第1 一つの蝦夷地(総称)から北海道及び樺太への分離に関して
1 北海道には,北海道島は含まれるが樺太島は含まれない。
前稿である「光格天皇の御代を顧みる新しい「国民の祝日」のために」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081364304.html)においては,つい北海道「命名」150年式典(2018年8月5日に札幌で挙行)に関しても論ずることになり,その際明治二年七月八日(1869年8月15日)の職員令により設置された開拓使による開拓の対象には,当初は北海道のみならず樺太も含まれていたことに触れるところがありました。そうであれば,しかし,日本国五畿八道の八道の一たる北海道に,北海道島と同様に開拓がされるべきものであった樺太島の地が含まれなかったのはなぜであるのかが気になってしまうところです。
2 明治初年の開拓官庁の変遷
ところで,2018年において北海道「開拓」(の数えでの)150年が記念されなかったことについては,王政復古後の明治天皇の政府において「諸地開拓を総判(総判諸地開拓)」すべき機関の設置は,実は1869年の開拓使が初めてのものではなかったからであって,折角天皇皇后両陛下の行幸啓を仰いでも,当該趣旨においては十日の菊ということになってしまうのではないかと懸念されたからでもありましょうか。
(1)外国事務総督及び外国事務掛から外国事務局を経て外国官まで
すなわち,既に慶応四年=明治元年一月十七日(1868年2月10日)の三職(総裁,議定及び参与)の事務分課に係る規定において,議定中の外国事務総督が「外地交際条約貿易拓地育民ノ事ヲ督ス」るものとされて,「拓地育民」が取り上げられており(併せて,参与の分課中に外国事務掛が設けられました。),同年二月三日(1868年2月25日)には外国事務総督と外国事務掛とが外国事務局にまとめられた上(「外国交際条約貿易拓地育民ノ事ヲ督ス」るものです。),同年閏四月二十一日(1868年6月21日)の政体書の体制においては,外国官が「外国と交際し,貿易を監督し,疆土を開拓することを総判(総判外国交際監督貿易開拓疆土)」するものとされていたのでした(以上につき,山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)4-5頁,7-8頁,11・14頁及び20・26頁参照)。外国交際と直接関係する疆土(「疆」は,「さかい」・「領土の境界」の意味です(『角川新字源』(1978年))。)の開拓ということですから,当該開拓の事業は,対外問題(有体に言えば,ロシア問題)対策の一環として明治政府によって認識されていたものでしょう。
(2)北蝦夷地(樺太)重視からの出発
ロシア問題対策のための疆土開拓ということであれば蝦夷地開拓ということになりますが,その場合,四方を海に囲まれた北海道(東西蝦夷地)よりも,ロシア勢力と直に接する樺太(北蝦夷地)こそがむしろ重視されていたのではないでしょうか。
ア 慶応四年=明治元年三月九日の明治天皇諮詢
早くも慶応四年=明治元年三月九日(1868年4月1日(駿府で徳川家家臣の山岡鉄太郎が,江戸攻撃に向けて東進中の官軍を率いる西郷隆盛と談判した日です。))に,明治「天皇太政官代ニ臨ミ三職ヲ召シテ高野保建少将清水谷公考建議ノ蝦夷開拓ノ可否ヲ諮詢ス群議其利ヲ陳ス〔略〕復古記」ということがありましたが(「群議其利ヲ陳ス」の部分は,太政官日誌では「一同大ヒニ開拓可然之旨ヲ言上ス」ということだったそうです。),そこでの高野=清水谷の建議書(二月二十七日付け)には「蝦夷島周囲二千里中徳川家小吏之一鎮所而已無事之時モ懸念御坐候処今般賊徒 御征討被 仰出候ニ付テハ東山道徃来相絶シ徳川荘内等之者共彼地ニ安居仕事ハ難相成島内民夷ニ制度無之人心如何当惑仕候儀ニ有之ヘクヤ不軌ノ輩御坐候ヘハ窃ニ賊徒ノ声援ヲナシ可申モ難計魯戎元来蚕食之念盛ニ候ヘハ此虚ニ乗シ島中ニ横行シ兼テ垂涎イタシ候北地久春古丹等ニ割拠シ如何様之挙動可有之モ難計候ヘハ一日モ早ク以御人撰鎮撫使等御差下シテ御多務中モ閑暇被為在候勢ヲ示シ御外聞ニモ相成候様仕度〔中略〕海氷流澌之時節ニ相至候ヘハ魯人軍艦毎年久春内ヘ罷出候間当月中ニモ御差下ニ相成候様被遊度積リ〔後略〕」とありました(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070634100)。
魯戎が元来その地について蚕食之念を有しており,かつ,横行が懸念されること並びに久春古丹(大泊,コルサコフ)及び久春内(樺太島西岸北緯48度付近の地)といった地名からすると,ここでいう「蝦夷島」については,北海道島というよりは「北地」たる樺太島が念頭に置かれていたものでしょう。当該建議については,公家の清水谷公考に対する阿波人・岡本監輔の入れ智恵があったそうですが(秋月俊幸「明治初年の樺太――日露雑居をめぐる諸問題――」スラブ研究40号(1993年)2頁),岡本は「尊皇攘夷時代には珍しい北方問題の先駆者の一人で,文久3年(1863)すすんで樺太詰めの箱館奉行支配在住となり,慶応元年(1865)には間宮林蔵によっても実現できなかった樺太北岸の周廻を計画し,足軽西村伝九郎とともにアイヌ8名の助力をえて,独木舟で北知床岬を廻り,非常な苦労ののち樺太北端のエリザヴェータ岬(ガオト)に達し,西岸経由でクシュンナイに帰着した」という「ロシアの樺太進出に悲憤慷慨して奥地経営の積極化を望んでいた」憂国の士だったそうですから(同頁),当然樺太第一になるべきものだったわけです。
イ 慶応四年=明治元年三月二十五日の岩倉策問等(2道設置論)及び箱館府(箱館裁判所)の設置
慶応四年=明治元年三月二十五日(1868年4月17日)には,議事所において,三職及び徴士列坐の下,「蝦夷地開拓ノ事」について,「箱館裁判所被取建候事」,「同所総督副総督参謀等人撰ノ事」及び「蝦夷名目被改南北二道被立置テハ何如」との3箇条の策問が副総裁である岩倉具視議定からされています(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070634300)。蝦夷地の改称の話は既にこの時点で出て来ていますが,ここでの2道のうち南の道が後の北海道(東蝦夷地及び西蝦夷地)で,北の道は樺太(北蝦夷地)なのでしょう。これらの点については更に,同年四月十七日(1868年5月9日)の「蝦夷地開拓ノ規模ヲ仮定ス」と題された「覚」7箇条中の最初の2箇条において「箱館裁判所総督ヘ蝦夷開拓ノ御用ヲモ御委任有之候事」及び「追テ蝦夷ノ名目被相改南北二道ニ御立被成早々測量家ヲ差遣山川ノ形勢ニ随ヒ新ニ国ヲ分チ名目ヲ御定有之候事」と記されているとともに,第6条において「サウヤ辺カラフトヘ近ク相望候場所ニテ一府ヲ被立置度候事」と述べられています(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070634500)。箱館裁判所の設置は同月十二日(1868年5月4日)に既に決定されており,同裁判所は,同年閏四月二十四日(1868年6月14日)に箱館府と改称されています(秋月2頁)。
ウ 明治二年五月二十一日の蝦夷地開拓の勅問
箱館府を一時排除して五稜郭に拠り,最後まで天朝に反抗していた元幕臣の榎本武揚らが開城・降伏してから3日後の明治二年五月二十一日(1869年6月30日)には,皇道興隆,知藩事被任及び蝦夷地開拓の3件につき明治天皇から政府高官等に勅問が下されています。そのうち蝦夷地開拓の条は次のとおりでした。
蝦夷地ノ儀ハ 皇国ノ北門直チニ山丹満州ニ接シ経界粗々定マルトイヘドモ北部ニ至ツテハ中外雑居イタシ候所是レマテ官吏ノ土人ヲ使役スル甚ハタ苛酷ヲ極ハメ外国人ハ頗フル愛恤ヲ施コシ候ヨリ土人往々我カ邦人ヲ怨離シ彼レヲ尊信スルニ至ル一旦民苦ヲ救フヲ名トシ土人ヲ煽動スルモノ之レアルトキハ其ノ禍忽マチ函館松前ニ延及スルハ必然ニテ禍ヲ未然ニ防クハ方今ノ要務ニ候間函館平定ノ上ハ速カニ開拓教導等ノ方法ヲ施設シ人民繁殖ノ域トナサシメラルヘキ儀ニ付利害得失各意見忌憚無ク申出ツヘク候事
(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070159100)
ここでの「蝦夷地」は,東蝦夷地,西蝦夷地及び北蝦夷地のうち,北蝦夷地こと樺太のことでしょう。(なお,北蝦夷地ならざる東蝦夷地及び西蝦夷地の振り分けについていえば,明治二年八月十五日(1869年9月20日)の太政官布告による北海道11箇国のうち,東部は胆振,日高,十勝,釧路,根室及び千島の6箇国,西部は後志,石狩,天塩及び北見の4箇国とされていました。11箇国目の渡島国は,東部・西部のいずれにも分類されていません。)山丹は黒龍江下流域のことですが,ユーラシア大陸の「山丹満州ニ接シ」ているのは,地図を見ればすぐ分かるとおり,北海道島ではなく,樺太島でしょう。「経界粗々定マルトイヘドモ北部ニ至ツテハ中外雑居イタシ候所」というのは,1855年2月7日に下田で調印された日魯通好条約2条後段の「「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是まて仕来の通たるへし」を承けた樺太島内の状況を述べるものでしょう。「是レマテ官吏ノ土人ヲ使役スル甚ハタ苛酷ヲ極ハメ外国人ハ頗フル愛恤ヲ施コシ候ヨリ土人往々我カ邦人ヲ怨離シ彼レヲ尊信スルニ至ル」については,文久元年(1861年)に,樺太においてトコンベ出奔事件というものがあったそうです。
事件は,文久元年(1861)に北蝦夷地のウショロ場所〔樺太島西岸北緯49度付近〕で漁業に従事していたアイヌのトコンベが,番人の暴力に耐えかねてシリトッタンナイ〔樺太島西岸ウショロより北の地〕のロシア陣営に逃げ込んだことが発端であった。北蝦夷地詰の箱館奉行所官吏はロシア側の責任者であったジャチコーフにトコンベの引き渡しを要求したが,ジャチコーフはアイヌ使役の自由を主張して奉行所官吏の要求を拒否した。その後,トコンベは翌文久二年(1862)正月,ウショロに立ち戻ったところを奉行所役人に捕縛され久春内に移送された。しかし,同年三月にはジャチコーフが久春内に来航し,トコンベの引渡しを要求した。最終的にジャチコーフは暴力を伴いトコンベを「奪還」した。さらに,ウショロに在住したトコンベの家族やその周囲のアイヌ17人を連れ去るという事件に発展した。
(檜皮瑞樹「19世紀樺太をめぐる「国境」の発見――久春内幕吏捕囚事件と小出秀実の検討から――」早稲田大学大学院文学研究科紀要:第4分冊日本史学・東洋史学・西洋史学・考古学・文化人類学・アジア地域文化学54巻4号(2009年2月)18-19頁)
ということで,明治二年五月二十一日(1869年6月30日)の勅問は,樺太島重視の姿勢が窺われるものであったのですが,同年七月八日(1869年8月15日)の職員令による開拓使設置を経た同年八月十五日(1869年9月20日)の前記太政官布告においては,道が置かれたのは東西蝦夷地までにとどまり,樺太島は,新しい道たる北海道から外れてしまっています。(当該太政官布告により「蝦夷地自今北海道ト被称11ヶ国ニ分割」なので(下線は筆者によるもの),渡島,後志,石狩,天塩,北見,胆振,日高,十勝,釧路,根室及び千島の11箇国のみが北海道を構成するということになります。一番北の北見国には宗谷,利尻,礼文,枝幸,紋別,常呂,網走及び斜里の8郡が置かれていますが,宗谷郡,利尻郡又は礼文郡に樺太島が属したということはないでしょう。北海道庁版権所有『北海道志 上巻』(北海道同盟著訳館・1892年)5頁によれば,蝦夷地北海道改称の際「樺太ノ称ハ旧ニ仍ル」ということになったそうです。)蝦夷地開拓に係る上記勅問の段階からわずか3箇月足らずの期間中に,樺太の位置付けが低下したようでもあります。この間一体何があったのでしょうか。
3 函泊露兵占領事件及び樺太島仮規則(日露雑居制)確認並びにパークス英国公使の勧告
(1)函泊露兵占領事件
明治二年六月二十四日(1869年8月1日)に「露兵,樺太函泊を占領,兵営陣地を構築」(『近代日本史総合年表 第四版』(岩波書店・2001年))という事態が生じています。
「日本の本拠地クシュンコタンの丘一つ隔てた沢にあるハッコトマリ(凾泊)にデ・プレラドヴィチ中佐(この頃大隊長となる)の指揮する50人ほどのロシア兵が上陸し,陣営の構築を始めた。そこは場所請負人伊達林右衛門と栖原小右衛門が共同で経営するアニワ湾の一漁場で,海岸は水産乾場として使われ,多数の鰊釜が敷設されていた。ロシア側は丘の上に兵営を建てるので漁場の邪魔にはならぬと弁解したが,そこもアイヌの墓地となっており,アイヌたちはロシア人の立入りを止めさせるよう繰返し日本の役所に訴えている。しかし,デ・プレラドヴィチは,兵営の設置は本国からの命令によるものとして日本側の抗議を無視した。ロシア側は仮規則〔本稿の主題たる後出1867年の日露間の樺太島仮規則〕を盾にこの地に陣営を設けたのであるが,その意図はクシュンコタンに重圧をかけ,日本人の樺太からの退去を余儀なくする準備であった。やがてここにはトーフツから東シベリア第4正規大隊の本部が移され,多数の徒刑囚も到着して,その後の紛糾のもととなるのである。」(秋月3-4頁)ということです。
(2)樺太問題に係るパークス英国公使の寺島外務大輔に対する忠告
樺太担当(久春古丹駐在)の箱館府権判事(開拓使設置後は開拓判官)となっていた「岡本〔監輔〕が上京して開拓長官鍋島直正や岩倉具視,大久保利通らの政府要人たちにロシア軍の凾泊上陸を報告し,日本の出兵を訴えて間もない」(秋月4頁,2頁)同年八月一日(1869年9月6日)には,外務省で「寺島〔宗則〕外務大輔はパークス英国公使と会談し,英国側から北地におけるロシアの進出について厳しく忠告を受けた。日本政府は現地の情報に疎く,樺太の情勢だけでなくロシアの動向についてまったくと言ってよいほど捕捉していなかった。〔中略〕「小出大和〔守秀実〕魯都ニ参り雑居之約定取極メ調印致し候ニ付,此約定〔樺太島仮規則〕ハ動せ〔す〕へからさる者に候。恐く唐太全島を失ふ而已ならす蝦夷地に及ふへし」と,パークスの忠告は切迫した内容であった。」ということになっています(笠原英彦「樺太問題と対露外交」法学研究73巻1号(2000年)102-103頁。『大日本外交文書』第2巻第2冊455-459頁,特に458頁)。更にパークスは,「唐太に於て無用に打捨あるを魯人ひろふて有用の地となす誰も是をこばむ能はさるを万国公法とす」と,日本がむざむざ樺太を喪失した場合における列強の支援は望み薄であるとの口吻でした(『大日本外交文書』第2巻第2冊458頁)。
(3)樺太島仮規則に係る明治政府官員の当初認識
パークスが寺島外務大輔に樺太島仮規則の有効性について釘を刺したのは,我が国政府の樺太担当者が当該規則の効力を否認していたからでした。
例えば,樺太島における岡本監輔の明治二年五月二十六日(1869年7月5日)付けロシアのデ・プレラドヴィチ宛て書簡では,「貴方所謂日本大君と申は国帝に無之徳川将軍の事にて二百年来国政委任に相成居候得共将軍限りにて外国と国界等取極候筈無之処其臣下たる小出大和守〔秀実〕輩一存を以雑居等相約候は僭越の至申迄も無之」して「不都合の次第」であるとし,「吾所有たる此〔樺太〕島を貴国吾国及ひ土人三属の地と御心得被成候は余りの御鄙見にて貴国皇帝の御趣意とは不存候」ところ,仮規則締結については「貴国にても其権なき者と御約し被成候は御不念の事に可有之」と述べて日本側の「小出大和守輩」は無権代理人であったとし,かつ,「勿論此島の儀未タ荒蕪空間の地所も有之に付土人漁民其外小前の者に至迄差支無之場所は開拓家作等被成候ても宜敷御坐候に付此段此方詰合え御届被成差図被受候様致度候」として(以上『大日本外交文書』第2巻第1冊933-935頁),樺太島仮規則2条の「魯西亜人〔略〕全島往来勝手たるへし且いまた建物並園庭なき所歟総て産業の為に用ひさる場所へは移住建物等勝手たるへし」との規定にもかかわらず,「荒蕪空間の地所」についてもロシア人の勝手はならず日本国の官庁に届け出た上でその指示に従うべしと,樺太島南部における(同島周廻者である岡本の主観では,樺太全島における)我が国の排他的統治権を主張していました。
「雑居」を認める樺太島仮規則の効力を,小出秀実ら当該規則調印者の権限の欠缺を理由に否定した上で(民法(明治29年法律第89号)113条参照),それに先立つ日魯通好条約2条後段の「界を分たす是まて仕来の通たるへし」との規定は,樺太島における日露雑居を認めるものではなく,日露の各単独領土の範囲は「是まて仕来の通」であることを確認しつつ,その境界(岡本の主観では,間宮海峡がそれであるべきものでしょう。)の劃定がされなかったことを表明するにすぎないもの,と解するものでしょう(以下「境界不劃定説」といいます。)。
(ここで,「境界の劃定」とは何かといえば,その意義について美濃部達吉はいわく,「領土の変更とは領土たることが法律上確定せる土地の境界を変更することであり,境界の劃定とは何処に国の境界が有るかの不明瞭なる場合に実地に就いて之を確認し明瞭ならしむることである。一は権利を変更する行為であり,一は既存の権利を確認する行為である。即ち一は創設行為たり一は宣言行為たるの差がある。境界の確定は殊に陸地に於いて外国と境界を接する場合に必要であつて,ロシアより樺太南半分の割譲を受けた場合には,講和条約附属の追加約款第2に於いて両国より同数の境界劃定委員を任命して実地に就き正確なる境界を劃定すべきことを約し,此の約定に従つて翌年境界の劃定が行はれた。」と(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)88-89頁)。1905年9月5日に調印されたポーツマス条約に基づく日露間の境界劃定は北緯50度の線がどこにあるかを測定して決めることであったわけですが,1855年の下田条約(日魯通好条約)に基づく国境劃定を行う場合であれば,まず「是まて〔の〕仕来」が何であるかの確定から始まることになったわけのものでしょう。)
しかし,下田条約2条後段の文言は境界不劃定説によるものであり,かつ,一義的にそう解され得るものであったかどうか。後に考察します。
(4)明治政府要人との会見における樺太問題に係るパークスの慎重論
明治二年八月九日(1869年9月14日)には,「パークスは東京運上所において,岩倉〔具視〕大納言・鍋島〔直正〕開拓長官・沢〔宣嘉〕外務卿・大久保〔利通〕参議・寺島〔宗則〕外務大輔・大隈〔重信〕大蔵大輔ら新政府の有力者たちと会見し,再び樺太問題を討議した。さきに寺島との会談で樺太への積極策〔日本側もクシュンコタン近辺に要害の地を占めること(「クシユンコタン辺に要害の地をしむれは唐太の北地処〻に人をうつすよりも切速なり」(『大日本外交文書』第2巻第2冊458頁))〕を勧めたパークスは,このたびは一変して「樺太はすでに大半がロシアに属しており,今から日本が着手するのは遅すぎる」ことを力説した。すでに彼は〔英国商船〕ジョリー号船長ウィルソンの〔ロシア軍の凾泊進出に係る〕詳報を検討の結果,ロシアがアニワ湾に2000人の兵力を集結して(これは過大である),日本人の追出しを意図していることを知ったのである。彼は日本側から近く高官とともに多数の移民を送る計画を聞いて,「それは火薬の傍らに火を近づけるのと同じ」といい,北海道の開拓に力をそそぐことを要望した。」という運びになっています(秋月5頁)。
「唯今に至り唐太を御開き被成候は御遅延の事と存候」,「唐太を先に御開き被成候は住居の屋根計りあつて礎無之と申ものに有之候」,「1867年小出大和守の約定は魯西亜と日本との人民雑居と申事に候へは当今同国人参り候ても追出し候権無之事と存候」,「サカレンえ御心配被成候内蝦夷は被奪可申候」というようなパークスの発言が記録されています(『大日本外交文書』第2巻第2冊465-478頁のうち,470頁,471頁,474頁及び477頁)。なお,同日段階では我が国政府は北海道島よりも樺太島の開拓を先行させるつもりであったようであり,「同所えは魯国人の来りしに付唐太を先に開らき候事にて蝦夷地ヲ差置候と申事には無之候」及び「先差向唐太の方に尽力いたし候積に候」というような発言がありました(『大日本外交文書』第2巻第2冊472頁)。
蝦夷地改称に係る明治二年八月十五日の前記太政官布告が樺太島について触れなかったのは,樺太はもう駄目ではないかとパークスに冷や水を浴びせかけられてしまったばかりの我が国政府としては,きまりが悪かったからでしょうか。ただし,改称された北海道を11箇国に分割するところの当該太政官布告は,少なくともこれらの国が置かれた東西蝦夷地については,他の五畿七道諸国と同様のものとしてしっかり守ります,との決意表明ではあったのでしょう。なお,八月九日に我が国政府は,パークスからの「〔樺太島における事件に関し〕右様〔「御国内の事件を御存し無之事」〕にては蝦夷地を被奪候共御存し有之間敷」との皮肉に対して,「従是開拓の功を成し国割にいたし郡も同しく分割いたし候積に候」と言い訳を述べていますところ(『大日本外交文書』第2巻第2冊476頁),そこでは,樺太島にも国及び郡を置くものとまでの明言はされてはいませんでした。
4 北海道と樺太との取扱いの区別へ
(1)三条右大臣の達し
蝦夷地を北海道と改称した翌九月には(『法令全書 明治二年』では九月三日(1869年10月7日)付け),三条実美右大臣から開拓使宛てに次のように達せられています(『開拓使日誌明治二年第四』)。
開拓使
一北海道ハ
皇国之北門最要衝之地ナリ今般開拓被仰付候ニ付テハ深
聖旨ヲ奉体シ撫育之道ヲ尽シ教化ヲ広メ風俗ヲ敦ス可キ事
一内地人民漸次移住ニ付土人ト協和生業蕃殖候様開化心ヲ尽ス可キ事
一樺太ハ魯人雑居之地ニ付専ラ礼節ヲ主トシ条理ヲ尽シ軽率之振舞曲ヲ我ニ取ルノ事アル可ラス自然渠ヨリ暴慢非義ヲ加ル事アルトモ一人一己ノ挙動アル可カラス必全府決議之上是非曲直ヲ正シ渠ノ領事官ト談判可致其上猶忍フ可カラサル儀ハ 廷議ヲ経全圀之力ヲ以テ相応スヘキ事ニ付平居小事ヲ忍ンテ大謀ヲ誤マラサル様心ヲ尽スヘキ事
一殊方〔『角川新字源』では,「異なった地域」・「異域」。もちろんここでは「外国」ではないですね。〕新造之国官員協和戮力ニ非サレハ遠大之業決シテ成功スヘカラサル事ニ付上下高卑ヲ論セス毎事己ヲ推シ誠ヲ披キ以テ従事決シテ面従腹非之儀アル可カラサル事
九月 右大臣
最北の樺太ではなく,宗谷海峡を隔てたその南の北海道こそが「皇国之北門最要衝之地」であるものとされています。樺太については,ロシア人に気を遣って忍ぶべしと言われるばかりで,どうも面白くありません。東西蝦夷地のみに係る北海道命名の意義とは,東西蝦夷地と北蝦夷地との間のこの相違を際立たせることでもあったのでしょう。最終項に「新造之国」とありますが,当該新造之国11箇国の設置は北海道についてのみであったことは,既に述べたとおりです。
北海道の命名を華やかに祝うに際しては,陰の主役たる失われた樺太(及び当該陰の主役に対するところの某敵役)をも思い出すべきなのでしょう。
(2)樺太放棄論者黒田開拓次官
明治三年五月九日(1870年6月7日)兵部大丞黒田清隆が樺太専務の開拓次官に任ぜられますが,担務地たる樺太を視察した黒田はその年十月に政府に建議を行います。いわく,「夫レ樺太ハ魯人雑居ノ地ナルヲ以テ彼此親睦事変ヲ生セサラシメ然後漸次手ヲ下シ功ヲ他日ニ収ムルヲ以テ要トス然レトモ今日雑居ノ形勢ヲ以テ之ヲ観レハ僅ニ3年ヲ保チ得ヘシ」云々と(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070638700)。(ちなみに,鷗外森林太郎翻訳の『樺太脱獄記』(コロレンコ原作)において描かれた樺太島から大陸への脱獄劇を演じたロシアの囚人らが同島に到着した時期は,この年の夏のことでした。)また,同年十一月,黒田は「米国ニ官遊」しますが(樺太庁長官官房編纂『樺太施政沿革』(1912年)後篇上・従明治元年至同8年樺太行政施設年譜4頁),その際黒田は「上言シテ曰力ヲ無用ノ地〔筆者註:樺太のことですね。〕ニ用テ他日ニ益ナキハ寧ロ之ヲ顧ミサルニ若カス故ニ之ヲ棄ルヲ上策ト為ス便利ヲ争ヒ紛擾ヲ致サンヨリ一着ヲ譲テ経界ヲ改定シ以テ雑居ヲヤムルヲ中策ト為ス雑居ノ約ヲ持シ百方之ヲ嘗試シ左支右吾遂ニ為ス可カラサルニ至ツテ之ヲ棄ルヲ下策ト為スト」ということがあったそうです(明治6年2月付け黒田清隆開拓次官上表(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A03023618600))。要は,黒田の樺太放棄論(「上策」)は明治三年中から始まっていたようです。
このようなことになって,「これまで樺太の維持のため努力を重ねてきた岡本監輔は,このような黒田の方針に追従できず,明治3年末に辞表を提出し,許可も届かないうちに離島した〔略〕。その後の樺太行政は,ロシアの軍事力に対抗して開拓を推進するよりは,むしろ移民や出稼人たちの保護に重点が移されたのである。」ということになりました(秋月7頁)。岡本の樺太統治の夢及び努力は,「樺太の行政官として下僚80余名と移民男女200余名を率いて,慶応4年6月末クシュンコタン(楠渓)に着任」(秋月2頁)してからわずか2年半ほどで終わりを告げたわけです。
その後,1875年5月7日にペテルブルクで調印され同年8月22日に批准書が交換された日露間の千島樺太交換条約によって,全樺太がロシア帝国の単独領有に帰したことは周知のとおりです。