Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

カテゴリ: 大日本帝国

1 高輪会議(1887年3月20日)と内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文の「高裁」

1887年3月20日に内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文,賞勲局総裁柳原前光,宮内省図書頭井上毅及び伊藤の秘書官伊東巳代治が高輪の伊藤博文別邸において行った「高輪会議」は,柳原の同月14日付け伊藤宛て書簡によれば,当時柳原が起案していた「皇室典範再稿」等について「井上毅・前光等貴館へ参会,大小(るち)縷陳(んにおよび)(こう)高裁(さいをえ)(そうら)()()公私ノ幸也(さいわいなり)不堪仰望(ぎょうぼうにたえず)(そうろう)」という趣旨で行われたものです(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立(木鐸社・1988年)187頁(振り仮名,読点及び中黒は筆者によるもの))。皇室典範の成案作成に向け,松下村塾生徒利助たりし維新の元勲・内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文の「高裁」を得ようとするものですから,はなはだ重い。この高輪会議については,筆者も当ブログで何度か御紹介したところです。

 

「明治皇室典範10条に関して」

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.html

「続・明治皇室典範10条に関して」

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060127005.html

 

 同会議において,柳原「皇室典範再稿」の「第1章 皇位継承」中「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」と規定する第12条が伊藤及び柳原の首唱で削られ(小嶋「明治皇室典範」190頁),それに伴い同「第2章 尊号践祚」中第17条の「天皇崩シ又ハ譲位ノ日皇嗣践祚シテ即チ尊号ヲ襲ヒ祖宗以来ノ神器ヲ承ク」との規定が伊藤の首唱によって「第10条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と修正されました(小嶋「明治皇室典範」191頁)(章名も伊藤の首唱で「第2章 践祚即位」に変更(小嶋「明治皇室典範」190頁))。その結果,天皇の生前退位は,明治天皇の裁定に係る1889年2月11日の皇室典範(第10条が「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定)及び昭和天皇の裁可(1947年1月15日)に係る昭和22年1月16日法律第3号の皇室典範(第4条が「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」と規定)を通じて一貫して認められないもの(無効である,ということでしょう。)とされているものと広く解されていることは周知のとおりです(ただし,岩井克己「宮中取材余話・皇室の風103」選択43巻3号(2017年3月1日号)88頁を参照)。

 伊藤博文の「高裁」の重みは()くの如し,というべきか。

 実務上,伊藤博文名義の『皇室典範義解』の記述(「本条〔明治皇室典範10条〕に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はる者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」(下線は筆者によるもの)。なお,筆者は岩波文庫版の宮沢俊義校註『憲法義解』(1940年)を用いています。)は,皇室典範の本文それ自体に勝るとも劣らぬ解釈上の権威を有するものなり,というべきでしょうか。

 しかしながら,伊藤の「高裁」ないしは『皇室典範義解』における託宣にも,動揺し,遂に後には撤回変更に至らざるを得なくなった例があるところです。長州出身の大宰相だからとて,なかなか信用し切るわけにはいきません。

 永世皇族制(皇族は子々孫々永世皇族であるものとする制度)の採否をめぐる問題がそれです。

 

2 高輪会議における臣籍降下制度の採用と伊藤の変心・食言

 1887年3月20日の高輪会議の冒頭,柳原前光は,伊藤博文の見解を質し,「皇玄孫以上ヲ親王ト称シ以下ヲ諸王ニ列シ皇系疎遠ナルモノハ逓次臣籍ニ降シ世襲皇族ノ制ヲ廃スル事。附山階宮久邇宮庶子ヲ臣籍ニ列セラルル事」との確認を得ています(小嶋「明治皇室典範」188頁)。すなわち,臣籍降下制度を伴うことのない永世皇族制を採らないとの言質を内閣総理大臣兼宮内大臣から取ったわけです。柳原の「皇室典範再稿」の第105条には「皇位継承権アル者10員以上ニ充ル時ハ皇玄孫以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍ニ列スルコトアルヘシ」とあり,高輪会議を経て「第64条 皇位継承権アル皇族ノ増加スルニ随ヒ皇玄孫以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍ニ列スヘシ」となっています(小嶋「明治皇室典範」199頁)。「臣籍ニ列スルコトアルヘシ」から「臣籍ニ列スヘシ」へと,天皇から遠縁の皇族にとっては厳しい表現になっています。(なお,明治天皇の権典侍柳原愛子の兄である柳原前光は,後の大正天皇である嘉仁親王(1887年3月当時満7歳)の実の伯父に当たります。)

高輪会議を承けて同年4月25日に伊藤博文に,同月27日に井上毅にそれぞれ提出された柳原の「皇室典範草案」では「第71条 皇位継承権アル者増加スルニ従ヒ皇位ヲ距ルコト5世以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍ニ列スヘシ」となっており,それを井上は同年8月より前の段階で「第 条 皇族ノ増加スルニ従ヒ5世以下ノ疎属ハ逓次臣籍ニ列スヘシ」と修正しています(小嶋「明治皇室典範」202頁・206頁・208頁。ここで修正された皇室典範案は「井上の七七ヶ条草案」と呼称されています。)。

 しかし高輪会議におけるこの伊藤の「高裁」は動揺し,食言となります。すなわち,井上毅の前記七七ヶ条草案に対し,伊藤は変心したのか,「皇族ヲ臣籍ニ列スル2条削ルベシ」と指示するに至っているところです(小嶋「明治皇室典範」209頁・220頁)。

 

3 永世皇族制論者井上毅の1888年3月20日「修正意見」

とはいえこれは,井上毅にとっては喜ぶべき食言だったでしょう。18821218日に岩倉具視が総裁心得となった宮内省の内規取調局(駐露公使であった柳原前光とも連絡)による1883年の皇族令案には「親王ヨリ5世ニ至リ姓ヲ賜ヒ華族ニ列シ家産ヲ賜ヒ帝室ノ支給ヲ止ム/但シ養子トナルモ(なお)其ノ世数ヲ変スルコトナシという規定があったのでしたが,同年7月付けの「参謀山県有朋」名義の文書を代筆して,井上は・・・果シテ然ラハ四親王家ノ如キモ終ニ之ヲ廃セントスル() 按スルニ伏見宮ハ崇光ノ皇子栄仁親王ヲ祖トシ其ノ後八条宮今ノ桂宮高松宮今ノ有栖川宮閑院宮ヲ立テラレ(おのおの)猶子親王ヲ以テ世襲ノサマトナリ来レルハ・・・朝議継嗣ヲ広メ皇基ヲ固ウスルノ深慮ヨリ創設セラレシ者ナラン ・・・五百年ノ久シキニ因襲シ来ルトキハ今日ニ在リテ容易ニ廃絶ス()キニ非ス ・・・将来皇胤縄々ノ盛ナルニ拘ラス旧ニ依テ此ノ四家ヲ存シ四家(もし)継嗣ナキトキハ(すなわち)他ノ皇親ヲ以テ之ヲ継カシメ永ク小宗支流トナサンコト遠大ノ計ナルヘキ() 又5世ニ至リ華族ニ列スルノ議ハ周ノ礼ニ五世而親尽トイヒ大宝令ニ自親王(しんのうより)五世(おうのな)(をえた)王名(りといえども)不在皇親之限(こうしんのかぎりにあらず)トイヘルニ拠レルカ 然ルニ右ニ親尽トイフモ族尽トイハス 不在皇親之限(こうしんのかぎりにあらず)トイフモ不在皇族之限(こうぞくのかぎりにあらず)トイハス 故ニ5世以下ハ挙ケテ皇族ニ非ストナスコト(また)古典ニ(そむ)クニ似タリ ・・・」と批判していたところでした(小嶋和司「帝室典則について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』119頁‐124頁。振り仮名は筆者によるもの)。

1888年3月20日の井上の「修正意見」においては,井上の七七ヶ条草案から「第70条 皇族増加スルニ従ヒ5世以下疎属ヨリ逓次臣籍ニ列スヘシ」及び「第71条 皇族臣籍ニ列スル時ハ姓ヲ賜ヒ爵ヲ授ク」の2箇条はざっくり削られています(小嶋「明治皇室典範」210頁・220頁)。

 

4 枢密院審議における議長・伊藤の動揺

ところが,枢密院における皇室典範案の審議が始まり,1888年6月4日午後,皇室典範案第33条(「皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ生レナカラ男ハ親王女ハ内親王ト称フ5世以下ハ生レナカラ王女王ト称フ」)に関し,三条実美内大臣が口火を切って臣籍降下制度の必要を説き(「或ハ但シ書キヲ以テスルモ可ナリ桓武天皇以来ノ成例ヲ存シ姓ヲ賜フテ臣下ニ列スルノ余地ヲ存シ置タシ」),枢密顧問官ら(土方久元宮内大臣兼枢密顧問官,山田顕義司法大臣,榎本武揚逓信大臣兼農商務大臣,佐野常民枢密顧問官及び吉井友実枢密顧問官並びに次の伊藤議長発言後には寺島宗則枢密院副議長及び大木喬任枢密顧問官)からも例外なき永世皇族制採用に対する疑問ないしは臣籍降下制度に賛成する意見が次々と提示されると,伊藤博文枢密院議長は動揺します(これらの枢密院の議事の筆記は,アジア歴史資料センターのウェッブ・サイトで見ることができます。)。

 

議長 各位ノ修正説モ種々起リタレトモ,本条ニハ決シテ人臣ニ下スヲ得スト云フ(こと)ナシ。説明モ人臣ニ下スヲ禁スルノ意ニアラス。抑モ典範ハ未タ人臣ニ下ラサル皇族以上ノ為メニ設クルモノニシテ,既ニ人臣ニ降リタル者ハ典範ノ支配スル所ニアラス。又外国ノ例ヲ引テ皇族ノ人臣ニ列スルノ可否ヲ論セラルレトモ,外国ニ於テハ皇族ノ臣ニ列スルニ姓ヲ賜フト云フカ如キ厳格ナルモノアラス。故ニ比類シテ論スヘキニアラス。要スルニ此問題ハ典範中ノ難件ニシテ,最初原案取調ノ際ニハ5世以下人臣ニ下スノ条ヲ設ケ漸次疎遠ノ皇族ヨリ人臣ニ下スヿヲ載セタリシカ,種々穏カナラサル所アリテ遂ニ削除シタリシナリ。(振り仮名及び句読点は筆者によるもの)

 

 要は,伊藤博文が言いたかったのは,皇室典範案の文言だけ見ると例外なき永世皇族制度であって皇族の臣籍降下はないように見えるがそうではないのだよ,現に我々も原案においては臣籍降下制度の明文化を考えていたけれども「種々穏カナラサル所アリテ遂ニ削除シタ」だけなのだよ,オレが悪いんじゃないよ,ということのようです。

 しかし,このような説明が通るのであれば,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定する明治皇室典範10条についても,「本条ニハ決シテ譲位スルヲ得スト云フヿナシ説明〔「上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり」〕モ譲位ヲ禁スルノ意ニアラス・・・要スルニ此問題ハ典範中ノ難件ニシテ最初原案取調ノ際ニハ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得ノ規定ヲ設ケ譲位ノヿヲ載セタリシカ種々穏カナラサル所アルト思ヒテツイ削除シタリシナリ」といい得てしまうことになりそうです。
 なお,皇室典範枢密院諮詢案
33条について伊藤博文が言及する「説明」は,『皇室典範義解』の基となった枢密院の審議資料として配布されたコンニャク版(小嶋「明治皇室典範」258頁)の「皇室典範義解草案 第一」のことでしょう(伊藤博文編,金子堅太郎・栗野愼一郎・尾佐竹猛・平塚篤校訂『帝室制度資料 上巻〔秘書類纂第19巻〕』(秘書類纂刊行会・1936年)81頁以下。なお,『秘書類纂』も国立国会図書館のウェッブ・サイトで見ることができます。)。「皇室典範義解草案 第一」における枢密院諮詢案第32条(「皇族ト称フルハ太皇太后皇太后皇后皇子孫皇女孫及皇子孫ノ妃ヲ謂フ」)の説明には,「凡ソ皇族ノ男子ハ皆皇位継承ノ権利ヲ有スルモノナリ。・・・蓋シ5世ノ内外ハ親等ヲ分ツ所以ニシテ,其ノ宗族ヲ絶ツニ非ザルナリ。故ニ中世以来,(かたじけなく)累封邑(ふうゆうをかさね)空費府庫(むなしくふこをついやす)ヲ以テ(嵯峨天皇詔)姓ヲ賜ヒ臣籍ニ列スルノ例ハ本条ノ取ラザル所ナリ。・・・(之ヲ外国ニ参照スルニ,凡ソ王位継承ノ権アル者ハ総テ王族ト称ス,而シテ君主ノ子孫兄弟伯叔姪ノミヲ称ヘテ専ラ王族ト謂ヘル場合アルハ,其ノ等親及ビ特別ノ敬礼ニ就テ謂ヘルナリ,・・・若シ(それ)姓ヲ改メテ臣ト為ルノ事ハ各国ノ見ザル所ナリ)とあります(伊藤編『帝室制度資料 上巻』109110頁。振り仮名は筆者によるもの)。「中世以来・・・ノ例ハ本条ノ取ラザル所ナリ」は,「中古以来・・・の慣例を改むる者なり」と酷似した理由付けです。

 1888年6月4日に続く同月6日午前の枢密院の審議において,永世皇族制の推奨者である井上毅枢密院書記官長の見解は,伊藤議長を厳しく叱咤するごとし。

 

 ・・・議長ト其意見ヲ異ニセサルヲ得ス。本条〔枢密院諮詢案第33条〕正文ノ構成ヲ正当ニ読下セハ,天皇ノ御子孫ハ万世王女王ナリ。(句読点は筆者によるもの)

 

「・・・5世以下ハ生レナカラ王女王ト称フ」なのですから,「本条正文ノ構成ヲ正当ニ読下セハ天皇ノ御子孫ハ万世王女王ナリ」であることは当然のことです。問題は,「本条ニハ決シテ人臣ニ下スヲ得スト云フヿナシ」と言う伊藤「議長ト其意見ヲ異ニセサルヲ得ス」の部分ですが,これは,「生レナカラ王女王」として皇室典範の条文上有する特権を皇室典範における明文の根拠なしに当人の意思を無視して一方的に剥奪して「人臣ニ下ス」ことができないことはもちろんだ,ということでしょう。天皇ないしは天皇及び皇嗣自らの意思に基づくものである生前退位ないしは譲位とは,問題の場面が異なるようです。

臣籍降下制度の規定を設けるかどうかに係る前記の問題は,1888年6月6日午前,ついに採決となり,当該規定を設けることに賛成する者は10名,原案そのままに賛成する者14名で,1889年2月11日の皇室典範においては皇族の臣籍降下の制度は設けられないこととなりました(なお,小嶋「明治皇室典範」244頁)。

さて,賛成者・反対者の色分けはどうだったのでしょうか。伊藤議長及び寺島副議長以外の皇族,国務大臣及び枢密顧問官の出席者は合計24名でした。これらのうち,臣籍降下制度条項に賛成する発言をしていた者は,三条,土方,山田,榎本,佐野,吉井及び大木の7名,臣籍降下制度条項を不要とする発言をしていた者は松方正義大蔵大臣,副島種臣枢密顧問官及び河野敏鎌枢密顧問官の3名。残り14票は,熾仁親王,彰仁親王,能久親王,威仁親王,黒田清隆内閣総理大臣,山県有朋内務大臣,大隈重信外務大臣,大山巌陸軍大臣,森有礼文部大臣,福岡孝弟枢密顧問官,佐々木高行枢密顧問官,東久世通禧枢密顧問官,元田永孚枢密顧問官及び吉田清成枢密顧問官。これら14票はどう分かれたものでしょうか。柳原,三条等に見られるように一般に永世皇族制に冷淡なような公家の出身者の東久世枢密顧問官は臣籍降下制度条項に賛成したでしょうか。永世皇族制度を説く井上毅に名義を貸したことのある山県有朋は不要論でしょう。審議中沈黙を守っていた宮様ブロックの4名は,一致して臣籍降下条項不要の側に立ったことでしょう。

5 明治皇室典範30条及び31条と井上毅及び柳原前光

 

(1)井上毅

最終的に,1889年2月11日の皇室典範の第30条及び第31条は,次のとおりとなりました。

 

30条 皇族ト称フルハ太皇太后皇太后皇后皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃内親王王王妃女王ヲ謂フ

31条 皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ内親王トシ5世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス

 

皇室典範に別に特則が設けられなければ,当該皇族の同意なき一方的臣籍降下はないわけですが,「本条ニハ決シテ人臣ニ下スヲ得スト云フヿナシ」との伊藤博文発言が飛び出すような状況では,永世皇族制論者としての井上毅は不安であったでしょう。また,後に皇室典範の改正又は増補がされてしまうかもしれません。条文の外に「説明」においても強固な防備をしておく必要が感じられたもののようです。明治皇室典範10条に係る「・・・中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」との説明だけでは天皇の終身在位論の理由付けとしては弱いものとつとに考えていたであろう井上は(注),「皇室典範義解草案 第一」にあった「・・・故ニ中世以来,辱累封邑空費府庫ヲ以テ(嵯峨天皇詔)姓ヲ賜ヒ臣籍ニ列スルノ例ハ本条ノ取ラザル所ナリ。」だけでは同様に不十分であると当然思ったことでしょう(1888年6月4日午後の枢密院会議において松方大蔵大臣は,「断言」する強い表現だと受け取ってくれていたのですが。)。

(注)ついでながら,明治皇室典範10条の説明は,「皇室典範義解草案 第一」では「・・・中古権臣ノ強迫ニ因リ,両統互譲十年ヲ限トスルニ至ル。而シテ南北朝ノ乱亦此ニ源因セリ。故ニ後醍醐天皇ハ遺勅シテ在世ノ中譲位ナク,又剃髪ナカラシム(細々要記)。本条ニ践祚ヲ以テ先帝崩御ノ後ニ行ハルルモノト定メタルハ,上代ノ恒典ニ因リ中古以来譲位ノ慣例ヲ改ムルモノナリ。」となっていました(伊藤編『帝室制度資料 上巻』93頁。下線は筆者によるもの)。非妥協的かつ戦闘的な御性格であらせられた『太平記』の大主人公・後醍醐天皇の遺勅であるから終身在位なのだ,持明院統には互譲などせず皇位は譲らないのだ,ということではかえって剣呑であるようです(現皇室は持明院統の裔)。そもそも後醍醐天皇(大覚寺統傍系)は,文保の和談を承けて,在位10年の花園天皇(持明院統)から譲位を受けることができたところです。『皇室典範義解』においては書き改められて,後醍醐天皇云々が消えているのはあるいは当然の措置でしょう。

 したがって,『皇室典範義解』においては,「凡そ皇族の男子は皆皇位継承の権利を有する者なり。故に,中古以来
空費府庫(むなしくふこをついやす)を以て姓を賜ひ臣籍に列するの例は本条の取らざる所なり。」との説明(第30条解説)に加えて,1888年6月4日午後の枢密院会議で井上が弁じた永世皇族制弁護論の要旨が第31条解説に次のように付加されています。「皇室典範義解草案 第一」の枢密院諮詢案33条解説にはなかったものです。

 

 大宝令5世以下は皇親の限に在らず。而して正親司(おおきみのつかさ)司る所は4世以上に限る。然るに,継体天皇の皇位を継承したまへるは実に応神天皇5世の孫を以てす。此れ(すなわ)ち中古の制は(かならず)しも先王の遺範に非ざりしなり。本条に5世以下王・女王たることを定むるは,宗室の子孫は5世の後に至るも,亦皇族たることを失はざらしめ,以て親々の義を広むるなり・・・。

 
 井上は,前記枢密院会議において,「不幸ニシテ皇統ノ微継体天皇ノ時ノ如キことアラハ5世6世ハ申スまでモナシ百世ノ御裔孫ニ至ル迠モ皇族ニテハサンヿヲ希望セサルベカラス」「姓ヲ賜フテ臣籍ニ列スルノヿハ大宝令ニモ之ヲ載セス畢竟中古以後王室式微ノ時代一時ノ便宜ニ従テ御処分アリシ事ナルカ如シ」「皇葉ノ御繁栄マシマサハ是レ誠ニ喜フベキ事ニシテ継体天皇宇多天皇ノ御場合ノ如キハ大ニ不祥ノ事ト云ハサルヘカラス然ラハ仮令多少ノ支障ハアラントモ成ルベク皇族ノ区域ヲ拡張スルヿ誠ニ皇室将来ノ御利益ト云フヘシ」等と熱弁をふるっていたところです。
 

(2)柳原前光

 臣籍降下制度設置論者である柳原前光は,当該制度を皇室典範に設けないという食言的決定に対して,1888年5月頃伊藤博文宛てに次のように書き送っていました(「皇室典範箋評」。小嶋「明治皇室典範」238頁。振り仮名は筆者によるもの)。

 

 拙者ハ祖宗ノ例ヲ保守シ疎属ヨリ逓次臣籍ニ列スルノ持説ナリ 但シ本案永世皇族ヲ設クルニ決セラレタル上ハ波瀾ヲ避ケ謹テ緘黙傍観ス (より)テ安意ヲ乞フ 但シ遅ク(さんじゅう)年以内ヲ出テス実際大ニ(くるし)ミ必ス此事件ヨリ典範修正アラン 若シ不幸ニシテ其事ニ()閣下(こいねがわ)クハ僕ノ先見者タルヲ保証セラレンコトヲ願フ(のみ) 恐(しょう)々々

 

柳原は,枢密顧問官になるには年齢が足りず,枢密院における皇室典範案の審議に参加することができませんでした。

 

6 1907年の皇室典範増補と臣籍降下制度の(再)導入

 

(1)1907年皇室典範増補

しかしてその後,1889年の明治皇室典範の裁定から18年しかたたぬ1907年2月11日,皇族の臣籍降下制度を定める皇室典範増補が明治天皇により裁定され,同日公布(公式令(明治40年勅令第6号)4条1項)されました。

 

第1条 王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムルコトアルヘシ

 第2条 王ハ勅許ニ依リ華族ノ家督相続人トナリ又ハ家督相続ノ目的ヲ以テ華族ノ養子トナルコトヲ得

 第4条 特権ヲ剥奪セラレタル皇族ハ勅旨ニ由リ臣籍ニ降スコトアルヘシ

  〔第2項略〕

 第5条 第1条第2条第4条ノ場合ニ於テハ皇族会議及枢密顧問ノ諮詢ヲ経ヘシ

 第6条 皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス

 

(2)草葉の陰

 

ア 山田顕義

 1888年6月6日午前の枢密院会議で,「種々穏カナラサル所」からの影響のゆえか何のゆえか臣籍降下制度不要論を強硬に吠えた河野敏鎌(この人物は,司馬遼太郎の『歳月』において,「いい親分がみつかると,河野はどんなことでもする」と書かれてしまっていて損をしています。筆者は『歳月』に関して本ブログに記事(「司馬遼太郎の『歳月』の謎の読み方」)を書いたことがあります。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1842010.html)の発言に関して,「・・・本条原案ノ(まま)ニ存シ置クハ典範上ノ体面ハ美ナルカ(ごと)シト(いえど)モ,18番〔河野敏鎌〕自身ニモ既ニ陳述シタル如ク,本条将来ノ変換ハ勢ヒ免レ難キ所トス。賜姓列臣ヲ明条ニ掲クルハ忍ヒサル所ナリト雖モ,皇室万世ノ為メニ模範ヲ(のこ)サントスル今日ニ於テ,姑息ニ流レ徒ラニ体面(よそおう)ハ本官ノ取ラサル所ナリ。其変換ニシテ予期スヘカラサラシメハ止マン。(いやしく)モ予期スヘクンハ,他日典範ヲ変換シテ賜姓列臣ノ例ヲ開カサルヘカラサルノ時期ニ際会シ,何ノ必要アリテ祖宗千年ノ習慣ヲ此ノ中間ニ特ニ変更シタルカヲ(わら)フヘシ・・・次ニ18番ハ,御先代ノ経験ヲ鑑ミ帝室将来ノ利益ヲ(おもんぱかっ)テ之ヲ今日ニ改ムルハ忠精ヲ(つく)所以(ゆえん)ナリト論シタリ。然レトモ,他日必ス御先代ノ例ニ復スヘキヲ期シナカラ差シタル必要ナクシテ(みだ)リニ之ヲ改ムルハ,遂ニ後世ノ(わらい)ヲ免レス。各位幸ヒニ18番ノ説ニ迷ハス,23番〔佐野常民〕6番〔三条実美〕ノ修正ニ賛成アリタシ」(振り仮名及び句読点は筆者によるもの)と,臣籍降下制度を結局は導入する破目になって嗤われ者になるなとの警告を発していたこちらは長州の武家出身の山田顕義は,18921111に急死していました。山田がボアソナアドの協力を得てその編纂に心血を注いだ(旧)民商法の施行延期法(明治25年法律第8号(民法及商法施行延期法律))が明治天皇によって裁可されたのは山田急死の月の22日(副署した内閣総理大臣は伊藤博文,司法大臣は山県有朋),公布されたのは同月24日でした。

 

イ 柳原前光

臣籍降下制度導入に係る「先見者タルヲ保証セラレ」ることを見ることなく,柳原前光は,日清戦争の対清宣戦布告の翌月,1894年9月2日に早逝しました。

 

ウ 井上毅

 永世皇族制の防衛者たるべかりし井上毅は,1895年3月17日,宿痾の結核で不帰の客となりました。伊藤博文が陸奥宗光と共に下関・春帆楼で李鴻章と第1回日清講和会談を行う3日前のことでした。

 

 「国家多事の日に際して,蒲団の上に死す。斯る不埒者には,黒葬礼こそ相当なれ」(長尾龍一「陰沈たる鬼才の謀臣 井上毅」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)3738頁参照)

 

(3)生き残る男・伊藤博文

ところで,1907年の皇室典範増補裁定の仕掛け人はだれだったでしょうか。ほかでもない,高輪会議での決定を翻して井上毅の七七ヶ条草案に対し「皇族ヲ臣籍ニ列スル2条削ルベシ」と食言的な指示をするに至った夫子御自身――伊藤博文その人でした。

19041012日に帝室制度調査局総裁として伊藤博文が明治天皇に対して行った上奏にいわく。

 

  臣博文帝室制度調査ノ

大命ヲ(つつし)ミ伏シテ(おもんみ)ルニ,皇室典範ハ

陛下立憲ヲ経始(けいし)〔開始〕シタマヘル制作ノ一ニシテ,帝国憲法ト並ニ不刊(ふかん)〔摩滅しない〕ニ垂ル,(しこう)シテ国家ノ景運蒸々(じょうじょう)向上するさまトシテ()(へん)〔大いに変ずる〕シ,皇室ノ基礎益々鞏固ニシテ文経武緯国光(あまね)寰宇(かんう)〔天子の治める土地全体〕ニ顕揚スルコト,今ハ(はるか)(ちゅう)(せき)ノ比ニアラズ。・・・是ニ於テ()皇室ノ宝典モ(また)(いささ)カ其ノ未ダ備ハラザルモノヲ増補シテ以テ(こう)(こん)〔後の子孫〕ニ昭示スルノ必要ヲ生ズ。即チ皇族支胤ノ繁盛ト皇室費款ノ増益トニ視テ,其ノ疎通ヲ図ルガ如キ・・・ハ特ニ其ノ(ゆう)ナルモノニシテ,実ニ日新ノ時宜ニ鑑ミ乾健ノ宏綱ヲ進張スル所以(ゆえん)ノ道ナルコトヲ信ズ。(ここ)ニ別冊皇室典範増補条項ニ付キ慎重審議ヲ()ヘ,其ノ事由ヲ前条ノ下ニ注明セシメ謹デ上奏シ(うやうやし)

 聖裁ヲ仰グ。(伊藤博文編,金子堅太郎・栗野愼一郎・尾佐竹猛・平塚篤校訂『雑纂 其壱〔秘書類纂第24巻〕』(秘書類纂刊行会・1936年)2526頁。振り仮名は筆者によるもの

 

 「何が今更「是ニ於テ乎皇室ノ宝典モ亦聊カ其ノ未ダ備ハラザルモノヲ増補シテ以テ後昆ニ昭示スルノ必要ヲ生ズ」だ,最初から臣籍降下制度がのちのち必要になるって分かっていたくせに。自分の失敗を棚に上げて。」と,1888年6月4日午後及び同月6日午前の枢密院会議のいずれにも臨御していた明治天皇は,内心苦笑いしていたことでしょう。

 とはいえ,山田,柳原,井上らは既に亡し。「何ノ必要アリテ祖宗千年ノ習慣ヲ此ノ中間ニ特ニ変更シタ」んだったっけねと嗤われもせず,それみたことか「僕ノ先見者タルヲ保証セ」よと嫌味を言われもせず,「其意見ヲ異ニセサルヲ得ス」と叱られもせず,政治家たるもの,長生きするのが勝ちです。

 

7 皇室典範の「増補」について

 しかしながら,「改正」といわず,「亦聊カ其ノ未ダ備ハラザルモノヲ増補」という方が法典に手を入れやすいですね。「改正」ですと,被改正条項が将来のことをよく考えていなかったから状況の変化に対応しきれずに駄目になったので改めて正されねばならないのか,あるいは最初から駄目だったので改めて正されねばならないのか,ということでそもそもの立法者の面子の問題になってしまいます。その点を避けることのできる「増補」概念は,皇室典範自身の規定するものです。

 

 第62条 将来此ノ典範ノ条項ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要アルニ当テハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シテ之ヲ勅定スヘシ

 

状況が変化してしまったので足らざるところが生じたところ,当該変化に素直に応じた増補である,という方が,説明がしやすい。「増補」概念がそもそも組み込まれている点において,皇室典範は動的かつ柔軟ないわば開かれた規範体系である,ともいい得るかもしれません。伊藤博文は,自身の失敗指示の回復策である1907年皇室典範増補の実現に向けて,当該「増補」概念をうまく活用したということであるようにも思われます。(ただし,公式令4条1項における整理では,「増補」は「改正」に含まれるものとされているようです。)

 しかしてこの「増補」概念の導入者はだれでしょうか。

 柳原前光です。

1887年3月20日の高輪会議後の同年4月25日に伊藤博文に,同月27日に井上毅にそれぞれ提出された柳原の前記「皇室典範草案」において,「此典範ヲ改正増補セント欲スル時ハ皇族会議及ヒ内閣,宮中顧問官ニ諮詢シ之ヲ決定ス」との条項が新加されていたところです(小嶋「明治皇室典範」202203頁。下線は筆者によるもの)。井上毅はその七七ヶ条草案に至る過程において,当該条項については,「此ノ典範ハ改正増補スヘカラザル者ナリ 改正増補ハ不得已(やむをえざる)ノ必要ニ限ルヘキナリ 故ニ左ノ如ク修正スヘシ/将来此ノ典範ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要ヲ見ルニ当テハ皇族会議及内閣宮中顧問官ニ諮詢シ之ヲ決定スヘシ」とています(小嶋「明治皇室典範」207頁。振り仮名は筆者によるもの)。確かに「欲スル」だけで改正増補がされ得るのはおかしい。しかしながら,「増補」概念は維持されています。

上記高輪会議の結果としては「天皇譲位の制度の否認されたことがもっとも注目される」ところですが(小嶋「明治皇室典範」200頁),その直後における皇室典範に係る「増補」概念の導入に当たって柳原及び井上の念頭に共通にあったのは,生前退位ないしは譲位に関する規定の「増補」だったのかもしれません。(臣籍降下制度についてまず「増補」がされることになるとは,高輪会議の終了時点では予想されていなかったでしょう。)

 

・・・是ニ於テ乎皇室ニ関スル法典モ亦聊カ其ノ未タ備ハラサルモノヲ増補シテ以テ後昆ニ昭示スルノ必要ヲ生ス即チ 聖上及ヒ皇族ノ御長寿ト国事行為及ヒ象徴トシテノオ務メノ御増益トニ視テ皇位ノ疎通ヲ図ルカ如キハ特ニ其ノ尤ナルモノニシテ実ニ日新ノ時宜ニ鑑ミ乾健ノ宏綱ヲ進張スル所以ノ道ナルコトヲ信ス・・・

 

 無論,臣下による天皇の廃位に関する規定の増補ということは全く考えられていなかったはずです。
 また,そのような国賊的なことを,長州出身の元尊皇の志士・俊輔伊藤博文が許したわけがありません。文久二年十二月二十一日(1863年2月9日),和学講談所の塙忠宝は,「天皇廃立の先例を調べているとの風聞によって」,伊藤博文(当時21歳)らによって暗殺されています(伊藤博文伝(春畝公追頌会編)に基づく『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)の記載。塙は翌二十二日死亡)。 

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

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電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

 内閣総理大臣官邸ホームページの「内閣総理大臣一覧」の表を見ると,昭和15年(1940年)7月22日に昭和天皇によって2度目に内閣総理大臣に任じられ,翌年昭和16年(1941年)1016日に内閣総辞職して政権を投げ出すこととなった近衛文麿を首班とする内閣は,その間昭和16年(1941年)7月18日を境にして,それ以前が第2次近衛内閣,それ以後同年1018日の東条英機内閣の成立までが第3次近衛内閣であるものとされています。これに対して,大正13年(1924年)6月11日に摂政宮裕仁親王によって内閣総理大臣に任じられた加藤高明は,その死亡の日である大正15年(1926年)1月28日まで一貫して一つの加藤高明内閣の内閣総理大臣であり続けていたものとされています。

http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html

 この取扱いについては,我が国の近代史に詳しい向きから疑問を呈せられることがあります。

 

ものの本には,大正14年(1925年)8月2日以後を第2次加藤高明内閣とし,それ以前を第1次加藤高明内閣としているものがあるが,内閣総理大臣官邸ホームページはそのように取り扱っていないのはなぜか。

 

 内閣総理大臣官邸ホームページにおける「内閣総理大臣一覧」の表の記載を所与のものとしていた者にとっては意表を衝かれる質問です。「内閣総理大臣官房の人事課がそう言ったのだ。」だけでは回答にはならないでしょう。

そこで,そもそも1925年8月2日に加藤高明内閣に何が起こったのかから調べなければなりません。

 宮内庁の『昭和天皇実録 第四』(2015年・東京書籍)の1925年7月30日の項を見ると,当時の摂政宮裕仁親王は,「午後4時,内閣総理大臣加藤高明参殿につき謁を賜い,税制整理案をめぐり,政友会の2閣僚の反対により閣内不一致に陥った状況につき,奏上を受けられる。・・・政局紛糾につき,明日の日光行啓はお取り止めとなる。」とあって(295頁),翌31日については次のとおり(同頁)。

 

 31 金曜日 午前1110分,内閣総理大臣加藤高明に謁を賜い,国務大臣全員の辞表の捧呈を受けられる。同25分,内大臣牧野伸顕をお召しになり,爾後の措置につき御下問になり,牧野は公爵西園寺公望の意見を徴すべき旨を奉答する。・・・東宮侍従長入江為守をお召しになり,御殿場の西園寺の許へ赴くことを命じられる。入江は正午出発,西園寺と面会するも,西園寺は,時局に鑑み,熟慮の間しばらく奉答を猶予せられたき旨を回答する。午後9時45分,入江は摂政に復命する。

 

 これは,加藤高明内閣総辞職ということでしょう。

 しかして,それに続く1925年8月1日には「午後5時10分,内閣総理大臣加藤高明をお召しになり,加藤に内閣の再組織を命じられる。加藤は,熟慮の上奉答する旨を言上し,退下する」ということになり(『昭和天皇実録 第四』297頁),同月2日の日曜日に「〔午前10時〕35分内閣総理大臣加藤高明参殿につき,内謁見所において謁を賜い,大命拝受の言上並びに閣員名簿の捧呈を受けられる。」(同頁)という運びになっています。

「大正13年〔1924年〕6月清浦内閣の後を襲つた加藤高明内閣(大正13年6月より同14年〔1925年〕8月まで)は・・・所謂(いわゆる)「護憲三派」(憲政会,政友会,国民党)の聯立内閣であつたところ,「大正14年8月,護憲三派の聯立が破れて,加藤高明が再び組閣の命を受けた」ということになるわけですから(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)281頁),確かに,政治的に加藤高明内閣の性格は変化し,第1次加藤高明内閣から第2次加藤高明内閣への交替があったといってもよいようではあります。

 どうしたものでしょうか。加藤高明内閣総理大臣の内閣に係る1925年8月2日の取扱い(同年7月31日に国務大臣全員の辞表の捧呈があったものの,内閣の交替がなかったものとする。)と近衛文麿内閣総理大臣の内閣に係る1941年7月18日の取扱い(以下に見るように同月16日に全閣僚の辞表捧呈があったところ,内閣総理大臣は変わらずとも内閣の交替があったものとする。)との違いはどう説明されるものか。

安直にWikipediaでもって「加藤高明」及び「加藤高明内閣」について調べると,ネット上の賢者らは,1941年7月18日の第2次近衛内閣から第3次近衛内閣への交替の際においては「この時には辞表の差し戻しがなく」,又「辞表差し戻しが行われておらず,再度の首相拝命扱いとなっている」ものとしています。すなわち,1925年7月31日に捧呈された加藤高明内閣総理大臣の辞表は摂政宮裕仁親王から差し戻されたのに対して,1941年7月16日に捧呈された近衛文麿内閣総理大臣の辞表は昭和天皇から差し戻されることなくそのまま受理された,この点に両者の違いがあるのだ,ということのようです。

なるほど。

加藤高明内閣総理大臣の前例に係る『昭和天皇実録 第四』1925年8月2日の記載は,次のとおり。

 

・・・〔午前10時〕40分,内謁見所において加藤総理に謁を賜い,総理の辞表をお下げ戻しの上,閣僚人事の内奏を受けられる。1140分,狩ノ間において加藤総理侍立のもと親任式を行われ,内閣書記官長江木翼を司法大臣に,大蔵政務次官早速整爾を農林大臣に,内務政務次官片岡直温を商工大臣に任じられ,ついで留任閣僚の辞表を下げ渡される。(297298頁。下線は筆者)

 

辞表の提出だけでは内閣総理大臣辞職の効力は生じていなかったということでしょう。

「国務大臣の任免は,憲法上 天皇の大権事項に属する。従つて内閣総理大臣の罷免――内閣の退陣は,一に聖旨に存する。例へば内閣総理大臣が,闕下に伏して骸骨を乞ひ奉るが如き場合に於ても,其の之を聴許し給ふと否とは,全く天皇の御自由である。」とされていました(山崎326頁)。1925年7月31日に加藤高明内閣総理大臣は摂政宮裕仁親王に辞表を捧呈して骸骨を乞うたものの,聴許せられなかったということになるわけです。(なお,「骸骨を乞う」とは,三省堂『新明解国語辞典 第五版』によれば,「在任中,主君に捧げた身の残骸をもらい受ける意で,高官が辞職を願い出ること」とあります。)

それでは1941年7月18日の場合はどうであったのでしょうか。

まず,同15日,昭和天皇は「午後4時15分,内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜う。首相は,大本営政府連絡懇談会における日米諒解案の交渉継続の決定経緯を説明の上,昨14日夜,外相〔松岡洋右〕が自分の意向に反し,独断にて国務長官のオーラル・ステートメントに対する拒否回答のみを駐米大使に電訓したこと,さらに米国には未提示の日本側修正対案をドイツ側に内報する挙に出たことを問題視し,本日の閣議が終了した後,首内陸海四相協議の結果,外相更迭又は内閣総辞職との結論に至りし旨を奏上する。天皇は,外相のみ更迭の可否を御下問になり,首相より慎重熟慮の上善処する旨の奉答を受けられる。」という状況だったところ(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(2016年・東京書籍)429頁),同月16日の項には次のようにあります(同431頁・432頁)。

 

・・・午後4時15分,再び内大臣〔木戸幸一〕に謁を賜い,内閣が午後5時30分より臨時閣議を開き,総辞職を決定する旨の情報をお聞きになる。

・・・

午後9時頃,内閣総理大臣近衛文麿参邸〔葉山御用邸〕につき,謁を賜い,全閣僚の辞表捧呈を受けられる。首相に対し,何分の沙汰あるまで国務を執るよう仰せになる。・・・

 

同月17日には事態は次のように推移します(『昭和天皇実録 第八』432頁)。

 

午後3時30分,内大臣木戸幸一をお召しになる。内大臣より,本日午後1時,枢密院議長〔原嘉道〕及び首相経験者男爵若槻礼次郎・海軍大将岡田啓介・従二位広田弘毅・陸軍大将林銑十郎・同阿部信行・海軍大将米内光政が西溜ノ間に参集し,全員一致を以て公爵近衛文麿を後継首班に推薦した旨の言上を受けられる。・・・5時15分,参内の公爵近衛文麿内閣総理大臣に謁を賜い,内閣組織を命じられる。

 

そしていよいよ1941年7月18日。

 

午後4時23分,内大臣木戸幸一をお召しになり,組閣の状況を御聴取になる。7時13分,御学問所において公爵近衛文麿内閣総理大臣に謁を賜い,閣員名簿の捧呈を受けられる。御下問の後,閣員名簿を御聴許になる。ついで内大臣をお召しになり,閣員名簿の閲覧を許され,同30分,閣僚人事に関する内閣上奏書類を御裁可になる。8時50分,近衛をお召しになり,留任となる首相及び陸軍大臣東条英機・海軍大臣及川古志郎・文部大臣橋田邦彦・逓信大臣村田省蔵・農林大臣井野碩哉・国務大臣兼企画院総裁鈴木貞一の辞表を下げ渡される。9時,鳳凰ノ間において親任式を行われ,商工大臣豊田貞次郎海軍大将を外務大臣兼拓務大臣に,従三位勲二等田辺治通を内務大臣に,国務大臣小倉正恒を大蔵大臣に,海軍中将左近司政三を商工大臣に,逓信大臣村田省蔵を兼鉄道大臣に,陸軍軍医中将小泉親彦を厚生大臣に,内務大臣平沼騏一郎を国務大臣に,司法大臣柳川平助陸軍中将を国務大臣にそれぞれ任じられる。また,内閣総理大臣近衛文麿を兼司法大臣に任じられる。(『昭和天皇実録 第八』433434頁。下線は筆者)

 

「辞表差し戻しが行われておらず,再度の首相拝命扱いとなっている」ではなく,内閣総理大臣辞任の辞表は,骸骨は返さないよ留任だよと近衛文麿に下げ渡され,また,近衛は兼司法大臣に任じられてはいるものの改めて内閣総理大臣に任じられているものではありません。せっかくのWikipediaにおける理由付けではありましたが,なかなか成り立たないものであるようです。加藤高明内閣に係る1925年8月2日の前例どおり,1941年7月18日には第2次近衛内閣は一部閣僚の更迭はあったもののそのまま継続したものと取り扱うべきもののようではあります。山崎丹照法制局参事官は,その『内閣制度の研究』(1942年)の「附録」の「歴代内閣一覧表」において,加藤高明内閣は1925年8月2日の前後を通じて一つの内閣とする一方(附録16頁),1941年7月18日以前の内閣を「第二次近衛内閣」としつつ(附録26頁)同日以後の内閣を「所謂第三次近衛内閣」としていますが(附録27頁),ここに「所謂(いわゆる)」とあることに大いに注目すべきでしょう。

法制局参事官的な厳格な法制思考においては,「所謂第三次近衛内閣」は,実は法的には「第2次近衛内閣改造内閣」であるということであるようです。

それでは,なぜ「第三次近衛内閣」という呼称が生まれたのでしょうか。

1941年7月162315分の段階で,次のように勇ましい「政府発表」をしてしまったからでしょうか(山崎356頁)。

 

現内閣は昨夏大命を拝して以来閣内一致内外諸般の施策に最善の努力を致し来つたのであるが,変転極まりなき世界の情勢に善処してますます国策の遂行を活溌ならしめん為めには,先づ国内態勢の急速なる整備強化を必要とし,従つて内閣の構成も亦一大刷新を加ふるの要あることを痛感し,こゝに内閣総辞職を決行することゝなり,近衛内閣総理大臣は本日の臨時閣議に於て閣僚の辞表を取り纏め午後9時葉山御用邸に伺候して,之を御前に捧呈した。陛下より何分の沙汰あるまで国務を見よとの優諚を賜はつたので,近衛内閣総理大臣は恐懼して御前を退下し,待機中の各閣僚に報告した。(昭和16年7月17日 朝日新聞所載)

 

 閣内問題児である外務大臣一人を辞めさせることに手を焼いて,閣僚総出で「一緒に辞めよう」と偽装心中まがいの大げさな内閣総辞職をしたものの,お騒がせしましたが実は閣内痴話げんかの末の単なる内閣改造でしたではいかにも恰好が悪いので,これは「国内態勢の急速なる整備強化を必要とし,従つて内閣の構成も亦一大刷新を加ふるの要あることを痛感し,こゝに内閣総辞職を決行」した結果の新内閣なのだ,最早古い第2次近衛内閣ではないのだ,ヴァージョン・アップされ,「一大刷新」された「第三次近衛内閣」なのだ,と内閣自ら言い張ったのだということでしょうか。

 これに対して加藤高明としては,政友会の連中が何と言って騒ごうともやはり摂政宮殿下の信任は我にありなのだ,「護憲三派内閣」云々よりも先に飽くまで加藤高明内閣であって,それは一貫していたのだ,と自己規定した方が,元気が出たものではないのでしょうか。

1 祭祀大権の摂政による代行に関する議論

 

  「天皇ハ我ガ有史以前ヨリ伝ハレル国家的宗教トシテノ古神道ニ於テ其ノ最高ノ祭主トシテノ地位ニ在マシ,親シク皇祖皇宗並歴代天皇及皇親ノ霊ヲ祀リ及天地神明ヲ祭ル,之ヲ祭祀大権ト謂フコトヲ得。祭祀大権ハ憲法ニモ皇室法ニモ何等ノ規定ナク,一ニ慣習法ニ其ノ根拠ヲ有スルモノナリ。祭祀大権ハ其ノ性質上輔弼ノ責ニ任ズルモノナキコトニ於テ其ノ特色ヲ有ス。」(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)188頁)

 

  「祭祀ハ一般国務及皇室ノ事務ノ外ニ之ト相並ビテ重要ナル天皇ノ大権ヲ為スモノナリ。」(美濃部205頁)

 

  「・・・歴史上の天皇は,何よりもまず,祭りをする人であり,この本質は,終始,天皇の宗教的権威の原基をなしてきた。敗戦後の日本国においても,天皇の最高祭司としての本質は不変であり,「祭祀大権」は,基本的には揺らいではいない。」(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)217頁)

 

 さて,この祭祀大権は,摂政が置かれたとき(現行憲法5条,大日本帝国憲法17条)にはどうなるか。摂政による祭祀大権の代行には制限はないのでしょうか。美濃部達吉は「摂政ガ天皇ヲ代表スルノ範囲ハ一切ノ大権ニ及ビ,国務上ノ大権ノ外皇室大権軍令大権及栄典大権モ亦等シク其ノ代行スル所ナリ。」と説いていますが(美濃部238頁),そこでは祭祀大権は,摂政によって代行されるものとして明示的に言及されていません。

摂政と祭祀大権との関係については,2016年7月21日付けの当ブログ記事「明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)に関して」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.htmlにおいて次のように記したところです。

 

「皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは,摂政は,天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には前条第1項の規定〔「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」〕を準用する。」と規定する現行憲法5条を前提とすれば, 摂政は国事行為に係る代理機関にすぎず(また,「摂政は天皇ではないから,「象徴」としての役割を有しない。」とも説かれています(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)259頁)。)祭祀については困る,とあるいは更に反論できたのでしょうが, 大日本帝国憲法下では(その第17条2項は「摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ」と規定。『皇室典範義解』には「摂政は以て皇室避くべからざるの変局を救済し,一は皇統の常久を保持し,二は大政の便宜を疎通し,両つながら失墜の患を免るゝ所以なり。摂政は天皇の天職を摂行し,一切の大政及皇室の内事皆天皇に代り之を総攬す。而して至尊の名位に居らざるなり。」と説明されていました(岩波文庫147頁)。), 「祭祀ニ付テ」も「天皇ノ出御アルコト能ハザル場合ニ於テ摂政之ヲ代行スル」こととなっていました(美濃部239頁。ただし,「祭祀ニ付テ・・・皇室祭祀令ニハ天皇幼年ノ場合ニモ親ラ出御アルベキコトヲ定メ,以テ摂政ノ必ズシモ代行スル所ニ非ザルコト」が示されていたそうです(美濃部239頁)。確かに,皇室祭祀令(明治41年皇室令第1号)の附式には「天皇襁褓ニ在ルトキハ女官之ヲ奉抱ス」等の「注意」が記されています。)。ちなみに,摂政令(明治42年皇室令第2号)1条は「摂政就任スル時ハ附式ノ定ムル所ニ依リ賢所ニ祭典ヲ行ヒ且就任ノ旨ヲ皇霊殿神殿ニ奉告ス」と規定していました。これは,1909年1月27日の枢密院会議における奥田義人宮中顧問官の案文説明によれば,「其〔摂政〕ノ誠実ヲ表明スル為メ設ケタル規定」です。いずれにせよ,大日本帝国憲法下の摂政の制度は特殊なもので,同日の奥田宮中顧問官の説明においてはまた「然ルニ摂政ニツキテハ古来依ルヘキ例ナシ故ニ此ノ〔摂政令〕案ノミハ全ク新タニ出来タルモノト御承知ヲ乞フ」と述べられていました。なお,19451215日のGHQのいわゆる神道指令後には天皇の「祭祀大権は全く失は」れ,宮中祭祀は「純然たる皇室御一家の祭祀」となって「皇室の家長たる御地位に於いて天皇の行はせらるる所」とされています(美濃部555頁)。皇室の家長の交代には,譲位が必要ということになるのでしょうか。

 

 以上の点に関して,園部逸夫博士は,現行憲法における摂政について,「摂政としての私的な行為」の存否いかんとの問題設定(「一つは,摂政にも摂政としての私的な行為があるとする考えである。・・・/他の一つは,摂政とは,国の機関としての地位のことであり,摂政としての私的な行為はそもそも存在しないとする考えである。・・・私的な行為については,摂政の地位にある皇族が皇族として私的に行うのであればともかく,摂政として私的に行うことは,摂政概念上あり得ないという立場である。」(園部逸夫『皇室法概論』(第一法規・2002年)149頁))の下に,宗教的色彩のある行為について,「こうした旧皇室令の登極令及び摂政令〔1条〕による儀式は,いずれも摂政の立場で行うことに意義があるとともに,宗教的色彩を有すると見られることは否定できない行為であり,これを両立させるためには,摂政に私的な立場があることを認めその上で摂政が私的立場で私的な行為として行うと解するか,摂政たる皇族に対して皇室として摂政たる皇族としての私的な地位・身分を付与し,それを便宜上摂政と称するものと解するか,が考えられるが後者はいかにも無理がある。/したがって,摂政が設置される事態が生じ,これらの儀式に当たる儀式を皇室の行事として行うような場合があれば,それは,摂政たる皇族が私的な立場で私的な行為として行うことになるが,それは事実上摂政である皇族が,天皇の御告文を奏し,また,自らの告文を奏することになるものと解される。」と論じています(園部151頁)。「摂政としての私的な行為」の存在を認めず(「摂政たる皇族」の「私的な行為」であるものとされていて,端的に「摂政としての私的な行為」が行われるものとはされていません。),かつ,「皇室として摂政たる皇族としての私的な地位・身分を付与」することも無理であるとしつつ,最後は「事実上」の解決に委ねるものとするということでしょうか。
 ところで,2016年7月21日付けの当ブログ記事における前記の記載はいわば学説の紹介にとどまるものであって,大日本帝国憲法下において,皇太子裕仁親王が大正天皇の摂政として天皇の事を摂行した際(
19211125日から19261225日まで)における具体的実例の紹介にまで及んでいないところに意に満たないところがありました。

 そこで今般,宮内庁の『昭和天皇実録 第三』(東京書籍・2015年)を入手し,皇太子裕仁親王の摂政就任当時の実例及び議論を調べてみたところをまとめたのが,このブログ記事です。

 それにしても,函入りで堂々たる装丁の本文989頁の書物が消費税額込みで2041円との値段は(古書店において1000円で売っているのも見かけました。),日本の20世紀についていささか内容と深みのあるかのごとき言説を行おうとする者に対して,『昭和天皇実録』の利用の回避という横着は許さないぞという価格設定ではあります。

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 昭和天皇記念館(東京都立川市) 

 

2 摂政宮裕仁親王による大正天皇の祭祀大権の代行

 

(1)光格天皇例祭(小祭)に当っての宮中における整理:「摂政は天皇に代わり祭祀を行うもの」とする。

 さて,『昭和天皇実録 第三』(以下「実録第三」)の19211212日の項によると,実は前月の皇太子裕仁親王の摂政就任後になってから初めて,摂政による祭祀大権の代行についての整理が行われたもののようです。

 

 この日光格天皇例祭につき,侍従徳川義恕が御代拝を奉仕する。これより先,本祭典は摂政御就任後初めての御親祭につき,宮内次官関屋貞三郎・宮内省参事官南部光臣・同渡部信・式部長官井上勝之助・式部次長西園寺八郎・掌典長九条道実・帝室会計審査局長官倉富勇三郎・内匠頭小原〔馬偏に全〕吉等関係高等官は数次にわたり協議を行い,摂政は天皇に代わり祭祀を行うものとし,摂政御拝礼実際は行啓中につき御代拝・皇后御拝礼の順とすること,摂政御拝礼なきときは,その御代拝が行われることなどを定める。(実録第三539頁)

 

光格天皇は大正天皇の4代前の天皇ですから(光格天皇,仁孝天皇,孝明天皇,明治天皇,大正天皇と続く。),その毎年の崩御日に相当する日には先帝以前3代の例祭の一として,天皇が皇族及び官僚を率いて(みずか)拝礼し掌長が祭典を行う祭が行われたものです(皇室祭祀令(明治41年皇室令第1号)21条,20条1項)。小祭に係る皇室祭祀令20条2項には「天皇喪ニ在リ其ノ他事故アルトキハ前項ノ拝礼ハ皇族又ハ侍従ヲシテ之ヲ行ハシム」とありますから,大正天皇に事故アルトキとして大正天皇の侍従が代拝をしたということでもよさそうなのですが(天皇が「親ラ拝礼」することが原則になっているので,天皇の親拝又は代拝は必須ということになります。),徳川侍従は行啓中の摂政宮裕仁親王の代拝を,皇后御拝礼に先立ってしたということになるようです。19211212日当日の摂政宮裕仁親王の行啓日程は,翌日の伊勢神宮での摂政就任奉告のため,朝静岡御用邸発,午後伊勢山田の神宮司庁着というものでした(実録第三538539頁)。

先帝以前3代の例祭は皇霊殿で行われ(皇室祭祀令25条1項),皇室祭祀令附式第2編皇霊殿ノ儀によると,天皇,皇后,皇太子,皇太子妃及び諸員の順で御拝礼及び拝礼があるべきもののようです。

しかしながら,「摂政は天皇に代わり祭祀を行う」という前記の結論に達するまでは,宮内省関係高等官中にも異論が多く侃々諤々(かんかんがくがく)であったようです。

 

ただし,摂政の権限は祭祀に及ばずとの解釈があり,あるいは摂政は明文ある場合の外は摂政として祭祀を行うべきではなく,また,摂政の班位は皇太子よりも下となるため,摂政として皇太子が祭祀に参列する場合は,皇后の次に拝礼すべきであり,摂政としての拝礼のほか皇太子としても拝礼を要するなどの異論もあり,『宮内省省報』には,御代拝の場合は単に御代拝の事実とその奉仕者のみを記し,その主体は摂政であるとも天皇であるとも明示せず。(実録第三539頁)

 

なかなかすっきりしていません。

なお,摂政の班位(席次)については,「皇族ノ班位ニ関シ,皇太子,皇太孫,又ハ皇后,皇太后,太皇太后ノ摂政タル場合ニ於テハ普通ノ例ニ依ルト雖モ,他ノ皇族ノ摂政タル場合ニ於テハ三后及皇太子又ハ皇太孫及其ノ妃ヲ除クノ外他ノ皇族ノ上ニ列セシム(皇族身位令5条)」るものだったそうです(美濃部240241頁)。皇族身位令(明治43年皇室令第2号)1条によれば,皇族の班位の順序は①皇后,②太皇太后,③皇太后,④皇太子,⑤皇太子妃,⑥皇太孫,⑦皇太孫妃,⑧親王親王妃内親王王王妃女王となっていました。皇族身位令5条の条文は「摂政タル親王内親王王女王ノ班位ハ皇太孫妃ニ次キ故皇太孫ノ妃アルトキハ之ニ次ク」というものでした。親王,内親王,王及び女王については,明治皇室典範31条は「皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ内親王トシ5世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス」と規定していました(なお,同典範57条は「現在ノ皇族5世以下親王ノ号ヲ宣賜シタル者ハ旧ニ依ル」と規定)。

 

(2)摂政による代行の例外:四方拝(歳旦祭(小祭)に先立ち行われる祭儀)

また,「摂政は天皇に代わり祭祀を行う」としても,天皇に専属するものであって摂政が代行すべきではないものとされた祭儀があります。元旦の四方拝です。『昭和天皇実録 第三』の1922年1月1日の項には次のようにあります。

 

摂政御就任後初めて新年を迎えられる。四方拝は執り行われず,歳旦祭の儀には,侍従原恒太郎が摂政御代拝を奉仕する。四方拝については従来,天皇に事故あるときは行わないとする説と,摂政が代わりに行うとする説との両説が存在し,一旦は実施と決定したが,その後,皇室祭祀令第23条第2項中「但シ天皇喪ニ在リ其ノ他事故アルトキハ四方拝ノ式ヲ行ハス」の規定に基づき,これを行わないこととなる。晴御膳もまた四方拝と同じく,天皇に専属する儀であり,摂政において摂行せらるべきものではないとされ,行われず。

(実録第三555頁)  

 

「四方拝は,元日早朝に天皇が諸神,諸陵を遥拝し,年災を祓い,五穀の豊饒,宝祚の長久,国家国民の安寧を祈る重儀」で,「古制では,陽気の発する正寅の刻(午前4時)に,(ぞく)(しょう)(北斗七星の一つ)を唱えて,天地四方を拝することから四方拝とよばれ,古代以来,天皇をはじめ,ひろく一般でも行われた年頭の儀式でした(村上96頁)。「天皇は,潔斎後,午前5時に綾綺(りょうき)殿に出御して,黄櫨(こうろ)(ぜん)(ほう)に着がえ,手水の儀ののち,侍従が脂燭(しそく)先導するなかを,午前5時30分,仮殿に出御する。天皇は,拝座で,皇大神宮,豊受大神宮を遥拝し,つぎに四方の天神地祇,神武天皇と先帝の各山陵,氷川,石清水,賀茂,熱田,鹿島,香取の各神社を順次拝礼するという。」とのことですから(村上9697頁),寒い冬の早朝から大変です。四方拝については,皇室祭祀令23条2項本文に「歳旦祭ノ当日ニハ之ニ先タチ四方拝ノ式ヲ行」うとあります。歳旦祭は1月1日に行われる小祭です(皇室祭祀令21条)。

晴御膳については,平田久の『宮中儀式略』(民友社・1904年)に次のような解説があります(28頁)。

 

(はれ)御膳(のおもの)は新年の御儀式中,1月1日2日3日の三ヶ日に,鳳凰之間に出御あらせられて此供進を聞食すなり。明治四年の比より行はせらるゝと云ふ。

謹案するに晴御膳は維新前の御儀式に,正月一日二日三日清凉殿の朝餉(あさかれひ)(御間の名)に出御あらせられて聞食す朝餉の御膳に当れり。此名称は維新前の節会に供進する御膳の中に,(はれ)御膳(のおもの)(わき)御膳(のおもの)などあるより出でたるものならんか。

 

(3)他の大祭・小祭

 

ア 賢所御神楽(小祭)

これより先19211215日には,賢所御神楽(みかぐら)の小祭(皇室祭祀令21条)がありましたが,同日摂政宮裕仁親王はなお行啓中(京都を発して静岡着)だったので,「侍従清水谷実英が御代拝を奉仕する。」ということになりました(実録第三542頁)。

 

イ 元明天皇千二百年式年祭(小祭)

1922年1月2日の元明天皇千二百年式年祭(皇室祭祀令21条の小祭。同令25条2項,10条1項)については,「侍従松浦靖が摂政御代拝を奉仕する。」ということでした(実録第三558頁)。皇太子裕仁親王がなお摂政に就任する前の1921年1月1日の歳旦祭(小祭)におけるような「皇太子御代拝を東宮侍従長入江為守が奉仕する。」(実録第三1頁)というものではありません。

 

ウ 元始祭(大祭)

1922年1月3日は,皇太子裕仁親王の摂政就任後最初の大祭である元始祭でした(皇室祭祀令9条)。

「大祭ニハ天皇皇族及官僚ヲ率ヰテ親ラ祭典ヲ行フ」ものとされ(皇室祭祀令8条1項),「天皇喪ニ在リ其ノ他事故アルトキハ前項ノ祭典ハ皇族又ハ掌典長ヲシテ之ヲ行ハシム」とされていました(同条2項)。小祭においては掌典長が祭典を行うところで天皇が親ら拝礼をするもの(皇室祭祀令20条1項)であるのに対して,大祭においては掌典長ではなく天皇が親ら祭典を行うものであるところに小祭と大祭との違いがあります。1922年1月3日,摂政宮裕仁親王は,

 

元始祭につき,午前9時30分,摂政の御資格にて御出門になる。綾綺殿にて御儀服にお召し替えの後,賢所へ御参進になる。このとき掌典長が前行し,侍従1名が御剣を奉じ,別の侍従1名が後ろに候す。内陣に御着座になり御拝礼,御告文を奏される。続いて皇霊殿・神殿にもそれぞれ御拝礼,御告文を奏される。

 

とあります(実録第三558頁)。「摂政の御資格にて」元始祭の祭典を行ったということでしょう。摂政就任前の1921年1月3日の元始祭では,皇太子裕仁親王は「元始祭につき賢所・皇霊殿・神殿に御拝礼」になっただけです(実録第三2頁)。

 なお,元始祭等の宮中祭祀については,2014年5月4日付けの当ブログの記事「国民の祝日に関する法律及び「山の日」などについて」において若干説明したところがありますので,御参照ください(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1002497213.html)。

 

エ 孝明天皇例祭(小祭)

 1922年1月30日は,小祭たる孝明天皇の例祭(皇室祭祀令21条)。摂政宮裕仁親王は,

 

 孝明天皇例祭につき,午前9時20分摂政の御資格にて御出門,皇霊殿に御拝礼になる。(実録第三575頁)

 

オ 紀元節祭(大祭)

 1922年2月11日は,大祭たる紀元節祭(皇室祭祀令9条)。

 

 午前9時35分,摂政特別鹵簿にて御出門,紀元節祭につき皇霊殿に参進し御拝礼,御告文を奏される。続いて御参内,豊明殿における紀元節宴会に御臨席になる。・・・午後零時45分終了,一旦還啓の後,紀元節御神楽の儀につき午後5時10分再び御出門,皇霊殿に御拝礼になる。(実録第三580頁)

 

鹵簿(ろぼ)とは,「行幸・行啓の行列。」とあります(『岩波国語辞典第四版』(1986年))。前年1921年の紀元節祭では,摂政就任前の皇太子裕仁親王は「紀元節祭の儀につき,皇霊殿において天皇御代拝に続き御拝礼」になっていました(実録第三13頁)。

 

カ 祈年祭(小祭)

 1922年2月17日は,小祭たる祈年祭(皇室祭祀令21条)。

 

 祈年祭につき,午前9時25分,摂政の御資格にて御出門,賢所・皇霊殿・神殿に御拝礼になる。(実録第三581582頁)

 

「古制の祭典である祈年祭は,イネの予祝祭に起源し,古代には,奉幣と神祇官での祭典が行われた。古来,宮中をはじめ各神社でも重要な祭典として行われており,伊勢神宮では,神嘗祭,新嘗祭と並ぶ大祭にさだめられた。皇室祭祀の祈年祭は,年穀の豊饒,産業の発展,皇室と国家の隆昌を祈る祭りとされ,2月17日を祭日としている」ものだそうです(村上97頁)。ただし,「実際に天皇による祈年祭の拝礼が行われたのは,1916年(大正5)2月17日が最初であるという。」とされています(村上98頁)。

 

キ 仁孝天皇例祭(小祭)

1922年2月21日は,小祭たる仁孝天皇例祭(皇室祭祀令21条)。

 

仁孝天皇例祭につき,午前9時25分摂政の御資格にて御出門,皇霊殿に御拝礼になる。終了後,還啓される。(実録第三583頁)

 

ク 春季皇霊祭・同神殿祭(大祭)

 1922年3月21日には,いずれも大祭である春季皇霊祭及び春季神殿祭がありました(皇室祭祀令9条)。

 

 春季皇霊祭・同神殿祭につき,午前9時30分,摂政の御資格にて御出門,皇霊殿・神殿にそれぞれ御拝礼,御告文を奏される。(実録第三595頁)

 

ケ 神武天皇祭(大祭)

 1922年4月3日,大祭たる神武天皇祭(皇室祭祀令9条)。

 

 神武天皇祭につき,午前9時35分,摂政の御資格にて御出門,皇霊殿に御拝礼,御告文を奏される。1035分御帰還になる。(実録第三601頁)

 

コ 昭憲皇太后例祭(小祭)

1922年4月11日は,明治天皇の皇后であった昭憲皇太后の例祭(皇室祭祀令21条の小祭)。

 

昭憲皇太后例祭につき,午前9時25分摂政の御資格にて御出門,皇霊殿に御拝礼になる。(実録第三607頁)

 

サ 明治天皇十年式年祭(大祭)

 1922年7月30日は,大祭たる明治天皇十年式年祭(皇室祭祀令10条2項,9条)の山陵の儀(同令18条)がありました。

 

 明治天皇十年式年祭山陵の儀につき,午前7時40分自動車にて大宮御所を御出門,8時10分桃山御陵所に御到着になる。参集所において皇后御名代の鳩彦王妃允子内親王及び恒憲王等と御対面の後,摂政の御資格にて御陵に御参進になり御拝礼,御告文を奏される。ついで非公式にて昭憲皇太后陵に御拝礼の上,大宮御所に還啓される。なお皇霊殿の儀,御神楽の儀には雍仁親王が摂政御名代として拝礼する。(実録第三691頁)

 

 皇室祭祀令18条には「神武天皇及先帝ノ式年祭ハ陵所及皇霊殿ニ於テ之ヲ行フ但シ皇霊殿ニ於ケル祭典ハ掌典長之ヲ行フ」とありました。摂政宮裕仁親王の1歳違いの弟である秩父宮(やす)(ひと)親王につてはこの年6月25日に成年式が行われ(満20年(明治皇室典範14条)),秩父宮の称号が与えられています(実録第三655656頁)。秩父宮雍仁親王は,明治天皇十年式年祭の前々日(同月28日)に陸軍士官学校を卒業したばかりでした(実録第三690頁)。前年1921年の明治天皇祭においては,欧洲訪問の帰途アデン湾を航行する御召艦香取艦上にあった摂政就任前の皇太子裕仁親王のために「東宮侍従本多正復が御代拝を奉仕」しています(実録第三430頁)。

 朝香宮鳩彦(やすひこ)王妃の允子(のぶこ)内親王は,大正天皇の異母妹。Art décoの朝香宮邸は,現在,東京都庭園美術館(東京都港区白金台)となっています。

 賀陽(かや)宮恒憲王は,掌典長の公爵九条道実の娘である敏子と前年1921年5月3日に結婚していますが(実録第三112頁),九条道実の妹・節子(さだこ)こそが,摂政宮裕仁親王の母たる大正天皇の皇后(貞明皇后)なのでした。

 

シ 天長節祭(小祭)

 1922年8月31日は,大正天皇の天長節祭の小祭でした(皇室祭祀令21条)。

 

 午前7時50分東宮仮御所御出門,上野駅8時10分発の列車にて日光田母沢御用邸に行啓される。正午御到着。天皇・皇后に御拝顔の後,天長節の内宴に御臨席になり天皇・皇后並びに昌子内親王と御会食,宮内大臣牧野伸顕以下側近高等官に御陪食を仰せ付けられる。なお,去る26日カムチャッカ沖において軍艦新高遭難につき,軍楽隊による奏楽は君が代1回に止められる。午後2時30分より御用邸内御馬場において,天皇・皇后・昌子内親王と御同列にて近衛兵による乗馬戦その他の催しを御覧になる。・・・

 天長節につき,侍従松浦靖が賢所・皇霊殿・神殿への摂政御代拝を奉仕する。(実録第三702703頁)

 

 大正天皇の天長節でありますが,祭祀としては,摂政宮皇太子裕仁親王について,皇太子のための代拝(摂政就任前の1921年の代拝者は東宮侍従牧野貞亮(実録第三445頁))ではなく摂政のための代拝がされています。

 昌子内親王は,大正天皇の異母妹で,竹田宮恒久王に嫁しました。

 

ス 秋季皇霊祭・同神殿祭(大祭)

 1922年9月24日,大祭である秋季皇霊祭・同神殿祭(皇室祭祀令9条)。

 

 秋季皇霊祭・同神殿祭につき,午前9時30分摂政の御資格にて御出門,皇霊殿・神殿に御拝礼になり,御告文を奏される。(実録第三711頁)

 

 前年1921年9月23日の秋季皇霊祭・同神殿祭においては,なお摂政に就任していない皇太子裕仁親王は「天皇御代拝に続き皇霊殿・神殿に御拝礼」になっていたところです(実録第三481頁)。

 

セ 神嘗祭(大祭)

 19221017日,大祭である神嘗祭(皇室祭祀令9条)。

 

 神嘗祭につき,午前9時30分摂政の御資格にて御出門,神嘉殿南庇に設けられた御座より神宮を御遥拝になり,ついで賢所に御拝礼,御告文を奏される。1045分還啓になる。(実録第三728頁)

 

前年1921年の神嘗祭では,摂政就任前の皇太子裕仁親王は「賢所に行啓され,天皇御代拝,皇后御拝礼についで御拝礼」になっていました(実録第三495頁)。

 

ソ 1922年の新嘗祭(大祭)

 さて,19221123日の新嘗祭。

「天皇の宗教的権威は,イネの祭りの新嘗祭(にいなめさい)に淵源している。新嘗祭は,古代から現在にいたるまで,つねに天皇の祭祀の中心であり,天皇の即位にさいしては,新嘗祭の大祭である大嘗祭(だいじょうさい)が,一代一度の祭典として挙行される。」といわれ(村上1頁),「新嘗祭は,皇室神道にとって最重要の祭典」です(村上14頁)。「本来の新嘗祭は,穀霊ないしムスビの神と王が一体化する儀礼であったのであろう。」とされ,「穀霊は,一般に生産する力,生殖する力をそなえた女性の霊格とされるから,新嘗祭の祭司をつとめることをもっとも重要な宗教的機能とする天皇は,終始,男帝を原則とし,女帝は例外的な存在にとどまったであろう。」ともいわれています(村上19頁)。

ところが,192211月,摂政宮裕仁親王は,香川県における特別大演習統裁のため同月12日東京を出発(実録第三742743頁),同月14日高松着(実録第三744頁)。軍事に係る当該特別大演習の日程は同月19日をもって終了したものの,同月20日からは「皇太子の御資格による南海道行啓」が続きました(実録第三750751頁)。同月22日に松山市内に入り,御泊所久松伯爵別邸に御到着(実録第三755頁)。そして,同月23日。

 

新嘗祭につき,午後9時15分御遥拝を行われる。また東宮侍従牧野貞亮を天皇・皇后への御使として宮城に差し遣わされる。この日は終日御泊所に御滞留になり,朝融王,元東宮職出仕久松定孝及び供奉員等を御相手に,ビリヤード・将棋等にて過ごされる。(実録第三756頁)

 

21歳の青年らしい,旅先での滞留日の過ごし方というべきでしょうか。しかしながら,「摂政は天皇に代わり祭祀を行う」にもかかわらず,「天皇の祭祀の中心」である「皇室神道にとって最重要の祭典」たる新嘗祭に対して御遥拝で済ますとは,いささか淡泊であるようでもあります。

久邇宮(あさ)(あきら)王は,摂政宮裕仁親王と同年の1901年生まれ,後の香淳皇后となる良子(ながこ)女王の兄。久松定孝は,摂政宮裕仁親王の学習院初等学科・東宮御学問所時代の学友。同年代の若者3人で遊んで,随分楽しかったことでしょう。
 なお,この日にはまた,23年後に昭和天皇の聖断の下内閣総理大臣としてポツダム宣言を受諾することとなる鈴木貫太郎呉鎮守府司令長官も久松伯爵別邸を訪れています(実録第三756頁)。 

 

3 1923年の新嘗祭まで

 

(1)麻疹

四国及び和歌山県の南海道行啓から,摂政宮裕仁親王は192212月4日に東京に還啓しました(実録第三772頁)。

摂政宮裕仁親王は,畏るべきいわゆるパワー・スポットたる香川の金刀比羅宮(19221118日),同じく香川の崇徳天皇白峯陵(同月20日),更に淡路島の淳仁天皇陵(同月30日)をきちんと訪れたのですが(実録第三748頁,751頁,767頁),『昭和天皇実録 第三』の帰京後19221212日の項はいわく(776頁)。

 

近来御鼻塞の症状があり,去る9日よりアスピリンを服用され,11日には吸入を行われるものの,次第に御風気様の症状が増し,この日午前7時30分の検温では御体温が39度に達したことから,御仮床に就かれる。正午には39度7分まで御体温が上昇する。

 

御違例です。同日の光格天皇例祭については「侍従加藤泰通に御代拝を仰せ付けられる。」ということになりました(実録第三776頁)。

13日には発疹が確認され,麻疹(はしか)と診断されました(実録第三776頁)。同日午後8時には体温が40度9分にまで上昇(実録第三776頁)。はしかといっても子供ばかりがかかるわけではありません(ただし,最近の我が国でははしかはほとんど見られなくなりました。)。御違例は長引きました。摂政宮裕仁親王の内々の御床払は1923年1月19日,正式の御床払は同月22日となりました(実録第三782頁,783頁)。その後も,同月25日から沼津で静養となり(実録第三787頁),東京の東宮仮御所への御帰還は実に同年3月20日となりました(実録第三802頁)。

 

(2)北白川宮成久王の自動車事故死事件

1923年4月1日には,パリ滞在中の北白川宮成久王がノルマンディー方面に向けて自動車を自ら運転中,パリから約134キロメートルの地点で先行車を追い抜いた際路側の並木のアカシアに自動車を衝突させてしまって薨去し,同乗の成久王妃房子内親王(大正天皇の異母妹)及び朝香宮鳩彦王も重傷を負うという事故が発生します(実録第三810頁)。摂政宮裕仁親王による同月3日の神武天皇祭の御拝礼は取り止め,九条道実掌典長が御代拝を奉仕ということになりました(実録第三810頁)。

 

(3)台湾行啓に際しての水兵殉職

1923年4月13日の金曜日,熊野灘において,御召艦金剛で台湾に向かう摂政宮裕仁親王の供奉艦比叡(なお,旗艦は霧島)から三等水兵松尾与作が海中に転落,救助することはできませんでした(実録第三817818頁)。

 

(4)潜水艦沈没事故

1923年8月21日には,神戸川崎造船所で竣工した第70潜水艦が淡路仮屋沖において試験航行中沈没し,海軍側・造船所側の乗員計八十余名が殉職しました(実録第三911頁)。

 

(5)現職内閣総理大臣加藤友三郎の死

1923年8月24日,現職の内閣総理大臣である海軍大将加藤友三郎が死亡し(ただし「危篤」ということにされた。),翌25日,同日死去と発表されました(実録第三911912頁)。

 

(6)関東大震災

そして1923年9月1日,関東大震災。皇族では,山階宮武彦王妃佐紀子女王,東久邇宮師正王及び閑院宮(こと)(ひと)親王の四女である寛子女王がいずれも建物倒壊のため薨去しました(実録第三918頁)。帝都大荒廃。(「其ノ震動極メテ峻烈ニシテ家屋ノ潰倒男女ノ惨死幾万ナルヲ知ラス剰ヘ火災四方ニ起リテ炎燄天ニ冲リ京浜其ノ他ノ市邑一夜ニシテ焦土ト化ス・・・流言飛語盛ニ伝ハリ人心洶々トシテ倍々其ノ惨害ヲ大ナラシム」「朕前古無比ノ天殃ニ際会シテ卹民ノ心愈々切ニ寝食為ニ安カラス」(同月12日の詔書(実録第三929頁,930頁))。なお,更に同年1110日には国民精神作興の詔書が発せられています(実録第三962964頁)。)

 

(7)御婚儀延期

1923年9月19日には,同年秋の予定だった摂政宮皇太子裕仁親王と久邇宮良子女王との御婚儀が翌年まで延期される旨が発表されました(実録第三937頁)。

 

(8)1923年の新嘗祭

しかして,19231123日の新嘗祭。

 

新嘗祭当日につき,御座所は朝より清められ,新しい卓子・椅子が設けられ,皇太子は只管お慎みになる。午後4時過ぎ御入浴・御斎戒,陸軍通常礼装に召し替えられ,5時30分赤坂離宮御出門,摂政通常鹵簿にて賢所に行啓される。綾綺殿にて斎服を召され,6時15分神嘉殿に御参進,夕の儀を執り行われる。式部長官井上勝之助前行,次に侍従松浦靖・同岡本愛祐が脂燭をり左右に前行,侍従原恒太郎が壺切御剣を奉じて御後に従い,続いて侍従長徳川達孝・侍従本多正復が候す。一旦隔殿の座に御着座になり,神饌行立の後本殿の座に御参進,神饌を御供進になり,終わって御拝礼,御告文を奏される。雍仁親王・載仁親王以下参列の皇族・王族及び諸員の拝礼,神饌退下の後,一旦御退出になる。午後11時より再び神嘉殿に御参進,暁の儀を執り行われ次第夕の儀に同じ,午前1時10分賢所御発,御帰還になる。(実録第三969970頁)

 

1年前に松山において仲間らとビリヤード・将棋三昧で過ごした楽しい一日とは打って変わって,「皇太子は只管(ひたすら)お慎みになる。」とわざわざ特記されています。21歳から22歳にかけての若き摂政宮裕仁親王にとって,その間多端多難な1年があったのでした。初の新嘗祭の祭典執行を終えた翌日の19231124日,疲れの出たゆえか,摂政宮裕仁親王は「軽微の御風気のため定例御参内はお取り止め」となりました(実録第三970頁)。

 

4 つけたり:「摂政」の読み方について

 ところで,摂政を「せつしょう」と読むのは,「政」について呉音読みになります。漢音読みでは「せつせい」のはずです。明治10年代以降は公文書の世界は基本的に漢音が支配することになっていたのですから(20131210日付けのプログ記事「大審院の読み方の謎:呉音・漢音,大阪・パリ」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1611050.html参照),井上毅らが大日本帝国憲法及び明治皇室典範の「義解」を「ぎかい」と読んでいたのならば,「摂政」はあるいは「せつせい」と読まれていたかもしれません。

しかしながら,「摂政」の読み方についても,皇太子裕仁親王が実際に摂政に就任した翌月の19211215日になってから後付け式に正式通告されています。

 

この日宮内省は,「摂政」を「セツシヤウ」と訓読すること・・・を内閣・枢密院等に通告する。(実録第三542頁)

 

 大日本帝国憲法及び明治皇室典範の下の摂政は「摂政ニツキテハ古来依ルヘキ例ナシ」ということだったそうですが,明治天皇幼時の摂政であった二条(なり)(ゆき)に至るまでの過去の日本史上における摂政を含めていずれも「せつしょう」と読むことになったわけです。

 なお,Regentの語源はラテン語のregereであって,regnareではないそうです。

 

 弁護士 齊藤雅俊
 

 大志わかば法律事務所

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1 「譲位の慣例を改むる者」の強行規定性の有無

 明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)に関する前回のブログ記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.html)においては,同条に関する伊藤博文の『皇室典範義解』の解説(「本条に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はるゝ者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」(宮沢俊義校註『憲法義解』岩波文庫(1940年)137頁))をもって,同条及び現在の皇室典範(昭和22年法律第3号)4条には「天皇の生前譲位を排除する趣旨」があるものとあっさり記しました。しかしながらよく考えるとその先の問題として,「譲位の慣例を改むる」ことによって,実際に天皇が「退位」した場合(「・・・花山寺におはしましつきて御髪おろさせたまひ・・・」)に退位によってもはや天皇ではなくなるという法律効果までも無効になるものかどうか,なお議論の余地があるようです。

(なお,「譲位」というと皇嗣に皇位を譲るという先帝の意思の存在及び更には当該先帝の意思と皇位を譲られる皇嗣の意思との合致が含意されるようでもありますが,「退位」ならば先帝の単独の行為であり,かつ,皇嗣に皇位を譲る効果意思を必ずしも含まないものとするとのニュアンスがより強いようです。美濃部達吉は「皇位ノ継承ハ法律行為ニ非ズシテ法律上当然ニ発生スル事実ナリ」と述べていますが(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)183頁),皇位継承は天皇の効果意思に基づくものではないということでしょう。)

譲位を慣例とはしないということのみであれば,「例外的」譲位は有効にあり得るようにも思われます。明治皇室典範の性格に関して『皇室典範義解』は「祖宗国を肇め,一系相承け,天壌と与に無窮に垂る。此れ(けだし)言説を仮らずして既に一定の模範あり。以て不易の規準たるに因るに非ざるはなし。今人文漸く進み,遵由の路(かならず)憲章に依る。而して皇室典範の成るは実に祖宗の遺意を明徴にして子孫の為に永遠の銘典を(のこ)す所以なり。」と説いていますが(岩波文庫127頁),従来多くの天皇が行った生前譲位を有効と認める以上は,生前譲位は「不易の規準」に反して本来的に無効であるということにはならないでしょう。そもそも明治皇室典範については「既に君主の任意に制作する所に非ず。」とされていますから(『皇室典範義解』岩波文庫127頁),従来有効であった生前譲位ないしは退位を明治天皇の「任意に制作する所」の強行規定をもって1889年2月11日以降無効化したとまでいい得るものでしょうか。『皇室典範義解』の説明文は,退位の有効性を前提としつつも,あえて生前に退位はしないという「上代の恒典」への運用の復帰を求めているものというようにも解することができそうです。そう考えて明治皇室典範10条を見ると,確かに同条の文言自体は,それだけで退位有効論を完全に排除するものとまではいえません。また,現在の皇室典範の法案が審議された1946年12月の第91回帝国議会においても,政府は天皇の「退位」はおよそ無効であるとまでは答弁していません。同議会における金森徳次郎国務大臣の答弁の言葉尻を見てみると,「・・・天皇に私なし,すべてが公事であるという所に重点をおきまして,御譲位の規定は,すなわち御退位の規定は,今般の典範においてこれを予期しなかった次第でございます。」(第91回帝国議会衆議院議事速記録第6号67頁),「・・・かような〔天皇の〕地位は,その基本の原則に照して処置せらるべきものでありまするが故に,一人々々の御都合によつてこれをやめて,たとえば御退位になるというような筋合いのものではなかろうと思うのであります」(同議会衆議院皇室典範案委員会議録(速記)第4回20頁),「退位の問題につきましては,相当理論的にも実際的にも考慮すべき点が残されておるように思うのでありまして・・・」(同26頁),「・・・或はお叱りを受けるか知りませんが,まずそういう場面〔「天皇が自発的に退位されたいという場合」,「天皇が希望される婚姻をどうしても皇室会議が承認できないというような場合」〕が起らないように,適当に事実が実質において調節せらるゝものであろうということを仮定をして,この皇室典範ができておるわけでありまして・・・」(同33頁),「・・・しかして国民はかような場合におきまして,御退位のあることを制度の上に書くことは希望していない,かように考えます」(同33頁),「事実としてそういう考え〔「象徴の地位におられることを欲しないという精神作用」〕が起るかどうかということにつきましては,歴史の示す所は,事実としてかような考えが起つておることを認め得るがごとくであります,しかし事実ではない,かくあるべきものとしての姿としてそれを認めるかどうかということになりますれば,私自身の見解から言えば,日本の皇位は万世一系の血統を流れるものである,しかもそれは一定の原理に従つて流れるものであるということを前提として,憲法はこれを掲げております,従つてそれを打切ることはできないものであると,かように考えております」(34頁),「・・・細かい理窟を抜きに致しまして,国民は矢張り御退位を予想するやうな規定を設けないことに賛成をせらるゝのではなからうか,斯う云ふ前提の下に皇室典範の起草を致しました・・・」(同議会貴族院議事速記録第6号88頁)等々,生前退位はあるべきものではないとしつつ,そこから先は,「予期しなかった」ということで,必ずしも詰めてはいなかったようです。 

 

2 1887年3月20日の高輪会議再見

 伊藤博文,井上毅,柳原前光らの1887年3月20日の高輪会議(憲法案に係る同年1015日のものとは異なります。)において柳原前光の「皇室典範再稿」12条(「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」)が削られるに至った過程について,前回のブログでは,伊藤博文の削るべしとの首唱に柳原が「迎合」したと書きました。しかしながら,柳原前光は,何の考えもなしに伊藤に対して単純に迎合したわけではなかったようです。

柳原は「但書ヲ削除スルナレハ寧ロ全文ヲ削ルヘシ」と言っています。肥後人井上毅の「人間だもの」論(「至尊ト(いえども)人類ナレハ其欲セサル時ハ何時ニテモ其位ヨリ去ルヲ得ベシ」)くらいでは生前退位を排除しようとする長州藩の足軽出身の権力者・内閣総理大臣伊藤博文の翻意は無理と見て取った京都の公家出身の柳原は,「但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」として退位を容認することとしていたただし書のみならず,「天皇ハ終身大位ニ当ル」として終身在位を制度化する本文も併せて削られることを確保することとして,生前退位容認論と終身在位制度化論との間での法文上でのいわば相討ちを図ったのではないでしょうか。

高輪会議後の1887年4月25日に伊藤に提出された柳原の「皇室典範草案」では,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」との高輪会議決定案10条が二つの条に分割され,当該「皇室典範草案」を検討して井上毅が作成した「七七ヶ条草案」においても「第10条 天皇崩スル時ハ皇嗣即チ践()ス」及び「第11条 皇嗣践()スル時ハ祖宗ノ神器ヲ承ク」とされ崩御による践祚についての規定と践祚の際(先帝の崩御によるものに限定はされていません。)の剣璽渡御についての規定との別立て維持されていました。結局両条は再統合されますが,生前退位容認論者であったの立法技術的操作には,それなりの含意があったというべきでしょう。
 なお,「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」と規定する大日本帝国憲法2条に関する『憲法義解』の解説は,「恭て按ずるに,皇位ノ継承ハ祖宗以来既に明訓あり。以て皇子孫に伝へ,万世易ふること無し。若夫継承の順序に至つては,新に勅定する所の皇室典範に於て之を詳明にし,以て皇室の家法とし,更に憲法の条章に之を掲ぐることを用ゐざるは,将来に臣民の干渉を容れざることを示すなり。」というものです(岩波文庫25頁。下線は筆者によるもの)。井上毅が書いたものとして,新たな明治皇室典範は専ら皇位「継承の順序」を「詳明」にすべきものであって,継承の原因等は依然「祖宗以来」の「明訓」のままでよいのだという趣旨まで深読みしてよいものかどうか。はてさて。 


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 東京都港区高輪四丁目の伊藤博文高輪邸宅地跡(1889年,岩崎久弥に売却)
 

3 『皇室典範義解』の拘束力の射程

 現在の皇室典範4条の文言(「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」)は,剣璽渡御に関係する明治皇室典範10条後段を削ったことによって,むしろ井上毅の「七七ヶ条草案」10条と対応するものになっています。(なお,法文からは削られたもののやはり必要な儀式ということでしょうが,今上天皇践祚に当たって「剣璽等承継の儀」が新天皇の国事行為として行われています。これは先帝が崩じたから伝統的な意味での践祚のために行われたものか,皇嗣が既に「直ちに即位」したから行われたものか。)

明治皇室典範10条に係る『皇室典範義解』の解釈に過度に拘束されずに,現在の皇室典範4条は,単に「皇位ノ継承ハ法律行為ニ非ズシテ法律上当然ニ発生スル事実」であること(また,「皇位の一日も曠闕すべからざる」こと(『皇室典範義解』岩波文庫137頁)),皇位継承に新天皇の宣誓(例えば,1831年のベルギー国憲法80条2項は「国王は,両議院合同会の前で,厳粛に次の宣誓をするまでは,王位につくことができない。/「余は,ベルギー国民の憲法および法律を遵守し,国の独立および領土の保全を維持することを誓う。」」と規定していました(清宮四郎訳『世界憲法集 第二版』(岩波文庫・1976年)89頁)。)は不要であるということ,先帝崩御は皇位継承をもたらす一つの法律事実であること,を意味するものにすぎないと解することは可か不可か。

 大日本帝国憲法と『憲法義解』との関係について,小嶋和司教授は,「『憲法義解』は法源ではないが,政府の憲法解釈を拘束した」が,大日本帝国憲法の「わずか4人の起草関係者の間に存した・・・解釈の対立は,それが法の指示においてさえ完璧でなかったことを断定せしめる」ところ,「今日,明治憲法典の起草趣旨を簡単に知る方法として『憲法義解』の参照がおこなわれる」が「しかし,それが叙述しないか,叙述を不明確にしている場合に,起草者は問題を知らなかったとか看過したと断定してはならない。それ〔は〕学問的には怠惰な即断となる」と述べています(小嶋和司「明治二三年法律第八四号の制定をめぐって」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)441頁,440頁)。明治皇室典範ないしは現在の皇室典範と『皇室典範義解』との関係も,同様に考えるべきでしょう。そう簡単ではありません。ちなみに,『皇室典範義解』における明治皇室典範10条解説の結語である「本条に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はるゝ者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」は,高輪会議の前月である1887年2月段階における井上毅の「皇室典範」案13条の「説明」案に「本条ハ実ニ上代ノ恒典ニ因リ断シテ中古以来ノ慣例ヲ改ムル者ナリ」とあったものを(園部逸夫『皇室法概論』(第一法規・2002年)438頁参照)承けたものでしょう。しかしながら,井上自身は当該理由付けをもって例外を許さないほど強いものとは評価していなかったところです。その上記「皇室典範」案13条は生前譲位についても定めているのです。いわく,「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ノ重患アルトキハ皇位継承法ニ因リ其位ヲ譲ルコトヲ得」と(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』185‐186頁参照)。明治皇室典範10条に関する『皇室典範義解』の解説について奥平康弘教授は「譲位制度はよろしくなく,「上古ノ恒典」に戻るべきであるとする説明に『皇室典範義解』は,十分に成功していないというのが,私の印象である。」と述べていますが(同「明治皇室典範に関する一研究―「天皇の退位」をめぐって―」神奈川法学第36巻第2号(2003年)159頁),当該「印象」は,井上毅の立場からすると,むしろ正しい読み方に基づくものということになるのかもしれません。

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 東京都台東区谷中の瑞輪寺にある井上毅の墓

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 「病弱な井上は,その後〔1893年・第2次伊藤内閣〕文部大臣にもなったが,明治28年〔1895年〕に逝去し,はやく忘れられた。」(小嶋「明治二三年法律第八四号」442頁)

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 瑞輪寺山門の扁額は井上毅の揮毫したもの 

 
4 英国における特別法による国王退位

 しかしながら,事実として,国王による単独の法律行為としての退位は無効であるとする法制は可能ではあります。

英国がその例です。

エドワード8世は,19361210日に退位声明を発しましたが(いわゆる「王冠を賭けた恋」事件),当該退位が効力を発するためには議会及び国王による同月11日の立法を要しました。次に,19361211日の「国王陛下の退位宣言に効力を与え,及び関連する事項のための法律(An Act to give effect to His Majesty’s declaration of abdication; and for purposes connected therewith.)」を訳出します。

 

  国王陛下は,本年1210日の勅語(His Royal Message)において陛下御自身及びその御子孫のために王位を放棄する不退転の御決意(irrevocably determined)である旨声明あそばされ,並びに当該目的のために本法の別記に掲載された退位詔書(Instrument of Abdication)を作成され,並びにそれに対して効力が直ちに与えられるべき旨の御要望を表明されたところ,

  並びに,国王陛下の前記声明及び要望の海外領土に対する伝達を承け,カナダは1931年のウェストミンスター憲章第4節の規定に従い本法の立法を要求しかつそれを承認し,並びにオーストラリア,ニュー・ジーランド及び南アフリカはそれに同意したところ,

  よって,至尊なる国王陛下により,現議会に召集された聖俗の貴族及び庶民の助言及び承認によりかつそれらと共に,並びに現議会の権威により,次のように立法されるべし。

  1(1)本法が裁可されたときに,現国王陛下が19361210日に作成した本法の別記に掲載されている退位詔書は直ちに効力を発し,並びにそれに伴い国王陛下は国王ではなくなり(His Majesty shall cease to be King),及び王位継承(a demise of the Crown)が生じ,並びにしたがって次の王位継承順位にある王族の一員が王位並びにそれに附随する権利,特権及び栄誉を承継する。

  (2)国王陛下の退位後には,陛下,もし誕生があればそのお子及び当該お子の子孫は,王位の継承において又はそれに対して何らの権利,権原又は利益を有さず,並びに王位継承法(Act of Settlement)第1節はそれに応じて読み替えられるものとする。

  (3)御退位後には,1772年の王室婚姻法は,陛下にも,もし誕生があれば陛下の子又は当該子の子孫にも適用されない。

  2 本法は,1936年の国王陛下退位宣言法(His Majesty’s Declaration of Abdication Act, 1936)として引用されることができる。

 

  別記

  

  余,グレート・ブリテン,アイルランド及び英国海外領土の王,インド皇帝であるエドワード8世は,王位を余自身及び余の子孫のために放棄する余の不退転の決意並びにこの退位詔書に直ちに効力が与えられるべしとの余の要望をここに宣言する。

  上記の証として,下記署名に係る証人の立会いの下,19361210日,ここに余が名を記したるものなり。

                           国王・皇帝 エドワード

  アルバート

  ヘンリー

  ジョージ

  の立会いの下,フォート・ベルヴェデールで署名

 

なお,英国の1689年の権利章典は,「ウエストミンスタに召集された前記の僧俗の貴族および庶民は,次のように決議する。すなわち,オレンヂ公および女公であるウィリアムとメアリは,イングランド,フランス,アイルランド,およびそれに属する諸領地の国王および女王となり,かれらの在世中,およびその一方が死亡した後は他の一方の在世中,前記諸王国および諸領地の王冠および王位を保有するものとし,かつその旨宣言される。王権は,公および女公双方の在世中は,王権は〔ママ〕,公および女公の名において,前記オレンヂ公が単独かつ完全に行使するものとし,公および女公ののちは,前記の諸王国および諸領地の王冠および王位は,女公の自然血族たる直系卑属の相続人に伝えられ」,「王権および王政は,両陛下とも在世のうちは,両陛下の名において,国王陛下のみによって,完全無欠に行使さるべきこと。両陛下とも崩御されたのちは,前記王位および諸事項は,女王陛下の自然血族たる直系卑属に帰すべきこと。」と規定しています(田中英夫訳『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)83‐84頁,86‐87頁)。議会によって,「在世中」(during their lives)は王位にあるべきもの(to hold the crown and royal dignity)とされ,法律となっています。
 エドワード8世の退位問題には昭和天皇が深い関心を持っていました。宮内庁の『昭和天皇実録第七』(東京書籍・2016年)の1936年12月4日の項には「侍従長百武三郎に対し,新聞報道されている英国皇帝エドワード8世に関する件につき,外務省とよく連絡を取り報告するよう命じられる。後刻,侍従長より,本日英国駐箚特命全権大使よりもたらされた情報として,同皇帝が米国人ウォリス・シンプソンとの御結婚に固執のため内閣と衝突状態にある旨の言上を受けられる。翌日午後,侍従長より,英国首相スタンリー・ボールドウィンの憲法上の理由により御結婚に反対する旨の声明につき言上を受けられる。また8日にも侍従長より,外務省からの情報の言上を受けられる。なお,エドワード8世は皇位放棄を決意され11日に御退位,皇弟ヨーク公がジョージ6世として皇位に就かれる。」とあります(240‐241頁)。立憲君主とその内閣とが衝突すれば,君主が引っ込まざるを得ないということでしょうか。ボールドウィンは,同月10日の英国庶民院における演説において"We have, after all, as the guardians of democracy in this little island to see that we do our work to maintain the integrity of that democracy and of the monarchy, which, as I said at the beginning of my speech, is now the sole link of our whole Empire and the guardian of our freedom."と述べています。『昭和天皇実録第七』の同月11日の項においては「午前,侍従長百武三郎が入手した英国皇帝エドワード8世の御退位に関する英国駐箚特命全権大使の電報を御覧になり,侍従長に対し,同皇帝御退位に関して発する電報の内容につき,式部職と連絡し処理するよう命じられる。13日,英国大使より外務省を経て新皇帝即位の公報到達につき,新皇帝ジョージ6世に対し祝電を御発送になる。なお,前皇帝御退位については触れられず,新皇帝即位に対する祝意のみを伝えられる。15日,答電が寄せられる。」と記録されています(244‐245頁)。

 

5 ベルギー国における憲法に規定のない国王退位の実例

大日本帝国憲法がその手本の一つとしたベルギー国憲法においては,明治皇室典範(及び現行の皇室典範)同様に崩御による王位継承に関する条項しかないにもかかわらず,同国においては国王の生前退位が認められています。

リエージュ大学教授クリスチャン・ベーレント(Christian Behrendt)及び同大学准教授フレデリック・ブオン(Frédéric Bouhon)の『一般国法学入門・教科書(Introduction à la Théorie générale de l’État. Manuel)』(Larcier, 2009年)には次のようにあります(138頁)。こちらの国では,国王の退位を有効ならしめるための立法までは必要としないようです。

 

 ベルギー法においては,国王の公的生活に係る全ての行為は,大臣副署の義務に服する。純粋に私的な行為のみが当該憲法規律に服さないところである。公的生活においては,退位が,大臣副署なしに国王が実現できる唯一の行為である。ベルギーの歴史において,レオポルド3世が,退位した(1951年7月16日)唯一の〔2013年7月21日のアルベール2世の退位前の記述です。〕国王である(註)。ベルギー国憲法が国王に対して退位する権利を明示的に認めていないとしても,そこでは条文の沈黙の中においても存在する権能(faculté)が問題となっていると考えることについて意見は一致している。もはや彼の務めを果たそうという気を全く失っている人物,又は――レオポルド3世が退く前がそうであったように――叛乱の雰囲気を醸成し,及び本格的内乱のおそれが国家の上に漂うことを許すまでに全国の国民を分極化せしめる人物を頭に戴き続けることは,実際のところ明らかに,国家の利益にかなうものではない。

 

(註)彼の退位詔書(acte d’abdication)は1951年7月1617日の官報(Moniteur belge)に掲載された。レオポルド3世が実際に退位した唯一の国王であるとしても,退位の権利の存在は,王国の始めに遡るようである。1859年に国王レオポルド1世は,彼の心に特にかかる事案に関して国会議員らに圧力を加えるために,退位に訴える旨威嚇した。当該君主は,本当に退位する気は恐らくなかったであろう。しかしながら,当該権利を有していることを彼が確信していたことは明らかである(ジャン・スタンジャ(Jean Stengers)『1831年以来のベルギー国における国王の行動 権力及び影響力(L’action du Roi en Belgique depuis 1831. Pouvoir et influence)』(第3版,ブリュッセル,Racine, 2008年)195頁参照)。ベルギー国王は退位する権限(prérogative)を有するという考えは,彼の息子のレオポルド2世の治下において更に確認された。1892年,深刻な消沈の際,当該国王は真剣に退位を考えたが,その後よりよい決意(à de meilleures résolutions)に立ち戻った(ジャン・スタンジャ・前掲書125頁参照)

 

 ド・ミュレネル(De Muelenaere)記者が2013年7月3日付けでベルギー国のLe Soir紙のウェッブ・ページに掲載した記事(“Abdication, comment ça marche?”)によると,同国における国王の生前退位から次期国王の即位への流れは次のようなものだそうです(同月のアルベール2世の生前退位及びフィリップ現国王の即位に関する予想記事)。

 

  1 首相によって査証された(visée)アルベール2世の退位宣言(Une déclaration d’abdication

  2 退位の日(7月21日)

  3 両議院合同会の前におけるフィリップの宣誓

  4 直ちに宣誓が行われれば「空位期間」は生じない。そうでない場合であっても,国王の憲法上の権限を内閣(le conseil des ministres)が確保するから,摂政の必要はない。

 

議会は新国王の宣誓(即位の効力要件)に立ち会うだけで,前国王の退位に効力を与えるための行為をすることはないようです。首相の「査証」と訳しましたが,これは憲法上の副署(contreseing)ではないわけです。退位宣言の詔書は,官報に掲載されたものでしょう。ド・ミュレネル記者によれば,前記のベーレント教授は「国王は退位詔書を作成し,当該詔書は決定の公式性(caractère public de la décision)を確保するために続いて官報に掲載されなければならない。」と述べていました。

 

6 ドイツにおける国王退位に関する学説など

 ベルギー国憲法の話が出たとなると,大日本帝国憲法のもう一つのお手本であったプロイセン憲法の話をせざるを得ません。19世紀のドイツ国法において国王の退位はどのように考えられていたものか。

ズーザン・リヒター(Susan Richter)及びディルク・ディルバッハ(Dirk Dirbach)編の『王位放棄 中世から近代までの君主政における退位(Thronverzicht: die Abdankung in Monarchien vom Mittelalter bis in die Neuzeit)』(Böhlau, 2010年)中のカロラ・シュルツェ(Carola Schulze)による論文「王権神授説からドイツ立憲主義までの法秩序観念における退位(Die Abdankung in den rechtlichen Ordnungsvorstellung vom Gottesgnadentum bis zum deutschen Konstitutionalismus)」には次のようにあります(68頁)。

 

  絶対王政の下では王室法(Hausgesetz)によってのみ規制された王位継承及び摂政の問題を,立憲国家は王室立法権(Hausgesetzgebung)から引き離し,憲法典(Verfassungsrecht)の領域に移管した。もっとも,憲法典に記載された君主の神聖不可侵性(Heiligkeit und Unverletzlichkeit)のゆえに,退位――及びそれと共に廃位(Absetzung)――は,ドイツ連邦諸国の国法自体においては明定されなかった(wurde…nicht fixiert)。したがって,国家元首としての君主の地位(Stellung des Monarchen als Staatsoberhaupt)及びその王位継承に関する規律との関連において退位の制度(das Rechtsinstitut der Abdikation)を定めてあった初期立憲主義憲法は存在しない。唯一,184812月5日の押し付けプロイセン憲法が,第55条において,国王が統治不能(in der Unmöglichkeit zu regieren)であるときは, 特別法によってそれらについて手当てされていない限りにおいて,次の王位継承権者又は王室法によりそれに代わる者が,合同会で摂政及び後見について第54条〔国王未成年の場合の摂政及び後見に関する規定〕に準じて定めるために両議院を召集する旨規定していた。当該規定は,改訂された1850年のプロイセン憲法にはもう既になくなっていたが,君主の統治不能は退位及び王位継承者に対する王位の移行の意味においても理解されるべきだ(auch im Sinne einer Abdankung und des Übergangs der Krone auf den Nachfolger zu verstehen ist)との確たる解釈を許すものであった。

     要するに,次のようにいうことができる。初期立憲主義諸憲法が退位について沈黙していたとしても,国民意識,国の歴史,学説の伝統又は思考の必然からして規範的地位(normativer Rang)を与えられていた19世紀の一般ドイツ国法において,退位は,正規の王位継承に対して補充的な(subsidiär)例外的王位継承の形式として(als Form der außerordentlichen Thronfolge)認められ,かつ,そのようにしてドイツ立憲主義の秩序観念中に位置付けられていたのである。

 

「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」だから譲位の規定はいらないのだ,とは伊藤博文の発想の源でもありました(「余ハ将ニ天子ノ犯冒スヘカラサルト均シク天子ハ位ヲ避クヘカラスト云ハントス」と高輪会議で発言しています。)。
 プロイセン国王ヴィルヘルム1世は議会との対立の中で退位を考えましたし,その孫ヴィルヘルム2世は第1次世界大戦の最終段階におけるドイツ革命の渦中で,ドイツ皇帝としては退位するがプロイセン国王としては退位しないと頑張ります。これらは生前退位が有効であるとの理解を前提としています。

ところで,シュルツェの議論では君主の統治不能(die Unmöglichkeit des Monarchen zu regiern)には退位(Abdankung)も含まれるということのようですが,そうだとすると1848年のプロイセン憲法的には,国王が「退位する。」と宣言した場合には統治不能の当該国王は押し込められ,両議院合同会によって摂政及び後見人が任命され,かつ,当該状況は国王の生存中続くということにはならなかったでしょうか。ちょっと分かりづらい。あるいは,1850年のプロイセン憲法56条は「国王が未成年であるとき又はその他継続的に自ら統治することが妨げられている(dauernd verhindert ist, selbst zu regieren)ときに」摂政を置くとの規定になっていますので,継続的な故障程度ではいまだ統治不能ではないから摂政設置で対応するが,退位されてしまうと統治不能であるので摂政どころではなくなって直ちに新国王即位になる,というように理解すべきなのでしょうか。
 この点明治皇室典範
19条2項は「天皇久シキニ亘ルノ故障ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルトキハ皇族会議及枢密顧問ノ議ヲ経テ摂政ヲ置ク」となっていて,1850年のプロイセン憲法56条的です。これは1889年1月18日の枢密院再審会議(小嶋「明治皇室典範」249250頁)を経た段階では「天皇未タ成年ニ達セサルカ又ハ精神若ハ身体ノ不治ノ重患ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサル間ハ摂政一員ヲ置ク」であったものが(同228頁),正にドイツ人であるロエスレルの修正意見に基づき(同251頁),同月24日に「精神若ハ身体ノ不治ノ重患」が「久シキニ亙ルノ故障」に修正され,更にその後最終的な形に修正されて(同254頁),同年2月5日の枢密院会議を経たものです(同255頁)。ロエスレルの修正案は「天皇未タ成年ニ達セサルカ又ハ其ノ他ノ故障ニ由リ久シク大政ヲ親ラスルコト能ハスシテ臨時ニ応スル為ニ予シメ親ラ計画ヲ為サス若クハ為シ能ハサルトキハ次条ノ明文ニ循ヒ摂政ヲ置クヘシ」というものでした(小嶋「明治皇室典範」251頁)。「其ノ他ノ故障」との文言は「疾病ノ外ニ於テモ亦他ノ事由ノ生スルコトアラン例ヘハ・・・」ということで用いられることになったもので(小嶋「明治皇室典範」251頁),「久シク本国ニ在ラサルトキ,戦時ニ当テ俘虜トナリタルトキ,又高齢ニナリタルトキノ如キ是ナリ」とされています(小林宏・島善高編著『明治皇室典範〔明治22年〕(下) 日本立法資料全集17』(信山社・1997年)642頁)。またそもそも「不治ノ重患」の「不治ノ」は「啻ニ贅字タルノミナラズ甚シキ危険アル」ことがロエスレルによって述べられていました(小嶋「明治皇室典範」251頁)。しかし,「不治ノ」は「甚シキ危険アル」言葉であるのに,皇位継承順位の変更に係る明治皇室典範9条では「皇嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シ前数条ニ依リ継承ノ順序ヲ換フルコトヲ得」となっていて「不治ノ」が維持されています(現在の皇室典範3条も同様)。ということは,「不治ノ」は天皇についてだけ「甚シキ危険アル」言葉なのでしょう。しかしながら,天皇が「不治ノ重患」であると発表してしまうと摂政どころではなく譲位が問題になってしまうという意味での「甚シキ危険」であったのかとまで考えるのは考え過ぎで,飽くまでロエスレルは摂政を置くべきか否かを検討する場面に留まりつつ「凡ソ疾病ノ治不治ハ,医家ニ在テモ亦一ノ争論点ニシテ,之カ為ニ紛議ノ種因ヲ他日ニ貽スノ恐レアレハナリ。而シテ摂政ヲ置クノ当否ニ関スルコトヲ以テ,此ノ如キ曖昧ノ間ニ附シ去ルハ大ニ不可ナリ。」と「甚シキ危険」について述べ,更に「・・・大政ヲ親ラスルコト能ハスト謂ハ丶,先ツ疾病ノ有無ヲ問ハス,果シテ大政ヲ親ラスルコト能ハサルカ否ヲ立証セサルヘカラス。現ニ君主重病ニ罹リテ尚ホ大政ヲ自ラ総攬シ得ルコトアリ。又総攬スルノ精神ヲ有スルコト屢々之レ有リ。例ヘハ「ポーランド」瓦敦堡〔ヴュルテンベルク〕ノ今王及び「メクレンボルグ」大公等ハ,既ニ不治ノ重患ニ罹ルト雖,尚大政ヲ親ラスルニアラスヤ。・・・」と述べています(小林・島641頁)。

ロエスレルの修正意見に基づく1889年1月24日の修正前の明治皇室典範19条案にいう「精神若ハ身体ノ不治ノ重患ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサル間」という摂政設置の前提状態たる不治ノ重患は,実は,1887年3月20日の高輪会議にかけられた柳原前光の前記「皇室典範再稿」では天皇の譲位を可能とする状態(「精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時」)でした。柳原の「皇室典範再稿」39条では,摂政を置く場合は,「天皇幼年ノ時」,「天皇本邦ニ在サル時」又は「天皇ノ精神又ハ身体ノ重患アル時」が挙げられていました(小嶋「明治皇室典範」193頁)。柳原前光の段階論では,「精神又ハ身体ノ重患アル時」はまだ摂政設置相当だけれども,「精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時」まで至ってしまうとむしろ譲位すべきだという判断だったのでしょう。現在の皇室典範16条2項は「天皇が,精神若しくは身体の重患・・・により,国事に関する行為をみずからすることができないときは,皇室会議の議により,摂政を置く。」と規定していますが,柳原の「皇室典範再稿」39条における摂政設置の場合の考え方におおよそ符合しています(ちなみに,ロエスエルは「精神又ハ身体ノ重患」の字は「不快ノ感ヲ喚起スル」と述べており(小林・島641頁),明治皇室典範19条2項には当該表現は用いられませんでしたが,現在の皇室典範においては復活したわけです。)。

なお,カロラ・シュルツェは,ドイツの学者らしく,法的意味における退位の成立に必要な構成要件のメルクマールを次のように分析的に述べています。

 

単独の公的行為(einseitige obrigkeitliche Maßnahme)であって,

君主によってされ(eines Monarchen),

君主の位の放棄,すなわち王位及びそれに附随する権利の放棄に向けられたものであり(die auf die Niederlegung der monarchischen Würde bzw. auf den Verzicht des Throns sowie der damit verbundenen Rechte gerichtet ist),

自由意思性及び自主性により,並びに(die sich durch Freiwilligkeit und Selbständigkeit sowie durch

補充性によって特徴付けられるものであり(Subsidiarität auszeichnet),

並びに不可撤回性を有するもの(und die unwiderrufbar ist.),

 

ということだそうです(シュルツェ69頁)。
 さて,シュルツェによれば「絶対王政の下では王室法(Hausgesetz)によってのみ規制された王位継承及び摂政の問題を,立憲国家は王室立法権(Hausgesetzgebung)から引き離し,憲法典(Verfassungsrecht)の領域に移管した」わけですが,このことについては,1850年のプロイセン憲法53条を素材に,美濃部達吉が次のように説明しています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)108109頁)。

 

  プロイセン旧憲法53条にも略本条〔大日本帝国憲法2条「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」〕と同様に,Die Krone ist, den Königlichen Hausgesetzen gemäss, erblich in dem Mannesstamme des Königlichen Hauses nach dem Rechte der Erstgeburt und der agnatischen Linealfolgeといふ規定が有る。その他のドイツ諸邦にも同様の規定の有るものが尠くない。文言に於いては極めて本条の規定と類似して居るけれども,趣意に於いては甚だ異なつて居つて,ドイツの学者は一般に,憲法の此の規定に依つて従来の王室家法が憲法の内容の一部を為すに至つたもので,随つて此の以後に於いては王室家法の変更は,憲法改正の法律に依つてのみ為すことを得べく,勿論議会の議決を必要とする・・・。即ちドイツ諸邦の憲法に於いては『王室家法ノ定ムル所ニ依リ』といふ明文が有つても,それは王室の自律権を認めたものではなく,却つて王室家法をして憲法の一部たらしめたもの・・・。

 

日本国憲法2条は「皇位は,世襲のものであつて,国会の議決した皇室典範の定めるところにより,これを継承する。」と規定しています(下線は筆者によるもの)。(同条の英文は,“The Imperial Throne shall be dynastic and succeeded to in accordance with the Imperial House Law passed by the Diet.”です。)ここでの「国会の議決した」は,その第74条1項で「皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス」と規定していた大日本帝国憲法との違いを示すものでしょう。現在の皇室典範の法形式は(皇室典範の「法律案」を審議した第91回帝国議会で問題にする議員がありましたが)法律ですが,少なくともその皇位継承(日本国憲法2条)及び摂政(同5条)に係る部分の改正は,19世紀ドイツ国法学的には,憲法改正と同等の重みのある行為であるということになります。「而して皇位継承に関する法則は,決して皇室御一家の内事ではなく,最も重要なる国家の憲法の一部を為すもの」なのです(美濃部『憲法精義』110頁)。

この点,1946年2月13日に我が国政府に提示されたGHQの憲法改正草案には“Article II. Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.”(外務省罫紙に記された閣議提出の訳文では「第2条 皇位ノ継承ハ世襲ニシテ国会ノ制定スル皇室典範ニ依ルヘシ」)及び“Article IV. When a regency is instituted in conformity with the provisions of such Imperial House Law as the Diet may enact, the duties of the Emperor shall be performed by the Regent in the name of the Emperor; and the limitations on the functions of the Emperor contained herein shall apply with equal force to the Regent.”(「第4条 国会ノ制定スル皇室典範ノ規定ニ従ヒ摂政ヲ置クトキハ皇帝ノ責務ハ摂政之ヲ皇帝ノ名ニ於テ行フヘシ而シテ此ノ憲法ニ定ムル所ノ皇帝ノ機能ニ対スル制限ハ摂政ニ対シ等シク適用セラルヘシ」)とあって,“such Imperial House Law”は国会の単独立法に係るものですから,やはり法律が想定されていたようで,皇室の家法たることを強く含意する「皇室典範」との訳は余り良い訳ではなかったようです。ところで,“in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact”であって,“in accordance with the Imperial House Law enacted by the Diet”ではありませんから,第2条の訳としては「皇位ノ継承ハ世襲テアリ且ツ国会ノ制定スルコトアル皇室法ニ従フモノトス」というものもあり得なかったでしょうか。このように解すると,たとい皇室典範という法形式が日本国憲法の施行に伴い消滅しても,国会が別異に立法しない限りは皇位の継承は従来の慣習に従う,ということにはならなかったものでしょうか。

しかし,我が国政府は皇位の継承に関する成文規範の存在及び皇室典範という法形式の存続にこだわったものか,憲法改正に係るその1946年3月2日案においては次のような条文が用意されています。

 

  第1章 天皇

第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ世襲シテ之ヲ継承ス。

第3条 天皇ノ国事ニ関スル一切ノ行為ハ内閣ノ輔弼ニ依ルコトヲ要ス。内閣ハ之ニ付其ノ責ニ任ズ。

  第9章 補則

106条 皇室典範ノ改正ハ天皇第3条ノ規定ニ従ヒ議案ヲ国会ニ提出シ法律案ト同一ノ規定ニ依リ其ノ議決ヲ経ベシ。

  前項ノ議決ヲ経タル皇室典範ノ改正ハ天皇第7条ノ規定ニ従ヒ之ヲ公布ス。

 

これに対して,佐藤達夫法制局第一部長の記す次のような1946年「三月四,五両日司令部ニ於ケル顛末」を経て,皇室典範の議案に係る天皇の発議権は消え,憲法2条は少なくとも英文については現在の形になっています。

 

第2条 皇室典範ガ国会ノ議決ヲ経ベキ条項ナシトテ相当強硬ナル発言アリ,補則ニ規定セリ,今回ハ全面的ニ補則ニ依リ改正セラルルコトデモアリ茲ニ特記スル要ナシ,又法律ト同一手続ニ依ルハ当然ナルモ,皇室ノ家法故発議ハ天皇ニ依リ為サルルコトトシタリト言フモ第1章ハ交付案ガ絶対ナリトテ全然応ゼズ,「国会ノ議決ヲ()タル(○○)passed by the Diet)(交付案ハ(as the Diet may enact))トシテ挿入スルコトトス(「経タル」ガ将来提案権ノ問題ニ関聯シテ万一何等カノ手懸ニナリ得ベキカトノ考慮モアリテ)。
 

ただし,佐藤部長の「考慮」にもかかわらず,現在の日本国憲法2条の当該部分の文言は「国会の議決した皇室典範」であって,「国会の議決を経た皇室典範」ではありません。現在の皇室典範は,昭和22年法律第3号です。
 (以上の日本国憲法の制定経緯については,国立国会図書館ウェッブ・サイトの「電子展示会」における「日本国憲法の誕生」を参照)
 

1 現在の皇室典範4条と明治皇室典範10

 昭和天皇の裁可に係る現在の皇室典範(昭和22年法律第3号。日本国憲法100条2項参照)4条は,「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」と規定しています。この規定の意味するところを知るためには,その前身規定に遡ることが捷径です。

明治天皇の裁定に係る皇室典範(明治22年2月11日。公布されず(ただし,後の公式令(明治40年勅令第6号)4条1項参照)。)10条が,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と定めていたところです。(なお,明治皇室典範は,1947年5月1日昭和天皇裁定(同日付け官報)の皇室典範及皇室典範増補廃止の件によって同月2日限り廃止されたものであり,昭和22年法律第3号の皇室典範によって廃止されたものではありません。)

明治皇室典範10条について伊藤博文の『皇室典範義解』は,「・・・(つつしみ)て按ずるに,神武天皇より舒明天皇に至る迄34世,嘗て譲位の事あらず。譲位の例の皇極天皇に始まりしは,(けだし)女帝仮摂より来る者なり(継体天皇の安閑天皇に譲位したまひしは同日に崩御あり。未だ譲位の始となすべからず)。聖武天皇・光仁天皇に至て遂に定例を為せり。此を世変の一とす。其の後権臣の強迫に因り両統互立を例とするの事あるに至る。而して南北朝の乱亦此に源因せり。本条に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はる者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」と説いています(宮沢俊義校註『憲法義解』(岩波文庫・1940年)137頁による。)。明治皇室典範10条を引き継いだ現在の皇室典範4条は,天皇の生前譲位を排除する趣旨をも有しているわけです。

7世紀の舒明天皇まで生前譲位がなかったことについては,「大和王権における大王位は基本的に終身制であり,大王は生前に新大王に譲位をすることはできなかった。記紀などの記述では,まれに,大王が生前に後継者を指名することもあるが,指名を受けた者が即位しない場合も多く,後継者指名の効力は,実際にはほとんどなかったとみてよい。・・・王位継承の候補者は常に複数おり,5世紀には,候補者同士の熾烈な殺し合いも繰り広げられたが,即位に際しては,大和政権を構成する豪族たちの広範な支持も必要であったことはいうまでもなかった。そして,より発達した政治機構としての畿内政権が形成される6世紀には,群臣による大王の推挙は,王位継承を行ううえで,不可欠の手続きとして確立していったのである。/『日本書記』などの文献から復元される王位継承の手続きでは,まず群臣の議によって大兄などの王族から候補者が絞られ,群臣による即位の要請がなされる。候補者の辞退などで擁立が失敗すると,別の候補者への要請が行われ,候補者がそれを受けた段階で,即位儀礼が挙行された。」と説明されています(大隅清陽「君臣秩序と儀礼」『日本の歴史08 古代天皇制を考える』(大津透・大隅清陽・関和彦・熊田亮介・丸山裕美子・上島享・米谷匡史,講談社・2001年)40‐41頁)。「ある種の選挙王制といってもよい王位継承のシステム」(大隅43頁。また同49頁)ではあるが,現職の大王の意思による「解散総選挙」のようなものは認められなかったということでしょう。なお,現行の皇室典範4条において三種の神器について言及されていないことの意味(皇室経済法7条の趣旨も含む。)及び「南北朝の乱」の「源因」たる「権臣の強迫」については,2014年5月21日付けの本ブログ記事「「日本国民の総意に基づく」ことなどについて」(その6の部分)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1003236277.htmlを御参照ください。

 美濃部達吉は,「皇位ノ継承ハ天皇ノ崩御ノミニ因リテ生ズ。天皇在位中ノ譲位ハ皇室典範ノ全ク認メザル所ニシテ,典範(10条)ニ『天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク』ト曰ヘルハ即チ此ノ意ヲ示スモノナリ。中世以来皇位ノ禅譲ハ殆ド定例ヲ為シ,時トシテハ権臣ノ強迫ニ因リテ譲位ヲ余儀ナクセシムルモノアルニ至リ,(しばしば)禍乱ノ源ヲ為セリ。皇室典範ハ此ノ中世以来ノ慣習ヲ改メタルモノニシテ,其ノ『天皇崩スルトキハ』ト曰ヘルハ,崩スルトキニ限リト謂フノ意ナリ。」と述べていました(美濃部達吉『改訂 憲法撮要』(有斐閣・1946年)183頁)。『皇室典範義解』の説明を承けたものでしょう。

 現行の皇室典範4条の解釈も,いわく。「天皇の「崩御」だけが皇位継承の原因とされる(典範4条)。天皇生前の退位に関しては,皇室典範の審議の際に積極論も主張されたが,結局のところ採用されなかった。皇室典範の改正によって退位制度を設けることは可能であるが,一般的な立法論としていえば,生前退位の可能性を認めることは,皇位を政治的ないし党派的な対立にまきこむおそれがあることを,考慮しなければならない。」と(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)132頁)。

 「女帝仮摂」のゆえならざる生前譲位が始まったことについては,インドからの外来宗教たる仏教の影響があったとは,上杉慎吉の指摘するところです。いわく。「皇位継承の行はるのは天皇崩御の時のみであります,譲位受禅は典範の認めざる所であります,之は我古代の法制であつて神武天皇以下武烈天皇に至りまする迄御譲位と云ふことは無かつた,継体天皇の25年皇太子を立て天皇(ママ)とせられ,天皇即日崩御せられた事があります,其後持統天皇,元明天皇,元正天皇の御譲位の事があります,元来女帝の御即位は皇太子尚幼くまします場合に其成長を待たる意味に出たものでありますから女帝の御譲位の事は例とすることは出来ぬのであります,聖武天皇が位を孝謙天皇に譲られたのが真の譲位の初としなければならぬのであつて,それ以来譲位受禅が頻に行はるに至つたのであります,之は主として仏教の影響に出るものであります,併ながら我皇位継承の本義ではありませぬ,それ故に典範は譲位の事を言はずして天皇崩御の場合にのみ皇位継承あるものとしたのであります,欧羅巴諸国では君主の譲位と云ふことは之を認むるを常とし,明文が無くとも譲位を為し得ることは当然としてあります,我国と制度の根本の趣旨が異ることを見ることが出来ます,多数の国の憲法では一定の原因ある場合には君主が位を譲つたものと認むるものとしてあります,又或は一定の場合には君主を廃することを得るものと定めてある憲法もある」と(上杉慎吉『訂正増補 帝国憲法述義 第九版』(有斐閣書房・1916年)257259頁)。東大寺等の造営で有名な8世紀・奈良時代の聖武天皇は自らを「三宝の奴」として仏教に深く帰依したところですが,確かに 現人神としては,少なくとも神仏分離を前提とすると,いかがなものでしょうか。

 父・聖武天皇からの生前譲位(天平感宝元年(749年))により皇位を継承した孝謙天皇は,自らもいったん大炊王(天武天皇の子である舎人親王の子)に生前譲位したものの(天平宝字二年(758年)),その後大炊王を皇位から追い,重祚します(称徳天皇)。女帝によって淡路に流謫せられた廃帝は,逃亡を図るも急死。この淡路廃帝に淳仁天皇との諡号が贈られたのは,ようやく明治になってからのことでした。

 皇嗣時代の大炊王の御歌にいわく。

 

 天地(あめつち)を照らす日月の極みなくあるべきものを何をか思はむ(万葉集4486

 

 河内出身の僧・道鏡が天皇になることは,和気清麻呂の宇佐八幡宮からの還奏(「我が国開闢より以来(このかた)君臣定まりぬ。臣を以て君となすことは未だこれあらず。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし。」)によって阻止されましたが,その後結局,聖武天皇,孝謙天皇,淳仁天皇らが属したところの,「極みなくあるべきもの」であった天武天皇系の皇統は,断絶しました。称徳天皇崩御後の後任である光仁天皇(天智天皇の孫であり,かつ,嗜酒韜晦の人であった白壁王)の皇子であって,女系で天武天皇系に連なっていた(おさ)()親王(聖武天皇を父とする井上(いのえ)内親王の子)も失脚し,その後急死しています(「光仁の即位も,当初は他戸への中継ぎとしての性格を持っていたのだろう」とされますが(大隅69頁),光仁天皇から譲位を受けることになったのは(天応元年(781年)),百済系の高野新笠の子である桓武天皇でした。)。

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皇居お濠端の和気清麻呂像(2016年9月10日撮影)一見入牢風のこの姿は,皇位継承に関する還奏に係る称徳天皇の勅勘が復活したわけではなく,地下の東京メトロ竹橋駅の工事のためです。 

 

2 明治皇室典範10条の起草過程

 明治皇室典範10条の起草過程をざっと見てみましょう。

(1)高輪会議まで

 187610月の元老院第1次国憲草案第4篇第2章の第11条には「皇帝崩シ又ハ其位ヲ辞スルニ当リ会マ元老院ノ開会セサルトキハ預メ召集ノ命ナクトモ直チニ自ラ集会ス可シ」とありましたから(小嶋和司「帝室典則について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)6970頁),生前譲位制が考えられていたわけです。

1878年3月の岩倉具視の「奉儀局或ハ儀制局開設建議」の「憲法」に関する「議目」には「太上太皇 法皇 贈太上天皇」というものがありました(小嶋「帝室典則」74頁)。これに関して,188212月段階での宮内省一等出仕伊地知正治の口述には「太上天皇並法皇 仙洞ニ被為入候得バ太上天皇尊号贈上ハ勿論ナリ。法皇ノ事ハ院号サヘ御廃止ノ今日ナレバ釈氏ニ出ル法号等ハ皇室ニ於テ口ヲ閉ヂテ可ナリ。」という発言が見られます(小嶋「帝室典則」78頁)。「仙洞(せんとう)」とは,『岩波国語辞典 第四版』(1986年)によれば,「上皇の御所。転じて,上皇の尊称。▷仙人のすみかの意から。」とあります。

 (史上初の太上天皇となったのは,孫の軽皇子(文武天皇)に生前譲位した女帝・持統天皇(在位690年‐697年)です。「696年に太政大臣高市皇子(天武の長男)が亡くなると,持統は宮中に皇族や重臣を召集し,次の皇位継承者について諮問するが,群臣の意見はまとまらず,会議は紛糾した。この時,故大友皇子〔天武天皇に壬申の年に敗れた弘文天皇〕の子である葛野王は,皇位は「子孫相承」するのがわが国古来の法であり,継承が兄弟におよぶのは内乱のもとであるとして,草壁〔持統と天武との間の子〕の異母兄弟である天武天皇の諸皇子の即位に反対し,持統を喜ばせたという(『懐風藻』葛野王伝)。葛野王の発言が,どの程度当時の共通認識であったかには疑問がある・・・」ということですので(大隅60‐61頁),当時はなお皇位継承者の決定には群臣の議が必要であったようですが,「結局持統は,翌697年二月に軽皇子の立太子を強行し,同八月には皇太子に譲位して文武天皇とし」ています(同61頁)。「8世紀の天皇権力は,皇位継承に群臣を介在させず,独自に直系の継承を行おうとし」ますが(大隅62頁),その努力の始めである7世紀末の文武天皇の即位には,天皇の生前譲位が伴っていたのでした。なお,「太上天皇とは,おそらく大宝律令の制定にともない,譲位した元天皇の称号として新しく設けられたもので,律令の規定では,天皇と同じ待遇と政治的権限を有して」いました(大隅65頁)。「太上天皇制の成立により,8世紀には,天皇が生前のうちに譲位し,自らは太上天皇となって天皇を後見する,という形の皇位継承が一般化する。これは,皇位継承の過程に群臣が介在する余地を結果的に排除したとも言え,天皇権力の群臣からの自立という点で,大きな意味をもっていた」わけです(大隅65頁)。ただし,太上天皇の在り方は嵯峨上皇の時に変化します。「この政変〔薬子の変〕への反省から学んだ 嵯峨天皇は,823年(弘仁十四)に弟の淳和天皇に譲位すると,自らは「後院」とよばれる離宮的な施設に隠居して政治的権限を放棄し,天皇に対しては臣下の礼をとるという新しい試みをする。これをうけた淳和天皇は,嵯峨に「太上天皇」を尊号として奉上し,以後この手続きが通例になるが,この結果,太上天皇がたんなる称号となり,またその授与の権限が現役の天皇に帰したことの意義は大きかった。」ということでした(大隅75頁)。


 しかしながら,
1885年又はそれ以前に宮内省で作成された(小嶋「帝室典則」129130頁。なお,1884年3月21日から宮内卿は伊藤博文(同月17日から制度取調局長官であったところに兼任(同局は1885年12月廃止)))「皇室制規」の第9条は「天皇在世中ハ譲位セス登遐ノ時儲君直ニ天皇ト称スヘシ」と規定して生前譲位を認めないものとしたところです(同125頁。ただし,「譲位の制は「皇室制規」の第2稿まで存した」とありますから(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』175頁),この「皇室制規」は第3稿以後のものなのでしょう。)。「登遐(とうか)」とは崩御のこと。これに対する井上毅の「謹具意見」1885年以前のものです(小嶋「帝室典則」130頁,135頁)。)には,「天子違予ニシテ政務ニ堪ヘ玉ハザルノ不幸アラバ,時宜ニ由テハ摂政ヲ置クコトアルベシト雖(議院ニ問ハズ),亦,叡慮次第ニハ並ニ時宜次第ニハ穏ニ譲位アラセ玉フコト尤モ美事タルベシ 起草第9条ノ上項ハ削去アリテ然ルベキカ」との批判がありました(同134頁)。この井上毅の譲位容認論の理由付けについて奥平康弘教授は,「非常に要約」して,「摂政には議会をつうじて人民に宣告し,なんらかの納得を得ることが不可避であるのに,譲位は人民による公知なしに―その理由など明らかにせずに―宮中内かぎりで片付けられ得る,代替りという線でやってのけられる利点があるではないかとする論理」があるものとしています(奥平康弘「明治皇室典範に関する一研究―「天皇の退位」をめぐって―」神奈川法学第36巻第2号(2003年)165‐166頁)。「「天子ノ失徳ヲ宣布スルニ至ラズ人民ヲ激動セズシテ外ハ譲位ノ美名ニ依リ容易ニ国難ヲ排除スル事ヲ得」たという事例〔陽成天皇譲位の例〕がある」旨「謹具意見」では述べられていたとされています(奥平165頁)。

 筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞ積もりて淵となりける(陽成院)
 

1885年の宮内省の「帝室典則」第2稿(小嶋「帝室典則」129頁)では「皇室制規」9条の規定は維持されていましたが,1886年6月10日の「帝室典則」では,同条に該当する規定は削られています(同140頁)。生前譲位がないことは当然とされたゆえ削られたのか(小嶋「皇室典範」175頁参照),それとも反対解釈すべきか(生前譲位を明示的に否認する「帝室典則」第2稿に対して井上毅は「謹具意見」の立場から改めて異議申立てをしています(奥平170‐171頁・註(14))。)。なお,井上毅の梧陰文庫蔵の「帝室家憲 スタイン起草」(用紙として「内閣罫紙」が使用されているため内閣制度が設けられた188512月以降に作成されたものと考えられています(小嶋「帝室典則」108頁)。ただし,小嶋教授は1887年以後に依頼され作成されたのではないかとも考えていました(同118119頁)。)の第7条(伊東巳代治遺文書中にあった下訳と認定される史料による(小嶋「帝室典則」108109頁)。)の第1項は「皇帝譲位セラレントスルノ場合ニ於テハ各高殿下,殿下及高等僧官ヲ招集シテ之ニ其旨ヲ言明シ必ス一定ノ公式ニ依リ書面ヲ以テ之ヲ証明シ譲位セントスル皇帝ノ家事モ亦タ之ニ因テ定ムヘキモノトス」と,第2項末段は「摂政5箇年ノ久シキニ渉リ仍ホ皇帝ノ疾病快癒ノ望ナキトキハ立法院ノ承認ヲ経タル上高殿下一同ニテ皇位継承ノ事ヲ布告スヘシ」と規定していました(小嶋「帝室典則」114115頁)。

 1887年1月25日に「帝室制度取調局総裁」柳原前光(大正天皇の生母・愛子の兄,白蓮の父)が宮内省図書頭・井上毅に提出した「皇室法典初稿」(小嶋「皇室典範」172173頁。伊藤博文(1885年12月22日から1888年4月30日まで内閣総理大臣,1887年9月16日まで宮内大臣兼任)に起草を命じられたものです(同172頁)。なお,小嶋教授は「柳原が当時,帝室制度取調局総裁の地位にあった」と記していますが(同頁),宮内庁の「宮内庁関係年表(慶応3年以後)」ウェッブ・ページを見ると,1885年12月22日に制度取調局が廃止された後,1888年5月31日に「臨時帝室制度取調局を置く。」とありますので,実は1887年初頭当時に「帝室制度取調局」があったものかどうか。岩波書店の『近代日本総合年表 第四版』(2001年)の1887年3月20日の項には「帝室制度取調局総裁柳原前光」との記載があり,これは稲田正次教授の『明治憲法成立史』に基づくものとされています。稲田教授の『明治憲法成立史』については「そこですべてが明らかにされたわけではなく,不明の断点が何ヶ所か残され,重要な事実の脱漏もある」との評価を加えつつも(小嶋「皇室典範」171頁),この部分については,小嶋教授は稲田教授の記述を踏襲したものでしょうか。ちなみに,国立国会図書館の「柳原前光関係文書」ウェッブ・ページの「旧蔵者履歴」欄を検すると,1887年当時,柳原は確かに総裁ではあったものの,賞勲局総裁であったところです。)の第8条には「天皇ハ皇極帝以前ノ例ニ依リ終身其位ニ((ママ))ヲ正当トス但シ心性又ハ外形ノ虧缺(きけつ)ニ係リ快癒シ難ク而シテ嫡出ノ皇太子又ハ皇太孫成年ニ達スル時ハ位ヲ譲ルコトヲ得とありました(小嶋「皇室典範」175頁)。再び生前譲位制が認められています。ただし,例外としての位置付けです。

 1887年2月26日に井上毅が伊藤博文に提出した「皇室典範」(小嶋「皇室典範」179頁)の第13条にも天皇の生前退位の制度が定められていました(同183頁)。「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ノ重患アルトキハ皇位継承法ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」というものでした(小嶋「皇室典範」185186頁)。附属の「説明案」において井上毅は,「天皇重患ニ因リ大位ヲ遜ルゝハ亦一時ノ権宜ニシテ実ニ已ムヲ得サルニ出ルモノアリ」と断じた上で,「大位ヲ遜譲シテ国家ノ福ヲ失ハズ是レ亦変通ノ道ナリ」と述べています(奥平172頁)。

 1887年3月14日に柳原前光から伊藤博文に提出された「皇室典範再稿」(小嶋「皇室典範」184頁)の第12条には「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」とありました(同185186頁,190頁)。当該「皇室典範再稿」では更に,第15条において「譲位ノ後ハ太上天皇ト称スルコト文武天皇大宝令ノ制ニ依ル」と,第16条において「天皇崩後諡号ヲ奉ルコト文武天皇以来ノ制ニ依ル太上天皇ヘモ亦同シ」と,第17条において「天皇崩シ又ハ譲位ノ日皇嗣践祚シテ即チ尊号ヲ襲ヒ祖宗以来ノ神器ヲ承ク」と,第23条において「天皇及皇族ノ位次ヲ定メ左ニ開列ス/第一天皇 第二太上天皇 第三太皇太后〔以下略〕」と,第31条において「天皇太上天皇太皇太后皇太后皇后ヘノ敬称ハ陛下ト定ム」と,第37条において「皇室ノ徽章ハ歴代ノ例ニ依リ菊花ヲ用ヒ桐之ニ亜ク太上天皇ハ菊唐草ヲ用ユ」とも規定していました(小嶋「皇室典範」190193頁)。

 

(2)1887年3月20日高輪会議及びその後

 天皇の生前譲位制が排されたのは,1887年3月20日午前10時半から伊藤博文の高輪別邸において開催された伊藤博文,柳原前光,井上毅及び伊東巳代治による会議(小嶋「皇室典範」187頁)においてでした。すなわち,「典範・皇族令体制の骨子」が定められた当該会議(小嶋「皇室典範」200頁)において,前記柳原「皇室典範再稿」12条の生前譲位規定は,伊藤博文及び柳原前光の首唱により削られることになったのでした(同190頁)。原案作成者の柳原前光が削ることを首唱したというのも不思議ですが,伊藤博文の首唱に対して,なるほどもっともと積極的に賛成したところです。「皇室典範再稿」の第15条及び第16条を削ること並びに第17条を「第10条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と修正すること(この高輪会議決定案は既に明治皇室典範10条と同じですね。)の首唱者も伊藤博文となっています(小嶋「皇室典範」190191頁)。奥平康弘教授の引用する伊東巳代治の「皇室典範・皇族令草案談話要録」によれば,「皇室典範再稿」12条に係る議論においては,まず伊藤博文が「本案ハ其意ノ存スル所ヲ知ルニ困シム天皇ノ終身大位ニ当ルハ勿論ナリ又一タヒ践祚シ玉ヒタル以上ハ随意ニ其位ヲ遜レ玉フノ理ナシ抑継承ノ義務ハ法律ノ定ムル所ニ由ル精神又ハ身体ニ不治ノ重患アルモ尚ホ其君ヲ位ヨリ去ラシメズ摂政ヲ置テ百政ヲ摂行スルニアラスヤ昔時ノ譲位ノ例ナキニアラスト雖モ是レ浮屠氏ノ流弊ヨリ来由スルモノナリ余ハ将ニ天子ノ犯冒スヘカラサルト均シク天子ハ位ヲ避クヘカラスト云ハントス前上ノ理由ニ依リ寧ロ本条ハ削除スヘシ」と宣言し(なお,「浮屠」とは,仏のことです。),これに対して井上毅が抗弁して「『ブルンチェリー』氏ノ説ニ依レハ至尊ト雖人類ナレハ其欲セサル時ハ何時ニテモ其位ヨリ去ルヲ得ベシト云ヘリ」と言ったものの,柳原前光は伊藤内閣総理大臣に迎合して「但書ヲ削除スルナレハ寧ロ全文ヲ削ルヘシ其『ブルンチェリー』氏ノ説ハ一家ノ私語ナリ」と自らの原案を否定し,結論として伊藤博文が「然リ一家ノ学説タルニ相違ナシ本条不用ニ付削除スヘシ」と述べています(奥平177頁)。「至尊ト雖人類ナ(リ)」という議論は斥けられたのでした。
 (「皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは,摂政は,天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には前条第1項の規定〔「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」〕を準用する。」と規定する現行憲法5条を前提とすれば, 摂政は国事行為に係る代理機関にすぎず(また,「摂政は天皇ではないから,「象徴」としての役割を有しない。」とも説かれています(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)259頁)。)祭祀については困る,とあるいは更に反論できたのでしょうが, 大日本帝国憲法下では(その第17条2項は「摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ」と規定。『皇室典範義解』には「摂政は以て皇室避くべからざるの変局を救済し,一は皇統の常久を保持し,二は大政の便宜を疎通し,両つながら失墜の患を免るゝ所以なり。摂政は天皇の天職を摂行し,一切の大政及皇室の内事皆天皇に代り之を総攬す。而して至尊の名位に居らざるなり。」と説明されていました(岩波文庫147頁)。), 「祭祀ニ付テ」も「天皇ノ出御アルコト能ハザル場合ニ於テ摂政之ヲ代行スル」こととなっていました(美濃部239頁。ただし,「祭祀ニ付テ・・・皇室祭祀令ニハ天皇幼年ノ場合ニモ親ラ出御アルベキコトヲ定メ,以テ摂政ノ必ズシモ代行スル所ニ非ザルコト」が示されていたそうです(美濃部239頁)。確かに,皇室祭祀令(明治41年皇室令第1号)の附式には「天皇襁褓ニ在ルトキハ女官之ヲ奉抱ス」等の「注意」が記されています。)。ちなみに,摂政令(明治42年皇室令第2号)1条は「摂政就任スル時ハ附式ノ定ムル所ニ依リ賢所ニ祭典ヲ行ヒ且就任ノ旨ヲ皇霊殿神殿ニ奉告ス」と規定していました。これは,1909年1月27日の枢密院会議における奥田義人宮中顧問官の案文説明によれば,「其〔摂政〕ノ誠実ヲ表明スル為メ設ケタル規定」です。いずれにせよ,大日本帝国憲法下の摂政の制度は特殊なもので,同日の奥田宮中顧問官の説明においてはまた「然ルニ摂政ニツキテハ古来依ルヘキ例ナシ故ニ此ノ〔摂政令〕案ノミハ全ク新タニ出来タルモノト御承知ヲ乞フ」と述べられていました。なお,1945年12月15日のGHQのいわゆる神道指令後には天皇の「祭祀大権は全く失は」れ,宮中祭祀は「純然たる皇室御一家の祭祀」となって「皇室の家長たる御地位に於いて天皇の行はせらるる所」とされています(美濃部555頁)。皇室の家長の交代には,譲位が必要ということになるのでしょうか。)

 明治天皇裁定の皇室「典範は,無能不適格な天皇が位に即く危険を冒し,指名権も譲位も否定して,血統原理をもって一貫した。そのような場合の能力の補充者たるべき摂政についてさえ,天皇の未成年及び「久シキニ亘ルノ故障ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルトキ」という厳重な条件を附し,しかも就任順位を血統原理に従って厳重に法定し,能力原理の介在を一切斥けた。天皇主権の憲法を,天皇の能力に全く依存しない仕方で運用しようとする立法者の強い意思の表明であり,この皇室制度は一番の「利害関係者」である天皇の意思を殆んど徴さないままに創り出された。」と評されていますが(長尾龍一「井上毅と明治皇室典範」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)5152頁),当該「立法者」ないしは「天皇制の完全な制度化を実現した人物」は,「謹具意見」で生前譲位容認説を唱えていた井上毅ではなく,やはり,長州藩の足軽から「能力原理」で立身出世を遂げた伊藤博文だったのでした(同52頁参照)。皇位に係る血統原理の貫徹及び能力原理の排斥は,「下級武士と下級貴族によって形成された明治政府が,幕府や大名などの旧勢力に対する支配の正統性を取得するために,天皇に,実際には与えるつもりのない巨大な権力を帰した」(長尾龍一「天皇制論議の脈絡」『思想としての日本憲法史』207頁)過程における必要な手当てだったわけです。

 前記高輪会議の後1887年4月に,柳原前光は「皇室典範草案」と題するものを作成して伊藤博文(同月25日)及び井上毅(同月27日)に提出しています(小嶋「皇室典範」202頁)。そこでは,高輪会議決定案の前記第10条が2箇条に分割されてしまっており(小嶋「皇室典範」204頁),当該柳原案に手を入れた井上毅の「七七ヶ条草案」では,「第10条 天皇崩スル時ハ皇嗣即チ践()ス」及び「第11条 皇嗣践阼スル時ハ祖宗ノ神器ヲ承ク」となっています(同212頁)。ただし,1888年3月20日の井上毅修正意見においては,「第10条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践阼シ祖宗ノ神器ヲ承ク」に戻っています(小嶋「皇室典範」212頁)。確かに2箇条に分かれていると,先帝崩御に基づかない皇嗣の践祚もあるように解釈する余地がより多く出てきます。

 

(3)枢密院における審議

 皇室典範の枢密院御諮詢案は,1888年3月25日に伊藤博文出席の夏島の会議で決定しています(小嶋「皇室典範」222頁)。御諮詢案の第10条は「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」となっていて,枢密院において修正されることはありませんでした(小嶋「皇室典範」227頁)。なお,柳原前光は枢密顧問官になるには年齢が足らず(枢密院官制(明治21年勅令第22号)4条により40歳に達していることが必要),枢密院における審議には出席できませんでした(小嶋「皇室典範」236頁参照)。

 枢密院の審議において,明治皇室典範10条は,1888年5月25日に第一読会,同月28日に第二読会,同年6月15日に第三読会に付されています(小嶋「皇室典範」240241頁)。しかしながら,それらの読会において同条に関する議論は一切ありませんでした。アジア歴史資料センターのウェッブ・サイトにある枢密院の「皇室典範議事筆記」によれば,第一読会においては「〔伊藤博文〕議長 第10条ニ質問ナケレハ第11条ニ移ルヘシ」とのみあり(第17コマ),第二読会においては「議長 本条ニ付別ニ意見ナケレハ直ニ原案ノ表決ヲ取ルヘシ原案同意者ノ起立ヲ請フ」に対して「総員一致」となって「議長 総員一致ニ付原案ニ決シ本日ハ最早時刻モ後レタレハ是ニテ閉会スヘシ・・・」で終わっており(第65コマ),第三読会では井上毅書記官長による条文朗読のみでした(第294コマ)。
 しかし,同年6月18日の午前,枢密院が大日本帝国憲法の草案の審議に入るに当たって議長・伊藤博文が行った演説中における次の有名なくだりに,明治典憲体制において天皇の生前譲位が排除されることとなった理由が見いだされるように思われます。確かに,我が国未曽有の変革である憲法政治に乗り出したとき,宗教(ヨーロッパ諸国においてはキリスト教)に代わってどっしりと我が日本国家の機軸であることが求められる皇室の長たる天皇が,生前譲位(更には煩悩を逃れての仏門入り)等の非religious institution的な振る舞いをしてしまうということでは,いささか心もとなかったわけでしょう。それはともかく,いわく。「・・・抑欧洲ニ於テハ憲法政治ノ萠芽セルヿ千余年独リ人民ノ此制度ニ習熟セルノミナラス又タ宗教ナル者アリテ之カ機軸ヲ為シ深ク人心ニ浸潤シテ人心此ニ帰一セリ然ルニ我国ニ在テハ宗教ナル者其力微弱ニシテ一モ国家ノ機軸タルヘキモノナシ仏教ハ一タヒ隆盛ノ勢ヲ張リ上下ノ人心ヲ繋キタルモ今日ニ至テハ已ニ衰替ニ傾キタリ神道ハ祖宗ノ遺訓ニ基キ之ヲ祖述スト雖宗教トシテ人心ヲ帰向セシムルノ力ニ乏シ我国ニ在テ機軸トスヘキハ独リ皇室アルノミ是ヲ以テ此憲法草案ニ於テハ専ラ意ヲ此点ニ用ヰ君権ヲ尊重シテ成ルヘク之ヲ束縛セサランコトヲ勉メタリ・・・」と(アジア歴史資料センターのウェッブ・サイトにある「憲法草案枢密院会議筆記」第6コマ)。

 

3 皇位継承の根本義

 ところで,皇位継承の根本義とは何でしょうか。

 

  以上,皇位継承とは,位が主に非ずして(くらゐ)種子(たね)が主である。皇位(みくら)の中核とまします「皇天不二の御神霊」を当然継承し給ひ,此の人格者は即神格者として皇位にましますのである。「御人格(○○○)()()もの(○○)()()()にま(○○)します(○○○)()より(○○)自然(○○)()事実(○○)()変遷(○○)()応じ(○○)自然(○○)()()ながらに(○○○○)皇天二(○○○)()()御延長(○○○)たり(○○)()()」実を,発揮し給ふのである。位といふ有形・無形の座が外に在りて夫を占領し給ふ一種の作用を申すのではない。(筧克彦『大日本帝国憲法の根本義』(岩波書店・1936年)268269頁)

 

 「自然の事実の変遷に応じ」,「御神霊」の「当然継承」がされるのが皇位継承であって,皇嗣たる人格者による皇位の「占領」とは違うということになると,生前譲位は本来の皇位継承ではないということになりそうです。しかし,従来の生前譲位は無効ということになると,万世一系はどうなるのでしょうか。

 

 然しながら,是は第一段の根本につき申すこと故,第二段(○○○)第三段(○○○)()()ては(、、)()()いふ(、、)形式(、、)から(、、)()人格者(、、、)()制約(、、)する(、、)こと(、、)()()つて(、、)来る(、、)。史実としても,皇胤たり給ふ御方様の数多ましませし時には,皇胤ではあらせられても皇位を得給はざりし御方は,具体的には 皇祖の御本系を成就され給ふものといふことが出来ざりし次第であつた。皇胤中に於て御本系を明らかにするには神器(かむだから)の正当なる授受の事実によりて決すべき史実も在つたのである。(筧269頁)

 

「皇天不二の御神霊」の継承は,「神器の正当なる授受」によって生ずるものと考えてよいのでしょうか。

ところが,そうなると,現行の皇室典範4条から「祖宗ノ神器ヲ承ク」を削ってしまったのは早計だったものか。

 しかしながら,今上帝の即位に際しては「臨時閣議において,憲法7条10号,皇室典範4条,皇室経済法7条を根拠に,「剣璽等承継の儀」・・・が()天皇の国事行為と決定され」(昭和64年1月7日内閣告示第4号),1989年1月7日午前10時に行われています(平成元年1月11日宮内庁告示第1号)(佐藤247248頁)。憲法7条10号は「儀式を行ふこと」を天皇の国事行為としています。けれども,現行の皇室典範4条は,信仰にかかわるということから意図的に三種の神器に触れなかったのではないでしょうか。「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。」との皇室経済法7条の規定は,民法の相続に関する規定の例外規定にすぎなかったのではないでしょうか。「神器の正当なる授受」が皇位継承の要素であることは,憲法7条10号に包含された不文の憲法的規範であるということでしょうか。なお,「一定の準備期間を必要とする即位儀とは別に,天皇から皇太子への譲位が決定されると,すぐに剣璽などの宝器(レガリア)を皇太子=新天皇の居所に運んでしまい,それをもって一応の皇位継承が行われたとする「剣璽渡御」(践祚)の儀が成立」するのは「桓武朝以後」と考えられているそうですが(大隅71頁),そうだとすると,「剣璽等承継の儀」は本来的には生前譲位の場合における儀式として始まったということにもなるように思われます。
 ところで,明治天皇は,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚」するものと自ら明治皇室典範10条を裁定したのですが,早くも明治天皇から大正天皇への皇位の継承に当って齟齬が生じています。当時内務大臣であった原敬の記す明治最後の日・1912年7月29日の日記にいわく。
 「午後10時40分天皇陛下崩御あらせらる。実に維新後始めて遭遇したる事として種々に協議を要する事多かりしなり。/崩御は30日零時43分として発表することに宮中に於て御決定ありたり,践祚の御式挙行の時間なき為めならんかと拝察せり」(隅谷三喜男『日本の歴史22 大日本帝国の試煉』(中央公論社・1966年)456頁)
 明治天皇は,現実の崩御後なお2時間3分の間「在位」していることになっており,「死後譲位」がされたのでした。
 なるほど,明治皇室典範10条以来,皇位継承は,天皇自らの意思によってすることのできないことはもちろん,実は崩御によって直ちに生ずるものでもなく,決定的なのは儀式をつかさどる臣下らの都合なのでした。その後も明治天皇祭の祭祀が行われる日は,7月29日ではなく7月30日で一貫します。

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俊德院殿頴譽巍寂大居士正二位勲一等伯爵柳原前光(1894年9月2日死去・行年四十五歳)の眠る東京都目黒区中目黒の祐天寺にある柳原伯爵家の墓(隣には,大正天皇の生母である智孝院殿法譽妙愛日實大姉従一位勲一等柳原愛子の墓があります。)


弁護士 齊藤雅俊
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1 南シナ海とサン・フランシスコ平和条約

 最近南シナ海関係のニュースが多いところですが,かつて南シナ海は,大日本帝国の海でもありました。

 先の大戦に係る我が国と連合国との間のサン・フランシスコ平和条約(日本国との平和条約(昭和27年条約第5号)。1951年9月8日署名,1952年4月28日発効)2条(f)項には次のような規定があります。

 

 (f)日本国は,新南群島及び西沙群島に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄する。

  (f)  Japan renounces all right, title and claim to the Spratly Islands and to the Paracel Islands.

 

 ここにいう新南群島(Spratly Islands)は,現在では南沙諸島といわれる島々です。

 

2 大日本帝国領たりし新南(南沙)群島

 新南(南沙)群島については,

 

19381223日,日本は新南群島の領土編入を閣議決定し,1939年3月30日,日本政府は台湾総督府令(第31号)により,新南群島を台湾高雄市の管轄区域に編入した。(国際法事例研究会『日本の国際法事例研究(3)領土』(慶応通信・1990年)64頁(川島慶雄))

 

 ということで,第1次近衛内閣末期の19381223日(当時は皇太子であった今上天皇の5歳の誕生日ですが,「この日皇太子は〔昭和天皇のもとに〕参内予定のところ,軽微な風気につき,用心のため取り止め」となっています(宮内庁『昭和天皇実録第七』(東京書籍・2016年)690頁)。)の閣議決定を経て,同月28日に新南群島は台湾総督府の管轄下に入れられています(『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年))。アジア歴史資料センターのウェッブ・ページにある「新南群島ノ所属ニ関スル件」一件資料によると,同月27日に当該閣議決定(外甲116)に対する昭和天皇の裁可があり,同月28日はそれに基づく指令がされた日です。当該裁可の日(1938年12月27日)に昭和天皇は,「午後,1時間余にわたり内大臣湯浅倉平に謁を賜」った後に,「午後3時より1時間10分にわたり,御学問所において外務大臣有田八郎に謁を賜い,新南群島の所属の件につき奏上を受け」ています(『昭和天皇実録第七』694頁)。
 その後昭和14年台湾総督府令第31号を経て,新南群島は,先の大戦における敗戦による喪失まで大日本帝国の領土だったのでした。

 

3 フランス帝国主義の野望の摧かれたる「支那に属する」西沙群島

 新南群島が大日本帝国の領土であったのならば,同じサン・フランシスコ平和条約2条(f)項にある西沙群島(Paracel Islands)も大日本帝国の領土であったのではないか,とつい考えたくなるところです。インターネット上には,そのような推論からか,西沙群島はかつて大日本帝国の領土であったとの主張を掲載するウェッブ・ページも散見されます。しかしながら,考え過ぎでしょう。「西沙群島につきましては,いまだかつて日本は領土的主権を主張したことはございません。」とされています(1951年10月17日の衆議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会における西村熊雄政府委員(外務省条約局長)の説明(第12回国会衆議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会議録2号11頁)。同月26日の参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会における同政府委員の説明も同旨(第12回国会参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会会議録4号3頁))。むしろ,

 

  1938年7月4日,フランス政府は突然この群島〔西沙群島〕の決定的かつ完全な先占を日本政府〔第1次近衛内閣。宇垣一成外務大臣〕に通知した。これに対し,日本政府は同年7月12日付口上書で,「帝国政府としては西沙島の主権が支那に属するものと従来の見解を何ら変更するの必要及理由を認めず」と回答した。(国際法事例研究会6667頁(川島))

 

とされています。支那事変中であっても,「支那に属するもの」である西沙群島はなお「支那に属する」というのが我が国の立場であったようです。したがって,フランス帝国主義に対する姿勢は,厳しい。「194111月1日,駐日仏大使〔Charles Arsène-Henry〕より日本商社が西沙群島において現に実施しつつある燐鉱採掘事業を拡張する際には,〔仏領〕インドシナ官憲の許可を受けるよう申し入れたが,日本政府〔東条英機内閣。東郷茂徳外務大臣〕はフランスの同群島に対する主権を認めない以上,許可を受けるべき筋合のものではないとの回答」を行っています(国際法事例研究会67頁(川島))。1951年11月6日の参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会においても,草葉隆圓政府委員(外務政務次官)は,西沙群島について「日本政府はむしろこれを中国の領有ではないかということの意見を持つて参つた土地であります。」と答弁しています(第12回国会参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会会議録11号2頁)。

 それでは,サン・フランシスコ平和条約2条(f)項になぜ西沙諸島が入ったのかといえば,「アメリカ原案には,同群島についての記載はなかったが,フランスの主張によるものであろうが,最終案では日本は同群島に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄するものとされ,同条約第2条(f)の規定となった。」とされています(国際法事例研究会67頁(川島))。フランス式心配の産物であったようです。1940年9月23日の我が軍の北部仏印進駐(第2次近衛内閣),1941年7月28日の南部仏印進駐(第3次近衛内閣),1945年3月9日の我が軍による仏領インドシナのフランス軍武装解除,更にヴェトナムにおけるバオ・ダイ政権の成立という一連の歴史の流れにおいて,フランスは,我が国にいじめられ続けて参っていたのでしょう。
 サン・フランシスコ平和条約2条(f)項では,日本は西沙群島に対する「すべての権利,権原及び請求権」を放棄するものとされていますが,実際には,専ら「西沙群島に対します一種の日本の立場」が「請求権」なるものとして放棄されるものと理解されていたようです(1951年11月5日の参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会における西村政府委員の答弁(第12回国会参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会会議録10号26頁)参照)。「この最後の請求権は,財産的請求権という意味ではなく,領有関係の主張と申しましようか,そういうものを放棄させる趣旨でございます。」ということでした(同日の同委員会における同政府委員の答弁(同会議録同頁))。
 なお,1939年1月には,日本政府が天皇の勅裁を得て西沙群島の占領を決定したとの噂が欧州で立っていたようです。アジア歴史資料センターのウェッブ・ページにある内閣情報部の〔昭和〕14・1・30付けの情報第11号では,同盟通信からの来電(不発表)として「ロンドン27日発/日本政府は西沙諸島占領を計画中であり,既に旧臘〔1938年12月〕28日勅裁を仰いだとの風評もあるが,英国外交筋では日本軍の西沙島占領はあり得まいと見てゐる。」との情報を紹介しています。しかし,そもそも内閣情報部が付したのであろうその「情報」の表題の「西沙島占領決定説」において「西沙島」のルビが「パラセル」ではなく「プラタス」(東沙)となっているところがお粗末ではありました。 

 

4 新南群島領有までのフランス帝国主義との争い

 新南群島の領有は,無主地であったものを我が国が占領して領土に編入したという形式でされたのですが,そこでもやはり,フランス帝国主義との争いがありました。

 

  1933年7月24日,フランス政府は在仏日本大使館宛公文をもってスプラトリー島〔新南群島の西鳥島〕および他の5島の主権は今後フランスに属する旨を通知した。その理由はスプラトリー島は1930年4月,その他の島は1933年4月にフランス海軍が占領したことによるということにあった。(国際法事例研究会64頁(川島))

 

新南群島は,「1915(大正4)年,日本人平田末治が発見し,自ら平田群島と命名して,燐鉱石採集および漁業を経営した。」ものとも伝えられ(国際法事例研究会63頁),「1917~18年頃から,日本人がこの群島を踏査するようになり」,1921年にはラサ島燐鉱株式会社が政府の承認援助の下に燐鉱採掘に着手していましたが(「新南群島」は同社の命名による。),1929年4月に同社は経済不況のため操業を中止し,全員日本内地に引き揚げていたところです(国際法事例研究会63‐64頁(川島)参照)。(ただし,新南群島の領土編入に係る1938年12月23日の外甲116閣議決定書には上記の1915年に平田末治が発見して云々ということに係る記載は無く,「・・・新南群島ハ従来無主ノ礁島トシテ知ラレ大正6年〔1917年〕以降本邦人ハ外国人ガ全然之ヲ顧慮セザル前ニ於テ之ニ巨額ノ資本ヲ投下シ恒久ノ施設ヲ設ケテ帝国政府ノ承認及援助ノ下ニ其ノ開発ニ従事シ居リタル次第ナル処・・・」と,1917年以降の邦人の活動のみが言及されています。国際法事例研究会の本は,三田の慶応通信株式会社発行という慶応ブランドを背負ったものなのですが,「慶応」というだけで安心していいものやらどうやら。なかなか新南群島に係る「平田発見説」を伝える他の文献が見つかりません。というよりむしろ,国立国会図書館デジタルコレクションにある台湾高雄市湊町の平田末治述『最近の国情に鑑み特に青年諸君に寄す』(平田末治(非売品)・1936年4月)の表紙の地図を見れば,平田群島と新南群島とは別物で,西沙群島が平田群島とされていました。)

フランスは,ラサ島燐鉱株式会社の操業中止の隙に占領を試みたようです。

 

  これに対し,駐仏日本代理大使は,同群島〔新南群島〕はこれまで無主地であったところを日本が継続的に占領および使用したものであり,目下事業を一時中断しているが,日本政府の同群島に対して有する権原および利益は尊重されるべきであり,これに反してフランス政府の今回の先占宣言は国際法上実効的占有の完了を伴っていないと抗議し,その後も日仏間に同群島の帰属をめぐって応酬があった。(国際法事例研究会64頁(川島))
 

その後前記1938年12月23日の外甲116閣議決定書においては,「・・・而シテ昭和11年〔1936年〕本邦人ガ再ビ同群島〔新南群島〕ニ於テ開発ニ従事スルヤ仏国政府ハ之ニ対シ数次本件島嶼ニ於ケル仏国ノ主権ヲ主張シ最近ニ及ンデハ商船ヲ同島ニ派遣シ施設ヲ構築スル等我方ノ勧請ヲ無視シテ著々同島ノ占領ヲ実効的ナラシメントシツツアリ帝国政府ニ於テハ此ノ事態ニ深ク稽〔かんが〕ヘ各般ノ措置ヲ講ジテ同島ノ占有ヲ確保スルニ遺憾ナキヲ期シタル次第ナルガ仏国政府ノ飜意ノ絶望トナリタルニ鑑ミ帝国政府従来ノ権原ヲ明ニシ仏国政府ノ高圧策ニ対抗スルノ建前ヨリシテ此ノ際仏国ガ領土権ヲ主張スル諸島及右ト一連ノ新南群島諸島ガ帝国ノ所属タルコトヲ確定スルコト必要トナレリ」と述べられています。
 新南群島の大日本帝国編入に際しては,「その旨をフランスはじめ関係諸国に通告したが,フランスはもとより,英,米などの諸国もこれに抗議した。」とされています(国際法事例研究会
65頁(川島))。当時の中華民国政府からの抗議はなかったものでしょうか。

 

5 先の大戦後の台湾及び新南群島と日本国と中華民国との間の平和条約

とはいえ新南群島は,台湾の一部(高雄市所属)とされていたので,先の大戦後には,その命運を台湾と共にしたようです。蒋介石としては,お芋の形の台湾を取り返したら,その尻尾の先にフランス帝国主義から守って大日本帝国が育てた遺産の新南群島が付いていた,というような感じだったでしょうか。

 

 台湾は,第二次大戦末期1945年2月にフィリピンを掌握した米軍がここを素通りして4月に沖縄に上陸したこともあってか,9月2日の連合国最高司令官の一般命令第1号の占領地域分配では,蒋介石に授権された。1025日には受降典礼が行われ,中国は「台湾澎湖列島の日本陸海軍およびその補助部隊の投降」を受け「台湾澎湖列島の領土人民に対する統治権,軍政施設並びに資産を接収」し,同日より「台湾および澎湖列島は正式に中国の版図に再び入り,すべての土地,人民,政治はすでに中華民国国民政府の主権下におかれた」と声明した。こうして中華民国は台湾の自国編入措置を国内法的に完了させ,台湾をその一省とした。日本統治時代の州は県に改称され,台湾の一部に編入されていた新南(南沙)群島は切り離され,広東省に編入された。日本は対日平和条約において,帰属先を明示しないまま,単に「台湾及び澎湖諸島」と「新南群島」に対するすべての権利,権原および請求権を「放棄」した。そして,この放棄は1952年の日華平和条約によって「承認」された。日本の判例はこれにより台湾が中華民国に譲渡されたと解する(最判,昭3712月5日)・・・。(国際法事例研究会2728頁(芹田健太郎))

 

 日本国と中華民国との間の平和条約(昭和27年条約第10号。1952年4月28日台北で署名,同年8月5日発効)2条は,「日本国は,1951年9月8日にアメリカ合衆国のサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約(以下「サン・フランシスコ条約」という。)第2条に基き,台湾及び澎湖諸島並びに新南群島及び西沙群島に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄したことが承認される (is recognized)。」と規定していました。

 外国人登録法違反被告事件に係る昭和3712月5日の最高裁判所大法廷判決(刑集16121661頁)においては,「日本の国内法上台湾人としての法的地位をもつた人・・・は,台湾が日本国と中華民国との間の平和条約によつて,日本国から中華民国に譲渡されたのであるから,昭和27年8月5日同条約の発効により日本の国籍を喪失したことになるのである。」と判示されています。最高裁判所の当該多数意見に基づき考えれば,新南(南沙)群島は,日本国と中華民国との間の平和条約によって1952年8月5日に我が国から中華民国に譲渡されたことになるようです。(しかし,この最高裁判所的解釈は,外務省の心知らずというべきでしょう。表立ったものではありませんが(with no publicity)1952年5月に日本とフランスとは外交当局間で書簡を交換しており,そこにおいて岡崎勝男外務大臣は,日本国と中華民国との間の平和条約2条はサン・フランシスコ平和条約2条(f)項によって含意されたもの以外の特別な意義又は意味(special significance or meaning)を有するものと解釈されるべきではないとのフランス側の理解に同意しています(Tønneson, Stein. “The South China Sea in the Age of European Decline.” Modern Asian Studies 40.1 (2006): 43)。)

 普通は,領土の変更は,国際条約に基づくものでしょう。日本国と中華民国との間の平和条約も,最高裁判所によって(外務省の心はともかくも)領土の変更の原因となる国際条約であるものと考えられたのでしょう。

 

 領土ノ変更ハ国際条約ニ依リテ生ズルヲ普通トス。国際条約ノ外ニ新領土取得ノ原因トシテハ無主地ノ占領ヲ挙グルコトヲ得ベク〔モ〕・・・無主地ハ今日ニ於テハ殆ド其ノ跡ヲ絶チ・・・領土変更ノ通常ノ原因ハ専ラ国際条約ニ在リト謂フコトヲ得。(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)126頁)

 

ただし,奥野健一裁判官は,前記最高裁判所昭和3712月5日判決に係る補足意見で,「私見によれば,わが国はポツダム宣言受諾により台湾等の領土権を放棄したものであり,日本国との平和条約及び日本国と中華民国との間の平和条約は,何れもこれを確認したものと解する。従つて本来の台湾人及びその子孫はわが国がポツダム宣言を受諾した時から,日本国籍を離脱したものと解すべき」と述べています。この点は,美濃部達吉も同様であったようで,1946年8月段階で,「台湾及澎湖列島ハ関東州租借地ト共ニ支那ニ復帰シ,朝鮮ハ独立ノ国家トナリ,樺太ハ蘇聯邦ニ帰属シ,南洋群島ハ米国ノ占領スル所トナリタリ。」と述べています(美濃部・撮要125頁)。「第三国人」とは「敗戦後の一時期,在日朝鮮人・同中国人を指して言った語」と定義されていますが(『新明解国語辞典 第五版』(三省堂・2002年)),これら美濃部枢密顧問官=奥野裁判官的なポツダム宣言の解釈(ポツダム宣言受諾物権行為説ともいうべきでしょうか。)に基づき生まれた言葉でしょうか。これに対して,後になってからの前記最高裁判所の多数意見(そこでは,同裁判所の判例(昭和36年4月5日大法廷判決・民集15巻4号657頁)は「日本の国内法上で朝鮮人としての法的地位をもつた人は,日本国との平和条約発効により,日本の国籍を喪失したものと解している。」とも述べられています。)によれば,日本の国内法上で朝鮮人又は台湾人としての法的地位をもった人については,日本国との平和条約又は日本国と中華民国との間の平和条約の発効(それぞれ1952年4月28日,同年8月5日)前は,なお日本国籍が保持されていたようです。(朝鮮人としての法的地位をもった人と台湾人としての法的地位をもった人とで日本国籍の喪失の時期が違うのは,サン・フランシスコ平和条約2条(a)項では「日本国は,朝鮮の独立を承認」しているのに対して,同条(b)項は台湾及び澎湖諸島の独立を承認してはいないからでしょう。すなわち, 次のような考え方に由来するものでしょうか。いわく,「無人地を抛棄するのは,何人の権利をも侵害するものではないから,敢て立法権の行為を必要とすべき理由は無い」一方,「之に反して現に臣民の居住して居る土地を抛棄することは之を独立の一国として承認する場合にのみ可能であつて,之を無主地として全く領土の外に置くことは,憲法上許されないところと見るのが正当である。何となれば臣民は国家の保護を要求する権利を有するもので,国家は之をその保護から排除することを得ないものであるからである」(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)83頁)。)とはいえ,占領下の実際にあっては,「連合国総司令部の覚書は,あるいは朝鮮人を外国人と同様に取扱い,あるいは「非日本人」という言葉のうちに朝鮮人を含ませ,あるいは「外国人」という言葉のうちに朝鮮人を含ませていた」そうです(上記最判昭和36年4月5日)。なお,「連合国総司令部の覚書に基いて発せられた日本政府の「外国人登録令」〔昭和22年5月2日勅令第207号〕は,朝鮮人を当分の間外国人とみなし,これに入国の制限と登録を強制した」そうですが(上記最判昭和36年4月5日。外国人登録令11条1項は「台湾人のうち内務大臣の定めるもの〔外国人登録令施行規則(昭和22年内務省令第28号)10条によれば「台湾人で本邦外に在るもの及び本邦に在る台湾人で中華民国駐日代表団から登録証明書の発給を受けた者のうち,令第2条各号に掲げる者〔連合国軍又は外交関係者〕以外の者」〕及び朝鮮人は,この勅令の適用については,当分の間,これを外国人とみなす。」と規定),そこでは「みなす」が効いていて,台湾人及び朝鮮人は,なお完全に外国人ではないものとする認識が窺われます。

ちなみに,新南群島がそうであった無主地の領土編入の法形式については,「領土ノ変更ノ為ニ議会ノ議決ヲ経タルコトナシ。事実上ノ占領ニ依リ無主地ヲ領土ト為ス場合ハ条約ニ依ルニ非ズト雖モ,此ノ場合ニ於テモ毫モ臣民ノ自由ヲ制限シ又ハ其ノ権利ニ影響スルモノニ非ザルガ故ニ,法律ヲ以テスルヲ要スル理由ナク,天皇ノ大権ニ依リテ之ヲ為スコトヲ得。其ノ形式ニ於テハ必ズシモ勅令タルヲ要セズ」と説かれていました(美濃部・撮要129頁)。

 

6 日仏友好:Vive la France!

我が外務省のウェッブ・ページによれば,2015年6月7日にドイツのエルマウで安倍晋三内閣総理大臣とオランド・フランス大統領との間で日仏首脳会談があり,その席で安倍内閣総理大臣が「南シナ海では中国による埋め立てが急速に進展しており,この点について懸念を共有したい」と述べたところ,オランド大統領は「南シナ海の状況について懸念を共有する,安全,平和の確保のためには,力ではなく対話による解決が重要である」と答えたそうです。麗しい日仏関係です。

無論,オランド大統領は,「我がフランスによるパラセル(西沙)群島及びスプラトリー(南沙)群島の領有の邪魔をして,その結果としてはChineの南シナ海進出の露払いのような形になり,さらには力を用いて我が仏領インドシナの解体をもたらしたのはどこのどの国だったっけ。本来南シナ海は,フランス文明の海になるはずだったんだぞ。」などと考える意地悪な人ではないはずです。(なお,我が外務省には当然フランス贔屓の人々がいて,前記の1933年7月のフランス政府によるスプラトリー島等に係る領有宣言に関して,同月25日パリ発の在仏長岡大使より内田外務大臣宛の電報においては,「・・・仏国ノ領有ハ米国ニ帰属スルニ比シ遥ニ好都合ト存スルニ付若シ右諸島中本邦トノ経済関係上何分留保スヘキモノアラハ此ノ際之ニ対スル保障ヲ取付ケ且同島ノ軍事施設ニ付華府〔ワシントン〕条約適用ヲ見ルヘキモノナルコトヲ明カニシタル上承認セラルルコト然ルヘキヤニ存ス」と,フランスの領有を認めるべきものとする意見具申がされていました(『日本外交文書 昭和期Ⅱ第2部第2巻(昭和8年対欧米・国際関係)』929頁)。サン・フランシスコ平和条約の承認を求めるための参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会における説明においても,西村政府委員(外務省条約局長)は「新南群島は1939年,日本が一方的に台湾の高雄市の管轄に属せしめた地域であります。その群島につきましては1933年以来,日本とフランスの間にいわゆる先占権について紛争があつて遂に外交上妥結に達しないで,日本のほうで一方的に領域変更の措置をとつた経緯がある地域であります。」と述べており(下線は筆者。第12回国会参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会会議録4号3頁),何やらフランスに同情的な雰囲気がにじんでいました(同政府委員は,この後パリで駐仏大使を務めます。)。2005年段階において,フランスはなお,スプラトリー群島に係る領有権の主張を公式には放棄していないようであると報告されています(Tønneson: 56)。)

ちなみに,日本軍進駐下の仏領インドシナの獄中にいたフランス人ピエール・ブールが後に書いた有名なSF小説が,『猿の惑星』でした。

1 大日本帝国憲法草案からの「法律ノ前ニ於テ平等トス」規定の消失

 1889年2月11日に発布された大日本帝国憲法にはそれとして平等条項が無いところですが,その第19条は「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得」と規定しています。これは,1888年3月の「浄写三月案」(国立国会図書館の電子展示会「史料にみる日本の近代―開国から戦後政治までの軌跡」の「第2章 明治国家の展開」27ウェッブ・ページ参照)の段階で既にこの形になっていました(ただし,「其他」の「」は朱筆で追記)

 しかし,伊東巳代治関係文書の「憲法説明 説明(第二)」は,1888年1月17日付けで作成され同年2月に条文が修正されたものですが(国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができます。),そこでの「第22条」は,「日本臣民タル者法律ノ前ニ於テ平等トス又法律命令ニ由リ定メタル資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其他ノ公務ニ就クコトヲ得」とありました(なお,「法律ノ前ニ於テ平等」は「法律ニ対シ」とすべきか「法律ニ於テ」とすべきか迷いがあったようで,「ニ対シ」及び「ニ於テ」の書き込みがあります。)。すなわち,1888年1月段階では「法律ノ前ニ於テ平等」という文言があったところです。

 188710月の修正後の夏島草案(「浄写三月案」と同様に国立国会図書館のウェッブ・ページを参照)では「日本臣民タル者ハ法律ノ前ニ於テ平等トス又適当ノ法律命令ニ由リ定メタル資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其他ノ公務ニ就クコトヲ得」とありました。同年8月作成時の夏島草案では「第50条 日本臣民タル者ハ政府ノ平等ナル保護ヲ受ケ法律ノ前ニ於テ平等トス又適当ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其他ノ公務ニ就クコトヲ得」とあり,「政府ノ平等ナル保護」まであったところです。

 夏島草案の1887年8月版は,同年4月30日に成立した(小嶋和司「ロエスレル「日本帝國憲法草案」について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)4頁)ロエスレルの草案の第52条の影響を受けたものでしょう。

 

 第52条 何人タリトモ政府ノ平等ナル保護,法律ニ対スル平等及凡テ公務ニ従事シ得ルノ平等ヲ享有ス

 Art. 52.  Jeder geniesst den gleichen Schütz des Staats, Gleichheit vor dem Gesetz und die gleiche Zulassung zu allen öffentlichen Ämtern.

  (小嶋24-25頁参照)

 

「法律ニ対スル平等Gleichheit vor dem Gesetz」は,もっと直訳風にすると「法律の前の平等」になりますね。

なお,「政府」の語は,本来「国家」であるべきものStaatの誤りです(小嶋53頁)

 

2 1831年ベルギー国憲法,1849年フランクフルト憲法及び1850年プロイセン憲法

ところで,ロエスレル草案の「表現は,あくまでロエスレルの脳漿に発するロエスレルの言葉でおこなわれた」ところですが(小嶋39頁),そもそも,臣民権利義務に係る大日本帝国憲法第2章については,「その規定の内容に於いて最も多くプロイセンの1850年1月の憲法の影響を受けて居ることは,両者の規定を対照比較することに依つて容易に知ることが出来る,而してプロイセンの憲法は,此の点に於いて,最も多く1831年のベルジツク憲法及び1848年のフランクフルト国民会議に於いて議決せられた『ドイツ国民の基礎権』の影響を受けて居るもので,随つてわが憲法も亦間接には此等の影響の下に在るものと謂ふことが出来る。」ということですから(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)329頁)1831年ベルギー国憲法,1849年フランクフルト憲法及び1850年プロイセン憲法の当該条文をそれぞれ見てみましょう。

 

(1)ベルギー国憲法6条

まず,1831年ベルギー国憲法。

 

第6条 国内にいかなる身分の区別も存してはならない。

  ベルギー国民は,法律の前に平等である。ベルギー国民でなければ,文武の官職に就くことができない。ただし,特別の場合に,法律によって例外を設けることを妨げない。

  (清宮四郎訳『世界憲法集 第二版』(岩波文庫・1976年)71頁)

 Article 6

    Il n’y a dans l’État aucune distinction d’ordres.

    Les Belges sont égaux devant la loi; seuls ils sont admissibles aux emplois civils et militaires, sauf les exceptions qui peuvent être établies par une loi pour des cas particuliers.

 

(2)フランクフルト憲法137

次に1849年フランクフルト憲法。

 

137条(1)法律の前に,身分Ständeの区別は存しない。身分としての貴族は廃止されたものとする。

 (2)すべての身分的特権は,除去されたものとする。

 (3)ドイツ人は,法律の前に平等である。

 (4)すべての称号は,役職とむすびついたものでないかぎり,廃止されたものとし,再びこれをみとめてはならない。

 (5)邦籍を有する者は,何人も,外国から勲章を受領してはならない。

 (6)公職は,能力ある者がすべて平等にこれにつくことができる。

 (7)国防義務は,すべての者にとって平等である,国防義務における代理はみとめられない。

  (山田晟訳『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)172頁)

§.137.

  [1]Vor dem Gesetze gilt kein Unterschied der Stände. Der Adel als Stand ist aufgehoben.

[2]Alle Standesvorrechte sind abgeschafft.

[3]Die Deutschen sind vor dem Gesetze gleich.

[4]Alle Titel, in so weit sie nicht mit einem Amte verbunden sind, sind aufgehoben und dürfen nie wieder eingeführt werden.

[5]Kein Staatsangehöriger darf von einem auswärtigen Staate einen Orden annehmen.

[6]Die öffentlichen Aemter sind für alle Befähigten gleich zugänlich.

[7]Die Wehrpflicht ist für Alle gleich; Stellvertretung bei derselben findet nicht statt.

 

 なお,美濃部達吉の言う「1848年のフランクフルト国民会議に於いて議決せられた『ドイツ国民の基礎権』」とは,後にフランクフルト憲法に取り入れられた18481227日のドイツ国民の基本権に関する法律Gesetz, betreffend die Grundrechte des deutschen Volksのことでしょうか(山田170頁参照)

 

(3)プロイセン憲法4条

最後に1850年プロイセン憲法。

 

 第4条(1)すべてのプロイセン人は,法律の前に平等である。身分的特権は,みとめられない。公職は,法律の定める条件のもとに,その能力あるすべての者が,平等にこれにつくことができる。

   (山田訳189頁)

 Art.4.  Alle Preußen sind vor dem Gesetz gleich. Standesvorrechte finden nicht statt. Die öffentlichen Aemter sind, unter Einhaltung der von den Gesetzen festgestellten Bedingungen, für alle dazu Befähigten gleich zugänglich.

 

(4)大日本帝国憲法19条との比較

 これらの条項を眺めていると,お話の流れとしては,①身分制を廃止し(ベ1項,フ1項),身分的特権を除去すれば(フ2項,プ2文),②国民は法律の前に平等になり(ベ2項前段,フ3項,プ1文),③その結果国民は均しく公職に就くことができるようになる(ベ2項後段,フ6項,プ3文)ということのようです。フランクフルト憲法137条4項及び5項は身分制の復活の防止,同条7項は平等の公職就任権の裏としての平等の兵役義務ということでしょうか。①は前提,②は宣言,③がその内容ということであれば,我が大日本帝国憲法19条は,前提に係る昔話や難しい宣言などせずに,単刀直入に法律の前の平等が意味する内容(③)のみを規定したものということになるのでしょう。

なお,『憲法義解』における第2章の冒頭解説の部分では,「抑中古,武門の政,士人と平民との間に等族を分ち,甲者公権を専有して乙者預らざるのみならず,其の私権を併せて乙者其の享有を全くすること能はず。公民〔おほみたから〕の義,是に於て滅絶して伸びざるに近し。維新の後,屢大令を発し,士族の殊権を廃し,日本臣民たる者始めて平等に其の権利を有し其の義務を尽すことを得せしめたり。本章の載する所は実に中興の美果を培殖し,之を永久に保明する者なり。」とあって,「士族の殊権を廃し」,すなわち身分的特権を除去して(①),「日本臣民たる者始めて平等に其の権利を有しその義務を尽す」,すなわち法律の前の平等が達成されたものとする(②)との趣旨であろうところの補足的説明がされています1888年3月の「浄写三月案」における当該部分の朱字解説にはなかった文章です。「浄写三月案」では,代わりに,「彼ノ外国ニ於テ上下相怨ムノ余リニ国民ノ権利ヲ宣告シテ以テ譲予ノ契約トナスカ如キハ固ヨリ我カ憲法ノ例ヲ取ル所ニ非サルナリ」とのお国自慢が記されています。)

 

3 ベルギー国憲法流の「法律の前の平等」の意味

 しかし,身分的特権を除去して国民が均しく公職に就けるようにすることのみが法律の前の平等の意味だったのでしょうか。「法律の前の平等」にはもう少し多くの内容があってもよさそうな気もします。そもそもの規定である1831年ベルギー国憲法6条2項における“Les Belges sont égaux devant la loi”の意味を詳しく見てみる必要があるようです。

 便利になったことに,Jean Joseph ThonissenLa Constitution belge annotée, offrant, sous chaque article, l’état de la doctrine, de la jurisprudence et de la legislation1844 年版が現在インターネットで読むことができるようになっています(「東海法科大学院論集」3号(2012年3月)113頁以下の「憲法21条の「通信の秘密」について」を書く際には国立国会図書館まで行って,「これってもしかしたら井上毅も読んだのだろうか」というような古い現物の本(1876年版)に当たったものでした。ちなみに,上記論文執筆当時,1831年ベルギー国憲法の解説本を読もうとして国立国会図書館でフランス語本を探したとき見つかった一番古い本が,当該トニセン本でした。トニセンは,1844年には27歳。刑法学者,後にベルギー国王の大臣)。その22頁以下に第6条の解説があります。

 

 22 立憲国家において法律の前の平等l’égalité devant la loiは,主に4種の態様において現れる。①全ての身分ordresの区別の不在において,②全ての市民が差別なく全ての文武の官職に就任し得ることにおいて,③裁判権juridictionに関する全ての特権の不在において,④課税に関する全ての特権の不在において。平等l’égalitéに係る前2者の態様が第6条によって承認されている。他の2者は,第7条,第8条,第92条及び第112条において検討するものとする。Thonissen, p.23

 

ベルギー国憲法7条は「個人の自由は,これを保障する。/何人も,あらかじめ法律の定めた場合に,法律の定める形式によるのでなければ,訴追されない。/現行犯の場合をのぞいては,何人も,裁判官が理由を付して発する令状によらなければ,逮捕されない。逮捕状は,逮捕のとき,または遅くとも逮捕ののち24時間以内に,これを示さなければならない。」と,第8条は「何人もその意に反して,法律の定める裁判官の裁判を受ける権利を奪われない。」と規定していました(清宮訳71頁)。第92条は「私権にかかわる争訟は,裁判所の管轄に専属する。」と規定しており(同92頁),第112条は「租税に関して特権を設けることはできない。/租税の減免は,法律でなければ,これを定めることができない。」と規定していました(同99頁)。これらはそれぞれ,大日本国帝国憲法23条,24条,57条1項及び62条1項に対応します。

 

 23 このように理解された法律の前の平等は,いわば,立憲的政府の決定的特徴を成す。それは,フランス革命の最も重要,最も豊饒な成果である。かつては,特権privilège及び人々の間の区別distinctions personnellesが,人間精神,文明及び諸人民の福祉の発展に対する障碍を絶えずもたらしていた。ほとんど常に,人は,出生の偶然が彼を投じたその境遇において生まれ,そして死んでいった。立憲議会は,それ以後全ての自由な人民の基本法において繰り返されることになる次の原則を唱えることによって新しい時代を開いた。いわく,「人は,自由かつ権利において平等なものとして出生し,かつ生存する。社会的差別は,共同の利益の上にのみ設けることができる。・・・憲法は,自然的及び市民的権利として次のものを保障しなければならない。第一,全て市民は徳性及び才能以外の区別なしに地位及び職務に就任し得ること。第二,全ての税contributionsは,全ての市民の間においてその能力に応じて平等に配分されること。第三,人による区別なく,同一の犯罪には同一の刑罰が科されること。」と(1791年憲法,人権宣言,第1条及び第1編唯一の条)。Thonissen, p.23

 

「人は,自由かつ権利において平等なものとして出生し,かつ生存する。社会的差別は,共同の利益の上にのみ設けることができる。」とは,1789年の人及び市民の権利宣言の第1条の文言です(山本桂一訳『人権宣言集』(岩波文庫)131頁)1789年の人及び市民の権利宣言は,1791年の立憲君主制フランス憲法の一部となっています(当時の王は,ルイ16世)。トニセンがした上記引用部分の後半は,フランス1791年憲法の第1編(憲法によって保障される基本条項(Dispositions fondamentales garanties par la Constitution))の最初の部分です(ただし,フランス憲法院のウェッブ・ページによると,原文は,「保障しなければならない(doit garantir)」ではなく,単に「保障する(garantit)」であったようです。)

前記伊東巳代治関係文書の「憲法説明 説明(第二)」の第22条(大日本帝国憲法19条)の朱書解説1888年1月)は「本条ハ権利ノ平等ヲ掲ク蓋臣民権利ノ平等ナルコト及自由ナルコトハ立憲ノ政体ニ於ケル善美ノ両大結果ナリ所謂平等トハ左ノ3点ニ外ナラズ第一法律ハ身分ノ貴賤ト資産ノ貧富ニ依テ差別ヲ存スルヿナク均ク之ヲ保護シ又均ク之ヲ処罰ス第二租税ハ各人ノ財産ニ比例シテ公平ニ賦課シ族類ニ依テ特免アルコトナシ第三文武官ニ登任シ及其他ノ公務ニ就クハ門閥ニ拘ラズ之ヲ権利ノ平等トス」と述べていますが,トニセンの書いていることとよく似ていますね。日本がベルギーから知恵を借りたのか,それとも両者は無関係だったのか。最近似たようなことが問題になっているようでもありますが,井上毅はフランス語を読むことができたところです(と勿体ぶるまでもなく,トニセン本及びその訳本は,大日本帝国憲法草案の起草に当たっての参考書でした(山田徹「井上毅の「大臣責任」観に関する考察:白耳義憲法受容の視点から」法学会雑誌(首都大学東京)48巻2号(2007年12月)453頁)。)。ただし,上記引用部分に続く「彼ノ平等論者ノ唱フル所ノ空理ニ仮托シテ以テ社会ノ秩序ヲ紊乱シ財産ノ安全ヲ破壊セントスルカ如キハ本条ノ取ル所ニ非サルナリ」の部分は,トニセンのベルギー国憲法6条解説からとったものではありません。

なお,「①全ての身分ordresの区別の不在」については,「憲法説明 説明(第二)」の第22条(大日本帝国憲法19条)朱書解説は,「維新ノ後陋習ヲ一洗シテ門閥ノ弊ヲ除キ又漸次ニ刑法及税法ヲ改正シテ以テ臣民平等ノ主義ニ就キタリ而シテ社会組織ノ必要ニ依リ華族ノ位地ヲ認メ以テ自然ノ秩序ヲ保ツト雖亦法律租税及就官ノ平等タルニ於テ其分毫ヲ妨クルナシ此レ憲法ノ保証スル所ナリ」と述べています。「法律租税及就官ノ平等タルニ於テ其分毫ヲ妨クルナシ」なのだから,華族制度も問題は無い,ということのようです。

 

 24 1815年の基本法は,この関係において,大いに足らざるところがあった。同法は,三身分ordresの封建的区別を再定立していた。すなわち,貴族又は騎士団身分,都市身分及び村落身分である。主にこの階層化classificationこそが,国民会議Congrès nationalが,国内にいかなる身分の区別も存してはならないと決定して禁止しようとしたものであった(第75〔国王の栄典授与権に関する条項〕のレオポルド勲章を制定した法律に関する議論の分析を参照)。Thonissen, p.23

 

 25 第6条第2項は,全ての市民は全ての文武の官職に差別なしに就任し得ることを宣言するものである。この規定は,法律の前の平等の原則を採用したことの必然的帰結であった。「第二次的な法律において初めてseulement規定されるべきではなく,憲法自身において規定されるべきものである原則は,公職に対する全ての市民の平等な就任可能性の原則である。実際,この種の特典faveursの配分における特権及び偏頗ほど,市民を傷つけ,落胆させるものはない。そして,ふさわしくかつ有能な人物のみを招聘するための唯一の方法は,職を才能及び徳性によるせりにかける以外にはない〔Macarel1833年版Élèm. de dr. pol. (『政治法綱要』とでも訳すべきか)246頁からの引用〕。」Thonissen, pp.23-24

 

 上杉慎吉は,大日本帝国憲法19条について「第19条は仏蘭西人権宣言の各人平等の原則に当たるものである,我憲法は各人平等の原則を定めずして,唯た文武官に任ぜられ公務に就くの資格は法律命令を以て予め定むべく,而して法律命令が予め之を定むるには均しくと云ふ原則に依らなければならぬことを定めたのである・・・均くと云ふのは門閥出生に依りて資格の差等を設けざるの意味である,諸国の憲法が此規定を設けたる理由は従来門閥出生に依つて官吏に任じ公務に就かしめたることあるのを止める趣意でありまするから,均くと云ふのは必しも文字通りに解すべきではありませぬ,例へば男女に就て差等を設くるとも第19条の趣意に反するものではない」と述べていました(同『訂正増補帝国憲法述義』(有斐閣書房・1916年)294-295頁)。大日本帝国憲法19条と1789年のフランスの人及び市民の権利宣言とのつながりがこれだけでは分かりにくかったのですが,その間に1791年フランス憲法並びに1831年ベルギー国憲法及び1850年プロイセン憲法が介在していたのでした。

 しかし,ヨーロッパAncien Régimeの身分制のえげつなさが分からなければ,当時唱えられるに至った「法律の前の平等」の意味もまたなかなか分からないようです。
 なお,尊属殺人罪に係る刑法200条を違憲とした最高裁判所大法廷昭和48年4月4日判決(刑集27巻3号265頁)に対する下田武三裁判官の反対意見では「わたくしは,憲法14条1項の規定する法の下における平等の原則を生んだ歴史的背景にかんがみ,そもそも尊属・卑属のごとき親族間の身分関係は,同条にいう社会的身分には該当しないものであり,したがつて,これに基づいて刑法上の差別を設けることの当否は,もともと同条項の関知するところではないと考えるものである。」と述べられていましたが,そこにいう「歴史的背景」とは,前記のようなものだったわけでしょう。 

1 大日本帝国憲法14条と31

 大日本帝国憲法141項は「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」と,同条2項は「戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」と規定しています。これに対して,同憲法31条は「本章〔臣民権利義務の章〕ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」と規定しています。(なお,「戒厳」は,ドイツ語の「Belagerungszustand」,フランス語の「l’état de siège」に対応するものとされていますが,後2者は,直訳風には,「被包囲状態」ということですね。)

 美濃部達吉は,大日本帝国憲法31条に相当する規定として旧プロイセン憲法111条(「戦争又ハ内乱ニ際シ公共ノ安寧ニ対シ危害切迫スルトキハ時及場所ヲ限リ憲法第5条第6条第7条第27条第28条第29条第30条及第36条ノ効力ヲ停止スルコトヲ得。詳細ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」)を挙げつつ「併しプロイセン憲法の此の規定は即ち戒厳の宣告に付いての規定に外ならぬ。然るにわが憲法に於いては第14条に別に戒厳の事を定めて居るのであつて,若し本条〔第31条〕の規定を以てプロイセンの右の規定に相当するものと為さば,本条と第14条とは全く相重複したものとならねばならぬ。本条の規定が甚だ不明瞭な所以は此の点に在る。」と述べています(同『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)415頁)。大日本帝国憲法14条の戒厳の規定と同憲法31条の「非常大権」の規定との違いは何なのかが問題になっているわけです。(美濃部の大日本帝国憲法31条解釈については,「軍事機密『統帥参考』を読んでみる」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1000685083.html参照)

 

2 プロイセン憲法111条と関係条項

 なお,旧プロイセン憲法111条に掲げられた同憲法の諸条項は,次のとおり。

 

第5条 身体の自由(persönliche Freiheit)は,保障される。その制限,特に身柄拘束が許される条件及び方式については,法律で規定される。

第6条 住居は,不可侵である。そこへの立入り及び家宅捜索並びに信書及び書類の押収は,法律によって規定された場合及び方式においてのみ許される。

第7条 何人も,法律で定められた裁判官から阻隔されることはない(Niemand darf seinem gesetzlichen Richter entzogen werden.)。例外裁判所及び非常委員会は,認められない。

27条 各プロイセン人は,言葉,文章,印刷物又は図画的表現をもってその意見を自由に表明する権利を有する。

検閲は,導入され得ない。プレスの自由(Preßfreiheit)に係る全ての他の制限は,立法による。

28条 言葉,文章,印刷物又は図画的表現によって犯された違法行為は,一般の刑法に従って処罰される。

29条 全てのプロイセン人は,事前の官庁の許可を要さずに,平和的に,かつ,武器を携帯しないで,閉鎖された場所で(in geschlossenen Räumen)集会する権利を有する。

当該規定は,屋外での(unter freiem Himmel)集会には関係しない。屋外での集会は,事前の官庁の許可についても,法律の規定に服する。

30条 全てのプロイセン人は,刑法に反しない目的のために,結社する権利を有する。

法律によって,特に公安の維持のために,本条及び上記第29条において保障された権利の行使は規制される。

政治団体は,立法によって,制限及び一時的禁止に服せしめられ得る。

36条 兵力(bewaffnete Macht)は,国内の暴動の鎮圧及び法の執行のために,法律により定められた場合及び方式において,かつ,文官当局(Zivilbehörde)の要請に基づいてのみ使用されることができる。後者に関しては,法律は例外を定めるものとする。

 

3 プロイセン戒厳法とフリードリッヒ=ヴィルヘルム4世

 

(1)プロイセン戒厳法

 我が戒厳令(明治15年太政官布告第36号)はプロイセンの戒厳法(Gesetz über den Belagerungszustand vom 4. Juni 1851)の影響を受けたものでしょうが(ただし,日露戦争前の陸軍省内では「日本の戒厳令が1849年のフランス合囲法を参考に立案された」とされていたようです(大江志乃夫『戒厳令』(岩波新書・1978年)99頁参照)。),それでは当該プロイセン戒厳法はどのようなものであったのか。まずは,以下に訳出を試みます。インターネット上にあるwww.verfassungen.deのテキストが,底本です。

 

第1条 戦時において,敵に脅かされ又は既に一部占領された地方(Provinzen)においては,各要塞司令官は指揮下の要塞及びその周辺地帯(Ravonbezirke)を,ただし軍団司令官(der kommandirende General)は軍団管区又はその一部を,防衛の目的のために,戒厳状態にあると宣告する(in Belagerungszustand zu erklären)権限を有する。

第2条 暴動の場合(Fall eines Aufruhrs)においても,公安(die öffentliche Sicherheit)上急迫の危険があるときは,戒厳は,戦時又は平時を問わず宣告され得る。

戒厳宣告(Erklärung des Belagerungszustandes)は,そこで(alsdann)内閣(Staats-Ministerium)から発せられる。ただし,暫定的(provisorisch)かつ内閣による即時の確認(Bestätigung)又は撤回(Beseitigung)にかからしめられたものであり得る。急迫の場合においては,個別の場所及び地域に関して,該地における最高位軍事指揮官によって(durch den obersten Militairbefehlshaber in denselben),地方長官の要請に基づき(auf den Antrag des Verwaltungschefs des Regierungsbezirks),又は遅滞が危険をもたらすときは当該要請なしに,発せられ得る。

要塞においては,暫定的戒厳宣告は,要塞司令官から発せられる。

第3条 戒厳宣告は,太鼓の打鳴又は喇叭の吹鳴によって公示され,並びに更に地方自治体役場への連絡,公共の広場での掲示及び公衆向け新聞(öffentliche Blätter)によって遅滞なく周知される。戒厳の解止(Aufhebung)は,地方自治体役場への通知及び公衆向け新聞によって周知される。

第4条  戒厳宣告の公示(Bekanntmachung der Erklärung des Belagerungszustandes)に伴い,執行権は軍事指揮官に移譲される。文官当局及び地方自治体役場は,軍事指揮官の命令及び指示に従わなければならない。

その命令について,当該軍事指揮官は,個人的に責任を負う(persönlich verantwortlich)。

第5条  戒厳宣告に当たって憲法第5条,第6条,第7条,第27条,第28条,第29条,第30条及び第36条又はその一部の効力を時及び場所を限って停止することが必要であると認められた場合には,関係する規定が戒厳宣告の公示中に明示されるようにし,又は別の,同様の方法(第3条)で公示される命令において公布されるようにしなければならない。

上記の条項又はその一部の停止は,戒厳状態にあると宣告された地域及び戒厳期間中においてのみ効力を有する。

第6条 軍関係者には,戒厳期間中,戦時のための法令が適用される。この命令の第8条及び第9条も彼らに適用される。

第7条 戒厳状態にあると宣告された場所及び地域にあっては,部隊の指揮官(要塞においては,司令官)が部隊に所属する軍関係者全体に対して上級軍事裁判権(höhere Militairgerichtsbarkeit)を有する。

彼には,軍関係者に対する戦時法上の裁判(kriegsrechtlichen Erkenntnisse)を認可する(bestätigen)権利も帰属する。そこにおける例外は,平時における死刑判決のみである。これは,地方の軍司令官の認可(Bestätigung des kommandirenden Generals der Provinz)に服する。

下級裁判権の行使については,軍刑法典の規定のとおりである。

第8条 戒厳状態にあると宣告された場所又は地域において,故意による放火,故意による溢水の惹起,又は武装軍人若しくは文武の当局関係者に対する公然たる暴力による,及び武器若しくは危険な道具を用意しての攻撃若しくは反抗の罪を犯した者は,死刑に処する。

酌むべき情状がある場合は,死刑に代えて,10年以上20年以下の懲役に処することができる。

第9条 戒厳状態にあると宣告された場所及び地域において次に掲げる行為をした者は,既存の法律にそれより重い自由刑が規定されていない場合は,1年以下の軽懲役に処せられる。

a)敵又は叛徒の数,進軍方向又は勝利の風聞に関し,文武の当局をしてその措置において過誤を生ぜしめるおそれのある虚偽の風評を故意に拡散し,又は広めること。

b)戒厳宣告に当たって又はその期間中において軍事指揮官が公安のために発した禁制に違反し,又は当該違反をすることを求め,若しくはそそのかすこと。

c)暴動,反抗的行為,囚人の解放の犯罪又はその他第8条に規定された犯罪を行うよう,たとい成功しなくとも,求め,又はそそのかすこと。

d)軍人身分の者に対して,不服従の罪を犯し,又は軍の規律及び秩序に違反するよう誘うことを試みること。

10条 憲法第7条の停止下で軍法会議の管轄が生ずるときは(Wird...zur Anordnung von Kriegsgerichten geschritten),叛逆(Hochverrat),外敵通謀(Landesverrat),謀殺,暴動,反抗行為,鉄道及び電信の破壊,囚人の解放,集団反抗(Meuterei),強盗,略奪,恐喝,兵士の裏切りへ向けた誘惑の犯罪並びに第8条及び第9条において刑罰の定められた犯罪及び違反行為に係る予審(Untersuchung)及び審判(Aburtheilung)は,これらの犯罪及び違反行為が戒厳宣告及び戒厳の公示の後に着手され,又は続行された犯罪である限り,軍法会議が行う。

全王国に統一刑法典が施行されるまでは,ケルンのライン控訴裁判所管区においては,内外に係る国家の安全に対する犯罪及び違反行為(ライン刑法典第75条から第108条まで)は,叛逆及び外敵通謀とみなされる。

憲法第7条の停止が内閣から宣告されない場合は,平時においては,軍法会議によって開始された予審に係る判決の執行は,当該憲法条項の停止が内閣によって承認される(genehmigt ist)まで延期される。

11条 軍法会議は5名の裁判官によって構成される。そのうち2名は該地の司法裁判所の幹部によって指名された司法文官,3名は該地における指揮権を有する軍事指揮官によって任命される士官でなければならない。士官は,大尉以上の階級でなければならない。当該階級の士官が不足するときは,欠員は次位の階級の士官をもって補充される。

敵に包囲されている要塞において必用な数の司法文官がいないときは,責任ある軍事指揮官によって(von dem kommandirenden Militairbefehlshaber),市町村会の議員から(aus den Mitgliedern der Gemeindevertretung)補充される。要塞に司法文官がいない場合でも,軍法会議には一人の文民法務官がいるものとする(Ist kein richterlicher Civilbeamte in der Festung vorhanden, so ist stets ein Auditeur Civilmitglied des Kriegsgerichts)。

一地方全部又はその一部が戒厳状態にあると宣告された場合,軍法会議の数は,必要によって定められる。このような場合において,各軍法会議の管轄区域は,軍団司令官(der kommandirende General)が定める。

12条 軍法会議の期日において,裁判長は司法官(ein richterlicher Beamter)が務める。

裁判長は,軍法会議が事務(seine Geschäfte)を開始する前に,当該軍法会議の裁判官となった士官及び場合によっては司法官ではないにもかかわらず裁判官となった文民に対して,委嘱された司法官としての義務を良心と不偏不党性をもって,法に従って果たす旨宣誓させる。

士官である軍法会議裁判官を任命した軍事指揮官は,一人の法務官(Auditeur)又は法務官がいない場合は一人の士官を報告官(Berichterstatter)〔検察官〕として委嘱する。報告官は,法の適用及び運用に注意し,申立てを通じて真実を捜査することを求める義務を有する。報告官は,評決に加わらない。

手続事項の処理(Führung des Protokolls)のため,軍法会議裁判長によって指名され,同人によって宣誓させられる文官行政官(Beamter der Civilverwaltung)が,裁判所書記官(Gerichtsschreiber)として召致される。

13条 軍法会議における手続には,次の規定が適用される。

1 手続は口頭かつ公開である。ただし,公共の福祉の見地から適当と認めるときは,軍法会議は,公表される決定をもって,公開性を排除することができる。

2 被告人は,一人の弁護人によって弁護されることができる。一般刑法によれば(nach dem allgemeinen Strafrecht)1年以下の軽懲役より重い刑を科される犯罪又は違反行為の場合において,被告人が弁護人を選任しないときは,軍法会議裁判長は,職権で弁護人を付さなければならない。

3 報告官は,被告人出席の下,同人の責めに帰せられる事実を陳述する。

被告人は,当該事実についての意見陳述を求められ,続いて,他の証拠の申出を行う。

次に,報告官に対して尋問の結果及び法の適用に関する陳述が,最後に,被告人及び弁護人に対して意見陳述が認められる。

判決は,即時かつ非公開である軍法会議の評議において多数決で決せられ,直ちに被告人に宣告される。

4 軍法会議は,法定の刑を科し,若しくは無罪を宣告し,又は通常裁判官への(an den ordentlichen Richter)移送を命ずる。

無罪を宣告された者は,直ちに勾留から釈放される。通常裁判官への移送は,軍法会議が管轄を有しないものと認めた場合に行われる。この場合において,軍法会議は,勾留の継続又は終了について,判決において同時に別途定めをする。

5 判決書には,公判の日付,裁判官の氏名,被告人に対する公訴事実に対する同人の弁明の要旨,証拠調べに係る言及並びに事実問題及び法律問題に係る判断並びに当該判決が基づいた法令が記載されなければならず,全ての裁判官及び裁判所書記官によって署名されなければならない。

6 軍法会議の判決に対する上訴は,認められない。ただし,死刑に処する裁判は,第7条に規定する軍事指揮官の認可に服し,平時であれば地方の軍司令官の認可に服する。

7 死刑を除く全ての刑は裁判の宣告の後24時間以内に,死刑はそれに続く認可の公示から同期間内に,被宣告者に対して執行される。

8 死刑は,銃殺によって執行される。死刑に処する裁判が戒厳の解止の時になお執行されていなかった場合においては,その刑は,証明済みのものとして軍法会議によって認められた事実に対する戒厳を除外した場合の法的帰結たるべき刑に,通常裁判所によって(von den ordentlichen Gerichten)変更される。

14条 軍法会議の活動は,戒厳の終結(Beendigung)に伴い終了する。

15条 戒厳の解止後は,関連事項(Belagstücken)及びそれに属する審理(dazu gehörenden Verhandlungen)を含む軍法会議のした全ての判決並びに進行中の予審は,通常裁判所に移管される。通常裁判所は,軍法会議がなお審判していない事項については通常刑法に従い(nach den ordentlichen Strafgesetzen),及び第9条の場合に限り同条において規定された罰則に従って,裁判しなければならない。

16条 戒厳が宣告されていない場合であっても,戦争又は暴動の場合において公安に対する急迫の危険があるときは,憲法第5条,第6条,第27条,第28条,第29条,第30条及び第36条又はその一部は,内閣によって,期間及び場所を定めて,効力を停止されることができる。

17条 戒厳宣告並びにそれに伴う(第5条),又は第16条の場合に行われる,第5条及び第16条に掲げられた憲法の条項の停止(一部の停止を含む。)の宣告については,直ちに,それぞれ次の召集の際に両議院に(den Kammern)報告されなければならない。

18条 この法律と抵触するすべての規定は,廃止される。

この法律は,1849年5月10日の命令及び1849年7月4日の宣言(法律全書165頁及び250頁)に代わるものである。

 

     フリードリッヒ=ヴィルヘルム

     〔以下大臣の署名は略〕

 

 背景事情もよく知らないまま辞書だけを頼りに訳すのは,いささか大きな困難を伴いましたRavonbezirke」及び「Belagstücken」が特に難物で,手元のドイツ語辞書を引いても出てこないので,それぞれの訳は推測によるものです。他日の補正を期せざるを得ません。

 ただし,少なくとも訳してみて分かったのは,プロイセン王国の場合,戒厳宣告を発する主体として法文上,内閣(Staats-Ministerium)や軍の司令官は出てきますが,国王(König)は出てこないことです。

 

(2)フリードリッヒ=ヴィルヘルム4世

 なお,1851年6月4日のプロイセン戒厳法に署名したフリードリッヒ=ヴィルヘルムは,第4世(在位1840年‐1861年)でした。「父王〔フリードリッヒ=ヴィルヘルム3世〕は外交でも内政でも,自由主義と反動主義のあいだをさまよい,軍人気質が強かったが,新しい王は美貌の母ルイゼをしのばせる,ととのった顔つきをし,芸術や学問のディレッタントで,どこか文化のにおいをただよわせていた。国民は,プロイセンにも明るい時代がおとずれることを期待した。」とは,即位時のフリードリッヒ=ヴィルヘルム4世に関する描写です(井上幸治『世界の歴史12 ブルジョワの世紀』(中央公論社・1961年)283頁)。(父王フリードリッヒ=ヴィルヘルム3世とその王妃ルイゼとは,ナポレオン相手の戦いに苦労しています。)ワイマルの老ゲーテも1828年3月11日の段階において当時のプロイセン皇太子フリードリッヒ=ヴィルヘルムを高く評価していました。いわく,「私は今プロイセンの皇太子に,大きな期待を寄せている。私が彼について見聞したことのすべてから推測すると,彼は,そうとうな傑物だよ。また役に立つ才能豊かな人材をみとめて登用するということは,傑物にしてはじめてできることだ。なぜなら,何といっても類は友を呼び,自分自身偉大な才能をそなえている君主だけが,またその臣下や従僕の偉大な才能をそれ相応に認め,評価できるにちがいないからだ。『人材に道をひらけ!』とは,ナポレオンの有名な金言であった・・・」(山下肇訳『ゲーテとの対話』(岩波文庫・2012年))。ところが,フランス二月革命の1848年になると「フリードリヒ=ウィルヘルム4世は,即位以来,しだいに絶対君主になろうとしていた。興奮と銷沈をくりかえす安定性のない性格の持主で,西欧デモクラシーと対決する決意ばかりはかたかった。」というような人物になっていました(井上383頁)。同年3月18日のベルリンでの騒乱に際しては,王宮の窓からその様子を見つつ「「人民の暴力と違法には耳をかさない」と強気なことをいっていた」そうです(井上384頁)。その翌年になると,「〔1849年4月3日,フリードリヒ=ウィルヘルムは,帝冠と憲法をささげるフランクフルト議会の代表をポツダム宮殿に引見した。しかし王は,他の諸王侯の同意のあるまではこれをうけるわけにはいかない,と拒絶した。人民集会の手から,「恥辱の帝冠」をうけることはできないという意味だった。フリードリヒ=ウィルヘルムは,そこで,この憲法を支持した下院を解散し,フランクフルト議会の派遣議員に解任を申しわたした」ところです(井上397398頁)。「恥辱の帝冠」とはSchweinekrone(豚の冠)の訳のようですフリードリッヒ=ヴィルヘルム4世は子の無いまま歿し,プロイセン王位は,弟である後の初代ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルムが継ぎます。
 なお,フリードリッヒ=ヴィルヘルム4世の人材鑑識眼に関する逸話として,同王は1848年の「三月革命のとき,ある書類のビスマルクの名の余白に,「銃剣が無制限の支配をおこなうときにのみ採用すべき人物」と書きつけたといわれ,彼は王の意中の人物であった。」とされています(井上459頁)。 

 

4 フランス1878年戒厳法の場合

 大日本帝国憲法起草期に施行されていたフランスの1878年4月3日の戒厳(l’état de siège)に関する法律においては,戒厳の宣告(déclaration)は法律によってされることが本則とされていました(同法1条2項)。ただし,両議院が会期外にあるときには,共和国大統領が,内閣の意見に基づいて,臨時に戒厳を宣告することができました(同法2条,3条。戒厳の継続又は解止は,両議院の判断に服しました(同法5条)。)。アルジェリアにおいては,通信が途絶した場合には,総督が,アルジェリアの全部又は一部が戒厳下にあることを宣告できました。他のフランス植民地においては,総督が戒厳宣告を行い,本国政府に直ちに報告すべきものとされていました(同法6条によって維持された1849年8月9日の戒厳に係る法律4条)。国境又は国内の要塞(places de guerre)又は軍事基地(postes militaires)においては,1791年7月10日の法律及び18111224日のデクレによって規定された場合には,軍事司令官が戒厳宣告をすることができ,当該司令官は政府に直ちに報告すべきものとされていました(1878年4月3日の法律6条によって維持された1849年8月9日の法律5条)。

 

5 大日本帝国憲法14

 以上,プロイセン及びフランスとの比較で見てみると,大日本帝国憲法14条1項には,戒厳の宣告についてフランス第三共和国流に議会が中心的な役割を果たすことを排除する一方,戒厳の宣告をプロイセン式に軍の司令官や内閣に任せるものとすることもせずに天皇自らが掌理するものとする,という意味があったもののように思われます。

 確かに,国立国会図書館ウェッブ・サイトにある「大日本帝国憲法(浄写三月案)」(1888年3月)記載の第14条の解説を見ると,「(附記)之ヲ欧洲各国ニ参照スルニ戒厳宣告ノ権ヲ以テ或ハ専ラ之ヲ議会ニ帰スルアリ  或ハ之ヲ内閣ニ委ヌルアリ 1881年法 独リ独逸帝国ノ憲法ニ於テ之ヲ皇帝ニ属シタルハ尤立憲ノ精義ヲ得ル者ナリ」とあって,大日本帝国憲法14条の主眼としては,戒厳宣告権を天皇に属するものとしたということがあるようです。

 ただし,大日本帝国憲法における天皇の戒厳宣告の大権については,「特に憲法又は法律に依り之を帷幄の大権に任ずることが明示されて居らぬ限りは,国務上の大権の作用として,言ひ換ふれば内閣の責任に属する行為として行はるのが,当然である。枢密院官制〔6条7号〕に依り戒厳の宣告が枢密院の諮詢を経べき事項として定められて居るのを見ても,わが国法が之を国務上の大権の行為として認めて居ることを知ることが出来る。」ということになっていました(美濃部282頁)。すなわち,天皇の独裁というわけではありません。公式令(明治40年勅令第6号)制定前の日清・日露戦争時の戒厳の宣告は,勅令の形式でされ,陸軍大臣のみならず内閣総理大臣も副署しています(美濃部283頁)。
 ちなみに,1882年に元老院の審査に付された戒厳令案においては,第3条に基づき戒厳の「布告」をする者は太政大臣であるものと記されていました(大江55頁参照)。しかしながら,元老院での審議を経て当該「太政大臣」の文字は削られ,制定された戒厳令では同令3条の「布告」の主体は明示されなくなりましたが,これは,「布告とは布告式にもとづいて勅旨を奉じ太政大臣が布告することに定められた制定公布の手続をへたものに限られ」たからだそうです(大江60頁)。「勅旨を奉」ずるわけですから,天皇の意思に基づくものであるわけです。 

 1887年8月完成同年10月修正の大日本帝国憲法の「夏島憲法案」の画像を見ますと,後の大日本帝国憲法14条については,当初は同条1項の規定に相当するものしかなかったところが,後から同条2項の前身規定(「戒厳ノ要件ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」)が別の筆跡で追記されています。同年4月30日成立のロエスレル草案76条2項「天皇ハ戒厳ヲ宣告スルノ権ヲ有ス其結果ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム(Er der Kaiser hat das Recht, den Belagerungszustand zu erklären; die Folgen desselben warden durch Gesetz bestimmt.)」(小嶋和司「ロエスレル「日本帝國憲法草案」について」『明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)3031頁)の方向に戻ったとも評し得るでしょうか(ただし,「要件」と「効果」(Folgen)とはなお違いますが。)。大日本帝国憲法14条の第2項追加の趣旨は,1888年6月22日午後の枢密院会議において伊藤博文議長から明らかにされています。「外敵内乱其他非常〔「アジア歴史資料センター」のクレジットに隠れて1字見えず〕事変ニ遭遇シタルトキニハ戒厳ノ要件ハ其時機ニ応シテ定ムルモノニシテ予メ法律ヲ以テ之ヲ定メ置クコト頗ル困難ナラントス」云々という森有礼文部大臣の第14条2項削去論に対する回答です。

 

 ・・・抑戒厳令ハ平時ニ之ヲ施行スルモノニアラサレトモ予メ議会ノ議ヲ経タ法律ト為スヘキモノナリ何トナレハ戒厳ヲ宣告スレハ其地方ニ於テハ民権ヲ検束シ人民ノ自由権ヲ禁制スルモノナレハナリ但之ヲ実施スルヤ否ニ至テハ天皇陛下ノ権限ニシテ議会ノ議ヲ経ルニ及ハサルモノナリ

 

ただし,大日本帝国憲法第14条2項に「及効果」が入ったのは,1889年1月16日の枢密院会議の段階でした。大きな変更であるはずですが,その際に議論はありませんでした。なお,法令の形式をそれにより定めた公文式(明治19年勅令第1号)の施行後,戒厳令は,法律ではなく勅令の扱いであったところですが(戒厳令の改正が,法律ではなく,明治19年勅令第74号でされている。),大日本帝国憲法の発布に伴い法律レベル(勅令と異なり, 民選議院を含む帝国議会の協賛を要する。)に昇格したことになります。

 

6 戒厳令と大日本帝国憲法31

大日本憲法14条と31条との関係については,1888年6月27日午後の枢密院会議で,井上毅枢密院書記官長が「本条〔大日本帝国憲法31条〕ハ即チ明治15年発布ノ戒厳令ニ関係アルモノニシテ事変(○○)ノ文字ハ仏語ノニテ「インサルレクシヨン」ト云フ」と述べています。同じ会議で井上はまた,山田顕義司法大臣の大日本帝国憲法31条の「事変(○○)ノ文字ハ意味甚ク漠然タリ日本ノ戒厳令ヨリ転シテ来ルモノナルヤ若シ法律ノ明文ニ此文字ナケレハ本官ハ事変(○○)ノ文字ヲ内乱(○○)ト修正センコトヲ望ム」との発言に対して,「戒厳令第1条ニ「戦時若クハ事変(○○)ニ際シ」云々トアリ是レ即チ法律ノ明文ナリ」と答えています。大日本帝国憲法31条と14条(戒厳令)とは相互に関係あるものとあっさり認めていながら,美濃部達吉のように,両条が「相重複」して第31条の規定が「甚だ不明瞭」になっているとは考えていなかったようです。ただし,前記の1889年1月の修正によって戒厳の効果も法律によって定められることとなる前の段階における議論ではあります(すなわち,戒厳宣告の場合,臣民の権利は法律に基づかずとも制限され得るものとすると構想されていた段階での議論です。)。ちなみに,以上のような枢密院での議論は,美濃部は詳しくは知らなかったようです。1927年の段階で美濃部は,大日本帝国憲法案を審議した「枢密院に於ける議事録も今日まで秘密の中に匿されて居つて,吾々は全く之を知ることの便宜を得ないのは遺憾である。」と述べています(美濃部15頁)。

なお,「事変」に係る大日本帝国憲法31条の用語は,1889年1月29日午後の枢密院会議で,やはり「内乱」に一度改められています。伊藤博文の説明は,「単ニ事変トノミニテハ其区域分明ナラス故ニ内乱ト改ム戦時ハ主トシテ外国ニ対シテ云フ」とのことだったのですが,山田顕義はどう思ったことやら。しかしながら,「内乱」の文字はやはり「穏当ナラサル」ものだったようで,同月31日の枢密院会議の最後になって「国家事変」に最終的に改められています。榎本武揚逓信大臣が「事変」でよいではないかと発言したところ,伊藤枢密院議長の回答は「唯事変ノミニテハ瑣細ノ事変モ含蓄スルノ嫌ヒアリ故ニ国家事変トシタルナリ」ということでした。

大日本帝国憲法31条が戒厳に関係のあることが当然とされていたところで,森有礼の大日本帝国憲法14条2項(戒厳宣告要件法定条項)削去論があえて排斥され,実は1889年1月16日の段階に至ってから戒厳宣告の効果について法律で定める旨枢密院で明文化されているのですから,「本条〔大日本帝国憲法31条〕の規定の結果としては,戒厳の宣告せられた場合の外に,尚大本営の命令に依つても一般人民に対し軍事上必要なる命令を為し得るものと解せねばならぬ」もの(美濃部417418頁)であったと直ちに論断すべきものかどうか。「本条〔大日本帝国憲法31条〕の規定を以て戒厳の場合のみを意味するものと解するならば,本条は第14条と全然相重複し無意味の規定とならねばならぬ。」として(美濃部417頁),わざわざ統帥権の独立を前提とした議論(「本条〔大日本帝国憲法31条〕の大権は政務に関する天皇の大権に属するものではなく,陸海軍の大元帥としての天皇の大権に属するものである」(同416頁)。)までをすべきだったものかどうか。考えさせられるところです。あるいは,1889年1月16日にされた第14条2項の修正がもたらす第31条への跳ね返りを,当時の枢密顧問官らは後の枢密顧問官美濃部達吉ほど鋭く見通してはいなかったということはないでしょうか。(なお,国立国会図書館デジタルコレクションにある伊東巳代治関係文書の「憲法説明 説明(第二)」(1888年1月・同年2月条文修正)における大日本帝国憲法31条に対応する第35条(「本章ニ掲クル条規ハ戦時又ハ事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルヿナシ」)の朱書解説は,あっさりと,「本条ハ即チ・・・非常処分ノ変例ヲ掲ケ以テ本章ノ為ニ非常ノ変ヲ疏通スル者ナリ此ノ非常処分ヲ行フニ一個ノ方法アリ第一戒厳令ヲ宣告ス第二戒厳ノ一部ヲ行フコト是ナリ」と述べています。大日本帝国憲法の「第14条と第31条は完全な重複規定であり,第31条が第14条とは別個の非常大権を規定したものとは考えがたい。」という評価(大江77頁)は,「完全な重複」という表現において強過ぎますが,確かに,第31条が「別個の非常大権を規定したものとは考えがたい」ということでもよかったのではないでしょうか。) 

 

7 ドイツ帝国憲法68

なお,「大日本帝国憲法(浄写三月案)」によれば大日本帝国憲法14条1項の規定が参考としたのは1871年のドイツ帝国憲法ですが,当該憲法における戒厳に関する規定について,美濃部達吉は次のように紹介しています。

 

・・・旧ドイツ帝国憲法(68条)に依れば,皇帝が戒厳宣告の権を有するものとせられて居り,而も,それは第9章の「帝国軍隊」と題する章に規定せられて居り,且つドイツ帝国の前身である北ドイツ聯邦の憲法には,戒厳の宣告は元首(Reichspräsidium)の大権でなくして,大元帥(Bundesfeldherr)の大権であることが明示せられて居つた為に,旧ドイツ憲法に於いてもそれは大元帥としての皇帝の軍令大権に属するものと解せられ,随つてその宣告には国務大臣の副署を要しないものとせられて居た。(美濃部283頁)

 

  1871年ドイツ帝国憲法68条は,「皇帝は,連邦の領域において公安(die öffentliche Sicherheit)が脅かされているときは,当該地域について,戦争状態にあるもの(in Kriegszustand)と宣告できる。そのような宣告の要件,公布の方式及び効果について規定する帝国法律が発せられるまでは,1851年6月4日のプロイセン法(法律全書1851451頁以下)の規定が適用される。」と定めていました。1851年6月4日のプロイセン法とは,プロイセン戒厳法のことです。独立統帥権を有する大元帥が宣告する戒厳であっても,その要件及び効果は,法律で縛られていたのでした。(なお,我が国における戒厳の宣告の方式については,法律ではなく勅令である公式令で定められており,その第1条によって,詔書によるべきものでありましたが(美濃部283284頁参照),公式令施行後は本来の戒厳の宣告はされていません。日比谷焼打ち事件,関東大震災及び二・二六事件の際の「戒厳」は,戒厳令それ自体による本来の戒厳ではありませんでした(行政戒厳)。)。
 ところで,注意すべきは,ドイツ帝国は諸王国・自由都市から構成される連邦国家であったことです。プロイセン国王たる皇帝は,帝国内の他の王国・自由都市については,大元帥ではあっても,軍事その他の帝国管轄事項以外の分野では第一次的統治権者ではなかったはずです。天皇による戒厳の宣告及び戒厳宣告の効果の法定主義を規定するロエスレル草案76条は,「第1章 天皇(Vom Kaiser)」にではなく,「第6章 行政(Von der Verwaltung)」に置かれていたところです(なお,ロエスレル草案でも統帥関係の「第9条 天皇ハ陸海軍ノ最高命令ヲナシ平時戦時ニ於ケル兵員ヲ定メ及兵ニ関スル凡テノ指揮命令ヲナス」及び「第10条 天皇ハ宣戦講和ノ権ヲ有シ戦権ヲ施行スル為必要ナル勅令ヲ発ス」といった規定はやはり,「行政」の章ではなく,「天皇」の章にありました(小嶋12‐13頁)。)。ロエスレルらドイツの法学者も,戒厳の宣告は本来国務であって,ドイツ皇帝の大元帥としての戒厳宣告は,ドイツ帝国が連邦国家であるという事情ゆえのものとしていたと考えられるように思われます。

 

1 矢内原忠雄教授の「国家の理想」

 東京帝国大学経済学部の矢内原忠雄教授が193712月1日に辞表を提出し,同月4日に退官したいわゆる矢内原事件の原因の一つとして挙げられているのが同年8月に発行された『中央公論』同年9月号掲載の同教授の論説「国家の理想」です(脱稿日は同年8月10日とされています。)。

 

  かくして我らが国家の理想として認識するところは,社会的かつ組織的なる原理,換言すれば社会に組織を付与するところの根本原理でなければならない。かかる性質を有する原理は『正義』である。正義とは人々が自己の尊厳を主張しつつ同時に他者の尊厳を擁護すること,換言すれば他者の尊厳を害せざる限度において自己の尊厳を主張することであり,この正義こそ人間が社会集団を成すについての根本原理である。かかる正義原則の確立維持は,社会成員中強者弱者間の関係の規律において特に重要である。さらに具体的に言えば,弱者の権利をば強者の侵害圧迫より防衛することが正義の内容である。・・・

 

  右のごとく正義が国家に基底を与えるところの,国家以上の原理であるとすれば,それは単に国家内において国家構成員たる各個人各団体相互間の関係の規律,すなわちいわゆる『社会正義』としてのみでなく,国家相互間の関係を規律するもの,すなわち『国際正義』としても妥当しなければならない。国家内にありて強者が自己の生存上の必要という名目のもとに弱者の権利を侵害することが正義原則に反するものであって,国家の本質,国家の理想を裏切り,国家の品位を毀損するものであるごとく,国際間にありて○○○○○○○○○(強国が自国生存上の)必要と称して○○○(弱国の)権利利益を○○○○(侵害する)こともまた正義原則に反するものであり,国家の国家たるゆえんの本質に悖り,国家の理想を裏切り,国家の品位を害するものと言わねばならない。・・・

 

  ・・・○○(正義)原則が発現する形式は平和である。自己の存在するがごとくに他人をも存在せしむること,もしくは他人の存在を害せざるがごとくに自己が存在することが○○○○(正義原則)である以上,自他の関係を調整する具体的政策は○○○○○(平和でしか)あり得ない。自己生存上の必要を理由として他者の生存上の要求を○○○○(侵害する)ことは,正義ではない。単なる自己生存上○○○(の必要)は,いかなる意味においてもこれを正義と名づくるを得ないのである。

  国際正義は国際平和すなわち国家間の平和として,社会正義は国内平和すなわち貧者弱者の保護として現われる。しかして国際正義国際○○(平和)維持によりて,社会正義社会平和もまた,間接に維持せられる。けだし諸般の政治が○○○○○(軍事行動を)目標として計画施設せらるる場合において,一方に軍需成金戦争成金の簇生するに対し,○○○○○○(庶民の負担が)あるいは相対的に,あるいは絶対的に加重せられることは,必ずしも財政経済学者の分析を待ちて始めて知られる事柄ではない。すなわち国際正義はその政策たる国家間の平和を通じて社会正義と関係するのである。国際正義と社会正義とは国家の本質上同根の原理であり,○○○(平和を)もって両者共同の必然的政策とする。要言すれば,正義と平和とこそ国家の理想である。

 

  現実政府はその具体的なる政策遂行上,国民中に批判者反対者なき事をもってもっとも便宜とする。挙国一致とか,国民の一致後援とかいうことは,政府のもっとも要望する国民的態度である。この結果を○○○○(人為的に)作り出すための手段として用いらるるものは,一に弾圧,二に宣伝。○○○○○(批判力ある)反対者の言論発表を禁止することが弾圧であり,批判力乏しき大衆に向って一方的理論のみを供給してその批判力をまぐることが宣伝である。この両者を大規模に,かつ組織的に併用することによりて,○○○(表面的)挙国一致は容易に得られ,政府の政策は国民的熱狂の興奮裡に喝采さえせられる。

 

 ・・・根本的に国家を愛し国家に忠なる者は,当面皮相の政策に迎合することなく,国家の理想を愛し理想に忠なるものでなければならないのである。

  現実政府の具体的政策に対する挙国一致的協力が○○○(国論の)統一を生命とし,異論を許さざるに対し,国家の理想達成のための挙国一致は,愛国の精神においては一致するけれども,形式的には異論を許容する不統一たるを妨げない。異論の主張,批判の存在こそ,かえってこの場合における挙国一致の必要条件である。政府の具体政策が国家の理想を無謬に表現するものでなき限り,一色塗抹的挙国一致はかえって国家の理想探求,達成を妨害するものである。しかるに現実に政府に充当せられたるいかなる個人もしくは団体も,その理想把握,理想達成のための政策決定について全き無謬を主張することは許されざるが故に,国家の理想達成という点より見れば,国家意思の決定は全国民的に,弾力的に,なされねばならない。これ政治上言論自由の尊重せられねばならないところの根本的理由である。また国民中少数者の存在が,国家理想の達成上根本的に必要なる理由である。国家の理想が政府当局者の政策によるよりも,かえって国民中の少数者によりて維持せられし事実は歴史上に乏しくない。イスラエルの預言者のごときはその著例である。我らは今しばらくその一人たるイザヤについて,彼が現実国家を挙げての混迷中にありていかに国家の理想を高唱したかを見よう。

 

 ・・・現実国家の具体的政策を担当する者は国家の機関であるが,国家の理想を担当して国家存立の根本的永遠的政策を指示するものは預言者である。国民は国法的には国家機関の決定せる政策に服従しなければならぬが,理想界においては預言者の言に服従しなければならない。しかして理想に基づきて現実が指導せられる時,そこに始めて現実国家の基礎は鞏固たるを得るのである。真の愛国は現実政策に対する附和雷同的一致に存するのではない。かえって附和雷同に抗しつつ国家の理想に基づいて現実を批判する預言者こそ,国家千年の政策を指導する愛国者であるのだ。

 

 ・・・外面的粉飾よりも,内面的湧出。教養よりも理想。学者より預言者。現実界の混迷が加わる時代において益々必要なるはこれである。

 

 ・・・ここにおいてか国家非常時に対する哲学・宗教の任務の特に重要なるを知るのである。(『中央公論』196011月号再掲版。伏字の箇所は『日本の傷を医す者』から復元)

 

 1937年「8月24日,〔講演旅行中の矢内原教授の〕高松から大島への移動中,同行していた者の一人が『中央公論』9月号を購入し,巻頭論文であるはずの「国家の理想」が削除処分になっているのを発見」したということでしたが(将基面貴巳『言論抑圧』(中公新書・2014年)49-50頁),当局(当時は第1次近衛内閣)はどの点を問題にしたものでしょうか。

 

2 第1次近衛内閣と大陸状勢

 

  昭和12年(1937)6月4日,親任式が行われると,その夕,近衛〔文麿〕新首相は,落ち着いた比較的澄んだ声で,ラジオから国民に訴えた。国際正義にもとづく真の平和と社会正義の実現のために,「改革すべきものは進んでこれを改革し,日に新たに日にまた新たなるを期したい」と作家山本有三が起草にあずかったというこの演説は,新鮮な表現で好評を博した。(林茂『日本の歴史25 太平洋戦争』(中央公論社・1967年)40-41頁)

 

 「国際正義」,「平和」及び「社会正義」は,必ずしもdirty wordsではないようです。ただし,近衛文麿のいう「国際正義」は「民族間の公平」ということで,「「持てる国」と「持たざる国」の対立が国際政治の基本」になっている当時の状況では実現されておらず,「日本は民族の生存権の確保を目的とする大陸政策を必要としている」という認識をもたらすものであったそうです(林43-44頁)。

 大陸では,1937年7月7日には蘆溝橋事件,同月11日日本政府華北派兵声明,同29日通州事件,同年8月9日上海で大山勇夫海軍中尉殺害事件,同月13日第2次上海事変と事態が推移していましたが,同月15日の政府声明では,「暴支膺懲」が唱えられながらも,なお「平和」にリップ・サーヴィスがされています。

 

  帝国は,つとに東亜永遠の平和を冀念し,日支両国の親善提携に,力をいたせること,久しきにおよべり。・・・

  かえりみれば,事変発生以来,しばしば声明したるごとく,帝国は隠忍に隠忍をかさね,事件の不拡大を方針とし,つとめて平和的且局地的に処理せんことを企図し・・・

  ・・・帝国としては,もはや隠忍その限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し,もって南京政府の反省をうながすため,今は断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり。

  かくのごときは,東洋平和を念願し,日支の共存共栄を翹望する帝国として,衷心より遺憾とするところなり。しかれども,帝国の庶幾するところは,日支の提携にあり。これがために排外抗日運動を根絶し,今次事変のごとき不祥事発生の根因を芟除すると共に,日満支三国間の融和提携の実を挙げんとするのほか他意なく,もとより豪〔毫〕末も領土的意図を有するものにあらず。また,支那国民をして,抗日におどらしめつつある南京政府,及び国民軍〔ママ〕の覚醒をうながさんとするも,無辜の一般大衆に対しては,何等敵意を有するものにあらず。かつ列国権益の尊重には,最善の努力を惜しまざるべきは言をまたざる所なり。(風見章『近衛内閣』(中公文庫・1982年(原著1951年))43-45頁から。下線は筆者)

 

第1次近衛内閣の内閣書記官長(今の内閣官房長官)・風見章によれば「この声明では,表面,日本政府は,不拡大方針を投げすてて,徹底的に軍事行動を展開するかもしれぬぞとの意向を,ほのめかしているものの,しかし,実際のところ,それは真意ではなかった。・・・かかる声明を出すことに近衛氏が賛成したというのも,これによって現地解決の機運を促進する効果をねらってのことであったのは,いうまでもない。だから,この声明を発表するにあたっては,その発表の責任者であるわたしが,特に,不拡大現地解決の方針は依然これをかたく守るのだと,ことわったのである。」ということですが(風見45頁),「帝国としては,もはや隠忍その限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し,もって南京政府の反省をうながすため,今は断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり。」というような激しい言葉を中央が言いっ放しにして,あとは現地で何とかしてよ,というのはどうなんでしょうか。

 

〔当該政府声明を決めた〕閣議は,真夜中までも続けられた。そこで世間では,情勢の検討や前途の見通しなどについても,活発なる意見の交換がおこなわれて,重大時局下の閣議たる面目を大いに発揮したことだろうと想像したらしいが,実をいうと,そうではなく,まことに,たあいもなく時をすごしてしまったのであった。というのは,〔杉山元〕陸相から声明の案文〔事前に陸軍省から内閣書記官長に話はなかったとされています(風見43頁)。〕がくばられると,いずれも黙って目を通していたが,そのうちに,広田(弘毅)外相から,「共産主義勢力」という文句があったのを,これはソ連をも問題にしているように誤解される心配もあるので,ほかに適当な文句はないものかと,言い出したのである。・・・すると,この発言を中心に,ああでもない,こうでもないと,思いつきを言い出すものもあり,ひとしきり,このことで話に花が咲いた。それからは,声明文のほうはそっちのけにして,とりとめもない雑談となり,そんなことで思わず時をすごしてしまい,結局「共産主義勢力」は,「赤化勢力」という文句にとりかえると話がきまったころは,真夜中になってしまったのである。そのあいだに,不拡大方針がいいとか,わるいとか,現地解決ができるという見通しは,あたっているとか,いないとかいうようなことは,議題として取り上げられることもなかったのである。(風見45-46頁)

 

 何だか頼りないですね。「当時は,近衛氏の人気は,他の政治家たちの影をすこぶる薄くしたほどで,ひとり,この人にこそ洋々たる前途があるのだと,一般から期待されていた」そうですが(風見33頁),この人しかない,というのは危険でした。

 2日後の1937年8月17日の閣議では,「従来執り来れる不拡大方針を抛棄し,戦時態制上必要なる諸般の準備対策を講ず」るものとあっさり決定されています(林54頁)。

 

3 国民精神総動員

しかし,頼りない現実政府ではあったところ,その「具体的政策に対する挙国一致的協力」は,「国論の統一を生命とし,異論を許さざる」ものたるべし,ということになったようです。1937年8月24日には,国民精神総動員実施要綱が閣議決定されます(同年9月13日発表)。

 

一,趣旨

挙国一致堅忍不抜ノ精神ヲ以テ現下ノ時局ニ対処スルト共ニ今後持続スベキ時艱ヲ克服シテ愈々皇運ヲ扶翼シ奉ル為此ノ際時局ニ関スル宣伝方策及国民教化運動方策ノ実施トシテ官民一体トナリテ一大国民運動ヲ起サントス

 

二,名称

「国民精神総動員」

 

三,指導方針

(一)「挙国一致」「尽忠報国」ノ精神ヲ鞏ウシ事態ガ如何ニ展開シ如何ニ長期ニ亘ルモ「堅忍不抜」総ユル困難ヲ打開シテ所期ノ目的ヲ貫徹スベキ国民ノ決意ヲ固メシメルコト

(二)右ノ国民ノ決意ハ之ヲ実践ニ依ツテ具現セシムルコト

(三)指導ノ細目ハ思想戦,宣伝戦,経済戦,国力戦ノ見地ヨリ判断シテ随時之ヲ定メ全国民ヲシテ国策ノ遂行ヲ推進セシムルコト

(四)〔略〕

 

四,実施機関

(一)本運動ハ情報委員会,内務省及文部省ヲ計画主務庁トシ各省総掛リニテ之ガ実施ニ当ルコト

 (二)〔略〕

 (三)〔略〕

 (四)市町村ニ於テハ市町村長中心トナリ各種団体等ヲ総合的ニ総動員シ更ニ部落町内又ハ職場ヲ単位トシテ其ノ実行ニ当ラシムルコト

 

 五,実施方法

(一)内閣及各省ハ夫々其ノ所管ノ事務及施設ニ関連シテ実行スルコト

 (二)広ク内閣及各省関係団体ヲ動員シテ夫々其ノ事業ニ関連シテ適当ナル協力ヲ為サシムルコト

 (三)〔略〕

 (四)市町村ニ於テハ総合的ニ且部落又ハ町内毎ニ実施計画ヲ樹立シテ其ノ実行ニ努メ各家庭ニ至ル迄滲透セシムルコト

 (五)諸会社,銀行,工場,商店等ノ職場ニ就キテハ其ノ責任者ニ於テ実施計画ヲ樹立シ且実行スルコト

 (六)各種言論機関ニ対シテハ本運動ノ趣旨ヲ懇談シテ其ノ積極的協力ヲ求ムルコト

 (七)ラヂオノ利用ヲ図ルコト

 (八)文芸,音楽,演芸,映画等関係者ノ協力ヲ求ムルコト

 

 六,実施上ノ注意

 (一)本運動ハ実践ヲ旨トシテ国民生活ノ現実ニ滲透セシムルコト

 (二)従来都市ニ於ケル知識階級ニ対シテハ徹底ヲ欠ク憾アリシヲ此ノ点ニ留意スルコト

 (三)社会ノ指導的地位ニ在ル者ニ対シ其ノ率先躬行ヲ求ムルコト 

 

三(一)にいう「所期ノ目的」とは何でしょうか。支那事変(1937年9月2日に北支事変から改称)の「不拡大現地解決」ではもはやないのでしょう。やはり,「支那軍の暴戻を膺懲し,もって南京政府の反省をうながす」までとことんやるということでしょうね。

三(二)は,「右ノ国民ノ決意ハ之ヲ実践ニ依ツテ具現セシムルコト」ということになっていますから,静かなる決意とか,秘めたる愛国心というようなものではだめで,お上や周囲に対する積極的プレゼンテーション能力を要したものでしょうか。ちょっと騒々しいことになったようです。

南京政府のなすべき反省及び謝罪についても,「実践ニ依ツテ具現セシムルコト」とする趣旨だったのでしょうか。

東京帝国大学教授は,正に「社会ノ指導的地位ニ在ル者」なのですから,「率先躬行」して(六(三)),「国民中に批判者反対者なき」「挙国一致」の実現に協力することが期待されていたわけです。1938年発生の河合栄治郎教授休職事件に関連する文部省資料には,「矢内原教授ノ思想内容ニハ著シク〔支那〕事変遂行ノ障碍トナルモノアリテ之ガ急速ナル処置ヲ必要トシタ」との記載があったそうです(将基面80頁)。

しかし,「都市ニ於ケル知識階級ニ対シテハ徹底ヲ欠ク憾」(六(二))はなかなか解消できなかったようです。1941年2月26日の段階で,内閣情報局(1940126日設置)第二課と自由主義的な編集方針の中央公論社編集幹部との懇談会(五(六)参照)において,中央公論社の嶋中雄作社長の「命令さえ下せば国民がいうことを聞くと思ったら,それは間違いだ,ただ知識階級に対する言論指導はわれわれが専門とするところであるから自分たちに任せてもらえないか」との発言に対して,同課情報官の鈴木庫三少佐は激高し,「このさいに君はなにをいうか。そういう考えをもっている人間が出版界にはびこっているから,いつまでたっても国民は国策にそっぽをむくのだ。」と吠えて,国民精神総動員運動にかかわらず国民は依然国策にそっぽを向いていたという現実をはしなくも明らかにしています(将基面211-212頁)。矢内原忠雄教授も,1940年の『余の尊敬する人物』(岩波新書)の「エレミヤ」伝において,紀元前7世紀末のユダ王国ヨシヤ王の申命記改革に関して「これは国民の心から湧き上つた改革運動ではなく,王の命によつて始められた一の政治的な運動でありましたから,すべての官僚的国民精神運動と同様,その改革は制度儀式等外形的なる表面の事に終り,国民の心の傲りを摧き,心そのものを神に向けかへらせる力はなかつたのです。」と記して(12頁),「官僚的国民精神運動」なるものの限界を指摘しています。

矢内原教授の「国家の理想」を19371124日の東京帝国大学経済学部教授会において問題とした土方成美学部長は,「私はこの論文を一読して,時節柄不適当であると思った。もっともこの論文は今日読んでみると全く何でもない,たわいもないものである。幸福なる平和時のあげつらいなら別である。しかし,当時としては問題であった。預言者イザヤの言を引いて,如何にも,わが国が理不尽の戦争をしているようなことが諷刺してある。・・・大衆雑誌において諷刺的に時局を皮肉るような論文は,いたずらに人心を腐らせ,前線将兵の士気を沮喪させるだけであって,時局の収拾に何の役にも立たない。・・・」と後に回顧していますが(将基面120頁),文部省の通牒に従って同年11月3日の明治節に明治神宮に東京帝国大学経済学部関係者が全員参拝しないと大陸で「戦敗を喫する」と心配していた同学部長としては(将基面113-114頁),たかが諷刺では済まされない問題だったのでしょう。(ドイツのファルケンハウゼン将軍の指導下にある堅固な陣地を前に膠着苦戦の上海周辺戦線突破をもたらした柳川兵団の杭州湾上陸は,ようやく同月5日のことでした。なお,風見章は,ファルケンハウゼンを第一次世界大戦中のドイツ参謀総長ファルケンハイン(小モルトケの後任としてシュリーフェン・プラン挫折の後始末を担当)と混同しています(風見73頁)。内閣は統帥事項に関与できぬため柳川兵団の上陸地点を閣議で陸軍大臣から教えてもらえず,新聞記者から杭州湾であるよと教えてもらったような有様の内閣書記官長だったとはいえ(風見49-50頁),とほほ。)

 

4 「敵国降伏」

 

(1)イザヤ対アッシリア帝国

しかし,敵軍敗退のための神頼みのためには,イザヤ(ユダの王ウジヤ,ヨタム,アハズ,ヒゼキヤの世に活躍したアモツの子イザヤ(第一イザヤ))はなかなか縁起のよい預言者だったはずです。

紀元前8世紀の末,既に北のイスラエル王国を滅ぼしていたアッシリアは,セナケリブ王の下,大軍をもって南のユダ王国の首都・エルサレムを攻略しようとします(ダビデ王の息子である有名なソロモン王の歿後,紀元前10世紀後半にイスラエル人の王国は南北に分裂していました。紀元前722年に北王国は滅亡しています。)。

 

〔ユダ王国の〕ヒゼキヤ王はこれを聞いて,衣を裂き,荒布を身にまとって主の宮に入り,宮内卿エリアキムと書記官セブナおよび祭司のうちの年長者たちに荒布をまとわせて,アモツの子預言者イザヤのもとにつかわした。・・・イザヤは彼らに言った,「あなたがたの主君にこう言いなさい,『主はこう仰せられる,アッスリヤの王の家来たちが,わたしをそしった言葉を聞いて恐れるには及ばない。見よ,わたしは一つの霊を彼らのうちに送って,一つのうわさを聞かせ,彼を自分の国へ帰らせて,自分の国でつるぎに倒れさせるであろう』」。

 ・・・

 その時アモツの子イザヤは人をつかわしてヒゼキヤに言った,・・・それゆえ,主はアッスリヤの王について,こう仰せられる,『彼はこの町にこない,またここに矢を放たない,盾をもってその前に来ることなく,また塁を築いてこれを攻めることはない。彼は来た道を帰って,この町に,はいることはない。主がこれを言う。わたしは自分のため,またわたしのしもべダビデのためにこの町を守って,これを救うであろう』」。

 その夜,主の使が出て,アッスリヤの陣営で18万5千人を撃ち殺した。人々が朝早く起きて見ると,彼らは皆,死体となっていた。アッスリヤの王セナケリブは立ち去り,帰って行ってニネベにいたが,その神ニスロクの神殿で礼拝していた時,その子アデランメレクとシャレゼルが,つるぎをもって彼を殺し,ともにアララテの地へ逃げて行った。そこでその子エサルハドンが代って王となった。(列王紀下第191-26-72032-37。また,イザヤ書第371-26-72133-38

 

 そこでヒゼキヤ王およびアモツの子預言者イザヤは共に祈って,天に呼ばわったので,主はひとりのみ使をつかわして,アッスリヤ王の陣営にいるすべての大勇士と将官,軍長らを滅ぼされた。それで王は赤面して自分の国に帰ったが,その神の家にはいった時,その子のひとりが,つるぎをもって彼をその所で殺した。このように主は,ヒゼキヤとエルサレムの住民をアッスリヤの王セナケリブの手およびすべての敵の手から救い出し,いたる所で彼らを守られた。(歴代志下第3220-22

 

 死の天使は怖いですねえ。18万5千人といえば,文永の役における元軍2万5ないし6千人及び船員等6千7百人余(黒田俊雄『日本の歴史8 蒙古襲来』(中央公論社・1965年)82-83頁)並びに弘安の役における元の東路軍4万人(同111頁)及び江南軍10万人(同114頁)の合計に匹敵します。

 

(2)叡尊対モンゴル帝国

ところで,我が神風も,祈祷の力で来たったものです。

すなわち,奈良西大寺の思円上人叡尊が弘安四年(1281年)閏七月一日,石清水八幡宮で,「異国襲来して貴賤男女すべて歎き悲しんでおります。もはや神明もこの神国をほろぼし,仏陀も見捨てたもうたのでありましょうか。たとえ皇運は末になり政道に誠なくとも,他国よりはわが国,他人よりはわれらを,神仏はどうして捨てさせたもうでしょう。昔,八幡大菩薩が,『天皇の勢いおとろえ人民の力がなくなったときこそ』と誓わせたもうたのも,実にいまこのときのためでありましょう。そもそも異国をわが国土とくらぶれば,蒙古は犬の子孫,日本は神の末裔,かれらはすでに他国の財宝をうばい,人民の寿命をほろぼす殺盗非道の輩であります。わが国が仏法を守り神祇をうやまい,正理を好む国であるからには,かならずや仏陀も知見したまい,神々も照覧したもうはずであります」と祈祷したところ,「そのとき,神厳微塵も動かぬ社殿に不思議や幡(柱にかけた飾り布)がかすかにゆれ,ハッタと鳴った。ああこれぞ大菩薩の納受したもうたしるしよと人々の信仰はいよいよ深まった」のですが(黒田123-125頁),正にその時,九州では神風が吹いて元軍は覆滅していたのでした(なお,叡尊は「願わくば八幡,大風を起こし,敵兵の命を損ずることなく敵船をかの国へ吹き還したまえ」と優しく祈っただけだったそうです(同147頁)。)。

ただし,1936年版の文部省『小学国史教師用書』によれば,「されどこの〔対元〕勝利は,主として挙国一致熱烈なる愛国の精神にまつところ多し。かしこくも亀山上皇は宸筆の願文を伊勢の神宮にさげ,御身を以て国難に代らんことを祈りたまひ・・・全国の社寺は敵国降伏の熱祷をさぐるなど,かかる愛国精神の発揮が,やがてこの未曾有の国難をはらひ,国威を宇内に発揚せし所以なり。」とされていて(黒田124頁),叡尊のことには直接言及されていません。また,亀山上皇の宸筆は,伊勢の神宮には届いたとされていますが,福岡の筥崎宮に掲げられた有名な「敵国降伏」の額の由来についてはここでは触れられていません。

 

5 エレミヤ・哀歌・バビロン捕囚

 

(1)エレミヤ

 しかし,せっかく穏便に救国の預言者第一イザヤを引用したのに売国奴よばわりされて東京帝国大学を追われた矢内原教授は,以後本格的に,「非愛国者,国賊,平和主義者,反軍思想等々と人に罵られ迫害せられた」(矢内原『余の尊敬する人物』39頁)ユダ王国滅亡期(紀元前7世紀末から同6世紀初めまで)の過激な預言者エレミヤに傾倒します。「過ぐる戦争の間,私の思ひは屡旧約聖書の預言者エレミヤの上にあつた。終戦後の今日も,私は度々彼と涙を共にする。」とは,1948年8月9日脱稿の「管理下の日本―終戦後満三年の随想―」の一節です(『矢内原忠雄全集第19巻』(岩波書店・1964年)411頁)。

 

(2)哀歌

 エレミヤが紀元前6世紀初めのエルサレム破壊後に哀歌を作ったように,矢内原教授も先の大戦終了直後に哀歌を作っています(「日本精神への反省」『矢内原忠雄全集第19巻』54-57頁)。

 

  ああ哀しいかな此の国,肇りて二千六百年,

  未だ曾て有らざるの国辱に遭ふ。

  ・・・

  天皇,祖宗の神霊と民衆赤子との前に泣き給ひ,

  五内為めに裂くと宣ふ。

  民は陛下の前に泣き,相共に

  天地の創造主の前に哭す。

  神よ,我らは罪を犯し我らは背きたり,

  汝之を赦し給はざりき。

  ・・・

  引き出せ,偽の指導者を,

  連れ来たれ,偽の預言者を。

  汝ら国を誤りたるによりて,

  君は辱しめられ,民害はる。

  剣によりて建てしものは剣によりて奪はれ,

  七十年の辛苦一日にして潰え,

  二千年の光栄一夜にして崩れ,

  空に光なく,民に生気なし。

  ・・・

  人おのれの罪の罰せらるるを呟くべけんや,

  むさぼりとたかぶり,我らを此処に導き,

  神は一銭をも剰さず,報を要求し給ひぬ。

  ヱホバこの軛を負はせ給ふなれば,

我ら満足るまでに恥辱を受けん。

そは主は永久に棄つることを為し給はず,

我らの患難を顧み給ふ時来らん。

その時責むる者は責められ,

驕る者は挫かれ,謙る者挙げられん。

もろもろの国ヱホバの前に潔からず,

戦敗必ずしも亡国ならず。

我らは武力と財力とに恃むを止め,

むしろ苦難によりて信仰を学ばん。

かくてヱホバ義しく世界を審き給ふ日に,

我ら永遠の平和と自由を喜び歌はん。

 

 「むしろ苦難によりて信仰を学ばん」の信仰はキリスト教の信仰でしょうが,キリスト教は我が国体と両立せざるものにあらず。「天照大御神或ひは天皇の問題に就いて論じませぬといけませんけれども,私は基督教の信仰によつて実際的にも思想的にも日本の国体を毀すものではなく,却つて一層美しく又一層確実なものとすることが出来ると思うのであります。」とのことでした(矢内原「日本精神への反省」54頁)。なお,「引き出せ,偽の指導者を,/連れ来たれ,偽の預言者を。」の部分は,『余の尊敬する人物』の「エレミヤ」伝の「卑怯なること蓑虫の如く,頑固なること田螺の如く,胸に悪意を抱き,人を陥るるを喜とする汝らパシシュル,ハナニヤ輩よ。エレミヤを非愛国者として誣告し中傷し迫害したる偽預言者,偽政治家らよ。彼の言に聴き従はず,彼をして悲憤の涙を飲ましめたる国民よ。汝らこそ真理を紊し,正義を破壊し,国に滅亡を招いたのである。」の部分(54頁。また,将基面165頁参照)に対応するようです。

 

(3)バビロン捕囚と日本占領

 エルサレム破壊後は「七十年」のバビロン捕囚が続くので,エレミヤにおそらく自らをなぞらえていたであろう矢内原教授は,自然,連合国の日本占領をユダヤ人のバビロン捕囚になぞらえることになります。なお,矢内原教授は,バビロン捕囚を「ユダヤ国民にとりて甚だ大なる試煉であつた。それは彼らの過去の歴史と選民たるの自覚に対する大なる屈辱の期間であつた。」としつつも,その間「属地的民族主義的であつた彼らの宗教思想は霊的・世界的視野に高められ,広くせられ,純粋化せられたのである。バビロン人の世界観に接したことが,彼らの思想の内容を豊富にしたことも認められる。要するにバビロン捕囚の七十年はユダヤ民族にとりて決して無駄ではなかつた。否,信仰によりて之に処するとき,それは彼らの宗教の純化と世界化に役立つ恩恵の機会となつたのである。」と評価しています(矢内原「管理下の日本」412頁)。

 

 〔バビロン捕囚から暗示される教訓としては〕第1に,日本の敗戦と敗戦後の運命が決して偶然的出来事でなく,正当なる歴史の審判であるとの認識である。宗教的表現を用ひれば,それは神の意思より出でた審判であるとの信仰である。この認識と信仰を以て今日の環境に処する時,始めてわれらは時局に対し落着いた,正しき自主的態度を取ることが出来る。連合軍の日本管理は容易に終止しないであらう。それは日本の民主主義化が成就するまで継続するであろう。その為めに何年若しくは何十年を要するかを知らないが,決して短い期間では今日の占領状態は終らないであらう。その事を理解して忍耐と服従を以て神の意思に順ふところに,日本復興のいとぐちが得られる。之に反し,神の意思に対する従順を欠く軽挙妄動は,日本の復興を妨げ,ますます自由を喪失せしむる以外の何ものでもないであろう。(矢内原「管理下の日本」414頁)

 

連合国軍の日本占領は終了まで「何年若しくは何十年を要するかを知らない」と思っていた矢内原教授にとっては,1949年の暮れにはもう講和問題が論ぜられるようになったこと(同年11月1日,アメリカ合衆国国務省は,対日講和条約案起草準備中と発表)は,意外だったのかもしれません。同年1225日の講演にいわく。

 

 ・・・日本の講和の問題・安全保障の問題を考へて見れば,凡ては世界平和を条件としてをることがわかります。日本の講和と安全保障は世界平和を目的としてをると共に,それを条件としてをるのであります。日本に対する講和は,多くの人が指摘してをるやうに,連合国から日本に対して課せられるものであります。それは連合国から与へられるものでありまして,日本と連合国との間に講和談判といふものはないのです。御承知のやうに日本は無条件降伏をした国でありまして,生かさうが殺さうが,連合国の御意のままであります。我々はまないたの上に載せられた鯉のやうなものであります。日本から,かういふ講和を結んで下さい,といふことを言ひ得る立場ではないのであります。心に願ふことはありましても,それは申しません。少くとも私はそれを申しません。私の申すことは,連合国が互に講和するやうに,といふことであります。

 ・・・

 そして我々は,我々に講和が与へられるまで静かに待つといふのが,日本国民のとるべき態度であると信ずるのであります。物欲しさうな態度をして人の袖の下に手を出すことは,終戦直後腹のすいた子供たちや大人までもが,進駐軍の投げ与へるチョコレートやキャラメルや残飯に飛びついたと同じことでありまして,見苦しい。(「講和問題と平和問題」『矢内原忠雄全集第19巻』462-463頁)

 

 「我々に講和が与へられるまで静かに待つ」ということは,結局占領継続ということになりますが,それでよいのでしょうか。しかし,エレミヤとバビロン捕囚と,そしてキュロス大王出現までの期間のこととを考えれば,まだ日本の占領は5年も続いていないのであるからしてしばし待て,ということになるようです。

 

  私共は聖書を学びまして,日本が置かれてをる今日の国際的地位が,あの紀元前第6世紀のバビロン捕囚の時代とよく似てをることを感じます。エレミヤたちの預言に拘らず,ユダの国民は己が罪を悔改めなかつたが為めに,国は滅され,国民の多くは虜になつてバビロンに携へられました。第1回の捕囚は紀元前597年,第2回の捕囚は586年,バビロン王ネブカデネザルの軍勢のために都エルサレムは荒されて,国民の大多数は捕虜になつたのです。それから紀元前538年ペルシャ王クロスによつてバビロンが滅される其の時まで,約60年の間ユダの国民はバビロンで捕虜生活をつづけたのであります。

  日本の今置かれてゐる状態は,ユダの国民のバビロン捕囚と比べまして,似てをる点もあるが異つてをる点もある。我々の親であり子であり兄弟である何十万といふ同胞が,ソ連への捕虜となつてまだ彼地に滞在してをります。そして日本本国は連合軍の占領の下にあるのであります。・・・私共はかかる状態の終る日を待ち望んでをります。帰るべき者が健全に帰つて来る日を待つてをります。併しその時は連合国が与へるものであります。それ故に私共の根本的な態度は,待つといふことであります。願ひはするけれども,我々の力によつて獲得できる性質の事柄でありません。(矢内原「講和問題と平和問題」463-464頁)

 

待つ者の態度は,泣いて,祈って,神を信ずることを学ぶ,ということになります。

 

 ・・・嘗てバビロン捕囚によつてユダの国民の宗教が深められ其の視野が広められたやうに,我々の国民も今日占領下第5回のクリスマスを迎へまして,遠くかの地に未だ抑留せられてをるものを考へて我々の視野を深くし,世界平和を念願する心の目を広く開かれる。このことを我らに教へるものが,基督教の福音であるのです。泣いて祈つて学んで我々の視野を広くしてくれるもの,此の基督教の福音によりまして,始めて私共は平和を信ずる信仰の根柢を得るのであります。(矢内原「講和問題と平和問題」465頁)

 

結局,「講和問題は我々の最大且つ終局の問題ではありません。日本に対する講和は,私共が急ぐ問題ではないのであります。」ということになって講和問題は喫緊の課題ではないということにされ,「私共の急ぐべき問題は,キリストの福音によつて与へられた永久の平和を私共がしつかりと心に受けとつて,この平和の福音を人々の間に恐れず怯まず宣べ伝へるといふ責任であります。」ということになります(矢内原「講和問題と平和問題」470頁)。

 難しい。「曲学阿世」の分かりやすさはありません。

1 戦後70

 今年(2015年)は,先の大戦が終わってから70周年ということで,「節目」の年ということになっています。

 

  なお,先の大戦の終結の日には諸説があり得ます。

終戦の詔書は1945年8月14日付けで作成され,同日付けの官報号外で公布されています。中立国経由の連合国に対するポツダム宣言受諾の通知もこの日にされています。

他方,1945年9月2日には,重光葵及び梅津美治郎がポツダム宣言の条項を「日本国天皇,日本国政府及び日本帝国大本営ノ命ニ依リ且ツ之ニ代リ受諾」し,並びに「日本帝国大本営並ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ聯合国ニ対スル無条件降伏ヲ布告」し,及び「日本帝国大本営ガ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ指揮官ニ対シ自身及其ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ガ無条件ニ降伏スベキ旨ノ命令ヲ直ニ発スルコトヲ命」ずる「降伏文書」が東京湾上において署名され,かつ,聯合国最高司令官及び各聯合国代表者によって受諾されました。

1945年8月15日は,正午に社団法人日本放送協会によって前記終戦の詔書(・・・「朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇4国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ・・・」)の玉音放送がされた日です。

 

 2015年2月25日に内閣総理大臣官邸4階の大会議室で開催された20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会(21世紀構想懇談会。「戦後70年談話」にかかわるものだそうです。)の第1回会合において,同懇談会座長の西室泰三日本郵政株式会社取締役兼代表執行役社長は「戦後70周年という節目の年に,大変重要な任務を果たす懇談会の座長にご指名いただき,非常に光栄であると同時に,身が引き締まる思いである」と挨拶したそうですが(内閣総理大臣官邸のウェッブサイトにある議事要旨),そこでは「70周年」が他の「○十周年」と異なる特段の「節目」である理由までは明らかにされていません。そこで,当該会合の冒頭でされた安倍晋三内閣総理大臣の挨拶(内閣総理大臣官邸ウェッブサイト)を見てみるのですが,「今年は,戦後70年目に当たる年であります。戦後産まれた赤ちゃんが,70歳を迎えることになります。」ということを超えた「70年目」の特別な意味についての言及はありません。初めはどんなに可愛い赤ちゃんでも,死なずに生きていれば,だれでもいつかは70歳の老爺老婆になるのは当たり前のことであって,1945年生れの赤ん坊についても変わりはありません。「未来の土台は過去と断絶したものではあり得ません。今申し上げたような先の大戦への反省,戦後70年の平和国家としての歩み,そしてその上に,これからの80年,90年,100年があります。」ということで,「70年」は,安倍内閣総理大臣によって80年,90年及び100年と単純に並べられていますから,むしろ,数ある十年区切りの中の単なる一つとしての「70年目」ということであるようです。さらにいえば, 20世紀を振り返り21世紀を構想する時期としてならば, 21世紀もなお浅かった戦後60年目の2005年の方がよかったようにも思われます。

 

2 「四十年」

 

(1)ドイツの戦後40

 政治家としては,自分の任期中にたまたま何かの「○十周年」があれば,これは幸いとその機会を活用して名を上げたいというのが普通かつ健康な反応でしょうが,それをそのまま言ってしまうと芸がないところです。この点,外国の政治家などはうまい。リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(Richard von Weizsäcker)は1984年にドイツ連邦共和国の大統領に就任しましたが,たまたまその翌年の1985年の5月8日は,ヨーロッパにおける第二次世界大戦の終戦40周年記念日に当たりました。当日,ボンの連邦議会の演壇においてヴァイツゼッカーは,その記念演説を歴史に刻みつけるべく,40周年が25周年又は30周年とは異なった特別の意味のある節目であるゆえんを,ユダヤ教及びキリスト教の聖典を引きつつ解き明かします。

 

  多くの若い人たちが,この数箇月,自ら,そして私たちに問いかけました。なぜ,終戦後40年たって,過去についてのこんなにも活発な議論が起こったのであろうかと。なぜ,25年又は30年のときよりも,より活発なのであろうか?その内的必然性は,どこにあるのであろうか?

  このような質問に答えることは簡単ではありません。しかしながら,我々はその理由を,外からの影響に主として求めてはいけません。確かに,そのような影響は疑いもなく存在しましたが。

  四十年は,人の一生及び民族の運命に係る期間として,大きな役割を演ずるものであります。

  ここにおいても,私に,改めて旧約聖書を参照することをお許しいただきたい。その信仰にかかわりなく,すべての人のための深い洞察を蔵する旧約聖書を。そこでは,四十年は,何度も回帰し,かつ,本質にかかわる役割を演じております。

  四十年,歴史の新たな段階が約束の地への侵入と共に始まる前に,イスラエルの民は荒れ野に留まっていなければなりませんでした。

  四十年が,当初責任を有していた父の世代が完全に更迭されるために必要でした。

  また,他の場所(士師記)においては,援助及び救済の経験の記億がいかにしばしば四十年しか持続しなかったかが明らかにされています。記憶が剥落したとき,平穏の時は終わりました。

  すなわち,四十年は,常に大きな刻み目を意味するのです。当該期間は,人間の意識において作用します。それは,あるいは,新しくかつ善い未来への自信と共に来る,暗い時代の終わりとしてであります。あるいはまた,忘却の危険又は次代の人々への警告としてであります。両側面のいずれも,よくよくの考慮に値するものであります。

  我々のもとでは,政治責任の分野に,新たな世代が成長してきました。若者は,かつて起こったことには責任を負いません。しかしながら,彼らは,そこから歴史において生ずることに対して責任を負うのです。

 

当該演説の岩波書店による邦訳名である「荒れ野の40年」は,「四十年,歴史の新たな段階が約束の地への侵入と共に始まる前に,イスラエルの民は荒れ野に留まっていなければなりませんでした。」(Vierzig Jahre sollte Israel in der Wüste bleiben, bevor der neue Abschnitt in der Geschichte mit dem Einzug ins verheißene Land begann.)の部分から採ったものなのでしょうね。ドイツ連邦共和国大統領がドイツ終戦40周年記念日に「荒れ野の40年」なる演説をしたといわれれば,第二次世界大戦後のドイツ連邦共和国国民は40年間荒れ野にあるがごとき試練に気高く耐え,「対立を超え,寛容を求め,歴史に学ぶ」立派な道徳的国民になったのか,と思ってしまうのですが,看板に若干分かりにくいところがありました。実は「荒れ野の40年」は,直接には20世紀のドイツ人の話ではなくて,紀元前13世紀,モーセに率いられてエジプトを脱出したもののカナンの地に侵入するまで荒れ野を四十年さまよったイスラエルの民の内部における指導世代の交代についてのことでした。

 

(2)曠野の四十年

それではイスラエルの民はなぜ「荒れ野の40年」を経験しなければならなかったかといえば,その直接の原因は,かえって侵略のいくさ(「・・・汝の神ヱホバの汝に与へて産業となさしめたまふこの国々〔約束の地カナン〕の邑々(まちまち)においては呼吸(いき)する者を一人も生し存(おく)べからず 即ちヘテ人(びと)アモリ人カナン人ペリジ人ヒビ人ヱブズ人などは汝かならずこれを滅ぼし尽して汝の神ヱホバの汝に命じたまへる如くすべし」(申命記第2016-17))を避けたからのようでもありました。

エジプト脱出後,モーセは約束の地カナンに先遣隊を派遣して状況を偵察させます。

ところが,偵察の報告にいわく。

 

・・・その地に住む民は猛(たけ)くその邑々(まちまち)は堅固にして甚だ大(おほい)なり・・・(民数紀略1328)・・・我等はかの民の所に攻上ることを得ず彼らは我らよりも強ければなりと 彼等すなはちその窺ひたりし地の事をイスラエルの子孫(ひとびと)の中に悪(あし)く言ふらして云(いは)く我等が行巡りて窺ひたる地は其中に住む者を呑みほろぼす地なり且またその中に我等が見し民はみな身幹(たけ)たかき人なりし 我等またアナクの子ネピリムを彼処(かしこ)に見たり是ネピリムより出(いで)たる者なり我儕(われら)は自ら見るに蝗(いなご)のごとくまた彼らにも然(しか)見なされたり(同章31-33

 

カナンの住人は大きく強い。簡単には同地に侵入できないと知ったイスラエルの民は一晩中泣き叫び,モーセとアロンとを非難します。もうこんなのいやだ帰りたい,と。

 

・・・嗚呼我等はエジプトの国に死たらば善(よか)りしものを又はこの曠野(あらの)に死(しな)ば善らんものを 何とてヱホバ我等をこの地に導きいりて剣(つるぎ)に斃れしめんとし我らの妻子(つまこ)をして掠(かす)められしめんとするやエジプトに帰ること反(かへつ)て好からずやと 互に相語り我等一人の長(かしら)を立てエジプトに帰らんと云(いへ)り 是をもてモーセとアロンはイスラエルの子孫(ひとびと)の全会衆の前において俯伏(ひれふし)たり(民数紀略第142-5

 

俯伏す(ひれふす)というのですから,モーセとアロンとは土下座です。民衆を指導すべき政治家が人々の前で土下座するのは我が国の選挙運動ばかりではありません。

しかし,偉そうな態度で文句ばかり言って,言うことを聞かないイスラエルの民に対して神は怒ります。もうお前らのうち大人は約束の地に入れてやらん,四十年かけて総入れ替えだと。

 

・・・ヱホバ曰ふ我は活く汝等が我耳に言しごとく我汝等になすべし 汝らの屍はこの曠野に横(よこた)はらん即ち汝ら核数(かぞへ)られたる二十歳以上の者の中我に対ひて呟ける者は皆ことごとく此に斃るべし ヱフンネの子カルブとヌンの子ヨシュアを除くの外汝等は我が汝らを住(すま)しめんと手をあげて誓ひたりし地に至ることを得ず 汝等が掠められんと言たりし汝等の子女等(こどもら)を我導きて入ん彼等は汝らが顧みざるところの地を知るに至るべし 汝らの屍はかならずこの曠野に横はらん 汝らの子女等は汝らが屍となりて曠野に朽るまで四十年の間曠野に流蕩(さまよひ)て汝らの悸逆(はいぎやく)の罪にあたらん 汝らはかの地を窺ふに日数四十日を経たれば其一日を一年として汝等四十年の間その罪を任(お)ひ我(わ)が汝らを離(はなれ)たるを知べし 我ヱホバこれを言(いへ)り必ずこれをかの集(あつま)りて我に敵する悪(あし)き会衆に尽く行なふべし彼らはこの曠野に朽ち此に死(しに)うせん(民数紀略第1428-35

 

神のイスラエルの民総入れ替えは徹底していました。四十年のうちに曠野に朽ちて死に,約束の地カナンに入ることができなかった者には,モーセも含まれます。

メリバの地で,水が無いぞと荒れ狂う民を鎮めるべく,モーセは岩から水を出すことになりました。その際の神の指示は,杖を持って岩に向かって水を出すよう命ぜよ,でした。

 

モーセすなはちその命ぜられしごとくヱホバの前より杖を取り アロンとともに会衆を磐(いは)の前に集めて之に言けるは汝ら背反者等(そむくものども)よ聴け我等水をしてこの磐より汝らのために出しめん歟と モーセその手を挙げ杖をもて磐を二度(ふたたび)撃(うち)けるに水多く湧出(わきいで)たれば会衆とその獣畜(けもの)ともに飲り 時にヱホバ,モーセとアロンに言たまひけるは汝等は我を信ぜずしてイスラエルの子孫(ひとびと)の目の前に我の聖(きよき)を顕さざりしによりてこの会衆をわが之に与へし地に導きいることを得じと(民数紀略第209-12

 

 何で神が怒ってモーセとアロンとはカナンに入れさせないぞと決めたのか,一読しただけではちょっとよく分かりません。

 しかし,神をSuica式カード開発に携わった誇り高い電波技術者であるものとして考えると納得がいきます。せっかく非接触で水が出る(改札機を通ることができる)ようにしたのに何でわざわざ杖で磐を撃つ(カードで改札機をタッチする)必要があるのですか,わたくしの開発した技術を信用しないのですか,いつになったら分かってくれるんですか,というわけです。Suicaの場合は,実際の運用上,やはり電波の強さの関係でカードを改札機にぐっと近づけないとうまく作動しないので,それならいっそのことタッチするものであると利用方法を説明することにしてしまえ,ということになったそうですが,毎日Suicaで改札機を通る際メリバの水の話を思い出す筆者は,あえてSuicaを改札機に触れさせないようにして通ってみたりしています。

 

(3)日本の戦後40

 ところで,『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)によれば,1985年8月14日に,「藤波官房長官,閣僚の靖国神社参拝につき,おはらい・玉ぐし捧呈・拍手は行わず一礼,供花の実費を公費とする公式参拝の新見解を発表」し,同月15日には,「中曽根首相,初めて内閣総理大臣の資格で参拝(野党・市民団体,一斉に抗議)」ということになっています。日本でも,戦後40年たって「新しくかつ善い未来への自信と共に来る,暗い時代の終わり」(Ende einer dunklen Zeit mit der Zuversicht auf eine neue und gute Zukunft)が感じられたものでしょうか。

 

3 「七十年」

 

(1)ユダ王国の滅亡とバビロン捕囚

 さて,戦後70年。

しかし,ヴァイツゼッカーの顰(ひそみ)に倣って旧約聖書に敗戦後「七十年」の用例を探すと,どうも紀元前6世紀初めの新バビロニア(カルデア)帝国に対するユダ王国の敗北(紀元前597年)及び滅亡(紀元前587年)並びにそれに伴うユダヤ民族指導層のバビロン捕囚(第1次連行(紀元前597年)及び第2次連行(紀元前587年))の話になってしまうようです。

 

 ・・・万軍のヱホバかく云たまふ汝ら我言(ことば)を聴かざれば 視よ我(われ)北の諸(すべて)の族(やから)と我僕(わがしもべ)なるバビロンの王ネブカデネザルを招きよせ此地(このくに〔ユダ王国〕)とその民と其四囲(そのまはり)の諸国(くにぐに)を攻滅(せめほろぼ)させしめて之を詫異物(おどろくべきもの)となし人の嗤笑(わらひ)となし永遠の荒地となさんとヱホバいひたまふ またわれ欣喜(よろこび)の声歓楽(たのしみ)の声新夫(はなむこ)の声新婦(はなよめ)の声磐磨(ひきうす)の音および燈(ともしび)の光を彼らの中にたえしめん この地はみな空曠(あれち)となり詫異物(おどろくべきもの)とならん又その諸国(くにぐに)は七十年の間バビロンの王につかふべし ヱホバいひたまふ七十年のをはりし後我バビロンの王と其民とカルデヤの地をその罪のために罰し永遠の空曠(あれち)となさん(ヱレミヤ記第258-12。紀元前605年のエレミヤの預言)

 

 ヱホバかくいひたまふバビロンに於て七十年満ちなばわれ汝らを眷(かへり)み我嘉言(わがよきことば)を汝らになして汝らをこの処に帰らしめん(ヱレミヤ記第第2910

 

 即ちヱホバ,カルデヤ人(びと)の王を之〔ヱルサレム〕に攻きたらせたまひければ彼その聖所の室(いへ)にて剣(つるぎ)をもて少者(わかきもの)を殺し童男(わらべ)をも童女(わらはめ)をも老人(おいびと)をも白髪(しらが)の者をも憐まざりき皆ひとしく彼の手に付(わた)したまへり 神の室(いへ)の諸(もろもろ)の大小の器皿(うつはもの)ヱホバの室(いへ)の貨財王とその牧伯等(つかさたち)の貨財など凡て之をバビロンに携へゆき 神の室(いへ)を焚(や)きヱルサレムの石垣を崩しその中の宮殿(みやみや)を尽く火にて焚(や)きその中(うち)の貴き器を尽く壊(そこ)なへり また剣(つるぎ)をのがれし者等(ものども)はバビロンに虜(とらは)れゆきて彼処(かしこ)にて彼とその子等(こら)の臣僕(しもべ)となりペルシヤの国の興るまで斯(かく)てありき 是ヱレミヤの口によりて伝はりしヱホバの言(ことば)の応ぜんがためなりき斯(かく)この地遂にその安息を享(うけ)たり即ち是はその荒をる間安息して終に七十年満ちぬ ペルシヤ王クロスの元年に当りヱホバ曩(さき)にヱレミヤの口によりて伝へたまひしその聖言(みことば)を成(なさ)んとてペルシヤ王クロスの心を感動したまひければ王すなはち宣命(みことのり)をつたへ詔書を出(いだ)して徧(あまね)く国中(こくちう)に告示(つげしめ)して云(いは)く ペルシヤ王クロスかく言ふ天の神ヱホバ地上の諸国を我に賜へりその家をユダのエルサレムに建(たつ)ることを我に命ず凡そ汝らの中(うち)もしその民たる者あらばその神ヱホバの助を得て上りゆけ(歴代志略下第3617-23

 

ネブカドネザル2世の新バビロニア軍によるエルサレムの破壊は紀元前587年,新バビロニアの滅亡は紀元前539年,ペルシヤ帝国のキュロス2世のエルサレム帰還の詔書は紀元前538年のことです(ただし,諸本によって年代が微妙に異なります。)。エレミヤは「七十年」続くと言ったものの,ユダ王国滅亡後,新バビロニア帝国は五十年ほどしか続かなかったことになります。

なお,エレミヤについては,後の東京大学教養学部長・総長である矢内原忠雄による伝記(『余の尊敬する人物』)が,先の大戦における対米英蘭戦前の1940年に岩波新書で出ていました。

 

(2)バビロン捕囚期の意義:Erinnerung

新バビロニアによってユダ王国は滅ぼされ,ダビデの子孫はもはや王ではなく,エルサレムの神殿も破壊され,民族の指導層はバビロンに連行されてしまいました。このバビロン捕囚期,ユダヤ人は全てを失ったかのように見えました。

 

・・・神とのつながりを保証する具体的なものは,すべて失われてしまったかのような状況だった。けれども全くすべてが失われてしまったのでもなかった,残っていたのは「思い出」である。(加藤隆『旧約聖書の誕生』(筑摩書房・2008年)205頁)

 

・・・捕囚の状態では,過去の出来事を想起することで,現在の神と民との関係が確認されている。・・・そして過去を想起して現在の神と民との関係を確認するというメンタリティーは,今日も存続している。(同206-207頁)

 

・・・出エジプトの出来事は捕囚時代のユダヤ人にとって,たいへん重要な意味をもつことになった。エジプトで奴隷状態にあったヘブライ人たちを,出エジプトの際に神が導いて解放した。捕囚時代のユダヤ人たちは,現在,バビロニア帝国の支配下で奴隷のような状態に置かれている。過去において神は自分たちの祖先を奴隷状態から解放したのだから,今,奴隷状態にある我々も神は必ず解放するに違いないと考えたのである。(同207頁)

 

 ここで,「思い出」ないしは「想起」が出て来ます。

 ヴァイツゼッカーの「荒れ野の40年」演説にも次のくだりがあったところです。

 

 ・・・思い出(Erinnerung)は,ユダヤ人の信仰を構成する(gehört)ものだからです。

  「忘却しようとする意思は,捕囚(Exil)を長引かせる。

 そして,救済の秘密は,思い出(Erinnerung)と言われる。」

  このよく引用されるユダヤ人の知恵の言葉が言わんとしていることは,確かに,神に対する信仰は歴史における神の働きに対する信仰である,ということであります。

 

(3)再び戦後70

 

ア Japanische Erinnerung?

 さて,日本は,戦後70年間,過去の何を思い出し,何を想起し続けたものか。

 どちらかというと,1945年の日本の敗戦は,紀元前587年のユダ王国の滅亡よりは紀元前597年の同王国の敗戦に似ていて,ただし,戦勝帝国に無謀な叛乱を起こして亡国にまで至るものではなかったもの(しかも,占領期間が七十年どころか7年(1952年4月28日の「主権回復」)で終わったもの),ということのように見えなくもないところです。亡国もなく離散もなければ,思い出,想起又はErinnerungに係る特段の必要は感じられなかったということでしょうか。基本的に我が国民は,人として自然なことですが,現在志向であるように思われます。

 

イ Das Joch des Imperiums

 紀元前597年のユダ王国の敗戦後の紀元前594年,預言者エレミヤは,同王国の新バビロニア帝国に対する服従の必要を説き,かつ,可視化させるべく,索(なわ)と軛(くびき)とを作って自分の項(うなじ)に置きます(エレミヤ記第272)。その姿で首都エルサレムをうろうろするのですから,嫌味で目障りですね。何だこんなもんみっともないと,卑屈な軛をエレミヤの項(うなじ)から取り上げて壊した上で,ネブカドネザルの覇権など2年のうちにこんなふうにぶっ壊されるのだ,と会衆の前で見得を切る預言者ハナニア(エレミヤ記第2810-11)の方が普通の「愛国者」らしいところです。エレミヤはいつも売国奴っぽい。しかし,こういう「愛国者」の熱気に当てられてしまって敗戦ユダ王国は新バビロニア帝国に叛旗を翻し,紀元前587年の悲惨な滅亡・亡国を招いたのですから,そういう勇ましい有力者のいなかった戦後日本は結構なことでした。

 

ウ Weltmachtwechsel

 とはいえ,「七十年」が経過して,さしもの戦勝帝国の覇権も揺らぎ,次の新秩序が見えて来たときにどう対処するのかは難しい問題です。仮にユダ王国が新バビロニア帝国下の優等生的属国として存続していた場合,キュロス大王率いるペルシヤ帝国勃興の新事態にはどのように対応したものでしょうか。「エレミヤ先生は「70年」と言っておられたから,まだ70年たっていない以上飽くまで新バビロニア帝国の軛を担い,共にペルシヤ人に抵抗すべきだ。必要ならばバビロニア様のために国外派兵もあり得べし。」と妙に杓子定規過ぎるのも,勝ち馬に乗り損ねてしまうようでいけなかったでしょう。

 しかし,機会主義的なのも,余り格調が高くないですね。

 「捕囚の七十年」でなければ,「古希の七十年」ですか。確かに,戦後70周年の今年2015年,我が国民の高齢化は,我が国にとって避けて通れない大問題です。

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 東京大学教養学部の矢内原公園(目黒区駒場)

(前編からの続き)

 

3 その後の兵役法令改正

 岩波書店の『近代日本総合年表 第四版』から1938年9月以降の兵役法関係の記事を拾うと,次のようなものがあります。

 

1939年3月9日 兵役法改正公布〔法〕(兵役期間延長,短期現役制廃止)。

19391111日 兵役法施行令改正公布〔勅〕(徴兵合格に第3乙種設定)。

1943年3月2日 兵役法改正公布〔法〕(朝鮮に徴兵制を施行)。8.1施行。

1943年9月21日 陸軍省,兵役法施行規則改正公布〔省〕(’30年以前検査の第2国民兵も召集)。

1943年9月23日 閣議,台湾に’45年度より徴兵制実施を決定。

194310月2日 在学徴集延期臨時特例公布〔勅〕(学生・生徒の徴兵猶予停止)。12.1第1回学徒兵入隊(学徒出陣)。

19431021日 文部省・学校報国団本部,徴兵延期停止により出陣する学徒壮行大会を神宮外苑競技場で挙行。東京近在77校の学徒数万,雨中に劇的の分列行進。

194311月1日 兵役法改正公布〔法〕(国民兵役を45歳まで延長)。

19431224日 徴兵適齢臨時特例公布〔勅〕(適齢を1年引下げ)。

 

 1939年3月9日の年表記事にある兵役法改正(昭和14年法律第1号によるもの)による兵役期間延長は,陸軍関係では(海軍は世帯が小さいので,陸軍で代表させます。),補充兵役が12年4月から17年4月になっています(兵役法8条改正)。現役2年,予備役5年4月及び後備兵役10年の合計17年4月とそろったことになります。また,教育のための召集は第一補充兵のみならず第二補充兵も受け得ることになりました(同法57条改正)。なお,兵役法41条が次のようになっています。

 

 第41条 徴兵検査ヲ受クベキ者ニシテ勅令ノ定ムル学校ニ在学スル者ニ対シテハ勅令ノ定ムル所ニ依リ年齢26年迄ヲ限トシ其ノ徴集ヲ延期ス

  〔第2項及び第3項略〕

 ④戦時又ハ事変ニ際シ特ニ必要アル場合ニ於テハ勅令ノ定ムル所ニ依リ徴集ヲ延期セザルコトヲ得

 

 兵役法41条1項の当該改正に基づき昭和14年勅令第75号で改正された兵役法施行令101条1項においては,大学医学部は大学の他学部とは別格にされました。すなわち,徴集延期が年齢26年までなのは医学部だけで,他学部は25年までになっています。

 また,兵役法は,昭和16年法律第2号によっても改正されています。その結果,1941年4月1日から後備役が廃止され(兵役法7条削除),予備役に併合されました。

 さらに,兵役法は,対米英蘭戦開始後の昭和17年法律第16号によっても改正されており(公布日である1942218日から施行),国民兵も簡閲点呼を受けることがあり得るようになった(兵役法60条改正)ほか,徴兵適齢等に関して,第24条ノ2として「前2条ニ規定スル年齢及時期ハ戦時又ハ事変ノ際其ノ他特ニ必要アル場合ニ於テハ勅令ノ定ムル所ニ依リ之ヲ変更スルコトヲ得」という条項が加えられました。

 1943年3月2日の年表記事では,兵役法の改正により同年8月1日から「朝鮮に徴兵制を施行」とありますが,兵役義務は属人的なものであって現に居住滞在する地域を問わないので(美濃部『憲法精義』354頁参照),ちょっと不正確な記述です。それまでは帝国臣民男子のうち(兵役法1条),戸籍法の適用を受ける者(内地人)にのみ兵役義務が課されることになっていたところ,「朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者」にも兵役義務が課されるようになった改正です(兵役法92項,231項等改正(昭和18年法律第4号))。

 1943年9月23日の年表記事にある閣議決定に基づく兵役法改正は,同年11月1日公布の昭和18年法律第110号によるものでしょう。同法(公布日から施行)によって,大日本帝国臣民の兵役期間も古代ローマ市民並みとなった(兵役法9条2項及び18条の「40年迄」を「年齢45年に満ツル年ノ3月31日迄」に改める。)ほか,帝国臣民男子すべてに兵役義務がかかるようになりました(同法9条2項及び23条1項から「戸籍法又ハ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者ニシテ」を削る。)。ただし,台湾人の兵役義務に係る後者の改正の施行日は,別に勅令で定めるものとされました(昭和18年法律第110号附則1項ただし書。昭和19年勅令第2811条により,当該改正は1944年9月1日から施行)。

 194310月2日に公布され同日から施行された在学徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755号)は,「兵役法第41条第4項ノ規定ニ依リ当分ノ内在学ノ事由ニ因ル徴集ノ延期ハ之ヲ行ハズ」としたものです。

 しかし,在学徴集延期臨時特例の上記文言を見ると,文科の学生も理科の学生も等しく学徒出陣ということになりそうですが,確か,学徒出陣といえば文科の学生だったはず。実は理科の学生を救出するタネは,昭和18年法律第110号によって194311月1日から兵役法に挿入された同法45条ノ2にありました。

 

 第45条ノ2 第41条第4項ノ規定ニ依リ徴集ヲ延期セラレザルニ至リタル者現役兵トシテ入営スベキ場合ニ於テ軍事上仍修学ヲ継続セシムルノ必要アルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ其ノ入営ヲ延期スルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ当該期間ニ相当スル期間現役期間ヲ延長ス

   〔第2項略〕

 

 兵役法45条ノ2第1項の命令として,19431113日に公布され同日から施行された昭和18年陸軍省令第54号(修学継続の為の入営延期等に関する件)があり,当該省令1条に基づく同日の昭和18年陸軍省告示第54号において,理科系(師範学校系も)の学生が入営延期の対象者とされたのでした(大学院又は研究科の特別研究生も当該告示に掲げられた。)。

 19431224日に公布され同日から施行された徴兵適齢臨時特例(昭和18年勅令第939号)は,「兵役法第24条ノ2ノ規定ニ依リ当分ノ内同法第23条第1項及第24条ニ規定スル年齢ハ之ヲ19年ニ変更ス」としたものです。ただし,当該特例は,内地人にのみ適用されました(徴兵適齢臨時特例附則1項ただし書(昭和19年勅令第2812条による改正後は附則2項)。)。

 1945年2月10日に公布され同日から施行された昭和20年法律第3号による兵役法の改正は,徴兵適齢前の17歳・18歳の少年をも召集することが日程に上っていたことがうかがわれる改正です。当該改正後の兵役法67条(及び第67条ノ2)には「第二国民兵ニシテ未ダ徴兵検査ヲ受ケザル者(徴集ヲ延期セラレアル者ヲ含ム以下同ジ)ヲ召集シタル場合」という表現が見られます。つとに1944年10月18日公布の昭和19年陸軍省令第45号によって,同年11月1日から(同省令附則1条),兵役法施行規則(昭和2年陸軍省令第24号)50条は「・・・徴兵終結処分ヲ経ザル第二国民兵(海軍ニ召集セラレタル者及船舶国籍証書ヲ有スル船舶ノ船員ヲ除ク以下同ジ)ハ之ヲ本籍所在ノ連隊区ノ兵籍ニ編入シ当該連隊区司令官ノ管轄ニ属セシム」と規定していました。

 

4 義勇兵役法

 「兵役義務はその性質上日本臣民にのみ限らるのみならず,日本臣民の中でも男子に限」るとは美濃部達吉の主張でしたが(同『憲法精義』354頁),大日本帝国憲法20条の「日本臣民」は,文言上,男子に限られていませんでした(大日本帝国憲法2条と対照せよ。)。

 大日本帝国憲法は男女同権を排斥するものではありませんでした。

 1945年6月23日には,義勇兵役法(昭和20年法律第39号)というすさまじい法律が公布され,同日から施行されています。

すさまじいというのは,上諭からして異例だからです。

 

朕ハ曠古ノ難局ニ際会シ忠良ナル臣民ガ勇奮挺身皇土ヲ防衛シテ国威ヲ発揚セムトスルヲ嘉シ帝国議会ノ協賛ヲ経タル義勇兵役法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 

普通の上諭ならば,「朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル義勇兵役法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム」となったはずです。

義勇兵役法の主な条項を見ると,次のとおり。義勇兵役といっても,臣民の義務であって,volunteerではありません。

 

第1条 大東亜戦争ニ際シ帝国臣民ハ兵役法ノ定ムル所ニ依ルノ外本法ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ服ス

②本法ニ依ル兵役ハ之ヲ義勇兵役ト称ス

  〔第3項略〕

第2条 義勇兵役ハ男子ニ在リテハ年齢15年ニ達スル年ノ1月1日ヨリ年齢60年ニ達スル年ノ1231日迄ノ者(勅令ヲ以テ定ムル者ヲ除ク),女子ニ在リテハ年齢17年ニ達スル年ノ1月1日ヨリ年齢40年ニ達スル年ノ1231日迄ノ者之ニ服ス

  〔第2項略〕

第5条 義勇兵ハ必要ニ応ジ勅令ノ定ムル所ニ依リ之ヲ召集シ国民義勇戦闘隊ニ編入ス

②本法ニ依ル召集ハ之ヲ義勇召集ト称ス

第7条 義勇召集ヲ免ルル為逃亡シ若ハ潜匿シ又ハ身体ヲ毀傷シ若ハ疾病ヲ作為シ其ノ他詐偽ノ行為ヲ為シタル者ハ2年以下ノ懲役ニ処ス

②故ナク義勇召集ノ期限ニ後レタル者ハ1年以下ノ禁錮ニ処ス

 

女性も兵役に服したのですから,男女平等。次の衆議院議員総選挙で婦人参政権が認められたのは当然のことでした(市川房枝は陸軍省兵務課主催の「婦人義勇戦闘隊ニ関スル懇談」に出席しています。)。女性もSHINE!です。
 なお,昭和20年秋の凄惨な「本土決戦」を描いた小松左京の小説『地には平和を』においては,15歳の主人公・河野康夫が属した「本土防衛特別隊」である黒桜隊は,「隊員は15歳から18歳までで,一応志願制度だった」ということになっています。しかし,兵役法及び義勇兵役法を素直に読むと,本土決戦があれば,17歳以上の少年は第二国民兵として陸軍に召集され(海軍はもうないでしょう。),15歳及び16歳の少年はそれとは別に義勇兵として国民義勇戦闘隊に義勇召集されていたことになるようですから,黒桜隊の法的位置付けはちょっと難しいようです。
 ところで,国民義勇戦闘隊はどのように武装する予定だったかというと,次のようなものだったそうです。鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長(現在の内閣官房長官。内閣官房長官の英訳名Chief Cabinet Secretaryは「内閣書記官長」のままですね。)であった後の郵政大臣たる迫水久常が回想していわく。「国民義勇隊の問題が論議されていた当時のある日の閣議のとき,私は陸軍の係官から,国民義勇戦闘隊に使用せしむべき兵器を別室に展示してあるから,閣議後見てほしいという申入れを受けた。総理を先頭にその展示を見にいって,一同腹の底から驚き,そして憤りと絶望を感じたのであった。さすがに物に動じない鈴木〔貫太郎〕首相も唖然として,側にいた私に「これはひどいなあ」とつぶやかれた。展示してある兵器というのは,手榴弾はまずよいとして,銃というのは単発であって,銃の筒先から,まず火薬を包んだ小さな袋を棒で押しこみ,その上に鉄の丸棒を輪ぎりにした弾丸を棒で押しこんで射撃するものである。それに日本在来の弓が展示してあって麗々しく,射程距離,おおむね三,四十米,通常射手における命中率50%とかいてある。私は一高時代,弓術部の選手だったから,これには特に憤激を感じた。人を馬鹿にするのも程があると思った。その他は文字どおり,竹槍であり,昔ながらのさす又である。いったい陸軍では,本気にこんな武器で国民を戦わせるつもりなのか,正気の沙汰とも覚えず」云々と(迫水久常『機関銃下の首相官邸』(恒文社・1964年)220-221頁)。阿南惟幾陸軍大臣はそれでも胸を張っていたものかどうか。しかしながら,内閣総理大臣自ら「これはひどいなあ」と思いつつも,義勇兵役法案が閣議を通ってしまい(内閣官制(明治22年勅令第135号)5条1項1号),帝国議会も協賛してしまうのですから(大日本帝国憲法5条,37条),安全保障関連法案の取扱いが苦手なのは,我が日本のお国柄でしょう。
 

5 カイロ宣言

 19431122日から同月26日まで,ルーズベルト,蒋介石及びチャーチルの第1回カイロ会談が開催され,同月27日,三者は「カイロ宣言」に署名し,当該宣言は同年12月1日に発表されました。ところで,当該宣言中に次のようなくだりがあります。

 

  前記の三大国は,朝鮮の人民の奴隷状態に留意し,やがて朝鮮を自主独立のものにする決意を有する。

 

 「奴隷状態」とはゆゆしい言葉ですが,上記のくだりの英文は,次のとおり。

 

 The aforesaid three great powers, mindful of the enslavement of the people of Korea, are determined that in due course Korea shall become free and independent.

 

朝鮮の人民はenslaveされているということですが,どういうことでしょうか。大日本帝国においてはかつてのアメリカ合衆国のようには奴隷制(slavery)は無かったところです。しかしながら,日付に注目すると,1943年8月1日からは,内地人(「祖宗ノ忠良ナル臣民ノ子孫」である臣民(大日本帝国憲法発布勅語)にして「朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所」の「朕カ親愛スル所ノ臣民」(大日本帝国憲法上諭))でもないのに,朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル男子も兵役法により兵役義務を課されて,involuntary servitudeたる「その意に反する苦役に服」することになっていました。この点をとらえてのenslavementとの表現なのでしょうか。兵役義務が認められることに係る大日本帝国憲法20条は「日本臣民」といっていても,「憲法の総ての規定がそのまゝ新附の人民に適用せらるゝものでない」とされていました(美濃部『憲法精義』351頁)。
 なお,朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者の先の大戦に対する態度については,清沢洌の『暗黒日記』1944年8月27日の条に「・・・鮮人である平山君は公然曰く,大東亜戦争は,日本が勝っても,敗けても朝鮮にいい。勝てば朝鮮を優遇するだろうし,敗ければ独立するのだと。大熊真君の話しでは,外務省に朝鮮人の官吏がいるが,明らかに日本が敗けてくれることを希望するような口吻であると。」とありました。
 
 

 

弁護士 齊藤雅俊

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 日本国憲法18 何人も,いかなる奴隷的拘束も受けない。又,犯罪に因る処罰の場合を除いては,その意に反する苦役に服させられない。

 Article 18. No person shall be held in bondage of any kind. Involuntary servitude, except as punishment of crime, is prohibited.

 

1 兵役義務の違憲性

 2014年7月1日の我が閣議決定「国の存立を全うし,国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」を受けて,内閣官房国家安全保障局は,ウェッブ・サイトに「「国の存立を全うし,国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」の一問一答」という記事を掲載しています。その15番目及び16番目の問答は次のとおりです。

 

 【問15】徴兵制が採用され,若者が戦地へと送られるのではないか?

 【答】全くの誤解です。例えば,憲法第18条で「何人も(中略)その意に反する苦役に服させられない」と定められているなど,徴兵制は憲法上認められません。

 

【問16】今回,集団的自衛権に関して憲法解釈の変更をしたのだから,徴兵制も同様に,憲法解釈を変更して導入する可能性があるのではないか?

【答】徴兵制は,平時であると有事であるとを問わず,憲法第13条(個人の尊重・幸福追求権等),第18条(苦役からの自由等)などの規定の趣旨から見て許容されるものではなく,解釈変更の余地はありません。

 

 これは,1980年8月15日に鈴木善幸内閣がした閣議決定,すなわち,「閣議,稲葉誠一社会党代議士提出の〈徴兵制問題に関する質問主意書〉につき〈徴兵は違憲,有事の際も許されない〉との答弁書決定(初の体系的統一見解)」(『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年))との立場の確認ですね。つとに,19701028日の衆議院内閣委員会での高辻正己内閣法制局長官の答弁及び同年11月5日の参議院決算委員会での中曽根康弘防衛庁長官の答弁を受けて,憲法「第9条が自衛隊の存在を容認すると解する政府も,徴兵制は,憲法第13条ないし第18条に反し違憲だとしているようである。」と観察されていたところです(宮沢俊義『憲法Ⅱ〔新版〕』(有斐閣・1971年)335頁)。

 政府の見解と学説との関係を見ると,憲法18条「にいう「苦役」が兵役の義務をも含むと解することは,この規定の歴史的意味からいって,あまり自然ではない。しかし,日本国憲法では,戦争を放棄し,軍隊を否認している第9条の規定からいって,兵役の義務は,みとめられる余地がないだろう。」(宮沢335頁)として兵役義務の違憲性について第9条を決め手とするものと解される学説と,政府の見解とは直ちには符合しませね。「憲法18条は,「その意に反する苦役」,すなわち強制的な労役を,刑罰の場合を除いて禁止する。徴兵制は,憲法9条だけでなく本条にも違反すると考えるべきである。」(樋口陽一『憲法』(創文社・1992年)244頁)として第9条と第18条とを並置するものと解される学説と,より符合するものでしょう。

 「非常災害などの緊急の必要がある場合に,応急的な措置として労務負担が課されることがあるが(災害対策基本法65条・71条,災害救助法〔7〕条・〔8〕条,水防法〔24〕条,消防法29条5項など),これは,災害防止・被害者救済という限定された緊急目的のため必要不可欠で,かつ応急一時的な措置であるという点で,本条〔憲法18条〕に反するものとはいえない。しかし,明治憲法下にみられた国民徴用のように,積極的な産業計画のために長期にわたって労務負担を課すことは許されない。」ということですから(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)585-586頁),徴用が許されないのならばいわんや徴兵をやということでしょう(ただし,国民徴用は,「むしろ,職業選択の自由(憲22条)に含まれると解される勤労の自由に対する侵害と見るほうが,いいのではないか。」ともされています(宮沢336337頁)。)。

 ちなみに,我が憲法18条のモデルであるアメリカ合衆国憲法修正13条1節(Neither slavery nor involuntary servitude, except as a punishment for crime whereof the party shall have been duly convicted, shall exist within the United States, or any place subject to their jurisdiction.)の「その意に反する隷属状態(involuntary servitude)」には,債務の履行としての強制労役たる債務労働(peonage)は含まれるが,「国民が国に対して負う義務」の履行たる兵役や陪審員になる義務などは含まれないとされています(宮沢333334335頁)。修正13条は,米国政府を縛るための規定というよりは,むしろ私人間効力のための規定であるということでしょうか。確かに,南部の私人が奴隷を所有していたのですよね。

我が政府は,徴兵制が違憲であるとの解釈を導き出すために,憲法18条になお同13条を加えての合わせ技にしています。とはいえ憲法13条は,そもそも「立法その他の国政」について広くかかっていますが。

 政府の憲法解釈によれば,国民に兵役義務を課するには,大日本帝国憲法20条(「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」)のような条項を,憲法を改正して設けなければならないということのようです。

 美濃部達吉は,大日本帝国憲法20条について,同条に「或る特別なる法律上の意義を附せんとする見解は,総て正当とは認め難い。」との見解を述べていましたが(同『憲法精義』(有斐閣・1927年)352頁),現在の日本国憲法については状況が異なっているということになります。

 なお,伊藤博文の『憲法義解』は,大日本国憲法20条について,明治「5年古制に基き徴兵の令を頒行し,全国男児20歳に至る者は陸軍海軍の役に充たしめ,平時毎年の徴員は常備軍の編制に従ひ,而して17歳より40歳迄の人員は尽く国民軍とし,戦時に当り臨時召集するの制としたり。此れ徴兵法の現行する所なり。本条〔大日本帝国憲法20条〕は法律の定むる所に依り全国臣民をして兵役に服するの義務を執らしめ,類族門葉に拘らず,又一般に其の志気身体を併せて平生に教養せしめ,一国雄武の風を保持して将来に失墜せしめざらむことを期するなり。」と解説していました。美濃部的には,大日本帝国憲法20条は,「志気身体を併せて平生に教養」して「一国雄武の風を保持」するという「臣民の道徳的本分を明にする」ものにすぎない(美濃部『憲法精義』351352頁),ということでしょう。

 

2 1938年の兵役法紹介

 前置きが長くなりました。

前回(20141115日)の記事(「離婚と「カエサルの妻」」補遺(裁判例紹介)」)を書いていて,描写が又太郎の愛情生活に及ぶうちに,先の大戦中における我が臣民の兵役への服役状況が気になりだしたのですが,今回は,当時兵役義務について定めていた兵役法(昭和2年法律第47号)等についてのお話です。

 なお,そもそも兵とは,美濃部達吉によれば,「単に公務を担任する義務を意味するのではなく,忠実に無定量の勤務に服すべき公法上の義務」であるところの「公法上の勤務義務(öffentliche Dienstpflicht)」を国家に対して官吏と並んで負う者です。兵と官吏との相違は,「一に兵は臣民たる資格から生ずる当然の義務として其の関係に立つものであり,仮令本人の志願に依つて現役に服する場合でも,それは唯義務の変形であるに止まるに反して,官吏は一般臣民の法律上の義務に基づくのではなく,常に本人の自由意思に依る同意に基づいてのみ任命せらるるものであることに在る。」とされています。(同『日本行政法 上』(有斐閣・1936年)676-677頁)

 

兵役法の主要規定は次のとおりです(19389月当時)。

   

 第1条 帝国臣民タル男子ハ本法ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ服ス

 第2条 兵役ハ之ヲ常備兵役,後備兵役,補充兵役及国民兵役ニ分ツ

 ②常備兵役ハ之ヲ現役及予備役ニ,補充兵役ハ之ヲ第一補充兵役及第二補充兵役ニ,国民兵役ハ之ヲ第一国民兵役及第二国民兵役ニ分ツ

 第4条 6年ノ懲役又ハ禁錮以上ノ刑ニ処セラレタル者ハ兵役ニ服スルコトヲ得ズ

 第5条 現役ハ陸軍ニ在リテハ2年,海軍ニ在リテハ3年トシ現役兵トシテ徴集セラレタル者之ニ服ス

 ②現役兵ハ現役中之ヲ在営セシム

 第6条 予備役ハ陸軍ニ在リテハ5年4月,海軍ニ在リテハ4年トシ現役ヲ終リタル者之ニ服ス

 第7条 後備兵役ハ陸軍ニ在リテハ10年,海軍ニ在リテハ5年トシ常備兵役ヲ終リタル者之ニ服ス

 第8条 第一補充兵役ハ陸軍ニ在リテハ12年4月,海軍ニ在リテハ1年トシ現役ニ適スル者ニシテ其ノ年所要ノ現役兵員ニ超過スル者ノ中所要ノ人員之ニ服ス

 ②第二補充兵役ハ12年4月トシ現役ニ適スル者ノ中現役又ハ第一補充兵役ニ徴集セラレザル者及海軍ノ第一補充兵役ヲ終リタル者之ニ服ス但シ海軍ノ第一補充兵役ヲ終リタル者ニ在リテハ11年4月トス

 第9条 第一国民兵役ハ後備兵役ヲ終リタル者及軍隊ニ於テ教育ヲ受ケタル補充兵ニシテ補充兵役ヲ終リタル者之ニ服ス

 ②第二国民兵役ハ戸籍法ノ適用ヲ受クル者ニシテ常備兵役,後備兵役,補充兵役及第一国民兵役ニ在ラザル年齢17年ヨリ40年迄ノ者之ニ服ス

 18 第5条乃至第8条,第9条第1項及第10条〔師範学校卒業者の短期現役兵〕ニ規定スル服役ハ其ノ期間ニ拘ラズ年齢40年ヲ以テ限トス

23 戸籍法ノ適用ヲ受クル者ニシテ前年12月1日ヨリ其ノ年1130日迄ノ間ニ於テ年齢20年ニ達スル者ハ本法中別段ノ規定アルモノヲ除クノ外徴兵検査ヲ受クルコトヲ要ス

②前項ニ規定スル年齢ハ之ヲ徴兵適齢ト称ス

 32条1項 身体検査ヲ受ケタル者ハ左ノ如ク之ヲ区分ス

  一 現役ニ適スル者

  二 国民兵役ニ適スルモ現役ニ適セザル者

  三 兵役ニ適セザル者

  四 兵役ノ適否ヲ判定シ難キ者

 34 国民兵役ニ適スルモ現役ニ適セザル者ハ之ヲ徴集セズ

 54 帰休兵,予備兵,後備兵,補充兵又ハ国民兵ハ戦時又ハ事変ニ際シ必要ニ応ジ之ヲ召集ス

 

 兵役法1条及び9条2項の意味は,「内地人たる男子は満17年に達するに因り,何等の行為を待たず,法律上当然に兵役義務に服するのであるが,此の意義に於ける兵役義務は,現に軍事上の勤務に服する義務ではなくして,唯国家より勤務に服することを命ぜられ得べき状態に在るに止まる。・・・随つて又兵役義務に服する者の総てが軍人であるのではなく,唯或る条件の下に其の自由意思に依らずして軍人となるべき地位に在るのである。」ということになります(美濃部達吉『日本行政法 下』(有斐閣・1940年)1321-1322頁)。

手元の辞書を見ると,ラテン語のjunioresの定義は,“les plus jeunes=les jeunes gens destinés à former l’armée active, de 17 ans à 45 ans, les citoyens capables de porter les armes”となっていて,古代ローマでは17歳から45歳までの男性市民は武器を執って軍務に服すべきものとされていたようです。40歳で打ち止めとする大日本帝国(兵役法92項,18条)は,若者には古代ローマ並みに厳しいものの,中年には優しかったということになります(それとも日本男児には早老の気があるということでしょうか。)。

 兵役法4条は,兵役に服することの「権利たる性質を明示して居るもの」です(美濃部『日本行政法 下』1322頁)。また,「兵役義務は憲法に定むる義務であるが,兵役義務に服するが為に刑罰に服する義務を無視することの出来ないことは勿論で,兵役に服することが出来なくなつても,尚刑罰に服しなければならぬ」ところでもありました(美濃部『憲法精義』353354頁)。すなわち我が軍には「囚人部隊」というものはなかったわけです。

徴兵検査は「(1)身体検査(2)身上に関する調査(3)徴兵処分の三を包含し,徴兵官がこれを行ふ」ものとされていました(美濃部『日本行政法 下』1324頁)。

徴兵検査後の兵役の流れには,次のように大きく3系統がありました。太字部分が常備兵役です。「「常備兵役」は軍編成上の骨幹を為す兵員を包含する兵役で,常時国防の義務ありとの観念に立脚せるもの」です(日高巳雄『軍事法規』(日本評論社・1938年)2頁)。

 

現役→予備役→後備役→第一国民兵役

 ②第一又は第二補充兵役→第一又は第二国民兵役

 ③第二国民兵役

 

この外,「兵役ニ適セザル者」(兵役法3213号)があって,兵役を免除されました(同法35条)。

現役兵が「現役ニ適スル者」であることは当然ですが,補充兵もまた「現役ニ適スル者」であるものとされています(兵役法8条,331項・3項。補充兵のうち第一補充兵は現役兵闕員の場合の補闕要員となり(同法481項),また,教育のため召集されることがありました(同法571項)。)。

これに対して,第二国民兵役に服する者はそもそも現役に適さない者(兵役法3212号の「国民兵役ニ適スルモ現役ニ適セザル者」)ということになります。なお,兵役法34条の「徴集」は,ここでは現役又は補充兵役編入を決してこれを本人に通告する行為の意味と解されます(日高12頁参照)。

さて,徴兵検査中の身体検査の結果区分(①現役に適する者,②国民兵役に適するも現役に適せざる者,③兵役に適せざる者及び④兵役の適否を判定し難き者(兵役法321項))の標準は勅令で定めるものとされ(同条2項),兵役法施行令(昭和2年勅令第330号)68条1項1号の第2項は「現役ニ適スル者ハ其ノ体格ノ程度ニ応ジ之ヲ甲種及乙種ニ,乙種ハ之ヲ第一乙種及第二乙種ニ分ツ」と,同条1項2号は「国民兵役ニ適スルモ現役ニ適セザル者」を「丙種トス」と,同項3号は「兵役ニ適セザル者」を「丁種トス」と,同項4号は「兵役ノ適否ヲ判定シ難キ者」を「戊種トス」と規定し,更に同条2項は「疾病其ノ他身体又ハ精神ノ異常ニ因リ第一乙種,第二乙種,丙種又は丁種ト為スベキ細部ノ標準ハ陸軍大臣之ヲ定ム」と規定していました。

すなわち,甲乙ならば現役に適して現役兵又は補充兵であるのに対し,丙ならば第二国民兵であって徴集されず,丁ならば兵役免除となる,というわけです。

ところで,昔から視力検査となると0.1が見えずにじりじりと前に進んでは恥ずかしい思いをしていた筆者は,徴兵検査を受けたならば,丙種で第二国民兵相当だったようです。すなわち,兵役法施行令68条2項に基づき制定された陸軍身体検査規則(昭和3年陸軍省令第9号)の制定当初の規定によれば,同規則18条4項は「各眼ノ裸視力(以下単ニ視力ト称ス)「0.6」ニ満チザル者ハ甲種ト為スコトヲ得ズ」と規定している一方,同規則6条1項本文(「疾病其ノ他身体又ハ精神ノ異常ニ因リ第一乙種,第二乙種,丙種及丁種ト為スベキ標準ハ附録第2ニ因ル」)に基づく附録第2の表の第18号を見ると,「近視又ハ近視性乱視ニシテ視力右眼「0.4」左眼「0.3」以上ノモノ及5「ヂオプトリー」以下ノ球面鏡ニ依ル各眼ノ矯正視力「0.6」以上ノモノ」は第二乙種であるのに対し「近視又ハ近視性乱視ニシテ球面鏡ニ依ル矯正視力良キ方ノ眼ニテ「0.3」以上ノモノ」が丙種であり,「近視又ハ近視性乱視ニシテ球面鏡ニ依ル矯正視力良キ方ノ眼ニテ「0.3」ニ満タザルモノ」は丁種だったからです。

なお,上記陸軍身体検査規則附録第2の表の第15号には不思議な規定があります。「著シキ頭蓋,顔面ノ変形」のある者及び「全禿頭」の者は丙種とされ,その結果第二国民兵になるというものです。毛が無いと軍隊で怪我無いことになるということのようですが,どういうことでしょうか。兵役法33条2項においては,現役兵及び第一補充兵の属すべき兵種は「身材,芸能及職業ニ依リ之ヲ定ム」るものとされ,「身材」とは「独り身体と謂ふのみでなく容姿,気品等を包含する」とされていますから(日高17頁),「全禿頭」の者は身材的に難ありということだったのでしょうか。陸軍の軍医であった森鷗外の小説『金貨』(1909年)には「八は子供の時に火傷をして, 右の外眥(めじり)から顳顬(こめかみ)に掛けて, 大きな引弔(ひつつり)があるので, 徴兵に取られなかつた。」というくだりがあります。著シキ顔面ノ変形の一例ということでしょう。

 

 とこの辺で,本件記事は一つのブログ記事として掲載するには分量が多くなり過ぎたので前編を終わります。続きは後編をどうぞ。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

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1 大同の元号

 9世紀初めの我が平城天皇時代の元号は,大同でした。

 ところでこの大同という元号はなかなか人気があり,我が国のほか,六朝の梁においても(535546年),契丹族の遼においても(947年)採用されています。

 最近の例としては,1932年3月1日の満洲国建国宣言発表に当たって採用されています(1934年に満洲国の帝制移行とともに康徳に改元)。

 


2 大同元年の日満議定書

 この満洲国の大同元年の9月15日,同国と我が国との間で議定書(日満議定書)が署名調印され,条約として即日発効しました(昭和7年条約第9号)。日満議定書の内容は,次のとおりです。

 


         議 定 書

 日本国ハ満洲国ガ其ノ住民ノ意思ニ基キテ自由ニ成立シ独立ノ一国家ヲ成スニ至リタル事実ヲ確認シタルニ因リ

 満洲国ハ中華民国ノ有スル国際約定ハ満洲国ニ適用シ得ベキ限リ之ヲ尊重スベキコトヲ宣言セルニ因リ

 日本国政府及満洲国政府ハ日満両国間ノ善隣ノ関係ヲ永遠ニ鞏固ニシ互ニ其ノ領土権ヲ尊重シ東洋ノ平和ヲ確保センガ為左ノ如ク協定セリ

 一 満洲国ハ将来日満両国間ニ別段ノ約定ヲ締結セザル限リ満洲国領域内ニ於テ日本国又ハ日本国臣民ガ従来ノ日支間ノ条約,協定其ノ他ノ取極及公私ノ契約ニ依リ有スル一切ノ権利利益ヲ確認尊重スベシ

 二 日本国及満洲国ハ締約国ノ一方ノ領土及治安ニ対スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約国ノ他方ノ安寧及存立ニ対スル脅威タルノ事実ヲ確認シ両国共同シテ国家ノ防衛ニ当ルベキコトヲ約ス之ガ為所要ノ日本国軍ハ満洲国内ニ駐屯スルモノトス

 本議定書ハ署名ノ日ヨリ効力ヲ生ズベシ

本議定書ハ日本文及漢文ヲ以テ各2通ヲ作成ス日本文本文ト漢文本文トノ間ニ解釈ヲ異ニスルトキハ日本文本文ニ依ルモノトス

 


右証拠トシテ下名ハ各本国政府ヨリ正当ノ委任ヲ受ケ本議定書ニ署名調印セリ

 


昭和7年9月15日即チ大同元年9月15日新京ニ於テ之ヲ作成ス

 


               日本帝国特命全権大使 武藤信義(印)

 


               満洲国国務総理    鄭 孝胥(印)

 


3 日満議定書と日米安保条約

 


(1)旧日米安保条約

 日満議定書については,旧日米安全保障条約との「類似性」がしばしば指摘されました。

1951年9月8日にサンフランシスコで調印され,1952年4月28日に発効した旧日米安保条約1条は次のとおり。

 


  平和条約及びこの条約の効力発生と同時に,アメリカ合衆国の陸軍,空軍及び海軍を日本国及びその附近に配備する権利を,日本国は許与し,アメリカ合衆国はこれを受諾する。この軍隊は極東における国際の平和と安全の維持に寄与し,並びに,1又は2以上の外部の国による教唆又は干渉によって引き起こされた,日本国における大規模の内乱及び騒擾を鎮圧するため,日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて,外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。

 


旧日米安保条約は,「「アメリカの日本防衛義務」を欠落させるという「本質的欠陥」を残したまま,単なる駐軍協定となった」と評されています(原彬久『岸信介―権勢の政治家―』(岩波新書・1995年)227頁)。同条約において日本が「従属的地位」にあることが日本国民の怒りをかっているとは,1957年,内閣総理大臣就任時の岸信介が米国側に述べた認識でもありました(原187頁)。

なるほど,日満議定書が旧日米安保条約と類似しているのならば,我が国は満洲国内に駐軍権を確保しつつもうまい具合に満洲国防衛の義務は免れていたのか,とも思われるところです。しかし,日満議定書の文言からは直ちにはそうともいえないようです。

19511018日,第12回国会衆議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会において,西村榮一衆議院議員は,片務的(米国に日本防衛義務が無い。)な旧日米安保条約に比べて,(少なくとも文言上は)双務的な日満議定書の方が「平等にして友好的にして,また筋道が立つて」いる旨指摘して,吉田内閣の見解を問うています。

 


○西村(榮)委員 ・・・その日満議定書の共同防衛の中には,満洲国の攻撃は日本に対する攻撃と見なし,日本国に対する攻撃は,満洲国また共同の責任をもつてこの日満両国の防衛に当らねばならぬということが,明確にされておるのでありまして,今から20年前に締結されたこの日満議定書には,日満両国は平等の立場に立つて,領土権は尊重して,同時に満洲国の一寸の土といえども侵された場合においては,日本は全生命を賭してこれを防衛するということが明示せられておるのであります。・・・少くとも日本が満洲国にとつた日満議定書の方が,この日米防衛協定よりもはるかに平等にして友好的にして,また筋道が立つて,共同防衛の立場に立つておるということだけは,私は申し上げておきたいのでありますが。総理大臣のこの日満議定書をごらんになつての御感想はいかがですか。

 


 答弁の難しい質疑であって,西村熊雄外務省条約局長も吉田茂内閣総理大臣も,日満議定書は実は日本が駐軍権を持つだけの片務的なものだったとも,旧日米安保条約は米国が日本防衛義務をしっかり負う双務的なものだとも言わずに,いわゆるすれ違い答弁に徹しています。(なお,我が国に満洲国防衛義務が無かったのならば,我が軍苦戦の1938年の張鼓峰事件,大損害を受けた1939年のノモンハン事件等は何だったのかということになりかねません。)

 


 ○西村(熊)政府委員 私は日満議定書における満洲国の立場に立つよりも,日米間の保障条約における日本の立場に立つことを,今日の日本国民の絶対多数は支持すると思います。

 


  ・・・

 


 ○吉田国務大臣 西村条約局長の申したところ,すなわち私の所見であります。

 


旧日米安保条約作成の過程においては,「吉田〔茂内閣総理大臣〕がアメリカ側に「対等の協力者」でありたいと申し出たとき,アメリカはこれを一蹴した。日本が米軍を受け入れることと,米軍が日本を防衛することとを等価交換することによって,「日米対等」を立証しようとした吉田の提案は完全に斥けられた。アメリカはいわゆるバンデンバーグ決議(1948年,上院で採択)第3項によって,「自助および相互援助」の力を日本が備えない限り,「対等の協力者」として日本を遇することはできないと主張したのである。/しかも,この「自助および相互援助」の力とは軍事力そのものであって,それ以外の何物でもない,というのがアメリカの立場であった。」という事情があったそうです(原226227頁)。満洲国ですら,西太平洋に広がる大日本帝国の「領土及治安ニ対スル一切ノ脅威」に対して健気に「両国共同シテ国家ノ防衛ニ当ルベキコトヲ約」したのにお前は何だ,とでもいうことでしょうか。

なお,日米安保条約体制の文脈でいわれる「日米対等」とは,我が国の敗戦以来の米軍の我が国土への駐留を所与のものとしつつ,その見返りに確実に米国に日本防衛義務を負わせる,ということのように解されます。

 


(2)新日米安保条約

前記のような情況下,1960年の新日米安保条約(同年119日ワシントンで署名,同年623日発効)に向けた内閣総理大臣「岸〔信介〕の狙いは,第1に「対等の協力者」の証しとして「アメリカの日本防衛義務」を条文化することであり,そのためには第2に,「自助および相互援助」の力すなわち日本の防衛力増強の努力をアメリカに認めさせて,新しく「相互防衛条約」をつくろうということであった」そうです(原227228頁)。

それでは,新日米安保条約における米国の「日本防衛義務」はどのようなものになったのでしょうか。

 


・・・第一に新条約に「日米対等」を求めるとすれば,「アメリカの日本防衛義務」を同条約に組み込むことは,論理必然的に「日本のアメリカ防衛義務」を何らかの形で条文化することにつながるはずである。しかし「日本のアメリカ防衛義務」が,「戦力」と「海外派兵」を許さない日本国憲法に阻まれるのは当然であった。したがって新条約第5条は,・・・アメリカが日本領土を防衛し,日本が日本の施政下にある米軍基地を防衛するという,いささかトリッキーな内容をもつことになるのである。

 ところが,第5条はそれだけをみれば確かにトリッキーだが,この第5条の仕掛けをそれでよしとするほどアメリカは甘くない。第6条のいわゆる極東条項がこの「仕掛け」を十分説明している。つまりアメリカは,この第6条によって,「極東における国際の平和と安全の維持に寄与するため」に在日基地を使用することができるとなれば,同国は「極東の平和と安全」の「ため」とみずから判断して,その世界戦略に在日基地を利用できる。第5条におけるアメリカの日本にたいする「貸し」は,第6条の極東条項によって埋め合わせがつくという仕組みである。・・・(原229頁)

 


 「トリッキー」ではありますが,一応つじつまを合わせて「アメリカの日本防衛義務」を認めさせているようではあります。岸信介は鼻高々であったでしょうか。実はそうではありませんでした。

 


 ・・・みずから「命をかけた」安保改定がいかに不十分,不本意であるかは,彼〔岸〕自身が最もよく知っている。彼はこういう。「もし憲法の制約がなければ,日本が侵略された場合にアメリカが,アメリカが侵略された場合に日本が助けるという完全な双務条約になっただろう」(〔原彬久による岸インタビュー〕)。岸にとって現行憲法は,ここでも「独立の完成」を妨げる「元凶」としてあらわれるのである。新安保条約が完成されたとはいえ,同条約への新たなフラストレーションが,ほかでもない,「憲法改正」にたいする岸の執念を膨らませていく。(原230頁)

 


 岸信介の不満は,双務性の不十分性にあるようですが,やはり「アメリカの日本防衛義務」がなお不十分であるということでしょうか。

現在の日米安保条約の第5条1項及び第6条1項は次のとおりです。

 


 第5条1項 各締約国は,日本国の施政の下にある領域における,いずれか一方に対する武力攻撃が,自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め,自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。

 


 第6条1項 日本国の安全に寄与し,並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため,アメリカ合衆国は,その陸軍,空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。

 


(3)日米安保条約5条1項とNATO条約5条1項との比較

現行日米安保条約5条1項の日本語は,一見,米国の日本防衛義務をきちんと規定しているようですが,岸信介はどこが不満だったのか。同項の英文を見てみましょう。

 


Each Party recognizes that an armed attack against either Party in the territories under the administration of Japan would be dangerous to its own peace and safety and declares that it would act to meet the common danger in accordance with its constitutional provisions and processes.

 


 これを,次の北大西洋条約(NATO条約)5条1項と比較してみましょう。

 


The Parties agree that an armed attack against one or more of them in Europe or North America shall be considered an attack against them all and consequently, they agree that, if such an armed attack occurs, each of them, in exercise of the right of individual or collective self-defence recognised by Article 51 of the Charter of the United Nations, will assist the Party or Parties so attacked by taking forthwith, individually and in concert with the other Parties, such action as it deems necessary, including the use of armed force, to restore and maintain the security of the North Atlantic area.

  (加盟国は,欧州又は北米における1又は2以上の加盟国に対する武力攻撃は全加盟国に対する攻撃であるものととみなすことに合意し,したがって,加盟国は,そのような攻撃が発生したときは,各加盟国が,国際連合憲章第51条によって認められた個別的又は集団的自衛権の行使として,個別に及び他の加盟国と協力して,北大西洋地域における安全の回復及び維持のためにその必要と認める行動(武力の使用を含む。)を直ちに執って,そのように攻撃を受けた加盟国を援助するものとすることに合意する。)

 


なるほど。北大西洋条約5条1項前段の場合には欧州又は北米における1又は2以上の加盟国に対する武力攻撃は全加盟国に対する攻撃であるものとみなす(shall be considered an attack against them all)旨合意する(agee)と端的に規定されているのに対して,日米安保条約5条1項前段の場合,「各締約国は,日本国の施政の下にある領域における,いずれか一方に対する武力攻撃が,自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め」の部分における「危うくするものであること」とは,would be dangerous”であって,これは推量のwouldを用いた表現ですね。だから両締約国が合意(agee)するのではなくて,各締約国が各別に認める(recognizes(三単現のs付き))わけなのですか。となると,北大西洋条約の「みなす」との相違が明らかになるように訳するとなると,「各締約国は,日本国の施政の下にある領域における,いずれか一方に対する武力攻撃が,自国の平和及び安全を危うくするものと推定されるものであることを認め」でしょうか。英文ではshallではなく,せっかくwouldが用いられているのですから,日米安保条約の適用を受ける「日本国の施政の下にある領域」における日本に対する武力攻撃であっても,米国の平和及び安全にとっては危険を及ぼさないものであるとされる可能性はなお排除されないわけです。

北大西洋条約5条1項後段では,端的に,攻撃を受けた加盟国を直ちに援助する(will assist the Party or Parties so attacked….forthwith)」旨合意(agee)されています。これに対して,日米安保条約5条1項後段は,ここでも両締約国の合意ではなく各締約国個別の宣言(declares)となっており,さらに,「直ちに(forthwith)」援助してくれるのではなく,「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」から「共通の危険に対処するように行動する」ものとされています。日本のために宣戦してあげましょう,ということになると,合衆国大統領の一存というわけにはいかず,合衆国憲法上,連邦議会が決定権を持つことになります。(また,更に1973年戦争権限法が連邦議会の関与について定めています。)最後にまた,「共通の危険に対処するように行動」するといっても,そこでの助動詞は,北大西洋条約のように端的なwillではなく,またまたwouldであって不確実です(would act to meet the common danger)。英和辞典には,“I would if I could.”などという頼りなげな例文が出ています。ここでも,せっかくのwouldを強調して訳すると,「自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動するであろうことを宣言する。」となりましょうか。

「各締約国は,日本国の施政の下にある領域における,いずれか一方に対する武力攻撃が,自国の平和及び安全を危うくするものと推定されるものであることを認め,自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動するであろうことを宣言する。」ということになると,確かに,「アメリカの日本防衛義務」は,文言上はなお頼りないものです。対処の対象は飽くまでも「共通の危険」なので,日本国の施政の下にある領域における日本に対する武力攻撃であっても,米国の平和及び安全にとっては危険を及ぼさないものであるとされた場合には,日本単独の危険であっても共通の危険ではないものとされ,また,共通の危険であると認められても,「直ちに(forthwith)」ではなく「自国の憲法上の規定及び手続」を経た上で援助が与えられ,しかもとどのつまりが,“I would if I could.”なのですから。

無論,以上は英語の素人の素人考えであって,外務省等の英語の達人の方々が別異に解釈されるのならば,それに従うべきことはもちろんです。(しかし,1854年の日米和親条約では,和文と英文との相違による混乱がありましたね。)

 


(4)岸信介の憲法改正構想と日米安保条約「再改定」

岸信介の憲法改正構想は,なお米軍の我が国土への駐留を所与のものとしつつ,その見返りである米国による日本防衛義務を,北大西洋条約加盟国に対する米国の防衛義務と同程度に完全ならしめるため,同条約5条1項にいう「国際連合憲章第51条によって認められた・・・集団的自衛権の行使」が我が国もできるようにしよう,というものだったのでしょう。(なお,2012年4月27日決定の自由民主党憲法改正草案では,憲法9条2項を「前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。国の交戦権は,これを認めない。」から「前項の規定は,自衛権の発動を妨げるものではない。」に改め,憲法上「自衛権の行使には,何らの制約もないように規定し」たとし(同党『QA』),集団的自衛権の行使が可能になるようにするものとされています。これも同様のねらいを有するものでしょう。)

日本の集団的自衛権行使を前提として,米国の日本防衛義務を完全ならしめるため,現在の日米安保条約5条1項及び6条1項を合わせて,北大西洋条約5条1項に倣って再改定すると,次のようになるのでしょうか。

 


 締約国は,日本国又はアメリカ合衆国の施政の下にある領域における,いずれか一方に対する武力攻撃が,両締約国に対する攻撃であるものととみなすことに合意し,したがって,締約国は,そのような攻撃が発生したときは,各締約国が,国際連合憲章第51条によって認められた個別的又は集団的自衛権の行使として,個別に及び他の締約国と協力して,北太平洋地域における安全の回復及び維持のためにその必要と認める行動(武力の使用を含む。)を直ちに執って,そのように攻撃を受けた締約国を援助するものとすることに合意する。

 前項の目的のため,アメリカ合衆国は,その陸軍,空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。

 


 日満議定書第2項に倣った場合は,次のとおり。

 


日本国及亜米利加合衆国ハ締約国ノ一方ノ領土及治安ニ対スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約国ノ他方ノ安寧及存立ニ対スル脅威タルノ事実ヲ確認シ両国共同シテ国家ノ防衛ニ当ルベキコトヲ約ス之ガ為所要ノ合衆国軍ハ日本国内ニ駐屯スルモノトス

 


 集団的自衛権を行使できるようにすることによって初めて,米国との関係で我が国は,日満議定書における満洲国並みの地位を確保できることになるということでしょうか。米軍の我が国駐留を出発点としつつ,せっかくの在日米軍を活用して米国に我が国防衛義務を負わせようとすると,かえって我が国が,大西洋・カリブ海にまで及ぶ米国の共同防衛義務を負わされることになるというのは,なかなかですね。

 しかし,「私は日満議定書における満洲国の立場に立つよりも,日米間の〔旧安全〕保障条約における日本の立場に立つことを,今日の日本国民の絶対多数は支持すると思います。」との前記西村外務省条約局長の答弁は,問題は,条約の一条項における文面上の対等性ばかりではないということをかえって証するものでしょう。

 


4 鄭孝胥国務総理の煩悶

 日本軍駐屯の見返りに(日本に対する共同防衛義務も負うものの)しっかり日本の満洲国防衛義務を確保したのであったなら,日満議定書は,日米安保条約における吉田茂及び岸信介両内閣総理大臣に比すれば,満洲国国務総理鄭孝胥の外交的大成功であったということになるようですが,そうでもなかったようです。

 


 ・・・1932年9月15日の日満議定書調印式に「武藤全権大使随員として立ち会った米沢菊二一等書記官が書き残したメモによれば,武藤の挨拶に対して鄭孝胥が示した反応は・・・。

   鄭総理は早速に答辞を陳べんとして陳べ得ず,いたずらに口をもぐもぐさせ,顔面神経を極度にぴりぴり動かし,泣かんばかりの顔を5秒,10秒,30秒,発言せんと欲して能はず。心奥の動揺,暴風の如く複雑なる激情の交錯するを思わせるに十分であった。(米沢『日満議定書調印記録』)

鄭孝胥は調印6日前になって突然辞任を申し出,国務院への登院を拒んでいた・・・。・・・米沢は鄭孝胥の辞意は単なる駒井〔徳三総務長官〕排斥の意図にとどまらないのではないか,との判断をもっていた。すなわち「調印により売国奴の汚名を冠せられ,支那4億の民衆よりのちのちに至るまで満洲抛棄の元凶と目されんことを恐れ,調印の日の切迫するにつれ煩悶の末,その責任を遁れんがため,辞職を申し出たるにあらざるか」(同前)と推測していたのである。そのため,最終局面で鄭孝胥が調印を拒絶するのではないかとの危惧が去らず,鄭総理の顔面の異常な痙攣を見て,米沢は一刻も早く調印をすませるべく,本来先に行なうべき日付の記入を後回しにしてまず署名を求めたという。」(山室信一『キメラ―満洲国の肖像』(中公新書・1993年)211212頁)

 


 鄭孝胥は,「満洲国は抱かれたる小児の如し。今手を放してこれを歩行せしめんと欲す。・・・然るに児を抱く者,もしいたずらに長くこれを手に抱かんか児ついに自立の日なし。・・・ここに至りて我満洲国の未だよく立つあたわざるの状,日本政府あえて手を放して立たしめざるの状況,これ今日自明の所ならん。」程度の日本批判を関東軍にとがめられて,1935年辞任。憲兵の監視下にあって,家に閉じこもって書道に歳月を費やし,1938年,風邪に腸疾を併発し,新京で死亡しました。(山室218219頁)

日本人は真面目なのですが,真面目な分だけちょっとした当てこすりにも過敏に反応して,陰険な意地悪をするものです。戒心しましょう。


1 また『この国のかたち』から

 司馬遼太郎の『この国のかたち』を読むと,統帥権の独立の制度については,1908年の制度改正が画期であったとされています。




 参謀本部にもその成長歴があって,当初は陸軍の作戦に関する機関として,法体制のなかで謙虚に活動した。

 日露戦争がおわり,明治41年(1908年),関係条例が大きく改正され,内閣どころか陸軍大臣からも独立する機関になった。やがて参謀本部は“統帥権”という超憲法的な思想(明治憲法が三権分立である以上,統帥権は超憲法的である)をもつにいたる・・・(司馬遼太郎「3 “雑貨屋”の帝国主義」『この国のかたち 一』)

 

 明治憲法はりっぱに三権分立の憲法で,三権に統帥権は入らない。

 が,やがてこの憲法思想外の権がガン細胞のように内閣から独立し(1908年),昭和10年以後はあらゆる国家機関を超越する権能を示しはじめた。このことへいたる情念の歴史として,前記の正成の劇的情景〔楠木正成湊川出陣決定御前会議〕がある。(司馬遼太郎「5 正成と諭吉」『この国のかたち 一』)

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 (皇居前広場楠木正成像)

 上記の各文章によれば,1908年の参謀本部条例の改正によって,それまで内閣及び陸軍大臣に属していた参謀本部が,新たにこれらの機関から独立することになったということのようです。



2 参謀本部条例の1908年改定の前と後




(1)1908年改定前後の参謀本部条例

 190812月の改正前後の新旧参謀本部条例を見てみましょう。

 まずは,新参謀本部条例。




朕参謀本部条例ヲ改定シ之カ施行ヲ命ス

 御 名 御 璽

  明治411218日〔官報・同月19日〕

     陸軍大臣 子爵 寺内正毅

軍令陸第19

   参謀本部条例

第1条 参謀本部ハ国防及用兵ノ事ヲ掌ル所トス

第2条 参謀総長ハ陸軍大将若ハ陸軍中将ヲ以テ親補シ 天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル計画ヲ掌リ参謀本部ヲ統轄ス

第3条 参謀総長ハ参謀ノ職ニ在ル陸軍将校ヲ統督シ其ノ教育ニ任シ陸軍大学校及陸地測量部ヲ管轄ス

第4条 参謀次長ハ参謀総長ヲ輔佐シ本部一切ノ事務整理ニ任ス

第5条 参謀本部部長ハ参謀総長ノ命ヲ承ケ課長以下ヲ指揮シ其ノ主務ヲ掌理ス

第6条 参謀本部ノ編制ハ別ニ定ムル所ニ拠ル

第7条 参謀本部ニ於ケル服務規則ハ参謀総長之ヲ定ム



 なるほど,第2条で参謀総長は「天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画」するとありますから,天皇直属であって,内閣からも陸軍大臣からも独立しているわけです。

 司馬遼太郎によれば,当該規定は,1908年の改定前の旧参謀本部条例にはなかったということでしょう。旧参謀本部条例(1905年の第4条改正後のもの)は,次のとおり。




朕参謀本部条例ノ改正ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 御 名 御 璽

  明治32年1月14日〔官報・同月16日〕

     内閣総理大臣 侯爵 山縣有朋

     陸軍大臣 子爵 桂太郎

勅令第6号

   参謀本部条例

第1条 参謀本部ハ国防及用兵ノ事ヲ掌ル所トス

第2条 参謀総長ハ陸軍大将若クハ陸軍中将ヲ以テ親補シ

 天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル一切ノ計画ヲ掌リ又参謀本部ヲ統轄ス

第3条 参謀総長ハ国防ノ計画及用兵ニ関スル命令ヲ立案シ

 親裁ノ後之ヲ陸軍大臣ニ移ス

第4条 参謀総長ハ陸軍参謀将校ヲ統督シ其教育ヲ監視シ陸軍大学校,陸地測量部,陸軍文庫並在外国大使館附及公使館附陸軍武官ヲ統轄ス

第5条 参謀本部次長ハ陸軍中将若クハ陸軍少将ヲ以テ之ニ補シ参謀総長ヲ輔佐シ本部一切ノ事務整理ニ任ス

第6条 参謀本部ノ編制ハ別ニ定ムル所ニ拠ル



おやおや,ほとんど同じですね。特に新旧条例各2条の「参謀総長ハ・・・天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ」は,全く同一です。



(2)1878年の参謀本部条例と統帥権の独立

実は,参謀本部の独立は,187812月5日の参謀本部条例(右大臣岩倉具視から参謀本部あて「其部条例別冊ノ通被定候条此旨相達候事」との達)によって既に達成されていたのでした。




・・・従来の参謀局は陸軍省に隷属し,参謀局長は陸軍卿に隷してゐたけれども,参謀本部は陸軍省より独立し,本部長は天皇の「帷幕ノ機務ニ参画スルヲ司トル」〔
1878年参謀本部条例2条〕ところの最高の統帥機関となつたのである。即ち参謀本部長は統帥権に関する天皇の幕僚長として「軍中ノ機務,戦略上ノ動静,進軍,駐軍,転軍ノ令,行軍路程ノ規,運輸ノ方法,軍隊ノ発差等,其軍令ニ関スル者」を管知し,之を「参画シ,親裁ノ後直ニ之ヲ陸軍卿ニ下シテ施行セシム」〔同5条〕るものであり,又「戦時ニ在テハ凡テ軍令ニ関スルモノ,親裁ノ後直ニ之ヲ監軍部長,若クハ特命司令将官ニ下ス」〔同6条〕ものである。従つて参謀本部長は,統帥権に関する最高の輔弼機関である関係上,軍政に於ける陸軍卿の地位にあるのではなくて,寧ろ其の上の太政大臣〔三条実美〕に相等する地位に在るものである。何となれば陸軍卿は直接天皇輔弼の責に任ずるものではなく,それは専ら太政官の三職〔太政大臣・左右大臣・参議〕,就中太政大臣にあつたからである。換言すれば参謀本部長の権限は,従来の陸軍卿及び太政大臣の権限より統帥権に関する部分を独立せしめたものといふことが出来る。従つて参謀本部長の地位は,陸軍卿に優越するものと解せられるのである。

 かくして陸軍に在つては,明治11年に於て名実共に統帥部の独立が実現したのである。・・・(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)227228頁)



3 勅令から軍令へ

 さて,それでは,司馬遼太郎は1908年の参謀本部条例のどこに注目して警鐘を鳴らしたのでしょうか。

 法形式と副署者に注目しましょう。

 1899年の参謀本部条例は,勅令であって,内閣総理大臣及び陸軍大臣が副署しています。

 これに対して,1908年の参謀本部条例は,軍令であって,副署者は陸軍大臣だけです。



(1)勅令

 勅令は,「旧憲法時代,天皇によって制定された法形式の一つで,天皇の権能に属する事項(皇室の事務及び統帥の事務を除く。)について抽象的な法規を定立する場合に用いられた法形式」です(前田正道編『ワークブック法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)49頁)。美濃部達吉は次のように説明しています。

 


・・・〔公文式(明治
19年勅令第1号)〕は,等しく天皇の勅定したまふ国家の意思表示の中に,法律と勅令との2種の形式を区別したのであるが,併し憲法実施までは,法律と勅令とは唯名称だけの区別で,何等法律上の意義ある区別ではなかつた。憲法の実施に依りて,それは単に名称だけの区別ではなく,(1)その制定手続に於いて,(2)その規定し得べき内容に於いて,(3)及びその効力に於いて相異なるものとなつたのである。(1)制定手続に於いては,法律は議会の議決を経て定められ,勅令はその議決を経ずして定められる。(2)内容に於いては,法律は原則として如何なる事項でも定むることが出来るが,勅令は唯憲法上限られた事項だけを定むることができる。(3)効力に於いては,法律は勅令の上に在り,法律を以ては勅令を変更することが出来るが,勅令を以ては法律を変更することは出来ない。(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)168169頁)

 ・・・勅令が他の国務上の詔勅と区別せらるゝ所以は,勅令は国民に向つて法規を定めることを主たる目的とすることに在る。固より勅令を以て規定せらるゝ所が常に法規のみに限るといふのではない。行政命令〔「電信規則・電話規則・各種の学校令・鉄道乗車規程の如く,全然国民の権利義務に付いての規律を定むるものではなく,唯人民が自己の自由意思を以て之を利用するに付いての条件たるに止まる」もの〕の性質を有するものが,勅令を以て定めらるゝものは甚だ多いけれども,その主たる目的とする所が,法規を定むるに在ることは疑を容れぬ所である。・・・(美濃部・235頁,232頁)



(2)軍令及びその誕生




ア 軍令

 軍令は,軍令に関する件(明治40911日軍令第1号。同令には題名なし。件名をもって,軍令に関する件と呼ばれています。)の第1条において,「陸海軍ノ統帥ニ関シ勅定ヲ経タル規程ハ之ヲ軍令トス」と定められていたものです。(なお,軍令に関する件の官報掲載日は1907912日ですが,上諭の日付は同月11日であって,同令4条は「軍令ハ別段ノ施行時期ヲ定ムルモノノ外直ニ之ヲ施行ス」と規定しています。)「統帥権の作用として定めらるゝ命令」であって,「国務上の命令ではない」ものであり,「唯統帥権に服する者即ち平時に於いては唯軍人に対してのみ効力を有するもので,一般の人民に対して効力を有するものではない」ものです(美濃部261頁)。「軍隊内部の命令たるに止まるのであるから,国の法令に牴触することを得ないのは勿論」です(同)。公布によって初めて「以て臣民遵行の効力を生ず」る(『憲法義解』)法規とは異なり,軍令は正式に公布されませんでした(軍令に関する件2条参照)。「公示」を要する軍令は,官報で公示されました(同令3条)。「故らに公布なる文字を用ひないのは,軍令は勅令と其の性質を同じくせざることを示し,以て軍令を特殊の勅令と認むるが如き嫌ひを避けたもの」と考えられています(山崎248頁)。

 「予算に影響を及ぼさない限度に於いて,軍隊の内部の編制を定むるの権」は「内部的編制権」であり,内部的編制権は,美濃部においても大日本帝国憲法11条(「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」)の統帥権の範囲内にあるものとされていました(美濃部259頁)。参謀本部条例は,統帥権の一環たる内部的編制権の発動により参謀本部の構成について天皇が定める規程であるから,1908年の参謀本部条例については軍令の形式が採られたということでしょう。



イ 軍令の誕生

 それでは,1899年の参謀本部条例はなぜ軍令の形式ではなく,勅令の形式で定められたのでしょうか。理由は簡単です。軍令の形式は,1907年の明治40年軍令第1号によって初めてできたものであって,それ以前には軍令の形式は存在しておらず,当該形式の採りようがなかったからです。



(ア)公式令制定に伴う内閣総理大臣の副署対象の全勅令への拡大

 それでは更に,なぜ1907年9月に軍令という形式が定められたのでしょうか。これは,同年2月1日から施行されていた公式令(明治40年勅令第6号)7条2項の規定が原因です。勅令に係る国務大臣の副署(大日本帝国憲法552項「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」)については,それまでの公文式3条が「法律及一般ノ行政ニ係ル勅令ハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ主任大臣ト倶ニ之ニ副署ス其各省専任ノ事務ニ属スルモノハ主任大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス」と規定していて,各省専任の事務に属する勅令については内閣総理大臣の副署を要さず主任の国務大臣の副署だけで足りるものとしていたのに対して,新しい公式令7条2項は,「〔勅令〕ノ上諭ニハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ国務各大臣若ハ主任ノ国務大臣ト倶ニ之ニ副署ス」と規定し,各省専任の事務に属する勅令をも含めて例外なく,すべての勅令について内閣総理大臣が副署するものとしていたからです。

 勅令に対する国務大臣の副署の効力については,「法律勅令及其の他国事に係る詔勅は大臣の副署に依て始めて実施の力を得。大臣の副署なき者は従て詔命の効なく,外に付して宣下するも所司の官吏之を奉行することを得ざるなり。」とされていました(『憲法義解』)。



(イ)公文式時代の慣行及びその維持

 明治40年軍令第1号の起案を担当したのは,陸軍省軍務局軍事課です(陸軍省であって,参謀本部ではないですね。)。同課によれば,軍令の形式を定める「理由」は,次のとおりでした(中尾裕次「史料紹介「軍令ニ関スル件」」戦史研究年報4号(防衛省防衛研究所(20013月))。




従来軍機軍令ニ関スル事項ハ内閣官制第7条ニ依リ陸軍大臣海軍大臣ヨリ帷幄上奏ヲ以テ親栽ヲ仰キ而シテ陸海軍部外ニ発表ヲ要スルモノハ公文式第3条ニ依リ単ニ陸軍大臣海軍大臣ノ副署ノミヲ以テ公布シ来レリ然ルニ先般公式令制定ト共ニ公文式ヲ廃止セラレタル結果勅令ハ総テ内閣総理大臣ノ副署ヲ要スルコトトナレリ抑モ事ノ軍機軍令ニ関シ若ハ之レト同一ノ性質ヲ有スル軍事命令ハ憲法第
11条同第12条ノ統帥大権ノ行使ヨリ生スルモノニシテ普通行政命令ト全ク其性質軌道ヲ異ニシ専門以外ノ立法機関若ハ行政機関ノ干与ヲ許ササルヲ以テ建軍ノ要義ト為ス

統帥大権ノ行使夫レ斯ノ如ク又内閣官制第7条ハ現行法トシテ尚ホ存在スルカ故ニ此際統帥事項ニ関スル命令ハ特別ノ形式即チ軍令ヲ以テ公布シ主任大臣ノミ之ニ副署スルコトト為シ以テ行政事項ニ属スル命令ト判然之ヲ区別シ統帥大権ノ発動ヲ明確ナラシメントス

 

 お前のサインなどもらわないぞと,内閣総理大臣も嫌われたものですね。しかし,確かに,内閣総理大臣もいろいろではあります。

 内閣官制(明治22年勅令第135号)7条は,「事ノ軍機軍令ニ係リ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニ依リ之ヲ内閣ニ下付セラルノ件ヲ除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」と規定していました。いわゆる帷幄上奏に関する規定です。内閣官制7条の前は,1885年の内閣職権6条ただし書で「但事ノ軍機ニ係リ参謀本部長ヨリ直ニ上奏スルモノト雖トモ陸軍大臣ハ其事件ヲ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」と規定されていました。帷幄上奏は「本来参謀総長・海軍軍令部長の職務として規定せられたのであるが,其の後陸軍大臣又は海軍大臣からも帷幄上奏を為し得る慣習が開かれ,陸軍及び海軍大臣だけは,総理大臣を経由せず単独に上奏し得ることが慣習上認められて居」たものです(美濃部532533頁)。これに対して,陸海軍大臣以外の国務大臣の上奏については,内閣総理大臣が「機務ヲ奏宣スル」(内閣官制2条)ものとされていることから,「総理大臣を経由するか,又は少くとも総理大臣の承認を得た場合であることを要するので,総理大臣の知らぬ間に,各大臣から直接に上奏することは,総理大臣の職責から見て,許されない」とされていました(美濃部532頁)。

 従来陸軍大臣は,統帥事項については内閣総理大臣にも内緒で勅令案を持って行って天皇に上奏して綸言汗のごとき裁可を得て,自分一人がその勅令に副署してそうして施行できたのだから,今更公式令ができたからといって,(政党政治家である可能性もある)内閣総理大臣に「そんな勅令の話,おれは聞いてない。だから,統帥事項だか何だか知らぬがこの勅令には副署しない。」といやがらせをされ得るようになるのはいやだ,ということだったのでしょう。性格の悪い内閣総理大臣との悶着を避けるべく,軍令に関する件2条は,「軍令ニシテ公示ヲ要スルモノニハ上諭ヲ附シ親署ノ後御璽ヲ鈐シ主任ノ陸軍大臣海軍大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス」と規定していました。軍部の主観的意見としては,軍令の形式は部外者には一見あやしげに見えるといっても,統帥事項に係る勅令に関する従来の権限・慣行を維持せしめただけで,「ガン細胞」呼ばわりは心外だ,ということになるのでしょう。

 なお,軍令に対する陸軍大臣又は海軍大臣の副署は,「是は国務大臣としての副署ではなく,帷幄の機関として奉行の任に当たることを証明する行為たるに止まるものと見るべき」とされています(美濃部261頁)。「蓋し我が国法に於ける副署には2種の意義がある。即ち一は憲法第55条の大臣副署と,他は憲法以前より行ひ来りたる副署とである。・・・後者は単に執行当局者たることを表明するものである。宮内大臣の皇室令に副署し,賞勲局総裁の勲記に副署するが如きは専ら後者に属する。陸海軍大臣の軍令に副署するのも亦之と其の性質を同じくするもの」というわけです(山崎249250頁)。



(3)「一般行政」から統帥権の聖域へ

 しかし,1899年の段階では参謀本部条例はなお「一般行政ニ係ル」ものとして内閣総理大臣の副署をも受けていたのに対して(公文式3条),1908年になると,参謀本部条例は純粋な統帥事項に係るものであるとして,内閣総理大臣の副署を要さぬ軍令の形式が採用されるに至っています。この点においては,「一般行政」の領域から自らを引き離すことによって政治の統制から離れ,統帥権が「ガン細胞」化して「一般行政」を侵食することが可能になり始めたといえそうです。

 さらにいえば,「行政各部ノ官制其ノ他ノ官規ニ関スル重要ノ勅令」は枢密院に諮詢することになっていて(枢密院官制69号)厄介でしたが,参謀本部条例が軍令であるということになると,堂々と当然「枢密院ノ諮詢ヲ経ヘキモノニアラス」ということになりました(『統帥綱領・統帥参考』(偕行社・1962年)18頁)。

 いずれにせよ,公文式時代においても,軍部関係の勅令について「傾向としては年を経るにしたがい,軍部大臣だけの副署によるものが多くなったようである」そうです(戸部良一『日本の近代9 逆説の軍隊』(中央公論社・1998年)158頁)。



4 統帥権の独立の「効用」:福沢諭吉の『帝室論』等
 ところで一体,先の大戦以前における我が統帥権の独立の「効用」としては,何が考えられていたのでしょうか。最後は「ガン細胞」になったとはいえ,そもそもの初めには,もっともな目的のために働くべき正常細胞であったはずです。

 「統帥権の独立は,軍の政治介入を意図してつくられた制度ではない。むしろそれは,軍の政治的中立性を確保し,軍人の政治不関与を保証するものとさえ,期待されたのである。」とされています(戸部77頁)。

(1)政治の統帥関与の弊害防止
 政治家が統帥に関与し,あるいは統帥権を握った場合の弊害について,美濃部達吉は「軍人以外の政治家が兵馬の事に容喙することが軍の戦闘力を弱くする虞」がある旨軍事側から見た危惧に言及しているところですが(美濃部257頁),他方,1932年にまとめられた陸軍大学校の『統帥参考』においては,次のように述べられていました。




抑々統帥ノ独立ハ反面ヨリ観レハ政治ノ独立少クモ其保障ニシテ我国ニ於ケル往昔ノ武家政治又ハ現代労農露国ノ政治ノ如ク政府カ兵権ト政権トヲ把握行使スルトキハ政権ノ自然ナル移動授受カ行ハレサルノ虞アリ(『統帥綱領・統帥参考』
7頁)

 

 統帥権の独立は,政府に対抗する在野勢力をもその対象に含めた「政治ノ独立」のためのものだというのです。

先の大戦末期満洲国等に侵入して大暴れした恐ろしい「労農赤軍ノ如キハ彼等ノ意識ヲ以テスレハ元首ノ軍隊ニモアラス所謂国家ノ軍隊ニモアラス全ク共産党ノ軍隊」であったところ(『統帥綱領・統帥参考』1頁),共産党支配下のソ聯においては,「政権ノ自然ナル移動授受」は行われてはいませんでした。

 軍隊の政党化は,明治十四年の政変後,立憲政治の導入に向けた動きの中で,福沢諭吉も憂慮したところでした。




・・・然るに爰に恐る可きは政党の一方が兵力に依頼して兵士が之に左袒するの一事なり国会の政党に兵力を貸す時は其危害実に言ふ可らず仮令ひ全国人心の多数を得たる政党にても其議員が議に在る時に一小隊の兵を以て之を解散し又捕縛すること甚だ易し殊に我国の軍人は自から旧藩士族の流を汲て政治の思想を抱く者少なからざれば各政党の孰れかを見て自然に好悪親疎の情を生じ我は夫れに与せんなどと云ふ処へ其政党も亦これを利して暗に之を引くが如きあらば国会は人民の論場に非ずして軍人の戦場たる可きのみ斯の如きは則ち最初より国会を開かざる方,万々の利益と云ふ可し・・・(福沢諭吉『帝室論』(
1882年))



 1776年7月4日のアメリカ合衆国の独立宣言では,イギリス国王について,「彼は,平時において,我々の立法機関の同意なしに,我々の間において常備軍を保持した」ことが非難されています。そもそも軍隊は,外国と無名の戦争をすることが問題であるばかりではなく,それによって国内において市民の自由が抑圧されることが恐れられていたのでした。同年6月12日のヴァジニア権利章典の第13条は「人民団体によって組成され,武器の使用について訓練された紀律正しい民兵は,自由な邦にふさわしく,自然かつ安全な防衛者である。平時における常備軍は,自由にとって危険なものとして避けられるべきである。あらゆる場合において,軍隊は,市民の権力(the civil power)に厳格に服し,規制されるべきである。」と規定しています。これに対して,自由民主党の日本国憲法改正草案(2012427日決定)9条の2第1項では,「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため,・・・国防軍を保持する。」と,高らかに常備軍の設置がうたわれています。国王に反逆したアメリカ人らの常備軍に対する暗い猜疑の目と比べて,長い歴史にはぐくまれた日本人同士の厚い信頼をそこに見るべきでしょう。いわゆる「安保闘争」に係る1960年6月10日のハガチー事件後,「同事件の原因を「警察力の脆弱さ」に求める岸〔信介内閣総理大臣〕は,・・・〔赤城宗徳〕防衛庁長官にたいして,今度は「研究」ではなく,実際に「自衛隊出動」そのものを求め〔たが〕(結局,防衛庁内の「反対」を岸が受け入れて,これは実現しなかった)」といった激動の時代(原彬久『岸信介―権勢の政治家―』(岩波新書・1995年)220頁)は,遠い過去のことになりました。なお,ちなみに,「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため」に必要な最低限以上の戦力を保持することが憲法上の要請ということになると,財務省の主計官殿がうっかり国防予算に厳しい査定をすると,「国防権干犯!」といって怒られるようになるかもしれません。また,自由民主党の日本国憲法改正草案9条の2第1項の規定する国防軍の目的は,自衛隊法31項の文言を基礎に,そこに「国民の安全」の確保が加えられたもののようですが,ここにいう「国民」には,外国在留の我が同胞が含まれるのでしょうか(同草案25条の3参照)。「居留民保護其他我権益擁護ノ為必要已ムヲ得サル場合ニ於テハ断然目的ヲ達成スル為十分ナル兵力ヲ出動セシメ速ニ其目的ヲ達成」する必要があるとされていたところです(『統帥綱領・統帥参考』29頁)。

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ヴァジニア植民地議会議事堂(Williamsburg, VA)
(ヴァジニア権利章典はジョージ・メイソンの起草に係ります。)

(2)天皇統帥の必要性及び功徳
 統帥権者が政治家ではなく,天皇でなければならない理由は,取り戻すべき日本のかたちとして,軍人勅諭(188214日)において明らかにされていました。いわく,「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある」,「夫兵馬の大権は朕か統ぶる所なれば其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を伝へ天子は文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降の如き失体なからむことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそ」と。
 さらに,実際的な理由としては,福沢諭吉が次のように述べています(『帝室論』)。

 まず,軍人に政治的中立を守らせること。




・・・今この軍人の心を収攬して其運動を制せんとするには必ずしも〔ママ〕帝室に依頼せざるを得ざるなり帝室は遥に政治社会の外に在り軍人は唯この帝室を目的にして運動するのみ,帝室は偏なく党なく政党の孰れを捨てず又孰れをも援けず軍人も亦これに関し,固より今の軍人なれば陸海軍卿の命に従て進退す可きは無論なれども卿は唯其形体を支配して其外面の進退を司るのみ内部の精神を制して其心を収攬するの引力は独り帝室の中心に在て存するものと知る可し・・・



 また,命を賭して戦う戦士の心を受けとめて支えることは,議会政治家の大臣ごときでは,器量不足です。




・・・仮令ひ其大臣が如何なる人物にても其人物は国会より出たるものにして国会は元と文を以て成るものなれば名を重んずるの軍人にして之に心服せざるや明なり唯帝室の尊厳と神聖なるものありて政府は和戦の二議を帝室に奏し其最上の一決御親裁に出るの実を見て軍人も始めて心を安んじ銘々の精神は恰も帝室の直轄にして帝室の為に進退し帝室の為に生死するものなりと覚悟を定めて始めて戦陣に向つて一命をも致す可きのみ帝室の徳至大至重と云ふ可し・・・



 さらに,いったん戦いがあり,それが終わった後に,なお殺気立った戦場帰りの大軍を平穏に日常生活に復帰させることは,議院内閣制政府の首班ごときでは到底無理な大事業であろうと考えられていました。(兵士らのみならず,栄光に包まれた凱旋将軍も危険でしょう。アメリカ独立戦争のときも,ジョージ3世の軍をヨークタウンで破ったジョージ・ワシントン将軍を立てて,王制を樹立しようという動きがあったようです。)




・・・〔
1877年の西南戦争の徴募巡査らは〕戦場には屈強の器械なれども事収るの後に至て此臨時の兵を解くの法は如何す可きや殺気凛然たる血気の勇士,今日より無用に属したれば各故郷に帰りて旧業に就けよと命ずるも必ず風波を起すことならんと我輩は其徴募の最中より後日の事を想像して窃に憂慮したりしが同年9月変乱も局を結で臨時兵は次第に東京に帰りたり我輩は尚当時に至る迄も不安心に思ひし程なるに兵士を集めて吹上の禁苑に召し簡単なる慰労の詔を以て幾万の兵士一言の不平を唱る者もなく唯殊恩の渥きを感佩して郷里に帰り曽て風波の痕を見ざりしは世界中に比類少なき美事と云ふ可し仮に国会の政府にて議員の中より政府の首相を推撰し其首相が如何なる英雄豪傑にても明治10年の如き時節に際してよく此臨時兵を解くの工夫ある可きや我輩断じて其力に及ばざるを信ずるなり

 

 福沢諭吉は不安心のため西南戦争中お腹が痛くなったことでしょうが,偉大な明治天皇の力をもって,無事に兵らは復員して行きました。同様のことが,先の大戦の終了時にも起こったわけです(194581415日夜の宮城を舞台としたクーデタ未遂事件等いろいろありましたが。)。

 自由民主党の日本国憲法改正草案は,天皇を日本国の元首としつつも(同1条),その第9条の2第1項及び第72条3項において,内閣総理大臣をもって国防軍の最高指揮官としています。福沢諭吉がその将来を懸念し,帝室への依頼をなお不可欠と考えていた明治の日本から,今の日本は随分変わり,進歩したわけです。「慶応ブランド」創始者の福沢諭吉も,時代遅れになりました。

現在の問題はむしろ,ゆるゆると続く不況に伴う心優しい閉塞状況の副作用なのか,貔貅たるべき我が国の男児から,真面目な獰猛さが失われてしまってはいないか,ということかもしれません。

(3)蛇足
 なお,憲法に統帥権者を書き込んでしまった場合,「聯合作戦ニ際シ外国軍司令官ヲシテ一時タリトモ帝国軍隊〔国防軍〕ヲ統帥指揮セシムルハ法律的ニ言ヘハ憲法違反ナリ」(『統帥綱領・統帥参考』12頁)というようなうるさいことにならないでしょうか。ちなみに,あるいは意外なことながら,先の大戦前の陸軍(少なくとも陸軍大学校の教官)は「政略上ノ目的ヲ以テ平時妄リニ海外ニ軍隊ヲ出動セシムルコトハ努メテ之ヲ避ケサルヘカラス」と考えていたようです(『統帥綱領・統帥参考』29頁)。「帝国軍ハ皇軍ニシテ皇道ヲ擁護シ皇威ヲ発揚スル為ニ設ケ置カルルモノナリ故ニ妄リニ政略的ニ兵ヲ動カスコトハ之ヲ慎マサルヘカラス」ということで(同),政治家のみだりな政略の道具にされたくはないということだったのでしょう。「而シテ国際関係ノ錯綜,世相ノ変化等ノ為海外出兵ニ依リ所望ノ政略目的ヲ達成スルノ如何ニ困難ナルカハ往年の西伯利出兵並最近ニ於ケル支那出兵ノ明証スル所ナリ」と(同書2930頁),少なくとも当時は懲りていたようです。シベリア出兵において,日米両国は同盟国の関係にあったはずですが,うまくいかなくなったようです。


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ヨークタウン古戦場(Yorktown, VA)
(ヨークタウンに陣取ったコーンウォリス将軍のイギリス軍は優勢な米仏連合軍の攻撃を受けて,1781年10月19日,終に降伏。敗報に接したイギリスのノース首相は「神よ,すべては終わった!」と叫び,アメリカ独立戦争は実質的に終結しました。降伏式においてイギリス側は最初,連合軍の主力だったフランス軍のロシャンボー将軍にコーンウォリス将軍の剣を渡そうとしましたが,こっちじゃないよあっちだよとジョージ・ワシントン将軍を示されて,降伏の印の剣はアメリカ大陸軍が受け取りました。フランスの王さまルイ16世は,いい人でしたね。)

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イギリス軍降伏の場所(Surrender Field, Yorktown, VA) 

 弁護士 齊藤雅俊
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1 統帥権及び「機密の中の“国家”」
 自由民主党の日本国憲法改正草案(2012年4月27日決定)を見ていると,第9条の2(国防軍)1項に「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため,内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。」との規定,第72条(内閣総理大臣の職務)3項に「内閣総理大臣は,最高指揮官として,国防軍を統括する。」との規定があります。勇ましいですね。
 大日本帝国憲法11条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」との規定に対応するものであるわけです。「内閣総理大臣ハ国防軍ヲ統帥ス」ということでしょうか。
 この「統帥」という言葉からの次の連想は,やはりというべきか,統帥権の問題性について論ずるところ多かった司馬遼太郎の,次の文章に飛びます(『この国のかたち』「6 機密の中の“国家”」)。


 かつて,一冊の古本を見つけた。
 『統帥綱領・統帥参考』という題の本である。復刊されたもので,昭和37年,偕行社(註・旧陸軍の正規将校を中心とした親睦団体)刊となっている。
 ・・・
 もとは2冊だったようである。『統帥綱領』のほうは昭和3年,『統帥参考』のほうは昭和7年,それぞれ参謀本部が本にしたもので,むろん公刊の本ではない。公刊されれば,当然,問題になったはずである。内緒の本という以上に,軍はこの本を最高機密に属するものとし,特定の将校にしか閲覧をゆるさなかった。
 ・・・
 『統帥参考』のなかに,憲法(註・明治憲法)に触れたくだりがある。おれたちは――という言葉づかいではむろんないが――じつは憲法外なのだ,と明快に自己規定しているのである。
 ・・・
 一握りの人間たちが,秘密を共有しあった以上は,秘密結社としか言いようがないが,こまったことには参謀本部は堂々たる官制による機関なのである。その機関が,憲法を私議し,私的に合意して自分たちの権能を“憲法外”としている以上は,帝国憲法による日本帝国のなかに,もう一つの国があったことになる(むろん日露戦争のころの参謀本部はそういう鬼胎ともいえるような性格のものではなかった)。
 そのことについては『統帥参考』の冒頭の「統帥権」という章に,以下のように書かれている。

 ・・・之ヲ以テ,統帥権ノ本質ハ力ニシテ,其作用ハ超法規的ナリ。(原文は句読点および濁点なし。以下,同じ)

 超法規とは,憲法以下のあらゆる法律とは無縁だ,ということなのである。
 ついで,一般の国務については憲法の規定によって国務大臣が最終責任を負う(当時の用語で輔弼する)のに対して,統帥権はそうじゃない,という。「輔弼ノ範囲外ニ独立ス」と断定しているのである。

 従テ統帥権ノ行使及其結果ニ関シテハ,議会ニ於テ責任ヲ負ハズ。議会ハ軍ノ統帥・指揮並之ガ結果ニ関シ,質問ヲ提起シ,弁明ヲ求メ,又ハ之ヲ批評シ,論難スルノ権利ヲ有セズ。・・・

 すさまじい断定というほかない・・・。
 国家が戦争を遂行する場合,作戦についていちいち軍が議会に相談する必要はない。このことはむしろ当然で,常識に属するが,しかし『統帥参考』のこの章にあっては,言いかえれば,平時・戦時をとわず,統帥権は三権(立法・行政・司法)から独立しつづけている存在だとしているのである。
 さらに言えば,国家をつぶそうがつぶすまいが,憲法下の国家に対して遠慮も何もする必要がない,といっているにひとしい。いわば,無法の宣言(この章では“超法規的”といっている)である。こうでもしなければ,天皇の知らないあいだに満洲事変をおこし,日中戦争を長びかせ,その間,ノモンハン事変をやり,さらに太平洋戦争をひきおこすということができるはずがない。

 ・・・然レドモ,参謀総長・海軍軍令部長等ハ,幕僚(註・天皇のスタッフ)ニシテ,憲法上ノ責任ヲ有スルモノニアラザルガ故ニ・・・

 天皇といえども憲法の規定内にあるのに,この明文においては天皇に無限性をあたえ,われわれは天皇のスタッフだから憲法上の責任なんかないんだとするのである。
 さらにこの明文にはおそるべき項目がある。戦時や“国家事変”の場合においては,兵権を行使する機関(統帥機関・参謀本部のこと)が国民を統治することができる,というのである。・・・統治権は天皇にある。しかしながらこの『統帥参考』の第2章「統帥ト政治」の章の「非常大権」の項においては,自分たちが統治する,という。

 ・・・兵権ヲ行使スル機関ハ,軍事上必要ナル限度ニ於テ,直接ニ国民ヲ統治スルコトヲ得・・・

 とあって,この文章でみるかぎり,天皇の統治権は停止されているかのようである。天皇の統治権は憲法に淵源するために――そしてその憲法が三権分立を規定しているために――超法機関である統帥機関は天皇の統治権そのものを壟断もしくは奪取する,とさえ解釈できるではないか(げんにかれらはそのようにした)。
 要するに,戦時には,日本の統治者は参謀本部になるのである。しかもこの章では「軍権ノ行使スル政務ニ関シテハ,議会ニ於テ責任ヲ負ハズ」とあくつよく念を押している。
 ・・・いまふりかえれば,昭和前期の歴史は,昭和7年に成立したこの“機密”どおりに展開したのである。
 ・・・
 美濃部達吉博士は・・・昭和10年,その学説(いわゆる天皇機関説)を攻撃され,内閣によってその著作『憲法撮要』(大正12年刊)などが発売禁止の処分をうける。
 ・・・
 統帥機関としては,法学界をおおっている美濃部学説を痛打することによって,自前の憲法観(というより非立憲化)への大行進を出発させなければならなかったにちがいない。
 ・・・
 ともかくも昭和10年以後の統帥機関によって,明治人が苦労してつくった近代国家は扼殺されたといっていい。このときに死んだといっていい。
 ・・・

 さて,たまたま手もとに1962年の偕行社版『統帥綱領・統帥参考』が存在します。「日本国を支配しようとしたことについて」の陸軍部内の「思想的合意の文書というべき機密文書」です(司馬遼太郎『この国のかたち』「81 別国」)。『統帥参考』等の実物に当たりつつ,司馬遼太郎の上記の議論を跡付けてみましょう。

2 統帥権の「超法規」性
 まず,「・・・之ヲ以テ,統帥権ノ本質ハ力ニシテ,其作用ハ超法規的ナリ。」の部分ですが,司馬遼太郎の引用では省
略されている前段後段部分をも含めた原文は,


政治ハ法ニ拠リ,統帥ハ意志ニ拠ル。一般国務上ノ大権作用ハ,一般ノ国民ヲ対象トシ,其生命,財産,自由ノ確保ヲ目的トシ,其行使ハ『法』ニ準拠スルヲ要スト雖,統帥権ハ,『陸海軍』ト云フ特定ノ国民ヲ対象トシ,最高唯一ノ意志ニ依リテ直接ニ人間ノ自由ヲ拘束シ,且,其最後ノモノタル生命ヲ要求スルノミナラズ,国家非常ノ場合ニ於テハ主権ヲ擁護確立スルモノナリ。
之ヲ以テ,統帥権ノ本質ハ力ニシテ,其ノ作用ハ超法的ナリ。即チ爾他ノ大権ト其本質ニ於テ大ニ趣ヲ異ニスルモノト言ハザルベカラズ。而モ軍隊ハ最高唯一ノ意志ニ基キテ教育訓練セラレ一糸紊レザル統一ト団結トヲ保持シ,一旦緩急アルニ際シテハ完全ナル自由ト秘密トヲ保持シテ神速機敏ノ行動ニ出デザルベカラザルガ故ニ,統帥権ノ輔翼及執行ノ機関ハ政治機関ヨリ分離シ,軍令ハ政令ヨリ独立セザルベカラズ。(『統帥綱領・統帥参考』3‐4頁)

 となっています(見出しは「統帥権独立ノ必要」)。司馬遼太郎は,「超法的」を「超法規的」と写し間違えていますね。「超法的」であればやや形而上学のもやがかかっているようですが,「超法規的」であるとより法学的に明晰な表現になるようです。
 『統帥参考』のいう「超法的」の意味は,三つの側面から見ることができるようです。
 第1には,実定法学的に考えれば,一般国務における「『法』ニ準拠スル」法治主義が,特別権力関係にある軍隊内では適用されないということでしょう。「特別の権力関係に於いては,権利者は単に特定の作為・不作為・給付を要求し得るだけではなく,一定の範囲に於いて包括的な権力を有し,其の権力の及ぶ限度に於いては不特定な作為・不作為を命令し及び時としてはこれを強制し得る権利を有する」ものとされていました(美濃部達吉『日本行政法 上』(有斐閣・1936年)132頁)。「現役兵及び戦時事変に際し又は勤務演習其の他のために召集中の兵」は,国家の単独の意思による公法上の勤務関係に服するものとされています(美濃部・同書135頁)。特別権力関係に基づき権力者のなす命令は,「公法的の行為であり,民事訴訟を以つて争ひ得ないことは勿論,法律は多くの場合に行政訴訟をも許して居らぬ」ところでした(美濃部・同書139頁)。
 また,同じ公法上の勤務関係に服するものであっても,「一般官吏の職務上の義務は勅令たる官吏服務紀律に依り定められて居るが,軍人の職務上の義務は主としては統帥権の発動としての命令に依つて定められ」ており,「軍人の勤務義務に関しては,官吏に於けるとは異なり,必ずしも勅令の定めに依るを要せず,所属上官の命ずる所が直ちに其の義務の内容を為す」ものとなっていました(美濃部達吉『日本行政法 下』(有斐閣・1940年)1361‐1362頁)。さらには,「一般の官吏に在りては,上官の命令が有効であるや否やに付いては官吏が自らこれを審査する責任が有」るのに対して,「軍人は上官の命令に対しては絶対の服従義務を負ひ,これに反抗することは,其の事の如何を問はず許されないのであるから,仮令上官の命令が其の内容に於いて犯罪に相当し,随つて其の命令は無効であると見るべき場合であつても,其の命令に従つて犯罪行為を為した者は,それに付いての責任を負はず,其の命令を為した上官に於いて,専ら其の責に任ずるものと解せねばならぬ。上官の命令に従つて殺人の幇助を為した陸軍軍人が,軍法会議に於いて無罪を判定せられた実例の有るのは此の理由に因るのである。」とされていました(美濃部・同書1364頁)。統帥権の発動として上官から軍人に下された命令には「違法により無効」ということがないのならば,確かにこれは一種の「超法的」なものではあります。そもそも大日本帝国憲法の臣民権利義務の章にある第32条は「本章ニ掲ケタル条規ハ陸海軍ノ法令又ハ紀律ニ牴触セサルモノニ限リ軍人ニ準行ス」と規定しており,帝国議会の協賛を要する法律(大日本帝国憲法5条,37条)によらなくとも,軍人に対する権利制限は可能であったところです。
 第2には,「統帥権ハ,・・・国家非常ノ場合ニ於テハ主権ヲ擁護確立スルモノ」であり,法のよって立つ基盤である主権自体を支えるものは兵権であって,その意味では統帥権は法に先立つのだ,ということのようです。「抑々主権ヲ確立スル為ノ第一次的要素ヲ為スモノハ兵権ニシテ,此主権ヲ擁護シ,法ヲ支持スル最後的ノモノモ亦兵権ナリトス」とされ(『統帥綱領・統帥参考』4頁),「元来国権乃至政権ガ兵権ニヨリ確立セラルルモノナルコトハ古今ノ歴史ノ明証スル所ニシテ,我源,平,北条,足利,織田,豊臣,徳川ノ武家政権,王政復古,仏国革命政権,露国ノ労農政権,支那ノ国民党政権等皆然ラザルナシ。之ヲ以テ国家非常ナル場合兵権ガ最後ノ断案ヲ下シ政権ヲ確立スルノ作用ハ,理論ヲ超越シタル事実上ノ必要ニ基クモノナリ」と述べられています(同書28‐29頁)。
 第3は,「統帥ハ意志ニ拠ル」として,統帥の意志性が強調されているということです。「人ハ各々其意志ノ自由ヲ有シテ自己ノ存在ヲ意識シ,其存在ヲ成ルベク永ク保持セントスル本能ヲ有ス。統帥ハ,即チ,意志ノ自由ヲ有スル人間ヲシテ,其本能的ニ保持セントスル生命ヲ抛チ,敵ノ意志ノ自由ヲ奪ヒ之ヲ圧伏センガ為ニ邁進セシムルモノナリ。之ヲ以テ統帥ニ関スル学理ハ,『意志ノ自由』ト『死』ニ関スル学理ナリト言フモ過言ニアラズ」(『統帥綱領・統帥参考』64‐65頁)との説明は,一種形而上学的であります。『統帥参考』を作成した陸軍大学校には,このような哲学的修辞が好きな軍人が教官として集まっていたのでしょうか。「戦争,会戦,戦闘等ハ総テ彼我自由意志ノ大激突ニシテ,戦勝トハ則チ意志ノ勝利ナリ。勝利ハ物質的破壊ニ依リテ得ラルルモノニアラズ,敵ノ勝利ヲ得ントスル意志ヲ撃砕スルコトニヨリ獲得セラルルモノトス。「ジョセフ・ド・メストル」ガ『敗レタル会戦トハ,敗者ガ敗レタルヲ自認シタル会戦ナリ。之,会戦ハ決シテ物質的ニ敗ルルモノニアラザレバナリ。』ト道破シタルハ至言ナリト言フベシ。/軍ノ意志ハ則チ将帥ノ意志ニ関シ,軍ノ勝敗ハ主トシテ将帥ノ意志如何ニ因ル」ものとされ(同書45頁),カエサル,ハンニバル,アレクサンドロス大王,フリードリッヒ大王等の人物が称揚されています(同書46頁)。過去の軍事的天才の意志に思いを馳せつつ,陸軍大学校教官氏は,筆を休めては英雄崇拝の少年時代を想起したものでしょう。意志と法との関係についてはなお,「国民参政,即チ議会制度ノ出現ハ,実ニ国民各種ノ意志・利害ノ平均点ヲ発見シテ『法』ヲ定メ,以テ政治運用ノ基調タラシメントスル目的ニ出ヅルモノナリ。従テ,政治ニ於テハ合議,妥協,中庸,平均等ハ重要ナル価値ヲ有シ,『法』ハ絶対ノ権威アリト雖,統帥ハ最高唯一ノ『意志』ヲ断乎トシテ強制シ,直ニ人間ノ生命ヲ要求スルモノニシテ,統帥ニハ『法』ナルモノナク,其緩急,政治ト同日ノ論ニアラズ」とされています(同書32頁)。そもそも「意志」に伴い「死」が出てくれば,「法」も引っ込むのでしょう。また,「蓋シ一般政治ノ実施ハ『法』ニ拠ルモノナルヲ以テ,国務大臣ハ只管『法』ニ準拠・・・スレハ可ナリト雖,作戦行動ニハ『法』ナルモノナク到ル処ニ臨機ノ独断ヲ必要トシ,情況ニ適スル略ト術トヲ機ニ投ジ応用スルモノ」であるともされています(同書9頁)。
 以上,『統帥参考』は,「法」的の性質と「超法」的の性質とを対立させることにより,「統帥権ノ輔翼及執行ノ機関ハ政治機関ヨリ分離シ,軍令ハ政令ヨリ独立」すべきことを,大日本帝国憲法制定前からの慣行論(下記3(1)において見ます。)からのみならず,本質論からも基礎付けることを,当該記述の直接の目的としていたのではないでしょうか。この場合,統帥権があえて「憲法以下のあらゆる法律とは無縁」である必要まではないことになるようですが,どうでしょう。

3 統帥権と議会との関係
 統帥権は「輔弼ノ範囲外ニ独立ス」と「すさまじい断定」をしている部分は,『統帥参考』の原文では次のとおりです。


陸海軍ニ対スル統治ハ,即チ統帥ニシテ,一般国務上ノ大権ガ国務大臣ノ輔弼スル所ナルニ反シ,統帥権ハ其輔弼ノ範囲外ニ独立ス。従テ統帥権ノ行使及其結果ニ関シテハ,議会ニ於テ責任ヲ負ハズ。議会ハ軍ノ統帥・指揮並之ガ結果ニ関シ,質問ヲ提起シ,弁明ヲ求メ,又ハ之ヲ批評シ,論難スルノ権利ヲ有セズ。(『統帥綱領・統帥参考』7頁)

(1)統帥権独立の根拠論
 統帥権の国務大臣輔弼の範囲からの独立の効果として,議会おいて責任を負わなくてよいことになるとされているわけですが,その前に,統帥権が国務大臣の輔弼の範囲外に現に独立していると「断定」するについて『統帥参考』が挙げている理由を見ると,次のとおりです。
 
・・・我帝国ニ於テハ立憲政治ノ反面ノ弊竇ヲ認メ,其害ヲ局限スルガ為,統帥,祭祀,栄典授与等ニ関スル大権ノ行使ハ,国務大臣輔弼ノ範囲外ニ置キタリ。之帝国憲法ノ精神ナリト雖,統帥権ノ独立ハ,憲法ノ成文上ニ於テ明白ナラザルガ故ニ屡々問題ト為レリ。然レドモ,憲法制定ノ前後ヲ通ズル慣行ト事実並憲法以外ノ附属法ハ叙上ノ憲法ノ精神ヲ明徴シ,統帥権独立ノ法的根拠ハ実ニ茲ニ存ス。憲法義解ニモ『兵馬ノ統一ハ至尊ノ大権ニシテ専ラ帷幄ノ大令ニ属ス』ト述ベ,事実ニ於テ参謀本部,軍事参議院等ノ軍令機関ハ既ニ憲法制定以前ニ於テ政治機関ト相対立シテ存在シ,憲法ハ其第76条(法律,規則,命令又ハ何等ノ名称ヲ用ヒタルニ拘ラス此憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ総テ遵由ノ効力ヲ有ス)ニ於テ之ヲ承認シタルモノナリ。(『統帥綱領・統帥参考』8頁)

 「統帥権独立ノ法的根拠」として,「憲法制定ノ前後ヲ通ズル慣行ト事実並憲法以外ノ附属法」が挙げられているわけです。さらには,これらに加えて,「一般政治ノ実施」については「議会ハ『法』ノ実行ヲ監視スレバ可ナリ」ではあるが,「作戦行動ニハ『法』ナルモノナク」,したがって,法に準拠すべき国務大臣が統帥について議会に対してどう責任を負担し得るのか疑問であるとの実質論,憲法学者の大多数が統帥権独立制を擁護又は承認しているとの学説の大勢及び1925年2月20日の貴族院における「政府ハ憲法第11条ノ統帥権ハ憲法第55条ニ於ケル各大臣輔弼ノ範囲ヨリ除外セラルルモノト考フ」との政府委員答弁が挙げられています(同書9頁)。
 「すさまじい断定」ではあっても,「秘密結社」における得手勝手な独断とまでは必ずしもいえないようです。 
 なお,統帥に関する「立憲政治ノ反面ノ弊竇(へいとう)」としては,第一次大戦中のフランスにおいて「軍ノ統帥ガ政治機関ノ干与,議会ノ干渉ニ因リテ禍セラルルノ極メテ危険ナルヲ立証シ,1917年春仏国ニ於テハ有名ナル「ニヴェル」,「パンルウェー」事件ヲ惹起シ軍隊ノ一部ハ叛乱ヲ起シ,人ヲシテ仏軍ノ瓦解近キニアラザルヤヲ思ハシメタコト」及び英国に係る1915年ダーダネルス作戦の「大失敗」等の第一次大戦初期における不振が挙げられ,結論的に「政府ハ事実上議会ノ監督下ニ在ルノミナラズ,其政策ハ内閣ノ更迭ト共ニ変動ス。而モ立憲政治ノ発達ハ政党内閣ノ出現ヲ常態タラシムルト共ニ,其党争ハ愈々激甚ヲ加ヘツツアルハ事実ナリ。国軍ノ統帥ガ此ノ如キ政治機関乃至議会等ノ干与ニ依リテ行ハルルモノトセバ,其危険窮リナキモノト言フベシ」と述べられています(同書5‐6頁)。

(2)議会における責任追及の限界
 国務大臣の輔弼の範囲外にあると議会において責任を負わなくなるということについては,大日本帝国憲法54条(「国務大臣及政府委員ハ何時タリトモ各議院ニ出席シ及発言スルコトヲ得」)及び55条1項(「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」)が関係します。
 大日本帝国憲法55条1項については,そこにおける「国務大臣に特別なる責任は,専ら其の議会に対する責任に在る」ものとされています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)544頁)。「議会は国民に代つて政府を監視する機関であつて,議会が国務大臣の職務行為に付いて之を論難し得ることは当然であり,憲法第54条にも国務大臣が議会と交渉する職権あることを規定して居るのは,議会が国務大臣の行為を是非し,批評し得る権能あることを暗示して居るもの」であるわけです(美濃部・同書545頁)。議会が国務大臣の責任を質す方法としては,質問権,不信任決議の権及び弾劾的上奏権が挙げられています(美濃部・同書545‐547頁)。ただし,「国務大臣が憲法上に責任を負担するのは,唯その国務大臣としての職務の範囲に限ることは言ふまでもな」く,「就中,天皇の大権に付き国務大臣が輔弼の責任を負ふのは,唯法律上に輔弼すべき職務を有する範囲に限る」のであって,「随つて現在の制度に於いては,陸海軍統帥の大権,栄典授与の大権,祭祀に関する大権,国務に関係なき皇室の大権に付いては,国務大臣の責任に属するものではない」ものとされていました(美濃部・同書543‐544頁)。すなわち,統帥事項について議員が議会で国務大臣を攻撃しようにも,そもそも国務大臣の責任の範囲外ということで,肩透かしということになります。
 そこで,議会政治家としては,統帥部の軍人を議会に呼び付けて,「質問ヲ提起シ,弁明ヲ求メ,又ハ之ヲ批評シ,論難」したいのですが,なかなかそうはいきません。大日本帝国54条がそこに立ちはだかっており,「議会が政府と交渉し得るのは,専ら国務大臣及び国務大臣の代理者としての政府委員を通じてのみであつて,その他の機関に対しては,文書を以て天皇に上奏し得ることの外には,直接には全く交渉の権能を有たないもの」とされていました(美濃部『逐条憲法精義』502頁)。同条の趣旨に基づくとされる議院法75条は,「各議院ハ国務大臣及政府委員ノ外他ノ官庁及地方議会ニ向テ照会往復スルコトヲ得ス」と明言していたところです。さらには,同法73条は「各議院ハ審査ノ為ニ人民ヲ召喚シ及議員ヲ派出スルコトヲ得ス」と規定していました(ただし,美濃部によれば,同条の規定は大日本帝国憲法の要求するところではないものです(美濃部・同書490頁)。)。大日本帝国憲法下においては,天皇を輔弼するからといってすべての者が議会に対して責めに任ずるわけではなく,内大臣,枢密顧問,元老等に対して,「議会は此等の者に対して其の責任を問ふべき何等の行為をも為し得ない」ものとされていたのでした(美濃部・同書547‐548頁)。また,「厳格なる三権分立を基礎とするアメリカ主義の憲法に於いては,議会と政府とを全く没交渉の地位に置いて居る」との例もあったところです(美濃部・同書502頁)。
 ちなみに,議会が軍事に口を出すことを軍人が恐れるのももっともかなとあるいは思わせる事例が,第一次大戦中のフランスでありました。


1918年3月,独逸軍ハ仏国「ビカルヂー」地方ニ於ケル聯合軍ノ戦線ヲ突破シ「アミアン」附近ニ迫レル時,議会ハ責任将軍ノ処刑ヲ要求スルヤ,首相「クレマンソー」ハ答ヘテ曰ク。『国軍ニ対スル信用ハ,之ガ為毫モ変化ナシ。然ルニ吾人狼狽シ,或ハ最善ナリシヤモ知レザル指揮官ニ迄早々手ヲ触レ,以テ軍中ニ不安ノ念ヲ投ズルガ如キハ罪悪ニシテ,予ハ断ジテ此罪悪ヲ犯スモノニアラズ云々』ト。(『統帥綱領・統帥参考』23頁) 

 単なる更迭ではなく,処刑の要求です。
 人材豊富な大日本帝国の政界といえども,クレマンソーのような大政治家が常にいて議会を抑えて守ってくれるものとは,陸軍大学校の教官らは安んじて信頼できなかったものでしょう。(ちなみに,「ビカルヂー」とは,Picardieのことですよね。)

4 「憲法上ノ責任」をめぐる政治機関と統帥機関との相違
 「・・・然レドモ,参謀総長・海軍軍令部長等ハ,幕僚(註・天皇のスタッフ)ニシテ,憲法上ノ責任ヲ有スルモノニアラザルガ故ニ・・・」の『統帥参考』における原文は,統帥権の独立を保障するものとしての「武官ノ地位ノ独立」及び「其職務執行ノ独立」の必要性並びに政治機関と統帥機関との対立平等性を説く場面に登場しており,詳しくは次のとおりです。


国務大臣ハ憲法上ノ輔弼ノ責ニ任ズル者ナルヲ以テ,主権者ガ大臣ノ意見ニ反シテ決裁セラレタルトキハ,憲法上ノ責任ヲ採リテ辞職セザルベカラズ。然レドモ,参謀総長,海軍軍令部長等ハ幕僚ニシテ憲法上ノ責任ヲ有スルモノニアラザルガ故ニ,其進退ハ国務大臣ト大ニ趣ヲ異ニス。之『法』ニ拠ル政治ト『意志』ニ拠ル統帥トノ本質的差異ヨリ生ズル自然ノ帰結タラズンバアラズ。(『統帥綱領・統帥参考』11頁)

 「われわれは天皇のスタッフだから憲法上の責任なんかないんだ」ということは,無責任宣言ということでしょうか。確かに,国務大臣が有する「憲法上ノ輔弼ノ責」と同一の「憲法上ノ責任」は,参謀総長や軍令部総長は国務大臣ではないですから,有してはいなかったところです。しかし,ここでは天皇が奏上を嘉納しなかった場合の進退が問題になっているわけですが,「其進退ハ国務大臣ト大ニ趣ヲ異ニス」というのですから,国務大臣は辞職しても(「若し国務大臣が自己の責任上国家の為に是非或る行為を為すことが必要であると信じてその御裁可を奏請し,而もそれが嘉納せられなかつたとすれば,国務大臣は当然辞職せねばならぬ」(美濃部『逐条憲法精義』513頁)。),参謀総長・軍令部総長等は辞職せずに留まり,大元帥の命令に従うのだ,ということが本来の文意であるのだと解することも可能であるように思われます(国務大臣であれば,「・・・必ずしも君命に服従することを要するものではない。・・・君命と雖も若しそれが憲法法律に違反し若くは国家の為に不利益であると信ずるならば,国務大臣は之に従ふことを得ない」ところでした(美濃部・同書513頁)。)。あるいは,政治機関の進退と統帥機関の進退との相互独立性が言いたかったのではないでしょうか。上記部分に続けて『統帥参考』は,「参謀総長,海軍軍令部長等ノ地位ガ内閣又ハ陸,海軍大臣ノ意志ニ依リテ左右セラレザルコトモ亦統帥ノ独立ヲ保障スル為ニ極メテ必要」であると述べています(『統帥綱領・統帥参考』11頁)。
 事変下南京陥落後1938年1月15日の大本営と政府との連絡会議における出来事が,興味深い素材を提供します。第1次近衛内閣(外務大臣・広田弘毅,海軍大臣・米内光政)側はトラウトマン工作による中華民国国民政府との和平交渉を打ち切る方針であったのに対して,参謀本部(多田駿次長)は和平交渉継続を主張して反対したところ,これに対して政府側は内閣総辞職の威嚇をもって参謀本部に圧力をかけ,参謀本部は政変回避のため屈服したという出来事です(内閣が和平交渉を打ち切っての事変継続を主張し,参謀本部がそれに反対していたのですから,通常のステレオタイプの見方からすると,倒錯した事態であったわけです。)。辞職の可能性に裏付けられた「憲法上ノ責任」が「統帥権」の反対にかかわらず貫徹したような具合です。参謀本部側は辞職ということは言い出さなかったようです(多田次長は,「天皇に辞職なし」であるのに総辞職を云々する内閣は無責任だとなじったとも伝えられていますから,自らの辞職をちらつかせて開き直ることはできなかったでしょう。)。辞職できるということは,実は強みでもあります(「国務大臣の進言に対し,一応の注意を加へたまふことはあつても,裁可を拒ませらるゝことは,内閣瓦解の原因ともなるべき容易ならぬ事態を生ずる」のでしたから(美濃部『逐条憲法精義』513頁),天皇も政府に対して拒否権を発動できなかったわけです。)。(ちなみに,トラウトマン工作による和平交渉を打ち切る旨の上奏が嘉納されなかった場合には,近衛内閣はあるいは総辞職したのでしょうが,参謀本部が近衛内閣と進退を共にすることは当然なかったわけでしょう。)なお,統帥部の人事が内閣によって左右されていたのならば,大激論になる前に,多田次長を更迭すればよいだけだったはずであり,そもそもそれ以前に,楽観的かつ勇ましい政権側の軍人をもって統帥部が固められていたはずでしょう。
 いずれにせよ,1938年1月15日のこの場面では,「日中戦争を長びかせ」たのは参謀本部ではないですね。なお,『統帥参考』の認識では,「開戦,和戦,戦争ノ目的,同盟,聯合其他戦時外交ノ方針等ハ事重大ナルヲ以テ,事実上統帥部ト政府トノ意見ノ一致ヲ見ザレバ決定シ得ベキモノニアラズ」であって,これらの事項については政府から最高統帥部に協議するのが至当,ということではありました(『統帥綱領・統帥参考』24頁)。

5 大日本帝国憲法31条の非常大権の解釈論
 「・・・兵権ヲ行使スル機関ハ,軍事上必要ナル限度ニ於テ,直接ニ国民ヲ統治スルコトヲ得・・・」の部分について,司馬遼太郎が省略したところをも含めた『統帥参考』の原文は,次のとおりです。


兵・政ハ原則トシテ相分離スト雖,戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テハ,兵権ヲ行使スル機関ハ,軍事上必要ナル限度ニ於テ,直接ニ国民ヲ統治スルコトヲ得ルハ憲法第31条ノ認ムル所ナリ。而シテ此軍権ノ行使スル政務ニ関シテハ議会ニ於テ責任ヲ負ハズ。(『統帥綱領・統帥参考』28頁)

 一応しおらしく,大日本帝国憲法31条に拠った立言になっています。臣民権利義務の章にある同条は,「本章ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」と規定していました。同条は「天皇大権ノ施行」といっていますから,『統帥参考』の上記部分も天皇を全くないがしろにするものではないでしょう。
 「戦時又ハ国家事変ノ場合」に「軍事上必要ナル限度ニ於テ,直接ニ国民ヲ統治」する「兵権ヲ行使スル機関」について『統帥参考』は,「戦時大本営ハ,所謂非常大権ノ発動ニ依リ,軍事上必要ナル限度ニ於テ直接国民ヲ拘束スル命令ヲ発スルコトヲ得ベク,又戒厳ノ宣告セラレタル場合ニ於テハ,国家統治作用ノ一部ハ軍権ノ権力ニ移サレ,行政及司法権ノ全部又ハ一部ハ軍権ノ掌ル所トナル。軍事占領地ノ統治亦然リ。」と説明しており(『統帥綱領・統帥参考』28頁),直接「参謀本部」に言及してはいません。大本営については更に,「大本営ハ,国軍直接統帥ノ外,国軍ノ動員,新設,補充・補給ヲ規画シ,且,国内警備ヲ統轄シ,戒厳ノ布告ナキ場合ニ於テモ,要スレバ憲法第31条非常大権ノ発動ニ基キ,軍事行動ニ直接必要ナル限度ニ於テ,直接一般国民ヲ拘束スベキ命令ヲ発スルコトヲ得ルモノナリ(美濃部博士著『憲法提要』参照)。」と述べられていました(『統帥綱領・統帥参考』34頁)。
 おや,と思わせるのは,美濃部達吉の『憲法提要』が,『統帥参考』において典拠として引用されていた事実です。統帥機関としては,1932年の段階においては,「法学界をおおっている美濃部学説を痛打」するどころか,進んでその権威に依拠しようとしていたもののごとくです。昭和10年の天皇機関説事件のわずか3年前のことでありました。
 『憲法提要』は手もとにないのですが,大日本帝国憲法31条に関する美濃部達吉の所説は,次のとおり。


 要するに,本条の規定は戦争又は内乱に際し軍隊を動かす場合には,軍隊の活動の為に必要なる限度に於いて,大元帥としての天皇の命令に依り又は天皇の委任に基く軍司令官の命令に依り,法律に依らずして人民の自由及び財産を侵害し得べきことを定めて居るものである。平時に於いては,軍隊の権力は唯軍隊の内部に行はれ得るに止まり,軍隊以外の一般の人民に及び得るものではないが,戦時又は国家事変に際しては,軍隊が軍事行動の必要の限度において一般人民を支配する権力を得るのであつて,約言すれば本条は軍隊統治の制を認めたものに外ならぬのである。
 軍隊の権力に依つて人民を支配し得る最も著しい場合は,戒厳の宣告せられた場合である。・・・併しながら若し本条の規定を以て戒厳の場合のみを意味するものと解するならば,本条は第14条と全然相重複し無意味の規定とならねばならぬ。随つて本条の規定の結果としては,戒厳の宣告せられた場合の外に,尚大本営の命令に依つても一般人民に対し軍事上必要なる命令を為し得るものと解せねばならぬ。又兵力を以て敵地を占領した場合には,軍隊にその地域の統治を委任し得ることは当然で,即ち此の場合にも本条に依る軍隊統治が行はれるのである。(美濃部『逐条憲法精義』417‐418頁)

 非常の事変に際し,普通の警察隊の力を以つては治安を保つことが困難である場合には,特に軍隊の力を以つて治安維持の任に当ることが有る。これを非常警察と称する。それは実質上から見て警察と称し得るのであるが,行政権の作用ではなく,軍隊の権能に依つて行はるるもので,其の権能の源は統帥大権に在り,形式的の意義に於いては行政作用には属しない。唯其の実質に於いては,等しく社会公共の秩序を維持するが為めにする命令強制の権力作用であり,此の意義に於いて警察作用たるのである。非常事変に際して行はれるのであるから,憲法第31条の適用を受くるもので,一般法律の拘束を受けず,治安を維持するに必要なる限度に於いては,法律に依らずして人民の自由を拘束し得るのである。(美濃部『日本行政法 下』56頁)

 「軍事機密」である『統帥参考』も,作成の現場においては,いろいろなソースから「コピペ」して,それらを「おれたちは」的言葉づかいでまとめて出来上がったものなのでしょう。
 日本の秀才のすることは,古今余り変わらないものです。

(補足)なお, 国は違いますが, 非常大権の発動例として有名なものに1863年1月1日付けの米国リンカン大統領の奴隷解放宣言があります。当時は, アメリカ合衆国憲法を改正しても全国一斉に奴隷を解放することはできない(憲法改正権の範囲外)と考えられていたのに対して, 「大統領のwar power(戦時権限)に基づいた・いわば戦争遂行の一手段としてのもの」として, 「連邦に対して叛乱状態にある地域の奴隷を解放するという内容」の奴隷解放宣言が出されたものです。(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)277頁)

6 統帥権の範囲に係る美濃部説と『統帥参考』との相違
 『統帥参考』は,必ずしも美濃部達吉の学説に全面的に背馳するものではなく,むしろ美濃部説を援用して所説を正当化するところもありました。しかし,「統帥権の正当なる範囲」を①指揮権,②内部的編制権,③教育権及び④紀律権の4種の作用に限るものとしている美濃部説(美濃部『逐条憲法精義』259頁)に対して,『統帥参考』の見解には,大きな相違が3点あります。
 第1に,指揮権において,美濃部は「軍隊の出動を命ずることは政務の作用に属する」(美濃部『逐条憲法精義』書259頁)としていますが,『統帥参考』では「軍隊ヲ動員シ,軍隊ニ出動ヲ命ジ」ることは統帥権の範囲に属するものとしています(『統帥綱領・統帥参考』15頁)。「外国ニ於テハ軍隊ニ出動ヲ命ズルノ権利ハ多ク議会ノ掌握スル所」であるが,「統帥上ニ於ケル 天皇ト大統領トノ地位ノ異ナル主要点ハ実ニ茲ニ存ス」るものとされています(同書16頁)。「我帝国ノ軍隊ハ,国家ノ軍隊タルノミナラズ皇軍ニシテ,外国ノ軍隊ト全然異ナル」のは(同書1頁),こういった点に現れるということでしょうか。ただし一応,「動員及軍隊ノ出動派遣ハ統帥ノ第一歩ニシテ,統帥部之ヲ計画スルモ,其目的,必要ニ応ジ範囲等ヲ決定スル為ニハ,政府ト協議スルヲ至当トス。」として(同書27頁),政府と「協議スルヲ至当」とするものとはされています。しかし,至当に至らなくとも妥当ではあるという場合もあるものと解されそうではあります。
 第2に,武官人事について,美濃部は大日本帝国憲法10条(「天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル」)による政務上の大権に属するものとし,「勅任官及地方長官ノ任命及進退」は閣議を経るべきものとする内閣官制5条1項7号を引いて「少くとも陸海軍将官の任免に付いては閣議を経ることを要する」としているのに対して(美濃部『逐条憲法精義』259頁),『統帥参考』は大日本帝国憲法11条は同10条ただし書の特例に当たるのだとして「勅任官ノ人事ハ閣議ヲ経ルヲ要スル規定ナルモ,陸軍武官ノ進級ハ奏任,勅任,親任共ニ陸軍進級令ニ依リ帷幄上奏ニ属」するものとしています(『統帥綱領・統帥参考』16頁)。人事を仲間内で決めたがるのは,官僚集団(のうちムラの人事権を握る主流派)の秩序本能ですね。官僚機構内において,人生の意義をかけて展開される暗闘あるいは公然たる派閥抗争は,結局人事権をめぐる争いでしょう。サラリーマンの仕事は,人事権者の方を見ながらされるものです。
 第3は,「等」の有無です。美濃部説では統帥権の範囲に属する事項は限定列挙ですが,『統帥参考』では「原則トシテ,国軍ヲ対象トシ之ニ対スル総ユル命令権ハ,即チ統帥権ニ属スルモノトス」とした上で,「軍隊ヲ動員シ,軍隊ニ出動ヲ命ジ,之ヲ指揮運用シ,又ハ其内部ノ編制ヲ定メ,或ハ之ヲ教育訓練シ,若ハ其軍紀ヲ維持スル等ノ権限ハ,総テ統帥権ノ範囲ニ属スルモノナリ。」とされています(『統帥綱領・統帥参考』15頁)。後段部分は美濃部説の4項目は当然統帥権の範囲に入るものであるということを確認確保するだけの記載ですね。しっかりと「等」がありますから,統帥権の範囲の大枠は,結局前段にいう原則の解釈によって決まるということになります。
 なお,「超法的」な統帥権も現実には,先立つものがなければどうしようもないのが泣き所でした。「国の歳出は予算に依つて議会の議を経ることを要し,予算外の支出も亦議会の事後承諾を要するものであるから,軍の行動殊に国防計画に関しても,その経費の支出を要する限度に於いては,帷幄の大権に依つては決することの出来ないもので,必ず内閣の輔弼に待たねばならぬ」ものとされ(美濃部『逐条憲法精義』258頁),この点は『統帥参考』も,「兵力ノ増加モ亦統帥部之ヲ計画スルモ,政府ノ同意ヲ得ルニアラザレバ之ヲ実行スルヲ得ズ。」と認めていました(『統帥綱領・統帥参考』27頁)。

 我が国の憲法においては,「公務員を選定し,及びこれを罷免することは,国民固有の権利」であり(日本国憲法151項),「公務員の選挙については,成年者による普通選挙を保障する」ものとされています(同条3項)。


 また,選挙に行くのは,国民の義務であるとされています。


 すなわち,選挙権の性質としては,「機関としての公務という側面と,そのような公務に参与することを通じて国政に関する自己の意思を表明することができるという個人の主観的権利という側面の二面性を有する」と解されています(佐藤幸治『憲法第三版』(青林書院・1995年)108頁)。帝国憲法時代から,「選挙投票は公務たる性質を有つて居り・・・憲法に於て衆議院議員は人民の公選に依ること定められた趣旨は,所謂る臣民翼賛の途を広めらるのである,重大なる公務である」とされていたところです(上杉慎吉『帝国憲法述義』(第9版)(有斐閣書房・1916年)400-401)。「選挙ハ公ノ職務ナルヲ以テ,選挙権ハ権利ナルト共ニ必然ニ義務タル性質ヲ有ス。法律ハ其ノ義務ノ不履行ニ対シ別段ノ制裁ヲ課セズト雖モ,選挙権ハ決シテ単ニ選挙人ノ利益ノ為ニノミ認メラルルモノニ非ズ,寧ロ主トシテハ国家ノ利益ノ為ニ認メラルルモノニシテ,随テ選挙人ハ国家ニ対シ忠実ニ其ノ権利ヲ行使スベキ義務ヲ負フモノナリ。」ということになるわけです(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)308頁)。


 しかし,著名な憲法学者でありながら,しかも,東京帝国大学法学部教授という要職にありながら,「重大なる公務」たる選挙権の行使を横着にも怠る常習犯がいました。

 上杉慎吉です。


 無論,上杉も,選挙権の行使は,臣民翼賛の途たる重大な公務であることは重々承知していました。しかし,上杉の投票意欲を萎えさせ,その投票所に向かおうとする気力及び体力を奪う,やむにやまれぬ深刻な事情があったのです。

 上杉は,次のように告白しています。



・・・投票せざる者は悉く皆怠慢者のみではないのであります,現に斯く申す所の私も投票をしたことは殆んどありませぬが選挙には候補者といふものが立つのてある,此候補者に投票をしなければ実際上有効な投票は出来ぬのであります,此事は選挙の無意味なる一の理由でありますが,大勢の人の中から適任者を出すといふのが選挙の立て前でありませう,然らば誰でも自分の適当と思ふ人を投票紙に書いて来ればよいのである,然らば多数の者が適当と思ふ人が多数の投票を得て当選することが実際であるかと申すに,決してさうではないのであつて,私が或る人を衆議院議員として最も適当なる人である,是れ以上の人は無いと思つて,其人に投票をしても無駄であります,候補者として看板を上げて居る人に投票をしなければならぬ,有効な投票をしやうとすれば不適任であると思ふ人でも候補者となつて居る人に投票しなければならぬ,それ故にどの候補者も皆不満足であると思ふ人は投票をしないのであります,私の如きも其一人であります,斯かる意味の棄権は或る意味における投票であると申すことが出来る,単純な怠慢ではありませぬ,之を強制するといふことは誠に不都合であると申さなければなりませぬ。(上杉・前掲
402-403


 ろくな候補者がいないから,投票所に行くのは面倒なだけで,時間と手間との無駄だ,無意味だ,と開き直っているわけです。

 ついでに上杉は,選挙義務の強制のような投票を強いる動きに対しても八つ当たりしています。



・・・近来諸国に於て投票せざる者即ち棄権者の数が非常に多い或は半数以上にも上ぼることがある,棄権者の割合が斯様に多くなつては,当選者は実は多数を得たものと言ふことができぬ,人民多数の意思を代表するといふが如きことは全然嘘であることが最も明かになるのであります,それ故に段々此
選挙義務を強制する制度が行はれて居るのであります・・・(上杉・前掲400-401


 なかなか率直な物言いです。後の内閣総理大臣である岸信介が上杉に師事したのは,上杉のこのような性格に魅かれるところがあったからでしょう。    
 原彬久『岸信介―権勢の政治家―』(岩波新書・1995年)は,岸と上杉との出会いを次のように伝えています。

・・・岸は入学早々上杉の講義に示された国体論に共鳴するとともに,すでに上杉門下にあった山口中学の先輩たちに手引きされて上杉邸に出入りする。岸が晩年,「