Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

カテゴリ: ローマ

1 フン人

ローマ帝国が西のウァレンティニアヌス,東がウァレンスの兄弟皇帝(前者が後者の兄。なお,valensは動詞valere(健康であること。)の現在分詞形なので,しいて弟皇帝ウァレンスの名を日本語訳すると「健次郎」ということになりましょうか。)によって統治されていた西暦4世紀の後半,ドナウ川の北,その東北方面に住むゴート人に対してフン人が東方から圧迫を加えます。

フン人とは何者か。

 

   Prodigiosae formae, et pandi; ut bipedes existimes bestias; (Ammianus)

 

   奇異な外観で,かつ,湾曲した者らであって,二本足の獣らと思いなされる。(アンミアヌス)

 

更にギボンの『ローマ帝国衰亡史』第26章には,「スキュティアのこれら野蛮人は,・・・古代の橋梁上にしばしば設置された歪んだ形の境界(テル)()()の像になぞらえられた。」(“These savages of Scythia were compared … to the mis-shapen figures, the Termini, which were often placed on the bridges of antiquity.” (Gibbon, The History of the Decline and Fall of the Roman EmpireChapter XXVI; p.1044, Vol. I of the Penguin Books, 2005))とあるところです。

 

    Species pavenda nigredine … quaedam deformis offa, non facies; habensque magis puncta quam lumina. (Jornandes)

 

     恐るべき黒さの外観・・・いわば奇形の肉塊であって,顔ではない。しかして,目というよりはむしろ点を有している。(ヨルダネス)

 

   A fabulous origin was assigned, worthy of their form and manners; that the witches of Scythia, who, for their foul and deadly practices, had been driven from society, had copulated in the desert with infernal spirits; and that the Huns were the offspring of this execrable conjunction. The tale, so full of horror and absurdity, was greedily embraced by the credulous hatred of the Goths; but, while it gratified their hatred, it encreased their fear; since the posterity of daemons and witches might be supposed to inherit some share of the praeternatural powers, as well as of the malignant temper, of their parents. (Gibbon pp.1044-1045) 

 

   彼らの体型及び所作にふさわしい荒唐無稽な出自が彼らに帰せられた。すなわち,スキュティアの魔女らがその死穢に満ちた不潔の所業のゆえに人界から追放され,荒野において地獄の霊らと交尾した,しかしてフンは,この穢らわしい交配から生まれた子孫だというのである。恐怖と不条理とに満ちたこの説話は,ゴート人の信じやすい憎悪によって貪るように受け容れられた。しかし,彼らの憎悪は満足される一方,彼らの恐怖は増大した。悪魔らと魔女らとの後裔は,彼らの親たちの邪悪な気性と共に超自然的な力の一部をも受け継いでいるものと考えられ得たからである。(ギボン)

 

なお,フン人の後裔については,「マジャール/ハンガリー人が定住しキリスト教に改宗した後で,みずからの歴史の著述に取りかかったとき,ヨーロッパの民とは言えなかったので,彼らはこの光威あるフン族の子孫であると称し」たそうですが(カタリン・エッシェー=ヤロスラフ・レベディンスキー(新保良明訳)『アッティラ大王とフン族』(講談社・2011年)241頁),しかし「現代のハンガリーにおいてはフンの神話はもはや史実とは見なされていない」そうです(同248頁)。そうであれば,「本邦の域外の国若しくは地域の出身である者」であるフン人の「子孫であって適法に居住するもの」たるハンガリー人の方々は現実には存在せず,したがって,フン人に係る前記非友好的描写をしてしまった上で当該描写がそれらの方々に対する「本邦外出身者を著しく侮辱」する類型の「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」に当たるのではないかしらとくよくよ心配することは,取り越し苦労にすぎなかったということになるようです(本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(平成28年法律第68号)2条・3条参照)。5世紀半ばのアッティラ大王の死後「分裂し弱体化したフン族は,以後,新たな遊牧民集団の中に溶解してゆく定め」だったのでした(エッシェー=レベディンスキー222頁)。

 

2 ドナウ河畔のゴート人とウァレンス政権の対応

 前記の恐ろしいフン人の圧迫を受け,フリティゲルン(Fritigern)及びアラウィウス(Alavivus)に率いられた西ゴート人は,ローマ帝国の東北国境であるドナウ川の北岸に急ぎ移動し,ローマ帝国の東帝の保護を懇請するに至ります。

 

   ・・・〔シリアのアンティオキアにいた〕皇帝〔ウァレンス〕の注意は,ドナウ川国境防衛の任務を与えられていた文武官らからもたらされた重大情報に対して最も真摯に振り向けられた。北方は凶暴な騒乱下にあること,未知かつ怪物的な野蛮人種であるフン人の侵入によってゴート人の支配が覆されたこと,その自尊心は今や塵にまみれ辱められたかの好戦民族が哀れみを求める群衆と変じてドナウ川の岸辺を何マイルにもわたって覆っていることが彼に報知された。

彼らは,腕を差し伸ばし,哀れにも悲嘆にくれ,声高に彼らの過去の不運と現在の危険とを嘆いております。彼らの安全に係る唯一の希望は,ローマ政府の慈悲のうちにしかないということを認めております。皇帝の寛仁大度が彼らにトラキアの荒蕪地の耕作を認めてくれるのであれば,最も強い義務と感謝との覊束によって,国家の法を守り,その国境を防衛し続けて已まざる旨極めて厳粛に表明しております。

これらの保証の言は,彼らの不幸な同胞の運命を最終的に決定すべき回答をウァレンスの口から聴くべく焦慮しつつあったゴート人派遣外交使節によって確認された。

東帝は,前年の終わり頃3751117日)に死亡していた兄〔ウァレンティニアヌス〕の知恵及び権威によって今や導かれてはいなかった。しかして,ゴート人の苦境は即時かつ断乎たる決定を求めていたため,引き延ばされた末の,かつ,曖昧である方策こそが全き慎重に係る最も称賛すべき努力であると考えるところの弱くかつ臆病な人々にとっての常套的愛好策は,彼の選択肢から取り除かれてしまっていた。

人類のうちに同一の情熱及び利害が存続する限り,古代の政策検討の場において議論された戦争と平和,正義と政策とに係る問題は,現代の議論の主題として何度も登場するであろう。しかしながら,最も経験豊かなヨーロッパの政治家も,絶望と飢えとによって衝き動かされて文明国家の領域内に定住することを請い求める蛮族(バーバリアンズ)の無数の大群を受け入れ,又は拒絶することの適切性又は危険を衡量すべき場に引き出されることはかつてなかったのである。(ギボン10461047頁。改行は,筆者によるもの)

 

 「最も経験豊かなヨーロッパの政治家も,絶望と飢えとによって衝き動かされて文明国家の領域内に定住することを請い求める蛮族(バーバリアンズ)の無数の大群を受け入れ,又は拒絶することの適切性又は危険性を衡量すべき場に引き出されることはかつてなかったのである。」とのギボンの観察は,18世紀後半の当時には当てはまったとしても,21世紀の今日においてはそうではないように思われます。

 

公共の安全に本質的にかかわる当該重要論題がウァレンスの大臣らの議に付された時,彼らは当惑し,意見は分かれた。しかしながら,彼らはやがて,彼らの君主の自尊心,怠惰及び貪欲にとって最も好都合であると見られたところの調子のよい感情に黙従するに至った。総督や将軍といった称号で飾られた奴隷どもは,帝国の最辺境において受け入れられていた部分的及び偶発的植民とは余りにも大きく異なるものであるこの民族大移動に係る恐怖を隠蔽し,又は無視した。彼らはしかし,ウァレンスの帝位を守護するために地上の最も遠い国々から無数かつ無敵の異邦人の軍隊を招来するにいたった幸運の物惜しみなさを称賛した。彼は今や,毎年の徴兵の代替として属州民から貢納される莫大な量の黄金を,その帝室金庫に加えることができるのである。

ゴート人の祈りは聴き届けられ,彼らの服務は帝室によって受け入れられた。彼らの将来の居住地として適切かつ十分な地域が割り当てられるまでの大集団の移動及び生存のために必要な準備をするよう,トラキア管区の文武の長官に対して命令が直ちに発せられた。しかしながら,皇帝の気前のよさには,二つの苛酷かつ厳重な条件が付されていた。これらは,ローマ人の側では用心ということで正当化され得たであろうが,困窮のみが,憤然たるゴート人をして同意に至らしめ得たものである。

ドナウ川を渡る前に,彼らは武器を引き渡すことを求められた。

また,子供らは彼らから引き離され,アジア各州に分散されるべきことが要求された。そこにおいて子供らは,教育のわざによって文明化され,彼らの親たちの忠誠を確保するための人質としての役割を果たすこととなろう。(ギボン1047-1048頁。改行は筆者によるもの。)

 

3 古代ローマの民族構成及び婚姻奨励策並びにウァレンス政権のゴート人受入れ政策

 

(1)民族構成

本来ローマ帝国は外国人の受入れについて鷹揚な国柄ではありました。1世紀の初代皇帝アウグストゥスの時代について,既に次のようにいわれていました。

 

 ・・・風俗の改革は失敗だった。離婚と産児制限が家庭を破壊し,旧家の血統は絶えようとしていた。ローマ市民の4分の3は解放奴隷の子であるという事実がすでに明らかになっていた。(I・モンタネッリ(藤沢道郎訳)『ローマの歴史』(中公文庫・1996年)319頁)

 

奴隷の供給源は主に戦争捕虜だったそうです(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法―ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)132頁)。したがって,要するに,「ローマ市民の4分の3は解放奴隷の子である」ということは,生粋のローマ人は既に少数者にすぎない存在となってしまっていたということでしょう。紀元後1世紀末には「ローマの人種的構造そのものが変わってしまっていた。外国人の血が一滴も混じらぬ純血のローマ人など,もはや存在しなかったろう。ギリシア人,シリア人,ユダヤ人などの「少数民族」は,全部一まとめにすればローマ市の絶対多数を占めていた。」ということになっています(モンタネッリ390頁)。

 

(2)婚姻奨励策

なお,現代の日本と同様,離婚を云々する以前に,古代ローマにおいてもそもそもの婚姻数の減少が問題になっていたところです。既に共和政の段階から「堕落を始めた風俗が,市民が婚姻を厭うようにすることに大いに貢献した。無邪気な歓びに対する感受性を失った者にとって,婚姻は苦痛以外の何物でもない。」という状態でした(Montesquieu, De l’Esprit des lois, XXIII, 21)。そこで婚姻奨励法があり,「カエサルは,沢山の子供を持っている者に手当を与えた。彼は,45歳未満で夫も子もない女性に対し,宝石を身に着け,又は輿を用いることを禁じた。これは虚栄心を利用した優れた非婚対策である。アウグストゥスの法律は,より厳しいものであった。彼は未婚者に対して新たな罰金を科し,既婚者に対する手当及び子持ちの者に対するそれを増額させた。タキトゥスはこれら一連の法律をユリウス法と呼んだ。」ということです(Montesquieu, ibid.)。しかし,古代ローマ人男性は,現代の心優しい日本人男性のような安心・安全な草食動物ないしは草では全くありませんでした。「諸君が独身でいるのは,一人で生活するためでは全くない。諸君は皆,食卓及び寝台を共にする相手を持っていて,放縦の中にのみ安心を求めているのだ。独身のウェスタ聖女の例を持ち出すのか?そうであれば,諸君が貞潔に関する法律を守らないのならば,彼女らと同様に諸君を罰しなければならぬ〔すなわち,棒で叩いて生き埋めにする〕。」などとアウグストゥスが彼らに対してぶっているところです(Montesquieu, ibid.)。

 

(3)ゴート人受入れ政策

ウァレンス政権の見解としては,ゴート人の大量受入れはよいことであり,国防上も国家財政的にも望ましいということだったのでしょう。国民経済的観点からすれば,「中小・小規模事業者をはじめとした人手不足は深刻化しており,我が国の経済・社会基盤の持続可能性を阻害する可能性が出てきている。このため,〔略〕従来の専門的・技術的分野における外国人材に限定せず,一定の専門性・技能を有し即戦力となる外国人材を幅広く受け入れていく仕組みを構築する必要がある。」というようなことでしょう(2018615日閣議決定「経済財政運営と改革の基本方針2018について」の別紙である「経済財政運営と改革の基本方針2018~少子高齢化の克服による持続的な成長経路の実現~」26頁)。3世紀末から5世紀後半までのローマ経済の状態は,「奴隷が解放されてコロヌスと呼ぶ土地に束縛された小作人になる。都市の住民は同職仲間の構成員としてコレギウムをつくらされ,国家的負担を負わなければならない。職業は世襲化されて,自由闊達の空気はどこにもみられない。貨幣の流通は減少して,公課も生産物や労働による傾向をしめして来る。これは文字通り動脈硬化の社会であり,そこから新しい企業の発生する余地はまったく望みえない。残っているのは,理念的に高められた皇帝権と役人の制度だけである。」というものだったようです(増田四郎『ヨーロッパとは何か』(岩波新書・1967年)75-76頁)。奴隷については,ローマ軍がなかなか勝てなくなってしまったことから補給難であり,価格が高くなってしまっていたとのことです(増田68-69頁)。

武器の携帯にゴート人はこだわったようですが,困ったものです。我が出入国管理及び難民認定法(昭和26年政令第319号(いわゆるポツダム命令の一つ。昭和27年法律第1264条・1条参照)。以下「入管法」と略称します。)5条1項8号は,「銃砲刀剣類所持等取締法(昭和33年法律第6号)に定める銃砲若しくは刀剣類又は火薬類取締法(昭和25年法律第149号)に定める火薬類を不法に所持する者」である外国人は本邦に上陸することができないものとしています。

子供の教育についてはアジアの地で行われることになっていましたが,これは,「外国人が〔我が国〕社会で円滑に生活できる環境を整備し,共生社会が実現されるよう,生活者としての外国人に対する〔国〕語教育及び子供の教育の充実について,体系的な取組を進めてまいります。〔略〕子供の教育に関しては,学校におけるきめ細やかな指導の充実,教員定数の改善等に努めてまいります。加えて,ICTを活用した取組の全国展開や,高校生に対するキャリア教育,夜間中学の充実,就学促進等を総合的に進めることが重要と考えています。」というような取組が現地においてされることを期待してのことだったのでしょう(2018724日の日本国の外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第1回)における林芳正文部科学大臣発言参照)。

 

4 ゴート人のドナウ正式渡河前の状況等

ウァレンス帝が高邁な寛仁大度を示しつつある一方,現場ではどうしても混乱が生じます。

 

   疑わしく,かつ,遠隔地で行われている交渉が未だに結論を得るに至っていないこの期間中に,辛抱できないゴート人は,その保護を求めていた当の政府の許可を得ぬまま,ドナウ渡河の性急な試みをいくつか行った。彼らの動きは,川沿いに駐屯していた軍隊の警戒態勢によって厳しく監視されていた。そして,彼らの最先頭部隊は少なからざる殺戮と共に破された。しかしながら,これがウァレンス治下の臆病な政策決定というものなのだが,任務の遂行によって国に尽くした勇敢な将校らは,馘首によって罰せられ,かろうじて彼らの生首が留められたのであった。(ギボン1048頁)

 

我が国の内閣総理大臣は,2018724日に,国務大臣,報道関係者らを前に次のように発言しています(外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第1回))。

 

〔前略〕一定の専門性・技能を有し即戦力となる外国人材を幅広く受け入れていく仕組みを構築することは急務であります。新たな制度による外国人材の受入れは,来年〔2019年〕4月を目指して,準備を進めてまいりたいと考えていますので,法案の早期提出,受入れ業種の選定等の準備作業を,速やかに進めていただくよう,お願いします。

 また,新たな制度による受入れを含め,在留外国人の増加が見込まれる中,日本で働き,学び,生活する外国人の皆さんを社会の一員として受け入れ,円滑に生活できる環境を整備することは重要な課題です。本日の閣議決定により,法務省が外国人の受入れ環境の整備に関する総合調整を行うこととなりました。法務省の司令塔的機能の下,関係府省が連携を強化し,地方公共団体とも協力しつつ,外国人の受入れ環境の整備を効果的・効率的に進められるよう,関係閣僚の御協力をお願いします。〔後略〕

 

 「本日の閣議決定」たる2018724日の閣議決定「外国人の受入れ環境の整備に関する業務の基本方針について」においては,「今後も我が国に在留する外国人が増加していくと考えられる中で,日本で働き,学び,生活する外国人の受入れ環境を整備することによって,外国人の人権が護られ,外国人が日本社会の一員として円滑に生活できるようにしていく必要がある。」と謳われています。「日本で働き,学び,生活する外国人」も「日本社会の一員」であり,その「人権が護られ」なければならないものとされています。

 以上は行政・立法に関する最近の動きですが,司法の場においても,上記閣議決定等に示された来たるべき我が新しい国のかたち及び前記ドナウ川守備隊馘首処分事件の前例に鑑みた上で更にしかるべき忖度も行われることがあれば,不法(オーバー)残留(ステイ)に係る入管法違反被告事件(同法7015号により3年以下の懲役若しくは禁錮若しくは300万円以下の罰金又はその懲役若しくは禁錮及び罰金の併科)の量刑相場(起訴されてしまった以上は,前科がなくとも最低懲役1年・執行猶予3年(第一東京弁護士会刑事弁護委員会『量刑調査報告集Ⅴ』(20183月)137-138頁参照))の低減までが20194月よりも前からなされ得るかもしれないとの淡い期待が抱懐されるところです(ここで量刑相場の低減が望まれるのは,執行猶予が付いても,懲役「1年」に処せられたこのとある以上,被告人は以後ずっと入管法514号の上陸拒否事由にひっかかってしまうからです(ただし,同法5条の2)。ちなみに,外国人ノ入国,滞在及退去ニ関スル件(昭和14年内務省令第6号)においては不法残留に対する罰は50円以下の罰金又は拘留若しくは科料にすぎませんでした(19条)。)。しかしながら,そのような期待は,甘いものと断ぜざるを得ません。新しい国のかたちなのだと弁護人がいろいろ頑張って弁論してみても,「弁護人は熱心に活動してくれました。それに対する感謝の心を忘れてはいけませんよ。」というような訓戒が判決宣告後裁判官から被告人に対してされるようなことはあるかもしれませんが(刑事訴訟規則221条),量刑相場はなかなか揺るがないでしょう。

 なお,2018724日の閣議決定においては「外国人の人権」を護るものとされていますが,外国人には本邦に入国する自由(権利)はないと解する最高裁判所昭和32619日大法廷判決(刑集1161663頁)の判例を否定するものではないでしょう(同判決は「憲法22条は外国人の日本国に入国することについてはなにら規定していないものというべきであつて,このことは,国際慣習法上,外国人の入国の許否は当該国家の自由裁量により決定し得るものであつて,特別の条約が存しない限り,国家は外国人の入国を許可する義務を負わないものであることと,その考えを同じくするものと解し得られる。」と判示)。しかしながら,更にマクリーン事件に係る「憲法上,外国人は〔略〕在留の権利ないし引き続き在留することを要求し得る権利を保障されているものでもないと解すべき」であり,かつ,「出入国管理令上も在留外国人の在留期間の更新が権利として保障されているものではない」とする判例(最高裁判所昭和53104日大法廷判決民集3271223頁)が維持されるとしても,在留期間の更新の許可に係る入管法21条の「広汎」な「法務大臣の裁量権の範囲」(同判決)も,いったん「日本社会の一員」として受け入れられた外国人については,「護られ」るべきその「人権」によって制約されるものとして,少なくとも行政上の法運用はされていくのでしょう。「在留期間中の憲法の基本的人権の保障を受ける行為を在留期間の更新の際に消極的な事情としてしんしゃくされないことまでの保障が与えられているものと解することはできない」ということであれば,日本社会の一員として受け入れられた「外国人の人権が護られ」ているとはなかなか胸を張って言いにくいところです。ただし,「国籍や民族などの異なる人々が地域社会の構成員として共に生きていく多文化共生の推進は,地方自治体の重要な課題」とされているところ(外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第1回)における野田聖子総務大臣の発言),ここでの「多文化共生」の概念にこだわれば,形としては「地域社会の構成員」ではあっても,日本文化の共同体たる「日本社会」の一員としての受入れまでは,まだなかなかということでしょうか。

 

5 ドナウ渡河のゴート人の数に関して

さて,376年にドナウ川を越えたゴート人の数はといえば,アンミアヌスによれば次のとおりだとか(ギボン1049頁)。

 

  Quem si scire velit, Libyci velit aequoris idem

   Scire quam multae Zephyro truduntur harenae (Vergilius, Georgica)

 

しかしてそれ〔の数〕を知ろうとする者は,どれほど多くのリビア平原の砂粒が西風によって動かされるかを知ろうとするもの(ウェルギリウス『農耕歌』)

 

ただし,ギボンは,渡河したゴート人の戦士の数は約二十万人で,ゴート人全体(女性,子供及び奴隷を含む。)では百万人近くになったのではないかとしています(1049頁)。しかし,この数字はいかにも大き過ぎるようです。秀村欣二教授によれば「375年ついにヴォルガ川を渡ったフン族の圧迫をうけた約六万の西ゴート人は,首長フリティゲルンにひきいられてドナウ川南岸のローマ領内に定住することを求めた。」ということで,渡河の許可を求めたゴート人の数は約六万人とされています(村川堅太郎責任編集『世界の歴史2 ギリシアとローマ』(中央公論社・1961年)468頁)。堀米庸三教授は「アラン族を征服したフン族は,375年,ドン川をこえ,怒涛のようにドニエプル下流地帯の東ゴート族におそいかかった。〔中略〕フン族は息つく間もなくドニエストル,ドナウ間にすむ西ゴート族をおそった。その勢いにおしまくられた西ゴートの一部は,北方のカルパティア山脈の麓に退いたが,キリスト教を奉ずる他の一部は,東ローマの許可をえてドナウ川をわたり,ローマ帝国内に移った。これはゲルマン人が部族集団のままでローマ領内に入った最初で,まさに劃期的意味をもつ事件である。彼らの数は約四万,うち八千が戦士だった。」と述べており(堀米庸三責任編集『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』(中央公論社・1961年)4-5頁),ギボンの張扇は25倍もの誇張をしたものとされています。「近年の研究を見ると,376年にドナウを渡った人々の数は,多く見積もって数万と推定する学説が多いように思われる。もしこれが正しいならば,それまでの例に比して376年の移動が格別に大規模だったとはいえないだろう。」ということになるようです(南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』(岩波新書・2013年)164頁)。

なお,2017年末の日本国内の在留外国人の数は2561848人ですが,これは,その前年3月に東日本大震災があった2012年の末には2033656人であったところ,2013年には32789人,2014年には55386人,2015年には110358人,2016年には150633人,2017年には179026人がそれぞれ順次増加してきたものです(2018327日法務省入国管理局報道発表)。外国人労働者数について見れば,201710月末には1278670人であって,この数字は,201210月末の682431人から1年ごとに35041人,70116人,120272人,175860人,194950人がそれぞれ順次増えて5年間で約1.9倍になったものです(20181012日の外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第2回)資料・法務省入国管理局)。毎年数万を超える外国人が流入しているということであれば,21世紀の日本は4世紀後半のゲルマン民族大移動期のローマ帝国と似たような状況にあると考えることも許されるのでしょう。


6 ゴート人,下モエシアに入る。

丸腰で平和的にローマ帝国内に移住するはずだったゴート人らですが,やはり蛮族たるもの,武器は手放せません。

 

 ・・・彼らの武器を名誉の印かつ安全の担保とみなす蛮族(バーバリアンズ)は代価を提供するにやぶさかではなかったし,帝国官吏らの好色及び貪欲は,それらの受取りに向け容易に誘惑された。彼らの武器を保持するために,驕慢戦士らは,若干の逡巡はあったものの,彼らの妻及び娘の肉体を提供することに同意した。麗しい娘又は顔立ちのよい青年の魅力が検査官の黙認を確保した。彼らは彼らの新たな同盟者の縁飾りのあるカーペット及びリンネルの衣類に対してしばしば物欲しげな視線を向け,あるいは彼らの農場を家畜で,彼らの家屋を奴隷で満たすという卑しい考慮の前に彼らの義務を犠牲に供した。(ギボン1049頁)

 

さて,大勢の移住民の面倒を見るのは大変な仕事です。

 

   規律なく未定住の野蛮(ネーション・オブ)民族(・バーバリアンズ)ついては,最高度の沈着及び最巧緻な管理を必要とした。百万人近くの普通ではない臣民の毎日の生存は,恒常的かつ手際のよい業務精励によってのみ扶持され得るものであったし,手違い又は事故によって不断に障碍され得るものであった。彼らが恐怖又は蔑視いずれかの対象であると自ら認識した場合においては,ゴート人の不遜又は憤懣は彼らをして最も極端な行動に駆り立て得たところであって,国家の安危は,ウァレンスの将軍らの廉潔と共に慎重にかかっているものと見受けられた。

この重大な危機に際してトラキアの軍政はルピキヌス及びマクシムスによって担われていたが,彼らの欲得ずくの性根においては,わずかな私的利得の望みですら公共の利益に係る全ての考慮よりも重きをなすものとされていたし,彼らの罪を軽減するものは,彼らの性急かつ犯罪的な行政がもたらす有害な効果を認識し得ない彼らの無能のみであった。

君主の命令に従い,かつ,適正な気前のよさをもってゴート人の需要を満たす代わりに,彼らは飢えた蛮族(バーバリアンズ)の生活必需品に対して吝嗇的かつ圧制的な税を課した。最も粗末な食品が途方もない値段で売られた。さら,健康的かつ十分な食糧供給の代わりに,犬肉及び病死した不衛生な動物の肉によって市場は満たされていた。パン1ポンドの貴重な調達を得るために,ゴート人は,費用はかかるが役に立つ奴隷の所有を諦めた。また,少量の肉が,貴重な,しかし役には立たない金属〔銀〕10ポンドによって貪るように贖われた。財産が尽きると,彼らはこの不可欠の交易を,息子や娘を売却することによって継続した。全てのゴート人の胸を鼓舞する自由への愛にもかかわらず,彼らは,悲惨かつ救いのない独立の状態で斃死するよりは子供たちは奴隷状態で生き延びた方がよいという屈辱的な道理に屈した。

最も活発な憤懣は,自称恩恵付与者による専制によってかき立てられた。彼らは,その後の乱暴な取扱いによって帳消しにしてしまったはずの感恩の債務の履行を厳格に求めるのであった。辛抱強くかつ義務に忠実な彼らの姿勢を評価してくれるように求めても取り合ってもらえないでいる蛮族(バーバリア)(ンズ)仮居住地(キャンプ)内において,不満の空気が知らず知らずのうちに高まり,さらには,彼らがその新たな同盟者から受けた無慈悲な仕打ちに対する不満が声高に述べ立てられた。彼らの周囲を見ると,そこには肥沃な属州の富と豊かさとがあった。彼らはその只中にあって,人為的飢餓のもたらす耐え難き苛酷を忍んでいたのである。(ギボン1050-1051頁。改行は筆者によるもの)

 

出入国在留管理庁の監督の下で受入れ機関又は登録を受けた登録支援機関が外国人労働者に対して「(1)入国前の生活ガイダンスの提供,(2)外国人の住宅の確保,(3)在留中の生活オリエンテーションの実施,(4)生活のための日本語習得の支援,(5)外国人からの相談・苦情への対応,(6)各種行政手続についての情報提供,(7)非自発的離職時の転職支援,(8)その他」の支援を行うこと(外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第2回)資料・法務省入国管理局)等を確保するほか,「外国人が安心して生活・就労できるよう,医療通訳等の配置等により,医療機関における外国人患者受入に関する環境整備を進めてまいります。さらに,外国人労働者について,都道府県労働局や労働基準監督署に設置している外国人向けの相談コーナーや相談ダイヤルなど,労働条件等に関する外国人労働者の相談ニーズに多言語で対応してまいります。また,適正な雇用管理を確保する観点からも,事業者の雇用主としての責任の下に適切な社会保険への加入が行われるよう,周知や確認等を含め実効性のある方策を関係省庁と協力しながら検討してまいります。」というような周到な配慮(外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第1回)における加藤勝信厚生労働大臣の発言)が求められていたところです。医療と社会保険とは重要です。

 前記のゴート人の苦境及びその結末について,ヒエロニムスは簡潔にいわく。

 

   Per avaritiam Maximi ducis, ad rebellionem fame coacti sunt.

 

   マクシムス司令官の貪欲によって,反抗へと彼らは飢えゆえに強制された。

 

7 マルキアノポリスの喇叭

ドナウ河畔から約70マイルの下モエシアの主都マルキアノポリスにおいて,ゴート人とローマ政府軍との最初の衝突が発生します。

 

 ・・・ルピキヌスはゴート人の族長らを豪奢な宴会に招待していた。しかして彼らの護衛のための随行員らは,武装したまま宮殿の入口前にたむろしていた。しかしながら,市門は厳重に警戒されていた。また,蛮族(バーバリアンズ)は,臣民及び同盟者としての同等の利用権を主張していたにもかかわらず,豊富な商品に溢れた市場の利用から厳しく排除されていた。彼らのへりくだった願いは,横柄さと嘲笑とをもって拒絶された。そして彼らの忍耐は今や限界に達し,間もなく,街の住人,兵士及びゴート人らは頭に血の上った口論,怒気に満ちた非難が相互に飛び交う争いを始めた。軽率な殴打がなされた。急いで剣が抜かれた。そしてこの偶爾紛争において最初に流された血が,長く,かつ,壊滅的な戦争のさきがけの信号となった。(ギボン1052頁)

 

 流血の紛争の発生を承け,フリティゲルンらはマルキアノポリスを脱出,彼らを歓呼と共に迎え入れたゴート人は戦争を決議します。いざ出陣。

 

   Vexillis de more sublatis, auditisque triste sonantibus classicis. (Amminanus)

 

      慣習に従って軍旗が掲げられ,そして嚠喨たる喇叭の響きが物悲しく聞こえて。(アンミアヌス)

 

 日清戦争・成歓の戦いにおける我がラッパ手・木口小平及び白神源次郎の敢闘と戦死との有様が想起されるところです。(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1072462801.html

 マルキアノポリスにおけるローマの将軍ルピキヌスには,成歓・平壌における清の提督葉志超にやや似たるところありしか。

 

  ・・・恐るべき敵をあえて挑発し,横着に傷害し,かつ,なおも軽侮し得るものと考えていた卑怯有罪のルピキヌスは,この緊急事態に当たって集められ得る限りの軍勢の頭としてゴート人に向かって進軍した。蛮族(バーバリアン)()は,マルキアノポリスから約9マイルの地で彼の接近を待ち受けていた。しかして,この機会においては,武器及び軍隊の練度よりも将帥の才幹こそが実効においてより優越するものであることが明らかになった。フリティゲルンの天才によってゴート人らの勇猛が,しかく巧妙に指揮されたので,彼らの密集した猛攻撃によってローマ軍団の戦列は打ち破られた。ルピキヌスは,敵前において,武器も軍旗も,士官らも最も勇敢な兵士らをも打ち棄てた。そして,彼らの無益な勇気は,彼らの指揮官の無様な逃亡を援護することに役立っただけであった。

「かの成功に満ちた日が,蛮族(バーバリアンズ)の苦難及びローマ人の安全に終止符を打ったのである。かの日からゴート人は,異邦人・流民としての不安定な境遇を脱し,市民かつ主人たる性格を帯び,土地の占有者の上に絶対的支配権を主張し,そしてドナウ川でされた帝国の北部諸属州を自らの権利のうちに保持したのである。」かくのごときが,その同胞の栄光を粗野な雄弁をもってたたえるゴート人歴史家〔ヨルダネス〕の言葉である。

しかしながら,蛮族(バーバリアンズ)の支配は,略奪及び破壊の目的のみのために発動された。自然のもたらす共通の便益及び社会生活における正当な交際を皇帝の属官らによって拒まれていたところ,彼らは当該不正に対する報復を帝国臣民に対して行なった。しかしてルピキヌスの犯罪は,トラキアの平和な農民らの破滅,村々の炎上及び彼らの無辜の家族の殺戮又は拉致によって償われたのである。(ギボン1053-1054頁。改行は筆者によるもの)

 

「ドナウ川を越えて属州モエシアに入る通路は無防備に開かれた状態となった。そして,フリティゲルンと協働する勢力が続々現れるようになった。そればかりではなく,すでにローマ帝国内に受け容れられていた集団からも,待遇に不満を抱いて,フリティゲルンの軍に加わる者が出てきた。」ということになります(南川165頁)。以前からアドリアノープル附近にいたゴート人が矛を逆しまにしてフリティゲルンの軍に加わり,トラキアの金山の鉱夫らがフリティゲルンの軍の手引きをします(ギボン1054-1055頁参照)。


8 アドリアノープルへの道

 377年に入っての状況。

 

   ウァレンス及び彼の属官らの軽率は,敵対者らの(ネー)国家(ション)を帝国の中心に招き入れてしまった。しかしながら,過去の過ちを男らしく認め,かつ,以前の約束を誠実に履行することがあれば,なおもまだ西ゴート人は宥和され得たであろう。これらの修復的かつ穏健な施策は,東の君主の臆病な気質に親和的であるようであった。しかしながら,この場合においてのみ,ウァレンスは勇敢であった。そして彼の時ならぬ勇敢は,彼自身及び彼の臣民にとって致命的であった。(ギボン1055頁)

 

困窮したゲルマン人(Germani)の大群の受入れを行う政策に対する批判の声に対してウァレンス皇帝は,人道の名において,„Wenn wir jetzt anfangen, uns noch entschuldigen zu müssen dafür, dass wir in Notsituation ein freundliches Gesicht zeigen, dann ist das nicht mein Land.“(「困難な時期にあって友としての顔を見せることについて今更謝罪をしなければならないことになるのだとすれば,それは私の国ではありません。」Angela Merkel am 15. September 2015)と反論することはできなかったようです。

 

  ・・・彼は,この危険な叛乱を鎮圧するために,アンティオキアからコンステンティノープルに進軍する意図を表明した。そして,彼はこの企図の困難性に無知ではなかったところから,西の全兵力を統帥する甥のグラティアヌス帝〔ウァレンティニアヌスの後継者〕の援助を要請した。(ギボン1055頁)

 

ドナウ川の河口近くのSalices(柳林)の地におけるフリティゲルン率いるゴート人と東西ローマ軍との戦いは,数多くの戦死者を残して勝負つかずとなりました。数年後に当該戦場跡を見たアンミアヌスはいわく。

 

  Indicant nunc usque albentes ossibus campi. (Ammianus)

 

  野辺は今もずっと骨また骨によって白い。

 

 ローマ軍の手ごわい抵抗を受けたフリティゲルンは,蛮族仲間(西ゴートの他の部族,東ゴート人及びタイファリ人)との同盟工作に精を出します(ギボン1058頁参照)。(タイファリ人については,アンミアヌスが “ut apud eos nefandi concubitus foedere copulentur mares puberes” (「彼らのもとでは,成人男子らが邪悪なconcubitusのちぎりによって結び付けられているほどである」)と記していますが,ここでnefandusとの形容詞を用いることについては,「生産性」方面的なところからする不当な偏見を助長するものであるとの意見もあることでしょう。)しかして「やがて,東の方のアラニ人やフン人すらも,対ローマの戦線に加わるほどとなる。こうして,ローマ帝国が長らく戦略的に避けてきた,様々な部族集団がローマ帝国に対して連帯するという事態が,この時初めてできあがってしまったのである。」ということになりました(南川165-166頁)。

 これに対するローマ側の動きはいかん。

 

西半の皇帝グラティアヌスが派遣した軍隊は,東半の軍隊と協力して,幾度もゴート族の集団と戦ったが,378年の2月にアラマンニ族の一派,レンティエンセス族がライン川を渡って属州ラエティア(現在のスイス地方)に侵入したため,グラティアヌス帝は東に送った軍隊を呼び返さざるを得なくなった。グラティアヌス帝はこの侵入者に勝利を収めると,再び叔父のウァレンス帝を援助するため,軍隊を東に向かわせた。宮廷が分割されていても,ローマ帝国は東西連携して動いていたのである。(南川166頁)

 

 アラマンニ人に対する勝利によって若年の西の皇帝が栄光に包まれている間,年長の叔父さんである東の皇帝は,浮薄な首都の住民の排外熱狂によって煽られます。

 

   それにふさわしい活躍をしたグラティアヌスが彼の臣民らからの称賛を享受している一方,アンティオキアからついに宮廷及び軍を撤収したウァレンス皇帝は,公共の災厄を惹起した者としてコンスタンティノープルの人民に迎えられた。首都において十日間(378530日から同年611日まで)の休息を終える前に,彼は,戦車競走競技場の放縦なわめき声によって,彼がその領域内に招き入れた蛮族(バーバリア)(ンズ)に対して進軍するよう要求された。しかして現実の危険から離れていさえすれば常に勇敢である市民らは,武器が供与されれば,彼らのみで属州をけしからぬ敵の劫掠から救うべく立ち上がるであろうと自信いっぱいに宣言した。無知な大衆の独りよがりな非難がローマ帝国の没落を早めた。公衆からの侮蔑を堅忍不抜に耐えるべきものとする動機を,彼の評判についても,また彼の心裡においても見出すことのなかったウァレンスの,向こう見ずな性急が喚起されたからである。彼はやがて,その部下らの成功した戦闘の結果によって,ゴート人の力を見くびってよいものと思うようになった。ゴート人は,フリティゲルンの努力によって,当時アドリアノープル近郊に集められていた。(ギボン1060-1061頁)

 

   Moratus paucissimos dies, seditione popularium levium pulsus. (Ammianus)

 

   ほんの数日滞在したところ,軽薄な住民の騒ぎによって押し動かされた。(アンミアヌス)

 

 いよいよ皇帝ウァレンス陛下御出陣。

 

9 アドリアノープルの戦い

 

(1)戦闘前夜

 

  ・・・宮廷宦官らの阿諛追従を誇りと歓びとをもって聴いていたウァレンスは,簡単かつ保証付きの征服のもたらす栄光をつかむべくじりじりしていた。彼の軍隊は,古参兵らの多くの増員によって強化されていた。しかして彼のコンスタンティノープルからアドリアノープルへの進軍はしかく高度の軍事能力をもって遂行されたため,その間の隘路を占領し,さらには軍隊それ自体又は輜重を襲おうとする蛮族(バーバリアンズ)の活動は阻止された。アドリアノープルの城壁下に設けられたウァレンスの陣営は,ローマの流儀によって,壕及び塁壁によって防備されていた。そして,皇帝及び帝国の運命を決すべき最も重要な会議が召集された。(ギボン1062頁)

 

その間フリティゲルンはキリスト教聖職者を交渉使節として派遣して来て,トラキアの荒蕪地への平和的入植並びに穀物及び家畜の十分な供与が認められれば和平がなお可能であるようなないようなことを述べさせローマ側を攪乱します。(ギボン1062頁参照)

 

 ・・・ほぼ同時に,リコメル伯が西から戻って来て,アラマンニ人の敗北及び服属を告げ,ウァレンスに対して,彼の甥が,勝利に輝く歴戦のガリア軍団の頭に立って急ぎ進軍し来たりつつあることを知らせた。しかして更に,グラティアヌス及び国家の名において,二皇帝の合作がゴート人に対する戦争の成功を確実にするまでは,あらゆる危険な及び重大な措置を控えるべきことが求められた。しかしながら,意志薄弱な東の君主は,自尊(プラ)(イド)及び嫉妬(ジェラ)(シー)に係る致命的幻想によってのみ衝き動かされていた。彼は煩わしい忠告をうるさいものとして斥けた。彼は屈辱的な援助を拒絶した。彼はひそかに,不名誉な,少なくとも栄光なき自らの治世と,髭のなお生えそろわぬ若者のかの名声とを引き比べた。そしてウァレンスは戦場に突出した。彼の僚帝の軍務精励が戦勝の幾分かを横取りしないうちに彼の幻想の戦勝記念碑を打ち立てるために。(ギボン1062-1063頁)

 

(2)ウァレンス敗死

 運命の37889日がやってきました。

 アドリアノープル近郊でウァレンス率いるローマ軍とフリティゲルンのゴート軍とが対峙します。しかし,直ちに戦端は開かれません。「フリティゲルンはなお彼の常套的術策を施し続けた。彼は和平の使節を送り,提案を行い,人質を要求し,しかして,日よけもないままに焼け付く日差しにさらされたローマ人らが渇き,飢え及び耐え難い疲労によって消耗するまで時間を徒過せしめた。」と伝えられています(ギボン1063頁)。午後になって戦闘が開始されます(南川163頁)。

  

  ・・・ウァレンス及び帝国にとってしかく致命的であったアドリアノープル戦の出来事は,数語で言い表すことができるであろう。ローマ騎兵は逃亡した。歩兵部隊は打ち棄てられ,包囲され,そして切り刻まれた。〔中略〕激動,殺戮及び狼狽の只中で,近衛部隊に置き去りにされ,恐らく矢によって傷つけられた皇帝は,なおいくらかの秩序及び堅忍をもって地歩を守っていたランケアリイ人及びマッティアリイ人の部隊の中に保護を求めた。〔中略〕従者らの手助けによって,ウァレンスは戦場から連れ出され,近くの小屋に運び込まれた。そこにおいて彼らは彼の傷に治療を施し,更に彼の安全を図ろうとした。しかしながら,この粗末な隠れ場所もすぐに敵によって包囲された。彼らは扉を押し開けようとした。彼らは屋上から矢を射かけられたことによって激高した。ついには遅滞に苛立った彼らは,乾いた薪束の山に火を着け,ローマ皇帝及びその取り巻きと共に小屋を焼き尽くした。ウァレンスは炎の中で絶命した。そして,窓から飛び降りた若者が,ただ一人脱出に成功して,この悲しむべき話についてあかしをし,ゴート人に対して,彼ら自らの短気によって取得し損ねたこの上もなく高貴な戦利品について告知することとなった。非常に多くの勇敢かつ優秀な士官が,アドリアノープルの戦いにおいて戦死した。これは,ローマがかつてカンネーの野で被った不運に比して損害の実数において匹敵し,その致命的な結果においては優に上回るものであった。(ギボン1064頁)

10 ローマ帝国の衰亡

 

(1)Secundum Iaponem

 南川高志教授によれば,378年のアドリアノープルの戦いの後わずか約30年で,「帝国」としてのローマは滅亡します。

 

   ・・・5世紀のローマ帝国西半の歴史的な動きを見るとき,5世紀初めに「帝国」としてのローマは滅亡したといってよいことがはっきり了解される。ローマ帝国は4世紀の370年代中頃まで,対外的に決して劣勢ではなかった。しかし,その大ローマ帝国があっけなく崩壊した。帝国軍が大敗北したアドリアノープルの戦いが378年。諸部族のガリアからイベリア半島までへの侵攻とブリテン島の支配権喪失が409年。ローマ帝国はごくわずかな期間に帝国西半の支配圏を失ったのである。政治史から見た場合,ローマ帝国の黄昏は短く,夜の闇は一瞬に訪れたかのごとくである。史上空前の繁栄を現出した大国家が,30年という年月で潰え去ったのだ。(南川201頁)

 

   ・・・従来歴史家は,この5世紀初めの出来事について,ブリテン島とガリア北部でのローマ支配の消滅として,地域的な影響・意義しか捉えてこなかったが,私は,この時点でローマ帝国の「帝国」としての意義が失われたと解釈する。私は〔略〕,担い手も境界も曖昧なローマ帝国を実質化している要素として,軍隊,特に「ローマ人である」自己認識を持つ兵士たちの存在と,「ローマ人である」に相応しい生活の実践,そして支配を共にする有力者の存在をあげたが,405年から生じた一連の出来事〔405年のラダガイススに率いられた蛮族の北イタリア侵入,ブリテン島やガリアのフロンティアから軍を集めたローマの将軍スティリコによるラダガイスス撃破(406年),ブリテン島におけるマルクスらによる皇帝僭称(同年),406年大晦日以降のヴァンダル人,スエウィ人,アラニ人,ブルグンド人及びアラマンニ人のガリア侵入,407年の僭称皇帝コンスタンティヌス3世のブリテン島からガリアへの進出,409年のブリテン島からのコンスタンティヌス3世の総督の放逐〕によって,これらが帝国西半から消え去ってしまったからである。(南川193-194頁)

 

南川教授は「ローマ帝国の衰亡とは何であったといえるだろうか。」と自問し,「それは,「ローマ人である」という,帝国を成り立たせていた担い手のアイデンティティが変化し,国家の本質が失われてゆく過程であった。それが私の描いた「ローマ帝国衰亡史」である。」と記しています(南川205頁)。アドリアノープルの戦いの後「外部世界に住む人々,そこからローマ帝国に移ってきた人々を,個別の部族を超えて「ゲルマン人」とまとめて捉え,野蛮視,敵視する見方が成長」し(南川183頁),そのようなことによるアイデンティティの変化による国家の本質の喪失が,西ローマ帝国滅亡をもたらした要素であった,ということでしょうか。「ローマ国家が,4世紀以降の経過の中で徐々に変質し,内なる他者を排除し始めた。高まる外圧の下で,「ローマ人」は偏狭な差別と排除の論理の上に構築されたものとなり,ローマ社会の精神的な有様は変容して,最盛期のそれとはすっかり異なるものとなった。政治もそうした思潮に押されて動くことによって,その行動は視野狭窄で世界大国に相応しくないものとなり,結果としてローマ国家は政治・軍事で敗退するだけでなく,「帝国」としての魅力と威信をも失っていった」そうです(南川206頁)。

 

(2)Secundum Gallum

フランス(かつてのガリア)のジャン‐クロード・バローは,次のように書いています。

  

   自らがそれ自身である限りにおいては,強大なローマ国家は,西方において無敵であり,かつ,その軍団をもって,蛮族を容易に域外の暗黒の地へと押し戻した。

   帝国及びそれと共にガロ=ロマン世界は,自らを殺して崩壊した。何世紀もの間彼らの義務感及び「公益」の精神を保持していた指導者らは,5世紀においてはこれらの徳目を完全に喪失していた。

   シャトーブリアンは,史実に鑑みながら書いている。いわく,「指導者階級は,三つの継起する時代を経験する。すなわち,卓越の時代,特権の時代及び虚栄の時代である。第1の時代を閲した後彼らは第2の時代に堕落し,しかして第3の時代において消滅する。」と。ローマ,次いでガロ=ロマンの貴族の力をなした諸徳――戦士の徳,偉大の意識及び国家意識――は枯れ果てていた。

   既に長いこと,ガリア人は戦う勇気を忘れ去っていた。フン人に抗して歌われた西方におけるローマの白鳥の歌であるカタラウヌムの野における最後の勝利〔451年〕の後,ゲルマン人たちの前には,略奪,凌辱及び殺戮のために開かれた大地が横たわっていた。彼らを撃退すべき軍団は,既にそこにはなかった。その時,ガリア中において待ち設けられていたのは,一種の内破としての文明の恐るべき後退であった。進歩は,当然のものではない。恐るべき退歩が発生可能なのである。(Jean-Claude Barreau, Toute l’histoire de France; Livre de Poche, 2011: pp.39-40

 

 (3)Secundum Germanum

しかし,ゲルマン人はそう悪くはないのだよと,ドイツ(かつてのゲルマニア)のマンフレット・マイは弁護します。

 

  ・・・しばらくの間ローマ軍は,彼らが全ての非ローマ民族,したがってゲルマン人をもそう名付けていたところの「蛮族」に対して防禦を行い得ていた。しかし,結局のところはゲルマン人の方が強盛であって,彼らはローマ帝国に進入した。とはいえ彼らは帝国を破壊しようとしたのではない。むしろその達成したところのものを彼ら自身のために利用しようとしたのである。しかしてローマの文化及び生活様式が,ゲルマン人の風俗及び習慣と徐々に混ざり合っていった。(Manfred Mai, Deutsche Geschichte; Beltz & Gelbeg, 2010: pp.15-16

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002 東京都渋谷区渋谷三丁目516 渋谷三丁目スクエアビル2

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 偉大な人物にも小さい側面――具体的には,「せこい」ところ――があることがあります。

 その「せこさ」ゆえにますますうんざりさせられる大人物もあれば,思わずにやりとさせられる偉い人もあります。要は普段の行い次第ということになるのでしょう。

 

1 大カトー

前者の代表人物として挙げられるのは,紀元前3世紀から同2世紀にかけての古代ローマの大カトーです。「ローマの周囲にある村や町で,これ〔弁舌〕を身につけるために練習し,頼んで来る人があるとその度毎に法廷で弁護に立ち,先づ熱心な論戦家,やがて有能な弁論家といふ名を取つた」後,「ローマの町に移ると直ぐ,法廷の弁護によつて自分でも崇拝者や友人を得」つつ(河野与一訳『プルターク英雄伝(五)』(岩波文庫・1954年)49頁,51頁)成り上がった弁護士上がりの名物政治家でした。

 

  ・・・〔大カトーは,〕様々の色をしたバビュロニア製の絨氈(じゅうせん) (embroidered Babylonian tapestry) を遺産として手に入れても直ぐ売払ひ,その別荘 (farmhouses) は一つとして壁土が塗つて (plastered) なく,1500ドラクメー以上出して奴隷を買つたこともなく,必要なのは洒落た美しい奴隷ではなくて,仕事をよくする丈夫な奴隷,例へば馬丁や牛飼のやうなものであるとした。しかもそれらの奴隷が年を取つて来ると,役に立たなくなつたものを養つて置かずに売払ふべきだと考へてゐた。・・・

  これを或るものはこの人の吝嗇(りんしょく) (petty avarice) な点に帰し,又或るものは他の人々を矯正して節度を教へるために自分も内輪に控へたのだと認めてゐる。但し奴隷を駄獣 (brute beasts) のやうに年を取るまで使ひ尽してから追ひ出したり売つたりするのはあまり冷酷な性格 (over-rigid temper ) から来るもので,人間と人間との間に利用 (profit) 以外の繫がりがないと考へてゐるやうに私〔プルタルコス〕は思ふ。しかしながら好意 (kindness or humanity) は正義心 (bare justice) よりも広い場所を占めてゐると私は見る。と云ふのは,我々は本来人間に対してだけ正義 (law and justice) といふものを当嵌(あては)めるが,恩恵や慈愛 (goodness and charity) となると物の言へない動物に対してまで豊富な泉から流れるやうに温和な心持 (gentle nature) から出て来る場合がある。年のためにはたらけなくなつた馬 (worn-out horses) を養つたり,若い犬を育てるばかりでなく年取つた犬の面倒を見たりするのは深切な人 (kind-natured man) の義務である。

  ・・・

  実際,生命を持つてゐるもの (living creatures) を靴や道具のやうに扱ひ,散々使つて(いた)んだからと云つて棄てて顧みないのは(よろし)しくない。他に理由がないとしても,深切な心持を養ふために (by way of study and practice in humanity) もそれらに対して柔和な態度 (a kind and sweet disposition) を取る癖をつけなければならない。少くとも私ははたらかした牛 (draught ox) を年を取つたからと云つて売ることはしない。(いわんや)して年を取つた人間をその祖国 (his own country) ともいふべき育つた場所 (the place where he has lived a long while) ()れた生活から僅かばかりの銅貨のために追出して,売つた人にも買つた人にも役に立たないやうな目に会はせたくない。ところがカトーはかういふ事を誇つてでもゐるやうに,コーンスル〔統領〕として数々の戦闘に使つた馬をヒスパニア (Spain) に残して来て,その船賃を国家に払はせまいとした (only because he would not put the public to the charge of his freight) と云つてゐる。・・・(河野訳5355頁。英語は,John Drydenの訳です。河野与一の文章は難しいのですが,そもそもその人物について,「仙台駅裏のガードをくぐり,狭いうらぶれた土の道を歩いていって,とある家の古風な土蔵の中に,この先生が縹緲(ひょうびょう)〔遠くはるかに見えるさま。ぼんやりしていてかすかなさま。〕と住んでいた。見ると,汚ない着物にチャンチャンコを着,一般地球人類とは様子が異なるお(じい)さんであった。頭蓋(ずがい)がでっかくて額がでっぱっていて,これはウエルズの火星人が化けているのではあるまいかと,ひそかに私は考えたものだ。」(北杜夫『どくとるマンボウ青春記』(新潮文庫・2000年)301頁)と報告されているような様子だったのですから,さもありなんです。)

 

大カトーがローマの統領(コンスル)となったのは紀元前2世紀初めの同195年,同194年にはヒスパニアからの凱旋式を挙げています。

 

2 馬の売却交渉

ところで,紀元18世紀の末の1797年3月に,アメリカ合衆国において,初めての大統領(プレジデント)の交代がありました。

 

 〔ペンシルヴァニア州フィラデルフィア市において1797年3月4日土曜日昼に行われた2代目大統領の就任式を終えて〕彼〔ジョン・アダムズ〕はフランシス・ホテルの宿所に戻った。ワシントン一家が「大統領の家」 (President’s House) をゆっくりと引き払う間,彼はその1週間の残りを同ホテルで過ごすことになっていた。その最初の午後には,彼への訪問客が途切れなく続いた。大多数は彼の幸運を祈り,一部の者は彼の就任演説を称賛した。彼と近しい一,二の者が急ぎやって来て,連邦(フェデラ)党員(リスツ)中に,就任演説が野党の共和党(リパブリカンズ)に対して宥和的に過ぎたと文句を言っている者がいると告げた。ワシントンは,アダムズをその午後遅く,そして再びの終わりに訪問した。当該1の半ばの一夜には,ワシントン夫妻は,新正副大統領〔新副大統領はトーマス・ジェファソン〕のための晩餐会を主催した。ワシントンによるフランシス・ホテル訪問は,主として社交的性格のものであったが,ビジネス的ないくつかの取引も行われた。ワシントンは,大統領の家」の全ての家具調度を執行の長としての報酬から支出して購入していた。不要な家財道具を〔ワシントンの自宅及び農園があるヴァジニア州の〕マウント・ヴァーノンに輸送することにより生ずる費用を負担することを望まないワシントンは,家具類についてアダムズの関心を惹くことを試みた。アダムズは,そのうちいくつかについて入手することにした。しかし,彼は,ワシントンが更に売ろうと望んだ2頭の馬の購入は断った。後にアダムズは,前任大統領は彼からぼったくろうgouge〕としていたのだと示唆している。おそらく彼の意見は正しかったであろう。ワシントンは,それらの馬は,彼がそうだと表明していたところよりも齢を取っていたのだよと友人に明かしていた。(Ferling, John E., John Adams: a life (Oxford University Press, 2010) pp.335-336. 日本語は拙訳。なお,ワシントン夫妻がアダムズ及びジェファソンを招いた上記晩餐会は3月6日のことだったようです(see Ferling p.341)。)

 

 「せこいぞ,ジョージくん!」と叫ぶべきでしょうか。

 ファーリングの上記文章に係る註 (Ferling p.497) によれば,アダムズがワシントン=不実な博労(ばくろう)説を唱えたのは,1797年3月5日又は同月9日付けの妻アビゲイル宛の書簡においてのようです(おそらく9日付けの方なのでしょう。)。また,ワシントンの「友人」とは,ダンドリッジか(1797年4月3日付けワシントン書簡。ダンドリッジ家は,ワシントンのマーサ夫人の実家です。),メアリー・ホワイト・モリスか(同年5月1日付けワシントン書簡)。フィラデルフィアの「大統領の家」の最初の賃貸人であり,かつ,ワシントンの友人であったロバート・モリスの妻であったのが,メアリー・ホワイト・モリスです。後に見るように,ワシントンは,家具調度売却に係る対アダムズ交渉についてメアリー・ホワイト・モリスに報告していますから,モリス夫人が当該「友人」であったように筆者には思われます。

 ロバート・モリス(1734年生,1806年歿)は,商人にして銀行家,大陸会議代議員及びペンシルヴァニア邦議会議員,独立宣言には採択の数週間後に署名,アメリカ独立戦争中・戦争後は財政面で活躍,1789年から1795年までは合衆国上院議員,商業・銀行業から土地投機に転じたもののやがて破産し,1801年まで3年以上債務者監獄に収監されています。(see Encyclopaedia Britannica, Founding Fathers: the essential guide to the men who made America (Wiley & Sons, 2007) p.175

 President’s Houseを「大統領の家」と訳して大統領「官」邸と訳さなかったのは,当該不動産はアメリカ合衆国の国有財産ではなかったからです。1790年に合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンがニュー・ヨーク市からフィラデルフィア市に移った際「シティ・タヴァン (City Tavern) では,彼のがっしりとして外向的な友人であるロバート・モリスが手をさし伸ばして待っていた。フィラデルフィア市は,六番街との角に近いハイ・ストリート(後にマーケット・ストリート)190番地のモリスの屋敷を,新しい大統領邸宅として借り受けていた (had rented)。」と報告されています(Chernow, Ron, Washington: a life (Penguin Press, 2010) p.633. 日本語は拙訳)。我が民法用語によれば,ロバート・モリスが賃貸人,フィラデルフィア市が賃借人,ジョージ・ワシントンが転借人ということになっていたようです。

 ところで,「せこいぞ,ジョージくん!」と叫ぶよりも,「あっ,ジョンくん,暗い。」と慨嘆すべきではないかとの解釈もあるようです。チェーナウのワシントン伝にいわく。

 

 ・・・ワシントンは,鷹揚に,〔「大統領の家」の〕二つの大きな客間 (drawing rooms) の家具調度を値引いた価格で提供する旨〔アダムズに対して〕申し込み,その際「一番良いものを取りのけておいて,残りの余り物を彼に提供する」ということはしなかった〔1797年5月1日付けメアリー・ホワイト・モリス宛ワシントン書簡〕。しかしながら,アダムズ夫妻 (the Adamses) は,それらの物件に手を出そうとはしなかった。さらには,つまらぬ悪口 (petty sniping) の発作を起こしたアダムズは,ワシントンは2頭の老いぼれ馬を2000ドルで彼につかませようとまでしたのだ (even tried to palm off two old horses on him for $2,000),とぶつぶつ文句を言った。(Chernow p.769

 

合衆国2代目大統領の年俸は2万5000ドルで,アダムズは既に馬車を1500ドルで買ってしまっていたところでした (Ferling p.334)。また,アダムズの支払に係るフィラデルフィアの「大統領の家」の転借料は,月225ドルだったそうです (Ferling p.336)

 

3 馬齢詐称と詐欺未遂とに関して

 

(1)詐欺未遂罪容疑に関して

我が刑法246条1項は詐欺罪について「人を欺いて財物を交付させた者は,10年以下の懲役に処する。」と規定し,同法250条により詐欺罪の未遂も罰せられます。無論,日本国民ではない者が日本国外で詐欺未遂罪を犯しても日本刑法が適用されることはないのですが(同法2条参照),ペンシルヴァニア州フィラデルフィア市において1797年3月4日から同月8日(同月9日木曜日早朝にワシントン一家は同市を退去 (Ferling p.336))までの間にヴァジニア州で農場を経営するジョージ・ワシントン氏(当時65歳)が,実際の齢よりも若いものと偽って老馬2頭をアメリカ合衆国大統領ジョン・アダムズ氏(当時61歳)に対して売り付けようとした行為は,仮に日本刑法が適用される場合,詐欺未遂で有罪でしょうか。

 

 日常の商取引においては,例えば販売者,購買者ともに自己に有利になるように駆引きを行い,地域や職種によっては一定の誇張・虚偽の宣伝が通常のものとなっている。これらの行為を,形式的に一般人を錯誤に陥らせるものとして,これらのすべてを処罰することは明らかに妥当ではない。刑法上の詐欺は,ある程度強度なものに限る。誇大広告も,著しいもの以外は詐欺罪には該当しない。(前田雅英『刑法各論講義 第4版』(東京大学出版会・2007年)266頁)

 

アダムズに一蹴されてしまっている程度のようですから,詐欺未遂罪容疑云々で騒ぎ立てるほどのことではないのでしょう。

 

(2)民事法における詐欺に関して

他方,我が民事法の方面での詐欺とは,どのようなものでしょうか。日本民法96条1項は「詐欺又は強迫による意思表示は,取り消すことができる。」と規定しています。

 

違法性のあるもの,すなわち,信義の原則に反するものでなければ,詐欺ではない。社会生活上,多少の欺罔行為は,放任されるべきだからである。ドイツ民法(ド民123条)にarglistige Täuschung(悪意の欺罔)というのは,善意に対する悪意というだけでなく,倫理的な意義を含むものと解されている〔略〕。この意味で,沈黙・意見の陳述などは,詐欺とならない場合が多いのである。(我妻榮『新訂民法総則』(岩波書店・1965年)310頁)

 

ドイツ民法123条1項は„Wer zur Abgabe einer Willenserklärung durch arglistige Täuschung oder widerrechtlich durch Drohung bestimmt worden ist, kann die Erklärung anfechten.“と規定しています。すなわち,「悪意の欺罔により,又は違法に強迫によって意思表示をさせられた者は,当該意思表示を取り消すことができる。」とあります。Arglistigの訳語には,手元の独和辞典によれば「悪だくみのある,邪悪な奸知にたけた」(小学館『独和大辞典〔第2版〕』),「悪がしこい,悪ぢえのある」(三修社『現代独和辞典』)というような言葉が当てられています。

(ちなみに,「《ドイツ民族》,つまり,だまし民族と呼ばれたのは(うべ)なるかなだ。――」(木場深定訳のニーチェ『善悪の彼岸』244の最終文)と註釈なしに言われるだけでは何のことやらよく分かりませんが,原文は„man heisst nicht umsonst das »tiusche« Volk, das Täusche-Volk ...“で,何のことはない,Deutsche(ドイッチェ)täuschen(トイッシェン)(動詞で,「だます」)との駄洒落でした。さらには,Tauschen(タウッシェン) ist Täuschen(トイッシェン) .“(交換とはだますことである。)ともいいます。

馬の売買は,絵画の売買と並んで社会生活上買主側に大きな注意ないしは判断力の働きが要求される取引領域である,といい得たようです。

 

・・・イギリスのコモン・ローでは,売買,殊に動産売買には「買主をして注意せしめよ」(caveat emptor)のマキシムが適用され,売主の明示の担保があるか,売主に詐欺があるかするのでなければ,たとえ売買の目的物に隠れた瑕疵があっても売主の責任を追及しえないのが一般的ルールであった。・・・

 アメリカにおける売主の瑕疵担保責任の出発点をなしたのも,イギリスのコモン・ローであり,やはりcaveat emptor のマキシムが適用され,売買の目的物について売主による黙示の担保がないのを一般的ルールとしつつ,それに対する例外としての黙示の担保をみとめ,その範囲を拡大する傾向にあったが,統一売買法はその傾向に沿って制定され多くの州で採用され,現在では統一商事法典がそれに代っている。

 ・・・

 このように,動産売買においてはcaveat emptorの一般的ルールに対して,その例外として商品性と特定目的への適性の黙示の担保がみとめられているが,その例外が広汎にみとめられてきたので,caveat emptorは実際には例外となったといわれる(イギリス)。或いは「caveat emptorは,かつてはいかに活力をもっていたとしても,死にかかっている」。「現在のルールは『売主をして注意せしめよ』であるし,またあるべきである」ともいわれる(アメリカ)。

 それでは,現在,caveat emptorはどんな場合に適用されるかというに――買主が任意に買う物を選んだとき適用されるのであるが,特に適用されるのは――買主が自分自身の判断を行使しうるし,また通常行使する特定物売買,例えば,絵とか,なかんずく馬などの売買である。(来栖三郎『契約法』(有斐閣・1974年)7779頁)
 

(3)馬齢及び歯に関して

 馬の齢は,馬の歯を調べれば分かるといいますから,隠れた瑕疵にもなるのかどうか。

 とはいえ,歯の話は,1797年3月当時,新旧のアメリカ合衆国大統領としては避けたかった話題でしょう。歯の弱かった初代大統領の最後の歯(左下の小臼歯)は1796年に抜かれてしまっており,大統領退任時のワシントンは既に歯の無い老人となっていました(see Chernow pp. 642, 644)。第2代大統領は,副大統領時代の1792年から歯槽膿漏を患って歯が抜けてしまうようになっており,発音も悪くなっていたところです(see Ferling p.319)。

 

4 「大統領の家」をめぐって

ところで,フィラデルフィアの「大統領の家」の所有者は,1795年3月,ロバート・モリスからアンドリュー・ケネディに代わっていました。

 

 1790年代の半ば,ワシントン大統領の居住中に,ロバート・モリスは,チェストナット,ウォルナット,七番及び八番の各ストリートに囲まれたブロックに建設を計画していた宏壮な邸宅のための費用を調達するために,彼のマーケット・ストリートの全不動産を売却した。「大統領の家」及び東側の林園 (wood yard) は,1795年3月にアンドリュー・ケネディに3万7000ドルで売却されたのである。ケネディは,裕福な商人であって,執行権の長の邸宅として当該不動産を市に対して賃貸することを継続した。(Lawler, Edward, Jr., The President’s House in Philadelphia: The Rediscovery of a Last Landmark (The Pennsylvania Magazine of History of Biography, January 2002 (Parts I&II)) Part II. 日本語は拙訳)

 

「売買は賃貸借を破る。」かどうかが問題となるところですが(我が国法では,売買が不動産賃貸借を破らないようにするためには,賃借権の登記をし(民法605条,不動産登記法3条8号・81条),建物所有目的の土地の賃貸借については土地の上に借地権者が登記されている建物を所有し(借地借家法10条1項),又は建物の賃貸借については建物の引き渡し(同法31条1項)をすることになります。),新しい所有者が現状維持を認めたのですから問題はなかったのでしょう。

フィラデルフィアは1800年にコロンビア特別区ワシントンに合衆国の首都が移転するまでの暫定首都とされていましたが,フィラデルフィア市当局は,合衆国の首都としての地位を恒久化すべく,同市の九番街に大統領用の邸宅を建造していました。

 

 ワシントンの第2の任期が終了するまでに,及び11万ドル以上の費用をかけた上で,九番街の大統領用邸宅が完成した。新しい建物は巨大だった。面積ではマーケット・ストリートの家屋の3倍以上,独立記念館 (Independence Hall) の2倍以上の大きさがあった。ペンシルヴァニア州知事は,当該邸宅の賃貸を,次期大統領に選出されたアダムズに対して,「フィラデルフィアにおいて他の適当な家屋を使用することが (obtain) できる額の賃料」であればよいと,いささか必死になって申し込んだ。アダムズは「合衆国憲法の素直な解釈からして,議会の意思及び権威の無いまま貴申込みを承諾する自由が私にあるのかどうか,大きな疑問を有しているところです・・・」と回答しつつ,申込みを拒絶した。当該大邸宅の占用――当該動きは,全国の首都にとどまることに係るフィラデルフィアの沈下しつつあるチャンスを回復させるものとなった可能性がある――をするように彼に加えられる圧力をおそらく増大させるためであろうが,市当局は,マーケット・ストリートの家屋の年間賃料額をペンシルヴァニア通貨1000ポンド(約2666ドル)に倍増させた。新大統領は頑張り,1797年3月半ばにはマーケット・ストリートの建物に移り住んだ。アダムズ一家の家事使用人団は,ワシントン一家のものよりも少人数であり,かつ,彼らの社交活動はより質素であったようである。(ワシントンは大統領在任中ほとんどの年において報酬額以上の出費をしていたところ,彼の後継者は報酬の15パーセント以上を貯蓄するようにやり繰りをした。)1790年の首都法 (Residence Act of 1790) 180012月の第1月曜日からコロンビア特別区が正式に全国の首都となるものとしていた。マサチューセッツの彼の農場に滞在後,アダムズは11月1日に新しい連邦市 (Federal City) に移転した。

 アダムズはフィラデルフィアの「大統領の家」を1800年5月遅くまで占用した。彼の退去後数週間で,当該家屋はジョン・フランシスに貸し出された。フランシスは,アダムズ及びジェファソンがそれぞれの副大統領時代に宿所にした滞在施設の所有者であり,それまでの「大統領の家」はフランシス・ユニオン・ホテルとなった。(Lawler Part II

 

なお,アンドリュー・ケネディは独身のまま1800年2月に死亡しており,前の「大統領の家」をホテル用にフランシスに貸し出したのはアンドリューの同胞(きょうだい)で相続人のアンソニーであったということになります(see Lawler Part II)。

フィラデルフィアは,当時は夏になるごとに黄熱病が流行していたそうですから,そもそも合衆国の恒久首都となる見込みは薄かったところです。

 さて,1797年3月9日に行われたフィラデルフィアの「大統領の家」からのワシントン一家の退去は,あまり見事ではなかったようです。ワシントン一家の退去後,アダムズ新大統領は「大統領の家」に入ったのですが・・・

 

 ・・・しかしながら,その優美さにかかわらず,当該邸宅はワシントン一家の出発後きちんと清掃されていなかったこと,及び前大統領の召使らが,酔いどれて,おそらく主人のポトマック河畔の邸宅〔マウント・ヴァーノン〕における厳しい労働の生活に戻る将来の悲観のゆえ,彼の新しい調度類のいくつかを損壊してしまっていることを発見したアダムズは,ショックを受けた。更にアダムズは,いくつかの部屋が小さな役に立たない小部屋に没論理的に分割されていることを見出した。したがって,広い家屋の一隅に落ち着きつつ,彼は,他の場所について小修繕がされるように指示をした。(Ferling p.336

 

ジョン・アダムズ夫人アビゲイルは1797年3月にはフィラデルフィアには未着であって,マサチューセッツ州から同市に到着したのは同年5月の中旬でした(Ferling p.346)。したがって,アビゲイルの意見はジョンからの伝聞に基づくもののように思われるのですが,ワシントン一家退去直後の「大統領の家」の状況について,アビゲイルの批評は殊更厳しかったとチェーナウは伝えます。

 

・・・執行権の長の邸宅がだらしのない状態にあることにぞっとしたとジョン及びアビゲイル・アダムズは主張した。特にアビゲイルは当該家屋を,「私が今まで聞いた中で (that I ever heard of) 最もスキャンダラスな,召使ら仲間による飲酒及び無秩序の現場」であるところの豚小屋 (pigsty) といってけなした。・・・(Chernow p.769

 

 

5 「大統領の家」におけるワシントン一家の家事使用人団に関して

 フィラデルフィアの「大統領の家」でワシントン一家に仕えていた召使らとは,アフリカ系奴隷やらドイツ系の年季奉公人やらだったようです。「ワシントンは大体20人から24人ほどの家事使用人団をフィラデルフィアにおいて維持していた――これらのうち,アフリカ系奴隷の数は,同市において職務を開始した直後の8名から最後の2ないしは3名へと推移した。」及び「アフリカ系奴隷の大部分は,ドイツ系の年季奉公人 (German indentured servants) に置き換えられた。」とあります(Lawler Part I)。ドイツ人は,das Täusche-Volkであるとともに,ビール等のお酒を飲むのが好きそうです。アフリカ系奴隷の一人,料理長のハーキュリーズは,1797年3月9日のワシントン一家フィラデルフィア退去の際に逃亡しています。

 

  ハーキュリーズは,1797年3月に自由に向けて逃亡した。伝えられるところによると,引退したばかりの大統領とその家族とがヴァジニアへ帰る旅行を開始した朝のことである。当該逃亡から1箇月たたないうちにルイ=フィリップ(後のフランス国王)がマウント・ヴァーノンを訪れた。彼の男性召使の一人がハーキュリーズの娘と言葉を交わし,「小さなお嬢ちゃんはお父さんと二度と会えなくなったことについてきっと深く動転しているのだろうと言ってみた。彼女は,とんでもありません,だんなさま,とても喜んでいます,だって父は今や自由なのですから,と答えた。」

  ワシントンの遺言の規定によって,ハーキュリーズは1801年に解放され,彼は逃亡奴隷ではなくなった。彼についてはそれ以上のことは知られていない。〔ハーキュリーズの子である〕リッチモンド,エヴェイ及びデリアは母を通じて寡婦産奴隷であり,奴隷のままでとどめおかれた。(Lawler, Edward, Jr., The President’s House in Philadelphia: The Rediscovery of a Last Landmark (The Pennsylvania Magazine of History of Biography, October 2005) Revisited

 

ハーキュリーズがフィラディフィアで謳歌した自由は,逃亡に向け彼を大胆ならしめる一方,ヴァジニアに帰るという将来像をより抑圧的なものに感じさせただけであっただろう。(Chernow p.762

 

アメリカ南部・ヴァジニア州のマウント・ヴァーノンは評判が悪く,ワシントンの大統領任期末期には,フィラデルフィアの家事使用人団の士気は頽廃していたということでしょうか。
 (
なお,マサチューセッツ人であるアダムズは,奴隷を所有していませんでした。)

料理長ハーキュリーズは逃亡したものの,アダムズから引取りを拒否された2頭の老馬は,ぽっくりぽっくり,フィラデルフィアからマウント・ヴァーノンへの陸路6日間の旅(see Chernow p.769)に同行したものでしょうか。まさか,泥酔した召使たちに食べられてしまっていたわけではないでしょう。

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マウント・ヴァーノン

 

6 古代ローマの奴隷所有者とアメリカ合衆国建国期の奴隷所有者

遺言で自分の奴隷(ただし,妻の寡婦産に属するものではありません。)を解放するなど,奴隷に対するワシントンの態度は,大カトーほどドライではなかったようです。

大カトーは「友人や同僚を饗応した時に,食事が終ると直ぐ,何事についても粗略な振舞をした給仕人や料理人を笞で懲らしめ」,「何か死罪に当るやうな事を犯したと思はれるものはすべての奴隷のゐるところで裁判に掛け,有罪と決まればこれを殺した」りしたようです(河野訳77頁。なお,Dryden訳によれば,有罪判決は奴隷仲間に出させしめたようです。)。

これに対して,ワシントンは,「通常は奴隷が鞭打たれることを許さなかったが,他の方法が尽きたときはときどき (sometimes) それを許した。「無精」かつ「怠惰」とマーサが認定したシャーロットという名の奴隷に係る1793年1月の一件は,その一例である。」といった具合にとどまり,「〔アメリカ独立〕戦争前にワシントンは,困った奴隷2名を西インド諸島に船で送り出した。同地においては,熱帯性気候のため,想定される余命は短かった。」程度であったそうではあります(Chernow p.640)。

 

7 時効管理

しかしながら,大カトーとワシントンと,どちらがより「せこい」かというと,むしろワシントンだったかもしれません。

 

1791年4月の初め,司法長官エドモンド・ランドルフがワシントン夫妻に驚くべきニュースを告げた。1780年のペンシルヴァニア法により,6箇月連続して同州〔当時のアメリカ合衆国の首都は同州のフィラデルフィア市にあったことは前記のとおりです。〕に居住する成人奴隷は自動的に自由民となるのであった。〔ヴァジニア出身の〕ランドルフ自身の奴隷のうち3名が,彼らの自由となる権利を行使する予定である旨通告してきていた。奇態なことであるが,合衆国の司法長官は,大統領及びファースト・レディに対して,当該現地法を潜脱 (evade) することを勧めた。どうしたらよいかと説明しつつ,彼が言うには,いったん奴隷がペンシルヴァニア州外に移出されて,それからまた移入されたのならば,時計の針は元に戻るのであって,それから彼らが自由民となることを請求することができるためには,また6箇月が経過しなければならないのであった。(Chernow p.637

 

 ランドルフ司法長官の「ニュース」とは,1780年の上記ペンシルヴァニア法(漸次奴隷制廃止法 Gradual Abolition Law)の適用除外対象を,連邦議会の議員及び彼らの奴隷の外(1780年当時には,連邦の行政府も司法府も存在していませんでした。),合衆国大統領,副大統領及び各省長官並びに合衆国最高裁判所判事と彼らの奴隷とに拡張しようというペンシルヴァニア州議会に1791年2月に提出された法案(連邦の首都がコロンビア特別区に更に移転することを阻止するために必要だという考えも同州においてはあったのでしょう。)が,ペンシルヴァニア奴隷制廃止協会(Pennsylvania Abolition Society)の強力な反対運動等によって同議会において否決されたことだったようです(see Lawler Revisited)。

 

  間違いが起きないように,ワシントンは,6箇月の制限期間が経過してしまわないうちに,彼の奴隷らを〔ペンシルヴァニア州外での〕短期間の滞在のためにマウント・ヴァーノンとの間で往復させるよう決定した。クリストファー・シールズ〔その後1799年9月に逃亡計画が発覚しましたが,同年1214日のワシントンの最期に立ち会うことになったワシントンの従者です(see Chernow p.801, 809)。〕,リッチモンド〔前記ハーキュリーズの息子。後に金を盗みますが,当該窃盗はハーキュリーズと共に逃亡する計画があったがゆえのようです(see Chernow p.763)。〕及びオネィ・ジャッジ〔ワシントン夫人マーサの女召使。1796年5月に逃亡し,ニュー・ハンプシャー州ポーツマスに居住(see Chernow p.759)。同州グリーンランドで1848年2月25日に死亡しましたが,1793年にワシントン大統領の署名した逃亡奴隷法の下で最後まで逃亡奴隷身分でした(see Lawler Revisited)。〕は未成年者であったので,皆,自由民身分の取得からは除外されていた。成人の奴隷を奴隷身分にとどめるために,ワシントンは様々な策略 (ruses) を用い,彼らがなぜ短期間家に帰されるのかが彼らに知られないようにした。彼がずばり言うには,「彼ら(すなわち奴隷ら)及び公衆双方を欺き (deceive) おおせるような口実でもって本件を処理したい。」ということであった〔1791年4月12日付けの秘書トビアス・リア宛書簡〕。これは,ジョージ・ワシントンによる密謀 (scheming) の稀有の例であり,マーサ・ワシントンとトビアス・リアとはその間彼との秘密の共謀関係にあった。(Chernow p.638

 

時効管理も大変です。

我が民法は,平成29年法律第44号によって一部改正されることになり,同法施行後の民法(以下「改正後民法」といいます。)からは,3年,2年又は1年の短期消滅時効に関する条項(民法170条から174条まで)は削除されます。「飲み屋のツケの消滅時効は1年」ということで有名な民法174条4号等も当該被削除条項に含まれますが,平成29年法律第44号の附則10条4項は同法の施行日前に債権が生じた場合(当該施行日以後に債権が生じた場合であって,その原因である法律行為が施行日前にされたときを含む。)におけるその債権の消滅時効の期間については,なお従前の例によるものとしています。平成29年法律第44号施行日の前夜には不良呑み助が酒場を徘徊して「最後の晩だからツケで飲ませろ。」と飲み屋の経営者らにせこく迷惑をかけまくるなどということがあるのでしょうか(法律行為が施行日前であればよいので,注文をして,「ヘーイ,承りましたぁ。」という返事が返ってきた時が正子前であればよいのでしょう。)。弁護士の職務に関する債権に係る短期消滅時効期間の規定(民法172条。同条1項は「弁護士・・・の職務に関する債権は,その原因となった事件が終了した時から2年間行使しないときは,消滅する。」)も削除されます。

現在の民法167条1項は「債権は,10年間行使しないときは,消滅する。」と規定していますが,改正後民法166条1項は次のように規定しています。

 

166条 債権は,次に掲げる場合には,時効によって消滅する。

 一 債権者が権利を行使することができることを知った時から5年間行使しないとき。

 二 権利を行使することができる時から10年間行使しないとき。

 

 商事消滅時効に係る商法522条(「商行為によって生じた債権は,この法律に別段の定めがある場合を除き,5年間行使しないときは,時効によって消滅する。ただし,他の法令に5年間より短い時効期間の定めがあるときは,その定めるところによる。」)も,民法の一部を改正する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律(平成29年法律第45号)3条によって削除されます。経過規定として同法4条7項は「施行日前にされた商行為によって生じた債権に係る消滅時効の期間については,なお従前の例による。」としています。

 不法行為による損害賠償の請求権は「被害者又はその法定代理人が損害及び加害者を知った時から3年間行使しないときは,時効によって消滅」しますが(民法724条前段),この消滅時効期間は,「人の生命又は身体を害する不法行為」については3年から5年に延ばされます(改正後民法724条の2)。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002  東京都渋谷区渋谷三丁目5-16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール: saitoh@taishi-wakaba.jp

 

民法改正への対応準備も重要です。

1 紀元前49年1月10日,11日又は12

紀元前49年「1月10日の夜,カエサル,ルビコン川を越え内乱始まる。」と,スエトニウス=国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(上)』(岩波文庫・1986年)330頁のローマ史年表にあります。また,プルタルコス=河野与一訳『プルターク英雄伝(八)』(岩波文庫・1955年)197頁(「ポンペーイウス」60)の割注も,ルビコン川渡河を「前49年1月10日」のこととしています。村川堅太郎教授は「1月7日,元老院はシーザー〔カエサル〕の召還をきめ,戒厳令を発布してポンペイウスに指揮をゆだねた。3日後にこの情報を得たシーザーは,しばらく熟慮したのち,古代にも諺となっていた「骰子は投げられた」の句を吐いて,自分の任地の属州とイタリアとの境をなすルビコン川を渡り,10日の夜のうちにアドリア海岸の要衝アリミㇴムを占領した。」と記しています(村川編『世界の歴史2 ギリシアとローマ』(中央公論社・1961年)311‐312頁)。一見簡単です。しかしながら,実際にはいつのことだったのか,よく考えると難しいところがあります。

(1)季節 :秋

まず季節は,冬ではなく,秋でしょう。紀元前45年のユリウス暦開始に当たって,「この太陽暦が新しい年の1月1日から将来にかけて,季節の正しい推移と,いっそうぴったり符合するように,前の年の11月と12月の間に,2ヶ月をはさむ。/このように調整されたその年は,それまでの慣例上,この年のために設けられていた1ヶ月の閏月も加えて,ついに1年が15ヶ月となった」という季節調整が必要だったのですから(スエトニウス「カエサル」40・スエトニウス=国原前掲書48頁)。

(2)一日が始まる時(暦日の区切り):正子 

次に,ローマ暦では一日は何時から始まったのか。これは意外なことに,根拠と共に明言してくれる日本語文献が少ないようです。真夜中の正子(午前零時)から始まるのが当然だからと思われているからでしょうか。手元にある「ローマ人の一日の時間配分」の表(塩野七生『ローマ人への20の質問』(文春新書・2000年)145頁)も,特段の説明なく正子から一日が始まることになっています。

しかしながら,せっかくインターネットによって世界中から情報を入手できる時代ですので,何らかの文献的根拠ではっきりさせたいところです。そこで英語のウェッブ・サイトをいろいろ調べてみると,紀元2世紀の人であるアウルス・ゲッリウスの『アッティカ夜話』のBook3の2に説明がありました。以下,J.C. RolfeLoeb Classical Library版(1927, Revised 1947)の英訳からの重訳です。

 

どの日が,夜の第三時,第四時及び他の時間に生まれた者の誕生日とみなされ,かつ,そう唱えられるべきかは,よく問われる問題である。すなわち,その夜の前の日なのか,後の日なのか。マルクス・ワッロ〔カエサルの同時代人〕は,彼の書いた『古代史』の「日について」においていわく,「一正子から次の正子までの24時間中に生まれた者らは,同一の日に生まれたものとみなされるものである。」これらの言葉から,日没後ではあるが正子前に生まれた者の誕生日は,そののちに当該夜が始まったところの日であるものとするように,彼は日を分けて数えていたことが分かる。しかしながら他方,夜の最後の六時間中〔「ローマの一時間は日出から日没までを12等分したものなので,夏季と冬季とでは,また昼と夜とでも,長さが違っていた。」(スエトニウス=国原前掲書338頁)〕に生まれた者は,その夜の後に明けた日に生まれたものとみなされるのである。

しかしながら,ワッロはまた同じ書において,アテネ人たちは違った数え方であり,一日没から次の日没までの間の全ての時間を単一の日とみなしている,と書いていた。バビロニア人はまた異なった数え方をしていたとも書いていた,すなわち,彼らは一つの日の出から次の日の出の始まりまでの間の全ての時間を一日の名で呼んでいたからである。しかしウンブリアの地では,多くの人々が正午から次の正午までが同一の日だと言っていたとも,書いていた。・・・

しかしながら,ワッロが述べたように,ローマの人民は毎日を正子から次の正子までで数えていたことは,豊富な証拠によって示されている。・・・

 

 そうであれば,問題は,カエサルがルビコン川を渡ったのは,1月9日の夜が更けて正子を過ぎた同月10日の未明であったのか,それとも1月11日になろうとする同月10日の晩(正子前)であったのか,ということになります。

(3)スエトニウスとプルタルコス 

 

  ・・・カエサルはキサルピナ・ガリアにやってきて巡回裁判を終えると,ラウェンナに踏みとどまる,自分のため拒否権を行使するはずの護民官に対し,もし元老院が何か重大な決定を行なったら武力で復讐してやろうと覚悟して。

  ・・・

  さてカエサルは,護民官の拒否権が無効とされ,彼ら自身首都から脱出した〔「1月7日,門閥派がカエサルの軍隊の解体を決議し,ポンペイユスに独裁官の権限を与える。」とされています(スエトニウス=国原前掲書330頁の年表)。この1月7日の日付は,カエサルの『内乱記』のBook 1, Chapter 5に,a.d. VII Id. Ian.と言及されています。〕という知らせを受けとると,直ちに数箇大隊をこっそりと先発させる。しかし疑惑の念を一切与えぬように表面をいつわり,公けの見世物に出席し,建てる手筈をととのえていた剣闘士養成所の設計図を検討し,いつものように盛大な宴会にも姿を見せた。

  日が暮れると近くの製粉所から驢馬を借り,車につけると,最も人目にたたない道を,わずかの護衛者らとともに出発した。

  松明が消えて正道からそれ,長い間迷い,夜明けにやっと道案内を見つけて,非常に狭い道を徒歩で通り抜けた。

  先発の大隊に追いついたのは,ルビコン川である。この川は彼の治めている属州の境界線であった。しばらく立ち停り,「われながらなんと大それたことをやることか」と反省し,近くに居合わせた者を振り返り,こう言った。

  「今からでも引き返せるのだ。しかしいったん,この小さな橋を渡ってしまうと,すべてが武力で決められることになろう」

  こう遅疑逡巡していたとき,じつに奇蹟的な現象が起った。体格がずばぬけて大きく容貌のきわだって美しい男が,忽然として近くに現われ,坐ったまま葦笛を吹いている。これを聞こうと大勢の牧人ばかりでなく,兵士らも部署から離れて駆け寄った。兵士の中に喇叭吹きもいた。その一人から喇叭をとりあげると,その大男は川の方へ飛び出し,胸一杯息を吸い,喇叭を吹き始めた。そしてそのまま川の向う岸へ渡った。

  このときカエサルは言った。

  「さあ進もう。神々の示現と卑劣な政敵が呼んでいる方へ。賽は投げられた(Iacta alea est)」と。

  こうして軍隊を渡した・・・(スエトニウス「カエサル」30‐33・スエトニウス=国原前掲書384041頁)

 

 これは,夜間渡河ではなく,早朝渡河ですね。 
 しかし,プルタルコスによれば,夜明け前の夜間渡河ということになっています。

 

・・・そこで将軍や隊長に,他の武器は措いて剣だけを持ち,できる限り殺戮と混乱を避けてガリアの大きな町アリーミヌム〔現在のリミニ〕を占領するやうに命じ,ホルテーンシウスに軍勢を託した。

さうして自分は昼間は公然と格闘士の練習に顔を出して見物しながら過ごし,日の暮れる少し前に体の療治をしてから宴会場に入り,食事に招いた人々と暫く会談し,既に暗くなつてから立上つたが・・・自分は1台の貸馬車に乗つて最初は別の道を走らせたが,やがてアリーミヌムの方へ向けさせ,アルプスの内側のガリアとイタリアの他の部分との境界を流れてゐるルービコーと呼ばれる河に達すると,思案に耽り始め大事に臨んで冒険の甚しさに眩暈を覚えて速力を控へた。遂に馬を停めて長い間黙つたまま心の中にあれかこれかと決意を廻らして時を過ごした際には計画が幾変転を重ね,アシニウス ポㇽリオーも含めて居合はせた友人たちにも長い間難局について諮り,この河を渡ることが,すべての人々にとつてどれ程大きな不幸の源となるか,又後世の人人にどれ程多くの論議を残すかを考慮した。しかし結局,未来に対する思案を棄てた人のやうに,その後誰でも見当のつかない偶然と冒険に飛込むものが弘く口にする諺となつた,あの『賽は投げることにしよう。』といふ言葉を勢よく吐いて,河を渡る場所に急ぎ,それから後は駈足で進ませ,夜が明ける前にアリーミヌムに突入してこれを占領した。・・・(「カエサル」32・河野与一訳『プルターク英雄伝(九)』(岩波文庫・1956年)140‐141頁)

 

 渡河の時点において「1月10日」であるということであれば,スエトニウスによれば,1月9日の夕暮れに出発して翌同月10日の早朝にルビコン川を渡ったようでもあります。しかしながら,プルタルコスによれば,1月10日の夕暮れに出発してその夜のうち(正子前)にルビコン川を渡ったように読めます。

(4)距離と移動速度 

 さて,ラヴェンナ・リミニ間の距離は約50キロメートル, ローマ・ラヴェンナ間の距離は350キロメートル超。これらの距離と時間との関係をどう見るかについてギボンの『ローマ帝国衰亡史』を参照すると,同書のVol. I, Chap.Iにはローマの「軍団兵らは,特に荷物とも思わなかった彼らの兵器のほか,炊事用具,築城用具及び幾日分にも及ぶ糧食類を背負っていた。彼らは,恵まれた近代の兵士では耐えられないであろうこの重量下において,歩武を揃えて約6時間で約20マイル移動するよう訓練されていた。(Besides their arms, which the legionaries scarcely considered as an encumbrance, they were laden with their kitchen furniture, the instruments of fortification, and provision of many days. Under this weight, which would oppress the delicacy of a modern soldier, they were trained by a regular step to advance, in about six hours, near twenty miles.)」と,同Chap. IIには,皇帝らの設けた駅逓制度(institution of posts)を利用すれば「ローマ街道伝いに一日で100マイル移動することは容易であった。(it was easy to travel an hundred miles in a day along the Roman roads.)」とあります。古代のローマの1マイルは1480メートルで(スエトニウス=国原前掲書401頁),英国の1マイルは1609メートル。1日で100ローマ・マイルの移動は神速ということのようで,「〔カエサルは〕長距離の征旅は,軽装で雇った車にのり,信じ難い速さで1日ごとに100マイルも踏破した。・・・その結果,カエサルが彼の到着を知らせるはずの伝令よりも早く着くようなことも再三あった。」とあります(スエトニウス「カエサル」57・スエトニウス=国原前掲書65頁)。

 「他の武器は措いて剣だけを持」ったとしても,50キロメートルは兵士らにとってはやはり2日行程であるべきものとすれば,50キロメートル先を1月10日の払暁に襲撃するためにはできれば同月8日に出発すべきということになります。しかし,350キロメートル超離れたところからの1月7日発の連絡の到着にはやはり2日以上はかかって,早くとも同月9日着ということにはならないでしょうか。(弓削達『ローマはなぜ滅んだか』(講談社現代新書・1989年)50頁には,「馬を使った早飛脚の最高の例としては,4世紀の初めの皇帝マクシミヌスが殺害されたことを知らせる早飛脚が,1日約225キロメートル行ったという例がある。120ないし150キロメートルの早飛脚の速度は少しも無理ではなかったと思われる。」とあります。)

(5)1月11日未明ないしは早朝か 

 結局,通常「1月10日の夜」といわれれば,同日の日没から翌11日の夜明けまでのことでしょうから(現在の我々がそうなので古代ローマ人もそうであったと一応考えることにします。),カエサルのラウェンナ出発は,紀元前49年1月10日の夕方ということでよいのではないでしょうか。

しかし,プルタルコス流に夜中に橋をぞろぞろどやどや渡ったというのでは夜盗のようで恰好が悪いので,早朝,神の示現にも祝福されつつ太陽と共に爽やかにかつ勇ましくルビコン川を渡って世界制覇が始まった,というスエトニウス流のお話が作られたのでしょう。

(なお,11日朝ルビコン川渡河ということでも時間的にはぎりぎりのようですから,11日出発,12日朝に渡河のスケジュールの方が現実的であると判断されるのももっともではあります。キケロー=中務哲郎訳『老年について』(岩波文庫・2004年)のキケロー「年譜」(兼利琢也作成)の13頁では「49年 1月12日,カエサル,ルビコーン川を越え,内乱始まる。」とされています。)

2 2017年1月10日

(1)勝訴
 ところで,筆者にとっての2017年1月10日は,幸先よく勝訴判決を頂くことから始まりました。損害賠償請求事件の被告代理人を務めたものです。「・・・原告の前記(1)主張を認めるに足りる証拠はない。/・・・よって,その余の争点について判断するまでもなく,原告の請求は理由がないから,これを棄却することとし,訴訟費用の負担につき,民事訴訟法61条を適用して,主文のとおり判決する。」というのが当該地方裁判所判決の結論部分で,主文は,「1 原告の請求を棄却する。/2 訴訟費用は原告の負担とする。」というものでした。

 敗訴した原告側としては,証拠が無くとも慰謝料等の損害賠償請求自体はできるものの,裁判になった場合には証拠がないと請求が認められない,という当該分野の専門弁護士の説く一般論そのままの結果に終わったわけです。

(2)「問状」の効力いかん 

損害賠償金の支払を得るべくせっかく弁護士に頼んでお金を払って内容証明郵便や訴状を書いてもらったのに何だ,何の効果もなかったではないか,というのが敗訴原告の憤懣の内容となるでしょうか。

しかしながら,「就訴状被下問状者定例也」(訴状につきて問状を下さるるは定例なり)であるからといって(すなわち,訴状が裁判所に提出されて訴えが提起されると(民事訴訟法133条),裁判長の訴状審査(同法137条)を経て訴状が被告に送達され(同法138条1項),これに対して被告は,口頭弁論を準備する書面として(同法161条),答弁書(民事訴訟規則80条)を裁判所に提出し(同規則79条),かつ,原告に直送することになるところ(同規則83条),実務では,裁判所は,「問状を下す」のではなくて呼出状(当事者の呼出しについて民事訴訟法139条,呼出状の送達に関して同法94条)と一体となった「第1回口頭弁論期日呼出状及び答弁書催告状」といった書面を訴状の副本(民事訴訟規則58条1項)と共に被告に送達します。),それを承けた原告が被告に対して「以問状致狼藉事」(問状をもって狼藉を致すこと)をすること(例えば,「「第1回口頭弁論期日呼出状及び答弁書催告状」と題した問状を裁判所がお前にお下しになっただろう。これは,裁判官様がこちらの訴えが正しいと既にお認めになった証拠である。したがって,往生際悪く裁判所で無慈悲に拷問されるより前にさっさと素直にゲロして答弁書に「私が悪うございました。全て原告の言うとおりです。」と書け。」と迫る詐欺ないしは強迫的な狼藉を致すようなことなど)ができるかといえばそれは「姦濫之企」であって,「難遁罪科」(罪科遁れ難し)であることは,貞永元年(1232年)七月の御成敗式目によっても明らかなことです(第51条。なお,当時は問状は原告が自ら被告に交付していたそうです(山本七平『日本的革命の哲学』(祥伝社・2008年)424頁参照)。)。
 訴状提出による訴訟提起等の直接的効果に関して過大な期待を煽ってはいけませんし,また,「裁判所から書面が送達されて来た。」といってもいたずらに過剰に反応する必要もありません。まずは事実及び証拠です。信用のできる弁護士に相談すべきです。

3 ポンペーイウスの大弁護士 

 話はまた古代ローマに戻って,「賽を投げろ」と賭博的にルビコン川を渡河した(これは「名()○○号に乗()する」のような重複表現なのですが,御容赦ください。)カエサルの攻勢に対しっし対応,ポンペーイウスにはよい参謀はついていなかったものでしょうか。これについては,少なくとも弁護士の選択については,それまでの赫々たる名声だけで「弁護士」ありがたがって安易に帷幄に参じさせてはならないもの
 マルクス・トウㇽリウス・キケロー大弁護士は,カエサルルビコン渡河直後「戦争に対して名誉のある立派な理由を持ってゐた」ポンペーイウスと「情勢をうまく利用して自分自身ばかりでなく仲間のものの安全を図つていた」カエサルとの間で右顧左眄していましたが(プルタルコス「キケロー」
37・プルタルコス=河野与一訳『プルターク英雄伝(十)』(岩波文庫・1956年)209頁),紀元前49年4月のカエサルのイスパニア向け発足後に至って同年6月にギリシヤに向け「ポンペーイウスのところへ渡つた」ものの,そこにおいて「ポンペーイウスがキケローを一向重く用ゐないことが,キケローの意見を変へさせ」,キケロー大弁護士は「後悔してゐることを否定せず,ポンペーイウスの戦備をけなし,その計画を密かに不満とし,味方の人々を嘲弄して絶えず警句を慎しまず,自分はいつも笑はず渋面を作つて陣営の中を歩き廻りながら,笑ひたくもない他の人々を笑はせてゐた」そうです(プルタルコス「キケロー」38・河野訳上掲書210頁)。大先生自らお気に入りの下手なおやじギャグは,味方をまず腐らせるということでしょうか。
 紀元前
48年8月のファルサーロスの「敗北の後に,ノンニウスが,ポンペーイウスの陣営には鷲が7羽(軍旗が7本)残つてゐるからしつかり希望を持たなければならないと云ふと,キケローは『我々が小鴉と戦争をしてゐるのなら君の勧告も結構なのだが。』と云」い,「又,ラビエーヌスが或る託宣を引合に出して,ポンペーイウスが勝つ筈になつてゐると云ふと,キケローは『全くだ。その戦術を使つて今度我々は陣営を失つてしまつた。』と云つた」そうです(プルタルコス「キケロー」38・河野訳前掲書211212頁)。何でしょうねぇ, この当事者意識の欠如は。しかもこの口の達者な大先生は,肝腎の天下分け目の「ファルサーロスの戦には病気のためキケローは加はらなかつた」ものであったのみならず,カエサルに敗れて「ポンペーイウスも逃亡したので,デュㇽラキオンに多数の軍隊と有力な艦隊を持つてゐた〔小〕カトーは,法律に従つてコーンスルの身分で上官に当るキケローに軍の統率を依頼した」ところ,「キケローは支配を辞退したばかりでなく全然軍事に加はることを避けたため,ポンペーイウスの息子や友人たちがキケローを裏切者と呼んで剣を抜いたので,〔小〕カトーがそれを止めてキケローを陣営から脱出させなかつたならば,もう少しで殺されるところであつた」との頼りない有様であったとのことでした(プルタルコス「キケロー」39・河野訳前掲書212頁)。

 

 という難しい大先生がかつていたとはいえ,それでも弁護士は使いようであります。まるっきり法的にも見通しなしの賭博として「賽を投げる」ことはやはり危険でしょう。大事を前にして,信頼できる弁護士を探しておくことは無価値ではないものと思います。

 

 弁護士 齊藤雅俊

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1 ポンペイヤとクロディウス

 「カエサルの妻」(uxor caesaris)といった場合,「薬鑵頭の女たらし」であったカエサルの女性遍歴が問題になるというよりは,「李下の冠」又は「瓜田の履」といった意味になります。

 故事にいわく。

 

  〔カエサルは〕コルネリアの後添えとして,クィントゥス・ポンペイユスの娘で,ルキウス・スラの孫娘でもあるポンペイヤを家に迎えた。やがて彼女を,プブリウス・クロディウスに犯されたと考えて離婚した。この男は女に変装し,公けの祭礼の中に忍びこみ,ポンペイヤに不倫な関係をせまったという噂がたって,なかなか消えず,ついに元老院は,祭儀冒涜の件に関して真相を究明することを決議したほどであった。

  ・・・

  プブリウス・クロディウスがカエサルの妻ポンペイヤを犯した罪で,そして同じ理由で聖儀冒涜の罪で告発されたとき,カエサルは証人として呼び出されても,「私は何も知らない」と主張した。母アウレリアも姉ユリアも,同じ審判人の前で一部始終を自信たっぷりと陳述していたのであるが。「ではどうして妻を離婚したのか」と尋ねられ,カエサルはこう答えた。

  「私の家族は,罪を犯してはならぬことは勿論,その嫌疑すらかけられてはならぬと考えているからだ〔Quoniam meos tam suspicione quam crimine iudico carere oportere〕」と。

(スエトニウス『ローマ皇帝伝』「カエサル」6,74(国原吉之助訳・岩波文庫))

 

  ・・・カエサルに有難くない出来事がその家庭に起つて来た。プーブリウス クローディウスは家柄が貴族で財産も弁舌も立派であつたが,傲慢と横暴にかけては厚顔で有名な何人にも劣らなかつた。この男がカエサルの妻のポンペーイアに恋慕し,女の方も厭とは云はなかつたが,女たちの部屋の警戒が厳重であつた上,カエサルの母アウレーリアは貞淑な人で嫁を監視してゐたので,二人の密会はいつも困難で危険を伴なつてゐた。

  ・・・

  この祭〔男子禁制のボナ・デアの祭。男は皆家を出て,家に残った妻が主宰。主要な行事は夜営まれる。女たちで戯れ,音楽が盛んに催される。〕をこの頃(前6212月)ポンペーイアが催ほしたが,クローディウスはまだ髭が生えてゐなかつたので人目に附かないと考へ,琴弾き女の衣装と飾りを著け,若い女のやうな風をしてその家へ向つた。行つて見ると,門が開いてゐて,諜し合はせて置いた召使の女の手で無事に引入れられたが・・・クローディウスは,入れてくれた召使の部屋に逃げ込んでゐるのを発見され,何者だか明らかになつた上,女たちに戸口から追ひ出された。この事をそこから出て来た女たちが夜の間に直ぐ夫に話し,夜が明ける頃には,クローディウスが不敬な行為をして,その侮辱を受けた人々ばかりでなく国家及び神々からも裁きを受けなければならないといふ噂が町中に弘まつた。そこでトリブーヌス プレービスの一人がクローディウスを不敬の廉で告発し(前61年),元老院の有力者はこれを有罪にするために協力・・・した。しかしこれらの人の努力に対抗した民衆はクローディウスを擁護し,それに驚き恐れてゐた裁判官を向ふに廻してクローディウスに非常な援助を与へた。カエサルは直ちに(前61年1月)ポンペーイアを離別したが,法廷に証人として呼び出された時にはクローディウスに対して述べられた事実は何も知らないと云つた。その言葉が背理と思はれたので,告発者が「ではどうして妻を離別したのか。」と訊くと,「私の妻たるものは嫌疑を受ける女であつてはならないから。」と云つた。

  或る人はこれをカエサルが考へてゐる通り述べたのだと云ひ,或る人はクローディウスを一心に救はうとしてゐる民衆の機嫌を取つたのだと云つてゐる。とにかくクローディウス〔は〕この告発に対して無罪となつた・・・

(『プルターク英雄伝』「カエサル」9,10(河野与一訳・岩波文庫))

 

2 離婚原因としての「不貞な行為」

 我が民法770条1項1号によれば,「配偶者に不貞な行為があったとき」は,夫婦の一方は離婚の訴えを提起することができる(つまり,離婚できる。)と規定しています。

 カエサルの妻ポンペイヤは「不貞な行為」をしたのでしょうか。

 

 「不貞行為とは,夫婦間の貞節義務(守操義務)に反する行為をいう。姦通がその代表的な場合であり,実際上も姦通の事例が多い。しかし,不貞行為の概念はかなり漠然としている。」とされます(阿部徹『新版注釈民法(22)親族(2)』(有斐閣・2008年)360頁)。微妙な言い回しですが,これは,不貞行為を姦通の場合に限定すべきか否かについては学説上の対立があり,判例の立場も必ずしも明らかではないからです(阿部徹362頁)。「不貞行為」に含まれ得る姦通以外の性関係としては,「不正常な異性関係,同性愛,獣姦・鶏姦など」が考えられています(阿部徹363頁参照。ただし,鶏姦といっても相手は鶏ではないはずです。)。

 「姦通」は,フランス語のadultèreですね。

 1804年のナポレオンの民法典にいわく。

 

   229

 Le mari pourra demander le divorce pour cause d’ adultère de sa femme.

 (夫は,妻の姦通を原因として離婚を請求することができる。)

 

      230.

  La femme pourra demander le divorce pour cause d’ adultère de son mari, lorsqu’il aura tenu sa concubine dans la maison commune.

 (妻は,夫の姦通を原因として離婚を請求することができる。ただし,夫が姦通の相手を共同の家に同居させたときに限る。)

 

詰まるところ,おれは浮気はするけれどジョゼフィーヌに妻妾同居を求めることまではしないよ,というのがナポレオンの考えであったようです。

昭和22年法律第222号で1948年1月1日から改正される前の我が民法813条は,「妻カ姦通ヲ為シタルトキ」には夫が(2号),「夫カ姦淫罪ニ因リテ刑ニ処セラレタルトキ」には妻が(3号)離婚の訴えを提起することができるものと規定していました。

 昭和22年法律第124号により19471115日から削除される前の我が刑法183条は次のとおり。人妻でなければよかったようです。したがって,ナポレオンの民法典が気にしたようには妻妾同居は問題にならなかったようです。

 

 第183条 有夫ノ婦姦通シタルトキハ2年以下ノ懲役ニ処ス其相姦シタル者亦同シ

  前項ノ罪ハ本夫ノ告訴ヲ待テ之ヲ論ス但本夫姦通ヲ縦容シタルトキハ告訴ノ効ナシ

 

 ところで,民法の旧813条3号及び刑法旧183条並びにそれぞれの改正日付だけを見ると,19471115日から同年1231日までは,夫はいくら姦通をしても妻から離婚の訴えを提起されることはなかったようにも思われるのでドキドキしますが,その辺は大丈夫でした。昭和22年法律第74号(「日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律」は件名)によって,日本国憲法施行の日(1947年5月3日)から19471231日までは(同法附則),「配偶者の一方に著しい不貞の行為があつたときは,他の一方は,これを原因として離婚の訴を提起することができる。」とされていました(同法5条3項)。なお,ここでの「著しい不貞の行為」の意味は,「姦通も場合によっては著しい不貞の行為とならず,また反対に,姦通まで至らなくとも場合によっては著しい不貞の行為となりうるという趣旨であった,と解するのが正しいであろう。」とされています(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)176頁注1)。

 それでは,ポンペイヤとクロディウスとの関係が,1回限りの過ちであった場合はどうでしょうか。

 

 ・・・実際の離婚訴訟では,原告はさまざまの事実を併せて主張するのが普通であり,裁判所も,1度の性交渉が証明されただけで離婚を認めることはまずない。しかし,ときには被告が,性交渉の事実を認めながらも,それは「一時の浮気」にすぎないとか,「酔余の戯れ」でしかないといった抗弁を出すことがあり,下級審判例の中には,2ヵ月に及ぶ異性関係を「一時の迷と考えられぬことはない」として,不貞行為の成立を否定した例もある(名古屋地判昭26627下民集26824)。しかし,一時的な関係は不貞ではないとの解釈は無理であり,学説は一般に,不貞行為にあたると解している・・・(阿部徹360頁)

 

これによれば,学説では,1度限りの姦通でもやはり不貞行為になるということのようです。「離婚請求の最低線」(「裁判官の自由裁量の余地なく,必ず離婚が認められるという保障」(我妻121122頁参照))を維持するためにこそ,学説は,「不貞な行為」を「姦通(性交関係)に限ると解したい。」としています(我妻171頁)。「例えば,夫に不貞の行為があった場合にも,裁判官の裁量によって離婚の請求を棄却することができるとすることは,妻の離婚請求の最低線を崩すことになって不当ではないか。」というわけです(我妻124頁)。

「姦通の事実がある場合にも離婚の請求を認めないのは,〔民法770条〕2項〔「裁判所は,前項第1号から第4号までに掲げる事由がある場合であっても,一切の事情を考慮して婚姻の継続を相当と認めるときは,離婚の請求を棄却することができる。」〕の適用に限る。」とされ(我妻171頁),「原告が事後的にこれを「宥恕」したとか,異性関係を知りつつ黙認していたような場合は本条〔民法770条〕2項の問題になる。」とされています(阿部徹360頁)。

 

3 「婚姻を継続し難い重大な事由」

しかし,カエサルは,法廷において,そもそもポンペイヤとクロディウスとの間に姦通があったとの主張をしていません。(なお,「不貞行為の証明責任は〔離婚を求める〕原告側にあ」ります(阿部徹363頁)。)

そうであれば,カエサルは,我が民法でいえば第770条1項5号の「その他婚姻を継続し難い重大な事由」があるものとしてポンペイヤと離婚したものでしょうか。「厳格な意味で姦通といえない場合(肉体的関係の存在までは立証されない場合)・・・などにも,それらの事由によって婚姻が明らかに破綻しているときは,この〔民法770条1項5号の〕重大な事由にあたる。」とされています(我妻174頁)。ちなみに,「婚姻を継続し難い重大な事由」とは,「一般に,婚姻関係が深刻に破綻し,婚姻の本質に応じた共同生活の回復の見込みがない場合をいうもの」と解されています(阿部徹375頁)。(なお,婚姻を継続し難い重大な事由存在の「証明責任は〔離婚を求める〕原告にあ」ります(阿部徹382頁)。)

 

 不貞行為には該当しないとされる貞節義務違反(性的非行)が破綻離婚(770)の一要素として考慮され,結局,離婚が認められるに至る場合も少なくない(・・・東京高判昭37226〔妻の同意のもとでの夫の女性関係〕,名古屋地判昭47229判時67077〔同性愛〕,東京高判昭471130判時68860〔特定の女性を中心とした徹夜麻雀・グループ旅行などの交遊関係を夫が婚姻後も継続〕など)。本条〔民法770条〕1項5号は具体的離婚原因に該当しない場合を包摂する離婚原因であるから,実体法の理論としては,とくに問題はないであろう。(阿部徹366頁)

 

 実際の訴訟では,「不貞行為が認定されることはそれほどないのです。」とされています(阿部潤「「離婚原因」について」『平成17年度専門弁護士養成連続講座・家族法』(東京弁護士会弁護士研修センター運営委員会編,商事法務・2007年)16頁)。「もちろん,被告が不貞の事実を認めている場合は認定します。また,絶対的な証拠がある場合にも認定します。」とは裁判官の発言ですが,「しかし,多くの場合には,怪しいという程度にとどまるのです。」ということのようです(阿部潤16頁)。

 そこで,民法770条1項5号が登場します。「離婚訴訟を認容するには,不貞行為の存在は必要条件ではありません。婚姻が破綻していれば,不貞行為が認定できなくても,離婚請求は認容されます。例えば,婚姻関係にありながら,正当化されない親密な交際の事実が立証できれば十分です。」ということになるわけです(阿部潤16頁)。民法770条1項1号ばかりが念頭にあると,「親密な交際の事実を認めながら,性的関係はないので,離婚原因はないとの答弁をする場合がありますが,これは正しくはありません(これまた,弁護士が被告代理人となっていながら,このような答弁書が多いのです)。」ということになってしまいます(阿部潤1617頁)。他方,同項5号の「婚姻を継続し難い重大な事由があるかどうかという観点」からは,「夫が妻以外の女性と,複数回,ラブホテルに宿泊」した場合には,被告である夫がいくら「性的関係をもたなかった」と主張しても,「すでに,自白が成立しているようなもの」だとされてしまうわけです(阿部潤17頁)。

 なお,不貞行為の立証のための証拠収集作業としては,「不貞行為の相手の住民票及び戸籍謄本の徴求,写真,録音テープ,メールの保存,携帯電話の受信・着信履歴の保存,クレジットカードの利用明細書の収集等」及び「興信所による素行調査報告書」が挙げられています(東京弁護士会法友全期会家族法研究会編『離婚・離縁事件実務マニュアル(改訂版)』(ぎょうせい・2008年)87頁)。「夫と交際相手の女性との間の不貞行為について争われた事案において,妻や娘等が夫を尾行して見た夫と交際相手の女性との行動,交際相手の女性のことで夫と妻が争っている際の夫の妻に対する発言内容,盗聴によって録音された夫と交際相手の女性との電話での会話内容などから,夫の不貞行為の存在を推定できるとした裁判例がある(水戸地判平成3年1月・・・)。」とされていますが,「収集方法によってはプライバシーの侵害,違法収集証拠性が問題となる」のはもちろんです(東京弁護士会法友全期会家族法研究会8788頁)。

 

4 ローマの離婚

 古代ローマの離婚制度に関しては,初代王ロムルスについて次のように伝えられています。

 

 ・・・ロームルスは尚幾つかの法律を定めた。その中でも烈しいのは,妻が夫を見棄てることを禁じながら,毒を盛つたり代りの子供をそつと連れて来たり鍵を偽造したり姦通する妻を追ひ出すことを認めた法律である。但し他の理由で妻を離別した夫の財産は一部分妻のものとして残りをケレース(収穫の女神)に献ぜさせ,その夫は地下の神々に犠牲を供へるやうに命じてゐる。・・・(『プルターク英雄伝』「ロームルス」22(河野・岩波文庫))

 

離婚貧乏ですね。

なお,古代アテネの法におけると同様,古代ローマの女性も,夫を離別する権利を保持していたとされています(De l’Espris des lois, Livre XVI, Chapitre XVI)。「合意による離婚の自由は,婚姻自由に対応するものとして,少なくとも古典期末までは不可侵とされてい」ました(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法―ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)146頁)。「というのは,妻又は夫がそれぞれ離別権を有する以上,両者は協議により,すなわち合意によって別れることができることはもちろんのことであったのである。」というわけです(De l’Espris des lois, Livre XVI, Chapitre XVI)。

ここで,divorcerépudiationとの意味は異なるとされています。同じ離婚の結果を生ずるとしても,前者は配偶者両者の合意によるもの,後者は配偶者の一方のみの意思によるものとされています(De l’Espris des lois, Livre XVI, Chapitre XV)。カエサルとポンペイヤとの離婚はどちらだったのでしょうか。スエトニウスは,divortium facereであったとしつつ(Divus Julius 6),法廷ではカエサルはなぜポンペイヤをrepudiareしたのかと訊問されたと伝えています(Divus Julius 74)。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

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 弁護士の弁の字は,難しい康熙字典の旧字体では「辯」。これは意符の言を真ん中に,音符の辡(べん)で挟んだ文字で,訴訟を分け治める,ひいて,ことわけを明らかにする意を表す文字だそうです(『角川新字源』)。

 名前に言の字が入っているくらいですから,辯護士にとって最重要なのは辯舌ということになるのでしょうか。

 しかしながら,なかなかそういうことにも,簡単にはならないようです。


 口頭弁論の必要性に係る民事訴訟法87条1項本文は「当事者は,訴訟について,裁判所において口頭弁論をしなければならない。」と規定しています。しかし,準備書面に係る民事訴訟法161条1項は,また,「口頭弁論は,書面で準備しなければならない。」と規定しています。そうなると,裁判所における口頭弁論期日における当事者の陳述の実際は,あらかじめ裁判所に提出され,かつ,相手方に直送されているところの「準備書面に記載のとおり陳述いたします。」ということになってくるわけです。

 まずは,弁護士にとっては,書面をしっかりと,かつ,「簡潔な文章で整然かつ明瞭に」書く(民事訴訟規則5条)腕が重要ということになります。


 しかし,これは現代日本に特有な話で,辯護士らはその華麗な辯舌でもって法廷で争うべきことが原則なのではないか,他の国ないしは時代においてはそのような原則が貫徹している例があるはずではないか,とも考えてしまうところです。そのような場合,つい念頭に浮かぶのは,古代ローマの弁護士(また,執政官。「祖国の父」との称号を得る。)にして第一の雄弁家とされるキケロー(前106年-前43年)です。


 キケローは,うぬぼれやで毒舌家(例えば,プルタルコスによれば,天分も学識もないくせに法律家を自称している男を証人に呼んだところ「何も知らない」と答えたので,キケローは「どうやら君は法律のことを訊かれたと思っているらしいね」と言ったとか。)。弁護士報酬は受けなかったものの(ローマの法律家は金銭を要求しなかったものとされています。),厚く感謝する依頼者から,返す必要のないお金を貸してもらったり,遺産相続人に指名されるなどしつつローマの政界で台頭します。(確かに,プルタルコスは,キケローは自己所有の地所からの収入で支出を賄えたので,弁護に立っても報酬や贈物を受け取らなかったと書いていますが,そこでは「借金」や遺産相続には言及されていません。なお,日本民法の委任契約においても,その旨の特約がなければ受任者は委任者に対して報酬を請求できないものとされています(民法6482項)。)

 しかし,キケローは,武器を取るのは苦手で,演説でも実は調子が出てくるまではあがり症。政争における殺人の罪で告発されたアンニウス・ミローを弁護するときには,ポンペーイウスが陣取って武器立ち並ぶ政治裁判法廷の物々しさにすっかり取り乱して震えが止まらず,声がつかえて散々の出来栄え。ミローは有罪,マルセイユに逃亡しました。

 ところが,当該弁論に失敗した後,キケローは『ミローのための演説』を今度は悠然と書き直し,公刊します。今に残る当該「名演説」をマルセイユで読んだミローは,「キケローよ,君がこのとおりしゃべっていたのなら,今ごろおれはここで魚を食ってはいなかったはずだぞ!」と吠えたとか。


 カエサル暗殺(前44315日)後,キケローはアントーニウスと敵対。一連の『フィリッピカ』演説(アテネのデーモステネースの同名の反マケドニア(当時の国王は,アレクサンドロス大王の父のフィリッポス2世)演説集にちなんで命名)でアントーニウスを攻撃します。しかし,カエサルの後継者であるオクターウィアーヌスがアントーニウス及びレピドゥスと組むに至り(第二回三頭政治),キケローの運命は暗転。アントーニウスの要求により,三頭政治家のボローニャ会議においてキケローは死すべきものと決定。前4312月7日,キケローは海辺の別荘地で,アントーニウスの手の者によって殺害されました。

 アントーニウスは,キケローの首と,自分を攻撃する『フィリッピカ』を書いたその右手とを切り取ってローマに持って来させ,呵呵大笑,フォルムにさらします。


 キケローの舌(首)を取っただけではアントーニウスの腹の虫は納まらず,書面を書く右手までさらしてやっと十分満足したということは,古代ローマの弁護士にとっても書面作成こそが重要な仕事であったということを推認させる事実でしょうか。前48年に死んでいたミローに言わせれば,残る右手で名文さえ書ければ,キケローの図々しいうぬぼれにとっては,舌が少々使えないくらい何でもないことを忘れるな,ということでしょうか。


 いずれにせよ,右手が使えないのは不便なことです。


 (なお,プルタルコスは,アントーニウスの伝記では右手と書きつつ,キケローの伝記では,その両手が切り取られたものとしています。この分かりにくさは,さすがプルタルコスというべきか。両手を切ったということならば,アントーニウスの手下が,キケローが左利きであった場合のことをも考えて周到に処置したということでしょうか。いずれにせよ,最近の弁護士はパーソナル・コンピュータのキーボードを両手で打って書面を作成していますから,現代のアントーニウスは,「しっかり両手を切り取れ」と命ずることになるのでしょう。)


 現在,キケローの名から派生したcicéroneないしはCiceroneという単語がフランス語やドイツ語に存在します。ただし,これらは弁護士とは関係なく,(雄弁な)観光ガイドという意味です。



(参考)河野与一訳『プルターク英雄伝』(岩波文庫)10:169頁・195頁・205頁・207頁・222頁・224225頁,1192; I.モンタネッリ・藤沢道郎訳『ローマの歴史』(中公文庫)256257頁・278279

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