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第1 一つの蝦夷地(総称)から北海道及び樺太への分離に関して

 

1 北海道には,北海道島は含まれるが樺太島は含まれない。

 前稿である「光格天皇の御代を顧みる新しい「国民の祝日」のために」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081364304.html)においては,つい北海道「命名」150年式典(201885日に札幌で挙行)に関しても論ずることになり,その際明治二年七月八日(1869815日)の職員令により設置された開拓使による開拓の対象には,当初は北海道のみならず樺太も含まれていたことに触れるところがありました。そうであれば,しかし,日本国五畿八道の八道の一たる北海道に,北海道島と同様に開拓がされるべきものであった樺太島の地が含まれなかったのはなぜであるのかが気になってしまうところです。

 

2 明治初年の開拓官庁の変遷

 ところで,2018年において北海道「開拓」(の数えでの)150年が記念されなかったことについては,王政復古後の明治天皇の政府において「諸地開拓を総判(総判諸地開拓)」すべき機関の設置は,実は1869年の開拓使が初めてのものではなかったからであって,折角天皇皇后両陛下の行幸啓を仰いでも,当該趣旨においては十日の菊ということになってしまうのではないかと懸念されたからでもありましょうか。

 

(1)外国事務総督及び外国事務掛から外国事務局を経て外国官まで

すなわち,既に慶応四年=明治元年一月十七日(1868210日)の三職(総裁,議定及び参与)の事務分課に係る規定において,議定中の外国事務総督が「外地交際条約貿易拓地育民ノ事ヲ督ス」るものとされて,「拓地育民」が取り上げられており(併せて,参与の分課中に外国事務掛が設けられました。),同年二月三日(1868225日)には外国事務総督と外国事務掛とが外国事務局にまとめられた上(「外国交際条約貿易拓地育民ノ事ヲ督ス」るものです。),同年閏四月二十一日(1868621日)の政体書の体制においては,外国官が「外国と交際し,貿易を監督し,疆土を開拓することを総判(総判外国交際監督貿易開拓疆土)」するものとされていたのでした(以上につき,山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)4-5頁,7-8頁,1114頁及び2026頁参照)。外国交際と直接関係する疆土(「疆」は,「さかい」・「領土の境界」の意味です(『角川新字源』(1978年))。)の開拓ということですから,当該開拓の事業は,対外問題(有体に言えば,ロシア問題)対策の一環として明治政府によって認識されていたものでしょう。

 

(2)北蝦夷地(樺太)重視からの出発

 ロシア問題対策のための疆土開拓ということであれば蝦夷地開拓ということになりますが,その場合,四方を海に囲まれた北海道(東西蝦夷地)よりも,ロシア勢力と直に接する樺太(北蝦夷地)こそがむしろ重視されていたのではないでしょうか。

 

ア 慶応四年=明治元年三月九日の明治天皇諮詢

 早くも慶応四年=明治元年三月九日(186841(駿府で徳川家家臣の山岡鉄太郎が,江戸攻撃に向けて東進中の官軍を率いる西郷隆盛と談判した日です。))に,明治「天皇太政官代ニ臨ミ三職ヲ召シテ高野保建少将清水谷公考建議ノ蝦夷開拓ノ可否ヲ諮詢ス群議其利ヲ陳ス〔略〕復古記」ということがありましたが(「群議其利ヲ陳ス」の部分は,太政官日誌では「一同大ヒニ開拓可然(しかるべき)()旨ヲ言上ス」ということだったそうです。),そこでの高野=清水谷の建議書(二月二十七日付け)には「蝦夷島周囲二千里中徳川家小吏()一鎮所而已(のみ)無事()時モ懸念御坐(さうらふ)(ところ)今般賊徒 御征討(おほせ) 仰出(いでられ)候ニ付テハ東山道徃来相絶シ徳川荘内等()者共(ものども)彼地(かのち)ニ安居仕事(つかまつること)難相(あひなり)(がたく)島内民夷ニ制度無之(これなく)人心如何(いかが)当惑(つかまつり)候儀ニ有之(これある)ヘクヤ不軌ノ輩御坐候ヘハ(ひそか)ニ賊徒ノ声援ヲナシ(まうす)(べく)難計(はかりがたし)魯戎元来蚕食()念盛ニ候ヘハ此虚ニ乗シ島中ニ横行シ(かね)テ垂涎イタシ候北地()(シュン)古丹(コタン)等ニ割拠シ如何様之(いかやうの)挙動可有之(これあるべく)難計(はかりがたく)候ヘハ一日モ早ク以御人撰(ごじんせんをもつて)鎮撫使等御差下シテ御多務中モ閑暇(なさ)為在(れあり)候勢ヲ示シ御外聞ニモ相成候(あひなりさうらふ)(やう)仕度(つかまつりたく)〔中略〕海氷(りう)()()時節相至(あひいたり)候ヘハ魯人軍艦毎年()春内(シュンナイ)罷出候間(まかりいでさうらふあひだ)当月中ニモ御差下(さしくだし)相成候様(あひなりさうらふやう)被遊度(あそばされたき)積リ〔後略〕」とありました(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070634100)。

()(シア)が元来その地について蚕食之念を有しており,かつ,横行が懸念されること並びに久春古丹(大泊,コルサコフ)及び久春内(樺太島西岸北緯48度付近の地)といった地名からすると,ここでいう「蝦夷島」については,北海道島というよりは「北地」たる樺太島が念頭に置かれていたものでしょう。当該建議については,公家の清水谷公考(きんなる)に対する阿波人・岡本監輔の入れ智恵があったそうですが(秋月俊幸「明治初年の樺太――日露雑居をめぐる諸問題――」スラブ研究40号(1993年)2頁),岡本は「尊皇攘夷時代には珍しい北方問題の先駆者の一人で,文久3年(1863)すすんで樺太詰めの箱館奉行支配在住となり,慶応元年(1865)には間宮林蔵によっても実現できなかった樺太北岸の周廻を計画し,足軽西村伝九郎とともにアイヌ8名の助力をえて,独木舟で北知床岬を廻り,非常な苦労ののち樺太北端のエリザヴェータ岬(ガオト)に達し,西岸経由でクシュンナイに帰着した」という「ロシアの樺太進出に悲憤慷慨して奥地経営の積極化を望んでいた」憂国の士だったそうですから(同頁),当然樺太第一になるべきものだったわけです。

 

イ 慶応四年=明治元年三月二十五日の岩倉策問等(2道設置論)及び箱館府(箱館裁判所)の設置

 慶応四年=明治元年三月二十五日(1868417日)には,議事所において,三職及び徴士列坐の下,「蝦夷地開拓ノ事」について,「箱館裁判所被取建(とりたてられ)候事」,「同所総督副総督参謀等人撰ノ事」及び「蝦夷名目被改(あらためられ)南北二道被立置(たておかれ)テハ何如(いかん)」との3箇条の策問が副総裁である岩倉具視議定からされています(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070634300)。蝦夷地の改称の話は既にこの時点で出て来ていますが,ここでの2道のうち南の道が後の北海道(東蝦夷地及び西蝦夷地)で,北の道は樺太(北蝦夷地)なのでしょう。これらの点については更に,同年四月十七日(186859日)の「蝦夷地開拓ノ規模ヲ仮定ス」と題された「覚」7箇条中の最初の2箇条において「箱館裁判所総督ヘ蝦夷開拓ノ御用ヲモ御委任有之(これあり)候事」及び「追テ蝦夷ノ名目被相改(あひあらためられ)南北二道ニ御立(なら)()早々測量家ヲ差遣(さしつかはし)山川ノ形勢ニ随ヒ新ニ国ヲ分チ名目ヲ御定有之(これあり)候事」と記されているとともに,第6条において「サウヤ辺カラフトヘ近ク相望(あひのぞみ)候場所ニテ一府ヲ被立置度(たておかれたく)候事」と述べられています(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070634500)。箱館裁判所の設置は同月十二日(186854日)に既に決定されており,同裁判所は,同年閏四月二十四日(1868614日)に箱館府と改称されています(秋月2頁)。

 

ウ 明治二年五月二十一日の蝦夷地開拓の勅問

 箱館府を一時排除して五稜郭に拠り,最後まで天朝に反抗していた元幕臣の榎本武揚らが開城・降伏してから3日後の明治二年五月二十一日(1869630日)には,皇道興隆,知藩事被任及び蝦夷地開拓の3件につき明治天皇から政府高官等に勅問が下されています。そのうち蝦夷地開拓の条は次のとおりでした。

 

  蝦夷地ノ儀ハ 皇国ノ北門直チニ山丹満州ニ接シ経界粗々(あらあら)定マルトイヘドモ北部ニ至ツテハ中外雑居イタシ候所(さうらふところ)是レマテ官吏ノ土人ヲ使役スル甚ハタ苛酷ヲ極ハメ外国人ハ頗フル愛恤(あいじゅつ)ヲ施コシ候ヨリ土人往々我カ邦人ヲ怨離シ彼レヲ尊信スルニ至ル一旦民苦ヲ救フヲ名トシ土人ヲ煽動スルモノ()レアルトキハ其ノ禍(たち)マチ函館松前ニ延及スルハ必然ニテ禍ヲ未然ニ防クハ方今ノ要務ニ候間(さうらふあひだ)函館平定ノ上ハ速カニ開拓教導等ノ方法ヲ施設シ人民繁殖ノ域トナサシメラルヘキ儀ニ付利害得失(おのおの)意見忌憚無ク申出ツヘク候事

  (アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070159100

 

ここでの「蝦夷地」は,東蝦夷地,西蝦夷地及び北蝦夷地のうち,北蝦夷地こと樺太のことでしょう。(なお,北蝦夷地ならざる東蝦夷地及び西蝦夷地の振り分けについていえば,明治二年八月十五日(1869920日)の太政官布告による北海道11箇国のうち,東部は胆振,日高,十勝,釧路,根室及び千島の6箇国,西部は後志,石狩,天塩及び北見の4箇国とされていました。11箇国目の渡島国は,東部・西部のいずれにも分類されていません。)山丹は黒龍江下流域のことですが,ユーラシア大陸の「山丹満州ニ接シ」ているのは,地図を見ればすぐ分かるとおり,北海道島ではなく,樺太島でしょう。「経界粗々定マルトイヘドモ北部ニ至ツテハ中外雑居イタシ候所」というのは,185527日に下田で調印された日魯通好条約2条後段の「「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是まて仕来の通たるへし」を承けた樺太島内の状況を述べるものでしょう。「是レマテ官吏ノ土人ヲ使役スル甚ハタ苛酷ヲ極ハメ外国人ハ頗フル愛恤ヲ施コシ候ヨリ土人往々我カ邦人ヲ怨離シ彼レヲ尊信スルニ至ル」については,文久元年(1861年)に,樺太においてトコンベ出奔事件というものがあったそうです。

 

   事件は,文久元年(1861)に北蝦夷地のウショロ場所〔樺太島西岸北緯49度付近〕で漁業に従事していたアイヌのトコンベが,番人の暴力に耐えかねてシリトッタンナイ〔樺太島西岸ウショロより北の地〕のロシア陣営に逃げ込んだことが発端であった。北蝦夷地詰の箱館奉行所官吏はロシア側の責任者であったジャチコーフにトコンベの引き渡しを要求したが,ジャチコーフはアイヌ使役の自由を主張して奉行所官吏の要求を拒否した。その後,トコンベは翌文久二年(1862)正月,ウショロに立ち戻ったところを奉行所役人に捕縛され久春内に移送された。しかし,同年三月にはジャチコーフが久春内に来航し,トコンベの引渡しを要求した。最終的にジャチコーフは暴力を伴いトコンベを「奪還」した。さらに,ウショロに在住したトコンベの家族やその周囲のアイヌ17人を連れ去るという事件に発展した。

  (檜皮瑞樹「19世紀樺太をめぐる「国境」の発見――久春内幕吏捕囚事件と小出秀実の検討から――」早稲田大学大学院文学研究科紀要:第4分冊日本史学・東洋史学・西洋史学・考古学・文化人類学・アジア地域文化学544号(20092月)18-19頁)

 

 ということで,明治二年五月二十一日(1869630日)の勅問は,樺太島重視の姿勢が窺われるものであったのですが,同年七月八日(1869815日)の職員令による開拓使設置を経た同年八月十五日(1869920日)の前記太政官布告においては,道が置かれたのは東西蝦夷地までにとどまり,樺太島は,新しい道たる北海道から外れてしまっています。(当該太政官布告により「蝦夷地自今(いまより)北海道ト被称(しょうされ)11ヶ国ニ分割」なので(下線は筆者によるもの),渡島,後志,石狩,天塩,北見,胆振,日高,十勝,釧路,根室及び千島の11箇国のみが北海道を構成するということになります。一番北の北見国には宗谷,利尻,礼文,枝幸,紋別,常呂,網走及び斜里の8郡が置かれていますが,宗谷郡,利尻郡又は礼文郡に樺太島が属したということはないでしょう。北海道庁版権所有『北海道志 上巻』(北海道同盟著訳館・1892年)5頁によれば,蝦夷地北海道改称の際「樺太ノ称ハ旧ニ仍ル」ということになったそうです。)蝦夷地開拓に係る上記勅問の段階からわずか3箇月足らずの期間中に,樺太の位置付けが低下したようでもあります。この間一体何があったのでしょうか。

 

3 函泊露兵占領事件及び樺太島仮規則(日露雑居制)確認並びにパークス英国公使の勧告 

 

(1)函泊露兵占領事件

 明治二年六月二十四日(186981日)に「露兵,樺太函泊を占領,兵営陣地を構築」(『近代日本史総合年表 第四版』(岩波書店・2001年))という事態が生じています。

「日本の本拠地クシュンコタンの丘一つ隔てた沢にあるハッコトマリ(凾泊)にデ・プレラドヴィチ中佐(この頃大隊長となる)の指揮する50人ほどのロシア兵が上陸し,陣営の構築を始めた。そこは場所請負人伊達林右衛門と栖原小右衛門が共同で経営するアニワ湾の一漁場で,海岸は水産乾場として使われ,多数の鰊釜が敷設されていた。ロシア側は丘の上に兵営を建てるので漁場の邪魔にはならぬと弁解したが,そこもアイヌの墓地となっており,アイヌたちはロシア人の立入りを止めさせるよう繰返し日本の役所に訴えている。しかし,デ・プレラドヴィチは,兵営の設置は本国からの命令によるものとして日本側の抗議を無視した。ロシア側は仮規則〔本稿の主題たる後出1867年の日露間の樺太島仮規則〕を盾にこの地に陣営を設けたのであるが,その意図はクシュンコタンに重圧をかけ,日本人の樺太からの退去を余儀なくする準備であった。やがてここにはトーフツから東シベリア第4正規大隊の本部が移され,多数の徒刑囚も到着して,その後の紛糾のもととなるのである。」(秋月3-4頁)ということです。

 

(2)樺太問題に係るパークス英国公使の寺島外務大輔に対する忠告

樺太担当(久春古丹駐在)の箱館府権判事(開拓使設置後は開拓判官)となっていた「岡本〔監輔〕が上京して開拓長官鍋島直正や岩倉具視,大久保利通らの政府要人たちにロシア軍の凾泊上陸を報告し,日本の出兵を訴えて間もない」(秋月4頁,2頁)同年八月一日(186996日)には,外務省で「寺島〔宗則〕外務大輔はパークス英国公使と会談し,英国側から北地におけるロシアの進出について厳しく忠告を受けた。日本政府は現地の情報に疎く,樺太の情勢だけでなくロシアの動向についてまったくと言ってよいほど捕捉していなかった。〔中略〕「小出大和〔守秀実〕魯都ニ参り雑居之約定取極メ調印致し候ニ付,此約定〔樺太島仮規則〕ハ動(ママ)〔す〕へからさる者に候。恐く唐太全島を失ふ而已(〔のみ〕)ならす蝦夷地に及ふへし」と,パークスの忠告は切迫した内容であった。」ということになっています(笠原英彦「樺太問題と対露外交」法学研究731号(2000年)102-103頁。『大日本外交文書』第2巻第2455-459頁,特に458頁)。更にパークスは,「唐太に於て無用に打捨あるを魯人ひろふて有用の地となす誰も是をこばむ能はさるを万国公法とす」と,日本がむざむざ樺太を喪失した場合における列強の支援は望み薄であるとの口吻でした(『大日本外交文書』第2巻第2458)。

 

(3)樺太島仮規則に係る明治政府官員の当初認識

 パークスが寺島外務大輔に樺太島仮規則の有効性について釘を刺したのは,我が国政府の樺太担当者が当該規則の効力を否認していたからでした。

例えば,樺太島における岡本監輔の明治二年五月二十六日(186975日)付けロシアのデ・プレラドヴィチ宛て書簡では,「貴方所謂(いはゆる)日本大君と(まうす)は国帝に無之(これなく)徳川将軍事にて二百年来国政委任に(あひ)成居候得共(なりをりさうらへども)将軍限りにて外国と国界等取極(さうろふ)(はず)無之処(これなきところ)(その)臣下たる小出大和守〔秀実〕輩一存を(もつて)雑居等相約候(あひやくしさうらふ)は僭越(いたり)申迄も無之(これなく)」して「不都合の次第」であるとし,「吾所有たる此〔樺太〕島を貴国吾国及ひ土人三属の地と御心得被成候(なられさうらふ)余り御鄙見にて貴国皇帝御趣意とは不存(ぞんぜず)ところ,仮規則締結については「貴国にても其権なき者と御約し被成候(なられさうらふ)は御不念事に可有之(これあるべく)と述べて日本側の「小出大和守輩」は無権代理人であったとし,かつ,勿論(もちろん)(この)島の儀未タ荒蕪空間の地所も有之(これある)(つき)土人漁民其外小前の者に至迄(いたるまで)差支無之(これなき)場所は開拓家作等(なら)(れさ)(うらひ)ても(よろ)(しく)御坐候に付此段此方詰合(つめあひ)()御届被成(なられ)差図被受(うけられ)(さうらふ)(やう)致度(いたしたく)候」として(以上『大日本外交文書』第2巻第1933-935頁),樺太島仮規則2条の「魯西亜人〔略〕全島往来勝手たるへし且いまた建物並園庭なき所歟総て産業の為に用ひさる場所へは移住建物等勝手たるへし」との規定にもかかわらず,「荒蕪空間の地所」についてもロシア人の勝手はならず日本国の官庁に届け出た上でその指示に従うべしと,樺太島南部における(同島周廻者である岡本の主観では,樺太全島における)我が国の排他的統治権を主張していました。

「雑居」を認める樺太島仮規則の効力を,小出秀実ら当該規則調印者の権限の欠缺を理由に否定した上で(民法(明治29年法律第89号)113条参照),それに先立つ日魯通好条約2条後段の「界を分たす是まて仕来の通たるへし」との規定は,樺太島における日露雑居を認めるものではなく,日露の各単独領土の範囲は「是まて仕来の通」であることを確認しつつ,その境界(岡本の主観では,間宮海峡がそれであるべきものでしょう。)の劃定がされなかったことを表明するにすぎないもの,と解するものでしょう(以下「境界不劃定説」といいます。)。

(ここで,「境界の劃定」とは何かといえば,その意義について美濃部達吉はいわく,「領土の変更とは領土たることが法律上確定せる土地の境界を変更することであり,境界の劃定とは何処に国の境界が有るかの不明瞭なる場合に実地に就いて之を確認し明瞭ならしむることである。一は権利を変更する行為であり,一は既存の権利を確認する行為である。即ち一は創設行為たり一は宣言行為たるの差がある。境界の確定は殊に陸地に於いて外国と境界を接する場合に必要であつて,ロシアより樺太南半分の割譲を受けた場合には,講和条約附属の追加約款第2に於いて両国より同数の境界劃定委員を任命して実地に就き正確なる境界を劃定すべきことを約し,此の約定に従つて翌年境界の劃定が行はれた。」と(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)88-89頁)。190595日に調印されたポーツマス条約に基づく日露間の境界劃定は北緯50度の線がどこにあるかを測定して決めることであったわけですが,1855年の下田条約(日魯通好条約)に基づく国境劃定を行う場合であれば,まず「是まて〔の〕仕来」が何であるかの確定から始まることになったわけのものでしょう。)

しかし,下田条約2条後段の文言は境界不劃定説によるものであり,かつ,一義的にそう解され得るものであったかどうか。後に考察します。

 

(4)明治政府要人との会見における樺太問題に係るパークスの慎重論

明治二年八月九日(1869914日)には,「パークスは東京運上所において,岩倉〔具視〕大納言・鍋島〔直正〕開拓長官・沢〔宣嘉〕外務卿・大久保〔利通〕参議・寺島〔宗則〕外務大輔・大隈〔重信〕大蔵大輔ら新政府の有力者たちと会見し,再び樺太問題を討議した。さきに寺島との会談で樺太への積極策〔日本側もクシュンコタン近辺に要害の地を占めること(「クシユンコタン辺に要害の地をしむれは唐太の北地処に人をうつすよりも切速なり」(『大日本外交文書』第2巻第2458頁))〕を勧めたパークスは,このたびは一変して「樺太はすでに大半がロシアに属しており,今から日本が着手するのは遅すぎる」ことを力説した。すでに彼は〔英国商船〕ジョリー号船長ウィルソンの〔ロシア軍の凾泊進出に係る〕詳報を検討の結果,ロシアがアニワ湾に2000人の兵力を集結して(これは過大である),日本人の追出しを意図していることを知ったのである。彼は日本側から近く高官とともに多数の移民を送る計画を聞いて,「それは火薬の傍らに火を近づけるのと同じ」といい,北海道の開拓に力をそそぐことを要望した。」という運びになっています(秋月5頁)。

「唯今に至り唐太を御開き被成(なられ)候は御遅延の事と存候」,「唐太を先に御開き被成(なられ)候は住居の屋根(ばか)りあつて礎無之(これなし)と申ものに有之(これあり)候」,「1867年小出大和守の約定は魯西亜と日本との人民雑居と申事に候へは当今同国人参り候ても追出し候権無之(これなき)事と存候」,「サカレン()御心配被成候内(なられさうらふうち)蝦夷は被奪(うばはれ)可申(まうすべく)候」というようなパークスの発言が記録されています(『大日本外交文書』第2巻第2465-478頁のうち,470頁,471頁,474頁及び477頁)。なお,同日段階では我が国政府は北海道島よりも樺太島の開拓を先行させるつもりであったようであり,「同所()は魯国人の来りしに付唐太を先に開らき候事にて蝦夷地ヲ差置候と申事には無之(これなく)候」及び「(まづ)差向唐太の方に尽力いたし候積に候」というような発言がありました(『大日本外交文書』第2巻第2472頁)。 

 蝦夷地改称に係る明治二年八月十五日の前記太政官布告が樺太島について触れなかったのは,樺太はもう駄目ではないかとパークスに冷や水を浴びせかけられてしまったばかりの我が国政府としては,きまりが悪かったからでしょうか。ただし,改称された北海道を11箇国に分割するところの当該太政官布告は,少なくともこれらの国が置かれた東西蝦夷地については,他の五畿七道諸国と同様のものとしてしっかり守ります,との決意表明ではあったのでしょう。なお,八月九日に我が国政府は,パークスからの「〔樺太島における事件に関し〕右様〔「御国内の事件を御存し無之(これなき)事」〕にては蝦夷地を被奪(うばはれ)(さうらふ)(とも)御存し有之(これある)間敷(まじく)」との皮肉に対して,「(これ)(より)開拓の功を成し国割にいたし郡も同しく分割いたし候積に候」と言い訳を述べていますところ(『大日本外交文書』第2巻第2476),そこでは,樺太島にも国及び郡を置くものとまでの明言はされてはいませんでした。

 

4 北海道と樺太との取扱いの区別へ

 

(1)三条右大臣の達し

 蝦夷地を北海道と改称した翌九月には(『法令全書 明治二年』では九月三日(1869107日)付け),三条実美右大臣から開拓使宛てに次のように達せられています(『開拓使日誌明治二年第四』)。

 

                              開拓使

  一北海道ハ

   皇国之北門最要衝之地ナリ今般開拓被仰付(おほせつけられ)候ニ付テハ(ふかく)

   聖旨ヲ奉体シ撫育之道ヲ尽シ教化ヲ広メ風俗ヲ(あつく)()キ事

  一内地人民漸次移住ニ付土人ト協和生業蕃殖(さうろふ)(やう)開化(こころ)ヲ尽ス可キ事

  一樺太ハ魯人雑居之地ニ付専ラ礼節ヲ主トシ条理ヲ尽シ軽率之(ふる)(まひ)曲ヲ我ニ取ルノ事アル可ラス自然(かれ)ヨリ暴慢非義ヲ加ル事アルトモ一人一己ノ挙動アル可カラス(かならず)全府決議之上是非曲直ヲ正シ渠ノ領事官ト談判可致(いたすべく)(その)(うへ)猶忍フ可カラサル儀ハ 廷議ヲ経全圀之力ヲ以テ(あひ)応スヘキ事ニ付平居小事ヲ忍ンテ大謀ヲ誤マラサル様心ヲ尽スヘキ事

  一殊方(しゆはう)〔『角川新字源』では,「異なった地域」・「異域」。もちろんここでは「外国」ではないですね。〕新造之国官員協和戮力ニ非サレハ遠大()業決シテ成功スヘカラサル事ニ付上下高卑ヲ論セス毎事己ヲ推シ誠ヲ(ひら)キ以テ従事決シテ面従腹非()儀アル可カラサル事

    九月        右大臣                                                                               

 

 最北の樺太ではなく,宗谷海峡を隔てたその南の北海道こそが「皇国之北門最要衝之地」であるものとされています。樺太については,ロシア人に気を遣って忍ぶべしと言われるばかりで,どうも面白くありません。東西蝦夷地のみに係る北海道命名の意義とは,東西蝦夷地と北蝦夷地との間のこの相違を際立たせることでもあったのでしょう。最終項に「新造之国」とありますが,当該新造之国11箇国の設置は北海道についてのみであったことは,既に述べたとおりです。

 北海道の命名を華やかに祝うに際しては,陰の主役たる失われた樺太(及び当該陰の主役に対するところの某敵役)をも思い出すべきなのでしょう。

 

(2)樺太放棄論者黒田開拓次官

 明治三年五月九日(187067日)兵部大丞黒田清隆が樺太専務の開拓次官に任ぜられますが,担務地たる樺太を視察した黒田はその年十月に政府に建議を行います。いわく,「夫レ樺太ハ魯人雑居ノ地ナルヲ以テ彼此親睦事変ヲ生セサラシメ(しかる)(のち)漸次手ヲ下シ功ヲ他日ニ収ムルヲ以テ要トス然レトモ今日雑居ノ形勢ヲ以テ(これ)ヲ観レハ僅ニ3年ヲ保チ得ヘシ」云々と(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070638700)。(ちなみに,鷗外森林太郎翻訳の『樺太脱獄記』(コロレンコ原作)において描かれた樺太島から大陸への脱獄劇を演じたロシアの囚人らが同島に到着した時期は,この年の夏のことでした。)また,同年十一月,黒田は「米国ニ官遊」しますが(樺太庁長官官房編纂『樺太施政沿革』(1912年)後篇上・従明治元年至同8年樺太行政施設年譜4頁),その際黒田は「上言シテ(いはく)力ヲ無用ノ地〔筆者註:樺太のことですね。〕ニ用テ他日ニ益ナキハ寧ロ之ヲ顧ミサルニ若カス故ニ之ヲ棄ルヲ上策ト為ス便利ヲ争ヒ紛擾ヲ致サンヨリ一着ヲ譲テ経界ヲ改定シ以テ雑居ヲヤムルヲ中策ト為ス雑居ノ約ヲ持シ百方之ヲ嘗試シ左支右吾遂ニ為ス可カラサルニ至ツテ之ヲ棄ルヲ下策ト為スト」ということがあったそうです(明治62月付け黒田清隆開拓次官上表(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A03023618600))。要は,黒田の樺太放棄論(「上策」)は明治三年中から始まっていたようです。

このようなことになって,「これまで樺太の維持のため努力を重ねてきた岡本監輔は,このような黒田の方針に追従できず,明治3年末に辞表を提出し,許可も届かないうちに離島した〔略〕。その後の樺太行政は,ロシアの軍事力に対抗して開拓を推進するよりは,むしろ移民や出稼人たちの保護に重点が移されたのである。」ということになりました(秋月7頁)。岡本の樺太統治の夢及び努力は,「樺太の行政官として下僚80余名と移民男女200余名を率いて,慶応46月末クシュンコタン(楠渓)に着任」(秋月2頁)してからわずか2年半ほどで終わりを告げたわけです。

その後,187557日にペテルブルクで調印され同年822日に批准書が交換された日露間の千島樺太交換条約によって,全樺太がロシア帝国の単独領有に帰したことは周知のとおりです。


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草田男句碑
  降る雪や明治は遠くなりにけり   中村草田男(
1931年)

                  ――明治の終焉は,1912730日のことでした。

 

1 文化の日と「明治の日」との併記に向けた動き

 今月(202311月)1日付けの共同通信社のニュースに「文化の日に「明治」併記を 超党派議連が法案提出へ」と題されたものがあります(同社ウェブページ)。「超党派の「明治の日を実現するための議員連盟」は〔202311月〕1日,国会内で民間団体と合同集会を開き,明治天皇の誕生日に当たる113日の「文化の日」に「明治の日」と併記を求める祝日法改正案を提出する方針を確認した。来年〔2024年〕の通常国会で成立を目指すとしている。」とのことです。当該議員連盟の会長は自由民主党の古屋圭司衆議院議員であって,上記合同集会には同党のみならず,公明党,立憲民主党,日本維新の会及び国民民主党からも参加があったそうですから,国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)の当該改正は成立しそうではあります。

 「「国民の祝日」を次のように定める」ところの国民の祝日に関する法律2条における文化の日に関する部分は,現在次のようになっています。

 

  文化の日 113日 自由と平和を愛し,文化をすすめる。

 

 前記ニュースによれば,当該合同集会で古屋会長は「「明治は,日本が近代国(ママ)に生まれ変わった重要な足跡だ」と訴え」たそうですから,文化の日と「明治の日」とが併記された後の国民の祝日に関する法律2条の当該部分は次のようになるのでしょうか。

 

  文化の日 113日 自由と平和を愛し,文化をすすめる。

明治の日 右同日 日本が近代国家に生まれ変わった重要な足跡である明治の時代を顧み,国の将来に思いをいたす。

 

 しかし,「右同日」との表記や,あるいは重ねて「113日」と書くのは何だか恰好が悪いですね。国民の祝日に関する法律の第2条全体を表方式に変えるべきことになるかもしれません。

 (2023114日追記:なお,本記事掲載後,毎日新聞ウェブサイトにおいて,20231131943分付けの関係記事(「113日に二つの祝日⁉ 「明治の日」併記,折衷案で動く政界」)に接しました。当該記事によって,明治の日を実現するための議員連盟が準備したという法案(新旧対照表方式)の画像を見ることができましたが,同議員連盟は国民の祝日に関する法律2条に表方式を導入するという新機軸を切り拓くまでの蛮気に満ちた団体ではないようで,現在の同条における文化の日の項の次に「明治の日 113日 近代化を果した明治以降を顧み,未来を切り拓く。」という1項を挿入する形が採用されていました(「113」重複方式)。しかし,形式の話は別として,当該趣旨説明の文言はどうでしょうか。文学部史学科日本近代史専攻の学生を募集するための宣伝文句のようでもあり,折からの学園祭の季節,当該専攻の学生らが自らの若々しい研究成果を展示する際の惹句にこそふさわしいようでもあります。また,窮境にある日本の社会・経済・国家が未来を切り拓くためには専ら近代化の一層の推進によるべしということであれば,我が国の文化・伝統・歴史であっても非近代=非西洋的なものは切り捨てるべしというように反対解釈できるようです。ありのままの過去は捨てて,近代化イデオロギーの立場からの歴史の再編成を行おうということになるのでしょうか。あるいは,非西洋的なものを切り捨てるのではなく,専ら非科学技術的なものを切り捨てるのだ,ということかもしれません。そうであれば,西洋化ではなく,むしろ,人為に更に信頼して,進んだ科学的〇〇主義に基づいた理想的近代社会を実現する実験に新たに挑戦するのだということになりそうです。復古主義ではないですね。)

 なお,民間団体たる明治の日推進協議会(田久保忠衛会長)は,文化の日に差し替えて「「近代化の端緒となった明治時代を顧み,未来を切り拓く契機とする」祝日「明治の日」を制定することのほうが有意義ではないか」と考えているとのことです(同協議会ウェブページ)。

 

   しかし,我が国の「近代化の端緒」というならば,185378日(嘉永六年六月三日)のペリー浦賀来航の方が,その前年1852113日の京都中山邸における孝明天皇の皇子誕生よりも重要でしょう。

また,当該協議会は,1946113日(日曜日)に貴族院議場で行われた日本国憲法公布記念式典において昭和天皇から下された「朕は,国民と共に,全力をあげ,相携へて,この憲法を正しく運用し,節度と責任とを重んじ,自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。」との勅語(宮内庁『昭和天皇実録第十』(東京書籍・2017年)226-227頁参照。下線は筆者によるもの)に示された叡旨をどう評価しているのでしょうか。

   2013410日の衆議院予算委員会で田沼隆志委員は,文化の日の趣旨とされる「自由と平和を愛し,文化をすすめる」について,「まず,この意味がわからない。「文化をすすめる。」これはどういう意味なんでしょうか。日本語としてまずよくわからないので官房長官にお尋ねします。ぜひわかりやすく教えてください。」と発言していますが(第183回国会衆議院予算委員会議録第2232頁),同委員は,1946113日の昭和天皇の勅語を読んではいなかったものでしょう。これに対して「ぜひわかりやすく教えてください」と頼まれた菅義偉国務大臣(内閣官房長官)は,議員立法された法律の文言の難しい解釈を,当該立案者ならざる政府に対して訊かれても困るという姿勢でした。「これは議員立法で成立したわけであります。さまざまな政党がお祝いをしようという中で,それぞれ理念の異なる政党の中でこの法律〔国民の祝日に関する法律〕をつくったわけでありますから,今委員が指摘をされたように,何となくどうにでもとれるような形で,多分,当時,この祝日をつくるについて議員立法で取りまとめられた結果,こういう表現になったのではないかなというふうに思います。」ということですが(同頁),前提となるべきものとしての昭和天皇の勅語があったことを知っていた上で,それは「何となくどうにでもとれるような形」の文章なのだと答弁したのであれば・・・何をかいわんや。

 

 とはいえ,文化の日と「明治の日」とは併記となるそうです。そうであれば,「平和を愛」する文化の日と同じ日において明治の時代を顧みる際には,戊辰戦争における官軍による賊軍制圧及び西南戦争その他の士族反乱の鎮定並びに日清日露両戦争における勝利といった物騒なことどもを想起・礼賛してはならないのでしょう。

 

2 192733日の詔書渙発及び昭和2年勅令第25号の裁可

 

(1)明治節を定める詔書及び休日に関する勅令

 ちなみに,「明治の日」と似ている明治節を定めた昭和天皇の勅旨を宣誥する詔書(192733日付けの官報号外)は,次のとおりでした。

 

  朕カ皇祖考明治天皇盛徳大業(つと)ニ曠古ノ隆運ヲ(ひら)カセタマヘリ(ここ)113日ヲ明治節ト定メ臣民ト共ニ永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ明治ノ昭代ヲ追憶スル所アラムトス

    御 名   御 璽

      昭和233

                    内閣総理大臣 若槻礼次郎

 

現在の令和民主政下においては,我ら人民が明治「天皇ノ遺徳ヲ仰」ぐ必要はないのでしょう。

なお,上記詔書には宮内大臣の副署がありませんから,明治節を定めることは,皇室の大事ではなく大権の施行に関するものであり,かつ,内閣総理大臣の副署のみで他の国務各大臣の副署がありませんから,大権の施行に関するものの中での最重要事ではなかったわけです(公式令(明治40年勅令第6号)12項参照)。

しかして,「臣民ト共ニ永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ明治ノ昭代ヲ追憶スル」ための具体的な大権の施行はどのようなものであったかといえば,休日に関する勅令が改正されて,113日が国の官吏の休日とされたのでした(192733日裁可,同月4日公布の昭和2年勅令第25号。題名のない勅令です。)。

 

なお,昭和2年勅令第25号は大正元年勅令第19号を全部改正したものです。この昭和2年勅令第25号は,国民の祝日に関する法律附則2項によって1948720日から廃止ということになっていますが,これは,日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する昭和22年法律第721条による19471231日限りで失効したものであるところの法律事項を定める勅令に対する重複する廃止規定ではないものであるとすると,それまでの政令事項を規律する命令を法律で上書きしたということなのでしょう(各「国民の祝日」について (参考情報)祝日法制定の経緯 - 内閣府 (cao.go.jp))。)。

 

昭和2年勅令第25号の副署者は若槻内閣総理大臣のみですが,当該事項に係る主任の国務大臣(公式令72項参照)は内閣総理大臣だったというわけでしょう(「官吏ノ進退身分ニ関スル事項」を内閣官房の所掌事務とする内閣所属部局及職員官制(大正13年勅令第307号)214号参照)。ちなみに,別途,宮内職員の休日に関する昭和2年宮内省令第4号が,勅裁を経て192734日に一木喜徳郎宮内大臣によって定められ,同日公布されています。昭和2年勅令第25号の案は192731日に閣議決定されていますから,同月2日午後の「内閣総理大臣若槻礼次郎・一木宮内大臣にそれぞれ謁を賜う。」という昭和天皇の賜謁は(宮内庁『昭和天皇実録第四』(東京書籍・2015年)657頁),昭和2年勅令第25号及び同年宮内省令第4号並びに同月3日の詔書に関するものだったのでしょう。

 

(2)帝国議会における動き

なお,当時開会中の第52回帝国議会においては,明治節制定に向けた動きが活発でした。

貴族院においては,1927125日に公爵二条厚基,子爵前田利定,男爵阪谷芳郎,和田彦次郎,倉知鉄吉,松本烝治,中川小十郎及び菅原通敬各議員提出の「明治節制定ニ関スル建議案」(「明治節制定ニ関スル建議/明治天皇ノ御偉業ヲ永久ニ記念シ奉ル為毎年113日ヲ祝日トシテ制定セラレムコトヲ望ム/右建議ス」)が全会一致で可決され(第52回帝国議会貴族院議事速記録第787-88頁。各議院がその意見を政府に建議できることについては,大日本帝国憲法40条に規定があります。),同年222日には東京市日本橋区蠣殻町平民田中巴之助外17名呈出の請願書(大日本帝国憲法50条)について「右ノ請願ハ明治節ヲ制定シ明治大帝ノ聖徳偉業ヲ憶念欽仰スルハ民意ヲ粛清向上セシメ世態民風ヲ統一正導スル所以ナルニ依リ速ニ之カ実現ヲ図ラレタシトノ旨趣ニシテ貴族院ハ願意ノ大体ハ採択スヘキモノト議決致候因リテ議院法第65条ニ依リ別冊及送付候(そうふにおよびさうらふ)」との政府宛て意見書が異議なく採択されています(52回帝国議会貴族院議事速記録第14272頁)。

衆議院においては,同年125日に大津淳一郎,小川平吉,三上忠造,元田肇,松田源治,鳩山一郎,山本条太郎等の18議員提出の「明治節制定ニ関スル建議案」(「明治節制定ニ関スル建議/明治天皇ノ盛徳大業ヲ永久ニ記念シ奉ル為113日ヲ以テ明治節トシ之ヲ大祭祝日ニ加ヘラレムコトヲ望ム/右決議ス」)がこれも全会一致で可決されています(第52回帝国議会衆議院議事速記録第785頁)。元田議員述べるところの建議案提出理由においては「〔前略〕明治天皇〔の〕御盛徳御偉業〔略〕中ニ付キマシテ王政復古ノ大業ヲ樹テラレ,開国進取ノ国是ヲ定メ給ヒ,立憲為政ノ洪範ヲ垂レサセラレ,国民道徳ノ確立ノ勅教ヲ屢下シ給ヒマシタコト,殊ニ帝国ノ天職ハ平和ヲ保持シ,文明ノ至治ヲ指導扶植スルニ在ルコトヲ世界ニ知ラシメ給ヒシコトハ,其最モ大ナル所デアリマス(拍手)御承知ノ如ク明治天皇ノ崩御遊バサレマシタ730日ヲ以テ是迄祝祭日トナッテ居リマシタガ,本年以後ハ此祝祭日ガ廃止シタコトニ相成リマシタニ付キマシテハ,明治天皇御降誕ノ当日タル113日ヲ以テ大祭祝日ト致シマシテ,大帝ノ御盛徳御偉業ヲ永遠ニ欽仰シ奉リタイト存ズルノデアリマス〔後略〕」とありました(同頁)。また,衆議院にも「明治節制定ノ件」に係る請願書が提出されており,同年24日には同議院の請願委員会(議院法(明治22年法律第2号)63条)において,採択すべきものと異議なく認められています(第52回帝国議会衆議院請願委員会議録(速記)第32頁)。ただし,当該請願書についての政府に対する衆議院の意見書送付(議院法65条)までは不要とされていました(同頁)。

 

(3)追憶されるべき明治ノ昭代

専ら明治「天皇ノ遺徳ヲ仰」ぐのみならず,広く「明治ノ昭代ヲ追憶スル」こととする旨の追加は,昭和天皇の政府においてなされたものであると解されます。明治ノ昭代の主な出来事は,元田肇の述べたところに従えば,慶応三年十二月九日(186813日)の王政復古の大号令から慶応四年(明治元年)四月十一日(186853日)の江戸開城を経て明治二年五月十八日(1869627日)の蝦夷共和国の降伏まで(王政復古ノ大業),慶応四年(明治元年)三月十四日(186846日)の五箇条の御誓文(開国進取ノ国是),③1889211日の大日本帝国憲法(立憲為政ノ洪範),④18901030日の教育勅語及び19081013日の戊申詔書(国民道徳確立ノ勅教),⑤1900814日の在北京列国公使館解放をもたらした八箇国連合のごとき国際協調(平和ノ保持)並びに⑥それぞれ1895529日及び1910829日以降の台湾及び朝鮮の統治(文明ノ至治ヲ指導扶植)ということでしょう。

以上6項目のうち,の官軍か賊軍か噺を今更持ち出すのは古過ぎるでしょう。徳川宗家第16代当主の徳川家達公爵は貴族院議長となり,蝦夷島総裁たりし榎本武揚は逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣となり,新撰組を預かった京都守護職・松平容保の孫娘は昭和初期の皇嗣殿下たりし秩父宮雍仁親王妃となりました。④式にお上から有り難い道徳の教えを授からないと何時までも自治自律ができない人委(ひとまかせの)人のままでは,情けない。また,衰退途下の我々よりも今や豊かになった人々に対して⑥の話をするのは論外でしょう。

 

3 明治節制定に伴う官吏の休日数の不変化

 

(1)昭和2年勅令第25号及び大正元年勅令第19号(大正2年勅令第259号による改正後のもの)(11箇日)と明治6年太政官布告第344号(10箇日)と

ところで,明治節を祝って明治大帝の遺徳を仰ぎ奉ることには忠良なる臣民としては反対できないとしても(とはいえ,明治節に参内して参賀簿に署名できるのは,昭和2年皇室令第14号により改正された皇室儀制令(大正15年皇室令第7号)の附式によると「文武高官有爵者優遇者」のみであり,かつ,「判任官同待遇者ハ各其ノ所属庁ニ参賀ス」ということであって,専ら「宮中席次を有する者始め一定の資格者が参内もしくは各官庁において記帳していた」資格者限定制であったものです(実録第十534頁)。),だからといって,臣民の税金で食っている分際である国の官吏の休日が図々しく一日増えるのはけしからぬ,というような反発が生ずることにはならなかったのでしょうか。

実は,明治節が加わっても,それによって大正時代よりも1日多くお役人が休むことができるということにはなっていませんでした。

大正元年勅令第19号(大正2年勅令第259号による改正後のもの)における休日数と昭和2年勅令第25号のそれとは,いずれも11箇日で変わっていないのです。

昭和2年勅令第25号による休日は次のとおり。

 

 元始祭    13

 新年宴会   15

 紀元節    211

 神武天皇祭  43

 天長節    429

 神嘗祭    1017

 明治節    113

 新嘗祭    1123

 大正天皇祭  1225

 春季皇霊祭  春分日

秋季皇霊祭  秋分日

 

このうち,今上帝の誕生日である天長節は,大正元年勅令第19号では大正天皇の誕生日である831日であり(ただし,同勅令が公布されたのは191294日であるので,大正に入っても,同年831日はいまだ休日ではありませんでした。),先帝の命日に係る祭日(昭和2年勅令第25号では大正天皇崩御日の1225日)は,大正元年勅令第19号では明治天皇崩御日の730日となっていました。他の元始祭,新年宴会,紀元節,神武天皇祭,神嘗祭,新嘗祭,春季皇霊祭及び秋季皇霊祭については,変化はありません。以上の10箇の休日は,1878年の明治11年太政官第23号達によって春季皇霊祭及び秋季皇霊祭が明治6年太政官布告第344号(当該1873年の太政官布告は,大正元年勅令第19号附則2項で廃止されています。)の8箇の休日に追加されて以来変わっていなかったものです(ただし,神嘗祭の日は1879年の明治12年太政官布告第27号によって改められるまでは917日でした。なお,明治6年太政官布告第344号における天長節はもちろん113日で,先帝際は,孝明天皇の命日である130日でした。)。大正元年勅令第19号には,何かもう一つ休日の隠し玉があったようです。

当該隠し玉は,1913716日に裁可され,同月18日に公布された大正2年勅令第259号にありました。隠し玉というよりは,某製菓会社の伝説的宣伝文句に倣えば「一粒で2度おいしい」🍫ということになるようです。

大正2年勅令第259号によって,1031日に「天長節祝日」が休日として追加されていたのでした。すなわち,大正時代の日本帝国臣民は,大正天皇の御生誕を,そのお誕生日である831日のみならず,1031日にもお祝い申し上げていたのでした。

113日に明治節の休日を,昭和時代になって設けることは,大正時代中の1031日の天長節祝日からの差替えであるという形に結果としてはなったわけです。明治大帝に対する崇敬の念は満たされつつ,官吏に対する「税金泥坊」という罵詈雑言も避けることができるという至極結構な次第となるべき下拵えをした大正天皇もまた偉大な君主だったのではないでしょうか。(しかしあるいは,昭和になって休日が1日減ると,休みたがりで不遜不埒な不逞官吏らの仲間内において昭和天皇の評判が悪くなってしまうのではないかという懸念も,25歳の若き新帝を輔翼弼成すべき重責を担う若槻礼次郎内閣にはあったかもしれません。)

 

(2)大正2年勅令第259号による天長節祝日追加の次第

ところで,大正2年勅令第259号による天長節祝日の追加の次第はどのようなものだったでしょうか。

これについては,アジア歴史資料センターのウェブサイトで一件書類を見ることができ(A13100056400),また,当時の第1次山本権兵衛内閣の内務大臣であった原敬の日記(『原敬日記(第5巻)』(乾元社・1951年))に記述があります。

まず,大正天皇は病弱でしたので,大暑の831日の東京で,天長節関係の諸行事の負担に耐えられるかどうかが,明治・大正代替わりの際の第2次西園寺内閣時代から懸念されていました。

 

  〇〔1913年〕416

  閣議〔略〕。天長節の事に関し831日は大暑中にて御儀式を挙ぐる事困難に付西園寺内閣時代にも之を如何すべきやとの相談ありしが,余〔原敬〕は国民中希望者も多き様になるに付御宴会は113日と制定相成りては如何と云ひたり,宮内省の草案にては11月にあらず1031日となせり。〔後略〕

 (原226頁)

 

 しかし,113日案は,半ば冗談でなければ,明治天皇とは別人格の大正天皇に対して不敬ではありましょう。

 その後,1913421日付けの渡辺千秋宮内大臣から山本権兵衛内閣総理大臣宛て官房調査秘第6号をもって,次の照会が宮内省から政府に対してされます。

 

  天長節ノ儀ハ831日ニシテ時(あたか)モ大暑ノ季節ニ有之候(これありそさうらふ)ニ付自今賢所皇霊殿神殿ニ於ケル天長節祭ノミハ皇室祭祀令規定ノ通当日之ヲ行ハセラレ其ノ他拝賀参賀賀表捧呈及宴会等宮中ニ於ケル一切ノ儀式ハ総テ1031日ニ於テ行ハセラレ候様(さうらふやう)奏請致度(いたしたき)(ところ)一応御意見承知致度(いたしたく)此段及照会候(しょうかいにおよびさうらふ)

 

天長節祭は小祭ですので(皇室祭祀令(明治41年皇室令第1号)21条),大祭と異なり天皇が親ら祭典を行う必要はなかったのですが(同令81項参照),「小祭ハ天皇皇族及官僚ヲ率ヰテ親ラ拝礼シ掌典長祭典ヲ行フ」ということになっていました(同令201項)。ただし,「天皇喪ニ在リ其ノ他事故アルトキハ前項ノ拝礼ハ皇族又ハ侍従ヲシテ之ヲ行ハシム」ということで(同条2項),天皇に事故があるときは,代拝措置が可能でした。

 

  〇〔19134月〕23

  閣議,天長節の件に付即ち宮内省案831日は御祭典のみに止め1031日を御宴会日となすの件に付内議し,結局今一応宮内省と打合せをなす事に決せり。〔後略〕

 (原229-230頁)

 

1913年宮内省官房秘第6号に対する同年630日付け山本内閣総理大臣から渡辺宮内大臣宛て回答は,次のとおりでした。

 

 421日付官房調査秘第6号照会天長節ノ儀ニ関スル件ハ大体異存無之候(これなくさうらふ)唯宮中ニ於ケル一切ノ儀式ヲ行ハセラルル期日ヲ1031日トスルニ於テハ明治節設定ニ関スル帝国議会ノ建議モ有之(これあり)或ハ113日ヲ休日ト定メラルルカ如キ場合ヲ予想スレハ余リニ休日接近ノ嫌有之(きらひこれあり)(つき)既ニ831日以外ノ日ヲ選定(あひ)(なる)以上ハ或ハ101(くらゐ)カ適当ノ期日カト被存候(ぞんぜられさうらふ)

   追テ当日ハ一般ノ休日トスル必要可有之(これあるべし)存候(ぞんじさうらふ)ニ付本件ハ休日ニ関スル勅令改正案ト同時ニ奏請相成様致度(あひなるやういたしたし) 

 

「ハッピー・マンデー」云々と,休日の接近はおろか,進んで休日の長期間接続をもってよしとし,補償金が貰えるならば「思いやり」の「自粛」継続は当然とする衰退途下の人委(ひとまかせの)人の国たる現代日本とは異なり,休日の接近を嫌う良識が,大正の聖代にはなおあったのでした。

明治節設定の動きは,明治天皇崩御後早くからあり,第30回帝国議会の衆議院では,1913326日,松田源治議員外13名提出の次の「明治節設定ニ関スル建議案」が全会一致で可決されています(第30回帝国議会衆議院議事速記録第16309頁)。

 

    明治節設定ニ関スル建議

 政府ハ国民ヲシテ 明治天皇ノ御偉業ヲ頌シ永久其ノ御洪恩ヲ記念セシムル為113日ヲ以テ大祭祝日ト定メムコトヲ望ム

 右建議ス

 

専ら明治天皇に対する「国民ノ忠愛ノ至情」(石橋為之助,松田源治)から出た建議でありました。しかし,明治天皇御一人をとことん忠愛するのならば,前年1912913日の乃木希典大将のように殉死しなければならなくなるようにも思われるのですが,松田代議士,石橋代議士等は,そこまで思い詰めてはいなかったのでしょう。

大正元年勅令第19号を改正する勅令案に係る191373日付け閣議請議書が残されています。しかし,『原敬日記』では,地方官会議があるので原内務大臣は同月2日の閣議を欠席したとしており,かつ,同月3日の記載は地方官会議関係のことばかりで,同日に閣議があったことは記されていません(原259-260頁)。

いずれにせよ同月初めの勅令案では,天長節祝日の日は101日であったようです。すなわち,191374日付けの渡辺宮内大臣から山本内閣総理大臣宛て官房調査秘第9号には「天長節ニ関スル件ニ付630日付ヲ以テ御回答ニ接シ候処御注意ノ次第モ有之候ニ付更ニ101日ヲ以テ天長節式日ト被定候様(さだめられさうらふやう)奏請可致候(いたすべくさうらふ)条右ニ御承知相成度(あひなりたく)此段申進候(まうしすすめさうらふ)也」と記載されているからです。「奏請」とは,大正天皇の内諾を得るということでしょう。

しかし,現実の大正2年勅令第259号における天長節祝日は,421日の照会案どおりの1031日となっていたのでした。この間の事情については,次の記載がされた紙が,一件書類中に綴られています。

 

 本件ハ更ニ総理大臣宮内大臣協議ノ上更ニ1031日ト決定セラレ大正元年勅令第19号中改正勅令案上奏ノ手続ヲ為セリ

 

 これは,天長節祝日を101日とする旨の宮内大臣からの奏請を大正天皇が敢然却下した結果,宮内大臣・内閣総理大臣が大慌てとなった一幕があったものか,と一瞬ぎょっとする成り行きです。

 しかしながら『原敬日記』によれば,実は閣議において,やはり天長節祝日は10月の1日よりも31日の方がよいのではないかとの賢明な内務大臣の提言があって再考がなされることになり,最終的にはしかるべく同大臣案に落ち着いたということでありました。

 

   〇〔19137月〕11

   有栖川御邸に弔問せり。

   閣議,天長節は831日にて大暑中なれば,御祝宴は101日に定められ此日を天長節の祝宴日となさん事を山本首相閣議に提出せり,之に対し奥田〔義人〕文相は天長節は大祭日となしあるを,天長節と天長節祝日と分別するは如何あらんと云ひたるも,閣議天長節は831日なるも天長節祝日は別に之を定むる事に決せり,但山本の提案なる101日は何等根拠なき日なれば,月を後に送るも日は改めざる一般の国風をも斟酌し,1031日となすを適当なりとの余〔原敬〕の主張に閣僚一同賛成せり,山本は既に内奏を経たりとて101日に決せんとするも,余は此事は御一代の定制となる重大事件なれば再び奏聞するも可ならんと主張し,遂に山本は宮内省と更に相談すべき旨山之内〔一次〕書記官長に命じたり,宮内省にては1031日と提出せしものを内閣側にて101日に主張せしものゝ由。

  〔略〕

  (原263-264頁)

 

 なお,奥田文部大臣は釈然としなかったようですが,君主の誕生祝賀が年2回行われることは外国にも例があります。英国の現国王チャールズ3世の誕生日は1114日ですが,同国王の誕生祝賀は,同日のほか,気候のよい6月にも行われています(2023年は617日)。

 我が国における1913831日の天長節は次のような次第となりました。

 

  31日 日曜日 午後,〔大正天皇の〕行幸御礼並びに天長節御祝のため,〔皇太子裕仁親王は〕東宮大夫波多野敬直を御使として日光に遣わされる。なお天長節は大暑の季節に当たるため,去る7月18日勅令〔第259号〕並びに宮内省告示〔第15号〕をもって,1031日を天長節祝日と定め,831日には天長節祭のみを行い,1031日の天長節祝日に宮中における拝賀・宴会を行う旨が仰せ出される。

  (宮内庁『昭和天皇実録第一』(東京書籍・2015年)681頁)

 

大正天皇は,その天長節の日を涼しい日光の御用邸で過ごすことを好んでおられたようです。

 

 19131031日の初の天長節祝日については次のとおり。

 

  31日 金曜日 天長節祝日につき,午前,〔皇太子裕仁親王は〕東宮仮御所の御座所において東宮職高等官一同の拝賀をお受けになる。午後零時30分御出門,御参内になり,雍仁親王・宣仁親王とお揃いにて天皇・皇后に祝詞を言上になる。また鮮鯛を天皇に御献上になり,天皇からは五種交魚等を賜わる。

  (実録第一696-697頁)

 

   〇31日 天皇節祝日に付参内御宴に陪し,晩に外相の晩餐会に臨み夜会には缺席せり,今上陛下始めての天長節にて市中非常に賑へり。

   〔略〕

   (原334頁)

 

4 五箇条の御誓文から文化国家建設へ

 この記事も何とかまとまりを付けねばなりません。

 で,正直なところを申し上げると,113日は,昭和天皇から「節度と責任とを重んじ,自由と平和とを愛する文化国家を建設す」べしとの新国是(すなわち現在の我が国の国是)が日本国憲法と共に下された日として,既に専ら昭和天皇の日となってしまっているのではないかと筆者には思われます。

 であれば,「明治の日」については,別途そのあるべきところを求めるに,明治時代の我が国の国是(開国進取ノ国是)たる五箇条の御誓文が宣明せられた46日が,その日としてよいのではないかと思われるところです(なお,立憲為政ノ洪範たる大日本帝国憲法が発布された211日は,趣旨はともかく,既に「国民の祝日」とされています。)。113日の文化の日を譲らない代償として,429日の昭和の日を,同月6日の「明治の日」に振り替えればよいのではないでしょうか。4月末から5月初めまでの連休期間は,今や衰退途下国たる分際の我が国としては長過ぎるようなので,429日の日の休日からの脱落は,問題視すべきことではないでしょう。

 昭和の日が五箇条の御誓文の日に差し替えられることが昭和天皇の逆鱗に触れるかといえば,そういうことはないでしょう。五箇条の御誓文の精神から出発して文化国家の建設に進むことこそが,惨憺たる失敗・敗戦の後,日本国憲法と共に昭和天皇が目指した昭和の日本だったはずです。

 1946年元日のかの詔書にいわく。

 

  茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク,

一,広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ

一,上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ

一,官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス

一,旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

一,智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

  叡旨公明正大,又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ,旧来ノ陋習ヲ去リ,民意ヲ暢達シ,官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ,教養豊カニ文化ヲ築キ,以テ民生ノ向上ヲ図リ,新日本ヲ建設スベシ。

 

 旧来の陋習を去った暢達たる心と共に,向上した民生下において生きるということは,自由であるということでしょう。負ける戦争や効果の乏しい対策の徹底から去ること遠い,慎重賢明狡猾な平和主義は当然でしょう。しかして自由及び平和の下で高められた精神は,教養豊かに文化を築くところにこそその満足を見出すのでしょう。

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1 はじめに

 毎年8月は,先の大戦に関する回顧物が旬となる季節です。

 今年(2023年)の8月はもう終わりますが(しかし猛暑はなお続くのでしょう。),筆者も夏休みの最後になって宿題に追われる小学生のごとく,つい,86年前の夏の出来事に関する疑問の一つの解明理解の試みに手を出し,少々の自由研究的抜き書きを作成してしまったところです。

 

2 盧溝橋から上海への「飛び火」

 193777日発生の盧溝橋事件が拡大して「北支事変」となり,更に上海に「飛び火」して「支那事変」,すなわち大日本帝国と中華民国との全面衝突となったという機序については,筆者はかねてから「飛び火」という責任所在不明の表現に違和感を覚えていました。

 これについては,名著の誉れ高い阿川弘之(1999年の文化勲章受章者https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/234460/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/99_1101/1101_3.html)の『米内光政』(新潮文庫・1982年(新潮社・1978年))の次のような記述を読むと,何だか我が帝国陸軍の関係者が怪しいようでもあります。

 

  第九章六

    日華事変の発端が悪名高い「陸軍の馬鹿」の仕組んだ陰謀だったか,相手方の挑発に乗せられた結果であったかは,こんにち尚はっきりしないらしいが,とにかくこの戦火を拡げたら厄介なことになるというのが,米内と山本〔五十六〕の共通した認識であった。当時の米内海相の手記には,

    「昭和12年〔1937年〕77日,蘆溝橋事件突発す。9日,閣議において〔杉山元〕陸軍大臣より種々意見を開陳して出兵を提議す。海軍大臣はこれに反対し,成るべく事件を拡大せず,速かに局地的にこれが解決を図るべきを主張す。(中略)

    五相〔首陸海外蔵〕会議においては諸般の情勢を考慮し,出兵に同意を表せざりしも,陸軍大臣は五千五百の平津軍と,平津〔北()(現在の北京)及び天()地方における残居留民を見殺しにするに忍びずとて,()つて出兵を懇請したるにより,渋々ながら之に同意せり。(中略)

    陸軍大臣は出兵の声明のみにて問題は直ちに解決すべしと思考したるが如きも,海軍大臣は諸般の情勢を観察し,陸軍の出兵は全面的対支作戦の動機となるべきを懸念し,再三和平解決の促進を要望せり」

   とある。

   (212頁) 

 

  同章212-214頁)は,主に,杉山元陸軍大将の昭和天皇に対する19377月と1941年秋との2度の「3カ月」奏上(実際には,北支事変も対米英蘭戦も3カ月では片付かず)エピソードの紹介

 

  

この時上海では,米内より2期下の長谷川清中将が支那方面海軍部隊の最高指揮官として,第三艦隊の旗艦出雲に将旗を上げていた。北支事変といっていたのが,8月に入ると上海に飛び火し,海軍も否応なしに戦いの一角に加ることになって,814日〔15日〕,世界を驚かせた海軍航空部隊(九六陸攻機)の〔南京等に対する〕渡洋爆撃が行われる。昭和12年の10月以降,第三艦隊は新設の第四艦隊と合して「支那方面艦隊」となり,長谷川長官の呼称も支那方面艦隊司令長官と変る。

   (214-215頁)

 

ここで,「飛び火」という表現が出て来ます。また,海軍も「否応なしに」戦いの「一角」に加わることになった,ということですから,我が帝国海軍は,大陸での戦闘行為に対して消極的であったにもかかわらず,いやいや巻き込まれていったように印象されます。

 

3 南京渡洋爆撃に対する驚き等

 

(1)米国大統領

ところで,第二次上海事変劈頭からの日本海軍による中華民国の首都・南京に対する渡洋爆撃は,日本人が無邪気に思うように単に「世界を驚かせた」のみならず,同じ1937年の426日にドイツ空軍により行われた内戦中のスペインのゲルニカ爆撃と共に,世界の憤りを日独両国民に対して喚起するものとなってしまっていたものと思われます。同年105日にシカゴでされたフランクリン・ルーズヴェルト米国大統領の「隔離演説」の次のくだりは,当該憤りを示すものでしょう。我が海軍は,勇ましぶって,かえって余計かつ有害なことをしてしまったのではないでしょうか。

 

  Without a declaration of war and without warning or justification of any kind, civilians, including women and children, are being ruthlessly murdered with bombs from the air. In times of so-called peace, ships are being attacked and sunk by submarines without cause or notice. Nations are fomenting and taking sides in civil warfare in nations that have never done them any harm. Nations claiming freedom for themselves deny it to others.

 (宣戦の布告及び何らの警告又は正当化もなしに,女性と子供とを含む文民が,空からの爆弾によって無慈悲に殺害されています。いわゆる平時において,船舶が,理由も通告もないまま,潜水艦によって攻撃され,沈められています。彼らに何らの害も一切与えたことのない国民の内戦において,煽動し,かつ,一方の側に加担する国民がいます。彼ら自身の自由を主張する国民が,それを他の国民に対して否認しているのです。)

 

 当該演説の前月,渡洋爆撃が最初にあってから1箇月余りたった後の9月の19日以降における我が海軍による南京爆撃の「目的は,軍事施設に加え,政治中枢や交通の要衝・工場など広範囲に爆撃して,民国側の戦意喪失をねらう戦略爆撃に移行していた」ところです(大坪慶之「日本軍による南京空襲の空間復元とその変遷:『中央日報』『申報』の記事から」近代東アジア土地調査事業研究ニューズレター(大阪大学文学研究科片山剛研究室)820186)。その段階での報道状況はいかにというに,「〔南京で発行されていた国民党の機関紙である〕『中央日報』や〔上海の〕『申報』は,〔略〕政治中枢や鉄道・港の被害記事が多くなっている〔略〕。また,城内西北の外国大使館が点在する新住宅区や,「門東」と呼ばれる中華門から入ってすぐの所にある庶民の住宅街についても,道路名を記して民家(「民房」)が破壊されたことを強調している。特に学校や病院の被害は,名称を明記したり特集を組んだりするなど紙面が割かれている。」ということでした(大坪6-7)。

(2)大日本帝国政府

また,南京渡洋爆撃は,「世界を驚かせた」ばかりではありませんでした。

近衛文麿内閣には寝耳に水の出来事であったようです。

 

上海に戦火がとび,前述の815日の政府声明〔支那軍の暴戻を膺懲する声明〕がおこなわれた当日である。海軍は,いわゆる渡洋爆撃を始め,南京,南昌を爆撃,それからまもなく漢口をも爆撃して,華中方面の戦局はにわかに拡大され,同時に〔租界のある上海に駐屯していた我が海軍の〕上海陸戦隊救援のため,陸軍部隊派遣の必要に迫られるにいたった。これとともに,華北方面においても,同じく拡大の兆候が顕著なるものあるを認むるにいたったのであるが,内閣としては,こうなってはなはだ困るのは,戦略面において,まったく知らされないことであった。現に海軍の渡洋爆撃なども,わたし〔風見内閣書記官長〕はもちろん,近衛氏とても,その日,閣議があったにかかわらず,新聞によってはじめて知ったのであった。

  (風見章『近衛内閣』(中公文庫・1982年(日本出版協同株式会社・1956年))48頁)

 

これが,大日本帝国憲法11条(「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」)に基づく統帥権の独立の帰結であったというわけです。

なお,南京渡洋爆撃に関する現地の新聞記事はどうであったかといえば,「前日午後の空襲を報じた『中央日報』1937816日,第三面には「二時三十五分在城南郊外,投弾六枚(中略)三時十五分,敵機盤飛七里街,廿一号住戸祖義良被敵機槍掃射受傷」とある。また,同日『申報』の第二面には,「見明故宮飛行場落有両弾,光華門外亦落下炸弾五枚,両処均無大損失」と出てくる」そうです(大坪5-6頁註13)。

 

(3)大日本帝国海軍大元帥

 昭和天皇にも,事前に詳しい作戦計画は知らされていなかったように筆者には思われます。

 

  〔19378月〕16 月曜日 〔略〕

   午後2時,御学問所において軍令部総長〔伏見宮〕博恭王に謁を賜い,この日朝までの中支方面の戦況につき奏上を受けられる。その際,昨日海軍航空部隊が台湾から大暴風雨を冒して南京及び南昌飛行場への渡洋爆撃を敢行したことを御嘉賞になるも,各国大使館がある南京への爆撃には注意すべき旨を仰せられる。また,上海その他の犠牲者につき,誠に気の毒ながら已むを得ない旨の御言葉を述べられる。〔後略〕

   (宮内庁『昭和天皇実録 第七』(東京書籍・2016年)395頁)

 

海軍から「敵の首都南京を爆撃します」とあらかじめ知らされていれば,各国大使館があるから注意せよ云々の老婆心的発言が後付け的にあることはないはずです。また,皇族の長老である伏見宮博恭王には,天皇とても,言葉を選ばざるを得ず,一応「御嘉賞」が最初にあったものでしょう。(なお,南京爆撃隊は台湾からではなく長崎県の大村基地から発進したのですが,実録の上記記載においてはその旨触れられていません。結局,南昌飛行場を爆撃した台湾発進部隊のみが真に御嘉賞に与ったということになるのでしょうか。)

海軍からの奏上については,1937105日(前記「隔離演説」の日ですね。)の対伏見宮軍令部総長賜謁の際に漏らされた綸言を反対解釈すると,どうも隠し事が多いようだと昭和天皇は思っていたようでもあります。すなわち,「去る922日,〔広東省の〕碣石湾沖において第一潜水戦隊の潜水艦が支那ジャンク10隻を撃沈した事件に関する真相,及びその対外措置につき奏上を受けられる。事件につき,将来を戒められるとともに,その真相を公表すれば日本が正直であるとの印象を与えて良いのではないかとのお考えを示される。これに対し,現地からの報告遅延のため,今に至って真相公表はかえって不利である旨の説明を受けられる。また,海軍が事実をありのままに言上し,かつその処置まで言上したことに対する御満足の意を表され,全てをありのままに言上するよう仰せになる。」ということでした(実録七426-427)。普段から「ありのまま」の言上がされていたのであれば,特に「御満足の意を表され」ることはなかったはずです。

なお,皇族の軍令部総長及び参謀総長には,大元帥たる昭和天皇も気詰まりを感じていたようです。

 

 〔19409月〕19 木曜日 午前,侍従武官長蓮沼蕃に謁を賜う。その後,内大臣木戸幸一をお召しになり,45分にわたり謁を賜い,参謀総長〔閑院宮〕載仁親王及び軍令部総長博恭王の更迭につき聖慮を示される。これより先,天皇は,いよいよ重大な決意をなす時となったことを以て,この際両総長宮を更迭し,元帥府を確立するとともに,臣下の中から両総長を命じることとしたいとの思召しを侍従武官長蓮沼蕃に対して御下命になり,内大臣とも協議すべき旨を御沙汰になる。よって,武官長は内大臣と協議の上,陸海軍両大臣に協議したところ,陸軍大臣〔東條英機〕は直ちに同意するも,海軍大臣〔及川古志郎〕は絶対に困るとし,この日に至り軍令部総長宮の離職に反対する旨を確答する。海軍側の意向につき武官長より相談を受けた内大臣は,この日の拝謁の際,聖慮に対し次善の策として,参謀総長宮に勇退を願い,海軍との権衡上さらに新たな皇族の就任を願うほかはないとの考えを言上,なお武官長とも協議すべき旨を奉答する。しかるにその後,陸軍側より,海軍の意向如何にかかわらず,この際参謀総長は臣下を以て充てたい希望が示されたため,その旨を武官長より言上することとなり,正午前,武官長は天皇に謁する。

(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(東京書籍・2016年)178頁) 

 

大御心を素直に忖度する東條は,忠臣ですな。むしろ,海軍の方が我がままで,困ったものです。

閑院宮参謀総長の後任には,杉山元陸軍大将が1940103日に親補されています。伏見宮軍令部総長の後任である永野修身海軍大将の親補は,194149日のことでした。

 

4 盧溝橋事件発生後第二次上海事変発生まで

さて以下では,193777日の盧溝橋事件発生後第二次上海事変発生までの諸事実を昭和天皇と海軍との交渉状況に関するものを中心に『昭和天皇実録 第七』等から拾ってみましょう。なかなか長くなりました。

 

 〔19377月〕11 日曜日 〔略〕

  〔葉山御用邸で午後〕541分,お召しにより参邸の内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜い,この日午後の臨時閣議において,事態不拡大・現地解決の条件の下に北支への派兵を決定した旨の奏上を受けられる。619分,陸軍大臣杉山元に謁を賜い,北支派兵について奏上を受けられる。728分,軍令部総長博恭王に謁を賜い,海軍の作戦事項として海軍特設聯合航空隊等を編(ママ)〔註〕することにつき上奏を受けられる。〔略〕

  なお,この日午後530分,政府は今次北支において発生の事件を「北支事変」とする旨を発表,ついで625分,北支派兵に関して帝国の方針を声明する。〔後略〕

  (実録七370頁)

 

      註: 少なくとも陸軍用語では,「編制」は「軍令ニ規定セラレタル国軍ノ永続性ヲ有スル組織ヲ言イ」,「編成」は「某目的ノ為メ所定ノ編制ヲ取ラシムルコト,又ハ臨時ニ定ムル所ニ依リ部隊ヲ編合組成スルヲ言」います(『統帥綱領・統帥参考』(偕行社・1962年)597頁(兵語の解))。

 

しかし,近衛内閣は,「事態不拡大・現地解決」を旨とするはずであるにもかかわらず,なぜ「北支事変」という大袈裟な命名を早期にしてしまったのでしょうか。折角立派な名前がついてしまうと,その名が表す期待に合わせるべく体も自ずから成長していくものではないでしょうか。「事態」ないし「事件」は事変に変じ,「現地」は北支全体に拡がってしまうのではないかという懸念は感じられなかったのでしょうか。「「渋々ながら」同意した北支派兵のはずなのに,近衛内閣が自発的に展開したパフォーマンスは,国民の戦争熱を煽る華々しい宣伝攻勢と見られてもしかたのないものであった」わけで(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会・1996年)265頁),政府広報は重要であるとしても,軽薄なパフォーマンス好きの方々には困ったものです。

     さて,軍令部総長による前記上奏があった1937711日,早くも第三艦隊司令長官の長谷川中将は,台湾の高雄から上海の呉淞への「回航の途中に得た諸情報から「情勢真に逆賭を許さざるものあり」と判断して,〔当該〕11日未明に海軍中央部へ航空隊と陸戦隊の派遣準備を要請し,さらに指揮下部隊の各指揮官へ「極秘裡に在留邦人引揚に対する研究を行い胸算を立ておくべし」と指示してい」ます(秦252頁)。同日夕から翌日にかけて海軍中央部は「陸軍の動員に匹敵する大規模な準備措置」を「次々と発動し」ており,その「主要なものをあげると,(1)青島,上海に増派する特別陸戦隊4隊の特設と輸送艦艇の指定,(2)渡洋爆撃用の中型陸上攻撃機(38機)と艦載機(80機)による第一,第二連合航空隊の特設と一部の台北,周水子への展開を予定して物資を艦艇により輸送,(3)第五戦隊などを北支へ,第八戦隊などを中南支へ増派,(4)陸軍増派部隊の海上護衛,(5)北支作戦に関する陸海軍作戦協定,陸海軍航空協定の締結,など」ということだったそうです(秦253頁)。なお,1937711日の陸海軍協定の内容は北支に係るものに限定されておらず「已むを得ざる場合に於ては青島上海付近に於て居留民を保護」すると規定」されており,「陸軍としては「中南支」への派兵は考えていなかったが,海軍の強い要請で承認し,その兵力も「3個師団というのを陸軍は最小限として2個師団で妥協」」がされています(秦254頁)。

     ところで,711日の前記上奏において伏見宮博恭王は,「今回の北支出兵のごときはいかに考えましても大義名分相立ちませぬ・・・古来名分のない用兵の終りをまっとうした例ははなはだ乏しいのでありまして,今回の北支出兵の前途につきましては私には全然見通しがつきませず深く憂慮にたえませぬ」(福留繁『海軍の反省』225ページ)と」述べたそうです(秦254頁)。中華民国との全面戦争に対する「不安」の現れでもありましょうが(秦254頁参照),名分がなく(なお,確かに同日20時に現地停戦協定が調印されますが(秦261頁・266頁),しかし伏見宮総長の上奏の際には当該調印の報は未着であったはずです。),かつ,不安ならば,そもそもの派兵に断乎反対をすればよかったように思われ,何だか評論家風な発言のようでもあります。どういうことでしょか。また,北支への陸軍の出兵には名分がなくとも,海軍がそれに備える中南支での戦闘については名分があるということだったのでしょうか。「海軍の不拡大論は,その責任地域である華中,華南への拡大を予期するという奇妙な構造」になっていたそうであって(秦251頁),すなわち,結局のところ,日本陸軍がどういう対応をしたとしても,中華民国と我が国との全面戦争は宿命的に起こるものと信じられていたのでしょう。

        「石原〔莞爾参謀本部〕第一部長は,のちに「上海事変は海軍が陸軍を引き摺って行ったもの」(石原応答録)と痛烈に批判するが,蒋緯国が強調するように,平津作戦における第二十九軍〔盧溝橋事件における我が支那駐屯軍(これは,義和団事件後の北清事変最終議定書(1901)に基づいて駐屯していたものです。)の相手方〕の急速崩壊を見た蒋介石は華北決戦を断念し,「日本軍を上海に増兵させ,日本軍の作戦方向を変更させる」(蒋緯国『抗日戦争八年』57ページ)戦略を採用した。いわば日本は仕掛けられたワナにはまりこんだ形」となったわけです(秦321頁)。しかし,そうなってしまったのは海軍が上海等を手放せなかったからであって,「「山東及長江流域は対支経済発展の三大枢軸」と見なす海軍にとって,上海防衛は「帝国不動の国策」(〔軍令部第一部甲部員である〕横井〔忠雄〕大佐が起案した〔1937年〕86日付の「閣議請議案」『昭和社会経済史料集成』第3604ページ)だったから,〔上海防衛の〕応戦にためらいはなかった」ところでした(秦321頁)。

     平津地区から上海への「飛び火」は,「華北の日本軍が南下して心臓部の武漢地区で中国を東西に分断されるのを防ぐため,華北では一部で遅滞作戦をやりつつ後退,主力を上海に集中し増兵してくると予想された日本軍に攻勢をかけ,主戦場を華北から華東へ誘致する戦略をとろうとしていた」(345)蒋介石の意図に沿ったものだったわけです。(なお,この点に関して,ナチス・ドイツから蒋介石のもとに派遣されていた軍事顧問のファルケンハウゼン将軍は,1937721日にドイツ国防相ブロムベルクに送った報告書において,「蒋介石は戦争を決意した。これは局地戦ではなく,全面戦争である。ソ連の介入を懸念する日本は,全軍を中国に投入できないから,中国の勝利は困難ではない。中国軍の歩兵は優秀で,空軍はほぼ同勢,士気も高く,日本の勝利は疑わしい(Hsi-Huey Liang, [The Sino-German Connection (Amsterdam, 1978),] pp.126-27)。」と述べていたそうです(372)。)

1937年「712日に軍令部は第三艦隊に加え,第二艦隊の参加による船団護衛,海上封鎖,陸戦隊の増強,母艦および基地航空部隊による航空撃滅戦,陸軍の上海投入などを骨子とする「対支作戦計画内案」を作成,一部の艦隊,航空隊の進出待機を逐次発令」しています(秦318頁)。これは「対中国全面戦争を想定したもの」でした(秦318頁参照)。確かに,当該「対支作戦計画内案」は,「「上海及青島は之を確保し作戦基地たらしむ」とか,「支那海軍に対しては一応厳正中立の態度及現在地不動を警告し違背せば猶予なくこれを攻撃す」とか「作戦行動開始は空襲部隊の概ね一斉なる急進を以てす」のような表現が目につく」ものであったとされています(秦254頁)。「硬軟両論が足をひっぱりあっていた陸軍とちがって,一枚岩の海軍は全面戦争への突入を見越して,いち早く整然たるプログラムを組めた」わけです(秦254頁)。「基地航空部隊による航空撃滅戦」,「作戦行動開始は空襲部隊の概ね一斉なる急進を以てす」などといわれると,「世界を驚かせた」南京渡洋爆撃は,実は我が海軍にとっては最初から当然想定されていたことであったようです。

     この1937712日の「「対支作戦計画内案」に対し,長谷川第三艦隊司令長官から〔同月〕16日付けで中央へ送った意見具申電があ」ったそうで,「彼はそのなかで,日支関係の現状を打破するには現支那中央政権の屈服以外にないとして,「支那第二十九軍の膺懲なる第1目的を削除し,支那膺懲なる第2目的を作戦の単一目的」(『現代史資料』9186ページ)とする全面的作戦を開始すべしと説き,上海,南京攻略をめざす陸軍5個師団の投入と,全航空部隊による先制攻撃を要望していた」そうです(秦319頁)。「支那中央政権の屈服」,「南京攻略」,そして「全航空部隊による先制攻撃」ということでありますから,これは南京渡洋爆撃の積極的容認論でしょう。「この「暴論」が却下されたのは当然だが,その後も第三艦隊はくり返し危機の切迫を説き,兵力の増援を要請していた」そうです(秦319-320頁)。

     なお「膺懲」とは,「征伐してこらす」という意味であって,『詩経』に「戎狄是膺,荊舒是懲」という用例があるそうです(『角川新字源 第123版』(1978年))。荊及び舒の両国は,どちらも周王朝初期の南方の異民族の国です(同)。西方の戎,北方の狄及び南方の荊舒であれば東方が欠けていますから,東方の倭は膺懲の対象とはならず,かえって漢土の側が我が貔貅(ひきゅう)によって膺懲されるべきもののようです。参謀本部第三課が1937716日にまとめた「情勢判断」にも「支那軍を膺懲」という用例があるそうで(秦296頁),当時は常用されていた熟語だったのでしょう。

 

  〔19377月〕28 水曜日 〔略〕

   午後130分,御学問所において海軍大臣米内光政に謁を賜い,北支事変の情勢とそれに伴う中支・南支における海軍の配備状況につき奏上を受けられる。〔略〕

   午後2時,御学問所において軍令部総長博恭王に謁を賜い,北支事変に対処するための海軍兵力増加,及び聯合艦隊司令長官永野修身等への命令等につき上奏を受けられる。本日午後10時,軍令部総長より聯合艦隊司令長官に対し,左の大海令第1号が発電される。

一,帝国ハ北支那に派兵シ平津地方ニ於ケル支那軍ヲ膺懲シ同地方主要各地ノ安定ヲ確保スルニ決ス

     二,聯合艦隊司令長官ハ第二艦隊ヲシテ派遣陸軍ト協力シ北支那方面ニ於ケル帝国臣民ノ保護並ニ権益ノ擁護ニ任ゼシムルト共ニ第三艦隊ニ協力スベシ

     三,聯合艦隊司令長官ハ第二艦隊ヲシテ派遣陸軍ノ輸送ヲ護衛セシムベシ

     四,細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ指示セシム

   〔後略〕

  (実録七381-382頁)

 

      大海令第1号の前提として,その前日27日には,内地3個師団に華北派遣命令が出るとともに,政府は北支事変に関し自衛行動を執ると声明しています。

 

  〔19378月〕6日 金曜日 〔略〕

   午後445分,御学問所において軍令部総長博恭王に謁を賜い,支那沿岸及び揚子江流域の警戒並びに用兵上の諸手配に関する奏上を受けられ,聯合艦隊司令長官永野修身への命令等につき上奏を受けられる。その際,上海において船津辰一郎在華日本紡績同業会総務理事が行う予定の和平交渉につき,日本側の和平条件に支那が同意しない場合にはむしろ公表し,日本の公明正大な和平条件が支那により拒否されたことを明らかにすれば,各国の輿論が日本に同情するとのお考えを示される。また,できる限り交渉を行い,妥結しなければ已むを得ず戦うほかなく,ソ聯邦の存在を考慮する必要上から用い得る兵力に限りがあっても可能な限り戦うほかはない旨を述べられる。〔後略〕

   (実録七388頁)

 

      この6日には,「軍令部が上海への陸軍派遣を閣議に要請するよう海軍省へ申し入れ」ていますが,米内海相は当該出兵論を抑えていました(秦322頁註(2))。無論,閣議の場で頭を下げねばならないのは,軍令部ではなく,海軍省の海軍大臣です。

      翌「7日に日本の陸海外三相会議が決定し,船津辰一郎を通じて国府に打診しようとした船津工作の条件(冀察・冀東〔の各地方政権〕を解消し,河北省北半を非武装地帯に,満州国の黙認,日支防共協定の締結,抗排日の停止など)は」,「廬山声明の4条件とはほど遠く,三相会議の時点で,すでに国府は上海を戦場とする対日決戦にふみ切っていたと思われる。」とされています(秦345-346頁)。

  蒋介石の廬山声明の4条件とは,「(1)中国の主権と領土の完整を侵害しない解決,(2)冀察行政組織の不合法改変を許さない,(3)宋哲元〔第二十九軍の軍長〕など中央政府が派遣した地方官吏の更迭を許さない,(4)第二十九軍の現駐地はいかなる拘束も受けない」というものでした(秦343頁。廬山声明は1937717日に演説され,公表は同月1920時(新聞発表は同月20日付け)にされたもの(秦340頁))。

 

  〔19378月〕9日 月曜日 〔略〕

   午後3時,御学問所において海軍大臣米内光政に謁を賜い,最近における山東省及び中支・南支方面の状況,並びにこれに対する海軍の処置につき奏上を受けられる。〔略〕

   夜,侍従武官平田昇より揚子江方面の居留民引き揚げにつき上聞を受けられる。〔後略〕

   (実録七389頁)

 

      「揚子江沿岸の在留邦人は続々引揚げをはじめ」ていたところ,「それが完了したのは8月上旬であった。〔近衛〕内閣としては,事端が同方面におこるのをおそれていたので,さいわい,事なく引揚げがおわったことを知り,胸をなでおろしていた。」とされています(風見41頁)。

      またこの89日には大山中尉殺害事件(後記昭和天皇実録同月13日条参照)が起きていますが,依然として米内海相は,当該事件「も「一つの事故」に過ぎぬとして,軍令部の出兵論を抑え」ていたそうです(322頁註(2)。

      同月11日,「1932年の第一次上海事変で戦った〔中華民国国民政府〕中央軍の精鋭第八十七師と第八十八師は」,「上海郊外の包囲攻撃線へ展開を終り,海軍も揚子江の江陰水域を封鎖」します(秦346頁)。また同日我が国では,伏見宮軍令部総長が米内海軍大臣を呼んで,それまでの同大臣の上海への陸軍派兵不要論を改めるよう説得を試みています(秦322頁註(2))。

 

  〔19378月〕12 木曜日 〔略〕

   午後1045分,海軍上奏書類「長谷川第三艦隊司令長官ニ命令ノ件」ほか1件を御裁可になる。「長谷川第三艦隊司令長官ニ命令ノ件」は,現任務のほかに上海を確保し,同方面における帝国臣民を保護すべきことにあり。天皇は御裁可に当たり,当直侍従武官に対し,状況的に既に已むを得ないと思われる旨の御言葉,また,かくなりては外交による収拾は難しいとの御言葉を述べられる。本件命令は午後1140分,軍令部総長より大海令を以て発出される。ついで同55分,軍令部総長より第三艦隊司令長官に対し,左の指示が発電される。

     一,第三艦隊司令長官ハ敵攻撃シ来タラハ上海居留民保護ニ必要ナル地域ヲ確保スルト共ニ機ヲ失セス航空兵力ヲ撃破スヘシ

     二,兵力ノ進出ニ関スル制限ヲ解除ス

     〔後略〕

   (実録七391頁)

 

       昭和天皇実録の記者は「長谷川第三艦隊司令長官ニ命令ノ件」の内容を,専ら「現任務のほかに上海を確保し,同方面における帝国臣民を保護すべきこと」まとめています。伏見宮軍令部総長の上記指示は,当該任務の達成方法について更に敷衍をしたものなのでしょう。しかし,「機ヲ失セス航空兵力ヲ撃破スヘ」く,そのためには「兵力ノ進出ニ関スル制限ヲ解除ス」るということですから,敵の首都・南京の飛行場に対する爆撃も可能であることになります。長谷川第三艦隊司令長官に当該意図がかねてからあることは,前月16の同司令長官意見具申電によって,軍令部は十分了解していたはずです。

            同じ12日のことでしょうが(秦347頁註(4)),「京()警備総司令の張治中将軍は〔翌〕13日未明を期し日本軍へ先制攻撃をかけたい,と南京に要請した」そうです(秦346頁)。

       「12日になると,一触即発の危機発生をみるにいたったというので,その夜,海軍側から,これに対する方針の決定につき,至急,相談したいとの申し出が」政府に対してあり,「さっそく,近衛氏の永田町私邸に,首相と海陸外三相の会談が開かれ,わたし〔風見内閣書記官長〕も参加して相談した。その結果,上海における海軍側自衛権発動を内定した。」ということになりました(風見41-42頁)。「上海における海軍側自衛権発動」という表現は分かりづらいのですが,要は,「海軍は12日夜の四相会議に内地から陸軍2個師団の派遣を要請し,翌日の閣議で承認された」ものということのようです(秦318-319頁)。「杉山陸相の要求を容れて内地から2個師団を上海に派遣することとした」(岡義武『近衛文麿』(岩波新書・1972年)67頁)というのは「米内海相」を「杉山陸相」とする誤りということになります。この間のことについて何も書かなかった米内贔屓の阿川弘之は,他の著作物から上手に借景したということになるのでしょう。

 

  〔19378月〕13 金曜日 午前915分,御学問所において軍令部総長博恭王に謁を賜い,上海情勢並びに用兵上の諸手配につき奏上を受けられる。〔略〕

   午後8時,御学問所において海軍大臣米内光政に謁を賜い,上海方面への陸軍の派兵の必要とその経緯につき奏上を受けられる。去る9日の支那保安隊による上海海軍特別陸戦隊第一中隊長大山勇夫ほか1名の射殺事件以来,同地の情勢が悪化,作夕,第三艦隊司令長官長谷川清は緊急電報を以て陸軍の出兵促進を要請する。これを受け,この日午前緊急閣議が開かれ,居留民の保護のため陸軍部隊を上海方面へ派遣することが決定される。午後5時,戦闘配置に就いた上海海軍特別陸戦隊は,支那便衣隊と交戦状態に入る。〔後略〕

   (実録七391-392頁)

 

  〔19378月〕14 土曜日 〔略〕

   午前1043分,御学問所において内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜う。総理より,昨日来の支那軍の攻勢による上海戦局の悪化に伴い,この日の緊急臨時閣議において陸軍3個師団の動員と現地派遣を決定したこと等につき奏上を受けられる。引き続き,陸軍大臣杉山元に謁を賜う。

   午後125分,御学問所において参謀総長載仁親王に謁を賜い,第三・第十一・第十四各師団ほかへの動員下令,第三・第十一両師団を基幹とする上海派遣軍の編成とその任務等につき上奏を受けられる。〔略〕55分,御学問所において再び陸軍大臣に謁を賜い,上海派遣軍司令官の親補に関する人事内奏を受けられる。〔略〕

   午後421分,侍従武官遠藤喜一より,上海方面における海軍の戦況と用兵上の諸手配に関する上聞を受けられる。なおこの日,聯合艦隊司令長官永野修身・第三艦隊司令長官長谷川清に対し,上海へ派遣の陸軍と協力して各々作戦を遂行することを命じる旨の海軍上奏書類を御裁可になる。〔後略〕

   (実録七392-393頁)

 

      この1937814日には,午前の緊急臨時閣議のほかに深夜にも緊急臨時閣議が開かれています。いわく,「14日の夕刻,わたし〔風間内閣書記官長〕は近衛氏を永田町の私邸にたずねて,同〔上海〕方面の情勢に関するニュースを伝えるとともに,善後処置について協議した。その結果,とりあえず海軍をして至急に救護物資と病院船とを,同地に送らしむることにした。それにしても,事態刻々に重大化の傾向にあるので,この夜,いちおう緊急臨時閣議を開いて,海相から情勢の報告をきき,かつ,善後処置についても話し合っておくのがよかろうというので,そうすることにした。ただし,戦局がかくまで拡大したことについての政府の意思表示は,なお形勢の推移をみた上のこととして,この夜の閣議では,ただ救護物資および病院船を送ることだけにしておこうと,話を決めたのである。わたしは,すぐに米内海相をたずねて,首相との話し合いを告げたところ,海相もただちに賛成したので,午後10時に緊急臨時閣議を開くよう手配したのであった。」と(風見42頁)。

      1937814日に開催された閣議において米内海軍大臣は次のように大興奮したとされているのですが,海相の当該激高について同日深夜の緊急臨時閣議に係る風見手記には触れるところがありませんので(風見42-47頁参照),当該大激高は午前の閣議におけるものなのでしょう。

 

        外相〔広田弘毅〕や蔵相〔賀屋興宣〕ばかりでなく,杉山陸相までが不拡大方針の維持を述べたのにいらだったのか,米内は「今や事態不拡大主義は消滅した」「日支問題は中支に移った」「今となっては海軍は必要なだけやる」「南京くらいまで攻略し模様を見ては」(高田〔万亀子「日華事変初期における米内光政と海軍」『政治経済史学』251号〕173ページ)と放言した。米内としては「今さら何を言うか」と激したのかもしれないが,この豹変ぶりは天皇をも心配させたらしく,翌日の上奏にさいし,「従来の海軍の態度,やり方に対しては充分信頼して居た。なお此上共感情に走らず克く大局に着眼し誤のないようにしてもらいたい」(島田日記)と海相を戒めている。

       (秦321頁)

 

  〔19378月〕15 日曜日 午前10時,鳳凰ノ間において親補式を行われ,陸軍大将松井岩根を上海派遣軍司令官に補される。〔略〕なおこの日,上海派遣軍司令官松井岩根に対して海軍と協力して上海付近の敵を掃滅し,上海並びにその北方地区の要線を占領して在留邦人の保護を命ずる件の陸軍上奏書類を御裁可になる。〔略〕

   午前1020分より1時間余にわたり,御学問所において内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜い,昨夜の緊急臨時閣議において決定した,上海における新事態に適応するための政府方針につき奏上を受けられる。なお今暁,帝国政府は支那軍の暴戻を断乎膺懲すべき旨の声明を発表する。〔略〕

   午後,内大臣湯浅倉平をお召しになり,1時間余にわたり謁を賜う。〔略〕

   午後5時過ぎ,御学問所において海軍大臣米内光政に謁を賜い,上海及び各地の情況,並びにこれに対する海軍の処置につき奏上を受けられる。終わって海軍大臣に対し,海軍の従来の態度,対応に対して充分信頼していたこと,及びこれ以後も感情に走らず,大局に着眼して誤りのないよう希望する旨の御言葉あり。〔後略〕

   (実録七394-395頁)

 

      「昨夜の緊急臨時閣議において決定した,上海における新事態に適応するための政府方針」とは,「帝国政府は支那軍の暴戻を断乎膺懲すべき旨の声明」がそれに基づくところの「方針」でしょうか。当該声明は,前日深夜の緊急臨時閣議が「予定のごとく〔略〕進行して,近衛氏が散会をいいわたそうとしたところ,突然杉山陸相が,ちょっと待ってもらいたい,この際ひとつ,政府声明書を出したほうがいいだろうといって,その案文の謄写刷りをカバンからとりだした」ものです(風見42-43頁)。当該閣議の予定の議事は,風見内閣書記官長によれば「海相から情勢の報告をきき,かつ,善後処置についても話し合っておくのがよかろうというので,そうすることにした。ただし,戦局がかくまで拡大したことについての政府の意思表示は,なお形勢の推移をみた上のこととして,この夜の閣議では,ただ救護物資および病院船を送ることだけにしておこうと」いうことだったはずであるところ,「予定のごとく」の進行なので,午前中暴れた米内海相は大人しく情勢報告などを事務的にしたのでしょう。なお,陸軍大臣から案文が提出されても,政府の声明は政府の声明であって,軍の声明とは異なるものであるということになります。

      当該深夜の閣議が散会した後,「杉山陸相は,中島〔知久平〕,永井〔柳太郎〕両氏がのべた意見〔「中島鉄相から,いっそのこと,中国国民軍を徹底的にたたきつけてしまうという方針をとるのがいいのではないかという意見の開陳があって,永井逓相が,それがいいといった意味のあいづちをう」ったという「意見」〕をとりあげ,わたしに,そっと,「あんな考えを持っているばかもあるから驚く,困ったものだ」と,ささやいたものである。これによっても,わたしは,杉山氏が,そのときには不拡大現地解決方針を守ろうとしていたのだと,信ずるのである。」と風見内閣書記官長は回想しています(風見46-47頁)。

      しかし,「中国国民軍を徹底的にたたきつけてしまう」ことと「不拡大現地解決方針」との間にはなお中間的な方針があったところです。「妥協論」と対立する陸軍内での「強硬論」は,「わが国がこの際断乎として強硬な態度で臨めば中国側はおそれて妥協あるいは降伏を申し出るであろうという論であり,従って,それは事変を拡大して中国との本格的全面戦争に入るべきことを主張したものではなかった」のでした(岡65頁)。

      風見自身は,「帝国政府は支那軍の暴戻を断乎膺懲すべき旨の声明」は「表面,日本政府は,不拡大方針を投げすてて,徹底的に軍事行動を展開するかもしれぬぞとの意向を,ほのめかしているもの」であって(風見45頁),不拡大現地解決方針を端的に表明するものではないことを認めています。米内海相は,午前の閣議で激高して近衛内閣閣僚間における事態不拡大主義を自ら消滅せしめていたのであって,杉山陸相の新たな強硬論に対してもはや異議を唱えず,また唱え得なかったものでしょう。むしろ内心では,海軍幹部の一員として積極的に,本格的全面戦争を期していたのではないでしょうか。「右の声明を発表したいという陸相の発言に,外相海相はじめ閣僚一同,たれも異議をとなえなかったので,近衛氏はそれを承認したのである」とのことです(風見46-47頁)。

      (なお,杉山陸相流「強硬論」の表明たる「帝国政府は支那軍の暴戻を断乎膺懲すべき旨の声明」においては,さわりの部分の「帝国としては,もはや隠忍その限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し」に続いて「もって南京政府の反省をうながす」とあり,更には「もとより毫末も領土的意図を有するものにあらず」,「無辜の一般大衆に対しては,何等敵意を有するものにあらず」云々ともあります(風見44-45)。すなわち,大日本帝国による膺懲の直接の対象は,南京政府に非ず,支那軍自体にも非ず,無辜の一般大衆ではもちろん非ず,飽くまでも支那軍の「暴戻」であるのだというわけです。しかし,我が国の人口に膾炙したという「暴支膺懲」という四文字熟語的スローガンは――そもそも人口に膾炙したのですからその点においては広報的にはよくできたものなのでしょうが――「暴支」と一般化することによって,軍も政府も人民も,およそ漢土の国家・社会を構成する者の本質は皆もって暴戻(『角川新字源』によれば「乱暴で道理に反する」ことです。)であるのだと決めつけることになってしまわなかったでしょうか。暴戻だから膺懲するのは当然であるし,むしろ進んで膺懲すべきである,ということになれば,確かに全面戦争は不可避でしょう。)



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南京といえば・・・しかし,最近は南京豆とはいわなくなりました。

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1 はじめに:一文字多いのは大違い

 「一言多い人」は困った人で,また,一文字多いことによって言葉の意味が大いに変ずることがあります。例えば,「被告」と書けば穏便な民事事件であるところ,「被告人」と書けば剣呑な刑事事件となるが如し。

 「国葬」と「国葬儀」との関係も同様でしょう。両者は似てはいるのですが,異なるものと解されます。(正確には「国葬儀」に対応するのは「国葬たる喪儀」なのですが,「国葬たる喪儀」を含めて「国葬」といわれているようです。しかして,「国葬」たらざる「国葬儀」はあるものかどうか。)

 

2 国葬令

 まず,「国葬」の語義を確かめるべく,19261021日付けの官報で公布された大正15年勅令第324号を見てみましょう。

 

(1)条文

 

  朕枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ国葬令ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 

   御名 御璽

    摂政名

 

    大正151021

     内閣総理大臣  若槻禮次郎

     陸軍大臣  宇垣 一成

     海軍大臣  財部  

     外務大臣男爵幣原喜重郎

     文部大臣  岡田 良平

     内務大臣  濱口 雄幸

     逓信大臣  安達 謙藏

     司法大臣  江木  翼

     大蔵大臣  片岡 直溫

     鉄道大臣子爵井上匡四郎

     農林大臣  町田 忠治

     商工大臣  藤澤幾之輔

 

  勅令第324

第1条 大喪儀ハ国葬トス

  第2条 皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃及摂政タル親王内親王王女王ノ喪儀ハ国葬トス但シ皇太子皇太孫7歳未満ノ殤ナルトキハ此ノ限ニ在ラス

  第3条 国家ニ偉勲アル者薨去又ハ死亡シタルトキハ特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアルヘシ

   前項ノ特旨ハ勅書ヲ以テシ内閣総理大臣之ヲ公告ス

  第4条 皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ヲ行フ当日廃朝シ国民喪ヲ服ス

  第5条 皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ノ式ハ内閣総理大臣勅裁ヲ経テ之ヲ定ム

 

(なお,官報に掲載された文言には誤植がありましたので,御署名原本により改めました。1条の「国喪」を「国葬」に,②第3条の第1項と第2項との間に改行がなかったところを改行,③第3条の「勅書ヲ以テ内閣総理大臣」を「勅書ヲ以テシ内閣総理大臣」に)

 

 大正15年勅令第324号には施行時期に関する規定がありません。しかしながらこれは,公式令(明治40年勅令第6号)によって手当てがされています。すなわち,同令11条(「公布ノ日ヨリ起算シ満20日ヲ経テ之ヲ施行」)により,19261110日からの施行ということになります。

 

(2)枢密院会議

 

ア 摂政宮裕仁親王臨場

国葬令の上諭には枢密顧問の諮詢を経た旨が記されています(公式令73項参照)。当該枢密院会議は,19261013日に開催されたものです。同日午前の摂政宮裕仁親王の動静は次のとおり。

 

 13日 水曜日 午前10時御出門,宮城に御出務になる。神宮神嘗祭に勅使として参向の掌典長谷信道,今般欧米より帰朝の判事草野豹一郎ほか1名に謁を賜う。1030分より,枢密院会議に御臨場になる。皇室喪儀令案・国葬令ほか1件が〔筆者註:当該「ほか1件」は,開港港則中改正ノ件〕審議され,いずれも全会一致を以て可決される。正午御発,御帰還になる。(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)542頁)

 

イ 審議模様

 当該枢密院会議における国葬令案審議の様子は,枢密院会議筆記によれば次のとおりです(アジア歴史資料センター(JACAR: Ref. A03033690300)。

 

(ア)伊東巳代治

 まず,枢密院の審査委員長であった伊東巳代治が審査結果の大略を報告します。

 

   国葬ハ国家ノ凶礼〔死者を取りあつかう礼。喪礼。(『角川新字源』(1978年(123版)))〕ニシテ素ヨリ重要ノ儀典ナルカ故ニ国法ヲ以テ其ノ条規ヲ昭著スルハ当然ノ措置ナリ則チ本案ハ〔天皇の勅定する〕勅令ノ形式ヲ以テ国葬ノ要義ヲ定メ以テ皇室喪儀令〔筆者註:こちらは大正15年皇室令第11号です。皇室令とは,「皇室典範ニ基ツク諸規則,宮内官制其ノ他皇室ノ事務ニ関シ〔天皇の〕勅定ヲ経タル規程ニシテ発表ヲ要スルモノ」です(公式令51項)。〕ニ承応セムトスルモノニシテ先ツ天皇及三后〔太皇太后,皇太后及び皇后〕ノ大喪儀〔皇室喪儀令4条・5条・8条参照〕並皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃及摂政タル親王内親王王女王ノ喪儀ハ国葬トスルコトヲ定メ其ノ他ノ皇族又ハ皇族ニ非サル者ニシテ国家ニ偉勲アルモノ薨去(こうきよ)〔皇族・三位以上の人が死亡すること。(『岩波国語辞典第四版』(1986年))〕又ハ死亡シタルトキハ〔天皇の〕特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアルヘク此ノ特旨ハ勅書ヲ以テシ内閣総理大臣之ヲ公告スヘキモノトシ皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ヲ行フ当日廃(ママ)シ国民喪ヲ服スヘク其ノ喪儀ノ式ハ内閣総理大臣〔天皇の〕勅裁ヲ経テ之ヲ定ムヘキモノトス

以上述ヘタル所カ両案〔皇室喪儀令案(これの説明部分は本記事では省略されています。)及び国葬令〕ノ大要ナリ之ヲ要スルニ皇室ノ喪儀及国葬ハ倶ニ国家ノ式典ニシテ儀礼ヲ修メテ(せん)(ばう)〔あおぎしたう。(『角川新字源』)〕(そな)ヘサルヘカラサルモノナリ本案皇室喪儀令及国葬令ノ2令ハ則チ之カ要義ヲ昭著スルモノニシテ(まこと)允当(ゐんたう)〔正しく道理にかなう。(『角川新字源』)〕ノ制法ナリト謂ハサルヘカラス今ヤ帝室ノ令制(やうや)ク整頓シテ典章正ニ燦然タルニ(あた)リ更ニ之ニ加フルニ皇室喪儀令ヲ以テシテ皇室喪儀ノ項目ヲ明徴ニスルハ(けだ)シ前来規程ノ足ラサルヲ補ヒテ皇室制度ノ完備ヲ図ラムトスルモノニ外ナラス又国葬令ヲ以テ皇室喪儀令ト相()チテ国家凶礼ノ大綱ヲ昭明ナラシムルハ蓋シ国法ノ完璧ヲ期スルノ所以(ゆゑん)タルヘキコト言ヲ俟タサルナリ更ニ本案2令ノ条文ヲ通看スルニ孰レモ事ノ宜シキニ適シテ特ニ非議スヘキ点ヲ認メス(より)テ審査委員会ニ於テハ本案ノ2件ハ倶ニ此ノ儘之ヲ可決セラレ然ルヘキ旨全会一致ヲ以テ議決シタリ

 

(イ)江木枢密顧問官vs.山川法制局長官

江木千之枢密顧問官が,お金に細かい質問をします。

 

 35番(江木) 国葬令ニ付当局ニ一応質問シタキ事アリ国葬令第3条ニ依リ国家ニ偉勲アル者薨去又ハ死亡シタルトキ特旨ニ依リ国葬ヲ賜フ場合ニハ先ツ以テ其ノ勅書ヲ発セラルルヤ又ハ国葬ニ関スル費用ニ付帝国議会ノ協賛〔筆者註:大日本帝国憲法641項参照〕ヲ経タル後該勅書ヲ発セラルルコトト為ルヤ

 

 山川端夫法制局長官はさらりとかわそうとしますが,江木枢密顧問官は,しつこい。

 

  委員(山川) 国葬令ニ於テハ国葬ノ行ハルル場合ノ大綱ヲ示セルニ止リ愈其ノ実行セラルル場合ニ於テハ予算等ノ関係ヲ生スヘシ其ノ際ニハ一般ノ例ニ従ヒ夫々必要ナル手続ヲ尽シタル上ニテ実行セラルヘキナリ

  35番(江木) 国葬ヲ行フ場合ニハ先ツ以テ帝国議会ニ其ノ予算ヲ提出シ協賛ヲ経タル上ニテ勅書ヲ発セラルルヤ其ノ辺ノ御答弁明瞭ナラス

  委員(山川) 既定予算ニ項目ナキ事項ニ付テハ別ニ予算ヲ立テテ議会ノ協賛ヲ経サルヘカラス然レトモ緊急ノ場合ニハ予備費支出等ノ途アリ其ノ孰レカノ方法ニ依リ先ツ支出ノ途ヲ講セサルヘカラス

  35番(江木) 然ラハ帝国議会開会ノ場合ニ於テハ先ツ以テ国葬費ノ予算ヲ提出シ其ノ協賛ヲ経タル後勅書ヲ発セラルルモノト了解シテ可ナルカ

  委員(山川) 然リ

 

(3)国葬令3条による国葬の例

いやはや議会対策は大変そうだねと思われますが,その後国葬令3条に基づいて国葬を賜わった者の薨去が,帝国議会開会中に生じてしまうということはありませんでした。

193465日に国葬たる喪儀があった東郷平八郎は同年530日に薨去したもので,当時,帝国議会は閉会中でした(第65回通常議会と第66回臨時議会との間)。1940125日に国葬たる喪儀があった西園寺公望についても同年1124日の薨去と当該喪儀との間に帝国議会は開かれていません(第75回通常議会と第76回通常議会との間)。1943418日の山本五十六戦死と同年65日の国葬たる喪儀との間も閉会中でした。(第81回通常議会と第82回臨時議会との間)。ただし,閑院宮載仁親王薨去の1945520日とその国葬たる喪儀の同年618日との間には,同月9日に開会し,同月12日に閉会した第87回臨時議会がありましたが,載仁親王が午前410分に薨去したその日の午後430分には早くも「情報局より,親王薨去につき,特に国葬を賜う旨を仰せ出されたことが発表される。」という運びになっており,かつ,当初は同年528日に斂葬の儀までを終える予定でした(宮内庁『昭和天皇実録 第九』(東京書籍・2016年)671頁)。宮城までも焼失した525日夜から26日未明までの東京空襲で,日程が狂ってしまったものです(実録九682頁)。第87回帝国議会召集の詔書に係る上奏及び裁可は,62日のことでした(実録九687頁)。

 

(4)国費葬

ついお金の話になってしまうのは,天皇及び三后並びに直系皇嗣同妃及び摂政並びにその他の皇族にして国家に偉勲あるものの大喪儀ないしは喪儀を皇室限りの事務とはせずに,国葬として国家の事務とするのは,そもそも皇室費ではなく国費をもってその費用を負担することとするのがその眼目であったからでしょう。

美濃部達吉いわく,「皇室ニ関スル儀礼ノ中或ハ国ノ大典トシテ国家ニ依リテ行ハルルモノアリ,即位ノ礼,大嘗祭,大喪儀其ノ他ノ国葬ハ是ナリ。即位ノ礼及大嘗祭ハ皇室ノ最モ重要ナル儀礼ニシテ其ノ式ハ皇室令(〔明治〕42年皇室令1登極令)ノ定ムル所ナレドモ,同時ニ国家ノ大典ニ属スルガ故ニ,国ノ事務トシテ国費ヲ以テ挙行セラル。〔略〕国葬モ亦国ノ事務ニ属ス〔略〕。此等ノ外皇室ノ儀礼ハ総テ皇室ノ事務トシテ行ハル。」と(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)217-218頁。下線は筆者によるもの)。

1926913日付けで一木喜徳郎宮内大臣から若槻内閣総理大臣宛てに出された照会書別冊の国葬令案の説明(JACAR: A14100022300)にも「恭テ按スルニ天皇及三后ノ喪儀ハ国家ノ凶礼ニシテ四海(あつ)(みつ)〔音曲停止。鳴りものをやめて静かにする。(『角川新字源』)〕挙テ喪ヲ服シ悼ヲ表スル所則チ国資ヲ以テ其ノ葬時ノ用ニ供スルハ亦我国体ニ於テ当然ノコトニ属ス皇嗣皇嗣妃及摂政ノ喪儀ハ身位ト重任トニ視テ宜ク国葬トスヘキナリ又近例国家ニ偉勲アル者ノ死亡ニ当リ之ニ国葬ヲ賜フコトアルハ蓋其ノ偉蹟ヲ追想シ之ヲ表章スルニ国家ノ凶礼ヲ以テスルノ特典タルニ外ナラス既ニ皇室服喪令ノ制定アリ今又皇室喪儀令ノ制定セラルルニ当リテハ国葬ノ定義ヲ明ニシ兼テ其ノ条規ヲ昭著スル所ナカルヘカラス是レ本令ノ制定ヲ必要トスル所以ナリ」とあります(下線は筆者によるもの)。

 

(5)国葬令(勅令)と皇室喪儀令及び皇室服喪令(皇室令)と

 国葬令と皇室喪儀令及び皇室服喪令(明治42年皇室令第12号)とには密接な関係があるわけです。実は,法令番号と第1条との間に「国葬令」との題名が記載されていないので,厳密には,「国葬令」は,大正15年勅令第324号の題名ではなく上諭の字句から採った件名にすぎず,その理由をどう理解すべきか悩んでいたのですが,単なる立法ミスによる欠落でなければ,皇室喪儀令及び皇室服喪令の附属法令として,ことごとしく題名を付けることは遠慮した,ということでしょうか。

 皇室喪儀令及び皇室服喪令は皇室令ですが,国葬令は勅令です。これは,経費の国庫負担を定める法形式として皇室令はふさわしくないからでしょう。共に天皇が総覧する皇室の大権と国家統治の大権との相違点の一つとして,美濃部達吉いわく,「其ノ経費ノ負担ヲ異ニス。国ノ事務ニ要スル経費ハ国庫ノ負担ニ属スルニ反シテ,皇室ノ事務ニ要スル経費ハ皇室費ノ負担ニ属ス。皇室ノ財産及皇室ノ会計ハ国ノ財産及国ノ会計トハ全ク分離セラレ,国庫ハ唯毎年定額ノ皇室経費ヲ支出スル義務ヲ負フコトニ於テ之ト関係アルニ止マリ,其ノ以外ニ於テハ皇室ノ財産及皇室ノ会計ノ管理ハ一ニ皇室ノ自治ニ属シ,国ノ機関ハ之ニ関与スルコトナク,而シテ皇室事務ニ要スル一切ノ経費ハ皇室費ヲ以テ支弁セラル。」と(美濃部215頁)。国葬令の副署者には,ちゃんと大蔵大臣が含まれています。

 なお,1909年の皇室服喪令162項には「親王親王妃内親王王王妃女王国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ヲ行フ当日臣民喪ヲ服ス」と規定されており(下線は筆者によるもの),国葬の存在を既に前提としていました。ちなみに,皇室令をもって臣民を規律し得ることは,「或ハ〔皇室令が〕単ニ皇室ニ関スルニ止マラズ同時ニ国家及国民ニ関スルモノナルコトアリ,此ノ場合ニ於テハ皇室令ハ皇室ノ制定法タルト共ニ又国法タル効力ヲ有ス。」というように認められており(美濃部104頁),それが可能である理由は大日本帝国憲法に求められていて,「憲法ノ趣意トスル所ハ皇室制度ニ関スル立法権ハ国法タル性質ヲ有スルモノニ付テモ之ヲ皇室自ラ定ムル所ニ任ジ議会ハ之ニ関与セズト謂フニ在」るからであるとされていました(美濃部102頁)。

 

(6)国葬の定義を明らかにする必要性

 なお,一木宮相照会書にいう「国葬ノ定義ヲ明ニシ」に関しては,帝室制度調査局総裁である伊藤博文の明治天皇に対する1906613日付け上奏(JACAR: A10110733300)において「而シテ近例国家ニ偉勲アル者死亡ノ場合ニ当リ之ニ国葬ヲ賜フコトアルハ蓋其ノ偉蹟ヲ追想シ之ヲ表章スルニ国家ノ凶礼ヲ以テスルノ特典タルニ外ナラス然ルニ其ノ本旨(やや)モスレハ明瞭ヲ()(あたか)モ国葬即チ賜葬ノ別名タルカ如ク従テ其ノ制モ亦定準ナキノ観アリ殊ニ皇室喪儀令及皇室服喪令ノ制定セラルルニ当リテハ国葬ノ定義ヲ明ニシ兼テ其ノ条規ヲ昭著スルモノナクハ両令ノ運用ヲ円滑ニシ憲章ノ完備ヲ期スルコト能ハス是レ本令ノ制定ヲ必要トスル所以ナリ」とありました(下線は筆者によるもの)。1906年の当時,天皇が国葬を賜う(あるいは天皇に葬式をおねだりする)基準が弛緩していると感じられていたわけです。

 

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1 南米のサッカー名門国からキック・オフ

 今年(2022年)もまたサッカー・ワールド・カップ大会が開催されます。もう22回目で開催地はカタールになります。頑張れニッポン!

(早いもので,我が国で「感動」のサッカー・ワールド・カップ大会が開催されてから,既に20年です。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1071112369.html)。

 このサッカー・ワールド・カップの最初の大会(1930年)の開催地となり,同国人のチームが当該第1回大会及び1950年の第4回大会で優勝した栄光に包まれた国はどこかといえば,南米大陸のウルグアイ東方共和国(República Oriental del Uruguay)です。今年の大会においては,我が邦人のチームもその栄光にあやかりたいものです。

 しかし,あやかるといっても,日本国とウルグアイ東方共和国との間に共通性・類似性って余りないのではないか,そもそも両国は,地球🌏上において表裏正反対の位置にあるんだぜ,とは大方の御意見でしょう。これに対して,いや,両国は実は同じなのだ,と力技で強弁しようとするのが本稿の目的です。

 

2 ウルグアイ東方共和国の国号の謎

 さて,ウルグアイ東方共和国(República Oriental del Uruguay. 英語ではOriental Republic of Uruguay)という国号の謎から本稿は始まります。なぜ「東方」という形容詞が入っているのか,不思議ですよね。

 この東方は何に対する東方なのかというと,どうも独立前の同国の場所にあったBanda Orientalという州名に由来するそうです。ウルグアイ東方共和国の西部国境線はウルグアイ川という同名の川で,スペイン領時代のBanda Orientalという州名は,そのまま(ウルグアイ川の)東方地という意味であったようです。現在「ウルグアイ」は国の名たる固有名詞でもありますが,独立後最初の1830年憲法1条にあるEstado Oriental del Uruguayとの国号は,国(estado: 英語の“state”)であってウルグアイ川の東方にあるものというように,普通名詞であるEstado(国)に地理的限定修飾句(Oriental del Uruguay)が付いた普通名詞的国号として印象されていたもののようにも思われます。当該憲法の前文は,神への言及に続いて,“Nosotros, los Representantes nombrados por los Pueblos situados a la parte Oriental del Río Uruguay…”(筆者のあやしい翻訳では,“We, the Representatives named for the Peoples situated in the Oriental part of the River Uruguay…”又は「我らウルグアイ川(Río)の東部(parte Oriental)所在の諸人民のために任命された代表者らは・・・」)と始まっているからです。

 ウルグアイ川の西は,アルゼンチン共和国です。スペイン領ラ・プラタ川副王領時代は,ウルグアイ川の東も西も同一の副王領内にあったところです。スペインからの独立後,後のウルグアイ東方共和国の地は一時ブラジル治下にありましたが,戦争を経て,ブラジルとアルゼンチンとの間の1828年のモンテビデオ条約によってウルグアイ(川)東方国の独立という運びになっています。すなわち,ウルグアイ東方共和国における「東方」の語は,アルゼンチン共和国から見ての「東方」という意味になりますところ,上記の歴史に鑑みると,同国とのつながりを示唆するようでもあり,断絶を強調するようでもあります。

 

3 普通名詞的国号

 ところで,普通名詞的国号といわれると,固有名詞抜きの国号というものがあるのか,ということが問題になります。実は,それは,あります。例えば,今は亡きソヴィエト社会主義共和国連邦が普通名詞国号の国です(19911226年に消滅宣言。こちらももう崩壊後30年たってしまっているのですね。)。「ソヴィエト」と日本語訳されている部分は,ロシア語🐻では形容詞Советских(複数生格形(ドイツ語文法ならば複数2格というところです。))であって,その元の名詞であるсоветは,会議,協議会,評議会,理事会等の意味の普通名詞です。会議式の社会主義共和国の連邦☭ということですが,何だかもっさりしています。更に社会主義☭仲間では,現在その首都の北京で冬季オリンピック競技大会⛷⛸🏂🥌が開催(202224日から同月20日まで)されている中華人民共和国🐼も,「中華」を固有名詞(China)又はそれに基づく形容詞(Chinese)と解さなければ(ただし,同国政府はどうもそう解するようです(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1077950740.html)。なお,「中華」をあえて非固有名詞的に英語訳すると,“center of civilization”又は“most civilized”でしょう。),同様の普通名詞型普遍国家です(「会議式」は,「中華」よりも謙遜ですね。)。

おフランスの国号も,フランス式なることを意味する形容詞によって固有名詞風の傾きが加えられていますが,普遍国家を志向するものでしょう。La République françaiseであって,la République de Franceではありません。後者であれば,フランスという国があってそれが共和政体であるということでしょう。しかし,前者は,共和国があって,それがフランス式であるということでしょう(la République à la française)。アウグストゥスのprincipatus以来力を失った古代ローマ時代における共和政・共和国の正統の衣鉢を継ぐのは我々であって,そもそもres publica(共和国,国家,国事,政務,公事)は,à la romaineよりも,à la françaiseに組織し,運営するのが正しいのだ,ということでしょう(他の共和国を称する国々との区別のための必要もあるのでしょうが。)。フランスの大統領は,Président de Franceではなく,Président de la Républiqueと呼ばれます。(更にla République françaiseの普遍志向を示す例としては,その1793年憲法4条の外国人参政権条項があります。)Die Bundesrepublik Deutschlandは,ドイツという国があって,それは連邦共和政体を採っているということでしょう。これに対して,1990103日に消滅したdie Deutsche Demokratische Republikは,ドイツ風の民主主義共和国ということですね。ドイツという国であるよりも,人類の普遍的理想の実現に向かって進む民主主義共和国(社会主義国☭)であることの方が重要だったのでしょう。

 さて,いよいよ我が国の国号です。

 

4 近代における我が国の新旧国号:日本国及び大日本帝国

 

(1)日本国

 我が国の憲法は「日本国憲法」ですから,我が国の国号は,日本国なのでしょう。日本「国」が国号であって,単なる日本は国号ではないことになります。実は日本語における「日本」は形容詞なのでしょう。しかして,我が国の憲法の英語名はConstitution of Japan”です。そうであれば英語のJapan”は,国である旨の観念をそこに含み込んでいる名詞であるようです。「日本」に対応する英語の単語は,形容詞たるJapanese”でしょうか。

 

(2)大日本帝国

 

ア 明治天皇による勅定及び昭和天皇による変更

 現行憲法に先行する我が国の憲法の題名は「大日本帝国憲法」でした。したがって,19461029日の日本国憲法裁可によって(2023116日訂正:昭和天皇による日本国憲法裁可の日を194610「29日」とする例は,衆議院憲法審査会事務局「衆憲資第90号「日本国憲法の制定過程」に関する資料」(2016118にもありますが,宮内庁『昭和天皇実録第十』(東京書籍・201721919461029日条をよく読むと,その日にされたのは枢密院における「帝国議会において修正を加へた帝国憲法改正案」の全会一致可決までであって,天皇の裁可・署名がされたのは,翌同月30日(水)143分のことでした。),昭和天皇は,祖父・明治大帝が勅定し,1889211日に発布せられた大日本帝国という我が国号を,日本国に改めてしまったことになります。

 「大」が失われては気宇がちぢこまっていけない,例えば我が隣国はその国号に堂々「大」を冠し,しかしてその国民は,今や我々いじけた日本国民よりも豊かになっているではないか(購買力平価で一人当たり国内総生産を比較した場合),などと慷慨😡するのは,大日本帝国憲法案の起草者の一人である井上毅に言わせれば,少々方向違いかもしれません。

 

イ 「大」日本帝国

 実は大日本帝国憲法1条の文言(「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」)は,枢密院に諮詢された案の段階では,「大」抜きの「日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」との表現を採っていたのでした。

 これについては,1888618日午後の枢密院会議において,それまでに一通り審議が終った明治皇室典範1条の文言(「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」)との横並び論から,寺島宗則が問題視します。

 

  31番(寺島) 皇室典範ニハ大日本(○○○)トア(ママ)ヲ此憲法ニハ只日本(○○)トノミアリ故ニ此憲法ニモ()ノ字ヲ置キ憲法ト皇室典範トノ文体ヲ一様ナラシメン(こと)ヲ望ム

 

 当該要求に,森有礼,大木喬任及び土方久元が賛同します。

 これに対する井上毅の反論及びその後の展開は次のとおり。

 

  番外(井上) 皇室典範ニハ大日本ト書ケ𪜈(ども)憲法ハ内外ノ関係モアレハ大ノ字ヲ書クコト不可ナルカ如シ若シ憲法ト皇室典範ト一様ノ文字ヲ要スルモノナレハ寧ロ叡旨ヲ受テ典範ニアル()ノ字ヲ刪リ憲法ト一様ニセンコトヲ望ム英国ニ於テ大英国(グレイト,ブリタン)ト云フ所以ハ仏国ニアル「ブリタン」ト区別スルノ意ナリ又大清,大朝鮮ト云フモノハ大ノ字ヲ国名ノ上ニ冠シテ自ラ尊大ニスルノ嫌ヒアリ寧ロ大ノ字ヲ刪リ単ニ日本ト称スルコト穏当ナラン

 

  14番(森) 大ノ字ヲ置クハ自ラ誇大ニスルノ嫌アルヤ否ニ係ハラス典範ト憲法ト国号ヲ異ニスルハ目立ツモノナレハ之ヲ刪ルコト至当ナラン

 

  17番(吉田〔清成〕) 典範ニハ已ニ大日本トアリ又此憲法ノ目録ニモ亦大日本トアリ故ニ原案者ハ勿論同一ニスルノ意ナラン

 

  議長〔伊藤博文〕 此事ハ別ニ各員ノ表決ヲ取ラスシテ()ノ字ヲ加ヘテ可ナラン故ニ書記官ニ命シ()ノ字ヲ加ヘ本案ニ

 

大日本帝国の「大」の字は,議事の紛糾を恐れた伊藤枢密院議長がその場において職権で加えることにしてしまったもののようで,領土・人口・GDPをこれから大きくしようというような深謀遠慮があって付けられたものではないようです。

 

ウ 大日本「国」皇位 vs. 大日本「帝国」

ところが奇妙なことがあります。当時の関係者は憲法も皇室典範も「大」日本でそろったことに満足してしまい,明治皇室典範1条では「大日本国皇位」と「国」であるのに対し,大日本帝国憲法1条では「大日本帝国」と「帝国」であるという,残された相違については問題にしていないのです。

この点については,佐々木惣一が疑問視しており,後に『明治憲法成立史』(有斐閣・1960-1962年)を出版することになる稲田正次東京教育大学教授に問い合わせたりしたようですが,結論は「旧皇室典範と大日本帝国憲法とが我国を指示するのに,別異の語を用ゐてゐるの理由は,依然として明かでない」ということになっています(佐々木惣一「わが国号の考究」『憲法学論文選一』(有斐閣・1956年)47頁)。佐々木は,明治皇室典範1条で「大日本帝国皇位といふとせば,帝と皇との両語の位置に基き,其の語感調はざるものがあるとして,大日本国皇位としたのではないか」と推測しつつ,「稲田教授も私と同様の意見の如くである。」と述べています(佐々木49頁。稲田教授の佐々木への書簡には「削除の理由は御説の通り帝と皇と2字あるは聊か重複の感もあり語調宜しからざるが為と推察被致候(いたされそうろう)或は起草者としては大日本国は大日本帝国の略称位に軽く考へ典範憲法間別に国号の不一致無之(これなき)ものと単純に思ひ居たるものと被存候(ぞんぜられそうろう)」とあったそうです。)。しかし,語感の問題で片付けてしまってよいものでしょうか。

 ということで,起草者らの意図を何とか探るべく,伊東巳代治による大日本帝国憲法及び明治皇室典範の英語訳に当ってみると,大日本帝国はthe Empire of Japanであり,大日本国皇位はthe Imperial Throne of Japanであることが分かります。確かに,「大日本帝国皇位」=“the Imperial Throne of the Empire of Japan”では長過ぎますし,語調というよりも語義の点で,「“The Imperial Throne of Japan”といっておけば,Imperial ThroneのあるJapanEmpireであることは,当然分かるじゃないか」ということになります。発生的にも,具体的な人(king)ないしはその地位(royal throne)が先であって,かつ,主であり,その働きに応じて制度(king-dom)は後からついて来るものでしょう。The King of Englandがいて,それからthe Kingdom of Englandがあるのであり,the King of the Kingdom of Englandでは何やら語義が内部で循環した称号になってしまいます。なお,大日本帝国憲法1条によって当時の我が国の正式名称が定められたことに関し,そこでの帝国=Empireの意味については,「外交上の用語としては,それ等の西洋語に於いての総ての差異〔Emperor, King, Grand Duke, etc.〕に拘らず,日本語に於いては,苟も一国の君主である限りは,等しく「皇帝」と称する慣例である。若し此の外交上の用語の慣例に従へば,帝国とは単に君主国といふと同意語であつて毫も大国の意を包含しないものである。わが国の公の名称を大日本帝国といふのも,亦その意に解すべきもので,敢て大国であることを誇称する意味を含むものではなく,唯天皇の統治の下に属する国であること,言ひ換ふればその君主国であることを示すだけの意味を有つものと解するのが正当であらう。」と説明されています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)79頁)。

The Empire of Japan(大日本帝国)は,日本国(Japan)という国であって君主政体をとっているものを意味することになります。なおここでは,大日本=形容詞,帝国=名詞であるとして,ヨーロッパ語で“the Japanese Empire”となるのだと解してはならないことに注意しなければなりません。“The Japanese Empire”ということになれば,普遍的なものたるthe Empire(原型は古代ローマ帝国)に日本風(à la japonaise)との形容詞が付いただけのものとなり,その版図は必ずしもポツダム宣言第8項流に本州,北海道,九州及び四国並びに附属の諸小島に限局される必要のないものとなるのだと解し得ることになり,なかなか剣呑です。

The Imperial Throne of Japanは素直に,日本国の皇位ということになります。

「大日本帝国皇位(the Imperial Throne of the Empire of Japan)」が不可とされた理由は,またうがって考えれば,断頭台の露と消えたルイ16世と,痛風等に悩みながらも王位にあって天寿を全うしたその弟であるルイ18世との運命の違いに求められ得るかもしれません。フランスの王(Roi de France)の称号を保持していたルイ16世は,1791年憲法により,フランス人の王(Roi des Français)とされています。しかしてその後の経緯は周知のとおりです(1791年憲法は「王の身体は不可侵かつ神聖である。」とも規定していましたが(大日本帝国憲法3条参照),フランス人の憲法規範意識は当てにはなりませんでした。)。他方,ルイ18世は,王政復古後,伝統的なフランスの王(Roi de France)として統治しました。統治の当の客体に支えられる王権は危うく,統治の正統性は抽象的な国体に求められるべしということにはならないでしょうか。しかして,大日本帝国憲法1条にいう帝国は,突き詰めれば,天皇にとっての統治の客体たる領土内の臣民でした。『憲法義解』の第1条解説は天皇の大日本帝国統治につきいわく,「統治は大位に居り,大権を統べて国土及臣民を治むるなり。」と。更に美濃部達吉はいわく,「天皇が帝国を統治したまふと言へば,日本の一切の領土が天皇の統治の下に属することを意味し,更に正確に言へば,その土地の上に在る一切の人民が天皇の統治したまふところたることを意味する。統治とは領有と異なり,土地を所有することを意味するのではなく,土地を活動の舞台としてその土地に住む人々を統括し支配することの意である。」と(美濃部76頁)。“The Imperial Throne of the Japanese country and subjects”では,地方人民主権政体の国の元首のごとし,となります。

 

エ 「日本帝国」使用の勅許

しかし,以上の屁理屈を吹き飛ばすような表現が,明治天皇によって明治皇室典範に付された上諭にあります。いわく,「天祐ヲ享有シタル我カ日本帝国ノ宝祚ハ万世一系歴代継承シテ以テ朕カ身ニ至ル」云々。何と「日本帝国ノ宝祚」です。宝祚とは,天子の位の意味です。

この上諭の起草に井上毅が関与していたのならば,「大」日本帝国ではなく日本帝国であることは,「大」不要論者である井上による,寺島,大木,土方,吉田及び伊藤に対する当てつけかもしれません。しかし,当てつけ以前に,同一の明治天皇が作成する文書間での表現の不統一はいかがなものでしょうか。うっかりすると,とんでもない不敬事件になりそうです(とはいえ,伊藤博文名義の『憲法義解』の第1条解説文は,「我が日本帝国は一系の皇統と相依て終始し」云々といい,「大日本帝国」の語を使用していません。伊藤は「大」を付さぬことを認容していたのでしょう。)。しかしとにかく,いろいろ考えるに,この辺についての調和的解釈は,国家の法たる大日本帝国憲法と皇室の家法たる明治皇室典範とはその性質及び適用対象が全く異なるのだ,という理論(井上毅の理論ですが,後に公式令(明治40年勅令第6号)の制定によって破られます。)によるべきもののようでもあります。つまり,臣民並びに外国及び外国人に対するところの(したがって外向きかつ正式のものである)我が国の国号は憲法の定める大日本帝国である一方,身内の皇族を対象とする皇室の家法たる明治皇室典範及びその上諭においては,国家の法によるその縛りに盲従するには及ばないというわけです。「大」日本帝国といわなかったのは,臣民らとは違って,皇室内ではやたらと誇大表現は使わない,ということになるのでしょう。

明治皇室典範1条の「大日本国皇位」にいう「大日本」は,瓊瓊杵尊が降臨し,ないしは神武天皇がそこにおいて即位すべき対象であった(したがって帝国ではまだない)「蛍火(ほたるびなす)(ひかる)神及蠅声(さばへなす)(あしき)神」を「(さはに)有」し,また「草木」が「(みな)(よく)言語(ものいふこと)」ある葦原(あしはらの)中国(なかつくに)(『日本書紀』巻第二神代下)をもその対象に含み得る,皇室が原始的に有する我が国の統治権の根源に遡っての表現でしょうか。他方,上諭における「日本帝国ノ宝祚」は,神武天皇以来の「万世一系歴代継承」してきた歴史的な皇位を指すもので,その間の我が国は確かに帝国であったわけです。

なお,明治皇室典範上諭の前記部分の伊東による英語訳文は,“The Imperial Throne of Japan, enjoying the Grace of Heaven and everlasting from ages eternal in an unbroken line of succession, has been transmitted to Us through successive reigns.”です。英語では,大日本国皇位も日本帝国ノ宝祚も,同じ“the Imperial Throne of Japan”なのでした。

 

オ 下関条約における用法

1895年の下関条約においては,明治天皇は「大日本国皇帝」,光緒帝は「大清国皇帝」と表現され,本文では「日本国」及び「清国」の語が用いられ,記名調印者の肩書表記は「大日本帝国全権辨理大臣」及び「大清帝国欽差全権大臣」となっていました。皇帝(天皇)の帝国であって,大臣は当該帝国に属するものの,帝国の皇帝(天皇)ではないわけです。

 大と帝国との間の,日本ないしは日本国の語源探究が残っています。

 

5 「日本」の由来

 

(1)「日本」国の国号採用の時期

 まず,日本国の国号が採用された時期が問題となります。

 

ア 天智朝(670年)説

ひとまずは,天智天皇によって670年(唐の咸亨元年)に採用されたものと考えるべきでしょうか。

 

ところでこの〔668年に大津で即位式を挙げた天智天皇の制定に係る〕『近江令』で,「日本」という国号がはじめて採用されたものらしい。唐は663年に百済の平定を完了したあと,668年,ちょうど天智天皇の即位の年に,こんどは平壌城を攻め落とし,高句麗国を滅ぼしたのだったが,唐の記録によると,翌々670年の陰暦三月,倭国王が使を遣わしてきて,高句麗の平定を賀した,という。だからこの遣唐使が国を出た時には,国号はまだ倭国だったのである。

ところが朝鮮半島の新羅国の記録では,この同じ670年の年末,陰暦十二月に「倭国が号を日本と更めた。自ら言うところでは,日の出る所に近いので,もって名としたという」と伝えられている。これはその書きぶりから見て,この時に日本国の使者が到着して通告したことのようだから,この遣新羅使が国を出た時には,国号はすでに日本国に変わっていたことになる。だから日本という新しい国号が採用されたのは670年か,早くても669年の後半でなければならない。

  (岡田英弘『倭国』(中公新書・1977年)151-152頁)

 

 咸亨元年の倭の使いに関しては『新唐書』巻二百二十列伝第百四十五東夷に「日本,古倭奴也。〔中略〕咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,悪倭名,更号日本。使者自言,国近日所出,以為名。或云日本乃小国,為倭所并,故冒其号。使者不以情,故疑焉。又妄誇其国都方数千里,南,西尽海,東,北限大山,其外即毛人云。〔後略〕」とあるところです。当該咸亨元年の遣唐使の発遣の時期については,『日本書紀』巻二十七天智天皇八年条(翌天智天皇九年が唐の咸亨元年です。なお,天智天皇の即位年は天智天皇七年です。)に「是年,遣小錦中(せうきむちう)河内(かふちの)(あたひ)(くぢら)等,使於大唐。」とあります。

670年(早くとも669年後半)説は,〔(いにしえ)の倭が〕高〔句〕麗を平らげたことを賀する遣いを咸亨元年(670年)に遣わしたが,〔倭は〕その「後」に(やや)夏音を習って倭の名を(にく)み,更めて日本と号した,ということから,唐の高句麗平定を咸亨元年に唐で賀した遣唐使の発遣時には我が国の国号は依然として倭国であっただろうとするものでしょう。これに関して1339年成立の『神皇正統記』において北畠親房は,「唐書「高宗咸亨年中に倭国の使始てあらためて日本と号す。其国東にあり。日の出所に近きをいふ。」と載せたり。此事我国の古記にはたしかならず。」と書いています(岩佐正校注『神皇正統記』(岩波文庫・1975年)18頁)。北畠は,『新唐書』にある「後」の字を省いて読んだものでしょうか。

『新唐書』は,北宋の欧陽脩・宋祁らが勅命を受けて11世紀に作ったものです。

唐の咸亨元年に係る新羅の記録は,『三国史記』巻六新羅本紀第六文武王上の同王十年条に「十二月,〔中略〕倭国更号日本,自言近日所出以為名。」とあります。我が国の記録には,同年「秋九月辛未朔〔一日〕,遣阿曇連頰垂(あづみのむらじつらたり)於新羅。とあります(『日本書紀』巻二十七天智天皇九年条)。

『三国史記』は,高麗の金富軾らによって12世紀に作られたものです。

 

イ 孝徳朝説

しかし,日本国の国号は,もっと早く孝徳天皇の時代に採用されたものだとする説があります。

 

  「日本」という国号の成立は,推古朝より少しのちになるようだ。大化改新(645年)のころ,たぶん大化の年号とともに制定されたのではなかろうか。『隋書』には「日本」という語はみえず,『旧唐書』日本伝には,貞観二十二年(648・大化四)に日本から使いがきたことを記したあとに,

  「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるをもって,故に日本をもって名と為す」

 とある。つまり,隋への国書にみえる「日出処天子」の「日出処」をいいかえたものである。『新唐書』日本伝には,「後稍〻夏音を習い,倭の名を悪み,更めて日本と号す」とある。〔略〕

  それにしても,日本とはなかなか壮大な国名である。中国にまけまいとする新興国のもえあがるような気魄が,この国号にもあらわれている。

 (直木孝次郎『日本の歴史2 古代国家の成立』(中央公論者・1965年)112-113頁)

 

しかし,この説における『旧唐書』の読み方は少々不思議です。『旧唐書』巻百九十九上列伝第百四十九上東夷においては,倭国の伝と日本国の伝とが別に立てられているのです。倭国伝は「倭国者,古倭奴国也。」から始まって,その最後の部分が「貞観五年,遣使献方物。太宗矜其道遠,敕所司無令貢,又遣新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才,与王子争礼,不宣朝命而還。至二十二年,又附新羅奉表,以通起居。」です。貞観二十二年(大化四年)に新羅に附して表を奉り,もって起居を通じたのは,倭国であって,日本国ではないようです。なお,貞観二十二年には,前年(大化三年)に我が国の孝徳朝を訪問していた新羅の金春秋(後の同国太宗武烈王)が,唐に使いしています。

『旧唐書』では倭国伝の直後が日本国伝ですが,日本国伝の冒頭部分は次のとおりです。

 

日本国者,倭国之別種也。以其国在日辺,故以日本為名。或曰:倭国自悪其名不雅,改為日本。或云:日本旧小国,併倭国之地。其人入朝者,多自矜大,不以実対,故中国疑焉。又云:其国界東西南北各数千里,西界,南界咸至大海,東界,北界有大山為限,山外即毛人之国。

 

 飽くまでも日本国は倭国とは別種であるものとされています。

 『旧唐書』は,五代の後晉の劉昫が,勅命を奉じて10世紀に著したものです。

 

ウ 702年の対唐(周)披露

なお,日本国の国号が採用された時期に関しては,8世紀初めの周(唐もこの時国号を変えていました。)の長安二年(我が大宝二年。702年)に武則天に謁見した我が遣唐使が「日本国」から派遣されたものであることについては,争いはないようです(『旧唐書』東夷伝には長安三年とありますが,長安二年でよいようです(神野志隆光『「日本」 国号の由来と歴史』(講談社学術文庫・2016年)14頁)。)。『三国史記』による670年説をどう補強するかが問題になるのでしょう(同書は評判が余りよくないようです。いわく,「『三国史記』文武王咸亨元年に,倭国を改めて日本国と号したという記事は,『新唐書』によったものである。〔略〕『三国史記』は信ずるに足りず,そもそも,中世文献である『三国史記』を根拠とすることはできない。」と(神野志235-236頁)。)。

これに関しては,『旧唐書』も『新唐書』も共に,倭国が倭の名を嫌った結果その号を更めた,という話のほかに,「或いは云ふ」ということで,倭国と小国である日本国との並立から併合へという動き,すなわち争いがあった話を伝えていることが注目されます。しかも,その間のことについては,唐への我が国からの使者はどうもいい加減な受け答えをしていたようです(『旧唐書』では「実を以て対へず,故に中国は疑ふ。」,『新唐書』では「使者情を以てせず,故に疑ふ。」)。外国に積極的に話したくない我が国のこの頃の内紛といえば,咸亨三年(672年)の壬申の乱でしょうか。天智天皇の正統を継ぐ大津朝廷側が日本国という国号を採用していたとすれば,『新唐書』の「日本は(すなは)ち小国,倭の幷せる所と為る,故に其の号を冒す。」という記述が,壬申の乱及びそれ以後の経過をうまく表しているように思われます。天智天皇は日本国という新しい国号を採用したが,新国号派は少数にとどまり,その死後,守旧派(倭)を率いた大海人皇子に大津朝廷(日本国)は滅ぼされた,しかし結局,新国号の理念が天武=持統=文武朝において最終的には貫徹するに至った(冒其号),ということでしょうか。明治から大正にかけてもっとも強力であったとされる壬申の乱原因論である「天智天皇の急進主義にたいする大海人皇子の反動的内乱とするみかた」(直木334頁)には,確かに分かりやすいところがあります。

以上,日本国という国号の採用時期に関する議論はこれくらいにして,一応670年に天智天皇が採用したとの説を採り,国号変更の原因及び「日本国」採択の理由について考えましょう。

 

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1 日本国「第100代」内閣総理大臣登場

 2021921日付けの「日本国憲法第7条及び国会法第1条によって,令和3104日に,国会の臨時会を東京に召集する。」との詔書が同日の官報特別号外第78号をもって公布され(公式令(明治40年勅令第6号)1条・12条参照),2021104日に第205回国会が召集され,現在の菅義偉内閣は総辞職,当該国会の議決によって自由民主党総裁・岸田文雄衆議院議員が新内閣総理大臣に指名され(日本国憲法67条),直ちに同議員が

天皇陛下によって第100代内閣総理大臣に任命される運びであるそうです(日本国憲法61項)。(なお,余計なことながら,国会法(昭和22年法律第79号)5条は「議員は,召集詔書に指定された期日に,各議院に集会しなければならない。」と規定し,かつ,国会議事堂が東京都千代田区に所在していることは明らかであるにもかかわらず召集詔書において召集地が東京である旨念が押されてあるのは,1894年の日清戦争の際に岸田衆議院議員の選出選挙区である広島市に帝国議会が召集された前例(同年10月)があるからでしょう。)

 ところで,

 

岸田文雄第100代内閣総理大臣!?

ヒャク!?

カッコいい!!

 

 ということに直ちになるのでしょうか。

 

2 百王説

 かつて,百王説というものがありました。畏れ多いことながら,我が

天皇家も百代限りではないか,との心配です。

承久年間に成立した慈円の『愚管抄』にいわく。

 

 ムカシヨリウツリマカル道理モアハレニオボエテ,神ノ御代ハシラズ,人代トナリテ神武天皇ノ以後百王トキコユル。スデニノコリスクナク八十四代ニモナリニケル(第三冒頭部)

 

 ここで第84代に数えられる天皇は,順徳天皇です。当時は弘文天皇の在位はいまだ認められていなかったものの,神功皇后が天皇と認められていたので,現在の数え方による代数と,結果として一致しています。順徳天皇は,今年(2021年)からちょうど800年前の承久三年,同年の変乱の結果(承久の変に関しては:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1064426577.html),怒涛逆巻く日本海中の佐渡島にお遷りになっておられます(乱臣賊子的にあからさまに言えば,流刑です。(乱臣賊子に関しては:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1066681538.html。旧刑法(明治13年太政官第36号布告)における流刑及び徒刑に関しては:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079020156.html)。

 ふと気になり,第84代内閣総理大臣はだれであったかと確認すると,内閣総理大臣在職中の20004月に倒れて不帰の客となった小渕恵三内閣総理大臣でした。これも不運というべきでしょう。(同内閣総理大臣の最後の1箇月間の動きについては:https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4410784/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/2000_03_calender/03_timetable.html

 こうなると,第100代の天皇がだれであったかも気になります。仲恭天皇の在位を認めれば,第96代が後醍醐天皇,更に持明院統正統論を採れば,第97代が光厳天皇,第98代が後醍醐天皇重祚,第99代が光明天皇,そして第100代が崇光天皇,第101代が後光厳天皇(又は後村上天皇)となります。なるほど。すなわち,第100代崇光天皇は,足利尊氏・直義兄弟の兄弟喧嘩のとばっちりで観応二年(1351年)に退位せしめられ三種の神器も奪われ,更に翌正平七年(1352年)には吉野方の狼藉によって賀名生に連行されてしまうという大変な辛苦を嘗められた不幸な天皇であらせられたのでした。しかして,持明院統の王朝はここにいったん断絶(光厳太上天皇及び光明太上天皇も賀名生に連行せられてしまっています。),そこで観応三年(1352年)に新たに,二条良基及び足利尊氏を両頭とする我ら臣民による推戴をその正統性の根拠とする後光厳天皇による新王朝が発足したのでした。(以上につき:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1003236277.html

 

3 いわゆる第三次近衞内閣による問題残置(対米開戦問題のみにあらず)

 ということで,第100代はゆゆしい。やった第100代だ!と無邪気に興奮する前に,歴代内閣総理大臣の代数を念のためもう一度数え直してみるべきではないでしょうか――といえば直ちに,かつて「加藤高明内閣といわゆる第三次近衛内閣」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1062787421.html)をものした筆者としては,近衞文麿が内閣総理大臣に任命されたのは実は3回ではなくて2回にすぎないから(いわゆる第三次近衞内閣の発足時には,提出されてあった近衞文麿内閣総理大臣の辞表は結局受理されずに昭和天皇から下げ渡されています。1941718日に近衞が昭和天皇からもらった辞令は,兼司法大臣に任ぜられるものだけでした(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(東京書籍・2016年)433-434頁)。),第39代内閣総理大臣はいわゆる第三次近衞内閣の近衞文麿ではなくて東條英機であり,以下1代ずつ繰り上がって,99代目といわれていた菅義偉内閣総理大臣は,本当は98代目だったのだ,100代目!といって騒ぐには,今次衆議院議員総選挙後の内閣総辞職(日本国憲法70条)を承けた新内閣総理大臣の指名・任命を待たねばならないのだ,とへそ曲がりなことを言いたくなります。

 しかし,世間に抗うのも骨が折れます。しっかり不織布のマスクを着けて,沈黙すべきでしょうか。(なお,不織布マスクの着用については,2021831日付け下級裁判所宛て最高裁判所事務総局「デルタ株等による感染拡大状況を踏まえた感染防止対策」の第31「マスク着用の徹底」において,ウレタンマスクや布マスク(アベノマスク!)ではなく「不織布マスクの着用を基本とすることが相当である。」とされています。)

 

4 「第3代」内閣総理大臣・三條實美の復権

 とはいえ,結果としては沈黙するとしても,それなりの筋は通しておくべきでしょう。

3度目の近衞を神功皇后のように歴代から落とすならば,弘文天皇又は仲恭天皇のように事後的に歴代に加えるべき内閣総理大臣を捜し出せばよいではないか――というのが筆者の思案です。

ということですぐ頭に浮かんだのは,三條實美です。

18891024日,第2代内閣総理大臣黑田淸隆以下大隈重信外務大臣を除く各国務大臣が辞表を提出(大隈は同月18日閣議からの帰途に玄洋社員来島恆喜に爆弾を投げつけられて負傷療養中),同月25日,三條實美内大臣に内閣総理大臣の兼任が命ぜられ,内閣総理大臣以外の国務大臣からの辞表は却下されます。(『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)による。御厨貴『日本の近代3 明治国家の完成 18901905』(中央公論新社・2001年)によれば事情は実はより複雑であったようで,「〔188910月〕22日,総理大臣黒田清隆以下,療養中の大隈を除く全員の大臣が総辞職の意向を明らかにする。〔略〕しかし黒田は,後継に山県を推薦した後,自分一人の辞表を出して辞任する。/〔略〕非常な混乱状態となった。全員辞任のつもりが,独断専行のかたちでまず総理が先に辞めてしまった。総理が辞めたと聞いて,他の大臣も困りはて,ついには日付をずらして,全員辞表を出したのである。」とのことです(158-159頁)。)

18891025日から起算して61日目の同年1224日,内大臣兼内閣総理大臣公爵三條實美は内閣総理大臣の兼官を免ぜられ,同日内務大臣兼議定官臨時砲台建築部長陸軍中将兼監軍従二位勲一等伯爵山縣有朋が内閣総理大臣兼内務大臣に任ぜられます。従来この山縣が,第3代内閣総理大臣であるものとされています。

三條實美は,なぜ第3代内閣総理大臣として扱われてこなかったのでしょうか。

内閣総理大臣は代わっても,他の国務大臣は黑田内閣のままだったからでしょうか。しかし,黑田内閣自体,1888430日の発足時は内閣総理大臣以外の国務大臣は第1次伊藤博文内閣のものがそのまま留任しています(伊藤は枢密院議長として内閣に班列となり,農商務大臣であった黑田が内閣総理大臣に異動した後は,留任した榎本武揚逓信大臣が同年725日まで農商務大臣を臨時兼任)。

在任期間が短かったからでしょうか。しかし,1945年のポツダム宣言受諾後の東久邇宮稔彦王の内閣総理大臣在任期間は54日でもっと短い。

国立国会図書館の「近代日本人の肖像」ウェッブページを見ると,三條の説明書きには「〔明治〕22年黒田内閣総辞職後,一時臨時首相を兼任した。」とありますから,三條の内閣総理大臣は臨時兼任だったのでしょうか。確かに,内閣総理大臣の臨時兼任は,第2次伊藤内閣の伊藤博文内閣総理大臣が1896831日に辞任後同年918日に第2次松方正義内閣が発足するまでの間黑田が命ぜられて以来,内閣総理大臣が辞任し又は死亡した場合においてその例は多いのですが,これらの内閣総理大臣臨時兼任者は,歴代の内閣総理大臣には加えられていません。しかし,三條の内閣総理大臣兼任は,正に兼任であって,臨時兼任ではありません。「これは臨時兼任ではなく,かたちとしては恒常的な兼任」であったものです(御厨159頁)。また,その当時,兼任と臨時兼任との区別がなかったということはありません。前記の榎本逓信大臣による農商務大臣臨時兼任は,三條内大臣による内閣総理大臣兼任より前のことでした(大臣の臨時兼任の制度は,内閣総理大臣伊藤博文による1887916日から188821日までの外務大臣臨時兼任から始まっています。)。(ただし,大臣の長期洋行中は,臨時兼任ではなく,兼任とされたようです(ヨーロッパ視察中の山縣内務大臣のために1888123日から1889103日まで松方正義大蔵大臣が内務大臣を兼任したような場合)。)

「三条に期待されたのは,三条が総理大臣としての手腕をふるうことではなく,次の首相が山県であることを暗黙の前提として,それに向けて下(なら)しをするということに尽きた。」(御厨159頁),「制度上の整備を,山県はすべて三条内閣に委ねた。これはみごとなばかりと評してよい。三条は政治的野心をもたぬ無私かつ無能の人であるがゆえに,条約改正〔交渉の延期の決定(18891210日の閣議)。大審院判事に外国人を任用するなどという大日本帝国憲法違反の大隈式条約改正の否定〕と内閣官制〔明治22年勅令第135号,18891224日裁可・公布,副署者の筆頭は「内閣総理大臣 公爵三條實美」。18851222日の内閣職権では内閣総理大臣の権限が強すぎ,実際に「黒田のときは,黒田・大隈が一体になって,条約改正という外交案件を進めたため,ほかの大臣がいくら反対しても,覆すことができない状況」という困った事態となっていたため,内閣官制では内閣総理大臣の権限を弱めています。)〕という国会開設を前に処理せねばならぬ難問を全部そこで片づけてしまうことができた。したがって課題達成とともに三条は退き,いわば失点ゼロのかたちで山県は満を持して登場することになる。」(御厨167頁・166頁)ということで,無私・無能の三條は政治的に影が薄く,その前後のあくの強い黑田,黒幕の山縣の間で目立たぬまま,居心地悪く懸命に内閣総理大臣を兼任していたことも人々から早々に忘れ去られてしまったものでしょうか。しかし,これは政治史的評価の問題であって,三條を歴代内閣総理大臣に加えるべきかどうかは,制度的に考えるべきことでしょう。それに,大日本帝国憲法下の内閣の制度を定めた当の内閣官制に「内閣総理大臣」として副署している三條が歴代内閣総理大臣から排除されているということは,皮肉でなければ失礼でしょう。また,山縣内閣の下均しをした三條内大臣の内閣総理大臣兼任期を,従来黑田内閣の存続期間内に含めてしまっていますが,これもどうでしょうか。黑田・山縣両内閣と少なくとも等距離の取扱いがされてもよいのではないでしょうか。そもそも黑田は条約改正について三條政権の採った方針(伊東巳代治が起草したものを農商務大臣井上馨が提出したというかたちになっている「将来外交之政略」(御厨161-162頁))には不満であって,「そこで黒田は怒って,〔188912月〕15日の夜,酔いに乗じて井上馨をその館に訪れた。ちょうど井上は留守であったが,黒田は大酔のまま乱入し,「井上はおるか,井上は国賊なり,殺しに来た」と乱暴な大声を発し,座敷に上がりこんで狼藉を働き,暴れ回った。」(御厨165頁)という醜態を演じており,三條政権をもって同一の黑田内閣がそのまま延長されたものとする従来の取扱いは,三條には迷惑であるし,黑田も不本意とするところでしょう。

内閣総理大臣は副職禁止であって,他の大臣を兼務するような者は歴代内閣総理大臣には加えてはやらぬのだ,というわけにもいきません。初代内閣総理大臣の伊藤博文自身が最初から宮内大臣を兼任しています(1887917日,すなわち前記の外務大臣臨時兼任を始めた翌日,「免兼宮内大臣」ということになっています。)。三條の次の山縣も内閣総理大臣兼内務大臣です。単なる兼業は,歴代内閣総理大臣に加えられる上では問題とはならないようです。

 どうも問題は,兼任する大臣の官職のうち,どちらが本官でどちらが兼官かということになるようです。三條の場合は,例外的に,内大臣が本官で,内閣総理大臣が兼官となっています。内閣官房(内閣所属部局及職員官制(大正13年勅令第307号)により19241220日から設けられたようです(同官制1条・2条,附則1項)。)ないしは内閣総理大臣官房で歴代内閣総理大臣の表を作る際に,あっ三條公爵は内大臣が本官で宮中の人だから,我々内閣職員ないしは総理府職員の大ボスたる正式な内閣総理大臣ではないよね,という整理が暗黙のうちにされてしまったものでしょうか。18851222日の明治18年太政官第68号達によれば,内大臣は宮中に置かれ,「御璽国璽ヲ尚蔵ス」及び「常侍輔弼シ及宮中顧問官ノ議事ヲ総提ス」という職務を行うものとされていました。

しかし,兼官大臣=非大臣の発想であると,例えば先の対米英戦の前半期には陸軍大臣は不在であったのか,ということになります。

 

 〔19411018日〕午後3時,鳳凰ノ間において親任式を行われ,陸軍大臣兼対満事務局総裁陸軍中将東条英機を内閣総理大臣兼内務大臣陸軍大臣に任じられる。

 (宮内庁512頁)

 

 これは,内閣総理大臣を本官とし,内務大臣及び陸軍大臣を兼官とするということでしょう。


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 いざ,国賊・井上馨を成敗せん(札幌市中央区大通公園)

 

5 内閣を総理する初代大臣としての三條實美

 更に余談。

内閣総理大臣を,六文字熟語ではなく,内閣を総理する大臣というように普通名詞的に解すると,初代内閣総理大臣は伊藤博文ではなく,実は三條實美であった,ということになるかもしれません。

我が国における内閣制度の発足は,18851222日の明治18年太政官第69号達で,

 

 今般太政大臣左右大臣参議各省卿ノ職制ヲ廃シ更ニ内閣総理大臣及宮内外務内務大蔵陸軍海軍司法文部農商務逓信ノ諸大臣ヲ置ク

 内閣総理大臣及外務内務大蔵陸軍海軍司法文部農商務逓信ノ諸大臣ヲ以テ内閣ヲ組織ス

 

 と定められたことに始まると一般にされています。

 しかし,「内閣」の語は,それより前から官制上使用されています。

 

   明治6年〔1873年〕52日,太政官無号達を以て太政官職制の改正が行はれた。其の改正の第1点は,太政官――正院の権限を大いに拡張したこと,従つて各省の権限を縮(ママ)したことである。

   改正の第2点は,正院機構の改正である。従来の太政官職制〔明治四年七月二十九日(1871913日)発布〕に於ては,「太政大臣,左右大臣,参議ノ三職ハ天皇ヲ輔翼スルノ重官」〔明治四年八月十日(1871924日)の太政官第400号達で改定された「官制等級」中の文言。「・・・ニシテ諸省長官ノ上タリ故ニ等ヲ設ケス」と続きました。〕であつたが,今回の改正に於て,太政大臣及び左右大臣のみ天皇輔弼の責に任じ,参議は内閣――此の時始めて内閣なる文字を使用した――の議官として諸機務議判の事を掌ることゝなつたのである。即ち従来天皇輔弼の責任の所在と,国務国策の決定の手続とが不明瞭であつたのが,これで修訂されたわけである。併しながらなほ政治の実力者たる参議に特任して組織せしめられる内閣の権限と,それによる天皇輔弼の大臣の責任とは一致せしめられなかつた。此の点は,後に明治18年の内閣制度の成立を俟つて,始めて実現せられたところである。

   改正の第3点は,右院に関するものである。〔以下略〕

  (山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)38頁。下線は筆者によるもの)

 

確かに,『憲法義解』の大日本帝国憲法55条解説を見ると,明治「18年〔1885年〕の詔命に至り,大いに内閣の組織を改め」とありますから(下線は筆者によるもの),太政官制時代から内閣が存在していたことが前提となっています。

1871年の最初の太政官職制において参議は「太政ニ参与シ官事ヲ議判シ大臣納言〔この「納言」は前記明治四年太政官第400号達では「左右大臣」となっています。〕ヲ補佐シ庶政ヲ賛成スルヲ掌ル」とされていたところが,1873年の太政官職制では「内閣ノ議官ニシテ諸機務議判ノ事ヲ掌ル」と,なるほど権限が縮小されています。

187352日の太政官職制にいう「内閣」とは何かといえば,同日付けの正院事務章程に「内閣ハ 天皇陛下参議ニ特任シテ諸立法ノ事及行政事務ノ当否ヲ議判セシメ凡百施政ノ機軸タル所タリ」とあります。また,「正院」とは何かといえば当該事務章程に「正院ハ 天皇陛下臨御シテ万機ヲ総判シ太政大臣左右大臣之ヲ輔弼シ参議之ヲ議判シテ庶政ヲ奨督スル所ナリ」とあります。

太政官に正院があるのならばそれ以外の院(左院及び右院)があるわけですが,これらの3院については,1871年の太政官職制についてですが「太政官を分つて正院・左院及び右院の三とした〔略〕。此の中正院は従来の太政官に相当するもので,太政大臣納言及び参議等を以て構成せられ,庶政の中枢的最高機関である。左院は後の元老院に相当するもので,専ら立法の事を審議し,議長の外一等議員二等議員三等議員を以て構成せられる。右院は各省の長官次官を以て組織せられ,行政実際の利害を審議する所であつて,謂はゞ各省の連絡機関とも見るべきものである。尚太政官の下に各省を置き卿一人を以て長官とすることは,概ね従前と変わりはない。」と説明されています(山崎31頁)。

太政官正院の内閣を総理する大臣がいれば,それが内閣総理大臣ということになるわけです(参議は,大臣ではありません。)。1873年の太政官職制において太政大臣の職掌は「天皇陛下ヲ輔弼シ万機ヲ統理スル事ヲ掌ル/諸上書ヲ奏聞シテ制可ノ裁印ヲ鈐ス」とされている一方(下線は筆者によるもの),左右大臣のそれは「職掌太政大臣ニ亜ク太政大臣缺席ノ時ハ其事務ヲ代理スルヲ得ル」ということなので,太政大臣・三條實美が,内閣を総理する大臣だったものでしょう。

三條は,「明治6年政変では政府内の対立をまとめきれずに病に倒れるなど,指導力のある政治家とは見なされていなかった。」(御厨159頁)と酷評されていますが,これは,征韓論をめぐって相争う参議らを取りまとめ,内閣を総理する職責が太政大臣にあったからこそでしょう。

なお,日本国憲法の英文では内閣総理大臣は“Prime Minister”となっています。英国に倣ったものでしょう。ただし,英国では「従来Cabinetの議長をしていた国王が出席しなくなったので,Cabinetに議長を作る必要が生じた,この議長はPrime Minister――文字通りには「第一大臣」――とよばれることが多かった。」ところ(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)142-143頁),「Prime Ministerという名は,アン女王の時にゴドロフィン(Earl of Godolophin)(1702-10年)に用いられたのが最初である。他面,ニューカースル(Duke of Newcastle; Thomas Pelham-Holles)(首相1754-56年,57-62年)やピット(William Pitt; Earl of Chatham)(首相1766-68年)は,Prime Ministerとはよばれていない。」(田中143頁註24)ということなので,Prime Ministerは,本来は普通名詞なのでしょう。すなわち,太政大臣を天皇の第一大臣という趣旨で“Prime Minister”と訳してもよいではないか,とも思われるのです。

ここで『憲法義解』の大日本帝国憲法55条解説の伊東巳代治による英訳を確認しておきましょう。そこでは,内閣はCabinetとされ,太政官はCouncil of State,参議はCouncillors of Stateです。Councilであれば,そもそも太政官自体が会議体の如し。太政大臣は,Chancellor of the Empireとなっています。ドイツ語だとReichskanzlerですか。ビスマルクみたいですね。左大臣がMinister of the Left,右大臣がMinister of the Rightなので,挙国一致のためにあえて左右(サヨウヨ)両翼陣営から大臣を採ってバランスを取ろうとしていたのか,などと余計なことを考えてしまいます。内閣総理大臣はMinister President of Stateであって,これは国務大臣(Minister of State)中の首席(president)ということでしょう(国務大臣ではない大臣は,内大臣及び宮内大臣です。なお,太政官制下の各省長官の卿もMinister of Stateと訳されています。)。内閣総理大臣がMinister President of Stateであるのを奇貨として,Chancellor of the EmpireMinister President of Stateとを総称してPrime Ministerと言ったってよいではないか,ということになるでしょうか。しかし,我が国の歴代内閣総理大臣についての議論をするに当たって,英語を介するのはねじくれていますね。


DSCF1540 (2)

I am neither Minister President of State nor Chancellor of the Empire, but Lord Keeper of the Privy Seal. (東京都文京区護国寺)

 

附論:「内閣」語源僻考

太政官があって正院があって,正院の中に天皇の特任を受けて参議が議判を行う内閣があったわけでした。そうであればすなわち内閣は,正院の更に内部にあるから()閣だったのでしょうか。

『角川新字源』(第123版・1978年)的には,「内閣」とは「①妻女のいるへや。(同)内閤ないこう②明代にできた行政の最高機関。明の成祖は翰林院の優秀な学者を宮中の文淵閣に入れて重要政治をつかさどらせ,これがやがて政府の最高機関となった。」とあります。しかし,1873年段階での我が太政官正院の内閣は「政府の最高機関」とまではいえないでしょう。天皇の輔弼は,専ら太政大臣の職務です。

なお,明の場合「天子の側近たる宰相の職が必要になるのであるが,既に太祖〔洪武帝〕の命によって丞相を廃した後であるから,祖法に背いてまで公然と宰相を任命するわけに行かない。そこで天子の私設の秘書という形で,内閣という制度を造った。」ということで(宮崎市定『中国史(下)』(岩波文庫・2015年)190-191頁),「内閣大学士が実際の宰相の任となった」ものの(宮崎191頁),「私設」だから「内」閣ということになったようにも思われます。しかし,我が太政官正院の内閣は,私設のものではありません。とはいえ,明の嘉靖帝の時代(16世紀半ば)になると「大学士が制度上独自の地位を認められ」るようになったそうで(宮崎192頁),私設秘書的なるものとしてのその出自も忘れられるようになったものでしょう。

(ちなみに,19世紀当時の清の内閣は,18世紀初めの雍正帝による軍機処設置の結果「軍機処が出来ると,急を要する重要な文書は次第にここを経過するようになり,内閣で扱うものは会計報告など月並みな文書ばかりとなり,それに伴って内閣大学士は閑散な名誉職と化し,実権が軍機大臣の手に移った」(宮崎249頁)との状況がなおも続いていたものでしょうか。)

「内閣大学士の職務のうち,最も重要なのは票擬,または擬旨の役目である。旨とは天子の決定のことであり,大学士は天子に代わって,百官が奉る上奏を下見し,天子が下すべき旨について案を立てるので,これを擬旨という、この擬旨は小紙片,票に記入して,これを上奏文の最後に貼っておくから,これを票擬と称する」ということで(宮崎192頁),漢土の内閣は学者たる大学士が皇帝の秘書的な仕事をする仕組みでしたが,志士上がりの政治家たる参議らが諸機務の議判をする場である我が太政官正院の内閣は,むしろ英語のCabinetの翻訳語として意識されていたものでもありましょうか。研究社の『新英和中辞典』(4版・1977)によれば,英語のcabinet”は,貴重品などを収めまたは陳列する飾りだんす(たな),キャビネットの意味があるほか,古くは小室,私室(=closet),国王などの私室の会議(室)を意味していたところ,これは,漢字の「閣」と符合するようです。すなわち,『角川新字源』によれば,「閣」は,①かんぬき,②物をしまっておく所,③たな,④おく(措),とどめる,やめる,⑤物をのせる,⑥たかどの(楼),⑦ものみ,四方を観望する高い台,⑧かけはし,⑨ごてん「殿閣」,⑩→閣閣(①端正なさま,まっすぐなさま,②かえるの鳴く声のさま),とあります。(単なる「閣」よりも「内閣」とした方がよりcabinet的ですね。「金閣」では派手すぎます。)しかして,英国においては,「Cabinetは,17世紀に,国王が事項ごとにその助言者の枢密顧問官を集めて相談をした会合の中で最も重要であった外交担当者の集まりであるCabinet Councilから発生したものであり,18世紀初頭になると,秘密保持と能率の見地から,重要事項についてはより少数のメンバーが集まった。これがCabinetとよばれた。(Cabinet Councilは,18世紀中葉まで存続する。)」とのことで(田中142頁),Cabinetは秘書の仕事場というよりも,相談の場であるとの趣旨が前面に出ます。

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 令和の御代の現在から百年ほど前の大正時代,スペイン風邪というものがはやったそうです。

 

1 1918年春

 1918年(大正7年)の春から兆しがありました。「この年〔1918年〕は,普段なら流行が終息するはずの5月頃になってもインフルエンザ様の疾患があちこちで発生しました。例えば軍の営舎に居住する兵士や紡績工場の工員,相撲部屋の関取など,集団生活をしている人たちの間で流行が目立ちました。これらは季節性インフルエンザの流行が春過ぎまで長引いたものなのか,スペインインフルエンザ〔スペイン風邪〕の始まりだったのかは不明です。しかし米国からスペインインフルエンザ第1波(春の流行)が世界に拡散していた時期に一致しますので,この時ウイルスが日本に入ったとも考えられます。」とのことです(川名明彦「スペインインフルエンザ(後半)」内閣官房ウェブサイト・新型インフルエンザ等対策ウェブページ(20181225日掲載))。『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)は,東京朝日新聞を典拠に,1918年「春.― 世界的インフルエンザとなったスペイン風邪,わが国に伝わり,翌年にかけ大流行(死者15万人に及ぶ)」と記しています(234頁)。すなわち,「スペインフルの第一波は1918年の3月に米国とヨーロッパにて始まります」とされているところです(国立感染症研究所感染症情報センター「インフルエンザ・パンデミックに関するQ&A」(200612月))。なお,「スペインフル」の「フル」とは“flu”のことで,influenza(インフルエンザ)の略称です。

世界史年表的には,19183月には,3日にブレスト=リトウスク講和条約が調印されて東部戦線のソヴィエト=ロシアが第一次世界大戦から脱落,21日にドイツ軍が西部戦線で大攻勢を開始します。

 

1918321日,濃い霧が発生した。偶然にも,この日はドイツ軍のソンム川における攻勢予定日であった。ドイツ歩兵は,ほとんど察知されずに英軍の機関銃座を蹂躙した。すぐに,全戦線の崩壊が始まった。英兵は,士官の大部分を含めて,当該大戦中に徴募された兵士たちであった。彼らが訓練を受けたのは,塹壕を固守し,時折そこから攻撃をしかけることであった。彼らには開豁地での戦闘の経験はなかった。念入りに構築された塹壕システムから追い立てられ,彼らは狼狽した。彼らは何とかしのぎつつも,大幅に後退した。ヘイグの〔英〕予備軍は,はるか北方のかなたにあった。(Taylor, A.J.P., The First World War. Penguin Books, 1966. p.218

 

2 1918年初夏

ところで,相撲部屋には,十両以上の「関取」のみならず幕下以下の汗臭い(ふんどし)担ぎもいるわけですが,19185月段階における「インフルエンザ様の疾患」の流行の際(同月「8日付の新聞は「流行する相撲風邪――力士枕を並べて倒れる」という見出しで,「力士仲間にたちの悪い風邪がはやり始めた。太刀山部屋などは18人が枕を並べて寝ていた。友綱部屋では10人くらいがゴロゴロしている」と伝え」,「花形力士の欠場続出で番付も組み替えられた。」という状況であったそうです(「朝日新聞創刊130周年記念事業 明治・大正データベース」ウェブページ)。)角界においては特段の「自粛」はされなかったようです。同月27日月曜日午後の皇太子裕仁親王(当時17歳)について,「水交社において開催の明治三十七八年戦役海軍記念日第13回祝賀会に行啓される〔日露両海軍の日本海海戦は1905527日に発生〕。水交社総裁〔東伏見宮〕依仁親王に御対顔になり,水交社長加藤友三郎海軍大臣以下の親任官及び同待遇に賜謁の後,余興の大相撲を御覧になる。」と伝えられています(宮内庁『昭和天皇実録 第二』(東京書籍・2015年)376-377頁)。

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東伏見稲荷神社(東京都西東京市)


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 西武新宿線東伏見駅(東京都西東京市)

 当該相撲見物(海軍)のせいかそれともその前日の千葉の鉄道聯隊等行啓(陸軍)のせいかどちらかはっきりしないのですが,裕仁親王は同年
6月「7日 金曜日 前月26日の千葉行啓以来,御体調不良のこと多く,本日より当分の間,〔東宮御学問所における〕月曜日から金曜日の授業を1時間減じられる。この措置は,第1学期の間,継続される。」ということになっています(実録二378頁)。東宮御学問所における裕仁親王の授業の時間は,月曜日から金曜日までは本来第5時限まで,土曜日は第2時限までであって,第1時限は午前8時に開始され,第5時限(これは武課及び体操並びに馬術)は午後130分に終了ということでありました(実録二367頁)。ちなみに,東宮御学問所総裁は,海軍大将である東郷平八郎元帥でした。

なお,19185月には横綱になったばかりの栃木山守也は,同月27日に裕仁親王の前でその大技量を発揮したものと想像されますが,歿後,昭和天皇から勲四等瑞宝章を授けられています。

裕仁親王が海軍接待の大相撲を楽しんだ頃,我が友邦フランス共和国に危機が訪れます。

 

 〔1918年〕527日,ドイツ軍14箇師団は戦線を突破し,1日のうちに10マイル前進した。遠い昔の19148月以来,そのようなものとしては最大の前進であった。63日までにドイツ軍はマルヌ川に達し,パリまでわずか56マイルの距離にあった。またしても〔ドイツの〕ルーデンドルフは成功に幻惑された。彼は新兵力を投入したが,それらは〔フランスの〕フォッシュが最終的に予備軍を動かすにつれ,勢いを失い,停止した。彼らはフランス軍の戦線を破摧してはいなかったのであって,ドイツ兵は再び袋の中に向かって進軍してしまっていたのである。また,彼らは北方に控置されていたフォッシュの予備軍を大いに引き寄せてもいなかった。そうではあるものの,ドイツ軍の当該前進は,多大の警報を発せしめた。フランスの新聞に再び「マルヌ川」が現れると,1914年の恐怖の記憶がよみがえった。代議院における非難は高まった。〔フランス首相の〕クレマンソーは頑張り,自己の威信を危険にさらすことまでしてフォッシュをかばった。多くの下位の将軍たちは,相変わらずのやり方で罷免された。事態を更に悪化させることには,軍は疫病(エピデミック)に襲われていた。スペイン流行性(インフル)感冒(エンザ)として知られる20世紀最大の殺人者である。それは世界を席巻し,秋には銃後の市民を次々と斃した。インドだけでも,4年間の大戦の全戦場で死んだ者の総数よりも多くの数の者がそれによって死亡した。大戦はクライマックスに達し,人々は高熱にあえいだ。(Taylor. pp.228-229

 

3 1918年のスペイン風邪流行の始まり

 我が国における本格的なスペイン風邪の流行はいつからかといえば,公益社団法人全国労働衛生団体連合会のウェブサイトにある小池慎也編「全衛連創立50周年事業健康診断関係年表」(201910月)は,「欧州のインフルエンザ流行より34ヵ月遅れて,わが国では〔1918年〕8月下旬から9月上旬にかけて蔓延の兆しを示した。」とあり,防衛医科大学病院副院長の川名明彦教授は「本格的なスペインインフルエンザが日本を襲ったのは19189月末から10月初頭と言われています。」と述べています(川名前掲)。池田一夫=藤谷和正=灘岡陽子=神谷信行=広門雅子=柳川義勢「日本におけるスペインかぜの精密分析」(東京都健康安全研究センター年報56369-374頁(2005年))の引用する内務省衛生局の『流行性感冒』(1922年)によると,「本流行ノ端ヲ開キタルハ大正7年〔1918年〕8月下旬ニシテ9月上旬ニハ漸ク其ノ勢ヲ増シ,10月上旬病勢(とみ)ニ熾烈トナリ,数旬ヲ出テスシテ殆ト全国ニ蔓延シ11月最モ猖獗ヲ極メタリ,12月下旬ニ於テ稍々下火トナリシモ翌〔大正〕8年〔1919年〕初春酷寒ノ候ニ入リ再ヒ流行ヲ逞ウセリ」とあります。8月下旬発端説を採るべきでしょうか。

 

4 米騒動とスペイン風邪ウイルスと

ところで,1918723日には「富山県下新川郡魚津町の漁民妻女ら数十人,米価高騰防止のため米の県外への船積み中止を荷主に要求しようとして海岸に集合(米騒動の始まり)」という小事件があったところ(近代日本総合年表234頁),問題の同年8月には,3日の富山県中新川郡西水橋町での騒動を皮切りに,10日には名古屋・京都両市に騒動が波及,13日及び14日の両日には全国の大・中都市において米騒動が絶頂に達しています(同236頁)。Social distancingもあらばこそ,当該大衆行動は当然人々の密集ないしは密接を伴い,スペイン風邪ウイルスの伝播を促して同月下旬からの流行開始を準備してしまったものではないでしょうか。

内務省衛生局によれば,スペイン風邪が「最モ早ク発生ヲ見タルハ神奈川,静岡,福井,富山,茨城,福島ノ諸県」であって(池田ほか前掲),正に富山県がそこに含まれています。1918917日までに,37市・134町・139村で米騒動の大衆行動,検挙者数万,起訴7708人ということですが(近代日本総合年表236頁),混雑した留置所はもちろん密閉・密集・密接状態であって,三密理念型の絵にかいたような顕現です。

当該流行性感冒の伝播の状況については,最初の前記6県に続いて「之ト相前後シテ埼玉,山梨,奈良,島根,徳島,等ノ諸県ヲ襲ヒ,九州ニ於テハ9月下旬ヨリ10月上旬ニ渉リ熊本,大分,長崎,宮崎,福岡,佐賀ノ各地ヲ襲ヒ,10月中旬ニハ山口,広島,岡山,京都,和歌山,愛知ヲ侵シ,同時ニ東京,千葉,栃木,群馬等ノ関東方面ニ蔓延シ,爾余ノ諸県モ殆ント1旬ノ差ヲ見スシテ悉ク本病ノ侵襲ヲ蒙レリ,10月下旬北海道ニ入リ11月上旬ニハ遠ク沖縄地方ニ及ヒタリ」と内務省衛生局は記録しています(池田ほか前掲)。

 

5 寺内正毅「スペイン風邪対策本部長」による「スペイン風邪緊急事態宣言」及び臣民の「自粛」

軍隊を出動させたり,新聞記事を差し止めたりするばかりの当時の寺内正毅内閣の米騒動対応は,見当違いの大間違いでありました。それに対して,人智の進んだ2020年の第4次安倍晋三内閣時代における我々の目から見た正解はどのようなものであったかといえば,次のごとし。

衛生行政所管の水野錬太郎内務大臣がいち早くスペイン風邪の「まん延のおそれが高いと認め」た上で(新型インフルエンザ等対策特別措置法(平成24年法律第31号。以下「新型インフルエンザ法」といいます。)附則1条の22項参照),寺内内閣総理大臣にスペイン風邪の発生の状況,スペイン風邪にかかった場合の病状の程度その他の必要な情報の報告をします(新型インフルエンザ法14条参照)。

それを承けて寺内内閣は,後付け気味ながらも政府行動計画を閣議決定して(新型インフルエンザ法62項・4項参照),更に――スペイン風邪の病状は普通のインフルエンザ(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(平成10年法律第114号)661号)のそれよりも重いわけですから(新型インフルエンザ法151項参照)――大正天皇の勅裁を得て(大日本帝国憲法10条の官制大権)臨時に内閣にスペイン風邪対策本部を設置し(新型インフルエンザ法151項参照),同対策本部(その長たるスペイン風邪対策本部長は,寺内内閣総理大臣(新型インフルエンザ法161項参照))は政府行動計画に基づいてスペイン風邪に係る基本的対処方針を定めます(新型インフルエンザ法181項・2項参照)。

寺内内閣総理大臣兼スペイン風邪対策本部長はスペイン風邪対策本部の設置及びスペイン風邪に係る基本的対処方針を公示し(新型インフルエンザ法152項,183項参照),スペイン風邪の脅威という命にかかわる大問題を前にして米の値段がちいと高いぞ云々とたかが経済の問題にすぎないつまらないことで暴れまわっているんじゃないよ,経済よりも人命だぞ,と人民に警告を発しおきます。

しかしてスペイン風邪が国内で発生したことが確認され次第直ちに――スペイン風邪には「国民の生命及び健康に著しく重大な被害を与えるおそれ」があり,かつ,「その全国的かつ急速なまん延により国民生活及び国民経済に甚大な影響」を及ぼすおそれがあることは自明ですから――寺内正毅スペイン風邪対策本部長はスペイン風邪緊急事態宣言をおごそかに発し(新型インフルエンザ法321項参照),かつ,直ちに北海道庁長官,府県知事及び警視総監をして,住民に対しては「生活の維持に必要な場合を除きみだりに当該者の居宅又はこれに相当する場所から外出しないことその他の」スペイン風邪の「感染の防止に必要な協力を要請」(新型インフルエンザ法451項参照)せしめ,多数の者が利用する施設を管理する者又は当該施設を利用して催物を開催する者に対しては「当該施設の使用の制限若しくは停止又は催物の開催の制限若しくは停止その他」を指示(新型インフルエンザ法452項・3項参照)せしめます(新型インフルエンザ法201項・331項参照)。

事業者及び臣民は政府のスペイン風邪対策に「協力するよう努めなければならない」責務を有するのですから(新型インフルエンザ法41項参照),非国民ならざる忠良な臣民は当然真摯に自粛してみだりに「居宅又はこれに相当する場所から外出」することはなくなって街頭の米騒動は直ちに終息,「即ち当時欧洲大戦の影響に因り,物価の昂騰著しきものあり,特に生活必需品の大宗たる米価は奔騰に奔騰を重ねて正に其の極を知らざる状態であつた。かくして国民の多数は,著しく生活の脅威に曝さるゝに至り,遂に所謂米騒動なるものが随所に勃発し,暴行掠奪の限りが尽さるゝに至つた。かくして寺内内閣は,これが責任を負ふて遂に退陣の止むなきに至つたのである。」(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)357頁)ということにはならなかったことでありましょう。(現実には1918921日に寺内内閣総理大臣は辞表を提出,西園寺公望の大命拝辞を経て同月29日に原敬内閣が成立しました(近代日本総合年表236頁)。)

 

6 原敬内閣の初期の取組

原内閣は初の本格的政党内閣といわれていますが,ウイルス様からしてみれば官僚と政党人との区別はつかないのでしょうから,スペイン風邪の前には,政党主導の政府も無力であったようです。事実,原敬自身慎重で,「原は新聞記者の前田まえだ蓮山れんざんに,「あまり吾輩に期待すると失望するぜ。年をとると,いろいろと周囲の事情が複雑になってね。なかなか身動きが自由にならん」と語っていた」そうです(今井清一『日本の歴史23大正デモクラシー』(中央公論社・1966年)186頁)。

所管の床次竹二郎内務大臣は,就任後半月を経た19181016日の段階における原内閣閣僚による皇太子裕仁親王拝謁の際独り「所労」のため拝謁をしていませんが(実録二412頁),果たして何をしていて疲労していたのでしょうか。同月10日には友愛会東京鉄工組合創立総会が開催されていますが(近代日本総合年表236頁),内務省は,そのような多人数の集まる危険な企てに対して,「いのちを守るStay Home/ウチで過ごそう」と要請して当該総会の開催を阻止することはできなかったようです。また,床次内務大臣が総裁を兼務していた鉄道院は,同年116日から2等寝台2人床の大人2人による使用を禁止することとしていますが,その理由は「風紀維持」という艶めかしいものであって(近代日本総合年表236頁),命にかかわるスペイン風邪に対する三密禁止を徹底せんとの真剣な危機感が感じられないところです。
 原内閣総理大臣自身,「大正7年(1918年)1011日,原首相は東京商業会議所主催の内閣成立祝賀午餐会にのぞんで,教育の改善・交通通信機関の整備・国防の充実・物価の自然調節という積極政策をとることを明らかにした。この最後の項目を産業の奨励とさしかえたものが,いわゆる政友会の四大政策である。」ということで(今井221頁),三密午餐会に得々として出席しているのですから,そもそも示しがつかない。更に「四大政策」についていえば,教育の改善は「この増設案では,高等学校10校,高等商業7校,高等工業6校,高等農林4校,外国語学校・薬学専門学校各1校,計29校と,ほぼこれまでの学校数を倍増することにしたのをはじめ,総合大学の学部増設,専門学校の単科大学への昇格などがふくまれていた。またあらたに大学令が公布され,帝国大学のほかに官立・公立・私立の大学を認め,これまで専門学校として扱ってきた私立大学にも,名実ともに大学となる道を開いた。」(今井222頁)という青年らが集まってクラスターとなりかねない施設の増設をもって「改善」と称するものであって遠隔教育という最重要課題に対する取組が欠落しており,交通機関を整備してしまうとかえって人的接触が増大してスペイン風邪の流行を助長するのでまずく,国防を充実して鎖国に戻って海外からのウイルス侵入を防ぐのはよいとしても,本来は自粛してあるべき産業の奨励なんぞより先に,命を守るためのマスク及び現金の支給を全臣民に対して直ちに行うべきでありました。

Abenomask

The Abenomask of 2020: a humanely-advanced brave countermeasure of the 21st century against the stale coronavirus-"pandemic" of lurid public hallucinations in Japan
 

ということで,「インフルエンザは各地の学校や軍隊を中心に1カ月ほどのうちに全国に広がりました。〔1918年〕10月末になると,郵便・電話局員,工場・炭鉱労働者,鉄道会社従業員,医療従事者なども巻き込み,経済活動や公共サービス,医療に支障が出ます。新聞紙面には「悪性感冒猖獗(しょうけつ)」,「罹患者の5%が死亡」,山間部では「感冒のため一村全滅」といった報道が見られるようになります。この頃,死者の増加に伴う火葬場の混雑も記録されています。」という状況になります(川名前掲)。

我が国におけるスペイン風邪の「第1回目の流行による死亡者数は,191810月より顕著に増加をはじめ,同年11月には男子21,830名,女子22,503名,合計44,333名のピークを示した後,同年12月,19191月と2か月続けて減少したが,2月には男子5,257名,女子5,146名,合計10,403名と一時増加し,その後順調に減少した。」ということで(池田ほか前掲),これだけの数の国民をみすみす死なせてしまった(11月の44333人は,死亡者数であって,単なる感染者数ではありません。)原内閣はなぜ早々に崩壊しなかったのかと,今からすると不思議に思われます。(19191月に内務省衛生局は「流行性(はやり)感冒(かぜ)予防心得」なるものを公開して現在いうところの「咳エチケット」的なことを唱道していますが(川名前掲)手ぬるかったようで,翌月には,上記のとおり,スペイン風邪の死者数が再び増加してしまっているところです。

しかも,流行ピークの191811月には,(かしこ)き辺りにおいても恐るべき事態となっていたのでした。

 

7 191811

 

(1)裕仁親王の流行性感冒感染

 

 〔191811月〕3 日曜日 午前10時御出門,新宿御苑に行啓され,〔皇太子は〕供奉員・出仕をお相手にゴルフをされる。御体調不良のため,予定を早め午後115分御出門にて御帰還になる。流行性感冒と診断され,直ちに御仮床にお就きになり,以後15日の御床払まで安静に過ごされる。御学問所へは18日より御登校になる。なお,この御病気のため,9日に予定されていた近衛師団機動演習御覧のための茨城県土浦付近への行啓はお取り止めとなる。(実録二416頁)

 

 結果としては回復せられたのですから結構なことです。しかし,皇太子裕仁親王殿下がスペイン風邪という命にかかわる恐ろしい病に冒されたというのに,原内閣総理大臣も,床次内務大臣も,波多野敬直宮内大臣も,東郷東宮御学問所総裁も,だれも恐懼して腹を切らなかったのですね。(さすがに,御親であらせられる大正天皇及び貞明皇后からは同月6日には御病気御尋があり,同月11日には貞明皇后から更に御尋がありました(実録二417頁)。なお,原内閣総理大臣は,同年1025日(金曜日)夜の北里研究所社団法人化祝宴において夫子自らスペイン風邪に罹患してしまって翌同月26日(土曜日)晩には腰越の別荘で38.5度の熱を発したものの,同月29日(火曜日)の日記の記述においては「風邪は近来各地に伝播せし流行感冒(俗に西班牙風といふ)なりしが,2日斗りに下熱し,昨夜は全く平熱となりたれば今朝帰京せしなり。」と豪語していますから(曽我豪「スペイン風邪に感染した平民宰相・原敬。米騒動から見えたコロナ禍に通じる教訓」朝日新聞・論座ウェブサイト(2020411日)における引用による),みんな騒いでいるようだがスペイン風邪など実は大したことなどなかったのだよと不謹慎に高を括っていたのかもしれません。事実,問題の1918113日には芝公園広場における政党内閣成立の祝賀会に出席し,密集した人々と密接しつつ,「平民宰相」は御満悦の笑顔を見せておりました(今井221頁の写真)。

「天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ承継シ」た(大日本帝国憲法告文)大正天皇の下のいわゆる大正デモクラシーの時代は,「57歳となられ,これまで国事行為の臨時代行等の御公務に長期にわたり精勤されておられる」こと等に鑑みてその即位が全国民を代表する議員で組織された国会の立法により実現せしめられた(天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)1条・2条,日本国憲法431項・591項)今上天皇を戴く我らが令和の聖代に比べて,尊皇心に欠けるけしからぬ時代であったものか。それとも単に,たとい皇太子であっても人命尊重には限界があり,かつ,「当時は抗菌薬や抗インフルエンザウイルス薬は無く,安静,輸液,解熱剤など対症療法が主」であったので(川名前掲。なお,現在においても新型ウイルス感染症などについては,せっかく高い期待をもって検査をしてもらっても肝腎の陽性の人のための抗ウイルス薬はなく,安静にして対症療法を受けるしかないという何だぁがっかりの状況もあるでしょう。),所詮医学は天命の前には無力であり,医師も当てにはならぬとの無学野蛮な諦念があったものか。

 

(2)医学及び医師に対する信頼の新規性(脱線)

医学及び医師の威信が甚だしく向上したのは,実は20世紀もしばらくたってからのことなのでしょう。例えば18世紀末には依然,医師など呼ぶとかえって碌なことにならなかったようです。17991214日,ただの風邪だと思っていた病気を悪化させ,喉に炎症を発し呼吸困難となっていた67歳のジョージ・ワシントン最期の日・・・

 

   彼らが〔アレクサンドリア在のスコットランド系の医師でフレンチ=インディアン戦争以来ワシントンに献身的に仕えてきた〕クレイク医師を待つ間,マーサ〔夫人〕はポート・タバコ在の有名なガステイヴァス・リチャード・ブラウン医師を呼んだ。クレイク医師は最初に到着し,更に瀉血を行い,かつ,炎症を表に出すために,干した甲虫〔Spanish fly〕から作られた薬であるキャンサラディーズを喉に施して,既に行われていた中世の療法を継続した。彼はまた,ワシントンに,酢と湯とで満たされたティーポットから蒸気を吸引させた。酢を混ぜたサルビアの葉の煎薬でうがいをしようと頭をのけぞらせたとき,ワシントンは窒息しそうになった。クレイク医師は驚駭し,第3の医師,すなわちベンジャミン・ラッシュ医師の下で学んだアレクサンドリア在の若いフリー・メイソン会員であるエリシャ・カレン・ディックを呼んだ。彼は到着すると,クレイクと一緒に更に多くの血液を抜き出すことに加わった。それは「ゆっくりと流れ出,濃く,何らかの気絶の症状をもたらす様子はなかった。」と〔秘書の〕リアは記録している。彼らはまた,浣腸剤を使ってワシントンの腸を空にした。とうとうブラウン医師も加わって,彼らは既に消耗しているワシントンの肉体から更に2パイント〔1パイントは約0.47リットル〕の血を抜いた。ワシントンは合計5パイント,あるいは彼の肉体中の全血液量の約半分を失うことになったと見積もられている。ディック医師は,なお一般的ではなく,かつ,高度に実験的であった治療法――呼吸を楽にするために,ワシントンの気管に穴を穿(うが)ち開ける気管切開術――を提案したが,これはクレイク及びブラウンによって却下された。「あの手術がされなかったことを,私はずっと後悔し続けるでしょう。」と,当該3医師を,溺れて藁をもつかもうとする者に例えつつ,後にディックは述べている。しかし,既に衰弱していた彼の状態を前提とすると,ワシントンがそのような施術を受けて生き延び得たということはとてもありそうにないことである。(Chernow, Ron, Washington: a Life. Penguin Press, 2010. p.807

 

溺れて藁をもつかもうとするというような殊勝な話ではなく,上記3医師が医療の名のもとにやらかした行為は,むしろ猟奇的血抜きの悪魔的狂乱のようでもあります(更に浣腸までしている。)。

 

  人体にはおよそ4ℓから5ℓの血液があり・・・

  君の体格なら・・・

  おそらく・・・4.5ℓといったところか

  君は・・・

  その血液を賭ける・・・!

  〔略〕

  通常「死」は総血液量の1/3程が

  失われる頃から

  そろりそろりと忍び寄り

  1/2を失うのを待たず・・・

  まず・・・絶命する・・・!

  〔略〕

  もっともそれより早く死ぬこともあり得る

  急激に抜けば

  1/3・・・

  つまり1500ccでも充分死に至る

  仮に死なないとしても意識混濁は激しく・・・

  まず・・・麻雀など興じている状態ではあるまい(福本伸行『アカギ――闇に降り立った天才』第67話)

 

(3)少年の生と老人の死と

 17歳の裕仁親王は1918113日の流行性感冒の診断から十余日で回復し,免疫を獲得してしまいましたが,『昭和天皇実録』の1918113日条は,若き裕仁親王の流行性感冒感染経験の記述に続いて,84歳の老人の死を伝えます。

 

  臨時帝室編修局総裁伯爵土方久元大患につき,御尋として鶏卵を下賜される。土方は4日死去する。〔略〕土方は旧土佐藩出身にて武市半平太の土佐勤王党に参加し討幕運動にも加わる。維新後は,元老院議官,宮中顧問官,農商務大臣などを経て,明治20年より31年まで宮内大臣を務めた。その後は帝室制度取調局総裁心得などを経て,臨時帝室編修局総裁として明治天皇の御紀編修に尽力した。一方で,明宮御用係,明宮御教養主任,東宮輔導顧問なども務め,〔大正〕天皇の御教育・御輔導にも深く関わり,皇太子に対しても,皇孫・皇太子時代を通じ,しばしば御殿・御用邸に参殿・参邸し,御機嫌を奉伺するところがあった。(実録二416-417頁)

 

 武市半平太も同じ土佐の坂本龍馬も三十代で非命に斃れたことを思えば,土方は大臣にもなって八十代半ばまで生きたのですから,とても悔しいです土方伯爵のかけがえのない尊い命が迅速にロックダウンをしなかった床次内務大臣・原内閣総理大臣の無策のために84歳の若さで奪われたことは到底許せません,などと言い募るべきものかどうかは考えさせられるところがあります。なお,土方は死の8日前の19181027日には日本美術協会において同協会の会頭として裕仁親王に拝謁していますから(実録二414頁),確かに突然の死ではありました。(ちなみに,19181027日の鷗外森林太郎の日記『委蛇録』には,「27日。日。雨。皇儲駕至文部省展覧会,日本美術協会。予往陪観。」とあります(『鷗外選集第21巻 日記』(岩波書店・1980年)278頁)。また,1918113日には,森帝室博物館総長兼図書頭は正倉院曝涼監督のために東京から奈良に移動しています。同日は好天で,富士山が美しかったようです。いわく,「是日天新霽。自車中東望。不二山巓被雪。皓潔射目。雪之下界。作長短縷之状。如乱流蘇。」(鷗外279頁)。不要不急の出張ではなかったものでしょう。)

 

(4)第一次世界大戦の戦いの終了

 欧州では,裕仁親王が流行性感冒と診断された113日にはオーストリア=ハンガリー帝国が連合国と休戦協定を調印し,ドイツのキール軍港では水兵が叛乱を起していました。119日にはベルリンで宰相マックス公が社会民主党のエーベルトに政権を移譲し,ドイツ共和国の成立が宣言されます。同月10日,ドイツのヴィルヘルム2世はオランダへと蒙塵。同月11日午前5時にはドイツと連合国との間に休戦協定が調印され,当該協定は同日午前11時に発効しています。第一次世界大戦の戦いは終わりました。

 昭和天皇統治下の大日本帝国敗北の27年前のことでした。


8 3回のスペイン風邪流行

 我が国のスペイン風邪流行は,前記『近代日本総合年表 第四版』によれば1918年春から1919年にかけての1回限りであったように思われるところですが,実は3にわたったようです。第1回の流行は19188月から19197月まで(小池年表,川名前掲,池田ほか前掲),第2回の流行は19198月(池田ほか前掲),9月(川名前掲)又は10月下旬(小池年表)から19207月まで(小池年表,川名前掲,池田ほか前掲),第3回の流行は19208月から(小池年表,川名前掲,池田ほか前掲)19215月(小池年表)又は7月(川名前掲,池田ほか前掲)までと分類されています。

 

(1)第1回流行(1918-1919年):竹田宮恒久王の薨去

 第1回流行時の患者数は,21168398人(池田ほか前掲,川名前掲)又は21618388人(小池年表)とされ(こうしてみると,小池年表は数字を書き写し間違えたものかもしれません。),19181231日現在の日本の総人口56667328人に対する罹患率は37.3パーセントとなりました(池田ほか前掲。川名前掲は「日本国内の総人口5,719万人に対し」罹患率「約37」としています。)。第1回流行時の総死亡者数は257363人(小池年表,池田ほか前掲(内務省衛生局『流行性感冒』(1922年)に基づくもの)。川名前掲は「257千人」)又は103288人(池田ほか前掲(人口動態統計を用いて集計したもの))であって,前者の死亡者数に基づく患者の死亡率は1.22パーセントでした(小池年表,池田ほか前掲。川名前掲は「1.2」)。

 第1回流行時には,皇族に犠牲者が出ています。

 

  〔1919423日〕午後735分,〔竹田宮〕恒久王が薨去する。恒久王は本月12日より感冒に罹り,17日より肺炎を併発,20日には重態の報が伝えられる。よって皇太子よりは,その病気に際して御尋として鶏卵を贈られ,重態に際しては東宮侍従牧野貞亮を遣わし葡萄酒を御贈進になる。また,この日危篤との報に対し,急遽牧野侍従を竹田宮邸へ遣わされる。(実録二446頁)

 

 恒久王の父は,原敬内閣総理大臣の出身藩である南部藩等によって戊辰戦争の際結成された奥羽越列藩同盟の盟主たりし輪王寺宮こと北白川宮能久親王でした。日清戦争の下関講和条約後の台湾接収の際征台の近衛師団長を務めて同地で病歿した「能久親王は幕末期には公現法親王と称し,日光東照宮を管理する輪王寺宮として関東に下向した。幕府崩壊時には江戸を脱出して宮城白石にあって奥羽越列藩同盟の精神的盟主となり,天皇に即位したとも言われている人物である。仙台藩降伏後は謹慎処分となったが,還俗してドイツに留学,北白川家を継いで陸軍軍人とな」った宮様であるとのことです(大谷正『日清戦争』(中公新書・2014年)223頁)。しかし,明治大帝に抗する対立天皇として立ったとは,北白川宮家及び竹田宮家は,御謀叛のお家柄歟。

 恒久王薨去のため,当初1919429日に予定されていた皇太子裕仁親王の成年式(明治皇室典範13条により皇太子は満18年をもって成年)は延期となり(同月25日発表),同年51日に至って同月7日に挙行の旨が告示され(実録二448),同日無事挙行され(実録二453-457。「7日。水。天候如昨〔暄晴〕。皇儲加冠。予参列賢所。詣宮拝賀。」(鷗外293頁)とあります。),また翌同月8日には宮中饗宴の儀が行われました(実録二457-458。「木。晴。赴宮中饗宴。」(鷗外293頁)。)。恒久王の薨去に係る服喪に伴う延期はあっても(同年4月「30日。水。陰雨。会恒久王葬乎豊島岡。」(鷗外293頁)とあります。),スペイン風邪の流行については,三密回避など全くどこ吹く風という扱いです。

 

(2)第2回流行(1919年‐1920年):雍仁親王の罹患

 第2回流行時においては,患者数が2412097人(池田ほか前掲,川名前掲),死亡者数は127666人(池田ほか前掲(内務省衛生局『流行性感冒』に基づくもの)。川名前掲は「128千人」)又は111423人(池田ほか前掲(人口動態統計を用いて集計したもの))であって,前者の死亡者数に基づく患者の死亡率は5.29パーセント(池田ほか前掲。川名前掲は「5.3」)でした。

2回流行時における患者死亡率については,内務省衛生局の『流行性感冒』は「患者数ハ前流行ニ比シ約其ノ10分ノ1ニ過キサルモ其病性ハ遥ニ猛烈ニシテ患者ニ対スル死亡率非常ニ高ク〔1920年〕34月ノ如キハ10%以上ニ上リ全流行ヲ通シテ平均5.29%ニシテ前回ノ約4倍半ニ当レリ」と述べています(池田ほか前掲の引用)。「流行時期によりウイルスが変異することが往々にして観察される」ところ,「スペインかぜ流行の際にも原因ウイルスが変異し,その結果として死亡率が大幅に増加したものと考えることができる。」とされています(池田ほか前掲)。

「大正78年〔19181919年〕ニ亘ル前回〔第1回〕ノ流行ハ〔略〕春夏ノ交ニ至リ全ク終熄ヲ告ケタレトモ再ヒ〔大正〕8年〔1919年〕10月下旬,向寒ノ候ニ及ヒテ神奈川,三重,岐阜,佐賀,熊本,愛媛等ニ流行再燃ノ報アリ,次テ11月ニ至リ東京,京都,大阪ヲ始メトシ茨城,福島,群馬,長野,新潟,富山,石川,鳥取,静岡,愛知,奈良,和歌山,広島,山口,香川,福岡,大分,鹿児島,青森,北海道等ニ相前後シテ散発性流行ヲ見,爾余ノ諸県モ漸次流行ヲ来スニ至」っていたところ(池田ほか引用の内務省衛生局『流行性感冒』),死亡者数は,「191912月より増加を開始し,19201月に〔略〕ピークを示した後順調に減少」しています(池田ほか前掲)。「斯クテ各地ニ散発セル病毒ハ再ヒ漸次四囲ニ伝播シ,遂ニ一二県ヲ除キテハ何レモ患者ノ発生ヲ見サル処ナキニ至リ,翌春〔1920年〕1月に及ヒ猖獗ヲ極メ多数ノ患死者ヲ出シタリ,3月ヨリ漸次衰退シテ67月ニ至リ全ク終熄シタリ」というわけです(池田ほか引用の内務省衛生局『流行性感冒』)。

 第2回流行時には,後に19261225日から19331223日まで皇嗣殿下(ただし,立皇嗣の礼は行われず。)となられる淳宮雍仁親王(裕仁親王の1歳違いの弟宮)が,第1回流行時よりも「遥ニ猛烈」な病性となったスペイン風邪に感染したようです。

 

  雍仁親王は去る〔19201月〕16日以来,流行性感冒のため病臥につき,〔同月20日〕皇太子〔裕仁親王〕より御尋として5種果物1籠を贈進される。〔同月〕22日,東宮侍従本多正復を御使として遣わされ,鶏卵・盆栽を御贈進になり,222日には同甘露寺受長を御使として差し遣わされる。雍仁親王の違例は34日に至る。(実録第二543頁)

 

正に19201月は,スペイン風邪の第2回流行時の死亡者ピーク月です(男子19835人,女子19727人の合計39362人(池田ほか前掲))。やんごとなき皇族の方々にあらせられても,ロックダウンなどという大袈裟かつよそよそしいことはされておられなかったので(ただし,同月8日に予定されていた宮城前外苑における陸軍始観兵式は,「感冒流行の理由をもって〔大正〕天皇は臨御されざることとなり,観兵式は中止」ということになっています(実録二541頁)。その後,大正天皇は,同年49日以降「御座所における御政務以外は,一切の公式の御執務を止められ,専ら御摂養に努めらるること」となっています(実録二574頁)。),もったいなくも,我ら草莽の人民と休戚のリズムを共にせられていたということでしょうか。しかして,雍仁親王は1箇月半以上もダウンせざるを得なかったのですから,確かに重い流行性感冒です。

ところで,皇太子殿下から御尋で5種果物や鶏卵などを贈られてしまうと,兄弟愛云々ということももちろんあるのでしょうが,191964日の徳大寺実則(同日「元侍従長大勲位公爵徳大寺実則病気危篤の報に接し,〔裕仁親王は〕御尋として葡萄酒を下賜される。また,去る〔同月〕2日には病気御尋として5種果物1籠を下賜される。実則はこの日午後7時死去する。」(実録二469-470頁)),191811月の前記土方久元(鶏卵)及び19194月の同じく前記竹田宮恒久王(鶏卵及び葡萄酒)の各例などからすると,5種果物の次はとうとう鶏卵を下されたのだね僕もいよいよ最期かな,しかし兄貴はうまい具合に先に軽く感染して免疫ができてずるいよなあ,これまで18年近く生きてきたけど兄貴を一生立てるべき次男坊に生まれてはさして面白いこともなかったよ,三好愛吉傅育官長も去年の紀元節の日にインフルエンツア肺炎で逝っちゃたけど確かにインフルエンツアがこう彼方にも此方にも流行しては居る処が無いような気がするなぁ,などと雍仁親王におかせられてはひそかに御覚悟せられるところがひよっとしたらあったかもしれません。(しかし,鶏卵の例についていえば,1919213日(この月は,前記のとおり,スペイン風邪第1回流行時において流行の再燃があった月です。)には小田原滞在中の山県有朋に対し,「感冒症より肺炎を発し重患の趣につき,病気御尋として鶏卵」が皇太子裕仁親王から下賜されているにもかかわらず(実録二435。確かに同日の山県の容態は重篤であったようで,森林太郎図書頭も図書寮から小田原に駆けつけています。いわく,「13日。木。朝晴暮陰。参寮。問椿山公病乎古稀庵。船越光之丞,安広伴一郎及河村金五郎接客。清浦奎吾,井上勝之助,中村雄次郎,穂積陳重等在座。出門邂逅古市公威。」(鷗外289頁)。),この80歳の奇兵隊おじいさんはしぶとく回復し,同年69日には裕仁親王の前に現れています(実録二470頁)。また,差遣先の山梨県下で罹病して1920119日から山梨県立病院に入院した東宮武官浜田豊城にも,裕仁親王から「病気御尋として鶏卵」が下賜されていますが,浜田東宮武官は1週間で退院しています(実録二542頁)。果物1籃だけならば,雍仁親王は1919420日に不例の際御尋として裕仁親王から贈進を受けたことがあり,その後同月29日に床払いに至っています(実録二446頁)。とはいえ,192035日に死亡した内匠頭馬場三郎(元東宮主事)の病気に際しては裕仁親王から「御尋として果物を下賜」されていたところではあります(実録二549頁)。なお,医者も不養生で病気に罹っており,陸軍省医務局長軍医総監たりし森林太郎も1918124日には「水。晴。参館。還家病臥。」と寝込んでしまい,同月7日には「土。晴。在蓐。従4日至是日絶粒。是日飲氵重〔さんずいに重で一字〕。」,同月9日になって粥が食べられるようになり(「夕食粥」),「10日。火。晴。在蓐。食粥如前日。起坐。」,同月14日にようやく普通の食事ができるようになって(「土。陰。園猶有雪。食家常飯。」),同月16日にやっと「月。晴。病寖退。而未出門。」,職務復帰は同月20日のこととなりました(鷗外284-285頁)。時期からいって,これはスペイン風邪でしょう。長期病欠の帝室博物館総長兼図書頭には,皇室から鹿肉や見舞金が下賜されています。すなわち,「〔191812月〕18日。水。晴。在家。上賜鹿肉。所獲於天城山云。東宮賜金。/19日。木。陰。猶在家。両陛下賜金。」(鷗外285頁)。さすがにもうそろそろ出勤しないとまずい頃合いとはなったようです。

スペイン風邪の第2回流行時においては「感染者ノ多数ハ前流行ニ罹患ヲ免レタルモノニシテ病性比較的重症ナリキ,前回ニ罹患シ尚ホ今回再感シタル者ナキニアラサルモ此等ハ大体ニ軽症ナリシカ如シ」ということだったそうですから(池田ほか引用の内務省衛生局『流行性感冒』),接触8割削減を目指して第1回流行時に真面目に自粛して引きこもった真摯な人々よりも,ままよと己が免疫力及び自然治癒力の強さを信じて第1回流行時に早々に感染して免疫をつけてしまった横着な人々の方がいい思いをしたということでしょうか。ただし,スペイン風邪に係る感染遷延策が常に裏目に出たわけではないようで,「このなかでオーストラリアは特筆すべき例外事例でした。厳密な海港における検疫,すなわち国境を事実上閉鎖することによりスペインフルの国内侵入を約6ヶ月遅らせることに成功し,そしてこのころには,ウイルスはその病原性をいくらかでも失っており,そのおかげで,オーストラリアでは,期間は長かったものの,より軽度の流行ですんだとされています。」ともいわれています(感染症情報センター前掲)。

いずれにせよ「感染伝播をある程度遅らせることはできましたが,患者数を減らすことはできませんでした。」(感染症情報センター前掲)ということになるのでしょうか。「西太平洋の小さな島では〔オーストラリア〕同様の国境閉鎖を行って侵入を食い止めたところがありましたが,これらのほんの一握りの例外を除けば,世界中でこのスペインフルから逃れられた場所はなかったのです。」とされています(感染症情報センター前掲)。 

 

  Etiam si quis timiditate est et servitute naturae, coronas congressusque ut hominum fugiat atque oderit, tamen is pati non possit, ut non anquirat aliquem, apud quem emovat virus aegritudinis suae. 

 

(3)第3回流行(1920年‐1921年):杉浦重剛の仮病

3回流行時においては,患者数が224178人(小池年表,池田ほか前掲,川名前掲),死亡者数は3698人(小池年表,池田ほか前掲(内務省衛生局『流行性感冒』に基づくもの),川名前掲)又は11003人(池田ほか前掲(人口動態統計を用いて集計したもの))であって,前者の死亡者数に基づく患者の死亡率は1.65パーセント(小池年表,池田ほか前掲。川名前掲は「1.6%」)でした。

「わが国のスペインインフルエンザもその後国民の大部分が免疫を獲得するにつれて死亡率も低下し」,第3回の流行時には「総患者数からみてもすでに季節性インフルエンザに移行していると見たほうが良いかもしれません。」ということになったようです(川名前掲)。

ところで,スペイン風邪の第3回流行時である1920124日,東宮御学問所御用掛杉浦重剛は病気を理由に辞表を提出し,同月6日から翌年の東宮御学問所の終業まで,次代の天皇の君徳涵養にかかわる倫理の講義は行われないこととなってしまいました(実録二663664頁)。これについて,杉浦重剛もとうとうスペイン風邪に罹患してしまったが当時は遠隔授業を行い得る設備は東宮御学問所といえども存在せず嗚呼忠臣杉浦天台は涙を呑んで「いのちを守るStay Home」をしたのか健気なことである,と考えるのは早とちりであって,これは杉浦の仮病です。1921218日の東宮御学問所終業式に,辞めたはずの杉浦は出席整列しています(宮内庁『昭和天皇実録 第三』(東京書籍・2015年)1819頁)。

この間の事情について,『昭和天皇実録』の1921210日条はいわく。

 

 10日 木曜日 この日夕方,皇太子と良子(ながこ)女王との御婚約内定に変更なきことにつき,内務省,ついで宮内省より発表される。宮内省発表は左の如し。

   良子女王東宮妃御内定の事に関し世上種々の噂あるやに聞くも右御決定は何等変更せず

これより先,元老山県有朋らが,良子女王の子孫に色盲が遺伝する可能性があることをもって,女王の父〔久邇宮〕邦彦王に対し婚約辞退を求めた問題につき,当局は一切の新聞報道を禁止していた。しかし,昨年124日に辞表を提出した東宮御学問所御用掛杉浦重剛が,一部関係者に顛末を語って御婚約決行を求める運動を行ったことなどにより,この問題の存在が徐々に知られ,政界の一部,とりわけ右翼方面において,御婚約の取り消しに反対するとともに,宮内省や山県有朋を攻撃する運動が広まっていた。昨月下旬には久邇宮を情報源とし内情を暴露する「宮内省ノ横暴不逞」なる小冊子が各方面に配布されるなど各種怪文書が横行し,問題は議会においても取り上げられ,本月11日の紀元節には明治神宮において御婚約決行を祈願するという,右翼諸団体による大決起大会が計画された。こうした事態の中,山県ら元老は御婚約を辞退すべきとして譲らず,一方で具体的報道は一切禁止されたものの,新聞の報道ぶりから一般国民にも宮中方面に重大問題が進行中であることは明らかであり,宮内大臣中村雄次郎は何らかの決着を早期に図ることを迫られた。その結果,中村宮内大臣は自身の責任において事態を早期収拾することを決意し,この日良子女王の御婚約内定に変更なきことを発表するとともに,自身の辞職も表明する。(実録三1213頁)

 

いわゆる宮中某重大事件です。右翼の諸君明治神宮での集会はやめろよ「いのちを守るStay Home」なんだから「ウチで過ごそう」よ,と原内閣総理大臣も床次内務大臣も中村宮内大臣も言うことができず,元老(山県,松方正義及び西園寺公望)及び宮内省に反対する勢力の側も自粛せず,結局すなわちスペイン風邪は既に賞味期限切れだったようです。

 

9 スペイン風邪によって奪われた命について

以上,我が国における1918年から1921年までの合計では,スペイン風邪の患者数は23804673人,死者数は388727人(内務省衛生局『流行性感冒』)又は225714人(人口動態統計)ということになるようです(池田ほか前掲)。「歴史人口学的手法を用いた死亡45万人(速水,2006)という推計」もあるそうです(感染症情報センター前掲)。

死亡者の中で大きな比率を占めたのは0-2歳の乳幼児であったとされます(池田ほか前掲)。東京日日新聞の報ずるところでは,1918年には「1歳未満乳児の死亡率増大18.9%(336910人)。最高は大阪府・富山県の25.2%。東京府は18.8%」であったそうです(近代日本総合年表236頁)。生まれた赤ん坊のうち大体5人に1人は死んでしまったという計算です。

乳幼児以外について死亡者数の数を世代別に見ると,「男子では191719年においては2123歳の年齢域で大きなピークを示したが,192022年には3335歳の年齢域でピークを示し」,「女子ではいずれの期間においても2426歳の年齢域でピークを示して」いたそうです(池田ほか前掲)。海外では1918年の「(北半球の)晩秋からフランス,シエラレオネ,米国で同時に始まった〔スペイン風邪の〕第二波は〔同年春の第一波の〕10倍の致死率となり,しかも1535歳の健康な若年者層においてもっとも多くの死がみられ,死亡例の99%が65歳以下の若い年齢層に発生したという,過去にも,またそれ以降にも例のみられない現象が確認され」ていたところ(感染症情報センター前掲),我が国においても,「季節性インフルエンザでは,死亡例は65歳以上の高齢者が大部分で,あとは年少児に少し見られるのが一般的ですので,スペインインフルエンザでは青壮年層でも亡くなる人が多かったことは極めて特徴的です。」ということになっています(川名前掲)。この点については,National Geographicのウェブサイトの記事「スペインかぜ5000万人死亡の理由」(201452日)によれば,「答えは驚くほどシンプルだ。1889年以降に生まれた人々は,1918年に流行した種類のインフルエンザウイルスを子どもの頃に経験(曝露)していなかったため,免疫を獲得していなかったのだ。一方,それ以前に生まれた人々は,1918年に流行したインフルエンザと似た型のウイルスを経験しており,ある程度の免疫があった。」ということであったものとされています。(追記:これに関連して,The Economist2020425日号の記事(“A lesson from history”)は,1918年のスペイン風邪流行時においては28歳の年齢層の死亡率が特に高かったところ,これは,彼らが生まれた1890年に流行した別の種類のインフルエンザであるロシア風邪フルーの影響であるという説を紹介しています。すなわち,乳幼児期にあるウイルスにさらされると,後年別種のウイルスに感染したときに通常よりも重篤な症状を示す可能性があるというのです。乳児期にロシア風邪ウイルスに曝されて形成された免疫機構は,スペイン風邪ウイルスに対して,本来はロシア風邪ウイルスに対すべきものである誤った反応をしてしまったのだというわけです。)

 ところで,我が国においてはスペイン風邪流行期に「いのちを守るStay Home」が真摯に実行されていなかったように思われるのは,青壮年の命はくたびれて脆弱となった高齢者のそれとは違って対人接触の絶滅に向けた自粛までをもわざわざして守るべき命ではない,という認識が存在していたということででもあったものでしょうか。あるいは当時の青壮年は,死すべき存在たる人間として避けることのできない死の存在を知りつつも淡然ないしは毅然とそれを無視し得るほどの覇気と希望とデモクラティックな情熱とに満ちた人間好きな人々だったのでしょうか。考えさせられるところです。  



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1 新型コロナ・ウイルス問題猖獗中の立皇嗣の礼

 来月の2020419日には,それぞれ国事行為たる国の儀式である立皇嗣宣明の儀及び朝見の儀を中心に,立皇嗣の礼が宮中において行われる予定であるそうです。しかし,新型コロナ・ウィルス問題の渦中にあって,立皇嗣宣明の儀の参列者が制限されてその参列見込み数が約320人から約40人に大幅縮小になるほか(同年318日に内閣総理大臣官邸大会議室で開催された第10回天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典委員会において配付された資料1-1),当該儀式の挙行の翌々日(同年421日)にこれも国の儀式として開催することが予定されていた宮中饗宴の儀が取りやめになり,波瀾含みです。

 

2 立皇嗣の礼における宣明の主体

 立皇嗣の礼は,なかなか難しい。

 立皇嗣の礼に関する理解の現状については,2020321日付けの産経新聞「産経抄」における次のような記述(同新聞社のウェブ・ページ)が,瞠目に値するもののように思われます。

 

   政府は皇位継承順位1位の秋篠宮さまが,自らの立皇嗣(りつこうし)を国の内外に宣明される「立皇嗣の礼」の招待者を減らし,賓客と食事をともにする「宮中饗宴(きょうえん)の儀」は中止することを決めた。肺炎を引き起こす新型コロナウィルスが世界で猖獗(しょうけつ)を極める中では,やむを得ないこととはいえ残念である。

 

筆者が目を剥いたのは,「皇位継承順位1位の秋篠宮さまが,自らの立皇嗣(りつこうし)を国の内外に宣明される「立皇嗣の礼」」との部分です。

産経抄子は,執筆参考資料としては,ウィキペディア先生などというものを専ら愛用しているものでしょうか。ウィキペディアの「立皇嗣の礼」解説には,「立皇嗣の礼(りっこうしのれい),または立皇嗣礼(りっこうしれい)は,日本の皇嗣である秋篠宮文仁親王が,自らの立皇嗣を国の内外に宣明する一連の国事行為で,皇室儀礼。」と書かれてあるところです。

しかし,1991223日に挙行された今上天皇の立太子の礼に係る立太子宣明の儀においては,父である上皇(当時の天皇)から「本日ここに,立太子宣明の儀を行い,皇室典範の定めるところにより徳仁親王が皇太子であることを,広く内外に宣明します。」との「おことば」があったところです(宮内庁ウェブ・ページ)。「平成の御代替わりに伴い行われた式典は,現行憲法下において十分な検討が行われた上で挙行されたものであるから,今回の各式典についても,基本的な考え方や内容は踏襲されるべきものであること。」とされているところ(201843日閣議決定「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う国の儀式等の挙行に係る基本方針について」第12),「文仁親王殿下が皇嗣となられたことを広く国民に明らかにする儀式として,立皇嗣の礼を行う」もの(同閣議決定第571))として行われる今次立皇嗣の礼においても,「宣明します。」との宣明の主体は,むしろ天皇であるように思われます。

現行憲法下時代より前の時代とはなりますが,大日本帝国憲法時代の明治皇室典範16条は「皇后皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と規定していました。「詔書」ですので,当該文書の作成名義は,飽くまでも天皇によるものということになります。

 

3 裕仁親王(昭和天皇)の立太子の礼

1916113日に行われた昭和天皇の立太子の礼について,宮内庁の『昭和天皇実録 第二』(東京書籍・2015年)は,次のように伝えています。

 

 3日 金曜日 皇室典範及び立儲令の規定に基づき,立太子の礼が行われる。立太子の礼は皇太子の身位を内外に宣示するための儀式である。裕仁親王はすでに大正元年〔1912年〕,御父天皇の践祚と同時に皇太子の身位となられていたが,昨4年〔1915年〕に即位の礼が挙行されたことを踏まえ,勅旨により本日立太子の礼を行うこととされた。(241頁)

 

当時の立太子の礼は,1909年の立儲令(明治42年皇室令第3号)4条により,同令の「附式ノ定ムル所ニ依リ賢所大前ニ於テ之ヲ行フ」ものとされていました。

伊藤博文の『皇室典範義解』の第16条解説には,「(けだし)皇太子・皇太孫は祖宗の正統を承け,皇位を継嗣せむとす。故に,皇嗣の位置は立坊の儀に由り始めて定まるに非ず。而して立坊の儀は此に由て以て臣民の(せん)(ぼう)()かしむる者なり。」とありました。「立坊」とは,『角川新字源(第123版)』によれば「皇太子を定めること。坊は春坊,皇太子の御殿。」ということです。つまり『皇室典範義解』にいう「立坊の儀」とは,立儲令にいう「立太子ノ礼」又は「立太孫ノ礼」(同令9条)のことということになります。「瞻望」とは,「はるかにあおぎ見る。」又は「あおぎしたう。」との意味です(『角川新字源』)。「饜」は,ここでは「食いあきる。」又は「いやになる。」の意味ではなくて,「あきたりる。満足する。」の意味でしょう(同)。また,明治皇室典範15条は「儲嗣タル皇子ヲ皇太子トス皇太子在ラサルトキハ儲嗣タル皇孫ヲ皇太孫トス」と規定していました。「儲嗣(ちょし)」とは,「世継ぎのきみ。皇太子。との意味です(『角川新字源』)。現行皇室典範(昭和22年法律第3号)8条は「皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは,皇嗣たる皇孫を皇太孫という。」と規定しています。

立太子の礼を行うことを勅旨(「天子のおおせ。」(『角川新字源』))によって決めることについては,立儲令1条に「皇太子ヲ立ツルノ礼ハ勅旨ニ由リ之ヲ行フ」とありました。閣議決定によるものではありません。

さて,1916113日の賢所(かしこどころ)大前の儀の次第は次のとおり(実録第二241-242頁)。

 

 9時,天皇が賢所内陣の御座に出御御都合により皇后は出御なし,御拝礼,御告文を奏された後外陣の御座に移御される。925分,皇太子は賢所に御参進,掌典次長東園基愛が前行,御裾を東宮侍従亀井玆常が奉持し,御後には東宮侍従土屋正直及び東宮侍従長入江為守が候する。賢所に御一拝の後,外陣に参入され内陣に向かい御拝礼,天皇に御一拝の後,外陣の御座にお着きになる。天皇より左の勅語を賜わり,壺切御剣を拝受される。

   壺切ノ剣ハ歴朝皇太子ニ伝ヘ以テ朕カ躬ニ(およ)ヘリ今之ヲ汝ニ伝フ汝其レ之ヲ体セヨ 

 この時,陸軍の礼砲が執行される。皇太子は壺切御剣を土屋侍従に捧持せしめ,内陣及び天皇に御一拝の後,簀子(すのこ)に候される。935分,天皇入御。続いて皇太子が御退下,綾綺殿(りょうきでん)にお入りになる。この後,皇族以下諸員の拝礼が行われる。

 

「裕仁親王が,自らの立太子を国の内外に宣明」する,というような場面は無かったようです。

今次立皇嗣の礼においては,皇嗣に壺切御剣親授の行事は,立皇嗣宣明の儀とは分離された上で,皇室の行事として行われます。

しかしながら,皇后御欠席とは,何事があったのでしょうか。貞明皇后は,立太子の礼と同日の参内朝見の儀(立儲令7条に「立太子ノ礼訖リタルトキハ皇太子皇太子妃ト共ニ天皇皇后太皇太后皇太后ニ朝見ス」と規定されていました。)等にはお出ましになっていますから,お病気ということではなかったようです。

なお,今次立皇嗣の礼に係る朝見の儀においては,上皇及び上皇后に対する朝見は予定されていないようです(第10回天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典委員会の資料2)。

明治皇室典範16条本体に係る大正天皇の詔書については,次のとおり(実録第二242頁)。

 

 賢所大前の儀における礼砲執行と同時に,左の詔書が宣布される。

   朕祖宗ノ遺範ニ遵ヒ裕仁親王ノ為ニ立太子ノ礼ヲ行ヒ茲ニ之ヲ宣布ス

 

立儲令5条に「立太子ノ詔書ハ其ノ礼ヲ行フ当日之ヲ公布ス」とあったところです。

なお,今次立皇嗣の礼においては,立皇嗣宣明の儀の2日後(前記のとおり2020421日)に当初予定されていた宮中饗宴の儀が新型コロナ・ウィルス問題のゆえに取りやめになっていますが,191611月の立太子の礼に係る宮中饗宴の儀(立儲令8条に「立太子ノ礼訖リタルトキハ宮中ニ於テ饗宴ヲ賜フ」と規定されていました。)も「コレラ流行のため」その開催が同月3日から3週間以上経過した同月27日及び同月28日に延引されています(実録第二252頁)。延引にとどまらず取りやめまでをも強いた21世紀の新型コロナ・ウィルスは,20世紀のコレラ菌よりも凶悪であるようです。ちなみに,立太子の礼に係る宮中饗宴の儀の主催者は飽くまでも天皇であって,19161127日及び同月28日の上記宮中饗宴に「皇太子御臨席のことはなし。」であったそうです(実録第二252頁)。

 

4 明治皇室典範の予定しなかった「立皇嗣の礼」

ところで,以上,今次立皇嗣の礼について,明治皇室典範及び立儲令を参照しつつ解説めいたものを述べてきたところですが,実は,現行憲法下,天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)の成立・施行までをも見た今日,明治皇室典範及び立儲令の参照は,不適当であったようにも思われるところです。

「平成の御代替わりに伴い行われた式典は,現行憲法下において十分な検討が行われた上で挙行されたものであるから,今回の各式典についても,基本的な考え方や内容は踏襲」するのだとして,立太子の礼の前例を踏襲するものとして立皇嗣の礼を行うこととした安倍晋三内閣の決定は,保守的というよりはむしろ明治典憲体制における制度設計を超えた,明治皇室典範の裁定者である明治天皇並びに起案者である伊藤博文,井上毅及び柳原前光の予定していなかった革新的新例であったことになるようであるからです。

問題は,明治皇室典範15条の解説に係る『皇室典範義解』の次の記載にあります。

 

 今既に皇位継承の法を定め,明文の掲ぐる所と為すときは,立太子・立太孫の外,支系より入りて大統を承くるの皇嗣は立坊の儀文に依ることを(もち)ゐず。而して皇太子・皇太孫の名称は皇子皇孫に限るべきなり。

 

 天皇から皇太子又は皇太孫への皇位の直系継承とはならない場合,すなわち,今上天皇と秋篠宮文仁親王との間の皇位継承関係(「皇兄弟以上ノ継承」)のようなときには,以下に見るように,皇嗣は「践祚ノ日迄何等ノ宣下モナク」――立坊の儀文(これは立太子又は立太孫の場合に限る。)を須いず――「打過ギ玉フ」ことになるのだ,ということのようです。

 1887125日提出の柳原前光の「皇室法典初稿」を承けて,伊藤博文の「指揮」を仰ぐために作成された井上毅の「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々」(小島和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)178-179頁・172頁参照)に次のようにあるところです(伊藤博文編,金子堅太郎=栗野慎一郎=尾佐竹猛=平塚篤校訂『帝室制度資料 上巻』(秘書類纂刊行会・1936年)247-248頁)。

 

一,皇太子ノ事。

    皇太子ノ事ハ上代ノ日嗣御子ヨリ伝来シタル典故ナレバ之ヲ保存セラルハ当然ノ事ナルベシ。但シ左ノ疑題アリ。

甲,往古以来太子ノ名義ハ御父子ニ拘ラズシテ一ノ宣下ノ性質ヲ為シタリ。故ニ御兄弟ノ間ニハ立太弟ト宣命アルノ外,皇姪ヲ立坊アルモ亦太子ト呼ビ(成務天皇日本武尊ノ第2子ナル足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)立テヽ皇太子ト為ス,即チ仲哀天皇ナリ)従姪孫ノ天皇ヨリ族叔祖ヲ立坊アルモ亦太子ト呼ベリ(孝謙天皇ノ淳仁天皇ニ於ケル)。今皇位継承ノ順序ヲ定メラレ,皇子孫ナキトキハ皇兄弟(ママ)皇伯叔ニ伝フトセラレンニ,此時立太子ノ冊命アルベキ乎

    乙,若シ立太子ハ皇子,皇孫,皇姪ノ卑属親ニ限リ,其他ノ同等親以上ニハ行ハルベキニ非ラズトセバ,皇兄弟以上ノ継承ノ時ニハ践祚ノ日迄何等ノ宣下モナクシテ打過ギ玉フベキ乎。

      前ノ議ニ従ヘバ立太子ハ養子ノ性質ノ如クナリテ名義穏ナラズ,後ノ議ニ依レバ実際ノ事情ニハ稍ヤ穏当ヲ缺クニ似タリ。

      又履中天皇,反正天皇(皇弟)ヲ以テ儲君トシ玉ヒシ例ニ依リ,儲君ノ名義ヲ法律上ニ定メラレ宣下公布アルベシトノ議モアルベシ。此レモ当時ハ「ヒツギノミコ」ト称フル名号ハアリシナルベケレドモ,儲君ノ字ハ史家ノ当テ用ヒタルニテ,綽号ニ類シ,今日法律上正当ノ名称トハナシ難キニ似タリ。

此ノ事如何御決定アルベキカ(叙品ヲ存セラレ一品親王宣下ヲ以テ換用アルモ亦一ノ便宜法ナルニ似タルカ)。

        乙ニ従フ,一品親王ノ説不取

 

 朱記部分は,1888年まで下り得る「かなり後になっての書き込み」です(小嶋・典範179頁)。「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々」の冒頭には同じく朱記で「疑題中ノ重件ハ既ニ総理大臣ノ指揮ヲ得,更ニ柳原伯ノ意見ヲ酌ミ立案セリ。此ノ巻ハ存シテ以テ後日ノ考ニ備フ」とありました(『帝室制度資料 上巻』229頁)。

 前記部分で「(てつ)」は,「めい」ではなく,「兄弟の生んだ男子を称する」「おい」のことになります(『角川新字源』)。「従姪孫」は,いとこの孫(淳仁天皇から見た孝謙天皇)です。「伯叔」は「兄と弟」又は「父の兄と父の弟。伯父叔父。」という意味です(『角川新字源』)。「綽号(しゃくごう)」は,「あだな。」(同)。『日本書紀』の履中天皇二年春正月丙午朔己酉(四日)条に「立(みづ)()別皇子(わけのみこ)為儲君」とあります。小学館の新編日本古典文学全集版では「儲君」の振り仮名は「ひつぎのみこ」となっており,註して「「儲君」の初出。皇太子。」と記しています。

 井上毅は,卑属以外の皇嗣(卑属ではないので,世代的に,皇太()又は皇太()となるのはおかしい。)に「儲君」の名義を与えるべきかと一応検討の上,同案を捨てています。「皇太()については,「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫(●●)之ヲ継承ス」る原則(大日本帝国憲法2条)の下,皇兄弟は「皇子孫皆在ラサルトキ」に初めて皇位継承者となるのであって(明治皇室典範5条),兄弟間継承は例外的位置付けだったのですから,当該例外を正統化するような名義であって採り得ないとされたもののように筆者には思われます。(なお,『皇室典範義解』15条解説においては,「其の皇子に非ずして入て皇嗣となるも,史臣亦皇太子を以て称ふ〔略〕。但し,或は立太子を宣行するあり,或は宣行せざるありて,其の実一定の成例あらず。皇弟を立つるに至ては或は儲君と称へ(反正天皇の履中天皇に於ける),或は太子と称へ(後三条天皇の後冷泉天皇に於ける),或は太弟と称ふ(嵯峨・淳和・村上・円融・後朱雀・順徳・亀山)。亦未だ画一ならず。」と史上の先例を整理した上で,前記の「立太子・立太孫の外,支系より入て大統を承くるの皇嗣は立坊の儀文に依ることを須ゐず。而して皇太子・皇太孫の名称は皇子皇孫に限るべきなり。」との結論が述べられています。)また,宣下すべき名義として,「皇嗣」はそもそも思案の対象外だったようです。旧民法に「推定家督相続人」の語がありましたが,「皇嗣」はその皇室版にすぎないという理解だったものでしょうか。

 

5 明治皇室典範16条の立案経過

 

(1)高輪会議における皇太子・皇太孫冊立関係規定の削除

 「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々」については乙案が採用されることになり,それが後の明治皇室典範16条の規定につながるわけですが,1887320日のかの高輪会議(「明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)ニ関して」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.html,「続・明治皇室典範10に関して:高輪会議再見,英国の国王退位特別法,ベルギーの国王退位の実例,ドイツの学説等」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060127005.html)においては,実は,立坊(立太子又は立太孫)の儀は行わないものとする決定がされたもののようです。すなわち,当該会議の結果,当該会議における検討の叩き台であった柳原前光の「皇室典範再稿」にあった「第26条 天皇践祚ノ日嫡出ノ皇子アル時ハ直チニ之ヲ皇太子ニ冊立ス」及び「第27条 第24条〔太皇太妃,皇太妃及び皇后〕第25条〔皇太子及び皇太孫〕ノ諸号ハ冊立ノ日詔書ヲ以テ之ヲ冊立ス」の両条が削られているからです(小嶋・典範192頁)。恐らくは伊藤博文において,「皇太子・皇太孫は祖宗の正統を承け,皇位を継嗣せむとす。故に,皇嗣の位置は立坊の儀に由り始めて定まるに非ず」なので,そもそも立坊の儀は必要ないのだとの結論にその場においては至ったもの,ということでしょうか(伊東巳代治の「皇室典範・皇族令草案談話要録」には「嫡出ノ皇子ハ冊立ヲ待タスシテ皇太子為リ故ニ此2条〔26条及び27条〕ハ削除ス」とあります(小林宏=島善高編著『明治皇室典範(上) 日本立法資料全集16』(信山社出版・1996年)456頁)。)。(これに対して,柳原は削られた原案の作成者でありましたし,井上毅も,前記「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々」の記載からすると,立太子の宣下はあるべきものと考えていたはずです。)

「立太子の詔は始めて光仁天皇紀に見ゆ。」ということだけれども(『皇室典範義解』16条解説),そもそもの光仁期の先例自体余り縁起がよくなかったのだからそんなにこだわらなくともよいではないか,ということもあったものかどうか。すなわち,「天皇の即位とほぼ同時に皇太子が定められ,原則としてその皇太子が即位するのが通例となってくるのは,じつは(こう)(にん)770781年)以後のことであり」(大隅清陽「君臣秩序と儀礼」大津透=大隅清陽=関和彦=熊田亮介=丸山裕美子=上島享=米谷匡史『古代天皇制を考える』(講談社・2001年)68頁),「(こう)(にん)天皇即位白壁一人であった井上(いのうえ)内親王(ないしんのう)聖武天皇(あがた)犬養(いぬかい)(うじ)皇后(おさ)()親王皇太子と」,「772年(宝亀三),藤原(ふじわらの)百川(ももかわ)策謀皇后・皇太子罪(冤罪(えんざい)可能性れ」(大隅69頁),後に不審死しているところです(他戸親王に代わって皇太子に立ったのが,光仁天皇の後任の桓武天皇でした。)。

  

(2)皇太子・皇太孫冊立関係規定の復活から明治皇室典範16条まで

 高輪会議後,柳原は,18874月に「皇室典範草案」を作成し(小嶋・典範202頁),同月25日に伊藤博文に,同月27日に井上毅に差し出しています(小林=島83頁(島))。そこでは「天皇践祚ノ日嫡出ノ皇子アル時ハ直チニ皇太子ト称ス 刪除」とされつつ(小嶋・典範203頁),小嶋和司教授によれば当該草案では前月の高輪会議における「皇室典範再稿」26条(「二六条」)に係る削除決定が無視されていたとされています(小嶋・典範204頁)。「皇室典範再稿」26条に係るものである皇太子冊立関係規定が再出現したものかのようですが,ここで小嶋教授の記した「二六条」は,「二七条」の誤記であったものと解した方が分かりやすいようです。(すなわち,上記柳原「皇室典範草案」においては,「第3章 貴号敬称」に,第16条として「天皇ノ祖母ヲ太皇太后母ヲ皇太后妻ヲ皇后ト号ス」との規定,第17条として「儲嗣タル皇子孫ヲ皇太子皇太孫ト号ス」との規定が設けられ(小林=島459頁),これらを受けて第18として「前両条ノ諸号ハ冊立ノ日詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と規定されていたところです(小林=島460)。なお,井上毅の梧陰文庫に所蔵(小林=島83頁(島))の同草案18条には井上の手になるものと解される(小林=島219)朱書附箋が付されており,そこには「18条修正 皇后及皇太子皇太孫ヲ冊立スルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス此ノ1条ノ目的ハ冊立ニ在テ尊号ニ在ラザルヘシ故ニ17条ヲ併セ第4章ニ加ヘ4章ヲ以テ成年立后立太子及嫁娶トスヘシ4章の章名を「成年嫁娶」から「成年立后立太子」にせよの意〕」と記されていました(小林=島460)。嫡出ノ皇子ハ冊立ヲ待タスシテ皇太子為リ故ニ此2条〔26条及び27条〕ハ削除ス」と高輪会議ではいったん決めたものの,嫡出ノ皇子の当然皇太子性との関係で冊立に重複性が生ずるのは「皇室典範再稿」の第26の場合であって,庶出の皇子にも関係する同27条の冊立規定までをも削る必要は実はなかったのではないですか,とでも伊藤には説明されたものでしょうか。

 その後の井上毅の77ヶ条草案には「第19条 皇后及皇太子皇太孫ヲ冊立スルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」という条項があり,柳原の「皇室典範再稿」27条に対応する規定の復活が見られます(小嶋・典範213頁。前掲の柳原「皇室典範草案」18条に係る朱書附箋参照)。77ヶ条草案の第19条は,1888320日の井上毅の修正意見の結果(小嶋・典範210-211頁),「第17条 皇后及皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と改まり,その理由は井上によって「冊立トハ詔書ヲ以テ立ツルノ意ナリ故ニ1文中重意ヲ覚フ」とされています(小嶋・典範213頁)。1888525日から枢密院で審議された明治皇室典範案においては「第17条 皇后又ハ皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」となっています(小嶋・典範228頁)。

 上記枢密院提出案に対して,柳原前光は1888524日に「欽定皇室典範」といわれる意見を伊藤博文に送付しています(小嶋・典範236頁)。枢密院提出案17条に対する「欽定皇室典範」における柳原の修正は,章名を「第3章 成年立后立太子」から「第3章 成年冊立」とした上で(理由は「立后,立太子ト題シ,太孫ノコトナシ,故ニ冊立ト改ム。」),「冊立ノ字,題号ニ応ズ」という理由で「第17条 皇后又ハ皇太子,皇太孫ヲ冊立スルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」とするものでした(『帝室制度資料 上巻』143-144頁)。前記井上毅の77ヶ条草案19条とほぼ同じ文面となっています。

 更に1889110日,柳原から伊藤博文に対し,明治皇室典範案に係る帝室制度取調局の修正意見書が送付されます(小嶋・典範247頁)。そこには,第3章の章名を「第3章 成年立后立太子孫」とし,第17条については「第17条 皇后皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ宣布ス」とすべきものとする意見が含まれていました(『帝室制度資料 上巻』5-6頁)。

 最終的な明治皇室典範16条は,前記のとおり,「皇后皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」との条文になっています。

 6 みたび,柳原前光の「深謀」

 筆者としては,高輪会議で一度消えた立坊の儀について定める条文の復活(明治皇室典範16条)も,柳原前光の深謀であったものと考えたいところです。(「伊藤博文の変わり身と柳原前光の「深謀」」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065458056.html

 

(1)「帝室典則」に関する宮中顧問官らの立坊論

 明治皇室典範に係る有名な前記高輪会議が開催された1887年の前年のことですが,1886年の610日の宮内省第3稿「帝室典則」案の第1は,「皇位ハ皇太子ニ伝フヘシ」と規定していました(小嶋和司「帝室典則について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』138頁)。当該「帝室典則」610日案に係る宮中顧問官による評議を経た修正を記録した井上毅所蔵(梧陰文庫)本には,上記第1について,次のような朱書註記(記載者を示す史料はなし。)があったところです(小嶋・典則159-160頁,161)。(なお,当該第1については,宮中顧問官の評議の結果,「第1」が「第1条」になりましたが,文言自体には変更はありませんでした(小嶋・典則150頁)。)

 

  皇太子ハ冊立ヲ以テ之ヲ定ム嫡長男子ノ立坊ハ其丁年ト未丁年トヲ問ハズ叡旨ヲ以テ宣下

  庶出長皇子ノ立坊ハ皇后宮御受胎有ルマシキ御年齢ニ至ラセラレタル上宣下

  庶出皇子立坊ノ後若シ皇后宮受胎降誕在ラセラルトモ其為メ既ニ冊立ノ太子ヲ換フルヘカラス

 

当該朱書註記は「610日案への青色罫紙貼付意見に答えるもので,おそらく顧問官評議において右のように諒解され,それが記載されたのであろう。」というのが,小嶋和司教授の推測です(小嶋・典則161頁)。

「帝室典則」610日案の第1への「青色罫紙貼付意見」(何人の意見であるか不明(小嶋・典則147頁))とは,「立太子式有無如何/其式無之(これなく)シテ太子ト定ムル第6条ノ場合差支アルカ如シ」というものでした(小嶋・典則150頁)。

「帝室典則」610日案の第6は「凡皇子孫ノ皇位ヲ継承スルハ嫡出ヲ先ニス皇庶子孫ノ位ヲ嗣クハ皇嫡子孫在ラサルトキニ限ルヘシ/皇兄弟皇伯叔父以上ハ同等皇親内ニ於テ嫡ヲ先ニシ庶ヲ後ニス」というもので(小嶋・典則140頁),これに対する「青色罫紙貼付意見」は「庶出ヲ以テ太子トセル際後ニ嫡出アラハ前ニ太子ヲ称セシヲ廃スルカ如何」というものでした(小嶋・典則152頁)。

「帝室典則」610日案の第6には,宮中顧問官の評議の後,第63項として「嫡出庶出皆長ヲ先ニシ幼ヲ後ニス」が加えられていますところ(小嶋・典則152頁(また,第1項の「ヘシ」も削られています。)),専ら,皇后に皇子が生まれていない状態(「皇嫡子孫在ラサル」「6条ノ場合」)が続く場合,皇位継承順位第1位の皇族(前記朱書においては,側室から生まれた庶出の最年長皇子)はいつまでも皇太子にならないまま践祚を迎えることになってしまうのではないか,という具体的問題意識が宮中顧問官の間にあったということになるようです。

せっかく天皇に皇子があるのに,庶出であるばかりに,いつ皇后が皇子を生むか分からないからということで皇太子不在という状態を続けてよいのか,やはりどこかで区切りを付けて当該庶出の皇子を皇太子に冊立すべし,ということのようです。しかし,いったん庶出の皇子を皇太子に冊立した後に皇后が嫡出の皇子を生んでしまうと大変なので(さすがに,いったん皇太子となった皇子について廃太子の手続を執るというのはスキャンダラスに過ぎるでしょう。),「庶出長皇子ノ立坊ハ皇后宮御受胎有ルマシキ御年齢ニ至ラセラレタル上宣下」というように皇后に受胎能力がなくなったことを十分見極めてから皇太子冊立をしましょうね,ということになったようです。とはいえ,当の皇后にとっては,失礼な話ですね。明治の宮中顧問官閣下ら(川村純義・福岡孝弟・佐々木高行・寺島宗則・副島種臣・佐野常民・山尾庸三・土方久元・元田永孚・西村茂樹(小嶋・典則146))も,令和の御代においては,ただのセクハラおじいちゃん集団歟。

 

(2)柳原の「帝室典則修正案」における立坊関係規定の採用

その後(ただし,1886107日より前)柳原前光が作成した「帝室典則修正案」においては(小嶋・典則166-167頁),その第9条に「皇太子皇太孫ト号スルハ詔命ニ依ル」という規定が置かれました(小嶋・典則164頁)。同条の規定は,直前の「帝室典則」案には無かったものです。小嶋教授は,「「典則」での採択を覆すもの」と評しています(小嶋・典則166頁)。すなわち,「帝室典則」に先立つ1885(小嶋・典則64「皇室制規」の第10には「立太子ノ式ヲ行フトキハ此制規ニヨルヘシ」との規定があったのですが,当該規定は「帝室典則」では削られていたところです(小嶋・典則125頁・140頁・153)。とはいえ,「帝室典則」案に対する宮中顧問官の評議を経た修正結果においては,2条ただし書として「但皇次子皇三子ト雖モ立坊ノ後ハ直ニ其子孫ニ伝フ」との規定が設けられてありました(小嶋・典則151頁。下線は筆者によるもの)。

「帝室典則修正案」に,前記の「皇室法典初稿」(1887125日)が続きます。

 

(3)嘉仁親王(大正天皇)の立太子

庶出ではあるが唯一人夭折を免れた皇子である嘉仁親王(後の大正天皇)について,明治皇室典範裁定後の1889113日,立太子の礼が行われました。明治天皇の正妻である昭憲皇太后は,その日満40歳でした。(なお,嘉仁親王は,その8歳の誕生日である1887831日に,既に昭憲皇太后の実子として登録されていたところではあります(奥平康弘『「萬世一系」の研究(下)』(岩波現代文庫・2017年)16頁等参照)。ちなみに,1886年の「帝室典則」610日案第7には「庶出ノ皇子皇女ハ降誕ノ後直チニ皇后ノ養子トナス」とあったところ(飽くまでも養子です。),同年中の顧問官評議を経て当該規定は削られており,その間副島種臣から「庶出ト雖嫡后ヲ以テ亦母ト称ス」との修正案が提出されていたところです(小嶋・典則140頁・153)。

ところで,嘉仁親王の生母である愛子の兄こそ,柳原前光おじさんでありました。

 

7 現行皇室典範における立坊関係規定の不在と立太子の礼の継続

庶出の天皇が践祚する可能性を排除した現行皇室典範においては,明治皇室典範16条に相当する立太子・立太孫関係規定は削られています。

しかしながら,庶出の天皇(皇族)の排除と立坊関係規定の不在との間に何らかの関係があるかどうかは,194612月の第91回帝国議会における金森徳次郎国務大臣の答弁からは分からないところです。同大臣は,立太子の礼に関しては,立太子の儀式を今後も行うかどうかは「今の所何らまだ確定した結論に到達しておりません。」(第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会議録(速記)第422頁),「決まっておりません。」(同会議録23頁),「本当の皇室御一家に関しまするものは,是は法律は全然与り知らぬ,皇室御内部の規定として御規定になる,斯う云ふことになつて居りますが,さうでない,色々儀式等に関しまする若干の問題は,今まだ具体的に迄掘下げては居りませぬけれども,例へば立太子の式とかなんとか云ふ方面を考へる必要が起りますれば,それは多分政令等を以て規定されることと考へて居ります」(第91回帝国議会貴族院皇室典範案特別委員会議事速記録第27頁)というような答弁のみを残しています。立太子・立太孫ないしは立皇嗣の礼に係る立儲令のような政令等の法令は,いまだ存在していないところです。
 194612月段階では行われるかどうか未定でしたが,立太子の礼を行うことは継続されることになりました。

1952年(昭和271110日,〔現上皇〕皇太子継宮(つぐのみや)明仁(1933-)の立太子礼が,旧立儲令に従って挙行され,報道機関は,皇室は日本再興のシンボル,と書き立てた。内閣総理大臣吉田茂は,立太子礼の寿()(ごと)で「臣茂」と名乗り,その時代錯誤ぶりで,世人を驚かせた。」とのことです(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)207-208頁)。「旧立儲令に従って」とのことですが,立儲令附式には賢所大前の儀において内閣総理大臣が「御前に参進し,寿詞を述べる」ということは規定されておらず,臣下の分際で立太子の礼にしゃしゃり出てよいものかどうか,吉田茂は恐懼したものでしょう。

 

(追記)

なお,19521110日の立太子の礼宣制の儀に係る式次第は,次のとおりでした(宮内庁『昭和天皇実録 第十一』(東京書籍・2017年)445-446頁)。当該式次第は,「旧立儲令に従って」はいません。

 

 午前11時より表北の間において,立太子の礼宣制の儀を行われる。黄丹袍を着して参入の皇太子〔現上皇〕に続き,〔香淳〕皇后と共に〔昭和天皇は〕同所に出御される。ついで宮内庁長官田島道治が宣制の座に進み,次の宣制を行う。

  昭和271110日立太子ノ礼ヲ挙ケ明仁親王ノ皇嗣タルコトヲ周ク中外ニ宣ス 

次に皇太子より敬礼をお受けになる。ついで内閣総理大臣〔吉田茂〕より寿詞をお受けになり,入御される。

 

 ところで,1916113日の詔書の前例及び1989223日のおことばの後例に鑑みても,「皇太子」を立てることに係る立太子の礼における宣制中の「皇嗣タルコトヲ」の部分は,田島長官が余計,かつ,儀式の本来の趣旨からすると不正確なことを言った,ということにならないでしょうか。皇太子であれば,皇嗣たることは自明です。19521110日の宣制の考え方は,立太子の礼とは,某親王が皇嗣であること(皇太子であること,ではない。)をあまねく中外に宣するための儀式である,ということでしょうか。

 令和の御代における立皇嗣の礼催行の正統性は,この辺において見出されるべきものかもしれません。そうであれば,吉田茂内閣の「時代錯誤」とは,明治典憲体制への退行というよりも,令和・天皇の退位等に関する皇室典範特例法体制を先取りしたその先行性にあったということになるのでしょう。

 しかし,この先見の功は,吉田茂一人に帰して済まし得るものかどうか。19521114日には,昭和天皇から「皇太子成年式及び立太子の礼に当たり,皇太子のお言葉及び宣制の起草に尽力した元宮内府御用掛加藤虎之亮東洋大学名誉教授に金一封を賜う。」ということがあったそうです(実録第十一453頁。下線は筆者によるもの)。

 19331223日の明仁親王誕生までの昭和天皇の皇嗣は弟宮の雍仁親王(1902625日生。秩父宮)であったところですが,雍仁親王は1940年以降胸部疾患により神奈川県葉山町,静岡県御殿場町及び神奈川県藤沢市鵠沼の別邸での長期療養生活を余儀なくされ,皇太子明仁親王が「皇嗣タルコトヲ周ク中外ニ宣ス」る宣制がせられた儀式に病身をおして参列した195211月の翌月である同年「12月より容態が悪化し」,195314日午前220分に薨去せられています(実録第十一447, 479-481頁)。


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旧秩父宮ヒュッテ(札幌市南区空沼岳万計沼畔)



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 空沼岳山頂(札幌市南区) 
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 空沼岳山頂から見る恵庭岳
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 空沼岳から見る札幌岳,その奥に余市岳(札幌市最高峰)


1 『山の大尉』と山岳兵とキスリング・ザック

 『山の大尉』という山の歌があります。元はイタリアの歌(Il testamento del capitano)だったもので,訳詞に「イタリア皇帝」などが出てきます。

 死体を五つに切れとかグロいなぁ,死体の一部を貰ったって迷惑なだけだし嬉しくないぞ,薔薇の肥やしにするといったってかえって山の植生を乱し高山植物に悪影響を与えることになるではないか,そもそも登山(ザング)()が無ければ山で満足に行動できないのは当然であるリソルジメントで成立したサルジニア王家のイタリア統一国家はイタリア「王国」であってイタリア「帝国」ではないぞ,などと突っ込むところの多い歌でしたが(訳詞者の牧野文子様,ごめんなさい。)これをあえて調子を外して歌うのが,筆者の属していたワンダーフォーゲル部ではかわいらしくておしゃれであるものとされていました。

 山の大尉殿の部下は,山岳兵(alpini)。

他に娯楽の無い山の中で何度も『山の大尉』をがなり立てているうちに,筆者らも自分たちがサンガクヘーであるような気持ちになっていました。

 互いに「〇〇ヘー」「××ヘー」と呼び合っているうち,大量の食糧・装備をキスリング・ザックに入れて背負って(重量の圧迫で肩のあたりの神経がやられるのでしょう,腕が動かなくなる「ザック麻痺」というのがありました。)長期間道なき山のその奥で藪また藪を漕ぎ消耗(ショーモー)する夏合宿中,動きが鈍くなって「果て」かけた仲間に対して,「△△ヘー ハ シンデモ ザツク ヲ ハナシマセン デシタ」と呼びかけたり,あるいは疲労の中で苦笑しながら自ら言ったりすることがはやることになりました。無論これは,木口小平の故事にならったものです。

 

  キグチコヘイ ハ テキ ノ

  タマ ニ アタリマシタ ガ,

  シンデモ ラツパ ヲ

 クチ カラ ハナシマセン

  デシタ。

 

 この木口喇叭手の壮烈な戦死があったのが,日清戦争の陸上における初戦(我が騎兵第五大隊第一中隊による1894年7月26日の七原南方におけるロバ捕獲戦を除く。)たる1894年7月29日の成歓の戦いだったのでした。

 

2 今回の記事の対象

 筆者の母方の曽祖父の残した「由緒」書きにおける下記日清戦争関係の記載に係る考証話の第5回は,成歓・牙山の戦いを取り扱います。果たして筆者の曽祖父は,命の限りラッパを吹く木口小平のそのラッパの響きを聞いたのでしょうか。

 

明治26年〔1893年〕11月1日徴兵ニ合格シテ騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ〔第1回はここまで〕

明治27年〔1894年〕6月朝鮮国ニ東学党蜂起シ韓国居留民保護ノ目的ヲ以ツテ(どう)年6月11日混成旅団ヲ編成セラ(ママ)大島義昌少将ヲ旅団長トシ平城盛次少尉ヲ小隊長トシ選抜セラレテ山城丸ニ乗舶シ宇品港出帆玄海灘ヲ経テ仁川ニ向フ此ノ日山陽鉄道広島駅()()開通ノ日ナリ〔第2回はここまで〕

明治27年8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル

〔第3回はここまで〕仝7月23日京城ノ変ニ出張爾来〔前回はここまで〕成歓ニ牙山ニ〔今回はここまで〕平壌義洲鴨緑江鳳凰城(ママ)馬集崔家房(ママ)家台竜頭塞興隆勾瀇嶺海城牛荘田庄台ト転戦ス

明治27年9月15日大本営ヲ広島旧城エ進メ給ヘリ

明治28年〔1895年〕6月5日講和トナリ凱旋

仝年1112日日清戦役ノ功ニ依リ瑞宝章勲八等及び金50円幷ニ従軍徽章下賜セラル 

明治29年〔1896年〕1130日善行証書ヲ授与セラレ満期除隊トナル

 

3 「シンデモラツパヲ」その1:木口小平

 

(1)安城渡の戦いとラッパの響き

 

ア 佳龍里附近(安城渡)の戦い

 成歓の戦いにおける木口小平の戦死の様子が小学校児童にどのように教えられていたかというと,1912年5月に宝文館から出た東京高等師範学校訓導相島亀三郎の『尋常小学修身書例話原拠』という書物があります。同書の「第17 忠義」の「例話 木口小平」の項においては(1014頁),我が成歓攻撃右翼隊(我が軍は漢城から南下して素沙場を経て更に南の成歓に向かい,その際右翼隊及び左翼隊(大島義昌旅団長はこちら)の二手に分かれて進んだので,右翼隊は西側の部隊になります。)の佳龍里(安城川を越えたその南方)附近における戦闘(一般に「安城渡の戦い」といわれています。)の模様を,参謀本部の『明治廿七八年日清戦史 第1巻』(1904年8月)に拠って述べて(相島1112頁),その後に当該戦闘における木口二等卒の戦死状況の描写を付加する順序となっています(相島1314頁)。

 参謀本部『明治廿七八年日清戦史 第1巻』による佳龍里附近の戦闘に関する叙述は次のとおりです(140142頁)。なお,適宜句読点濁点を補うとともに,混成旅団報告第21号「混成旅団戦闘詳報」(アジア歴史資料センター)で補充します(青字)。

 

  又,右翼隊ハ,歩兵第二十一聯隊第十二中隊(長,大尉松崎直臣)〔原書の小文字2行の割注を括弧書きに改めています。〕ヲ以テ前衛(司令官,大尉山田一男(第三大隊長代理))ト為シ,自余ノ諸隊〔「第十第七第九中隊及ヒ工兵中隊(1小隊欠)」(詳報)〕ハ本隊トナリ,29日午前2時(すぎ)素沙場ヲ出発シ銀杏亭高地ニ向ヒ全州街道ヲ前進ス(たま)(たま)満潮ニ際シ,(こと)ニ河川,沼沢多クハ氾濫シ為メニ道路ト水田トヲ弁別スル(あた)行進極テ困難ナリ(しか)シテ尖兵(第十二中隊ノ第二小隊)(かろ)(ママ)テ佳龍里〔「秋八里北方(ママ)6百米突(メートル)ノ「キリン」洞」(詳報)〕附近ニ達スルヤ(午前3時20〔「3時5分」(詳報)〕),(たちま)チ前方約30米突(メートル)ニ於ケル諸家屋内(および)家屋ノ間ヨリ猛烈ナル射撃ヲ受ケタリ〔「敵2大隊(ばかり)(旗2本〔「」の文字を記した旗〕)家屋ニ防禦編制ヲナシ我尖兵10米突(メートル)(ばかり)近接スルヲ待チテ不意ニ急射撃ヲ為セリ(詳報)(より)テ尖兵ハ(ただち)ニ現場(屋後ノ畑地)ニ伏臥シ(これ)ニ応戦ス(第十二中隊長松崎大尉ハ,行進路ヲ確カメンガ為メ(あたか)モ尖兵ノ位置ニ()(この)(とき)自ラ(これ)ヲ指揮セリ〔略〕。)〔「前衛中隊ハ(ただち)ニ田畔ニ散開シ急射撃ヲ行」(詳報)〕

  交戦約10分ノ後,尖兵長山田少尉〔歩兵第二十一聯隊第十二中隊小隊長陸軍歩兵少尉山田四郎(参謀本部・附録第14ノ2)〕()傷ツキ(つい)松崎大尉敵弾ヲ受ケテ(たお)兵卒ニモ(また)数名ノ死傷アリ(しょう)時ニシテ本隊ハ尖兵ノ右側後方ニ達シ(その)(かん)(せい)ヲ揚テ前進スルヤ(本隊ハ,尖兵ト敵ト接触シ()ルヲ認メタルガ故ニ危険ヲ(おもんぱか)リテ射撃ヲ為サズ。(ただ)(ただ)喊声ノミヲ発シテ前進シタリ。),敵兵ノ過半ハ射撃ヲ本隊ノ方向ニ転ゼリ〔「本隊の3中隊ハ漸次右翼ニ至リ工兵中隊ハ後方河川ノ堤防ニ拠レリ敵ノ射撃ハ漸次(さか)ンニナレリ」(詳報)〕須臾(しゅゆ)ニシテ第十二中隊ノ第一,第三小隊ハ佳龍里ノ北方約100米突(メートル)ノ地〔参謀本部142143頁間の地図を見ると尖兵の左後方〕ニ達シ,射撃ヲ開始セリ。〔相島12頁の紹介はここまで〕

  (これ)ヨリ先キ右翼隊司令官武田中佐〔歩兵第二十一聯隊長武田秀山歩兵中佐〕前方ニ銃声ヲ聞クヤ(ただち)ニ其戦況ヲ観察シタル後()(おの)レノ身辺ニ()リシ一上等兵ニ十数名ノ兵ヲ附シテ応援セシメ本隊ニハ右ニ迂回シテ敵ノ左翼ヲ攻撃スキヲ命(この)時,歩兵中尉時山龔造ハ,約3分隊ノ兵員ヲ率テ敵ノ左翼ニ向ハントシ,右方ニ折レ細径ヲ経テ前進シ,一水壕ノ(その)前方ニ(よこたわ)レルニ会シ徒渉シテ進マント欲シ,()自ラ(おどりいり)テ水中ニ入ルヤ部下相続キテ壕心ニ到ル。(この)()ト水多ク,且ツ,河床泥深ク,遂ニ進退ノ自由ヲ失ヒ,中尉以下23名此ニ溺死ス。)。3時30(すぎ)本隊ノ第七中隊及第十中隊(へん)列シテ右方ニ展開シ(つい)前進シ第十二中隊ノ右方ニ達シテ急射撃ヲ行ヒ〔「3時25分第十第七中隊各1小隊ヲ散兵線ノ右翼ニ増加シテ急射撃ヲナセリ」(詳報)〕,4時ニ至リ本隊ノ3中隊ハ敵ノ左翼ニ向テ突撃ヲ行フ。敵兵支ル(あた)南方水田中ヲ跋渉シテ成歓方向ニ敗走ス第十二中隊ハ(すなわ)チ部落ノ南端ニ出テ追撃射撃ヲ行ヘリ〔「(ママ)45分本隊ノ3中隊ハ敵ノ左翼ニ向テ突撃ヲ行ヒ敵兵秋八里ニ退却ス(この)際暗黒ニシテ彼我(ひが)ノ区分判然セス為メニ充分射撃ヲナス(あた)ハサリシ」(詳報)〕

  (この)間武田中佐ハ工兵中隊ヲ招致シ佳龍里部落内ニ敵兵ノ有無ヲ捜索セシテ(つい)諸隊ヲ集合ス(佳龍里ニ在リシ清国兵ハ約百名ニシテ,戦闘少時前成歓ヨリ派出シタルモノナラン。)〔「4時5分集合ヲ命シ各家屋内ヲ捜索セシメ敵兵2名ヲ生獲シタリ/(この)戦闘間カ右翼隊ニ死傷者ヲ生セシ(もっとも)多キ時(なり)」(詳報)〕(しか)シテ午前5時20分,第七中隊(長,大尉田辺光正)ヲ前衛ニ任ジ,当初ノ目的地タル銀杏亭高地ニ向テ佳龍里ヲ出発ス。

 

ラッパの響きの存在は,参謀本部の『明治廿七八年日清戦史』にも混成第九旅団の「混成旅団戦闘詳報」においても言及されていません。

 

イ ラッパの響き

ただし,佳龍里附近の戦いでラッパの響きを聞いたとの従軍記者の報告があります。西川宏『ラッパ手の最後―戦争のなかの民衆―』(青木書店・1984年)において,次のように紹介されています(133135頁)。

 

  大阪毎日新聞の高木利太特派員は,素(ママ)出発のときは右翼隊の後尾にあったが,歩行中水田に転落したので,わらじの緒をしめている間に一行にはぐれ,走って追い着いたところは先鋒軍(前衛である松崎中隊であろう―西川)の後尾であった。彼が危険な位置に来てしまったことを後悔したとき,

    数発の銃声数条の火線を飛ばして暗黒を破るとみるや轟然響を放って発銃は一秒一分愈(さかん)にして火条は右往左往又た縦横無尽開て破裂するあり走って消失するあり高く飛んで雲を磨するあり低く落ちて地に入るあり

     〔略〕

    兎角する程に余の身辺にヒュヒュと弾丸の走る音して危険極りなし暫くは道路に横臥して弾丸を避けたるも時を経るに従って飛散益甚し則ち慌てて水田の中に飛入って腰部を湿すを意とせず畦に拠って身体を隠し時に首も伸して戦争の光景如何に勝負は如何と眺めたり

    銃声漸く減じたる頃ろ喇叭の楽高く聞ゆ吶喚(とつかん)次で大に起る・・・銃声は再び回復されたり縦横左右に飛奔する火条は再び現はれたり然れども暫時にして亦た衰へぬ敵か味方か如法の暗なれば判然せねど一方の射撃は頗る減少せり之を見て取ったる一方は〇〇〇〇より銃声一度に響くこと再度此急激なる発銃は全く戦の終りを告げ後は彼処に五六発此所に三四発又も〇〇〇〇の進行喇叭は一層高く響き吶喚益高し而して銃声は全く憩ひぬ時は天漸く明にして山現はれ家現はれ森林見ゆ(『大阪毎日新聞』8月9日付)

時に5時であった。高木記者は,この戦闘の開始を3時40分と記しているが,『戦史』は3時20分としている。後者の方が正しいと思われる。〔略〕

東京日日新聞の黒田甲子郎特派員は,このとき右翼枝隊に付随していたというから,本隊すなわち第九中隊か第七中隊の中にあったと思われるが,橋を渡ろうとした一刹那,銃撃が始まった。

    我が枝隊は画策未だ全からずして開戦を促され一時喫驚せし色ありしも予てより斯くあるべしと覚悟せしことなれば之に応じて接戦すること殆ど1時間・・・敵兵の銃声多きと我が軍隊の地理に熟せずして掩蔽物(えんぺいぶつ)を利用すること(あた)はざるとの二点よりして我が軍隊に死傷多からんと思ひ居たりしに暫くにして((ママ))翼枝隊の一部は少く((ママ))進し(ちょ)水中に陥りたる兵士十数名は最も憐なる態にて退き来たるを以てこは必竟枝隊の敗戦と見受けられたり遺憾何ぞ極まらん何がな回復の策もあれがしと独語しつる折柄,我が軍隊が吶喊の声は天地も撼かさんまでの響きしたり我進軍喇叭の音は銃声霹靂(へきれき)の中にも最も朗かに聞えたり吶喊(こもご)も響きて音声稍遠ざかり敵の発射漸く減じたり(『東京日日新聞』8月14日付)。

そしてこのとき東の空が明るくなっている。黒田はこの戦闘を「殆ど1時間」と記しているが,時間を正確にはかっていないのであるから,ただ感じからいっているにすぎない。

 

 参謀本部の『明治廿七八年日清戦史』によれば,右翼隊の本隊(第二十一聯隊第十,第七及び第九の3中隊)による吶喊がまずあり,その後になってまた当該本隊による最終的な突撃があったということですから,これは高木記者の2度「吶喚」及びラッパ吹鳴があったとの証言(「銃声漸く減じたる頃ろ喇叭の楽高く聞ゆ吶喚(とつかん)次で大に起る」及び「〇〇〇〇の進行喇叭は一層高く響き吶喚益〻高し而して銃声は全く憩ひぬ時は天漸く明にして」)と符合するようです。1回目の「吶喚」及びラッパ吹鳴が「霎時ニシテ本隊ハ尖兵ノ右側後方ニ達シ其喊声ヲ揚ケテ前進スルヤ(本隊ハ尖兵ト敵ト接触シ在ルヲ認メタルカ故ニ危険ヲ慮リテ射撃ヲ為サス唯〻喊声ノミヲ発シテ前進シタリ)敵兵ノ過半ハ射撃ヲ本隊ノ方向ニ転セリ」の場面に対応し,2回目の「吶喚」及びラッパ吹鳴が「4時ニ至リ本隊ノ3中隊ハ敵ノ左翼ニ向テ突撃ヲ行フ敵兵支ル能ハス南方水田中ヲ跋渉シテ成歓方向ニ敗走ス」の場面に対応するわけでしょう。そうであれば,木口小平は,「吶喊」し,「突撃」をした右翼隊本隊を構成する三つの中隊である歩兵第二十一聯隊の第十,第七又は第九中隊のいずれかに所属するラッパ手であったということになりそうです。


(2)木口小平の戦死

しかしながら,相島亀三郎の『尋常小学修身書例話原拠』における木口小平戦死の描写は次のとおりです(1314頁)。

 

  第二十一聯隊附松崎大尉は,第十二中隊を以て前衛とし,闇夜に乗じて,成歓の城塁さして進み行く,木口小平は,其尖兵となり,勇気を奮ひて前に立ち,盛に突進の喇叭を吹奏す,敵の打出す砲弾は益々激しき中を,我は僅に二十余人のみにして如何ともなし難し,木口小平は,二等卒の身にありながら,勃然たる勇気抑へ難く,敵前五六間の処に進み出て,進め進めと吹奏して,我軍の勇気を振興せしむ,我軍は此勇気に励まされて突進し,遂に敵兵を破る。時に今まで吹き続けたる喇叭の音は俄かに絶えければ,怪しみて之れを見るに,小平は敵弾に中りて勇ましき戦死を遂げたるなりき。其死骸を取片くるに及びてよく見るに,小平は喇叭をしかと握り,之れを口に当てたる儘正しき姿勢をくづさずして斃れ居たり。人之れを見て感嘆せざるはなかりき。嗚呼,忠烈なる小平,死に至るまで己れの任務を尽したる,誠に幾千歳の亀鑑となり,長へに護国の神たらん。小平は実に岡山県川上郡成羽村の産なり。

 

 なお,相島亀三郎の『尋常小学修身書例話原拠』の記述は,上記に続いて直ちに「第19 うそをいふな」と警告します(14頁)。

 さてさて,木口小平は第十二中隊の兵卒でありました。(なお,長岡常男『木口小平』(木口小平伝記刊行所・1932年)5051頁には「第五師団司令部保管の歩兵第二十一聯隊戦死者名簿には左の如く記載し明確に小平の偉勲を証拠立てゐる。」としつつ「歩兵第二十一聯隊第十一(ママ)中隊喇叭卒/木口小平/安城渡に於て左胸部銃創貫通即死」との記載がされていますが,これは校正が甘過ぎます。歩兵第二十一聯隊第十一中隊は,成歓の戦いの当時は遠く仁川兵站守備隊に属していました(参謀本部127頁)。)

 しかし,相島訓導の記述は,まずい。「第二十一聯隊附松崎大尉は,第十二中隊を以て前衛とし,闇夜に乗じて,成歓の城塁さして進み行く,木口小平は,其尖兵となり,勇気を奮ひて前に立ち,盛に突進の喇叭を吹奏す」が,まずまずい。素沙場からラッパをずっと吹いていたのでしょうか。せっかく「闇夜に乗じて」いるのに,にぎやかに「盛に突進の喇叭を吹奏」していたのでは部隊行動の秘匿性はぶち壊しです。混成第九旅団の「混成旅団戦闘詳報」にも,「全団(ばい)(ふく)メ」とあったところです。また,第十二中隊はラッパの響きと共に佳龍里に「突進」したわけではなく,いきなり清国兵の銃撃を受けて不意をつかれたところでした(「一時喫驚」)。

さて,佳龍里附近の戦闘においては,尖兵の第二小隊は射すくめられて「直ニ現場(屋後ノ畑地)ニ伏臥」したのでしょうが,後方の第一小隊及び第三小隊は「直ニ田畔ニ散開」,すなわち高木記者のように「慌てて水田の中に飛入って腰部を湿すを意とせず畦に拠って身体を隠し」たように思われます。「敵の打出す砲弾は益々激しき中を,我は僅に二十余人のみにして如何ともなし難し」ということにはなるのですが,「木口小平は,二等卒の身にありながら,勃然たる勇気抑へ難く,敵前五六間の処に進み出て,進め進めと吹奏して,我軍の勇気を振興せしむ,我軍は此勇気に励まされて突進し,遂に敵兵を破る。」というのはどうでしょう。闇夜でラッパを吹けば当然そこに銃撃は集中し,しかも「敵前五六間」の至近距離であればあっという間に絶命でしょう。「我軍の勇気を振興せしむ」というよりは,その無残さは,畑地に又は田畦に伏臥していたであろう我が軍の兵士らに更に恐怖を与え,士気を阻喪せしめるだけではなかったでしょうか。そもそも,隊長の命令によらず,「勃然たる勇気抑へ難く」勝手に進軍ラッパを吹奏してしまってよいものでしょうか。また,現実には第十二中隊だけの「突進」で佳龍里の清国兵を追い払うことができたわけでもありません。

なお,相島訓導の表現からは,「成歓の城塁」の戦いにおいて木口小平が戦死したものとしているものとも読み得ますが,成歓駅自体を落としたのは旅団長率いる左翼隊であって,牽制役の右翼隊ではありません(参謀本部148頁)。

木口小平の屍体検案書が広瀬寅太編『岡山県人征清報国尽忠録』(岡山県愛国報公義会・1894年)に掲載されているそうですが(西川118頁),この「屍体検案書で注目すべきことは,「左胸乳腺の内方より心臓を貫き後内((ママ))に向ひ深く進入せる創管を認」め,死因を「左胸留丸銃創」と記していることである。弾が当たったのは咽喉ではないのである。そして弾丸が心臓が貫いている以上は即死と判断せざるをえない。」ということでした(西川146147頁)。更にいえば,伏臥の姿勢であるときに撃たれたわけではなさそうです。高い姿勢であるときに胸を撃たれたということになると,不意をつかれた最初の銃撃の時であるとも考えられます。しかしそれで直ちにパタリと斃れてしまっては,「シンデモ ラツパ ヲ クチ カラ ハナシマセン デシタ。」にはならず,困ったことになります。


4 「シンデモラツパヲ」その2:白神源次郎

 

(1)当初の白神源次郎説

とはいえ,木口小平が「シンデモ ラツパ ヲ クチ カラ ハナシマセン デシタ」状態で戦死していたかどうかは,最初から,はっきりしていなかったようです。1894年8月9日付け『東京日日新聞』の「戦闘遺聞」欄で「喇叭卒の一名は進軍喇叭を吹奏しつつ敵弾に斃れ斃れ,猶ほ管を口にし」たとの挿話が紹介され(西川31ページ),「29日我兵安城渡に向ふ我喇叭卒某進軍行を鼓吹すること劉喨(りゅうりょう)たり(たまた)ま飛丸あり彼が胸部を撃つ彼倒れて尚鼓吹を(とど)めず瞑目絶息に至り初めて吹奏を絶つ」と『日清戦争実記』第2編(博文館・1894年9月10日)の88頁(「凛然たる勇烈兵士の亀鑑」)に記事が出たラッパ手は,当初は白神源次郎であるとされていたのでした(なお,この氏は,「しろがみ」ではなく「しらが」と読むそうです(西川151頁)。)。

 

 成歓の役第五師団第廿一聯隊正に進軍の喇叭を奏す兵士銃を()つて突進し両軍砲声相交はる忽ち一丸飛来つて喇叭手白神源次郎(二十五年)の胸部を貫ぬく鮮血淋漓(しりえ)(どう)と倒れたれども白神は毫も屈する色なく手に喇叭を放さず喨々として凄まじき進軍喇叭の声を絶たずされども深痛(ふかで)に弱りて呼吸いよいよ迫り吹奏断続其声(いと)の如く次第々々に弱り行きて吹奏止むとき彼は已に絶息して最も名誉の戦死を為したりされば在韓将卒は皆其の勇猛義烈を称して哀惜殊に深かりしが此程其遺髪郷里備中国浅口郡船穂村大字水江に到着したるを以て去4日其葬儀を施行したり当日は浅口郡役所より吏員数名出張して之に臨み会葬者は村役塲吏員一同及び同村小学校教員生徒等無慮4百余名に及び祭文を朗読するもの十数名にして老幼婦女何れも感涙に(むせ)ばぬはなかりしと云ふ(『日清戦争実記』第4編(1894年9月29日)83頁「戦死喇叭手の葬儀」)

 

 「在韓将卒は皆其の勇猛義烈を称して哀惜殊に深かりし」とはいえども,1894年8月15()日付け大島義昌混成旅団長発参謀総長宛て臨着第412号の同年7月29日成歓駅の戦闘に係る戦死傷者名簿(アジア歴史資料センター)においてはなぜか「白神源太郎」となっていて「源次郎」となってはいません。肝腎の戦死者名の取扱いで早速これですから,最初から種々の混迷が予期され得たところでした。(ちなみに,臨着第412号においては,戦死者名「木口小平」はそのままです。なお,「田上岩吉」という第二十一聯隊の戦死者名がそこにあることについては考えさせられます。「田上岩吉」は,7月23日の「京城ノ変」で死亡した同聯隊の兵卒の名前ではなかったでしょうか。同姓同名の兵卒が二人いてどちらも運悪く相次いで死亡したのでしょうか。)

 1895年になると,ラッパ手=木口小平説が出てきています。

 

  成歓の役名誉の戦死を遂げたる喇叭卒は白神源次郎氏にあらずして木口小平氏なるとの説あるより,此頃或人同氏の郷里なる岡山県備中国川上郡成羽村に赴きて其遺族を訪ひしに,其戦死の当時附属の隊長及び其屍体を撿案したる軍医より送越したる報告,慰問状,撿案書等あるも,過日遺族救与金を請求するの際村長に托して悉く之を其筋に差出したるより之を一覧するを得ざりしも,同村役塲員及び遺族の語る処に拠れば,此役木口氏は安城の川を難なく押渡り,岸辺に立ちて音も朗かに進軍の譜を吹奏しつ〻ある折しも,敵弾飛来て其胸部を貫きたれども,氏は屈する色なく依然吹奏して止まず,既にして傍なる一士官を顧み「敵は如何に」と問ひ,士官は「敵は敗れて逃走せり」と答へしかば,木口氏は「然るか」との最期の一言を残して其儘斃れたることは慥に其文中にありしと云ふ。(『日清戦争実記』第40編(1895年9月27日)4142頁「喇叭卒木口小平」)

 

(2)白神説から木口説へ

 1897年には,東京九段の軍事教育会というところが出していた『軍事新報』が「本部調査」の結果として,白神源次郎は専ら銃卒として服務していたとして,ラッパ手=木口小平説への統一を図ります(「木口小平ト白神源次郎」)。

 

  戦場吶嗟ノ際訛伝ノ世ニ流布スルハ古来甚タ其例ニ乏シカラス不幸ニモ成歓駅ノ戦ニ於テ又一ノ訛伝ヲコソ伝ヘヌ然リ世人ハ喇叭手白神源次郎ナルモノヲ知ラン然レ𪜈(とも)未ダ喇叭手木口小平ナルモノヲ知ラサルヘシ否ナ白神ノ当時喇叭手ニアラスシテ彼レハ精鋭勇敢ナル銃卒タリシ(こと)ヲ知ラサルヘシ余輩ハ殆ント功績ニ於テ優劣ナキ此2死者ノ為メニ其事実ヲ世ニ紹介スルノ責アルヲ覚ユ余輩ハ真実吹奏死ニ至リシ木口小平ノ為メニ又此重キ事実ノ為メニ沈黙ヲ守ル可ラサルヲ感セスンハアラサルナリ

  請フ暫ク余輩ヲシテ謂ハシメヨ隊中兵卒間ニ於テハ喇叭手教育ヲ受ケシモノヲ呼フニ多クハ単ニ喇叭ト称シ而シテ概ネ其喇叭手ニ服務スルト銃卒ニ服務スルトヲ問ス之ヲ以テ修羅ノ街ノ常トシテ訛伝ハ此間ニ胚胎セシナラン聞ク白神ハ性活溌ニシテ頗ル勇敢ナリシヲ以テ率先奮闘実ニ美事ナル打死ヲ為セリト然レ𪜈之カ為メニ此ノ重キ名誉ノ行為者タル木口小平ノ名ヲ埋没スルハ余輩ノ忍ハント欲スルモ忍フ能ハサル処ナリ木口ハ岡山県川上郡成羽村ノ人ニシテ明治2512月1日徴兵トシテ歩兵第二十一聯隊第十二中隊ニ入隊シ喇叭手トナル其諸演習ニ於ケルヤ敏捷奇智ノ才ナキモ然カモ胆力剛気ハ他人ニ抜ンヅ

   〔以下略〕(『軍事新報』第1号(1897年6月12日)15頁)

 

  白神源次郎ハ岡山県浅口郡船穂村ノ人ニシテ日清戦役ニ際シ予備トシテ歩兵第二十一聯隊第九中隊ニ入ル彼ハ現役ノ時ハ喇叭手タリシモ当時ハ都合ニ依リ銃卒ト為レリ彼ハ行状方正ニシテ而シテ頗ル元気モノタルヿハ衆ノ知ル処ナリシ之ヲ以テ平素勤務ニ勉励ナルノミナラス戦塲ニ於テハ一層ノ勇気ヲ現ハシ戦塲ノ最先登ニアリテ各兵ノ模範タリシヿハ又衆ノ知ル処ナリシ茲ニ於テカ喇叭手ノ戦死シタルヲ伝フルモノアルニ会スルヤ其別ニ木口小平ナルモノアルヲ知ラスシテ彼レノ平素ヨク勇武ナリシヲ知ルモノカラ遂ニ速断ニモ白神源次郎ノ名ヲ伝ヒシモノナルヘシ以テ彼レカ如何ニ忠勇ナリシカヲ想ヘ

  猶ホ余輩ノ処説ヲ確カムル為メ歩兵第二十一聯隊山田中尉ヨリ某大佐ヘノ書翰中ノ一節ヲ左ニ掲ク

  明治27年7月29日成歓役ニ於クル喇叭吹奏者ハ左記理由ニ依リ木口小平ト断定仕候

   一白神源次郎ハ現役服務中ハ喇叭手ナリシモ充員召集セラレテハ喇叭手ニ非ラス歩兵第二十一聯隊第九中隊ニ属シテ銃卒タリ故ニ成歓ノ役ニ於テ喇叭ヲ所持セス

   一成歓ノ役戦死シタル喇叭手ハ只木口小平一人ニシテ他ニ喇叭手ノ負傷者スラ一人モナシ

   一木口小平ト同中隊同小隊ナル竹田国太藤本徳松ノ目撃セシ所ニ依レハ木口小平ハ劇戦ノ間喇叭ヲ吹奏シ遂ニ戦死シタルヿ明カナリ(別紙)

   一木口小平ノ死後尚喇叭ヲ握リツヽアリシハ前項事実ト其動作ノ勇敢ナリシヲ証スルニ足ル

     30年4月20日     山 田 四 郎

御下問相成候木口小平儀ハ安城渡会戦ノ際中隊長松崎大尉殿ノ御側傍ニ在リテ丁度進撃号音吹奏ノ折柄適々敵ノ銃丸中リテ濠辺ニ倒レ尚喇叭ヲ奏シ絶命ノ後チ水中ニ斃レ込シ者ニシテ其死躰ハ右手ニ喇叭ヲ握リタル儘ニ水中ニ有之候ヲ第二小隊第四分隊ノ兵卒藤本徳松竹田国太ハ現ニ其ノ傍ニ在リテ実見致セシ者ニ御座候此段申上候也

   4月20日       藤 本 軍 曹

     山田中尉殿

          (『軍事新報』第2号(1897年6月19日)1213頁)

 

 白神源次郎が当時喇叭手でなかったことは分かりますが,思わせぶりな「率先奮闘実ニ美事ナル打死」の様子がなおも不明です。

 成歓の役における歩兵第二十一聯隊の下士兵卒戦死者29名(参謀本部・附録第14ノ1)のうち戦死した喇叭手は木口小平一人であるとしても,それだけでは戦死の際ラッパを吹奏していたかどうかは分かりません。藤本軍曹作成の書面にしても,死体が濠の水中にあったなどというところは妙に詳しいのですが,屍体検案書上は心臓を貫かれたはずの木口小平が即死していないことになっていて,なかなか信用性が苦しい「目撃証言」です。

 

(3)白神源次郎溺死説

 ところで白神源次郎の「率先奮闘実ニ美事ナル打死」の様子については,1932年に歩兵第二十一聯隊将校集会所が発行した『我等のほこり』において,「聯隊の戦死者名簿には明に次の如く記載されて居る。」として「白神源(ママ)郎,歩兵第二十一聯隊第九中隊喇叭兵明治27年7月13(ママ)日千秋里にて溺死。」と発表されています(25頁)。何と,溺死ですか。その死体は,水中にあるところを発見されたということなのでしょう。しかし,『我等のほこり』の当該記述については,「私は「聯隊の戦死者名簿」なるものは全く信用できないものであり,それは偽文書か,あるいはもともと存在しない架空の文書ではないかと思う。」と酷評されています(西川124125頁)。死亡日付が変ですし,「千秋里という地名については,中村紀久二氏の詳しい調査があって,結局そのような地名は少なくとも成歓付近には存在しないということが言える(中村,1977年〔「二人のラッパ卒の謎」望星1977年2月号〕)」等不審な点があるからであるとされています(西川124頁)。

 しかしながら,佳龍里附近の戦いにおいて我が軍には確かに溺死者が出たところです。「是時歩兵中尉時山龔造ハ約3分隊ノ兵員ヲ率テ敵ノ左翼ニ向ハントシ右方ニ折レ細径ヲ経テ前進シ一水壕ノ其前方ニ横レルニ会シ徒渉シテ進マント欲シ先ツ自ラ躍テ水中ニ入ルヤ部下相続キテ壕心ニ到ル此壕固ト水多ク且ツ河床泥深ク遂ニ進退ノ自由ヲ失ヒ中尉以下23名此ニ溺死ス」という事態が発生したことは参謀本部の『明治廿七八年日清戦史』の認めているところでした。なるほど時山中尉は白神源次郎らを率いた第九中隊の将校だったのか,ということになれば理解が比較的簡単です(「それにしてもレミングの大移動じゃあるまいし,23人もあと先考えずに次々ぞろぞろ壕にボッチャンボッチャンボッチャンボッチャン飛び込んで溺死するというのは不思議だなぁ。何も見えない真夜中に,深さも幅も分からない大きそうな壕に行き会ってしまったら,もう少し慎重に振る舞うものだろうに。」という疑問は残ります。)。ところが,時山中尉は「歩兵第二十一聯隊第七中隊小隊長陸軍歩兵中尉」なのでした(参謀本部・附録第14ノ2)。第七中隊です。そうであれば,時山小隊長に率いられて溺死する下士兵卒22名は,皆第七中隊の所属者でなければいけないようです。すなわち第九中隊の下士兵卒には溺死者はなかったのである,といいたいところですが,事実はなかなか複雑です。「『靖国神社〔忠〕魂史』第1巻〔靖国神社社務所編・1935年〕によると,第七中隊の当日の死者は8名となっている」一方(西川126頁),「源次郎らの第九中隊の29日における戦死者は15名,そのうちいま死因のはっきりしているのは瀬政治三郎一等卒と阿部林吉上等兵の二人」であり,かつ,それら瀬政治三郎及び阿部林吉のいずれもが溺死したものとされているのです(西川125126頁)。

 実は,成歓の戦いにおける歩兵第二十一聯隊第九中隊の戦死者の大部分は,溺死したものと考えてよいように思われます。佳龍里附近の戦いにおける溺死者23名を除いた成歓の戦い全体における我が軍の戦死者は,実は10名(歩兵第二十一聯隊で8名,歩兵第十一聯隊1名,衛生隊1名)でしかないところ(参謀本部・附録第14ノ1),松崎・木口を除く歩兵第二十一聯隊に係る残り6人の枠に第九中隊の兵士が入ることは難しい。第九中隊には戦傷者からして少なかったからです。すなわち,1894年7月31日付け木下俊英臨時衛生隊医長作成の「衛生隊第1回業務報告」(アジア歴史資料センター)における「隊別傷者ノ数幷ニ負傷ノ部位負傷ノ種類」の項を見ると「隊中負傷者ノ最モ多キハ二十一聯隊ノ十二,七,十,十一聯隊ノ八中隊等ニシテ負傷ノ位部ハ前膊下腿大腿ヲ多シトシ負傷ノ種類ハ殆ント皆銃創ナリトス」とあって,右翼隊の歩兵中隊の中で第九中隊だけが言及されていないところです。(ただし,第九中隊長代理陸軍歩兵中尉守田利貞は負傷しています(参謀本部・附録第14ノ2)。しかし,「銃丸頭部擦過」の軽傷で(混成旅団戦闘詳報),8月中旬には全快しています(臨着第412号)。守田中尉は佳龍里の戦いの後の牛歇里に向かっての戦いにおいてなお第九中隊の長代理となっていますから(参謀本部151頁),佳龍里戦終結の段階では無傷だったものと一応考えるべきでしょうか。)なお,歩兵第十一聯隊の第八中隊は,左翼隊の先頭に立った中隊です(参謀本部142頁)。歩兵第十一聯隊の戦死者は1名にすぎません。

 結局,第七中隊の時山中尉と共に溺死したとされる下士兵卒には,第九中隊のものが多く含まれていたようです。これはどう考えるべきか。「枝隊の一部は少く((ママ))進し(ちょ)水中に陥りたる兵士十数名は最も憐なる態にて退き来たる」という前記黒田記者の報告に鑑みると,「霎時ニシテ本隊ハ尖兵ノ右側後方ニ達シ其喊声ヲ揚ケテ前進スルヤ(本隊ハ尖兵ト敵ト接触シ在ルヲ認メタルカ故ニ危険ヲ慮リテ射撃ヲ為サス唯〻喊声ノミヲ発シテ前進シタリ)敵兵ノ過半ハ射撃ヲ本隊ノ方向ニ転セリ」の際敵兵の過半の射撃がこちらに転じられたことに驚き恐れた右翼本隊の第七中隊及び第九中隊の兵士らは算を乱して「((ママ))」すなわち背進し,恐慌状態のまま水壕に駆け入り溺死してしまったのではないかとも想像され得ます(西川137138頁参照)。溺れずにすんだ「兵士十数名」が「最も憐なる態にて退き来たる」ということになったのではないでしょうか。なお,「(本隊ハ尖兵ト敵ト接触シ在ルヲ認メタルカ故ニ危険ヲ慮リテ射撃ヲ為サス唯〻喊声ノミヲ発シテ前進シタリ)」とのくどい部分は,清国兵に一弾もお見舞いせずに逃げ帰って来たことについての言い訳であるようにも感じられます。

 とはいえ,前進攻撃の積極姿勢をもって死を迎えたとされる時山小隊長とその勇敢な部下らとに係る『明治廿七八年日清戦史』の可憐な話は,一時背進の混乱の渦中での無様な溺死事件を糊塗するための創作だったのかしらと考えてみるのは,うがちが過ぎるでしょう。(なお,参謀本部142143頁間の地図を見ると,時山「小隊」だけが,まず全州街道を南南東へ進んだのであろう他の部隊とははぐれたかのように道のない所(水田でしょうか。)を南西方向に単独真っすぐ進んで溺死事件の場所とされるのであろう壕に突き当たった形になっています。)

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「潴水」とは,水溜り,沼又は溜池のことですが,これは空沼岳の万計沼(真駒内川源頭の一つ)
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 空沼岳の真簾沼
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 空沼岳の青沼 
 

(4)時山龔造と時山直八

 ちなみに,我が騎兵第五大隊第一中隊長の豊辺新作大尉は越後長岡藩の出身でしたが,時山龔造中尉は,慶応四年五月十三日(1868年7月2日)に戊辰戦争北越戦線の朝日山の戦いで戦死した奇兵隊士・時山直八の家の令嗣です(谷頭辰兄『日本帝国軍人名誉鑑』(盛文舘・1895年)133134頁)。幕末の長岡藩執政・河井継之助の生涯を描いた司馬遼太郎の『峠』には,次のようにあります(「蹶起」)。ただし,当該作品においては五月「十二日」の出来事とされているのは,飽くまでも歴史小説だからでしょう。

 

   その敵の「気抜け」が,いくさ名人の立見鑑三郎〔尚文〕のつけめであった。

   ――いまだ。

   と小声で〔長岡藩隊長〕安田多膳の袖をひいた。「心得たり」と安田は槍をとりなおし,「よいか,おのおの」と隊士をふりかえり,やがて,

  「かかれえっ」

   と叫び,みずから塁をとびこえ,先頭をきって敵のむれに突入した。

   官軍は仰天した。このおどろきが,戦意をくじかせた。あれほど勇猛だった薩長の兵が別人のように臆病になり,戦うよりも逃げることに専念した。東軍はそれを追った。背後から槍で串刺しするだけであり,獣を狩るよりもやさしかった。やがて霧がはれ,射撃が可能になると,追い落しはさらに楽になった。官軍は山腹まで退却し,もはや隊列をなさず,個々にあちこちの岩や樹の蔭にひそんだが,それを上から狙撃してゆくだけでよかった。

   薩長の人数は,この戦いで長州藩小隊司令山根辰蔵以下おびただしい死傷を出したが,なかでも官軍にとって大きな衝撃になったのは,参謀時山直八の死であった。時山は飛弾のために即死し,兵がその死体を収容しようとしたが戦況がそれをゆるさず,やむなく首を切って退却した。

   

時山龔造は嘉永四年十二月山口県萩の生まれといいますから(谷頭134頁),安城渡の戦いで溺死した時には42歳でした。小隊長として前線で駆け回るのは既に骨だったことでしょう。二日前に起きた歩兵第二十一聯隊第三大隊長古志(こし)正綱少佐の自刃事件のあたりから,嫌な予感がしていたでしょうか。

 

 あだ守る砦のかがり影ふけて夏も身にしむ(こし)の山風   山県有朋

 

 小千谷市船岡山にある時山直八の墓誌の撰文は,「直八の莫逆の友」山県有朋によるものです(安藤英男『河井継之助写真集』(新人物往来社・1986年)122頁)。また,豊辺騎兵第五大隊第一中隊長は,河井継之助の親族です(豊辺中隊長の父の陳善は蒼龍窟継之助秋義と従兄弟,すなわち豊辺中隊長の祖父で河井家から豊辺家に養子に入った輔三郎(半蔵,陳好)は継之助の父・四代目河井代右衛門(秋紀,小雲)の弟でした(安藤27頁・194頁)。)。

 

5 「シンデモラツパヲ」その3:小括

 以上「シンデモラツパヲ」について長々と書いてしまいましたが,結論的には,「「勇ましの喇叭手」は白神でもなければ木口でもないというのが私の結論である。では誰なのか。誰でもない。初めに安城渡の軍歌が作られ,それが一躍有名になると,その戦闘で死んだラッパ手が探し出されたというのが真相であろう。」ということだそうです(西川147頁)。当初日清戦争戦死第1号の「勇士」として喧伝された松崎直臣大尉の物語の「その陰に隠れるように紡がれ始めた別の物語が次第に成長し,彼の物語を圧倒」したのでした(酒井敏「〈勇士〉の肖像―『日清戦争実記』と読者―」日本近代文学第67集(20021015日)9頁)。江川達也『日露戦争物語 第十一巻』(小学館・2004年)では,木口小平も白神源次郎もラッパを吹きながら清国兵の銃弾で撃たれて戦死した形の描写になっています。

 

6 成歓・牙山戦における騎兵第五大隊第一中隊

 さて,我らが騎兵第五大隊第一中隊。

 豊辺騎兵中隊長が「7月29日午後牙山ニ於テ」作成した「戦闘詳報」(アジア歴史資料センター)には,騎兵第五大隊第一中隊の成歓・牙山の戦いの様子が次のように記されています。

 

  一午前2時10分素沙塲露営地ヲ出発シ総予備隊(歩兵第廿一聯隊第一大隊)ノ後方ニ在テ行進シ1在成歓ノ敵ノ右翼ニ迂回運動ヲ為ス

  二午前5時左翼隊砲戦ヲ始ム(2)中隊ハ総予備隊ノ左方ニ在テ行進ス(3)

  三仝5時40分総予備隊展開ヲ為シ前面ノ敵ト対戦シ(4)続テ敵ノ東方幕営地ヲ占領ス(5)此際騎兵中隊ハ敵ノ砲兵陣地ノ南方ニ進ミ敗潰セル敵兵ヲ追撃ス(6)

  四敵ノ砲兵ノ一部退却ニ際シ我騎兵ノ前進ヲ見砲2門ヲ陣地ノ南方山腹マテ引出シ其儘退却セル者ノ如シ

  五西方幕営地ハ歩兵第廿一聯隊ノ前進ニ際会シ仝時侵襲セリ(7)而シテ騎兵ハ牙山方向ニ退却セル敵兵ヲ追撃シ敵ノ歩兵8名ヲ斬ル(8)

  六午前8時30分戦闘終リ成歓西方高地ニ在ル旅団司令部ニ合シ一時人馬ノ給養ヲ為ス(9)

  七午前9時20分牙山方向ニ退却セル敵兵ヲ追撃シツ10午後3時30分三江里ニ着ス11仝所ヨリ曲橋里方向ニ一組ノ将校斥候ヲ出シ中隊ハ直ニ牙山ニ向テ行進セリ12

  八土人ノ言ニ依レハ敗走セル敵ハ本日一部ハ牙山方向ニ一部ハ新昌ノ方向ニ退却セリト云フ13

  九午後5時下士斥候一組春甫方向ニ出セリ

  十曲橋里方位ニ出シ将校斥候午後7時牙山ニ帰隊敵ノ主部新昌方向ニ退走セル者ノ如シ途次清兵ノ被服弾薬等処々ニ散乱セルヲ見ル

  十一本夜中隊ハ歩兵第二十一聯隊ト共ニ牙山ニ露営ス14

  十二午前3時歩兵第二十一聯隊伝騎二等卒松永翠右肩部ニ銃傷ヲ受ク

  

  註(1)独立騎兵隊は左翼隊の最後尾でした(参謀本部140頁)。左翼隊の「行進意ノ如ク速カナル(こと)能ハス遂ニ其後尾ヲ渡河塲ニ於テ一時開進セシメ右翼隊ノ行進路ヲ開カサルヲ得サルニ至レリ」(混成旅団戦闘詳報)ということでしたから,右翼隊が午前2時過ぎに素沙場を出発する際には独立騎兵は道を譲ってまだ素沙場にいたということになるようです。平城盛次騎兵少尉及びその分隊は,さすがにそれまでには牙山から素沙場に戻って来ることができていたかどうか。なお,「是夜陰雨晦冥咫尺ヲ弁セス加フルニ道路泥濘ニシテ間脚ヲ没シ路幅狭小路面粗悪ニシテ往々或ハ水田ニ陥リ先頭或ハ岐路ニ迷ヒ後者或ハ連繋ヲ失フ等隊間ノ断続スルコト数回ニシ行進渋滞」していました(参謀本部140頁)。「伝騎ヲ発セントスルモ道路狭隘ノ為メニ果サス」ということで(混成旅団戦闘詳報),騎兵はなかなか動きようがない。

  註(2)「砲兵大隊長永田亀ハ〔略〕大隊ヲ宝蓮山南方約5百米突(メートル)ノ高地ニ招致シ此ニ放列(第一砲兵陣地)ヲ布キ(午前5時30分)将サニ試射ヲ畢ラントスルニ方リ敵ハ悉ク潜匿ス」(参謀本部142頁)又は「午前5時35分砲兵団芥子坊主山ノ東方ニ放列ヲ布キ射撃ヲ開始ス」(混成旅団戦闘詳報)。

  註(3)「旅団予備隊ハ砲兵隊ノ左翼後ニ開進ヲ終ル/騎兵ハ目下捜索ノ必要ナキヲ以テ予備隊ノ後方若干距離ニ在リ」(混成旅団戦闘詳報)。

  註(4)「〔砲兵大隊は〕新井里東方高地嘴ニ移リ此ニ第二陣地ヲ占領セリ而シテ其再ヒ砲火ヲ開始セルハ午前6時10分頃ナリキ」(参謀本部143頁)。「砲兵第三大隊ハ敵兵ノ漸ク動揺スルヲ見今ヤ前進シテ第三陣地ニ移ラント欲セシモ其護衛歩兵中隊(〔歩兵第十一聯隊〕第十二中隊)頗ル遠隔シ〔略〕其右側前危険ナルニ因リ大隊長ハ旅団予備隊ノ前進ヲ旅団長(開戦後常ニ砲兵陣地附近ニ在リ)ニ請求シ旅団長ハ予備隊(此予備隊及独立騎兵隊ハ開戦後一タヒ砲兵第一陣地ノ後方ニ開進シ後チ砲兵大隊ノ第二陣地ニ移ルヤ之ニ続行シテ又此砲兵陣地ノ後方高地脚ニ開進シ在リタリ)中ヨリ歩兵第二十一聯隊ノ第一中隊(長,大尉服部尚)ヲ前進セシメ〔略〕乃チ服部中隊ハ砲兵大隊ニ先タチ進テ新井里西南方ノ高地ニ達シ月峰山北麓ナル丘稜ニ拠レル敵ニ対シ猛烈ニ之ヲ射撃シ予備隊ニ在リシ歩兵第二十一聯隊ノ第三中隊(長,大尉河村武モ亦命ヲ受ケテ第一中隊ノ左方ニ展開ス是ニ於テ大隊長森祗敬ハ此両中隊ヲ指揮シ交互ニ前進セシメ罌粟坊主山東北方3百米突ノ山稜ニ達シ罌粟坊主山ノ敵ヲ猛射セリ(午前6時30分〔略〕)」(参謀本部144145頁)。

  註(5)「成歓北方ナル幕営ノ囲壁ニ拠リシ清兵ハ最後ノ時期ニ至ルマテ抵抗セリ因テ森少佐ハ罌粟坊主山ノ陥ルヲ見ルヤ〔第二十一聯隊の〕第一,第三中隊ヲ率ヰ〔第十一聯隊の〕第十二中隊(砲兵護衛隊)亦之ニ連ナリ大森林ノ南縁ニ沿ヒ進ミテ共ニ此幕営ヲ攻撃シ〔略〕遂ニ全ク成歓方面ノ敵ヲ駆逐シ森少佐所率ノ2中隊(第一第三)ハ進テ成歓北方ノ2幕営ヲ占領シ」た(参謀本部147148頁)。「午前7時半全ク成歓北方ノ高地ヲ占領シ」た(混成旅団戦闘詳報)。

  註(6)「旅団長ハ成歓方面ノ敵ノ幕営ヲ占領スルヤ独立騎兵(此騎兵中隊ハ戦闘間常ニ砲兵大隊ノ左翼後ニ在テ行進シ来レリ中隊ノ現員此時僅ニ29名)ヲシテ敵ヲ追躡セシム因テ此騎兵ハ先ツ牛歇里高地ニ向ヘリ(此中隊ノ牛歇里高地ニ達セシハ恰モ右翼隊ノ敵塁ニ突入セントセシ時ナリ〔略〕)」(参謀本部149150頁)。なお,牛歇里の清国砲兵は我が左翼隊砲兵団に応射していました(参謀本部148頁・151頁)。

  註(7)「7時40分頃〔右翼隊の〕歩兵ノ全部吶喊シテ幕営内ニ突入シ騎兵中隊(此中隊ハ上記敵兵追躡ノ命ヲ受ケ成歓地方ヨリ出発セルモノナリ)モ亦来リ共ニ此幕営内ニ突入ス清兵大ニ驚キ砲ヲ棄テ西南方ニ向ヒテ敗走シ各線ハ盛ニ追撃射撃ヲ為セリ是ニ於テ牛歇里ノ敵モ全ク敗走」した(参謀本部152頁)。

  註(8)「旅団長ノ直接指揮下ニ属セシ諸隊ハ〔略〕歩兵第二十一聯隊ノ第一中隊ヲ除クノ外旅団長ノ命ニ依リ是時(午前8時30分)牛歇里酒幕ノ西方約千米突ナル高地上ニ集合シタリ而シテ騎兵中隊ハ牛歇里ノ幕営ニ突入シタル後チ牙山方向ニ向ヒ退走セシ敵ヲ追躡シタルモ其大部ハ已ニ遠ク敗走シテ接触ヲ得ス馬首ヲ囘シテ旅団本部ノ集合地ニ復帰シタリ」(参謀本部153頁)。清国歩兵8名の殺生の話は混成旅団戦闘詳報にもあったのですが(「我騎兵ハ敗走スル敵ノ歩兵ヲ襲撃シ其8名ヲ斬殺ス」),『明治廿七八年日清戦史』には記載されていません。いずれにせよ,殺生は少ないに越したことはありません。

  註(9)「午前給養隊ニ命シ可成多数ノ粮食ヲ軍勿浦ニ運搬セシメ且ツ戦勝ヲ大本営及公使舘ニ伝フヘキヿヲ命セリ」(混成旅団戦闘詳報)。「午後零時半〔旅団の〕本隊ヲ止メ大休止ヲナシ給養隊ヨリ駄送シ来リシ昼食ヲ後尾ヨリ分配セシム時ニ暴雨人馬皆濡ル」(混成旅団戦闘詳報)。

  註(10)「此役成歓方面ヲ守リシ清兵ノ首力ハ聶士成之ヲ率ヰ牛歇里戦闘間南方天安ニ向テ退キ牛歇里方面ノ清兵ハ西南方ニ圧迫セラレ一時牙山ノ方向ニ退避シ更ニ転シテ南方ニ走リ首力ニ合シタルモノ如シ然カレトモ大島混成旅団長ハ未タ之ニ関スル精確ノ情報ヲ得ス尚ホ牙山ヲ以テ敵ノ首要ナル根拠地ト信シ且ツ成歓,牛歇里ヲ守レル敵ハ今ヤ其根拠地タル牙山ニ退却シ再ヒ彼地ニ拠テ抵抗スヘシト判断シ此機ヲ逸セス直ニ牙山ニ進ミ本日中ニ其根拠ヲ衝ント決シ午前9時20分ヨリ1030分ノ間ニ於テ旅団ノ全部ヲ出発シセメタリ旅団長ハ諸隊ニ出発ヲ命シタル後昨夜28日)7時半牙山発平城騎兵少尉28日牙山方向ヘ派遣セラレタル斥候)ヨリ清兵ハ成歓及天安ニ移リ牙山ニハ一兵モ見ストノ報告ヲ得タルモ前記ノ判断ヲ有セシヲ以テ其決心ヲ翻サス」(参謀本部154頁)。勇んで成歓から更にその南西の牙山に進み,やっと着いてみると粉砕すべき清国兵は既にいなかったので,大島旅団長としては,自分の判断間違いの照れ隠しに,平城少尉の報告が自分のところに届くのが遅れたのが原因である旨示唆しているということでしょうか。『日露戦争物語 第十一巻』166頁の「じゃけぇ,牙山に敵はおらんと昨日,報告しょうたのに・・・」との感慨は,本来平城少尉のものなのでしょう(なお,平城少尉は,長崎県士族)。

  註(11)「独立騎兵,右翼隊,左翼隊及軍勿浦独立支隊共ニ午後3時前後ニ於テ牙山附近ニ達」した(参謀本部154155頁)。

  註(12)「旅団ノ一部牙山ニ入リ兵器,糧食ヲ押収シ新昌及び白石浦,新院方向ニ対シ前哨ヲ配布シ牙山ノ占領ヲ確実」にした(参謀本部155頁)。

  註(13)「牙山県吏ノ言」により「敵ハ一時成歓方面ヨリ退却シ来リタルモ更ニ新昌方向ニ向ヒ退避シタルコトヲ知」った(参謀本部155頁)。

  註(14)「〔混成旅団の〕一部ハ牙山附近ニ露営シ以テ此夜ヲ徹セリ」(参謀本部155頁)。「此夜敵ノ逃ケ後レシ兵数名右翼隊ノ露営地ヲ射撃シ1名ヲ傷ケタリ」(混成旅団戦闘詳報)。

 

(つづく)

  

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp 


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筆者の母方の曽祖父の残した「由緒」書きにおける下記日清戦争関係の記載に係る考証話の第4回です。1894年7月23日の「京城ノ変」及び同月29日の成歓の戦いの直前までを取り扱います。

 

明治26年〔1893年〕11月1日徴兵ニ合格シテ騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ〔第1回はここまで〕

明治27年〔1894年〕6月朝鮮国ニ東学党蜂起シ韓国居留民保護ノ目的ヲ以ツテ(どう)年6月11日混成旅団ヲ編成セラ(ママ)大島義昌少将ヲ旅団長トシ平城盛次少尉ヲ小隊長トシ選抜セラレテ山城丸ニ乗舶シ宇品港出帆玄海灘ヲ経テ仁川ニ向フ此ノ日山陽鉄道広島駅()()開通ノ日ナリ〔第2回はここまで〕

明治27年8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル

〔前回はここまで〕仝7月23日京城ノ変ニ出張爾来〔今回はここまで〕成歓ニ牙山ニ平壌義洲鴨緑江鳳凰城(ママ)馬集崔家房(ママ)家台竜頭塞興隆勾瀇嶺海城牛荘田庄台ト転戦ス

明治27年9月15日大本営ヲ広島旧城エ進メ給ヘリ

明治28年〔1895年〕6月5日講和トナリ凱旋

仝年1112日日清戦役ノ功ニ依リ瑞宝章勲八等及び金50円幷ニ従軍徽章下賜セラル 

明治29年〔1896年〕1130日善行証書ヲ授与セラレ満期除隊トナル

 

1 「京城ノ変」

 

(1)『蹇蹇録』の記載

 我が聯合艦隊第一遊撃隊と清国艦隊との間における豊島沖海戦の発生(1894年7月25日。日清開戦)の前々日,朝鮮国の首都漢城で筆者の曽祖父のいうところの「京城ノ変」が起こっています。

 

  既にして〔1894年7月〕22日の期限は来たれり。朝鮮政府の回答は例に依り漠然として要領を得ず。大鳥〔圭介〕公使は最早寸刻も遅延する能わず,一面には外務督弁趙秉稷に照会し,朝鮮政府は日本政府の勧告に対し期日に至るも満足なる回答を与えず,最早日本政府は当然自らなすべき所をなすの外なし,事宜に依れば我が権利を伸長するため兵力を使用するも計られず,と言明し置き,他の一面には大島〔義昌〕旅団長と協議を凝らし,翌23日の払暁を以て竜山に在営する若干の兵員を急に入京せしめたる際,王宮の近傍において突然韓兵より先ず発砲したるを以て我が軍はこれを追撃し,城門を押し開き闕内に進入したり。朝鮮政府の狼狽は名状すべからず。諸閔,事大党は何方(いずかた)にか遁逃せり。いわゆる開化党は得々たる顔色を顕し大院君は王勅に依り入闕し,(つい)で朝鮮国王は勅使を以て大鳥公使の参内を求め,大院君は国王に代り同公使を引見し,自今国政を総裁すべき勅命を奉じたることを述べ,内政改革の事は必ず同公使と協議に及ぶべしと約せり。朝鮮改革の端緒はここに開けたり。而して朝鮮は公然清韓条約を廃棄する旨を宣言せり。また国王は更に同公使に向かい,牙山駐屯の清軍を駆逐するために援助を与えんことを依頼したり。尋で日本軍隊は牙山,成歓において大いに清軍を打破し,これを遁走せしめたり。(陸奥宗光著・中塚明校注『新訂 蹇蹇録』(岩波文庫・1983年)7475頁)

 

(2)脱線

 

ア 申込みに対する承諾義務の有無

 陸奥宗光が『蹇蹇録』の前記部分で言いたかったのは,締切日を付して回答を求められたのに対してその締切日までに相手方の満足する回答を与え得なかった場合においては,多少の痛い目に遭っても仕方がないのだ,ということでしょうか。

しかしながら,民法学においては契約の申込みに対する承諾に関して,「申込を受けても,承諾をするかどうかは,自由であるのを原則とする。契約自由の原則の一内容だからである。」,「特別の事情がなければ,申込者が勝手に,「お返事がなくばお承諾とみなす」といつても,その効力を生じない。勝手に品物を送付して,購入しなければ返送せよ(返送しなければ購入とみなす)といつても,返送の義務も生じない。」と説かれています(我妻榮『債権各論上巻(民法講義Ⅴ₁)』(岩波書店・1954年)67頁,7172頁。なお,特定商取引に関する法律(昭和51年法律第57号)59条参照)。無論,この原則にも例外があって,例えば医師法(昭和23年法律第201号)19条1項は「診療に従事する医師は,診察治療の求があつた場合には,正当な事由がなければ,これを拒んではならない。」と規定しています。ただし,「その承諾義務違反は,公法的制裁を伴うだけであつて,当事者間において契約の成立を認めることはできないと解すべきであろう。」とはされています(我妻19頁)。

 

イ 医師の応召義務

 しかし,お医者さんは大変です。

医師法19条1項に関して(旧)厚生省は,通知・回答として,昭和24年9月10日医発752号厚生省医務局長通知においては「)医業報酬が不払いであってもこれを理由に診療を拒むことはできない。/)診療時間を制限している場合でも,これを理由に急施を要する患者の診療を拒むことは出来ない。/)天候の不良なども,事実上往診の不可能な場合を除いて「正当な事由」には該当しない。/)医師が自己の標榜する診療科以外の診療科に属する疾患について診療を求められる場合も,患者がこれを了承する場合は一応の理由と認めうるが,了承しないで依然診療を求めるときは,応急の措置その他出来るだけの範囲のことをしなければならない。」と,昭和30年8月12日医収755号厚生省医務局医務課長回答においては「)医師法19条にいう「正当な事由」のある場合とは,医師の不在又は病気等により事実上診療が不可能な場合に限られるのであって,患者の再三の求めにもかかわらず,単に軽度の疲労の程度をもってこれを拒絶することは,第19条の義務違反を構成する。/)医師が第19条の義務違反を行った場合には罰則の適用はないが,医師法第7条にいう「医師としての品位を損するような行為のあったとき」にあたるから,義務違反を反復するが如き場合において同条の規定により医師免許の取消又は停止を命ずる場合もありうる。」と,昭和301026日医収1377号厚生省医務局長回答においては「休診日であっても,急患に対応する応召義務を解除されるものではない。」と表明しているそうです(渋谷真一郎「応召義務を考える」山形県医師会会報785号(2017年1月)11頁)。患者様の尊いお命と御健康の前には医師のわがままごときは許されない,ということでしょうか。深夜の思い詰めた患者様の長いお尋ね・突然の御来訪にもさわやかに応対せねばなりません。立派です。

 

ウ 弁護士の自由と独立

これに対して,弁護士職務基本規程(平成16年日本弁護士連合会会規第70号)20条は「弁護士は,事件の受任及び処理に当たり,自由かつ独立の立場を保持するように努める。」と定めているところです。「弁護士は依頼者が少なくとも自分には真実を打ち明けて事件を依頼していると信じて職務を行い,依頼者の側においても弁護士の能力や人格を信じて自分のために最善を尽くしてくれると信じて依頼を行うものであって,両者には高度の信頼関係が必要である。そのため,信頼関係を築けないおそれがあると弁護士が判断した場合には,弁護士は受任を断ることができるのであって,弁護士は,事件の受任義務を負わないとされている。業務の遂行に信頼関係を前提としない司法書士や行政書士に依頼の応諾義務があるのとは異なる(司法書士法21条,行政書士法11条)。医師にも応召義務がある(医師法19条)が,これは患者の生命身体を守る見地からであり,その趣旨は異なる。」と解説されています(日本弁護士連合会弁護士倫理委員会『解説「弁護士職務基本規程」第3版』(日本弁護士連合会・2017年)44頁)。司法書士法(昭和25年法律第197号)21条は「司法書士は,正当な事由がある場合でなければ依頼(簡裁訴訟代理等関係業務に関するものを除く。)を拒むことができない。」と,行政書士法(昭和26年法律第4号)11条は「行政書士は,正当な事由がある場合でなければ,依頼を拒むことができない。」と規定しています。弁護士職務基本規程43条は更に「弁護士は,受任した事件について,依頼者との間に信頼関係が失われ,かつ,その回復が困難なときは,その旨を説明し,辞任その他の事案に応じた適切な措置を採らなければならない。」と規定しています。弁護士の心を無慙に折ってしまっては,次のような弁護士に対する熱い期待の言葉も空しくなります。いわく,「あんな奴に譲歩するなんて絶対いやです。先生は,わたしの味方じゃないんですか。わたしのように弱い者を弁護士が助けなくてだれが弱い者を助けるんです。関係者全員のための円満解決がどうのこうと他人の裁判所に四の五の言わせないで,早く勝訴判決をもらってください。」,「警察官にすぐ後ろから現認されており,かつ,防犯カメラにも写っているからオレの犯行自体は争っても見込みはないだとぉ。おいっ,それで最善の弁護といえるのか。お前はよぉ,弁護士なんだろ。オレを無罪にしろっ,ごるぁ。」等々(以上はフィクションです。)。「委任は,各当事者がいつでもその解除をすることができる」ものなのです(民法651条1項)。

しかし,仁術の医師とは異なりお客さまを選ぶことができる旨を高々と宣言している弁術の徒輩が,当該資格者の供給過剰の故かどうかはともかくも,貧乏になってしまっていることについては,「自業自得である。」と溜飲を下げる向きもあることでしょう。

 閑話休題。

 

(3)様々な呼称

 1894年7月23日の「京城ノ変」については様々な呼称が提案されています。

 日清戦争を研究した歴史家の意見について見れば,檜山幸夫中京大学教授によればそれは「日朝戦争」であり,原田敬一佛教大学教授によれば「七月二十三日戦争」と呼ばれるべきものであるそうです(大谷正『日清戦争』(中公新書・2014年)243244頁)。

 当時の陸奥外務大臣は「明治二十七年七月二十三日事変」,「七月二十三日事変」などと表現しています(陸奥149頁,152頁)。

 ただし,単に7月23日に漢城で発生した事変といえば,1882年7月23日の壬午事変と紛らわしいところです。壬午事変は,「〔1882年〕7月23日に組織的な行動を始めた〔当時の開化政策のなかで冷遇されていた在来朝鮮国軍の〕兵士たちに,零細商人,手工業者などの〔漢城の〕都市下層民が加わって,〔開化政策を進めた〕閔氏政権の高官の屋敷を破壊し,別技軍教官の堀本礼造少尉を殺害して,さらに奪った武器で武装し,西大門外の日本公使館を襲撃した。公使館を脱出した花房義質(よしもと)公使らは死傷者を出しながら翌24日仁川に逃亡し,最終的にはイギリスの測量船に助けられて長崎に逃げ帰った。24日,兵士たちは王宮(昌徳宮)に向かい,閔氏政権の高官を殺害したが,最大の攻撃目標であった閔妃を発見できなかった。」というものです(大谷8頁)。こちらで痛い目に遭っているのは日本側です。

1894年8月20日に我が大鳥公使と朝鮮国の金允植外務大臣との間で調印された暫定合同条款の日本文では同年7月23日の事変は「日本暦明治二十七年七月二十三日/朝鮮暦開国五百三年六月二十一日漢城ニ於テ両国兵ノ偶爾衝突ヲ興シタル事件」,「本年七月二十三日王宮近傍ニ於テ起リタル両国兵員偶爾衝突事件」と表現され,漢訳文では「朝鮮暦開国五百三年六月二十一日/日本暦明治二十七年七月二十三日両国兵丁在漢城偶爾接仗一事」,「本年七月二十三日在大闕相近之地両国兵丁偶爾接仗」と表記されています。「偶爾衝突」ないしは「偶爾接仗」との表現については,同年8月25日付けの大鳥公使から陸奥外務大臣宛ての報告によれば,「朝鮮政府ノ請求ニ従ヒ両国兵ノ衝突ヲ偶然ノ衝突ト改正致候」ということだったそうです。当該暫定合同条款においては,「本年七月二十三日王宮近傍ニ於テ起リタル両国兵員偶爾衝突事件ハ彼此共ニ之ヲ追究セサル可シ」とされています。(日本外交文書)

「朝鮮王宮の武力占領」という表現もあります(大谷59頁)。しかし,我が軍部隊が朝鮮王宮に武力をもって侵入するという事件は,翌189510月8日未明にも発生しています(閔妃殺害事件)。閔妃は,壬午事変の際1882年7月24日の朝鮮国軍兵士らによる王宮侵入の後に一度「行方不明の閔妃は死亡したとして葬儀」が行われていたのですが(大谷9頁),結局王宮で殺害される運命であったようです。

 

(4)平城盛次騎兵少尉の偵察報告

 1894年7月24日付けの大島混成第九旅団長発有栖川宮参謀総長宛て混成旅団報告第16号(アジア歴史資料センター)には,前日同月23日の「京城ノ変」に係る平城盛次騎兵少尉の偵察報告が記載されています。筆者の曽祖父も平城少尉に従って,当該偵察の一翼を担っていたわけであります。(そうでないと話が面白くなりません。)なお,この日の天候は雨でした。

 

  一〔1894年7月23日〕午前第10時情況視察ニ出セル平城騎兵少尉ノ報告

    7月23日京城王宮附近ニ於ケル情況偵察ノ報告

   本日午前4時49分歩兵第二十一連隊ノ一部ハ迎秋門ニ到着シ第三中隊ヲ王宮ノ西方ヨリ第六中隊ヲ王宮ノ東方ヨリ王宮ノ背後ニ迂回セシメタルニ朝鮮兵ハ射撃ヲ始メタルヲ以テ猶1中隊ヲ増加シ之ニ向テ射撃ヲ始メタリ是ト同時ニ迎秋門ニアリシ一部ハ門ヲ破壊シ王宮内ニ侵シ猶ホ第一大隊ノ一部モ光化門左側ノ壮衛営ヲ襲ヒ内外相応シテ吶喊セリ

   是ニ於テ壮衛営及ヒ王宮内ノ兵ハ尽ク武器ヲ棄テ逃走セリ先ニ我ニ向テ射撃シタルモ多クハ白岳方向ニ逃走シ猶ホ王宮北方ノ村落内ニ両3名宛埋伏シ我斥候等ノ至ルヲ見レハ直チニ出テヽ射撃ヲ行ヘリ然レ𪜈(とも)王宮ノ各門ハ已ニ我手ニ落チ是ニ歩哨ヲ配布セリ

   午前5時30分朝鮮国外務督弁王宮内ヨリ出テ来テ我公使館ニ至ルト称スルヲ以テ之ニ護衛兵ヲ付シ公使館ニ送レリ

   午前5時40分右捕将王宮ニ来レリ是ニ於テ王ノ所在ヲ詰問シ嚮導セシメタルニ雍和門(義和門ナラン)ニ至リ武器アルヲ発見シ之ヲ没収セントス国王出テ来リ之ヲ制シテ曰ク日本公使館ニ向テ外務督弁ヲ遣セリ故ニ()還スル迠猶予アリタシト然レ𪜈(とも)遂ニ武器ハ没収スル(こと)トセリ(其員数ハ取調中ナリ)我兵ヲ以テ国王ヲ護衛シ大ニ之ヲ慰メタリ

   午前6時20分射撃モ殆ント止ミタルヲ以テ6時30分公使館ニ帰還報告セリ

   備考 壮衛営ニハ小銃(スペンセル火縄銃混合)及ヒ刀剣各数百前装黄銅砲約十門後装砲(多分クルツプ山砲ナラン)6門皆我手ニ()セリ又王宮内ノ武器モ大約我手ニ()セリ

 

「我兵ヲ以テ国王ヲ護衛シ大ニ之ヲ慰メタリ」ということになった朝鮮国王李載晃(高宗は廟号)は明治天皇と同年の1852年生まれ。無論,我が混成第九旅団の兵士らに「護衛」されたとしても,心が慰められたことはなかったでしょう。

筆者の曽祖父は,我が軍将兵に猶予を乞い,又は「護衛」せられつつある朝鮮国王の姿を見たのでしょうか。見たとしても印象に残らなかったものでしょうか。

 

(5)文明国の前例

 さて,一公使が自国派遣軍の指揮官と共謀して武力により赴任先国政府を圧迫し,ほしいままにその政権に変動を与えしめるということは行儀が悪いというべきか,何といわんか。

 しかし,そのようなことは,当時は必ずしも天人共に赦さざる極悪非道の所行とは思われていなかったようです。前年の1893年1月に,別の王国で別の文明国公使により似たような事変が惹起せられています。

 

  〔前略〕1893年1月14日,主権独立国たるハワイ王国に駐箚する米国公使ジョン・L・スティーヴンス(以下本決議において「米国公使」という。)は,米国市民を含むハワイ王国在住の非ハワイ人の少数グループと共に現地の正統なハワイ政府の転覆を共謀したところ,

   ハワイ政府転覆の当該陰謀に基づき,米国公使及び米国海軍代表者は,米国の海軍兵力をして1893年1月16日に主権ハワイ国家に侵入せしめ,かつ,リリウオカラニ女王及び彼女の政府を強迫するためにハワイ政府諸庁舎及びイオラニ宮の近傍に配置せしめたところ,

   1893年1月17日の午後,欧米人のサトウキビ農園主,宣教師の子孫及び金融業者を代表する公安委員会が,ハワイの王政を廃し,かつ,臨時政府の設立を宣言したところ,

   それを承けて米国公使は,ハワイ原住国民又は正統ハワイ政府の同意なく,かつ,両国間の諸条約及び国際法に違背して当該臨時政府に外交上の承認を与えたところ,

   〔中略〕

   1893年2月1日,米国公使は米国国旗を掲揚し,かつ,ハワイは米国の保護領であると宣言したところ,〔後略〕

  (19931123日の米国両院合同決議から抜粋)

 

 1894年7月4日,ハワイの臨時政府は共和国宣言を発しています。イオラニ宮に幽閉されていたリリウオカラニ女王は,1895年1月24日,ハワイ共和国の代表者らによって正式に退位せしめられています。


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こちらは日清戦争期間中の在東京駐日米国公使であったエドウィン・ダン(札幌市南区真駒内)
銅像で遊びながらも,当該人物は「エド・ウィンダンじじい」だと思っている子供もいました。


2 七原のロバ等

 

(1)騎兵第五大隊第一中隊経歴書の記載

 1895年8月24日付けの騎兵第五大隊第一中隊経歴書(アジア歴史資料センター)には,1894年「7月23日京城ノ変ニ参与シ即日竜山ニ来〇どう25日中隊ハ前衛騎兵トナリ牙山方向ヘ出発」とあります。

 

(2)7月24

 1894年7月24日は「晴天」,野戦砲兵第五聯隊第三大隊では「午後命令第六中隊第五中隊第一小隊ヲ附シ都合8門ヲ牙山ニ向ケ明25日午前10時出発ノ事,依テ兼而(かねて)恩賜アリタル酒ヲ分配シ別盃ヲナス」という儀式が行われました(原田敬一「混成第九旅団の日清戦争(1)―新出史料の「従軍日誌」に基づいて―」佛教大学歴史学部論集創刊号(2011年3月)36頁)。

 

(3)7月25

 7月25日の龍山は「晴天」(原田36頁)。同月27日付けの大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団報告第18号(アジア歴史資料センター)の別紙によると,豊辺新作中隊長の騎兵第五大隊第一中隊の全員が「前衛騎兵」となったわけではなく,「前衛」に属しているのは「騎兵中隊(1小隊欠)」となっています。「1小隊欠」の騎兵小隊はどこに行ったかといえば,臨津江独立支隊(司令官歩兵少佐山口圭蔵)に「騎兵1小隊(25騎)」,京城守備隊(司令官歩兵少佐一戸兵衛)に「騎兵5騎」,仁川兵站守備隊に「騎兵7騎」,給養隊(司令官歩兵中尉石丸言知)に「伝令騎兵5名」,東路独立枝隊(司令官歩兵大尉小原文平)に「騎兵5騎」,本隊の旅団司令部に「伝令騎兵士官1名下士1名卒19名」及び輜重司令部(司令官砲兵少佐押上森蔵)に「伝令騎兵下士1名卒10名」が属していました。なお,「7月25日になって大島旅団長は混成第九旅団主力(歩兵3000名,騎兵47騎,山砲8門,兵站部隊)を率いて牙山に向かった。」とされています(大谷62頁)。

 この7月25日の朝に日清間の豊島沖海戦が発生しています。ただし,当該海戦の名称については,「大本営命令から考えても「豊島沖輸送船団襲撃戦」と名称変更するべきだろう」とも主張されています(原田36頁)。「大本営が伊東佑亨聯合艦隊司令長官に命じた電文(7月20日佐世保軍港で受領)は,/二,清国更ニ兵員ヲ増加派遣スルニ至ラハ彼レ我ニ敵意ヲ表スルモノト認ム故ニ我艦隊ハ直チニ清国艦隊及運送船ヲ破壊スベシ。」というものだったそうです(原田3536頁)。清国兵を運送する高陞号を東郷平八郎大佐が撃沈したことは,Union Jackが掲揚されていたことを捨象すれば,「事件」というよりは大本営の命令どおりの軍事行動であったようです。

 

(4)7月26日:七原のロバ

 7月26日の騎兵第五大隊第一中隊の行動については,豊辺新作中隊長による「戦闘詳報7月26日午後5時素沙場ニ於テ」があります(アジア歴史資料センター。当該戦闘詳報は,手書き文字のままではなく活字になっています。)。

 

  一前衛司令官ノ命ニ依リ騎兵中隊ハ捜索ニ任セラレ午前3時〔漢城南方の〕水原府出発〔その更に南方の〕牙山方向ニ行進ス途次烏山洞及七原ニ逓騎哨ヲ配布ス

  二午後4時37分七原駅三叉路ノ南(ママ)約千米突(メートル)ナル畑地ニ於テ敵ノ騎兵約十騎ニ遭遇ス中隊ハ直ニ之ヲ射撃シ素沙場北方高地迄追撃ス此際敵ノ通弁ノ使用セシ驢馬(ろば)1頭ヲ捕獲ス而シテ敵ノ騎兵ハ〔更に南方の〕成歓幕営地ニ退却セリ

  三成歓駅幕営地ハ素沙場ト約4千米突(メートル)ノ大水田ヲ隔テ相対セリ未タ詳細ニ偵察スル能ハスト雖𪜈(とも)前方ニ3ヶ所後方独立丘上ニ1ヶ所ヲ発見ス

   午後8時中隊ハ素沙場ニ於テ人馬ノ給養ヲ為シ(どう)1030分素沙場ノ北方約千米突(メートル)ノ森林内ニ露営ス

  (ママ)午前3時水原府ヨリ将校斥候1組(4名)ヲ南陽ヲ経鶏頭津方向ニ出セリ

 

実に七原南方における日清両騎兵隊の衝突こそが,日清戦争における日清両軍陸上戦の始まりだったのでした。我が軍の(さきがけ)たる騎兵第五大隊第一中隊は,幸先よい勝利の戦利品としてロバ1頭を捕獲したのでした。

この7月26日には,混成第九旅団本隊は水原に進み,22時頃に漢城の大鳥公使から次のような申進を受けています(混成旅団報告第18号)。

 

 右牙山清兵ヲ撤回セシムル儀ニ付昨25日朝鮮政府ヨリ外務督弁ノ記名調印ヲ以テ右取計方代弁ノ依頼有之候間(これありそうろうあいだ)御承知ノ上(しかる)(べく)御取計相成度(あいなりたく)此段申進(もうしすすめ)候也

  27年7月26日  特命全権公使大鳥圭介

 

 この「右取計方代弁ノ依頼」は,「国王・大院君・外務督弁(外相)趙秉稷が抵抗するのを,脅迫して出させた公文であった。しかし,朝鮮側が抵抗した結果,曖昧な内容になってしまったらしく公開されなかった。」というものです(大谷62頁)。『蹇蹇録』には,「七月二十三日の事変に乗じ,韓廷より牙山にある清国軍隊を国外に駆逐するの委託を強取するに至りたるもの」とあります(陸奥133134)。

 

(5)7月27日:古志正綱少佐の憤死

 前記混成旅団報告第18号に「本日〔1894年7月27日〕水源府出発前歩兵少佐古志正綱死去ス進級補助ノ権ヲ仮サレサル為メ不得止(やむをえず)代理官ヲ置キタリ代理ヲ以テ実戦ニ望ムハ義昌ノ甚タ遺憾トスル処ナリとあります。これだけではよく分かりませんが,この椿事は,「〔混成第九旅団の龍山からの〕移動に際して軍夫には仁川・漢城の在留邦人を動員したが,人数が限られたので,7月25日の出発時には武力で威嚇して朝鮮人軍夫と牛馬を徴発した。しかし強制的に動員した人夫は,同日深夜,水原で牛馬を連れて逃亡したので,牙山進撃に支障をきたした。このとき,食料のみならず,小銃弾や山砲弾も失われた。歩兵第二十一連隊第三大隊では,所属の人夫と牛馬すべてが逃亡,26日の混成第九旅団の出発が困難になったので,大隊長古志正綱少佐が責任を取って翌日に自刃するという異常事態さえ生じた。」ということでした(大谷63頁)。

 この日混成旅団本隊は振威県まで到達し,「同所ニ於テ聶提督ノ貯蔵シ置キタル精米薪藁凡1日分ヲ徴発ス」ということになりましたが,朝鮮人軍夫が牛馬と共に逃亡してしまう状況にあって「本日迠ニ於テ前記ノ如ク稍軍需品ヲ徴発シ得タリト雖𪜈(とも)当地以南ニ於テハ其見込ナシ輜重不継ノ為メニ作戦ヲ渋滞セシメサルヤノ恐レ之レナキニ非ス」(混成旅団報告第18号)という有様でした。

 

(6)7月28

 1894年7月28日,混成第九旅団本隊は振威県の露営地を出発して素沙場北方高地に進み,そこで露営します(同日付け大島混成第九旅団長発竹内兵站監宛て混成旅団報告第19号(アジア歴史資料センター))。翌日の成歓攻撃に備えた軍隊区分及び「命令大意」によれば,騎兵第五大隊第一中隊(1小隊欠)は独立騎兵中隊ということになって「独立騎兵中隊ハ予備隊ニ在ルヘシ」とされます(混成旅団報告第19号)。ただし,「騎兵第五大隊第一中隊(1小隊欠)」の全員が独立騎兵中隊を構成したわけではありません。独立騎兵中隊以外にも騎兵は配備されており,その内訳は,鶏頭津独立支隊に騎兵3騎,軍勿浦独立支隊に騎兵2騎,東路独立支隊に騎兵5騎,右翼隊(司令官・武田秀山中佐)に騎兵5騎,左翼隊(司令官・歩兵中佐西島助義)に騎兵5騎,予備隊に騎兵1分隊(8騎)となっています(混成旅団報告第19号)。

 ところでこの日,平城盛次騎兵少尉の率いる1分隊(筆者の曽祖父の属する分隊であることにしましょう。)が牙山方向の偵察行に出ています。混成旅団報告第21号たる混成旅団戦闘詳報(アジア歴史資料センター)には次のようにあります。

 

  騎兵将校ニ1分隊ヲ率(ママ)シメ牙山ノ敵情ヲ偵察セシム此斥候ハ翌29日午前10時始メテ報告ヲ出ス曰ク牙山土民ノ報ニ依レハ昨今両日ニテ清兵不残のこらず成歓及天安ニ向ヘリ其兵数約千人ナリ尚紅貝ニ小数ノ清兵残留セリト(平城騎兵少尉報告戦闘后ニ受領シタルモノ)

 

  〔1894年7月28日〕午后11時半攻撃命令ヲ達ス〔略〕(かくの)(ごとく)ニ伝達ノ遅緩セシ所以(ゆえん)ハ牙山ニ出セシ騎兵斥候ノ()来ヲ待チシカ為メナリシモ距離遠大ノ為メ遂ニ其情報ヲ得ル(こと)能ハサリシ

 

さて,平城分隊はいずこにありや。ともあれ1894年7月29日未明,混成第九旅団は素沙場から南下し,成歓の戦いが始まります。「此夜陰雨点々稀ニ星光ヲ見ル全団(ばい)(ふく)零時露営地ヲ出発ス士気(うた)タ盛ナリ(混成旅団報告第21号)。

                             (つづく)

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp




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筆者の母方の曽祖父の残した「由緒」書きにおける下記日清戦争関係の記載に係る考証話の第3回です。日清戦争の開戦に関する議論及び曽祖父ら混成第九旅団の1894年6月の仁川宿営から龍山への移動を経て同年7月23日の「京城ノ変」の直前までの様子を取り扱います。

 

明治26年〔1893年〕11月1日徴兵ニ合格シテ騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ〔第1回はここまで〕

明治27年〔1894年〕6月朝鮮国ニ東学党蜂起シ韓国居留民保護ノ目的ヲ以ツテ(どう)年6月11日混成旅団ヲ編成セラ(ママ)大島義昌少将ヲ旅団長トシ平城盛次少尉ヲ小隊長トシ選抜セラレテ山城丸ニ乗舶シ宇品港出帆玄海灘ヲ経テ仁川ニ向フ此ノ日山陽鉄道広島駅()()開通ノ日ナリ〔前回はここまで〕

明治27年8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル

〔今回はここまで〕仝7月23日京城ノ変ニ出張爾来成歓ニ牙山ニ平壌義洲鴨緑江鳳凰城ママ馬集崔家房ママ家台竜頭塞興隆勾瀇嶺海城牛荘田庄台ト転戦ス

明治27年9月15日大本営ヲ広島旧城エ進メ給ヘリ

明治28年〔1895年〕6月5日講和トナリ凱旋

仝年1112日日清戦役ノ功ニ依リ瑞宝章勲八等及び金50円幷ニ従軍徽章下賜セラル 

明治29年〔1896年〕1130日善行証書ヲ授与セラレ満期除隊トナル

 

1 日清開戦

 日清戦争がいつ始まったかについては,『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)の1894年の部分には「8.1 清国に宣戦布告〔詔〕(日清戦争)」「8.1 日清両国,宣戦布告(日清戦争)」とあります。すなわち,日清戦争は1894年8月1日から始まったことになるようです。筆者の曽祖父の認識と同じです。

 1894年8月1日付けの明治天皇の詔勅(公式令(明治40年勅令第6号)の施行前であったので,詔書(同令1条)ではなく詔勅(大日本帝国憲法55条2項参照)ということになっています。)は,次のとおり。

 

  天佑ヲ保全シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国皇帝(1)ハ忠実勇武ナル汝有衆(2)ニ示ス 

  朕茲ニ清国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ百僚有司(3)ハ宜ク朕カ意ヲ体シ陸上ニ海面ニ清国ニ対シテ交戦ノ事ニ従ヒ以テ国家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ苟モ国際法ニ戻ラサル限リ各権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽スニ於テ必ス遺漏ナカラムコトヲ期セヨ

  惟フニ朕カ即位以来茲ニ二十有余年文明ノ化ヲ平和ノ治ニ求メ事ヲ外国ニ構フルノ極メテ不可ナルヲ信シ有司ヲシテ常ニ友邦ノ誼ヲ篤クスルニ努力セシメ幸ニ列国ノ交際ハ年ヲ逐フテ親密ヲ加フ(4)何ソ料ラム清国ノ朝鮮事件ニ於ケル我ニ対シテ著著鄰交ニ戻リ信義ヲ失スルノ挙ニ出テムトハ

  朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ(5)而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ(6)陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ其ノ内乱アルニ於テ口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ(7)朕ハ明治十五年ノ条約(8)ニ依リ兵ヲ出シテ変ニ備ヘシメ(9)更ニ朝鮮ヲシテ禍乱ヲ永遠ニ免レ治安ヲ将来ニ保タシメ以テ東洋全局ノ平和ヲ維持セムト欲シ先ツ清国ニ告クルニ協同事ニ従ハムコトヲ以テシタルニ10清国ハ翻テ種々ノ辞抦ヲ設ケ之ヲ拒ミタリ11帝国ハ是ニ於テ朝鮮ニ勧ムルニ其ノ秕政ヲ釐革シ内ハ治安ノ基ヲ堅クシ外ハ独立国ノ権義ヲ全クセムコトヲ以テシタルニ朝鮮ハ既ニ之ヲ肯諾シタルモ12清国ハ終始陰ニ居テ百方其ノ目的ヲ妨碍シ剰ヘ辞ヲ左右ニ托シ時機ヲ緩ニシ以テ其ノ水陸ノ兵備ヲ整ヘ一旦成ルヲ告クルヤ直ニ其ノ力ヲ以テ其ノ欲望ヲ達セムトシ更にニ大兵ヲ韓土ニ派シ我艦ヲ韓海ニ要撃シ13殆ト亡状14ヲ極メタリ15則チ清国ノ計図タル明ニ朝鮮国治安ノ責ヲシテ帰スル所アラサラシメ帝国カ率先シテ之ヲ諸独立国ノ列ニ伍セシメタル朝鮮ノ地位ハ之ヲ表示スルノ条約ト共ニ之ヲ蒙晦ニ付シ以テ帝国ノ権利利益ヲ損傷シ以テ東洋ノ平和ヲシテ永ク担保ナカラシムルニ存スルヤ疑フヘカラス熟其ノ為ス所ニ就テ深ク其ノ謀計ノ存スル所ヲ揣ルニ実ニ始メヨリ平和ヲ犠牲トシテ其ノ非望ヲ遂ケムトスルモノト謂ハサルヘカラス事既ニ茲ニ至ル朕平和ト相終始シテ以テ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚スルニ専ナリト雖亦公ニ戦ヲ宣セサルヲ得サルナリ汝有衆ノ忠実勇武ニ倚頼シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝国ノ光栄ヲ全クセムコトヲ期ス

    御名 御璽

      明治27年8月1日

             内閣総理大臣 伯爵伊藤博文

             逓信大臣 伯爵黒田清隆

             海軍大臣 伯爵西郷従道

             内務大臣 伯爵井上 馨

             陸軍大臣 伯爵大山 巌

             農商務大臣 子爵榎本武揚

             外務大臣   陸奥宗光

             大蔵大臣   渡辺国武

             文部大臣   井上 毅

             司法大臣   芳川顕正

 

   注(1)「国内的詔勅に於いては,天皇の一人称としては唯『朕』と宣たまふだけであるが,対外的詔勅に於いてのみは『天佑ヲ保有シ万世一系ノ帝祚ヲ践ミタル日本国皇帝』の称号を称したまふ慣例である。外交文書に於いてのみ特に『皇帝』と称せらるのは,恐くは,日本の外交上の用語として,総て君主国の君主はその本国に於いて如何なる称号を称するかを問はず,一様に『皇帝』と訳称する慣例であるからであらう。」(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)264頁)

   注(2)「有衆」は,「たみ。人民。朝廷または君主から人民をよぶことば。有は,意味のない助字。」(『角川新字源』(1968年))

   注(3)「有司」は,「官吏。司(担当)があるの意。」(新字源)

   注(4)1894年7月16日「日英通商航海条約・付属議定書・付属税目調印(領事裁判権廃止・関税率引上げを実現)。8.27公布〔勅〕。’99.7.17施行。」(岩波年表)

   注(5)1876年2月27日に調印され(外務省・日本外交文書の注記にある調印日。文書の日付自体は同月26日),同年3月22日に批准・布告された我が国と朝鮮国との修好条規はその第1款において「朝鮮国ハ自主ノ邦ニシテ日本国ト平等ノ権ヲ保有セリ嗣後両国和親ノ実ヲ表セント欲スルニハ彼此互ニ同等ノ礼儀ヲ以テ相接待シ毫モ侵越猜嫌スル事アルヘカラス先ツ従前交情阻塞ノ患ヲ為セシ諸例規ヲ悉ク革除シ務メテ寛裕弘通ノ法ヲ開拡シ以テ双方トモ安寧ヲ永遠ニ期スヘシ」と規定。

   注(6)1894年8月1日の清国光緒帝の対日宣戦上諭には「朝鮮為我大清藩属二百余年,歳修職貢為中外所共知」云々,すなわち「朝鮮は我が大清の藩属たること二百余年,歳々職貢を修むるは中外の共に知る所となす」とあり(青柳篤恒述『支那時文評釈』(早稲田大学出版部・早稲田大学1906年度講義録)8頁)。

   注(7)光緒帝の対日宣戦上諭には「本年四月間,朝鮮又有土匪変乱,該国王請兵援,情詞迫切,当即諭令李鴻章揆兵赴援,甫抵牙山匪徒星散」,すなわち「本年四月の間,朝鮮また土匪の変乱あり,該国王兵を請ひ援(「剿は絶つなり略取するなり,応援して匪徒を討平するをいふ」(青柳9頁))せしむ,情詞迫切なり,(すな)(はち)李鴻章に諭令し兵を揆して(「揆は分つなり,兵員を分派するなり」(青柳9頁))赴き(すく)はしむ,(はじめ)牙山に(いた)るや匪徒星散(「星の如く散ずるなり」(青柳9頁))せり」とあり(青柳8頁)。

   注(8)1882年の済物浦条約5条に「日本公使館置兵員若干備警事」と規定。

   注(9)前回記事「一騎兵の日清戦争(2):東学党蜂起から仁川上陸まで」参照       (http://donttreadonme.blog.jp/archives/1071722709.html)。

   注(101894年6月17日発遣の在日清国特命全権公使汪鳳藻宛て陸奥外務大臣からの親展送第41号(朝鮮問題処理ニ関スル対談ノ要旨通告ノ件)には次のようにあり(日本外交文書)。

         以書簡(しょかんをもって)(けい)啓上(じょういたし)陳者(のぶれば)朝鮮国ニ於ケル目下ノ事変及善後ノ方法ニ関シ昨日御面晤ノ節帝国政府ノ提案トシテ貴国政府ニ御協議致候要旨ハ左記之通ニ有之(これあり)

         朝鮮事変ニ付テハ日清両国相(りく)力シテ速ニ乱民ノ鎮圧ニ従事スル事

         乱民平定ノ上ハ朝鮮国内政ヲ改良セシムル為メ日清両国ヨリ常設委員若干名ヲ朝鮮ニ派シ先ツ大略左ノ事項ヲ目的トシテ其取調ニ従事セシムル事〔なお,この取調協議について前日6月16日に汪公使は「然ルニ此一条ノ協議纏ラザル間ハ貴国政府ニ於テハ撤兵スルヲ肯セザル様ニ解セラレタリ」と懸念をつとに表明〕

          一財政ヲ調査スルコト

          一中央政府及地方官吏ヲ淘汰スルコト

          一必要ナル警備兵ヲ設置セシメ国内ノ安寧ヲ保持セシムルコト

         右(ねんの)(ため)茲ニ申進候本大臣ハ茲ニ重ネテ敬意ヲ表候敬具

   注(111894年6月22日に我が外務省が接受した陸奥外務大臣宛て汪公使の回答には次のようにあり(日本外交文書)。

         一韓乱告平已不煩中国兵代剿両国会剿之説自無庸議(朝鮮ノ変乱ハ已ニ鎮定シタレハ最早清国兵ノ代テ之ヲ討伐スルヲ煩ハサズ就テハ両国ニシテ会同シテ鎮圧スヘシトノ説ハ之ヲ議スルノ必要ナカルヘシ)

         一善後弁法用意雖美止可由朝鮮自行釐革中国尚不干預其内政日本素認朝鮮自主尤無干預其内政之権(善後ノ方法ハ其意美ナリト雖トモ朝鮮自ラ釐革ヲ行フヘキコトトス清国尚ホ其内政ニ干預セズ日本ハ最初ヨリ朝鮮ノ自主ヲ認メ居レバ尚更其内政ニ干預スルノ権ナカルベシ)

         一乱定撤兵乙酉年両国所定条約具在此時無可更議(変乱平定後兵ヲ撤スルコトハ乙酉ノ年両国ニテ定メシ条約ニ具在スレハ〔天津条約第3款には「将来朝鮮国若シ変乱重大ノ事件アリテ日中両国或ハ一国兵ヲ派スルヲ要スルトキハ応ニ先ツ互ニ行文知照スヘシ其事定マルニ及テハ仍即チ撤回シ再タヒ留防セス」と規定〕今茲ニ又議スベキコトナカルベシ)

また,1894年7月9日の在北京小村寿太郎臨時代理公使から陸奥外務大臣宛ての電報においては,“At an interview 七月九日総理衙門王大臣 declared that Chinese Government would not enter into negotiation until Japan withdrew her troops from Corea because Tientsin Convention required immediate withdrawal of troops on the suppression of disturbance and if China and Japan detained troops there was danger that other powers might claim right to do the same. The effort of British Minister and myself has failed to induce them to make further proposals.”と報ぜられあり(日本外交文書)。

   注(12)清国政府側の認識は,光緒帝の対日宣戦上諭においていわく。「乃倭人無故派兵突入漢城,嗣又増兵万余,迫令朝鮮更改国政,種種要挟,難以理喩」,すなわち,清国が東学党蜂起に苦しむ朝鮮国王の請いに応じて同国に派兵したところ「(すなは)ち倭人故無く兵を派し突として漢城に入り,()いでまた兵万余を増し,迫って朝鮮をして国政を更改せしめ,種々の要挟(「種々の難題を提議して韓廷に要求し之を挟制するなり」(青柳9頁)),理を以て喩へ難し」と(青柳8頁)。またいわく。「日本与朝鮮立約係属与国,更無以重兵欺圧強令革政之理」,すなわち「日本と朝鮮と約を立て,与国に係属す,更に重兵を以て欺圧し強いて政を(あらた)めしむるの理無し」と(青柳8頁)。

   注(13)「要撃」は,「敵を待ちうけて撃つ。」(新字源)

   注(14)「()状」は,「よい態度・行状がないの意で,無礼,無作法。」(新字源)

   注(151894年7月25日「日本艦隊,豊島沖で清国軍艦を攻撃,英国籍の輸送船高陞号を撃沈。」(岩波年表)

        「李鴻章が2300名の兵士と武器を牙山に送るという情報は,清駐在の外交官や武官から次々と伝えられ,7月19日,政府・大本営は対清開戦を決定した。/この日,海軍に対して清軍増派部隊を阻止せよとの命令が下された。」「偵察のため先行した連合艦隊第一遊撃隊の吉野・秋津洲・浪速の俊足巡洋艦群は,7月25日早朝,豊島付近で清海軍の巡洋艦済遠・広乙に遭遇し,戦闘にいたる。いわゆる豊島沖海戦である。」「7月25日の海戦は,済遠が逃亡を図り,広乙は座礁し,日本側優勢のうちに終わろうとした。そのときさらに,砲艦操江に掩護された高陞号(清兵1100名と大砲14門を搭載)が現れる。操江は降伏したが,高陞号は浪速(艦長東郷平八郎大佐)の臨検に際して,降伏を拒んだため,日本は撃沈して,イギリス人高級船員3名だけを救助した。」(大谷正『日清戦争』(中公新書・2014年)56頁,57頁,5758頁)

豊島沖海戦に関する清国側の言い分は,光緒帝の対日宣戦上諭においていわく。「朝鮮百姓及中国商民,日加驚擾,是以添兵前往保護,詎行至中途,突有倭船多隻,乗我不備在牙山口外海面開砲轟撃,傷我運船,変詐情形,殊非意料所及,該国不遵条約,不守公法,任意鴟張専行詭計,釁開自彼,公論昭然」,すなわち日本の兵員(混成第九旅団)増派により「朝鮮の百姓及び中国の商民,日に驚擾を加ふ,是を以て兵を添へ前往して保護せしめたるに,(いづくん)はからむ行を中途に至れば,突として倭船多隻あり,我が備へざるに乗じ牙山口外(「口は港なり」(青柳10頁))の海面にありて砲を開きて轟撃し,我が運船を傷つく,変詐の情形,殊に意料の及ぶ所にあらず,該国条約に遵はず,公法を守らず,意に任せ()(ふくろうがつばさを張ったように,勢いが強くわがままなこと(新字源)。)し専ら詭計を行ひ,(きん)彼より開く,公論昭然たり」と(青柳8頁)。
  五十嵐憲一郎「日清戦争開戦前後の帝国陸海軍の情勢判断と情報活動」(戦史研究年報4号(防衛研究所・2001年3月)17頁)において紹介されている坪井航三常備艦隊司令官の伊東祐亨常備艦隊司令長官宛て1894年7月25日(21時朝鮮群山沖発)付け報告書では「午前7時5分敵艦ト相近ツク殆ト3千「メートル」許リニシテ我ヨリ発砲ヲ始ム」とあり(21頁)。

ところで,明治天皇の対清宣戦の詔勅の作成日付は1894年8月1日ですが,実は同月2日の官報号外に掲載されています。8月2日に至って同日の閣議で当該詔勅の文案について妥協が成立し当該案をもって明治天皇の裁可を受け,同日付けの官報号外に掲載されたものですから(大谷68頁),1894年「8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル」とは本来いえないはずです。8月1日開戦日説は,「最も根拠薄弱」とされています(大谷68頁)。

実のところ,日清戦争の開戦日がいつであるのかについては,7月23日説から8月2日説まで種々の議論があったところです(大谷6869頁参照)。

この点について,美濃部達吉の断案は次のとおり。

すなわち,美濃部は,開戦の決定(大日本帝国憲法13条は「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」と規定)の外部に対する表示は二つの行為に分かれており「一は敵国に対する宣戦の行為であり,一は国民に対する宣戦の布告である」と分析した上で,敵国に対し正式の通告を要するとする明治45年条約第3号たる開戦に関する条約より前の状況について,「敵国に対する宣戦の行為は,対外的の行為であるから,国際法に従つて行はれねばならぬ。従来は此の点に付いての成文法規の定なく,必ずしも形式的に開戦の意思を通知することを要せず,事実上に戦争行為を開始することに依りて開戦し得べきものとせられて居た。明治27年の日清戦役及び明治37年の日露戦役は,共に事実上の戦争行為に依つて開戦せられたのである。」と述べているところです(美濃部267頁)。したがって,日清戦争における日清間の宣戦行為は,「事実上に戦争行為を開始」したものである1894年7月25日の豊島沖海戦ということになります。同年9月10日の伊藤内閣の閣議で,7月25日が開戦日であると決定されているところです(大谷69頁・242頁)。

それでは1894年8月1日の日付で作成・同月2日外部表示の明治天皇の詔勅は何だったのかといえば,美濃部の説明によれば,「国民に対する宣戦の布告は,詔書を以て公布せられる。それは敵国に対して既に開戦せられた後直に発表せらるもので,開戦せられたことの事実を国民に宣示し,以て国内法上に戦時の状態に入れることを明白ならしむるのである。勿論,此の詔書に依つて始めて戦時に移るのではなく,事実上に戦争が開始せられたならば,当然戦時となるのであるが,此の詔書に依つてそれが国民に対し明示せられるのである。」ということでした(美濃部267268頁)。

  

2 仁川宿営の日々(1894年6月23日まで)

 さて,上陸翌日の1894年6月17日に早速怪魚「メタ」に苦しめられ七転八倒する者を出した混成第九旅団の兵士らの仁川宿営の日々はどのようなものだったのでしょうか。原田敬一佛教大学教授の紹介する同旅団の野戦砲兵第五聯隊第三大隊第五中隊の将校の日誌(「混成第九旅団の日清戦争(1)―新出史料の「従軍日誌」に基づいて―」佛教大学歴史学部論集創刊号(2011年3月)。砲兵中隊の将校の日誌ではありますが,気候や周囲の情景は騎兵中隊にも共通でしょう。)及び大島義昌旅団長の参謀総長宛て混成旅団報告第5号ないし第6号(同月21日,22日及び24日付け。22日付け及び24日付けのものはいずれも第6号との番号が付されていて重複。いずれもアジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることができます。)によって見てみましょう

 

  1894年6月18日 「曇午後8時ヨリ降雨」

    前日の雨が止んだゆえか,砲兵部隊は仁川から2里ばかり離れた長山里まで行軍訓練をしています。その際の地元の人々の様子に関する印象は,「其経路中朝鮮町ヲ通過ス,(どう)町ハ(もとよ)リ全国ノ風習トシテ不潔臭気々トシテ鼻ヲ突ク」ということでした「憤々」は「心がおだやかでないさま」(新字源)ですので,あえて「芬々」の誤りと解する必要はないでしょう。

    早速「本日ヨリ酒保ヲ開カル。」「酒保」は,「軍隊で兵士に日用品・飲食物を売る店」です(新字源)。(以上,砲兵中隊従軍日誌)

    混成旅団報告では,この日の天気は「午前晴 午後大雨」でした。筆者の曽祖父の上官たる豊辺新作騎兵第一中隊長は,大島旅団長に随行して漢城に赴いています。いわく,「午前7時旅団長入京〔大鳥〕公使ニ協議ノ為メ発途午後4時40分着(随行長岡参謀,平岡副官,槁本第二大隊長,永田砲兵大隊長,柴田野戦病院長,豊辺騎兵中隊長,列外ニ福島中佐上原少佐騎兵下士卒16内下士1卒10名ハ京城駐屯大隊長〔一戸兵衛少佐〕ニ属スヘキモノ)」。

  6月19日 「雨天」

    「前夜風雨ノ為メ厩破壊シ修繕ス」(以上,砲兵中隊従軍日誌)。砲兵部隊の厩が壊れているのに騎兵中隊の厩は無傷であった,ということではなかなかないでしょう。アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることのできる「第6月16日仁川港居留地舎営割」添付の地図によれば,騎兵及び砲兵の「騎砲各隊馬厩」は宿営地から離れたところの同じ場所に隣接してあったようです。

    混成旅団報告には「京城分屯大隊ノ患者次第ニ減ス済物浦ニ於テ胃加答児多シ」とあります。胃カタルすなわち胃炎は,なお「メタ」の(たた)りの去らざりしものか。

  6月20日 「晴天」(砲兵中隊従軍日誌)

    混成旅団報告によれば「〔大島〕旅団長此日〔漢城から〕帰仁ノ途ニ上ル楊花鎮ノ渡場漲水ノ為メニ渡ル(こと)能ハス汽船ヲ以テ帰着ス」とのことでした。

  6月21日 「晴天」

    「午前砲廠及厩ヲ舎営地ノ東方ニ移転ス」(以上,砲兵中隊従軍日誌)。「騎砲各隊馬厩」は舎営地の北西に離れてあったのですが,この日騎兵の厩も砲兵のそれと一緒に「舎営地ノ東方ニ移転」したものかどうか。「「従軍日記」は,舎営地等を仁川居留地の東方に移した,と淡々と記すが,これらはいずれ確実になるソウル駐屯への準備であった。」と説明されています(原田28頁)。ただし,混成旅団報告の23日の項によれば「其後6月19日〔大島〕旅団長入京ノトキ〔大鳥〕公使ヨリ各国租界ニハ舎営スルヲ断ルトノヿニ付キ電報ヲ以テ其撤去ヲ舎営司令官ニ命シ20日ニ於テ各隊全ク日本居留地幷ニ日本居留民所有地(公園附近)ノミニ幕営スルヿトナレリ」といったことによる移動もあったようです。

  6月22日 「晴天」(砲兵中隊従軍日誌)

    混成旅団報告では「風又雨」とあり,また「午後晴」となっています。

  6月23

    混成旅団報告では,この日は「晴又曇」,「大鳥公使ヨリ清国四五千ノ兵ヲ出ス確報ハ衝突ハ免レサルヘシ速ニ兵ヲ京城ニ入レラレタシ後続兵モ同様ニタノムトノ報アリ」ということになり,しかして「軍機一変セリ午後5時会報ヲ以テ明24日行軍ニ関スル部署ヲ定ム其大要左ノ如シ」とされての大要の「3」は,「本隊ノ行軍序列ハ騎兵中隊歩兵2中隊砲兵大隊(1中隊)歩兵第十一聯隊野戦病院大行李」ということでした。いよいよ翌日は漢城に向けて出発。その本隊の先頭は騎兵でありますから,筆者の曽祖父の「選抜セラレテ」感はひとしおだったことでしょう。 

 

3 龍山屯営(その1:1894年6月24日から同年7月5日まで)

それまで仁川にいた混成第九旅団は,1894年6月24日,朝鮮国の首都である漢城の南郊にしてかつ漢江の北岸である龍山に移動し,そこに留まります。

 

  1894年6月24日 「晴天」(砲兵中隊従軍日誌)

    「23日夜ノ報告ニ於テ記載セシ順序ニヨリ諸隊仁川出発途中大ナル困難ヲ以テ午後6時当幕営地〔龍山〕ニ到着ス輸卒ノ人員行李ニ比シテ小数ナル為メ出発前兵站監ニ命シ人夫ヲ雇ヒ入レシムヘキ筈ナリシカ韓人其命ニ従ハサルモノト見(ママ)1名ヲモ雇入ル(こと)能ハス已ムヲ得ス甚シキモノニアリテハ1駄分ヲ二人ニテ運ハシムルヿトナリ之カ為メ大行李ノ到着ヲ意外ニ遅延シ其全ク到着セシハ翌25日朝ナリシ」(1894年6月26日付け大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団報告第7号(アジア歴史資料センター))

    「此日炎暑甚敷(はなはだしく)整々堂々タル我軍隊ハ兵卒モ飲用水ノ欠乏ヨリ日射病ヲ起シ終ニ路傍ニ倒ルニ至リシ者多数アリ(消し:タルコト)。/本日ノ行程8里ト云フト雖モ実際ハ10里ノ余アリ。」(砲兵中隊従軍日誌)

    「茲ニ悲ムヘキ一事ハ途中ニ於テ歩兵第十一聯隊第六中隊ノ現役兵1名日射病ヲ以テ遂ニ死亡セリ」(前記大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団報告第7号)

    なお,この日水源府に向けて騎兵将校斥候が出されています(1894年6月25日付け混成第九旅団情報(アジア歴史資料センター))。

  6月25日 「晴正午93度〔摂氏33.9度〕」(同日付け前記混成第九旅団情報)

    「午前6時昨夕ノ食事補給トシテ結飯1ケツ分配,(どう)地飲用水不充分ニシテ馬匹水飼ハ露果ト云フ仝地ヲ距ツル約2千米突(メートル)ノ処ニ於テナス。/幕営地ノ南方ニ旅団騎兵工兵隊アリ,背面ヨリ西ニ当リテハ歩兵隊アリ,何レモ幕営。/京城ノ居留民来リ酒保ヲ開キ其物価左ノ如シ。/卵2銭5厘 氷水3銭5厘 手紙3銭 砂糖35銭 酒40銭 牛肉25銭 封筒3銭 菓子ハ本国ニ3倍ス。」(砲兵中隊従軍日誌)

    「明日ヨリ諸隊交番ニ京城及其附近ニ行軍演習ヲ催サシムル筈猶竜山附近測図ニ着手ス又(すう)(まつ)欠乏ノ為メ近郊ニ於テ生草刈取ニ着手セシムル筈ナリ」(同日付け前記混成第九旅団情報)

    行軍演習をしなければ,手持無沙汰のお兄ちゃんたちがとぐろを巻く男の臭い芬々たるただの群衆になってしまいます。

  6月26日 「晴天 朝92度〔摂氏33.3度〕正午102度〔摂氏38.9度〕」(砲兵中隊従軍日誌)

    この日砲兵部隊は漢城まで行軍演習を行っています。

    「午前6時40分ヨリ京城ニ向ケ行軍ヲナス,崇礼門ヲ入テ大道ヲ貫キ迂回シテ我公使館ヘ至ル,時ニ我帝国臣民五六輩ハ軍隊万歳ヲ三称ス,(どう)時清国人ノ在ル者ハ下等社会ノ者ト公使館ニ数十名アルノミナリ,我公使館ハ京城市街(ママ)一眼ニ見下ス可キ高地ニシテ特ニ支那公使館ハ僅カ5百米突(メートル)不過(すぎず),王城所在地ハ千米突以上。/飲用水ハ公使館背後ノ山渓ヨリ流出シ其質尤モ良シ,其山腹ニ於テ砲列ヲ敷キ昼食ヲナス,午後4時帰営ス。/此日炎暑甚敷全身出(ママ)瀧ノ如シ。」(砲兵中隊従軍日誌)

    38度の高温下で昼食が食べられたものかどうか。いずれにせよ,大汗はかいたものの熱中症にならなかったのは何よりでした。

  6月27日 「晴天」

    「当隊ハ当分当地ニ滞在ノ積リニテ仮厩設置。」(以上,砲兵中隊従軍日誌)

    砲兵隊は「当分当地ニ滞在」するのかと腰を落ち着ける気分の模様ですが,豊辺大尉率いる騎兵中隊は偵察活動に忙しい。この日付けの大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団報告第8号には「明28日騎兵1分隊ヲ開城府方向ニ派遣ス」とあります。

  6月28日 「晴天」

    砲兵中隊では「午後中隊ノ馬匹1頭放走ニ探索ノ為メ東方ニ向テ出張仝日帰営ス」との騒動があったようです。(以上,砲兵中隊従軍日誌)

  6月29日 「晴天」(砲兵中隊従軍日誌)

    「水原方向ニ出シタル騎兵斥候ノ報告午後3時10分到着曰ク軍浦塲及水源地方ニ支那兵ヲ見ス/当斥候ハ尚南陽府方向ニ進テ捜索セントス」(1894年6月30日付け大島旅団長発参謀総長宛て第10号報告)

  6月30日 「晴天,午後3時ヨリ雨」

    砲兵中隊は,「午前6時ヨリ東方2里余ノ処ニ行軍,(どう)11時帰営,時ニ韓人我軍隊ノ整トシテ秩序正シキヲ見舌ヲ捲テ感スルノミ」と,地元住民にびっくり感心されて気をよくしています。(以上,砲兵中隊従軍日誌)

  7月1日 「雨」

    砲兵中隊は「午前午後共休業。」(以上,砲兵中隊従軍日誌)

    この日は日曜日でした(原田31頁)。

    なお,この日「両陛下ヨリ渡韓ノ軍人軍属ヘ酒烟草ヲ賜ハルヘキ恩命ヲ受ク依テ各隊長ニ恩命ヲ伝ヘ各隊ニ於テ兵卒ヲ整列セシメ御賜ノ恩ヲ達ス」ということであったそうですが(1894年7月6日付け大島旅団長発参謀総長宛て第11号報告),砲兵中隊の兵卒への伝達は翌7月2日正午になり,かつ,「該品ハ不日到着ノ上分配ノ事」ということだったそうです(砲兵中隊従軍日誌7月2日の項)。

    日曜日ですが騎兵は忙しく,筆者の曽祖父の直属上官たる平城騎兵少尉による坡州及び臨津附近に異常は無い旨の報告がこの日旅団に着いています(上記大島旅団長発参謀総長宛て第11号報告)。

  7月2日 「風雨」

    「天幕中雨(あふれ)甚タ困難,郷里ノ両親ヲ思フノ念交々(こもごも)換ル」(以上砲兵中隊従軍日誌)

  7月3日 「曇」

    「尚雨溢甚敷(はなはだしく)困難不尠(すくなからず)」(以上砲兵中隊従軍日誌)

    「歩兵第十一聯隊第九中隊長大尉岡徳吉病気(胃病)ニテ仁川兵站病院ヘ入院ノ処死去ノ旨通報シ来ル」(前記大島旅団長発参謀総長宛て第11号報告)

    メタその他の朝鮮国の食及び水が,岡大尉の命取りとなってしまったものでしょうか。

  7月4日 「雨」(砲兵中隊従軍日誌)

  7月5日 「時々雨」(砲兵中隊従軍日誌)

    この日午後7時,平城盛次少尉は牙山方向の清国兵の動静を捜索すべしとの旅団長命令を受け,翌同月6日から同月14日まで偵察行に出ています。アジア歴史資料センターのウェブ・サイトに当該偵察行に係る平城少尉の報告書が掲載されていますので,以下に当該報告書を転載します。筆者の曽祖父が当該偵察行に同行したかどうかは不明ですが,同行したものと考えた方が,当然面白い。

 

 4 平城少尉の牙山方向・振威県方面偵察行(1894年7月6日から同月14日まで)

 

7月5日午后7時旅団長(より)将校斥候トナリテ牙山方向清兵ノ動静ヲ捜索スルノ命ヲ受ケタリ猶近日中ニ聶〔士成〕提督朝鮮国王謁見トシテ上京スルニ付キ果シテ謁見ナルヤ否ヲ確ムル任務ヲ与ヘラレタリ是ニ於テ急報告ヲ要スル計ラレサルヲ以テ下士1名兵卒3名(より)成ル逓騎ヲ中途ニ配置スル(こと)ヲ命セラル

7月6日午前6時下士1名兵卒8名ヲ率(ママ)龍山ヲ発シ9時安場ニ達シ此ニ下士1名兵卒3名ヲ逓騎トシテ残留セリ午前1130分軍浦塲ニ於テ先キニ此方向ニ出タル将校斥候ニ出会シ牙山方向ノ情況ヲ聞キ水源ニ向テ出発午后2時水原府ニ達シ尚ホ進テ龍仁県ニ至ル道路ノ岐分点ニ至リ午后5時ニ至リ退却シ水源ニ宿営セリ無異状(いじょうなし)此日ハ公使館(より)出テシ警以下3名モ亦来テ宿営セリ

7月7日午前6時兵卒2名ヲ率(ママ)水原ヲ発シ振威ニ向フ午前11時振威ニ達ス県庁ノ空舎ニ薪炭藁米麦等ノ充実スルヲ見ル県官ニ問フニ支那兵宿泊ノ準備ナリト云フ又(どう)室内ニ左ノ掲示アリタリ

迎接使 道主 軍官1員 従2人 警吏1人 通詞1人 執事1人 旗手10人 夫馬10

右ハ支那兵歓迎ノ準備ナリトス午后1時警部等モ亦振威ニ来リ本日此ニ宿営セリ午后1時振威ヲ発シ水源ニ退テ宿泊セリ別ニ無異状(いじょうなし)

7月8日午前6時3名ヨリナル斥候ヲ龍仁県ニ至ル道路ノ岐分点ニ出セリ午(ママ)9時礼正邪出水原ニ来リ同10時出発振威方向ニ至レリ探求ス(ママ)国王ノ勅詞ヲ奉持シテ全羅道ニ行ク者ナリト云フ午后1時警部等水原ヨリ来リ左ノ報告ヲナセリ(聶氏ハ7日出発全州ニ至レリ支那兵一部ハ天安郡ニアリト)午后3時日本人ノ牙山方向(より)帰リ来ルヲ認メテ聞キタルニ仁川ノ者ニテ牙山ノ方向ニ商用ニ至レリト同人ノ言ニ曰ク(牙山ノ兵ハ徴発セル駄馬ヲ(かい)雇シ(ふね)ヲ集メ居レリ其舩ハ朝鮮舩ニシテ約30艘アリタリト云フ其名義ハ沿海ヲ測量スト云ヘリト)午后5時斥候帰過セルモ異状ナシ

9日前日ノ如ク斥候ヲ出セルモ無異状(いじょうなし)

10日モ亦前日ノ如ク斥候ヲ出セルモ無異状(いじょうなし)午後日本公使舘ニテ使用セル朝鮮人ノ来リ報シテ曰ク牙山方向ヨリ来ル通行人数名ニ聞クニ昨9日夕天安ヨリ支那兵屯浦ニ来リ道路修繕中ナリト云ヘリ其他異状ナシ

11日午前6時30分水源ヲ発シ振威ニ至ルニ支那人10名余七原駅ニアリト土人ノ言故ニ七原駅ニ至レルモ支那人10数名内乗馬者4名アリテ旅装ハ商人風ナルモ馬具長靴等

ヲ以テ見レハ全ク軍人ナリシ此支那人ハ皆水原方向ニ行進セリ午後5時七原駅ヨリ北方約3千(メートル)ノ一軒屋ニ宿泊セリ

12日午前4時振威ニ(かえ)リ7時30分伝騎ヲ以テ旅団長ニ左ノ報告ヲナセリ(在別紙〔筆者註:当該別紙は略〕)此日猶振威ニ止マレリ

13日午前7時30分出発午後1時水源ニ()着シ直ニ官衙内ノ動静ヲ窺シモ別ニ異ナシ只1人支那人昨日官衙ニ来レルノミ其支那人ハ(どう)日振威ニ向ケ(かえ)レリト此日水原ニ宿営セリ此夜官衙ノ役人来リ留守ヨリ判官ニ与ヘタル書面ヲ示シ我斥候ノ官衙内ニ宿営スルヲ謝絶スルヲ以テ之レヲ写シ置ケリ

14日午前5時ヨリ判官宅ニ至リ前夜示セル書面ニ就テ厳重ナル談判ヲナシ午前8時水源ヲ発シ午後2時龍山ノ本隊ニ(かえ)尚ホ左ノ報告ヲナセリ

報告書中天安郡ノ兵屯浦ニ来リ(ママ)云ヘルモ屯浦ニ出テタル支那兵天安郡ニ在ル支那兵ニ非スシテ牙山ヨリ出セルモノナリ天安郡ニハ今猶依然屯在セリ

             明治27年7月15日 陸軍騎兵少尉平城盛次


 5 龍山屯営(その2:1894年7月14日から同月22日まで)

 

  1894年7月14日 「晴天」(砲兵中隊従軍日誌)

    同日付けの長岡外史少佐の混成旅団参謀報告(アジア歴史資料センター)には,「牙山方向騎兵将校斥候交代」との見出しの下,「本方向ノ斥候ハ此迠将校1下士2兵卒8名ノ処本14日旧斥候〔平城少尉〕帰来兵卒人員ノ少キ為メ疲労甚シキ報告アリシヲ以テ明15日交代ノモノヨリ将校1下士2名兵卒14名ニ改メラレタリ/帰営セシ将校斥候ヨリハ一モ新報ナシ只水原牧司両三日前ヨリ外務衙門ノ訓令ヲ受ケタリト称シ宿舎ノ世話食事ノ周旋等ヲ謝絶シ頗ル不自由ナリシトノ報アルノミ亦以テ朝鮮政府ノ日ニ我邦ヲ疎外スルヲ知ルニ足ル事ニ御座候/水源牧司ノ外務衙門訓令ナリトテ我騎兵将校ニ示シタルモノハ明日送呈スヘシ/依テ明日出ス斥候ニハ更ニ綿密ノ方策ヲ授ケ水源牧司ニ厳談スヘキ旨ヲ授ケラル」とあります。朝鮮国の役人が生意気だと息巻くばかりで平城少尉の苦心の偵察については「一モ新報ナシ」と言われてしまうとがっかりです。

  7月15日 「晴天」

    「此日軍楽隊ハ団本部ニ於テ楽奏,其声音絶佳ナリ。」(以上,砲兵中隊従軍日誌)

    この日は日曜日でした(原田33頁)。

  7月16日 「晴天」

    「午前〔砲兵〕大隊行軍予定ノ処降雨ノ為メ見合」「此日安芸宮島神社及ビ加藤清正公ノ守護札寄贈品到着,各人ニ分配。/亦京城居留民一(どう)及ヒ公使書記官等軍人慰労ノ為メ酒1合ツ及牛肉少量ツヽ寄贈。/青色ノ毛布到着,各人1枚支給。」(以上,砲兵中隊従軍日誌)

  7月17日 「晴天」(砲兵中隊従軍日誌)

    この日英国兵及び米国兵が漢城に入るとの報が至り,翌日付けの混成旅団参謀報告第7号(アジア歴史資料センター)において長岡参謀憤慨して曰く。

    「是ヨリハ〔日英米〕3国兵ノ入込ミテ細故ノ衝突多カルヘク特ニ英兵ハ喧嘩買ヒノ為メニ入京セシムル実殆ント確実ナルヲ以テ諸隊ニ厳達シテ可成(なるべく)喧嘩ヲ避ケ多少打タルトモ堪忍シテ大事ノ前ハ小事ト心得談判上ニテ(かたき)ヲ取ル見込ナレハ決シテ衝突ニ買ハル(べか)ラサル(こと)ヲ達セラレタリ軍隊教育上ニ就テハ打タレテモ猶ホ我慢セヨトハ残念至極ノ(こと)ナレ(ども)不得止事(やむをえざること)奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)

    前日(16日)付けでロンドンにおいて日英通商航海条約・付属議定書・付属税目が調印されたはずですが,現場の長岡少佐は英国人が嫌いです。

  7月18日 「晴天」(砲兵中隊従軍日誌)「午前4時温度77度〔摂氏25度〕 午后2時同96度〔摂氏35.6度〕」(同月19日付け大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団報告第11号(アジア歴史資料センター))

    「18日(水)は大本営が開戦へと踏み切る日となった。天津の神尾光臣中佐〔同月20日付け大島旅団長発参謀総長宛て報告第12号(アジア歴史資料センター)では「少佐」〕から,清国軍6営(約3000人)が翌日出発予定,という電報が18日午後3時45分大本営に到着した。同日午後9時発の参謀総長発大島旅団長宛て電報は,聯合艦隊は22日佐世保出航予定,清国軍の増派に「其軍艦輸送船ヲ破砕」せよと命令,混成旅団も,清国軍増派情報を得れば「首力ヲ以テ眼前ノ敵ヲ撃破スベシ」と指示し,開戦へ大きく舵を切っている。/18日午後9時発の参謀総長電報は,混成旅団司令部におそらく19日中には到着しただろう。また19日未明,漢城に帰任する大本営参謀福島安正中佐が龍山の旅団司令部を訪れ,「大本営の内意」として「清国将来若シ軍兵ヲ増発セハ独断事ヲ処スヘシ」と大島旅団長に伝えた。ここに旅団の独断による戦闘開始が許可されたことになる。」(原田3334頁)

  7月19日 「晴 午前4時74度〔摂氏23.3度〕 午后2時95度〔摂氏35度〕」(前記大島旅団長発参謀総長宛て報告第12号)

    「此日山口県有志者ヨリ寄贈シタル夏橙各人ニ二三個ツ給与,時節的尤モ佳評。/午前11時朝鮮国ノ将官洪啓進来リ〔上記大島旅団長発参謀総長宛て報告第12号では「洪啓薫」で「午前10時」来営〕我幕営内ヲ見物ス,帰路歩兵隊ハ演習ヲナス,其規律動作尤モ整頓シ(どう)将軍ノミナラズ我将校ニ至ル迄満足ノ意ヲ表ス。/此日支那公使〔袁世凱〕ハ逃亡シ公使館ハ支那ノ国旗ヲ挙ケタルマ行衛知レズ。」(砲兵中隊従軍日誌)

    「午後3時過キ入京〔大鳥〕公使ニ面会セリ其協議ノ大要左ノ如シ

      旅団ノ首力ヲ以テ明20日中ニ清国増加兵出帆ノ確報ニ接セサルトキハ(確報ニ接スルトキハ大同江ヘノ上陸ヲ慮ル為メ南進スル(こと)能ハス)21日夕方ヨリ行軍ノ名義ヲ以テ牙山方面ニ進ム

      旅団出発ノ翌日公使ヨリ最終ノ談判ヲ朝鮮政府支那公使ニ申込ミ及ヒ各国公使ニ通告ス

      旅団ハ行進ヲ続行シ兵力ヲ以テ牙山ノ清兵ヲ引払ハシム

      朝鮮ノ国有電信線ヲ我有トシ軍用ニ用ユル(こと)

      京城守備隊ハ1大隊(2中隊)トスル(こと)」(同月20日付け大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団秘報(アジア歴史資料センター))

  7月20日 「雨」(砲兵中隊従軍日誌)「前4時75度〔摂氏23.9度〕 后2時91度〔摂氏32.8度〕」(同月21日付け大島旅団長発参謀総長宛て報告第13号(アジア歴史資料センター))

    「午前6時恩賜ノ酒5勺ツヲ分配ス。/此日午後降雨甚シキ天幕内ニ溢ル,雨水全身ヲ潤ス,而シテ実戦将ニ起ラントシ守備(ますます)厳然タリ。」(砲兵中隊従軍日誌)

    7月下旬は「梅雨明け十日」といって夏山の最高のシーズンなのですが,雨は嫌ですね。藪漕ぎテント泊で毎日雨だったワンダーフォーゲル部の南会津夏合宿は消耗ショーモーでした。

    「午後1時頃〔大鳥〕公使ノ命ヲ帯ヒ本野外務参事官来営公使ノ旨ヲ伝フル(こと)大要左ノ如シ

      1 朝鮮政府強硬ニ傾キ本日我公使ニ退兵ヲ請求セリ依テ我凡テノ要求ヲ拒絶シタルモノト見傚シ断然ノ処置ニ出ル(こと)ニ決ス

      2 即チ2日間ヲ期シ清国ノ借来兵ヲ撤回セシムヘシト要求シタリ

      3 若シ2日間ニ確然タル回答無ケレハ猶ホ1大隊入京セシメラレタシ

      4 夫レニテモ行カサレハ王城ヲ囲ム

      5 王城ヲ囲ミタル後ハ大院君日本人若干名ヲ()()入閣スル筈(確カナリヤト問レシニ確カナリト云ヘリ)

      6 大院君入閣ノ上朝鮮兵力ニテ支那兵ヲ撃ツ(こと)能ハサレハ帝国軍隊ヲ以テ之ヲ一撃ノ下ニ打チ掃フ

      7 依テ昨日御協議セシ牙山行ハ暫ク見合セラレタシ

本処置ハ名正シク事後ニハ旅団ノ運動ニ至大ノ便利ヲ与フヘキ見込アルヲ以テ小官ハ之ニ同意ヲ表シタリ

本野参事官去ル後30分大本営電報命令

32号ヲ受領シタリ

    一本命令ニ依リ小官ニ与ヘラレタル任務ヲ果サントスル為メニハ勢ヒ一刻モ速ニ朝鮮政府ノ向背ヲ決セシメサル()カラス依テ小官ハ明日公使ニ協議シ第3項即チ若シ2日間ニ確然タル回答無ケレハ猶1大隊ヲ入京セシムルトノ示威的運動ヲ止メ短兵急ニ王城ヲ囲ムノ策ニ出ル(こと)ヲ勧メントス」(前記大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団秘報)

   「午後4時会報

     一命令ヲ下セシ後二三時内ニ発程スルニ至ルヤモ難計(はかりがたく)背負袋ヲ用(ママ)背嚢ヲ用(ママ)ス行李ハ一切携行セス工兵騎兵衛生隊ノ炊具ハ携行セサル考炊事卒ハ輸卒ヲ用ヒ其残余ハ兵站部ヘ交付スヘシ(此(こと)ハ一般筆記ヲ禁ス)

      部隊長ノミ承知アリテ部下ニ預メ達スヘカラス

     一将校以下不在者ハ其徃先(いきさ)キヲ預知シ得ル如クシ呼集ニ使者ヲ以テ呼帰シ得ル如クスヘシ

     一尚昨日会報ノ如ク外国人ニ対スル(こと)ニ付懇々訓示セラル」

 「午后9時発各隊エ当分行軍スル(こと)ヲ禁セリ」(以上前記大島旅団長発参謀総長宛て報告第13号)

  同日午後1125分発の大鳥公使から陸奥外務大臣宛ての電報は次のとおり(日本外交文書)。

 

   Mutsu,

        Tokio.

         I made the demand to the Corean Government for the construction of barracks for our soldiers 七月十九日 and that of the driving out of Chinese troops now in Corea under the pretext of protecting tributary state 七月廿日 on the ground that their long presence in Corea infringes her independence. Date fixed for answer 七月廿二日. If they fail to give satisfactory answer within date I intend to give great pressure upon the Corean Government and by this opportunity to bring about some radical changes in Corean Government. It appears that on account of sudden departure of 袁世凱 Chinese party in the Corean government seems weakening.

                                                                Otori.

        Seoul July 20, 1894.       11.25 p.m.

        Rec’d  21, 〃     11.45

  7月21日 「大風雨」

    「此日兼而(かねて)命令アリシ恩賜ノ煙草到着,各人ニ1包ツ分配セラル,誠ニ天恩ノ厚キニ感涙スルノ外ナキナリ,此時ニ当リ戦闘既ニ起ラントシ出戦準備(いよいよ)密,各人ノ背嚢ヲ納メ布嚢ヲ渡シ半紙2帖ハ必ス所持ス()キ旨命示セラレタリ。」(以上砲兵中隊従軍日誌)

  7月22日 「風雨」(砲兵中隊従軍日誌)

    「本日午前7時ノ密議,公使ノ求メニ依リ計画及準備セル(こと)左ノ如シ

     一各隊ニ通弁ヲ分付ス

     一明23日午前3時半迠ニ公使ヨリ通牒ナケレバ軍隊ハ直ニ出発王城ヲ脅威ス

     一彼レヨリ発砲スルトキハ正当防禦スル事別ニ通知セス銃声ニテ知ルベシ

     〔以下略〕」(同月23日付け大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団報告第15号)

    「午後3時明2時30分呼集ヲ以テ出師ノ武装ヲ以テ野外演習ヲ行フト示サル」(砲兵中隊従軍日誌)

    「一午後6時報第2号ノ電報ヲ大本営ヘ呈ス

        公使ノ求メニ依リ明朝王宮ヲ囲ム開戦ハ免レザルベシ((ならび)ニ今後ノ決心ヲ述ブ)」(前記大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団報告第15号)

「7月22日夜,朝鮮政府の回答が日本公使館に届く。予想通り拒否の回答であった。」(大谷61頁)

                                  (つづく)
 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp


1894年の夏は暑かったようですが,今年(2018年)の夏も暑い。

夕方に銭湯でひとっ風呂というのはよい消夏策でしょう。

DSCF1039
つるの湯(東京都台東区浅草橋)


DSCF1034

まつの湯(東京都品川区中延)    




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 筆者の母方の曽祖父の残した「由緒」書きにおける下記日清戦争関係の記載に係る考証話の今回は第2回です。1894年の朝鮮国における東学党の蜂起から曽祖父の仁川上陸までを取り扱おうと思います。

 

明治26年〔1893年〕11月1日徴兵ニ合格シテ騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ〔前回はここまで〕

明治27年〔1894年〕6月朝鮮国ニ東学党蜂起シ韓国居留民保護ノ目的ヲ以ツテ(どう)年6月11日混成旅団ヲ編成セラ(ママ)大島義昌少将ヲ旅団長トシ平城盛次少尉ヲ小隊長トシ選抜セラレテ山城丸ニ乗舶シ宇品港出帆玄海灘ヲ経テ仁川ニ向フ此ノ日山陽鉄道広島駅()()開通ノ日ナリ〔今回はここまで〕

明治27年8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル

仝7月23日京城ノ変ニ出張爾来成歓ニ牙山ニ平壌義洲鴨緑江鳳凰城ママ馬集崔家房ママ家台竜頭塞興隆勾瀇嶺海城牛荘田庄台ト転戦ス

明治27年9月15日大本営ヲ広島旧城エ進メ給ヘリ

明治28年〔1895年〕6月5日講和トナリ凱旋

仝年1112日日清戦役ノ功ニ依リ瑞宝章勲八等及び金50円幷ニ従軍徽章下賜セラル 

明治29年〔1896年〕1130日善行証書ヲ授与セラレ満期除隊トナル

 

1 東学党の蜂起

 岩波書店の『近代日本総合年表 第四版』(2001年)の1894年の部分を見ると,同年における朝鮮国の東学党蜂起について次のような記載があります。「朝鮮国ニ東学党蜂起」があったのは,いきなり同年6月のことではなく,同年2月頃から動きがあったのでした。

 

   2.15 朝鮮の全羅道古阜郡で,郡主趙秉甲に対する民衆の反乱おこる。2.25自発的に解散,政府は東学に責任ありとして弾圧を始める。

   3.29 朝鮮の全羅道で東学党蜂起。全琫準,総督となる。5.14忠清道・慶尚道に広がる。

   5.31 東学党,全州〔全羅道の首府〕を占領。朝鮮国王〔高宗・李載晃。日韓併合後は徳寿宮李太王〕,総理交渉通商事宜の袁世凱に清軍派遣を要請。6.4李鴻章,900人の派兵を指令。6.9援軍,朝鮮牙山に到着。

   6.7 日本,朝鮮に出兵を通告。6.9李鴻章,英公使に日本の朝鮮派兵阻止を要請。

   6.11 東学軍,全州を撤退。

   10.― 朝鮮,東学農民軍,再蜂起し,日本軍に抗戦。

 

東学党蜂起の時系列の日付は,大谷正『日清戦争』(中公新書・2014年)の説くところは岩波年表によるものと少し違っています。1894年2月15日の古阜における「東学異端派の指導者全琫準が地方官吏の苛斂誅求に蜂起」した事件が「一時収まった」ところまでは同じですが(大谷270頁・40頁),「再蜂起」は同年3月末のことではなく,同年「4月末に再蜂起」したのであって,具体的には4月25日に「朝鮮の全羅道茂長で,東学農民軍が蜂起」したものとされています(大谷40頁・270頁)。なお,同年6月11日の「東学軍,全州を撤退」の具体的事情は,同月1日に全州城外に到着した朝鮮政府軍に対して「農民軍は政府軍陣地を2度にわたって攻撃したが,多数の犠牲者を出して撃退され」,その後「休戦交渉が開始され,農民軍は27ヵ条の弊政改革請願を国王に上達することを条件に,6月11日に和約に応じ,全州から撤退した。」というものでした(大谷41頁)。また,岩波年表では189410月に「東学農民軍,再蜂起」とされていますが,これは11月の「第二次農民戦争」だとされています(大谷269頁)。すなわち,「大院君〔高宗の実父・李昰応〕は国王の密書を偽造して,農民軍の再蜂起を促した。これを受け取った全琫準は秋の収穫が終わるのを待って11月上旬に再蜂起」したという経緯だそうです(大谷106頁)。「東学農民軍との大規模な戦闘は,忠清道の公州に入った〔日本陸軍後備歩兵〕第十九大隊第二中隊と朝鮮政府軍を,北接〔忠清道を中心とする東学の組織〕と南接〔全羅道を中心とする東学の組織〕の東学連合軍が1120日に攻撃したことから始まった。2次にわたる公州の戦闘は12月7日まで続き,農民軍は数に勝っていたにもかかわらず,ライフル銃(スナイドル銃)を装備した日本軍の前に多数の犠牲者を出して敗北した。」とのことでした(大谷108頁)。その後,日本軍の「作戦は当初の予定を2ヵ月近く延長して1895年2月末まで続けられ」ました(大谷110頁)。「第二次農民戦争」における農民軍側の犠牲者数については,趙景達『異端の民衆反乱――東学と甲午農民戦争』(岩波書店・1998年)においては「全体の犠牲者は3万名を優に超えていたのは確実」で,「5万に迫る勢いである,との推計値」が示されているそうですが(大谷110頁),村川堅太郎=江上波夫他編『世界史小辞典』(山川出版社・1979年(第2版第19刷))の「東学党の乱」の項(佐々木正哉執筆)の「3040万の犠牲者」からは随分減っています。

なお,そもそもの東学については,「東学は没落両班(ヤンパン)の崔済愚が1860年に提唱した民衆宗教で,キリスト教を意味する西学に対して東学と称した。崔済愚が処刑された後,第2代教主崔時亨のもとで,東学は朝鮮南部一帯に広がり,さらに拡大した。崔時亨は政府の弾圧を避けるため「守心正気」の内省主義を東学教徒に求めたが,一方で民衆の変革志向に期待する東学異端派も存在した。」と紹介されています(大谷40頁)。

 

2 日本政府による半島派兵決定

当時の我が国は第2次伊藤博文内閣の時代でした。外務大臣陸奥宗光,陸軍大臣大山巌,海軍大臣西郷従道,内務大臣井上馨,文部大臣井上毅,逓信大臣黒田清隆,内閣書記官長伊東巳代治。

しかし,第2次伊藤博文内閣は,第6回帝国議会の衆議院を相手に窮地に陥っていました。(また,貴族院も批判的で,年初の1894年1月24日には「近衛篤麿〔当時2歳の文麿の父〕・谷干城ら貴族院議員38人,首相伊藤博文に忠告書を送り,衆議院の条約励行論〔不平等条約改正交渉を進める政府に対する排外主義的反対運動。居留地外での外国人の活動を現行条約どおり厳格に制限せよとするもの〕抑圧に抗議。」ということが起っています(岩波年表)。)

1894年5月31日,衆議院は内閣弾劾上奏案を可決します。この上奏は,「両議院ハ各天皇ニ上奏スルコトヲ得」との大日本帝国憲法49条に基づくものです。議院法(明治22年法律第2号)51条1項には「各議院上奏セムトスルトキハ文書ヲ奉呈シ又ハ議長ヲ以テ総代トシ謁見ヲ請ヒ之ヲ奉呈スルコトヲ得」とありました。当該弾劾上奏の文章は次のとおり(第6回帝国議会衆議院議事速記録第14369370頁掲載の特別委員長(江原素六)報告書のもの)。

 

     上奏

      衆議院議長楠木正隆誠惶誠恐謹ミ

    奏ス

  叡聖文武天皇陛下登

    極ノ首メ五事ノ誓文ヲ下シ明カニ億兆ニ示シ給ヒ上下心ヲ一ニシ盛ニ経綸ヲ行ハシム

    大詔ノ厳ナル屹トシテ山嶽ノ如ク

  天恩ノ厚キ穆トシテ春風ニ似タリ等瞻迎景従日夜孳々トシテ

    盛徳ヲ翼賛シ

    鴻志ニ奉答セント欲スルモノ年已ニ久シ然ルニ比年閣臣ノ其施設ヲ誤リ内治外交共ニ其職責ヲ失シ動モスレハ則チ累ヲ帝室ニ及ホスニ至ル曩ニ第4期帝国議会ニ方リ閣臣ノ見ト等ノ議ト相触レ等内閣ト並ヒ立ツ能ハス謹テ上奏以テ罪ヲ俟ツ

  陛下畏クモ誓文ノ意ニ基ツカセラレ

    大詔ヲ下シ在廷ノ臣僚及帝国議会ノ各員ニ告ケ和協ノ道ニ由リ以テ大事ヲ補翼シ有終ノ美ヲ成サンコトヲ望ミ特ニ閣臣ニ命スルニ行政各般ノ整理ヲ以テシ給ヘリ国務大臣モ亦隆渥ノ

  聖旨ヲ奉シ第5期帝国議会ヲ期シ政綱ヲ振厲シ政費ヲ節減シ海軍ヲ釐革センコトヲ誓ヘリ是ニ於テカ挙国ノ民

  陛下カ輿論ヲ嘉納シ給フヲ聴キ額手シテ第5期帝国議会ヲ俟チ来蘇ノ慶アランコトヲ翹望セリ然ルニ閣臣ノ経営一時ヲ弥縫スルニ止マリ政綱未タ振厲セス海軍未タ釐革セス惟僅ニ費途ヲ節シ吏員ヲ沙汰シ以テ大事ヲ模稜スルニ過キス特ニ外政ニ至テハ偸安姑息唯外人ノ歓心ヲ失ハンコトヲ是レ畏レ内外親疎軽重ノ弁別ヲ顚倒スルニ至ル是レ等カ偏ヘニ

  聖旨ニ背戻センコトヲ恐レ戦競自ラ安スル能ハサル所以ナリ等区々ノ微衷

    恭ク

    大詔ニ遵ヒ努メテ経綸ヲ画シ至誠以テ

  天意ニ奉答セント欲スト雖モ閣臣常ニ和協ノ道ニ背キ等ヲシテ大政翼賛ノ重責ヲ全フスル能ハサラシム此ヲ以テ等閣臣ニ信ヲ置ク能ハサルナリ今ニシテ之ヲ匡正セスンハ等窃ニ恐ル憲政内ニ紊乱シ国威外ニ失墜センコトヲ是レ等カ黙セント欲シテ黙スル能ハス敢テ赤心ヲ披瀝シ

  闕下ニ陳奏スル所以ナリ仰キ願クハ

  陛下天地覆載ノ恩ヲ敷キ日月ノ照鑿ヲ垂レ玉ハンコトヲ衆議院議長楠木正隆誠惶誠恐謹ミ

    奏ス

 

当該上奏の文書は,1894年6月1日に楠木議長が参内して土方久元宮内大臣経由で奉呈されました(第6回帝国議会衆議院議事速記録第15378頁)。

しかして同じ1894年6月1日,在朝鮮国日本公使館書記生である鄭永邦(明の遺臣・鄭成功の子孫とされます。長崎通事出身)は駐劄朝鮮総理交渉通商事宜の袁世凱を訪ねて会談し,情報を収集,それを承けて日本公使館の杉村(ふかし)一等書記官(大鳥圭介公使が休暇中のため代理公使)は「全州 fell into hands of rebels yesterday. 袁世凱 said Corean Government asked Chinese reinforcement. See 機密第六十三号信 dated 五月廿二日.」という電報を同日発し,当該電報(電受第168号)は翌2日に東京の外務省に到達しました(大谷4345頁,41頁)。なお,当該電報において言及されている杉村一等書記官の同年5月22日付け(同月28日外務省接受)の機密第63号信(「全羅忠清両道ノ民乱ニ付鄙見上申ノ件」)には,「(さて)支那兵カ万一入韓(公然通知ノ手続ヲ践ミ)スルニ至ラバ朝鮮将来ノ形勢ニ向テ或ハ変化ヲ来スモ難計(はかりがたき)ニ付我ニ於テモ差当リ我官民保護ノ為メ又日清両国ノ権衡ヲ保ツカ為メ民乱鎮定清兵引揚迄公使館護衛ノ名義ニ依リ旧約ニ照シ出兵可相成(あひなるべき)ヤ又ハ清兵入韓候トモ我政府ハ別ニ派兵ノ御沙汰ニ及ハレサルヤ右ハ大早計ニ似タリト雖モ(かね)テ御詮議相成候様致度候」とあったところです(日本外交文書)。ここでの「公使館護衛ノ名義ニ依リ旧約ニ照シ出兵」の「旧約」については,1882年8月30日に調印された我が国と朝鮮国との間の済物浦条約の第5条1項に「日本公使館置兵員若干備警事」とありました。また,「公然通知ノ手続」としては,1885年4月18日に伊藤博文と李鴻章とが取りまとめた日清間の天津条約に「将来朝鮮国若シ変乱重大ノ事件アリテ日中両国或ハ1国兵ヲ派スルヲ要スルトキハ応ニ先ツ互ニ行文知照スヘシ其事定マルニ及テハ仍即チ撤回シ再タヒ留防セス」とありました。

 陸奥宗光の『蹇蹇録』には1894年6月2日の我が国政府の動きについて次のようにあります。

  

  〔前略〕6月()1日()〔5月31日〕に至り衆議院は内閣の行為を非難するの上奏案を議決するに至りたれば〔6月1日に議長により上奏〕政府は止むを得ず最後の手段を執り議会解散の詔勅を発せられむことを奏請するの場合に至り翌2日内閣総理大臣の官邸に於て内閣会議を開くことなりたるに(たま)(たま)杉村より電信ありて朝鮮政府は援兵を清国に乞ひしことを報じ来れり是れ実に容易ならざる事件にして若し之を黙視するときは既に偏頗なる日清両国の朝鮮に於ける権力の干繋をして尚ほ一層甚しからしめ我邦は後来朝鮮に対し唯清国の為すが儘に任ずるの外なく日韓条約の精神も為めに或は蹂躙せらるの虞なきに非ざれば余は同日の会議に赴くや開会の初に於て先づ閣僚に示すに杉村の電信を以てし尚ほ余が意見として若し清国にして何等の名義を問はず朝鮮に軍隊を派出するの事実あるときは我国に於ても亦相当の軍隊を同国に派遣し以て不慮の変に備へ日清両国が朝鮮に対する権力の平均を維持せざるべからずと述べたり閣僚皆此議に賛同したるを以て伊藤内閣総理大臣は直に人を派して参謀総長〔有栖川宮〕熾仁親王殿下及参謀本部次長川上〔操六〕陸軍中将の臨席を求め其来会するや(すなは)ち今後朝鮮へ軍隊を派出するの内議を協へ内閣総理大臣は本件及議会解散の閣議を携へ直に参内して式に依り 聖裁を請ひ裁可の上之を執行せり

 

当該閣議において,混成1個旅団の半島派兵が決定され(大谷4546頁,御厨貴『明治国家の完成 18901905』(中央公論新社・2001年)284頁),「距離的な便宜から,広島に師団司令部を置く第五師団の第九旅団(歩兵第十一聯隊と歩兵第二十一聯隊を基幹とする)を抽出して編制」するところまで決まっています(原田敬一「混成第九旅団の日清戦争(1)―新出史料の「従軍日誌」に基づいて―」佛教大学歴史学部論集創刊号(2011年3月)20頁)。

同日,参内の楠木衆議院議長に対して土方宮内大臣から前日の「衆議院ノ上奏ハ御採用ニ相成ラス」との口達があり,更に衆議院は大日本帝国憲法7条により解散せしめられました(第6回帝国議会衆議院議事速記録第16428頁)。貴族院は,停会です(大日本帝国憲法44条2項)。

「条約励行論から間髪をおかず日清戦争へ。この時点で日清戦争が起きたということは,ナショナリスティックな国民の感情のはけ口をつくったという点で,少なくとも日本の統治の安定という意味では,まさに「天佑」であったと言わざるをえないだろう。」ということになります(御厨279280頁)。

 半島派兵決定の閣議があった1894年6月2日に大山陸軍大臣,西郷海軍大臣,有栖川宮参謀総長及び中牟田倉之助海軍軍令部長宛てに下された勅語には,派兵目的として「同国〔朝鮮国〕寄留我国民保護」との文字があったそうです(大谷46頁)。


3 大島混成旅団の編成

 1894年6月3日,寺内正毅参謀本部第一局長は「混成1旅団ノ編制表」を有栖川宮参謀総長に提出します(原田21頁)。当該混成旅団たる混成第九旅団の編制は,原田敬一佛教大学教授によれば,歩兵第九旅団に「野戦砲兵第五聯隊の第三大隊本部と第五中隊(〔略〕野砲6門),工兵第五大隊の第一中隊,騎兵第五大隊,第一野戦病院(師団に属すもの),輜重隊半部,兵站監部・司令部1箇」が付加された「合計約8000名」の規模のものとされています(原田22頁)。大谷専修大学教授によれば「混成旅団は歩兵第九旅団(広島を衛戍地地とする歩兵第十一連隊と二十一連隊が所属)を基幹に,これに騎兵1中隊,砲兵1大隊(山砲),工兵1中隊,輜重兵隊,衛生部,野戦病院および兵站部を加えて編成された」(大谷47頁),「戦時定員で8000名を超える」もの(大谷45頁)ということになります。筆者にとっての最関心事である騎兵部隊について,騎兵第五大隊全部が混成第九旅団に属したのか,それとも同大隊の第一中隊だけだったのか,少々分かりにくい(外山操=森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧第1巻』(芙蓉書房・1993年)171頁においては,騎兵第五大隊第一中隊のみが混成第九旅団に属していたことになっています。)。しかして早くも,参謀総長に編制表が提出されたこの日の「午後9時55分新橋発広島ママ行きの列車には,参謀本部第一局員東条英教少佐〔当時9歳の英機少年の父〕が乗り込み,第五師団司令部に渡す動員計画や戦闘序列などを記した重要書類をしっかりと持っていた。」という運びになります(原田21頁)。ただし,山陽鉄道の「糸崎・広島間開業し,兵庫・広島間の鉄道開業」となったのは同月10日のことなので(岩波年表等),東条少佐が同月3日夜に新橋から乗った列車がそのまま「広島行き」であったということはないでしょう(大谷47頁では,東条少佐の乗った新橋発の列車の行先までは書いてありません。)。

 1894年6月5日,大鳥圭介駐朝鮮国公使は,海軍陸戦隊70名及び巡査21名を伴い巡洋艦八重山に乗り込み朝鮮国の仁川に向かいます(原田21頁)。本野一郎参事官も一緒です(大谷47頁)。陸軍においては,「東条少佐も,この日昼頃ようやく広島に着き,野津道貫第五師団長に大本営命令を直接伝えた。協議の後,午後4時野津師団長は,大島義昌第九旅団長に,充員召集を下令する。」という動きとなりました(原田21頁)。さて,ここに出て来る「大本営」なのですが,参謀本部内に大本営を置くことが決まったのが東条少佐の旅行中の前日4日のことであり(大谷47頁),設置されたのは正に同少佐が広島に到着した6月5日のことでした。同日午後に打合せを行った東条少佐,野津中将等に対して,大本営設置の連絡が既に伝わっていたものかどうか。

 なお,当該大本営は1893年5月19日裁可,同月22日公布の戦時大本営条例(明治23年勅令第52号)に基づくものであって,同条例1条には「天皇ノ大纛下ニ最高ノ統帥部ヲ置キ之ヲ大本営ト称ス」と規定されていました。「大本営ニ在テ帷幄ノ機務ニ参与シ帝国陸海軍ノ大作戦ヲ計画スルハ参謀総長ノ任トス」とされ(同条例2条),当時は参謀総長が海軍の大作戦についても責任者とされていました。1894年「6月5日,愈初の大本営の設置が令せられた。そして時の参謀総長陸軍大将有栖川宮熾仁親王には,大本営幕僚長として輔翼の大任に(あた)らせ給ひ,其の下に於て陸軍高級参謀としては参謀本部次長陸軍中将川上操六,海軍高級参謀としては海軍軍令部長中牟田倉之助の両名が,相並んで総長宮を輔佐し奉つたのである。」ということです(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)269頁)。

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日清戦争開戦時の参謀総長・有栖川宮熾仁親王(東京都港区南麻布有栖川宮記念公園)


 1894年7月1日調べの陸軍現役将校同相当官実役停年名簿によれば,歩兵第九旅団長の大島義昌少将は,山口県士族従四位勲三等,年齢は44年となっていました。

 原田佛教大学教授が「佛教大学歴史学部論集」に連載して紹介する混成第九旅団野戦砲兵第五聯隊第三大隊第五中隊の将校(ただし,氏名不詳)による従軍日誌(原田20頁。以下「砲兵中隊従軍日誌」といいます。)によると,東条少佐広島到着日の翌日である6月6日(晴れ)の夕方には,野戦砲兵第五聯隊第三大隊に動員下令がありました(原田21頁)。騎兵第五大隊第一中隊にも同じ頃動員下令があったかといえば,1895年8月24日付けの同中隊の経歴書(アジア歴史資料センター)によれば,「6月5日動員ノ令下ル」とあります。

 筆者の曽祖父が直属将校として特に名を記している騎兵第五大隊の平城盛次小隊長は,1894年7月1日調べの陸軍現役将校同相当官実役停年名簿によれば,大隊附,長崎県士族正八位,年齢は25年6箇月となっています。筆者の曽祖父からすると,年齢の近い頼れる兄貴のような優秀な騎兵少尉殿であったということでしょう。

 砲兵中隊従軍日誌によれば,6月6日から直ちに「軍医ハ戦役ニ堪ユル者ト堪ヘザルモノヲ区別シ其手続ヲナス」とあります(原田21頁)。「由緒」書きにおける「選抜セラレテ」という力の入った表現に,筆者は曽祖父の誇らしげな自恃を感じたものですが,まずは軍医による「選抜」があった模様です。

 6月7日(晴れ)の砲兵中隊従軍日誌によれば,砲兵は「第一種衣袴(即新絨衣)」の分配を受けています(原田22頁)。

 6月8日(雨)には,「〔前略〕諸隊ハ来ル1011日ノ間ニ宇品港ニ着スル輸送船ニ乗載シ仁川ニ向テ出発セシム可シ/但シ軍艦吉野ヲ以テ護衛セシム」との命令が大本営の「参謀長 有栖川熾仁親王」から到達しています(「砲兵中隊従軍日誌」原田22頁)。砲兵中隊従軍日誌によれば,この日の段階における一般兵士の様子は,「此日下士卒満期々限ヲ延スノ報ニ接シ各兵士ハ始メテ其意ナラザルヲ知リ千差万別ノ評ヲ下スト雖モ未タ其実戦遠ク派遣セラルヽトハ素ヨリ知ル者ナク亦規律厳ニシテ柵ハ空天ニ貫カントスル高柵ノ内ニ別世界ヲ織組シ居ル吾人軍人何ソ之レヲ知ルニ由アラン」というようなものでした(原田22頁)。動員下令はあったものの,いまだに作戦命令は教えられておらず,「千差万別ノ評ヲ下ス」ばかりとの情況です。同日,騎兵第五大隊第一中隊の動員は完成しています(同中隊経歴書)。

 6月9日(晴れ)には,野戦砲兵第五聯隊第三大隊(第六中隊を除く。)は「明日出発」である旨の命令を受けています(「砲兵中隊従軍日誌」原田22頁)。騎兵第五大隊第一中隊等他の部隊も同様出発に関する命令を受けたことでしょう。ただし,一足先に朝鮮国に向かわせられた部隊もあり,「歩兵1大隊(第十一連隊第一大隊,大隊長一戸兵衛少佐)が先発隊として,6月9日に宇品を出航,12日仁川に到着した」ところです(大谷4748頁)。

 

4 大島混成旅団第1次輸送隊の出航

 筆者の曽祖父の記述によれば,曽祖父は山城丸に乗船して6月11日に宇品港を出たようであり,しかしあるいは山陽鉄道の糸崎・広島間の開業日であった6月10日に出港したようにも読み得ます。これについては,騎兵第五大隊第一中隊経歴書によれば「6月11日衛戍地広島出発同日宇品ニ於テ乗舩出発(2ヶ小隊ヲ中隊長自ラ引率)」ということでした。6月11日は,大島旅団長が宇品港を出た日でもあります。

砲兵中隊従軍日誌の6月11日(午前曇り,午後晴れ)の項に「午前5時呉港ヲ抜錨シテ宇品港ニ至リ其間約1時間我旅団長及随行ノ者3名海軍将校2名及信号手3名乗セ(どう)6時10分宇品ヲ発シテ仝6時40分宮島ノ沖ヲ通過ス」とあります(原田23頁)。更に同項には,同日午後「5時25分安岡〔現在は下関市〕ニ着ス,時ニ第1次輸送船中幾分ハ此処ニ集合セリ,之(ママ)昨夜我船ノ呉港ニ至リシ内ニ其レ々当地ヲ指シテ集マリシモノ。/時ニ軍艦吉野ハ既ニ茲ニアリテ信号ニ曰ク(どう)行ス可キ兵庫丸未タ着セザルモ今ヨリ行進ヲ起シ我ニ随行ス可シト,依テ5時40分抜錨。/午後6時10分 連島〔六連島〕ノ北方ヲ進ム,我先登ハ吉野艦ニシテ輸送船中我近江丸ハ先登ニ至リ之レニ次クハ山城酒田遠江越後熊本千代(ママ)住ノ江和可ノ浦等ニシテ縦隊トナリテ進ムとあります(原田23頁)。(なお,アジア歴史資料センターのウェブ・サイトにある大島義昌旅団長作成名義の1894年6月17日付け「広島出発ヨリ仁川到着迠ノ景況報告」によると,宇品抜錨は6月11日「午前5時半」,門司到着は「午后4時」,同日「午後4時過キ六連島附近ニ集マルモノ近江越後酒田熊本遠江ノ5艘ナリ他ノ兵庫仙台住ノ江山城ノ4艘ハ未タ六連島ニ来ラス午后5時30分吉野艦ト共ニ先ツ集合セル5艘ヲ以テ抜錨ス」ということで砲兵中隊従軍日誌の記述と時刻及び同日の輸送船団構成の輸送船名について若干の異同があり,同月「13日午前6時20分兵庫仙台住ノ江山城ノ4艘追尾シ来リ運送船ノ全数始テ集マル」ということとなっていました。)

砲兵中隊従軍日誌の記者の部隊は6月10日(雨)の午前4時30分に広島の屯営を発し,「既ニ大手町一丁目ニ至ルヤ市民起床シ決然トシテ余輩ノ出師ヲ望見ス」との広島市民の見送りを得て午前6時宇品港着,午前10時近江丸に乗船ということになったのですが,「馬ハ常ノ乗船演習ニ熟練シ居ラザルヲ以テ乗船殆ント困難ス」ということで時間がかかり,宇品抜錨は午後6時30分になってしまっていました(「砲兵中隊従軍日誌」原田23頁。それから近江丸は水の積込みのために呉港に寄港しています。)。

広島からの出発に際しての大島義昌旅団長の訓示は次のとおりでした(アジア歴史資料センターのウェブ・サイトにあります。)。

 

 斯ノ名誉ナル出師ニ際シ混成旅団ノ将校以下諸員ニ告ク

 今ヤ朝鮮国ノ匪徒其勢日ニ猖獗ニシテ而シテ朝鮮政府ノ力善ク之ヲ鎮圧スル(こと)能ハス匪徒将ニ京城ニ迫ラントスルノ勢アリ

 陛下至仁在同国帝国公使館及在留帝国人民保護之大御心ヲ以テ我旅団ヲ同国ニ派遣シ玉フ我旅団業已ニ此ノ大任ニ膺ル宜ク忠勇尽職上下一致以テ其奏効ヲ期セサル可カラス

 我旅団素ヨリ朝鮮ノ内治ニ干渉シテ其匪徒ヲ鎮定スルノ当務ヲ有セス即チ当団ノ動作全ク平時姿勢ニ在リ然而事体総テ外国ニ関係ス乃チ一卒ノ動作モ亦大ニ帝国軍隊ノ声誉ニ関スルヲ以テ各幹部宜ク其部下ヲ戒飾シ仮初ニモ粗暴ノ振舞ヲ為スヿナク又朝鮮国官民並ニ同国在留ノ外国人ニ対シテハ侮ラス又懼レス一層ノ穏和ヲ旨トシ以テ帝国軍隊ノ名誉ヲ発揚スルニ勉ム可シ

 支那国モ亦軍隊ヲ朝鮮国ニ発遣セリトノ説アリ果シテ信ナラン乎若シ或ハ相会スルノ時アランカ

 陛下修好善鄰ノ大御心ヲ奉体シ軍隊ノ礼儀ヲ重ンシ其武官ニ対シテハ官等相当ノ敬意ヲ表シ親密ヲ主トシ苟モ喧噪等ノ事アルヘカラス

 飲食ヲ莭シ摂生ヲ守ルハ軍人ノ貴重スヘキ事タリ夫レ祗役中疾病ノ害毒ヲ流スヿ硝烟弾雨ヨリモ尚且ツ甚シキモノアリ前年台湾ノ役ニ徴シテ知ル可キナリ今ヤ我旅団ハ炎暑ノ気候ニ向ヒ水土ニ慣レサルノ地ニ臨マントス各幹部及衛生諸官ハ厚ク注意ヲ加ヘ部下ヲ訓戒シ一人ノ不注意ハ啻ニ自己ノ生命ヲ危フスルノミナラス延イテ全団ノ利害ニ関スル所以ノモノヲ了觧シ自愛摂養セシメ一人ト雖𪜈(とも)疾病ノ為メニ不帰ノ鬼ト為サシムヘカラス

 航海中軍紀風紀ヲ恪守スルハ勿論艦舩事務員ノ通報ハ之ヲ遵行シ仮令異変ノ時ト雖𪜈将校ノ命令アル時ニアラサレハ自席ヲ離レ若クハ騒擾スルヿアルヘカラス

 困苦欠乏ニ耐フルハ軍人ノ本色ナリ朝鮮ノ地供給力ニ乏シ想フニ意外ノ困苦ニ遭遇スルノ時機多カラン我旅団ハ帝国軍人ノ堪忍力ヲ試験スルノ好運ニ際会セリ勉メスンハアルヘカラス

 我旅団出師ノ事皆将来帝国陸軍進歩ノ好材料ナラサルハナシ各官此意ヲ以テ典則其他百般ノ業務ニ就キ彼是参照潜心其利弊ヲ研究シ毎週報告ヲ懈ル勿ランヿヲ


 なお,「第1次輸送船」があれば「第2次輸送隊」があるのですが,筆者の曽祖父の属した「第1次輸送隊(大島旅団長の率いる部隊,混成旅団の約半分)が16日に仁川に到着して上陸を開始した」一方(大谷48頁。なお,到着自体は後に見るように15日からです。),混成第九旅団の残部である「第2次輸送部隊は〔1894年〕6月24日に宇品を出帆し,27日に仁川に着き,29日に漢城郊外の龍山に到着」しています(大谷5152頁)。

 

5 玄海灘を越え仁川港へ

 砲兵中隊従軍日誌によれば,6月11日夜の玄界灘の様子は,「当時音モ名高キ玄海ニシテ鳥モ通ハズ(ひた)スラ大浪ノ織ルカ如キノミ」というものでした(原田23頁)。詩的表現です。

 6月12日(晴れ)には「午前4時左方ニ壱岐ヲ見ル,仝7時対馬ヲ右ニ見ル」ということでしたが,「本日ヨリ船酔ヲ催フスルモノ多」しという状態となりました(「砲兵中隊従軍日誌」原田24頁)。中国山地の盆地出身であった筆者の曽祖父も,山城丸船内で船酔いを催したものか。

 6月13日(晴れ)には遅れていた兵庫丸が第1輸送隊に加わります(「砲兵中隊従軍日誌」原田24頁)。その後「夕食ノ頃海上一面ニ大霧起リ為メニ咫尺弁セズ,各船其序列ヲ失ス」ということになりました(「砲兵中隊従軍日誌」原田24頁)。船酔いに加えて大霧と,海はこわい。

 6月14日(雨)には霧なお濃く,「序列ヲ失」したままの各船は,島嶼及び岩礁の多い半島西側の海を進むのに難渋します。近江丸について見れば,「午前11時頃突然行進ヲ留ム,驚キ右ヲ見レハ島嶼或ハ岩礁嶬峨トシテ並立セリ,其時漸ク霧少シ晴ルヲ以テ之レヲ知ルヲ得タリ,今一歩ヲ進メハ余等将来成ス有ルノ大業ヲ負担セシ身ヲ空シク魚(ママ)ニ葬ルノ惨界危難ニ陥ル可キ,幸ニシテ虎口ヲ逃レ九死ニ一生ヲ得タルモ長大息各兵士顔色生草タリというようなこともありました(「砲兵中隊従軍日誌」原田24頁)。「午後8時〔吉野は〕信号シテ曰ク仁川ニ向ケ各船行進ヲ起シ安全ナル処ニ於テ碇泊ヲナセ,蓋シ前夜来風雨甚シク到底現在ノ位置ニ有ルコト能ザルヲ以テナリ/時ニ山城丸モ亦来リ会セシガ覆盆傾ノ大雨来リ,波浪甚シク烈風ノ為メニ見ル内ニ錨1箇ヲ切断セラレタリ〔後略〕」ということで(「砲兵中隊従軍日誌」原田24頁),仁川への航海は,決して安全・安心かつ快適なものではありませんでした。

 6月15日(霧かつ雨)には,ようやく仁川港到着です(「砲兵中隊従軍日誌」原田25頁)。「大霧のため船団の進行は別れ別れになり,吉野,近江丸,住ノ江丸だけがまず到着し,次いで他の輸送船も着き始めた。15日に巡洋艦吉野に守られて仁川に入港したのは,近江丸,兵庫丸,仙台丸,住ノ江丸,山城丸,酒田丸の6隻。翌16日巡洋艦千代田に護衛されて熊本丸,越後丸,遠江丸の3隻が入港した(『日清戦史』第1巻123頁)。」(原田25頁),ということです。山城丸乗船の筆者の曽祖父も15日に仁川港に着いたわけですが,直ちに上陸することはできませんでした。「混成第九旅団には,仁川港に到着はしたが,上陸はさし止める,という八重山艦経由の大本営命令が伝えられた。これは,混成旅団8000名の派兵というのが「居留民保護」という名目からは多すぎ,欧米公使館の疑惑を招く,という大鳥圭介公使の判断により指示となったもの」だそうです(原田25頁)。しかしながら,結局,「15日に仁川港に到着した第1次輸送隊は,「輜重及荷物ヲ除クノ外16日中ニ悉ク」(〔『日清戦史』第1巻〕111頁)仁川港に上陸し,仁川の日本居留地付近に宿営した(同)。上陸したのは人員2673名と馬匹186頭だった(同)。」ということになりました(原田25頁)。

 

6 仁川上陸

 6月16日(曇り,午後晴れ)の砲兵中隊従軍日誌によれば,「午前7時50分吉野信号シテ曰ク陸兵上陸ヲ始ム可シ」とのことで,「午前8時ヨリ人馬及ヒ材料ノ上陸ニ着手シ(どう)港海岸ニ砲廠ヲ作リ哨兵ヲシテ之レヲ守ラシム」云々ということになりました(原田27頁)。
 
アジア歴史資料センターのウェブ・サイトにある混成第九旅団の「第6月16日仁川港居留地舎営割」を見ると,騎兵の人員は110人で,一人当たり1畳が割り当てられています。他に歩兵2072人,砲兵271人,工兵252人,輜重兵84人,野戦病院人員169人及び兵站部人員54人(合計すると3012人となってしまって,2673という数字と整合しないのが悩ましいところです。)。地図を見ると,騎兵の宿営した場所の南には工兵がいて更にその先は海,騎兵の西隣は兵站部,北には歩兵で更にその先が日本領事館,東も歩兵の大軍です。日本領事館の西に砲兵が陣取り,その西隣には清国租界があり,更にその先の岬には英国領事館がありました。テント生活(幕営)ではなく,まずは「狭縮」ながらも家屋に宿営です。その理由は,1894年6月17日作成の大島旅団長から有栖川宮熾仁参謀総長宛て混成旅団報告第4号(アジア歴史資料センターのウェブ・サイトにあります。)によれば,「目下旅団カ幕営ノ用意アルニ拘ラス幕営ニ決セサルモノハ旅団ハ今日ニモ明日ニモ前進シテ京城ニ侵入スルノ勢ヲ示サンカ為メナリ是レ示威ヲ以テ清兵ノ決心ヲ促サンカ為メナリ」ということでした。しかしながら,「仁川滞在数日ニ渉ルトキハ徒ラニ居留民ノ迷惑ヲ(商売上)起サシムルヲ以テ止ムヲ得ス幕営スルニ至ルヘシ」と予定はされていたところです。

 仁川は「新開地ナルモ日本人最モ多ク,支那人之レニ次キ,米仏英人アリ」という町でした(「砲兵中隊従軍日誌」原田27頁)。前日の第一印象では,近江丸の「甲板上ヨリ仁川港市街ヲ望メハ一面盛ンナル市街ト察セラル,黒灯ハ戸々ニ起リ(ママ)瓦作リノ家ニ至モ亦少カラズシテ其望見最モ佳ナリシ」(「砲兵中隊従軍日誌」原田25頁)との悪くはないものではあったのですが,実際の仁川はどうであるかといえば,これは我が軍兵士らにとってなかなか快適ではなかったようです。砲兵中隊従軍日誌の6月16日の項に更にいわく(原田27頁)。

 

  韓人ハ一斑不潔ニシテ一種ノ臭気アリ,我砲廠ニ接シ亦ハ其間ヲ遮ラントスルヲ禁止スルニ皆畏懼シテ走リ,為メニ相衝突スルヲ見ル,亦其小胆ナル一斑ヲ伺フニ足ル

 

  平時ニ於テモ飲用水乏シク水ヲ売ルモノアリト,特ニ日本ノ大群上陸飲用水ノ欠乏ニ困却ス

 

飲む水が足らぬとても,出る物はまた出る。「ついで屎尿の処理が問題となった。内地の駐屯の場合,農家の肥料として処理していたが,それができず困ったことになった。」と原田佛教大学教授はあっさり記しておられますが(原田27頁),ワンダーフォーゲル用語でいうところのキジ花が宿営地周辺に咲き乱れ,独特の香気芬々ということになってしまっていた,という表象は,余りさわやかではありません。1894年6月21日の大島旅団長の有栖川宮熾仁参謀総長宛て混成旅団報告第5号(アジア歴史資料センターのウェブ・サイトにあります。)には「又下肥排棄ノ為メニモ数多ノ人夫ヲ要スル等予想外ノ出来事多シ」とありますから,一応宿営場所の汲取便所に溜めてはいたものでしょう。)

半島の魚も日本の青年たちに友好的ではありませんでした。砲兵中隊従軍日誌6月17日(雨)の項には,次のように記されています(原田27頁)。

 

 (どう)港ニ滞在

 本夜(ママ)食物ハ「メタ」ト称スル海魚ナリシガ元来本品ハ一夜間水中シテ後之レヲ煮ル可キ者ナルニ之レヲ塩煮セシ故カ忽チニシテ吐瀉シ(ママ)痛甚シク或ハ下痢等ニテ突然患者甚シ。

 

 宿営所には苦痛の声が満ち,便所の奈落に積もるキジ花のお花畑には更に肥やしが加えられたようです。

                                   (つづく)

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

  


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 先般筆者の母方の祖父の十七回忌法要があり,親戚が集まったところで当該故人及びその父(すなわち筆者の母方の曽祖父)の残した書き物が印刷物とされて一同に配付されました。これがなかなか興味深い。

 曽祖父の「由緒」書きにおけるその兵役に関する記録中最初の部分は次のとおり。中国地方の山中から広島の第五師団に騎兵として入営して約半年で直ちに半島に出動,日清戦争前夜からその終結まで,我が大日本帝国陸軍の主要な軍事行動の現場にあってその当事者であり続けたのでした。

 曽祖父・祖父の記録癖に付加せらるるところの筆者の悪癖は考証癖でありますが,いささか註釈を施してみる次第です。今回は,最初の1行の部分です。

 

明治26年〔1893年〕11月1日徴兵ニ合格シテ騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ〔今回はここまで〕

明治27年〔1894年〕6月朝鮮国ニ東学党蜂起シ韓国居留民保護ノ目的ヲ以ツテ(どう)年6月11日混成旅団ヲ編成セラ(ママ)大島義昌少将ヲ旅団長トシ平城盛次少尉ヲ小隊長トシ選抜セラレテ山城丸ニ乗舶シ宇品港出帆玄海灘ヲ経テ仁川ニ向フ此ノ日山陽鉄道広島駅()()開通ノ日ナリ

明治27年8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル

仝7月23日京城ノ変ニ出張爾来成歓ニ牙山ニ平壌義洲鴨緑江鳳凰城塞馬集崔家房礬家台竜頭塞興隆勾瀇嶺海城牛荘田庄台ト転戦ス

明治27年9月15日大本営ヲ広島旧城エ進メ給ヘリ

明治28年〔1895年〕6月5日講和トナリ凱旋

仝年1112日日清戦役ノ功ニ依リ瑞宝章勲八等及び金50円幷ニ従軍徽章下賜セラル

明治29年〔1896年〕1130日善行証書ヲ授与セラレ満期除隊トナル

 

1 1893年の徴兵に関する状況

 

(1)明治22年徴兵令

1893年当時施行されていた兵役法令は,明治22年法律第1号(1889121日裁可,同月22日官報で公布)の「徴兵令」を頂点とするものでした。ところで,同令の下で「徴兵ニ合格」するとはどういうことかといえば,そもそも「日本帝国臣民ニシテ満17歳ヨリ満40歳迄ノ男子ハ総テ兵役ニ服スルノ義務アルモノトス」ることが原則とされていたところ(同令1条),「陸軍現役兵ハ毎年所要ノ人員ニ応シ壮丁ノ身材芸能職業ニ従ヒ歩兵騎兵砲兵工兵輜重兵職工及雑卒ニ区別シ抽籤ノ法ニ依リ当籤ノ者ヲ以テ之ニ充ツ」ということでしたから(同令8条1項),通常は,むしろ「合格」というよりは「当籤」といったほうが法令用語としては正しかったように思われます。

「合格」又は「不合格」の概念は,徴兵検査規則(明治25年陸軍省令第3号)に出てきます。同規則1条は「徴兵検査ハ徴兵令ニ拠リ兵役ニ服スヘキモノ体格ヲ検査シ其適否ヲ定ムルモノトス/此検査ハ学術上諸種ノ方法ヲ施スコトヲ得」と規定し,第2条1項に「不合格」となるべき「疾病畸形」を23号にわたって掲げ(ただし,同条2項は「前項ノ疾病畸形中軽症ニシテ服役シ得ヘキモノハ合格トシ爾余ノ疾病畸形ト雖モ服役シ得ヘカラサルモノハ不合格トス」と規定),第3条において甲種(身長5尺以上にして身体強健なるもの),乙種(身長5尺以上にして身体甲種に()ぐもの),丙種(身長5尺以上にして身体乙種に亜ぐもの及び身長5尺未満4尺8寸以上にして丁種戊種に当らざるもの),丁種(第2条に当るもの及び身長4尺8寸に満たざるもの)及び戊種明治22年徴兵令第18条第1項(体格完全且強壮なるも身幹未だ定尺に満たざる者)第2項(疾病中又は病後にして労役に堪へざる者)に当るもの)を定義した上で,第4条において「第3条ノ甲種乙種丙種ヲ合格トシ其甲種乙種ハ現役ニ徴スヘキモノ丙種ハ国民兵役ニ置クモノトシ丁種ヲ不合格戊種ヲ徴集延期トス」と規定していました。

丙種合格者が置かれる国民兵役とは「国民兵役ハ満17歳ヨリ満40歳迄ノ者ニシテ常備兵役及後備兵役ニ在ラサル者之ニ服ス」ものと規定されており(明治22年徴兵令5条),具体的には「国民兵ハ戦時若クハ事変ニ際シ後備兵ヲ召集シ仍ホ兵員ヲ要スルトキニ限リ之ヲ召集ス」るものにすぎませんでした(同令16条)。これでも徴兵検査に「合格」というのはややおこがましい。

現役は「満20歳ニ至リタル者之ニ服」するものでした(明治22年徴兵令3条2項)。徴兵検査との関係での「満20歳」の意味は,「毎年1月ヨリ12月迄ニ満20歳ト為ル者ハ其年ノ1月1日ヨリ同月31日迄ニ書面ヲ以テ戸主ニ非サル者ハ其戸主ヨリ本籍ノ市町村長ニ届出可シ」とあって(同令25条本文),それを承けて「町村長ハ毎年徴兵令第25条ノ届書ヲ戸籍簿ニ照較シ壮丁名簿ヲ作リ2月15日迄ニ島司又ハ郡長ニ差出シ島司郡長ハ点検ノ後之ヲ1徴募区ニ取纏メ前年仮決ノ諸名簿ト共ニ大隊区徴兵署又ハ警備隊区徴兵署ニ提出ス可シ/市長ハ前項ノ例ニ依リ壮丁名簿ヲ作リ前年仮決ノ諸名簿ト共ニ大隊区徴兵署ニ提出ス可シ」(徴兵事務条例(明治22年勅令第13号。明治25年勅令第33号で一部改正)23条)ということになって,その年(満20歳になる年)の徴兵検査及び抽籤を受けることとなるというものでした。

 明治22年徴兵事務条例26条1項は,徴兵検査について,「兵役ノ適否ヲ定ムル為メ大隊区徴兵署又ハ警備隊区徴兵署及検査所ニ於テ壮丁ノ身体検査ヲ行フ其検査ハ徴兵官及徴兵参事員ノ面前ニ於テスルモノトス」と規定していました。「大隊区徴兵署警備隊区徴兵署及徴兵検査所ハ島司郡市長ニ於テ適当ノ家屋ヲ選定シ大隊区司令官又ハ警備隊司令官到著ノ上之ヲ開設ス可シ」とされていました(徴兵事務条例施行細則(明治22年陸軍省令第1号)4条1項)。

 明治22年徴兵令8条の「抽籤ノ法」については,明治22年徴兵事務条例34条1項及び2項に「身体検査ニ合格シ現役ニ徴スヘキ壮丁ハ徴集順序ヲ定ムル為メ徴募区毎ニ体格ノ等位及兵種ヲ分チ旅管徴兵署ニ於テ抽籤ヲ行フ」及び「抽籤ハ旅管徴兵官旅管徴兵参事員及大隊区徴兵官又ハ警備隊区徴兵官ノ面前ニ於テ抽籤総代人之ヲ為スモノトス」と規定されていました。徴募区については,「徴募区ハ1郡又ハ1市ヲ以テ1区ト為ス」のが原則でした(同条例3条1項)。旅管徴兵署とはどこかといえば,「毎年徴募事務執行ノトキハ旅管内府県毎ニ旅管徴兵署ヲ設ク」るものとされていました(同条例32条)。抽籤総代人については「身体検査終ルノ後大隊区徴兵官又ハ警備隊区徴兵官ハ合格者ヲシテ抽籤総代人ヲ選ハシメ其人名ヲ旅管徴兵官ニ報告スヘシ」とされていました(明治22年徴兵事務条例施行細則9条。明治22年徴兵事務条例34条3項は「抽籤総代人ハ籤丁ノ選ヲ以テ徴募区毎ニ2名若クハ3名ヲ出スモノトス」と規定していました。)。

 

(2)1893年の徴兵状況

 ここで,1893年に行われた徴兵の状況を計数的に見てみようとすると,陸軍省大臣官房副官部編纂の『陸軍省第7回統計年報』(189411月)という便利なものがあります。

 1893年の我が国における20歳の壮丁の総員は384536人であったところ,①現役として当籤した者は1万9040人で,その4.95パーセントということになりました95頁)。その外に②志願者が769(この「志願者」は,明治22年徴兵事務条例施行細則8条に「身体検査ノ際現役ニ服センコトヲ志願スル者アルトキハ大隊区徴兵官ハ本人ノ身元ヲ調査シ其景況書ヲ添ヘ旅管徴兵官ニ具申ス可シ/其志願者ハ体格甲種ニシテ身元確実ト認ムル者ハ旅管徴兵官ニ於テ之ヲ許可スルコトヲ得」と規定されていたもので,「甲種合格者ニシテ抽籤ノ者」より先に現役兵に編入されました(同細則23条)。これらの者にとっては,現役兵編入は「当籤」ではなく「合格」ということになります。他方,同年報100102頁の「現役兵志願者人員」の表の「現役兵志願者」は,明治22年徴兵令10条(満17歳以上20歳未満の現役兵志願者)及び11条(一年志願兵志願者)に係る現役の志願者であって,また別のカテゴリーでした。)及び③明治22年徴兵令28条によって徴集された者が11人ありましたから,20歳の壮丁中現役として徴集された者は①から③までの合計1万9820人で,全体の5.15パーセントということになります95頁)。3年の現役に服することがなければ予備役に服することはなく(明治22年徴兵令3条2項参照),更に後備兵役にも服することはなくなりますから(同令4条参照),結局日本男児20人中約19人はせいぜい国民兵役に服するのみで(同令5条),兵士となることは実質的にはなかったということになります(同令16条)。

 なお,上記明治22年徴兵令28条は「兵役ヲ免レンカ為メ身体ヲ毀傷シ疾病ヲ作為シ其他詐偽ノ所為ヲ用ヒ又ハ逃亡若クハ潜匿シタル者又ハ正当ノ事故ナク身体ノ検査ヲ受ケサル者ハ抽籤ノ法ニ依ラスシテ之ヲ徴集ス」ると規定していましたので(甲種合格者及び乙種合格者のそれぞれにつき最優先で現役兵に編入(明治22年徴兵事務条例施行細則23条)),同条に基づき徴集された兵士らは,いじめられるしか外にすることはなさそうです。ちなみに,1893年中の陸軍内での自殺者数は35人で,兵員千人につき0.64人ということになっていました182頁)。また,同年中に神経系病を発した者は826164頁),陸軍刑法の逃亡罪による行刑者数は555人でした198頁)

 1893年の徴兵検査の前の段階において,同年の20歳の壮丁中6101人は,「逃亡失踪」しています96頁)。全体の1.59パーセント。

 逃亡失踪するようなあからさまな非国民でなくとも,我が日本男児は,実は相当非軍国的なのです。1893年の徴兵手続において,20歳の壮丁中,身長が5尺に足らず徴集延期となった者(明治22年徴兵令18条第1)が153人,疾病で徴集延期となった者(同条第2)が1557人(この両者は徴兵検査では戊種ということになります。),身長4尺8寸未満又は癈疾不具ということで兵役が免ぜられた者(同令17条)が2万9352人(徴兵検査不合格の丁種),「身体検査上徴集ニ適セサル者」が101110人(徴兵検査での丙種でしょう。)であって,その合計132171人は20歳の壮丁全体の34.37パーセントに達します96頁)。分母から逃亡失踪者等を除けばその比率はもう少し高いはずです。みやびやかなる我が大和民族は,少なくとも20歳の男性の3分の1は身体的に兵士たり得ぬ民族なのですな。これに加えるに,『陸軍省第7回統計年報』を見ると,「身体検査上徴集ニ適セサル者」の外に「選兵上徴集ニ適セサル者」とのカテゴリーが徴集を免ぜられる者の諸カテゴリー中に更にあって,これは同年報の対象である1893年には,20歳の壮丁について122050人に上っていました96頁)

 中国四国地方を管轄する第五師管から1893年に騎兵現役兵に徴集された20歳の壮丁は101人(うち12人は近衛師団へ),その外21歳以上の壮丁からは8人(うち3人は近衛師団へ)が徴集されています9899頁)。騎兵は,「成ル可ク馬匹ノ使用ニ慣レ体格ハ軽捷ニシテ筋肉肥満ニ過キサル者」が選ばれています(明治22年徴兵事務条例施行細則11条1項2号)。

 

(3)入営期日

 「現役年期ノ計算ハ総テ其入営スル年ノ12月1日ヨリ起算」するものとされていたところ(明治22年徴兵令29条),明治22年徴兵事務条例47条1項は「新兵入営期日ハ毎年12月1日トス但疾病犯罪其他ノ事故ニ由リ12月1日ニ入営シ難キ者ハ同月31日迄ニ入営セシム」と規定していましたから,筆者の曽祖父による「明治2611月1日・・・騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ」との記載は,本来「明治2612月1日・・・騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ」とあるべきものの誤記でしょう。

 

2 騎兵第五大隊の幹部

 

(1)野津師団長,木村大隊長及び豊辺・吉良両中隊長

 189312月1日現在の騎兵第五大隊関係の幹部人事はいかんというに,1893年7月1日調べ及び1894年7月1日調べの陸軍現役将校同相当官実役定年名簿を併せ見て検討するに,所属の第五師団(広島)の師団長閣下は子爵野津道貫中将(1894年7月1日で年齢52年9箇月),大隊長は兵庫県士族従六位勲六等の木村重騎兵少佐(1894年7月1日で年齢41年5箇月),大隊の二つの中隊のうち,一方の中隊長は奈良県平民正七位の吉良秀識騎兵大尉(1894年7月1日で年齢37年1箇月。189211月1日任官)であったことは,その間に異動がなく,はっきりしています。これに対して,もう一方の中隊長は,佐賀県士族従六位勲五等の梅崎信量騎兵大尉が留任していたのか,新潟県士族正七位豊辺新作騎兵大尉(1894年7月1日で年齢32年3箇月。18901110日任官)に既に交代していたのかが若干問題となります。しかしながら,梅崎大尉は1893年7月19日に騎兵少佐に任官していますから昇進後も中隊長を続けられるものではなく,これは豊辺大尉です。1894年1月1日調査の印刷局の職員録を見ると,豊辺大尉が騎兵第五大隊の中隊長として,吉良大尉の上席となる右側に記載されています。

 

(2)第一中隊長豊辺新作大尉

 1894年6月に半島に出動した筆者の曽祖父が所属した騎兵第五大隊第一中隊の中隊長は豊辺大尉及び吉良大尉のうちいずれかといえば,豊辺大尉であったということになります(外山操=森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧第1巻』(芙蓉書房・1993年)171頁参照)。豊辺大尉は同年7月2617時に漢城の南方にある素沙場において騎兵中隊の戦闘詳報を作成しており当時既に半島に出動していたことは明らかですが(当該戦闘詳報はアジア歴史資料センターのウェブ・ページにあります。),吉良大尉は同年9月10日においてまだ広島にいたところです。すなわち,アジア歴史資料センターのウェブ・ページにある両大尉の「結婚願之件」書類(陸軍省受領番号は豊辺大尉につき肆第902号,吉良大尉につき肆第1061号)を見てみると,豊辺大尉の結婚願は同年7月18日に作成され野津第五師団長を経て大山巌陸軍大臣に提出されていますが,同年9月10日に作成された吉良大尉の結婚願は山沢静吾留守第五師団長事務取扱を通じて陸軍大臣に提出されています。「留守第五師団」であって,「第五師団」ではありません。

 豊辺新作の人物については,自ら書いた『万朝報』の連載月旦記事をまとめた燧洋高橋鉄太郎の『当面の人物フースヒー』(フースヒー社・1913年)に次のようにあります。表題は,「第二の乃木将軍豊辺新作」。

 

   帝国陸軍に於て騎兵科の模範戦将と唄はれて()る騎兵四旅団長豊辺新作を評論する,彼は一見婦人の如き柔和温厚の極て(やさし)い将軍で,(おほき)い声で物もいはねば,虫も殺さぬ様な風だが,一度戦場に臨むと勇猛豪胆,鬼神の如き勢で奮戦する勇将で,乃木将軍を猶少しく地味にした様な(いは)沈勇の人だ

   彼の沈勇気胆が陸軍部内に認識されて騎兵科中の模範将軍と唄はる様になつたのは日清戦争以来のことで,(その)以前は彼は無能平凡の一軍人として無視されて()た,元来日本は蕞爾たる島国(たうこく)で,馬術といふものは一向発達せず,奥州野辺地馬なども亜刺比(あらび)()(たね)には追附(おつつか)ぬので封建時代から馬に(のつ)た兵隊といふのは土佐と紀州にあつたのみだから騎兵の進歩は(おほい)に遅れた,彼は(この)幼稚の時代の騎兵科の青年将校として当時騎兵科の総大将たる大蔵平三などに聯盟反抗を企てたので,()られる所を日清戦争に従軍して偉勲を(たて)たので初めて威名を博した,彼は越後長岡の藩士で郷党勇武の感化がある,長岡は河合蒼龍窟〔河井継之助〕の出たけに越後式ではない,彼は長岡武士の面目を辱めないものだ

   人に全きを求むるは素より酷だが,彼は温情沈勇は即ち余りあるが,惜むらくは彼には行政的才幹手腕がない,秋山好古(かうこ)が先輩中将でありながら()だ師団長にもなれないのは,一は騎兵監の後任に人物が無い為で,順番からいへば()()だが他の特科兵監に対し樽俎折衝に適しない,さらばとて本多道純では徳望が(たら)(こまつ)たものだが,軍人は戦争(いくさ)にさへ強ければ()いから,彼の如きも第二の乃木将軍として天分を尽すべきだ179181頁)

 

 筆者の曽祖父も自分の中隊長殿を見て,「おとなしい,優しい人だな。軍人といっても怖い人ばかりじゃないんだな。けれどあまりパッとしないから,大丈夫かなぁ。」などと思ったものでしょうか。

 豊辺新作は,司馬遼太郎の『坂の上の雲』では日露戦争黒溝台会戦の場面で登場します。

 

脱線その1:夏目金之助青年の兵役回避策

 明治二十年代の徴兵事情を検討していると,漱石夏目金之助が1892年(明治25年)4月に北海道後志国岩内に本籍を移したという有名な挿話をつい思い出してしまったところです。当該転籍の理由は,兵役回避のためだとされています。当該挿話をめぐる兵役法令関係を少々検討してみましょう。(なお,慶応三年(1867年)生まれの漱石の満年齢は明治の年と一致するので,この部分は元号優先で記述します。)

 明治20年に適用されていた兵役法令は,明治16年太政官布告第46号「徴兵令」(明治19年勅令第73号で一部改正)を頂点とするものでした。明治16年徴兵令3条は「常備兵役ハ別チテ現役及ヒ予備役トス其現役ハ3個年ニシテ年齢満20歳ニ至リタル者之ニ服シ其予備役ハ4個年ニシテ現役ヲ終リタル者之ニ服ス」と規定し,同令8条1項は「陸軍現役兵ハ毎年所要ノ人員ニ応シ壮丁ノ身材芸能職業ニ従ヒ歩兵騎兵砲兵工兵輜重兵及ヒ雑卒職工ニ区別シ抽籤ノ法ニ依リ当籤ノ者ヲ以テ之ニ充ツ」と規定していましたが,明治20年に第一高等中学校予科在学中であった塩原金之助(塩原家に養子に出されていた金之助青年が夏目家に復籍するのは明治21年1月)のためには,明治16年徴兵令19条の「官立府県立学校小学校ヲ除ク及ヒ文部大臣ニ於テ認タル之ト同等ノ学校ニ於テ修業1個年以上ノ課程ヲ卒リタル生徒ハ6個年以内徴集ヲ猶予ス」との規定が働いていました(いまだ同令18条第3項の「官立大学校及ヒ之ニ準スル官立学校本科生徒」として「其事故ノ存スル間徴集ヲ猶予ス」ということにはならなかったはずです。)。明治16年徴兵令19条については「課程を終りたる生徒とある上は数年前入学しあるも落第せるものは或ハ1箇年に足らざるものもあるべく又入学の時上級に入れば1箇年に満たずとも猶予を受くるを得べきなり」と説かれていました(今村長善『徴兵令詳解(増補再版)』(1889年)46頁)。塩原金之助青年は,明治19年7月には進学試験を受けられずに留年してしまいましたが,明治17年に第一高等中学校予科(当時は東京大学予備門予科)に入学していたところです。

 明治21年9月に夏目金之助青年は第一高等中学校本科第一部(文科)に進学しましたが,第一高等中学校本科在学中に明治16年徴兵令が明治22年徴兵令に代わります。経過措置規定として明治22年徴兵令41条は「旧令第18条第3項若クハ第19条ニ依リ徴集猶予ニ属シ在校ノ者ハ其事故6箇年以内ニ止ミタルトキ又ハ6箇年ヲ過クルモ仍ホ止マサルトキハ抽籤ノ法ニ依リ徴集ス但一年志願兵ヲ志願スルコトヲ得」と規定していました。

 夏目青年は明治23年9月に帝国大学文科大学英文学科に入学し,その後明治26年7月には帝国大学大学院に入ったので,明治16年徴兵令「19条ニ依リ徴集猶予ニ属シ在校ノ者」という状態は続いていたのですが,「6箇年ヲ過クルモ仍ホ止マサルトキ」の期限が迫って来ました。仮に1箇年徴集猶予ならば明治21年に徴兵検査を受けなければならない計算ですから,そう数えると,6箇年の猶予を得ても明治26年(1893年)の徴兵検査を筆者の曽祖父同様に受けなければならないことになります。明治25年中に何かをせねばならない。(なお,実は明治26年法律第4号(同年3月3日公布)によって,明治22年徴兵令41条の「6箇年」は「8箇年」に延長されたところではありました。)

 そこで明治22年徴兵令についていろいろ調べたところ,同令33条が発見されたものでしょう。同条は「本令ハ北海道ニ於テ函館江差福山ヲ除クノ外及沖縄県並東京府管下小笠原島ニハ当分之ヲ施行セス」としていました。

 ということで,明治25年4月段階における漱石の北海道後志国岩内への転籍ということになったのでしょうか,どうでしょうか。なお,明治22年徴兵令31条は「兵役ヲ免レンカ為メ逃亡シ又ハ潜匿シ若クハ身体ヲ毀傷シ疾病ヲ作為シ其他詐偽ノ所為ヲ用ヒタル者ハ1月以上1年以下ノ重禁錮ニ処シ3円以上30円以下ノ罰金ヲ附加ス」と規定していたところ,「民刑局長明30年甲第124号回答に依れば「徴兵を免れんが為の目的を以て虚偽の転籍を為したる事実あるに於ては徴兵令第31条の犯罪を構成す」と判示して居る」とのことで(日高巳雄『軍事法規』(日本評論社・1938年)39頁),漱石先生は少なくとも李下の冠的な危険なことをしてしまったことにはなります。

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「吾輩は北海道平民である。名前は既に夏目金之助である。」(東京都新宿区早稲田南町漱石公園)


 その後明治22年徴兵令33条は,明治28年法律第15号によって明治28年4月1日から「本令ハ北海道ニ於テ函館江差福山ノ外及沖縄県並東京府管下小笠原島ニハ漸ヲ以テ施行ス其時期区域及特ニ徴集ヲ免除シ若クハ猶予ス可キモノハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム」に改められました。当該勅令たる明治28年勅令第126号の第1条は「明治29年1月1日ヨリ北海道渡島,後志,胆振,石狩ノ4箇国ニ徴兵令ヲ施行ス」と規定していましたので,漱石はヒヤリとしたかもしれません。しかしながら,同勅令においては特段難しい経過措置規定は無かったので,結局明治9年以後に生まれた大日本帝国臣民男子にのみ関係があるものということでよかったのでしょう。現に明治31年1月発行の『陸軍省第10回統計年報』を見ると,北海道を管轄する第七師管における明治29年の20歳の壮丁は4409人であって前年の798人から大幅に増加している一方,明治29年の21歳以上の壮丁は535人にすぎません(109頁。明治28年の第七師管における21歳以上の壮丁の数は『陸軍省第10回統計年報』では417人と読めますが109頁),明治30年3月発行の『陸軍省第9回統計年報』では447人となっています49頁)。)。函館,江差及び福山以外の渡島,後志,胆振及び石狩に本籍を有するところの明治29年に21歳から40歳までになる日本男児までもが,同年からの徴兵令の施行に伴いどっと徴兵検査を受けなくてはならなくなった(したがって,徴兵令施行の最初の年である同年には20歳の壮丁よりも21歳以上の壮丁の方が何倍もの大きい人数になる。),ということはなかったわけです。

なお,明治30年勅令第257号により,明治31年1月1日から天塩,北見,日高,十勝,釧路,根室及び千島の7箇国にまで北海道における徴兵令の施行が拡大されました。また,明治22年徴兵令33条自体は,大正7年法律第24号によって191912月1日から削られています。

脱線その2:昭和18年法律第4号の経過措置規定並びに1944年及び1945年における朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者の徴兵状況

 

(1)昭和18年法律第4号の経過措置規定

 

ア 昭和18年法律第4号

 北海道内における明治22年徴兵令の施行拡大に係る明治28年勅令第126号及び明治30年勅令第257号におけるものとは異なり,朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に対して兵役法(昭和2年法律第47号。明治22年徴兵令を全部改正したもの)の適用を拡大する昭和18年法律第4号の経過措置規定は読みごたえのあるものです。

 1943年3月1日裁可,同月2日公布の昭和18年法律第4号によって,1943年8月1日から(同法附則1項),朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者も兵役法9条2項に基づき第二国民兵役に服し,同法23条1項に基づき徴兵検査を受けることになりました1943年1月30日の貴族院兵役法中改正法律案特別委員会における木村兵太郎政府委員(陸軍次官)の法案趣旨説明(第81回帝国議会貴族院兵役法中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1頁)及び同年2月17日の衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会における同政府委員の法案趣旨説明(第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第2回3頁)参照)

 

イ 昭和18年法律第4号附則2項及び3項

昭和18年法律第4号は,次のような経過措置規定を設けています(附則2項及び3項)。

 

  第9条第2項及第23条第1項の改正規定ハ本法施行ノ際徴兵適齢ヲ過ギ居ル者及徴兵適齢ノ者ニシテ其ノ際現ニ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クルモノ又ハ本法施行後其ノ適用ヲ受クルニ至リタルモノ(第3条ノ規定ニ該当スル者ヲ除ク)ニ之ヲ適用セズ

  前項ノ規定ニ該当スル者ニ付テハ第52条第1項ノ改正規定ニ拘ラズ従前ノ例ニ依ル

 

 どう読んだものやら,難しい。

 

(ア)昭和18年法律第4号附則2項前段

まず附則2項前段ですが,これは「本法施行ノ際」である1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」であって同日午前零時に「現ニ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クルモノ」については,徴兵検査はしないし(兵役法23条1項改正規定の不適用),第二国民兵ともしない(同法9条2項改正規定の不適用),ということのようです。

 

なお,附則2項における「者」と「モノ」との使い分けですが,「者」は「法令上,自然人,法人を通じ,法律上の人格を有するものを指称する場合に用いる」ところ(前田正道編『ワークブック法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)650頁),同項での「者」は自然人を指称しているものであり,「もの」は「あるものに更に要件を重ねて限定する場合(この場合には,外国語における関係代名詞に相当する用法となる。)」に用いられるところ(前田650頁),同項での「モノ」はその前の「者」に更に要件を重ねて限定しているものと読み解くべきでしょう。

また,「徴兵適齢」(兵役法23条2項)の概念も難しいのですが,「陸軍省軍務局・陸軍大学教官歩兵中佐」の肩書の中井良太郎による『兵役法綱要 附徴発法大要』(松華堂書店・1928年)によると,「前年ノ12月1日ヨリ其ノ年1130日迄ノ間ニ於テ年齢20年ニ達スル年ヲ徴兵適齢ト称ス」85頁)ということになっています。兵役法23条は当時「戸籍法ノ適用ヲ受クル者ニシテ前年12月1日ヨリ其ノ年1130日迄ノ間ニ於テ年齢20年ニ達スル者ハ本法中別段ノ規定アルモノヲ除クノ外徴兵検査ヲ受クルコトヲ要ス/前項ニ規定スル年齢ハ之ヲ徴兵適齢ト称ス」と規定していました。

 

そもそも昭和18年法律第4号の施行日が1943年8月1日とされたことについては,「本法ハ協賛ヲ得マスレバ,一日モ速カニ施行致シマシテ,2千4百万ノ朝鮮同胞ト,其ノ慶ビヲ共ニ致シタイト存ズルノデアリマスガ,7月31日迄ハ本年ノ徴兵検査ガ実施セラレマスノデ,其ノ以前ニ施行セラレマスルト,現役志願ノ者ガ徴兵検査ヲ受検スルコトトナリ,諸般ノ徴集準備ノ円滑ヲ害シマスノデ,其ノ終了ノ後,即チ昭和18年8月1日ト致シタイト存ズルノデアリマス」と木村兵太郎政府委員から説明がありました(第81回帝国議会貴族院兵役法中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1頁。また第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第2回3‐4頁)。したがって,朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に係る最初の徴兵検査は1944年に行われました。昭和18年法律第4号の法案に係る貴衆両議院の本会議における趣旨弁明の段階で既に「昭和19年ヨリ朝鮮同胞ヲ徴集」するものと明言されていたところです1943年1月29日貴族院本会議における木村政府委員弁明(第81回帝国議会貴族院議事速記録第3号40頁)及び同年2月12日衆議院本会議における東条英機国務大臣(陸軍大臣)弁明(第81回帝国議会衆議院議事速記録第10213頁))

附則2項前段は,要するに,「本法施行ノ際,朝鮮同胞ノ中デ徴兵適齢ヲ過ギテ居ル者,及ビ本年ノ徴兵適齢者ニ付キマシテハ,志願ニ依リマシテ兵籍ニ入ッテ居リマス者ヲ除キ,其ノ他ハ依然従来通リ兵役ニ服セシメナイコトト致シタイト存ズルノデアリマス」ということでした(第81回帝国議会貴族院兵役法中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1頁及び第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第2回4頁(木村政府委員))

 

(イ)昭和18年法律第4号附則2項後段

附則2項後段は,1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」であって,同日以後に「朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クルニ至リタルモノ」についての規定です。(なお,兵役法3条は「志願ニ依リ兵籍ニ編入セラルル者」に関する規定です。)1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」である台湾人が,同日以降に朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者になっても今更兵役を課さないということでしょう(大日本帝国の臣民男子ではあっても,台湾人にはいまだ兵役義務はありませんでした。)。(ちなみに,兵役法52条2項は「徴兵適齢ヲ過ギ帝国ノ国籍ヲ取得シ又ハ回復シタル者」に対しては「徴集ヲ免除ス」る旨規定していました。)

戸籍法の適用を受ける内地人であって1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」であり,同日以後に「朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クルニ至リタルモノ」があればどうかといえば, 1943年8月1日から共通法(大正7年法律第39号)3条3項を「戸籍法ノ適用ヲ受クル者ハ兵役ニ服スル義務ナキニ至リタル者ニ非サレハ他ノ地域ノ家ニ入ルコトヲ得ス」から「戸籍法又ハ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者ハ兵役ニ服スル義務ナキニ至リタル者ニ非サレハ内地及朝鮮以外ノ地域ノ家ニ入ルコトヲ得ス」へと改正する法律である昭和18年法律第5号の附則2項に「本法施行ノ際〔同法附則1項により同法は兵役法の一部改正に係る昭和18年法律第4号と同時に施行〕徴兵適齢ヲ過ギ居ル者及徴兵適齢ノ者ニシテ其ノ際現ニ戸籍法ノ適用ヲ受クルモノ又ハ本法施行後其ノ適用ヲ受クルニ至リタルモノニ付テハ〔共通法〕第3条第3項ノ改正規定ニ拘ラズ仍従前ノ例ニ依ル」とありましたので,そもそも兵役義務がなくなるまでは改正前共通法3条3項の例により朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者になる(朝鮮ノ家ニ入ル)ことは法律上不能なのであって,心配には及ばぬよう手当てされていたのでした。すなわち,昭和18年法律第5号の附則2項によって「尚内地人で〔1943年8月1日に〕徴兵適齢ガ過ギテ居ル者,及ビ徴兵適齢ノ者ハ,既ニ兵役ノ義務ヲ荷ッテ居リマスガ,朝鮮デハ〔昭和18年法律第4号附則2項後段により〕兵役ノ義務ガアリマセヌノデ,朝鮮同胞ノ家ニ入ルノハ兵役ノ義務ヲ終ッタ後ニ限定セムトスルモノデアリアス」ということでした(第81回帝国議会貴族院兵役法中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1頁(木村政府委員)。また,第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第2回4頁(同政府委員))

 

(ウ)昭和18年法律第4号附則3項

附則3項は,「本法施行ノ際徴兵適齢ヲ過ギ居ル者及徴兵適齢ノ者ニシテ其ノ際現ニ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クルモノ又ハ本法施行後其ノ適用ヲ受クルニ至リタルモノ(第3条ノ規定ニ該当スル者ヲ除ク)」には兵役法52条1項の改正規定(「戸籍法及朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受ケザル者ニシテ徴兵適齢ヲ過ギ戸籍法又ハ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者ノ家ニ入リタルモノニ対シテハ徴集ヲ免除ス」)の適用はなく「従前ノ例ニ依ル」ということになります。すなわち改正前の兵役法52条1項は「戸籍法ノ適用ヲ受ケザル者ニシテ徴兵適齢ヲ過ギ戸籍法ノ適用ヲ受クル者ノ家ニ入リタル者ニ対シテハ徴集ヲ免除ス」と規定しており,なおこれによるわけです。改正後の兵役法52条1項は,台湾人が対象です(「戸籍法及朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受ケザル者」としては「台湾人」が考えられていたことについては,1943年2月18日の帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会における那須義雄政府委員の答弁を参照(第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第3回23頁))。
 なお,
「徴集」とは,「広義では強制的に現役又は補充兵役に就かしむべき行政作用即ち徴兵検査に出頭を命じ徴兵検査を受けしめ現役又は補充兵役に就かしむる迄の一切の作用を謂ひ,狭義では現役又は補充兵役編入を決し之を本人に通告する行為換言すると現役又は補充兵役編入の行政処分を意味」します(日高12頁)


(2)1944年及び1945年における朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者の徴兵状況

 

ア 「朝鮮軍歴史別冊 朝鮮人志願兵・徴兵の梗概」

1944年に始められた朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に対する我が兵役法に基づく徴兵検査,徴集及び入営に関する状況については,朝鮮軍残務整理部が残した「朝鮮軍歴史別冊 朝鮮人志願兵・徴兵の梗概」というガリ版刷り文書があり,アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることができます(なお,ここでいう「朝鮮軍」は我が帝国陸軍の朝鮮駐屯軍のことであり,外国の軍隊ではありません。)。当該「梗概」の作成者は,末尾に「元朝鮮軍徴兵主任参謀/吉田俊隈記す」と記載されています。「梗概」が作成された時期は明示されていませんが,「朝鮮軍関係資料」として「梗概」と共に合冊されている「朝鮮に於ける戦争準備」という文書の表紙には「昭和21年2月/朝鮮軍残務整理部/昭和27年2月復員課複写」と記されているところ,やはり1946年1月前後に作成されたものと考えるべきでしょうか。

以下本稿は,1944年及び1945年における朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者の徴兵状況に関し,「朝鮮軍歴史別冊 朝鮮人志願兵・徴兵の梗概」の更に梗概を紹介するものです。

 

イ 1943年の臨時特別志願兵と高橋留守第三十師団長閣下解職

早速1944年の話に入りたいのですが,その前,194310月以降の「臨時特別志願兵」騒動がちょっと見逃せないところです。「梗概」にいわく。

 

 昭和18年〔1943年〕10月朝鮮に於ては明春よりの歴史的第1回徴兵検査を目前に控え最後の準備完整に大童(おおわらわ)の時,戦局の要請に基き内地人学生に対する従来の徴集延期制度の一部改正せられ大学,高等,専門学校の法文系学生は,同年11月より臨時徴兵検査を実施せられ翌19年〔1944年〕1月より入営せしめらるる事となれり。

 本制度の実施に伴い,同じく法文系に籍を有し,内地学生と机を並べ,勉学の途にいそしめる朝鮮人学生にも同窓の内地人学生と共に相携へ祖国の急に馳せ参じ得るの臨時特別志願兵の途を開かれたり。

 

 いい話じゃないですか,ということで,「俄然朝野の視聴を集め志願慫慂,全員受検の民間運動が内鮮全体に亘り活発に展開」されたそうです。大人はいい気なものです。しかし,当事者学生にとってはなかなか煩わしい。

 

  当時内地に在りし朝鮮人学生中には父母の同意を得るに名を藉り,休学帰鮮する者多く又鮮内学生に在りては無断休学し居所を杳晦する者等相次いで出で一時は相当の混乱状態を呈せるも逐次先輩有志の説得官民の熱誠なる支援,学生自身の自覚に依り検査開始迄には在鮮学徒の約90%は志願するに至りたり。

 

後日「梗概」は自ら,「或は一部野心家の後日の社会的地位獲得の為の裏面的策動に依る強制受検等の多少ありたるは否めざる事実なりしも」と述べてはいますが,やはり,これら「約90%」の学徒は公式的には飽くまでも自発的に志願したものなのでしょう。

詮衡検査は194311月から同年12月にかけて行われ,朝鮮内での受検者総数は3366人,うち現役兵として徴集された者2735人,補充兵として徴集された者382人,不合格者249人でした(「梗概」第7表の2)。この外,朝鮮軍管外の受検で721人が現役兵として徴集されています(同)

「軍に於ては同志願兵の部隊配当を実施するに方り素質優秀なるものは鮮外部隊に充当し,多少とも強制志願と目せらるるが如き明朗性を欠くものは鮮内部隊へ充当」したそうです。「梗概」の第7表の2を見ると,朝鮮軍管内採用の現役兵たる臨時特別志願兵の入隊先を見ると朝鮮軍に423人(羅南師団127人,京城師団106人,平壌師団153人及び軍直部隊37人),内地の東部軍,中部軍及び西部軍に1279人並びに当時戦闘中であった支那派遣軍に996人となっています(同表ではこれらの合計が「2732」人であるとしていますが,筆者の電卓検算では2698人で,どうも34人分数字が合いません。)。

これでめでたしめでたしかといえば,なかなかそうは問屋が卸しません。

 

 昭和19年〔1944年〕1月平壌留守第三十師団に入営せる志願兵中(これ)()自発的に依らざりし者は入営せば必ず将校たり得るの既得権を有する如く誤信しありし者或は入営前の放逸なる生活に憧るゝ者等の不平分子は幹部候補生甲,乙決定の際甲種の詮衡率僅少(約3%)なりしに端を発し,部隊相互に(ママ)密裡に連絡し,党与して鮮外に逃亡せんと謀りしが事前に発覚し事件は大事に至らずして解決せるも時の師団長高橋中将は引責解職せらるるに至りたり。

 

 お気の毒なのは高橋留守第三十師団長閣下です。鬼畜米英撃滅以前に,隷下の自軍兵士に足元をすくわれました。しかし,「進級等自己ノ意ニ満タサル場合著シク性格上ノ缺陥ヲ暴露」すること1943年8月14日陸軍省副官からの昭和18年陸密第2848号通牒の一節(アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることができます。))は,だれにでもあることです。

 気の毒ついでにこの高橋中将はどの高橋中将なのかインターネットで調べてみたのですが,Hiroshi Nishida氏のウェブ・サイトに,1944年4月29日に予備役から留守第三十師団長に返り咲き,1945年3月31日に召集解除となった高橋中将として,高橋多賀二の名が出ていました。岡山出身,陸軍士官学校第22期,陸軍大学校第35期だそうです。

 ウ 1944年の徴兵

 

(ア)徴兵検査

朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に対する最初の徴兵検査の実施時期について「梗概」は,昭和「19年〔1944年〕4月より8月に亘り此の歴史的第1回徴兵検査を各兵事部主宰の下に全鮮に亘り一斉に開始せり」と述べています。(なお,兵役法施行規則(昭和2年陸軍省令第22号)103条1項は「聯隊区徴兵署ノ事務ハ毎年4月16日ヨリ7月31日迄ノ間ニ於テ之ヲ行フヲ例トス」と規定していましたが,19431224日公布,同日施行の昭和18年陸軍省令第69号の第3条が「昭和19年ニ於ケル徴兵検査ハ昭和19年4月1日ヨリ概ネ同年8月末日迄ノ間ニ実施スルモノトス」と規定していました。)

「検査は順調且成功裡に終始するを得たり」とはいえ,「珍談奇景」はやはり生じたそうで,「梗概」はそのうち4話を紹介しています。いわく。①病気で「晴の入営の能はざるは男子として不名誉此の上なきも未だ五体には愛国の熱血を存すとの意志を表示する為め机上の小刀を以て指を斬り血書せんとしたる」壮丁に対して,その場にいた徴兵署事務員は自分が斬りつけられるのかとびっくりして「格斗の末之を憲兵に引渡」した。②徴用されて労務者として内地に滞在している兄に代わってその弟が代人として受検に来たが,「(これ)本人の無智もさる事(なが)ら検査の当日には何はともあれ頭数だけ何とか揃えんとの末端邑面吏員の知識の一端を窺ひ知るを得べし」。邑は内地の町,面は村に相当します。③「徴兵検査は検査場より直ちに本人を入営せしむるものと誤解せる母親は数里の山奥より多量の餅を携え吾が愛子と最後の別れをなさんと悲壮な面持にて検査場を訪れたるものあり」。④学力調査のため片仮名平仮名を示しても「唯頭を横に振るばかり」の壮丁であったが「自己の本籍地氏名を漢字にて鮮かに書流せるを以て調査の結果書堂にて儒学を若干習ひ漢字ならお手の物と判明」して「(これ)(また)唖然」。

「本検査を機とし畏き辺におかせられては5月侍従武官尾形健一中佐を御差遣あらせられ(つぶさ)に徴兵検査の状況を視察せしめられ其の労を(ねぎらわ)せ給ひたり」と「梗概」述べるところ,宮内庁の『昭和天皇実録第九』(東京書籍・2016年)によれば,1944年6月1日に「御文庫において侍従武官尾形健一に謁を賜い,朝鮮軍及び朝鮮における民間軍需品製造工場への御差遣につき復命を受けられる。尾形は昨月2日出発,28日帰京する。」とのことでした361頁)。無論,昭和天皇の耳には前記のような「珍談奇景」の話は入っていないでしょう。

「逃亡,自傷,詐病等の犯罪を犯せる者も多少ありたるも之等は総員の僅か1%程度に過ぎざる状況なりき」だったそうです。そうであれば,逃亡失踪率1.59パーセントだった1893年の我が日本内地内の徴兵検査受検状況に比べて,真面目さにおいて勝るとも劣りません。なお,アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることのできる内務省用紙に和文タイプ打ちの194412月付け「朝鮮ノ統治事情説明」の第1の2「徴兵制実施ノ状況」によれば「半島人壮丁予定総員231424名ニ対シ受験者総数(222295名)ハ其ノ9割6分ニ達シ,不参者ハ0.06(ママ)(1万2905名)此ノ大半ハ疾病,受刑中,兵籍編入,在外延期其ノ他已ムヲ得サル事由ニ依ルモノ多ク,所在不明ノ為ノ不参加者ハ6228名(予定総員ノ0.027)ニ過キス此ノ所在不明者中ニハ徴兵制度発表以前ヨリ所在不明ノ者ガ大部分テアツテ,真ニ忌避的手段ニ出テタル者ハ極メテ少数ト判断セラレ,同様事故不参者ハ僅ニ422名テアツテ,総括的ニ見ル時順調ナル経過ヲ以テ終了シタノテアル」ということでした。

また,「梗概」によれば,「検査の結果甲種は30%国語理解者60%の成績」だったそうです。

 

 受検壮丁は内外地を合し約23万にして其の中5万ママを現役兵として徴集し検査終了後より所要の入営準備教育を実施し〔昭和〕19年〔1945年〕9月より逐次入営せしめられたり

 

「梗概」の第8表によれば,1944年の徴兵検査で現役兵として徴集された朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者は,朝鮮軍管区から5万1737人(うち1万人は海軍兵),関東軍管区からは3260人及び台湾軍管区から3人の合計5万5000人となっています。(南方軍及びフィリピンの第十四軍地区に残留するものは上記とは別に徴兵検査を受けたものとされています。)

 

(イ)部隊配当

 「梗概」には,第1回徴兵検査後「朝鮮兵の部隊配当は全軍に亘り且其の入営の要領は〔1944年〕9月より逐次先づ朝鮮軍司令官の定むる鮮内部隊に入営せしめ軍隊生活に若干馴れしめたる後本属の内外地入営部隊に転属することとせられたり」とあります。

配当先の「内外地入営部隊」はどのようなものかと「梗概」の第9表(「昭19朝鮮現役兵各軍配当区分表」)を見ると,内地及び樺太の東部軍,中部軍,西部軍及び北方軍に合計8245人,朝鮮軍に1585人,台湾軍に3人,関東軍に9925人,戦闘中の支那派遣軍に1万0445人,同じく戦闘中の南方軍に7647人,蘭印(インドネシア)の第二方面軍に1540人,ラバウルの第八方面軍に2710人,第一航空軍(司令部は東京)に2300人及び船舶司令部(司令部は広島の宇品)に600人並びに鎮海鎮守府に海軍兵を1万人となっていました。合計5万5000人。しかしながら,当該「第9表」は徴兵検査前の計画値を示しているもののようで,その備考欄には「各軍司令官は本配当表に基き〔中略〕細部の部隊配当を定め昭和19年4月末日迄に朝鮮軍司令官に通報し朝鮮軍司令官は之に基き部隊配当を行ふものとす」と記されています。

その後の1944年5月26日付けの東条英機陸軍大臣からの陸機第129号昭和19年徴集現役兵ノ入営及外地派遣等ニ関スル件達(アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることができます。)を見ると,同年徴集の「朝鮮人初年兵(航空,船舶部隊ノ要員及び海軍兵ヲ除ク)ノ入営及外地派遣等」について,改めて次のように定められています。

まず,「関東軍,支那派遣軍,第五方面軍〔北方軍の改組されたもの〕,朝鮮軍及び内地各軍要員(朝鮮以外ノ地ニ在リテ直接現地ノ部隊ニ入営スルモノヲ除ク)ハ概ネ当該内地人要員ノ入営日ニ朝鮮軍司令官ノ定ムル其ノ隷下部隊ニ入営セシメ関係部隊長相互協議ノ上所属部隊ニ転属スルモノトス但シ関東軍及支那派遣軍ノ要員(満洲,支那ニ在ル大本営直轄部隊ノ要員ヲ含ム)ハ成ル可ク当該部隊内地人初年兵ノ朝鮮通過時之ニ合スル如ク転属スルモノトス」とされています。これは,「梗概」の記すところとほぼ同じですが,「関東軍及支那派遣軍ノ要員」については,「軍隊生活に若干馴れしめたる後本属の内外地入営部隊に転属」ではなく,「成ル可ク当該部隊内地人初年兵ノ朝鮮通過時之ニ合スル如ク転属スルモノ」とされています。

南方軍,第二方面軍及び第八方面軍への配当予定初年兵は宙ぶらりんになったようです。すなわち,「南方軍,第八方面軍,第二十七軍〔択捉島〕,第三十一軍〔サイパン〕,第三十一軍(ママ)及小笠原兵団ノ要員ハ昭和19年陸密第513号ノ規定ニ拘ラズ之ヲ配当残余人員トス」ということとなり,かつ,「配当残余人員ノ処理ニ関シテハ別ニ示ス」とされています。

台湾軍に配当されたものについては「在台湾部隊ノ要員タル初年兵(台湾ニ於テ徴集セル朝鮮人ヲ含ム)」ということで,内地人初年兵と一緒にされています。

「航空部隊及船舶部隊ノ要員タル初年兵(朝鮮人ヲ含ム)」については,「内地,朝鮮,台湾及満州国(関東洲ヲ含ム)ニ於テ徴集セル初年兵ニシテ当該地区以外ノ部隊ニ入営スルモノハ航空総軍司令官若ハ船舶司令官,関係軍司令官ト相互協議ノ上当該地区内ノ適宜ノ場所ニ集合地〔ママ〕入営セシムルモノトス」とありますから,結局地元に留まっていたことになるのでしょう。

(ウ)入営

 前出194412月付け「朝鮮ノ統治事情説明」いわく。

 

  合格者ノ入営ニ際シテハ母子相擁シテ号泣スルトカ,自暴自棄的トナツテ遊興,暴行ヲスルトカ目ニ余ル事例モ無イテハナカツタカ大体ニ於テハ各方面ノ壮行,見送リヲ受ケテ感奮シツツ入隊シ〔タ〕

 

「梗概」いわく。

 

斯くて朝鮮出身兵は〔1944年〕9月より逐次入営せしめらるるに至りたるも漸次後退の途を辿りありたる戦況の推移とも関聯し入営後脱営するもの或は鮮外部隊に転属の途次逃亡するもの等頻発し一時は相当の苦慮を要せしも日を経るに従ひ次第に落着きを取り戻し大なる考慮を要せざるに至りしも直接入営業務を担任する部隊側の苦心は(ママ)大抵のものにては非らざりき

一時逃亡者続出せる時代に在りては某部隊の如きは之が防止対策として巡察不寝番の増加潜伏斥候分哨の配置,兵営周囲の鉄柵の補修増強等本末を顚倒せる挙に出でたるものもあり其の苦心の一端を察するを得べし

 

 1944年6月15日米軍はサイパン島に上陸,同月19日のマリアナ沖海戦で我が連合艦隊は惨敗,7月4日には大本営はようやくインパール作戦中止を命令,同月7日サイパン島の我が守備隊玉砕,同月18日東条英機内閣総辞職,8月3日我がテニアン守備隊玉砕,同月10日グアムの我が守備隊玉砕,1020日米軍レイテ島上陸,同月24日のレイテ沖海戦で連合艦隊は大敗,同月25日海軍神風特別攻撃隊の初めての体当たり攻撃,1124日にはマリアナ基地のB29による東京初空襲といった戦況ですから(『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)参照),なかなか勇ましい気分にはなれなかったものでしょう。

 なお,現役兵の入営期日が兵役法施行規則231条による同規則附表第1に規定されているものと異なるではないかと怪訝に思われる向きもあるかもしれませんが,これについては,193910月2日に公布され同日から施行された昭和14年陸軍省令第52号が「当分ノ内陸軍現役兵ノ入営期日ハ兵役法施行規則附表第1ノ規定ニ拘ラズ別ニ定ムル所ニ依ル」としてしまっていたところです。したがって,9月ないしは11月生まれの者はあるいは19歳で現役兵として入営ということになるのですが,明治22年徴兵令3条の「現役ハ〔略〕満20歳ニ至リタル者之ニ服シ」のような規定は,兵役法にはありませんでした(同法5条参照)。

 

 又入営後に在りても面会人は踵を接して至れり

 特に母親の如きは毎日営庭を見渡し得る場所に腰を下し終日吾が愛児の身の上を案じ続ける者も相当数ありて部隊側の之等(これら)面会人に対する応接整理は想像に余りあるものありたり

 

 母の愛。これを受けてしまえば「即チ孝ヲ第一義トシ直接的孝養ヲ以テ最高ノ道徳ト思惟」することになります(前出昭和18年陸密第2848号通牒)

 現役兵のほか,補充兵についても,「約23万の壮丁中より現役として入営せるは僅か4万5千名(別に海軍兵1万名)にして他の大部分は補充兵として在郷に待機しありしも本土の兵備鞏化に伴い逐次各勤務隊現地自活要員として召集せらるるに至りたり」とあります。しかしながら,飽くまでも「現地自活要員」ですから,兵士としての戦闘は期待されていなかったのでしょう。この辺の数字については,アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることのできる「支那事変・大東亜戦争間動員概史(草稿)」(表紙には「第一復員局」とあります。)の「第9章 異民族ノ使用」において,1944年及び1945年の両年で朝鮮人兵を「35000」人を「召集」したとの記載があります。「召集」とは「帰休兵,予備兵,後備兵,補充兵又は国民兵を軍隊に編入する為に召致し集める行政作用を謂ふ」ものとされています(日高2829頁)

 

エ 1945年の徴兵

 

(ア)朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者

 1945年2月10日から,昭和20年法律第3号によって,「戦時又ハ事変ノ際其ノ他特ニ必要アル場合ニ於テハ命令ノ定ムル所ニ依リ徴兵検査ノ執行ヲ次年ニ延期スルコトヲ得」とする弱気な兵役法44条の2が同法に挿入されました。

 しかしながら,朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に対する第2回の徴兵検査は,「梗概」のいうところ,「戦局の要請に応じ〔1945年〕2月より5月に亘りて早期に実施」されています。「梗概」の第10表によれば,陸軍の現役兵は,朝鮮軍管区で4万1965人,関東軍管区で3035人の合計4万5000人を徴集しています(同表の合計欄の「46,000」は誤記でしょう。)。前年と同数ということになります。同第11表によれば海軍兵の現役徴集数は1万人ですが,これらについての入団期日は194511月以降になっていますので,これらの海軍兵は結局入団しなかったわけです(降伏文書署名は同年9月2日)。

 陸軍現役兵は果たして入営に至ったかどうかについては,「梗概」は,「又入営準備訓練も前年度に準じ着々実施しつありしが8月15日遂に終戦の大詔を拝し茲に朝鮮徴兵史も終焉を告ぐるに至りたり」とのみ記しています。


(イ)戸籍法の適用を受ける者の例(脱線の脱線)

 ちなみに,1945年の内地における戸籍法の適用を受ける者に係る徴兵状況については,民法の星野英一教授の回想があります。

星野教授は,1926年7月8日生まれなので,その年の7月に19歳になる1945年に徴兵検査を受けることになりました。先の大戦の末期には戸籍法の適用を受ける者に係る徴兵適齢は20年ではなく19年に引き下げられていたことについては,筆者はかつて本ブログにおいて紹介したことがあります(「兵役法(昭和2年法律第47号)等瞥見(後編)」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1013932816.html)。

   ところが,私は不幸にして,兵隊にとられました。割合年は若く18歳でしたが。もともと徴兵年齢が20歳で,20歳の12月に徴兵検査を受けるのです。それが戦争で1年短く19歳になり,私の年から18歳になってしまったのです。確か1944年の末に決まったので,45年の1月だかに徴兵検査を受けました。ただ,まさかと思っていたのに徴兵令状が来てしまいました。6月の中旬か下旬か,正確には覚えていませんが,甲府の連隊に入れということです。(星野英一『ときの流れを超えて』(有斐閣・2006年)40頁)

 

 1945年の徴兵検査は,兵役法23条及び徴兵適齢臨時特例(昭和18年勅令第939号)によって194412月1日から19451130日までの間に年齢19年に達する者が受けることになっていたので,誕生日が徴兵検査の日より後の者については18歳で徴兵検査を受けることになることは実は当然あり得たところです。「私の年から18歳になってしまったのです」ということではありません。また,徴兵適齢臨時特例による徴兵適齢の20年から19年への引き下げは19431223日の昭和天皇の裁可で決まったのであって(公布・施行は同月24日),「1944年の末」に決まったものではありません。(この徴兵適齢臨時特例は「兵役法第24条ノ2ノ規定ニ依リ当分ノ内同法第23条第1項及第24条ニ規定スル年齢ハ之ヲ19年ニ変更ス」としたものです。ただし,当該特例は,内地人にのみ適用されました(同特例附則1項ただし書(昭和19年勅令第2812条による改正後は附則2項))。)新年を迎えて早々1月に徴兵検査をすることについては,19441116日公布・同日施行の昭和19年陸軍省令第51号の第2条1項が,1945年における徴兵検査は同年1月15日から同年4月30日までの間に行うものと定めていたところでした。また,「徴兵令状」というのは,兵役法施行規則218条及び附録第3様式からすると,「現役兵証書」であったようです。   

                                  (つづく)

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

 



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歴史は厳粛なる判官(はんがん)なり。(しか)るにこの判官の前に立ちて今の日本国民は(すべ)て事実を(ママ)蔽し解釈を迂曲(うきょく)して虚偽を陳述しつゝあり。〔略〕(いわ)く,日本民族の凡ては忠臣義士にして乱臣賊子は例外なりと。〔略〕(しか)しながら吾人(ごじん)〔われわれ〕は断言す,――太陽が〔天動説に従って〕世界の東より西を()ぐる者に(あら)らざることの明らかなりしが(ごと)く,必ず一たび地動説の出()ゝ,例外は皇室の忠臣義士にして日本国民の(ほとん)ど凡ては皇室に対する乱臣賊子なりとの真実に顚倒(てんとう)されざるべからずと。(北輝次郎『国体論及び純正社会主義』(北輝次郎1906年)619頁)

 

 当時23歳の若き天才の言は,百十余年を経た今日更にその真理たるの輝きを増しつつあるものか。ふと気が付けば,今年(2017年)8月19日は,二・二六叛乱事件に連座した「乱臣賊子」・一輝北輝次郎54歳にしての銃殺による刑死から80年になります。

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北一輝先生之墓(東京都目黒区の瀧泉寺(目黒不動)墓地)
 

第1 一輝北輝次郎の刑死

 

1 銃殺

宮内庁の『昭和天皇実録 第七』(東京書籍・2016年)1937年8月19日(木曜日)の項にいわく。

 

 午前1140分,二・二六事件被告の村中孝次・磯部浅一・北輝次郎・西田税の死刑執行この日午前5時50に関する陸軍上聞を受けられる。

 

銃殺は,陸軍刑法(明治41年法律第46号)21条の定める死刑の執行方法です(「陸軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ陸軍法()ヲ管轄スル長官ノ定ムル場所ニ於テ銃殺ス」)。これに対して,通常の死刑の執行は,「死刑は,刑事施設内において,絞首して執行する。」ということになっています(刑法(明治40年法律第45号)11条1項)。法文上は絞首とされていますが,法医学的には縊首(首を吊った状態での死亡)ということになります(前田雅英『刑法総論講義 第4版』(東京大学出版会・2006年)519頁)。

通常の死刑の執行は司法大臣の命令によるもの(旧刑事訴訟法(大正11年法律第75号)538条)であったのに対して,陸軍軍法会議法(大正10年法律第85号)の適用される場合においては,死刑の執行は陸軍大臣の命令によるものとされていました(同法502条)。1937年8月の陸軍大臣は,第1次近衛内閣の杉山元でした。

 

2 反乱の首魁

 

(1)罰条及び罪名

北死刑囚の罰条及び罪名は,陸軍刑法25条1号の反乱の首魁ということだったそうです(なお,陸軍刑法第2編第1章(25条から34条まで)の章名には()乱とありますが,25条では()乱となっています。)。陸軍刑法25条は,次のとおり。

 

25条 党ヲ結ヒ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス

 一 首魁ハ死刑ニ処ス

 二 謀議ニ参与シ又ハ群衆ノ指揮ヲ為シタル者ハ死刑,無期若ハ5年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他諸般ノ職務ニ従事シタル者ハ3年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

 三 附和随行シタル者ハ5年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

 

 刑法77条の内乱罪がつい彷彿とされる規定振りです。

 

(2)内乱罪との関係

内乱罪と軍刑法の反乱罪との関係については,海軍刑法(明治41年法律第48号)20条の反乱罪(陸軍刑法25条と同一文言)との関連で,五・一五事件に係る昭和10年(1935年)1024日の大審院判決が「〔海軍〕刑法20条に依り構成すべき所謂(いわゆる)反乱罪とは海軍軍人党を結び兵器を執り官憲に反抗して多衆的暴動を為すを()ひ,内乱罪の如く朝憲を紊乱(ぶんらん)することを目的とするものに限らず,其の他の公憤又は私憤に出づる場合をも包含し,その目的には拘らざるを以て,軍人たる身分及び犯罪の目的に於て内乱罪とは其の構成を異にすることあるべき特別罪なりと解するを相当とす」と判示しています(日高巳雄『軍事法規』(日本評論社・1938年)635頁における引用)。内乱罪の目的は,当該判決においては朝憲紊乱(憲法の定める統治の基本秩序の壊乱)のみが挙げられていますが,政府の顚覆(国の統治機構の破壊)又は邦土の僭窃(国の領土における国権を排除しての権力の行使)も含まれます。

 

(3)共犯と身分

ところで,陸軍刑法は身分犯に係る法律でした。同法1条は「本法ハ陸軍軍人ニシテ罪ヲ犯シタル者ニ之ヲ適用ス」と規定しています。ただし,陸軍軍人ではない者が犯しても陸軍刑法が適用される同法の罪が同法2条に掲げられています。しかしながら,二・二六事件で問題となった陸軍刑法25条の罪は,同法2条に掲げられていません。陸軍軍人にあらざる北輝次郎に陸軍刑法25条が適用されるに当たっては,刑法8条(「この編〔刑法総則〕の規定は,他の法令の罪についても,適用する。ただし,その法令に特別の規定があるときは,この限りでない。」)により,同法65条1項(「犯人の身分によって構成すべき犯罪行為に加功したときは,身分のない者であっても,共犯とする。」)が発動されたものでしょう。前記昭和101024日大審院判決は,海軍刑法20条の反乱罪につき,「(しこう)して被告人大川周明,頭山秀三,本間憲一郎は(いず)れも軍人たる身分なきも資金又は拳銃弾を供与し〔海軍軍人である〕古賀清志,中村義雄等の上の反乱行為を幇助し之に加〔功〕したるものなれば刑法第65条第1項,第62条第1項〔「正犯を幇助した者は,従犯とする。」〕に依り右反乱罪の従犯として処断すべきもの」と判示しています(日高634頁における引用)。ちなみに,大川周明らは反乱幇助ということで,刑法65条1項の「共犯」は教唆・幇助に限るという説によっても説明可能でしたが,北輝次郎の場合は首魁ということであって首魁の教唆・幇助ではないのですから,同項の「共犯」には共同正犯が含まれるという判例・通説に拠るべきでしょう(前田総論473頁参照)。二・二六事件の判決においては,多数の者が首魁とされています。内乱罪においても,「首謀者は必ずしも1人とは限らない」とされています(前田雅英『刑法各論講義 第4版』(東京大学出版会・2007年)504頁)。

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大川周明の墓(瀧泉寺墓地)
北一輝先生之墓とは,墓1基を隔てて向かい側です。墓地は芝貼り作業中。後方は,林試の森公園です。

 

(4)騒乱罪との関係

ところで,刑法77条の内乱罪について「首謀者〔首魁〕は必ず存在しなければならない点が騒乱罪との相違点である」とされていますが(前田各論504頁),これは条文の書き振りからの解釈なのでしょうか。しかしながら,同様の書き振りである海軍刑法20条の反乱罪においては首魁の存在は必須ではなかったようで,五・一五事件の犯人で死刑になった者はいません(同条1号において,首魁の法定刑は死刑のみ。)。前記昭和101024日の大審院判決においても「就中(なかんずく)海軍軍人古賀清志,中村義雄両名は主として同志の糾合(きゅうごう)連絡実行計画の起案武器及資金の調達等の任に当り,其の他本件犯罪遂行に(つき)画策謀議を為したるものなれば,右両名の行為は本件犯行の謀議に参与したるものとして海軍刑法第20条第2号前段に該当する反乱罪を構成するものと謂ふべく,之を以て単に海陸軍人及軍人に非ざる者多衆聚合して暴行又は脅迫を為したる騒擾(そうじょう)〔現在は騒乱罪〕を構成するに止まるものと()すを得ず」と判示されており(日高633634頁における引用),反乱罪においてはむしろ謀議参与者こそが必須であると解されたように思われるところです。海軍の東京軍法会議(海軍軍法会議法(大正10年法律第91号)8条2号)における公判においては,検察官は古賀中尉に対して海軍刑法20条1号の首魁として死刑を求刑していましたが(山本政雄「旧陸海軍軍法会議法の意義と司法権の独立―五・一五及び二・二六事件裁判に見る同法の本質に関する一考察―」戦史研究年報(防衛省防衛研究所戦史部編)11号(2008年3月)71頁),1933年11月9日言渡しの判決では古賀は同条2号の謀議参与者ということに格落ち認定されています(山本72‐73頁)。

 

3 陸軍軍法会議の裁判権

陸軍刑法が陸軍軍人にあらざる者に適用される場合があることは分かりましたが,陸軍軍法会議の裁判権が北輝次郎ら陸軍軍人にあらざる者に及ぶ場合はいかなる場合でしょうか。

 

(1)陸軍軍法会議法

陸軍軍法会議法1条及び3条1項によれば,陸軍軍法会議の裁判権は,通常,陸軍の現役にある者,召集中の在郷軍人,召集によらず部隊にあって陸軍軍人の勤務に服する在郷軍人,現に服役上の義務履行中の在郷軍人,志願により国民軍隊に編入され服役中の者,陸軍所属の学生・生徒,陸軍軍属及び陸軍の勤務に服する海軍軍人(同法1条1項1号),陸軍用船の船員(同項2号),陸軍の部隊に属し又は従う者(同項3号)並びに俘虜(同項4号)に対してその犯罪について(身分発生前の犯罪を含み(同条2条1項),身分継続中に捜査の報告又は逮捕,勾引若しくは勾留があったときは身分喪失後も裁判権は存続(同条2項)),並びに制服着用中の在郷軍人に対しその犯した陸軍刑法の罪について(陸軍軍法会議法3条1項。同法2条2項が準用される。)及ぶものとされていました。陸軍軍法会議法4条は合囲地境(戒厳令(明治15年太政官布告第36号)2条第2号)にある者に対する裁判権について規定し,同法5条は「軍法会議ハ戒厳令ニ定メタル特別裁判権ヲ行フ」と規定し,同法6条は「戦時事変ニ際シ軍ノ安寧ヲ保持スル為必要アルトキ」の裁判権の拡張について規定していましたが,二・二六事件の際は戒厳令に基づき戒厳が宣告されたわけではなく(1936年2月27日の昭和11年勅令第18号(大日本帝国憲法8条1項の法律に代わるべき緊急勅令。同年1月21日の衆議院解散により帝国議会は閉会中でした。)により「一定ノ地域ヲ限リ別ニ勅令ノ定ムル所ニ依リ戒厳令中必要ノ規定ヲ適用スルコトヲ得」るものとした上で,同じ2月27日の昭和11年勅令第18号によって東京市に戒厳令9条(臨戦地境内においては地方行政事務及び司法事務(司法行政事務であっていわゆる審判は包含せず(日高665頁)。)の軍事に関係ある事件は司令官の管掌下に入る。)及び14条(司令官の強制権限を挙示)の規定が適用されることになっただけです。),二・二六事件は戦時事変でもないでしょうしその鎮圧後は軍の安寧を保持するための必要もなかったでしょう。

 

(2)昭和11年勅令第21

結論的には,1936年3月4日の昭和11年勅令第21号(東京陸軍軍法会議に関する勅令(件名)。これも大日本帝国憲法8条1項の法律に代わるべき緊急勅令)第5条(「東京陸軍軍法会議ハ陸軍軍法会議法第1条乃至第3条ニ記載スル者以外ノ者ガ同法第1条乃至第3条ニ記載スル者ト共ニ昭和十一年二月二十六日事件ニ於テ犯シタル罪ニ付裁判権ヲ行フコトヲ得」)によって北輝次郎らに陸軍軍法会議の裁判権が及ぶことになったものです。

上記昭和11年勅令第21号の味噌は,第5条と共にその第6条(「東京陸軍軍法会議ハ陸軍軍法会議法ノ適用ニ付テハ之ヲ特設軍法会議ト看做ス」)であって(戦時事変に際し必要により特設され,又は合囲地境に特設される特設軍法会議(陸軍軍法会議法9条2項から4項まで)があれば,それに対応するものとして常設軍法会議があるわけですが,常設軍法会議は,高等軍法会議及び師団軍法会議でした(同条1項)。),特設軍法会議である結果,裁判官を5人から3人に減員すること(ただし,上席判士及び法務官たる裁判官は減員の対象外。)が可能になり(同法47条3項),予審官及び検察官の職務を陸軍法務官ではなく陸軍将校が行うことが可能になり(同法63条,70条),裁判官,予審官及び録事の除斥及び回避の規定の適用がなく(同法86条)(この結果,同法81条7号の規定にかかわらず,北輝次郎・西田税の予審官を務めた伊藤章信法務官が当該被告人らの裁判官ともなっています(山本78頁)。),被告人の弁護人選任権は認められず(同法93条,また同法370条),審判の公開に関する規定の適用がなく(同法417条),師団軍法会議ではないので高等軍法会議に対する上告ができない(同法418条)というようなことになったわけです。

昭和11年勅令第21号の案は,二・二六事件鎮定(1936年2月29日)早々の1936年3月1日に閣議決定がされ,同日昭和天皇に書類上奏がされています。

 

本日閣議決定の東京陸軍軍法会議に関する緊急勅令を枢密院に御諮詢の件につき,書類上奏を受けられる。後刻,侍従武官長本庄繁をお召しになり,同勅令につき言上を受けられる。(昭和天皇実録七48頁)

 

更に同月2日には,二・二六事件参加者の詳細について,戒厳司令官から昭和天皇に言上がされています。

 

午後2時15分,御学問所において戒厳司令官香椎浩平に謁を賜い,叛乱軍参加将兵及び叛乱に関与の民間人の詳細につき言上を受けられ,叛乱事件の根底は極めて広汎・深刻にて迅速かつ徹底的検挙を要する旨の奏上を受けられる。(昭和天皇実録七50頁)

 その午後に昭和11年勅令第21号が裁可公布された同月4日,昭和天皇に次の発言があったとされます。


本庄〔繁〕武官長によれば,「此日,午後2時御召アリ,已ニ,軍法会議ノ構成モ定マリタルコトナルガ,〔1935年8月12日に永田鉄山陸軍軍務局長を斬殺した〕相沢〔三郎〕中佐ニ対スル裁判ノ如ク,優柔ノ態度ハ,却テ累ヲ多クス,此度ノ軍法会議ノ裁判長,及ビ判士ニハ,正シク強キ将校ヲ任ズルヲ要ス,ト仰セラレタリ」とある。(大江志乃夫『戒厳令』(岩波新書・1978年)194頁)


 ただし,『昭和天皇実録 第七』においては,上記御召に係る言及がありません(
5152頁)。


(3)通常裁判所の裁判権との関係

軍法会議と裁判所構成法(明治23年法律第6号)に基づく通常裁判所との関係については,「軍法会議に属する事件に付き通常裁判所は裁判権を有せぬ。此の種の事件に付ては被告人に対し裁判権を有せざるものとして,公訴棄却を言渡さねばならぬ(〔旧〕刑訴第315条第1号,第364条第1号)」と説明されています(小野清一郎『刑事訴訟法講義』(有斐閣・1933年)8081頁)。管轄(ちがい)(旧刑事訴訟法309条・355条)ではなく「被告人ニ対シテ裁判権ヲ有セサルトキ」として公訴棄却の決定(旧刑事訴訟法315条1号(予審判事によるもの))又は判決(同法364条1号(公判の裁判))をすべきものとすることについては,大審院の判例もあるそうです(小野81頁)。裁判所構成法2条1項は「通常裁判所〔区裁判所,地方裁判所,控訴院及び大審院(同法1条)〕ニ於テハ民事刑事ヲ裁判スルモノトス但シ法律ヲ以テ特別裁判所ノ管轄ニ属セシメタルモノハ此ノ限ニ在ラス」と規定していますが,ここでは,裁判権が問題になっているわけです。現行刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)に関して,裁判権については,「刑事裁判権は,わが国にいるすべての者に及ぶ。日本人であると,外国人であるとを問わない。」とされつつ,当該裁判権から「国法上,天皇および摂政は,除外されるものと解される(皇典21条)」とされ,「国際慣習法上,外国の君主,使節およびその随員は,いわゆる治外法権を持っており,これらの者には,わが国の裁判権は及ばない。」とされています(平野龍一『刑事訴訟法』(有斐閣・1958年)55頁)。大日本帝国時代においては,通常裁判所から見ると,陸軍軍人等及び海軍軍人等はあたかも治外法権を持っているような具合になっていたわけです。

ところで,東京陸軍軍法会議に関する昭和11年勅令第21号の第5条が存在せず,北輝次郎が通常裁判所において,旧刑事訴訟法の手続によって裁かれ,刑法65条1項を介して陸軍刑法25条1号の反乱の首魁(の共同正犯)とされて死刑判決が下され,確定した場合,その執行方法は,銃殺ではなく,やはり司法大臣の命令により絞首ということになったのでしょう。陸軍刑法21条は,飽くまでも「陸軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ」と規定していたところです。

 

第2 一輝北輝次郎の乱臣賊子論

 

1 『国体論及び純正社会主義』

本ブログ筆者の悪癖でつい回り道をしました。二・二六事件発生からちょうど30年前,1906年に一輝北輝次郎が自費出版したのが『国体論及び純正社会主義』です(発行日付は同年5月9日)。ただし,同書の書名は「内容に即していないばかりでなく,読まずに偏見だけで判断する世人をミスリードする」ものであって,「内容に即した命名をするとすれば,『社会民主主義の進化論的基礎づけ――併せて講壇社会主義と国体論の徹底的批判』というようなものとなろう」とされています(長尾龍一「『国体論及び純正社会主義』ノート」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)88頁)。『国体論及び純正社会主義』は,現在,国立国会図書館デジタルコレクションで自由に見ることができます。第4編(第9章から第14章まで)が「所謂国体論の復古的革命主義」と題され,国体論の批判がされている部分です。以下本稿は,この第4編(及び第5編「社会主義の啓蒙運動」)を読んでの抜き書きということになります。

批判の対象たる国体論は,北の説くところでは次のとおり。

 

吾人は始めに本編の断案として世の所謂『国体論』とは決して今日の国体に非らず,又過去の日本民族の歴史にても非らず,明らかに今日の国体を破壊する『復古的革命主義』なりと命名し置く。(北484頁)

 

 また,北のいう社会民主主義とは,次のとおり。

 

  『社会民主々義』とは個人主義の覚醒を受けて国家の凡ての分子に政権を普及せしむることを理想とする者にして個人主義の誤れる革命論の如く国民に主権存すと独断する者に非らず。主権は社会主義の名が示す如く国家に存することを主張する者にして,国家の主権を維持し国家の目的を充たし国家に帰属すべき利益を全からしめんが為めに,国家の凡ての分子が政権を有し最高機関の要素たる所の民主的政体を維持し若しくは獲得せんとする者なり。(北566頁)

 

「当時の第一級の学者と見えていた人々を,客観的に見ても相当程度,主観的には恐らく完膚なきまでに論駁し,人類史の発展方向を予言した青年北は,非常な抱負を抱いて本書を自費出版したものと思われる。西園寺内閣〔内務大臣は原敬〕の開明性,(天皇制の正当化,革命方法の議会主義など)主張の一定の穏健さからしても,本書は発禁にならず,学界・思想界に革命的衝撃を与えると期待していたに相違ない。それが直ちに発禁処分にされたことは,非常な衝撃で,北は生涯それから立ち直れなかった。」ということですが(長尾107108頁),『国体論及び純正社会主義』の国立国会図書館デジタルコレクション本は,帝国図書館の蔵書印が押捺された「北輝次郎寄贈本」であって,1906年5月9日に寄贈された旨の押印があります。出版法(明治26年法律第15号)19条は「安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムル文書図画ヲ出版シタルトキハ内務大臣ニ於テ其ノ発売頒布ヲ禁シ其ノ刻版及印本ヲ差押フルコトヲ得」と規定していますが,焚書までは行われなかったものです。

しかし,青年北の文体は,なかなか口汚い。「穂積博士は最も価値なき頭脳にして歯牙にだも掛くるの要なき者なりしに係らず,法科大学長帝国大学教授の重大なる地位にあるが為めに吾人の筆端に最も多く虐待されたる者なり。」(北834835頁),「更に〔穂積〕氏にして拙者と天子様とは血を分けたる兄弟分なりと云は査公必ず手帳を出して一応の尋問あるべく,子が産れた親類の天子様に知らせよと云は産褥の令夫人は驚きて逆上すべく,大道に立ちて穂積家は皇室の分家なりと云は腕白の小学生徒等は必ず馬鹿よ々々よと喚めきて尾行し来るべし。」(北596頁),「若し〔穂積博士の〕銅像が建てらるゝならば必ず両頭を要し,而して各々の頭に黄色の脱糞を要す。」(北771頁)等々とまで書かれ嘲弄された穂積八束が訴えたのならば,北方ジャーナル事件に係る最高裁判所大法廷昭和61年6月11日判決(民集40巻4号872頁)よりもはるか前に,人格権に基づく出版差止めの判例が出たかもしれません。

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隅田川越しに東京都墨田区方面を望む(駒形橋の東京都台東区浅草側から)


 なお,腕白小僧らは,路上で風変わりなおじさんにつきまとって馬鹿よ馬鹿よとはやし立てるに当たっては,よくよく注意すべきでしょう。

 

And he went up from thence unto Beth-el: and as he was going up by the way, there came forth little children out of the city, and mocked him, and said unto him, Go up, thou bald head; go up, thou bald head.

And he turned back, and looked on them, and cursed them in the name of the LORD. And there came forth two she bears out of the wood, and tare forty and two children of them. (II Kings 2.23-24)
 

(ただし,穂積八束の写真を見るに,エリシャのごとく禿頭ではなかったようです。) 

 

2 日本国民=乱臣賊子論

さて,青年北は,日本国民の正体は,当時のいわゆる国体論者の説くがごとく,()く忠孝に万世一系の皇位を扶翼して万邦無比の国体を成せるものでは全くないと主張します。

 

茲に於て所謂国体論者は云ふべし,〔略〕日本国民は克く忠孝に万世一系の皇位を扶翼して万国無比の国体を成せるなりと。是れ忠孝主義と系統主義とが東洋の土人部落に取られたるが為めに前提と結論とを顚倒せられたる者なり。――日本民族は系統主義を以て家系を尊崇せしが故に皇室を迫害し忠孝主義を以て忠孝を最高善とせしが故に皇室を打撃したるなり。(北617618頁)

 

 189010月の明治天皇の教育勅語に「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世()ノ美ヲ()セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ」及び「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(かく)ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ(なんじ)祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」とあります。ただし,北によれば,これは天皇の側からする社交辞令のごときものであって,「教育勅語中の其文字の如きは単に天皇の国民を称揚したる者として見れ〔ば〕可なり。幾多の戦争に於て勝利を得る毎に,天皇より受くる称讃に対して皆型の如く,是れ皆大元帥陛下の御稜威に依るとして辞退しつゝあるに非ずや。」ということになります(北622頁)。

 なお,「系統主義」及び「忠孝主義」については,まず次のように説明されています。

 

一家と云ひ一致と云ふが如き誠に迷信者の捏造(ねつぞう)に過ぎずと雖も,君臣一家論の拠て生ずる根本思想たる『系統主義』と,忠孝一致論の基く『忠孝主義』とは決して軽々に看過すべからざることなり。

固より特殊に日本民族のみに限らず如何なる民族と雖も社会意識の覚醒が全民族全人類に拡張せられざる間は,系統を辿りて意識が漸時的に拡張するの外なきを以て血縁関係に社会意識が限定せられて系統主義となり,従て其進化の過程に於て生ずる家長国に於ては当然に忠孝主義を産むべきものにして,天下凡て系統主義と忠孝主義とを経過せざる国民は無し。(北616617頁)

 

 北は,我が国民による皇室に対する迫害打撃の歴史をこれでもかとばかりに書き連ねるのですが,以下はそのほんの一部です。

 

吾人は学理攻究の自由によりて,皇室の常に優温閑雅なりしにも係らず,国民の祖先は常に皇室を迫害打撃し,万世一系の傷けられざりしは皇室自家の力を以て護りしなりと断定するに於て何の憚りあらんや。(北621頁)

 

例外の乱臣賊子は彼等〔いわゆる国体論者〕の考ふる如く〔北条〕義時一人に止まるべき者に非らずして,義時の共犯或は従犯として〔承久三年(1221年)の変の後〕3帝〔後鳥羽上皇,土御門上皇及び順徳上皇〕を鳥も通はぬ遠島〔ただし,土御門上皇の配流先は土佐〕に放逐せし他の十九万の下手人,尚後より進撃せんと待ちつゝありし二十万の共謀者を忠臣義士の中に数ふることは国体論をして神聖ならしむる所以(ゆえん)に非らず。〔現在の立場から歴史を逆進的に見る〕逆進的批判者が3帝を遷し奉れりと云ふに対して吾人は放逐の文字を用ゆ。何となれば(かか)る潤飾を極めたる文字は戦々競々の尊崇を以てする行動を表白すべく,後鳥羽天皇が隠岐に39年間〔ママ。現実には承久三年から18年後の延応元年(1239年)に崩御〕巌崛に小屋を差し掛けて住ひ,順徳帝が佐渡に於て今日尚順徳坊様と呼ばれつゝあるが如く物を乞ひて過ごせし如き極度迄の迫害窮(ママ)を表はすべき言葉に非らず。〔略〕居住の自由を奪ひて都会の栄華より無人島に流竄(りゅうざん)したることは明白なる放逐非らずや。神官が恭敬恐縮を以て旧殿より大神宮を捕へて新殿に放逐したりと云ふものあらば発狂視せらるべきが如く,義時が兵力を以て3帝を隠岐佐渡に移し奉れりと云ふが如き文字の使用は逆進的叙述も沙汰の限りと云ふべし。(北649650頁)

 

 乱臣賊子による仲恭天皇(九条廃帝)廃位の事実も,「日本国民は克く忠孝に万世一系の皇位を扶翼して万国無比の国体を成せるなり」なのだとの前提に基づく「逆進的叙述」によれば,特例による御「譲位」ないしは生前御「退位」ということになるのでしょう。

 

  明かに降服の態度を示して東軍を迎へたるに係らず全国民の一人として死より苦痛なる3帝の流竄を護らんとせし者なきは,外国干渉の口実を去らんが為めの余儀なき必要ながら而も僅かに1票の差を以て〔ルイ16世の〕死刑を決せし〔1793年の〕仏蘭西国民よりも遥かに残忍なる報復に非ざりしか。(吾人は今尚故郷なる〔佐渡の〕順徳帝の(ママ)〔陵〕に到る毎に詩人の断腸を思ふて涙流る。(北749頁)

 

 なお,承久の変に関しては,今年(2017年)2月のブログ記事である「北条泰時の宇治川渡河の結果について:廃位及び空位」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1064426577.htmlも御参照ください。

 

14世紀半ばの〕高師直のごときは『都に王と云ふ人のまし〔まし〕て若干の所領を塞げ,内裏,院,御所と云ふ所ありて馬より降るむつかしさよ。若し王なくして叶ふまじき道理あらば木にて造るか金にて鋳るかして,生きたる院国王をば何方へも流し捨て奉らばや』と放言したり。〔略〕今日,幾多の政党者流が穂積〔八束〕忠臣等の憂慮するが如く事実上の共和政体――若しくは共和政体を慣習によりて実現する不文憲法たるべき政党内閣,責任内閣を主張し,政党内閣責任内閣に於ては亦実に穂積忠臣等の憂慮するが如く天皇の意義に大なる変動を及ぼすべきを知りつゝも,尚且つ民主々義を解せざるかの如き面貌を装ふ国民の狡猾とは反対なる露骨なりと雖も〔,〕而も全国民が彼〔高師直〕を〔1898年8月に〕共和演説を為せる〔尾崎行雄文部〕大臣を打撃したる如く排斥せずして,〔足利〕尊氏に次ぐ権力者として奉戴せるは〔略〕祖先たるに恥(ママ)ざる乱臣賊子の国民と云ふべし。(北652653頁)

 

 上記高師直の放言に関しては,こちらは昨年(2016年)10月のブログ記事である「「木を以て作るか,金を以て鋳るかして,生きたる院,国王をば,いづくへも皆流し捨てばや」発言とそれからの随想」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1062095479.htmlを御参照ください。

 「事実上の共和政体――若しくは共和政体を慣習によりて実現する不文憲法たるべき政党内閣,責任内閣を主張し」,「天皇の意義に大なる変動を及ぼすべきを知りつゝも,尚且つ民主々義を解せざるかの如き面貌を装ふ国民の狡猾」とありますが,この「国民の狡猾」は蒲魚(かまとと)流のものかあるいは無意識に行われていたものなのか。いずれにせよ,無意識の狡猾というのが,一番たちが悪そうです。輓近の様子にもかんがみるに,天皇に関するこの「国民の狡猾」は,無意識裡に,主観的「善意」の不離の反面として生ずるもののようです。(Pater, dimitte illis; non enim sciunt quid faciunt.)

 

あゝ今日四千五百万〔現在であれば一億二千万〕の国民は殆ど挙りて乱臣賊子及び其の共犯者の後裔なり。吾人は日本歴史の如何なる頁を開きて之が反証たるべき事実を発見し,億兆心を一にして克く忠に万世一系の皇室を奉戴せりと主張し得るや。

而しながら万世一系の一語に殴打されたる白痴は斯る事実の指示のみを以ては僅かに疑問を刺激さるゝに止まるべし。(北670頁)

 

乱臣賊子は義時と尊氏とのみにして其他の日本国民は皆克く忠に万世一系の皇統を扶翼せる皇室の忠臣義士なりきと云ふが如き痴呆は土人部落に非らずして何ぞ。歴史は二三人物の(ほしいまま)なる作成に非らず。彼らは単に民族の思想を表白する符号として歴史(ママ)の上に民族の行為を代表して其所為を印するに過ぎず。故に〔略〕民族の歴史としての日本史は実に皇室に対する乱臣賊子の物語を以て補綴せられたるものなり。記録せられたる代表者若しくは符号のみが乱臣賊子に非らず,其の下に潜在する『日本民族』が即ち皇室に対する乱臣賊子なりしなり。(北677678頁)

 

 「系統主義」及び「忠孝主義」が,何故皇室に対する乱臣賊子を生ずるのかについて,改めて説明がされます。

 まず「系統主義」。

 

系統崇拝は海洋の封鎖によりて進化の急速なる能はざりし日本の中世史に於ては特に甚しく,如何なる乱臣賊子も自家の系統の尊貴なることによりて国民の崇拝を集め以て乱臣賊子を働くを得たりしなり。(北695696頁)

 

而して系統主義は一面下層階級に対して系統崇拝たると共に,崇拝さるべき系統の貴族階級に取りては天皇と自家とが同一の天皇より分れたる同一系統の同一なる枝なりと云ふ理由によりて平等主義の殺伐なる実行に於て説明なりき。平氏の将門が『我は桓武の末なり』として自立せんとしたる如き,源氏の足利義満が『我れ清和の末なれば非理の道に非らず』〔と〕して簒奪せんとしたる如き実に系統を辿りて平等観の漸時に発展したる者に外ならざるなり。(北699頁)

 

 次に「忠孝主義」。

 

源平以後の貴族国時代に入りては同じき強力による土地の掠奪によりて経済上の独立を得たる貴族階級は天皇に対して政治的道徳的の自由独立を以て被治者たるべき政治的義務と奴隷的服従の道徳的義務を拒絶し,而して其等の乱臣賊子の下に在る家の子郎等武士或は()百姓(ーフ)は其等の貴族階級に対する経済的従属関係よりして貴族を主君として奉戴すべき政治的義務と其下に奴隷的に服従すべき道徳的義務とを有して従属したりしなり。従て其従属する所の貴族が其の政治的道徳的の自由独立を所謂乱臣賊子の形に於て主張する場合に於ては,貴族の下に生活する中世史の日本民族は,其経済的従属関係よりして忠の履行者となり,以て乱臣賊子の加担者となりて皇室を打撃迫害したりしなり。(北709710頁)

 

維新革命に至るまでの上古中世を通じての階級国家は実に此の眼前の君父と云ふこと〔水戸斉昭のいう『人々天祖の御恩を報ひんと悪しく心得違ひて眼前の君父を差し置きて直ちに天朝皇辺に忠を尽くさんと思は却て(ママ)〔僭〕乱の罪逃るまじく候ということ。〕を以て一貫したるなり。此の『眼前の君父』を外にして真の忠孝なし。(北717頁)

 

故に吾人は断言す,皇室を眼前の君父として忠臣義士たりし者は其れに経済的従属関係を有する公(ママ)〔卿〕のみにして,(即ち今日の公〔卿〕華族の祖先のみにして,日本民族の凡ては貴族階級の下に隷属して皇室の乱臣賊子なりしなりと。而して貴族の萌芽は歴史的生活時代の始めより存したるを以て,日本民族は其の歴史の殆ど凡てを挙げて皇室の乱臣賊子なりしなりと。(北719720頁)

 

3 「万世一系」の維持をもたらした事由

 「万世一系の傷けられざりしは皇室自家の力を以て護りしなり」と断定するについては,次のような理由が挙げられています。

 神道の国家起原論の力がなおあっただろうとされ,更に系統主義は皇室迫害につながる面もあったがやはり最も尊貴な系統としての皇室を侵犯から守る面を有していたとされます。

 

  神道の信仰よりしたる攘夷論が其の信仰の経典によりて尊王論と合体したる如く,斯る〔神道の〕国家起原論ある間国家の起原と共に存すと信仰せらるゝ皇室に対して平等主義の制限せられたるは想像せらるべし。加ふるに系統の尊卑によりて社会の階級組織なりし系統主義の古代中世なりしを以て,優婉閑雅なりし皇室が理由なき侵犯の外に在りしは誠に想像せらるべし。彼の藤原氏に於て,其族長の下に忠孝主義を奉ずる家族々党は其族長の命ならば内閣全員のストライキをも憚らざりしに係らず,尚その族長〔が〕其の団結的強力を〔率ゐ〕て皇位を奪ふに至らざりし者,実に皇族と云ふ大族が最も貴き系統の直孫なりとせられたればなり。(北737738頁)

 

ヨーロッパ中世のローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝との関係になぞらえて,武家政権時代の天皇は「神道の羅馬法王」,将軍は「鎌倉の神聖皇帝」とそれぞれ称されます。

 

 吾人は実に考ふ――中世史の天皇は其所有する土地と人民との上に家長君主たりしと共に全国の家長君主等の上に『神道の羅馬法王』として立ちたるなりと。(北740頁)

 

 当時の征夷大将軍とは其の所有する土地人民の上に全部の統治権を有すること恰も天皇及び他の群雄諸侯等が其れぞれの土地人民の上に家長君主として其れぞれ家長君主たりしがごとく,只異なる所は神道の羅馬法王としての天皇によりて冠を加へらるゝ『鎌倉の神聖皇帝』なりしなり。(北740741頁)

 

 この関係から,皇室から皇位が奪われ,又は皇位が廃されることがなかった理由が説明されます。両者の存在意義が異なったものだったからだということです。

 

 欧州の神聖皇帝が自ら立ちて基督教の羅馬法王の位を奪ひしことなく又其の必要なかりし如く,神道の羅馬法王が天下を取て最上の強者たることを目的とせる鎌倉の神聖皇帝によりて奪はれざりしは各々存在の意義を異にせるよりの必要なかりしを以てなり。(北745頁)

 

貴族階級(北の用語法では,武家も含まれます。)が乱臣賊子であったにもかかわらず「万世一系」が維持されたということから,天皇は「神道の羅馬法王」であったということが裏側からも論証されるとされます。乱臣賊子がボルシェヴィキのごとく天皇及び皇族の生命・身体に手をかけなかった理由は,「絶望」した天皇及び皇族が「優温閑雅なる詩人として政権争奪の外に隔たりて傍観者たりしが故」であったにすぎないとされます。

 

 〔吾人は〕中世の天皇が神道の羅馬法王としての万世一系なりしことを,貴族階級の乱臣賊子なりし事実によりて亦何者よりも強烈に主張す。

 あゝ国体論者よ,この意味に於ける万世一系は国民の克く忠なりしことを贅々する国体論者に対して無恥の面上に加へらるべき大鉄槌なり。即ち,天皇は深厚に徳を樹てゝ全人民全国土の上に統治者たらんことを要求したりき,実に如何なる迫害の中に於ても衣食の欠乏に陥れる窮迫の間に於ても寤寐に忘れざる要求なりき,然るに国民は強力に訴へて常に之を拒絶したりと云ふことなり。――何の国体論ぞ,斯る歴史の国民が克く忠に万世一系の皇室を奉戴せりと云は義時も尊氏も大忠臣大義士にして,楠公父子〔楠木正成・正行〕は何の面目ありや。或は云ふべし,而しながら万世一系に刃を加へざりしと。――亦何の国体論ぞ,是れ国民の凡てが悉く乱臣賊子に加担して天皇をして其の要求の実現を絶望せしめたればなり。斯ることが誠忠の奉戴ならば北条氏の両統迭立と徳川氏の不断の脅迫譲位は何よりも誠忠なる万世一系の奉戴にして幽閉の安全によりて系統は断絶する者ならんや。問題は万世一系の継続其事に非らずして如何にして万世一系が継続せしかの理由に在り。――斯る理由によりて継続されたる万〔世一〕系は誠に以て乱臣賊子が永続不断なりしことの表白に過ぎずして,誠忠を強(ママ)する国体論者は宮城の門前に拝謝して死罪を待て!何の奉戴ぞ。日本民族の性格はルヰ16世を斬殺せる仏蘭西人と同一なりと云はれつゝあるに非らずや,只皇室が日本最高の強者たりし間は二三のものを除きて多くルヰ14世の如くならず殆ど良心の無上命令として儒教の国家主権論を政治道徳として遵奉し,皇室の其れが他の強者の権利に圧伏せられたる時には優温閑雅なる詩人として政権争奪の外に隔たりて傍観者たりしが故なり。万世一系は皇室の高遠なる道徳の顕現にして誇栄たるべきものは日本国中皇室を外にして一人だもあらず,国民に取りては其の乱臣賊子たりし所以の表白なり。(北747749頁)

 

 なお,「天皇は深厚に徳を樹てゝ全人民全国土の上に統治者たらんことを要求したりき」とは,教育勅語冒頭の「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」に対応するものでしょう。

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 桜井駅址楠公父子像(大阪府三島郡島本町)
 

4 維新革命後の天皇

 青年北の冷静な観察によれば,維新革命時の勤皇運動における天皇に対する「忠」は,「眼前の君父」に対する忠からの民主主義的解放のための方便にすぎなかったということになります。

 

 〔維新革命においては〕天皇に対する忠其事は志士艱難の目的にあらず,貴族階級に対する忠を否認すること其事が目的なりき。貴族階級は(すで)に忠を否認して独立したり,一般階級は更に其れに対する忠を否認して自由ならざるべからず。(北807頁)

 

 彼等は嘗て貴族階級に対する忠を以て皇室を打撃迫害せる如く,皇室に対する忠の名に於て貴族階級をも顚覆せんと企てたり。貴族階級に対する古代中世の忠は誠のものなりき,今の忠は血を以て血を洗はんとせる民主々義の仮装なり。〔略〕曰く――幕府諸侯が土地人民の上に統治者たるは覇者の強のみと,而して是れに対抗して皇室は徳を以て立てる王者なりと仮定したり。国民は切り取り強盗に過ぎざる幕府諸侯に〔対〕して忠順の義務なしと,而して是れに対抗して皇室は高天か原より命を受けたる全日本の統治者なりと仮定したり。

 維新革命は国家間の接触によりて覚醒せる国家意識と〔大化革命後〕一千三百年の社会進化による平等観の普及とが,未だ国家国民主義(即ち社会民主々義)の議論を得ずして先づ爆発したる者なり。決して一千三百年前の太古に逆倒せる奇蹟にあらず。(北810頁)

 

 維新革命の国体論は天皇と握手して貴族階級を顚覆したる形に於て君主々義に似たりと雖も,天皇も国民も共に国家の分子として行動したる絶対的平等主義の点に於て堂々たる民主々義なりとす。(北812頁)

 

 維新革命を経た後の明治天皇は,日本史上の伝統的天皇というよりは,広義の国民の一員にして国家機関たる天皇ということになります。「民主々義の大首領として英雄の如く活動」したというのですから,日本版ジョージ・ワシントン()

 

 而して現天皇〔明治天皇〕は維新革命の民主々義の大首領として英雄の如く活動したりき。『国体論』は貴族階級打破の為めに天皇と握手したりと雖も,その天皇とは国家の所有者たる家長と云ふ意味の古代の内容にあらずして,国家の特権ある一分子,美濃部〔達吉〕博士の所謂広義の国民なり。即ち 天皇其者が国民と等しく民主々義の一国民として天智〔天皇〕の理想を実現して始めて理想国の国家機関となれるなり。――維新革命以後は『天皇』の内容を斯る意味に進化せしめたり。(北814頁)

 

 ただし,維新革命は民主主義の建設という課題を残したものであって,貴族主義の復活に抗して社会民主主義者は,大日本帝国憲法に基づく国体及び政体を承けて,理想の実現に向けて努力を続けなければなりません。

 

 維新革命は〔戊〕辰戦役に於て貴族主義に対する破壊を為したるのみにして,民主々義の建設は帝国憲法によりて一段落を劃せられたる23年間の継続運動なりとす。明らかに維新革命の本義を解せよ。『藩閥』と『政党』との名に於て貴族主義と民主々義は建設の上により多くの勢力を占めんことを争ひぬ。(北815頁)

 

 伊藤博文の帝国憲法は独乙的専制の飜訳に更に一段の専制を加へて,敗乱せる民主党の残兵の上に雲に轟くの凱歌を挙げたり。――あゝ民主党なる者顧みて感や如何に!〔衆議院〕解散の威嚇と黄白〔金銭〕の誘惑の下に徒らに政友会と云ひ進歩党と云ふのみ。(北817頁)

 

 社会民主々義は維新革命の歴史的連続を承けて理想の完き実現に努力しつゝある者なり。(北818頁)

 

 社会民主々義と云ふは彼の個人主義時代の革命の如く国家を個人の利益の為めに離合せしめんとするものにあらずして,個人の独立は『国家の最高の所有権』と云ふ経済的従属関係の下に条件附なり。而して社会国家と云ふ自覚は維新前後の社会単位の生存競争に非ずして社会主義の理想を道徳法律の上に表白したり。国民(広義の)凡てが政権者たるべきことを理想とし,国民の如何なる者と雖も国家の部分にして,国家の目的の為め以外に犠牲たるべからずとの信念は普及したり。即ち民主々義なり。――故に吾人は決して或る社会民主々義者の如く現今の国体と政体とを顚覆して社会民主々義の実現さるゝものと解せず,維新革命其の事より厳然たる社会民主々義たりしを見て無限の歓喜を有するものなり。(実例を挙ぐれば彼の勝海舟が自己を天皇若しくは将軍と云ふが如き忠順の義務の外に置きて国家単位の行動を曲げざりし如きこれなりとす)(北827828頁)

 

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隅田川畔の海舟勝麟太郎像(東京都墨田区)

 

 「万世一系」を歴史的真実であるかのように取り扱うことに対して批判的な北は,天皇の位置付けについて乾いた考え方をしていたように思われます。

 

 憲法第1条の『大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す』とある『万世一系』の文字は皇室典範の皇位継承法に譲りて棄却して考へて可なり〔略〕。何となれば,〔略〕現〔明治〕天皇以後の天皇が国家の最も重大なる機関に就くべき権利は現憲法によりて大日本帝国の明らかに維持する所なるを以てなり。〔略〕而して又『天皇』と云ふとも時代の進化によりて其の内容を進化せしめ,万世の長き間に於て未だ嘗て現天皇の如き意義の天皇なく,従て憲法の所謂『万世一系の天皇』とは現天皇を以て始めとし,現天皇より以後の直系或は傍系を以て皇位を万世に伝ふべしと云ふ将来の規定に属す。憲法の文字は歴史学の真理を決定するの権なし。従て『万世一系』の文字を歴史以来の天皇が傍系を交へざる直系にして,万世の天皇皆現天皇の如き国家の権威を表白せる者なりとの意義に解せば,重大なる誤謬なり。故に『万世一系』の文字に対しては多くの憲法学者が〔大日本帝国憲法3条(「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」)の〕『神聖』の文字に対して棄却を主張しつゝあるが如く棄却すべきか,或は吾人の如く憲法の精神によりて法文の文字に歴史的意義を附せず万世に皇位を伝ふべしとの将来の規定と解するかの二なり。而して後者とせば一系とは皇室典範によりて拡張されたる意義を有す。(北829830頁)

 

 大日本帝国憲法1条は将来に向かってのみの規定だといわれれば,明治天皇を初代とする新しい天皇制が大日本帝国憲法によって創始されたようにも受け取られ得ます。

 国家主権論者たる北にとって天皇は,飽くまでも国家の機関であって,その地位は国家の法たる憲法に基づくものでした。

 

 吾人は〔略〕,日本の現代は国家主権の国体にして天皇と国民とは階級国家時代の如く契約的対立にあらず,〔略〕従て日本現時の憲法は天皇と国民との権利義務を規定せず,広義の国民〔天皇を含む。〕が国家に対する関係の表白なりと云へり。(北830頁)

 

 天皇は国家の利益の為めに国家の維持する制度たるが故に天皇なり。如何なる外国人と雖も,末家と雖も一家と雖も,全く血縁的関係なき多数国民と雖も,この重大なる国家機関の存在を無視することは大日本帝国の許容せざる犯罪なり。(北839840頁)

 

「神道の羅馬法王」としての万世一系の維持も,伝統的系統崇拝による万世一系の維持も,鎖国を脱して文明開化した明治の御代においては時代遅れであるというのが北の認識であったようです。

 

 若し『国体論』の如く現今の天皇が国家機関たるが故に天皇にあらず,其の天皇なるは原始的宗教の信仰あるが故なりと云は,是れ今日の仏教徒と基督教徒と旧宗教の何者をも信ぜざる科学者と〔を〕して〔崇仏派であった〕蘇我の馬子たるべき権利を附与するものにして〔,〕内地雑居によりて帰化せる外国人の凡てをして〔崇峻天皇の暗殺者である〕〔(やまと)()(あや)氏の駒たるべき道徳上の放任に置くものなり。(北838頁)

 

 又或は,万世一系連綿たりと云ふ系統崇拝を以て天皇と国民との道徳関係を説かんとする者あるべし。固より〔略〕日本の下層的智識の部分に於ては日本天皇の意義を解せずして中世的眼光を以て仰ぎつゝある者の多かるべきは論なし。而しながら〔略〕未開国の良心を以て日本国民の現代に比することは国民に対する無礼たる外に皇室を以て斯る浮ける基礎に立てりとの推論に導きて皇室其者に対する一個の侮辱なり。否!系統崇拝を以て中世的良心が支配されしが為めに皇統より分派したる将軍諸侯の乱臣賊子となり,今日其の乱臣賊子を回護して尊王忠君なりと云ふ所の穂積〔八束〕博士の如きが君臣一家論を唱へて下賤なる穂積家を皇室の親類なり〔末〕家なりと云ふ精神病者が生ずるなり。(北840頁)

 

伝統による支え無く,実定憲法にのみ基づく国家の利益のための国家機関となると,北の見る天皇は,むしろ世襲の大統領とでもいうべきものでしょうか。

『天』は幾多貴族の手より〔天下を〕奪ひて現〔明治〕天皇の賢に与へたり,而して『天』は更に帝国憲法に於て後世子孫たとへ現天皇の如く賢ならずとも子に与ふべきことを国家の生存進化の目的の為めに命令しつゝあり。〔略〕機関の発生するは発生を要する社会の進化にして其の継続を要する進化は継続する機関を発生せしむ。日本の天皇は国家の生存進化の目的の為めに発生し継続しつゝある機関なり。(北975976頁)

 
 ちなみに,北は,湯武放伐論の孟子を高く評価しています。
 なお,天皇をめぐる理想と現実との齟齬の可能性についても論じられています。

 

 天皇が家長君主にして忠の目的が天皇の利己的慾望の満足に向つての努力なるならば,論理的進行の当然として例へば諸侯将軍等の如く天皇の個人性が其の社会性を圧伏して(即ち国家の機関として存する国家の意志を圧伏して)働くときに於ては,国民は圧伏されたる天皇の社会性を保護することなく,国家機関たる地位を逸出せる個人としての天皇と共に国家に向つて叛逆者とならざるべからず。斯る場合を仮想する時に於て,天皇は政治道徳以外に法律的責任なきは論なしと雖も,国家は其の森厳なる司法機関の口を通じて国民を責罰すべき法律を有す。是れ忠君愛国一致論の矛盾すべき時にあらずや。天皇なるが故に斯る矛盾なし,若し蛮神の土偶が天皇を駆逐して蛮神の個人的利益の為めに国家の臣民に忠を命ずるならば,国家の生存進化の為めに国家の全部を成せる天皇と国民とは必ず之を粉砕せざるべからず。〔略〕

 即ち,〔教育勅語にいう〕『爾臣民克く忠に』とある忠の文字の内容は上古及び近世の其れの内容とは全たく異なりて,国家の利益の為めに天皇の政治的特権を尊敬せよと云ふことなり。(北847848頁)

 

承詔必謹することがかえって「国家に向つて叛逆者」となることとなる場合があるのだ,という認識は,冷たい。(ただし,「天皇なるが故に斯る矛盾なし」であって,「みずか民主的革命首領明治天皇歴史以来事実日本今後天皇高貴愛国心喪失推論皇室典範規定摂政場合想像余地し。」ていす。(965966頁))

なお,ここにいう「蛮神の土偶」とは,固有の文脈においては教育勅語を盾に取った「国体論」のことでしょうが,「君側の奸」と言い換えてしまうと,「国家の生存進化の為めに国家の全部を成せる天皇と国民とは必ず之〔君側の奸〕を粉砕せざるべからず」という剣呑なことともなり得るわけだったようです。しかして当該君側の奸としては,あるいは「資本家地主等」ないしはそれらの走狗が想定されていたもの歟。

明治23年〔1890年〕の帝国憲法〔施行〕以後は国家が其の主権の発動によりて最高機関の組織を変更し天皇と帝国議会とによりて組織し,以て『統治者』とは国家の特権ある一分子と他の多くの分子との意(ママ)の合致せる一団となれり。従て〔略〕孟子の如く天皇をのみ社会民主々義者たらしめて足れりとする能はず,資本家地主等が上下の議院に拠りて天皇の社会民主々義国家経済的源泉主権体土地生産機関経営」(958頁)〕を実現せざらしむる法理的可能を予想せざるべからず。(北961962頁。下線は筆者によるもの)

 

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渋谷税務署脇の二・二六事件慰霊像(東京都渋谷区)

 

1936年7月〕12日 日曜日 この日早朝,二月二十六日の事件において死刑判決を受けた17名のうち香田清貞以下15名に対する刑の執行が行われる。天皇は昨日,侍従武官より香田以下の死刑執行予定に関して上聞を受けられ,この日,死刑が執行されたことを改めて侍従武官よりお聞きになる。刑の執行のため,この日思召しにより特に御運動も行われず,終日御奥においてお過ごしになる。(昭和天皇実録七138139頁)


1936年〕8月11

悪臣どもの上奏した事をそのままうけ入れ遊ばして,忠義の赤子を銃殺なされました所の 陛下は,不明であられると云うことはまぬかれません,此の如き不明を御重ね遊ばすと,神々の御いかりにふれますぞ,如何に陛下でも,神の道を御ふみちがえ遊ばすと,御皇運の(ママ)〔果〕てす(磯部獄中日記獄中手記中公文庫・2016年)95頁)


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二十二士之墓(東京都港区元麻布賢崇寺)

 

なお,1920223日,当時18歳の皇太子であった昭和天皇に対し「東宮御学問所幹事小笠原長生より,北輝次郎献上の「法華経」が伝献される。」ということがあったところです(宮内庁『昭和天皇実録 第二』(東京書籍・2015年)547頁)。その時,青年裕仁親王に,何らかの不吉な予感がきざしたものかどうか。


弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

              



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1 高輪会議(1887年3月20日)と内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文の「高裁」

1887年3月20日に内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文,賞勲局総裁柳原前光,宮内省図書頭井上毅及び伊藤の秘書官伊東巳代治が高輪の伊藤博文別邸において行った「高輪会議」は,柳原の同月14日付け伊藤宛て書簡によれば,当時柳原が起案していた「皇室典範再稿」等について「井上毅・前光等貴館へ参会,大小(るち)縷陳(んにおよび)(こう)高裁(さいをえ)(そうら)()()公私ノ幸也(さいわいなり)不堪仰望(ぎょうぼうにたえず)(そうろう)」という趣旨で行われたものです(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立(木鐸社・1988年)187頁(振り仮名,読点及び中黒は筆者によるもの))。皇室典範の成案作成に向け,松下村塾生徒利助たりし維新の元勲・内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文の「高裁」を得ようとするものですから,はなはだ重い。この高輪会議については,筆者も当ブログで何度か御紹介したところです。

 

「明治皇室典範10条に関して」

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.html

「続・明治皇室典範10条に関して」

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060127005.html

 

 同会議において,柳原「皇室典範再稿」の「第1章 皇位継承」中「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」と規定する第12条が伊藤及び柳原の首唱で削られ(小嶋「明治皇室典範」190頁),それに伴い同「第2章 尊号践祚」中第17条の「天皇崩シ又ハ譲位ノ日皇嗣践祚シテ即チ尊号ヲ襲ヒ祖宗以来ノ神器ヲ承ク」との規定が伊藤の首唱によって「第10条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と修正されました(小嶋「明治皇室典範」191頁)(章名も伊藤の首唱で「第2章 践祚即位」に変更(小嶋「明治皇室典範」190頁))。その結果,天皇の生前退位は,明治天皇の裁定に係る1889年2月11日の皇室典範(第10条が「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定)及び昭和天皇の裁可(1947年1月15日)に係る昭和22年1月16日法律第3号の皇室典範(第4条が「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」と規定)を通じて一貫して認められないもの(無効である,ということでしょう。)とされているものと広く解されていることは周知のとおりです(ただし,岩井克己「宮中取材余話・皇室の風103」選択43巻3号(2017年3月1日号)88頁を参照)。

 伊藤博文の「高裁」の重みは()くの如し,というべきか。

 実務上,伊藤博文名義の『皇室典範義解』の記述(「本条〔明治皇室典範10条〕に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はる者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」(下線は筆者によるもの)。なお,筆者は岩波文庫版の宮沢俊義校註『憲法義解』(1940年)を用いています。)は,皇室典範の本文それ自体に勝るとも劣らぬ解釈上の権威を有するものなり,というべきでしょうか。

 しかしながら,伊藤の「高裁」ないしは『皇室典範義解』における託宣にも,動揺し,遂に後には撤回変更に至らざるを得なくなった例があるところです。長州出身の大宰相だからとて,なかなか信用し切るわけにはいきません。

 永世皇族制(皇族は子々孫々永世皇族であるものとする制度)の採否をめぐる問題がそれです。

 

2 高輪会議における臣籍降下制度の採用と伊藤の変心・食言

 1887年3月20日の高輪会議の冒頭,柳原前光は,伊藤博文の見解を質し,「皇玄孫以上ヲ親王ト称シ以下ヲ諸王ニ列シ皇系疎遠ナルモノハ逓次臣籍ニ降シ世襲皇族ノ制ヲ廃スル事。附山階宮久邇宮庶子ヲ臣籍ニ列セラルル事」との確認を得ています(小嶋「明治皇室典範」188頁)。すなわち,臣籍降下制度を伴うことのない永世皇族制を採らないとの言質を内閣総理大臣兼宮内大臣から取ったわけです。柳原の「皇室典範再稿」の第105条には「皇位継承権アル者10員以上ニ充ル時ハ皇玄孫以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍ニ列スルコトアルヘシ」とあり,高輪会議を経て「第64条 皇位継承権アル皇族ノ増加スルニ随ヒ皇玄孫以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍ニ列スヘシ」となっています(小嶋「明治皇室典範」199頁)。「臣籍ニ列スルコトアルヘシ」から「臣籍ニ列スヘシ」へと,天皇から遠縁の皇族にとっては厳しい表現になっています。(なお,明治天皇の権典侍柳原愛子の兄である柳原前光は,後の大正天皇である嘉仁親王(1887年3月当時満7歳)の実の伯父に当たります。)

高輪会議を承けて同年4月25日に伊藤博文に,同月27日に井上毅にそれぞれ提出された柳原の「皇室典範草案」では「第71条 皇位継承権アル者増加スルニ従ヒ皇位ヲ距ルコト5世以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍ニ列スヘシ」となっており,それを井上は同年8月より前の段階で「第 条 皇族ノ増加スルニ従ヒ5世以下ノ疎属ハ逓次臣籍ニ列スヘシ」と修正しています(小嶋「明治皇室典範」202頁・206頁・208頁。ここで修正された皇室典範案は「井上の七七ヶ条草案」と呼称されています。)。

 しかし高輪会議におけるこの伊藤の「高裁」は動揺し,食言となります。すなわち,井上毅の前記七七ヶ条草案に対し,伊藤は変心したのか,「皇族ヲ臣籍ニ列スル2条削ルベシ」と指示するに至っているところです(小嶋「明治皇室典範」209頁・220頁)。

 

3 永世皇族制論者井上毅の1888年3月20日「修正意見」

とはいえこれは,井上毅にとっては喜ぶべき食言だったでしょう。18821218日に岩倉具視が総裁心得となった宮内省の内規取調局(駐露公使であった柳原前光とも連絡)による1883年の皇族令案には「親王ヨリ5世ニ至リ姓ヲ賜ヒ華族ニ列シ家産ヲ賜ヒ帝室ノ支給ヲ止ム/但シ養子トナルモ(なお)其ノ世数ヲ変スルコトナシという規定があったのでしたが,同年7月付けの「参謀山県有朋」名義の文書を代筆して,井上は・・・果シテ然ラハ四親王家ノ如キモ終ニ之ヲ廃セントスル() 按スルニ伏見宮ハ崇光ノ皇子栄仁親王ヲ祖トシ其ノ後八条宮今ノ桂宮高松宮今ノ有栖川宮閑院宮ヲ立テラレ(おのおの)猶子親王ヲ以テ世襲ノサマトナリ来レルハ・・・朝議継嗣ヲ広メ皇基ヲ固ウスルノ深慮ヨリ創設セラレシ者ナラン ・・・五百年ノ久シキニ因襲シ来ルトキハ今日ニ在リテ容易ニ廃絶ス()キニ非ス ・・・将来皇胤縄々ノ盛ナルニ拘ラス旧ニ依テ此ノ四家ヲ存シ四家(もし)継嗣ナキトキハ(すなわち)他ノ皇親ヲ以テ之ヲ継カシメ永ク小宗支流トナサンコト遠大ノ計ナルヘキ() 又5世ニ至リ華族ニ列スルノ議ハ周ノ礼ニ五世而親尽トイヒ大宝令ニ自親王(しんのうより)五世(おうのな)(をえた)王名(りといえども)不在皇親之限(こうしんのかぎりにあらず)トイヘルニ拠レルカ 然ルニ右ニ親尽トイフモ族尽トイハス 不在皇親之限(こうしんのかぎりにあらず)トイフモ不在皇族之限(こうぞくのかぎりにあらず)トイハス 故ニ5世以下ハ挙ケテ皇族ニ非ストナスコト(また)古典ニ(そむ)クニ似タリ ・・・」と批判していたところでした(小嶋和司「帝室典則について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』119頁‐124頁。振り仮名は筆者によるもの)。

1888年3月20日の井上の「修正意見」においては,井上の七七ヶ条草案から「第70条 皇族増加スルニ従ヒ5世以下疎属ヨリ逓次臣籍ニ列スヘシ」及び「第71条 皇族臣籍ニ列スル時ハ姓ヲ賜ヒ爵ヲ授ク」の2箇条はざっくり削られています(小嶋「明治皇室典範」210頁・220頁)。

 

4 枢密院審議における議長・伊藤の動揺

ところが,枢密院における皇室典範案の審議が始まり,1888年6月4日午後,皇室典範案第33条(「皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ生レナカラ男ハ親王女ハ内親王ト称フ5世以下ハ生レナカラ王女王ト称フ」)に関し,三条実美内大臣が口火を切って臣籍降下制度の必要を説き(「或ハ但シ書キヲ以テスルモ可ナリ桓武天皇以来ノ成例ヲ存シ姓ヲ賜フテ臣下ニ列スルノ余地ヲ存シ置タシ」),枢密顧問官ら(土方久元宮内大臣兼枢密顧問官,山田顕義司法大臣,榎本武揚逓信大臣兼農商務大臣,佐野常民枢密顧問官及び吉井友実枢密顧問官並びに次の伊藤議長発言後には寺島宗則枢密院副議長及び大木喬任枢密顧問官)からも例外なき永世皇族制採用に対する疑問ないしは臣籍降下制度に賛成する意見が次々と提示されると,伊藤博文枢密院議長は動揺します(これらの枢密院の議事の筆記は,アジア歴史資料センターのウェッブ・サイトで見ることができます。)。

 

議長 各位ノ修正説モ種々起リタレトモ,本条ニハ決シテ人臣ニ下スヲ得スト云フ(こと)ナシ。説明モ人臣ニ下スヲ禁スルノ意ニアラス。抑モ典範ハ未タ人臣ニ下ラサル皇族以上ノ為メニ設クルモノニシテ,既ニ人臣ニ降リタル者ハ典範ノ支配スル所ニアラス。又外国ノ例ヲ引テ皇族ノ人臣ニ列スルノ可否ヲ論セラルレトモ,外国ニ於テハ皇族ノ臣ニ列スルニ姓ヲ賜フト云フカ如キ厳格ナルモノアラス。故ニ比類シテ論スヘキニアラス。要スルニ此問題ハ典範中ノ難件ニシテ,最初原案取調ノ際ニハ5世以下人臣ニ下スノ条ヲ設ケ漸次疎遠ノ皇族ヨリ人臣ニ下スヿヲ載セタリシカ,種々穏カナラサル所アリテ遂ニ削除シタリシナリ。(振り仮名及び句読点は筆者によるもの)

 

 要は,伊藤博文が言いたかったのは,皇室典範案の文言だけ見ると例外なき永世皇族制度であって皇族の臣籍降下はないように見えるがそうではないのだよ,現に我々も原案においては臣籍降下制度の明文化を考えていたけれども「種々穏カナラサル所アリテ遂ニ削除シタ」だけなのだよ,オレが悪いんじゃないよ,ということのようです。

 しかし,このような説明が通るのであれば,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定する明治皇室典範10条についても,「本条ニハ決シテ譲位スルヲ得スト云フヿナシ説明〔「上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり」〕モ譲位ヲ禁スルノ意ニアラス・・・要スルニ此問題ハ典範中ノ難件ニシテ最初原案取調ノ際ニハ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得ノ規定ヲ設ケ譲位ノヿヲ載セタリシカ種々穏カナラサル所アルト思ヒテツイ削除シタリシナリ」といい得てしまうことになりそうです。
 なお,皇室典範枢密院諮詢案
33条について伊藤博文が言及する「説明」は,『皇室典範義解』の基となった枢密院の審議資料として配布されたコンニャク版(小嶋「明治皇室典範」258頁)の「皇室典範義解草案 第一」のことでしょう(伊藤博文編,金子堅太郎・栗野愼一郎・尾佐竹猛・平塚篤校訂『帝室制度資料 上巻〔秘書類纂第19巻〕』(秘書類纂刊行会・1936年)81頁以下。なお,『秘書類纂』も国立国会図書館のウェッブ・サイトで見ることができます。)。「皇室典範義解草案 第一」における枢密院諮詢案第32条(「皇族ト称フルハ太皇太后皇太后皇后皇子孫皇女孫及皇子孫ノ妃ヲ謂フ」)の説明には,「凡ソ皇族ノ男子ハ皆皇位継承ノ権利ヲ有スルモノナリ。・・・蓋シ5世ノ内外ハ親等ヲ分ツ所以ニシテ,其ノ宗族ヲ絶ツニ非ザルナリ。故ニ中世以来,(かたじけなく)累封邑(ふうゆうをかさね)空費府庫(むなしくふこをついやす)ヲ以テ(嵯峨天皇詔)姓ヲ賜ヒ臣籍ニ列スルノ例ハ本条ノ取ラザル所ナリ。・・・(之ヲ外国ニ参照スルニ,凡ソ王位継承ノ権アル者ハ総テ王族ト称ス,而シテ君主ノ子孫兄弟伯叔姪ノミヲ称ヘテ専ラ王族ト謂ヘル場合アルハ,其ノ等親及ビ特別ノ敬礼ニ就テ謂ヘルナリ,・・・若シ(それ)姓ヲ改メテ臣ト為ルノ事ハ各国ノ見ザル所ナリ)とあります(伊藤編『帝室制度資料 上巻』109110頁。振り仮名は筆者によるもの)。「中世以来・・・ノ例ハ本条ノ取ラザル所ナリ」は,「中古以来・・・の慣例を改むる者なり」と酷似した理由付けです。

 1888年6月4日に続く同月6日午前の枢密院の審議において,永世皇族制の推奨者である井上毅枢密院書記官長の見解は,伊藤議長を厳しく叱咤するごとし。

 

 ・・・議長ト其意見ヲ異ニセサルヲ得ス。本条〔枢密院諮詢案第33条〕正文ノ構成ヲ正当ニ読下セハ,天皇ノ御子孫ハ万世王女王ナリ。(句読点は筆者によるもの)

 

「・・・5世以下ハ生レナカラ王女王ト称フ」なのですから,「本条正文ノ構成ヲ正当ニ読下セハ天皇ノ御子孫ハ万世王女王ナリ」であることは当然のことです。問題は,「本条ニハ決シテ人臣ニ下スヲ得スト云フヿナシ」と言う伊藤「議長ト其意見ヲ異ニセサルヲ得ス」の部分ですが,これは,「生レナカラ王女王」として皇室典範の条文上有する特権を皇室典範における明文の根拠なしに当人の意思を無視して一方的に剥奪して「人臣ニ下ス」ことができないことはもちろんだ,ということでしょう。天皇ないしは天皇及び皇嗣自らの意思に基づくものである生前退位ないしは譲位とは,問題の場面が異なるようです。

臣籍降下制度の規定を設けるかどうかに係る前記の問題は,1888年6月6日午前,ついに採決となり,当該規定を設けることに賛成する者は10名,原案そのままに賛成する者14名で,1889年2月11日の皇室典範においては皇族の臣籍降下の制度は設けられないこととなりました(なお,小嶋「明治皇室典範」244頁)。

さて,賛成者・反対者の色分けはどうだったのでしょうか。伊藤議長及び寺島副議長以外の皇族,国務大臣及び枢密顧問官の出席者は合計24名でした。これらのうち,臣籍降下制度条項に賛成する発言をしていた者は,三条,土方,山田,榎本,佐野,吉井及び大木の7名,臣籍降下制度条項を不要とする発言をしていた者は松方正義大蔵大臣,副島種臣枢密顧問官及び河野敏鎌枢密顧問官の3名。残り14票は,熾仁親王,彰仁親王,能久親王,威仁親王,黒田清隆内閣総理大臣,山県有朋内務大臣,大隈重信外務大臣,大山巌陸軍大臣,森有礼文部大臣,福岡孝弟枢密顧問官,佐々木高行枢密顧問官,東久世通禧枢密顧問官,元田永孚枢密顧問官及び吉田清成枢密顧問官。これら14票はどう分かれたものでしょうか。柳原,三条等に見られるように一般に永世皇族制に冷淡なような公家の出身者の東久世枢密顧問官は臣籍降下制度条項に賛成したでしょうか。永世皇族制度を説く井上毅に名義を貸したことのある山県有朋は不要論でしょう。審議中沈黙を守っていた宮様ブロックの4名は,一致して臣籍降下条項不要の側に立ったことでしょう。

5 明治皇室典範30条及び31条と井上毅及び柳原前光

 

(1)井上毅

最終的に,1889年2月11日の皇室典範の第30条及び第31条は,次のとおりとなりました。

 

30条 皇族ト称フルハ太皇太后皇太后皇后皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃内親王王王妃女王ヲ謂フ

31条 皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ内親王トシ5世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス

 

皇室典範に別に特則が設けられなければ,当該皇族の同意なき一方的臣籍降下はないわけですが,「本条ニハ決シテ人臣ニ下スヲ得スト云フヿナシ」との伊藤博文発言が飛び出すような状況では,永世皇族制論者としての井上毅は不安であったでしょう。また,後に皇室典範の改正又は増補がされてしまうかもしれません。条文の外に「説明」においても強固な防備をしておく必要が感じられたもののようです。明治皇室典範10条に係る「・・・中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」との説明だけでは天皇の終身在位論の理由付けとしては弱いものとつとに考えていたであろう井上は(注),「皇室典範義解草案 第一」にあった「・・・故ニ中世以来,辱累封邑空費府庫ヲ以テ(嵯峨天皇詔)姓ヲ賜ヒ臣籍ニ列スルノ例ハ本条ノ取ラザル所ナリ。」だけでは同様に不十分であると当然思ったことでしょう(1888年6月4日午後の枢密院会議において松方大蔵大臣は,「断言」する強い表現だと受け取ってくれていたのですが。)。

(注)ついでながら,明治皇室典範10条の説明は,「皇室典範義解草案 第一」では「・・・中古権臣ノ強迫ニ因リ,両統互譲十年ヲ限トスルニ至ル。而シテ南北朝ノ乱亦此ニ源因セリ。故ニ後醍醐天皇ハ遺勅シテ在世ノ中譲位ナク,又剃髪ナカラシム(細々要記)。本条ニ践祚ヲ以テ先帝崩御ノ後ニ行ハルルモノト定メタルハ,上代ノ恒典ニ因リ中古以来譲位ノ慣例ヲ改ムルモノナリ。」となっていました(伊藤編『帝室制度資料 上巻』93頁。下線は筆者によるもの)。非妥協的かつ戦闘的な御性格であらせられた『太平記』の大主人公・後醍醐天皇の遺勅であるから終身在位なのだ,持明院統には互譲などせず皇位は譲らないのだ,ということではかえって剣呑であるようです(現皇室は持明院統の裔)。そもそも後醍醐天皇(大覚寺統傍系)は,文保の和談を承けて,在位10年の花園天皇(持明院統)から譲位を受けることができたところです。『皇室典範義解』においては書き改められて,後醍醐天皇云々が消えているのはあるいは当然の措置でしょう。

 したがって,『皇室典範義解』においては,「凡そ皇族の男子は皆皇位継承の権利を有する者なり。故に,中古以来
空費府庫(むなしくふこをついやす)を以て姓を賜ひ臣籍に列するの例は本条の取らざる所なり。」との説明(第30条解説)に加えて,1888年6月4日午後の枢密院会議で井上が弁じた永世皇族制弁護論の要旨が第31条解説に次のように付加されています。「皇室典範義解草案 第一」の枢密院諮詢案33条解説にはなかったものです。

 

 大宝令5世以下は皇親の限に在らず。而して正親司(おおきみのつかさ)司る所は4世以上に限る。然るに,継体天皇の皇位を継承したまへるは実に応神天皇5世の孫を以てす。此れ(すなわ)ち中古の制は(かならず)しも先王の遺範に非ざりしなり。本条に5世以下王・女王たることを定むるは,宗室の子孫は5世の後に至るも,亦皇族たることを失はざらしめ,以て親々の義を広むるなり・・・。

 
 井上は,前記枢密院会議において,「不幸ニシテ皇統ノ微継体天皇ノ時ノ如キことアラハ5世6世ハ申スまでモナシ百世ノ御裔孫ニ至ル迠モ皇族ニテハサンヿヲ希望セサルベカラス」「姓ヲ賜フテ臣籍ニ列スルノヿハ大宝令ニモ之ヲ載セス畢竟中古以後王室式微ノ時代一時ノ便宜ニ従テ御処分アリシ事ナルカ如シ」「皇葉ノ御繁栄マシマサハ是レ誠ニ喜フベキ事ニシテ継体天皇宇多天皇ノ御場合ノ如キハ大ニ不祥ノ事ト云ハサルヘカラス然ラハ仮令多少ノ支障ハアラントモ成ルベク皇族ノ区域ヲ拡張スルヿ誠ニ皇室将来ノ御利益ト云フヘシ」等と熱弁をふるっていたところです。

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桓武天皇及び継体天皇ゆかりの交野天神社(大阪府枚方市)

(2)柳原前光

 臣籍降下制度設置論者である柳原前光は,当該制度を皇室典範に設けないという食言的決定に対して,1888年5月頃伊藤博文宛てに次のように書き送っていました(「皇室典範箋評」。小嶋「明治皇室典範」238頁。振り仮名は筆者によるもの)。

 

 拙者ハ祖宗ノ例ヲ保守シ疎属ヨリ逓次臣籍ニ列スルノ持説ナリ 但シ本案永世皇族ヲ設クルニ決セラレタル上ハ波瀾ヲ避ケ謹テ緘黙傍観ス (より)テ安意ヲ乞フ 但シ遅ク(さんじゅう)年以内ヲ出テス実際大ニ(くるし)ミ必ス此事件ヨリ典範修正アラン 若シ不幸ニシテ其事ニ()閣下(こいねがわ)クハ僕ノ先見者タルヲ保証セラレンコトヲ願フ(のみ) 恐(しょう)々々

 

柳原は,枢密顧問官になるには年齢が足りず,枢密院における皇室典範案の審議に参加することができませんでした。

 

6 1907年の皇室典範増補と臣籍降下制度の(再)導入

 

(1)1907年皇室典範増補

しかしてその後,1889年の明治皇室典範の裁定から18年しかたたぬ1907年2月11日,皇族の臣籍降下制度を定める皇室典範増補が明治天皇により裁定され,同日公布(公式令(明治40年勅令第6号)4条1項)されました。

 

第1条 王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムルコトアルヘシ

 第2条 王ハ勅許ニ依リ華族ノ家督相続人トナリ又ハ家督相続ノ目的ヲ以テ華族ノ養子トナルコトヲ得

 第4条 特権ヲ剥奪セラレタル皇族ハ勅旨ニ由リ臣籍ニ降スコトアルヘシ

  〔第2項略〕

 第5条 第1条第2条第4条ノ場合ニ於テハ皇族会議及枢密顧問ノ諮詢ヲ経ヘシ

 第6条 皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス

 

(2)草葉の陰

 

ア 山田顕義

 1888年6月6日午前の枢密院会議で,「種々穏カナラサル所」からの影響のゆえか何のゆえか臣籍降下制度不要論を強硬に吠えた河野敏鎌(この人物は,司馬遼太郎の『歳月』において,「いい親分がみつかると,河野はどんなことでもする」と書かれてしまっていて損をしています。筆者は『歳月』に関して本ブログに記事(「司馬遼太郎の『歳月』の謎の読み方」)を書いたことがあります。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1842010.html)の発言に関して,「・・・本条原案ノ(まま)ニ存シ置クハ典範上ノ体面ハ美ナルカ(ごと)シト(いえど)モ,18番〔河野敏鎌〕自身ニモ既ニ陳述シタル如ク,本条将来ノ変換ハ勢ヒ免レ難キ所トス。賜姓列臣ヲ明条ニ掲クルハ忍ヒサル所ナリト雖モ,皇室万世ノ為メニ模範ヲ(のこ)サントスル今日ニ於テ,姑息ニ流レ徒ラニ体面(よそおう)ハ本官ノ取ラサル所ナリ。其変換ニシテ予期スヘカラサラシメハ止マン。(いやしく)モ予期スヘクンハ,他日典範ヲ変換シテ賜姓列臣ノ例ヲ開カサルヘカラサルノ時期ニ際会シ,何ノ必要アリテ祖宗千年ノ習慣ヲ此ノ中間ニ特ニ変更シタルカヲ(わら)フヘシ・・・次ニ18番ハ,御先代ノ経験ヲ鑑ミ帝室将来ノ利益ヲ(おもんぱかっ)テ之ヲ今日ニ改ムルハ忠精ヲ(つく)所以(ゆえん)ナリト論シタリ。然レトモ,他日必ス御先代ノ例ニ復スヘキヲ期シナカラ差シタル必要ナクシテ(みだ)リニ之ヲ改ムルハ,遂ニ後世ノ(わらい)ヲ免レス。各位幸ヒニ18番ノ説ニ迷ハス,23番〔佐野常民〕6番〔三条実美〕ノ修正ニ賛成アリタシ」(振り仮名及び句読点は筆者によるもの)と,臣籍降下制度を結局は導入する破目になって嗤われ者になるなとの警告を発していたこちらは長州の武家出身の山田顕義は,18921111に急死していました。山田がボアソナアドの協力を得てその編纂に心血を注いだ(旧)民商法の施行延期法(明治25年法律第8号(民法及商法施行延期法律))が明治天皇によって裁可されたのは山田急死の月の22日(副署した内閣総理大臣は伊藤博文,司法大臣は山県有朋),公布されたのは同月24日でした。


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山田顕義胸像(東京都千代田区三崎町の日本大学法学部前)

イ 柳原前光

臣籍降下制度導入に係る「先見者タルヲ保証セラレ」ることを見ることなく,柳原前光は,日清戦争の対清宣戦布告の翌月,1894年9月2日に早逝しました。

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右から4行目に「俊德院殿頴譽巍寂大居士 明治二十七年九月二日薨光愛卿二男/正二位勲一等伯爵柳原前光行年四十五歳」と彫られてあります(祐天寺(東京都目黒区中目黒)の柳原家墓所。なお,右後方に見えるのは,大正天皇の生母である柳原愛子の墓です。)。
 

ウ 井上毅

 永世皇族制の防衛者たるべかりし井上毅は,1895年3月17日,宿痾の結核で不帰の客となりました。伊藤博文が陸奥宗光と共に下関・春帆楼で李鴻章と第1回日清講和会談を行う3日前のことでした。

 

 「国家多事の日に際して,蒲団の上に死す。斯る不埒者には,黒葬礼こそ相当なれ」(長尾龍一「陰沈たる鬼才の謀臣 井上毅」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)3738頁参照)

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井上毅の墓(東京都台東区瑞輪寺)

(3)生き残る男・伊藤博文

ところで,1907年の皇室典範増補裁定の仕掛け人はだれだったでしょうか。ほかでもない,高輪会議での決定を翻して井上毅の七七ヶ条草案に対し「皇族ヲ臣籍ニ列スル2条削ルベシ」と食言的な指示をするに至った夫子御自身――伊藤博文その人でした。

19041012日に帝室制度調査局総裁として伊藤博文が明治天皇に対して行った上奏にいわく。

 

  臣博文帝室制度調査ノ

大命ヲ(つつし)ミ伏シテ(おもんみ)ルニ,皇室典範ハ

陛下立憲ヲ経始(けいし)〔開始〕シタマヘル制作ノ一ニシテ,帝国憲法ト並ニ不刊(ふかん)〔摩滅しない〕ニ垂ル,(しこう)シテ国家ノ景運蒸々(じょうじょう)向上するさまトシテ()(へん)〔大いに変ずる〕シ,皇室ノ基礎益々鞏固ニシテ文経武緯国光(あまね)寰宇(かんう)〔天子の治める土地全体〕ニ顕揚スルコト,今ハ(はるか)(ちゅう)(せき)ノ比ニアラズ。・・・是ニ於テ()皇室ノ宝典モ(また)(いささ)カ其ノ未ダ備ハラザルモノヲ増補シテ以テ(こう)(こん)〔後の子孫〕ニ昭示スルノ必要ヲ生ズ。即チ皇族支胤ノ繁盛ト皇室費款ノ増益トニ視テ,其ノ疎通ヲ図ルガ如キ・・・ハ特ニ其ノ(ゆう)ナルモノニシテ,実ニ日新ノ時宜ニ鑑ミ乾健ノ宏綱ヲ進張スル所以(ゆえん)ノ道ナルコトヲ信ズ。(ここ)ニ別冊皇室典範増補条項ニ付キ慎重審議ヲ()ヘ,其ノ事由ヲ前条ノ下ニ注明セシメ謹デ上奏シ(うやうやし)

 聖裁ヲ仰グ。(伊藤博文編,金子堅太郎・栗野愼一郎・尾佐竹猛・平塚篤校訂『雑纂 其壱〔秘書類纂第24巻〕』(秘書類纂刊行会・1936年)2526頁。振り仮名は筆者によるもの

 

 「何が今更「是ニ於テ乎皇室ノ宝典モ亦聊カ其ノ未ダ備ハラザルモノヲ増補シテ以テ後昆ニ昭示スルノ必要ヲ生ズ」だ,最初から臣籍降下制度がのちのち必要になるって分かっていたくせに。自分の失敗を棚に上げて。」と,1888年6月4日午後及び同月6日午前の枢密院会議のいずれにも臨御していた明治天皇は,内心苦笑いしていたことでしょう。

 とはいえ,山田,柳原,井上らは既に亡し。「何ノ必要アリテ祖宗千年ノ習慣ヲ此ノ中間ニ特ニ変更シタ」んだったっけねと嗤われもせず,それみたことか「僕ノ先見者タルヲ保証セ」よと嫌味を言われもせず,「其意見ヲ異ニセサルヲ得ス」と叱られもせず,政治家たるもの,長生きするのが勝ちです。

 

7 皇室典範の「増補」について

 しかしながら,「改正」といわず,「亦聊カ其ノ未ダ備ハラザルモノヲ増補」という方が法典に手を入れやすいですね。「改正」ですと,被改正条項が将来のことをよく考えていなかったから状況の変化に対応しきれずに駄目になったので改めて正されねばならないのか,あるいは最初から駄目だったので改めて正されねばならないのか,ということでそもそもの立法者の面子の問題になってしまいます。その点を避けることのできる「増補」概念は,皇室典範自身の規定するものです。

 

 第62条 将来此ノ典範ノ条項ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要アルニ当テハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シテ之ヲ勅定スヘシ

 

状況が変化してしまったので足らざるところが生じたところ,当該変化に素直に応じた増補である,という方が,説明がしやすい。「増補」概念がそもそも組み込まれている点において,皇室典範は動的かつ柔軟ないわば開かれた規範体系である,ともいい得るかもしれません。伊藤博文は,自身の失敗指示の回復策である1907年皇室典範増補の実現に向けて,当該「増補」概念をうまく活用したということであるようにも思われます。(ただし,公式令4条1項における整理では,「増補」は「改正」に含まれるものとされているようです。)

 しかしてこの「増補」概念の導入者はだれでしょうか。

 柳原前光です。

1887年3月20日の高輪会議後の同年4月25日に伊藤博文に,同月27日に井上毅にそれぞれ提出された柳原の前記「皇室典範草案」において,「此典範ヲ改正増補セント欲スル時ハ皇族会議及ヒ内閣,宮中顧問官ニ諮詢シ之ヲ決定ス」との条項が新加されていたところです(小嶋「明治皇室典範」202203頁。下線は筆者によるもの)。井上毅はその七七ヶ条草案に至る過程において,当該条項については,「此ノ典範ハ改正増補スヘカラザル者ナリ 改正増補ハ不得已(やむをえざる)ノ必要ニ限ルヘキナリ 故ニ左ノ如ク修正スヘシ/将来此ノ典範ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要ヲ見ルニ当テハ皇族会議及内閣宮中顧問官ニ諮詢シ之ヲ決定スヘシ」とています(小嶋「明治皇室典範」207頁。振り仮名は筆者によるもの)。確かに「欲スル」だけで改正増補がされ得るのはおかしい。しかしながら,「増補」概念は維持されています。

上記高輪会議の結果としては「天皇譲位の制度の否認されたことがもっとも注目される」ところですが(小嶋「明治皇室典範」200頁),その直後における皇室典範に係る「増補」概念の導入に当たって柳原及び井上の念頭に共通にあったのは,生前退位ないしは譲位に関する規定の「増補」だったのかもしれません。(臣籍降下制度についてまず「増補」がされることになるとは,高輪会議の終了時点では予想されていなかったでしょう。)

 

・・・是ニ於テ乎皇室ニ関スル法典モ亦聊カ其ノ未タ備ハラサルモノヲ増補シテ以テ後昆ニ昭示スルノ必要ヲ生ス即チ 聖上及ヒ皇族ノ御長寿ト国事行為及ヒ象徴トシテノオ務メノ御増益トニ視テ皇位ノ疎通ヲ図ルカ如キハ特ニ其ノ尤ナルモノニシテ実ニ日新ノ時宜ニ鑑ミ乾健ノ宏綱ヲ進張スル所以ノ道ナルコトヲ信ス・・・

 

 無論,臣下による天皇の廃位に関する規定の増補ということは全く考えられていなかったはずです。
 また,そのような国賊的なことを,長州出身の元尊皇の志士・俊輔伊藤博文が許したわけがありません。文久二年十二月二十一日(1863年2月9日),和学講談所の塙忠宝は,「天皇廃立の先例を調べているとの風聞によって」,伊藤博文(当時21歳)らによって暗殺されています(伊藤博文伝(春畝公追頌会編)に基づく『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)の記載。塙は翌二十二日死亡)。
森鷗外の『澀江抽斎』(1916年)のその七十六には,「此年〔文久二年〕十二月二十一日の夜,塙次郎が三番町で刺客せきかくおとた。岡本さうである。次郎温古た。保己一四谷寺町祖父である。当時流言次郎安藤対馬のぶゆき廃立先例取り調わうくわである。遺骸大逆天罰があた。次郎文化十一年四十九歳わかであた。」とあす。

 
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 大勲位伊藤博文公墓所(東京都品川区西大井)

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19091026日午前狙撃を受け清国ハルビン駅の〕車室内に横臥した〔伊藤〕博文は,小山医師及び出迎への露国医師の応急手当てを受けながら,

大分(だいぶ)弾丸(たま)やうだ。何奴(どいつ)だ」た。

「朝鮮人ださうです。」

 中村〔是公〕満鉄総裁が説明すると,

「馬鹿」と言つたがその時,彼の顔色が急変して,脂汗が流れ出した。(久米正雄『伊藤博文伝』(改造社・1931年)384頁)

 

 同日午前10時死亡。享年69歳。190911月4日日比谷公園で国葬。

 

 葬儀が済む頃は雨になつた。濡れそぼつた柩は,数個中隊の騎兵に護られ,少数の親戚知友に送られて,大森なる恩賜館附近,(たに)(だれ)(うづ)められた。(久米390頁)


弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp


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 内閣総理大臣官邸ホームページの「内閣総理大臣一覧」の表を見ると,昭和15年(1940年)7月22日に昭和天皇によって2度目に内閣総理大臣に任じられ,翌年昭和16年(1941年)1016日に内閣総辞職して政権を投げ出すこととなった近衛文麿を首班とする内閣は,その間昭和16年(1941年)7月18日を境にして,それ以前が第2次近衛内閣,それ以後同年1018日の東条英機内閣の成立までが第3次近衛内閣であるものとされています。これに対して,大正13年(1924年)6月11日に摂政宮裕仁親王によって内閣総理大臣に任じられた加藤高明は,その死亡の日である大正15年(1926年)1月28日まで一貫して一つの加藤高明内閣の内閣総理大臣であり続けていたものとされています。

http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html

 この取扱いについては,我が国の近代史に詳しい向きから疑問を呈せられることがあります。

 

ものの本には,大正14年(1925年)8月2日以後を第2次加藤高明内閣とし,それ以前を第1次加藤高明内閣としているものがあるが,内閣総理大臣官邸ホームページはそのように取り扱っていないのはなぜか。

 

 内閣総理大臣官邸ホームページにおける「内閣総理大臣一覧」の表の記載を所与のものとしていた者にとっては意表を衝かれる質問です。「内閣総理大臣官房の人事課がそう言ったのだ。」だけでは回答にはならないでしょう。

そこで,そもそも1925年8月2日に加藤高明内閣に何が起こったのかから調べなければなりません。

 宮内庁の『昭和天皇実録 第四』(2015年・東京書籍)の1925年7月30日の項を見ると,当時の摂政宮裕仁親王は,「午後4時,内閣総理大臣加藤高明参殿につき謁を賜い,税制整理案をめぐり,政友会の2閣僚の反対により閣内不一致に陥った状況につき,奏上を受けられる。・・・政局紛糾につき,明日の日光行啓はお取り止めとなる。」とあって(295頁),翌31日については次のとおり(同頁)。

 

 31 金曜日 午前1110分,内閣総理大臣加藤高明に謁を賜い,国務大臣全員の辞表の捧呈を受けられる。同25分,内大臣牧野伸顕をお召しになり,爾後の措置につき御下問になり,牧野は公爵西園寺公望の意見を徴すべき旨を奉答する。・・・東宮侍従長入江為守をお召しになり,御殿場の西園寺の許へ赴くことを命じられる。入江は正午出発,西園寺と面会するも,西園寺は,時局に鑑み,熟慮の間しばらく奉答を猶予せられたき旨を回答する。午後9時45分,入江は摂政に復命する。

 

 これは,加藤高明内閣総辞職ということでしょう。

 しかして,それに続く1925年8月1日には「午後5時10分,内閣総理大臣加藤高明をお召しになり,加藤に内閣の再組織を命じられる。加藤は,熟慮の上奉答する旨を言上し,退下する」ということになり(『昭和天皇実録 第四』297頁),同月2日の日曜日に「〔午前10時〕35分内閣総理大臣加藤高明参殿につき,内謁見所において謁を賜い,大命拝受の言上並びに閣員名簿の捧呈を受けられる。」(同頁)という運びになっています。

「大正13年〔1924年〕6月清浦内閣の後を襲つた加藤高明内閣(大正13年6月より同14年〔1925年〕8月まで)は・・・所謂(いわゆる)「護憲三派」(憲政会,政友会,国民党)の聯立内閣であつたところ,「大正14年8月,護憲三派の聯立が破れて,加藤高明が再び組閣の命を受けた」ということになるわけですから(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)281頁),確かに,政治的に加藤高明内閣の性格は変化し,第1次加藤高明内閣から第2次加藤高明内閣への交替があったといってもよいようではあります。

 どうしたものでしょうか。加藤高明内閣総理大臣の内閣に係る1925年8月2日の取扱い(同年7月31日に国務大臣全員の辞表の捧呈があったものの,内閣の交替がなかったものとする。)と近衛文麿内閣総理大臣の内閣に係る1941年7月18日の取扱い(以下に見るように同月16日に全閣僚の辞表捧呈があったところ,内閣総理大臣は変わらずとも内閣の交替があったものとする。)との違いはどう説明されるものか。

安直にWikipediaでもって「加藤高明」及び「加藤高明内閣」について調べると,ネット上の賢者らは,1941年7月18日の第2次近衛内閣から第3次近衛内閣への交替の際においては「この時には辞表の差し戻しがなく」,又「辞表差し戻しが行われておらず,再度の首相拝命扱いとなっている」ものとしています。すなわち,1925年7月31日に捧呈された加藤高明内閣総理大臣の辞表は摂政宮裕仁親王から差し戻されたのに対して,1941年7月16日に捧呈された近衛文麿内閣総理大臣の辞表は昭和天皇から差し戻されることなくそのまま受理された,この点に両者の違いがあるのだ,ということのようです。

なるほど。

加藤高明内閣総理大臣の前例に係る『昭和天皇実録 第四』1925年8月2日の記載は,次のとおり。

 

・・・〔午前10時〕40分,内謁見所において加藤総理に謁を賜い,総理の辞表をお下げ戻しの上,閣僚人事の内奏を受けられる。1140分,狩ノ間において加藤総理侍立のもと親任式を行われ,内閣書記官長江木翼を司法大臣に,大蔵政務次官早速整爾を農林大臣に,内務政務次官片岡直温を商工大臣に任じられ,ついで留任閣僚の辞表を下げ渡される。(297298頁。下線は筆者)

 

辞表の提出だけでは内閣総理大臣辞職の効力は生じていなかったということでしょう。

「国務大臣の任免は,憲法上 天皇の大権事項に属する。従つて内閣総理大臣の罷免――内閣の退陣は,一に聖旨に存する。例へば内閣総理大臣が,闕下に伏して骸骨を乞ひ奉るが如き場合に於ても,其の之を聴許し給ふと否とは,全く天皇の御自由である。」とされていました(山崎326頁)。1925年7月31日に加藤高明内閣総理大臣は摂政宮裕仁親王に辞表を捧呈して骸骨を乞うたものの,聴許せられなかったということになるわけです。(なお,「骸骨を乞う」とは,三省堂『新明解国語辞典 第五版』によれば,「在任中,主君に捧げた身の残骸をもらい受ける意で,高官が辞職を願い出ること」とあります。)

それでは1941年7月18日の場合はどうであったのでしょうか。

まず,同15日,昭和天皇は「午後4時15分,内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜う。首相は,大本営政府連絡懇談会における日米諒解案の交渉継続の決定経緯を説明の上,昨14日夜,外相〔松岡洋右〕が自分の意向に反し,独断にて国務長官のオーラル・ステートメントに対する拒否回答のみを駐米大使に電訓したこと,さらに米国には未提示の日本側修正対案をドイツ側に内報する挙に出たことを問題視し,本日の閣議が終了した後,首内陸海四相協議の結果,外相更迭又は内閣総辞職との結論に至りし旨を奏上する。天皇は,外相のみ更迭の可否を御下問になり,首相より慎重熟慮の上善処する旨の奉答を受けられる。」という状況だったところ(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(2016年・東京書籍)429頁),同月16日の項には次のようにあります(同431頁・432頁)。

 

・・・午後4時15分,再び内大臣〔木戸幸一〕に謁を賜い,内閣が午後5時30分より臨時閣議を開き,総辞職を決定する旨の情報をお聞きになる。

・・・

午後9時頃,内閣総理大臣近衛文麿参邸〔葉山御用邸〕につき,謁を賜い,全閣僚の辞表捧呈を受けられる。首相に対し,何分の沙汰あるまで国務を執るよう仰せになる。・・・

 

同月17日には事態は次のように推移します(『昭和天皇実録 第八』432頁)。

 

午後3時30分,内大臣木戸幸一をお召しになる。内大臣より,本日午後1時,枢密院議長〔原嘉道〕及び首相経験者男爵若槻礼次郎・海軍大将岡田啓介・従二位広田弘毅・陸軍大将林銑十郎・同阿部信行・海軍大将米内光政が西溜ノ間に参集し,全員一致を以て公爵近衛文麿を後継首班に推薦した旨の言上を受けられる。・・・5時15分,参内の公爵近衛文麿内閣総理大臣に謁を賜い,内閣組織を命じられる。

 

そしていよいよ1941年7月18日。

 

午後4時23分,内大臣木戸幸一をお召しになり,組閣の状況を御聴取になる。7時13分,御学問所において公爵近衛文麿内閣総理大臣に謁を賜い,閣員名簿の捧呈を受けられる。御下問の後,閣員名簿を御聴許になる。ついで内大臣をお召しになり,閣員名簿の閲覧を許され,同30分,閣僚人事に関する内閣上奏書類を御裁可になる。8時50分,近衛をお召しになり,留任となる首相及び陸軍大臣東条英機・海軍大臣及川古志郎・文部大臣橋田邦彦・逓信大臣村田省蔵・農林大臣井野碩哉・国務大臣兼企画院総裁鈴木貞一の辞表を下げ渡される。9時,鳳凰ノ間において親任式を行われ,商工大臣豊田貞次郎海軍大将を外務大臣兼拓務大臣に,従三位勲二等田辺治通を内務大臣に,国務大臣小倉正恒を大蔵大臣に,海軍中将左近司政三を商工大臣に,逓信大臣村田省蔵を兼鉄道大臣に,陸軍軍医中将小泉親彦を厚生大臣に,内務大臣平沼騏一郎を国務大臣に,司法大臣柳川平助陸軍中将を国務大臣にそれぞれ任じられる。また,内閣総理大臣近衛文麿を兼司法大臣に任じられる。(『昭和天皇実録 第八』433434頁。下線は筆者)

 

「辞表差し戻しが行われておらず,再度の首相拝命扱いとなっている」ではなく,内閣総理大臣辞任の辞表は,骸骨は返さないよ留任だよと近衛文麿に下げ渡され,また,近衛は兼司法大臣に任じられてはいるものの改めて内閣総理大臣に任じられているものではありません。せっかくのWikipediaにおける理由付けではありましたが,なかなか成り立たないものであるようです。加藤高明内閣に係る1925年8月2日の前例どおり,1941年7月18日には第2次近衛内閣は一部閣僚の更迭はあったもののそのまま継続したものと取り扱うべきもののようではあります。山崎丹照法制局参事官は,その『内閣制度の研究』(1942年)の「附録」の「歴代内閣一覧表」において,加藤高明内閣は1925年8月2日の前後を通じて一つの内閣とする一方(附録16頁),1941年7月18日以前の内閣を「第二次近衛内閣」としつつ(附録26頁)同日以後の内閣を「所謂第三次近衛内閣」としていますが(附録27頁),ここに「所謂(いわゆる)」とあることに大いに注目すべきでしょう。

法制局参事官的な厳格な法制思考においては,「所謂第三次近衛内閣」は,実は法的には「第2次近衛内閣改造内閣」であるということであるようです。

それでは,なぜ「第三次近衛内閣」という呼称が生まれたのでしょうか。

1941年7月162315分の段階で,次のように勇ましい「政府発表」をしてしまったからでしょうか(山崎356頁)。

 

現内閣は昨夏大命を拝して以来閣内一致内外諸般の施策に最善の努力を致し来つたのであるが,変転極まりなき世界の情勢に善処してますます国策の遂行を活溌ならしめん為めには,先づ国内態勢の急速なる整備強化を必要とし,従つて内閣の構成も亦一大刷新を加ふるの要あることを痛感し,こゝに内閣総辞職を決行することゝなり,近衛内閣総理大臣は本日の臨時閣議に於て閣僚の辞表を取り纏め午後9時葉山御用邸に伺候して,之を御前に捧呈した。陛下より何分の沙汰あるまで国務を見よとの優諚を賜はつたので,近衛内閣総理大臣は恐懼して御前を退下し,待機中の各閣僚に報告した。(昭和16年7月17日 朝日新聞所載)

 

 閣内問題児である外務大臣一人を辞めさせることに手を焼いて,閣僚総出で「一緒に辞めよう」と偽装心中まがいの大げさな内閣総辞職をしたものの,お騒がせしましたが実は閣内痴話げんかの末の単なる内閣改造でしたではいかにも恰好が悪いので,これは「国内態勢の急速なる整備強化を必要とし,従つて内閣の構成も亦一大刷新を加ふるの要あることを痛感し,こゝに内閣総辞職を決行」した結果の新内閣なのだ,最早古い第2次近衛内閣ではないのだ,ヴァージョン・アップされ,「一大刷新」された「第三次近衛内閣」なのだ,と内閣自ら言い張ったのだということでしょうか。

 これに対して加藤高明としては,政友会の連中が何と言って騒ごうともやはり摂政宮殿下の信任は我にありなのだ,「護憲三派内閣」云々よりも先に飽くまで加藤高明内閣であって,それは一貫していたのだ,と自己規定した方が,元気が出たものではないのでしょうか。


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 荻外荘公園(東京都杉並区,202110月撮影)

 

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1 祭祀大権の摂政による代行に関する議論

 

  「天皇ハ我ガ有史以前ヨリ伝ハレル国家的宗教トシテノ古神道ニ於テ其ノ最高ノ祭主トシテノ地位ニ在マシ,親シク皇祖皇宗並歴代天皇及皇親ノ霊ヲ祀リ及天地神明ヲ祭ル,之ヲ祭祀大権ト謂フコトヲ得。祭祀大権ハ憲法ニモ皇室法ニモ何等ノ規定ナク,一ニ慣習法ニ其ノ根拠ヲ有スルモノナリ。祭祀大権ハ其ノ性質上輔弼ノ責ニ任ズルモノナキコトニ於テ其ノ特色ヲ有ス。」(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)188頁)

 

  「祭祀ハ一般国務及皇室ノ事務ノ外ニ之ト相並ビテ重要ナル天皇ノ大権ヲ為スモノナリ。」(美濃部205頁)

 

  「・・・歴史上の天皇は,何よりもまず,祭りをする人であり,この本質は,終始,天皇の宗教的権威の原基をなしてきた。敗戦後の日本国においても,天皇の最高祭司としての本質は不変であり,「祭祀大権」は,基本的には揺らいではいない。」(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)217頁)

 

 さて,この祭祀大権は,摂政が置かれたとき(現行憲法5条,大日本帝国憲法17条)にはどうなるか。摂政による祭祀大権の代行には制限はないのでしょうか。美濃部達吉は「摂政ガ天皇ヲ代表スルノ範囲ハ一切ノ大権ニ及ビ,国務上ノ大権ノ外皇室大権軍令大権及栄典大権モ亦等シク其ノ代行スル所ナリ。」と説いていますが(美濃部238頁),そこでは祭祀大権は,摂政によって代行されるものとして明示的に言及されていません。

摂政と祭祀大権との関係については,2016年7月21日付けの当ブログ記事「明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)に関して」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.htmlにおいて次のように記したところです。(なお,読みやすくするために段落分けしてあります。)

 

「皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは,摂政は,天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には前条第1項の規定〔「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」〕を準用する。」と規定する現行憲法5条を前提とすれば, 摂政は国事行為に係る代理機関にすぎず(また,「摂政は天皇ではないから,「象徴」としての役割を有しない。」とも説かれています(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)259頁)。)祭祀については困る,とあるいは更に反論できたのでしょうが, 大日本帝国憲法下では(その第17条2項は「摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ」と規定。『皇室典範義解』には「摂政は以て皇室避くべからざるの変局を救済し,一は皇統の常久を保持し,二は大政の便宜を疎通し,両つながら失墜の患を免るゝ所以なり。摂政は天皇の天職を摂行し,一切の大政及皇室の内事皆天皇に代り之を総攬す。而して至尊の名位に居らざるなり。」と説明されていました(岩波文庫147頁)。), 「祭祀ニ付テ」も「天皇ノ出御アルコト能ハザル場合ニ於テ摂政之ヲ代行スル」こととなっていました(美濃部239頁。ただし,「祭祀ニ付テ・・・皇室祭祀令ニハ天皇幼年ノ場合ニモ親ラ出御アルベキコトヲ定メ,以テ摂政ノ必ズシモ代行スル所ニ非ザルコト」が示されていたそうです(美濃部239頁)。確かに,皇室祭祀令(明治41年皇室令第1号)の附式には「天皇襁褓ニ在ルトキハ女官之ヲ奉抱ス」等の「注意」が記されています。)
 ちなみに,摂政令
(明治42年皇室令第2号)1条は「摂政就任スル時ハ附式ノ定ムル所ニ依リ賢所ニ祭典ヲ行ヒ且就任ノ旨ヲ皇霊殿神殿ニ奉告ス」と規定していました。これは,1909年1月27日の枢密院会議における奥田義人宮中顧問官の案文説明によれば,「其〔摂政〕ノ誠実ヲ表明スル為メ設ケタル規定」です。いずれにせよ,大日本帝国憲法下の摂政の制度は特殊なもので,同日の奥田宮中顧問官の説明においてはまた「然ルニ摂政ニツキテハ古来依ルヘキ例ナシ故ニ此ノ〔摂政令〕案ノミハ全ク新タニ出来タルモノト御承知ヲ乞フ」と述べられていました。
 なお,
19451215日のGHQのいわゆる神道指令後には天皇の「祭祀大権は全く失は」れ,宮中祭祀は「純然たる皇室御一家の祭祀」となって「皇室の家長たる御地位に於いて天皇の行はせらるる所」とされています(美濃部555頁)。皇室の家長の交代には,譲位が必要ということになるのでしょうか。

 

 以上の点に関して,園部逸夫博士は,現行憲法における摂政について,「摂政としての私的な行為」の存否いかんとの問題設定(「一つは,摂政にも摂政としての私的な行為があるとする考えである。・・・/他の一つは,摂政とは,国の機関としての地位のことであり,摂政としての私的な行為はそもそも存在しないとする考えである。・・・私的な行為については,摂政の地位にある皇族が皇族として私的に行うのであればともかく,摂政として私的に行うことは,摂政概念上あり得ないという立場である。」(園部逸夫『皇室法概論』(第一法規・2002年)149頁))の下に,宗教的色彩のある行為について,「こうした旧皇室令の登極令及び摂政令〔1条〕による儀式は,いずれも摂政の立場で行うことに意義があるとともに,宗教的色彩を有すると見られることは否定できない行為であり,これを両立させるためには,摂政に私的な立場があることを認めその上で摂政が私的立場で私的な行為として行うと解するか,摂政たる皇族に対して皇室として摂政たる皇族としての私的な地位・身分を付与し,それを便宜上摂政と称するものと解するか,が考えられるが後者はいかにも無理がある。/したがって,摂政が設置される事態が生じ,これらの儀式に当たる儀式を皇室の行事として行うような場合があれば,それは,摂政たる皇族が私的な立場で私的な行為として行うことになるが,それは事実上摂政である皇族が,天皇の御告文を奏し,また,自らの告文を奏することになるものと解される。」と論じています(園部151頁)。「摂政としての私的な行為」の存在を認めず(「摂政たる皇族」の「私的な行為」であるものとされていて,端的に「摂政としての私的な行為」が行われるものとはされていません。),かつ,「皇室として摂政たる皇族としての私的な地位・身分を付与」することも無理であるとしつつ,最後は「事実上」の解決に委ねるものとするということでしょうか。
 ところで,2016年7月21日付けの当ブログ記事における前記の記載はいわば学説の紹介にとどまるものであって,大日本帝国憲法下において,皇太子裕仁親王が大正天皇の摂政として天皇の事を摂行した際(
19211125日から19261225日まで)における具体的実例の紹介にまで及んでいないところに意に満たないところがありました。

 そこで今般,宮内庁の『昭和天皇実録 第三』(東京書籍・2015年)を入手し,皇太子裕仁親王の摂政就任当時の実例及び議論を調べてみたところをまとめたのが,このブログ記事です。

 それにしても,函入りで堂々たる装丁の本文989頁の書物が消費税額込みで2041円との値段は(古書店において1000円で売っているのも見かけました。),日本の20世紀についていささか内容と深みのあるかのごとき言説を行おうとする者に対して,『昭和天皇実録』の利用の回避という横着は許さないぞという価格設定ではあります。

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 昭和天皇記念館(東京都立川市) 

 

2 摂政宮裕仁親王による大正天皇の祭祀大権の代行

 

(1)光格天皇例祭(小祭)に当っての宮中における整理:「摂政は天皇に代わり祭祀を行うもの」とする。

 さて,『昭和天皇実録 第三』(以下「実録第三」)の19211212日の項によると,実は前月の皇太子裕仁親王の摂政就任後になってから初めて,摂政による祭祀大権の代行についての整理が行われたもののようです。

 

 この日光格天皇例祭につき,侍従徳川義恕が御代拝を奉仕する。これより先,本祭典は摂政御就任後初めての御親祭につき,宮内次官関屋貞三郎・宮内省参事官南部光臣・同渡部信・式部長官井上勝之助・式部次長西園寺八郎・掌典長九条道実・帝室会計審査局長官倉富勇三郎・内匠頭小原〔馬偏に全〕吉等関係高等官は数次にわたり協議を行い,摂政は天皇に代わり祭祀を行うものとし,摂政御拝礼実際は行啓中につき御代拝・皇后御拝礼の順とすること,摂政御拝礼なきときは,その御代拝が行われることなどを定める。(実録第三539頁)

 

光格天皇は大正天皇の4代前の天皇ですから(光格天皇,仁孝天皇,孝明天皇,明治天皇,大正天皇と続く。),その毎年の崩御日に相当する日には先帝以前3代の例祭の一として,天皇が皇族及び官僚を率いて(みずか)拝礼し掌長が祭典を行う祭が行われたものです(皇室祭祀令(明治41年皇室令第1号)21条,20条1項)。小祭に係る皇室祭祀令20条2項には「天皇喪ニ在リ其ノ他事故アルトキハ前項ノ拝礼ハ皇族又ハ侍従ヲシテ之ヲ行ハシム」とありますから,大正天皇に事故アルトキとして大正天皇の侍従が代拝をしたということでもよさそうなのですが(天皇が「親ラ拝礼」することが原則になっているので,天皇の親拝又は代拝は必須ということになります。),徳川侍従は行啓中の摂政宮裕仁親王の代拝を,皇后御拝礼に先立ってしたということになるようです。19211212日当日の摂政宮裕仁親王の行啓日程は,翌日の伊勢神宮での摂政就任奉告のため,朝静岡御用邸発,午後伊勢山田の神宮司庁着というものでした(実録第三538539頁)。

先帝以前3代の例祭は皇霊殿で行われ(皇室祭祀令25条1項),皇室祭祀令附式第2編皇霊殿ノ儀によると,天皇,皇后,皇太子,皇太子妃及び諸員の順で御拝礼及び拝礼があるべきもののようです。

しかしながら,「摂政は天皇に代わり祭祀を行う」という前記の結論に達するまでは,宮内省関係高等官中にも異論が多く侃々諤々(かんかんがくがく)であったようです。

 

ただし,摂政の権限は祭祀に及ばずとの解釈があり,あるいは摂政は明文ある場合の外は摂政として祭祀を行うべきではなく,また,摂政の班位は皇太子よりも下となるため,摂政として皇太子が祭祀に参列する場合は,皇后の次に拝礼すべきであり,摂政としての拝礼のほか皇太子としても拝礼を要するなどの異論もあり,『宮内省省報』には,御代拝の場合は単に御代拝の事実とその奉仕者のみを記し,その主体は摂政であるとも天皇であるとも明示せず。(実録第三539頁)

 

なかなかすっきりしていません。

なお,摂政の班位(席次)については,「皇族ノ班位ニ関シ,皇太子,皇太孫,又ハ皇后,皇太后,太皇太后ノ摂政タル場合ニ於テハ普通ノ例ニ依ルト雖モ,他ノ皇族ノ摂政タル場合ニ於テハ三后及皇太子又ハ皇太孫及其ノ妃ヲ除クノ外他ノ皇族ノ上ニ列セシム(皇族身位令5条)」るものだったそうです(美濃部240241頁)。皇族身位令(明治43年皇室令第2号)1条によれば,皇族の班位の順序は①皇后,②太皇太后,③皇太后,④皇太子,⑤皇太子妃,⑥皇太孫,⑦皇太孫妃,⑧親王親王妃内親王王王妃女王となっていました。皇族身位令5条の条文は「摂政タル親王内親王王女王ノ班位ハ皇太孫妃ニ次キ故皇太孫ノ妃アルトキハ之ニ次ク」というものでした。親王,内親王,王及び女王については,明治皇室典範31条は「皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ内親王トシ5世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス」と規定していました(なお,同典範57条は「現在ノ皇族5世以下親王ノ号ヲ宣賜シタル者ハ旧ニ依ル」と規定)。

 

(2)摂政による代行の例外:四方拝(歳旦祭(小祭)に先立ち行われる祭儀)

また,「摂政は天皇に代わり祭祀を行う」としても,天皇に専属するものであって摂政が代行すべきではないものとされた祭儀があります。元旦の四方拝です。『昭和天皇実録 第三』の1922年1月1日の項には次のようにあります。

 

摂政御就任後初めて新年を迎えられる。四方拝は執り行われず,歳旦祭の儀には,侍従原恒太郎が摂政御代拝を奉仕する。四方拝については従来,天皇に事故あるときは行わないとする説と,摂政が代わりに行うとする説との両説が存在し,一旦は実施と決定したが,その後,皇室祭祀令第23条第2項中「但シ天皇喪ニ在リ其ノ他事故アルトキハ四方拝ノ式ヲ行ハス」の規定に基づき,これを行わないこととなる。晴御膳もまた四方拝と同じく,天皇に専属する儀であり,摂政において摂行せらるべきものではないとされ,行われず。

(実録第三555頁)  

 

「四方拝は,元日早朝に天皇が諸神,諸陵を遥拝し,年災を祓い,五穀の豊饒,宝祚の長久,国家国民の安寧を祈る重儀」で,「古制では,陽気の発する正寅の刻(午前4時)に,(ぞく)(しょう)(北斗七星の一つ)を唱えて,天地四方を拝することから四方拝とよばれ,古代以来,天皇をはじめ,ひろく一般でも行われた年頭の儀式でした(村上96頁)。「天皇は,潔斎後,午前5時に綾綺(りょうき)殿に出御して,黄櫨(こうろ)(ぜん)(ほう)に着がえ,手水の儀ののち,侍従が脂燭(しそく)先導するなかを,午前5時30分,仮殿に出御する。天皇は,拝座で,皇大神宮,豊受大神宮を遥拝し,つぎに四方の天神地祇,神武天皇と先帝の各山陵,氷川,石清水,賀茂,熱田,鹿島,香取の各神社を順次拝礼するという。」とのことですから(村上9697頁),寒い冬の早朝から大変です。四方拝については,皇室祭祀令23条2項本文に「歳旦祭ノ当日ニハ之ニ先タチ四方拝ノ式ヲ行」うとあります。歳旦祭は1月1日に行われる小祭です(皇室祭祀令21条)。

晴御膳については,平田久の『宮中儀式略』(民友社・1904年)に次のような解説があります(28頁)。

 

(はれ)御膳(のおもの)は新年の御儀式中,1月1日2日3日の三ヶ日に,鳳凰之間に出御あらせられて此供進を聞食すなり。明治四年の比より行はせらるゝと云ふ。

謹案するに晴御膳は維新前の御儀式に,正月一日二日三日清凉殿の朝餉(あさかれひ)(御間の名)に出御あらせられて聞食す朝餉の御膳に当れり。此名称は維新前の節会に供進する御膳の中に,(はれ)御膳(のおもの)(わき)御膳(のおもの)などあるより出でたるものならんか。

 

(3)他の大祭・小祭

 

ア 賢所御神楽(小祭)

これより先19211215日には,賢所御神楽(みかぐら)の小祭(皇室祭祀令21条)がありましたが,同日摂政宮裕仁親王はなお行啓中(京都を発して静岡着)だったので,「侍従清水谷実英が御代拝を奉仕する。」ということになりました(実録第三542頁)。

 

イ 元明天皇千二百年式年祭(小祭)

1922年1月2日の元明天皇千二百年式年祭(皇室祭祀令21条の小祭。同令25条2項,10条1項)については,「侍従松浦靖が摂政御代拝を奉仕する。」ということでした(実録第三558頁)。皇太子裕仁親王がなお摂政に就任する前の1921年1月1日の歳旦祭(小祭)におけるような「皇太子御代拝を東宮侍従長入江為守が奉仕する。」(実録第三1頁)というものではありません。

 

ウ 元始祭(大祭)

1922年1月3日は,皇太子裕仁親王の摂政就任後最初の大祭である元始祭でした(皇室祭祀令9条)。

「大祭ニハ天皇皇族及官僚ヲ率ヰテ親ラ祭典ヲ行フ」ものとされ(皇室祭祀令8条1項),「天皇喪ニ在リ其ノ他事故アルトキハ前項ノ祭典ハ皇族又ハ掌典長ヲシテ之ヲ行ハシム」とされていました(同条2項)。小祭においては掌典長が祭典を行うところで天皇が親ら拝礼をするもの(皇室祭祀令20条1項)であるのに対して,大祭においては掌典長ではなく天皇が親ら祭典を行うものであるところに小祭と大祭との違いがあります。1922年1月3日,摂政宮裕仁親王は,

 

元始祭につき,午前9時30分,摂政の御資格にて御出門になる。綾綺殿にて御儀服にお召し替えの後,賢所へ御参進になる。このとき掌典長が前行し,侍従1名が御剣を奉じ,別の侍従1名が後ろに候す。内陣に御着座になり御拝礼,御告文を奏される。続いて皇霊殿・神殿にもそれぞれ御拝礼,御告文を奏される。

 

とあります(実録第三558頁)。「摂政の御資格にて」元始祭の祭典を行ったということでしょう。摂政就任前の1921年1月3日の元始祭では,皇太子裕仁親王は「元始祭につき賢所・皇霊殿・神殿に御拝礼」になっただけです(実録第三2頁)。

 なお,元始祭等の宮中祭祀については,2014年5月4日付けの当ブログの記事「国民の祝日に関する法律及び「山の日」などについて」において若干説明したところがありますので,御参照ください(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1002497213.html)。

 

エ 孝明天皇例祭(小祭)

 1922年1月30日は,小祭たる孝明天皇の例祭(皇室祭祀令21条)。摂政宮裕仁親王は,

 

 孝明天皇例祭につき,午前9時20分摂政の御資格にて御出門,皇霊殿に御拝礼になる。(実録第三575頁)

 

オ 紀元節祭(大祭)

 1922年2月11日は,大祭たる紀元節祭(皇室祭祀令9条)。

 

 午前9時35分,摂政特別鹵簿にて御出門,紀元節祭につき皇霊殿に参進し御拝礼,御告文を奏される。続いて御参内,豊明殿における紀元節宴会に御臨席になる。・・・午後零時45分終了,一旦還啓の後,紀元節御神楽の儀につき午後5時10分再び御出門,皇霊殿に御拝礼になる。(実録第三580頁)

 

鹵簿(ろぼ)とは,「行幸・行啓の行列。」とあります(『岩波国語辞典第四版』(1986年))。前年1921年の紀元節祭では,摂政就任前の皇太子裕仁親王は「紀元節祭の儀につき,皇霊殿において天皇御代拝に続き御拝礼」になっていました(実録第三13頁)。

 

カ 祈年祭(小祭)

 1922年2月17日は,小祭たる祈年祭(皇室祭祀令21条)。

 

 祈年祭につき,午前9時25分,摂政の御資格にて御出門,賢所・皇霊殿・神殿に御拝礼になる。(実録第三581582頁)

 

「古制の祭典である祈年祭は,イネの予祝祭に起源し,古代には,奉幣と神祇官での祭典が行われた。古来,宮中をはじめ各神社でも重要な祭典として行われており,伊勢神宮では,神嘗祭,新嘗祭と並ぶ大祭にさだめられた。皇室祭祀の祈年祭は,年穀の豊饒,産業の発展,皇室と国家の隆昌を祈る祭りとされ,2月17日を祭日としている」ものだそうです(村上97頁)。ただし,「実際に天皇による祈年祭の拝礼が行われたのは,1916年(大正5)2月17日が最初であるという。」とされています(村上98頁)。

 

キ 仁孝天皇例祭(小祭)

1922年2月21日は,小祭たる仁孝天皇例祭(皇室祭祀令21条)。

 

仁孝天皇例祭につき,午前9時25分摂政の御資格にて御出門,皇霊殿に御拝礼になる。終了後,還啓される。(実録第三583頁)

 

ク 春季皇霊祭・同神殿祭(大祭)

 1922年3月21日には,いずれも大祭である春季皇霊祭及び春季神殿祭がありました(皇室祭祀令9条)。

 

 春季皇霊祭・同神殿祭につき,午前9時30分,摂政の御資格にて御出門,皇霊殿・神殿にそれぞれ御拝礼,御告文を奏される。(実録第三595頁)

 

ケ 神武天皇祭(大祭)

 1922年4月3日,大祭たる神武天皇祭(皇室祭祀令9条)。

 

 神武天皇祭につき,午前9時35分,摂政の御資格にて御出門,皇霊殿に御拝礼,御告文を奏される。1035分御帰還になる。(実録第三601頁)

 

コ 昭憲皇太后例祭(小祭)

1922年4月11日は,明治天皇の皇后であった昭憲皇太后の例祭(皇室祭祀令21条の小祭)。

 

昭憲皇太后例祭につき,午前9時25分摂政の御資格にて御出門,皇霊殿に御拝礼になる。(実録第三607頁)

 

サ 明治天皇十年式年祭(大祭)

 1922年7月30日は,大祭たる明治天皇十年式年祭(皇室祭祀令10条2項,9条)の山陵の儀(同令18条)がありました。

 

 明治天皇十年式年祭山陵の儀につき,午前7時40分自動車にて大宮御所を御出門,8時10分桃山御陵所に御到着になる。参集所において皇后御名代の鳩彦王妃允子内親王及び恒憲王等と御対面の後,摂政の御資格にて御陵に御参進になり御拝礼,御告文を奏される。ついで非公式にて昭憲皇太后陵に御拝礼の上,大宮御所に還啓される。なお皇霊殿の儀,御神楽の儀には雍仁親王が摂政御名代として拝礼する。(実録第三691頁)

 

 皇室祭祀令18条には「神武天皇及先帝ノ式年祭ハ陵所及皇霊殿ニ於テ之ヲ行フ但シ皇霊殿ニ於ケル祭典ハ掌典長之ヲ行フ」とありました。摂政宮裕仁親王の1歳違いの弟である秩父宮(やす)(ひと)親王につてはこの年6月25日に成年式が行われ(満20年(明治皇室典範14条)),秩父宮の称号が与えられています(実録第三655656頁)。秩父宮雍仁親王は,明治天皇十年式年祭の前々日(同月28日)に陸軍士官学校を卒業したばかりでした(実録第三690頁)。前年1921年の明治天皇祭においては,欧洲訪問の帰途アデン湾を航行する御召艦香取艦上にあった摂政就任前の皇太子裕仁親王のために「東宮侍従本多正復が御代拝を奉仕」しています(実録第三430頁)。

 朝香宮鳩彦(やすひこ)王妃の允子(のぶこ)内親王は,大正天皇の異母妹。Art décoの朝香宮邸は,現在,東京都庭園美術館(東京都港区白金台)となっています。

 賀陽(かや)宮恒憲王は,掌典長の公爵九条道実の娘である敏子と前年1921年5月3日に結婚していますが(実録第三112頁),九条道実の妹・節子(さだこ)こそが,摂政宮裕仁親王の母たる大正天皇の皇后(貞明皇后)なのでした。

 

シ 天長節祭(小祭)

 1922年8月31日は,大正天皇の天長節祭の小祭でした(皇室祭祀令21条)。

 

 午前7時50分東宮仮御所御出門,上野駅8時10分発の列車にて日光田母沢御用邸に行啓される。正午御到着。天皇・皇后に御拝顔の後,天長節の内宴に御臨席になり天皇・皇后並びに昌子内親王と御会食,宮内大臣牧野伸顕以下側近高等官に御陪食を仰せ付けられる。なお,去る26日カムチャッカ沖において軍艦新高遭難につき,軍楽隊による奏楽は君が代1回に止められる。午後2時30分より御用邸内御馬場において,天皇・皇后・昌子内親王と御同列にて近衛兵による乗馬戦その他の催しを御覧になる。・・・

 天長節につき,侍従松浦靖が賢所・皇霊殿・神殿への摂政御代拝を奉仕する。(実録第三702703頁)

 

 大正天皇の天長節でありますが,祭祀としては,摂政宮皇太子裕仁親王について,皇太子のための代拝(摂政就任前の1921年の代拝者は東宮侍従牧野貞亮(実録第三445頁))ではなく摂政のための代拝がされています。

 昌子内親王は,大正天皇の異母妹で,竹田宮恒久王に嫁しました。

 

ス 秋季皇霊祭・同神殿祭(大祭)

 1922年9月24日,大祭である秋季皇霊祭・同神殿祭(皇室祭祀令9条)。

 

 秋季皇霊祭・同神殿祭につき,午前9時30分摂政の御資格にて御出門,皇霊殿・神殿に御拝礼になり,御告文を奏される。(実録第三711頁)

 

 前年1921年9月23日の秋季皇霊祭・同神殿祭においては,なお摂政に就任していない皇太子裕仁親王は「天皇御代拝に続き皇霊殿・神殿に御拝礼」になっていたところです(実録第三481頁)。

 

セ 神嘗祭(大祭)

 19221017日,大祭である神嘗祭(皇室祭祀令9条)。

 

 神嘗祭につき,午前9時30分摂政の御資格にて御出門,神嘉殿南庇に設けられた御座より神宮を御遥拝になり,ついで賢所に御拝礼,御告文を奏される。1045分還啓になる。(実録第三728頁)

 

前年1921年の神嘗祭では,摂政就任前の皇太子裕仁親王は「賢所に行啓され,天皇御代拝,皇后御拝礼についで御拝礼」になっていました(実録第三495頁)。

 

ソ 1922年の新嘗祭(大祭)

 さて,19221123日の新嘗祭。

「天皇の宗教的権威は,イネの祭りの新嘗祭(にいなめさい)に淵源している。新嘗祭は,古代から現在にいたるまで,つねに天皇の祭祀の中心であり,天皇の即位にさいしては,新嘗祭の大祭である大嘗祭(だいじょうさい)が,一代一度の祭典として挙行される。」といわれ(村上1頁),「新嘗祭は,皇室神道にとって最重要の祭典」です(村上14頁)。「本来の新嘗祭は,穀霊ないしムスビの神と王が一体化する儀礼であったのであろう。」とされ,「穀霊は,一般に生産する力,生殖する力をそなえた女性の霊格とされるから,新嘗祭の祭司をつとめることをもっとも重要な宗教的機能とする天皇は,終始,男帝を原則とし,女帝は例外的な存在にとどまったであろう。」ともいわれています(村上19頁)。

ところが,192211月,摂政宮裕仁親王は,香川県における特別大演習統裁のため同月12日東京を出発(実録第三742743頁),同月14日高松着(実録第三744頁)。軍事に係る当該特別大演習の日程は同月19日をもって終了したものの,同月20日からは「皇太子の御資格による南海道行啓」が続きました(実録第三750751頁)。同月22日に松山市内に入り,御泊所久松伯爵別邸に御到着(実録第三755頁)。そして,同月23日。

 

新嘗祭につき,午後9時15分御遥拝を行われる。また東宮侍従牧野貞亮を天皇・皇后への御使として宮城に差し遣わされる。この日は終日御泊所に御滞留になり,朝融王,元東宮職出仕久松定孝及び供奉員等を御相手に,ビリヤード・将棋等にて過ごされる。(実録第三756頁)

 

21歳の青年らしい,旅先での滞留日の過ごし方というべきでしょうか。しかしながら,「摂政は天皇に代わり祭祀を行う」にもかかわらず,「天皇の祭祀の中心」である「皇室神道にとって最重要の祭典」たる新嘗祭に対して御遥拝で済ますとは,いささか淡泊であるようでもあります。

久邇宮(あさ)(あきら)王は,摂政宮裕仁親王と同年の1901年生まれ,後の香淳皇后となる良子(ながこ)女王の兄。久松定孝は,摂政宮裕仁親王の学習院初等学科・東宮御学問所時代の学友。同年代の若者3人で遊んで,随分楽しかったことでしょう。
 なお,この日にはまた,23年後に昭和天皇の聖断の下内閣総理大臣としてポツダム宣言を受諾することとなる鈴木貫太郎呉鎮守府司令長官も久松伯爵別邸を訪れています(実録第三756頁)。 

 

3 1923年の新嘗祭まで

 

(1)麻疹

四国及び和歌山県の南海道行啓から,摂政宮裕仁親王は192212月4日に東京に還啓しました(実録第三772頁)。

摂政宮裕仁親王は,畏るべきいわゆるパワー・スポットたる香川の金刀比羅宮(19221118日),同じく香川の崇徳天皇白峯陵(同月20日),更に淡路島の淳仁天皇陵(同月30日)をきちんと訪れたのですが(実録第三748頁,751頁,767頁),『昭和天皇実録 第三』の帰京後19221212日の項はいわく(776頁)。

 

近来御鼻塞の症状があり,去る9日よりアスピリンを服用され,11日には吸入を行われるものの,次第に御風気様の症状が増し,この日午前7時30分の検温では御体温が39度に達したことから,御仮床に就かれる。正午には39度7分まで御体温が上昇する。

 

御違例です。同日の光格天皇例祭については「侍従加藤泰通に御代拝を仰せ付けられる。」ということになりました(実録第三776頁)。

13日には発疹が確認され,麻疹(はしか)と診断されました(実録第三776頁)。同日午後8時には体温が40度9分にまで上昇(実録第三776頁)。はしかといっても子供ばかりがかかるわけではありません(ただし,最近の我が国でははしかはほとんど見られなくなりました。)。御違例は長引きました。摂政宮裕仁親王の内々の御床払は1923年1月19日,正式の御床払は同月22日となりました(実録第三782頁,783頁)。その後も,同月25日から沼津で静養となり(実録第三787頁),東京の東宮仮御所への御帰還は実に同年3月20日となりました(実録第三802頁)。

 

(2)北白川宮成久王の自動車事故死事件

1923年4月1日には,パリ滞在中の北白川宮成久王がノルマンディー方面に向けて自動車を自ら運転中,パリから約134キロメートルの地点で先行車を追い抜いた際路側の並木のアカシアに自動車を衝突させてしまって薨去し,同乗の成久王妃房子内親王(大正天皇の異母妹)及び朝香宮鳩彦王も重傷を負うという事故が発生します(実録第三810頁)。摂政宮裕仁親王による同月3日の神武天皇祭の御拝礼は取り止め,九条道実掌典長が御代拝を奉仕ということになりました(実録第三810頁)。

 

(3)台湾行啓に際しての水兵殉職

1923年4月13日の金曜日,熊野灘において,御召艦金剛で台湾に向かう摂政宮裕仁親王の供奉艦比叡(なお,旗艦は霧島)から三等水兵松尾与作が海中に転落,救助することはできませんでした(実録第三817818頁)。

 

(4)潜水艦沈没事故

1923年8月21日には,神戸川崎造船所で竣工した第70潜水艦が淡路仮屋沖において試験航行中沈没し,海軍側・造船所側の乗員計八十余名が殉職しました(実録第三911頁)。

 

(5)現職内閣総理大臣加藤友三郎の死

1923年8月24日,現職の内閣総理大臣である海軍大将加藤友三郎が死亡し(ただし「危篤」ということにされた。),翌25日,同日死去と発表されました(実録第三911912頁)。

 

(6)関東大震災

そして1923年9月1日,関東大震災。皇族では,山階宮武彦王妃佐紀子女王,東久邇宮師正王及び閑院宮(こと)(ひと)親王の四女である寛子女王がいずれも建物倒壊のため薨去しました(実録第三918頁)。帝都大荒廃。(「其ノ震動極メテ峻烈ニシテ家屋ノ潰倒男女ノ惨死幾万ナルヲ知ラス剰ヘ火災四方ニ起リテ炎燄天ニ冲リ京浜其ノ他ノ市邑一夜ニシテ焦土ト化ス・・・流言飛語盛ニ伝ハリ人心洶々トシテ倍々其ノ惨害ヲ大ナラシム」「朕前古無比ノ天殃ニ際会シテ卹民ノ心愈々切ニ寝食為ニ安カラス」(同月12日の詔書(実録第三929頁,930頁))。なお,更に同年1110日には国民精神作興の詔書が発せられています(実録第三962964頁)。)

 

(7)御婚儀延期

1923年9月19日には,同年秋の予定だった摂政宮皇太子裕仁親王と久邇宮良子女王との御婚儀が翌年まで延期される旨が発表されました(実録第三937頁)。

 

(8)1923年の新嘗祭

しかして,19231123日の新嘗祭。

 

新嘗祭当日につき,御座所は朝より清められ,新しい卓子・椅子が設けられ,皇太子は只管お慎みになる。午後4時過ぎ御入浴・御斎戒,陸軍通常礼装に召し替えられ,5時30分赤坂離宮御出門,摂政通常鹵簿にて賢所に行啓される。綾綺殿にて斎服を召され,6時15分神嘉殿に御参進,夕の儀を執り行われる。式部長官井上勝之助前行,次に侍従松浦靖・同岡本愛祐が脂燭をり左右に前行,侍従原恒太郎が壺切御剣を奉じて御後に従い,続いて侍従長徳川達孝・侍従本多正復が候す。一旦隔殿の座に御着座になり,神饌行立の後本殿の座に御参進,神饌を御供進になり,終わって御拝礼,御告文を奏される。雍仁親王・載仁親王以下参列の皇族・王族及び諸員の拝礼,神饌退下の後,一旦御退出になる。午後11時より再び神嘉殿に御参進,暁の儀を執り行われ次第夕の儀に同じ,午前1時10分賢所御発,御帰還になる。(実録第三969970頁)

 

1年前に松山において仲間らとビリヤード・将棋三昧で過ごした楽しい一日とは打って変わって,「皇太子は只管(ひたすら)お慎みになる。」とわざわざ特記されています。21歳から22歳にかけての若き摂政宮裕仁親王にとって,その間多端多難な1年があったのでした。初の新嘗祭の祭典執行を終えた翌日の19231124日,疲れの出たゆえか,摂政宮裕仁親王は「軽微の御風気のため定例御参内はお取り止め」となりました(実録第三970頁)。

 

4 つけたり:「摂政」の読み方について

 ところで,摂政を「せつしょう」と読むのは,「政」について呉音読みになります。漢音読みでは「せつせい」のはずです。明治10年代以降は公文書の世界は基本的に漢音が支配することになっていたのですから(20131210日付けのプログ記事「大審院の読み方の謎:呉音・漢音,大阪・パリ」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1611050.html参照),井上毅らが大日本帝国憲法及び明治皇室典範の「義解」を「ぎかい」と読んでいたのならば,「摂政」はあるいは「せつせい」と読まれていたかもしれません。

しかしながら,「摂政」の読み方についても,皇太子裕仁親王が実際に摂政に就任した翌月の19211215日になってから後付け式に正式通告されています。

 

この日宮内省は,「摂政」を「セツシヤウ」と訓読すること・・・を内閣・枢密院等に通告する。(実録第三542頁)

 

 大日本帝国憲法及び明治皇室典範の下の摂政は「摂政ニツキテハ古来依ルヘキ例ナシ」ということだったそうですが,明治天皇幼時の摂政であった二条(なり)(ゆき)に至るまでの過去の日本史上における摂政を含めていずれも「せつしょう」と読むことになったわけです。

 なお,Regentの語源はラテン語のregereであって,regnareではないそうです。

 

 弁護士 齊藤雅俊
 

 大志わかば法律事務所

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1 「譲位の慣例を改むる者」の強行規定性の有無

 明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)に関する前回のブログ記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.html)においては,同条に関する伊藤博文の『皇室典範義解』の解説(「本条に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はるゝ者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」(宮沢俊義校註『憲法義解』岩波文庫(1940年)137頁))をもって,同条及び現在の皇室典範(昭和22年法律第3号)4条には「天皇の生前譲位を排除する趣旨」があるものとあっさり記しました。しかしながらよく考えるとその先の問題として,「譲位の慣例を改むる」ことによって,実際に天皇が「退位」した場合(「・・・花山寺におはしましつきて御髪おろさせたまひ・・・」)に退位によってもはや天皇ではなくなるという法律効果までも無効になるものかどうか,なお議論の余地があるようです。

(なお,「譲位」というと皇嗣に皇位を譲るという先帝の意思の存在及び更には当該先帝の意思と皇位を譲られる皇嗣の意思との合致が含意されるようでもありますが,「退位」ならば先帝の単独の行為であり,かつ,皇嗣に皇位を譲る効果意思を必ずしも含まないものとするとのニュアンスがより強いようです。美濃部達吉は「皇位ノ継承ハ法律行為ニ非ズシテ法律上当然ニ発生スル事実ナリ」と述べていますが(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)183頁),皇位継承は天皇の効果意思に基づくものではないということでしょう。)

譲位を慣例とはしないということのみであれば,「例外的」譲位は有効にあり得るようにも思われます。明治皇室典範の性格に関して『皇室典範義解』は「祖宗国を肇め,一系相承け,天壌と与に無窮に垂る。此れ(けだし)言説を仮らずして既に一定の模範あり。以て不易の規準たるに因るに非ざるはなし。今人文漸く進み,遵由の路(かならず)憲章に依る。而して皇室典範の成るは実に祖宗の遺意を明徴にして子孫の為に永遠の銘典を(のこ)す所以なり。」と説いていますが(岩波文庫127頁),従来多くの天皇が行った生前譲位を有効と認める以上は,生前譲位は「不易の規準」に反して本来的に無効であるということにはならないでしょう。そもそも明治皇室典範については「既に君主の任意に制作する所に非ず。」とされていますから(『皇室典範義解』岩波文庫127頁),従来有効であった生前譲位ないしは退位を明治天皇の「任意に制作する所」の強行規定をもって1889年2月11日以降無効化したとまでいい得るものでしょうか。『皇室典範義解』の説明文は,退位の有効性を前提としつつも,あえて生前に退位はしないという「上代の恒典」への運用の復帰を求めているものというようにも解することができそうです。そう考えて明治皇室典範10条を見ると,確かに同条の文言自体は,それだけで退位有効論を完全に排除するものとまではいえません。また,現在の皇室典範の法案が審議された1946年12月の第91回帝国議会においても,政府は天皇の「退位」はおよそ無効であるとまでは答弁していません。同議会における金森徳次郎国務大臣の答弁の言葉尻を見てみると,「・・・天皇に私なし,すべてが公事であるという所に重点をおきまして,御譲位の規定は,すなわち御退位の規定は,今般の典範においてこれを予期しなかった次第でございます。」(第91回帝国議会衆議院議事速記録第6号67頁),「・・・かような〔天皇の〕地位は,その基本の原則に照して処置せらるべきものでありまするが故に,一人々々の御都合によつてこれをやめて,たとえば御退位になるというような筋合いのものではなかろうと思うのであります」(同議会衆議院皇室典範案委員会議録(速記)第4回20頁),「退位の問題につきましては,相当理論的にも実際的にも考慮すべき点が残されておるように思うのでありまして・・・」(同26頁),「・・・或はお叱りを受けるか知りませんが,まずそういう場面〔「天皇が自発的に退位されたいという場合」,「天皇が希望される婚姻をどうしても皇室会議が承認できないというような場合」〕が起らないように,適当に事実が実質において調節せらるゝものであろうということを仮定をして,この皇室典範ができておるわけでありまして・・・」(同33頁),「・・・しかして国民はかような場合におきまして,御退位のあることを制度の上に書くことは希望していない,かように考えます」(同33頁),「事実としてそういう考え〔「象徴の地位におられることを欲しないという精神作用」〕が起るかどうかということにつきましては,歴史の示す所は,事実としてかような考えが起つておることを認め得るがごとくであります,しかし事実ではない,かくあるべきものとしての姿としてそれを認めるかどうかということになりますれば,私自身の見解から言えば,日本の皇位は万世一系の血統を流れるものである,しかもそれは一定の原理に従つて流れるものであるということを前提として,憲法はこれを掲げております,従つてそれを打切ることはできないものであると,かように考えております」(34頁),「・・・細かい理窟を抜きに致しまして,国民は矢張り御退位を予想するやうな規定を設けないことに賛成をせらるゝのではなからうか,斯う云ふ前提の下に皇室典範の起草を致しました・・・」(同議会貴族院議事速記録第6号88頁)等々,生前退位はあるべきものではないとしつつ,そこから先は,「予期しなかった」ということで,必ずしも詰めてはいなかったようです。 

 

2 1887年3月20日の高輪会議再見

 伊藤博文,井上毅,柳原前光らの1887年3月20日の高輪会議(憲法案に係る同年1015日のものとは異なります。)において柳原前光の「皇室典範再稿」12条(「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」)が削られるに至った過程について,前回のブログでは,伊藤博文の削るべしとの首唱に柳原が「迎合」したと書きました。しかしながら,柳原前光は,何の考えもなしに伊藤に対して単純に迎合したわけではなかったようです。

柳原は「但書ヲ削除スルナレハ寧ロ全文ヲ削ルヘシ」と言っています。肥後人井上毅の「人間だもの」論(「至尊ト(いえども)人類ナレハ其欲セサル時ハ何時ニテモ其位ヨリ去ルヲ得ベシ」)くらいでは生前退位を排除しようとする長州藩の足軽出身の権力者・内閣総理大臣伊藤博文の翻意は無理と見て取った京都の公家出身の柳原は,「但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」として退位を容認することとしていたただし書のみならず,「天皇ハ終身大位ニ当ル」として終身在位を制度化する本文も併せて削られることを確保することとして,生前退位容認論と終身在位制度化論との間での法文上でのいわば相討ちを図ったのではないでしょうか。

高輪会議後の1887年4月25日に伊藤に提出された柳原の「皇室典範草案」では,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」との高輪会議決定案10条が二つの条に分割され,当該「皇室典範草案」を検討して井上毅が作成した「七七ヶ条草案」においても「第10条 天皇崩スル時ハ皇嗣即チ践()ス」及び「第11条 皇嗣践()スル時ハ祖宗ノ神器ヲ承ク」とされ崩御による践祚についての規定と践祚の際(先帝の崩御によるものに限定はされていません。)の剣璽渡御についての規定との別立て維持されていました。結局両条は再統合されますが,生前退位容認論者であったの立法技術的操作には,それなりの含意があったというべきでしょう。
 なお,「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」と規定する大日本帝国憲法2条に関する『憲法義解』の解説は,「恭て按ずるに,皇位ノ継承ハ祖宗以来既に明訓あり。以て皇子孫に伝へ,万世易ふること無し。若夫継承の順序に至つては,新に勅定する所の皇室典範に於て之を詳明にし,以て皇室の家法とし,更に憲法の条章に之を掲ぐることを用ゐざるは,将来に臣民の干渉を容れざることを示すなり。」というものです(岩波文庫25頁。下線は筆者によるもの)。井上毅が書いたものとして,新たな明治皇室典範は専ら皇位「継承の順序」を「詳明」にすべきものであって,継承の原因等は依然「祖宗以来」の「明訓」のままでよいのだという趣旨まで深読みしてよいものかどうか。はてさて。 


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 東京都港区高輪四丁目の伊藤博文高輪邸宅地跡(1889年,岩崎久弥に売却)
 

3 『皇室典範義解』の拘束力の射程

 現在の皇室典範4条の文言(「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」)は,剣璽渡御に関係する明治皇室典範10条後段を削ったことによって,むしろ井上毅の「七七ヶ条草案」10条と対応するものになっています。(なお,法文からは削られたもののやはり必要な儀式ということでしょうが,今上天皇践祚に当たって「剣璽等承継の儀」が新天皇の国事行為として行われています。これは先帝が崩じたから伝統的な意味での践祚をするために行われたものか,皇嗣が既に「直ちに即位」したから行われたものか。)

明治皇室典範10条に係る『皇室典範義解』の解釈に過度に拘束されずに,現在の皇室典範4条は,単に「皇位ノ継承ハ法律行為ニ非ズシテ法律上当然ニ発生スル事実」であること(また,「皇位の一日も曠闕すべからざる」こと(『皇室典範義解』岩波文庫137頁)),皇位継承に新天皇の宣誓(例えば,1831年のベルギー国憲法80条2項は「国王は,両議院合同会の前で,厳粛に次の宣誓をするまでは,王位につくことができない。/「余は,ベルギー国民の憲法および法律を遵守し,国の独立および領土の保全を維持することを誓う。」」と規定していました(清宮四郎訳『世界憲法集 第二版』(岩波文庫・1976年)89頁)。)は不要であるということ,先帝崩御は皇位継承をもたらす一つの法律事実であること,を意味するものにすぎないと解することは可か不可か。

 大日本帝国憲法と『憲法義解』との関係について,小嶋和司教授は,「『憲法義解』は法源ではないが,政府の憲法解釈を拘束した」が,大日本帝国憲法の「わずか4人の起草関係者の間に存した・・・解釈の対立は,それが法の指示においてさえ完璧でなかったことを断定せしめる」ところ,「今日,明治憲法典の起草趣旨を簡単に知る方法として『憲法義解』の参照がおこなわれる」が「しかし,それが叙述しないか,叙述を不明確にしている場合に,起草者は問題を知らなかったとか看過したと断定してはならない。それ〔は〕学問的には怠惰な即断となる」と述べています(小嶋和司「明治二三年法律第八四号の制定をめぐって」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)441頁,440頁)。明治皇室典範ないしは現在の皇室典範と『皇室典範義解』との関係も,同様に考えるべきでしょう。そう簡単ではありません。ちなみに,『皇室典範義解』における明治皇室典範10条解説の結語である「本条に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はるゝ者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」は,高輪会議の前月である1887年2月段階における井上毅の「皇室典範」案13条の「説明」案に「本条ハ実ニ上代ノ恒典ニ因リ断シテ中古以来ノ慣例ヲ改ムル者ナリ」とあったものを(園部逸夫『皇室法概論』(第一法規・2002年)438頁参照)承けたものでしょう。しかしながら,当の井上自身は当該理由付けをもって例外を許さないほど強いものとは評価していなかったところです。その上記「皇室典範」案13条は生前譲位についても定めているのです。いわく,「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ノ重患アルトキハ皇位継承法ニ因リ其位ヲ譲ルコトヲ得」と(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』185‐186頁参照)。明治皇室典範10条に関する『皇室典範義解』の解説について奥平康弘教授は「譲位制度はよろしくなく,「上古ノ恒典」に戻るべきであるとする説明に『皇室典範義解』は,十分に成功していないというのが,私の印象である。」と述べていますが(同「明治皇室典範に関する一研究―「天皇の退位」をめぐって―」神奈川法学第36巻第2号(2003年)159頁),当該「印象」は,井上毅の立場からすると,むしろ正しい読み方に基づくものということになるのかもしれません。

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 東京都台東区谷中の瑞輪寺にある井上毅の墓

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 「病弱な井上は,その後〔1893年・第2次伊藤内閣〕文部大臣にもなったが,明治28年〔1895年〕に逝去し,はやく忘れられた。」(小嶋「明治二三年法律第八四号」442頁)

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 瑞輪寺山門の扁額は井上毅の揮毫したもの 

 
4 英国における特別法による国王退位

 しかしながら,事実として,国王による単独の法律行為としての退位は無効であるとする法制は可能ではあります。

英国がその例です。

エドワード8世は,19361210日に退位声明を発しましたが(いわゆる「王冠を賭けた恋」事件),当該退位が効力を発するためには議会及び国王による同月11日の立法を要しました。次に,19361211日の「国王陛下の退位宣言に効力を与え,及び関連する事項のための法律(An Act to give effect to His Majesty’s declaration of abdication; and for purposes connected therewith.)」を訳出します。

 

  国王陛下は,本年1210日の勅語(His Royal Message)において陛下御自身及びその御子孫のために王位を放棄する不退転の御決意(irrevocably determined)である旨声明あそばされ,並びに当該目的のために本法の別記に掲載された退位詔書(Instrument of Abdication)を作成され,並びにそれに対して効力が直ちに与えられるべき旨の御要望を表明されたところ,

  並びに,国王陛下の前記声明及び要望の海外領土に対する伝達を承け,カナダは1931年のウェストミンスター憲章第4節の規定に従い本法の立法を要求しかつそれを承認し,並びにオーストラリア,ニュー・ジーランド及び南アフリカはそれに同意したところ,

  よって,至尊なる国王陛下により,現議会に召集された聖俗の貴族及び庶民の助言及び承認によりかつそれらと共に,並びに現議会の権威により,次のように立法されるべし。

  1(1)本法が裁可されたときに,現国王陛下が19361210日に作成した本法の別記に掲載されている退位詔書は直ちに効力を発し,並びにそれに伴い国王陛下は国王ではなくなり(His Majesty shall cease to be King),及び王位継承(a demise of the Crown)が生じ,並びにしたがって次の王位継承順位にある王族の一員が王位並びにそれに附随する権利,特権及び栄誉を承継する。

  (2)国王陛下の退位後には,陛下,もし誕生があればそのお子及び当該お子の子孫は,王位の継承において又はそれに対して何らの権利,権原又は利益を有さず,並びに王位継承法(Act of Settlement)第1節はそれに応じて読み替えられるものとする。

  (3)御退位後には,1772年の王室婚姻法は,陛下にも,もし誕生があれば陛下の子又は当該子の子孫にも適用されない。

  2 本法は,1936年の国王陛下退位宣言法(His Majesty’s Declaration of Abdication Act, 1936)として引用されることができる。

 

  別記

  

  余,グレート・ブリテン,アイルランド及び英国海外領土の王,インド皇帝であるエドワード8世は,王位を余自身及び余の子孫のために放棄する余の不退転の決意並びにこの退位詔書に直ちに効力が与えられるべしとの余の要望をここに宣言する。

  上記の証として,下記署名に係る証人の立会いの下,19361210日,ここに余が名を記したるものなり。

                           国王・皇帝 エドワード

  アルバート

  ヘンリー

  ジョージ

  の立会いの下,フォート・ベルヴェデールで署名

 

なお,英国の1689年の権利章典は,「ウエストミンスタに召集された前記の僧俗の貴族および庶民は,次のように決議する。すなわち,オレンヂ公および女公であるウィリアムとメアリは,イングランド,フランス,アイルランド,およびそれに属する諸領地の国王および女王となり,かれらの在世中,およびその一方が死亡した後は他の一方の在世中,前記諸王国および諸領地の王冠および王位を保有するものとし,かつその旨宣言される。王権は,公および女公双方の在世中は,王権は〔ママ〕,公および女公の名において,前記オレンヂ公が単独かつ完全に行使するものとし,公および女公ののちは,前記の諸王国および諸領地の王冠および王位は,女公の自然血族たる直系卑属の相続人に伝えられ」,「王権および王政は,両陛下とも在世のうちは,両陛下の名において,国王陛下のみによって,完全無欠に行使さるべきこと。両陛下とも崩御されたのちは,前記王位および諸事項は,女王陛下の自然血族たる直系卑属に帰すべきこと。」と規定しています(田中英夫訳『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)83‐84頁,86‐87頁)。議会によって,「在世中」(during their lives)は王位にあるべきもの(to hold the crown and royal dignity)とされ,法律となっています。
 エドワード8世の退位問題には昭和天皇が深い関心を持っていました。宮内庁の『昭和天皇実録第七』(東京書籍・2016年)の1936年12月4日の項には「侍従長百武三郎に対し,新聞報道されている英国皇帝エドワード8世に関する件につき,外務省とよく連絡を取り報告するよう命じられる。後刻,侍従長より,本日英国駐箚特命全権大使よりもたらされた情報として,同皇帝が米国人ウォリス・シンプソンとの御結婚に固執のため内閣と衝突状態にある旨の言上を受けられる。翌日午後,侍従長より,英国首相スタンリー・ボールドウィンの憲法上の理由により御結婚に反対する旨の声明につき言上を受けられる。また8日にも侍従長より,外務省からの情報の言上を受けられる。なお,エドワード8世は皇位放棄を決意され11日に御退位,皇弟ヨーク公がジョージ6世として皇位に就かれる。」とあります(240‐241頁)。立憲君主とその内閣とが衝突すれば,君主が引っ込まざるを得ないということでしょうか。ボールドウィンは,同月10日の英国庶民院における演説において"We have, after all, as the guardians of democracy in this little island to see that we do our work to maintain the integrity of that democracy and of the monarchy, which, as I said at the beginning of my speech, is now the sole link of our whole Empire and the guardian of our freedom."と述べています。『昭和天皇実録第七』の同月11日の項においては「午前,侍従長百武三郎が入手した英国皇帝エドワード8世の御退位に関する英国駐箚特命全権大使の電報を御覧になり,侍従長に対し,同皇帝御退位に関して発する電報の内容につき,式部職と連絡し処理するよう命じられる。13日,英国大使より外務省を経て新皇帝即位の公報到達につき,新皇帝ジョージ6世に対し祝電を御発送になる。なお,前皇帝御退位については触れられず,新皇帝即位に対する祝意のみを伝えられる。15日,答電が寄せられる。」と記録されています(244‐245頁)。

 

5 ベルギー国における憲法に規定のない国王退位の実例

大日本帝国憲法がその手本の一つとしたベルギー国憲法においては,明治皇室典範(及び現行の皇室典範)同様に崩御による王位継承に関する条項しかないにもかかわらず,同国においては国王の生前退位が認められています。

リエージュ大学教授クリスチャン・ベーレント(Christian Behrendt)及び同大学准教授フレデリック・ブオン(Frédéric Bouhon)の『一般国法学入門・教科書(Introduction à la Théorie générale de l’État. Manuel)』(Larcier, 2009年)には次のようにあります(138頁)。こちらの国では,国王の退位を有効ならしめるための立法までは必要としないようです。

 

 ベルギー法においては,国王の公的生活に係る全ての行為は,大臣副署の義務に服する。純粋に私的な行為のみが当該憲法規律に服さないところである。公的生活においては,退位が,大臣副署なしに国王が実現できる唯一の行為である。ベルギーの歴史において,レオポルド3世が,退位した(1951年7月16日)唯一の〔2013年7月21日のアルベール2世の退位前の記述です。〕国王である(註)。ベルギー国憲法が国王に対して退位する権利を明示的に認めていないとしても,そこでは条文の沈黙の中においても存在する権能(faculté)が問題となっていると考えることについて意見は一致している。もはや彼の務めを果たそうという気を全く失っている人物,又は――レオポルド3世が退く前がそうであったように――叛乱の雰囲気を醸成し,及び本格的内乱のおそれが国家の上に漂うことを許すまでに全国の国民を分極化せしめる人物を頭に戴き続けることは,実際のところ明らかに,国家の利益にかなうものではない。

 

(註)彼の退位詔書(acte d’abdication)は1951年7月1617日の官報(Moniteur belge)に掲載された。レオポルド3世が実際に退位した唯一の国王であるとしても,退位の権利の存在は,王国の始めに遡るようである。1859年に国王レオポルド1世は,彼の心に特にかかる事案に関して国会議員らに圧力を加えるために,退位に訴える旨威嚇した。当該君主は,本当に退位する気は恐らくなかったであろう。しかしながら,当該権利を有していることを彼が確信していたことは明らかである(ジャン・スタンジャ(Jean Stengers)『1831年以来のベルギー国における国王の行動 権力及び影響力(L’action du Roi en Belgique depuis 1831. Pouvoir et influence)』(第3版,ブリュッセル,Racine, 2008年)195頁参照)。ベルギー国王は退位する権限(prérogative)を有するという考えは,彼の息子のレオポルド2世の治下において更に確認された。1892年,深刻な消沈の際,当該国王は真剣に退位を考えたが,その後よりよい決意(à de meilleures résolutions)に立ち戻った(ジャン・スタンジャ・前掲書125頁参照)

 

 ド・ミュレネル(De Muelenaere)記者が2013年7月3日付けでベルギー国のLe Soir紙のウェッブ・ページに掲載した記事(“Abdication, comment ça marche?”)によると,同国における国王の生前退位から次期国王の即位への流れは次のようなものだそうです(同月のアルベール2世の生前退位及びフィリップ現国王の即位に関する予想記事)。

 

  1 首相によって査証された(visée)アルベール2世の退位宣言(Une déclaration d’abdication

  2 退位の日(7月21日)

  3 両議院合同会の前におけるフィリップの宣誓

  4 直ちに宣誓が行われれば「空位期間」は生じない。そうでない場合であっても,国王の憲法上の権限を内閣(le conseil des ministres)が確保するから,摂政の必要はない。

 

議会は新国王の宣誓(即位の効力要件)に立ち会うだけで,前国王の退位に効力を与えるための行為をすることはないようです。首相の「査証」と訳しましたが,これは憲法上の副署(contreseing)ではないわけです。退位宣言の詔書は,官報に掲載されたものでしょう。ド・ミュレネル記者によれば,前記のベーレント教授は「国王は退位詔書を作成し,当該詔書は決定の公式性(caractère public de la décision)を確保するために続いて官報に掲載されなければならない。」と述べていました。

 

6 ドイツにおける国王退位に関する学説など

 ベルギー国憲法の話が出たとなると,大日本帝国憲法のもう一つのお手本であったプロイセン憲法の話をせざるを得ません。19世紀のドイツ国法において国王の退位はどのように考えられていたものか。

ズーザン・リヒター(Susan Richter)及びディルク・ディルバッハ(Dirk Dirbach)編の『王位放棄 中世から近代までの君主政における退位(Thronverzicht: die Abdankung in Monarchien vom Mittelalter bis in die Neuzeit)』(Böhlau, 2010年)中のカロラ・シュルツェ(Carola Schulze)による論文「王権神授説からドイツ立憲主義までの法秩序観念における退位(Die Abdankung in den rechtlichen Ordnungsvorstellung vom Gottesgnadentum bis zum deutschen Konstitutionalismus)」には次のようにあります(68頁)。

 

  絶対王政の下では王室法(Hausgesetz)によってのみ規制された王位継承及び摂政の問題を,立憲国家は王室立法権(Hausgesetzgebung)から引き離し,憲法典(Verfassungsrecht)の領域に移管した。もっとも,憲法典に記載された君主の神聖不可侵性(Heiligkeit und Unverletzlichkeit)のゆえに,退位――及びそれと共に廃位(Absetzung)――は,ドイツ連邦諸国の国法自体においては明定されなかった(wurde…nicht fixiert)。したがって,国家元首としての君主の地位(Stellung des Monarchen als Staatsoberhaupt)及びその王位継承に関する規律との関連において退位の制度(das Rechtsinstitut der Abdikation)を定めてあった初期立憲主義憲法は存在しない。唯一,184812月5日の押し付けプロイセン憲法が,第55条において,国王が統治不能(in der Unmöglichkeit zu regieren)であるときは, 特別法によってそれらについて手当てされていない限りにおいて,次の王位継承権者又は王室法によりそれに代わる者が,合同会で摂政及び後見について第54条〔国王未成年の場合の摂政及び後見に関する規定〕に準じて定めるために両議院を召集する旨規定していた。当該規定は,改訂された1850年のプロイセン憲法にはもう既になくなっていたが,君主の統治不能は退位及び王位継承者に対する王位の移行の意味においても理解されるべきだ(auch im Sinne einer Abdankung und des Übergangs der Krone auf den Nachfolger zu verstehen ist)との確たる解釈を許すものであった。

     要するに,次のようにいうことができる。初期立憲主義諸憲法が退位について沈黙していたとしても,国民意識,国の歴史,学説の伝統又は思考の必然からして規範的地位(normativer Rang)を与えられていた19世紀の一般ドイツ国法において,退位は,正規の王位継承に対して補充的な(subsidiär)例外的王位継承の形式として(als Form der außerordentlichen Thronfolge)認められ,かつ,そのようにしてドイツ立憲主義の秩序観念中に位置付けられていたのである。

 

「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」だから譲位の規定はいらないのだ,とは伊藤博文の発想の源でもありました(「余ハ将ニ天子ノ犯冒スヘカラサルト均シク天子ハ位ヲ避クヘカラスト云ハントス」と高輪会議で発言しています。)。
 プロイセン国王ヴィルヘルム1世は議会との対立の中で退位を考えましたし,その孫ヴィルヘルム2世は第1次世界大戦の最終段階におけるドイツ革命の渦中で,ドイツ皇帝としては退位するがプロイセン国王としては退位しないと頑張ります。これらは生前退位が有効であるとの理解を前提としています。

ところで,シュルツェの議論では君主の統治不能(die Unmöglichkeit des Monarchen zu regiern)には退位(Abdankung)も含まれるということのようですが,そうだとすると1848年のプロイセン憲法的には,国王が「退位する。」と宣言した場合には統治不能の当該国王は押し込められ,両議院合同会によって摂政及び後見人が任命され,かつ,当該状況は国王の生存中続くということにはならなかったでしょうか。ちょっと分かりづらい。あるいは,1850年のプロイセン憲法56条は「国王が未成年であるとき又はその他継続的に自ら統治することが妨げられている(dauernd verhindert ist, selbst zu regieren)ときに」摂政を置くとの規定になっていますので,継続的な故障程度ではいまだ統治不能ではないから摂政設置で対応するが,退位されてしまうと統治不能であるので摂政どころではなくなって直ちに新国王即位になる,というように理解すべきなのでしょうか。
 この点明治皇室典範
19条2項は「天皇久シキニ亘ルノ故障ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルトキハ皇族会議及枢密顧問ノ議ヲ経テ摂政ヲ置ク」となっていて,1850年のプロイセン憲法56条的です。これは1889年1月18日の枢密院再審会議(小嶋「明治皇室典範」249250頁)を経た段階では「天皇未タ成年ニ達セサルカ又ハ精神若ハ身体ノ不治ノ重患ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサル間ハ摂政一員ヲ置ク」であったものが(同228頁),正にドイツ人であるロエスレルの修正意見に基づき(同251頁),同月24日に「精神若ハ身体ノ不治ノ重患」が「久シキニ亙ルノ故障」に修正され,更にその後最終的な形に修正されて(同254頁),同年2月5日の枢密院会議を経たものです(同255頁)。ロエスレルの修正案は「天皇未タ成年ニ達セサルカ又ハ其ノ他ノ故障ニ由リ久シク大政ヲ親ラスルコト能ハスシテ臨時ニ応スル為ニ予シメ親ラ計画ヲ為サス若クハ為シ能ハサルトキハ次条ノ明文ニ循ヒ摂政ヲ置クヘシ」というものでした(小嶋「明治皇室典範」251頁)。「其ノ他ノ故障」との文言は「疾病ノ外ニ於テモ亦他ノ事由ノ生スルコトアラン例ヘハ・・・」ということで用いられることになったもので(小嶋「明治皇室典範」251頁),「久シク本国ニ在ラサルトキ,戦時ニ当テ俘虜トナリタルトキ,又高齢ニナリタルトキノ如キ是ナリ」とされています(小林宏・島善高編著『明治皇室典範〔明治22年〕(下) 日本立法資料全集17』(信山社・1997年)642頁)。
  またそもそも「不治ノ重患」の「不治ノ」は「啻ニ贅字タルノミナラズ甚シキ危険アル」ことがロエスレルによって述べられていました(小嶋「明治皇室典範」
251頁)。しかし,「不治ノ」は「甚シキ危険アル」言葉であるのに,皇位継承順位の変更に係る明治皇室典範9条では「皇嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シ前数条ニ依リ継承ノ順序ヲ換フルコトヲ得」となっていて「不治ノ」が維持されています(現在の皇室典範3条も同様)。ということは,「不治ノ」は天皇についてだけ「甚シキ危険アル」言葉なのでしょう。しかしながら,天皇が「不治ノ重患」であると発表してしまうと摂政どころではなく譲位が問題になってしまうという意味での「甚シキ危険」であったのかとまで考えるのは考え過ぎで,飽くまでロエスレルは摂政を置くべきか否かを検討する場面に留まりつつ「凡ソ疾病ノ治不治ハ,医家ニ在テモ亦一ノ争論点ニシテ,之カ為ニ紛議ノ種因ヲ他日ニ貽スノ恐レアレハナリ。而シテ摂政ヲ置クノ当否ニ関スルコトヲ以テ,此ノ如キ曖昧ノ間ニ附シ去ルハ大ニ不可ナリ。」と「甚シキ危険」について述べ,更に「・・・大政ヲ親ラスルコト能ハスト謂ハ丶,先ツ疾病ノ有無ヲ問ハス,果シテ大政ヲ親ラスルコト能ハサルカ否ヲ立証セサルヘカラス。現ニ君主重病ニ罹リテ尚ホ大政ヲ自ラ総攬シ得ルコトアリ。又総攬スルノ精神ヲ有スルコト屢々之レ有リ。例ヘハ「ポーランド」瓦敦堡〔ヴュルテンベルク〕ノ今王及び「メクレンボルグ」大公等ハ,既ニ不治ノ重患ニ罹ルト雖,尚大政ヲ親ラスルニアラスヤ。・・・」と述べています(小林・島641頁)。

ロエスレルの修正意見に基づく1889年1月24日の修正前の明治皇室典範19条案にいう「精神若ハ身体ノ不治ノ重患ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサル間」という摂政設置の前提状態たる不治ノ重患は,実は,1887年3月20日の高輪会議にかけられた柳原前光の前記「皇室典範再稿」では天皇の譲位を可能とする状態(「精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時」)でした。柳原の「皇室典範再稿」39条では,摂政を置く場合は,「天皇幼年ノ時」,「天皇本邦ニ在サル時」又は「天皇ノ精神又ハ身体ノ重患アル時」が挙げられていました(小嶋「明治皇室典範」193頁)。柳原前光の段階論では,「精神又ハ身体ノ重患アル時」はまだ摂政設置相当だけれども,「精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時」まで至ってしまうとむしろ譲位すべきだという判断だったのでしょう。現在の皇室典範16条2項は「天皇が,精神若しくは身体の重患・・・により,国事に関する行為をみずからすることができないときは,皇室会議の議により,摂政を置く。」と規定していますが,柳原の「皇室典範再稿」39条における摂政設置の場合の考え方におおよそ符合しています(ちなみに,ロエスエルは「精神又ハ身体ノ重患」の字は「不快ノ感ヲ喚起スル」と述べており(小林・島641頁),明治皇室典範19条2項には当該表現は用いられませんでしたが,現在の皇室典範においては復活したわけです。)。

なお,カロラ・シュルツェは,ドイツの学者らしく,法的意味における退位の成立に必要な構成要件のメルクマールを次のように分析的に述べています。

 

単独の公的行為(einseitige obrigkeitliche Maßnahme)であって,

君主によってされ(eines Monarchen),

君主の位の放棄,すなわち王位及びそれに附随する権利の放棄に向けられたものであり(die auf die Niederlegung der monarchischen Würde bzw. auf den Verzicht des Throns sowie der damit verbundenen Rechte gerichtet ist),

自由意思性及び自主性により,並びに(die sich durch Freiwilligkeit und Selbständigkeit sowie durch

補充性によって特徴付けられるものであり(Subsidiarität auszeichnet),

並びに不可撤回性を有するもの(und die unwiderrufbar ist.),

 

ということだそうです(シュルツェ69頁)。
 さて,シュルツェによれば「絶対王政の下では王室法(Hausgesetz)によってのみ規制された王位継承及び摂政の問題を,立憲国家は王室立法権(Hausgesetzgebung)から引き離し,憲法典(Verfassungsrecht)の領域に移管した」わけですが,このことについては,1850年のプロイセン憲法53条を素材に,美濃部達吉が次のように説明しています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)108109頁)。

 

  プロイセン旧憲法53条にも略本条〔大日本帝国憲法2条「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」〕と同様に,Die Krone ist, den Königlichen Hausgesetzen gemäss, erblich in dem Mannesstamme des Königlichen Hauses nach dem Rechte der Erstgeburt und der agnatischen Linealfolgeといふ規定が有る。その他のドイツ諸邦にも同様の規定の有るものが尠くない。文言に於いては極めて本条の規定と類似して居るけれども,趣意に於いては甚だ異なつて居つて,ドイツの学者は一般に,憲法の此の規定に依つて従来の王室家法が憲法の内容の一部を為すに至つたもので,随つて此の以後に於いては王室家法の変更は,憲法改正の法律に依つてのみ為すことを得べく,勿論議会の議決を必要とする・・・。即ちドイツ諸邦の憲法に於いては『王室家法ノ定ムル所ニ依リ』といふ明文が有つても,それは王室の自律権を認めたものではなく,却つて王室家法をして憲法の一部たらしめたもの・・・。

 

日本国憲法2条は「皇位は,世襲のものであつて,国会の議決した皇室典範の定めるところにより,これを継承する。」と規定しています(下線は筆者によるもの)。(同条の英文は,“The Imperial Throne shall be dynastic and succeeded to in accordance with the Imperial House Law passed by the Diet.”です。)ここでの「国会の議決した」は,その第74条1項で「皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス」と規定していた大日本帝国憲法との違いを示すものでしょう。現在の皇室典範の法形式は(皇室典範の「法律案」を審議した第91回帝国議会で問題にする議員がありましたが)法律ですが,少なくともその皇位継承(日本国憲法2条)及び摂政(同5条)に係る部分の改正は,19世紀ドイツ国法学的には,憲法改正と同等の重みのある行為であるということになります。「而して皇位継承に関する法則は,決して皇室御一家の内事ではなく,最も重要なる国家の憲法の一部を為すもの」なのです(美濃部『憲法精義』110頁)。

この点,1946年2月13日に我が国政府に提示されたGHQの憲法改正草案には“Article II. Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.”(外務省罫紙に記された閣議提出の訳文では「第2条 皇位ノ継承ハ世襲ニシテ国会ノ制定スル皇室典範ニ依ルヘシ」)及び“Article IV. When a regency is instituted in conformity with the provisions of such Imperial House Law as the Diet may enact, the duties of the Emperor shall be performed by the Regent in the name of the Emperor; and the limitations on the functions of the Emperor contained herein shall apply with equal force to the Regent.”(「第4条 国会ノ制定スル皇室典範ノ規定ニ従ヒ摂政ヲ置クトキハ皇帝ノ責務ハ摂政之ヲ皇帝ノ名ニ於テ行フヘシ而シテ此ノ憲法ニ定ムル所ノ皇帝ノ機能ニ対スル制限ハ摂政ニ対シ等シク適用セラルヘシ」)とあって,“such Imperial House Law”は国会の単独立法に係るものですから,やはり法律が想定されていたようで,皇室の家法たることを強く含意する「皇室典範」との訳は余り良い訳ではなかったようです。ところで,“in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact”であって,“in accordance with the Imperial House Law enacted by the Diet”ではありませんから,第2条の訳としては「皇位ノ継承ハ世襲テアリ且ツ国会ノ制定スルコトアル皇室法ニ従フモノトス」というものもあり得なかったでしょうか。このように解すると,たとい皇室典範という法形式が日本国憲法の施行に伴い消滅しても,国会が別異に立法しない限りは皇位の継承は従来の慣習に従う,ということにはならなかったものでしょうか。

しかし,我が国政府は皇位の継承に関する成文規範の存在及び皇室典範という法形式の存続にこだわったものか,憲法改正に係るその1946年3月2日案においては次のような条文が用意されています。

 

  第1章 天皇

第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ世襲シテ之ヲ継承ス。

第3条 天皇ノ国事ニ関スル一切ノ行為ハ内閣ノ輔弼ニ依ルコトヲ要ス。内閣ハ之ニ付其ノ責ニ任ズ。

  第9章 補則

106条 皇室典範ノ改正ハ天皇第3条ノ規定ニ従ヒ議案ヲ国会ニ提出シ法律案ト同一ノ規定ニ依リ其ノ議決ヲ経ベシ。

  前項ノ議決ヲ経タル皇室典範ノ改正ハ天皇第7条ノ規定ニ従ヒ之ヲ公布ス。

 

これに対して,佐藤達夫法制局第一部長の記す次のような1946年「三月四,五両日司令部ニ於ケル顛末」を経て,皇室典範の議案に係る天皇の発議権は消え,憲法2条は少なくとも英文については現在の形になっています。

 

第2条 皇室典範ガ国会ノ議決ヲ経ベキ条項ナシトテ相当強硬ナル発言アリ,補則ニ規定セリ,今回ハ全面的ニ補則ニ依リ改正セラルルコトデモアリ茲ニ特記スル要ナシ,又法律ト同一手続ニ依ルハ当然ナルモ,皇室ノ家法故発議ハ天皇ニ依リ為サルルコトトシタリト言フモ第1章ハ交付案ガ絶対ナリトテ全然応ゼズ,「国会ノ議決ヲ()タル(○○)passed by the Diet)(交付案ハ(as the Diet may enact))トシテ挿入スルコトトス(「経タル」ガ将来提案権ノ問題ニ関聯シテ万一何等カノ手懸ニナリ得ベキカトノ考慮モアリテ)。
 

ただし,佐藤部長の「考慮」にもかかわらず,現在の日本国憲法2条の当該部分の文言は「国会の議決した皇室典範」であって,「国会の議決を経た皇室典範」ではありません。現在の皇室典範は,昭和22年法律第3号です。
 (以上の日本国憲法の制定経緯については,国立国会図書館ウェッブ・サイトの「電子展示会」における「日本国憲法の誕生」を参照)
 


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1 現在の皇室典範4条と明治皇室典範10

 昭和天皇の裁可に係る現在の皇室典範(昭和22年法律第3号。日本国憲法100条2項参照)4条は,「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」と規定しています。この規定の意味するところを知るためには,その前身規定に遡ることが捷径です。

明治天皇の裁定に係る皇室典範(明治22年2月11日。公布されず(ただし,後の公式令(明治40年勅令第6号)4条1項参照)。)10条が,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と定めていたところです。(なお,明治皇室典範は,1947年5月1日昭和天皇裁定(同日付け官報)の皇室典範及皇室典範増補廃止の件によって同月2日限り廃止されたものであり,昭和22年法律第3号の皇室典範によって廃止されたものではありません。)

明治皇室典範10条について伊藤博文の『皇室典範義解』は,「・・・(つつしみ)て按ずるに,神武天皇より舒明天皇に至る迄34世,嘗て譲位の事あらず。譲位の例の皇極天皇に始まりしは,(けだし)女帝仮摂より来る者なり(継体天皇の安閑天皇に譲位したまひしは同日に崩御あり。未だ譲位の始となすべからず)。聖武天皇・光仁天皇に至て遂に定例を為せり。此を世変の一とす。其の後権臣の強迫に因り両統互立を例とするの事あるに至る。而して南北朝の乱亦此に源因せり。本条に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はる者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」と説いています(宮沢俊義校註『憲法義解』(岩波文庫・1940年)137頁による。)。明治皇室典範10条を引き継いだ現在の皇室典範4条は,天皇の生前譲位を排除する趣旨をも有しているわけです。

7世紀の舒明天皇まで生前譲位がなかったことについては,「大和王権における大王位は基本的に終身制であり,大王は生前に新大王に譲位をすることはできなかった。記紀などの記述では,まれに,大王が生前に後継者を指名することもあるが,指名を受けた者が即位しない場合も多く,後継者指名の効力は,実際にはほとんどなかったとみてよい。・・・王位継承の候補者は常に複数おり,5世紀には,候補者同士の熾烈な殺し合いも繰り広げられたが,即位に際しては,大和政権を構成する豪族たちの広範な支持も必要であったことはいうまでもなかった。そして,より発達した政治機構としての畿内政権が形成される6世紀には,群臣による大王の推挙は,王位継承を行ううえで,不可欠の手続きとして確立していったのである。/『日本書記』などの文献から復元される王位継承の手続きでは,まず群臣の議によって大兄などの王族から候補者が絞られ,群臣による即位の要請がなされる。候補者の辞退などで擁立が失敗すると,別の候補者への要請が行われ,候補者がそれを受けた段階で,即位儀礼が挙行された。」と説明されています(大隅清陽「君臣秩序と儀礼」『日本の歴史08 古代天皇制を考える』(大津透・大隅清陽・関和彦・熊田亮介・丸山裕美子・上島享・米谷匡史,講談社・2001年)40‐41頁)。「ある種の選挙王制といってもよい王位継承のシステム」(大隅43頁。また同49頁)ではあるが,現職の大王の意思による「解散総選挙」のようなものは認められなかったということでしょう。なお,現行の皇室典範4条において三種の神器について言及されていないことの意味(皇室経済法7条の趣旨も含む。)及び「南北朝の乱」の「源因」たる「権臣の強迫」については,2014年5月21日付けの本ブログ記事「「日本国民の総意に基づく」ことなどについて」(その6の部分)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1003236277.htmlを御参照ください。

 美濃部達吉は,「皇位ノ継承ハ天皇ノ崩御ノミニ因リテ生ズ。天皇在位中ノ譲位ハ皇室典範ノ全ク認メザル所ニシテ,典範(10条)ニ『天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク』ト曰ヘルハ即チ此ノ意ヲ示スモノナリ。中世以来皇位ノ禅譲ハ殆ド定例ヲ為シ,時トシテハ権臣ノ強迫ニ因リテ譲位ヲ余儀ナクセシムルモノアルニ至リ,(しばしば)禍乱ノ源ヲ為セリ。皇室典範ハ此ノ中世以来ノ慣習ヲ改メタルモノニシテ,其ノ『天皇崩スルトキハ』ト曰ヘルハ,崩スルトキニ限リト謂フノ意ナリ。」と述べていました(美濃部達吉『改訂 憲法撮要』(有斐閣・1946年)183頁)。『皇室典範義解』の説明を承けたものでしょう。

 現行の皇室典範4条の解釈も,いわく。「天皇の「崩御」だけが皇位継承の原因とされる(典範4条)。天皇生前の退位に関しては,皇室典範の審議の際に積極論も主張されたが,結局のところ採用されなかった。皇室典範の改正によって退位制度を設けることは可能であるが,一般的な立法論としていえば,生前退位の可能性を認めることは,皇位を政治的ないし党派的な対立にまきこむおそれがあることを,考慮しなければならない。」と(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)132頁)。

 「女帝仮摂」のゆえならざる生前譲位が始まったことについては,インドからの外来宗教たる仏教の影響があったとは,上杉慎吉の指摘するところです。いわく。「皇位継承の行はるのは天皇崩御の時のみであります,譲位受禅は典範の認めざる所であります,之は我古代の法制であつて神武天皇以下武烈天皇に至りまする迄御譲位と云ふことは無かつた,継体天皇の25年皇太子を立て天皇(ママ)とせられ,天皇即日崩御せられた事があります,其後持統天皇,元明天皇,元正天皇の御譲位の事があります,元来女帝の御即位は皇太子尚幼くまします場合に其成長を待たる意味に出たものでありますから女帝の御譲位の事は例とすることは出来ぬのであります,聖武天皇が位を孝謙天皇に譲られたのが真の譲位の初としなければならぬのであつて,それ以来譲位受禅が頻に行はるに至つたのであります,之は主として仏教の影響に出るものであります,併ながら我皇位継承の本義ではありませぬ,それ故に典範は譲位の事を言はずして天皇崩御の場合にのみ皇位継承あるものとしたのであります,欧羅巴諸国では君主の譲位と云ふことは之を認むるを常とし,明文が無くとも譲位を為し得ることは当然としてあります,我国と制度の根本の趣旨が異ることを見ることが出来ます,多数の国の憲法では一定の原因ある場合には君主が位を譲つたものと認むるものとしてあります,又或は一定の場合には君主を廃することを得るものと定めてある憲法もある」と(上杉慎吉『訂正増補 帝国憲法述義 第九版』(有斐閣書房・1916年)257259頁)。東大寺等の造営で有名な8世紀・奈良時代の聖武天皇は自らを「三宝の奴」として仏教に深く帰依したところですが,確かに 現人神としては,少なくとも神仏分離を前提とすると,いかがなものでしょうか。

 父・聖武天皇からの生前譲位(天平感宝元年(749年))により皇位を継承した孝謙天皇は,自らもいったん大炊王(天武天皇の子である舎人親王の子)に生前譲位したものの(天平宝字二年(758年)),その後大炊王を皇位から追い,重祚します(称徳天皇)。女帝によって淡路に流謫せられた廃帝は,逃亡を図るも急死。この淡路廃帝に淳仁天皇との諡号が贈られたのは,ようやく明治になってからのことでした。

 皇嗣時代の大炊王の御歌にいわく。

 

 天地(あめつち)を照らす日月の極みなくあるべきものを何をか思はむ(万葉集4486

 

 河内出身の僧・道鏡が天皇になることは,和気清麻呂の宇佐八幡宮からの還奏(「我が国開闢より以来(このかた)君臣定まりぬ。臣を以て君となすことは未だこれあらず。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし。」)によって阻止されましたが,その後結局,聖武天皇,孝謙天皇,淳仁天皇らが属したところの,「極みなくあるべきもの」であった天武天皇系の皇統は,断絶しました。称徳天皇崩御後の後任である光仁天皇(天智天皇の孫であり,かつ,嗜酒韜晦の人であった白壁王)の皇子であって,女系で天武天皇系に連なっていた(おさ)()親王(聖武天皇を父とする井上(いのえ)内親王の子)も失脚し,その後急死しています(「光仁の即位も,当初は他戸への中継ぎとしての性格を持っていたのだろう」とされますが(大隅69頁),光仁天皇から譲位を受けることになったのは(天応元年(781年)),百済系の高野新笠の子である桓武天皇でした。)。

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皇居お濠端の和気清麻呂像(2016年9月10日撮影)一見入牢風のこの姿は,皇位継承に関する還奏に係る称徳天皇の勅勘が復活したわけではなく,地下の東京メトロ竹橋駅の工事のためです。 

 

2 明治皇室典範10条の起草過程

 明治皇室典範10条の起草過程をざっと見てみましょう。

(1)高輪会議まで

 187610月の元老院第1次国憲草案第4篇第2章の第11条には「皇帝崩シ又ハ其位ヲ辞スルニ当リ会マ元老院ノ開会セサルトキハ預メ召集ノ命ナクトモ直チニ自ラ集会ス可シ」とありましたから(小嶋和司「帝室典則について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)6970頁),生前譲位制が考えられていたわけです。

1878年3月の岩倉具視の「奉儀局或ハ儀制局開設建議」の「憲法」に関する「議目」には「太上太皇 法皇 贈太上天皇」というものがありました(小嶋「帝室典則」74頁)。これに関して,188212月段階での宮内省一等出仕伊地知正治の口述には「太上天皇並法皇 仙洞ニ被為入候得バ太上天皇尊号贈上ハ勿論ナリ。法皇ノ事ハ院号サヘ御廃止ノ今日ナレバ釈氏ニ出ル法号等ハ皇室ニ於テ口ヲ閉ヂテ可ナリ。」という発言が見られます(小嶋「帝室典則」78頁)。「仙洞(せんとう)」とは,『岩波国語辞典 第四版』(1986年)によれば,「上皇の御所。転じて,上皇の尊称。▷仙人のすみかの意から。」とあります。

 (史上初の太上天皇となったのは,孫の軽皇子(文武天皇)に生前譲位した女帝・持統天皇(在位690697年)です。「696年に太政大臣高市皇子(天武の長男)が亡くなると,持統は宮中に皇族や重臣を召集し,次の皇位継承者について諮問するが,群臣の意見はまとまらず,会議は紛糾した。この時,故大友皇子〔天武天皇に壬申の年に敗れた弘文天皇〕の子である葛野王は,皇位は「子孫相承」するのがわが国古来の法であり,継承が兄弟におよぶのは内乱のもとであるとして,草壁〔持統と天武との間の子〕の異母兄弟である天武天皇の諸皇子の即位に反対し,持統を喜ばせたという(『懐風藻』葛野王伝)。葛野王の発言が,どの程度当時の共通認識であったかには疑問がある・・・」ということですので(大隅6061頁),当時はなお皇位継承者の決定には群臣の議が必要であったようですが,「結局持統は,翌697年二月に軽皇子の立太子を強行し,同八月には皇太子に譲位して文武天皇とし」ています(同61頁)。「8世紀の天皇権力は,皇位継承に群臣を介在させず,独自に直系の継承を行おうとし」ますが(大隅62頁),その努力の始めである7世紀末の文武天皇の即位には,天皇の生前譲位が伴っていたのでした。なお,「太上天皇とは,おそらく大宝律令の制定にともない,譲位した元天皇の称号として新しく設けられたもので,律令の規定では,天皇と同じ待遇と政治的権限を有して」いました(大隅65頁)。「太上天皇制の成立により,8世紀には,天皇が生前のうちに譲位し,自らは太上天皇となって天皇を後見する,という形の皇位継承が一般化する。これは,皇位継承の過程に群臣が介在する余地を結果的に排除したとも言え,天皇権力の群臣からの自立という点で,大きな意味をもっていた」わけです(大隅65頁)。ただし,太上天皇の在り方は嵯峨上皇の時に変化します。「この政変〔薬子の変〕への反省から学んだ 嵯峨天皇は,823年(弘仁十四)に弟の淳和天皇に譲位すると,自らは「後院」とよばれる離宮的な施設に隠居して政治的権限を放棄し,天皇に対しては臣下の礼をとるという新しい試みをする。これをうけた淳和天皇は,嵯峨に「太上天皇」を尊号として奉上し,以後この手続きが通例になるが,この結果,太上天皇がたんなる称号となり,またその授与の権限が現役の天皇に帰したことの意義は大きかった。」ということでした(大隅75頁)。)

しかしながら,1885年又はそれ以前に宮内省で作成された(小嶋「帝室典則」129130頁。なお,1884年3月21日から宮内卿は伊藤博文(同月17日から制度取調局長官であったところに兼任(同局は1885年12月廃止)))「皇室制規」の第9条は「天皇在世中ハ譲位セス登遐ノ時儲君直ニ天皇ト称スヘシ」と規定して生前譲位を認めないものとしたところです(同125頁。ただし,「譲位の制は「皇室制規」の第2稿まで存した」とありますから(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』175頁),この「皇室制規」は第3稿以後のものなのでしょう。)。「登遐(とうか)」とは崩御のこと。これに対する井上毅の「謹具意見」1885年以前のものです(小嶋「帝室典則」130頁,135頁)。)には,「天子違予ニシテ政務ニ堪ヘ玉ハザルノ不幸アラバ,時宜ニ由テハ摂政ヲ置クコトアルベシト雖(議院ニ問ハズ),亦,叡慮次第ニハ並ニ時宜次第ニハ穏ニ譲位アラセ玉フコト尤モ美事タルベシ 起草第9条ノ上項ハ削去アリテ然ルベキカ」との批判がありました(同134頁)。この井上毅の譲位容認論の理由付けについて奥平康弘教授は,「非常に要約」して,「摂政には議会をつうじて人民に宣告し,なんらかの納得を得ることが不可避であるのに,譲位は人民による公知なしに―その理由など明らかにせずに―宮中内かぎりで片付けられ得る,代替りという線でやってのけられる利点があるではないかとする論理」があるものとしています(奥平康弘「明治皇室典範に関する一研究―「天皇の退位」をめぐって―」神奈川法学第36巻第2号(2003年)165‐166頁)。「「天子ノ失徳ヲ宣布スルニ至ラズ人民ヲ激動セズシテ外ハ譲位ノ美名ニ依リ容易ニ国難ヲ排除スル事ヲ得」たという事例〔陽成天皇譲位の例〕がある」旨「謹具意見」では述べられていたとされています(奥平165頁)。

 筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞ積もりて淵となりける(陽成院)
 

1885年の宮内省の「帝室典則」第2稿(小嶋「帝室典則」129頁)では「皇室制規」9条の規定は維持されていましたが,1886年6月10日の「帝室典則」では,同条に該当する規定は削られています(同140頁)。生前譲位がないことは当然とされたゆえ削られたのか(小嶋「皇室典範」175頁参照),それとも反対解釈すべきか(生前譲位を明示的に否認する「帝室典則」第2稿に対して井上毅は「謹具意見」の立場から改めて異議申立てをしています(奥平170‐171頁・註(14))。)。なお,井上毅の梧陰文庫蔵の「帝室家憲 スタイン起草」(用紙として「内閣罫紙」が使用されているため内閣制度が設けられた188512月以降に作成されたものと考えられています(小嶋「帝室典則」108頁)。ただし,小嶋教授は1887年以後に依頼され作成されたのではないかとも考えていました(同118119頁)。)の第7条(伊東巳代治遺文書中にあった下訳と認定される史料による(小嶋「帝室典則」108109頁)。)の第1項は「皇帝譲位セラレントスルノ場合ニ於テハ各高殿下,殿下及高等僧官ヲ招集シテ之ニ其旨ヲ言明シ必ス一定ノ公式ニ依リ書面ヲ以テ之ヲ証明シ譲位セントスル皇帝ノ家事モ亦タ之ニ因テ定ムヘキモノトス」と,第2項末段は「摂政5箇年ノ久シキニ渉リ仍ホ皇帝ノ疾病快癒ノ望ナキトキハ立法院ノ承認ヲ経タル上高殿下一同ニテ皇位継承ノ事ヲ布告スヘシ」と規定していました(小嶋「帝室典則」114115頁)。

 1887年1月25日に「帝室制度取調局総裁」柳原前光(大正天皇の生母・愛子の兄,白蓮の父)が宮内省図書頭・井上毅に提出した「皇室法典初稿」(小嶋「皇室典範」172173頁。伊藤博文(1885年12月22日から1888年4月30日まで内閣総理大臣,1887年9月16日まで宮内大臣兼任)に起草を命じられたものです(同172頁)。なお,小嶋教授は「柳原が当時,帝室制度取調局総裁の地位にあった」と記していますが(同頁),宮内庁の「宮内庁関係年表(慶応3年以後)」ウェッブ・ページを見ると,1885年12月22日に制度取調局が廃止された後,1888年5月31日に「臨時帝室制度取調局を置く。」とありますので,実は1887年初頭当時に「帝室制度取調局」があったものかどうか。岩波書店の『近代日本総合年表 第四版』(2001年)の1887年3月20日の項には「帝室制度取調局総裁柳原前光」との記載があり,これは稲田正次教授の『明治憲法成立史』に基づくものとされています。稲田教授の『明治憲法成立史』については「そこですべてが明らかにされたわけではなく,不明の断点が何ヶ所か残され,重要な事実の脱漏もある」との評価を加えつつも(小嶋「皇室典範」171頁),この部分については,小嶋教授は稲田教授の記述を踏襲したものでしょうか。ちなみに,国立国会図書館の「柳原前光関係文書」ウェッブ・ページの「旧蔵者履歴」欄を検すると,1887年当時,柳原は確かに総裁ではあったものの,賞勲局総裁であったところです。)の第8条には「天皇ハ皇極帝以前ノ例ニ依リ終身其位ニ((ママ))ヲ正当トス但シ心性又ハ外形ノ虧缺(きけつ)ニ係リ快癒シ難ク而シテ嫡出ノ皇太子又ハ皇太孫成年ニ達スル時ハ位ヲ譲ルコトヲ得とありました(小嶋「皇室典範」175頁)。再び生前譲位制が認められています。ただし,例外としての位置付けです。

 1887年2月26日に井上毅が伊藤博文に提出した「皇室典範」(小嶋「皇室典範」179頁)の第13条にも天皇の生前退位の制度が定められていました(同183頁)。「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ノ重患アルトキハ皇位継承法ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」というものでした(小嶋「皇室典範」185186頁)。附属の「説明案」において井上毅は,「天皇重患ニ因リ大位ヲ遜ルゝハ亦一時ノ権宜ニシテ実ニ已ムヲ得サルニ出ルモノアリ」と断じた上で,「大位ヲ遜譲シテ国家ノ福ヲ失ハズ是レ亦変通ノ道ナリ」と述べています(奥平172頁)。

 1887年3月14日に柳原前光から伊藤博文に提出された「皇室典範再稿」(小嶋「皇室典範」184頁)の第12条には「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」とありました(同185186頁,190頁)。当該「皇室典範再稿」では更に,第15条において「譲位ノ後ハ太上天皇ト称スルコト文武天皇大宝令ノ制ニ依ル」と,第16条において「天皇崩後諡号ヲ奉ルコト文武天皇以来ノ制ニ依ル太上天皇ヘモ亦同シ」と,第17条において「天皇崩シ又ハ譲位ノ日皇嗣践祚シテ即チ尊号ヲ襲ヒ祖宗以来ノ神器ヲ承ク」と,第23条において「天皇及皇族ノ位次ヲ定メ左ニ開列ス/第一天皇 第二太上天皇 第三太皇太后〔以下略〕」と,第31条において「天皇太上天皇太皇太后皇太后皇后ヘノ敬称ハ陛下ト定ム」と,第37条において「皇室ノ徽章ハ歴代ノ例ニ依リ菊花ヲ用ヒ桐之ニ亜ク太上天皇ハ菊唐草ヲ用ユ」とも規定していました(小嶋「皇室典範」190193頁)。

 

(2)1887年3月20日高輪会議及びその後

 天皇の生前譲位制が排されたのは,1887年3月20日午前10時半から伊藤博文の高輪別邸において開催された伊藤博文,柳原前光,井上毅及び伊東巳代治による会議(小嶋「皇室典範」187頁)においてでした。すなわち,「典範・皇族令体制の骨子」が定められた当該会議(小嶋「皇室典範」200頁)において,前記柳原「皇室典範再稿」12条の生前譲位規定は,伊藤博文及び柳原前光の首唱により削られることになったのでした(同190頁)。原案作成者の柳原前光が削ることを首唱したというのも不思議ですが,伊藤博文の首唱に対して,なるほどもっともと積極的に賛成したところです。「皇室典範再稿」の第15条及び第16条を削ること並びに第17条を「第10条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と修正すること(この高輪会議決定案は既に明治皇室典範10条と同じですね。)の首唱者も伊藤博文となっています(小嶋「皇室典範」190191頁)。奥平康弘教授の引用する伊東巳代治の「皇室典範・皇族令草案談話要録」によれば,「皇室典範再稿」12条に係る議論においては,まず伊藤博文が「本案ハ其意ノ存スル所ヲ知ルニ困シム天皇ノ終身大位ニ当ルハ勿論ナリ又一タヒ践祚シ玉ヒタル以上ハ随意ニ其位ヲ遜レ玉フノ理ナシ抑継承ノ義務ハ法律ノ定ムル所ニ由ル精神又ハ身体ニ不治ノ重患アルモ尚ホ其君ヲ位ヨリ去ラシメズ摂政ヲ置テ百政ヲ摂行スルニアラスヤ昔時ノ譲位ノ例ナキニアラスト雖モ是レ浮屠氏ノ流弊ヨリ来由スルモノナリ余ハ将ニ天子ノ犯冒スヘカラサルト均シク天子ハ位ヲ避クヘカラスト云ハントス前上ノ理由ニ依リ寧ロ本条ハ削除スヘシ」と宣言し(なお,「浮屠」とは,仏のことです。),これに対して井上毅が抗弁して「『ブルンチェリー』氏ノ説ニ依レハ至尊ト雖人類ナレハ其欲セサル時ハ何時ニテモ其位ヨリ去ルヲ得ベシト云ヘリ」と言ったものの,柳原前光は伊藤内閣総理大臣に迎合して「但書ヲ削除スルナレハ寧ロ全文ヲ削ルヘシ其『ブルンチェリー』氏ノ説ハ一家ノ私語ナリ」と自らの原案を否定し,結論として伊藤博文が「然リ一家ノ学説タルニ相違ナシ本条不用ニ付削除スヘシ」と述べています(奥平177頁)。「至尊ト雖人類ナ(リ)」という議論は斥けられたのでした。
 (「皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは,摂政は,天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には前条第1項の規定〔「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」〕を準用する。」と規定する現行憲法5条を前提とすれば, 摂政は国事行為に係る代理機関にすぎず(また,「摂政は天皇ではないから,「象徴」としての役割を有しない。」とも説かれています(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)259頁)。)祭祀については困る,とあるいは更に反論できたのでしょうが, 大日本帝国憲法下では(その第17条2項は「摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ」と規定。『皇室典範義解』には「摂政は以て皇室避くべからざるの変局を救済し,一は皇統の常久を保持し,二は大政の便宜を疎通し,両つながら失墜の患を免るゝ所以なり。摂政は天皇の天職を摂行し,一切の大政及皇室の内事皆天皇に代り之を総攬す。而して至尊の名位に居らざるなり。」と説明されていました(岩波文庫147頁)。), 「祭祀ニ付テ」も「天皇ノ出御アルコト能ハザル場合ニ於テ摂政之ヲ代行スル」こととなっていました(美濃部239頁。ただし,「祭祀ニ付テ・・・皇室祭祀令ニハ天皇幼年ノ場合ニモ親ラ出御アルベキコトヲ定メ,以テ摂政ノ必ズシモ代行スル所ニ非ザルコト」が示されていたそうです(美濃部239頁)。確かに,皇室祭祀令(明治41年皇室令第1号)の附式には「天皇襁褓ニ在ルトキハ女官之ヲ奉抱ス」等の「注意」が記されています。)。ちなみに,摂政令(明治42年皇室令第2号)1条は「摂政就任スル時ハ附式ノ定ムル所ニ依リ賢所ニ祭典ヲ行ヒ且就任ノ旨ヲ皇霊殿神殿ニ奉告ス」と規定していました。これは,1909年1月27日の枢密院会議における奥田義人宮中顧問官の案文説明によれば,「其〔摂政〕ノ誠実ヲ表明スル為メ設ケタル規定」です。いずれにせよ,大日本帝国憲法下の摂政の制度は特殊なもので,同日の奥田宮中顧問官の説明においてはまた「然ルニ摂政ニツキテハ古来依ルヘキ例ナシ故ニ此ノ〔摂政令〕案ノミハ全ク新タニ出来タルモノト御承知ヲ乞フ」と述べられていました。なお,1945年12月15日のGHQのいわゆる神道指令後には天皇の「祭祀大権は全く失は」れ,宮中祭祀は「純然たる皇室御一家の祭祀」となって「皇室の家長たる御地位に於いて天皇の行はせらるる所」とされています(美濃部555頁)。皇室の家長の交代には,譲位が必要ということになるのでしょうか。)

 明治天皇裁定の皇室「典範は,無能不適格な天皇が位に即く危険を冒し,指名権も譲位も否定して,血統原理をもって一貫した。そのような場合の能力の補充者たるべき摂政についてさえ,天皇の未成年及び「久シキニ亘ルノ故障ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルトキ」という厳重な条件を附し,しかも就任順位を血統原理に従って厳重に法定し,能力原理の介在を一切斥けた。天皇主権の憲法を,天皇の能力に全く依存しない仕方で運用しようとする立法者の強い意思の表明であり,この皇室制度は一番の「利害関係者」である天皇の意思を殆んど徴さないままに創り出された。」と評されていますが(長尾龍一「井上毅と明治皇室典範」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)5152頁),当該「立法者」ないしは「天皇制の完全な制度化を実現した人物」は,「謹具意見」で生前譲位容認説を唱えていた井上毅ではなく,やはり,長州藩の足軽から「能力原理」で立身出世を遂げた伊藤博文だったのでした(同52頁参照)。皇位に係る血統原理の貫徹及び能力原理の排斥は,「下級武士と下級貴族によって形成された明治政府が,幕府や大名などの旧勢力に対する支配の正統性を取得するために,天皇に,実際には与えるつもりのない巨大な権力を帰した」(長尾龍一「天皇制論議の脈絡」『思想としての日本憲法史』207頁)過程における必要な手当てだったわけです。

 前記高輪会議の後1887年4月に,柳原前光は「皇室典範草案」と題するものを作成して伊藤博文(同月25日)及び井上毅(同月27日)に提出しています(小嶋「皇室典範」202頁)。そこでは,高輪会議決定案の前記第10条が2箇条に分割されてしまっており(小嶋「皇室典範」204頁),当該柳原案に手を入れた井上毅の「七七ヶ条草案」では,「第10条 天皇崩スル時ハ皇嗣即チ践()ス」及び「第11条 皇嗣践阼スル時ハ祖宗ノ神器ヲ承ク」となっています(同212頁)。ただし,1888年3月20日の井上毅修正意見においては,「第10条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践阼シ祖宗ノ神器ヲ承ク」に戻っています(小嶋「皇室典範」212頁)。確かに2箇条に分かれていると,先帝崩御に基づかない皇嗣の践祚もあるように解釈する余地がより多く出てきます。

 

(3)枢密院における審議

 皇室典範の枢密院御諮詢案は,1888年3月25日に伊藤博文出席の夏島の会議で決定しています(小嶋「皇室典範」222頁)。御諮詢案の第10条は「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」となっていて,枢密院において修正されることはありませんでした(小嶋「皇室典範」227頁)。なお,柳原前光は枢密顧問官になるには年齢が足らず(枢密院官制(明治21年勅令第22号)4条により40歳に達していることが必要),枢密院における審議には出席できませんでした(小嶋「皇室典範」236頁参照)。

 枢密院の審議において,明治皇室典範10条は,1888年5月25日に第一読会,同月28日に第二読会,同年6月15日に第三読会に付されています(小嶋「皇室典範」240241頁)。しかしながら,それらの読会において同条に関する議論は一切ありませんでした。アジア歴史資料センターのウェッブ・サイトにある枢密院の「皇室典範議事筆記」によれば,第一読会においては「〔伊藤博文〕議長 第10条ニ質問ナケレハ第11条ニ移ルヘシ」とのみあり(第17コマ),第二読会においては「議長 本条ニ付別ニ意見ナケレハ直ニ原案ノ表決ヲ取ルヘシ原案同意者ノ起立ヲ請フ」に対して「総員一致」となって「議長 総員一致ニ付原案ニ決シ本日ハ最早時刻モ後レタレハ是ニテ閉会スヘシ・・・」で終わっており(第65コマ),第三読会では井上毅書記官長による条文朗読のみでした(第294コマ)。
 しかし,同年6月18日の午前,枢密院が大日本帝国憲法の草案の審議に入るに当たって議長・伊藤博文が行った演説中における次の有名なくだりに,明治典憲体制において天皇の生前譲位が排除されることとなった理由が見いだされるように思われます。確かに,我が国未曽有の変革である憲法政治に乗り出したとき,宗教(ヨーロッパ諸国においてはキリスト教)に代わってどっしりと我が日本国家の機軸であることが求められる皇室の長たる天皇が,生前譲位(更には煩悩を逃れての仏門入り)等の非religious institution的な振る舞いをしてしまうということでは,いささか心もとなかったわけでしょう。それはともかく,いわく。「・・・抑欧洲ニ於テハ憲法政治ノ萠芽セルヿ千余年独リ人民ノ此制度ニ習熟セルノミナラス又タ宗教ナル者アリテ之カ機軸ヲ為シ深ク人心ニ浸潤シテ人心此ニ帰一セリ然ルニ我国ニ在テハ宗教ナル者其力微弱ニシテ一モ国家ノ機軸タルヘキモノナシ仏教ハ一タヒ隆盛ノ勢ヲ張リ上下ノ人心ヲ繋キタルモ今日ニ至テハ已ニ衰替ニ傾キタリ神道ハ祖宗ノ遺訓ニ基キ之ヲ祖述スト雖宗教トシテ人心ヲ帰向セシムルノ力ニ乏シ我国ニ在テ機軸トスヘキハ独リ皇室アルノミ是ヲ以テ此憲法草案ニ於テハ専ラ意ヲ此点ニ用ヰ君権ヲ尊重シテ成ルヘク之ヲ束縛セサランコトヲ勉メタリ・・・」と(アジア歴史資料センターのウェッブ・サイトにある「憲法草案枢密院会議筆記」第6コマ)。

 

3 皇位継承の根本義

 ところで,皇位継承の根本義とは何でしょうか。

 

  以上,皇位継承とは,位が主に非ずして(くらゐ)種子(たね)が主である。皇位(みくら)の中核とまします「皇天不二の御神霊」を当然継承し給ひ,此の人格者は即神格者として皇位にましますのである。「御人格(○○○)()()もの(○○)()()()にま(○○)します(○○○)()より(○○)自然(○○)()事実(○○)()変遷(○○)()応じ(○○)自然(○○)()()ながらに(○○○○)皇天二(○○○)()()御延長(○○○)たり(○○)()()」実を,発揮し給ふのである。位といふ有形・無形の座が外に在りて夫を占領し給ふ一種の作用を申すのではない。(筧克彦『大日本帝国憲法の根本義』(岩波書店・1936年)268269頁)

 

 「自然の事実の変遷に応じ」,「御神霊」の「当然継承」がされるのが皇位継承であって,皇嗣たる人格者による皇位の「占領」とは違うということになると,生前譲位は本来の皇位継承ではないということになりそうです。しかし,従来の生前譲位は無効ということになると,万世一系はどうなるのでしょうか。

 

 然しながら,是は第一段の根本につき申すこと故,第二段(○○○)第三段(○○○)()()ては(、、)()()いふ(、、)形式(、、)から(、、)()人格者(、、、)()制約(、、)する(、、)こと(、、)()()つて(、、)来る(、、)。史実としても,皇胤たり給ふ御方様の数多ましませし時には,皇胤ではあらせられても皇位を得給はざりし御方は,具体的には 皇祖の御本系を成就され給ふものといふことが出来ざりし次第であつた。皇胤中に於て御本系を明らかにするには神器(かむだから)の正当なる授受の事実によりて決すべき史実も在つたのである。(筧269頁)

 

「皇天不二の御神霊」の継承は,「神器の正当なる授受」によって生ずるものと考えてよいのでしょうか。

ところが,そうなると,現行の皇室典範4条から「祖宗ノ神器ヲ承ク」を削ってしまったのは早計だったものか。

 しかしながら,今上帝の即位に際しては「臨時閣議において,憲法7条10号,皇室典範4条,皇室経済法7条を根拠に,「剣璽等承継の儀」・・・が()天皇の国事行為と決定され」(昭和64年1月7日内閣告示第4号),1989年1月7日午前10時に行われています(平成元年1月11日宮内庁告示第1号)(佐藤247248頁)。憲法7条10号は「儀式を行ふこと」を天皇の国事行為としています。けれども,現行の皇室典範4条は,信仰にかかわるということから意図的に三種の神器に触れなかったのではないでしょうか。「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。」との皇室経済法7条の規定は,民法の相続に関する規定の例外規定にすぎなかったのではないでしょうか。「神器の正当なる授受」が皇位継承の要素であることは,憲法7条10号に包含された不文の憲法的規範であるということでしょうか。なお,「一定の準備期間を必要とする即位儀とは別に,天皇から皇太子への譲位が決定されると,すぐに剣璽などの宝器(レガリア)を皇太子=新天皇の居所に運んでしまい,それをもって一応の皇位継承が行われたとする「剣璽渡御」(践祚)の儀が成立」するのは「桓武朝以後」と考えられているそうですが(大隅71頁),そうだとすると,「剣璽等承継の儀」は本来的には生前譲位の場合における儀式として始まったということにもなるように思われます。
 ところで,明治天皇は,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚」するものと自ら明治皇室典範10条を裁定したのですが,早くも明治天皇から大正天皇への皇位の継承に当って齟齬が生じています。当時内務大臣であった原敬の記す明治最後の日・1912年7月29日の日記にいわく。
 「午後10時40分天皇陛下崩御あらせらる。実に維新後始めて遭遇したる事として種々に協議を要する事多かりしなり。/崩御は30日零時43分として発表することに宮中に於て御決定ありたり,践祚の御式挙行の時間なき為めならんかと拝察せり」(隅谷三喜男『日本の歴史22 大日本帝国の試煉』(中央公論社・1966年)456頁)
 明治天皇は,現実の崩御後なお2時間3分の間「在位」していることになっており,「死後譲位」がされたのでした。
 なるほど,明治皇室典範10条以来,皇位継承は,天皇自らの意思によってすることのできないことはもちろん,実は崩御によって直ちに生ずるものでもなく,決定的なのは儀式をつかさどる臣下らの都合なのでした。その後も明治天皇祭の祭祀が行われる日は,7月29日ではなく7月30日で一貫します。

柳原家墓
俊德院殿頴譽巍寂大居士正二位勲一等伯爵柳原前光(1894年9月2日死去・行年四十五歳)の眠る東京都目黒区中目黒の祐天寺にある柳原伯爵家の墓(隣には,大正天皇の生母である智孝院殿法譽妙愛日實大姉従一位勲一等柳原愛子の墓があります。)


弁護士 齊藤雅俊
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1 南シナ海とサン・フランシスコ平和条約

 最近南シナ海関係のニュースが多いところですが,かつて南シナ海は,大日本帝国の海でもありました。

 先の大戦に係る我が国と連合国との間のサン・フランシスコ平和条約(日本国との平和条約(昭和27年条約第5号)。1951年9月8日署名,1952年4月28日発効)2条(f)項には次のような規定があります。

 

 (f)日本国は,新南群島及び西沙群島に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄する。

  (f)  Japan renounces all right, title and claim to the Spratly Islands and to the Paracel Islands.

 

 ここにいう新南群島(Spratly Islands)は,現在では南沙諸島といわれる島々です。

 

2 大日本帝国領たりし新南(南沙)群島

 新南(南沙)群島については,

 

19381223日,日本は新南群島の領土編入を閣議決定し,1939年3月30日,日本政府は台湾総督府令(第31号)により,新南群島を台湾高雄市の管轄区域に編入した。(国際法事例研究会『日本の国際法事例研究(3)領土』(慶応通信・1990年)64頁(川島慶雄))

 

 ということで,第1次近衛内閣末期の19381223日(当時は皇太子であった今上天皇の5歳の誕生日ですが,「この日皇太子は〔昭和天皇のもとに〕参内予定のところ,軽微な風気につき,用心のため取り止め」となっています(宮内庁『昭和天皇実録第七』(東京書籍・2016年)690頁)。)の閣議決定を経て,同月28日に新南群島は台湾総督府の管轄下に入れられています(『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年))。アジア歴史資料センターのウェッブ・ページにある「新南群島ノ所属ニ関スル件」一件資料によると,同月27日に当該閣議決定(外甲116)に対する昭和天皇の裁可があり,同月28日はそれに基づく指令がされた日です。当該裁可の日(1938年12月27日)に昭和天皇は,「午後,1時間余にわたり内大臣湯浅倉平に謁を賜」った後に,「午後3時より1時間10分にわたり,御学問所において外務大臣有田八郎に謁を賜い,新南群島の所属の件につき奏上を受け」ています(『昭和天皇実録第七』694頁)。
 その後昭和14年台湾総督府令第31号を経て,新南群島は,先の大戦における敗戦による喪失まで大日本帝国の領土だったのでした。

 

3 フランス帝国主義の野望の摧かれたる「支那に属する」西沙群島

 新南群島が大日本帝国の領土であったのならば,同じサン・フランシスコ平和条約2条(f)項にある西沙群島(Paracel Islands)も大日本帝国の領土であったのではないか,とつい考えたくなるところです。インターネット上には,そのような推論からか,西沙群島はかつて大日本帝国の領土であったとの主張を掲載するウェッブ・ページも散見されます。しかしながら,考え過ぎでしょう。「西沙群島につきましては,いまだかつて日本は領土的主権を主張したことはございません。」とされています(1951年10月17日の衆議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会における西村熊雄政府委員(外務省条約局長)の説明(第12回国会衆議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会議録2号11頁)。同月26日の参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会における同政府委員の説明も同旨(第12回国会参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会会議録4号3頁))。むしろ,

 

  1938年7月4日,フランス政府は突然この群島〔西沙群島〕の決定的かつ完全な先占を日本政府〔第1次近衛内閣。宇垣一成外務大臣〕に通知した。これに対し,日本政府は同年7月12日付口上書で,「帝国政府としては西沙島の主権が支那に属するものと従来の見解を何ら変更するの必要及理由を認めず」と回答した。(国際法事例研究会6667頁(川島))

 

とされています。支那事変中であっても,「支那に属するもの」である西沙群島はなお「支那に属する」というのが我が国の立場であったようです。したがって,フランス帝国主義に対する姿勢は,厳しい。「194111月1日,駐日仏大使〔Charles Arsène-Henry〕より日本商社が西沙群島において現に実施しつつある燐鉱採掘事業を拡張する際には,〔仏領〕インドシナ官憲の許可を受けるよう申し入れたが,日本政府〔東条英機内閣。東郷茂徳外務大臣〕はフランスの同群島に対する主権を認めない以上,許可を受けるべき筋合のものではないとの回答」を行っています(国際法事例研究会67頁(川島))。1951年11月6日の参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会においても,草葉隆圓政府委員(外務政務次官)は,西沙群島について「日本政府はむしろこれを中国の領有ではないかということの意見を持つて参つた土地であります。」と答弁しています(第12回国会参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会会議録11号2頁)。

 それでは,サン・フランシスコ平和条約2条(f)項になぜ西沙諸島が入ったのかといえば,「アメリカ原案には,同群島についての記載はなかったが,フランスの主張によるものであろうが,最終案では日本は同群島に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄するものとされ,同条約第2条(f)の規定となった。」とされています(国際法事例研究会67頁(川島))。フランス式心配の産物であったようです。1940年9月23日の我が軍の北部仏印進駐(第2次近衛内閣),1941年7月28日の南部仏印進駐(第3次近衛内閣),1945年3月9日の我が軍による仏領インドシナのフランス軍武装解除,更にヴェトナムにおけるバオ・ダイ政権の成立という一連の歴史の流れにおいて,フランスは,我が国にいじめられ続けて参っていたのでしょう。
 サン・フランシスコ平和条約2条(f)項では,日本は西沙群島に対する「すべての権利,権原及び請求権」を放棄するものとされていますが,実際には,専ら「西沙群島に対します一種の日本の立場」が「請求権」なるものとして放棄されるものと理解されていたようです(1951年11月5日の参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会における西村政府委員の答弁(第12回国会参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会会議録10号26頁)参照)。「この最後の請求権は,財産的請求権という意味ではなく,領有関係の主張と申しましようか,そういうものを放棄させる趣旨でございます。」ということでした(同日の同委員会における同政府委員の答弁(同会議録同頁))。
 なお,1939年1月には,日本政府が天皇の勅裁を得て西沙群島の占領を決定したとの噂が欧州で立っていたようです。アジア歴史資料センターのウェッブ・ページにある内閣情報部の〔昭和〕14・1・30付けの情報第11号では,同盟通信からの来電(不発表)として「ロンドン27日発/日本政府は西沙諸島占領を計画中であり,既に旧臘〔1938年12月〕28日勅裁を仰いだとの風評もあるが,英国外交筋では日本軍の西沙島占領はあり得まいと見てゐる。」との情報を紹介しています。しかし,そもそも内閣情報部が付したのであろうその「情報」の表題の「西沙島占領決定説」において「西沙島」のルビが「パラセル」ではなく「プラタス」(東沙)となっているところがお粗末ではありました。 

 

4 新南群島領有までのフランス帝国主義との争い

 新南群島の領有は,無主地であったものを我が国が占領して領土に編入したという形式でされたのですが,そこでもやはり,フランス帝国主義との争いがありました。

 

  1933年7月24日,フランス政府は在仏日本大使館宛公文をもってスプラトリー島〔新南群島の西鳥島〕および他の5島の主権は今後フランスに属する旨を通知した。その理由はスプラトリー島は1930年4月,その他の島は1933年4月にフランス海軍が占領したことによるということにあった。(国際法事例研究会64頁(川島))

 

新南群島は,「1915(大正4)年,日本人平田末治が発見し,自ら平田群島と命名して,燐鉱石採集および漁業を経営した。」ものとも伝えられ(国際法事例研究会63頁),「1917~18年頃から,日本人がこの群島を踏査するようになり」,1921年にはラサ島燐鉱株式会社が政府の承認援助の下に燐鉱採掘に着手していましたが(「新南群島」は同社の命名による。),1929年4月に同社は経済不況のため操業を中止し,全員日本内地に引き揚げていたところです(国際法事例研究会63‐64頁(川島)参照)。(ただし,新南群島の領土編入に係る1938年12月23日の外甲116閣議決定書には上記の1915年に平田末治が発見して云々ということに係る記載は無く,「・・・新南群島ハ従来無主ノ礁島トシテ知ラレ大正6年〔1917年〕以降本邦人ハ外国人ガ全然之ヲ顧慮セザル前ニ於テ之ニ巨額ノ資本ヲ投下シ恒久ノ施設ヲ設ケテ帝国政府ノ承認及援助ノ下ニ其ノ開発ニ従事シ居リタル次第ナル処・・・」と,1917年以降の邦人の活動のみが言及されています。国際法事例研究会の本は,三田の慶応通信株式会社発行という慶応ブランドを背負ったものなのですが,「慶応」というだけで安心していいものやらどうやら。なかなか新南群島に係る「平田発見説」を伝える他の文献が見つかりません。というよりむしろ,国立国会図書館デジタルコレクションにある台湾高雄市湊町の平田末治述『最近の国情に鑑み特に青年諸君に寄す』(平田末治(非売品)・1936年4月)の表紙の地図を見れば,平田群島と新南群島とは別物で,西沙群島が平田群島とされていました。)

フランスは,ラサ島燐鉱株式会社の操業中止の隙に占領を試みたようです。

 

  これに対し,駐仏日本代理大使は,同群島〔新南群島〕はこれまで無主地であったところを日本が継続的に占領および使用したものであり,目下事業を一時中断しているが,日本政府の同群島に対して有する権原および利益は尊重されるべきであり,これに反してフランス政府の今回の先占宣言は国際法上実効的占有の完了を伴っていないと抗議し,その後も日仏間に同群島の帰属をめぐって応酬があった。(国際法事例研究会64頁(川島))
 

その後前記1938年12月23日の外甲116閣議決定書においては,「・・・而シテ昭和11年〔1936年〕本邦人ガ再ビ同群島〔新南群島〕ニ於テ開発ニ従事スルヤ仏国政府ハ之ニ対シ数次本件島嶼ニ於ケル仏国ノ主権ヲ主張シ最近ニ及ンデハ商船ヲ同島ニ派遣シ施設ヲ構築スル等我方ノ勧請ヲ無視シテ著々同島ノ占領ヲ実効的ナラシメントシツツアリ帝国政府ニ於テハ此ノ事態ニ深ク稽〔かんが〕ヘ各般ノ措置ヲ講ジテ同島ノ占有ヲ確保スルニ遺憾ナキヲ期シタル次第ナルガ仏国政府ノ飜意ノ絶望トナリタルニ鑑ミ帝国政府従来ノ権原ヲ明ニシ仏国政府ノ高圧策ニ対抗スルノ建前ヨリシテ此ノ際仏国ガ領土権ヲ主張スル諸島及右ト一連ノ新南群島諸島ガ帝国ノ所属タルコトヲ確定スルコト必要トナレリ」と述べられています。
 新南群島の大日本帝国編入に際しては,「その旨をフランスはじめ関係諸国に通告したが,フランスはもとより,英,米などの諸国もこれに抗議した。」とされています(国際法事例研究会
65頁(川島))。当時の中華民国政府からの抗議はなかったものでしょうか。

 

5 先の大戦後の台湾及び新南群島と日本国と中華民国との間の平和条約

とはいえ新南群島は,台湾の一部(高雄市所属)とされていたので,先の大戦後には,その命運を台湾と共にしたようです。蒋介石としては,お芋の形の台湾を取り返したら,その尻尾の先にフランス帝国主義から守って大日本帝国が育てた遺産の新南群島が付いていた,というような感じだったでしょうか。

 

 台湾は,第二次大戦末期1945年2月にフィリピンを掌握した米軍がここを素通りして4月に沖縄に上陸したこともあってか,9月2日の連合国最高司令官の一般命令第1号の占領地域分配では,蒋介石に授権された。1025日には受降典礼が行われ,中国は「台湾澎湖列島の日本陸海軍およびその補助部隊の投降」を受け「台湾澎湖列島の領土人民に対する統治権,軍政施設並びに資産を接収」し,同日より「台湾および澎湖列島は正式に中国の版図に再び入り,すべての土地,人民,政治はすでに中華民国国民政府の主権下におかれた」と声明した。こうして中華民国は台湾の自国編入措置を国内法的に完了させ,台湾をその一省とした。日本統治時代の州は県に改称され,台湾の一部に編入されていた新南(南沙)群島は切り離され,広東省に編入された。日本は対日平和条約において,帰属先を明示しないまま,単に「台湾及び澎湖諸島」と「新南群島」に対するすべての権利,権原および請求権を「放棄」した。そして,この放棄は1952年の日華平和条約によって「承認」された。日本の判例はこれにより台湾が中華民国に譲渡されたと解する(最判,昭3712月5日)・・・。(国際法事例研究会2728頁(芹田健太郎))

 

 日本国と中華民国との間の平和条約(昭和27年条約第10号。1952年4月28日台北で署名,同年8月5日発効)2条は,「日本国は,1951年9月8日にアメリカ合衆国のサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約(以下「サン・フランシスコ条約」という。)第2条に基き,台湾及び澎湖諸島並びに新南群島及び西沙群島に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄したことが承認される (is recognized)。」と規定していました。

 外国人登録法違反被告事件に係る昭和3712月5日の最高裁判所大法廷判決(刑集16121661頁)においては,「日本の国内法上台湾人としての法的地位をもつた人・・・は,台湾が日本国と中華民国との間の平和条約によつて,日本国から中華民国に譲渡されたのであるから,昭和27年8月5日同条約の発効により日本の国籍を喪失したことになるのである。」と判示されています。最高裁判所の当該多数意見に基づき考えれば,新南(南沙)群島は,日本国と中華民国との間の平和条約によって1952年8月5日に我が国から中華民国に譲渡されたことになるようです。(しかし,この最高裁判所的解釈は,外務省の心知らずというべきでしょう。表立ったものではありませんが(with no publicity)1952年5月に日本とフランスとは外交当局間で書簡を交換しており,そこにおいて岡崎勝男外務大臣は,日本国と中華民国との間の平和条約2条はサン・フランシスコ平和条約2条(f)項によって含意されたもの以外の特別な意義又は意味(special significance or meaning)を有するものと解釈されるべきではないとのフランス側の理解に同意しています(Tønneson, Stein. “The South China Sea in the Age of European Decline.” Modern Asian Studies 40.1 (2006): 43)。)

 普通は,領土の変更は,国際条約に基づくものでしょう。日本国と中華民国との間の平和条約も,最高裁判所によって(外務省の心はともかくも)領土の変更の原因となる国際条約であるものと考えられたのでしょう。

 

 領土ノ変更ハ国際条約ニ依リテ生ズルヲ普通トス。国際条約ノ外ニ新領土取得ノ原因トシテハ無主地ノ占領ヲ挙グルコトヲ得ベク〔モ〕・・・無主地ハ今日ニ於テハ殆ド其ノ跡ヲ絶チ・・・領土変更ノ通常ノ原因ハ専ラ国際条約ニ在リト謂フコトヲ得。(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)126頁)

 

ただし,奥野健一裁判官は,前記最高裁判所昭和3712月5日判決に係る補足意見で,「私見によれば,わが国はポツダム宣言受諾により台湾等の領土権を放棄したものであり,日本国との平和条約及び日本国と中華民国との間の平和条約は,何れもこれを確認したものと解する。従つて本来の台湾人及びその子孫はわが国がポツダム宣言を受諾した時から,日本国籍を離脱したものと解すべき」と述べています。この点は,美濃部達吉も同様であったようで,1946年8月段階で,「台湾及澎湖列島ハ関東州租借地ト共ニ支那ニ復帰シ,朝鮮ハ独立ノ国家トナリ,樺太ハ蘇聯邦ニ帰属シ,南洋群島ハ米国ノ占領スル所トナリタリ。」と述べています(美濃部・撮要125頁)。「第三国人」とは「敗戦後の一時期,在日朝鮮人・同中国人を指して言った語」と定義されていますが(『新明解国語辞典 第五版』(三省堂・2002年)),これら美濃部枢密顧問官=奥野裁判官的なポツダム宣言の解釈(ポツダム宣言受諾物権行為説ともいうべきでしょうか。)に基づき生まれた言葉でしょうか。これに対して,後になってからの前記最高裁判所の多数意見(そこでは,同裁判所の判例(昭和36年4月5日大法廷判決・民集15巻4号657頁)は「日本の国内法上で朝鮮人としての法的地位をもつた人は,日本国との平和条約発効により,日本の国籍を喪失したものと解している。」とも述べられています。)によれば,日本の国内法上で朝鮮人又は台湾人としての法的地位をもった人については,日本国との平和条約又は日本国と中華民国との間の平和条約の発効(それぞれ1952年4月28日,同年8月5日)前は,なお日本国籍が保持されていたようです。(朝鮮人としての法的地位をもった人と台湾人としての法的地位をもった人とで日本国籍の喪失の時期が違うのは,サン・フランシスコ平和条約2条(a)項では「日本国は,朝鮮の独立を承認」しているのに対して,同条(b)項は台湾及び澎湖諸島の独立を承認してはいないからでしょう。すなわち, 次のような考え方に由来するものでしょうか。いわく,「無人地を抛棄するのは,何人の権利をも侵害するものではないから,敢て立法権の行為を必要とすべき理由は無い」一方,「之に反して現に臣民の居住して居る土地を抛棄することは之を独立の一国として承認する場合にのみ可能であつて,之を無主地として全く領土の外に置くことは,憲法上許されないところと見るのが正当である。何となれば臣民は国家の保護を要求する権利を有するもので,国家は之をその保護から排除することを得ないものであるからである」(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)83頁)。)とはいえ,占領下の実際にあっては,「連合国総司令部の覚書は,あるいは朝鮮人を外国人と同様に取扱い,あるいは「非日本人」という言葉のうちに朝鮮人を含ませ,あるいは「外国人」という言葉のうちに朝鮮人を含ませていた」そうです(上記最判昭和36年4月5日)。なお,「連合国総司令部の覚書に基いて発せられた日本政府の「外国人登録令」〔昭和22年5月2日勅令第207号〕は,朝鮮人を当分の間外国人とみなし,これに入国の制限と登録を強制した」そうですが(上記最判昭和36年4月5日。外国人登録令11条1項は「台湾人のうち内務大臣の定めるもの〔外国人登録令施行規則(昭和22年内務省令第28号)10条によれば「台湾人で本邦外に在るもの及び本邦に在る台湾人で中華民国駐日代表団から登録証明書の発給を受けた者のうち,令第2条各号に掲げる者〔連合国軍又は外交関係者〕以外の者」〕及び朝鮮人は,この勅令の適用については,当分の間,これを外国人とみなす。」と規定),そこでは「みなす」が効いていて,台湾人及び朝鮮人は,なお完全に外国人ではないものとする認識が窺われます。

ちなみに,新南群島がそうであった無主地の領土編入の法形式については,「領土ノ変更ノ為ニ議会ノ議決ヲ経タルコトナシ。事実上ノ占領ニ依リ無主地ヲ領土ト為ス場合ハ条約ニ依ルニ非ズト雖モ,此ノ場合ニ於テモ毫モ臣民ノ自由ヲ制限シ又ハ其ノ権利ニ影響スルモノニ非ザルガ故ニ,法律ヲ以テスルヲ要スル理由ナク,天皇ノ大権ニ依リテ之ヲ為スコトヲ得。其ノ形式ニ於テハ必ズシモ勅令タルヲ要セズ」と説かれていました(美濃部・撮要129頁)。

 

6 日仏友好:Vive la France!

我が外務省のウェッブ・ページによれば,2015年6月7日にドイツのエルマウで安倍晋三内閣総理大臣とオランド・フランス大統領との間で日仏首脳会談があり,その席で安倍内閣総理大臣が「南シナ海では中国による埋め立てが急速に進展しており,この点について懸念を共有したい」と述べたところ,オランド大統領は「南シナ海の状況について懸念を共有する,安全,平和の確保のためには,力ではなく対話による解決が重要である」と答えたそうです。麗しい日仏関係です。

無論,オランド大統領は,「我がフランスによるパラセル(西沙)群島及びスプラトリー(南沙)群島の領有の邪魔をして,その結果としてはChineの南シナ海進出の露払いのような形になり,さらには力を用いて我が仏領インドシナの解体をもたらしたのはどこのどの国だったっけ。本来南シナ海は,フランス文明の海になるはずだったんだぞ。」などと考える意地悪な人ではないはずです。(なお,我が外務省には当然フランス贔屓の人々がいて,前記の1933年7月のフランス政府によるスプラトリー島等に係る領有宣言に関して,同月25日パリ発の在仏長岡大使より内田外務大臣宛の電報においては,「・・・仏国ノ領有ハ米国ニ帰属スルニ比シ遥ニ好都合ト存スルニ付若シ右諸島中本邦トノ経済関係上何分留保スヘキモノアラハ此ノ際之ニ対スル保障ヲ取付ケ且同島ノ軍事施設ニ付華府〔ワシントン〕条約適用ヲ見ルヘキモノナルコトヲ明カニシタル上承認セラルルコト然ルヘキヤニ存ス」と,フランスの領有を認めるべきものとする意見具申がされていました(『日本外交文書 昭和期Ⅱ第2部第2巻(昭和8年対欧米・国際関係)』929頁)。サン・フランシスコ平和条約の承認を求めるための参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会における説明においても,西村政府委員(外務省条約局長)は「新南群島は1939年,日本が一方的に台湾の高雄市の管轄に属せしめた地域であります。その群島につきましては1933年以来,日本とフランスの間にいわゆる先占権について紛争があつて遂に外交上妥結に達しないで,日本のほうで一方的に領域変更の措置をとつた経緯がある地域であります。」と述べており(下線は筆者。第12回国会参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会会議録4号3頁),何やらフランスに同情的な雰囲気がにじんでいました(同政府委員は,この後パリで駐仏大使を務めます。)。2005年段階において,フランスはなお,スプラトリー群島に係る領有権の主張を公式には放棄していないようであると報告されています(Tønneson: 56)。)

ちなみに,日本軍進駐下の仏領インドシナの獄中にいたフランス人ピエール・ブールが後に書いた有名なSF小説が,『猿の惑星』でした。


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1 大日本帝国憲法草案からの「法律ノ前ニ於テ平等トス」規定の消失

 1889年2月11日に発布された大日本帝国憲法にはそれとしての平等条項が無いところですが,その第19条は「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得」と規定しています。これは,1888年3月の「浄写三月案」(国立国会図書館の電子展示会「史料にみる日本の近代―開国から戦後政治までの軌跡」の「第2章 明治国家の展開」27ウェブ・ページ参照)の段階で既にこの形になっていました(ただし,「其他」の「」は朱筆で追記)

 しかし,伊東巳代治関係文書の「憲法説明 説明(第二)」は,1888年1月17日付けで作成され同年2月に条文が修正されたものですが(国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができます。),そこでの「第22条」は,「日本臣民タル者法律ノ前ニ於テ平等トス又法律命令ニ由リ定メタル資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其他ノ公務ニ就クコトヲ得」とありました(なお,「法律ノ前ニ於テ平等」は「法律ニ対シ」とすべきか「法律ニ於テ」とすべきか迷いがあったようで,「ニ対シ」及び「ニ於テ」の書き込みがあります。)。すなわち,1888年1月段階では「法律ノ前ニ於テ平等」という文言があったところです。

 188710月の修正後の夏島草案(「浄写三月案」と同様に国立国会図書館のウェブ・ページを参照)では「日本臣民タル者ハ法律ノ前ニ於テ平等トス又適当ノ法律命令ニ由リ定メタル資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其他ノ公務ニ就クコトヲ得」とありました。同年8月作成時の夏島草案では「第50条 日本臣民タル者ハ政府ノ平等ナル保護ヲ受ケ法律ノ前ニ於テ平等トス又適当ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其他ノ公務ニ就クコトヲ得」とあり,「政府ノ平等ナル保護」まであったところです。

 夏島草案の1887年8月版は,同年4月30日に成立した(小嶋和司「ロエスレル「日本帝國憲法草案」について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)4頁)ロエスレルの草案の第52条の影響を受けたものでしょう。

 

 第52条 何人タリトモ政府ノ平等ナル保護,法律ニ対スル平等及凡テ公務ニ従事シ得ルノ平等ヲ享有ス

 Art. 52.  Jeder geniesst den gleichen Schütz des Staats, Gleichheit vor dem Gesetz und die gleiche Zulassung zu allen öffentlichen Ämtern.

  (小嶋24-25頁参照)

 

「法律ニ対スル平等Gleichheit vor dem Gesetz」は,もっと直訳風にすると「法律の前の平等」になりますね。

なお,「政府」の語は,本来「国家」であるべきものStaatの誤りです(小嶋53頁)

DSCF0773
神奈川県横須賀市夏島(現在は埋立てで地続きになっており,かつ,日産自動車株式会社の工場の敷地内となっています。)

 

2 1831年ベルギー国憲法,1849年フランクフルト憲法及び1850年プロイセン憲法

ところで,ロエスレル草案の「表現は,あくまでロエスレルの脳漿に発するロエスレルの言葉でおこなわれた」ところですが(小嶋39頁),そもそも,臣民権利義務に係る大日本帝国憲法第2章については,「その規定の内容に於いて最も多くプロイセンの1850年1月の憲法の影響を受けて居ることは,両者の規定を対照比較することに依つて容易に知ることが出来る,而してプロイセンの憲法は,此の点に於いて,最も多く1831年のベルジツク憲法及び1848年のフランクフルト国民会議に於いて議決せられた『ドイツ国民の基礎権』の影響を受けて居るもので,随つてわが憲法も亦間接には此等の影響の下に在るものと謂ふことが出来る。」ということですから(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)329頁)1831年ベルギー国憲法,1849年フランクフルト憲法及び1850年プロイセン憲法の当該条文をそれぞれ見てみましょう。

 

(1)ベルギー国憲法6条

まず,1831年ベルギー国憲法。

 

第6条 国内にいかなる身分の区別も存してはならない。

  ベルギー国民は,法律の前に平等である。ベルギー国民でなければ,文武の官職に就くことができない。ただし,特別の場合に,法律によって例外を設けることを妨げない。

  (清宮四郎訳『世界憲法集 第二版』(岩波文庫・1976年)71頁)

 Article 6

    Il n’y a dans l’État aucune distinction d’ordres.

    Les Belges sont égaux devant la loi; seuls ils sont admissibles aux emplois civils et militaires, sauf les exceptions qui peuvent être établies par une loi pour des cas particuliers.

 

(2)フランクフルト憲法137

次に1849年フランクフルト憲法。

 

137条(1)法律の前に,身分Ständeの区別は存しない。身分としての貴族は廃止されたものとする。

 (2)すべての身分的特権は,除去されたものとする。

 (3)ドイツ人は,法律の前に平等である。

 (4)すべての称号は,役職とむすびついたものでないかぎり,廃止されたものとし,再びこれをみとめてはならない。

 (5)邦籍を有する者は,何人も,外国から勲章を受領してはならない。

 (6)公職は,能力ある者がすべて平等にこれにつくことができる。

 (7)国防義務は,すべての者にとって平等である,国防義務における代理はみとめられない。

  (山田晟訳『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)172頁)

§.137.

  [1]Vor dem Gesetze gilt kein Unterschied der Stände. Der Adel als Stand ist aufgehoben.

[2]Alle Standesvorrechte sind abgeschafft.

[3]Die Deutschen sind vor dem Gesetze gleich.

[4]Alle Titel, in so weit sie nicht mit einem Amte verbunden sind, sind aufgehoben und dürfen nie wieder eingeführt werden.

[5]Kein Staatsangehöriger darf von einem auswärtigen Staate einen Orden annehmen.

[6]Die öffentlichen Aemter sind für alle Befähigten gleich zugänglich.

[7]Die Wehrpflicht ist für Alle gleich; Stellvertretung bei derselben findet nicht statt.

 

 なお,美濃部達吉の言う「1848年のフランクフルト国民会議に於いて議決せられた『ドイツ国民の基礎権』」とは,後にフランクフルト憲法に取り入れられた18481227日のドイツ国民の基本権に関する法律Gesetz, betreffend die Grundrechte des deutschen Volksのことでしょうか(山田170頁参照)

 

(3)プロイセン憲法4条

最後に1850年プロイセン憲法。

 

 第4条(1)すべてのプロイセン人は,法律の前に平等である。身分的特権は,みとめられない。公職は,法律の定める条件のもとに,その能力あるすべての者が,平等にこれにつくことができる。

   (山田訳189頁)

 Art.4.  Alle Preußen sind vor dem Gesetz gleich. Standesvorrechte finden nicht statt. Die öffentlichen Aemter sind, unter Einhaltung der von den Gesetzen festgestellten Bedingungen, für alle dazu Befähigten gleich zugänglich.

 

(4)大日本帝国憲法19条との比較

 これらの条項を眺めていると,お話の流れとしては,①身分制を廃止し(ベ1項,フ1項),身分的特権を除去すれば(フ2項,プ2文),②国民は法律の前に平等になり(ベ2項前段,フ3項,プ1文),③その結果国民は均しく公職に就くことができるようになる(ベ2項後段,フ6項,プ3文)ということのようです。フランクフルト憲法137条4項及び5項は身分制の復活の防止,同条7項は平等の公職就任権の裏としての平等の兵役義務ということでしょうか。①は前提,②は宣言,③がその内容ということであれば,我が大日本帝国憲法19条は,前提に係る昔話や難しい宣言などせずに,単刀直入に法律の前の平等が意味する内容(③)のみを規定したものということになるのでしょう。

なお,『憲法義解』における第2章の冒頭解説の部分では,「抑中古,武門の政,士人と平民との間に等族を分ち,甲者公権を専有して乙者預らざるのみならず,其の私権を併せて乙者其の享有を全くすること能はず。公民〔おほみたから〕の義,是に於て滅絶して伸びざるに近し。維新の後,屢大令を発し,士族の殊権を廃し,日本臣民たる者始めて平等に其の権利を有し其の義務を尽すことを得せしめたり。本章の載する所は実に中興の美果を培殖し,之を永久に保明する者なり。」とあって,「士族の殊権を廃し」,すなわち身分的特権を除去して(①),「日本臣民たる者始めて平等に其の権利を有しその義務を尽す」,すなわち法律の前の平等が達成されたものとする(②)との趣旨であろうところの補足的説明がされています1888年3月の「浄写三月案」における当該部分の朱字解説にはなかった文章です。「浄写三月案」では,代わりに,「彼ノ外国ニ於テ上下相怨ムノ余リニ国民ノ権利ヲ宣告シテ以テ譲予ノ契約トナスカ如キハ固ヨリ我カ憲法ノ例ヲ取ル所ニ非サルナリ」とのお国自慢が記されています。)

 

3 ベルギー国憲法流の「法律の前の平等」の意味

 しかし,身分的特権を除去して国民が均しく公職に就けるようにすることのみが法律の前の平等の意味だったのでしょうか。「法律の前の平等」にはもう少し多くの内容があってもよさそうな気もします。そもそもの規定である1831年ベルギー国憲法6条2項における“Les Belges sont égaux devant la loi”の意味を詳しく見てみる必要があるようです。

 便利になったことに,Jean Joseph ThonissenLa Constitution belge annotée, offrant, sous chaque article, l’état de la doctrine, de la jurisprudence et de la legislation1844 年版が現在インターネットで読むことができるようになっています(「東海法科大学院論集」3号(2012年3月)113頁以下の「憲法21条の「通信の秘密」について」を書く際には国立国会図書館まで行って,「これってもしかしたら井上毅も読んだのだろうか」というような古い現物の本(1876年版)に当たったものでした。ちなみに,上記論文執筆当時,1831年ベルギー国憲法の解説本を読もうとして国立国会図書館でフランス語本を探したとき見つかった一番古い本が,当該トニセン本でした。トニセンは,1844年には27歳。刑法学者,後にベルギー国王の大臣)。その22頁以下に第6条の解説があります。

 

 22 立憲国家において法律の前の平等l’égalité devant la loiは,主に4種の態様において現れる。①全ての身分ordresの区別の不在において,②全ての市民が差別なく全ての文武の官職に就任し得ることにおいて,③裁判権juridictionに関する全ての特権の不在において,④課税に関する全ての特権の不在において。平等l’égalitéに係る前2者の態様が第6条によって承認されている。他の2者は,第7条,第8条,第92条及び第112条において検討するものとする。Thonissen, p.23

 

ベルギー国憲法7条は「個人の自由は,これを保障する。/何人も,あらかじめ法律の定めた場合に,法律の定める形式によるのでなければ,訴追されない。/現行犯の場合をのぞいては,何人も,裁判官が理由を付して発する令状によらなければ,逮捕されない。逮捕状は,逮捕のとき,または遅くとも逮捕ののち24時間以内に,これを示さなければならない。」と,第8条は「何人もその意に反して,法律の定める裁判官の裁判を受ける権利を奪われない。」と規定していました(清宮訳71頁)。第92条は「私権にかかわる争訟は,裁判所の管轄に専属する。」と規定しており(同92頁),第112条は「租税に関して特権を設けることはできない。/租税の減免は,法律でなければ,これを定めることができない。」と規定していました(同99頁)。これらはそれぞれ,大日本国帝国憲法23条,24条,57条1項及び62条1項に対応します。

 

 23 このように理解された法律の前の平等は,いわば,立憲的政府の決定的特徴を成す。それは,フランス革命の最も重要,最も豊饒な成果である。かつては,特権privilège及び人々の間の区別distinctions personnellesが,人間精神,文明及び諸人民の福祉の発展に対する障碍を絶えずもたらしていた。ほとんど常に,人は,出生の偶然が彼を投じたその境遇において生まれ,そして死んでいった。立憲議会は,それ以後全ての自由な人民の基本法において繰り返されることになる次の原則を唱えることによって新しい時代を開いた。いわく,「人は,自由かつ権利において平等なものとして出生し,かつ生存する。社会的差別は,共同の利益の上にのみ設けることができる。・・・憲法は,自然的及び市民的権利として次のものを保障しなければならない。第一,全て市民は徳性及び才能以外の区別なしに地位及び職務に就任し得ること。第二,全ての税contributionsは,全ての市民の間においてその能力に応じて平等に配分されること。第三,人による区別なく,同一の犯罪には同一の刑罰が科されること。」と(1791年憲法,人権宣言,第1条及び第1編唯一の条)。Thonissen, p.23

 

「人は,自由かつ権利において平等なものとして出生し,かつ生存する。社会的差別は,共同の利益の上にのみ設けることができる。」とは,1789年の人及び市民の権利宣言の第1条の文言です(山本桂一訳『人権宣言集』(岩波文庫)131頁)1789年の人及び市民の権利宣言は,1791年の立憲君主制フランス憲法の一部となっています(当時の王は,ルイ16世)。トニセンがした上記引用部分の後半は,フランス1791年憲法の第1編(憲法によって保障される基本条項(Dispositions fondamentales garanties par la Constitution))の最初の部分です(ただし,フランス憲法院のウェブ・ページによると,原文は,「保障しなければならない(doit garantir)」ではなく,単に「保障する(garantit)」であったようです。)

前記伊東巳代治関係文書の「憲法説明 説明(第二)」の第22条(大日本帝国憲法19条)の朱書解説1888年1月)は「本条ハ権利ノ平等ヲ掲ク蓋臣民権利ノ平等ナルコト及自由ナルコトハ立憲ノ政体ニ於ケル善美ノ両大結果ナリ所謂平等トハ左ノ3点ニ外ナラズ第一法律ハ身分ノ貴賤ト資産ノ貧富ニ依テ差別ヲ存スルヿナク均ク之ヲ保護シ又均ク之ヲ処罰ス第二租税ハ各人ノ財産ニ比例シテ公平ニ賦課シ族類ニ依テ特免アルコトナシ第三文武官ニ登任シ及其他ノ公務ニ就クハ門閥ニ拘ラズ之ヲ権利ノ平等トス」と述べていますが,トニセンの書いていることとよく似ていますね。日本がベルギーから知恵を借りたのか,それとも両者は無関係だったのか。最近似たようなことが問題になっているようでもありますが,井上毅はフランス語を読むことができたところです(と勿体ぶるまでもなく,トニセン本及びその訳本は,大日本帝国憲法草案の起草に当たっての参考書でした(山田徹「井上毅の「大臣責任」観に関する考察:白耳義憲法受容の視点から」法学会雑誌(首都大学東京)48巻2号(2007年12月)453頁)。)。ただし,上記引用部分に続く「彼ノ平等論者ノ唱フル所ノ空理ニ仮托シテ以テ社会ノ秩序ヲ紊乱シ財産ノ安全ヲ破壊セントスルカ如キハ本条ノ取ル所ニ非サルナリ」の部分は,トニセンのベルギー国憲法6条解説からとったものではありません。

なお,「①全ての身分ordresの区別の不在」については,「憲法説明 説明(第二)」の第22条(大日本帝国憲法19条)朱書解説は,「維新ノ後陋習ヲ一洗シテ門閥ノ弊ヲ除キ又漸次ニ刑法及税法ヲ改正シテ以テ臣民平等ノ主義ニ就キタリ而シテ社会組織ノ必要ニ依リ華族ノ位地ヲ認メ以テ自然ノ秩序ヲ保ツト雖亦法律租税及就官ノ平等タルニ於テ其分毫ヲ妨クルナシ此レ憲法ノ保証スル所ナリ」と述べています。「法律租税及就官ノ平等タルニ於テ其分毫ヲ妨クルナシ」なのだから,華族制度も問題は無い,ということのようです。

 

 24 1815年の基本法は,この関係において,大いに足らざるところがあった。同法は,三身分ordresの封建的区別を再定立していた。すなわち,貴族又は騎士団身分,都市身分及び村落身分である。主にこの階層化classificationこそが,国民会議Congrès nationalが,国内にいかなる身分の区別も存してはならないと決定して禁止しようとしたものであった(第75〔国王の栄典授与権に関する条項〕のレオポルド勲章を制定した法律に関する議論の分析を参照)。Thonissen, p.23

 

 25 第6条第2項は,全ての市民は全ての文武の官職に差別なしに就任し得ることを宣言するものである。この規定は,法律の前の平等の原則を採用したことの必然的帰結であった。「第二次的な法律において初めてseulement規定されるべきではなく,憲法自身において規定されるべきものである原則は,公職に対する全ての市民の平等な就任可能性の原則である。実際,この種の特典faveursの配分における特権及び偏頗ほど,市民を傷つけ,落胆させるものはない。そして,ふさわしくかつ有能な人物のみを招聘するための唯一の方法は,職を才能及び徳性によるせりにかける以外にはない〔Macarel1833年版Élèm. de dr. pol. (『政治法綱要』とでも訳すべきか)246頁からの引用〕。」Thonissen, pp.23-24

 

 上杉慎吉は,大日本帝国憲法19条について「第19条は仏蘭西人権宣言の各人平等の原則に当たるものである,我憲法は各人平等の原則を定めずして,唯た文武官に任ぜられ公務に就くの資格は法律命令を以て予め定むべく,而して法律命令が予め之を定むるには均しくと云ふ原則に依らなければならぬことを定めたのである・・・均くと云ふのは門閥出生に依りて資格の差等を設けざるの意味である,諸国の憲法が此規定を設けたる理由は従来門閥出生に依つて官吏に任じ公務に就かしめたることあるのを止める趣意でありまするから,均くと云ふのは必しも文字通りに解すべきではありませぬ,例へば男女に就て差等を設くるとも第19条の趣意に反するものではない」と述べていました(同『訂正増補帝国憲法述義』(有斐閣書房・1916年)294-295頁)。大日本帝国憲法19条と1789年のフランスの人及び市民の権利宣言とのつながりがこれだけでは分かりにくかったのですが,その間に1791年フランス憲法並びに1831年ベルギー国憲法及び1850年プロイセン憲法が介在していたのでした。

 しかし,ヨーロッパAncien Régimeの身分制のえげつなさが分からなければ,当時唱えられるに至った「法律の前の平等」の意味もまたなかなか分からないようです。
 なお,尊属殺人罪に係る刑法200条を違憲とした最高裁判所大法廷昭和48年4月4日判決(刑集27巻3号265頁)に対する下田武三裁判官の反対意見では「わたくしは,憲法14条1項の規定する法の下における平等の原則を生んだ歴史的背景にかんがみ,そもそも尊属・卑属のごとき親族間の身分関係は,同条にいう社会的身分には該当しないものであり,したがつて,これに基づいて刑法上の差別を設けることの当否は,もともと同条項の関知するところではないと考えるものである。」と述べられていましたが,そこにいう「歴史的背景」とは,前記のようなものだったわけでしょう。

 


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1 大日本帝国憲法14条と31

 大日本帝国憲法141項は「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」と,同条2項は「戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」と規定しています。これに対して,同憲法31条は「本章〔臣民権利義務の章〕ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」と規定しています。(なお,「戒厳」は,ドイツ語の「Belagerungszustand」,フランス語の「l’état de siège」に対応するものとされていますが,後2者は,直訳風には,「被包囲状態」ということですね。)

 美濃部達吉は,大日本帝国憲法31条に相当する規定として旧プロイセン憲法111条(「戦争又ハ内乱ニ際シ公共ノ安寧ニ対シ危害切迫スルトキハ時及場所ヲ限リ憲法第5条第6条第7条第27条第28条第29条第30条及第36条ノ効力ヲ停止スルコトヲ得。詳細ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」)を挙げつつ「併しプロイセン憲法の此の規定は即ち戒厳の宣告に付いての規定に外ならぬ。然るにわが憲法に於いては第14条に別に戒厳の事を定めて居るのであつて,若し本条〔第31条〕の規定を以てプロイセンの右の規定に相当するものと為さば,本条と第14条とは全く相重複したものとならねばならぬ。本条の規定が甚だ不明瞭な所以は此の点に在る。」と述べています(同『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)415頁)。大日本帝国憲法14条の戒厳の規定と同憲法31条の「非常大権」の規定との違いは何なのかが問題になっているわけです。(美濃部の大日本帝国憲法31条解釈については,「軍事機密『統帥参考』を読んでみる」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1000685083.html参照)

 

2 プロイセン憲法111条と関係条項

 なお,旧プロイセン憲法111条に掲げられた同憲法の諸条項は,次のとおり。

 

第5条 身体の自由(persönliche Freiheit)は,保障される。その制限,特に身柄拘束が許される条件及び方式については,法律で規定される。

第6条 住居は,不可侵である。そこへの立入り及び家宅捜索並びに信書及び書類の押収は,法律によって規定された場合及び方式においてのみ許される。

第7条 何人も,法律で定められた裁判官から阻隔されることはない(Niemand darf seinem gesetzlichen Richter entzogen werden.)。例外裁判所及び非常委員会は,認められない。

27条 各プロイセン人は,言葉,文章,印刷物又は図画的表現をもってその意見を自由に表明する権利を有する。

検閲は,導入され得ない。プレスの自由(Preßfreiheit)に係る全ての他の制限は,立法による。

28条 言葉,文章,印刷物又は図画的表現によって犯された違法行為は,一般の刑法に従って処罰される。

29条 全てのプロイセン人は,事前の官庁の許可を要さずに,平和的に,かつ,武器を携帯しないで,閉鎖された場所で(in geschlossenen Räumen)集会する権利を有する。

当該規定は,屋外での(unter freiem Himmel)集会には関係しない。屋外での集会は,事前の官庁の許可についても,法律の規定に服する。

30条 全てのプロイセン人は,刑法に反しない目的のために,結社する権利を有する。

法律によって,特に公安の維持のために,本条及び上記第29条において保障された権利の行使は規制される。

政治団体は,立法によって,制限及び一時的禁止に服せしめられ得る。

36条 兵力(bewaffnete Macht)は,国内の暴動の鎮圧及び法の執行のために,法律により定められた場合及び方式において,かつ,文官当局(Zivilbehörde)の要請に基づいてのみ使用されることができる。後者に関しては,法律は例外を定めるものとする。

 

3 プロイセン戒厳法とフリードリッヒ=ヴィルヘルム4世

 

(1)プロイセン戒厳法

 我が戒厳令(明治15年太政官布告第36号)はプロイセンの戒厳法(Gesetz über den Belagerungszustand vom 4. Juni 1851)の影響を受けたものでしょうが(ただし,日露戦争前の陸軍省内では「日本の戒厳令が1849年のフランス合囲法を参考に立案された」とされていたようです(大江志乃夫『戒厳令』(岩波新書・1978年)99頁参照)。),それでは当該プロイセン戒厳法はどのようなものであったのか。まずは,以下に訳出を試みます。インターネット上にあるwww.verfassungen.deのテキストが,底本です。

 

第1条 戦時において,敵に脅かされ又は既に一部占領された地方(Provinzen)においては,各要塞司令官は指揮下の要塞及びその周辺地帯(Ravonbezirke)を,ただし軍団司令官(der kommandirende General)は軍団管区又はその一部を,防衛の目的のために,戒厳状態にあると宣告する(in Belagerungszustand zu erklären)権限を有する。

第2条 暴動の場合(Fall eines Aufruhrs)においても,公安(die öffentliche Sicherheit)上急迫の危険があるときは,戒厳は,戦時又は平時を問わず宣告され得る。

戒厳宣告(Erklärung des Belagerungszustandes)は,そこで(alsdann)内閣(Staats-Ministerium)から発せられる。ただし,暫定的(provisorisch)かつ内閣による即時の確認(Bestätigung)又は撤回(Beseitigung)にかからしめられたものであり得る。急迫の場合においては,個別の場所及び地域に関して,該地における最高位軍事指揮官によって(durch den obersten Militairbefehlshaber in denselben),地方長官の要請に基づき(auf den Antrag des Verwaltungschefs des Regierungsbezirks),又は遅滞が危険をもたらすときは当該要請なしに,発せられ得る。

要塞においては,暫定的戒厳宣告は,要塞司令官から発せられる。

第3条 戒厳宣告は,太鼓の打鳴又は喇叭の吹鳴によって公示され,並びに更に地方自治体役場への連絡,公共の広場での掲示及び公衆向け新聞(öffentliche Blätter)によって遅滞なく周知される。戒厳の解止(Aufhebung)は,地方自治体役場への通知及び公衆向け新聞によって周知される。

第4条  戒厳宣告の公示(Bekanntmachung der Erklärung des Belagerungszustandes)に伴い,執行権は軍事指揮官に移譲される。文官当局及び地方自治体役場は,軍事指揮官の命令及び指示に従わなければならない。

その命令について,当該軍事指揮官は,個人的に責任を負う(persönlich verantwortlich)。

第5条  戒厳宣告に当たって憲法第5条,第6条,第7条,第27条,第28条,第29条,第30条及び第36条又はその一部の効力を時及び場所を限って停止することが必要であると認められた場合には,関係する規定が戒厳宣告の公示中に明示されるようにし,又は別の,同様の方法(第3条)で公示される命令において公布されるようにしなければならない。

上記の条項又はその一部の停止は,戒厳状態にあると宣告された地域及び戒厳期間中においてのみ効力を有する。

第6条 軍関係者には,戒厳期間中,戦時のための法令が適用される。この命令の(dieser Verordnung [sic])第8条及び第9条も彼らに適用される。

第7条 戒厳状態にあると宣告された場所及び地域にあっては,部隊の指揮官(要塞においては,司令官)が部隊に所属する軍関係者全体に対して上級軍事裁判権(höhere Militairgerichtsbarkeit)を有する。

彼には,軍関係者に対する戦時法上の裁判(kriegsrechtlichen Erkenntnisse)を認可する(bestätigen)権利も帰属する。そこにおける例外は,平時における死刑判決のみである。これは,地方の軍司令官の認可(Bestätigung des kommandirenden Generals der Provinz)に服する。

下級裁判権の行使については,軍刑法典の規定のとおりである。

第8条 戒厳状態にあると宣告された場所又は地域において,故意による放火,故意による溢水の惹起,又は武装軍人若しくは文武の当局関係者に対する公然たる暴力による,及び武器若しくは危険な道具を用意しての攻撃若しくは反抗の罪を犯した者は,死刑に処する。

酌むべき情状がある場合は,死刑に代えて,10年以上20年以下の懲役に処することができる。

第9条 戒厳状態にあると宣告された場所及び地域において次に掲げる行為をした者は,既存の法律にそれより重い自由刑が規定されていない場合は,1年以下の軽懲役に処せられる。

a)敵又は叛徒の数,進軍方向又は勝利の風聞に関し,文武の当局をしてその措置において過誤を生ぜしめるおそれのある虚偽の風評を故意に拡散し,又は広めること。

b)戒厳宣告に当たって又はその期間中において軍事指揮官が公安のために発した禁制に違反し,又は当該違反をすることを求め,若しくはそそのかすこと。

c)暴動,反抗的行為,囚人の解放の犯罪又はその他第8条に規定された犯罪を行うよう,たとい成功しなくとも,求め,又はそそのかすこと。

d)軍人身分の者に対して,不服従の罪を犯し,又は軍の規律及び秩序に違反するよう誘うことを試みること。

10条 憲法第7条の停止下で軍法会議の管轄が生ずるときは(Wird...zur Anordnung von Kriegsgerichten geschritten),叛逆(Hochverrat),外敵通謀(Landesverrat),謀殺,暴動,反抗行為,鉄道及び電信の破壊,囚人の解放,集団反抗(Meuterei),強盗,略奪,恐喝,兵士の裏切りへ向けた誘惑の犯罪並びに第8条及び第9条において刑罰の定められた犯罪及び違反行為に係る予審(Untersuchung)及び審判(Aburtheilung)は,これらの犯罪及び違反行為が戒厳宣告及び戒厳の公示の後に着手され,又は続行された犯罪である限り,軍法会議が行う。

全王国に統一刑法典が施行されるまでは,ケルンのライン控訴裁判所管区においては,内外に係る国家の安全に対する犯罪及び違反行為(ライン刑法典第75条から第108条まで)は,叛逆及び外敵通謀とみなされる。

憲法第7条の停止が内閣から宣告されない場合は,平時においては,軍法会議によって開始された予審に係る判決の執行は,当該憲法条項の停止が内閣によって承認される(genehmigt ist)まで延期される。

11条 軍法会議は5名の裁判官によって構成される。そのうち2名は該地の司法裁判所の幹部によって指名された司法文官,3名は該地における指揮権を有する軍事指揮官によって任命される士官でなければならない。士官は,大尉以上の階級でなければならない。当該階級の士官が不足するときは,欠員は次位の階級の士官をもって補充される。

敵に包囲されている要塞において必用な数の司法文官がいないときは,責任ある軍事指揮官によって(von dem kommandirenden Militairbefehlshaber),市町村会の議員から(aus den Mitgliedern der Gemeindevertretung)補充される。要塞に司法文官がいない場合でも,軍法会議には一人の文民法務官がいるものとする(Ist kein richterlicher Civilbeamte in der Festung vorhanden, so ist stets ein Auditeur Civilmitglied des Kriegsgerichts)。

一地方全部又はその一部が戒厳状態にあると宣告された場合,軍法会議の数は,必要によって定められる。このような場合において,各軍法会議の管轄区域は,軍団司令官(der kommandirende General)が定める。

12条 軍法会議の期日において,裁判長は司法官(ein richterlicher Beamter)が務める。

裁判長は,軍法会議が事務(seine Geschäfte)を開始する前に,当該軍法会議の裁判官となった士官及び場合によっては司法官ではないにもかかわらず裁判官となった文民に対して,委嘱された司法官としての義務を良心と不偏不党性をもって,法に従って果たす旨宣誓させる。

士官である軍法会議裁判官を任命した軍事指揮官は,一人の法務官(Auditeur)又は法務官がいない場合は一人の士官を報告官(Berichterstatter)〔検察官〕として委嘱する。報告官は,法の適用及び運用に注意し,申立てを通じて真実を捜査することを求める義務を有する。報告官は,評決に加わらない。

手続事項の処理(Führung des Protokolls)のため,軍法会議裁判長によって指名され,同人によって宣誓させられる文官行政官(Beamter der Civilverwaltung)が,裁判所書記官(Gerichtsschreiber)として召致される。

13条 軍法会議における手続には,次の規定が適用される。

1 手続は口頭かつ公開である。ただし,公共の福祉の見地から適当と認めるときは,軍法会議は,公表される決定をもって,公開性を排除することができる。

2 被告人は,一人の弁護人によって弁護されることができる。一般刑法によれば(nach dem allgemeinen Strafrecht)1年以下の軽懲役より重い刑を科される犯罪又は違反行為の場合において,被告人が弁護人を選任しないときは,軍法会議裁判長は,職権で弁護人を付さなければならない。

3 報告官は,被告人出席の下,同人の責めに帰せられる事実を陳述する。

被告人は,当該事実についての意見陳述を求められ,続いて,他の証拠の申出を行う。

次に,報告官に対して尋問の結果及び法の適用に関する陳述が,最後に,被告人及び弁護人に対して意見陳述が認められる。

判決は,即時かつ非公開である軍法会議の評議において多数決で決せられ,直ちに被告人に宣告される。

4 軍法会議は,法定の刑を科し,若しくは無罪を宣告し,又は通常裁判官への(an den ordentlichen Richter)移送を命ずる。

無罪を宣告された者は,直ちに勾留から釈放される。通常裁判官への移送は,軍法会議が管轄を有しないものと認めた場合に行われる。この場合において,軍法会議は,勾留の継続又は終了について,判決において同時に別途定めをする。

5 判決書には,公判の日付,裁判官の氏名,被告人に対する公訴事実に対する同人の弁明の要旨,証拠調べに係る言及並びに事実問題及び法律問題に係る判断並びに当該判決が基づいた法令が記載されなければならず,全ての裁判官及び裁判所書記官によって署名されなければならない。

6 軍法会議の判決に対する上訴は,認められない。ただし,死刑に処する裁判は,第7条に規定する軍事指揮官の認可に服し,平時であれば地方の軍司令官の認可に服する。

7 死刑を除く全ての刑は裁判の宣告の後24時間以内に,死刑はそれに続く認可の公示から同期間内に,被宣告者に対して執行される。

8 死刑は,銃殺によって執行される。死刑に処する裁判が戒厳の解止の時になお執行されていなかった場合においては,その刑は,証明済みのものとして軍法会議によって認められた事実に対する戒厳を除外した場合の法的帰結たるべき刑に,通常裁判所によって(von den ordentlichen Gerichten)変更される。

14条 軍法会議の活動は,戒厳の終結(Beendigung)に伴い終了する。

15条 戒厳の解止後は,関連事項(Belagstücken)及びそれに属する審理(dazu gehörenden Verhandlungen)を含む軍法会議のした全ての判決並びに進行中の予審は,通常裁判所に移管される。通常裁判所は,軍法会議がなお審判していない事項については通常刑法に従い(nach den ordentlichen Strafgesetzen),及び第9条の場合に限り同条において規定された罰則に従って,裁判しなければならない。

16条 戒厳が宣告されていない場合であっても,戦争又は暴動の場合において公安に対する急迫の危険があるときは,憲法第5条,第6条,第27条,第28条,第29条,第30条及び第36条又はその一部は,内閣によって,期間及び場所を定めて,効力を停止されることができる。

17条 戒厳宣告並びにそれに伴う(第5条),又は第16条の場合に行われる,第5条及び第16条に掲げられた憲法の条項の停止(一部の停止を含む。)の宣告については,直ちに,それぞれ次の召集の際に両議院に(den Kammern)報告されなければならない。

18条 この法律と抵触するすべての規定は,廃止される。

この法律は,1849年5月10日の命令及び1849年7月4日の宣言(法律全書165頁及び250頁)に代わるものである。

 

     フリードリッヒ=ヴィルヘルム

     〔以下大臣の署名は略〕

 

 背景事情もよく知らないまま辞書だけを頼りに訳すのは,いささか大きな困難を伴いましたRavonbezirke」及び「Belagstücken」が特に難物で,手元のドイツ語辞書を引いても出てこないので,それぞれの訳は推測によるものです。他日の補正を期せざるを得ません。

 ただし,少なくとも訳してみて分かったのは,プロイセン王国の場合,戒厳宣告を発する主体として法文上,内閣(Staats-Ministerium)や軍の司令官は出てきますが,国王(König)は出てこないことです。

 

(2)フリードリッヒ=ヴィルヘルム4世

 なお,1851年6月4日のプロイセン戒厳法に署名したフリードリッヒ=ヴィルヘルムは,第4世(在位1840年‐1861年)でした。「父王〔フリードリッヒ=ヴィルヘルム3世〕は外交でも内政でも,自由主義と反動主義のあいだをさまよい,軍人気質が強かったが,新しい王は美貌の母ルイゼをしのばせる,ととのった顔つきをし,芸術や学問のディレッタントで,どこか文化のにおいをただよわせていた。国民は,プロイセンにも明るい時代がおとずれることを期待した。」とは,即位時のフリードリッヒ=ヴィルヘルム4世に関する描写です(井上幸治『世界の歴史12 ブルジョワの世紀』(中央公論社・1961年)283頁)。(父王フリードリッヒ=ヴィルヘルム3世とその王妃ルイゼとは,ナポレオン相手の戦いに苦労しています。)ワイマルの老ゲーテも1828年3月11日の段階において当時のプロイセン皇太子フリードリッヒ=ヴィルヘルムを高く評価していました。いわく,「私は今プロイセンの皇太子に,大きな期待を寄せている。私が彼について見聞したことのすべてから推測すると,彼は,そうとうな傑物だよ。また役に立つ才能豊かな人材をみとめて登用するということは,傑物にしてはじめてできることだ。なぜなら,何といっても類は友を呼び,自分自身偉大な才能をそなえている君主だけが,またその臣下や従僕の偉大な才能をそれ相応に認め,評価できるにちがいないからだ。『人材に道をひらけ!』とは,ナポレオンの有名な金言であった・・・」(山下肇訳『ゲーテとの対話』(岩波文庫・2012年))。ところが,フランス二月革命の1848年になると「フリードリヒ=ウィルヘルム4世は,即位以来,しだいに絶対君主になろうとしていた。興奮と銷沈をくりかえす安定性のない性格の持主で,西欧デモクラシーと対決する決意ばかりはかたかった。」というような人物になっていました(井上383頁)。同年3月18日のベルリンでの騒乱に際しては,王宮の窓からその様子を見つつ「「人民の暴力と違法には耳をかさない」と強気なことをいっていた」そうです(井上384頁)。その翌年になると,「〔1849年4月3日,フリードリヒ=ウィルヘルムは,帝冠と憲法をささげるフランクフルト議会の代表をポツダム宮殿に引見した。しかし王は,他の諸王侯の同意のあるまではこれをうけるわけにはいかない,と拒絶した。人民集会の手から,「恥辱の帝冠」をうけることはできないという意味だった。フリードリヒ=ウィルヘルムは,そこで,この憲法を支持した下院を解散し,フランクフルト議会の派遣議員に解任を申しわたした」ところです(井上397398頁)。「恥辱の帝冠」とはSchweinekrone(豚の冠)の訳のようですフリードリッヒ=ヴィルヘルム4世は子の無いまま歿し,プロイセン王位は,弟である後の初代ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルムが継ぎます。
 なお,フリードリッヒ=ヴィルヘルム4世の人材鑑識眼に関する逸話として,同王は1848年の「三月革命のとき,ある書類のビスマルクの名の余白に,「銃剣が無制限の支配をおこなうときにのみ採用すべき人物」と書きつけたといわれ,彼は王の意中の人物であった。」とされています(井上459頁)。 

 

4 フランス1878年戒厳法の場合

 大日本帝国憲法起草期に施行されていたフランスの1878年4月3日の戒厳(l’état de siège)に関する法律においては,戒厳の宣告(déclaration)は法律によってされることが本則とされていました(同法1条2項)。ただし,両議院が会期外にあるときには,共和国大統領が,内閣の意見に基づいて,臨時に戒厳を宣告することができました(同法2条,3条。戒厳の継続又は解止は,両議院の判断に服しました(同法5条)。)。アルジェリアにおいては,通信が途絶した場合には,総督が,アルジェリアの全部又は一部が戒厳下にあることを宣告できました。他のフランス植民地においては,総督が戒厳宣告を行い,本国政府に直ちに報告すべきものとされていました(同法6条によって維持された1849年8月9日の戒厳に係る法律4条)。国境又は国内の要塞(places de guerre)又は軍事基地(postes militaires)においては,1791年7月10日の法律及び18111224日のデクレによって規定された場合には,軍事司令官が戒厳宣告をすることができ,当該司令官は政府に直ちに報告すべきものとされていました(1878年4月3日の法律6条によって維持された1849年8月9日の法律5条)。

 

5 大日本帝国憲法14

 以上,プロイセン及びフランスとの比較で見てみると,大日本帝国憲法14条1項には,戒厳の宣告についてフランス第三共和国流に議会が中心的な役割を果たすことを排除する一方,戒厳の宣告をプロイセン式に軍の司令官や内閣に任せるものとすることもせずに天皇自らが掌理するものとする,という意味があったもののように思われます。

 確かに,国立国会図書館ウェッブ・サイトにある「大日本帝国憲法(浄写三月案)」(1888年3月)記載の第14条の解説を見ると,「(附記)之ヲ欧洲各国ニ参照スルニ戒厳宣告ノ権ヲ以テ或ハ専ラ之ヲ議会ニ帰スルアリ  或ハ之ヲ内閣ニ委ヌルアリ 1881年法 独リ独逸帝国ノ憲法ニ於テ之ヲ皇帝ニ属シタルハ尤立憲ノ精義ヲ得ル者ナリ」とあって,大日本帝国憲法14条の主眼としては,戒厳宣告権を天皇に属するものとしたということがあるようです。

 ただし,大日本帝国憲法における天皇の戒厳宣告の大権については,「特に憲法又は法律に依り之を帷幄の大権に任ずることが明示されて居らぬ限りは,国務上の大権の作用として,言ひ換ふれば内閣の責任に属する行為として行はるのが,当然である。枢密院官制〔6条7号〕に依り戒厳の宣告が枢密院の諮詢を経べき事項として定められて居るのを見ても,わが国法が之を国務上の大権の行為として認めて居ることを知ることが出来る。」ということになっていました(美濃部282頁)。すなわち,天皇の独裁というわけではありません。公式令(明治40年勅令第6号)制定前の日清・日露戦争時の戒厳の宣告は,勅令の形式でされ,陸軍大臣のみならず内閣総理大臣も副署しています(美濃部283頁)。
 ちなみに,1882年に元老院の審査に付された戒厳令案においては,第3条に基づき戒厳の「布告」をする者は太政大臣であるものと記されていました(大江55頁参照)。しかしながら,元老院での審議を経て当該「太政大臣」の文字は削られ,制定された戒厳令では同令3条の「布告」の主体は明示されなくなりましたが,これは,「布告とは布告式にもとづいて勅旨を奉じ太政大臣が布告することに定められた制定公布の手続をへたものに限られ」たからだそうです(大江60頁)。「勅旨を奉」ずるわけですから,天皇の意思に基づくものであるわけです。 

 1887年8月完成同年10月修正の大日本帝国憲法の「夏島憲法案」の画像を見ますと,後の大日本帝国憲法14条については,当初は同条1項の規定に相当するものしかなかったところが,後から同条2項の前身規定(「戒厳ノ要件ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」)が別の筆跡で追記されています。同年4月30日成立のロエスレル草案76条2項「天皇ハ戒厳ヲ宣告スルノ権ヲ有ス其結果ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム(Er der Kaiser hat das Recht, den Belagerungszustand zu erklären; die Folgen desselben werden durch Gesetz bestimmt.)」(小嶋和司「ロエスレル「日本帝國憲法草案」について」『明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)3031頁)の方向に戻ったとも評し得るでしょうか(ただし,「要件」と「効果」(Folgen)とはなお違いますが。)。大日本帝国憲法14条の第2項追加の趣旨は,1888年6月22日午後の枢密院会議において伊藤博文議長から明らかにされています。「外敵内乱其他非常〔「アジア歴史資料センター」のクレジットに隠れて1字見えず〕事変ニ遭遇シタルトキニハ戒厳ノ要件ハ其時機ニ応シテ定ムルモノニシテ予メ法律ヲ以テ之ヲ定メ置クコト頗ル困難ナラントス」云々という森有礼文部大臣の第14条2項削去論に対する回答です。

 

 ・・・抑戒厳令ハ平時ニ之ヲ施行スルモノニアラサレトモ予メ議会ノ議ヲ経タ法律ト為スヘキモノナリ何トナレハ戒厳ヲ宣告スレハ其地方ニ於テハ民権ヲ検束シ人民ノ自由権ヲ禁制スルモノナレハナリ但之ヲ実施スルヤ否ニ至テハ天皇陛下ノ権限ニシテ議会ノ議ヲ経ルニ及ハサルモノナリ

 

ただし,大日本帝国憲法第14条2項に「及効果」が入ったのは,1889年1月16日の枢密院会議の段階でした。大きな変更であるはずですが,その際に議論はありませんでした。なお,法令の形式をそれにより定めた公文式(明治19年勅令第1号)の施行後,戒厳令は,法律ではなく勅令の扱いであったところですが(戒厳令の改正が,法律ではなく,明治19年勅令第74号でされている。),大日本帝国憲法の発布に伴い法律レベル(勅令と異なり, 民選議院を含む帝国議会の協賛を要する。)に昇格したことになります。

 

6 戒厳令と大日本帝国憲法31

大日本憲法14条と31条との関係については,1888年6月27日午後の枢密院会議で,井上毅枢密院書記官長が「本条〔大日本帝国憲法31条〕ハ即チ明治15年発布ノ戒厳令ニ関係アルモノニシテ事変(○○)ノ文字ハ仏語ノニテ「インサルレクシヨン」ト云フ」と述べています。同じ会議で井上はまた,山田顕義司法大臣の大日本帝国憲法31条の「事変(○○)ノ文字ハ意味甚ク漠然タリ日本ノ戒厳令ヨリ転シテ来ルモノナルヤ若シ法律ノ明文ニ此文字ナケレハ本官ハ事変(○○)ノ文字ヲ内乱(○○)ト修正センコトヲ望ム」との発言に対して,「戒厳令第1条ニ「戦時若クハ事変(○○)ニ際シ」云々トアリ是レ即チ法律ノ明文ナリ」と答えています。大日本帝国憲法31条と14条(戒厳令)とは相互に関係あるものとあっさり認めていながら,美濃部達吉のように,両条が「相重複」して第31条の規定が「甚だ不明瞭」になっているとは考えていなかったようです。ただし,前記の1889年1月の修正によって戒厳の効果も法律によって定められることとなる前の段階における議論ではあります(すなわち,戒厳宣告の場合,臣民の権利は法律に基づかずとも制限され得るものとすると構想されていた段階での議論です。)。ちなみに,以上のような枢密院での議論は,美濃部は詳しくは知らなかったようです。1927年の段階で美濃部は,大日本帝国憲法案を審議した「枢密院に於ける議事録も今日まで秘密の中に匿されて居つて,吾々は全く之を知ることの便宜を得ないのは遺憾である。」と述べています(美濃部15頁)。

なお,「事変」に係る大日本帝国憲法31条の用語は,1889年1月29日午後の枢密院会議で,やはり「内乱」に一度改められています。伊藤博文の説明は,「単ニ事変トノミニテハ其区域分明ナラス故ニ内乱ト改ム戦時ハ主トシテ外国ニ対シテ云フ」とのことだったのですが,山田顕義はどう思ったことやら。しかしながら,「内乱」の文字はやはり「穏当ナラサル」ものだったようで,同月31日の枢密院会議の最後になって「国家事変」に最終的に改められています。榎本武揚逓信大臣が「事変」でよいではないかと発言したところ,伊藤枢密院議長の回答は「唯事変ノミニテハ瑣細ノ事変モ含蓄スルノ嫌ヒアリ故ニ国家事変トシタルナリ」ということでした。

大日本帝国憲法31条が戒厳に関係のあることが当然とされていたところで,森有礼の大日本帝国憲法14条2項(戒厳宣告要件法定条項)削去論があえて排斥され,実は1889年1月16日の段階に至ってから戒厳宣告の効果について法律で定める旨枢密院で明文化されているのですから,「本条〔大日本帝国憲法31条〕の規定の結果としては,戒厳の宣告せられた場合の外に,尚大本営の命令に依つても一般人民に対し軍事上必要なる命令を為し得るものと解せねばならぬ」もの(美濃部417418頁)であったと直ちに論断すべきものかどうか。「本条〔大日本帝国憲法31条〕の規定を以て戒厳の場合のみを意味するものと解するならば,本条は第14条と全然相重複し無意味の規定とならねばならぬ。」として(美濃部417頁),わざわざ統帥権の独立を前提とした議論(「本条〔大日本帝国憲法31条〕の大権は政務に関する天皇の大権に属するものではなく,陸海軍の大元帥としての天皇の大権に属するものである」(同416頁)。)までをすべきだったものかどうか。考えさせられるところです。あるいは,1889年1月16日にされた第14条2項の修正がもたらす第31条への跳ね返りを,当時の枢密顧問官らは後の枢密顧問官美濃部達吉ほど鋭く見通してはいなかったということはないでしょうか。(なお,国立国会図書館デジタルコレクションにある伊東巳代治関係文書の「憲法説明 説明(第二)」(1888年1月・同年2月条文修正)における大日本帝国憲法31条に対応する第35条(「本章ニ掲クル条規ハ戦時又ハ事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルヿナシ」)の朱書解説は,あっさりと,「本条ハ即チ・・・非常処分ノ変例ヲ掲ケ以テ本章ノ為ニ非常ノ変ヲ疏通スル者ナリ此ノ非常処分ヲ行フニ一個ノ方法アリ第一戒厳令ヲ宣告ス第二戒厳ノ一部ヲ行フコト是ナリ」と述べています。大日本帝国憲法の「第14条と第31条は完全な重複規定であり,第31条が第14条とは別個の非常大権を規定したものとは考えがたい。」という評価(大江77頁)は,「完全な重複」という表現において強過ぎますが,確かに,第31条が「別個の非常大権を規定したものとは考えがたい」ということでもよかったのではないでしょうか。) 

 

7 ドイツ帝国憲法68

なお,「大日本帝国憲法(浄写三月案)」によれば大日本帝国憲法14条1項の規定が参考としたのは1871年のドイツ帝国憲法ですが,当該憲法における戒厳に関する規定について,美濃部達吉は次のように紹介しています。

 

・・・旧ドイツ帝国憲法(68条)に依れば,皇帝が戒厳宣告の権を有するものとせられて居り,而も,それは第9章の「帝国軍隊」と題する章に規定せられて居り,且つドイツ帝国の前身である北ドイツ聯邦の憲法には,戒厳の宣告は元首(Reichspräsidium)の大権でなくして,大元帥(Bundesfeldherr)の大権であることが明示せられて居つた為に,旧ドイツ憲法に於いてもそれは大元帥としての皇帝の軍令大権に属するものと解せられ,随つてその宣告には国務大臣の副署を要しないものとせられて居た。(美濃部283頁)

 

  1871年ドイツ帝国憲法68条は,「皇帝は,連邦の領域において公安(die öffentliche Sicherheit)が脅かされているときは,当該地域について,戦争状態にあるもの(in Kriegszustand)と宣告できる。そのような宣告の要件,公布の方式及び効果について規定する帝国法律が発せられるまでは,1851年6月4日のプロイセン法(法律全書1851451頁以下)の規定が適用される。」と定めていました。1851年6月4日のプロイセン法とは,プロイセン戒厳法のことです。独立統帥権を有する大元帥が宣告する戒厳であっても,その要件及び効果は,法律で縛られていたのでした。(なお,我が国における戒厳の宣告の方式については,法律ではなく勅令である公式令で定められており,その第1条によって,詔書によるべきものでありましたが(美濃部283284頁参照),公式令施行後は本来の戒厳の宣告はされていません。日比谷焼打ち事件,関東大震災及び二・二六事件の際の「戒厳」は,戒厳令それ自体による本来の戒厳ではありませんでした(行政戒厳)。)。
 ところで,注意すべきは,ドイツ帝国は諸王国・自由都市から構成される連邦国家であったことです。プロイセン国王たる皇帝は,帝国内の他の王国・自由都市については,大元帥ではあっても,軍事その他の帝国管轄事項以外の分野では第一次的統治権者ではなかったはずです。天皇による戒厳の宣告及び戒厳宣告の効果の法定主義を規定するロエスレル草案76条は,「第1章 天皇(Vom Kaiser)」にではなく,「第6章 行政(Von der Verwaltung)」に置かれていたところです(なお,ロエスレル草案でも統帥関係の「第9条 天皇ハ陸海軍ノ最高命令ヲナシ平時戦時ニ於ケル兵員ヲ定メ及兵ニ関スル凡テノ指揮命令ヲナス」及び「第10条 天皇ハ宣戦講和ノ権ヲ有シ戦権ヲ施行スル為必要ナル勅令ヲ発ス」といった規定はやはり,「行政」の章ではなく,「天皇」の章にありました(小嶋12‐13頁)。)。ロエスレルらドイツの法学者も,戒厳の宣告は本来国務であって,ドイツ皇帝の大元帥としての戒厳宣告は,ドイツ帝国が連邦国家であるという事情ゆえのものとしていたと考えられるように思われます。

 

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1 矢内原忠雄教授の「国家の理想」

 東京帝国大学経済学部の矢内原忠雄教授が193712月1日に辞表を提出し,同月4日に退官したいわゆる矢内原事件の原因の一つとして挙げられているのが同年8月に発行された『中央公論』同年9月号掲載の同教授の論説「国家の理想」です(脱稿日は同年8月10日とされています。)。

 

  かくして我らが国家の理想として認識するところは,社会的かつ組織的なる原理,換言すれば社会に組織を付与するところの根本原理でなければならない。かかる性質を有する原理は『正義』である。正義とは人々が自己の尊厳を主張しつつ同時に他者の尊厳を擁護すること,換言すれば他者の尊厳を害せざる限度において自己の尊厳を主張することであり,この正義こそ人間が社会集団を成すについての根本原理である。かかる正義原則の確立維持は,社会成員中強者弱者間の関係の規律において特に重要である。さらに具体的に言えば,弱者の権利をば強者の侵害圧迫より防衛することが正義の内容である。・・・

 

  右のごとく正義が国家に基底を与えるところの,国家以上の原理であるとすれば,それは単に国家内において国家構成員たる各個人各団体相互間の関係の規律,すなわちいわゆる『社会正義』としてのみでなく,国家相互間の関係を規律するもの,すなわち『国際正義』としても妥当しなければならない。国家内にありて強者が自己の生存上の必要という名目のもとに弱者の権利を侵害することが正義原則に反するものであって,国家の本質,国家の理想を裏切り,国家の品位を毀損するものであるごとく,国際間にありて○○○○○○○○○(強国が自国生存上の)必要と称して○○○(弱国の)権利利益を○○○○(侵害する)こともまた正義原則に反するものであり,国家の国家たるゆえんの本質に悖り,国家の理想を裏切り,国家の品位を害するものと言わねばならない。・・・

 

  ・・・○○(正義)原則が発現する形式は平和である。自己の存在するがごとくに他人をも存在せしむること,もしくは他人の存在を害せざるがごとくに自己が存在することが○○○○(正義原則)である以上,自他の関係を調整する具体的政策は○○○○○(平和でしか)あり得ない。自己生存上の必要を理由として他者の生存上の要求を○○○○(侵害する)ことは,正義ではない。単なる自己生存上○○○(の必要)は,いかなる意味においてもこれを正義と名づくるを得ないのである。

  国際正義は国際平和すなわち国家間の平和として,社会正義は国内平和すなわち貧者弱者の保護として現われる。しかして国際正義国際○○(平和)維持によりて,社会正義社会平和もまた,間接に維持せられる。けだし諸般の政治が○○○○○(軍事行動を)目標として計画施設せらるる場合において,一方に軍需成金戦争成金の簇生するに対し,○○○○○○(庶民の負担が)あるいは相対的に,あるいは絶対的に加重せられることは,必ずしも財政経済学者の分析を待ちて始めて知られる事柄ではない。すなわち国際正義はその政策たる国家間の平和を通じて社会正義と関係するのである。国際正義と社会正義とは国家の本質上同根の原理であり,○○○(平和を)もって両者共同の必然的政策とする。要言すれば,正義と平和とこそ国家の理想である。

 

  現実政府はその具体的なる政策遂行上,国民中に批判者反対者なき事をもってもっとも便宜とする。挙国一致とか,国民の一致後援とかいうことは,政府のもっとも要望する国民的態度である。この結果を○○○○(人為的に)作り出すための手段として用いらるるものは,一に弾圧,二に宣伝。○○○○○(批判力ある)反対者の言論発表を禁止することが弾圧であり,批判力乏しき大衆に向って一方的理論のみを供給してその批判力をまぐることが宣伝である。この両者を大規模に,かつ組織的に併用することによりて,○○○(表面的)挙国一致は容易に得られ,政府の政策は国民的熱狂の興奮裡に喝采さえせられる。

 

 ・・・根本的に国家を愛し国家に忠なる者は,当面皮相の政策に迎合することなく,国家の理想を愛し理想に忠なるものでなければならないのである。

  現実政府の具体的政策に対する挙国一致的協力が○○○(国論の)統一を生命とし,異論を許さざるに対し,国家の理想達成のための挙国一致は,愛国の精神においては一致するけれども,形式的には異論を許容する不統一たるを妨げない。異論の主張,批判の存在こそ,かえってこの場合における挙国一致の必要条件である。政府の具体政策が国家の理想を無謬に表現するものでなき限り,一色塗抹的挙国一致はかえって国家の理想探求,達成を妨害するものである。しかるに現実に政府に充当せられたるいかなる個人もしくは団体も,その理想把握,理想達成のための政策決定について全き無謬を主張することは許されざるが故に,国家の理想達成という点より見れば,国家意思の決定は全国民的に,弾力的に,なされねばならない。これ政治上言論自由の尊重せられねばならないところの根本的理由である。また国民中少数者の存在が,国家理想の達成上根本的に必要なる理由である。国家の理想が政府当局者の政策によるよりも,かえって国民中の少数者によりて維持せられし事実は歴史上に乏しくない。イスラエルの預言者のごときはその著例である。我らは今しばらくその一人たるイザヤについて,彼が現実国家を挙げての混迷中にありていかに国家の理想を高唱したかを見よう。

 

 ・・・現実国家の具体的政策を担当する者は国家の機関であるが,国家の理想を担当して国家存立の根本的永遠的政策を指示するものは預言者である。国民は国法的には国家機関の決定せる政策に服従しなければならぬが,理想界においては預言者の言に服従しなければならない。しかして理想に基づきて現実が指導せられる時,そこに始めて現実国家の基礎は鞏固たるを得るのである。真の愛国は現実政策に対する附和雷同的一致に存するのではない。かえって附和雷同に抗しつつ国家の理想に基づいて現実を批判する預言者こそ,国家千年の政策を指導する愛国者であるのだ。

 

 ・・・外面的粉飾よりも,内面的湧出。教養よりも理想。学者より預言者。現実界の混迷が加わる時代において益々必要なるはこれである。

 

 ・・・ここにおいてか国家非常時に対する哲学・宗教の任務の特に重要なるを知るのである。(『中央公論』196011月号再掲版。伏字の箇所は『日本の傷を医す者』から復元)

 

 1937年「8月24日,〔講演旅行中の矢内原教授の〕高松から大島への移動中,同行していた者の一人が『中央公論』9月号を購入し,巻頭論文であるはずの「国家の理想」が削除処分になっているのを発見」したということでしたが(将基面貴巳『言論抑圧』(中公新書・2014年)49-50頁),当局(当時は第1次近衛内閣)はどの点を問題にしたものでしょうか。

 

2 第1次近衛内閣と大陸状勢

 

  昭和12年(1937)6月4日,親任式が行われると,その夕,近衛〔文麿〕新首相は,落ち着いた比較的澄んだ声で,ラジオから国民に訴えた。国際正義にもとづく真の平和と社会正義の実現のために,「改革すべきものは進んでこれを改革し,日に新たに日にまた新たなるを期したい」と作家山本有三が起草にあずかったというこの演説は,新鮮な表現で好評を博した。(林茂『日本の歴史25 太平洋戦争』(中央公論社・1967年)40-41頁)

 

 「国際正義」,「平和」及び「社会正義」は,必ずしもdirty wordsではないようです。ただし,近衛文麿のいう「国際正義」は「民族間の公平」ということで,「「持てる国」と「持たざる国」の対立が国際政治の基本」になっている当時の状況では実現されておらず,「日本は民族の生存権の確保を目的とする大陸政策を必要としている」という認識をもたらすものであったそうです(林43-44頁)。

 大陸では,1937年7月7日には蘆溝橋事件,同月11日日本政府華北派兵声明,同29日通州事件,同年8月9日上海で大山勇夫海軍中尉殺害事件,同月13日第2次上海事変と事態が推移していましたが,同月15日の政府声明では,「暴支膺懲」が唱えられながらも,なお「平和」にリップ・サーヴィスがされています。

 

  帝国は,つとに東亜永遠の平和を冀念し,日支両国の親善提携に,力をいたせること,久しきにおよべり。・・・

  かえりみれば,事変発生以来,しばしば声明したるごとく,帝国は隠忍に隠忍をかさね,事件の不拡大を方針とし,つとめて平和的且局地的に処理せんことを企図し・・・

  ・・・帝国としては,もはや隠忍その限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し,もって南京政府の反省をうながすため,今は断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり。

  かくのごときは,東洋平和を念願し,日支の共存共栄を翹望する帝国として,衷心より遺憾とするところなり。しかれども,帝国の庶幾するところは,日支の提携にあり。これがために排外抗日運動を根絶し,今次事変のごとき不祥事発生の根因を芟除すると共に,日満支三国間の融和提携の実を挙げんとするのほか他意なく,もとより豪〔毫〕末も領土的意図を有するものにあらず。また,支那国民をして,抗日におどらしめつつある南京政府,及び国民軍〔ママ〕の覚醒をうながさんとするも,無辜の一般大衆に対しては,何等敵意を有するものにあらず。かつ列国権益の尊重には,最善の努力を惜しまざるべきは言をまたざる所なり。(風見章『近衛内閣』(中公文庫・1982年(原著1951年))43-45頁から。下線は筆者)

 

第1次近衛内閣の内閣書記官長(今の内閣官房長官)・風見章によれば「この声明では,表面,日本政府は,不拡大方針を投げすてて,徹底的に軍事行動を展開するかもしれぬぞとの意向を,ほのめかしているものの,しかし,実際のところ,それは真意ではなかった。・・・かかる声明を出すことに近衛氏が賛成したというのも,これによって現地解決の機運を促進する効果をねらってのことであったのは,いうまでもない。だから,この声明を発表するにあたっては,その発表の責任者であるわたしが,特に,不拡大現地解決の方針は依然これをかたく守るのだと,ことわったのである。」ということですが(風見45頁),「帝国としては,もはや隠忍その限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し,もって南京政府の反省をうながすため,今は断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり。」というような激しい言葉を中央が言いっ放しにして,あとは現地で何とかしてよ,というのはどうなんでしょうか。

 

〔当該政府声明を決めた〕閣議は,真夜中までも続けられた。そこで世間では,情勢の検討や前途の見通しなどについても,活発なる意見の交換がおこなわれて,重大時局下の閣議たる面目を大いに発揮したことだろうと想像したらしいが,実をいうと,そうではなく,まことに,たあいもなく時をすごしてしまったのであった。というのは,〔杉山元〕陸相から声明の案文〔事前に陸軍省から内閣書記官長に話はなかったとされています(風見43頁)。〕がくばられると,いずれも黙って目を通していたが,そのうちに,広田(弘毅)外相から,「共産主義勢力」という文句があったのを,これはソ連をも問題にしているように誤解される心配もあるので,ほかに適当な文句はないものかと,言い出したのである。・・・すると,この発言を中心に,ああでもない,こうでもないと,思いつきを言い出すものもあり,ひとしきり,このことで話に花が咲いた。それからは,声明文のほうはそっちのけにして,とりとめもない雑談となり,そんなことで思わず時をすごしてしまい,結局「共産主義勢力」は,「赤化勢力」という文句にとりかえると話がきまったころは,真夜中になってしまったのである。そのあいだに,不拡大方針がいいとか,わるいとか,現地解決ができるという見通しは,あたっているとか,いないとかいうようなことは,議題として取り上げられることもなかったのである。(風見45-46頁)

 

 何だか頼りないですね。「当時は,近衛氏の人気は,他の政治家たちの影をすこぶる薄くしたほどで,ひとり,この人にこそ洋々たる前途があるのだと,一般から期待されていた」そうですが(風見33頁),この人しかない,というのは危険でした。

 2日後の1937年8月17日の閣議では,「従来執り来れる不拡大方針を抛棄し,戦時態制上必要なる諸般の準備対策を講ず」るものとあっさり決定されています(林54頁)。

 

3 国民精神総動員

しかし,頼りない現実政府ではあったところ,その「具体的政策に対する挙国一致的協力」は,「国論の統一を生命とし,異論を許さざる」ものたるべし,ということになったようです。1937年8月24日には,国民精神総動員実施要綱が閣議決定されます(同年9月13日発表)。

 

一,趣旨

挙国一致堅忍不抜ノ精神ヲ以テ現下ノ時局ニ対処スルト共ニ今後持続スベキ時艱ヲ克服シテ愈々皇運ヲ扶翼シ奉ル為此ノ際時局ニ関スル宣伝方策及国民教化運動方策ノ実施トシテ官民一体トナリテ一大国民運動ヲ起サントス

 

二,名称

「国民精神総動員」

 

三,指導方針

(一)「挙国一致」「尽忠報国」ノ精神ヲ鞏ウシ事態ガ如何ニ展開シ如何ニ長期ニ亘ルモ「堅忍不抜」総ユル困難ヲ打開シテ所期ノ目的ヲ貫徹スベキ国民ノ決意ヲ固メシメルコト

(二)右ノ国民ノ決意ハ之ヲ実践ニ依ツテ具現セシムルコト

(三)指導ノ細目ハ思想戦,宣伝戦,経済戦,国力戦ノ見地ヨリ判断シテ随時之ヲ定メ全国民ヲシテ国策ノ遂行ヲ推進セシムルコト

(四)〔略〕

 

四,実施機関

(一)本運動ハ情報委員会,内務省及文部省ヲ計画主務庁トシ各省総掛リニテ之ガ実施ニ当ルコト

 (二)〔略〕

 (三)〔略〕

 (四)市町村ニ於テハ市町村長中心トナリ各種団体等ヲ総合的ニ総動員シ更ニ部落町内又ハ職場ヲ単位トシテ其ノ実行ニ当ラシムルコト

 

 五,実施方法

(一)内閣及各省ハ夫々其ノ所管ノ事務及施設ニ関連シテ実行スルコト

 (二)広ク内閣及各省関係団体ヲ動員シテ夫々其ノ事業ニ関連シテ適当ナル協力ヲ為サシムルコト

 (三)〔略〕

 (四)市町村ニ於テハ総合的ニ且部落又ハ町内毎ニ実施計画ヲ樹立シテ其ノ実行ニ努メ各家庭ニ至ル迄滲透セシムルコト

 (五)諸会社,銀行,工場,商店等ノ職場ニ就キテハ其ノ責任者ニ於テ実施計画ヲ樹立シ且実行スルコト

 (六)各種言論機関ニ対シテハ本運動ノ趣旨ヲ懇談シテ其ノ積極的協力ヲ求ムルコト

 (七)ラヂオノ利用ヲ図ルコト

 (八)文芸,音楽,演芸,映画等関係者ノ協力ヲ求ムルコト

 

 六,実施上ノ注意

 (一)本運動ハ実践ヲ旨トシテ国民生活ノ現実ニ滲透セシムルコト

 (二)従来都市ニ於ケル知識階級ニ対シテハ徹底ヲ欠ク憾アリシヲ此ノ点ニ留意スルコト

 (三)社会ノ指導的地位ニ在ル者ニ対シ其ノ率先躬行ヲ求ムルコト 

 

三(一)にいう「所期ノ目的」とは何でしょうか。支那事変(1937年9月2日に北支事変から改称)の「不拡大現地解決」ではもはやないのでしょう。やはり,「支那軍の暴戻を膺懲し,もって南京政府の反省をうながす」までとことんやるということでしょうね。

三(二)は,「右ノ国民ノ決意ハ之ヲ実践ニ依ツテ具現セシムルコト」ということになっていますから,静かなる決意とか,秘めたる愛国心というようなものではだめで,お上や周囲に対する積極的プレゼンテーション能力を要したものでしょうか。ちょっと騒々しいことになったようです。

南京政府のなすべき反省及び謝罪についても,「実践ニ依ツテ具現セシムルコト」とする趣旨だったのでしょうか。

東京帝国大学教授は,正に「社会ノ指導的地位ニ在ル者」なのですから,「率先躬行」して(六(三)),「国民中に批判者反対者なき」「挙国一致」の実現に協力することが期待されていたわけです。1938年発生の河合栄治郎教授休職事件に関連する文部省資料には,「矢内原教授ノ思想内容ニハ著シク〔支那〕事変遂行ノ障碍トナルモノアリテ之ガ急速ナル処置ヲ必要トシタ」との記載があったそうです(将基面80頁)。

しかし,「都市ニ於ケル知識階級ニ対シテハ徹底ヲ欠ク憾」(六(二))はなかなか解消できなかったようです。1941年2月26日の段階で,内閣情報局(1940126日設置)第二課と自由主義的な編集方針の中央公論社編集幹部との懇談会(五(六)参照)において,中央公論社の嶋中雄作社長の「命令さえ下せば国民がいうことを聞くと思ったら,それは間違いだ,ただ知識階級に対する言論指導はわれわれが専門とするところであるから自分たちに任せてもらえないか」との発言に対して,同課情報官の鈴木庫三少佐は激高し,「このさいに君はなにをいうか。そういう考えをもっている人間が出版界にはびこっているから,いつまでたっても国民は国策にそっぽをむくのだ。」と吠えて,国民精神総動員運動にかかわらず国民は依然国策にそっぽを向いていたという現実をはしなくも明らかにしています(将基面211-212頁)。矢内原忠雄教授も,1940年の『余の尊敬する人物』(岩波新書)の「エレミヤ」伝において,紀元前7世紀末のユダ王国ヨシヤ王の申命記改革に関して「これは国民の心から湧き上つた改革運動ではなく,王の命によつて始められた一の政治的な運動でありましたから,すべての官僚的国民精神運動と同様,その改革は制度儀式等外形的なる表面の事に終り,国民の心の傲りを摧き,心そのものを神に向けかへらせる力はなかつたのです。」と記して(12頁),「官僚的国民精神運動」なるものの限界を指摘しています。

矢内原教授の「国家の理想」を19371124日の東京帝国大学経済学部教授会において問題とした土方成美学部長は,「私はこの論文を一読して,時節柄不適当であると思った。もっともこの論文は今日読んでみると全く何でもない,たわいもないものである。幸福なる平和時のあげつらいなら別である。しかし,当時としては問題であった。預言者イザヤの言を引いて,如何にも,わが国が理不尽の戦争をしているようなことが諷刺してある。・・・大衆雑誌において諷刺的に時局を皮肉るような論文は,いたずらに人心を腐らせ,前線将兵の士気を沮喪させるだけであって,時局の収拾に何の役にも立たない。・・・」と後に回顧していますが(将基面120頁),文部省の通牒に従って同年11月3日の明治節に明治神宮に東京帝国大学経済学部関係者が全員参拝しないと大陸で「戦敗を喫する」と心配していた同学部長としては(将基面113-114頁),たかが諷刺では済まされない問題だったのでしょう。(ドイツのファルケンハウゼン将軍の指導下にある堅固な陣地を前に膠着苦戦の上海周辺戦線突破をもたらした柳川兵団の杭州湾上陸は,ようやく同月5日のことでした。なお,風見章は,ファルケンハウゼンを第一次世界大戦中のドイツ参謀総長ファルケンハイン(小モルトケの後任としてシュリーフェン・プラン挫折の後始末を担当)と混同しています(風見73頁)。内閣は統帥事項に関与できぬため柳川兵団の上陸地点を閣議で陸軍大臣から教えてもらえず,新聞記者から杭州湾であるよと教えてもらったような有様の内閣書記官長だったとはいえ(風見49-50頁),とほほ。)


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近衛文麿の揮毫(1940年)

 

4 「敵国降伏」

 

(1)イザヤ対アッシリア帝国

しかし,敵軍敗退のための神頼みのためには,イザヤ(ユダの王ウジヤ,ヨタム,アハズ,ヒゼキヤの世に活躍したアモツの子イザヤ(第一イザヤ))はなかなか縁起のよい預言者だったはずです。

紀元前8世紀の末,既に北のイスラエル王国を滅ぼしていたアッシリアは,セナケリブ王の下,大軍をもって南のユダ王国の首都・エルサレムを攻略しようとします(ダビデ王の息子である有名なソロモン王の歿後,紀元前10世紀後半にイスラエル人の王国は南北に分裂していました。紀元前722年に北王国は滅亡しています。)。

 

〔ユダ王国の〕ヒゼキヤ王はこれを聞いて,衣を裂き,荒布を身にまとって主の宮に入り,宮内卿エリアキムと書記官セブナおよび祭司のうちの年長者たちに荒布をまとわせて,アモツの子預言者イザヤのもとにつかわした。・・・イザヤは彼らに言った,「あなたがたの主君にこう言いなさい,『主はこう仰せられる,アッスリヤの王の家来たちが,わたしをそしった言葉を聞いて恐れるには及ばない。見よ,わたしは一つの霊を彼らのうちに送って,一つのうわさを聞かせ,彼を自分の国へ帰らせて,自分の国でつるぎに倒れさせるであろう』」。

 ・・・

 その時アモツの子イザヤは人をつかわしてヒゼキヤに言った,・・・それゆえ,主はアッスリヤの王について,こう仰せられる,『彼はこの町にこない,またここに矢を放たない,盾をもってその前に来ることなく,また塁を築いてこれを攻めることはない。彼は来た道を帰って,この町に,はいることはない。主がこれを言う。わたしは自分のため,またわたしのしもべダビデのためにこの町を守って,これを救うであろう』」。

 その夜,主の使が出て,アッスリヤの陣営で18万5千人を撃ち殺した。人々が朝早く起きて見ると,彼らは皆,死体となっていた。アッスリヤの王セナケリブは立ち去り,帰って行ってニネベにいたが,その神ニスロクの神殿で礼拝していた時,その子アデランメレクとシャレゼルが,つるぎをもって彼を殺し,ともにアララテの地へ逃げて行った。そこでその子エサルハドンが代って王となった。(列王紀下第191-26-72032-37。また,イザヤ書第371-26-72133-38

 

 そこでヒゼキヤ王およびアモツの子預言者イザヤは共に祈って,天に呼ばわったので,主はひとりのみ使をつかわして,アッスリヤ王の陣営にいるすべての大勇士と将官,軍長らを滅ぼされた。それで王は赤面して自分の国に帰ったが,その神の家にはいった時,その子のひとりが,つるぎをもって彼をその所で殺した。このように主は,ヒゼキヤとエルサレムの住民をアッスリヤの王セナケリブの手およびすべての敵の手から救い出し,いたる所で彼らを守られた。(歴代志下第3220-22

 

 死の天使は怖いですねえ。18万5千人といえば,文永の役における元軍2万5ないし6千人及び船員等6千7百人余(黒田俊雄『日本の歴史8 蒙古襲来』(中央公論社・1965年)82-83頁)並びに弘安の役における元の東路軍4万人(同111頁)及び江南軍10万人(同114頁)の合計に匹敵します。

 

(2)叡尊対モンゴル帝国

ところで,我が神風も,祈祷の力で来たったものです。

すなわち,奈良西大寺の思円上人叡尊が弘安四年(1281年)閏七月一日,石清水八幡宮で,「異国襲来して貴賤男女すべて歎き悲しんでおります。もはや神明もこの神国をほろぼし,仏陀も見捨てたもうたのでありましょうか。たとえ皇運は末になり政道に誠なくとも,他国よりはわが国,他人よりはわれらを,神仏はどうして捨てさせたもうでしょう。昔,八幡大菩薩が,『天皇の勢いおとろえ人民の力がなくなったときこそ』と誓わせたもうたのも,実にいまこのときのためでありましょう。そもそも異国をわが国土とくらぶれば,蒙古は犬の子孫,日本は神の末裔,かれらはすでに他国の財宝をうばい,人民の寿命をほろぼす殺盗非道の輩であります。わが国が仏法を守り神祇をうやまい,正理を好む国であるからには,かならずや仏陀も知見したまい,神々も照覧したもうはずであります」と祈祷したところ,「そのとき,神厳微塵も動かぬ社殿に不思議や幡(柱にかけた飾り布)がかすかにゆれ,ハッタと鳴った。ああこれぞ大菩薩の納受したもうたしるしよと人々の信仰はいよいよ深まった」のですが(黒田123-125頁),正にその時,九州では神風が吹いて元軍は覆滅していたのでした(なお,叡尊は「願わくば八幡,大風を起こし,敵兵の命を損ずることなく敵船をかの国へ吹き還したまえ」と優しく祈っただけだったそうです(同147頁)。)。

ただし,1936年版の文部省『小学国史教師用書』によれば,「されどこの〔対元〕勝利は,主として挙国一致熱烈なる愛国の精神にまつところ多し。かしこくも亀山上皇は宸筆の願文を伊勢の神宮にさげ,御身を以て国難に代らんことを祈りたまひ・・・全国の社寺は敵国降伏の熱祷をさぐるなど,かかる愛国精神の発揮が,やがてこの未曾有の国難をはらひ,国威を宇内に発揚せし所以なり。」とされていて(黒田124頁),叡尊のことには直接言及されていません。また,亀山上皇の宸筆は,伊勢の神宮には届いたとされていますが,福岡の筥崎宮に掲げられた有名な「敵国降伏」の額の由来についてはここでは触れられていません。

 

5 エレミヤ・哀歌・バビロン捕囚

 

(1)エレミヤ

 しかし,せっかく穏便に救国の預言者第一イザヤを引用したのに売国奴よばわりされて東京帝国大学を追われた矢内原教授は,以後本格的に,「非愛国者,国賊,平和主義者,反軍思想等々と人に罵られ迫害せられた」(矢内原『余の尊敬する人物』39頁)ユダ王国滅亡期(紀元前7世紀末から同6世紀初めまで)の過激な預言者エレミヤに傾倒します。「過ぐる戦争の間,私の思ひは屡旧約聖書の預言者エレミヤの上にあつた。終戦後の今日も,私は度々彼と涙を共にする。」とは,1948年8月9日脱稿の「管理下の日本―終戦後満三年の随想―」の一節です(『矢内原忠雄全集第19巻』(岩波書店・1964年)411頁)。

 

(2)哀歌

 エレミヤが紀元前6世紀初めのエルサレム破壊後に哀歌を作ったように,矢内原教授も先の大戦終了直後に哀歌を作っています(「日本精神への反省」『矢内原忠雄全集第19巻』54-57頁)。

 

  ああ哀しいかな此の国,肇りて二千六百年,

  未だ曾て有らざるの国辱に遭ふ。

  ・・・

  天皇,祖宗の神霊と民衆赤子との前に泣き給ひ,

  五内為めに裂くと宣ふ。

  民は陛下の前に泣き,相共に

  天地の創造主の前に哭す。

  神よ,我らは罪を犯し我らは背きたり,

  汝之を赦し給はざりき。

  ・・・

  引き出せ,偽の指導者を,

  連れ来たれ,偽の預言者を。

  汝ら国を誤りたるによりて,

  君は辱しめられ,民害はる。

  剣によりて建てしものは剣によりて奪はれ,

  七十年の辛苦一日にして潰え,

  二千年の光栄一夜にして崩れ,

  空に光なく,民に生気なし。

  ・・・

  人おのれの罪の罰せらるるを呟くべけんや,

  むさぼりとたかぶり,我らを此処に導き,

  神は一銭をも剰さず,報を要求し給ひぬ。

  ヱホバこの軛を負はせ給ふなれば,

我ら満足るまでに恥辱を受けん。

そは主は永久に棄つることを為し給はず,

我らの患難を顧み給ふ時来らん。

その時責むる者は責められ,

驕る者は挫かれ,謙る者挙げられん。

もろもろの国ヱホバの前に潔からず,

戦敗必ずしも亡国ならず。

我らは武力と財力とに恃むを止め,

むしろ苦難によりて信仰を学ばん。

かくてヱホバ義しく世界を審き給ふ日に,

我ら永遠の平和と自由を喜び歌はん。

 

 「むしろ苦難によりて信仰を学ばん」の信仰はキリスト教の信仰でしょうが,キリスト教は我が国体と両立せざるものにあらず。「天照大御神或ひは天皇の問題に就いて論じませぬといけませんけれども,私は基督教の信仰によつて実際的にも思想的にも日本の国体を毀すものではなく,却つて一層美しく又一層確実なものとすることが出来ると思うのであります。」とのことでした(矢内原「日本精神への反省」54頁)。なお,「引き出せ,偽の指導者を,/連れ来たれ,偽の預言者を。」の部分は,『余の尊敬する人物』の「エレミヤ」伝の「卑怯なること蓑虫の如く,頑固なること田螺の如く,胸に悪意を抱き,人を陥るるを喜とする汝らパシシュル,ハナニヤ輩よ。エレミヤを非愛国者として誣告し中傷し迫害したる偽預言者,偽政治家らよ。彼の言に聴き従はず,彼をして悲憤の涙を飲ましめたる国民よ。汝らこそ真理を紊し,正義を破壊し,国に滅亡を招いたのである。」の部分(54頁。また,将基面165頁参照)に対応するようです。

 

(3)バビロン捕囚と日本占領

 エルサレム破壊後は「七十年」のバビロン捕囚が続くので,エレミヤにおそらく自らをなぞらえていたであろう矢内原教授は,自然,連合国の日本占領をユダヤ人のバビロン捕囚になぞらえることになります。なお,矢内原教授は,バビロン捕囚を「ユダヤ国民にとりて甚だ大なる試煉であつた。それは彼らの過去の歴史と選民たるの自覚に対する大なる屈辱の期間であつた。」としつつも,その間「属地的民族主義的であつた彼らの宗教思想は霊的・世界的視野に高められ,広くせられ,純粋化せられたのである。バビロン人の世界観に接したことが,彼らの思想の内容を豊富にしたことも認められる。要するにバビロン捕囚の七十年はユダヤ民族にとりて決して無駄ではなかつた。否,信仰によりて之に処するとき,それは彼らの宗教の純化と世界化に役立つ恩恵の機会となつたのである。」と評価しています(矢内原「管理下の日本」412頁)。

 

 〔バビロン捕囚から暗示される教訓としては〕第1に,日本の敗戦と敗戦後の運命が決して偶然的出来事でなく,正当なる歴史の審判であるとの認識である。宗教的表現を用ひれば,それは神の意思より出でた審判であるとの信仰である。この認識と信仰を以て今日の環境に処する時,始めてわれらは時局に対し落着いた,正しき自主的態度を取ることが出来る。連合軍の日本管理は容易に終止しないであらう。それは日本の民主主義化が成就するまで継続するであろう。その為めに何年若しくは何十年を要するかを知らないが,決して短い期間では今日の占領状態は終らないであらう。その事を理解して忍耐と服従を以て神の意思に順ふところに,日本復興のいとぐちが得られる。之に反し,神の意思に対する従順を欠く軽挙妄動は,日本の復興を妨げ,ますます自由を喪失せしむる以外の何ものでもないであろう。(矢内原「管理下の日本」414頁)

 

連合国軍の日本占領は終了まで「何年若しくは何十年を要するかを知らない」と思っていた矢内原教授にとっては,1949年の暮れにはもう講和問題が論ぜられるようになったこと(同年11月1日,アメリカ合衆国国務省は,対日講和条約案起草準備中と発表)は,意外だったのかもしれません。同年1225日の講演にいわく。

 

 ・・・日本の講和の問題・安全保障の問題を考へて見れば,凡ては世界平和を条件としてをることがわかります。日本の講和と安全保障は世界平和を目的としてをると共に,それを条件としてをるのであります。日本に対する講和は,多くの人が指摘してをるやうに,連合国から日本に対して課せられるものであります。それは連合国から与へられるものでありまして,日本と連合国との間に講和談判といふものはないのです。御承知のやうに日本は無条件降伏をした国でありまして,生かさうが殺さうが,連合国の御意のままであります。我々はまないたの上に載せられた鯉のやうなものであります。日本から,かういふ講和を結んで下さい,といふことを言ひ得る立場ではないのであります。心に願ふことはありましても,それは申しません。少くとも私はそれを申しません。私の申すことは,連合国が互に講和するやうに,といふことであります。

 ・・・

 そして我々は,我々に講和が与へられるまで静かに待つといふのが,日本国民のとるべき態度であると信ずるのであります。物欲しさうな態度をして人の袖の下に手を出すことは,終戦直後腹のすいた子供たちや大人までもが,進駐軍の投げ与へるチョコレートやキャラメルや残飯に飛びついたと同じことでありまして,見苦しい。(「講和問題と平和問題」『矢内原忠雄全集第19巻』462-463頁)

 

 「我々に講和が与へられるまで静かに待つ」ということは,結局占領継続ということになりますが,それでよいのでしょうか。しかし,エレミヤとバビロン捕囚と,そしてキュロス大王出現までの期間のこととを考えれば,まだ日本の占領は5年も続いていないのであるからしてしばし待て,ということになるようです。

 

  私共は聖書を学びまして,日本が置かれてをる今日の国際的地位が,あの紀元前第6世紀のバビロン捕囚の時代とよく似てをることを感じます。エレミヤたちの預言に拘らず,ユダの国民は己が罪を悔改めなかつたが為めに,国は滅され,国民の多くは虜になつてバビロンに携へられました。第1回の捕囚は紀元前597年,第2回の捕囚は586年,バビロン王ネブカデネザルの軍勢のために都エルサレムは荒されて,国民の大多数は捕虜になつたのです。それから紀元前538年ペルシャ王クロスによつてバビロンが滅される其の時まで,約60年の間ユダの国民はバビロンで捕虜生活をつづけたのであります。

  日本の今置かれてゐる状態は,ユダの国民のバビロン捕囚と比べまして,似てをる点もあるが異つてをる点もある。我々の親であり子であり兄弟である何十万といふ同胞が,ソ連への捕虜となつてまだ彼地に滞在してをります。そして日本本国は連合軍の占領の下にあるのであります。・・・私共はかかる状態の終る日を待ち望んでをります。帰るべき者が健全に帰つて来る日を待つてをります。併しその時は連合国が与へるものであります。それ故に私共の根本的な態度は,待つといふことであります。願ひはするけれども,我々の力によつて獲得できる性質の事柄でありません。(矢内原「講和問題と平和問題」463-464頁)

 

待つ者の態度は,泣いて,祈って,神を信ずることを学ぶ,ということになります。

 

 ・・・嘗てバビロン捕囚によつてユダの国民の宗教が深められ其の視野が広められたやうに,我々の国民も今日占領下第5回のクリスマスを迎へまして,遠くかの地に未だ抑留せられてをるものを考へて我々の視野を深くし,世界平和を念願する心の目を広く開かれる。このことを我らに教へるものが,基督教の福音であるのです。泣いて祈つて学んで我々の視野を広くしてくれるもの,此の基督教の福音によりまして,始めて私共は平和を信ずる信仰の根柢を得るのであります。(矢内原「講和問題と平和問題」465頁)

 

結局,「講和問題は我々の最大且つ終局の問題ではありません。日本に対する講和は,私共が急ぐ問題ではないのであります。」ということになって講和問題は喫緊の課題ではないということにされ,「私共の急ぐべき問題は,キリストの福音によつて与へられた永久の平和を私共がしつかりと心に受けとつて,この平和の福音を人々の間に恐れず怯まず宣べ伝へるといふ責任であります。」ということになります(矢内原「講和問題と平和問題」470頁)。

 難しい。「曲学阿世」の分かりやすさはありません。

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1 戦後70

 今年(2015年)は,先の大戦が終わってから70周年ということで,「節目」の年ということになっています。

 

  なお,先の大戦の終結の日には諸説があり得ます。

終戦の詔書は1945年8月14日付けで作成され,同日付けの官報号外で公布されています。中立国経由の連合国に対するポツダム宣言受諾の通知もこの日にされています。

他方,1945年9月2日には,重光葵及び梅津美治郎がポツダム宣言の条項を「日本国天皇,日本国政府及び日本帝国大本営ノ命ニ依リ且ツ之ニ代リ受諾」し,並びに「日本帝国大本営並ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ聯合国ニ対スル無条件降伏ヲ布告」し,及び「日本帝国大本営ガ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ指揮官ニ対シ自身及其ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ガ無条件ニ降伏スベキ旨ノ命令ヲ直ニ発スルコトヲ命」ずる「降伏文書」が東京湾上において署名され,かつ,聯合国最高司令官及び各聯合国代表者によって受諾されました。

1945年8月15日は,正午に社団法人日本放送協会によって前記終戦の詔書(・・・「朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇4国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ・・・」)の玉音放送がされた日です。

 

 2015年2月25日に内閣総理大臣官邸4階の大会議室で開催された20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会(21世紀構想懇談会。「戦後70年談話」にかかわるものだそうです。)の第1回会合において,同懇談会座長の西室泰三日本郵政株式会社取締役兼代表執行役社長は「戦後70周年という節目の年に,大変重要な任務を果たす懇談会の座長にご指名いただき,非常に光栄であると同時に,身が引き締まる思いである」と挨拶したそうですが(内閣総理大臣官邸のウェッブサイトにある議事要旨),そこでは「70周年」が他の「○十周年」と異なる特段の「節目」である理由までは明らかにされていません。そこで,当該会合の冒頭でされた安倍晋三内閣総理大臣の挨拶(内閣総理大臣官邸ウェッブサイト)を見てみるのですが,「今年は,戦後70年目に当たる年であります。戦後産まれた赤ちゃんが,70歳を迎えることになります。」ということを超えた「70年目」の特別な意味についての言及はありません。初めはどんなに可愛い赤ちゃんでも,死なずに生きていれば,だれでもいつかは70歳の老爺老婆になるのは当たり前のことであって,1945年生れの赤ん坊についても変わりはありません。「未来の土台は過去と断絶したものではあり得ません。今申し上げたような先の大戦への反省,戦後70年の平和国家としての歩み,そしてその上に,これからの80年,90年,100年があります。」ということで,「70年」は,安倍内閣総理大臣によって80年,90年及び100年と単純に並べられていますから,むしろ,数ある十年区切りの中の単なる一つとしての「70年目」ということであるようです。さらにいえば, 20世紀を振り返り21世紀を構想する時期としてならば, 21世紀もなお浅かった戦後60年目の2005年の方がよかったようにも思われます。

 

2 「四十年」

 

(1)ドイツの戦後40

 政治家としては,自分の任期中にたまたま何かの「○十周年」があれば,これは幸いとその機会を活用して名を上げたいというのが普通かつ健康な反応でしょうが,それをそのまま言ってしまうと芸がないところです。この点,外国の政治家などはうまい。リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(Richard von Weizsäcker)は1984年にドイツ連邦共和国の大統領に就任しましたが,たまたまその翌年の1985年の5月8日は,ヨーロッパにおける第二次世界大戦の終戦40周年記念日に当たりました。当日,ボンの連邦議会の演壇においてヴァイツゼッカーは,その記念演説を歴史に刻みつけるべく,40周年が25周年又は30周年とは異なった特別の意味のある節目であるゆえんを,ユダヤ教及びキリスト教の聖典を引きつつ解き明かします。

 

  多くの若い人たちが,この数箇月,自ら,そして私たちに問いかけました。なぜ,終戦後40年たって,過去についてのこんなにも活発な議論が起こったのであろうかと。なぜ,25年又は30年のときよりも,より活発なのであろうか?その内的必然性は,どこにあるのであろうか?

  このような質問に答えることは簡単ではありません。しかしながら,我々はその理由を,外からの影響に主として求めてはいけません。確かに,そのような影響は疑いもなく存在しましたが。

  四十年は,人の一生及び民族の運命に係る期間として,大きな役割を演ずるものであります。

  ここにおいても,私に,改めて旧約聖書を参照することをお許しいただきたい。その信仰にかかわりなく,すべての人のための深い洞察を蔵する旧約聖書を。そこでは,四十年は,何度も回帰し,かつ,本質にかかわる役割を演じております。

  四十年,歴史の新たな段階が約束の地への侵入と共に始まる前に,イスラエルの民は荒れ野に留まっていなければなりませんでした。

  四十年が,当初責任を有していた父の世代が完全に更迭されるために必要でした。

  また,他の場所(士師記)においては,援助及び救済の経験の記億がいかにしばしば四十年しか持続しなかったかが明らかにされています。記憶が剥落したとき,平穏の時は終わりました。

  すなわち,四十年は,常に大きな刻み目を意味するのです。当該期間は,人間の意識において作用します。それは,あるいは,新しくかつ善い未来への自信と共に来る,暗い時代の終わりとしてであります。あるいはまた,忘却の危険又は次代の人々への警告としてであります。両側面のいずれも,よくよくの考慮に値するものであります。

  我々のもとでは,政治責任の分野に,新たな世代が成長してきました。若者は,かつて起こったことには責任を負いません。しかしながら,彼らは,そこから歴史において生ずることに対して責任を負うのです。

 

当該演説の岩波書店による邦訳名である「荒れ野の40年」は,「四十年,歴史の新たな段階が約束の地への侵入と共に始まる前に,イスラエルの民は荒れ野に留まっていなければなりませんでした。」(Vierzig Jahre sollte Israel in der Wüste bleiben, bevor der neue Abschnitt in der Geschichte mit dem Einzug ins verheißene Land begann.)の部分から採ったものなのでしょうね。ドイツ連邦共和国大統領がドイツ終戦40周年記念日に「荒れ野の40年」なる演説をしたといわれれば,第二次世界大戦後のドイツ連邦共和国国民は40年間荒れ野にあるがごとき試練に気高く耐え,「対立を超え,寛容を求め,歴史に学ぶ」立派な道徳的国民になったのか,と思ってしまうのですが,看板に若干分かりにくいところがありました。実は「荒れ野の40年」は,直接には20世紀のドイツ人の話ではなくて,紀元前13世紀,モーセに率いられてエジプトを脱出したもののカナンの地に侵入するまで荒れ野を四十年さまよったイスラエルの民の内部における指導世代の交代についてのことでした。

 

(2)曠野の四十年

それではイスラエルの民はなぜ「荒れ野の40年」を経験しなければならなかったかといえば,その直接の原因は,かえって侵略のいくさ(「・・・汝の神ヱホバの汝に与へて産業となさしめたまふこの国々〔約束の地カナン〕の邑々(まちまち)においては呼吸(いき)する者を一人も生し存(おく)べからず 即ちヘテ人(びと)アモリ人カナン人ペリジ人ヒビ人ヱブズ人などは汝かならずこれを滅ぼし尽して汝の神ヱホバの汝に命じたまへる如くすべし」(申命記第2016-17))を避けたからのようでもありました。

エジプト脱出後,モーセは約束の地カナンに先遣隊を派遣して状況を偵察させます。

ところが,偵察の報告にいわく。

 

・・・その地に住む民は猛(たけ)くその邑々(まちまち)は堅固にして甚だ大(おほい)なり・・・(民数紀略1328)・・・我等はかの民の所に攻上ることを得ず彼らは我らよりも強ければなりと 彼等すなはちその窺ひたりし地の事をイスラエルの子孫(ひとびと)の中に悪(あし)く言ふらして云(いは)く我等が行巡りて窺ひたる地は其中に住む者を呑みほろぼす地なり且またその中に我等が見し民はみな身幹(たけ)たかき人なりし 我等またアナクの子ネピリムを彼処(かしこ)に見たり是ネピリムより出(いで)たる者なり我儕(われら)は自ら見るに蝗(いなご)のごとくまた彼らにも然(しか)見なされたり(同章31-33

 

カナンの住人は大きく強い。簡単には同地に侵入できないと知ったイスラエルの民は一晩中泣き叫び,モーセとアロンとを非難します。もうこんなのいやだ帰りたい,と。

 

・・・嗚呼我等はエジプトの国に死たらば善(よか)りしものを又はこの曠野(あらの)に死(しな)ば善らんものを 何とてヱホバ我等をこの地に導きいりて剣(つるぎ)に斃れしめんとし我らの妻子(つまこ)をして掠(かす)められしめんとするやエジプトに帰ること反(かへつ)て好からずやと 互に相語り我等一人の長(かしら)を立てエジプトに帰らんと云(いへ)り 是をもてモーセとアロンはイスラエルの子孫(ひとびと)の全会衆の前において俯伏(ひれふし)たり(民数紀略第142-5

 

俯伏す(ひれふす)というのですから,モーセとアロンとは土下座です。民衆を指導すべき政治家が人々の前で土下座するのは我が国の選挙運動ばかりではありません。

しかし,偉そうな態度で文句ばかり言って,言うことを聞かないイスラエルの民に対して神は怒ります。もうお前らのうち大人は約束の地に入れてやらん,四十年かけて総入れ替えだと。

 

・・・ヱホバ曰ふ我は活く汝等が我耳に言しごとく我汝等になすべし 汝らの屍はこの曠野に横(よこた)はらん即ち汝ら核数(かぞへ)られたる二十歳以上の者の中我に対ひて呟ける者は皆ことごとく此に斃るべし ヱフンネの子カルブとヌンの子ヨシュアを除くの外汝等は我が汝らを住(すま)しめんと手をあげて誓ひたりし地に至ることを得ず 汝等が掠められんと言たりし汝等の子女等(こどもら)を我導きて入ん彼等は汝らが顧みざるところの地を知るに至るべし 汝らの屍はかならずこの曠野に横はらん 汝らの子女等は汝らが屍となりて曠野に朽るまで四十年の間曠野に流蕩(さまよひ)て汝らの悸逆(はいぎやく)の罪にあたらん 汝らはかの地を窺ふに日数四十日を経たれば其一日を一年として汝等四十年の間その罪を任(お)ひ我(わ)が汝らを離(はなれ)たるを知べし 我ヱホバこれを言(いへ)り必ずこれをかの集(あつま)りて我に敵する悪(あし)き会衆に尽く行なふべし彼らはこの曠野に朽ち此に死(しに)うせん(民数紀略第1428-35

 

神のイスラエルの民総入れ替えは徹底していました。四十年のうちに曠野に朽ちて死に,約束の地カナンに入ることができなかった者には,モーセも含まれます。

メリバの地で,水が無いぞと荒れ狂う民を鎮めるべく,モーセは岩から水を出すことになりました。その際の神の指示は,杖を持って岩に向かって水を出すよう命ぜよ,でした。

 

モーセすなはちその命ぜられしごとくヱホバの前より杖を取り アロンとともに会衆を磐(いは)の前に集めて之に言けるは汝ら背反者等(そむくものども)よ聴け我等水をしてこの磐より汝らのために出しめん歟と モーセその手を挙げ杖をもて磐を二度(ふたたび)撃(うち)けるに水多く湧出(わきいで)たれば会衆とその獣畜(けもの)ともに飲り 時にヱホバ,モーセとアロンに言たまひけるは汝等は我を信ぜずしてイスラエルの子孫(ひとびと)の目の前に我の聖(きよき)を顕さざりしによりてこの会衆をわが之に与へし地に導きいることを得じと(民数紀略第209-12

 

 何で神が怒ってモーセとアロンとはカナンに入れさせないぞと決めたのか,一読しただけではちょっとよく分かりません。

 しかし,神をSuica式カード開発に携わった誇り高い電波技術者であるものとして考えると納得がいきます。せっかく非接触で水が出る(改札機を通ることができる)ようにしたのに何でわざわざ杖で磐を撃つ(カードで改札機をタッチする)必要があるのですか,わたくしの開発した技術を信用しないのですか,いつになったら分かってくれるんですか,というわけです。Suicaの場合は,実際の運用上,やはり電波の強さの関係でカードを改札機にぐっと近づけないとうまく作動しないので,それならいっそのことタッチするものであると利用方法を説明することにしてしまえ,ということになったそうですが,毎日Suicaで改札機を通る際メリバの水の話を思い出す筆者は,あえてSuicaを改札機に触れさせないようにして通ってみたりしています。

 

(3)日本の戦後40

 ところで,『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)によれば,1985年8月14日に,「藤波官房長官,閣僚の靖国神社参拝につき,おはらい・玉ぐし捧呈・拍手は行わず一礼,供花の実費を公費とする公式参拝の新見解を発表」し,同月15日には,「中曽根首相,初めて内閣総理大臣の資格で参拝(野党・市民団体,一斉に抗議)」ということになっています。日本でも,戦後40年たって「新しくかつ善い未来への自信と共に来る,暗い時代の終わり」(Ende einer dunklen Zeit mit der Zuversicht auf eine neue und gute Zukunft)が感じられたものでしょうか。

 

3 「七十年」

 

(1)ユダ王国の滅亡とバビロン捕囚

 さて,戦後70年。

しかし,ヴァイツゼッカーの顰(ひそみ)に倣って旧約聖書に敗戦後「七十年」の用例を探すと,どうも紀元前6世紀初めの新バビロニア(カルデア)帝国に対するユダ王国の敗北(紀元前597年)及び滅亡(紀元前587年)並びにそれに伴うユダヤ民族指導層のバビロン捕囚(第1次連行(紀元前597年)及び第2次連行(紀元前587年))の話になってしまうようです。

 

 ・・・万軍のヱホバかく云たまふ汝ら我言(ことば)を聴かざれば 視よ我(われ)北の諸(すべて)の族(やから)と我僕(わがしもべ)なるバビロンの王ネブカデネザルを招きよせ此地(このくに〔ユダ王国〕)とその民と其四囲(そのまはり)の諸国(くにぐに)を攻滅(せめほろぼ)させしめて之を詫異物(おどろくべきもの)となし人の嗤笑(わらひ)となし永遠の荒地となさんとヱホバいひたまふ またわれ欣喜(よろこび)の声歓楽(たのしみ)の声新夫(はなむこ)の声新婦(はなよめ)の声磐磨(ひきうす)の音および燈(ともしび)の光を彼らの中にたえしめん この地はみな空曠(あれち)となり詫異物(おどろくべきもの)とならん又その諸国(くにぐに)は七十年の間バビロンの王につかふべし ヱホバいひたまふ七十年のをはりし後我バビロンの王と其民とカルデヤの地をその罪のために罰し永遠の空曠(あれち)となさん(ヱレミヤ記第258-12。紀元前605年のエレミヤの預言)

 

 ヱホバかくいひたまふバビロンに於て七十年満ちなばわれ汝らを眷(かへり)み我嘉言(わがよきことば)を汝らになして汝らをこの処に帰らしめん(ヱレミヤ記第第2910

 

 即ちヱホバ,カルデヤ人(びと)の王を之〔ヱルサレム〕に攻きたらせたまひければ彼その聖所の室(いへ)にて剣(つるぎ)をもて少者(わかきもの)を殺し童男(わらべ)をも童女(わらはめ)をも老人(おいびと)をも白髪(しらが)の者をも憐まざりき皆ひとしく彼の手に付(わた)したまへり 神の室(いへ)の諸(もろもろ)の大小の器皿(うつはもの)ヱホバの室(いへ)の貨財王とその牧伯等(つかさたち)の貨財など凡て之をバビロンに携へゆき 神の室(いへ)を焚(や)きヱルサレムの石垣を崩しその中の宮殿(みやみや)を尽く火にて焚(や)きその中(うち)の貴き器を尽く壊(そこ)なへり また剣(つるぎ)をのがれし者等(ものども)はバビロンに虜(とらは)れゆきて彼処(かしこ)にて彼とその子等(こら)の臣僕(しもべ)となりペルシヤの国の興るまで斯(かく)てありき 是ヱレミヤの口によりて伝はりしヱホバの言(ことば)の応ぜんがためなりき斯(かく)この地遂にその安息を享(うけ)たり即ち是はその荒をる間安息して終に七十年満ちぬ ペルシヤ王クロスの元年に当りヱホバ曩(さき)にヱレミヤの口によりて伝へたまひしその聖言(みことば)を成(なさ)んとてペルシヤ王クロスの心を感動したまひければ王すなはち宣命(みことのり)をつたへ詔書を出(いだ)して徧(あまね)く国中(こくちう)に告示(つげしめ)して云(いは)く ペルシヤ王クロスかく言ふ天の神ヱホバ地上の諸国を我に賜へりその家をユダのエルサレムに建(たつ)ることを我に命ず凡そ汝らの中(うち)もしその民たる者あらばその神ヱホバの助を得て上りゆけ(歴代志略下第3617-23

 

ネブカドネザル2世の新バビロニア軍によるエルサレムの破壊は紀元前587年,新バビロニアの滅亡は紀元前539年,ペルシヤ帝国のキュロス2世のエルサレム帰還の詔書は紀元前538年のことです(ただし,諸本によって年代が微妙に異なります。)。エレミヤは「七十年」続くと言ったものの,ユダ王国滅亡後,新バビロニア帝国は五十年ほどしか続かなかったことになります。

なお,エレミヤについては,後の東京大学教養学部長・総長である矢内原忠雄による伝記(『余の尊敬する人物』)が,先の大戦における対米英蘭戦前の1940年に岩波新書で出ていました。

 

(2)バビロン捕囚期の意義:Erinnerung

新バビロニアによってユダ王国は滅ぼされ,ダビデの子孫はもはや王ではなく,エルサレムの神殿も破壊され,民族の指導層はバビロンに連行されてしまいました。このバビロン捕囚期,ユダヤ人は全てを失ったかのように見えました。

 

・・・神とのつながりを保証する具体的なものは,すべて失われてしまったかのような状況だった。けれども全くすべてが失われてしまったのでもなかった,残っていたのは「思い出」である。(加藤隆『旧約聖書の誕生』(筑摩書房・2008年)205頁)

 

・・・捕囚の状態では,過去の出来事を想起することで,現在の神と民との関係が確認されている。・・・そして過去を想起して現在の神と民との関係を確認するというメンタリティーは,今日も存続している。(同206-207頁)

 

・・・出エジプトの出来事は捕囚時代のユダヤ人にとって,たいへん重要な意味をもつことになった。エジプトで奴隷状態にあったヘブライ人たちを,出エジプトの際に神が導いて解放した。捕囚時代のユダヤ人たちは,現在,バビロニア帝国の支配下で奴隷のような状態に置かれている。過去において神は自分たちの祖先を奴隷状態から解放したのだから,今,奴隷状態にある我々も神は必ず解放するに違いないと考えたのである。(同207頁)

 

 ここで,「思い出」ないしは「想起」が出て来ます。

 ヴァイツゼッカーの「荒れ野の40年」演説にも次のくだりがあったところです。

 

 ・・・思い出(Erinnerung)は,ユダヤ人の信仰を構成する(gehört)ものだからです。

  「忘却しようとする意思は,捕囚(Exil)を長引かせる。

 そして,救済の秘密は,思い出(Erinnerung)と言われる。」

  このよく引用されるユダヤ人の知恵の言葉が言わんとしていることは,確かに,神に対する信仰は歴史における神の働きに対する信仰である,ということであります。

 

(3)再び戦後70

 

ア Japanische Erinnerung?

 さて,日本は,戦後70年間,過去の何を思い出し,何を想起し続けたものか。

 どちらかというと,1945年の日本の敗戦は,紀元前587年のユダ王国の滅亡よりは紀元前597年の同王国の敗戦に似ていて,ただし,戦勝帝国に無謀な叛乱を起こして亡国にまで至るものではなかったもの(しかも,占領期間が七十年どころか7年(1952年4月28日の「主権回復」)で終わったもの),ということのように見えなくもないところです。亡国もなく離散もなければ,思い出,想起又はErinnerungに係る特段の必要は感じられなかったということでしょうか。基本的に我が国民は,人として自然なことですが,現在志向であるように思われます。

 

イ Das Joch des Imperiums

 紀元前597年のユダ王国の敗戦後の紀元前594年,預言者エレミヤは,同王国の新バビロニア帝国に対する服従の必要を説き,かつ,可視化させるべく,索(なわ)と軛(くびき)とを作って自分の項(うなじ)に置きます(エレミヤ記第272)。その姿で首都エルサレムをうろうろするのですから,嫌味で目障りですね。何だこんなもんみっともないと,卑屈な軛をエレミヤの項(うなじ)から取り上げて壊した上で,ネブカドネザルの覇権など2年のうちにこんなふうにぶっ壊されるのだ,と会衆の前で見得を切る預言者ハナニア(エレミヤ記第2810-11)の方が普通の「愛国者」らしいところです。エレミヤはいつも売国奴っぽい。しかし,こういう「愛国者」の熱気に当てられてしまって敗戦ユダ王国は新バビロニア帝国に叛旗を翻し,紀元前587年の悲惨な滅亡・亡国を招いたのですから,そういう勇ましい有力者のいなかった戦後日本は結構なことでした。

 

ウ Weltmachtwechsel

 とはいえ,「七十年」が経過して,さしもの戦勝帝国の覇権も揺らぎ,次の新秩序が見えて来たときにどう対処するのかは難しい問題です。仮にユダ王国が新バビロニア帝国下の優等生的属国として存続していた場合,キュロス大王率いるペルシヤ帝国勃興の新事態にはどのように対応したものでしょうか。「エレミヤ先生は「70年」と言っておられたから,まだ70年たっていない以上飽くまで新バビロニア帝国の軛を担い,共にペルシヤ人に抵抗すべきだ。必要ならばバビロニア様のために国外派兵もあり得べし。」と妙に杓子定規過ぎるのも,勝ち馬に乗り損ねてしまうようでいけなかったでしょう。

 しかし,機会主義的なのも,余り格調が高くないですね。

 「捕囚の七十年」でなければ,「古希の七十年」ですか。確かに,戦後70周年の今年2015年,我が国民の高齢化は,我が国にとって避けて通れない大問題です。

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 東京大学教養学部の矢内原公園(目黒区駒場)

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(前編からの続き)

 

3 その後の兵役法令改正

 岩波書店の『近代日本総合年表 第四版』から1938年9月以降の兵役法関係の記事を拾うと,次のようなものがあります。

 

1939年3月9日 兵役法改正公布〔法〕(兵役期間延長,短期現役制廃止)。

19391111日 兵役法施行令改正公布〔勅〕(徴兵合格に第3乙種設定)。

1943年3月2日 兵役法改正公布〔法〕(朝鮮に徴兵制を施行)。8.1施行。

1943年9月21日 陸軍省,兵役法施行規則改正公布〔省〕(’30年以前検査の第2国民兵も召集)。

1943年9月23日 閣議,台湾に’45年度より徴兵制実施を決定。

194310月2日 在学徴集延期臨時特例公布〔勅〕(学生・生徒の徴兵猶予停止)。12.1第1回学徒兵入隊(学徒出陣)。

19431021日 文部省・学校報国団本部,徴兵延期停止により出陣する学徒壮行大会を神宮外苑競技場で挙行。東京近在77校の学徒数万,雨中に劇的の分列行進。

194311月1日 兵役法改正公布〔法〕(国民兵役を45歳まで延長)。

19431224日 徴兵適齢臨時特例公布〔勅〕(適齢を1年引下げ)。

 

 1939年3月9日の年表記事にある兵役法改正(昭和14年法律第1号によるもの)による兵役期間延長は,陸軍関係では(海軍は世帯が小さいので,陸軍で代表させます。),補充兵役が12年4月から17年4月になっています(兵役法8条改正)。現役2年,予備役5年4月及び後備兵役10年の合計17年4月とそろったことになります。また,教育のための召集は第一補充兵のみならず第二補充兵も受け得ることになりました(同法57条改正)。なお,兵役法41条が次のようになっています。

 

 第41条 徴兵検査ヲ受クベキ者ニシテ勅令ノ定ムル学校ニ在学スル者ニ対シテハ勅令ノ定ムル所ニ依リ年齢26年迄ヲ限トシ其ノ徴集ヲ延期ス

  〔第2項及び第3項略〕

 ④戦時又ハ事変ニ際シ特ニ必要アル場合ニ於テハ勅令ノ定ムル所ニ依リ徴集ヲ延期セザルコトヲ得

 

 兵役法41条1項の当該改正に基づき昭和14年勅令第75号で改正された兵役法施行令101条1項においては,大学医学部は大学の他学部とは別格にされました。すなわち,徴集延期が年齢26年までなのは医学部だけで,他学部は25年までになっています。

 また,兵役法は,昭和16年法律第2号によっても改正されています。その結果,1941年4月1日から後備役が廃止され(兵役法7条削除),予備役に併合されました。

 さらに,兵役法は,対米英蘭戦開始後の昭和17年法律第16号によっても改正されており(公布日である1942218日から施行),国民兵も簡閲点呼を受けることがあり得るようになった(兵役法60条改正)ほか,徴兵適齢等に関して,第24条ノ2として「前2条ニ規定スル年齢及時期ハ戦時又ハ事変ノ際其ノ他特ニ必要アル場合ニ於テハ勅令ノ定ムル所ニ依リ之ヲ変更スルコトヲ得」という条項が加えられました。

 1943年3月2日の年表記事では,兵役法の改正により同年8月1日から「朝鮮に徴兵制を施行」とありますが,兵役義務は属人的なものであって現に居住滞在する地域を問わないので(美濃部『憲法精義』354頁参照),ちょっと不正確な記述です。それまでは帝国臣民男子のうち(兵役法1条),戸籍法の適用を受ける者(内地人)にのみ兵役義務が課されることになっていたところ,「朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者」にも兵役義務が課されるようになった改正です(兵役法92項,231項等改正(昭和18年法律第4号))。

 1943年9月23日の年表記事にある閣議決定に基づく兵役法改正は,同年11月1日公布の昭和18年法律第110号によるものでしょう。同法(公布日から施行)によって,大日本帝国臣民の兵役期間も古代ローマ市民並みとなった(兵役法9条2項及び18条の「40年迄」を「年齢45年に満ツル年ノ3月31日迄」に改める。)ほか,帝国臣民男子すべてに兵役義務がかかるようになりました(同法9条2項及び23条1項から「戸籍法又ハ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者ニシテ」を削る。)。ただし,台湾人の兵役義務に係る後者の改正の施行日は,別に勅令で定めるものとされました(昭和18年法律第110号附則1項ただし書。昭和19年勅令第2811条により,当該改正は1944年9月1日から施行)。

 194310月2日に公布され同日から施行された在学徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755号)は,「兵役法第41条第4項ノ規定ニ依リ当分ノ内在学ノ事由ニ因ル徴集ノ延期ハ之ヲ行ハズ」としたものです。

 しかし,在学徴集延期臨時特例の上記文言を見ると,文科の学生も理科の学生も等しく学徒出陣ということになりそうですが,確か,学徒出陣といえば文科の学生だったはず。実は理科の学生を救出するタネは,昭和18年法律第110号によって194311月1日から兵役法に挿入された同法45条ノ2にありました。

 

 第45条ノ2 第41条第4項ノ規定ニ依リ徴集ヲ延期セラレザルニ至リタル者現役兵トシテ入営スベキ場合ニ於テ軍事上仍修学ヲ継続セシムルノ必要アルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ其ノ入営ヲ延期スルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ当該期間ニ相当スル期間現役期間ヲ延長ス

   〔第2項略〕

 

 兵役法45条ノ2第1項の命令として,19431113日に公布され同日から施行された昭和18年陸軍省令第54号(修学継続の為の入営延期等に関する件)があり,当該省令1条に基づく同日の昭和18年陸軍省告示第54号において,理科系(師範学校系も)の学生が入営延期の対象者とされたのでした(大学院又は研究科の特別研究生も当該告示に掲げられた。)。

 19431224日に公布され同日から施行された徴兵適齢臨時特例(昭和18年勅令第939号)は,「兵役法第24条ノ2ノ規定ニ依リ当分ノ内同法第23条第1項及第24条ニ規定スル年齢ハ之ヲ19年ニ変更ス」としたものです。ただし,当該特例は,内地人にのみ適用されました(徴兵適齢臨時特例附則1項ただし書(昭和19年勅令第2812条による改正後は附則2項)。)。

 1945年2月10日に公布され同日から施行された昭和20年法律第3号による兵役法の改正は,徴兵適齢前の17歳・18歳の少年をも召集することが日程に上っていたことがうかがわれる改正です。当該改正後の兵役法67条(及び第67条ノ2)には「第二国民兵ニシテ未ダ徴兵検査ヲ受ケザル者(徴集ヲ延期セラレアル者ヲ含ム以下同ジ)ヲ召集シタル場合」という表現が見られます。つとに1944年10月18日公布の昭和19年陸軍省令第45号によって,同年11月1日から(同省令附則1条),兵役法施行規則(昭和2年陸軍省令第24号)50条は「・・・徴兵終結処分ヲ経ザル第二国民兵(海軍ニ召集セラレタル者及船舶国籍証書ヲ有スル船舶ノ船員ヲ除ク以下同ジ)ハ之ヲ本籍所在ノ連隊区ノ兵籍ニ編入シ当該連隊区司令官ノ管轄ニ属セシム」と規定していました。

 

4 義勇兵役法

 「兵役義務はその性質上日本臣民にのみ限らるのみならず,日本臣民の中でも男子に限」るとは美濃部達吉の主張でしたが(同『憲法精義』354頁),大日本帝国憲法20条の「日本臣民」は,文言上,男子に限られていませんでした(大日本帝国憲法2条と対照せよ。)。

 大日本帝国憲法は男女同権を排斥するものではありませんでした。

 1945年6月23日には,義勇兵役法(昭和20年法律第39号)というすさまじい法律が公布され,同日から施行されています。

すさまじいというのは,上諭からして異例だからです。

 

朕ハ曠古ノ難局ニ際会シ忠良ナル臣民ガ勇奮挺身皇土ヲ防衛シテ国威ヲ発揚セムトスルヲ嘉シ帝国議会ノ協賛ヲ経タル義勇兵役法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 

普通の上諭ならば,「朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル義勇兵役法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム」となったはずです。(ちなみに,義勇兵役法が公布された日の19時25分には,阿南惟幾陸軍大臣が「国民義勇兵役法公布ノ上諭ヲ拝ス」と題してラジオによる全国放送を行っています(宮内庁『昭和天皇実録 第九』(東京書籍・2016年)709頁)。)

義勇兵役法の主な条項を見ると,次のとおり。義勇兵役といっても,臣民の義務であって,volunteerではありません。

 

第1条 大東亜戦争ニ際シ帝国臣民ハ兵役法ノ定ムル所ニ依ルノ外本法ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ服ス

②本法ニ依ル兵役ハ之ヲ義勇兵役ト称ス

  〔第3項略〕

第2条 義勇兵役ハ男子ニ在リテハ年齢15年ニ達スル年ノ1月1日ヨリ年齢60年ニ達スル年ノ1231日迄ノ者(勅令ヲ以テ定ムル者ヲ除ク),女子ニ在リテハ年齢17年ニ達スル年ノ1月1日ヨリ年齢40年ニ達スル年ノ1231日迄ノ者之ニ服ス

  〔第2項略〕

第5条 義勇兵ハ必要ニ応ジ勅令ノ定ムル所ニ依リ之ヲ召集シ国民義勇戦闘隊ニ編入ス

②本法ニ依ル召集ハ之ヲ義勇召集ト称ス

第7条 義勇召集ヲ免ルル為逃亡シ若ハ潜匿シ又ハ身体ヲ毀傷シ若ハ疾病ヲ作為シ其ノ他詐偽ノ行為ヲ為シタル者ハ2年以下ノ懲役ニ処ス

②故ナク義勇召集ノ期限ニ後レタル者ハ1年以下ノ禁錮ニ処ス

 

女性も兵役に服したのですから,男女平等。次の衆議院議員総選挙で婦人参政権が認められたのは当然のことでした(市川房枝は陸軍省兵務課主催の「婦人義勇戦闘隊ニ関スル懇談」に出席しています。)。女性もSHINE!です。
 なお,昭和20年秋の凄惨な「本土決戦」を描いた小松左京の小説『地には平和を』においては,15歳の主人公・河野康夫が属した「本土防衛特別隊」である黒桜隊は,「隊員は15歳から18歳までで,一応志願制度だった」ということになっています。しかし,兵役法及び義勇兵役法を素直に読むと,本土決戦があれば,17歳以上の少年は第二国民兵として陸軍に召集され(海軍はもうないでしょう。),15歳及び16歳の少年はそれとは別に義勇兵として国民義勇戦闘隊に義勇召集されていたことになるようですから,黒桜隊の法的位置付けはちょっと難しいようです。
 ところで,国民義勇戦闘隊はどのように武装する予定だったかというと,次のようなものだったそうです。鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長(現在の内閣官房長官。内閣官房長官の英訳名Chief Cabinet Secretaryは「内閣書記官長」のままですね。)であった後の郵政大臣たる迫水久常が回想していわく。「国民義勇隊の問題が論議されていた当時のある日の閣議のとき,私は陸軍の係官から,国民義勇戦闘隊に使用せしむべき兵器を別室に展示してあるから,閣議後見てほしいという申入れを受けた。総理を先頭にその展示を見にいって,一同腹の底から驚き,そして憤りと絶望を感じたのであった。さすがに物に動じない鈴木〔貫太郎〕首相も唖然として,側にいた私に「これはひどいなあ」とつぶやかれた。展示してある兵器というのは,手榴弾はまずよいとして,銃というのは単発であって,銃の筒先から,まず火薬を包んだ小さな袋を棒で押しこみ,その上に鉄の丸棒を輪ぎりにした弾丸を棒で押しこんで射撃するものである。それに日本在来の弓が展示してあって麗々しく,射程距離,おおむね三,四十米,通常射手における命中率50%とかいてある。私は一高時代,弓術部の選手だったから,これには特に憤激を感じた。人を馬鹿にするのも程があると思った。その他は文字どおり,竹槍であり,昔ながらのさす又である。いったい陸軍では,本気にこんな武器で国民を戦わせるつもりなのか,正気の沙汰とも覚えず」云々と(迫水久常『機関銃下の首相官邸』(恒文社・1964年)220-221頁)。阿南惟幾陸軍大臣はそれでも胸を張っていたものかどうか。しかしながら,内閣総理大臣自ら「これはひどいなあ」と思いつつも,義勇兵役法案が閣議を通ってしまい(内閣官制(明治22年勅令第135号)5条1項1号),帝国議会も協賛してしまうのですから(大日本帝国憲法5条,37条),安全保障関連法案の取扱いが苦手なのは,我が日本のお国柄でしょう。
 

5 カイロ宣言

 19431122日から同月26日まで,ルーズベルト,蒋介石及びチャーチルの第1回カイロ会談が開催され,同月27日,三者は「カイロ宣言」に署名し,当該宣言は同年12月1日に発表されました。ところで,当該宣言中に次のようなくだりがあります。

 

  前記の三大国は,朝鮮の人民の奴隷状態に留意し,やがて朝鮮を自主独立のものにする決意を有する。

 

 「奴隷状態」とはゆゆしい言葉ですが,上記のくだりの英文は,次のとおり。

 

 The aforesaid three great powers, mindful of the enslavement of the people of Korea, are determined that in due course Korea shall become free and independent.

 

朝鮮の人民はenslaveされているということですが,どういうことでしょうか。大日本帝国においてはかつてのアメリカ合衆国のようには奴隷制(slavery)は無かったところです。しかしながら,日付に注目すると,1943年8月1日からは,内地人(「祖宗ノ忠良ナル臣民ノ子孫」である臣民(大日本帝国憲法発布勅語)にして「朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所」の「朕カ親愛スル所ノ臣民」(大日本帝国憲法上諭))でもないのに,朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル男子も兵役法により兵役義務を課されて,involuntary servitudeたる「その意に反する苦役に服」することになっていました。この点をとらえてのenslavementとの表現なのでしょうか。兵役義務が認められることに係る大日本帝国憲法20条は「日本臣民」といっていても,「憲法の総ての規定がそのまゝ新附の人民に適用せらるゝものでない」とされていました(美濃部『憲法精義』351頁)。
 なお,朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者の先の大戦に対する態度については,清沢洌の『暗黒日記』1944年8月27日の条に「・・・鮮人である平山君は公然曰く,大東亜戦争は,日本が勝っても,敗けても朝鮮にいい。勝てば朝鮮を優遇するだろうし,敗ければ独立するのだと。大熊真君の話しでは,外務省に朝鮮人の官吏がいるが,明らかに日本が敗けてくれることを希望するような口吻であると。」とありました。

(朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者に対する我が兵役法の適用により先の大戦中半島において行われた徴兵検査,徴集,入営その他に関する情況の実際については,「一騎兵の日清戦争(1):徴兵令,騎兵第五大隊第一中隊その他」中後半の「脱線その2」を御覧ください。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1071646839.html

  

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

(弊事務所の鈴木宏昌弁護士が,週刊ダイヤモンドの20141011日号において,労働問題,損害賠償事件等に強い辣腕弁護士として紹介されました。)

電話:0368683194

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 日本国憲法18 何人も,いかなる奴隷的拘束も受けない。又,犯罪に因る処罰の場合を除いては,その意に反する苦役に服させられない。

 Article 18. No person shall be held in bondage of any kind. Involuntary servitude, except as punishment of crime, is prohibited.

 

1 兵役義務の違憲性

 2014年7月1日の我が閣議決定「国の存立を全うし,国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」を受けて,内閣官房国家安全保障局は,ウェッブ・サイトに「「国の存立を全うし,国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」の一問一答」という記事を掲載しています。その15番目及び16番目の問答は次のとおりです。

 

 【問15】徴兵制が採用され,若者が戦地へと送られるのではないか?

 【答】全くの誤解です。例えば,憲法第18条で「何人も(中略)その意に反する苦役に服させられない」と定められているなど,徴兵制は憲法上認められません。

 

【問16】今回,集団的自衛権に関して憲法解釈の変更をしたのだから,徴兵制も同様に,憲法解釈を変更して導入する可能性があるのではないか?

【答】徴兵制は,平時であると有事であるとを問わず,憲法第13条(個人の尊重・幸福追求権等),第18条(苦役からの自由等)などの規定の趣旨から見て許容されるものではなく,解釈変更の余地はありません。

 

 これは,1980年8月15日に鈴木善幸内閣がした閣議決定,すなわち,「閣議,稲葉誠一社会党代議士提出の〈徴兵制問題に関する質問主意書〉につき〈徴兵は違憲,有事の際も許されない〉との答弁書決定(初の体系的統一見解)」(『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年))との立場の確認ですね。つとに,19701028日の衆議院内閣委員会での高辻正己内閣法制局長官の答弁及び同年11月5日の参議院決算委員会での中曽根康弘防衛庁長官の答弁を受けて,憲法「第9条が自衛隊の存在を容認すると解する政府も,徴兵制は,憲法第13条ないし第18条に反し違憲だとしているようである。」と観察されていたところです(宮沢俊義『憲法Ⅱ〔新版〕』(有斐閣・1971年)335頁)。

 政府の見解と学説との関係を見ると,憲法18条「にいう「苦役」が兵役の義務をも含むと解することは,この規定の歴史的意味からいって,あまり自然ではない。しかし,日本国憲法では,戦争を放棄し,軍隊を否認している第9条の規定からいって,兵役の義務は,みとめられる余地がないだろう。」(宮沢335頁)として兵役義務の違憲性について第9条を決め手とするものと解される学説と,政府の見解とは直ちには符合しませんね。「憲法18条は,「その意に反する苦役」,すなわち強制的な労役を,刑罰の場合を除いて禁止する。徴兵制は,憲法9条だけでなく本条にも違反すると考えるべきである。」(樋口陽一『憲法』(創文社・1992年)244頁)として第9条と第18条とを並置するものと解される学説と,より符合するものでしょう。

 「非常災害などの緊急の必要がある場合に,応急的な措置として労務負担が課されることがあるが(災害対策基本法65条・71条,災害救助法〔7〕条・〔8〕条,水防法〔24〕条,消防法29条5項など),これは,災害防止・被害者救済という限定された緊急目的のため必要不可欠で,かつ応急一時的な措置であるという点で,本条〔憲法18条〕に反するものとはいえない。しかし,明治憲法下にみられた国民徴用のように,積極的な産業計画のために長期にわたって労務負担を課すことは許されない。」ということですから(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)585-586頁),徴用が許されないのならばいわんや徴兵をやということでしょう(ただし,国民徴用は,「むしろ,職業選択の自由(憲22条)に含まれると解される勤労の自由に対する侵害と見るほうが,いいのではないか。」ともされています(宮沢336337頁)。)。

 ちなみに,我が憲法18条のモデルであるアメリカ合衆国憲法修正13条1節(Neither slavery nor involuntary servitude, except as a punishment for crime whereof the party shall have been duly convicted, shall exist within the United States, or any place subject to their jurisdiction.)の「その意に反する隷属状態(involuntary servitude)」には,債務の履行としての強制労役たる債務労働(peonage)は含まれるが,「国民が国に対して負う義務」の履行たる兵役や陪審員になる義務などは含まれないとされています(宮沢333334335頁)。修正13条は,米国政府を縛るための規定というよりは,むしろ私人間効力のための規定であるということでしょうか。確かに,南部の私人が奴隷を所有していたのですよね。

我が政府は,徴兵制が違憲であるとの解釈を導き出すために,憲法18条になお同13条を加えての合わせ技にしています。とはいえ憲法13条は,そもそも「立法その他の国政」について広くかかっていますが。

 政府の憲法解釈によれば,国民に兵役義務を課するには,大日本帝国憲法20条(「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」)のような条項を,憲法を改正して設けなければならないということのようです。

 美濃部達吉は,大日本帝国憲法20条について,同条に「或る特別なる法律上の意義を附せんとする見解は,総て正当とは認め難い。」との見解を述べていましたが(同『憲法精義』(有斐閣・1927年)352頁),現在の日本国憲法については状況が異なっているということになります。

 なお,伊藤博文の『憲法義解』は,大日本国憲法20条について,明治「5年古制に基き徴兵の令を頒行し,全国男児20歳に至る者は陸軍海軍の役に充たしめ,平時毎年の徴員は常備軍の編制に従ひ,而して17歳より40歳迄の人員は尽く国民軍とし,戦時に当り臨時召集するの制としたり。此れ徴兵法の現行する所なり。本条〔大日本帝国憲法20条〕は法律の定むる所に依り全国臣民をして兵役に服するの義務を執らしめ,類族門葉に拘らず,又一般に其の志気身体を併せて平生に教養せしめ,一国雄武の風を保持して将来に失墜せしめざらむことを期するなり。」と解説していました。美濃部的には,大日本帝国憲法20条は,「志気身体を併せて平生に教養」して「一国雄武の風を保持」するという「臣民の道徳的本分を明にする」ものにすぎない(美濃部『憲法精義』351352頁),ということでしょう。

 

2 1938年の兵役法紹介

 前置きが長くなりました。

前回(20141115日)の記事(「離婚と「カエサルの妻」」補遺(裁判例紹介)」)を書いていて,描写が又太郎の愛情生活に及ぶうちに,先の大戦中における我が臣民の兵役への服役状況が気になりだしたのですが,今回は,当時兵役義務について定めていた兵役法(昭和2年法律第47号)等についてのお話です。

 なお,そもそも兵とは,美濃部達吉によれば,「単に公務を担任する義務を意味するのではなく,忠実に無定量の勤務に服すべき公法上の義務」であるところの「公法上の勤務義務(öffentliche Dienstpflicht)」を国家に対して官吏と並んで負う者です。兵と官吏との相違は,「一に兵は臣民たる資格から生ずる当然の義務として其の関係に立つものであり,仮令本人の志願に依つて現役に服する場合でも,それは唯義務の変形であるに止まるに反して,官吏は一般臣民の法律上の義務に基づくのではなく,常に本人の自由意思に依る同意に基づいてのみ任命せらるるものであることに在る。」とされています。(同『日本行政法 上』(有斐閣・1936年)676-677頁)

 

兵役法の主要規定は次のとおりです(19389月当時)。

   

 第1条 帝国臣民タル男子ハ本法ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ服ス

 第2条 兵役ハ之ヲ常備兵役,後備兵役,補充兵役及国民兵役ニ分ツ

 ②常備兵役ハ之ヲ現役及予備役ニ,補充兵役ハ之ヲ第一補充兵役及第二補充兵役ニ,国民兵役ハ之ヲ第一国民兵役及第二国民兵役ニ分ツ

 第4条 6年ノ懲役又ハ禁錮以上ノ刑ニ処セラレタル者ハ兵役ニ服スルコトヲ得ズ

 第5条 現役ハ陸軍ニ在リテハ2年,海軍ニ在リテハ3年トシ現役兵トシテ徴集セラレタル者之ニ服ス

 ②現役兵ハ現役中之ヲ在営セシム

 第6条 予備役ハ陸軍ニ在リテハ5年4月,海軍ニ在リテハ4年トシ現役ヲ終リタル者之ニ服ス

 第7条 後備兵役ハ陸軍ニ在リテハ10年,海軍ニ在リテハ5年トシ常備兵役ヲ終リタル者之ニ服ス

 第8条 第一補充兵役ハ陸軍ニ在リテハ12年4月,海軍ニ在リテハ1年トシ現役ニ適スル者ニシテ其ノ年所要ノ現役兵員ニ超過スル者ノ中所要ノ人員之ニ服ス

 ②第二補充兵役ハ12年4月トシ現役ニ適スル者ノ中現役又ハ第一補充兵役ニ徴集セラレザル者及海軍ノ第一補充兵役ヲ終リタル者之ニ服ス但シ海軍ノ第一補充兵役ヲ終リタル者ニ在リテハ11年4月トス

 第9条 第一国民兵役ハ後備兵役ヲ終リタル者及軍隊ニ於テ教育ヲ受ケタル補充兵ニシテ補充兵役ヲ終リタル者之ニ服ス

 ②第二国民兵役ハ戸籍法ノ適用ヲ受クル者ニシテ常備兵役,後備兵役,補充兵役及第一国民兵役ニ在ラザル年齢17年ヨリ40年迄ノ者之ニ服ス

 18 第5条乃至第8条,第9条第1項及第10条〔師範学校卒業者の短期現役兵〕ニ規定スル服役ハ其ノ期間ニ拘ラズ年齢40年ヲ以テ限トス

23 戸籍法ノ適用ヲ受クル者ニシテ前年12月1日ヨリ其ノ年1130日迄ノ間ニ於テ年齢20年ニ達スル者ハ本法中別段ノ規定アルモノヲ除クノ外徴兵検査ヲ受クルコトヲ要ス

②前項ニ規定スル年齢ハ之ヲ徴兵適齢ト称ス

 32条1項 身体検査ヲ受ケタル者ハ左ノ如ク之ヲ区分ス

  一 現役ニ適スル者

  二 国民兵役ニ適スルモ現役ニ適セザル者

  三 兵役ニ適セザル者

  四 兵役ノ適否ヲ判定シ難キ者

 34 国民兵役ニ適スルモ現役ニ適セザル者ハ之ヲ徴集セズ

 54 帰休兵,予備兵,後備兵,補充兵又ハ国民兵ハ戦時又ハ事変ニ際シ必要ニ応ジ之ヲ召集ス

 

 兵役法1条及び9条2項の意味は,「内地人たる男子は満17年に達するに因り,何等の行為を待たず,法律上当然に兵役義務に服するのであるが,此の意義に於ける兵役義務は,現に軍事上の勤務に服する義務ではなくして,唯国家より勤務に服することを命ぜられ得べき状態に在るに止まる。・・・随つて又兵役義務に服する者の総てが軍人であるのではなく,唯或る条件の下に其の自由意思に依らずして軍人となるべき地位に在るのである。」ということになります(美濃部達吉『日本行政法 下』(有斐閣・1940年)1321-1322頁)。

手元の辞書を見ると,ラテン語のjunioresの定義は,“les plus jeunes=les jeunes gens destinés à former l’armée active, de 17 ans à 45 ans, les citoyens capables de porter les armes”となっていて,古代ローマでは17歳から45歳までの男性市民は武器を執って軍務に服すべきものとされていたようです。40歳で打ち止めとする大日本帝国(兵役法92項,18条)は,若者には古代ローマ並みに厳しいものの,中年には優しかったということになります(それとも日本男児には早老の気があるということでしょうか。)。

 兵役法4条は,兵役に服することの「権利たる性質を明示して居るもの」です(美濃部『日本行政法 下』1322頁)。また,「兵役義務は憲法に定むる義務であるが,兵役義務に服するが為に刑罰に服する義務を無視することの出来ないことは勿論で,兵役に服することが出来なくなつても,尚刑罰に服しなければならぬ」ところでもありました(美濃部『憲法精義』353354頁)。すなわち我が軍には「囚人部隊」というものはなかったわけです。

徴兵検査は「(1)身体検査(2)身上に関する調査(3)徴兵処分の三を包含し,徴兵官がこれを行ふ」ものとされていました(美濃部『日本行政法 下』1324頁)。

徴兵検査後の兵役の流れには,次のように大きく3系統がありました。太字部分が常備兵役です。「「常備兵役」は軍編成上の骨幹を為す兵員を包含する兵役で,常時国防の義務ありとの観念に立脚せるもの」です(日高巳雄『軍事法規』(日本評論社・1938年)2頁)。

 

現役→予備役→後備役→第一国民兵役

 ②第一又は第二補充兵役→第一又は第二国民兵役

 ③第二国民兵役

 

この外,「兵役ニ適セザル者」(兵役法3213号)があって,兵役を免除されました(同法35条)。

現役兵が「現役ニ適スル者」であることは当然ですが,補充兵もまた「現役ニ適スル者」であるものとされています(兵役法8条,331項・3項。補充兵のうち第一補充兵は現役兵闕員の場合の補闕要員となり(同法481項),また,教育のため召集されることがありました(同法571項)。)。

これに対して,第二国民兵役に服する者はそもそも現役に適さない者(兵役法3212号の「国民兵役ニ適スルモ現役ニ適セザル者」)ということになります。なお,兵役法34条の「徴集」は,ここでは現役又は補充兵役編入を決してこれを本人に通告する行為の意味と解されます(日高12頁参照)。

さて,徴兵検査中の身体検査の結果区分(①現役に適する者,②国民兵役に適するも現役に適せざる者,③兵役に適せざる者及び④兵役の適否を判定し難き者(兵役法321項))の標準は勅令で定めるものとされ(同条2項),兵役法施行令(昭和2年勅令第330号)68条1項1号の第2項は「現役ニ適スル者ハ其ノ体格ノ程度ニ応ジ之ヲ甲種及乙種ニ,乙種ハ之ヲ第一乙種及第二乙種ニ分ツ」と,同条1項2号は「国民兵役ニ適スルモ現役ニ適セザル者」を「丙種トス」と,同項3号は「兵役ニ適セザル者」を「丁種トス」と,同項4号は「兵役ノ適否ヲ判定シ難キ者」を「戊種トス」と規定し,更に同条2項は「疾病其ノ他身体又ハ精神ノ異常ニ因リ第一乙種,第二乙種,丙種又は丁種ト為スベキ細部ノ標準ハ陸軍大臣之ヲ定ム」と規定していました。

すなわち,甲乙ならば現役に適して現役兵又は補充兵であるのに対し,丙ならば第二国民兵であって徴集されず,丁ならば兵役免除となる,というわけです。

ところで,昔から視力検査となると0.1が見えずにじりじりと前に進んでは恥ずかしい思いをしていた筆者は,徴兵検査を受けたならば,丙種で第二国民兵相当だったようです。すなわち,兵役法施行令68条2項に基づき制定された陸軍身体検査規則(昭和3年陸軍省令第9号)の制定当初の規定によれば,同規則18条4項は「各眼ノ裸視力(以下単ニ視力ト称ス)「0.6」ニ満チザル者ハ甲種ト為スコトヲ得ズ」と規定している一方,同規則6条1項本文(「疾病其ノ他身体又ハ精神ノ異常ニ因リ第一乙種,第二乙種,丙種及丁種ト為スベキ標準ハ附録第2ニ因ル」)に基づく附録第2の表の第18号を見ると,「近視又ハ近視性乱視ニシテ視力右眼「0.4」左眼「0.3」以上ノモノ及5「ヂオプトリー」以下ノ球面鏡ニ依ル各眼ノ矯正視力「0.6」以上ノモノ」は第二乙種であるのに対し「近視又ハ近視性乱視ニシテ球面鏡ニ依ル矯正視力良キ方ノ眼ニテ「0.3」以上ノモノ」が丙種であり,「近視又ハ近視性乱視ニシテ球面鏡ニ依ル矯正視力良キ方ノ眼ニテ「0.3」ニ満タザルモノ」は丁種だったからです。

なお,上記陸軍身体検査規則附録第2の表の第15号には不思議な規定があります。「著シキ頭蓋,顔面ノ変形」のある者及び「全禿頭」の者は丙種とされ,その結果第二国民兵になるというものです。毛が無いと軍隊で怪我無いことになるということのようですが,どういうことでしょうか。兵役法33条2項においては,現役兵及び第一補充兵の属すべき兵種は「身材,芸能及職業ニ依リ之ヲ定ム」るものとされ,「身材」とは「独り身体と謂ふのみでなく容姿,気品等を包含する」とされていますから(日高17頁),「全禿頭」の者は身材的に難ありということだったのでしょうか。陸軍の軍医であった森鷗外の小説『金貨』(1909年)には「八は子供の時に火傷をして, 右の外眥(めじり)から顳顬(こめかみ)に掛けて, 大きな引弔(ひつつり)があるので, 徴兵に取られなかつた。」というくだりがあります。著シキ顔面ノ変形の一例ということでしょう。

 

 とこの辺で,本件記事は一つのブログ記事として掲載するには分量が多くなり過ぎたので前編を終わります。続きは後編をどうぞ。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

(弊事務所の鈴木宏昌弁護士が,週刊ダイヤモンドの20141011日号において,労働問題,損害賠償事件等に強い辣腕弁護士として紹介されました。)

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1 大同の元号

 9世紀初めの我が平城天皇時代の元号は,大同でした。

 ところでこの大同という元号はなかなか人気があり,我が国のほか,六朝の梁においても(535546年),契丹族の遼においても(947年)採用されています。

 最近の例としては,1932年3月1日の満洲国建国宣言発表に当たって採用されています(1934年に満洲国の帝制移行とともに康徳に改元)。

 


2 大同元年の日満議定書

 この満洲国の大同元年の9月15日,同国と我が国との間で議定書(日満議定書)が署名調印され,条約として即日発効しました(昭和7年条約第9号)。日満議定書の内容は,次のとおりです。

 


         議 定 書

 日本国ハ満洲国ガ其ノ住民ノ意思ニ基キテ自由ニ成立シ独立ノ一国家ヲ成スニ至リタル事実ヲ確認シタルニ因リ

 満洲国ハ中華民国ノ有スル国際約定ハ満洲国ニ適用シ得ベキ限リ之ヲ尊重スベキコトヲ宣言セルニ因リ

 日本国政府及満洲国政府ハ日満両国間ノ善隣ノ関係ヲ永遠ニ鞏固ニシ互ニ其ノ領土権ヲ尊重シ東洋ノ平和ヲ確保センガ為左ノ如ク協定セリ

 一 満洲国ハ将来日満両国間ニ別段ノ約定ヲ締結セザル限リ満洲国領域内ニ於テ日本国又ハ日本国臣民ガ従来ノ日支間ノ条約,協定其ノ他ノ取極及公私ノ契約ニ依リ有スル一切ノ権利利益ヲ確認尊重スベシ

 二 日本国及満洲国ハ締約国ノ一方ノ領土及治安ニ対スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約国ノ他方ノ安寧及存立ニ対スル脅威タルノ事実ヲ確認シ両国共同シテ国家ノ防衛ニ当ルベキコトヲ約ス之ガ為所要ノ日本国軍ハ満洲国内ニ駐屯スルモノトス

 本議定書ハ署名ノ日ヨリ効力ヲ生ズベシ

本議定書ハ日本文及漢文ヲ以テ各2通ヲ作成ス日本文本文ト漢文本文トノ間ニ解釈ヲ異ニスルトキハ日本文本文ニ依ルモノトス

 


右証拠トシテ下名ハ各本国政府ヨリ正当ノ委任ヲ受ケ本議定書ニ署名調印セリ

 


昭和7年9月15日即チ大同元年9月15日新京ニ於テ之ヲ作成ス

 


               日本帝国特命全権大使 武藤信義(印)

 


               満洲国国務総理    鄭 孝胥(印)

 


3 日満議定書と日米安保条約

 


(1)旧日米安保条約

 日満議定書については,旧日米安全保障条約との「類似性」がしばしば指摘されました。

1951年9月8日にサンフランシスコで調印され,1952年4月28日に発効した旧日米安保条約1条は次のとおり。

 


  平和条約及びこの条約の効力発生と同時に,アメリカ合衆国の陸軍,空軍及び海軍を日本国及びその附近に配備する権利を,日本国は許与し,アメリカ合衆国はこれを受諾する。この軍隊は極東における国際の平和と安全の維持に寄与し,並びに,1又は2以上の外部の国による教唆又は干渉によって引き起こされた,日本国における大規模の内乱及び騒擾を鎮圧するため,日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて,外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。

 


旧日米安保条約は,「「アメリカの日本防衛義務」を欠落させるという「本質的欠陥」を残したまま,単なる駐軍協定となった」と評されています(原彬久『岸信介―権勢の政治家―』(岩波新書・1995年)227頁)。同条約において日本が「従属的地位」にあることが日本国民の怒りをかっているとは,1957年,内閣総理大臣就任時の岸信介が米国側に述べた認識でもありました(原187頁)。

なるほど,日満議定書が旧日米安保条約と類似しているのならば,我が国は満洲国内に駐軍権を確保しつつもうまい具合に満洲国防衛の義務は免れていたのか,とも思われるところです。しかし,日満議定書の文言からは直ちにはそうともいえないようです。

19511018日,第12回国会衆議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会において,西村榮一衆議院議員は,片務的(米国に日本防衛義務が無い。)な旧日米安保条約に比べて,(少なくとも文言上は)双務的な日満議定書の方が「平等にして友好的にして,また筋道が立つて」いる旨指摘して,吉田内閣の見解を問うています。

 


○西村(榮)委員 ・・・その日満議定書の共同防衛の中には,満洲国の攻撃は日本に対する攻撃と見なし,日本国に対する攻撃は,満洲国また共同の責任をもつてこの日満両国の防衛に当らねばならぬということが,明確にされておるのでありまして,今から20年前に締結されたこの日満議定書には,日満両国は平等の立場に立つて,領土権は尊重して,同時に満洲国の一寸の土といえども侵された場合においては,日本は全生命を賭してこれを防衛するということが明示せられておるのであります。・・・少くとも日本が満洲国にとつた日満議定書の方が,この日米防衛協定よりもはるかに平等にして友好的にして,また筋道が立つて,共同防衛の立場に立つておるということだけは,私は申し上げておきたいのでありますが。総理大臣のこの日満議定書をごらんになつての御感想はいかがですか。

 


 答弁の難しい質疑であって,西村熊雄外務省条約局長も吉田茂内閣総理大臣も,日満議定書は実は日本が駐軍権を持つだけの片務的なものだったとも,旧日米安保条約は米国が日本防衛義務をしっかり負う双務的なものだとも言わずに,いわゆるすれ違い答弁に徹しています。(なお,我が国に満洲国防衛義務が無かったのならば,我が軍苦戦の1938年の張鼓峰事件,大損害を受けた1939年のノモンハン事件等は何だったのかということになりかねません。)

 


 ○西村(熊)政府委員 私は日満議定書における満洲国の立場に立つよりも,日米間の保障条約における日本の立場に立つことを,今日の日本国民の絶対多数は支持すると思います。

 


  ・・・

 


 ○吉田国務大臣 西村条約局長の申したところ,すなわち私の所見であります。

 


旧日米安保条約作成の過程においては,「吉田〔茂内閣総理大臣〕がアメリカ側に「対等の協力者」でありたいと申し出たとき,アメリカはこれを一蹴した。日本が米軍を受け入れることと,米軍が日本を防衛することとを等価交換することによって,「日米対等」を立証しようとした吉田の提案は完全に斥けられた。アメリカはいわゆるバンデンバーグ決議(1948年,上院で採択)第3項によって,「自助および相互援助」の力を日本が備えない限り,「対等の協力者」として日本を遇することはできないと主張したのである。/しかも,この「自助および相互援助」の力とは軍事力そのものであって,それ以外の何物でもない,というのがアメリカの立場であった。」という事情があったそうです(原226227頁)。満洲国ですら,西太平洋に広がる大日本帝国の「領土及治安ニ対スル一切ノ脅威」に対して健気に「両国共同シテ国家ノ防衛ニ当ルベキコトヲ約」したのにお前は何だ,とでもいうことでしょうか。

なお,日米安保条約体制の文脈でいわれる「日米対等」とは,我が国の敗戦以来の米軍の我が国土への駐留を所与のものとしつつ,その見返りに確実に米国に日本防衛義務を負わせる,ということのように解されます。

 


(2)新日米安保条約

前記のような情況下,1960年の新日米安保条約(同年119日ワシントンで署名,同年623日発効)に向けた内閣総理大臣「岸〔信介〕の狙いは,第1に「対等の協力者」の証しとして「アメリカの日本防衛義務」を条文化することであり,そのためには第2に,「自助および相互援助」の力すなわち日本の防衛力増強の努力をアメリカに認めさせて,新しく「相互防衛条約」をつくろうということであった」そうです(原227228頁)。

それでは,新日米安保条約における米国の「日本防衛義務」はどのようなものになったのでしょうか。

 


・・・第一に新条約に「日米対等」を求めるとすれば,「アメリカの日本防衛義務」を同条約に組み込むことは,論理必然的に「日本のアメリカ防衛義務」を何らかの形で条文化することにつながるはずである。しかし「日本のアメリカ防衛義務」が,「戦力」と「海外派兵」を許さない日本国憲法に阻まれるのは当然であった。したがって新条約第5条は,・・・アメリカが日本領土を防衛し,日本が日本の施政下にある米軍基地を防衛するという,いささかトリッキーな内容をもつことになるのである。

 ところが,第5条はそれだけをみれば確かにトリッキーだが,この第5条の仕掛けをそれでよしとするほどアメリカは甘くない。第6条のいわゆる極東条項がこの「仕掛け」を十分説明している。つまりアメリカは,この第6条によって,「極東における国際の平和と安全の維持に寄与するため」に在日基地を使用することができるとなれば,同国は「極東の平和と安全」の「ため」とみずから判断して,その世界戦略に在日基地を利用できる。第5条におけるアメリカの日本にたいする「貸し」は,第6条の極東条項によって埋め合わせがつくという仕組みである。・・・(原229頁)

 


 「トリッキー」ではありますが,一応つじつまを合わせて「アメリカの日本防衛義務」を認めさせているようではあります。岸信介は鼻高々であったでしょうか。実はそうではありませんでした。

 


 ・・・みずから「命をかけた」安保改定がいかに不十分,不本意であるかは,彼〔岸〕自身が最もよく知っている。彼はこういう。「もし憲法の制約がなければ,日本が侵略された場合にアメリカが,アメリカが侵略された場合に日本が助けるという完全な双務条約になっただろう」(〔原彬久による岸インタビュー〕)。岸にとって現行憲法は,ここでも「独立の完成」を妨げる「元凶」としてあらわれるのである。新安保条約が完成されたとはいえ,同条約への新たなフラストレーションが,ほかでもない,「憲法改正」にたいする岸の執念を膨らませていく。(原230頁)

 


 岸信介の不満は,双務性の不十分性にあるようですが,やはり「アメリカの日本防衛義務」がなお不十分であるということでしょうか。

現在の日米安保条約の第5条1項及び第6条1項は次のとおりです。

 


 第5条1項 各締約国は,日本国の施政の下にある領域における,いずれか一方に対する武力攻撃が,自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め,自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。

 


 第6条1項 日本国の安全に寄与し,並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため,アメリカ合衆国は,その陸軍,空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。

 


(3)日米安保条約5条1項とNATO条約5条1項との比較

現行日米安保条約5条1項の日本語は,一見,米国の日本防衛義務をきちんと規定しているようですが,岸信介はどこが不満だったのか。同項の英文を見てみましょう。

 


Each Party recognizes that an armed attack against either Party in the territories under the administration of Japan would be dangerous to its own peace and safety and declares that it would act to meet the common danger in accordance with its constitutional provisions and processes.

 


 これを,次の北大西洋条約(NATO条約)5条1項と比較してみましょう。

 


The Parties agree that an armed attack against one or more of them in Europe or North America shall be considered an attack against them all and consequently, they agree that, if such an armed attack occurs, each of them, in exercise of the right of individual or collective self-defence recognised by Article 51 of the Charter of the United Nations, will assist the Party or Parties so attacked by taking forthwith, individually and in concert with the other Parties, such action as it deems necessary, including the use of armed force, to restore and maintain the security of the North Atlantic area.

  (加盟国は,欧州又は北米における1又は2以上の加盟国に対する武力攻撃は全加盟国に対する攻撃であるものととみなすことに合意し,したがって,加盟国は,そのような攻撃が発生したときは,各加盟国が,国際連合憲章第51条によって認められた個別的又は集団的自衛権の行使として,個別に及び他の加盟国と協力して,北大西洋地域における安全の回復及び維持のためにその必要と認める行動(武力の使用を含む。)を直ちに執って,そのように攻撃を受けた加盟国を援助するものとすることに合意する。)

 


なるほど。北大西洋条約5条1項前段の場合には欧州又は北米における1又は2以上の加盟国に対する武力攻撃は全加盟国に対する攻撃であるものとみなす(shall be considered an attack against them all)旨合意する(agee)と端的に規定されているのに対して,日米安保条約5条1項前段の場合,「各締約国は,日本国の施政の下にある領域における,いずれか一方に対する武力攻撃が,自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め」の部分における「危うくするものであること」とは,would be dangerous”であって,これは推量のwouldを用いた表現ですね。だから両締約国が合意(agee)するのではなくて,各締約国が各別に認める(recognizes(三単現のs付き))わけなのですか。となると,北大西洋条約の「みなす」との相違が明らかになるように訳するとなると,「各締約国は,日本国の施政の下にある領域における,いずれか一方に対する武力攻撃が,自国の平和及び安全を危うくするものと推定されるものであることを認め」でしょうか。英文ではshallではなく,せっかくwouldが用いられているのですから,日米安保条約の適用を受ける「日本国の施政の下にある領域」における日本に対する武力攻撃であっても,米国の平和及び安全にとっては危険を及ぼさないものであるとされる可能性はなお排除されないわけです。

北大西洋条約5条1項後段では,端的に,攻撃を受けた加盟国を直ちに援助する(will assist the Party or Parties so attacked….forthwith)」旨合意(agee)されています。これに対して,日米安保条約5条1項後段は,ここでも両締約国の合意ではなく各締約国個別の宣言(declares)となっており,さらに,「直ちに(forthwith)」援助してくれるのではなく,「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」から「共通の危険に対処するように行動する」ものとされています。日本のために宣戦してあげましょう,ということになると,合衆国大統領の一存というわけにはいかず,合衆国憲法上,連邦議会が決定権を持つことになります。(また,更に1973年戦争権限法が連邦議会の関与について定めています。)最後にまた,「共通の危険に対処するように行動」するといっても,そこでの助動詞は,北大西洋条約のように端的なwillではなく,またまたwouldであって不確実です(would act to meet the common danger)。英和辞典には,“I would if I could.”などという頼りなげな例文が出ています。ここでも,せっかくのwouldを強調して訳すると,「自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動するであろうことを宣言する。」となりましょうか。

「各締約国は,日本国の施政の下にある領域における,いずれか一方に対する武力攻撃が,自国の平和及び安全を危うくするものと推定されるものであることを認め,自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動するであろうことを宣言する。」ということになると,確かに,「アメリカの日本防衛義務」は,文言上はなお頼りないものです。対処の対象は飽くまでも「共通の危険」なので,日本国の施政の下にある領域における日本に対する武力攻撃であっても,米国の平和及び安全にとっては危険を及ぼさないものであるとされた場合には,日本単独の危険であっても共通の危険ではないものとされ,また,共通の危険であると認められても,「直ちに(forthwith)」ではなく「自国の憲法上の規定及び手続」を経た上で援助が与えられ,しかもとどのつまりが,“I would if I could.”なのですから。

無論,以上は英語の素人の素人考えであって,外務省等の英語の達人の方々が別異に解釈されるのならば,それに従うべきことはもちろんです。(しかし,1854年の日米和親条約では,和文と英文との相違による混乱がありましたね。)

 


(4)岸信介の憲法改正構想と日米安保条約「再改定」

岸信介の憲法改正構想は,なお米軍の我が国土への駐留を所与のものとしつつ,その見返りである米国による日本防衛義務を,北大西洋条約加盟国に対する米国の防衛義務と同程度に完全ならしめるため,同条約5条1項にいう「国際連合憲章第51条によって認められた・・・集団的自衛権の行使」が我が国もできるようにしよう,というものだったのでしょう。(なお,2012年4月27日決定の自由民主党憲法改正草案では,憲法9条2項を「前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。国の交戦権は,これを認めない。」から「前項の規定は,自衛権の発動を妨げるものではない。」に改め,憲法上「自衛権の行使には,何らの制約もないように規定し」たとし(同党『QA』),集団的自衛権の行使が可能になるようにするものとされています。これも同様のねらいを有するものでしょう。)

日本の集団的自衛権行使を前提として,米国の日本防衛義務を完全ならしめるため,現在の日米安保条約5条1項及び6条1項を合わせて,北大西洋条約5条1項に倣って再改定すると,次のようになるのでしょうか。

 


 締約国は,日本国又はアメリカ合衆国の施政の下にある領域における,いずれか一方に対する武力攻撃が,両締約国に対する攻撃であるものととみなすことに合意し,したがって,締約国は,そのような攻撃が発生したときは,各締約国が,国際連合憲章第51条によって認められた個別的又は集団的自衛権の行使として,個別に及び他の締約国と協力して,北太平洋地域における安全の回復及び維持のためにその必要と認める行動(武力の使用を含む。)を直ちに執って,そのように攻撃を受けた締約国を援助するものとすることに合意する。

 前項の目的のため,アメリカ合衆国は,その陸軍,空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。

 


 日満議定書第2項に倣った場合は,次のとおり。

 


日本国及亜米利加合衆国ハ締約国ノ一方ノ領土及治安ニ対スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約国ノ他方ノ安寧及存立ニ対スル脅威タルノ事実ヲ確認シ両国共同シテ国家ノ防衛ニ当ルベキコトヲ約ス之ガ為所要ノ合衆国軍ハ日本国内ニ駐屯スルモノトス

 


 集団的自衛権を行使できるようにすることによって初めて,米国との関係で我が国は,日満議定書における満洲国並みの地位を確保できることになるということでしょうか。米軍の我が国駐留を出発点としつつ,せっかくの在日米軍を活用して米国に我が国防衛義務を負わせようとすると,かえって我が国が,大西洋・カリブ海にまで及ぶ米国の共同防衛義務を負わされることになるというのは,なかなかですね。

 しかし,「私は日満議定書における満洲国の立場に立つよりも,日米間の〔旧安全〕保障条約における日本の立場に立つことを,今日の日本国民の絶対多数は支持すると思います。」との前記西村外務省条約局長の答弁は,問題は,条約の一条項における文面上の対等性ばかりではないということをかえって証するものでしょう。

 


4 鄭孝胥国務総理の煩悶

 日本軍駐屯の見返りに(日本に対する共同防衛義務も負うものの)しっかり日本の満洲国防衛義務を確保したのであったなら,日満議定書は,日米安保条約における吉田茂及び岸信介両内閣総理大臣に比すれば,満洲国国務総理鄭孝胥の外交的大成功であったということになるようですが,そうでもなかったようです。

 


 ・・・1932年9月15日の日満議定書調印式に「武藤全権大使随員として立ち会った米沢菊二一等書記官が書き残したメモによれば,武藤の挨拶に対して鄭孝胥が示した反応は・・・。

   鄭総理は早速に答辞を陳べんとして陳べ得ず,いたずらに口をもぐもぐさせ,顔面神経を極度にぴりぴり動かし,泣かんばかりの顔を5秒,10秒,30秒,発言せんと欲して能はず。心奥の動揺,暴風の如く複雑なる激情の交錯するを思わせるに十分であった。(米沢『日満議定書調印記録』)

鄭孝胥は調印6日前になって突然辞任を申し出,国務院への登院を拒んでいた・・・。・・・米沢は鄭孝胥の辞意は単なる駒井〔徳三総務長官〕排斥の意図にとどまらないのではないか,との判断をもっていた。すなわち「調印により売国奴の汚名を冠せられ,支那4億の民衆よりのちのちに至るまで満洲抛棄の元凶と目されんことを恐れ,調印の日の切迫するにつれ煩悶の末,その責任を遁れんがため,辞職を申し出たるにあらざるか」(同前)と推測していたのである。そのため,最終局面で鄭孝胥が調印を拒絶するのではないかとの危惧が去らず,鄭総理の顔面の異常な痙攣を見て,米沢は一刻も早く調印をすませるべく,本来先に行なうべき日付の記入を後回しにしてまず署名を求めたという。」(山室信一『キメラ―満洲国の肖像』(中公新書・1993年)211212頁)

 


 鄭孝胥は,「満洲国は抱かれたる小児の如し。今手を放してこれを歩行せしめんと欲す。・・・然るに児を抱く者,もしいたずらに長くこれを手に抱かんか児ついに自立の日なし。・・・ここに至りて我満洲国の未だよく立つあたわざるの状,日本政府あえて手を放して立たしめざるの状況,これ今日自明の所ならん。」程度の日本批判を関東軍にとがめられて,1935年辞任。憲兵の監視下にあって,家に閉じこもって書道に歳月を費やし,1938年,風邪に腸疾を併発し,新京で死亡しました。(山室218219頁)

日本人は真面目なのですが,真面目な分だけちょっとした当てこすりにも過敏に反応して,陰険な意地悪をするものです。戒心しましょう。


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1 また『この国のかたち』から

 司馬遼太郎の『この国のかたち』を読むと,統帥権の独立の制度については,1908年の制度改正が画期であったとされています。




 参謀本部にもその成長歴があって,当初は陸軍の作戦に関する機関として,法体制のなかで謙虚に活動した。

 日露戦争がおわり,明治41年(1908年),関係条例が大きく改正され,内閣どころか陸軍大臣からも独立する機関になった。やがて参謀本部は“統帥権”という超憲法的な思想(明治憲法が三権分立である以上,統帥権は超憲法的である)をもつにいたる・・・(司馬遼太郎「3 “雑貨屋”の帝国主義」『この国のかたち 一』)

 

 明治憲法はりっぱに三権分立の憲法で,三権に統帥権は入らない。

 が,やがてこの憲法思想外の権がガン細胞のように内閣から独立し(1908年),昭和10年以後はあらゆる国家機関を超越する権能を示しはじめた。このことへいたる情念の歴史として,前記の正成の劇的情景〔楠木正成湊川出陣決定御前会議〕がある。(司馬遼太郎「5 正成と諭吉」『この国のかたち 一』)

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 (皇居前広場楠木正成像)

 上記の各文章によれば,1908年の参謀本部条例の改正によって,それまで内閣及び陸軍大臣に属していた参謀本部が,新たにこれらの機関から独立することになったということのようです。



2 参謀本部条例の1908年改定の前と後




(1)1908年改定前後の参謀本部条例

 190812月の改正前後の新旧参謀本部条例を見てみましょう。

 まずは,新参謀本部条例。




朕参謀本部条例ヲ改定シ之カ施行ヲ命ス

 御 名 御 璽

  明治411218日〔官報・同月19日〕

     陸軍大臣 子爵 寺内正毅

軍令陸第19

   参謀本部条例

第1条 参謀本部ハ国防及用兵ノ事ヲ掌ル所トス

第2条 参謀総長ハ陸軍大将若ハ陸軍中将ヲ以テ親補シ 天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル計画ヲ掌リ参謀本部ヲ統轄ス

第3条 参謀総長ハ参謀ノ職ニ在ル陸軍将校ヲ統督シ其ノ教育ニ任シ陸軍大学校及陸地測量部ヲ管轄ス

第4条 参謀次長ハ参謀総長ヲ輔佐シ本部一切ノ事務整理ニ任ス

第5条 参謀本部部長ハ参謀総長ノ命ヲ承ケ課長以下ヲ指揮シ其ノ主務ヲ掌理ス

第6条 参謀本部ノ編制ハ別ニ定ムル所ニ拠ル

第7条 参謀本部ニ於ケル服務規則ハ参謀総長之ヲ定ム



 なるほど,第2条で参謀総長は「天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画」するとありますから,天皇直属であって,内閣からも陸軍大臣からも独立しているわけです。

 司馬遼太郎によれば,当該規定は,1908年の改定前の旧参謀本部条例にはなかったということでしょう。旧参謀本部条例(1905年の第4条改正後のもの)は,次のとおり。




朕参謀本部条例ノ改正ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 御 名 御 璽

  明治32年1月14日〔官報・同月16日〕

     内閣総理大臣 侯爵 山縣有朋

     陸軍大臣 子爵 桂太郎

勅令第6号

   参謀本部条例

第1条 参謀本部ハ国防及用兵ノ事ヲ掌ル所トス

第2条 参謀総長ハ陸軍大将若クハ陸軍中将ヲ以テ親補シ

 天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル一切ノ計画ヲ掌リ又参謀本部ヲ統轄ス

第3条 参謀総長ハ国防ノ計画及用兵ニ関スル命令ヲ立案シ

 親裁ノ後之ヲ陸軍大臣ニ移ス

第4条 参謀総長ハ陸軍参謀将校ヲ統督シ其教育ヲ監視シ陸軍大学校,陸地測量部,陸軍文庫並在外国大使館附及公使館附陸軍武官ヲ統轄ス

第5条 参謀本部次長ハ陸軍中将若クハ陸軍少将ヲ以テ之ニ補シ参謀総長ヲ輔佐シ本部一切ノ事務整理ニ任ス

第6条 参謀本部ノ編制ハ別ニ定ムル所ニ拠ル



おやおや,ほとんど同じですね。特に新旧条例各2条の「参謀総長ハ・・・天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ」は,全く同一です。



(2)1878年の参謀本部条例と統帥権の独立

実は,参謀本部の独立は,187812月5日の参謀本部条例(右大臣岩倉具視から参謀本部あて「其部条例別冊ノ通被定候条此旨相達候事」との達)によって既に達成されていたのでした。




・・・従来の参謀局は陸軍省に隷属し,参謀局長は陸軍卿に隷してゐたけれども,参謀本部は陸軍省より独立し,本部長は天皇の「帷幕ノ機務ニ参画スルヲ司トル」〔
1878年参謀本部条例2条〕ところの最高の統帥機関となつたのである。即ち参謀本部長は統帥権に関する天皇の幕僚長として「軍中ノ機務,戦略上ノ動静,進軍,駐軍,転軍ノ令,行軍路程ノ規,運輸ノ方法,軍隊ノ発差等,其軍令ニ関スル者」を管知し,之を「参画シ,親裁ノ後直ニ之ヲ陸軍卿ニ下シテ施行セシム」〔同5条〕るものであり,又「戦時ニ在テハ凡テ軍令ニ関スルモノ,親裁ノ後直ニ之ヲ監軍部長,若クハ特命司令将官ニ下ス」〔同6条〕ものである。従つて参謀本部長は,統帥権に関する最高の輔弼機関である関係上,軍政に於ける陸軍卿の地位にあるのではなくて,寧ろ其の上の太政大臣〔三条実美〕に相等する地位に在るものである。何となれば陸軍卿は直接天皇輔弼の責に任ずるものではなく,それは専ら太政官の三職〔太政大臣・左右大臣・参議〕,就中太政大臣にあつたからである。換言すれば参謀本部長の権限は,従来の陸軍卿及び太政大臣の権限より統帥権に関する部分を独立せしめたものといふことが出来る。従つて参謀本部長の地位は,陸軍卿に優越するものと解せられるのである。

 かくして陸軍に在つては,明治11年に於て名実共に統帥部の独立が実現したのである。・・・(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)227228頁)



3 勅令から軍令へ

 さて,それでは,司馬遼太郎は1908年の参謀本部条例のどこに注目して警鐘を鳴らしたのでしょうか。

 法形式と副署者に注目しましょう。

 1899年の参謀本部条例は,勅令であって,内閣総理大臣及び陸軍大臣が副署しています。

 これに対して,1908年の参謀本部条例は,軍令であって,副署者は陸軍大臣だけです。



(1)勅令

 勅令は,「旧憲法時代,天皇によって制定された法形式の一つで,天皇の権能に属する事項(皇室の事務及び統帥の事務を除く。)について抽象的な法規を定立する場合に用いられた法形式」です(前田正道編『ワークブック法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)49頁)。美濃部達吉は次のように説明しています。

 


・・・〔公文式(明治
19年勅令第1号)〕は,等しく天皇の勅定したまふ国家の意思表示の中に,法律と勅令との2種の形式を区別したのであるが,併し憲法実施までは,法律と勅令とは唯名称だけの区別で,何等法律上の意義ある区別ではなかつた。憲法の実施に依りて,それは単に名称だけの区別ではなく,(1)その制定手続に於いて,(2)その規定し得べき内容に於いて,(3)及びその効力に於いて相異なるものとなつたのである。(1)制定手続に於いては,法律は議会の議決を経て定められ,勅令はその議決を経ずして定められる。(2)内容に於いては,法律は原則として如何なる事項でも定むることが出来るが,勅令は唯憲法上限られた事項だけを定むることができる。(3)効力に於いては,法律は勅令の上に在り,法律を以ては勅令を変更することが出来るが,勅令を以ては法律を変更することは出来ない。(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)168169頁)

 ・・・勅令が他の国務上の詔勅と区別せらるゝ所以は,勅令は国民に向つて法規を定めることを主たる目的とすることに在る。固より勅令を以て規定せらるゝ所が常に法規のみに限るといふのではない。行政命令〔「電信規則・電話規則・各種の学校令・鉄道乗車規程の如く,全然国民の権利義務に付いての規律を定むるものではなく,唯人民が自己の自由意思を以て之を利用するに付いての条件たるに止まる」もの〕の性質を有するものが,勅令を以て定めらるゝものは甚だ多いけれども,その主たる目的とする所が,法規を定むるに在ることは疑を容れぬ所である。・・・(美濃部・235頁,232頁)



(2)軍令及びその誕生




ア 軍令

 軍令は,軍令に関する件(明治40911日軍令第1号。同令には題名なし。件名をもって,軍令に関する件と呼ばれています。)の第1条において,「陸海軍ノ統帥ニ関シ勅定ヲ経タル規程ハ之ヲ軍令トス」と定められていたものです。(なお,軍令に関する件の官報掲載日は1907912日ですが,上諭の日付は同月11日であって,同令4条は「軍令ハ別段ノ施行時期ヲ定ムルモノノ外直ニ之ヲ施行ス」と規定しています。)「統帥権の作用として定めらるゝ命令」であって,「国務上の命令ではない」ものであり,「唯統帥権に服する者即ち平時に於いては唯軍人に対してのみ効力を有するもので,一般の人民に対して効力を有するものではない」ものです(美濃部261頁)。「軍隊内部の命令たるに止まるのであるから,国の法令に牴触することを得ないのは勿論」です(同)。公布によって初めて「以て臣民遵行の効力を生ず」る(『憲法義解』)法規とは異なり,軍令は正式に公布されませんでした(軍令に関する件2条参照)。「公示」を要する軍令は,官報で公示されました(同令3条)。「故らに公布なる文字を用ひないのは,軍令は勅令と其の性質を同じくせざることを示し,以て軍令を特殊の勅令と認むるが如き嫌ひを避けたもの」と考えられています(山崎248頁)。

 「予算に影響を及ぼさない限度に於いて,軍隊の内部の編制を定むるの権」は「内部的編制権」であり,内部的編制権は,美濃部においても大日本帝国憲法11条(「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」)の統帥権の範囲内にあるものとされていました(美濃部259頁)。参謀本部条例は,統帥権の一環たる内部的編制権の発動により参謀本部の構成について天皇が定める規程であるから,1908年の参謀本部条例については軍令の形式が採られたということでしょう。



イ 軍令の誕生

 それでは,1899年の参謀本部条例はなぜ軍令の形式ではなく,勅令の形式で定められたのでしょうか。理由は簡単です。軍令の形式は,1907年の明治40年軍令第1号によって初めてできたものであって,それ以前には軍令の形式は存在しておらず,当該形式の採りようがなかったからです。



(ア)公式令制定に伴う内閣総理大臣の副署対象の全勅令への拡大

 それでは更に,なぜ1907年9月に軍令という形式が定められたのでしょうか。これは,同年2月1日から施行されていた公式令(明治40年勅令第6号)7条2項の規定が原因です。勅令に係る国務大臣の副署(大日本帝国憲法552項「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」)については,それまでの公文式3条が「法律及一般ノ行政ニ係ル勅令ハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ主任大臣ト倶ニ之ニ副署ス其各省専任ノ事務ニ属スルモノハ主任大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス」と規定していて,各省専任の事務に属する勅令については内閣総理大臣の副署を要さず主任の国務大臣の副署だけで足りるものとしていたのに対して,新しい公式令7条2項は,「〔勅令〕ノ上諭ニハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ国務各大臣若ハ主任ノ国務大臣ト倶ニ之ニ副署ス」と規定し,各省専任の事務に属する勅令をも含めて例外なく,すべての勅令について内閣総理大臣が副署するものとしていたからです。

 勅令に対する国務大臣の副署の効力については,「法律勅令及其の他国事に係る詔勅は大臣の副署に依て始めて実施の力を得。大臣の副署なき者は従て詔命の効なく,外に付して宣下するも所司の官吏之を奉行することを得ざるなり。」とされていました(『憲法義解』)。



(イ)公文式時代の慣行及びその維持

 明治40年軍令第1号の起案を担当したのは,陸軍省軍務局軍事課です(陸軍省であって,参謀本部ではないですね。)。同課によれば,軍令の形式を定める「理由」は,次のとおりでした(中尾裕次「史料紹介「軍令ニ関スル件」」戦史研究年報4号(防衛省防衛研究所(20013月))。




従来軍機軍令ニ関スル事項ハ内閣官制第7条ニ依リ陸軍大臣海軍大臣ヨリ帷幄上奏ヲ以テ親栽ヲ仰キ而シテ陸海軍部外ニ発表ヲ要スルモノハ公文式第3条ニ依リ単ニ陸軍大臣海軍大臣ノ副署ノミヲ以テ公布シ来レリ然ルニ先般公式令制定ト共ニ公文式ヲ廃止セラレタル結果勅令ハ総テ内閣総理大臣ノ副署ヲ要スルコトトナレリ抑モ事ノ軍機軍令ニ関シ若ハ之レト同一ノ性質ヲ有スル軍事命令ハ憲法第
11条同第12条ノ統帥大権ノ行使ヨリ生スルモノニシテ普通行政命令ト全ク其性質軌道ヲ異ニシ専門以外ノ立法機関若ハ行政機関ノ干与ヲ許ササルヲ以テ建軍ノ要義ト為ス

統帥大権ノ行使夫レ斯ノ如ク又内閣官制第7条ハ現行法トシテ尚ホ存在スルカ故ニ此際統帥事項ニ関スル命令ハ特別ノ形式即チ軍令ヲ以テ公布シ主任大臣ノミ之ニ副署スルコトト為シ以テ行政事項ニ属スル命令ト判然之ヲ区別シ統帥大権ノ発動ヲ明確ナラシメントス

 

 お前のサインなどもらわないぞと,内閣総理大臣も嫌われたものですね。しかし,確かに,内閣総理大臣もいろいろではあります。

 内閣官制(明治22年勅令第135号)7条は,「事ノ軍機軍令ニ係リ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニ依リ之ヲ内閣ニ下付セラルノ件ヲ除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」と規定していました。いわゆる帷幄上奏に関する規定です。内閣官制7条の前は,1885年の内閣職権6条ただし書で「但事ノ軍機ニ係リ参謀本部長ヨリ直ニ上奏スルモノト雖トモ陸軍大臣ハ其事件ヲ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」と規定されていました。帷幄上奏は「本来参謀総長・海軍軍令部長の職務として規定せられたのであるが,其の後陸軍大臣又は海軍大臣からも帷幄上奏を為し得る慣習が開かれ,陸軍及び海軍大臣だけは,総理大臣を経由せず単独に上奏し得ることが慣習上認められて居」たものです(美濃部532533頁)。これに対して,陸海軍大臣以外の国務大臣の上奏については,内閣総理大臣が「機務ヲ奏宣スル」(内閣官制2条)ものとされていることから,「総理大臣を経由するか,又は少くとも総理大臣の承認を得た場合であることを要するので,総理大臣の知らぬ間に,各大臣から直接に上奏することは,総理大臣の職責から見て,許されない」とされていました(美濃部532頁)。

 従来陸軍大臣は,統帥事項については内閣総理大臣にも内緒で勅令案を持って行って天皇に上奏して綸言汗のごとき裁可を得て,自分一人がその勅令に副署してそうして施行できたのだから,今更公式令ができたからといって,(政党政治家である可能性もある)内閣総理大臣に「そんな勅令の話,おれは聞いてない。だから,統帥事項だか何だか知らぬがこの勅令には副署しない。」といやがらせをされ得るようになるのはいやだ,ということだったのでしょう。性格の悪い内閣総理大臣との悶着を避けるべく,軍令に関する件2条は,「軍令ニシテ公示ヲ要スルモノニハ上諭ヲ附シ親署ノ後御璽ヲ鈐シ主任ノ陸軍大臣海軍大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス」と規定していました。軍部の主観的意見としては,軍令の形式は部外者には一見あやしげに見えるといっても,統帥事項に係る勅令に関する従来の権限・慣行を維持せしめただけで,「ガン細胞」呼ばわりは心外だ,ということになるのでしょう。

 なお,軍令に対する陸軍大臣又は海軍大臣の副署は,「是は国務大臣としての副署ではなく,帷幄の機関として奉行の任に当たることを証明する行為たるに止まるものと見るべき」とされています(美濃部261頁)。「蓋し我が国法に於ける副署には2種の意義がある。即ち一は憲法第55条の大臣副署と,他は憲法以前より行ひ来りたる副署とである。・・・後者は単に執行当局者たることを表明するものである。宮内大臣の皇室令に副署し,賞勲局総裁の勲記に副署するが如きは専ら後者に属する。陸海軍大臣の軍令に副署するのも亦之と其の性質を同じくするもの」というわけです(山崎249250頁)。



(3)「一般行政」から統帥権の聖域へ

 しかし,1899年の段階では参謀本部条例はなお「一般行政ニ係ル」ものとして内閣総理大臣の副署をも受けていたのに対して(公文式3条),1908年になると,参謀本部条例は純粋な統帥事項に係るものであるとして,内閣総理大臣の副署を要さぬ軍令の形式が採用されるに至っています。この点においては,「一般行政」の領域から自らを引き離すことによって政治の統制から離れ,統帥権が「ガン細胞」化して「一般行政」を侵食することが可能になり始めたといえそうです。

 さらにいえば,「行政各部ノ官制其ノ他ノ官規ニ関スル重要ノ勅令」は枢密院に諮詢することになっていて(枢密院官制69号)厄介でしたが,参謀本部条例が軍令であるということになると,堂々と当然「枢密院ノ諮詢ヲ経ヘキモノニアラス」ということになりました(『統帥綱領・統帥参考』(偕行社・1962年)18頁)。

 いずれにせよ,公文式時代においても,軍部関係の勅令について「傾向としては年を経るにしたがい,軍部大臣だけの副署によるものが多くなったようである」そうです(戸部良一『日本の近代9 逆説の軍隊』(中央公論社・1998年)158頁)。



4 統帥権の独立の「効用」:福沢諭吉の『帝室論』等
 ところで一体,先の大戦以前における我が統帥権の独立の「効用」としては,何が考えられていたのでしょうか。最後は「ガン細胞」になったとはいえ,そもそもの初めには,もっともな目的のために働くべき正常細胞であったはずです。

 「統帥権の独立は,軍の政治介入を意図してつくられた制度ではない。むしろそれは,軍の政治的中立性を確保し,軍人の政治不関与を保証するものとさえ,期待されたのである。」とされています(戸部77頁)。

(1)政治の統帥関与の弊害防止
 政治家が統帥に関与し,あるいは統帥権を握った場合の弊害について,美濃部達吉は「軍人以外の政治家が兵馬の事に容喙することが軍の戦闘力を弱くする虞」がある旨軍事側から見た危惧に言及しているところですが(美濃部257頁),他方,1932年にまとめられた陸軍大学校の『統帥参考』においては,次のように述べられていました。




抑々統帥ノ独立ハ反面ヨリ観レハ政治ノ独立少クモ其保障ニシテ我国ニ於ケル往昔ノ武家政治又ハ現代労農露国ノ政治ノ如ク政府カ兵権ト政権トヲ把握行使スルトキハ政権ノ自然ナル移動授受カ行ハレサルノ虞アリ(『統帥綱領・統帥参考』
7頁)

 

 統帥権の独立は,政府に対抗する在野勢力をもその対象に含めた「政治ノ独立」のためのものだというのです。

先の大戦末期満洲国等に侵入して大暴れした恐ろしい「労農赤軍ノ如キハ彼等ノ意識ヲ以テスレハ元首ノ軍隊ニモアラス所謂国家ノ軍隊ニモアラス全ク共産党ノ軍隊」であったところ(『統帥綱領・統帥参考』1頁),共産党支配下のソ聯においては,「政権ノ自然ナル移動授受」は行われてはいませんでした。

 軍隊の政党化は,明治十四年の政変後,立憲政治の導入に向けた動きの中で,福沢諭吉も憂慮したところでした。




・・・然るに爰に恐る可きは政党の一方が兵力に依頼して兵士が之に左袒するの一事なり国会の政党に兵力を貸す時は其危害実に言ふ可らず仮令ひ全国人心の多数を得たる政党にても其議員が議に在る時に一小隊の兵を以て之を解散し又捕縛すること甚だ易し殊に我国の軍人は自から旧藩士族の流を汲て政治の思想を抱く者少なからざれば各政党の孰れかを見て自然に好悪親疎の情を生じ我は夫れに与せんなどと云ふ処へ其政党も亦これを利して暗に之を引くが如きあらば国会は人民の論場に非ずして軍人の戦場たる可きのみ斯の如きは則ち最初より国会を開かざる方,万々の利益と云ふ可し・・・(福沢諭吉『帝室論』(
1882年))



 1776年7月4日のアメリカ合衆国の独立宣言では,イギリス国王について,「彼は,平時において,我々の立法機関の同意なしに,我々の間において常備軍を保持した」ことが非難されています。そもそも軍隊は,外国と無名の戦争をすることが問題であるばかりではなく,それによって国内において市民の自由が抑圧されることが恐れられていたのでした。同年6月12日のヴァジニア権利章典の第13条は「人民団体によって組成され,武器の使用について訓練された紀律正しい民兵は,自由な邦にふさわしく,自然かつ安全な防衛者である。平時における常備軍は,自由にとって危険なものとして避けられるべきである。あらゆる場合において,軍隊は,市民の権力(the civil power)に厳格に服し,規制されるべきである。」と規定しています。これに対して,自由民主党の日本国憲法改正草案(2012427日決定)9条の2第1項では,「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため,・・・国防軍を保持する。」と,高らかに常備軍の設置がうたわれています。国王に反逆したアメリカ人らの常備軍に対する暗い猜疑の目と比べて,長い歴史にはぐくまれた日本人同士の厚い信頼をそこに見るべきでしょう。いわゆる「安保闘争」に係る1960年6月10日のハガチー事件後,「同事件の原因を「警察力の脆弱さ」に求める岸〔信介内閣総理大臣〕は,・・・〔赤城宗徳〕防衛庁長官にたいして,今度は「研究」ではなく,実際に「自衛隊出動」そのものを求め〔たが〕(結局,防衛庁内の「反対」を岸が受け入れて,これは実現しなかった)」といった激動の時代(原彬久『岸信介―権勢の政治家―』(岩波新書・1995年)220頁)は,遠い過去のことになりました。なお,ちなみに,「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため」に必要な最低限以上の戦力を保持することが憲法上の要請ということになると,財務省の主計官殿がうっかり国防予算に厳しい査定をすると,「国防権干犯!」といって怒られるようになるかもしれません。また,自由民主党の日本国憲法改正草案9条の2第1項の規定する国防軍の目的は,自衛隊法31項の文言を基礎に,そこに「国民の安全」の確保が加えられたもののようですが,ここにいう「国民」には,外国在留の我が同胞が含まれるのでしょうか(同草案25条の3参照)。「居留民保護其他我権益擁護ノ為必要已ムヲ得サル場合ニ於テハ断然目的ヲ達成スル為十分ナル兵力ヲ出動セシメ速ニ其目的ヲ達成」する必要があるとされていたところです(『統帥綱領・統帥参考』29頁)。

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ヴァジニア植民地議会議事堂(Williamsburg, VA)
(ヴァジニア権利章典はジョージ・メイソンの起草に係ります。)

(2)天皇統帥の必要性及び功徳
 統帥権者が政治家ではなく,天皇でなければならない理由は,取り戻すべき日本のかたちとして,軍人勅諭(188214日)において明らかにされていました。いわく,「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある」,「夫兵馬の大権は朕か統ぶる所なれば其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を伝へ天子は文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降の如き失体なからむことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそ」と。
 さらに,実際的な理由としては,福沢諭吉が次のように述べています(『帝室論』)。

 まず,軍人に政治的中立を守らせること。




・・・今この軍人の心を収攬して其運動を制せんとするには必ずしも〔ママ〕帝室に依頼せざるを得ざるなり帝室は遥に政治社会の外に在り軍人は唯この帝室を目的にして運動するのみ,帝室は偏なく党なく政党の孰れを捨てず又孰れをも援けず軍人も亦これに関し,固より今の軍人なれば陸海軍卿の命に従て進退す可きは無論なれども卿は唯其形体を支配して其外面の進退を司るのみ内部の精神を制して其心を収攬するの引力は独り帝室の中心に在て存するものと知る可し・・・



 また,命を賭して戦う戦士の心を受けとめて支えることは,議会政治家の大臣ごときでは,器量不足です。




・・・仮令ひ其大臣が如何なる人物にても其人物は国会より出たるものにして国会は元と文を以て成るものなれば名を重んずるの軍人にして之に心服せざるや明なり唯帝室の尊厳と神聖なるものありて政府は和戦の二議を帝室に奏し其最上の一決御親裁に出るの実を見て軍人も始めて心を安んじ銘々の精神は恰も帝室の直轄にして帝室の為に進退し帝室の為に生死するものなりと覚悟を定めて始めて戦陣に向つて一命をも致す可きのみ帝室の徳至大至重と云ふ可し・・・



 さらに,いったん戦いがあり,それが終わった後に,なお殺気立った戦場帰りの大軍を平穏に日常生活に復帰させることは,議院内閣制政府の首班ごときでは到底無理な大事業であろうと考えられていました。(兵士らのみならず,栄光に包まれた凱旋将軍も危険でしょう。アメリカ独立戦争のときも,ジョージ3世の軍をヨークタウンで破ったジョージ・ワシントン将軍を立てて,王制を樹立しようという動きがあったようです。)




・・・〔
1877年の西南戦争の徴募巡査らは〕戦場には屈強の器械なれども事収るの後に至て此臨時の兵を解くの法は如何す可きや殺気凛然たる血気の勇士,今日より無用に属したれば各故郷に帰りて旧業に就けよと命ずるも必ず風波を起すことならんと我輩は其徴募の最中より後日の事を想像して窃に憂慮したりしが同年9月変乱も局を結で臨時兵は次第に東京に帰りたり我輩は尚当時に至る迄も不安心に思ひし程なるに兵士を集めて吹上の禁苑に召し簡単なる慰労の詔を以て幾万の兵士一言の不平を唱る者もなく唯殊恩の渥きを感佩して郷里に帰り曽て風波の痕を見ざりしは世界中に比類少なき美事と云ふ可し仮に国会の政府にて議員の中より政府の首相を推撰し其首相が如何なる英雄豪傑にても明治10年の如き時節に際してよく此臨時兵を解くの工夫ある可きや我輩断じて其力に及ばざるを信ずるなり

 

 福沢諭吉は不安心のため西南戦争中お腹が痛くなったことでしょうが,偉大な明治天皇の力をもって,無事に兵らは復員して行きました。同様のことが,先の大戦の終了時にも起こったわけです(194581415日夜の宮城を舞台としたクーデタ未遂事件等いろいろありましたが。)。

 自由民主党の日本国憲法改正草案は,天皇を日本国の元首としつつも(同1条),その第9条の2第1項及び第72条3項において,内閣総理大臣をもって国防軍の最高指揮官としています。福沢諭吉がその将来を懸念し,帝室への依頼をなお不可欠と考えていた明治の日本から,今の日本は随分変わり,進歩したわけです。「慶応ブランド」創始者の福沢諭吉も,時代遅れになりました。

現在の問題はむしろ,ゆるゆると続く不況に伴う心優しい閉塞状況の副作用なのか,貔貅たるべき我が国の男児から,真面目な獰猛さが失われてしまってはいないか,ということかもしれません。

(3)蛇足
 なお,憲法に統帥権者を書き込んでしまった場合,「聯合作戦ニ際シ外国軍司令官ヲシテ一時タリトモ帝国軍隊〔国防軍〕ヲ統帥指揮セシムルハ法律的ニ言ヘハ憲法違反ナリ」(『統帥綱領・統帥参考』12頁)というようなうるさいことにならないでしょうか。ちなみに,あるいは意外なことながら,先の大戦前の陸軍(少なくとも陸軍大学校の教官)は「政略上ノ目的ヲ以テ平時妄リニ海外ニ軍隊ヲ出動セシムルコトハ努メテ之ヲ避ケサルヘカラス」と考えていたようです(『統帥綱領・統帥参考』29頁)。「帝国軍ハ皇軍ニシテ皇道ヲ擁護シ皇威ヲ発揚スル為ニ設ケ置カルルモノナリ故ニ妄リニ政略的ニ兵ヲ動カスコトハ之ヲ慎マサルヘカラス」ということで(同),政治家のみだりな政略の道具にされたくはないということだったのでしょう。「而シテ国際関係ノ錯綜,世相ノ変化等ノ為海外出兵ニ依リ所望ノ政略目的ヲ達成スルノ如何ニ困難ナルカハ往年の西伯利出兵並最近ニ於ケル支那出兵ノ明証スル所ナリ」と(同書2930頁),少なくとも当時は懲りていたようです。シベリア出兵において,日米両国は同盟国の関係にあったはずですが,うまくいかなくなったようです。


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ヨークタウン古戦場(Yorktown, VA)
(ヨークタウンに陣取ったコーンウォリス将軍のイギリス軍は優勢な米仏連合軍の攻撃を受けて,1781年10月19日,終に降伏。敗報に接したイギリスのノース首相は「神よ,すべては終わった!」と叫び,アメリカ独立戦争は実質的に終結しました。降伏式においてイギリス側は最初,連合軍の主力だったフランス軍のロシャンボー将軍にコーンウォリス将軍の剣を渡そうとしましたが,こっちじゃないよあっちだよとジョージ・ワシントン将軍を示されて,降伏の印の剣はアメリカ大陸軍が受け取りました。フランスの王さまルイ16世は,いい人でしたね。)

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イギリス軍降伏の場所(Surrender Field, Yorktown, VA) 

 弁護士 齊藤雅俊
  大志わかば法律事務所
  東京都渋谷区代々木一丁目57番2号ドルミ代々木1203
  電話: 03-6868-3194 (法律問題について,何でも,お気軽にお問い合わせください。)
  電子メール: saitoh@taishi-wakaba.jp

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1 統帥権及び「機密の中の“国家”」
 自由民主党の日本国憲法改正草案(2012年4月27日決定)を見ていると,第9条の2(国防軍)1項に「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため,内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。」との規定,第72条(内閣総理大臣の職務)3項に「内閣総理大臣は,最高指揮官として,国防軍を統括する。」との規定があります。勇ましいですね。
 大日本帝国憲法11条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」との規定に対応するものであるわけです。「内閣総理大臣ハ国防軍ヲ統帥ス」ということでしょうか。
 この「統帥」という言葉からの次の連想は,やはりというべきか,統帥権の問題性について論ずるところ多かった司馬遼太郎の,次の文章に飛びます(『この国のかたち』「6 機密の中の“国家”」)。


 かつて,一冊の古本を見つけた。
 『統帥綱領・統帥参考』という題の本である。復刊されたもので,昭和37年,偕行社(註・旧陸軍の正規将校を中心とした親睦団体)刊となっている。
 ・・・
 もとは2冊だったようである。『統帥綱領』のほうは昭和3年,『統帥参考』のほうは昭和7年,それぞれ参謀本部が本にしたもので,むろん公刊の本ではない。公刊されれば,当然,問題になったはずである。内緒の本という以上に,軍はこの本を最高機密に属するものとし,特定の将校にしか閲覧をゆるさなかった。
 ・・・
 『統帥参考』のなかに,憲法(註・明治憲法)に触れたくだりがある。おれたちは――という言葉づかいではむろんないが――じつは憲法外なのだ,と明快に自己規定しているのである。
 ・・・
 一握りの人間たちが,秘密を共有しあった以上は,秘密結社としか言いようがないが,こまったことには参謀本部は堂々たる官制による機関なのである。その機関が,憲法を私議し,私的に合意して自分たちの権能を“憲法外”としている以上は,帝国憲法による日本帝国のなかに,もう一つの国があったことになる(むろん日露戦争のころの参謀本部はそういう鬼胎ともいえるような性格のものではなかった)。
 そのことについては『統帥参考』の冒頭の「統帥権」という章に,以下のように書かれている。

 ・・・之ヲ以テ,統帥権ノ本質ハ力ニシテ,其作用ハ超法規的ナリ。(原文は句読点および濁点なし。以下,同じ)

 超法規とは,憲法以下のあらゆる法律とは無縁だ,ということなのである。
 ついで,一般の国務については憲法の規定によって国務大臣が最終責任を負う(当時の用語で輔弼する)のに対して,統帥権はそうじゃない,という。「輔弼ノ範囲外ニ独立ス」と断定しているのである。

 従テ統帥権ノ行使及其結果ニ関シテハ,議会ニ於テ責任ヲ負ハズ。議会ハ軍ノ統帥・指揮並之ガ結果ニ関シ,質問ヲ提起シ,弁明ヲ求メ,又ハ之ヲ批評シ,論難スルノ権利ヲ有セズ。・・・

 すさまじい断定というほかない・・・。
 国家が戦争を遂行する場合,作戦についていちいち軍が議会に相談する必要はない。このことはむしろ当然で,常識に属するが,しかし『統帥参考』のこの章にあっては,言いかえれば,平時・戦時をとわず,統帥権は三権(立法・行政・司法)から独立しつづけている存在だとしているのである。
 さらに言えば,国家をつぶそうがつぶすまいが,憲法下の国家に対して遠慮も何もする必要がない,といっているにひとしい。いわば,無法の宣言(この章では“超法規的”といっている)である。こうでもしなければ,天皇の知らないあいだに満洲事変をおこし,日中戦争を長びかせ,その間,ノモンハン事変をやり,さらに太平洋戦争をひきおこすということができるはずがない。

 ・・・然レドモ,参謀総長・海軍軍令部長等ハ,幕僚(註・天皇のスタッフ)ニシテ,憲法上ノ責任ヲ有スルモノニアラザルガ故ニ・・・

 天皇といえども憲法の規定内にあるのに,この明文においては天皇に無限性をあたえ,われわれは天皇のスタッフだから憲法上の責任なんかないんだとするのである。
 さらにこの明文にはおそるべき項目がある。戦時や“国家事変”の場合においては,兵権を行使する機関(統帥機関・参謀本部のこと)が国民を統治することができる,というのである。・・・統治権は天皇にある。しかしながらこの『統帥参考』の第2章「統帥ト政治」の章の「非常大権」の項においては,自分たちが統治する,という。

 ・・・兵権ヲ行使スル機関ハ,軍事上必要ナル限度ニ於テ,直接ニ国民ヲ統治スルコトヲ得・・・

 とあって,この文章でみるかぎり,天皇の統治権は停止されているかのようである。天皇の統治権は憲法に淵源するために――そしてその憲法が三権分立を規定しているために――超法機関である統帥機関は天皇の統治権そのものを壟断もしくは奪取する,とさえ解釈できるではないか(げんにかれらはそのようにした)。
 要するに,戦時には,日本の統治者は参謀本部になるのである。しかもこの章では「軍権ノ行使スル政務ニ関シテハ,議会ニ於テ責任ヲ負ハズ」とあくつよく念を押している。
 ・・・いまふりかえれば,昭和前期の歴史は,昭和7年に成立したこの“機密”どおりに展開したのである。
 ・・・
 美濃部達吉博士は・・・昭和10年,その学説(いわゆる天皇機関説)を攻撃され,内閣によってその著作『憲法撮要』(大正12年刊)などが発売禁止の処分をうける。
 ・・・
 統帥機関としては,法学界をおおっている美濃部学説を痛打することによって,自前の憲法観(というより非立憲化)への大行進を出発させなければならなかったにちがいない。
 ・・・
 ともかくも昭和10年以後の統帥機関によって,明治人が苦労してつくった近代国家は扼殺されたといっていい。このときに死んだといっていい。
 ・・・

 さて,たまたま手もとに1962年の偕行社版『統帥綱領・統帥参考』が存在します。「日本国を支配しようとしたことについて」の陸軍部内の「思想的合意の文書というべき機密文書」です(司馬遼太郎『この国のかたち』「81 別国」)。『統帥参考』等の実物に当たりつつ,司馬遼太郎の上記の議論を跡付けてみましょう。

2 統帥権の「超法規」性
 まず,「・・・之ヲ以テ,統帥権ノ本質ハ力ニシテ,其作用ハ超法規的ナリ。」の部分ですが,司馬遼太郎の引用では省略されている前段後段部分をも含めた原文は,


政治ハ法ニ拠リ,統帥ハ意志ニ拠ル。一般国務上ノ大権作用ハ,一般ノ国民ヲ対象トシ,其生命,財産,自由ノ確保ヲ目的トシ,其行使ハ『法』ニ準拠スルヲ要スト雖,統帥権ハ,『陸海軍』ト云フ特定ノ国民ヲ対象トシ,最高唯一ノ意志ニ依リテ直接ニ人間ノ自由ヲ拘束シ,且,其最後ノモノタル生命ヲ要求スルノミナラズ,国家非常ノ場合ニ於テハ主権ヲ擁護確立スルモノナリ。
之ヲ以テ,統帥権ノ本質ハ力ニシテ,其ノ作用ハ超法的ナリ。即チ爾他ノ大権ト其本質ニ於テ大ニ趣ヲ異ニスルモノト言ハザルベカラズ。而モ軍隊ハ最高唯一ノ意志ニ基キテ教育訓練セラレ一糸紊レザル統一ト団結トヲ保持シ,一旦緩急アルニ際シテハ完全ナル自由ト秘密トヲ保持シテ神速機敏ノ行動ニ出デザルベカラザルガ故ニ,統帥権ノ輔翼及執行ノ機関ハ政治機関ヨリ分離シ,軍令ハ政令ヨリ独立セザルベカラズ。(『統帥綱領・統帥参考』3‐4頁)

 となっています(見出しは「統帥権独立ノ必要」)。司馬遼太郎は,「超法的」を「超法規的」と写し間違えていますね。「超法的」であればやや形而上学のもやがかかっているようですが,「超法規的」であるとより法学的に明晰な表現になるようです。
 『統帥参考』のいう「超法的」の意味は,三つの側面から見ることができるようです。
 第1には,実定法学的に考えれば,一般国務における「『法』ニ準拠スル」法治主義が,特別権力関係にある軍隊内では適用されないということでしょう。「特別の権力関係に於いては,権利者は単に特定の作為・不作為・給付を要求し得るだけではなく,一定の範囲に於いて包括的な権力を有し,其の権力の及ぶ限度に於いては不特定な作為・不作為を命令し及び時としてはこれを強制し得る権利を有する」ものとされていました(美濃部達吉『日本行政法 上』(有斐閣・1936年)132頁)。「現役兵及び戦時事変に際し又は勤務演習其の他のために召集中の兵」は,国家の単独の意思による公法上の勤務関係に服するものとされています(美濃部・同書135頁)。特別権力関係に基づき権力者のなす命令は,「公法的の行為であり,民事訴訟を以つて争ひ得ないことは勿論,法律は多くの場合に行政訴訟をも許して居らぬ」ところでした(美濃部・同書139頁)。
 また,同じ公法上の勤務関係に服するものであっても,「一般官吏の職務上の義務は勅令たる官吏服務紀律に依り定められて居るが,軍人の職務上の義務は主としては統帥権の発動としての命令に依つて定められ」ており,「軍人の勤務義務に関しては,官吏に於けるとは異なり,必ずしも勅令の定めに依るを要せず,所属上官の命ずる所が直ちに其の義務の内容を為す」ものとなっていました(美濃部達吉『日本行政法 下』(有斐閣・1940年)1361‐1362頁)。さらには,「一般の官吏に在りては,上官の命令が有効であるや否やに付いては官吏が自らこれを審査する責任が有」るのに対して,「軍人は上官の命令に対しては絶対の服従義務を負ひ,これに反抗することは,其の事の如何を問はず許されないのであるから,仮令上官の命令が其の内容に於いて犯罪に相当し,随つて其の命令は無効であると見るべき場合であつても,其の命令に従つて犯罪行為を為した者は,それに付いての責任を負はず,其の命令を為した上官に於いて,専ら其の責に任ずるものと解せねばならぬ。上官の命令に従つて殺人の幇助を為した陸軍軍人が,軍法会議に於いて無罪を判定せられた実例の有るのは此の理由に因るのである。」とされていました(美濃部・同書1364頁)。統帥権の発動として上官から軍人に下された命令には「違法により無効」ということがないのならば,確かにこれは一種の「超法的」なものではあります。そもそも大日本帝国憲法の臣民権利義務の章にある第32条は「本章ニ掲ケタル条規ハ陸海軍ノ法令又ハ紀律ニ牴触セサルモノニ限リ軍人ニ準行ス」と規定しており,帝国議会の協賛を要する法律(大日本帝国憲法5条,37条)によらなくとも,軍人に対する権利制限は可能であったところです。
 第2には,「統帥権ハ,・・・国家非常ノ場合ニ於テハ主権ヲ擁護確立スルモノ」であり,法のよって立つ基盤である主権自体を支えるものは兵権であって,その意味では統帥権は法に先立つのだ,ということのようです。「抑々主権ヲ確立スル為ノ第一次的要素ヲ為スモノハ兵権ニシテ,此主権ヲ擁護シ,法ヲ支持スル最後的ノモノモ亦兵権ナリトス」とされ(『統帥綱領・統帥参考』4頁),「元来国権乃至政権ガ兵権ニヨリ確立セラルルモノナルコトハ古今ノ歴史ノ明証スル所ニシテ,我源,平,北条,足利,織田,豊臣,徳川ノ武家政権,王政復古,仏国革命政権,露国ノ労農政権,支那ノ国民党政権等皆然ラザルナシ。之ヲ以テ国家非常ナル場合兵権ガ最後ノ断案ヲ下シ政権ヲ確立スルノ作用ハ,理論ヲ超越シタル事実上ノ必要ニ基クモノナリ」と述べられています(同書28‐29頁)。
 第3は,「統帥ハ意志ニ拠ル」として,統帥の意志性が強調されているということです。「人ハ各々其意志ノ自由ヲ有シテ自己ノ存在ヲ意識シ,其存在ヲ成ルベク永ク保持セントスル本能ヲ有ス。統帥ハ,即チ,意志ノ自由ヲ有スル人間ヲシテ,其本能的ニ保持セントスル生命ヲ抛チ,敵ノ意志ノ自由ヲ奪ヒ之ヲ圧伏センガ為ニ邁進セシムルモノナリ。之ヲ以テ統帥ニ関スル学理ハ,『意志ノ自由』ト『死』ニ関スル学理ナリト言フモ過言ニアラズ」(『統帥綱領・統帥参考』64‐65頁)との説明は,一種形而上学的であります。『統帥参考』を作成した陸軍大学校には,このような哲学的修辞が好きな軍人が教官として集まっていたのでしょうか。「戦争,会戦,戦闘等ハ総テ彼我自由意志ノ大激突ニシテ,戦勝トハ則チ意志ノ勝利ナリ。勝利ハ物質的破壊ニ依リテ得ラルルモノニアラズ,敵ノ勝利ヲ得ントスル意志ヲ撃砕スルコトニヨリ獲得セラルルモノトス。「ジョセフ・ド・メストル」ガ『敗レタル会戦トハ,敗者ガ敗レタルヲ自認シタル会戦ナリ。之,会戦ハ決シテ物質的ニ敗ルルモノニアラザレバナリ。』ト道破シタルハ至言ナリト言フベシ。/軍ノ意志ハ則チ将帥ノ意志ニ関シ,軍ノ勝敗ハ主トシテ将帥ノ意志如何ニ因ル」ものとされ(同書45頁),カエサル,ハンニバル,アレクサンドロス大王,フリードリッヒ大王等の人物が称揚されています(同書46頁)。過去の軍事的天才の意志に思いを馳せつつ,陸軍大学校教官氏は,筆を休めては英雄崇拝の少年時代を想起したものでしょう。意志と法との関係についてはなお,「国民参政,即チ議会制度ノ出現ハ,実ニ国民各種ノ意志・利害ノ平均点ヲ発見シテ『法』ヲ定メ,以テ政治運用ノ基調タラシメントスル目的ニ出ヅルモノナリ。従テ,政治ニ於テハ合議,妥協,中庸,平均等ハ重要ナル価値ヲ有シ,『法』ハ絶対ノ権威アリト雖,統帥ハ最高唯一ノ『意志』ヲ断乎トシテ強制シ,直ニ人間ノ生命ヲ要求スルモノニシテ,統帥ニハ『法』ナルモノナク,其緩急,政治ト同日ノ論ニアラズ」とされています(同書32頁)。そもそも「意志」に伴い「死」が出てくれば,「法」も引っ込むのでしょう。また,「蓋シ一般政治ノ実施ハ『法』ニ拠ルモノナルヲ以テ,国務大臣ハ只管『法』ニ準拠・・・スレハ可ナリト雖,作戦行動ニハ『法』ナルモノナク到ル処ニ臨機ノ独断ヲ必要トシ,情況ニ適スル略ト術トヲ機ニ投ジ応用スルモノ」であるともされています(同書9頁)。
 以上,『統帥参考』は,「法」的の性質と「超法」的の性質とを対立させることにより,「統帥権ノ輔翼及執行ノ機関ハ政治機関ヨリ分離シ,軍令ハ政令ヨリ独立」すべきことを,大日本帝国憲法制定前からの慣行論(下記3(1)において見ます。)からのみならず,本質論からも基礎付けることを,当該記述の直接の目的としていたのではないでしょうか。この場合,統帥権があえて「憲法以下のあらゆる法律とは無縁」である必要まではないことになるようですが,どうでしょう。

3 統帥権と議会との関係
 統帥権は「輔弼ノ範囲外ニ独立ス」と「すさまじい断定」をしている部分は,『統帥参考』の原文では次のとおりです。


陸海軍ニ対スル統治ハ,即チ統帥ニシテ,一般国務上ノ大権ガ国務大臣ノ輔弼スル所ナルニ反シ,統帥権ハ其輔弼ノ範囲外ニ独立ス。従テ統帥権ノ行使及其結果ニ関シテハ,議会ニ於テ責任ヲ負ハズ。議会ハ軍ノ統帥・指揮並之ガ結果ニ関シ,質問ヲ提起シ,弁明ヲ求メ,又ハ之ヲ批評シ,論難スルノ権利ヲ有セズ。(『統帥綱領・統帥参考』7頁)

(1)統帥権独立の根拠論
 統帥権の国務大臣輔弼の範囲からの独立の効果として,議会おいて責任を負わなくてよいことになるとされているわけですが,その前に,統帥権が国務大臣の輔弼の範囲外に現に独立していると「断定」するについて『統帥参考』が挙げている理由を見ると,次のとおりです。
 
・・・我帝国ニ於テハ立憲政治ノ反面ノ弊竇ヲ認メ,其害ヲ局限スルガ為,統帥,祭祀,栄典授与等ニ関スル大権ノ行使ハ,国務大臣輔弼ノ範囲外ニ置キタリ。之帝国憲法ノ精神ナリト雖,統帥権ノ独立ハ,憲法ノ成文上ニ於テ明白ナラザルガ故ニ屡々問題ト為レリ。然レドモ,憲法制定ノ前後ヲ通ズル慣行ト事実並憲法以外ノ附属法ハ叙上ノ憲法ノ精神ヲ明徴シ,統帥権独立ノ法的根拠ハ実ニ茲ニ存ス。憲法義解ニモ『兵馬ノ統一ハ至尊ノ大権ニシテ専ラ帷幄ノ大令ニ属ス』ト述ベ,事実ニ於テ参謀本部,軍事参議院等ノ軍令機関ハ既ニ憲法制定以前ニ於テ政治機関ト相対立シテ存在シ,憲法ハ其第76条(法律,規則,命令又ハ何等ノ名称ヲ用ヒタルニ拘ラス此憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ総テ遵由ノ効力ヲ有ス)ニ於テ之ヲ承認シタルモノナリ。(『統帥綱領・統帥参考』8頁)

 「統帥権独立ノ法的根拠」として,「憲法制定ノ前後ヲ通ズル慣行ト事実並憲法以外ノ附属法」が挙げられているわけです。さらには,これらに加えて,「一般政治ノ実施」については「議会ハ『法』ノ実行ヲ監視スレバ可ナリ」ではあるが,「作戦行動ニハ『法』ナルモノナク」,したがって,法に準拠すべき国務大臣が統帥について議会に対してどう責任を負担し得るのか疑問であるとの実質論,憲法学者の大多数が統帥権独立制を擁護又は承認しているとの学説の大勢及び1925年2月20日の貴族院における「政府ハ憲法第11条ノ統帥権ハ憲法第55条ニ於ケル各大臣輔弼ノ範囲ヨリ除外セラルルモノト考フ」との政府委員答弁が挙げられています(同書9頁)。
 「すさまじい断定」ではあっても,「秘密結社」における得手勝手な独断とまでは必ずしもいえないようです。 
 なお,統帥に関する「立憲政治ノ反面ノ弊竇(へいとう)」としては,第一次大戦中のフランスにおいて「軍ノ統帥ガ政治機関ノ干与,議会ノ干渉ニ因リテ禍セラルルノ極メテ危険ナルヲ立証シ,1917年春仏国ニ於テハ有名ナル「ニヴェル」,「パンルウェー」事件ヲ惹起シ軍隊ノ一部ハ叛乱ヲ起シ,人ヲシテ仏軍ノ瓦解近キニアラザルヤヲ思ハシメタコト」及び英国に係る1915年ダーダネルス作戦の「大失敗」等の第一次大戦初期における不振が挙げられ,結論的に「政府ハ事実上議会ノ監督下ニ在ルノミナラズ,其政策ハ内閣ノ更迭ト共ニ変動ス。而モ立憲政治ノ発達ハ政党内閣ノ出現ヲ常態タラシムルト共ニ,其党争ハ愈々激甚ヲ加ヘツツアルハ事実ナリ。国軍ノ統帥ガ此ノ如キ政治機関乃至議会等ノ干与ニ依リテ行ハルルモノトセバ,其危険窮リナキモノト言フベシ」と述べられています(同書5‐6頁)。

(2)議会における責任追及の限界
 国務大臣の輔弼の範囲外にあると議会において責任を負わなくなるということについては,大日本帝国憲法54条(「国務大臣及政府委員ハ何時タリトモ各議院ニ出席シ及発言スルコトヲ得」)及び55条1項(「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」)が関係します。
 大日本帝国憲法55条1項については,そこにおける「国務大臣に特別なる責任は,専ら其の議会に対する責任に在る」ものとされています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)544頁)。「議会は国民に代つて政府を監視する機関であつて,議会が国務大臣の職務行為に付いて之を論難し得ることは当然であり,憲法第54条にも国務大臣が議会と交渉する職権あることを規定して居るのは,議会が国務大臣の行為を是非し,批評し得る権能あることを暗示して居るもの」であるわけです(美濃部・同書545頁)。議会が国務大臣の責任を質す方法としては,質問権,不信任決議の権及び弾劾的上奏権が挙げられています(美濃部・同書545‐547頁)。ただし,「国務大臣が憲法上に責任を負担するのは,唯その国務大臣としての職務の範囲に限ることは言ふまでもな」く,「就中,天皇の大権に付き国務大臣が輔弼の責任を負ふのは,唯法律上に輔弼すべき職務を有する範囲に限る」のであって,「随つて現在の制度に於いては,陸海軍統帥の大権,栄典授与の大権,祭祀に関する大権,国務に関係なき皇室の大権に付いては,国務大臣の責任に属するものではない」ものとされていました(美濃部・同書543‐544頁)。すなわち,統帥事項について議員が議会で国務大臣を攻撃しようにも,そもそも国務大臣の責任の範囲外ということで,肩透かしということになります。
 そこで,議会政治家としては,統帥部の軍人を議会に呼び付けて,「質問ヲ提起シ,弁明ヲ求メ,又ハ之ヲ批評シ,論難」したいのですが,なかなかそうはいきません。大日本帝国54条がそこに立ちはだかっており,「議会が政府と交渉し得るのは,専ら国務大臣及び国務大臣の代理者としての政府委員を通じてのみであつて,その他の機関に対しては,文書を以て天皇に上奏し得ることの外には,直接には全く交渉の権能を有たないもの」とされていました(美濃部『逐条憲法精義』502頁)。同条の趣旨に基づくとされる議院法75条は,「各議院ハ国務大臣及政府委員ノ外他ノ官庁及地方議会ニ向テ照会往復スルコトヲ得ス」と明言していたところです。さらには,同法73条は「各議院ハ審査ノ為ニ人民ヲ召喚シ及議員ヲ派出スルコトヲ得ス」と規定していました(ただし,美濃部によれば,同条の規定は大日本帝国憲法の要求するところではないものです(美濃部・同書490頁)。)。大日本帝国憲法下においては,天皇を輔弼するからといってすべての者が議会に対して責めに任ずるわけではなく,内大臣,枢密顧問,元老等に対して,「議会は此等の者に対して其の責任を問ふべき何等の行為をも為し得ない」ものとされていたのでした(美濃部・同書547‐548頁)。また,「厳格なる三権分立を基礎とするアメリカ主義の憲法に於いては,議会と政府とを全く没交渉の地位に置いて居る」との例もあったところです(美濃部・同書502頁)。
 ちなみに,議会が軍事に口を出すことを軍人が恐れるのももっともかなとあるいは思わせる事例が,第一次大戦中のフランスでありました。


1918年3月,独逸軍ハ仏国「ビカルヂー」地方ニ於ケル聯合軍ノ戦線ヲ突破シ「アミアン」附近ニ迫レル時,議会ハ責任将軍ノ処刑ヲ要求スルヤ,首相「クレマンソー」ハ答ヘテ曰ク。『国軍ニ対スル信用ハ,之ガ為毫モ変化ナシ。然ルニ吾人狼狽シ,或ハ最善ナリシヤモ知レザル指揮官ニ迄早々手ヲ触レ,以テ軍中ニ不安ノ念ヲ投ズルガ如キハ罪悪ニシテ,予ハ断ジテ此罪悪ヲ犯スモノニアラズ云々』ト。(『統帥綱領・統帥参考』23頁) 

 単なる更迭ではなく,処刑の要求です。
 人材豊富な大日本帝国の政界といえども,クレマンソーのような大政治家が常にいて議会を抑えて守ってくれるものとは,陸軍大学校の教官らは安んじて信頼できなかったものでしょう。(ちなみに,「ビカルヂー」とは,Picardieのことですよね。)

4 「憲法上ノ責任」をめぐる政治機関と統帥機関との相違
 「・・・然レドモ,参謀総長・海軍軍令部長等ハ,幕僚(註・天皇のスタッフ)ニシテ,憲法上ノ責任ヲ有スルモノニアラザルガ故ニ・・・」の『統帥参考』における原文は,統帥権の独立を保障するものとしての「武官ノ地位ノ独立」及び「其職務執行ノ独立」の必要性並びに政治機関と統帥機関との対立平等性を説く場面に登場しており,詳しくは次のとおりです。


国務大臣ハ憲法上ノ輔弼ノ責ニ任ズル者ナルヲ以テ,主権者ガ大臣ノ意見ニ反シテ決裁セラレタルトキハ,憲法上ノ責任ヲ採リテ辞職セザルベカラズ。然レドモ,参謀総長,海軍軍令部長等ハ幕僚ニシテ憲法上ノ責任ヲ有スルモノニアラザルガ故ニ,其進退ハ国務大臣ト大ニ趣ヲ異ニス。之『法』ニ拠ル政治ト『意志』ニ拠ル統帥トノ本質的差異ヨリ生ズル自然ノ帰結タラズンバアラズ。(『統帥綱領・統帥参考』11頁)

 「われわれは天皇のスタッフだから憲法上の責任なんかないんだ」ということは,無責任宣言ということでしょうか。確かに,国務大臣が有する「憲法上ノ輔弼ノ責」と同一の「憲法上ノ責任」は,参謀総長や軍令部総長は国務大臣ではないですから,有してはいなかったところです。しかし,ここでは天皇が奏上を嘉納しなかった場合の進退が問題になっているわけですが,「其進退ハ国務大臣ト大ニ趣ヲ異ニス」というのですから,国務大臣は辞職しても(「若し国務大臣が自己の責任上国家の為に是非或る行為を為すことが必要であると信じてその御裁可を奏請し,而もそれが嘉納せられなかつたとすれば,国務大臣は当然辞職せねばならぬ」(美濃部『逐条憲法精義』513頁)。),参謀総長・軍令部総長等は辞職せずに留まり,大元帥の命令に従うのだ,ということが本来の文意であるのだと解することも可能であるように思われます(国務大臣であれば,「・・・必ずしも君命に服従することを要するものではない。・・・君命と雖も若しそれが憲法法律に違反し若くは国家の為に不利益であると信ずるならば,国務大臣は之に従ふことを得ない」ところでした(美濃部・同書513頁)。)。あるいは,政治機関の進退と統帥機関の進退との相互独立性が言いたかったのではないでしょうか。上記部分に続けて『統帥参考』は,「参謀総長,海軍軍令部長等ノ地位ガ内閣又ハ陸,海軍大臣ノ意志ニ依リテ左右セラレザルコトモ亦統帥ノ独立ヲ保障スル為ニ極メテ必要」であると述べています(『統帥綱領・統帥参考』11頁)。
 事変下南京陥落後1938年1月15日の大本営と政府との連絡会議における出来事が,興味深い素材を提供します。第1次近衛内閣(外務大臣・広田弘毅,海軍大臣・米内光政)側はトラウトマン工作による中華民国国民政府との和平交渉を打ち切る方針であったのに対して,参謀本部(多田駿次長)は和平交渉継続を主張して反対したところ,これに対して政府側は内閣総辞職の威嚇をもって参謀本部に圧力をかけ,参謀本部は政変回避のため屈服したという出来事です(内閣が和平交渉を打ち切っての事変継続を主張し,参謀本部がそれに反対していたのですから,通常のステレオタイプの見方からすると,倒錯した事態であったわけです。)。辞職の可能性に裏付けられた「憲法上ノ責任」が「統帥権」の反対にかかわらず貫徹したような具合です。参謀本部側は辞職ということは言い出さなかったようです(多田次長は,「天皇に辞職なし」であるのに総辞職を云々する内閣は無責任だとなじったとも伝えられていますから,自らの辞職をちらつかせて開き直ることはできなかったでしょう。)。辞職できるということは,実は強みでもあります(「国務大臣の進言に対し,一応の注意を加へたまふことはあつても,裁可を拒ませらるゝことは,内閣瓦解の原因ともなるべき容易ならぬ事態を生ずる」のでしたから(美濃部『逐条憲法精義』513頁),天皇も政府に対して拒否権を発動できなかったわけです。)。(ちなみに,トラウトマン工作による和平交渉を打ち切る旨の上奏が嘉納されなかった場合には,近衛内閣はあるいは総辞職したのでしょうが,参謀本部が近衛内閣と進退を共にすることは当然なかったわけでしょう。)なお,統帥部の人事が内閣によって左右されていたのならば,大激論になる前に,多田次長を更迭すればよいだけだったはずであり,そもそもそれ以前に,楽観的かつ勇ましい政権側の軍人をもって統帥部が固められていたはずでしょう。
 いずれにせよ,1938年1月15日のこの場面では,「日中戦争を長びかせ」たのは参謀本部ではないですね。なお,『統帥参考』の認識では,「開戦,和戦,戦争ノ目的,同盟,聯合其他戦時外交ノ方針等ハ事重大ナルヲ以テ,事実上統帥部ト政府トノ意見ノ一致ヲ見ザレバ決定シ得ベキモノニアラズ」であって,これらの事項については政府から最高統帥部に協議するのが至当,ということではありました(『統帥綱領・統帥参考』24頁)。

5 大日本帝国憲法31条の非常大権の解釈論
 「・・・兵権ヲ行使スル機関ハ,軍事上必要ナル限度ニ於テ,直接ニ国民ヲ統治スルコトヲ得・・・」の部分について,司馬遼太郎が省略したところをも含めた『統帥参考』の原文は,次のとおりです。


兵・政ハ原則トシテ相分離スト雖,戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テハ,兵権ヲ行使スル機関ハ,軍事上必要ナル限度ニ於テ,直接ニ国民ヲ統治スルコトヲ得ルハ憲法第31条ノ認ムル所ナリ。而シテ此軍権ノ行使スル政務ニ関シテハ議会ニ於テ責任ヲ負ハズ。(『統帥綱領・統帥参考』28頁)

 一応しおらしく,大日本帝国憲法31条に拠った立言になっています。臣民権利義務の章にある同条は,「本章ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」と規定していました。同条は「天皇大権ノ施行」といっていますから,『統帥参考』の上記部分も天皇を全くないがしろにするものではないでしょう。
 「戦時又ハ国家事変ノ場合」に「軍事上必要ナル限度ニ於テ,直接ニ国民ヲ統治」する「兵権ヲ行使スル機関」について『統帥参考』は,「戦時大本営ハ,所謂非常大権ノ発動ニ依リ,軍事上必要ナル限度ニ於テ直接国民ヲ拘束スル命令ヲ発スルコトヲ得ベク,又戒厳ノ宣告セラレタル場合ニ於テハ,国家統治作用ノ一部ハ軍権ノ権力ニ移サレ,行政及司法権ノ全部又ハ一部ハ軍権ノ掌ル所トナル。軍事占領地ノ統治亦然リ。」と説明しており(『統帥綱領・統帥参考』28頁),直接「参謀本部」に言及してはいません。大本営については更に,「大本営ハ,国軍直接統帥ノ外,国軍ノ動員,新設,補充・補給ヲ規画シ,且,国内警備ヲ統轄シ,戒厳ノ布告ナキ場合ニ於テモ,要スレバ憲法第31条非常大権ノ発動ニ基キ,軍事行動ニ直接必要ナル限度ニ於テ,直接一般国民ヲ拘束スベキ命令ヲ発スルコトヲ得ルモノナリ(美濃部博士著『憲法提要』参照)。」と述べられていました(『統帥綱領・統帥参考』34頁)。
 おや,と思わせるのは,美濃部達吉の『憲法提要』が,『統帥参考』において典拠として引用されていた事実です。統帥機関としては,1932年の段階においては,「法学界をおおっている美濃部学説を痛打」するどころか,進んでその権威に依拠しようとしていたもののごとくです。昭和10年の天皇機関説事件のわずか3年前のことでありました。
 『憲法提要』は手もとにないのですが,大日本帝国憲法31条に関する美濃部達吉の所説は,次のとおり。


 要するに,本条の規定は戦争又は内乱に際し軍隊を動かす場合には,軍隊の活動の為に必要なる限度に於いて,大元帥としての天皇の命令に依り又は天皇の委任に基く軍司令官の命令に依り,法律に依らずして人民の自由及び財産を侵害し得べきことを定めて居るものである。平時に於いては,軍隊の権力は唯軍隊の内部に行はれ得るに止まり,軍隊以外の一般の人民に及び得るものではないが,戦時又は国家事変に際しては,軍隊が軍事行動の必要の限度において一般人民を支配する権力を得るのであつて,約言すれば本条は軍隊統治の制を認めたものに外ならぬのである。
 軍隊の権力に依つて人民を支配し得る最も著しい場合は,戒厳の宣告せられた場合である。・・・併しながら若し本条の規定を以て戒厳の場合のみを意味するものと解するならば,本条は第14条と全然相重複し無意味の規定とならねばならぬ。随つて本条の規定の結果としては,戒厳の宣告せられた場合の外に,尚大本営の命令に依つても一般人民に対し軍事上必要なる命令を為し得るものと解せねばならぬ。又兵力を以て敵地を占領した場合には,軍隊にその地域の統治を委任し得ることは当然で,即ち此の場合にも本条に依る軍隊統治が行はれるのである。(美濃部『逐条憲法精義』417‐418頁)

 非常の事変に際し,普通の警察隊の力を以つては治安を保つことが困難である場合には,特に軍隊の力を以つて治安維持の任に当ることが有る。これを非常警察と称する。それは実質上から見て警察と称し得るのであるが,行政権の作用ではなく,軍隊の権能に依つて行はるるもので,其の権能の源は統帥大権に在り,形式的の意義に於いては行政作用には属しない。唯其の実質に於いては,等しく社会公共の秩序を維持するが為めにする命令強制の権力作用であり,此の意義に於いて警察作用たるのである。非常事変に際して行はれるのであるから,憲法第31条の適用を受くるもので,一般法律の拘束を受けず,治安を維持するに必要なる限度に於いては,法律に依らずして人民の自由を拘束し得るのである。(美濃部『日本行政法 下』56頁)

 「軍事機密」である『統帥参考』も,作成の現場においては,いろいろなソースから「コピペ」して,それらを「おれたちは」的言葉づかいでまとめて出来上がったものなのでしょう。
 日本の秀才のすることは,古今余り変わらないものです。

(補足)なお, 国は違いますが, 非常大権の発動例として有名なものに1863年1月1日付けの米国リンカン大統領の奴隷解放宣言があります。当時は, アメリカ合衆国憲法を改正しても全国一斉に奴隷を解放することはできない(憲法改正権の範囲外)と考えられていたのに対して, 「大統領のwar power(戦時権限)に基づいた・いわば戦争遂行の一手段としてのもの」として, 「連邦に対して叛乱状態にある地域の奴隷を解放するという内容」の奴隷解放宣言が出されたものです。(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)277頁)

6 統帥権の範囲に係る美濃部説と『統帥参考』との相違
 『統帥参考』は,必ずしも美濃部達吉の学説に全面的に背馳するものではなく,むしろ美濃部説を援用して所説を正当化するところもありました。しかし,「統帥権の正当なる範囲」を①指揮権,②内部的編制権,③教育権及び④紀律権の4種の作用に限るものとしている美濃部説(美濃部『逐条憲法精義』259頁)に対して,『統帥参考』の見解には,大きな相違が3点あります。
 第1に,指揮権において,美濃部は「軍隊の出動を命ずることは政務の作用に属する」(美濃部『逐条憲法精義』書259頁)としていますが,『統帥参考』では「軍隊ヲ動員シ,軍隊ニ出動ヲ命ジ」ることは統帥権の範囲に属するものとしています(『統帥綱領・統帥参考』15頁)。「外国ニ於テハ軍隊ニ出動ヲ命ズルノ権利ハ多ク議会ノ掌握スル所」であるが,「統帥上ニ於ケル 天皇ト大統領トノ地位ノ異ナル主要点ハ実ニ茲ニ存ス」るものとされています(同書16頁)。「我帝国ノ軍隊ハ,国家ノ軍隊タルノミナラズ皇軍ニシテ,外国ノ軍隊ト全然異ナル」のは(同書1頁),こういった点に現れるということでしょうか。ただし一応,「動員及軍隊ノ出動派遣ハ統帥ノ第一歩ニシテ,統帥部之ヲ計画スルモ,其目的,必要ニ応ジ範囲等ヲ決定スル為ニハ,政府ト協議スルヲ至当トス。」として(同書27頁),政府と「協議スルヲ至当」とするものとはされています。しかし,至当に至らなくとも妥当ではあるという場合もあるものと解されそうではあります。
 第2に,武官人事について,美濃部は大日本帝国憲法10条(「天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル」)による政務上の大権に属するものとし,「勅任官及地方長官ノ任命及進退」は閣議を経るべきものとする内閣官制5条1項7号を引いて「少くとも陸海軍将官の任免に付いては閣議を経ることを要する」としているのに対して(美濃部『逐条憲法精義』259頁),『統帥参考』は大日本帝国憲法11条は同10条ただし書の特例に当たるのだとして「勅任官ノ人事ハ閣議ヲ経ルヲ要スル規定ナルモ,陸軍武官ノ進級ハ奏任,勅任,親任共ニ陸軍進級令ニ依リ帷幄上奏ニ属」するものとしています(『統帥綱領・統帥参考』16頁)。人事を仲間内で決めたがるのは,官僚集団(のうちムラの人事権を握る主流派)の秩序本能ですね。官僚機構内において,人生の意義をかけて展開される暗闘あるいは公然たる派閥抗争は,結局人事権をめぐる争いでしょう。サラリーマンの仕事は,人事権者の方を見ながらされるものです。
 第3は,「等」の有無です。美濃部説では統帥権の範囲に属する事項は限定列挙ですが,『統帥参考』では「原則トシテ,国軍ヲ対象トシ之ニ対スル総ユル命令権ハ,即チ統帥権ニ属スルモノトス」とした上で,「軍隊ヲ動員シ,軍隊ニ出動ヲ命ジ,之ヲ指揮運用シ,又ハ其内部ノ編制ヲ定メ,或ハ之ヲ教育訓練シ,若ハ其軍紀ヲ維持スル等ノ権限ハ,総テ統帥権ノ範囲ニ属スルモノナリ。」とされています(『統帥綱領・統帥参考』15頁)。後段部分は美濃部説の4項目は当然統帥権の範囲に入るものであるということを確認確保するだけの記載ですね。しっかりと「等」がありますから,統帥権の範囲の大枠は,結局前段にいう原則の解釈によって決まるということになります。
 なお,「超法的」な統帥権も現実には,先立つものがなければどうしようもないのが泣き所でした。「国の歳出は予算に依つて議会の議を経ることを要し,予算外の支出も亦議会の事後承諾を要するものであるから,軍の行動殊に国防計画に関しても,その経費の支出を要する限度に於いては,帷幄の大権に依つては決することの出来ないもので,必ず内閣の輔弼に待たねばならぬ」ものとされ(美濃部『逐条憲法精義』258頁),この点は『統帥参考』も,「兵力ノ増加モ亦統帥部之ヲ計画スルモ,政府ノ同意ヲ得ルニアラザレバ之ヲ実行スルヲ得ズ。」と認めていました(『統帥綱領・統帥参考』27頁)。

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 我が国の憲法においては,「公務員を選定し,及びこれを罷免することは,国民固有の権利」であり(日本国憲法151項),「公務員の選挙については,成年者による普通選挙を保障する」ものとされています(同条3項)。


 また,選挙に行くのは,国民の義務であるとされています。


 すなわち,選挙権の性質としては,「機関としての公務という側面と,そのような公務に参与することを通じて国政に関する自己の意思を表明することができるという個人の主観的権利という側面の二面性を有する」と解されています(佐藤幸治『憲法第三版』(青林書院・1995年)108頁)。帝国憲法時代から,「選挙投票は公務たる性質を有つて居り・・・憲法に於て衆議院議員は人民の公選に依ること定められた趣旨は,所謂る臣民翼賛の途を広めらるのである,重大なる公務である」とされていたところです(上杉慎吉『帝国憲法述義』(第9版)(有斐閣書房・1916年)400-401)。「選挙ハ公ノ職務ナルヲ以テ,選挙権ハ権利ナルト共ニ必然ニ義務タル性質ヲ有ス。法律ハ其ノ義務ノ不履行ニ対シ別段ノ制裁ヲ課セズト雖モ,選挙権ハ決シテ単ニ選挙人ノ利益ノ為ニノミ認メラルルモノニ非ズ,寧ロ主トシテハ国家ノ利益ノ為ニ認メラルルモノニシテ,随テ選挙人ハ国家ニ対シ忠実ニ其ノ権利ヲ行使スベキ義務ヲ負フモノナリ。」ということになるわけです(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)308頁)。


 しかし,著名な憲法学者でありながら,しかも,東京帝国大学法学部教授という要職にありながら,「重大なる公務」たる選挙権の行使を横着にも怠る常習犯がいました。

 上杉慎吉です。


 無論,上杉も,選挙権の行使は,臣民翼賛の途たる重大な公務であることは重々承知していました。しかし,上杉の投票意欲を萎えさせ,その投票所に向かおうとする気力及び体力を奪う,やむにやまれぬ深刻な事情があったのです。

 上杉は,次のように告白しています。



・・・投票せざる者は悉く皆怠慢者のみではないのであります,現に斯く申す所の私も投票をしたことは殆んどありませぬが選挙には候補者といふものが立つのてある,此候補者に投票をしなければ実際上有効な投票は出来ぬのであります,此事は選挙の無意味なる一の理由でありますが,大勢の人の中から適任者を出すといふのが選挙の立て前でありませう,然らば誰でも自分の適当と思ふ人を投票紙に書いて来ればよいのである,然らば多数の者が適当と思ふ人が多数の投票を得て当選することが実際であるかと申すに,決してさうではないのであつて,私が或る人を衆議院議員として最も適当なる人である,是れ以上の人は無いと思つて,其人に投票をしても無駄であります,候補者として看板を上げて居る人に投票をしなければならぬ,有効な投票をしやうとすれば不適任であると思ふ人でも候補者となつて居る人に投票しなければならぬ,それ故にどの候補者も皆不満足であると思ふ人は投票をしないのであります,私の如きも其一人であります,斯かる意味の棄権は或る意味における投票であると申すことが出来る,単純な怠慢ではありませぬ,之を強制するといふことは誠に不都合であると申さなければなりませぬ。(上杉・前掲
402-403


 ろくな候補者がいないから,投票所に行くのは面倒なだけで,時間と手間との無駄だ,無意味だ,と開き直っているわけです。

 ついでに上杉は,選挙義務の強制のような投票を強いる動きに対しても八つ当たりしています。



・・・近来諸国に於て投票せざる者即ち棄権者の数が非常に多い或は半数以上にも上ぼることがある,棄権者の割合が斯様に多くなつては,当選者は実は多数を得たものと言ふことができぬ,人民多数の意思を代表するといふが如きことは全然嘘であることが最も明かになるのであります,それ故に段々此
選挙義務を強制する制度が行はれて居るのであります・・・(上杉・前掲400-401


 なかなか率直な物言いです。後の内閣総理大臣である岸信介が上杉に師事したのは,上杉のこのような性格に魅かれるところがあったからでしょう。    
 原彬久『岸信介―権勢の政治家―』(岩波新書・1995年)は,岸と上杉との出会いを次のように伝えています。

・・・岸は入学早々上杉の講義に示された国体論に共鳴するとともに,すでに上杉門下にあった山口中学の先輩たちに手引きされて上杉邸に出入りする。岸が晩年,「私は初めは上杉先生の思想よりも,その人柄に惚れた」(岸インタビュー)と回想しているように,晩酌をしながら学生たちを相手に磊落な話術を展開する上杉のその人柄は,岸を大いに魅了したらしい。紋付き袴姿で重厚,流麗に講義する上杉の国士的風格もまた,いたく岸の心を捉えたようである。(23頁)

 ちなみに,岸内閣時代の
1957827日,我が国初の原子炉である日本原子力研究所のJRR-1原子炉が臨界に達し,日本の原子の火がともりました。

 しかしそれにつけても,この日曜日,東京で気になるのは大雪とソチ・オリンピックとですね。
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(大雪の翌日)




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1 「等」に注意すべきこと

 官庁文を読むに当たっては「等」に注意し,その「等」が具体的に何を意味しているかを適宜よろしく確認しおくべきことを,前回の記事(「会社法改正の年に当たって(又は「こっそり」改正のはなし)」)中において御注意申し上げました。

 「えっ,この文章から何でこういうことになるんだ。そういうことは書かれてなかったぞ。」

 「いえいえ先生,それはここの「等」に含まれてございます。で,具体的には,こちらのより詳しい文書に書かれてございます。」

 といったやり取りが,日常的にされているものと思われます。お役人としては大真面目です。我が国のお役人には物堅いところがあって,「等」による合図も無いまま,書かれていないものを書かれているものとするまでの強弁は,さすがにしないところです。

 ――この先生,学問があるからってプライドが高いのはいいけど,自分で実際に資料に当たるっていう基本動作はしないのかい。横着だねぇ,あぶないねぇ・・・。

 などとは,内心思っているかもしれませんが。


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等々力渓谷(東京都世田谷区)

2 輸出入品等に関する臨時措置に関する法律等

(1)吉野信次元商工大臣の回想

 この「等」の威力を示す適例と思われるものに,第一次近衛内閣下の19379月に成立した輸出入品等に関する臨時措置に関する法律(昭和12年法律第92号)という法律がありました。ここでは,「輸出入品等」における「等」の字を見落としてはいけないのです。

 当時の吉野信次商工大臣の回想にいわく。



 一見貿易関係を律する法律のように思われるが,「等」という一字がくせものですね。輸出入関係以外になんでもやれるという法律なんです。・・・実際問題としては,原料などでは輸出入品に関係のない重要物資というものはほとんどないわけですから,物資の全面的統制の法律といってよいわけです。だから,代議士諸君の中には,輸出入品とあるから貿易統制の立法だと思ったら,なんぞ知らんや全面的に物資統制をやるので,看板に偽りがあるのではないかというような話をした人もありました。
(長尾龍一「帝国憲法と国家総動員法」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)126-127頁において引用されている『昭和史の天皇』(読売新聞社)1681頁)


(2)1937年の日中衝突

 強力かつ広範な統制立法である輸出入品等に関する臨時措置に関する法律が制定された背景には,日中間の全面軍事衝突がありました。193764日の第一次近衛内閣発足の翌月,同年77日に華北において発生した盧溝橋事件を発端として,戦火が上海周辺にまで「飛び火」したものとされているものです。

 盧溝橋事件は,義和団事件を処理する北清事変最終議定書(1901年)に基づき北平(北京)・天津間の平津地区に駐屯していた我が支那駐屯軍(天津軍)の部隊が盧溝橋(Marco Polo Bridge)付近で夜間演習中,同軍と宋哲元(地方軍閥出身)の第29軍との間で起こった衝突ですが,事件発生から約1箇月後の193786日,中華民国中央の国防会議で蒋介石の構想,すなわち「華北の日本軍が南下して心臓部の武漢地区で中国を東西に分断されるのを防ぐため,華北では一部で遅滞作戦をやりつつ後退,主力を上海に集中し増兵してくると予想された日本軍に攻勢をかけ,主戦場を華北から華東へ誘致する戦略」が合意されて「国府は上海を戦場とする対日決戦」に進みます(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会・1996年)345-346頁)。盧溝橋事件後の「平津作戦における第29軍の急速崩壊を見た蒋介石は華北決戦を断念し,「日本軍を上海に増兵させ,日本軍の作戦方向を変更させる」(蒋緯国『抗日戦争八年』57ページ)戦略を採用した」わけです(秦・前掲321頁)

 「1932年の第一次上海事件で戦った〔中華民国〕中央軍の精鋭第87師と第88師は,〔1937年〕811日に上海郊外の包囲攻撃線へ展開を終り,海軍も揚子江の江陰水域を封鎖・・・張治中将軍は13日未明を期し日本軍へ先制攻撃をかけたいと南京に要請し」,その日の夕方に日中両軍(日本側は兵力4000に増勢されていた海軍陸戦隊。これに対して,優勢な中華民国中央軍が攻勢的に進出。)の間で本格的戦闘が始まっています(秦・前掲346頁,322頁注(2))。中華民国中央軍にはファルケンハウゼン将軍以下46人の軍事顧問団がナチス政権下のドイツから派遣されており,ファルケンハウゼン将軍は自信満々,上海決戦の前月である1937721日のドイツ国防相への報告では,「蒋介石は戦争を決意した。これは局地戦ではなく,全面戦争である。ソ連の介入を懸念する日本は,全軍を中国に投入できないから,中国の勝利は困難ではない。中国軍の歩兵は優秀で,空軍はほぼ同勢,士気も高く,日本の勝利は疑わしい(Hsi-Huey Liang, pp.126-127)。」と述べていたとされています(秦・前掲372頁)

 盧溝橋事件から始まった日中間の事変処理のための動きとしては,ドイツが仲介する和平工作(トラウトマン工作)がありました。しかし,19371213日の南京占領を経て,1938116日,我が国政府はドイツの駐華大使トラウトマンを通じて蒋介石政権に対して和平交渉打切りを通告し,更に「爾後国民政府を対手とせず」との声明を発表して当該工作による和平の途を閉ざします。前日の同月15日に開催された大本営と政府との連絡会議においては,陸軍の参謀本部が,政府の和平交渉打切り案に強く反対しましたが,最後にはやむなく屈服しています。その時,前日の家族の慶事もあって近衛文麿内閣総理大臣は高揚していたのでしょうか。同月14日,近衛総理の次女である温子とその夫・細川護貞との間に長男が誕生しています。近衛総理のその孫息子には,護煕という名がつけられました。


(3)法律の概要

 193793日に召集され,同月4日に開会,同月8日に閉会した第72回帝国議会において協賛され(貴族院・衆議院いずれも反対無し。),同月9日に昭和天皇の裁可があって成立した輸出入品等に関する臨時措置に関する法律の主要部分は,成立時において次のとおりです1937815日の南京政府断固膺懲声明から1箇月足らずでの,迅速な立法です。我が国のお役人は優秀ですね。)

 


朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 御名御璽

昭和1299

 内閣総理大臣 公爵 近衛文麿

 外務大臣      廣田弘毅

 大蔵大臣      賀屋興宣

 農林大臣   伯爵 有馬頼寧

 商工大臣      吉野信次


法律第92

1 政府ハ支那事変ニ関聯シ国民経済ノ運行ヲ確保スル為特ニ必要アリト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ物品ヲ指定シ輸出又ハ輸入ノ制限又ハ禁止ヲ為スコトヲ得

2 政府ハ支那事変ニ関聯シ国民経済ノ運行ヲ確保スル為特ニ必要アリト認ムルトキハ輸入ノ制限其ノ他ノ事由ニ因リ需給関係ノ調整ヲ必要トスル物品ニ付左ノ措置ヲ為スコトヲ得

一 命令ノ定ムル所ニ依リ当該物品ヲ原料トスル製品ノ製造ニ関シ必要ナル事項ヲ命ジ又ハ制限ヲ為スコト

二 当該物品又ハ之ヲ原料トスル製品ノ配給,譲渡,使用又ハ消費ニ関シ必要ナル命令ヲ為スコト

3条略

第4条 第1条ノ規定ニ依リテ為ス制限又ハ禁止ニ違反シテ輸出又ハ輸入ヲ為シ又ハ為サントシタル者ハ3年以下ノ懲役又ハ1万円以下ノ罰金ニ処ス

前項ノ場合ニ於テハ輸出又ハ輸入ヲ為シ又ハ為サントシタル物品ニシテ犯人ノ所有シ又ハ所持スルモノヲ没収スルコトヲ得若シ其ノ全部又ハ一部ヲ没収スルコト能ハザルトキハ其ノ価額ヲ追徴スルコトヲ得

第5条 第2条ノ規定ニ依ル命令若ハ処分又ハ其ノ命令ニ基キテ為ス処分ニ違反シタル者ハ1年以下ノ懲役又ハ5000円以下ノ罰金ニ処ス

6条から第8条まで略

   附 則

本法ハ公布ノ日1937910ヨリ之ヲ施行ス

本法ハ支那事変終了後1年内ニ之ヲ廃止スルモノトス


 なるほど。天皇の上諭中「輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律」の部分にある「等」に,強力かつ広範な第2条の規定が含まれていたわけです。「これが配給制,代用品の強制などの根拠法規」となったものです(長尾・前掲127頁)

 輸出入品等に関する臨時措置に関する法律に基づき,1940年までに「物資節約の為めにする統制」として,「主として商工省令を以つて,鉄鋼・鉄屑・銅・白金・鉛・錫・アルミニウム・綿糸・綿製品・毛製品・皮革・揮発油及重油・新聞用巻取紙等種種の物資に付き,其の配給・売買・使用に関する厳重な制限」が設けられており(美濃部達吉『日本行政法 下巻』(有斐閣・1940年)433-434,また,  同法の「広汎な委任に基づき政府は其の需給関係の調整を必要とする物品に付き当該物品又は之を原料とする製品の譲渡価格をも調整する権限を有するものと解せられ」(同435-436頁),「物品販売価格取締規則(昭和13商令56)が発せられ,これに依り物価の統制を行つて居」たところです(同519頁)。ただし,物品販売価格取締規則は,国家総動員法(昭和13年法律第55号)19条に基づく価格等統制令(昭和14年勅令703号。同令21項本文によって原則として1939918日の価格が価格の上限とされる。同令17条により,内地では同年1020日から施行。)191項によって,後に廃止されています。


(4)法案の提出理由

ア 吉野商工大臣の説明

 輸出入品等に関する臨時措置に関する法律の法案提出の理由として,吉野信次商工大臣は,193795日の衆議院本会議で次のように述べています。(なお,帝国議会議事録の原文は片仮名書き)

 


 今次の事変の推移に鑑みまして,此非常時に対応しまするやうに,我が産業経済の体制を整へなければならないことは申す迄もないのでありまして,殊に軍需及び国防用として,或は又時局に緊要適切なる色々な事業用と致しまして,相当巨額の物資の需要があるのでありますから,是等の物資を潤沢且つ円滑に供給することに努めなければならないのであります,然るに我国資源の現状から申しますと,差当って外国から輸入致しまして,急の間に合せなければならない物が少くないのであります,そこで国際収支の関係から致しまして,或は物資の輸出制限を致しましたり,或は比較的不急不要なる物資は勿論のこと,国家産業上有用なる物に付きましても,尚幾許かの数量の輸入を抑制しまして,以て必要物資の輸入の増大に努めなければならない必要があるのであります,是が即ち本法案に於きまして,政府は必要に応じて輸出又は輸入の禁止制限を為し得ることを規定致しました理由であります,而して斯く物資の輸入を抑制致しまする結果,之を其儘自然に放置致して置きまする時は,価格の暴騰,供給の不安定などを来しまして,国民経済の運行に著しい支障を及ぼす虞がありますが故に,本法案は又需給関係の調整を必要とする物品に付きまして,政府は必要に応じて適当なる措置を為し得ることと致したのであります
(第72回帝国議会衆議院議事速記録第223-24


 「輸入の増大に努め」るために「輸入の禁止制限」をするというのは,矛盾した行動のようで,一読して分かりにくいところがあります。吉野商工大臣の言う「国際収支の関係」が,疑問を解くかぎのようです。



・・・然るに我国の最近の貿易の情勢は,申上ぐる迄もなく入超でございまして,国際収支の関係に於きまして,唯自然の成行に放任致して置きましたのでは,此上必要な物資を海外から輸入するの余地が乏しいのでありますから,どう致しましても必要な物資と云ふものの輸入を図りまして,戦闘行為の遂行と云ふものに妨げがないやうに致します為には,輸出入に関しまして相当な手加減と申しますか,制限の措置を講ずる必要がございますので,本法案の第
1条に於きまして,其趣旨を明に致しました次第であります・・・(吉野商工大臣・第72回帝国議会衆議院輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律案委員会議録(速記)第12頁)


 国際収支が「入超」だと,「自然の成行に放任致して置きましたのでは,此上必要な物資を海外から輸入するの余地が乏しい」ことになるとは,国際収支が入超で赤字であると円安になり,そうなると円建ての輸入品価額が高額になって輸入が大変になるということでしょうか。確かに,吉野商工大臣の答弁に,そのような趣旨のものがあります。



私も大体
賀屋興宣大蔵大臣と同じやうな考であります,此際此秋としては有ゆる努力を払ひまして,為替の水準を是非とも堅持致したいと考へます72回帝国議会衆議院輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律案委員会議録(速記)第239


 自国通貨の外国為替相場が高いことを喜び,安いことを憂うるというのは,現在の某国政府の外国為替相場に対する姿勢と正反対ですね。


イ 当時の通貨制度との関係

 当時の我が国の通貨制度は,次のようなものでした。

 


 
193112月以降「貨幣法が形式上に改正せられたのではないが,同法の定むる金本位の貨幣制度は停止せられ・・・即ち現在に於ける我が貨幣制度は,経済情勢から生じた已むを得ざる変態として,金本位制を離脱し紙幣本位制となつたものと謂ひ得べく,通貨の価格は金の相場に依つて定まらず,国の財政的信用,国際収支勘定,其の他国内国外の経済事情に依つて定まり,金本位制に於けるが如き貨幣価値の安定性を缺くこととなつた。・・・兌換の停止及び金輸出禁止の結果は,必然に銀行券の価格と金の価格との間に隔離を来すことは已むを得ない結果であり,随つて及ぶべきだけ通貨としての銀行券価格の動揺を避くる為めには,特別の統制作用が必要となる。外国為替管理法・産金法・金使用規則・金準備評価法・輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律等は何れも主として此の目的のために定められたものである。」(美濃部・前掲298-299頁)


 「外国為替管理法(昭和8法律28号)及びこれに基づく命令(昭和8大令7)は,昭和7年の資本逃避防止法に代ふる為めに制定せられたもので,これと等しく,主として資本の国外逃避及び為替の思惑取引を防止することを目的とするもの」でした(美濃部・前掲299-300頁)

 「産金法(昭和12法律59)・同法施行令(昭和12勅令454)・同法施行規則(昭和12商令16)・産金買上規則(昭和12大令32)は,国際収支勘定の不均衡より生ずる金の対外現送の必要に応じ金準備を成るべく豊富ならしむる為めに,国内の産金を増加しこれを政府に集中せしめんとすることを目的とするもの」でした(美濃部・前掲301頁) 

 「金使用規則(昭和12大令60)に依り,金を用ゐた製品の製造を制限し,及び金箔・金糸・金粉・金液の使用をも制限」されていましたが,これは,「金は国際収支の調整・邦貨価格の維持に缺くべからざるものであるから,已むを得ざる必要の外は,他の目的に使用することを禁止し,成るべく多くの金を貨幣制度の安定に資せしめよう」とするものとされていました(美濃部・前掲302頁)

 「金準備評価法(昭和1260)は,日本銀行(朝鮮銀行券・台湾銀行券を発行する朝鮮銀行・台湾銀行もこれに準ず)の兌換準備として保有する金の評価を,国際的時価に近き程度に換算することを目的とするもの」でした(美濃部・前掲302頁)

 そして,「輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律・・・の中輸入貨物の制限は主として国際収支の調整を目的とするもので,臨時輸出入許可規則(昭和12商令23)に依り,政府の許可が無ければ輸入するを得ない品目を列記指定」していたわけです(美濃部・前掲303-304頁)


 しかしまた,円高維持のために国際収支の赤字縮小ないしは黒字化を目指し,そのために輸入規制を行うというのは,理論的にはそうなのでしょうが,今にしてみれば,真面目かつ先回りし過ぎる対策であったようにも思われます。「通貨の価格は金の相場に依つて定まらず,国の財政的信用,国際収支勘定,其の他国内国外の経済事情に依つて定ま」るわけなのですが,現在の某国は,国の財政は慢性的な赤字であり,貿易収支も赤字に転じているにもかかわらず,「其の他国内国外の経済事情」のゆえか,なお当該某国通貨の為替相場は高きにあって輸出が十分に伸びていないものとされているところです。


ウ クレジット設定・外債募集に係る消極見通し

 貿易収支が赤字でも,信用(クレジット)の供与を受けることができれば,輸入継続は可能であるはずですが,我が国のお役人は,真面目なので,なかなか楽観的な発想にはなれません。



・・・棉花の輸入に付きましても,若しクレヂットが設定出来ますれば,之に越したことはないのでありまして・・・其方面と話をするやうに進めて居る次第であります,唯計画を立てます時に,相手があることでありますから・・・出来ないものとしての計画は立てて居ります・・・
(吉野商工大臣・72回帝国議会衆議院輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律案委員会議録(速記)第220-21


・・・政府としては大体日本帝国の外債と云ふものを此の際募るかどうかと云ふことに付ては,必ずしも容易に募れるものとは考へて居らぬのであります・・・(吉野商工大臣・第72回帝国議会貴族院輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律案特別委員会議事速記録第23頁)


 相手方の中華民国はともかくも,そもそも諸外国が日本帝国の債券を買ってくれないだろうという状況認識です。前年1936731日の国際オリンピック委員会において,同年のベルリン・オリンピックに続く第12回オリンピックの開催地に首都・東京が,世界から評価されて選ばれた国の政府の大臣がする発言としては,元気が出ていないように思われます。世界に日本の力と心とが通ずるとの自信が感じられません。(東京における第12回オリンピック開催の返上決定は,1938715日になってからのことですので,当時の我が国はなお次期オリンピックのホスト国でした。)あるいは,外国の力など借りるには及ばないとの自負心の,屈折した現れでもあったのでしょうか。


(5)「ぐるりから鋏を入れて,根さへ枯れぬ程度にして」おくことへの懸念

 衆議院の輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律案委員であった田中源三郎代議士は,クレジット問題に触れつつ,我が国政府の真面目な秀才的こだわりに対する心配を表明していました。



・・・頑になって,さうして自分自身だけが何処も相手にして呉れないと云ふやうな,自分自らが卑屈な考を持たないでも宜しいと思ふ,私はもっとのんびりした考を以て,商売は別問題だと云ふ考でやれば,十分茲にクレヂットを民間側が為すことも出来るのでありまして,唯為替の基準が大切である,もう之に一生懸命になってしまって,何も彼も周囲から伐って行く,丁度伸び切って居る木をぐるりから鋏を入れて,根さへ枯れぬ程度にして置いたら宜い,さう云ふやり方のやうに思はれる・・・
72回帝国議会衆議院輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律案委員会議録(速記)第220


 田中代議士の心配した,「為替の基準」の一事にこだわって木をぐるりから鋏を入れて,根さへ枯れぬ程度にして置」くやり方というのは,恐らく,次のように想定されていた政府施策のことでしょう。



・・・仮に棉花なら棉花と云ふものを輸入を制限致しました,或は羊毛なら羊毛と云ふものを輸入を制限したと云ふ時には,国民に対して消費の節約,其のものだけに付いての節約と云ふことも御願する必要もありませうが,是等を原料とする生産業者・・・さう云ふものの仕事に対しまして,或は代用品と致しましてステーブル,フアイバーと云ふやうなものの混用を命ずるとか,それから又原料が国全体としては当分間に合ふ,唯何の某が余計持ち過ぎて居って,何の某が少く持って居ると云ふ場合には,若し之を其業全体として平均致します時には,当分輸入する必要がないと云ふ場合も生じて参ります,其時に多く持って居る人に対して,乏しい方にそれを分けてやると云ふやうなことを,御願する必要も段々生じて来ようかと思ふのであります・・・
(吉野商工大臣・第72回帝国議会衆議院輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律案委員会議録(速記)第12頁)


 大いに持てる活力を発揮し,生産力を拡大しようというときに,将来の円相場の下落予感に今からくよくよ反応して,いきなり消費の節約やら品質の落ちる代用品の使用やら自分の仕事に集中する前に他人の仕事準備の心配をするやら,身を縮めるところから始まるというのは,若干陰性かつ窮屈であるようにも思われますが,無論贅沢は敵であり,国を愛する心をもって努力せねばならなかったところであります。

 なお,吉野信次商工大臣は,民本主義の吉野作造の弟。その商工官僚時代の部下に,岸信介がいました。


(6)1941年改正時の状況

 その後,昭和16年法律第20号によって,輸出入品等に関する臨時措置に関する法律5条の罰則の「1年」が「7年」に,「5000円」が「5万円」に改められ,輸出入品に係る同法1条よりも,国内統制に係る同法2条の方がその違反に対する刑罰が重くされています。輸出入品等に関する臨時措置に関する法律による統制の中心は「輸出入品」ではなく,「等」であることが明らかになったわけです。そもそもからして,物品について「需給関係ノ調整ヲ必要トスル」事由は,「輸入ノ制限」には限られず,「其ノ他ノ事由」でもよかったものでありました。

 前記の吉野元商工大臣の回想にある「看板に偽りがあるのではないかというような話をした」代議士とは,194127日,第76回帝国議会の衆議院昭和12年法律第92号中改正法律案(輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル件)委員会において次のような発言をした森田福市衆議院議員であったように思われます。



―― 一体此の臨時輸出入措置法は,御承知の通りに是が出た時には臨時輸出入措置に関する法律だと思つて吾々議員は皆賛成した,所が其の後之に依つて国内の経済統制を行ふのだと云ふので,何に依つてそんなことが出来るかと言つたら,それは「其ノ他」と云ふ字があるではないか,「其ノ他」で全部やるのだ,本題の方は目的ぢやなかつた,実は「其ノ他」を使ふのにやつたのだと云ふ意味のことを後で聴いたのであります・・・
76回帝国議会衆議院昭和12年法律第92号中改正法律案(輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル件)委員会議録(速記)第319頁)


 「本題の方は目的ぢやなかつた,実は「其ノ他」を使ふのにやつたのだ」というのが本当であれば,商工省には,知恵の黒光りする秀才官僚がいたものです。

 輸出入品等に関する臨時措置に関する法律5条の罰則強化に係る昭和16年法律第20号の法案の提出理由中関係部分は次のとおりでした。

 


・・・事変下に於ける経済統制に関する諸方策は,主として本法律
輸出入品等に関する臨時措置に関する法律と昭和13年公布せられました国家総動員法の運用に依つてなされて居るのであります,経済統制に当りましては,極力経済界の実情に即したる方策を講じますると共に,其の実施に当りましても国民の自発的協力を期待致して居るのでありますが,経済統制違反件数が現に相当多数に上り,而も一度処罰を受けたにも拘らず尚ほ再三違反を繰返す者すら少くない実情でありまして,経済統制の効果を減殺して居りますことは,事変下真に遺憾に堪へぬ次第でございます,経済統制違反を敢てする事情は,色々の理由があらうと思ひまするが,現在の罰則は犯罪状況に照し軽きに失する点がございますので,此の際同法の罰則の一部を強化致し,以て戦時経済政策の実施を確保致したいと存ずる次第でございます・・・(小林一三商工大臣・第76回帝国議会衆議院議事速記録第1080頁)


 ここでいう「経済統制違反件数が現に相当多数に上」る状況とは具体的にはどのようなものかといえば,これはなかなかのものです。



・・・然るに経済統制法令違反の状況を見まするに,其の数に於て著しくなりまして,是は国家総動員法に基づくものとの合計ではありますが,昭和1511月末までに全国検事局に於て受理致しましたものが既に15万人を超え,殊に昨年下半期に於ける激増振は洵に著しきものがありまして,前年同期に比して数倍に上つて居りますのみならず,其の質に於ても悪化の一途を辿り,種々の脱法手段を弄し,或は証拠煙滅を図り,検挙に困難を加へつつあるのであります・・・
(秋山要政府委員(司法省刑事局長)・76回帝国議会衆議院昭和12年法律第92号中改正法律案(輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル件)委員会議録(速記)第23


 15万人といえば,2013331日の我が陸上自衛隊の定員が151063人です。検事局としては,帝国臣民相手の経済統制戦において,既に赫々たる大戦果を挙げていたということになるのでしょうか。議員からも,決められた統制価格で売っては赤字になってしまう業者等の実例が多々委員会において紹介されており,不条理な状況下での混乱と違反とが日常化してしまっていたようです。

 しかしながら,喧嘩両成敗でしょう。国家総動員法の改正法案の審議も行われていた第76回帝国議会の開会中,同法の実施機関たる企画院の統制官僚たちが治安維持法違反で次々検挙されるという「企画院事件」が進行していました。当時の第二次近衛内閣の内務大臣は,「赤を潰すことと涜職官吏の征伐一点張」の平沼騏一郎でありました(長尾・前掲148-149頁参照。同「二つの「悪法」」ジュリ769号)また,商工次官となっていた岸信介は,企画院事件に関係しているとして小林一三商工大臣から引責を迫られ,1941年1月に商工次官の職から退いています(原彬久『岸信介』(岩波新書・1995年)84頁参照)。(ただし,岸は同年10月には東條内閣の商工大臣として大きく復活しています。) 

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1 江藤新平司法卿の司法事務と司法職務定制


(1)司馬遼太郎の『歳月』

 前回の記事(「大審院の読み方の謎:呉音・漢音,大阪・パリ」)において,明治五年(1872)八月三日の司法職務定制と,大審院の設置に伴い司法卿が「裁判ニ干預セス」ということになった187558日の司法省職制(明治8年司法省達第10号達)とを紹介していて(なお,漢数字の日付は太陰太陽暦である天保暦(旧暦),算用数字の日付はグレゴリオ暦(明治6年(1873年)からの現行暦)によるものです。),江藤新平の生涯を描いた司馬遼太郎の小説『歳月』の次のくだりとの関係が気になりだしました。



・・・中弁(官房長官兼法制局長官のようなもの)時代明治四年(1871)の文部大輔就任までの江藤はこれ大蔵省及び府県知事が司法権を持つような体制を不合理とし,西洋流の司法権を考え,

 ――司法権は行政から独立させるべきである。

 とし,その制度を立案し,ついにそれが採択されるや,江藤自身が司法卿になって明治五年四月二十五日(辞令の日付。ただし,蕪山厳『司法官試補制度沿革―続 明治前期の司法について』(慈学社・2007年)338頁は,同月二十七日就任とする。)この方面のいっさいを整備することになったのである。

 ・・・

 江藤が書いた司法省の事務分掌は5ヶ条にわかれている。その第1条には「本省は全国の裁判所を総括し,諸般の事務をとる。ただし裁判のことには関係しない」とあり,裁判はあくまでも裁判所の権限で司法省はそれに容喙しないという点,司法行政の近代的基礎としてはみごとなほどであった。(「蓄妾問答」の章の三)


 1875年の大阪会議及びそれをうけた大審院の設置をまたずに,江藤司法卿の下で既に裁判機関(裁判所)と司法行政機関(司法省)との分離が達成されていたかのような印象を受ける記述です(江藤は,征韓論政変に敗れ,18731025日に下野)。さて,どういうことでしょうか。


(2)司法職務定制

 実は江藤司法卿時代,「各裁判所ノ上ニ位スル」司法省裁判所について,司法職務定制46条は,「別ニ所長ヲ置カス司法卿之ヲ兼掌ス」と規定していたところです。江藤新平は,自分は司法卿ながら,司法省裁判所の所長として裁判のことに関係してもよろしいと考えていたわけです。また,例えば,司法職務定制52号は,司法卿は「・・・疑讞ぎげん。讞は,はかること,罪を取り調べること,罪をさばくこと(『角川新字源』)。ノ審定重要ナル罪犯ノ論決ヲ総提ス」るものとし,同「第3章 本省章程」における第9条から第11条まではそれぞれ,「必ス上奏制可ヲ経テ然ル後ニ施行ス」る前提で本省が,「国家ノ大事ニ関スル犯罪ヲ論決」し,「全国ノ死罪ヲ論決」し,「勅奏官及華族ノ犯罪ヲ論決」するものとし,これらに応じて同「第5章 判事職制」における第20条の判事に係る第2号は「奏請スヘキ条件及疑讞ハ決ヲ卿ニ取リ輙クたやすく論決スルコトヲ得ス」と規定していたところです。


(3)司法事務

 いずれにせよ,まず,「江藤が書いた司法省の事務分掌」とは何であったのか調べなければなりません。これは,「司法事務」として,『法規分類大全』に次のようにあるところです。



   司法省伺
うかがい 明治五年五月二十日

 別紙司法事務ノ儀至急御差図有之度これありたく此段相伺候也

 (別紙)

 司法事務

1条 本省ハ全国ノ裁判所ヲ総括シ諸般ノ事務ヲ掌ル但シ裁判ノ事ニ関係スルコトナシ

2条 上裁ヲ仰クヘキ事件ハ総テ本省ヨリ奏請スヘシ

3条 卿輔ノ任ハ裁判官ヲ総括シ新法ノ草案ヲ起シ各裁判所ノ疑讞ヲ決シ諸裁判官ヲ監督シ進退黜陟ちゅつちょく。黜陟は,功の無い者を降職・免職にし,功のある者を登用・昇進させること(『角川新字源』)。スルノ権アリ

4条 諸裁判官軽重罪ヲ犯ス時ハ本省ニオヰテ論決スヘシ

5条 事件政府ニ関係スル犯罪ハ卿輔聴許セサレハ裁判官論決スルヲ得ス

 (参考)司法省記註

壬申明治五年五月二十二日江藤卿持参大隈参議差出即日御聞置ノ旨同人ヨリ口達ノ事 


 第1条でいう「本省」は,第2条及び第4条における用法との並びで考えると,全体としての司法省という意味ではなくて,司法本省ということのようです。すなわち,司法本省は,司法省に属するからといって地方の裁判所の裁判にすべていちいち関係しないよ,ということなのでしょう。明治五年八月の司法職務定制の第1条にも,「各課権限アリテ互ニ相干犯スルコトヲ得ス」とあります。

 「――司法権は行政から独立させるべきである。」といっても,江藤司法卿時代には,大蔵省及び地方官からの司法権の分離並びに司法省への接収がなお第一段階の課題であったということでしょう(司法職務定制2条は「司法省ハ全国法憲ヲ司」るものと規定。ただし,司法省もなお行政の一部ではあります。)。

 ところで,司法事務の「(参考)」を見ると,明治五年五月二十二日に江藤司法卿が,太政官の正院に「伺」の形で「司法事務」案を持参し,同じ佐賀出身の大隈重信参議に提出したところ,即日大隈参議から,聞き置かれたよと口頭で話があったということのようです。翌日の同月二十三日は明治天皇の中国・西国巡幸(明治天皇の六大巡幸の最初のもの)の出発日であって忙しいところに,「至急御差図」してくれといきなり重要な伺い案件を持ち込まれても(困りますね。),確かに,「聞置」くしかできないでしょう。江藤の司法事務は,少なくとも司法省内においては司法卿の決定として大原則を定める効力を有していたのでしょうが,太政官における扱いは以上のようであった次第です。


2 各省と太政官(内閣)


(1)太政官

 ここで,司法省と太政官との関係がまた問題になります。明治五年当時の中央官制は,明治四年(1871年)七月十四日の廃藩置県による国制の大改革後同月二十九日に発布された太政官職制(太政官第386)に基づくものであったところです。

 この明治四年七月の太政官職制によって,初めて太政官に太政大臣が置かれ,「天皇ヲ輔翼シ庶政ヲ総判」することになりました。

 また,太政官が正院,左院及び右院から構成されることになりましたが,正院が従来の太政官に相当するもの(正院事務章程によれば「正院ハ 天皇臨御シテ万機ヲ総判シ大臣納言実際には納言に代わって左右大臣が置かれた(下記の明治四年太政官第400参照)。之ヲ輔弼シ参議之ニ参与シテ庶政ヲ奨督スル所」)であった一方,左院は立法に関する審議機関(左院事務章程によれば「左院ハ議員諸立法ノ事ヲ議スル所」)であり(ただし,立法については,正院事務章程において「凡立法施政司法ノ事務ハ其章程ニ照シテ左右院ヨリ之ヲ上達セシメ本院之ヲ裁制ス」とされていました。),各省の長官及び次官によって構成される右院はいわば各省の連絡機関(右院事務章程によれば「右院ハ各省ノ長官当務ノ法ヲ案シ及行政実際ノ利害ヲ審議スル所」)でした。

 各省は,太政官の下に置かれ(なお,正院事務章程において「諸官省等ヲ廃立分合スルモ本院ノ特権タリ」と規定されていました。),卿は各省の長官です。

 太政官と各省との関係は,明治四年八月十日の官制等級の改定(太政官第400)において,「太政官是ヲ本官トシ諸省是ヲ分官トス」,「太政大臣左右大臣参議ノ三職ハ 天皇ヲ輔翼スルノ重官ニシテ諸省長官ノ上タリ」と定められていました。

 太政官時代はなお封建的身分関係の旧習が残っており,「太政摂関の職は,中世以来政事の変遷種々多様なりしと雖も,常に春日明神の子孫にあらざれば之に近付く能はず」ということで,太政大臣は三条実美,左右大臣には宮(有栖川宮熾仁左大臣),公卿(岩倉具視右大臣)又は諸侯(島津久光左大臣)しかなれず,維新の三傑であった西郷隆盛,大久保利通及び木戸孝允であっても参議(「太政ニ参与シ官事ヲ議判シ大臣納言ヲ補佐シ庶政ヲ賛成スルヲ掌ル」)が上りポストでした。しかしながら,無論,政府の実権は,実力参議のもとにあったところです。

 (以上,太政官については山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)3037頁,76‐77頁,80頁を参照


(2)内閣(太政官)と各省との分離論

 なお,18751‐2月の大阪会議では内閣(太政官)と各省との分離が図られることになりましたが,これは,太政官の参議が太政官の下の各省の卿(長官)をも兼任していたところ,「諸参議が太政官に於て政務を議するに際して,他の省務に就いて云為することは,恰も他の担任領域に容喙するが如き嫌ひあり,従つて多くは互ひに相憚つて言を為さるの傾向があつた。そこで閣議は,国家凡百の政務を決すべき最も重要なものでありながら,其の実際はいつも長官会議の如き状態となり,甚だ低調なものとなるのを免れなかつた」ので,「参議は内閣に在つて専念国務の議判に当たること」にしようとのことだったようです(山崎・前掲64頁,66頁参照)。また,有力省の卿を兼任する参議に権勢が集中することになるのが面白くないということもあったようです(山崎・前掲64頁参照)。


(3)太政官職制における「内閣」

 ちなみに,内閣ですが,187352日の太政官職制の「潤飾」により,太政官正院の参議は「内閣ノ議官ニシテ諸機務議判ノ事ヲ掌ル」とされ,ここで初めて「内閣」の文字が使用されました(山崎・前掲38)。ただし,それまでは「太政大臣左右大臣参議ノ三職ハ 天皇ヲ輔翼スルノ重官」(明治四年八月の官制等級)であったのに対して,18735月の太政官職制では,天皇を輔弼する者は,太政大臣及び「職掌太政大臣ニ亜ク」左右大臣のみとされたところです(正院事務章程は「正院ハ 天皇陛下臨御シテ万機ヲ総判シ太政大臣左右大臣之ヲ輔弼シ参議之ヲ議判シテ庶政ヲ奨督スル所ナリ」と規定。)。


3 江藤新平司法卿v.井上馨大蔵大輔


(1)明治6年の予算問題

 政府における有力省といえば大蔵省です。明治の初年において既に「其の勢力は頗る強大」であり,「往々内閣の議を待たないで其の省務を専決するの風があり,為めに他省との間に摩擦を生ずることが一再ではなかつた」ため,「そこで之が匡正の一方策としてこに内閣の強化が企図され」,187352日の太政官職制の改正がされたとされています(山崎・前掲44‐46)。

 当時における大蔵省と他省との間の「摩擦」とは,司法省その他の省からの予算要求に対する大蔵省による大幅減額査定をめぐる紛争でしょうか(『歳月』の「長閥退治」の章の三。司法省からの要求額965744円が大蔵大輔(次官)井上馨によって45万円に削られたそうです。)。江藤新平は,後藤象二郎及び大木喬任と共に1873419日に参議に任じられていましたが,「内閣と大蔵省の間は愈々意思の疎通を缺くに至り,遂に後藤・江藤の2参議の如きは大蔵省の事務を調査せんことを主張するに至つた」ため,「於是時の大蔵大輔井上馨は大いに之を憤慨し,大蔵省三等出仕渋沢栄一と共に,財政に関し一編の建議書を上つて同年57日其の職を辞」することとなりました(山崎・前掲46頁。なお,『歳月』は,井上馨の辞任の日を7日ではなく14日としています。岩波『近代日本総合年表 第四版』によれば,7日に建議,14日に免官)。「当時此の建議書が一度世に伝はるや,朝野共に政府の財政に危懼の念を懐き議論大いに沸騰」ということでした(山崎・前掲46頁)。井上馨としては,政府は本当に財政難なのに他省はとんでもない額の予算要求をしてきて,仕方がないから削ると,上の内閣は他省の肩を持って,大蔵省は強大過ぎていかん,調査をするぞと言ってくるんだからやってられないよ,ということだったのでしょう。

 ここで江藤は,なおもしつこく井上馨を追撃します。すなわち,井上馨及び渋沢栄一は,財政に関する上記建議書を各種新聞紙に掲載させたのですが,井上「公と氷炭相容れなかつた江藤参議の如きは,之を黙過すべきで無い。彼は先頭に立つて公並びに渋沢を弾劾し,政府の秘事を故らに世に泄したのであるから,彼等を捕縛すべしなどと壮語した。かくて司法省当局者の活動となり」ということで(井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝 第一巻』(内外書籍・1933年)565頁),1873720日,司法省臨時裁判所は,次のような裁判を井上馨に申し渡します(同書567‐568頁)。



                          従四位 井上馨

 其方儀大蔵大輔在職中,兼テ御布告ノ旨ニ悖リ,渋沢栄一両名ノ奏議書各種新聞紙ヱ掲載致ス段,右科雑犯律違令ノ重キニ擬シ,懲役40日ノ閏刑禁錮40日ノ処,

特命ヲ以テ贖罪金3円申付ル。

  明治6720日               司法省臨時裁判所


 井上=渋沢の建議書公表によって国の財政状況が暴露されたことは,江藤の言うように「政府の秘事を故らに世に泄した」重い悪事であるのかどうか。「内閣は,国会及び国民に対し,定期に,少なくとも毎年1回,国の財政状況について報告しなければならない。」とする現行憲法の第91条を前提に考えると,いささか言い過ぎのように思われます。江藤は,人民の権利保護のチャンピオンであったと紹介されますが,国民の政治参加にはなお消極的であったということになるのでしょうか。これに対して,井上馨の伝記作家は,当然,財政状況に関する建議書が井上=渋沢によって公表されたこと及びそれがもたらした慣行を積極的に評価しており,「これより以後,政府は予算表を公示するを憚らなく為つたことは,真に美政といはねばならぬ」と述べています(『世外井上公伝 第一巻570頁)。


(2)尾去沢事件


ア 明治五年司法省第46号

 井上馨に対する江藤新平の追及第2弾として,『歳月』は「尾去沢事件」の章を設けて,大蔵大輔井上馨の「腐敗」と,司法卿江藤新平の「正義感」とを描きます。

 しかしながら,『歳月』は,飽くまでも小説であって,歴史書,いわんや法律書ではありません。「尾去沢事件」の章で大きな役割を果たす次の「司法省達第46号」なるもの(同章の一)は,実はフィクションなのです。



地方人民にして,官庁より迫害を受くる者は,進んで府県裁判所,もしくは司法省裁判所に出訴すべし。

――司法省達第46号――


 原典との照合はされなかったのでしょうか。特に「官庁より迫害」の「官庁」がいけません。これでは大蔵省その他の中央官庁も含まれることになってしまいます。(なお,井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝 第二巻』(内外書籍・1933年)66‐67頁に,江藤新平は「司法権の独立を主唱し,明治五年十一月二十八日に,司法省達第46号を以て,地方人民にして官庁等から不法の迫害を受けた者は,進んでその地方裁判所若しくは司法省裁判所へ出訴すべしとの令を出した」との記述があります。)

 実際の明治五年十一月二十八日司法省第46号は,次のような規定からなっています。

 


一 地方官及ヒ其戸長等ニテ太政官ノ御布告及ヒ諸省ノ布達ニ悖リ規則ヲ立或ハ処置ヲ為ス時ハ各人民 
華士族卒平民ヲ併セ称ス ヨリ其地方裁判所ヘ訴訟シ又ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラサル事

一 地方官及ヒ其戸長等ニテ各人民ヨリ願伺届等ニ付之ヲ壅閉スル時ハ各人民ヨリ其地方裁判所エ訴訟シ亦ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラサル事

一 各人民此地ヨリ彼地ヘ移住シ或ハ此地ヨリ彼地ヘ往来スルヲ地方官ニテ之ヲ抑制スル等人民ノ権利ヲ妨ル時ハ各人民ヨリ其地方ノ裁判所亦ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラサル事

一 太政官ノ御布告及ヒ諸省ノ布達ヲ地方官ニテ其隣県ノ地方掲示ノ日ヨリ10日ヲ過クルモ猶延滞布達セサル時ハ各人民ヨリ其地方ノ裁判所ヘ訴訟シ亦ハ司法省裁判所エ訴訟苦シカラサル事

一 太政官ノ御布告及ヒ諸省ノ布達ニ付地方官ニテ誤解等ノ故ヲ以テ右御布告布達ノ旨ニ悖ル説得書等ヲ頒布スル時ハ各人民ヨリ其地方裁判所亦ハ司法省裁判所エ訴訟苦シカラサル事

一 各人民ニテ地方裁判所及ヒ地方官ノ裁判ニ服セサル時ハ司法省裁判所ニ訴訟苦シカラサル事


 飽くまでも対象は,「地方官及ヒ其戸長等」の処分等にすぎません。また,「進んで出訴すべし」とまではされておらず,なおも「訴訟苦シカラ」ずです。『歳月』の「司法省達第46号」ほど開明的かつ進歩的なものではありません。

 (とはいえ,我が明治の人民は遠慮会釈なく,「明治五年司法省第46号達は凡そ地方官を訴ふる者皆裁判所に於てせしめたりしに,地方官吏を訴ふるの文書法廷に蝟集し,俄に司法官行政を牽制するの弊端を見るに至れり。」(『憲法義解』帝国憲法61条解説)という状態ではありましたが。)

 中央の大蔵省が,南部の商人・村井茂兵衛の「借金」証文(実は同人の南部藩主に対する貸金であるが,はばかって村井茂兵衛の南部藩主からの「借金」として証文を作成していた。廃藩置県により各藩の債権債務は中央政府が承継。)に基づき同人に「貸金」の返還を求め,支払がないために同人の財産を差し押さえて競売に付したこと(『歳月』「尾去沢事件」の章の二)が,地方官に係る明治五年司法省第46号の規定の対象に入るものとは,なかなかいい難いでしょう。

 しかしながら,『歳月』においては,村井茂兵衛は「司法省達第46号」に基づいて「司法裁判所」に出訴し,「司法裁判所」はそれを受理し,審査の結果訴えを却下することもなく,江藤司法卿以下は勇躍して大蔵省の調査を始めたことになっています。ちょっと変ではあります。刑事事件の捜査の端緒として村井茂兵衛の「出訴」が取り扱われたというのならば分かるのですが(そういうことなのでしょう。)。

 18751226日に至って,尾去沢事件に関して東京上等裁判所が井上馨に申し渡した裁判は,次のとおりです(『世外井上公伝 第二巻』104‐105頁)。



   申渡

                           従四位 井上馨

其方儀,大蔵大輔在職中,旧藩々外国負債取調の際,村井茂兵衛ヨリ取立ベキ金円多収スルトノ文案ニ連署セシ科,名例律同僚犯公罪条ニ依リ,KSの第三従トナシ,2等ヲ減ジ懲役2年ノ所,平民贖罪例図ニ照シ,贖罪金30円申付候事。

 但,多収シタル金25000円ハ,大蔵省ヨリ追徴シテ村井茂兵衛ヘ還付イタス間,其旨可相心得候事。

明治812月                     東京上等裁判所


 大蔵省の下僚のKSが25000円余計に村井茂兵衛から債権を回収する間違った文案を作成し,上申してきたのに対してうっかり連署してしまった,という監督不行き届きの罪で罰金30円ということです。本体部分は,確かに刑事裁判ですね。

 ただし書には,過払いを受けた25000円は大蔵省から追徴して村井茂兵衛に還付させると書いてありますが,これは,被告人井上馨に対する裁判ではありませんから,いわば無用のことながら参考までに書いておいたということでしょうか。いずれにせよ,村井茂兵衛と南部藩との金銭貸借関係が私法上の関係であったのであれば,南部藩の当該債権債務を承継した政府と相手方村井茂兵衛との間の関係も私法関係ということになるはずですが,明治五年司法省第46号は,なお,行政裁判の制度の嚆矢とされています。これは,むしろ,人民ヨリ院省使府県ニ対スル訴訟仮規則(明治792日司法省第24号達)1条の「院省使府県ノ会計及ヒ金銀貸借ニ関シタル事」に係る「一般公同ニアラサル人民一個ノ訴訟」として「司法官ニ於テ受理」されたものでしょう。

 主犯である下僚KSに対する裁判は,次のとおりでした(『世外井上公伝 第二巻』105‐106頁)。25000円の過剰請求は「過誤失錯ニ出ル」ものとされており,大蔵省の「陰謀」のようなものの存在は認定されなかったわけです。



                            紙幣大属 KS

其方儀,大蔵省十等出仕ニテ判理局勤務中,旧藩々外国負債取調ノ際,村井茂兵衛ヨリ旧盛岡藩ヘ係ル貸上ゲ金ノ内ヘ償却シタル25000円,同藩ヨリ貸付ト見做シ徴収セシ科,職制律出納有違条ニ依リ,座賍ヲ以テ論ジ懲役3年ノ所,過誤失錯ニ出ルヲ以テ,官吏公罪罰俸例図ニ照シ,罰俸3箇月申付候事。

 但,村井茂兵衛稼ギ尾去沢銅山附属品買上ゲ代価同人承諾証取置カザルハ,違式ノ軽ニ問ヒ,懲役10日。

 以下略


イ 「辞めても辞めぬ」

 ところが,『歳月』の「尾去沢事件」の章には,またほかに,分かりづらいところがあります。

 明治五年十一月二十八日の司法省第46号らしき「司法省達第46号」を読んだ村井茂兵衛が出訴し,それを受けて司法省が調査を行っていたところ,井上馨は「うかつに」にも「司法省がその能力をあげて自分を監視しているのも気づかず,尾去沢銅山の今後の経営について準備をすすめ」,同鉱山を視察することにして「馬車をつらねて東京を出発したのが88日」,同月「29日,問題の尾去沢鉱山に入」り,同所に「従四位井上馨所有地」との榜柱を立て,「翌月28日」に帰京,江藤新平は「従四位大蔵大輔」の「現職の顕官」である井上馨を東京において拘引すべく内閣の会議に案件をかけたのですが,議事は紛糾,副島種臣が「井上馨は,辞職する」,「君はこれをもってなっとくせよ」と江藤を説得して,結局本件はうやむやになった,と『歳月』では物語られています(「尾去沢事件」の章の三)。

 「従四位大蔵大輔」の「現職の顕官」である井上馨の拘引問題が内閣で問題になったのは,明治6年(1873年)の9月から10月にかけてのことのようです。当時,井上馨は,「辞職して平人にくだる」べき官職を持っていたことになっています。しかし,おかしいですね。井上馨は,前記のとおり,同年5月に既に大蔵大輔を辞職していたのですから。

 司馬遼太郎は,聞多井上馨の絶倫の生命力について『死んでも死なぬ』という作品を書いていますが,『歳月』においては,井上馨は「辞めても辞めぬ」怪人として描かれたということになります。

 堀雅明『井上馨開明的ナショナリズム』(弦書房・2013年)によれば,井上馨が18735月に大蔵大輔を辞めた理由としては尾去沢鉱山をめぐる非難が既にあったということがあり,また,同年8月に確かに井上馨は尾去沢鉱山を視察しているけれども,これはやはり退官後のことであるということです。当該視察の際,井上馨は釜石鉱山も見学したところ,「鉱業はなるほど大蔵省の管轄であったが,井上の随員には本省の鉱山技師がひとりも加わっておらず,かれをとりまいているのは,小野組の番頭やえたいの知れぬ利権屋ふうの連中ばかり」であって,「釜石の技師たちは不審におもった」そうですが(『歳月』「尾去沢事件」の章の三),大蔵省を辞めてしまっている以上はむしろ当然のことで,釜石の技師たちのところには,同年5月の井上馨大蔵大輔辞任のニュースは届いていなかったのでしょう。

 ところで,堀氏の著作からは,なお,井上馨の大蔵大輔辞任は,国家の財政の問題という堂々たる理由ではなく,やはり尾去沢事件のスキャンダルによるものだという印象を受けるのですが,井上馨側の主張では,尾去沢事件を江藤がぶつけてきたのは井上退官後のことであり,かつ,江藤は村井茂兵衛の訴えを待たずに,それ以前から井上をつけ狙っていたということになっています。

 すなわち,まず,明治五年司法省第46号に基づく村井茂兵衛の出訴は,明治「618731218日を以て,司法省裁判所検事局に出訴」ということだったようで(『世外井上公伝 第二巻』67),これでは,征韓論政変による同年10月の江藤の下野後のことになってしまいます。

 また,前々から「司法卿江藤新平は尾去沢銅山が収公されたことを聞くや,予て井上馨公とは快からず常に公の間隙を狙つてゐたことであるから,機乗ずべしとなし,司法大丞兼大検事警保頭島本仲道に内命を下して,密かに本件の内容を調査せしめつあつた」ところです(『世外井上公伝 第二巻』65)。

 問題の太政官における尾去沢事件に係る井上馨弾劾は,『歳月』から示唆される前後関係とは異なり,18735月の井上馨の大蔵大輔辞任後だったようです。いわく,



江藤は公を拘引する議を太政官に持出した,併し三条・木戸の回護もあつて,その事は行はれなかつた。もとより公を拘引するに足るほどの明確な証拠とては有らう筈は無かつたからである。大隈侯八十五年史には,該事件が司法裁判所の手に移つたのを
618735月としてある。然らば公が辞職を聞届けられた月であるから,江藤は公が重職を去るのを待つてゐて,こに本件を公然告発することに為つたのではないかと思はれる。而してこれは村井から訴状が出たので始めたものではない。(『世外井上公伝 第二巻』66


 『歳月』の江藤新平とはまた少し違った印象の江藤新平が,ここにはいます。

 (ところで,明治初めの村井家当主・京助村井茂兵衛は,既に1873523日に享年53歳(文政四年生まれ)で大阪で没していますから,187312月に出訴した茂兵衛はその次の代の茂兵衛でしょう。なお,村井京助は,南部藩内では実はむしろ長州派で,嘉永年間に盛岡を訪問した吉田松陰は京助と歓談していますし,戊辰戦争の時には,奥羽越列藩同盟派の家老・楢山佐渡と所見を異にする勤皇派南部藩士を京助が京都「三条通の長藩邸に潜伏せしめたと言はれ」ています。(『興亜の礎石:近世尊皇興亜先覚者列伝』(大政翼賛会岩手県支部・1944年)48‐50頁)『歳月』において江藤司法卿が会った「村井茂兵衛」は「齢は45だという」とされていますから年齢が合わず,京助村井茂兵衛ではないことになります。)


4 締めくくり:大阪会議の主役はだれか

 1875年の大阪会議をうけた大審院の設置による司法の行政からの分離と,江藤新平司法卿下での「司法権の独立」との関係について図らずも論ずることとなってしまった本稿の締めとしては,小説風に,「江藤の言う「司法権の独立」など,実は奴の権力欲の隠れ蓑にすぎなかったのだよ。まったく,奴にはひどい目に遭ったが・・・しかし,江藤のあの梟首の写真・・・一番恐ろしいのは大久保参議だよなぁ・・・タイシンインねぇ・・・うむ,司法権の行政からの真の独立をもたらすことになった欧化の本当の貢献者は,実は,木戸,大久保,板垣という難しい大物たちを何とかまとめて,大阪会議を開くべく奔走した不肖この我輩なのだよ。」との,酒盃片手の元大蔵大輔・井上馨の独白にしましょうか。それともやはり,「長州ぎらいであるはずの江藤にどういうわけか好意をもちつづけていた」とされる木戸孝允(『歳月』「長崎の宿」の章の一)こそが,江藤の遺志を継いで,大阪会議を通じて司法の行政からの分離をもたらした立役者であった,という見解を表明しておくことにしましょうか。大阪会議の舞台となった料亭・加賀伊も,木戸の揮毫の「花外楼」が気に入ったようですし・・・

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東京都港区西麻布の長谷寺(ちょうこくじ)にある従一位大勲位侯爵井上馨の墓(さすがに元勲,フラッシュ光をまぶしく反射するいい石が使われています。)

 


付録:本文と関係の無いつけたり

 大審院については,タイシンインと読んでもダイシンインと読んでも指し示すものは同じでした。

 しかし,


 大陸軍


 の場合はそうはいきません。

 ダイリクグンであれば,ナポレオンのグラン・ダルメー(Grande Armée),タイリクグンであればジョージ・ワシントン率いるコンティネンタル・アーミー(Continental Army)ということになります。



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ペンシルヴァニア州ヴァレー・フォージ(
Valley Forge, PA)のワシントンの旧司令本部(苦しい対英独立戦争を戦うアメリカ諸邦の大陸軍は,フィラデルフィア陥落後の1777-1778年の冬をヴァレー・フォージの宿営地で耐え忍び,かつ,自らを鍛え上げました。)

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1 大阪・道頓堀から大審院へ

 「カフェ丸玉」事件判決という民法関係の有名な判決があります。当該判決については,その判示するところが民法学上どのように位置付けられるか(「自然債務」だ云々),そもそも「カフェ丸玉」とは何か(大阪は道頓堀にあった丸玉という名前の「カフヱー」であるが,ここでいう「カフヱー」はフランス語で勉強するcafeとはまた違ったものであり,すなわち大正から改元された昭和の初めにおける我が国の「モボ・モガ」その他の言葉で表される世相の中で云々等,いろいろ論ずべき点がありますが,脱線すると例によって長くなりますので,省略します。

 で,そのカフェ丸玉事件についてかつて説明することがあり,

「えー,そこで,約束の400円を払ってくれよと女性の方からお客さんを被告にして訴えが提起されまして,400円上げるよと調子のいい約束をしてしまったお客さんは一審二審と負けてしまったのですが,大審院が昭和10425日に判決を出しまして┉┉

 とまできたところ,

「えっ,タイシンインですか。それは間違っているんじゃないですか。ダイシンインが正しい読み方ではないのですか。」

 と,配布資料に記された「大審院」との漢字表記を見ながらの,思わぬ質問がありました(大審院が現在の最高裁判所の前身であるということは,すんなり理解してもらえたのですが。)。

画像

 今回の記事は,その,大審院の「大」の読み方について,「タイシンイン」派の立場から,改めて考えてみようとするものです。

 

 まず,日本語は神道をシントウと読むことから分かるように澄んだ音をよしとするから,偉い裁判所は,タイシンインなのですよ,との説明が思いつかれますが,これは,現在の最高裁判所の偉い法廷である大法廷はタイホウテイではなく,ダイホウテイであることから,説得力のある説明ということにはならないようです。そもそも神社も,シンシャではなくジンジャですね。

 事典・辞書類を調べてみると,大審院の読み方については,ダイシンインが多数派です。ただし,タイシンインという読み方もあるものとはされています。穏便に両論併記主義がとられているということは,どちらか一方の読み方が正しいとする決め手となる根拠はいまだに無いということのようです。


2 呉音と漢音


(1)ダイとタイとの相違

 ところで,そもそも大の読み方に,ダイとタイとの2種類があるのはなぜでしょうか。

 前者のダイは,王仁博士によって5世紀前半に我が国に漢字が伝来されて以来の古い音である呉音,後者のタイは,7世紀初めからの遣隋使・遣唐使時代になって導入されたそれより新しい音である漢音です。ダイとタイとの違いは,呉音と漢音との違いということになります。


(2)呉音・漢音「対抗」史

 当初我が国においては,百済経由で渡来したかつての長江沿岸の音である呉音が専ら用いられていたわけですが,隋唐帝国の首都である長安・洛陽の音である漢音が8世紀の「グローバル・スタンダード」であるぞ,ということで,桓武天皇の延暦11年(792)には明経之徒(儒学学生)は漢音を学ぶべしとの勅令が出,翌延暦12年(793年)には仏僧に対しても同様の勅令が出ます。しかしながら,仏教界においては漢音公定化に対する反発が強く,延暦23年(804年)には漢音が必ずできなければならないということではないこととなり,漢音公定化が撤回され,呉音派が巻き返します。その後は仏教界は呉音の支配が続きます。また,律令を学ぶ明法道についても,漢音公定化は及ばず,呉音のまま明治維新まで継承されることになります。

 唐の滅亡(907)後の宋代以降,全般に,我が国においては漢音に対して呉音が優勢な形で時代は推移します。日本人にとって,呉音の方が漢音よりも一般に「やわらかい」感じがするからではないかと考えられています。

 その間,生硬な漢音は「厳格な武家倫理に親和的」ということもあってか,江戸期儒学は,漢音を採用します(中世儒学の担い手は呉音派の仏教僧侶でした。)。江戸時代後期には,「仏教呉音,儒教漢音」という「住み分け」が生じていたとされます。

 そして,明治維新。

 「律令の発音は基本的に呉音だったから,太政大臣とか文部省とか兵部省とか,呉音読みの制度が色々導入された┉┉。しかしこういう復古主義は,革新の時代にはふさわしくなく,ほどなく欧米文物の全面的導入時代となったのだが,その担い手は藩校において漢音で中国古典を学んだ官僚であった。そこで明治10年代には,公文書の世界は基本的に漢音が支配することとなった。熊本藩校出身の井上毅を中心として起稿され,明治22年に刊行された『憲法義解』は,漢音時代のもので,まあ「ぎかい」と読んだだろうな。」ということになりました。

 (以上,呉音と漢音との関係については,長尾龍一教授のウェッブ・サイト「OURANOS」のウェッブ・ページ「日本史の中の呉音と漢音」に掲載されている同教授の論文によりました。同ウェッブ・サイトの「独居独白(July 2013)」ウェッブ・ページの72日の項によると,同論文は紀要に採用されなかったものだそうですが,インターネットでアクセスでき,ありがたいことです。)

 「仏教呉音,儒教漢音」なので,徳高い僧侶は大徳(だいとく),大いに勉強した儒学者は大儒(たいじゅ)ということになるのでしょう。弘法大師はダイシですが,一緒に渡唐した遣唐大使の藤原葛野麻呂が「私は日本のダイシだ」と長安で言うと,「ダイシって何だ」と笑われたものでありましょう。大衆は,ダイシュであればお坊さんの群れ,タイシュウであれば一般の人々。大雪山は,ダイセッセンと読めば仏教発祥の地インドの北のヒマラヤ山脈,これに対して北海道の旭岳を主峰とする山塊は,ダイセツザンと呼ばれたり,タイセツザンと唱えられたり。そして,重大な法規である大法はタイホウですが,ダイホウとなると,世俗を超えた仏の教法ということになります。


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JR北海道の特急大雪1号(旭川駅構内)
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 特急大雪は,漢音で「たいせつ」と読みます。


3 大阪・北浜から大審院へ


(1)大審院の発足

 さて,「明治10年代には,公文書の世界は基本的に漢音が支配することとなった」ということですから,大審院の読み方については,まずその発足の時期が問題になります。

 大審院の発足は,明治8年(1875年)のことです。

 1875524日付け明治8年太政官第91号布告大審院諸裁判所職制章程が大審院の組織を定めており,その大審院章程1条は「大審院ハ民事刑事ノ上告ヲ受ケ上等裁判所以下ノ審判ノ不法ナル者ヲ破毀シテ全国法憲ノ統一ヲ主持スルノ所トス」と規定していました。(明治8612日の太政官の達によれば,控訴上告手続に係る明治8年太政官第93号布告の布告日である1875524日が大審院の開庁日。)

 この大審院諸裁判所職制章程は,その前月1875414日付けの明治8年太政官第59号布告が「┉┉元老院大審院被置候事┉┉」としていたことに基づくものですが,当該布告自体は更に同日付けの明治天皇の次の詔書に基づくものでした。



┉┉
朕今誓文ノ意ヲ拡充シ茲ニ元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ広メ大審院ヲ置キ以テ審判ノ権ヲ鞏クシ又地方官ヲ召集シ以テ民情ヲ通シ公益ヲ図リ漸次ニ国家立憲ノ政体ヲ立テ汝衆庶ト倶ニ其慶ニ頼ラント欲ス┉┉


 立憲政体漸立の詔,あるいは漸次に立憲政体を立てるの詔と呼ばれているものです。

 この詔書はまた,同年1月から2月にかけて,大久保利通,木戸孝允及び板垣退助が大阪の料亭等で行ったいわゆる大阪会議の結果に基づくものでした。


(2)大阪会議

 前年木戸が去った後の政府において,外からは民権派及び鹿児島の西郷隆盛派の攻撃があり,内においては旧主家の島津久光左大臣からことごとに弾劾を受けて孤立感を深める大久保の政権を強化すべく,前々年江藤新平に追い落とされて下野中の井上馨が(江藤は,1874年の佐賀の乱で大久保政権に敗れ,同年4月13日梟首,既に故人。)木戸及び民権派の板垣を政府に復帰させるため画策した18751月から2月にかけての大阪会議は,「往年,坂本龍馬が薩長同盟をはかった故智にならい┉┉┉┉3人それぞれ偶然に落ちあったような形」で行われました(井上清『日本の歴史20 明治維新』(中央公論社・1966年)414頁)。したがって,現在イメージされるところの全員一同に会した「会議」とは異なります。木戸は187311月の段階で,伊藤博文から政体について意見を問われ,司法省と裁判所とを分離すべきこと,大臣・参議が立法・行政を共に行っている現状から他日必ず元老院及び下院の二院を立てるようにすべきことと述べていましたが(井上・前掲380頁),立憲政体漸立の詔の内容は,この線に沿ったものとなっています。すなわち,大阪会議の過程で,木戸は,次のような政府改革図案を作成していたところでしたが,大久保がそれをのんだというわけです。(18753月,木戸及び板垣は参議として政府に復帰。)


              天皇陛下

             ┉┉┉┉┉┉┉┉┉

                            内閣

             太政左右大臣

               参議        


              行 政    大審院    元老院(上)

                     地方官(下)

             

 正確には再現できていないのですが(現物の画像は,国立国会図書館ウェッブ・サイトの電子展示会「資料に見る日本の近代」第1章の110「大阪会議」を参照),天皇及び天皇を輔弼する内閣(大臣(太政大臣,左大臣及び右大臣)及び参議により構成)の下に,行政(参議と各省卿との分離は板垣の持論(井上・前掲417頁)。),大審院並びに元老院及び地方官(地方官会議)が並び,あたかも行政,司法及び立法の三権が分立するような形になっています。

 大阪会議は,1875211日に大久保,木戸,板垣,井上馨及び伊藤博文が集まって,締め。会場となった北浜の料亭加賀伊は,木戸によって新たに花外楼と命名され,政官界の大立者御用達の店に。現在もその名で営業しています(ただし,北浜の本店ビルは現在建替中。)。


4 パリ・セーヌ河畔から大審院へ


(1)フランス帰朝の法制官僚・井上毅

 大審院は,大阪での会合の過程において木戸孝允が既にその名前による設置を主張していたわけですが,木戸の提案の元となった大審院の概念はどこに由来するものだったのでしょうか。立憲政体という近代的な制度を指向しているわけですから,古代以来の律令というわけではないでしょう。 

 実は,大審院は,仏式の概念です。

 しかし,仏式といっても仏さまの仏教式ではなく,おふらんすのフランス式のことです。

 ここでまた,後の『憲法義解』の主起稿者,明治法制官僚の雄,井上毅が登場します。

 1872年から1873年まで司法省からフランスに留学していた井上毅は,滞仏中からフランスの最高裁判所に当たる「大審院」に関するノートないしは覚書を作成しており,帰国後1874年中にはいわゆる彼の司法四部作である『仏国大審院考』,『治罪法備考』,『王国建国法』及び『仏国司法三職考』をほぼまとめ上げ(これは,18751月には筆写のため植木枝盛に貸し出されなどしています。),1874年の「法制を論じ左院の議を駁す」で大審院の設置されるべきことを説き,1875年の大阪会議後の同年311日には大久保利通参議あてに大審院の設置を含む司法改革意見を提出,翌月14日の立憲政体漸立の詔は,実に井上毅自身の起草に係るものであったところです(木野主計『井上毅研究』(続群書類従完成会・1995年)参照)。すなわち,当時「大審院」といえば,井上毅の説く大審院のことであったわけでありましょう。フランス式であります。

 西洋起源の大審院でありますから,律令又は仏教由来の語として,ダイシンインと呉音で読まなければならない,ということにはならないことになります。欧米文物の全面的導入時代の先駆けとしては,むしろ漢音でタイシンインと読むべきだ,ということに一応なりそうです。

 しかしながら,日本語における一般的な呉音の優勢ということも考えなければなりません。大審院が,great審院の意味であるのであれば,実感的には,一般的にはやはりダイシンインと読むべきかと思われます。真面目に立派な仕事をする優秀な研究者を「大先生」と呼ぶときはダイセンセイですが,うっかり優雅な大学者に「先生はタイガクシャですね」とごあいさつ申し上げると大変です。「おれは怠学者かっ」とキレてしまうからです。


(2)Elle n'était pas grande.

 それでは,井上毅の推奨するフランス最終審裁判所である大審院は,フランス語では何といったのでしょうか。フランス語ですから,greatならぬgrandな裁判所という意味の文字が使われているのでしょうか。

 実は,フランスの大審院は,フランス語では別にgrandな裁判所ではありません。La Cour de cassation現在では文字どおりに破毀院と訳される名前の裁判所です。下級裁判所の「審判ノ不法ナル者ヲ破毀シテ全国法憲ノ統一ヲ主持スルノ所」として,即物的かつ無愛想に破毀院と名付けられたのでしょう(なお,我が現行の訴訟法では「破棄」の語が用いられるため,破棄院とも訳されますが,我が大審院の模範となったとのいにしえのゆかりを重視するのであれば,大審院章程の文字に忠実に破毀院とした方がよいのではないでしょうか。)。ルイ16世在位中1791年のフランス王国の憲法典第3篇(公権力について)第5章(司法権について)19条には「立法府のもとに,全王国に唯一の破毀裁判所(un seul tribunal de cassation)を設けるものとする。当該裁判所は,その権能として,裁判所によって下された終審としての裁判に対する破毀の請求について・・・宣告するものとする。」とありますから,そもそもの破毀裁判所は,立法府側の存在として,司法権プロパーの裁判所に対して喧嘩腰です。「破毀院」と訳すと後ろ向きでネガティヴなのですが,確かに仕方のないところです。しかしながら,そのままではとても我が国には受け入れられなかったのでしょうから,一番偉いということが分かり,かつ,ポジティヴでもある「大審院」という訳語が編み出されたものでしょう。(なお,フランスは,アンシャン・レジーム下の特権階級であった法服貴族に対する反感の歴史もあってか,裁判所に対する姿勢は全面肯定的なものではありません。例えば,フランス民法5条は,「裁判官は,係属された訴訟について,一般的及び法規的命題の形で裁判をしてはならない。」と,「判例法」に対して太い釘をさしています。)

 「大審院」という名前になったからとはいえ,井上毅ら政府上層部においては,その立派な名前によってうっかり自ら幻惑されることはなく,大審院は別にgrandeなものではないという事実は忘れられていません。大日本帝国憲法起草仲間の伊東巳代治による『憲法義解』の英訳本"Commentaries on the Constitution of the Empire of Japan (2nd ed.)"(中央大学・1906年)は"In the 8th year (1875), the Court of Cassation was established so as to maintain the unity of the law. In the same year, the functions of the Minister of Justice were settled to consist in exercising control over the judicial administration and not in interfering with trials."と当該部分を訳しており(113頁),飽くまでも大審院は"Court of Cassation"であって,日本語からの逆翻訳において迷走して"Grand Court of Justice"のようなものとされることはなかったところです。 

 明治5年(1872年)83日付け太政官の司法職務定制(司法省職制並ニ事務章程)の第2条は「司法省ハ全国法憲ヲ司リ各裁判所ヲ統括ス」と,第3条は「省務支分スル者3トス/裁判所 検事局/明法寮」と規定しており,裁判所は司法省に属するものとされていたものが,明治8年(1875)太政官第91号布告大審院諸裁判所職制章程によって裁判所は司法省から独立した形になり,それに伴い,明治858日司法省達第10号達の司法省職制における卿に係る条項の第1号ただし書は,確かに,司法卿は「裁判ニ干預セス」と規定していました。しかしながら,なお同号の本文は,司法卿は「諸裁判官ヲ監督シ庶務ヲ総判シ及検事ヲ管摂シ検務ヲ統理スルコトヲ掌ル」と規定しており,司法行政は依然として司法省が所管していたところです。「諸裁判官ヲ監督」する司法省に対しては,大審院もそれほどgreatではなかったものでしょう。

 ところで,そもそも大審院は,大・審院なのでしょうか,大審・院なのでしょうか,それとも三文字熟語なのでしょうか。

 ○審院という語は,現行法令においては,見たところ大審院しかありませんし,旧法令においても同様の結果でありそうです。井上毅の用いた翻訳語には「覆審院」があり(木野・前掲438頁等),また,cour d'assisesを「会審院」と訳しているようですが(木野・前掲75頁,77頁等),「覆審」はそれで一つの熟語ですから,前者は覆審・院ということになり,後者も,会して審理するから「会審」ということならば(assisesには会合・大会の意味があります。),前者に倣って会審・院と解すべきことになるでしょう。

 ということで,大審院は大審・院であると解することになると,下級裁判所の「審判ノ不法ナル者ヲ破毀」するための審判が「大審」ということになりそうです。しかし,下級裁判所の裁判官にとってはそうなのかもしれませんが,大審とは少々大仰なようです。また,現行法令においては,見たところ大審の語は大審院の語中でのみ使われているところであって,旧法令においても同様のこととなっているように思われます。大審なる概念の存在の説明は,なかなか容易なことではなさそうです。

 結局,「大審院」はそもそもが,ネガティヴな「破毀院」の語を避けるための,苦肉の仲人口による新作三文字熟語として考えるべきかもしれません。

 また,ちなみに,大審院の母法国フランスにおいては,現在,日本の地方裁判所に相当する大審裁判所(tribunal de grande instance)及び少額事件を取り扱う小審裁判所(tribunal d'instance)が第一審裁判所として存在しています。ここでの大審(grande instanceは,grandeが入っていること及び小審との対比から,やはりダイシンでしょう。そうであれば,母法国のgrandeな仕事をする第一審裁判所にダイシンを譲ってダイシンサイバンショとし,こちらのかつての終審裁判所はタイシンインであったということで住み分けてはどうでしょうか。


5 おわりに

 大審院はお寺でもなければ律令制官庁でもありませんから,ダイシンインと呉音で読む必要はありません。むしろ,近代フランスのCour de cassationをその原型とするものなのですから,文明開化時代における新規輸入の欧米文物制度の一つとして,藩校で儒学を学んだ士族出身の秀才法制官僚に倣って,漢音でタイシンインと読むべきことになりそうです。日常よく言う「大(だい)○○」と同様に,実感を込めてgreatダイシンインと言おうにも,大審院においては何が大(grande)なのかが具体的にははっきりしないところです。また,大審院法制の母法国であるフランスには現在,大審裁判所という裁判所が存在するので,そちらをダシンサイバンショと読んでこちらをタイシンインと読めば,混乱が避けられるようにも思われます。以上がタイシンイン派としての主張です。

 しかしながら,漢音でタイシンインと読まなければならない,というところまではいきません。呉音優勢下での呉音・漢音混用状態の中,我が国語においては,結局は理論ではなく慣習が決めるべき問題ではあります。そして,慣習を決める日常の運用においては,感覚的なものが占める位置は無視できないものであります。大審院の場合,まず文字面が問題になりますが,何やら寺院関係にありそうな漢字の並びでもあり(妙心寺内に大心院という名前の塔頭があり,ダイシンインと読まれているようです。),また,いよいよここで最後のお裁きかということになれば,やはり深くおごそかに,語頭を濁って読むべきものと感じられるのかもしれません。

 『憲法義解』も,ケンポウギゲと読んだ方が,正統的な漢音のケンポウギカイよりも何やら,御利益(りやく)がありそうに感じられます。


(なお,社団法人日本放送協会の放送用語並発音改善委員会は,1934411日,大審院の読みとして「大審院部内の伝統的な読み方を尊重して」タイシンインを採用していますが(すなわち大審院の人々の自称はタイシンイン),そこに至るまでの調査に係る極めて興味深い報告である塩田雄大「漢語の読み方はどのように決められてきたか」NHK放送文化研究所年報20079094頁)が,インターネットでアクセス可能になっています。1934年当時において既に「現代の中年以下の人は多く「ダイ」なり」という状況だったところ,二十代の青年からは「タイシンインといふと法律に凝り固まつてゐるやるだ」とある意味もっともな違和感が表明される一方,十代の高等女学校5年生の大多数(59名中57名)からは,「ダイシンインといふ方が重重しくて権威がある。タイシンインでは軽いやうで権威がない」という率直な感想が述べられていたそうです。その後,新憲法下の最高裁判所広報室が,1962年当時,日本放送協会に「ダイシンイン」と読むとの回答をしたことがあるようですが,同協会の放送用語委員会は「タイシンイン」を維持しています(同論文102頁注15)。



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(Champagne, France)


 19181111日午前11時に連合国とドイツとの間の休戦協定が発効し,第一次世界大戦の戦闘は終了しました。

昨日はその記念日でした。

1111日を休日として今も記念式典を行うフランスにとっては,第一次世界大戦こそが悲惨な大戦争であって,第二次世界大戦2年目の1940年にフランスがドイツにいわばあっさりと降参してしまったのは,ヴェルサイユ条約の恨みを抱いていたドイツとは異なり,第一次世界大戦でもう戦争は懲り懲りになっていたからだ,と以前英国の歴史家の本で読んだ記憶があります。

今でもフランスのシャンパーニュ地方の田舎道をドライブすると,白い墓標の群れが各所に現われ,町々の広場にはフランス軍兵士の像が東方をにらんで立っているのが見られます。

 第一次世界大戦には,日本も連合国側に立って参戦しました。中学校・高等学校で教わったところを思い返すと,日英同盟のよしみで参戦した日本は,少ない犠牲で山東省青島のドイツ租借地及びドイツ領南洋群島を占領し,他方国内では戦争景気で成金続出,戦後のパリ講和会議では,欧州正面での苛烈な戦闘には参加しなかったにもかかわらず,米国,英国,フランス及びイタリアと並んで,五大国の一つに数えられるに至った,というようなところでしょうか。

 

 日本の対独宣戦の理由に関しては,大正3年(1914年)8月23日付けの大正天皇の詔書は次のように述べています。


  ……朕ハ深ク現時欧州戦乱ノ殃禍ヲ憂ヒ専ラ局外中立ヲ恪守シ以テ東洋ノ平和ヲ保持スルヲ念トセリ此ノ時ニ方リ独逸国ノ行動ハ遂ニ朕ノ同盟国タル大不列顛国ヲシテ戦端ヲ開クノ已ムナキニ至ラシメ其ノ租借地タル膠州湾ニ於テモ亦日夜戦備ヲ修メ其ノ艦隊荐ニ東亜ノ海洋ニ出没シテ帝国及与国ノ通商貿易為ニ威圧ヲ受ケ極東ノ平和ハ正ニ危殆ニ瀕セリ是ニ於テ朕ノ政府ト大不列顛国皇帝陛下ノ政府トハ相互隔意ナキ協議ヲ遂ケ両国政府ハ同盟協約ノ予期セル全般ノ利益ヲ防護スルカ為必要ナル措置ヲ執ルニ一致シタリ朕ハ此ノ目的ヲ達セムトスルニ当リ尚努メテ平和ノ手段ヲ悉サムコトヲ欲シ先ツ朕ノ政府ヲシテ誠意ヲ以テ独逸帝国政府ニ勧告スル所アラシメタリ然レトモ所定ノ期日ニ及フモ朕ノ政府ハ終ニ其ノ応諾ノ回牒ヲ得ルニ至ラス……


ドイツ艦隊がしきりに「東亜ノ海洋ニ出没」シテ「帝国及与国ノ通商貿易」を「威圧」したために「極東ノ平和」が「正ニ危殆ニ瀕」したことが日本の対独開戦の直接の理由であり,攻撃目標はまず「東亜ノ海洋」のドイツ艦隊及びその根拠地であるということでしょうか。


 当時の第三回日英同盟協約(1911713日ロンドンで調印。「日本外交文書」明治44年第12110377頁以下))は,その目的を「東亜及印度ノ地域ニ於ケル全局ノ平和ヲ確保スルコト」,「清帝国ノ独立及領土保全並清国ニ於ケル列国ノ商工業ニ対スル機会均等主義ヲ確実ニシ以テ清国ニ於ケル列国ノ共通利益ヲ維持スルコト」及び「東亜及印度ノ地域ニ於ケル両締盟国ノ領土権ヲ保持シ並該地域ニ於ケル両締盟国ノ特殊利益ヲ防護スルコト」と定めていました(前文)。

したがって,「両締盟国ノ一方カ挑発スルコトナクシテ(unprovoked)一国若ハ数国ヨリ攻撃(attack)ヲ受ケタルニ因リ又ハ一国若ハ数国ノ侵略的行動(aggressive action)ニ因リ該締盟国ニ於テ本協約前文ニ記述セル其ノ領土権又ハ特殊利益ヲ防護セムカ為交戦スルニ至リタルトキハ前記ノ攻撃又ハ侵略的行動カ何レノ地ニ於テ発生スルヲ問ハス他ノ一方ノ締盟国ハ直ニ(will at once)来リテ其ノ同盟国ニ援助ヲ与ヘ協同戦闘ニ当リ講和モ亦双方合意ノ上ニ於テ之ヲ為スヘシ」との規定(同協約2条)があったものの,東アジア及びインドの地域(the regions of Eastern Asia and of India)以外の地域,すなわち欧州等は,その守備範囲外であったところです。


 しかし,日本海軍は,地中海にまで駆逐艦等による特務艦隊を派遣して,連合国から感謝されています。また,陸軍についても対独苦戦の連合諸国から累次の欧州派兵要請が我が国政府にあり,歴史のifとしては,シャンパーニュの美しくなだらかな丘陵地帯のあちらこちらに,日本兵の墓標が並んでいるという可能性もあったところでした。


 これら連合国からの欧州派兵要請に対して19141114日,時の大隈内閣の外務大臣加藤高明は,駐日英国大使に派兵不可の旨覚書を手交しています(「日本外交文書」大正3年第310621643頁以下)参照)。


 当該加藤メモランダムが,昨今の政治の動きをめぐる最近の論説において,次のように紹介されています。



  いったん国防の役割を越えた国防軍が,それこそ地球の裏側まで戦闘行為をしに行くことを押しとどめる力量を,日本の議会政治が発揮できるのか。対イラク戦争でのブッシュ政権への協力についての総括をも果たしていない中で,9条の歯止めを取り払おうという主張はあまりに無責任ではないでしょうか。かつて第一次大戦の開戦直後,どこまで積極的に連合諸国側に立ってドイツと戦うかの真剣な議論の中で,当時の外務大臣は,日英同盟の相手方の出兵要請に対し,「帝国軍隊ノ唯一ノ目的ハ国防ニ在ルカ故ニ,国防ノ性質ヲ完備セサル目的ノ為帝国軍隊ヲ遠ク国外ニ出征セシムルコトハ其組織ノ根本タル主義ト相容レサル所」という覚書を英国大使に手交しています(加藤高明)。日米同盟一本槍の今の政治家たちと違って,そのような認識を持ちながらも,その後の大日本帝国がどんな途に突き進んだか,痛切な教訓ではないでしょうか。(樋口陽一「なぜ立憲主義を破壊しようとするのか―現状を見定めることの責任」『世界』201312月号66-67頁)



 日本はかつて,大日本帝国憲法下において,
“The dispatch of the Imperial army far away from home for purposes other than those partaking of the nature of national defence is  .incompatible with the fundamental principle of its system and was never contemplated in its organization.” との主義を,世界に対して明らかにしていたところでありました。


 それでは特務艦隊の地中海派遣はどのように説明されたのでしょうか。1917年6月26日,第39回帝国議会衆議院本会議において,島田三郎議員の問いに対し,加藤友三郎海軍大臣は,「我国旗ヲ樹ッテ居リマストコロノ船舶ガ,欧洲海面ニ於テ沈没ヲ致シマスル数ガ漸次殖エテ」いるので「軍事当局者ト致シマシテハ,是等我船舶ヲ保護致シマスル上ニ,多少ノ考慮ヲ費サナクテハナラナイ」と考え「腹案」を立てていたところ,「英国政府ヨリ地中海方面ニ或一隊ノ派遣方ノ交渉」が「敵ノ潜水艦ニ対スル作戦上必要」であるところからあったため,「或一隊ヲ地中海ニ派遣シタト云フ次第デゴザイマス」と答弁しており,「聯合作戦ヲ実施」するためという理由のみをもっては説明していなかったところです(第39回帝国議会衆議院議事速記録316-17頁)。本野一郎外務大臣も,「共同作戦ノ必要」に加えて「帝国ノ航海ノ保護ノ必要」を特務艦隊派遣の理由として挙げています(同速記録17頁)。「共同作戦ノ必要」だけでは,島田前衆議院議長以下の議会政治家たちを納得させられなかったということでしょう。


 日本が戦間期「いわゆるワシントン体制の枠組みの中で逐次孤立」していったことについて,「一次大戦における欧州派兵問題もその原因の一つではあるまいか」,「言を左右にして小さな艦隊しか援軍を派遣しなかった「頼りにならない同盟国」日本と,一度参戦するや2百万の将兵を始め陸海軍の総力を挙げて救援に馳せ参じた「頼りになる同盟国」アメリカとの「信頼性の差」は影響していないか」とする意見があります(永井煥生「第一次世界大戦における欧州戦線派兵要求と日本の対応」防衛研究所戦史部年報1号(19983月)18頁)。


 しかし,米国は,第一次世界大戦で約12万人の戦死者(American Battle Monuments Commissionのウェッブサイトによれば116,516人)を出し,戦間期は孤立主義に回帰。国際連盟にも加盟していません。欧州で第二次世界大戦が始まり,フランスが敗れ,英国が苦戦していても,「頼りになる同盟国」は,なお欧州戦線派兵を行いませんでした。苦戦中の英国宰相チャーチルがこれで勝ったと歓喜したのは,実は日本の真珠湾攻撃(1941127日(ハワイ現地時間))のニュースを聞いた時でした。

19411211日に,日独伊三国同盟条約の当事国であるドイツ及びイタリアが米国に対して宣戦。これは,ヒトラーの失敗だといわれています。ドイツの対米国宣戦通告文では,米国軍によるドイツ潜水艦の攻撃及びドイツ商船の拿捕を挙げて,米国がドイツに対してopen acts of warを行っているものと主張していますが,同日ヒトラーがドイツ国会議事堂でした長い演説が同じ月の30日付けで日独旬刊社出版局から『一千年の歴史を作らん』(「ヒトラー総統の対米宣戦布告の大演説」)との題名で出版されているところ,そこには次のようなくだりがあります。いわく,「茲に於いて独伊両国は,遂ひに,1940年9月27日附の三国条約の規定に遵ひ(getreu den Bestimmungen des  Dreimaechtepakts vom 27. September 1940),日本と相携へて,それら三国とその国民とを防衛し,且つそれに依つてその自由と独立とを維持せんがために,アメリカ合衆国と英国とに対する戦ひを開始するの止むなきに至つたのである(haben...sich...gezwungen gesehen)。」と(61頁。ドイツ文はWorld Future Fundのウェッブページから)。)


 また,12万の戦死者数は,日露戦争における我が戦死者数約8万4千人を大きく超えるものです(約84千人は,アジア歴史資料センターの「日露戦争特別展」ウェッブサイトの「はやわかり」ウェッブページが紹介する数字。当該サイトの「統計」ウェッブページには別に戦死者数55,655人という数字が出ています。)。旅順で苦戦中の乃木希典将軍の留守邸が投石を受け,ポーツマス条約の講和条件が「勝者」にとって不十分であるとして日比谷で焼き打ち事件が起こったのは,第一次世界大戦の当時,遠い昔の話ではありませんでした。


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(ヴェルダンの地下要塞見学コース)


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