で,取引量がこのブロックサイズの上限を上回るようになってしまいました。取引量がブロックの容量を超えて,取引の渋滞や承認の遅延が発生してしまったのです。」というような事情だったそうです(中島真志『アフター・ビットコイン』(新潮社・2017年)90頁)。)。また,そもそもhomo economicusの行う経済取引の動機が利益を図ることでないわけがないところであって,利益を図るべしと言うななどとは「余計なお世話である」感があります。ただし,当該条文の文言に再び戻ってよく読んでみると,「専ら利益を図る目的で暗号資産の売買又は他の暗号資産との交換を行うことを助長するような表示」であって初めて犯罪なのですから,これが「専ら」ではなく「主に」ならば,少なくとも犯罪捜査当局筋の問題とはならないものと考えてよいものではありましょうか。悩ましいところです。(「助長」については,「宋人有閔其苗之不長而揠之者,芒芒然帰,謂其人曰,今日病矣,予助苗長矣,其子趨而往視之,苗則槁矣」との出典(孟子・公孫丑章句上)に忠実に解釈すると,暗号資産交換業利用者が「といしい結果強引揠之者これをぬけるものないしょう。)

しかしながら,「仮想通貨交換業者による積極的な広告等により,仮想通貨の値上がり益を期待した投機的取引が助長され」ていること(研究会報告書8頁)自体が問題であって「投機的取引を助長する広告・勧誘」は行わないことを求めることが適当と考えられる(同9頁)ということであれば,業規制当局筋の解釈・運用は厳しいものとなるのでしょう。投機については,“ “Speculation” has an ugly ring, but a successful derivatives market needs speculators who are prepared to take on risk and provide more cautious people…with the protection they need.”(「投機」には醜い響きがある。しかしながら,デリバティブ市場が成功するためには,リスクを取る準備があり,そして〔略〕より慎重な人々に対して彼らが必要とする保護を与える投機家が必要なのである。)などともいわれており(Brealey and Myers, Principles of Corporate Finance, 7th ed., McGraw-Hill, 2003, p.773),経済社会全体として効用はあるはずなのですが,暗号資産の市場における事情は異なるのでしょうか。「仮想通貨デリバティブ取引については,原資産である仮想通貨の有用性についての評価が定まっておらず,また,現時点では専ら投機を助長している,との指摘もある中で,その積極的な社会的意義を見出し難い。」との厳しい評価が下されているところです(研究会報告書16頁)。

 なお,改正後資金決済法63条の10には新たに第2項が設けられ,同項は「暗号資産交換業者は,暗号資産交換業の利用者に信用を供与して暗号資産の交換等を行う場合には,前項に規定する措置のほか,内閣府令で定めるところにより,当該暗号資産の交換等に係る契約の内容についての情報の提供その他の当該暗号資産の交換等に係る業務の利用者の保護を図り,及び当該業務の適正かつ確実な遂行を確保するために必要な措置を講じなければならない。」と規定しています。暗号資産交換業者から信用の供与を受けることまでして暗号資産の売買・交換をしてしまう利用者の存在自体は,御当局としても容認せざるを得ないということなのでしょう。従来の状況は,「仮想通貨の売買・交換を業として行うことは資金決済法の規制対象とされているが,仮想通貨信用取引自体に対する金融規制は設けられていない。」というものであったところです(研究会報告書18頁)。

 

9 受託金銭及び受託暗号資産の分別管理義務並びに履行保証暗号資産

 

(1)受託金銭の管理(63条の11第1項)

 従来の資金決済法63条の111項では,仮想通貨交換業者は利用者の金銭を分別管理するだけでよいとされていました。しかしながら,改正後資金決済法63条の111項では,利用者の金銭については内閣府令で定めるところにより信託会社等(資金決済法216項参照)への信託もしなければならないものとされています。仮想通貨交換業者に係る「制度の施行時と比べて,受託金銭の額が高額になってきているほか,検査・モニタリングを通じて,仮想通貨交換業者による受託金銭の流用事案も確認されている」ことから,「受託金銭については,流用防止及び倒産隔離を図る観点から,仮想通貨交換業者に対し,信託義務を課すことが適当と考えられ」たこと(研究会報告書7頁)によるものです。

 

(2)受託暗号資産の管理(63条の11第2項)

 受託暗号資産については,信託の義務付けは検討されたものの,結局その導入には至っていません(研究会報告書6頁参照)。しかしながら,従来の分別管理義務に加えて,「この場合〔分別管理に係る改正後資金決済法63条の112項前段の場合〕において,当該暗号資産交換業者は,利用者の暗号資産(利用者の利便の確保及び暗号資産交換業の円滑な遂行を図るために必要なものとして内閣府令で定める要件に該当するものを除く。)を利用者の保護に欠けるおそれが少ないものとして内閣府令で定める方法で管理しなければならない。」と,その方法についての新たな義務が規定されています(同項後段)。「仮想通貨交換業者には,セキュリティ対策の観点から,可能な限り,受託仮想通貨の移転に必要な秘密鍵をコールドウォレット(オフライン)で管理することが求められ」ているところです(研究会報告書3頁)。金融庁説明資料では「コールドウォレット」で管理することを義務付けるものとされています(2頁。下線は筆者)。

 

(3)履行保証暗号資産(63条の11の2及び108条3号)

 他方,「こうしたセキュリティ対策に加えて,流出事案が生じた場合の〔略〕顧客に対する弁済原資が確保されていることも,利用者保護の観点から重要と考えられる」ことから,暗号資産交換業者に対し「ホットウォレットで秘密鍵を管理する受託仮想通貨に相当する額以上の純資産額及び弁済原資(同種・同量以上の仮想通貨)の保持を求めることが適当と考えられ」(研究会報告書4頁。外部のネットワークに接続されたウォレットは「ホットウォレット」と呼ばれています(同3頁註8)。),改正後資金決済法63条の1121項は履行保証暗号資産制度を導入し,「暗号資産交換業者は,前条第2項に規定する内閣府令で定める要件に該当する暗号資産〔ホットウォレット(金融庁説明資料2頁参照)で秘密鍵を管理することが認められる暗号資産〕と同じ種類及び数量の暗号資産(以下この項,第63条の1921項及び第108条第3号において「履行保証暗号資産」という。)を自己の暗号資産として保有し,内閣府令で定めるところにより,履行保証暗号資産以外の自己の暗号資産と分別して管理しなければならない。この場合において,当該暗号資産交換業者は,履行保証暗号資産を利用者の保護に欠けるおそれが少ないものとして内閣府令で定める方法で管理しなければならない。」と規定しています。

なお,「ホットウォレットで秘密鍵を管理する受託仮想通貨に相当する額以上の純資産額」の保持義務が採用されなかった理由については,いわく。「弁済資金として金銭等の安全資産の保持を求めることも考えられるが,仮想通貨交換業者が顧客に対して負っている義務は受託仮想通貨を返還することであることや,安全資産の保持額が仮想通貨の価格変動により弁済必要額に満たなくなる場合があり得ること等に留意が必要と考えられる。また,仮に受託仮想通貨が流出したとしても,仮想通貨交換業者が顧客に対して受託仮想通貨を返還する義務が当然に消滅するわけではないことを踏まえても,弁済原資としては同種の仮想通貨の保持を求めることが適当と考えられる。」と(研究会報告書4-5頁註11)。

暗号資産交換業者には,ホットウォレット保管分に相当する同種・同量の暗号資産を重ねて別途購入等して確保し,かつ,保管しなければならない(寝かせておく)負担が新たに生ずることになります。また,履行保証暗号資産の管理の状況については,定期に,公認会計士又は監査法人の監査を受けなければなりません(改正後資金決済法63条の1122項)。

改正後資金決済法63条の192については,次の10で説明します。

改正後資金決済法1083号は,「第63条の1121項前段の規定に違反して,履行保証暗号資産を保有せず,又は履行保証暗号資産を履行保証暗号資産以外の自己の暗号資産と分別して管理しなかった者」を2年以下の懲役若しくは300万円以下の罰金に処し,又はこれを併科するものとしています(同法11511号の両罰規定により,法人は特に3億円以下の罰金刑が科せられます。)。

 

10 対象暗号資産の弁済等(63条の19の2及び63条の19の3)

 新たに設けられる改正後資金決済法63条の192及び63条の193は,次のように規定しています。

 

   (対象暗号資産の弁済)

  第63条の19の2 暗号資産交換業者との間で当該暗号資産交換業者が暗号資産の管理を行うことを内容とする契約を締結した者は,当該暗号資産交換業者に対して有する暗号資産の移転を目的とする債権に関し,対象暗号資産(当該暗号資産交換業者が第63条の112項の規定により自己の暗号資産と分別して管理するその暗号資産交換業の利用者の暗号資産及び履行保証暗号資産をいう。)について,他の債権者に先立ち弁済を受ける権利を有する。

  2 民法(明治29年法律第89号)第333条の規定は,前項の権利について準用する。

  3 第1項の権利の実行に関し,必要な事項は,政令で定める。

 

   (対象暗号資産の弁済への協力)

  第63条の19の3 暗号資産交換業者から暗号資産の管理の委託を受けた者その他の当該暗号資産交換業者の関係者は,当該暗号資産交換業者がその行う暗号資産交換業に関し管理する利用者の暗号資産に係る前条第1項の権利の実行に関し内閣総理大臣から必要な協力を求められた場合には,これに応ずるよう努めるものとする。

 

 改正資決済法63条の1921項の権利に係る制度導入は,暗号資産交換業者の管理に係る利用者からの受託暗号資産については当該利用者に対して信託受益権も取戻権も(研究会報告書5頁註12参照)認められていないとの認識に基づくものなのでしょう。「資金決済法上,分別管理された顧客の仮想通貨は交換業者破産時に信託財産とみなし破産財産に属しない旨明記」することも,「取戻権構成」により「交換業者倒産時に特定性が担保された顧客分の仮想通貨は交換業者の一般債権者の弁済原資とならずに顧客に返還される旨明記」することも(小野傑「仮想通貨交換業者の分別管理義務」金融法務事情2013号(20181210日号)1頁)されなかったということになるのでしょう。先取特権(「先取特権者は,この法律その他の法律の規定に従い,その債務者の財産について,他の債権者に先立って自己の債務の弁済を受ける権利を有する」(民法303条))的に「顧客の仮想通貨交換業者に対する受託仮想通貨の返還請求権を優先弁済の対象とすること」とした上で(研究会報告書6-7頁参照),「受託仮想通貨の返還請求権を優先弁済の対象とすることについては,他の債権者との関係にも留意が必要との意見もあった。こうした意見も踏まえ,優先弁済権の目的財産を,仮想通貨交換業者の総財産ではなく,例えば,本来的に顧客以外の債権者のための財産とはいえない受託仮想通貨と,〔略〕流出リスクに備えて顧客のために保持を求める弁済原資(同種の仮想通貨)に限定するといった対応も考えられる。」とされていたところに鑑み(同7頁註16),結論として,正に当該「限定するといった対応」が採用されたものでしょう。

ちなみに民法333条は,「先取特権は,債務者がその目的である動産をその第三取得者に引き渡した後は,その動産について行使することができない。」と規定しています。暗号資産に即していえば,いったんネットワーク上に流出してしまったら仕方がない,ということでしょう。

なお,先取特権は民法の物権編に規定されていますが,一般の先取特権であればその目的物は債務者の総財産であって(民法306条),物たる有体物(同法85条)には限定されず,「債権その他の財産のすべてを含む。」とされています(我妻榮『新訂担保物権法(民法講義Ⅲ)』(岩波書店・1968年)76頁。また,58頁)。ただし,「法律上執行の目的とならないものはおのずから除外される。なお,この場合にも総財産は1個のものとみられるのではなく,すべての財産のそれぞれの上に先取特権が成立するものとみる。」とされています(我妻Ⅲ・76頁)。目的たる対象暗号資産に対する執行の方法は,正に改正後資金決済法63条の1923項の政令を待つ,ということなのでしょう。

 

ちなみに,先取特権の実行であれば,担保権の実行としての競売(民事執行法(昭和54年法律第4号)第3章の章名参照。また,旧競売法(明治31年法律第15号)3条・22条)ということになるのでしょう。しかして,暗号資産は民事執行法1671項に規定する「その他の財産権」だとすると,それを目的とする先取特権の実行の要件等は同法193条によることになります。すなわち,暗号資産を管理する暗号資産交換業者の普通裁判籍の所在地を管轄する裁判所が執行裁判所となり(民事執行法1932項・1671項・1441項),担保権の存在を証する文書の提出によって(同法1931項),当該執行裁判所の差押命令によって実行が開始されることになるのでしょう(同条2項・同法1671項・143条)。配当要求は,執行力のある債務名義の正本を有する債権者及び文書により先取特権を有することを証明した債権者がすることができることになるようです(民事執行法1932項・1671項・1541項)。執行官が必ず暗号資産の引渡しを受けねばならないのでは大変でしょうから(民事執行法163条参照),執行裁判所の譲渡命令,売却命令,管理命令又は適当な方法による換価を命ずる命令によって執行されるのでしょうか(同法1932項・1671項・161条)。

改正後資金決済法63条の1921項の優先弁済権の対象である暗号資産の移転を目的とする債権は,金銭の支払を目的とする債権というわけには直ちにはいきません。先取特権の実行の場合は,履行に代わる損害賠償の債権について申立てをすることとなるのでしょうか(不動産登記法(平成16年法律第123号)8311号括弧書き参照。また,担保権の実行の申立書の記載事項に係る民事執行規則(昭和54年最高裁判所規則第5号)17012号の「被担保債権の表示」については,「債権者が当該担保権の実行の手続において配当等を受けようとする金額を明らかにするものである」,「したがって,元本債権だけでなく,利息及び遅延損害金についても配当等を受けようとするときは,その金額又は利率及び起算日をも記載すべきである」ものとされています(最高裁判所事務総局民事局監修『条解民事執行規則(第三版)』(司法協会・2007年)607-608頁。下線は筆者)。)。平成29年法律第44号による改正後民法では第41523号及び第417条に基づき金銭債権に変ぜしめられることになります。ただし,暗号資産の管理について寄託構成を採用する場合であって(片岡義広「仮想通貨の私法的性質の論点」LIBRA174号(20174月号)は,「準寄託」として考えられるであろうとします(16-17頁)。),寄託契約の告知による終了に基づき寄託物の返還請求がされると解するときは(我妻榮『債権各論中巻二(民法講義Ⅴ₃)』(岩波書店・1962年)723頁),当該返還債務について同法41523号後段の「債務の不履行による契約の解除権が発生」することは(解除すべき契約は既に終了しているのであるから)もはやないということになりそうにも思われます。ここは,解釈で補充して対応するのでしょう。我妻榮は,履行遅滞に基づく填補賠償の請求について,「債権者は,一定の期間を定めて催告した上で,期間徒過の後は,解除によって自己の債務を消滅させることなしにも填補賠償を請求する権利を取得する」と解すると述べた上で,「遺贈による債務のように契約に基づかないもの」(したがって,これについては契約の解除権の発生は観念されません。)などにおいて「債権者にとって妥当な結果となる」とその理由を挙げていたところです(『新訂債権総論(民法講義Ⅳ)』(岩波書店・1964年)114頁)。

なお,別除権(破産法(平成16年法律第75号)29項)である場合,破産手続によらないで行使できますが(同法651項),やはり民事執行法等によるその「基礎である担保権本来の実行方法によること」となります(伊藤眞『破産法(第4版)』(有斐閣・2005年)319頁)。非金銭債権を金銭債権に転化し(破産法10321号イ),破産債権者として破産手続に参加する場合(同条1項),その破産債権が優先的破産債権(同法98条)であるとよいのですが,優先的破産債権は「一般の先取特権その他一般の優先権がある」破産債権とされています(同条1項)。「優先的破産債権の基礎となるのは,民法その他の法律にもとづく一般の先取特権および企業担保権など」です(伊藤194-195頁)。これらは債務者の総財産を担保の目的としています(民法306条柱書き,企業担保法(昭和33年法律第106号)21項)。

ただし,改正資決済法63条の192及び63条の193の見出しは「対象暗号資産の弁済」といっています。「暗号資産の移転を目的とする債権に関し」(改正資決済法63条の1921項),対象暗号資産そのものによる弁済(「対象暗号資産の弁済」)を優先的に受けることが改正資決済法63条の1921項の権利なのだ,ということなのでしょう。

 

改正後資金決済法63条の193の規定は,「土屋雅一「ビットコインと税務」税大ジャーナル23号(2014年)8182頁は,〔ビットコインの移転に要する暗号の記録媒体が〕紙媒体になれば差押可能財産とできるが,滞納者から暗号解読のパスワードを聞き出す方法に問題があることを指摘している。」という記述(鈴木尊明「ビットコインを客体とする所有権の成立が否定された事例」TKCローライブラリー新・判例解説Watch民法(財産法)No.1072016219日掲載)4頁註11)などを想起させるところです。また,執行裁判所又は執行官ではなく(民事執行法2条参照),金融庁(内閣総理大臣)が,私権であろうところの改正後資金決済法63条の1921項の優先弁済権の実行に関与するという仕組みも興味深いところです。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002 東京都渋谷区渋谷三丁目5-16 渋谷三丁目スクエアビル2

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

 

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1 利用者財産の分別管理に係る仮想通貨交換業者の義務に関する法令の規定

 「利用者財産の管理」との見出しを付された資金決済に関する法律(平成21年法律第59号。以下「資金決済法」といいます。)63条の11は,その第1項で「仮想通貨交換業者は,その行う仮想通貨交換業に関して,内閣府令で定めるところにより,仮想通貨交換業の利用者の金銭又は仮想通貨を自己の金銭又は仮想通貨と分別して管理しなければならない。」と規定し,第2項では「仮想通貨交換業者は,前項の規定による管理の状況について,内閣府令で定めるところにより,定期に,公認会計士(公認会計士法(昭和23年法律第103号)第16条の25項に規定する外国公認会計士を含む。第63条の143項において同じ。)又は監査法人の監査を受けなければならない。」と規定しています。

 上記資金決済法63条の111項の「内閣府令で定めるところ」は,仮想通貨交換業者に関する内閣府令(平成29年内閣府令第7号。以下「仮想通貨交換業者府令」といいます。)20条において次のように規定されています。

 

   (利用者財産の管理)

  第20条 仮想通貨交換業者は,法第63条の111項の規定に基づき仮想通貨交換業の利用者の金銭を管理するときは,次に掲げる方法により,当該金銭を管理しなければならない。

   一 預金銀行等への預金又は貯金(当該金銭であることがその名義により明らかなものに限る。)

   二 信託業務を営む金融機関等への金銭信託で元本補填の契約のあるもの

  2 仮想通貨交換業者は,法第63条の111項の規定に基づき利用者の仮想通貨を管理するときは,次の各号に掲げる仮想通貨の区分に応じ,当該各号に定める方法により,当該仮想通貨を管理しなければならない。

   一 仮想通貨交換業者が自己で管理する仮想通貨 利用者の仮想通貨と自己の固有財産である仮想通貨とを明確に区分し,かつ,当該利用者の仮想通貨についてどの利用者の仮想通貨であるかが直ちに判別できる状態(当該利用者の仮想通貨に係る各利用者の数量が自己の帳簿により直ちに判別できる状態を含む。次号において同じ。)で管理する方法

   二 仮想通貨交換業者が第三者をして管理させる仮想通貨 当該第三者において,利用者の仮想通貨と自己の固有財産である仮想通貨とを明確に区分させ,かつ,当該利用者の仮想通貨についてどの利用者の仮想通貨であるかが直ちに判別できる状態で管理させる方法

 

分別して管理する分別管理はブンベツ管理であってフンベツ管理ではありません。委任事務の処理は,分別(ふんべつ)をもって管理すべきものというよりは,「委任の本旨に従い,善良な管理者の注意をもって」行うべきものとされています(民法(明治29年法律第89号)644条)。商人による寄託物の保管についても同様,分別(ふんべつ)の語は用いられず,「商人がその営業の範囲内において寄託を受けた場合には,報酬を受けないときであっても,善良な管理者の注意をもって,寄託物を保管しなければならない。」とされています(平成30年法律第29号による改正後の商法(明治32年法律第48号)595条)。

「善良な管理者の注意」とは何かといえば,富井政章及び本野一郎による民法644条のフランス語訳によれば“les soins d’un bon administrateur”とあります。旧民法財産取得編(明治23年法律第28号)2391項には「代理人ハ委任事件ヲ成就セシムルコトニ付テハ善良ナル管理人タルノ注意ヲ為ス責ニ任ス」とあるのでフランス民法由来の概念かとも思うのですが,フランス民法19921項は“Le mandataire répond non seulement du dol, mais encore des fautes qu’il commet dans sa gestion.”(受任者は,詐欺のみならず,その事務処理における過失についても責任を負う。)と,同条2項は“Néanmoins la responsabilité relative aux fautes est appliquée moins rigoureusement à celui dont le mandat est gratuit qu’à celui qui reçoit un salaire.”(しかしながら,過失に係る責任は,無償の委任に係る者に対しては,報酬を受領する者よりもより厳格でないものとして適用される。)と規定するのみです。「善良な管理者の注意」との言い回しは,何やら日本における発明のようであるように思われます。2019415日の追記:我妻榮『新訂債権総論(民法講義Ⅳ)』(岩波書店・1972年)26頁においては「善良なる管理者の注意」は「ドイツ民法に“in Verkehr erforderliche Sorgfalt”というに同じ」と説明されていますが,このドイツ語は,取引において(in Verkehr)必要な(erforderliche)注意(Sorgfalt)という意味です。「善良な管理者」の語源としてはしっくりしません。そこで,横着をせずに梅謙次郎の著書に遡れば,民法400条の解説にありました。語源はローマ法のpaterfamiliasです。いわく,「軽過失ヲ別チテ抽象的〇〇〇成形的〇〇〇Culpa levis in abstracto ve in concreto)ノ2ト為スハ多少理由ナキニ非ス例ヘハ売主カ其売却シタル物ヲ保存スルニ付テハ善良〇〇ナル〇〇管理者〇〇〇Bonus paterfamilias良家〇〇ト訳スヘキカ)カ通常加フル所ノ注意ヲ加フヘキモ無償ニテ寄託ヲ受ケタル者ハ受寄物ヲ保存スルニハ唯自己ノ財産ニ付テ平生加フル所ノ注意ヲ加フレハ則チ足ルカ如キ是ナリ(〔民法〕659〔条〕)即チ甲ハ抽象的ニシテ乙ハ成形的ナリ」と(梅謙次郎『民法要義巻之三債権 訂正増補第20版』(和仏法律学校=書肆明法堂・1903年)12頁)。このローマの善良なpaterfamiliasは,優しい「マイホーム・パパ」であるかといえば,そうではありません。「古典期の学説によると,父親は,妻を含む家族成員の全てに対して「生殺与奪の権利(ius vitae ac necis)」を有していた。これは,実際上,ある種の刑罰権として家内裁判の基礎をなしたものである。」という怖い人であり,かつ,「ローマの家父・家長の権能は大変に強力で,統一的・排他的・一方的・絶対的・画一的な支配をもって家族に君臨した。彼は,家族構成員の法的人格を完全に吸収し,対外的交渉を全て担当して家族を代表し,権利義務の帰属点となった。」とされています(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法―ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)149頁)。ちなみに,necisはラテン語女性名詞nexの属格形で,このnexには殺害,殺すこと,死のような禍々まがまがしい意味があります。やれ飛行機は墜落せずに無事だったわいと成田空港にくたびれて到着した教養人に対して「次はNexに乗ってください(in Nece vehere)」と告げるのはちょっといかがなものでしょうか。我がJR東日本の成田エクスプレスの略称は,そこをおもんぱかってか,N’EXと,アポストロフィを打ってラテン語の綴りと相違せしめてあります。)

以上はさておき,仮想通貨交換業者折角の分別管理には,どのような効能があるのか思案分別してみましょう。

(ちなみに,片岡義広「仮想通貨の私法的性質の論点」LIBRA174号(20174月号)17頁には,仮想通貨交換業者が倒産したときの取扱いについて,「〔仮想通貨が〕仮想通貨保有者のものとして〔仮想通貨交換業者のもとで〕分別管理がなされている限りは,明文規定はないものの,信託法251項〔「受託者が破産手続開始の決定を受けた場合であっても,信託財産に属する財産は,破産財団に属しない。」〕を準用し,分別管理された仮想通貨保有者の財産として取り扱い,同種同量の仮想通貨をそれぞれ返還すべきであると考える。なお,その総量が不足する場合には,管財人としては,プロラタ(数量按分)となるが,いずれの場合も,一般先取特権(民法306条)があるのと同様に一般倒産債権者からは優先した金銭配当をする便宜も認められてよいと考える(破産法981項〔「破産財団に属する財産につき一般の先取特権その他一般の優先権がある破産債権〔略〕は,他の破産債権に優先する。」〕参照)。そう考えることが,公法(規制法)でありつつも,改正資金決済法が分別管理を要求した趣旨に適うものと考える。」と述べ,更に「換言すれば,改正資金決済法が分別管理を求めたのは,かかる私法上の法律効果が生じることを前提に(期待して)規定したものといいうる。」と付言しています(同頁(註20))。)

 

2 利用者財産の分別管理を仮想通貨交換業者に義務付けた趣旨:不正対策

 

(1)資金決済法63条の11

資金決済法63条の111項の趣旨については,2016524日の参議院財政金融委員会において,資金決済法改正による仮想通貨交換業者の登録制度の採用に関し,池田唯一政府参考人(金融庁総務企画局長)から答弁があり,「今回の仮想通貨交換業者につきましては,顧客から預かった財産を事業者の財産と分別して管理する義務が課されているなど,事業者において顧客の資産を自由に運用するものではないということ」であるとのことでした(第190回国会参議院財政金融委員会会議録第1419頁)。

より直接的には,仮想通貨交換業者又はその関係者による不正行為の防止が目的であるようです。同年427日の衆議院財務金融委員会における麻生太郎金融担当国務大臣の答弁にいわく。「いわゆる仮想通貨と法定通貨というものを交換するのをもってなりわいとしているという業者が,言われましたように,一昨年,破綻をして,その代表者が顧客の資金を着服した,横領したなどの容疑,嫌疑によって逮捕ということになったところであります。マウントゴックスというので一躍有名になりましたが,これは渋谷にあった会社だと記憶しますけれども。/私どもは,今回この法案を提出させていただくに当たりましては,こういった問題が発生していることに加えまして,いわゆる仮想通貨を利用する人たちの預けた財産,ビットコインを含む,現預金も含めまして,そういったものと自分たちの持っている会社等の財産というものをきちんと分別管理する義務というものを課すとともに,これは当然のこととして,適正な管理や,会社をやりますときには,財務諸表,比較貸借対照表,財産目録等々そういったものをきちっとした正確性を担保するために,公認会計士の外部監査というものを受ける義務を課しております。」と(第190回国会衆議院財務金融委員会議録第169-10頁)。

マウントゴックス社の内情は,池田唯一政府参考人の答弁するところでは,「マウントゴックス社が利用者から預かった金銭やビットコインを流出させていたその実態ということについては,〔略〕破綻に至る以前から債務超過に陥っていた,それから,顧客の資産と代表者あるいは会社の資産とが混同されていたというような点が,破産手続の過程で示されている資料等で報告されているところでございます。」とのことでした(第190回国会衆議院財務金融委員会議録第169頁)。すなわち,「警視庁の調べで,ハッカーによるサイバー攻撃により消失したと言われていたビットコインの大部分は,実は,元社長のマルク・カルプレスが外部の口座に送金するなどして横領していたことが分かったのです。つまり,外部のハッカーによる犯行ではなく,犯人は「ハッカーにやられた」と言って被害者役を演じていた取引所の社長その人だったのです。このためカルプレス被告は,20159月に業務上横領などで起訴されました。」ということでした(中島真志『アフター・ビットコイン 仮想通貨とブロックチェーンの次なる覇者』(新潮社・2017年)59頁)。

 (本記事掲載の翌日の追記:上記起訴に係るカルプレス氏の業務上横領等被告事件の一審判決が2019315日に東京地方裁判所で下されましたが,何と,業務上横領及びその予備的訴因の会社法違反(特別背任)は無罪,私電磁的記録不正作出・同供用罪については懲役26月の有罪でしたが4年の執行猶予が付いたそうです。同日付け(同日1340分に更新)の日本経済新聞のウェブ・サイトの記事によると,大量消失したビットコインは「ハッキングされて盗まれた」と被告人は主張していたところ,結局「警視庁の捜査でも,〔ビット〕コイン消失の原因は解明されないままとなっている」そうです。また,金銭についても裁判所は「利用者が〔マウントゴックス〕社に送金した金銭は,同社に帰属すると指摘。金銭が利用者に帰属することを前提にした検察側の主張は採用できない」と判断したそうです。)
 

(2)仮想通貨交換業者府令20

仮想通貨交換業者府令202項の由来については,金融庁の仮想通貨交換業等に関する研究会(座長・神田秀樹教授)の第6回会合(2018103日)に事務局から提出された資料(資料3「討議資料」5頁)には,資金決済法仮想通貨交換業者の倒産リスク問題に関して「資金決済法では,信託法を含め,仮想通貨の私法上の位置付けが明確でない中で,少なくとも過去の破綻事例のような顧客財産の流用を防止する観点から,仮想通貨の分別管理方法として,〔信託を用いて保全するのではなく,〕②〔自己又は委託先において顧客毎の財産を直ちに判別できる状態で管理する方法〕を規定した。」と述べられています(下線は筆者によるもの。仮想通貨交換業等に関する報告書(仮想通貨交換業等に関する研究会・20181221日)5頁も「顧客財産の流用を防止する観点」を理由として挙げています。)。

金銭の分別管理に係る同条1項の由来については,「受託金銭については,資金決済法上,仮想通貨に信託義務を課さない中で,金銭についてのみ信託を行うこととしても,どこまで利用者保護の実効性があるか疑問であるとの指摘等を踏まえ,金銭の分別管理方法としては,自己資金とは別の預貯金口座又は金銭信託で管理することを規定している」ということでした(仮想通貨交換業等に関する研究会(第6回)資料37頁)。

 

3 利用者財産の分別管理といわゆる倒産隔離

 利用者財産の分別管理と,いわゆる倒産隔離との関係についてはどうでしょうか。

「取戻権」との見出しが付された破産法(平成16年法律第75号)62条は,「破産手続の開始は,破産者に属しない財産を破産財団から取り戻す権利〔略〕に影響を及ぼさない。」と規定しているところです。

 

(1)金融商品取引業者等の例:倒産隔離可能

倒産隔離に関して,仮想通貨交換業者と金融商品取引業者等(金融商品取引業者又は登録金融機関(金融商品取引法(昭和23年法律第25号。以下「金商法」といいます。)34条))との横並び論の観点から,まず金融商品取引業者等に係る顧客資産の分別管理の仕組みについての説明を見てみましょう。

すなわち,金融商品取引業者等については,「金融商品取引業者においては,顧客から(所有権の移転を伴う)消費寄託により預かった金銭については,顧客を受益者とする信託業務が課されている〔金商法43条の22項〕。一方で,顧客から(所有権の移転を伴わない)寄託により預かった有価証券については,顧客毎の財産を直ちに判別できる状態で管理することが求められている〔金商法43条の21項〕。/これにより,金融商品取引業者において分別管理が適切になされている限り,仮に当該金融商品取引業者が破綻したとしても,顧客は,金銭については信託受益権の行使により,有価証券については所有権に基づく取戻権の行使により〔破産法62条〕,いずれも弁済を受けることが可能な仕組みとなっている。」とされています(仮想通貨交換業等に関する報告書5頁(註12))。

 

(2)仮想通貨交換業者の場合

 

ア 消極的見解

これに対して仮想通貨交換業者に係る分別管理の仕組みは当該仮想通貨交換業者の破綻のときにどう働くかといえば,こちらは心もとない状況となっています。

仮想通貨交換業等に関する研究会の第7回会合(20181019日)に事務局から提出された資料(資料4「補足資料」5頁)によれば,顧客の金銭を仮想通貨交換業者が預かって仮想通貨交換業者府令2011号に基づき「預貯金口座で管理する場合,倒産隔離機能なし」(下線は原文)ということで当該顧客の金銭は保全されないものとされ,顧客の仮想通貨を同条21号に基づき「自己の仮想通貨と明確に区分し,顧客毎の数量を直ちに判別できる状態で管理」しても当該仮想通貨については,「倒産隔離が機能しない可能性(仮想通貨に係る私法上の位置付けが不明確なため)」(下線は原文)があるものとされています(仮想通貨交換業等に関する報告書6頁にも「仮想通貨交換業者が適切に分別管理を行っていたとしても,受託仮想通貨について倒産隔離が有効に機能するかどうかは定かとなっていない。」とあります。)。

 

イ 別預貯金口座による金銭の分別管理

預貯金口座による金銭の分別管理については,「当該金銭〔「利用者の金銭」ということでしょう。〕であることがその名義により明らか」であっても(仮想通貨交換業者府令2011号括弧書き),金融庁としては,当該預貯金債権は仮想通貨交換業者に帰属し,利用者には帰属しないと解しているのでしょう。
 (なお,最判平成
15221日民集57295頁は,被上告人損害保険会社(B火災海上保険(株))の代理店である訴外会社(D建設工業(株))が被上告人の保険契約者から収受した保険料を自己の財産と分別して管理するために上告人である信用組合において開設を受けた預金口座である「本件預金口座の名義である「B火災海上保険(株)代理店D建設工業(株)F」が預金者として訴外会社〔D建設工業(株)〕ではなく被上告人〔B火災海上保険(株)〕を表示しているものとは認められない」とした上で,通帳及び届出印の保管並びに本件預金口座に係る入金及び払戻事務を行っていたのは訴外会社であったから「本件預金口座の管理者は,名実ともに訴外会社」であると認め,(「訴外会社は,被上告人を代理して保険契約者から収受した保険料を専用の金庫ないし集金袋で保管し,他の金銭と混同していなかった」と原審が認定しているとしても)「金銭については,占有と所有が結合しているため,金銭の所有権は常に金銭の受領者(占有者)である受任者に帰属し,受任者は同額の金銭を委任者に支払うべき義務を負うことになるにすぎない」から「被上告人の代理人である訴外会社が保険契約者から収受した保険料の所有権はいったん訴外会社に帰属」するのであって「本件預金の原資は,訴外会社が所有していた金銭にほかならない」とし,「本件事実関係の下においては,本件預金債権は,被上告人にではなく,訴外会社に帰属するというべきである。訴外会社が本件預金債権を訴外会社の他の財産と明確に区分して管理していたり,あるいは,本件預金の目的や使途について訴外会社と被上告人との間の契約によって制限が設けられ,本件預金口座が被上告人に交付されるべき金銭を一時入金しておくための専用口座であるという事情があるからといって,これが金融機関である上告人に対する関係で本件預金債権の帰属者の認定を左右する事情になるわけではない。」と判示しています。)

仮想通貨交換業者府令201項には2種の分別管理の方法が規定されているところ,金銭信託に係る金商法43条の22項に対応するのは仮想通貨交換業者府令2012号の方法であるから顧客財産である金銭の保全に万全を期するのならそちらを使うべし,ということのようです。

 

ウ 仮想通貨交換業者における仮想通貨の分別管理

「自己の仮想通貨と明確に区分し,顧客毎の数量を直ちに判別できる状態で管理」しても当該仮想通貨については「倒産隔離が機能しない可能性(仮想通貨に係る私法上の位置付けが不明確なため)」があるとの問題意識は何かといえば,有価証券については「分別管理が適切になされていれば,顧客財産は保全」されて,これは「顧客は有価証券の所有権に基づき,財産を取り戻せる私法上の権利」に基づくものである一方(仮想通貨交換業等に関する研究会(第7回)資料45頁。下線は原文),これに対して仮想通貨については,取戻権(破産法62条)の基礎となる権利が観念できないのではないか,というもののようです。

 

4 仮想通貨を客体とする所有権の否定:東京地方裁判所平成27年8月5日判決

取戻権の基礎となる権利の典型としては,有価証券についていわれているように所有権(民法206条)があります。しかしながら,マウントゴックス社の破産事件に関して東京地方裁判所民事第28部平成2785日判決(平成26年(ワ)第33320号ビットコイン引渡等請求事件。裁判長裁判官は元司法研修所民事裁判教官の倉地真寿美判事)は,代表的仮想通貨であるビットコインに係る所有権の存在を否定しています。いわく。

 

 (2)所有権の客体となる要件について

 ア 所有権は,法令の制限内において,自由にその所有物の使用,収益及び処分をする権利であるところ(民法206条),その客体である所有「物」は,民法85条において「有体物」であると定義されている。有体物とは,液体,気体及び固体といった空間の一部を占めるものを意味し,債権や著作権などの権利や自然力(電気,熱,光)のような無体物に対する概念であるから,民法は原則として,所有物を含む物権の客体(対象)を有体物に限定しているものである(なお,権利を対象とする権利質(民法362条)等民法には物権の客体を有体物とする原則に対する明文の例外規定があり,著作権や特許権等特別法により排他的効力を有する権利が認められているが,これらにより民法の上記原則が変容しているとは解されない。)。

また,所有権の対象となるには,有体物であることのほかに,所有権が客体である「物」に対する他人の利用を排除することができる権利であることから排他的に支配可能であること(排他的支配可能性)が,個人の尊厳が法の基本原理であることから非人格性が,要件となると解される。

  イ 原告は,所有権の客体となるのは「有体物」であるとはしているものの,法律上の排他的な支配可能性があるものは「有体物」に該当する旨の主張をする。原告のこの主張は,所有権の対象になるか否かの判断において,有体性の要件を考慮せず,排他的支配可能性の有無のみによって決すべきであると主張するものと解される。

   このような考えによった場合,知的財産権等の排他的効力を有する権利も所有権の対象となることになり,「権利の所有権」という観念を承認することにもなるが,「権利を所有する」とは当該権利がある者に帰属していることを意味するに過ぎないのであり,物権と債権を峻別している民法の原則や同法85条の明文に反してまで「有体物」の概念を拡張する必要は認められない。したがって,上記のような帰結を招く原告の主張は採用できない。

 〔略〕

ウ 以上で述べたところからすれば,所有権の対象となるか否かについては,有体性及び排他的支配可能性(本件では,非人格性の要件は問題とならないので,以下においては省略する。)が認められるか否かにより判断すべきである。

3)ビットコインについての検討

ア ビットコインは,「デジタル通貨(デジタル技術により創られたオルタナティヴ通貨)」あるいは「暗号学的通貨」であるとされており〔略〕,本件取引所の利用規約においても,「インターネット上のコモディティ」とされていること〔略〕,その仕組みや技術は専らインターネット上のネットワークを利用したものであること〔略〕からすると,ビットコインには空間の一部を占めるものという有体性がないことは明らかである。

イ〔略〕

(ア)ビットコインネットワークの開始以降に作成された「トランザクションデータ」(送付元となるビットコインアドレスに関する情報,送付先となるビットコインアドレス及び送付するビットコインの数値から形成されるデータ等)のうち,「マイニング」(ビットコインネットワークの参加者がトランザクションを対象として,一定の計算行為を行うこと)の対象となった全てのものが記録された「ブロックチェーン」が存在する。ビットコインネットワークに参加しようとする者は誰でも,インターネット上で公開されている電磁的記録であるブロックチェーンを,参加者各自のコンピュータ等の端末に保有することができる。したがって,ブロックチェーンに関するデータは多数の参加者が保有している。

(イ)ビットコインネットワークの参加者は,ビットコインの送付先を指定するための識別情報となるビットコインアドレスを作成することができ,同アドレスの識別情報はデジタル署名の公開鍵(検証鍵)をもとに生成され,これとペアになる秘密鍵(署名鍵)が存在する。秘密鍵は,当該アドレスを作成した参加者が管理・把握するものであり,他に開示されない。

(ウ)一定数のビットコインをあるビットコインアドレス(口座A)から他のビットコインアドレス(口座B)に送付するという結果を生じさせるには,ビットコインネットワークにおいて,①送付元の口座Aの秘密鍵を管理・把握する参加者が,口座Aから口座Bに一定数のビットコインを振り替えるという記録(トランザクション)を上記秘密鍵を利用して作成する,②送付元の口座Aの秘密鍵を管理・把握する参加者が,作成したトランザクションを他のネットワーク参加者(オンラインになっている参加者から無作為に選択され,送付先の口座の秘密鍵を管理・把握する参加者に限られない。)に送信する,③トランザクションを受信した参加者が,当該トランザクションについて,送付元となる口座Aの秘密鍵によって作成されたものであるか否か及び送付させるビットコインの数値が送付元である口座Aに関しブロックチェーンに記録された全てのトランザクションに基づいて差引計算した数値を下回ることを検証する,④検証により上記各点が確認されれば,検証した参加者は,当該トランザクションを他の参加者に対しインターネットを通じて転送し,この転送が繰り返されることにより,当該トランザクションがビットコインネットワークにより広く拡散される,⑤拡散されたトランザクションがマイニングの対象となり,マイニングされることによってブロックチェーンに記録されること,が必要である。

 このように,口座Aから口座Bへのビットコインの送付は,口座Aから口座Bに「送付されるビットコインを表象する電磁的記録」の送付により行われるのではなく,その実現には,送付の当事者以外の関与が必要である。

(エ)特定の参加者が作成し,管理するビットコインアドレスにおけるビットコインの有高(残量)は,ブロックチェーン上に記録されている同アドレスと関係するビットコインの全取引を差引計算した結果算出される数量であり,当該ビットコインアドレスに,有高に相当するビットコイン自体を表象する電磁的記録は存在しない。

 上記のようなビットコインの仕組み,それに基づく特定のビットコインアドレスを作成し,その秘密鍵を管理する者が当該アドレスにおいてビットコインの残量を有していることの意味に照らせば,ビットコインアドレスの秘密鍵の管理者が,当該アドレスにおいて当該残量のビットコインを排他的に支配しているとは認められない。

ウ 上記で検討したところによれば,ビットコインが所有権の客体となるために必要な有体性及び排他的支配可能性を有するとは認められない。したがって,ビットコインは物権である所有権の客体とはならないというべきである。

 

 仮想通貨が所有権の客体には当たらないことについては,学説上も異論がないようです(森田宏樹「仮想通貨の私法上の性質について」金融法務事情2095号(2018810日号)15頁)。

ところで,前記(2)イにおいて東京地方裁判所は,「法律上の排他的な支配可能性があるものは「有体物」に該当する旨」の原告の主張を排斥しています。そうであれば,(3)アでビットコインには有体性がないことが明らかである旨認定した以上は,(3)イで更に排他的支配可能性の有無の検討までを行う必要はなかったように思われます。しかしながら当該検討がされた理由を忖度するに,あるいは我妻榮が次のように説いていたために為念的になされたのでしょうか。いわく,「私は,法律における「有体物」を「法律上の排他的支配の可能性」という意義に解し,物の観念を拡張すべきものと考える。権利の主体としての人が生理学上の観念でないのと同様,権利の客体としての物も物理学上の観念ではない。従って,法律は,その理想に基づいて,この観念の内容を決定することができるはずだからである」と(我妻榮『新訂民法総則(民法講義Ⅰ)』(岩波書店・1972年)202頁)。それともまた,「〔民法85〕条は,物に関する他の規定を必要に応じ無体物に関して類推適用すること(例,主たる権利と従たる権利)を妨げるものではなく」,「有体物以外のものについては,むしろ,法の欠缺と考え,その性質と問題に応じて物または物権に関する規定を類推適用すれば足りる」との指摘(四宮和夫『民法総則(第四版)』(弘文堂・1986年)120頁・121頁註(1)。また,『新注釈民法(1)総則(1)』(有斐閣・2018年)787頁(小野秀誠))を踏まえて,類推適用の要否を判断するための吟味を行ったということになるのでしょうか。

これらとは別に,「実は,特定の取引所で管理していたビットコインを別の取引所に移転させる場合に,紙媒体に暗号を印字する形で,物理的な表象にすることができる。この場合,有体性が認められるため,この紙媒体自体の所有権が問題になる可能性がある。それを見越して,そもそもビットコインには支配可能性がないから,所有権の客体とはなり得ないと示したのではないだろうか。」と説くものもあります(鈴木尊明「ビットコインを客体とする所有権の成立が否定された事例」TKCローライブラリー新・判例解説Watch・民法(財産法)No.1072016219日)3頁)。

 所有権の対象に係る「排他的支配可能性」については「海洋や天体等を除外する際に持ち出されるのが一般的である」とされます(鈴木3頁。また,四宮122頁,我妻Ⅰ・203頁)。しかしながら,「現行法上の物権の本質は「一定の物を直接に支配して利益を受ける排他的の権利である」ということができる。」というテーゼ(我妻榮著=有泉亨補訂『新訂物権法(民法講義Ⅱ)』(岩波書店・1984年)9頁)から出発すれば(なお,所有権は物権の代表的なものです。),「物権が目的物の直接の支配権であることは目的物の特定性(・・・)を要求する。種類と数量だけで定められたものについては,債権は成立しうるが(401条参照),物権は成立しえない。」ということ(我妻Ⅱ・11頁)と関係しそうです。「特定の参加者が作成し,管理するビットコインアドレスにおけるビットコインの有高(残量)は,ブロックチェーン上に記録されている同アドレスと関係するビットコインの全取引を差引計算した結果算出される数量であり,当該ビットコインアドレスに,有高に相当するビットコイン自体を表象する電磁的記録は存在しない」と東京地方裁判所平成2785日判決は判示するところ,「差引計算した結果算出された数量」は正に差引計算によって定められた数量にすぎません。

(しかしながら,小野傑「仮想通貨交換業者の分別管理義務」金融法務事情2013号(20181210日号)1頁は,仮想通貨交換業者破綻時の倒産隔離のための仮想通貨に係る「取戻権構成」による立法提案に際して「コールドウォレットに分別管理された顧客分の仮想通貨は特定性に疑義はなく,ホットウォレットに混蔵管理された仮想通貨も交換業者の顧客口座管理により特定性は担保されてお」ると論じています。)

(また,「ビットコインアドレスに,有高に相当するビットコイン自体を表象する電磁的記録は存在しない」とされているのですから,「仮想通貨は,電磁的記録(民法4463項括弧書き)である」ということであれば(片岡12頁),ビットコインアドレスには仮想通貨(電磁的記録)は存在していないことになります。)

 

5 金銭に係る「占有=所有権」理論と倒産隔離並びに仮想通貨の帰属及び移転の法的仕組み

 しかしそもそも,仮想通貨は通貨(本邦通貨及び外国通貨)ではないとはいえ(資金決済法25項参照),本家である通貨(金銭)について見れば,金銭の所有権に基づいて破産財団から当該金銭を取り戻すということはそもそも可能なのでしょうか。「Aの金銭を騙取したBが破産した場合や他の債権者から強制執行を受けた場合に,Aに取戻権や第三者異議権が認められるか」という問題であるところの「他の債権者との関係で金銭の原所有者の権利にどの程度物権的保護を与えるか,とくに優先的効力を認めるかの問題」については,「見解の対立が大きい」とされつつ(能見善久「金銭の法律上の地位」『民法講座 別巻Ⅰ』(有斐閣・1990年)124頁),金銭に係る「占有=所有権」理論を採る「通説・判例の立場からの言及はないが,当然否定することになろう。」と説かれていました(能見・同頁註(41))。

「占有=所有権」理論について通説は,「金銭(紙幣を含む貨幣)は,動産の一種であるが,それが通貨として存在する限り,金銭が体現する抽象的・観念的な価値は金銭そのものを離れては存在しえない。したがって,金銭という物質の占有者が,その価値の排他的支配者と認められる。そして,金銭が骨董品としてではなく,通貨として取引関係に立ち現れる限り,それが体現する観念的な価値が存在のすべてであるから,金銭はその占有者の所有に属すると言うことができる。判例も,不当利得に関連してであるが,金銭の所有権は,原則として占有の移転に従って移転するものであって,騙取された場合にも騙取者の所有となるという(最判昭和291151675頁。なお最判昭和39124判時36526頁)。〔略〕金銭の所有権の移転については,引渡は対抗要件ではなく,成立要件とするもので,近時の通説と言ってよかろう」と説いています(我妻Ⅱ・185-186頁)。

仮想通貨についても,森田宏樹教授は「仮想通貨の帰属および移転には,現金通貨および預金通貨とそれぞれに共通するメカニズムを見出すことができるように思われる。」と述べた上で,「仮想通貨は,財産権であるが,その保有者に排他的に帰属するのは,支払単位という価値的権能〔「金銭債務の債務免責力という権能であって,物を客体とする物権でも,債務者の行為を目的とする債権でもない。」〕であり,その帰属および移転を実体化する通貨媒体〔支払単位が「ある者に排他的に帰属している状態を創り出す」ためのものである「社会において一定の支払単位が組み込まれたものと合意され,かつ,それを通じて価値の帰属を実体的にトレースすることを可能とするような一定の媒体」(森田18頁)〕および通貨手段〔「特定の通貨媒体に係る「支払単位」を特定の者から他の者へと移転することを実現する」もの(森田18頁)。なお,「金銭債務の弁済に用いられる各種の「決済方法」は,それを構成する「通貨媒体」と「通貨手段」との組合せによって法的に把握することが可能となる」とされています(森田18頁)。〕であるブロックチェーン上の記録を離れてその存在を認識しえないものである。このような価値的権能の帰属および移転については,現金通貨および預金通貨のいずれにおいても,その特定による観念的な帰属ないし移転を認めない固有の法理が妥当しており,仮想通貨においてもこれと同様の規律が妥当すべきものといえよう。」と論じています(森田21頁)。

現金通貨の帰属及び移転に関する法理は,「支払単位を組み込まれた通貨媒体は有体物であるが,通貨の所有権移転においては,有体物に関する規律は修正ないし排除されて適用されることになる。その結果,占有の移転とは離れて,観念的な所有権の移転は認められない。つまり,通貨媒体の占有と価値的権能(支払単位)の帰属とが結び付く」というものであり(森田19頁),預金通貨の帰属及び移転に関する法理は,「流動性のある預金口座にあっては,入金記帳ごとに成立原因を更新する1個の残高債権が存在するのであって,入金記帳によって個別の預入金はその特定性を失い,預金債権が分属することはない。このことは,預金口座の「流動性」は,現金通貨における価値的権能について特定性を観念しえないのと同一の機能を果たしていると捉えることができ」,及び「預金口座に係る預金債権については,判例において,流動性預金口座に存する預金債権は,当該預金契約の当事者としての預金口座の出入金の権限を有する預金者に帰属するという理論が確立されつつある。この点でも,現金通貨において,通貨媒体である有体物を「占有」する者に価値的権能が帰属するという法理と同じ機能を認めることができ」るというものです(森田19-20頁)。

 

6 仮想通貨を寄託物とする寄託か仮想通貨の管理の委任か

 前記東京地方裁判所平成2785日判決は,ビットコインは所有権の客体とならないことを前提に,マウントゴックス社とその利用者との間においてビットコインに係る「寄託物の所有権を前提とする寄託契約の成立も認められない」と判示しています。寄託契約に関して,寄託の「目的物の所有権の帰属には関係がない。寄託者の所有に属さない物でも,寄託者は契約上の債権として返還請求権をもつ(大判大正75241008頁(寄託者が寄託物の遺産相続人でなかつたことが判明しても返還請求権に影響なし))」と説かれていること(我妻榮『債権各論中巻二(民法講義Ⅴ)』(岩波書店・1962年)704頁)との関係で違和感のある表現です。しかしながらこれは,自分はマウントゴックス社を受寄者とするビットコインに係る混蔵寄託契約の寄託者であった旨原告が主張していたことによるものでしょう。混蔵寄託は,平成29年法律第44号による改正後(202041日以降(同法附則1条,平成29年政令第309号))の民法(以下「改正後民法」といいます。)では「混合寄託」として第665条の2に規定されています。混蔵寄託の場合「受寄者は,混合物の所有権を取得しない。混合物は,本来の所有者の,寄託された数量に応じた持分による,共有となる。」とされています(我妻Ⅴ₃・717頁。また,『新注釈民法(14)債権(7)』(有斐閣・2018年)429-430頁(𠮷永一行))。

 むしろ,寄託契約の成否については,ビットコインが所有権の客体となり得る有体物ではないことが問題だったのでしょう。無体物を目的物とする寄託の成否については,学説において「民法においては「物」とは有体物をいう(85条)から,〔改正後民法〕657条の文言〔「寄託は,当事者の一方がある物を保管することを相手方に委託し,相手方がこれを承諾することによって,その効力を生ずる。」〕上,無体物は寄託の目的物として含まれていない。無体物については,「保管」も「返還」も観念しえないこと,また,実際上も,例えば株式等振替制度によってペーパーレス化された有価証券の保管にしろ,著作権その他の知的財産権の管理の委託にしろ,委任と性質決定すれば足りること〔略〕からすると,あえて無体物を寄託の目的物に含める必要はないと考えられる。」と説かれています(『新注釈民法(14)』366頁(𠮷永))。委任,だそうです。

 (しかしながら,片岡17頁は「仮想通貨の管理を委託する場合は,その受託者に裁量がなく単なる保管の趣旨であるのが通常であろうから,特段の金融的な商品を組成するような場合を除き,信託ではなく,準寄託として考えられるであろう」としており,委任構成は採られていません。なお,ここでの「準寄託」の語は,「民法の寄託も有体物についてのものだが,〔略〕仮想通貨も物権又は準物権と同様の構造を有するから,契約自由の原則もあって(民法改正案521条),寄託と同様の法律関係が適用されるべきであり,「準寄託」ということとするものである」との趣旨のものであるそうです(片岡16頁(註17))。小野傑1頁にも「ホットウォレットに混蔵保管された仮想通貨」という表現があります。)

 

7 受任者の委任者に対する仮想通貨「引渡」債務と履行不能の不能

 

(1)民法646条1項

 委任に係る民法6461項は「受任者は,委任事務を処理するに当たって受け取った金銭その他の物を委任者に引き渡さなければならない。その収取した果実についても同様とする。」と,同条2項は「受任者は,委任者のために自己の名で取得した権利を委任者に移転しなければならない。」と規定しています。

                  

(2)履行不能の不能

 民法6461項の金銭の引渡債務は金銭債務ということになるのでしょう。しかして金銭債務については,「金銭債務の不履行の態様としては履行遅滞しかないと考えられている。換言すれば金銭債務は履行不能にならないと解されている。こう解することは,第一に,金銭債務については不可抗力を抗弁としえないことと相俟って,履行不能を理由に債務が消滅することがないことを意味し,第二に,期限前に債務不履行責任が生じることがないことを意味しよう。」と説かれています(能見140頁)。金銭債務が履行不能にならないと解する理由は,「金銭債権は,一定額の金銭の給付を目的とする債権である。種類債権の一種とみることをえないでもないが,目的物の範囲を限定する抽象的・一般的な標準さえなく,数量をもって表示された一定の貨幣価値を目的とし,これを実現する物(貨幣)自体が全く問題とされない点で,債権の内容は,種類債権より更に一層抽象的である。その結果,普通の種類債権のように目的物の特定という観念はなく,また履行不能もない」ということであって(我妻Ⅳ・35頁),種類債務性を更に発展させた「抽象性」に求められているようです。仮想通貨の「引渡」債務についても,数量をもって表示された一定の財産的価値を目的とし,これを実現する物(有体物)自体が全く問題とされていないのですから(資金決済法25項参照),金銭債務同様に履行不能はない,ということになりそうです。

仮想通貨交換業等に関する報告書においても,「仮に受託仮想通貨が流出したとしても,仮想通貨交換業者が顧客に対して受託仮想通貨を返還する義務が当然に消滅するわけではない」と説かれています(4-5頁(註11))。仮想通貨交換業等に関する研究会の第6回会合(2018103日)において加藤貴仁教授から,「〔略〕顧客と仮想通貨業者の契約によって異なるかもしれませんけれど,コインチェックの事例でも,テックビューロ―の事例でも,仮想通貨は確かに不正に流出しましたが,流出したことによって,仮想通貨交換業者の仮想通貨を返す義務はなくなってはいないはずです。つまり,交換業者は,顧客から預かった仮想通貨を流出させても,倒産しない限り,仮想通貨を返還する義務を負い続けるということです。仮想通貨を返還する義務を果たすということは,顧客が別の仮想通貨交換業者に開いた口座に移す,もしくは顧客がブロックチェーン上に持っているウォレットに移すといったことを意味します。」との発言があったところです。
 (2019415日の追記:ところが,上記のような行政当局の整理に対して,別異に解する裁判例があります。前記マウントゴックス社破産事件に係るこちらは東京地判平成30131日判時2387108頁です。いわく。「ビットコイン(電磁的記録)を有する者の権利の法的性質については,必ずしも明らかではないが,少なくともビットコインを仮想通貨として認める場合においては,通貨類似の取扱をすることを求める債権(破産法10321号イの「金銭の支払を目的としない債権」)としての側面を有するものと解され,同債権(以下「コイン債権」という。)は,ビットコイン(電磁的記録)が電子情報処理組織を用いて移転したときは,その性質上,一緒に移転するものと解される。〔届出破産債権が一部しか認められなかったことを不服として破産債権査定異議の訴えを提起した〕原告は,原告が破産会社に対してビットコインの返還請求権を有するとして,破産債権の届出をしたものであるが,ビットコイン自体は電磁的記録であって返還をすることはできないから,原告は,コイン債権について,破産法10321号イの「金銭の支払を目的としない債権」として,破産手続開始時における評価額をもって,破産債権として届け出たものと解される。原告が主張するように破産会社の代表者が原告のビットコインを引き出して喪失させたのであれば,既にビットコインは他に移転し,同時にコイン債権も他に移転したことになるから,破産手続開始時において,原告は破産会社に対し,コイン債権を有しなかったことになる。本件届出債権は,原告が破産会社に対してコイン債権を有することを前提とするものと解されるところ,その前提を欠くことになるから,原告の上記主張は,結論を左右するものとはいえない。」と。当該判決では「ビットコイン自体は電磁的記録」であるものと解していますが,資金決済法25項における定義は仮想通貨を「財産的価値」としています。「電子的方法により記録」されている「財産的価値」といった場合,そこでの「財産的価値」とその記録たる「電磁的記録」とはやはり別物でしょう。前記東京地方裁判所平成2785日判決は「口座Aから口座Bへのビットコインの送付は,口座Aから口座Bに「送付されるビットコインを表象する電磁的記録」の送付により行われるのではなく」,かつ,「ビットコインアドレスに,有高に相当するビットコイン自体を表象する電磁的記録は存在しない」と判示しています。特定の電磁的記録によって表象される特定のビットコインというものはないのでしょう。(なお,特定物の寄託の場合,その特定物が滅失すれば当該寄託物返還債務は履行不能になります。ちなみに,債務不履行による損害賠償債権は金銭債権ですから(民法417条),破産法10321号イの金銭の支払を目的としない債権にはなりません。)また,平成30131日判決のいう「コイン債権」とは「ビットコイン〔について〕通貨類似の取扱をすることを求める債権」ということであって,かつ,その債務者は「ビットコイン〔略〕の預かり業務や利用者間のビットコインの売買の仲介業務」を行っていた破産会社マウントゴックスということであるようです。しかし,仮想通貨の管理を受任した仮想通貨交換業者(資金決済法273号)が当該利用者に対して負う債務は,現にその管理に係る仮想通貨について「通貨類似の取扱」をすることだけなのでしょうか。)

 

(3)SALUS UXORIS MEAE ?

 「仮想通貨は確かに不正に流出しましたが,流出したことによって,仮想通貨交換業者の仮想通貨を返す義務はなくなってはいない」ということになると,仮想通貨交換業者としては泣きっ面に蜂のような状況になります。「倒産しない限り,仮想通貨を返還する義務を負い続ける」ということであれば会社はお取潰しで従業員は路頭に迷わなければならないというのが御当局方面のお考えか,と関係者は愕然,武士の情けもあらばこそとの嫋々たる嘆きが続きます。

そうだ契約約款に事業者は消費者に対し損害賠償の責任を一切負わない旨規定しておけばよいのではないか,そうだそうだそう書こう,という発想も出て来ます。しかし,これはいささか短絡的です。問題は債務の履行不能後の損害賠償ではなくて(ただし,小野傑1頁記載の「ホットウォレットに混蔵保管された仮想通貨の一部がサイバー攻撃等で流出した場合の顧客保護の在り方であるが,交換業者にはホットウォレットの管理責任があり,金銭賠償による場合の顧客の価格変動リスク回避のため,信託法における受託者の原状回復責任にならい,現物返還を原則とすることが考えられよう。」の部分は,金銭「賠償」といい,かつ,わざわざ信託法を援用しているところからすると,損害賠償責任を論じているものと思われます。),履行不能とならずに残っている元からの債務の履行そのものだからです。(なお,事業者は消費者に対して損害賠償責任を一切負わないとまで書くと,当該条項はかえって無効となります(消費者契約法(平成12年法律第61号)811号・3号)。)
 何か救済策はないものか。

この点,我妻榮が民法6461項に関して述べることころが参考になりそうです。我妻は,金銭に係る「占有=所有権」理論採用前の古い大審院判決を批判して(「判例は,受任者が代理権を有し委任者の代理人として事務を処理した場合には,第三者から受け取る金銭の所有権も委任者に帰属するという。そして,この前提で,受任者が盗難にあつたときは返還義務は履行不能になるとい〔う〕(大判明治3435313頁)」が「然し,金銭について所有権を問題とすることは妥当を欠く」(のでおかしい)。),「受任者は,受取つた金を返還すれば足りる。必ずしも受取つたその金銭を返還する必要はないというべきである」と述べつつも,続いての括弧書きで,「(前掲〔略〕の判決のうち,〔略〕盗難の場合は,むしろ6503項の趣旨を類推して責任なしというべきものと思う)」と説いています(我妻Ⅴ₃・678頁。下線は筆者によるもの。ただし,『新注釈民法(14)』281頁(一木孝之)は当該我妻説に対してなお大判明治3435判例との抵触を問題としています。)。なるほど,民法6503項という手があったのでした。

民法6503項は「受任者は,委任事務を処理するため自己に過失なく損害を受けたときは,委任者に対し,その賠償を請求することができる。」と規定する条項です。同条に関しては,「「事務処理の過程で受任者に生じる不利益等を填補する委任者の責任」を構想することが可能である。」とされています(『新注釈民法(14)』308頁(一木))。

市場から有価証券(NTT株券)を購入して委任者に帰属せしめた受任者が当該有価証券の購入代金について民法6503項に基づく損害賠償請求を委任者に対して行ったので,委任者が当該損害賠償金支払債務の不存在の確認を求めた訴えについて,委任者は受任者に対して「民法6503項に基づき,損害賠償義務を負うことになる」と判示した裁判例があります(大阪高判平成12731日判タ1074216頁)。当該受任者による当該NTT株券の購入が「委任事務を処理するため」のものかどうかが争われたのですが(本件は,委任者が当該NTT株券の売却を受任者(証券会社)に委託していたところ,当該株券が盗難届の出ている事故株券であったため,当該株券を市場で既に売却していた受任者が東京証券取引所の「事故株券及び権利の引渡未済の処理に関する申合」(19491210日実施)に基づく義務の遂行として買戻しを行った案件でした。),裁判所は「本件株券は,証券取引所の開設する市場において取引されるのであるから,右市場において商慣習となっている申合に従って処理されるべきは当然であるところ,第一審被告〔受任者〕は,委任契約に基づき,本件株券を売買したものの,東証申合に基づき,本件株券を買い戻さざるを得なくなったものであるから,右買戻しは,委任事務の処理の一環と認められる。」と判示して「委任事務を処理するため」のものであると認めています(買い戻したNTT株券の所有権は商法5522項に基づき委任者に帰属)。この事案に比べれば,仮想通貨の委任者への「引渡し」のための調達は,当該「引渡し」(民法6461項参照)という「委任事務を処理するため」のものであるということは容易に認められるでしょう。問題は,当該「調達」を必要とすることになった原因(仮想通貨の流出等)の発生について受任者(仮想通貨交換事業者)にbon administrateurとして過失がなかったかどうかでしょう(無過失の立証責任は受任者にあります(我妻Ⅴ₃・685頁,『新注釈民法(14)』316頁(一木))。)。委任者については,自分に過失がなくとも(例えば,仮想通貨交換業者からの仮想通貨の流出について自分には過失がなくとも)損害賠償しなければならない無過失責任とされています(我妻Ⅴ₃・685頁,『新注釈民法(14)』317頁(一木))。

 なお,消費寄託構成の場合(片岡17頁には,仮想通貨交換業者による利用者の仮想通貨の管理について,「仮想通貨は,財産的価値単位として均一の抽象的な存在であるから,準消費寄託というべき性質のもの」との記述があります。),「消費寄託にあつては,目的物の滅失の危険は受寄者が負担する,といわれる」とされていますが(我妻Ⅴ₃・727頁),そうとはされつつも「団体の役員や財産の管理人などが,その職務の一部として金銭を保管する場合には,委任事務の処理とみるべきであつて,その責任は,専ら委任の規定に従つて定められるべきである」とされています(我妻Ⅴ₃同頁)。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002 東京都渋谷区渋谷三丁目5-16 渋谷三丁目スクエアビル2

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp 

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1 元号と追号との関係

 近々元号法(昭和54年法律第43号)2項の事由に基づき平成の元号が改まるということで,元号に関する議論がにぎやかです。

 ところで,150年前の明治元年九月八日(18681023日)の改元の詔には「其改慶応四年,為明治元年,自今以後,革易旧制,一世一元,以為永式。主者施行。」とありますところ,「一世一元」であるゆえに(元号法2項も「元号は,皇位の継承があつた場合に限り改める。」と規定しており,「実質は一世一元でございます。」とされています(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第421頁)。),元号はすなわち天皇の追号となるべきもの,と考えたくなるところです。

 

(1)元号≠追号

 しかしながら,元号と追号とは制度的には無関係であるという見解が,1979年の元号法案の国会審議時において政府から何度も表明されています。例えば,次のとおり。

 

   次に,元号名と天皇の贈り名のことについてお尋ねがあったわけでございます。

   御承知のように,明治,大正という元号がそれぞれ天皇の贈り名とされましたのは事実でございますが,贈り名と元号との関係につきましては,従前も,制度上元号が必ず贈り名になると定められていたわけではございません。この法案のもとにおいても直接に結びつきはないものと考えております。戦前におきましては,登極令におきまして元号の問題が取り上げられており,あるいは追号の問題は皇室喪儀令に分かれて取り上げられておった。戦前でもそうでございます。そういうことでございますので,戦前におきましても,いま申し上げましたように,追号と元号とは制度的に関係がないものと承知をいたしておるところでございます。(三原朝雄国務大臣(総理府総務長官)・第87回国会衆議院会議録第155頁)

 

   いまお答え申し上げている元号法案による元号と追号とは全然関係がないと承知いたしております。(大平正芳内閣総理大臣・第87回国会参議院内閣委員会会議録第1422頁)

 

 また,細かい規定はないとしても,新天皇が大行天皇の追号を勅定するということは明らかにされています。例えば,次のとおり。

 

   追号につきましては,現在は法令がないというような状況になっていると存じます。したがいまして,過去の法令,法規等を参考にいたしまして定められてくるというようなことになると思うわけでございますが,過去の例は御案内のとおり,新帝が勅定をされた,こういうことでございまして,その旨が宮内大臣と内閣総理大臣が連署して告示された,こういうことでございます。

   こういったような過去の例というのを十分考えながら,今後いろいろと研究を続けていかなければならない事項と思っておるわけでございます。ただいま,どういうかっこうでどうなるということを申し上げるのは差し控えさせていただきたいと存じます。(山本悟政府委員(宮内庁次長)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第519頁)

 

   お答えを申し上げますが,元号と追号とはこれは全く性格が違うわけなんですね。追号は,これは皇室の行事で,新天皇が亡くなられた天皇に贈り名としてお名前をおつけになるということでございますし,元号というのは陛下が御在世中に国民なり役所なりがその年をあらわす紀年法として用いる呼び名でございまして,この二つは全然違うわけなのです。御質問の将来陛下が崩御になったときにどういう追号をお持ちになるかということは,それは現在の段階ではこれは私何とも申し上げられません。これは新天皇がお決めになることでございまして,まあ現在ではもう想像の域を出ないと,こういうお答えしかできないわけでございます。(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会参議院内閣委員会会議録第711頁)

 

   これは先ほどもお答え申し上げたつもりでございますけれども,元号と追号とは全然これは別問題でございまして,追号の方は天皇が先帝に対して贈られるものでございます。政府のかかわるところではございません。(大平内閣総理大臣・第87回国会参議院内閣委員会会議録第1427頁)

 

 「一世一元の制で重要なのは,後に元号が天皇の諡号(高徳の人に没後おくる名)になることです。中国でも一世一元の元号は,皇帝の諡号になっています。日本では明治以降,元号=諡号となります。」といわれていますが(所功「平成の「次の元号」に使われる漢字」文藝春秋20187月号188頁),少なくとも我が国では,在位中の元号=追号となるのは,新帝がそのように先帝の追号を治定した例が1912年,1926年及び1989年と続いたからにすぎないものであって制度的なものではない,ということになります。在位中の元号をもって1912年に大行天皇が明治天皇と追号されたことについては,当時,「和漢其の例を見ず」,「史上曽て見ざる新例」と評されました(井田敦彦「改元をめぐる制度と歴史」レファレンス811号(20188月)96頁(宮内庁編『明治天皇紀 第十二』(吉川弘文館・1975833頁及び読売新聞1912828日「御追号明治天皇 史上曽て見ざる新例」を引用))。
 元号を皇帝の追号にすることは漢土に例を見ずといわれても,明の初代洪武帝朱元璋以下の明・清の歴代皇帝は一体どういうことになるのだという疑問が湧くのですが,『明史』の本紀第一の太祖一の冒頭部分を見ると「太祖開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高皇帝,諱元璋,字国瑞,姓朱氏。」とあるところです。在位中の元号を洪武とした皇帝朱元璋の廟号は太祖で,諡号は開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高皇帝であるということのようです。要は明の太祖以降の漢土皇帝に係る在位中の元号に基づく洪武帝等の呼び方は,廟号又は諡号ではないことはもちろん,そもそも正式のものではなかったのでした。いわく,「〔明の〕太祖は在位31年,歳71で,皇太孫〔建文帝〕の将来の運命を案じながら,孤独のうちに病死する(1398年)。その年号は終始洪武と称して改元することがなく,以後中国においては一世一元の習慣が確立する。そこで天子を呼ぶにも,従来の諡号,廟号に代えて,年号をもって称するようになった。天子の諡号は古代には極めて簡単な美称を12字ですませたが,後世それが次第に長くなり,明の太祖は21字を重ねるに至ったので,臣下としてはこれを省略して呼んでは失礼にならぬとも限らない。廟号は常に1字であるが,各王朝とも廟号に用いる字はおおむね定まっていて,太祖,太宗,仁宗といった名が頻出するので,前朝と紛らわしくなる。そこで年号によって,たとえば洪武帝のように呼べば,これは正式の名称ではないが,一目瞭然で間違えたり,混同したりするおそれがなくてすみ,甚だ便利なのである。」と(宮崎市定『中国史(下)』(岩波文庫・2015年)175-176頁。下線は筆者によるもの)。これに対して,我が国においては,明治天皇より前に一世一元であった過去の天皇について,例えば平城天皇は,現在一般には元号により大同天皇と呼ばれてはいません。そうしたからとて特に「甚だ便利」というわけでもなく,かつ,本来の追号・諡号がむやみに長くなることもなかったからでしょう。

なお,明治天皇より前に一代の間に改元が1度だけであった天皇としては,元明,桓武,平城,嵯峨,淳和,清和,陽成,光孝,宇多,冷泉,花山,三条,後三条,後白河,六条,御嵯峨,後伏見,後亀山,後小松,称光,後桜町及び後桃園の22天皇が挙げられていました(清水汪政府委員(内閣官房内閣審議室長兼内閣総理大臣官房審議室長)・第87回国会参議院内閣委員会会議録第122頁)。これら各天皇と元号との関係について見ていくと,元明天皇の改元に係る新元号は和銅,桓武天皇のそれは延暦,平城天皇については上記のとおり大同,嵯峨天皇については弘仁,淳和天皇については天長,清和天皇については貞観,陽成天皇については元慶,光孝天皇については仁和,宇多天皇については寛平,冷泉天皇については安和,花山天皇については寛和,三条天皇については長和,後三条天皇については延久,後白河天皇については保元,六条天皇については仁安,後嵯峨天皇については寛元,後伏見天皇については正安,後亀山天皇については元中,称光天皇については正長(ただし,同天皇践祚から17年目の崩御の年に至ってやっと改元),後桜町天皇については明和,後桃園天皇については安永となります。ただし,後小松天皇は一代の間に明徳から応永へ1度しか改元しなかったというのは南朝正統論の行き過ぎで,実は同天皇は在位中に,永徳から至徳へ,至徳から嘉慶へ,嘉慶から康応へ,康応から明徳へ及び明徳から応永へと,5回改元を行っています。また,光厳天皇は元徳から正慶への改元しかしていませんし,崇光天皇も貞和から観応への改元しか行っていません。ちなみに,皇位の継承があったことに基づき行われる代始改元の時期については,「踰年改元,つまり皇位の継承をなさいました年の翌年のある時期,あるいは翌年以降のある時期,そういう意味におきまして,その年を越してからの改元ということでございますが,そのような例は過去の元号の歴史の中ではむしろ非常に多かったということは御案内のとおり」であり,「奈良時代におきましては特にすぐ改元したということがあったわけでございますが,平安時代の初期と申しますか,第51代の平城天皇のときにその年のうちに改元をしたということがございましたが,それが大体最後でございまして,それから後は年を越してからの改元ということが例でございました。」とされています(清水汪政府委員・第87回国会参議院内閣委員会会議録第77頁)。この大同改元については,『日本後紀』の記者によって,「改元大同。非礼也。国君即位,踰年而後改元者,縁臣子之心不忍一年而有二君也。今未踰年而改元,分先帝之残年,成当身之嘉号。失慎終无改之義,違孝子之心也。稽之旧典,可謂失也。」と,踰年改元でなかったことが正に厳しく批判されていたところです(巻第十四大同元年五月辛巳〔十八日〕条)。

 

(2)皇室喪儀礼及び追号奉告の儀

 さて,追号について定めていた皇室喪儀令とは,枢密顧問の諮詢(枢密院官制(明治21年勅令第22号)61号参照)を経た旨が記された上諭が附され(公式令(明治40年勅令第6号)53項),一木喜徳郎宮内大臣並びに若槻禮次郎内閣総理大臣並びに主任の国務大臣たる宇垣一成陸軍大臣,財部彪海軍大臣及び濱口雄幸内務大臣が副署し(同条2項),摂政宮裕仁親王が裁可し(同条1項,明治皇室典範36条)19261021日に官報によって公布された(公式令12条)大正15年皇室令第11号です。同令は194752日限り廃止されていますが,「2日,皇室令をもって皇室令及び附属法令をこの日限りにて廃止することが公布される。なお53日,従前の規程が廃止となったもののうち,新しい規程が出来ていないものは,従前の例に準じて事務を処理する旨の〔宮内府長官官房〕文書課長名による依命通牒が出される。」という取り運びとなっています(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)316頁)。

皇室喪儀令の第1条から第3条までは次のとおりでした。

 

第1条 天皇崩御シタルトキハ宮内大臣内閣総理大臣ノ連署ヲ以テ直ニ之ヲ公告ス

 太皇太后皇太后皇后崩御シタルトキハ宮内大臣直ニ之ヲ公告ス

第2条 天皇太皇太后皇太后皇后崩御シタルトキハ追号ヲ勅定ス

第3条 大行天皇ノ追号ハ宮内大臣内閣総理大臣ノ連署ヲ以テ之ヲ公告ス

 太皇太后皇太后皇后ノ追号ハ宮内大臣之ヲ公告ス

 

 皇室喪儀令11条に基づく同令附式第1編第1の天皇大喪儀に「追号奉告ノ儀」が規定されており,そこにおいて「天皇御拝礼御誄ヲ奏シ追号ヲ奉告ス」とあります。

 皇室喪儀令施行の月(公式令11条により19261110日から施行)の翌月25日に崩御した大正天皇のための1927120日の追号奉告ノ儀においては,秩父宮雍仁親王が兄である新帝・昭和天皇の名代となり(昭和天皇は同年元日の晩から風邪(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)620頁)),次の御誄を奏して追号を奉告しています(同626-627頁)。

 

  裕仁敬ミテ

  皇考在天ノ神霊ニ白ス

  皇考位ニ在シマスコト十有五年

  明治ノ顕朝ヲ承ケサセラレ迺チ其ノ明ヲ継カセタマヒ

  大正ノ昭代ヲ啓カセラルル夙ニ其ノ正ヲ養ハセタマヘリ茲ニ

  遺制ニ遵ヒ追号ヲ奉ケ

  大正天皇ト称シタテマツル

 

 198917日に崩御した昭和天皇のための同月31日の追号奉告の儀における今上天皇の御誄は,次のとおりです(宮内庁ウェブ・サイト)。

 

明仁謹んで

御父大行天皇の御霊に申し上げます。

大行天皇には,御即位にあたり,国民の安寧と世界の平和を祈念されて昭和と改元され,爾来,皇位におわしますこと六十有余年,ひたすらその実現に御心をお尽くしになりました。

ここに,追号して昭和天皇と申し上げます。

 

 同日平成元年内閣告示第3号によって大行天皇の追号が昭和天皇となった旨公告されましたが,「宮内大臣内閣総理大臣ノ連署ヲ以テ」の公告ではなかったのは,宮内大臣が廃されてしまっている以上そうなるべきものだったのでしょう。(なお,平成元年内閣告示第3号には「大行天皇の追号は,平成元年113日,次のとおり定められた。」とのくだりがありますが,これは,皇統譜(皇室典範(昭和22年法律第3号)26条)における天皇に係る登録事項には「追号及追号勅定ノ年月日」があるところ(皇統譜令(大正15年皇室令第6号)1213号。昭和22年政令第1号たる皇統譜令の第1条は「この政令に定めるものの外,皇統譜に関しては,当分の間,なお従前の例による。」と規定),追号のみならずその勅定日も「公告ニ依リ」登録(皇統譜令施行規則(大正15年宮内省令第7号)附録参照)するからでしょう。)

 ところで,「大行天皇には,御即位にあたり,国民の安寧と世界の平和を祈念されて昭和と改元され」という表現を見ると,やはり昭和天皇の追号が昭和天皇となったのは在位中の元号が昭和(「百姓昭明,協和万邦」)だったからだ,したがって第87回国会で大平内閣総理大臣以下政府当局者が何やかやと言っていたが元号法施行後も結局元号が天皇の追号となるべきものなのだ,と早分かりしたくなるのですが,それでよいのでしょうか。単に在位中の元号が昭和だったからではなく,19261225日の「御即位にあたり」「昭和と改元」したのは大行天皇自身であったからこそその追号が昭和天皇と治定されたように筆者には思われるのですが,どうでしょうか。

 (ついでながら,天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)33項は「上皇の身分に関する事項の登録,喪儀及び陵墓については,天皇の例による。」と規定しています。なお,「天皇の例による」としても,大正15年皇室令第6号たる皇統譜令12条においては退位の年月日(時)は天皇に係る登録事項とはなっておらず,昭和22年政令第1号たる皇統譜令にも特段の定めはないようであるところ,この辺はどうなるものでしょうか。

 

2 元号を定める権限の所在

 

(1)明治皇室典範・登極令と元号法との相違

 明治皇室典範12条は「践祚ノ後元号ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ従フ」と,登極令(明治42年皇室令第1号)2条は「天皇践祚ノ後ハ直ニ元号ヲ改ム/元号ハ枢密顧問ニ諮詢シタル後之ヲ勅定ス」と,同令3条は「元号ハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と規定していました。「勅」定ですから天皇が定めるのですし,「詔」書だからこそ天皇名義の文書なのです。

これに対して現在の元号法1項は「元号は,政令で定める。」と規定しており,すなわち元号を改める権限(「新しい元号の名前」及び「いつ改元が効力を持つか」という2点を規定する政令(清水汪政府委員(内閣官房内閣審議室長兼内閣総理大臣官房審議室長)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第440頁)を制定する権限)は,天皇ではなく,政令を制定する機関である内閣が有しているところです(日本国憲法736号)。天皇ではなく内閣が決めるのであれば元号とはいえないのではないか,という見解を我が政府は採っておらず,「元号だから天皇が決める,それが伝統であって,そうでなければ元号という制度になじまないとか,そういう気持ちは毛頭ありません。」,「決して天皇が決めなければ元号とは言わないなんというような気持ちは毛頭ございません。」という国会答弁がされています(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会参議院内閣委員会会議録第123頁)。

(なお,先帝崩御日と新元号建定日とを一致させるのは明治皇室典範レヴェルでの要請ではなく,登極令21項(「直ニ」)の要請であるということになります(現に,慶応四年を改めて明治元年としましたが,孝明天皇が崩御したのは慶応四年元日より1年以上前の慶応二年十二月二十五日のことでした。)。1909127日に開かれた枢密院会議の筆記には,登極令案は「従来ノ慣例ヲ取捨折衷シテ作ラレタルモノ」だとの細川潤次郎枢密顧問官の発言が記されていますが,代始改元を践祚後直ちに行うのが「従来ノ慣例」だったのかどうかについては前記『日本後紀』の記述等に鑑みても議論がありそうです(所功「昭和の践祚式と改元」別冊歴史読本1320号(198811月)186頁に引用された「登極令制定関係者である多田好問の『登極令義解』草稿」(井田98頁・注(48))によれば「古例に於ける・・・如く事実を稽延することを得ず」ということだったそうですから(井田98頁),この場合の「古例」ないしは「従来ノ慣例」は,むしろ意識的に「捨」てられたもののようです。)。現在の元号法においては,「事情の許す限り速やかに改元を行う」のが「法の趣旨」だとされていますが(三原朝雄国務大臣(総理府総務長官)・第87回国会衆議院会議録第155頁),これは登極令21項的運用を念頭に置いていたということでしょう。ただし,元号法2項の「皇位の継承があつた場合」との表現については「「場合」という表現をとっておりますのは,そこにある程度の時間的なゆとりというものを政府にゆだねていただきたいという考え方からそのような表現をとっているということ」になっています(清水汪政府委員・第87回国会参議院内閣委員会会議録第1229頁)。)

 

(2)明治皇室典範・登極令下の大権ノ施行たる元号建定における内閣の関与

 とはいえ,天皇が元号を勅定するものとされていた明治皇室典範時代も,元号建定に当たっては,内閣が中心となっていました。

すなわち,大正天皇崩御の「日午前330分,内閣総理大臣若槻礼次郎以下の閣僚は〔葉山〕御用邸附属邸より本邸に戻り,直ちに緊急閣議を開き,登極令に基づき元号建定の件を上程し,元号建定の詔書案,大喪使官制,東宮武官官制廃止の件その他を閣議決定し,直ちに元号建定の詔書案の枢密院への御諮詢を奏請する。枢密院は御諮詢を受け,午前645分より副議長平沼騏一郎を委員長とし,内閣総理大臣以下関係諸員出席のもと,元号建定の審査委員会を開く。元号案は全会一致を以て可決され,詔書案の文言に関しては,討議を重ねた上,原案に修正を加えることにて可決される。それより枢密院は修正案を作成し,内閣総理大臣の同意を得て午前915分本会議を開催,元号案並びに詔書修正案を全会一致を以て可決し,〔倉富勇三郎〕枢密院議長は直ちに奉答する。ついで奉答書が内閣に下付され,直ちに内閣は再度の閣議を開き,元号建定の詔書案につき,枢密院の奉答のとおり公布することを閣議決定する。天皇は945分より10時過ぎまで,内閣総理大臣若槻礼次郎に謁を賜い,元号建定の件につき上奏を受けられる。よって御裁可になり,1020分,詔書に御署名になる。ついで再び若槻に謁を賜う。詔書は直ちに官報号外を以て公布され,ここに元号を「昭和(せうわ)」と改められる。」ということでした(『昭和天皇実録 第四』602頁)。なお,内閣の活動のみならず,枢密顧問に諮詢する手続がありますが(登極令22項),これは「元号ハ昔時ニ於テモ廷臣ヲシテ勘文ヲ作ラシメ問難論議ヲ経テ之ヲ定メ難陳ト号セリ今本〔登極〕令ニ於テモ枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ之ヲ定ムルコトトシタルハ事重大ナルノミナラス古ノ難陳ノ意ヲモ加ヘテ此ノ如ク規定シタルナリ」ということでした(1909127日に開かれた枢密院会議の筆記にある奥田義人宮中顧問官の説明)。

 昭和改元の詔書の文言は「朕皇祖皇宗ノ威霊ニ頼リ大統ヲ承ケ万機ヲ総フ茲ニ定制ニ遵ヒ元号ヲ建テ大正151225日以後ヲ改メテ昭和元年ト為ス」というものでしたが(『昭和天皇実録 第四』603頁),当該詔書に副署した者は内閣総理大臣及び国務各大臣であって,そこには宮内大臣は含まれていませんでした。これは,明治皇室典範の第12条に規定があるにもかかわらず,元号建定は「皇室ノ大事」に関するものではなく,「大権ノ施行」に関するものであることを意味します。すなわち,公式令12項は「詔書ニハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ其ノ皇室ノ大事ニ関スルモノニハ宮内大臣年月日ヲ記入シ内閣総理大臣ト倶ニ之ニ副署ス其ノ大権ノ施行ニ関スルモノニハ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ国務各大臣ト倶ニ之ニ副署ス」と規定していたところです。元号を建定することは「万機ヲ総フ」る大権の施行の一環であるということでしょう。(ただし,宮内省図書寮編修官吉田増蔵が若槻内閣の委嘱を受けて起草した元号建定の詔書案(『昭和天皇実録 第四』605頁)の文言は「朕皇祖皇宗ノ威霊ニ頼リ茲ニ大統ヲ承ケ一世一元ノ永制ニ遵ヒ以テ大号ヲ定ム廼チ大正15年ヲ改メテ昭和元年トシ1225日ヲ以テ改元ノ期ト為ス」というもので,「万機ヲ総フ」がありませんでした。ちなみに,1912730日の大正改元に係る詔書の文言は「朕菲徳ヲ以テ大統ヲ承ケ祖宗ノ霊ニ誥ケテ万機ノ政ヲ行フ茲ニ/先帝ノ定制ニ遵ヒ明治45730日以後ヲ改メテ大正元年ト為ス主者施行セヨ」というものでした。「先帝ノ定制ニ遵ヒ」の部分は,前記『日本後紀』の記者に対する,年を踰えることを待つことなく改元するのは先帝陛下の定制(登極令21項)によるものであって自分勝手な親不孝ではありませんからね,との言い訳のようにも読み得る気がします。なお,こうして見ると,吉田案では「万機ヲ総フ」のみならず,「主者施行セヨ」も落ちています。)

日本国憲法下においても,「そういうような経過から申し上げましても元号に関することは国務として,現在で言えば総理府本府〔当時〕におきまして取り扱われるべきものでございまして,宮内庁の所掌事務ということにはならないと存じます」とされています(山本悟政府委員(宮内庁次長)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第420頁)。日本国憲法公布後の1946118日に𠮷田茂内閣総理大臣が昭和天皇に上奏した元号法案(GHQとの関係もあり,結局帝国議会には提出せず。)も現在の元号法とよく似た内容で,本則は「皇位の継承があつたときは,あらたに元号を定め,一世の間,これを改めない。/元号は,政令で,これを定める。」,附則は「この法律は,日本国憲法施行の日から,これを施行する。/現在の元号は,この法律による元号とする。」というものでした。

美濃部達吉の説明によれば,「元号ヲ建ツルハ事直接ニ国民ノ生活ニ関シ,性質上純然タル国務ニ属スルコトハ勿論ニシテ,固ヨリ単純ナル皇室ノ内事ニ非ズ。故ニ之ヲ憲法ニ規定セズシテ,皇室典範ニ規定シタルハ恐クハ適当ノ場所ニ非ズ。其ノ皇室典範ニ規定セラレタルニ拘ラズ,大正又ハ昭和ノ元号ヲ定メタル詔書ガ宮内大臣ノ副署ニ依ラズ,各国務大臣ノ副署ヲ以テ公布セラレタルハ蓋シ至当ノ形式ナリ。」ということになります(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)185頁)。(なお,先例となった大正改元の際の内閣総理大臣は公家の西園寺公望であって,宮内大臣の渡辺千秋は元は諏訪高島藩士でしかありませんでしたから,西園寺が明治天皇崩御を承けての元号建定事務を主管したことはいかにも自然であったということかもしれません。)「事直接ニ国民ノ生活ニ関シ」とは,「とにかく旧憲法下における元号は,国の元首であり,かつ統治権の総覧者である天皇がお決めになったものであって,はっきり使用についての規定はございませんけれども,恐らくその趣旨は,朕が定めた元号だから国民よ使えよという御趣旨がその裏にはあったのだろうと思うのですよね。」ということでしょう(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第58頁)。(ちなみに,詔書と同様天皇が親署して御璽を鈐する勅令については,「他の国務上の詔勅と区別せらるゝ所以は,勅令は国民に向つて法規を定めることを主たる目的とすることに在る」とされていましたが(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)235頁),勅令の副署者については「内閣総理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ国務各大臣若ハ主任ノ国務大臣ト倶ニ之ニ副署ス」るものとされていました(公式令72項)。宮内大臣の副署はなかったわけです。)元号の建定は国務事項である以上,「この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない」ものとされる(日本国憲法41項)194753日以降の天皇については,「天皇に元号の決定権を与えるような法律をつくることは憲法違反でございます。」ということになります(真田秀夫政府委員・第87回国会参議院内閣委員会会議録第123頁)。「世の様の移り換りて斯なれるは人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから且は我国体に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき」とは,天皇が「政治の大権」を失った時代に係る明治天皇の慨嘆です(188214日の軍人勅諭)。

 1889211日の「皇室典範第12条に建元大権の事を定めて居るのは,事純然たる国務に関するもので,皇室に関係の有るものではなく,宜しく憲法中に規定せらるべきものである。」(美濃部・精義113頁)という記述に出て来る「建元大権」とは,漢の武帝以来の「王が時間をも支配するとして,支配下の人民に使用させた年を数える数詞」である「元号をさだめ,あるいは改める権限」(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)121頁)という意味の東洋の皇帝的な建元大権のことだったのでしょうか。(なお,明治皇室典範12条は,践祚後の改元を義務付けると共にそれ以外の場合の改元を禁じており,むしろ天皇の権限を制約する規定のようにも思われます。)


3 大日本帝国憲法制定前期における元号等についての意見:井上毅及び伊知地正治

 しかし,元号に関する規定を憲法に設けるべきだとの方向性は,明治維新の功臣である岩倉具視右大臣の考え方においてはあったものと考えられ得るところです。岩倉右大臣は「奉儀局或ハ儀制局開設建議」を18783月に太政官に提出しますが,当該奉儀局又は儀制局が開設されたならばそこにおいて帝室の制規天職に関し調査起草されるべき「議目」として掲げられたもののうち,「憲法」の部には次のようなものがありました(小嶋和司「帝室典則について―明治皇室典範制定初期史の研究―」同『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)73-74頁)。

 

  改元 一代数改 一代一元 不用元号称紀元何年

  諡号 史記諡法 漢籍抄出美字 地名院 国風諡号

 

 上記「奉儀局或ハ儀制局開設建議」に対して井上毅が「奉儀局取調不可挙行意見」を岩倉右大臣に提出し,同右大臣の当該建議は実現されずに終わりますが,井上の当該「意見」においては「国体ト云即位宣誓式ト云 皇上神聖不可侵ト云国政責任ト云ガ如キハ其標目簡単ナルガ為ニ一覧ノ間ニ深キ感触ヲナサゞルモ其義ヲ推窮シテ其末来ノ結果ヲ想像スルニ至テハ真ニ至大ノ議題ニシテ果シテ其深ク慎重ヲ加フベクシテ躁急挙行スベカラザルヲ信ズ」とされていた一方,「改元」等に関しては「奉儀局議目中国号改元ノ類大半ハ儀文名称ノ類ニシテ政体上ニ甚シク関係アラザル者トス」とあったところです(小嶋73-74頁)。

「改元ノ類」は「儀文名称ノ類ニシテ政体上ニ甚シク関係アラザル者」にすぎないというのですから,建元大権もあらばこそ。したがって,井上毅が起草作業の重要な一翼を担った大日本帝国憲法においては元号に関する条項が設けられなかったことはむべなるかな,とは筆者の感想です。

なお,前記「議目」について宮内省一等出仕の伊知地正治(1873年に左院副議長として「帝室王章」を取り調べ,1874年以後国憲編纂担当議官(小嶋65頁))の口述を宮島誠一郎が筆記したもの(1882121日)があり,そこには次のような意見が記されていました(伊藤博文編・金子堅太郎=栗野慎一郎=伊藤博精=尾佐竹猛=平塚篤校訂『秘書類纂 憲法資料 下巻』(秘書類纂刊行会・1935年)497頁)。

 

 改元 神武紀元何千何百年モ民間通用ニハ少シク難渋ナリ。漢土モ明代ヨリ一代一元ノ制ヲ定メ今日清朝之ニ沿襲ス其制頗ル傚フベシ。御維新後一代一元ノ姿ナレバ此レニテ当然ナルベシ。御一代数度ノ改元ハ已ニ無用ナルベシ。

 諡号 近世ハ白河家ニ御委任ノ様ニ覚ユ,御維新後ハ内閣ニテ御選定当然ナリ。

 

 明治政府は「1873年(明治6)年の改暦にともない,公式に干支を廃し,新たにさだめた皇紀と元号を用いて年を数えることとした」のでしたが(村上123頁),「神武紀元何千何百年モ民間通用ニハ少シク難渋ナリ。」ということであったのであれば,ハイカラな「耶蘇紀元何千何百年」も当時の我が国の民間においてはそもそもその通用は論外だったということでしょう。なお,神武紀元(皇紀)については明治五年十一月十五日(18721215日)の太政官布告第342号が根拠とされており,当該布告は「今般太陽暦頒行 神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被為告候為メ来ル廿五日 御祭典被執行候事〔後略〕」というものでした。ただし,当該布告については,「神武天皇の御即位のときが建国の日であるぞということをここで宣明されたというふうに考えられるわけでございますが,そうなりますと,したがいましてこれは年の数え方というのを決めたのではございませんで,建国の日から何年かということを数えるときには神武天皇の御即位のときが始まりなんだということを書いてあるわけでございます。したがいまして,元号のように年の数え方を書いたというものではございません。そして,これが一体現在どのような意味,内容を持っているのか,これは一体国民に対して強制力を持っていたのか持っていなかったのか,さらに,現在の科学的知見でもって神武天皇の御即位というのは一体いつであったのかというようなことを確定いたしませんと,どうもこの太政官布告の現在における効力というのは確定はできない。ところが,私どももいろいろ調べてはみたのでございますが,何分古いものでございまして,文献等もございませんし,さらにその神武天皇の御即位の時期がいつかというようなことは歴史的事実に属しまして私どものまだ何とも確定できる状況ではございませんので,現段階におきましてはなかなかこれの法的効力というものにつきまして断定ができるような状況に立ち至っていないということを御了解いただきたいと存じます。」と解されています(味村治政府委員(内閣法制局第二部長)・第87回国会参議院内閣委員会会議録第1415頁)。

「御一代数度ノ改元ハ已ニ無用ナルベシ。」とわざわざ言わざるを得なかったということは,江戸時代最長の元号は享保及び寛永の各21年であったので,明治も10年を過ぎるともうそろそろ改元で縁起直しをしたい,数字が大きくなると面倒臭い,というような昔ながらの欲求がやはり感じられていたということでしょうか。(なお,「未開人」は3までしか数えられない一方「むかしのタイ国の法廷でもやはり証人に10までの数を数えさせてみて,数えられなかったら,一人前の証人としての資格をみとめなかった」そうです(遠山啓『数学入門(上)』(岩波新書・1959年)1頁)。)

太政官の内閣で諡号を選ぶ云々ということは,1882年当時は宮中府中の区別がいまだにされていなかったからでしょう(近代的内閣制度の創設は18851222日)。

 

4 元号の示すもの

 

(1)天皇在位ノ称号

 元号が「儀文名称ノ類」であるのならば,それは明治皇室典範下において具体的には何を示すのかといえば,美濃部達吉によれば「天皇在位ノ称号」です。いわく,「即チ元号ハ明治元年ノ定制ニ依リ其ノ法律上ノ性質ヲ変ジタルモノニシテ,旧制ニ於テハ元号ハ単純ナル年ノ名称ナリシニ反シテ,現時ノ制ニ於テハ天皇在位ノ称号トシテ其ノ終始ハ全ク在位ト相一致ス,天皇崩御ノ瞬間ハ即チ旧元号ノ終リテ同時ニ新元号ノ始マル瞬間ナリ。元号ヲ改ムル詔書ノ公布セラルルニハ多少ノ時間ヲ要スルハ勿論ナレドモ,其ノ公布ガ如何ニ後レタリトスルモ,常ニ先帝崩御ノ瞬間ニ迄遡リテ其ノ効力ヲ生ズベキモノナリ。」と(美濃部・撮要184-185頁)。

 「年を帝王の治世何年で数える例は,古代ローマ帝国にも,イギリス等の君主制国家にもみられる」ところ(村上122頁),我が国においては実名敬避俗があるから天皇の御名の代わりにその践祚時に建定する「天皇在位ノ称号」を使用するのだ,といえば,他国の例と比較を絶する奇天烈なものではないということにはなるのでしょう。(英国の例を見ると,「制定法は,1962年までは,正式には,国王の治世第何年の議会で制定された法律第何号という形で呼ばれていた。」とされています(田中英夫『英米法総論下』(東京大学出版会・1980年)675頁)。また,「イギリスでは,即位の日から丸1年を治世第1年,次の1年を第2年とし,暦年で数えるのではない」とされています(同頁)。)漢土においても,武帝より前の「従来の紀年法は君主が先代を継承すると,その翌年を元年として数え始めた。」そうです(宮崎市定『中国史(上)』(岩波文庫・2015年)214頁)。

 

(2)漢の武帝

漢の武帝による年号制度の創始も,実は前記の「年を帝王の治世何年で数える」制度の延長線上にあったところです。いわく。「戦国時代は七国がそれぞれの君主の即位年数を用いたのはもちろんであるが,漢代に入っても封建君主はその領内で,その君の即位年で年を記したのである。中央では〔漢3代目の〕文帝の時,在位がやや長くなったので,17年目にまた元年として数え直した。これを()元年として区別するのは後世の加筆である。次の景帝〔武帝の先代〕8年目が(ちゅう)元年,更に7年目が後元年と,2回の改元を行った。こういう方法は記録を整理する時に紛らわしくて甚だ不便である。特に皇帝には死んでから諡号を贈られるまでは名がなく,後世でこそ景帝の中二年と言えるが,その当時においては,ただ皇帝二年とだけしか言えない。更に地方の封建君主の即位年があるからいよいよ混雑しやすい。武帝の世になっては,6年を一区切りとし,7年目になると元年に戻したが,改元が何回か繰返されると,前後の区別がつかなくなった。そこで5回目の改元の際に,その元年に元封(げんぽう)元年という年号を制定して数え始めた。更に前へ戻って,最初から建元,元光,元朔,元狩,元鼎と,6年ずつひとまとめにして年号を追命した。これは当時においては大へん進んだ便利な制度で,中央で定めた年号は国内至る所に通用し,またこれによって何年たった後でも,すぐあの年だということが分る。更に国内のみならず,中国の主権を認める異民族の国にも年号を用いさせれば,それだけ年代を共通にする範囲が広くなるわけである。中国にはキリスト教紀元のようにある起点を定めて元年とし,永久に数えて行く考えは遂に発生しなかった。」と(宮崎214-215頁)。

なお,漢の元封元年(西暦紀元前110年ほぼ対応します。)は武帝が今の山東省の泰山において封禅を行った年であって,その「大礼の記念として,天下の民に爵一級を賜わり,女子と百戸には牛酒を賜わった。人民の全部が大礼記念章もしくは酒肴料をいただいたのである。/年号が元封(・・)と改元されたのも,またその記念のひとつである。」とされています(吉川幸次郎『漢の武帝』(岩波新書・1963年)164頁)。

 (「現時点の年を表すものとしては,西暦前113年に「元鼎」と号したのが最初とされる」ともされています(井田95頁・注(22))。なお,藤田至善「史記漢書の一考察―漢代年号制定の時期に就いて―」(東洋史研究15号(1936年)420-433頁)によれば,漢の武帝の五元の三年(西暦紀元前114年にほぼ対応します。)に有司から,元は宜しく天瑞を以て命ずべし,一二を以て数へるは宜しからず,一元を建と曰ひ,二元は長星を以て光と曰ひ,ママ一角獣史記封禅というがあって,(年号制定である。」というったそう420-421頁,426頁)。五元の年号である元鼎は,五元の四年(西暦紀元前113年にほぼ対応します。)に宝鼎が得られたことから追称されたものであって,改元と年号の制定とが初めて同時に行われたのは元封元年のことであった(漢書武帝紀・元封元年の条に「詔曰,其以十月為元封元年」,郊祀志上に「下詔改元為元封」とあるそうです。)とされています(藤田432頁註⑥)。

 

(3)国民元号

ところで,現在の元号法に基づく元号は「天皇在位ノ称号」とはいえないのでしょう。

元号と皇位の継承とは直ちに連動するのかという質疑に対して政府は「直接的には皇室典範4条が働く場合にいまの改元が行われるわけでございますが,ただ,おっしゃいましたように,直接皇位の継承と,観念上といいますか考え方として元号とすぐ結びつけたというものではむしろなくて,元号制度について国民が持っているイメージ,それはやはり日本国憲法のもとにおける象徴たる天皇の御在位中に関連せしめて元号を定めていくんだという事実たる慣習を踏まえまして,このような条文の仕方にしたわけでございます。」と答弁しています(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第514頁)。国民の持っているイメージに従っただけであって政府自身の考え方は無い,そもそも,「元号は,国民の日常生活におきまして,長年使用されて広く国民の間に定着しており,かつ,大多数の国民がその存続を望んでおるもの」であるところ「また,現在46都道府県,千を超える市町村が法制化の決議を行い,その速やかな法制化を望んでおります」から「政府としては,こういう事実を尊重いたしまして,元号制度を明確で安定したものとするため,元号法案を提出」した(大平正芳内閣総理大臣・第87回国会衆議院会議録第154頁)だけなのだ,「深いイデオロギー的なものではな」いのだ(大平内閣総理大臣・同会議録9頁)ということでしょう。

また,ここで皇位継承と元号との結び付きを仲介するものとされる「元号制度について国民が持っているイメージ」は更に,精確には,改元の時期についてかかるものなのでしょう。「その元号をどういう場合に改める,つまり改元をするかという点につきましては,これは申し上げるまでもなく,旧憲法の時代に戻るというのではなくて,現在,日本の国民の多くの方々が持っていらっしゃる元号についてのイメージ,それは天皇の御在位中に一世一代の元号を用いるのだというイメージがあるわけなんで,それを忠実に制度化するというのが本意でございまして,無論,天皇の性格が旧憲法と現在の憲法との間において非常な違いがあるということは百も承知でございまして,それと混同するようなつもりは毛頭ございません。」という答弁もあります(真田秀夫政府委員・第87回国会衆議院内閣委員会議録第511-12頁)。

改元という区切りを重視した結果,「年号法」とはならず元号法となったのでしょう。「本来的には,年号といい元号といい,年の表示の仕方,つまり紀年方式の一つでございますが,年号の方は単純にその年を表示するという感覚が主になっているというふうに考えるわけなんで,その年号を幾つか区切りをつけて,古くは大化,白雉,朱鳥というふうに区切りをつけまして,それから新しくは明治,大正,昭和というふうにある区切りをつけていく。その区切りをつけたその期間の始まりが,その区切りの名前の第1年であるというふうな扱いになる。そういう区切りの初年度であるという点に重点を置いて名前をつければ,まあ元号という言葉になじむような感じがいたします。本来的には,先ほど申しましたように,元号といい年号といい,そんなに違うものではないと思いますけれども,あえて区別をつければ,ただいま申し上げましたような,その区切りに重点を置いて呼び名をつけた場合に,元号という言葉の方がぴったりくるという感じがいたします。」ということでした(真田政府委員・第87回国会衆議院内閣委員会議録第511頁)。

「神武紀元何千何百年モ民間通用ニハ少シク難渋」であるのに対して元号はちょくちょく改元があるからこそよいのであるが,「屢〻年号を改め」過ぎて「徒に史乗の煩きを為すに至」った(伊藤博文『皇室典範義解』第12条解説),そこで1868年に改元事由を整理して「是迄吉凶之象兆に随ひ屢〻改号有之候へ共,自今御一代一号に被定候」(明治元年九月八日の行政官布告)としたところ,百十余年後の1979年には,元号について「国民が持っているイメージ」においては天皇の践祚時にされる改元以外の改元のイメージが失われてしまうに至っていた(「代始め改元以外の改元の方法というのが,過去百年間では整理されて,ないわけでございます。そうなりますと,元号が変わるということについて国民が考えるとすれば,恐らくそれは代始め改元で変わるというイメージが一般的に残っているのだろうというふうに言えるのじゃなかろうかと思います。」(清水汪政府委員(内閣官房内閣審議室長兼内閣総理大臣官房審議室長)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第846頁)),すなわち,同年制定の元号法2項における「元号は,皇位の継承があつた場合に限り改める。」という規定はそういう主権者「国民が持っているイメージ」を承けた結果である,ということになるのでしょうか。元号法においては「たまたま改元を,昔よくありましたような祥瑞改元とか言ったのだそうですが,それだとか,あるいは国家について重大な事件があった場合とか,そういうようなことではやらないで,憲法第1条に書いてある象徴たる天皇の地位の承継があった場合に限ってやる,そういう改元のきっかけをそこへ求めただけ」だということですが(真田政府委員・第87回国会衆議院内閣委員会議録第716頁),これをもって,践祚時改元制は積極的選択の結果ではなく吉凶之象兆等を理由とする改元を整理した消極的選択の結果にすぎないことになるのである,というように理解するのは善解でしょうか誤解でしょうか。しかし確かに,改元事由は限定されるべきであって,明和(めいわ)九年は迷惑(めいわく)だから物価安が永く続くように安永元年に改元しよう,というような洒落で内閣が次々と元号を改め始めのならばそれこそ迷惑です。

元号法制定は「国民のためよき元号を策定することが主たる目的」であるところ,同法に基づく元号は,「国民に十分開かれた国民元号」としての性格を有するものということになります(三原朝雄国務大臣(総理府総務長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第744頁)。すなわち,「今度の法律〔元号法〕によって委任を受けた内閣が政令を出して,そして年号を定めるということでございまして,天皇のお名前を使って年の表示をするという考えではございません。」というわけです(真田政府委員・第87回国会参議院内閣委員会会議録第711頁)。

総理府からの19791023日の閣議報告である「元号選定手続について」においては,元号の候補名の整理に当たっての留意事項の筆頭に「国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つものであること。」を掲げています(22)ア。下線は筆者によるもの)。余りにも高邁な元号であると,我々人民としては理想負けしてしまうわけです。これに対して,昭和の元号名の勘進者である前記宮内省図書寮吉田増蔵編修官(192279日に死去した図書頭鷗外森林太郎の元部下(ちなみに,鷗外最晩年の日記『委蛇録』の1922620日の項には「二十日。火。〔在家〕第六日。呼吉田増蔵託事。」とあり,同月30日から同年75日までの最後の6日分については,吉田が鷗外のために代筆をしています。))に一木宮内大臣が与えた5項目の元号の条件中第2項は「元号ハ,国家一大理想ヲ表徴スルニ足ルモノナルベキコト。」としていました(『昭和天皇実録 第四』603頁。下線は筆者によるもの)。


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吉田編修官の元上司である帝室博物館総長兼図書頭森林太郎墓(東京都三鷹市禅林寺)

森図書頭のなした仕事として,正に元号及び追号に係る『元号考』及び『帝諡考』が残されています。(ただし,大正改元の際に西園寺内閣総理大臣と渡辺宮内大臣との間でなされた事務分配の前例によれば建元は「大権ノ施行ニ関スル」ものとされていたのですから,内閣総理大臣の下の内閣(これは,国務大臣によって組織される現憲法にいう内閣とは異なります。)ではなく宮内大臣の下の宮内省(図書頭)が元号を云々したのは,厳密には越権(ないしはあえて建元を「皇室ノ大事」と捉え直そうとするもの)だったのかもしれません。)

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禅林寺山門
 

5 大宝律令と大宝建元及び三田の詐偽

 ところで,現在我が国に元号があるのはなぜかという問いに対して,元号法という法律がある以上はいずれにせよ皇位継承の都度内閣は改元して新しい元号を定めなければならないのだと官僚的に答えることは,不真面目な答えであるということでお叱りを受けてしまうことなのでしょうか。(ただし,政府は法律たる元号法の効果として「憲法73条第1号によりまして,内閣は法律を誠実に執行しなければならないということで,今度の法律案が成立した場合の元号法の本則第1項によって,政府は〔同法本則2項の〕改元の事由が出た場合には改元をしなさいという効果が出てくるわけなんです。」と答弁してはいます(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第732頁)。)

しかるに,その後中断なく継続して元号が現在まで使用されるようになった最初の元号である大宝については,正に,新しい令(大宝令)に年号を使えと書いてあるからその指令を役人らに守らせるために年号を定めるのだ,ということで建元されたもののようにも思われるところです。さらには,当該大宝建元の事由たる祥瑞も,実は小役人の手になるいんちきであったというところが味わい深い。

 

   8世紀の最初の年〔701年〕の晩春三月(本書ではすべて陰暦)二十一日,藤原宮の大極殿をかこむ朝堂院では,即位や新年の拝賀におとらない盛大な式典が挙行された。

   式は,黄金献上の儀から始まる。それまで日本にはないと思われていた金山が,さきごろ対馬で発見されたとの内報をえた大納言大伴御行(みゆき)は,技術者を派遣,鋭意精錬させていたのだが,ようやく間にあって,この盛大な式典の劈頭をかざることになったのである。しかし御行自身はこの日をまたず,さる正月に56歳で病没した。〔文武〕天皇は深く悼んで,即日右大臣に昇任させた。

   式は荘重な宣命の朗読にうつる。大極殿前の広場に参列する百官にもよくとおる声である。

   「対馬に産した黄金は,神々が新しい律令〔大宝律令〕の完成を祝いたもうた瑞祥(めでたいしるし)である。よって年号を大宝と定め,新令によって官名・位号を改正する・・・」

年号は,大化改新に始まったが,大化・白雉以後は天武朝の末年に朱鳥としただけで,ひさしく公的には使われていなかった。しかし今度の令は,つねに年号を用いることを命じていた。(青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』(中央公論社・1965年)25-26頁。下線は筆者によるもの。儀制令第26条(公文条)に「凡公文応記年者,皆用年号。」とあったそうです(窪美昌保『大宝令新解 第3冊』(橘井堂蔵・1916年)553頁)。

 

   だが,この式典の劈頭をかざった黄金は,日本で産したものではなかった。対馬に金山などはなかったのである。『続日本紀』の大宝元年(701年)八月条には,金を精錬した技術者三田五(みたのいつ)(),対馬で金山を発見したという島民や嶋司(国司にあたる役人),そして紹介者である故右大臣にたいする行賞の記事があるが,続紀の編纂者は記事の注に「年代暦」という書物を引用して,後年,五瀬の詐偽だったことが発覚した,故右大臣はあざむかれたのである,とのべている。(青木2729頁)

 

   三田氏は任那王の後裔と称しながら,代々金工を業としていたために,大化改新にさいしても朝廷から解放されず,賤民ではないけれども良民のなかでいちばん低い雑戸という身分に指定され,差別待遇されていたのである。「年代暦」が詐偽と記したのは,五瀬が対馬の金山からではなく,どこからか,おそらくは朝鮮から手に入れた金を,島民と共謀して対馬産といったためであろう。

   五瀬は行賞によって雑戸から解放された。のみならず,正六位上という貴族に近い位や,絹・布・鍬など,あまたの賞品をもらった。自分で手に入れた金を献納しても,当座は引きあったわけである。ただ発覚したあとどうなったかは,なにも知られていない。

   かれが金を発見しなければ,大宝という年号もできなかったろうし,高官たちが新令施行の式典をはなやかにかざることもむずかしかったであろう。かれが何者かに命ぜられた役割は,もうすんだのであり,歴史は使い捨てた小道具の最期を語ろうとはしない。(青木29-30頁)

 

 大宝ではなく実は「韓宝」であったのか,などと言えばまたお叱りを受けるのでしょうか。

しかし,青木和夫山梨大学助教授(当時)が,三田五瀬のしてしまった「忖度」ゆえの過ちについて,歴史学的というよりはあるいは文学的な,極めて同情的な口吻を漏らしているところが,刑事弁護も時に行う筆者には印象深いところです。

 

  五瀬としても,詐偽を働いてはいけないということぐらいはじゅうぶん知っていたであろう。ただ,正直に精錬できない旨を朝廷に復命したばあいに自分を待っている将来と,金を精錬した功によって雑戸という身分から抜けだせるかも知れないという誘惑とをくらべたとき,誘惑の強さには,ついに勝てなかったのであろうか。(青木30頁)

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002 東京都渋谷区渋谷三丁目516 渋谷三丁目スクエアビル2

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp




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1 フン人

ローマ帝国が西のウァレンティニアヌス,東がウァレンスの兄弟皇帝(前者が後者の兄。なお,valensは動詞valere(健康であること。)の現在分詞形なので,しいて弟皇帝ウァレンスの名を日本語訳すると「健次郎」ということになりましょうか。)によって統治されていた西暦4世紀の後半,ドナウ川の北,その東北方面に住むゴート人に対してフン人が東方から圧迫を加えます。

フン人とは何者か。

 

   Prodigiosae formae, et pandi; ut bipedes existimes bestias; (Ammianus)

 

   奇異な外観で,かつ,湾曲した者らであって,二本足の獣らと思いなされる。(アンミアヌス)

 

更にギボンの『ローマ帝国衰亡史』第26章には,「スキュティアのこれら野蛮人は,・・・古代の橋梁上にしばしば設置された歪んだ形の境界(テル)()()の像になぞらえられた。」(“These savages of Scythia were compared … to the mis-shapen figures, the Termini, which were often placed on the bridges of antiquity.” (Gibbon, The History of the Decline and Fall of the Roman EmpireChapter XXVI; p.1044, Vol. I of the Penguin Books, 2005))とあるところです。

 

    Species pavenda nigredine … quaedam deformis offa, non facies; habensque magis puncta quam lumina. (Jornandes)

 

     恐るべき黒さの外観・・・いわば奇形の肉塊であって,顔ではない。しかして,目というよりはむしろ点を有している。(ヨルダネス)

 

   A fabulous origin was assigned, worthy of their form and manners; that the witches of Scythia, who, for their foul and deadly practices, had been driven from society, had copulated in the desert with infernal spirits; and that the Huns were the offspring of this execrable conjunction. The tale, so full of horror and absurdity, was greedily embraced by the credulous hatred of the Goths; but, while it gratified their hatred, it encreased their fear; since the posterity of daemons and witches might be supposed to inherit some share of the praeternatural powers, as well as of the malignant temper, of their parents. (Gibbon pp.1044-1045) 

 

   彼らの体型及び所作にふさわしい荒唐無稽な出自が彼らに帰せられた。すなわち,スキュティアの魔女らがその死穢に満ちた不潔の所業のゆえに人界から追放され,荒野において地獄の霊らと交尾した,しかしてフンは,この穢らわしい交配から生まれた子孫だというのである。恐怖と不条理とに満ちたこの説話は,ゴート人の信じやすい憎悪によって貪るように受け容れられた。しかし,彼らの憎悪は満足される一方,彼らの恐怖は増大した。悪魔らと魔女らとの後裔は,彼らの親たちの邪悪な気性と共に超自然的な力の一部をも受け継いでいるものと考えられ得たからである。(ギボン)

 

なお,フン人の後裔については,「マジャール/ハンガリー人が定住しキリスト教に改宗した後で,みずからの歴史の著述に取りかかったとき,ヨーロッパの民とは言えなかったので,彼らはこの光威あるフン族の子孫であると称し」たそうですが(カタリン・エッシェー=ヤロスラフ・レベディンスキー(新保良明訳)『アッティラ大王とフン族』(講談社・2011年)241頁),しかし「現代のハンガリーにおいてはフンの神話はもはや史実とは見なされていない」そうです(同248頁)。そうであれば,「本邦の域外の国若しくは地域の出身である者」であるフン人の「子孫であって適法に居住するもの」たるハンガリー人の方々は現実には存在せず,したがって,フン人に係る前記非友好的描写をしてしまった上で当該描写がそれらの方々に対する「本邦外出身者を著しく侮辱」する類型の「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」に当たるのではないかしらとくよくよ心配することは,取り越し苦労にすぎなかったということになるようです(本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(平成28年法律第68号)2条・3条参照)。5世紀半ばのアッティラ大王の死後「分裂し弱体化したフン族は,以後,新たな遊牧民集団の中に溶解してゆく定め」だったのでした(エッシェー=レベディンスキー222頁)。

 

2 ドナウ河畔のゴート人とウァレンス政権の対応

 前記の恐ろしいフン人の圧迫を受け,フリティゲルン(Fritigern)及びアラウィウス(Alavivus)に率いられた西ゴート人は,ローマ帝国の東北国境であるドナウ川の北岸に急ぎ移動し,ローマ帝国の東帝の保護を懇請するに至ります。

 

   ・・・〔シリアのアンティオキアにいた〕皇帝〔ウァレンス〕の注意は,ドナウ川国境防衛の任務を与えられていた文武官らからもたらされた重大情報に対して最も真摯に振り向けられた。北方は凶暴な騒乱下にあること,未知かつ怪物的な野蛮人種であるフン人の侵入によってゴート人の支配が覆されたこと,その自尊心は今や塵にまみれ辱められたかの好戦民族が哀れみを求める群衆と変じてドナウ川の岸辺を何マイルにもわたって覆っていることが彼に報知された。

彼らは,腕を差し伸ばし,哀れにも悲嘆にくれ,声高に彼らの過去の不運と現在の危険とを嘆いております。彼らの安全に係る唯一の希望は,ローマ政府の慈悲のうちにしかないということを認めております。皇帝の寛仁大度が彼らにトラキアの荒蕪地の耕作を認めてくれるのであれば,最も強い義務と感謝との覊束によって,国家の法を守り,その国境を防衛し続けて已まざる旨極めて厳粛に表明しております。

これらの保証の言は,彼らの不幸な同胞の運命を最終的に決定すべき回答をウァレンスの口から聴くべく焦慮しつつあったゴート人派遣外交使節によって確認された。

東帝は,前年の終わり頃3751117日)に死亡していた兄〔ウァレンティニアヌス〕の知恵及び権威によって今や導かれてはいなかった。しかして,ゴート人の苦境は即時かつ断乎たる決定を求めていたため,引き延ばされた末の,かつ,曖昧である方策こそが全き慎重に係る最も称賛すべき努力であると考えるところの弱くかつ臆病な人々にとっての常套的愛好策は,彼の選択肢から取り除かれてしまっていた。

人類のうちに同一の情熱及び利害が存続する限り,古代の政策検討の場において議論された戦争と平和,正義と政策とに係る問題は,現代の議論の主題として何度も登場するであろう。しかしながら,最も経験豊かなヨーロッパの政治家も,絶望と飢えとによって衝き動かされて文明国家の領域内に定住することを請い求める蛮族(バーバリアンズ)の無数の大群を受け入れ,又は拒絶することの適切性又は危険を衡量すべき場に引き出されることはかつてなかったのである。(ギボン10461047頁。改行は,筆者によるもの)

 

 「最も経験豊かなヨーロッパの政治家も,絶望と飢えとによって衝き動かされて文明国家の領域内に定住することを請い求める蛮族(バーバリアンズ)の無数の大群を受け入れ,又は拒絶することの適切性又は危険性を衡量すべき場に引き出されることはかつてなかったのである。」とのギボンの観察は,18世紀後半の当時には当てはまったとしても,21世紀の今日においてはそうではないように思われます。

 

公共の安全に本質的にかかわる当該重要論題がウァレンスの大臣らの議に付された時,彼らは当惑し,意見は分かれた。しかしながら,彼らはやがて,彼らの君主の自尊心,怠惰及び貪欲にとって最も好都合であると見られたところの調子のよい感情に黙従するに至った。総督や将軍といった称号で飾られた奴隷どもは,帝国の最辺境において受け入れられていた部分的及び偶発的植民とは余りにも大きく異なるものであるこの民族大移動に係る恐怖を隠蔽し,又は無視した。彼らはしかし,ウァレンスの帝位を守護するために地上の最も遠い国々から無数かつ無敵の異邦人の軍隊を招来するにいたった幸運の物惜しみなさを称賛した。彼は今や,毎年の徴兵の代替として属州民から貢納される莫大な量の黄金を,その帝室金庫に加えることができるのである。

ゴート人の祈りは聴き届けられ,彼らの服務は帝室によって受け入れられた。彼らの将来の居住地として適切かつ十分な地域が割り当てられるまでの大集団の移動及び生存のために必要な準備をするよう,トラキア管区の文武の長官に対して命令が直ちに発せられた。しかしながら,皇帝の気前のよさには,二つの苛酷かつ厳重な条件が付されていた。これらは,ローマ人の側では用心ということで正当化され得たであろうが,困窮のみが,憤然たるゴート人をして同意に至らしめ得たものである。

ドナウ川を渡る前に,彼らは武器を引き渡すことを求められた。

また,子供らは彼らから引き離され,アジア各州に分散されるべきことが要求された。そこにおいて子供らは,教育のわざによって文明化され,彼らの親たちの忠誠を確保するための人質としての役割を果たすこととなろう。(ギボン1047-1048頁。改行は筆者によるもの。)

 

3 古代ローマの民族構成及び婚姻奨励策並びにウァレンス政権のゴート人受入れ政策

 

(1)民族構成

本来ローマ帝国は外国人の受入れについて鷹揚な国柄ではありました。1世紀の初代皇帝アウグストゥスの時代について,既に次のようにいわれていました。

 

 ・・・風俗の改革は失敗だった。離婚と産児制限が家庭を破壊し,旧家の血統は絶えようとしていた。ローマ市民の4分の3は解放奴隷の子であるという事実がすでに明らかになっていた。(I・モンタネッリ(藤沢道郎訳)『ローマの歴史』(中公文庫・1996年)319頁)

 

奴隷の供給源は主に戦争捕虜だったそうです(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法―ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)132頁)。したがって,要するに,「ローマ市民の4分の3は解放奴隷の子である」ということは,生粋のローマ人は既に少数者にすぎない存在となってしまっていたということでしょう。紀元後1世紀末には「ローマの人種的構造そのものが変わってしまっていた。外国人の血が一滴も混じらぬ純血のローマ人など,もはや存在しなかったろう。ギリシア人,シリア人,ユダヤ人などの「少数民族」は,全部一まとめにすればローマ市の絶対多数を占めていた。」ということになっています(モンタネッリ390頁)。

 

(2)婚姻奨励策

なお,現代の日本と同様,離婚を云々する以前に,古代ローマにおいてもそもそもの婚姻数の減少が問題になっていたところです。既に共和政の段階から「堕落を始めた風俗が,市民が婚姻を厭うようにすることに大いに貢献した。無邪気な歓びに対する感受性を失った者にとって,婚姻は苦痛以外の何物でもない。」という状態でした(Montesquieu, De l’Esprit des lois, XXIII, 21)。そこで婚姻奨励法があり,「カエサルは,沢山の子供を持っている者に手当を与えた。彼は,45歳未満で夫も子もない女性に対し,宝石を身に着け,又は輿を用いることを禁じた。これは虚栄心を利用した優れた非婚対策である。アウグストゥスの法律は,より厳しいものであった。彼は未婚者に対して新たな罰金を科し,既婚者に対する手当及び子持ちの者に対するそれを増額させた。タキトゥスはこれら一連の法律をユリウス法と呼んだ。」ということです(Montesquieu, ibid.)。しかし,古代ローマ人男性は,現代の心優しい日本人男性のような安心・安全な草食動物ないしは草では全くありませんでした。「諸君が独身でいるのは,一人で生活するためでは全くない。諸君は皆,食卓及び寝台を共にする相手を持っていて,放縦の中にのみ安心を求めているのだ。独身のウェスタ聖女の例を持ち出すのか?そうであれば,諸君が貞潔に関する法律を守らないのならば,彼女らと同様に諸君を罰しなければならぬ〔すなわち,棒で叩いて生き埋めにする〕。」などとアウグストゥスが彼らに対してぶっているところです(Montesquieu, ibid.)。

 

(3)ゴート人受入れ政策

ウァレンス政権の見解としては,ゴート人の大量受入れはよいことであり,国防上も国家財政的にも望ましいということだったのでしょう。国民経済的観点からすれば,「中小・小規模事業者をはじめとした人手不足は深刻化しており,我が国の経済・社会基盤の持続可能性を阻害する可能性が出てきている。このため,〔略〕従来の専門的・技術的分野における外国人材に限定せず,一定の専門性・技能を有し即戦力となる外国人材を幅広く受け入れていく仕組みを構築する必要がある。」というようなことでしょう(2018615日閣議決定「経済財政運営と改革の基本方針2018について」の別紙である「経済財政運営と改革の基本方針2018~少子高齢化の克服による持続的な成長経路の実現~」26頁)。3世紀末から5世紀後半までのローマ経済の状態は,「奴隷が解放されてコロヌスと呼ぶ土地に束縛された小作人になる。都市の住民は同職仲間の構成員としてコレギウムをつくらされ,国家的負担を負わなければならない。職業は世襲化されて,自由闊達の空気はどこにもみられない。貨幣の流通は減少して,公課も生産物や労働による傾向をしめして来る。これは文字通り動脈硬化の社会であり,そこから新しい企業の発生する余地はまったく望みえない。残っているのは,理念的に高められた皇帝権と役人の制度だけである。」というものだったようです(増田四郎『ヨーロッパとは何か』(岩波新書・1967年)75-76頁)。奴隷については,ローマ軍がなかなか勝てなくなってしまったことから補給難であり,価格が高くなってしまっていたとのことです(増田68-69頁)。

武器の携帯にゴート人はこだわったようですが,困ったものです。我が出入国管理及び難民認定法(昭和26年政令第319号(いわゆるポツダム命令の一つ。昭和27年法律第1264条・1条参照)。以下「入管法」と略称します。)5条1項8号は,「銃砲刀剣類所持等取締法(昭和33年法律第6号)に定める銃砲若しくは刀剣類又は火薬類取締法(昭和25年法律第149号)に定める火薬類を不法に所持する者」である外国人は本邦に上陸することができないものとしています。

子供の教育についてはアジアの地で行われることになっていましたが,これは,「外国人が〔我が国〕社会で円滑に生活できる環境を整備し,共生社会が実現されるよう,生活者としての外国人に対する〔国〕語教育及び子供の教育の充実について,体系的な取組を進めてまいります。〔略〕子供の教育に関しては,学校におけるきめ細やかな指導の充実,教員定数の改善等に努めてまいります。加えて,ICTを活用した取組の全国展開や,高校生に対するキャリア教育,夜間中学の充実,就学促進等を総合的に進めることが重要と考えています。」というような取組が現地においてされることを期待してのことだったのでしょう(2018724日の日本国の外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第1回)における林芳正文部科学大臣発言参照)。

 

4 ゴート人のドナウ正式渡河前の状況等

ウァレンス帝が高邁な寛仁大度を示しつつある一方,現場ではどうしても混乱が生じます。

 

   疑わしく,かつ,遠隔地で行われている交渉が未だに結論を得るに至っていないこの期間中に,辛抱できないゴート人は,その保護を求めていた当の政府の許可を得ぬまま,ドナウ渡河の性急な試みをいくつか行った。彼らの動きは,川沿いに駐屯していた軍隊の警戒態勢によって厳しく監視されていた。そして,彼らの最先頭部隊は少なからざる殺戮と共に破された。しかしながら,これがウァレンス治下の臆病な政策決定というものなのだが,任務の遂行によって国に尽くした勇敢な将校らは,馘首によって罰せられ,かろうじて彼らの生首が留められたのであった。(ギボン1048頁)

 

我が国の内閣総理大臣は,2018724日に,国務大臣,報道関係者らを前に次のように発言しています(外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第1回))。

 

〔前略〕一定の専門性・技能を有し即戦力となる外国人材を幅広く受け入れていく仕組みを構築することは急務であります。新たな制度による外国人材の受入れは,来年〔2019年〕4月を目指して,準備を進めてまいりたいと考えていますので,法案の早期提出,受入れ業種の選定等の準備作業を,速やかに進めていただくよう,お願いします。

 また,新たな制度による受入れを含め,在留外国人の増加が見込まれる中,日本で働き,学び,生活する外国人の皆さんを社会の一員として受け入れ,円滑に生活できる環境を整備することは重要な課題です。本日の閣議決定により,法務省が外国人の受入れ環境の整備に関する総合調整を行うこととなりました。法務省の司令塔的機能の下,関係府省が連携を強化し,地方公共団体とも協力しつつ,外国人の受入れ環境の整備を効果的・効率的に進められるよう,関係閣僚の御協力をお願いします。〔後略〕

 

 「本日の閣議決定」たる2018724日の閣議決定「外国人の受入れ環境の整備に関する業務の基本方針について」においては,「今後も我が国に在留する外国人が増加していくと考えられる中で,日本で働き,学び,生活する外国人の受入れ環境を整備することによって,外国人の人権が護られ,外国人が日本社会の一員として円滑に生活できるようにしていく必要がある。」と謳われています。「日本で働き,学び,生活する外国人」も「日本社会の一員」であり,その「人権が護られ」なければならないものとされています。

 以上は行政・立法に関する最近の動きですが,司法の場においても,上記閣議決定等に示された来たるべき我が新しい国のかたち及び前記ドナウ川守備隊馘首処分事件の前例に鑑みた上で更にしかるべき忖度も行われることがあれば,不法(オーバー)残留(ステイ)に係る入管法違反被告事件(同法7015号により3年以下の懲役若しくは禁錮若しくは300万円以下の罰金又はその懲役若しくは禁錮及び罰金の併科)の量刑相場(起訴されてしまった以上は,前科がなくとも最低懲役1年・執行猶予3年(第一東京弁護士会刑事弁護委員会『量刑調査報告集Ⅴ』(20183月)137-138頁参照))の低減までが20194月よりも前からなされ得るかもしれないとの淡い期待が抱懐されるところです(ここで量刑相場の低減が望まれるのは,執行猶予が付いても,懲役「1年」に処せられたこのとある以上,被告人は以後ずっと入管法514号の上陸拒否事由にひっかかってしまうからです(ただし,同法5条の2)。ちなみに,外国人ノ入国,滞在及退去ニ関スル件(昭和14年内務省令第6号)においては不法残留に対する罰は50円以下の罰金又は拘留若しくは科料にすぎませんでした(19条)。)。しかしながら,そのような期待は,甘いものと断ぜざるを得ません。新しい国のかたちなのだと弁護人がいろいろ頑張って弁論してみても,「弁護人は熱心に活動してくれました。それに対する感謝の心を忘れてはいけませんよ。」というような訓戒が判決宣告後裁判官から被告人に対してされるようなことはあるかもしれませんが(刑事訴訟規則221条),量刑相場はなかなか揺るがないでしょう。

 なお,2018724日の閣議決定においては「外国人の人権」を護るものとされていますが,外国人には本邦に入国する自由(権利)はないと解する最高裁判所昭和32619日大法廷判決(刑集1161663頁)の判例を否定するものではないでしょう(同判決は「憲法22条は外国人の日本国に入国することについてはなにら規定していないものというべきであつて,このことは,国際慣習法上,外国人の入国の許否は当該国家の自由裁量により決定し得るものであつて,特別の条約が存しない限り,国家は外国人の入国を許可する義務を負わないものであることと,その考えを同じくするものと解し得られる。」と判示)。しかしながら,更にマクリーン事件に係る「憲法上,外国人は〔略〕在留の権利ないし引き続き在留することを要求し得る権利を保障されているものでもないと解すべき」であり,かつ,「出入国管理令上も在留外国人の在留期間の更新が権利として保障されているものではない」とする判例(最高裁判所昭和53104日大法廷判決民集3271223頁)が維持されるとしても,在留期間の更新の許可に係る入管法21条の「広汎」な「法務大臣の裁量権の範囲」(同判決)も,いったん「日本社会の一員」として受け入れられた外国人については,「護られ」るべきその「人権」によって制約されるものとして,少なくとも行政上の法運用はされていくのでしょう。「在留期間中の憲法の基本的人権の保障を受ける行為を在留期間の更新の際に消極的な事情としてしんしゃくされないことまでの保障が与えられているものと解することはできない」ということであれば,日本社会の一員として受け入れられた「外国人の人権が護られ」ているとはなかなか胸を張って言いにくいところです。ただし,「国籍や民族などの異なる人々が地域社会の構成員として共に生きていく多文化共生の推進は,地方自治体の重要な課題」とされているところ(外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第1回)における野田聖子総務大臣の発言),ここでの「多文化共生」の概念にこだわれば,形としては「地域社会の構成員」ではあっても,日本文化の共同体たる「日本社会」の一員としての受入れまでは,まだなかなかということでしょうか。

 

5 ドナウ渡河のゴート人の数に関して

さて,376年にドナウ川を越えたゴート人の数はといえば,アンミアヌスによれば次のとおりだとか(ギボン1049頁)。

 

  Quem si scire velit, Libyci velit aequoris idem

   Scire quam multae Zephyro truduntur harenae (Vergilius, Georgica)

 

しかしてそれ〔の数〕を知ろうとする者は,どれほど多くのリビア平原の砂粒が西風によって動かされるかを知ろうとするもの(ウェルギリウス『農耕歌』)

 

ただし,ギボンは,渡河したゴート人の戦士の数は約二十万人で,ゴート人全体(女性,子供及び奴隷を含む。)では百万人近くになったのではないかとしています(1049頁)。しかし,この数字はいかにも大き過ぎるようです。秀村欣二教授によれば「375年ついにヴォルガ川を渡ったフン族の圧迫をうけた約六万の西ゴート人は,首長フリティゲルンにひきいられてドナウ川南岸のローマ領内に定住することを求めた。」ということで,渡河の許可を求めたゴート人の数は約六万人とされています(村川堅太郎責任編集『世界の歴史2 ギリシアとローマ』(中央公論社・1961年)468頁)。堀米庸三教授は「アラン族を征服したフン族は,375年,ドン川をこえ,怒涛のようにドニエプル下流地帯の東ゴート族におそいかかった。〔中略〕フン族は息つく間もなくドニエストル,ドナウ間にすむ西ゴート族をおそった。その勢いにおしまくられた西ゴートの一部は,北方のカルパティア山脈の麓に退いたが,キリスト教を奉ずる他の一部は,東ローマの許可をえてドナウ川をわたり,ローマ帝国内に移った。これはゲルマン人が部族集団のままでローマ領内に入った最初で,まさに劃期的意味をもつ事件である。彼らの数は約四万,うち八千が戦士だった。」と述べており(堀米庸三責任編集『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』(中央公論社・1961年)4-5頁),ギボンの張扇は25倍もの誇張をしたものとされています。「近年の研究を見ると,376年にドナウを渡った人々の数は,多く見積もって数万と推定する学説が多いように思われる。もしこれが正しいならば,それまでの例に比して376年の移動が格別に大規模だったとはいえないだろう。」ということになるようです(南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』(岩波新書・2013年)164頁)。

なお,2017年末の日本国内の在留外国人の数は2561848人ですが,これは,その前年3月に東日本大震災があった2012年の末には2033656人であったところ,2013年には32789人,2014年には55386人,2015年には110358人,2016年には150633人,2017年には179026人がそれぞれ順次増加してきたものです(2018327日法務省入国管理局報道発表)。外国人労働者数について見れば,201710月末には1278670人であって,この数字は,201210月末の682431人から1年ごとに35041人,70116人,120272人,175860人,194950人がそれぞれ順次増えて5年間で約1.9倍になったものです(20181012日の外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第2回)資料・法務省入国管理局)。毎年数万を超える外国人が流入しているということであれば,21世紀の日本は4世紀後半のゲルマン民族大移動期のローマ帝国と似たような状況にあると考えることも許されるのでしょう。


6 ゴート人,下モエシアに入る。

丸腰で平和的にローマ帝国内に移住するはずだったゴート人らですが,やはり蛮族たるもの,武器は手放せません。

 

 ・・・彼らの武器を名誉の印かつ安全の担保とみなす蛮族(バーバリアンズ)は代価を提供するにやぶさかではなかったし,帝国官吏らの好色及び貪欲は,それらの受取りに向け容易に誘惑された。彼らの武器を保持するために,驕慢戦士らは,若干の逡巡はあったものの,彼らの妻及び娘の肉体を提供することに同意した。麗しい娘又は顔立ちのよい青年の魅力が検査官の黙認を確保した。彼らは彼らの新たな同盟者の縁飾りのあるカーペット及びリンネルの衣類に対してしばしば物欲しげな視線を向け,あるいは彼らの農場を家畜で,彼らの家屋を奴隷で満たすという卑しい考慮の前に彼らの義務を犠牲に供した。(ギボン1049頁)

 

さて,大勢の移住民の面倒を見るのは大変な仕事です。

 

   規律なく未定住の野蛮(ネーション・オブ)民族(・バーバリアンズ)ついては,最高度の沈着及び最巧緻な管理を必要とした。百万人近くの普通ではない臣民の毎日の生存は,恒常的かつ手際のよい業務精励によってのみ扶持され得るものであったし,手違い又は事故によって不断に障碍され得るものであった。彼らが恐怖又は蔑視いずれかの対象であると自ら認識した場合においては,ゴート人の不遜又は憤懣は彼らをして最も極端な行動に駆り立て得たところであって,国家の安危は,ウァレンスの将軍らの廉潔と共に慎重にかかっているものと見受けられた。

この重大な危機に際してトラキアの軍政はルピキヌス及びマクシムスによって担われていたが,彼らの欲得ずくの性根においては,わずかな私的利得の望みですら公共の利益に係る全ての考慮よりも重きをなすものとされていたし,彼らの罪を軽減するものは,彼らの性急かつ犯罪的な行政がもたらす有害な効果を認識し得ない彼らの無能のみであった。

君主の命令に従い,かつ,適正な気前のよさをもってゴート人の需要を満たす代わりに,彼らは飢えた蛮族(バーバリアンズ)の生活必需品に対して吝嗇的かつ圧制的な税を課した。最も粗末な食品が途方もない値段で売られた。さら,健康的かつ十分な食糧供給の代わりに,犬肉及び病死した不衛生な動物の肉によって市場は満たされていた。パン1ポンドの貴重な調達を得るために,ゴート人は,費用はかかるが役に立つ奴隷の所有を諦めた。また,少量の肉が,貴重な,しかし役には立たない金属〔銀〕10ポンドによって貪るように贖われた。財産が尽きると,彼らはこの不可欠の交易を,息子や娘を売却することによって継続した。全てのゴート人の胸を鼓舞する自由への愛にもかかわらず,彼らは,悲惨かつ救いのない独立の状態で斃死するよりは子供たちは奴隷状態で生き延びた方がよいという屈辱的な道理に屈した。

最も活発な憤懣は,自称恩恵付与者による専制によってかき立てられた。彼らは,その後の乱暴な取扱いによって帳消しにしてしまったはずの感恩の債務の履行を厳格に求めるのであった。辛抱強くかつ義務に忠実な彼らの姿勢を評価してくれるように求めても取り合ってもらえないでいる蛮族(バーバリア)(ンズ)仮居住地(キャンプ)内において,不満の空気が知らず知らずのうちに高まり,さらには,彼らがその新たな同盟者から受けた無慈悲な仕打ちに対する不満が声高に述べ立てられた。彼らの周囲を見ると,そこには肥沃な属州の富と豊かさとがあった。彼らはその只中にあって,人為的飢餓のもたらす耐え難き苛酷を忍んでいたのである。(ギボン1050-1051頁。改行は筆者によるもの)

 

出入国在留管理庁の監督の下で受入れ機関又は登録を受けた登録支援機関が外国人労働者に対して「(1)入国前の生活ガイダンスの提供,(2)外国人の住宅の確保,(3)在留中の生活オリエンテーションの実施,(4)生活のための日本語習得の支援,(5)外国人からの相談・苦情への対応,(6)各種行政手続についての情報提供,(7)非自発的離職時の転職支援,(8)その他」の支援を行うこと(外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第2回)資料・法務省入国管理局)等を確保するほか,「外国人が安心して生活・就労できるよう,医療通訳等の配置等により,医療機関における外国人患者受入に関する環境整備を進めてまいります。さらに,外国人労働者について,都道府県労働局や労働基準監督署に設置している外国人向けの相談コーナーや相談ダイヤルなど,労働条件等に関する外国人労働者の相談ニーズに多言語で対応してまいります。また,適正な雇用管理を確保する観点からも,事業者の雇用主としての責任の下に適切な社会保険への加入が行われるよう,周知や確認等を含め実効性のある方策を関係省庁と協力しながら検討してまいります。」というような周到な配慮(外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第1回)における加藤勝信厚生労働大臣の発言)が求められていたところです。医療と社会保険とは重要です。

 前記のゴート人の苦境及びその結末について,ヒエロニムスは簡潔にいわく。

 

   Per avaritiam Maximi ducis, ad rebellionem fame coacti sunt.

 

   マクシムス司令官の貪欲によって,反抗へと彼らは飢えゆえに強制された。

 

7 マルキアノポリスの喇叭

ドナウ河畔から約70マイルの下モエシアの主都マルキアノポリスにおいて,ゴート人とローマ政府軍との最初の衝突が発生します。

 

 ・・・ルピキヌスはゴート人の族長らを豪奢な宴会に招待していた。しかして彼らの護衛のための随行員らは,武装したまま宮殿の入口前にたむろしていた。しかしながら,市門は厳重に警戒されていた。また,蛮族(バーバリアンズ)は,臣民及び同盟者としての同等の利用権を主張していたにもかかわらず,豊富な商品に溢れた市場の利用から厳しく排除されていた。彼らのへりくだった願いは,横柄さと嘲笑とをもって拒絶された。そして彼らの忍耐は今や限界に達し,間もなく,街の住人,兵士及びゴート人らは頭に血の上った口論,怒気に満ちた非難が相互に飛び交う争いを始めた。軽率な殴打がなされた。急いで剣が抜かれた。そしてこの偶爾紛争において最初に流された血が,長く,かつ,壊滅的な戦争のさきがけの信号となった。(ギボン1052頁)

 

 流血の紛争の発生を承け,フリティゲルンらはマルキアノポリスを脱出,彼らを歓呼と共に迎え入れたゴート人は戦争を決議します。いざ出陣。

 

   Vexillis de more sublatis, auditisque triste sonantibus classicis. (Amminanus)

 

      慣習に従って軍旗が掲げられ,そして嚠喨たる喇叭の響きが物悲しく聞こえて。(アンミアヌス)

 

 日清戦争・成歓の戦いにおける我がラッパ手・木口小平及び白神源次郎の敢闘と戦死との有様が想起されるところです。(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1072462801.html

 マルキアノポリスにおけるローマの将軍ルピキヌスには,成歓・平壌における清の提督葉志超にやや似たるところありしか。

 

  ・・・恐るべき敵をあえて挑発し,横着に傷害し,かつ,なおも軽侮し得るものと考えていた卑怯有罪のルピキヌスは,この緊急事態に当たって集められ得る限りの軍勢の頭としてゴート人に向かって進軍した。蛮族(バーバリアン)()は,マルキアノポリスから約9マイルの地で彼の接近を待ち受けていた。しかして,この機会においては,武器及び軍隊の練度よりも将帥の才幹こそが実効においてより優越するものであることが明らかになった。フリティゲルンの天才によってゴート人らの勇猛が,しかく巧妙に指揮されたので,彼らの密集した猛攻撃によってローマ軍団の戦列は打ち破られた。ルピキヌスは,敵前において,武器も軍旗も,士官らも最も勇敢な兵士らをも打ち棄てた。そして,彼らの無益な勇気は,彼らの指揮官の無様な逃亡を援護することに役立っただけであった。

「かの成功に満ちた日が,蛮族(バーバリアンズ)の苦難及びローマ人の安全に終止符を打ったのである。かの日からゴート人は,異邦人・流民としての不安定な境遇を脱し,市民かつ主人たる性格を帯び,土地の占有者の上に絶対的支配権を主張し,そしてドナウ川でされた帝国の北部諸属州を自らの権利のうちに保持したのである。」かくのごときが,その同胞の栄光を粗野な雄弁をもってたたえるゴート人歴史家〔ヨルダネス〕の言葉である。

しかしながら,蛮族(バーバリアンズ)の支配は,略奪及び破壊の目的のみのために発動された。自然のもたらす共通の便益及び社会生活における正当な交際を皇帝の属官らによって拒まれていたところ,彼らは当該不正に対する報復を帝国臣民に対して行なった。しかしてルピキヌスの犯罪は,トラキアの平和な農民らの破滅,村々の炎上及び彼らの無辜の家族の殺戮又は拉致によって償われたのである。(ギボン1053-1054頁。改行は筆者によるもの)

 

「ドナウ川を越えて属州モエシアに入る通路は無防備に開かれた状態となった。そして,フリティゲルンと協働する勢力が続々現れるようになった。そればかりではなく,すでにローマ帝国内に受け容れられていた集団からも,待遇に不満を抱いて,フリティゲルンの軍に加わる者が出てきた。」ということになります(南川165頁)。以前からアドリアノープル附近にいたゴート人が矛を逆しまにしてフリティゲルンの軍に加わり,トラキアの金山の鉱夫らがフリティゲルンの軍の手引きをします(ギボン1054-1055頁参照)。


8 アドリアノープルへの道

 377年に入っての状況。

 

   ウァレンス及び彼の属官らの軽率は,敵対者らの(ネー)国家(ション)を帝国の中心に招き入れてしまった。しかしながら,過去の過ちを男らしく認め,かつ,以前の約束を誠実に履行することがあれば,なおもまだ西ゴート人は宥和され得たであろう。これらの修復的かつ穏健な施策は,東の君主の臆病な気質に親和的であるようであった。しかしながら,この場合においてのみ,ウァレンスは勇敢であった。そして彼の時ならぬ勇敢は,彼自身及び彼の臣民にとって致命的であった。(ギボン1055頁)

 

困窮したゲルマン人(Germani)の大群の受入れを行う政策に対する批判の声に対してウァレンス皇帝は,人道の名において,„Wenn wir jetzt anfangen, uns noch entschuldigen zu müssen dafür, dass wir in Notsituation ein freundliches Gesicht zeigen, dann ist das nicht mein Land.“(「困難な時期にあって友としての顔を見せることについて今更謝罪をしなければならないことになるのだとすれば,それは私の国ではありません。」Angela Merkel am 15. September 2015)と反論することはできなかったようです。

 

  ・・・彼は,この危険な叛乱を鎮圧するために,アンティオキアからコンステンティノープルに進軍する意図を表明した。そして,彼はこの企図の困難性に無知ではなかったところから,西の全兵力を統帥する甥のグラティアヌス帝〔ウァレンティニアヌスの後継者〕の援助を要請した。(ギボン1055頁)

 

ドナウ川の河口近くのSalices(柳林)の地におけるフリティゲルン率いるゴート人と東西ローマ軍との戦いは,数多くの戦死者を残して勝負つかずとなりました。数年後に当該戦場跡を見たアンミアヌスはいわく。

 

  Indicant nunc usque albentes ossibus campi. (Ammianus)

 

  野辺は今もずっと骨また骨によって白い。

 

 ローマ軍の手ごわい抵抗を受けたフリティゲルンは,蛮族仲間(西ゴートの他の部族,東ゴート人及びタイファリ人)との同盟工作に精を出します(ギボン1058頁参照)。(タイファリ人については,アンミアヌスが “ut apud eos nefandi concubitus foedere copulentur mares puberes” (「彼らのもとでは,成人男子らが邪悪なconcubitusのちぎりによって結び付けられているほどである」)と記していますが,ここでnefandusとの形容詞を用いることについては,「生産性」方面的なところからする不当な偏見を助長するものであるとの意見もあることでしょう。)しかして「やがて,東の方のアラニ人やフン人すらも,対ローマの戦線に加わるほどとなる。こうして,ローマ帝国が長らく戦略的に避けてきた,様々な部族集団がローマ帝国に対して連帯するという事態が,この時初めてできあがってしまったのである。」ということになりました(南川165-166頁)。

 これに対するローマ側の動きはいかん。

 

西半の皇帝グラティアヌスが派遣した軍隊は,東半の軍隊と協力して,幾度もゴート族の集団と戦ったが,378年の2月にアラマンニ族の一派,レンティエンセス族がライン川を渡って属州ラエティア(現在のスイス地方)に侵入したため,グラティアヌス帝は東に送った軍隊を呼び返さざるを得なくなった。グラティアヌス帝はこの侵入者に勝利を収めると,再び叔父のウァレンス帝を援助するため,軍隊を東に向かわせた。宮廷が分割されていても,ローマ帝国は東西連携して動いていたのである。(南川166頁)

 

 アラマンニ人に対する勝利によって若年の西の皇帝が栄光に包まれている間,年長の叔父さんである東の皇帝は,浮薄な首都の住民の排外熱狂によって煽られます。

 

   それにふさわしい活躍をしたグラティアヌスが彼の臣民らからの称賛を享受している一方,アンティオキアからついに宮廷及び軍を撤収したウァレンス皇帝は,公共の災厄を惹起した者としてコンスタンティノープルの人民に迎えられた。首都において十日間(378530日から同年611日まで)の休息を終える前に,彼は,戦車競走競技場の放縦なわめき声によって,彼がその領域内に招き入れた蛮族(バーバリア)(ンズ)に対して進軍するよう要求された。しかして現実の危険から離れていさえすれば常に勇敢である市民らは,武器が供与されれば,彼らのみで属州をけしからぬ敵の劫掠から救うべく立ち上がるであろうと自信いっぱいに宣言した。無知な大衆の独りよがりな非難がローマ帝国の没落を早めた。公衆からの侮蔑を堅忍不抜に耐えるべきものとする動機を,彼の評判についても,また彼の心裡においても見出すことのなかったウァレンスの,向こう見ずな性急が喚起されたからである。彼はやがて,その部下らの成功した戦闘の結果によって,ゴート人の力を見くびってよいものと思うようになった。ゴート人は,フリティゲルンの努力によって,当時アドリアノープル近郊に集められていた。(ギボン1060-1061頁)

 

   Moratus paucissimos dies, seditione popularium levium pulsus. (Ammianus)

 

   ほんの数日滞在したところ,軽薄な住民の騒ぎによって押し動かされた。(アンミアヌス)

 

 いよいよ皇帝ウァレンス陛下御出陣。

 

9 アドリアノープルの戦い

 

(1)戦闘前夜

 

  ・・・宮廷宦官らの阿諛追従を誇りと歓びとをもって聴いていたウァレンスは,簡単かつ保証付きの征服のもたらす栄光をつかむべくじりじりしていた。彼の軍隊は,古参兵らの多くの増員によって強化されていた。しかして彼のコンスタンティノープルからアドリアノープルへの進軍はしかく高度の軍事能力をもって遂行されたため,その間の隘路を占領し,さらには軍隊それ自体又は輜重を襲おうとする蛮族(バーバリアンズ)の活動は阻止された。アドリアノープルの城壁下に設けられたウァレンスの陣営は,ローマの流儀によって,壕及び塁壁によって防備されていた。そして,皇帝及び帝国の運命を決すべき最も重要な会議が召集された。(ギボン1062頁)

 

その間フリティゲルンはキリスト教聖職者を交渉使節として派遣して来て,トラキアの荒蕪地への平和的入植並びに穀物及び家畜の十分な供与が認められれば和平がなお可能であるようなないようなことを述べさせローマ側を攪乱します。(ギボン1062頁参照)

 

 ・・・ほぼ同時に,リコメル伯が西から戻って来て,アラマンニ人の敗北及び服属を告げ,ウァレンスに対して,彼の甥が,勝利に輝く歴戦のガリア軍団の頭に立って急ぎ進軍し来たりつつあることを知らせた。しかして更に,グラティアヌス及び国家の名において,二皇帝の合作がゴート人に対する戦争の成功を確実にするまでは,あらゆる危険な及び重大な措置を控えるべきことが求められた。しかしながら,意志薄弱な東の君主は,自尊(プラ)(イド)及び嫉妬(ジェラ)(シー)に係る致命的幻想によってのみ衝き動かされていた。彼は煩わしい忠告をうるさいものとして斥けた。彼は屈辱的な援助を拒絶した。彼はひそかに,不名誉な,少なくとも栄光なき自らの治世と,髭のなお生えそろわぬ若者のかの名声とを引き比べた。そしてウァレンスは戦場に突出した。彼の僚帝の軍務精励が戦勝の幾分かを横取りしないうちに彼の幻想の戦勝記念碑を打ち立てるために。(ギボン1062-1063頁)

 

(2)ウァレンス敗死

 運命の37889日がやってきました。

 アドリアノープル近郊でウァレンス率いるローマ軍とフリティゲルンのゴート軍とが対峙します。しかし,直ちに戦端は開かれません。「フリティゲルンはなお彼の常套的術策を施し続けた。彼は和平の使節を送り,提案を行い,人質を要求し,しかして,日よけもないままに焼け付く日差しにさらされたローマ人らが渇き,飢え及び耐え難い疲労によって消耗するまで時間を徒過せしめた。」と伝えられています(ギボン1063頁)。午後になって戦闘が開始されます(南川163頁)。

  

  ・・・ウァレンス及び帝国にとってしかく致命的であったアドリアノープル戦の出来事は,数語で言い表すことができるであろう。ローマ騎兵は逃亡した。歩兵部隊は打ち棄てられ,包囲され,そして切り刻まれた。〔中略〕激動,殺戮及び狼狽の只中で,近衛部隊に置き去りにされ,恐らく矢によって傷つけられた皇帝は,なおいくらかの秩序及び堅忍をもって地歩を守っていたランケアリイ人及びマッティアリイ人の部隊の中に保護を求めた。〔中略〕従者らの手助けによって,ウァレンスは戦場から連れ出され,近くの小屋に運び込まれた。そこにおいて彼らは彼の傷に治療を施し,更に彼の安全を図ろうとした。しかしながら,この粗末な隠れ場所もすぐに敵によって包囲された。彼らは扉を押し開けようとした。彼らは屋上から矢を射かけられたことによって激高した。ついには遅滞に苛立った彼らは,乾いた薪束の山に火を着け,ローマ皇帝及びその取り巻きと共に小屋を焼き尽くした。ウァレンスは炎の中で絶命した。そして,窓から飛び降りた若者が,ただ一人脱出に成功して,この悲しむべき話についてあかしをし,ゴート人に対して,彼ら自らの短気によって取得し損ねたこの上もなく高貴な戦利品について告知することとなった。非常に多くの勇敢かつ優秀な士官が,アドリアノープルの戦いにおいて戦死した。これは,ローマがかつてカンネーの野で被った不運に比して損害の実数において匹敵し,その致命的な結果においては優に上回るものであった。(ギボン1064頁)

10 ローマ帝国の衰亡

 

(1)Secundum Iaponem

 南川高志教授によれば,378年のアドリアノープルの戦いの後わずか約30年で,「帝国」としてのローマは滅亡します。

 

   ・・・5世紀のローマ帝国西半の歴史的な動きを見るとき,5世紀初めに「帝国」としてのローマは滅亡したといってよいことがはっきり了解される。ローマ帝国は4世紀の370年代中頃まで,対外的に決して劣勢ではなかった。しかし,その大ローマ帝国があっけなく崩壊した。帝国軍が大敗北したアドリアノープルの戦いが378年。諸部族のガリアからイベリア半島までへの侵攻とブリテン島の支配権喪失が409年。ローマ帝国はごくわずかな期間に帝国西半の支配圏を失ったのである。政治史から見た場合,ローマ帝国の黄昏は短く,夜の闇は一瞬に訪れたかのごとくである。史上空前の繁栄を現出した大国家が,30年という年月で潰え去ったのだ。(南川201頁)

 

   ・・・従来歴史家は,この5世紀初めの出来事について,ブリテン島とガリア北部でのローマ支配の消滅として,地域的な影響・意義しか捉えてこなかったが,私は,この時点でローマ帝国の「帝国」としての意義が失われたと解釈する。私は〔略〕,担い手も境界も曖昧なローマ帝国を実質化している要素として,軍隊,特に「ローマ人である」自己認識を持つ兵士たちの存在と,「ローマ人である」に相応しい生活の実践,そして支配を共にする有力者の存在をあげたが,405年から生じた一連の出来事〔405年のラダガイススに率いられた蛮族の北イタリア侵入,ブリテン島やガリアのフロンティアから軍を集めたローマの将軍スティリコによるラダガイスス撃破(406年),ブリテン島におけるマルクスらによる皇帝僭称(同年),406年大晦日以降のヴァンダル人,スエウィ人,アラニ人,ブルグンド人及びアラマンニ人のガリア侵入,407年の僭称皇帝コンスタンティヌス3世のブリテン島からガリアへの進出,409年のブリテン島からのコンスタンティヌス3世の総督の放逐〕によって,これらが帝国西半から消え去ってしまったからである。(南川193-194頁)

 

南川教授は「ローマ帝国の衰亡とは何であったといえるだろうか。」と自問し,「それは,「ローマ人である」という,帝国を成り立たせていた担い手のアイデンティティが変化し,国家の本質が失われてゆく過程であった。それが私の描いた「ローマ帝国衰亡史」である。」と記しています(南川205頁)。アドリアノープルの戦いの後「外部世界に住む人々,そこからローマ帝国に移ってきた人々を,個別の部族を超えて「ゲルマン人」とまとめて捉え,野蛮視,敵視する見方が成長」し(南川183頁),そのようなことによるアイデンティティの変化による国家の本質の喪失が,西ローマ帝国滅亡をもたらした要素であった,ということでしょうか。「ローマ国家が,4世紀以降の経過の中で徐々に変質し,内なる他者を排除し始めた。高まる外圧の下で,「ローマ人」は偏狭な差別と排除の論理の上に構築されたものとなり,ローマ社会の精神的な有様は変容して,最盛期のそれとはすっかり異なるものとなった。政治もそうした思潮に押されて動くことによって,その行動は視野狭窄で世界大国に相応しくないものとなり,結果としてローマ国家は政治・軍事で敗退するだけでなく,「帝国」としての魅力と威信をも失っていった」そうです(南川206頁)。

 

(2)Secundum Gallum

フランス(かつてのガリア)のジャン‐クロード・バローは,次のように書いています。

  

   自らがそれ自身である限りにおいては,強大なローマ国家は,西方において無敵であり,かつ,その軍団をもって,蛮族を容易に域外の暗黒の地へと押し戻した。

   帝国及びそれと共にガロ=ロマン世界は,自らを殺して崩壊した。何世紀もの間彼らの義務感及び「公益」の精神を保持していた指導者らは,5世紀においてはこれらの徳目を完全に喪失していた。

   シャトーブリアンは,史実に鑑みながら書いている。いわく,「指導者階級は,三つの継起する時代を経験する。すなわち,卓越の時代,特権の時代及び虚栄の時代である。第1の時代を閲した後彼らは第2の時代に堕落し,しかして第3の時代において消滅する。」と。ローマ,次いでガロ=ロマンの貴族の力をなした諸徳――戦士の徳,偉大の意識及び国家意識――は枯れ果てていた。

   既に長いこと,ガリア人は戦う勇気を忘れ去っていた。フン人に抗して歌われた西方におけるローマの白鳥の歌であるカタラウヌムの野における最後の勝利〔451年〕の後,ゲルマン人たちの前には,略奪,凌辱及び殺戮のために開かれた大地が横たわっていた。彼らを撃退すべき軍団は,既にそこにはなかった。その時,ガリア中において待ち設けられていたのは,一種の内破としての文明の恐るべき後退であった。進歩は,当然のものではない。恐るべき退歩が発生可能なのである。(Jean-Claude Barreau, Toute l’histoire de France; Livre de Poche, 2011: pp.39-40

 

 (3)Secundum Germanum

しかし,ゲルマン人はそう悪くはないのだよと,ドイツ(かつてのゲルマニア)のマンフレット・マイは弁護します。

 

  ・・・しばらくの間ローマ軍は,彼らが全ての非ローマ民族,したがってゲルマン人をもそう名付けていたところの「蛮族」に対して防禦を行い得ていた。しかし,結局のところはゲルマン人の方が強盛であって,彼らはローマ帝国に進入した。とはいえ彼らは帝国を破壊しようとしたのではない。むしろその達成したところのものを彼ら自身のために利用しようとしたのである。しかしてローマの文化及び生活様式が,ゲルマン人の風俗及び習慣と徐々に混ざり合っていった。(Manfred Mai, Deutsche Geschichte; Beltz & Gelbeg, 2010: pp.15-16

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002 東京都渋谷区渋谷三丁目516 渋谷三丁目スクエアビル2

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp


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 先般筆者の母方の祖父の十七回忌法要があり,親戚が集まったところで当該故人及びその父(すなわち筆者の母方の曽祖父)の残した書き物が印刷物とされて一同に配付されました。これがなかなか興味深い。

 曽祖父の「由緒」書きにおけるその兵役に関する記録中最初の部分は次のとおり。中国地方の山中から広島の第五師団に騎兵として入営して約半年で直ちに半島に出動,日清戦争前夜からその終結まで,我が大日本帝国陸軍の主要な軍事行動の現場にあってその当事者であり続けたのでした。

 曽祖父・祖父の記録癖に付加せらるるところの筆者の悪癖は考証癖でありますが,いささか註釈を施してみる次第です。今回は,最初の1行の部分です。

 

明治26年〔1893年〕11月1日徴兵ニ合格シテ騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ〔今回はここまで〕

明治27年〔1894年〕6月朝鮮国ニ東学党蜂起シ韓国居留民保護ノ目的ヲ以ツテ(どう)年6月11日混成旅団ヲ編成セラ(ママ)大島義昌少将ヲ旅団長トシ平城盛次少尉ヲ小隊長トシ選抜セラレテ山城丸ニ乗舶シ宇品港出帆玄海灘ヲ経テ仁川ニ向フ此ノ日山陽鉄道広島駅()()開通ノ日ナリ

明治27年8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル

仝7月23日京城ノ変ニ出張爾来成歓ニ牙山ニ平壌義洲鴨緑江鳳凰城塞馬集崔家房礬家台竜頭塞興隆勾瀇嶺海城牛荘田庄台ト転戦ス

明治27年9月15日大本営ヲ広島旧城エ進メ給ヘリ

明治28年〔1895年〕6月5日講和トナリ凱旋

仝年1112日日清戦役ノ功ニ依リ瑞宝章勲八等及び金50円幷ニ従軍徽章下賜セラル

明治29年〔1896年〕1130日善行証書ヲ授与セラレ満期除隊トナル

 

1 1893年の徴兵に関する状況

 

(1)明治22年徴兵令

1893年当時施行されていた兵役法令は,明治22年法律第1号(1889121日裁可,同月22日官報で公布)の「徴兵令」を頂点とするものでした。ところで,同令の下で「徴兵ニ合格」するとはどういうことかといえば,そもそも「日本帝国臣民ニシテ満17歳ヨリ満40歳迄ノ男子ハ総テ兵役ニ服スルノ義務アルモノトス」ることが原則とされていたところ(同令1条),「陸軍現役兵ハ毎年所要ノ人員ニ応シ壮丁ノ身材芸能職業ニ従ヒ歩兵騎兵砲兵工兵輜重兵職工及雑卒ニ区別シ抽籤ノ法ニ依リ当籤ノ者ヲ以テ之ニ充ツ」ということでしたから(同令8条1項),通常は,むしろ「合格」というよりは「当籤」といったほうが法令用語としては正しかったように思われます。

「合格」又は「不合格」の概念は,徴兵検査規則(明治25年陸軍省令第3号)に出てきます。同規則1条は「徴兵検査ハ徴兵令ニ拠リ兵役ニ服スヘキモノ体格ヲ検査シ其適否ヲ定ムルモノトス/此検査ハ学術上諸種ノ方法ヲ施スコトヲ得」と規定し,第2条1項に「不合格」となるべき「疾病畸形」を23号にわたって掲げ(ただし,同条2項は「前項ノ疾病畸形中軽症ニシテ服役シ得ヘキモノハ合格トシ爾余ノ疾病畸形ト雖モ服役シ得ヘカラサルモノハ不合格トス」と規定),第3条において甲種(身長5尺以上にして身体強健なるもの),乙種(身長5尺以上にして身体甲種に()ぐもの),丙種(身長5尺以上にして身体乙種に亜ぐもの及び身長5尺未満4尺8寸以上にして丁種戊種に当らざるもの),丁種(第2条に当るもの及び身長4尺8寸に満たざるもの)及び戊種明治22年徴兵令第18条第1項(体格完全且強壮なるも身幹未だ定尺に満たざる者)第2項(疾病中又は病後にして労役に堪へざる者)に当るもの)を定義した上で,第4条において「第3条ノ甲種乙種丙種ヲ合格トシ其甲種乙種ハ現役ニ徴スヘキモノ丙種ハ国民兵役ニ置クモノトシ丁種ヲ不合格戊種ヲ徴集延期トス」と規定していました。

丙種合格者が置かれる国民兵役とは「国民兵役ハ満17歳ヨリ満40歳迄ノ者ニシテ常備兵役及後備兵役ニ在ラサル者之ニ服ス」ものと規定されており(明治22年徴兵令5条),具体的には「国民兵ハ戦時若クハ事変ニ際シ後備兵ヲ召集シ仍ホ兵員ヲ要スルトキニ限リ之ヲ召集ス」るものにすぎませんでした(同令16条)。これでも徴兵検査に「合格」というのはややおこがましい。

現役は「満20歳ニ至リタル者之ニ服」するものでした(明治22年徴兵令3条2項)。徴兵検査との関係での「満20歳」の意味は,「毎年1月ヨリ12月迄ニ満20歳ト為ル者ハ其年ノ1月1日ヨリ同月31日迄ニ書面ヲ以テ戸主ニ非サル者ハ其戸主ヨリ本籍ノ市町村長ニ届出可シ」とあって(同令25条本文),それを承けて「町村長ハ毎年徴兵令第25条ノ届書ヲ戸籍簿ニ照較シ壮丁名簿ヲ作リ2月15日迄ニ島司又ハ郡長ニ差出シ島司郡長ハ点検ノ後之ヲ1徴募区ニ取纏メ前年仮決ノ諸名簿ト共ニ大隊区徴兵署又ハ警備隊区徴兵署ニ提出ス可シ/市長ハ前項ノ例ニ依リ壮丁名簿ヲ作リ前年仮決ノ諸名簿ト共ニ大隊区徴兵署ニ提出ス可シ」(徴兵事務条例(明治22年勅令第13号。明治25年勅令第33号で一部改正)23条)ということになって,その年(満20歳になる年)の徴兵検査及び抽籤を受けることとなるというものでした。

 明治22年徴兵事務条例26条1項は,徴兵検査について,「兵役ノ適否ヲ定ムル為メ大隊区徴兵署又ハ警備隊区徴兵署及検査所ニ於テ壮丁ノ身体検査ヲ行フ其検査ハ徴兵官及徴兵参事員ノ面前ニ於テスルモノトス」と規定していました。「大隊区徴兵署警備隊区徴兵署及徴兵検査所ハ島司郡市長ニ於テ適当ノ家屋ヲ選定シ大隊区司令官又ハ警備隊司令官到著ノ上之ヲ開設ス可シ」とされていました(徴兵事務条例施行細則(明治22年陸軍省令第1号)4条1項)。

 明治22年徴兵令8条の「抽籤ノ法」については,明治22年徴兵事務条例34条1項及び2項に「身体検査ニ合格シ現役ニ徴スヘキ壮丁ハ徴集順序ヲ定ムル為メ徴募区毎ニ体格ノ等位及兵種ヲ分チ旅管徴兵署ニ於テ抽籤ヲ行フ」及び「抽籤ハ旅管徴兵官旅管徴兵参事員及大隊区徴兵官又ハ警備隊区徴兵官ノ面前ニ於テ抽籤総代人之ヲ為スモノトス」と規定されていました。徴募区については,「徴募区ハ1郡又ハ1市ヲ以テ1区ト為ス」のが原則でした(同条例3条1項)。旅管徴兵署とはどこかといえば,「毎年徴募事務執行ノトキハ旅管内府県毎ニ旅管徴兵署ヲ設ク」るものとされていました(同条例32条)。抽籤総代人については「身体検査終ルノ後大隊区徴兵官又ハ警備隊区徴兵官ハ合格者ヲシテ抽籤総代人ヲ選ハシメ其人名ヲ旅管徴兵官ニ報告スヘシ」とされていました(明治22年徴兵事務条例施行細則9条。明治22年徴兵事務条例34条3項は「抽籤総代人ハ籤丁ノ選ヲ以テ徴募区毎ニ2名若クハ3名ヲ出スモノトス」と規定していました。)。

 

(2)1893年の徴兵状況

 ここで,1893年に行われた徴兵の状況を計数的に見てみようとすると,陸軍省大臣官房副官部編纂の『陸軍省第7回統計年報』(189411月)という便利なものがあります。

 1893年の我が国における20歳の壮丁の総員は384536人であったところ,①現役として当籤した者は1万9040人で,その4.95パーセントということになりました95頁)。その外に②志願者が769(この「志願者」は,明治22年徴兵事務条例施行細則8条に「身体検査ノ際現役ニ服センコトヲ志願スル者アルトキハ大隊区徴兵官ハ本人ノ身元ヲ調査シ其景況書ヲ添ヘ旅管徴兵官ニ具申ス可シ/其志願者ハ体格甲種ニシテ身元確実ト認ムル者ハ旅管徴兵官ニ於テ之ヲ許可スルコトヲ得」と規定されていたもので,「甲種合格者ニシテ抽籤ノ者」より先に現役兵に編入されました(同細則23条)。これらの者にとっては,現役兵編入は「当籤」ではなく「合格」ということになります。他方,同年報100102頁の「現役兵志願者人員」の表の「現役兵志願者」は,明治22年徴兵令10条(満17歳以上20歳未満の現役兵志願者)及び11条(一年志願兵志願者)に係る現役の志願者であって,また別のカテゴリーでした。)及び③明治22年徴兵令28条によって徴集された者が11人ありましたから,20歳の壮丁中現役として徴集された者は①から③までの合計1万9820人で,全体の5.15パーセントということになります95頁)。3年の現役に服することがなければ予備役に服することはなく(明治22年徴兵令3条2項参照),更に後備兵役にも服することはなくなりますから(同令4条参照),結局日本男児20人中約19人はせいぜい国民兵役に服するのみで(同令5条),兵士となることは実質的にはなかったということになります(同令16条)。

 なお,上記明治22年徴兵令28条は「兵役ヲ免レンカ為メ身体ヲ毀傷シ疾病ヲ作為シ其他詐偽ノ所為ヲ用ヒ又ハ逃亡若クハ潜匿シタル者又ハ正当ノ事故ナク身体ノ検査ヲ受ケサル者ハ抽籤ノ法ニ依ラスシテ之ヲ徴集ス」ると規定していましたので(甲種合格者及び乙種合格者のそれぞれにつき最優先で現役兵に編入(明治22年徴兵事務条例施行細則23条)),同条に基づき徴集された兵士らは,いじめられるしか外にすることはなさそうです。ちなみに,1893年中の陸軍内での自殺者数は35人で,兵員千人につき0.64人ということになっていました182頁)。また,同年中に神経系病を発した者は826164頁),陸軍刑法の逃亡罪による行刑者数は555人でした198頁)

 1893年の徴兵検査の前の段階において,同年の20歳の壮丁中6101人は,「逃亡失踪」しています96頁)。全体の1.59パーセント。

 逃亡失踪するようなあからさまな非国民でなくとも,我が日本男児は,実は相当非軍国的なのです。1893年の徴兵手続において,20歳の壮丁中,身長が5尺に足らず徴集延期となった者(明治22年徴兵令18条第1)が153人,疾病で徴集延期となった者(同条第2)が1557人(この両者は徴兵検査では戊種ということになります。),身長4尺8寸未満又は癈疾不具ということで兵役が免ぜられた者(同令17条)が2万9352人(徴兵検査不合格の丁種),「身体検査上徴集ニ適セサル者」が101110人(徴兵検査での丙種でしょう。)であって,その合計132171人は20歳の壮丁全体の34.37パーセントに達します96頁)。分母から逃亡失踪者等を除けばその比率はもう少し高いはずです。みやびやかなる我が大和民族は,少なくとも20歳の男性の3分の1は身体的に兵士たり得ぬ民族なのですな。これに加えるに,『陸軍省第7回統計年報』を見ると,「身体検査上徴集ニ適セサル者」の外に「選兵上徴集ニ適セサル者」とのカテゴリーが徴集を免ぜられる者の諸カテゴリー中に更にあって,これは同年報の対象である1893年には,20歳の壮丁について122050人に上っていました96頁)

 中国四国地方を管轄する第五師管から1893年に騎兵現役兵に徴集された20歳の壮丁は101人(うち12人は近衛師団へ),その外21歳以上の壮丁からは8人(うち3人は近衛師団へ)が徴集されています9899頁)。騎兵は,「成ル可ク馬匹ノ使用ニ慣レ体格ハ軽捷ニシテ筋肉肥満ニ過キサル者」が選ばれています(明治22年徴兵事務条例施行細則11条1項2号)。

 

(3)入営期日

 「現役年期ノ計算ハ総テ其入営スル年ノ12月1日ヨリ起算」するものとされていたところ(明治22年徴兵令29条),明治22年徴兵事務条例47条1項は「新兵入営期日ハ毎年12月1日トス但疾病犯罪其他ノ事故ニ由リ12月1日ニ入営シ難キ者ハ同月31日迄ニ入営セシム」と規定していましたから,筆者の曽祖父による「明治2611月1日・・・騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ」との記載は,本来「明治2612月1日・・・騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ」とあるべきものの誤記でしょう。

 

2 騎兵第五大隊の幹部

 

(1)野津師団長,木村大隊長及び豊辺・吉良両中隊長

 189312月1日現在の騎兵第五大隊関係の幹部人事はいかんというに,1893年7月1日調べ及び1894年7月1日調べの陸軍現役将校同相当官実役定年名簿を併せ見て検討するに,所属の第五師団(広島)の師団長閣下は子爵野津道貫中将(1894年7月1日で年齢52年9箇月),大隊長は兵庫県士族従六位勲六等の木村重騎兵少佐(1894年7月1日で年齢41年5箇月),大隊の二つの中隊のうち,一方の中隊長は奈良県平民正七位の吉良秀識騎兵大尉(1894年7月1日で年齢37年1箇月。189211月1日任官)であったことは,その間に異動がなく,はっきりしています。これに対して,もう一方の中隊長は,佐賀県士族従六位勲五等の梅崎信量騎兵大尉が留任していたのか,新潟県士族正七位豊辺新作騎兵大尉(1894年7月1日で年齢32年3箇月。18901110日任官)に既に交代していたのかが若干問題となります。しかしながら,梅崎大尉は1893年7月19日に騎兵少佐に任官していますから昇進後も中隊長を続けられるものではなく,これは豊辺大尉です。1894年1月1日調査の印刷局の職員録を見ると,豊辺大尉が騎兵第五大隊の中隊長として,吉良大尉の上席となる右側に記載されています。

 

(2)第一中隊長豊辺新作大尉

 1894年6月に半島に出動した筆者の曽祖父が所属した騎兵第五大隊第一中隊の中隊長は豊辺大尉及び吉良大尉のうちいずれかといえば,豊辺大尉であったということになります(外山操=森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧第1巻』(芙蓉書房・1993年)171頁参照)。豊辺大尉は同年7月2617時に漢城の南方にある素沙場において騎兵中隊の戦闘詳報を作成しており当時既に半島に出動していたことは明らかですが(当該戦闘詳報はアジア歴史資料センターのウェブ・ページにあります。),吉良大尉は同年9月10日においてまだ広島にいたところです。すなわち,アジア歴史資料センターのウェブ・ページにある両大尉の「結婚願之件」書類(陸軍省受領番号は豊辺大尉につき肆第902号,吉良大尉につき肆第1061号)を見てみると,豊辺大尉の結婚願は同年7月18日に作成され野津第五師団長を経て大山巌陸軍大臣に提出されていますが,同年9月10日に作成された吉良大尉の結婚願は山沢静吾留守第五師団長事務取扱を通じて陸軍大臣に提出されています。「留守第五師団」であって,「第五師団」ではありません。

 豊辺新作の人物については,自ら書いた『万朝報』の連載月旦記事をまとめた燧洋高橋鉄太郎の『当面の人物フースヒー』(フースヒー社・1913年)に次のようにあります。表題は,「第二の乃木将軍豊辺新作」。

 

   帝国陸軍に於て騎兵科の模範戦将と唄はれて()る騎兵四旅団長豊辺新作を評論する,彼は一見婦人の如き柔和温厚の極て(やさし)い将軍で,(おほき)い声で物もいはねば,虫も殺さぬ様な風だが,一度戦場に臨むと勇猛豪胆,鬼神の如き勢で奮戦する勇将で,乃木将軍を猶少しく地味にした様な(いは)沈勇の人だ

   彼の沈勇気胆が陸軍部内に認識されて騎兵科中の模範将軍と唄はる様になつたのは日清戦争以来のことで,(その)以前は彼は無能平凡の一軍人として無視されて()た,元来日本は蕞爾たる島国(たうこく)で,馬術といふものは一向発達せず,奥州野辺地馬なども亜刺比(あらび)()(たね)には追附(おつつか)ぬので封建時代から馬に(のつ)た兵隊といふのは土佐と紀州にあつたのみだから騎兵の進歩は(おほい)に遅れた,彼は(この)幼稚の時代の騎兵科の青年将校として当時騎兵科の総大将たる大蔵平三などに聯盟反抗を企てたので,()られる所を日清戦争に従軍して偉勲を(たて)たので初めて威名を博した,彼は越後長岡の藩士で郷党勇武の感化がある,長岡は河合蒼龍窟〔河井継之助〕の出たけに越後式ではない,彼は長岡武士の面目を辱めないものだ

   人に全きを求むるは素より酷だが,彼は温情沈勇は即ち余りあるが,惜むらくは彼には行政的才幹手腕がない,秋山好古(かうこ)が先輩中将でありながら()だ師団長にもなれないのは,一は騎兵監の後任に人物が無い為で,順番からいへば()()だが他の特科兵監に対し樽俎折衝に適しない,さらばとて本多道純では徳望が(たら)(こまつ)たものだが,軍人は戦争(いくさ)にさへ強ければ()いから,彼の如きも第二の乃木将軍として天分を尽すべきだ179181頁)

 

 筆者の曽祖父も自分の中隊長殿を見て,「おとなしい,優しい人だな。軍人といっても怖い人ばかりじゃないんだな。けれどあまりパッとしないから,大丈夫かなぁ。」などと思ったものでしょうか。

 豊辺新作は,司馬遼太郎の『坂の上の雲』において日露戦争黒溝台会戦の場面で登場します。

 

脱線その1:夏目金之助青年の兵役回避策

 明治二十年代の徴兵事情を検討していると,漱石夏目金之助が1892年(明治25年)4月に北海道後志国岩内に本籍を移したという有名な挿話をつい思い出してしまったところです。当該転籍の理由は,兵役回避のためだとされています。当該挿話をめぐる兵役法令関係を少々検討してみましょう。(なお,慶応三年(1867年)生まれの漱石の満年齢は明治の年と一致するので,この部分は元号優先で記述します。)

 明治20年に適用されていた兵役法令は,明治16年太政官布告第46号「徴兵令」(明治19年勅令第73号で一部改正)を頂点とするものでした。明治16年徴兵令3条は「常備兵役ハ別チテ現役及ヒ予備役トス其現役ハ3個年ニシテ年齢満20歳ニ至リタル者之ニ服シ其予備役ハ4個年ニシテ現役ヲ終リタル者之ニ服ス」と規定し,同令8条1項は「陸軍現役兵ハ毎年所要ノ人員ニ応シ壮丁ノ身材芸能職業ニ従ヒ歩兵騎兵砲兵工兵輜重兵及ヒ雑卒職工ニ区別シ抽籤ノ法ニ依リ当籤ノ者ヲ以テ之ニ充ツ」と規定していましたが,明治20年に第一高等中学校予科在学中であった塩原金之助(塩原家に養子に出されていた金之助青年が夏目家に復籍するのは明治21年1月)のためには,明治16年徴兵令19条の「官立府県立学校小学校ヲ除ク及ヒ文部大臣ニ於テ認タル之ト同等ノ学校ニ於テ修業1個年以上ノ課程ヲ卒リタル生徒ハ6個年以内徴集ヲ猶予ス」との規定が働いていました(いまだ同令18条第3項の「官立大学校及ヒ之ニ準スル官立学校本科生徒」として「其事故ノ存スル間徴集ヲ猶予ス」ということにはならなかったはずです。)。明治16年徴兵令19条については「課程を終りたる生徒とある上は数年前入学しあるも落第せるものは或ハ1箇年に足らざるものもあるべく又入学の時上級に入れば1箇年に満たずとも猶予を受くるを得べきなり」と説かれていました(今村長善『徴兵令詳解(増補再版)』(1889年)46頁)。塩原金之助青年は,明治19年7月には進学試験を受けられずに留年してしまいましたが,明治17年に第一高等中学校予科(当時は東京大学予備門予科)に入学していたところです。

 明治21年9月に夏目金之助青年は第一高等中学校本科第一部(文科)に進学しましたが,第一高等中学校本科在学中に明治16年徴兵令が明治22年徴兵令に代わります。経過措置規定として明治22年徴兵令41条は「旧令第18条第3項若クハ第19条ニ依リ徴集猶予ニ属シ在校ノ者ハ其事故6箇年以内ニ止ミタルトキ又ハ6箇年ヲ過クルモ仍ホ止マサルトキハ抽籤ノ法ニ依リ徴集ス但一年志願兵ヲ志願スルコトヲ得」と規定していました。

 夏目青年は明治23年9月に帝国大学文科大学英文学科に入学し,その後明治26年7月には帝国大学大学院に入ったので,明治16年徴兵令「19条ニ依リ徴集猶予ニ属シ在校ノ者」という状態は続いていたのですが,「6箇年ヲ過クルモ仍ホ止マサルトキ」の期限が迫って来ました。1箇年徴集猶予ならば明治21年に徴兵検査を受けなければならなかったのでしょうから,そう考えると,6箇年の猶予を得ても明治26年(1893年)の徴兵検査を筆者の曽祖父同様に受けなければならないことになります。明治25年中に何かをせねばならない。(なお,実は明治26年法律第4号(同年3月3日公布)によって,明治22年徴兵令41条の「6箇年」は「8箇年」に延長されたところではありました。)

 そこで明治22年徴兵令についていろいろ調べたところ,同令33条が発見されたものでしょう。同条は「本令ハ北海道ニ於テ函館江差福山ヲ除クノ外及沖縄県並東京府管下小笠原島ニハ当分之ヲ施行セス」としていました。

 ということで,明治25年4月段階における漱石の北海道後志国岩内への転籍ということになったのでしょうか,どうでしょうか。なお,明治22年徴兵令31条は「兵役ヲ免レンカ為メ逃亡シ又ハ潜匿シ若クハ身体ヲ毀傷シ疾病ヲ作為シ其他詐偽ノ所為ヲ用ヒタル者ハ1月以上1年以下ノ重禁錮ニ処シ3円以上30円以下ノ罰金ヲ附加ス」と規定していたところ,「民刑局長明30年甲第124号回答に依れば「徴兵を免れんが為の目的を以て虚偽の転籍を為したる事実あるに於ては徴兵令第31条の犯罪を構成す」と判示して居る」とのことで(日高巳雄『軍事法規』(日本評論社・1938年)39頁),漱石先生は少なくとも李下の冠的な危険なことをしてしまったことにはなります。

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「吾輩は北海道平民である。名前は既に夏目金之助である。」(東京都新宿区早稲田南町漱石公園)


 その後明治22年徴兵令33条は,明治28年法律第15号によって明治28年4月1日から「本令ハ北海道ニ於テ函館江差福山ノ外及沖縄県並東京府管下小笠原島ニハ漸ヲ以テ施行ス其時期区域及特ニ徴集ヲ免除シ若クハ猶予ス可キモノハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム」に改められました。当該勅令たる明治28年勅令第126号の第1条は「明治29年1月1日ヨリ北海道渡島,後志,胆振,石狩ノ4箇国ニ徴兵令ヲ施行ス」と規定していましたので,漱石はヒヤリとしたかもしれません。しかしながら,同勅令においては特段難しい経過措置規定は無かったので,結局明治9年以後に生まれた大日本帝国臣民男子にのみ関係があるものということでよかったのでしょう。現に明治31年1月発行の『陸軍省第10回統計年報』を見ると,北海道を管轄する第七師管における明治29年の20歳の壮丁は4409人であって前年の798人から大幅に増加している一方,明治29年の21歳以上の壮丁は535人にすぎません(109頁。明治28年の第七師管における21歳以上の壮丁の数は『陸軍省第10回統計年報』では417人と読めますが109頁),明治30年3月発行の『陸軍省第9回統計年報』では447人となっています49頁)。)。函館,江差及び福山以外の渡島,後志,胆振及び石狩に本籍を有するところの明治29年に21歳から40歳までになる日本男児までもが,同年からの徴兵令の施行に伴いどっと徴兵検査を受けなくてはならなくなった(したがって,徴兵令施行の最初の年である同年には20歳の壮丁よりも21歳以上の壮丁の方が何倍もの大きい人数になる。),ということはなかったわけです。

なお,明治30年勅令第257号により,明治31年1月1日から天塩,北見,日高,十勝,釧路,根室及び千島の7箇国にまで北海道における徴兵令の施行が拡大されました。また,明治22年徴兵令33条自体は,大正7年法律第24号によって191912月1日から削られています。

脱線その2:昭和18年法律第4号の経過措置規定並びに1944年及び1945年における朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者の徴兵状況

 

(1)昭和18年法律第4号の経過措置規定

 

ア 昭和18年法律第4号

 北海道内における明治22年徴兵令の施行拡大に係る明治28年勅令第126号及び明治30年勅令第257号におけるものとは異なり,朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に対して兵役法(昭和2年法律第47号。明治22年徴兵令を全部改正したもの)の適用を拡大する昭和18年法律第4号の経過措置規定は読みごたえのあるものです。

 1943年3月1日裁可,同月2日公布の昭和18年法律第4号によって,1943年8月1日から(同法附則1項),朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者も兵役法9条2項に基づき第二国民兵役に服し,同法23条1項に基づき徴兵検査を受けることになりました1943年1月30日の貴族院兵役法中改正法律案特別委員会における木村兵太郎政府委員(陸軍次官)の法案趣旨説明(第81回帝国議会貴族院兵役法中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1頁)及び同年2月17日の衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会における同政府委員の法案趣旨説明(第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第2回3頁)参照)

 

イ 昭和18年法律第4号附則2項及び3項

昭和18年法律第4号はその附則の第2項及び第3項において次のような経過措置規定を設けています。

 

  第9条第2項及第23条第1項の改正規定ハ本法施行ノ際徴兵適齢ヲ過ギ居ル者及徴兵適齢ノ者ニシテ其ノ際現ニ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クルモノ又ハ本法施行後其ノ適用ヲ受クルニ至リタルモノ(第3条ノ規定ニ該当スル者ヲ除ク)ニ之ヲ適用セズ

  前項ノ規定ニ該当スル者ニ付テハ第52条第1項ノ改正規定ニ拘ラズ従前ノ例ニ依ル

 

 どう読んだものやら,難しい。

 

(ア)昭和18年法律第4号附則2項前段

まず附則2項前段ですが,これは「本法施行ノ際」である1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」であって同日午前零時に「現ニ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クルモノ」については,徴兵検査はしないし(兵役法23条1項改正規定の不適用),第二国民兵ともしない(同法9条2項改正規定の不適用),ということのようです。

 

なお,附則2項における「者」と「モノ」との使い分けですが,「者」は「法令上,自然人,法人を通じ,法律上の人格を有するものを指称する場合に用いる」ところ(前田正道編『ワークブック法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)650頁),同項での「者」は自然人を指称しているものであり,「もの」は「あるものに更に要件を重ねて限定する場合(この場合には,外国語における関係代名詞に相当する用法となる。)」に用いられるところ(前田650頁),同項での「モノ」はその前の「者」に更に要件を重ねて限定しているものと読み解くべきでしょう。

また,「徴兵適齢」(兵役法23条2項)の概念も難しいのですが,「陸軍省軍務局・陸軍大学教官歩兵中佐」の肩書の中井良太郎による『兵役法綱要 附徴発法大要』(松華堂書店・1928年)によると,「前年ノ12月1日ヨリ其ノ年1130日迄ノ間ニ於テ年齢20年ニ達スル年ヲ徴兵適齢ト称ス」85頁)ということになっています。兵役法23条は当時「戸籍法ノ適用ヲ受クル者ニシテ前年12月1日ヨリ其ノ年1130日迄ノ間ニ於テ年齢20年ニ達スル者ハ本法中別段ノ規定アルモノヲ除クノ外徴兵検査ヲ受クルコトヲ要ス/前項ニ規定スル年齢ハ之ヲ徴兵適齢ト称ス」と規定していました。

 

そもそも昭和18年法律第4号の施行日が1943年8月1日とされたことについては,「本法ハ協賛ヲ得マスレバ,一日モ速カニ施行致シマシテ,2千4百万ノ朝鮮同胞ト,其ノ慶ビヲ共ニ致シタイト存ズルノデアリマスガ,7月31日迄ハ本年ノ徴兵検査ガ実施セラレマスノデ,其ノ以前ニ施行セラレマスルト,現役志願ノ者ガ徴兵検査ヲ受検スルコトトナリ,諸般ノ徴集準備ノ円滑ヲ害シマスノデ,其ノ終了ノ後,即チ昭和18年8月1日ト致シタイト存ズルノデアリマス」と木村兵太郎政府委員から説明がありました(第81回帝国議会貴族院兵役法中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1頁。また第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第2回3‐4頁)。したがって,朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に係る最初の徴兵検査は1944年に行われました。昭和18年法律第4号の法案に係る貴衆両議院の本会議における趣旨弁明の段階で既に「昭和19年ヨリ朝鮮同胞ヲ徴集」するものと明言されていたところです1943年1月29日貴族院本会議における木村政府委員弁明(第81回帝国議会貴族院議事速記録第3号40頁)及び同年2月12日衆議院本会議における東条英機国務大臣(陸軍大臣)弁明(第81回帝国議会衆議院議事速記録第10213頁))

附則2項前段は,要するに,「本法施行ノ際,朝鮮同胞ノ中デ徴兵適齢ヲ過ギテ居ル者,及ビ本年ノ徴兵適齢者ニ付キマシテハ,志願ニ依リマシテ兵籍ニ入ッテ居リマス者ヲ除キ,其ノ他ハ依然従来通リ兵役ニ服セシメナイコトト致シタイト存ズルノデアリマス」ということでした(第81回帝国議会貴族院兵役法中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1頁及びた第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第2回4頁(木村政府委員))

 

(イ)昭和18年法律第4号附則2項後段

附則2項後段は,1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」であって,同日以後に「朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クルニ至リタルモノ」についての規定です。(なお,兵役法3条は「志願ニ依リ兵籍ニ編入セラルル者」に関する規定です。)1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」である台湾人が,同日以降に朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者になっても今更兵役を課さないということでしょう(大日本帝国の臣民男子ではあっても,台湾人にはいまだ兵役義務はありませんでした。)。(ちなみに,兵役法52条2項は「徴兵適齢ヲ過ギ帝国ノ国籍ヲ取得シ又ハ回復シタル者」に対しては「徴集ヲ免除ス」る旨規定していました。)

戸籍法の適用を受ける内地人であって1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」であり,同日以後に「朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クルニ至リタルモノ」についてはどうかといえば, 1943年8月1日から共通法(大正7年法律第39号)3条3項を「戸籍法ノ適用ヲ受クル者ハ兵役ニ服スル義務ナキニ至リタル者ニ非サレハ他ノ地域ノ家ニ入ルコトヲ得ス」から「戸籍法又ハ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者ハ兵役ニ服スル義務ナキニ至リタル者ニ非サレハ内地及朝鮮以外ノ地域ノ家ニ入ルコトヲ得ス」へと改正する昭和18年法律第5号の附則2項に「本法施行ノ際〔同法附則1項により同法は兵役法の一部改正に係る昭和18年法律第4号と同時に施行〕徴兵適齢ヲ過ギ居ル者及徴兵適齢ノ者ニシテ其ノ際現ニ戸籍法ノ適用ヲ受クルモノ又ハ本法施行後其ノ適用ヲ受クルニ至リタルモノニ付テハ〔共通法〕第3条第3項ノ改正規定ニ拘ラズ仍従前ノ例ニ依ル」とありましたので,そもそも兵役義務がなくなるまでは改正前共通法3条3項の例により朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者になる(朝鮮ノ家ニ入ル)ことは法律上不能なのであって,心配には及ばぬよう手当てされていたのでした。すなわち,昭和18年法律第5号の附則2項によって「尚内地人で〔1943年8月1日に〕徴兵適齢ガ過ギテ居ル者,及ビ徴兵適齢ノ者ハ,既ニ兵役ノ義務ヲ荷ッテ居リマスガ,朝鮮デハ〔昭和18年法律第4号附則2項後段により〕兵役ノ義務ガアリマセヌノデ,朝鮮同胞ノ家ニ入ルノハ兵役ノ義務ヲ終ッタ後ニ限定セムトスルモノデアリアス」ということでした(第81回帝国議会貴族院兵役法中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1頁(木村政府委員)。また,第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第2回4頁(同政府委員))

 

(ウ)昭和18年法律第4号附則3項

附則3項は兵役法52条1項の改正規定(「戸籍法及朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受ケザル者ニシテ徴兵適齢ヲ過ギ戸籍法又ハ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者ノ家ニ入リタルモノニ対シテハ徴集ヲ免除ス」)を適用しないで「従前ノ例ニ依ル」ということのようです(なお,改正前の兵役法52条1項は「戸籍法ノ適用ヲ受ケザル者ニシテ徴兵適齢ヲ過ギ戸籍法ノ適用ヲ受クル者ノ家ニ入リタル者ニ対シテハ徴集ヲ免除ス」と規定していました。)。台湾人(「戸籍法及朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受ケザル者」としては「台湾人」が考えられていたことについては,1943年2月18日の帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会における那須義雄政府委員の答弁を参照(第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第3回23頁))について「従前ノ例」を考えると,徴兵適齢を過ぎて朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける家に入っても,「徴集ヲ免除」してもらう必要はそもそも無く,最初から懲役検査を受ける義務も第二国民兵役に服する義務もなかったということになります。(「徴集」とは,「広義では強制的に現役又は補充兵役に就かしむべき行政作用即ち徴兵検査に出頭を命じ徴兵検査を受けしめ現役又は補充兵役に就かしむる迄の一切の作用を謂ひ,狭義では現役又は補充兵役編入を決し之を本人に通告する行為換言すると現役又は補充兵役編入の行政処分を意味」します(日高12頁)。)1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」である台湾人については,同日以降もこのような従前ノ例ニ依ル」ということは附則2項後段から読み取られるところですが,改正後の兵役法52条1項を反対解釈すると(徴集免除とは関係のない)第二国民兵役には服することになるので,当該矛盾を排除するために昭和18年法律第4号の附則3項は設けられたのでしょう。

(2)1944年及び1945年における朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者の徴兵状況

 

ア 「朝鮮軍歴史別冊 朝鮮人志願兵・徴兵の梗概」

1944年に始められた朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に対する我が兵役法に基づく徴兵検査,徴集及び入営に関する状況については,朝鮮軍残務整理部が残した「朝鮮軍歴史別冊 朝鮮人志願兵・徴兵の梗概」というガリ版刷り文書があり,アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることができます(なお,ここでいう「朝鮮軍」は我が帝国陸軍の朝鮮駐屯軍のことであり,外国の軍隊ではありません。)。当該「梗概」の作成者は,末尾に「元朝鮮軍徴兵主任参謀/吉田俊隈記す」と記載されています。「梗概」が作成された時期は明示されていませんが,「朝鮮軍関係資料」として「梗概」と共に合冊されている「朝鮮に於ける戦争準備」という文書の表紙には「昭和21年2月/朝鮮軍残務整理部/昭和27年2月復員課複写」と記されているところ,やはり1946年1月前後に作成されたものと考えるべきでしょうか。

以下本稿は,1944年及び1945年における朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者の徴兵状況に関し,「朝鮮軍歴史別冊 朝鮮人志願兵・徴兵の梗概」の更に梗概を紹介するものです。

 

イ 1943年の臨時特別志願兵と高橋留守第三十師団長閣下解職

早速1944年の話に入りたいのですが,その前,194310月以降の「臨時特別志願兵」騒動がちょっと見逃せないところです。「梗概」にいわく。

 

 昭和18年〔1943年〕10月朝鮮に於ては明春よりの歴史的第1回徴兵検査を目前に控え最後の準備完整に大童(おおわらわ)の時,戦局の要請に基き内地人学生に対する従来の徴集延期制度の一部改正せられ大学,高等,専門学校の法文系学生は,同年11月より臨時徴兵検査を実施せられ翌19年〔1944年〕1月より入営せしめらるる事となれり。

 本制度の実施に伴い,同じく法文系に籍を有し,内地学生と机を並べ,勉学の途にいそしめる朝鮮人学生にも同窓の内地人学生と共に相携へ祖国の急に馳せ参じ得るの臨時特別志願兵の途を開かれたり。

 

 いい話じゃないですか,ということで,「俄然朝野の視聴を集め志願慫慂,全員受検の民間運動が内鮮全体に亘り活発に展開」されたそうです。大人はいい気なものです。しかし,当事者学生にとってはなかなか煩わしい。

 

  当時内地に在りし朝鮮人学生中には父母の同意を得るに名を藉り,休学帰鮮する者多く又鮮内学生に在りては無断休学し居所を杳晦する者等相次いで出で一時は相当の混乱状態を呈せるも逐次先輩有志の説得官民の熱誠なる支援,学生自身の自覚に依り検査開始迄には在鮮学徒の約90%は志願するに至りたり。

 

後日「梗概」は自ら,「或は一部野心家の後日の社会的地位獲得の為の裏面的策動に依る強制受検等の多少ありたるは否めざる事実なりしも」と述べてはいますが,やはり,これら「約90%」の学徒は公式的には飽くまでも自発的に志願したものなのでしょう。

詮衡検査は194311月から同年12月にかけて行われ,朝鮮内での受検者総数は3366人,うち現役兵として徴集された者2735人,補充兵として徴集された者382人,不合格者249人でした(「梗概」第7表の2)。この外,朝鮮軍管外の受検で721人が現役兵として徴集されています(同)

「軍に於ては同志願兵の部隊配当を実施するに方り素質優秀なるものは鮮外部隊に充当し,多少とも強制志願と目せらるるが如き明朗性を欠くものは鮮内部隊へ充当」したそうです。「梗概」の第7表の2を見ると,朝鮮軍管内採用の現役兵たる臨時特別志願兵の入隊先を見ると朝鮮軍に423人(羅南師団127人,京城師団106人,平壌師団153人及び軍直部隊37人),内地の東部軍,中部軍及び西部軍に1279人並びに当時戦闘中であった支那派遣軍に996人となっています(同表ではこれらの合計が「2732」人であるとしていますが,筆者の電卓検算では2698人で,どうも34人分数字が合いません。)。

これでめでたしめでたしかといえば,なかなかそうは問屋が卸しません。

 

 昭和19年〔1944年〕1月平壌留守第三十師団に入営せる志願兵中(これ)()自発的に依らざりし者は入営せば必ず将校たり得るの既得権を有する如く誤信しありし者或は入営前の放逸なる生活に憧るゝ者等の不平分子は幹部候補生甲,乙決定の際甲種の詮衡率僅少(約3%)なりしに端を発し,部隊相互に(ママ)密裡に連絡し,党与して鮮外に逃亡せんと謀りしが事前に発覚し事件は大事に至らずして解決せるも時の師団長高橋中将は引責解職せらるるに至りたり。

 

 お気の毒なのは高橋留守第三十師団長閣下です。鬼畜米英撃滅以前に,隷下の自軍兵士に足元をすくわれました。しかし,「進級等自己ノ意ニ満タサル場合著シク性格上ノ缺陥ヲ暴露」すること1943年8月14日陸軍省副官からの昭和18年陸密第2848号通牒の一節(アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることができます。))は,だれにでもあることです。

 気の毒ついでにこの高橋中将はどの高橋中将なのかインターネットをいろいろ調べてみたのですが,Hiroshi Nishida氏のウェブ・サイトに,1944年4月29日に予備役から留守第三十師団長に返り咲き,1945年3月31日に召集解除となった高橋中将として,高橋多賀二の名が出ていました。岡山出身,陸軍士官学校第22期,陸軍大学校第35期だそうです。

 ウ 1944年の徴兵

 

(ア)徴兵検査

朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に対する最初の徴兵検査の実施時期について「梗概」は,昭和「19年〔1944年〕4月より8月に亘り此の歴史的第1回徴兵検査を各兵事部主宰の下に全鮮に亘り一斉に開始せり」と述べています。(なお,兵役法施行規則(昭和2年陸軍省令第22号)103条1項は「聯隊区徴兵署ノ事務ハ毎年4月16日ヨリ7月31日迄ノ間ニ於テ之ヲ行フヲ例トス」と規定していましたが,19431224日公布,同日施行の昭和18年陸軍省令第69号の第3条が「昭和19年ニ於ケル徴兵検査ハ昭和19年4月1日ヨリ概ネ同年8月末日迄ノ間ニ実施スルモノトス」と規定していました。)

「検査は順調且成功裡に終始するを得たり」とはいえ,「珍談奇景」はやはり生じたそうで,「梗概」はそのうち4話を紹介しています。いわく。①病気で「晴の入営の能はざるは男子として不名誉此の上なきも未だ五体には愛国の熱血を存すとの意志を表示する為め机上の小刀を以て指を斬り血書せんとしたる」壮丁に対して,その場にいた徴兵署事務員は自分が斬りつけられるのかとびっくりして「格斗の末之を憲兵に引渡」した。②徴用されて労務者として内地に滞在している兄に代わってその弟が代人として受検に来たが,「(これ)本人の無智もさる事(なが)ら検査の当日には何はともあれ頭数だけ何とか揃えんとの末端邑面吏員の知識の一端を窺ひ知るを得べし」。邑は内地の町,面は村に相当します。③「徴兵検査は検査場より直ちに本人を入営せしむるものと誤解せる母親は数里の山奥より多量の餅を携え吾が愛子と最後の別れをなさんと悲壮な面持にて検査場を訪れたるものあり」。④学力調査のため片仮名平仮名を示しても「唯頭を横に振るばかり」の壮丁であったが「自己の本籍地氏名を漢字にて鮮かに書流せるを以て調査の結果書堂にて儒学を若干習ひ漢字ならお手の物と判明」して「(これ)(また)唖然」。

「本検査を機とし畏き辺におかせられては5月侍従武官尾形健一中佐を御差遣あらせられ(つぶさ)に徴兵検査の状況を視察せしめられ其の労を(ねぎらわ)せ給ひたり」と「梗概」述べるところ,宮内庁の『昭和天皇実録第九』(東京書籍・2016年)によれば,1944年6月1日に「御文庫において侍従武官尾形健一に謁を賜い,朝鮮軍及び朝鮮における民間軍需品製造工場への御差遣につき復命を受けられる。尾形は昨月2日出発,28日帰京する。」とのことでした361頁)。無論,昭和天皇の耳には前記のような「珍談奇景」の話は入っていないでしょう。

「逃亡,自傷,詐病等の犯罪を犯せる者も多少ありたるも之等は総員の僅か1%程度に過ぎざる状況なりき」だったそうです。そうであれば,逃亡失踪率1.59パーセントだった1893年の我が日本内地内の徴兵検査受検状況に比べて,真面目さにおいて勝るとも劣りません。なお,アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることのできる内務省用紙に和文タイプ打ちの194412月付け「朝鮮ノ統治事情説明」の第1の2「徴兵制実施ノ状況」によれば「半島人壮丁予定総員231424名ニ対シ受験者総数(222295名)ハ其ノ9割6分ニ達シ,不参者ハ0.06(ママ)(1万2905名)此ノ大半ハ疾病,受刑中,兵籍編入,在外延期其ノ他已ムヲ得サル事由ニ依ルモノ多ク,所在不明ノ為ノ不参加者ハ6228名(予定総員ノ0.027)ニ過キス此ノ所在不明者中ニハ徴兵制度発表以前ヨリ所在不明ノ者ガ大部分テアツテ,真ニ忌避的手段ニ出テタル者ハ極メテ少数ト判断セラレ,同様事故不参者ハ僅ニ422名テアツテ,総括的ニ見ル時順調ナル経過ヲ以テ終了シタノテアル」ということでした。

また,「梗概」によれば,「検査の結果甲種は30%国語理解者60%の成績」だったそうです。

 

 受検壮丁は内外地を合し約23万にして其の中5万ママを現役兵として徴集し検査終了後より所要の入営準備教育を実施し〔昭和〕19年〔1945年〕9月より逐次入営せしめられたり

 

「梗概」の第8表によれば,1944年の徴兵検査で現役兵として徴集された朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者は,朝鮮軍管区から5万1737人(うち1万人は海軍兵),関東軍管区からは3260人及び台湾軍管区から3人の合計5万5000人となっています。(南方軍及びフィリピンの第十四軍地区に残留するものは上記とは別に徴兵検査を受けたものとされています。)

 

(イ)部隊配当

 「梗概」には,第1回徴兵検査後「朝鮮兵の部隊配当は全軍に亘り且其の入営の要領は〔1944年〕9月より逐次先づ朝鮮軍司令官の定むる鮮内部隊に入営せしめ軍隊生活に若干馴れしめたる後本属の内外地入営部隊に転属することとせられたり」とあります。

配当先の「内外地入営部隊」はどのようなものかと「梗概」の第9表(「昭19朝鮮現役兵各軍配当区分表」)を見ると,内地及び樺太の東部軍,中部軍,西部軍及び北方軍に合計8245人,朝鮮軍に1585人,台湾軍に3人,関東軍に9925人,戦闘中の支那派遣軍に1万0445人,同じく戦闘中の南方軍に7647人,蘭印(インドネシア)の第二方面軍に1540人,ラバウルの第八方面軍に2710人,第一航空軍(司令部は東京)に2300人及び船舶司令部(司令部は広島の宇品)に600人並びに鎮海鎮守府に海軍兵を1万人となっていました。合計5万5000人。しかしながら,当該「第9表」は徴兵検査前の計画値を示しているもののようで,その備考欄には「各軍司令官は本配当表に基き〔中略〕細部の部隊配当を定め昭和19年4月末日迄に朝鮮軍司令官に通報し朝鮮軍司令官は之に基き部隊配当を行ふものとす」と記されています。

その後の1944年5月26日付けの東条英機陸軍大臣からの陸機第129号昭和19年徴集現役兵ノ入営及外地派遣等ニ関スル件達(アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることができます。)を見ると,同年徴集の「朝鮮人初年兵(航空,船舶部隊ノ要員及び海軍兵ヲ除ク)ノ入営及外地派遣等」について,改めて次のように定められています。

まず,「関東軍,支那派遣軍,第五方面軍〔北方軍の改組されたもの〕,朝鮮軍及び内地各軍要員(朝鮮以外ノ地ニ在リテ直接現地ノ部隊ニ入営スルモノヲ除ク)ハ概ネ当該内地人要員ノ入営日ニ朝鮮軍司令官ノ定ムル其ノ隷下部隊ニ入営セシメ関係部隊長相互協議ノ上所属部隊ニ転属スルモノトス但シ関東軍及支那派遣軍ノ要員(満洲,支那ニ在ル大本営直轄部隊ノ要員ヲ含ム)ハ成ル可ク当該部隊内地人初年兵ノ朝鮮通過時之ニ合スル如ク転属スルモノトス」とされています。これは,「梗概」の記すところとほぼ同じですが,「関東軍及支那派遣軍ノ要員」については,「軍隊生活に若干馴れしめたる後本属の内外地入営部隊に転属」ではなく,「成ル可ク当該部隊内地人初年兵ノ朝鮮通過時之ニ合スル如ク転属スルモノ」とされています。

南方軍,第二方面軍及び第八方面軍への配当予定初年兵は宙ぶらりんになったようです。すなわち,「南方軍,第八方面軍,第二十七軍〔択捉島〕,第三十一軍〔サイパン〕,第三十一軍(ママ)及小笠原兵団ノ要員ハ昭和19年陸密第513号ノ規定ニ拘ラズ之ヲ配当残余人員トス」ということとなり,かつ,「配当残余人員ノ処理ニ関シテハ別ニ示ス」とされています。

台湾軍に配当されたものについては「在台湾部隊ノ要員タル初年兵(台湾ニ於テ徴集セル朝鮮人ヲ含ム)」ということで,内地人初年兵と一緒にされています。

「航空部隊及船舶部隊ノ要員タル初年兵(朝鮮人ヲ含ム)」については,「内地,朝鮮,台湾及満州国(関東洲ヲ含ム)ニ於テ徴集セル初年兵ニシテ当該地区以外ノ部隊ニ入営スルモノハ航空総軍司令官若ハ船舶司令官,関係軍司令官ト相互協議ノ上当該地区内ノ適宜ノ場所ニ集合地〔ママ〕入営セシムルモノトス」とありますから,結局地元に留まっていたことになるのでしょう。

(ウ)入営

 前出194412月付け「朝鮮ノ統治事情説明」いわく。

 

  合格者ノ入営ニ際シテハ母子相擁シテ号泣スルトカ,自暴自棄的トナツテ遊興,暴行ヲスルトカ目ニ余ル事例モ無イテハナカツタカ大体ニ於テハ各方面ノ壮行,見送リヲ受ケテ感奮シツツ入隊シ〔タ〕

 

「梗概」いわく。

 

斯くて朝鮮出身兵は〔1944年〕9月より逐次入営せしめらるるに至りたるも漸次後退の途を辿りありたる戦況の推移とも関聯し入営後脱営するもの或は鮮外部隊に転属の途次逃亡するもの等頻発し一時は相当の苦慮を要せしも日を経るに従ひ次第に落着きを取り戻し大なる考慮を要せざるに至りしも直接入営業務を担任する部隊側の苦心は(ママ)大抵のものにては非らざりき

一時逃亡者続出せる時代に在りては某部隊の如きは之が防止対策として巡察不寝番の増加潜伏斥候分哨の配置,兵営周囲の鉄柵の補修増強等本末を顚倒せる挙に出でたるものもあり其の苦心の一端を察するを得べし

 

 1944年6月15日米軍はサイパン島に上陸,同月19日のマリアナ沖海戦で我が連合艦隊は惨敗,7月4日には大本営はようやくインパール作戦中止を命令,同月7日サイパン島の我が守備隊玉砕,同月18日東条英機内閣総辞職,8月3日我がテニアン守備隊玉砕,同月10日グアムの我が守備隊玉砕,1020日米軍レイテ島上陸,同月24日のレイテ沖海戦で連合艦隊は大敗,同月25日海軍神風特別攻撃隊の初めての体当たり攻撃,1124日にはマリアナ基地のB29による東京初空襲といった戦況ですから(『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)参照),なかなか勇ましい気分にはなれなかったものでしょう。

 なお,現役兵の入営期日が兵役法施行規則231条による同規則附表第1に規定されているものと異なるではないかと怪訝に思われる向きもあるかもしれませんが,これについては,193910月2日に公布され同日から施行された昭和14年陸軍省令第52号が「当分ノ内陸軍現役兵ノ入営期日ハ兵役法施行規則附表第1ノ規定ニ拘ラズ別ニ定ムル所ニ依ル」としてしまっていたところです。したがって,9月ないしは11月生まれの者はあるいは19歳で現役兵として入営ということになるのですが,明治22年徴兵令3条の「現役ハ〔略〕満20歳ニ至リタル者之ニ服シ」のような規定は,兵役法にはありませんでした(同法5条参照)。

 

 又入営後に在りても面会人は踵を接して至れり

 特に母親の如きは毎日営庭を見渡し得る場所に腰を下し終日吾が愛児の身の上を案じ続ける者も相当数ありて部隊側の之等(これら)面会人に対する応接整理は想像に余りあるものありたり

 

 母の愛。これを受けてしまえば「即チ孝ヲ第一義トシ直接的孝養ヲ以テ最高ノ道徳ト思惟」することになります(前出昭和18年陸密第2848号通牒)

 現役兵のほか,補充兵についても,「約23万の壮丁中より現役として入営せるは僅か4万5千名(別に海軍兵1万名)にして他の大部分は補充兵として在郷に待機しありしも本土の兵備鞏化に伴い逐次各勤務隊現地自活要員として召集せらるるに至りたり」とあります。しかしながら,飽くまでも「現地自活要員」ですから,兵士としての戦闘は期待されていなかったのでしょう。この辺の数字については,アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることのできる「支那事変・大東亜戦争間動員概史(草稿)」(表紙には「第一復員局」とあります。)の「第9章 異民族ノ使用」において,1944年及び1945年の両年で朝鮮人兵を「35000」人を「召集」したとの記載があります。「召集」とは「帰休兵,予備兵,後備兵,補充兵又は国民兵を軍隊に編入する為に召致し集める行政作用を謂ふ」ものとされています(日高2829頁)

 

エ 1945年の徴兵

 

(ア)朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者

 1945年2月10日から,昭和20年法律第3号によって,「戦時又ハ事変ノ際其ノ他特ニ必要アル場合ニ於テハ命令ノ定ムル所ニ依リ徴兵検査ノ執行ヲ次年ニ延期スルコトヲ得」とする弱気な兵役法44条の2が同法に挿入されました。

 しかしながら,朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に対する第2回の徴兵検査は,「梗概」のいうところ,「戦局の要請に応じ〔1945年〕2月より5月に亘りて早期に実施」されています。「梗概」の第10表によれば,陸軍の現役兵は,朝鮮軍管区で4万1965人,関東軍管区で3035人の合計4万5000人を徴集しています(同表の合計欄の「46,000」は誤記でしょう。)。前年と同数ということになります。同第11表によれば海軍兵の現役徴集数は1万人ですが,これらについての入団期日は194511月以降になっていますので,これらの海軍兵は結局入団しなかったわけです(降伏文書署名は同年9月2日)。

 陸軍現役兵は果たして入営に至ったかどうかについては,「梗概」は,「又入営準備訓練も前年度に準じ着々実施しつありしが8月15日遂に終戦の大詔を拝し茲に朝鮮徴兵史も終焉を告ぐるに至りたり」とのみ記しています。


(イ)戸籍法の適用を受ける者の例(脱線の脱線)

 ちなみに,1945年の内地における戸籍法の適用を受ける者に係る徴兵状況については,民法の星野英一教授の回想があります。

星野教授は,1926年7月8日生まれなので,その年の7月に19歳になる1945年に徴兵検査を受けることになりました。先の大戦の末期には戸籍法の適用を受ける者に係る徴兵適齢は20年ではなく19年に引き下げられていたことについては,筆者はかつて本ブログにおいて紹介したことがあります(「兵役法(昭和2年法律第47号)等瞥見(後編)」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1013932816.html)。

   ところが,私は不幸にして,兵隊にとられました。割合年は若く18歳でしたが。もともと徴兵年齢が20歳で,20歳の12月に徴兵検査を受けるのです。それが戦争で1年短く19歳になり,私の年から18歳になってしまったのです。確か1944年の末に決まったので,45年の1月だかに徴兵検査を受けました。ただ,まさかと思っていたのに徴兵令状が来てしまいました。6月の中旬か下旬か,正確には覚えていませんが,甲府の連隊に入れということです。(星野英一『ときの流れを超えて』(有斐閣・2006年)40頁)

 

 1945年の徴兵検査は,兵役法23条及び徴兵適齢臨時特例(昭和18年勅令第939号)によって194412月1日から19451130日までの間に年齢19年に達する者が受けることになっていたので,誕生日が徴兵検査の日より後の者については18歳で徴兵検査を受けることになることは実は当然あり得たところです。「私の年から18歳になってしまったのです」ということではありません。また,徴兵適齢臨時特例による徴兵適齢の20年から19年への引き下げは19431223日の昭和天皇の裁可で決まったのであって(公布・施行は同月24日),「1944年の末」に決まったものではありません。(この徴兵適齢臨時特例は「兵役法第24条ノ2ノ規定ニ依リ当分ノ内同法第23条第1項及第24条ニ規定スル年齢ハ之ヲ19年ニ変更ス」としたものです。ただし,当該特例は,内地人にのみ適用されました(同特例附則1項ただし書(昭和19年勅令第2812条による改正後は附則2項))。)新年を迎えて早々1月に徴兵検査をすることについては,19441116日公布・同日施行の昭和19年陸軍省令第51号の第2条1項が,1945年における徴兵検査は同年1月15日から同年4月30日までの間に行うものと定めていたところでした。また,「徴兵令状」というのは,兵役法施行規則218条及び附録第3様式からすると,「現役兵証書」であったようです。   

                                  (つづく)

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

 



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1 「食育」

「食育」という法令用語があるのですが,筆者においてはかねてからその意味するところがよく分からずにおりました。最近出て来た言葉のようです。

しかし,調べれば分かるであろうことを調べずにいて横着に「分かんねーょ」で済ますのは,人間頽廃の第一歩でしょう。そこで,大きな六法全書にも収載されていない2005年の食育基本法(平成17年法律第63号)等をインターネットで調べてみたところです。

なお,食育基本法161項及び2621号に基づき国の食育推進会議によって作成された2016年度から2020年度までの5箇年計画Пятилеткаたる第3次食育推進基本計画においては,「我が国の食育の理念や取組等を積極的に海外に発信し,「食育(Shokuiku)」という言葉が日本語のまま海外で理解され,通用することを目指す。」という記述が見られます(第372))。実は「食育」概念は既に成熟し,その内容もはっきりしているものとして扱われているようです。当該概念をなお十分理解していない筆者による試みである本ブログ記事は,あるいは食育推進会議の公定解釈から大きく逸脱したものとなるかもしれません。しかし,やってみましょう。

まず,法令用語としての「食育」の定義は,食育基本法の前文第2項にあるということでよいようです。そこでは「様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し,健全な食生活を実践することができる人間を育てる食育」とありますから,「食育」とは「様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し,健全な食生活を実践することができる人間を育てる」こと,ということになります。同法の本則においては,特段「食育」に係る定義規定を設けずに,第1条から「食育」の語が自明のものとして用いられています。

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「様々な経験」1:ちゃんぽんうどん,サラダうどん,ビール及びワイン

また,食育は,食育基本法によって「生きる上での基本であって,知育,徳育及び体育の基礎となるべきものと位置付け」られています(前文第2項)。食育がないと生きていけそうもないということですから,食育は人生の最初段階において受けるものであって,「知育,徳育及び体育」がいわゆる教育ならば,教育より前のいわば無意識のレヴェルに刷り込まれるべきものということになるようでもあります。少なくとも,字を覚えることよりも優先されるべきものなのでしょう。

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「様々な経験」2()()塩辛

全き食育の成果たる人間はどのようなものかといえば,「様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し,健全な食生活を実践することができる」人間ということになります。したがって,様々な経験を通じて「食」に関する知識及び選択力を習得し得る能力が要素であって,「健全な食生活を実践すること」は可能性にとどまるわけです。食育を受けた国民全員による輝かしき「健全な食生活」の実践は必ず実現するものとは限らないし,またその必要もない(個人の選択に委ねられる。),ということになり得るところです。

 

2 「健全な食生活」

しかしながら,食育基本法の第2条から第8条までに掲げられた食育に関する「基本理念」(同法9条)に基づき推進される食育は,当該基本理念の実現までを目指すものとならざるを得ません。同法2条は「食育は,食に関する適切な判断力を養い,生涯にわたって健全な食生活を実現することにより,国民の心身の健康の増進と豊かな人間形成に資することを旨として,行われなければならない。」と規定していますから(下線は筆者によるもの),食育は,食育を受けた人間が「生涯にわたって健全な食生活を実現」する者となるようにすることを目指すのだということになります。

「健全な食生活」とは何かといえば,まずは「心身の健康の増進と豊かな人間形成に資する」ものであるということになるのでしょう(食育基本法2条。また,同法1条にも「国民が生涯にわたって健全な心身を培い,豊かな人間性を育むための食育」との文言があります。)。十分な栄養を摂って身体が健康になりその結果心が健康になる(mens sana in corpore sano erit.)というだけではなく,「豊かな人間形成」までされるというものですから仰々しいところです。

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「様々な経験」
3:ワイン及びオリーブの実

 Oleam quam primum terra tollito. Si inquinata erit, lavito, a foliis et stercore purgato.

 「オリーブの実が落ちちまっても急いで拾って,葉っぱでも糞でも汚れはきれいに洗っちまえばいいんだよ。」とは,いかにもあの大カトー流です(「偉大な人物と「せこさ」とに関して」参照http://donttreadonme.blog.jp/archives/1067827246.html)。

食育基本法8条には「食品の安全性が確保され安心して消費できることが健全な食生活の基礎である」とありますから,「健全な食生活」においては,安全な食品を消費して身体が健康になるだけではだめで,そこに「安心」がなければ心は病んでしまって健康ではなく,かつ,「豊かな人間形成」もなされない,ということになるようです。不殺生戒・不飲酒戒等を安全にクリアした食事を安心(あんじん)と共に摂っていればこそ,そこにおいて初めて仏教者としての「豊かな人間形成」も達成されるのだということになるのでしょうか当ブログの2018321日付けの記事である「内閣総理大臣の国会演説に見る「安心」の平成史(後編)」の17を参照http://donttreadonme.blog.jp/archives/1070539114.html)。

「健全な食生活」における「健全」な料理は更に,伝統的な日本食にして地元食であって,かつ,その食材は国内産であるものと理解されているようでもあります。食育基本法7条は「食育は,我が国の伝統のある優れた食文化,地域の特性を生かした食生活〔略〕に配意し,〔略〕農山漁村の活性化と我が国の食料自給率の向上に資するよう,推進されなければならない。」と規定しています(同法前文第4項も「食料自給率の向上に寄与すること」がされることを期待)。この「食料自給率の向上」がどんどん進めば,最終的には外国産食料は我が豊葦原瑞穂国においては一切消費されない姿となります(食育基本法前文第3項は「「食」の海外への依存」を「問題」であるものと認識)。であれば,「様々な経験を通じて」の「様々な経験」は,国産食品に係る範囲内においてという制限下のものであるということなのでしょう。とはいえ,「(ここに)大気都比売(おほげつひめ)自鼻口及(はなくちまたしり)(より)種種(くさぐさの)味物(ためつものを)取出(),種種作具(つくりそなへ)()(たてまつる)」(古事記』(岩波文庫・1963年)上巻)というふうに,我が国における食料は本来,女神の鼻孔,口腔及び肛門から安易かつ豊富に出て来るはずものでありましたから,外国の産物が食べられないことなどを心配するのは無用のことです。

また,「豊かな人間形成」がされた人間は,具体的には,「食生活が,自然の恩恵の上に成り立っており,また,食に関わる人々の様々な活動に支えられていることについて,感謝の念や理解が深ま」っている人間ということのようであります(食育基本法3条。また,同法前文第5項)。当該「感謝の念や理解」を端的に表明するためには,食事の際に祝福(benedicere)あるべし,さすれば少量の食材(quinque panes et duo pisces)でも豊かに満腹(saturatum esse)あるべしということになるのでしょうか。

 

 et acceptis quinque panibus et duobus piscibus

   intuens in caelum benedixit et fregit panes

   et dedit discipulis suis ut ponerent ante eos

   et duos pisces divisit omnibus

   et manducaverunt omnes et saturati sunt

 (secundum Marcum 6.41-42)

 

 なお,アメリカ合衆国の感謝祭(Thanksgiving)においては,感謝の対象は「自然の恩恵」でも「食に関わる人々」でもありません。

 

  …Washington also signed a proclamation for the first Thanksgiving on November 26,1789,declaring that “Almighty God” should be thanked for the abundant blessings bestowed on the American people, including victory in the war against England, creation of the Constitution, establishment of the new government, and the “tranquility, union, and plenty” that the country now enjoyed.

      (Chernow, Ron. Washington: a life. (2010) p.609)   

  ワシントンは,また,〔1789年〕1126日の最初の感謝祭のための宣言書に署名した。そこにおいては,対イングランド戦争における勝利,憲法の制定,新政府の設立並びに国家が現在享受している「安寧,統一及び豊穣」を含むアメリカ人民に与えられた惜しみない祝福に対して「全能の神」に感謝すべき旨が表明されていた。


 ところで,食について「自然の恩恵」や「食に関わる人々」に対して感謝すべしとする
2005年の我が食育基本法は,その60年前の先の大戦における敗戦によりもたらされた我が国における「我国体に戻り」たる「浅間しき次第」(1882年の明治天皇の軍人勅諭に見られる表現)を反映するものとも解し得るかもしれません。すなわち,皇室祭祀の新嘗祭に関する明治元年(
1868)十一月十五日の政府の布告は人民に対し「面々,毎日食し候米穀は,其元,天祖の賜物なる事を知り,御国恩のかたじけなき事を相わきまへ候はば,遊興安臥して在るべきにあらず。寒村僻邑の土民,雨を祈り晴を願ひ候も,必ず感応之有り,況や天下一同,至尊の御仁慮を体認し奉り,共に祈請し奉るに於ては,神祇の冥感,殊にすみやかなるべき事に候。」と「天祖の賜物」について「御国恩の辱き事を相弁へ」るべきことを訓戒していたところでしたが(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)69頁参照),食育基本法の文言からは,食が「天祖の賜物」であることも「御国恩の辱き事を相弁へ」るべきことも読み取り難くなっているからです。なお,上記布告での「天祖の賜物なる事」とは,「まず,皇国の稲穀は,天照大神,うつしき蒼生あおひとぐさの食して活すべきものなりと詔命あらせられ,天上に於て,,長田に殖えさせ給ひし稲を,皇孫降臨の時,下し給へる」との「神恩」の働きを意味します(村上68頁参照)。

 

3 我が国民の正しい在り方

 現在の我が国では「国民は,家庭,学校,保育所,地域その他の社会のあらゆる分野において,〔食育基本法の〕基本理念にのっとり,生涯にわたり健全な食生活の実現に自ら努めるとともに,食育の推進に寄与するよう努めるものとする。」との責務が全国民に負わされています(食育基本法13条)。この責務を果たそうと努めない者は非国民であるということになります。しかしながら,「健全な食生活」とは何かということがはっきりしなければ,愛国的国民は一向安心できません。また,「食育の推進に寄与」するためには具体的に何をすべきかが明らかでなくてはなりません。

 

4 第3次食育推進基本計画における具体的目標

 国の食育推進会議による第3次食育推進基本計画(2016年度から2020年度まで)を見てみましょう。

 第3次食育推進基本計画は,その第22において「食育の推進に当たっての目標」を掲げています。そこにある15の見出しは,①食育に関心を持っている国民を増やす,②朝食又は夕食を家族と一緒に食べる「共食」の回数を増やす(この「共食」は,トモグイと読んではいけないのでしょう。),③地域等で共食したいと思う人が共食する割合を増やす,④朝食を欠食する国民を減らす,⑤中学校における学校給食の実施率を上げる,⑥学校給食における地場産物等を使用する割合を増やす,⑦栄養バランスに配慮した食生活を実践する国民を増やす,⑧生活習慣病の予防や改善のために,ふだんから適正体重の維持や減塩等に気をつけた食生活を実践する国民を増やす,⑨ゆっくりよく噛んで食べる国民を増やす,⑩食育の推進に関わるボランティアの数を増やす,⑪農林漁業体験を経験した国民を増やす,⑫食品ロス削減のために何らかの行動をしている国民を増やす,⑬地域や家庭で受け継がれてきた伝統的な料理や作法等を継承し,伝えている国民を増やす,⑭食品の安全性について基礎的な知識を持ち,自ら判断する国民を増やす及び⑮推進計画を作成・実施している市町村を増やす,というものです。

 

1)食育に関心を持っている国民を増やす

 「食育に関心を持っている国民を増やす」との目標については,2015年度においては国民の75パーセントしか食育に関心を持っていなかったところ,2020年度までには90パーセント以上を目指すそうです。最終的には全国民が食育に関心を持たねばならないのです。日本国憲法19条には「思想及び良心の自由は,これを侵してはならない。」などと書いてありますが,食育に係る関心の有無それ自体に限れば,思想でもなければ良心でもないということでしょう。「「思想及び良心」の自由の保障すなわち沈黙の自由の保障の対象は宗教上の信仰に準ずべき世界観,人生観等個人の人格形成の核心をなすものに限られ,一般道徳上,常識上の事物の是非,善悪の判断や一定の目的のための手段,対策としての当不当の判断を含まない」とする長野地方裁判所昭和3962日判決(判時3748頁)を引用しつつ,当該判決の採用する憲法19条の解釈を是とする説があります(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)485486頁)。

 「食育に関心を持っている国民を増やす」ことにあるいはつながるであろうこのブログ記事を書いている筆者などは,「食育の推進に寄与するよう努め」ている(食育基本法13条)愛国的国民として,お上からほめていただけるものでしょうか。

 

2)朝食又は夕食を家族と一緒に食べる「共食」の回数を増やす

 「朝食又は夕食を家族と一緒に食べる「共食」の回数を増やす」ことについては,当該共食回数を2015年度の現状値週9.7回から2020年度は週11回以上にするそうです。これも将来的には週14回が達成されるべきものでしょう。婚姻の実体意思(真に婚姻をする意思)の内容は「常識的には,ローマで言われていたという「食卓と床をともにする関係」に入る意思といえる」とされており(星野英一『家族法』(放送大学教育振興会・1994年)55頁),更に「ローマ法における最も古い宗教上の婚姻方式は,「パン共用式婚姻(confarreatio)」と称するもので,ローマのパンの最古の形である「ファール(far)」を,儀式的に男女が共同で食した。」とのことですから(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法――ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)141頁),我が食育推進会議の婚姻観,ひいては家族観は古代ローマ以来の伝統的なものである,ということになるのでしょう。父たるもの,妻子を食わせるべし。

 

  Pater noster…

       panem nostrum supersubstantialem da nobis hodie

       (secundum Mattheum 6.9, 11)

  父ちゃん・・・腹ペコだからおいらたちのパンを今ちょうだい。

 

3)地域等で共食したいと思う人が共食する割合を増やす

「地域等で共食したいと思う人が共食する割合を増やす」ことについては,当該共食がされる割合を,2015年度の現状値64.6パーセントを2020年度には70パーセント以上にするそうです。「地域や所属するコミュニティ(職場等を含む)」とありますから(下線は筆者によるもの),仕事上の接待での共食も含まれるものと解してよいのでしょう。「家族との共食は難しいが,共食により食を通じたコミュニケーション等を図りたい」お得意さまについて,そのような思いを忖度(そんたく)して差し上げ,料理屋等で接待申し上げるのは,単なる利己的な営利営業活動といったまらないものにとどまるものではなく,我が国における食育の推進に寄与する活動でもあるのでした。

ところで,非婚少子化が進み伝統的家族の減少しつつある我が国においては,将来は,「彼らは共同食堂で共食し,駐屯地の兵士らのような共同生活を行うものとする。」(プラトン『国家』416 e)というところまで行くものかどうか。しかし,食育推進会議もさすがにそこまでは考えてはいないようです。

 

4)朝食を欠食する国民を減らす

「朝食を欠食する国民を減らす」ことについては,朝食を欠食する子供の割合を2015年度の現状値4.4パーセントから2020年度には零パーセントに,朝食を欠食する20歳代及び30歳代の男女の割合を2015年度の現状値24.7パーセントから2020年度には15パーセント以下にするそうです。40歳代以上となれば,朝食は食べなくてもよいようです(反対解釈)。それとも,40歳以上はもはや国民の数には入らないのでしょうか。確かに,40歳を過ぎた臣民には第二国民兵役すらも既にお役御免ではありました(1943111日改正前兵役法(昭和2年法律第47号)92項)。

しかし,そもそも朝食については「〔中世の〕修道院では,ローマ時代の慣習に従い,第9時(nona hora),すなわち午後3時に最も大切なお祈りをしてからその日の唯一の食事をした。〔略〕この時の食事をフランス語ではdéjeunerと言ったのである。ところが,厳しい労働のために,ただ1回の食事では空腹に悩まされることが多く,déjeunerまでに軽い食事をする習慣が生まれ,この食事をフランス語でpetit déjeunersmall breakfast)と呼んだ。今日では一般に「朝食」という意味をもつ。」ということではあったそうです(梅田修『英語の語源事典』(大修館書店・1990年)209頁)。厳格に一日一食をなお守る伝統主義的修道院において祈り,かつ,働く(orant et laborant)清らかな生活を送る若き僧尼らに対して,いやしくも日本国民たる者は必ず朝食を摂るべしと啓蒙・食育することは,信教の自由(日本国憲法20条1項前段)を侵す余計なお世話であるということにはならないのでしょうか。それとも,朝食を摂らないということは,そもそもからして我が国の安寧秩序を妨げることになるのか,臣民たるの義務に背くことになるのか(大日本帝国憲法28条参照)。いずれにせよ,30歳代前半の元肉体労働者系の男性がつい長いこと絶食してふらふらになっているのを見ると,ちゃんと朝から食事をしろよパンでいいからさ(でも石は食べられないよね),と声をかけるのが親切な心というものでしょう。

 

 Et cum jejunasset quadraginta diebus et quadraginta noctibus postea esuriit

   et accedens temptator dixit ei

   si Filius Dei es dic ut lapides isti panes fiant

   qui respondens dixit

   scriptum est

   non in pane solo vivet homo sed in omni verbo quod procedit de ore Dei

   

   vade Satanas

 (secundum Mattheum 4.2-4, 10) 

 

せっかくの親切な声かけに対して,偉い本には何やらが書いてあると理屈で返した上で相手を悪魔(Satanas)呼ばわりすることも,信教の自由の認めるところなのでしょう。

 

5)中学校における学校給食の実施率を上げる

 「中学校における学校給食の実施率を上げる」ことについては,2014年度の実施率現状値87.5パーセントを2020年度には90パーセント以上にするそうです。「栄養バランスのとれた豊かな食事」であり,かつ,「食事について理解を深め,望ましい食習慣を養う」ことのできる素晴らしい学校給食に対して,家人の作った弁当その他の食事はそうではない,ということゆえのようです。そうであればやはり,ちまちまと中学校に限ることはせず,プラトンの理想国ないしは古代スパルタのように,日本国民は全員,共同食堂で学校給食業者の提供する給食を共食することが究極の理想であるということになるようです。

 

更に〔古代スパルタのリュクールゴスは〕最も立派な政策を取り入れた。それは会食の制度である。市民たちは互ひに共通な一定の料理とパンのあるところに集まつて食事し,家で豪奢な臥椅子や食卓に依つて,暗い処で食を貪る獣のように召使ひや料理人の手で肥らされ,性格のみならず身体までも台無しにして,長い眠りや温浴や多くの安息や云はば日毎の看病を必要とするすべての欲望と奢侈に身を委ねるやうなことを許されなかつた。確かにこれは大事業であつた〔中略〕。家で先に食事を済ませて,満腹のまま会食に行くことは許されなかった。他の人々が念入りに見張りをしてゐて,自分たちと一緒に飲みも食べもしないものを,自制力のない,共通の食物を食べようとしない意気地無しだと非難したからである。(河野与一訳『プルターク英雄伝(一)』(岩波文庫・1952年)116117頁)

 

6)学校給食における地場産物等を使用する割合を増やす

「学校給食における地場産物等を使用する割合を増やす」ことについては,学校給食における地場産物(都道府県単位)を使用する割合を2014年度の現状値である26.9パーセントから2020年度には30パーセント以上に,学校給食における国産食材を使用する割合を2014年度における現状値77.3パーセントから2020年度には80パーセント以上にするそうです。「食料安全保障」の観点からは,これらの数字は多々益々弁ず,ということになるのでしょう。最終的には自給自足の江戸時代への復帰が理想,ということなのでしょう。

 

  Edo solum cibum Japonem.

 

   〔前略〕どの国でも食糧は重要なことで,船を使はないやうにその国で賄はねばならんのであります。それが世界の戦争国家の共通的な方法であります。 

   この日本において遠く南洋の天地から何十万トン何百万トンの船を使つて外米を輸入して,その外米を食はなければならんといふ食ひ方ではならんのであります。われわれは玄米でも何でも,無駄のないやうに食はなければならんのであります。国が亡んだら元も子もないのであります。我々は千早城に立て籠つた〔楠木〕正成の様に,畳を食つても生きて行かねばならぬのであります。然も肉がない,魚がないなどと,さういふことをいつて居つて一体この戦争が出来ると思つてゐてよいでせうか。われわれの生活を最小限度に切詰めて,さうしてその輸送力や凡てのエネルギーを,戦争に全部集中しなければならんのであります。〔後略〕

  (奥村喜和男(情報局次長)『尊皇攘夷の血戦』(旺文社・1943年)183184頁)

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 a tatami-eater facing the Imperial Palace, Tokyo


(7)栄養バランスに配慮した食生活を実践する国民を増やす
 「栄養バランスに配慮した食生活を実践する国民を増やす」ことについては,主食・主菜・副菜を組み合わせた食事を12回以上ほぼ毎日食べている国民の割合を2015年度の現状値57.7パーセントから2020年度には70パーセント以上にし,20歳代及び30歳代の男女については2015年度の現状値43.2パーセントから2020年度には55パーセント以上にするそうです。主食は米その他の穀物でしょうが,更に主菜及び副菜とあります。主菜は「魚,肉等」,副菜は「野菜,海藻等」であるようです(第3次食育推進基本計画の第331)注1)。

主食は,米よりも他の雑穀の方が何かとよいようです。

 

  〔前略〕食物を大切ニ可仕(つかまつるべく)候ニ付,雑穀専一ニ候(あいだ),麦(あわ)(ひえ)()大根,其外何に()も雑穀を作り,米を多く喰つ()し候ハぬ様に可仕(つかまつるべく)候,〔略〕大豆の葉あ()きの葉さゝ()の葉大角(ささ)()はまめ科の一年生植物で,さや・種子が食用になります。〕いもの落葉なと,むさとすて候儀ハ,もつたいなき事に候(慶安御触書(慶安二年(1649年)))

 

主菜として,牛肉,馬肉,犬肉,猿肉又は鶏肉を食べる者は,乱臣賊子です。

 

  庚寅,詔諸国曰,自今以後,〔中略〕莫食牛馬犬猿鶏之宍。以外不在禁例。若有犯者罪之。(『日本書紀』(新編日本古典文学全集(小学館・1998年))天武天皇四年(675年)四月庚寅(十七日)条)

  庚寅に諸国に(みことのり)して(のたま)はく,今より以後,〔中略〕牛・馬・犬・猿・鶏の(しし)を食ふこと莫れ。以外は禁例にあらず。し犯す者あらば罪せむ」とのたまふ。

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 乱臣賊子の食物:馬刺しユッケ

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 馬の次は,鹿(「持鹿献於二世曰。馬也。二世笑曰。丞相誤邪。謂鹿為馬。問左右。左右或黙或言馬。以阿順趙高。」『史記』秦始皇本紀)


 我が国では,畏くも天武天皇の詔において許されてある豚肉を食べるべきなのです。

 しかしながら,

    …

 et sus qui cum ungulam dividat non ruminat

    horum carnibus non vescemini nec cadavera contingetis quia inmunda sunt vobis

    (Liber Levitici 11.7-8)

 

豚さんは爪は割れているかもしれないけれども反芻はしないから食べてもいけないし死体に触ってもいけないんだよ,だって(きたな)いんだもーん,などとのたまう理屈っぽいへそ曲がりは,やはり「安寧秩序ヲ妨ケ」る輩でしょう。

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「様々な経験」4:旭川しょうゆ豚丼駅弁


8)生活習慣病の予防や改善のために,ふだんから適正体重の維持や減塩等に気をつけた食生活を実践する国民を増やす

「生活習慣病の予防や改善のために,ふだんから適正体重の維持や減塩等に気をつけた食生活を実践する国民を増やす」については,当該実践を行う国民の割合を2015年度の現状値69.4パーセントから2020年度には75パーセントにし,あわせて食品中の食塩や脂肪の低減に取り組む食品会社の登録数を2014年度の67社から2020年度には100社以上にするそうです。

「適正体重の維持・・・に気をつけた食生活を実践」しさえすればよいので,それでも適正体重を維持できずに「肥満ややせ」になった残念な姿をさらしていても直ちに非国民ということにはならないようです。また,単位ごとに食品中の食塩や脂肪が低減されていればよいので,物足りないなと思ったら,おかわりをして追加摂取すればよいのでしょう。

しかし,塩味であることが畏怖すべき存在との重いお約束になっている場合,そもそも減塩などという罪が赦されるのでしょうか。

 

  quicquid obtuleris sacrificii sale condies

       nec auferes sal foederis Dei tui de sacrificio tuo

       in omni oblatione offeres sal

       (Liber Levitici 2.13)

  上納した食品は何でも塩で味付けすべし。

  お前の親分である恐ろしい御方との契りの塩をお前の上納食品から欠かしてはならぬ。

  全ての貢の食品には塩を加えなければならぬ。

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 後鳥羽院ゆかりの水無瀬神宮(大阪府三島郡島本町)

 もしほやく(あま)もいき 遠島首)


(9)ゆっくりよく噛んで食べる国民を増やす
 「ゆっくりよく噛んで食べる国民を増やす」ことについては,そのような食べ方をする国民の割合を2015年度の現状値49.2パーセントから2020年度には55パーセント以上にするそうです。生きたまま踊り食いをされるシロウオなどは大変でしょう。

“Festina lente”(ゆっくり急げ)をモットーとしていた初代ローマ皇帝アウグストゥスでしたが,死を間近にして,陰鬱な2代目皇帝となるティベリウスに関して曰く。

 

  “Miserum populum R., qui sub tam lentis maxillis erit.”

  (Suetonius, Vita Tiberi 21)

  「あんなに(のろ)い顎で咀嚼されるローマ人は可哀想だ」(国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(上)』(岩波文庫・1986年)251頁)

 

10)食育の推進に関わるボランティアの数を増やす

「食育の推進に関わるボランティアの数を増やす」ことについては,食育の推進に関わるボランティア団体等において活動している国民の数を2014年度の現状値である34.4万人から2020年度は37万人以上にするそうです。きっちりとした「食生活改善推進員等のボランティア」のみがカウントされるようなので,このブログ記事などに漫筆を動かすのみの筆者などは員数外です。

 

11)農林漁業体験を経験した国民を増やす

「農林漁業体験を経験した国民を増やす」ことについては,当該経験をした国民(世帯)の割合を2015年度の現状値36.2パーセントから2020年度には40パーセント以上にするそうです。

これは,かつて中華人民共和国にあったという下放運動のようなものでしょうか。

しかし,「農林漁業体験」といっても,農林漁業従事労働者となって働かされるというわけでもなく,また,政策として農林漁業への新規参入が推進されるというわけでもないようです。

 

12)食品ロス削減のために何らかの行動をしている国民を増やす

「食品ロス削減のために何らかの行動をしている国民を増やす」ことについては,当該行動をしている国民の割合を2014年度の現状値67.4パーセントから2020年度には80パーセント以上にするそうです。当該「何らかの行動」には,次のような結果をもたらす食べ方に対してmottainai!と苦情を言うことも含まれるのでしょうか。

  

    et sustulerunt reliquias fragmentorum duodecim cofinos plenos et de piscibus

    (secundum Marcum 6.43)

 〔食後には〕12の大かごにいっぱいのパンのかけら及び魚の残りが取り集められた。

 

13)地域や家庭で受け継がれてきた伝統的な料理や作法等を継承し,伝えている国民を増やす

「地域や家庭で受け継がれてきた伝統的な料理や作法等を継承し,伝えている国民を増やす」ことについては,そのような国民の割合を2015年度の現状値41.6パーセントから2020年度には50パーセント以上にし,そのような20歳代及び30歳代の男女の割合を2015年度の現状値49.3パーセントから2020年度には60パーセント以上にするそうです。

現に存在する「地域や家庭」の「伝統的な料理や作法等」でさえあればたとえどんなものであってもそのまま継承されるべきものなのであって,変によその地域や家庭の真似をして,上品ぶったりかしこぶったりグルメぶったりカッコつけたりするんじゃねぇよ,ということでしょうか。

 

 われわれの子供時代のことを考へても,私は九州の田舎で育ちましたが,生魚といへば御祭の時か,正月に食つた位のものなのであります。簡単な質素な生活であつたのであります。(奥村194頁)

 

「主食であるごはんを中心に,魚,肉等の主菜,野菜,海藻等の副菜,牛乳・乳製品,果物等の多様な副食等を組み合わせた栄養バランスに優れた食生活」こそが「日本型食生活」であるとされていますが(第3次食育推進基本計画の第331)注1),これは,我が国の現実具体の歴史に根差すものではない思弁的構想物であるようです。

なお,「作法等」には「箸使い」が含まれています。しかしながら,魏志倭人伝には「食飲用籩豆手食」とあります。3世紀の倭人は,飲食に(へん)(とう)これは『角川新字源』によれば,「まつりや宴会に用いる器の名。籩は竹製で,果実などをもる。豆は木製で塩などをもる。」というものです。)は用いたものの,食べ方は手づかみ(手食)であったようです。箸を使うということは,我が国独自かつ有史以来連綿の「日本人の伝統的な食文化」というわけではないようです。とはいえ今や,正しく箸を使えぬ者は,非国民なのでしょう。

 

14)食品の安全性について基礎的な知識を持ち,自ら判断する国民を増やす

「食品の安全性について基礎的な知識を持ち,自ら判断する国民を増やす」ことについては,そのような国民の割合を2015年度の現状値72.0パーセントから2020年度には80パーセント以上にし,20歳代及び30歳代の男女については2015年度の現状値56.8パーセントから2020年度には65パーセント以上にするそうです。

12千万国民の3割弱が食品の安全性について基礎的な知識を持たず,又は食品の安全性について自ら判断できないというのですから,我が国においては食中毒が猖獗を極めているということが憂慮されます。しかしながら,厚生労働省のウェブサイトにある2017年の我が国の食中毒統計によると,同年中の食中毒発生件数は1014件で患者数は16464人,死者は3人だったそうです。家庭での食中毒に限ると,件数は100件,患者数は179人,死者2人ということでした。食中毒の発生件数が一番多かった場所は飲食店で598件,死者は1人でした。この数字を大きいと見るべきか,小さいと見るべきか。しかし,死はあってはならないということであれば,3を零にするための資源の投入をためらい,怠るわけにはいきません。人は,長い老後を生き続けねばなりません。

 

  abstulit clarum cita mors Achillem,

       longa Tithonum minuit senectus.

       (Horatius, Carmina 2.16.29)

  輝けるアキレウスを速やかな死が奪った。

  長い老後がティトノスを衰廃させた。

 

15)推進計画を作成・実施している市町村を増やす

「推進計画を作成・実施している市町村を増やす」ことについては,当該作成・実施市町村の割合を2015年度の現状値76.7パーセントから2020年度には100パーセントにするそうです。食育基本法の文言上は市町村が市町村食育推進計画を作成することは努力義務にとどまるのですが(同法181項),食育の推進という素晴らしいことをすべきときに当たって,「いやこれは努力義務だから,努力しても食育推進計画が出来なければそれはそれでいいんです。」などとつまらぬ理屈を言って抵抗することは許されません。

 

5 「健康美」

食育基本法は一つの美のイデアを前提としています。すなわち,その第19条において,国及び地方公共団体は家庭における食育の推進に関して「健康美に関する知識の啓発」をするものとされているところです。
 しかしながら,この「健康美」のイデアは,なおはっきりしません。(ちなみに,健康の女神であるHygieiaないしはSalusは,容姿云々よりは蛇と一緒ということが特徴です。)

食育基本法案を審議する200546日の衆議院内閣委員会において,小宮山洋子委員が同法案19条に関して「だからそんな,料理教室とか健康美なんということまで,何で基本法でこんなことをやるんですか。」と怒りをこめて質疑したところ,提案者西川京子衆議院議員の答弁は「もちろんこれは一つの例示でありまして,そこに必ず行ってくれと言っているわけではないわけでございまして,あくまでもこれは特定の価値観を国民に押しつけるようなことは毛頭ございません。/そういう中で,やはりこういうメニューがあると,今現実に,そういうアンバランスな食生活をしている子供たちや若い人が大変ふえている現実が目の当たりにあるわけですね。そういう中で,できれば家庭,学校教育の場,そういうところでこういうことにお互いにもうちょっと積極的にかかわる中で,健全な生活を営めるような体づくり,こころの健康性,そういうものについてこういうメニューをそろえますよ,そういう程度と考えていただけたらいいと思います。」と飽くまで低姿勢でした(第162回国会衆議院内閣委員会議録第79頁)。低姿勢のゆえ積極的な定義付けはされていないのですが,少なくとも「健康美」の構成要素としては,「健全な生活を営めるような体」があって,「こころ」も「健康」であるということが含まれているようです。

「肥満」の増加及び「過度の痩身志向」が「問題」とされていますから(食育基本法前文第3項。また,同法20条),肥満者及び過度痩身者は「健康美」ではないということでしょう。しかし,「健康美」ではないからといって美ではないということではないのであって,「特定の価値観」が国民に押し付けられることはなく,「肥満美」及び「過度痩身美」も美としては「健康美」と平等の価値を有するものなのでしょう。実に価値観は様々であって,若くて健康な奴など不愉快だとまでのたまう気難しいおじさんも現に存在します。

 

 友とするにわろき者,七つあり。一つは高くやんごとなき人。二つには若き人。三つには病なく身強き人。四つには酒を好む人。五つにはたけく勇める(つはもの)。六つには虚言(そらごと)する人。七つには欲深き人。(『徒然草』第117段)

 

しかし,まあ,人それぞれです。酒嫌いの草食偏屈タイプは,またその好むように食事をすればよいのです。

 

  Sei guter Dinge, antwortete ihm Zarathustra, wie ich es bin. Bleibe bei deiner Sitte, du Trefflicher, malme deine Körner, trink dein Wasser, lobe deine Küche: wenn sie dich nur fröhlich macht!

(Das Abendmahl) 

 

水しか飲まないのならば仕方がありませんが,葡萄酒は結構なものです。疲労困憊からの急激な回復及び即興的健康。

 

  Wasser taugt auch nicht für Müde und Verwelkte: uns gebührt Wein, --- der erst giebt plötzliches Genesen und stegreife Gesundheit!

 

葡萄酒に羊肉。羊の肉は,天武天皇の禁制にも含まれてはいません。セージで味付けし,根菜及び果実並びに胡桃を添える。

 

  Aber der Mensch lebt nicht vom Brod allein, sondern auch vom Fleische guter Lämmer, deren ich zwei habe:

--- Die soll man geschwinde schlachten und würzig, mit Salbei, zubereiten: so liebe ich’s. Und auch an Wurzeln und Früchten fehlt es nicht, gut genug selbst für Lecker- und Schmeckerlinge; noch an Nüssen und andern Räthseln zum Knacken.

 

そして,陽気な宴会。
 骨つよく足かろき者の健康及び元気を賛美し,たけく勇み,欲深く嘯きます。

 

  Wer aber zu mir gehört, der muss von starken Knochen sein, auch von leichten Füssen, ---

      --- lustig zu Kriegen und Festen, kein Düsterling, kein Traum-Hans, bereit zum Schwersten wie zu seinem Feste, gesund und heil.

   Das Beste gehört den Meinen und mir; und giebt man’s uns nicht, so nehmen wir’s: --- die beste Nahrung, den reinsten Himmel, die stärksten Gedanken, die schönsten Fraun!  

   

  食は人の天なり。よく味はひを調へ知れる人,大きなる徳とすべし。(『徒然草』第122段)



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1 「感動」の法定化

 2002年サッカー・ワールド・カップ大会の決勝トーナメント1回戦における日本チーム対トルコ・チームの試合に係る同年6月18日の生中継テレビジョン放送を,友人らと一緒に,我が日本チームを熱く応援し,狂乱しながら観た結果,次のような想いを抱いた中年男は,非国民でしょうか。

 

  あの日・・・

  あの日・・・

  分かってしまった・・・!

  オレは・・・

  唐突に・・・

  分かってしまった・・・!

 

  感動などないっ・・・!

 

  あんなものに・・・

  感動などないのだ・・・!

  人一倍・・・

  そう・・・まわりの誰よりも大騒ぎしながら,

  オレは・・・

  胸の奥がどんどん冷えていくのを感じていた・・・!

  そうだ・・・

  そう・・・

  オレが求めているのは・・・

 

   「中田っ・・・!」

   「森島っ・・・!」

 

  っていうようなことじゃなくて・・・

  オレの鼓動・・・

  オレの歓喜。

  オレの咆哮。

  オレのオレによる,

  オレだけの・・・

  感動だったはずだ・・・!

 

  他人事じゃないか・・・!

  どんなに大がかりでも,あれは他人事だ・・・!

  他人の祭りだ・・・!

  いったい・・・

  いつまで続けるつもりなんだ・・・?

  こんな事を・・・!(福本伸行『最強伝説黒沢』第1話)

 

 これに対して,2011年8月24日からそれまでのスポーツ振興法(昭和36年法律第141号)が全部改正されたものである,新たな我がスポーツ基本法(平成23年法律第78号)は,その前文第5項において,次のように高らかに謳い上げています。

 

  〔前略〕国際競技大会における日本人選手の活躍は,国民に誇りと喜び,夢と感動を与え,国民のスポーツへの関心を高めるものである。これらを通じて,スポーツは,我が国社会に活力を生み出し,国民経済の発展に広く寄与するものである。〔後略〕

 

すなわち,我が国国権の最高機関たる国会(日本国憲法41条)が立法を通じて示した判断によると(ちなみに,スポーツ基本法は正に議員立法です。),「国際競技大会における日本人選手の活躍」を見ても「誇りと喜び」を感じず,「夢」を抱かず「感動」もしない者は,「国民」に非ずということになるようです。

福本伸行作品は,反日漫画なのでしょうか。

否。前記福本作品主人公に生じたところの「感動などないっ・・・!」との唐突な感覚については,日本チームとトルコ・チームとの当該試合において,日本チームが0対1で不甲斐なくも敗退したことが原因であったというべきです。

予選リーグ突破でさんざん期待を高めておいた挙句に決勝トーナメント1回戦であっさり零敗してしまう当該日本人選手らは,国際競技大会において「活躍」していたものとはいえません(「競」技大会なので,勝ち負けが争われ,したがって,勝つことが重要です。)。「活躍」なければ「感動」なし。これはスポーツ基本法からしても当り前のことです。そうであれば,国際競技大会における勝利なき日本人選手らは,何ら我ら国民の「誇り」の対象とはならず,罵声を浴びることなく無関心をもって遇されれば上々ということになるのでしょう。

 

2 健全な肉体と健全な精神

ところで,スポーツ基本法は,「国は,優秀なスポーツ選手及び指導者等〔スポーツの指導者その他スポーツの推進に寄与する人材(同法11条)〕が,生涯にわたりその有する能力を幅広く社会に生かすことができるよう,社会の各分野で活躍できる知識及び技能の習得に対する支援並びに活躍できる環境の整備の促進その他の必要な施策を講ずるものとする。」(同法25条2項)と規定していますが,国からの「生涯にわた」る当該支援の対象となるスポーツ選手は飽くまでも「優秀な」スポーツ選手です。ここでの優秀なスポーツ選手に係る「その有する能力」とは,健全な身体のみならず輝くばかりの健全な精神に裏打ちされたものなのでしょう(そうでなければそもそも「幅広く社会に生かす」べきものとはならないでしょう。なお「JOC強化指定選手を対象にした調査では,競技引退後の職業としてもっとも希望が多いのは「スポーツ指導者」である」そうです(日本スポーツ法学会編『詳解スポーツ基本法』(成文堂・2011年)189頁)。)。他方,国民に感動を与えられなかった優秀ではないスポーツ選手は,支援対象にはなりません。優秀なスポーツ選手に比べて精神の健全性がなお不十分だということになるからでしょうか。

 

mens sana in corpore sano. (Juvenalis, Saturae 10.356)

健全な精神は健全な肉体に宿る。

 

有名なユウェナリスの句は,「〔前略〕「身体を健全に保っておきさえすれば,精神なんていうものはおのずと健全になるものだ」と読める〔後略〕」ものです(柳沼重剛『ギリシア・ローマ名言集』(岩波文庫・2003年)112頁)。(ただし,原文の一部のみが切り取られて人口に膾炙したものだそうで,正確には“orandum est ut sit mens sana in corpore sano.”の形で引用されるべきものだそうです。「健全な精神が健全な肉体に宿るようにと祈られるべきである」が原意であって,“mens sana in corpore sano est.”との事実を述べる文ではありません。)

スポーツ基本法前文第2項は,伝ユウェナリスの“mens sana in corpore sano”原則に関して,「スポーツは,心身の健全な発達〔略〕等のために個人又は集団で行われる運動競技その他の身体活動であり,今日,国民が生涯にわたり心身ともに健康で文化的な生活を営む上で不可欠なものとなっている。」と宣言しています。スポーツは身体活動ですから第一次的には身体の健全な発達をもたらし(健全な肉体corpus sanum),その結果として精神(心)も健全に発達するものでしょう(mens sana)。しかして,スポーツは,心身ともに健康で文化的な生活を営む上で「不可欠」であるとされています。すなわち,スポーツなければ心身ともに健康で文化的な生活なし,という関係の存在が認定されているわけです。

 

3 スポーツ参加への熱きすゝめ

ということは,物臭なのか信念なのか何らかの理由でスポーツをしない者は,心身ともに健康で文化的な生活を営むことが不可能になりますから,日本国憲法25条1項によってありがたくも国民に与えられた「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を不逞にもなみする者ということになります。

 

  Il faut sauver les peoples malgré eux. (Napoléon Bonaparte)

  人民は,その意に反して救われねばならぬ。

  

 2011年8月23日以前の古いスポーツ振興法1条2項は,やや慎重に,「この法律の運用に当たつては,スポーツをすることを国民に強制し,又はスポーツを前項の目的〔「国民の心身の健全な発達と明るく豊かな国民生活の形成に寄与する」目的〕以外の目的のために利用することがあつてはならない。」と規定していましたが,スポーツをすることを強制することの禁止等に係る当該条項は,スポーツ基本法からは削られています。

「施策の方針」との見出しが付されたスポーツ振興法3条の第1項は,また,「国及び地方公共団体は,スポーツの振興に関する施策の実施に当たつては,国民の間において行われるスポーツに関する自発的な活動に協力しつつ,ひろく国民があらゆる機会とあらゆる場所において自主的にその適性及び健康状態に応じてスポーツをすることができるような諸条件の整備に努めなければならない。」と規定してなお国民の側からする「自発的な活動」を待つ受け身の姿勢を前提としていたようなのですが,「基本理念」との見出しが付されたスポーツ基本法2条の第1項は「スポーツは,これを通じて幸福で豊かな生活を営むことが人々の権利であることに鑑み,国民が生涯にわたりあらゆる機会とあらゆる場所において,自主的かつ自律的にその適性及び健康状態に応じて行なうことができるようにすることを旨として,推進されなければならない。」と規定して今や直接的にスポーツの推進がされる形になっています(要は「スポーツは・・・推進されなければならない。」ということです。)。「国,地方公共団体及びスポーツ団体」は,飽くまでも,「スポーツへの国民の参加及び支援を促進するように努めなければならない。」ので(スポーツ基本法6条),スポーツ嫌いだからとわがままを言ってもスポーツへの参加及び支援を促す熱い働きかけは止まりません。

 

4 スポーツの目的

 

(1)スポーツ基本法による拡大

スポーツ振興法の目的は「国民の心身の健全な発達と明るく豊かな国民生活の形成に寄与する」こと(同法1条1項)に限定されていましたが(同条2項後段),スポーツ基本法は欲張って,「国民の心身の健全な発達,明るく豊かな国民生活の形成」に加えて「活力ある社会の実現及び国際社会の調和ある発展に寄与すること」をも同法の目的にしています(同法1条)。スポーツの利用目的も限定的なものとはされていません(スポーツ振興法1条2項後段対照)。

 

(2)スポーツによる「活力ある社会の実現」

スポーツによる「活力ある社会の実現」の具体的イメージは,「スポーツは,人と人との交流及び地域と地域との交流を促進し,地域の一体感や活力を醸成するものであり,人間関係の希薄化等の問題を抱える地域社会の再生に寄与するものである。さらに,スポーツは,心身の健康の保持増進にも重要な役割を果たすものであり,健康で活力に満ちた長寿社会の実現に不可欠である。」というもの(スポーツ基本法前文第4項)等のようです。

その結果,「スポーツは,人々がその居住する地域において,主体的に協働することにより身近にスポーツに親しむことができるようにするとともに,これを通じて,当該地域における全ての世代の人々の交流が促進され,かつ,地域間の交流の基盤が形成されるものとなるよう推進されなければならない。」ということになって(スポーツ基本法2条3項),なかなか面倒臭い。

 

(3)スポーツによる「国際社会の調和ある発展」

スポーツによる「国際社会の調和ある発展」の具体的イメージは,「スポーツの国際的な交流や貢献が,国際相互理解を促進し,国際平和に大きく貢献するなど,スポーツは,我が国の国際的地位の向上にも極めて重要な役割を果たすものである。」というもののようです(スポーツ基本法前文第5項後段)。

しかし,サッカー・ワールド・カップ予選での両国チームの対戦を契機に勃発した1969年7月のエル・サルバドルとホンジュラスとの間のサッカー戦争というものもありましたから,スポーツが国際平和に常に直ちに貢献するとは限らないようなので,「国際相互理解を促進し,国際平和に大きく貢献」する国際スポーツ交流は,洗練された「接待ゴルフ」的なものが想定されているのでしょうか。確かに,我が国の内閣総理大臣は,アメリカ合衆国大統領と親しくゴルフをしつつ,「我が国の国際的地位の向上」に努めています。

 

 Playing golf with Prime Minister Abe and Hideki Matsuyama, two wonderful people!

   Donald J. Trump, @realDonaldTrump, November 4, 2017 (U.S. Time)

 

  While they were on the green at the swanky Kasumi[gaseki] Country Club on Sunday, Abe fell into a bunker and performed a ninja-like stunt – all without Trump’s knowledge.

   The Washington Post website (by Anna Fifield), November 8, 2017


  
Q Did you see Abe fall at the sand trap?

       PRESIDENT TRUMP: I didn’t. I say this: If that was him, he is one of the greatest gymnasts  because the way he – (laughter) – it was like a perfect – I never saw anything like that.

         Remarks by President Trump in Press Gaggle aboard Air Force One en route Hanoi, Vietnam (November 11, 2017) whitehouse.gov

 

七転び八起き

そうであれば,むきになって日本人選手による勝利の独占ばかりを目指して諸外国の不興をかってはいけないように思われます。しかし,この点,スポーツ基本法2条6項は「大人の対応」的ではない条項です。「スポーツは,我が国のスポーツ選手(プロスポーツの選手を含む。以下同じ。)が国際競技大会(オリンピック競技大会,パラリンピック競技大会その他の国際的な規模のスポーツの競技会をいう。以下同じ。)又は全国的な規模のスポーツの競技会において優秀な成績を収めることができるよう,スポーツに関する競技水準(以下「競技水準」という。)の向上に資する諸施策相互の有機的な連携を図りつつ,効果的に推進されなければならない。」と規定されています。文部科学大臣が2017年3月24日に定めた第2期スポーツ基本計画(平成29年度~平成33年度)(スポーツ基本法9条1項に基づくもの)においては,「政策目標」として,「日本オリンピック委員会(JOC)及び日本パラリンピック委員会(JPC)の設定したメダル獲得目標を踏まえつつ,我が国のトップアスリートが,オリンピック・パラリンピックにおいて過去最高の金メダル数を獲得する等優秀な成績を収めることができるよう支援する。」と記されています(第3章3)。

なお,プロスポーツの選手についても,スポーツ基本法2条6項の括弧書きによってアマチュアのスポーツ選手と同様に取り扱われることになっています。この点,スポーツ振興法3条2項は「この法律に規定するスポーツの振興に関する施策は,営利のためのスポーツを振興するためのものではない。」と規定していたところです。

 

(4)勝ちにこだわるべき競技水準重視主義

 プロスポーツの選手は,スポーツ振興法においては,その第16条の2で「国及び地方公共団体は,スポーツの振興のための措置を講ずるに当たつては,プロスポーツの選手の高度な競技技術が我が国におけるスポーツに関する競技水準の向上及びスポーツの普及に重要な役割を果たしていることにかんがみ,その活用について適切な配慮をするように努めなければならない。」との形で登場していました。「競技技術」が高度だからプロスポーツの選手も活用をするに足りる,ということです。「技」は定義上優劣を争うものであって勝ち負けがありますから,「競技技術」が高度なプロスポーツの選手とはよく勝つプロスポーツの選手ということであり,「スポーツに関する競技水準の向上」ということはスポーツ競技で勝てるようにするということでしょう。スポーツ競技で勝てば,当該「スポーツの普及」は後からついてくる,という発想だったのでしょう。なお,枝番号であることから分かるとおり,スポーツ振興法16条の2は1961年の制定当初にはなかった条文で,1998年の平成10年法律第65号によって後から挿入されたものです。

 スポーツ振興法16条の2と3条2項との関係については,1998年2月17日の参議院文教・科学委員会において,馳浩委員から「本法律案の16条の2はプロ選手の協力を仰ぐ形になっておりまして,すなわちプロ選手の技術指導に期待しております。この点は非常によいことと評価したいと思います。/しかし,プロ選手からの恩恵を受けることを考えながらも,3条において「この法律に規定するスポーツの振興に関する施策は,営利のためのスポーツを振興するためのものではない。」,プロスポーツの振興はこの法律では無関係だとうたっております。これは語弊があるかもしれませんが,プロ選手の技術指導等の恩恵を受けることを念頭に置きながらも,第3条があることによってプロ選手,プロ協会に対して恩をあだで返すような,非常に国や自治体は虫がよ過ぎるのではないかというふうな印象を受けますが,この点についてどうお考えでしょうか。」との質疑がありました。

 スポーツ振興法においては,競技水準の向上は同法16条の2に出て来る程度でした。同法14条は「国及び地方公共団体は,わが国のスポーツの水準を国際的に高いものにするため,必要な措置を講ずるよう努めなければならない。」と規定していましたが,努力義務にとどまるとともに,「スポーツの水準」という漠とした言い方を採用して具体的な「競技水準」の向上云々にまでは言及していません。

 これに対してスポーツ基本法においては,「競技水準」の語が頻出します(2条6項,5条1項,12条1項,16条2項,18条,19条及び28条並びに第3章第3節節名)。およそスポーツ団体(スポーツの振興のための事業を行うことを主たる目的とする団体(スポーツ基本法2条2項括弧書き))たるものはちんたらのどかにスポーツの普及をすることにとどまることなく「競技水準の向上」にも「重要な役割」を果たすべきものと位置付けられ(同法5条1項),国及び地方公共団体の努力義務の対象たるスポーツ施設整備等はのんびり「国民が身近にスポーツに親しむことができるようにする」ためのみならず厳しく「競技水準の向上を図ることができるよう」にするためにも行われるべきものとされ(同法12条1項),「競技水準の向上を図るための調査研究の成果及び取組の状況に関する〔略〕国の内外の情報の収集,整理及び活用について必要な施策を講ずる」ことまでをも国がするものとされ(同法16条2項),更に国は「スポーツ産業の事業者」が「スポーツの普及又は競技水準の向上」を図る上で重要な役割を果たすことを認め(同法18条),国及び地方公共団体による「スポーツに係る国際的な交流及び貢献を推進」するための施策は端的に「我が国の競技水準の向上を図るよう努める」ことの一環であるとされ(同法19条),並びに企業は事業でお金儲け,学生は学問が本分であるように思われるにもかかわらず「国は,スポーツの普及又は競技水準の向上を図る上で企業のスポーツチーム等が果たす役割の重要性に鑑み,企業,大学等によるスポーツへの支援に必要な施策を講ずるもの」とまでされています(同法28条。同条については,大学スポーツ支援に関して「具体的なことはまったく不明であるし,そもそも法律で規定する必要があるのか疑問である。」と評されています(日本スポーツ法学会編61頁)。)。

 「国は,優秀なスポーツ選手を確保し,及び育成するため,〔略〕必要な施策を講ずるものとする。」ということであれば(スポーツ基本法25条1項),外国選手に対して次々と勝利を重ねる「優秀なスポーツ選手」は,今や国家的に期待される日本の宝なのでしょう。

 スポーツ振興法15条は「国及び地方公共団体は,スポーツの優秀な成績を収めた者及びスポーツの振興に寄与した者の顕彰に努めなければならない。」と規定していましたが,スポーツ基本法20条は「国及び地方公共団体は,スポーツの競技会において優秀な成績を収めた者及びスポーツの発展に寄与した者の顕彰に努めなければならない。」と一部修正しています。顕彰に値する「スポーツの優秀な成績」とは「スポーツの競技会」における「優秀な成績」,すなわちスポーツ競技における勝利でしかあり得ない,ということを明らかにしたという趣旨なのでしょう(日本スポーツ法学会編127頁参照)。
 「日本スポーツ法学会」も,スポーツの要素は競争であるとの認識を有しているようです。「スポーツについて,本学会〔日本スポーツ法学会〕の初代会長であった故千葉正士先生は「一定の規則の下で,特殊な象徴的様式の実現をめざす,特定の身体行動による競争」と定義し(千葉正士=濱野吉生編『スポーツ法学入門』6頁(1995年))」ていたとのことです(日本スポーツ法学会編・はしがきⅰ)。

 

5 体育の日と被収容者等のスポーツを通じて幸福で豊かな生活を営む権利との関係

 

(1)スポーツの日から体育の日へ

 スポーツ基本法においては,スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことが権利である旨謳われるとともに(同法2条1項,前文第2項),「国及び地方公共団体は,国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)第2条に規定する体育の日において,国民の間に広くスポーツについての関心と理解を深め,かつ,積極的にスポーツを行う意欲を高揚するような行事を実施するよう努めるとともに,広く国民があらゆる地域でそれぞれその生活の実情に即してスポーツを行うことができるような行事が実施されるよう,必要な施策を講じ,及び援助を行うよう努めなければならない。」と規定しています(スポーツ基本法23条。努力規定なのは,せっかくの「国民の祝日」の休日(国民の祝日に関する法律3条1項)に行事があるのは,お役人さま方にとってしんどいからでしょうか。)。これは,1961年の成立当初のスポーツ振興法5条に「国民の間にひろくスポーツについての理解と関心を深めるとともに積極的にスポーツをする意欲を高揚するため,スポーツの日を設ける。/スポーツの日は,10月の第1土曜日とする。/国及び地方公共団体は,スポーツの日の趣旨にふさわしい事業を実施するとともに,この日において,ひろく国民があらゆる地域及び職域でそれぞれその生活の実情に即してスポーツをすることができるような行事が実施されるよう,必要な措置を講じ,及び援助を行なうものとする。」と規定されていたものを承けたものです。当時のスポーツの日は「国民の祝日」ではなかったわけで,したがって休日ではありませんでした。
 体育の日が建国記念の日及び敬老の日と共に「国民の祝日」に加えられたのは,
1966年の昭和41年法律第86号によってでした(同法によるスポーツ振興法5条のスポーツの日及び老人福祉法(昭和38年法律第133号)5条の老人の日の各「国民の祝日」化は,政治的に大議論となった建国記念の日を「国民の祝日」に加えることを呑んでもらうためのいわば甘いオブラートだったのでしょう。)。体育の日の趣旨は,「スポーツにしたしみ,健康な心身をつちかう」となっています(国民の祝日に関する法律2条)。その後の体育の日及び敬老の日関係の法改正を見ると,1998年の平成10年法律第141号によって体育の日は1010日から10月の第2月曜日に変更になり(スポーツ振興法においてスポーツの日が復活することはなし。),他方,2001年の平成13年法律第59号によって敬老の日が9月15日から9月の第3月曜日に変更されるとともに,9月15日の老人の日が老人福祉法5条において復活しています。

 

(2)体育の日における被収容者等の運動

しかし,国民の祝日に関する法律2条及びスポーツ基本法23条は,刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律(平成17年法律第50号)との関係でいささか皮肉な規定となっています。

 刑事施設の被収容者(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律2条1号),留置施設の被留置者(同条2号)及び海上保安留置施設の海上保安被留置者(同条3号)も日本国民である限りにおいては,スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営む権利を有するはずです(スポーツ基本法2条1項,前文第2項)。これに対応して,刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律57条1項本文は「被収容者には,日曜日その他法務省令で定める日を除き,できる限り戸外で,その健康を保持するため適切な運動を行う機会を与えなければならない。」と規定しており,当該規定は被留置者について準用され(同法204条。「法務省令」を「内閣府令」に読み替える。),海上保安被留置者については「海上保安被留置者には,国土交通省令で定めるところにより,その健康を保持するための適切な運動を行う機会を与えなければならない。」と規定されています(同法255条)。
 しかるに,刑事施設及び被収容者の処遇に関する規則(平成
18年法務省令第57号)24条1項1号は国民の祝日に関する法律に規定する休日(同規則19条2項2号)をも刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律57条に規定する法務省令で定める日(被収容者に運動を行う機会を与えない日)とし,国家公安委員会関係刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律施行規則(平成19年内閣府令第42号)16条は同法204条において準用する同法57条の内閣府令で定める日(運動を実施しない日)を当該留置施設の属する都道府県の休日(のうち日曜日を除いた日)としています(国民の祝日に関する法律に規定する休日は都道府県の休日となります(地方自治法(昭和22年法律第67号)4条の2第2項2号)。)。すなわち,国民の祝日に関する法律の規定する休日たる体育の日には,同法2条及びスポーツ基本法23条の規定にかかわらず,被収容者及び被留置者は運動ができないのです。(ただし,海上保安留置施設及び海上保安被留置者の処遇に関する規則(平成19年国土交通省令第61号)11条柱書きは「法第255条に規定する運動の機会は,海上保安被留置者が運動を行いたい旨の申出をした場合において,次に掲げるところにより与えるものとする。」と規定し,「次に掲げるところ」は「運動の場所は,居室外の採光,通風等について適当な場所とすること。」(同規則11条1号)及び「運動の時間は,1日につき30分を下回らない範囲で海上保安留置業務管理者が定める時間とすること。」(同条2号)のみであるので,体育の日()あって(﹅﹅﹅)()海上保安被留置者は運動ができるようです。)

 

6 「スポーツ立国」とは何か

 

(1)スポーツ基本法前文の文言

 ところで,スポーツ基本法前文第7項は「国民生活における多面にわたるスポーツの果たす役割の重要性に鑑み,スポーツ立国を実現することは,21世紀の我が国の発展のために不可欠な重要課題である。」と記し,同第8項は「ここに,スポーツ立国の実現を目指し,国家戦略として,スポーツに関する施策を総合的かつ計画的に推進するため,この法律を制定する。」と結んでいます。ここでいう「スポーツ立国」とは何を意味するのでしょうか。(2011年6月16日の参議院文教科学委員会において江口克彦委員から「スポーツ立国」とは何かという端的な問いかけがあったのですが,これに対して髙木義明文部科学大臣は「スポーツ立国戦略」の説明をもって答えており,噛み合っていません。)

 

(2)“Sport Nation”

 文部科学省のウェブサイトにある非公式の英語への仮訳では,「スポーツ立国」は“sport nation”ということだそうです。手元の辞書(Oxford Advanced Learner’s Dictionary of Current English, 4th edition)によれば“make sport of somebody”との熟語があり,当該熟語は“mock or joke about somebody”の意味であるとありますから,“The ‘sport nation’ idealized by Japan’s Basic Act on Sport shall be realized through making sport of the Japanese Nation.”ということになるとまずいですね。生物学ではsport“plant or animal that deviates in some unusual way from the normal type”という意味で使うこともあるようです。確かに日本は特殊ではあるのでしょう。

 

(3)スポーツ基本法における「スポーツ」   

 スポーツ基本法の本則には「スポーツ」の定義はないのですが,「心身の健全な発達,健康及び体力の保持増進,精神的な充足感の獲得,自律心その他の精神の(かん)養等のために個人又は集団で行われる運動競技その他の身体活動」ということなのでしょう(同法前文第2項)。スポーツ振興法2条では「この法律において「スポーツ」とは,運動競技及び身体運動(キャンプ活動その他の野外活動を含む。)であって,心身の健全な発達を図るためにされるものをいう。」と定義されていました。目的についていろいろとうるさいのは,推進ないしは振興されるべき「スポーツ」が邪悪な目的のものであっては困るからでしょう

 しかし,「スポーツは,次代を担う青少年の体力を向上させるとともに,他者を尊重しこれと協同する精神,公正さと規律を尊ぶ態度や克己心を培い,実践的な思考力や判断力を育む等人格の形成に大きな影響を及ぼすものである。」ということになると(スポーツ基本法前文第3項),真面目過ぎて息苦しく,楽しくないですね。無論,このような立派な効能は,「次代を担う」青少年にのみ期待されるものであって,人格が既に形成されてしまった残念な大人は,スポーツをしても,他者を尊重しこれと協同する精神,公正さと規律を尊ぶ態度や克己心などはもはやつゆ培われず,実践的な思考力や判断力も今更身に付かないのでしょう。期待値が低いということは,ある意味気楽ではあります。しかして,そのような大人から生まれた子であるのですから,「次代を担う」ほどの才質に恵まれない平凡な多数青少年にとっても事情は同様でしょう。(ただし,スポーツ基本法2条2項は,およそ「心身の成長の過程にある青少年」であれば「公正さと規律を尊ぶ態度や克己心を培う」スポーツの効能は全員に及ぶべきものであるという認識を前提としています。)なお,青少年が学校で行うべきものと国会が考えるスポーツの種類はスポーツ基本法17条の規定から窺知されるところです。同条においては「体育館,運動場,水泳プール,武道場その他のスポーツ施設の整備」が国及び地方公共団体の努力義務の対象とされていますから,「武道場」で行われるべき武道が含まれるようです。相手方に物理的実力を加えることによって勝つことを学ぶ術ですね。
  スポーツ基本法2条2項は児童の権利に関する条約(平成6年条約第2号)31条1項の「休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利」と「関連」するものであるとも説かれています(日本スポーツ法学会編24‐25頁)。しかし,大人びて「規律を尊」び「克己心を培」いつつ過ごすのでは,休息や余暇もなかなか子供らの疲れを回復させにくいようです。


(4)Sportの原義

 とはいえ,スポーツ基本法のように「スポーツ」をひたすら真面目一方かつ御立派なものと位置付けるのは,sportの本来の語義からの逸脱であるように思われます。

 

   sportdisport(遊ぶ;戯れる)から15世紀に語頭音消失(aphesis)によって生まれた言葉である。L dis- (away)L portareから造語されたOF desporter (to seek amusement)が借入されたものであり,この言葉の原義はto carry oneself in the opposite direction,すなわち,to carry oneself from one’s workである。(梅田修『英語の語源辞典』(大修館書店・1990年)306頁。なお,Lはラテン語,OFは古フランス語の意味です。)

 

 仕事(one’s work)から逃避して時間潰しの楽しみを求める(to seek amusement)のが本来のsportならば,sportで立国が可能なものかどうか。福沢諭吉流には立国の大本は瘠我慢ということになるのですが(『瘠我慢の説』),瘠我慢は楽しくはありません。「スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営む」ことと瘠我慢とは別でしょう。

 

  duas tantum res anxius optat,

     panem et circenses. (Juvenalis, Saturae 10.80)

  二つのことばかりを心配し望んでいる,すなわち,麵麭と大円形競技場における競技とを。

 
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 optamus, calidum canem et basipilam.

(5)頑張れ!日本ニッポン

 あるいは「スポーツ立国」とは,スポーツ競技における国別対抗性を是認した上で,「すでに一国の名を成すときは人民はますますこれに固着して自他の分を(あきらか)にし,他国他政府に対しては(あたか)も痛痒相感ぜざるがごとくなるのみならず,陰陽表裏共に自家の利益栄誉を主張してほとんど至らざるところなく,そのこれを主張することいよいよ盛なる者に附するに忠君愛国等の名を以てして,国民最上の美徳と称する」(『瘠我慢の説』)ところの現実に棹さして,我が国人民が日本人選手・日本チームの勝利栄誉を主張支援してほとんど至らざるところなきことを全からしめようとするものでしょうか。そうであれば,「スポーツは,我が国の国際的地位の向上にも極めて重要な役割を果たすものである」とは国際競技大会における日本人選手・日本チームの勝利栄誉あってのことであり,「国際相互理解」とは外国及び外国人が「我が国の国際的地位」の高きことを認めることであり,「国際平和」にとっては我が国の国際的地位の高さに係る他国による当該「国際相互理解」が前提として不可欠であるということになるようにも思われます(スポーツ基本法前文第5項)。2009年5月29日にスポーツ議員連盟(超党派)によって了承された「スポーツ基本法に関する論点整理」には,「スポーツの普遍的な価値や公共的な意義」の一つとして,「スポーツを通じた国際交流によって〔略〕健全な国家アイデンティティの育成に貢献すること」が挙げられていたところです。

 しかし,「国際相互理解」や「国際平和」に関する点については,2010年8月26日に文部科学大臣が決定した「スポーツ立国戦略」においては「スポーツの国際交流は,言語や生活習慣の違いを超え,同一ルールの下で互いに競い合うことなどにより,世界の人々との相互の理解を促進し,国際的な友好と親善に資する」ものであるとされています。一応もっともらしいのですが,「同一ルールの下」に共にいる姿となっていることによって深い「国際相互理解」等があたかも達成されているかのように見える(実は,双方とも,理解して