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(上)令和元年大阪家裁判決本論(夫との父子関係:フランス的な方向性?)

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2 仮定論:胚移植時の夫の同意必要説

 次は,(„leider auch“との語句を挿むべきかどうかは悩ましい)仮定論です。

 

(1)判示

令和元年大阪家裁判決は,本論のフランス的な方向性(でしょう。)では一貫できず,なお仮定論を論ずることによって,現代日本的な(といってよいのでしょう。)迷いを公然吐露した上で,それでも結論は同じになるのだ,との正当化を行っています。いわく。

 

   なお,仮に,原告と被告との間の法律上の父子関係を認めるためには父である原告の同意が必要であるとしても,原告は,別居〔筆者註:この別居は,嫡出推定を妨げるものではないとされています。〕直前の平成26410日の体外受精に際し,精子を提供するとともに,同日付けの「体外受精・顕微授精に関する同意書」,「卵子,受精卵(胚)の凍結保存に関する同意書」及び「凍結保存受精卵(胚)を用いる胚移植に関する同意書」等からなる1通の本件同意書1に署名しており〔略〕,本件同意書1に基づく体外受精,受精卵(胚)の凍結保存及び凍結保存受精卵(胚)移植に同意したと認められる。そして,その後,〔略〕原告が,〔平成27422日の〕本件移植時までに,上記同意を明確に撤回したとまで認めるに足りる的確な証拠はない。そうすると,本件移植については,原告の個別の明示的な同意があったとはいえない〔略〕が,原告の意思に基づくものということができるから,本件で,原告と被告の法律上の父子関係を否定することはできない。

 

 ここで仮定論をあえて展開しなければならなかったということは,日本民法における,前記奈良家庭裁判所平成291215日判決の傍論的思考の強さを示すものでしょう。しかし,当該「思考の強さ」はどこから生じて来ているのでしょうか。

 

(2)生殖補助親子関係等法10条との関係

 

ア AID型に関する規整

AID=Artificial Insemination with Donor’s semen)型の生殖補助医療に関し,生殖補助医療の提供等及びこれにより出生した子の親子関係に関する民法の特例に関する法律(以下「生殖補助親子関係等法」と略称します。)10条が「妻が,夫の同意を得て,夫以外の男性の精子(その精子に由来する胚を含む。)を用いた生殖補助医療により懐胎した子については,夫は,民法第774条の規定にかかわらず,その子が嫡出であることを否認することができない。」と規定していることと関係があるのでしょうか。(ちなみに,同条における夫の同意は,法案提案者によれば,「懐胎に至った生殖補助医療の実施時に存在している必要があると考えてございます。懐胎に至った生殖補助医療の実施前に同意が撤回された場合には,第10条の夫の同意は存在しないと考えてございます。」とされています(秋野公造参議院議員・第203回国会衆議院法務委員会議録第36頁)。すなわち,体外受精胚移植(「体外受精により生じた胚を女性の子宮に移植すること」(生殖補助親子関係等法22項))たる生殖補助医療(同条1項)の場合においては,当該移植時に夫の同意が必要であることになるものと解されます。)他人の精子を用いる場合には移植前に同意の撤回は可能である,いわんや我が精子においてをや,という論理は,あり得るところでしょう。

 (なお,生殖補助親子関係等法10条の法案提出者の解釈は,懐胎に至った生殖補助医療の実施時を夫の同意撤回可能の最終期限としていますが,これは,人工授精(「男性から提供され,処理された精子を,女性の生殖器に注入すること」(同法22項))の場合はよいとしても,体外受精胚移植の場合についてはどうでしょうか。体外受精(「女性の卵巣から採取され,処置された未授精卵を,男性から提供され,処置された精子により受精させること」(生殖補助親子関係等法22項))後・体外受精胚移植前に夫の同意が撤回されたときには,当該体外受精により生じた胚はどうなるのでしょうか。当該胚は破棄されるということであれば,「これを人とみるか物とみるかについて,倫理上の問題が生じる。胚は,母体に戻せば人間になり得るからである。主体的価値からは,破棄は認められないことになる。かねて胎児に関しては,母親の決定権と胎児の生存権とが独立の問題となった。胚や受精卵についても,この二重の主体の関与が不可欠となる。」という難しい話があります(山野目章夫編『新注釈民法(1)総則(1)』(有斐閣・2018年)792頁(小野秀誠))。「二重の主体」のみならず,「自己決定権」を主張する夫も加わった三重の主体が関与する問題となるようです。懐胎に至った体外受精胚移植の場合は,その前段の体外受精の実施時に夫の同意が必要であり,その後の撤回は認められないのだ,との問題回避的追加説明もあるいは可能かもしれませんが,生殖補助親子関係等法2条は,体外受精と体外受精胚移植とを一連のものとしてではなく,別個の生殖補助医療として定義しています。)

 

イ AID型における父子関係とAIH型におけるそれとの相違

しかし,AID型とAIH型との場合を安易に同一視してよいのでしょうか(同一視するのならば,結果を先取りすることになります。)。AID型の場合においては,子の出生前に夫の同意がないときはもちろん,あるときであっても,民法の文言上,出生子は夫からの嫡出否認の対象となり得るところ(同法776条は子の出生後の夫による承認に否認権喪失の効果を認めていますが,反対解釈(出生前の承認には当該効果なし。)が可能です(梅248頁)。),生殖補助親子関係等法10条は,その嫡出否認権を否認するために夫の同意の意思を改めて根拠付けに用いた上で,解釈上更に慎重に,当該意思の撤回を,懐胎に至った生殖補助医療が行われた時までは可能であるとするものでしょう。これに対して,AIH型の場合は,夫の同意がないときであってもそもそも出生子が夫によって嫡出否認され得るのかという出発点自体が問題となっています。

 

(2)精子の所有権との関係

おれの精子はおれのものだから,勝手に使ってはならぬのだ,ということでしょうか。確かに,精子の所有権は,まずはその提供者に属するものと解してよいようです。「身体から分離した,毛髪や血液は,公序良俗に反しない場合には,〔権利の客体たる〕物となる。」(山野目編790頁(小野)),「身体から分離された皮膚や血液,臓器などは,公序良俗の範囲内で物となる」(同791頁(小野))とされているところです。しかし,受精卵が育って生まれた子の実父はだれかを決めるに当たって,当該卵子を受精させた精子に係る所有権という権利がだれに属していたかを問題にするのは,いかがなものでしょうか。日本民法においては,人は,物として権利の客体となることはありません(山野目編790頁(小野))。また,素朴論としてもむしろ,勝手に使われたとしてもあなたの精子だったのであるから,勝手に使った人の責任は別としても,生まれた子はやはりあなたの子ではないですか,ということにもなりそうです。あるいは,おれは精子の所有権を放棄したから,かくして無主となった精子によって受精した卵子が育って生まれた子は実父を有しないのだ,ということでしょうか。しかし,やはり,繰り返しになりますが,父子関係の認定に当たって,精子の所有権を云々するのは筋が違うように思われます。(そもそも,あえて精子の所有権をあらかじめ放棄しなくとも,少なくとも母体内における懐胎の段階では,当該受精卵(胚)を客体とする精子提供者の所有権(共有持分でしょうか。)の存否を云々することはもうできないはずです。また,体外受精された受精卵(胚)が所有権の客体である物であるとしても,卵子と精子とを比べて卵子の方が主たる動産であるということであるのならば,精子提供者の所有権はそこでは既に消滅していることとなりましょう(民法243条)。)

(なお,所有権の効能の拡張という発想は,筆者に「「物に関するパブリシティ権」と所有権」に関する議論を想起させるところです。当該議論については,こちらは3年前の「法学漫歩2:電波的無から知的財産権の尊重を経て偶像に関する法まで」記事を御参照ください(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1073804586.html)。)

 

(3)米国的発想?

 「今日のニュー・ヨークが,2週間後の東京です。」との警鐘が,新型コロナウイルス感染症(covid-19)に関して過去2年間頻繁に鳴らされ続けました。我が善良可憐な日本国民は真摯に当該警鐘を信じ,従順に従い,煩わしさに慣れつつ四六時中マスクを着用し,副反応に耐えつつ重ねてワクチンの接種を受けてきたところでした。

 「今日の米国の生殖補助親子関係法制が,2年後の日本のそれです。」ということにもなるのでしょうか。(ちなみに,生殖補助親子関係等法附則3条に基づく,生殖補助医療の適切な提供等を確保するための法制上の措置(同条3項参照)その他の必要な措置を講ずるための検討の期間は「おおむね2年」とされています。)

 親子関係に係る米国の州法統一のために,統一州法委員全国会議National Conference of Commissioners on Uniform State Laws. これは,民間の団体です(田中英夫『英米法総論 下』(東京大学出版会・1980年)642頁)。)によって作成された2017年統一親子法案(Uniform Parentage Act)の第7章を見てみましょう。同法案では,生殖補助医療assisted reproduction. 「性交渉(sexual intercourse)以外の妊娠をもたらす方法」と定義されています(同法案1024号)。)による出生子の親子関係については「第7章 生殖補助医療」において,性交渉による妊娠から出生した子の親子関係に係るものとは別立てで規定されています。

 

  第701条 (本章)の適用範囲

    本(章)は,性交渉(又は第8(章)の代理母合意に基づく生殖補助医療)によって懐胎された子の出生には適用されない。

 

  第702条 配偶子提供者の親としての地位

    配偶子提供者は,生殖補助医療によって懐胎された子の親ではない。

    〔筆者註:配偶子(gamete)は「精子,卵子又は精子若しくは卵子の一部」です(同法案10210号)。配偶子提供者(donor)は,「有償無償を問わず,生殖補助医療において使用されるための配偶子を提供する個人」ですが(同条9号柱書き),例外があって,「(第8(章)で別異に規定される場合を除き)生殖補助医療によって懐胎された子を出産する女性」(同号(A))及び「第7(章)に基づく親(又は第8(章)における親となる意思の表明者(intended parent))」(同号(B))は除かれています。〕

 

  第703条 生殖補助医療における親子関係

    当該生殖補助医療により懐胎された子の親となる意思をもって,女性の受ける生殖補助医療(assisted reproduction by a woman)に第704条に基づき同意した個人が,当該の子の親である。

   〔筆者註: “assisted reproduction by a woman”は,「女医による生殖補助医療」という意味ではないでしょう。〕

 

  第704条 生殖補助医療に対する同意

a)(b)項において別異に規定されている場合を除き,第703条の同意は,生殖補助医療によって懐胎された子を出産する女性と当該の子の親となる意思の個人とが署名した記録によるものでなければならない。

b)(a)項によって求められる記録による同意が子の出生の前後を通じてされなかった場合であっても,裁判所は,次のときには,親となることに対する同意の存在を認定することを妨げられない。

    (1)当該個人及び当該女性が両者そろって当該の子の親となる意思である旨の懐胎の前にされた明示の合意(express agreement)の存在を,当該女性又は当該個人が明白かつ説得的な(clear-and-convincing)証拠をもって立証したとき,又は

    (2)当該女性と当該個人とが,一時的な不在期を含めて当該の子の出生後最初の2年間,当該の子と共に同一の世帯において同居し,かつ,両者とも当該の子が当該個人の子であることを公然と示していたとき。ただし,当該個人が当該の子が2歳になる前に死亡し,若しくは意思無能力となり,又は当該の子が2歳にならずに死亡した場合においては,当該女性及び当該個人は同一の世帯において当該の子と共に同居する意思であったものであり,かつ,両者とも当該の子が当該個人の子であることを当該個人が公然と示すことを意図していたものの,当該個人は死亡又は意思無能力によって当該意図を実現できなかったということが明白かつ説得的な証拠をもって立証されたときには,裁判所は本項の親となることに対する同意を認めることができる。

 

  第705条 親であることを配偶者が争うことに対する制限

a)(b)項において別異に規定されている場合を除き,子の出生時において生殖補助医療によって当該の子を出産した女性の配偶者である個人は,当該個人が当該の子の親であることを争うことができない。ただし,次に掲げる場合は,この限りでない。

1)当該の子の出生後2年以内に,当該個人が当該個人と当該の子との間の親子関係に係る裁定手続を開始し,かつ, 

2)裁判所が,当該個人は当該の子の出生の前後を通じて当該生殖補助医療に同意していなかったこと又は第707条に基づき同意を撤回していたことを認めた場合

b)生殖補助医療によって生まれた子と配偶者との親子関係に係る裁定手続は,裁判所が次に掲げる全ての事項を認めたときは,何時でも開始することができる。

1)当該配偶者は,当該生殖補助医療のために,配偶子の提供も同意もしていなかったこと。

2)当該配偶者と当該の子を出産した女性とは,生殖補助医療がされたであろう時期以来同棲していないこと。

3)当該配偶者は,当該の子を当該配偶者の子として公然示したことはないこと。

c)本条は,生殖補助医療が行われた後に当該配偶者の婚姻が無効であると認められた場合であっても,親であることを配偶者が争う場合に適用される。

  〔筆者註:(c)項は,無効の婚姻は本来当初から無効であるところ,この場合は遡及効のないものとして取り扱おうとするものと解されます(次条参照)。しかして更に,本来無効なので,(c)項の適用は,離婚等で終らせようがないわけなのでしょう。〕

 

  第706条 婚姻に係る一定の法的手続の効果

    生殖補助医療によって懐胎した子を出産する女性の婚姻が,配偶子又は胚が当該女性に移植又は注入(transfer)される前に(離婚若しくは解消で終了し,法的別居若しくは別居手当授受関係となり,無効と認められ,又は取り消された)場合においては,当該女性の前配偶者は,当該の子の親ではない。ただし,生殖補助医療が(離婚,婚姻解消,取消し,無効確認,法的別居又は別居手当授受関係)の後に行われても当該前配偶者は当該の子の親となる旨の記録による同意が当該前配偶者によってされており,かつ,当該前配偶者が第707条に基づき同意を撤回していなかった場合は,この限りでない。

 

  第707条 同意の撤回

a)第704条に基づき生殖補助医療に同意する個人は,妊娠に至る移植又は注入の前には同意の撤回をいつでも,生殖補助医療によって懐胎した子を出産することに合意した女性及び当該生殖補助医療を提供する病院又は医療提供者に対する記録による同意撤回通知を行うことによってすることができる。病院又は医療提供者に対する通知の欠缺は,本(法)による親子関係の決定に影響を与えない。

b)(a)項に基づき同意を撤回する個人は,当該の子の本(章)に基づく親ではない。

 

  第708条 死亡した個人の親としての地位

a)生殖補助医療によって懐胎された子の親となる意思の個人が,配偶子又は胚の移植又は注入と当該の子の出生との間に死亡した場合においては,本(法)の他の規定に基づき当該個人が当該の子の親となるときは,当該個人の死亡は当該個人が当該の子の親となることを妨げない。

b)子を出産することに合意した女性の受ける生殖補助医療に記録により同意した個人が配偶子又は胚の移植又は注入の前に死亡した場合においては,次のときに限り,当該死亡した個人は当該生殖補助医療により懐胎された子の親である。

1)(A)当該個人が,当該個人の死後に生殖補助医療がされても当該個人が当該の子の親となる旨記録による同意をしていたとき,又は

B)当該個人の死後に生殖補助医療によって懐胎された子の親となろうとする当該個人の意思が,明白かつ説得的な証拠によって立証されたときであって,かつ,

2)(A)当該個人の死後(36)箇月以内に当該胚が母胎内にあったとき,又は,

B)当該個人の死後(45)箇月以内に当該の子が出生したとき。

 

 令和元年大阪家裁判決事件の原告たる夫(又はその訴訟代理人)においては,UPAの第705条(a)項(2)号を援用したものでしょうか。確かに,同号によれば,夫の同意が,生殖補助医療によって懐胎・出産された子の父を出産女性の夫とするための要件とされています。この点では,米国法は,原告側に有利に働きそうです。

しかし,UPA704条(a)項に準ずる形で同意してしまった以上,その撤回は生殖補助医療を受ける女性及び当該医療を提供する病院又は医療提供者に記録による形での(in record)通知(notice)でされなければなりません(UPA707条(a)項)。「上記同意を明確に撤回したとまで認めるに足りる的確な証拠はない」以上,米国法にすがろうとしても,結局,ゴールの手前で無情にも見捨てられることとはなるのでした。

 なお,将来的には,米国的法制の我が国への導入の可能性を全く否定することはできないでしょう。「〔生殖補助医療による〕親子関係を,実親子・養親子とは異なる第三のカテゴリーとしてとらえるべきでない」という考え方もありますが(大村123頁),生殖補助親子関係等法が「第三のカテゴリー」たる親子関係の受皿となり得るものとして既に存在しています。立派な新しい皿があれば,そこに新しい料理を盛りつけたくなるのは人情でしょう。

 

  …vinum novum in utres novos mittunt et ambo conservantur. (Mt 9,17)

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3 平成28年法律第49号附則5条の解釈論

しかし,平成28年法律第49号附則5条の解釈論は,憲法論的な観点等からして,面白い。

 

(1)法令用語としての「民意」の用例

まず「民意」という語が法令で用いられていること自体が珍しい。

 

ア 他の6法律・7箇条

e-Gov法令検索ウェブサイトで「民意」の語を検索してみると,実は,当該語は現在7法律中の全部で8箇条において出現しているだけです。しかして,平成28年法律第49号附則5条以外の6法律・7箇条は次のとおり(下線は筆者によるもの)。

 

 検察審査会法(昭和23年法律第147号)11項及び39条の25

  「公訴権の実行に関し民意を反映させてその適正を図るため,政令で定める地方裁判所及び地方裁判所支部の所在地に検察審査会を置く。ただし,各地方裁判所の管轄区域内に少なくともその一を置かなければならない。」(11項)

  「審査補助員は、その職務を行うに当たつては,検察審査会が公訴権の実行に関し民意を反映させてその適正を図るため置かれたものであることを踏まえ,その自主的な判断を妨げるような言動をしてはならない。」(39条の25項。11項の規定の繰り返しですね。)

 社会福祉法(昭和26年法律第45号)1144

  「第30条第1項の所轄庁は,共同募金会の設立の認可に当たつては,第32条に規定する事項のほか、次に掲げる事項をも審査しなければならない。

   〔第1号から第3号まで略〕

  四 役員,評議員又は配分委員会の委員が,当該共同募金の区域内における民意を公正に代表するものであること。」

 中央省庁等改革基本法(平成10年法律第103号)502

  「政府は,政策形成に民意を反映し,並びにその過程の公正性及び透明性を確保するため,重要な政策の立案に当たり,その趣旨,内容その他必要な事項を公表し,専門家,利害関係人その他広く国民の意見を求め,これを考慮してその決定を行う仕組みの活用及び整備を図るものとする。」

 文化芸術基本法(平成13年法律第148号)34

  「国は,文化芸術に関する政策形成に民意を反映し,その過程の公正性及び透明性を確保するため,芸術家等,学識経験者その他広く国民の意見を求め,これを十分考慮した上で政策形成を行う仕組みの活用等を図るものとする。」

 環境教育等による環境保全の取組の促進に関する法律(平成15年法律第130号)21条の21

  「国及び地方公共団体は,環境保全活動,環境保全の意欲の増進及び環境教育並びに協働取組に関する政策形成に民意を反映させるため,政策形成に関する情報を積極的に公表するとともに,国民,民間団体等その他の多様な主体の意見を求め,これを十分考慮した上で政策形成を行う仕組みの整備及び活用を図るよう努めるものとする。」

 生物多様性基本法(平成20年法律第58号)212

  「国は,生物の多様性の保全及び持続可能な利用に関する政策形成に民意を反映し,その過程の公正性及び透明性を確保するため,事業者,民間の団体,生物の多様性の保全及び持続可能な利用に関し専門的な知識を有する者等の多様な主体の意見を求め,これを十分考慮した上で政策形成を行う仕組みの活用等を図るものとする。」

 

イ 中央省庁等改革基本法502項等

 文化芸術基本法,環境教育等による環境保全の取組の促進に関する法律及び生物多様性基本法の各条項が中央省庁等改革基本法502項の影響を受けていることは歴然としています。「政策形成に民意を反映」ということですが,主に「専門家」及び「利害関係人」から意見を求めるということですから,ここでの「民意」は,実際的には民間の専門家(専門知に基づく専門家の意見は,一般人「民」の「意」見とは違うはずですが,朝臣・草莽間身分峻別論を前提とした上で,野の遺賢の意見としての官意ならぬ民意なのでしょう。)及び統治の客体(政策の受け手)のそれということになるのでしょう。

なお,中央省庁等改革基本法案が審議された第142回国会の衆議院行政改革に関する特別委員会(1998422日)において達増拓也委員が「役所が内閣提出法案の準備ということで国民の意見を吸収,民意を吸収して法律をつくっていくというのは,国会とのバランス上,非常に問題があるのではないかと思うわけであります。」と大きく問題提起をしていますが,「現状のような審議会への依存というものは,行政の法令立案機能を肥大化させて国会とのバランスを崩すものではないでしょうか,この点について伺いたいと思います。」と審議会論に議論は収縮され,当該質疑に対して橋本龍太郎内閣総理大臣も審議会の在り方に係る答弁をしています(第142回国会衆議院行政改革に関する特別委員会議録第539頁)。審議会については,「行政庁のいわば隠れ蓑になっていたりしているという批判の存在」が指摘されていました(塩野宏『行政法Ⅰ』(有斐閣・1991年)226頁)。「〔審議会〕の設置の理由は,概ね,行政の民主化,専門知識の導入,処分の公正さの確保,利害の調整にある(金子正史「審議会行政論」現代行政法大系7〔・〕118頁参照)」ものとされていたところ(塩野226頁),中央省庁等改革基本法502項の「民意を反映」は,審議会による「行政の民主化」機能を意味したものなのでしょう。いわゆるパブリック・コメントの制度に係る行政手続法(平成5年法律第88号)第6章は,2005年の平成17年法律第73号によって追加されたものであり,200641日からの施行です。

 

ウ 社会福祉法1144

 社会福祉法の「民意」は「共同募金の区域内」(都道府県単位(同法112条))のそれですから,あえて国家・国民レベルのものとして大きく出るものではなく,また,当該「民意」を代表する主体は共同募金会たる社会福祉法人にすぎません(同法1132項)。社会福祉法人をもって,統治主体であるとはいえないでしょう。同法1143号(「当該共同募金の配分を受ける者が役員,評議員又は配分委員会の委員に含まれないこと。」)と併せ考えると,寄附金配分の偏頗性の防止ないしはその疑いの回避のための「民意を公正に代表」云々なのでしょうか。

 

エ 検察審査会法1

 1948年の検察審査会法は連合国軍占領下における立法です。検察審査会の審査は英米法における「大陪審の穏やかな若しくは未発達な形態として性格づけることができる」ものとされていますので(アルフレッド・オプラー著・内藤頼博監訳(納谷廣美=高地茂世訳)『日本占領と法制改革――GHQ担当者の回顧』(日本評論社・1990年)87頁),同法における「民意」については,大陪審の制度を知っているGHQの担当者の見解が参考になるように思われます。

そこで,GHQ法務局及び民間情報教育局による検察審査会(The Inquest of Prosecution)に係る共同記者会見(1949127日。検察審査会制度に係る推奨的啓蒙が日本の新聞記者相手に図られたものです。)におけるステートメント(GHQ/SCAP Records (RG331) Box no. 2580)を見てみると,次のような説明があります。いわく,“the Committee, like the Grand Jury in England and America, expresses local public opinion, and can without formal application, examine cases well-known to the community which have not been prosecuted for various reasons.”(審査会は,イングランド及び米国の大陪審と同様に,地域の世論(local public opinion)を表明するとともに,正式な申立てがなくとも,いろいろな理由で訴追されなかったが地元(コミュニティ)ではよく知られた事件を調査することができます。), “Membership in the Committee is determined on such basis to insure that this body is truly representative of the people as a whole. The Local Election Administration Commission select 400 candidates by lot from among the voters registered as eligible to vote for members of the House of Representatives.”(検察審査員は,審査会が域内()()人々(プル)全体を真実に代表するようにするための基準に従って選ばれます。地域選挙管理委員会が,衆議院議員の選挙権を有する登録有権者の中から400名の候補者をくじで選定します。),“the entire scope of the procurators’ operations is examined by the community, and their views can be made in an effective manner. It will be hard to ignore such a strong expression of public opinion, and such power in the Inquest Committee should act as an effective popular control over the activities of the procurators.”(検察官の業務の全範囲がコミュニティによって吟味され,その見解(views)が効果的な形で形成されることができます。世論のそのように強力な表明に抵抗することは難しいことであって,検察審査会のそのような力は,検察官の活動に対する効果的な民衆的コントロールとして働くべきものであります。)とのことです。地元共同体における現存の世論(public opinion)が,すなわち検察審査会法にいう「民意」であって,検察審査会におけるその忠実な反映が意図されている,ということになるのでしょう。国家レヴェルでの「民意」ではありません。

 

(2)平成28年法律第49号附則5条の「民意」

 

ア 国家統治に関する主体的意思

 以上の「民意」に対して,平成28年法律第49号附則5条の「民意」については,その集約及び反映がされる場が国権(state power)の最高機関(憲法41条)たる国会であるという認識が前提となっているものと解されます。そうであれば,国政(government)の権力(power)の行使(憲法前文的言い回しです。)は「民意」に従うべきものである,ということが平成28年法律第49号附則5条において示された国会の憲法解釈であり,我が現行法であるということになるのでしょう。ここでの「民意」は,国家統治に関する主体的意思ということになります。これまでの用例にない,最高最強の由々しい意思です。また,当該「民意」は,国会外において既にそこに実在しているものとして観念されているのでしょう。

 

イ «peuple»主権と«nation»主権と

 つとに学界においては,日本国憲法の「「国民主権」は,男女普通選挙制を採用するとともに憲法改正について国民の直接投票を予定しているほか,最高裁判所裁判官の国民審査や地方自治特別法での住民投票など,部分的に国民の直接決定を機構化し,公務員の選定罷免権を原理上国民に留保している条文上の制度から見ただけでも,実在する国家構成員の総体の意思による国政決定の原理,すなわち«peuple»主権を意味するものであることが,認定できるであろう。」との認識がありました(樋口陽一『比較憲法(全訂第三版)』(青林書院・1992年)426-427頁。下線は筆者によるもの)。平成28年法律第49号附則5条は,当該認識を実定法化したものと考えてよいのでしょう。

 日本国憲法の「国民主権」が«peuple»主権であることが確認されなければならなかったのは,«nation»主権というものがまた別にあるからです。

 

  «nation»は,不可分で永続的な集合体として考えられた国民であり,«peuple»は,具体的な「市民」=国家構成員の集合体としてとらえられた国民であった。したがって,«nation»は性質上,非実体的・抽象的な存在であって自分自身の意思をもつことができず,「授権」によって「代表者」とされた者を通してしか,自分の意思をもつこと自体できないこととなる。それに対し,«peuple»は,少なくとも建前として自分の意思をもつことができ,国民自身による決定が,少なくとも建前として承認され,代表機構に対する国民意思によるコントロールという建前が,承認される。こうして,一般的に«nation»主権は,国民自身による決定の可能性を建前からして排除し,代表機構の意思決定の独立性を要求する「純粋代表制」を生み出すのに対し,«peuple»主権は,国民自身による決定の制度をみとめ,あるいは少なくとも代表機構が国民意思を反映すべきことを要求する「半代表制」(エスマン)に対応する(樋口・比較憲法425頁。下線は筆者によるもの)

 

ウ «nation»主権か人民主権下のマディソン主義か

 ところで,「「授権」によって「代表者」とされた者を通してしか,自分の意思をもつこと自体できない」といわれると,ふと想起してしまうのが,日本国憲法前文の「日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動しacting through our duly elected representatives),〔略〕この憲法を確定する。」及び「〔国政〕の権力は国民の代表者がこれを行使しexercised by the representatives of the people)」の部分です(下線は筆者によるもの)。これらは«nation»主権的な言明ではないでしょうか。

 とはいえ,日本国憲法前文の原案作成者であるハッシー中佐は米国人ですから,«peuple»主権対«nation»主権の二分法的枠組みによるフランス的議論の影響よりも,むしろ米国建国の父の一員にして同国4代目大統領たるジェームズ・マディソンの,人民主権の前提下における(合衆国憲法を制定確立(ordain and establish)したのは,We the people of the United States(我ら合衆国の人民)です。)democracyrepublicとを対比させて後者に軍配を上げる思考の影響を考えた方がよいのでしょう。

 

  〔前略〕他方,ある党派(faction)に多数者(a majority)が属する場合においては,民衆政体(the form of popular government)は,当該党派が彼ら自らを支配する思い込み又は利害(its ruling passion or interest)のために公益及び他の市民の権利(the public good and the rights of other citizens)を二つながら犠牲に供することを可能ならしめる。したがって,そのような党派の危険から公益と私権とを守ること並びにそれと同時に民衆政の精神及び制度を維持することが,我々の研究がそれに向けられる大目的なのである。更に付言させてもらえば,それこそが,この政体をかくも長い間その下で苦しんでいた汚名から救い出し,かつ,人類によるその評価及び採用に向けて薦めることができるようにそれ一つでするところの,大いに望まれていた解決(great desideratum)なのである。

   どのような方法によってこの目的は達成できるであろうか?二つのうちの一つだけであることは明らかである。多数者中において同一の思い込み又は利害が同時に存在することが防止されなければならないか,そのような思い込み又は利害を共有しつつも,その数及び地域的事情によって,多数者が,抑圧策を共謀し,かつ,実行に移すことができないようにされなければならないか,である。〔略〕

   この観点からすると,純粋な民主政(pure democracy)――私はこの語によって,少数の市民からなる社会であって,彼らが自身で集会し,かつ,国政を処理するものを意味している――は,党派の弊害に対する治癒策を受け容れることができないのである。共通の思い込み又は利害が,ほぼ常に,全体中の多数者によって感じられている。意思連絡及び協働が,政体それ自体から結果として生ずる。そして,弱小派又は目障りな個人(obnoxious individual)を犠牲に供すべき誘引を掣肘(チェック)するものは何も存在していないのである。ゆえに,そのような民主政は,常に動揺及び紛争の演ぜられる場であり続けたのであり,身体の安全(personal security)又は財産権(rights of property)と常に不適合であったのであり,一般にその寿命は短く,かつ,その終焉も暴力的であったのである。この種の政体を贔屓する理論派の政治家は,人類を政治的権利において完全に平等にすれば,彼らは同時にその財産(possessions),意見及び思い込みにおいても完全に平等かつ同一化されるものとの誤った推論をしていたのである。

   共和制(republic)――私はこの語によって,代表制(scheme of representation)が採られている政体を意味している――が,異なった展望を開き,かつ,我々の求めている治癒策を約束する。それが純粋民主政と異なる諸点を検討しよう。そうすれば我々は,治癒策の性質及びそれが連合(Union)から得るところの効用の双方を理解することができる。

   民主制と共和制との間における二つの大きな相違点は,次のとおりである。第1,後者〔共和制〕における,他の市民から選ばれた少数の市民への政治の委任(delegation of the government)。第2,後者〔共和制〕がその上に拡張され得る,より大きい市民人口及びより大きい国の領域。

   第1の相違点の効果は,まず,その知恵が彼らの国の真の利害を最もよく見分け,かつ,その愛国心及び正義への愛は一時的又は一部的考慮のために国益を犠牲にすることの最も少ないであろうところの選ばれた市民団という媒体を通ることによって,公共の視点が洗練され,かつ,拡大されることである。そのような規整下においては,人民の代表者らによって表明される公共の声(public voice)は,当該目的のために招集された人民彼ら自身によって表明されるときよりも,公益により適合しているということがよく生じ得るところである。他方,当該効果は反転され得る。党派的気質,地域的偏見又は悪しき企みの男たちが,陰謀,腐敗又は他の手段によって,まず選挙を制し,次に人民の利害を裏切るということが起こり得るのである。そこから帰結される問題は,公共の福祉に係るふさわしい守護者を選ぶために最も適切なのは小さな共和国か,広い共和国か,ということである。しかして,二つの明白な考慮によって,後者〔広い共和国〕が優れているものとの決定がはっきりとなされるところである。

   〔略〕大共和国においては小共和国におけるよりも適格者の比率が低いということのない限り,前者〔大共和国〕の方がより大きな選択可能性を提示するのであり,したがって,適切な選択の可能性がより大きいのである。

   次に,各代表者は,大共和国においての方が小共和国においてよりもより多い人数の市民によって選ばれるところ,選挙がそれによって余りにもたびたび決せられてしまうところの邪悪な術策を弄して成功することが,不適格な候補にとってより難しくなるのである。さらには,より自由である人民の投票は,最も魅力的な長所及び最も拡がりを持ちかつ確立した性格を有する者に集中するとの傾向を強めるであろう。

    〔略〕

   他の相違点は,共和政体における方が民主政体におけるよりもその範囲内により多く包含され得る市民人口及び領土の広がりである。しかして,主にこの事情こそが,党派的結合に係る危惧を,前者〔共和政体〕において後者〔民主政体〕におけるよりもより小さくするのである。社会が小さければ小さいほど,当該社会を構成する各別の党派及び利害は恐らく少なくなるであろう。各別の党派及び利害が少なければ少ないほど,当該党派が多数者となる機会がより多くあるであろう。多数者を構成する個人の数が少なければ少ないほど,また,彼らの所在する場が小さければ小さいほど,彼らはより容易に彼らの抑圧計画を協議し実行するであろう。領域を拡大すれば,より大きな多様性を持つ党派及び利害を招き入れることになる。全体中の多数者が他の市民の権利を侵害すべき共通の動機を持つ可能性はより低くなるのである。また,そのような共通の動機が存在する場合であっても,それを感ずる者の全体が彼ら自身の勢力を発見し,かつ,相互に協力一致して行動することはより難しいであろう。ここで述べておくが,他の障碍があるほかに,不正又は不名誉な目的のためであるとの自覚がある場合,その同意を要する者の数の増加に比例して,相互連絡は,相互不信によって常に掣肘を被るのである。

   したがって,党派の影響をコントロールすることにおいて共和政が民主政に対して有する利点は,同様に大共和国によって小共和国に対する関係でも享受されている――すなわち,連合(ユニオン)によって構成諸州との関係で享受される――ということが明らかとなるものである。〔後略〕

  (The Federalist Papers No. 10

 

  〔前略〕我々は共和政体(a republic)を,その全権力が直接又は間接に人民の偉大な集合体(the great body of the people)から由来し,かつ,限られた期間その欲する限りにおいて又はその行動が善良である限りにおいて官職を保有する者によって運営される(is administered)政体であるものと定義できるであろうし,少なくともその名をそれに与えることができよう。〔略〕そのような政体にとっては,その運営者が直接又は間接に人民によって任命され,かつ,上記の任期のいずれかの間在任するものであるということで十分である。さもなければ,連合各邦の政体及び他のよく組織されかつ運営されてきた,又はされることができる全ての民衆政体(popular government)は,共和的性格を有するものではないものとされる降格の憂き目を見ることになってしまう。〔後略〕

  (op. cit. No. 39. 下線部は原文イタリック体

 

〔前略〕我々の政治的計算を算術的原理の上に基礎付けることほど誤ったことはない。一定の権力を委ねるには,60ないしは70名の人々に対してする方が,6又は7人に対するよりも適当であろう。しかしながら,だからといって600ないしは700人になれば比例的によりよい受託機関となるわけではない。更に我々が想定を6000ないしは7000人にまで進めると,それまでの全推論は顚倒されざるを得ない。実際のところは,全ての場合において,自由な協議及び議論の利益を確保し,並びに不適切な目的のための結合を防ぐためには最低限一定数の参加者が必要であるものと観察はされるものの,他方,多数群衆(a multitude)の混乱及び放縦を防ぐためには,人数は一定の最大値以下に抑えられなければならないのである。どのような資質の人々によって構成されていようとも,全ての非常に多人数の集会においては,情動(passion)が理性からその王尺を奪い損ねるということは全くない。全アテネ市民がソクラテスであったとしても,全てのアテネの集会はなお暴民の群れ(a mob)であったことであろう。

  (op. cit. No. 55

 

   これらの事実――更に多くのものを付け加えることができようが――から,代表の原理(principle of representation)は古代人に知られていなかったわけではなく,また,彼らの政治体制(political constitutions)において全く無視されていたわけではないことが明らかである。それらとアメリカの諸政体との真の相違は,後者〔アメリカの諸政体〕においてはそこへの参与から,その集団としての資格において(in their collective capacity)人民を完全に排除しているということにあるのであって,前者〔古代人の諸政治体制〕の運営から人民の代表者らが完全に排除されていたというようなことにはないのである〔古代の共和政においても代表制が採用されていなかったわけではない。〕。しかしながら,このように修正された上での当該相違は,合衆国のために最も有利な優越性を残すものであることが認められなければならない。〔後略〕

  (op. cit. No. 63. 下線部は原文イタリック体)

 

マディソンは,後にジョージ・ワシントン初代大統領の時代,トーマス・ジェファソンの子分になってワシントン政権(及び初代財務長官アレグザンダー・ハミルトン(The Federalist Papersをマディソンと一緒に書いています。))に対する反対党を結成するに至り,当該政党が現在の米国の民主党(Democratic Party)につながっているのですが,マディソンを幹部に戴く当該政党がDemocratic Partyなどと自ら名乗ることは当然なく,当初の名乗りは――現在からすると紛らわしいことに――Republicansでした。当該政党が,いわゆるアダムズ方式の第6代ジョン・クインジー・アダムズとOK男たる第7代アンドリュー・ジャクソン(その肖像画をトランプ大統領が執務室に飾っていました。)とが争った1824年及び1828年の大統領選挙を経て分裂し,1828年における後者の勝利及び18293月の大統領就任の後に,後者の下で単にDemocratsとなります。

日本国憲法前文においては,憲法については国民(というより人民(people))が代表者を通じて(through)行動してそれを確定(firmly establish)しているのに対して,その他の国政の権力に係るその行使は,国民の代表者がする(国民の代表者によって(by)される)ものとされています。ここでthroughbyとの使い分けにこだわれば,憲法制定はさすがに人民の意思に基づかねばならぬのでthroughであるが(それでもthroughですから代表者を通じた間接的な基礎付けです。),その他の国政の権力の行使はいちいち人民の意思に基づかなくてよいよ,知恵並びに愛国心及び正義への愛において卓越する代表者限りでその責任で(byで)やってくれた方が公益により適合するだろうからね,人民の意思(民意)それ自体は直接民主政アテネの民会決議のようなもので,暴民の群れのおめき声にすぎないからね,とまでハッシー中佐のマディソン的思考は進んでいたものかどうか気になるところです。リンカンのゲティスバーグ演説の有名な部分(government of the people, by the people, for the people)を我が憲法前文にそのまま借用すれば「その権力は国民が(又は,国民がその代表者を通じて)これを行使し」という表現となっていたはずですのでなおさらです。憲法改正ですと(さすがに人民の意思に基づく必要があるということでしょうか)国民投票があるのですが(憲法961項),発議者たる代表者・国会(全国民を代表する選挙された議員で組織された両議院により構成されています(同431項・42条))を通じて我ら日本国の人民は行動すべく,「黙々として野外で政務官に導かれるままに投票するローマの民会」的な場面(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)5頁)が展開されることが想定されているのでしょう。我が国における当該政務官は,国会に設けられる国民投票広報協議会ということになるのでしょうか(国会法(昭和22年法律第79号)102条の11及び102条の12並びに日本国憲法の改正手続に関する法律(平成19年法律第51号)11条から19条まで)。「劇場に座して討論の坩堝の中に熱狂するギリシャの民会」(原田5頁)は危険です。

 平成28年法律第49号附則5条に戻りましょう。

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1 令和3年5月の思索:新型コロナウイルス感染症問題猖獗,ナポレオン歿後200周年及び東京オリンピック問題

 令和の御代(みよ)になってからの日本の4月は,光輝く新学年・新学期を迎えての若さ(みなぎ)放埓(ほうらつ)の季節というよりは,新型コロナウイルス感染症なる空前の業病(ごうびょう)(はら)うべく連年発せらるるところの「緊急事態宣言」を各自粛然として拳々(けんけん)服膺(ふくよう)し,「世界」に遅れぬ高い意識に導かれつつ,人と地球とに優しい深い思いやりの心をもって,「新しい生活様式」を真摯(しんし)かつ厳格に斎行するという気高い精神性に満ちた季節となりました。当該「様式」には,マスクを着用し,かつ,同時に食事もするというが(ごと)き高難度の(いん)(じゅ)的儀礼までもが含まれます。アルコール性飲料の提供は厳禁ですから,もちろんしらふです。同月末から5月初めにかけての連休の時期においても,忠良なる我が日本国民は,門扉を(ちぬ)る必要はありませんがマスクを着用して“STAY HOME”をしつつ,業病の(すぎ)()しを待こととなりました

 

  Transibit enim Dominus percutiens homines qui coronavira non metuunt;

    cumque viderit integumentum medicum in ore,

    transcendet eum et non sinet percussorem ingredi domum ejus et laedere.

(cf. Ex. 12, 23)

 

 とはいえ,自宅にこもってばかりいると辛気臭くなります。今(2021年)からちょうど200年前の182155日に南大西洋の孤島セント・ヘレナで死亡したナポレオン・ボナパルト幽囚の憂苦は,かくの如きものたりしか。つれづれのまま,セント・ヘレナ島には現在新型コロナウイルス感染症は伝播していないのかなとか,ラテン語の“virus”(単数主格)は当該語形(単数属格は“viri”)にもかかわらず男性名詞ではなく中性名詞であって,かつ,古代にはその複数形がなかったところ,兇悪の変異株が多々発生していて複数として表現したいときにはその複数主格・対格の形は“viri”となるのかそれとも“vira”となるのかというような細かいことで悩んだりします(後者のようです。)。セント・ヘレナ島についていえば,同島政府の2021414日付け“Coronavirus (COVID-19) IEG Update”というものを見るに“Management of the first positive cases of COVID-19”(「最初の新型コロナウイルス感染症陽性事例への対処」)という見出しの記事があるので,いよいよ同島にも新型コロナウイルスが上陸したのかと,ざわざわ思いつつ読んでみれば,その結語は,「セント・ヘレナのコミュニティに対するリスクは回避されました。セント・ヘレナは新型コロナウイルス感染症非汚染地のままです。」(“The risk to St Helena’s community was avoided and St Helena remains COVID-19 free.”)という平穏なものでした。ナポレオンは随分文句を言ったようですが,現在のセント・ヘレナは,何とも素晴らしい健康地であるようです。

今年の夏の東京オリンピックはどうなるのだろうかとも心配になります。海外からの観客は謝絶ということですから地元の日本人観客も締め出されての無観客開催は最悪の場合仕方がないとしても,来日できない海外の有名アスリートさまたちが大勢になって,日本人選手だらけの競技ばかりとなってしまってはカッコ悪いなぁ,盛り上がらないなぁ,などとの弱気の意見も出て来そうです。

 

  「わたしは,主に,スポーツイベントをテレビ局に買わせる仕事をやっていたんですが,それで,言いようのないコンプレックスが知らない内に溜まってしまったんです,最初は,アメリカン・フットボールにしてもテニスにしても陸上にしても,金で横つらを引っ叩いて,わが崇高なる日本民族の前で芸をさせてるんだからこんな愉快なことはないと自分に言い聞かせていたんですが,そのうち何だか自分達が昔のバカ殿になったような気がして・・・向こうのスポーツ選手はどうしようもなくきれいなんですよ,うまく言えないんですが,おわかりいただけますか?」(村上龍『愛と幻想のファシズム 下』(講談社・1987年)318頁)

 

 わが崇高なる日本民族の前で芸をすべき,どうしようもなくきれいな向こうのスポーツ選手がいなければ,横つらを引っ叩くつもりのオリンピック大予算も,裏を返せば後進世代に丸投げされる単なる大借金であったものかとの不穏な正体が我々の意識の中に浮かぶばかりとなりましょう。海外から御光臨の有名アスリートさまたちの欠けた,祝祭感無き地味な諸競技であっては,それらを見て,御機嫌のバカ殿となって「あいーん」とはしゃぐこともまた難しい。

これらの冴えない見通しを前にしてもやもやと鬱屈する感情の捌け口は,後期高齢者の方々等の尊い命を守らんとする気高い姿勢の道徳的高みから発せられる「コロナなのに不謹慎だっ!」との魂の叫びとなります。その場合においては,既に多々味噌がついていて迷走感グダグダ感のあるオリンピック東京大会の開催の中止ないしは延期の提案を凛然として申し立てるという角度を選択するのが,高い意識の様式美となるのでしょうか。我が()えある皇紀2600年の年に開催が予定されていた1940年オリンピック東京大会は,大陸における漢口作戦準備中の1938715日に,早々返上が決定されています。当時は(かしこ)くも,昭和天皇(おん)自ら真摯な自粛に努めておられところでした

 

1938712日〕 去月22日に〔池田成彬〕大蔵大臣より経済事情等に関する奏上を御聴取の後,ガソリンを始め種々の節約につき注意を払われ,御自身の御食事についても省略のことに及ばれる。これにつき,この日,侍従長百武三郎は,国家安危を軫念(しんねん)され率先して範を示されることは(おそ)れ多き限りであるものの,常時余りに局部的事項につき御軫念になることは玉体に影響し,重大な御政務に対する精力の集中が不十分となる(おそれ)もあり,また聖旨の影響は(やや)もすれば極端に走ることから,あるいは萎縮退嬰に陥り(かえっ)て成績が挙がらないこともあり,この重大な時局においては,各有司を信頼され,泰然とあらせられることが大切と考える旨を言上する。天皇は,侍従長の言上を御傾聴の上,御聴許になる。(宮内庁『昭和天皇実録 第七』(東京書籍・2016年)598頁)

 

大陸における「暴戻ぼうれい」を「ようちょう」する戦いに伴う困難は,(かしこ)き辺りも「泰然」とすることが許される程度のものだったようです。これに対して,現在我々が直面している大陸発の新型コロナウイルスに対する撲滅の戦いにおいては,「極端に走る」人民の「萎縮退嬰」ごときを小賢しく恐れて気を緩めることはおよそ許されません。

 

2 1904年のセント・ルイス・オリンピック

しかし,筆者は,今次オリンピック東京大会がそれに対照されるべき近代オリンピック夏季大会の前例は,中止された1916年(ベルリン),1940年(東京→ヘルシンキ)及び1944年(ロンドン)の各幻のオリンピックではなく,1904年に71日から1124日まで(国際オリンピック委員会系のhttps://olympics.com/による。日本オリンピック委員会の「オリンピックの歴史(2)」ウェブページでは「1123日」までとされています。A&E Television Networks社のhistory.comに掲載された記事(“8 Unusual Facts About the 1904 St. Louis Olympics”, August 29, 2014 (updated: August 30, 2018))においてEvan Andrews記者は,「後にされた見直し(a review)においては,1904年大会は公式には(officially71日から1123日まで続き,かつ,94のイベントからなるものであったと結論されることとなった。」と述べています。)の5箇月間近くをかけてだらだら,かつ,ばらばらと開催された第3回のセント・ルイス・オリンピックである,とここに強く主張したいところであります。(ただし,セント・ルイス大会の独自性(“Memorable? Absolutely.”「記憶に残る?全くそのとおり。」)を強調するAP通信社のDave Skretta記者は,「米国で開催された最初の夏季オリンピック大会は,それより前にヨーロッパであったものとはまるで違った相貌を呈していた。/あるいは,他の場所でこれからまた行われるものにも。」と述べてはいます(“St. Louis Olympics was really World’s Fair with some sports”, July 25, 2020)。)


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Pierre de Coubertin: “Je n’ai pas visité la cité de St. Louis en 1904.”

 

(1)参加国・地域の多寡心配無用

まず,参加国・地域数(「チーム」数)が少なくなっても気にすることはありません。

olympics.comによれば,夏季オリンピック大会の参加「チーム」数が200を超えたのは2004年のアテネ大会(第2次)からにすぎず(同大会で2012008年の北京及び2012年のロンドン(第3次)各大会はいずれも2042016年のリオ・デ・ジャネイロ大会で207),100を超えたのは1968年のメキシコ大会からで(同大会で1121972年のミュンヘン大会では1211984年のロサンゼルス大会(第2次)で1401988年のソウル大会で1591992年のバルセロナ大会で1691996年のアトランタ大会で1972000年のシドニー大会は199。なお,1976年のモントリオール大会及び1980年のモスクワ大会は,それぞれ92及び80であって,いずれも100に達していません。),そもそも最初の1896年アテネ大会は,14「チーム」(Juergen Wagner氏のhttps://olympic-museum.de/によれば,当該14「チーム」は,オーストラリア,オーストリア,ブルガリア,チリ,デンマーク,フランス,ドイツ,グレート・ブリテン及びアイルランド,ギリシア,ハンガリー,イタリア,スウェーデン,スイス並びに米国とされています。)及び選手総数241名で,簡素に始まったのでした。

しかして,史上最少参加「チーム」数を誇るのが,我らがセント・ルイス大会であって,その数はわずか12olympics.comによる。ただし,日本オリンピック委員会によれば「13カ国」。なお,上記Wagner氏は,オーストラリア,オーストリア,カナダ,キューバ,フランス,ドイツ,グレート・ブリテン,ギリシア,ハンガリー,イタリア,ノルウェー,ニューファウンドランド,南アフリカ,スイス及び米国の15か国から参加があったとしています。しかし,オーストラリア・オリンピック委員会(olympics.com.au)は,英国及びフランスからの参加はなかったものとしています。)。12であれば,1776年の夏にフィラデルフィアにおいて独立宣言にその代表が署名した北米の邦の数よりも少ない。

なお,セント・ルイス大会に何か国から参加があったのかの数字が1213又は15とグダグダになっているのは,「〔1908年に〕ロンドンで開催された第4回大会から,オリンピックへの参加が各国のオリンピック委員会を通して行われるようになりました。それまでは個人やチームで申し込めば参加できたのです。」ということであって(日本オリンピック委員会),換言すれば,それまでは「参加国数」などという概念は存在していなかったということゆえなのでしょう。脚力自慢・腕力自慢が勝手に集まって開かれる,飛び入り歓迎の運動会の如し。グダグダながらも,牧歌的でよいですね。牧歌的運動会といえばセント・ルイス・オリンピックでは綱引き競技も行われ,米国(ミルウォーキー,ニュー・ヨーク及びセント・ルイス2),ギリシア及び南アフリカから計6組が参加,ギリシア及び南アフリカは早々に脱落して,優勝は91日の決勝戦でニュー・ヨーク・アスレチック・クラブを破ったミルウォーキー・アスレチック・クラブ,2位及び3位は,ニュー・ヨーク組が順位決定戦に出てこなかったため,地元セント・ルイスの2組となっています(Andrews)。高校の物理によれば,綱引きは,要は摩擦力の増す体重の重い方が勝ちということでしたが,当時から米国には肥満者が多かったのでしょうか。


NY v. Milwaukee

New York Athletic Club v. Milwaukee Athletic Club   (Missouri History Museum)(過度の肥満者はいないようです。)


 ちなみに,olympics.comによれば,セント・ルイス大会及びアテネ大会(第1次)に次いで参加「チーム」数が少なかったのは,1908年ロンドン大会(第1次)の22,これもまだグダグダ時代の1900年パリ大会(第1次)の24及び大日本体育協会を通じた参加(東京帝国大学の三島弥彦及び東京高等師範学校の金栗四三)が我が国から初めてあった1912年ストックホルム大会の28ということになります。

 セント・ルイス大会における参加選手総数はolympics.comによれば651名ですが,前記Andrews記者は,当該数字を630名とした上で,そのうち523名が米国からの参加者であり(83パーセント),かつ,半数以上の競技が地元選手のみによって行われていたものと述べています(ただし,いまだ米国への帰化が認められていないヨーロッパからの移民も横着に米国選手として取り扱われていたようで,2012年に至ってもなおレスリングの優勝者2名について,ノルウェーは,同国の国民であるものと認められるべきだと国際オリンピック委員会に申し立てているそうです。)。カナダからの参加者は43名とされています(olympic.ca)。

 セント・ルイス大会への北米外からの参加が低調だった原因については,「ヨーロッパから離れたアメリカでの開催のため,〔1900年の〕パリ大会よりも出場選手数が減っています。」とされています(日本オリンピック委員会)。確かに,ミシガン湖に面した当初の開催予定地であるイリノイ州シカゴならばともかくも,更に内陸に位置するミズーリ州セント・ルイスは交通至って不便であったわけですが,これに加えて,当時戦われていた日露戦争の影響もあったことが挙げられています(Skretta)。やはり日本が悪いのです。


DSCF1721

Kanô Jigorô: “MCMXII anno domini Holmiae fui.”

 

(2)メダル寡占遠慮無用

オリンピックの金銀銅メダルの授与はセント・ルイス大会から始まりますが(olympics.com),遠慮も会釈も無い米国人は,金メダル97個中の76個と,その78パーセント強を図々しく確保しています(olympics.com“Medal Table”から筆者が数字を手ずから拾って電卓計算したもの)。ただし,ここの数字も実はグダグダで,Skretta記者はセント・ルイス大会の96個の金メダル中78個を米国勢が得たものとし,オーストラリア・オリンピック委員会は77個を米国が得たものとしています。また,同委員会によると,同大会におけるオリンピック競技と一般的に認められている91イベント中49は米国人のみが参加したものであったとされています。

この図々しい米国人が参加しなかったのが1980年のモスクワ大会です。当該大会において最も多く金メダルを確得したのは開催国であるソヴィエト社会主義共和国聯邦でありましたが,米国人らがいなかったにもかかわらず,その数及び比率は,全204個中の80個,39.2パーセントでありました。人類の理想社会を築くべきものたりし社会主義の力をもってしても,オリンピックでの全勝は難しい。

 今年の夏に東京でオリンピックが開催されるのであれば,我が日本選手団は,1904年の米国選手団の如く無慈悲無作法にメダルの荒稼ぎをすることになるものかどうか。当該荒稼ぎの結果,国際的非難ないしは揶揄を受けることになってしまわないかどうか。しかしこれは杞憂でしょう。20222月に開催される北京冬季オリンピック大会の成功必達を期する中華人民共和国オリンピック委員会としては,先陣の血祭りたるその前年の夏季大会には精鋭すぐって我が帝都に大選手団を派遣してくるでしょうから(確か,同国においては,新型コロナウイルス感染症は既に制圧済みとのことでした。),新型コロナウイルス感染症蔓延で腰砕けになった他の諸国からの有力選手の参加がたとえなくとも,我らの日本人選手らが,全体の8割,4割の金メダルをごっそり確保してウハウハということは,残念ながらあり得ないことでしょう。

 

(3)1年延期の気兼ね無用:ルイジアナ購入百周年博覧会に係る1年のずれ

 でも2021年の東京オリンピックは1年延期されてしまった結果であるけれども,1904年のセント・ルイス・オリンピックはそういう目に遭っていないからね,そこは違うよね,という意見もあるかもしれません。しかし,実はここにおいても両者間には共通性があるのです。

セント・ルイス・オリンピック自体は延期されてはいないとしても,当該大会がそれに併催されていたセント・ルイス万国博覧会(ルイジアナ購入百周年博覧会:Louisiana Purchase Exposition)は当初1903年開催の予定が,1年延期されていたのでした(u-s-history.comは,博覧会の規模が大き過ぎて延期を余儀なくされたものと説明しています。190228日付小村外相宛高平公使公信第19号においては「聞ク所ニ拠レバ本件博覧会ノ招待状発送方余リ遅カリシヲ以テ欧州諸国中露墺ノ如キハ出品準備ノ余日ナキヲ理由トシテ賛同ヲ謝絶シ他ノ諸国ヨリハ未タ確答無之」という状況が報告されています(加藤絵里子「セントルイス万国博覧会における日米関係~世紀転換期の日本の外交的意図に着目して~」お茶の水史学61号(20183月)11頁)。)。米国のトーマス・ジェファソン政権を買主としてフランス共和国のナポレオン・ボナパルト政権がルイジアナ(現在のルイジアナ州を含むが更にその北西方向に広がるミシシッピ川からロッキー山脈までに及ぶ広大な領域)を売却したのは1803年のことだったのです。

なお,セント・ルイスの博覧会とオリンピックとではどちらが親亀でどちらが子亀かといえば,博覧会が親亀です。既に準備が進んでいた博覧会と併せてオリンピックをも開催するために,セント・ルイス側は国際オリンピック委員会に圧力をかけて,シカゴからオリンピックの開催権を奪ったのでした。

 

(4)そもそものルイジアナ購入について

 

   1803411日,モンロー〔米国特使。後の第5代大統領〕がパリに到着する前に,フランス外相タレイランはリビングストン〔駐仏米国公使。独立宣言起草委員の一人〕を呼び出し,米国はルイジアナの購入に興味があるかと訊いた。同日,それより前にナポレオンは,彼の大蔵大臣であり,かつ,ジェファソンのフィラデルフィアにおける旧友であるバルベ=マルボワ〔フィラデルフィア駐在書記官のバルベ=マルボワの問いに答える形でジェファソンの『ヴァジニア覚え書』は書かれています。〕に対して,当該大領域(テリトリー)を売却する意思がある旨告げていた。は,サント・ドミンゴ〔ハイチ〕再征服計画を放棄しよう。英国との戦争再開が近いが,予は,ルイジアナは北方カナダからの英国の侵入に対して脆弱であるものと見ている,と。その余のことについては,バルべ=マルボワはわきまえていたナポレオンには金が必要なのだ。430日までにモンロー及びリビングストンは,1500万ドルでルイジアナを米国に譲渡する合意に頭文字署名した。フランス側〔バルべ=マルボワが交渉担当〕は2日後に署名した。(Willard Sterne Randall, Thomas Jefferson: a life. (HarperCollins, New York, NY,1994) pp.566-567

 

ナポレオンのいうサント・ドミンゴ(フランス語風には「サン・ドマング」)の再征服とは,名目的にはなおフランスの版図内にある同島におけるトゥッサン・ルーヴェルチュール率いる黒人自立政権を打倒する計画でした。当時の同島は,貴重な砂糖利権の中心でありました。ナポレオンの義弟であるルクレール将軍を長とした2万の軍勢が同島に派遣されていました。「ルクレール(ポリーヌの夫)を司令官にしてサン=ドマングに出兵する/うまくいけばルクレールも出世させ/俺も国家も潤う」と,第一統領閣下は皮算用をしたものか(長谷川哲也『ナポレオン―覇道進撃―第3巻』(少年画報社・2012年)182頁)。

 

1799年,ナポレオン・ボナパルトがフランスで政権を奪取し,フランス帝国の名で知られる瞠目の冒険を開始した。本質的にそれはヨーロッパの事件であったが,ナポレオンの野心には彼のエネルギー同様限界が無かったので,彼はその計画にアメリカをも加えるべく時間を割いた。彼の基本的考えは,スペインにルイジアナの返還を強いることによって〔ルイジアナは,ルイ14世にちなむその名が示すとおり元はフランス領でしたので「返還」ということになります。フレンチ=インディアン戦争(1754-1763年)の結果ルイ15世のフランスは北米から撤退することとし,ミシシッピ川以西のルイジアナは同盟国スペインに帰属することとなったものです。なお,ミシシッピ川以東のルイジアナは英国に帰した後,アメリカ独立戦争を終結させた1783年のパリ条約で米国領となっていました。〕,フランスを再び新世界の強国とすることであった。1800年,適切な恫喝的外交(bullying)が効を奏して,スペインはナポレオンの欲した合意に署名した。〔とはいえ,当時のスペイン国王カルロス4世の一族についての「すごい/こいつら全員馬鹿だ」との評価は,文字どおりの漫画的誇張なのでしょう(長谷川哲也『ナポレオン―覇道進撃―第9巻』(少年画報社・2015年)118頁)。〕ただし,実際の移譲は,ナポレオンが総督及び駐屯軍をニュー・オーリンズに置くことができるときまで延期されていた。〔当該実際の移譲は,18031130日のこととなりました(明石紀雄「ジェファソンと「ルイジアナ購入」」同志社アメリカ研究10号(19743月)15頁註(22))。〕

〔略〕メキシコ湾におけるフランスの作戦行動のためにはサン・ドマング島の基地の使用が必要であったが,同島の政治情勢に鑑みるに,それが可能であることをだれも確信することはできなかった。〔略〕

〔略〕

ルクレールは1802年の早期にサン・ドマング島に到着し,夏までに同島の状況をよくコントロールの下に置いた。トゥッサンは逮捕され,フランスに檻送され,翌年同地で死んだ。サン・ドマングの大部分はフランス軍によって占領された。〔略〕

〔略〕

〔略〕次いで彼〔ナポレオン〕はサン・ドマングからの報告を受け,考えを変えた。その年のうちに彼が同島に送った35千の兵員のうち,ルクレール将軍〔1802112日歿〕を含む3分の2が黄熱病のために斃死していた〔ナポレオンがルクレールの死を知ったのは,18031月初めとされています(明石7頁)。〕。フランスによる同地の支配を維持するためには同じような数の兵員をまた派遣しなければならないが,彼らがよりうまくやり,又はより長く生きるとの保証は無かった。更に悪いことには,フランスにとっての機会の扉が閉ざされつつあることが明らかであった。英国は,ナポレオンによるヨーロッパ秩序に再び挑戦する準備をしており,フランスの海運にとって,遠からず海が安全なものとはならなくなる成り行きであった。この情勢下にあって,彼がサン・ドマングを保持し得るということは難しかった。ルイジアナについてはいわずもがなである

Colin McEvedy, The Penguin Atlas of North American History to 1870. (Penguin Books, 1988) p.68)。

 

仏英間のアミアンの和約(1802327日締結)による平和は,18035月までしか続きませんでした。

ボナパルト第一統領がもはや執着しなくなったサン・ドマングにおいては,「世の人の熟く知れる如く,1803年に将官デツサリンが三万の黒人を率ゐてポオル,トオ,プレンスを襲ひしをり,島に住みたる白人といふ白人は悉く興りてこれに抗せんとしき。宜なり,今此島にて仏人の手に残りたるは此一握の土のみにて,これをしも失はん日には白人は夷滅を免かれがたかるべければ。」というような状況となりました(ハインリッヒ・フォン・クライスト『悪因縁』(森鷗外訳『鷗外選集第16巻 翻訳小説一』(岩波書店・1980年)105頁)。「夷滅」とは,一族を皆殺しにすることです。)。その際,「家は大路のほとりに在りて,白人雑種などの余所に奔らむとするが立寄りて,食を乞ひ,宿を求めなどするを,おのれが帰りこむまでは欺きて停めおかせ,帰りて直ちに殺すを常と」していた(クライスト105頁)「おそろしき老黒奴」コンゴ・ホアンゴ(ゴールド・コースト出身のアフリカ人であって,サン・ドマングで「黒人の一揆起りしをり」,それまでに「自由なる身」としてくれ「隠居料あまた取らせ,猶飽かでや,遺言して若干の産を与へむ」とまで言ってくれていた「主人が頭を撃ちぬきて,主人の妻が三たりの子を伴ひて難を避けたりし家に火をかけ,ポオル,トオ,プレンスに住める遺族の手に落つべき開墾地を思ふまゝにあらし,この領内に立たる家をなごりなく打毀ち,相識りたる黒人をつどへて武器をとらせ,これを率ゐて近郷に横行し,黒人方の軍を援けき。」という所業の者)の不在宅に,同人の「妾のやう」なる「あひの子バベガン」(同104頁)に正に欺かれて停めおかれていたPort-au-Princeへ向かう途上のスイス人・グスタアフ・フオン・デル・リイドは,バベガンとフランス商人との間に生まれた娘である15歳のトオニイ・ベルトランに対し,首尾よく共に一夜を過ごした仲(同118頁)となったにもかかわらず,種々悶着のあった後,「歯ぎしりしてトオニイに向ひ,火蓋を切て放しつ。/弾丸はトオニイが胸のたゞ中を打貫きたり。/〔略〕手に持ちし短銃を少女が体に投げつけ,よろめきながら足を挙げてしたゝかに蹴り,一声この淫婦と叫」ぶ(同133-134頁)という無残無慈悲な行為をなし,更には「短銃もてわれと我脳を撃ちぬいたり。再度の変に驚慌てたる人々,いまは少女が屍を打棄てゝ,グスタアフを救はむとしたれど,憫むべし,頭蓋は微塵に砕けて,短銃の火口を我口にあてしことなれば,血にまみれたる骨の片々は,かなた,こなたの壁に飛びかゝりて,そがまゝにつき居たり。」(同136頁)というグダグダ情態を惹起しています。無論,サン・ドマングの白人残存勢力は,ほどなく英雄デサリーヌに打ち破られます。フオン・デル・リイドの親戚「一族英吉利ぶねに便乗して,ふる里なる瑞西にかへり,残り僅かばかりの金にてリギのあたりに地を買ひて住みぬ。」ということにはなりました(クライスト137頁)。デサリーヌは,大西洋の彼方でナポレオンがフランス皇帝となった1804年(5月18日即位ですが,ダヴィッドの絵で有名な戴冠式は同年122日のこととなりました。),こちらはハイチ皇帝となっています(108日戴冠)。

ハイチ北方の米国は,なお1803年の秋です。

 

   彼〔ジェファソン〕が第8議会を18031017日に召集した際,彼はルイジアナ購入を求めたが,憲法問題には言及しなかった。同日上院に提出された当該条約は,わずか3日後に批准された。〔18031020日の上院における表決結果は賛成24名,反対7名であり,批准書の交換は同月21日であったそうです(明石3頁)。〕

   1220日にニュー・オーリンズにおける儀式をもってフランスが米国に対して正式にルイジアナを移譲した際ジェファソンは,議会演説において,「自由の帝国(the empire of liberty)」の領土並びに「我々の子孫に対するその豊富な供給物及び自由の恵沢のための広大な領域」の倍増を祝った。これらの自由については,奴隷制が繁栄することができる領土を倍僧する自由を有する白人に対してのみ及ぶものであることには疑いはなかった。1804年にコネティカットの一上院議員が,奴隷制を禁ずるようにルイジアナ領土(テリトリー)の組織を行う修正案を提出した。18031021日から1804320日まで,米国議会はルイジアナ領土の統治に必要な規定及び規則を審議していました(明石3頁)。〕ジェファソン及び〔民主〕共和党員は当該提案を支持せず,代わりに,外国からの奴隷の輸入を禁ずるというはるかに生ぬるい施策を採用した。(Randall, p.567

 

(5)下品な偏見と高い意識と

 1904年のセント・ルイス・オリンピックはまた,あからさまに人種差別的とされる2日間の「人類学の日(Anthropology Days)」の見世物によって悪名が高いところです。博覧会の「人間動物園(human zoo)」展示に参加していたアイヌ,パタゴニア人,ピグミー,イゴロト族(フィリピン),スー族等が,お金をあげるからと言われて,走り幅跳び,弓術及び槍投げのほか,棒登り,泥投げ勝負等をさせられています。参加者は碌に競技指導を受けておらず,出来栄えは惨めなものだったようで,当該見世物の主催者であるジェイムズ・サリヴァンは「未開人たちは,運動競技能力の観点からすると,過大評価されていたものである」と得々として語ったものと伝えられています。(Andrews

下品だったようですね。

翻って2021年の今次オリンピック東京大会に向けては,差別問題は,差別的意識の抱懐が少しでも疑われた段階で既に当該被疑者が直ちに社会的に抹殺されてしまうという,高い意識に基づいた極めて厳格な取扱いを受けつつあります。あらわれとしては一方は偏見の不当な放置,他方は厳格な是正,と逆方向になっていますが,差別問題が問題になるという点で,やはり両大会は,宿命として密な関係を有しているものといえましょう。

なお,日本は,セント・ルイス・オリンピックには参加していなくとも,博覧会には「1900年のパリ万博に次ぐ80万円の経費を計上して参加」していました(宮武公夫「人類学とオリンピック―アイヌと1904年セントルイス・オリンピック大会―」北大文学研究科紀要108号(200212月)3頁)。しかして,「人類学の日」の開催日は812日及び同月13日で(宮武5頁),18種類の競技が行われたところ(宮武7頁),日本から来ていた,クトロゲ,ゴロ,オオサワ及びサンゲアの4名のアイヌ男性が(宮武6頁),16ポンド投げ,幅跳び,野球投げ,槍投げ及びアーチェリーの5種目に参加していました(宮武8頁)。そこで,彼らこそ「最初にオリンピックに参加した「日本人」と考えるのが妥当ではないだろうか」と主張されています(宮武17頁)。「20世紀初頭のオリンピックは,帝国主義と植民地主義を支えた人種理論に彩られていたとはいえ,多くの人々を一つの世界規模でのスペクタクルの中に包摂するだけの,規模の大きさと異種混合を許すだけの普遍主義的な受容性を持っていた」ところです(宮武19頁)。

ゴロこと辺泥(ぺて)五郎生涯については家族による興味深い講演記録あります近森アイヌ文化祖父・辺五郎足跡たどってhttps://www.ff-ainu.or.jp/about/files/sem2007.pdf)。


(6)東京=セント・ルイス=武漢

 なお,最後に付け加えれば,セント・ルイス市は,同市でオリンピックが開催された年から100年後の2004年の927日以来,中華人民共和国湖北省武漢市と国際友好交流城市関係にあります。後者は,現在流行の新型コロナウイルス感染症とは浅からぬ因縁のあるかの都市です(世界的なlockdownの流行は,「武漢封城」に触発されたchinoiserieでしょう。1938年の我が漢口作戦の漢口は,現在の武漢市の一部です。)。ただし,国際友好交流城市関係は友好城市(姉妹都市)関係とは違うもののようです。しかし,セント・ルイス側は,余り頓着せずに,両市はsister citiesであるものと観念しているようです。Budweiser Beerの工場が,武漢にもあるそうです。Sisters in Budsuitですね。

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1 衆議院議員選挙区画定審議会設置法3条2項及び公職選挙法13条7項

「いわゆるアダムズ方式」というものがあります。

当該方式は,①各都道府県における衆議院小選挙区選出議員の選挙区の数(「小選挙区」なので,各選挙区において選挙すべき議員の数は1人になります(公職選挙法(昭和25年法律第100号)131項後段)。)及び②衆議院比例代表選出議員の各選挙区(北海道,東北,北関東,南関東,東京都,北陸信越,東海,近畿,中国,四国又は九州(同法132項・別表第2))において選挙すべき議員の数の割当てに係る方式です。

衆議院議員選挙区画定審議会設置法及び公職選挙法の一部を改正する法律(平成28年法律第49号)の第1条によって改正された①衆議院議員選挙区画定審議会設置法(平成6年法律第3号)32に「次条第1項の規定〔同法41項は「第2条の規定〔当該規定は「〔衆議院議員選挙区画定〕審議会は,衆議院小選挙区選出議員の選挙区の改定に関し,調査審議し,必要があると認めるときは,その改定案を作成して内閣総理大臣に勧告するものとする。」と定めるもの〕による勧告は,国勢調査(統計法第5条第2項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査に限る。)の結果による人口が最初に官報で公示された日から1年以内に行うものとする。」と規定〕による勧告に係る前項〔衆議院議員選挙区画定審議会設置法31項は「前条〔同法2条〕の規定による改定案の作成は,各選挙区の人口(最近の国勢調査(統計法〔略〕第5条第2項の規定により行われる国勢調査に限る。)の結果による日本国民の人口をいう。以下この条において同じ。)の均衡を図り,各選挙区の人口のうち,その最も多いものを最も少ないもので除して得た数が2以上とならないようにすることとし,行政区画,地勢,交通等の事情を総合的に考慮して合理的に行わなければならない。」と規定〕の改定案の作成に当たっては,各都道府県の区域内の衆議院小選挙区選出議員の選挙区の数は,各都道府県の人口を小選挙区基準除数(その除数で各都道府県の人口を除して得た数(1未満の端数が生じたときは,これを1に切り上げるものとする。)の合計数が公職選挙法(昭和25年法律第100号)第4条第1項に規定する衆議院小選挙区選出議員の定数289人〕に相当する数と合致することとなる除数をいう。)で除して得た数(1未満の端数が生じたときは,これを1に切り上げるものとする。)とする。」(下線は筆者によるもの)と,

同じく平成28年法律第49号のこちらは第2条によって改正された②公職選挙法137項に「別表第2〔衆議院(比例代表選出)議員の選挙区及び各選挙区において選挙すべき議員の数を定めるもの(同条2項)〕は,国勢調査(統計法(平成19年法律第53号)第5条第2項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査に限る。以下この項において同じ。)の結果によつて,更正することを例とする。この場合において,各選挙区の議員数は,各選挙区の人口(最近の国勢調査の結果による日本国民の人口をいう。以下この項において同じ。)を比例代表基準除数(その除数で各選挙区の人口を除して得た数(1未満の端数が生じたときは,これを1に切り上げるものとする。)の合計数が第4条第1項に規定する衆議院比例代表選出議員の定数176人〕に相当する数と合致することとなる除数をいう。)で除して得た数(1未満の端数が生じたときは,これを1に切り上げるものとする。)とする。」(下線は筆者によるもの)と規定されています。

卒然と思い付く筆者の発想であれば,まずそれぞれ小選挙区選出議員定数(289)及び比例代表選出議員定数(176)で日本国民の全国人口を除して小選挙区及び比例代表の各基準除数(議員一人当たりの日本国民の人口に係るあるべき数)を求めて,かつ,それを確定させた上で,当該各基準除数でそれぞれ各都道府県及び比例代表選出議員の各選挙区に係る日本国民の人口を除して,その結果得られた各都道府県及び比例代表選出議員の各選挙区に係る商(都道府県に係るもの47個,比例代表選出議員の選挙区に係るもの11個)を見て,さて端数が出てしまったがこの処理をどうしようか,と考えるところでしょう(この発想に係る方法は,quota methodというそうです(Shannon Guerrero and Charles M. Biles, “The History of the Congressional Apportionment Problem through a Mathematical Lens” (2017), pp.3, 4 (http://digitalcommons.humboldt.edu/apportionment/27))。)。これに対して,衆議院議員選挙区画定審議会設置法32項及び公職選挙法137のいわゆるアダムズ方式は,端数は切上げで処理するとあらかじめ決め置いた上で,議員の各総定数に見合うように基準除数を変動させる操作を行う,というところが,犬(基準除数)が尾を振るのか尾が犬(基準除数)を振るのか的ひねりがあって面白い。いわゆるアダムズ方式の処理の仕方は,後記の修正除数方式(modified divisor method (MDM))の一種ということになります(Guerrero & Biles, pp.8-9)。

平成28年法律第49号は2016527日に公布されているところ,同法における衆議院議員選挙区画定審議会設置法の改正規定(平成28年法律第491条)は同日から施行され(同法附則1条本文),公職選挙法の改正規定(平成28年法律第492条)は,2017716日から施行されています(2017616日に公布・施行された衆議院議員選挙区画定審議会設置法及び公職選挙法の一部を改正する法律の一部を改正する法律(平成29年法律第58号)による改正後の平成28年法律第49号附則1条ただし書)。

 

2 統計法5条2項本文の国勢調査=2020年国勢調査及びその結果公表日程

いわゆるアダムズ方式による公職選挙法別表1(衆議院(小選挙区選出)議員の選挙区を定めるもの(同法131項))の改定(衆議院議員選挙区画定審議会設置法41)及び公職選挙法別表2の更正(同法137項)を発動せしめる「統計法(平成19年法律第53号)第5条第2項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査」とは何かが問題となります。

これは,統計法52項を見ただけでは分かりません(同項は「総務大臣は,前項に規定する全数調査(以下「国勢調査」という。)を10年ごとに行い,国勢統計を作成しなければならない。ただし,当該国勢調査を行った年から5年目に当たる年には簡易な方法による国勢調査を行い,国勢統計を作成するものとする。」と規定)。5年ごとに行われる国勢調査(2020年にもありました。)のうち,統計法52項本文の国勢調査に当たるものは西暦末尾0の年のものか5の年のものかは,同項には書かれていないところです。ではどこを見ればよいのかといえば,統計法の附則4条であって,同条は,「新法第5条第2項本文の規定による最初の国勢調査は,平成22年に行うものとする。」と規定しています。すなわち,統計法52項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査の第1回は2010年に行われ,2020年の国勢調査はその第2回ということになります。

2020年の国勢調査の結果が出ると,いわゆるアダムズ方式による公職選挙法別表第1の改定及び同法別表第2の更正に係る各規定が初作動ということになり,同法の改正関係作業(あるいは,改正をせずに済むかもしれませんが)をしなければならなくなるわけです。

小選挙区の区割りに係る公職選挙法別表1の地理的改定案の勧告は,国勢調査の結果による人口が最初に官報で公示された日から1年以内に行うものとされています(衆議院議員選挙区画定審議会設置法41)。

他方,選挙すべき議員数に係る公職選挙法別表2の算術的更正については,そのスケジュール感を示す規定がありません。これは,同表の更正については,国勢調査の結果がいったん出てしまうと直ちに計算がされて比例代表選出議員の各選挙区の新定数が一義的に明らかになってしまうので,直ちにとまではいわないものの,それだけの改正にすぎないのだから(とはいえ,減員となる選挙区選出の代議士らは心穏やかではないでしょうが。)国会は速やかに公職選挙法を改正せよ,ということなのでしょう。平成28年法律第49号によって削られる前の公職選挙法別表第2の「この表は,国勢調査(統計法(平成19年法律第53号)第5条第2項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査に限る。)の結果によつて,更正することを例とする。」という十分抽象的な規定であれば,そもそもの更正の要否,更正するとした場合の方法等についての議論が更に十分過ぎるほどできたのでしょうが,もはやそのような思弁及び議論にふけって日子を費やすわけにはいきません。

2020年の国勢調査の結果に基づく改定に係る衆議院議員選挙区画定審議会設置法41項の1年の期間はいつから始まるかといえば,同項にいう人口は,日本国民の人口に限られず(同法31項括弧書き対照),かつ,「人口が最初に官報で公示された日」が起算日とされていますので,20216月公表の「人口速報集計」について「人口は公表日に官報に公示」するとの公示措置がされた日からとなるようです(「令和2年国勢調査の集計体系及び結果の公表・提供等一覧」を総務省統計局のウェブページで見ると,20216月に,「男女別人口及び世帯数の早期提供」のための「人口速報集計(要計表による人口集計)」が表章地域を「全国,都道府県,市区町村」として公表され,「人口は公表日に官報に公示」されるそうです。同「一覧」によれば,官報公示がされるのは,当該人口速報集計の人口のほか,202111月公表の「人口等基本集計」の人口及び世帯数(確定・人口世帯数)(こちらの公示日は公表日ではなく,「公表後」)のみです(なお,同「一覧」における国勢調査の結果の公表に係る「インターネットを利用する方法等」の「等」には官報公示は含まれないのでしょう。)。)。

ところで,公職選挙法の別表第1及び第2の改定及び更正は,単なる人口ではなく,日本国民の人口に基づいてされることになっています。人口から日本国民ではない者の人口を減じて初めて得られる日本国民の人口は,「人口,世帯,住居に関する結果及び外国人,高齢者世帯,母子・父子世帯,親子の同居等に関する結果」(下線は筆者によるもの)までが集計された「全国,都道府県,市区町村」を表章地域とする人口等基本集計が202111月に公表されるまでは明らかにならないように思われます。事実,2020226日付けの総務省統計局国勢調査課の「令和2年国勢調査の概要」を見ると,「人口速報集計(速報値)は,調査員が調査活動中に作成する調査世帯一覧を基に作成した要計表を用いて集計⇒外国人人口は把握できない」とあります(10頁)。

しかしながら,上記「概要」には更に,「人口速報集計(2()()),人口基本等集計(9()())の各段階で,選挙区別の「日本国民の人口」を算出する特別集計を実施」とあります(10頁)。(なお,ここで2021年の「2月」及び「9月」というのは,2020226日段階における予定であって,その後の新型コロナウイルス感染症騒動がもたらした遅延によって,現在はそれぞれ20216月及び同年11月に後ろ倒しになっているものでしょう。)この特別集計は,衆議院議員選挙区画定審議会設置法32項及び公職選挙法137項の付託に,国勢調査制度が正に応えようとするものでしょう。20216月の人口速報集計においては,わざわざ「外国人人口は,平成27年国勢調査結果に,住民基本台帳による5年間の増減等を勘案して推計」するそうです(国勢調査課10頁)。ただし,公職選挙法別表第1を見ると,市区町村レヴェルにとどまらずより細かい単位で衆議院(小選挙区選出)議員の選挙区は画定されているところ,これに必要となるのであろう「町丁・字等,基本単位区,地域メッシュ」を表章地域とする小地域集計は,「該当する基本集計等の公表後に集計し,地理データ等を活用して秘匿処理を施した上で,速やかに公表」とされています。公職選挙法別表第1の改定に必要なデータが全部そろうためには時間がかかるものでしょう。

人口速報集計段階における特別集計は,公職選挙法別表第1の改定については,あらかじめ速報値をもって一応の改定案作成作業を進めさせて人口基本等集計公表後の確定を迅速ならしめることが目的であるものと考えるべきものでしょうか。

人口速報集計段階における特別集計と公職選挙法別表第2の更正との関係については,あるいはあえて問題となし得るかもしれません。公職選挙法137項は,当該更正は「国勢調査の結果」によるべきものとのみ規定しています。これに対して,2012年の衆議院小選挙区選出議員の選挙区間における人口較差を緊急に是正するための公職選挙法及び衆議院議員選挙区画定審議会設置法の一部を改正する法律(平成24年法律第95号)附則321号には「人口(官報で公示された平成22年の国勢調査の結果による確定した人口をいう。以下この項において同じ。)」という表現があります(下線は筆者によるもの)。公職選挙法137項の解釈は,平成24年法律第95号附則321号を反対解釈してされるべきものか(確定値によらなくともよいことになります。となると,速報値が出た時及び確定値が出た時の両度にわたって更正をすることになるのでしょうか。),それともあるいは,2012年の立法においては「確定した」を明示したが,「結果」によるべき場合のその結果の数値は確定していなければならないのは当然であるから公職選挙法137項にはくどく「確定した」云々とはあえて書かなかったのだ,というものであるべきか。後者の解釈の方が常識的でしょう。

20171022日を期日とする総選挙において当選した衆議院議員らの任期は20211021日までです(日本国憲法45条,公職選挙法256条)。当該任期中においては――2020年の国勢調査に係る人口基本等集計の公表は202111月ですので――いわゆるアダムズ方式による公職選挙法別表第1の改定及び同法別表第2の更正はないということになるようです。しかし,20216月公表の人口速報集計に伴う特別集計の結果次第では,議員数の増減が確実に生ずることが同年11月の人口基本等集計の公表を待たずに歴然たる都道府県ないしは選挙区が明らかになってしまって,そのまま総選挙が行われると,居心地の悪い当選者,未練たらたらの落選者が出て来る可能性もあるものでしょう。

 

3 JQA及び米国憲法1条2節3項

 いわゆるアダムズ方式のアダムズとはだれかといえば,米国のアダムズ大統領だ,といわれます。しかし,1789年就任のジョージ・ワシントン(1797年まで在任)から2021年就任のジョー・バイデンまでの45人の米国大統領(バイデンは46代目ですが,19世紀後期のグローヴァ―・クリーヴランドが一人で22代目(1885-1889年在任)と24代目(1893-1897年在任)とを兼ねています。)中,アダムズは二人います。しかも,ファースト・ネームはどちらもジョン。父親の2代目ジョン・アダムズ(1797-1801年在任)及び息子の6代目ジョン・クインジー・アダムズ(1825-1829年在任)です。しかしていわゆるアダムズ方式の淵源たる方式の考案者は父子のうちどちらかといえば,息子の6代目の方です(以下当該息子を「JQA」と表記します。JQAといえば35代目のジョン・F・ケネディ(1961-1963年在任)のJFKみたいですが,実はちなみにJFKはその著書『勇気ある人々(Profiles in Courage)』の中でJQAを取り上げて称揚しています。)。なお,アダムズ方式はJQAの大統領時代に考案されたものではなく,1828年の大統領選挙でアンドリュー・ジャクソン(1829-1837年在任)に敗れた後,マサチューセッツ州の地元選出の連邦下院(代議院)議員になってから(1830年の選挙で初当選。その後再選を重ねます。)考案されたものです。1832年のことだとされています(William Lucas and David Housman, “Apportionment: Reflections on the Politics of Mathematics”, Engineering: Cornell Quarterly, Vol. 16 (1981), No.1, p.19)。(なお,JQAを破ったアンドリュー・ジャクソン第7代大統領はどういう人かといえば,「OK」の人であるのみならず(「ジョージ3世と3代のアメリカ合衆国大統領」参照(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1013251045.html)),その肖像画がドナルド・トランプ第45代大統領の執務室に飾ってあった人,といえばイメージがつかめるでしょうか。トランプ政権の終幕は大統領支持派大衆による連邦議会議事堂占拠で味噌が付きましたが,ジャクソン政権の開幕は,合衆国大統領官邸におけるレセプションに蝟集した大統領支持派大衆による大混乱(「「人民の威厳なるもの(Majesty of the People)は消滅して,突進し,喧嘩をし,跳ね回る少年,黒人,女,子供からなる群衆,すなわち暴徒(a rabble, a mob)」にとって代わられた」(Jon Meacham, American lion: Andrew Jackson in the White House (New York: Random House, 2009), p.61)。)によって彩られています。)

 アダムズ方式が考案された前提としては,米国憲法123項の次の規定があります。

 

  Representatives and direct Taxes shall be apportioned among the several States which may be included within this Union, according to their respective Numbers, which shall be determined by adding to the whole Number of free Persons, including those bound to Service for a Term of Years, and excluding Indians not taxed, three fifths of all other Persons. The actual Enumeration shall be made within three Years after the first Meeting of the Congress of the United States, and within every subsequent Term of ten Years, in such Manner as they shall by Law direct. The Number of Representatives shall not exceed one for every thirty Thousand, but each State shall have at Least one Representative; and until such enumeration shall be made, the State of New Hampshire shall be entitled to chuse three, Massachusetts eight, Rhode-Island and Providence Plantations one, Connecticut five, New-York six, New Jersey four, Pennsylvania eight, Delaware one, Maryland six, Virginia ten, North Carolina five, South Carolina five, and Georgia three.

  (下院(代議院)議員及び直接税は,この連邦を構成すべき諸州間において,それぞれの基準数に従って割り当てられる。当該基準数は,課税されないインディアンを除き,年季役務に拘束される者を含む自由人の全数に,それ以外の全ての者の5分の3を加えることによって決定されるものとする。法律によって定められるところにより,実際の人口調査は,合衆国議会の第1回会議の後3年以内に行われるものとし,その後は10年の期間内ごとに行われるものとする。下院議員の数は,3万当たり1人を超えないものとする。ただし,各州は少なくとも1人の下院議員を有するものとする。しかして,当該人口調査が行われるまでは,ニュー・ハンプシャー州は3人,マサチューセッツ州は8人,ロウドアイランド州は1人,コネティカット州は5人,ニューヨーク州は6人,ニュー・ジャージ州は4人,ペンシルヴェイニア州は8人,デラウェア州は1人,メアリランド州は6人,ヴァジニア州は10人,ノース・キャロライナ州は5人,サウス・キャロライナ州は5人及びジョージア州は3人を選出することができるものとする。)

 

4 米国第1回国勢調査,1792年の下院議員数割当法,最初の大統領拒否権発動及びハミルトン対ジェファソン

 米国の第1回の国勢調査(Census)は,1790年,トーマス・ジェファソン国務長官の下で実施され,その結果は,17911028日に連邦議会に提出されました(Guerrero & Biles, p.4)。

15州(建国13州にヴァモント州及びケンタッキー州が加わっています。)の合計基準人口概数3,615,920(「基準人口概数」といって端的に「人口」といわないのは,この数字は奴隷1人を5分の3人として数えた数を含む数字であろうからです。「3/5人間」なる存在は,筆者としてはどうも実感しにくい。そもそも議員について「3/5議員」というような面妖な存在が許されないからこそ議員数割当てにおける端数処理で苦労しているのです。)を30,000で除したところ(合衆国憲法123項により得ることが可能な最大限の下院議員総数を目指したようです。),得られた商が120.531なので下院議員の定員を120人とし(ちなみに,当時の下院定数は67人でした(合衆国憲法123項の65人にヴァモント州分の2人を加えたもの。ケンタッキー州の連邦加入は179261日のことになります。)。),これに各州の基準人口概数を全国合計基準人口概数で除した商(各州の基準人口概数の全国基準人口概数に対する比率)を掛けて得られた積が各州の割当数(quota)になりますが,これには端数が出るのでそれを全部切り捨てた上で合計すると111となって,120の定数を満たすにはまだ9人分余裕がある,そこで,端数部分の値の大きな順に9州に各1議席をプラスして得られた議員数割当ての法案が連邦議会で成立し(この割当方式は,quota methodの一種であり,ハミルトン方式と呼ばれます。アレグザンダー・ハミルトンは,ワシントン政権の財務長官にして,かつ,与党・連邦党(Federalists)の首領でした。),1792326日にワシントン大統領に対しその承認を求めて提出されます(Guerrero & Biles, p.5)。しかし,同年4月,ワシントンは,それまでその行使に消極的であった議会立法に対する大統領拒否権を合衆国史上初めて発動(Ron Chernow, Washington: a life (New York: The Penguin Press, 2010), p.685),その理由は,ワシントンの合衆国憲法解釈によれば当該法案は違憲だからであって,すなわち,当該法案で8議席を得ることとなったコネティカット州の基準人口概数は236,841にすぎないところ,8議席では同州における下院議員1人当たりの基準人口概数は29,605となって「下院議員の数は,3万当たり1人を超えないものとする。」との合衆国憲法123項の規定に違反する(ワシントンは,当該規定は,合衆国全体についてのみならず,各州についてもそれぞれ守られなければならいと解していました。)というものでした(Guerrero & Biles, p.5)。ハミルトンの不倶戴天の敵であるジェファソンからの,拒否権を発動すべしとの進言もあったそうです(Lucas & Hausman, p.18)。

大統領の拒否権発動を承けて議会は,各州の基準人口概数を基準除数33,0003万の1割増しですね。)で除した商の端数を切り捨てた数を各州の下院議員数とする法案(そうして得られた各州の下院議員数の合計が結果的に下院議員の総数となり,この時は105でした。)を新たに可決し,今度はワシントンも承認,当該端数切捨て割当方式(ジェファソン方式といわれます。)が1830年の国勢調査に基づく割当てまで続く方式となります(Guerrero & Biles, pp.5, 8)。ただし,ジェファソン方式は,ワシントンのお目こぼしにはあずかれたものの,小州に比べて大州にとって有利であり(切り捨てられた端数の重みは,割当下院議員数が少ない州の方が重く感ずるところです。),かつ,各州の前記quota(各州の基準人口概数の全国総基準人口概数に対する比率を下院の総議席数に掛けたもの)からその端数を切り上げ,又は切り捨てて得られる数(これは,quota値直近の2個の整数になります。)から外れた数の議席割当てが当該州について生ずる事態(例えば,quota19.531の州に19又は20ではなく,一つ飛んだ21議席が割り当てられるような事態。クォータ原則違反(quota rule violation)といわれます。)の可能性があるところです(Guerrero & Biles, pp.5, 8)。また,1792年法でも,全体の105議席中,ヴァジニア州(基準人口概数630,560)に19議席,デラウェア州(基準人口概数55,540)に1議席が与えられたものの,両州のquotaを計算すると((630,560 or 55,540 / 3,615,920)×105それぞれ18.3101.613とであって,端数部分のより大きいデラウェアが切捨てを被り,端数部分のより小さいヴァジニアが切上げの恩恵に浴するという不体裁を抱えていました(Guerrero & Biles, pp.4, 5)。


5 1832年の下院議員数割当て:アダムズ方式,ディーン方式及びウェブスター方式並びにジェファソン方式継続下でのポークの辣腕

 1830年の国勢調査を承けた州別下院議員数割当法案に係る議論に際して,上院(元老院)の割当委員会(apportionment committee)の委員長であるダニエル・ウェブスター(マサチューセッツ州選出)は,JQAからアダムズ方式(端数切上げ方式)を提案する書簡を受領します(Guerrero & Biles, p.6)。ただし,この原始アダムズ方式は,下院の総議席数の枠をまず前提とはしないものであって,我が国の衆議院議員選挙区画定審議会設置法32項及び公職選挙法137項のそれと全く同一のものではなかったようです。前記ジェファソン方式のように基準除数(divisor. 1792年法における33,000)を先に決めて各州の基準人口概数を除した上でその商の端数を処理してその州の議員割当数を決める方法(しかして,下院の総議員定数は,各州の議員割当数を足し合わせて決まる。)はbasic divisor methodBDM)といわれますが(Guerrero & Biles, p.4),その一種とされています(Guerrero & Biles, p.6)。ジェファソン方式では端数切捨てですが,アダムズ方式は端数切上げです。端数を切り上げるこころは,JQAとしては,「合衆国の人口が西部に向かって拡大することに伴い,下院の議席がマサチューセッツ及びニュー・イングランドから失われて行くことを懸念していた」からとされます(Lucas & Housman, p.19)。

 「アダムズ方式は全然真剣に検討されなかった。それは,ジェファソン方式と同様の欠陥を抱えていた。特に,それはクォータ原則違反を起し得たし,かつ,偏りを示し得た。アダムズ方式の偏りは,常に大州に対して小州を優遇するものであった」(Guerrero & Biles, p.6)。「彼〔JQA〕の提案は,しかしながら,議会に採用されることはつゆなかった」(Lucas & Housman, p.19)。

 米国ではアダムズ方式は全く相手にされなかったとは,JQA前大統領閣下もお気の毒です。

 近年のJQAの伝記においても,下院議員数割当てに係るアダムズ方式の提案に関しては,次のように間接的に触れられているだけです。

                                                                                         

   〔連邦議会閉会後〕アダムズは1832年の夏を,『デルモット』JQAがその前年に執筆した,イングランドに征服された12世紀のアイルランドをめぐる叙事詩。Dermot MacMorroghは当時のアイルランド貴族の名〕の出版の手配をし,時々思い出したように彼の父〔ジョン・アダムズは182674日に死去〕の伝記の執筆を行って1767年まで進め,遺言書を書き直し,マウント・ウォラストン〔マサチューセッツ州クインジー所在のアダムズ家の地所〕に木を植えて過ごした。彼は,ハリソン・グレイ・オーティス〔かつては若きJQAの友人であったが,ジェファソン政権(1801-1809年)の対英強硬政策に対する姿勢(JQAは賛成,JQAの地元は反対)をめぐって政敵になっていたボストンの有力者〕の訪問を受けた。オーティスは,議席割当てに関する連邦議会における激しい議論において,ニュー・イングランドの利益を守ってくれたことについてアダムズに礼を述べた。長かった諍いは終わりを迎えた。アダムズはもはや,ハートフォード会議181412月にニュー・イングランドの親英派がハートフォードで開催した会議。合衆国からの離脱を決議するまでには至らなかった。〕に係る,本一冊ほどの分量のある攻撃文書を公にしようなどという気は起こさない。(James Traub, John Quincy Adams: militant spirit (New York: Basic Books, 2016), p.402. 下線は筆者によるもの)

 

1965年の米国連邦議会下院の文書(89th Congress, 1st Session; House Document No.250)はもう少し詳しく,1832年のJQAの日記“vol. III pp.471-472”とありますが,これは活字印刷された公刊本でしょうか。JQA日記の自筆原本はマサチューセッツ歴史協会のウェブサイトで公開されているのですが(http://www.masshist.org/jqadiaries/php.),筆者にはJQAの手書きの文字は難物で,何月何日の記事であったものかつまびらかにできません。)から,次の記述を引用しています。

 

  私は全く眠れない一夜を過ごした。法案の不正(iniquity)及びかくも偏頗(partial)かつ不正義(unjust)な代表の割当てをもたらしたそのいかがわしい方法論(disreputable means)が私を憤らせ,私は目を閉じることができなかった。私は一晩中,この重大な衝撃をマサチューセッツ及びニュー・イングランドが被ることがないようにする手立て(device)がもしや何かないものかと思いを巡らしていた。(History of the House of Representatives, p.21

 
 JQAからアダムズ方式の提案を受けた同じ頃,ウェブスター委員長は,ヴァモント大学のジェームズ・ディーン教授からもディーン方式(端数の切上げ又は切捨ては,どちらを採用した方が当該州の1議員当たりの基準人口概数が基準除数(1792年法の場合は33,000)に近くなるか(差が小さくなるか)によって決めるBDM)の提案を受け,更には自らもウェブスター方式(端数が0.5を超えれば切上げ,超えなければ切下げとするBDM。どちらを採用した方が当該州の基本人口概数1当たりの議員数が基準除数の想定する基本人口概数1当たり議員数(基準除数の逆数)に近くなるか(差が小さくなるか)によって端数を切り上げるか切り捨てるかを決めるBDMともいえます。)を考案します(Guerrero & Biles, pp.6-7)。切上げ・切捨てを判断するための閾値は,ウェブスター方式ではquota原値の前後の整数に係る算術平均値,ディーン方式では調和平均値である,ということになります(Guerrero & Biles, pp.6-7)。しかしながら,これらジェファソン方式に代わる方式について上院のウェブスター委員会でのアイデア提示はあったものの,連邦議会は結局従来からなじんだジェファソン方式を継続することにしますGuerrero & Biles, p.7。ただし,米国国勢調査局のウェブページによると,JQAは,ウェブスター方式(アダムズ方式ではない!)の採用を求めて頑張っていたそうです(https://www.census.gov/history/www/reference/apportionment/apportionment_legislation_1790_-_1830.html)。)。

 いやはや,やはりまだまだジェファソンですか,と嘆息されたものかどうか。切捨て派ジェファソンの回顧録を1831年に読んだ切上げ派JQAの感想は次のようなものでした。

 

  ジェファソンは,と彼は思った,自分に甘過ぎて,理屈では分かっている奴隷制の悪についてもそうだが,彼自身の幸福のためにならない真実を受け容れることができなかった。彼が有していた「記憶力は,彼の意思のためには実に迎合的なもの(so pandering)であったので,他者を欺くに当たっては,彼は自らを欺くことから始めていたようである。」彼は神も死後の世界も恐れなかった。「偉大な目的と強力な資質とに恵まれた精神におけるこのような情況がもたらすものといえば,不誠実と二枚舌と(insincerity and duplicity)であって,これらは彼の生涯に付きまとう罪であった。」ジェファソンは,一言でいえば,偉大な才能はあるが志操薄弱な(with great talents but weak principles)人間の典型であった。(Traub, p.391

 

 ルイ16世治下ベルサイユのばら時代の1784年のパリで出会った頃には,41歳のジェファソン公使は,17歳の青年JQAの崇拝を享受していたのでしたが・・・。

1832年の下院議員数割当ての際辣腕を振るったのが下院の割当委員会の委員長であり,かつ,数学に強かったジェイムズ・K・ポークであって(ポークは,当時のジャクソン大統領の地元であるテネシー州からの選出。後に第11代大統領(1845-1849年在任)となって米墨戦争を遂行),ジェファソン方式を前提に,基準除数が47,700というあえて丸まっていない数になるよう政略を働かせ,ジョージア,ケンタッキー及びニュー・ヨークというジャクソン大統領にとって政治的に重要とされる州(ただし,ケンタッキーは1832年選挙における対立大統領候補となるヘンリー・クレイ(JQA政権の国務長官)の地元であって,実際にもクレイが獲得しています。)に余分の議席を確保することに成功しています(Guerrero & Biles, p.7)。1832年秋の大統領選挙は,結果としてはジャクソンが大統領選挙人219人を獲得して,同49人のクレイに対して圧勝しますが(一般投票得票率は,ジャクソンが55パーセント弱,クレイは約37パーセント),その直前までは接戦が予想されており,在米の一英国外交官も,選挙は下院での決戦投票に持ち込まれ結果としてジャクソンが敗れるものとの予想をしていたところです(Meacham, p.220)。

なおちなみに,ジェファソン方式下において,1790年国勢調査を承けた下院議席割当てに際しての基準除数は33,000で,結果としての下院総議席数は前記のとおり105でありましたが,1800年の国勢調査を承けた割当てでは基準除数33,000で下院総議席数は1411810年の国勢調査を承けた割当てでは基準除数35,000で下院総議席数は1811820年の国勢調査を承けた割当てでは基準除数40,000で下院総議席数は2141830年の国勢調査を承けた割当てでは基準除数は47,700で下院総議席数は240となっています(Guerrero & Biles, p.5)。ポークは,総議席数が丸くなることをもって,基準除数47,700という中途半端な数を正当化したものでしょうか。

 

6 ウェブスター方式並びにハミルトン方式及びその欠点

 1840年の国勢調査を承けた1842年の割当ての議論においては,十年前のポークの深謀に倣おうということで,実に多くの基準除数の提案がされました。最終的には,後の第15代大統領(1857-1861年在任。リンカンの前任)となるジェイムズ・ブキャナン上院議員が提案した70,680が採用された上,端数処理は新たにウェブスター方式によってなされ,下院総議席数は233となることとなりました(Guerrero & Biles, pp.7-8)。

 1850年にはサミュエル・ヴィントン下院議員(ホィッグ党,オハイオ州)の提案に係る法律(1850年ヴィントン法)が成立し,下院の総議席数をまず決めた上でのハミルトン方式での議席割当てが再導入されます(Guerrero & Biles, p.8)。

しかし,ハミルトン方式は,「アラバマ・パラドクス」(総議席数が増えたのに,割当議席数が減る州が生ずる。),人口増加パラドクス(人口がより早く増加する州が人口増のより遅い州に対して議席を失う。),新加入州パラドクス(新しい州が合衆国に加入し,その分の下院議席の追加割当てを受けた場合において,新たな下院総議席数に基づいて再計算してみると,他の州の割当議席数が変動すること。)のような困難な問題を発生させる欠点を有しており,連邦議会において弥縫策が多々講じられるに至っています(Guerrero & Biles, p.8)。1900年の国勢調査を承けた割当ては,当初はハミルトン方式(総議席数384を前提とする。)で始められたものの,最終的にはウェブスター方式で処理されることになりました(結果として総議席数は386)(ibid.)。

「アラバマ・パラドクス」は,総議席数の増加に伴い各州のquotaの数値も比例的に増加するところ,もとのquotaの数値が小さいとその際端数の増加幅の絶対値も小さくなってしまい,その結果増加幅の絶対値が大きい大quotaの州との間で端数の大小に逆転が生ずることが原因であるようです(大和毅彦「議員定数配分方式について――定数削減,人口変動と整合性の観点から――」オペレーションズ・リサーチ20031月号25頁参照)。人口増加パラドクスが起こる場合については,全国の人口増加速度(増加率)>大州の人口増加速度(増加率)&小州の人口増加速度(増加率)である場合,下院の総議席数が一定であるときには大小両州とも全国との関係でquotaが減少しなければなりませんが,大州の方がquota減少の絶対値が大きくなるので(同じ1割減でも10からのそれと1からのそれとでは絶対値が異なります。),小州の人口増加速度が大州のそれよりも遅い場合であっても,quotaの端数の価の逆転が起こり得るということのようです(大和25-26頁参照)。


7 修正除数方式:ウェブスター方式及びハンティントン=ヒル方式

 1910年に米国連邦議会は,ハミルトン方式から,修正除数方式(MDM)にはっきりと移行します(Guerrero & Biles, p.8)。

MDMにおいては,①総議席数の決定,②基準除数の決定,③各州の人口(南北戦争を経て,合衆国にはもう奴隷はいません。)を基準除数で除してその商(quota)を得る,④③の商の端数処理をして(その処理方式として,ジェファソン方式,アダムズ方式,ディーン方式,ウェブスター方式等),各州の割当議員数候補値を得る,⑤④の各州割当議員数候補値を合計して,合計値が①の総議席数に合致すれば終了,合致しなければ②に戻る,との5段階処理ループが設定されます(Guerrero & Biles, p.9)。すなわち例えば我が公職選挙法137項は,上記①の総議席数を176,④の端数処理方式を切上げ(アダムズ方式)としたMDMですね。

1910年の米国国勢調査に基づく下院議員数割当てに係るの①の数は433,④の方式はウェブスター方式であって,1920年の国勢選挙に基づいた下院議員数割当ては禁酒法時代の議会の紛糾で実施できず,1930年の国勢調査に基づく下院議員数割当ての①は435,④はウェブスター方式でした(Guerrero & Biles, p.9)。

 1940年の国勢調査に基づく下院議員数割当てからは,①の数を435,④の方式をハンティントン=ヒル方式(切上げ・切捨てを判断する閾値をquota原値の前後に係る自然数の幾何平均値とする方式。下院議員1人当たりの州人口と基準除数との比率がより1に近くなる方の自然数を割当議員数として採用することになります。)とするMDMが用いられています(Guerrero & Biles, p.9)。国勢調査局(Bureau of the Census)職員のジョーゼフ・A・ヒルが1911年に当該方式を考案し,ハーヴァード大学の数学及び機械工学の教授であるエドワード・V・ハンティントンが1920年から当該方式の採用を提唱していたものです(Lucas & Housman, p.20)。民主党支配下の連邦議会において1942年にハンティントン=ヒル方式が法制化されましたが,早分かりのその採用理由は,ウェブスター方式の端数処理であると共和党優位のミシガン州に1議席が行くが,ハンティントン=ヒル方式であれば,代わって民主党優位のアーカンソー州に1議席が来るからであった(したがって,ハンティントン=ヒル方式に共和党は反対,民主党は賛成(ただし,ミシガン州選出の民主党議員はさすがに反対)),ということだったそうです(Lucas & Housman, p.21)。理論的には,ハンティントン=ヒル方式はquota methodではないところから,「アラバマ・パラドクス」及び「人口パラドクス」を避けることができるが,クォータ原則違反が発生する可能性があり,また,やや小州にとって有利な割当結果をもたらすものであるそうです(ibid.)。

 

ここで算術平均のウェブスター方式,幾何平均のハンティントン=ヒル方式及び調和平均のディーン方式間の具体的違いを見てみましょう。例えば某州についてその人口を基準除数で除して得られた商たるquotaの値が12との間(1<q<2)であれば,当該quota値とその前後1及び2という二つの自然数の平均値(算術平均値,幾何平均値又は調和平均値)との比較をして,quota値が当該平均値より上ならば2議席,下ならば1議席が割り当てられることとなるわけですが,12との算術平均値は1.5=(1+2)/2),幾何平均値は1.41421356…=(1x2)),調和平均値は1.333…=2/(1/1+1/2))となります。したがって,某州のquota1.4であれば,ウェブスター方式では1議席(q<1.5),ハンティントン=ヒル方式でも1議席(q<1.41421356…),ディーン方式なら2議席(q>1.333…)ということになります。切上げ方式のアダムズ方式ならば,細かい計算なしに2議席です。他方,切捨て方式のジェファソン方式ならばquota1.999…でも1議席,ハミルトン方式ならば端数(0.4)の大きさを他州と比べることになります。(なお,23との平均値は,算術平均ならば2.5=(2+3)/2),幾何平均ならば約2.44949(=(2x3)),調和平均なら2.4=2/(1/2+1/3))となります。)


8 ハミルトンからJQAへ,そして日本へ 


(1)1人別枠方式+ハミルトン方式からいわゆるアダムズ方式へ

 1994年の制定時から20121126日公布の平成24年法律第953条によって同日から削られるまでの衆議院議員選挙区画定審議会設置法3条旧2項は,「前項の改定案の作成に当たっては,各都道府県の区域内の衆議院小選挙区選出議員の選挙区の数は,1に,公職選挙法(昭和25年法律第100号)第4条第1項に規定する衆議院小選挙区選出議員の定数に相当する数から都道府県の数を控除した数を人口に比例して各都道府県に配当した数を加えた数とする。」と規定していました。衆議院小選挙区選出議員の定数に相当する数(小選挙区の総数)から,まず各都道府県に1区ずつを配当し(これは,最高裁判所大法廷平成23323日判決・民集652755頁では「1人別枠方式」といわれています。),当該配当後に残った小選挙区数を,今度は「人口に比例して」各都道府県に配当するものでした。しかしてここでの「人口に比例して」部分に係る各都道府県への小選挙区数の配当方式は,法律レヴェルでは規定されていませんでしたが,実はハミルトン方式で行われていました(大和24-25頁及び総務省統計局のなるほど統計学園高等部ウェブサイトの「選挙区割りの見直し」ウェブページ参照)。

 最大判平成23323日が,2009830日施行の衆議院議員総選挙(これは,民主党等による鳩山由紀夫内閣の成立に至ることとなった総選挙でしたね。)に関して,その施行当時には「本件区劃基準〔衆議院議員選挙区画定審議会設置法3条が定めている基準〕のうち1人別枠方式に係る部分は,憲法の投票価値の平等の要求に反するに至っており」と述べて1人別枠方式は憲法の要求に反しているとの判断をしたことにより,平成24年法律第95号によって「1人別枠方式+ハミルトン方式」の衆議院議員選挙区画定審議会設置法3条旧2項が削られ,その後の検討を経た上での平成28年法律49号によっていわゆるアダムズ方式を採用した衆議院議員選挙区画定審議会設置法3条新2項及び公職選挙法137項が設けられるのに至ったのでした。1人別枠方式については,最大判平成23323日の紹介するところでは,「法案提出者である政府側から,各都道府県への定数の配分については,投票価値の平等の確保の必要性がある一方で,過疎地域に対する配慮,具体的には人口の少ない地方における定数の急激な減少への配慮等の視点も重要であることから,人口の少ない県に居住する国民の意思をも十分に国政に反映させるために,定数配分上配慮して,各都道府県にまず1人を配分した後に,残余の定数を人口比で配分することとした旨の説明がされている。」とのことでしたところ,人口の少ない県に特に配慮するものである1人別枠方式は,確かに小州を優遇するアダムズ方式に親和的です。ハミルトン方式に代えるに宿敵ジェファソンの名を冠したジェファソン方式ではハミルトンが可哀想だ,というような,ブロードウェイ・ミュージカルのファン的おもんぱかりがあったわけではありません。大州優遇のジェファソン方式では,ハミルトン云々以前に,1人別枠方式を失うことによって小さな県が被った傷口に更に塩を擦り込むことになるばかりだったということでしょう。

 採用に至った理由はともかくも,ハミルトンを排してJQAを採ったことになる我が国会の判断は,JQAの父たる泉下のジョン・アダムズを喜ばせたことでしょう。ハミルトンは敵の多い人物でしたが,2代目合衆国大統領にも激しく憎まれていました。

 

  彼JQAの父は,アダムズ大統領と決裂して,1800年の選挙〔再選を目指す現職大統領のジョン・アダムズが副大統領のジェファソンに敗れた大統領選挙〕においてはアダムズに代えて副大統領候補のトーマス(ママ)・ピンクニー1800年の選挙についてならばチャールズ・コーツワース・ピンクニーの誤りでしょうか。トーマスがジョン・アダムズと共に候補になったのは,1796年の大統領選挙です。〕を推そうと党員を唆した連邦党員アレグザンダー・ハミルトンに対する預言者的怒りで一杯であった。1802年頃には〕老アダムズは彼の自伝を執筆中であり,そこにおいて彼は,彼に逆らった全ての者を暴き出す計画であった。(Traub, p.115

 

(2)「日米同盟」の同床異夢?

とはいえ,「日米同盟」もあらばこそ,議員数割当方式の呼称は,我が国では必ずしも米国式に統一されていません。ハミルトン方式はヘア式最大剰余法と呼ばれ(前記なるほど統計学園高等部ウェブサイトの「選挙区割りの見直し」ウェブページ参照),ジェファソン方式がドント方式,ウェブスター方式はサンラグ方式と呼ばれています(20141120日に衆議院議長公邸で開催された衆議院選挙制度に関する調査会(第4回)の議事概要を見ると,事務局から「除数方式による定数配分方式のうち,各都道府県の人口を任意に設定した除数(例えば人口何万人というような形で設定)で割り,小数点部分を切り捨てるものがドント方式,四捨五入するものがサンラグ方式,切り上げるものがアダムズ方式であるとの説明の後,アダムズ方式については,最初に配分される定数1は,それ以降の定数と同一の計算から決まるものであり,全ての団体について人口を除数で割った商に小数点以下の端数が立つ場合は,繰り上げてプラス1の形で定数が配分されることになり,計算過程に1人別枠という考え方は一切入っておらず,ディーン方式,ヒル方式についても同様である」との説明がされています。)。

我々日本人は,義務教育段階から英語と格闘させられて,米国のことをお勉強させられたような気分になってよく知っているつもりでいても,所詮内在的理解まで達することは到底できないものか。

(3)日米関係事始におけるフィルモア政権国務長官

アメリカ独立宣言の起草者たるジェファソン,10ドル札のハミルトンを知らないのでは,確かにちょっと「同盟国の知識人」(づら)できなくて恥ずかしいというのは分かるけど,ウェブスターまでは勘弁してよ,との苦情があるかもしれません。とはいえ,ダニエル・ウェブスターは,日本開国のためにペリー艦隊を派遣したフィルモア政権(1850-1853年)の国務長官だったのですぞ(ただし,ペリーが出航する18521124日の1箇月前の同年1024日に死亡)。

ちなみに,1852116日にウェブスターの後任国務長官となり,ミラード・フィルモア大統領から日本帝国皇帝に宛てられた親書(同月13日付け)の起草に当たったエドワード・エヴァレットは,JQAのハーヴァード大学ボイルストン修辞学教授時代(1806-1809年)の学生の一人でした(Traub, p.144)。当該親書は嘉永六年六月九日(1853714日),久里浜において幕府応接掛戸田氏栄に手交されます。当時の和訳には味わいがあってよろしいのですが(https://www.ndl.go.jp/modern/img_t/001/001-002tx.html),つい試みてしまったフィルモア親書に係る屋上屋の拙訳は次のとおりです。

 

   偉大にして善良なる友へ。私は,この公書簡を,合衆国海軍最高位の士官であり,かつ,皇帝陛下の版図を現在訪問中である艦隊の司令官であるマシュー・C・ペリー代将を通じてお届けします。

   私は,ペリー代将に対して,私は陛下御自身及びその政府に対して最も温かい感情を抱懐しており,かつ,合衆国と日本国とが友好関係のうちに共存するとともに相互に通商関係を有すべきことを皇帝陛下に御提案すること以外の目的をもって同人を日本国に派遣するものではないことを皇帝陛下に明らかにするように指示しております。

   合衆国の憲法及び法律は,他国の宗教的又は政治的な問題に係る全ての干渉を禁じています。特に,ペリー代将に対して私は,皇帝陛下の版図の静穏を害する可能性のあるあらゆる行為を行わないように命じております。

   アメリカ合衆国は大洋から大洋までの広がりを有し,我々のオレゴン準州及びキャリフォーニア州は,皇帝陛下の版図に正対して位置しております。我々の蒸気船は,キャリフォーニアから日本国まで18日間で達することができます。

   我々の大いなるキャリフォーニア州は,銀,水銀,宝石及び多くの他の価値ある物産に加えて毎年約6千万ドル相当の金を産出しています。日本国もまた,豊かかつ肥沃な国であり,多くの非常に価値ある物産を産出しています。皇帝陛下の臣民は多くの技芸に長じています。日本国及び合衆国双方の利益のために,我々両国が相互に貿易を行うことを私は望んでおります。

   皇帝陛下の政府の古き法が清人及びオランダ人とのもの以外の外国貿易を許していないことは,我々の承知しているところです。しかしながら,世界の情勢は変化し,かつ,新らたな諸政府が樹立されますところ,時宜に応じて新たな法を定めることが賢明であるものと思われます。皇帝陛下の政府の古き法が初めて定められましたのは,昔のことでありました。

   ほぼ同じ頃,ときに新世界と呼ばれるアメリカが初めて発見され,ヨーロッパ人が入植しました。長いこと人口は少なく,かつ,彼らは貧しくありました。現在に至りまして,彼らの数は非常に多くなり,彼らの商業は大いに拡大し,そして彼らは,もし皇帝陛下によって古き法が改められて両国間の自由な貿易が許されるようになれば双方にとって極めて有益なこととなろうと考えております。

   外国貿易を禁ずる古き法を一挙に廃しても全く安全である,と皇帝陛下が御得心されないのであれば,試験的に5ないしは10年の間それらの法を停止することもあり得ましょう。期待したような利益がないことが明らかになれば,古き法を復活させることができます。合衆国は,しばしば外国との条約に数年の期限を付し,更新の有無をその都度判断しています。

   皇帝陛下にもう一つの事項を申達するよう,私はペリー代将に指示しています。毎年多くの我々の船舶がキャリフォーニアから清国まで航海し,また,多数の我々の人民が日本国近海で捕鯨漁に従事しています。荒天時において,我々の船舶が皇帝陛下の海岸に打ち上げられることが時折生じております。このような全ての場合において,我々が艦船を派遣して彼らを引き取ることができる時まで,我々の不幸な人民が親切に取り扱われ,かつ,彼らの財産が保護されんことを我々は求めるとともに,期待するものであります。我々は,本件について,極めて真剣な関心を有しております。

   更にペリー代将は,日本帝国には石炭及び糧食が極めて豊富であるものと我々は認識していることを皇帝陛下に伝達するよう,私から指示されています。広大な大洋を渡るに当たって,我々の蒸気船は大量の石炭を焚焼させますが,それらをはるばるアメリカから持参することは便利なことではありません。我々の蒸気船及び他の艦船が日本国に寄港し,石炭,糧食及び水の供与を受けることが許されることを我々は望んでいます。支払は,金銭又は皇帝陛下の臣民の好む他の物をもってされるでしょう。また,当該目的のために我々の艦船が寄港することのできる一の便宜な港を,帝国の南部において,皇帝陛下が指定されることを我々は求めるものです。我々のこれを要望するところ,切であります。

   友好,通商,石炭及び糧食の供給並びに海難に遭った我々の人民の保護。これらが,皇帝陛下の誉れ高き江戸市を強力な艦隊と共に訪問すべく私がペリー代将を派遣した目的の全てです。

   いささかの贈り物を皇帝陛下が嘉納されるよう,我々はペリー代将に指示を与えています。それら自身は高価なものではありません。しかしながら,合衆国において製造された物品の見本となるものがありますでしょうし,また,それらは,我々の真摯かつ敬意に満ちた友情の証たるべきものであります。

   全能者の大いにして神聖な加護が皇帝陛下にありますように!

   上記の証として,18521113日,我が政府の所在地であるアメリカのワシントン市において,予は合衆国国璽をここに鈐せしめ,かつ,署名せり。

 

   (国璽印影)

   善良なる友

  ミラード・フィルモア

 

  大統領の命により

   国務長官エドワード・エヴァレット


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A monument at Natsu-shima (Natsu Island), which was once nicknamed WEBSTER Island by the then-Yedo-Bay-intruding Perry squadron (The "island" is now connected by later land reclamation to the Yokosuka mainland, Kanagawa.)

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Commodore Matthew C. Perry (in Hakodate, Japan) 


(4)米国のオレゴン及びキャリフォーニア領有並びにモンロー政権国務長官による大陸横断条約という布石

 「アメリカ合衆国は大洋から大洋までの広がりを有し,我々のオレゴン準州及びキャリフォーニア州は,皇帝陛下の版図に正対して位置しております。(The United States of America reach from ocean to ocean, and our Territory of Oregon and State of California lie directly opposite to the dominions of your imperial majesty.)」ということはすなわち,米国による日本の開国は,米国領土拡大の太平洋到達に続くところの必然的な成り行きであったということでしょう。

 米国によるオレゴン地方(Oregon Country)併合は1846年,キャリフォーニア(通常「カリフォルニア」と表記されますが,これは,英語を片仮名にしたというよりは独自の日本語でしょう。英語の発音に近づけた表記である田中英夫『英米法総論』(東京大学出版会・1980年)の表記を採用してみました。)のメキシコからの獲得は1848年のことでした。

それらの前史として1819222日に米国国務長官とスペイン駐米公使ドン・ルイス・デ・オニスとが署名した米西「大陸横断(Transcontinental)」条約が,北米のスペイン領土と米国との間の国境線を太平洋までの北緯42度線(現在のキャリフォーニア州とオレゴン州との州境)と定めています(ただし,当初米国側は,北緯41度の国境線を要求していました(Traub, p.228)。)。1818年夏のオニス公使との交渉において米国国務長官はその要求するところを地図上の「ミズーリ川の北に線を引き,「そこから太平洋まで真っすぐに」延ばして」示しましたが,「これが,アメリカの主権を大洋から大洋まで拡張することをアメリカの外交官が提議した最初の場面であるとみられる」ところです(Traub, p.224)。北緯42度線の北がオレゴン地方ですが,同地は,米英戦争中に米国勢力が撤退し,英国勢力が進出した後,モンロー大統領(1817-1825年在任)の指示を受けた同政権の国務長官が軍艦オンタリオを派遣してそこに米国国旗を再び掲げしめて巻き返し(Traub, p.225),18181020日にロンドンで署名された米英協定によって米英の共同管理地ということになっていました。

 モンロー政権の国務長官は,もちろんJQAです。

大陸横断条約に関し,「私の人生において,恐らく最も重要な日」たる同条約署名の日の日記にJQAは記していわく,「南海〔the South Sea=太平洋〕に至る確定した国境線の承認は,我々の歴史における偉大な時代(a great Epoch in our History)を画するものである。交渉中,本件に係る最初の提案をした者は,私であった。」と(Traub, p.231)。英国との関係でオレゴン地方がどうなるかは予断を許さないものの(つまり,北からの英国領土が南のスペイン領土に直に接することになって,米国の太平洋への出口がふさがれてしまう可能性はなおあったものの),当該「(ライン)」は,米国の「将来の目的に係る宣明」でありましたTraub, p.228)。JQAの昂揚の理由は,彼による当該布石がもたらすであろう太平洋における米国(及び日本を含む太平洋諸国)の「偉大な時代」に係る予感にあったわけです。

 1846年の米英オレゴン協定(同年615日署名)によって米国がオレゴンを単独領有することになりましたが,当該協定の成立に向けて,モンロー政権の国務長官たりしJQA下院議員は,もちろん強硬な賛成派でした。フィルモア親書中,オレゴン準州への言及部分は,JQAとしては我が意を得たりとするところだったものでしょう。オレゴンの次に,対岸の日本が来るのは自然です(エヴァレットくん,そのとおり!)

 他方,キャリフォーニアの獲得(1846年から始まった米墨戦争の終結に係る184822日署名(ただしその後修正あり。)のグアダルーペ・イダルゴ条約によるもの)については,JQAはそもそもの米墨戦争自体に大反対でした。新領土に対する米国南部からの奴隷制の拡張を恐れたからです(せっかく自分がオニスを締め上げて締結したのに,米国の太平洋岸領土画定に係る大陸横断条約の意義が,メキシコとの新たな講和条約で上塗りされて消されてしまうのが残念だ,というようなけちな料簡ではなかったものでしょう。)。したがって,フィルモア親書中,キャリフォーニア州関係部分は,JQAとしては不本意と感ずるものだったでしょう(なお,キャリフォーニア自体は,ヘンリー・クレイによる「1850年の妥協」の結果,自由州として合衆国に加入しています。)。米墨戦争はJQAに祟っています。

 

   〔18482月〕21日,アダムズは連邦議会に正午頃到着した。彼の前には,恐らくヴァッテマールの図書館提案〔フランス人ヴァッテマールは,図書館間における本の交換制度を提案していました。〕に係るものであろう書類の束があった。目下の議事は,対墨戦争の英雄に対して連邦議会の感謝を表明するとともに8名の功績顕著な将軍のために金貨を鋳造する権限を〔ポーク〕大統領に付与することを内容とする決議に係るものであった。アダムズは,当該戦争に係るあらゆる形態の是認行為に対して反対し続けていた。点呼投票が行われ,アダムズは――一報告者が後に記したところによると――「断乎とした様子で,かつ,常よりも大きな声」で「反対(ノウ)」と叫んだ115分,〔ウィンスロップ〕下院議長は議案を第3回の最終採決にかける準備をしていた。『ボストン解放者・共和主義者』新聞のヘンリー・B・スタントンが15ないし20フィート離れたところにすわって見ていると,アダムズは明らかに興奮して紅潮し,不明瞭な声でいくつかの発言をした。続いて老人80歳〕は,死人のように蒼白になった。「彼の右手は神経質に机の上を動いた。」とスタントンは記している。「それは何物かをつかもうとするかのようだった。」下院議長に向かって発言しようとするかのようにアダムズの唇は動いた。しかし声は出なかった。「次に机上の彼の手の動きはより痙攣的となり,彼はそれを,机の角をつかむために伸ばしているように見えた。」

   人々が立ち上がり動き回っているさなかにあって,老人の苦悶に気が付いていたのは当該記者だけであった。と,身体を真っ直ぐに支えようとしてなお机をつかみつつ,アダムズは左側に倒れ始めた。「アダムズさんが死んでしまう!」との叫び声が上がった。幾人かの議員が,彼を支えようとして駆け寄った。(Traub, pp.525-526

 

  〔前略〕数十年の長い間アダムズのライヴァルであり,かつ,同僚であったヘンリー・クレイが下院議長室にやって来た。彼は無言のままアダムズの傍らに立ち,彼の手を取り,そして泣いた。元大統領は今や昏睡状態にあった。彼はなお,その日及びその翌日一杯を生きた。(Traub, p.526

 

三日目の184822319時過ぎ,米国連邦議会の下院議長室で,JQAは息を引き取りました。

 



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1 保釈された外国人被告人の逃亡に係る罪

 

(1)「主権干犯」論

 刑事事件で公訴を提起された外国人が保釈されていたところ,その間我が国の入国審査官の知らぬうちに我が国から出国してその出身国に戻ってしまうということは,我が国の主権を干犯するとんでもない大罪である,というような議論があるようであるところです。

 しかし,罪刑法定主義(大日本帝国憲法23条)からすると,「大罪」の具体的な根拠条文の指摘が欲しいところです。当該外国人の当該行為は,どのような罪に該当するのでしょうか。

 

(2)逃走の罪の不成立

 刑法に逃走罪ってのがあったからそれだよね,というわけにはいきません。

 刑法(明治40年法律第45号)の第6章(第97条から第102条まで)の逃走の罪においてその逃走が問題になる者は,①裁判の執行により拘禁された既決若しくは未決の者(同法97条),②勾引状の執行を受けた者若しくは①の者(同法98条)又は③法令により拘禁された者(同法99条から第101条まで)です(なお,同章の罪の未遂は罰せられます(同法102条)。)。保釈された者は,勾留による拘禁から正に解放された状態にあるので,本件帰国外国人は刑法第6章の罪を犯したことにはならないようです。

 

(3)入管法71条・25条2項(確認を受けざる出国既遂)

 入国審査官の知らぬうちに我が国から出国してしまったということは,出入国管理及び難民認定法(昭和26年政令第319号。以下「入管法」といいます。)252項に違反して出国した者として,同法71条によって1年以下の懲役若しくは禁錮若しくは30万円以下の罰金に処され,又はその懲役若しくは禁及び罰金が併科されることになります。

 入管法25条は,次のとおり。

 

   (出国の手続)

25条 本法外の地域に赴く意図をもつて出国しようとする外国人(乗員を除く。次条において同じ。)は,その者が出国する出入国港において,法務省令で定める手続により,入国審査官から出国の確認を受けなければならない。

2 前項の外国人は,出国の確認を受けなければ出国してはならない。

 

 入管法251項の出国の確認は,原則として,旅券に出国の証印をしてされます(出入国管理及び難民認定法施行規則(昭和56年法務省令第54号)274項。昭和56年法律第85号による改正前の入管法25条は,「旅券に出国の証印を受けなければならない」及び「旅券に出国の証印を受けなければ出国してはならない」とのみ規定していました。)。

 

2 外国人の本邦から出国する自由及びその制限に係る入管法25条の2

 

(1)外国人の本邦から出国する自由

 「外国人は本来,本邦から出国する自由,自国に帰る自由を有しているのであり,出国の確認は,出国しようとする外国人が本邦外の地域に赴く意図をもって出国するという事実を「確認」する行為であり,許可ではない。ただし,第25条の2の規定により出国確認の留保を受けることがある。」と説かれています(多賀谷一照=高宅茂『入管法大全――立法経緯・判例・実務運用――第1部 逐条解説』(日本加除出版・2015年)406頁)。

市民的及び政治的権利に関する国際規約(昭和54年条約第7号)122項は「すべての者は,いずれの国(自国を含む。)からも自由に離れることができる。」と規定しています。ただし,同条3項には「〔略〕2の権利は,いかなる制限も受けない。ただし,その制限が,法律で定められ,国の安全,公の秩序,公衆の健康若しくは道徳又は他の者の権利及び自由を保護するために必要であり,かつ,この規約において認められる他の権利と両立するものである場合は,この限りでない。」とあります。

 

(2)入管法25条の2

 入管法25条の2の出国確認の留保制度は,市民的及び政治的権利に関する国際規約123項の法律で定められた出国の自由の制限に係るものということになります。

 

   (出国確認の留保)

  第25条の2 入国審査官は,本邦に在留する外国人が本邦外の地域に赴く意図をもつて出国しようとする場合において,関係機関から当該外国人が次の各号のいずれかに該当する者である旨の通知を受けているときは,前条〔第25条〕の出国の確認を受けるための手続がされた時から24時間を限り,その者について出国の確認を留保することができる。

   一 死刑若しくは無期若しくは長期3年以上の懲役若しくは禁錮に当たる罪につき訴追されている者又はこれらの罪を犯した疑いにより逮捕状,勾引状,勾留状若しくは鑑定留置状が発せられている者

   二 禁錮以上の刑に処せられ,その刑の全部につき執行猶予の言渡しを受けなかつた者で,刑の執行を終わるまで,又は執行を受けることがなくなるまでのもの(当該刑につき仮釈放中の者及びその一部の執行猶予の言渡しを受けて執行猶予中の者を除く。)

   三 逃亡犯人引渡法(昭和28年法律第68号)の規定により仮拘禁許可状又は拘禁許可状が発せられている者

2 入国審査官は,前項の規定により出国の確認を留保したときは,直ちに同項の通知をした機関にその旨を通報しなければならない。

 

 入管法25条の2の規定は,昭和56年法律第85号による入管法改正によって新設されたものです。しかしこれは反対解釈すると,入管法25条の2が設けられるまでは,保釈中の外国人刑事被告人が大きな箱の中に隠れたりなどせずに堂々と入国審査官に対して旅券に出国の証印をする手続を求めた場合においては,当該入国審査官としては当該外国人さまの出国の自由を妨げることはできず,淡々と,本邦外の地域に赴く意図をもって出国しようとするのですねと確認してその旅券に出国の証印をして,当該外国人を出国せしめていたということになります。神州の清潔を穢す不良外国人については,自分から出て行きたいというのならば,刑事訴訟などという面倒な手続の終了を待たずに自費でとっとと出て行ってもらえばかえってすがすがしくてよいではないか,あとは塩でも撒いておけ,とそれまでは判断されていたもののようです。我が国の主権干犯の大問題など,どこ吹く風です。

 

  出国確認の留保制度の創設は,重要な犯罪について訴追されている等の外国人について,関係機関から通知があったときは,出国の確認を受けるための手続がされたときから24時間を限り出国確認の手続を留保することができることとしたもので,出国の確認の手続を留保することにより,重要な犯罪について訴追されている等の外国人の国外逃亡を防止し,刑事手続等が適正に実行され得るようにしたものである。本来,外国人の在留管理の面だけから見れば,このような外国人は国外に退去させられるべきであるから,出国することを止める理由はないということにもなるが,刑事司法の適正な運用を確保する必要性との調和の上に立って本制度が設けられたのである。(多賀谷=高宅409頁注113)の引用する「昭和61年度入管白書」13頁。下線は筆者によるもの)

  

「入国審査官が出国を留保できるのは24時間が限度であり,関係機関は24時間以内に逮捕等の所要の措置を執ることが必要である。24時間経過後に,その外国人が当該出入国港から再度出国しようとする場合に,再度の出国確認の留保をすることはできない」そうです(多賀谷=高宅410頁)。なかなか忙しい。年末年始などは迷惑でしょう。「死刑又は無期若しくは長期3年以上の懲役若しくは禁錮に当たる罪について起訴されている外国人について,海外渡航を禁止する旨の条件を付して保釈を許可した場合〔刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)933項参照〕には,24時間を限度として出国確認留保の手続ができる(入管法25条の2)。この場合には,出国確認留保通知依頼書を対応する検察庁の検察官に送付するのが実務上の取扱いであるが(昭和561225日付け最刑二第260号最高裁刑事局長・同家庭局長通達「外国人被告人の出国確認留保の通知に係る事務の取扱いについて」に詳しい運用が記載されている),出国確認の留保は当然には身柄の拘束を伴わないので,直ちに身柄を拘束できるようその運用に留意しなければならない。」とは,裁判官側からの観察です(大島隆明「外国人被告人の保釈」『新実例刑事訴訟法Ⅱ』(青林書院・1998年)175頁)。入国審査官が出国留保と共に「直ちに」検察官に通報を行い(入管法25条の22項),当該通報を受けた検察官は裁判所又は裁判官(刑事訴訟法280条)に保釈の取消しを請求し(同法9615号・2号),当該裁判所又は裁判官は決定又は命令をもって保釈を取り消し(同項柱書き。ただし,「取消事由があっても,取り消すかどうかは裁量による」ものとされています(松本時夫=土本武司編集代表『条解刑事訴訟法第3版増補版』(弘文堂・2006年)165頁)。),かつ,裁判書の謄本を検察官に送付し(刑事訴訟規則(昭和23年最高裁判所規則第32号)361項本文),検察官の指揮(裁判書の謄本に検察官が認印をします(刑事訴訟法473条ただし書)。)により検察事務官,司法警察職員又は刑事施設職員が勾留状の謄本及び保釈を取り消す決定の謄本を被告人に示してこれを刑事施設に収容する(同法98条)という手続の流れとなります。

「出国確認の留保は当然には身柄の拘束を伴わない」のですから,出国確認の留保中は,当該外国人は自由にその場を離れることができる建前のようです(ただし,出国はできないのはもちろんです(入管法252項)。)。
 

3 入管法71条・25条2項(確認を受けざる出国を企てた場合)と現行犯逮捕

それでは,堂々と出国の確認を受ける手続によらずに,見つからないように大きな箱の中に入ってこっそり出国しようとして出国前に発覚した場合はどうなるかといえば,現行犯逮捕によって身柄が拘束され得ます(刑事訴訟法213条)。すなわち,当該残念な外国人は,入管法252項の規定に違反して「出国することを企てた者」として,1年以下の懲役若しくは禁錮若しくは30万円以下の罰金に処され,又はその懲役若しくは禁及び罰金が併科される犯罪者となるからです(同法71条。現行犯逮捕ができる場合が制限される刑事訴訟法217条の軽微事件には当たりません。)。

「「出国することを企てた者」に当たる場合としては,例えば,密航用船舶を用意して出国しようとした場合などがある。」とされています(多賀谷=高宅715頁)。

ちなみに,入管法71条・252項で現行犯逮捕されても,それだけでは退去強制事由には該当しないようです(同法24条参照)。

 

4 旅券の取上げ

なお,パスポートなんぞ遠慮会釈なく取り上げておけ,と直情径行に言う前に,やはり考えねばならないことがあります。

「海外渡航禁止の保釈条件を実効あらしめるために,旅券を大使館や検察庁,裁判所に事実上預けさせたり,あるいはこれを保釈条件とした例もあったようであるが,外国人には旅券の常時携帯義務があり(入管法231〔なお,同項各号に掲げる者については,旅券ではなく当該各号に定める文書〕),その違反の処罰規定もあるから(同法76条),裁判所が積極的に違法行為を命じるような条件を設定すべきではない。このような保釈条件を付けられるのは,〔在留カード〕を有している外国人に限られよう(入管法231項ただし書〔略〕)。」とのことです(大島175頁)。ただし,日本に長くいてその間悪いことをした外国人は,当然その長期在留に伴う在留カードを有しているものでしょう(入管法19条の3参照)。

 

5 特別背任罪及び重要事項虚偽記載有価証券報告書提出罪の入管法25条の2第1項1号適合性及び権利保釈非排除性

 

(1)入管法25条の2第1項1号適合性

入管法25条の211号にいう「死刑若しくは無期若しくは長期3年以上の懲役若しくは禁錮に当たる罪」に,取締役等の特別背任罪は該当します(会社法(平成17年法律第86号)96013号。10年以下の懲役若しくは千万円以下の罰金又はこれの併科)。重要な事項につき虚偽の記載のある有価証券報告書提出の罪も同様です(金融商品取引法(昭和23年法律第25号)19711号。10年以下の懲役若しくは千万円以下の罰金又はこれの併科)。

 

(2)権利保釈非排除性

ただし,特別背任罪も重要事項虚偽記載有価証券報告書提出罪も,死刑又は無期若しくは短期1年以上の懲役若しくは禁錮に当たる罪ではないので(有期懲役は1月以上(刑法121項)),「保釈の請求があったときは,必ずこれを許さなければならない」権利保釈(平野龍一『刑事訴訟法』(有斐閣・1958年)161頁)はなお可能です(刑事訴訟法891号参照)。

権利保釈の観念は,アメリカ法の影響のもとに導入されたものとされています(松尾浩也『刑事訴訟法(上)補正第三版』(弘文堂・1991年)193頁)。GHQからの最初期の影響としては,先の大戦敗北の翌年である19462月から同年3月ころまでの間(GHQ側には同年220日との資料があるとされています。)に原文が我が司法省に提示された(井上正仁=渡辺咲子=田中開編著『刑事訴訟法制定資料全集―昭和刑事訴訟法編(2) 日本立法資料全集122』(信山社出版・2007年)23頁)GHQ民間情報局(CIS)公安課法律班のマニスカルコ大尉の手になる「刑事訴訟法ニ対スル修正意見」があります(同年322日付けで同省刑事局別室が仮訳をガリ版刷りしています。)。そこにおいてマニスカルコ大尉は,「保釈ノ請求アリタルトキハ検事ノ意見ヲ聴キ決定ヲ為スヘシ/保釈ヲ許ス場合ニ於テハ保証金額ヲ定ムヘシ/保釈ヲ許ス場合ニ於テハ被告人ノ住居ヲ制限スルコトヲ得」と規定する我が旧刑事訴訟法(大正11年法律第75号)116条を「被告人ハ拘禁刑ノ判決ノ未ダ確定セザル限リ当然保釈ニ付セラルベキ権限アルモノトス。其ノ保釈金額ハ適正ニシテ犯罪ノ軽重ニ相応スルモノタルベク,予審判事又ハ区裁判所判事ニ於テ被告人ノ拘置セラレタル時ヨリ24時間内ニ之ヲ定ムベシ。予審判事又ハ区裁判所判事ハ保証金額ヲ定ムルニ先立チ検事ニ対シ被告人及其ノ犯情ニ付其ノ報告ヲ求ムルコトヲ得/保釈ヲ許サレタル被告人ノ住居ハ之ヲ制限スルコトヲ得」(新94条)と修正することを提案していました(井上等33頁。下線は筆者によるもの)。原文は,“Art. 94. An accused against whom as sentence of confinement has not become binding shall as a matter of right be enti[t]led to bail. Such bail shall be reasonable in amount and commensurate with the gravity of the crime, and the amount of such bail shall be set by the Examining Judge or the Judge of a Local Court within twenty-four (24) hours from the time the accused has been placed in custody. The Examining Judge [or] the Judge of a Local Court may request information in regard to the accused and the circumstances of the crime from the Public Procurator before setting the amount of the bail. / A restriction may be imposed on the (liberty of) residence of the accused who has been liberated on bail.”です(井上等107頁)。当該「意見」を残して我が司法省関係者の視界から消えてしまったマニスカルコ大尉は何者かといえば,団藤重光教授によれば「テキサス州ヒューストンの地方検事であった者」だそうです(井上等22頁)。インターネットで見ることのできる1946623日付けのテキサス州のパンパ・ディリー・ニューズ紙1面の記事(Japssic Thank Texan For Law Services”)によれば,Anthony J. Maniscalco陸軍大尉は,1927年にライス大学(Rice institute)を卒業し,1931年にテキサス大学から法律の学位を取得,ハリス郡(ヒューストン市が所在)の地区検察官補佐(assistant district attorney),テキサス州司法長官補佐(assistant attorney general)及び米国連邦価格管理局法執行担当法務官(OPA enforcement attorney)を務め,半年勤務した我が国からの帰国に当たって1946622日に谷村唯一郎司法次官から「日本の司法制度の民主化における彼の仕事」に対する感謝状及び記念品を受領しています。
 権利保釈が権利保釈であるゆえんは,逃亡の恐れがあっても権利保釈は許されるということです。これについては,「逃亡のおそれは,権利保釈の除外事由として掲げられていない。これは,保釈が逃亡を防止する制度である以上当然である〔刑事訴訟法932項は「保証金額は,犯罪の性質及び情状,証拠の証明力並びに被告人の性格及び資産を考慮して,被告人の出頭を保証するに足りる相当な金額でなければならない。」と規定〕。しかし,保証金の没取という経済的利益の喪失という威嚇によって出頭を強制できるのにも限度があることは否定できない。したがって,保釈は万能ではなく,これに代わるものまたはこれを補充するもの,が考えられなければならない。法が認めている勾留の執行停止も,その一つの方法であり,さらに,観察付釈放などの制度も考慮すべきであろう。」とつとに説かれています(平野164頁注(1))。

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 左から二つ目の黒くて丸い物は,観察のためのカメラでしょう。(東京都中央区銀座四丁目交差点)

6 アメリカ法における保釈及びその歴史

保釈は,「身柄拘束による出頭確保を金銭的負担による出頭確保で代えるという発想に基づき,英米法で発達をみた」ものです(田宮裕『刑事訴訟法(新版)』(有斐閣・1996年)257頁)。英米法においては「被告人の犠牲回避という原理の問題のほか,一般納税者の負担で不必要に施設にとめおく理由はないという議論もある」そうで,また,「アメリカでは逮捕後,裁判官のもとへ引致されると直ちに保釈されうるが,保証会社(裁判所に窓口がある)が手数料をとって保証金を代納するという制度が高保釈率を支えている。しかし,高額の手数料の負担が保釈を困難にするという現実もあり,最近は自己誓約による釈放という制度が広がりをみせる傾向がある。」とのことです(田宮260頁注(1)。また,松尾194-195頁注*)。

保釈の歴史について,後に米国連邦最高裁判所判事となるホームズ(Oliver Wendell Holmes Jr.)は,契約の歴史を説く際に言い及んでいわく。

 

 しかし,〔保証に関して〕より顕著な例は,昔の法律の多くにおいて繰り返されているルールの中に見出されます。すなわち,不正のかどで訴追された被告は,担保(security)を提供するか,しからざれば収監されなければならないということです。この担保は,昔の時代の人質(the hostage of early days〔例えば,ボルドーのユオン(Huon of Bordeaux)がカール大帝(在位768-814)から課された無理難題の解決に取りかかるに当たって同帝に人質として提供した部下の騎士12名のごとし。〕でしたが,後に刑事訴訟と損害賠償訴訟とが相互に分離されてからは,刑事法の保釈保証人(bail)となりました。その責任は,保釈保証人が自己の身体を保証債権者の権力に(into the power of the party secured)現実に委ねたときと同様のものとして依然として理解されていました。

  サリカ法に対するカール大帝の追加条項の一つは,担保(surety)として他人の権力にその身を委ねた自由民について語っています。当該文言は,ヘンリー1〔在位1100-1135のイングランド法中にコピーされています。これが何を意味したかは,我々はボルドーのユオンの話において見たところです〔ユオンが命令に違背したと信じたカール大帝は,人質の騎士たちを吊るし首にしようとしました。また,ユオンの命令違背の有無を判断するための決闘は,ユオン及び弾劾者側のそれぞれがまず友人を人質として提供するところから始められました。〕。司法官の鑑(The Mirror of Justices)の伝えるところによれば,カヌート王〔在位1016-1035は本人(principals)が判決公判に出頭しなかった場合には出廷保証人(mainprisors)をそれにより本人として裁いていたそうですが,ヘンリー1世はカヌートのルールの適用を事実について同意している出廷保証人に限定しました。

  エドワード3〔在位1327-1377の治世まで時代が下っても,イングランドの裁判官であるシャード(Shard)は,現在も同様であるところの当該法律について,保釈保証人は被収監者の管理人(keepers)であり,及び被収監者が逃亡したときは訴追されるべきものであると論じた後に,保釈保証人は被収監者に代わって吊るし首となるべしと言われている,と述べています。これは,同様の事案における獄吏(jailer)に係る法でありました。この古来の観念は,重罪に係る保釈保証人の役割について現在の著者たちによって依然として与えられている説明の方法に痕跡をとどめています。彼らは「身体に身体をもって」(“body for body”)結び付けられているのであります,そして現代の法律書は,このことは本人である被告人が出頭しなかった場合に保釈保証人をしてその刑罰を受けるべきものとするものではなくて彼らは罰金(fine)の責任のみを負うのである,と述べなくてはならないこととなっています。当該契約は,成立(execution)の形式においても我々の現代的観念とは異なっていました。当該形式は,当該官吏の面前で責任を厳粛に認めることのみ(simply a solemn admission of liability)でした。保釈保証人の署名は必要ではなく,かつ,保釈される者が契約当事者として自らをそこに結び付けることは必要とされていませんでした。

  しかし,これらの特異点は制定法によって変更され,又は取り除かれていますところ,私が本件についてお話したのは,他の全ての種類のものと異なる特殊な契約類型としてというよりは,その起源に係る歴史が我々の法における契約の最初の出現の一例を示すものであったからであります。そのことについては,いざ身柄の提供を求められる場合となったときにおける人質の名誉心に対する信頼(faith in the honor of a hostage)の漸進的高まり及びそれに伴う現実に収監することの緩和に遡って跡付けられるものです。どういうものかということは,被収監者自身について併行的になされる取扱い(the parallel mode of dealing with the prisoner himself)を見ることによってよく分かるでしょう。彼の保釈保証人は――同人に彼の身体は引き渡されたものと観念されておりますが(whom his body is supposed to be delivered)――いつでもどこでも彼の身柄を確保する権利(a right to seize him)を有しています,しかし彼は身柄提供の時までは自由(is allowed to go at large)なのです。この形の契約は,十二表法のローマ法によって規律された負債と同様に,そして違った手続によってではあるものの同様の動機でもって,契約当事者の身体を最終的満足のための引当てにしているということが,お分かりになるでしょう。(Holmes. The Common Law (1881). Cambridge, Mass.: The Belknap Press of Harvard University Press, 2009: pp.225-227

 

 なかなかうまく訳せなかったところですが,要は英米法における保釈は,元々は,三当事者(債権者,主たる債務者及び保証人)が登場する保証契約の起源に関係するものであったということのようです。

 

bailという言葉は,保護者,番人あるいは守備者を意味する,フランス語の『baile』に由来する。コモン・ローでは,告発された者は,その者が法執行官の管理から釈放されて,要求のあったときにその者を差し出すことを義務付けられる保証人の管理に委ねられたときに,保釈を認められると言われている。被逮捕者の釈放を獲得し,要求のあった時と場所に被釈放者が出頭することに対して責任を負う保証人は,被逮捕者又は被勾留者を自己の拘束下に引取り,そのようにして被疑者,被告人の裁判所への出頭に対して自らを束縛するが故に『baile』と呼ばれた。(木本強「アメリカ保釈制度の考察」早稲田法学会誌23号(19732月号)66頁)

 

 日本の刑事訴訟法942項及び3項は被告人以外の者による保証金の納付及び被告人以外の者の保証書の差し出しを認めていますが,これらの者は,金銭的損失のリスク負担を超えた「要求のあった時と場所に被釈放者が出頭することに対して責任を負う」までのことを厳格に求められてはいません。例えば,保証書を差し出した者については,「保証書を差し出した者は,保証金没取の裁判(96②③)があったときは,保証書記載の金額を納付すべき義務を負う。」とのみ説明されています(松本=土本162頁)。保釈請求に当たっては,「「被告人の身柄を引き受け,十分監督し,保釈許可の条件を堅く守らせ,お呼び出しのときはいつでも出頭させます」という趣旨を記載する」身柄引受書を併せ提出することが多いのですが,当該身柄引受書の名義人である身柄引受人についても,「法律上の責任を伴うものではないが,いわゆる道義的な責任はある」とのみ述べられています(松尾260頁)。保釈金の納付を要しない勾留の執行停止においては,「勾留されている被告人を親族,保護団体その他の者に委託」し(刑事訴訟法95条),当該親族,保護団体その他の者は「何時でも召喚に応じ被告人を出頭させる旨の書面」を裁判所又は裁判官に差し出すのですが(刑事訴訟規則90条),「しかし,出頭させなかったとき,委託を受けた者に対する制裁はない」ところです(平野164頁)。

 米国において保釈保証人が「要求のあった時と場所に被釈放者が出頭することに対して責任を負う」ということが強調される意味は,何と,保釈金の納付者は獄吏の権限を持つ準司法官であるという理論があり,かつ,それがなおも生きているということなのでした。確かに,前記のとおりホームズは,被収監者の身体は保釈保証人に引き渡されるものと観念されていると述べていました

 

  〔米国で〕個人の絶対的保釈権が認められたことは,アメリカという大国では実務上諸々の困難をもたらした。辺境の開拓地は,無罪を獲得する見込がなくて逃亡を企てる者を招き入れたからである。そこでこのような事態に対して裁判所側が最初に示した反応は,保釈金を与える者に対し,その者は獄吏の権限を持つ準司法官であり,被告人に対して責任を持たねばならないことを想起させることであった。しかしながら,私的な保証人が逃亡者を全国的に捜索することは不可能であったから,被告人を出頭させるとの保証人の約束は,次第に,被告人が出頭しなければ単に金銭を支払うという約束となっていった。ここに今日的な意味での保釈制度が成立していったことがうかがえる。(木本71-72頁)

 

1873年の米国連邦最高裁判所のTaylor v. Taintor, 83 U.S. 366 (1872)判決には,次の一節があります(371頁)。

 

  保釈が許可されたとき,被告人本人(the principal)は,彼の保証人ら(his sureties)の管理下に引き渡されたもの(delivered to the custody)とみなされる。彼らによる支配管理は,元の収監状態の継続である(Their dominion is a continuance of the original imprisonment)。彼らは欲するときにはいつでも,彼の身柄を確保し(seize him),及び義務の履行として彼を引き渡すことができる。しかして,それが直ちに行い得ない場合においては,彼らはそれができるときまで彼を拘禁すること(imprison him)ができる。彼らは,彼らの権利を自ら又は代理人(agent)によって行使することができる。彼らは,彼の追跡を他州に入って行うことができ,安息日に彼の身柄を確保することができ,及び必要なときは当該目的のために彼の住居に強制的に立ち入ること(break and enter his house)ができる。当該身柄確保は新たな手続としてされるものではない〔令状不要〕。そのような必要は全くない。逃走する被収監者の身柄を保安官が再び逮捕することと同様である。

 

 「保釈の保証人となり,その報酬を依頼人から要求することを職とする保釈保証業者〔である〕ボンズマン〔bondsman〕は何時でも依頼人を逮捕しその身柄を当局に引渡すことのできる古典的な権利を有している。ボンズマンが探している保釈中失踪者が当該州を離れる場合には,ボンズマンは,逃亡者を捜索する法執行機関に要求される厳しい逃亡犯人引渡の条件に従う必要なしに失踪者を追跡し取り戻すことができる。」(木本72-73頁)との「古典的な権利」に関する古典的表明とされる判決文です。「彼らによる支配管理は,元の収監状態の継続である(Their dominion is a continuance of the original imprisonment)」ので,保釈保証人は司法官たる獄吏の権限をも引き継いでいるのだ,ということでしょう。しかも,その権限の行使は代理人(agent)によっても可能であるというところが更に荒っぽい。その結果,米国には,当該代理人たるバウンティ・ハンター(bounty-hunter。賞金稼ぎ)という職業が厳として存在しています。

 

 7 バウンティ・ハンター

 バウンティ・ハンター業に関するウェブ・サイト(https://www.bountyhunteredu.org)によれば,バウンティ・ハンターとは,簡単にいえば,ボンズマンに雇われて金銭的報酬と引換えに逃亡者を捜索逮捕する高度なプロフェッショナルであります。逃亡者を首尾よく逮捕して司直に引き渡すことができたときの報酬額は,当該逃亡者に係る保釈金額の10ないしは20パーセント相当額が相場であるようです(すなわち,保釈金額が15億円であれば,当該逃亡者狩りの成功報酬額は3億円くらいになるのでしょう。)。米国50州中でバウンティ・ハンター業務を禁じているのは4州(ウィスコンシン,ケンタッキー,オレゴン及びイリノイ)のみだそうで,「バウンティ・ハンターは今日,大多数の州においては免許又は登録制下にある専門職であり,保釈保証ビジネスにおいて,したがって全米の刑事司法システムにおいて,重要な役割を果たしています。彼らの役割は,州の保険庁及び他の許認可当局によって厳格に(closely)モニターされています。」,「バウンティ・ハンティングは,米国において,真っ当かつ尊敬される職業(accepted and respected profession)となっています。」と高らかに謳われています。全米におけるバウンティ・ハンターの平均年間報酬受領額は約47000ドルであるとされています。

 全国逃亡者再確保業協会(National Association of Fugitive Recovery Agents)というバウンティ・ハンターの全米業界団体がデラウエアにありますが,その一部門である全国保釈保証執行業協会(National Association of Bail Enforcement Agents)の試算によれば,保釈からの逃亡者の90パーセント近くは再確保されているそうです(“Delivery men”, The Economist, September 1st, 2016)。一見なかなかの数字であるように思われますが,現場の実態はどうなのでしょうか。

 バウンティ・ハンターは,防弾チョッキ,胡椒(ペッパー)スプレー,テーザー(長い電線の先につけた矢を発射する武器。電撃ショックを与える。),ハンドガンお手玉弾(ビーンバッグ)(暴徒鎮圧用に砂などの小散弾をキャンス袋に詰めたもの)の装填されたショットガン等を猛々しく装備しているばかりではなく,顔認証や各種データベース・サービスのような最新の情報通信技術を利用すると共に自らの狡知をも発揮して,逃亡者の子供やパートナーをペテンにかけてその居場所を探知し,逃亡者の睡眠中,不用意であるとき,スーパーマーケットをちょうど出て来て両手がふさがっているとき火器持込禁止のカジノに遊んでいるとき襲い更には宅配便の配達員を装って逃亡者宅を訪問したりするそうです(“Delivery men”参照)。正に,米国の刑事司法のrough justiceたることがここに躍如としています。

 

8 レーグルス対カルターゴー人

 我々高潔な日本人にとっては,保釈といえば,前3世紀・第一次ポエニ戦争中の古代ローマ共和国の執政官であったレーグルスの気高い事績が思い起こされるばかりです。

 

  Marcus Regulus, imperator populi Romani, captivus apud Carthaginienses fuit. Qui cum sibi mallent a Romanis suos reddi quam eorum tenere captivos, ad hoc impetrandum etiam istum praecipue Regulum cum legatis suis Romam miserunt, prius juratione constrictum, si quod volebant minime peregisset, rediturum esse Carthaginem. Perrexit ille atque in senatu contraria persuasit, quoniam non arbitrabatur utile esse Romanae rei publicae mutare captivos. Nec post hanc persuasionem a suis ad hostes redire compulsus est, sed quia juraverat, id sponte complevit. At illi eum excogitatis atque horrendis cruciatibus necaverunt. Inclusum quippe angusto ligno, ubi stare cogeretur, clavisque acutissimis undique confixo, ut se in nullam ejus partem sine poenis atrocissimis inclinaret, etiam vigilando peremerunt. (Augustinus. I. 15, De Civitate Dei)

(ローマ人の最高司令官であるレーグルスは,カルターゴー人の捕虜であった。彼らは,ローマ人から彼らの同胞を彼らのもとに返してもらうことの方がローマ人の捕虜を抑留していることよりもよいと思っていたので,そのことを達成すべく,特にそのレーグルスを,彼らの望むところが達成されなければカルターゴーに戻って来るべしとの誓約をあらかじめさせた上で,更に彼らの使節らと共にローマに送った。(レーグルス)出頭たが捕虜交換はローマ共和国の国益にならないと考えていたので,元老院反対論もって説得した。当該説得の後,敵のもとに戻ることを同胞から強いられはしなかったが,誓約をしたのであるところから,彼は自らの意思でそのように身を処したしかし彼ら(カルターゴー人)は,新工夫かつ恐ろしい拷問をもって彼を殺害した。その中では起立していることを強いられ,かつ,とがった釘によってあらゆるところから刺し貫かれていて,残酷な傷害を被ることなしに体を傾けることのおよそできない実に狭い木箱の中に閉じ込められた彼を,更に不眠によって絶命させたのである。(アウグスティヌス『神の国』I.15))

 

いやいや,レーグルスはカルターゴーを出国しても再びカルターゴーに戻りますと誓約しましたけれども,保釈される被告人については,日本の刑事訴訟法及び刑事訴訟規則の文言においては必ず出頭しますとの誓約は要求されていないんであって〔治罪法(明治13年太政官布告第37号)210条及び旧々刑事訴訟法(明治23年法律第96号)150条においては保釈される被告人に「何時ニテモ呼出ニ応シ出頭ス可キ(ノ)証書ヲ差出」すことを求めていましたが,192411日から施行の旧刑事訴訟法となってからは当該証書の差し出しを求める規定が消えています。〕,保釈金が没取(これを「没収」と書いてしまう日本のマスコミ人士は,日本出国の自由を行使しただけの外国人に対する批判に雷同する以前に,自国の重要法律についてすら不勉強であることを暴露していますね。)されると困るので被告人は結局裁判所に出頭するということが確保されるだけの十分に高い保釈金額を裁判所又は裁判官が賢明に設定すればよかっただけではないのではありませんかね(刑事訴訟法932項参照),それに,レーグルスは馬鹿正直にカルターゴーに捕虜になりに戻って残忍なやり方で殺されてしまったけれども,全くもってくわばらくわばらですよ,差別と偏見の日本の人質司法もカルターゴーの捕虜取扱いに負けず劣らず野蛮で恐ろしいですからね,命と自由とがあっての物種ですよ――などとくだんの逃亡外国人被告人が,世界に向かってべらべらと「グローバル・エリート」風に屁理窟をこねると,我々の愛国的怒りは更に沸騰するのでしょう。

何っ,お前は我々日本人が野蛮な刑事司法制度しか有さない劣等民族であって,かつ,レーグルス閣下を猟奇的に殺害したカルタゴ人のような嗜虐的残酷民族だというのか。日本の刑事司法はなぁ,横着かつ荒っぽい某国のrough justiceなどとは違う精密司法というものなのだ。精密司法はなぁ,「処罰に値する者だけを起訴=有罪とし,そうでない者は〔起訴便宜主義による検察官の不起訴処分(刑事訴訟法248条)によって〕早期にらち外に解放するものであるから,むだをはぶいた効率のよい,しかも人権保障に奉仕するやり方であり,このようなスムーズな司法運用が,ひいては低い犯罪発生率,高い検挙率に代表される日本の刑事司法政策成功の大きな要因となっていることもたしか」なのだ(田宮13頁)。正しい日本人であれば,真相の解明を重んじ,「被告人でさえも,しばしば精密司法への選好を隠そうとはしないのである」のだぞ(松尾16頁。「「綿密な審理を受けて納得した」という述懐,「真実はただ一つである」ことを理由とする統一公判要求など」を例として挙げる。)。お前の方こそ,言うことなすことやり方がPunica fideであってカルタゴ人のように信用ならん。屁理窟ばっかりこきやがって,くそっ,最後っ屁か。悪臭芬々,許せん,我慢がならん。

他人の屁が気になって仕方がなく,つい精密に勘定してしまうのは,我々日本人の昔からの性分です。

 

 五年も十年も人の(しり)に探偵をつけて,人のひる屁の勘定をして,それが人世だと思つてる。そうして人の前へ出て来て,御前は屁をいくつ,ひつた,いくつ,ひつたと頼みもせぬ事を教へる。前へ出て云ふなら,それも参考にして,やらんでもないが,後ろの方から,御前は屁をいくつ,ひつた,いくつ,ひつたと云ふ。うるさいと云へば猶々(なほなほ)云ふ。よせと云へば益々(ますます)云ふ。分つたと云つても,屁をいくつ,ひつた,ひつたと云ふ。さうして(それ)が処世の方針だと云ふ。方針は人々(にんにん)勝手である。只ひつたひつたと云はずに黙つて方針を立てるがいゝ。人の邪魔になる方針は差し控へるのが礼儀だ。邪魔にならなければ方針が立たぬと云ふなら,こつちも屁をひるのを以て,こつちの方針とする(ばか)りだ。さうなつたら日本も運の尽きだらう。(夏目漱石『草枕』(1906年))

 

保釈された被告人の住居の周囲に鬱陶しく監視カメラを設置し,かつ,同人をしつこく尾行して,その動静を,ひられた屁の数まで勘定してやろうとする熱心な私人らはどういう人たちなのでしょうか。被告人が逃亡してしまうと自分の生命が危なくなる中世の英国のbail又は自分の財産が失われてしまう現在の米国のbondsmanであれば被告人を監視して自己又は自己の財産を守る必要があり,かつ,逃亡の可能性があると思えば被告人の身柄を拘束することができる(準司法官的)権限をも有するわけですが,そのような必要も権限もなしに監視をかって出て,何かがあれば検察官に対して被告人が屁をひりましたと御注進せむとするのは余計なお節介というべきか,お国に御協力申し上げむとする健気な追従というべきか,それともやはり純粋に他人の屁の数が気になるだけなのか,さらには営利企業たる株式会社であるのならばその費用は真に株主の利益になるものなのかどうか。また,関係者らとの口裏合わせによる罪証隠滅を恐れるということならば,当該被告人が必ず有罪にならないと困るということでしょうが,どうも業の深い話で,かえって監視者側に,当該関係者らが常に正義の側に立ってくれることについての不信があったり,そもそも検察官手持ちの証拠の強さに不安があったりというような,何か人に言えない心配事があるのではないかとも思われてしまうところです。なかなか非人情の世界に超然とするわけにはいかないようです。

なお,カルターゴー人の悪評については,「ポリュビオスとプルタルコスは声を揃えてカルタゴ人は人格低劣だと言っている。〔略〕二人ともカルタゴ人を,鯨飲馬食の徒,遊蕩児,欲張りとして描き出す。フィデス・プニカ〔fides Punica〕,すなわち「カルタゴ人の約束」というラテン語は,「裏切り」を意味するようになった。プルタルコスはローマのこの宿敵を評して「目下のものには傲慢,負けた時には卑屈,勝った時には残酷,この両極を揺れ動いた」と言う。ポリュビオスは,カルタゴ人は何でも欲得ずくでしか考えないと言う。」云々とあります(I・モンタネッリ著=藤沢道郎訳『ローマの歴史』(中公文庫・1996年)141頁)。

ちなみにカルターゴー人(Poeni)は,元来はポエニーキア(Phoenicia)からの植民者です。ポエニーキアとは,要はフェニキアですが,現在のレバノン共和国の辺りです。
 

  Ca...., perge quo coepisti, egredere aliquando ex urbe; patent portae; proficiscere. (Cicero)
カ〇〇〇よ,始まりに戻れ,いつでもいいからこの国から出ていけ,門は皆開いてあるのだ,往ね!(キケロー)



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1 「すべて国民は,個人として尊重される。」

 「すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。」と規定する日本国憲法13条は,憲法条文中もっとも有名なもののうち一つでしょう。英語文では“All of the people shall be respected as individuals. Their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extent that it does not interfere with the public welfare, be the supreme consideration in legislation and in other governmental affairs.”です。

 「戦後,日本国憲法を手にした日本社会にとって,日本国憲法の何がいちばん肝心なのか。それをあえて条文の形で言うと,憲法第13条の「すべて国民は,個人として尊重される」という,この短い一句に尽きています。」といわれています(樋口陽一『個人と国家』(集英社新書・2000年)204頁)。

 しかしながら,「すべて国民は,個人として尊重される。」との規定における「個人として尊重される」とはどういう意味でしょうか。

 

2 「かけがえのない個人として尊重される」

 

(1)五つの法律

我が国国権の最高機関たる国会(憲法41条)の解釈するところを知るべく,現行法律における「個人として尊重」の用例を法令検索をかけて調べてみると,5例ありました。①障害者基本法(昭和45年法律第84号)1条,②障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律(平成17年法律第123号)1条の2,③自殺対策基本法(平成18年法律第85号)21項,④部落差別の解消の推進に関する法律(平成28年法律第109号)2条及び⑤ユニバーサル社会の実現に向けた諸施策の総合的かつ一体的な推進に関する法律(平成30年法律第100号)1条です。

このうち,障害者基本法1条に「全ての国民が,障害の有無にかかわらず,等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念にのつとり,全ての国民が,障害の有無によつて分け隔てられることなく,相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会を実現するため」の部分が加えられたのは同法の平成23年法律第90号による改正によってであり,障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律に1条の2が挿入されたのは同法が,地域社会における共生の実現に向けて新たな障害保健福祉施策を講ずるための関係法律の整備に関する法律(平成24年法律第51号)によって改正されたことによってであり,自殺対策基本法21項が追加されたのは同法の平成28年法律第11号による改正によってでありました。

すなわち,現行法律中に存在する「個人として尊重される」概念のうち初めて登場したものは障害者基本法1条のそれであり,同条に当該概念が導入されたのは,日本国憲法公布後65年となろうとする2011年の民主党菅直人政権下のことでありました。

 

(2)「かけがえのない」性の追加修正

 平成23年法律第90号に係る政府提出の当初法案では,障害者基本法1条に挿入されるべき語句は「全ての国民が,障害の有無にかかわらず,等しく基本的人権を享有する個人として尊重されるものであるとの理念にのつとり,全ての国民が,障害の有無によつて分け隔てられることなく,相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会を実現するため」とのものでした。この政府提出案に対して,2011615日の衆議院内閣委員会において西村智奈美委員外2名から民主党・無所属クラブ,自由民主党・無所属の会及び公明党の共同提案による修正案が提出され(第177回国会衆議院内閣委員会議録第143頁・22頁),その結果「等しく基本的人権を享有する個人として尊重される」の部分が「等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重される」に改まっています(同会議録18頁)。

この,個人に係る「かけがえのない」性の追加修正は広く与野党の賛成を得てのものですから,政府案に最初から「かけがえのない」があってもよかったもののようにも思われます。しかしながらそのようにはならなかったのは,これは,「かけがえのない個人」との文言は法制上問題があって剣呑だ云々というような余計なことを言い立てる内閣法制局筋によって阻止されていたものでしょう。

 「個人として尊重される」との文言が「かけがえのない個人として尊重される」へと敷衍された結果,どのような法的効果が生ずるのかについては,提出者代表である高木美智代委員が次のように答弁しています(第177回国会衆議院内閣委員会議録第1416頁)。

 

この表現を「かけがえのない個人」と修正することにしましたのは,社会の中において,各個人が,障害の有無にかかわらず,それぞれ本質的価値を有することを一層明確にするためでございます。これによりまして,障害者基本法の理念が国民にとってわかりやすい言葉で示されることになると考えております。

この基本法で示された理念は,関係法令の運用や整備の指導理念となることは御承知のとおりでございます。したがいまして,今後の障害者施策におきましては,国民一人一人がかけがえのない存在であるということを基本とした運用等が要請されることとなります。

この結果,障害者基本法が目指している共生社会,すなわち,すべての国民が相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現が促進されることになることを期待いたしております。

 

 各個人の「本質的価値」とは,それぞれが「かけがえのない存在」であるということになるようです。全ての国民が「かけがえのない個人として尊重される」べきであるということは,前記①から⑤までの5法の全てが当該文言を採用して,前提としているところです(なお,自殺対策基本法21項は,「全ての国民」よりも広く,「全ての人」となっています。)。だとすると,憲法13条前段も今や,「すべて国民は,かけがえのない個人として尊重される。」という意味であるものとして読まれるべきもののようです。「「個人として尊重される」ト云フコトハ,結局是ダケノ意味デアリマシテ,国民ト云フ言葉ガ集団的ナ意味ニモ使ハレテ居リマスシ,各個ノ人間トシテモ国民ト云フ文字ハ使ハレテ居リマス,此処ノ所ハ集団的デハナイ国民ト云フモノハ,国家ヲ構成シテ居ル単位トシテノ人間トシテ大イニ尊重サレルト云フ原則ヲ此処デ声明シタ訳デアリマス,サウ特別ニ深イ意味デハナイ,此ノ原則ノ発展トシテ,是カラ出テ来ル具体的ナ規定ガ生レテ来ル,斯ウ云フ風ニ考ヘマス」(1946916日貴族院帝国憲法改正案特別委員会における金森徳次郎国務大臣の答弁(第90回帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員会議事速記録第149頁))というような素っ気ないものでは,もはやありません。全て国民は,「国家ヲ構成シテ居ル単位トシテノ人間」であるにとどまらず,「かけがえのないもの」として尊重されなければなりません。

 

(3)「共生」社会から,支え合う「ユニバーサル社会」へ

 「全ての国民が・・・等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念」が目指すところは「共生」社会であり,当該「共生」社会においては「全ての国民が,・・・分け隔てられることなく,相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する」ものであるようです(障害者基本法1条,障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律1条の2各参照)。

 具体的な生活の場(障害者基本法3条並びに障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律1条及び1条の2は身近なものたる「地域社会」における「共生」を問題としています。)において「相互に人格と個性を尊重し合いながら共生」しなければならない責務を負う者は私人たる各日本人でしょうから(障害者基本法8条,障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律3条各参照),憲法13条前段の射程は私人間関係にも及ぶもののようであり,単なる「国政の上」での「最大の尊重」を問題とする同条後段のそれよりもはるかに広いものなのでした。

 しかしてこの「共生社会」の内実は,2018年のユニバーサル社会の実現に向けた諸施策の総合的かつ一体的な推進に関する法律において,同法21号が規定する「ユニバーサル社会」として,より具体的に規定されるに至っています。

  

  一 ユニバーサル社会 障害の有無,年齢等にかかわらず,国民一人一人が,社会の対等な構成員として,その尊厳が重んぜられるとともに,社会のあらゆる分野における活動に参画する機会の確保を通じてその能力を十分に発揮し,もって国民一人一人が相互に人格と個性を尊重しつつ支え合いながら共生する社会をいう。

 

 なお,「ユニバーサル社会」に係る同号の定義については,議案を提出した衆議院国土交通委員会の盛山正仁委員長代理から更に,「一般的に,ユニバーサル社会というのは,障害の有無,年齢,性別,国籍,文化などの多様な違いにかかわらず,一人一人が社会の対等な構成員として尊重され,共生する社会を意味」するものであるとの説明がありました(第197回国会参議院国土交通委員会会議録第54頁)。

 しかして,「相互に人格と個性を尊重し合いながら共生」するということは,ユニバーサル社会の実現に向けた諸施策の総合的かつ一体的な推進に関する法律21号の定義によれば,現実に,具体的な一人一人が相互に「支え合」うということになるのでした。

 その結果,国民は,「職域,学校,地域,家庭その他の社会のあらゆる分野において,ユニバーサル社会の実現に寄与するように努めなければならない」ものとされています(ユニバーサル社会の実現に向けた諸施策の総合的かつ一体的な推進に関する法律5条)。これは,「その他の法令で,国民の努力という規定につきましては様々な法律において既に定められているところ」であって「国民の言わば心構えを定めるようなもの」であり,「この規定を根拠にして国民の皆様に義務を押し付けようというものではございません」が,「全ての国民が配慮すべきであるというふうに考えるものですからこのような規定を設けたもの」だそうです(盛山衆議院国土交通委員長代理・第197回国会参議院国土交通委員会会議録第54頁)。憲法13条前段解釈の現段階は,「是ハ矢張リ国家ガ国民ニ対スル心構ヘト云フ風ニ思ッテ居リマスガ」(佐々木惣一委員)との問いかけに対して「其ノ通リデアリマス」(金森国務大臣)と簡単に答えて済むもの(1946916日貴族院帝国憲法改正案特別委員会(第90回帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員会議事速記録第149頁))ではなくなっているもののようです。国家のみの問題ではありません。

 ユニバーサルは元々英語のuniverseの形容詞形のuniversalなのでしょうが,当該universeの語源は「L ūnus (one)L vertere (to turn)の過去分詞versusから成るL ūniversus (turned into one; combined into one; whole; entire)」ということですから(梅田修『英語の語源辞典』(大修館書店・1990年)212頁),「ユニバーサル社会」とは,一なる全体社会ということでしょうか,全一社会というべきでしょうか。全国民は,「個人として尊重」されつつ最後は全一社会実現への寄与を求められることになる,ということのようです。

 

(4)「支え」られる「かけがえのない個人」

 「かけがえのない個人として尊重される」ものであるところの国民の一人を「支え」る場合,どこまでの「支え」が必要になるのでしょうか。

「かけがえ」とは「掛(け)替え」であって,「必要な時のために備えておく同じ種類のもの。予備のもの。かわり。」ということですから(『岩波国語辞典第4版』(1986年)),かけがえのない物は亡失してしまっては大変であり,かけがえのない人は死亡させてしまってはいけないことになるのでしょう。自殺対策基本法21項は「自殺対策は,生きることの包括的な支援として,全ての人がかけがえのない個人として尊重されるとともに,生きる力を基礎として生きがいや希望を持って暮らすことができるよう,その妨げとなる諸要因の解消に資するための支援とそれを支えかつ促進するための環境の整備充実が幅広くかつ適切に図られることを旨として,実施されなければならない。」と規定していますから,「かけがえのない個人として尊重される」者は,正に「生きることの包括的な支援」までをも受けることが保障されるのでした。

 この高邁な理念の前に,人が「生きること」に対する昔風のつまらぬ悪意などいかほどのことがありましょう。

 

quia pulvis es et in pulverem reverteris (Gn 3, 19)

  Viel zu viele leben und viel zu lange hängen sie an ihren Ästen. Möchte ein Sturm kommen, der all diess Faule und Wurmfressne vom Baume schüttelt! (Vom freien Tode)

   Quid est autem tam secundum naturam quam senibus emori? (De Senectute

高齢者の医療・福祉政策に係る政府の失態等に対して「お前たちは,老人に死ねというのか。」とお年寄りの方々が激怒されている旨の報道に度々接しますが,お怒りは全く当然のことです。「かけがえのない個人として尊重される」我々個々人は,その代わりがないにもかかわらず死亡してしまわないように,「生きることの包括的な支援」までをも受けるべき権利を有しているのです。「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」などという言葉は,弱い者をたすけるべき立場にある者にあるまじき最低の暴言である,謝罪せよ,ということに,188214日から137年半後の今日ではなるようです。

 以上,各日本人は,日本国憲法13条前段に基づき「個人として尊重される」結果,自己が生きるに当たって他者からの支えを期待する権利を有し,当該支えを得る際にも自己のあるがままの人格及び個性は差別を受けることなく,むしろ傷つけられないように優しく配慮され,かつ,尊重され,更にその前提として,全一(ユニバーサル)社会においてそのような人々に囲まれて「共生」していることを当然のこととして期待することが許されている存在である,ということになるようです。

 

  et sumat etiam de ligno vitae

       et comedat et vivat in aeternum (Gn 3, 22)


3 束にならず,寂しい個人主義者たち

 ところで,個人に係る個人主義といえば夏目漱石や永井荷風が有名ですが,漱石・荷風流の「個人主義」は,上記のような「共生」的日本国憲法13条前段解釈とはどのような関係に立つことになるのでしょうか。

 

   〔前略〕夏目漱石の『私の個人主義』という学習院で行った講演1914(大正3)年が,有名です。個人というのは寂しさに耐えるんだ。その辺の雑木の薪なんていうのも束になっていれば気持ちが楽だ。しかし,個人というのは自分自身で自分の去就を決め,自分で腹を決めるということだ。だから,本来寂しいことなんだという,ズバリ個人の尊重ということの重みを語っています。〔略〕

   他方で文字どおり個人であることに徹したのが荷風散人(永井荷風)だったのです。その点について彼から引用しようと思えば枚挙にいとまがないのですけれども,あえて一つ。――「わたくしは元来その習癖よりして党を結び群をなし,その威を借りて事をなすことを欲しない。・・・わたくしは芸林に遊ぶものの往々社を結び党を立てて,己に与するを掲げ与せざるを抑えようとするものを見て,これを怯となし,陋となすのである」(『濹東綺譚』)。文字どおり彼は名実ともに「個」であることの純粋さを貫いたのです。(樋口・個人と国家205頁)

 

 ここに現れる漱石も荷風も,心温まる,かつ,素晴らしい「共生社会」の住人ではなさそうです。束になれず,群れから離れ,党を立てず,結社に属し得ず,寂しい。分離の感覚。

 しかし,分離(separate)してあることこそが,individualなのだということになるのでしょう。筆者の手許のOxford Advanced Lerner’s Dictionary of Current English, 6th edition (2000)には,名詞individualの語義として冒頭 “a person considered separately rather than as part of a group”と,形容詞individualの語義として冒頭“considered separately rather than as part of a group”と記載されてあります。個人(individual)は本来,束(fascis),群れ,党,結社その他のグループの一員として存在するものとしては観念されていないのです。

個人主義は,ぬるい生き方ではないようです。

 

 scio opera tua

    quia neque frigidus es neque calidus

    utinam frigidus esses aut calidus

    sed quia tepidus es et nec frigidus nec calidus

    incipiam te evomere ex ore meo (Apc. 3, 15-16)

 

4 GHQ草案12条の起草

 さて,個人主義は本来非日本的なものであり(「個人の欠如というのは長い間,いわば,日本の知識人を悩ませてきたオブセッション(強迫観念)だったのです。」(樋口・個人と国家206頁)),西洋由来のもののようですが,西洋人の一種たるGHQの米国人らは,日本国憲法13条の原案を起草するに当たって一体そこにどのような意味を込めていたのでしょうか。

 1946213日に我が松本烝治国務大臣らに手交されたGHQ草案の第3章(Chapter III  Rights and Duties of the People)中の第12条には次のようにありました。

 

  Article XII. The feudal system of Japan shall cease. All Japanese by virtue of their humanity shall be respected as individuals. Their right to life, liberty and the pursuit of happiness within the limits of the general welfare shall be the supreme consideration of all law and of all governmental action.

 

これが外務省罫紙に和文タイプ打ちされた我が国政府の翻訳では次のようになっています(1946225日)。

 

 第12条 日本国ノ封建制度ハ終止スヘシ一切ノ日本人ハ其ノ人類タルコトニ依リ個人トシテ尊敬セラルヘシ一般ノ福祉ノ限度内ニ於テ生命,自由及幸福探求ニ対スルソノ権利ハ一切ノ法律及一切ノ政治的行為ノ至上考慮タルヘシ

 

 GHQ民政局内国民の権利委員会(Committee on Civil Rights)が194628日に同局内運営委員会(Steering Committee)に提出した原案は,次のとおり(Civil Rightsの章の第1節総則(General)(この総則は,現行憲法の11条から17条までに当たります。)中の第5条)。同日の両委員会の会合で運営委員会側から意見があり,これに“within the general welfare”という限定句が挿入されることになりました(エラマン・ノート)。

 

  5. All Japanese by virtue of their humanity shall be respected as individuals. Their right to life, liberty and the pursuit of happiness shall be the supreme consideration of all law, and all governmental action.

 

そこで第2稿では次のようになり,更に最終的に“The feudal system of Japan shall cease.”が加えられて国民の権利委員会最終報告版となっています。

 

 All Japanese by virtue of their humanity shall be respected as individuals. Their right to life, liberty and the pursuit of happiness within the limits of the general welfare shall be the supreme consideration of all law, and all governmental action.

 

 “The feudal system of Japan shall cease.”は後付けとはなりましたが,重要な規定です。194623日の日本国憲法改正案起草に関するマッカーサー三原則(マッカーサー・ノート)第3項の冒頭に“The feudal system of Japan will cease.”とあったからです。

 マッカーサー三原則の第3項には続けて“No rights of peerage except those of the Imperial family will extend beyond the lives of those now existent.”(「貴族の権利は,皇族を除き,現在生存する者一代以上には及ばない。」(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川文庫・2014年)22頁))及び“No patent of nobility will from this time forth embody within itself any National or Civic power of government.”(「華族の地位は,今後どのような国民的または市民的な政治権力も伴うものではない。」(鈴木22頁))とありましたから,“The feudal system of Japan will cease.”(「日本国ノ封建制度ハ終止スヘシ」)は平等条項(日本国憲法14条)の冒頭に来てもよかったように思われるのですが,あえて「一切ノ日本人ハ其ノ人類タルコトニ依リ個人トシテ尊敬セラルヘシ一般ノ福祉ノ限度内ニ於テ生命,自由及幸福探求ニ対スルソノ権利ハ一切ノ法律及一切ノ政治的行為ノ至上考慮タルヘシ」の前に置かれています。


5 アメリカ独立宣言,ヴァジニア権利章典及びトーマス・ジェファソン

 

(1)アメリカ独立宣言

 GHQ草案12条の原起草者はロウスト中佐であったのか,又はワイルズ博士であったのか。しかしいずれにせよ,トーマス・ジェファソンらの手になる北米十三植民地独立宣言(177674日)の影響は歴然としています。

 

  〔日本国憲法13条の〕規定は,〔略〕独立宣言にその思想的淵源をもつことは,文言自体からして明瞭であり,さらにはロックの「生命,自由および財産」と何らかの関連を有するであろうことも推察される。(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)443頁)

 

 独立宣言は,いわく。

 

   We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal; that they are endowed by their Creator with certain inalienable rights; that among these, are life, liberty, and the pursuit of happiness. That, to secure these rights, governments are instituted among men, deriving their just powers from the consent of the governed; that, whenever any form of government becomes destructive of these ends, it is the right of the people to alter or to abolish it, and to institute a new government, laying its foundation on such principles, and organizing its powers in such form, as to them shall seem most likely to effect their safety and happiness.(我々は,以下の諸真理を自明のことと認識する。すなわち,全ての人々(メン)は平等なものとして創造されていること,彼らは彼らの創造主によって一定の不可譲の権利を付与されていること, これらのうちには,生命,自由及び幸福の追求があること。これらの権利を保全するために,統治体(ガヴァメンツ)が,その正当な権力を被治者の同意から得つつ,人々(メン)の間に設立されていること,いかなる政体であっても,これらの目的にとって破壊的なものとなるときにはいつでもそれを廃止し,又は変更し,並びにその基礎がその上に据えられるところ及びその権力がそれに従って組織されるところ彼らの安全及び幸福を実現する見込みの最も高いものとして彼らに映ずる諸原則及び政体であるところの新しい統治体(ガヴァメント)を設立することは,人民(ピープル)の権利であること。

 

 GHQ民政局の運営委員会によって挿入せしめられた語句に対応する「公共の福祉に反しない限り」を除いて,同局の国民の権利委員会による原案流に日本国憲法13条後段を読むと「生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。」となりますが,それらの権利について「立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする」ことが必要なのは,そうしないと,アメリカ独立宣言的世界観によれば,人民によって政体(form of government)の変更又は廃止(to alter or to abolish)がされてしまう革命が起きてしまうからなのでした。

 

(2)トーマス・ジェファソンとジョン・ロック

 なお,ジェファソンは,ロックの崇拝者でした。

 

  しかし,ロックは,ジェファソンのウィリアム・アンド・メアリー大学在学並びにスモール博士,フォーキエ知事及びジョージ・ウィスとの食卓討論の時代から,ジェファソンのお気に入りであった。彼は,〔パリから〕1789年〔215日〕にジョン・トランブルに対して書くには,ロックを「全くの例外なしに,かつて生きた者の中での最大の三偉人」のうちの一人であるものとみなすようになっていた。(他の二人は,アイザック・ニュートン及びフランシス・ベーコンであった。)ジェファソンは,スモール博士によって,〔1772年の〕十年も前から啓蒙の三英雄全員について手ほどきを受けていた。1771年〔83日〕に,ジェファソンは,スキップウィッズの蔵書として推薦する政治関係本のショート・リストに,「ロックの政治本」,すなわち明らかにその『統治二論』を含めていた。彼がこの精選本リストに前書きして言うには「政治と交易とについては,私は君に,最善の本を少数のみ提示したものである。」ということであったが,これは,この頃までにこれらの本の全てに彼自身精通しているものと彼が思っていたことを明瞭に示している。(Randall, Willard Sterne. Thomas Jefferson: a life. New York: HarperPerennial, 1994. p.164

 

(3)ヴァジニア権利章典1条からの変更

 ところで,独立宣言で確認された「生命,自由及び幸福追求」の諸権利は,その前月の1776612日にジェファソンの出身地であるヴァジニア邦でジョージ・メイソンの主導で採択された権利章典の第1条では「財産(property)の取得及び保持並びに幸福及び安全の追求及び獲得に係る手段を伴う,生命及び自由の享受」の諸権利ということになっていました。ジェファソンは,財産の取得及び保持,幸福の獲得並びに安全の追求及び獲得に係る手段までをも人間の不可譲の権利に伴うものとして主張することは欲張りに過ぎる,と判断した上で,生命,自由及び幸福の追求に絞ったのでしょうか。ただし,生命及び自由に並んで,幸福の追求自体も人々の不可譲の権利であるものとされた形になっています。(なお,独立宣言においては,人民の安全及び幸福を実現することが統治体(ガヴァメント)の目的に含まれることは認められています。換言すると,手段としての政府なしには人民の安全及び幸福の実現は難しいということでしょうか。なお,人民(ピープル)人々(メン)との語の使い分けにも注意すべきなのでしょう。ちなみに,ロックの『統治二論』第二論文第95節では,人々が共同体コミュニティー設立目的彼ら固有プロパテものィーズ確実享受当該共同体安全保障相互快適安全平穏生活comfortable, safe, and peaceable living)であるものとされていました。

 

  SECTION 1.   That all men are by nature equally free and independent, and have certain inherent rights, of which, when they enter into a state of society, they cannot, by any compact, deprive or divest their posterity; namely, the enjoyment of life and liberty, with the means of acquiring and possessing property, and pursuing and obtaining happiness and safety.(全ての人々は本来均しく自由かつ独立であり,かつ,彼らが社会状態に入るときにおいていかなる協定によっても彼らの子孫から剥奪し,又は奪い去るこのとできない一定の生得の権利,すなわち,財産の取得及び保持並びに幸福及び安全の追求及び獲得に係る手段を伴う,生命及び自由の享受の権利を有していること。)

 

ジョージ・メイソン主導のヴァジニア邦の政体案は,ジェファソンには不満をもたらすものだったようです。

 

 このヴァジニアの文書は,一世紀半にわたってヴァジニアを支配してきた荘園(プラン)(ター)寡頭(・オリ)体制(ガーキー)の手中に権力を保持せしめるとともに,現状を維持る,深く保守的な代物であった。メイソンの宣言は投票資格のための財産所有要件を保存しており人口の1パーセントの10分の1未満の手中に権力を留め続けていた。

  自身で彼の反対意見及び修正案を提出できないため,古い郷紳(ジェントリー)支配体制が永続化されてしまうばかりということになるのではないかと深く憂慮するジェファソンは,フィラデルフィアとしては珍しい涼しい期間を,ヴァジニアの国憲に係る彼自身の案を次々と起草するために利用した。ジェファソンのものは,主に,〔略〕はるかに広い投票権を認める点において異なっていた。〔中略〕メイソンのものは,権力を有する少数の富裕な大土地所有エリートの支配の継続にとって有利なものであって,当該事実は1776年のこの夏においてジェファソンを警戒させた。彼は生涯,「建国者(ファウンディング)(・グレ)大家系(ート・ファミリーズ)」に対して米国人が夢中になることに苦言を呈し続けた。(Randall pp.268-269

 

大きな財産を保持する幸福かつ安全な保守的荘園(プラン)(ター)寡頭(・オリ)体制(ガーキー)に対する敵対者としては,財産の取得及び保持,幸福の獲得並びに安全の追求及び獲得に係る手段までをも人間の不可譲の権利伴うものとして言及して現状の変革を難しくするわけにはいかなかった,ということになるのでしょうか。なお,ジェファソンについて,「ジョン・ロックの「財産(プロパティ)」に代わる彼の「幸福の追求」の語の選択は,イングランド中産階級の財産権に係るホイッグ主義からの鋭い断絶を示している。」と評されています(Randall p.275)。

1776年夏のフィラデルフィアにおける大陸会議出席期間中,33歳のジェファソンが独立宣言の原案を起草する様子は,次のようなものだったそうです。

 

  それ〔アメリカ独立宣言案〕は,委員会会合及び拡大する内戦の最新状況を憂慮する論議の日々のかたわら,この激動の1776年夏,朝早くそして夜遅く,ジェファソンがものした多量の文書のうちの一つにすぎなかった。613日から28日までの2週間,涼しい朝,蒸し暑い夕べ,ジェファソンは彼の風通しのよい部屋にいくらかの平和及び静寂を求め,彼の周りに書類を拡げ,彼の新しい持ち運び机の上でせっせと仕事をした。〔略〕ジェファソンはいかなる書物にも当たる必要はなかったにしろ,彼は少なくとも一つの文書を所持していた。ヴァジニアのための彼の心を込めた憲法の最終草案である。そこから彼は,国王に対する苦情の長いリストを書き写すことになる。ジェファソンには何か独自なものを創出することは求められていなかった。その正反対であった。しかし彼は,古代ギリシア時代からつい先般のトム・ペインの熱のこもった修辞まで,百もの著述家から,彼の選ぶ言葉を摘み出す自由を有していた。(Randall pp.272-273

 

6 アメリカ独立宣言,ヴァジニア権利章典及び日本国憲法13

 

(1)「平等なものとして創造されている」又は「本来均しく自由かつ独立」と「個人として尊重される」と

日本国憲法13条前段の「すべて国民は,個人として尊重される。」の部分は,GHQ草案12条では“All Japanese by virtue of their humanity shall be respected as individuals.”となっています。しかし,何ゆえに“All Japanese are created equal. ”(アメリカ独立宣言流)とか“All Japanese are by nature equally free and independent.”(ヴァジニア権利章典流)という表現ではなかったのでしょうか。

「全ての日本人は,平等なものとして創造されている。」又は「全ての日本人は,本来均しく自由かつ独立である。」という前提からでは,それら日本人の有する生命,自由及び幸福追求に対する権利について国は「立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする」こととがうまく結び付かないからでしょうか。確かに,「平等」には悪平等もあるので,平等に「最大の尊重」をするのではなく平等に「踏みにじる」こともあり得るのでしょう(これに対して,日本人内限りでの「平等」であるからこそ,むしろそのようなことはないのだ,とはいい得るものでしょうか。)。(なお,ジョン・ロック的な平等(equality)は,およそ全ての事柄における平等といったものではなく,「各人が,他者の意思又は権威に服することなく,彼の自然の自由に対して有するところの平等な権利」でした(『統治二論』第二論文第54節)。)また,「自由かつ独立」ならば(なお,ここでは"equally""equally as Japanese"を含意しないものと解します。),そもそもそんな人たちは国家以前の存在で,直ちに「国政の上で,最大の尊重」をされる必要もないのでしょう。さらには,占領下の敗戦国民に対して,実は君たちは本来自由かつ独立なのだよ,と当の占領軍当局からわざわざ言ってやるのも余計なことだと思われたのかもしれません。「全ての人々は平等なものとして創造されている」又は「全ての人々は本来均しく自由かつ独立」と米国の原典からそのまま引き写すのも同様,戦争で負けた日本人が,それにもかかわらず米国その他の戦勝国の人々とも「全ての人々」仲間で平等ということになってしまって具合が悪かったのでしょう。(反抗的といえば反抗的な文言であるわけですが,1776年のヴァジニアの指導者たちは正にそのような人たちだったのでした。)

 

(2)日本国憲法13条前段と後段との間の社会契約

日本国憲法13条後段における国の義務の発生に係る直接の論理的前提は,日本国という統治体の設立に係る社会契約なのでしょう。ヴァジニア権利章典では“when they enter into a state of society…by…compactとあり,アメリカ独立宣言では“to secure these rights, governments are instituted among men, deriving their just powers from the consent of the governed”といっているところです。(なお,ヴァジニア権利章典2条には“That all power is vested in, and consequently derived from, the people; that magistrates are their trustees and servants, and at all times amenable to them.”(全ての権力は,人民に帰属し,したがって人民に由来すること。官職保有者は彼らの受託者かつ使用人であり,及び常に彼らに従属するものであること。)と,同章典3条終段には“that, when any government shall be found inadequate or contrary to these purposes, a majority of the community hath an indubitable, inalienable, and indefeasible right to reform, alter, or abolish it, in such manner as shall be judged most conductive to the public weal.”(いかなる統治体であっても,これらの目的について不十分又は反するものとみなされるようになった場合には,共同体の多数は,公共の福祉にとって最も親和的であると判断される方法に従って,それを改善し,変更し,又は廃止する不可疑,不可譲かつ不壊の権利を有する。)とあります。) 

そうであれば,日本国憲法13条前段と同条後段との間には,社会契約があることになるようです。日本国は国民国家なのでしょうが,「「国民国家」は,諸個人のあいだの社会契約によってとりむすばれるという論理の擬制のうえに成り立つ人為の産物であり,そのようなものとして,身分制や宗教団体の拘束から個人を解放することによって,人一般としての個人を主体とする「人」権と表裏一体をなすものだった。」とされているところです(樋口陽一『国法学』(有斐閣・2004年)25頁。また同104頁)。ただし,社会契約説は,「契約説ハ国民ガ国家ノ権力ニ服従スルノ根拠ヲ国民自身ノ意思ニ帰セシメントスルモノナルコトニ於テ,近世ノ民主主義ノ根柢ヲ為セルモノナリト雖モ,歴史的ノ事実トシテ此ノ如キ契約ノ存在ヲ認ムベカラザルハ勿論,論理上ノ仮定説トシテモ,此ノ如キ契約ガ何故ニ永久ニ子孫ヲ拘束スルカヲ説明スル能ハザルノ弱点ヲ有ス」と(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)11頁),また,「之は種々の点に誤もあるけれども,其根本に於て人性を見誤つたものと申さなければならぬ,国家を成すのは之を成さずとも宜いのであるが,利害得失を比較して,強て之を造り成したるものではなくして,人間の本質上自然に国家を成すに至るものであるから,人の意思を以て国家存立の基礎とする社会契約説は其根本に於て誤であると言はなければならぬ」(上杉慎吉『訂正増補帝国憲法述義』(有斐閣・1916年)34-35頁)と批判されていたところではあります。

しかしながら,18世紀後半の北米十三植民地の知識人の間では,社会契約説こそが常識だったのでした。母国政府との関係におけるマサチューセッツでの険悪な情勢等を承けて大量に政治小冊子が書かれた1774年のヴァジニアでは,次のごとし。

 

 教育を構成するものは何かということに人々がなお合意することができた時代に教育を受けた人間であるジェファソンは,政治小冊子の全論文執筆者中の典型であった。彼ら全てが――更に全読者についても前提されていたのだが――政治哲学者であるハリントン,ヒューム,ロック,ハリファックス,モンテスキュー,シドニー及びボリングブロークの,並びにグロチウス,フランシス・ハッチソン,プーフェンドルフ及びヴァッテルのような道徳哲学者の著作に精通していた。それに加えて,全員がトゥキディデス及びタキトゥスからクラレンドン伯爵に至るまでの歴史家の見解を諳んずることができた。全員が抑制と均衡のシステム並びにイングランドの憲法を構成する法律及び伝統に詳しかった。「これらは皆,我々の耳に余りにも何度も繰り返し叩き込まれたので,政治についての全くの素人でもそれから長いこと暗記してしまっていたはずだ。」と〔ロバート・カーター・〕ニコラスはぼやいた。全ての学識ある自由()保有(リー)不動産(ホール)保有者(ダー)は,国制上の「イングランド人の権利」を構成するものは何か,「自然法」とは何か――それが「自然」によって定立されて以来何が正しいとされ何が誤っているとされてきたか――及び彼らの「自然権」,すなわち,自然状態から人は契約によって社会に入ったのであり,したがって人は,彼自身又は彼の子孫のいずれによっても失われ,又は処分することのできない権利を保有しているとの彼らの確信, とは何か,並びに以上の結果として,正にその財産(プロパティー)に課税する権力を有するあらゆる政府においては財産(プロパティー)が代表されなければならないことを理解しているものと想定されていた。人民(ピープル)」とは何者かということは必ずしも常に明瞭ではなかったが,主権は人民(ピープル)属すると彼らは信ずるに至っていた。このような同一のイデオロギー基盤を政治小冊子論文執筆者らと自由保有不動産保有者らとは有していたものの,自由に関するこの夏の論争において,確認された論文執筆者中において唯一ジェファソンのみが,いかなる人も他の人を拘束する権利を有しないと主張して奴隷制問題を取り上げた。Randall p.201

 

ということであれば,日本国憲法13条前段の「個人」は,社会契約と何らかの関係があるのだろうということになります。

 

(3)社会契約の当事者としての個人(individuals

すなわち,個人(individuals)こそが,社会契約の当事者なのでした。正にジョン・ロックの『統治二論』の第二論文の第96節にいわく。

 

 For when any number of men have, by the consent of every individual, made a community, they have thereby made that community one body, with a power to act as one body, which is only by the will and determination of the majority… (というのは,任意の数の人々が,各個人の同意によって(by the consent of every individual共同体(コミュニティ)を作ったときには,彼らは,そのことによって当該共同体(コミュニティ)を,多数の意思及び決定によってのみであるが,一体として活動する力を有する一体のものとしたところなのである。)

 

(4)「尊重される」の意味

 さて,それでは,“All of the people shall be respected as individuals.”(「すべて国民は,個人として尊重される。」)における“shall be respected”(「尊重される」)の意味は何でしょうか。ここでの「個人」は日本国定立の社会契約の当事者の地位にある個人であるとして,彼らの「生命,自由及び幸福追求」に対する権利の保全(to secure)が不十分であるときには暴れて革命を起こす人民(ピープル)の構成員としての尊重でしょうか。それとも,社会契約を締結して国家(コミュニティー)の構成員となったとはいえ,彼らの生得不可譲の権利である「生命,自由及び幸福追求」の権利にはなお国家は手を触れるべからず,という意味での尊重(ただし,さすがに公共の福祉に反するようになれば介入して規制するのでしょう。)でしょうか。

「国政の上で,最大の尊重を必要」とするときの「尊重」はconsiderationですが,「consider(考える)は,L com- (intensive)L sīdus〔星,天体〕からなるL cōnsīderāre (to observe attentively; to contemplate; to examine mentally)が語源である。古典ラテン語においては占星術用語としての用法はないが,原義はto observe the starsであったと考えられている。」(梅田109頁)といわれれば,「生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政において遠くに輝く導きの星か,はた妖星か。

 日本国憲法13条の二つの「尊重」はそれぞれrespect及びconsiderationですが,後者の語源は上記のとおり,前者の語源もラテン語のrespicereですからどちらも「見ること」から派生した言葉です。見るということは距離・分離を含意し,手を差し伸ばして触れ合ったり支え合ったり,助け合ったりすることには直接結び付かないようです。

19464月付け法制局の「憲法改正草案に関する想定問答(第3輯)」においては,日本国憲法13条(政府提出案では第12条)前段の「個人として」に関する「個人としてとの意味如何」との想定問に対して,「個々一人一人の人間としてと言ふ意味であり,個人の人格尊重を規定したもので,全体の利益の為に,部分を不当に無視することなきの原則を明にしたものである」との回答が準備されていましたが,確かに,全体のために不当に無視しません,視ていますよとの消極的な性格のものとしての「個人の人格尊重」の位置付けでした。

19465月付け法制局の「憲法改正草案逐条説明(第1輯の2)」ではやや敷衍されて,次のように説明されています。

 

 本条前段は国民が各個人として尊重せらるべきものなることを定めて居ります。即ち従来稍〻もすれば全体を尊重する結果,誤まつて個人を無視し,全体の利益のために部分の利益を犠牲にする傾向に陥ることがあり,特に我国に於てこの弊が大きかつたと言ふことができるのでありますが,前段は国民の個人々々が何れも完全なる人格を有するものとして尊重されねばならぬとし,不当なる外力によつて国民の個性が抑圧せられることを防止しようとする趣旨であります。蓋し民主政治は自主独立なる個人の国政に対する積極的参与を精神とするものであるからであります。而して個人の人格を尊重すると言ふことは,要するに前2条に定めた所の基本的人権の尊重を,立法その他万般の国政の施行の際の基調とせねばならぬと言ふに帰着するのでありまして,本条後段はこの趣旨であります。

 

なお,日本国憲法13条後段の「最大の尊重」との表現については,「大イニ考慮ヲ払ツテ」という意味ではないかとの質疑(佐々木惣一委員)に対して,「サウ云フ意味デアラウト存ジテ居リマス,唯考慮スルト云フヤウナコトニナルト,専門家ガ御使ヒニナル言葉トシテハ,ソレデ十分デアリマセウケレドモ,一般的ニ国民ニ見セル法ト致シマシテ,左様ナ専門家的ナ渋イ描写デハ響キマセヌ,ソコデ政府ハ,サウ云フコトハ最モ尊重シテヤラナケレバナラヌ,斯ウ云フ気持ヲ現シタノデアリマス」との国務大臣答弁があったところです(1946916日の貴族院帝国憲法改正案特別委員会における金森国務大臣答弁(第90回帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員会議事速記録第149-10頁))。「渋イ」ものではいけないとなると,口当たりよく,甘やかで優しくなるのでしょうか。

 

7 GHQ草案12条釈義

 

(1)「日本国ノ封建制度ハ終止スヘシ」

 GHQ草案12条に戻ってアメリカ独立宣言及びヴァジニア権利章典との読み合わせをすれば,冒頭の「日本国ノ封建制度ハ終止スヘシ」は,最高上司のものしたマッカーサー三原則の第3項に敬意を表しつつ,当該一文によって大日本帝国憲法から日本国憲法への社会契約の変更が必要となった事由を示したものなのでしょう。アメリカ独立宣言であれば,北米十三植民地が独立を余儀なくされた理由としての英国ジョージ3世王の悪口が延々と続くところですが,まさか大日本帝国憲法下における昭和天皇の失政をあげつらうわけにもいかず,さらりと「日本国ノ封建制度ハ終止スヘシ」と書かれたものでしょう。明治の聖代における1869725日の版籍奉還,1871829日の廃藩置県の詔書などは高く評価されなかったようです。

 

(2)天皇の臣民(subjects)から社会契約の当事者たる個人(individuals)へ

 次の「一切ノ日本人ハ其ノ人類タルコトニ依リ個人トシテ尊(ママ)セラルヘシ」の部分は,「全ての日本人(又は人々)は,平等なものとして創造されている。」又は「全ての日本人(又は人々)は,本来(均しく)自由かつ独立である。」とも書かないこととしつつ,日本人を,続く後段の不可譲権(生命,自由及び幸福追求に対する権利)を有する自由,平等かつ独立である社会契約の当事者として位置付けようとしたものでしょうか。ロックの個人(individual)も,『統治二論』の第二論文第95節に“Men being, as has been said, by nature all free, equal, and independent, no one can be put out of this estate, and subjected to the political power of another without his own consent.”(今まで述べられてきたように,人々は本来全て自由,平等かつ独立であるので,だれも彼自身の同意なしにこの状態の外に置かれ,及び他者の政治権力に服せしめられることはない。)と紹介されています。
 ここで,“
not subjected to the political power of another”ということは重要です。それまでの日本人は,他者たる天皇の政治権力に,同意などという畏れ多いこともなしにひたすら服する臣民(subjects)でしたが,individualsとなることによって,明文では書かれずとも,アメリカ独立革命期における自由,平等かつ独立の愛国者(ペイトリオッツ)並みの存在たり得るもの位置付けられ得ることができたのでした。ただし,愛国者ペイトリオッツ英国国王ジョージ3世陛下に叛逆した乱臣賊子らでありましたから,「初より本質上日本人の活動は此御一人〔天祖及天祖の系統の御子孫〕の意思を基礎として存在するものであつた,各人は己を没却して絶対的に此御一人の意思に憑依するに由つて自己を完成し永遠ならしむることを得たのであります〔中略〕此御一人の意思は其以外に人性の活動を支配すべき意思あることなき各人が絶対的に憑依し奉る唯一の意思であります」(上杉229頁)ということにその道徳的存在性の基礎を置き,歴代天皇から恵撫慈養されてきた忠良な日本臣民としては,乱臣賊子ら並みになったといわれると,若干の没落ないしは堕落感があったものでしょうか。

 なお,「其ノ人類タルコトニ依リ」と書かれると,日本人はそれまでは人類として認められていなかったのか失礼な,という感じを受けるのですがどうでしょうか。あるいはこれは,最初はby natureと書いたところ,それでは「一切の日本人はその日本人たることにより個人として尊重せらるべし」ということになってかえって日本人ではない者は個人として尊重されなくなってしまうことになるので,くどくはなるものの,by virtue of their humanityと書くことになった(くどくそう書いたのは,個人として尊重されることには憲法までを要しない,という趣旨でしょう。「(法によって権利が認められるのではなく)権利はそれ自身で存在し,憲法・法律は権利の保護のためにあるという自然法的立場」をとる「既得権(vested right)の理論」が,正にロックを通じて米国に導入されていたところです(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)248頁)。),ということでしょうか。

 

(3)「生命,自由及幸福探求ニ対スルソノ権利ハ一切ノ法律及一切ノ政治的行為ノ至上考慮タルヘシ」

 「生命,自由及幸福探求ニ対スルソノ権利ハ一切ノ法律及一切ノ政治的行為ノ至上考慮タルヘシ」の部分は,国家設立の社会契約の目的の再確認ではありますし,日本国憲法においては,その第15条から第17条までの伏線となるところでしょう。日本国憲法14条の位置が問題になりますが,アメリカ独立宣言でもヴァジニア権利章典でも人々の平等ということが政府の位置付け論に対して先行しているところ,1946年の日本国においては,平等だと宣言するだけでは足りない積極的に片付けるべき封建遺制がなおあるものと認められたので,第14条が第13条に直ちに続いて,第15条以下の前に設けられたということでしょうか。

 なお,「幸福追求」について,法制局の「憲法改正草案逐条説明(第1輯の2)」は,「新しい表現でありますが,この語を用ひた気持ちとしましては,権利にも現状を維持するための権利と,一歩幸福の方に進めるための権利との区別があり,この後者の種類のものを表現したのであります。語感として享楽主義の誤解を招くとの非難があり得るかとも存じますが,従来の如く犠牲の面のみを強調することから生ずる暗さを払拭して,社会生活,国家生活の上に明るさを齎すと云ふ方針を表現し得たと考へて居ります。」と説明しています。「享楽主義の誤解を招くとの非難」に係る心配とは,専ら天皇に「其ノ康福ヲ増進」(ただし,「康福」は,伊東巳代治訳ではwelfare)することを願ってもらう(大日本帝国憲法上諭)受け身の姿勢には慣れてはいても,自分で自分の幸福を主体的かつ能動的に追求するとなると,生来享楽を求める己れの本性が下品に暴露されてしまいそうでかえって怖い,ということもあったのでしょうか。
 ちなみに,ジェファソン自身は,18191031日付けウィリアム・ショート宛て書簡において,自分も「古代ギリシア及びローマが我々に遺した道徳哲学における合理的なもの全て」がその教説にあるところのエピクロスの信奉者であると述べつつ,エピクロスの教説では幸福(happiness)が人生(life)の目的であり,その幸福の基礎は徳(virtue)であり,徳は①賢慮(Prudence),②節度(Temperance),③剛毅(Fortitude)及び④正義(Justice)から構成される,とまとめています(まとめ自体は書簡執筆時から二十年ほど前のものだと述べられています。)。享楽主義ではありません。

   

 8 「個人の尊厳」

 ところで,日本国憲法13条前段(「すべて国民は,個人として尊重される。」)は,「「個人の尊厳」を定めた規定であると一般に説明され」ているそうで(樋口陽一=石川健治=蟻川恒正=宍戸常寿=木村草太『憲法を学問する』(有斐閣・2019年)151頁(蟻川恒正)),さらには当該「「個人の尊厳」については尊厳こそが重要だ」ともされています(樋口等153頁(蟻川))。「〔日本国〕憲法13条は,「個人の尊重」(前段)と「幸福追求権」(後段)との二つの部分からなる。前段は,後段の「立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする」と一体化して,個人は国政のあらゆる場において最大限尊重されなければならないという要請を帰結せしめる。これは,一人ひとりの人間が「人格」の担い手として最大限尊重されなければならないという趣旨であって,これを「人格の尊厳」ないし「個人の尊厳」原理と呼ぶことにする。」とも説かれていたところです(佐藤444頁)。

この「尊厳」という概念については,「本気で使うなら,高い身分と不可分のものであるという,ヨーロッパの伝統社会でずっと引き継がれてきた理解を簡単に捨ててはいけない」ということで,「近代社会というのは身分が撤廃された社会というわけではない,そう見えるかもしれないけどもそうではない,では何なのか,みなが高い身分になった社会なのだと考える」べきなのだとの主張があります(樋口等155頁・156頁(蟻川))。当該論者によれば,「重い義務を引き受け,それを履行する人が高い身分の人であるという感覚」から,「尊厳というものは,義務を前提としてでなければ成り立たない。高い身分の人というのは,それだけ普通の人より重い義務を負う存在でなければならない」ということになるそうです(樋口等158頁・159頁(蟻川))。「自分は社会の基本的な構成員だという自覚を与えることが,その人を尊厳ある存在として認めることになるし,そういう社会を作っていくという社会自身のミッションでもある」ということだそうです(樋口等200頁(蟻川))。

民法2条の「個人の尊厳」については,「個人の尊厳とは,すべての個人は,個人として尊重され(憲13条参照),人格の主体として独自の存在を認められるべきもので,他人の意思によって支配されまたは他の目的の手段とされてはならない,ということである。」と説かれています(我妻榮『新訂民法総則(民法講義Ⅰ)』(岩波書店・1965年)29頁)。「他の目的の手段とされてはならない」となると,カント的ですね。教養主義的とも申せましょう。

 

 Handle so, daß du die Menschheit sowohl in deiner Person, als in der Person eines jeden andern jederzeit zugleich als Zweck, niemals bloß als Mittel brauchest. (Grundlegung zur Metaphysik der Sitten)

 

ところで「人格」ですが,これは「近世法が,すべての個人に権利能力を認め,これを人格者(Person)とする」ということですから(我妻46頁),権利能力の主体という意味でしょうか。仮にそうだとすると「人格の尊厳」とは,権利能力の「尊厳」ということになりそうです。何だかこれでは味気ない。であるとすれば,「ここにおいて,現代法は,個人を抽象的な「人格」とみることから一歩を進め,これを具体的な「人間」(Mensch)とみて,これに「人間らしい生存能力(menschenwürdige Existenzfähigkeit)を保障しようと努めるようになった(ワイマール憲法151条)。わが新憲法第25条もこの思想を表明するものである。」(我妻47頁)とはむべなるかな,ということになります。2012427日決定の自由民主党の日本国憲法改正草案では第13条は「全て国民は,人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公益及び公の秩序に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大限に尊重されなければならない。」と改正されることになっていて,「個人」が「人」になっています。


9 GHQ草案12条の「個人」の肖像

最後に,GHQ草案12条の想定していたindividualsとはどのような人々だったのでしょうか。

ロックの説くところでは,自然法の違反者を処罰する自然法執行の任に当たり,また,自らに対する損害賠償を求める自力救済をも行う者でした(『統治二論』第二論文第2章)。なかなか能動的です。自らのproperty(もの)である労働(labour)によって彼に固有のもの(プロパティ)を取得する者であり『統治二論』第二論文27節・第32節),理性の法に服し(同第57節),それに足る精神的能力を有していなくてはならず(同第60節),配偶者,子供及び召使からなる家庭を有する者ともなり(同第77節), 彼に固有のもの(プロパティ),すなわち彼の生命,自由及び財産(estate)を他の人々による侵害又はその試みに抗して保持する権力(a power)を生来(by nature)有する者でありました(同第87節)。

米国的文脈では,独立宣言の最後でアメリカ独立革命の大義のために“we mutually pledge to each other our lives, our fortunes, and our sacred honor.”(我々は,相互に,我々の生命,我々の運命(財産)及び我々の神聖な名誉をかけることを誓う。)と誓った「壮麗に古代ローマ的な」(Randall p.273愛国者(ペイトリオッツ)でしょうか。それとも後の大統領フーヴァーが19281022日に説いた,分権的自治,秩序ある自由,平等な機会及び個人の自由の諸原則(the principles of decentralized self-government, ordered liberty, equal opportunity, and freedom to the individual)を奉ずるrugged individualism(徹底的個人主義)の信奉者でしょうか。「アメリカは,英国の公共の負担によってではなく,諸個人(individuals)の負担によって征服され,並びにその定住地が建設され,及び確立されたものである。彼ら自らの血が彼らの定住地の土地を確保するために流され,彼ら自らの財産が当該定住地を持続可能とするために費やされた。彼ら自身で彼らは戦った,彼ら自身で彼らは征服した,そして彼ら自身のみのために彼らは保持の権利を有するのである。」とは17747月にジェファソンが執筆した「ブリティッシュ・アメリカの権利の概観」の一説です。

フーヴァーは,その米国式徹底的個人主義の対極にあるものとして欧州の家父(パター)長主義(ナリズム)及び国家(ステート)社会(・ソーシ)主義(ャリズム)を挙げていました。

全ての国民を「かけがえのない個人として尊重」する国家及び社会においては,徹底的個人主義を奉ずる個人は稀であり,むしろフーヴァーのいう欧州的な哲学を奉ずる者が大多数なのでしょう。

  



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 偉大な人物にも小さい側面――具体的には,「せこい」ところ――があることがあります。

 その「せこさ」ゆえにますますうんざりさせられる大人物もあれば,思わずにやりとさせられる偉い人もあります。要は普段の行い次第ということになるのでしょう。

 

1 大カトー

前者の代表人物として挙げられるのは,紀元前3世紀から同2世紀にかけての古代ローマの大カトーです。「ローマの周囲にある村や町で,これ〔弁舌〕を身につけるために練習し,頼んで来る人があるとその度毎に法廷で弁護に立ち,先づ熱心な論戦家,やがて有能な弁論家といふ名を取つた」後,「ローマの町に移ると直ぐ,法廷の弁護によつて自分でも崇拝者や友人を得」つつ(河野与一訳『プルターク英雄伝(五)』(岩波文庫・1954年)49頁,51頁)成り上がった弁護士上がりの名物政治家でした。

 

  ・・・〔大カトーは,〕様々の色をしたバビュロニア製の絨氈(じゅうせん) (embroidered Babylonian tapestry) を遺産として手に入れても直ぐ売払ひ,その別荘 (farmhouses) は一つとして壁土が塗つて (plastered) なく,1500ドラクメー以上出して奴隷を買つたこともなく,必要なのは洒落た美しい奴隷ではなくて,仕事をよくする丈夫な奴隷,例へば馬丁や牛飼のやうなものであるとした。しかもそれらの奴隷が年を取つて来ると,役に立たなくなつたものを養つて置かずに売払ふべきだと考へてゐた。・・・

  これを或るものはこの人の吝嗇(りんしょく) (petty avarice) な点に帰し,又或るものは他の人々を矯正して節度を教へるために自分も内輪に控へたのだと認めてゐる。但し奴隷を駄獣 (brute beasts) のやうに年を取るまで使ひ尽してから追ひ出したり売つたりするのはあまり冷酷な性格 (over-rigid temper ) から来るもので,人間と人間との間に利用 (profit) 以外の繫がりがないと考へてゐるやうに私〔プルタルコス〕は思ふ。しかしながら好意 (kindness or humanity) は正義心 (bare justice) よりも広い場所を占めてゐると私は見る。と云ふのは,我々は本来人間に対してだけ正義 (law and justice) といふものを当嵌(あては)めるが,恩恵や慈愛 (goodness and charity) となると物の言へない動物に対してまで豊富な泉から流れるやうに温和な心持 (gentle nature) から出て来る場合がある。年のためにはたらけなくなつた馬 (worn-out horses) を養つたり,若い犬を育てるばかりでなく年取つた犬の面倒を見たりするのは深切な人 (kind-natured man) の義務である。

  ・・・

  実際,生命を持つてゐるもの (living creatures) を靴や道具のやうに扱ひ,散々使つて(いた)んだからと云つて棄てて顧みないのは(よろし)しくない。他に理由がないとしても,深切な心持を養ふために (by way of study and practice in humanity) もそれらに対して柔和な態度 (a kind and sweet disposition) を取る癖をつけなければならない。少くとも私ははたらかした牛 (draught ox) を年を取つたからと云つて売ることはしない。(いわんや)して年を取つた人間をその祖国 (his own country) ともいふべき育つた場所 (the place where he has lived a long while) ()れた生活から僅かばかりの銅貨のために追出して,売つた人にも買つた人にも役に立たないやうな目に会はせたくない。ところがカトーはかういふ事を誇つてでもゐるやうに,コーンスル〔統領〕として数々の戦闘に使つた馬をヒスパニア (Spain) に残して来て,その船賃を国家に払はせまいとした (only because he would not put the public to the charge of his freight) と云つてゐる。・・・(河野訳5355頁。英語は,John Drydenの訳です。河野与一の文章は難しいのですが,そもそもその人物については,「仙台駅裏のガードをくぐり,狭いうらぶれた土の道を歩いていって,とある家の古風な土蔵の中に,この先生が縹緲(ひょうびょう)〔遠くはるかに見えるさま。ぼんやりしていてかすかなさま。〕と住んでいた。見ると,汚ない着物にチャンチャンコを着,一般地球人類とは様子が異なるお(じい)さんであった。頭蓋(ずがい)がでっかくて額がでっぱっていて,これはウエルズの火星人が化けているのではあるまいかと,ひそかに私は考えたものだ。」(北杜夫『どくとるマンボウ青春記』(新潮文庫・2000年)301頁)と報告されているような様子だったのですから,さもありなんです。)

 

大カトーがローマの統領(コンスル)となったのは紀元前2世紀初めの同195年,同194年にはヒスパニアからの凱旋式を挙げています。

 

2 馬の売却交渉

ところで,紀元18世紀の末の1797年3月に,アメリカ合衆国において,初めての大統領(プレジデント)の交代がありました。

 

 〔ペンシルヴァニア州フィラデルフィア市において1797年3月4日土曜日昼に行われた2代目大統領の就任式を終えて〕彼〔ジョン・アダムズ〕はフランシス・ホテルの宿所に戻った。ワシントン一家が「大統領の家」 (President’s House) をゆっくりと引き払う間,彼はその1週間の残りを同ホテルで過ごすことになっていた。その最初の午後には,彼への訪問客が途切れなく続いた。大多数は彼の幸運を祈り,一部の者は彼の就任演説を称賛した。彼と近しい一,二の者が急ぎやって来て,連邦(フェデラ)党員(リスツ)中に,就任演説が野党の共和党(リパブリカンズ)に対して宥和的に過ぎたと文句を言っている者がいると告げた。ワシントンは,アダムズをその午後遅く,そして再びの終わりに訪問した。当該1の半ばの一夜には,ワシントン夫妻は,新正副大統領〔新副大統領はトーマス・ジェファソン〕のための晩餐会を主催した。ワシントンによるフランシス・ホテル訪問は,主として社交的性格のものであったが,ビジネス的ないくつかの取引も行われた。ワシントンは,大統領の家」の全ての家具調度を執行の長としての報酬から支出して購入していた。不要な家財道具を〔ワシントンの自宅及び農園があるヴァジニア州の〕マウント・ヴァーノンに輸送することにより生ずる費用を負担することを望まないワシントンは,家具類についてアダムズの関心を惹くことを試みた。アダムズは,そのうちいくつかについて入手することにした。しかし,彼は,ワシントンが更に売ろうと望んだ2頭の馬の購入は断った。後にアダムズは,前任大統領は彼からぼったくろうgouge〕としていたのだと示唆している。おそらく彼の意見は正しかったであろう。ワシントンは,それらの馬は,彼がそうだと表明していたところよりも齢を取っていたのだよと友人に明かしていた。(Ferling, John E., John Adams: a life (Oxford University Press, 2010) pp.335-336. 日本語は拙訳。なお,ワシントン夫妻がアダムズ及びジェファソンを招いた上記晩餐会は3月6日のことだったようです(see Ferling p.341)。)

 

 「せこいぞ,ジョージくん!」と叫ぶべきでしょうか。

 ファーリングの上記文章に係る註 (Ferling p.497) によれば,アダムズがワシントン=不実な博労(ばくろう)説を唱えたのは,1797年3月5日又は同月9日付けの妻アビゲイル宛の書簡においてのようです(おそらく9日付けの方なのでしょう。)。また,ワシントンの「友人」とは,ダンドリッジか(1797年4月3日付けワシントン書簡。ダンドリッジ家は,ワシントンのマーサ夫人の実家です。),メアリー・ホワイト・モリスか(同年5月1日付けワシントン書簡)。フィラデルフィアの「大統領の家」の最初の賃貸人であり,かつ,ワシントンの友人であったロバート・モリスの妻であったのが,メアリー・ホワイト・モリスです。後に見るように,ワシントンは,家具調度売却に係る対アダムズ交渉についてメアリー・ホワイト・モリスに報告していますから,モリス夫人が当該「友人」であったように筆者には思われます。

 ロバート・モリス(1734年生,1806年歿)は,商人にして銀行家,大陸会議代議員及びペンシルヴァニア邦議会議員,独立宣言には採択の数週間後に署名,アメリカ独立戦争中・戦争後は財政面で活躍,1789年から1795年までは合衆国上院議員,商業・銀行業から土地投機に転じたもののやがて破産し,1801年まで3年以上債務者監獄に収監されています。(see Encyclopaedia Britannica, Founding Fathers: the essential guide to the men who made America (Wiley & Sons, 2007) p.175

 President’s Houseを「大統領の家」と訳して大統領「官」邸と訳さなかったのは,当該不動産はアメリカ合衆国の国有財産ではなかったからです。1790年に合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンがニュー・ヨーク市からフィラデルフィア市に移った際「シティ・タヴァン (City Tavern) では,彼のがっしりとして外向的な友人であるロバート・モリスが手をさし伸ばして待っていた。フィラデルフィア市は,六番街との角に近いハイ・ストリート(後にマーケット・ストリート)190番地のモリスの屋敷を,新しい大統領邸宅として借り受けていた (had rented)。」と報告されています(Chernow, Ron, Washington: a life (Penguin Press, 2010) p.633. 日本語は拙訳)。我が民法用語によれば,ロバート・モリスが賃貸人,フィラデルフィア市が賃借人,ジョージ・ワシントンが転借人ということになっていたようです。

 ところで,「せこいぞ,ジョージくん!」と叫ぶよりも,「あっ,ジョンくん,暗い。」と慨嘆すべきではないかとの解釈もあるようです。チェーナウのワシントン伝にいわく。

 

 ・・・ワシントンは,鷹揚に,〔「大統領の家」の〕二つの大きな客間 (drawing rooms) の家具調度を値引いた価格で提供する旨〔アダムズに対して〕申し込み,その際「一番良いものを取りのけておいて,残りの余り物を彼に提供する」ということはしなかった〔1797年5月1日付けメアリー・ホワイト・モリス宛ワシントン書簡〕。しかしながら,アダムズ夫妻 (the Adamses) は,それらの物件に手を出そうとはしなかった。さらには,つまらぬ悪口 (petty sniping) の発作を起こしたアダムズは,ワシントンは2頭の老いぼれ馬を2000ドルで彼につかませようとまでしたのだ (even tried to palm off two old horses on him for $2,000),とぶつぶつ文句を言った。(Chernow p.769

 

合衆国2代目大統領の年俸は2万5000ドルで,アダムズは既に馬車を1500ドルで買ってしまっていたところでした (Ferling p.334)。また,アダムズの支払に係るフィラデルフィアの「大統領の家」の転借料は,月225ドルだったそうです (Ferling p.336)

 

3 馬齢詐称と詐欺未遂とに関して

 

(1)詐欺未遂罪容疑に関して

我が刑法246条1項は詐欺罪について「人を欺いて財物を交付させた者は,10年以下の懲役に処する。」と規定し,同法250条により詐欺罪の未遂も罰せられます。無論,日本国民ではない者が日本国外で詐欺未遂罪を犯しても日本刑法が適用されることはないのですが(同法2条参照),ペンシルヴァニア州フィラデルフィア市において1797年3月4日から同月8日(同月9日木曜日早朝にワシントン一家は同市を退去 (Ferling p.336))までの間にヴァジニア州で農場を経営するジョージ・ワシントン氏(当時65歳)が,実際の齢よりも若いものと偽って老馬2頭をアメリカ合衆国大統領ジョン・アダムズ氏(当時61歳)に対して売り付けようとした行為は,仮に日本刑法が適用される場合,詐欺未遂で有罪でしょうか。

 

 日常の商取引においては,例えば販売者,購買者ともに自己に有利になるように駆引きを行い,地域や職種によっては一定の誇張・虚偽の宣伝が通常のものとなっている。これらの行為を,形式的に一般人を錯誤に陥らせるものとして,これらのすべてを処罰することは明らかに妥当ではない。刑法上の詐欺は,ある程度強度なものに限る。誇大広告も,著しいもの以外は詐欺罪には該当しない。(前田雅英『刑法各論講義 第4版』(東京大学出版会・2007年)266頁)

 

アダムズに一蹴されてしまっている程度のようですから,詐欺未遂罪容疑云々で騒ぎ立てるほどのことではないのでしょう。

 

(2)民事法における詐欺に関して

他方,我が民事法の方面での詐欺とは,どのようなものでしょうか。日本民法96条1項は「詐欺又は強迫による意思表示は,取り消すことができる。」と規定しています。

 

違法性のあるもの,すなわち,信義の原則に反するものでなければ,詐欺ではない。社会生活上,多少の欺罔行為は,放任されるべきだからである。ドイツ民法(ド民123条)にarglistige Täuschung(悪意の欺罔)というのは,善意に対する悪意というだけでなく,倫理的な意義を含むものと解されている〔略〕。この意味で,沈黙・意見の陳述などは,詐欺とならない場合が多いのである。(我妻榮『新訂民法総則』(岩波書店・1965年)310頁)

 

ドイツ民法123条1項は„Wer zur Abgabe einer Willenserklärung durch arglistige Täuschung oder widerrechtlich durch Drohung bestimmt worden ist, kann die Erklärung anfechten.“と規定しています。すなわち,「悪意の欺罔により,又は違法に強迫によって意思表示をさせられた者は,当該意思表示を取り消すことができる。」とあります。Arglistigの訳語には,手元の独和辞典によれば「悪だくみのある,邪悪な奸知にたけた」(小学館『独和大辞典〔第2版〕』),「悪がしこい,悪ぢえのある」(三修社『現代独和辞典』)というような言葉が当てられています。

(ちなみに,「《ドイツ民族》,つまり,だまし民族と呼ばれたのは(うべ)なるかなだ。――」(木場深定訳のニーチェ『善悪の彼岸』244の最終文)と註釈なしに言われるだけでは何のことやらよく分かりませんが,原文は„man heisst nicht umsonst das »tiusche« Volk, das Täusche-Volk ...“で,何のことはない,Deutsche(ドイッチェ)täuschen(トイッシェン)(動詞で,「だます」)との駄洒落でした。さらには,Tauschen(タウッシェン) ist Täuschen(トイッシェン) .“(交換とはだますことである。)ともいいます。

馬の売買は,絵画の売買と並んで社会生活上買主側に大きな注意ないしは判断力の働きが要求される取引領域である,といい得たようです。

 

・・・イギリスのコモン・ローでは,売買,殊に動産売買には「買主をして注意せしめよ」(caveat emptor)のマキシムが適用され,売主の明示の担保があるか,売主に詐欺があるかするのでなければ,たとえ売買の目的物に隠れた瑕疵があっても売主の責任を追及しえないのが一般的ルールであった。・・・

 アメリカにおける売主の瑕疵担保責任の出発点をなしたのも,イギリスのコモン・ローであり,やはりcaveat emptor のマキシムが適用され,売買の目的物について売主による黙示の担保がないのを一般的ルールとしつつ,それに対する例外としての黙示の担保をみとめ,その範囲を拡大する傾向にあったが,統一売買法はその傾向に沿って制定され多くの州で採用され,現在では統一商事法典がそれに代っている。

 ・・・

 このように,動産売買においてはcaveat emptorの一般的ルールに対して,その例外として商品性と特定目的への適性の黙示の担保がみとめられているが,その例外が広汎にみとめられてきたので,caveat emptorは実際には例外となったといわれる(イギリス)。或いは「caveat emptorは,かつてはいかに活力をもっていたとしても,死にかかっている」。「現在のルールは『売主をして注意せしめよ』であるし,またあるべきである」ともいわれる(アメリカ)。

 それでは,現在,caveat emptorはどんな場合に適用されるかというに――買主が任意に買う物を選んだとき適用されるのであるが,特に適用されるのは――買主が自分自身の判断を行使しうるし,また通常行使する特定物売買,例えば,絵とか,なかんずく馬などの売買である。(来栖三郎『契約法』(有斐閣・1974年)7779頁)
 

(3)馬齢及び歯に関して

 馬の齢は,馬の歯を調べれば分かるといいますから,隠れた瑕疵にもなるのかどうか。

 とはいえ,歯の話は,1797年3月当時,新旧のアメリカ合衆国大統領としては避けたかった話題でしょう。歯の弱かった初代大統領の最後の歯(左下の小臼歯)は1796年に抜かれてしまっており,大統領退任時のワシントンは既に歯の無い老人となっていました(see Chernow pp. 642, 644)。第2代大統領は,副大統領時代の1792年から歯槽膿漏を患って歯が抜けてしまうようになっており,発音も悪くなっていたところです(see Ferling p.319)。

 

4 「大統領の家」をめぐって

ところで,フィラデルフィアの「大統領の家」の所有者は,1795年3月,ロバート・モリスからアンドリュー・ケネディに代わっていました。

 

 1790年代の半ば,ワシントン大統領の居住中に,ロバート・モリスは,チェストナット,ウォルナット,七番及び八番の各ストリートに囲まれたブロックに建設を計画していた宏壮な邸宅のための費用を調達するために,彼のマーケット・ストリートの全不動産を売却した。「大統領の家」及び東側の林園 (wood yard) は,1795年3月にアンドリュー・ケネディに3万7000ドルで売却されたのである。ケネディは,裕福な商人であって,執行権の長の邸宅として当該不動産を市に対して賃貸することを継続した。(Lawler, Edward, Jr., The President’s House in Philadelphia: The Rediscovery of a Last Landmark (The Pennsylvania Magazine of History of Biography, January 2002 (Parts I&II)) Part II. 日本語は拙訳)

 

「売買は賃貸借を破る。」かどうかが問題となるところですが(我が国法では,売買が不動産賃貸借を破らないようにするためには,賃借権の登記をし(民法605条,不動産登記法3条8号・81条),建物所有目的の土地の賃貸借については土地の上に借地権者が登記されている建物を所有し(借地借家法10条1項),又は建物の賃貸借については建物の引き渡し(同法31条1項)をすることになります。),新しい所有者が現状維持を認めたのですから問題はなかったのでしょう。

フィラデルフィアは1800年にコロンビア特別区ワシントンに合衆国の首都が移転するまでの暫定首都とされていましたが,フィラデルフィア市当局は,合衆国の首都としての地位を恒久化すべく,同市の九番街に大統領用の邸宅を建造していました。

 

 ワシントンの第2の任期が終了するまでに,及び11万ドル以上の費用をかけた上で,九番街の大統領用邸宅が完成した。新しい建物は巨大だった。面積ではマーケット・ストリートの家屋の3倍以上,独立記念館 (Independence Hall) の2倍以上の大きさがあった。ペンシルヴァニア州知事は,当該邸宅の賃貸を,次期大統領に選出されたアダムズに対して,「フィラデルフィアにおいて他の適当な家屋を使用することが (obtain) できる額の賃料」であればよいと,いささか必死になって申し込んだ。アダムズは「合衆国憲法の素直な解釈からして,議会の意思及び権威の無いまま貴申込みを承諾する自由が私にあるのかどうか,大きな疑問を有しているところです・・・」と回答しつつ,申込みを拒絶した。当該大邸宅の占用――当該動きは,全国の首都にとどまることに係るフィラデルフィアの沈下しつつあるチャンスを回復させるものとなった可能性がある――をするように彼に加えられる圧力をおそらく増大させるためであろうが,市当局は,マーケット・ストリートの家屋の年間賃料額をペンシルヴァニア通貨1000ポンド(約2666ドル)に倍増させた。新大統領は頑張り,1797年3月半ばにはマーケット・ストリートの建物に移り住んだ。アダムズ一家の家事使用人団は,ワシントン一家のものよりも少人数であり,かつ,彼らの社交活動はより質素であったようである。(ワシントンは大統領在任中ほとんどの年において報酬額以上の出費をしていたところ,彼の後継者は報酬の15パーセント以上を貯蓄するようにやり繰りをした。)1790年の首都法 (Residence Act of 1790) 180012月の第1月曜日からコロンビア特別区が正式に全国の首都となるものとしていた。マサチューセッツの彼の農場に滞在後,アダムズは11月1日に新しい連邦市 (Federal City) に移転した。

 アダムズはフィラデルフィアの「大統領の家」を1800年5月遅くまで占用した。彼の退去後数週間で,当該家屋はジョン・フランシスに貸し出された。フランシスは,アダムズ及びジェファソンがそれぞれの副大統領時代に宿所にした滞在施設の所有者であり,それまでの「大統領の家」はフランシス・ユニオン・ホテルとなった。(Lawler Part II

 

なお,アンドリュー・ケネディは独身のまま1800年2月に死亡しており,前の「大統領の家」をホテル用にフランシスに貸し出したのはアンドリューの同胞(きょうだい)で相続人のアンソニーであったということになります(see Lawler Part II)。

フィラデルフィアは,当時は夏になるごとに黄熱病が流行していたそうですから,そもそも合衆国の恒久首都となる見込みは薄かったところです。

 さて,1797年3月9日に行われたフィラデルフィアの「大統領の家」からのワシントン一家の退去は,あまり見事ではなかったようです。ワシントン一家の退去後,アダムズ新大統領は「大統領の家」に入ったのですが・・・

 

 ・・・しかしながら,その優美さにかかわらず,当該邸宅はワシントン一家の出発後きちんと清掃されていなかったこと,及び前大統領の召使らが,酔いどれて,おそらく主人のポトマック河畔の邸宅〔マウント・ヴァーノン〕における厳しい労働の生活に戻る将来の悲観のゆえ,彼の新しい調度類のいくつかを損壊してしまっていることを発見したアダムズは,ショックを受けた。更にアダムズは,いくつかの部屋が小さな役に立たない小部屋に没論理的に分割されていることを見出した。したがって,広い家屋の一隅に落ち着きつつ,彼は,他の場所について小修繕がされるように指示をした。(Ferling p.336

 

ジョン・アダムズ夫人アビゲイルは1797年3月にはフィラデルフィアには未着であって,マサチューセッツ州から同市に到着したのは同年5月の中旬でした(Ferling p.346)。したがって,アビゲイルの意見はジョンからの伝聞に基づくもののように思われるのですが,ワシントン一家退去直後の「大統領の家」の状況について,アビゲイルの批評は殊更厳しかったとチェーナウは伝えます。

 

・・・執行権の長の邸宅がだらしのない状態にあることにぞっとしたとジョン及びアビゲイル・アダムズは主張した。特にアビゲイルは当該家屋を,「私が今まで聞いた中で (that I ever heard of) 最もスキャンダラスな,召使ら仲間による飲酒及び無秩序の現場」であるところの豚小屋 (pigsty) といってけなした。・・・(Chernow p.769

 

 

5 「大統領の家」におけるワシントン一家の家事使用人団に関して

 フィラデルフィアの「大統領の家」でワシントン一家に仕えていた召使らとは,アフリカ系奴隷やらドイツ系の年季奉公人やらだったようです。「ワシントンは大体20人から24人ほどの家事使用人団をフィラデルフィアにおいて維持していた――これらのうち,アフリカ系奴隷の数は,同市において職務を開始した直後の8名から最後の2ないしは3名へと推移した。」及び「アフリカ系奴隷の大部分は,ドイツ系の年季奉公人 (German indentured servants) に置き換えられた。」とあります(Lawler Part I)。ドイツ人は,das Täusche-Volkであるとともに,ビール等のお酒を飲むのが好きそうです。アフリカ系奴隷の一人,料理長のハーキュリーズは,1797年3月9日のワシントン一家フィラデルフィア退去の際に逃亡しています。

 

  ハーキュリーズは,1797年3月に自由に向けて逃亡した。伝えられるところによると,引退したばかりの大統領とその家族とがヴァジニアへ帰る旅行を開始した朝のことである。当該逃亡から1箇月たたないうちにルイ=フィリップ(後のフランス国王)がマウント・ヴァーノンを訪れた。彼の男性召使の一人がハーキュリーズの娘と言葉を交わし,「小さなお嬢ちゃんはお父さんと二度と会えなくなったことについてきっと深く動転しているのだろうと言ってみた。彼女は,とんでもありません,だんなさま,とても喜んでいます,だって父は今や自由なのですから,と答えた。」

  ワシントンの遺言の規定によって,ハーキュリーズは1801年に解放され,彼は逃亡奴隷ではなくなった。彼についてはそれ以上のことは知られていない。〔ハーキュリーズの子である〕リッチモンド,エヴェイ及びデリアは母を通じて寡婦産奴隷であり,奴隷のままでとどめおかれた。(Lawler, Edward, Jr., The President’s House in Philadelphia: The Rediscovery of a Last Landmark (The Pennsylvania Magazine of History of Biography, October 2005) Revisited

 

ハーキュリーズがフィラディフィアで謳歌した自由は,逃亡に向け彼を大胆ならしめる一方,ヴァジニアに帰るという将来像をより抑圧的なものに感じさせただけであっただろう。(Chernow p.762

 

アメリカ南部・ヴァジニア州のマウント・ヴァーノンは評判が悪く,ワシントンの大統領任期末期には,フィラデルフィアの家事使用人団の士気は頽廃していたということでしょうか。
 (
なお,マサチューセッツ人であるアダムズは,奴隷を所有していませんでした。)

料理長ハーキュリーズは逃亡したものの,アダムズから引取りを拒否された2頭の老馬は,ぽっくりぽっくり,フィラデルフィアからマウント・ヴァーノンへの陸路6日間の旅(see Chernow p.769)に同行したものでしょうか。まさか,泥酔した召使たちに食べられてしまっていたわけではないでしょう。

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マウント・ヴァーノン

 

6 古代ローマの奴隷所有者とアメリカ合衆国建国期の奴隷所有者

遺言で自分の奴隷(ただし,妻の寡婦産に属するものではありません。)を解放するなど,奴隷に対するワシントンの態度は,大カトーほどドライではなかったようです。

大カトーは「友人や同僚を饗応した時に,食事が終ると直ぐ,何事についても粗略な振舞をした給仕人や料理人を笞で懲らしめ」,「何か死罪に当るやうな事を犯したと思はれるものはすべての奴隷のゐるところで裁判に掛け,有罪と決まればこれを殺した」りしたようです(河野訳77頁。なお,Dryden訳によれば,有罪判決は奴隷仲間に出させしめたようです。)。

これに対して,ワシントンは,「通常は奴隷が鞭打たれることを許さなかったが,他の方法が尽きたときはときどき (sometimes) それを許した。「無精」かつ「怠惰」とマーサが認定したシャーロットという名の奴隷に係る1793年1月の一件は,その一例である。」といった具合にとどまり,「〔アメリカ独立〕戦争前にワシントンは,困った奴隷2名を西インド諸島に船で送り出した。同地においては,熱帯性気候のため,想定される余命は短かった。」程度であったそうではあります(Chernow p.640)。

 

7 時効管理

しかしながら,大カトーとワシントンと,どちらがより「せこい」かというと,むしろワシントンだったかもしれません。

 

1791年4月の初め,司法長官エドモンド・ランドルフがワシントン夫妻に驚くべきニュースを告げた。1780年のペンシルヴァニア法により,6箇月連続して同州〔当時のアメリカ合衆国の首都は同州のフィラデルフィア市にあったことは前記のとおりです。〕に居住する成人奴隷は自動的に自由民となるのであった。〔ヴァジニア出身の〕ランドルフ自身の奴隷のうち3名が,彼らの自由となる権利を行使する予定である旨通告してきていた。奇態なことであるが,合衆国の司法長官は,大統領及びファースト・レディに対して,当該現地法を潜脱 (evade) することを勧めた。どうしたらよいかと説明しつつ,彼が言うには,いったん奴隷がペンシルヴァニア州外に移出されて,それからまた移入されたのならば,時計の針は元に戻るのであって,それから彼らが自由民となることを請求することができるためには,また6箇月が経過しなければならないのであった。(Chernow p.637

 

 ランドルフ司法長官の「ニュース」とは,1780年の上記ペンシルヴァニア法(漸次奴隷制廃止法 Gradual Abolition Law)の適用除外対象を,連邦議会の議員及び彼らの奴隷の外(1780年当時には,連邦の行政府も司法府も存在していませんでした。),合衆国大統領,副大統領及び各省長官並びに合衆国最高裁判所判事と彼らの奴隷とに拡張しようというペンシルヴァニア州議会に1791年2月に提出された法案(連邦の首都がコロンビア特別区に更に移転することを阻止するために必要だという考えも同州においてはあったのでしょう。)が,ペンシルヴァニア奴隷制廃止協会(Pennsylvania Abolition Society)の強力な反対運動等によって同議会において否決されたことだったようです(see Lawler Revisited)。

 

  間違いが起きないように,ワシントンは,6箇月の制限期間が経過してしまわないうちに,彼の奴隷らを〔ペンシルヴァニア州外での〕短期間の滞在のためにマウント・ヴァーノンとの間で往復させるよう決定した。クリストファー・シールズ〔その後1799年9月に逃亡計画が発覚しましたが,同年1214日のワシントンの最期に立ち会うことになったワシントンの従者です(see Chernow p.801, 809)。〕,リッチモンド〔前記ハーキュリーズの息子。後に金を盗みますが,当該窃盗はハーキュリーズと共に逃亡する計画があったがゆえのようです(see Chernow p.763)。〕及びオネィ・ジャッジ〔ワシントン夫人マーサの女召使。1796年5月に逃亡し,ニュー・ハンプシャー州ポーツマスに居住(see Chernow p.759)。同州グリーンランドで1848年2月25日に死亡しましたが,1793年にワシントン大統領の署名した逃亡奴隷法の下で最後まで逃亡奴隷身分でした(see Lawler Revisited)。〕は未成年者であったので,皆,自由民身分の取得からは除外されていた。成人の奴隷を奴隷身分にとどめるために,ワシントンは様々な策略 (ruses) を用い,彼らがなぜ短期間家に帰されるのかが彼らに知られないようにした。彼がずばり言うには,「彼ら(すなわち奴隷ら)及び公衆双方を欺き (deceive) おおせるような口実でもって本件を処理したい。」ということであった〔1791年4月12日付けの秘書トビアス・リア宛書簡〕。これは,ジョージ・ワシントンによる密謀 (scheming) の稀有の例であり,マーサ・ワシントンとトビアス・リアとはその間彼との秘密の共謀関係にあった。(Chernow p.638

 

時効管理も大変です。

我が民法は,平成29年法律第44号によって一部改正されることになり,同法施行後の民法(以下「改正後民法」といいます。)からは,3年,2年又は1年の短期消滅時効に関する条項(民法170条から174条まで)は削除されます。「飲み屋のツケの消滅時効は1年」ということで有名な民法174条4号等も当該被削除条項に含まれますが,平成29年法律第44号の附則10条4項は同法の施行日前に債権が生じた場合(当該施行日以後に債権が生じた場合であって,その原因である法律行為が施行日前にされたときを含む。)におけるその債権の消滅時効の期間については,なお従前の例によるものとしています。平成29年法律第44号施行日の前夜には不良呑み助が酒場を徘徊して「最後の晩だからツケで飲ませろ。」と飲み屋の経営者らにせこく迷惑をかけまくるなどということがあるのでしょうか(法律行為が施行日前であればよいので,注文をして,「ヘーイ,承りましたぁ。」という返事が返ってきた時が正子前であればよいのでしょう。)。弁護士の職務に関する債権に係る短期消滅時効期間の規定(民法172条。同条1項は「弁護士・・・の職務に関する債権は,その原因となった事件が終了した時から2年間行使しないときは,消滅する。」)も削除されます。

現在の民法167条1項は「債権は,10年間行使しないときは,消滅する。」と規定していますが,改正後民法166条1項は次のように規定しています。

 

166条 債権は,次に掲げる場合には,時効によって消滅する。

 一 債権者が権利を行使することができることを知った時から5年間行使しないとき。

 二 権利を行使することができる時から10年間行使しないとき。

 

 商事消滅時効に係る商法522条(「商行為によって生じた債権は,この法律に別段の定めがある場合を除き,5年間行使しないときは,時効によって消滅する。ただし,他の法令に5年間より短い時効期間の定めがあるときは,その定めるところによる。」)も,民法の一部を改正する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律(平成29年法律第45号)3条によって削除されます。経過規定として同法4条7項は「施行日前にされた商行為によって生じた債権に係る消滅時効の期間については,なお従前の例による。」としています。

 不法行為による損害賠償の請求権は「被害者又はその法定代理人が損害及び加害者を知った時から3年間行使しないときは,時効によって消滅」しますが(民法724条前段),この消滅時効期間は,「人の生命又は身体を害する不法行為」については3年から5年に延ばされます(改正後民法724条の2)。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002  東京都渋谷区渋谷三丁目5-16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール: saitoh@taishi-wakaba.jp

 

民法改正への対応準備も重要です。


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   »Jahrtausende mußten vergehen, ehe du ins Leben tratest, und andere Jahrtausende warten schweigend«: - darauf, ob dir diese Konjektur gelingt.

 

1 佐藤幸治名誉教授と憲法97条 

 今月(2015年6月)6日,東京大学法学部25番教室で開催された立憲デモクラシーの会において,佐藤幸治京都大学名誉教授が「世界史の中の日本国憲法―立憲主義の史的展開を踏まえて」と題する基調講演をされましたが,当該講演の締めくくりとして同教授は,日本国憲法97条を読み上げられました。

 

  この憲法が日本国民に保障する基本的人権は,人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて,これらの権利は,過去幾多の試錬に堪へ,現在及び将来の国民に対し,侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 

 英文では,次のとおり。

 

 The fundamental human rights by this Constitution guaranteed to the people of Japan are fruits of the age-old struggle of man to be free; they have survived the many exacting tests for durability and are conferred upon this and future generations in trust, to be held for all time inviolate.

 

2 自由民主党憲法改正草案と憲法97条(GHQ草案10条)

 なかなか格調の高い響きの条文なのですが,憲法97条は,自由民主党からは評判が悪いところです。2012年4月27日に決定された同党の日本国憲法改正草案では,削られて,なくなってしまっています。その理由にいわく。

 

 ・・・我が党の憲法改正草案では,基本的人権の本質について定める現行憲法97条を削除しましたが,これは,現行憲法11条と内容的に重複している(※)と考えたために削除したものであり,「人権が生まれながらにして当然に有するものである」ことを否定したものではありません。

 ※現行憲法の制定過程を見ると,11条後段と97条の重複については,97条のもととなった総司令部案10条がGHQホイットニー民政局長の直々の起草によることから,政府案起草者がその削除に躊躇したのが原因であることが明らかになっている。

(自由民主党「日本国憲法改正草案Q&A・増補版」(201310月)のQ44の答)

 

  1946年2月13日に日本国政府に手交されたGHQ草案10条は,次のとおり(国立国会図書館ウェッブ・サイト電子展示会「日本国憲法の誕生」参照)。

 

 Article X.  The fundamental human rights by this Constitution guaranteed to the people of Japan result from the age-old struggle of man to be free. They have survived the exacting test for durability in the crucible of time and experience, and are conferred upon this and future generations in sacred trust, to be held for all time inviolate.

 

 外務省罫紙に和文タイプ打ちのGHQ草案10条の日本語訳は次のとおりです。

 

10 此ノ憲法ニ依リ日本国ノ人民ニ保障セラルル基本的人権ハ人類ノ自由タラントスル積年ノ闘争ノ結果ナリ時ト経験ノ坩堝ノ中ニ於テ永続性ニ対スル厳酷ナル試練〔ママ〕ニ克ク耐ヘタルモノニシテ永世不可侵トシテ現在及将来ノ人民ニ神聖ナル委託ヲ以テ賦与セラルルモノナリ 

 

3 GHQホイットニー民政局長と憲法97条(GHQ草案10条)

 

(1)憲法97条の原型

 国立国会図書館ウェッブ・サイト電子展示会「日本国憲法の誕生」にある1946年2月の「ハッシー文書」(GHQ民政局内での憲法検討草案の綴り)の120枚目に手書きで"The fundamental human rights hereinafter by this constitution conferred upon and guaranteed to the people of Japan result from the age-old struggle of man to be free. They have survived the exacting test for durability in the crucible of time and experience and are conferred upon this and future generations in sacred trust, to be held for all time inviolate."と書いたものがありますが,そうであれば,これが自由民主党の「日本国憲法改正草案Q&A・増補版」が言及するところのホイットニー局長の手による現行憲法97条のそもそもの原案の現物なのでしょうか。

 

(2)憲法97条の原型条項に代わって削られた2条項

 

ア 人権委員会原案第2条及び第4条

 なお,現行憲法97条に相当する当該条項の挿入の際,その前後の場所で代りに削られている条項としては,GHQ民政局内の人権委員会(Committee on Civil Rights)による当初原案第2条の"The enumeration in this Constitution of certain freedoms, rights and opportunities shall not be construed to deny or disparage others retained by the people."(この憲法において一定の自由,権利及び機会が掲げられていることをもって,人民に留保された他の自由等を否認し,又は軽視するものと解釈してはならない。)及び同第4条の"No subsequent amendment of this Constitution and no future law or ordinance shall in any way limit or cancel the rights to absolute equality and justice herein guaranteed to the people; nor shall any subsequent legislation subordinate public welfare, democracy, freedom or justice to any other consideration whatsoever."(今後の憲法改正並びに将来の法律又は命令は,ここにおいて人民に保障された絶対の平等及び正義に対する権利をいかなる形においても制限し,又は取り消してはならない。今後の立法は,公共の福祉,民主主義,自由又は正義を他のいかなる配慮にも従属するものとしてはならない。)があります。

 

イ 人権委員会原案第2条(米国憲法第9修正)の不採用とその意味

  「エラマン・ノート」(国立国会図書館の展示では17枚目から18枚目まで)によれば,GHQ民政局内での運営委員会(Steering Committee)と人権委員会との1946年2月8日の会議において,前記第2条に対して運営委員会のハッシー中佐は,残余の権力(residual power)は国会に属する,人民は自らの設立に係る国会に反対する権利を有しない,国会を通じて行使される意思が至高のものなのであると憲法の他の場所で規定されている,と言って反対しています(なお,児島襄『史録日本国憲法』(文春文庫・1986年(単行本1972年))287-288頁,鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川文庫・2014年(単行本1995年))272頁も参照)。人権委員会原案の第2条は,アメリカ合衆国憲法の第9修正("The enumeration in the Constitution, of certain rights, shall not be construed to deny or disparage others retained by the people.")をほぼそのままなぞったものなので,このハッシー中佐の反対(及びそれを認めたGHQ民政局の決定)は注目に値します。アメリカ合衆国憲法における人民の権利と日本国憲法における国民の権利とは違うという前提で,GHQ民政局は日本国憲法草案の作成作業をしたということになるからです。この場面は,「人権という観念を,「実定法の世界の外あるいはそれを超えたところで活発に生きており,まさにそうであることに格別の意義をも」つものとしてとらえ,「憲法が保障する権利」とのあいだで意識的に区別をする,という考え方」(樋口陽一『国法学 人権原論』(有斐閣・2004年)22頁が紹介する奥平康弘『憲法Ⅲ―憲法が保障する権利』(有斐閣・1993年)20-21頁)が端的に現れた場面と解し得るのではないでしょうか。その場合, 17911215日成立のアメリカ合衆国憲法第9修正の人民の権利は実定法の世界の外の人権であり得るのに対し,1946年の日本国憲法における国民の権利は飽くまでも「憲法が保障する権利」に限られるということになります。

 

ウ 人権委員会原案第4条(基本的人権を制限又は廃棄する憲法改正を禁止する条項)をめぐる論争

  人権委員会原案第4条について更に「エラマン・ノート」(1946年2月8日の部)を見ると,

 

・・・運営委員会と起草担当委員会〔人権委員会〕との間で,尖鋭かつ根本的な意見の相違が展開された。同条〔第4条〕は,将来の憲法,法律又は命令は,この憲法で保障された権利を制限し,又は取り消してはならず,また,公共の福祉及び民主主義を他のいかなる配慮にも従属させてはならない,と規定するものである。〔運営委員会の〕ケーディス大佐は,同条は無謬性を暗黙の前提としている点及び一つの世代が将来世代の自己決定権を否認する点に強く反対した。書かれているところによれば,人権宣言に対する改正は無効ということになり,及びその変更は革命によるよりほかは不可能になってしまうと。

 〔人権委員会の〕ロウスト中佐は,現在の時代は人類進歩における一定の段階に達したものであること,及び人間の存在にとって固有のものであるとして現在受容されている権利の廃棄はいかなる将来の世代にも許されないことを論じて当該条項を弁護した。彼は続けて,ケーディス大佐が信ずるように日本に民主的な政府を作るだけでは不十分であって,現段階までの社会的かつ道徳的な進歩を将来にわたって保障しなくてはならないと発言した。〔人権委員会の〕ワイルズ氏は,第4条を削ることは不可避的に日本においてファシズムに門戸を開くことになるとの信念を表明した。

 ハッシー中佐は,第4条は,政府に係る意見及び一つの理論を憲法レベルの法としての高みにまで上昇させようと試みるものであるだけではなく,実効性に欠けるもの(impractical)でもあると指摘した。当該条項の執行は,この憲法に記された文言いかんではなく,むしろ最高裁判所の解釈にかかっているのであると。

 満足できる妥協に達することはできなかった。・・・

 

 ということで,結局同条の採否の決定はホイットニー局長に一任ということになっています(なお,児島287-288頁,鈴木273-274頁も参照)。

 

(3)ホイットニー局長の起草とマッカーサー決裁

 ホイットニー局長は問題の第4条を採用しないことにしたのですが,その際,人権委員会側の強い懸念もあったことから,自ら新たな1条として,将来の日本国憲法97条の源となる条文を書き加えたということでしょう。

 人権委員会案の第4条の不採択は,最終的には,1946年2月10日(日曜日)夜にマッカーサー元帥の決裁を経ています(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」,鈴木304頁。児島296頁では同月11日夜)。

 

4 3月2日日本国政府案から3月6日憲法改正案要綱まで

 

(1)3月2日日本国政府案

 1946年2月13日交付のGHQ草案を承けた同年3月2日の日本国政府案の第10条1項は「国民ハ凡テノ基本的人権ノ享有ヲ妨ゲラルルコトナシ。」,同2項は「此ノ憲法ノ保障スル国民ノ基本的人権ハ其ノ貴重ナル由来ニ鑑ミ,永遠ニ亙ル不可侵ノ権利トシテ現在及将来ノ国民ニ賦与セラルベシ。」となっています。第2項がGHQ草案10条に対応します(第1項はGHQ草案9条に対応)。 

 

(2)3月4・5日の顛末と「役人」ケーディス大佐及び「上役」ホイットニー将軍

 1946年3月4日から同月5日までGHQと佐藤達夫法制局第一部長とが逐条討議を行い,現在の日本国憲法の条文がほぼ確定しますが,佐藤部長の手記『三月四,五両日司令部ニ於ケル顛末』には次のようにあります(国立国会図書館のウェッブ・ページでは5枚目)。

 

  第10条 〔日本国政府案10条〕2項ハ交付案第10条ニ依ルモノナルモ何故カ斯ク簡単ニセルヤトノ反問アリ。我ガ立法ハ簡約ヲ旨トスルヲ以テカヽル歴史的,芸術的ノ表現ハ其ノ例ナシト答フ。

「此ノ憲法ノ保障スル」ヲ削ルベシトノ論アリタルモ,原文ニモアリ,復活,「其ノ貴重ナル由来ハ分ラヌト云フ故削ルコトトシ,一応先方了承セルモ後ニ打合セタルモノノ如ク(ホイツトネー将軍ト)之ハ将軍ノ自ラノ筆ニ成ル得意ノモノ故何トカシタシ,セメテ後ノ章ニ入レテ呉レトノ懇望アリ承認ス。

(従テ最後案10条2項ヲ存セルハ整理漏ナリ。英文ニモ其ノ儘存セリ。)

 

 本来削られるべきは憲法11条後段であって,97条ではなかったようです。

 児島襄の『史録日本国憲法』は,前記の事情を多少敷衍しています(364-365頁)。

 

   ・・・あたふたと帰ってきて,大佐は佐藤部長に,いったものである。「まずい。第10条は,じつは“チーフ”(局長)自身の文章でお得意なんだ。せめて第10章あたりにでもいれてもらえないだろうか」

 佐藤部長は,ニヤリと破顔した。上役の意向を重んずる役人の心情は,洋の東西を問わないものらしい。しかし,条文の趣旨そのものは結構なので,ケーディス大佐の“点数かせぎ”的配慮とは別に,第9条第1項〔ママ〕にいれることにした。

 もっとも,ケーディス大佐,つまり総司令部側が佐藤部長に懇願的な言辞をひれきしたのは,このときだけであった。

 

(3)3月5日案

 閣議で配布された1946年3月5日案の訳文は次のようになっていました。

 

  第94条 此ノ憲法ノ日本国民ニ保障スル基本的人権ハ人類ノ多年ニ亙ル自由獲得ノ努力ノ成果ニシテ,此等ノ権利ハ過去幾多ノ試錬ニ堪ヘ現在及将来ノ国民ニ対シ永遠ニ神聖不可侵ノモノトシテ賦与セラル。

    天皇又ハ摂政及国務大臣,両議院ノ議員,裁判官其ノ他ノ公務員ハ此ノ憲法ヲ尊重擁護スルノ義務ヲ負フ。

 

 この段階では,現在の憲法97条と99条とが一体のものとされています。

 

(4)3月6日憲法改正案要綱

 1946年3月6日内閣発表の憲法改正案要綱の第94項は次のとおりでした。

 

94 此ノ憲法ノ日本国民ニ保障スル基本的人権ハ人類ノ多年ニ亙ル自由獲得ノ努力ノ成果ニシテ,此等ノ権利ハ過去幾多ノ試錬ニ堪ヘ現在及将来ノ国民ニ対シ永劫不磨ノモノトシテ賦与セラレタルモノトスルコト

 天皇又ハ摂政及国務大臣,両議院ノ議員,裁判官其ノ他ノ公務員ハ此ノ憲法ヲ尊重擁護スルノ義務ヲ負フコト

 

 同日付けGHQ内での英文は次のとおり。

 

   Article XCIV.   The fundamental human rights by this Constitution guaranteed to the people of Japan result from the age-old struggle of man to be free. They have survived the exacting test for durability in the crucible of time and experience, and are conferred upon this and future generations in sacred trust, to be held for all time inviolate.

   The Emperor or the Regent, the Ministers of State, the members of the Diet, judges, and all other public officials have the obligation to respect and uphold this Constitution. 

 

5 1946年4月中の修正

 

(1)口語化第1次草案及び憲法尊重擁護義務条項との分離

 1946年4月5日には日本国憲法の口語化第1次草案ができます。そこでの第94条(後の順序変更後93条)は,次のとおり(国立国会図書館ウェッブ・ページ23枚目)。同年3月6日の憲法改正案要綱第94項前段と大体同じですね。ただし,要綱の第94項後段(憲法尊重擁護義務条項)は分離されて独立の第95条とされています。

 

94条〔順序変更後第93条〕 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は,人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて,これらの権利は過去幾多の試錬に堪へ,現在及び将来の国民に対し,侵すことのできない永久の権利として与へられたものである。

 

 なお,鉛筆書きで「93条ハ形式的,第94条ハ実質的 最高法規タル憲法トシテ一番重要ナ部分故コヽニ置ク」と書き込みがあります。順序変更前の第93条(変更後94条)は,現在の憲法98条(国の最高法規,条約・国際法規遵守条項)の前身です。

 

(2)口語化第2次草案及び「与へられた」から「信託された」へ

 これが,同年4月13日の口語化第2次草案では次のようになります(国立国会図書館ウェッブ・ページ34枚目)。

 

93条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は,人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて,これらの権利は,過去幾多の試錬に堪へ,現在及び将来の国民に対し,侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 

 現在の憲法97条の文言になっています。しかし,口語化第1次案までの「・・・侵すことのできない永久の権利として与ヘられた・・・」が,「・・・侵すことのできない永久の権利として信託された・・・」に変更されています。1946年3月6日のGHQによる英文の表現(in sacred trust)に近づいてきたわけです。ところが当該変更自体はそう容易なものではなかったようで,鉛筆で種々書き込みがあって当該場所以外についての改訳も考えられていたことが窺われます。最終的には「信託」に落ち着いたわけですが,鉛筆書きからは,なお,「崇高な信託として」あるいは「神聖の信託として」という訳語(これらの方が元の"in sacred trust"により近い。)も考えられていたらしいことが分かります。

 

(3)1946年4月9日GHQ=法制局会談

 1946年4月5日の口語化第1次案の段階から同月13日の第2次案までの間に何があったのかといえば,同月9日午後,法制局の入江長官,佐藤次長らがGHQ民政局のケーディス大佐及びハッシー中佐と会談を行ったところ,次のようなやりとりがあったところです。

 

15)(第94条)本条第1項ヲ第93条(新)トシ第93条(旧)ヲ第94条(新)トシ本条第2項ヲ独立ノ条文トシ第95条(新)トシ以下1条宛ヲ増ス

    (註)先方ハ当方ノ提案通本条第2項ヲ独立ノ条文トセバ第1項ノ意義ナクナルベク而モ本項ハ本草案中ノ傑作トシテ米国ニ於テモ評判良ク之ヲ削ル訳ニ行カザルヲ以テ之ヲ第10章最高法規ノ冒頭ニ移スベキコトヲ提案シ右ノ如ク決定ス

 

 GHQとしては,現在の憲法97条(「本条第1項」)と99条(「本条第2項」)とは本来一体のものと考えていたことが分かります。また,第97条が最高法規に係る第10章の冒頭に来たのはGHQの指示によるものであったことも分かります(当初は現在の第98条(「第93条(旧)」)が先頭)。現行97条についてはここでも「本草案中ノ傑作トシテ米国ニ於テモ評判良」しと執拗に言われており,米国においては当然英文で読まれているところから,日本側としては改めて,英文と訳文(とはいえ日本語が正文)との関係を見直すことになったように思われます(お気付きのように,"in sacred trust"をめぐって両者の間には齟齬がありました。)。

 

6 法制局における理解の試み及び枢密院における批判

 

(1)「信託された」の理解

 しかし,「信託(trust)」とは何か。元の英語に近づけて訳したものの,日本側としては実はなかなかはっきりとは分かっていなかったようです。法制局の「昭和21年5月 憲法改正案に関する想定問答(第7輯)」には次のようにあります(国立国会図書館のウエッブ・ページの114枚目及び115枚目)。

 

問 「信託された」といふ意味如何

答 これを学問的な信託法理で説明することは,必ずしも当を得てゐまいが,基本的人権は国民生得の不可譲の権利であるからといつて,全くの無拘束な,我儘勝手な権利ではなく,第11条〔現行第12条〕に明文があるやうに,この基本的人権の主体たる国民は,その保持に積極的に努め,任意にこれを抛棄することは許されぬし,第二にその濫用は禁ぜられてゐるし,第三に常に公共の福祉に適合するやうにこれを利用する責任を負つてゐるのであつて,畢竟するに,国家社会全体の進歩発達のためにこそ,基本的人権を各個の国民に委ねてゐると考へ,またかく考へてこそ,各個の国民の基本的人権は,相互の摩擦衝突を避けてはじめて永久に確立され得ると考へられるのであつて,かやうな考へ方を端的に表現した語である。したがつて前文第1段の中に用ひられた場合の信託といふ語よりやや漠然たる意味内容に用ひられてゐる。

 

 現行憲法の第12条の趣旨を別の形でいえば「信託された」ということになるのだ,ということでしょうか。憲法11条後段とのみならず,むしろ第12条との重複が問題になりそうです。また,「信託」としての「受託者」は,「各個の国民」とされています。

 ちなみに,憲法学界においても,「「与へられる」と「信託された」とのあいだには,言葉そのものの意味にちがいはあるが,本条〔日本国憲法97条〕の場合においては,格別の区別をみとめる必要がないとおもう。」ということにされています(宮澤俊義著・芦部信喜補訂『全訂日本国憲法』(日本評論社・1978年)801頁)。(ただし,「「信託された」というときは,後々の世代の利益のために永く守って行くべきものだという意味が特に強調されるといえようか。」程度の違いはある,ということのようです(同頁)。)

 

(2)「日本国民」の理解

 ところで,前記の法制局の解釈では「受託者」は「各個の国民」であるのに,現行の第97条の文言は「日本国民」と大きく出ています(なお,同条後半に出てくる「国民」は,generations(世代)であってpeopleではない。)。法制局の「昭和21年5月 憲法改正案に関する想定問答(第7輯)」は,そこでいわく。

 

問 ここでは国民といはず,特に「日本国民」と規定している理由如何

答 前文の中の用語と同じく,特に力点ををいて表記したためである。なほ后段に出て来る「現在及び将来の国民」を,一括して表現する趣旨もある。

 

 単なる「力点をを」くための修辞的表現だというのでしょうか。しかし,こういわれてみると日本国憲法における「日本国民」と「国民」との使い分けが気になります。

 調べてみると,日本国憲法の現行条文で「日本国民」が使われているのは,前文のほか,第1条,第9条,第10条及び第97条だけです。ところで,英文を見ると,前文及び第9条はthe Japanese people,第1条はthe People,各個の国民の日本国籍に関す第10条の日本国民はa Japanese nationalで,問題の第97条ではthe people of Japanです。

 

(3)枢密院における批判

 さて,法制局が日本国憲法草案の想定問答作りに励んでいたころ,日本国憲法草案93条(現行97条)は,1946年4月から5月にかけての枢密院の審査委員会でさっそく火だるまになっていました。

 4月24日の第2回会合。

 

 ・・・

幣原〔坦顧問官〕 第九十三条につき,日本の憲法になにゆえこれをかかねばならぬか。「人権は」は「侵すことのできない云々」に直結すべきでないか。

松本〔烝治国務大臣〕 重複する嫌もあり,又世界の基本的人権の歴史を書いてゐるのでおかしいといへるが,基本的人権の重大性に鑑みここに再録したものである。

 ・・・

 

 5月15日の第8回会合。

 

 ・・・

河原〔春作枢密顧問官〕 93条は削つた方がよい。

美濃部〔達吉枢密顧問官〕 第10章の中,93条は法律的に無意味・・・従つて第10章は全部削るべし。これを存置する理由如何。

松本 御尤もと思ふ。全部削つても何等支障ないと思ふ。しかし強いて弁護すれば,93条はこの憲法の精神を更に強く云ふ主旨・・・。

 ・・・

遠藤〔源六枢密顧問官〕 93条は前文の重複としか思へない。又,「人類の」より「試練に堪へ」までは日本と関係ない。

松本 日本を除外した意味に読む必要はないと思ふ。日本にも自由獲得のための長い歴史があつた。政治的,徳義的な意味でこの条文を残す価値はあると思ふ。基本的人権をせばめる様なことは余程重大な必要がなければ出来ないと云ふことを明かにする意味があると思ふ。

河原 日本に於ては自由は陛下の寛大な御心持によつて与へられたものとする方が,国体の上から見ても適当ではないかと思ふ。削ることは出来ないか。

松本 政府原案として削らうと云ふ考へはない。

 ・・・

 

 松本烝治大臣もお気の毒です。

 なお,草案93条(現行97条)を最高法規の章に置く理由としては,前記の「昭和21年5月 憲法改正案に関する想定問答(第7輯)」は,「・・・日本国民に保障せられた基本的人権が如何なる努力の結果獲得されたかの沿革を明にし,且つ将来不可侵なることを明にし,この基本的人権の保障がこの憲法の眼目として真に貴重なる旨を明かにしたものである。」と説明しています。しかし,なお,美濃部達吉の「法律的に無意味」との発言は,厳しい。
 ちなみに,幣原坦枢密顧問官は,幣原喜重郎の兄にして,かつ,森鷗外の史伝『澀江抽斎』(1916年)の登場人物でもありました。

是より先,弘前から来た書状の(うち)に,かう云ふことを報じて来たのがあつた。津軽家に仕へた澀江氏の当主は澀江保である。保は広島の師範学校の教員になつてゐると云ふのであつた。わたくしは職員録を検した。しかし澀江保の名は見えない。それから広島高等師範学校長幣原坦(しではらたん)さんに書を遣つて問うた〔当該書簡は1915年8月14日に発送されたもののようです(松本清張『両像・森鷗外』(文藝春秋・1994年)147頁参照)。〕。しかし学校には此名の人はゐない。又(かつ)てゐたこともなかつたらしい。(『澀江抽斎』その七)


(4)「逐条説明」における説明

 法制局の「昭21.5 憲法改正草案 逐条説明(第5輯)」は,草案93条(現行97条)について次のように説明しています(国立国会図書館のウエッブ・ページの276枚目及び277枚目)。これが,紆余曲折の末たどり着いた,日本国憲法97条に関する説明の標準的なところでしょう。

 

本条は,この憲法全体――恐らくは近代的憲法のすべて――を通じ,最も顕著な特色を成す国民の基本的人権につき,重ねてその歴史的意義を謳ひ,その本質を闡明した規定であつて,かくして,かやうな基本的人権の保障規定を有する憲法こそ,まさに我国の最高法規として最上の遵由に値する法であり,その施行に主として携はる官憲は,まづ率先してよくこれを尊重し,擁護する義務があるといふ所以の根拠を明かにしてゐるのである。第10条〔現行11条〕によると,「国民は,すべての基本的人権の享有を妨げられない。」と規定して,まづ基本的人権を国民に対して保障し,次にこの「基本的人権は侵すことのできない永久の権利として,現在及び将来の国民に与へられる」と規定して,その不可侵性及び永久性を闡明している。本条は,あたかもこの第10条〔現行11条〕の規定を,やや敷延〔ママ〕して再録し両々相俟つてこれを強調してゐるのであつて,后者が「第3章 国民の権利及び義務」の冒頭に,それ以下一聯の保障規定の大前提として規定されてゐるに反し,前者,即ち本条は,「第10章 最高法規」の冒頭に置かれて,最高法規の最高法規たる実質的所以を明かにしてゐるのである。

 本条によると,まづ,この憲法が主として第3章において日本国民に保障してゐる基本的人権は,何も唐突として我国の現代に至つて確立されたものではなく、実に人類が,専制君主治下のまだ個人の自由の確立されてなかつた境涯よりはじまつて,多年にわたる自由獲得の努力の過程を経て,その手に収めた成果であつて,時間的にも古い歴史を有し,又空間的にも世界人類に普遍のものであるといへる。しかして,次に,これらの権利は,過去において幾多の試錬に遭ひ,これを超克してその存在を強化してきたのであつて,いはばすでに試験済の間違ひのないものである。そこで,さらに,これらの権利は,現在の国民及その後継者たる将来の国民に対し,永久不可侵の権利にして,託されたものである。すなはち,現在及び将来の国民は,これを恣意的に我儘勝手に用ひてはならぬのであつて,一般の信に応へるべく心して用ひなければならぬのである。本条は,以上の趣旨を述べた規定である。

 

 「日本国憲法の「最高法規」の章の冒頭に,基本的人権の本質に関する97条がおかれていることにつき,その位置を誤ったものと解する見解があるが,そのように解すべきではなく,むしろ,それは,日本国憲法の「最高法規」性の実質的根拠が何よりも人権の実現にあることを明確にしようとする趣旨であろうと解される。」とする佐藤幸治名誉教授の立場(同『憲法〔第三版〕』(青林書林・1995年)22頁)はこの流れを汲むものでしょう。

 とはいえ,「我儘勝手に用ひてはならぬ」云々とは何だかお説教臭いですね。また,憲法97条は憲法11条と「両々相俟つてこれを強調」するだけであるとすると,余り面白くはないです。

 日本国憲法97条について別の解釈はあり得ないものでしょうか。

 

7 日本国憲法97条とGHQ人権委員会原案第4条との関係再見

 日本国憲法97条の濫觴はGHQ民政局内の人権委員会による起草原案の第4条(基本的人権を制限又は廃棄する憲法改正を禁止する規定)にありますから(ケーディス大佐の回想によると,人権委員会原案第4条の「精神」を受け継いだものが日本国憲法97条であるそうです(鈴木304頁)。),同条をめぐる1946年2月8日のロウスト中佐対ケーディス大佐の前記論争に遡ってみるべきようです。

 

(1)18世紀のジェファソンの有効期間19年説

 一つの世代が将来世代の自己決定権を否認することはできない,というケーディス大佐のそこでの主張は,アメリカ法思想史的には,ジェファソンの思想を継ぐものでしょう。

 

・・・いかなる社会も永久の憲法を,ましてや永久の法律を作ることはできないということが証明できるでしょう。大地(the earth)は常に,現に生きている世代に帰属するものです。彼らはその用益期間中,大地及びそこから生ずるものを好きなように管理することができます。彼らは自分たちの身体の主人でもあり,したがって,好きなようにそれらを統御することができます。しかし,身体と財産とが,統治の客体の総和です。ですから,先行世代の憲法及び法律は,それらに存在を与えた人々と共に自然の経過として消滅するものです。後者の存在は,それ自身であることをやめるまでは,前者の存在を維持することができますが,それまでです。ゆえに,すべての憲法及びすべての法律は,本来的に19年の経過とともに失効するのです。それがなおも依然として執行されるとすれば,それは正当なものではなく,力の行使です。・・・(ジェファソンの1789年9月6日付け(パリ発)マディソン宛て書簡)

 

 アメリカ独立宣言の起草者にとっては,憲法といえども不磨の大典であってはいけなかったわけです。

 

(2)20世紀のロウスト中佐の時代とその主張

 しかしながら,苛烈な第二次世界大戦を戦い抜いた1946年初めの戦勝アメリカ合衆国民としては,「現在の時代は人類進歩における一定の段階に達したものであること,及び人間の存在にとって固有のものであるとして現在受容されている権利の廃棄はいかなる将来の世代にも許されないこと」は,ロウスト中佐ならずとも,深く実感するところであったのでしょう。また,民主的な政府だけでは不十分であることは,ドイツのヴァイマル共和国の崩壊や日本の大正デモクラシーの没落という最近の敵国の例があったところです。ドイツのファシズムはヴァイマル民主主義から生れたと思えば,たとい民主的な政府があっても「第4条を削ることは不可避的に日本においてファシズムに門戸を開くことになる」とのワイルズ氏の懸念もあながち杞憂とばかりはいえないようです。

 以上のような思いがGHQ民政局内で共有されていたからこそ,基本的人権を制限又は廃棄する憲法改正を禁止する人権委員会案第4条を却下するためには,ジェファソンの権威のみならず,マッカーサー元帥の決裁も必要だったのでしょう。

 

(3)将来の改正を禁止する条文の書き方

 

ア ヴァジニア信教自由法最終節

 憲法制定権者自らによる基本的人権の制限又は廃棄を憲法によって無効とすることはできないとしても,憲法制定権者に何らかの歯止めをかけるための条文は考えられないか,ということが次の問題となったことでしょう。しかし,これはなかなか難しい。またジェファソンの例になりますが,彼が墓石に刻んで自慢したヴァジニア信教自由法(1777年ころジェファソンが起草。マディソンがヴァジニア邦議会で頑張って1786年1月16日に同邦の法律として成立したもの(なお,当時ジェファソンは駐仏公使)。)の最終節は次のようになっています。

 

 しかして,我々は,立法に係る通常の目的のみをもって人民によって選出されたこの議会は我々のものと同等の権限を有するものとして構成される後続の議会の行為を制限する何らの力を有するものではなく,したがって,この法律は不可侵である(irrevocable)と宣言することには法的効力は無いということを十分承知しているものであるが,この法律において表明された権利は人類の自然権に属するものであること,及びこの法律を廃止し,又はその適用を縮減する法律が今後議決された場合には,そのような法律は自然権に対する侵害であることを宣言する自由を有し,かつ,宣言する。

 

 どうも迫力不足ですね。やることを止める力も権限もないけど,悪口だけは事前に言っておくぞ,みたいですね。