カテゴリ: 大日本帝国

草田男句碑
  降る雪や明治は遠くなりにけり   中村草田男(
1931年)

                  ――明治の終焉は,1912730日のことでした。

 

1 文化の日と「明治の日」との併記に向けた動き

 今月(202311月)1日付けの共同通信社のニュースに「文化の日に「明治」併記を 超党派議連が法案提出へ」と題されたものがあります(同社ウェブページ)。「超党派の「明治の日を実現するための議員連盟」は〔202311月〕1日,国会内で民間団体と合同集会を開き,明治天皇の誕生日に当たる113日の「文化の日」に「明治の日」と併記を求める祝日法改正案を提出する方針を確認した。来年〔2024年〕の通常国会で成立を目指すとしている。」とのことです。当該議員連盟の会長は自由民主党の古屋圭司衆議院議員であって,上記合同集会には同党のみならず,公明党,立憲民主党,日本維新の会及び国民民主党からも参加があったそうですから,国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)の当該改正は成立しそうではあります。

 「「国民の祝日」を次のように定める」ところの国民の祝日に関する法律2条における文化の日に関する部分は,現在次のようになっています。

 

  文化の日 113日 自由と平和を愛し,文化をすすめる。

 

 前記ニュースによれば,当該合同集会で古屋会長は「「明治は,日本が近代国(ママ)に生まれ変わった重要な足跡だ」と訴え」たそうですから,文化の日と「明治の日」とが併記された後の国民の祝日に関する法律2条の当該部分は次のようになるのでしょうか。

 

  文化の日 113日 自由と平和を愛し,文化をすすめる。

明治の日 右同日 日本が近代国家に生まれ変わった重要な足跡である明治の時代を顧み,国の将来に思いをいたす。

 

 しかし,「右同日」との表記や,あるいは重ねて「113日」と書くのは何だか恰好が悪いですね。国民の祝日に関する法律の第2条全体を表方式に変えるべきことになるかもしれません。

 (2023114日追記:なお,本記事掲載後,毎日新聞ウェブサイトにおいて,20231131943分付けの関係記事(「113日に二つの祝日⁉ 「明治の日」併記,折衷案で動く政界」)に接しました。当該記事によって,明治の日を実現するための議員連盟が準備したという法案(新旧対照表方式)の画像を見ることができましたが,同議員連盟は国民の祝日に関する法律2条に表方式を導入するという新機軸を切り拓くまでの蛮気に満ちた団体ではないようで,現在の同条における文化の日の項の次に「明治の日 113日 近代化を果した明治以降を顧み,未来を切り拓く。」という1項を挿入する形が採用されていました(「113」重複方式)。しかし,形式の話は別として,当該趣旨説明の文言はどうでしょうか。文学部史学科日本近代史専攻の学生を募集するための宣伝文句のようでもあり,折からの学園祭の季節,当該専攻の学生らが自らの若々しい研究成果を展示する際の惹句にこそふさわしいようでもあります。また,窮境にある日本の社会・経済・国家が未来を切り拓くためには専ら近代化の一層の推進によるべしということであれば,我が国の文化・伝統・歴史であっても非近代=非西洋的なものは切り捨てるべしというように反対解釈できるようです。ありのままの過去は捨てて,近代化イデオロギーの立場からの歴史の再編成を行おうということになるのでしょうか。あるいは,非西洋的なものを切り捨てるのではなく,専ら非科学技術的なものを切り捨てるのだ,ということかもしれません。そうであれば,西洋化ではなく,むしろ,人為に更に信頼して,進んだ科学的〇〇主義に基づいた理想的近代社会を実現する実験に新たに挑戦するのだということになりそうです。復古主義ではないですね。)

 なお,民間団体たる明治の日推進協議会(田久保忠衛会長)は,文化の日に差し替えて「「近代化の端緒となった明治時代を顧み,未来を切り拓く契機とする」祝日「明治の日」を制定することのほうが有意義ではないか」と考えているとのことです(同協議会ウェブページ)。

 

   しかし,我が国の「近代化の端緒」というならば,185378日(嘉永六年六月三日)のペリー浦賀来航の方が,その前年1852113日の京都中山邸における孝明天皇の皇子誕生よりも重要でしょう。

また,当該協議会は,1946113日(日曜日)に貴族院議場で行われた日本国憲法公布記念式典において昭和天皇から下された「朕は,国民と共に,全力をあげ,相携へて,この憲法を正しく運用し,節度と責任とを重んじ,自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。」との勅語(宮内庁『昭和天皇実録第十』(東京書籍・2017年)226-227頁参照。下線は筆者によるもの)に示された叡旨をどう評価しているのでしょうか。

   2013410日の衆議院予算委員会で田沼隆志委員は,文化の日の趣旨とされる「自由と平和を愛し,文化をすすめる」について,「まず,この意味がわからない。「文化をすすめる。」これはどういう意味なんでしょうか。日本語としてまずよくわからないので官房長官にお尋ねします。ぜひわかりやすく教えてください。」と発言していますが(第183回国会衆議院予算委員会議録第2232頁),同委員は,1946113日の昭和天皇の勅語を読んではいなかったものでしょう。これに対して「ぜひわかりやすく教えてください」と頼まれた菅義偉国務大臣(内閣官房長官)は,議員立法された法律の文言の難しい解釈を,当該立案者ならざる政府に対して訊かれても困るという姿勢でした。「これは議員立法で成立したわけであります。さまざまな政党がお祝いをしようという中で,それぞれ理念の異なる政党の中でこの法律〔国民の祝日に関する法律〕をつくったわけでありますから,今委員が指摘をされたように,何となくどうにでもとれるような形で,多分,当時,この祝日をつくるについて議員立法で取りまとめられた結果,こういう表現になったのではないかなというふうに思います。」ということですが(同頁),前提となるべきものとしての昭和天皇の勅語があったことを知っていた上で,それは「何となくどうにでもとれるような形」の文章なのだと答弁したのであれば・・・何をかいわんや。

 

 とはいえ,文化の日と「明治の日」とは併記となるそうです。そうであれば,「平和を愛」する文化の日と同じ日において明治の時代を顧みる際には,戊辰戦争における官軍による賊軍制圧及び西南戦争その他の士族反乱の鎮定並びに日清日露両戦争における勝利といった物騒なことどもを想起・礼賛してはならないのでしょう。

 

2 192733日の詔書渙発及び昭和2年勅令第25号の裁可

 

(1)明治節を定める詔書及び休日に関する勅令

 ちなみに,「明治の日」と似ている明治節を定めた昭和天皇の勅旨を宣誥する詔書(192733日付けの官報号外)は,次のとおりでした。

 

  朕カ皇祖考明治天皇盛徳大業(つと)ニ曠古ノ隆運ヲ(ひら)カセタマヘリ(ここ)113日ヲ明治節ト定メ臣民ト共ニ永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ明治ノ昭代ヲ追憶スル所アラムトス

    御 名   御 璽

      昭和233

                    内閣総理大臣 若槻礼次郎

 

現在の令和民主政下においては,我ら人民が明治「天皇ノ遺徳ヲ仰」ぐ必要はないのでしょう。

なお,上記詔書には宮内大臣の副署がありませんから,明治節を定めることは,皇室の大事ではなく大権の施行に関するものであり,かつ,内閣総理大臣の副署のみで他の国務各大臣の副署がありませんから,大権の施行に関するものの中での最重要事ではなかったわけです(公式令(明治40年勅令第6号)12項参照)。

しかして,「臣民ト共ニ永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ明治ノ昭代ヲ追憶スル」ための具体的な大権の施行はどのようなものであったかといえば,休日に関する勅令が改正されて,113日が国の官吏の休日とされたのでした(192733日裁可,同月4日公布の昭和2年勅令第25号。題名のない勅令です。)。

 

なお,昭和2年勅令第25号は大正元年勅令第19号を全部改正したものです。この昭和2年勅令第25号は,国民の祝日に関する法律附則2項によって1948720日から廃止ということになっていますが,これは,日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する昭和22年法律第721条による19471231日限りで失効したものであるところの法律事項を定める勅令に対する重複する廃止規定ではないものであるとすると,それまでの政令事項を規律する命令を法律で上書きしたということなのでしょう(各「国民の祝日」について (参考情報)祝日法制定の経緯 - 内閣府 (cao.go.jp))。)。

 

昭和2年勅令第25号の副署者は若槻内閣総理大臣のみですが,当該事項に係る主任の国務大臣(公式令72項参照)は内閣総理大臣だったというわけでしょう(「官吏ノ進退身分ニ関スル事項」を内閣官房の所掌事務とする内閣所属部局及職員官制(大正13年勅令第307号)214号参照)。ちなみに,別途,宮内職員の休日に関する昭和2年宮内省令第4号が,勅裁を経て192734日に一木喜徳郎宮内大臣によって定められ,同日公布されています。昭和2年勅令第25号の案は192731日に閣議決定されていますから,同月2日午後の「内閣総理大臣若槻礼次郎・一木宮内大臣にそれぞれ謁を賜う。」という昭和天皇の賜謁は(宮内庁『昭和天皇実録第四』(東京書籍・2015年)657頁),昭和2年勅令第25号及び同年宮内省令第4号並びに同月3日の詔書に関するものだったのでしょう。

 

(2)帝国議会における動き

なお,当時開会中の第52回帝国議会においては,明治節制定に向けた動きが活発でした。

貴族院においては,1927125日に公爵二条厚基,子爵前田利定,男爵阪谷芳郎,和田彦次郎,倉知鉄吉,松本烝治,中川小十郎及び菅原通敬各議員提出の「明治節制定ニ関スル建議案」(「明治節制定ニ関スル建議/明治天皇ノ御偉業ヲ永久ニ記念シ奉ル為毎年113日ヲ祝日トシテ制定セラレムコトヲ望ム/右建議ス」)が全会一致で可決され(第52回帝国議会貴族院議事速記録第787-88頁。各議院がその意見を政府に建議できることについては,大日本帝国憲法40条に規定があります。),同年222日には東京市日本橋区蠣殻町平民田中巴之助外17名呈出の請願書(大日本帝国憲法50条)について「右ノ請願ハ明治節ヲ制定シ明治大帝ノ聖徳偉業ヲ憶念欽仰スルハ民意ヲ粛清向上セシメ世態民風ヲ統一正導スル所以ナルニ依リ速ニ之カ実現ヲ図ラレタシトノ旨趣ニシテ貴族院ハ願意ノ大体ハ採択スヘキモノト議決致候因リテ議院法第65条ニ依リ別冊及送付候(そうふにおよびさうらふ)」との政府宛て意見書が異議なく採択されています(52回帝国議会貴族院議事速記録第14272頁)。

衆議院においては,同年125日に大津淳一郎,小川平吉,三上忠造,元田肇,松田源治,鳩山一郎,山本条太郎等の18議員提出の「明治節制定ニ関スル建議案」(「明治節制定ニ関スル建議/明治天皇ノ盛徳大業ヲ永久ニ記念シ奉ル為113日ヲ以テ明治節トシ之ヲ大祭祝日ニ加ヘラレムコトヲ望ム/右決議ス」)がこれも全会一致で可決されています(第52回帝国議会衆議院議事速記録第785頁)。元田議員述べるところの建議案提出理由においては「〔前略〕明治天皇〔の〕御盛徳御偉業〔略〕中ニ付キマシテ王政復古ノ大業ヲ樹テラレ,開国進取ノ国是ヲ定メ給ヒ,立憲為政ノ洪範ヲ垂レサセラレ,国民道徳ノ確立ノ勅教ヲ屢下シ給ヒマシタコト,殊ニ帝国ノ天職ハ平和ヲ保持シ,文明ノ至治ヲ指導扶植スルニ在ルコトヲ世界ニ知ラシメ給ヒシコトハ,其最モ大ナル所デアリマス(拍手)御承知ノ如ク明治天皇ノ崩御遊バサレマシタ730日ヲ以テ是迄祝祭日トナッテ居リマシタガ,本年以後ハ此祝祭日ガ廃止シタコトニ相成リマシタニ付キマシテハ,明治天皇御降誕ノ当日タル113日ヲ以テ大祭祝日ト致シマシテ,大帝ノ御盛徳御偉業ヲ永遠ニ欽仰シ奉リタイト存ズルノデアリマス〔後略〕」とありました(同頁)。また,衆議院にも「明治節制定ノ件」に係る請願書が提出されており,同年24日には同議院の請願委員会(議院法(明治22年法律第2号)63条)において,採択すべきものと異議なく認められています(第52回帝国議会衆議院請願委員会議録(速記)第32頁)。ただし,当該請願書についての政府に対する衆議院の意見書送付(議院法65条)までは不要とされていました(同頁)。

 

(3)追憶されるべき明治ノ昭代

専ら明治「天皇ノ遺徳ヲ仰」ぐのみならず,広く「明治ノ昭代ヲ追憶スル」こととする旨の追加は,昭和天皇の政府においてなされたものであると解されます。明治ノ昭代の主な出来事は,元田肇の述べたところに従えば,慶応三年十二月九日(186813日)の王政復古の大号令から慶応四年(明治元年)四月十一日(186853日)の江戸開城を経て明治二年五月十八日(1869627日)の蝦夷共和国の降伏まで(王政復古ノ大業),慶応四年(明治元年)三月十四日(186846日)の五箇条の御誓文(開国進取ノ国是),③1889211日の大日本帝国憲法(立憲為政ノ洪範),④18901030日の教育勅語及び19081013日の戊申詔書(国民道徳確立ノ勅教),⑤1900814日の在北京列国公使館解放をもたらした八箇国連合のごとき国際協調(平和ノ保持)並びに⑥それぞれ1895529日及び1910829日以降の台湾及び朝鮮の統治(文明ノ至治ヲ指導扶植)ということでしょう。

以上6項目のうち,の官軍か賊軍か噺を今更持ち出すのは古過ぎるでしょう。徳川宗家第16代当主の徳川家達公爵は貴族院議長となり,蝦夷島総裁たりし榎本武揚は逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣となり,新撰組を預かった京都守護職・松平容保の孫娘は昭和初期の皇嗣殿下たりし秩父宮雍仁親王妃となりました。④式にお上から有り難い道徳の教えを授からないと何時までも自治自律ができない人委(ひとまかせの)人のままでは,情けない。また,衰退途下の我々よりも今や豊かになった人々に対して⑥の話をするのは論外でしょう。

 

3 明治節制定に伴う官吏の休日数の不変化

 

(1)昭和2年勅令第25号及び大正元年勅令第19号(大正2年勅令第259号による改正後のもの)(11箇日)と明治6年太政官布告第344号(10箇日)と

ところで,明治節を祝って明治大帝の遺徳を仰ぎ奉ることには忠良なる臣民としては反対できないとしても(とはいえ,明治節に参内して参賀簿に署名できるのは,昭和2年皇室令第14号により改正された皇室儀制令(大正15年皇室令第7号)の附式によると「文武高官有爵者優遇者」のみであり,かつ,「判任官同待遇者ハ各其ノ所属庁ニ参賀ス」ということであって,専ら「宮中席次を有する者始め一定の資格者が参内もしくは各官庁において記帳していた」資格者限定制であったものです(実録第十534頁)。),だからといって,臣民の税金で食っている分際である国の官吏の休日が図々しく一日増えるのはけしからぬ,というような反発が生ずることにはならなかったのでしょうか。

実は,明治節が加わっても,それによって大正時代よりも1日多くお役人が休むことができるということにはなっていませんでした。

大正元年勅令第19号(大正2年勅令第259号による改正後のもの)における休日数と昭和2年勅令第25号のそれとは,いずれも11箇日で変わっていないのです。

昭和2年勅令第25号による休日は次のとおり。

 

 元始祭    13

 新年宴会   15

 紀元節    211

 神武天皇祭  43

 天長節    429

 神嘗祭    1017

 明治節    113

 新嘗祭    1123

 大正天皇祭  1225

 春季皇霊祭  春分日

秋季皇霊祭  秋分日

 

このうち,今上帝の誕生日である天長節は,大正元年勅令第19号では大正天皇の誕生日である831日であり(ただし,同勅令が公布されたのは191294日であるので,大正に入っても,同年831日はいまだ休日ではありませんでした。),先帝の命日に係る祭日(昭和2年勅令第25号では大正天皇崩御日の1225日)は,大正元年勅令第19号では明治天皇崩御日の730日となっていました。他の元始祭,新年宴会,紀元節,神武天皇祭,神嘗祭,新嘗祭,春季皇霊祭及び秋季皇霊祭については,変化はありません。以上の10箇の休日は,1878年の明治11年太政官第23号達によって春季皇霊祭及び秋季皇霊祭が明治6年太政官布告第344号(当該1873年の太政官布告は,大正元年勅令第19号附則2項で廃止されています。)の8箇の休日に追加されて以来変わっていなかったものです(ただし,神嘗祭の日は1879年の明治12年太政官布告第27号によって改められるまでは917日でした。なお,明治6年太政官布告第344号における天長節はもちろん113日で,先帝際は,孝明天皇の命日である130日でした。)。大正元年勅令第19号には,何かもう一つ休日の隠し玉があったようです。

当該隠し玉は,1913716日に裁可され,同月18日に公布された大正2年勅令第259号にありました。隠し玉というよりは,某製菓会社の伝説的宣伝文句に倣えば「一粒で2度おいしい」🍫ということになるようです。

大正2年勅令第259号によって,1031日に「天長節祝日」が休日として追加されていたのでした。すなわち,大正時代の日本帝国臣民は,大正天皇の御生誕を,そのお誕生日である831日のみならず,1031日にもお祝い申し上げていたのでした。

113日に明治節の休日を,昭和時代になって設けることは,大正時代中の1031日の天長節祝日からの差替えであるという形に結果としてはなったわけです。明治大帝に対する崇敬の念は満たされつつ,官吏に対する「税金泥坊」という罵詈雑言も避けることができるという至極結構な次第となるべき下拵えをした大正天皇もまた偉大な君主だったのではないでしょうか。(しかしあるいは,昭和になって休日が1日減ると,休みたがりで不遜不埒な不逞官吏らの仲間内において昭和天皇の評判が悪くなってしまうのではないかという懸念も,25歳の若き新帝を輔翼弼成すべき重責を担う若槻礼次郎内閣にはあったかもしれません。)

 

(2)大正2年勅令第259号による天長節祝日追加の次第

ところで,大正2年勅令第259号による天長節祝日の追加の次第はどのようなものだったでしょうか。

これについては,アジア歴史資料センターのウェブサイトで一件書類を見ることができ(A13100056400),また,当時の第1次山本権兵衛内閣の内務大臣であった原敬の日記(『原敬日記(第5巻)』(乾元社・1951年))に記述があります。

まず,大正天皇は病弱でしたので,大暑の831日の東京で,天長節関係の諸行事の負担に耐えられるかどうかが,明治・大正代替わりの際の第2次西園寺内閣時代から懸念されていました。

 

  〇〔1913年〕416

  閣議〔略〕。天長節の事に関し831日は大暑中にて御儀式を挙ぐる事困難に付西園寺内閣時代にも之を如何すべきやとの相談ありしが,余〔原敬〕は国民中希望者も多き様になるに付御宴会は113日と制定相成りては如何と云ひたり,宮内省の草案にては11月にあらず1031日となせり。〔後略〕

 (原226頁)

 

 しかし,113日案は,半ば冗談でなければ,明治天皇とは別人格の大正天皇に対して不敬ではありましょう。

 その後,1913421日付けの渡辺千秋宮内大臣から山本権兵衛内閣総理大臣宛て官房調査秘第6号をもって,次の照会が宮内省から政府に対してされます。

 

  天長節ノ儀ハ831日ニシテ時(あたか)モ大暑ノ季節ニ有之候(これありそさうらふ)ニ付自今賢所皇霊殿神殿ニ於ケル天長節祭ノミハ皇室祭祀令規定ノ通当日之ヲ行ハセラレ其ノ他拝賀参賀賀表捧呈及宴会等宮中ニ於ケル一切ノ儀式ハ総テ1031日ニ於テ行ハセラレ候様(さうらふやう)奏請致度(いたしたき)(ところ)一応御意見承知致度(いたしたく)此段及照会候(しょうかいにおよびさうらふ)

 

天長節祭は小祭ですので(皇室祭祀令(明治41年皇室令第1号)21条),大祭と異なり天皇が親ら祭典を行う必要はなかったのですが(同令81項参照),「小祭ハ天皇皇族及官僚ヲ率ヰテ親ラ拝礼シ掌典長祭典ヲ行フ」ということになっていました(同令201項)。ただし,「天皇喪ニ在リ其ノ他事故アルトキハ前項ノ拝礼ハ皇族又ハ侍従ヲシテ之ヲ行ハシム」ということで(同条2項),天皇に事故があるときは,代拝措置が可能でした。

 

  〇〔19134月〕23

  閣議,天長節の件に付即ち宮内省案831日は御祭典のみに止め1031日を御宴会日となすの件に付内議し,結局今一応宮内省と打合せをなす事に決せり。〔後略〕

 (原229-230頁)

 

1913年宮内省官房秘第6号に対する同年630日付け山本内閣総理大臣から渡辺宮内大臣宛て回答は,次のとおりでした。

 

 421日付官房調査秘第6号照会天長節ノ儀ニ関スル件ハ大体異存無之候(これなくさうらふ)唯宮中ニ於ケル一切ノ儀式ヲ行ハセラルル期日ヲ1031日トスルニ於テハ明治節設定ニ関スル帝国議会ノ建議モ有之(これあり)或ハ113日ヲ休日ト定メラルルカ如キ場合ヲ予想スレハ余リニ休日接近ノ嫌有之(きらひこれあり)(つき)既ニ831日以外ノ日ヲ選定(あひ)(なる)以上ハ或ハ101(くらゐ)カ適当ノ期日カト被存候(ぞんぜられさうらふ)

   追テ当日ハ一般ノ休日トスル必要可有之(これあるべし)存候(ぞんじさうらふ)ニ付本件ハ休日ニ関スル勅令改正案ト同時ニ奏請相成様致度(あひなるやういたしたし) 

 

「ハッピー・マンデー」云々と,休日の接近はおろか,進んで休日の長期間接続をもってよしとし,補償金が貰えるならば「思いやり」の「自粛」継続は当然とする衰退途下の人委(ひとまかせの)人の国たる現代日本とは異なり,休日の接近を嫌う良識が,大正の聖代にはなおあったのでした。

明治節設定の動きは,明治天皇崩御後早くからあり,第30回帝国議会の衆議院では,1913326日,松田源治議員外13名提出の次の「明治節設定ニ関スル建議案」が全会一致で可決されています(第30回帝国議会衆議院議事速記録第16309頁)。

 

    明治節設定ニ関スル建議

 政府ハ国民ヲシテ 明治天皇ノ御偉業ヲ頌シ永久其ノ御洪恩ヲ記念セシムル為113日ヲ以テ大祭祝日ト定メムコトヲ望ム

 右建議ス

 

専ら明治天皇に対する「国民ノ忠愛ノ至情」(石橋為之助,松田源治)から出た建議でありました。しかし,明治天皇御一人をとことん忠愛するのならば,前年1912913日の乃木希典大将のように殉死しなければならなくなるようにも思われるのですが,松田代議士,石橋代議士等は,そこまで思い詰めてはいなかったのでしょう。

大正元年勅令第19号を改正する勅令案に係る191373日付け閣議請議書が残されています。しかし,『原敬日記』では,地方官会議があるので原内務大臣は同月2日の閣議を欠席したとしており,かつ,同月3日の記載は地方官会議関係のことばかりで,同日に閣議があったことは記されていません(原259-260頁)。

いずれにせよ同月初めの勅令案では,天長節祝日の日は101日であったようです。すなわち,191374日付けの渡辺宮内大臣から山本内閣総理大臣宛て官房調査秘第9号には「天長節ニ関スル件ニ付630日付ヲ以テ御回答ニ接シ候処御注意ノ次第モ有之候ニ付更ニ101日ヲ以テ天長節式日ト被定候様(さだめられさうらふやう)奏請可致候(いたすべくさうらふ)条右ニ御承知相成度(あひなりたく)此段申進候(まうしすすめさうらふ)也」と記載されているからです。「奏請」とは,大正天皇の内諾を得るということでしょう。

しかし,現実の大正2年勅令第259号における天長節祝日は,421日の照会案どおりの1031日となっていたのでした。この間の事情については,次の記載がされた紙が,一件書類中に綴られています。

 

 本件ハ更ニ総理大臣宮内大臣協議ノ上更ニ1031日ト決定セラレ大正元年勅令第19号中改正勅令案上奏ノ手続ヲ為セリ

 

 これは,天長節祝日を101日とする旨の宮内大臣からの奏請を大正天皇が敢然却下した結果,宮内大臣・内閣総理大臣が大慌てとなった一幕があったものか,と一瞬ぎょっとする成り行きです。

 しかしながら『原敬日記』によれば,実は閣議において,やはり天長節祝日は10月の1日よりも31日の方がよいのではないかとの賢明な内務大臣の提言があって再考がなされることになり,最終的にはしかるべく同大臣案に落ち着いたということでありました。

 

   〇〔19137月〕11

   有栖川御邸に弔問せり。

   閣議,天長節は831日にて大暑中なれば,御祝宴は101日に定められ此日を天長節の祝宴日となさん事を山本首相閣議に提出せり,之に対し奥田〔義人〕文相は天長節は大祭日となしあるを,天長節と天長節祝日と分別するは如何あらんと云ひたるも,閣議天長節は831日なるも天長節祝日は別に之を定むる事に決せり,但山本の提案なる101日は何等根拠なき日なれば,月を後に送るも日は改めざる一般の国風をも斟酌し,1031日となすを適当なりとの余〔原敬〕の主張に閣僚一同賛成せり,山本は既に内奏を経たりとて101日に決せんとするも,余は此事は御一代の定制となる重大事件なれば再び奏聞するも可ならんと主張し,遂に山本は宮内省と更に相談すべき旨山之内〔一次〕書記官長に命じたり,宮内省にては1031日と提出せしものを内閣側にて101日に主張せしものゝ由。

  〔略〕

  (原263-264頁)

 

 なお,奥田文部大臣は釈然としなかったようですが,君主の誕生祝賀が年2回行われることは外国にも例があります。英国の現国王チャールズ3世の誕生日は1114日ですが,同国王の誕生祝賀は,同日のほか,気候のよい6月にも行われています(2023年は617日)。

 我が国における1913831日の天長節は次のような次第となりました。

 

  31日 日曜日 午後,〔大正天皇の〕行幸御礼並びに天長節御祝のため,〔皇太子裕仁親王は〕東宮大夫波多野敬直を御使として日光に遣わされる。なお天長節は大暑の季節に当たるため,去る7月18日勅令〔第259号〕並びに宮内省告示〔第15号〕をもって,1031日を天長節祝日と定め,831日には天長節祭のみを行い,1031日の天長節祝日に宮中における拝賀・宴会を行う旨が仰せ出される。

  (宮内庁『昭和天皇実録第一』(東京書籍・2015年)681頁)

 

大正天皇は,その天長節の日を涼しい日光の御用邸で過ごすことを好んでおられたようです。

 

 19131031日の初の天長節祝日については次のとおり。

 

  31日 金曜日 天長節祝日につき,午前,〔皇太子裕仁親王は〕東宮仮御所の御座所において東宮職高等官一同の拝賀をお受けになる。午後零時30分御出門,御参内になり,雍仁親王・宣仁親王とお揃いにて天皇・皇后に祝詞を言上になる。また鮮鯛を天皇に御献上になり,天皇からは五種交魚等を賜わる。

  (実録第一696-697頁)

 

   〇31日 天皇節祝日に付参内御宴に陪し,晩に外相の晩餐会に臨み夜会には缺席せり,今上陛下始めての天長節にて市中非常に賑へり。

   〔略〕

   (原334頁)

 

4 五箇条の御誓文から文化国家建設へ

 この記事も何とかまとまりを付けねばなりません。

 で,正直なところを申し上げると,113日は,昭和天皇から「節度と責任とを重んじ,自由と平和とを愛する文化国家を建設す」べしとの新国是(すなわち現在の我が国の国是)が日本国憲法と共に下された日として,既に専ら昭和天皇の日となってしまっているのではないかと筆者には思われます。

 であれば,「明治の日」については,別途そのあるべきところを求めるに,明治時代の我が国の国是(開国進取ノ国是)たる五箇条の御誓文が宣明せられた46日が,その日としてよいのではないかと思われるところです(なお,立憲為政ノ洪範たる大日本帝国憲法が発布された211日は,趣旨はともかく,既に「国民の祝日」とされています。)。113日の文化の日を譲らない代償として,429日の昭和の日を,同月6日の「明治の日」に振り替えればよいのではないでしょうか。4月末から5月初めまでの連休期間は,今や衰退途下国たる分際の我が国としては長過ぎるようなので,429日の日の休日からの脱落は,問題視すべきことではないでしょう。

 昭和の日が五箇条の御誓文の日に差し替えられることが昭和天皇の逆鱗に触れるかといえば,そういうことはないでしょう。五箇条の御誓文の精神から出発して文化国家の建設に進むことこそが,惨憺たる失敗・敗戦の後,日本国憲法と共に昭和天皇が目指した昭和の日本だったはずです。

 1946年元日のかの詔書にいわく。

 

  茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク,

一,広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ

一,上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ

一,官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス

一,旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

一,智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

  叡旨公明正大,又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ,旧来ノ陋習ヲ去リ,民意ヲ暢達シ,官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ,教養豊カニ文化ヲ築キ,以テ民生ノ向上ヲ図リ,新日本ヲ建設スベシ。

 

 旧来の陋習を去った暢達たる心と共に,向上した民生下において生きるということは,自由であるということでしょう。負ける戦争や効果の乏しい対策の徹底から去ること遠い,慎重賢明狡猾な平和主義は当然でしょう。しかして自由及び平和の下で高められた精神は,教養豊かに文化を築くところにこそその満足を見出すのでしょう。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 はじめに

 毎年8月は,先の大戦に関する回顧物が旬となる季節です。

 今年(2023年)の8月はもう終わりますが(しかし猛暑はなお続くのでしょう。),筆者も夏休みの最後になって宿題に追われる小学生のごとく,つい,86年前の夏の出来事に関する疑問の一つの解明理解の試みに手を出し,少々の自由研究的抜き書きを作成してしまったところです。

 

2 盧溝橋から上海への「飛び火」

 193777日発生の盧溝橋事件が拡大して「北支事変」となり,更に上海に「飛び火」して「支那事変」,すなわち大日本帝国と中華民国との全面衝突となったという機序については,筆者はかねてから「飛び火」という責任所在不明の表現に違和感を覚えていました。

 これについては,名著の誉れ高い阿川弘之(1999年の文化勲章受章者https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/234460/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/99_1101/1101_3.html)の『米内光政』(新潮文庫・1982年(新潮社・1978年))の次のような記述を読むと,何だか我が帝国陸軍の関係者が怪しいようでもあります。

 

  第九章六

    日華事変の発端が悪名高い「陸軍の馬鹿」の仕組んだ陰謀だったか,相手方の挑発に乗せられた結果であったかは,こんにち尚はっきりしないらしいが,とにかくこの戦火を拡げたら厄介なことになるというのが,米内と山本〔五十六〕の共通した認識であった。当時の米内海相の手記には,

    「昭和12年〔1937年〕77日,蘆溝橋事件突発す。9日,閣議において〔杉山元〕陸軍大臣より種々意見を開陳して出兵を提議す。海軍大臣はこれに反対し,成るべく事件を拡大せず,速かに局地的にこれが解決を図るべきを主張す。(中略)

    五相〔首陸海外蔵〕会議においては諸般の情勢を考慮し,出兵に同意を表せざりしも,陸軍大臣は五千五百の平津軍と,平津〔北()(現在の北京)及び天()地方における残居留民を見殺しにするに忍びずとて,()つて出兵を懇請したるにより,渋々ながら之に同意せり。(中略)

    陸軍大臣は出兵の声明のみにて問題は直ちに解決すべしと思考したるが如きも,海軍大臣は諸般の情勢を観察し,陸軍の出兵は全面的対支作戦の動機となるべきを懸念し,再三和平解決の促進を要望せり」

   とある。

   (212頁) 

 

  同章212-214頁)は,主に,杉山元陸軍大将の昭和天皇に対する19377月と1941年秋との2度の「3カ月」奏上(実際には,北支事変も対米英蘭戦も3カ月では片付かず)エピソードの紹介

 

  

この時上海では,米内より2期下の長谷川清中将が支那方面海軍部隊の最高指揮官として,第三艦隊の旗艦出雲に将旗を上げていた。北支事変といっていたのが,8月に入ると上海に飛び火し,海軍も否応なしに戦いの一角に加ることになって,814日〔15日〕,世界を驚かせた海軍航空部隊(九六陸攻機)の〔南京等に対する〕渡洋爆撃が行われる。昭和12年の10月以降,第三艦隊は新設の第四艦隊と合して「支那方面艦隊」となり,長谷川長官の呼称も支那方面艦隊司令長官と変る。

   (214-215頁)

 

ここで,「飛び火」という表現が出て来ます。また,海軍も「否応なしに」戦いの「一角」に加わることになった,ということですから,我が帝国海軍は,大陸での戦闘行為に対して消極的であったにもかかわらず,いやいや巻き込まれていったように印象されます。

 

3 南京渡洋爆撃に対する驚き等

 

(1)米国大統領

ところで,第二次上海事変劈頭からの日本海軍による中華民国の首都・南京に対する渡洋爆撃は,日本人が無邪気に思うように単に「世界を驚かせた」のみならず,同じ1937年の426日にドイツ空軍により行われた内戦中のスペインのゲルニカ爆撃と共に,世界の憤りを日独両国民に対して喚起するものとなってしまっていたものと思われます。同年105日にシカゴでされたフランクリン・ルーズヴェルト米国大統領の「隔離演説」の次のくだりは,当該憤りを示すものでしょう。我が海軍は,勇ましぶって,かえって余計かつ有害なことをしてしまったのではないでしょうか。

 

  Without a declaration of war and without warning or justification of any kind, civilians, including women and children, are being ruthlessly murdered with bombs from the air. In times of so-called peace, ships are being attacked and sunk by submarines without cause or notice. Nations are fomenting and taking sides in civil warfare in nations that have never done them any harm. Nations claiming freedom for themselves deny it to others.

 (宣戦の布告及び何らの警告又は正当化もなしに,女性と子供とを含む文民が,空からの爆弾によって無慈悲に殺害されています。いわゆる平時において,船舶が,理由も通告もないまま,潜水艦によって攻撃され,沈められています。彼らに何らの害も一切与えたことのない国民の内戦において,煽動し,かつ,一方の側に加担する国民がいます。彼ら自身の自由を主張する国民が,それを他の国民に対して否認しているのです。)

 

 当該演説の前月,渡洋爆撃が最初にあってから1箇月余りたった後の9月の19日以降における我が海軍による南京爆撃の「目的は,軍事施設に加え,政治中枢や交通の要衝・工場など広範囲に爆撃して,民国側の戦意喪失をねらう戦略爆撃に移行していた」ところです(大坪慶之「日本軍による南京空襲の空間復元とその変遷:『中央日報』『申報』の記事から」近代東アジア土地調査事業研究ニューズレター(大阪大学文学研究科片山剛研究室)820186)。その段階での報道状況はいかにというに,「〔南京で発行されていた国民党の機関紙である〕『中央日報』や〔上海の〕『申報』は,〔略〕政治中枢や鉄道・港の被害記事が多くなっている〔略〕。また,城内西北の外国大使館が点在する新住宅区や,「門東」と呼ばれる中華門から入ってすぐの所にある庶民の住宅街についても,道路名を記して民家(「民房」)が破壊されたことを強調している。特に学校や病院の被害は,名称を明記したり特集を組んだりするなど紙面が割かれている。」ということでした(大坪6-7)。

(2)大日本帝国政府

また,南京渡洋爆撃は,「世界を驚かせた」ばかりではありませんでした。

近衛文麿内閣には寝耳に水の出来事であったようです。

 

上海に戦火がとび,前述の815日の政府声明〔支那軍の暴戻を膺懲する声明〕がおこなわれた当日である。海軍は,いわゆる渡洋爆撃を始め,南京,南昌を爆撃,それからまもなく漢口をも爆撃して,華中方面の戦局はにわかに拡大され,同時に〔租界のある上海に駐屯していた我が海軍の〕上海陸戦隊救援のため,陸軍部隊派遣の必要に迫られるにいたった。これとともに,華北方面においても,同じく拡大の兆候が顕著なるものあるを認むるにいたったのであるが,内閣としては,こうなってはなはだ困るのは,戦略面において,まったく知らされないことであった。現に海軍の渡洋爆撃なども,わたし〔風見内閣書記官長〕はもちろん,近衛氏とても,その日,閣議があったにかかわらず,新聞によってはじめて知ったのであった。

  (風見章『近衛内閣』(中公文庫・1982年(日本出版協同株式会社・1956年))48頁)

 

これが,大日本帝国憲法11条(「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」)に基づく統帥権の独立の帰結であったというわけです。

なお,南京渡洋爆撃に関する現地の新聞記事はどうであったかといえば,「前日午後の空襲を報じた『中央日報』1937816日,第三面には「二時三十五分在城南郊外,投弾六枚(中略)三時十五分,敵機盤飛七里街,廿一号住戸祖義良被敵機槍掃射受傷」とある。また,同日『申報』の第二面には,「見明故宮飛行場落有両弾,光華門外亦落下炸弾五枚,両処均無大損失」と出てくる」そうです(大坪5-6頁註13)。

 

(3)大日本帝国海軍大元帥

 昭和天皇にも,事前に詳しい作戦計画は知らされていなかったように筆者には思われます。

 

  〔19378月〕16 月曜日 〔略〕

   午後2時,御学問所において軍令部総長〔伏見宮〕博恭王に謁を賜い,この日朝までの中支方面の戦況につき奏上を受けられる。その際,昨日海軍航空部隊が台湾から大暴風雨を冒して南京及び南昌飛行場への渡洋爆撃を敢行したことを御嘉賞になるも,各国大使館がある南京への爆撃には注意すべき旨を仰せられる。また,上海その他の犠牲者につき,誠に気の毒ながら已むを得ない旨の御言葉を述べられる。〔後略〕

   (宮内庁『昭和天皇実録 第七』(東京書籍・2016年)395頁)

 

海軍から「敵の首都南京を爆撃します」とあらかじめ知らされていれば,各国大使館があるから注意せよ云々の老婆心的発言が後付け的にあることはないはずです。また,皇族の長老である伏見宮博恭王には,天皇とても,言葉を選ばざるを得ず,一応「御嘉賞」が最初にあったものでしょう。(なお,南京爆撃隊は台湾からではなく長崎県の大村基地から発進したのですが,実録の上記記載においてはその旨触れられていません。結局,南昌飛行場を爆撃した台湾発進部隊のみが真に御嘉賞に与ったということになるのでしょうか。)

海軍からの奏上については,1937105日(前記「隔離演説」の日ですね。)の対伏見宮軍令部総長賜謁の際に漏らされた綸言を反対解釈すると,どうも隠し事が多いようだと昭和天皇は思っていたようでもあります。すなわち,「去る922日,〔広東省の〕碣石湾沖において第一潜水戦隊の潜水艦が支那ジャンク10隻を撃沈した事件に関する真相,及びその対外措置につき奏上を受けられる。事件につき,将来を戒められるとともに,その真相を公表すれば日本が正直であるとの印象を与えて良いのではないかとのお考えを示される。これに対し,現地からの報告遅延のため,今に至って真相公表はかえって不利である旨の説明を受けられる。また,海軍が事実をありのままに言上し,かつその処置まで言上したことに対する御満足の意を表され,全てをありのままに言上するよう仰せになる。」ということでした(実録七426-427)。普段から「ありのまま」の言上がされていたのであれば,特に「御満足の意を表され」ることはなかったはずです。

なお,皇族の軍令部総長及び参謀総長には,大元帥たる昭和天皇も気詰まりを感じていたようです。

 

 〔19409月〕19 木曜日 午前,侍従武官長蓮沼蕃に謁を賜う。その後,内大臣木戸幸一をお召しになり,45分にわたり謁を賜い,参謀総長〔閑院宮〕載仁親王及び軍令部総長博恭王の更迭につき聖慮を示される。これより先,天皇は,いよいよ重大な決意をなす時となったことを以て,この際両総長宮を更迭し,元帥府を確立するとともに,臣下の中から両総長を命じることとしたいとの思召しを侍従武官長蓮沼蕃に対して御下命になり,内大臣とも協議すべき旨を御沙汰になる。よって,武官長は内大臣と協議の上,陸海軍両大臣に協議したところ,陸軍大臣〔東條英機〕は直ちに同意するも,海軍大臣〔及川古志郎〕は絶対に困るとし,この日に至り軍令部総長宮の離職に反対する旨を確答する。海軍側の意向につき武官長より相談を受けた内大臣は,この日の拝謁の際,聖慮に対し次善の策として,参謀総長宮に勇退を願い,海軍との権衡上さらに新たな皇族の就任を願うほかはないとの考えを言上,なお武官長とも協議すべき旨を奉答する。しかるにその後,陸軍側より,海軍の意向如何にかかわらず,この際参謀総長は臣下を以て充てたい希望が示されたため,その旨を武官長より言上することとなり,正午前,武官長は天皇に謁する。

(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(東京書籍・2016年)178頁) 

 

大御心を素直に忖度する東條は,忠臣ですな。むしろ,海軍の方が我がままで,困ったものです。

閑院宮参謀総長の後任には,杉山元陸軍大将が1940103日に親補されています。伏見宮軍令部総長の後任である永野修身海軍大将の親補は,194149日のことでした。

 

4 盧溝橋事件発生後第二次上海事変発生まで

さて以下では,193777日の盧溝橋事件発生後第二次上海事変発生までの諸事実を昭和天皇と海軍との交渉状況に関するものを中心に『昭和天皇実録 第七』等から拾ってみましょう。なかなか長くなりました。

 

 〔19377月〕11 日曜日 〔略〕

  〔葉山御用邸で午後〕541分,お召しにより参邸の内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜い,この日午後の臨時閣議において,事態不拡大・現地解決の条件の下に北支への派兵を決定した旨の奏上を受けられる。619分,陸軍大臣杉山元に謁を賜い,北支派兵について奏上を受けられる。728分,軍令部総長博恭王に謁を賜い,海軍の作戦事項として海軍特設聯合航空隊等を編(ママ)〔註〕することにつき上奏を受けられる。〔略〕

  なお,この日午後530分,政府は今次北支において発生の事件を「北支事変」とする旨を発表,ついで625分,北支派兵に関して帝国の方針を声明する。〔後略〕

  (実録七370頁)

 

      註: 少なくとも陸軍用語では,「編制」は「軍令ニ規定セラレタル国軍ノ永続性ヲ有スル組織ヲ言イ」,「編成」は「某目的ノ為メ所定ノ編制ヲ取ラシムルコト,又ハ臨時ニ定ムル所ニ依リ部隊ヲ編合組成スルヲ言」います(『統帥綱領・統帥参考』(偕行社・1962年)597頁(兵語の解))。

 

しかし,近衛内閣は,「事態不拡大・現地解決」を旨とするはずであるにもかかわらず,なぜ「北支事変」という大袈裟な命名を早期にしてしまったのでしょうか。折角立派な名前がついてしまうと,その名が表す期待に合わせるべく体も自ずから成長していくものではないでしょうか。「事態」ないし「事件」は事変に変じ,「現地」は北支全体に拡がってしまうのではないかという懸念は感じられなかったのでしょうか。「「渋々ながら」同意した北支派兵のはずなのに,近衛内閣が自発的に展開したパフォーマンスは,国民の戦争熱を煽る華々しい宣伝攻勢と見られてもしかたのないものであった」わけで(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会・1996年)265頁),政府広報は重要であるとしても,軽薄なパフォーマンス好きの方々には困ったものです。

     さて,軍令部総長による前記上奏があった1937711日,早くも第三艦隊司令長官の長谷川中将は,台湾の高雄から上海の呉淞への「回航の途中に得た諸情報から「情勢真に逆賭を許さざるものあり」と判断して,〔当該〕11日未明に海軍中央部へ航空隊と陸戦隊の派遣準備を要請し,さらに指揮下部隊の各指揮官へ「極秘裡に在留邦人引揚に対する研究を行い胸算を立ておくべし」と指示してい」ます(秦252頁)。同日夕から翌日にかけて海軍中央部は「陸軍の動員に匹敵する大規模な準備措置」を「次々と発動し」ており,その「主要なものをあげると,(1)青島,上海に増派する特別陸戦隊4隊の特設と輸送艦艇の指定,(2)渡洋爆撃用の中型陸上攻撃機(38機)と艦載機(80機)による第一,第二連合航空隊の特設と一部の台北,周水子への展開を予定して物資を艦艇により輸送,(3)第五戦隊などを北支へ,第八戦隊などを中南支へ増派,(4)陸軍増派部隊の海上護衛,(5)北支作戦に関する陸海軍作戦協定,陸海軍航空協定の締結,など」ということだったそうです(秦253頁)。なお,1937711日の陸海軍協定の内容は北支に係るものに限定されておらず「已むを得ざる場合に於ては青島上海付近に於て居留民を保護」すると規定」されており,「陸軍としては「中南支」への派兵は考えていなかったが,海軍の強い要請で承認し,その兵力も「3個師団というのを陸軍は最小限として2個師団で妥協」」がされています(秦254頁)。

     ところで,711日の前記上奏において伏見宮博恭王は,「今回の北支出兵のごときはいかに考えましても大義名分相立ちませぬ・・・古来名分のない用兵の終りをまっとうした例ははなはだ乏しいのでありまして,今回の北支出兵の前途につきましては私には全然見通しがつきませず深く憂慮にたえませぬ」(福留繁『海軍の反省』225ページ)と」述べたそうです(秦254頁)。中華民国との全面戦争に対する「不安」の現れでもありましょうが(秦254頁参照),名分がなく(なお,確かに同日20時に現地停戦協定が調印されますが(秦261頁・266頁),しかし伏見宮総長の上奏の際には当該調印の報は未着であったはずです。),かつ,不安ならば,そもそもの派兵に断乎反対をすればよかったように思われ,何だか評論家風な発言のようでもあります。どういうことでしょか。また,北支への陸軍の出兵には名分がなくとも,海軍がそれに備える中南支での戦闘については名分があるということだったのでしょうか。「海軍の不拡大論は,その責任地域である華中,華南への拡大を予期するという奇妙な構造」になっていたそうであって(秦251頁),すなわち,結局のところ,日本陸軍がどういう対応をしたとしても,中華民国と我が国との全面戦争は宿命的に起こるものと信じられていたのでしょう。

        「石原〔莞爾参謀本部〕第一部長は,のちに「上海事変は海軍が陸軍を引き摺って行ったもの」(石原応答録)と痛烈に批判するが,蒋緯国が強調するように,平津作戦における第二十九軍〔盧溝橋事件における我が支那駐屯軍(これは,義和団事件後の北清事変最終議定書(1901)に基づいて駐屯していたものです。)の相手方〕の急速崩壊を見た蒋介石は華北決戦を断念し,「日本軍を上海に増兵させ,日本軍の作戦方向を変更させる」(蒋緯国『抗日戦争八年』57ページ)戦略を採用した。いわば日本は仕掛けられたワナにはまりこんだ形」となったわけです(秦321頁)。しかし,そうなってしまったのは海軍が上海等を手放せなかったからであって,「「山東及長江流域は対支経済発展の三大枢軸」と見なす海軍にとって,上海防衛は「帝国不動の国策」(〔軍令部第一部甲部員である〕横井〔忠雄〕大佐が起案した〔1937年〕86日付の「閣議請議案」『昭和社会経済史料集成』第3604ページ)だったから,〔上海防衛の〕応戦にためらいはなかった」ところでした(秦321頁)。

     平津地区から上海への「飛び火」は,「華北の日本軍が南下して心臓部の武漢地区で中国を東西に分断されるのを防ぐため,華北では一部で遅滞作戦をやりつつ後退,主力を上海に集中し増兵してくると予想された日本軍に攻勢をかけ,主戦場を華北から華東へ誘致する戦略をとろうとしていた」(345)蒋介石の意図に沿ったものだったわけです。(なお,この点に関して,ナチス・ドイツから蒋介石のもとに派遣されていた軍事顧問のファルケンハウゼン将軍は,1937721日にドイツ国防相ブロムベルクに送った報告書において,「蒋介石は戦争を決意した。これは局地戦ではなく,全面戦争である。ソ連の介入を懸念する日本は,全軍を中国に投入できないから,中国の勝利は困難ではない。中国軍の歩兵は優秀で,空軍はほぼ同勢,士気も高く,日本の勝利は疑わしい(Hsi-Huey Liang, [The Sino-German Connection (Amsterdam, 1978),] pp.126-27)。」と述べていたそうです(372)。)

1937年「712日に軍令部は第三艦隊に加え,第二艦隊の参加による船団護衛,海上封鎖,陸戦隊の増強,母艦および基地航空部隊による航空撃滅戦,陸軍の上海投入などを骨子とする「対支作戦計画内案」を作成,一部の艦隊,航空隊の進出待機を逐次発令」しています(秦318頁)。これは「対中国全面戦争を想定したもの」でした(秦318頁参照)。確かに,当該「対支作戦計画内案」は,「「上海及青島は之を確保し作戦基地たらしむ」とか,「支那海軍に対しては一応厳正中立の態度及現在地不動を警告し違背せば猶予なくこれを攻撃す」とか「作戦行動開始は空襲部隊の概ね一斉なる急進を以てす」のような表現が目につく」ものであったとされています(秦254頁)。「硬軟両論が足をひっぱりあっていた陸軍とちがって,一枚岩の海軍は全面戦争への突入を見越して,いち早く整然たるプログラムを組めた」わけです(秦254頁)。「基地航空部隊による航空撃滅戦」,「作戦行動開始は空襲部隊の概ね一斉なる急進を以てす」などといわれると,「世界を驚かせた」南京渡洋爆撃は,実は我が海軍にとっては最初から当然想定されていたことであったようです。

     この1937712日の「「対支作戦計画内案」に対し,長谷川第三艦隊司令長官から〔同月〕16日付けで中央へ送った意見具申電があ」ったそうで,「彼はそのなかで,日支関係の現状を打破するには現支那中央政権の屈服以外にないとして,「支那第二十九軍の膺懲なる第1目的を削除し,支那膺懲なる第2目的を作戦の単一目的」(『現代史資料』9186ページ)とする全面的作戦を開始すべしと説き,上海,南京攻略をめざす陸軍5個師団の投入と,全航空部隊による先制攻撃を要望していた」そうです(秦319頁)。「支那中央政権の屈服」,「南京攻略」,そして「全航空部隊による先制攻撃」ということでありますから,これは南京渡洋爆撃の積極的容認論でしょう。「この「暴論」が却下されたのは当然だが,その後も第三艦隊はくり返し危機の切迫を説き,兵力の増援を要請していた」そうです(秦319-320頁)。

     なお「膺懲」とは,「征伐してこらす」という意味であって,『詩経』に「戎狄是膺,荊舒是懲」という用例があるそうです(『角川新字源 第123版』(1978年))。荊及び舒の両国は,どちらも周王朝初期の南方の異民族の国です(同)。西方の戎,北方の狄及び南方の荊舒であれば東方が欠けていますから,東方の倭は膺懲の対象とはならず,かえって漢土の側が我が貔貅(ひきゅう)によって膺懲されるべきもののようです。参謀本部第三課が1937716日にまとめた「情勢判断」にも「支那軍を膺懲」という用例があるそうで(秦296頁),当時は常用されていた熟語だったのでしょう。

 

  〔19377月〕28 水曜日 〔略〕

   午後130分,御学問所において海軍大臣米内光政に謁を賜い,北支事変の情勢とそれに伴う中支・南支における海軍の配備状況につき奏上を受けられる。〔略〕

   午後2時,御学問所において軍令部総長博恭王に謁を賜い,北支事変に対処するための海軍兵力増加,及び聯合艦隊司令長官永野修身等への命令等につき上奏を受けられる。本日午後10時,軍令部総長より聯合艦隊司令長官に対し,左の大海令第1号が発電される。

一,帝国ハ北支那に派兵シ平津地方ニ於ケル支那軍ヲ膺懲シ同地方主要各地ノ安定ヲ確保スルニ決ス

     二,聯合艦隊司令長官ハ第二艦隊ヲシテ派遣陸軍ト協力シ北支那方面ニ於ケル帝国臣民ノ保護並ニ権益ノ擁護ニ任ゼシムルト共ニ第三艦隊ニ協力スベシ

     三,聯合艦隊司令長官ハ第二艦隊ヲシテ派遣陸軍ノ輸送ヲ護衛セシムベシ

     四,細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ指示セシム

   〔後略〕

  (実録七381-382頁)

 

      大海令第1号の前提として,その前日27日には,内地3個師団に華北派遣命令が出るとともに,政府は北支事変に関し自衛行動を執ると声明しています。

 

  〔19378月〕6日 金曜日 〔略〕

   午後445分,御学問所において軍令部総長博恭王に謁を賜い,支那沿岸及び揚子江流域の警戒並びに用兵上の諸手配に関する奏上を受けられ,聯合艦隊司令長官永野修身への命令等につき上奏を受けられる。その際,上海において船津辰一郎在華日本紡績同業会総務理事が行う予定の和平交渉につき,日本側の和平条件に支那が同意しない場合にはむしろ公表し,日本の公明正大な和平条件が支那により拒否されたことを明らかにすれば,各国の輿論が日本に同情するとのお考えを示される。また,できる限り交渉を行い,妥結しなければ已むを得ず戦うほかなく,ソ聯邦の存在を考慮する必要上から用い得る兵力に限りがあっても可能な限り戦うほかはない旨を述べられる。〔後略〕

   (実録七388頁)

 

      この6日には,「軍令部が上海への陸軍派遣を閣議に要請するよう海軍省へ申し入れ」ていますが,米内海相は当該出兵論を抑えていました(秦322頁註(2))。無論,閣議の場で頭を下げねばならないのは,軍令部ではなく,海軍省の海軍大臣です。

      翌「7日に日本の陸海外三相会議が決定し,船津辰一郎を通じて国府に打診しようとした船津工作の条件(冀察・冀東〔の各地方政権〕を解消し,河北省北半を非武装地帯に,満州国の黙認,日支防共協定の締結,抗排日の停止など)は」,「廬山声明の4条件とはほど遠く,三相会議の時点で,すでに国府は上海を戦場とする対日決戦にふみ切っていたと思われる。」とされています(秦345-346頁)。

  蒋介石の廬山声明の4条件とは,「(1)中国の主権と領土の完整を侵害しない解決,(2)冀察行政組織の不合法改変を許さない,(3)宋哲元〔第二十九軍の軍長〕など中央政府が派遣した地方官吏の更迭を許さない,(4)第二十九軍の現駐地はいかなる拘束も受けない」というものでした(秦343頁。廬山声明は1937717日に演説され,公表は同月1920時(新聞発表は同月20日付け)にされたもの(秦340頁))。

 

  〔19378月〕9日 月曜日 〔略〕

   午後3時,御学問所において海軍大臣米内光政に謁を賜い,最近における山東省及び中支・南支方面の状況,並びにこれに対する海軍の処置につき奏上を受けられる。〔略〕

   夜,侍従武官平田昇より揚子江方面の居留民引き揚げにつき上聞を受けられる。〔後略〕

   (実録七389頁)

 

      「揚子江沿岸の在留邦人は続々引揚げをはじめ」ていたところ,「それが完了したのは8月上旬であった。〔近衛〕内閣としては,事端が同方面におこるのをおそれていたので,さいわい,事なく引揚げがおわったことを知り,胸をなでおろしていた。」とされています(風見41頁)。

      またこの89日には大山中尉殺害事件(後記昭和天皇実録同月13日条参照)が起きていますが,依然として米内海相は,当該事件「も「一つの事故」に過ぎぬとして,軍令部の出兵論を抑え」ていたそうです(322頁註(2)。

      同月11日,「1932年の第一次上海事変で戦った〔中華民国国民政府〕中央軍の精鋭第八十七師と第八十八師は」,「上海郊外の包囲攻撃線へ展開を終り,海軍も揚子江の江陰水域を封鎖」します(秦346頁)。また同日我が国では,伏見宮軍令部総長が米内海軍大臣を呼んで,それまでの同大臣の上海への陸軍派兵不要論を改めるよう説得を試みています(秦322頁註(2))。

 

  〔19378月〕12 木曜日 〔略〕

   午後1045分,海軍上奏書類「長谷川第三艦隊司令長官ニ命令ノ件」ほか1件を御裁可になる。「長谷川第三艦隊司令長官ニ命令ノ件」は,現任務のほかに上海を確保し,同方面における帝国臣民を保護すべきことにあり。天皇は御裁可に当たり,当直侍従武官に対し,状況的に既に已むを得ないと思われる旨の御言葉,また,かくなりては外交による収拾は難しいとの御言葉を述べられる。本件命令は午後1140分,軍令部総長より大海令を以て発出される。ついで同55分,軍令部総長より第三艦隊司令長官に対し,左の指示が発電される。

     一,第三艦隊司令長官ハ敵攻撃シ来タラハ上海居留民保護ニ必要ナル地域ヲ確保スルト共ニ機ヲ失セス航空兵力ヲ撃破スヘシ

     二,兵力ノ進出ニ関スル制限ヲ解除ス

     〔後略〕

   (実録七391頁)

 

       昭和天皇実録の記者は「長谷川第三艦隊司令長官ニ命令ノ件」の内容を,専ら「現任務のほかに上海を確保し,同方面における帝国臣民を保護すべきこと」まとめています。伏見宮軍令部総長の上記指示は,当該任務の達成方法について更に敷衍をしたものなのでしょう。しかし,「機ヲ失セス航空兵力ヲ撃破スヘ」く,そのためには「兵力ノ進出ニ関スル制限ヲ解除ス」るということですから,敵の首都・南京の飛行場に対する爆撃も可能であることになります。長谷川第三艦隊司令長官に当該意図がかねてからあることは,前月16の同司令長官意見具申電によって,軍令部は十分了解していたはずです。

            同じ12日のことでしょうが(秦347頁註(4)),「京()警備総司令の張治中将軍は〔翌〕13日未明を期し日本軍へ先制攻撃をかけたい,と南京に要請した」そうです(秦346頁)。

       「12日になると,一触即発の危機発生をみるにいたったというので,その夜,海軍側から,これに対する方針の決定につき,至急,相談したいとの申し出が」政府に対してあり,「さっそく,近衛氏の永田町私邸に,首相と海陸外三相の会談が開かれ,わたし〔風見内閣書記官長〕も参加して相談した。その結果,上海における海軍側自衛権発動を内定した。」ということになりました(風見41-42頁)。「上海における海軍側自衛権発動」という表現は分かりづらいのですが,要は,「海軍は12日夜の四相会議に内地から陸軍2個師団の派遣を要請し,翌日の閣議で承認された」ものということのようです(秦318-319頁)。「杉山陸相の要求を容れて内地から2個師団を上海に派遣することとした」(岡義武『近衛文麿』(岩波新書・1972年)67頁)というのは「米内海相」を「杉山陸相」とする誤りということになります。この間のことについて何も書かなかった米内贔屓の阿川弘之は,他の著作物から上手に借景したということになるのでしょう。

 

  〔19378月〕13 金曜日 午前915分,御学問所において軍令部総長博恭王に謁を賜い,上海情勢並びに用兵上の諸手配につき奏上を受けられる。〔略〕

   午後8時,御学問所において海軍大臣米内光政に謁を賜い,上海方面への陸軍の派兵の必要とその経緯につき奏上を受けられる。去る9日の支那保安隊による上海海軍特別陸戦隊第一中隊長大山勇夫ほか1名の射殺事件以来,同地の情勢が悪化,作夕,第三艦隊司令長官長谷川清は緊急電報を以て陸軍の出兵促進を要請する。これを受け,この日午前緊急閣議が開かれ,居留民の保護のため陸軍部隊を上海方面へ派遣することが決定される。午後5時,戦闘配置に就いた上海海軍特別陸戦隊は,支那便衣隊と交戦状態に入る。〔後略〕

   (実録七391-392頁)

 

  〔19378月〕14 土曜日 〔略〕

   午前1043分,御学問所において内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜う。総理より,昨日来の支那軍の攻勢による上海戦局の悪化に伴い,この日の緊急臨時閣議において陸軍3個師団の動員と現地派遣を決定したこと等につき奏上を受けられる。引き続き,陸軍大臣杉山元に謁を賜う。

   午後125分,御学問所において参謀総長載仁親王に謁を賜い,第三・第十一・第十四各師団ほかへの動員下令,第三・第十一両師団を基幹とする上海派遣軍の編成とその任務等につき上奏を受けられる。〔略〕55分,御学問所において再び陸軍大臣に謁を賜い,上海派遣軍司令官の親補に関する人事内奏を受けられる。〔略〕

   午後421分,侍従武官遠藤喜一より,上海方面における海軍の戦況と用兵上の諸手配に関する上聞を受けられる。なおこの日,聯合艦隊司令長官永野修身・第三艦隊司令長官長谷川清に対し,上海へ派遣の陸軍と協力して各々作戦を遂行することを命じる旨の海軍上奏書類を御裁可になる。〔後略〕

   (実録七392-393頁)

 

      この1937814日には,午前の緊急臨時閣議のほかに深夜にも緊急臨時閣議が開かれています。いわく,「14日の夕刻,わたし〔風間内閣書記官長〕は近衛氏を永田町の私邸にたずねて,同〔上海〕方面の情勢に関するニュースを伝えるとともに,善後処置について協議した。その結果,とりあえず海軍をして至急に救護物資と病院船とを,同地に送らしむることにした。それにしても,事態刻々に重大化の傾向にあるので,この夜,いちおう緊急臨時閣議を開いて,海相から情勢の報告をきき,かつ,善後処置についても話し合っておくのがよかろうというので,そうすることにした。ただし,戦局がかくまで拡大したことについての政府の意思表示は,なお形勢の推移をみた上のこととして,この夜の閣議では,ただ救護物資および病院船を送ることだけにしておこうと,話を決めたのである。わたしは,すぐに米内海相をたずねて,首相との話し合いを告げたところ,海相もただちに賛成したので,午後10時に緊急臨時閣議を開くよう手配したのであった。」と(風見42頁)。

      1937814日に開催された閣議において米内海軍大臣は次のように大興奮したとされているのですが,海相の当該激高について同日深夜の緊急臨時閣議に係る風見手記には触れるところがありませんので(風見42-47頁参照),当該大激高は午前の閣議におけるものなのでしょう。

 

        外相〔広田弘毅〕や蔵相〔賀屋興宣〕ばかりでなく,杉山陸相までが不拡大方針の維持を述べたのにいらだったのか,米内は「今や事態不拡大主義は消滅した」「日支問題は中支に移った」「今となっては海軍は必要なだけやる」「南京くらいまで攻略し模様を見ては」(高田〔万亀子「日華事変初期における米内光政と海軍」『政治経済史学』251号〕173ページ)と放言した。米内としては「今さら何を言うか」と激したのかもしれないが,この豹変ぶりは天皇をも心配させたらしく,翌日の上奏にさいし,「従来の海軍の態度,やり方に対しては充分信頼して居た。なお此上共感情に走らず克く大局に着眼し誤のないようにしてもらいたい」(島田日記)と海相を戒めている。

       (秦321頁)

 

  〔19378月〕15 日曜日 午前10時,鳳凰ノ間において親補式を行われ,陸軍大将松井岩根を上海派遣軍司令官に補される。〔略〕なおこの日,上海派遣軍司令官松井岩根に対して海軍と協力して上海付近の敵を掃滅し,上海並びにその北方地区の要線を占領して在留邦人の保護を命ずる件の陸軍上奏書類を御裁可になる。〔略〕

   午前1020分より1時間余にわたり,御学問所において内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜い,昨夜の緊急臨時閣議において決定した,上海における新事態に適応するための政府方針につき奏上を受けられる。なお今暁,帝国政府は支那軍の暴戻を断乎膺懲すべき旨の声明を発表する。〔略〕

   午後,内大臣湯浅倉平をお召しになり,1時間余にわたり謁を賜う。〔略〕

   午後5時過ぎ,御学問所において海軍大臣米内光政に謁を賜い,上海及び各地の情況,並びにこれに対する海軍の処置につき奏上を受けられる。終わって海軍大臣に対し,海軍の従来の態度,対応に対して充分信頼していたこと,及びこれ以後も感情に走らず,大局に着眼して誤りのないよう希望する旨の御言葉あり。〔後略〕

   (実録七394-395頁)

 

      「昨夜の緊急臨時閣議において決定した,上海における新事態に適応するための政府方針」とは,「帝国政府は支那軍の暴戻を断乎膺懲すべき旨の声明」がそれに基づくところの「方針」でしょうか。当該声明は,前日深夜の緊急臨時閣議が「予定のごとく〔略〕進行して,近衛氏が散会をいいわたそうとしたところ,突然杉山陸相が,ちょっと待ってもらいたい,この際ひとつ,政府声明書を出したほうがいいだろうといって,その案文の謄写刷りをカバンからとりだした」ものです(風見42-43頁)。当該閣議の予定の議事は,風見内閣書記官長によれば「海相から情勢の報告をきき,かつ,善後処置についても話し合っておくのがよかろうというので,そうすることにした。ただし,戦局がかくまで拡大したことについての政府の意思表示は,なお形勢の推移をみた上のこととして,この夜の閣議では,ただ救護物資および病院船を送ることだけにしておこうと」いうことだったはずであるところ,「予定のごとく」の進行なので,午前中暴れた米内海相は大人しく情勢報告などを事務的にしたのでしょう。なお,陸軍大臣から案文が提出されても,政府の声明は政府の声明であって,軍の声明とは異なるものであるということになります。

      当該深夜の閣議が散会した後,「杉山陸相は,中島〔知久平〕,永井〔柳太郎〕両氏がのべた意見〔「中島鉄相から,いっそのこと,中国国民軍を徹底的にたたきつけてしまうという方針をとるのがいいのではないかという意見の開陳があって,永井逓相が,それがいいといった意味のあいづちをう」ったという「意見」〕をとりあげ,わたしに,そっと,「あんな考えを持っているばかもあるから驚く,困ったものだ」と,ささやいたものである。これによっても,わたしは,杉山氏が,そのときには不拡大現地解決方針を守ろうとしていたのだと,信ずるのである。」と風見内閣書記官長は回想しています(風見46-47頁)。しかし,「中国国民軍を徹底的にたたきつけてしまう」ことと「不拡大現地解決方針」との間にはなお中間的な方針があったところです。「妥協論」と対立する陸軍内での「強硬論」は,「わが国がこの際断乎として強硬な態度で臨めば中国側はおそれて妥協あるいは降伏を申し出るであろうという論であり,従って,それは事変を拡大して中国との本格的全面戦争に入るべきことを主張したものではなかった」のでした(岡65頁)。風見自身は,「帝国政府は支那軍の暴戻を断乎膺懲すべき旨の声明」は「表面,日本政府は,不拡大方針を投げすてて,徹底的に軍事行動を展開するかもしれぬぞとの意向を,ほのめかしているもの」であって(風見45頁),不拡大現地解決方針を端的に表明するものではないことを認めています。米内海相は,午前の閣議で激高して近衛内閣閣僚間における事態不拡大主義を自ら消滅せしめていたのであって,杉山陸相の新たな強硬論に対してもはや異議を唱えず,また唱え得なかったものでしょう。むしろ内心では,海軍幹部の一員として積極的に,本格的全面戦争を期していたのではないでしょうか。「右の声明を発表したいという陸相の発言に,外相海相はじめ閣僚一同,たれも異議をとなえなかったので,近衛氏はそれを承認したのである」とのことです(風見46-47頁)。

      (なお,杉山陸相流「強硬論」の表明たる「帝国政府は支那軍の暴戻を断乎膺懲すべき旨の声明」においては,さわりの部分の「帝国としては,もはや隠忍その限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し」に続いて「もって南京政府の反省をうながす」とあり,更には「もとより毫末も領土的意図を有するものにあらず」,「無辜の一般大衆に対しては,何等敵意を有するものにあらず」云々ともあります(風見44-45)。すなわち,大日本帝国による膺懲の直接の対象は,南京政府に非ず,支那軍自体にも非ず,無辜の一般大衆ではもちろん非ず,飽くまでも支那軍の「暴戻」であるのだというわけです。しかし,我が国の人口に膾炙したという「暴支膺懲」という四文字熟語的スローガンは――そもそも人口に膾炙したのですからその点においては広報的にはよくできたものなのでしょうが――「暴支」と一般化することによって,軍も政府も人民も,およそ漢土の国家・社会を構成する者の本質は皆もって暴戻(『角川新字源』によれば「乱暴で道理に反する」ことです。)であるのだと決めつけることになってしまわなかったでしょうか。暴戻だから膺懲するのは当然であるし,むしろ進んで膺懲すべきである,ということになれば,確かに全面戦争は不可避でしょう。)



DSCF2283

南京といえば・・・しかし,最近は南京豆とはいわなくなりました。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 はじめに:一文字多いのは大違い

 「一言多い人」は困った人で,また,一文字多いことによって言葉の意味が大いに変ずることがあります。例えば,「被告」と書けば穏便な民事事件であるところ,「被告人」と書けば剣呑な刑事事件となるが如し。

 「国葬」と「国葬儀」との関係も同様でしょう。両者は似てはいるのですが,異なるものと解されます。(正確には「国葬儀」に対応するのは「国葬たる喪儀」なのですが,「国葬たる喪儀」を含めて「国葬」といわれているようです。しかして,「国葬」たらざる「国葬儀」はあるものかどうか。)

 

2 国葬令

 まず,「国葬」の語義を確かめるべく,19261021日付けの官報で公布された大正15年勅令第324号を見てみましょう。

 

(1)条文

 

  朕枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ国葬令ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 

   御名 御璽

    摂政名

 

    大正151021

     内閣総理大臣  若槻禮次郎

     陸軍大臣  宇垣 一成

     海軍大臣  財部  

     外務大臣男爵幣原喜重郎

     文部大臣  岡田 良平

     内務大臣  濱口 雄幸

     逓信大臣  安達 謙藏

     司法大臣  江木  翼

     大蔵大臣  片岡 直溫

     鉄道大臣子爵井上匡四郎

     農林大臣  町田 忠治

     商工大臣  藤澤幾之輔

 

  勅令第324

第1条 大喪儀ハ国葬トス

  第2条 皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃及摂政タル親王内親王王女王ノ喪儀ハ国葬トス但シ皇太子皇太孫7歳未満ノ殤ナルトキハ此ノ限ニ在ラス

  第3条 国家ニ偉勲アル者薨去又ハ死亡シタルトキハ特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアルヘシ

   前項ノ特旨ハ勅書ヲ以テシ内閣総理大臣之ヲ公告ス

  第4条 皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ヲ行フ当日廃朝シ国民喪ヲ服ス

  第5条 皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ノ式ハ内閣総理大臣勅裁ヲ経テ之ヲ定ム

 

(なお,官報に掲載された文言には誤植がありましたので,御署名原本により改めました。1条の「国喪」を「国葬」に,②第3条の第1項と第2項との間に改行がなかったところを改行,③第3条の「勅書ヲ以テ内閣総理大臣」を「勅書ヲ以テシ内閣総理大臣」に)

 

 大正15年勅令第324号には施行時期に関する規定がありません。しかしながらこれは,公式令(明治40年勅令第6号)によって手当てがされています。すなわち,同令11条(「公布ノ日ヨリ起算シ満20日ヲ経テ之ヲ施行」)により,19261110日からの施行ということになります。

 

(2)枢密院会議

 

ア 摂政宮裕仁親王臨場

国葬令の上諭には枢密顧問の諮詢を経た旨が記されています(公式令73項参照)。当該枢密院会議は,19261013日に開催されたものです。同日午前の摂政宮裕仁親王の動静は次のとおり。

 

 13日 水曜日 午前10時御出門,宮城に御出務になる。神宮神嘗祭に勅使として参向の掌典長谷信道,今般欧米より帰朝の判事草野豹一郎ほか1名に謁を賜う。1030分より,枢密院会議に御臨場になる。皇室喪儀令案・国葬令ほか1件が〔筆者註:当該「ほか1件」は,開港港則中改正ノ件〕審議され,いずれも全会一致を以て可決される。正午御発,御帰還になる。(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)542頁)

 

イ 審議模様

 当該枢密院会議における国葬令案審議の様子は,枢密院会議筆記によれば次のとおりです(アジア歴史資料センター(JACAR: Ref. A03033690300)。

 

(ア)伊東巳代治

 まず,枢密院の審査委員長であった伊東巳代治が審査結果の大略を報告します。

 

   国葬ハ国家ノ凶礼〔死者を取りあつかう礼。喪礼。(『角川新字源』(1978年(123版)))〕ニシテ素ヨリ重要ノ儀典ナルカ故ニ国法ヲ以テ其ノ条規ヲ昭著スルハ当然ノ措置ナリ則チ本案ハ〔天皇の勅定する〕勅令ノ形式ヲ以テ国葬ノ要義ヲ定メ以テ皇室喪儀令〔筆者註:こちらは大正15年皇室令第11号です。皇室令とは,「皇室典範ニ基ツク諸規則,宮内官制其ノ他皇室ノ事務ニ関シ〔天皇の〕勅定ヲ経タル規程ニシテ発表ヲ要スルモノ」です(公式令51項)。〕ニ承応セムトスルモノニシテ先ツ天皇及三后〔太皇太后,皇太后及び皇后〕ノ大喪儀〔皇室喪儀令4条・5条・8条参照〕並皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃及摂政タル親王内親王王女王ノ喪儀ハ国葬トスルコトヲ定メ其ノ他ノ皇族又ハ皇族ニ非サル者ニシテ国家ニ偉勲アルモノ薨去(こうきよ)〔皇族・三位以上の人が死亡すること。(『岩波国語辞典第四版』(1986年))〕又ハ死亡シタルトキハ〔天皇の〕特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアルヘク此ノ特旨ハ勅書ヲ以テシ内閣総理大臣之ヲ公告スヘキモノトシ皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ヲ行フ当日廃(ママ)シ国民喪ヲ服スヘク其ノ喪儀ノ式ハ内閣総理大臣〔天皇の〕勅裁ヲ経テ之ヲ定ムヘキモノトス

以上述ヘタル所カ両案〔皇室喪儀令案(これの説明部分は本記事では省略されています。)及び国葬令〕ノ大要ナリ之ヲ要スルニ皇室ノ喪儀及国葬ハ倶ニ国家ノ式典ニシテ儀礼ヲ修メテ(せん)(ばう)〔あおぎしたう。(『角川新字源』)〕(そな)ヘサルヘカラサルモノナリ本案皇室喪儀令及国葬令ノ2令ハ則チ之カ要義ヲ昭著スルモノニシテ(まこと)允当(ゐんたう)〔正しく道理にかなう。(『角川新字源』)〕ノ制法ナリト謂ハサルヘカラス今ヤ帝室ノ令制(やうや)ク整頓シテ典章正ニ燦然タルニ(あた)リ更ニ之ニ加フルニ皇室喪儀令ヲ以テシテ皇室喪儀ノ項目ヲ明徴ニスルハ(けだ)シ前来規程ノ足ラサルヲ補ヒテ皇室制度ノ完備ヲ図ラムトスルモノニ外ナラス又国葬令ヲ以テ皇室喪儀令ト相()チテ国家凶礼ノ大綱ヲ昭明ナラシムルハ蓋シ国法ノ完璧ヲ期スルノ所以(ゆゑん)タルヘキコト言ヲ俟タサルナリ更ニ本案2令ノ条文ヲ通看スルニ孰レモ事ノ宜シキニ適シテ特ニ非議スヘキ点ヲ認メス(より)テ審査委員会ニ於テハ本案ノ2件ハ倶ニ此ノ儘之ヲ可決セラレ然ルヘキ旨全会一致ヲ以テ議決シタリ

 

(イ)江木枢密顧問官vs.山川法制局長官

江木千之枢密顧問官が,お金に細かい質問をします。

 

 35番(江木) 国葬令ニ付当局ニ一応質問シタキ事アリ国葬令第3条ニ依リ国家ニ偉勲アル者薨去又ハ死亡シタルトキ特旨ニ依リ国葬ヲ賜フ場合ニハ先ツ以テ其ノ勅書ヲ発セラルルヤ又ハ国葬ニ関スル費用ニ付帝国議会ノ協賛〔筆者註:大日本帝国憲法641項参照〕ヲ経タル後該勅書ヲ発セラルルコトト為ルヤ

 

 山川端夫法制局長官はさらりとかわそうとしますが,江木枢密顧問官は,しつこい。

 

  委員(山川) 国葬令ニ於テハ国葬ノ行ハルル場合ノ大綱ヲ示セルニ止リ愈其ノ実行セラルル場合ニ於テハ予算等ノ関係ヲ生スヘシ其ノ際ニハ一般ノ例ニ従ヒ夫々必要ナル手続ヲ尽シタル上ニテ実行セラルヘキナリ

  35番(江木) 国葬ヲ行フ場合ニハ先ツ以テ帝国議会ニ其ノ予算ヲ提出シ協賛ヲ経タル上ニテ勅書ヲ発セラルルヤ其ノ辺ノ御答弁明瞭ナラス

  委員(山川) 既定予算ニ項目ナキ事項ニ付テハ別ニ予算ヲ立テテ議会ノ協賛ヲ経サルヘカラス然レトモ緊急ノ場合ニハ予備費支出等ノ途アリ其ノ孰レカノ方法ニ依リ先ツ支出ノ途ヲ講セサルヘカラス

  35番(江木) 然ラハ帝国議会開会ノ場合ニ於テハ先ツ以テ国葬費ノ予算ヲ提出シ其ノ協賛ヲ経タル後勅書ヲ発セラルルモノト了解シテ可ナルカ

  委員(山川) 然リ

 

(3)国葬令3条による国葬の例

いやはや議会対策は大変そうだねと思われますが,その後国葬令3条に基づいて国葬を賜わった者の薨去が,帝国議会開会中に生じてしまうということはありませんでした。

193465日に国葬たる喪儀があった東郷平八郎は同年530日に薨去したもので,当時,帝国議会は閉会中でした(第65回通常議会と第66回臨時議会との間)。1940125日に国葬たる喪儀があった西園寺公望についても同年1124日の薨去と当該喪儀との間に帝国議会は開かれていません(第75回通常議会と第76回通常議会との間)。1943418日の山本五十六戦死と同年65日の国葬たる喪儀との間も閉会中でした。(第81回通常議会と第82回臨時議会との間)。ただし,閑院宮載仁親王薨去の1945520日とその国葬たる喪儀の同年618日との間には,同月9日に開会し,同月12日に閉会した第87回臨時議会がありましたが,載仁親王が午前410分に薨去したその日の午後430分には早くも「情報局より,親王薨去につき,特に国葬を賜う旨を仰せ出されたことが発表される。」という運びになっており,かつ,当初は同年528日に斂葬の儀までを終える予定でした(宮内庁『昭和天皇実録 第九』(東京書籍・2016年)671頁)。宮城までも焼失した525日夜から26日未明までの東京空襲で,日程が狂ってしまったものです(実録九682頁)。第87回帝国議会召集の詔書に係る上奏及び裁可は,62日のことでした(実録九687頁)。

 

(4)国費葬

ついお金の話になってしまうのは,天皇及び三后並びに直系皇嗣同妃及び摂政並びにその他の皇族にして国家に偉勲あるものの大喪儀ないしは喪儀を皇室限りの事務とはせずに,国葬として国家の事務とするのは,そもそも皇室費ではなく国費をもってその費用を負担することとするのがその眼目であったからでしょう。

美濃部達吉いわく,「皇室ニ関スル儀礼ノ中或ハ国ノ大典トシテ国家ニ依リテ行ハルルモノアリ,即位ノ礼,大嘗祭,大喪儀其ノ他ノ国葬ハ是ナリ。即位ノ礼及大嘗祭ハ皇室ノ最モ重要ナル儀礼ニシテ其ノ式ハ皇室令(〔明治〕42年皇室令1登極令)ノ定ムル所ナレドモ,同時ニ国家ノ大典ニ属スルガ故ニ,国ノ事務トシテ国費ヲ以テ挙行セラル。〔略〕国葬モ亦国ノ事務ニ属ス〔略〕。此等ノ外皇室ノ儀礼ハ総テ皇室ノ事務トシテ行ハル。」と(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)217-218頁。下線は筆者によるもの)。

1926913日付けで一木喜徳郎宮内大臣から若槻内閣総理大臣宛てに出された照会書別冊の国葬令案の説明(JACAR: A14100022300)にも「恭テ按スルニ天皇及三后ノ喪儀ハ国家ノ凶礼ニシテ四海(あつ)(みつ)〔音曲停止。鳴りものをやめて静かにする。(『角川新字源』)〕挙テ喪ヲ服シ悼ヲ表スル所則チ国資ヲ以テ其ノ葬時ノ用ニ供スルハ亦我国体ニ於テ当然ノコトニ属ス皇嗣皇嗣妃及摂政ノ喪儀ハ身位ト重任トニ視テ宜ク国葬トスヘキナリ又近例国家ニ偉勲アル者ノ死亡ニ当リ之ニ国葬ヲ賜フコトアルハ蓋其ノ偉蹟ヲ追想シ之ヲ表章スルニ国家ノ凶礼ヲ以テスルノ特典タルニ外ナラス既ニ皇室服喪令ノ制定アリ今又皇室喪儀令ノ制定セラルルニ当リテハ国葬ノ定義ヲ明ニシ兼テ其ノ条規ヲ昭著スル所ナカルヘカラス是レ本令ノ制定ヲ必要トスル所以ナリ」とあります(下線は筆者によるもの)。

 

(5)国葬令(勅令)と皇室喪儀令及び皇室服喪令(皇室令)と

 国葬令と皇室喪儀令及び皇室服喪令(明治42年皇室令第12号)とには密接な関係があるわけです。実は,法令番号と第1条との間に「国葬令」との題名が記載されていないので,厳密には,「国葬令」は,大正15年勅令第324号の題名ではなく上諭の字句から採った件名にすぎず,その理由をどう理解すべきか悩んでいたのですが,単なる立法ミスによる欠落でなければ,皇室喪儀令及び皇室服喪令の附属法令として,ことごとしく題名を付けることは遠慮した,ということでしょうか。

 皇室喪儀令及び皇室服喪令は皇室令ですが,国葬令は勅令です。これは,経費の国庫負担を定める法形式として皇室令はふさわしくないからでしょう。共に天皇が総覧する皇室の大権と国家統治の大権との相違点の一つとして,美濃部達吉いわく,「其ノ経費ノ負担ヲ異ニス。国ノ事務ニ要スル経費ハ国庫ノ負担ニ属スルニ反シテ,皇室ノ事務ニ要スル経費ハ皇室費ノ負担ニ属ス。皇室ノ財産及皇室ノ会計ハ国ノ財産及国ノ会計トハ全ク分離セラレ,国庫ハ唯毎年定額ノ皇室経費ヲ支出スル義務ヲ負フコトニ於テ之ト関係アルニ止マリ,其ノ以外ニ於テハ皇室ノ財産及皇室ノ会計ノ管理ハ一ニ皇室ノ自治ニ属シ,国ノ機関ハ之ニ関与スルコトナク,而シテ皇室事務ニ要スル一切ノ経費ハ皇室費ヲ以テ支弁セラル。」と(美濃部215頁)。国葬令の副署者には,ちゃんと大蔵大臣が含まれています。

 なお,1909年の皇室服喪令162項には「親王親王妃内親王王王妃女王国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ヲ行フ当日臣民喪ヲ服ス」と規定されており(下線は筆者によるもの),国葬の存在を既に前提としていました。ちなみに,皇室令をもって臣民を規律し得ることは,「或ハ〔皇室令が〕単ニ皇室ニ関スルニ止マラズ同時ニ国家及国民ニ関スルモノナルコトアリ,此ノ場合ニ於テハ皇室令ハ皇室ノ制定法タルト共ニ又国法タル効力ヲ有ス。」というように認められており(美濃部104頁),それが可能である理由は大日本帝国憲法に求められていて,「憲法ノ趣意トスル所ハ皇室制度ニ関スル立法権ハ国法タル性質ヲ有スルモノニ付テモ之ヲ皇室自ラ定ムル所ニ任ジ議会ハ之ニ関与セズト謂フニ在」るからであるとされていました(美濃部102頁)。

 

(6)国葬の定義を明らかにする必要性

 なお,一木宮相照会書にいう「国葬ノ定義ヲ明ニシ」に関しては,帝室制度調査局総裁である伊藤博文の明治天皇に対する1906613日付け上奏(JACAR: A10110733300)において「而シテ近例国家ニ偉勲アル者死亡ノ場合ニ当リ之ニ国葬ヲ賜フコトアルハ蓋其ノ偉蹟ヲ追想シ之ヲ表章スルニ国家ノ凶礼ヲ以テスルノ特典タルニ外ナラス然ルニ其ノ本旨(やや)モスレハ明瞭ヲ()(あたか)モ国葬即チ賜葬ノ別名タルカ如ク従テ其ノ制モ亦定準ナキノ観アリ殊ニ皇室喪儀令及皇室服喪令ノ制定セラルルニ当リテハ国葬ノ定義ヲ明ニシ兼テ其ノ条規ヲ昭著スルモノナクハ両令ノ運用ヲ円滑ニシ憲章ノ完備ヲ期スルコト能ハス是レ本令ノ制定ヲ必要トスル所以ナリ」とありました(下線は筆者によるもの)。1906年の当時,天皇が国葬を賜う(あるいは天皇に葬式をおねだりする)基準が弛緩していると感じられていたわけです。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 南米のサッカー名門国からキック・オフ

 今年(2022年)もまたサッカー・ワールド・カップ大会が開催されます。もう22回目で開催地はカタールになります。頑張れニッポン!

(早いもので,我が国で「感動」のサッカー・ワールド・カップ大会が開催されてから,もう20年です。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1071112369.html)。

 このサッカー・ワールド・カップの最初の大会(1930年)の開催地となり,同国人のチームが当該第1回大会及び1950年の第4回大会で優勝した栄光に包まれた国はどこかといえば,南米大陸のウルグアイ東方共和国(República Oriental del Uruguay)です。今年の大会においては,我が邦人のチームもその栄光にあやかりたいものです。

 しかし,あやかるといっても,日本国とウルグアイ東方共和国との間に共通性・類似性って余りないのではないか,そもそも両国は,地球🌏上において表裏正反対の位置にあるんだぜ,とは大方の御意見でしょう。これに対して,いや,両国は実は同じなのだ,と力技で強弁しようとするのが本稿の目的です。

 

2 ウルグアイ東方共和国の国号の謎

 さて,ウルグアイ東方共和国(República Oriental del Uruguay. 英語ではOriental Republic of Uruguay)という国号の謎から本稿は始まります。なぜ「東方」という形容詞が入っているのか,不思議ですよね。

 この東方は何に対する東方なのかというと,どうも独立前の同国の場所にあったBanda Orientalという州名に由来するそうです。ウルグアイ東方共和国の西部国境線はウルグアイ川という同名の川で,スペイン領時代のBanda Orientalという州名は,そのまま(ウルグアイ川の)東方地という意味であったようです。現在「ウルグアイ」は国の名たる固有名詞でもありますが,独立後最初の1830年憲法1条にあるEstado Oriental del Uruguayとの国号は,国(estado: 英語の“state”)であってウルグアイ川の東方にあるものというように,普通名詞であるEstado(国)に地理的限定修飾句(Oriental del Uruguay)が付いた普通名詞的国号として印象されていたもののようにも思われます。当該憲法の前文は,神への言及に続いて,“Nosotros, los Representantes nombrados por los Pueblos situados a la parte Oriental del Río Uruguay…”(筆者のあやしい翻訳では,“We, the Representatives named for the Peoples situated in the Oriental part of the River Uruguay…”又は「我らウルグアイ川(Río)の東部(parte Oriental)所在の諸人民のために任命された代表者らは・・・」)と始まっているからです。

 ウルグアイ川の西は,アルゼンチン共和国です。スペイン領ラ・プラタ川副王領時代は,ウルグアイ川の東も西も同一の副王領内にあったところです。スペインからの独立後,後のウルグアイ東方共和国の地は一時ブラジル治下にありましたが,戦争を経て,ブラジルとアルゼンチンとの間の1828年のモンテビデオ条約によってウルグアイ(川)東方国の独立という運びになっています。すなわち,ウルグアイ東方共和国における「東方」の語は,アルゼンチン共和国から見ての「東方」という意味になりますところ,上記の歴史に鑑みると,同国とのつながりを示唆するようでもあり,断絶を強調するようでもあります。

 

3 普通名詞的国号

 ところで,普通名詞的国号といわれると,固有名詞抜きの国号というものがあるのか,ということが問題になります。実は,それは,あります。例えば,今は亡きソヴィエト社会主義共和国連邦が普通名詞国号の国です(19911226年に消滅宣言。こちらももう崩壊後30年たってしまっているのですね。)。「ソヴィエト」と日本語訳されている部分は,ロシア語🐻では形容詞Советских(複数生格形(ドイツ語文法ならば複数2格というところです。))であって,その元の名詞であるсоветは,会議,協議会,評議会,理事会等の意味の普通名詞です。会議式の社会主義共和国の連邦☭ということですが,何だかもっさりしています。更に社会主義☭仲間では,現在その首都の北京で冬季オリンピック競技大会⛷⛸🏂🥌が開催(202224日から同月20日まで)されている中華人民共和国🐼も,「中華」を固有名詞(China)又はそれに基づく形容詞(Chinese)と解さなければ(ただし,同国政府はどうもそう解するようです(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1077950740.html)。なお,「中華」をあえて非固有名詞的に英語訳すると,“center of civilization”又は“most civilized”でしょう。),同様の普通名詞型普遍国家です(「会議式」は,「中華」よりも謙遜ですね。)。

おフランスの国号も,フランス式なることを意味する形容詞によって固有名詞風の傾きが加えられていますが,普遍国家を志向するものでしょう。La République françaiseであって,la République de Franceではありません。後者であれば,フランスという国があってそれが共和政体であるということでしょう。しかし,前者は,共和国があって,それがフランス式であるということでしょう(la République à la française)。アウグストゥスのprincipatus以来力を失った古代ローマ時代における共和政・共和国の正統の衣鉢を継ぐのは我々であって,そもそもres publica(共和国,国家,国事,政務,公事)は,à la romaineよりも,à la françaiseに組織し,運営するのが正しいのだ,ということでしょう(他の共和国を称する国々との区別のための必要もあるのでしょうが。)。フランスの大統領は,Président de Franceではなく,Président de la Républiqueと呼ばれます。(更にla République françaiseの普遍志向を示す例としては,その1793年憲法4条の外国人参政権条項があります。)Die Bundesrepublik Deutschlandは,ドイツという国があって,それは連邦共和政体を採っているということでしょう。これに対して,1990103日に消滅したdie Deutsche Demokratische Republikは,ドイツ風の民主主義共和国ということですね。ドイツという国であるよりも,人類の普遍的理想の実現に向かって進む民主主義共和国(社会主義国☭)であることの方が重要だったのでしょう。

 さて,いよいよ我が国の国号です。

 

4 近代における我が国の新旧国号:日本国及び大日本帝国

 

(1)日本国

 我が国の憲法は「日本国憲法」ですから,我が国の国号は,日本国なのでしょう。日本「国」が国号であって,単なる日本は国号ではないことになります。実は日本語における「日本」は形容詞なのでしょう。しかして,我が国の憲法の英語名はConstitution of Japan”です。そうであれば英語のJapan”は,国である旨の観念をそこに含み込んでいる名詞であるようです。「日本」に対応する英語の単語は,形容詞たるJapanese”でしょうか。

 

(2)大日本帝国

 

ア 明治天皇による勅定及び昭和天皇による変更

 現行憲法に先行する我が国の憲法の題名は「大日本帝国憲法」でした。したがって,19461029日の日本国憲法裁可によって(2023116日訂正:昭和天皇による日本国憲法裁可の日を194610「29日」とする例は,衆議院憲法審査会事務局「衆憲資第90号「日本国憲法の制定過程」に関する資料」(2016118にもありますが,宮内庁『昭和天皇実録第十』(東京書籍・201721919461029日条をよく読むと,その日にされたのは枢密院における「帝国議会において修正を加へた帝国憲法改正案」の全会一致可決までであって,天皇の裁可・署名がされたのは,翌同月30日(水)143分のことでした。),昭和天皇は,祖父・明治大帝が勅定し,1889211日に発布せられた大日本帝国という我が国号を,日本国に改めてしまったことになります。

 「大」が失われては気宇がちぢこまっていけない,例えば我が隣国はその国号に堂々「大」を冠し,しかしてその国民は,今や我々いじけた日本国民よりも豊かになっているではないか(購買力平価で一人当たり国内総生産を比較した場合),などと慷慨😡するのは,大日本帝国憲法案の起草者の一人である井上毅に言わせれば,少々方向違いかもしれません。

 

イ 「大」日本帝国

 実は大日本帝国憲法1条の文言(「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」)は,枢密院に諮詢された案の段階では,「大」抜きの「日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」との表現を採っていたのでした。

 これについては,1888618日午後の枢密院会議において,それまでに一通り審議が終った明治皇室典範1条の文言(「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」)との横並び論から,寺島宗則が問題視します。

 

  31番(寺島) 皇室典範ニハ大日本(○○○)トア(ママ)ヲ此憲法ニハ只日本(○○)トノミアリ故ニ此憲法ニモ()ノ字ヲ置キ憲法ト皇室典範トノ文体ヲ一様ナラシメン(こと)ヲ望ム

 

 当該要求に,森有礼,大木喬任及び土方久元が賛同します。

 これに対する井上毅の反論及びその後の展開は次のとおり。

 

  番外(井上) 皇室典範ニハ大日本ト書ケ𪜈(ども)憲法ハ内外ノ関係モアレハ大ノ字ヲ書クコト不可ナルカ如シ若シ憲法ト皇室典範ト一様ノ文字ヲ要スルモノナレハ寧ロ叡旨ヲ受テ典範ニアル()ノ字ヲ刪リ憲法ト一様ニセンコトヲ望ム英国ニ於テ大英国(グレイト,ブリタン)ト云フ所以ハ仏国ニアル「ブリタン」ト区別スルノ意ナリ又大清,大朝鮮ト云フモノハ大ノ字ヲ国名ノ上ニ冠シテ自ラ尊大ニスルノ嫌ヒアリ寧ロ大ノ字ヲ刪リ単ニ日本ト称スルコト穏当ナラン

 

  14番(森) 大ノ字ヲ置クハ自ラ誇大ニスルノ嫌アルヤ否ニ係ハラス典範ト憲法ト国号ヲ異ニスルハ目立ツモノナレハ之ヲ刪ルコト至当ナラン

 

  17番(吉田〔清成〕) 典範ニハ已ニ大日本トアリ又此憲法ノ目録ニモ亦大日本トアリ故ニ原案者ハ勿論同一ニスルノ意ナラン

 

  議長〔伊藤博文〕 此事ハ別ニ各員ノ表決ヲ取ラスシテ()ノ字ヲ加ヘテ可ナラン故ニ書記官ニ命シ()ノ字ヲ加ヘ本案ニ

 

大日本帝国の「大」の字は,議事の紛糾を恐れた伊藤枢密院議長がその場において職権で加えることにしてしまったもののようで,領土・人口・GDPをこれから大きくしようというような深謀遠慮があって付けられたものではないようです。

 

ウ 大日本「国」皇位 vs. 大日本「帝国」

ところが奇妙なことがあります。当時の関係者は憲法も皇室典範も「大」日本でそろったことに満足してしまい,明治皇室典範1条では「大日本国皇位」と「国」であるのに対し,大日本帝国憲法1条では「大日本帝国」と「帝国」であるという,残された相違については問題にしていないのです。

この点については,佐々木惣一が疑問視しており,後に『明治憲法成立史』(有斐閣・1960-1962年)を出版することになる稲田正次東京教育大学教授に問い合わせたりしたようですが,結論は「旧皇室典範と大日本帝国憲法とが我国を指示するのに,別異の語を用ゐてゐるの理由は,依然として明かでない」ということになっています(佐々木惣一「わが国号の考究」『憲法学論文選一』(有斐閣・1956年)47頁)。佐々木は,明治皇室典範1条で「大日本帝国皇位といふとせば,帝と皇との両語の位置に基き,其の語感調はざるものがあるとして,大日本国皇位としたのではないか」と推測しつつ,「稲田教授も私と同様の意見の如くである。」と述べています(佐々木49頁。稲田教授の佐々木への書簡には「削除の理由は御説の通り帝と皇と2字あるは聊か重複の感もあり語調宜しからざるが為と推察被致候(いたされそうろう)或は起草者としては大日本国は大日本帝国の略称位に軽く考へ典範憲法間別に国号の不一致無之(これなき)ものと単純に思ひ居たるものと被存候(ぞんぜられそうろう)」とあったそうです。)。しかし,語感の問題で片付けてしまってよいものでしょうか。

 ということで,起草者らの意図を何とか探るべく,伊東巳代治による大日本帝国憲法及び明治皇室典範の英語訳に当ってみると,大日本帝国はthe Empire of Japanであり,大日本国皇位はthe Imperial Throne of Japanであることが分かります。確かに,「大日本帝国皇位」=“the Imperial Throne of the Empire of Japan”では長過ぎますし,語調というよりも語義の点で,「“The Imperial Throne of Japan”といっておけば,Imperial ThroneのあるJapanEmpireであることは,当然分かるじゃないか」ということになります。発生的にも,具体的な人(king)ないしはその地位(royal throne)が先であって,かつ,主であり,その働きに応じて制度(king-dom)は後からついて来るものでしょう。The King of Englandがいて,それからthe Kingdom of Englandがあるのであり,the King of the Kingdom of Englandでは何やら語義が内部で循環した称号になってしまいます。なお,大日本帝国憲法1条によって当時の我が国の正式名称が定められたことに関し,そこでの帝国=Empireの意味については,「外交上の用語としては,それ等の西洋語に於いての総ての差異〔Emperor, King, Grand Duke, etc.〕に拘らず,日本語に於いては,苟も一国の君主である限りは,等しく「皇帝」と称する慣例である。若し此の外交上の用語の慣例に従へば,帝国とは単に君主国といふと同意語であつて毫も大国の意を包含しないものである。わが国の公の名称を大日本帝国といふのも,亦その意に解すべきもので,敢て大国であることを誇称する意味を含むものではなく,唯天皇の統治の下に属する国であること,言ひ換ふればその君主国であることを示すだけの意味を有つものと解するのが正当であらう。」と説明されています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)79頁)。

The Empire of Japan(大日本帝国)は,日本国(Japan)という国であって君主政体をとっているものを意味することになります。なおここでは,大日本=形容詞,帝国=名詞であるとして,ヨーロッパ語で“the Japanese Empire”となるのだと解してはならないことに注意しなければなりません。“The Japanese Empire”ということになれば,普遍的なものたるthe Empire(原型は古代ローマ帝国)に日本風(à la japonaise)との形容詞が付いただけのものとなり,その版図は必ずしもポツダム宣言第8項流に本州,北海道,九州及び四国並びに附属の諸小島に限局される必要のないものとなるのだと解し得ることになり,なかなか剣呑です。

The Imperial Throne of Japanは素直に,日本国の皇位ということになります。

「大日本帝国皇位(the Imperial Throne of the Empire of Japan)」が不可とされた理由は,またうがって考えれば,断頭台の露と消えたルイ16世と,痛風等に悩みながらも王位にあって天寿を全うしたその弟であるルイ18世との運命の違いに求められ得るかもしれません。フランスの王(Roi de France)の称号を保持していたルイ16世は,1791年憲法により,フランス人の王(Roi des Français)とされています。しかしてその後の経緯は周知のとおりです(1791年憲法は「王の身体は不可侵かつ神聖である。」とも規定していましたが(大日本帝国憲法3条参照),フランス人の憲法規範意識は当てにはなりませんでした。)。他方,ルイ18世は,王政復古後,伝統的なフランスの王(Roi de France)として統治しました。統治の当の客体に支えられる王権は危うく,統治の正統性は抽象的な国体に求められるべしということにはならないでしょうか。しかして,大日本帝国憲法1条にいう帝国は,突き詰めれば,天皇にとっての統治の客体たる領土内の臣民でした。『憲法義解』の第1条解説は天皇の大日本帝国統治につきいわく,「統治は大位に居り,大権を統べて国土及臣民を治むるなり。」と。更に美濃部達吉はいわく,「天皇が帝国を統治したまふと言へば,日本の一切の領土が天皇の統治の下に属することを意味し,更に正確に言へば,その土地の上に在る一切の人民が天皇の統治したまふところたることを意味する。統治とは領有と異なり,土地を所有することを意味するのではなく,土地を活動の舞台としてその土地に住む人々を統括し支配することの意である。」と(美濃部76頁)。“The Imperial Throne of the Japanese country and subjects”では,地方人民主権政体の国の元首のごとし,となります。

 

エ 「日本帝国」使用の勅許

しかし,以上の屁理屈を吹き飛ばすような表現が,明治天皇によって明治皇室典範に付された上諭にあります。いわく,「天祐ヲ享有シタル我カ日本帝国ノ宝祚ハ万世一系歴代継承シテ以テ朕カ身ニ至ル」云々。何と「日本帝国ノ宝祚」です。宝祚とは,天子の位の意味です。

この上諭の起草に井上毅が関与していたのならば,「大」日本帝国ではなく日本帝国であることは,「大」不要論者である井上による,寺島,大木,土方,吉田及び伊藤に対する当てつけかもしれません。しかし,当てつけ以前に,同一の明治天皇が作成する文書間での表現の不統一はいかがなものでしょうか。うっかりすると,とんでもない不敬事件になりそうです(とはいえ,伊藤博文名義の『憲法義解』の第1条解説文は,「我が日本帝国は一系の皇統と相依て終始し」云々といい,「大日本帝国」の語を使用していません。伊藤は「大」を付さぬことを認容していたのでしょう。)。しかしとにかく,いろいろ考えるに,この辺についての調和的解釈は,国家の法たる大日本帝国憲法と皇室の家法たる明治皇室典範とはその性質及び適用対象が全く異なるのだ,という理論(井上毅の理論ですが,後に公式令(明治40年勅令第6号)の制定によって破られます。)によるべきもののようでもあります。つまり,臣民並びに外国及び外国人に対するところの(したがって外向きかつ正式のものである)我が国の国号は憲法の定める大日本帝国である一方,身内の皇族を対象とする皇室の家法たる明治皇室典範及びその上諭においては,国家の法によるその縛りに盲従するには及ばないというわけです。「大」日本帝国といわなかったのは,臣民らとは違って,皇室内ではやたらと誇大表現は使わない,ということになるのでしょう。

明治皇室典範1条の「大日本国皇位」にいう「大日本」は,瓊瓊杵尊が降臨し,ないしは神武天皇がそこにおいて即位すべき対象であった(したがって帝国ではまだない)「蛍火(ほたるびなす)(ひかる)神及蠅声(さばへなす)(あしき)神」を「(さはに)有」し,また「草木」が「(みな)(よく)言語(ものいふこと)」ある葦原(あしはらの)中国(なかつくに)(『日本書紀』巻第二神代下)をもその対象に含み得る,皇室が原始的に有する我が国の統治権の根源に遡っての表現でしょうか。他方,上諭における「日本帝国ノ宝祚」は,神武天皇以来の「万世一系歴代継承」してきた歴史的な皇位を指すもので,その間の我が国は確かに帝国であったわけです。

なお,明治皇室典範上諭の前記部分の伊東による英語訳文は,“The Imperial Throne of Japan, enjoying the Grace of Heaven and everlasting from ages eternal in an unbroken line of succession, has been transmitted to Us through successive reigns.”です。英語では,大日本国皇位も日本帝国ノ宝祚も,同じ“the Imperial Throne of Japan”なのでした。

 

オ 下関条約における用法

1895年の下関条約においては,明治天皇は「大日本国皇帝」,光緒帝は「大清国皇帝」と表現され,本文では「日本国」及び「清国」の語が用いられ,記名調印者の肩書表記は「大日本帝国全権辨理大臣」及び「大清帝国欽差全権大臣」となっていました。皇帝(天皇)の帝国であって,大臣は当該帝国に属するものの,帝国の皇帝(天皇)ではないわけです。

 大と帝国との間の,日本ないしは日本国の語源探究が残っています。

 

5 「日本」の由来

 

(1)「日本」国の国号採用の時期

 まず,日本国の国号が採用された時期が問題となります。

 

ア 天智朝(670年)説

ひとまずは,天智天皇によって670年(唐の咸亨元年)に採用されたものと考えるべきでしょうか。

 

ところでこの〔668年に大津で即位式を挙げた天智天皇の制定に係る〕『近江令』で,「日本」という国号がはじめて採用されたものらしい。唐は663年に百済の平定を完了したあと,668年,ちょうど天智天皇の即位の年に,こんどは平壌城を攻め落とし,高句麗国を滅ぼしたのだったが,唐の記録によると,翌々670年の陰暦三月,倭国王が使を遣わしてきて,高句麗の平定を賀した,という。だからこの遣唐使が国を出た時には,国号はまだ倭国だったのである。

ところが朝鮮半島の新羅国の記録では,この同じ670年の年末,陰暦十二月に「倭国が号を日本と更めた。自ら言うところでは,日の出る所に近いので,もって名としたという」と伝えられている。これはその書きぶりから見て,この時に日本国の使者が到着して通告したことのようだから,この遣新羅使が国を出た時には,国号はすでに日本国に変わっていたことになる。だから日本という新しい国号が採用されたのは670年か,早くても669年の後半でなければならない。

  (岡田英弘『倭国』(中公新書・1977年)151-152頁)

 

 咸亨元年の倭の使いに関しては『新唐書』巻二百二十列伝第百四十五東夷に「日本,古倭奴也。〔中略〕咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,悪倭名,更号日本。使者自言,国近日所出,以為名。或云日本乃小国,為倭所并,故冒其号。使者不以情,故疑焉。又妄誇其国都方数千里,南,西尽海,東,北限大山,其外即毛人云。〔後略〕」とあるところです。当該咸亨元年の遣唐使の発遣の時期については,『日本書紀』巻二十七天智天皇八年条(翌天智天皇九年が唐の咸亨元年です。なお,天智天皇の即位年は天智天皇七年です。)に「是年,遣小錦中(せうきむちう)河内(かふちの)(あたひ)(くぢら)等,使於大唐。」とあります。

670年(早くとも669年後半)説は,〔(いにしえ)の倭が〕高〔句〕麗を平らげたことを賀する遣いを咸亨元年(670年)に遣わしたが,〔倭は〕その「後」に(やや)夏音を習って倭の名を(にく)み,更めて日本と号した,ということから,唐の高句麗平定を咸亨元年に唐で賀した遣唐使の発遣時には我が国の国号は依然として倭国であっただろうとするものでしょう。これに関して1339年成立の『神皇正統記』において北畠親房は,「唐書「高宗咸亨年中に倭国の使始てあらためて日本と号す。其国東にあり。日の出所に近きをいふ。」と載せたり。此事我国の古記にはたしかならず。」と書いています(岩佐正校注『神皇正統記』(岩波文庫・1975年)18頁)。北畠は,『新唐書』にある「後」の字を省いて読んだものでしょうか。

『新唐書』は,北宋の欧陽脩・宋祁らが勅命を受けて11世紀に作ったものです。

唐の咸亨元年に係る新羅の記録は,『三国史記』巻六新羅本紀第六文武王上の同王十年条に「十二月,〔中略〕倭国更号日本,自言近日所出以為名。」とあります。我が国の記録には,同年「秋九月辛未朔〔一日〕,遣阿曇連頰垂(あづみのむらじつらたり)於新羅。とあります(『日本書紀』巻二十七天智天皇九年条)。

『三国史記』は,高麗の金富軾らによって12世紀に作られたものです。

 

イ 孝徳朝説

しかし,日本国の国号は,もっと早く孝徳天皇の時代に採用されたものだとする説があります。

 

  「日本」という国号の成立は,推古朝より少しのちになるようだ。大化改新(645年)のころ,たぶん大化の年号とともに制定されたのではなかろうか。『隋書』には「日本」という語はみえず,『旧唐書』日本伝には,貞観二十二年(648・大化四)に日本から使いがきたことを記したあとに,

  「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるをもって,故に日本をもって名と為す」

 とある。つまり,隋への国書にみえる「日出処天子」の「日出処」をいいかえたものである。『新唐書』日本伝には,「後稍〻夏音を習い,倭の名を悪み,更めて日本と号す」とある。〔略〕

  それにしても,日本とはなかなか壮大な国名である。中国にまけまいとする新興国のもえあがるような気魄が,この国号にもあらわれている。

 (直木孝次郎『日本の歴史2 古代国家の成立』(中央公論者・1965年)112-113頁)

 

しかし,この説における『旧唐書』の読み方は少々不思議です。『旧唐書』巻百九十九上列伝第百四十九上東夷においては,倭国の伝と日本国の伝とが別に立てられているのです。倭国伝は「倭国者,古倭奴国也。」から始まって,その最後の部分が「貞観五年,遣使献方物。太宗矜其道遠,敕所司無令貢,又遣新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才,与王子争礼,不宣朝命而還。至二十二年,又附新羅奉表,以通起居。」です。貞観二十二年(大化四年)に新羅に附して表を奉り,もって起居を通じたのは,倭国であって,日本国ではないようです。なお,貞観二十二年には,前年(大化三年)に我が国の孝徳朝を訪問していた新羅の金春秋(後の同国太宗武烈王)が,唐に使いしています。

『旧唐書』では倭国伝の直後が日本国伝ですが,日本国伝の冒頭部分は次のとおりです。

 

日本国者,倭国之別種也。以其国在日辺,故以日本為名。或曰:倭国自悪其名不雅,改為日本。或云:日本旧小国,併倭国之地。其人入朝者,多自矜大,不以実対,故中国疑焉。又云:其国界東西南北各数千里,西界,南界咸至大海,東界,北界有大山為限,山外即毛人之国。

 

 飽くまでも日本国は倭国とは別種であるものとされています。

 『旧唐書』は,五代の後晉の劉昫が,勅命を奉じて10世紀に著したものです。

 

ウ 702年の対唐(周)披露

なお,日本国の国号が採用された時期に関しては,8世紀初めの周(唐もこの時国号を変えていました。)の長安二年(我が大宝二年。702年)に武則天に謁見した我が遣唐使が「日本国」から派遣されたものであることについては,争いはないようです(『旧唐書』東夷伝には長安三年とありますが,長安二年でよいようです(神野志隆光『「日本」 国号の由来と歴史』(講談社学術文庫・2016年)14頁)。)。『三国史記』による670年説をどう補強するかが問題になるのでしょう(同書は評判が余りよくないようです。いわく,「『三国史記』文武王咸亨元年に,倭国を改めて日本国と号したという記事は,『新唐書』によったものである。〔略〕『三国史記』は信ずるに足りず,そもそも,中世文献である『三国史記』を根拠とすることはできない。」と(神野志235-236頁)。)。

これに関しては,『旧唐書』も『新唐書』も共に,倭国が倭の名を嫌った結果その号を更めた,という話のほかに,「或いは云ふ」ということで,倭国と小国である日本国との並立から併合へという動き,すなわち争いがあった話を伝えていることが注目されます。しかも,その間のことについては,唐への我が国からの使者はどうもいい加減な受け答えをしていたようです(『旧唐書』では「実を以て対へず,故に中国は疑ふ。」,『新唐書』では「使者情を以てせず,故に疑ふ。」)。外国に積極的に話したくない我が国のこの頃の内紛といえば,咸亨三年(672年)の壬申の乱でしょうか。天智天皇の正統を継ぐ大津朝廷側が日本国という国号を採用していたとすれば,『新唐書』の「日本は(すなは)ち小国,倭の幷せる所と為る,故に其の号を冒す。」という記述が,壬申の乱及びそれ以後の経過をうまく表しているように思われます。天智天皇は日本国という新しい国号を採用したが,新国号派は少数にとどまり,その死後,守旧派(倭)を率いた大海人皇子に大津朝廷(日本国)は滅ぼされた,しかし結局,新国号の理念が天武=持統=文武朝において最終的には貫徹するに至った(冒其号),ということでしょうか。明治から大正にかけてもっとも強力であったとされる壬申の乱原因論である「天智天皇の急進主義にたいする大海人皇子の反動的内乱とするみかた」(直木334頁)には,確かに分かりやすいところがあります。

以上,日本国という国号の採用時期に関する議論はこれくらいにして,一応670年に天智天皇が採用したとの説を採り,国号変更の原因及び「日本国」採択の理由について考えましょう。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 日本国「第100代」内閣総理大臣登場

 2021921日付けの「日本国憲法第7条及び国会法第1条によって,令和3104日に,国会の臨時会を東京に召集する。」との詔書が同日の官報特別号外第78号をもって公布され(公式令(明治40年勅令第6号)1条・12条参照),2021104日に第205回国会が召集され,現在の菅義偉内閣は総辞職,当該国会の議決によって自由民主党総裁・岸田文雄衆議院議員が新内閣総理大臣に指名され(日本国憲法67条),直ちに同議員が

天皇陛下によって第100代内閣総理大臣に任命される運びであるそうです(日本国憲法61項)。(なお,余計なことながら,国会法(昭和22年法律第79号)5条は「議員は,召集詔書に指定された期日に,各議院に集会しなければならない。」と規定し,かつ,国会議事堂が東京都千代田区に所在していることは明らかであるにもかかわらず召集詔書において召集地が東京である旨念が押されてあるのは,1894年の日清戦争の際に岸田衆議院議員の選出選挙区である広島市に帝国議会が召集された前例(同年10月)があるからでしょう。)

 ところで,

 

岸田文雄第100代内閣総理大臣!?

ヒャク!?

カッコいい!!

 

 ということに直ちになるのでしょうか。

 

2 百王説

 かつて,百王説というものがありました。畏れ多いことながら,我が

天皇家も百代限りではないか,との心配です。

承久年間に成立した慈円の『愚管抄』にいわく。

 

 ムカシヨリウツリマカル道理モアハレニオボエテ,神ノ御代ハシラズ,人代トナリテ神武天皇ノ以後百王トキコユル。スデニノコリスクナク八十四代ニモナリニケル(第三冒頭部)

 

 ここで第84代に数えられる天皇は,順徳天皇です。当時は弘文天皇の在位はいまだ認められていなかったものの,神功皇后が天皇と認められていたので,現在の数え方による代数と,結果として一致しています。順徳天皇は,今年(2021年)からちょうど800年前の承久三年,同年の変乱の結果(承久の変に関しては:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1064426577.html),怒涛逆巻く日本海中の佐渡島にお遷りになっておられます(乱臣賊子的にあからさまに言えば,流刑です。(乱臣賊子に関しては:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1066681538.html。旧刑法(明治13年太政官第36号布告)における流刑及び徒刑に関しては:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079020156.html)。

 ふと気になり,第84代内閣総理大臣はだれであったかと確認すると,内閣総理大臣在職中の20004月に倒れて不帰の客となった小渕恵三内閣総理大臣でした。これも不運というべきでしょう。(同内閣総理大臣の最後の1箇月間の動きについては:https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4410784/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/2000_03_calender/03_timetable.html

 こうなると,第100代の天皇がだれであったかも気になります。仲恭天皇の在位を認めれば,第96代が後醍醐天皇,更に持明院統正統論を採れば,第97代が光厳天皇,第98代が後醍醐天皇重祚,第99代が光明天皇,そして第100代が崇光天皇,第101代が後光厳天皇(又は後村上天皇)となります。なるほど。すなわち,第100代崇光天皇は,足利尊氏・直義兄弟の兄弟喧嘩のとばっちりで観応二年(1351年)に退位せしめられ三種の神器も奪われ,更に翌正平七年(1352年)には吉野方の狼藉によって賀名生に連行されてしまうという大変な辛苦を嘗められた不幸な天皇であらせられたのでした。しかして,持明院統の王朝はここにいったん断絶(光厳太上天皇及び光明太上天皇も賀名生に連行せられてしまっています。),そこで観応三年(1352年)に新たに,二条良基及び足利尊氏を両頭とする我ら臣民による推戴をその正統性の根拠とする後光厳天皇による新王朝が発足したのでした。(以上につき:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1003236277.html

 

3 いわゆる第三次近衞内閣による問題残置(対米開戦問題のみにあらず)

 ということで,第100代はゆゆしい。やった第100代だ!と無邪気に興奮する前に,歴代内閣総理大臣の代数を念のためもう一度数え直してみるべきではないでしょうか――といえば直ちに,かつて「加藤高明内閣といわゆる第三次近衛内閣」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1062787421.html)をものした筆者としては,近衞文麿が内閣総理大臣に任命されたのは実は3回ではなくて2回にすぎないから(いわゆる第三次近衞内閣の発足時には,提出されてあった近衞文麿内閣総理大臣の辞表は結局受理されずに昭和天皇から下げ渡されています。1941718日に近衞が昭和天皇からもらった辞令は,兼司法大臣に任ぜられるものだけでした(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(東京書籍・2016年)433-434頁)。),第39代内閣総理大臣はいわゆる第三次近衞内閣の近衞文麿ではなくて東條英機であり,以下1代ずつ繰り上がって,99代目といわれていた菅義偉内閣総理大臣は,本当は98代目だったのだ,100代目!といって騒ぐには,今次衆議院議員総選挙後の内閣総辞職(日本国憲法70条)を承けた新内閣総理大臣の指名・任命を待たねばならないのだ,とへそ曲がりなことを言いたくなります。

 しかし,世間に抗うのも骨が折れます。しっかり不織布のマスクを着けて,沈黙すべきでしょうか。(なお,不織布マスクの着用については,2021831日付け下級裁判所宛て最高裁判所事務総局「デルタ株等による感染拡大状況を踏まえた感染防止対策」の第31「マスク着用の徹底」において,ウレタンマスクや布マスク(アベノマスク!)ではなく「不織布マスクの着用を基本とすることが相当である。」とされています。)

 

4 「第3代」内閣総理大臣・三條實美の復権

 とはいえ,結果としては沈黙するとしても,それなりの筋は通しておくべきでしょう。

3度目の近衞を神功皇后のように歴代から落とすならば,弘文天皇又は仲恭天皇のように事後的に歴代に加えるべき内閣総理大臣を捜し出せばよいではないか――というのが筆者の思案です。

ということですぐ頭に浮かんだのは,三條實美です。

18891024日,第2代内閣総理大臣黑田淸隆以下大隈重信外務大臣を除く各国務大臣が辞表を提出(大隈は同月18日閣議からの帰途に玄洋社員来島恆喜に爆弾を投げつけられて負傷療養中),同月25日,三條實美内大臣に内閣総理大臣の兼任が命ぜられ,内閣総理大臣以外の国務大臣からの辞表は却下されます。(『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)による。御厨貴『日本の近代3 明治国家の完成 18901905』(中央公論新社・2001年)によれば事情は実はより複雑であったようで,「〔188910月〕22日,総理大臣黒田清隆以下,療養中の大隈を除く全員の大臣が総辞職の意向を明らかにする。〔略〕しかし黒田は,後継に山県を推薦した後,自分一人の辞表を出して辞任する。/〔略〕非常な混乱状態となった。全員辞任のつもりが,独断専行のかたちでまず総理が先に辞めてしまった。総理が辞めたと聞いて,他の大臣も困りはて,ついには日付をずらして,全員辞表を出したのである。」とのことです(158-159頁)。)

18891025日から起算して61日目の同年1224日,内大臣兼内閣総理大臣公爵三條實美は内閣総理大臣の兼官を免ぜられ,同日内務大臣兼議定官臨時砲台建築部長陸軍中将兼監軍従二位勲一等伯爵山縣有朋が内閣総理大臣兼内務大臣に任ぜられます。従来この山縣が,第3代内閣総理大臣であるものとされています。

三條實美は,なぜ第3代内閣総理大臣として扱われてこなかったのでしょうか。

内閣総理大臣は代わっても,他の国務大臣は黑田内閣のままだったからでしょうか。しかし,黑田内閣自体,1888430日の発足時は内閣総理大臣以外の国務大臣は第1次伊藤博文内閣のものがそのまま留任しています(伊藤は枢密院議長として内閣に班列となり,農商務大臣であった黑田が内閣総理大臣に異動した後は,留任した榎本武揚逓信大臣が同年725日まで農商務大臣を臨時兼任)。

在任期間が短かったからでしょうか。しかし,1945年のポツダム宣言受諾後の東久邇宮稔彦王の内閣総理大臣在任期間は54日でもっと短い。

国立国会図書館の「近代日本人の肖像」ウェッブページを見ると,三條の説明書きには「〔明治〕22年黒田内閣総辞職後,一時臨時首相を兼任した。」とありますから,三條の内閣総理大臣は臨時兼任だったのでしょうか。確かに,内閣総理大臣の臨時兼任は,第2次伊藤内閣の伊藤博文内閣総理大臣が1896831日に辞任後同年918日に第2次松方正義内閣が発足するまでの間黑田が命ぜられて以来,内閣総理大臣が辞任し又は死亡した場合においてその例は多いのですが,これらの内閣総理大臣臨時兼任者は,歴代の内閣総理大臣には加えられていません。しかし,三條の内閣総理大臣兼任は,正に兼任であって,臨時兼任ではありません。「これは臨時兼任ではなく,かたちとしては恒常的な兼任」であったものです(御厨159頁)。また,その当時,兼任と臨時兼任との区別がなかったということはありません。前記の榎本逓信大臣による農商務大臣臨時兼任は,三條内大臣による内閣総理大臣兼任より前のことでした(大臣の臨時兼任の制度は,内閣総理大臣伊藤博文による1887916日から188821日までの外務大臣臨時兼任から始まっています。)。(ただし,大臣の長期洋行中は,臨時兼任ではなく,兼任とされたようです(ヨーロッパ視察中の山縣内務大臣のために1888123日から1889103日まで松方正義大蔵大臣が内務大臣を兼任したような場合)。)

「三条に期待されたのは,三条が総理大臣としての手腕をふるうことではなく,次の首相が山県であることを暗黙の前提として,それに向けて下(なら)しをするということに尽きた。」(御厨159頁),「制度上の整備を,山県はすべて三条内閣に委ねた。これはみごとなばかりと評してよい。三条は政治的野心をもたぬ無私かつ無能の人であるがゆえに,条約改正〔交渉の延期の決定(18891210日の閣議)。大審院判事に外国人を任用するなどという大日本帝国憲法違反の大隈式条約改正の否定〕と内閣官制〔明治22年勅令第135号,18891224日裁可・公布,副署者の筆頭は「内閣総理大臣 公爵三條實美」。18851222日の内閣職権では内閣総理大臣の権限が強すぎ,実際に「黒田のときは,黒田・大隈が一体になって,条約改正という外交案件を進めたため,ほかの大臣がいくら反対しても,覆すことができない状況」という困った事態となっていたため,内閣官制では内閣総理大臣の権限を弱めています。)〕という国会開設を前に処理せねばならぬ難問を全部そこで片づけてしまうことができた。したがって課題達成とともに三条は退き,いわば失点ゼロのかたちで山県は満を持して登場することになる。」(御厨167頁・166頁)ということで,無私・無能の三條は政治的に影が薄く,その前後のあくの強い黑田,黒幕の山縣の間で目立たぬまま,居心地悪く懸命に内閣総理大臣を兼任していたことも人々から早々に忘れ去られてしまったものでしょうか。しかし,これは政治史的評価の問題であって,三條を歴代内閣総理大臣に加えるべきかどうかは,制度的に考えるべきことでしょう。それに,大日本帝国憲法下の内閣の制度を定めた当の内閣官制に「内閣総理大臣」として副署している三條が歴代内閣総理大臣から排除されているということは,皮肉でなければ失礼でしょう。また,山縣内閣の下均しをした三條内大臣の内閣総理大臣兼任期を,従来黑田内閣の存続期間内に含めてしまっていますが,これもどうでしょうか。黑田・山縣両内閣と少なくとも等距離の取扱いがされてもよいのではないでしょうか。そもそも黑田は条約改正について三條政権の採った方針(伊東巳代治が起草したものを農商務大臣井上馨が提出したというかたちになっている「将来外交之政略」(御厨161-162頁))には不満であって,「そこで黒田は怒って,〔188912月〕15日の夜,酔いに乗じて井上馨をその館に訪れた。ちょうど井上は留守であったが,黒田は大酔のまま乱入し,「井上はおるか,井上は国賊なり,殺しに来た」と乱暴な大声を発し,座敷に上がりこんで狼藉を働き,暴れ回った。」(御厨165頁)という醜態を演じており,三條政権をもって同一の黑田内閣がそのまま延長されたものとする従来の取扱いは,三條には迷惑であるし,黑田も不本意とするところでしょう。

内閣総理大臣は副職禁止であって,他の大臣を兼務するような者は歴代内閣総理大臣には加えてはやらぬのだ,というわけにもいきません。初代内閣総理大臣の伊藤博文自身が最初から宮内大臣を兼任しています(1887917日,すなわち前記の外務大臣臨時兼任を始めた翌日,「免兼宮内大臣」ということになっています。)。三條の次の山縣も内閣総理大臣兼内務大臣です。単なる兼業は,歴代内閣総理大臣に加えられる上では問題とはならないようです。

 どうも問題は,兼任する大臣の官職のうち,どちらが本官でどちらが兼官かということになるようです。三條の場合は,例外的に,内大臣が本官で,内閣総理大臣が兼官となっています。内閣官房(内閣所属部局及職員官制(大正13年勅令第307号)により19241220日から設けられたようです(同官制1条・2条,附則1項)。)ないしは内閣総理大臣官房で歴代内閣総理大臣の表を作る際に,あっ三條公爵は内大臣が本官で宮中の人だから,我々内閣職員ないしは総理府職員の大ボスたる正式な内閣総理大臣ではないよね,という整理が暗黙のうちにされてしまったものでしょうか。18851222日の明治18年太政官第68号達によれば,内大臣は宮中に置かれ,「御璽国璽ヲ尚蔵ス」及び「常侍輔弼シ及宮中顧問官ノ議事ヲ総提ス」という職務を行うものとされていました。

しかし,兼官大臣=非大臣の発想であると,例えば先の対米英戦の前半期には陸軍大臣は不在であったのか,ということになります。

 

 〔19411018日〕午後3時,鳳凰ノ間において親任式を行われ,陸軍大臣兼対満事務局総裁陸軍中将東条英機を内閣総理大臣兼内務大臣陸軍大臣に任じられる。

 (宮内庁512頁)

 

 これは,内閣総理大臣を本官とし,内務大臣及び陸軍大臣を兼官とするということでしょう。


DSCF0045

 いざ,国賊・井上馨を成敗せん(札幌市中央区大通公園)

 

5 内閣を総理する初代大臣としての三條實美

 更に余談。

内閣総理大臣を,六文字熟語ではなく,内閣を総理する大臣というように普通名詞的に解すると,初代内閣総理大臣は伊藤博文ではなく,実は三條實美であった,ということになるかもしれません。

我が国における内閣制度の発足は,18851222日の明治18年太政官第69号達で,

 

 今般太政大臣左右大臣参議各省卿ノ職制ヲ廃シ更ニ内閣総理大臣及宮内外務内務大蔵陸軍海軍司法文部農商務逓信ノ諸大臣ヲ置ク

 内閣総理大臣及外務内務大蔵陸軍海軍司法文部農商務逓信ノ諸大臣ヲ以テ内閣ヲ組織ス

 

 と定められたことに始まると一般にされています。

 しかし,「内閣」の語は,それより前から官制上使用されています。

 

   明治6年〔1873年〕52日,太政官無号達を以て太政官職制の改正が行はれた。其の改正の第1点は,太政官――正院の権限を大いに拡張したこと,従つて各省の権限を縮(ママ)したことである。

   改正の第2点は,正院機構の改正である。従来の太政官職制〔明治四年七月二十九日(1871913日)発布〕に於ては,「太政大臣,左右大臣,参議ノ三職ハ天皇ヲ輔翼スルノ重官」〔明治四年八月十日(1871924日)の太政官第400号達で改定された「官制等級」中の文言。「・・・ニシテ諸省長官ノ上タリ故ニ等ヲ設ケス」と続きました。〕であつたが,今回の改正に於て,太政大臣及び左右大臣のみ天皇輔弼の責に任じ,参議は内閣――此の時始めて内閣なる文字を使用した――の議官として諸機務議判の事を掌ることゝなつたのである。即ち従来天皇輔弼の責任の所在と,国務国策の決定の手続とが不明瞭であつたのが,これで修訂されたわけである。併しながらなほ政治の実力者たる参議に特任して組織せしめられる内閣の権限と,それによる天皇輔弼の大臣の責任とは一致せしめられなかつた。此の点は,後に明治18年の内閣制度の成立を俟つて,始めて実現せられたところである。

   改正の第3点は,右院に関するものである。〔以下略〕

  (山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)38頁。下線は筆者によるもの)

 

確かに,『憲法義解』の大日本帝国憲法55条解説を見ると,明治「18年〔1885年〕の詔命に至り,大いに内閣の組織を改め」とありますから(下線は筆者によるもの),太政官制時代から内閣が存在していたことが前提となっています。

1871年の最初の太政官職制において参議は「太政ニ参与シ官事ヲ議判シ大臣納言〔この「納言」は前記明治四年太政官第400号達では「左右大臣」となっています。〕ヲ補佐シ庶政ヲ賛成スルヲ掌ル」とされていたところが,1873年の太政官職制では「内閣ノ議官ニシテ諸機務議判ノ事ヲ掌ル」と,なるほど権限が縮小されています。

187352日の太政官職制にいう「内閣」とは何かといえば,同日付けの正院事務章程に「内閣ハ 天皇陛下参議ニ特任シテ諸立法ノ事及行政事務ノ当否ヲ議判セシメ凡百施政ノ機軸タル所タリ」とあります。また,「正院」とは何かといえば当該事務章程に「正院ハ 天皇陛下臨御シテ万機ヲ総判シ太政大臣左右大臣之ヲ輔弼シ参議之ヲ議判シテ庶政ヲ奨督スル所ナリ」とあります。

太政官に正院があるのならばそれ以外の院(左院及び右院)があるわけですが,これらの3院については,1871年の太政官職制についてですが「太政官を分つて正院・左院及び右院の三とした〔略〕。此の中正院は従来の太政官に相当するもので,太政大臣納言及び参議等を以て構成せられ,庶政の中枢的最高機関である。左院は後の元老院に相当するもので,専ら立法の事を審議し,議長の外一等議員二等議員三等議員を以て構成せられる。右院は各省の長官次官を以て組織せられ,行政実際の利害を審議する所であつて,謂はゞ各省の連絡機関とも見るべきものである。尚太政官の下に各省を置き卿一人を以て長官とすることは,概ね従前と変わりはない。」と説明されています(山崎31頁)。

太政官正院の内閣を総理する大臣がいれば,それが内閣総理大臣ということになるわけです(参議は,大臣ではありません。)。1873年の太政官職制において太政大臣の職掌は「天皇陛下ヲ輔弼シ万機ヲ統理スル事ヲ掌ル/諸上書ヲ奏聞シテ制可ノ裁印ヲ鈐ス」とされている一方(下線は筆者によるもの),左右大臣のそれは「職掌太政大臣ニ亜ク太政大臣缺席ノ時ハ其事務ヲ代理スルヲ得ル」ということなので,太政大臣・三條實美が,内閣を総理する大臣だったものでしょう。

三條は,「明治6年政変では政府内の対立をまとめきれずに病に倒れるなど,指導力のある政治家とは見なされていなかった。」(御厨159頁)と酷評されていますが,これは,征韓論をめぐって相争う参議らを取りまとめ,内閣を総理する職責が太政大臣にあったからこそでしょう。

なお,日本国憲法の英文では内閣総理大臣は“Prime Minister”となっています。英国に倣ったものでしょう。ただし,英国では「従来Cabinetの議長をしていた国王が出席しなくなったので,Cabinetに議長を作る必要が生じた,この議長はPrime Minister――文字通りには「第一大臣」――とよばれることが多かった。」ところ(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)142-143頁),「Prime Ministerという名は,アン女王の時にゴドロフィン(Earl of Godolophin)(1702-10年)に用いられたのが最初である。他面,ニューカースル(Duke of Newcastle; Thomas Pelham-Holles)(首相1754-56年,57-62年)やピット(William Pitt; Earl of Chatham)(首相1766-68年)は,Prime Ministerとはよばれていない。」(田中143頁註24)ということなので,Prime Ministerは,本来は普通名詞なのでしょう。すなわち,太政大臣を天皇の第一大臣という趣旨で“Prime Minister”と訳してもよいではないか,とも思われるのです。

ここで『憲法義解』の大日本帝国憲法55条解説の伊東巳代治による英訳を確認しておきましょう。そこでは,内閣はCabinetとされ,太政官はCouncil of State,参議はCouncillors of Stateです。Councilであれば,そもそも太政官自体が会議体の如し。太政大臣は,Chancellor of the Empireとなっています。ドイツ語だとReichskanzlerですか。ビスマルクみたいですね。左大臣がMinister of the Left,右大臣がMinister of the Rightなので,挙国一致のためにあえて左右(サヨウヨ)両翼陣営から大臣を採ってバランスを取ろうとしていたのか,などと余計なことを考えてしまいます。内閣総理大臣はMinister President of Stateであって,これは国務大臣(Minister of State)中の首席(president)ということでしょう(国務大臣ではない大臣は,内大臣及び宮内大臣です。なお,太政官制下の各省長官の卿もMinister of Stateと訳されています。)。内閣総理大臣がMinister President of Stateであるのを奇貨として,Chancellor of the EmpireMinister President of Stateとを総称してPrime Ministerと言ったってよいではないか,ということになるでしょうか。しかし,我が国の歴代内閣総理大臣についての議論をするに当たって,英語を介するのはねじくれていますね。


DSCF1540 (2)

I am neither Minister President of State nor Chancellor of the Empire. (東京都文京区護国寺)

 

附論:「内閣」語源僻考

太政官があって正院があって,正院の中に天皇の特任を受けて参議が議判を行う内閣があったわけでした。そうであればすなわち内閣は,正院の更に内部にあるから()閣だったのでしょうか。

『角川新字源』(第123版・1978年)的には,「内閣」とは「①妻女のいるへや。(同)内閤ないこう②明代にできた行政の最高機関。明の成祖は翰林院の優秀な学者を宮中の文淵閣に入れて重要政治をつかさどらせ,これがやがて政府の最高機関となった。」とあります。しかし,1873年段階での我が太政官正院の内閣は「政府の最高機関」とまではいえないでしょう。天皇の輔弼は,専ら太政大臣の職務です。

なお,明の場合「天子の側近たる宰相の職が必要になるのであるが,既に太祖〔洪武帝〕の命によって丞相を廃した後であるから,祖法に背いてまで公然と宰相を任命するわけに行かない。そこで天子の私設の秘書という形で,内閣という制度を造った。」ということで(宮崎市定『中国史(下)』(岩波文庫・2015年)190-191頁),「内閣大学士が実際の宰相の任となった」ものの(宮崎191頁),「私設」だから「内」閣ということになったようにも思われます。しかし,我が太政官正院の内閣は,私設のものではありません。とはいえ,明の嘉靖帝の時代(16世紀半ば)になると「大学士が制度上独自の地位を認められ」るようになったそうで(宮崎192頁),私設秘書的なるものとしてのその出自も忘れられるようになったものでしょう。

(ちなみに,19世紀当時の清の内閣は,18世紀初めの雍正帝による軍機処設置の結果「軍機処が出来ると,急を要する重要な文書は次第にここを経過するようになり,内閣で扱うものは会計報告など月並みな文書ばかりとなり,それに伴って内閣大学士は閑散な名誉職と化し,実権が軍機大臣の手に移った」(宮崎249頁)との状況がなおも続いていたものでしょうか。)

「内閣大学士の職務のうち,最も重要なのは票擬,または擬旨の役目である。旨とは天子の決定のことであり,大学士は天子に代わって,百官が奉る上奏を下見し,天子が下すべき旨について案を立てるので,これを擬旨という、この擬旨は小紙片,票に記入して,これを上奏文の最後に貼っておくから,これを票擬と称する」ということで(宮崎192頁),漢土の内閣は学者たる大学士が皇帝の秘書的な仕事をする仕組みでしたが,志士上がりの政治家たる参議らが諸機務の議判をする場である我が太政官正院の内閣は,むしろ英語のCabinetの翻訳語として意識されていたものでもありましょうか。研究社の『新英和中辞典』(4版・1977)によれば,英語のcabinet”は,貴重品などを収めまたは陳列する飾りだんす(たな),キャビネットの意味があるほか,古くは小室,私室(=closet),国王などの私室の会議(室)を意味していたところ,これは,漢字の「閣」と符合するようです。すなわち,『角川新字源』によれば,「閣」は,①かんぬき,②物をしまっておく所,③たな,④おく(措),とどめる,やめる,⑤物をのせる,⑥たかどの(楼),⑦ものみ,四方を観望する高い台,⑧かけはし,⑨ごてん「殿閣」,⑩→閣閣(①端正なさま,まっすぐなさま,②かえるの鳴く声のさま),とあります。(単なる「閣」よりも「内閣」とした方がよりcabinet的ですね。「金閣」では派手すぎます。)しかして,英国においては,「Cabinetは,17世紀に,国王が事項ごとにその助言者の枢密顧問官を集めて相談をした会合の中で最も重要であった外交担当者の集まりであるCabinet Councilから発生したものであり,18世紀初頭になると,秘密保持と能率の見地から,重要事項についてはより少数のメンバーが集まった。これがCabinetとよばれた。(Cabinet Councilは,18世紀中葉まで存続する。)」とのことで(田中142頁),Cabinetは秘書の仕事場というよりも,相談の場であるとの趣旨が前面に出ます。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 令和の御代の現在から百年ほど前の大正時代,スペイン風邪というものがはやったそうです。

 

1 1918年春

 1918年(大正7年)の春から兆しがありました。「この年〔1918年〕は,普段なら流行が終息するはずの5月頃になってもインフルエンザ様の疾患があちこちで発生しました。例えば軍の営舎に居住する兵士や紡績工場の工員,相撲部屋の関取など,集団生活をしている人たちの間で流行が目立ちました。これらは季節性インフルエンザの流行が春過ぎまで長引いたものなのか,スペインインフルエンザ〔スペイン風邪〕の始まりだったのかは不明です。しかし米国からスペインインフルエンザ第1波(春の流行)が世界に拡散していた時期に一致しますので,この時ウイルスが日本に入ったとも考えられます。」とのことです(川名明彦「スペインインフルエンザ(後半)」内閣官房ウェブサイト・新型インフルエンザ等対策ウェブページ(20181225日掲載))。『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)は,東京朝日新聞を典拠に,1918年「春.― 世界的インフルエンザとなったスペイン風邪,わが国に伝わり,翌年にかけ大流行(死者15万人に及ぶ)」と記しています(234頁)。すなわち,「スペインフルの第一波は1918年の3月に米国とヨーロッパにて始まります」とされているところです(国立感染症研究所感染症情報センター「インフルエンザ・パンデミックに関するQ&A」(200612月))。なお,「スペインフル」の「フル」とは“flu”のことで,influenza(インフルエンザ)の略称です。

世界史年表的には,19183月には,3日にブレスト=リトウスク講和条約が調印されて東部戦線のソヴィエト=ロシアが第一次世界大戦から脱落,21日にドイツ軍が西部戦線で大攻勢を開始します。

 

1918321日,濃い霧が発生した。偶然にも,この日はドイツ軍のソンム川における攻勢予定日であった。ドイツ歩兵は,ほとんど察知されずに英軍の機関銃座を蹂躙した。すぐに,全戦線の崩壊が始まった。英兵は,士官の大部分を含めて,当該大戦中に徴募された兵士たちであった。彼らが訓練を受けたのは,塹壕を固守し,時折そこから攻撃をしかけることであった。彼らには開豁地での戦闘の経験はなかった。念入りに構築された塹壕システムから追い立てられ,彼らは狼狽した。彼らは何とかしのぎつつも,大幅に後退した。ヘイグの〔英〕予備軍は,はるか北方のかなたにあった。(Taylor, A.J.P., The First World War. Penguin Books, 1966. p.218

 

2 1918年初夏

ところで,相撲部屋には,十両以上の「関取」のみならず幕下以下の汗臭い(ふんどし)担ぎもいるわけですが,19185月段階における「インフルエンザ様の疾患」の流行の際(同月「8日付の新聞は「流行する相撲風邪――力士枕を並べて倒れる」という見出しで,「力士仲間にたちの悪い風邪がはやり始めた。太刀山部屋などは18人が枕を並べて寝ていた。友綱部屋では10人くらいがゴロゴロしている」と伝え」,「花形力士の欠場続出で番付も組み替えられた。」という状況であったそうです(「朝日新聞創刊130周年記念事業 明治・大正データベース」ウェブページ)。)角界においては特段の「自粛」はされなかったようです。同月27日月曜日午後の皇太子裕仁親王(当時17歳)について,「水交社において開催の明治三十七八年戦役海軍記念日第13回祝賀会に行啓される〔日露両海軍の日本海海戦は1905527日に発生〕。水交社総裁〔東伏見宮〕依仁親王に御対顔になり,水交社長加藤友三郎海軍大臣以下の親任官及び同待遇に賜謁の後,余興の大相撲を御覧になる。」と伝えられています(宮内庁『昭和天皇実録 第二』(東京書籍・2015年)376-377頁)。

DSCF1468DSCF1471DSCF1472
DSCF1473
東伏見稲荷神社(東京都西東京市)


DSCF1475
 西武新宿線東伏見駅(東京都西東京市)

 当該相撲見物(海軍)のせいかそれともその前日の千葉の鉄道聯隊等行啓(陸軍)のせいかどちらかはっきりしないのですが,裕仁親王は同年
6月「7日 金曜日 前月26日の千葉行啓以来,御体調不良のこと多く,本日より当分の間,〔東宮御学問所における〕月曜日から金曜日の授業を1時間減じられる。この措置は,第1学期の間,継続される。」ということになっています(実録二378頁)。東宮御学問所における裕仁親王の授業の時間は,月曜日から金曜日までは本来第5時限まで,土曜日は第2時限までであって,第1時限は午前8時に開始され,第5時限(これは武課及び体操並びに馬術)は午後130分に終了ということでありました(実録二367頁)。ちなみに,東宮御学問所総裁は,海軍大将である東郷平八郎元帥でした。

なお,19185月には横綱になったばかりの栃木山守也は,同月27日に裕仁親王の前でその大技量を発揮したものと想像されますが,歿後,昭和天皇から勲四等瑞宝章を授けられています。

裕仁親王が海軍接待の大相撲を楽しんだ頃,我が友邦フランス共和国に危機が訪れます。

 

 〔1918年〕527日,ドイツ軍14箇師団は戦線を突破し,1日のうちに10マイル前進した。遠い昔の19148月以来,そのようなものとしては最大の前進であった。63日までにドイツ軍はマルヌ川に達し,パリまでわずか56マイルの距離にあった。またしても〔ドイツの〕ルーデンドルフは成功に幻惑された。彼は新兵力を投入したが,それらは〔フランスの〕フォッシュが最終的に予備軍を動かすにつれ,勢いを失い,停止した。彼らはフランス軍の戦線を破摧してはいなかったのであって,ドイツ兵は再び袋の中に向かって進軍してしまっていたのである。また,彼らは北方に控置されていたフォッシュの予備軍を大いに引き寄せてもいなかった。そうではあるものの,ドイツ軍の当該前進は,多大の警報を発せしめた。フランスの新聞に再び「マルヌ川」が現れると,1914年の恐怖の記憶がよみがえった。代議院における非難は高まった。〔フランス首相の〕クレマンソーは頑張り,自己の威信を危険にさらすことまでしてフォッシュをかばった。多くの下位の将軍たちは,相変わらずのやり方で罷免された。事態を更に悪化させることには,軍は疫病(エピデミック)に襲われていた。スペイン流行性(インフル)感冒(エンザ)として知られる20世紀最大の殺人者である。それは世界を席巻し,秋には銃後の市民を次々と斃した。インドだけでも,4年間の大戦の全戦場で死んだ者の総数よりも多くの数の者がそれによって死亡した。大戦はクライマックスに達し,人々は高熱にあえいだ。(Taylor. pp.228-229

 

3 1918年のスペイン風邪流行の始まり

 我が国における本格的なスペイン風邪の流行はいつからかといえば,公益社団法人全国労働衛生団体連合会のウェブサイトにある小池慎也編「全衛連創立50周年事業健康診断関係年表」(201910月)は,「欧州のインフルエンザ流行より34ヵ月遅れて,わが国では〔1918年〕8月下旬から9月上旬にかけて蔓延の兆しを示した。」とあり,防衛医科大学病院副院長の川名明彦教授は「本格的なスペインインフルエンザが日本を襲ったのは19189月末から10月初頭と言われています。」と述べています(川名前掲)。池田一夫=藤谷和正=灘岡陽子=神谷信行=広門雅子=柳川義勢「日本におけるスペインかぜの精密分析」(東京都健康安全研究センター年報56369-374頁(2005年))の引用する内務省衛生局の『流行性感冒』(1922年)によると,「本流行ノ端ヲ開キタルハ大正7年〔1918年〕8月下旬ニシテ9月上旬ニハ漸ク其ノ勢ヲ増シ,10月上旬病勢(とみ)ニ熾烈トナリ,数旬ヲ出テスシテ殆ト全国ニ蔓延シ11月最モ猖獗ヲ極メタリ,12月下旬ニ於テ稍々下火トナリシモ翌〔大正〕8年〔1919年〕初春酷寒ノ候ニ入リ再ヒ流行ヲ逞ウセリ」とあります。8月下旬発端説を採るべきでしょうか。

 

4 米騒動とスペイン風邪ウイルスと

ところで,1918723日には「富山県下新川郡魚津町の漁民妻女ら数十人,米価高騰防止のため米の県外への船積み中止を荷主に要求しようとして海岸に集合(米騒動の始まり)」という小事件があったところ(近代日本総合年表234頁),問題の同年8月には,3日の富山県中新川郡西水橋町での騒動を皮切りに,10日には名古屋・京都両市に騒動が波及,13日及び14日の両日には全国の大・中都市において米騒動が絶頂に達しています(同236頁)。Social distancingもあらばこそ,当該大衆行動は当然人々の密集ないしは密接を伴い,スペイン風邪ウイルスの伝播を促して同月下旬からの流行開始を準備してしまったものではないでしょうか。

内務省衛生局によれば,スペイン風邪が「最モ早ク発生ヲ見タルハ神奈川,静岡,福井,富山,茨城,福島ノ諸県」であって(池田ほか前掲),正に富山県がそこに含まれています。1918917日までに,37市・134町・139村で米騒動の大衆行動,検挙者数万,起訴7708人ということですが(近代日本総合年表236頁),混雑した留置所はもちろん密閉・密集・密接状態であって,三密理念型の絵にかいたような顕現です。

当該流行性感冒の伝播の状況については,最初の前記6県に続いて「之ト相前後シテ埼玉,山梨,奈良,島根,徳島,等ノ諸県ヲ襲ヒ,九州ニ於テハ9月下旬ヨリ10月上旬ニ渉リ熊本,大分,長崎,宮崎,福岡,佐賀ノ各地ヲ襲ヒ,10月中旬ニハ山口,広島,岡山,京都,和歌山,愛知ヲ侵シ,同時ニ東京,千葉,栃木,群馬等ノ関東方面ニ蔓延シ,爾余ノ諸県モ殆ント1旬ノ差ヲ見スシテ悉ク本病ノ侵襲ヲ蒙レリ,10月下旬北海道ニ入リ11月上旬ニハ遠ク沖縄地方ニ及ヒタリ」と内務省衛生局は記録しています(池田ほか前掲)。

 

5 寺内正毅「スペイン風邪対策本部長」による「スペイン風邪緊急事態宣言」及び臣民の「自粛」

軍隊を出動させたり,新聞記事を差し止めたりするばかりの当時の寺内正毅内閣の米騒動対応は,見当違いの大間違いでありました。それに対して,人智の進んだ2020年の第4次安倍晋三内閣時代における我々の目から見た正解はどのようなものであったかといえば,次のごとし。

衛生行政所管の水野錬太郎内務大臣がいち早くスペイン風邪の「まん延のおそれが高いと認め」た上で(新型インフルエンザ等対策特別措置法(平成24年法律第31号。以下「新型インフルエンザ法」といいます。)附則1条の22項参照),寺内内閣総理大臣にスペイン風邪の発生の状況,スペイン風邪にかかった場合の病状の程度その他の必要な情報の報告をします(新型インフルエンザ法14条参照)。

それを承けて寺内内閣は,後付け気味ながらも政府行動計画を閣議決定して(新型インフルエンザ法62項・4項参照),更に――スペイン風邪の病状は普通のインフルエンザ(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(平成10年法律第114号)661号)のそれよりも重いわけですから(新型インフルエンザ法151項参照)――大正天皇の勅裁を得て(大日本帝国憲法10条の官制大権)臨時に内閣にスペイン風邪対策本部を設置し(新型インフルエンザ法151項参照),同対策本部(その長たるスペイン風邪対策本部長は,寺内内閣総理大臣(新型インフルエンザ法161項参照))は政府行動計画に基づいてスペイン風邪に係る基本的対処方針を定めます(新型インフルエンザ法181項・2項参照)。

寺内内閣総理大臣兼スペイン風邪対策本部長はスペイン風邪対策本部の設置及びスペイン風邪に係る基本的対処方針を公示し(新型インフルエンザ法152項,183項参照),スペイン風邪の脅威という命にかかわる大問題を前にして米の値段がちいと高いぞ云々とたかが経済の問題にすぎないつまらないことで暴れまわっているんじゃないよ,経済よりも人命だぞ,と人民に警告を発しおきます。

しかしてスペイン風邪が国内で発生したことが確認され次第直ちに――スペイン風邪には「国民の生命及び健康に著しく重大な被害を与えるおそれ」があり,かつ,「その全国的かつ急速なまん延により国民生活及び国民経済に甚大な影響」を及ぼすおそれがあることは自明ですから――寺内正毅スペイン風邪対策本部長はスペイン風邪緊急事態宣言をおごそかに発し(新型インフルエンザ法321項参照),かつ,直ちに北海道庁長官,府県知事及び警視総監をして,住民に対しては「生活の維持に必要な場合を除きみだりに当該者の居宅又はこれに相当する場所から外出しないことその他の」スペイン風邪の「感染の防止に必要な協力を要請」(新型インフルエンザ法451項参照)せしめ,多数の者が利用する施設を管理する者又は当該施設を利用して催物を開催する者に対しては「当該施設の使用の制限若しくは停止又は催物の開催の制限若しくは停止その他」を指示(新型インフルエンザ法452項・3項参照)せしめます(新型インフルエンザ法201項・331項参照)。

事業者及び臣民は政府のスペイン風邪対策に「協力するよう努めなければならない」責務を有するのですから(新型インフルエンザ法41項参照),非国民ならざる忠良な臣民は当然真摯に自粛してみだりに「居宅又はこれに相当する場所から外出」することはなくなって街頭の米騒動は直ちに終息,「即ち当時欧洲大戦の影響に因り,物価の昂騰著しきものあり,特に生活必需品の大宗たる米価は奔騰に奔騰を重ねて正に其の極を知らざる状態であつた。かくして国民の多数は,著しく生活の脅威に曝さるゝに至り,遂に所謂米騒動なるものが随所に勃発し,暴行掠奪の限りが尽さるゝに至つた。かくして寺内内閣は,これが責任を負ふて遂に退陣の止むなきに至つたのである。」(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)357頁)ということにはならなかったことでありましょう。(現実には1918921日に寺内内閣総理大臣は辞表を提出,西園寺公望の大命拝辞を経て同月29日に原敬内閣が成立しました(近代日本総合年表236頁)。)

 

6 原敬内閣の初期の取組

原内閣は初の本格的政党内閣といわれていますが,ウイルス様からしてみれば官僚と政党人との区別はつかないのでしょうから,スペイン風邪の前には,政党主導の政府も無力であったようです。事実,原敬自身慎重で,「原は新聞記者の前田まえだ蓮山れんざんに,「あまり吾輩に期待すると失望するぜ。年をとると,いろいろと周囲の事情が複雑になってね。なかなか身動きが自由にならん」と語っていた」そうです(今井清一『日本の歴史23大正デモクラシー』(中央公論社・1966年)186頁)。

所管の床次竹二郎内務大臣は,就任後半月を経た19181016日の段階における原内閣閣僚による皇太子裕仁親王拝謁の際独り「所労」のため拝謁をしていませんが(実録二412頁),果たして何をしていて疲労していたのでしょうか。同月10日には友愛会東京鉄工組合創立総会が開催されていますが(近代日本総合年表236頁),内務省は,そのような多人数の集まる危険な企てに対して,「いのちを守るStay Home/ウチで過ごそう」と要請して当該総会の開催を阻止することはできなかったようです。また,床次内務大臣が総裁を兼務していた鉄道院は,同年116日から2等寝台2人床の大人2人による使用を禁止することとしていますが,その理由は「風紀維持」という艶めかしいものであって(近代日本総合年表236頁),命にかかわるスペイン風邪に対する三密禁止を徹底せんとの真剣な危機感が感じられないところです。
 原内閣総理大臣自身,「大正7年(1918年)1011日,原首相は東京商業会議所主催の内閣成立祝賀午餐会にのぞんで,教育の改善・交通通信機関の整備・国防の充実・物価の自然調節という積極政策をとることを明らかにした。この最後の項目を産業の奨励とさしかえたものが,いわゆる政友会の四大政策である。」ということで(今井221頁),三密午餐会に得々として出席しているのですから,そもそも示しがつかない。更に「四大政策」についていえば,教育の改善は「この増設案では,高等学校10校,高等商業7校,高等工業6校,高等農林4校,外国語学校・薬学専門学校各1校,計29校と,ほぼこれまでの学校数を倍増することにしたのをはじめ,総合大学の学部増設,専門学校の単科大学への昇格などがふくまれていた。またあらたに大学令が公布され,帝国大学のほかに官立・公立・私立の大学を認め,これまで専門学校として扱ってきた私立大学にも,名実ともに大学となる道を開いた。」(今井222頁)という青年らが集まってクラスターとなりかねない施設の増設をもって「改善」と称するものであって遠隔教育という最重要課題に対する取組が欠落しており,交通機関を整備してしまうとかえって人的接触が増大してスペイン風邪の流行を助長するのでまずく,国防を充実して鎖国に戻って海外からのウイルス侵入を防ぐのはよいとしても,本来は自粛してあるべき産業の奨励なんぞより先に,命を守るためのマスク及び現金の支給を全臣民に対して直ちに行うべきでありました。

Abenomask

The Abenomask of 2020: a humanely-advanced brave countermeasure of the 21st century against the stale coronavirus-"pandemic" of lurid public hallucinations in Japan
 

ということで,「インフルエンザは各地の学校や軍隊を中心に1カ月ほどのうちに全国に広がりました。〔1918年〕10月末になると,郵便・電話局員,工場・炭鉱労働者,鉄道会社従業員,医療従事者なども巻き込み,経済活動や公共サービス,医療に支障が出ます。新聞紙面には「悪性感冒猖獗(しょうけつ)」,「罹患者の5%が死亡」,山間部では「感冒のため一村全滅」といった報道が見られるようになります。この頃,死者の増加に伴う火葬場の混雑も記録されています。」という状況になります(川名前掲)。

我が国におけるスペイン風邪の「第1回目の流行による死亡者数は,191810月より顕著に増加をはじめ,同年11月には男子21,830名,女子22,503名,合計44,333名のピークを示した後,同年12月,19191月と2か月続けて減少したが,2月には男子5,257名,女子5,146名,合計10,403名と一時増加し,その後順調に減少した。」ということで(池田ほか前掲),これだけの数の国民をみすみす死なせてしまった(11月の44333人は,死亡者数であって,単なる感染者数ではありません。)原内閣はなぜ早々に崩壊しなかったのかと,今からすると不思議に思われます。(19191月に内務省衛生局は「流行性(はやり)感冒(かぜ)予防心得」なるものを公開して現在いうところの「咳エチケット」的なことを唱道していますが(川名前掲)手ぬるかったようで,翌月には,上記のとおり,スペイン風邪の死者数が再び増加してしまっているところです。

しかも,流行ピークの191811月には,(かしこ)き辺りにおいても恐るべき事態となっていたのでした。

 

7 191811

 

(1)裕仁親王の流行性感冒感染

 

 〔191811月〕3 日曜日 午前10時御出門,新宿御苑に行啓され,〔皇太子は〕供奉員・出仕をお相手にゴルフをされる。御体調不良のため,予定を早め午後115分御出門にて御帰還になる。流行性感冒と診断され,直ちに御仮床にお就きになり,以後15日の御床払まで安静に過ごされる。御学問所へは18日より御登校になる。なお,この御病気のため,9日に予定されていた近衛師団機動演習御覧のための茨城県土浦付近への行啓はお取り止めとなる。(実録二416頁)

 

 結果としては回復せられたのですから結構なことです。しかし,皇太子裕仁親王殿下がスペイン風邪という命にかかわる恐ろしい病に冒されたというのに,原内閣総理大臣も,床次内務大臣も,波多野敬直宮内大臣も,東郷東宮御学問所総裁も,だれも恐懼して腹を切らなかったのですね。(さすがに,御親であらせられる大正天皇及び貞明皇后からは同月6日には御病気御尋があり,同月11日には貞明皇后から更に御尋がありました(実録二417頁)。なお,原内閣総理大臣は,同年1025日(金曜日)夜の北里研究所社団法人化祝宴において夫子自らスペイン風邪に罹患してしまって翌同月26日(土曜日)晩には腰越の別荘で38.5度の熱を発したものの,同月29日(火曜日)の日記の記述においては「風邪は近来各地に伝播せし流行感冒(俗に西班牙風といふ)なりしが,2日斗りに下熱し,昨夜は全く平熱となりたれば今朝帰京せしなり。」と豪語していますから(曽我豪「スペイン風邪に感染した平民宰相・原敬。米騒動から見えたコロナ禍に通じる教訓」朝日新聞・論座ウェブサイト(2020411日)における引用による),みんな騒いでいるようだがスペイン風邪など実は大したことなどなかったのだよと不謹慎に高を括っていたのかもしれません。事実,問題の1918113日には芝公園広場における政党内閣成立の祝賀会に出席し,密集した人々と密接しつつ,「平民宰相」は御満悦の笑顔を見せておりました(今井221頁の写真)。

「天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ承継シ」た(大日本帝国憲法告文)大正天皇の下のいわゆる大正デモクラシーの時代は,「57歳となられ,これまで国事行為の臨時代行等の御公務に長期にわたり精勤されておられる」こと等に鑑みてその即位が全国民を代表する議員で組織された国会の立法により実現せしめられた(天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)1条・2条,日本国憲法431項・591項)今上天皇を戴く我らが令和の聖代に比べて,尊皇心に欠けるけしからぬ時代であったものか。それとも単に,たとい皇太子であっても人命尊重には限界があり,かつ,「当時は抗菌薬や抗インフルエンザウイルス薬は無く,安静,輸液,解熱剤など対症療法が主」であったので(川名前掲。なお,現在においても新型ウイルス感染症などについては,せっかく高い期待をもって検査をしてもらっても肝腎の陽性の人のための抗ウイルス薬はなく,安静にして対症療法を受けるしかないという何だぁがっかりの状況もあるでしょう。),所詮医学は天命の前には無力であり,医師も当てにはならぬとの無学野蛮な諦念があったものか。

 

(2)医学及び医師に対する信頼の新規性(脱線)

医学及び医師の威信が甚だしく向上したのは,実は20世紀もしばらくたってからのことなのでしょう。例えば18世紀末には依然,医師など呼ぶとかえって碌なことにならなかったようです。17991214日,ただの風邪だと思っていた病気を悪化させ,喉に炎症を発し呼吸困難となっていた67歳のジョージ・ワシントン最期の日・・・

 

   彼らが〔アレクサンドリア在のスコットランド系の医師でフレンチ=インディアン戦争以来ワシントンに献身的に仕えてきた〕クレイク医師を待つ間,マーサ〔夫人〕はポート・タバコ在の有名なガステイヴァス・リチャード・ブラウン医師を呼んだ。クレイク医師は最初に到着し,更に瀉血を行い,かつ,炎症を表に出すために,干した甲虫〔Spanish fly〕から作られた薬であるキャンサラディーズを喉に施して,既に行われていた中世の療法を継続した。彼はまた,ワシントンに,酢と湯とで満たされたティーポットから蒸気を吸引させた。酢を混ぜたサルビアの葉の煎薬でうがいをしようと頭をのけぞらせたとき,ワシントンは窒息しそうになった。クレイク医師は驚駭し,第3の医師,すなわちベンジャミン・ラッシュ医師の下で学んだアレクサンドリア在の若いフリー・メイソン会員であるエリシャ・カレン・ディックを呼んだ。彼は到着すると,クレイクと一緒に更に多くの血液を抜き出すことに加わった。それは「ゆっくりと流れ出,濃く,何らかの気絶の症状をもたらす様子はなかった。」と〔秘書の〕リアは記録している。彼らはまた,浣腸剤を使ってワシントンの腸を空にした。とうとうブラウン医師も加わって,彼らは既に消耗しているワシントンの肉体から更に2パイント〔1パイントは約0.47リットル〕の血を抜いた。ワシントンは合計5パイント,あるいは彼の肉体中の全血液量の約半分を失うことになったと見積もられている。ディック医師は,なお一般的ではなく,かつ,高度に実験的であった治療法――呼吸を楽にするために,ワシントンの気管に穴を穿(うが)ち開ける気管切開術――を提案したが,これはクレイク及びブラウンによって却下された。「あの手術がされなかったことを,私はずっと後悔し続けるでしょう。」と,当該3医師を,溺れて藁をもつかもうとする者に例えつつ,後にディックは述べている。しかし,既に衰弱していた彼の状態を前提とすると,ワシントンがそのような施術を受けて生き延び得たということはとてもありそうにないことである。(Chernow, Ron, Washington: a Life. Penguin Press, 2010. p.807

 

溺れて藁をもつかもうとするというような殊勝な話ではなく,上記3医師が医療の名のもとにやらかした行為は,むしろ猟奇的血抜きの悪魔的狂乱のようでもあります(更に浣腸までしている。)。

 

  人体にはおよそ4ℓから5ℓの血液があり・・・

  君の体格なら・・・

  おそらく・・・4.5ℓといったところか

  君は・・・

  その血液を賭ける・・・!

  〔略〕

  通常「死」は総血液量の1/3程が

  失われる頃から

  そろりそろりと忍び寄り

  1/2を失うのを待たず・・・

  まず・・・絶命する・・・!

  〔略〕

  もっともそれより早く死ぬこともあり得る

  急激に抜けば

  1/3・・・

  つまり1500ccでも充分死に至る

  仮に死なないとしても意識混濁は激しく・・・

  まず・・・麻雀など興じている状態ではあるまい(福本伸行『アカギ――闇に降り立った天才』第67話)

 

(3)少年の生と老人の死と

 17歳の裕仁親王は1918113日の流行性感冒の診断から十余日で回復し,免疫を獲得してしまいましたが,『昭和天皇実録』の1918113日条は,若き裕仁親王の流行性感冒感染経験の記述に続いて,84歳の老人の死を伝えます。

 

  臨時帝室編修局総裁伯爵土方久元大患につき,御尋として鶏卵を下賜される。土方は4日死去する。〔略〕土方は旧土佐藩出身にて武市半平太の土佐勤王党に参加し討幕運動にも加わる。維新後は,元老院議官,宮中顧問官,農商務大臣などを経て,明治20年より31年まで宮内大臣を務めた。その後は帝室制度取調局総裁心得などを経て,臨時帝室編修局総裁として明治天皇の御紀編修に尽力した。一方で,明宮御用係,明宮御教養主任,東宮輔導顧問なども務め,〔大正〕天皇の御教育・御輔導にも深く関わり,皇太子に対しても,皇孫・皇太子時代を通じ,しばしば御殿・御用邸に参殿・参邸し,御機嫌を奉伺するところがあった。(実録二416-417頁)

 

 武市半平太も同じ土佐の坂本龍馬も三十代で非命に斃れたことを思えば,土方は大臣にもなって八十代半ばまで生きたのですから,とても悔しいです土方伯爵のかけがえのない尊い命が迅速にロックダウンをしなかった床次内務大臣・原内閣総理大臣の無策のために84歳の若さで奪われたことは到底許せません,などと言い募るべきものかどうかは考えさせられるところがあります。なお,土方は死の8日前の19181027日には日本美術協会において同協会の会頭として裕仁親王に拝謁していますから(実録二414頁),確かに突然の死ではありました。(ちなみに,19181027日の鷗外森林太郎の日記『委蛇録』には,「27日。日。雨。皇儲駕至文部省展覧会,日本美術協会。予往陪観。」とあります(『鷗外選集第21巻 日記』(岩波書店・1980年)278頁)。また,1918113日には,森帝室博物館総長兼図書頭は正倉院曝涼監督のために東京から奈良に移動しています。同日は好天で,富士山が美しかったようです。いわく,「是日天新霽。自車中東望。不二山巓被雪。皓潔射目。雪之下界。作長短縷之状。如乱流蘇。」(鷗外279頁)。不要不急の出張ではなかったものでしょう。)

 

(4)第一次世界大戦の戦いの終了

 欧州では,裕仁親王が流行性感冒と診断された113日にはオーストリア=ハンガリー帝国が連合国と休戦協定を調印し,ドイツのキール軍港では水兵が叛乱を起していました。119日にはベルリンで宰相マックス公が社会民主党のエーベルトに政権を移譲し,ドイツ共和国の成立が宣言されます。同月10日,ドイツのヴィルヘルム2世はオランダへと蒙塵。同月11日午前5時にはドイツと連合国との間に休戦協定が調印され,当該協定は同日午前11時に発効しています。第一次世界大戦の戦いは終わりました。

 昭和天皇統治下の大日本帝国敗北の27年前のことでした。


8 3回のスペイン風邪流行

 我が国のスペイン風邪流行は,前記『近代日本総合年表 第四版』によれば1918年春から1919年にかけての1回限りであったように思われるところですが,実は3にわたったようです。第1回の流行は19188月から19197月まで(小池年表,川名前掲,池田ほか前掲),第2回の流行は19198月(池田ほか前掲),9月(川名前掲)又は10月下旬(小池年表)から19207月まで(小池年表,川名前掲,池田ほか前掲),第3回の流行は19208月から(小池年表,川名前掲,池田ほか前掲)19215月(小池年表)又は7月(川名前掲,池田ほか前掲)までと分類されています。

 

(1)第1回流行(1918-1919年):竹田宮恒久王の薨去

 第1回流行時の患者数は,21168398人(池田ほか前掲,川名前掲)又は21618388人(小池年表)とされ(こうしてみると,小池年表は数字を書き写し間違えたものかもしれません。),19181231日現在の日本の総人口56667328人に対する罹患率は37.3パーセントとなりました(池田ほか前掲。川名前掲は「日本国内の総人口5,719万人に対し」罹患率「約37」としています。)。第1回流行時の総死亡者数は257363人(小池年表,池田ほか前掲(内務省衛生局『流行性感冒』(1922年)に基づくもの)。川名前掲は「257千人」)又は103288人(池田ほか前掲(人口動態統計を用いて集計したもの))であって,前者の死亡者数に基づく患者の死亡率は1.22パーセントでした(小池年表,池田ほか前掲。川名前掲は「1.2」)。

 第1回流行時には,皇族に犠牲者が出ています。

 

  〔1919423日〕午後735分,〔竹田宮〕恒久王が薨去する。恒久王は本月12日より感冒に罹り,17日より肺炎を併発,20日には重態の報が伝えられる。よって皇太子よりは,その病気に際して御尋として鶏卵を贈られ,重態に際しては東宮侍従牧野貞亮を遣わし葡萄酒を御贈進になる。また,この日危篤との報に対し,急遽牧野侍従を竹田宮邸へ遣わされる。(実録二446頁)

 

 恒久王の父は,原敬内閣総理大臣の出身藩である南部藩等によって戊辰戦争の際結成された奥羽越列藩同盟の盟主たりし輪王寺宮こと北白川宮能久親王でした。日清戦争の下関講和条約後の台湾接収の際征台の近衛師団長を務めて同地で病歿した「能久親王は幕末期には公現法親王と称し,日光東照宮を管理する輪王寺宮として関東に下向した。幕府崩壊時には江戸を脱出して宮城白石にあって奥羽越列藩同盟の精神的盟主となり,天皇に即位したとも言われている人物である。仙台藩降伏後は謹慎処分となったが,還俗してドイツに留学,北白川家を継いで陸軍軍人とな」った宮様であるとのことです(大谷正『日清戦争』(中公新書・2014年)223頁)。しかし,明治大帝に抗する対立天皇として立ったとは,北白川宮家及び竹田宮家は,御謀叛のお家柄歟。

 恒久王薨去のため,当初1919429日に予定されていた皇太子裕仁親王の成年式(明治皇室典範13条により皇太子は満18年をもって成年)は延期となり(同月25日発表),同年51日に至って同月7日に挙行の旨が告示され(実録二448),同日無事挙行され(実録二453-457。「7日。水。天候如昨〔暄晴〕。皇儲加冠。予参列賢所。詣宮拝賀。」(鷗外293頁)とあります。),また翌同月8日には宮中饗宴の儀が行われました(実録二457-458。「木。晴。赴宮中饗宴。」(鷗外293頁)。)。恒久王の薨去に係る服喪に伴う延期はあっても(同年4月「30日。水。陰雨。会恒久王葬乎豊島岡。」(鷗外293頁)とあります。),スペイン風邪の流行については,三密回避など全くどこ吹く風という扱いです。

 

(2)第2回流行(1919年‐1920年):雍仁親王の罹患

 第2回流行時においては,患者数が2412097人(池田ほか前掲,川名前掲),死亡者数は127666人(池田ほか前掲(内務省衛生局『流行性感冒』に基づくもの)。川名前掲は「128千人」)又は111423人(池田ほか前掲(人口動態統計を用いて集計したもの))であって,前者の死亡者数に基づく患者の死亡率は5.29パーセント(池田ほか前掲。川名前掲は「5.3」)でした。

2回流行時における患者死亡率については,内務省衛生局の『流行性感冒』は「患者数ハ前流行ニ比シ約其ノ10分ノ1ニ過キサルモ其病性ハ遥ニ猛烈ニシテ患者ニ対スル死亡率非常ニ高ク〔1920年〕34月ノ如キハ10%以上ニ上リ全流行ヲ通シテ平均5.29%ニシテ前回ノ約4倍半ニ当レリ」と述べています(池田ほか前掲の引用)。「流行時期によりウイルスが変異することが往々にして観察される」ところ,「スペインかぜ流行の際にも原因ウイルスが変異し,その結果として死亡率が大幅に増加したものと考えることができる。」とされています(池田ほか前掲)。

「大正78年〔19181919年〕ニ亘ル前回〔第1回〕ノ流行ハ〔略〕春夏ノ交ニ至リ全ク終熄ヲ告ケタレトモ再ヒ〔大正〕8年〔1919年〕10月下旬,向寒ノ候ニ及ヒテ神奈川,三重,岐阜,佐賀,熊本,愛媛等ニ流行再燃ノ報アリ,次テ11月ニ至リ東京,京都,大阪ヲ始メトシ茨城,福島,群馬,長野,新潟,富山,石川,鳥取,静岡,愛知,奈良,和歌山,広島,山口,香川,福岡,大分,鹿児島,青森,北海道等ニ相前後シテ散発性流行ヲ見,爾余ノ諸県モ漸次流行ヲ来スニ至」っていたところ(池田ほか引用の内務省衛生局『流行性感冒』),死亡者数は,「191912月より増加を開始し,19201月に〔略〕ピークを示した後順調に減少」しています(池田ほか前掲)。「斯クテ各地ニ散発セル病毒ハ再ヒ漸次四囲ニ伝播シ,遂ニ一二県ヲ除キテハ何レモ患者ノ発生ヲ見サル処ナキニ至リ,翌春〔1920年〕1月に及ヒ猖獗ヲ極メ多数ノ患死者ヲ出シタリ,3月ヨリ漸次衰退シテ67月ニ至リ全ク終熄シタリ」というわけです(池田ほか引用の内務省衛生局『流行性感冒』)。

 第2回流行時には,後に19261225日から19331223日まで皇嗣殿下(ただし,立皇嗣の礼は行われず。)となられる淳宮雍仁親王(裕仁親王の1歳違いの弟宮)が,第1回流行時よりも「遥ニ猛烈」な病性となったスペイン風邪に感染したようです。

 

  雍仁親王は去る〔19201月〕16日以来,流行性感冒のため病臥につき,〔同月20日〕皇太子〔裕仁親王〕より御尋として5種果物1籠を贈進される。〔同月〕22日,東宮侍従本多正復を御使として遣わされ,鶏卵・盆栽を御贈進になり,222日には同甘露寺受長を御使として差し遣わされる。雍仁親王の違例は34日に至る。(実録第二543頁)

 

正に19201月は,スペイン風邪の第2回流行時の死亡者ピーク月です(男子19835人,女子19727人の合計39362人(池田ほか前掲))。やんごとなき皇族の方々にあらせられても,ロックダウンなどという大袈裟かつよそよそしいことはされておられなかったので(ただし,同月8日に予定されていた宮城前外苑における陸軍始観兵式は,「感冒流行の理由をもって〔大正〕天皇は臨御されざることとなり,観兵式は中止」ということになっています(実録二541頁)。その後,大正天皇は,同年49日以降「御座所における御政務以外は,一切の公式の御執務を止められ,専ら御摂養に努めらるること」となっています(実録二574頁)。),もったいなくも,我ら草莽の人民と休戚のリズムを共にせられていたということでしょうか。しかして,雍仁親王は1箇月半以上もダウンせざるを得なかったのですから,確かに重い流行性感冒です。

ところで,皇太子殿下から御尋で5種果物や鶏卵などを贈られてしまうと,兄弟愛云々ということももちろんあるのでしょうが,191964日の徳大寺実則(同日「元侍従長大勲位公爵徳大寺実則病気危篤の報に接し,〔裕仁親王は〕御尋として葡萄酒を下賜される。また,去る〔同月〕2日には病気御尋として5種果物1籠を下賜される。実則はこの日午後7時死去する。」(実録二469-470頁)),191811月の前記土方久元(鶏卵)及び19194月の同じく前記竹田宮恒久王(鶏卵及び葡萄酒)の各例などからすると,5種果物の次はとうとう鶏卵を下されたのだね僕もいよいよ最期かな,しかし兄貴はうまい具合に先に軽く感染して免疫ができてずるいよなあ,これまで18年近く生きてきたけど兄貴を一生立てるべき次男坊に生まれてはさして面白いこともなかったよ,三好愛吉傅育官長も去年の紀元節の日にインフルエンツア肺炎で逝っちゃたけど確かにインフルエンツアがこう彼方にも此方にも流行しては居る処が無いような気がするなぁ,などと雍仁親王におかせられてはひそかに御覚悟せられるところがひよっとしたらあったかもしれません。(しかし,鶏卵の例についていえば,1919213日(この月は,前記のとおり,スペイン風邪第1回流行時において流行の再燃があった月です。)には小田原滞在中の山県有朋に対し,「感冒症より肺炎を発し重患の趣につき,病気御尋として鶏卵」が皇太子裕仁親王から下賜されているにもかかわらず(実録二435。確かに同日の山県の容態は重篤であったようで,森林太郎図書頭も図書寮から小田原に駆けつけています。いわく,「13日。木。朝晴暮陰。参寮。問椿山公病乎古稀庵。船越光之丞,安広伴一郎及河村金五郎接客。清浦奎吾,井上勝之助,中村雄次郎,穂積陳重等在座。出門邂逅古市公威。」(鷗外289頁)。),この80歳の奇兵隊おじいさんはしぶとく回復し,同年69日には裕仁親王の前に現れています(実録二470頁)。また,差遣先の山梨県下で罹病して1920119日から山梨県立病院に入院した東宮武官浜田豊城にも,裕仁親王から「病気御尋として鶏卵」が下賜されていますが,浜田東宮武官は1週間で退院しています(実録二542頁)。果物1籃だけならば,雍仁親王は1919420日に不例の際御尋として裕仁親王から贈進を受けたことがあり,その後同月29日に床払いに至っています(実録二446頁)。とはいえ,192035日に死亡した内匠頭馬場三郎(元東宮主事)の病気に際しては裕仁親王から「御尋として果物を下賜」されていたところではあります(実録二549頁)。なお,医者も不養生で病気に罹っており,陸軍省医務局長軍医総監たりし森林太郎も1918124日には「水。晴。参館。還家病臥。」と寝込んでしまい,同月7日には「土。晴。在蓐。従4日至是日絶粒。是日飲氵重〔さんずいに重で一字〕。」,同月9日になって粥が食べられるようになり(「夕食粥」),「10日。火。晴。在蓐。食粥如前日。起坐。」,同月14日にようやく普通の食事ができるようになって(「土。陰。園猶有雪。食家常飯。」),同月16日にやっと「月。晴。病寖退。而未出門。」,職務復帰は同月20日のこととなりました(鷗外284-285頁)。時期からいって,これはスペイン風邪でしょう。長期病欠の帝室博物館総長兼図書頭には,皇室から鹿肉や見舞金が下賜されています。すなわち,「〔191812月〕18日。水。晴。在家。上賜鹿肉。所獲於天城山云。東宮賜金。/19日。木。陰。猶在家。両陛下賜金。」(鷗外285頁)。さすがにもうそろそろ出勤しないとまずい頃合いとはなったようです。

スペイン風邪の第2回流行時においては「感染者ノ多数ハ前流行ニ罹患ヲ免レタルモノニシテ病性比較的重症ナリキ,前回ニ罹患シ尚ホ今回再感シタル者ナキニアラサルモ此等ハ大体ニ軽症ナリシカ如シ」ということだったそうですから(池田ほか引用の内務省衛生局『流行性感冒』),接触8割削減を目指して第1回流行時に真面目に自粛して引きこもった真摯な人々よりも,ままよと己が免疫力及び自然治癒力の強さを信じて第1回流行時に早々に感染して免疫をつけてしまった横着な人々の方がいい思いをしたということでしょうか。ただし,スペイン風邪に係る感染遷延策が常に裏目に出たわけではないようで,「このなかでオーストラリアは特筆すべき例外事例でした。厳密な海港における検疫,すなわち国境を事実上閉鎖することによりスペインフルの国内侵入を約6ヶ月遅らせることに成功し,そしてこのころには,ウイルスはその病原性をいくらかでも失っており,そのおかげで,オーストラリアでは,期間は長かったものの,より軽度の流行ですんだとされています。」ともいわれています(感染症情報センター前掲)。

いずれにせよ「感染伝播をある程度遅らせることはできましたが,患者数を減らすことはできませんでした。」(感染症情報センター前掲)ということになるのでしょうか。「西太平洋の小さな島では〔オーストラリア〕同様の国境閉鎖を行って侵入を食い止めたところがありましたが,これらのほんの一握りの例外を除けば,世界中でこのスペインフルから逃れられた場所はなかったのです。」とされています(感染症情報センター前掲)。 

 

  Etiam si quis timiditate est et servitute naturae, coronas congressusque ut hominum fugiat atque oderit, tamen is pati non possit, ut non anquirat aliquem, apud quem emovat virus aegritudinis suae. 

 

(3)第3回流行(1920年‐1921年):杉浦重剛の仮病

3回流行時においては,患者数が224178人(小池年表,池田ほか前掲,川名前掲),死亡者数は3698人(小池年表,池田ほか前掲(内務省衛生局『流行性感冒』に基づくもの),川名前掲)又は11003人(池田ほか前掲(人口動態統計を用いて集計したもの))であって,前者の死亡者数に基づく患者の死亡率は1.65パーセント(小池年表,池田ほか前掲。川名前掲は「1.6%」)でした。

「わが国のスペインインフルエンザもその後国民の大部分が免疫を獲得するにつれて死亡率も低下し」,第3回の流行時には「総患者数からみてもすでに季節性インフルエンザに移行していると見たほうが良いかもしれません。」ということになったようです(川名前掲)。

ところで,スペイン風邪の第3回流行時である1920124日,東宮御学問所御用掛杉浦重剛は病気を理由に辞表を提出し,同月6日から翌年の東宮御学問所の終業まで,次代の天皇の君徳涵養にかかわる倫理の講義は行われないこととなってしまいました(実録二663664頁)。これについて,杉浦重剛もとうとうスペイン風邪に罹患してしまったが当時は遠隔授業を行い得る設備は東宮御学問所といえども存在せず嗚呼忠臣杉浦天台は涙を呑んで「いのちを守るStay Home」をしたのか健気なことである,と考えるのは早とちりであって,これは杉浦の仮病です。1921218日の東宮御学問所終業式に,辞めたはずの杉浦は出席整列しています(宮内庁『昭和天皇実録 第三』(東京書籍・2015年)1819頁)。

この間の事情について,『昭和天皇実録』の1921210日条はいわく。

 

 10日 木曜日 この日夕方,皇太子と良子(ながこ)女王との御婚約内定に変更なきことにつき,内務省,ついで宮内省より発表される。宮内省発表は左の如し。

   良子女王東宮妃御内定の事に関し世上種々の噂あるやに聞くも右御決定は何等変更せず

これより先,元老山県有朋らが,良子女王の子孫に色盲が遺伝する可能性があることをもって,女王の父〔久邇宮〕邦彦王に対し婚約辞退を求めた問題につき,当局は一切の新聞報道を禁止していた。しかし,昨年124日に辞表を提出した東宮御学問所御用掛杉浦重剛が,一部関係者に顛末を語って御婚約決行を求める運動を行ったことなどにより,この問題の存在が徐々に知られ,政界の一部,とりわけ右翼方面において,御婚約の取り消しに反対するとともに,宮内省や山県有朋を攻撃する運動が広まっていた。昨月下旬には久邇宮を情報源とし内情を暴露する「宮内省ノ横暴不逞」なる小冊子が各方面に配布されるなど各種怪文書が横行し,問題は議会においても取り上げられ,本月11日の紀元節には明治神宮において御婚約決行を祈願するという,右翼諸団体による大決起大会が計画された。こうした事態の中,山県ら元老は御婚約を辞退すべきとして譲らず,一方で具体的報道は一切禁止されたものの,新聞の報道ぶりから一般国民にも宮中方面に重大問題が進行中であることは明らかであり,宮内大臣中村雄次郎は何らかの決着を早期に図ることを迫られた。その結果,中村宮内大臣は自身の責任において事態を早期収拾することを決意し,この日良子女王の御婚約内定に変更なきことを発表するとともに,自身の辞職も表明する。(実録三1213頁)

 

いわゆる宮中某重大事件です。右翼の諸君明治神宮での集会はやめろよ「いのちを守るStay Home」なんだから「ウチで過ごそう」よ,と原内閣総理大臣も床次内務大臣も中村宮内大臣も言うことができず,元老(山県,松方正義及び西園寺公望)及び宮内省に反対する勢力の側も自粛せず,結局すなわちスペイン風邪は既に賞味期限切れだったようです。

 

9 スペイン風邪によって奪われた命について

以上,我が国における1918年から1921年までの合計では,スペイン風邪の患者数は23804673人,死者数は388727人(内務省衛生局『流行性感冒』)又は225714人(人口動態統計)ということになるようです(池田ほか前掲)。「歴史人口学的手法を用いた死亡45万人(速水,2006)という推計」もあるそうです(感染症情報センター前掲)。

死亡者の中で大きな比率を占めたのは0-2歳の乳幼児であったとされます(池田ほか前掲)。東京日日新聞の報ずるところでは,1918年には「1歳未満乳児の死亡率増大18.9%(336910人)。最高は大阪府・富山県の25.2%。東京府は18.8%」であったそうです(近代日本総合年表236頁)。生まれた赤ん坊のうち大体5人に1人は死んでしまったという計算です。

乳幼児以外について死亡者数の数を世代別に見ると,「男子では191719年においては2123歳の年齢域で大きなピークを示したが,192022年には3335歳の年齢域でピークを示し」,「女子ではいずれの期間においても2426歳の年齢域でピークを示して」いたそうです(池田ほか前掲)。海外では1918年の「(北半球の)晩秋からフランス,シエラレオネ,米国で同時に始まった〔スペイン風邪の〕第二波は〔同年春の第一波の〕10倍の致死率となり,しかも1535歳の健康な若年者層においてもっとも多くの死がみられ,死亡例の99%が65歳以下の若い年齢層に発生したという,過去にも,またそれ以降にも例のみられない現象が確認され」ていたところ(感染症情報センター前掲),我が国においても,「季節性インフルエンザでは,死亡例は65歳以上の高齢者が大部分で,あとは年少児に少し見られるのが一般的ですので,スペインインフルエンザでは青壮年層でも亡くなる人が多かったことは極めて特徴的です。」ということになっています(川名前掲)。この点については,National Geographicのウェブサイトの記事「スペインかぜ5000万人死亡の理由」(201452日)によれば,「答えは驚くほどシンプルだ。1889年以降に生まれた人々は,1918年に流行した種類のインフルエンザウイルスを子どもの頃に経験(曝露)していなかったため,免疫を獲得していなかったのだ。一方,それ以前に生まれた人々は,1918年に流行したインフルエンザと似た型のウイルスを経験しており,ある程度の免疫があった。」ということであったものとされています。(追記:これに関連して,The Economist2020425日号の記事(“A lesson from history”)は,1918年のスペイン風邪流行時においては28歳の年齢層の死亡率が特に高かったところ,これは,彼らが生まれた1890年に流行した別の種類のインフルエンザであるロシア風邪フルーの影響であるという説を紹介しています。すなわち,乳幼児期にあるウイルスにさらされると,後年別種のウイルスに感染したときに通常よりも重篤な症状を示す可能性があるというのです。乳児期にロシア風邪ウイルスに曝されて形成された免疫機構は,スペイン風邪ウイルスに対して,本来はロシア風邪ウイルスに対すべきものである誤った反応をしてしまったのだというわけです。)

 ところで,我が国においてはスペイン風邪流行期に「いのちを守るStay Home」が真摯に実行されていなかったように思われるのは,青壮年の命はくたびれて脆弱となった高齢者のそれとは違って対人接触の絶滅に向けた自粛までをもわざわざして守るべき命ではない,という認識が存在していたということででもあったものでしょうか。あるいは当時の青壮年は,死すべき存在たる人間として避けることのできない死の存在を知りつつも淡然ないしは毅然とそれを無視し得るほどの覇気と希望とデモクラティックな情熱とに満ちた人間好きな人々だったのでしょうか。考えさせられるところです。  



弁護士ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 新型コロナ・ウイルス問題猖獗中の立皇嗣の礼

 来月の2020419日には,それぞれ国事行為たる国の儀式である立皇嗣宣明の儀及び朝見の儀を中心に,立皇嗣の礼が宮中において行われる予定であるそうです。しかし,新型コロナ・ウィルス問題の渦中にあって,立皇嗣宣明の儀の参列者が制限されてその参列見込み数が約320人から約40人に大幅縮小になるほか(同年318日に内閣総理大臣官邸大会議室で開催された第10回天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典委員会において配付された資料1-1),当該儀式の挙行の翌々日(同年421日)にこれも国の儀式として開催することが予定されていた宮中饗宴の儀が取りやめになり,波瀾含みです。

 

2 立皇嗣の礼における宣明の主体

 立皇嗣の礼は,なかなか難しい。

 立皇嗣の礼に関する理解の現状については,2020321日付けの産経新聞「産経抄」における次のような記述(同新聞社のウェブ・ページ)が,瞠目に値するもののように思われます。

 

   政府は皇位継承順位1位の秋篠宮さまが,自らの立皇嗣(りつこうし)を国の内外に宣明される「立皇嗣の礼」の招待者を減らし,賓客と食事をともにする「宮中饗宴(きょうえん)の儀」は中止することを決めた。肺炎を引き起こす新型コロナウィルスが世界で猖獗(しょうけつ)を極める中では,やむを得ないこととはいえ残念である。

 

筆者が目を剥いたのは,「皇位継承順位1位の秋篠宮さまが,自らの立皇嗣(りつこうし)を国の内外に宣明される「立皇嗣の礼」」との部分です。

産経抄子は,執筆参考資料としては,ウィキペディア先生などというものを専ら愛用しているものでしょうか。ウィキペディアの「立皇嗣の礼」解説には,「立皇嗣の礼(りっこうしのれい),または立皇嗣礼(りっこうしれい)は,日本の皇嗣である秋篠宮文仁親王が,自らの立皇嗣を国の内外に宣明する一連の国事行為で,皇室儀礼。」と書かれてあるところです。

しかし,1991223日に挙行された今上天皇の立太子の礼に係る立太子宣明の儀においては,父である上皇(当時の天皇)から「本日ここに,立太子宣明の儀を行い,皇室典範の定めるところにより徳仁親王が皇太子であることを,広く内外に宣明します。」との「おことば」があったところです(宮内庁ウェブ・ページ)。「平成の御代替わりに伴い行われた式典は,現行憲法下において十分な検討が行われた上で挙行されたものであるから,今回の各式典についても,基本的な考え方や内容は踏襲されるべきものであること。」とされているところ(201843日閣議決定「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う国の儀式等の挙行に係る基本方針について」第12),「文仁親王殿下が皇嗣となられたことを広く国民に明らかにする儀式として,立皇嗣の礼を行う」もの(同閣議決定第571))として行われる今次立皇嗣の礼においても,「宣明します。」との宣明の主体は,むしろ天皇であるように思われます。

現行憲法下時代より前の時代とはなりますが,大日本帝国憲法時代の明治皇室典範16条は「皇后皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と規定していました。「詔書」ですので,当該文書の作成名義は,飽くまでも天皇によるものということになります。

 

3 裕仁親王(昭和天皇)の立太子の礼

1916113日に行われた昭和天皇の立太子の礼について,宮内庁の『昭和天皇実録 第二』(東京書籍・2015年)は,次のように伝えています。

 

 3日 金曜日 皇室典範及び立儲令の規定に基づき,立太子の礼が行われる。立太子の礼は皇太子の身位を内外に宣示するための儀式である。裕仁親王はすでに大正元年〔1912年〕,御父天皇の践祚と同時に皇太子の身位となられていたが,昨4年〔1915年〕に即位の礼が挙行されたことを踏まえ,勅旨により本日立太子の礼を行うこととされた。(241頁)

 

当時の立太子の礼は,1909年の立儲令(明治42年皇室令第3号)4条により,同令の「附式ノ定ムル所ニ依リ賢所大前ニ於テ之ヲ行フ」ものとされていました。

伊藤博文の『皇室典範義解』の第16条解説には,「(けだし)皇太子・皇太孫は祖宗の正統を承け,皇位を継嗣せむとす。故に,皇嗣の位置は立坊の儀に由り始めて定まるに非ず。而して立坊の儀は此に由て以て臣民の(せん)(ぼう)()かしむる者なり。」とありました。「立坊」とは,『角川新字源(第123版)』によれば「皇太子を定めること。坊は春坊,皇太子の御殿。」ということです。つまり『皇室典範義解』にいう「立坊の儀」とは,立儲令にいう「立太子ノ礼」又は「立太孫ノ礼」(同令9条)のことということになります。「瞻望」とは,「はるかにあおぎ見る。」又は「あおぎしたう。」との意味です(『角川新字源』)。「饜」は,ここでは「食いあきる。」又は「いやになる。」の意味ではなくて,「あきたりる。満足する。」の意味でしょう(同)。また,明治皇室典範15条は「儲嗣タル皇子ヲ皇太子トス皇太子在ラサルトキハ儲嗣タル皇孫ヲ皇太孫トス」と規定していました。「儲嗣(ちょし)」とは,「世継ぎのきみ。皇太子。との意味です(『角川新字源』)。現行皇室典範(昭和22年法律第3号)8条は「皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは,皇嗣たる皇孫を皇太孫という。」と規定しています。

立太子の礼を行うことを勅旨(「天子のおおせ。」(『角川新字源』))によって決めることについては,立儲令1条に「皇太子ヲ立ツルノ礼ハ勅旨ニ由リ之ヲ行フ」とありました。閣議決定によるものではありません。

さて,1916113日の賢所(かしこどころ)大前の儀の次第は次のとおり(実録第二241-242頁)。

 

 9時,天皇が賢所内陣の御座に出御御都合により皇后は出御なし,御拝礼,御告文を奏された後外陣の御座に移御される。925分,皇太子は賢所に御参進,掌典次長東園基愛が前行,御裾を東宮侍従亀井玆常が奉持し,御後には東宮侍従土屋正直及び東宮侍従長入江為守が候する。賢所に御一拝の後,外陣に参入され内陣に向かい御拝礼,天皇に御一拝の後,外陣の御座にお着きになる。天皇より左の勅語を賜わり,壺切御剣を拝受される。

   壺切ノ剣ハ歴朝皇太子ニ伝ヘ以テ朕カ躬ニ(およ)ヘリ今之ヲ汝ニ伝フ汝其レ之ヲ体セヨ 

 この時,陸軍の礼砲が執行される。皇太子は壺切御剣を土屋侍従に捧持せしめ,内陣及び天皇に御一拝の後,簀子(すのこ)に候される。935分,天皇入御。続いて皇太子が御退下,綾綺殿(りょうきでん)にお入りになる。この後,皇族以下諸員の拝礼が行われる。

 

「裕仁親王が,自らの立太子を国の内外に宣明」する,というような場面は無かったようです。

今次立皇嗣の礼においては,皇嗣に壺切御剣親授の行事は,立皇嗣宣明の儀とは分離された上で,皇室の行事として行われます。

しかしながら,皇后御欠席とは,何事があったのでしょうか。貞明皇后は,立太子の礼と同日の参内朝見の儀(立儲令7条に「立太子ノ礼訖リタルトキハ皇太子皇太子妃ト共ニ天皇皇后太皇太后皇太后ニ朝見ス」と規定されていました。)等にはお出ましになっていますから,お病気ということではなかったようです。

なお,今次立皇嗣の礼に係る朝見の儀においては,上皇及び上皇后に対する朝見は予定されていないようです(第10回天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典委員会の資料2)。

明治皇室典範16条本体に係る大正天皇の詔書については,次のとおり(実録第二242頁)。

 

 賢所大前の儀における礼砲執行と同時に,左の詔書が宣布される。

   朕祖宗ノ遺範ニ遵ヒ裕仁親王ノ為ニ立太子ノ礼ヲ行ヒ茲ニ之ヲ宣布ス

 

立儲令5条に「立太子ノ詔書ハ其ノ礼ヲ行フ当日之ヲ公布ス」とあったところです。

なお,今次立皇嗣の礼においては,立皇嗣宣明の儀の2日後(前記のとおり2020421日)に当初予定されていた宮中饗宴の儀が新型コロナ・ウィルス問題のゆえに取りやめになっていますが,191611月の立太子の礼に係る宮中饗宴の儀(立儲令8条に「立太子ノ礼訖リタルトキハ宮中ニ於テ饗宴ヲ賜フ」と規定されていました。)も「コレラ流行のため」その開催が同月3日から3週間以上経過した同月27日及び同月28日に延引されています(実録第二252頁)。延引にとどまらず取りやめまでをも強いた21世紀の新型コロナ・ウィルスは,20世紀のコレラ菌よりも凶悪であるようです。ちなみに,立太子の礼に係る宮中饗宴の儀の主催者は飽くまでも天皇であって,19161127日及び同月28日の上記宮中饗宴に「皇太子御臨席のことはなし。」であったそうです(実録第二252頁)。

 

4 明治皇室典範の予定しなかった「立皇嗣の礼」

ところで,以上,今次立皇嗣の礼について,明治皇室典範及び立儲令を参照しつつ解説めいたものを述べてきたところですが,実は,現行憲法下,天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)の成立・施行までをも見た今日,明治皇室典範及び立儲令の参照は,不適当であったようにも思われるところです。

「平成の御代替わりに伴い行われた式典は,現行憲法下において十分な検討が行われた上で挙行されたものであるから,今回の各式典についても,基本的な考え方や内容は踏襲」するのだとして,立太子の礼の前例を踏襲するものとして立皇嗣の礼を行うこととした安倍晋三内閣の決定は,保守的というよりはむしろ明治典憲体制における制度設計を超えた,明治皇室典範の裁定者である明治天皇並びに起案者である伊藤博文,井上毅及び柳原前光の予定していなかった革新的新例であったことになるようであるからです。

問題は,明治皇室典範15条の解説に係る『皇室典範義解』の次の記載にあります。

 

 今既に皇位継承の法を定め,明文の掲ぐる所と為すときは,立太子・立太孫の外,支系より入りて大統を承くるの皇嗣は立坊の儀文に依ることを(もち)ゐず。而して皇太子・皇太孫の名称は皇子皇孫に限るべきなり。

 

 天皇から皇太子又は皇太孫への皇位の直系継承とはならない場合,すなわち,今上天皇と秋篠宮文仁親王との間の皇位継承関係(「皇兄弟以上ノ継承」)のようなときには,以下に見るように,皇嗣は「践祚ノ日迄何等ノ宣下モナク」――立坊の儀文(これは立太子又は立太孫の場合に限る。)を須いず――「打過ギ玉フ」ことになるのだ,ということのようです。

 1887125日提出の柳原前光の「皇室法典初稿」を承けて,伊藤博文の「指揮」を仰ぐために作成された井上毅の「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々」(小島和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)178-179頁・172頁参照)に次のようにあるところです(伊藤博文編,金子堅太郎=栗野慎一郎=尾佐竹猛=平塚篤校訂『帝室制度資料 上巻』(秘書類纂刊行会・1936年)247-248頁)。

 

一,皇太子ノ事。

    皇太子ノ事ハ上代ノ日嗣御子ヨリ伝来シタル典故ナレバ之ヲ保存セラルハ当然ノ事ナルベシ。但シ左ノ疑題アリ。

甲,往古以来太子ノ名義ハ御父子ニ拘ラズシテ一ノ宣下ノ性質ヲ為シタリ。故ニ御兄弟ノ間ニハ立太弟ト宣命アルノ外,皇姪ヲ立坊アルモ亦太子ト呼ビ(成務天皇日本武尊ノ第2子ナル足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)立テヽ皇太子ト為ス,即チ仲哀天皇ナリ)従姪孫ノ天皇ヨリ族叔祖ヲ立坊アルモ亦太子ト呼ベリ(孝謙天皇ノ淳仁天皇ニ於ケル)。今皇位継承ノ順序ヲ定メラレ,皇子孫ナキトキハ皇兄弟(ママ)皇伯叔ニ伝フトセラレンニ,此時立太子ノ冊命アルベキ乎

    乙,若シ立太子ハ皇子,皇孫,皇姪ノ卑属親ニ限リ,其他ノ同等親以上ニハ行ハルベキニ非ラズトセバ,皇兄弟以上ノ継承ノ時ニハ践祚ノ日迄何等ノ宣下モナクシテ打過ギ玉フベキ乎。

      前ノ議ニ従ヘバ立太子ハ養子ノ性質ノ如クナリテ名義穏ナラズ,後ノ議ニ依レバ実際ノ事情ニハ稍ヤ穏当ヲ缺クニ似タリ。

      又履中天皇,反正天皇(皇弟)ヲ以テ儲君トシ玉ヒシ例ニ依リ,儲君ノ名義ヲ法律上ニ定メラレ宣下公布アルベシトノ議モアルベシ。此レモ当時ハ「ヒツギノミコ」ト称フル名号ハアリシナルベケレドモ,儲君ノ字ハ史家ノ当テ用ヒタルニテ,綽号ニ類シ,今日法律上正当ノ名称トハナシ難キニ似タリ。

此ノ事如何御決定アルベキカ(叙品ヲ存セラレ一品親王宣下ヲ以テ換用アルモ亦一ノ便宜法ナルニ似タルカ)。

        乙ニ従フ,一品親王ノ説不取

 

 朱記部分は,1888年まで下り得る「かなり後になっての書き込み」です(小嶋・典範179頁)。「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々」の冒頭には同じく朱記で「疑題中ノ重件ハ既ニ総理大臣ノ指揮ヲ得,更ニ柳原伯ノ意見ヲ酌ミ立案セリ。此ノ巻ハ存シテ以テ後日ノ考ニ備フ」とありました(『帝室制度資料 上巻』229頁)。

 前記部分で「(てつ)」は,「めい」ではなく,「兄弟の生んだ男子を称する」「おい」のことになります(『角川新字源』)。「従姪孫」は,いとこの孫(淳仁天皇から見た孝謙天皇)です。「伯叔」は「兄と弟」又は「父の兄と父の弟。伯父叔父。」という意味です(『角川新字源』)。「綽号(しゃくごう)」は,「あだな。」(同)。『日本書紀』の履中天皇二年春正月丙午朔己酉(四日)条に「立(みづ)()別皇子(わけのみこ)為儲君」とあります。小学館の新編日本古典文学全集版では「儲君」の振り仮名は「ひつぎのみこ」となっており,註して「「儲君」の初出。皇太子。」と記しています。

 井上毅は,卑属以外の皇嗣(卑属ではないので,世代的に,皇太()又は皇太()となるのはおかしい。)に「儲君」の名義を与えるべきかと一応検討の上,同案を捨てています。「皇太()については,「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫(●●)之ヲ継承ス」る原則(大日本帝国憲法2条)の下,皇兄弟は「皇子孫皆在ラサルトキ」に初めて皇位継承者となるのであって(明治皇室典範5条),兄弟間継承は例外的位置付けだったのですから,当該例外を正統化するような名義であって採り得ないとされたもののように筆者には思われます。(なお,『皇室典範義解』15条解説においては,「其の皇子に非ずして入て皇嗣となるも,史臣亦皇太子を以て称ふ〔略〕。但し,或は立太子を宣行するあり,或は宣行せざるありて,其の実一定の成例あらず。皇弟を立つるに至ては或は儲君と称へ(反正天皇の履中天皇に於ける),或は太子と称へ(後三条天皇の後冷泉天皇に於ける),或は太弟と称ふ(嵯峨・淳和・村上・円融・後朱雀・順徳・亀山)。亦未だ画一ならず。」と史上の先例を整理した上で,前記の「立太子・立太孫の外,支系より入て大統を承くるの皇嗣は立坊の儀文に依ることを須ゐず。而して皇太子・皇太孫の名称は皇子皇孫に限るべきなり。」との結論が述べられています。)また,宣下すべき名義として,「皇嗣」はそもそも思案の対象外だったようです。旧民法に「推定家督相続人」の語がありましたが,「皇嗣」はその皇室版にすぎないという理解だったものでしょうか。

 

5 明治皇室典範16条の立案経過

 

(1)高輪会議における皇太子・皇太孫冊立関係規定の削除

 「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々」については乙案が採用されることになり,それが後の明治皇室典範16条の規定につながるわけですが,1887320日のかの高輪会議(「明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)ニ関して」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.html,「続・明治皇室典範10に関して:高輪会議再見,英国の国王退位特別法,ベルギーの国王退位の実例,ドイツの学説等」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060127005.html)においては,実は,立坊(立太子又は立太孫)の儀は行わないものとする決定がされたもののようです。すなわち,当該会議の結果,当該会議における検討の叩き台であった柳原前光の「皇室典範再稿」にあった「第26条 天皇践祚ノ日嫡出ノ皇子アル時ハ直チニ之ヲ皇太子ニ冊立ス」及び「第27条 第24条〔太皇太妃,皇太妃及び皇后〕第25条〔皇太子及び皇太孫〕ノ諸号ハ冊立ノ日詔書ヲ以テ之ヲ冊立ス」の両条が削られているからです(小嶋・典範192頁)。恐らくは伊藤博文において,「皇太子・皇太孫は祖宗の正統を承け,皇位を継嗣せむとす。故に,皇嗣の位置は立坊の儀に由り始めて定まるに非ず」なので,そもそも立坊の儀は必要ないのだとの結論にその場においては至ったもの,ということでしょうか(伊東巳代治の「皇室典範・皇族令草案談話要録」には「嫡出ノ皇子ハ冊立ヲ待タスシテ皇太子為リ故ニ此2条〔26条及び27条〕ハ削除ス」とあります(小林宏=島善高編著『明治皇室典範(上) 日本立法資料全集16』(信山社出版・1996年)456頁)。)。(これに対して,柳原は削られた原案の作成者でありましたし,井上毅も,前記「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々」の記載からすると,立太子の宣下はあるべきものと考えていたはずです。)

「立太子の詔は始めて光仁天皇紀に見ゆ。」ということだけれども(『皇室典範義解』16条解説),そもそもの光仁期の先例自体余り縁起がよくなかったのだからそんなにこだわらなくともよいではないか,ということもあったものかどうか。すなわち,「天皇の即位とほぼ同時に皇太子が定められ,原則としてその皇太子が即位するのが通例となってくるのは,じつは(こう)(にん)770781年)以後のことであり」(大隅清陽「君臣秩序と儀礼」大津透=大隅清陽=関和彦=熊田亮介=丸山裕美子=上島享=米谷匡史『古代天皇制を考える』(講談社・2001年)68頁),「(こう)(にん)天皇即位白壁一人であった井上(いのうえ)内親王(ないしんのう)聖武天皇(あがた)犬養(いぬかい)(うじ)皇后(おさ)()親王皇太子と」,「772年(宝亀三),藤原(ふじわらの)百川(ももかわ)策謀皇后・皇太子罪(冤罪(えんざい)可能性れ」(大隅69頁),後に不審死しているところです(他戸親王に代わって皇太子に立ったのが,光仁天皇の後任の桓武天皇でした。)。

  

(2)皇太子・皇太孫冊立関係規定の復活から明治皇室典範16条まで

 高輪会議後,柳原は,18874月に「皇室典範草案」を作成し(小嶋・典範202頁),同月25日に伊藤博文に,同月27日に井上毅に差し出しています(小林=島83頁(島))。そこでは「天皇践祚ノ日嫡出ノ皇子アル時ハ直チニ皇太子ト称ス 刪除」とされつつ(小嶋・典範203頁),小嶋和司教授によれば当該草案では前月の高輪会議における「皇室典範再稿」26条(「二六条」)に係る削除決定が無視されていたとされています(小嶋・典範204頁)。「皇室典範再稿」26条に係るものである皇太子冊立関係規定が再出現したものかのようですが,ここで小嶋教授の記した「二六条」は,「二七条」の誤記であったものと解した方が分かりやすいようです。(すなわち,上記柳原「皇室典範草案」においては,「第3章 貴号敬称」に,第16条として「天皇ノ祖母ヲ太皇太后母ヲ皇太后妻ヲ皇后ト号ス」との規定,第17条として「儲嗣タル皇子孫ヲ皇太子皇太孫ト号ス」との規定が設けられ(小林=島459頁),これらを受けて第18として「前両条ノ諸号ハ冊立ノ日詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と規定されていたところです(小林=島460)。なお,井上毅の梧陰文庫に所蔵(小林=島83頁(島))の同草案18条には井上の手になるものと解される(小林=島219)朱書附箋が付されており,そこには「18条修正 皇后及皇太子皇太孫ヲ冊立スルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス此ノ1条ノ目的ハ冊立ニ在テ尊号ニ在ラザルヘシ故ニ17条ヲ併セ第4章ニ加ヘ4章ヲ以テ成年立后立太子及嫁娶トスヘシ4章の章名を「成年嫁娶」から「成年立后立太子」にせよの意〕」と記されていました(小林=島460)。嫡出ノ皇子ハ冊立ヲ待タスシテ皇太子為リ故ニ此2条〔26条及び27条〕ハ削除ス」と高輪会議ではいったん決めたものの,嫡出ノ皇子の当然皇太子性との関係で冊立に重複性が生ずるのは「皇室典範再稿」の第26の場合であって,庶出の皇子にも関係する同27条の冊立規定までをも削る必要は実はなかったのではないですか,とでも伊藤には説明されたものでしょうか。

 その後の井上毅の77ヶ条草案には「第19条 皇后及皇太子皇太孫ヲ冊立スルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」という条項があり,柳原の「皇室典範再稿」27条に対応する規定の復活が見られます(小嶋・典範213頁。前掲の柳原「皇室典範草案」18条に係る朱書附箋参照)。77ヶ条草案の第19条は,1888320日の井上毅の修正意見の結果(小嶋・典範210-211頁),「第17条 皇后及皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と改まり,その理由は井上によって「冊立トハ詔書ヲ以テ立ツルノ意ナリ故ニ1文中重意ヲ覚フ」とされています(小嶋・典範213頁)。1888525日から枢密院で審議された明治皇室典範案においては「第17条 皇后又ハ皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」となっています(小嶋・典範228頁)。

 上記枢密院提出案に対して,柳原前光は1888524日に「欽定皇室典範」といわれる意見を伊藤博文に送付しています(小嶋・典範236頁)。枢密院提出案17条に対する「欽定皇室典範」における柳原の修正は,章名を「第3章 成年立后立太子」から「第3章 成年冊立」とした上で(理由は「立后,立太子ト題シ,太孫ノコトナシ,故ニ冊立ト改ム。」),「冊立ノ字,題号ニ応ズ」という理由で「第17条 皇后又ハ皇太子,皇太孫ヲ冊立スルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」とするものでした(『帝室制度資料 上巻』143-144頁)。前記井上毅の77ヶ条草案19条とほぼ同じ文面となっています。

 更に1889110日,柳原から伊藤博文に対し,明治皇室典範案に係る帝室制度取調局の修正意見書が送付されます(小嶋・典範247頁)。そこには,第3章の章名を「第3章 成年立后立太子孫」とし,第17条については「第17条 皇后皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ宣布ス」とすべきものとする意見が含まれていました(『帝室制度資料 上巻』5-6頁)。

 最終的な明治皇室典範16条は,前記のとおり,「皇后皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」との条文になっています。

 6 みたび,柳原前光の「深謀」

 筆者としては,高輪会議で一度消えた立坊の儀について定める条文の復活(明治皇室典範16条)も,柳原前光の深謀であったものと考えたいところです。(「伊藤博文の変わり身と柳原前光の「深謀」」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065458056.html

 

(1)「帝室典則」に関する宮中顧問官らの立坊論

 明治皇室典範に係る有名な前記高輪会議が開催された1887年の前年のことですが,1886年の610日の宮内省第3稿「帝室典則」案の第1は,「皇位ハ皇太子ニ伝フヘシ」と規定していました(小嶋和司「帝室典則について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』138頁)。当該「帝室典則」610日案に係る宮中顧問官による評議を経た修正を記録した井上毅所蔵(梧陰文庫)本には,上記第1について,次のような朱書註記(記載者を示す史料はなし。)があったところです(小嶋・典則159-160頁,161)。(なお,当該第1については,宮中顧問官の評議の結果,「第1」が「第1条」になりましたが,文言自体には変更はありませんでした(小嶋・典則150頁)。)

 

  皇太子ハ冊立ヲ以テ之ヲ定ム嫡長男子ノ立坊ハ其丁年ト未丁年トヲ問ハズ叡旨ヲ以テ宣下

  庶出長皇子ノ立坊ハ皇后宮御受胎有ルマシキ御年齢ニ至ラセラレタル上宣下

  庶出皇子立坊ノ後若シ皇后宮受胎降誕在ラセラルトモ其為メ既ニ冊立ノ太子ヲ換フルヘカラス

 

当該朱書註記は「610日案への青色罫紙貼付意見に答えるもので,おそらく顧問官評議において右のように諒解され,それが記載されたのであろう。」というのが,小嶋和司教授の推測です(小嶋・典則161頁)。

「帝室典則」610日案の第1への「青色罫紙貼付意見」(何人の意見であるか不明(小嶋・典則147頁))とは,「立太子式有無如何/其式無之(これなく)シテ太子ト定ムル第6条ノ場合差支アルカ如シ」というものでした(小嶋・典則150頁)。

「帝室典則」610日案の第6は「凡皇子孫ノ皇位ヲ継承スルハ嫡出ヲ先ニス皇庶子孫ノ位ヲ嗣クハ皇嫡子孫在ラサルトキニ限ルヘシ/皇兄弟皇伯叔父以上ハ同等皇親内ニ於テ嫡ヲ先ニシ庶ヲ後ニス」というもので(小嶋・典則140頁),これに対する「青色罫紙貼付意見」は「庶出ヲ以テ太子トセル際後ニ嫡出アラハ前ニ太子ヲ称セシヲ廃スルカ如何」というものでした(小嶋・典則152頁)。

「帝室典則」610日案の第6には,宮中顧問官の評議の後,第63項として「嫡出庶出皆長ヲ先ニシ幼ヲ後ニス」が加えられていますところ(小嶋・典則152頁(また,第1項の「ヘシ」も削られています。)),専ら,皇后に皇子が生まれていない状態(「皇嫡子孫在ラサル」「6条ノ場合」)が続く場合,皇位継承順位第1位の皇族(前記朱書においては,側室から生まれた庶出の最年長皇子)はいつまでも皇太子にならないまま践祚を迎えることになってしまうのではないか,という具体的問題意識が宮中顧問官の間にあったということになるようです。

せっかく天皇に皇子があるのに,庶出であるばかりに,いつ皇后が皇子を生むか分からないからということで皇太子不在という状態を続けてよいのか,やはりどこかで区切りを付けて当該庶出の皇子を皇太子に冊立すべし,ということのようです。しかし,いったん庶出の皇子を皇太子に冊立した後に皇后が嫡出の皇子を生んでしまうと大変なので(さすがに,いったん皇太子となった皇子について廃太子の手続を執るというのはスキャンダラスに過ぎるでしょう。),「庶出長皇子ノ立坊ハ皇后宮御受胎有ルマシキ御年齢ニ至ラセラレタル上宣下」というように皇后に受胎能力がなくなったことを十分見極めてから皇太子冊立をしましょうね,ということになったようです。とはいえ,当の皇后にとっては,失礼な話ですね。明治の宮中顧問官閣下ら(川村純義・福岡孝弟・佐々木高行・寺島宗則・副島種臣・佐野常民・山尾庸三・土方久元・元田永孚・西村茂樹(小嶋・典則146))も,令和の御代においては,ただのセクハラおじいちゃん集団歟。

 

(2)柳原の「帝室典則修正案」における立坊関係規定の採用

その後(ただし,1886107日より前)柳原前光が作成した「帝室典則修正案」においては(小嶋・典則166-167頁),その第9条に「皇太子皇太孫ト号スルハ詔命ニ依ル」という規定が置かれました(小嶋・典則164頁)。同条の規定は,直前の「帝室典則」案には無かったものです。小嶋教授は,「「典則」での採択を覆すもの」と評しています(小嶋・典則166頁)。すなわち,「帝室典則」に先立つ1885(小嶋・典則64「皇室制規」の第10には「立太子ノ式ヲ行フトキハ此制規ニヨルヘシ」との規定があったのですが,当該規定は「帝室典則」では削られていたところです(小嶋・典則125頁・140頁・153)。とはいえ,「帝室典則」案に対する宮中顧問官の評議を経た修正結果においては,2条ただし書として「但皇次子皇三子ト雖モ立坊ノ後ハ直ニ其子孫ニ伝フ」との規定が設けられてありました(小嶋・典則151頁。下線は筆者によるもの)。

「帝室典則修正案」に,前記の「皇室法典初稿」(1887125日)が続きます。

 

(3)嘉仁親王(大正天皇)の立太子

庶出ではあるが唯一人夭折を免れた皇子である嘉仁親王(後の大正天皇)について,明治皇室典範裁定後の1889113日,立太子の礼が行われました。明治天皇の正妻である昭憲皇太后は,その日満40歳でした。(なお,嘉仁親王は,その8歳の誕生日である1887831日に,既に昭憲皇太后の実子として登録されていたところではあります(奥平康弘『「萬世一系」の研究(下)』(岩波現代文庫・2017年)16頁等参照)。ちなみに,1886年の「帝室典則」610日案第7には「庶出ノ皇子皇女ハ降誕ノ後直チニ皇后ノ養子トナス」とあったところ(飽くまでも養子です。),同年中の顧問官評議を経て当該規定は削られており,その間副島種臣から「庶出ト雖嫡后ヲ以テ亦母ト称ス」との修正案が提出されていたところです(小嶋・典則140頁・153)。

ところで,嘉仁親王の生母である愛子の兄こそ,柳原前光おじさんでありました。

 

7 現行皇室典範における立坊関係規定の不在と立太子の礼の継続

庶出の天皇が践祚する可能性を排除した現行皇室典範においては,明治皇室典範16条に相当する立太子・立太孫関係規定は削られています。

しかしながら,庶出の天皇(皇族)の排除と立坊関係規定の不在との間に何らかの関係があるかどうかは,194612月の第91回帝国議会における金森徳次郎国務大臣の答弁からは分からないところです。同大臣は,立太子の礼に関しては,立太子の儀式を今後も行うかどうかは「今の所何らまだ確定した結論に到達しておりません。」(第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会議録(速記)第422頁),「決まっておりません。」(同会議録23頁),「本当の皇室御一家に関しまするものは,是は法律は全然与り知らぬ,皇室御内部の規定として御規定になる,斯う云ふことになつて居りますが,さうでない,色々儀式等に関しまする若干の問題は,今まだ具体的に迄掘下げては居りませぬけれども,例へば立太子の式とかなんとか云ふ方面を考へる必要が起りますれば,それは多分政令等を以て規定されることと考へて居ります」(第91回帝国議会貴族院皇室典範案特別委員会議事速記録第27頁)というような答弁のみを残しています。立太子・立太孫ないしは立皇嗣の礼に係る立儲令のような政令等の法令は,いまだ存在していないところです。
 194612月段階では行われるかどうか未定でしたが,立太子の礼を行うことは継続されることになりました。

1952年(昭和271110日,〔現上皇〕皇太子継宮(つぐのみや)明仁(1933-)の立太子礼が,旧立儲令に従って挙行され,報道機関は,皇室は日本再興のシンボル,と書き立てた。内閣総理大臣吉田茂は,立太子礼の寿()(ごと)で「臣茂」と名乗り,その時代錯誤ぶりで,世人を驚かせた。」とのことです(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)207-208頁)。「旧立儲令に従って」とのことですが,立儲令附式には賢所大前の儀において内閣総理大臣が「御前に参進し,寿詞を述べる」ということは規定されておらず,臣下の分際で立太子の礼にしゃしゃり出てよいものかどうか,吉田茂は恐懼したものでしょう。

 

(追記)

なお,19521110日の立太子の礼宣制の儀に係る式次第は,次のとおりでした(宮内庁『昭和天皇実録 第十一』(東京書籍・2017年)445-446頁)。当該式次第は,「旧立儲令に従って」はいません。

 

 午前11時より表北の間において,立太子の礼宣制の儀を行われる。黄丹袍を着して参入の皇太子〔現上皇〕に続き,〔香淳〕皇后と共に〔昭和天皇は〕同所に出御される。ついで宮内庁長官田島道治が宣制の座に進み,次の宣制を行う。

  昭和271110日立太子ノ礼ヲ挙ケ明仁親王ノ皇嗣タルコトヲ周ク中外ニ宣ス 

次に皇太子より敬礼をお受けになる。ついで内閣総理大臣〔吉田茂〕より寿詞をお受けになり,入御される。

 

 ところで,1916113日の詔書の前例及び1989223日のおことばの後例に鑑みても,「皇太子」を立てることに係る立太子の礼における宣制中の「皇嗣タルコトヲ」の部分は,田島長官が余計,かつ,儀式の本来の趣旨からすると不正確なことを言った,ということにならないでしょうか。皇太子であれば,皇嗣たることは自明です。19521110日の宣制の考え方は,立太子の礼とは,某親王が皇嗣であること(皇太子であること,ではない。)をあまねく中外に宣するための儀式である,ということでしょうか。

 令和の御代における立皇嗣の礼催行の正統性は,この辺において見出されるべきものかもしれません。そうであれば,吉田茂内閣の「時代錯誤」とは,明治典憲体制への退行というよりも,令和・天皇の退位等に関する皇室典範特例法体制を先取りしたその先行性にあったということになるのでしょう。

 しかし,この先見の功は,吉田茂一人に帰して済まし得るものかどうか。19521114日には,昭和天皇から「皇太子成年式及び立太子の礼に当たり,皇太子のお言葉及び宣制の起草に尽力した元宮内府御用掛加藤虎之亮東洋大学名誉教授に金一封を賜う。」ということがあったそうです(実録第十一453頁。下線は筆者によるもの)。

 19331223日の明仁親王誕生までの昭和天皇の皇嗣は弟宮の雍仁親王(1902625日生。秩父宮)であったところですが,雍仁親王は1940年以降胸部疾患により神奈川県葉山町,静岡県御殿場町及び神奈川県藤沢市鵠沼の別邸での長期療養生活を余儀なくされ,皇太子明仁親王が「皇嗣タルコトヲ周ク中外ニ宣ス」る宣制がせられた儀式に病身をおして参列した195211月の翌月である同年「12月より容態が悪化し」,195314日午前220分に薨去せられています(実録第十一447, 479-481頁)。


DSCF0910
旧秩父宮ヒュッテ(札幌市南区空沼岳万計沼畔)



弁護士ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

DSCF0916
 空沼岳山頂(札幌市南区) 
DSCF0917
 空沼岳山頂から見る恵庭岳
DSCF0923
 空沼岳から見る札幌岳,その奥に余市岳(札幌市最高峰)


1 『山の大尉』と山岳兵とキスリング・ザック

 『山の大尉』という山の歌があります。元はイタリアの歌(Il testamento del capitano)だったもので,訳詞に「イタリア皇帝」などが出てきます。

 死体を五つに切れとかグロいなぁ,死体の一部を貰ったって迷惑なだけだし嬉しくないぞ,薔薇の肥やしにするといったってかえって山の植生を乱し高山植物に悪影響を与えることになるではないか,そもそも登山(ザング)()が無ければ山で満足に行動できないのは当然であるリソルジメントで成立したサルジニア王家のイタリア統一国家はイタリア「王国」であってイタリア「帝国」ではないぞ,などと突っ込むところの多い歌でしたが(訳詞者の牧野文子様,ごめんなさい。)これをあえて調子を外して歌うのが,筆者の属していたワンダーフォーゲル部ではかわいらしくておしゃれであるものとされていました。

 山の大尉殿の部下は,山岳兵(alpini)。

他に娯楽の無い山の中で何度も『山の大尉』をがなり立てているうちに,筆者らも自分たちがサンガクヘーであるような気持ちになっていました。

 互いに「〇〇ヘー」「××ヘー」と呼び合っているうち,大量の食糧・装備をキスリング・ザックに入れて背負って(重量の圧迫で肩のあたりの神経がやられるのでしょう,腕が動かなくなる「ザック麻痺」というのがありました。)長期間道なき山のその奥で藪また藪を漕ぎ消耗(ショーモー)する夏合宿中,動きが鈍くなって「果て」かけた仲間に対して,「△△ヘー ハ シンデモ ザツク ヲ ハナシマセン デシタ」と呼びかけたり,あるいは疲労の中で苦笑しながら自ら言ったりすることがはやることになりました。無論これは,木口小平の故事にならったものです。

 

  キグチコヘイ ハ テキ ノ

  タマ ニ アタリマシタ ガ,

  シンデモ ラツパ ヲ

 クチ カラ ハナシマセン

  デシタ。

 

 この木口喇叭手の壮烈な戦死があったのが,日清戦争の陸上における初戦(我が騎兵第五大隊第一中隊による1894年7月26日の七原南方におけるロバ捕獲戦を除く。)たる1894年7月29日の成歓の戦いだったのでした。

 

2 今回の記事の対象

 筆者の母方の曽祖父の残した「由緒」書きにおける下記日清戦争関係の記載に係る考証話の第5回は,成歓・牙山の戦いを取り扱います。果たして筆者の曽祖父は,命の限りラッパを吹く木口小平のそのラッパの響きを聞いたのでしょうか。

 

明治26年〔1893年〕11月1日徴兵ニ合格シテ騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ〔第1回はここまで〕

明治27年〔1894年〕6月朝鮮国ニ東学党蜂起シ韓国居留民保護ノ目的ヲ以ツテ(どう)年6月11日混成旅団ヲ編成セラ(ママ)大島義昌少将ヲ旅団長トシ平城盛次少尉ヲ小隊長トシ選抜セラレテ山城丸ニ乗舶シ宇品港出帆玄海灘ヲ経テ仁川ニ向フ此ノ日山陽鉄道広島駅()()開通ノ日ナリ〔第2回はここまで〕

明治27年8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル

〔第3回はここまで〕仝7月23日京城ノ変ニ出張爾来〔前回はここまで〕成歓ニ牙山ニ〔今回はここまで〕平壌義洲鴨緑江鳳凰城(ママ)馬集崔家房(ママ)家台竜頭塞興隆勾瀇嶺海城牛荘田庄台ト転戦ス

明治27年9月15日大本営ヲ広島旧城エ進メ給ヘリ

明治28年〔1895年〕6月5日講和トナリ凱旋

仝年1112日日清戦役ノ功ニ依リ瑞宝章勲八等及び金50円幷ニ従軍徽章下賜セラル 

明治29年〔1896年〕1130日善行証書ヲ授与セラレ満期除隊トナル

 

3 「シンデモラツパヲ」その1:木口小平

 

(1)安城渡の戦いとラッパの響き

 

ア 佳龍里附近(安城渡)の戦い

 成歓の戦いにおける木口小平の戦死の様子が小学校児童にどのように教えられていたかというと,1912年5月に宝文館から出た東京高等師範学校訓導相島亀三郎の『尋常小学修身書例話原拠』という書物があります。同書の「第17 忠義」の「例話 木口小平」の項においては(1014頁),我が成歓攻撃右翼隊(我が軍は漢城から南下して素沙場を経て更に南の成歓に向かい,その際右翼隊及び左翼隊(大島義昌旅団長はこちら)の二手に分かれて進んだので,右翼隊は西側の部隊になります。)の佳龍里(安城川を越えたその南方)附近における戦闘(一般に「安城渡の戦い」といわれています。)の模様を,参謀本部の『明治廿七八年日清戦史 第1巻』(1904年8月)に拠って述べて(相島1112頁),その後に当該戦闘における木口二等卒の戦死状況の描写を付加する順序となっています(相島1314頁)。

 参謀本部『明治廿七八年日清戦史 第1巻』による佳龍里附近の戦闘に関する叙述は次のとおりです(140142頁)。なお,適宜句読点濁点を補うとともに,混成旅団報告第21号「混成旅団戦闘詳報」(アジア歴史資料センター)で補充します(青字)。

 

  又,右翼隊ハ,歩兵第二十一聯隊第十二中隊(長,大尉松崎直臣)〔原書の小文字2行の割注を括弧書きに改めています。〕ヲ以テ前衛(司令官,大尉山田一男(第三大隊長代理))ト為シ,自余ノ諸隊〔「第十第七第九中隊及ヒ工兵中隊(1小隊欠)」(詳報)〕ハ本隊トナリ,29日午前2時(すぎ)素沙場ヲ出発シ銀杏亭高地ニ向ヒ全州街道ヲ前進ス(たま)(たま)満潮ニ際シ,(こと)ニ河川,沼沢多クハ氾濫シ為メニ道路ト水田トヲ弁別スル(あた)行進極テ困難ナリ(しか)シテ尖兵(第十二中隊ノ第二小隊)(かろ)(ママ)テ佳龍里〔「秋八里北方(ママ)6百米突(メートル)ノ「キリン」洞」(詳報)〕附近ニ達スルヤ(午前3時20〔「3時5分」(詳報)〕),(たちま)チ前方約30米突(メートル)ニ於ケル諸家屋内(および)家屋ノ間ヨリ猛烈ナル射撃ヲ受ケタリ〔「敵2大隊(ばかり)(旗2本〔「」の文字を記した旗〕)家屋ニ防禦編制ヲナシ我尖兵10米突(メートル)(ばかり)近接スルヲ待チテ不意ニ急射撃ヲ為セリ(詳報)(より)テ尖兵ハ(ただち)ニ現場(屋後ノ畑地)ニ伏臥シ(これ)ニ応戦ス(第十二中隊長松崎大尉ハ,行進路ヲ確カメンガ為メ(あたか)モ尖兵ノ位置ニ()(この)(とき)自ラ(これ)ヲ指揮セリ〔略〕。)〔「前衛中隊ハ(ただち)ニ田畔ニ散開シ急射撃ヲ行」(詳報)〕

  交戦約10分ノ後,尖兵長山田少尉〔歩兵第二十一聯隊第十二中隊小隊長陸軍歩兵少尉山田四郎(参謀本部・附録第14ノ2)〕()傷ツキ(つい)松崎大尉敵弾ヲ受ケテ(たお)兵卒ニモ(また)数名ノ死傷アリ(しょう)時ニシテ本隊ハ尖兵ノ右側後方ニ達シ(その)(かん)(せい)ヲ揚テ前進スルヤ(本隊ハ,尖兵ト敵ト接触シ()ルヲ認メタルガ故ニ危険ヲ(おもんぱか)リテ射撃ヲ為サズ。(ただ)(ただ)喊声ノミヲ発シテ前進シタリ。),敵兵ノ過半ハ射撃ヲ本隊ノ方向ニ転ゼリ〔「本隊の3中隊ハ漸次右翼ニ至リ工兵中隊ハ後方河川ノ堤防ニ拠レリ敵ノ射撃ハ漸次(さか)ンニナレリ」(詳報)〕須臾(しゅゆ)ニシテ第十二中隊ノ第一,第三小隊ハ佳龍里ノ北方約100米突(メートル)ノ地〔参謀本部142143頁間の地図を見ると尖兵の左後方〕ニ達シ,射撃ヲ開始セリ。〔相島12頁の紹介はここまで〕

  (これ)ヨリ先キ右翼隊司令官武田中佐〔歩兵第二十一聯隊長武田秀山歩兵中佐〕前方ニ銃声ヲ聞クヤ(ただち)ニ其戦況ヲ観察シタル後()(おの)レノ身辺ニ()リシ一上等兵ニ十数名ノ兵ヲ附シテ応援セシメ本隊ニハ右ニ迂回シテ敵ノ左翼ヲ攻撃スキヲ命(この)時,歩兵中尉時山龔造ハ,約3分隊ノ兵員ヲ率テ敵ノ左翼ニ向ハントシ,右方ニ折レ細径ヲ経テ前進シ,一水壕ノ(その)前方ニ(よこたわ)レルニ会シ徒渉シテ進マント欲シ,()自ラ(おどりいり)テ水中ニ入ルヤ部下相続キテ壕心ニ到ル。(この)()ト水多ク,且ツ,河床泥深ク,遂ニ進退ノ自由ヲ失ヒ,中尉以下23名此ニ溺死ス。)。3時30(すぎ)本隊ノ第七中隊及第十中隊(へん)列シテ右方ニ展開シ(つい)前進シ第十二中隊ノ右方ニ達シテ急射撃ヲ行ヒ〔「3時25分第十第七中隊各1小隊ヲ散兵線ノ右翼ニ増加シテ急射撃ヲナセリ」(詳報)〕,4時ニ至リ本隊ノ3中隊ハ敵ノ左翼ニ向テ突撃ヲ行フ。敵兵支ル(あた)南方水田中ヲ跋渉シテ成歓方向ニ敗走ス第十二中隊ハ(すなわ)チ部落ノ南端ニ出テ追撃射撃ヲ行ヘリ〔「(ママ)45分本隊ノ3中隊ハ敵ノ左翼ニ向テ突撃ヲ行ヒ敵兵秋八里ニ退却ス(この)際暗黒ニシテ彼我(ひが)ノ区分判然セス為メニ充分射撃ヲナス(あた)ハサリシ」(詳報)〕

  (この)間武田中佐ハ工兵中隊ヲ招致シ佳龍里部落内ニ敵兵ノ有無ヲ捜索セシテ(つい)諸隊ヲ集合ス(佳龍里ニ在リシ清国兵ハ約百名ニシテ,戦闘少時前成歓ヨリ派出シタルモノナラン。)〔「4時5分集合ヲ命シ各家屋内ヲ捜索セシメ敵兵2名ヲ生獲シタリ/(この)戦闘間カ右翼隊ニ死傷者ヲ生セシ(もっとも)多キ時(なり)」(詳報)〕(しか)シテ午前5時20分,第七中隊(長,大尉田辺光正)ヲ前衛ニ任ジ,当初ノ目的地タル銀杏亭高地ニ向テ佳龍里ヲ出発ス。

 

ラッパの響きの存在は,参謀本部の『明治廿七八年日清戦史』にも混成第九旅団の「混成旅団戦闘詳報」においても言及されていません。

 

イ ラッパの響き

ただし,佳龍里附近の戦いでラッパの響きを聞いたとの従軍記者の報告があります。西川宏『ラッパ手の最後―戦争のなかの民衆―』(青木書店・1984年)において,次のように紹介されています(133135頁)。

 

  大阪毎日新聞の高木利太特派員は,素(ママ)出発のときは右翼隊の後尾にあったが,歩行中水田に転落したので,わらじの緒をしめている間に一行にはぐれ,走って追い着いたところは先鋒軍(前衛である松崎中隊であろう―西川)の後尾であった。彼が危険な位置に来てしまったことを後悔したとき,

    数発の銃声数条の火線を飛ばして暗黒を破るとみるや轟然響を放って発銃は一秒一分愈(さかん)にして火条は右往左往又た縦横無尽開て破裂するあり走って消失するあり高く飛んで雲を磨するあり低く落ちて地に入るあり

     〔略〕

    兎角する程に余の身辺にヒュヒュと弾丸の走る音して危険極りなし暫くは道路に横臥して弾丸を避けたるも時を経るに従って飛散益甚し則ち慌てて水田の中に飛入って腰部を湿すを意とせず畦に拠って身体を隠し時に首も伸して戦争の光景如何に勝負は如何と眺めたり

    銃声漸く減じたる頃ろ喇叭の楽高く聞ゆ吶喚(とつかん)次で大に起る・・・銃声は再び回復されたり縦横左右に飛奔する火条は再び現はれたり然れども暫時にして亦た衰へぬ敵か味方か如法の暗なれば判然せねど一方の射撃は頗る減少せり之を見て取ったる一方は〇〇〇〇より銃声一度に響くこと再度此急激なる発銃は全く戦の終りを告げ後は彼処に五六発此所に三四発又も〇〇〇〇の進行喇叭は一層高く響き吶喚益高し而して銃声は全く憩ひぬ時は天漸く明にして山現はれ家現はれ森林見ゆ(『大阪毎日新聞』8月9日付)

時に5時であった。高木記者は,この戦闘の開始を3時40分と記しているが,『戦史』は3時20分としている。後者の方が正しいと思われる。〔略〕

東京日日新聞の黒田甲子郎特派員は,このとき右翼枝隊に付随していたというから,本隊すなわち第九中隊か第七中隊の中にあったと思われるが,橋を渡ろうとした一刹那,銃撃が始まった。

    我が枝隊は画策未だ全からずして開戦を促され一時喫驚せし色ありしも予てより斯くあるべしと覚悟せしことなれば之に応じて接戦すること殆ど1時間・・・敵兵の銃声多きと我が軍隊の地理に熟せずして掩蔽物(えんぺいぶつ)を利用すること(あた)はざるとの二点よりして我が軍隊に死傷多からんと思ひ居たりしに暫くにして((ママ))翼枝隊の一部は少く((ママ))進し(ちょ)水中に陥りたる兵士十数名は最も憐なる態にて退き来たるを以てこは必竟枝隊の敗戦と見受けられたり遺憾何ぞ極まらん何がな回復の策もあれがしと独語しつる折柄,我が軍隊が吶喊の声は天地も撼かさんまでの響きしたり我進軍喇叭の音は銃声霹靂(へきれき)の中にも最も朗かに聞えたり吶喊(こもご)も響きて音声稍遠ざかり敵の発射漸く減じたり(『東京日日新聞』8月14日付)。

そしてこのとき東の空が明るくなっている。黒田はこの戦闘を「殆ど1時間」と記しているが,時間を正確にはかっていないのであるから,ただ感じからいっているにすぎない。

 

 参謀本部の『明治廿七八年日清戦史』によれば,右翼隊の本隊(第二十一聯隊第十,第七及び第九の3中隊)による吶喊がまずあり,その後になってまた当該本隊による最終的な突撃があったということですから,これは高木記者の2度「吶喚」及びラッパ吹鳴があったとの証言(「銃声漸く減じたる頃ろ喇叭の楽高く聞ゆ吶喚(とつかん)次で大に起る」及び「〇〇〇〇の進行喇叭は一層高く響き吶喚益〻高し而して銃声は全く憩ひぬ時は天漸く明にして」)と符合するようです。1回目の「吶喚」及びラッパ吹鳴が「霎時ニシテ本隊ハ尖兵ノ右側後方ニ達シ其喊声ヲ揚ケテ前進スルヤ(本隊ハ尖兵ト敵ト接触シ在ルヲ認メタルカ故ニ危険ヲ慮リテ射撃ヲ為サス唯〻喊声ノミヲ発シテ前進シタリ)敵兵ノ過半ハ射撃ヲ本隊ノ方向ニ転セリ」の場面に対応し,2回目の「吶喚」及びラッパ吹鳴が「4時ニ至リ本隊ノ3中隊ハ敵ノ左翼ニ向テ突撃ヲ行フ敵兵支ル能ハス南方水田中ヲ跋渉シテ成歓方向ニ敗走ス」の場面に対応するわけでしょう。そうであれば,木口小平は,「吶喊」し,「突撃」をした右翼隊本隊を構成する三つの中隊である歩兵第二十一聯隊の第十,第七又は第九中隊のいずれかに所属するラッパ手であったということになりそうです。


(2)木口小平の戦死

しかしながら,相島亀三郎の『尋常小学修身書例話原拠』における木口小平戦死の描写は次のとおりです(1314頁)。

 

  第二十一聯隊附松崎大尉は,第十二中隊を以て前衛とし,闇夜に乗じて,成歓の城塁さして進み行く,木口小平は,其尖兵となり,勇気を奮ひて前に立ち,盛に突進の喇叭を吹奏す,敵の打出す砲弾は益々激しき中を,我は僅に二十余人のみにして如何ともなし難し,木口小平は,二等卒の身にありながら,勃然たる勇気抑へ難く,敵前五六間の処に進み出て,進め進めと吹奏して,我軍の勇気を振興せしむ,我軍は此勇気に励まされて突進し,遂に敵兵を破る。時に今まで吹き続けたる喇叭の音は俄かに絶えければ,怪しみて之れを見るに,小平は敵弾に中りて勇ましき戦死を遂げたるなりき。其死骸を取片くるに及びてよく見るに,小平は喇叭をしかと握り,之れを口に当てたる儘正しき姿勢をくづさずして斃れ居たり。人之れを見て感嘆せざるはなかりき。嗚呼,忠烈なる小平,死に至るまで己れの任務を尽したる,誠に幾千歳の亀鑑となり,長へに護国の神たらん。小平は実に岡山県川上郡成羽村の産なり。

 

 なお,相島亀三郎の『尋常小学修身書例話原拠』の記述は,上記に続いて直ちに「第19 うそをいふな」と警告します(14頁)。

 さてさて,木口小平は第十二中隊の兵卒でありました。(なお,長岡常男『木口小平』(木口小平伝記刊行所・1932年)5051頁には「第五師団司令部保管の歩兵第二十一聯隊戦死者名簿には左の如く記載し明確に小平の偉勲を証拠立てゐる。」としつつ「歩兵第二十一聯隊第十一(ママ)中隊喇叭卒/木口小平/安城渡に於て左胸部銃創貫通即死」との記載がされていますが,これは校正が甘過ぎます。歩兵第二十一聯隊第十一中隊は,成歓の戦いの当時は遠く仁川兵站守備隊に属していました(参謀本部127頁)。)

 しかし,相島訓導の記述は,まずい。「第二十一聯隊附松崎大尉は,第十二中隊を以て前衛とし,闇夜に乗じて,成歓の城塁さして進み行く,木口小平は,其尖兵となり,勇気を奮ひて前に立ち,盛に突進の喇叭を吹奏す」が,まずまずい。素沙場からラッパをずっと吹いていたのでしょうか。せっかく「闇夜に乗じて」いるのに,にぎやかに「盛に突進の喇叭を吹奏」していたのでは部隊行動の秘匿性はぶち壊しです。混成第九旅団の「混成旅団戦闘詳報」にも,「全団(ばい)(ふく)メ」とあったところです。また,第十二中隊はラッパの響きと共に佳龍里に「突進」したわけではなく,いきなり清国兵の銃撃を受けて不意をつかれたところでした(「一時喫驚」)。

さて,佳龍里附近の戦闘においては,尖兵の第二小隊は射すくめられて「直ニ現場(屋後ノ畑地)ニ伏臥」したのでしょうが,後方の第一小隊及び第三小隊は「直ニ田畔ニ散開」,すなわち高木記者のように「慌てて水田の中に飛入って腰部を湿すを意とせず畦に拠って身体を隠し」たように思われます。「敵の打出す砲弾は益々激しき中を,我は僅に二十余人のみにして如何ともなし難し」ということにはなるのですが,「木口小平は,二等卒の身にありながら,勃然たる勇気抑へ難く,敵前五六間の処に進み出て,進め進めと吹奏して,我軍の勇気を振興せしむ,我軍は此勇気に励まされて突進し,遂に敵兵を破る。」というのはどうでしょう。闇夜でラッパを吹けば当然そこに銃撃は集中し,しかも「敵前五六間」の至近距離であればあっという間に絶命でしょう。「我軍の勇気を振興せしむ」というよりは,その無残さは,畑地に又は田畦に伏臥していたであろう我が軍の兵士らに更に恐怖を与え,士気を阻喪せしめるだけではなかったでしょうか。そもそも,隊長の命令によらず,「勃然たる勇気抑へ難く」勝手に進軍ラッパを吹奏してしまってよいものでしょうか。また,現実には第十二中隊だけの「突進」で佳龍里の清国兵を追い払うことができたわけでもありません。

なお,相島訓導の表現からは,「成歓の城塁」の戦いにおいて木口小平が戦死したものとしているものとも読み得ますが,成歓駅自体を落としたのは旅団長率いる左翼隊であって,牽制役の右翼隊ではありません(参謀本部148頁)。

木口小平の屍体検案書が広瀬寅太編『岡山県人征清報国尽忠録』(岡山県愛国報公義会・1894年)に掲載されているそうですが(西川118頁),この「屍体検案書で注目すべきことは,「左胸乳腺の内方より心臓を貫き後内((ママ))に向ひ深く進入せる創管を認」め,死因を「左胸留丸銃創」と記していることである。弾が当たったのは咽喉ではないのである。そして弾丸が心臓が貫いている以上は即死と判断せざるをえない。」ということでした(西川146147頁)。更にいえば,伏臥の姿勢であるときに撃たれたわけではなさそうです。高い姿勢であるときに胸を撃たれたということになると,不意をつかれた最初の銃撃の時であるとも考えられます。しかしそれで直ちにパタリと斃れてしまっては,「シンデモ ラツパ ヲ クチ カラ ハナシマセン デシタ。」にはならず,困ったことになります。


4 「シンデモラツパヲ」その2:白神源次郎

 

(1)当初の白神源次郎説

とはいえ,木口小平が「シンデモ ラツパ ヲ クチ カラ ハナシマセン デシタ」状態で戦死していたかどうかは,最初から,はっきりしていなかったようです。1894年8月9日付け『東京日日新聞』の「戦闘遺聞」欄で「喇叭卒の一名は進軍喇叭を吹奏しつつ敵弾に斃れ斃れ,猶ほ管を口にし」たとの挿話が紹介され(西川31ページ),「29日我兵安城渡に向ふ我喇叭卒某進軍行を鼓吹すること劉喨(りゅうりょう)たり(たまた)ま飛丸あり彼が胸部を撃つ彼倒れて尚鼓吹を(とど)めず瞑目絶息に至り初めて吹奏を絶つ」と『日清戦争実記』第2編(博文館・1894年9月10日)の88頁(「凛然たる勇烈兵士の亀鑑」)に記事が出たラッパ手は,当初は白神源次郎であるとされていたのでした(なお,この氏は,「しろがみ」ではなく「しらが」と読むそうです(西川151頁)。)。

 

 成歓の役第五師団第廿一聯隊正に進軍の喇叭を奏す兵士銃を()つて突進し両軍砲声相交はる忽ち一丸飛来つて喇叭手白神源次郎(二十五年)の胸部を貫ぬく鮮血淋漓(しりえ)(どう)と倒れたれども白神は毫も屈する色なく手に喇叭を放さず喨々として凄まじき進軍喇叭の声を絶たずされども深痛(ふかで)に弱りて呼吸いよいよ迫り吹奏断続其声(いと)の如く次第々々に弱り行きて吹奏止むとき彼は已に絶息して最も名誉の戦死を為したりされば在韓将卒は皆其の勇猛義烈を称して哀惜殊に深かりしが此程其遺髪郷里備中国浅口郡船穂村大字水江に到着したるを以て去4日其葬儀を施行したり当日は浅口郡役所より吏員数名出張して之に臨み会葬者は村役塲吏員一同及び同村小学校教員生徒等無慮4百余名に及び祭文を朗読するもの十数名にして老幼婦女何れも感涙に(むせ)ばぬはなかりしと云ふ(『日清戦争実記』第4編(1894年9月29日)83頁「戦死喇叭手の葬儀」)

 

 「在韓将卒は皆其の勇猛義烈を称して哀惜殊に深かりし」とはいえども,1894年8月15()日付け大島義昌混成旅団長発参謀総長宛て臨着第412号の同年7月29日成歓駅の戦闘に係る戦死傷者名簿(アジア歴史資料センター)においてはなぜか「白神源太郎」となっていて「源次郎」となってはいません。肝腎の戦死者名の取扱いで早速これですから,最初から種々の混迷が予期され得たところでした。(ちなみに,臨着第412号においては,戦死者名「木口小平」はそのままです。なお,「田上岩吉」という第二十一聯隊の戦死者名がそこにあることについては考えさせられます。「田上岩吉」は,7月23日の「京城ノ変」で死亡した同聯隊の兵卒の名前ではなかったでしょうか。同姓同名の兵卒が二人いてどちらも運悪く相次いで死亡したのでしょうか。)

 1895年になると,ラッパ手=木口小平説が出てきています。

 

  成歓の役名誉の戦死を遂げたる喇叭卒は白神源次郎氏にあらずして木口小平氏なるとの説あるより,此頃或人同氏の郷里なる岡山県備中国川上郡成羽村に赴きて其遺族を訪ひしに,其戦死の当時附属の隊長及び其屍体を撿案したる軍医より送越したる報告,慰問状,撿案書等あるも,過日遺族救与金を請求するの際村長に托して悉く之を其筋に差出したるより之を一覧するを得ざりしも,同村役塲員及び遺族の語る処に拠れば,此役木口氏は安城の川を難なく押渡り,岸辺に立ちて音も朗かに進軍の譜を吹奏しつ〻ある折しも,敵弾飛来て其胸部を貫きたれども,氏は屈する色なく依然吹奏して止まず,既にして傍なる一士官を顧み「敵は如何に」と問ひ,士官は「敵は敗れて逃走せり」と答へしかば,木口氏は「然るか」との最期の一言を残して其儘斃れたることは慥に其文中にありしと云ふ。(『日清戦争実記』第40編(1895年9月27日)4142頁「喇叭卒木口小平」)

 

(2)白神説から木口説へ

 1897年には,東京九段の軍事教育会というところが出していた『軍事新報』が「本部調査」の結果として,白神源次郎は専ら銃卒として服務していたとして,ラッパ手=木口小平説への統一を図ります(「木口小平ト白神源次郎」)。

 

  戦場吶嗟ノ際訛伝ノ世ニ流布スルハ古来甚タ其例ニ乏シカラス不幸ニモ成歓駅ノ戦ニ於テ又一ノ訛伝ヲコソ伝ヘヌ然リ世人ハ喇叭手白神源次郎ナルモノヲ知ラン然レ𪜈(とも)未ダ喇叭手木口小平ナルモノヲ知ラサルヘシ否ナ白神ノ当時喇叭手ニアラスシテ彼レハ精鋭勇敢ナル銃卒タリシ(こと)ヲ知ラサルヘシ余輩ハ殆ント功績ニ於テ優劣ナキ此2死者ノ為メニ其事実ヲ世ニ紹介スルノ責アルヲ覚ユ余輩ハ真実吹奏死ニ至リシ木口小平ノ為メニ又此重キ事実ノ為メニ沈黙ヲ守ル可ラサルヲ感セスンハアラサルナリ

  請フ暫ク余輩ヲシテ謂ハシメヨ隊中兵卒間ニ於テハ喇叭手教育ヲ受ケシモノヲ呼フニ多クハ単ニ喇叭ト称シ而シテ概ネ其喇叭手ニ服務スルト銃卒ニ服務スルトヲ問ス之ヲ以テ修羅ノ街ノ常トシテ訛伝ハ此間ニ胚胎セシナラン聞ク白神ハ性活溌ニシテ頗ル勇敢ナリシヲ以テ率先奮闘実ニ美事ナル打死ヲ為セリト然レ𪜈之カ為メニ此ノ重キ名誉ノ行為者タル木口小平ノ名ヲ埋没スルハ余輩ノ忍ハント欲スルモ忍フ能ハサル処ナリ木口ハ岡山県川上郡成羽村ノ人ニシテ明治2512月1日徴兵トシテ歩兵第二十一聯隊第十二中隊ニ入隊シ喇叭手トナル其諸演習ニ於ケルヤ敏捷奇智ノ才ナキモ然カモ胆力剛気ハ他人ニ抜ンヅ

   〔以下略〕(『軍事新報』第1号(1897年6月12日)15頁)

 

  白神源次郎ハ岡山県浅口郡船穂村ノ人ニシテ日清戦役ニ際シ予備トシテ歩兵第二十一聯隊第九中隊ニ入ル彼ハ現役ノ時ハ喇叭手タリシモ当時ハ都合ニ依リ銃卒ト為レリ彼ハ行状方正ニシテ而シテ頗ル元気モノタルヿハ衆ノ知ル処ナリシ之ヲ以テ平素勤務ニ勉励ナルノミナラス戦塲ニ於テハ一層ノ勇気ヲ現ハシ戦塲ノ最先登ニアリテ各兵ノ模範タリシヿハ又衆ノ知ル処ナリシ茲ニ於テカ喇叭手ノ戦死シタルヲ伝フルモノアルニ会スルヤ其別ニ木口小平ナルモノアルヲ知ラスシテ彼レノ平素ヨク勇武ナリシヲ知ルモノカラ遂ニ速断ニモ白神源次郎ノ名ヲ伝ヒシモノナルヘシ以テ彼レカ如何ニ忠勇ナリシカヲ想ヘ

  猶ホ余輩ノ処説ヲ確カムル為メ歩兵第二十一聯隊山田中尉ヨリ某大佐ヘノ書翰中ノ一節ヲ左ニ掲ク

  明治27年7月29日成歓役ニ於クル喇叭吹奏者ハ左記理由ニ依リ木口小平ト断定仕候

   一白神源次郎ハ現役服務中ハ喇叭手ナリシモ充員召集セラレテハ喇叭手ニ非ラス歩兵第二十一聯隊第九中隊ニ属シテ銃卒タリ故ニ成歓ノ役ニ於テ喇叭ヲ所持セス

   一成歓ノ役戦死シタル喇叭手ハ只木口小平一人ニシテ他ニ喇叭手ノ負傷者スラ一人モナシ

   一木口小平ト同中隊同小隊ナル竹田国太藤本徳松ノ目撃セシ所ニ依レハ木口小平ハ劇戦ノ間喇叭ヲ吹奏シ遂ニ戦死シタルヿ明カナリ(別紙)

   一木口小平ノ死後尚喇叭ヲ握リツヽアリシハ前項事実ト其動作ノ勇敢ナリシヲ証スルニ足ル

     30年4月20日     山 田 四 郎

御下問相成候木口小平儀ハ安城渡会戦ノ際中隊長松崎大尉殿ノ御側傍ニ在リテ丁度進撃号音吹奏ノ折柄適々敵ノ銃丸中リテ濠辺ニ倒レ尚喇叭ヲ奏シ絶命ノ後チ水中ニ斃レ込シ者ニシテ其死躰ハ右手ニ喇叭ヲ握リタル儘ニ水中ニ有之候ヲ第二小隊第四分隊ノ兵卒藤本徳松竹田国太ハ現ニ其ノ傍ニ在リテ実見致セシ者ニ御座候此段申上候也

   4月20日       藤 本 軍 曹

     山田中尉殿

          (『軍事新報』第2号(1897年6月19日)1213頁)

 

 白神源次郎が当時喇叭手でなかったことは分かりますが,思わせぶりな「率先奮闘実ニ美事ナル打死」の様子がなおも不明です。

 成歓の役における歩兵第二十一聯隊の下士兵卒戦死者29名(参謀本部・附録第14ノ1)のうち戦死した喇叭手は木口小平一人であるとしても,それだけでは戦死の際ラッパを吹奏していたかどうかは分かりません。藤本軍曹作成の書面にしても,死体が濠の水中にあったなどというところは妙に詳しいのですが,屍体検案書上は心臓を貫かれたはずの木口小平が即死していないことになっていて,なかなか信用性が苦しい「目撃証言」です。

 

(3)白神源次郎溺死説

 ところで白神源次郎の「率先奮闘実ニ美事ナル打死」の様子については,1932年に歩兵第二十一聯隊将校集会所が発行した『我等のほこり』において,「聯隊の戦死者名簿には明に次の如く記載されて居る。」として「白神源(ママ)郎,歩兵第二十一聯隊第九中隊喇叭兵明治27年7月13(ママ)日千秋里にて溺死。」と発表されています(25頁)。何と,溺死ですか。その死体は,水中にあるところを発見されたということなのでしょう。しかし,『我等のほこり』の当該記述については,「私は「聯隊の戦死者名簿」なるものは全く信用できないものであり,それは偽文書か,あるいはもともと存在しない架空の文書ではないかと思う。」と酷評されています(西川124125頁)。死亡日付が変ですし,「千秋里という地名については,中村紀久二氏の詳しい調査があって,結局そのような地名は少なくとも成歓付近には存在しないということが言える(中村,1977年〔「二人のラッパ卒の謎」望星1977年2月号〕)」等不審な点があるからであるとされています(西川124頁)。

 しかしながら,佳龍里附近の戦いにおいて我が軍には確かに溺死者が出たところです。「是時歩兵中尉時山龔造ハ約3分隊ノ兵員ヲ率テ敵ノ左翼ニ向ハントシ右方ニ折レ細径ヲ経テ前進シ一水壕ノ其前方ニ横レルニ会シ徒渉シテ進マント欲シ先ツ自ラ躍テ水中ニ入ルヤ部下相続キテ壕心ニ到ル此壕固ト水多ク且ツ河床泥深ク遂ニ進退ノ自由ヲ失ヒ中尉以下23名此ニ溺死ス」という事態が発生したことは参謀本部の『明治廿七八年日清戦史』の認めているところでした。なるほど時山中尉は白神源次郎らを率いた第九中隊の将校だったのか,ということになれば理解が比較的簡単です(「それにしてもレミングの大移動じゃあるまいし,23人もあと先考えずに次々ぞろぞろ壕にボッチャンボッチャンボッチャンボッチャン飛び込んで溺死するというのは不思議だなぁ。何も見えない真夜中に,深さも幅も分からない大きそうな壕に行き会ってしまったら,もう少し慎重に振る舞うものだろうに。」という疑問は残ります。)。ところが,時山中尉は「歩兵第二十一聯隊第七中隊小隊長陸軍歩兵中尉」なのでした(参謀本部・附録第14ノ2)。第七中隊です。そうであれば,時山小隊長に率いられて溺死する下士兵卒22名は,皆第七中隊の所属者でなければいけないようです。すなわち第九中隊の下士兵卒には溺死者はなかったのである,といいたいところですが,事実はなかなか複雑です。「『靖国神社〔忠〕魂史』第1巻〔靖国神社社務所編・1935年〕によると,第七中隊の当日の死者は8名となっている」一方(西川126頁),「源次郎らの第九中隊の29日における戦死者は15名,そのうちいま死因のはっきりしているのは瀬政治三郎一等卒と阿部林吉上等兵の二人」であり,かつ,それら瀬政治三郎及び阿部林吉のいずれもが溺死したものとされているのです(西川125126頁)。

 実は,成歓の戦いにおける歩兵第二十一聯隊第九中隊の戦死者の大部分は,溺死したものと考えてよいように思われます。佳龍里附近の戦いにおける溺死者23名を除いた成歓の戦い全体における我が軍の戦死者は,実は10名(歩兵第二十一聯隊で8名,歩兵第十一聯隊1名,衛生隊1名)でしかないところ(参謀本部・附録第14ノ1),松崎・木口を除く歩兵第二十一聯隊に係る残り6人の枠に第九中隊の兵士が入ることは難しい。第九中隊には戦傷者からして少なかったからです。すなわち,1894年7月31日付け木下俊英臨時衛生隊医長作成の「衛生隊第1回業務報告」(アジア歴史資料センター)における「隊別傷者ノ数幷ニ負傷ノ部位負傷ノ種類」の項を見ると「隊中負傷者ノ最モ多キハ二十一聯隊ノ十二,七,十,十一聯隊ノ八中隊等ニシテ負傷ノ位部ハ前膊下腿大腿ヲ多シトシ負傷ノ種類ハ殆ント皆銃創ナリトス」とあって,右翼隊の歩兵中隊の中で第九中隊だけが言及されていないところです。(ただし,第九中隊長代理陸軍歩兵中尉守田利貞は負傷しています(参謀本部・附録第14ノ2)。しかし,「銃丸頭部擦過」の軽傷で(混成旅団戦闘詳報),8月中旬には全快しています(臨着第412号)。守田中尉は佳龍里の戦いの後の牛歇里に向かっての戦いにおいてなお第九中隊の長代理となっていますから(参謀本部151頁),佳龍里戦終結の段階では無傷だったものと一応考えるべきでしょうか。)なお,歩兵第十一聯隊の第八中隊は,左翼隊の先頭に立った中隊です(参謀本部142頁)。歩兵第十一聯隊の戦死者は1名にすぎません。

 結局,第七中隊の時山中尉と共に溺死したとされる下士兵卒には,第九中隊のものが多く含まれていたようです。これはどう考えるべきか。「枝隊の一部は少く((ママ))進し(ちょ)水中に陥りたる兵士十数名は最も憐なる態にて退き来たる」という前記黒田記者の報告に鑑みると,「霎時ニシテ本隊ハ尖兵ノ右側後方ニ達シ其喊声ヲ揚ケテ前進スルヤ(本隊ハ尖兵ト敵ト接触シ在ルヲ認メタルカ故ニ危険ヲ慮リテ射撃ヲ為サス唯〻喊声ノミヲ発シテ前進シタリ)敵兵ノ過半ハ射撃ヲ本隊ノ方向ニ転セリ」の際敵兵の過半の射撃がこちらに転じられたことに驚き恐れた右翼本隊の第七中隊及び第九中隊の兵士らは算を乱して「((ママ))」すなわち背進し,恐慌状態のまま水壕に駆け入り溺死してしまったのではないかとも想像され得ます(西川137138頁参照)。溺れずにすんだ「兵士十数名」が「最も憐なる態にて退き来たる」ということになったのではないでしょうか。なお,「(本隊ハ尖兵ト敵ト接触シ在ルヲ認メタルカ故ニ危険ヲ慮リテ射撃ヲ為サス唯〻喊声ノミヲ発シテ前進シタリ)」とのくどい部分は,清国兵に一弾もお見舞いせずに逃げ帰って来たことについての言い訳であるようにも感じられます。

 とはいえ,前進攻撃の積極姿勢をもって死を迎えたとされる時山小隊長とその勇敢な部下らとに係る『明治廿七八年日清戦史』の可憐な話は,一時背進の混乱の渦中での無様な溺死事件を糊塗するための創作だったのかしらと考えてみるのは,うがちが過ぎるでしょう。(なお,参謀本部142143頁間の地図を見ると,時山「小隊」だけが,まず全州街道を南南東へ進んだのであろう他の部隊とははぐれたかのように道のない所(水田でしょうか。)を南西方向に単独真っすぐ進んで溺死事件の場所とされるのであろう壕に突き当たった形になっています。)

DSCF0909
「潴水」とは,水溜り,沼又は溜池のことですが,これは空沼岳の万計沼(真駒内川源頭の一つ)
DSCF0924

 空沼岳の真簾沼
DSCF0928
 空沼岳の青沼 
 

(4)時山龔造と時山直八

 ちなみに,我が騎兵第五大隊第一中隊長の豊辺新作大尉は越後長岡藩の出身でしたが,時山龔造中尉は,慶応四年五月十三日(1868年7月2日)に戊辰戦争北越戦線の朝日山の戦いで戦死した奇兵隊士・時山直八の家の令嗣です(谷頭辰兄『日本帝国軍人名誉鑑』(盛文舘・1895年)133134頁)。幕末の長岡藩執政・河井継之助の生涯を描いた司馬遼太郎の『峠』には,次のようにあります(「蹶起」)。ただし,当該作品においては五月「十二日」の出来事とされているのは,飽くまでも歴史小説だからでしょう。

 

   その敵の「気抜け」が,いくさ名人の立見鑑三郎〔尚文〕のつけめであった。

   ――いまだ。

   と小声で〔長岡藩隊長〕安田多膳の袖をひいた。「心得たり」と安田は槍をとりなおし,「よいか,おのおの」と隊士をふりかえり,やがて,

  「かかれえっ」

   と叫び,みずから塁をとびこえ,先頭をきって敵のむれに突入した。

   官軍は仰天した。このおどろきが,戦意をくじかせた。あれほど勇猛だった薩長の兵が別人のように臆病になり,戦うよりも逃げることに専念した。東軍はそれを追った。背後から槍で串刺しするだけであり,獣を狩るよりもやさしかった。やがて霧がはれ,射撃が可能になると,追い落しはさらに楽になった。官軍は山腹まで退却し,もはや隊列をなさず,個々にあちこちの岩や樹の蔭にひそんだが,それを上から狙撃してゆくだけでよかった。

   薩長の人数は,この戦いで長州藩小隊司令山根辰蔵以下おびただしい死傷を出したが,なかでも官軍にとって大きな衝撃になったのは,参謀時山直八の死であった。時山は飛弾のために即死し,兵がその死体を収容しようとしたが戦況がそれをゆるさず,やむなく首を切って退却した。

   

時山龔造は嘉永四年十二月山口県萩の生まれといいますから(谷頭134頁),安城渡の戦いで溺死した時には42歳でした。小隊長として前線で駆け回るのは既に骨だったことでしょう。二日前に起きた歩兵第二十一聯隊第三大隊長古志(こし)正綱少佐の自刃事件のあたりから,嫌な予感がしていたでしょうか。

 

 あだ守る砦のかがり影ふけて夏も身にしむ(こし)の山風   山県有朋

 

 小千谷市船岡山にある時山直八の墓誌の撰文は,「直八の莫逆の友」山県有朋によるものです(安藤英男『河井継之助写真集』(新人物往来社・1986年)122頁)。また,豊辺騎兵第五大隊第一中隊長は,河井継之助の親族です(豊辺中隊長の父の陳善は蒼龍窟継之助秋義と従兄弟,すなわち豊辺中隊長の祖父で河井家から豊辺家に養子に入った輔三郎(半蔵,陳好)は継之助の父・四代目河井代右衛門(秋紀,小雲)の弟でした(安藤27頁・194頁)。)。

 

5 「シンデモラツパヲ」その3:小括

 以上「シンデモラツパヲ」について長々と書いてしまいましたが,結論的には,「「勇ましの喇叭手」は白神でもなければ木口でもないというのが私の結論である。では誰なのか。誰でもない。初めに安城渡の軍歌が作られ,それが一躍有名になると,その戦闘で死んだラッパ手が探し出されたというのが真相であろう。」ということだそうです(西川147頁)。当初日清戦争戦死第1号の「勇士」として喧伝された松崎直臣大尉の物語の「その陰に隠れるように紡がれ始めた別の物語が次第に成長し,彼の物語を圧倒」したのでした(酒井敏「〈勇士〉の肖像―『日清戦争実記』と読者―」日本近代文学第67集(20021015日)9頁)。江川達也『日露戦争物語 第十一巻』(小学館・2004年)では,木口小平も白神源次郎もラッパを吹きながら清国兵の銃弾で撃たれて戦死した形の描写になっています。

 

6 成歓・牙山戦における騎兵第五大隊第一中隊

 さて,我らが騎兵第五大隊第一中隊。

 豊辺騎兵中隊長が「7月29日午後牙山ニ於テ」作成した「戦闘詳報」(アジア歴史資料センター)には,騎兵第五大隊第一中隊の成歓・牙山の戦いの様子が次のように記されています。

 

  一午前2時10分素沙塲露営地ヲ出発シ総予備隊(歩兵第廿一聯隊第一大隊)ノ後方ニ在テ行進シ1在成歓ノ敵ノ右翼ニ迂回運動ヲ為ス

  二午前5時左翼隊砲戦ヲ始ム(2)中隊ハ総予備隊ノ左方ニ在テ行進ス(3)

  三仝5時40分総予備隊展開ヲ為シ前面ノ敵ト対戦シ(4)続テ敵ノ東方幕営地ヲ占領ス(5)此際騎兵中隊ハ敵ノ砲兵陣地ノ南方ニ進ミ敗潰セル敵兵ヲ追撃ス(6)

  四敵ノ砲兵ノ一部退却ニ際シ我騎兵ノ前進ヲ見砲2門ヲ陣地ノ南方山腹マテ引出シ其儘退却セル者ノ如シ

  五西方幕営地ハ歩兵第廿一聯隊ノ前進ニ際会シ仝時侵襲セリ(7)而シテ騎兵ハ牙山方向ニ退却セル敵兵ヲ追撃シ敵ノ歩兵8名ヲ斬ル(8)

  六午前8時30分戦闘終リ成歓西方高地ニ在ル旅団司令部ニ合シ一時人馬ノ給養ヲ為ス(9)

  七午前9時20分牙山方向ニ退却セル敵兵ヲ追撃シツ10午後3時30分三江里ニ着ス11仝所ヨリ曲橋里方向ニ一組ノ将校斥候ヲ出シ中隊ハ直ニ牙山ニ向テ行進セリ12

  八土人ノ言ニ依レハ敗走セル敵ハ本日一部ハ牙山方向ニ一部ハ新昌ノ方向ニ退却セリト云フ13

  九午後5時下士斥候一組春甫方向ニ出セリ

  十曲橋里方位ニ出シ将校斥候午後7時牙山ニ帰隊敵ノ主部新昌方向ニ退走セル者ノ如シ途次清兵ノ被服弾薬等処々ニ散乱セルヲ見ル

  十一本夜中隊ハ歩兵第二十一聯隊ト共ニ牙山ニ露営ス14

  十二午前3時歩兵第二十一聯隊伝騎二等卒松永翠右肩部ニ銃傷ヲ受ク

  

  註(1)独立騎兵隊は左翼隊の最後尾でした(参謀本部140頁)。左翼隊の「行進意ノ如ク速カナル(こと)能ハス遂ニ其後尾ヲ渡河塲ニ於テ一時開進セシメ右翼隊ノ行進路ヲ開カサルヲ得サルニ至レリ」(混成旅団戦闘詳報)ということでしたから,右翼隊が午前2時過ぎに素沙場を出発する際には独立騎兵は道を譲ってまだ素沙場にいたということになるようです。平城盛次騎兵少尉及びその分隊は,さすがにそれまでには牙山から素沙場に戻って来ることができていたかどうか。なお,「是夜陰雨晦冥咫尺ヲ弁セス加フルニ道路泥濘ニシテ間脚ヲ没シ路幅狭小路面粗悪ニシテ往々或ハ水田ニ陥リ先頭或ハ岐路ニ迷ヒ後者或ハ連繋ヲ失フ等隊間ノ断続スルコト数回ニシ行進渋滞」していました(参謀本部140頁)。「伝騎ヲ発セントスルモ道路狭隘ノ為メニ果サス」ということで(混成旅団戦闘詳報),騎兵はなかなか動きようがない。

  註(2)「砲兵大隊長永田亀ハ〔略〕大隊ヲ宝蓮山南方約5百米突(メートル)ノ高地ニ招致シ此ニ放列(第一砲兵陣地)ヲ布キ(午前5時30分)将サニ試射ヲ畢ラントスルニ方リ敵ハ悉ク潜匿ス」(参謀本部142頁)又は「午前5時35分砲兵団芥子坊主山ノ東方ニ放列ヲ布キ射撃ヲ開始ス」(混成旅団戦闘詳報)。

  註(3)「旅団予備隊ハ砲兵隊ノ左翼後ニ開進ヲ終ル/騎兵ハ目下捜索ノ必要ナキヲ以テ予備隊ノ後方若干距離ニ在リ」(混成旅団戦闘詳報)。

  註(4)「〔砲兵大隊は〕新井里東方高地嘴ニ移リ此ニ第二陣地ヲ占領セリ而シテ其再ヒ砲火ヲ開始セルハ午前6時10分頃ナリキ」(参謀本部143頁)。「砲兵第三大隊ハ敵兵ノ漸ク動揺スルヲ見今ヤ前進シテ第三陣地ニ移ラント欲セシモ其護衛歩兵中隊(〔歩兵第十一聯隊〕第十二中隊)頗ル遠隔シ〔略〕其右側前危険ナルニ因リ大隊長ハ旅団予備隊ノ前進ヲ旅団長(開戦後常ニ砲兵陣地附近ニ在リ)ニ請求シ旅団長ハ予備隊(此予備隊及独立騎兵隊ハ開戦後一タヒ砲兵第一陣地ノ後方ニ開進シ後チ砲兵大隊ノ第二陣地ニ移ルヤ之ニ続行シテ又此砲兵陣地ノ後方高地脚ニ開進シ在リタリ)中ヨリ歩兵第二十一聯隊ノ第一中隊(長,大尉服部尚)ヲ前進セシメ〔略〕乃チ服部中隊ハ砲兵大隊ニ先タチ進テ新井里西南方ノ高地ニ達シ月峰山北麓ナル丘稜ニ拠レル敵ニ対シ猛烈ニ之ヲ射撃シ予備隊ニ在リシ歩兵第二十一聯隊ノ第三中隊(長,大尉河村武モ亦命ヲ受ケテ第一中隊ノ左方ニ展開ス是ニ於テ大隊長森祗敬ハ此両中隊ヲ指揮シ交互ニ前進セシメ罌粟坊主山東北方3百米突ノ山稜ニ達シ罌粟坊主山ノ敵ヲ猛射セリ(午前6時30分〔略〕)」(参謀本部144145頁)。

  註(5)「成歓北方ナル幕営ノ囲壁ニ拠リシ清兵ハ最後ノ時期ニ至ルマテ抵抗セリ因テ森少佐ハ罌粟坊主山ノ陥ルヲ見ルヤ〔第二十一聯隊の〕第一,第三中隊ヲ率ヰ〔第十一聯隊の〕第十二中隊(砲兵護衛隊)亦之ニ連ナリ大森林ノ南縁ニ沿ヒ進ミテ共ニ此幕営ヲ攻撃シ〔略〕遂ニ全ク成歓方面ノ敵ヲ駆逐シ森少佐所率ノ2中隊(第一第三)ハ進テ成歓北方ノ2幕営ヲ占領シ」た(参謀本部147148頁)。「午前7時半全ク成歓北方ノ高地ヲ占領シ」た(混成旅団戦闘詳報)。

  註(6)「旅団長ハ成歓方面ノ敵ノ幕営ヲ占領スルヤ独立騎兵(此騎兵中隊ハ戦闘間常ニ砲兵大隊ノ左翼後ニ在テ行進シ来レリ中隊ノ現員此時僅ニ29名)ヲシテ敵ヲ追躡セシム因テ此騎兵ハ先ツ牛歇里高地ニ向ヘリ(此中隊ノ牛歇里高地ニ達セシハ恰モ右翼隊ノ敵塁ニ突入セントセシ時ナリ〔略〕)」(参謀本部149150頁)。なお,牛歇里の清国砲兵は我が左翼隊砲兵団に応射していました(参謀本部148頁・151頁)。

  註(7)「7時40分頃〔右翼隊の〕歩兵ノ全部吶喊シテ幕営内ニ突入シ騎兵中隊(此中隊ハ上記敵兵追躡ノ命ヲ受ケ成歓地方ヨリ出発セルモノナリ)モ亦来リ共ニ此幕営内ニ突入ス清兵大ニ驚キ砲ヲ棄テ西南方ニ向ヒテ敗走シ各線ハ盛ニ追撃射撃ヲ為セリ是ニ於テ牛歇里ノ敵モ全ク敗走」した(参謀本部152頁)。

  註(8)「旅団長ノ直接指揮下ニ属セシ諸隊ハ〔略〕歩兵第二十一聯隊ノ第一中隊ヲ除クノ外旅団長ノ命ニ依リ是時(午前8時30分)牛歇里酒幕ノ西方約千米突ナル高地上ニ集合シタリ而シテ騎兵中隊ハ牛歇里ノ幕営ニ突入シタル後チ牙山方向ニ向ヒ退走セシ敵ヲ追躡シタルモ其大部ハ已ニ遠ク敗走シテ接触ヲ得ス馬首ヲ囘シテ旅団本部ノ集合地ニ復帰シタリ」(参謀本部153頁)。清国歩兵8名の殺生の話は混成旅団戦闘詳報にもあったのですが(「我騎兵ハ敗走スル敵ノ歩兵ヲ襲撃シ其8名ヲ斬殺ス」),『明治廿七八年日清戦史』には記載されていません。いずれにせよ,殺生は少ないに越したことはありません。

  註(9)「午前給養隊ニ命シ可成多数ノ粮食ヲ軍勿浦ニ運搬セシメ且ツ戦勝ヲ大本営及公使舘ニ伝フヘキヿヲ命セリ」(混成旅団戦闘詳報)。「午後零時半〔旅団の〕本隊ヲ止メ大休止ヲナシ給養隊ヨリ駄送シ来リシ昼食ヲ後尾ヨリ分配セシム時ニ暴雨人馬皆濡ル」(混成旅団戦闘詳報)。

  註(10)「此役成歓方面ヲ守リシ清兵ノ首力ハ聶士成之ヲ率ヰ牛歇里戦闘間南方天安ニ向テ退キ牛歇里方面ノ清兵ハ西南方ニ圧迫セラレ一時牙山ノ方向ニ退避シ更ニ転シテ南方ニ走リ首力ニ合シタルモノ如シ然カレトモ大島混成旅団長ハ未タ之ニ関スル精確ノ情報ヲ得ス尚ホ牙山ヲ以テ敵ノ首要ナル根拠地ト信シ且ツ成歓,牛歇里ヲ守レル敵ハ今ヤ其根拠地タル牙山ニ退却シ再ヒ彼地ニ拠テ抵抗スヘシト判断シ此機ヲ逸セス直ニ牙山ニ進ミ本日中ニ其根拠ヲ衝ント決シ午前9時20分ヨリ1030分ノ間ニ於テ旅団ノ全部ヲ出発シセメタリ旅団長ハ諸隊ニ出発ヲ命シタル後昨夜28日)7時半牙山発平城騎兵少尉28日牙山方向ヘ派遣セラレタル斥候)ヨリ清兵ハ成歓及天安ニ移リ牙山ニハ一兵モ見ストノ報告ヲ得タルモ前記ノ判断ヲ有セシヲ以テ其決心ヲ翻サス」(参謀本部154頁)。勇んで成歓から更にその南西の牙山に進み,やっと着いてみると粉砕すべき清国兵は既にいなかったので,大島旅団長としては,自分の判断間違いの照れ隠しに,平城少尉の報告が自分のところに届くのが遅れたのが原因である旨示唆しているということでしょうか。『日露戦争物語 第十一巻』166頁の「じゃけぇ,牙山に敵はおらんと昨日,報告しょうたのに・・・」との感慨は,本来平城少尉のものなのでしょう(なお,平城少尉は,長崎県士族)。

  註(11)「独立騎兵,右翼隊,左翼隊及軍勿浦独立支隊共ニ午後3時前後ニ於テ牙山附近ニ達」した(参謀本部154155頁)。

  註(12)「旅団ノ一部牙山ニ入リ兵器,糧食ヲ押収シ新昌及び白石浦,新院方向ニ対シ前哨ヲ配布シ牙山ノ占領ヲ確実」にした(参謀本部155頁)。

  註(13)「牙山県吏ノ言」により「敵ハ一時成歓方面ヨリ退却シ来リタルモ更ニ新昌方向ニ向ヒ退避シタルコトヲ知」った(参謀本部155頁)。

  註(14)「〔混成旅団の〕一部ハ牙山附近ニ露営シ以テ此夜ヲ徹セリ」(参謀本部155頁)。「此夜敵ノ逃ケ後レシ兵数名右翼隊ノ露営地ヲ射撃シ1名ヲ傷ケタリ」(混成旅団戦闘詳報)。

 

(つづく)

  

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp 


弁護士ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

筆者の母方の曽祖父の残した「由緒」書きにおける下記日清戦争関係の記載に係る考証話の第4回です。1894年7月23日の「京城ノ変」及び同月29日の成歓の戦いの直前までを取り扱います。

 

明治26年〔1893年〕11月1日徴兵ニ合格シテ騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ〔第1回はここまで〕

明治27年〔1894年〕6月朝鮮国ニ東学党蜂起シ韓国居留民保護ノ目的ヲ以ツテ(どう)年6月11日混成旅団ヲ編成セラ(ママ)大島義昌少将ヲ旅団長トシ平城盛次少尉ヲ小隊長トシ選抜セラレテ山城丸ニ乗舶シ宇品港出帆玄海灘ヲ経テ仁川ニ向フ此ノ日山陽鉄道広島駅()()開通ノ日ナリ〔第2回はここまで〕

明治27年8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル

〔前回はここまで〕仝7月23日京城ノ変ニ出張爾来〔今回はここまで〕成歓ニ牙山ニ平壌義洲鴨緑江鳳凰城(ママ)馬集崔家房(ママ)家台竜頭塞興隆勾瀇嶺海城牛荘田庄台ト転戦ス

明治27年9月15日大本営ヲ広島旧城エ進メ給ヘリ

明治28年〔1895年〕6月5日講和トナリ凱旋

仝年1112日日清戦役ノ功ニ依リ瑞宝章勲八等及び金50円幷ニ従軍徽章下賜セラル 

明治29年〔1896年〕1130日善行証書ヲ授与セラレ満期除隊トナル

 

1 「京城ノ変」

 

(1)『蹇蹇録』の記載

 我が聯合艦隊第一遊撃隊と清国艦隊との間における豊島沖海戦の発生(1894年7月25日。日清開戦)の前々日,朝鮮国の首都漢城で筆者の曽祖父のいうところの「京城ノ変」が起こっています。

 

  既にして〔1894年7月〕22日の期限は来たれり。朝鮮政府の回答は例に依り漠然として要領を得ず。大鳥〔圭介〕公使は最早寸刻も遅延する能わず,一面には外務督弁趙秉稷に照会し,朝鮮政府は日本政府の勧告に対し期日に至るも満足なる回答を与えず,最早日本政府は当然自らなすべき所をなすの外なし,事宜に依れば我が権利を伸長するため兵力を使用するも計られず,と言明し置き,他の一面には大島〔義昌〕旅団長と協議を凝らし,翌23日の払暁を以て竜山に在営する若干の兵員を急に入京せしめたる際,王宮の近傍において突然韓兵より先ず発砲したるを以て我が軍はこれを追撃し,城門を押し開き闕内に進入したり。朝鮮政府の狼狽は名状すべからず。諸閔,事大党は何方(いずかた)にか遁逃せり。いわゆる開化党は得々たる顔色を顕し大院君は王勅に依り入闕し,(つい)で朝鮮国王は勅使を以て大鳥公使の参内を求め,大院君は国王に代り同公使を引見し,自今国政を総裁すべき勅命を奉じたることを述べ,内政改革の事は必ず同公使と協議に及ぶべしと約せり。朝鮮改革の端緒はここに開けたり。而して朝鮮は公然清韓条約を廃棄する旨を宣言せり。また国王は更に同公使に向かい,牙山駐屯の清軍を駆逐するために援助を与えんことを依頼したり。尋で日本軍隊は牙山,成歓において大いに清軍を打破し,これを遁走せしめたり。(陸奥宗光著・中塚明校注『新訂 蹇蹇録』(岩波文庫・1983年)7475頁)

 

(2)脱線

 

ア 申込みに対する承諾義務の有無

 陸奥宗光が『蹇蹇録』の前記部分で言いたかったのは,締切日を付して回答を求められたのに対してその締切日までに相手方の満足する回答を与え得なかった場合においては,多少の痛い目に遭っても仕方がないのだ,ということでしょうか。

しかしながら,民法学においては契約の申込みに対する承諾に関して,「申込を受けても,承諾をするかどうかは,自由であるのを原則とする。契約自由の原則の一内容だからである。」,「特別の事情がなければ,申込者が勝手に,「お返事がなくばお承諾とみなす」といつても,その効力を生じない。勝手に品物を送付して,購入しなければ返送せよ(返送しなければ購入とみなす)といつても,返送の義務も生じない。」と説かれています(我妻榮『債権各論上巻(民法講義Ⅴ₁)』(岩波書店・1954年)67頁,7172頁。なお,特定商取引に関する法律(昭和51年法律第57号)59条参照)。無論,この原則にも例外があって,例えば医師法(昭和23年法律第201号)19条1項は「診療に従事する医師は,診察治療の求があつた場合には,正当な事由がなければ,これを拒んではならない。」と規定しています。ただし,「その承諾義務違反は,公法的制裁を伴うだけであつて,当事者間において契約の成立を認めることはできないと解すべきであろう。」とはされています(我妻19頁)。

 

イ 医師の応召義務

 しかし,お医者さんは大変です。

医師法19条1項に関して(旧)厚生省は,通知・回答として,昭和24年9月10日医発752号厚生省医務局長通知においては「)医業報酬が不払いであってもこれを理由に診療を拒むことはできない。/)診療時間を制限している場合でも,これを理由に急施を要する患者の診療を拒むことは出来ない。/)天候の不良なども,事実上往診の不可能な場合を除いて「正当な事由」には該当しない。/)医師が自己の標榜する診療科以外の診療科に属する疾患について診療を求められる場合も,患者がこれを了承する場合は一応の理由と認めうるが,了承しないで依然診療を求めるときは,応急の措置その他出来るだけの範囲のことをしなければならない。」と,昭和30年8月12日医収755号厚生省医務局医務課長回答においては「)医師法19条にいう「正当な事由」のある場合とは,医師の不在又は病気等により事実上診療が不可能な場合に限られるのであって,患者の再三の求めにもかかわらず,単に軽度の疲労の程度をもってこれを拒絶することは,第19条の義務違反を構成する。/)医師が第19条の義務違反を行った場合には罰則の適用はないが,医師法第7条にいう「医師としての品位を損するような行為のあったとき」にあたるから,義務違反を反復するが如き場合において同条の規定により医師免許の取消又は停止を命ずる場合もありうる。」と,昭和301026日医収1377号厚生省医務局長回答においては「休診日であっても,急患に対応する応召義務を解除されるものではない。」と表明しているそうです(渋谷真一郎「応召義務を考える」山形県医師会会報785号(2017年1月)11頁)。患者様の尊いお命と御健康の前には医師のわがままごときは許されない,ということでしょうか。深夜の思い詰めた患者様の長いお尋ね・突然の御来訪にもさわやかに応対せねばなりません。立派です。

 

ウ 弁護士の自由と独立

これに対して,弁護士職務基本規程(平成16年日本弁護士連合会会規第70号)20条は「弁護士は,事件の受任及び処理に当たり,自由かつ独立の立場を保持するように努める。」と定めているところです。「弁護士は依頼者が少なくとも自分には真実を打ち明けて事件を依頼していると信じて職務を行い,依頼者の側においても弁護士の能力や人格を信じて自分のために最善を尽くしてくれると信じて依頼を行うものであって,両者には高度の信頼関係が必要である。そのため,信頼関係を築けないおそれがあると弁護士が判断した場合には,弁護士は受任を断ることができるのであって,弁護士は,事件の受任義務を負わないとされている。業務の遂行に信頼関係を前提としない司法書士や行政書士に依頼の応諾義務があるのとは異なる(司法書士法21条,行政書士法11条)。医師にも応召義務がある(医師法19条)が,これは患者の生命身体を守る見地からであり,その趣旨は異なる。」と解説されています(日本弁護士連合会弁護士倫理委員会『解説「弁護士職務基本規程」第3版』(日本弁護士連合会・2017年)44頁)。司法書士法(昭和25年法律第197号)21条は「司法書士は,正当な事由がある場合でなければ依頼(簡裁訴訟代理等関係業務に関するものを除く。)を拒むことができない。」と,行政書士法(昭和26年法律第4号)11条は「行政書士は,正当な事由がある場合でなければ,依頼を拒むことができない。」と規定しています。弁護士職務基本規程43条は更に「弁護士は,受任した事件について,依頼者との間に信頼関係が失われ,かつ,その回復が困難なときは,その旨を説明し,辞任その他の事案に応じた適切な措置を採らなければならない。」と規定しています。弁護士の心を無慙に折ってしまっては,次のような弁護士に対する熱い期待の言葉も空しくなります。いわく,「あんな奴に譲歩するなんて絶対いやです。先生は,わたしの味方じゃないんですか。わたしのように弱い者を弁護士が助けなくてだれが弱い者を助けるんです。関係者全員のための円満解決がどうのこうと他人の裁判所に四の五の言わせないで,早く勝訴判決をもらってください。」,「警察官にすぐ後ろから現認されており,かつ,防犯カメラにも写っているからオレの犯行自体は争っても見込みはないだとぉ。おいっ,それで最善の弁護といえるのか。お前はよぉ,弁護士なんだろ。オレを無罪にしろっ,ごるぁ。」等々(以上はフィクションです。)。「委任は,各当事者がいつでもその解除をすることができる」ものなのです(民法651条1項)。

しかし,仁術の医師とは異なりお客さまを選ぶことができる旨を高々と宣言している弁術の徒輩が,当該資格者の供給過剰の故かどうかはともかくも,貧乏になってしまっていることについては,「自業自得である。」と溜飲を下げる向きもあることでしょう。

 閑話休題。

 

(3)様々な呼称

 1894年7月23日の「京城ノ変」については様々な呼称が提案されています。

 日清戦争を研究した歴史家の意見について見れば,檜山幸夫中京大学教授によればそれは「日朝戦争」であり,原田敬一佛教大学教授によれば「七月二十三日戦争」と呼ばれるべきものであるそうです(大谷正『日清戦争』(中公新書・2014年)243244頁)。

 当時の陸奥外務大臣は「明治二十七年七月二十三日事変」,「七月二十三日事変」などと表現しています(陸奥149頁,152頁)。

 ただし,単に7月23日に漢城で発生した事変といえば,1882年7月23日の壬午事変と紛らわしいところです。壬午事変は,「〔1882年〕7月23日に組織的な行動を始めた〔当時の開化政策のなかで冷遇されていた在来朝鮮国軍の〕兵士たちに,零細商人,手工業者などの〔漢城の〕都市下層民が加わって,〔開化政策を進めた〕閔氏政権の高官の屋敷を破壊し,別技軍教官の堀本礼造少尉を殺害して,さらに奪った武器で武装し,西大門外の日本公使館を襲撃した。公使館を脱出した花房義質(よしもと)公使らは死傷者を出しながら翌24日仁川に逃亡し,最終的にはイギリスの測量船に助けられて長崎に逃げ帰った。24日,兵士たちは王宮(昌徳宮)に向かい,閔氏政権の高官を殺害したが,最大の攻撃目標であった閔妃を発見できなかった。」というものです(大谷8頁)。こちらで痛い目に遭っているのは日本側です。

1894年8月20日に我が大鳥公使と朝鮮国の金允植外務大臣との間で調印された暫定合同条款の日本文では同年7月23日の事変は「日本暦明治二十七年七月二十三日/朝鮮暦開国五百三年六月二十一日漢城ニ於テ両国兵ノ偶爾衝突ヲ興シタル事件」,「本年七月二十三日王宮近傍ニ於テ起リタル両国兵員偶爾衝突事件」と表現され,漢訳文では「朝鮮暦開国五百三年六月二十一日/日本暦明治二十七年七月二十三日両国兵丁在漢城偶爾接仗一事」,「本年七月二十三日在大闕相近之地両国兵丁偶爾接仗」と表記されています。「偶爾衝突」ないしは「偶爾接仗」との表現については,同年8月25日付けの大鳥公使から陸奥外務大臣宛ての報告によれば,「朝鮮政府ノ請求ニ従ヒ両国兵ノ衝突ヲ偶然ノ衝突ト改正致候」ということだったそうです。当該暫定合同条款においては,「本年七月二十三日王宮近傍ニ於テ起リタル両国兵員偶爾衝突事件ハ彼此共ニ之ヲ追究セサル可シ」とされています。(日本外交文書)

「朝鮮王宮の武力占領」という表現もあります(大谷59頁)。しかし,我が軍部隊が朝鮮王宮に武力をもって侵入するという事件は,翌189510月8日未明にも発生しています(閔妃殺害事件)。閔妃は,壬午事変の際1882年7月24日の朝鮮国軍兵士らによる王宮侵入の後に一度「行方不明の閔妃は死亡したとして葬儀」が行われていたのですが(大谷9頁),結局王宮で殺害される運命であったようです。

 

(4)平城盛次騎兵少尉の偵察報告

 1894年7月24日付けの大島混成第九旅団長発有栖川宮参謀総長宛て混成旅団報告第16号(アジア歴史資料センター)には,前日同月23日の「京城ノ変」に係る平城盛次騎兵少尉の偵察報告が記載されています。筆者の曽祖父も平城少尉に従って,当該偵察の一翼を担っていたわけであります。(そうでないと話が面白くなりません。)なお,この日の天候は雨でした。

 

  一〔1894年7月23日〕午前第10時情況視察ニ出セル平城騎兵少尉ノ報告

    7月23日京城王宮附近ニ於ケル情況偵察ノ報告

   本日午前4時49分歩兵第二十一連隊ノ一部ハ迎秋門ニ到着シ第三中隊ヲ王宮ノ西方ヨリ第六中隊ヲ王宮ノ東方ヨリ王宮ノ背後ニ迂回セシメタルニ朝鮮兵ハ射撃ヲ始メタルヲ以テ猶1中隊ヲ増加シ之ニ向テ射撃ヲ始メタリ是ト同時ニ迎秋門ニアリシ一部ハ門ヲ破壊シ王宮内ニ侵シ猶ホ第一大隊ノ一部モ光化門左側ノ壮衛営ヲ襲ヒ内外相応シテ吶喊セリ

   是ニ於テ壮衛営及ヒ王宮内ノ兵ハ尽ク武器ヲ棄テ逃走セリ先ニ我ニ向テ射撃シタルモ多クハ白岳方向ニ逃走シ猶ホ王宮北方ノ村落内ニ両3名宛埋伏シ我斥候等ノ至ルヲ見レハ直チニ出テヽ射撃ヲ行ヘリ然レ𪜈(とも)王宮ノ各門ハ已ニ我手ニ落チ是ニ歩哨ヲ配布セリ

   午前5時30分朝鮮国外務督弁王宮内ヨリ出テ来テ我公使館ニ至ルト称スルヲ以テ之ニ護衛兵ヲ付シ公使館ニ送レリ

   午前5時40分右捕将王宮ニ来レリ是ニ於テ王ノ所在ヲ詰問シ嚮導セシメタルニ雍和門(義和門ナラン)ニ至リ武器アルヲ発見シ之ヲ没収セントス国王出テ来リ之ヲ制シテ曰ク日本公使館ニ向テ外務督弁ヲ遣セリ故ニ()還スル迠猶予アリタシト然レ𪜈(とも)遂ニ武器ハ没収スル(こと)トセリ(其員数ハ取調中ナリ)我兵ヲ以テ国王ヲ護衛シ大ニ之ヲ慰メタリ

   午前6時20分射撃モ殆ント止ミタルヲ以テ6時30分公使館ニ帰還報告セリ

   備考 壮衛営ニハ小銃(スペンセル火縄銃混合)及ヒ刀剣各数百前装黄銅砲約十門後装砲(多分クルツプ山砲ナラン)6門皆我手ニ()セリ又王宮内ノ武器モ大約我手ニ()セリ

 

「我兵ヲ以テ国王ヲ護衛シ大ニ之ヲ慰メタリ」ということになった朝鮮国王李載晃(高宗は廟号)は明治天皇と同年の1852年生まれ。無論,我が混成第九旅団の兵士らに「護衛」されたとしても,心が慰められたことはなかったでしょう。

筆者の曽祖父は,我が軍将兵に猶予を乞い,又は「護衛」せられつつある朝鮮国王の姿を見たのでしょうか。見たとしても印象に残らなかったものでしょうか。

 

(5)文明国の前例

 さて,一公使が自国派遣軍の指揮官と共謀して武力により赴任先国政府を圧迫し,ほしいままにその政権に変動を与えしめるということは行儀が悪いというべきか,何といわんか。

 しかし,そのようなことは,当時は必ずしも天人共に赦さざる極悪非道の所行とは思われていなかったようです。前年の1893年1月に,別の王国で別の文明国公使により似たような事変が惹起せられています。

 

  〔前略〕1893年1月14日,主権独立国たるハワイ王国に駐箚する米国公使ジョン・L・スティーヴンス(以下本決議において「米国公使」という。)は,米国市民を含むハワイ王国在住の非ハワイ人の少数グループと共に現地の正統なハワイ政府の転覆を共謀したところ,

   ハワイ政府転覆の当該陰謀に基づき,米国公使及び米国海軍代表者は,米国の海軍兵力をして1893年1月16日に主権ハワイ国家に侵入せしめ,かつ,リリウオカラニ女王及び彼女の政府を強迫するためにハワイ政府諸庁舎及びイオラニ宮の近傍に配置せしめたところ,

   1893年1月17日の午後,欧米人のサトウキビ農園主,宣教師の子孫及び金融業者を代表する公安委員会が,ハワイの王政を廃し,かつ,臨時政府の設立を宣言したところ,

   それを承けて米国公使は,ハワイ原住国民又は正統ハワイ政府の同意なく,かつ,両国間の諸条約及び国際法に違背して当該臨時政府に外交上の承認を与えたところ,

   〔中略〕

   1893年2月1日,米国公使は米国国旗を掲揚し,かつ,ハワイは米国の保護領であると宣言したところ,〔後略〕

  (19931123日の米国両院合同決議から抜粋)

 

 1894年7月4日,ハワイの臨時政府は共和国宣言を発しています。イオラニ宮に幽閉されていたリリウオカラニ女王は,1895年1月24日,ハワイ共和国の代表者らによって正式に退位せしめられています。


DSCF0932
こちらは日清戦争期間中の在東京駐日米国公使であったエドウィン・ダン(札幌市南区真駒内)
銅像で遊びながらも,当該人物は「エド・ウィンダンじじい」だと思っている子供もいました。


2 七原のロバ等

 

(1)騎兵第五大隊第一中隊経歴書の記載

 1895年8月24日付けの騎兵第五大隊第一中隊経歴書(アジア歴史資料センター)には,1894年「7月23日京城ノ変ニ参与シ即日竜山ニ来〇どう25日中隊ハ前衛騎兵トナリ牙山方向ヘ出発」とあります。

 

(2)7月24

 1894年7月24日は「晴天」,野戦砲兵第五聯隊第三大隊では「午後命令第六中隊第五中隊第一小隊ヲ附シ都合8門ヲ牙山ニ向ケ明25日午前10時出発ノ事,依テ兼而(かねて)恩賜アリタル酒ヲ分配シ別盃ヲナス」という儀式が行われました(原田敬一「混成第九旅団の日清戦争(1)―新出史料の「従軍日誌」に基づいて―」佛教大学歴史学部論集創刊号(2011年3月)36頁)。

 

(3)7月25

 7月25日の龍山は「晴天」(原田36頁)。同月27日付けの大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団報告第18号(アジア歴史資料センター)の別紙によると,豊辺新作中隊長の騎兵第五大隊第一中隊の全員が「前衛騎兵」となったわけではなく,「前衛」に属しているのは「騎兵中隊(1小隊欠)」となっています。「1小隊欠」の騎兵小隊はどこに行ったかといえば,臨津江独立支隊(司令官歩兵少佐山口圭蔵)に「騎兵1小隊(25騎)」,京城守備隊(司令官歩兵少佐一戸兵衛)に「騎兵5騎」,仁川兵站守備隊に「騎兵7騎」,給養隊(司令官歩兵中尉石丸言知)に「伝令騎兵5名」,東路独立枝隊(司令官歩兵大尉小原文平)に「騎兵5騎」,本隊の旅団司令部に「伝令騎兵士官1名下士1名卒19名」及び輜重司令部(司令官砲兵少佐押上森蔵)に「伝令騎兵下士1名卒10名」が属していました。なお,「7月25日になって大島旅団長は混成第九旅団主力(歩兵3000名,騎兵47騎,山砲8門,兵站部隊)を率いて牙山に向かった。」とされています(大谷62頁)。

 この7月25日の朝に日清間の豊島沖海戦が発生しています。ただし,当該海戦の名称については,「大本営命令から考えても「豊島沖輸送船団襲撃戦」と名称変更するべきだろう」とも主張されています(原田36頁)。「大本営が伊東佑亨聯合艦隊司令長官に命じた電文(7月20日佐世保軍港で受領)は,/二,清国更ニ兵員ヲ増加派遣スルニ至ラハ彼レ我ニ敵意ヲ表スルモノト認ム故ニ我艦隊ハ直チニ清国艦隊及運送船ヲ破壊スベシ。」というものだったそうです