Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

カテゴリ: 刑法

1 象徴的役割にふさわしい待遇を求める憲法的規範とそれに対する横着者の発言

 

 憲法は,「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く」(1条)と規定する。「象徴」とは,無形の抽象的な何ものかを,ある物象を通じて感得せしめるとされる場合に,その物象を前者との関係においていうものである。鳩が「平和」の,ペンが「文」の象徴とされるがごときがその例である。したがって,この「象徴」は元来社会心理的なものであって,それ自体としては法と関係を有しうる性質のものではない。にもかかわらず,「象徴」関係が法的に規定されることがあるのは,基本的には,右の社会心理の醸成・維持を願望してのことである。・・・

  日本国憲法が天皇をもって「日本国」「日本国民統合」の「象徴」とするのも,基本的には右のような意味において理解される(ここに「日本国の象徴」と「日本国民統合の象徴」とある点については諸説があるが,前者は一定の空間において時間的永続性をもって存在する抽象的な国家それ自体に関係し,後者はかかる国家を成り立たしめる多数の日本国民の統合という実体面に関係していわれているものと解される)。・・・ただ,ここで「象徴」とされるものは,国旗などと違って人格であるため,その地位にあるものに対して象徴的役割にふさわしい行動をとることの要請を随伴するものとみなければならず,また,そのような役割にふさわしい待遇がなされなければならないという規範的意味が存することも否定できないであろう。・・・(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)238239頁。なお,下線は筆者によるもの)

 

憲法的規範として,①象徴たる天皇の側においては「象徴的役割にふさわしい行動」をとるよう自制せられることが要請されており,②他方,国民の側においては「そのような役割」すなわち象徴的役割に「ふさわしい待遇」を 天皇に対してなすことが当然求められているということでしょう。しかしながら,あさましいことには,象徴的役割にふさわしい待遇をなし申し上げるのを面倒臭がる横着者もいるもののようです。

 

「都に,王と云ふ人のましまして,若干(そこばく)の所領をふさげ〔多くの所領を占有し〕内裏(だいり),院の御所と云ふ所のありて,馬より()るるむつかしさよ〔うっとうしさよ〕。もし王なくて(かな)ふまじき道理あらば,木を以て作るか,(かね)を以て()るかして,生きたる院,国王をば,いづくへも皆流し捨てばや」(兵藤裕己校注『太平記(四)』(岩波文庫・2015年)280頁・第二十七巻7(なお,この岩波文庫版は西源院本を底本とする。))

 

2 皇室費,皇室用財産等

 「若干(そこばく)の所領をふさげ,内裏(だいり),院の御所と云ふ所のありて」についての不平は,毎年度の国の予算に皇室の費用が計上され憲法88条後段。皇室経済法(昭和22年法律第4号)3条は「予算に計上する皇室の費用は,これを内廷費,宮廷費及び皇族費とする。」と規定),その額が約62億円となること(宮内庁のウェッブ・サイトによると,皇室費の平成29年度歳出概算要求額は合計6238百万円です。内訳は,内廷費が3億24百万円,宮廷費が5684百万円,皇族費が2億30百万円です。そのほか平成28年度末の予算定員が1009人である宮内庁の宮内庁費が11157百万円要求されていますが,これは大部分人件費です。),国有財産中に「国において皇室の用に供し,又は供するものと決定したもの」である行政財産たる皇室用財産(国有財産法(昭和23年法律第73号)3条2項3号)が存在することなどについてのものでしょうか。

 

(1)内廷費

 皇室経済法4条1項は「内廷費は,天皇並びに皇后,太皇太后,皇太后,皇太子,皇太子妃,皇太孫,皇太孫妃及び内廷にあるその他の皇族の日常の費用その他内廷諸費に充てるものとし,別に法律で定める定額を毎年支出するものとする。」と規定し,当該定額について皇室経済法施行法(昭和22年法律第113号)7条は,「法第4条第1項の定額は,3億2400万円とする。」と規定しています(平成8年法律第8号による改正後)。「内廷費として支出されたものは,御手元金となるものとし,宮内庁の経理に属する公金としない」ものとされています(皇室経済法4条2項)。また,内廷費及び皇族費として受ける給付には所得税が課されない旨丁寧に規定されています(所得税法(昭和40年法律第33号)9条1項12号)。
 ちなみに,宮中祭祀は「純然たる皇室御一家の祭祀であつて,皇室の家長たる御地位に於いて天皇の行はせらるる所であり,国家とは何等の直接の関係の無いもの」となっているところ(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)555頁),天皇の祭祀に関与する「内廷職員とよばれる25名の掌典,内掌典は,天皇の私的使用人にすぎない」のですから(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)214頁),その報酬は内廷費から出るわけです。なお,今上天皇即位の際の大嘗祭(1990年)の費用は内廷費からではなく後に説明する公金たる宮廷費から出ていますが,大嘗祭は「皇室の宗教上の儀式」ということですから理由付けは難しく,「その際,皇位世襲制を採用する憲法のもとで皇位継承にあたっておこなわれる大嘗祭には,公的性格がある,と説明された(即位の礼準備委員会答申に基づく政府見解)。ここでは,政教分離違反の問題が生じないというための大嘗祭の私事性と,それへの公金支出を説明するための「公的性格」とを,皇位世襲制を援用することによって同時に説明しようと試みられている。」と指摘されています(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)124頁)。
 内廷費の定額は1947年当初は800万円でしたが,その内訳については,「御内帑金,これは御服装とかお身の回りの経費でございますが,その御内帑金が約50%,皇子の御養育費が約5%,供御供膳の費用,これはお食事とか御会食の経費でございますが,その供御供膳の経費が約10%,公でない御旅行の費用が約17%,お祭りの費用,用度の費用が残りというような説明がなされていた」とされています(第136回国会衆議院内閣委員会議録第3号3頁(角田素文政府委員(皇室経済主管)))。 

 

(2)皇族費

 内廷費の対象となる皇族以外の皇族に係る皇族費は,皇室経済法6条1項の定額が皇室経済法施行法8条において3050万円となっていますので(平成8年法律第8号による改正後),独立の生計を営む親王については年額3050万円(皇室経済法6条3項1号),その親王妃については年額1525万円(同項2号本文),独立の生計を営まない未成年の親王又は内親王には年額305万円(同項4号本文),独立の生計を営まない成年の親王又は内親王には年額915万円(同号ただし書),王,王妃及び女王に対してはそれぞれ親王,親王妃及び内親王に準じて算出した額の10分の7に相当する額の金額(同項5号)ということになります(なお,親王,内親王,王及び女王について皇室典範(昭和22年法律第3号)6条は,「嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫は,男を親王,女を内親王とし,3世以下の嫡男系嫡出の子孫は,男を王,女を女王とする。」と規定)。部屋住みの成年の王又は女王には,年額640万5千円という計算です。皇族費も,御手元金となり,宮内庁の経理に属する公金とはされません(皇室経済法6条8項)。
 1996年当時の国会答弁によると,各宮家には平均5人程度の宮家職員が雇用されており,給与は国家公務員の給与に準じた取扱いがされ,一般企業の従業員と同様に社会保険・労働保険に加入して事業主負担分については皇族費から支弁がされています(第136回国会衆議院内閣委員会議録第3号5頁(森幸男政府委員(宮内庁次長)))。
 なお,内廷費及び皇族費の定額改定は,1968年12月に開催された皇室経済に関する懇談会(皇室経済会議の構成員に総理府総務長官を加えた懇談会)において,物価の上昇(物件費対応)及び公務員給与の改善(人件費対応)に基づいて算出される増加見込額が定額の1割を超える場合に実施するという基本方針(「原則として,物価のすう勢,職員給与の改善その他の理由に基づいて算出される増加見込額が,定額の1割をこえる場合に,実施すること」)が了承されています(第136回国会衆議院内閣委員会議録第3号4頁・同国会参議院内閣委員会会議録第3号2頁(
角田政府委員))。 

 

(3)宮廷費及び会計検査院の検査

 宮廷費は,「内廷諸費以外の宮廷諸費に充てるものとし,宮内庁で,これを経理」します(皇室経済法5条)。宮廷費は宮内庁の経理に属する公金であるので,会計検査院の検査を受けることになるわけです。会計検査院法(昭和22年法律第73号)12条3項に基づく会計検査院事務総局事務分掌及び分課規則(昭和22年会計検査院規則第3号)の別表によると,宮内庁の検査に関する事務は会計検査院事務総局第一局財務検査第二課が分掌しているところです。平成21年度決算検査報告において,宮廷費について,「花園院宸記コロタイプ複製製造契約において,関係者との間の費用の負担割合を誤ったなどのため,予定価格が過大となり契約額が割高となっていたもの」8百万円分が指摘されています。

 これは,花園天皇に関する狼藉というべきか。しかし,才なく,徳なく,勢いがなくなれば,万世一系といえどもあるいは絶ゆることもあらんかと元徳二年(1330年)二月の『誡太子書』において甥の量仁親王(光厳天皇)に訓戒していた花園天皇としては,宮廷費に一つ不始末があるぞと臣下が騒いでもさして動揺せらるることはなかったものではないでしょうか。「余聞,天生蒸民樹之君司牧所以利人物也,下民之暗愚導之以仁義,凡俗之無知馭之以政術,苟無其才則不可処其位,人臣之一官失之猶謂之乱天事,鬼瞰無遁,何況君子之大宝乎」。また更に「而諂諛之愚人以為吾朝皇胤一統不同彼外国以徳遷鼎依勢逐鹿・・・纔受先代之余風,無大悪之失国,則守文之良主於是可足・・・士女之無知聞此語皆以為然」,「愚人不達時変,以昔年之泰平計今日之衰乱,謬哉・・・」云々。唐土の皇帝らとは異なっているので何もせずとも代々終身大位に当たってさえおれば我が国の万世一系は安泰だと奏上するのは諂諛(てんゆ)之愚人で,そうか安泰なのかと思わされるのは士女之無知だ,必要な才がないのであればその位におるべからず,時変・衰乱の今日にあっていつまでも昔のやり方でよいというのは愚人のあやまであるというようなこととされているのでしょう。

なお,大日本帝国憲法下では,「皇室経費に付いては,国家は唯定額を支出する義務が有るだけで,その支出した金額が如何に費消せらるゝかは,全然皇室内部の事に属し,政府も議会も会計検査院も之に関与する権能は無い。皇室の会計は凡て皇室の機関に依つて処理せられるのである。」ということにされていました(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)686頁)。明治皇室典範48条は「皇室経費ノ予算決算検査及其ノ他ノ規則ハ皇室会計法ノ定ムル所ニ依ル」と規定していましたが,この「皇室会計法」は「法」といっても帝国議会の協賛を経た法律ではありませんでした。1912年には,皇室令たる皇室会計令(明治45年皇室令第2号)が制定されています。皇室令は,1907年の公式令(明治40年勅令第6号)によって設けられた法形式で,「皇室典範ニ基ツク諸規則,宮内官制其ノ他皇室ノ事務ニ関シ勅定ヲ経タル規程ニシテ発表ヲ要スルモノ」です(同令5条1項)。

 

(4)ちょっとした比較

 天皇制維持のための毎年の皇室の費用約62億円及び宮内庁費約112億円は高いか安いか。ちなみに,「議会制民主政治における政党の機能の重要性にかんがみ・・・政党の政治活動の健全な発達の促進及びその公明と公正の確保を図り,もって民主政治の健全な発展に寄与することを目的」として(政党助成法(平成6年法律第5号)1条),国民一人当たり250円という計算で毎年交付される政党交付金の総額(同法7条1項)は,2016年につき31892884千円で,そのうち自由民主党分が1722079万円,民進党分が974388万円,公明党分が297209万8千円となっています(2016年4月1日総務省報道資料「平成28年分政党交付金の交付決定」)。

 

(5)国有財産及び旧御料

 GHQの意図に基づき「憲法施行当時の天皇の財産(御料)および皇族の財産を,憲法施行とともにすべて国有財産に編入するという意味」で日本国憲法88条前段は「すべて皇室財産は,国に属する。」と規定していますので(佐藤260頁),現在の「所領をふさげ」等の主体は,「王と云ふ人」ではなく,国ということになります(行政財産を管理するのは,当該行政財産を所管する各省各庁の長(衆議院議長,参議院議長,内閣総理大臣,各省大臣,最高裁判所長官及び会計検査院長)です(国有財産法5条,4条2項)。)。(なお,「皇室の御料」の沿革は,「明治維新の後は唯皇室敷地,伊勢神宮及び各山陵に属する土地及び皇族賜邸があつたのみで,その他には一般官有地の外に特別なる御料地は全く存しなかつたのであつたが,〔大日本帝国〕憲法の制定に先ち,将来憲政の施行せらるに当つては皇室の独立の財源を作る必要あることを認め,一般官有地の内から,御料地として宮内省の管轄に移されたものが頗る多く,皇室典範の制定せらるに及んでは,新に世伝御料の制をも設けられた〔明治皇室典範45条は「土地物件ノ世伝御料ト定メタルモノハ分割譲与スルコトヲ得ス」と規定〕。」というもので,「此等の御料から生ずる収入は,皇室に属する収入の重なる部分を為すもので,国庫より支出する皇室経費は其の以外に皇室の別途の収入となるもの」であったそうです(美濃部・精義685頁)。)「院の御所」は,太上天皇の住まいですから,天皇の生前退位を排除する皇室典範4条(「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」)の現在の解釈を前提とすると,問題にはなりません。

 (ちなみに,世伝御料は「皇室ノ世襲財産」で(皇室の家長が天皇),「世伝御料タル土地物件ハ法律上ノ不融通物タルモノニシテ,売買贈与等法律行為ノ目的物タルコトヲ得ズ,又公用徴収若クハ強制執行ノ目的物トナルコトナシ」とされていますが(美濃部・撮要229230頁),これにはなかなかの慮り(おもんぱかり)があったようです。すなわち,『皇室典範義解』は「(つつしみ)て按ずるに,世伝御料は皇室に係属す。天皇は之を後嗣に伝へ,皇統の遺物とし,随意に分割し又は譲与せらることを得ず。故に,〔父の〕後嵯峨天皇,〔その兄息子であって持明院統の祖である〕後深草天皇をして〔弟息子であって大覚寺統の祖である〕亀山天皇に位を伝へしめ,遺命を以て長講堂領二百八十所を後深草天皇の子孫に譲与ありたるが如きは,一時の変例にして将来に依るべきの典憲に非ざるなり。」と述べていますが(宮沢俊義校註『憲法義解』(岩波文庫・1940年)166頁),これは,南北朝期における皇統間の争いは,皇位のみならず御料の継承をもめぐるものとの側面もあったという認識を示唆するものでしょう。また,長講堂領については正に,「若干そこばくの所領をふさげ」ということになります。ただし,現在においては,御料は前記のとおり国有財産に編入されてしまっていて皇室の所有権から離れていますから,そういう点では南北朝期的事態の発生原因の一つは消えているというべきでしょうか。)

 

3 太上天皇襲撃の罪と罰

 「馬より()るるむつかしさ」といっても,さすがに「からからと笑うて,「なに院と云ふか。犬ならば射て置け」と云ふままに,三十余騎ありける郎等(ろうどう)ども,院の御車を真中(まんなか)()()め,索涯(なわぎわ)(まわ)して追物(おうもの)()にこそ射たりけれ。御牛飼(おんうしかい)(ながえ)を廻して御車を(つかまつ)らんとすれば,胸懸(むながい)を切られて(くびき)も折れたり。供奉(ぐぶ)雲客(うんかく),身を以て御車に()たる矢を防かんとするに,皆馬より射落とされて()()ず。(あまっさ)へ,これにもなほ飽き足らず,御車の下簾(したすだれ)かなぐり落とし,三十輻(みそのや)少々踏み折つて,(おの)が宿所へぞ帰りける。」(『太平記(四)』60頁・第二十三巻8)ということが許されないことはもちろんです。しかし,この場合,院(太上天皇)の身体に対する行為に係る刑罰はどうなるか。

 

(1)暴力行為等処罰に関する法律及び刑法

傷害の結果が生じていれば,「銃砲又ハ刀剣類」を用いたものとして暴力行為等処罰に関する法律(大正15年法律第60号)1条ノ2第1項に基づき1年以上15年以下の懲役に処し得るものとなるかといえば,「銃砲」にも「刀剣類」にも弓矢は含まれないようなので(銃砲刀剣類所持等取締法(昭和33年法律第6号)2条),やはり刑法(明治40年法律第45号)204条の傷害罪ということで15年以下の懲役又は50万円以下の罰金ということになるようです。ただし,常習としてしたものならば1年以上15年以下の懲役です(暴力行為等処罰に関する法律1条ノ3)。

なお,暴力行為等処罰に関する法律1条ノ3にいう常習性については「反復して犯罪行為を行なう習癖をいい(常習賭博についての,大審院昭和2・6・29集6・238参照),それは行為の特性ではなく,行為者の属性であると解せられており,かような性癖・習癖を有する者を常習者または常習犯人とよぶ」と説明されています(安西搵『特別刑法〔7〕』(警察時報社・1988年)54頁)。(ついでながら更に述べれば,常習性は,必要的保釈に係る刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)89条3号においても同様に解すべきでしょう。この場合,業として行うことは,習癖の発現として行うこと(安西55頁参照)には当たらないでしょう。筆者は,「業として」長期3年以上の懲役又は禁錮に当たる罪を犯した被告人について,保釈許可決定を得たことがあります。)

傷害の結果が生ぜず暴行にとどまれば(刑法208条参照),「団体若ハ多衆ノ威力ヲ示シ・・・又ハ兇器ヲ示シ若ハ数人共同シテ」行っていますから,暴力行為等処罰に関する法律1条により3年以下の懲役又は30万円以下の罰金ということになります。暴行を常習として行ったのならば3月以上5年以下の懲役です(暴力行為等処罰に関する法律1条ノ3)。

院に傷害が生じたかどうかが明らかではないこと,また,「猛将として知られ,青野原合戦で活躍」した「元来(もとより)酔狂(すいきょう)の者」であって「この(ころ)特に世を世ともせざ」るものであっても(『太平記(四)』59頁),それだけで直ちに暴力行為を累行する習癖が同人にあるものと断定してよいものかどうか躊躇されることといった点に鑑みて保守的に判断すると,刑罰は3年以下の懲役又は30万円以下の罰金ということになりましょうが,少々軽いようにも思われます(しかし,平安時代の花山院襲撃事件の下手人である藤原伊周・隆家兄弟は「むつかし」いこともなく大宰府及び出雲国にそれぞれ左遷で済んでいますから,むしろ重過ぎるというべきか。)。

 

(2)皇室ニ対スル罪

この点,昭和22年法律第124号によって19471115日から削除される前の刑法73条又は75条によれば,太上天皇襲撃事件の犯人は院に「危害ヲ加ヘタル者」としてすっぱりと死刑とされたことでしょう。皇室ニ対スル罪に係る両条における「危害(・・)とは生命・身体に対する侵害又は其の危険を謂ふ。」とされています(小野清一郎『刑法講義各論』(有斐閣・1928年)7頁)。現実にも康永元年(1342年)の光厳院襲撃犯である土岐頼遠は,「六条河原にて首を刎ね」られています(『太平記(四)』62頁)。ただし,太上天皇は「天皇,太皇太后,皇太后,皇后,皇太子又ハ皇太孫」に含まれるものとして刑法旧73条を適用するか,その他の皇族として同法旧75条を適用するかの問題が残っています。

 

4 象徴の必要性

ところで,前記横着者は,「王なくて(かな)ふまじき道理あらば」と認容的な言葉も発していますから,我が国体においては「日本国及び日本国民統合の象徴」(2012年4月27日決定の自由民主党日本国憲法改正草案1条の文言)の存在が不可欠であるということを完全に否認するものではないのでしょう。「日本国は,長い歴史と固有の文化を持ち,国民統合の象徴である天皇を戴く国家」なのであります(自由民主党日本国憲法改正草案前文)。

 

5 国王遺棄及び「金を以て鋳」た象徴の例

 「木を以て作るか,(かね)を以て()るかして,生きたる院,国王をば,いづくへも皆流し捨てばや」という発言は,王を移棄するぞということなのでしょうが,神聖王家の王を遺棄去って代わりに木造又は金で鋳造した御神体(象徴)を奉戴するという方法も含まれるのでしょう。後者については次のような前例がありますが,余り快適な結果にはならなかったようです。

 

 かくてイスラエル(みな)〔レハベアム。同王は,ソロモンの子,すなわちダビデの孫〕(おのれ)(きか)ざるを見たり(ここ)において(たみ)王に答へて(いひ)けるは我儕(われら)ダビデの(うち)(なに)(ぶん)あらんやヱサイ〔ダビデの父〕の子の(うち)に産業なしイスラエルよ(なんぢ)()天幕(てんまく)に帰れダビデよ(いま)(なんぢ)の家を視よと(しか)してイスラエルは(その)天幕に去りゆけり

 然れどもユダの諸邑(まちまち)(すめ)るイスラエルの子孫(ひとびと)の上にはレハベアム(その)王となれり

 レハベアム王徴募頭(ちやうぼがしら)なるアドラムを遣はしけるにイスラエル(みな)石にて彼を(うち)(しな)しめたればレハベアム王急ぎて(その)車に登りエルサレムに逃れたり

 (かく)イスラエル,ダビデの家に背きて今日にいたる 

(列王紀略上第121619

 

古代イスラエルでも王は臣民から推戴されるものだったようです。紀元前10世紀のソロモン王の死後その息子レハベアムを国王に推戴するためシケムで集会があった際,臣民の側からソロモン王時代の重い負担を軽減してくれとの請願があったところ,舐められてはならぬと思ったものか,偉大な親父の貫目に負けじとレハベアムは,お前らの負担をむしろもっと重くしてやると答えてしまったのでした。そこで,ソロモンの王国は,ダビデ王朝に反発して離反した北の十部族のイスラエル王国と,引き続きダビデ王朝の下に留まった南のユダ王国(ユダはダビデの出身部族)との二つに分裂したというわけです。イスラエル王国の初代国王としては,王位を窺う者としてソロモン王の生前エジプトに逃れていたヤラベアムが推戴されました(列王紀略上第1220)。ところが,

 

(ここ)にヤラベアム(その)心に(いひ)けるは国は今ダビデの家に帰らん

(もし)此民(このたみ)エルサレムにあるヱホバの家に礼物(そなへもの)(ささ)げんとて上らば(この)(たみ)の心ユダの王なる(その)(しゅ)レハベアムに帰りて我を殺しユダの王レハベアムに帰らんと

(ここ)に於て王計議(はかり)(ふたつ)の金の(こうし)を造り人々に(いひ)けるは(なんぢ)らのエルサレムに上ること既に(たれ)りイスラエルよ(なんぢ)をエジトの地より導き上りし汝の神を視よと

(しか)して(かれ)(ひとつ)をベテルに()(ひとつ)をダンに(おけ)

此事(このこと)罪となれりそ(たみ)ダンに(まで)(ゆき)(その)(ひとつ)の前に(まうで)たればなり

(列王紀略上第122630

 

「時代の隔たりや権力の規模とかかわりなく,およそ王権は,宗教的基盤を離れては存在しえない」ところです(村上4頁)。新たに独立したイスラエル王国の初代王ヤラベアムとしては,ダビデの神聖王家が擁する宗教的権威に対抗するために,「(かね)を以て()」った(こうし)2体必要とたのでした。

けれども,「(かね)を以て()」った(こうし)では,「生前退位」云々といった面倒はないものの生きて務めを果たしてくれるものではなく,やはり霊験が不足するのか,ヤラベアムの王朝は2代目で断絶してしまいました。

 

ユダの王アサの第二年にヤラベアムの子ナダブ,イスラエスの王と()り二年イスラエルを治めたり

彼ヱホバの目のまへに悪を(なし)(その)父の道に歩行(あゆ)(その)イスラエルに犯させたる罪を行へり

(ここ)にイツサカルの家のアヒヤの子バアシヤ彼に敵して党を結びペリシテ人に属するギベトンにて彼を(うて)()はナダブとイスラエル(みな)ギベトンを囲み()たればなり

ユダの王アサの第三年にバアシヤ彼を殺し彼に代りて王となれり

バアシヤ王となれる時ヤラベアムの全家を撃ち気息(いき)ある者は一人もヤラベアムに残さずして尽く之を(ほろぼ)せり

(列王紀略上第152529

 

ヤラベアム王朝を滅ぼしたバアシヤの王朝も,2代目が暗殺され,全家が滅ぼされて断絶します(列王紀略上第161012)。イスラエル王国ではその後最後まで頻繁に王朝交代が生ずることになりました(同王国は前721年頃にアッシリアに滅ぼされ, その構成部族は離散して「失われた十支族」となる。)。これに対してダビデ神聖王家のユダ王国は,同一王朝の下に前587年頃まで存続しました(バビロン捕囚となったものの, 後に帰還。)。神聖王家を戴く方が,「(かね)を以て()」った(こうし)を戴くよりも安定するのだと言うのは即断でしょうか。

6 妙吉侍者対高師直・師泰兄弟及び不敬罪

さて,本稿における前記横着者は,一般に高武蔵(こうのむさし)(のかみ)師直(もろなお)であるとされています。しかしながら発言主体を明示せずに書かれた『太平記』の当該部分の文からは,その兄弟である越後守(もろ)(やす)の発言であるという読み方も排除できないようです。「天皇・・・ニ対シ不敬ノ行為アリタル者」として3月以上5年以下の懲役に処せられるべき不敬罪(刑法旧74条1項)を犯したということになるようですが,このことは,高師直にとっての濡れ衣である可能性はないでしょうか。

そもそも,高師直・師泰兄弟に帰せられる当該発言は,(みょう)(きつ)侍者(じしゃ)とい,高僧・夢窓疎石の同門であることがわずかな取り柄といえども道行(どうぎょう)ともに足らずして,われ程の(がく)()の者なしと思」っている慢心の仏僧(『太平記(四)』170頁・第二十六巻2)が,足利直義に告げ口をしたものです。妙吉の人となり及び学問は,兄弟弟子の夢窓疎石の成功を「見て,羨ましきことに思ひければ,仁和寺に()一房(いちぼう)とて外法(げほう)成就の人のありけるに,(だぎ)尼天(にてん)の法を習ひて,三七日(さんしちにち)行ひけるに,頓法(とんぽう)立ちどころに成就して,心に願ふ事(いささ)かも(かな)はずと云ふ事なし。」なったというものですが(『太平記(四)』267268頁・第二十七巻5),有名人(夢窓疎石)の出るような大学に入ったものの,学者としての見栄えばかりを求める人柄で(「羨ましきことに思ひ」),そのくせ腰を入れ年月をかけて学問を成就する根気及び能力がないものか,優秀な学者・実務家が集まって伝統的仏法に係る主要経典の解釈に携わる正統的な解釈学等の学問分野からは脱落して「外法」に踏み入り,速習可能で(「三七日」すなわち21日学ぶだけ),かつ,すぐ目先の願望確保に役立つであろう浮華な流行的分野(「頓法」は,「速やかに願望を成就する修法」)に飛びついて専攻し,咜祇(だぎ)尼天(にてん)が云々と一見難解・結局意味不明禅語的言辞をもって衆人をくらまし自己を大きく見せようとばかりする,一種さもしい似非学者といったような人物だったのでしょう。夢窓疎石が妙吉を,自分に代わる禅の教師として「語録なんどをかひがひしく沙汰し,祖師〔達磨大師〕の心印をも(じき)に承当し候はんずる事,恐らくは恥づべき人〔うわまわる人〕も候は」ずと足利直義に推薦し,「直義朝臣,一度(ひとたび)この僧を見奉りしより,信心肝に銘じ,渇仰類なかりけ」りということになったのですが『太平記(四)』268頁),夢窓疎石には,同一門下の兄弟弟子らが身を立てることができるように世話を焼いてついつい法螺まで吹いてしまうという俗なところがあり(頼まれれば前記土岐頼遠の助命嘆願運動もしています(『太平記(四)』62頁)。),他方,足利直義が後に観応の擾乱の渦中においてよい死に方をしなかったのは,そもそも同人には人を見る目がなかったからだということになるのでしょうか。(また,妙吉坊主なんぞの告げ口を真に受けたということは,「権貴幷びに女性禅律僧の口入を止めらるべき事」との建武式目8条違反でもあったわけです。)

しかし,高師直・師泰兄弟のような実務の実力者からすると,似非学者の中身の無さはお見通しであり,それを夢窓疎石に対する配慮か何か知らぬが妙にありがたがっている足利直義の様子は片腹痛く,妙吉は,軽蔑・無視・嘲弄の対象にしかならなかったところです。

 

 かやうに〔妙吉侍者に対する〕万人崇敬(そうきょう)類ひなかりけれども,師直,師泰兄弟は,何条〔どうして〕その僧の智恵才学,さぞあるらんと(あざむ)いて〔たいしたことあるまいと侮って〕,一度(ひとたび)も更に相看せず。(あまっさ)へ門前を乗り打ちにして,路次(ろし)に行き合ふ時も,大衣(だいえ)を沓の鼻に蹴さする(てい)にぞ振る舞ひける。(『太平記(四)』269頁)

 

しかし,似非学者たりとはいえ(あるいは似非学者であるからこそ),妙吉のプライドは極めて高い。

 

・・・(きつ)侍者,これを見て,安からぬ事に思ひければ,物語りの端,事の(つい)でに,ただ執事兄弟の振る舞ひ(穏)便ならぬ物かなと,云沙汰せられ・・・

 吉侍者も,元来(もとより)(にく)しと思ふ高家の者どもの振る舞ひなれば,事に触れて,かれらが所行の(あり)(さま),国を乱し(まつりごと)を破る最長たりと,〔足利直義に〕讒し申さるる事多かりけり。・・・

(『太平記(四)』269270頁)

 

すなわち,前記「皆流し捨てばや」発言の出どころは似非学者の讒言であって,かつ,伝聞に基づくものであったのでした(師直・師泰兄弟とは「一度(ひとたび)も更に相看せず」ですから,妙吉が直接聞いたものではないでしょう。)。軽々に高師直を不敬罪で断罪するわけにはいかないようです。

正面から自己の智恵才学を高々と示して高兄弟を納得改心させ,その尊敬を獲得しようとはせず,妙吉侍者のわずかばかりの「智恵才学」は,権力者に媚び,告げ口によって高兄弟の失脚を狙おうとする御殿○中的かつ陰湿なものでありました。福沢諭吉ならば,妙吉とその取り巻きに対して,次のようにでも説諭したものでしょうか。いわく,「独立自尊の人たるを期するには,男女共に,成人の後にも,自ら学問を勉め,知識を開発し,徳性を修養するの心掛を怠る可らず。」であって,「怨みを構へ仇を報ずるは,野蛮の陋習にして卑劣の行為なり。恥辱を雪ぎ名誉を全うするには,須らく公明の手段を択むべし。」だよ(「修身要領」『福沢諭吉選集第3巻』(岩波書店・1980年)294頁),文明開化期に示された「識者の所見は,蓋し今の日本国中をして古の御殿の如くならしめず,今の人民をして古の御殿女中の如くならしめず,怨望に(かう)るに活動を以てし,嫉妬の念を絶て相競ふの勇気を励まし,禍福誉悉く皆自力を以て之を取り,満天下の人をして自業自得ならしめんとするの趣意」なのだろうけど(「学問のすゝめ 十三編」『福沢諭吉選集第3巻』144頁),おれもそう思うよ自分の学問で勝負せずに陰険な告げ口ばかりするのは見苦しいからやめろよ恥ずかしいよお前らからは腐臭がするよと。

(なお,本文とは関係がありませんがついでながら,刑法旧74条1項の不敬罪の成立については判例(大審院明治44年3月3日判決・刑録17輯4巻258頁)があるので紹介します。「不敬罪ハ不敬ノ意思表示ヲ為スコトニ因リテ完成シ他人ノ之ヲ知覚スルト否トハ問フ所ニ非ス左レハ被告カ至尊ニ対スル不敬ノ事項ヲ自己ノ日誌ニ記載シ以テ不敬ノ意思ヲ表示シタルコト判示ノ如クナル以上ハ其行為タルヤ直ニ刑法第74条第1項の罪を構成シ被告以外ノ者ニ於テ右不敬ノ意思表示ヲ知覚セサリシ事実アリトスルモ同罪ノ成立ニ何等ノ影響ヲ及ホササル」ものとされているものです。どういうわけか児童買春,児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律(平成11年法律第52号)7条1項の構成要件が想起されるところです。)

 
 しかし,似非学者はなかなかしぶとく生き残るものです。

 貞和(じょうわ)五年(1349年),足利直義と高師直・師泰兄弟との最初の対決が,直義の逃げ込んだ足利尊氏邸を取り囲んだ高兄弟の勝利に終わり,直義は政務から引退することになった翌朝,

 

 ・・・やがて人を遣はして,(きつ)侍者らん先立堂舎(こぼ)取り散浮雲(ふうん)富貴(ふっき)(たちま)り。

 (『太平記(四)』299頁・第二十七巻11

 

その後の妙吉侍者はもと住所すみかって太平記(314頁・第二十七巻13閑居して,残された数少ない献身的かつ熱意ある信奉者と有益な議論などをし,更に農事などに手を染めつつ,我は夢窓疎石の同門なるぞとの誇りとともに,つつがなく余生を過ごしたものでしょうか。

前編(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1057864864.html)からの続き

 

(3)『晩年の父』

 

ア 「はじめて理解できた『父・鷗外』」と「不律安楽死殺人事件」

不律は殺されたものとする主張の出典はどこにあるのかと探したところ,『諸君』1979年1月号に掲載された197810月7日付けの「はじめて理解できた『父・鷗外』」という記事(小堀杏奴(鷗外の二女。1909年生まれ)。同著者の岩波文庫版『晩年の父』(1981年)に「あとがきにかえて はじめ悪しければ終り善し」と改題して併載されています。筆者が読んだのは,当該岩波文庫に収載されたものです。)にありました。

 

・・・その大切な不律が,父の小説,『金毘羅』にあるように,百日咳にかかり,一医師の提案により,モルヒネの注射によって安楽死させられているのである。この事件については,こうして父自身書いており,私も『晩年の父』に,当事者の一人である母から聞いたままを,正直に書き記している。兄はその折,看護に当った某女の話を伝えているが,当時,祖母と,母との確執は,表面上,一応おさまっている如く見えるだけで,母にとって不利な証言をすることは,祖母側の人々を喜ばせる効果のあることを心得ている某女の言辞を私は全く信頼出来ない。いずれにしても,軽々に論ずべき事柄でなく,当事者である父母の言を信じ,余分の臆測は慎むべきである。ただ,私にとって,最愛の亡母のために一言!何処の国に,全く,母方の祖父の言葉ではないが,何処の国に肉親の,血をわけた我が子に,「早く楽に死なせる薬を注射して下さい」などと,愚かしい叫びをあげる母親があろうか!(岩波文庫版『晩年の父』204頁)

 

 不律及び茉莉の百日咳をめぐる1908年1月から同年3月にかけての出来事に基づく森鷗外の小説『金毘羅』(1909年)では,「半子(はんす)及び「百合」が百日咳にかかり,「半子」が死亡したことは書かれてありますが,「半子」が「一医師の提案により,モルヒネの注射によって安楽死」させられたことは書かれてありません。そうであれば,記の「この事件」が「不律安楽死殺人事件」であるのならば,「この事件については,こうして父自身〔『金毘羅』において〕書いており」ということはなかったはずです。当時の旧々刑事訴訟法(明治23年法律第96号)8条1号では死刑に該たる罪に係る公訴時効期間は15年でしたので,1908年に殺人事件があったのならば,その公訴時効が成立するのは1923年ということになります。1922年に亡くなった森鷗外が,刑事事件捜査がらみで家族や知人に迷惑がかかる可能性のあるような話を『金毘羅』以外においてどこかで公表されるような形で文章にしていたものとも考え難いところです。

 「私も『晩年の父』に,当事者の一人である母から聞いたままを,正直に書き記している。」の部分ですが,これは岩波文庫版の『晩年の父』では,「母から聞いた話」(19351115日記)中の181頁から185頁までのことでしょう。そこにも「不律が・・・百日咳にかかり,一医師の提案により,モルヒネの注射によって安楽死させられている」ことは書かれていません。森鷗外の長男の『屍室断想』(森於菟(解剖学者)。時潮社・1935年)中「高瀬舟と父鷗外」において紹介された不律の死に関する次の挿話が,『晩年の父』においては「・・・恐らく兄が内科の教授某氏から直接聞いたか,あるいはその人の口から他の人に伝わり,間接に耳にしたかは明瞭しないが,とにかく事実とは全然違った事柄である」として否認されており,代わりに「茉莉安楽死殺人予備事件」が紹介されているものです。(ということで,「はじめて理解できた『父・鷗外』」における当該記述は,明晰であるものとはなかなかいえません。)

 

  ・・・これについて余程前のことですから,云つても悪くないと思ひますのでお話してみませう。

  それは,私の弟に不律といふのがありましたが,父の二男で,極く小さい頃死にました。・・・こんな赤ん坊が,苦しいのを我慢して愛想笑するのが,父はいぢらしくて,見るに堪へなかつたのです。その時もそんなことをする必要はないと思つたのに,注射して,生かしては又苦しめた事がいつまでも父の心残りであつたでせう。

  その時,橋本軍医の外に参考医として,ある大学の内科の教授を頼んでゐましたが,その人が来た時,父に「どうです?もう止めませうか,」と父の考へを推し測つてきいたので,父は「それはもう止めた方がいゝ,注射したら続くことは続くけれども」といつたのです。すると母は一生懸命子供の世話をしてゐたから興奮してゐたのでせう,「それぢや早く楽に死なせる薬を注射して下さい」と大声で云ひました。

  其時父は「さう云ふことは,暗黙の裡にやるべきことで,口に出していつては決して医者としては出来ないことである。又することではないと云つて断然母の乞を斥けて注射を続けさせました。・・・

  この子供の死んだのは明治41年で,「高瀬舟」の書かれたのはずつと後ですが,かうした心持があつた上に,更に「翁草」の故事があつたために,更に刺戟されて,あの小説が出来たのではなからうかと思ひます。(森於菟214216頁)

 

 橋本軍医は,幼時の森茉莉のかかりつけ医であったようです。森茉莉の「幼い日々」(初出1954年)に,「熱があると陸軍省に電話を掛けて,橋本先生という軍医の人を呼んで貰った。」,「仏蘭西の帝政時代の(ずる)武士(さむらい)といった風貌」であったと紹介されています(森茉莉『父の帽子』(講談社文芸文庫・1991年)48頁)。

 当時の「大学の内科の教授」であって鷗外とも親しかった人物といえば,鷗外の日露戦争からの凱旋を新橋駅に出迎えることもした(岩波文庫版『晩年の父』175頁参照)東京帝国大学医科大学教授たる入沢達吉でしょうか。『金毘羅』に出て来る医学の大学教授の氏は「広沢」ですから,「入沢」と「広沢」と何やら符合するところがありそうです。なお,入沢達吉教授の治療中止に関する態度をうかがわせるものとしては,次のようなエピソードがあります。いわく,「伊東〔忠太〕氏の胃腸の工合依然としてよくないので再三〔入沢達吉〕先生に訴へた。先生一寸思案して思ひ出したやうに「いいものがある,それは近頃独逸で発明した妙薬で万病に特効があつて,然も薬価が非常に安く,何処でも得られる,(それ)を試みるがよい」と,ちと変だと思つて「其薬は何と言ふ」と訊ねると,先生は莞爾として「夫は「ほつとけ」だ〔」〕と言はれた。成程と伊東氏も感心したといふことであります。」と(楠本長三郎「恩師入沢先生を偲びて」『入沢先生追憶』(水曜会・1939年)34頁)。ちなみに,『金毘羅』の当時は百日咳の治療薬としての抗生物質が登場する前の時代であって,当該小説中で半子らに施されていたものも対症療法にすぎませんでした。

 『晩年の父』中の「母から聞いた話」においては,兄が書いて本で出している話は実は勘違いで,不律の治療中止の話があったのではなくて「茉莉安楽死殺人予備事件」があったのだ,という主張であったように理解されるのですが,1978年になると,実は不律については治療中止の話があったどころか安楽死させられたのだ,というように話が発展しています。

 

イ 「母から聞いた話」における「茉莉安楽死殺人予備事件」

 1936年に初版が出た『晩年の父』の「母から聞いた話」において,「後日誤ったまま世間に伝えられる事を恐れて,此処に本当の話を書いておく。」とて書かれた「母から聞いたまま」の話は,次のとおりでした。

 

  その時某氏は姉の命がもう廿四時間であることを宣告し,死ぬにしても甚だしい苦痛が伴うのであるからむしろ注射をして楽に死なせたらどうだろうか,モルヒネを注射すれば十分間で絶命するといわれ,父に計るところがあった。

  父もその気になって母にその事をいって聞かせたので,母も父のいうままにそうするような気持になって,()う注射するばかりになっているところへ母の実家の父が見舞に来た。

  母は祖父に

  「既う茉莉はとても助かる見込はないので,某さんが注射して下さるそうです」

 と話すと祖父は眼を洞穴(うろ)のようにして大声で

  「馬鹿な」

 というより大変なけんまくで

  「人間は天から授った命というものがある。天命が自然に尽きるまでは例えどんな事があろうとも生かしておかなくてはならない。私も子供を3人まで既う駄目だと医者に見放された事があったが3人とも立派に助かって生きているじゃないか」

  といって断然注射を行う事を退けさせた。

  某氏は

  「こういう事は一人でも他人の耳に入ったら実行出来ません」

 といってそれを中止したそうである。

  その後容態が変って姉はずんずん()くなって行った。だから姉の命は全く明舟町の祖父のために救われたと言ってもよいので,実に命の恩人であった。

  自分は兄がこの事を書かないずっと以前から,この話は度々母に聞かされていたので,兄がこの事を誤って書いた時,直接彼にその誤りを直し,彼自身で改めて事実を書いてもらった方が好いとも考えたが,兄は医者という位置にあるし,事柄が事柄であるから,かえって彼をして苦しい立場に陥らせてはと考慮して,無関係の私が事の真相を書かしてもらった。

 (「母から聞いた話」岩波文庫版『晩年の父』183185頁)

 

確かに,ここでの鷗外夫人は,「肉親の,血をわけた我が子に,「早く楽に死なせる薬を注射して下さい」などと,愚かしい叫びをあげる母親」ではありません。とはいえ,「愚かしい叫び」はあげていませんが,鷗外夫人が「そうするような気持になって」はいたことは認められているところです。しかし,鷗外夫人の同じような内容の発言によって,「不律治療中止検討事件」では不律が死亡するまで対症療法の注射を受け続けることになったのに反して,「茉莉安楽死殺人予備事件」では注射がされずに茉莉の命が助かった功名になっています。また,ここでは,安楽死を言い出したのが夫人ではなく鷗外であるということが大きいのでしょうか。しかし,家長たる鷗外がいったん決定したとなると森家ではだれも止めることができなくなるので,鷗外夫人の父である荒木博臣判事閣下が折よく現れてくれて止めてくれたのでよかった,ということになるのでしょう。(なお,裁判所構成法(明治23年法律第6号)67条によれば,判事は終身官でした。荒木博臣「大審院判事」という表現もありますが,現在は最高裁判所判事という官名があるものの(裁判所法39条等参照),裁判所構成法上は「大審院判事」という官名はありませんでした。荒木博臣の「閣下」性については,坂本秀次「森鷗外と岳父荒木博臣―漢詩文集『猶存詩鈔』を中心に―」(鷗外(森鷗外記念会)24号(1979年1月号)70頁以下)の荒木博臣略年譜に,明治27年「3月19日退官,高等官2等従4位となる。」とあります。高等官官等俸給令(明治25年勅令第96号)1条は「親任式ヲ以テ叙任スル官ヲ除ク外高等官ヲ分テ9等トス親任式ヲ以テ叙任スル官及1等官2等官ヲ勅任官トシ3等官乃至9等官ヲ奏任官トス」と規定していました。荒木博臣判事はそれまでの奏任官から,退職に当たって勅任官閣下にしてもらったということでしょうか。判事は終身官ですから「退官」よりも「退職」の方がよいでしょう。)

 

ウ 理由付き否認としての「茉莉安楽死殺人予備事件」

『屍室断想』が1935年に出て,その「高瀬舟と父鷗外」の内容を知ったなお存命の鷗外未亡人又は二女が,「肉親の,血をわけた我が子に,「早く楽に死なせる薬を注射して下さい」などと,愚かしい叫びをあげる母親」ではない,と柳眉を逆立て,そこで同年1115日までに「母から聞いた話」の中に反論が書かれたものでしょうか。とはいえ,「高瀬舟と父鷗外」にある話は全く架空のでっち上げだと端的に否認して済まさずに,「茉莉安楽死殺人予備事件」の披露ということになったのはなぜでしょう。民事訴訟規則79条3項は「準備書面において相手方の主張する事実を否認する場合には,その理由を記載しなければならない。」とありますから,否認の理由を付加したということでしょうか。しかし,民事訴訟規則79条3項の「理由」としては「これと両立し得ない事実がある」こと等が想定されているところ(最高裁判所事務総局民事局監修『条解民事訴訟規則』(司法協会・1997年)173頁参照),「茉莉安楽死殺人予備事件」と「不律治療中止検討事件」とは両立し得るので,「茉莉安楽死殺人予備事件」の紹介をもって「不律治療中止検討事件」の主張に対する鮮やかな理由付き否認(積極否認)がされたということにはなっていないように思われます。

 

エ 伝聞供述

しかし,「茉莉安楽死殺人予備事件」の現場にいた鷗外,同夫人,荒木判事及び某医師のうち(瀕死の患者には記憶はなかったでしょうし,「看護に当った某女」のいるところで機微にわたる話がされたということはなかなかないでしょう。),当該「事件」について「はじめて理解できた『父・鷗外』」の著者に語ったのは鷗外夫人だけだったようです(「自分は兄がこの事を書かないずっと以前から,この話は度々母に聞かされていた」)。「不律治療中止検討事件」については,『屍室断想』には話の出所が書かれていないので,全くの創作でなければ,鷗外当人又は「ある大学の内科の教授」から話が出た可能性を考えざるを得ないのでしょう(当該「事件」の否認者である鷗外夫人からは話は出ていないのでしょう。)。その後の「不律安楽死殺人事件」の主張については,これも専ら鷗外夫人の話に基づいたものなのでしょう(「当事者の一人である母から聞いたままを,正直に書き記している」)。

仮に,「はじめて理解できた『父・鷗外』」の著者を,不律にモルヒネ致死注射をした医師を被告人とする殺人被告事件の公判期日に召喚して供述を求めた場合,当該供述は既に亡くなった鷗外夫人の供述を内容とするものとなりますから,現行刑事訴訟法324条2項により同法321条1項3号が準用されることになります(同号の規定は,「前2号に掲げる書面以外の書面〔被告人以外の者が作成した供述書又はその者の供述を録取した書面で供述者の署名若しくは押印のあるもの〕については,供述者が死亡,精神若しくは身体の故障,所在不明又は国外にいるため公判準備又は公判期日において供述することができず,且つ,その供述が犯罪事実の存否の証明に欠くことができないものであるとき〔は,証拠とすることができる〕。但し,その供述が特に信用すべき情況の下にされたものであるときに限る。」というものです。被告人及び弁護人は同法326条の同意をしないものとします。)。当該準用に係る刑事訴訟法321条1項3号のただし書への該当性いかんが問題となります。しかし,「はじめて理解できた『父・鷗外』」の文章からは,亡鷗外夫人がどのような状況で当該原供述をしたかも分からないのですよねえ。
(なお,同じ「はじめて理解できた『父・鷗外』」によれば,「不律兄を失った母も,
恰度(ちょうど)半年ばかりというものは,団子坂の自宅から電車に乗り,隅田河畔で一銭蒸気に乗換えて,寒い日も暑い日も,雨の日も風の日も,一日も欠かさず,不律兄の墓に通いつめたという」(岩波文庫版『晩年の父』205頁)とのことです。しかしながら,『鷗外全集第35巻』(岩波書店・1975年)の鷗外の明治41年日記によれば,1908年3月15日(日)に「家人等不律の遺骨を弘福寺に葬る。」のところ,鷗外夫人はその前日14日(土)に「妻単独大原に徃く。」ということで墓への埋葬には立ち会っておらず,同月19日(木)に至って「妻日在より帰る。大原の松濤館に宿り,中ごろ日在の別墅に遷りたりしに,是日還り来ぬるなり。」ということであり,同年4月5日(日)の項に「妻不律の墓に詣づ。」とありました。お墓参りが毎日のことであればわざわざ墓参が特記されることもなかったようにも思われますが,どういうものでしょう。)


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東京都墨田区向島の弘福寺(鷗外ら森家の墓は,後に三鷹市の禅林寺に移されています。)

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隅田川越しに向島方面を望む4月5日の風景(ただし,撮影は2017年。なお,気象庁のデータによれば,1908年3月下旬から同年4月上旬までの東京はどんよりとしていて,降雨が無かったのは,3月下旬は22日,23日及び31日,4月上旬は3日及び10日のみでした。同年4月4日には26.2ミリメートル,同月5日は5.8ミリメートルの降水量が記録されています。)
 

 (4)父と娘とそれぞれの『半日』及び『金毘羅』

鷗外の母・峰子の関与が初めて示唆されたのは,1953年初出の森茉莉の『「半日」』でしょうか。森茉莉の『「半日」』は,先の大戦後の鷗外全集で初めて読んだ父・鷗外の『半日』(夫の母を嫌う妻から苦情を受ける困惑した夫の視線から描く鷗外の家庭をモデルにした小説。鷗外夫人の反対によってそれまでは単行本・全集に収載されていませんでした。)に触発されて書かれたものでした。

森鷗外の『半日』(1909年)の冒頭は「六畳の間に,床を三つ並べてとつて,七つになる娘を真中に寝かして,夫婦が寝てゐる。」となっています。森茉莉をモデルにしたこの娘の名は,玉。森茉莉は1903年生まれなので,数えで七つであるのは1909年です。文章中「今日は孝明天皇祭」とありますので(孝明天皇祭は1月30日(明治6年太政官布告第344号)),『半日』は1909年1月30日の出来事を描いた小説ということになります。『金毘羅』の百日咳事件からちょうど約1年後のことです。

しかし,森茉莉の『「半日」』では,「「半日」に描かれたのは,「奥さん」が「博士」の所に嫁して来たばかりの時期の様子である。」(森茉莉67頁)とされています。夫婦間の娘が数えで七つなので「「奥さん」が「博士」の所に嫁して来たばかりの時期」ではないわけですし,1902年1月4日の鷗外の再婚後当時の様子について1903年生まれの長女が知っていることもないでしょう。「8歳の「玉」の見た「博士」は,「母君」と食卓を共にしたいと言うような感情を,持っていなかった。「奥さん」は大分おとなしくなっていた。やはり「博士」に向ってヒステリックな苦情を言っていたが,苦情の中味は,「母君」の事から去って,「博士」と「奥さん」との間のことに,移っていた。」(森茉莉67頁)と書かれていますが,この「8歳」が数えならば1910年の状況の観察,満年齢ならば1911年の状況の観察ということになるのでしょう(次に見るように,玉が「5歳」の時に百日咳にかかったとされていますから,それならば満年齢でしょう。)。「「半日」に描かれた時期と,「玉」がものを観察し始めるようになった頃との間には,3年程の月日がある。その月日の間には,一つの事件があった。その月日の間を,「博士」の家に起った一つの事件が横切っていてそれが3人〔「博士」,「奥さん」及び「母君」〕の関係を,変えたのである。その間の時期に「博士」の家で,5歳になった「玉」と,次に生れた赤ん坊とが,死にかけた。病名は百日咳である。」(同頁)とありますが,これでは,1908年1月から同年3月までを描いた『金毘羅』の時期と,1909年1月30日のことであるはずの『半日』の時期との時間的前後関係が逆転してしまっています。

更に森茉莉は,『金毘羅』で描かれた出来事をリライトします。

 

・・・その時,その寂しい,暗い家の片隅で,或相談がなされていた。「百合さん」の苦痛を無くす為に,致死量の薬を射とうと言う計画である。この「安楽死(ユウタナジイ)」を思い立って,医者に計ったのが,「母君」であった。医者がそれを「博士」に仄めかした。子供の苦しむのを日夜みていて,精神が弱った父と母とは遂に,医者の仄めかしに乘って,注射を肯んじようとした。幸,この計画は,医者が注射の仕度をしていた時偶々部屋に入って来た,「奥さん」の父親によって阻止せられた。・・・「安楽死(ユウタナジイ)」は哀れみから,成り立つものである。その時「母君」の心にあったのは,哀れみである。医者が相談に乗ったのも哀れみからである。それが「博士」に解っていて尚,胸の中に素直に溶けてゆかない,なにものかがあった。それが「博士」の心に,あるか無いかの(おり)になって,残った。「百合さん」は,奇蹟的に生きたが,その事があってから,「博士」と「母君」との間柄は,微妙な変化をしたのである。

 その時の「博士」の心痛は,後に「高瀬舟」を生んだ。・・・「高瀬舟」の裏にあるのが,「博士」の心の痛みと怒りとであり,「半日」の中にあるものが,「博士」の一時的な興奮であった事は,人は知らない。・・・(森茉莉6869頁)

 

 8歳の「玉」の見たところ「「博士」は,「母君」と食卓を共にしたいと言うような感情を,持っていなかった。」と,娘によって父の感情の情態が忖度決定された上で,当該決定と符合しない『半日』の出来事の時期が鷗外自身の示唆する時期から3年ほど前にずらされ,更に「博士」の当該情態の淵源を尋ねる「玉」は,『半日』と前後順序交代させられた上でリライトされた『金毘羅』における「百合さん」の「安楽死(ユウタナジイ)」計画発案者であった「母君」に対する「博士」の心に残った「滓」をそこに発見したということでしょうか。

 ところで,森茉莉は,事実の主張をしているものとの断乎たる姿勢は,示してはいません。予防線が張られています。

 

  以上の文章は,(ママ)歳の頃の私の観察と,成長してから後の考えとによるものだが,「観察違いである」,或は「考え方が間違っている」と言うような批難をする人があるかも知れない。若しあった場合は,「人間には間違いのあるものだ」と言う事に於て,お許しを願うより他はない。何しろ「奥さん」から生まれた「玉」の考える事である。観察違いも,ヒステリックな思惑も,あり得ないとは,言えまい。・・・(森茉莉70頁。下線は筆者によるもの)

 

確かに,森茉莉の『「半日」』は,鷗外の『半日』に触発されて書かれたものであって,「唯「半日」という小説だけの為に,「親類」という,何処の家でも兎角嫉み,反目,小競合い等の塊りである一群の,母に対する批難が正当化される事に対しては,落胆しない訳にはいかない」ところ(森茉莉69頁),「この文章は言ってみれば成長した「玉」の「博士」に対する,哀しい訴えである。「私」の文章である。」とあります(同70頁)。小説『半日』の「玉」からする当該小説の「博士」に対する「訴え」は,やはり当該小説中のものでしょう(また,森茉莉のエッセイ「注射」(初出1949年)も,未里(マリイ)の話ということになっていて,小説仕立てになっています。)

 

(5)明治41年鷗外日記等

なお,「某氏は姉〔森茉莉〕の命がもう廿四時間であることを宣告」したという事態になった日は,『金毘羅』によれば1908年2月8日(土)のことのようです。しかし,明治41年鷗外日記の同日の項には「松本三郎来話す。/〔欄外〕午後1時華族会館茶会」とのみあって,荒木博臣判事の訪問は記されていません。同月9日及び同月10日はそもそも日記に何ら記載なし。松本三郎というのは,第1師団軍医部長として森林太郎陸軍省医務局長の後任である松本三郎軍医監のことでしょう。

ただし,この時期の荒木博臣判事の森家訪問は,同月3日には確実にありました。不律が死亡した同月5日の2日前です。明治41年鷗外日記に「2月3日(月) 夜親族会を自宅に開く。荒木博臣,小金井良精,長谷文,森久子至る。/〔欄外〕午後5時親族会」とあります。同年1月10日に亡くなった鷗外の弟・森篤次郎の家に係る今後についての会議でした(森鷗外『本家分家』,大村敦志『民法読解 親族編』(有斐閣・2015年)382383頁参照)。その折荒木判事が百日咳に苦しむ孫・茉莉及び不律を見舞い,心配している娘・鷗外夫人に対して「人間は天から授った命というものがある。天命が自然に尽きるまでは例えどんな事があろうとも生かしておかなくてはならない。私も子供を3人まで既う駄目だと医者に見放された事があったが3人とも立派に助かって生きているじゃないか」というようなことを言って励ましたことはあるかもしれません。

ちなみに,森茉莉は,その「明舟町の家」の中で「この祖父〔荒木博臣〕は私が百日咳に罹った時,虎の門の金比羅神社に願を懸けて呉れた。もう24時間より()たないと医者から宣告される所まで行った私の容態が,ふと好転してどうやら助かるという目星のついた日,丁度来ていたが「よかった。よかった。」と喜び,その日明舟町の家に帰ると玄関から大きな声で,「まりはもうこっちのものだ。まりはもうこっちのものだ。」と言い言い,右肩を怒らせ,畳ざわりも荒々しく奥まで入って行ったので,祖母は吃驚したそうだ。」とのみ書いており(森茉莉81頁),「茉莉安楽死殺人予備事件」及び当該予備を予備のみに止めた荒木判事の一喝については触れていません。「明舟町の家」は初出不詳ですが,1957年に筑摩書房から出た単行本『父の帽子』に収載されていたものです。1957年の21年前に,森茉莉の妹による『晩年の父』は出ていました。

虎ノ門金刀比羅宮の月次祭は毎月10日(同宮は京極藩邸内にあったので,江戸時代は毎月十日に限り一般の参拝が許可されていたそうです(同宮ウェッブ・サイト参照)。)ですが,『金毘羅』によれば「これが百合さんの病気の好くなる初で,それから一日々々と様子が直つた」発端である百合の「牛と葱」摂取が1908年2月9日(日)のことでしたので,10日はその翌日になります。この2月10日も,金刀比羅宮に参詣する人が多かったことでしょう。明治41年鷗外日記には,3月に入り,「10日(火) 茉莉始て起坐す。」と記されています。

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東京・虎ノ門金刀比羅宮境内で:「大願成就」

なお,今般筆者が虎ノ門金刀比羅宮で神籤を抽いたところ,
「病ひ」は「充分保養せよ」,
「老後(ゆきさき)」は「辛抱すれば末は安楽」でした。
ちなみに,弁護士にとっては気になる「諍ひ(いさかい)」は,「勝つ 自然(かみ)に逆ふな」。
 

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 東京・虎ノ門金刀比羅宮(祭神は,大物主神及び 崇徳天皇。社殿設計校閲者は,伊東忠太。)

1 人生百年時代

 医療・福祉大国にして世界に冠たる長寿を誇る我が日本国においては,現在,かえって「長生きリスク」ということが心配されています。人生百年時代において長生きしているうちに,「老後破産」ということで破産法と関係ができたり,生活保護法に基づき各種の扶助を受けることになったり,当該「リスク」が現実化するとなかなか法律との縁は切れません。あるいは病気になって入院して,からだは苦しくこころ寂しく,「安楽死」についてふと考えることもあるかもしれません。

 どうも辛気臭くなって申し訳ありません。しかし,人にとって不可避である死についていろいろ考える際には,「安楽死」の問題が念頭に去来するときもあるであろうことは,事実でしょう。

 

2 治療中止

 

(1)川崎協同病院事件最高裁判所決定

ところで,一般に「安楽死」といってもいろいろな形態があるわけですが(「広義の安楽死とは,死期が迫っていることが明らかな場合に,患者の苦痛をやわらげるために,一定の条件の下にその死期を早める,あるいは死期を人工的に延ばすのを止めることで,2つの型に大別しうる。1つは,末期患者から人工的な生命維持装置をはずす延命措置の中止(尊厳死)である。・・・これに対して,死期の迫ったしかも苦痛の甚だしい患者の苦痛を柔らげるためにモルヒネなどを投与したり,積極的に死期を早める措置をとる行為が狭義の安楽死である。」(前田雅英『刑法各論講義 第4版』(東京大学出版会・2007年)14‐15頁)),そのうち治療中止(延命措置の中止)については,法律上許容されるもの(医師による殺人行為に該当しないもの)があるということが最高裁判所の判例であるものと解されます。すなわち,気管支(ぜん)の重積発作で心肺停止状態となって病院に搬送され,心肺は蘇生したが(こん)状態が続いていた患者(大脳機能のみならず脳幹機能にも重い後遺症が残り,細菌感染症に敗血症を合併)について,気道確保のため鼻から気管内に挿入されていた気管内チューブの被告人医師)による抜管行為(なお,抜管に伴い当該患者は「身体をのけぞらせるなどして苦もん様呼吸を始め」,その後()剤であるミオブロック3アンプルの静脈注射を受け絶命した。)の違法性に関し職権で判断を行った最高裁判所平成2112月7日決定(刑集63111899。川崎協同病院事件最高裁判所決定)は,次のとおりです。

 

  所論は,被告人は,終末期にあった被害者について,被害者の意思を推定するに足りる家族からの強い要請に基づき,気管内チューブを抜管したものであり,本件抜管は,法律上許容される治療中止であると主張する。

  しかしながら,上記の事実経過によれば,被害者が気管支ぜん息の重積発作を起こして入院した後,本件抜管時までに,同人の余命等を判断するために必要とされる脳波等の検査は実施されておらず,発症からいまだ2週間の時点でもあり,その回復可能性や余命について的確な判断を下せる状況にはなかったものと認められる。そして,被害者は,本件時,こん睡状態にあったものであるところ,本件気管内チューブの抜管は,被害者の回復をあきらめた家族からの要請に基づき行われたものであるが,その要請は上記の状況から認められるとおり被害者の病状等について適切な情報が伝えられた上でされたものではなく,上記抜管行為が被害者の推定的意思に基づくということもできない。以上によれば,上記抜管行為は,法律上許容される治療中止には当たらないというべきである。

  そうすると,本件における気管内チューブの抜管行為をミオブロックの投与行為と併せ殺人行為を構成するとした原判断は,正当である。

(下線は筆者によるもの)

 

(2)東海大学安楽死事件判決における治療中止

 

ア 事案

 川崎協同病院事件最高裁判所決定を読むに当たって参照すべき治療中止の許否についての先行裁判例としては,横浜地方裁判所平成7年3月28日判決(判時153028。東海大学安楽死事件判決)があります。多発性骨髄腫で入院し末期状態であって死が迫っていた患者に対する当該殺人被告事件においては公訴提起の対象外であったものの(対象となった事実は,最終段階における,徐脈・一過性心停止等の副作用のある不整脈治療剤である塩酸ベラパミル製剤(商品名「ワソラン」注射液)の通常の2倍の使用量の静脈注射及び希釈しないで使用すれば心停止を引き起こす作用のある塩化カリウム製剤(商品名「KCL」注射液)の希釈しないでの静脈注射によって患者を死に致した行為),当該公訴提起対象事実に先立って被告人(医師)によってされた,点滴(栄養や水分を補給),フォーリーカテーテル(排尿用のカテーテル)及びエアウェイ(舌根低下対策の管)を患者から外した治療中止行為の適法性が裁判所によって検討されたものです。

 

イ 要件

当該判決において横浜地方裁判所は,「治療行為の中止は,意味のない治療を打ち切って人間としての尊厳性を保って自然な死を迎えたいという,患者の自己決定を尊重すべきであるとの患者の自己決定権の理論と,そうした意味のない治療行為までを行うことはもはや義務ではないとの医師の治療義務の限界を根拠に,一定の要件の下に許容される」とし,要件としては,①患者が治癒不可能な病気に冒され,回復の見込みがなく死が避けられない末期状態にあること,②治療行為の中止を求める患者の意思表示が存在し,それは治療行為の中止を行う時点で存在すること,しかし,中止を検討する段階で患者の明確な意思表示が存在しないときには,患者の推定的意思によることを是認してよい(患者の事前の意思表示が何ら存在しないときは,家族の意思表示から患者の意思を推定することが許される。),③どのような措置をいつどの時点で中止するかは,死期の切迫の程度,当該措置の中止による死期への影響の程度等を考慮して,医学的にはもはや無意味であるとの適正さを判断し,自然の死を迎えさせるという目的に沿って決定されるべきである,ということを挙げています。

 

ウ 当てはめ

しかし,東海大学安楽死事件に係る具体的事案についての横浜地方裁判所の判断においては,事件当日の患者の余命はあと1日ないしは2日と診断されており上記①の要件は満たされているとされたのですが,事前のものを含め患者の明確な意思表示が存在していなかったため上記②の要件については家族の意思表示からの推定が問題になったところ,家族は治療の中止を求める旨強く意思表示していたものの「その家族の意思表示の内容をなお吟味してみると,家族自身が患者の病状,特に治療行為の中止の大きな動機となる苦痛の性質・内容について,十分正確に認識していたか疑わしく,最終的に治療の中止を強く要望した4月13日当時の患者の状態は,すでに意識も疼痛反応もなく,点滴,フォーリーカテーテルについて痛みや苦しみを感じる状態にはなかったにもかかわらず,その状態について,家族は十分な情報を持たず正確に認識していなかったのであり,家族自身が患者の状態について正確な認識をして意思表示をしたものではなかったのである。そうすると,この家族の意思表示をもって患者の意思を推定するものに足りるものとはいえない。」ということで,③にたどり着く前に,②で倒れてしまいました。「患者の病状,治療内容,予後等について,十分な情報と正確な認識を持っていることが必要」であるのに,当該認識がなかったというわけです。

 この家族は,そもそも夜中に担当医の自宅にまで電話をかけることもあったところ(熱心ですね。),患者死亡当日の4月13日の4日前である同月9日から治療中止を求め始め,病院側の抵抗にかかわらず当該要求は執拗に続き,同月11日には被告人と共に担当医であった女性研修医が前夜自宅にかかってきた患者の妻からの抗議電話等を理由としてそれまでの家族対応から外れて(どうしたのでしょうね。)同月1日に赴任したばかりの超多忙(「超・・・」という表現は使いたくないのですが,判決文に表れた被告人の仕事及び生活の状況は,「超多忙」としかいいようがありません。例えば,事件前日の同月12日は「この日はほとんど他の危篤状態の患者の治療に当たり,その患者が死亡したので,夜その病理解剖のための書類作りをし,一旦結婚記念日のため妻と外で食事をした後病院に戻り,翌午前3時過ぎころ帰宅した。」という状態だったそうです。)な被告人(ちなみに助手です。)が家族対応をすることになったところ,同月13日の患者家族による治療中止の意思表示の内容は,「もう1週間も寝ずに付き添ってきたので疲れました。もう治らないのなら治療を全てやめてほしいのです。」「点滴やフォーリーカテーテルを抜いてほしい。もうやるだけのことはやったので早く家に連れて帰りたい。これ以上父の苦しむ姿を見ていられないので,苦しみから解放させてやりたい。楽にしてやってほしい,十分考えた上でのことですから。」「家族としてこれ以上見ておれない。私たちも疲れたし,患者もみんな分かっているのです。もうやるだけのことはやったので,早く家に連れて帰りたい。楽にしてやってください。」というようなもので,かつ,「強固な態度」を伴うものでした。「患者が苦しそうにしているとみじめでかわいそう」という憐憫の情はそれとして貴いのですが,裁判所のいうように患者は既に「点滴,フォーリーカテーテルについて痛みや苦しみを感じる状態にはなかった」ことを飽くまで前提とするのであれば,患者を見守る苦しみから解放されて楽になって今日は早く家に帰りたいのは患者ではなく実はその家族ばかりであったということになるのでしょう。治療中止を求める当該意思表示は家族自身のものであるばかりであって,「患者の立場に立った上での真摯な考慮に基づいた意思表示」ではなかったということにもなるのでしょうか。家族だからとて,実は専ら自分の感情や希望であるものをもって安易にもの言わぬ立場の他の家族に投影して,当該他の家族に対する「同情」と共に「患者もみんな分かっているのです。」などというように自己都合を言い張ってはならないということになるもの()(ちなみに,最後の静脈注射の直前には患者の長男は,夕食をとろうと外出していた被告人をポケットベルで病院に呼び戻させ,「怒ったような顔をし腕組みをしたまま,「先生は何をやっているんですか。まだ息をしているじゃないですか。早く父を家に連れて帰りたい。何とかして下さい。」と,激しい調子で被告人に迫った」そうです。

 

3 『高瀬舟』の作家の子らと安楽死問題

 ところで,「安楽死」といえば,鷗外森林太郎がちょうど100年前に発表した時代小説『高瀬舟』(1916年)が連想されるところです。

 

(1)ウィキペディアの風説

その鷗外の妻・森志げに係るウィキペディアの記事を最近ふと読んだのですが,次のような記載があって驚きました。

 

 1907年に第二子になる不律を出産(鷗外にとっては第三子)。翌年,〔鷗外との長女〕茉莉と不律が百日咳にかかり,不律が亡くなる。茉莉はのちに著書で,不律の死は,苦しむ不律を不憫に思った〔鷗外の母〕峰が医師に頼んで薬物で安楽死させたものと聞いたと書き,この安楽死事件以降,鷗外は峰を疎むようになったとされていたが,のちに〔鷗外との二女・小堀〕杏奴は,鷗外も峰の提案を了承しており,苦しむ茉莉にも薬を飲ませようとしたところ,志げの父親に発覚して断念した,と書いた。鷗外の『高瀬舟』はこの一件をきっかけに書かれたものと言われている。

 

1908年2月5日に鷗外の二男・不律(ふりつ)が百日咳死亡していますが(生後半年),これは実は医師による殺人(現行刑法199条「人を殺した者は,死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。」)であって,また,同時期には,同じく百日咳に罹患していた長女・茉莉(1903年1月7日生まれの当時満5歳)に対する殺人予備(現行刑法201条「第199条の罪を犯す目的で,その予備をした者は,2年以下の懲役に処する。ただし,情状により,その刑を免除することができる。」)もされていたところ,黒幕は鷗外の母・峰子であって,かつ,鷗外も加担していた,ということでしょうか。

しかし,ウィキペディアの当該記述については,出典が明らかにされていません。また,飽くまでも「・・・聞いたと書き・・・と書いた。」という文体を用いて伝聞の態がとられており,堂々たる事実の主張の形になっておりません。姑息に逃げ道は用意されているようで,横着ですね。これに対して,旧刑事訴訟法(大正11年法律第75号)277条は,「犯罪ニ関シ匿名ノ申告又ハ風説アル場合ニ於テハ特ニ其ノ出所ニ注意シ虚実ヲ探査スヘシ」と規定していたところです。

 

(2)旧刑法との関係

 

ア 旧刑法の適用

なお,現行刑法が施行され,かつ,旧刑法が廃止されたのは190810月1日からなので(現行刑法上諭及び明治41年勅令第163号),不律及び茉莉の百日咳をめぐる出来事が起きた同年1月から3月にかけては,旧刑法(明治13年太政官布告第36号)が適用されていました。

 

イ 謀殺

旧刑法293条によれば,薬物による殺人は死刑でしょう(「毒物ヲ施用シテ人ヲ殺シタル者ハ謀殺ヲ以テ論シ死刑ニ処ス」)。同法105条によれば,教唆者も死刑です(「人ヲ教唆シテ重罪軽罪ヲ犯サシメタル者ハ亦正犯ト為ス」)。「重罪軽罪違警罪ヲ分タス所犯情状原諒ス可キ者ハ酌量シテ本刑ヲ減軽スル(こと)ヲ得」るところ(旧刑法89条1項),「酌量減軽ス可キ者ハ本刑ニ1等又ハ2等ヲ減ス」ですから(同90条),実際は無期徒刑又は有期徒刑でしょうか(同法67条2・3号)。「徒刑ハ無期有期ヲ分タス島地ニ発遣シ定役ニ服ス」ものであり(旧刑法17条1項),「有期徒刑ハ12年以上15年以下ト為ス」とされていました(同条2項)。ただし,「徒刑ノ婦女ハ島地ニ発遣セス内地ノ懲役場ニ於テ定役ニ服ス」とされていました(旧刑法18条)。男女差別ですね。

 

ウ 殺人予備

ところで,殺人予備ですが,旧刑法111条は「罪ヲ犯サンヿヲ謀リ又ハ其予備ヲ為スト雖モ未タ其事ヲ行ハサル者ハ本条別ニ刑名ヲ記載スルニ非サレハ其刑ヲ科セス」と規定しており,同法に内乱予備陰謀(同法125条),私戦予備(同法133条後段),貨幣偽造予備(同法186条2項)の規定はあるのですが,殺人予備の規定はないので,不可罰だったのでしょう(罪刑法定主義の帰結ですね。もっとも,大日本帝国憲法23条(「日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」)については「本条は唯法律に依らずして処罰を加ふることを禁止して居るのであつて,司法権及び行政権に対する制限であるに止まり,立法権を制限する意味を含んで居らぬ。故に本条の規定のみから言へば,法律を以て遡及的の処罰を定めたとしても,本条に違反するものとは言ひ難い。」ということではありました(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)363頁)。)。ちなみに,殺人予備の意義については,「殺人予備とは,殺害の実行の着手にいたる以前の準備行為一般を意味する。例えば,殺害の為の凶器を準備して,被害者の家の周りを徘徊するとか,不特定の人の殺害の目的で毒入り飲料を道端に置く行為などである。ただ,準備行為のすべてが予備罪として可罰的であるわけではなく,目的地との距離,準備の程度などから判断して,客観的に殺人の危険性が顕在化する必要がある。」と説明されています(前田21頁)。

 

後編に続く(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1057864958.html

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1 和歌山の野道で盗られた一厘銭

 前回の記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1045278800.html「三百代言の世話料に関して」)を書いていて,和歌山県の野道において,いたいけな幸之助少年が寛永通宝一文銭(穴あき一厘銭)を鬼のように兇暴な男から強取される場面を想像するに至ったのですが,その有様を書いてみるとなると,ヴィクトル・ユゴーの名作『レ・ミゼラブル』におけるプティ・ジェルヴェ事件のパロディになってしまうところです。プティ・ジェルヴェ事件では,南仏デーニュから約12キロメートル離れた人気の無い野道で,ミリエル司教に助けられたばかりのジャン・ヴァルジャンが,その夕方,約10歳のプティ・ジェルヴェ少年が歩きながらそれで遊んでいて落とした40スー(2フラン)銀貨を足で踏みつけ,更に同少年を追い払って奪ってしまったのでした。

 

  Comme le soleil déclinait au couchant, allongeant sur le sol l’ombre du moindre caillou, O’nisaka était assis derrière un buisson.

    Il entendit un bruit joyeux. Il tourna la tête, et vit venir par le sentier un petit Wakayamard d’une dizaine d’années qui chantait --- Ils sont lumineux, les produits de National! 

   L’enfant s’arrêta à côté du buisson sans voir O’nisaka et fit sauter son rin que jusque-là il avait reçu avec assez d’adresse sur le dos de sa main.

    Cette fois la pièce d’un rin lui échappa, et vint rouler vers la broussaille jusqu’à O’nisaka.

    O’nisaka posa le pied dessus.

    Cependant l’enfant avait suivi sa pièce du regard, et l’avait vu.

    Il ne s’étonna point et marcha droit à l’homme.

    C’était un lieu absolument solitaire. Aussi loin que le regard pouvait s’étendre, il n’y avait personne dans la plaine ni dans le sentier. Le soleil empourprait d’une lueur sanglante la face sauvage d’O’nisaka.

--- Monsieur, dit le petit Wakayamard, avec cette confiance de l’enfance qui se compose d’ignorance et d’innocence, --- ma pièce?

--- Comment t’appelles-tu? dit O’nisaka.

--- Kônosuké, monsieur.

--- Va-t’en, dit O’nisaka.

    --- Monsieur, reprit l’enfant, rendez-moi ma pièce.

    O’nisaka baissa la tête et ne répondit pas.

    --- Je veux ma pièce! ma pièce d’un rin trouée!

    L’enfant pleurait. La tête d’O’nisaka se releva. Il était toujours assis. Il étendit la main vers son bâton et se dressant brusquement tout debout, le pied toujours sur la pièce de cuivre, il cria d’une voix terrible: --- Veux-tu bien te sauver!

    L’enfant effaré le regarda, puis commença à trembler de la tête aux pieds, et, après quelques seconds de stupeur, se mit à s’enfuir en courant de toutes ses forces sans oser tourner le cou ni jeter un cri.

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「悲しみの道」の坂の先にいる鬼
 

2 日本刑法

 

(1)鬼坂の犯罪

 

ア 占有離脱物横領非該当

幸之助少年に対する鬼のように兇暴な,ジャン・ヴァルジャンならぬ鬼坂(O’nisaka)の行為は,我が現行刑法では,まず,やはり占有離脱物横領にはならないでしょう(同法254条は「遺失物,漂流物その他占有を離れた他人の物を横領した者は,1年以下の懲役又は10万円以下の罰金若しくは科料に処する。」と規定)。和歌山の野道を通る幸之助少年は,放り上げつつ遊んでいた寛永通宝一文銭を手の甲で受け止め損ね,当該一文銭は,道端の藪のそばに腰を下ろしていた鬼坂のところまで転がって行ったのですが(Cette fois la pièce d’un rin lui échappa, et vint rouler vers la broussaille jusqu’à O’nisaka.),その間の距離も時間も短いようであり,かつ,幸之助少年は当該銅銭が鬼坂の足下まで転がる様を目で追いかけていて見失っていません(Cependant l’enfant avait suivi sa pièce du regard, et l’avait vu.)。すなわち,当該寛永通宝は,所有者である幸之助少年の占有を離れてはいないものと判断されます。

なお,幸之助少年の場合は被害品が被害者のもとから遠ざかって行ったのですが,それとは逆に被害者が被害品から遠ざかって行った場合について最高裁判所平成16年8月25日決定は,「〔前刑出所後いわゆるホームレス生活をしていた〕被告人が本件ポシェットを〔本件ベンチ上から〕領得したのは,被害者がこれを置き忘れてベンチから約27mしか離れていない場所まで歩いて行った時点であったことなど本件の事実関係の下では,その時点において,被害者が本件ポシェットのことを一時的に失念したまま現場から立ち去りつつあったことを考慮しても,被害者の本件ポシェットに対する占有はなお失われておらず,被告人の本件領得行為は窃盗罪に当たる」と判示しています。

 

イ 窃盗

そうなると,まず,鬼坂には窃盗罪が成立するように思われます(刑法235条は「他人の財物を窃取した者は,窃盗の罪とし,10年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。」と規定)。足下に転がって来た幸之助少年の一文銭を鬼坂が踏みつけた行為(O’nisaka posa le pied dessus.)が窃取行為であって,それにより直ちに鬼坂が占有を取得し,既遂に達したと見るべきでしょう。

 

ウ 事後強盗

幸之助少年が自分の穴あき一厘銭(ma pièce d’un rin trouée)を返してくれと言ってきたのに対して窃盗犯・鬼坂は「あっちへ行け(Va-t’en.」と言うばかりで応じません。幸之助少年は泣き出します。これに対して鬼坂は,更に杖に手を伸ばし突然乱暴に立ち上がり,恐ろしい声で「失せやがるのが身のためだぞ!」と吠えたところ(Il étendit la main vers son bâton et se dressant brusquement tout debout, le pied toujours sur la pièce de cuivre, il cria d’une voix terrible: --- Veux-tu bien te sauver!),驚愕して鬼坂を見た幸之助少年は全身わなわなと震え出し,茫然自失,一目散に逃げ去ります(L’enfant effaré le regarda, puis commença à trembler de la tête aux pieds, et, après quelques seconds de stupeur, se mit à s’enfuir en courant de toutes ses forces sans oser tourner le cou ni jeter un cri.)。

これは,刑法238条の事後強盗でしょう。同条は,「窃盗が,財物を得てこれを取り返されることを防ぎ,逮捕を免れ,又は罪跡を隠滅するために,暴行又は脅迫をしたときは,強盗として論ずる。」と規定しています。強盗は,5年以上の有期懲役に処されます(刑法236条1項。有期懲役の上限は20年(同法12条1項))。

なお,プティ・ジェルヴェ事件の際のジャン・ヴァルジャンのごとく,鬼坂も刑期を終えて間がなければ,再犯です(刑法56条1項「懲役に処せられた者がその執行を終わった日又はその執行の免除を得た日から5年以内に更に罪を犯した場合において,その者を有期懲役に処するときは,再犯とする。」)。再犯の場合,再犯加重で(刑法57条は「再犯の刑は,その罪について定めた懲役の長期の2倍以下とする。」と規定),当該事後強盗により,5年以上30年以内の範囲で懲役に処されることになります(同法14条2項は「有期の懲役又は禁錮を加重する場合においては30年にまで上げることができ,これを減軽する場合においては1月未満に下げることができる。」と規定)。

子供から小銭を奪って懲役30年とは,なかなか重いでしょうか。

 

(2)鬼坂の弁護

激発型の和歌山の暴れん坊将軍・鬼坂の弁護人としては,どのような弁護方針を採るべきか。

 

ア 裁判権の不存在

鬼坂が,例えば某国を代表する外交官たる閣下であれば,外交官特権を盾に,被疑者段階では身柄解放を要求し(外交関係に関するウィーン条約(昭和39年条約第14号)29条1・2文は「外交官の身体は,不可侵とする。外交官は,いかなる方法によっても抑留し又は拘禁することができない。」と規定),公訴が提起されたのなら公訴棄却の申立てをすることになるでしょう(同条約31条1項前段(「外交官は,接受国の刑事裁判権からの免除を享有する。」),刑事訴訟法338条1号。ただし,「刑訴法は,公訴棄却の裁判の申立権を認めていないのであるから,公訴棄却を求める申立は,職権の発動を促す意味をもつに過ぎず,したがつて,これに対して申立棄却の裁判をする義務はない」とされています(最決昭4572刑集247412)。)。

 

イ 可罰的違法性論

被害額が一厘にすぎず法益侵害が軽微であるとして無罪を主張すべきか。しかし,一厘事件判決(大判明431011刑録161620)は,行為が零細であり,かつ,危険性が無かったので,たばこ耕作者によるたばこ2.625グラムを手刻みとして消費した行為を葉煙草専売法(明治29年法律第35号)21条違反の犯罪を構成しないものとしたものと解されるのであって,前記鬼坂被告人の悪質な行為に危険性は無いとは「健全ナル共同生活上ノ観念」からして到底いえないでしょう。(また, 和歌山の幸之助少年の一厘銭がゴウライボーシ(カッパ)の変身したものであったなら, やはりその価値は零細であるとはいえません。)

 

ウ 示談

被害弁償をして示談で穏便に済ますことはできないか。しかし,富豪となった幸之助翁は,1厘の弁償金など歯牙にもかけず(明治17年の一厘銭は,筆者の行った古銭ショップでは45万倍の450円もしたのですが。),「国家国民の繁栄と世界平和の向上に寄与」することのない人にはもはや関心はないとて,鬼坂被告人に同情してはくれないのではないかと懸念されます。鬼坂被告人は,まず,「真に国家と国民を愛し,新しい人間観に基づく政治・経営の理念を探求し,人類の繁栄幸福と世界の平和に貢献」する人間にならなければなりません。

 

エ 占有離脱物との認識

鬼坂被告人は幸之助少年の当該寛永通宝一文銭を占有離脱物であるものとばかり思っていたという主張はどうでしょうか。占有離脱物横領ということになれば窃盗ではないので,窃盗犯が主体となる事後強盗とも関係がなくなります。東京高等裁判所昭和35年7月15日判決(下刑集2・7=8 989)は,午前8時頃の国鉄渋谷駅出札口横に置き忘れられたもののなお被害者の占有下にあると認められたカメラの持ち去り行為について,被告人は,窃盗の犯意ではなく,「遺失物横領の犯意でこれを持ち去つたものと認めるのが相当」と判示しています(なお,同判決は「刑法235条,第38条第2項,第254条を適用すべき」としていますが,これは客観的に窃盗罪を犯したのだから窃盗罪が成立し,科刑は刑法38条2項(「重い罪に当たるべき行為をしたのに,行為の時にその重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は,その重い罪によって処断することはできない。」)により占有離脱物横領罪のそれに限定されるということでしょうか。しかし,現在の考え方では,故意は占有離脱物横領なので,刑法254条に該当するということになります。(前田雅英『刑法総論講義[第4版]』(東京大学出版会・2006年)258頁参照)指定薬物を業として販売目的で陳列又は貯蔵していても,医薬品の陳列又は貯蔵の認識しかなければ,適用罰条は,医薬品,医療機器等の品質,有効性及び安全性の確保等に関する法律(昭和35年法律第145号)84条9号,24条1項であり,同法83条の9及び刑法38条2項は出て来ないわけです。)。

しかしながら,上記東京高等裁判所判決の事案は,原審の公判において,被告人が次のような供述をしていたような事案であったところです。

 

(問)女の人〔被害者〕がカメラを置いて行つたのは見なかつたか。

(答)見て居りません。

(問)被告人はその場にいた男の人に何と云つてカメラを持つて来たのか。

(答)これはあなたのカメラですかと尋ねたところ違うというので持つて行つたのです。

 

 幸之助少年が一厘銭を落とすところを鬼坂被告人が見ていたのであれば,当該一厘銭が幸之助少年の物であって,かつ,なおその占有下にあるという認識の存在は,なかなか争えないでしょう。

 

オ 不法領得の意思の不存在

鬼坂被告人が寛永通宝一文銭を踏みつけたのは,単に幸之助少年に意地悪をするためだけであって,「権利者ヲ排除シテ他人ノ物ヲ自己ノ所有物トシテ其経済的用方ニ従ヒ之ヲ利用若クハ処分スルノ意思」たる不法領得の意思(大判大4521刑録21663)は無かったのだ,という主張はどうでしょうか。「単タ物ヲ毀壊又ハ隠匿スル意思ヲ以テ他人ノ支配内ニ存スル物ヲ奪取スル行為ハ領得ノ意思ニ出テサルヲ以テ窃盗罪ヲ構成セサルヤ疑ヲ容レス」ということになり,校長を失脚させる目的で教育勅語の謄本等を持ち出して天井裏に隠匿する行為は窃盗には当たらないとされています(大判大4521)。なるほど。しかし,奪った一文銭でアメ玉を買って食べたり,古銭ショップに売りに行ったりしていては言い訳も難しくなるところです。ちなみに,寛永通宝は大量にあるので,古銭ショップでも安いです。

                                                     

カ 事後強盗としての脅迫の不存在

 事後強盗であるとの認定を阻止するために,鬼坂被告人が幸之助少年に吠えたといっても当該発言は刑法238条にいう脅迫には該当しない, と主張するのはどうでしょうか。

 

(ア)相手方の反抗を抑圧すべき程度の不足

“Veux-tu bien te sauver!”を「失せやがるのが身のためだぞ!」と訳したのは誤訳であって,本来の意味は「坊や,もう遅くなるからおうちに帰ろうね。」と優しく諭したにすぎない,すなわち,「恐怖心を生ぜしめる害悪の告知」(前田雅英『刑法各論講義[第4版]』(東京大学出版会・2007年)229頁)をしたものではないとはいえないでしょうか。しかし, 通訳人又は翻訳人の先生がムッとするでしょう(刑法171条参照)。申し訳ない。

事後強盗の成立に必要な「刑法第238条ニ所謂暴行ハ相手方ノ反抗ヲ抑圧スベキ程度ノモノタルヲ要スル」ので(大判昭1928刑集231。大東亜戦争に際し燈火管制中の愛媛県の畑における西瓜泥棒に係る事案。戦時刑事特別法(昭和17年法律第64号)5条1項により,戦時に際し燈火管制中事後強盗を犯すと死刑又は無期若しくは10年以上の懲役でした。),脅迫も相手方の反抗を抑圧すべき程度のものであることが必要です。しかしながら,銀行の「現金出納の窓口事務を担当していた女子行員の○○(当時23歳)に対し,その顔をにらみつけながら,「金を出せ」と語気鋭く申し向け」た脅迫について(当時被告人は「33歳の男性であり,身長が約167センチメートル,体重が58キログラム位という通常の体格であって,目つきが鋭いようにもみられ・・・トレーナーにトレーニングパンツという服装であった」。なお,凶器等は示していません。),「社会通念上一般的に判断しても,銀行の窓口で執務している女子行員の反抗を抑圧するに足りる程度のものであった」として強盗の手段としての脅迫に該当するものと認定されている事例があります(東京高判昭62914判時1266149)。夕暮れ時(… le soleil déclinait au couchant, allongeant sur le sol l’ombre du moindre caillou…),人気の無い和歌山の野中の道端で(C’était un lieu absolument solitaire. Aussi loin que le regard pouvait s’étendre, il n’y avait personne dans la plaine ni dans le sentier.),血のような夕日に真っ赤に照らされた兇悪な形相の鬼坂被告人が(Le soleil empourprait d’une lueur sanglante la face sauvage d’O’nisaka.),杖に手を伸ばし,立ち上がり,恐ろしい声で約10歳の少年に吠えたのですから,やはり当該状況においては,社会通念上一般的に判断しても反抗を抑圧するに足りる程度の脅迫であったものと判断されるようであります。和歌山県の人が,罵声を浴びせかけられることに対して特に慣れているということもないでしょう。

 

(イ)財物の取還防止等目的の不存在

 鬼坂被告人は,単に幸之助少年に対してムカついて吠えたのであって,財物を「取り返されることを防ぎ,逮捕を免れ,又は罪証を隠滅する」目的で吠えたものではない,との主張はどうでしょうか。私人による現行犯逮捕の際逮捕者からネクタイを引っ張りまわされた窃盗犯が当該逮捕者に対して暴行を加えた事案について,「右暴行は,主として逮捕を免れるために出た行為というよりも,主として憤激の念から出た行為と評価すべき余地があるといつてよく,このような場合,事後強盗の成立を認めるのは相当ではない。」とする裁判例があり(札幌地判昭4739刑月43516),多年浮浪者として生活し,無銭飲食で有罪判決を受け執行猶予中の被告人が,たらこ1パック(時価約432円)を万引きし,店の前の路上で警備会社社員の女性(当時55歳)から「呼び止められ「おじさん,まだ会計が終わってないでしょう。始めから見ていたんですよ。」などと詰問されたことに憤激し,「てめえこの野郎,俺に因縁をつける気か。俺もヤクザだ,ただじゃすまねえぞ。」などと怒鳴りながら,同女の着衣をつかんで振り回すなどして路上に転倒させた上,うつぶせに倒れた同女に馬乗りとなり,その頸部を両手で絞めつけるなどの暴行を加え」た事案について,「被告人の暴行は,もっぱら,女性から万引きを指摘され,詰問されたことに対する立腹に出たものとの疑いが強く,事後強盗にいう財物の取還を防ぎ,あるいは逮捕を免れるためであると断定するには疑問が残る」として,事後強盗の成立を認めなかった裁判例もあります(東京地判平827判時1600160)。鬼坂被告人が,ふだんからスピッツのようにキャンキャンやたら吠えまくる人物であるのなら,裁判官もなるほどなと思ってくれるかもしれません。しかし現実には,正に幸之助少年の財物取戻要求に対して鬼坂被告人は吠えたものでありました。

 

3 フランス刑法

 

(1)1810年ナポレオン刑法典

 ところで,本家『レ・ミゼラブル』のプティ・ジェルヴェ事件(1815年発生)に対する適用法条は,ナポレオン刑法典(1810年)の383条です(http://ledroitcriminel.free.fr/)。

 

 ARTICLE 383.

  Les vols commis dans les chemins publics, emporteront également la peine des travaux forcés à perpétuité.

 

  383

 公道で犯された盗犯についても〔前条〕同様に,無期懲役刑が科せられる。

 

 いきなり無期懲役とは,重いですね。

しかも,重罪(crime)に係る前科者(Quiconque, ayant été condamné pour crime)が無期懲役刑が科されるべき重罪を犯した場合には,死刑に処せられます(ナポレオン刑法典56条5項: “Si le seconde crime entraîne la peine des travaux forcés à perpétuité, il sera condamné à la peine de mort.”)。斬首(“Tout condamné à mort aura la tête tranchée.(同刑法典12条))。ジャン・ヴァルジャン危うし。

 

(2)1791年刑法典

ですから当時のフランスで,夜間パン屋の陳列窓のガラスを割って格子の間から手を入れてパン1個を盗んだだけで懲役5年に処せられるということも,さもありなんです。

 

Ceci se passait en 1795. Jean Valjean fut traduit devant les tribunaux du temps pour vol avec effraction la nuit dans une maison habitée.

…Jean Valjean fut condamné à cinq ans de galères.

 

 ジャン・ヴァルジャンが処せられたのは5年のgalèresですから,これは5年の漕役と訳すべきか,懲役と訳すべきか。また,事件が起きたのは1795年のことですから,公訴事実によるところの「損壊を伴い夜間住居内において犯された盗犯」に科される刑が当時どうなっていたかを調べるためには,1791年のフランス刑法典を見るべきことになります。

 1791年フランス刑法典第2編第2章第2節財産に対する重罪及び軽罪の第6条及び第7条は,次のようなものでした(http://ledroitcriminel.free.fr/)。

 

 Article 6

  Tout autre vol commis sans violence envers des personne, à l’aide d’effraction faite, soit par le voleur, soit par son complice, sera puni de huit année de fers.

 

 Article 7

  La durée de la peine dudit crime sera augméentée de deux ans, par chacune des circonstances suivantes qui s’y trouvera réunie.

  La première, si l’effraction est faite aux portes et clôtures extérieures de bâtiments, maisons ou édifices;

  La deuxième, si le crime est commis dans une maison actuellement habitée ou servant à habitation;

  La troisième, si le crime a été commis la nuit;

  …

 

 第6条

人に向けられた暴行を伴わず,盗犯犯人又はその共犯よってなされた損壊を利用して犯された他の全ての盗犯は,8年の鉄鎖刑によって処罰される。

 

第7条

上記の重罪の刑期は,次に掲げる事由であってそれに伴うものごとに,各2年延長される。

第1,損壊が,建物,家屋又は建造物の外側の門戸牆壁に対してされたとき。

第2,当該重罪が,人の現に居住し又は人の居住に供される家屋内において犯されたとき。

第3,当該重罪が,夜間犯されたとき。

〔第4及び第5は略〕

 

 ジャン・ヴァルジャンのパン泥棒に対する刑罰は,懲役5年どころか,本来は鉄鎖刑14年(第6条の8年に加えて,第7条の第1から第3までで各2年(小計6年)の刑期延長があって,合計14年)であるべきものだったのではないでしょうか。

 ちなみに,鉄鎖刑においては,片足に重り球が鉄鎖でつながれることになり(1791年フランス刑法典第1編第1章第1節第7条),かつ,受刑者は国家のための強制労働に服しました(同節第6条)。また,受刑前には6時間公衆の面前でさらし者です(同節第28条)。

 いずれにせよ,ここまで書いてきて,ジャン・ヴァルジャンのパン泥棒の刑期がどのようにして5年と決まったのかを探るのが,大きな調査課題として残ってしまいました。

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1 多摩地区の司法の中心・立川

 裁判所の土地管轄上,東京都は東京地方裁判所及び東京家庭裁判所の管轄ですが,武蔵野市以西の多摩地区は,霞が関の本庁ではなく,各裁判所立川支部の管轄になります(なお,昔は,支部は八王子にありました。)。東京地方裁判所立川支部,東京家庭裁判所立川支部及び立川簡易裁判所の庁舎は,JR立川駅わきの立川北駅からモノレールで一駅の高松駅から歩いて少しのところにあります。JR立川駅から歩いていけない距離ではありませんが,夏の暑い盛りなどは,避けた方が賢明でしょう。汗で背広がクタクタになります。立川北・高松間のモノレール運賃は,片道100円です。なお,法テラス(日本司法支援センター)の多摩支部は,高松駅前ではなく,立川駅北口前にあります。

 弁護士として,立川を訪れる機会は少なくありません。


2 「聖」地・立川

 そんなある日,立川駅前で,車体に某人気ご当地漫画の主人公二人組が大きく描かれているバスを見かけました。

 「ああ,立川は,多摩地区の司法の中心であるばかりではなく,世界の宗教的にも,「聖」地の一つであるのであった。」

 とは,当該某漫画の読者としての感慨でしょう。

 他方,弁護士としては,当該某漫画の主人公二人を思うとき,次の二つの犯罪構成要件が気になりだしたところです。


 軽犯罪法1条 左の各号の一に該当する者は,これを拘留又は科料に処する。

  〔第1号から第21号まで略〕

  二十二 こじきをし,又はこじきをさせた者

  〔第23号から第34号まで略〕

 

 刑法234条 威力を用いて人の業務を妨害した者も,前条の例〔3年以下の懲役又は50万円以下の罰金〕による。


3 托鉢と軽犯罪法1条22

お坊さんの托鉢は,軽犯罪法1条22号にひっかからないのでしょうか。乞食(こつじき)自体が,そもそも仏教用語なのですよね。手元の『岩波国語辞典 第4版』(1986年)には,「こつじき(乞食)」とは,「〔仏〕僧が人家の門に立ち,鉢をささげ,食をこい歩くこと。托鉢。「乞食行脚」」とあります。

軽犯罪法の適用に当たっては,「国民の権利を不当に侵害しないように留意し,その本来の目的を逸脱して他の目的のためにこれを濫用するようなことがあつてはならない。」との訓示規定が同法4条に定められています(下線は筆者)。しかし,托鉢者がインド人であって日本国民でない場合には,同条の適用はどうなるのでしょうか。殊更につらく当たられることはないのでしょうが。

無論,軽犯罪法違反の罪は拘留又は科料に当たる罪でしかありませんから,原則として,現行犯逮捕はされず(刑事訴訟法217条),逮捕状による逮捕もされないはずです(同法1991項ただし書)。しかし,「もしもし,お坊さん,お坊さんの住居はどこですか。」と托鉢行為を現認した警察官に問われて,「私は出家の身なので,定まった住居などありません。カピラヴァストゥは滅びました。」と答えられてしまうと,困りますね。定まった住居がないのならば,軽犯罪法違反でも身柄拘束あり得べしになってしまいます。立川市内にアパートを借りて住んでいるのなら,そう言ってくれなくては困ります。

軽犯罪法1条22号は,仏教を弾圧するための条項なのでしょうか。

乞食(こつじき)は,大日本帝国憲法28条にいうところの「安寧秩序ヲ妨ケ」又は「臣民タルノ義務ニ背」く行為であって,保護される信教ノ自由の範囲外にあったものでしょうか。大日本帝国憲法28条の「臣民タルノ義務」については,その最も著しいものとして,「国家及び皇室に忠順なる義務及び之に伴うて国家及び皇室の宗廟たる神宮,歴代の山陵,皇祖皇宗及び歴代の天皇の霊を祭る神社等に対し不敬の行為を為さる義務」が挙げられ,「その外兵役義務,国民教育を受くる義務等」があるとされていましたが(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)399-400頁),托鉢は,「此等の義務を否定し,之を排斥する」までのもの(同400頁参照)だったのでしょうか。なかなかそこまでは行かないように思われます。また,「安寧秩序」は,「社会的秩序」の意味であるとされています(美濃部400頁)。しかるにそもそも,「わが現時の国法に於いて,国家と特別の関係に在るものは・・・仏教各宗である。・・・多年わが国家及び皇室と密接の関係の有つた歴史に基いて,今日に於いても国家は之に特別の保護を与へ, 随つて又之に特別の監督を加へて居る。就中・・・仏教各宗の管長は,勅任待遇の特典を受けて居る」ところであったものです(美濃部403頁)。明治の初めに廃仏毀釈運動があったとはいえ(明治五年十一月九日の府県あて教部省第25号達は「自今僧侶托鉢之儀禁止候事」とした。),仏教弾圧は,かえって我が国の社会秩序を乱すことになりかねないものではないでしょうか(明治14年8月15日内務省甲第8号布達は上記明治五年教部省第25号達を廃止し, 托鉢者に管長の免許証の携帯を求めることとした。「不都合之所業」があれば托鉢差止め及び所属宗派に通知(明治14年内務省乙第38号達・明治19年内務省令第9号)。)。聖徳太子の憲法の第2条にいわく,「篤く三宝を敬へ。三法とは仏法僧なり。即ち四生之終帰,万国之極宗なり。・・・」なお,軽犯罪法の前身(同法附則2項参照)である警察犯処罰令(明治41年内務省令第16号)の第2条2号は,「乞丐ヲ為シ又ハ為サシメタル者」は30日未満の拘留又は20円未満の科料に処せられるものとしており,そこでは「乞食」ではなく「乞丐(きっかい)」の文字が用いられていました。「丐(かい)」も請い求めるとの意味であり,また,乞丐は仏教用語ではないようです。

乞食(こつじき)行為と乞丐又は「こじき」行為とは異なるものと解さなければなりません。

両者を分別するものは,いかなる要件でしょうか。

ここで,軽犯罪法に関する各種の解説書を見ると,「こじき」行為においては相手方が憐れみないしは同情から金品を与えるものである,という理解がされているようです。


 こじきとは,不特定の他人に憐れみを乞い,自己または自己が扶養する者の生活のために必要な金品を,無償またはほとんどこれに近い名目的な対価で得ようとする行為をいう。(安西溫『特別刑法〔7〕』(警察時報社・1988年)166頁。下線は筆者)


なるほど,いかにも修行を積んだ御様子のお坊さまが堂々と托鉢をしているのを見ると,そこに生ずる感情は憐れみや同情ではなく,むしろ徳の高さのありがたさに感極まって思わず喜捨をしてしまうわけです。このように高々とした托鉢行為は,「こじき」行為ではありません。(なお, 警察犯処罰令2条1号は「喜捨ヲ強請」することを処罰していました。喜捨を受けるお坊さんは威張っていたのですね。)ということはすなわち,「こじき」行為による法益侵害によって生ずる状態とは,憐れみや同情を感ずることであって,これは換言すると,自らの窮状を言い募り,あるいは顕示して不特定者に憐れみや同情を感じさせることは,違法な法益侵害行為であるというわけですね。

Bettler aber sollte man ganz abschaffen! Wahrlich, man ärgert sich ihnen zu geben und ärgert sich ihnen nicht zu geben. (乞丐は禁止せらるべきなりき!まことに彼らに施すも不快,施さざるも不快である。)

ところで,

「同情するなら金をくれ。」

という発言は,どのように理解すべきでしょうか。

同情した上で金をくれ,というのならば,「こじき」行為を指向するものでしょう。

同情なんかする必要はない,とにかく金をよこせ,というのならば,「こじき」行為ではないものでしょう。


4 威力業務妨害罪の被疑者及びその弁護



(1)威力業務妨害罪及び保護される業務

さて,神殿の境内でにぎやかにお供え物販売等の商売をしていたおじさんたちを泥棒呼ばわりしつつ追い払い,またおじさんたちの出店の設備をひっくり返す行為は,威力業務妨害罪(刑法234条)に該当するようです。

「神聖な境内で卑しい商売をすることは神殿の目的外利用であって,彼らの商売行為は違法だったのです。私は,彼らによってもたらされた違法状態を取り除いただけなのです。」

と主張することになるのでしょうが,我が司法当局を説得できるかどうか。


 〔業務妨害罪によって保護される〕業務とは,職業その他社会生活上の地位に基づき継続して行う事務または事業をいう(大判大正101024刑録27643頁)。・・・業務は,刑法的保護に値するものであれば足り,適法であることを要しない。たとえば,知事の許可を得ていない湯屋営業(東京高判昭和2773高刑571134頁),行政取締法規に違反したパチンコ景品買入営業(横浜地判昭和61218刑月181=2127頁)についても本罪が成立する。・・・当該業務の反社会性が本罪による保護の必要性を失わせる程度のものであるか否かを基準とすべきであろう。(西田典之『刑法各論〔第3版〕』(弘文堂・2005年)112頁)


境内でのおじさんたちの商売は,社会的に受け容れられていたものなのですから,よその国の律法ではともかく,我が日本刑法の保護を受けないものとはいい難いところです。


(2)逮捕に基づく留置及びアメリカ法との相違

威力業務妨害罪の法定刑には懲役があり,また,罰金の多額は30万円を超えていますから,急を聞いて駆け付けた警察官によって,なおも荒ぶる我らの主人公は,すんなり現行犯逮捕されることでしょう(刑事訴訟法217条参照)。

逮捕された我らの主人公は,司法警察員から犯罪事実の要旨及び弁護人を選任することができることを告げられた上,弁解を聴取されることになります(憲法34条前段,刑事訴訟法216条・2031項)。現行犯ですから犯罪の嫌疑は十分であり,今までしていた仕事を辞めて田舎から都までやってきた30代前半の独身男性であって逃亡のおそれもありそうですから留置の必要(「犯罪の嫌疑のほか,逃亡のおそれ・罪証隠滅のおそれ等(最判平838民集50-3-408)」(松本時夫=土本武司編著『条解刑事訴訟法〔第3版増補版〕』(弘文堂・2006年)346頁))があると思料され,直ちに釈放されること(刑事訴訟法2031項参照)はないでしょう。

逮捕による身柄拘束期間中においては(警察官に逮捕されたときは,逮捕時から72時間以内に検察官から裁判官に勾留の請求がされなければ釈放されることになっています(刑事訴訟法205124項)。当該請求があって,裁判官の被疑者に対する勾留質問(同法2071項,61条)を経て裁判官から勾留状が発せられ(同法2074項),当該勾留状が執行されると,被疑者の身柄拘束は,逮捕されている状態から「勾留」されている状態に移行します。),我らの主人公と接見交通できるのは,弁護人又は弁護人を選任することができる者の依頼により弁護人となろうとする者(同法391項)だけです(同法209条は同法80条を準用せず。)。家族・友人がどんなに心配しても,弁護士ならぬ身であれば,逮捕に基づき留置されている被疑者に会うことはできないわけです。勾留に移行すれば,「弁護人又は弁護人を選任することができる者の依頼により弁護人となろうとする者」以外の者も被疑者と接見できるのですが(刑事訴訟法80条),なかなか直ちには逮捕から勾留に移行しません。


・・・〔米国の〕統一逮捕法では,「なるべくすみやかに,おそくとも24時間以内に」裁判官に引致しなければならないのである。わが法は,「なるべく速やかに」の語がないため,72時間は当然に留置できるかのように解釈し,運用されている。なお,英米法では,逮捕は裁判官に引致するためのものであるが,わが法の勾留請求は,逮捕の結果当然になされる処置ではなく,新たな処分である。逮捕は,捜査機関のところに72時間以内留置されるために行われるのである。したがって,英米法の逮捕とわが法の逮捕とは,全く性質を異にするものとなっている。(平野龍一『刑事訴訟法』(有斐閣・1958年)99頁)


 この72時間の間,「被疑者の地位は著しく危うくなっている。」わけです(平野98頁)。

 なお,「アメリカでは逮捕後,裁判官のもとへ引致されると直ちに保釈されうる」ものとされていますが(田宮裕『刑事訴訟法〔新版〕』(有斐閣・1996年)260頁。また,松尾浩也『刑事訴訟法(上)補正第三版』(弘文堂・1991年)194頁),我が刑事訴訟法の場合,起訴前の被疑者(起訴後の被告人ではないことに注意)勾留の段階では,保釈金を積んで釈放してもらう保釈制度の適用はありません(同法2071項ただし書)。我が国で起訴前保釈が認められないのは「被疑者の勾留期間が短いためだとされるが(団藤・綱要321頁),10日ないし20日という期間・・・は,短いものではない」ことから,「保釈を許さないのは,捜査が糺問手続であり,勾留を被疑者取調のため,ないし被疑者と外界との遮断のために用いることを暗に認めたもので,供述の強要を禁止した憲法の趣旨にも合致しないといわなければならない。」と批判されています(平野102頁)。また,そもそも,英米法では,勾留の必要として認められているのは「逃亡のおそれだけ」であるそうですから(平野100頁),「保釈金を没取するという威嚇によって,被告人の出頭を確保しようとする」保釈の制度(同161頁)によってしかるべく身柄解放がされやすいようです。これに対して我が国では,大陸法式に罪証隠滅のおそれも勾留の必要として認めているところ,「保釈は・・・罪証隠滅の防止を目的とする勾留には代りえない」ことになるわけですから,保釈が制限されてしまうことになります(平野100頁,164頁)。

 逮捕された被疑者の裁判官のもとへの速やかな引致が米国連邦法で求められている結果,「アメリカ合衆国の連邦裁判所では,いわゆるマクナブ・ルールがあり,引致が遅滞すればその間の自白を証拠から排除する(McNabb v. U.S. (1943)に由来する)」ものとされています(松尾61頁)。マクナブ事件においては,テネシー山間部でウィスキーの密売などしていたマクナブ一族に対して,連邦内国歳入庁の捜査官が密売現場に手入れに入ったところ捜査官のうち一名が殺害され,これについて双子の兄弟フリーマン及びレイモンド並びにいとこのベンジャミンがそれぞれ捜査段階における自白に基づき下級審で有罪とされていました。米国連邦最高裁判所のフランクファーター判事執筆に係る多数意見におけるさわりの部分は,次のとおり。


 …Freeman and Raymond McNabb were arrested in the middle of the night at their home. Instead of being brought before a United States Commissioner or a judicial officer, as the law requires, in order to determine the sufficiency of the justification for their detention, they were put in a barren cell and kept there for fourteen hours. For two days, they were subjected to unremitting questioning by numerous officers. Benjamin’s confession was secured by detaining him unlawfully and questioning him continuously for five or six hours. The McNabbs had to subject to all this without the aid of friends or the benefit of counsel. The record leaves no room for doubt that the questioning of the petitioners took place while they were in the custody of the arresting officers and before any order of commitment was made. Plainly, a conviction resting on evidence secured through such a flagrant disregard of the procedure which Congress has commanded cannot be allowed to stand without making the courts themselves accomplices in willful disobedience of law. Congress has not explicitly forbidden the use of evidence so procured. But to permit such evidence to be made the basis of a conviction in the federal courts would stultify the policy which Congress has enacted into law…

 (・・・フリーマン・マクナブ及びレイモンド・マクナブは,真夜中,彼らの家において逮捕された。法律によって要求されているように,彼らの抑留に十分な理由があるかどうかを判断するために合衆国の理事官又は司法官憲のもとに引致される代わりに,彼らは粗末な獄房に投ぜられ,そこに14時間留め置かれた。二日間にわたって,彼らは多数の捜査官による間断のない取調べに服せしめられた。ベンジャミンの自白は,彼を違法に抑留し,5ないし6時間にわたって取り調べることによって得られたものである。マクナブ一族は,これらすべてに,友人からの支援及び法的助言の利益なしに服さしめられた。申立人らの取調べが,逮捕した捜査官のもとに留置されている時に,彼らを拘禁する何らの裁判もされない段階でされたことについては,記録上,何らの疑いもない。連邦議会が定めた手続に係るあからさまな無視によって獲得された証拠に基づく有罪判決が維持されるということは,裁判所自身を,法に対する意図的な不服従に係る共犯者とすることなしには不可能であることは明白である。連邦議会は,そのようにして獲得された証拠を用いることを明示的には禁じてはいない。しかしながら,そのような証拠を,連邦裁判所において有罪判決の基礎とすることを許すことは,連邦議会が法律化した政策を台無しにするものである・・・)


市民及び政治的権利に関する国際規約(昭和54年条約第7号)9条3項は「刑事上の罪に問われて逮捕され又は抑留された者は,裁判官又は司法権を行使することが法律によつて認められている他の官憲の面前に速やかに連れて行かれるものとし,妥当な期間内に裁判を受ける権利又は釈放される権利を有する。裁判に付される者を抑留することが原則であつてはならず,釈放に当たつては,裁判その他の司法上の手続のすべての段階における出頭及び必要な場合における判決の執行のための出頭が保証されることを条件とすることができる。」と規定しています。

田宮裕教授の著書において,勾留に係る「逮捕前置主義」について,「私見によれば「拘束したら裁判官のところへつれていく」という近代法原理にそうべく,裁判官の審問たる勾留質問(61条)と逮捕を結びつけて,「裁判官への予備出頭のための引致」という形を整えたものだと思う。」と述べられていますが(田宮84頁),これは勾留のために逮捕前置主義が採られているのだというよりも,逮捕の近代法原理適合性を確保するために逮捕について「勾留質問後置主義」が採られているのだということでしょう。

閑話休題。


(3)被疑者に対する弁護人の援助の確保

逮捕段階ですから,弁護士ならざる家族・友人らは我らが主人公に接見してaid of friends(友人からの支援)を与えることはできないにしても,弁護士によるbenefit of counsel(法的助言の利益)は,どうしたら得ることができるでしょうか。

なお,接見交通の機能としては,次のようなことが挙げられています。


・・・①まず,身柄を拘束された被疑者は外界と遮断されているので,自由に交通できる弁護人が外界との窓口となりうる。・・・その結果,心理的安定により市民としての自己回復ができる。②つぎに,継続的な取調べによる不当なプレッシャーを回避させるという意義をもつ。つまり,黙秘権を中心とした適正手続の担保である。③さらに,弁護人と相談することにより,被疑者側の「訴訟準備」が可能になる。つまり,依頼人としての打合わせの確保である。(田宮142143頁)


ア 当番弁護士

弁護士の知り合いがいない場合であっても,「当番弁護士を呼んでください。」と被疑者から警察官,検察官若しくは裁判官に言うか,又は家族から地元の弁護士会に依頼することができます。要請があれば,弁護士会から当番弁護士が,1回無料で接見にやって来て,相談に応じてくれます。

しかし,当番弁護士が無料で接見して相談に応じてくれるのは1回限りなので,更に弁護人による援助を受けようとすれば,弁護士を弁護人として選任しなければなりません。


イ 被疑者国選弁護制度及びその範囲

「あの,国選弁護っていう制度があるそうですけれど,国選弁護人は頼めませんか。」

という質問もあるかと思われますが,実は,逮捕段階の被疑者に国選弁護人を付ける制度はいまだありません。

まず,憲法37条3項は「刑事被告人は,いかなる場合にも,資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは,国でこれを附する。」と規定していますが,これは「被告人」の権利に関する規定であって,公訴を提起される前の「被疑者」には直接適用されません(被疑者の国選弁護制度を設けるか設けないか,設けるとした場合その範囲はどうするかは国会が裁量で決めることができるということです。)。

 とはいえ現在,刑事訴訟法は,被疑者のための国選弁護の制度を導入してはいます。


 37条の2 死刑又は無期若しくは長期3年を超える懲役若しくは禁錮に当たる事件について被疑者に対して勾留状が発せられている場合において,被疑者が貧困その他の事由により弁護人を選任することができないときは,裁判官は,その請求により,被疑者のため弁護人を付さなければならない。ただし,被疑者以外の者が選任した弁護人がある場合又は被疑者が釈放された場合は,この限りでない。

   前項の請求は,同項に規定する事件について勾留を請求された被疑者も,これをすることができる。


 読みづらいですね。被疑者に国選弁護人を付する制度が存在することが分かるでしょうか。ただし,逮捕されて留置されている被疑者であっても,検察官が勾留請求をするまでは国選弁護人を付けるように請求をすることはできず,また,勾留請求がされ,勾留状が発せられても,一定以上の重い罪に係る事件の被疑者でなければ,これまた国選弁護人を付けるように請求することはできないというのが,現在の制度です。


ウ 弁護人の私選及び私選弁護人の報酬(の一応の)相場

 要は,逮捕段階で弁護人を付けるには,国選弁護制度がないので,私選しなければならないのです。

 選任権者は,被疑者のほか,被疑者の法定代理人,保佐人,配偶者,直系の親族及び兄弟姉妹です(刑事訴訟法30条)。「弟子」は選任権者になりません。内縁の妻でも駄目です(松本=土本43頁)。

いずれにせよ,刑事弁護を依頼するとなれば最も気になり,かつ,機微に触れるのが弁護士報酬の問題です。どれくらいかかるものでしょうか。これについては,


 刑事弁護は事案によってかかる時間や労力,大変さはさまざまであり,弁護料の相場を出すのは難しい。東京三弁護士会が当番弁護士のために示している標準を示すと,次のとおりである(依頼者の資力や事案の性質によって変動することはありうる)。

①被疑者段階の弁護活動の着手金として15万円

②公判請求されなかった場合(不起訴・略式命令)は報酬金として30万円

③公判請求された場合は,起訴後第一審判決までの弁護活動の着手金として30万円

④第一審判決による報酬金として30万円


と紹介するものがあります(『刑事弁護ビギナーズ(季刊刑事弁護増刊)』(現代人文社・2007年)43頁)。上記の額に消費税額が加算されます。無論,飽くまでも目安です。事件の難易度,弁護活動の内容,依頼者の資力等により,上記の額よりも安い額での契約も当然あり得ます。


エ 我らが主人公の窮状

 我らが主人公はお金が無いようなので,ちょっと私選による弁護人の依頼は無理でしょうか。

 しかし,勾留段階に至っても,我らの主人公は被疑者国選弁護制度を利用することができないようです。実は威力業務妨害罪の法定刑の上限が懲役3年であって3年を超えていないため,我らの主人公が「貧困」であっても刑事訴訟法37条の2第1項本文の場合に該当しないからです。



オ 刑事被疑者弁護援助制度

 この場合であっても,なお,弁護士と相談して,「刑事被疑者弁護援助制度」という制度を利用する方法が残されています。かつては(財)法律扶助協会が運営していましたが,現在は法テラスが委託を受けて運営している制度です(逮捕段階から利用可能)。ただし,審査の結果,被疑者に弁護費用償還義務があるものとされる場合があります。 (ちなみに,刑事訴訟法1811項は「刑の言渡をしたときは,被告人に訴訟費用の全部又は一部を負担させなければならない。但し,被告人が貧困のため訴訟費用を納付することのできないことが明らかであるときは,この限りでない。」と規定し,刑事訴訟費用等に関する法律(昭和46年法律第41号)23号は国選弁護人に支給すべき旅費,日当,宿泊料及び報酬を刑事の手続における訴訟費用に含めていますが,「現在の実際的運用では,特段の資産もなく,職をもっていてもさほど高い給料を得ていないような被告人であれば,弁護人が私選の場合には別として,貧困と認められ訴訟費用の負担を命じられないことになるのが通常といってよいようである。」とされています(松本=土本300頁)。)


(4)刑事弁護活動の一例:ある保釈請求成功例

 最近,我らが主人公同様に,弁護人を私選するだけの資力がないが,事件が被疑者国選弁護人を付してもらえるほど重いものではない(法定刑が,3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金)ものであった被告人の国選弁護人を務めましたが,保釈許可を得ることができ,かつ,執行猶予付き判決であったので,「これが起訴前の被疑者段階から弁護人がついていたのなら,そもそも起訴猶予ということで公訴を提起されずに済んだかもしれないし,公訴が提起されても,実際の保釈より2週間は早く保釈されていただろうな。」とかえって気の毒に思ったものです。

 起訴猶予(刑事訴訟法248条)の可能性についてはともかくも,保釈についてですが(保釈は,起訴されて被告人になってから可能になります。),実は,上記国選弁護人の選任は当該被告人の起訴の日から起算して13日目であって,ここで既に12日の遅れが生じていました。弁護人は,急ぎ同日警察署内の留置施設で被告人と第1回接見をし,翌14日目に検察庁で証拠の閲覧・謄写,事件の現場確認及び被告人の家族との面談を行い,15日目(金)には小菅の東京拘置所で第2回接見を行って公判対応の方針決定,翌週保釈請求をする運びとしたところです。(ちなみに,警察署の留置施設の方が近くて,接見をする側からすると便利なところもあるのですが,居住環境や特に食事は,遠いながらも小菅の方がよいそうです。)16日目(土)には,身元引受人となる被告人の奥さんに会って,身元引受書を作成してもらうとともに(ちなみに,旧刑事訴訟法118条は「裁判所ハ検事ノ意見ヲ聴キ決定ヲ以テ勾留セラレタル被告人ヲ親族其ノ他ノ者ニ責付・・・スルコトヲ得/責付ヲ為スニハ被告人ノ親族其ノ他ノ者ヨリ何時ニテモ召喚ニ応シ被告人ヲ出頭セシムヘキ旨ノ書面ヲ差出サシムヘシ」と規定していました。身元引受人及び身元引受書は,同条由来の伝統でしょうか。なお,責付とは,「勾留状の執行を停止すると同時に被告人を其の親族又は其の他適当の者に引渡すことを謂ふ。此の制度は徳川時代に於ける「お預け」(親類預け,五人組預け等)の制度に其の源を有する。」とされています(小野清一郎『刑事訴訟法講義 全訂第三版』(有斐閣・1933年)252頁)。),併せて裁判官に提出する奥さんの上申書の内容を一緒に考えました。17日目(日)には休日ながらも事務所で保釈請求書の起案,18日目(月)は早朝5時に起きて午前7時に奥さんと会って,手書きでしたためられた上申書を受け取り,更に保釈請求書に最後の推敲をして,午前1015分ころ東京地方裁判所刑事第14部に書類一式を提出しました。窓口の書記官の説明では,翌19日目が国民の祝日であるため,検察官の意見(刑事訴訟法921項)は20日目又は21日目に出,裁判官面接は検察官の意見が出た翌日になるだろうということであったため,「国民の祝日」を恨めしく思ったものですが(201454日付け記事参照),休日明けの20日目(水)の午後に裁判官から弁護人に「電話面接」があってそれから1時間もたたずして保釈許可決定が出,21日目(木)の午前に虎ノ門の銀行で大金をおろして11時過ぎに東京地方裁判所出納二課に保釈金納付,1133分に刑事第14部の窓口で手続を終了することができました。同日1233分に東京拘置所に電話をかけるともう釈放手続が始まっているということで,被告人の家族に「早く迎えにいかねば。」と連絡,14時ころめでたく釈放となりました。保釈請求書を提出してから実質3日目に釈放になったわけです。すなわち,当該被告人のそもそもの起訴があったのは金曜日だったのですが,起訴前から保釈請求の準備をしておいて遅くとも翌週月曜日(起訴日から4日目)の朝に保釈請求書を提出していれば,起訴から6日目の水曜日には釈放され得ていた計算になります。「弁護士がいるいない,弁護士が仕事をするしないで,随分違いがあるものだね。」と思ったものです。

 今月(20147月)151343分に日本経済新聞のウェッブ・サイトに掲載された記事(「連絡ミスで保釈3日遅れる 大阪地裁」)によると,「被告は5月に逮捕・起訴され,地裁が6月12日に保釈を認める決定を出した。被告は13日に保釈金を納付したが,地裁の担当書記官が担当の部に連絡せず,保釈金が納付されたことが地検に伝わらなかった。/保釈されないことを不審に思った弁護人が地裁に指摘し,手続きミスが発覚。3日後の6月16日に釈放され,地裁は被告に謝罪と経緯の説明をした。・・・」という事件が大阪地方裁判所であったそうですが,この被告人は,気にしてくれる人がよっぽど少なかった人物だったものでしょうか。(なお,保釈される「被告人は,その日のうちに釈放されるが,帰宅のための交通費さえ所持していないという場合や,家族のもとに帰ろうとしない場合もあるから,弁護人としては,拘置所に出迎えるなり,家族・友人に連絡するなど,きめ細かな配慮を要することもある」とされています(松尾261頁)。)それとも,「まだ釈放されていないんですか。」という執拗な問い合わせにもかかわらず,よっぽど巧妙な「蕎麦屋の出前」的な言い訳がされ続けたものでしょうか。ちょっと不思議です。


(5)再び我が主人公について

 ところで,われらが主人公の保釈の見込みですが,権利保釈の除外事由中,刑事訴訟法89条5号(「被告人が,被害者その他事件の審判に必要な知識を有すると認められる者若しくはその親族の身体若しくは財産に害を加え又はこれらの者を畏怖させる行為をすると疑うに足りる相当な理由があるとき。」)に引っかかるのではないかと心配されるところです。我らが主人公は,何とわずか一人で境内の大勢の商売人のおじさんたちを追い出し,かつ,荒ぶっていたといいますし,以前は家業の建築関係の肉体労働に従事していたといいますから,たくましい筋骨の持ち主であって,必ずしもやさ男ではないようです。おじさんたちは,やはり怖くて逃げたのでしょう。

 さらに権利保釈の除外事由中問題になるのは,刑事訴訟法89条2号(「被告人が前に死刑又は無期若しくは長期10年を超える懲役若しくは禁錮に当たる罪につき有罪の宣告を受けたことがあるとき。」)です。確かに我らが主人公は,かつて,死刑の判決及びその執行まで受けています。しかし,刑の消滅(刑法34条の2)の場合は,同号の適用はないものとされています(松本=土本156頁)。


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弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所(渋谷区代々木一丁目572号ドルミ代々木1203

電話:0368683194

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

(読者の方が被疑者・被告人になられることはないでしょうが,念のため,弊事務所をお見知りおきください。)


 



  ユーモアはファイトの潤滑油である。ユーモアがないと,ファイトはぎすぎすして,磨擦をおこす。ファイトがないと卑屈な追従におちいってしまう。だからいい法律家(ローヤー)であるためには,ぜひともユー〔モ〕アが必要である。刑事訴訟法も実際に運用されるときは,ユーモアでなめらかにされなければならない。(平野龍一「ファイトとユーモア」法律学全集しおり第20号(有斐閣・195812月))

 


1 単純逃走罪と被逮捕者

 「裁判の執行により拘禁された既決又は未決の者が逃走したときは,1年以下の懲役に処す。」と規定される単純逃走罪(刑法97条)については,なぜ刑事訴訟法に基づいて逮捕中の者が逃走した場合には同条は適用されないことになっているのか,という複雑な問題が付随しています。

 我が刑事法制の沿革をさかのぼらねばならない問題です。戦前の資料をはじめとする一次資料に当たることを面倒臭がり,下請に適した特殊作業視するようなひ弱い根性では,なかなかいけないのでしょう。ため息が漏れるところですが,1981年から東京大学総長を務めた平野龍一教授(なお同年の東京大学入学式における総長祝辞では,専ら文科一類の学生向けの「ファイトとユーモア」の話ではなく,全新入学生向けに,「coolhead」と「warmheart」の必要性が説かれました。)に「逃走罪の処罰範囲」(判時155636頁)という名論文があることを最近知りましたので,当該論文を頼りに,検討してみましょう。

 


2 刑法の規定の変遷

明治40年法律第45号である現行刑法制定当初(1907年)の同法97条及び98条は,次のとおりでした(なお,平成7年法律第91号による改正前の現行刑法は以後「原現行刑法」ということにします。)。

 


 97条 既決,未決ノ囚人逃走シタルトキハ1年以下ノ懲役ニ処ス

 第98条 既決,未決ノ囚人又ハ勾引状ノ執行ヲ受ケタル者拘禁場又ハ械具ヲ損壊シ若シクハ暴行,脅迫ヲ為シ又ハ2人以上通謀シテ逃走シタルトキハ3月以上5年以下ノ懲役ニ処ス

 


 「既決,未決ノ囚人」が「裁判の執行により拘禁された既決又は未決の者」になったのは,平成7年法律第91号による改正の結果です。

 原現行刑法の前の旧刑法(明治13年太政官布告第36号)144条本文は,「未決ノ囚人」の逃走罪について次のように規定していました。

 

 144条 未決ノ囚徒入監中逃走シタル者ハ第142条ノ例ニ同シ・・・

 


 旧刑法142条は,次のとおり。

 


 142条 已決ノ囚徒逃走シタル者ハ1月以上6月以下ノ重禁錮ニ処ス

  若シ獄舎獄具ヲ毀壊シ又ハ暴行脅迫ヲ為シテ逃走シタル者ハ3月以上3年以下ノ重禁錮ニ処ス

 


3 旧刑法時代の判例:留置された現行犯被逮捕者=未決ノ囚徒

この旧刑法時代の判例(大判明治35422日刑録84170頁)においては「逮捕されて留置されている者も「未決の囚人」であるとしていた」こと及び「学説も(小野〔清一郎〕説が出るまでは)一致してこれを支持していた」ことが,平野総長によってまず指摘されています(平野論文3頁)。当該判例の該当部分は次のとおり。

 


・・・警察官カ刑事訴訟法第58条ノ規定ニ基キ禁錮ノ刑ニ該ルヘキ軽罪ノ現行犯人ヲ認知シ令状ヲ待タスシテ之ヲ逮捕シタルトキハ其未決ノ囚徒タルコト論ヲ待タス又其囚徒ニシテ監獄ノ一部ナル警察署ノ留置場ニ拘禁セラルニ於テハ其入監中ナルコトモ亦明カナルニ依リ若シ該囚徒逃走スルトキハ刑法第144条第142条ヲ適用処断スヘキハ当然ナリ然ルニ原判決ハ被告Hカ窃盗ノ現行犯トシテ逮捕セラレ明治341212日夜岡山県岡田警察分署留置場第2房ニ留置中逃走シタル事実ヲ認メナカラ令状ノ執行ニ依リ入監シタルモノニアラサルニ付其所為罪トナラストシ無罪ヲ言渡シタルハ上告論旨ノ如ク擬律ノ錯誤ニシテ破毀ヲ免カレサルモノトス・・・

 


4 現行刑事訴訟法より前の刑事訴訟法典

 


(1)4代の刑事訴訟法典

さて,当該判例中の「刑事訴訟法」とは,もちろん現行の刑事訴訟法ではありません。旧々刑事訴訟法です。我が国の近代的刑事訴訟法典は,実は4代を経ています。

 


治罪法(明治13年太政官布告第37号)(ボアソナードの草案をもとに制定。フランス流)

(旧々)刑事訴訟法(明治23年法律第96号)(「明治刑訴」ともいう。)

(旧)刑事訴訟法(大正11年法律第75号)(ドイツ法系に転化)

刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)

 


1907年の原現行刑法制定時の刑事訴訟法は,旧々刑事訴訟法でした。したがって,原現行刑法の逃走罪の規定は,旧々刑事訴訟法の仕組みを前提としていたことになります。

 


(2)旧々刑事訴訟法における逮捕の限定:現行犯逮捕

旧々刑事訴訟法58条1項は次のとおり。現行犯逮捕に関する規定です。

 


58条 司法警察官及ヒ巡査,憲兵卒其職務ヲ行フニ当リ重罪又ハ禁錮ノ刑ニ該ル可キ軽罪ノ現行犯アルコトヲ知リタルトキハ令状ヲ待タスシテ被告人ヲ逮捕スヘシ

 


 ところで,旧々刑事訴訟法に基づく逮捕は限定されていました。

 


・・・明治刑訴では,逮捕は現行犯人について認められたほか,所在不明の被告人について,予審判事の請求にもとづき,検事が発する逮捕状によって認められていた(この場合逮捕状は勾留状と同一の効力を持っていた。80条)。(平野論文5頁)

 


ここでの「逮捕状」は,実質は勾留状で,かつ,既に予審の始まっている被告人について発せられます。捜査過程において捜査機関が被疑者を逮捕するための現行刑事訴訟法の逮捕状とは異なります。旧々刑事訴訟法時代においては,現行刑事訴訟法における逮捕状による被疑者の逮捕に相当する制度は存在せず,現行犯逮捕が認められているだけであったわけです。

 


(3)予審と予審における強制処分

なお,予審とは検事の請求によって開始される裁判所の手続です。旧刑事訴訟法288条は「公訴ノ提起ハ予審又ハ公判ヲ請求スルニ依リテ之ヲ為ス」と規定していました。「予審ハ被告事件ヲ公判ニ付スヘキカ否ヲ決スル為必要ナル事項ヲ取調フルヲ以テ其ノ目的」とするものでした(旧刑事訴訟法2951項)。「裁判所に於ける手続を予審(Voruntersuchung)及び公判(Hauptverhandlung)に分つことは1808年のフランス治罪法以来近代刑事訴訟に於ける一般の構造となつてゐる」ものとされていました(小野清一郎『全訂第三版刑事訴訟法講義』(有斐閣・1933年)388頁)。予審を行う「予審判事は形式上裁判官たる地位を有するけれども,其の実質においては裁判官と謂ふことは出来ぬ。何故なれば,自ら事件そのものに付て裁判を下すものではないからである。其の行ふところの手続は形式上審理であるけれども,しかも其の実質に於ては事件を公判に付すべきか否を決定すると同時に,公判の審理に対して証拠を集収し,保全するといふことを目的とする。この点からは予審手続は寧ろ捜査手続の延長と見るべきもの」でした(小野・刑訴法392-393頁)。旧刑事訴訟法以前においては「強制処分は刑事訴訟法上原則として裁判機関に属し,捜査機関たる検事又は司法警察官は別段の規定ある場合を除く外自ら強制の処分を為すことを得」ませんでした(小野・刑訴法236頁)。これに対して予審判事は,勾引等の強制処分を自らすることができたところです(旧刑事訴訟法122条,169条,179条,213条等)。

 


5 監獄則

 なお,前記明治35年判例に係る検察側の上告趣意書では,旧刑法144条の「入監中トハ法律ノ規定ニ従ヒ法定ノ獄舎ニ投セラレタルモノヲ指シタルコト疑ヲ容レサル所ナレハ司法警察官カ刑事訴訟法第58条ノ規定ニ基キ令状ヲ待タスシテ被告人ヲ逮捕シ監獄ノ一部ナル警察ノ留置場(監獄則第1条第5号参照)ニ拘禁セシモノ入監中ナルコト明白ナリ」と説かれていたとされているので,当時の監獄則(明治22年勅令第93号)1条を見てみましょう。

 


第1条 監獄ヲ別テ左ノ6種ト為ス

  一 集治監 徒刑流刑及旧法懲役終身ニ処セラレタル者ヲ拘禁スル所トス

  二 仮留監 徒刑流刑ニ処セラレタル者ヲ集治監ニ発遣スル迄拘禁スル所トス

   三 地方監獄 拘留禁錮禁獄懲役ニ処セラレタル者及婦女ニシテ徒刑ニ処セラレタル者ヲ拘禁スル所トス

   四 拘置監 刑事被告人ヲ拘禁スル所トス

   五 留置場 刑事被告人ヲ一時留置スル所トス但警察署内ノ留置場ニ於テハ罰金ヲ禁錮ニ換フル者及拘留ニ処セラレタル者ヲ拘禁スルコトヲ得

   六 懲治場 不論罪ニ係ル幼者及瘖唖者ヲ懲治スル所トス

 


 しかし,上記監獄則1条5号の文言を見ると,留置場に入り得るのは「刑事被告人」ですね。現行犯人であっても,現行犯逮捕されただけではまだ被告人ではないように思われ,疑問が生ずるところです。しかしながら,前掲の旧々刑事訴訟法58条を改めて見ると,現行犯逮捕される現行犯人は,既に「被告人」になっています。文言的には平仄は合っています。告訴についても,その段階で「被告人」という語が用いられています(同法491項)。「わが国最初の近代法典である治罪法(1880年)やつぎの明治刑訴法(1890年)には〔起訴便宜主義に係る〕関連規定がないので,当初は〔訴訟条件が具備し犯罪の嫌疑があるときは,検察官は必ず起訴しなければならないとする起訴〕法定主義を採用したものと解されていた。」ということでしょうか(田宮裕『刑事訴訟法〔新版〕』(有斐閣・1996年)173頁)。なお,旧々刑事訴訟法においては,現行犯については,不告不理の原則(「訴えなければ裁判なし」)の例外とされていました(同法142条,143条)。

 ところで,明治22年の監獄則6条は,1889年当初は「新ニ入監スル者アルトキハ典獄先ツ令状又ハ宣告書ヲ査閲シテ之ヲ領シ其領収証ヲ引致シ来リタル者ニ交付シタル後入監セシムヘシ其文書ナクシテ引致セラレタル者ヲ入監セシムルコトヲ得ス」とあって,これでは「令状又ハ宣告書」の無いはずの現行犯逮捕の場合に問題があったように思われます。旧々刑事訴訟法制定後9年たってからの明治32年勅令第344号による監獄則6条の改正は,この点の不整合を解消させるための,あるいは「こっそり」改正であったものでしょうか。当該勅令による改正後の監獄則6条は,次のとおり。「其ノ他適法ノ文書」が効いています。

 


 第6条 新ニ入監スル者アルトキハ令状宣告書執行指揮書其ノ他適法ノ文書ヲ査閲シタル後入監セシムヘシ

 


6 旧刑法から原現行刑法(平成7年改正前)へ

 


(1)未決ノ囚人の単純逃走罪における「入監中」の文字の取り去り

 さて,旧刑法144条に戻りますと,「未決ノ囚徒入監中逃走シタル」とあり,例えば,勾留状を執行された者が入監前に逃走したときは,逃走罪は成立しませんでした。

 ところが,原現行刑法97条からは「入監中」の3文字が消えます。平野総長の論文(3頁)が引用する改正理由書の記述は,次のとおり。

 


 「囚人とは既決,未決を問はず監獄に在る可き身分の者を示す意義なるを以て現行法の如く未決の囚人に付きて特に入監中と云うの必要を認めざるのみならず却って疑義を生ずるおそれ」があるからである。

 

 前記明治35年の大審院判例では「警察官カ・・・現行犯人ヲ認知シ令状ヲ待タスシテ之ヲ逮捕シタルトキハ其未決ノ囚徒タルコト論ヲ待タス」としていましたから,現行犯逮捕された留置前の現行犯人も「監獄に在る可き身分」の「囚人」ということになるのでしょうか。しかし,囚人の「囚」の字は,角川『新字源』によると会意文字で,「人を囲いの中に入れたさまにより,「とらえる」意を表わす」ものとされ,また,「囚人」及び「囚徒」は「罪を犯して,牢屋に入れられている人。罪人。めしうど。」となっていますから,まだ牢屋の囲い(「囗」)の中に入っていない「人」を「囚」人というのには若干の違和感があるところです。さりながら,対応するドイツの用語はGefangeneであり,フランスの用語はdétenuであって,監獄に入れられているところまでは必要とされていないようです。

 


(2)二つの解釈

 原現行刑法においては,1907年の制定当初には,現行犯で逮捕されてから留置されるまでの間においても,当該現行犯人が逃走した場合には単純逃走罪が成立するものとし,旧刑法144条よりも犯罪の成立範囲を拡張したものであったのでしょうか(前記明治35年の大審院判例における「未決ノ囚徒」の解釈をそのまま維持するとそうなるはずです。)。学説は,留置前の単純逃走罪の成否についてはっきり一致はしていなかったようです(平野論文3-4頁,5頁参照)。平野総長が「逮捕されて留置されている者」が「未決の囚人」であることは「学説も・・・一致してこれを支持していた。」と述べるとき,それは学説が一致する最大公約数的内容であったのでしょう。

 


ア 現行犯逮捕引致中=未決ノ囚人説

平野総長自身は,「監獄に拘禁されざる者は・・・未決の囚人にあらずということがごときは法理の上よりするもまた法文の上よりするも何等の根拠なきものとす」との大場茂馬判事の所説を引用し(平野論文3頁),また,刑法99条の被拘禁者奪取罪について(原現行刑法においては「法令ニ因リ拘禁セラレタル者ヲ奪取シタル者ハ3月以上5年以下ノ懲役ニ処ス」と規定していました。),囚人とは「「監獄にあるべき身分の者」とし,「監獄にある者」とはしていなかった」原現行刑法に係る前記改正理由書を援用して,「勾留状の執行を受け,あるいは逮捕状により逮捕されてまだ収監されていない者も,「拘禁された者」といわざるをえない」と述べていますから(平野論文6頁),現行犯で逮捕されてから留置されるまでの間においても,当該現行犯人が逃走した場合には単純逃走罪が成立することについて,積極に解するものでしょう。これを「現行犯逮捕引致中=未決ノ囚人説」と名付けましょう。

 


イ 現行犯逮捕及び留置=未決ノ囚人説

 しかし,最大公約数的学説(現行犯逮捕されても留置されていなければ未決ノ囚人ではないものとする。)もそれなりに理由があるようです。原現行刑法に係る改正理由書の記述は,身柄拘束一般について述べているものではなく,飽くまで「監獄」にこだわっており,また,確かに現行犯逮捕されても全員が「監獄に在る可き身分の者」として留置されるわけではなく,留置の必要なしとして釈放される場合もあったはずです(「其ノ他適法ノ文書」の作成がなければ,監獄則6条によって,入監が許されなかったでしょう。1922年の旧刑事訴訟法127条前段は「司法警察官現行犯人ヲ逮捕シ若ハ之ヲ受取リ又ハ勾引状ノ執行ヲ受ケタル被疑者ヲ受取リタルトキハ即時訊問シ留置ノ必要ナシト思料スルトキハ直ニ釈放スヘシ」と規定していました。)。「未決の囚人に付きて特に入監中と云うの必要を認めざるのみならず却って疑義を生ずるおそれ」という記述についても,囚人が入監しているのは当然のことであるから「特に入監中と云うの必要を認め」ないという趣旨であり(「車に乗する」とは言うべきではない類),入監していない段階で既に「未決ノ囚徒」であるとした前記明治35年判例は,正に,「入監中」という冗語が招いた「疑義」が誤った解釈を導出してしまった一例であると考えられていた,ともいえそうです。「監獄に在る可き身分の者」とは,「いったん収監され」た上,「移監や出廷のため護送中の者や監獄外で作業に従事している者」を意味するものである(西田典之『刑法各論 第三版』(弘文堂・2005年)405頁参照),という解釈も可能でしょう。こちらは,「現行犯逮捕及び留置=未決ノ囚人説」と呼びましょう。

 


7 監獄法及び旧刑事訴訟法

 


(1)監獄法

 なお,監獄則に代わる法律として,原現行刑法制定後の1908年には監獄法(明治41年法律第28号)が制定されます。制定当初の同法1条及び11条は,次のとおり。

 


 第1条 監獄ハ之ヲ左ノ4種トス

   一 懲役監 懲役ニ処セラレタル者ヲ拘禁スル所トス

   二 禁錮監 禁錮ニ処セラレタル者ヲ拘禁スル所トス

   三 拘留場 拘留ニ処セラレタル者ヲ拘禁スル所トス

   四 拘置監 刑事被告人及ヒ死刑ノ言渡ヲ受ケタル者ヲ拘禁スル所トス

  拘置監ニハ懲役,禁錮又ハ拘留ニ処セラレタル者ヲ一時拘禁スルコトヲ得

  警察官署ニ附属スル留置場ハ之ヲ監獄ニ代用スルコトヲ得但懲役又ハ禁錮ニ処セラレタル者ヲ1月以上継続シテ拘禁スルコトヲ得ス

 

11条 新ニ入監スル者アルトキハ令状又ハ判決書及ヒ執行指揮書其他適法ノ文書ヲ査閲シタル後入監セシム可シ

 


 現行犯逮捕された現行犯人は,旧々刑事訴訟法では「被告人」ですから,「刑事被告人」として拘置監又は留置場に入監したのでしょう。

 

(2)旧刑事訴訟法

 ところが,1922年の旧刑事訴訟法においては,もはや現行犯逮捕された現行犯人を「被告人」とは呼称していませんでした。となると,監獄法1条1項4号及び3項との関係では,現行犯逮捕された現行犯人の起訴前(予審請求又は公判請求の前)の在監の説明は厄介なことになったもののようにも思われます。しかし,旧々刑事訴訟法からの経緯で説明され,問題視されなかったもののようであります。

現行刑事訴訟法の制定時にも,監獄法1条1項4号は改正されていません。

「拘置監に「刑事被告人」すなわち被告人および被疑者を収容するものとし(監114号)」(大谷實『刑事政策講義 第四版』(弘文堂・1996年)288-289頁)という表現に見られるように,監獄法にいう「刑事被告人」は,刑事訴訟法における被告人及び被疑者の総称であると解釈されていたわけです。

 


8 現在の通説

 


(1)小野=団藤説

 さて,学説情況を一変させた小野清一郎博士(第一東京弁護士会会長も務める。)の新説を見てみましょう。平野論文にいわく(4頁)。

 


 ・・・通説に対して異説を唱えられたのは,小野博士であった。博士はいわれる。「未決の囚人とは,刑事被疑者又は被告人として勾留状により拘禁されている者をいう。逮捕状又は勾引状により一時拘禁されている者を含まない(第98条参照)。現行犯として逮捕された者をも含まないであろう。」博士は「第98条参照」とされるだけで,何故逮捕された者を含まないのか,その理由を詳しく述べてはおられない。おそらく,逮捕による拘禁も「一時の拘禁」であり,それならやはり「一時の拘禁」である勾引状の執行による拘禁とおなじように取り扱うべきだ,というのであろう。

 


この小野博士の新説は,「小野,刑法講義各論27頁」(平野5頁)によって出されたそうですが,平野総長は,『刑法講義各論』のどの版を引用しているのか明示してくれていません。同書は,1932年に初版,1945年に全訂版,1949年に新訂版が出,当該新訂版の1950年の重版に当たって「新少年法,新刑事訴訟法,罰金等臨時措置法など,その後の新立法による訂正」が行なわれています(小野清一郎『新訂 刑法講義各論』(有斐閣・1950年(3版))序)。「逮捕状」という記載に注目すると,「旧刑訴では,逮捕は現行犯人についてだけ認められ」ていたのですから(平野論文5頁),逮捕状による通常逮捕の制度の本格導入を伴う「新刑事訴訟法・・・による訂正」がされた1950年以降の版でしょう(第一東京弁護士会図書館にあるものは同年版。文言,頁番号も一致)。

 「勾引状ノ執行ヲ受ケタル者」については加重逃走罪のみが成立して単純逃走罪は成立しないものとされていたことを前提に,現行刑事訴訟上で導入された裁判官の発する逮捕状も従前の勾引状と同様のものと考え,逮捕状により逮捕された者についても加重逃走罪のみが成立して単純逃走罪は成立しないものとする推論が,小野博士においてされたものでしょう(平野論文4頁参照)。その場合,前記明治35年判例で「未決ノ囚人」に含まれるものとされた現行犯逮捕された者の扱いが問題になるのですが,現行刑事訴訟法では「逮捕」といえば逮捕状による逮捕が本道なので,むしろ現行犯逮捕の方がそちらに合わせろということでの「現行犯として逮捕された者をも含まないであろう。」との暫定的な意見表明となったものではないでしょうか。いわゆる側杖(そばづえ)ですね。

 なお,単純逃走罪について小野博士が説くところには,平野総長引用部分の後に,また続きがありました。いわく。

 


・・・旧刑法(第144条)は「入監中」なることを必要とした。現行刑法第97条には其の規定がないけれど,牧野博士は一旦入監したものであることを必要とすると解される。(小野・刑法各論27頁)

 


 後に最高裁判所判事を務めることになる団藤重光教授に至ると,「未決の囚人とは裁判の確定前に刑事手続において拘禁を受けている者,すなわち勾留されている被疑者または被告人である。勾引状の執行を受けた者を含まないことは,98条との対比からあきらかである。逮捕状により,または現行犯人として逮捕された者も含まれない。」とされ(平野論文4頁に引用されている団藤『刑法綱要各論(改訂版)』72頁),現行犯逮捕された者の非「未決ノ囚人」性が躊躇なく肯定されています。現在の通説です。これに対して,「ここでも理由は述べられていないし,判例,学説にもまったく言及されていない。」と,平野総長は不満を表明しています(平野論文4頁)。

なお,小野博士の所説は,「未決ノ囚人」となる拘禁は,「一時拘禁」たる留置では足りず,勾留状による勾留の段階になることまでを要するとするものでしょう。「ドイツやスイスなどでは,単純逃走行為を処罰しない」そうですから(前田雅英『刑法各論講義 第4版』(東京大学出版会・2007年)527頁),単純逃走罪の主体となる「未決ノ囚人」を従前より限定的に解釈する解釈論であっても,理由が全く無いわけではないということでしょう。ただし,「単純逃走は処罰しないという方法で,逃走罪の成立範囲を限定するのは一つの考え方であるが,囚人の範囲を限定するという技巧的な方法をとることは,妥当とは思われない。」とされています(平野論文6頁)。

 


(2)原現行刑法98条の「勾引状ノ執行ヲ受ケタル者」

 原現行刑法制定時に同法98条の加重逃走罪の主体に「勾引状ノ執行ヲ受ケタル者」が加えられたことの意味が問題になります。平野論文(3頁)の引用する改正理由書の記述は,次のとおり。

 


 現行法〔旧刑法〕に依れば,囚人逃走を為したるときはこれを罪となすと雖も勾引状の執行を受けたる者同一の行為を為したるときは罪責を負担せず・・・改正案は此欠点を補正するため修正を加えたり

 


上記記述の解釈は,現行犯逮捕引致中=未決ノ囚人説と現行犯逮捕及び留置=未決ノ囚人説とでは異なるようです。

現行犯逮捕引致中=未決ノ囚人説では,現行犯逮捕されて身柄を拘束された「被告人」が未決ノ囚人である以上,勾引状で身柄を拘束され引致される被告人も当然未決ノ囚人になるので,囚人以外で「勾引状ノ執行ヲ受ケタル者」は証人等ということになるとされるようです(大場茂馬説(平野論文4頁)参照)。

 現行犯逮捕及び留置=未決ノ囚人説では,監獄に拘禁されないと囚人ではありませんから,勾引状を執行された証人等のほか,勾引状を執行され,いまだ収監されていない護送中の被告人も「勾引状ノ執行ヲ受ケタル者」に含まれ,他方拘禁後は「未決ノ囚人」となることになります(岡田庄作説(平野論文4頁)参照)。

 ただし,「勾引状の執行を受けた者」の解釈については,「その他の学者はほとんどこの点に触れていない」状況だったそうです(平野論文4頁)。

 原現行刑法の前記改正理由書は,現行犯逮捕及び留置=未決の囚人説に基づいて書かれたものと解すべきでしょうか。「現行法に依れば,囚人逃走を為したるときはこれを罪となす」とありますから,逆にいうと,囚人というのはすべて単純逃走罪の主体となるべきものであって,「現行法」たる旧刑法において単純逃走をしても不可罰である入監前の未決ノ囚徒は,実は囚人ではないということになるようだからです。なお,勾引中の証人の逃走が,問題になるほど多かったかどうかは分かりませんが,不出頭の証人に対しては,罰金(過料)の制裁及び費用賠償請求の制度もありました(旧々刑事訴訟法118条)。

平野総長が,未決ノ囚人から現行犯逮捕された者を含む被逮捕者を除外する小野=団藤説を攻撃するため,次のように述べるときの「判例・学説」は,一応は,最大公約数的な,現行犯逮捕及び留置=未決ノ囚人説のことでしょうか(平野論文3頁冒頭参照)。

 


  しかし〔明治40年の原現行刑法の〕立案者は,逮捕された者は囚人に含まれるという判例・学説を前提とし,勾引状を執行された者が逃走しても処罰されないのは法の欠陥であるとして,これを補うために,「勾引状の執行を受けた者」という語を付け加え,あらたに処罰することにしたのである。これによって,囚人のなかに既に含まれていた被逮捕者を条文から除いて不可罰なものとした,あるいはこれを97条から98条に移したとは到底考えられない。・・・(平野論文4頁)

 


 現行犯逮捕されて留置されている現行犯人は未決ノ囚人であるという前例が既に確立しているのであるから,同じ被逮捕者仲間である,逮捕状によって逮捕され,留置された被疑者も未決ノ囚人とせよ,ということでしょうか。

 しかし,「逮捕された者は囚人に含まれるという判例・学説」とあって,「留置」の文言が抜けていますから,現行犯逮捕引致中=未決ノ囚人説に基づく所論のようでもありますし,前記6(2)アからはそのように思われます。

 


(3)平野総長の批判(現行刑事訴訟法の逮捕状と旧々刑事訴訟法の勾引状との相違等)

 現行刑事訴訟法に基づく逮捕状による被疑者の逮捕と,旧々刑事訴訟法による勾引状による被告人の勾引とを同じものとすることはできない,ということが,平野総長が更に説くところの趣旨でしょうか。旧々刑事訴訟法の「勾引は起訴後被告人について,判事の令状によって認められ,勾引して引致した被告人は48時間内に訊問すべしとされていたが,これを留置できる旨の規定はなかった」(同法73条参照)とされる一方,現行刑事訴訟法では「逮捕は身柄を確保する制度である」と述べられています(平野論文5頁)。小野=団藤説が勾引状と逮捕状との同様性を語るとき,そこでいう勾引状としては旧刑事訴訟法の要急事件に係る被疑者に対して検事が発する勾引状(同法123条)が念頭にあるのではないかとも考えられたようですが,「現行刑法は明治刑訴の勾引を前提として作られたのであって,旧刑訴の勾引を前提として議論することはできない。」と断ぜられています(平野論文4頁)。「旧刑訴についてみても,逮捕と勾引とでは,訴訟法上要件・効果に違いがあるのであって,ただ名前だけの違いではない。逮捕状は勾引状に「含まれる」とすることはできないし,「準ずる」とするのも,罪刑法定主義上無理がある。」と追い打ちがかけられています(平野論文4頁)。

 その他,勾留前に留置場にいる段階で,逮捕状で逮捕された被疑者が暴行脅迫して逃走すると加重逃走罪になると解釈する場合(勾引状ノ執行ヲ受ケタル者と同様だから)には,同様の段階で現行犯逮捕された現行犯人が同じことをしても加重逃走罪が成立しないことになるから(未決ノ囚人でもないし,勾引状ノ執行ヲ受ケタル者でもないから)不整合が生ずると,通説に基づく解釈論(団藤説)のもたらす不都合な帰結が指摘されています(平野論文4頁)。

 なお,旧刑事訴訟法123条は,次のとおり。

 


 123条 左ノ場合ニ於テ急速ヲ要シ判事ノ勾引状ヲ求ムルコト能ハサルトキハ検事ハ勾引状ヲ発シ又ハ之ヲ他ノ検事若ハ司法警察官ニ命令シ若ハ嘱託スルコトヲ得

  一 被疑者定リタル住居ヲ有セサルトキ

  二 現行犯人其ノ場所ニ在ラサルトキ

  三 現行犯ノ取調ニ因リ其ノ事件ノ共犯ヲ発見シタルトキ

  四 既決ノ囚人又ハ本法ニ依リ拘禁セラレタル者逃亡シタルトキ

  五 死体ノ検証ニ因リ犯人ヲ発見シタルトキ

  六 被疑者常習トシテ強盗又ハ窃盗ノ罪ヲ犯シタルモノナルトキ

 


 第4号が,「既決又ハ未決ノ囚人」ではなく,「既決ノ囚人又ハ本法ニ依リ拘禁セラレタル者」になっていますね。検事が勾引状を発し得る対象の者を広くとるために,「未決ノ囚人」とすると漏れがあるから,「本法ニ依リ拘禁セラレタル者」にしたということであれば,「未決ノ囚人」概念論争にも関係がありそうですが,どうなのでしょうか。

 


9 平成7年法律第91号による通説の確認

 平野総長の「逃走罪の処罰範囲」論文の結末は,「いずれにせよ,逃走罪の規定はもう一度整理しなおす必要がある。」(6頁)と,平成7年法律第91号による「実質的にみても,妥当な改正とは思われない」改正に対する不満を改めて表明するような形になっています(3頁)。

 しかし,平野総長の後輩ら刑法学界の反応は,次のようなものだったようです。

 


 ・・・立法の沿革等から,逮捕状の執行により留置された被疑者を含むとする見解(平野〔龍一『刑法概説』(東京大学出版会・1977年)〕283頁,同「逃走罪の処罰範囲」判時15563頁)も有力であるが,・・・平成7年の改正により立法的に解決された・・・(西田406頁)

 


 もう終わった議論である,ということのようです。

 


旧網走監獄獄舎(パノプティコンが採用されていました。)DSCF0067


 





弁護士 齊藤雅俊 大志わかば法律事務所 渋谷区代々木一丁目57番2号ドルミ代々木1203 電話: 03-6868-3194 電子メール: saitoh@taishi-wakaba.jp

1 勾留質問からの逃走と単純逃走罪の成否

 第一次世界大戦の発端となったサライェヴォ事件の百周年記念日を翌日に控えた一昨日(2014627日)の夜,書面作成の仕事の合間に栄養補給のため,事務所の近所の店で油麺を食べつつスマート・フォンでインターネット・ニュースを見ていたところ,

 

 「すわ,違法逮捕か!?」



という記事が目に入り,色めきました。

 同日2322分に日本経済新聞社のウェッブ・サイトに掲載されている,共同通信社のクレジットのある記事(「新潟地裁から容疑者逃走 勾留質問中,5分後に逮捕」)の内容は,次のとおりです(全文。容疑者の名前は仮名)。



  27日午後3時15分ごろ,わいせつ目的略取未遂容疑で逮捕され,新潟市中央区の新潟地裁で勾留質問を受けていた無職,K容疑者(31)が逃走した。約5分後,約350メートル離れた新聞販売店に逃げ込んだところを駆け付けた警察官が取り押さえ,単純逃走容疑で現行犯逮捕した。

  県警と地裁によると,勾留質問は午後3時ごろから地裁1階の勾留質問室で始まり,室内にはほかに男性裁判官と女性書記官がいた。K容疑者はいきなり机の上に立つと,そばの窓の鍵を開け,逃走防止柵を乗り越えて逃げた。けが人はなかった。

  K容疑者は勾留質問が始まる前に裁判官の指示で手錠,腰縄が外されていた。移送を担当した警察官4人は廊下などで警戒していた。地裁職員の大声を聞き建物の外に出た警察官が,裁判所の外で容疑者が走っているのを発見,追いかけて取り押さえた。

  勾留質問中の容疑者の身柄について監督責任がある地裁の青野洋士所長は「国民に不安を与え申し訳ない。再発防止に早急に対策を取りたい」とコメントを発表した。



「わいせつ目的略取未遂容疑で逮捕され,勾留質問(刑事訴訟法2071項,61条)を受けていたのだから,まだ勾留の裁判もされていないということであって,逮捕段階にとどまるから,単純逃走罪(刑法97条)は成立せず,したがって「単純逃走」容疑での現行犯逮捕はあり得ないじゃないか。新潟県警は手続ミスをやらかしたな。」というのが,少なくとも司法試験受験生の真っ先の反応でしょう。



(註)逮捕と勾留

なお,ここで簡単に「逮捕」及び「勾留」に関する手続について説明しますと,警察官が被疑者を「逮捕」しても,それだけではその身柄を留置施設又は刑事施設にずっと拘束できるわけではないことに注意してください。身柄拘束を続けるためには,被疑者を書類及び証拠物とともに検察官に送致し(刑事訴訟法2031項),検察官が裁判官に被疑者の「勾留」を請求し(同法2051項(ただし同項3項)),裁判官が被疑者に被疑事件を告げてそれに関する陳述を聴いた上で(これが前記の記事の「勾留質問」),被疑者を勾留する裁判をしてくれなければなりません。この場合,検察官が勾留請求するのには逮捕時から72時間という時間制限がありますが(刑事訴訟法2052項。この時間制限が守れないのならば被疑者は釈放(同条4項)),いったん勾留するとの裁判が出ると,検察官の勾留請求の日から起算して原則10日間,最大限20日間身柄拘束が継続されることになります(同法208条。ただし,同法208条の2)。短い期間の「逮捕」→長い期間の「勾留」という2段階手続になっていることを頭に入れておいてください。



2 逮捕と単純逃走罪

単純逃走罪について「裁判の執行により拘禁された既決又は未決の者が逃走したときは,1年以下の懲役に処する。」と定める刑法97条(未遂も処罰(同法102条))の解釈としては,「裁判の執行により拘禁された未決の者」には,逮捕されただけの者は含まれないとされています。



逮捕状により,ないし現行犯人として逮捕された者は含まない(前田雅英『刑法各論講義 第4版』(東京大学出版会・2007年)528頁)



  本罪〔単純逃走罪〕の主体は,平成7年の改正前は「既決又ハ未決ノ囚人」とされていたが,「囚人」という用語はマイナスイメージが強いという理由で現在のように修正された。「裁判の執行により拘禁された」という文言は,逮捕された者を除く趣旨を明確にするために入れられたものである・・・。(西田典之『刑法各論〔第3版〕』(弘文堂・2005年)405頁)

 ・・・未決の者とは,勾留状により拘置所または代用監獄(監獄法13項)に拘禁されている被告人(刑事訴訟法60条以下),被疑者(同法207条)をいうとするのが通説である・・・。(同406頁)。



上記にいう「拘置所または代用監獄」は旧監獄法下での用語で,現在の刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律下では,「刑事施設又は留置施設若しくは海上保安留置施設」ということになるのでしょう。



3 逮捕中の被疑者が逃亡した場合の対応

さて,改めて,逮捕された被疑者が逃亡してしまった場合はどうすべきなのでしょうか。



逮捕・勾留の途中に逃亡した場合 逮捕については,引致までに逃亡しても前の逮捕状で逮捕行為を続行すればよいが,引致後は,留置は逮捕自体の内容ではないので原状回復はできず,新逮捕状による(再逮捕となる)ほかはないとされる(もっとも反対説がある)。勾留は一定期間の拘束が裁判の内容なので,勾留状を示して原状回復すればよい。なお,逮捕は逃走罪(刑97条)の対象とならないが,勾留はなるので,それを根拠に逮捕状をえて逮捕できることはもちろんである。(田宮裕『刑事訴訟法』(有斐閣・1992年)9495頁)



 やはり逮捕中の被疑者が逃亡しても単純逃走罪になりませんから,その逮捕からの逃亡行為をもって単純逃走罪を犯すものだとして現行犯逮捕するわけにはいかないわけです。K容疑者の場合は,単純逃走罪での現行犯逮捕ではなくて,わいせつ目的略取未遂容疑で再逮捕の手続をとらなくてはならなかったはずです。



4 勾留の諸段階と単純逃走罪

なお,勾留中の被疑者又は被告人が逃亡するのは単純逃走罪になるのですが,勾留にも段階があり(「勾留とは,被疑者・被告人を拘束する裁判およびその執行をいう。」(田宮82頁)),どの段階まで進めばそこからの逃亡が単純逃走罪になるかが問題になります。

流れとしては,裁判官又は裁判所による勾留の裁判があって勾留状が発せられ(刑事訴訟法62条),原則として検察官の指揮で司法警察職員又は検察事務官が当該勾留状を執行し(同法70条),被疑者又は被告人は,原則として勾留状を示された上(同法732項,3項),指定された刑事施設に引致されます(同条2項。なお,以上につき同法2071項)。刑法97条は,単純逃走罪の成立のためには逃走者が「裁判の執行により拘禁された」者になっていることを要求していますから,「勾留状の執行を受けたが引致中の者は含まれない」ものとされ(西田406頁),「監獄〔刑事施設〕に引き渡される途中で逃走しても,まだ拘禁されてはいないので逃走罪にはならない」わけです(前田528頁)。勾留状の執行を受けた者が刑事施設に引き渡されていなければなりません。

勾留質問がされた裁判所は引致先の刑事施設ではありませんから,まだまだ裁判所段階では,勾留状の執行により拘禁されている状態には至り得ません。



5 様々な記事の書き方




(1)新潟県警察は違法逮捕をしたのか

と,以上のように考えると,前記の記事を書いた共同通信社の記者は,新潟地方裁判所所長の責任者としての見解を求めるだけではなく,「単純逃走罪は成立していないのにKさんを現行犯逮捕したのは,違法逮捕ではないかっ」と新潟県警察本部長をも吊し上げるべきであったようにも思われます。

 とはいえ,そう慌てて早合点で人を非難してはいけません。他の報道機関のウェッブ・サイトを見てみましょう。



(2)そのように読めるもの

 産経新聞のウェッブ・サイトの記事(20146271812分配信),時事通信のウェッブ・サイトの記事(同日1916分配信),毎日新聞のウェッブ・サイトの記事(同日2133分配信)を読んでも,前記日経=共同の記事を読んだときと同じ「違法逮捕?」という結論になります。



(3)既起訴事件に言及するもの及びそこからの推認

 朝日新聞のウェッブ・サイトの記事(同日1931分配信)を見ると,一連の報道は,新潟県警察新発田警察署の報道発表に基づいたもののようです。警察が自ら,「違法逮捕」を得々と自慢するのは変ですね。どうしたものかと記事を最後まで読むと,最後に「K容疑者はこれまで,別の2件の強姦(ごうかん)事件で起訴されている。」とあります。むむ,これはどういうことでしょうか。

 日本テレビ放送網のウェッブ・サイトは「勾留質問」を「拘留質問」とする誤記があったようですが(キャッシュに残っている。),現在は修正されていますね。それはそれとして(しかし,勾留と拘留とは全く異なります。後者は,1日以上30日未満刑事施設に拘置する刑罰ということになってしまいます(刑法16条)。),ここでも記事の最後に,「K容疑者は今月中旬,強姦などの罪で起訴され,その後わいせつ略取未遂の容疑で再逮捕されていた。」と記されています(2014627221分配信記事)。

 どうもK容疑者は,現在強姦罪で起訴されていて,既に被告人として勾留されていたようです。当該勾留については,刑事施設に引致されて,拘禁まで完了していたのでしょうから,確かにこの段階で逃亡すれば単純逃走罪は優に成立しますね。



(4)今回の最優秀記事

 となると,読売新聞のウェッブ・サイトの次の記事(「裁判所の窓から強姦男逃げた,5分後捕まった」。20146272116分配信)が,法律関係者の目からは,他の記事に比べて一番妥当な書き方であるもののように思われます。



  27日午後3時15分頃,新潟市中央区の新潟地裁で,強姦(ごうかん)容疑などで逮捕,起訴された男が,1階の窓から逃走した。

  男は約5分後に警察官らに取り押さえられ,逃走容疑で現行犯逮捕された。

  ・・・K被告は,わいせつ略取未遂容疑で再逮捕され,勾留質問を受けるために警察官と同地裁1階の勾留質問室に入室。手錠と腰縄を外され,裁判官の指示で警察官が室外に出た直後,窓の錠を開けて逃走した。

  ・・・



強姦罪での起訴に係る勾留から逃亡したのですから,それにより単純逃走罪を犯したK被告人はやはり「強姦男」ですよね(どぎつい見出しですが。)。「強姦(ごうかん)容疑などで逮捕,起訴された男」が,「強姦(ごうかん)容疑などで逮捕,起訴された勾留中の男」という記述になっていれば完璧だったのですが。しかし,逮捕されれば当然引き続き勾留されて身柄拘束が続いているものという前提で書くのが新聞記者業界のお約束なのでしょうか。被疑者を身柄拘束から解放するために努力している弁護人からすると,つらい世間常識です。



6 ちょっと単純ではない感想

それはともあれ,本件では,逃亡の場面が裁判所内での勾留質問の場という珍しい所であったというところに真っ先に目が行って,警察官らによるK被告人の身柄再確保に係る法律上の根拠にまで,多くの記者諸氏の頭は十分回らなかったものでしょうか。しかし,当該記事だけを読むと,新発田警察署は違法逮捕をしてしまったのではないかというあらぬ疑いを同署の警察官の方々にかけることになり,さらには司法試験受験生等を始めとする法律関係者の胸を無用にときめかせる(「違法逮捕?それとも俺の単純逃走罪の条文理解が間違ってたっけ?」)こととなるような記事の書き方はいかがなものでしょう。新潟地方裁判所の監督責任云々もありますが,プロであれば,誤解を招かないような記事を書くべき責任もあるわけです。報道機関の記者の方々向けの刑事法セミナーないしは手引き本というようなものも,あるいは企画として成り立ち得るものでしょうか。

たとい虚偽の事実が書かれていなくとも,必要な事実に言及されていないと,とんでもない結論が引き出され得てしまうものです。うそを一切言わずとも,必要な情報を与えないことによって人々を誤導する技術は,確か,「編集の詐術」といったように記憶します。編集の詐術に対しては,反対尋問,そして(悪魔の)弁護人は,やはり無用のものではないようです。

 最後にもう一点。K容疑者の単純逃走罪は既遂であったのか,未遂であったのかの問題があります。単純逃走罪の既遂時期については,「被拘禁者自身が,看守者の実力的支配を脱することである。それは一時的なものであっても足りる。実行の着手時期は,拘禁作用を侵害し始める時点であり,既遂時期は拘禁状態から完全に離脱した時点である。例えば,監獄の外塀を乗り越えれば,通常は既遂となる。しかし,追跡が継続している場合には実力支配を脱したとはいえない(福岡高判昭29112高刑集711)。追跡者が,一時逃走者の所在を見失っても実質的な支配内にある以上未遂である。」(前田528-529頁)とされています。したがって,K被告人の場合,精確には,単純逃走未遂罪で現行犯逮捕されたわけですね。ところで,単純逃走罪は状態犯(法益侵害などの結果発生による犯罪成立と同時に犯罪は終了し,その後は法益侵害の状態が残るにすぎないもの)であるとされています。ということであれば,単純逃走未遂犯の現行犯逮捕は当然可能であるとしても,既遂となった単純逃走犯の現行犯逮捕は概念上難しそうです。緊急逮捕(刑事訴訟法210条)も,単純逃走罪の法定刑は長期1年の懲役であって「長期3年以上の懲役若しくは禁錮にあたる罪」ではありませんから,単純逃走罪を理由としてはできません。勾留状を示しての原状回復か,逮捕状を取っての逮捕になるのでしょう(田宮前出95頁)。

弁護士 齊藤雅俊
大志わかば法律事務所
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1 第一次世界大戦勃発及びサライェヴォ事件の百周年

 今年(2014年)の6月28日は,第一次世界大戦の発端となったサライェヴォ事件から百周年に当たりますから,いろいろ記念行事がされるものと思います。

 当該事件は,1914年6月28日,快晴の日曜日,オーストリア=ハンガリー帝国領ボスニア(1908年に正式に併合)の主都サライェヴォ市を訪問中の同帝国皇嗣フランツ・フェルディナント大公及びその妻ゾフィーが無蓋自動車で移動中,同夫妻を,セルビア民族主義者の19歳の青年ガヴリロ・プリンツィプがピストルで撃って殺害したというもの。当該暗殺には隣国セルビアが関与していたとしてオーストリア=ハンガリー帝国政府はセルビア王国政府を非難。オーストリア=ハンガリー帝国からセルビア王国への最後通牒(同年7月23日)及びセルビア王国の最後通牒一部受諾拒否(同月25日)を経て,1914年7月28日,オーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に宣戦,第一次世界大戦が始まります。

 


2 サライェヴォ事件の事実関係に係る様々な記述

 サライェヴォ事件の具体的な事実関係を見てみましょう。まずは,我が国の標準的な歴史書における記述から。

 


  途中の道筋の変更されたことが運転手には徹底していなかった。陪乗の総督の声に注意され,あわてて方向転換するために車が速度をゆるめたとき,街路からこんどは銃声がおこった。やっぱり,この町は刺客でいっぱいなのだった。〔同じ午前,この前にも,大公夫妻の自動車にカブリノウィッチによって爆弾が投げつけられている。〕皇太子夫妻はしばらく端然としているように見えたが,妃のゾフィーは皇太子の胸に倒れかかり,やがて皇太子の口からは血がほとばしり出て,二人は折り重なって車中に倒れた。自動車はただちに病院に走ったが,傷は致命的だった。大公は,その途中でもみずからの痛みに耐えながら,

  「ゾフィー,ゾフィー,生きていておくれ,子供たちのために!」

 と妃を力づけていたが,まず大公妃が,数分後皇太子が絶命した。銃声がおこってから,わずかに15分ばかりののち,午前1130分ごろであった。

  犯人はガブリエル=プリンチプという19歳の学生であった。セルビア人であったが,国籍はオーストリアにあった。カブリノウィッチもプリンチプも,オーストリアの横暴とボスニアにおけるセルビア人の解放計画とを心にきざみつけられている民族主義者であった。(江口朴郎編『世界の歴史14 第一次世界大戦後の世界』(中公文庫・1975年(1962年))56頁(江口朴郎))

 


 さて,ここで法律家として気になるのは,銃声は1回(観念的競合)だったのか,複数回(併合罪)だったのか。

 


  ・・・しかし,彼の運転手は指示を受けていなかった。彼は間違った角を曲がり,そして車を止め,後退した。〔暗殺団の〕生徒の一人であるガヴリロ・プリンツィプ(Gavrilo Princip)は,自分でも驚いたことに,目の前に車が止まっているのを見た。彼は踏み板に上り(stepped on to the running-board),1弾でもって大公を殺し,前部座席のお付き(an escort)を狙ったが後部座席に座っていた大公の妻を2弾目で撃った。彼女もまた,即死に近い形で死亡した。サライェヴォにおける暗殺は,このようなものであった。(Taylor, A.J.P, The First World War (London, 1963), p.14

 


 2回のようです。

なお,プリンツィプの名がガブリエルであったりガヴリロであったりしますが,どちらも大天使ガブリエルと同じ名ということです。ガヴリロは,セルビア語形でしょうか。英語ならばガブリエルですから,前記日本の歴史書は,ひょっとすると英語文献に基づいて書かれたものなのでしょう。

しかしながら,サライェヴォ事件の顛末については,いろいろと脚色が加えられるに至っているようです。日本語版ウィキペディアで「サラエボ事件」の記事を見てみると,次のようにあります。

 


  ・・・一方,食事を摂るためにプリンツィプが立ち寄った店の前の交差点で,病院へ向かう大公の車が道を誤り方向転換をした事で,プリンツィプはその車に大公が乗っていることに偶然気がついた。ちょうどサンドイッチを食べた後だった彼はピストルを取り出して,車に駆け寄って1発目を妊娠中の妃ゾフィーの腹部に,2発目を大公の首に撃ち込んだ。大公夫妻はボスニア総督官邸に送られたが,2人とも死亡した。

 


 プリンツィプがサンドウィッチを食べていたという話が加えられ(世界史を変えたサンドウィッチということになりますから,大変興味深いエピソードですね。),撃たれた順序が,「大公が先,その妻が後」(Taylor)から「妻が先,大公が後」に変わり,更にフランツ・フェルディナントの妻ゾフィーは妊娠していたことにされています。ゾフィーはプリンツィプの狙撃目標でなかったように読めましたが(Taylor),プリンツィプは胎児もろとも意図的にその命を奪おうとしていたように読めます(後に見るようにゾフィーはオーストリア=ハンガリー帝国の皇族ではなく,その子に同帝国の皇位継承権はありませんでしたから,オーストリア=ハンガリー帝国にのみ抵抗する国事犯ならば,ゾフィー及びその胎児に危害を加えるべきものではなかったはずです。これではただの残忍な手当り次第の人殺しであって,犯情がはなはだ悪いです。)。(なお, キッシンジャーのDiplomacy (1994)では, 最初の暗殺失敗も含めて単独犯の犯行ということになっていて, サンドウィッチを食べているどころか, 午前中からカフェでお酒をあおっていたことになっています(Touchstone, p.209)。)

 有名な事件でも,事実認定の細部となると混乱していますね。

 しかし,この事実認定,外国での事件なので外国語での資料を見てみなければなりません。

 


3 外国語で作成された文書の証拠調べについて

ところで,ここで脱線ですが,我が国の裁判所での外国語の文書の取扱いについては,裁判所法74条が「裁判所では,日本語を用いる。」と規定していることとの関係で問題となります。

 


(1)民事訴訟の場合

 民事訴訟については,民事訴訟規則138条が次のように規定しています。

 


  (訳文の添付等)

 第138条 外国語で作成された文書を提出して書証の申出をするときは,取調べを求める部分についてその文書の訳文を添付しなければならない。〔後段略〕

 2 相手方は,前項の訳文の正確性について意見があるときは,意見を記載した書面を裁判所に提出しなければならない。

 


 「訳文の内容について当事者間に争いがないときは,基本的には訳文の正確性は問題にしないで,裁判所もその訳文に基づき審理を行うことが一般的であった」実務の取扱いが,明文で追認されています(最高裁判所事務総局民事局監修『条解民事訴訟規則』(司法協会・1997年)294頁)。すなわち,「訳文の正確性」は,当事者が気にしなければ裁判所は原則的に気にしないことになっているのですね。いちいち偉い翻訳者を雇わずとも,英語やらフランス語やらドイツ語について当ブログでよくあるように,訴訟代理人弁護士が自力で訳を作るということでよいようです。なお,訴状や準備書面については日本語を使用しなければならないことは,裁判所法74条により当然のこととされています(最高裁判所民事局監293頁)。

 


(2)刑事訴訟の場合

 刑事訴訟については,証拠書類又は証拠物中書面の意義が証拠となるものの取調べは公判廷において(刑事訴訟法2821項)その朗読(同法30512項,307条)又は要旨の告知(刑事訴訟規則203条の2)によってするものとされていますが,外国語による証拠書類等については,日本語の訳文の朗読(又はそれについての要旨の告知)がされなければならないことになります。「原文を合わせて朗読しなければならないかどうかについては,見解が分かれている」とされており,最高裁判所の昭和271224日判決(刑集6111380)を参照すべきものとされています(松本時夫=土本武司編著『条解 刑事訴訟法〔第3版増補版〕』(弘文堂・2006年)600頁)。当該昭和27年最高裁判所判決の「裁判要旨」は,「英文で記載した証拠書類がその訳文とともに朗読されている場合には,その証拠調をもつて裁判所法第74条に違反するものということはできない。」というものですから,原文の朗読は許容されているものであって必須ではないということでしょうか。ただし,当該判決の「裁判要旨」は敷衍されたものであって,判決の本文自体においては,「(なお,第一審判決が証拠としているCIDの犯罪捜査報告書とは犯罪調査報告として訳文のある調査報告書の一部を意味すること明らかであつて,これについては適法に証拠調べをしたことが認められる。)」と括弧書きで述べられているだけです。なお,訳文が添付されていない外国語による証拠書類等については,「国語でない文字又は符号は,これを翻訳させることができる。」とする刑事訴訟法177条に基づいて,裁判所は翻訳人に翻訳させることができます。上告趣意書(上告の申立ての理由を明示するもの(刑事訴訟法407条))について,「被告人本人は,上告趣意書と題する書面を提出したが,その内容は中国語で記載されており,日本語を用いていないから,裁判所法74条に違反し不適法である。従てこれに対し説明を与える限りでない。」と多数意見において判示した判例があります(最決昭和35年3月23日・刑集144439)。すなわち,日本語は,the Chinese languageの一種の方言であるわけではありません。

 


4 ウィキペディアと形式的証拠力

 また,民事訴訟法228条1項は,「文書は,その成立が真正であることを証明しなければならない。」と規定しています。ここでいう真正とは,「文書が挙証者の主張する特定人の意思に基づいて作成された場合に,訴訟上,その文書の成立が真正であるという」というものです(新堂幸司『新民事訴訟法 第二版』(弘文堂・2001年)541頁)。文書とは,「概ね,文字その他の記号の組合せによって,人の思想を表現している外観を有する有体物」と定義されています(司法研修所編『民事訴訟における事実認定』(法曹会・2007年)5253頁)。

 ウィキペディアの記事をプリント・アウトしたものを民事訴訟の場に証拠として提出する場合はどうなるのでしょうか。前記の「文書」の定義からすると,当該プリント・アウトは文書ということになるようです。そうなると,民事訴訟法228条1項によってその成立の真正を証明しなければならないようなのですが,ウィキペディアの記事は不特定の人々によって書かれたものですから,「特定人の意思に基づいて作成された」ものとはいえないようです。「例外的に,文書を特定人の思想の表現としてでなく,その種の文書の存在を証拠にする場合(たとえば,ビラや落書を当時の流行や世論の証拠として用る場合)は,それに該当する文書であれば足り,だれの思想の表現であるかは問題にならない」から,形式的証拠力(「文書の記載内容が,挙証者の主張する特定人の思想の表現であると認められること」)は問題にならない(新堂541頁),との解釈でいくべきでしょうか。なお,「現行民訴法には証拠能力の制限に関する一般的な規定はおかれておらず,自由心証主義の下,・・・証拠調べの客体となり得ない文書(証拠として用いられるための適格を欠く文書)は基本的に存在しないと解されてい」ます(司法研修所編72頁)。

 


5 サライェヴォ事件の事実関係に係るプリンツィプの伝記作家ティム・ブッチャーの主張 

 プリンツィプの伝記であるThe Trigger: Hunting the Assassin Who Brought the World to War” Chatto&Windus, 2014)を書いたティム・ブッチャーによれば(すなわち形式的証拠力のある(インターネット上の)文書(centenarynews.com, 28 May 2014)によれば),暗殺前にプリンツィプが街角のカフェにサンドウィッチを食べに立ち寄ったという事実はなく,プリンツィプは大公の車の踏み板に上ってはおらず(A.J.P. Taylorも余計なことを書いているわけです。),大公の妻ゾフィーは暗殺された時に妊娠しておらず,暗殺された夫妻の結婚記念日は6月28日ではなかったとされています。さらにブッチャーによれば,「逮捕されるプリンツィプ」として広く流布されている有名な写真に写っている人物は,実はプリンツィプではなく,別人であって,プリンツィプが群衆に殺されそうになっているのを止めようとして警察官に阻止されているサライェヴオの一市民Ferdinand Behrであるそうです。

 プリンツィプが暗殺前にサンドウィッチを食べていたという話は,暗殺の現場が,Schillerのデリカテッセン屋の前であったことから思いつかれたもののようです。英語でデリカテッセンといえば,まずはサンドウィッチが連想されるということでしょう。マイク・ダッシュ氏は(smithsonianmag.com, 15 September 2011),サンドウィッチのエピソードが広く流布したのは2003年の英国のテレビ・ドキュメンタリー番組“Days That Shook the World”で紹介されてからであろうとし,それ以前の段階では,ブラジルの娯楽小説『十二本指』(英訳本は2001年出版)において,フランツ・フェルディナントの暗殺直前に当該小説の主人公(左右の手それぞれに6本の指を持つプロの暗殺者。我がゴルゴ13のようなものか。)にサライェヴォの現場の街角で遭ったものとされたプリンツィプが,ちょうどサンドウィッチを食べていたというお話が描かれていた,と報告しています。

 ゾフィーの妊娠も,暗殺された時の年齢が,夫50歳,妻46歳であったことからすると,考えられにくいですね。

 


6 プリンツィプの犯罪に対する適用法条

 第一次世界大戦では何百万という人が命を落とすことになりましたが,この大惨事を惹き起こした当のプリンツィプはどうなったのでしょうか。暗殺直後にオーストリア=ハンガリー帝国の官憲に逮捕されたといいますから,裁判を経て死刑でしょうか。

これが当時の大日本帝国であれば,当然,死刑及びピストル没収でしょう。

 


(1)当時の日本法に準じた場合

 すなわち,フランツ・フェルディナントの殺害は我が刑法(明治40年法律第45号)旧75条(「皇族ニ対シ危害ヲ加ヘタル者ハ死刑ニ処シ危害ヲ加ヘントシタル者ハ無期懲役ニ処ス」)前段に当たり,ゾフィーの殺害は同法199条(「人ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ3年以上ノ懲役ニ処ス」)に当たり,両者は併合罪(同法45条)の関係になって(ピストルから1回撃った1個の銃弾で二人を殺したのではないから,観念的競合の場合(同法541項前段)には当たりません。),同法旧75条前段の死刑が科されて同法199条の刑は科されず(同法461項本文),暗殺に用いられたピストルは犯罪行為の用に供した物(同法1911号)ですから,当該ピストルが犯人以外の者に属するものでない限り(同条2項)没収され得ます(同条1項柱書き)。1914年当時,いまだ(旧)少年法(大正11年法律第42号)は制定されていません。

 なお,フランツ・フェルディナントはオーストリア=ハンガリー帝国の皇嗣ではありましたが,皇帝フランツ・ヨーゼフの甥ではあっても子でも孫でもないので,刑法旧73条(「天皇,太皇太后,皇太后,皇后,皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」)の適用はありません。明治の皇室典範15条は「儲嗣タル皇子ヲ皇太子トス皇太子在ラサルトキハ儲嗣タル皇孫ヲ皇太孫トス」と規定し,伊藤博文の『皇室典範義解』は同条につき「今既に皇位継承の法〔皇室典範〕を定め,明文の掲ぐる所と為すときは,立太子・立太孫の外,支系より入て大統を承くるの皇嗣は立坊の儀文に依ることを須ゐず。而して皇太子・皇太孫の名称は皇子皇孫に限るべきなり。」と解説しています。

 ゾフィーは身分が低いため皇族扱いされていなかったそうですから,皇族に係る刑法旧75条の保護対象にはなりません。明治皇室典範30条は,親王妃及び王妃(親王の妻及び王の妻)も皇族と称えるものとしていましたが,同39条は「皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ル」としており,正式な配偶者となり得る者の範囲は我が皇族についても限定されていました。とはいえ,我が明治皇室典範4条は「皇子孫ノ皇位ヲ継承スルハ嫡出ヲ先ニス皇庶子孫ノ皇位ヲ継承スルハ皇嫡子孫皆在ラサルトキニ限ル」と,同8条は「皇兄弟以上ハ同等内ニ於テ嫡ヲ先ニシ庶ヲ後ニシ長ヲ先ニシ幼ヲ後ニス」と規定しており,庶出であっても皇位継承権が否定されていたわけではありませんでした。しかしながら,これに対して,ハプスブルク家のフランツ・フェルディナントとゾフィーとの間に生まれる子については,オーストリア=ハンガリー帝国においては,厳しく,皇位継承権はないものとされていました。

 刑法199条の懲役刑の短期が3年から5年になったのは,平成16年法律第156号によるもので,2005年1月1日からの施行です(同法附則1条,平成16年政令第400号)。

 


(2)19世紀オーストリア=ハンガリー帝国法の実際

 しかしながら,オーストリア=ハンガリー帝国においては,プリンツィプは死刑にはなりませんでした。

 


  のちに二人〔プリンチプ及びカブリノウィッチ〕は未成年のため死刑をまぬかれ,20年の懲役を宣告されて入獄したが,いずれも肺結核患者であり,カブリノウィッチは1916年1月に,プリンチプは1918年春に病死して,この大戦の放火者たちは大戦の終結を知らずして短い生命を終わった。(江口編6頁(江口))

 


 当時のオーストリア=ハンガリー帝国の刑法はどうなっていたのか,ということが問題になります。訴訟の場面において,「法規を知ることは裁判官の職責であるから,裁判官は,当事者の主張や証明をまたずに知っている法を適用して差しつかえない」のですが,「外国法,地方の条例,慣習法などを知っているとは限らず,そのままではこれを適用されないおそれがあ」り,「そこで,その適用を欲する者は,その法の存在・内容を証明する必要があ」ります(新堂463頁)。

 1852年のオーストリア刑法52条後段は,次のとおり。

 


 Wenn jedoch der Verbrecher zur Zeit des begangenen Verbrechens das Alter von zwanzig Jahren noch nicht zurückgelegt hat, so ist anstatt der Todes- oder lebenslangen Kerkerstrafe auf schweren Kerker zwischen zehn und zwanzig Jahren zu erkennen.

 


 民事訴訟規則138条1項に従って訳文を添付すると,次のとおり。

 


 ―ただし,犯人が罪を犯す時20歳に満たない場合は,死刑又は無期禁錮刑に代えて,10年以上20年以下において重禁錮に処する。

 


 プリンツィプは1894年7月25日の生まれということですから,1箇月弱の差で死刑を免れました。(なお,プリンツィプが獄死したのは1918年4月28日とされていますが,「29日」とする人名事典が書店で見かけられたところです。)

 我が少年法(昭和23年法律第168号)51条1項は「罪を犯すとき〔ママ〕18歳に満たない者に対しては,死刑をもつて処断すべきときは,無期刑を科する。」と規定しています。これに比べて,オーストリア帝国は18歳と19歳とに対して優しかったわけです。

 しかし,我が旧刑法(明治13年太政官布告第36号)は次のように規定しており,その第81条を見ると,やはり犯行時満20歳になっていなかった者は最高刑の死刑にはならなかったようです(「本刑ニ1等ヲ減」じられてしまう。)。オーストリア刑法ばかりが20歳未満の者に対して優しいものであったというわけではありません。

 


79条 罪ヲ犯ス時12歳ニ満サル者ハ其罪ヲ論セス但満8歳以上ノ者ハ情状ニ因リ満16歳ニ過キサル時間之ヲ懲治場ニ留置スルヲ得

80条 罪ヲ犯ス時満12歳以上16歳ニ満サル者ハ其所為是非ヲ弁別シタルト否トヲ審案シ弁別ナクシテ犯シタル時ハ其罪ヲ論セス但情状ニ因リ満20歳ニ過キサル時間之ヲ懲治場ニ留置スルヲ得

若シ弁別アリテ犯シタル時ハ其罪ヲ宥恕シテ本刑ニ2等ヲ減ス

81条 罪ヲ犯ス時満16歳以上20歳ニ満サル者ハ其罪ヲ宥恕シテ本刑ニ1等ヲ減ス

 


 なお,1923年1月1日から施行された旧少年法は,次のように規定していました。16歳未満について原則として死刑及び無期刑がないものとされています。

 


 第7条 罪ヲ犯ス時16歳ニ満タサル者ニハ死刑及無期刑ヲ科セス死刑又ハ無期刑ヲ以テ処断スヘキトキハ10年以上15年以下ニ於テ懲役又ハ禁錮ヲ科ス

刑法第73条,第75条又ハ第200条ノ罪ヲ犯シタル者ニハ前項ノ規定ヲ適用セス

 


 ただし,第2項によれば,天皇及び皇族に対し危害を加え,若しくは加えようとし,又は尊属殺人を犯したときは,14歳以上でさえあれば(刑法41条),16歳未満であっても容赦はされなかったわけです。

 


7 暗殺者プリンツィプの情状に係る弁論

 現行犯ですから,フランツ・フェルディナント夫妻を殺害したという事実はなかなか争えません。プリンツィプの弁護人は,20年の重禁錮を何とか10年に近づけるべく,情状弁護で頑張ろうと考えたものでしょうか。

 情状として,どのような事項に着目すべきかについては,検察官の起訴裁量に係る刑事訴訟法248条がよく挙げられます。

 


 248条 犯人の性格,年齢及び境遇,犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは,公訴を提起しないことができる。

 


なるほど,ということになるわけですが。なおまだまだ抽象的です。この点,刑法並監獄法改正調査委員会総会決議及び留保条項に係る未定稿の改正刑法仮案(1940年)の次の条項は,具体的なものとなっており,参考になります。

 


 57条 刑ノ適用ニ付テハ犯人ノ性格,年齢及境遇並犯罪ノ情状及犯罪後ノ情況ヲ考察シ特ニ左ノ事項ヲ参酌スヘシ

  一 犯人ノ経歴,習慣及遺伝

  二 犯罪ノ決意ノ強弱

  三 犯罪ノ動機カ忠孝其ノ他ノ道義上又ハ公益上非難スヘキモノナリヤ否又ハ宥恕スヘキモノナリヤ否

  四 犯罪カ恐怖,驚愕,興奮,狼狽,挑発,威迫,群集暗示其ノ他之ニ類似スル事由ニ基クモノナリヤ否

  五 親族,後見,師弟,雇傭其ノ他之ニ類似スル関係ヲ濫用又ハ蔑視シテ罪ヲ犯シ又ハ罪ヲ犯サシメタルモノナリヤ否

  六 犯罪ノ手段残酷ナリヤ否及巧猾ナリヤ否

  七 犯罪ノ計画ノ大小及犯罪ニ因リ生シタル危険又ハ実害ノ軽重

  八 罪ヲ犯シタル後悔悟シタリヤ否損害ヲ賠償シ其ノ他実害ヲ軽減スル為努力シタリヤ否

 


 被告人プリンツィプの犯罪の決意は強いものでした(第2号)。オーストリア=ハンガリー帝国の統治を否認して,帝国の皇嗣を殺したのであるから帝国臣民としての忠の道に反するものであって,道義において言語道断(第3号),多文化多民族のヨーロッパ主義という公益にも反します(同号)。セルビア民族主義は,オーストリア=ハンガリー帝国当局の立場からすれば危険思想であって,それをもって宥恕するわけにはいかないでしょう。計画的犯行であって,恐怖,驚愕等によって犯されたものでは全くありません(第4号)。セルビア王国の要人の影までが背後にちらつく国際的陰謀の一環ということになれば,犯罪の計画は大であって,当該犯罪は帝国に危険をもたらし,かつ,害をなしたものであります(第7号)。また,プリンツィプは,セルビア民族主義の志士たらんと欲せば,当然悔悟の情など示さなかったものでしょう(第8号)。何だか検察官の論告になってきましたね,これでは。

 被告人プリンツィプは,本件犯行において,親族,後見,師弟,雇傭等の関係を濫用し,又は蔑視したわけではありません(第5号),と言ってはみても,だからどうした,マイナスがないだけだろう,ということになるようです。被告人プリンツィプは貧乏で,結核にかかった可哀想な少年なのです(第1号),本件犯行は失敗しかかっていた暗殺計画が偶然によって成功してしまったものであって,巧猾なものでは全くありません(第6号),といったことを強調したのでしょう,プリンツィプの弁護人は。

 


8 第一次世界大戦とオーストリア=ハンガリー帝国の実力

 さて,1914年7月28日のオーストリア=ハンガリー帝国のセルビア王国に対する宣戦布告に続く諸国の動きはどうだったというと,同月30日にロシアが総動員を発令,2日後の8月1日にはフランス及びドイツがそれぞれ総動員を発令して,同日,ドイツはロシアに宣戦を布告します。有名なシュリーフェン・プラン下にあったドイツ軍は,同月2日にルクセンブルクに,同月3日にはベルギーに侵入して,同日ドイツはフランスに宣戦を布告しました。同月4日には,英国の対独宣戦,ドイツの対ベルギー宣戦が続きます。しかして,そもそもの出火元であるオーストリア=ハンガリー帝国は,何をしていたのか。

 


  哀れな老オーストリア=ハンガリーは一番もたついた(took longest to get going)。すべての激動を始めた(started all the upheaval)のは同国であったのにもかかわらず,交戦状態に入ったのは最後になった(the last to be involved)。ドイツに促されてロシアに宣戦したのは,やっと8月6日だった。オーストリア=ハンガリー軍がセルビア侵攻のためにドナウ川を渡ったのは8月11日であったが,結果は芳しくなかった(to no good purpose)。2箇月ほどのうちにオーストリア=ハンガリー軍は撃退され(thrown out),セルビア軍はハンガリー南部に侵入した。(Taylor, p.21

 


 ドイツはなぜ,上記「ぬるい」有様であるオーストリア=ハンガリー帝国の側に立って,第一次世界大戦のドンパチを始めてしまったのでしょうかねぇ。7月28日の宣戦に続くべき大国オーストリア=ハンガリー帝国から小国セルビア王国への武力攻撃に対して,スラヴ民族・正教徒仲間のロシア帝国がセルビア王国のための集団的自衛権発動の準備として総動員を発令したところ,それがドイツ帝国の軍部を刺激して,対仏露二正面作戦のシュリーフェン・プラン発動のボタンを押させてしまったということでしょうか。結果として見れば,ロシアの助太刀がなくとも,セルビア軍はオーストリア=ハンガリー帝国軍相手に結構いい勝負ができていたかもしれないように思われます。

 


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(後記)上掲の写真のサンドウィッチは,世界史を大きく変えたものではありませんが,依頼者さまの正当な利益の実現のために入念の訴状を仕上げるに当たって,精力的に仕事をこなすために必要なエネルギーを補給してくれたものです。ただし,弁護士(avocat)がアボカド(avocat)・サンドウィッチを食べたのですから,フランス語的には共食いですね。(相手方の訴訟代理人弁護士(avocat)の先生には申し訳ありません。)

 赤くつややかな大粒のさくらんぼは,以前の法律相談の依頼者の方から,お礼にということで頂いたものです。今後とも,依頼者の皆さまの信頼に応え,満足していただける仕事を続けていこうと,甘くおいしいさくらんぼを次々と口に運びながら,改めて心に誓ったものでした。

 本ブログの読者の方の中にも,法律関係で何か問題等を抱えることになってしまった方がいらっしゃいましたら,お一人で悩まずに,ぜひお気軽にお電話ください。

 


弁護士 齊藤雅俊

 大志わかば法律事務所

 東京都渋谷区代々木一丁目57番2号ドルミ代々木1203

 電話: 0368683194

 電子メール: saitoh@taishi-wakaba.jp

 


1 様々な鉄道オタク

 大志わかば法律事務所は,JR代々木駅北口からすぐ,山手線沿いにあるので,事務所にいると一日中ガタンゴトンと電車の音が聞こえてきます。JR東日本の本社も近くにあります。鉄道ファンの人にとっては好立地でしょう。

しかし,一口に鉄道ファンといっても,いろいろな種類の人がいるようです。

 ウィキペディアの「鉄道ファン」項目の記事によれば,いわゆる「鉄」にも,「車両鉄」,「撮り鉄」,「音鉄」,「蒐集鉄」,「乗り鉄」,「降り鉄」,「駅弁鉄」,「時刻表鉄」,「駅鉄」等と呼ばれる様々な人々がいるそうです。女性の場合は,「鉄子」ですか。

 しかし,「鉄道関係法オタク」というジャンルは,いまだに大々的には認知されていないようですね。(ただし,「法規鉄」という細分類があるようではあります。)

 鉄道関係法の世界は,19世紀末年制定の鉄道営業法(明治33年法律第65号)がなお現役で頑張っていたりして,なかなか味わい深いものがあります。しかし,さすがに片仮名書き文語体の古色蒼然たる鉄道営業法に代表される法律分野は敬遠されてしまうということでしょうか。確かに,鉄道営業法に関する解説書は古いものばかりです。

 


2 伊藤榮樹元検事総長と鉄道関係法

 ところが意外なところに鉄道関係法オタクがいるもので,故伊藤榮樹元検事総長がその一人であったようです。伊藤榮樹=河上和雄=古田佑紀『罰則のはなし(二版)』(大蔵省印刷局・1995年)におけるエッセイで,伊藤元検事総長は,新幹線鉄道における列車運行の安全を妨げる行為の処罰に関する特例法(昭和39年法律第111号)の立法について(20頁以下),鉄道営業法26条の「鉄道係員旅客ヲ強ヒテ定員ヲ超エ車中ニ乗込マシメタルトキハ30円以下ノ罰金又ハ科料ニ処ス」との規定とラッシュ時の「尻押し部隊」との関係について(48頁以下),同法38条の「暴行脅迫ヲ以テ鉄道係員ノ職務ノ執行ヲ妨害シタル者ハ1年以下ノ懲役ニ処ス」との規定と刑法208条(暴行。2年以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料),222条1項(脅迫。2年以下の懲役又は30万円以下の罰金),234条(威力業務妨害。3年以下の懲役又は50万円以下の罰金)及び95条1項(公務執行妨害。3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金)との関係について(54頁以下)解説しています。実は,『注釈特別刑法 第六巻Ⅱ 交通法・通信法編〔新版〕』(伊藤榮樹=小野慶二=荘子邦雄編,立花書房・1994年)における鉄道営業法の罰則の解説は,伊藤元検事総長が執筆したものでした(河上和雄補正)。

 なお,伊藤元検事総長によれば,鉄道営業法26条の罰則と「尻押し部隊」との関係については,「旅客が自発的に定員を超えて乗り込もうとする場合において,それが社会常識上相当とされるときに,旅客の意思にこたえて,これを乗り込ませるべく助力する行為も,「強ヒテ」の要件を欠き,本条の罪は成立しないものと解すべきである。」とされ(伊藤=小野=荘子10頁),同法38条の罪と刑法の暴行罪,脅迫罪,威力業務妨害罪又は公務執行妨害罪との関係は,現在はいずれも観念的競合(刑法541項前段)になるものとされています(伊藤=小野=荘子3536頁)。

 


3 鉄道営業法と軌道法

 鉄道営業法の性格について,伊藤元検事総長の解説にいわく。

 


  鉄道営業法は,鉄道に関する基本法として制定され,鉄道の責任,旅客・荷主との契約関係(この点では,商法の運送契約に関する規定の特別法の性格を持つ。),鉄道係員の服務,旅客・公衆及び鉄道係員に対する罰則等を規定している。

鉄道とは,レールを敷設し,その上に動力を用いて車両を運行させ,旅客・荷物を運送する設備をいう。それは地方公共団体その他の公共団体又は私(法)人が経営する鉄道とを含む。軌道法による軌道は,鉄道と似ているが,鉄道が原則として道路に敷設することができない(〔旧〕地方鉄道法4参照)のに対し,軌道は,原則として道路に敷設すべきものとされる(軌道2)ところから,沿革的に道路の補助機関として観念されたため,法制上鉄道とは別個のものとして取り扱われている。(伊藤=小野=荘子3頁)

 


鉄道営業法は,当該鉄道が一般公衆によって利用されるものである限り,公有鉄道又は私人所有の鉄道であろうと,そのすべてに適用される。しかし,「鉄道」にあたらない軌道については,原則として適用されない(182参照)。(伊藤=小野=荘子4頁)

 


 軌道の典型は路面電車です(伊藤「古い話,つづき」伊藤=河上=古田47頁参照)。軌道法(大正10年法律第76号)2条には「軌道ハ特別ノ事由アル場合ヲ除クノ外之ヲ道路ニ敷設スヘシ」とありますから,道路上に敷設されるものである軌道を走る路面電車には,鉄道営業法ではなく軌道法が適用されるわけです。

それでは道路下に敷設されるものの場合はどうかといえば,「もともと〔旧〕建設省(以前の内務省)の主張では,道路下の地下鉄は「鉄道」ではなく「軌道」とするのが正しいとされ」ているそうです(和久田康雄『やさしい鉄道の法規―JRと私鉄の実例―』(交通研究協会・1997年)11頁)。とはいえ,普通,地下「鉄道」は軌道ではなく鉄道として,鉄道事業法(昭和61年法律第92号)61条1項(「鉄道線路は,道路法(昭和27年法律第180号)による道路に敷設してはならない。ただし,やむを得ない理由がある場合において,国土交通大臣の許可を受けたときは,この限りでない。」(旧地方鉄道法(大正8年法律第52号)4条と同旨))のただし書の許可を受けて道路の下にその「鉄道線路」を敷設しています(和久田12頁)。ただし,「大阪市営の地下鉄だけは当時の内務省の指導が強かったのか,伝統的に「軌道」となっている」そうです(和久田11頁)。

 なお,鉄道営業法18条ノ2は「第3条,第6条乃至第13条,第14条,第15条及第18条ノ規定ハ鉄道ト通シ運送ヲ為ス場合ニ於ケル船舶,軌道,自動車又ハ索道ニ依ル運送ニ付之ヲ準用ス」と規定しています。

 


4 キセル乗車等をめぐって

 


(1)キセル乗車:有人改札の場合

 ところで,検事総長御専門の刑事法,なかんずく刑法と鉄道といえば,刑法11章の往来を妨害する罪のうちの第125条以下が有名ですが,刑法246条2項(「前項の方法により〔=「人を欺いて」〕,財産上不法の利益を得,又は他人にこれを得させた者も,同項と同様とする〔=「10年以下の懲役に処する」〕。」)の二項詐欺との関係で,キセル乗車に係る詐欺利得罪の成否が一つの論点になっており,法学部の刑法の授業で学生たちは混乱しつつ,いろいろ頭をひねるものです。高等裁判所の判例が分かれているからです。

 (なお念のため,キセル乗車とは,乗車駅(A)からの短区間(AB)の乗車券と降車駅(Z)までの短区間(YZ)の乗車券とをそれぞれ持ち,それらの乗車券でカヴァーされていない間の区間(BY)については無賃乗車をすることです。刻みたばこを吸うための道具であるキセル(煙管)は,たばこを詰める雁首と喫煙者が口をつける吸い口とだけが金属でできていて,その間をつなぐ羅宇(らお)は金属ではない竹であることから,最初と最後との部分だけについて乗車券を買って金を払う不正乗車をキセル乗車と呼ぶようになったものです。)

 


 刑法学の教授いわく。

 


  判例上,キセル乗車の下車時に処分行為を認めることが困難であったため(⇒275頁〔「下車駅の改札係員は,改札口を通しはするが,不足運賃を請求しないという意味で通しているわけではなく,不足運賃を免除するという明確な意思表示があったとはいえないので,詐欺罪の成立を否定した判例も多かった(東京高判昭35222東高刑時報11243,広島高松江支判昭51126高刑集294651)。」〕),乗車駅の行為について詐欺罪を認めようとする判例がみられた。大阪高判昭和44年8月7日(刑月18795)は,キセル乗車の意図で提示された乗車券は,旅客営業規則により本来無効であり,そのような提示行為自体が欺罔行為にあたり,改札係員が入場させた行為および国鉄職員による運送が処分行為に該当するとした。このように考えると,輸送の利益を得た時点,すなわち列車が動いた時点でⅡ項詐欺が既遂となる。しかし,このような構成は,処分者が誰なのかという点に曖昧さを残す。そこで,処分者は被欺罔者と同様,改札係員だと考えると,改札係は被告人に財産的利益を与えていない。一般の入場券入場者の利益しか与えていないからである。そこで,実質的な処分行為は,輸送を担当した乗務員が行ったといわざるを得ない。しかし,そうなると被欺罔者と処分者が異なってしまう。そこで,広島高松江支判昭和5112月6日(高刑集294651)は,「処分行為者とされる乗務員が被欺罔者とされる改札係員の意思支配の下に被告人を輸送したとも認められない」とし,キセル乗車については,欺罔行為により生じた錯誤に基づいた処分が為されなければならない詐欺罪は成立し得ないと判示したのである。被欺罔者と処分者をともに旧国鉄と解することも考えられるが〔昭和44年8月7日の大阪高等裁判所判決は,二項詐欺は「被欺罔者以外の者が・・・処分行為をする場合であっても,被欺罔者が日本国有鉄道のような組織体の一職員であって,被欺罔者のとった処置により当然にその組織体の他の職員から有償的役務の提供を受け,これによって欺罔行為をした者が財産上の利益を得・・・る場合にも成立する」と説いていた。〕,詐欺の錯誤はやはり自然人について考えられるべきであろう。そうだとすると,乗車時に詐欺罪を認めることはかなり困難である。(前田雅英『刑法各論講義[第4版]』(東京大学出版会・2007年)278頁)

 


理屈っぽいですね。詐欺罪が成立するためには「欺罔行為により生じた錯誤に基づいた処分が為されなければならない」という各行為及びそれらの行為の間の因果連鎖がなければならないところが難しさの原因です。

 


(2)キセル乗車:磁気乗車券と自動改札機の場合

ところで,改札係の自然人を欺罔して,その結果同人を錯誤に陥らせて,その結果同人に処分をさせて,その結果財産上不法の利益を得ることになったのかどうかが問題になったキセル乗車ですが,「改札の機械化により問題は減少した」(前田267頁)とされています。確かに,自然人に対する欺罔行為以下が問題となる二項詐欺は,人にあらざる自動改札機相手には問題にならないのは当然です。そこで今度は,昭和62年法律第52号で追加(1987622日から施行)された刑法246条の2の電子計算機使用詐欺の成否が問題になることになりました。

 


246条の2 前条に規定するもののほか,人の事務処理に使用する電子計算機に虚偽の情報若しくは不正な指令を与えて財産権の得喪若しくは変更に係る不実の電磁的記録を作り,又は財産権の得喪若しくは変更に係る虚偽の電磁的記録を人の事務処理の用に供して,財産上不法の利益を得,又は他人にこれを得させた者は,10年以下の懲役に処する。

 


第7条の2 この法律〔刑法〕において,「電磁的記録」とは,電子的方式,磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られる記録であって,電子計算機による情報処理の用に供されるものをいう。

 


東京地方裁判所平成24年6月25日判決(判タ1384363)は,有効乗車区間の連続しない磁気乗車券を用いていわゆるキセル乗車を行い,途中運賃の支払を免れる行為は,事実と異なる入場(乗車駅)情報の記録された磁気乗車券を下車駅の自動改札機に読み取らせることにより虚偽の電磁的記録を人の事務処理の用に供したといえるから,刑法246条の2後段の罪が成立すると判示しています(被告人は最高裁判所まで争ったものの,有罪が確定)。(なお,磁気乗車券ですから,Suica, PASMOの類(以下「Suica等」)ではありません。)確かに,下車駅の自動改札機が扉を閉ざさずに乗客を外に出してくれるときは,人間の改札係のように「改札口を通しはするが,不足運賃を請求しないという意味で通しているわけではなく,不足運賃を免除するという明確な意思表示があったとはいえない」といい得ることにはならないでしょう。下車駅の自動改札機の電子計算機は,しっかりと,各乗客につき不足運賃がないかどうかいちいち確認し,不足運賃がないと判断した上で運賃精算を請求しないという「意思」でもって,扉を開いたままにしておくのでしょう。人の場合における「欺かれなかったならば,出場を拒否し運賃の支払を要求したであろう状況のもとで,欺罔された結果,出場を許容しているのであるから不作為の処分行為に該当する」(前田276頁)場合に相当するものといい得るものでしょう。

なお,刑法246条の2にいう「虚偽の情報」について,最高裁判所平成18年2月14日決定(刑集602165)は,窃取したクレジットカードの名義人氏名,番号及び有効期限を冒用してインターネットでクレジットカード決済代行業者の電子計算機に入力送信して電子マネー利用権を取得した行為について,「被告人は,本件クレジットカードの名義人による電子マネーの購入の申込みがないにもかかわらず,本件電子計算機に同カードに係る番号等を入力送信して名義人本人が電子マネーの購入を申し込んだとする虚偽の情報を与え」たものと判示しています。窃取されたクレジットカードの名義人,番号及び有効期限自体はそれとしてはその通りであるから「虚偽の情報」には当たらない,とはいえないというわけです。

 


(3)自動改札機の強行突破:磁気乗車券の場合

 


ア 鉄道営業法29

東京地方裁判所平成24年6月25日判決の事案は,小賢しく複数の磁気乗車券を使って,自動改札機の電子計算機を「欺罔」したケースでした。

それでは,もっと素朴に,うっかり乗り越してしまった場合において,入場に使った磁気乗車券をそのまま下車駅の自動改札機に挿入し,自動改札機が,乗り越しであって不足運賃があるものと正しく判断し,不足運賃の支払を求めて扉を閉ざしたにもかかわらず,えいままよとその扉を突破して出場したときはどうなるでしょうか。乗り越した旨をはっきり正直に示す磁気乗車券を自動改札機に挿入していますから,刑法246条の2後段の「虚偽の電磁的記録を人の事務処理の用に供した」わけではありません。同条の罪は成立しないように思われます。とはいえドロボー行為ではあります。しかし,刑法235条には「他人の財物を窃取した者は,窃盗の罪とし,10年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。」とあって,物(「財物」)ではない財産上の利益(不足運賃の踏み倒し等)は,そもそも同条で罰せられる窃盗の対象として考えられていません。「タクシーの代金を踏み倒す行為,キセル乗車も,不正に運行の利益を受ける行為と評価しうる」ものとされていて(前田182頁),財物の窃取にはなりません。利益窃盗は,「立法者が明確に不可罰としている」ものです(前田275頁)。

ここで登場するのが,鉄道営業法29条です。

 


29 鉄道係員ノ許諾ヲ受ケスシテ左ノ所為ヲ為シタル者ハ50円以下ノ罰金又ハ科料ニ処ス

 一 有効ノ乗車券ナクシテ乗車シタルトキ

 二 乗車券ニ指示シタルモノヨリ優等ノ車ニ乗リタルトキ

 三 乗車券ニ指示シタル停車場ニ於テ下車セサルトキ

 


30条ノ2 前2条ノ所為ハ鉄道ノ告訴アルニ非ザレバ公訴ヲ提起スルコトヲ得ズ

 


15 旅客ハ営業上別段ノ定アル場合ノ外運賃ヲ支払ヒ乗車券ヲ受クルニ非サレハ乗車スルコトヲ得ス

  〔第2項略〕

 


    罰金等臨時措置法(昭和23年法律第251号)

第2条 刑法(明治40年法律第45号),暴力行為等処罰に関する法律(大正15年法律第60号)及び経済関係罰則の整備に関する法律(昭和19年法律第4号)の罪以外の罪(条例の罪を除く。)につき定めた罰金については,その多額が2万円に満たないときはこれを2万円とし,その寡額が1万円に満たないときはこれを1万円とする。〔ただし書省略〕

  〔第2項以下略〕

 


鉄道営業法29条は,「旅客の不正乗車を禁ずるための罰則規定」で,「不正乗車のうち刑法246条2項で処罰できないものを処罰する規定,つまり,刑法246条2項の補充規定の性格を有するもの」とされています(伊藤=小野=荘子15頁)。鉄道営業法29条の罪は故意犯です(伊藤=小野=荘子16頁)。なお,同条の「鉄道係員」は,「鉄道の運輸,運転,保線,電気その他の分野,すなわち,現場において,直接,間接に鉄道運送の業務に従事するいわゆる現業員」のうち同条各号の行為について許諾を与える権限を有する係員ということになります(伊藤=小野=荘子16頁,6頁)。

鉄道営業法29条の「適用をみることとなる典型的なもの」としては,「駅員が不在,あるいは居ねむりをしている隙に有効な乗車券なしに乗車する,普通乗車券でグリーン車に乗るなど」が挙げられています(伊藤=小野=荘子17頁)。

キセル乗車に係る東京高等裁判所の昭和35年2月22日判決は,「乗客が下車駅において〔乗り越し〕精算することなく,恰も正規の乗車券を所持するかのように装い,係員を欺罔して出場したとしても,係員が免除の意思表示をしないかぎり,・・・正規の運賃は勿論,増運賃の支払義務は依然として存続し,出場することによってこれを免れ得るものではないから,これを以て財産上不法の利益を得たものということはできない。」として,刑法246条2項の詐欺利得罪の成立を否定しましたが,鉄道営業法29条の罪は成立するものとしています(伊藤=小野=荘子17頁参照)。磁気乗車券で乗り越してしまって下車駅の自動改札機を強行突破するときも鉄道営業法29条の罪は成立するでしょう。天網恢恢疎にして漏らさず,しっかり鉄道営業法29条が控えているわけでした。

 


イ 身柄の拘束の可否に係る刑法246条・246条の2と鉄道営業法29条との相違

しかし,刑法246条2項及び246条の2の罪の罰は10年以下の懲役であるのに対して,鉄道営業法29条の罪の罰は2万円以下の罰金(罰金等臨時措置法21項)又は科料(1000円以上1万円未満(刑法17条))にすぎません。この刑の相違は,刑事手続上も大きな違いを生みます。

まず,二項詐欺又は電子計算機使用詐欺の場合は,公訴時効は7年(刑事訴訟法25024号)であって,逮捕状を待たずの緊急逮捕もできる(同法2101項)ところです。

ところが,これに対して,鉄道営業法29条の罪の場合は,公訴時効は3年にすぎず(刑事訴訟法25026号),緊急逮捕はおろか現行犯逮捕もできず(同法217条。「犯人の住居若しくは氏名が明らかでない場合又は犯人が逃亡するおそれがある場合」を除く。),逮捕状による逮捕もできず(同法1991項ただし書(被疑者が定まった住居を有しない場合又は正当な理由がなく検察官,検察事務官若しくは司法警察職員による取調べのための被疑者に対する出頭の求め(同法198条)に応じない場合を除く。)),勾留もされません(同法603項(被告人(又は被疑者(同法2071項))が定まった住居を有しない場合を除く。))。となると,うっかり乗り越してしまって,磁気乗車券が挿入された自動改札機の扉がバタンと閉まったにもかかわらず,ズイと図々しく出場したときに,「ちょっとあんた,何してるの。鉄道営業法29条違反の犯罪だよ。」と呼び止められても,堂々と氏名を名乗り,住所を告げ,「逃げも隠れもしない。ただ,今は所用があるのでちょっと失礼する。」と高々と宣言すれば,身柄が拘束されることもなく,すたすたと立ち去ることができるということでしょうか。しかも,鉄道営業法29条の罪は親告罪(同法30条ノ2)なので,捜査当局は被疑者の身柄拘束にますます慎重にならざるを得ません。犯罪捜査規範(昭和32年国家公安委員会規則第2号)121条は「逮捕状を請求するに当つて,当該事件が親告罪に係るものであつて,未だ告訴がないときは,告訴権者に対して告訴するかどうかを確かめなければならない。」と規定しています。告訴権者から「告訴しません。」という返事があってもやはり逮捕状を請求するというのであれば同条の意味は無いでしょう。鉄道営業法29条の罪に係る親告罪の告訴期間は,告訴権者が「犯人を知つた日から6箇月」です(刑事訴訟法2351項)。

 


ウ 鉄道の場合と軌道の場合との相違

ところでそういえば,大阪市営地下鉄は軌道でした。下車駅における自動改札機強行突破を刑罰の威嚇をもって制止すべく,軌道法にもやはり鉄道営業法29条に相当する規定があるのでしょうか。(なお,都市モノレールの整備の促進に関する法律(昭和47年法律第129号)にいう都市モノレールも「支柱が道路面を占めていることから軌道」とされているそうです(和久田13頁)。ちなみに,同法に係る旧運輸省と旧建設省との「都市モノレールに関する覚書」締結までは,関東の京浜急行電鉄の大師線,関西の京阪電気鉄道の京阪線・宇治線,阪急電鉄の宝塚線・箕面線・神戸線・今津線・伊丹線・甲陽線,阪神電気鉄道の全線,能勢電気軌道の妙見線及び山陽電気鉄道の本線も,軌道であったそうです(和久田1213頁)。)

しかし,どういうわけか,軌道法には,鉄道営業法29条に相当する罰則が見当たりません。日本国憲法(736号ただし書参照)の施行の結果効力を失った罰則(和久田156頁)が並んでいる軌道運輸規程(大正12年鉄道省令第4号)の第4章にもありません(なお,また古い話ですが,軌道運輸規程4章は明治23年法律第84号(命令の条項違犯に関する罰則の件)に基づいていたもののようです。ちなみに,明治23年法律第84号については,佐藤幸治教授による『デイリー六法』の「創刊時はしがき」を参照。また,昭和22年法律第72号1条参照)。

これはどういうことでしょうか。鉄道営業法29条,15条1項及び18条ノ2を見比べながら考えると,どうも同法29条は乗車券の存在を前提とした規定であるということのようです。通し運送の場合に係る同法18条ノ2によって,乗車券の必要に係る同法15条1項が軌道に準用されるものとされているところからすると,鉄道との通し運送のときを除けば,軌道の乗客は乗車券を持たないことが原則であるようです。路面のチンチン電車を利用するのに鉄道のように事前に運賃を前払していちいち乗車券を買うということはない,ということは,確かにもっともではあります(ただし,前記の軌道運輸規程の第62項,第8条などは「乗車券」に言及してはいます。)。

それでは,「乗車券」とは何でしょうか。鉄道営業法2条1項で「本法其ノ他特別ノ法令ニ規定スルモノノ外鉄道運送ニ関スル特別ノ事項ハ鉄道運輸規程ノ定ムル所ニ依ル」と定められている鉄道運輸規程(法令番号は昭和17年鉄道省令第3号ですが,国土交通省令です(同条2項)。)の第12条は,「乗車券ニハ通用区間,通用期間,運賃額及発行ノ日附ヲ記載スルコトヲ要ス但シ特別ノ事由アル場合ハ之ヲ省略スルコトヲ得」と規定しています(軌道運輸規程には同条に対応する条項は見当たらず。)。換言すれば,通用区間,通用期間,運賃額及び発行日付の記載があって初めてまっとうな乗車券になるということでしょう。「乗車券ニ指示シタル停車場ニ於テ下車セサルトキ」には処罰されるべき旨を定める鉄道営業法29条3号の規定は,正に「通用区間」が乗車券に記載されていることを前提としているもののようです。

(なお,明治33年逓信省令第36号の旧鉄道運輸規程14条(「乗車券ニハ通用区間及期限,客車ノ等級,運賃額並発行ノ日附ヲ記載スヘシ/特殊及臨時発行ノ乗車券ニ在リテハ前項ノ記載事項ヲ省略スルコトヲ得」)に関して,「乗車券は運賃の領収証となり又通用区間の通券となるものなれは記載の事項を一定し,旅客をして一見誤謬なからしむることを要す,是れ本条に於て特に其の記載すへき事項を規定したる所以」と説明されていました(帝国鉄道協会『鉄道運輸規程註釈』(帝国鉄道協会・1901年)11頁)。)

 


(4)自動改札機の強行突破:Suica等のSFサービスの場合

鉄道営業法29条が乗車券を前提としているのならば,乗車券を使わずに鉄道を利用する場合には同条の罰則の適用があるのかどうかが問題になります。例えば,Suica等のSFStored Fare)サービスを利用して,入金(チャージ)し置いた金額での精算払い方式で電車に乗るときは,これは乗車券を持って乗車することになるのかならないのか。鉄道営業法15条1項は,「営業上別段ノ定アル場合」は乗車するのに乗車券を受ける必要がないとわざわざ規定してくれていますから,無理にSF利用時のSuica等をもって乗車券と観念する必要はないように思われます。いわんや,SFサービス利用時のSuica等のカード上には当該利用に係る「通用区間」は記載されず,また,当該利用時において下車すべき「停車場」も指示されざるにおいておや。Suica等のSFサービスを使って電車に乗ったが下車駅で自動改札機に入金額不足だと扉を閉められたので,そこでままよと自動改札機をそのまま突破したという場合には,鉄道営業法29条の適用もない,とのもっともらしい主張も一応はでき得るように思われます。(そもそも軌道には鉄道営業法29条又は同条同様の罰則の適用がないというのであれば,Suica等のSFサービス利用のときに同条の適用がないものとしても,同条の適用がある磁気乗車券の場合との不均衡をそれほど気にする必要はないということになるようでもあります。)

 


5 車内で一杯

 さてさて,いつものように長い記事でお疲れさまです。(これ以上長過ぎると,ブログにアップロード不能になるようです。)

 たまたま長距離列車に乗って旅をされている読者の方は,ここで持参のお酒を取り出して,ほっと一杯やりたくなりませんか。

 鉄道旅行のよいところは,事故を起こさないようにしらふで緊張して車を運転して,移動するだけでへとへとになるドライブ旅行とは違って,車窓風景をゆったりと味わいつつ,いい気分でお酒を楽しめることではないでしょうか。

 とはいえ,持参のお酒は残さず飲まなければなりません。

 多少量が多くても,がまんして飲み干すことが期待されます。

 鉄道運輸規程23条1項を御覧ください。

 


 23 旅客ハ自ラ携帯シ得ル物品ニシテ左ノ各号ノ一ニ該当セザルモノニ限リ之ヲ客車内ニ持込ムコトヲ得

  一 〔略〕

  二 酒類,油類其ノ他引火シ易キ物品但シ旅行中使用スル少量ノモノヲ除ク

  〔第3号から第7号まで略〕

 


 実はお酒は,飲まないならば,客車内持込禁止なのです。

 持ち込んだ以上は,そのお酒は,「旅行中使用スル少量ノモノ」なのです。

 ということは,鉄道旅行に向け準備したお酒は,車内で全部飲み干してしまって,「少量だったねぇ」と名残を惜しむものだということになるのです。

 


 しかしここから先は,「呑み鉄」の世界になるようです。


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多摩モノレール(立川北駅):ただし,これは,鉄道ではなく軌道です。

1 国民の祝日に関する法律に定める休日と死刑不執行

 「国民の祝日」と刑事弁護との関係について前回の記事で少し触れるところがありました。しかし,死刑廃止論者の方々は,国民の祝日に関する法律に規定する休日の拡大は歓迎されるのではないでしょうか。刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律(平成17年法律第50号)178条2項が次のように規定しているからです。



  日曜日,土曜日,国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)に規定する休日,1月2日,1月3日及び1229日から1231日までの日には,死刑を執行しない。



 なお,死刑の執行について,刑事訴訟法は次のように規定しています。



 475 死刑の執行は,法務大臣の命令による。

   前項の命令は,判決確定の日から6箇月以内にこれをしなければならない。〔以下略〕



 476 法務大臣が死刑の執行を命じたときは,5日以内にその執行をしなければならない。



しかし,死刑廃止は「世界の大勢」です。ギロチンでルイ16世以下多数の人々をどしどし処刑したフランス人まで,なぜ日本は死刑を廃止しないのかなどと言います。



  Pourquoi n’abolissez-vous pas la peine de mort au Japon? La peine de mort, c’est inhumaine, n’est-ce pas?



 しかし,死刑をしないという点については,日本の政府には過去に実績があります。フランス人に教えを垂れられる必要はありません。



  Nous l’avons fait une fois. Notre ancien gouvernement bouddhiste suspendait l’exécution capitale du neuvième siècle au douzième siècle. Car on avait peur des esprits mauvais des morts autrefois. Mais, sans la peine capitale, ça ne marchait pas.



 実際の会話では,つっかえつっかえなのですが,このように,日本国では9世紀から12世紀まで死刑が停廃されていた云々と何やら難しいことを言い出すと,むこうも閉口してくれます。

 一般的には,9世紀初めの薬子の変から12世紀半ばの保元の乱までが我が国における死刑停廃期間とされています。



  ・・・たとえ二,三の民族がほんの短い間にせよ,死刑を廃止していたのだとしたら,私は人類のためにこのことをほこりに思う。人類をおおっている暗愚の長い夜のさなかに,たった一すじだけかがやいているのが,こうした偉大な真理の運命なのだ。(ベッカリーア『犯罪と刑罰』(岩波文庫・1959年)101頁)



2 保元の乱

 保元の乱は,共に待賢門院を母とする崇徳上皇(顕仁)と後白河天皇(雅仁)の兄弟(ただし,待賢門院を中宮とした鳥羽天皇から見ると,雅仁は子であるが,顕仁は叔父子であって疎外の対象でした。なお,待賢門院は,先月(20144月)30日に亡くなった渡辺淳一の小説『天上紅蓮』のヒロインです。)をそれぞれ擁する勢力の間で,保元元年(1156年)七月,鳥羽法皇崩御直後に起こりました。戦いは天皇方の勝利で終わり,同月二十七日,敗れた上皇方にくみした公卿・武士らの罪が定められ,翌「二十八日には平清盛が六波羅のへんで,叔父の平忠貞(忠正)・同族の長盛・忠綱・正綱,忠貞の郎党道行を斬り」ますが,これが12世紀に至っての死刑執行復活です(源義朝が父の為義らを斬ったのは同月三十日(竹内理三『日本の歴史6 武士の登場』(中央公論社・1965年)351頁))。

 武士はやはり野蛮だねぇ,ということになりそうですが,現実に死刑執行復活を主張したのは,元少納言の藤原通憲(出家して信西)でした。



 保元の「乱後の敵方の処分も峻烈をきわめ,平安朝の初めの藤原薬子の乱以後二百〔ママ〕年間たえて行われなかった死罪を復活し,子に親を,甥に叔父を斬首させたのも信西であった。『法曹類林』〔全230巻。法律家が罪状判定のさいに参考にするために,古くからの明法家の意見や慣例あるいは法令などを事項別に集めたもの〕を著した知識がフルに活用され,法理にもとづくかれの裁断にはだれも反対することができなかったろう」(竹内361362頁,359頁)。


崇徳上皇は,讃岐に流されます。

 おしなべて憂き身はさこそなるみ潟満ち干る潮の変るのみかは

3 薬子の変

大同五年(810年)九月の薬子の変も,平城上皇(安殿)と嵯峨天皇(賀美能)の兄弟(父は平安遷都の桓武天皇,母は藤原乙牟漏)間での争いでした。

さて,変の名前となった藤原薬子とはどういう女性でしょうか。

薬子は藤原式家の種継(桓武天皇の側近で長岡京遷都を推進,延暦四年(785年)に暗殺される。)の娘であって,種継は乙牟漏といとこですから,薬子と平城天皇とはまたいとこです。さらに,薬子は,平城天皇の義母にも当たります。



薬子は・・・藤原縄主(式家)に嫁し,3男2女をうんだ。そしてその長女が平城の東宮時代に選ばれてその宮にはいった。これがきっかけとなり,薬子は安殿太子に近づき,関係を結ぶにいたった。桓武はこの情事をきらい,薬子を東宮からしりぞけたと伝えられている。

安殿が即位すると,二人の仲はもとにもどった。この女の朝廷でのポストは尚侍(天皇に常侍する女官の長)であった。平城にあっては,これ以後,人妻薬子との関係はいっそう深まったようである。しかし天皇は,さすがに上記のごときかんばしからぬ来歴をもつこの女性を,公然と妻の座― 一夫多妻の ―にすえることができなかった。(北山茂夫『日本の歴史4 平安京』(中央公論社・1965年)113頁)



 藤原縄主はまた,どういう人なのか興味がわきますが,大同元年(806年)五月の平城天皇即位当初における政府高官名簿では,参議になっています(北山104105頁)。平城天皇との関係は円満だったということのようです。(縄主は後に中納言)

 平城天皇は,「そうとうの政治的見識をそなえていたとみてよく,また天皇としての執政に強い意欲(パトス)をもっていた」とされますが(北山105頁),大同四年(809年)に病み,同年四月,弟の嵯峨天皇に譲位します。平城上皇は,自分の「身体の不調を怨霊のしわざに帰して悩みつづけ,王位をはなれさえすればその禍いからまぬがれて生命をたもちうるのではないかと考えた」ようです(北山115頁)。
 同年十二月,平城上皇は,平城古京に移ります。嵯峨天皇の平安京と平城上皇の平城京との間で「二所朝廷」という状況が生じます。

  ふるさととなりにし奈良の都にも色はかはらず花は咲きけり

 翌大同五年(810年)九月六日,「平城は異例にも,上皇の立場において,平安京を廃して皇都を平城の故地にうつすことを命令した。・・・嵯峨天皇と政府にとっては,この遷都宣言はまさに青天の霹靂ともいうべき大事件であったろう。」ということになります(北山119頁)。しかし,嵯峨天皇は,4日後の同月十日には決意を固め,断乎たる処置に出ます。同日,政府は伊勢・近江・美濃に使節を派して関と当該3国を固めさせたほか,薬子の位官を奪い,その兄である参議・仲成を逮捕監禁します(北山120121頁)。これに対して,平城上皇は「激怒のあまり,ついにみずから東国におもむき,大兵を結集して朝廷に反撃しようとした。薬子がそばで挙兵をすすめたらしい。・・・上皇は,薬子とともに駕に乗じて平城宮から進発した」ということになったのですが(北山121頁),「途中で士卒の逃れ去るものが続出したらしい。そして,上皇らが大和国添上郡越田村(奈良市帯解付近)にいたったときに,朝廷の武装兵が前方をさえぎっていた。上皇はやむなく平城宮にひきかえした。わるあがきのうちにすべてが終わったのである。平城上皇は頭をまるめて出家し,薬子は自殺した。」というあっけない結末とはなりました(北山121122頁)。「嵯峨天皇は,平城宮における上皇の出家,薬子の自害の報をえて,〔同月〕十三日に,詔をくだして乱の後始末をつけ」,寛大な措置をとる旨を明らかにし(北山122123頁),同月十九日には元号を大同から弘仁に改めています。寛大な措置の中でだれが死刑になったかといえば,薬子の兄の藤原仲成で,同月十一日の「夜,朝廷は官人を遣わして,仲成を禁所〔右兵衛府〕において射殺させた。」とあります(北山121頁)。これより後, 死刑が停廃されたわけです。

  なお,死刑停廃は弘仁元年からではなく,弘仁九年又は同十三年からであるという説もあります。刑法の大塚仁教授いわく,「嵯峨天皇の弘仁九年(818年)から,後白河天皇の保元元年(1156年)にいたる339年の間,少なくとも朝臣に対しては,死刑が行なわれなかったという刑政史上特筆すべき事実があったことに注意すべきである」(同『刑法概説(総論)〔増補〕』(有斐閣・1975年)32頁)。またいわく,「わが国でも,平安初期の弘仁一三年の太政官符以来,337年にわたって,死刑が,少なくとも朝臣に対しては停廃されていた事実があることはすでに述べた」(同338頁)。しかし,「すでに述べた」と言われても,弘仁九年が正しいのか,同十三年が正しいのかはっきりしないのは困ります。それに,弘仁九年から保元元年までを339年と数えるのならば,弘仁十三年から337年目の年は保元元年ではなく,保元三年になるのではないでしょうか。



4 嵯峨天皇と後白河天皇

 天皇家におけるいずれも弟側が勝った兄弟争いの結果,死刑が打ち止めになり,また死刑が再開されたわけです。

「嵯峨天皇は,性格的に兄の上皇とはちがい,おだやかでゆったりした人物であった。かれは,けっして親政の姿勢をくずさなかったが,政治を多く公卿グループにゆだねるという方針をとっていた。そして,父桓武とは大いに異なり,14年間の執政にあきあきして,なんとかして王座をはなれようとしていた。かれのせつに欲したところは,「山水に詣でて逍遥し,無事無為にして琴書を翫ぶ」ことであった」そうですから(北山132133頁),三筆の一人でもある文人であり,かつ,子沢山の嵯峨天皇の時代に死刑が停廃されたのは,いかにもと思われます。それに,嵯峨天皇も死者の怨霊に苦しめられるタイプで,薬子の変の前の大同五年七月中旬に病臥したときには,「朝廷は天皇の平復のために,早良・伊予,そして吉子の追福ということで,それぞれ100人・10人・20人の度者(得度した者)をさだめ」ています(北山119頁)。早良親王(崇道天皇)は桓武天皇の同母の皇太弟で,藤原種継暗殺事件への関与を疑われて自ら飲食を断って憤死しています(延暦四年)。伊予親王は平城・嵯峨両天皇の異母兄弟で,藤原吉子はその母,平城天皇時代に謀叛の嫌疑をかけられ,両名は幽閉先の大和国川原寺で毒を仰いで自死しています(大同二年)。(また,薬子の変で処刑された藤原仲成も祟るようになったらしく,貞観年中の御霊会では,仲成も御霊として,崇道天皇,伊予親王,藤原吉子らと共になぐさめられています(北山226頁)。)
 以上に対して,後白河天皇の人物の評ですが,側近であるはずのところの信西が,次のようなけしからぬことを言っています。



  後白河法皇は和漢を通じて類の少ないほどの暗君である。謀叛の臣がすぐそばにいても全然ご存じない。人がお気付きになるように仕向けても,それでもおさとりにならぬ。こんな愚昧な君主はいままでに見聞したことがないほどだ。(竹内375頁)



  ・・・ただ二つだけ徳をもっていられる。その一つは,もし何かしようと思われることがあれば,あえて人の制法(とりきめ)に拘束されず,かならずこれをなしとげられる。これは賢主のばあいには大失徳となることだが,当今〔後白河天皇〕はあまりに暗愚であるのでせめてこれが徳にあげられる。つぎの徳は,聞かれたことはけっしてお忘れにならない。年月がたっても心の底におぼえておられることである。(竹内185186頁)



 俗にいう,「根に持つタイプ」ということでしょうか。

 また,後白河天皇は,親王時代から今様,すなわち当時流行の歌謡曲が大好きで,毎日毎晩歌い暮らしていたといいますから(竹内370372頁参照),今でいえば,カラオケ・セットを献上申し上げれば,龍顔莞爾ということでしょうか。父親としては行く末を心配するところで,「鳥羽上皇をはじめ一部の人々のあいだでは,天子のなすべきことではないとの批判」がささやかれていました(竹内373頁)。息子の二条天皇ともうまくいっていなかったようで,後白河上皇宿願の三十三間堂完成供養(長寛二年(1164年)十二月)に当たっても二条天皇は全然協力する気配を見せず,「上皇は目に涙をいっぱいうかべて,「ああ,なにが憎さにそんな仕打ちをするのか」と仰せられ・・・当時の人々は,「今上天皇(二条)は他のことについてはまことに賢主であるが,孝行という点でははなはだ欠けておられる。だから聖代とはいえない」とささやきあった」といいます(竹内386頁)。

 源頼朝による「日本国第一の大天狗はさらに他に居申さぬぞ」との後白河法皇評はどうでしょうか。これは,平氏滅亡後,文治元年(1185年)に義経・行家に与えられた頼朝追討宣旨に対する鎌倉からの法皇糾弾状の一節であって,「法皇の無責任を痛撃・罵倒する威嚇の第一砲であり,院中はこれを見て色を失った」というものです(石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』(中央公論社・1965年)166頁)。

 讃岐に配流された崇徳「上皇は五部大乗経を血書し,「われ日本国の大魔王となり,皇を取って民となし,民を皇となさん」と誓ったといい,1164年(長寛二)八月二十六日,上皇が崩ぜられて火葬したときには,その烟は都のほうへとなびいた」そうですが(竹内353頁),後白河上皇は兄のものを含め怨霊には余り苦しめられないタイプだったのでしょうか。さきにも見たように,同年十二月に気に病んでいたのは専ら息子の二条天皇との不仲だったようです。



5 「大死神」の末路

 死刑執行を進める者は「死神」ということになるようですが,我が国の長きにわたる死刑停廃を終了せしめた「大死神」たる信西入道の末路はいかん。

 後白河上皇の側近であった信西に出世の望みを阻止され,また面目をつぶされた藤原信頼・源義朝らの反信西勢力が,平治元年(1159年)十二月九日夜半にクーデタを敢行(平治の乱の始まり),信西はいち早く京都南方綴喜郡の田原に逃走します。しかしながら,大学者信西(渡来した宋人と唐語で会話もできたそうです。)の知恵を振り絞った土遁の術も空しく,同月「十三日には,信西を追及していた検非違使源光保が,田原の山中で土中に穴を掘って身をかくしていた信西を発見し,首を切ってかえったので梟首にした。」ということになりました(竹内376頁)。ここでの信西の直接の死因については,自殺したとするものもありますが,さて,どうでしょうか。やはり,土中から無残に掘り出されて首を斬られる方がそれらしく思われます。

 平治の乱の戦闘は,その後,クーデタ派のもとから脱出した二条天皇を奉じた清盛率いる平家の勝利をもって終わりますが,それはまた別の話です。



 死刑廃止論者であるベッカリーアも,死刑が許される場合として,「混乱と無秩序が法律にとってかわっている無政府状態の時代にあって,国家の自由が回復されるか失われるかのせとぎわにあるとき,ある一人の国民の生存が,たとえ彼が自由を束ばくされていても,彼のもつ諸関係と名望とによって公共の安全に対する侵害となるような状勢にあるばあい,彼の生存が現存の政体をあやうくする革命を生む危険があるなら,その時その一国民の死は必要になる。」と説いています(『犯罪と刑罰』9192頁)。信西はかつて不遇の時代,後に保元の乱では敵対関係となる藤原頼長相手に「わたくしは運がわるくて一職も帯びていません。もしこのさいわたくしが出家したならば,世間の人は,才がすぐれているから天がその人を亡ぼすのだと考えて,いよいよ学問をしなくなるでしょう。どうかあなただけは学をやめないでください」と語り,それに対して頼長は「けっしてお言葉は忘れますまい」と答えつつ思わず落涙したということがあるそうですが(竹内360頁),才すぐれ,その諸関係と名望とが国家的な危険をももたらし得るような人物になってしまった以上,時代の中心にいて時代の変転ゆえに天に亡ぼされることとなることも,あるいは信西としてはもって瞑すべきことであったのかもしれません。

 学問をやり過ぎるのも危険人物への途のようです。みんなで気持ちよく過ごす職場に気持ちよく調和するためには,お勉強は,ちょっとかしこそうに見えるアクセサリー程度にとどめておくべきでしょうか。しかしそれは,平和なサラリーマン(ウーマン)の道ではあっても,自由な法律家の道ではないでしょう。


つけたり:ベッカリーアの死刑廃止論

 イタリアのベッカリーア(1738年‐1794年)は,近代死刑廃止論の首唱者とされています(『犯罪と刑罰』が最初に出たのが1764年)。ただし,その死刑廃止論の理由は,刑死者の御霊の祟りを恐れるというようなものではなくて,社会契約論,犯罪抑止力への疑問,犯罪抑止力における終身隷役刑の優位性及び公開処刑が社会の良俗に与える悪影響が挙げられています。

 まず,社会契約において各人は彼の生命を奪う権利を法律ないしは社会に譲渡していない,というのがベッカリーアの社会契約論です(『犯罪と刑罰』(前記風早八十二・二葉訳の岩波文庫版)9091頁)。しかし,この点については,社会契約論者中にも別異に解するものが多いようです。

「あらゆる時代の歴史は経験として証明している。死刑は社会を侵害するつもりでいる悪人どもをその侵害からいささかもさまたげなかった。」とは,死刑の現実の犯罪抑止力に対する疑問です(同92頁)。これに対して我らが弁護士(第一東京弁護士会会長)・小野清一郎博士は,1956年5月10日,第24回国会参議院法務委員会の公聴会で,当時の死刑廃止法案に反対の立場から,死刑の犯罪抑止作用の実在を力強く公述しました。いわく,「・・・死刑廃止の結果として,殺人罪の永続的増加を証明した例はありませんとありますが,その資料として用いられている統計の類は,はなはだ不十分なものであります。犯罪は社会科学的に見ますると,複雑な原因と条件とによって生ずるものであります。死刑の存在は犯罪を抑制する一つの契機であるにすぎないのであります。でありますから,これを廃止したからといって,直ちに殺人その他の犯罪が増加を見ないことは,むしろ当然のことであります。10年や15年の粗末な統計を材料にして,数字の魔術にかかるようでは科学的なものということができないと思うのであります。・・・いかなる場合にも自己の生命についてだけは絶対の安全を保障されつつ犯罪に着手することができるというのでは,現実の政治的社会的秩序は相当の危惧を感ぜざるを得ないでありましょう。死刑の威嚇力を過重に評価してはなりません。しかし死をおそれない政治犯人や,絶望的な強盗犯人に対して死刑が無意味であるからといって,その威嚇力または一般予防の作用を否定することはできないと思います。死刑の存在が社会一般に対して抑制の作用を持つことは明らかな心理的事実であります。これを否定されるならば全刑法の組織を否定するほかないのであります。刑法は応報的な社会教育の機構であります。死刑の存在するということが意識下の意識として,いわば無意識的な抑制作用を営むことを,私は心理学的な事実として十分立証することができると思います。死刑を廃止した国における若干の刑事統計によって,死刑に予防作用がないということを立証しようとすることは,その方法自体に疑問があるのであります。私はもっと深い心理学的な研究を必要とすると思っているものであります。以上。(拍手)」

死刑の犯罪抑止力に対する疑問に続いて,ベッカリーアは,犯罪抑止力における終身隷役刑の死刑に対する優位性を説きます。いわく,「人間の精神にもっとも大きな効果を与えるのは刑罰の強度ではなくてその継続性である。・・・この道理でいけば,犯罪へのクツワとしては,一人の悪人の死は力よわいものでしかなく,強くながつづきのする印象を与えるのは自由を拘束された人間が家畜となりさがり,彼がかつて社会に与えた損害を身をもってつぐなっているその姿である」(『犯罪と刑罰』93頁)。またいわく,「・・・死刑と置きかえられた終身隷役刑は,かたく犯罪を決意した人の心をひるがえさせるに十分なきびしさを持つのである。それどころか,死刑より確実な効果を生むものだとつけ加えたい」(同95頁)。更にいわく,「・・・不幸な者たちによってあらわされるみせしめは死刑よりも強く人の心をうつ。死刑は人を矯正しないで,かえって人の心をかたくなにしてしまうが」(同98頁)。

ただし,「家畜」やら「みせしめ」という言葉からすると,ベッカリーアの想定している終身隷役刑は,「被収容者・・・の人権を尊重」する(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律1条参照)我が無期懲役刑とは少々違うようです。「・・・狂熱も虚栄も,鉄格子の中,おう打の下,くさりの間では罪人どもを見すてて行ってしまう。」というのですから(『犯罪と刑罰』95頁),鎖につながれ,殴られるのは当たり前ということでしょう。また,「永い年月あるいは全生涯をドレイ状態と苦しみのうちにすごし,かつてはなかまであつた人々の目にさらされ,今は彼らと同等ではなく,彼らのように自由でもなく社会の一員でもなくなりかつては自分を保護した法律のドレイとなった自分を感じねばならない・・・」と(同98頁),奴隷状態の姿を人々の目にさらされるものとされています。したがって,「へき地での隷役という刑」は,「いいかえれば犯人の侵害行為を受けない地方の国民に無用な犯罪人の手本を送ること」であり,「犯罪が事実行われた地方の国の国民からはみせしめをなくす結果になる」わけです(同113頁)。(なお,我が国でも囚人の使役について, 1885年の金子堅太郎の『北海道三県巡視復命書』では,「彼等〔囚人〕ハ固ヨリ暴戻ノ悪徒ナレバ,其苦役ニ堪ヘズ斃死スルモ,尋常ノ工夫ガ妻子ヲ遺シテ骨ヲ山野ニ埋ムルノ惨情ト異ナル」,「斃レ死シテ其人員ヲ減少スルハ,監獄費支出ノ困難ヲ告グル今日ニ於テ,万止ムヲ得ザル政策ナリ」,「囚人ヲ駆テ尋常工夫ノ堪ユル能ハザル困難ノ衝ニ当ラシムベシ」と,囚人の北海道における土木工事従事について書かれていましたが(色川大吉『日本の歴史21 近代国家の出発』(中央公論社・1966年)245246頁参照),現在ではなかなか許されないことでしょう。)
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博物館網走監獄(向かって左の人形が「五寸釘寅吉」)

 ベッカリーアのいう「死刑はまた,人々にざんこく行為の手本を与えるということで,もう一つ社会にとって有害だ。」との立論は(『犯罪と刑罰』98頁),当時の公開処刑制度を前提とするものでしょう。「「われわれに非道な犯罪として示されている殺人が,いま目のまえで冷然と,なんの良心の苛責もなく犯された。この手本を合法的なものとみていけないことはないはずだ。・・・」以上が,・・・その精神がすでに正常を欠いて犯罪にはしりかけている人々の考えることだ。」とは(同100頁),死刑の見物人の心理に関する描写でしょう。なお,我が国における死刑の執行は非公開で,「死刑は,刑事施設内において,絞首して執行する」ものとされ(刑法111項),「検察官又は刑事施設の長の許可を受けた者でなければ,刑場に入ることはできない」ものとされています(刑事訴訟法4772項)。

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