(上)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078601732.html(申命記第22章第5節,禮記及び違式詿違条例)
なお,東京違式詿違条例62条ただし書にいう「女ノ着袴」の「袴」を,和服の袴のことと解さずに,厳格に漢文にいう「絝」として読むと(「袴」は「絝」の別体),「ももひき。ズボン。」のことになります(『角川新字源』777頁)(註)。ヨーロッパでは,女性がズボンをはくということが,女性による男装というスキャンダラスな行為を象徴するものであったはずですが(以下に出て来るフランス共和国元老院のウペール議員の用いた表現参照),我が国では,もんぺをはいていても大和撫子であることに変わりはありません。
Als 《Lola Lola》 zerstörte sie 1930 im Film《Der Blaue Engel》 die Welt der Scheinmoral, wurde zur Ikone einer freien Sexualtät; ihr bewusstes Tragen von Hosen bei öffentlichen Auftritten beförderte ein emanzipiertes Frauenbild.
(Edgar Wolfrum und Stefan Westermann, Die 101 Wichtigsten Personen der Deutschen Geschichte. (C.H.Beck, München, 2015) S.87)
(1930年,映画『青い天使』の「ローラ・ローラ」として,彼女〔マレーネ・ディートリッヒ〕は見せかけの道徳の世界を破壊し,自由な性の偶像となった。公の場における彼女の意識的なズボンの着用は,一つの解放された女性像をもたらした。)
4 共和国9年霧月26日セーヌ県警視総監命令第22号等
ボワソナアドの頑張りの背景には,それを支えるべきフランス法の規定があったように思われるところ,探してみると,今世紀に入ってから,フランス共和国の一元老院委員と同国政府との間で,次のようなやり取りがあったところです。
アラン・ウペール君(コート・ドオル,UMP〔人民運動聯合〕)の書面による質問第00692号
(2012年7月12日付け元老院公報1534頁掲載)
アラン・ウペールは,政府の代表である女性の権利大臣の注意を,依然効力を有しているところの女性のズボン着用を禁ずる1800年11月17日法の規定に向けて喚起する。具体的には,当該法――共和国9年霧月26日法――は,「男装しようとする全ての女子は,その許可証を得るため,警視庁に出頭しなければならない。」と規定している。当該禁止は,ズボンを女性が着用することを「当該女子が自転車のハンドル又は馬の手綱を把持する場合」に認める1892年及び1909年の2件の通達によって部分的に廃止されている。当該規定はもはや今日適用されないとしても,その象徴的重要性は,我々の現代的感性と衝突し得るものである。よって,同人は,同大臣に対し,当該規定を廃止する意思ありやと質問する。
女性の権利省の回答
(2013年1月31日付け元老院公報339頁掲載)
お尋ねの1800年11月7日法は,「女子の異性装に関する命令」と題する共和国9年霧月26日(1800年11月7日)付けデュボワ警視総監の第22号命令である。ちなみに,当該命令は,先ず何より,彼女たちが男性のように装うことを妨げることによって,ある種の職務又は職業に女性が就くことを制限しようとするものであった。当該命令は,憲法及びフランスがヨーロッパと結んだ約束――なかんずく1946年憲法の前文,憲法第1条及び欧州人権条約――に銘記されている女性と男性との間における平等の原則と抵触している。当該抵触の結果,11月7日命令の明文によらざる廃止が生じたものであり,したがって,それは,全ての法的効力を剥奪されており,かつ,そのようなものとしてパリ警視庁に保存されている一片の古文書にすぎないものとなっている。
共和国9年霧月26日(1800年11月7日)付けデュボワ警視総監の第22号命令は,次のとおり(Christine Bard, “Le 《DB 58》 aux Archives de la Préfecture de Police”. Clio. Femmes, Genre, Histoire. octobre 1999)。
警視総監は,
多くの女子が異性装をしている旨の報告を受け,かつ,健康上の理由(cause de santé)以外の理由では彼女らのうちいずれもその性の服装を廃することはできないものと確信し,
異性装の女子は,必要に応じて提示できる特別の許可証を携帯できるようにならなければ,警察官による取り違え(méprises)をも含む数限りのない不都合(déagréments)にさらされることを考慮し,
当該許可証は統一されたものであるべきこと及び本日まで異なった許可証が種々の当局から交付されていることを考慮し,
最後に,本命令の発布後,成規の手続を履まずに男装する全ての女子は,その異性装を悪用する不法の意図(l’intention coupable d’abuser de son travestissement)を有するものと疑う理由を与えるものであることを考慮し,
次のとおり定める。
1 本日までにセーヌ県の副知事又は市長並びにサン・クルー,セーヴル及びムードンの各コミューンの市長によって交付された全ての異性装許可証(警視庁において交付されたものをも含む。)は,無効であり,そうあり続ける。
2 男装しようとする全ての女子は,その許可証を得るため,警視庁に出頭しなければならない。
3 当該許可証は,その署名の真正が正式に証明された保健吏(officier de santé)による証明書,並びにそれに加えて,申請者の氏名,職業及び住居を記した市長又は警察署長の証明書に基づかなければ与えられない。
4 前各項の規定に従わずに異性装をするものと認められる全ての女子は,逮捕され,警視庁に引致される。
5 この命令は,印刷され,セーヌ県全域並びにサン・クルー,セーヴル及びムードンの各コミューン内において掲示され,当該官吏による執行を確保するため,第15及び第17師団長,パリ要塞司令長官,セーヌ県及びセーヌ=オワーズ県の憲兵司令官,市長,警察署長並びに治安担当吏に送付される。
警視総監デュボワ
「異性装を悪用する不法の意図」,すなわち男性と偽ることによる身元擬装を警戒する上記1800年11月7日命令の発布の背景として,第一統領に対する同年10月10日の共和主義者による暗殺の陰謀,同年12月24日のサン・ニケーズ街における爆殺未遂事件といった出来事に象徴される,発足後1年のナポレオン・ボナパルトの統領政府(le Consulat)が治安強化を必要としていた世情があったと指摘されています(Bard: 11)。
1800年11月7日命令に違反した罪に係る刑については,同命令自身は明らかにしていませんが,違警罪ということで科料又は5日未満の拘留ということになったはずとされ,例えば1830年にはつつましい研磨工であるペケ嬢に対して3フランの科料が科せられています(Bard: 18)。
しかし,一見して分かるように,女性の男装のみが問題とされていて,男性の女装については問題とされていません。「男性にとって,異性装は,女性的柔弱化と区別されたものとしては,疑いなく19世紀の初頭においてはなお考えることが難しかった。女性は,異性装によって,社会が彼女たちに拒否した自由を獲得する,しかし,男性は?」ということでしょうか(Bard: 14)。女性に対する警戒優先ということでは,前記申命記第22章第5節の立法趣旨⑥的です。ただし,1833年5月31日の警視総監命令は,舞踏会,ダンス場,演奏会,宴会及び公の祝祭の主催者(entrepreneurs)が異性装をした者(男女を問わない。)の入場を認めることを禁止し,当該禁止は謝肉祭の期間においてのみ警視庁の許可をもって解除されるものとしていました(Bard: 14)。1886年のボワソナアド刑法草案486条4号にいう「公許ノ祭礼」の原風景は,フランスのカーニヴァルだったわけです。
なお,フランスの1810年刑法典の第259条は「自らに属しない服装,制服又は徽章(un costume, un uniforme ou une décoration)を公然僭用した者又は帝国の位階を詐称した者は,6月から2年までの禁錮に処せられる。」と規定していましたが,19世紀半ばのジャック=フランソワ・ルノダン(男性)はその女装について同条前段違反で何度も起訴されたにもかかわらず,常に放免されていましたし(同条は,我が軽犯罪法(昭和23年法律第39号)1条15号,警察犯処罰令2条20号(「官職,位記,勲爵,学位ヲ詐リ又ハ法令ノ定ムル服飾,徽章ヲ僭用シ若ハ之ニ類似ノモノヲ使用シタル者」を30日未満の拘留又は20円未満の科料に処する。)及び旧刑法231条(「官職位階ヲ詐称シ又ハ官ノ服飾徽章若クハ内外国ノ勲章ヲ僭用シタル者ハ15日以上2月以下ノ軽禁錮ニ処シ2円以上20円以下ノ罰金ヲ附加ス」)に類するものです。),1846年に行商人のクロード・ジルベール(男性)はその女装による公然猥褻のかど(l’inculpation d’outrage à la pudeur publique)で起訴されていますが,やはり無罪放免でした(Bard: 14)。
1800年11月7日命令に基づく許可証を得ることができた女性は,「通常男性がするものとされている職業に従事する女性又は「髭の生えた女性のように,余りにも男性的なその外見のため,公道において好奇心の対象として曝される」女性」であったそうです(Bard: 6)。前者に係る理由が2013年の女性の権利省回答にいう「当該命令は,先ず何より,彼女たちが男性のように装うことを妨げることによって,ある種の職務又は職業に女性が就くことを制限しようとするものであった」という後付け的(デュボワは命令の趣旨として明示していません。)性格付けに対応し,後者はデュボワのいう「健康上の理由」を有する者に含まれるのでしょうか。女性の権利省の回答は,女性の男装を禁ずることは就職の場面において男女の平等原則を損ねるものであるとして,当該禁止規定の無効を導出するものですが,これは,申命記第22章第5節以来の異性装禁止の性格付けとして,同節に係る前記立法趣旨の⑤ないしは⑥を採ったような形になっています。
なお,かつての東京府知事の権限は他府県の知事のそれとは異なり,警察事務はそこには属しておらず(換言すると,現在とは異なり,府県知事は警察事務も所掌していました。),東京府における当該事務は警視庁が所掌していましたが,この「警視庁ノ制度ハ初メ仏国ノセイヌ県警察知事ノ制ニ倣ヒテ設置セラレタルモノ」です(美濃部達吉『行政法撮要 上巻(第4版)』(有斐閣・1933年)299頁)。デュボワは,ボナパルト政権下において創設された当該官職における初代在任者です(Bard: 11)。
5 米国における市条例
米国では,1848年から1900年までの間に34の市が異性装を犯罪化する条例を制定し,1914年の第一次世界大戦勃発時までには更に11市が加わっています。“Arresting Dress: Cross-Dressing, Law, and Fascination in Nineteenth-Century San Francisco”(Duke University Press, 2014)の著者であるサン・フランシスコ州立大学のC.シアーズ(Clare Sears)准教授によれば,これらの条例は,典型的には,売春取締りを主要な目的に,町の健全なイメージを醸成して中間層家族の移入を図ろうとする発展しつつあるフロンティア・タウンにおいて制定されたものだそうです。「当時は,異性装が行われる場合は多くは売春がらみでした。女性がある形で男装するということは,彼女はより冒険的であり,性的関係を結び得るより大きな可能性があるということを他の人々に伝えることでした。」,「実際は服装が問題なのではなかったのです。これらの条例は,淫らさを取り締まって,より性的に健全な町を作ろうと試みて制定されたのです。そして服装は,そこに達するための手段にすぎなかったのです。」とのことです。大きな拡がりをみせた風俗浄化運動(anti-indecency campaign)の一部として1863年にはかのサン・フランシスコ市においても「彼又は彼女の性に即するものではない服装」をして公然現れることを犯罪とする条例が制定され,1974年7月まで効力を保っていました。(以上,SF State News ウェブサイト: Beth Tagawa, “When cross-dressing was criminal: Book documents history of longtime San Francisco law”参照)
なお,シアーズ准教授の前掲書の一書評(by John Carranza at notevenpast.org)によると,19世紀のサン・フランシスコでは,清国からの移民が,異性装をして上陸して来るのでけしからぬということで取り締まられていたそうです。男女不通衣裳の禁を破ったのであれば,米国法及びその執行の適正性いかんを云々する以前に,自民族の伝統的な礼の教えに背いていたことになるのでしょう。
(下)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078601799.html(東京地方裁判所令和元年12月12日判決)
註:絝と和服の袴とのここでの使い分けは,絝であれば馬乗袴型のもののみがそう呼称される一方,行灯袴型のものも袴には含まれるとの理解に基づいています。現在の女子学生が卒業式の際よく着用するものは,行灯袴ですので,ズボンとスカートとの対比ではスカートに該当することになります。女性がスカートを着用するのでは,そもそもabominabilisにはならないでしょう。
いずれにせよ,女ノ着袴は男粧であるから(「縛裳爲袴」については,「女性の長いスカート風の衣裳」である裳を「縛って袴にしたとは,男装をしたこと」とあります(『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』(小学館・1994年)63頁・註14)。),それを許すためにはただし書で外す必要があった,ということになります。しかし,俳優・歌妓・舞妓ならぬ堅気の女性にまで着袴による男粧を許すのですから,東京違式詿違条例62条は,宗教的徹底性を持った異性装の禁止であったとはいえないでしょう。
また,襠高袴というものがあります。「襠」は,袴の内股のところのことです。すなわち襠高袴は,絝ということになります。これについては,明治四年八月十八日(1871年10月2日)に太政官から「平民襠高袴割羽織着用可為勝手事」とのお触れが出ています。これは換言すると,それまで襠高袴及び割羽織は士族(男ですね。)専用だったわけです。絝の男性性に係る一例証となるでしょうか。
追記:本稿掲載後,1800年11月7日のセーヌ県警視総監命令に関して,新實五穂「警察令にみる異性装の表徴」DRESSTUDY64号(2013年秋)24-31頁に接しました。