カテゴリ: ローマ

1 星野英一青年の後ろめたさ

 法律学は,「パンのための学問」であると貶称せられることが多いところです。

 あ・法学部,と言われることもあります。六法の条文と判例とをひたすら暗記するばかりで能のない卑俗なお勉強であることよ,ということでもありましょうか。

 この点は,後に我が民法学の第一人者となられた星野英一青年(当時)も気にされていたところのようで,1945年に駒場の第一高等学校から本郷の東京帝国大学法学部に進学するに当たっては,直ちに勇往邁進・大威張り,というわけではなかったようです。

 

   そんなわけで,ちょっと大げさだけれども,真理の探究に直接参加できる哲学とか,学問でも経済学なんかのほうが,高尚のような感じがしていました。法学というのは,パンのための学問だと当時から何度も聞かされていますし,先生方の中にはそう言って,法学部へ行く者を冷やかす方がありました。木村健康先生が私どもがいた中寮の寮主任で,途中から弁論部の部長になられたので,よく話しにいきました。その時に,田中耕太郎の講義は眠いよ,といった話をされます。これは少し後なのですけれども,安倍〔能成〕先生の所へ行って,我妻〔榮〕先生のもとで勉強しようと思いますと言いましたら,ああ我妻君か,あれは頭がよくて元気がいいからね,と茶化すように言われたのです。そういう調子でした。一高の先生と東大の先生との間には,微妙な精神的なコンフリクトがあったようですけれども。

   本当は哲学などがいいな,と思いましたが,哲学は今道〔友信〕君が行くし,あんな人がやるのだったら自分はとてもかなわないと思いました。まあ無難なところがよかろうかというあたりです。父が弁護士でしたが,私は,客商売には全然向いていませんから弁護士的な才能はないと思って,裁判官には失礼なことですけれども,裁判官になろうかと考えていました。そういうことで何となく入ったのです。当時,法学部に入るということに何となく後ろめたさがあったような気がします。〔後略〕

  (星野英一『ときの流れを超えて』(有斐閣・200633頁)

2 文豪フリードリッヒ・シラーのBrotgelehrte批判

この「法律学(Rechtswissenschaft(イコール)パンのための学問(Brod[Brot]wissenschaft)」観念の淵源は,インターネットを処々検したりなどしたところ,イェーナ大学において世界史(Universalgeschichte)を講ずることとなったフリードリッヒ・シラーが1789526日に同大学で行った就任演説「世界史とは何か,そして何のためにそれを学ぶのか?(Was heißt und zu welchem Ende studiert man Universalgeschichte?)」においてした,二つの典型的学生像の摘示及び相互比較に由来するもののようです。当該2類型中の第1は,すなわち,我らの同類たるパンのために学ぶ・学んだ者(der Brod[Brot]gelehrte)であり,第2は,高尚な,知を愛する頭脳(der philosophische Kopf)でありました。もちろん,シラー大先生の世界史講義は,後者に属する若者向けのものとして構想されていたものです。ただし,かつての法学徒にして医師でもあるシラーは,法律学を特に名指しして,パンのための学問にすぎないと露骨かつ直接的な攻撃・糾弾を行っていたわけではなく,パンのために学んだ者の一例として,医者及び聖職者と並んで法律家が言及されているという訳合いとなっています。

 

  パンのために学ぶ者が自らに提示する学問の計画と,知を愛する頭脳が自らに提示するそれとは,それぞれ異なっております。前者――パンのために学ぶ者――においては,その精励がなされるところは,ある職(Amt)のための資格を得て,それに伴う利益(Vortheile [Vorteile])に(あずか)ることができるようになるための条件を専ら満足させるためのみなのであります。彼がその精神の諸力を発動させるのは,専ら,それによってその感覚に関係する状況を向上させ(seinen sinnlichen Zustand zu verbessern),かつ,卑小な名誉欲(eine kleinliche Ruhmsucht)を満足させるためなのであります。そのような者が学問生活の途に就くに当たって最重要事とすることは,彼がパンのための勉強(Brod[Brot]studien)と名付けるところの諸学問を,精神を専ら精神として満足させるところの他のものから,細心の注意をもって選り分けることであります。後者の諸学問――精神を専ら精神として満足させる諸学問――に費やすこととなった時間は,彼の将来の職業から奪われたものと彼は信ずるのであって,この盗難を決して自らに赦すことができないこととなるのであります。彼はその全精励をもって,彼の運命に係る将来の主人から課されるところの要求に順応せしめます。しかして,当該審級(Instanz)を恐れる必要のない資格を得れば,彼は全てを成し遂げたものと信ずるのであります。彼がその課程をやり遂げ,その望んだゴールにたどり着いたときには,彼はその導きの女神ら(Führerinnen)に暇を出してやることになります――というのも,なおこの上何のために彼女らを煩わすのでしょうか。今や彼にとっての最重大事は,記憶に貯め込まれた貴重な知識を誇示すること及び,また,それらの価値が低下することを防止することとなるのであります。彼が学んだパンのための学問(Brodwissenschaft)におけるあらゆる進歩発展は,彼を不安にさせます。それはそれが,新しい勉強課題を彼にもたらし,又は過去のものを無用のものとするからであります。全ての重要な革新は,彼を驚愕せしめます。というのは,彼があんなに苦労して自分のものとした古い学校的定式(die alte Schulform)をそれは破壊し,それまでの人生における全ての勉強の成果を失う危険を彼にもたらすからであります。パンのために学んだ者の群れよりも声高に,改革者たちに対して怒号を浴びせかけた者がいたでしょうか。正に彼らよりも強い力で,学問の国において必須の革命の前進を押しとどめる者がいるでしょうか。どの学問分野であっても,幸運な天才によって点火せられたあらゆる光は,彼らの不十分性を暴き出します。彼らは憤怒とともに,陰険に,絶望的に戦います。それは彼らが,彼らが守る教育制度(Schulsystem)に関して,同時に,彼らの全存在のために戦っているからであります。かかるがゆえに,パンのために学んだ者を上回って非宥和的な敵,妬み深い事務雇員,積極的な異端排斥者は存在しないのであります。彼の知識がそれ自体によって彼に報いるところが少ないほど,より大きな報償を彼は外部から要求することになります。肉体労働者の報酬及び精神労働の報酬について,彼は同一の基準しか持っていません。努力die Mühe)です。かかるがゆえに,パンのために学んだ者から発せられたものよりも大きな,忘恩に対する苦情申立ての声を聞くことはないのであります。彼は,その記憶した専門知識において報われることを求めるものではありません。彼はその報酬を,他者からの承認において(von fremder Anerkennung),名誉の地位において(von Ehrenstellen)及び年金において(von Versorgung)期待するのであります。このことがうまく行かなかった場合においては,パンのために学んだ者より以上に不幸な者があるでしょうか。彼は無駄に生き,賭け,働いたのであります。真理が彼のために,黄金に(in Gold),新聞紙上の称賛に(in Zeitungslob),君侯からの寵遇に(in Fürstengunst)変じないとするのならば,彼は無駄に真理の追求をしたことになるのであります。

  嘆かわしい人間であります。学芸という,全ての道具のうちで最も高貴なものを持っていて,最も粗悪な道具しかない日雇労務者がするものよりもより高尚な仕事を意図し,実行することのない者は。最も完全な自由の国にあって,奴隷根性(eine Sklavenseele)を持ち歩きまわる者は。――しかし,更にもっと嘆かわしいのは,有害な教説及び見本によって,その本来輝かしかるべき人生行路がこの悲しむべき邪道へと(auf diesen traurigen Abweg)誤導された才能ある青年,その将来の職業のためにということで,当該の虚弱な細心さをもって収集作業を行うべく(mit dieser kümmerlichen Genauigkeit zu sammeln)祈伏されてしまった青年であります。ほどなくして,彼のする職業のための学問(Berufswissenschaft)は,中途半端なもの(ein Stückwerk)として,彼に厭嫌の情を催させます。当該学問によっては満足させられることのできない望みが,彼の中で目を覚まします。彼の才能が,彼に与えられた運命に対して反抗します。今や彼の行う全てが,彼にとっては断片(Bruchstück)でしかないもののように思われます。彼はその働きにおいて,何らの目的も見出すことができません。とはいえしかし,彼は無目的性(Zwecklosigkeit)に耐えることができないのであります。彼の職業活動の労苦(das Mühselige)及び取るに足らなさ(das Geringfügige)は,彼を地上に押し倒します。明るい洞察のみに,予感される達成のみに伴うものであるところの喜ばしい元気が,そこにおいて彼を支えることはないからであります。彼は自らが,事物の連関から分離せられ,引き剥がされたもののように感じます。彼の仕事を,世界の大きな全体に結びとめることをやめてしまったからであります。法律を学んだ者に対して(dem Rechtsgelehrten),その法律学は,より優れた文化の曙光がその諸弱点(ihre Blößen)を照らし出すやいなや――今や彼はその新たな建設者たるために,かつ,その明らかにされた欠缺を内部からの充実をもって改善するために努力すべきであるにもかかわらず――彼のやる気をそいでしまうものとなるのであります(entleidet)。医師(Arzt)は,彼の学問(シス)体系(テム)信頼に足らぬということを深刻な失敗が彼に示すやいなや,内心において,その職業から疎外せられた状態となります。神学者(Theolog)は,彼の教説体系の無謬性に対するその信仰が揺らぐやいなや,彼の職業に対する敬意を失ってしまうのであります。

  〔注:シラーの当該演説において更に続いた,知を愛する頭脳に関する,パンのために学んだ者との比較を伴う特徴描写は,当記事末尾の「附記」に掲載されています。〕

 

「技術的・専門的」知識を誇示する努力主義者たち(努力したのですから「真面目」な人たちです。)こそが,最も固陋姑息な人々でありました。彼らの記憶の中に貯め込まれた貴重な知識が彼らに提供する金銭稼得・地位獲得機能を安易にそのままの形で恒久的に維持しようとして,世界の大きな全体における事物の連関からの分離をあえて求めて「専門性」という名の壁を虚喝的に高く築いてその内側に退嬰的に籠城するのみならず,彼らは,新しい学問の進歩発展という憂慮すべき現実と共にやって来る犯罪的かつ危険な同業者に抗する非宥和的な敵,妬み深い事務雇員,積極的な異端排斥者として,御殿〇中的正義の憤怒に燃えて(「えっ,きみたち,大勢でもって長いこと今まで,こんな変な仕事をこんな変なやり方でしていたの!?」と放言して無邪気に目を丸くしてみせるというとぼけた悪魔的所業を公然行なわれては,決して赦すことはできません。),意地悪,サボタージュ,更には上司・権力者の寵を頼んだ御注進等の陰険(やむにやま)(れぬ)人事的策動ばかりに専ら励んで日を送るのでありました。かつて己れが「専門」とした学問は,彼らの都合からすればその当時のままそうあり続けるべきものであって,その革新,改革又は革命などというものは,彼らの正義――すなわち,彼らの全存在ないしは彼らのそれまでの人生の意義の顕彰及び現状保存の欲求――と実は決して両立しないものだったのでした。しかして自ら知的に変化生長することを止めた横着者の内面生活においては,既にその自慢の「専門」学問は外界とのつながりを失って枯れ(しな)び果てており,実践上の最初の困難が当該枯木にいわば当然の深刻な打撃を与えるとともに――高学歴の実務「専門家」としての処世上の必要に基づく外観の弥縫はともかくも――当該枯木は手の施しようもなく倒木と化して彼の真面目な関心及び取組の圏外に去って放置され,他方,若き日のお勉強修行の当初から相疎隔せられていた真の学問と彼との間には,依然として荒寥たる没愛知(フィロソフィー)の隙間風が吹きすさんでいるばかりであることが改めて明らかとなるのでした。

 とはいえ,世の中,シラー流のパンのための学問をしただけの専門家ばかりではないのでしょう。立派かつすごい専門家もおられるわけです。

 

   ちょっと前の続きをさせてください。後になってから,一高の先生と東大の先生とを比べてみると,一高の先生というのは,もちろん人によって違いますが,全体として教養人という感じです。教養の香りがある。東大の法学部の先生は専門の学者という感じでした。いわゆる教養の香りの高い先生は,割合少ないと思いましたね。一高の先生と東大の先生の間に微妙な関係があった理由は分かるように思います。〔略〕東大の先生にも,教養人タイプの方はいらっしゃいますが,全体として東大の先生は狭い領域のすごい専門家という感じでした。私は,どちらもそれなりに好きですが。

  (星野36-37頁)


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3 大帝ユスティニアヌスの法学徒激励

しかし,黄金といい感覚に関係する状況の向上といい年金といい,他者からの承認といい卑小な名誉欲の満足といい新聞紙上の称賛といい,更に,君侯からの寵遇といい名誉の地位という場合,現実にこれらの利益(ブローテ)🍞🍞🍞をもって若き学徒に対して積極的な勧奨・督励をしてきたという事実は,法律学についてはこれを否定することができません。

勅定の法律学教科書たる法学提要(533年)の序文(prooemium)において,当時コンスタンティノープルからローマ帝国再興の大業を遂行せられつつあった多忙のユスティニアヌス大帝は,畏くも,若き法学徒らに対して(cupidae legum juventuti)御自ら親しく呼びかけられ,激励せられていわく。

 

  Summa itaque ope et alacri studio has leges nostras accipite et vosmet ipsos sic eruditos ostendite, ut spes vos pulcherrima foveat, toto legitimo opere perfecto, posse etiam nostram rem publicam in partibus ejus vobis credendis gubernare.

  (したがって,全力で,かつ,速やかな学習をもって,これらの余が諸法律を身につけるべし。しかして,全ての法律学修が完了したときに,諸君に委ねられるその部分における余の帝国の統治の仕事をも担うことができるという最美の希望が,諸君のためにかなえられるのにふさわしいものとなるべく,それらに精通した者であるものと諸君自身を示すべし。)

 

無論,皇帝陛下の激励には制度的物的な裏付けがあるわけで,ローマ帝国の統治の一翼を担う若き法律家たちに与えられることとなる利益(ブローテ)🍞🍞🍞は,生半可なものではなかったところです。エドワード・ギボンは,その『ローマ帝国衰亡史』の第17章(1781年)において,第4世紀のコンスタンティヌス帝時代におけるローマ帝国の法律家集団(the profession of the law)に関して,次のように報告しています。

 

  全ての文官は,法律家集団の中から選ばれた。有名なユスティニアヌスの法学提要は,ローマ法学の学修にいそしむ彼の帝国内の若者たち宛てのものであった。しかして当該主君は,やがては国家統治の相当の部分を担当することができることによって報いられるということを保証して,彼らの勉強を特に親しく励ました。この実入りのよい学問(lucrative science)の初歩は,東西の全主要都市において教えられていた。しかし,最も有名な学校は,フェニキア海岸のベイルートのものであった。当該学校は,彼の出身地にとってしかく有利なものであった教育機関の恐らく創設者であったろうアレクサンデル・セウェルスの時代から3世紀間余繁栄していたところである。5年間続く通常の教育課程の後,学徒たちは富と名誉とを求めて(in search of fortune and honours)各地方に散らばった。既に法律,技芸及び悪徳の繁茂によって腐敗させられていた大帝国においては,彼らが無尽蔵の勤め口の供給に事欠くということはなかった。東部総督の官邸だけでも,150名の弁護士に雇用を提供することができ,そのうち64名は特有の特権をもって優遇されていた。しかして更に毎年2名が選ばれ,黄金60ポンドの報酬を得て,総督府金庫ための訴訟代理人業務を行った。最初の実地考査は,彼らを時々裁判官の補佐人として任命して,彼らの司法官的才能について行われた。そこからしばしば彼らは,かつてはその前で弁論を行った法廷の主宰者として引き上げられた。彼らは地方行政を引き受け,更に,能力,評判又は恩顧(favour)の助けによって,順を追って,国家の最高顕官たる地位(illustrious dignities)にまで昇った。弁護士業務において,これらの男たちは理性を論争のための道具と心得ていた。彼らは法律を,私的利害の命ずるところに従って解釈した。しかして当該悪習慣は,国家の公行政において示される彼らの性格にもなお付きまとい得ていたところである。自由職業の栄誉は,実際のところは,純粋な高潔さ及びそれにふさわしい知恵をもって最重要な地位を占めた古代及び近代の弁護士によって証し立てされているのである。しかしながら,ローマ法学の衰退期にあっては,法律家の通常の昇進には,姦策と汚辱と(mischief and disgrace)が伴った。かつては貴族の神聖な世襲業務として留保されていたこの高貴な技能は,熟練よりはむしろ狡猾(cunning)をもってして,さもしくかつ悪質な業務(a sordid and pernicious trade)を行うところの解放奴隷ら及び平民らの手に墜ちていた。彼らのうちのある者は,不和を醸成し,訴訟を励起し,及び彼ら自身又は彼らの兄弟のための利得の収穫を準備する目的で,もろもろの家庭に出入りする許しを得ていた。他のある者は,書斎に引きこもり,明白な真実を混乱させる煩瑣な理論及び最も正当化し難い主張をもっともらしく粉飾する議論を富裕な依頼者に提供して,法学教授の重々しさを保っていた。華やかで人気のある階級は弁護士によって構成されており,彼らは,その大袈裟かつ多弁な修辞の音声をもって広場(フォーラム)を充たしていた。名声にも正義にも注意を払わないでいる彼らは,大体のところ,出費,遅延及び落胆の迷路に彼らの依頼者を導く,無知かつ貪欲な案内人として描写されていた。彼らはそこから,だらだらと続いた何年もの期間の後に依頼者の忍耐及び財産がほとんど尽き果てたときに,やっと解任されたのである。

 (Gibbon, Edward, The History of the Decline and Fall of the Roman Empire I (Penguin Classics, 2005): pp.616-617

 

 法律学は,古代ローマ以来,パンのための学問であるとともに,治国平天下業のための学問でありました。

 

4 末弘厳太郎法学部長の「治国平天下」

 前記古代ローマ以来の「法律学=治国平天下業のための学問=パンのための学問」の伝統が,後の法務大臣である三ケ月章教授による次の思い出の述懐(東京大学教養学部文科一類1年生に対する1981年度夏学期の「法学」講義におけるもの)につながるのでしょう。


〔前略〕東京大学において民法を講じた有名な法学者であり,戦争中に法学部長であった末弘厳太郎が「法学部で学ぶのは治国平天下の学である」と開口一番喝破したのを,私は新入生〔1942年東京帝国大学法学部に入学〕として講壇の下から聞いたことを,今でもはっきりと覚えているのである。

(三ケ月章『法学入門』(弘文堂・1982年)178頁)

 

 「治国平天下の学」とは,折から太平洋において,アジアにおいて,鬼畜米英相手に連戦連勝中(1942年度の新学期開始の時期です。)の光輝ある我が大日本帝国にふさわしく,勇ましい。 

 しかし,その王国を治め,更に地上の全王国(omnia regna mundi)を平らかにする治国平天下は,その栄光(gloria)の反面においては,極めて危険な悪魔崇拝的陥穽👿diabolum adorare)に満ちた(わざ)でもあります。

 

    iterum adsumit eum diabolus in montem excelsum valde

    et ostendit ei omnia regna mundi et gloriam eorum

    et dixit illi

    haec tibi omnia dabo si cadens adoraveris me

    (Mt 4, 8-9)

 

 また,人はパン🍞を食べて生きるのであって,治国平天下の学徒は,自他のパンの問題をそもそもおろそかにすることはできません。

 

 et accedens temptator dixit ei

    si vicarius Caesaris es dic ut lapides isti panes fiant

    (cf. Mt 4, 3)

 

 治国平天下のためには,不毛の岡に碌々と転がる,いかしいばかりの石をパン🍞に仕立て上げるまでの辣腕が必要です。芋🍠ではいけないのです。

 

  〔前略〕私共が〔1943年に第一高等学校に〕入学した頃に,「高等学校修練要綱」というのが恐らく文部省から出ました。具体的には,四つの寮に先生を寮長にして住ませるということなどがありました。そのときに,それらを実行しているかについて視察団が来ました。その中に末弘〔厳太郎〕先生がおられました。先生は,積極的に軍部におもねるような言い方はしておられないようで,そこはさすがにきちんとしておられたのですけれども,そういうことはやっておられたのです。もちろん,そのくらいならということだと考えておられたのでしょうが,当時の純粋な生徒の目から見ると,時局におもねっているような感じを受けました。視察団に寮の昼食を出すので,寮の食堂に案内しました。〔略〕当時は食べ物もないし,先輩の所へ行っておコメを特に配給してもらうなどやっていました。ところで,その時,当時いちばんへぼなおかずを出したのです。サツマイモをしょうゆで煮たものでした。生徒も自由に入っているのですが,遠巻きにして視察団の人々を見ていました。そうしたら,真偽のほどはわかりませんが〔末弘厳太郎〕先生は手をつけなかったということがうわさになり,偉そうに視察といいながら我々の食べているものを食べられないではないかということで,みんな大喜びしたのです。〔後略〕

  (星野22-23頁)

 

 治国平天下を常に考えておられる偉い先生に対して,パンがなければお菓子を差し上げるというような優美な気づかいは,マリー=アントワネット🌹ならぬ蛮カラ旧制高等学校生徒らにはなかったようです。

 

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ein Roggenmischbrot mit dem philosophischen Kopf


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はじめに

20221210日に成立し,同月16日に公布された令和4年法律第102号の第1条によって,民法(明治29年法律第89号)の一部がまた改正されることとなり(令和4年法律第102号は,一部を除いて,2024615日以前の政令で定める日から施行されます(同法附則1条本文)。),そのうちの更に一部は公布の日である20221216日から既に改正されてしまっています(令和4年法律第102号附則1条ただし書)。2023年度版の各種「六法」が2022年の秋に出てしまった直後の改正であって,20234月の新学期からの民法(親族編)の学びにとっては余り嬉しくない時期の改正です。

令和4年法律第102号による民法改正の内容は,提出された法案に内閣が付記した「理由」によれば,「子の権利利益を保護する観点から,嫡出の推定が及ぶ範囲の見直し及びこれに伴う女性に係る再婚禁止期間の廃止,嫡出否認をすることができる者の範囲の拡大及び出訴期間の伸長,事実に反する認知についてその効力を争うことができる期間の設置等の措置を講ずるとともに,親権者の懲戒権に係る規定を削除し,子の監護及び教育において子の人格を尊重する義務を定める等の措置を講ずる」というものです。女性に係る再婚禁止期間の廃止は,愛する彼女の婚姻解消又は取消後直ちに再婚してもらいたい人妻好き男性にとっての朗報でしょうが,子の嫡出推定及び嫡出否認並びに認知に関する改正は――難しい女性との関係又は女性との難しい関係の無い者にとっては余計なこととはいえ――男性が父となることないしは父であることについての意味を改めて考えさせるものでありそうです。子の父であるということは,まずは法的な問題なのです。親権者の懲戒権に係る規定(旧822条)の削除並びに子の監護及び教育における子の人格尊重義務の規定(新821条)は,父母双方にかかわるものですが,頑固親父,雷親父その他の厳父の存在はもはや許されなくなるものかどうか,これも父の在り方にとってあるいは小さくない影響を及ぼし得るものでしょう。

本稿は,令和4年法律第102号附則1条ただし書によって既に施行されてしまっている「民法第822条を削り,同法第821条を同法第822条とし,同法第820条の次に1条を加える改正」に触発されて,旧822条に規定されていた親権者の懲戒権及び更にその昔同条に規定されていた懲戒場に関して,諸書からの抜き書き風随想をものしてみようとしたものです。どうもヨーロッパその他の西方異教の獰猛な男どもは,我々柔和かつ善良な日本男児とは異なり,歴史的に,婦女子を暴力的かつ権力的に扱ってきていたものであって,したがって,西洋かぶれの民法旧822条はそもそも我が国体・良俗には合わなかったのだ,令和の御代に至って同条を削ったことは,あるべき姿に戻っただけである,と当初は簡単に片付けるつもりだったのでしたが,確かに父子関係は各国の国体・政体・民俗の重要な要素をなすものであるのでなかなか面白く,ローマやらフランスやらへの脱線(といっても,おフランスは我が母法国(ああ,法国ではないのですね。)なので,脱線というよりは,長逗留でしょう。)をするうちに,ついつい長いものとなってしまいました。

なお,令和4年法律第102号附則1条ただし書をもって施行が特に急がれた改正は,実は民法のそれではなく,児童虐待の防止等に関する法律(平成12年法律第82号)141項の規定の差し替え(令和4年法律第1024)であったかもしれません(後編の19及び20参照)。


1 西暦紀元前13世紀のシナイ半島

 

    Honora patrem tuum et matrem tuam, ut sis longevus super terram quam Dominus Deus tuus dabit tibi.

  (Ex 20, 12

    汝の父母を敬へ。是は汝の神ヱホバの汝にたまふ所の地に汝の生命の長からんためなり。

 

これは,心温まる親孝行の勧めでしょうか。しかし,うがって読めば,単純にそのようなものではないかも知れず,異民族をgenocideしつつ流血と共にこれから侵入する敵地・カナンにおける民族の安全保障のための組織規律にかかわる掟のようでもあります。

 

2 西暦紀元前53世紀の中近東

 

  Qui parcit virgae suae odit filium suum; qui autem diligit illum instanter erudit. (Prv 13, 24)

  鞭をくはへざる者はその子を憎むなり。子を愛する者はしきりに之をいましむ。

 

  Noli subtrahere a puero disciplinam; si enim percusseris eum virga, non morietur. (Prv 23, 13)

  子を懲すことを為さざるなかれ。鞭をもて彼を打とも死ることあらじ。

 

  Erudi filium tuum ne desperes; ad interfectionem autem ejus ne ponas animam tuam. (Prv 19, 18)

  望ある間に汝の子を打て。これを殺すこころを起すなかれ。

 

これは・・・ひどい。「児童の身体に外傷が生じ,又は生じるおそれのある暴行を加えること」たる児童虐待(児童虐待の防止等に関する法律21号)など及びもつかぬ嗜虐の行為をぬけぬけと宣揚する鬼畜の暴言です。外傷が生ずるおそれだけで震撼してしまうユーラシア大陸東方沖の我が平和愛好民族には想像を絶する修羅の世界です。死んでしまってはさすがにまずいが,半殺しは当たり前であって,しかもそれがどういうわけか世にも有り難い親の愛だというのですね。正しさに酔ってへとへとになるまで我が子を鞭打ち続ける宗教的なまで真面目な人々は,恐ろしい。これに比べれば,冷静に買主の不安心理を計測しつつ安心の壺を恩着せがましく売り歩くやり手の人々の方が,善をなす気はなくとも,あるいはより害が少ない存在ではないでしょうか。

 

3 西暦紀元前後のローマ

 

(1)アウグストゥスによる三つのおでき懲戒

 

Sed laetum eum atque fidentem et subole et disciplina domus Fortuna destituit. Julias, filiam et neptem, omnibus probris contaminatas relegavit; ….. Tertium nepotem Agrippam simulque privignum Tiberium adoptavit in foro lege curiata; ex quibus Agrippam brevi ob ingenium sordidum ac ferox abdicavit seposuitque Surrentum. ….. Relegatae usum vini omnemque delicatiorem cultum ademit neque adiri a quoquam libero servove nisi se consulto permisit, ….. Ex nepte Julia post damnationem editum infantem adgnosci alique vetuit. Agrippam nihilo tractabiliorem, immo in dies amentiorem, in insulam transportavit saepsitque insuper custodia militum. ….. Nec aliter eos appellare quam tris vomicas ac tria carcinomata sua.

(Suetonius, De Vita Caesarum, Divus Augustus: 65)

けれども〔sed〕運命の女神は〔Fortuna〕,一家の子孫とその薫陶に〔et subole et disciplinā domūs〕喜ばしい期待と自信を抱いていたアウグストゥスを〔eum (Augustum) laetum atque fidentem〕見捨てたのである〔destituit〕。娘と孫娘の〔filiam et neptem〕ユリアは〔Julias〕,あらゆるふしだらで〔omnibus probris〕穢れたとして〔contaminatas〕島に流した〔relegavit〕。〔略〕3番目の孫アグリッパ〔tertium nepotem Agrippam〕と同時に〔simul〕継子ティベリウスと〔privignum Tiberium〕も,民会法に則り〔lege curiatā〕広場で〔in foro〕養子縁組を結ぶ〔adoptavit〕。このうち〔ex quibus〕アグリッパの方は〔Agrippam〕,まもなく〔brevi〕野卑で粗暴な性格のため〔ob ingenium sordidum ac ferox〕勘当し〔abdicavit〕,スレントゥムへ〔Surrentum〕隔離した〔seposuit〕。〔略〕追放した娘からは〔relegatae〕飲酒を〔usum vini〕始め,快適で優雅な暮しに必要な一切の手段を〔omnem delicatiorem cultum〕とりあげ〔ademit〕,誰であろうと自由の身分の人でも奴隷でも〔a quoquam libero servove〕,自分に相談せずに〔nisi se consulto〕面接することは許さなかった〔neque permisit adiri〕。〔略〕孫娘ユリアが〔ex nepte Juliā(孫娘ユリアから)〕,断罪された後で〔post damnationem〕生んだ赤ん坊を〔editum infantem(生まれた赤ん坊に対して)〕,アウグストゥスは認知し養育することを〔adgnosci et ali(認知されること及び養育されることを)〕拒否した〔vetuit〕。孫のアグリッパは〔Agrippam〕従順になるどころか,日に日にますます気違いじみてきたので〔nihilo tractabiliorem, immo in dies amentiorem〕,島へ転送した〔in insulam transportavit〕上に〔insuper〕,幽閉し〔saepsit〕兵士の監視をつけた〔custodiā militum〕。〔中略〕そして彼らを〔eos〕終始ただ〔nec aliter…quam〕,「わたしの三つのおでき(﹅﹅﹅)tris vomicas〕」とか「三つの癌」〔ac tria carcinomata sua〕とのみ呼んでいた〔appellare (solebat)〕。

(スエトニウス,国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(上)』(岩波文庫・1986年)161-162頁)

 

(2)ローマ法における家父権

 

   ローマ法によれば,子供は生涯にわたって「家父権」に服した。父親が生きている限り,60歳になってもまだこの「家父権」に服しているということがあり得たし,執政官もまたそうであった。従って,そのような父を持つ子供は,その祖父の権力下におかれていたわけである。

   これに対して,「母権」のようなものは存在せず,従って,「親権」というものもない。そのかぎりで,家族の構成は,極端に家父長主義的であった。しかも,古典期の学説によると,父親は,妻を含む家族成員の全てに対して「生殺与奪の権利(ius vitae ac necis)」を有していた。これは,実際上,ある種の刑罰権として家内裁判の基礎をなしたものである。このような極端な法の中に,大ローマ帝国内部での,ほとんど君主制度に近い木目細かに監督された初期の経済的一体性を持った集団としての家父長主義的家族の興隆が,反映している。

  (オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法――ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)149頁)

 

「ほとんど君主制度に近い・・・家父長主義的家族」の理念型は共和政下の貴族階層の中にあったのでしょうが,これに関しては,次のような説明があります。

 

  〔共和革命後のローマの政治制度の成立にとって〕最も重要であったのが,政治という活動を直接担う階層の創出である。上位の権力や権威に制約されない頂点を複数確保し続けるという意義を有した。政治はさしあたりこれら頂点の自由な横断的連帯として成立した。ギリシャでもそうであったが,このために身分制,つまり貴族制が採用される。言うならば,世襲により頂点が維持され続ける仕組の「王」=王制を複数設定するのである。patriciと呼ばれる人々が系譜により特定され,彼らのうち独立の各系譜現頂点は〔略〕「父達」(patres)と呼ばれた。そしてpatriciの中から300人が(ただし選挙ではなく職権で)選ばれ元老院(senatus)を構成した。〔後略〕

 (木庭顕『新版 ローマ法案内――現代の法律家のために』(勁草書房・2017年)18頁)


Lupa Romana4

Patriam potestatem nondum habent.

 

(3)モンテスキューによるローマの家父権とローマ共和政との関係解説

しかし,アウグストゥスはなお自らの家族(おでき)に家父権を断乎行使したわけですが,当該家父権自体は,夫子御導入の元首政体がそれに取って代わってしまった共和政体の重要な支柱の一つであったとは,18世紀フランスの啓蒙主義者の観察であるようです。民衆政体の原理にとって有益なもの(moyen de favoriser le principe de la démocratie)の一つとして,モンテスキューは家父権を挙げます。

 

  家父権(l’autorité paternelle)は,良俗(les mœurs)の維持のために,なお非常に有用である。既に述べたように,共和政体には,他の政体におけるような抑圧的な力は存在しない。したがって,法はその欠缺の補充の途を求めねばならず,それを家父権によってなすのである。

  ローマでは,父たちは子らに対して生殺与奪の権を有していたe。スパルタでは全ての父が,他者の子に対する懲戒権を有していた。

  家父の権力(la puissance paternelle)は,ローマにおいては,共和政体と共に衰微した。風俗が純良であって申し分のない君主政下にあっては,各個人が官の権力の下に生活するということが望まれるのである。

  若者を依存状態に慣れさせたローマ法は,長期の未成年期を設けた。この例に倣ったことは,恐らく間違いであったろう。君主政下にあっては,そこまでの規制は必要ではないのである。

  共和政体下における当該従属関係が,そこにおいて――ローマにおいてそのように規整されていたように――生きている限り父はその子らの財産の主であることを求めさせ得たものであろう。しかしながらそれは,君主政の精神ではないのである。

 

 e)共和政体のためにいかに有益にこの権力が行使されたかをローマ史に見ることができる。最悪の腐敗の時代についてのみ述べよう。アウルス・フルウィウスは〔国家を転覆せしめようとする陰謀家〕カティリナに会うために外出していた。彼の父は彼を呼び戻し,彼を死なしめた(サルスティウス『カティリナの戦争〔陰謀〕』)。他の多くの市民も同様のことをした(ディオン〔・カッシウス〕第3736)。

Montesquieu, De l’Esprit des lois: Livre V, Chapitre VII

 

共和国を民衆政的腐敗堕落から守るのは,共和主義的頑固親父の神聖な義務であって,お上のガイドラインを慎重謙虚に待つなどと称しての偸安退嬰は許されない,ということでしょう。

 

  〔エルバ島における皇帝執務室の中〕

 皇帝ナポレオン: 私は,皇帝だぞ。

 市民ポン(=「石頭の共和主義者」): わっ,わしは市民です。

        〔ポンの両脚は震えている。〕

  〔皇帝執務室の外〕

 近衛兵A: 毎日喧嘩しているな。

 近衛兵B: うむ。

       あの爺ィ,とっちめるか。

 近衛兵A: おう。

 ベルトラン将軍: やめておけ。

   せっかくケンカ相手ができたのだ。

   皇帝の楽しみを邪魔するな。

 近衛兵A: はい?

  〔再び皇帝執務室の中〕

 P: わしを牢に,ぶち込めばええだろ。

 N: 君は法を破っていない。

   私は暴君ではない。

   だが,

    (バアン)

     〔NPの左胸に何かを叩き付ける。〕

  P: (勲章!)

  N: 君は勇敢で心正しい。

    さらにこの私を何度も負かした。

  P: あ・・・

    ありがとうございます。

    伯爵(●●)

  〔Pのいつもの言い間違いに,Nは口もとを歪めている。〕

  N: あんたは,男だ。

  (長谷川哲也「ナポレオン-覇道進撃-」129; Young Kingアワーズ 334号(202111月)538-541頁)

 

なお,君主政体(gouvernement monarchique)及び専制政体(gouvernement despotique)においては,前者には法の力(la force des lois),後者には常に行使の用意がある権力者の腕力(le bras du prince toujours levéがあるので,実直(probité)が政体の保持ないしは支持のためにさほど必要であるものとはされていないのに対して,民衆国においては,それを動かす力として更に(un resort de plus)徳(vertu)が,その原理として必要であるものとされています(cf. Montesquieu: III, 3)。しかして,共和国(république)における徳は,共和国に対する愛(amour de la république)であって,それは知識によって得られるものではなく,感情的なものであるそうです(cf. Montesquieu: V, 2)。この共和国に対する愛は,民衆政体においては,平等(égalité)及び質素(frugalité)に対する愛ということになります(cf. Montesquieu: V, 3)。

ちなみに,徳に代わる,君主政体における原理は,名誉(honneur)です(cf. Montesquieu: III, 6-7)。

 

4 西暦1790824:革命期フランス王国の司法組織に関する法律(Loi sur l’Organisation judiciaire

 

Titre X.  Des bureaux de paix et du tribunal de famille

(第10章 治安調停所及び家内裁判廷に関して)

 

Article 15.

Si un père ou une mère, ou un aïeul, ou un tuteur, a des sujets de mécontentement très-graves sur la conduite d’une enfant ou d’un pupille dont il ne puisse plus réprimer les écarts, il pourra porter sa plainte au tribunal domestique de la famille assemblée, au nombre de huit parens les plus proches ou de six au moins, s’il n’est pas possible d’en réunie un plus grand nombre; et à défaut de parens, il y sera suppléé par des amis ou des voisins.

  (子又は未成年被後見人の行状について重大な不満意の事由があり,かつ,その非行をもはや抑止することのできない父若しくは母若しくは直系尊属又は未成年後見人は,8名又はそれより多くの人数を集めることができないときは少なくとも6名の最近親の親族(ただし,親族の曠欠の場合には,友人又は隣人をもって代えることができる。)が参集した一族の内的裁判廷に訴えを起こすことができる。)

Article 16.

Le tribunal de famille, après avoir vérifié les sujets de plainte, pourra arrêter que l’enfant, s’il est âgé de moins de vingt ans accomplis, sera renfermé pendant un temps qui ne pourra excéder celui d’une année, dans les cas les plus graves.

  (家内裁判廷は,訴えの対象事項について確認をした後,事案が最も重い場合であって,その年齢が満20歳未満であるときは,1年の期間を超えない期間において子が監禁されるものとする裁判をすることができる。)

Article 17.

L’arrêté de la famille ne pourra être exécuté qu’après avoir été présenté au président du tribunal de district, qui en ordonnera ou refusera l’exécution, ou en tempérera les dispositions, après avoir entendu le commissaire du Roi, chargé de vérifier, sans forme judiciaire, les motifs qui auront déterminé la famille.

  (一族の裁判は,地区の裁判所の所長に提出された後でなければ執行されることができない。当該所長は,国王の検察官の意見を聴いた上で,裁判の執行を命じ,若しくは拒絶し,又はその内容を緩和するものとする。当該検察官は,司法手続によらずに,一族の決定の理由を確認する責務を有する。)


 1790824日の司法組織に関する法律第1015条以下の制度は,「共和暦4年風月9日〔1796228日〕のデクレによって家族裁判所〔tribunal de famille〕が廃止されたのちも,通常裁判所の関与による懲戒制度として残」ったそうです(稲本洋之助『フランスの家族法』(東京大学出版会・1985年)381頁)。


5 西暦1804年のフランス民法(ナポレオンの民法典)

 

(1)条文

 

TITRE IX

DE LA PUISSANCE PATERNELLE

(第9章 父の権力について)

 

371.

L’enfant, à tout âge, doit honneur et respect à ses père et mère.

(子は,いかなる年齢であっても,父母を敬い,尊ばなくてはならない。)

372.

Il reste sous leur autorité jusqu’à sa majorité ou son émancipation.

(子は,成年又は解放まで,父母の権威の下にある。)

373.

Le père seul exerce cette autorité durant le mariage.

(婚姻中は,専ら父が当該権威を行使する。)

 

375.

Le père qui aura des sujets de mécontentement très-graves sur la conduite d’un enfant, aura les moyens de correction suivans.

  (子の行状について重大な不満意の事由がある父は,以下の懲戒手段を有する。)

376.

Si l’enfant est âgé de moins de seize ans commencés, le père pourra le faire détenir pendant un temps qui ne pourra excéder un mois; et, à cet effet, le président du tribunal d’arrondissement devra, sur sa demande, délivrer l’ordre d’arrestation.

  (子が満16歳未満であるときは,父は1月を超えない期間において子を拘禁させることができる。そのために,区裁判所の所長は,申立てがあったときは身体拘束令状を発付しなければならない。)

377.

Depuis l’âge de seize ans commencés jusqu’à la majorité ou l’émancipation, le père pourra seulement requérir la détention de son enfant pendant six mois au plus; il s’adressera au président dudit tribunal, qui, après en avoir conféré avec le commissaire du Gouvernement, délivrera l’ordre d’arrestation ou le refusera, et pourra, dans le premier cas, abréger le temps de la détention requis par le père.

  (満16歳から成年又は解放までのときは,父は,最長6月間のその子の拘禁を請求することのみができる。請求は区裁判所の所長に宛ててされ,当該所長は,検察官と協議の上,身体拘束令状を発付し,又は請求を却下する。身体拘束令状を発付するときは,父によって求められた拘禁の期間を短縮することができる。)

378.

Il n’y aura, dans l’un et l’autre cas, aucune écriture ni formalité judiciaire, si ce n’est l’ordre même d’arrestation, dans lequel les motifs n’en seront pas énoncés.

  (前2条の場合においては,身体拘束の令状自体を除いて,裁判上の書面及び手続を用いず,身体拘束令状に理由は記載されない。)

Le père sera seulement tenu de souscrire une soumission de payer tous les frais, et de fournir les alimens convenables.

  (父は,全ての費用を支払い,かつ,適当な食糧を支給する旨の引受書に署名をしなければならないだけである。)

379.

Le père est toujours maître d’abréger la durée de la détention par lui ordonnée ou requise. Si après sa sortie l’enfant tombe dans de nouveaux écarts, la détention pourra être de nouveau ordonnée de la manière prescrite aux articles précédens.

  (父は,いつでも,その指示し,又は請求した拘禁の期間を短縮することができる。釈放後子が新たな非行に陥ったときは,前数条において定められた手続によって,新たに拘禁が命ぜられ得る。)

380.

Si le père est remarié, il sera tenu, pour faire détenir son enfant du premier lit, lors même qu’il serait âgé de moins de seize ans, de se conformer à l’article 377.

  (父が再婚した場合においては,前婚による子を拘禁させるには,その子が16歳未満であっても,第377条に従って手続をしなければならない。)

381.

La mère survivante et non remariée ne pourra faire détenir un enfant qu’avec le concours des deux plus proches parens paternels, et par voie de réquisition, conformément à l’article 377.

  (寡婦となり,かつ,再婚していない母は,父方の最近親の親族2名の同意があり,かつ,第377条に従った請求の方法によってでなければ,子を拘禁させることができない。)

382.

Lorsque l’enfant aura des biens personnels, ou lorsqu’il exercera un état, sa détention ne pourra, même au-dessous de seize ans, avoir lieu que par voie de réquisition, en la forme prescrite par l’article 377.

  (子が個人財産を有し,又は職業を営んでいる場合においては,16歳未満のときであっても,第377条に規定された形式での請求によってでなければ拘禁は行われない。)

L’enfant détenu pourra adresser un mémoire au commissaire du Gouvernement près le tribunal d’appel. Ce commissaire se fera rendre compte par celui près le tribunal de première instance, et fera son rapport au président du tribunal d’appel, qui, après en avoir donné avis au père, et après avoir recueilli tous les renseignemens, pourra révoquer ou modifier l’ordre délivré par le président du tribunal de première instance.

  (拘禁された子は,控訴院に対応する検察官に意見書を提出することができる。当該検察官は,第一審裁判所に対応する検察官に報告をさせた上で,自らの報告を控訴院長に対して行う。当該院長は,父に意見を通知し,かつ,全ての記録を受領した上で,第一審裁判所の所長によって発せられた命令を撤回し,又は変更することができる。)

383.

Les articles 376, 377, 378 et 379 seront communs aux pères et mères des enfans naturels légalement reconnus.

  (第376条,第377条,第378条及び第379条は,認知された非嫡出子の父及び母にも共通である。)

 

(2)国務院における審議模様

1804年のナポレオンの民法典における前記条文に関するそもそも論について理解するため,共和国(まだ帝国ではありません。)11葡萄(ヴァンデミ)(エール)8日(1802930日)の国務院(コンセイユ・デタ)における審議模様を見てみましょう(Procès-Verbaux du Conseil d’État, contenant la Discussion du Projet de Code Civil, Tome II; L’Imprimerie de la République (Paris, 1804): pp.43-52)。

当日の議長は,「諸君,休んでるヒマは無いぞ。国民が民法典を待っている。」と叱咤する(長谷川哲也『ナポレオン-覇道進撃-第3巻』(少年画報社・2012年)123頁参照)精力的かつ野心的な若きボナパルト(Bonaparte)終身第一統領(まだ皇帝ではありません。)ではなく,いい男・カンバセレス(Cambacérès)第二統領であって,報告者はビゴ=プレアムヌ(Bigot-Préameneu)でした。

 

ナポレオンの民法典371条に係る原案は,法律となったものと同じ内容でした。当該原案について,ベレンジェ(Bérenger)が,法律事項(disposition législative)がないから削るべきだと言いますが,ブウレ(Boulay)は婚姻の章に配偶者の義務について述べる条項を置いたのと同様,息子であることによって課される義務を章の冒頭に置くことは有用であると反論し,更にビゴ=プレアムヌが,当該条項は,他の条項はその結果を展開し確定するだけであるという関係にあるところの諸原則を含むものであること,及び他にも多くの場合において裁判官の一つの拠り所となるものであることを付言し,そのまま採択されます。

cf. Conseil d’État, p.44

 

 「「子の義務」に関する規定は,「親の義務」を基礎づけるのである。親の義務性の強調とのバランスをとるためにこの種の規定を置くことは,日本法でも考えられるのではないか。」といわれています(大村敦志『民法読解 親族編』(有斐閣・2015年)258頁)。

 

ナポレオンの民法典372条に係る原案は,「又は解放まで」のところが「又は婚姻による解放まで」となっていて,成年以外の親権を脱する事由を婚姻に限定するものでした。結果として,トレイラアル(Treilhard)の提案に基づき「婚姻により」との限定句が削られています。

当該結果自体は単純ですが,その間トロンシェ(Tronchet)からフランス私法の歴史に関する蘊蓄ばなしがありました。いわく,慣習法地域(北部)では法律行為による解放(émancipation par acte)ということはなく,そこでは,父の権力は保護のための権威(autorité de protection)にすぎず,成年に達するか婚姻するかまでしか続かなかった,これに対して成文法地域(南部)においては法律行為によって解放とするということがあったのは,そこでは父の権力は,身体及び財産についての絶対的かつ永久的なものであったからなのだ,ところが当院は財産関係の父の権力を慣習法地域式に作ったのだから,よって,法律行為によって解放するということにはならないのではないか,というわけです。また,トレイラアルは,トロンシェの紹介したもののほかに18歳での法定解放(émancipation légale)というものがあると付け足しますが,こちらは未成年被後見人に関するものです。ビゴ=プレアムヌは,交通整理を試みて,それぞれの種類の解放について固有の規定は法律で定められるのであるから混乱を恐れる必要はないと述べ,また,確かに新法においては古い成文法ほどには父の権力からの解放は必要ないであろうが,現在審議中の(父の権力に関する)当章の全条項の適用を排除するのであるから,効用がないわけではない,解放された子は父の居宅を離れてよいし,もう拘禁施設(maison de détention)に入れられることは許されないし,父母による財産の利用は終了する,これらの関係では重要な効果があるのだ,と述べています。

cf. Conseil d’État, pp.44-47

 

 家父権からの解放(emancipatio)は,ローマ法では「いくつかの法律行為の組み合わせによって行われた。すなわち,子供は,先ず親から第三者に「譲渡」され,これによって生じた「召使い」の状態から,その譲受人によって「棍棒による解放(manumissio vindicta)」の手段で解放された。そこで,子供は再びもとの家父権に服することになる。このようなことが,さらに二度繰り返されると,最終的に子供は家父権から自由となる。〔略〕この儀式は,「十二表法」にある「もし父がその息子を三度売ったなら,息子は父から自由になるべし(Si pater filium ter venum du(u)it [venumdet] filius a pater [sic (patre)] liber esto)」という文章を利用したものである。」とのことです(ベーレンツ=河上150頁)。フランス成文法地域での法律行為による解放も,この流れを汲むものだったのでしょうか。

 なお,我が旧民法人事編(明治23年法律第98号)213条以下には,自治産の制度がありました。

 

   ナポレオンの民法典373条に係る原案は,法律となったものと同じ内容でした。ルニョ(Regnaud)が,父が長期間不在のときには当該権威は母によって行使されるものと決定すべきである,提示された案のままではその間子が監督されない状態になってしまう,などと細かいことを言いましたが,トロンシェからその辺のことは不在者の章において規定されていると指摘されて,原案どおり採択となりました。

  (Conseil d’État, p.47

 

 ナポレオンの民法典375条以下の条項に対応する原案の審議は,次の原案3箇条をまず一括して始められました。

 

Art. VI.

Le père qui aura des sujets de mécontentement très-graves sur la conduite d’un enfant dont il n’aura pu réprimer les écarts, pourra le faire détenir dans une maison de correction.

   (子の行状について重大な不満意の事由があり,かつ,その非行を抑止することのできない父は,その子を矯正の施設に拘禁させることができる。)

Art. VII..

À cet effet, il s’adressera au président du tribunal de l’arrondissement, qui, sur sa demande, devra délivrer l’ordre d’arrestation nécessaire, après avoir fait souscrire par le père une soumission de payer tous les frais, et de fournir les alimens convenables.

   (そのために,区裁判所の所長に宛てて申立てをするものとし,当該所長は,父の申立てがあったときは,全ての費用を支払い,かつ,適当な食糧を支給する旨の引受書に当該父の署名を得た上で,必要な身体拘束令状を発付しなければならない。)

    L’ordre d’arrestation devra exprimer la durée de la détention et la maison qui sera choisie par le père.

   (身体拘束令状には,拘禁期間及び父によって選択された施設が記載されなければならない。)

Art. VIII.

La détention ne pourra, pour la première fois, excéder six mois: elle pourra durer une année, si l’enfant, redevenu libre, retombe dans les écarts qui l’avaient motivée.

   (初回の拘禁期間は6月を超えることができない。ただし,釈放後,前の拘禁の原因となったものと同じ非行に子が陥ったときは,拘禁を1年続けることができる。)

    Dans tous les cas, le père sera le maître d’en abréger la durée.

   (全ての場合において,父は,いつでも,拘禁期間を短縮することができる。)

 

 出来上がりのナポレオンの民法典375条以下と比較すると,原案では,子の年齢による区別も,その職業・財産の有無による区別もなしに,およそ父から子の拘禁を要求されると,区裁判所の所長殿は,費用及び食糧の提供の約束がされる限り,言われるがまま身体拘束令状を発しなければならないという仕組みになっています。身体の自由の剥奪を実現するためには国家の手によらなければならないとはいえ,子に対する父の権力の絶対性が際立っています。当該絶対性は,国務院における審議を経て緩和されたわけですが,当該緩和は,カンバセレス第二統領による修正の指示によるものです。「🌈色執政」たるカンバセレス(長谷川哲也『ナポレオン-覇道進撃-第4巻』(少年画報社・2013年)61頁)には,自らが父になるなどという気遣いはなかったのでしょうが,やはり,男の子に優しいのでした。

 絶対的であるとともに国家的手段を用いるものである父による子の拘禁権の淵源は,ベルリエ(Berlier)による下記の原案批判発言から推すに,モンテスキュー経由のローマ法的家父権の共和主義的復活と旧体制(アンシャン・レジーム)下の国王による封印状(lettre de cachet)制度の承継とが合流したmariageの結果ということになるようです。国父たるルイ16世が斬首されてしまった以上,父の権力の発動権能が個々の父に戻るということは当然であると同時に,フランス的伝統として,国家権力がその執行を担わせられるということになったものか。具体的な審議状況を見てみましょう。

 

    第6条,第7条及び第8条が議に付される。

    ビゴ=プレアムヌ評定官いわく,父の申立てと身体拘束令状発付との間に3日の期間を置くことが適当であるというのが起草委員会(la section)における意見である,と。

    ベルリエ評定官いわく,第6条は修正されなければならない,と。皆が父に与えようとしている権利に私は反対するものではない。しかしながら,この権利の行使が,他のいかなる権威の同意もなしに,一人の父の意思又は恣意のみによってされるべきものとは私は信じない。しかして本発言者としては,監禁の申立てについて審査も却下もできない裁判官なる者が,当該権威であるものと見ることはできない。

    諸君は,父たちは一般的に正しいと言うのか!しかしながら,当該与件を否定しないにしても,法は,悪意ある,又は少なくとも易怒性の父たちがこの権利を付与されたことによって行い得る濫用を予防しなければならない。

    諸君は,モンテスキュー及び他の著述家を,家父権擁護のために引用するのか?しかし,本発言者は,当該権力について争うものでは全くない。本発言者は,当該権力を,我々の良俗にとって適切な限界内に封ずることを専ら求めるものである。本発言者は,父の権威を認める。しかし,父による専制を排するものであり,かつ,専制は,国家においてよりも家庭においてよく妥当するものではないと信ずるものである。

    続いてベルリエ評定官は,王制下における状況がどのようなものであったかを検討していわく,親族による協議が,一家の息子の監禁に係る封印状(lettres de cachet)に先行しないということは非常に稀であった,と。

    いわく,本発言者は封印状及び旧体制を称賛しようとするものでは更にない,しかし,我々の新しい制度が君主政下の当該慣行との比較において劣ったものと評価され得ることがないよう用心しようではないか,したがって,本件と同じように重要な行為が問題となるときには,父の権威に加えて,明らかにし,又は控制する権力の存在が必要となるのである,と。

    当該権力はどのようなものであろうか?通常裁判所であろうか,又はその構成員によるものであろうか?それは親族会(conseil de famille)であろうか?

    多くの場合において,法的強制手段を要する事件を司法に委ねることが非常に微妙かつ難しいことになり得るのであり,当該考慮が,ベルリエ評定官をして,親族会に対する選好を表明せしめる。
 その意見表明を終えるに当たって,同評定官は,1790824日法及び多くの控訴院――特に,本件提案に係る権利に対して全て制限を求めるレンヌ,アンジェ,ブリュッセル及びポワチエの控訴院――の意見を援用する。

    ビゴ=プレアムヌ評定官が,当該条項の理由を説明する。

    同条は,次のような正当な前提の上に立つものである。父は,専ら,愛情(un sentiment d’affection)によって,かつ,子の利益のためにその権威を行使するものであること,父は,専ら,その愛する子を,その名誉を損なうことなく,名誉ある道(le chemin de l’honneur)に立ち戻らせるために行為するものであること,しかし,この優しさ(tendresse)自体が,懲戒を行う(corriger)べく父を義務付けること。これが,実際のところ,最も通常の場合(le cas le plus ordinaire)であって,したがって,法が前提としなければならないものなのである(celui par conséquent que la loi doit supposer)。1790824日法は,父に十分大きな権威を与えたものであるものとは観察されない。良俗,社会及び子ら自身のその利益とするところが,父の権力がより大きな範囲にわたることを求めるのである。警察担当官の証言するところでは,不幸な父らはしきりに,彼らの子らの不行跡問題を裁判所に引き継がなくてもよいような懲戒権を求めているのである。しかしながら,起草委員会は,父の権威の行使を和らげる必要があると信じた。しかしてその観点から,当該委員会は,裁判所の所長から身体拘束令状の発付を受けることを父に義務付けるものである。

    ブウレ評定官いわく,起草委員会は一族の前のものであろうとなかろうと父子間の全ての争訟を防止しようとしていたものである,と。すなわち,父が敗れた場合,その権威の大きな部分も同時に失われてしまうのである。また,一族は,余りにも多くの場合分裂しており,その各員は,余りにも多くの場合,その将来についての審議のために招集された当の未成年者の利害よりも自分の子らの利害の方に関心を有しているのであって,この両者の利害が競合する場合,後者が前者を全面的に圧伏するということが懸念されるのである。

    トレイラアル評定官いわく,子らの咎は通常,父たちの弱さ,無配慮又は悪い手本の結果である,したがって父たちに絶対的な信頼を寄せるわけにはいかない,と。他方,息子の懲戒を裁判沙汰にするということは,よくよく避けられなければならないのである。しかしながら,身体拘束令状の発付前に一族の意見を聴くことを裁判所所長に義務付ければ,調和が得られるのである。この令状には,更に,理由が記載されてはならない。

    カンバセレス統領いわく,2件の修正提案はいずれも不十分であると信ずる,と。

    非常に多くの場合において,憎悪と利害とが,血が結び付けるものを分裂させていることに鑑みると,一族の同意を要するものとすることを私は望むものではない。本職は,全ての紛争に係る中正かつ自然な裁判者である通常裁判所を選好するものである。

    また,父の申立てと身体拘束令状発付との間に置かれる3日の期間は長すぎるものと思う。子が企み,かつ,正に実行しようとしている犯罪を防止するということが必要となるからである。

    しかしながら,子の年齢及びその置かれた状況についてされる考慮に従って,父の権力を規制することは非常に重要である。

    既に社会的地位もあるであろう20歳と10箇月の青年を,15歳の少年同様に,父による懲戒に服させるべきものではない。

    12歳の児童をその一存で数日間監禁させる権利を父に与えることが理にかなっているのと同程度に,よい教育を受けた年若い青年であって早熟な才能を示そうとしているもの(un jeune adolescent d’une éducation soignée, et qui annoncerait des talens précoces)を父に委ね,いわば彼の裁量に任すということは不当なことであろう。父たちがいかほどの信頼に値するとしても,全員が同様に優秀かつ有徳であるという誤った仮定の上に,法は基礎付けられるべきものではない。法は,衡平との間にバランスを保たねばならず,厳しい法はしばしば国家の革命を準備するということを忘れてはならない。

    したがって,裁判所の所長及び検察官には,父が16歳を超えた若者を監禁しようするとき又は16歳未満の子を一定の日数を超えて拘禁させようとするときにおいて,その理由を検討する権限が与えられなければならない。

    彼らには,身体拘束令状の発付を拒絶し,また,拘禁の期間を定めることが許されなければならない。

    〔後略〕

    これら各種の修正は,採択された。

   (Conseil d’État, pp.48-51) 

 

 16歳以上の「よい教育を受けた年若い青年(男性形です。)であって早熟な才能を示そうとしているもの」には,第二統領閣下は,ウホッ!と格別の配慮をしてくださったものでしょう。いや「チュッ,チュッ,チュッ」でしょうか。

 

   🌈: 今夜はわたしと一緒に・・・

   若い髭の軍人: もちろんです,カンバセレス執政閣下。

   🌈: 堅苦しいな,ジャンちゃんとでも呼んでくれ。

   髭: はい,ジャンちゃん。

    (チュッ,チュッ,チュッ)

   (長谷川・覇道460頁)

 

ここで採択された制度ともはや調和しない,として削られた原案の第9条は,「父が再婚したときは,前婚の子を拘禁させるには,その子の母方の最近親の親族2名の同意がなければならない。」と規定するものでした(Conseil d’État, pp.51, 44)。出来上がりのナポレオンの民法典380条と比べてみると,当該制度(システム)の採択とは,父権行使の規制を行う者を親族ではなく裁判所とする旨の決定のことのようです。

ナポレオンの民法典381条に「かつ,再婚していない」との修飾句が付されているのは,「子に対する権力を再婚した母に保持させることには大きな難点がある。寡婦であるときに当該権力を彼女に与えるということが,既に大したことだったのである。」とのカンバセレス第二統領発言を承けてのビゴ=プレアムヌによる修正の結果です(Conseil d’État, p.51)。新しいボーイ・フレンドのみならず,前夫の息子までをも支配し続けようとする欲張り女は許せない,との憤り(死別ならぬ離別のときはなおさらでしょう)があったものでしょうか。(なお,ナポレオンの民法典381条の文言自体は,寡婦は再婚するとかえって子の父方親族からの掣肘なく子を拘禁させることができるようになるようにも読めますが,それは誤読ということになるのでしょう。)ちなみに同条については,19351030日のデクレに係るラヴァル内閣のルブラン大統領宛て報告書(同月31日付けフランス共和国官報11466頁)において,「立法者は,母の2番目の夫の憎悪を恐れたのである。」との忖度的理解が示されています。しかし,自らを女の夫の立場に置いて考えるというところまで,「🌈色執政」の頭は回ったものでしょうか。

ナポレオンの民法典383条は,非嫡出子であっても認知されたものの父及び母に父の権力を認めていますが,これについては,ブウレが「父の権力(puissance paternelle)は婚姻(mariage)に由来するのであるから,その対象は嫡出子に限定されるべきである」と反対意見を述べたのに対し,トロンシェが「出生のみ(la naissance seule)で,父とその生物学的子(enfans naturels)との間の義務が創設されるのである。非嫡出子(enfans naturels)らは,何者かによる監督(direction)の下になければならない。したがって,彼らを世話するように自然(la nature)によって義務付けられる者の監督下に当該の子らを置くことは正当なことなのである。」と反論しています(Conseil d’État, pp.51-52)。ナポレオンの民法典がトロンシェの所論に与したものであるのならば,“puissance paternelle”は「父の権力」であって,「家父権」ではないのでしょう。ブウレの考え方はローマ法的なのでしょう。ローマ法においては「合法婚姻の子のみ父に従い,父又はその家長の家父権に服する」とされ(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)296頁),家父権が取得される場合は,「合法婚姻よりの出生」,「養子縁組」及び「準正」とされています(同286-292頁)

 

(3)制度の利用状況

 ナポレオンの民法典375条以下の懲戒制度の利用状況については,次のように紹介されています。

  

  〔前略〕リペェル/ブゥランジェが引用する司法省統計では,1875年~1895年の年平均は1,200件弱,1901年~1910年の年平均は800件弱であり,その85%は――別の調査によれば――貧困家庭の子を対象とするものであった。1913年の数字では,男子271人,女子233人(その3分の2は,パリのセェヌ民事裁判所長管轄事件),1931年ではさらに減少して男子69人,女子42人となり,制度の存在理由は,その威嚇的効果を考慮しても大きく失われたことを否定することができない。Ripert et Boulanger, Traité de droit civil, t. I, n˚2305.

  (稲本93-94頁註(47))

 

6 西暦18世紀フランス王国旧体制下の封印状

 さて,ここで,時間は前後しますが,18世紀のフランス王国旧体制下における封印状(lettre de cachet)の働きを見てみましょう。

 封印状とは,「一般的には《国王の命令が書かれ,(国王の署名及び)国務大臣の副署がなされ,国王の印璽で封印された書状》と定義付けられ」,そのうち「特定の個人や団体にその意思を知らせるもので,該当者に宛てられ,封をし,封印を押した非公開の書状lettre close」が「一般に封印状と称されるもの」です(小野義美「フランス・アンシアン・レジーム期における封印状について」比較家族史研究2号(1987年)51-52頁)。

 

   18世紀のパリ市民は貴賤を問わず,家庭内で生じた深刻なトラブルを国王に訴え出ることで,その解決を図ることができた。一般の市民が,それも下層階級に属する市民までもが,殴打する夫を,酒浸りの妻を,駆け落ちした娘を,遊蕩に耽る息子を,(まかない)費の支払いを条件として総合施療院(hôpital général)に監禁してくれるよう王権に縋り出たのである。

   庶民からのこうした切実な請願に対して国王は,当事者の監禁を命ずる封印状(lettre de cachet)を発してこれに応えた。驚くべきことに君主自らが,政治や外交といった国事からすれば何とも些細な最下層階級の家庭生活にまで介入し,庶民の乏しい暮しをいっそう惨めなものとしている家族の一員を,裁判にかけることもなければ期間も定めない,拘留措置によって罰したのである。

   もちろん庶民が畏れ多くも国王にじかに願い出たわけではない。両者を仲介し,封印状による監禁という解決策を推進したのが,当時のパリ警察を統括する立場にあった警察総監(lieutenant général de police)である。〔後略〕

  (田中寛一「18世紀のパリ警察と家族封印状」仏語仏文学41巻(2015年)113頁)

 

  〔前略〕この警察総監がさまざまな警察事案を解決するにあたり,柔軟で単純で迅速な国王封印状制度を好んで多用したのである。徒党を組んだ労働争議の首謀者,公序良俗を乱す売春婦,騒乱の扇動者と化す喜劇役者や大道芸人,もはや火刑に処せられはしない魔女は,これが封印状によって監獄や施療院へ送り込んだ常連である。

   だからこそ一般市民も,民事案件に過ぎない家庭内の混乱を収拾するべく,国王からの封印状を取り付けてくれるよう警察総監に依頼することができた。封印状による監禁は法制上の刑罰ではなく,その性質から逮捕も秘密裏に行われるので,醜聞を撒き散らさずに済んだからである。警察総監にしても,民政を掌握している以上はその苦情処理も引き受けざるを得ず,持ち込まれた民事案件に介入せざるを得なかったが,むしろ「18世紀にあって警察は,そのままが民衆の幸福を建設するというひとつの夢の上に築かれている」Arlette Farge et Michel Foucault, Le désordre des familles, Gallimard/Julliard, 1982, p.345という命題からすれば,進んでこれを受け付けていたとも言えるだろう。「パリでの家族に対する監禁要請は首都に特有の手続を経る。名家はその訴え(請願書)を国王その人にあるいは宮内大臣に差し出す。請願書が注意深く吟味されるのは,国王の臨席する閣議においてである。庶民はまったく異なる手続を踏む。彼らは警察総監に請願書を提出する。総監はこれを執務室で吟味し,調査を指揮し,判断を下す。調査は必然的に地区担当警視に案件を知らしめる。警視はその情報収集権限を警部に委ねる。(・・・)情報を得た総監は大臣宛に詳細な報告書を作成し,国務大臣が命令を発送するのを待つのである。それが少なくともルイ14世下に用いられた最も習慣的手続である。これがルイ15世の治世下になると,たちまち変形し,次第に速度を増すのである。よく見かけるのは警察総監がごく短い所見しか記さず,もはや国王の返答を待つことさえなく国王命令の執行に努める姿である」Farge et Foucault, pp.15-16

   だがこうして封印状を執行された庶民が収監される施設は,身分あり高貴なる者を待遇よく監禁したバスチーユやヴァンセンヌといった国家監獄でない。民衆には民衆のための監禁施設が整備されていたのである。すなわち1657年の王令により開設されていた総合施療院がそれである。本来は当時の飢饉と疫病に苦しむ生活困窮者を収容する慈善的な目的で設置されたビセートルやサルペトリエールといった施療院が,物乞いや浮浪者のみならず,警察総監が封印状によって送り込んできた,放浪者・淫蕩家・浪費家・同性愛者・性倒錯者・瀆神者・魔術師・売春婦・性病患者・自殺未遂者・精神病者などなど,不道徳または非理性にある者すべてを公共福祉の一環として閉じ込め,これを監禁したのである。〔後略〕

  (田中114-115頁)

 

   もとより封印状とは,周知のように,反乱を企てた貴族とか不実を働いた臣下といった国事犯の追放または監禁を,一切の司法手続を経ることなく国王が専横的に命ずるために認めた書状を意味し,その措置は王権神授に基づく国王留保裁判権の一環としての行政処分と解されたが,確かにヴォルテールやディドロのように,何らかの筆禍事件により国王の逆鱗に触れたことで監禁された例も少なくはない。「封印状というのは法律とか政令ではなくて,一人の人物に個人的に関わって何かをするように強制する国王命令でした。封印状により誰かに結婚するよう強制することさえできました。けれども大部分の場合,それは処罰の道具だったのです」Foucault, La vérité et la forme juridique›, Dits et écrits, tome 2, Gallimard, 1994, p.601

  (田中116頁)

 

   ルイ15世の治世後半1741年から1775年の35年間で2万通を超える国王命令が発されたといい,確かに濫用の目立った封印状ではあったが,その大部分はしかし,庶民からの請願によって発令された家族封印状であって,君主の専横のみの結果ではなかった。家庭生活を悲嘆の淵へと追い込んだ家族の一員を排除することによって事態の収拾を図るべく,身内により請願された結果に過ぎず,その実態は国王の慈悲による一種の「公共サーヴィス」に他ならなかったのである。だから書面が画一的で半ばは印刷されており,国王は令状執行官と被監禁者の名前およびその投獄先,それに決定の日付を記入するだけでよかったというのも当然であろう。

  (田中117頁)

 

   親子間の衝突には,盗癖・非行・同棲・淫行・放蕩・怠惰などを訴因として挙げることができるが,その底には利害の対立が隠されている場合が多い。「(・・・)それは後見行為を弁明すべき時期が両親に訪れたときに,あるいは最初の結婚でできた子供がその権利を,義父母または再婚でできた子供に対して主張するときに起こるのである」Farge et Foucault, p.159

  (田中131-132頁)

 

 封印状の濫用については旧体制下において既に高等法院の批判があり,政府側にも改善に向けた動きがあります。

 

  〔前略〕1770年,租税法院長Maleshelbesも建言書を草し,その濫用を批判した。彼は後に国務大臣になり,全監獄について監禁者と監禁理由を調査したり,あるいは一時的ではあったが,家族問題のための封印状の濫用を防止すべく家族裁判所tribunal de familleを組織化した。〔後略〕

  (小野・アンシアン55-56頁)

 

  〔前略〕更に1784年には宮内大臣Breteuilが地方長官及びパリ警視総監に対し封印状の濫用を防止すべく注目すべき「回状circulaire」を発した。この「回状」はとくに家族問題のための封印状に対し大きな制約を加えるものであった。先ず監禁期間について問題とし,精神病者や犯罪者についてはともかくも,不身持,不品行,浪費等による監禁については「矯正」が目的故,原則として12年を越えてはならないとする。次に家族員に対する監禁請求について,未成年者に関しては父母の一致した要請では足らず23人の主だった親族の署名が必要である。夫の妻に対する,あるいは妻の夫に対する監禁請求については最大の慎重さで対処することが必要である。更に,もはや親族の支配下にない成人に対しては,治安当局の注意をひくに足る犯罪のない場合には,たとえ家族の一致した要請があっても監禁されてはならない,とした。〔後略〕

  (小野・アンシアン56頁)

 

「以上の如く封印状の濫用に対する批判や対策が相次いだが,実態は改められなかった」まま(小野・アンシアン56頁),ルイ16世治下のフランス王国は,1789年を迎えます。

 

   1789年に三部会が召集されることになり,それに向けて各層からの陳情書cahier de doléanceが多数提出され,その殆ど全てが市民的自由の保障と封印状の廃止を要求した。ただ,家族問題のための封印状については,全廃ではなく,親族会assemblée de familleの公正な判断に基づく封印状の必要性を主張するものもあった。封印状廃止問題が積極化したのは立憲議会assemblée constituanteにおいてであった。178911月にはCastellane伯爵,Mirabeau伯爵ら4名による封印状委員会が組織され,委員会は,封印状により監禁されている者の調査をした上で,封印状廃止に関するデクレ草案を議会に提出した。デクレ草案は1790316日可決され,326日裁可・公布された。〔後略〕

(小野・アンシアン56頁)

 

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7 旧民法財産編262条4項と34条等との関係論及び「ローマ法的解決」

 

(1)民法233条の同法上の位置付け問題

民法233条の趣旨をどう考えるべきかの問題に改めて立ち戻って考えるとしても,同条の民法中における位置付けは難しい。「土地の所有権は,法令の制限内において,その土地の上下に及ぶ。」(民法207条)とされている以上,民法2331項は,当該所有権に基づく妨害排除請求権と重複します(民法・不動産登記法部会資料72頁参照)。民法2332項は,土地に侵入した根の所有権が当該土地の所有者に属するのならば(この点が正に問題ですが。),「所有物の使用,収益及び処分」(同法206条)そのものの一環ということになり得ますから,これも重複しそうです。

 

(2)旧民法財産編34条等と同編2624項(民法233条)との関係

ただし,民法233条は旧民法財産編2624項を承けた規定であるということなので,旧民法の中での位置付けを考えると,ある程度なるほどと合点し得る説明ができそうではあります。

 

ア 旧民法財産編34条論

 

(ア)旧民法財産編34

実は旧民法における土地の所有権については,民法207条のような一般的な規定は伴われてはいませんでした。確かに旧民法財産編301項は「所有権トハ自由ニ物ノ使用,収益及ヒ処分ヲ為ス権利ヲ謂フ」と規定していましたが,所有物が土地である場合について同編34条は,「土地ノ所有者ハ其地上ニ一切ノ築造,栽植ヲ為シ又ハ之ヲ廃スルコトヲ得/又其地下ニ一切ノ開鑿及ヒ採掘ヲ為スコトヲ得/右孰レノ場合ニ於テモ公益ノ為メ行政法ヲ以テ定メタル規則及ヒ制限ニ従フコトヲ要ス/此他相隣地ノ利益ノ為メ所有権ノ行使ニ付シタル制限及ヒ条件ハ地役ノ章ニ於テ之ヲ規定ス」と規定していました(フランス民法5522項及び3項に対応)。民法207条の規定と比較すると,伸び伸びとした土地所有権の行使を認めるもののようには印象されません。

なお,不動産たる土地についてボワソナアドは,「真の不動産をなすものは,土地を構成する物というよりはそれが占める空間である(ce qui constitute le véritable immeuble, c’est moins la substance du sol que l’espace qu’il occupe)」と言っています(Gve Boissonade, Projet de Code Civil pour l’Empire du Japon accompagné d’un commentaire, Nouvelle Édition, Tome Premier, Des Droits Réels ; Tokio, 1890: p.34)。(しかし,空間は,有体物でしょうか。)

 

(イ)民法207

民法207条は,旧民法財産編34条の規定だけでは「事柄が足りないので,一般的な原則」を掲げるべく「同条を修正してつくられたもの」,と報告されています(川島=川井編319頁(野村=小賀野))。189468日の第19回法典調査会で梅謙次郎は民法207条の規定を置くべき必要について「唯疑ヒノ起ルノハ空中ノ話シテアリマス譬ヘバ私ノ地面ノ右ノ方ノ隣リノ者カ恰度(ちやうど)左ノ方ニ地面ヲ持ツテ居ルト仮定スル其間ニ電話ヲ架設シヤウトシテ私ノ地面ノ上ヲ通(ママ)ス其場合ニ空中ハ御前ノ所有物テナイカラ斯ウ云フコトヲシテモ構ハヌト言ツテヤラシテハ叶ハヌ是カラ段々世ノ中カ進歩スルニ従ツテ然ウ云フ事柄ハ余程多クナツテ来ヤウト思ヒマス然ウ云フコトヲ規定スベキ必要ガアラウト思フ」(日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録』第7119丁裏-120丁表)等と説明しています。こう言われると,土地の所有権に基づく妨害排除権の及ぶ範囲が第一に問題になっているように見えます。2055分まで審議が続き,磯部四郎からは修正案が出(追随者なし),奥田義人,村田保,菊池武夫,都筑馨六及び三浦安からは削除説が唱えられました。削除説についていえば,梅も当該規定について「若シ之カナカツタナラハ所有権ト云フモノハ土地ノ上下ニ及ハヌモノテアルノヲ此箇条ヲ以テ特ニ及ホシタモノデアルカト云フ御問ヒテアリマスガ私共ハ然ウハ思ツテ居リマセヌ」,「〔上の方,空中については〕疑ヒノアル点テアリマスカラ此処ニ規定シヤウト考ヘタノテアリマス」と述べており(民法議事速記録第7121丁裏-122丁表),したがって,民法207条は絶対不可欠とまでは言えなかったわけです。最後は議長の西園寺公望が採決し,削除説への賛成少数で梅の原案が可決されています。

 民法207条は難産で,梅謙次郎は苦労したわけですが,実は三起草委員の一人である富井政章は同条についてニュアンスの違った解釈をしていたようでもあります。同条に係る富井=本野のフランス語訳は “La propriété du sol emporte, sous réserve des restrictions apportées par les lois et ordonnances, la propriété du dessus et du dessous.” であって,直訳すれば,「土地の所有権は,法令の制限内において,その上下の所有権の取得を伴う。」でしょうか,「法令の制限内において」の部分を除いてフランス民法5521項と同じ表現となっています。しかしてフランス民法552条は,不動産上の添付(accession)に関する規定なのでした。添付は,所有権取得の一態様です。ローマの添付法には「地上物は土地に従う(superficies solo cedit)」とあります。

 

イ 旧民法財産編34条と枝の剪除請求権との関係及び同編36条の本権訴権等

 

(ア)枝の剪除請求権との関係

旧民法財産編341項及び4項を見ると,越境した枝の剪除を越境された土地の所有者が求めるためには,明文の特則があった方がよかったようです。

確かに,ボワソナアドは,「土地の所有者は,当該土地の上の空間の主人である。したがって,隣人は,分界線上において,当該分界線から垂直に伸ばした線を越える建築をすることはできない。また,隣人は,一所有地と他の所有地との間に橋を差し掛けて,中間の他人所有地の上を通過することもできない。何ら難しいことはない。」との解釈を説いてはいました(Boissonade, p.93)。しかしながら,土地上の空間に係る妨害排除のために占有訴権たる保持訴権を行使しようとすると,それは「其ノ占有ニ関シ〔略〕妨害ヲ受」けた者が「妨害ヲ止マシメ又ハ賠償ヲ得ルヲ目的」として行うものということになりました(旧民法財産編362項・200条)。そこにおいては,当該空間下の土地の占有に関する妨害の有無及び妨害を止ましめる方法は何であるべきかの判断が面倒そうでありました。

 

(イ)旧民法財産編36条の本権訴権等

ところで,従来,物権的請求権については,「民法には,所有権に基づく物権的請求権そのものの規定はありません。しかし,占有権については占有訴権が認められており,これより強力な所有権についてこれに基づく請求権を認めることが相当であることや,民法202条が占有の訴えのほかに本権の訴えを認めていることに照らし,所有権について物権的請求権が発生するものと解されています。」(司法研修所民事裁判教官室『改訂 問題研究 要件事実――言い分方式による設例15題――』と説かれていましたが(司法研修所・20069月)56頁),「本権の訴え」といわれるだけでは――筆者一人の感想でしょうか――漠としています。「本権ノ訴(action pétitoire, petitorische klage)即チ占有(ママ)ル権利其物ノ主張ヲ目的トスルモノ」とやや敷衍していわれても(梅87頁),フランス語及びドイツ語のお勉強にはなっても,なおよく分かりません。(『ロワイヤル仏和中辞典』(旺文社・1984年)には“action pétitoire”は「不動産所有権確認の訴訟」とあり,『独和大辞典(第2版)コンパクト版』(小学館・2000年)には„petitorische Ansprüche“は「本権上の請求権」とあるばかりです。)しかし,せっかく旧民法財産編361項本文に「所有者其物ノ占有ヲ妨ケラレ又ハ奪ハレタルトキハ所持者ニ対シ本権訴権ヲ行フコトヲ得(Si le propriétaire est troublé dans la possession de sa chose ou en est privé, il peut exercer contre tout détenteur l’action pétitoire)」とありますから,ここで,本権訴権とは何かについてボワソナアドの説くところを聴いてみましょう。

 

  ここまで論じられてきたrevendicationの訴え(action en revendication)は,まず,本権のpétitoire)〔訴え〕との名を占有のpossessoire)訴えとの対照において称する。本権の訴え(action pétitoire)は,原告が真にvraiment)所有権を有するものかどうかを裁判させようとするものであるf。占有の訴えは,原告が現実に(en fait)所有権を行使しているexerce)こと(占有するposséder),といわれること)を確認させようとのみするものである。本権の訴えは,権利の根拠le fond)について裁判せしめる。占有の訴えは,占有すなわち現実の行使l’exercice de fait)についてのみ裁判せしめるものである。

 (Boissonade, pp.96-97

 

  (f)ラテン語のpetere,すなわち「求める(demander)」に由来するpétitoireの語は,それ自体では十分確定した意味を有しない。しかし,ローマ法に影響された全ての立法において,上記の意味と共に,術語とされている(consacré)。

   本権の訴えは,所有権のみならず他の物権の多くについてそもそものau fond)その存在について裁判させるためにも行われる。

  (Boissonade, p.96

 

 本権の訴えは所有権その他の物権の存否を裁判させようとするものであるのはよいのですが,当該争点に係る肯定の裁判の結果,どのような請求を実現させようとするものであるのかというと,旧民法財産編36条に対応するボワソナアド草案37条の第1項及び第2項を見ると(Boissonade, p.76),action en revendication(所有物取戻訴権)及び’action négatoire(否認訴権)の行使が想定されていたところです。

フランス語のrevendicationは,ラテン語のrei vindicatio(所有物取戻訴権,所有物取戻しの訴え)に由来します。ローマ法においては「所有物取戻訴権は物権中の王位の権利の最強武器である。「予が予の物を発見するところ予これを取り戻す」(ubi rem meam invenio, ibi vindico)原則は何等の制限を受けない。何人の手からでも何等の補償も要せずして取り戻せるのである。その者が如何に善意で過失なくして取得したにしても,彼は保護せられない。比較法制史上個人主義がかくほど徹底した法制も稀である。」とのことでした(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)120頁)。

ローマ法における否認訴権(actio negatoria)については,「役権否認の訴権である。ドイツ普通法時代には占有侵奪以外のあらゆる妨害排除の訴権に高められている。目的は制限なき所有権の確認,侵害の排除,目的物(人役権〔用益権(旧民法財産編44条参照),準用益権,使用権(同編1101項参照)並びに住居権(同条2項参照)及び奴隷又は獣の労務権(原田127-128頁)〕につき問題となる)利益の返還,損害の賠償及び将来妨害せずとの担保問答契約の提供である。」と説明されています(原田120頁)。ボワソナアドは,否認訴権を説明していわく,「この場合,所有権者は彼の地所をなお占有しているので,彼がそれを要求するrevendiquer),彼がそれを取り戻そうとする,とはいえない。彼は専ら自由,解放を求めるのである。したがって,彼はその所有権を確認するのではない。その権利は争われていないからである。彼は,他者によって主張されている役権を争い,否認するdénie)のである。ここから,否認négatoire)訴権の名が生ずる。全くローマ由来の名である。」と(Boissonade, p.96)。

実は,旧民法財産編36条には立法上の不体裁があって,その第1項はaction en revendicationにのみ係るものでした(cf. Boissonade, p.76)。確かに同項の本権訴権行使の相手方は「所持者」です。ボワソナアドも,否認訴権はaction en revendicationの一種であると述べつつも,「否認訴権(action négatoire)は古いテキスト(l’ancien texte [sic])においては言及されていない〔筆者註:ボワソナアドのProjet1880年版及び1882年版のいずれにも否認訴権に係る規定はちゃんとありましたので,「古いテキスト」とは旧民法財産編36条のことを指すのでしょうか。〕。これは修正されなければならなかった脱漏であった。地役権の行使によって妨害された所有権者がそれを争うのは所有物取戻しの訴えによるものでないことを理解するには,〔ボワソナアド草案〕288条〔すなわち旧民法財産編2692項〕を待つまでもない。」と述べています(Boissonade, pp.95, 96(1))。

否認訴権に係るボワソナアド草案372項は次のとおりです(Boissonade, p.76)。

 

   Il peut aussi intenter une action négatoire contre ceux qui exerceraient sur son fonds des droits de servitude qu’il prétendrait ne pas exister.

  (所有権者は,また,彼が存在しないと主張する役権を彼の地所に行使する者に対して否認の訴えを提起することができる。)

 

「否認の訴え」というと嫡出否認の訴え(民法775条等)や,破産法(平成16年法律第75号)上の否認権の行使に係る訴え(同法173条)と紛らわしいですね。やはり旧民法財産編2692項流に「拒却訴権」の行使ないしは「拒却」の訴えとでもいうべきでしょうか。いずれにせよ,否認訴権を読み出しにくい旧民法財産編361項を前提とすれば,土地所有権に対する妨害の排除手段の明示に係る同編2624項の存在はその分の有用性を有していたわけです。

なお,我妻榮は「所有権についても,これ〔占有訴権〕に対応する所有物返還請求権(rei vindicatio)・所有物妨害除去請求権(actio negatoria)・所有物妨害予防請求権が,学説上一般に認められている。のみならず他の物権にも――物権それぞれの内容に応じて多少の差はあるが――これらに対応するものが認められている。そしてこれを物権一般の効力として,物上請求権または物権的請求権という(ドイツ民法は所有権について規定し(985条以下),他の物権に準用する。〔略〕)。」と述べており(我妻Ⅱ・22頁),そこでは所有物妨害予防請求権にラテン語名が付いていません。この点に関しては,ボワソナアドも,旧民法財産編36条に関して所有物妨害予防訴権については言及していなかったところです(Boissonade, pp.95-97)。

 

ウ 旧民法財産編34条と根の截去権との関係

また,根の截去についても,旧民法財産編342項の「開鑿及ヒ採掘(excavations, fouilles et extractions de matériaux)」にぴったり当てはまらないとともに(大は小を兼ねるのでしょうが,それでも,邪魔物たる隣地からの根の截去は,有益物であろうし,かつ,土地所有者の所有物又は無主物たるべきものであろうmatériauxの採掘に含まれ得るものでしょうか。),相隣関係なので地役の章を見なければならず(旧民法財産編344項),そこで同章を見れば,旧民法財産編261条は井戸,用水溜,下水溜及び糞尿坑,地窖並びに水路用石樋及び溝渠を穿つについて分界線から保つべき距離を規定しており,すなわち,分界線付近で穴を掘ることは注意してすべきものとされてあるところ,隣地から侵入して来た根の截去のための土堀りは分界線からどれだけ離れてすべきか,又は分界線に接してすることができるかは,やはり明文で規定されるべきものだった,とも考えられないものでしょうか。あるいはこじつけ気味に,第25回法典調査会における前記土方=梅問答にヒントを探してみると,旧民法財産編2624項は,竹木の存在する隣地を要役地とし,その枝又は根が侵入する土地を承役地とする地役権の存在を否定する趣旨であるように解されます(梅の言う「時効ニ依テ取得」するものは,地役権でしょう。)。旧民法財産編2621項から3項までは竹木の栽植又は保持において保つべき分界線からの距離を規定していますが,当該距離を保ちさえすればあとは枝又は根の侵入について隣地に対する地役権までが付随して認められるというわけではないよ,ということが同条4項の趣旨だったということもできないでしょうか。

しかし,さかしらなこじつけは,素直な事実認識を阻害しそうではあります。

結局のところ,越境した根の所有権の帰属はどうなっていたのでしょうか。

ちなみに,ある土地に生立している草木(及びその根)は土地の本質的構成部分となるという,いささか重たい表現である例のドイツ民法941項後段に相当する明示規定は,管見の限り旧民法にはないようです。旧民法財産編81項第5本文は「樹林,竹木其ノ他植物」を「耕地,宅地其他土地ノ部分」(同項第1)と並置して「性質ニ因ル不動産」としており(「性質ニ因ル不動産」は,その性質に因り遷移することを得ない物(同編7条)),同編81項第5ただし書を承けた同編12条は「植木師及ヒ園丁カ売ル為メニ培養シ又ハ保存シタル草木」(第3)及び「収去スル為メニ譲渡シタル樹木及ヒ収穫物」(第4)のような「仮ニ土地ニ定著セシメタル物」を「用法ニ因ル動産」としています。ただし,ボワソナアドは,樹林,木,小低木及びその他の植物並びに果実及び収穫物について,「土地から(du sol)分離して動産にすることが非常に容易(bien facile)な物であるが,そこにつながっている間は,それと一体をなし(tant qu’ils y sont attachés, ils font corps avec lui),かつ,性質上の不動産である。」とし,また,「栽植又は播種の場合,木及び種子は,なお根を下ろしていなくとも,地中に置かれるとともに不動産となる。」と述べています(Boissonade, p.35)。

 

(3)「ローマ法的解決」

 隣地の竹木から侵入して来た根の被侵入地内における所有権について,旧民法は土地所有者帰属説及び竹木所有者帰属説のうちどちらを採っていたのかがなおよく分からないのであれば,同法の母法たるフランス民法についてそれを問うべし,ということになります(我が民法233条と同様の規定として,フランス民法673条が存在します。当該条文は,後に御紹介します。)。ということで筆者は,頑ななる我がPCに手を焼きつつ,おフランス語でインターネット検索を重ねたのですが,そこで思わぬ収獲がありました。

フランス民法の淵源であるところのローマ法においては,隣地に侵入した根(radix)について樹木所有者帰属説が採られていたことが分かったのです(フランス民法及び我が旧民法も同説採用でしょう。)。日本民法の解釈問題は残るとしても,筆者の問題意識の主要部分はこれでひとまず解消したようです。

 当該収獲は,1823年にパリのImprimerie de Dondey-Dupréから出版されたポチエ(R.J.Pothier)の『ユスティニアヌスの学説彙纂(Pandectae Justinianeae, in Novum Ordinem Digestae, cum Legibus Codicis et Novellis quae Jus Pandectarum Confirmant, Explicant aut Abrogant)』第19巻の538-539頁にありました(Lib.XLVII. Pandectarum Tit.VII: III)。

 

   Non ideo minus autem furtim caesa arbor videbitur, quod qui radices hujus caecidit, eas in suo s[o]lo caecidit.

  (しかし,木の根を截った者が彼の地所でそれをしたからといって,それだけより窃盗的にではなくその木が伐られたことにはならない。)

   Enimvero si arbor in vicini fundum radices porrexit, recidere eas vicino non licebit: agere autem licebit non esse ei jus, sicuti tignum aut protectum immissum habere. Si radicibus vicini arbor aletur, tamen ejus est, in cujus fundo origo ejus (1) fuerit. l.6. §2. Pomp. lib.20. ad Sab.

  (確かに,「木が隣人の地所に根を伸ばした場合,当該隣人はそれを截ることはできない。彼に権利はない。しかし,梁又は廂が侵入してきたときと同様に行動することはできる。隣人の木がその根で養分を吸収するとしても,しかしそれは,それが最初に生えた場所がその地所内にある者のものである1。」6節第2款ポンポニウス第20編サビヌスについて

 

    (1Nec obstat quod in institut. lib.2. tit.1. §31 dicitur, ejus arborem videri, in cujus fundo radices egit. Hoc enim intelligendum quum integras radices egit, ita ut omnino ex hoc solo arbor alatur. Quod si mea arbor extremas du[m]taxat radices egerit in solo vicini: quamvis haec inde aliquatenus alatur, tamen mea manet; quum in meo solo et radicum maxima pars, et origo arboris sit.

     (『法学提要』第2編第1章第31節において,その地所に根が張った者に木は属するものと見られるといわれていることは,妨げにならない。それは,当該土地からその木が全ての養分を吸収するように全ての根が張っている場合のこととして理解されるべきものなのである。私の木が隣人の土地にせいぜい根の先端を延ばしたとして,その木がそこから幾分かの養分を吸収したとしても,根の大部分が,及び木の生え出した場所が,私の土地内にあれば,それは依然私のものである。)

 

ローマ法では,隣地の木の根が境界線を越えるときであっても,被越境地の所有者はその根を切り取ってはならないのでした。その理由は,隣人の梁や廂が侵入してきたときと同様に振る舞えというところからすると,越境した根はなお,その木の所有者の所有に属するから,ということになるわけでしょう。この点,S.P.スコットのDigesta英訳(1932年)では“but he can bring an action to show that the tree does not belong to him; just as he can do if a beam, or a projecting roof extends over his premises.(しかし,彼は,ちょうど梁又は廂が彼の地所に突き出てきたときにできるように,その木は彼のものではないことを示すために訴えを提起することができる。)となっていますnon esse ei jus”の不定法句は,agereを言説動詞とした,間接話法の内容ということでしょうか。当該不定詞句は,ポチエのフランス語では最後の文にくっつけて訳されていて,筆者の頭を悩ませたのでした。)

邦語でも「地下にある〔突出してきた〕根についても,これを切断させることが,可能です。相手方がその作業をしないときには,その人が自力で〔略〕根を切り取る行動に出ても差し支えありません。これは,法上許された「自力救済」の一つのパターンですね。」ということが紹介されています(柴田光蔵「ROMAHOPEDIA(ローマ法便覧)第五部」京都大学学術情報リポジトリ・紅(20184月)37頁)。自力截去は直ちにはできません。「又我が樹木根が隣地[に]出でるときは,隣人はこれを有害と認むるときは任意にこれを除去することを得。」というのは(吉原達也編「千賀鶴太郎博士述『羅馬法講義』(5)完」広島法学333号(2010年)85-86頁),反対解釈すると任意の除去は有害のときに限られ,無害のときは手を出せないということですが,これは当該越境樹木根の所有権を当該隣人が有していないからでしょう。

ローマ法においては,木の所有権は,その木が最初に生えた場所(origo)の属する土地の所有者に属する,ということでよいのでしょうか。註では根の大部分の所在をも要件としていますが,本文の方が簡明であるようです。

なお,名詞origoは,動詞oririに由来し,当該動詞には太陽等の天体が昇るという意味もあります(おやじギャグ的に「下りる」わけではありません。)。日出る東方を示すOrientの語源ですね。


(4)ボワソナアドの旧民法財産編262条4項解説探訪(空振り)

なお,民法財産編2624項の趣旨をボワソナアドのProjetに尋ねてみても,空振りです。同条はフランス民法の1881820日法による改正後671条から673条まで及びイタリア民法579条から582条までを参考にしたものであること並びに旧民法財産編262条における分界線・竹木間距離保持規定の目的は通気及び日照の確保による居住及び耕作の保護であり,「市街地では木は実用のためというよりは楽しみのためのものであるし,田園地においてはその広さが規定された距離を容易に遵守することを可能とすることから」,法は遠慮なし(sans scrupules)に所有権者の自由を制限しているものであることは説かれていますが,同条4項について特段の説明はありません(Boissonade, pp.565, 568-570)。

 

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1 民法370条ただし書後段に係る違和感

 

(1)条文

 民法(明治29年法律第89号)370条は次のような規定であって,難解ですが,筆者にとっては特にそのただし書後段の書きぶりが,かねてからしっくり感じられなかったところです。

 

  (抵当権の効力の及ぶ範囲)

  第370条 抵当権は,抵当地の上に存する建物を除き,その目的である不動産(以下「抵当不動産」という。)に付加して一体となっている物に及ぶ。ただし,設定行為に別段の定めがある場合及び債務者の行為について第424条第3項に規定する詐害行為取消請求をすることができる場合は,この限りでない。

 

民法4243項は「債権者は,その債権が第1項に規定する行為の前の原因に基づいて生じたものである場合に限り,同項の規定による請求(以下「詐害行為取消請求」という。)をすることができる。」と規定しています。ですから,民法370条ただし書後段の「第424条第3項に規定する詐害行為取消請求」とは,同法4241「項の規定による請求」ということになるようです。民法4241項は「債権者は,債務者が債権者を害することを知ってした行為の取消しを裁判所に請求することができる。ただし,その行為によって利益を受けた者(以下この款において「受益者」という。)がその行為の時において債権者を害することを知らなかったときは,この限りでない。」と規定していますから,「同項の規定による請求」とは,債務者が債権者を害することを知ってした行為であって,かつ,(以下は抗弁に回りますが)受益者がそのされた時において悪意であったものの取消しに係る債権者による裁判所に対する請求,ということになります。

民法4241項にいう「行為」には,法律行為のほか,弁済など厳密な意味では法律行為には当たらない行為も含まれるものとされますが(筒井健夫=村松秀樹編著『一問一答 民法(債権関係)改正』(商事法務・2018年)100頁),「旧法〔平成29年法律第44号による改正前の民法〕下では,単なる事実行為は含まれないと解されていたが,このような解釈を否定するものではない。」(同頁(注1))とされています。端的にいえば,「単なる事実行為は含まれない」そうです(内田貴『民法Ⅲ(第4版)債権総論・担保物権』(東京大学出版会・2020年)365頁)。

さて,抵当不動産に物が付加されて一体となるのは厳密にいえば事実行為であるから,それについて,本来は法律行為を対象とする(平成29年法律第44号による改正前の民法4241項は,詐害行為取消請求の対象として「法律行為」のみを規定していました。)詐害行為取消請求を云々するのはおかしいんじゃない,というのが筆者の違和感でありました。

 

(2)学説

 

  新370条ただし書後段は,どのような場合を想定しているのだろうか。たとえば,債務者が一般財産に属する自分の高価な貴金属を抵当権の目的物である建物の壁に埋め込んだとする。壁に埋め込めば,不動産の構成部分となるが,これは一般債権者を害する行為である。旧4241項は取消しの対象を法律行為に限定していたが,新4241項は単に「行為」に改めた。しかし,「行為」にはこのような純然たる事実行為は含まないと解されている(⇒365頁〔前掲〕)。そこで,新370条ただし書後段は,このような場合も,詐害行為としての要件を満たしていれば,付加一体物の例外を認めることにしたのである。不動産の構成部分である以上,一体として売却されるが,詐害行為であることについて悪意の抵当権者は,当該貴金属の価額分からは優先弁済を受けることができない。(内田495頁)

 

 事実行為であっても,民法4241項の「行為」性以外の「詐害行為としての要件を満たしていれば」,同法370条ただし書後段は働くということでしょうか。しかし,「第424条第3項に規定する詐害行為取消請求をすることができる場合」(なお,平成29年法律第44号による改正前は「第424条の規定により債権者が債務者の行為を取り消すことができる場合」)とまで具体的に書き込まれて規定されてしまうと,やはり,事実行為については「第424条第3項に規定する詐害行為取消請求をすることができる場合」なる場合はそもそもあり得ないのではないですか,と依然文句を言いたくなるところです。

 「一般債権者を詐害するような付加行為を認めない趣旨だが,付加行為は法律行為ではないからそれを取り消すことは無意味なので,抵当権者はそのような付加物に優先弁済権がないとしたものである。」といわれると(遠藤浩=川井健=原島重義=広中俊雄=水本浩=山本進一編『民法(3)担保物権(第3版)』(有斐閣・1987年)123頁(森島昭夫)),取り消すことができるのだが取り消しても「無意味」であるというよりはむしろ,そもそも取り消すことができないのではないですか,とこれまた文句を申し上げたくなります。

「第370条は「第424条ノ規定ニ依リ債権者(ママ)債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合」をも,例外とする。実際に生じた事例は見出しえないが,強いて考えれば,負債の多い債務者が,一般財産に属する樹木または大きな機械などを,抵当権の目的となっている土地に移植しまたは据えつけて附合させる場合などがありうるであろう。債務者のかような行為は,一般債権者を詐害するものであるが,法律行為ではないから,第424条のように,これを取消すということは意味をなさない。一般債権者は何もしなくとも,抵当権の効力の及ばないことを主張しうる,と解すべきである。/建物についても全く同様である。とくに述べるべきことはない。」(我妻榮『新訂担保物権法』(岩波書店・1968年)266頁)とまでいわれると,ようやく,ああ,「取消権」の行使は「意味をなさない」からしないということであれば当該「取消権」なるものはそもそも無いっていうことが言いたいのではないかな,との感想が生じてきます。

 「抵当債(ママ)者が自分の物を抵当不動産に附着させて抵当権の目的物とすることによって他の債権者への弁済額を減らそうとして,つまり,抵当権者以外の債権者(同条の「債権者」は,この者のことである)を「害スルコトヲ知リテ」この附着行為をした場合,という意味であり,民法424条の要件が必要である(民法424条は「法律行為」に関するものだから同条そのものの問題ではない)。もっとも,実際はあまり問題になるまい。なお,〔略〕抵当不動産との附着の程度の強い場合には,抵当権の効力が及ぶと解されている。」(星野英一『民法概論Ⅱ(物権・担保物権)』(良書普及会・1976年)249頁),すなわち,民法370条ただし書後段は「第424条ノ規定ニ依リ債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合」と規定してはいるものの「民法424条は「法律行為」に関するものだから同条そのものの問題ではない」のだ,わざわざ「第424条」云々と書いてあるけれども空振っているのだ,ちょっと変な条文なのだ,と割り切った説明をされる方が,筆者には分かりがよいところです。しかし,我は立法技術的にはおかしな条文なり,と堂々胸を張られるというのでは,困ったことです。

「法文トシテハ如何(いか)ニモ解シ()クイ」もので,「唯タ精神上テハ取消スコトカ出来ル場合ニ見エテ其実ハ其訴権ヲ以テ取消スコトノ出来ヌト云フコトニ為ツテ仕舞(ママ)考ヘ」られるところ,「其精神ハ宜シイカ法文ノ分ラサルカ為メニ〔現行民法〕起草委員ノ折角ノ御骨折カ水泡ニ帰シハスマイカ」とも思われてしまいます。

 

2 民法370条ただし書後段の沿革

 この難解な民法370条ただし書後段の条文の沿革をたどると,次のとおりとなります。

 

(1)ナポレオンの民法典2133条

 まず,1804年のナポレオンの民法典2133条。

 

   L’hypothèque acquise s’étend à toutes les améliorations survenues à l’immeuble hypothéqué.

  (成立した抵当権は,抵当不動産に生じた全ての改良に及ぶ。)

 

これは,我が明治政府のお雇い外国人・ボワソナアドにいわせれば,「恐らく言葉(ラコー)足らず(ニック)に過ぎ,かつ,疑問点を残すもの」であって(Boissonade, Projet de Code Civil pour l’Empire du Japon accompagné d’un Commentaire, Tome Quatrième: des Sûretés ou Garanties des Créances ou Droits Personnels. Tokio, 1889. pp.386-387),「〔抵当不動産の〕増加については沈黙しており,また,改良の原因となるべき事由について説明していない」ものでした(Boissonade p.387)。

 

(2)ボワソナアド草案1206条及び旧民法債権担保編200条

フランス民法2133条の前記欠陥に対して,「ここに提案された解決策は,我々の考えによれば,フランス民法によって与えられるべきものである(celles qu’on doit…donner d’après le Code français)。」ということで起草された「解決策(solutions)」が(Boissonade p.387),旧民法に係るボワソナアド草案1206条です(Boissonade p.372)。

 

   1206.  L’hypothèque s’étend, de plein droit, aux augmentations ou améliorations qui peuvent survenir au fonds, soit par des causes fortuites et gratuites, comme l’alluvion, soit par le fait et aux frais du débiteur, comme par des constructions, plantations ou autres ouvrages, pourvu qu’il n’y ait pas fraude à l’égard des autres créanciers et sauf le privilége des archtectes et entrepreneurs de travaux, sur la plus-value, tel qu’il est réglé au Chapitre précédent. (2133)

      Elle ne s’étend pas aux fonds contigus que le débiteur aurait acquis, même gratuitement, encore qu’il les ait incorporés au fonds hypothéqué, au moyen de nouvelles clôtures ou par la suppression des anciennes.

  (抵当ハ寄洲ノ如キ意外及ヒ無償ノ原因ニ由リ或ハ建築,栽植又ハ其他ノ工作ニ因ル如ク債務者ノ所為及ヒ費用ニ因リテ不動産ニ生スルコト有ル可キ増加又ハ改良ニ当然及フモノトス但他ノ債権者ニ対シテ詐害ナキコトヲ要シ且前章ニ規定シタル如キ建築技師及ヒ工事請負人ノ増価ニ付キテノ先取特権ヲ妨ケス

  (抵当ハ債務者カ縦令無償ニテ取得シタルモノナルモ其隣接地ニ及ハサルモノトス但新囲障ノ設立又ハ旧囲障ノ廃棄ニ因リテ隣接地ヲ抵当不動産ニ合体シタルトキモ亦同シ)

 

 「債務者ノ所為及ヒ費用ニ因リテ不動産ニ生スルコト有ル可キ改良」に関して,ボワソナアドは次のように説明しています。

 

   次に,債務者の所為により,かつ,彼の費用負担によるところの改良,すなわち「建築,栽植又ハ其他ノ工作ノ如キモノ」である。ここにおいては,債務者がその資産(patrimoine)から取り出す物は債権者のうち一人の担保の増加のために債権者らの共同担保財産(gage général)から取り去られてしまう物であるという関係から,疑惑が生ずることになる。しかしながら,支出額(dépenses)の大きさは多様であり得ること及び多くの場合において当該支出は正当であり得ることから,法は,原則として,当該支出は抵当債権者の利益となるものとした。他方,濫用は可能であるところ,対抗策を直ちに示すためと同時にそれを防止するため,法は,まず,他の債権者に対して詐害となる場合を除外する。法は,次に,建築及びその他の工作は建築技師及び請負人に対して第1178条及び第1179条において規定される先取特権をもたらし得るものであることから,抵当による担保は,彼らが満足を得た後に残る増価分にしか及ばないことに注意を促す。(Boissonade p.387

 

ボワソナアド草案1206条が,ほぼそのまま旧民法債権担保編(明治23年法律第28号)200条となります。

 

  第200条 抵当ハ意外及ヒ無償ノ原因ニ由リ或ハ債務者ノ所為及ヒ費用ニ因リテ不動産ニ生スルコト有ル可キ増加又ハ改良ニ当然及フモノトス但他ノ債権者ニ対シテ詐害ナキコトヲ要シ且前章ニ規定シタル如キ工匠,技師及ヒ工事請負人ノ先取特権ヲ妨ケス

   抵当ハ債務者カ縦令無償ニテ取得シタルモノナルモ其隣接地ニ及ハサルモノトス但新囲障ノ設立又ハ旧囲障ノ廃棄ニ因リテ隣接地ヲ抵当不動産ニ合体シタルトキモ亦同シ

 

 旧民法債権担保編200条を梅謙次郎が修正したものが,現行民法370条となります。

 

(3)梅案365条ただし書後段

 

ア 条文

1894124日の第50回法典調査会に梅謙次郎が提出した現行民法370条の原案は,次のとおり(法典調査会民法議事速記録第168)。

 

 第365条 抵当権ハ其目的タル不動産ニ附加シテ之ト一体ヲ成シタル物ニ及フ但設定行為ニ別段ノ定アルトキ及ヒ第419条ノ規定ニ依リ債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合ハ此限ニ在ラス

 

 この梅案(松・竹・梅のうちの梅案ということではなくて,梅謙次郎案ということです。)では,更地であった抵当地の上に建物が建つと,その建物は抵当地に附加シテ之ト一体ヲ成シタル物であるということで,当該建物にも抵当権が及ぶことになっていたことに注意してください。

 なお,1895122日の第58回法典調査会に提出された民法419条案は次のとおりでした(法典調査会民法議事速記録第18119-120丁)。

 

  第419条 債権者ハ債務者カ其債権者ヲ害スルコトヲ知リテ為シタル法律行為ノ取消ヲ裁判所ニ請求スルコトヲ得

   前項ノ請求ハ債務者ノ行為ニ因リテ利益ヲ受ケタル者又ハ其転得者ニ対シテ之ヲ為ス但債務者及ヒ転譲者ヲ其訴訟ニ参加セシムルコトヲ要ス

 

イ 梅の冒頭説明

梅の365条案ただし書後段について,同人の説くところは次のとおりでした(原文の片仮名書きを平仮名に改め,濁点及び句読点を補いました。)。

 

原文〔旧民法債権担保編200条〕1項の但書の処でありますが,「他ノ債権者ニ対シテ詐害ナキコトヲ要シ」,斯うあります。此趣意は勿論本条に於ても採用したのであります。即ち彼の廃罷訴権と法典に名附けてあります「アクシユ(ママ)ーレヤナ」の矢張り適用の中であることは疑ひないのであります。夫れならば寧ろ向ふの規定に総て従ふやうにしないと,御承知の通りに「アクシパーレヤナ」には夫れ夫れ条件がありまするので,唯だ詐害と云ふ丈けでは「アクシパーレヤナ」のことを意味しない。去ればと云つて此場合に限つて「アクシユパーレヤナ」と違つて規則に依て取消を許すと云ふのも理由のないことゝ思ひます。夫れで之は「第419条ノ規定ニ依リ」としたので,之は「アクシユパーレヤナ」の箇条を規定する積りであります。尤も一寸考へると,之は条文は要らぬのではないか「アクシユパーレナヤ」と云ふものは総ての場合に当嵌まるから此処でも言はぬで置けば総ての場合に当嵌りはしないかと云ふ疑ひが起るかも知れませぬが,夫れは然う云ふ訳には徃きませぬ。何ぜ然うかならば,「アクシユパーレヤナ」の規定が何か云ふやうな規定になるか知れませぬが,何れにしても,沿革上から考へて見ても,又私共が起草の任に当つたとして考へて見ても然うでありますが,此「アクシユパーレヤナ」と云ふものは法律行為を取消すと云ふのが其目的であらうと思ひます。夫れは「アクシユパーレヤナ」で出来る。即ち此処の所で言うても,債務者が或る請負人か何にかと或る契約を結んで,然うして家を建てるとか,或は建て増しをするとか不動産に改良を加へるとか,詰り其土地を抵当に取つて居る債権者に特別なる利益を与へやうと云ふ考へで然う云ふ事を致すと云ふ場合でありますれば其建築契約を取消すことは無論出来ますが,建築は既に成つて其代価は払つて仕舞つた其建物夫れ自身を「アクシユパーレヤナ」に依て取消す訳に徃きませぬ。建物を取消す訳に徃きませぬ。夫れで「アクシユパーレヤナ」の直接の適用としては,此場合に於ては適用はないでありませうが,唯だ条件を同じ条件にして「アクシユパーレヤナ」を行ふことが出来るやうな場合でありますれば,其加へた物丈けは,抵当権者の担保と為らずして債権者の一般の担保に為ると云ふならば,「アクシユパーレヤナ」の精神を無論貫くことが出来る。無論原文も然う云ふ意味であつたらうと思ひますが,唯だ条件は「アクシユパーレヤナ」と同じやうにしないと徃けないと思ひますから斯う云ふ風に書きました。(法典調査会民法議事速記録第169-11丁)。

 

ウ パウルス訴権(actio Pauliana

「アクシユパーレヤナ」とは何かといえば,ラテン語のactio Pauliana。「所謂「パウルス(○○○○)訴権(○○)actio Pauliana, action Paulienne ou révocatoire, Paulianische Klage oder Anfechtungsklage)」だそうです(梅謙次郎『訂正増補第27版 民法要義巻之二 物権編』(私立法政大学=有斐閣書房・1908年)508頁)。

パウルス訴権(パウリアーナ訴権)はローマ法上の制度であって,法務官法上の不法行為に係る訴権の一であり,次のように解説されています(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)232-234頁)。

 

  (一)歴史 4年のlex Aelia Sentiaは債権者詐害in fraudem creditorisの奴隷解放を無効とした〔同法(lex)は奴隷解放の要件を絞るためのもの〕。爾余の債務者の詐害行為には法務官は,(1)詐害的特示命令(interdictum fraudatorium〔特示命令は,訴権(actio)による普通手段の外に,純粋に法務官が創設した保護手段〕,(2)原状恢復in integrum restitutio。法律上一応は合法的形式を備えるが不当な結果が生じたときにその不当な結果を排除するのに用いられる。特示命令の外に法務官が創設した権利保護手段の一つ〕,(3)事実訴権actio in factum concepta。請求の表示が法律訴権のように一定の型にあてはめることを得ずして,具体的事実を記載し,判決をその有無にかからしめる場合の訴権〕等の救済手段を認めたが,ユ〔スティーニアーヌス〕帝は是等の保護手段を融合統一してパウリアーナ訴権(actio Pauliana)――glossema〔写本中の附註〕に基づく名称?――を作つたため,以前の歴史は不明になつている。

  (二)ユ帝法のパウリアーナ訴権の要件 (1)債務者の詐害行為 債務者の行つた譲渡,免除,新債務の負担の如き積極的行為のみならず,期限訴権の不提起,時効中断の懈怠の如き不作為も亦詐害行為である。但し人格権侵害訴権iniuriaの訴権。市民法上の不法行為訴権の一。iniuriaは,人の身体を傷つけ,無形的名誉を毀損し,公共物の使用を妨げるような行為(窃盗の未遂まで包含される。)〕,不倫遺言の訴〔適当額の遺産を近親に与えない遺言を不倫遺言(inofficiosum testamentum)といった。〕の如き訴を提起せず,又は相続を承継せず,遺贈を受領しないような利得行為をなさずとも,債権者は取消ができない。

  (2)債権者に対する実害の発生(eventus damni

  (3)債務者の詐害意思(consilium fraudis

  (4)債務者以外の者――実際的には最も通常の場合――に提起するには,有償行為の場合にはその者が詐害を知つたこと(conscius fraudis)。無償のときは知るを要しない。

  (三)性質効果 専決訴権actio arbitraria。金銭判決をなるべく避けるため,審判人に対し,判決前訴訟物自体の給付返還を被告に勧告すべき旨を命ずる文言の含まれている訴権〕,期限訴権actio temporalis。訴権消滅時効期間が30年以下のもの〕で,1年内に提起せられると全部の賠償義務,1年後は利得額の返還義務を発生する。加害者委附〔加害した奴隷又は動物を被害者に委附して復讐に委ね,あるいはその労働をもって罰金額損害額を弁済せしめる。〕を許さず,重畳的競合〔数人の加害者が存するとき,加害者の一人が罰金を支払っても他の加害者は依然責任を免れないこと。〕もしない〔略〕

 

 あるいは,「信義に反して債権者を害するような債務者の財産減少行為も,債権者を欺くものとして詐欺の関連で問題とされ,法務官法上,原状回復のための訴え(破産手続における破産財団への財産取戻し)や悪意の受益者に対する返還命令(特示命令)が認められた。ユスチニアヌス帝のもとで両者は統合され,その内容がパウルスの章句(Paulus, D.22,1,38,4)として伝えられるところから,「パウリアナ訴権(actio Pauliana)」と呼ばれる。債務者の詐害的行為に対する債権者取消権制度の原点である(日本民法第424条。〔略〕)。」ともいわれています(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法―ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)194-195頁)。ユスティーニアーヌス帝のDigesta(学説彙纂)中上記パウルスの章句は,次のとおり(拙訳は,あやしげですね。)。

 

In fabiana quoque actione et pauliana, per quam quae in fraudem creditorum alienata sunt revocantur, fructus quoque restituuntur: nam praetor id agit, ut perinde sint omnia, atque si nihil alienatum esset: quod non est iniquum (nam et verbum "restituas", quod in hac re praetor dixit, plenam habet significationem), ut fructus quoque restituantur.

  (債権者らに係る詐害となって逸出した物quae in fraudem creditorum alienata suntがそれによってper quam回復されるrevocanturファビウス及びパウルス訴権のいずれにおいてもin fabiana quoque actione et pauliana,果実もまたfructus quoque返還されるrestituuntur。というのはnam,法務官がpraetor,何も逸失しなかった場合とちょうどatque si nihil alienatum esset同様に全てがなるようにut perinde sint omnia取り運ぶからであるid agit。果実も返還されるようにすることもut fructus quoque restituantur,(というのはnam,本件において法務官が宣したquod in hac re praetor dixit「原状回復すべし」との言葉もet verbum "restituas",完全な意味を有しているのであるからplenam habet significationem)不当ではないところであるquod non est iniquum。)

 

 パウルス訴権は「ローマ共和政末期の法務官パウルス(Paulus)が提案した刑事懲罰の性格を有する制度」であって「ローマ法において,actio paulianaは,もともと商人の民事破産手続における制度として登場した」と一応説かれていますが(張子玄「フランス法における詐害行為取消権の行使と倒産手続(1)」北大法学論集706号(20203月)32頁・註1),「実は謎に包まれた制度であり,この「パウルス」(Paulus)がどの時代の誰かも判然としない遅い産物」だそうです(木庭顕『新版ローマ法案内』(勁草書房・2017年)199頁)。

 ナポレオンの民法典1167条においては,次のように規定されていました。

 

   Ils peuvent aussi, en leur nom personnel, attaquer les actes faits par leur débiteur en fraude de leurs droits.

       Ils doivent néanmoins, quant à leurs droits énoncés au titre des Successions et au titre du Contrat de Mariage et des Droits respectifs des époux, se conformer aux règles qui y sont prescrites.

  (彼ら〔債権者〕はまた,彼ら個人の名で,債務者によってされた彼らの権利を詐害する行為を攻撃することができる。/ただし,相続の章並びに婚姻契約及び各配偶者の権利の章に掲げられた彼らの権利については,そこにおいて定められた規定に従わなければならない。)

 

 現在のフランス民法1341条の2は,次のとおりです。

 

   Le créancier peut aussi agir en son nom personnel pour faire déclarer inopposables à son égard les actes faits par son débiteur en fraude de ses droits, à charge d'établir, s'il s'agit d'un acte à titre onéreux, que le tiers cocontractant avait connaissance de la fraude.

  (債権者はまた,彼個人の名で,債務者によってされた彼の権利を詐害する行為を彼との関係において対抗することができないものと宣言せしめることができる。ただし,有償行為に関する場合においては,第三者である契約当事者が詐害について悪意であったことを立証したときに限る。)

 

 フランスでは,「詐害行為の取消請求が認められた場合,逸出財産を債務者財産に取り戻す必要はなく,取消債権者は受益者の手元に置いたまま財産売却を求めることができる。つまり,取消債権者は裁判所に対し対象財産に対する強制売却(vente forcée)を求める権限を有することになる。その結果,取消債権者は財産売却によって自ら債権回収を図ることができる。この点から見ると,「対抗不能」の終局的意義は,取消債権者に対して差押債権者に相当する権限を与えることにあるといえる。なぜなら取消債権者は自ら強制売却の申立てを行わなければ,債権回収をすることはできないからである。」ということになるそうです(張35-36頁)。

 Dalloz2011年版Code Civil, 110e éditionを見ると,フランス民法1167条(当時)によって攻撃される行為の例の性質(Nature des actes attaqués (exemples))として,贈与(donations),合併に基づくある会社から他の会社への不動産の承継(apport d’immeubles par une société à une autre, à titre de fusion),債権譲渡(cession de créance),代物弁済(dation en paiement),会社の合併(fusion de sociétés),不動産の売却(vente d’immeuble)及び買戻権付きの家財売却(vente à réméré de meubles meublants)並びに(以下は第2項関係でしょう。)贈与分割(donation-partage),無償譲与の減殺権の放棄(renonciation à réduction d’une libéralité),相続放棄(renonciation à succession),財産分割(partage)及び復帰権条項付き贈与契約に基づき贈与を受けた財産の当該受贈者による贈与(donation d’un bien que le donateur a lui-même reçu par donation assortie d’une clause de retour)が挙げられています(Actes visés, pp.1445-1446)。

 相続放棄もaction paulienneの対象となるとされると,相続を承継しないことないしは相続の放棄は詐害行為にならないとする前記ローマ法の規範内容及び我が最高裁判所の昭和49920日判決(民集2861202頁)との関係でいささか説明が必要となります。しかし,この点については,「相続放棄」は「ローマ法と異なり,フランス民法が明文の規定〔旧788条・現779条〕で詐害行為の対象とした」ものであるとつとに紹介されています(工藤祐巌「民法4242項の「財産権を目的としない法律行為」の意味について」名古屋大學法政論集254号(2014年)336頁及び353頁・註(15))。また,「ローマ法と異なり,フランス法ではすべての相続が被相続人の死亡によって完全に効力を生じる」ものとされているそうです(工藤337。ボワソナアドも同様の理解を有していたことについて,同346)。

フランス民法旧11672項と我が民法4242(なお,同項に対応する規定は旧民法にはありませんでした。)との関係が気になりますが,我が民法4242項が典型的に想定していたのは,「隠居,家督相続ノ承認等」であったようで(梅謙次郎『訂正増補第30版 民法要義巻之三 債権編』(私立法政大学=中外出版=有斐閣書房・1910年)87頁。「仮令財産上ニ影響ヲ及ホシ而シテ債務者カ債権者ヲ害スルコトヲ知リテ之ヲ為スモ敢テ其隠居,承認等ヲ取消スコトヲ得ス」),しかも,「但是等ノ場合ニ於テ債権者ヲ保護スヘキ規定ハ親族編及ヒ相続編ニ之ヲ設ケタリ(761〔「隠居又ハ入夫婚姻ニ因ル戸主権ノ喪失ハ前戸主又ハ家督相続人ヨリ前戸主ノ債権者及ヒ債務者ニ其通知ヲ為スニ非サレハ之ヲ以テ其債権者及ヒ債務者ニ対抗スルコトヲ得ス」〕988〔「隠居者及ヒ入夫婚姻ヲ為ス女戸主ハ確定日附アル証書ニ依リテ其財産ヲ留保スルコトヲ得但家督相続人ノ遺留分ニ関スル規定ニ違反スルコトヲ得ス」〕989〔「隠居又ハ入夫婚姻ニ因ル家督相続ノ場合ニ於テハ前戸主ノ債権者ハ其前戸主ニ対シテ弁済ノ請求ヲ為スコトヲ得/入夫婚姻ノ取消又ハ入夫ノ離婚ニ因ル家督相続ノ場合ニ於テハ入夫カ戸主タリシ間ニ負担シタル債務ノ弁済ハ其入夫ニ対シテ之ヲ請求スルコトヲ得/前2項ノ規定ハ家督相続人ニ対スル請求ヲ妨ケス」〕1041乃至1050〔財産ノ分離〕)」ということでした(同頁)。「現行民法起草者の立場は,「非財産的権利に関する行為」のみを詐害行為取消の対象となる行為の範囲を画する枠組みとして有していたということができる。すなわち,一身専属権の中で,債務者の資産としての財産的価値を有しないが故に一身専属権とされる権利,すなわち,主として身分行為を取消の対象から排除する立場であった。これに対し,債務者の資産としての財産的価値を有するものの,それを行使するか否かを債務者自身が決すべき権利,すなわち,狭義の一身専属権については,詐害行為取消権の行使の対象となりうることになる」(工藤349頁),「なぜ,4231項但書きと同様に一身専属権の言葉を用いなかったのかといえば,その範囲が異なるから」である(同350頁),とのことです。

  

エ 梅謙次郎 vs. 磯部四郎

梅の365条案ただし書後段に関する前記最初の説明を聴いた上で,磯部四郎🎴が「又「第419条」と云ふのは多分「アクシヨンポーリアンド」〔ここの語尾の「ド」は,磯部の発音するおフランス語の“action Paulienne”に速記者が勝手に付加したものでしょう。ちなみに磯部は富山の出身です。〕の場合であらうと思ひますが,其条文の規定ニ依テ債権者と云ふのは抵当債権者でなく一般の債権者であらうと思ひますが,夫れを以て債務者の行為を取消した場合には,抵当権者の行為を取消したと云ふことは言はずして分つて居らうと思ひますが,殊に此但書以下の必要なる所以を伺ひたい」と改めて質問をしたのに対し(法典調査会民法議事速記録第1613丁),梅は次のように回答します。

 

 今御疑ひに為つたやうな意味でありませぬ。此「第419条」と云ふのは無論「アクシヨンポーリエス」〔梅のフランス語については,“action Paulienne”が「アクションポーリエス」となってしまっています。これはあるいは,和文タイピストが「ヌ」を「ス」と取り違えたのかもしれません。なお,ついでにいえば,国立国会図書館デジタルコレクションにおいてせっかく公開していただいている法典調査会民法議事速記録(日本学術振興会)でありますが,和文タイプの印字が,いささか潰れ気味で読みづらい。〕の積りであります。或は準用に為るかも知れませぬ。「アクシヨンポーリエス」の規則に従へば一般の債権者たる者が債務者の行為を取消すことの出来るやうな場合には,抵当設定者が取消される場合には,其行為を取消すのでない。家ならば家を建つて仕舞つた,其契約抔はてんで履行して仕舞つて金は払つて仕舞つた,けれども其金を払つたと云ふのは,例へばもう自分は無資力である近(ママ)内に破産の宣告を受けるかも知れぬ,抵当債権者は自分の親友である,是に少し特別の利益を与へたい,土地の価では足らぬから家を建てやるとか,或は今家は建つて居るが小さい,夫れに建て増しをして土地の価を増してやらうと云ふ,斯う云ふ訳で建てる。其建てた物を壊はすと云ふのではない,其行為を取消すと云ふのではない,けれども其建てた物に及ばない。抵当権が及ばない。矢張り夫れは一般の債権者の担保に為ると云ふ,斯う云ふ意味に為りますから,夫れで此明文が要ると云ふ考へであります。(法典調査会民法議事速記録第1613-14丁)

 

磯部はなおも釈然としません。むしろ不要論を唱えます。

 

  一般の債権者が取消すことを得る場合,其理由は能く分りましたが,勿論是丈けのことにして置いた所が,是れが行為を取消すことが出来る場合である場合でないと云ふことは矢張り裁判所でずつと調べて徃かなければ分ることでないと思ひます。果して裁判所で調べると云ふことになると,先刻仰言つた所の「アクシヨンポーリアンド」の中に為るか或は「アクシヨンポーリアンド」を実行し得ざる場合と為るかも知れぬと思ひます。然うして見ると,斯の如き規定がなくとも実際の便宜から考へて,却てない方が簡略で能く分りはしないかと云ふ考へが浮んで来ました。今,一体ヲ為シタル物ニ及フと云ふ通則の所に於て斯うして置かぬと不都合である,其不都合の所は特別の契約でしたときは仕方がないと云ふ先刻の御説明でありますが,特別の契約でも然う云ふ不都合が生ずるときは何んとか他に始末をしなければならぬ。夫れが甘く始末が着くならば,普通の場合でも甘く始末が着て徃かなければならぬと思ひますが,其処の所を一つ伺ひたい。夫れで「債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合」と云ふものを定めるには,矢張り裁判所で定めなければならぬ。然うすれば寧ろ裁判所では「コントラクシヨン」をやつて来たもので差支へないではないか。又先程・・・実際に取消すことを得ると云ふ中に或は数へられると云ふことでありますが,私の考へでは数へられぬかも知れぬと云ふ考へが起りましたが,然うすると折角斯う云ふ明文が出来ましたが,実際には不必要に為りはしないかと云ふ疑ひが起りましたが,何う云ふものでございませうか,一寸伺ひます。(法典調査会民法議事速記録第1617-18丁)

 

確かに,民法370条ただし書後段については,その後「実際に生じた事例は見出しえない」(我妻266頁)とされたところではあります。

 梅の回答。起草の趣旨の繰り返しであって,磯部の不要論には正面から答えていません。

 

  私は斯う云ふ積りであります。即ち,私が磯部君に金を借りて居る,私の所有の地面を抵当に入れて金を借りて居る所が,私が無資力と為つて売ると云ふときに為ると,借りて居る丈けの価ひがない。夫れで私は無資力と云ふことを自から知つて居る,夫れであなたに向つて言つても宜し,言はなくても宜しいが,私の意思では,何うせ外の債権者に取られる位ならば外の人よりも磯部君丈けは迷惑を少なくさせたいものであると云ふ所から,然う云ふ場合に新たに入りもしない家を建てたとか,又は新に建て増しをしたとか,其場合に「アクシヨンポーリエス」を直ぐに行ふと云つても行はれぬ,「アクシヨンポーリエス」は行為を取消す名を持つて居るが,今のは行為を取消すのではない,行為は・・・先づ履行にてせんであつたと仮定を致します。其場合には,其建てた家と云ふものは磯部君の担保には為らぬと云ふことにならんと,磯部君の為めには大変都合が宜しいが外の債権者の為めには大変迷惑であると云う,斯う云ふことであります。然う云ふ場合には,即ち斯う云ふ意味に依て,夫れが法律行為であつたならば取消せる行為である,其場合には抵当権が後とから喰着けた物には及ばぬ。斯う云ふ意味に為るのであります。(法典調査会民法議事速記録第1618-19丁)

 

磯部はなおも喰い着いてきます。

 

  然うすると,債務者が一の債権者の利益を図る為めに他の債権者を詐害する考へを以て一つの建物を建てた,之は其建物に付て代価を払つた以上は其建物を壊はすことは出来ぬ,けれども其建物に付ては抵当債権者は権利は持たない,其土地丈けに付てしか抵当権は持たない,建物は他の普通債権者の権利が及ぶと云ふことに為る。其処で,何うでせう,他の債権者の利益を願つた為めに抵当債権者の利益を大変害するやうなことがありはしますまいか。何ぜならば,矢張り建物ならば何時でも其場合には地上権を設定しなければ仕方がないものと思ひますが,此「一体ヲ成シタル物ニ及フ」と云ふ通則の御説明の理由と,又此「第419条ノ規定ニ依リ債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合ハ此限ニ在ラス」と云うことの御説明と大変抵触して来るやうな考へがありますが,どんなものでございませうか。(法典調査会民法議事速記録第1620-21丁)

 

 梅の回答。

 

  私は抵触しない積りであります。此場合に於てはどちらも債務者の所有物であつて然うして前の例の場合・・・其手続は競売法にても極まると思ひますが,然う云ふ場合は,土地と建物と同時に売る,売つて其内で土地の価が幾ら,家の価が幾らと云ふことを競売の場合に極める。然うして土地の価は抵当債権者に与へ,家の価は他の債権者に与へると云ふことに為らうと思ひます。(法典調査会民法議事速記録第1621丁)

 

次に磯部は――不要論はもう捨てたのか――要件論を論じ始め,梅と議論になります(法典調査会民法議事速記録第1621-24)。

 

  磯部四郎君 其処で抵当権の主義と云ふものがありますので,之が抵当債権者が・・・知つた時計りに夫れ丈けの規則で特に利益を与へやうと云ふのは,債務者丈けの考へで債権者に其考へがなかつたときは何うか。「アクシヨンポーリアンド」の実行条件でありますが,其処は何う為るのでございませうか。「ボアソナード」氏の元との200条でありますが,唯だ「他ノ債権者ニ対シテ詐害ナキコトヲ要シ」と云ふ丈けで,必ず「アクシヨンポーリアン(ママ)」の規則の適用を此処に持つて来たやうには見(ママ)ませぬが,今あなたの御起草に為つたのを見ると「第419条ノ規定ニ依リ」とありますから「アクシヨンポ(ママ)リアンド」の規則を其儘適用するやうに為らうと思ひますが,然うすると抵当権者が通牒してやつた場合を言ふのであるか,又は通牒せずとも唯だ債務者丈けが,私なら私を一つ利益してやらうと云ふとき丈けに当たるのでございませうか。

  梅謙次郎君 恰も其為めに此「第419条ノ規定ニ依リ」と云ふ規定が必要であらうと思つたのであります。即ち「アクシヨンポーリエス」の規定は何う云ふ風に極まるか分りませぬが,今の法典の儘であつたならば,御承知の通りに,有償行為に付ては双方の悪意を要し無償行為に付ては債務者丈けで宜しいと云ふ規定は或は変へらるるかも知れませぬが,若し其通りであつたならば,債務者が債権者から別段今催促を受けて居ると云ふのでも何んでもない,唯だ先刻私が申したやうに磯部君は親友であるから外の債権者は損をしても宜しいが是丈けは損をさせたくないと云ふ考へでやつたならば,夫れは無償行為であります。金を借りるときは是丈けで宜しいと云ふことで借りた,債権者は知らなくても宜しいことである。是は無償行為であります。然うでなく,債権者と談判をしてもう期限が来て催促をされる,夫れでは家を建つて斯う云ふことにしたい,実は私は斯う云ふ位置に為つて居るから私に差押抔の手続抔をしてからに破産の宣告でも受けるやうにしたらお前は損をしなければならぬから,今の内に自分から急いで家を建つて置かう,然うすればお前の抵当の目的物と為つてお前の方で損をせぬやうに為るから其代はり1ヶ月なり2ヶ月なり待つて呉れろ,宜しい,と云ふことに為つたらば,夫れは有償行為であります。夫れは一つの例でありますが,此有償行為ならば双方の悪意がなければならぬ。然うい云ふことになります。無償行為には悪意は要らぬと云ふことになるかも知れませぬが,何れにしても,「アクシヨンポーリエス」の場合に相手方の悪意が要ると云ふのに,此処の場合に限つて相手方の悪意が要らぬと云ふことは何うしても分らぬのであります。夫れで権衡を得るやうにして置かなければならぬと云ふので,態々「第419条ノ規定ニ依リ債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合」と云ふ風に書いたのであります。

磯部四郎君 一寸修正案を出さうと云ふ考へであります。段々伺ひましたが,何れ此「第419条ノ規定」と云ふもので,只今御述べになつた如くに,一の債務者が一の抵当債権者を特に利益する積りで抵当物に向つて一の建築をした,其費用等は已に弁済をして仕舞つて完全の所有権を持つて居る,夫れを即ち其建築物の配当金を抵当債権者に与へたと云ふ場合が「アクシヨンポーリアンド」で取消し得る場合と云ふものに嵌まりませうか。私の考へでは嵌まるまいと思ひます。「アクシヨンポーリアンド」と云ふものは,詰,債務者が債権者を詐害するの意思を以て己れの財産を匿して仕舞つたとか或は虚妄の負債でも拵へたとか云ふやうな場合に当嵌まるものと思ひます。現に自分の持つて居る物で金を借りても自分の土地に一の建物を拵へて自分の所有物を増加すると云ふのを取消し得る場合に於ては,到底此「アクシヨンポーリアンド」の規則では嵌まらぬと思ひますが,此一点からして既成法典の200条の「但他ノ債権者ニ対シテ詐害ナキコトヲ要シ」と云ふことは之は「アクシヨンポーリアンド」の適用を此処に挙げたのではない,特に斯う云ふ場合を挙げたのと思ひます。「アクシヨンポーリアンド」の「アナロジー」でないか知れませぬけれども決して「アクシヨンポーリアンド」の適用を此処に挙げたのでないと思ひます。何ぜならば,只今御示しに為つたやうな場合は「アクシヨンポーリアンド」の規則の適用に依て徃くことの出来ぬ場合であらうと思ひますが,何うでございませいか。

  梅謙次郎君 私は然うは思ひませぬ。「アクシヨンポーリエス」の適用が当嵌まらぬと云ふのは,行為を取消すのでないから当嵌まらぬので,其事柄は矢張り「アクシヨンポーリエス」の規定で取消し得べき性質のものであると思ひます。何ぜならば,家を建てる,其家は競売に因て消(ママ)るのでありますが,其代はり代価を払はなければならぬ,成程相当の代価を,高い価を払へば損が徃く,夫故に随分建築夫れ自身ですらも取消されるかも知れぬ,契約夫れ自身でも随分取消されるかも知れぬ,殊に其建築した物をば直ぐ或る独りの債権者の特別担保にして仕舞(ママ)と云ふ,夫れは徃かぬと云ふのであります。若し此処で新に,磯部君に金を借りて居る,其抵当として1000円の形に500円の価しかない不動産を抵当に入れて居つた,夫れでは磯部君が損をするであらうと云ふので更らに私のもう一つ所有して居る500円の不動産を附け加へて抵当にすると仮定致します。此場合には,無論,「アクシヨンポーリエス」で適用が出来る。唯だ名義であるが,此処は「アクトアニユレー」〔acte annulé(取り消された行為)〕でないから,純然たる適用でない,所謂準用でありますが,準用は余程風の変つた準用でありますから,夫れで明文が要ります。

 
オ 磯部修正案及びその取下げ

 その後,磯部は次のように修正案を提出します。

 

  尚ほ私は末項の分に付て一の修正案を出さうと云ふ勇気を持つて提出致します。其訳は,法文の全体から考へると,精神と云ひ何うも斯くなければなるまいと私も考へるが,如何せん,「第419条ノ規定ニ依リ債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合」と云ふ法文は,精神は分りましたが,法文としては如何にも解し悪くい。先程梅君から御示しになつた例の如き場合は,所謂第419条の規則を以て取消すことは出来ないことに帰して仕舞(ママ)と思ひます。唯だ精神上では取消すことが出来る場合に見えて,其実は其訴権を以て取消すことの出来ぬと云ふことに為つて仕舞(ママ)と考へますから,其精神は宜しいが法文の分らざるが為めに今日の起草委員の折角の御骨折が水泡に帰しはすまいかと思ひます。却て右様な場合は利益を得る抵当債権者が実際上適用すると云ふ恐れがあります。寧ろ此処に「第419条ノ規定」と云ふことは言はぬで置て,既成法典の文章に傚つて私は二た通りに書て見ましたが,夫れは「及ヒ」の下に持つて来て「及ヒ他ノ債権者ニ対シテ詐害アルトキハ此限ニ在ラス」。斯うやつた方が此精神を悉く取りまして,然うして「アクシヨンポーリアンド」の規定でもなし,一の抵当債権者を単へに利するが為めにありもしない資力を以て建築をして他の債権者を害するやうな不都合をやつたときは,則ち抵当債権者は通謀のあると無きとに拘はらず兎に角債務者が他の債権者に対して詐害を為すの目的を以て右様な建築を為した場合には,縦令其一体を成した建築物と雖も抵当債権者は夫れに対しては先取特権(ママ)を持たないぞ,と云ふことが明に為らうと思ひますから,夫れで私は此365条の「及ヒ」までは此儘にして,「及ヒ」以下の「第419条ニ依リ債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合ハ」と云ふこと丈け削除して,其代はりに唯だ此処に持つて来て「他ノ債権者ニ対シテ詐害アルトキハ」と云ふ丈けの文字を加へて,「此限ニ在ラス」を存して置くが宜しいと思ひます。夫れで然う云ふ修正説を提出して置きます。(法典調査会民法議事速記録第1631-32丁)

 

 しかしながら賛同者が無かったこと(あるいは単に“action Paulienne”の発音比べをさせられるのがいやなので,他の委員は黙っていたのかもしれません。)もあってか,磯部は上記修正説を取り下げてしまいます(法典調査会民法議事速記録第1638丁)。梅365条案の修正案(有名な「抵当地ノ上ニ存スル建物ヲ除ク外」が挿入されました。)が議された第51回法典調査委員会(189412月〔法典調査会民法議事速記録第1683丁には「11月」とあるが,これは誤り。〕7日)においても,再提出は結局されませんでした(法典調査会民法議事速記録第16131丁)。

 明治天皇に裁可せられた民法370条は,次のとおりとなりました。

 

  第370条 抵当権ハ抵当地ノ上ニ存スル建物ヲ除ク外其目的タル不動産ニ附加シテ之ト一体ヲ成シタル物ニ及フ但設定行為ニ別段ノ定アルトキ及ヒ第424条ノ規定ニ依リ債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合ハ此限ニ在ラス

 

同条ただし書後段に係る「法文トシテハ如何ニモ解シ悪クイ」との磯部の批判に対して敢然自己の原案を枉げなかった梅は,いわゆる確信犯だったわけです。
 梅は1910825日に大韓帝国の漢陽において歿しますが,翌1911827日付け読売新聞に掲載された磯部の回顧談には,「私は法典問題の起つた時のみ〔梅〕博士と一所になつた。兎も角博士は勉強家であり,又弁論家であつた。彼は〔略〕法律に関係したことは総て研究し,読破したが,余りにも議論家であつた為めに,時に或は其の論鋒にいくらか疑を抱かしめることもあつた。」とありました(東川徳治『博士梅謙次郎』(法政大学=有斐閣・1917年)231頁)。
 

3 民法370条ただし書後段の要件論及び立法論

 梅謙次郎によるところ,民法370条ただし書後段の要件は,次のとおりです。

 

其条件モ亦「パウルス」訴権ニ同シ即チ(第1)債務者カ他ノ債権者ヲ害スルコトヲ知リテ之ヲ為シタルコトヲ要ス而シテ他ノ債権者ヲ害スルトハ債務者カ已ニ無資力ナル場合ニ於テ金銭其他ノ財産ヲ以テ特ニ不動産ニ工作ヲ施シ以テ抵当権者ノ特別担保ヲ増加シ為メニ他ノ債権者カ受クヘキ弁済額ヲ減殺スルカ如キヲ謂フ(第2)其工事ヲ施スノ当時抵当権者カ右ノ事情ヲ知レルコトヲ要ス故ニ実際ハ大抵抵当権者ト抵当権設定者ト通謀シテ之ヲ為シタル場合ナルヘシ(424)然リト雖モ本条ノ規定ノ純然タル「パウルス」訴権ト異ナル所ハ(第1)「パウルス」訴権ハ以テ一ノ法律行為ヲ取消スヲ目的トスルニ本条ノ規定ハ工作ヲ施スニ付キ為シタル法律行為ヲ取消スニ非ス其行為ハ依然其効力ヲ存シ又工作物モ敢テ之ヲ除去スルニ非ス唯其工作物ヲ以テ抵当権ノ目的ト為スコトヲ得サルニ止マリ(第2)「パウルス」訴権ハ必ス裁判所ニ於テ之ヲ行フコトヲ要スルニ本条ノ規定ハ特ニ裁判所ニ請求スルコトヲ必要トセス右ニ掲ケタル条件ヲ具備スル以上ハ当然適用セラルヘキニ在リ是レ本条但書ニ於テ特ニ規定ヲ設クルノ必要アル所以ナリ(梅巻之二508-509頁)

 

 民法370条ただし書後段が問題となるのは,抵当権が実行されて(民事執行法(昭和54年法律第4号)180条),配当異議の申出の段階となって以降のようではあります(同法188条,89条・90条,111条)。しかしこの場合,債権者は配当異議の申出(民事執行法891項)をし,更に配当異議の訴えの提起(同法901項)をしなければならないのですから,やはり,「本条ノ規定ハ特ニ裁判所ニ請求スルコトヲ必要トセス右ニ掲ケタル条件ヲ具備スル以上ハ当然適用セラル」るわけではなく,結局「裁判所ニ請求スルコトヲ必要」とすることになるようです。なお,「配当期日において配当異議の申出をしなかった一般債権者は,配当を受けた他の債権者に対して,その者が配当を受けたことによって自己が配当を受けることができなかった額に相当する金員について不当利得返還請求をすることができないものと解するのが相当である。けだし,ある者が不当利得返還請求権を有するというためにはその者に民法703条にいう損失が生じたことが必要であるが,一般債権者は,債権者の一般財産から債権の満足を受けることができる地位を有するにとどまり,特定の執行の目的物について優先弁済を受けるべき実体的権利を有するものではなく,他の債権者が配当を受けたために自己が配当を受けることができなかったというだけでは右の損失が生じたということができないからである。」と判示する最高裁判所判決があります(最判平成10326日民集522513頁)。

 ところで,平成29年法律第44号による今次民法改正により,民法に第424条の3が加わったことをどう考えるべきでしょうか。民法370条ただし書後段の場合は,要は抵当債権者のために追加的に担保が供与された場合であるようですので,同法424条よりもむしろ同法424条の3にそろえて修文した方がよかったのではないでしょうか。「既存の債務について特定の債権者に担保を供与する行為は,〔平成29年法律第44号による民法の〕改正前の判例では,典型的な詐害行為とされてきた」ものの,「改正法は,特定の債権者に優先的に弁済する行為と同様に扱い,偏頗行為の一種として〔新424条の3の〕のルールを適用した。判例法の修正といえる。」とされています(内田369-370頁)。すなわち,「典型的な詐害行為」に係る「第424条第3項に規定する詐害行為取消請求をすることができる場合」とは異なるということでしょう。

 そうであるとすれば,民法370条ただし書を,更に次のように改めてはいかん。

 

  ただし,設定行為に別段の定めがある場合及び第424条の3第1項又は同条第2項に規定する場合においては,この限りでない。

 

「○項場合において」と「○項に規定する場合において」との違いは,「「前項に規定する場合において」という語は,〔略〕当該前項に仮定的条件を示す「・・・の場合において(は)」,「・・・の場合において,・・・のときは」又は「・・・のときは」という部分がある場合に,この部分をうけて「その場合」という意味を表そうとするときに用いられる。したがって,当該前項中の一部分のみをうけるのであり,「前項の場合において」という語が,前項の全部をうけるのとは,明らかに異なる。」という説明(前田正道編『ワークブック法制執務(全訂)』(ぎょうせい・1983年)618-619頁)から御理解ください。

さて,「債務者カ已ニ無資力ナル場合」は,支払不能の場合(民法424条の311号)ということでよいのでしょう(「支払不能は,債務超過とともに,いわば,無資力概念を具体化・実質化するもの」です(内田367頁)。)。また,当該行為が債務者の義務に属せず,又はその時期が債務者の義務に属しないものであるときは更に30箇日支払不能前に遡るのであれば(民法424321号),民法370条ただし書後段においてもそうなるべきなのでしょう。「実際ハ大抵抵当権者ト抵当権設定者ト通謀シテ之ヲ為シタル場合ナルヘシ」なのですから,「その行為が,債務者と受益者とが通謀して他の債権者を害する意図をもって行われたものであるとき」でよいのでしょう(民法424条の312号・第22号)。

泉下の磯部四郎も梅謙次郎も納得するものかどうか。

ちなみに,修正が必要であるとボワソナアドが批判していたナポレオンの民法典2133条ですが,現在はフランス民法23972項となっています。現在の同項の文言は“L’hypothèque s’étend aux améliorations qui surviennent à l’immeuble.”(抵当権は,当該不動産に生ずる改良に及ぶ。)です。確かに「全ての改良」が「改良」に改められるような微修正がされていますが,結局,ボワソナアドが細かくもわざわざ構想し,梅謙次郎が更に難しく手を入れて(かつ,磯部四郎の忠告的異論を撥ねつけて)出来上がった我が民法370条ただし書後段的規定の採用は,なかったわけです。


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磯部四郎の建てた墓(東京都港区虎ノ門三丁目光明寺)ただし,磯部の遺骨はここには眠っていません。
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光明寺のこの山号の意味は,「梅が,上」か,はた「梅の上」か。
梅上山光明寺
磯部としては,上の方にいるつもりだったのでしょう。

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192391日,関東大震災により発生した火災旋風🔥に襲われ,数万の避難民と共に磯部が落命した被服廠跡の地(東京都墨田区横網町公園)

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今度は大丈夫,なのでしょう。


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梅謙次郎の墓(東京都文京区護国寺)
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1 『帆綱』から

 

  Gripus: Dominus huic [vidulo] nemo natus est nisi ego, qui hunc in piscatu meo cepi. Quos pisces capio, siquidem cepi, mei sunt. Habeo pro meis et in foro palam omnes vendo pro meis venalibus. Mare quidem certo omnibus commune est.Plautus “Rudens”(『帆綱』)から(小林標編著『ラテン語文選』(大学書林・2001年)44頁))

                                                                                                                     

これは,無主物先占による所有権取得の主張ですね。無主物先占については,かつて,当ブログの「『猫大先生』の法律学」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1019732415.html)において御紹介申し上げたことがあります。今回は,古代ローマ共和政期の劇作家であるプラウトゥス(前254年頃~前184年)の喜劇の登場人物であるグリープスの上記台詞から着想して,それからそれへと思い付くまま書き綴ってみましょう。

 

2 無主物先占

日本民法239条は「所有者のない動産は,所有の意思をもって占有することによって,その所有権を取得する。/所有者のない不動産は,国庫に帰属する。」と規定しています。旧民法(明治23年法律第28号)財産取得編2条には「先占ハ無主ノ動産物ヲ己レノ所有ト為ス意思ヲ以テ最先ノ占有ヲ為スニ因リテ其所有権ヲ取得スル方法ナリ」と,同法財産編24条には「無主物トハ何人ニモ属セスト雖モ所有権ノ目的ト為ルコトヲ得ルモノヲ謂フ即チ遺棄ノ物品,山野ノ鳥獣,河海ノ魚介ノ如シ」と,及び同編232項には「所有者ナキ不動産及ヒ相続人ナクシテ死亡シタル者ノ遺産ハ当然国ニ属ス」と規定されていました。

ドイツ民法958条は„(1) Wer eine herrenlose bewegliche Sache in Eigenbesitz nimmt, erwirbt das Eigentum an der Sache. / (2) Das Eigentum wird nicht erworben, wenn die Aneignung gesetzlich verboten ist oder wenn durch die Besitzergreifung das Aneignungsrecht eines anderen verletzt wird.“(無主の動産の自主占有を得た者は,その物の所有権を取得する。/先占が法令によって禁止されているとき又は占有の獲得によって他者の先占権が侵害されるときは,所有権は取得されない。)と,同法9282項は„Das Recht zur Aneignung des aufgegebenen Grundstücks steht dem Fiskus des Landes zu, in dem das Grundstück liegt. Der Fiskus erwirbt das Eigentum dadurch, dass er sich als Eigentümer in das Grundbuch eintragen lässt.“放棄された土地の先占の権利は当該土地の所在する州の州庫に帰属する。州庫は,不動産登記簿に自らを所有者として登記させることによって当該所有権を取得する。)と規定しています。

ローマ法における「無主物先占(occupatio)」については,あるいは「古典期前〔紀元前3世紀中葉から前82年まで〕の自然法理論によれば,〔略〕(野生の動物や海の魚のように)自然法によって全ての人々に一様に帰属しつつ,そこに厳格な所有権を基礎づけられるような状態(例えば捕獲)で発見された物について考えられた。〔略〕ローマ法の「先占」は,動産・不動産を問わない。〔略〕古典期〔前82年~前27年/後250年〕の理論では,〔略〕未だ他者の権利によって把握されていない(無主の)物に関して認められた。例えば,猟獣(Inst. 2,1,11-17),海辺の魚介類(Inst. 2,1,18(海辺で発見された真珠・宝石・その他の物は,自然法上,直ちに発見者の所有物となる)),敵から奪い取ってきた戦利品(Inst. 2,1,17)などは,先占の対象となる。ここで先占を理由とする「事実上の占有」は,「所有権」として承認された。」と(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法――ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)197-198頁),あるいは「ローマ法では動産不動産にも適用がある(反対民239条)。ローマ法には近世法の意の狩猟権はない。他人の土地で所有者の意思に反して狩猟をなすときは,否認訴権〔略〕,不動産占有保持の特示命令〔略〕,人格権侵害訴権〔略〕の責任を負うことあるも,捕獲した鳥獣は狩猟者の所有に属する。」と(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)107頁)説明されています。

6世紀のユスティーニアーヌスの『法学提要』(Institutiones)第2編第1章の12は,次のようにいわく。“Ferae igitur bestiae et volucres et pisces, id est omnia animalia quae in terra mari caelo nascuntur, simulatque ab aliquo capta fuerint, jure gentium statim illius esse incipiunt: quod enim ante nullius est id naturali ratione occupanti conceditur. Nec interest, feras bestias et volucres utrum in suo fundo quisque capiat, an in alieno: plane qui in alienum fundum ingreditur venandi aut aucupandi gratia, potest a domino, si is providerit, prohiberi, ne ingrediatur. Quidquid autem eorum ceperis, eo usque tuum esse intellegitur, donec tua custodia coercetur: cum vero evaserit custodiam tuam et in naturalem libertatem se receperit, tuum esse desinet et rursus occupantis fit. Naturalem autem libertatem recipere intellegitur, cum vel oculos tuos effugerit vel ita sit in conspectu tuo, ut difficilis sit ejus persecutio.”と。訳してみると,「ところで(igitur),野生の(ferus)獣ら(bestiae),更に鳥ら(volucres)及び魚ら(pisces),すなわち(id est)陸,海,空において(in terra mari caelo)生まれる(nasci)全ての動物ら(omnia animalia)は,何者かによって(ab aliquo)捕獲されたときは(capta fuerint)直ちに(simulatque)万民法により(jure gentium)当然に(statim)その者のものであること(illius esse)を開始(incipere)する。というのは,従前無主のもの(ante nullius est)である物は,自然の理性によれば(naturali ratione),占有者に(occupanti)引き渡される(concedi)ものであるからである。これは,野生の獣や鳥を捕獲するのが自分の地所(fundus)においてであるかあるいは他人のそれにおいてであるか(utrum...an)にはかかわらない(nec interest)。もちろん(plane),狩猟又は捕獲のために(venandi aut aucupandi gratia)他人の地所に入る(ingredi)者は,それを予見した(providerit)主人によって(a domono),侵入を禁止されること(prohiberi)があり得る。さて(autem),汝が何を捕獲したとしても,それが汝の管理によって(tua custodia)拘束されている間は(donec…coercetur),汝のものである(tuum esse)とみなされる(intellegitur)。他方(vero),それが汝の管理から脱出(evadere)して自然の自由(naturalis libertas)に自己を回復(recipere)させたときは,汝のものであることを終止(desinere)し,再び(rursus)占有する者のものとなるものとなる。なお,それが汝の視界を(oculos tuos)去ったとき(effugerit)又は汝の見るところ(in conspectu tuo)その追跡(persecutio)が難しいときは,自然の自由を回復したものとみなされる。」となります。

なお,『法学提要』第2編第1章の18“Item lapilli gemmae et cetera quae in litore inveniuntur, jure naturali statim inventoris fiunt.”(同様に,海岸で発見される小石,宝石その他は,自然法によって当然に発見者のものとなる。)というものです。「小石,宝石その他」をもって直ちに「魚介類」と解することは難しいでしょう。Lapillusは小石ではあっても真珠(margarita)ではないでしょう。

ここでいう万民法(jus gentiumや自然法jus naturale)について「蓋シ無主ノ動産ハ先ツ之ヲ占有シタル者其所有権ヲ取得スヘキコトハ如何ニ幼稚ナル法律ニ於テモ皆認ムル所ニシテ所有権取得ノ最モ天然ナル方法ト云フモ可ナリ古ハ一切ノ財産大抵皆先占ニ因リテ其所有権ヲ取得スルコトヲ得タリ」と説かれるところ(梅謙次郎『民法要義巻之二(訂正増補第21版)』(法政大学=明法堂・1904年)147頁)が,妥当するのでしょう。

ドイツ民法9601項前段は„Wilde Tiere sind herrenlos, solange sie sich in der Freiheit befinden.“(野生動物は,自由である限り無主である。)と,同条2項はErlangt ein gefangenes wildes Tier die Freiheit wieder, so wird es herrenlos, wenn nicht der Eigentümer das Tier unverzüglich verfolgt oder wenn er die Verfolgung aufgibt.(捕獲された野生動物は,当該動物の所有者が遅滞なく追跡しなかったとき又は追跡を放棄したときは,自由を回復し,無主となる。)と,同条3項はEin gezähmtes Tier wird herrenlos, wenn es die Gewohnheit ablegt, an den ihm bestimmten Ort zurückzukehren.(飼いならされた動物は,戻るべき場所としてならされた場所に戻る習性を失ったときには,無主となる。)と規定しています(ローマ法でも「野生動物が馴養せられた場合には帰還の意思(animus revertendi)をも失つたとき初めて所有権は消滅する。」とされていました(原田117頁)。)。日本人の目からは細か過ぎるようではありますが,『法学提要』等のローマ法の伝統からは違和感のないところなのでしょう。

なお,ナポレオンの民法典の第713条は“Les biens qui n’ont pas de maître appartiennent à l’État.”(無主物は,国に帰属する。)と規定し,同じく第715条は“La faculté de chasser ou de pêcher est également réglée par des lois particulières.” (狩猟又は漁撈の可能性については,特別法をもって同様に定める。)と規定していて,フランスの民法典においては無主物先占活躍の場が一見分かりにくくなっています。これにはあるいは「近世法の意の狩猟権」が関係を有するのでしょうか。

無主物先占による所有権取得の法理によって,漁師のグリープス(Gripus)の言うとおり,“Quos pisces capio, siquidem cepi, mei sunt. Habeo pro meis et in foro palam omnes vendo pro meis venalibus.” (俺が獲る魚は,実際に獲ったならば,俺のものなのだ。俺は,俺のものとして確保し,かつ,広場で公然俺の売り物として全て売るのだ。)ということになります。しかし,“siquidem cepi” (実際に獲ったならば)と念が押されているのはなぜでしょうか。これには,『法学提要』第2編第1章の13にある次のような議論が影響しているようです。いわく。

 

 Illud quaesitum est, an, si fera bestia ita vulnerata sit ut capi possit, statim tua esse intellegatur. Quibusdam placuit, statim tuam esse et eo usque tuam videri, donec eam persequaris; quodsi desieris persequi, desinere tuam esse et rursus fieri occupantis. Alii non aliter putaverunt tuam esse, quam si ceperis. Sed posteriorem sententiam nos confirmanus, quia multa accidere solent, ut eam non capias.

 野生の獣がしかく傷つけられて捕獲され得るほどまでになったときは,当然に汝のものである(tua esse(これは,tua animalia esseの意味でしょうか。))とみなされるべきか否かという件が検討(quaerere)されている。当然汝のものであり,かつ,汝がそれを追跡し続ける限り汝のものとして観察される,しかし,追跡を中断したときには,汝のものであることを終止して,再び占有する者のものとなるものとなるのである(fieri),という説を好む者らがあった。他の者ら(alii)は,汝のものであることを,汝が捕獲したとき(ceperis)以外には認めなかった。しかしながら,我々は後者の見解をもって是とする。汝がそれを捕獲し損ねることになる(ut eam non capias)多くの出来事が(multa)起こるもの(accidere solere)だからである(quia)。

 

 仕事は最後まで,とどめを刺すまでやらねば報酬をもらい損ねるよ,というわけです。

 グリープスが“Mare quidem certo omnibus commune est.” (海は全く確かに万人の共有であるのだ。)とまで吠え立てることは,無主物先占の効果は「野生の獣や鳥を捕獲するのが自分の地所においてであるかあるいは他人のそれにおいてであるかにはかかわらない。」ということからは不要であったかもしれません。なお,我妻榮は,「漁業法や狩猟法は魚・鳥・獣の捕獲等に種々の制限や禁止を加えているが,それに違反した先占も私法上の効果は妨げられないと解される。」と述べています(我妻榮著=有泉亨補訂『新訂物権法(民法講義Ⅱ)』(岩波書店・1983年)300頁)。とはいえ,グリープスの咆哮は,ドイツ民法9601項後段の規定„Wilde Tiere in Tiergärten und Fische in Teichen oder anderen geschlossenen Privatgewässern sind nicht herrenlos.“ (動物園の中の野生動物及び池又は他の閉ざされた私的水域の中の魚は,無主ではない。)との関係では意味があるのでしょう。海は,広く大きい万人の共有物であって,閉ざされた私的水域(geschlossenes Privatgewässer)ではありません。したがって,その中の魚は,無主ではないものと直ちにされるものではありません。

 万人の共有物については『法学提要』第2編第1章の1の冒頭に“Et quidem naturali jure communia sunt omnium haec: aer, et aqua profluens et mare et per hoc litora maris.”しかして確かに次の諸物haecは万人の共有communis omniumである。すなわち,空気,流水,海及びそれに沿って海岸。)と示されています。旧民法財産編25条には「公共物トハ何人ノ所有ニモ属スルコトヲ得スシテ総テノ人ノ使用スルコトヲ得ルモノヲ謂フ即チ空気,光線,流水,大洋ノ如シ」と規定されていました。

DSCF1400(池の鯉)
 
池の鯉(東京都大田区洗足池)

3 旅行鞄は魚たり得るか?

 問題は,グリープスの“Dominus huic [vidulo] nemo natus est nisi ego, qui hunc in piscatu meo cepi.”(これ(この旅行鞄)の持主として生まれた者は,これを俺様の漁業操業時に採捕した俺様以外のだれもないのだ。)発言です。海で漁をしていて網に旅行鞄がかかったのですが,旅行鞄(vidulus)ならば,無主物であるとは通常いえず,無主物先占の対象とは直ちにはならないでしょう。しかしながら,グリープスは,旅行鞄は魚だと言い張ります。

 

  Quid, tu numquam audivisti antehac esse vidulum piscem? Est; ego qui sum piscator scio.(小林44頁)

  なぜかね,お前さんはこれまで一度たりとも旅行鞄っていう魚(vidulus piscis)が存在するっていうことを聞かなかったのかね。存在するんだよ。漁師である俺様は知っているんだよ。

 

無論,旅行鞄が魚になるのならば,グリープスも旅行鞄魚に変身できるではないかということになります。“Tu, nisi caves, te in vidulum piscem vertes. Fiet tibi puniceum corium, postea atrum.”小林44)(あんたね気をつけないとねあんた旅行鞄魚になっちまうぜ。あんたの革は緋色になってさ,それから黒ずむのさ。)と,グリープスと口論になったギリシア系のトラカーリオー(Trachalio)はさすがに口が悪い。

 

4 所有権の放棄

ということで,旅行鞄魚の実在の有無論という脱線から戻って考えると,大嵐の翌日の海でグリープスの網にかかった旅行鞄(当該大嵐で遭難した船の乗客の持ち物ですね。)は無主物かどうかがまず問題になります。「一度所有されたものも所有者が放棄すれば無主の動産となる」のですが(我妻=有泉299頁),くだんの旅行鞄について前所有者による所有権の放棄はあったものかどうか。

日本民法では,「物権の放棄も公序良俗に反してはならない(例えば危険な土地の工作物の放棄。717条参照)が,さらに,これによって他人の利益を害さない場合にだけ認められる」とされつつ(我妻=有泉249頁),「所有権および占有権(203条)の放棄は,特定の人に対する意思表示を必要としない(承役地の所有権を地役権者に対して委棄する場合は例外である。287条〔略〕)。占有の放棄その他によって,放棄の意思が表示されればよい。ただし,不動産所有権の放棄は,登記官に申請して登記の抹消をしなければ第三者に対抗しえないといわねばならない」と説かれています(我妻=有泉248頁)。とはいえ不動産については,「不動産所有者が所有権を放棄できるか否かについては,わが民法には規定がなく,はっきりしない」ともいわれています(川島武宜=川井健編『新版注釈民法(7)物権(2)』(有斐閣・2007年)379頁(五十嵐清=瀬川信久))。ドイツ民法959条には„Eine bewegliche Sache wird herrenlos, wenn der Eigentümer in der Absicht, auf das Eigentum zu verzichten, den Besitz der Sache aufgibt.“(動産は,その所有者がその所有権を放棄する意図をもってその物の占有を廃止したときに無主となる。)と規定されています。

ローマ法では,所有権の消滅に係る「放棄(derelictio)については,S派〔サビニアナ〕は占有の廃止と同時に所有権を失い,物は無主物となるとしたのに反し,P派〔プロクリアナ〕は他人が占有するまでは放棄者は所有権を失わない不確定人に対する引渡と解した如くである。ユ〔スティーニアーヌス〕帝は前説に従つている。遺失海難に於ける投荷も放棄ではない。ミッシリア(missilia)(政務官が就任祝などのときに国民に投げ与えるもの。普通は穀物の引換切符である。)の投下(iactus missilium)」は「不確定人に対する引渡」である。」ということだったそうです(原田117頁)。サビニアナとプロクリアナについては,「両派諸種の問題につき見解を異にしたが,一定の主義原則に拠つたものではないとするのを通説とする。」ということだったそうですが(原田18頁),その後には「サビニアナと呼ばれる学派は,〔略〕本質的に自然法の考え方に依拠した。とりわけ「実質的正義」や「衡平」,「信義」を重んじ,元首自身の非常大権を自然法によって基礎づけるなど,超実定法的思考にも自由であった。」とされる一方,「プロクリアナと呼ばれる学派は,〔略〕サビニアナに対する対抗学派として創設されたと言われる。彼らは,「制度としての法」における形式と論理を重んじ,厳格な法の適用と解釈こそが,人々の秩序と権利を守るものと考えた。」と説かれるに至っています(ベーレンツ=河上111頁)。『法学提要』第2編第1章の46及び47“Hoc amplius interdum et in incertam personam collocata voluntas domini transfert rei proprietatem: ut ecce praetores vel consules qui missilia jactant in vulgus ignorant quid eorum quisque excepturus sit, et tamen, quia volunt quod quisque exceperit ejus esse, statim eum dominium efficiunt. Qua ratione verius esse videtur et si rem pro derelicto a domino habitam occupaverit quis, statim eum dominium effici. Pro derelicto autem habetur quod dominus ea mente abjecerit ut id rerum suaram esse nollet, ideoque statim dominus esse desinit.”(このほか(hoc amplius, しばしば(interdum), 不特定者に対して(in incertam personam)向けられたものである持主の意思(collocata voluntas domini)であっても(et)物の所有権(rei proprietas)を移転させる(transferre)ことがある。群衆に対して(in vulgus)おひねりを投げるかの法務官ら(praetores)あるいは(vel)執政官ら(consules)はそのうちどれを(quid eorum)だれが(quisque)受け取ることになる(excepturum esse)かは知らないが,他方(tamen),各自が受け取ることになった物(quod quisque exceperit)が各自のものであること(ejus esse)を望んでいるので(quia volunt…),当然に彼を(eum)所有者にするがごときである。こう考えると(quia ratione),所有者によって放棄されたもの(derelictum a domino)とされている物(res habita)を占有する者があったときも,当然に彼が所有者とされる(effici)ということがより説得力あるもの(verius esse)として映ずる(videri)のである。また,彼の持ち物の一部のものであること(id rerum suaram [suarumでないのは,resが女性名詞だからでした。] esse)を望まないという意思をもって(ea mente)所有者が投げ捨てた物も放棄されたものとされ,及びそれにより(ideoque),所有権者であること(dominus [dominum?] esse)は当然に終止する。)と説いています。

 

5 取得時効

いずれにせよ,「遺失海難に於ける投荷も放棄ではない」以上,海中から引き揚げた旅行鞄についての無主物先占は無理でしょう。

グリープスは取得時効の制度に期待をかけるべきか。

しかし,北アフリカはキュレーネー近在の浜辺に住むグリープスはローマ人でもラテン人でもないようなので使用取得(usucapio)の適用はなく(原田110頁),取得時効制度といえば長期間の前書き(praescriptio longi temporis)でいかざるを得ないのですが,時効期間は現在者間(inter praesentes)のときは10年,不在者間(inter absentes)のときは20年であってなかなか長い(原田112頁)。正権原及び善意も必要とされていますが(原田112頁),「正権原とは占有取得を適法ならしめる取得原因である。この要件の結果,我が民法などとは異つて,例えば風にあふられて自分の家に落ちて来たような物には取得時効は成立しない」そうですから(原田111頁),どうにもなりませんね。

なお,長期間の前書きに関しては,「一般に,長期の取得時効制度は大変に怪しい。ローマでも諸制度が崩れ始めた時期に〔使用取得とは〕全く別系統の長期の取得時効が現れる(praescriptio(プラェスクリプティオー) longi(ロンギー) temporis(テンポリス))。しかしこれはあらゆる社会に見られる,弱体化した権力が実力の応酬を調停することに疲れてモラトリアム立法をした結果である。」との評言があります(木庭顕『新版ローマ法案内――現代の法律家のために』(勁草書房・2017年)67頁)。

 

6 遺失物関係法

グリープスが海から引き揚げた旅行鞄は漂流物又は沈没品ということになりますから,我が国では水難救護法(明治32年法律第95号)の第24条から第30条までが適用になります。

一般法である遺失物法(平成18年法律第73号)では遺失物の提出先又は交付先は警察署長(同法41項)又は施設占有者(同条2項)ですが,水難救護法241項(及び附則39条)では,漂流物又は沈没品の引渡先は市町村長(又は東京,大阪市若しくは京都市の区長)になっています。民法240条では「遺失物法(平成18年法律第73号)の定めるところに従い公告をした後3箇月以内にその所有者が判明しないときは,これを拾得した者がその所有権を取得する。」となっていますが,水難救護法では,公告後6箇月内に所有者が物件の引渡しを請求せず,又は引渡しを請求しないという意思表示をしたときは,市町村長は拾得者に通知し,拾得者は,公告,保管,公売又は評価に要した費用を納付して物件の引渡しを受けてその所有権を取得することになっています(同法281項・2項。ただし,沈没したままの船舶及びその船内の物品については,当該期間は1年です(同法271項,水難救護法施行令(昭和28年政令第237))。)。ちと長い。

ところで肝腎のローマ法ですが,「遺失物(verlorene Sache, chose perdue, évape)の拾得については,ローマ法には特別の制度はなく,事務管理の一環とされていた。」とされています(『新版注釈民法(7))』381頁(五十嵐=瀬川))。

 

7 泥棒グリープス

 ところで,共和政期ローマのプラウトゥスの“Rudens”を読むのに後6世紀の皇帝ユスティーニアーヌスのInstitutionesまでを参考にするということをやってきましたが,鶏を割くのに牛刀をもってするがごとくです。しかしながら,有益であることは事実です。例えば,前記トラカーリオーの「あんたの革は緋色になってさ,それから黒ずむのさ。」との罵言(これは「鞭打ちの刑になるぞ,という警告である。」とのことです(小林44頁註81)。)の背景としては,『法学提要』第2編第1章の48があったのでした。

 

  Alia causa est earum rerum quae in tempestate maris levandae navis causa eiciuntur. Hae enim dominorum permanent, quia palam est, eas non eo amino eici quo quis eas habere non vult, sed quo magis cum ipsa navi periculum maris effugiat: qua de causa si quis eas fluctibus expulsas vel etiam in ipso mari nactus lucrandi animo abstulerit, furtum committit. Nec longe discedere videntur ab his quae de rheda currente, non intellegentibus dominis, cadunt.

  他の問題は,海の嵐において,船舶を軽くするために投棄された諸物件にかかわる。もちろん,それらの所有者は変わらないのである。すなわち,それらが,それらの所有を欲しないとの意思によってではなく,むしろ当該船舶と共に海難を逃れたいとの意思によって投棄されたことは明白だからである。であるからして,それらの物を,波によって運ばれた所で,あるいはさらには当該遭難海域に至って(nactus),利得する意思をもって持ち去る者があれば,それは窃盗(furtum)を犯すものである。これらの物と,走行中の四輪馬車から所有者の知らないうちに落下する物との間に大きな懸隔があるものとは認められない。

 

窃盗というよりは,日本刑法では,「遺失物,漂流物その他占有を離れた他人の物を横領した者は,1年以下の懲役又は10万円以下の罰金若しくは科料に処する。」という同法254条の遺失物等横領の罪のようではあります。

しかしながら,ローマ法上のfurtumについては,「窃盗と横領の区別はない」ものとされ(原田224頁),また,「ローマでは窃盗は最後まで犯罪ではなく,刑事法の対象ではない。独自の懲罰的民事訴権(actio(アークティオー) poenalis(ポエナーリス))の対象である(actio(アークティオー) furti(フルティー))。」とされています(木庭67頁)。

とはいえ,窃盗現行犯(furtum manifestum)の扱いは厳しかったところです。前5世紀のローマの十二表法によれば「現行犯のときは,夜間の場合及び昼間兇器携帯の場合は殺しても差支えない。昼間無兇器のときは,自由人ならば政務官が鞭打ちして被害者に付与する。被害者はこれを外国に売却することができる。奴隷ならばTarpeia巌より突き落として殺す。」ということであったそうです(原田224頁)。しかしながら,我が国も負けてはおらず,我が昭和5年法律第9号(盗犯等の防止及び処分に関する法律(これは,題名のない法律です。))111号及び同条2項を併せ読めば,我が国では,昼間無兇器の場合であっても,盗犯を防止し,又は盗贓を取還せんとするときに恐怖,驚愕,興奮又は狼狽によって現場で犯人を殺しても「之ヲ罰セズ」ということになっています。

 

8 奴隷問題

 さて,最後に一大問題が控えています。

 実はグリープスは自由人ではなく,ダエモネース(Daemones)老人の奴隷だったのでした。

 「奴隷は物であり,手中物〔略〕,有体物〔略〕の代表物にあげられている。財産権の主体とはなれない。その婚姻(contubernium)もただ「食卓を共にする」という事実関係である。ただ,債務は自然債務として,或る程度の法律性を認められている〔略〕。神法上は大概ね自由人と同一に取り扱われている。例えば埋葬社団〔略〕,墓〔略〕に於けるが如し。」ということで(原田49頁。なお,手中物(res mancipi)とは,イタリアの土地,地役権,奴隷並びに背及び頸で馴養し得べき四足動物(牛,驢馬,騾馬等)のような重要な財産のことです(原田74頁)。),「財産権の主体とはなれない」のですから,財産権の主体めかしく「俺が獲る魚は,実際に獲ったならば,俺のものなのだ。俺は,俺のものとして確保し,かつ,広場で公然俺の売り物として全て売るのだ。」と奴隷のくせにグリープスがうそぶくのは片腹痛い,ということになります。

 しかしながら,木庭顕教授は次のように述べます。

 

  奴隷は権利能力を有しないから使者nuntiusだったとするのは早計であり,現に既にかつてbona fides圏内で「奴隷」はほとんどマネージャーを意味した(プラウトゥスの喜劇において何故ビジネスの主役は奴隷か,というのは興味の尽きない問題であり,ビジネスは市民が行うに相応しくなかったという旧式の陳腐な解釈はテクストを前にして全く成り立たない)。(木庭194頁註11

 

奴隷は,財産権の主体とはなり得なくとも,主人の財産の管理・運用を行う「マネージャー」にはなれたし,実際盛んになっていた,ということのようです。

 

  その〔農場の〕うち一つないしいくつかについてdominus(ドミヌス)固有の操縦席にマネージャーを坐らせてみればどうか。彼が所有権者であるかのごとくに振る舞う。こうした文脈で解放奴隷や奴隷が主人のために領域上の物,土地や家畜を売買したならばpeculiumが現れる。土地を売ったり買ったりしてpeculiumを増やしてくれれば主人としてもほくほくである。(木庭194頁)

 

Peculium(特有財産)とは,ローマの「家長の有する権力の財産的効果として,権力服従者は当初は全部財産無能力者であり,彼等が取得した財産は取得方法,財産の如何を問わず全部家長個人の有」となっていたところ,「ただ法律上家長唯一財産主体主義というも,事実上権力服従者の財産として,その管理収益を許す特有財産(peculium)の制を古くより発達せしめ」ていたというものです(原田282頁)。「奴隷に,独立の営農のために与えられた「特有財産(peculium)」は,あらゆる果実とともに主人の財産の一部にとどまっていた。」とはいえども(ベーレンツ=河上134頁),それはやはり名目上のことで,特定財産は「事実上」は奴隷の「財産として,その管理収益」が当該奴隷によりされていたことが重要なのでしょう。特有財産は,「外見上分離して独立に管理され」ていたものです(ベーレンツ=河上151頁)。「農場,手工業,銀行,商業取引,その他多くのものが,この特有財産となり得た」そうですから(ベーレンツ=河上151-152頁),グリープスは,漁業についての特有財産の設定を主人のダエモネースから受けていたのではないでしょうか。

特有財産に係る奴隷の管理収益行為の結果が主人に帰属する仕組みは,奴隷が主人の代理人になるのかといえば,「ローマ法には直接代理は公法上は厳存したが,私法上は原則として存しない。」ということだったそうで,ただし,「間接代理(委任,後見皆然り),権力服従者の取得行為〔略〕(法律の当然の効果である。本人のためにすることを表示するとしないとを問わない),附加的性質の訴権〔略〕(代理人と本人と両方の責任が平行する)等直接代理に類する行為はあつた」とのことです(原田86頁)。

また,占有の取得については,「権力服従者はその権力者の指図命令により,権力者のために取得する。但し特有財産〔略〕については家長主人の知るを要しない。家長権に服しない自由人による占有取得が古典法で認められたのは,恐らく執事についてだけである。」ということでした(原田140頁)。グリープスによる先占は,その特有財産に係るものであらば,直ちに権利能力を有する主人のダエモネースの先占になったということでしょう。

奴隷の取得行為の結果は権力服従者の取得行為ということで権利能力者たる主人に帰属しつつも,「市民法に於ては権力服従者の〔略〕債務負担行為によつては家長主人はその責を負うことはなかつた」ところ(原田216頁)奴隷相手に取引を行う者にとってはその分不便でかえって取引の発展を妨げたのでしょうから,そのような不便対策として,「家長主人が家子奴隷に特有財産〔略〕を与えたときは,家長主人は家子奴隷の相手方に対し,特有財産の範囲に於て直接責任を負う。」という(原田216頁),附加的性質の訴権の一たる特有財産訴権(actio de peculio)が生まれたものでしょう。「このような,特有財産を承認する法律上の目的は,かかる特有財産に関する債務に対して,家父の負うべき責任を,その価値に限定するところにあった。」という見方もありますが(ベーレンツ=河上152頁),むしろ当初は,一定の財産の範囲内ながらも家長主人に直接責任を負わせるために設けられたのが特有財産の制度だったのだ,ということでしょうか。

特有財産運用等の結果お金を貯めた奴隷は,自分の自由を主人から買い戻すことができました。

 

  奴隷が,主人から自分を買い取ってくれる「仲介者」を見つけて,しかも,自ら稼ぎ出した金を第三者に託し,その金で自分を買い取ってもらえるような場合には,その奴隷は〔後2世紀後半の〕マルクス・アウレリウス帝の規則により,解放のための特別な法的手続を通じて,この仲介者を訴えることで権利を実現することができた。この規則の存在は,奴隷が,事実上,いかに独立した経済活動をなしえていたかを示すものである。(ベーレンツ=河上137頁)

 

 グリープスも,旅行鞄魚を発見したときには,その中にたんまりあるであろう金銀でもって自分の自由を買い戻そう,自由になったらあれをやろう,これもやろうとの楽しい夢想にふけったのでした。

 

   Aurum hic ego inesse reor, nec mihi est ullus homo conscious. Nunc haec occasio tibi, Gripe, contigit ut te liberes. Nunc ad erum veniam docte atque astute; paulatim pollicebor argentum pro capite, ut liber sim. Jam ubi liber ero, instruam agrum atque aedes; navibus magnis mercaturam faciam; apud reges rex vocabor; oppidum magnum condam et ei urbi Gripum nomen indam. Sed hic rex cum aceto et sale, sine bono pulmento, pransurus est.(小林42-43頁)

   黄金がここに入っていると俺はにらんでいる。このことを知っているやつはだれもいない。今や,この好機が,お前に,おいグリープス,お前を自由にするために訪れたのだ。さて,抜け目なく,かつ,狡猾に主人のところへ出かけよう。少しずつ,俺が自由になるための身代銀の分量を決めるのだ。やがて自由になったときには,農場と屋敷とをあつらえよう。何隻ものでっかい船で商売をやろう。王たちのもとで,俺は王と呼ばれるのだ。大きな都市を建設しよう,そしてその町にはグリープスという名前を与えよう。けれどもこの王様は,美食料理ではなくて,酢と塩とで昼食を摂ることになるのだな。

 

喜劇の結末において,グリープスはめでたく自由の身になれたそうですが,王にまでなったとは報告されていません(小林45頁)。 


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1 フン人

ローマ帝国が西のウァレンティニアヌス,東がウァレンスの兄弟皇帝(前者が後者の兄。なお,valensは動詞valere(健康であること。)の現在分詞形なので,しいて弟皇帝ウァレンスの名を日本語訳すると「健次郎」ということになりましょうか。)によって統治されていた西暦4世紀の後半,ドナウ川の北,その東北方面に住むゴート人に対してフン人が東方から圧迫を加えます。

フン人とは何者か。

 

   Prodigiosae formae, et pandi; ut bipedes existimes bestias; (Ammianus)

 

   奇異な外観で,かつ,湾曲した者らであって,二本足の獣らと思いなされる。(アンミアヌス)

 

更にギボンの『ローマ帝国衰亡史』第26章には,「スキュティアのこれら野蛮人は,・・・古代の橋梁上にしばしば設置された歪んだ形の境界(テル)()()の像になぞらえられた。」(“These savages of Scythia were compared … to the mis-shapen figures, the Termini, which were often placed on the bridges of antiquity.” (Gibbon, The History of the Decline and Fall of the Roman EmpireChapter XXVI; p.1044, Vol. I of the Penguin Books, 2005))とあるところです。

 

    Species pavenda nigredine … quaedam deformis offa, non facies; habensque magis puncta quam lumina. (Jornandes)

 

     恐るべき黒さの外観・・・いわば奇形の肉塊であって,顔ではない。しかして,目というよりはむしろ点を有している。(ヨルダネス)

 

   A fabulous origin was assigned, worthy of their form and manners; that the witches of Scythia, who, for their foul and deadly practices, had been driven from society, had copulated in the desert with infernal spirits; and that the Huns were the offspring of this execrable conjunction. The tale, so full of horror and absurdity, was greedily embraced by the credulous hatred of the Goths; but, while it gratified their hatred, it encreased their fear; since the posterity of daemons and witches might be supposed to inherit some share of the praeternatural powers, as well as of the malignant temper, of their parents. (Gibbon pp.1044-1045) 

 

   彼らの体型及び所作にふさわしい荒唐無稽な出自が彼らに帰せられた。すなわち,スキュティアの魔女らがその死穢に満ちた不潔の所業のゆえに人界から追放され,荒野において地獄の霊らと交尾した,しかしてフンは,この穢らわしい交配から生まれた子孫だというのである。恐怖と不条理とに満ちたこの説話は,ゴート人の信じやすい憎悪によって貪るように受け容れられた。しかし,彼らの憎悪は満足される一方,彼らの恐怖は増大した。悪魔らと魔女らとの後裔は,彼らの親たちの邪悪な気性と共に超自然的な力の一部をも受け継いでいるものと考えられ得たからである。(ギボン)

 

なお,フン人の後裔については,「マジャール/ハンガリー人が定住しキリスト教に改宗した後で,みずからの歴史の著述に取りかかったとき,ヨーロッパの民とは言えなかったので,彼らはこの光威あるフン族の子孫であると称し」たそうですが(カタリン・エッシェー=ヤロスラフ・レベディンスキー(新保良明訳)『アッティラ大王とフン族』(講談社・2011年)241頁),しかし「現代のハンガリーにおいてはフンの神話はもはや史実とは見なされていない」そうです(同248頁)。そうであれば,「本邦の域外の国若しくは地域の出身である者」であるフン人の「子孫であって適法に居住するもの」たるハンガリー人の方々は現実には存在せず,したがって,フン人に係る前記非友好的描写をしてしまった上で当該描写がそれらの方々に対する「本邦外出身者を著しく侮辱」する類型の「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」に当たるのではないかしらとくよくよ心配することは,取り越し苦労にすぎなかったということになるようです(本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(平成28年法律第68号)2条・3条参照)。5世紀半ばのアッティラ大王の死後「分裂し弱体化したフン族は,以後,新たな遊牧民集団の中に溶解してゆく定め」だったのでした(エッシェー=レベディンスキー222頁)。


山川健次郎
 こちらは会津の山川健次郎(東京都文京区本郷)
 

2 ドナウ河畔のゴート人とウァレンス政権の対応

 前記の恐ろしいフン人の圧迫を受け,フリティゲルン(Fritigern)及びアラウィウス(Alavivus)に率いられた西ゴート人は,ローマ帝国の東北国境であるドナウ川の北岸に急ぎ移動し,ローマ帝国の東帝の保護を懇請するに至ります。

 

   ・・・〔シリアのアンティオキアにいた〕皇帝〔ウァレンス〕の注意は,ドナウ川国境防衛の任務を与えられていた文武官らからもたらされた重大情報に対して最も真摯に振り向けられた。北方は凶暴な騒乱下にあること,未知かつ怪物的な野蛮人種であるフン人の侵入によってゴート人の支配が覆されたこと,その自尊心は今や塵にまみれ辱められたかの好戦民族が哀れみを求める群衆と変じてドナウ川の岸辺を何マイルにもわたって覆っていることが彼に報知された。

彼らは,腕を差し伸ばし,哀れにも悲嘆にくれ,声高に彼らの過去の不運と現在の危険とを嘆いております。彼らの安全に係る唯一の希望は,ローマ政府の慈悲のうちにしかないということを認めております。皇帝の寛仁大度が彼らにトラキアの荒蕪地の耕作を認めてくれるのであれば,最も強い義務と感謝との覊束によって,国家の法を守り,その国境を防衛し続けて已まざる旨極めて厳粛に表明しております。

これらの保証の言は,彼らの不幸な同胞の運命を最終的に決定すべき回答をウァレンスの口から聴くべく焦慮しつつあったゴート人派遣外交使節によって確認された。

東帝は,前年の終わり頃3751117日)に死亡していた兄〔ウァレンティニアヌス〕の知恵及び権威によって今や導かれてはいなかった。しかして,ゴート人の苦境は即時かつ断乎たる決定を求めていたため,引き延ばされた末の,かつ,曖昧である方策こそが全き慎重に係る最も称賛すべき努力であると考えるところの弱くかつ臆病な人々にとっての常套的愛好策は,彼の選択肢から取り除かれてしまっていた。

人類のうちに同一の情熱及び利害が存続する限り,古代の政策検討の場において議論された戦争と平和,正義と政策とに係る問題は,現代の議論の主題として何度も登場するであろう。しかしながら,最も経験豊かなヨーロッパの政治家も,絶望と飢えとによって衝き動かされて文明国家の領域内に定住することを請い求める蛮族(バーバリアンズ)の無数の大群を受け入れ,又は拒絶することの適切性又は危険を衡量すべき場に引き出されることはかつてなかったのである。(ギボン10461047頁。改行は,筆者によるもの)

 

 「最も経験豊かなヨーロッパの政治家も,絶望と飢えとによって衝き動かされて文明国家の領域内に定住することを請い求める蛮族(バーバリアンズ)の無数の大群を受け入れ,又は拒絶することの適切性又は危険性を衡量すべき場に引き出されることはかつてなかったのである。」とのギボンの観察は,18世紀後半の当時には当てはまったとしても,21世紀の今日においてはそうではないように思われます。

 

公共の安全に本質的にかかわる当該重要論題がウァレンスの大臣らの議に付された時,彼らは当惑し,意見は分かれた。しかしながら,彼らはやがて,彼らの君主の自尊心,怠惰及び貪欲にとって最も好都合であると見られたところの調子のよい感情に黙従するに至った。総督や将軍といった称号で飾られた奴隷どもは,帝国の最辺境において受け入れられていた部分的及び偶発的植民とは余りにも大きく異なるものであるこの民族大移動に係る恐怖を隠蔽し,又は無視した。彼らはしかし,ウァレンスの帝位を守護するために地上の最も遠い国々から無数かつ無敵の異邦人の軍隊を招来するにいたった幸運の物惜しみなさを称賛した。彼は今や,毎年の徴兵の代替として属州民から貢納される莫大な量の黄金を,その帝室金庫に加えることができるのである。

ゴート人の祈りは聴き届けられ,彼らの服務は帝室によって受け入れられた。彼らの将来の居住地として適切かつ十分な地域が割り当てられるまでの大集団の移動及び生存のために必要な準備をするよう,トラキア管区の文武の長官に対して命令が直ちに発せられた。しかしながら,皇帝の気前のよさには,二つの苛酷かつ厳重な条件が付されていた。これらは,ローマ人の側では用心ということで正当化され得たであろうが,困窮のみが,憤然たるゴート人をして同意に至らしめ得たものである。

ドナウ川を渡る前に,彼らは武器を引き渡すことを求められた。

また,子供らは彼らから引き離され,アジア各州に分散されるべきことが要求された。そこにおいて子供らは,教育のわざによって文明化され,彼らの親たちの忠誠を確保するための人質としての役割を果たすこととなろう。(ギボン1047-1048頁。改行は筆者によるもの。)

 

3 古代ローマの民族構成及び婚姻奨励策並びにウァレンス政権のゴート人受入れ政策

 

(1)民族構成

本来ローマ帝国は外国人の受入れについて鷹揚な国柄ではありました。1世紀の初代皇帝アウグストゥスの時代について,既に次のようにいわれていました。

 

 ・・・風俗の改革は失敗だった。離婚と産児制限が家庭を破壊し,旧家の血統は絶えようとしていた。ローマ市民の4分の3は解放奴隷の子であるという事実がすでに明らかになっていた。(I・モンタネッリ(藤沢道郎訳)『ローマの歴史』(中公文庫・1996年)319頁)

 

奴隷の供給源は主に戦争捕虜だったそうです(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法―ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)132頁)。したがって,要するに,「ローマ市民の4分の3は解放奴隷の子である」ということは,生粋のローマ人は既に少数者にすぎない存在となってしまっていたということでしょう。紀元後1世紀末には「ローマの人種的構造そのものが変わってしまっていた。外国人の血が一滴も混じらぬ純血のローマ人など,もはや存在しなかったろう。ギリシア人,シリア人,ユダヤ人などの「少数民族」は,全部一まとめにすればローマ市の絶対多数を占めていた。」ということになっています(モンタネッリ390頁)。

 

(2)婚姻奨励策

なお,現代の日本と同様,離婚を云々する以前に,古代ローマにおいてもそもそもの婚姻数の減少が問題になっていたところです。既に共和政の段階から「堕落を始めた風俗が,市民が婚姻を厭うようにすることに大いに貢献した。無邪気な歓びに対する感受性を失った者にとって,婚姻は苦痛以外の何物でもない。」という状態でした(Montesquieu, De l’Esprit des lois, XXIII, 21)。そこで婚姻奨励法があり,「カエサルは,沢山の子供を持っている者に手当を与えた。彼は,45歳未満で夫も子もない女性に対し,宝石を身に着け,又は輿を用いることを禁じた。これは虚栄心を利用した優れた非婚対策である。アウグストゥスの法律は,より厳しいものであった。彼は未婚者に対して新たな罰金を科し,既婚者に対する手当及び子持ちの者に対するそれを増額させた。タキトゥスはこれら一連の法律をユリウス法と呼んだ。」ということです(Montesquieu, ibid.)。しかし,古代ローマ人男性は,現代の心優しい日本人男性のような安心・安全な草食動物ないしは草では全くありませんでした。「諸君が独身でいるのは,一人で生活するためでは全くない。諸君は皆,食卓及び寝台を共にする相手を持っていて,放縦の中にのみ安心を求めているのだ。独身のウェスタ聖女の例を持ち出すのか?そうであれば,諸君が貞潔に関する法律を守らないのならば,彼女らと同様に諸君を罰しなければならぬ〔すなわち,棒で叩いて生き埋めにする〕。」などとアウグストゥスが彼らに対してぶっているところです(Montesquieu, ibid.)。

 

(3)ゴート人受入れ政策

ウァレンス政権の見解としては,ゴート人の大量受入れはよいことであり,国防上も国家財政的にも望ましいということだったのでしょう。国民経済的観点からすれば,「中小・小規模事業者をはじめとした人手不足は深刻化しており,我が国の経済・社会基盤の持続可能性を阻害する可能性が出てきている。このため,〔略〕従来の専門的・技術的分野における外国人材に限定せず,一定の専門性・技能を有し即戦力となる外国人材を幅広く受け入れていく仕組みを構築する必要がある。」というようなことでしょう(2018615日閣議決定「経済財政運営と改革の基本方針2018について」の別紙である「経済財政運営と改革の基本方針2018~少子高齢化の克服による持続的な成長経路の実現~」26頁)。3世紀末から5世紀後半までのローマ経済の状態は,「奴隷が解放されてコロヌスと呼ぶ土地に束縛された小作人になる。都市の住民は同職仲間の構成員としてコレギウムをつくらされ,国家的負担を負わなければならない。職業は世襲化されて,自由闊達の空気はどこにもみられない。貨幣の流通は減少して,公課も生産物や労働による傾向をしめして来る。これは文字通り動脈硬化の社会であり,そこから新しい企業の発生する余地はまったく望みえない。残っているのは,理念的に高められた皇帝権と役人の制度だけである。」というものだったようです(増田四郎『ヨーロッパとは何か』(岩波新書・1967年)75-76頁)。奴隷については,ローマ軍がなかなか勝てなくなってしまったことから補給難であり,価格が高くなってしまっていたとのことです(増田68-69頁)。

武器の携帯にゴート人はこだわったようですが,困ったものです。我が出入国管理及び難民認定法(昭和26年政令第319号(いわゆるポツダム命令の一つ。昭和27年法律第1264条・1条参照)。以下「入管法」と略称します。)5条1項8号は,「銃砲刀剣類所持等取締法(昭和33年法律第6号)に定める銃砲若しくは刀剣類又は火薬類取締法(昭和25年法律第149号)に定める火薬類を不法に所持する者」である外国人は本邦に上陸することができないものとしています。

子供の教育についてはアジアの地で行われることになっていましたが,これは,「外国人が〔我が国〕社会で円滑に生活できる環境を整備し,共生社会が実現されるよう,生活者としての外国人に対する〔国〕語教育及び子供の教育の充実について,体系的な取組を進めてまいります。〔略〕子供の教育に関しては,学校におけるきめ細やかな指導の充実,教員定数の改善等に努めてまいります。加えて,ICTを活用した取組の全国展開や,高校生に対するキャリア教育,夜間中学の充実,就学促進等を総合的に進めることが重要と考えています。」というような取組が現地においてされることを期待してのことだったのでしょう(2018724日の日本国の外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第1回)における林芳正文部科学大臣発言参照)。

 

4 ゴート人のドナウ正式渡河前の状況等

ウァレンス帝が高邁な寛仁大度を示しつつある一方,現場ではどうしても混乱が生じます。

 

   疑わしく,かつ,遠隔地で行われている交渉が未だに結論を得るに至っていないこの期間中に,辛抱できないゴート人は,その保護を求めていた当の政府の許可を得ぬまま,ドナウ渡河の性急な試みをいくつか行った。彼らの動きは,川沿いに駐屯していた軍隊の警戒態勢によって厳しく監視されていた。そして,彼らの最先頭部隊は少なからざる殺戮と共に破された。しかしながら,これがウァレンス治下の臆病な政策決定というものなのだが,任務の遂行によって国に尽くした勇敢な将校らは,馘首によって罰せられ,かろうじて彼らの生首が留められたのであった。(ギボン1048頁)

 

我が国の内閣総理大臣は,2018724日に,国務大臣,報道関係者らを前に次のように発言しています(外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第1回))。

 

〔前略〕一定の専門性・技能を有し即戦力となる外国人材を幅広く受け入れていく仕組みを構築することは急務であります。新たな制度による外国人材の受入れは,来年〔2019年〕4月を目指して,準備を進めてまいりたいと考えていますので,法案の早期提出,受入れ業種の選定等の準備作業を,速やかに進めていただくよう,お願いします。

 また,新たな制度による受入れを含め,在留外国人の増加が見込まれる中,日本で働き,学び,生活する外国人の皆さんを社会の一員として受け入れ,円滑に生活できる環境を整備することは重要な課題です。本日の閣議決定により,法務省が外国人の受入れ環境の整備に関する総合調整を行うこととなりました。法務省の司令塔的機能の下,関係府省が連携を強化し,地方公共団体とも協力しつつ,外国人の受入れ環境の整備を効果的・効率的に進められるよう,関係閣僚の御協力をお願いします。〔後略〕

 

 「本日の閣議決定」たる2018724日の閣議決定「外国人の受入れ環境の整備に関する業務の基本方針について」においては,「今後も我が国に在留する外国人が増加していくと考えられる中で,日本で働き,学び,生活する外国人の受入れ環境を整備することによって,外国人の人権が護られ,外国人が日本社会の一員として円滑に生活できるようにしていく必要がある。」と謳われています。「日本で働き,学び,生活する外国人」も「日本社会の一員」であり,その「人権が護られ」なければならないものとされています。

 以上は行政・立法に関する最近の動きですが,司法の場においても,上記閣議決定等に示された来たるべき我が新しい国のかたち及び前記ドナウ川守備隊馘首処分事件の前例に鑑みた上で更にしかるべき忖度も行われることがあれば,不法(オーバー)残留(ステイ)に係る入管法違反被告事件(同法7015号により3年以下の懲役若しくは禁錮若しくは300万円以下の罰金又はその懲役若しくは禁錮及び罰金の併科)の量刑相場(起訴されてしまった以上は,前科がなくとも最低懲役1年・執行猶予3年(第一東京弁護士会刑事弁護委員会『量刑調査報告集Ⅴ』(20183月)137-138頁参照))の低減までが20194月よりも前からなされ得るかもしれないとの淡い期待が抱懐されるところです(ここで量刑相場の低減が望まれるのは,執行猶予が付いても,懲役「1年」に処せられたこのとある以上,被告人は以後ずっと入管法514号の上陸拒否事由にひっかかってしまうからです(ただし,同法5条の2)。ちなみに,外国人ノ入国,滞在及退去ニ関スル件(昭和14年内務省令第6号)においては不法残留に対する罰は50円以下の罰金又は拘留若しくは科料にすぎませんでした(19条)。)。しかしながら,そのような期待は,甘いものと断ぜざるを得ません。新しい国のかたちなのだと弁護人がいろいろ頑張って弁論してみても,「弁護人は熱心に活動してくれました。それに対する感謝の心を忘れてはいけませんよ。」というような訓戒が判決宣告後裁判官から被告人に対してされるようなことはあるかもしれませんが(刑事訴訟規則221条),量刑相場はなかなか揺るがないでしょう。

 なお,2018724日の閣議決定においては「外国人の人権」を護るものとされていますが,外国人には本邦に入国する自由(権利)はないと解する最高裁判所昭和32619日大法廷判決(刑集1161663頁)の判例を否定するものではないでしょう(同判決は「憲法22条は外国人の日本国に入国することについてはなにら規定していないものというべきであつて,このことは,国際慣習法上,外国人の入国の許否は当該国家の自由裁量により決定し得るものであつて,特別の条約が存しない限り,国家は外国人の入国を許可する義務を負わないものであることと,その考えを同じくするものと解し得られる。」と判示)。しかしながら,更にマクリーン事件に係る「憲法上,外国人は〔略〕在留の権利ないし引き続き在留することを要求し得る権利を保障されているものでもないと解すべき」であり,かつ,「出入国管理令上も在留外国人の在留期間の更新が権利として保障されているものではない」とする判例(最高裁判所昭和53104日大法廷判決民集3271223頁)が維持されるとしても,在留期間の更新の許可に係る入管法21条の「広汎」な「法務大臣の裁量権の範囲」(同判決)も,いったん「日本社会の一員」として受け入れられた外国人については,「護られ」るべきその「人権」によって制約されるものとして,少なくとも行政上の法運用はされていくのでしょう。「在留期間中の憲法の基本的人権の保障を受ける行為を在留期間の更新の際に消極的な事情としてしんしゃくされないことまでの保障が与えられているものと解することはできない」ということであれば,日本社会の一員として受け入れられた「外国人の人権が護られ」ているとはなかなか胸を張って言いにくいところです。ただし,「国籍や民族などの異なる人々が地域社会の構成員として共に生きていく多文化共生の推進は,地方自治体の重要な課題」とされているところ(外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第1回)における野田聖子総務大臣の発言),ここでの「多文化共生」の概念にこだわれば,形としては「地域社会の構成員」ではあっても,日本文化の共同体たる「日本社会」の一員としての受入れまでは,まだなかなかということでしょうか。

 

5 ドナウ渡河のゴート人の数に関して

さて,376年にドナウ川を越えたゴート人の数はといえば,アンミアヌスによれば次のとおりだとか(ギボン1049頁)。

 

  Quem si scire velit, Libyci velit aequoris idem

   Scire quam multae Zephyro truduntur harenae (Vergilius, Georgica)

 

しかしてそれ〔の数〕を知ろうとする者は,どれほど多くのリビア平原の砂粒が西風によって動かされるかを知ろうとするもの(ウェルギリウス『農耕歌』)

 

ただし,ギボンは,渡河したゴート人の戦士の数は約二十万人で,ゴート人全体(女性,子供及び奴隷を含む。)では百万人近くになったのではないかとしています(1049頁)。しかし,この数字はいかにも大き過ぎるようです。秀村欣二教授によれば「375年ついにヴォルガ川を渡ったフン族の圧迫をうけた約六万の西ゴート人は,首長フリティゲルンにひきいられてドナウ川南岸のローマ領内に定住することを求めた。」ということで,渡河の許可を求めたゴート人の数は約六万人とされています(村川堅太郎責任編集『世界の歴史2 ギリシアとローマ』(中央公論社・1961年)468頁)。堀米庸三教授は「アラン族を征服したフン族は,375年,ドン川をこえ,怒涛のようにドニエプル下流地帯の東ゴート族におそいかかった。〔中略〕フン族は息つく間もなくドニエストル,ドナウ間にすむ西ゴート族をおそった。その勢いにおしまくられた西ゴートの一部は,北方のカルパティア山脈の麓に退いたが,キリスト教を奉ずる他の一部は,東ローマの許可をえてドナウ川をわたり,ローマ帝国内に移った。これはゲルマン人が部族集団のままでローマ領内に入った最初で,まさに劃期的意味をもつ事件である。彼らの数は約四万,うち八千が戦士だった。」と述べており(堀米庸三責任編集『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』(中央公論社・1961年)4-5頁),ギボンの張扇は25倍もの誇張をしたものとされています。「近年の研究を見ると,376年にドナウを渡った人々の数は,多く見積もって数万と推定する学説が多いように思われる。もしこれが正しいならば,それまでの例に比して376年の移動が格別に大規模だったとはいえないだろう。」ということになるようです(南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』(岩波新書・2013年)164頁)。

なお,2017年末の日本国内の在留外国人の数は2561848人ですが,これは,その前年3月に東日本大震災があった2012年の末には2033656人であったところ,2013年には32789人,2014年には55386人,2015年には110358人,2016年には150633人,2017年には179026人がそれぞれ順次増加してきたものです(2018327日法務省入国管理局報道発表)。外国人労働者数について見れば,201710月末には1278670人であって,この数字は,201210月末の682431人から1年ごとに35041人,70116人,120272人,175860人,194950人がそれぞれ順次増えて5年間で約1.9倍になったものです(20181012日の外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第2回)資料・法務省入国管理局)。毎年数万を超える外国人が流入しているということであれば,21世紀の日本は4世紀後半のゲルマン民族大移動期のローマ帝国と似たような状況にあると考えることも許されるのでしょう。


6 ゴート人,下モエシアに入る。

丸腰で平和的にローマ帝国内に移住するはずだったゴート人らですが,やはり蛮族たるもの,武器は手放せません。

 

 ・・・彼らの武器を名誉の印かつ安全の担保とみなす蛮族(バーバリアンズ)は代価を提供するにやぶさかではなかったし,帝国官吏らの好色及び貪欲は,それらの受取りに向け容易に誘惑された。彼らの武器を保持するために,驕慢戦士らは,若干の逡巡はあったものの,彼らの妻及び娘の肉体を提供することに同意した。麗しい娘又は顔立ちのよい青年の魅力が検査官の黙認を確保した。彼らは彼らの新たな同盟者の縁飾りのあるカーペット及びリンネルの衣類に対してしばしば物欲しげな視線を向け,あるいは彼らの農場を家畜で,彼らの家屋を奴隷で満たすという卑しい考慮の前に彼らの義務を犠牲に供した。(ギボン1049頁)

 

さて,大勢の移住民の面倒を見るのは大変な仕事です。

 

   規律なく未定住の野蛮(ネーション・オブ)民族(・バーバリアンズ)ついては,最高度の沈着及び最巧緻な管理を必要とした。百万人近くの普通ではない臣民の毎日の生存は,恒常的かつ手際のよい業務精励によってのみ扶持され得るものであったし,手違い又は事故によって不断に障碍され得るものであった。彼らが恐怖又は蔑視いずれかの対象であると自ら認識した場合においては,ゴート人の不遜又は憤懣は彼らをして最も極端な行動に駆り立て得たところであって,国家の安危は,ウァレンスの将軍らの廉潔と共に慎重にかかっているものと見受けられた。

この重大な危機に際してトラキアの軍政はルピキヌス及びマクシムスによって担われていたが,彼らの欲得ずくの性根においては,わずかな私的利得の望みですら公共の利益に係る全ての考慮よりも重きをなすものとされていたし,彼らの罪を軽減するものは,彼らの性急かつ犯罪的な行政がもたらす有害な効果を認識し得ない彼らの無能のみであった。

君主の命令に従い,かつ,適正な気前のよさをもってゴート人の需要を満たす代わりに,彼らは飢えた蛮族(バーバリアンズ)の生活必需品に対して吝嗇的かつ圧制的な税を課した。最も粗末な食品が途方もない値段で売られた。さら,健康的かつ十分な食糧供給の代わりに,犬肉及び病死した不衛生な動物の肉によって市場は満たされていた。パン1ポンドの貴重な調達を得るために,ゴート人は,費用はかかるが役に立つ奴隷の所有を諦めた。また,少量の肉が,貴重な,しかし役には立たない金属〔銀〕10ポンドによって貪るように贖われた。財産が尽きると,彼らはこの不可欠の交易を,息子や娘を売却することによって継続した。全てのゴート人の胸を鼓舞する自由への愛にもかかわらず,彼らは,悲惨かつ救いのない独立の状態で斃死するよりは子供たちは奴隷状態で生き延びた方がよいという屈辱的な道理に屈した。

最も活発な憤懣は,自称恩恵付与者による専制によってかき立てられた。彼らは,その後の乱暴な取扱いによって帳消しにしてしまったはずの感恩の債務の履行を厳格に求めるのであった。辛抱強くかつ義務に忠実な彼らの姿勢を評価してくれるように求めても取り合ってもらえないでいる蛮族(バーバリア)(ンズ)仮居住地(キャンプ)内において,不満の空気が知らず知らずのうちに高まり,さらには,彼らがその新たな同盟者から受けた無慈悲な仕打ちに対する不満が声高に述べ立てられた。彼らの周囲を見ると,そこには肥沃な属州の富と豊かさとがあった。彼らはその只中にあって,人為的飢餓のもたらす耐え難き苛酷を忍んでいたのである。(ギボン1050-1051頁。改行は筆者によるもの)

 

出入国在留管理庁の監督の下で受入れ機関又は登録を受けた登録支援機関が外国人労働者に対して「(1)入国前の生活ガイダンスの提供,(2)外国人の住宅の確保,(3)在留中の生活オリエンテーションの実施,(4)生活のための日本語習得の支援,(5)外国人からの相談・苦情への対応,(6)各種行政手続についての情報提供,(7)非自発的離職時の転職支援,(8)その他」の支援を行うこと(外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第2回)資料・法務省入国管理局)等を確保するほか,「外国人が安心して生活・就労できるよう,医療通訳等の配置等により,医療機関における外国人患者受入に関する環境整備を進めてまいります。さらに,外国人労働者について,都道府県労働局や労働基準監督署に設置している外国人向けの相談コーナーや相談ダイヤルなど,労働条件等に関する外国人労働者の相談ニーズに多言語で対応してまいります。また,適正な雇用管理を確保する観点からも,事業者の雇用主としての責任の下に適切な社会保険への加入が行われるよう,周知や確認等を含め実効性のある方策を関係省庁と協力しながら検討してまいります。」というような周到な配慮(外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第1回)における加藤勝信厚生労働大臣の発言)が求められていたところです。医療と社会保険とは重要です。

 前記のゴート人の苦境及びその結末について,ヒエロニムスは簡潔にいわく。

 

   Per avaritiam Maximi ducis, ad rebellionem fame coacti sunt.

 

   マクシムス司令官の貪欲によって,反抗へと彼らは飢えゆえに強制された。

 

7 マルキアノポリスの喇叭

ドナウ河畔から約70マイルの下モエシアの主都マルキアノポリスにおいて,ゴート人とローマ政府軍との最初の衝突が発生します。

 

 ・・・ルピキヌスはゴート人の族長らを豪奢な宴会に招待していた。しかして彼らの護衛のための随行員らは,武装したまま宮殿の入口前にたむろしていた。しかしながら,市門は厳重に警戒されていた。また,蛮族(バーバリアンズ)は,臣民及び同盟者としての同等の利用権を主張していたにもかかわらず,豊富な商品に溢れた市場の利用から厳しく排除されていた。彼らのへりくだった願いは,横柄さと嘲笑とをもって拒絶された。そして彼らの忍耐は今や限界に達し,間もなく,街の住人,兵士及びゴート人らは頭に血の上った口論,怒気に満ちた非難が相互に飛び交う争いを始めた。軽率な殴打がなされた。急いで剣が抜かれた。そしてこの偶爾紛争において最初に流された血が,長く,かつ,壊滅的な戦争のさきがけの信号となった。(ギボン1052頁)

 

 流血の紛争の発生を承け,フリティゲルンらはマルキアノポリスを脱出,彼らを歓呼と共に迎え入れたゴート人は戦争を決議します。いざ出陣。

 

   Vexillis de more sublatis, auditisque triste sonantibus classicis. (Amminanus)

 

      慣習に従って軍旗が掲げられ,そして嚠喨たる喇叭の響きが物悲しく聞こえて。(アンミアヌス)

 

 日清戦争・成歓の戦いにおける我がラッパ手・木口小平及び白神源次郎の敢闘と戦死との有様が想起されるところです。(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1072462801.html

 マルキアノポリスにおけるローマの将軍ルピキヌスには,成歓・平壌における清の提督葉志超にやや似たるところありしか。

 

  ・・・恐るべき敵をあえて挑発し,横着に傷害し,かつ,なおも軽侮し得るものと考えていた卑怯有罪のルピキヌスは,この緊急事態に当たって集められ得る限りの軍勢の頭としてゴート人に向かって進軍した。蛮族(バーバリアン)()は,マルキアノポリスから約9マイルの地で彼の接近を待ち受けていた。しかして,この機会においては,武器及び軍隊の練度よりも将帥の才幹こそが実効においてより優越するものであることが明らかになった。フリティゲルンの天才によってゴート人らの勇猛が,しかく巧妙に指揮されたので,彼らの密集した猛攻撃によってローマ軍団の戦列は打ち破られた。ルピキヌスは,敵前において,武器も軍旗も,士官らも最も勇敢な兵士らをも打ち棄てた。そして,彼らの無益な勇気は,彼らの指揮官の無様な逃亡を援護することに役立っただけであった。

「かの成功に満ちた日が,蛮族(バーバリアンズ)の苦難及びローマ人の安全に終止符を打ったのである。かの日からゴート人は,異邦人・流民としての不安定な境遇を脱し,市民かつ主人たる性格を帯び,土地の占有者の上に絶対的支配権を主張し,そしてドナウ川でされた帝国の北部諸属州を自らの権利のうちに保持したのである。」かくのごときが,その同胞の栄光を粗野な雄弁をもってたたえるゴート人歴史家〔ヨルダネス〕の言葉である。

しかしながら,蛮族(バーバリアンズ)の支配は,略奪及び破壊の目的のみのために発動された。自然のもたらす共通の便益及び社会生活における正当な交際を皇帝の属官らによって拒まれていたところ,彼らは当該不正に対する報復を帝国臣民に対して行なった。しかしてルピキヌスの犯罪は,トラキアの平和な農民らの破滅,村々の炎上及び彼らの無辜の家族の殺戮又は拉致によって償われたのである。(ギボン1053-1054頁。改行は筆者によるもの)

 

「ドナウ川を越えて属州モエシアに入る通路は無防備に開かれた状態となった。そして,フリティゲルンと協働する勢力が続々現れるようになった。そればかりではなく,すでにローマ帝国内に受け容れられていた集団からも,待遇に不満を抱いて,フリティゲルンの軍に加わる者が出てきた。」ということになります(南川165頁)。以前からアドリアノープル附近にいたゴート人が矛を逆しまにしてフリティゲルンの軍に加わり,トラキアの金山の鉱夫らがフリティゲルンの軍の手引きをします(ギボン1054-1055頁参照)。


8 アドリアノープルへの道

 377年に入っての状況。

 

   ウァレンス及び彼の属官らの軽率は,敵対者らの(ネー)国家(ション)を帝国の中心に招き入れてしまった。しかしながら,過去の過ちを男らしく認め,かつ,以前の約束を誠実に履行することがあれば,なおもまだ西ゴート人は宥和され得たであろう。これらの修復的かつ穏健な施策は,東の君主の臆病な気質に親和的であるようであった。しかしながら,この場合においてのみ,ウァレンスは勇敢であった。そして彼の時ならぬ勇敢は,彼自身及び彼の臣民にとって致命的であった。(ギボン1055頁)

 

困窮したゲルマン人(Germani)の大群の受入れを行う政策に対する批判の声に対してウァレンス皇帝は,人道の名において,„Wenn wir jetzt anfangen, uns noch entschuldigen zu müssen dafür, dass wir in Notsituation ein freundliches Gesicht zeigen, dann ist das nicht mein Land.“(「困難な時期にあって友としての顔を見せることについて今更謝罪をしなければならないことになるのだとすれば,それは私の国ではありません。」Angela Merkel am 15. September 2015)と反論することはできなかったようです。

 

  ・・・彼は,この危険な叛乱を鎮圧するために,アンティオキアからコンステンティノープルに進軍する意図を表明した。そして,彼はこの企図の困難性に無知ではなかったところから,西の全兵力を統帥する甥のグラティアヌス帝〔ウァレンティニアヌスの後継者〕の援助を要請した。(ギボン1055頁)

 

ドナウ川の河口近くのSalices(柳林)の地におけるフリティゲルン率いるゴート人と東西ローマ軍との戦いは,数多くの戦死者を残して勝負つかずとなりました。数年後に当該戦場跡を見たアンミアヌスはいわく。

 

  Indicant nunc usque albentes ossibus campi. (Ammianus)

 

  野辺は今もずっと骨また骨によって白い。

 

 ローマ軍の手ごわい抵抗を受けたフリティゲルンは,蛮族仲間(西ゴートの他の部族,東ゴート人及びタイファリ人)との同盟工作に精を出します(ギボン1058頁参照)。(タイファリ人については,アンミアヌスが “ut apud eos nefandi concubitus foedere copulentur mares puberes” (「彼らのもとでは,成人男子らが邪悪なconcubitusのちぎりによって結び付けられているほどである」)と記していますが,ここでnefandusとの形容詞を用いることについては,「生産性」方面的なところからする不当な偏見を助長するものであるとの意見もあることでしょう。)しかして「やがて,東の方のアラニ人やフン人すらも,対ローマの戦線に加わるほどとなる。こうして,ローマ帝国が長らく戦略的に避けてきた,様々な部族集団がローマ帝国に対して連帯するという事態が,この時初めてできあがってしまったのである。」ということになりました(南川165-166頁)。

 これに対するローマ側の動きはいかん。

 

西半の皇帝グラティアヌスが派遣した軍隊は,東半の軍隊と協力して,幾度もゴート族の集団と戦ったが,378年の2月にアラマンニ族の一派,レンティエンセス族がライン川を渡って属州ラエティア(現在のスイス地方)に侵入したため,グラティアヌス帝は東に送った軍隊を呼び返さざるを得なくなった。グラティアヌス帝はこの侵入者に勝利を収めると,再び叔父のウァレンス帝を援助するため,軍隊を東に向かわせた。宮廷が分割されていても,ローマ帝国は東西連携して動いていたのである。(南川166頁)

 

 アラマンニ人に対する勝利によって若年の西の皇帝が栄光に包まれている間,年長の叔父さんである東の皇帝は,浮薄な首都の住民の排外熱狂によって煽られます。

 

   それにふさわしい活躍をしたグラティアヌスが彼の臣民らからの称賛を享受している一方,アンティオキアからついに宮廷及び軍を撤収したウァレンス皇帝は,公共の災厄を惹起した者としてコンスタンティノープルの人民に迎えられた。首都において十日間(378530日から同年611日まで)の休息を終える前に,彼は,戦車競走競技場の放縦なわめき声によって,彼がその領域内に招き入れた蛮族(バーバリア)(ンズ)に対して進軍するよう要求された。しかして現実の危険から離れていさえすれば常に勇敢である市民らは,武器が供与されれば,彼らのみで属州をけしからぬ敵の劫掠から救うべく立ち上がるであろうと自信いっぱいに宣言した。無知な大衆の独りよがりな非難がローマ帝国の没落を早めた。公衆からの侮蔑を堅忍不抜に耐えるべきものとする動機を,彼の評判についても,また彼の心裡においても見出すことのなかったウァレンスの,向こう見ずな性急が喚起されたからである。彼はやがて,その部下らの成功した戦闘の結果によって,ゴート人の力を見くびってよいものと思うようになった。ゴート人は,フリティゲルンの努力によって,当時アドリアノープル近郊に集められていた。(ギボン1060-1061頁)

 

   Moratus paucissimos dies, seditione popularium levium pulsus. (Ammianus)

 

   ほんの数日滞在したところ,軽薄な住民の騒ぎによって押し動かされた。(アンミアヌス)

 

 いよいよ皇帝ウァレンス陛下御出陣。

 

9 アドリアノープルの戦い

 

(1)戦闘前夜

 

  ・・・宮廷宦官らの阿諛追従を誇りと歓びとをもって聴いていたウァレンスは,簡単かつ保証付きの征服のもたらす栄光をつかむべくじりじりしていた。彼の軍隊は,古参兵らの多くの増員によって強化されていた。しかして彼のコンスタンティノープルからアドリアノープルへの進軍はしかく高度の軍事能力をもって遂行されたため,その間の隘路を占領し,さらには軍隊それ自体又は輜重を襲おうとする蛮族(バーバリアンズ)の活動は阻止された。アドリアノープルの城壁下に設けられたウァレンスの陣営は,ローマの流儀によって,壕及び塁壁によって防備されていた。そして,皇帝及び帝国の運命を決すべき最も重要な会議が召集された。(ギボン1062頁)

 

その間フリティゲルンはキリスト教聖職者を交渉使節として派遣して来て,トラキアの荒蕪地への平和的入植並びに穀物及び家畜の十分な供与が認められれば和平がなお可能であるようなないようなことを述べさせローマ側を攪乱します。(ギボン1062頁参照)

 

 ・・・ほぼ同時に,リコメル伯が西から戻って来て,アラマンニ人の敗北及び服属を告げ,ウァレンスに対して,彼の甥が,勝利に輝く歴戦のガリア軍団の頭に立って急ぎ進軍し来たりつつあることを知らせた。しかして更に,グラティアヌス及び国家の名において,二皇帝の合作がゴート人に対する戦争の成功を確実にするまでは,あらゆる危険な及び重大な措置を控えるべきことが求められた。しかしながら,意志薄弱な東の君主は,自尊(プラ)(イド)及び嫉妬(ジェラ)(シー)に係る致命的幻想によってのみ衝き動かされていた。彼は煩わしい忠告をうるさいものとして斥けた。彼は屈辱的な援助を拒絶した。彼はひそかに,不名誉な,少なくとも栄光なき自らの治世と,髭のなお生えそろわぬ若者のかの名声とを引き比べた。そしてウァレンスは戦場に突出した。彼の僚帝の軍務精励が戦勝の幾分かを横取りしないうちに彼の幻想の戦勝記念碑を打ち立てるために。(ギボン1062-1063頁)

 

(2)ウァレンス敗死

 運命の37889日がやってきました。

 アドリアノープル近郊でウァレンス率いるローマ軍とフリティゲルンのゴート軍とが対峙します。しかし,直ちに戦端は開かれません。「フリティゲルンはなお彼の常套的術策を施し続けた。彼は和平の使節を送り,提案を行い,人質を要求し,しかして,日よけもないままに焼け付く日差しにさらされたローマ人らが渇き,飢え及び耐え難い疲労によって消耗するまで時間を徒過せしめた。」と伝えられています(ギボン1063頁)。午後になって戦闘が開始されます(南川163頁)。

  

  ・・・ウァレンス及び帝国にとってしかく致命的であったアドリアノープル戦の出来事は,数語で言い表すことができるであろう。ローマ騎兵は逃亡した。歩兵部隊は打ち棄てられ,包囲され,そして切り刻まれた。〔中略〕激動,殺戮及び狼狽の只中で,近衛部隊に置き去りにされ,恐らく矢によって傷つけられた皇帝は,なおいくらかの秩序及び堅忍をもって地歩を守っていたランケアリイ人及びマッティアリイ人の部隊の中に保護を求めた。〔中略〕従者らの手助けによって,ウァレンスは戦場から連れ出され,近くの小屋に運び込まれた。そこにおいて彼らは彼の傷に治療を施し,更に彼の安全を図ろうとした。しかしながら,この粗末な隠れ場所もすぐに敵によって包囲された。彼らは扉を押し開けようとした。彼らは屋上から矢を射かけられたことによって激高した。ついには遅滞に苛立った彼らは,乾いた薪束の山に火を着け,ローマ皇帝及びその取り巻きと共に小屋を焼き尽くした。ウァレンスは炎の中で絶命した。そして,窓から飛び降りた若者が,ただ一人脱出に成功して,この悲しむべき話についてあかしをし,ゴート人に対して,彼ら自らの短気によって取得し損ねたこの上もなく高貴な戦利品について告知することとなった。非常に多くの勇敢かつ優秀な士官が,アドリアノープルの戦いにおいて戦死した。これは,ローマがかつてカンネーの野で被った不運に比して損害の実数において匹敵し,その致命的な結果においては優に上回るものであった。(ギボン1064頁)

10 ローマ帝国の衰亡

 

(1)Secundum Iaponem

 南川高志教授によれば,378年のアドリアノープルの戦いの後わずか約30年で,「帝国」としてのローマは滅亡します。

 

   ・・・5世紀のローマ帝国西半の歴史的な動きを見るとき,5世紀初めに「帝国」としてのローマは滅亡したといってよいことがはっきり了解される。ローマ帝国は4世紀の370年代中頃まで,対外的に決して劣勢ではなかった。しかし,その大ローマ帝国があっけなく崩壊した。帝国軍が大敗北したアドリアノープルの戦いが378年。諸部族のガリアからイベリア半島までへの侵攻とブリテン島の支配権喪失が409年。ローマ帝国はごくわずかな期間に帝国西半の支配圏を失ったのである。政治史から見た場合,ローマ帝国の黄昏は短く,夜の闇は一瞬に訪れたかのごとくである。史上空前の繁栄を現出した大国家が,30年という年月で潰え去ったのだ。(南川201頁)

 

   ・・・従来歴史家は,この5世紀初めの出来事について,ブリテン島とガリア北部でのローマ支配の消滅として,地域的な影響・意義しか捉えてこなかったが,私は,この時点でローマ帝国の「帝国」としての意義が失われたと解釈する。私は〔略〕,担い手も境界も曖昧なローマ帝国を実質化している要素として,軍隊,特に「ローマ人である」自己認識を持つ兵士たちの存在と,「ローマ人である」に相応しい生活の実践,そして支配を共にする有力者の存在をあげたが,405年から生じた一連の出来事〔405年のラダガイススに率いられた蛮族の北イタリア侵入,ブリテン島やガリアのフロンティアから軍を集めたローマの将軍スティリコによるラダガイスス撃破(406年),ブリテン島におけるマルクスらによる皇帝僭称(同年),406年大晦日以降のヴァンダル人,スエウィ人,アラニ人,ブルグンド人及びアラマンニ人のガリア侵入,407年の僭称皇帝コンスタンティヌス3世のブリテン島からガリアへの進出,409年のブリテン島からのコンスタンティヌス3世の総督の放逐〕によって,これらが帝国西半から消え去ってしまったからである。(南川193-194頁)

 

南川教授は「ローマ帝国の衰亡とは何であったといえるだろうか。」と自問し,「それは,「ローマ人である」という,帝国を成り立たせていた担い手のアイデンティティが変化し,国家の本質が失われてゆく過程であった。それが私の描いた「ローマ帝国衰亡史」である。」と記しています(南川205頁)。アドリアノープルの戦いの後「外部世界に住む人々,そこからローマ帝国に移ってきた人々を,個別の部族を超えて「ゲルマン人」とまとめて捉え,野蛮視,敵視する見方が成長」し(南川183頁),そのようなことによるアイデンティティの変化による国家の本質の喪失が,西ローマ帝国滅亡をもたらした要素であった,ということでしょうか。「ローマ国家が,4世紀以降の経過の中で徐々に変質し,内なる他者を排除し始めた。高まる外圧の下で,「ローマ人」は偏狭な差別と排除の論理の上に構築されたものとなり,ローマ社会の精神的な有様は変容して,最盛期のそれとはすっかり異なるものとなった。政治もそうした思潮に押されて動くことによって,その行動は視野狭窄で世界大国に相応しくないものとなり,結果としてローマ国家は政治・軍事で敗退するだけでなく,「帝国」としての魅力と威信をも失っていった」そうです(南川206頁)。

 

(2)Secundum Gallum

フランス(かつてのガリア)のジャン‐クロード・バローは,次のように書いています。

  

   自らがそれ自身である限りにおいては,強大なローマ国家は,西方において無敵であり,かつ,その軍団をもって,蛮族を容易に域外の暗黒の地へと押し戻した。

   帝国及びそれと共にガロ=ロマン世界は,自らを殺して崩壊した。何世紀もの間彼らの義務感及び「公益」の精神を保持していた指導者らは,5世紀においてはこれらの徳目を完全に喪失していた。

   シャトーブリアンは,史実に鑑みながら書いている。いわく,「指導者階級は,三つの継起する時代を経験する。すなわち,卓越の時代,特権の時代及び虚栄の時代である。第1の時代を閲した後彼らは第2の時代に堕落し,しかして第3の時代において消滅する。」と。ローマ,次いでガロ=ロマンの貴族の力をなした諸徳――戦士の徳,偉大の意識及び国家意識――は枯れ果てていた。

   既に長いこと,ガリア人は戦う勇気を忘れ去っていた。フン人に抗して歌われた西方におけるローマの白鳥の歌であるカタラウヌムの野における最後の勝利〔451年〕の後,ゲルマン人たちの前には,略奪,凌辱及び殺戮のために開かれた大地が横たわっていた。彼らを撃退すべき軍団は,既にそこにはなかった。その時,ガリア中において待ち設けられていたのは,一種の内破としての文明の恐るべき後退であった。進歩は,当然のものではない。恐るべき退歩が発生可能なのである。(Jean-Claude Barreau, Toute l’histoire de France; Livre de Poche, 2011: pp.39-40

 

 (3)Secundum Germanum

しかし,ゲルマン人はそう悪くはないのだよと,ドイツ(かつてのゲルマニア)のマンフレット・マイは弁護します。

 

  ・・・しばらくの間ローマ軍は,彼らが全ての非ローマ民族,したがってゲルマン人をもそう名付けていたところの「蛮族」に対して防禦を行い得ていた。しかし,結局のところはゲルマン人の方が強盛であって,彼らはローマ帝国に進入した。とはいえ彼らは帝国を破壊しようとしたのではない。むしろその達成したところのものを彼ら自身のために利用しようとしたのである。しかしてローマの文化及び生活様式が,ゲルマン人の風俗及び習慣と徐々に混ざり合っていった。(Manfred Mai, Deutsche Geschichte; Beltz & Gelbeg, 2010: pp.15-16

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002 東京都渋谷区渋谷三丁目516 渋谷三丁目スクエアビル2

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp



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 偉大な人物にも小さい側面――具体的には,「せこい」ところ――があることがあります。

 その「せこさ」ゆえにますますうんざりさせられる大人物もあれば,思わずにやりとさせられる偉い人もあります。要は普段の行い次第ということになるのでしょう。

 

1 大カトー

前者の代表人物として挙げられるのは,紀元前3世紀から同2世紀にかけての古代ローマの大カトーです。「ローマの周囲にある村や町で,これ〔弁舌〕を身につけるために練習し,頼んで来る人があるとその度毎に法廷で弁護に立ち,先づ熱心な論戦家,やがて有能な弁論家といふ名を取つた」後,「ローマの町に移ると直ぐ,法廷の弁護によつて自分でも崇拝者や友人を得」つつ(河野与一訳『プルターク英雄伝(五)』(岩波文庫・1954年)49頁,51頁)成り上がった弁護士上がりの名物政治家でした。

 

  ・・・〔大カトーは,〕様々の色をしたバビュロニア製の絨氈(じゅうせん) (embroidered Babylonian tapestry) を遺産として手に入れても直ぐ売払ひ,その別荘 (farmhouses) は一つとして壁土が塗つて (plastered) なく,1500ドラクメー以上出して奴隷を買つたこともなく,必要なのは洒落た美しい奴隷ではなくて,仕事をよくする丈夫な奴隷,例へば馬丁や牛飼のやうなものであるとした。しかもそれらの奴隷が年を取つて来ると,役に立たなくなつたものを養つて置かずに売払ふべきだと考へてゐた。・・・

  これを或るものはこの人の吝嗇(りんしょく) (petty avarice) な点に帰し,又或るものは他の人々を矯正して節度を教へるために自分も内輪に控へたのだと認めてゐる。但し奴隷を駄獣 (brute beasts) のやうに年を取るまで使ひ尽してから追ひ出したり売つたりするのはあまり冷酷な性格 (over-rigid temper ) から来るもので,人間と人間との間に利用 (profit) 以外の繫がりがないと考へてゐるやうに私〔プルタルコス〕は思ふ。しかしながら好意 (kindness or humanity) は正義心 (bare justice) よりも広い場所を占めてゐると私は見る。と云ふのは,我々は本来人間に対してだけ正義 (law and justice) といふものを当嵌(あては)めるが,恩恵や慈愛 (goodness and charity) となると物の言へない動物に対してまで豊富な泉から流れるやうに温和な心持 (gentle nature) から出て来る場合がある。年のためにはたらけなくなつた馬 (worn-out horses) を養つたり,若い犬を育てるばかりでなく年取つた犬の面倒を見たりするのは深切な人 (kind-natured man) の義務である。

  ・・・

  実際,生命を持つてゐるもの (living creatures) を靴や道具のやうに扱ひ,散々使つて(いた)んだからと云つて棄てて顧みないのは(よろし)しくない。他に理由がないとしても,深切な心持を養ふために (by way of study and practice in humanity) もそれらに対して柔和な態度 (a kind and sweet disposition) を取る癖をつけなければならない。少くとも私ははたらかした牛 (draught ox) を年を取つたからと云つて売ることはしない。(いわんや)して年を取つた人間をその祖国 (his own country) ともいふべき育つた場所 (the place where he has lived a long while) ()れた生活から僅かばかりの銅貨のために追出して,売つた人にも買つた人にも役に立たないやうな目に会はせたくない。ところがカトーはかういふ事を誇つてでもゐるやうに,コーンスル〔統領〕として数々の戦闘に使つた馬をヒスパニア (Spain) に残して来て,その船賃を国家に払はせまいとした (only because he would not put the public to the charge of his freight) と云つてゐる。・・・(河野訳5355頁。英語は,John Drydenの訳です。河野与一の文章は難しいのですが,そもそもその人物については,「仙台駅裏のガードをくぐり,狭いうらぶれた土の道を歩いていって,とある家の古風な土蔵の中に,この先生が縹緲(ひょうびょう)〔遠くはるかに見えるさま。ぼんやりしていてかすかなさま。〕と住んでいた。見ると,汚ない着物にチャンチャンコを着,一般地球人類とは様子が異なるお(じい)さんであった。頭蓋(ずがい)がでっかくて額がでっぱっていて,これはウエルズの火星人が化けているのではあるまいかと,ひそかに私は考えたものだ。」(北杜夫『どくとるマンボウ青春記』(新潮文庫・2000年)301頁)と報告されているような様子だったのですから,さもありなんです。)

 

大カトーがローマの統領(コンスル)となったのは紀元前2世紀初めの同195年,同194年にはヒスパニアからの凱旋式を挙げています。

 

2 馬の売却交渉

ところで,紀元18世紀の末の1797年3月に,アメリカ合衆国において,初めての大統領(プレジデント)の交代がありました。

 

 〔ペンシルヴァニア州フィラデルフィア市において1797年3月4日土曜日昼に行われた2代目大統領の就任式を終えて〕彼〔ジョン・アダムズ〕はフランシス・ホテルの宿所に戻った。ワシントン一家が「大統領の家」 (President’s House) をゆっくりと引き払う間,彼はその1週間の残りを同ホテルで過ごすことになっていた。その最初の午後には,彼への訪問客が途切れなく続いた。大多数は彼の幸運を祈り,一部の者は彼の就任演説を称賛した。彼と近しい一,二の者が急ぎやって来て,連邦(フェデラ)党員(リスツ)中に,就任演説が野党の共和党(リパブリカンズ)に対して宥和的に過ぎたと文句を言っている者がいると告げた。ワシントンは,アダムズをその午後遅く,そして再びの終わりに訪問した。当該1の半ばの一夜には,ワシントン夫妻は,新正副大統領〔新副大統領はトーマス・ジェファソン〕のための晩餐会を主催した。ワシントンによるフランシス・ホテル訪問は,主として社交的性格のものであったが,ビジネス的ないくつかの取引も行われた。ワシントンは,大統領の家」の全ての家具調度を執行の長としての報酬から支出して購入していた。不要な家財道具を〔ワシントンの自宅及び農園があるヴァジニア州の〕マウント・ヴァーノンに輸送することにより生ずる費用を負担することを望まないワシントンは,家具類についてアダムズの関心を惹くことを試みた。アダムズは,そのうちいくつかについて入手することにした。しかし,彼は,ワシントンが更に売ろうと望んだ2頭の馬の購入は断った。後にアダムズは,前任大統領は彼からぼったくろうgouge〕としていたのだと示唆している。おそらく彼の意見は正しかったであろう。ワシントンは,それらの馬は,彼がそうだと表明していたところよりも齢を取っていたのだよと友人に明かしていた。(Ferling, John E., John Adams: a life (Oxford University Press, 2010) pp.335-336. 日本語は拙訳。なお,ワシントン夫妻がアダムズ及びジェファソンを招いた上記晩餐会は3月6日のことだったようです(see Ferling p.341)。)

 

 「せこいぞ,ジョージくん!」と叫ぶべきでしょうか。

 ファーリングの上記文章に係る註 (Ferling p.497) によれば,アダムズがワシントン=不実な博労(ばくろう)説を唱えたのは,1797年3月5日又は同月9日付けの妻アビゲイル宛の書簡においてのようです(おそらく9日付けの方なのでしょう。)。また,ワシントンの「友人」とは,ダンドリッジか(1797年4月3日付けワシントン書簡。ダンドリッジ家は,ワシントンのマーサ夫人の実家です。),メアリー・ホワイト・モリスか(同年5月1日付けワシントン書簡)。フィラデルフィアの「大統領の家」の最初の賃貸人であり,かつ,ワシントンの友人であったロバート・モリスの妻であったのが,メアリー・ホワイト・モリスです。後に見るように,ワシントンは,家具調度売却に係る対アダムズ交渉についてメアリー・ホワイト・モリスに報告していますから,モリス夫人が当該「友人」であったように筆者には思われます。

 ロバート・モリス(1734年生,1806年歿)は,商人にして銀行家,大陸会議代議員及びペンシルヴァニア邦議会議員,独立宣言には採択の数週間後に署名,アメリカ独立戦争中・戦争後は財政面で活躍,1789年から1795年までは合衆国上院議員,商業・銀行業から土地投機に転じたもののやがて破産し,1801年まで3年以上債務者監獄に収監されています。(see Encyclopaedia Britannica, Founding Fathers: the essential guide to the men who made America (Wiley & Sons, 2007) p.175

 President’s Houseを「大統領の家」と訳して大統領「官」邸と訳さなかったのは,当該不動産はアメリカ合衆国の国有財産ではなかったからです。1790年に合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンがニュー・ヨーク市からフィラデルフィア市に移った際「シティ・タヴァン (City Tavern) では,彼のがっしりとして外向的な友人であるロバート・モリスが手をさし伸ばして待っていた。フィラデルフィア市は,六番街との角に近いハイ・ストリート(後にマーケット・ストリート)190番地のモリスの屋敷を,新しい大統領邸宅として借り受けていた (had rented)。」と報告されています(Chernow, Ron, Washington: a life (Penguin Press, 2010) p.633. 日本語は拙訳)。我が民法用語によれば,ロバート・モリスが賃貸人,フィラデルフィア市が賃借人,ジョージ・ワシントンが転借人ということになっていたようです。

 ところで,「せこいぞ,ジョージくん!」と叫ぶよりも,「あっ,ジョンくん,暗い。」と慨嘆すべきではないかとの解釈もあるようです。チェーナウのワシントン伝にいわく。

 

 ・・・ワシントンは,鷹揚に,〔「大統領の家」の〕二つの大きな客間 (drawing rooms) の家具調度を値引いた価格で提供する旨〔アダムズに対して〕申し込み,その際「一番良いものを取りのけておいて,残りの余り物を彼に提供する」ということはしなかった〔1797年5月1日付けメアリー・ホワイト・モリス宛ワシントン書簡〕。しかしながら,アダムズ夫妻 (the Adamses) は,それらの物件に手を出そうとはしなかった。さらには,つまらぬ悪口 (petty sniping) の発作を起こしたアダムズは,ワシントンは2頭の老いぼれ馬を2000ドルで彼につかませようとまでしたのだ (even tried to palm off two old horses on him for $2,000),とぶつぶつ文句を言った。(Chernow p.769

 

合衆国2代目大統領の年俸は2万5000ドルで,アダムズは既に馬車を1500ドルで買ってしまっていたところでした (Ferling p.334)。また,アダムズの支払に係るフィラデルフィアの「大統領の家」の転借料は,月225ドルだったそうです (Ferling p.336)

 

3 馬齢詐称と詐欺未遂とに関して

 

(1)詐欺未遂罪容疑に関して

我が刑法246条1項は詐欺罪について「人を欺いて財物を交付させた者は,10年以下の懲役に処する。」と規定し,同法250条により詐欺罪の未遂も罰せられます。無論,日本国民ではない者が日本国外で詐欺未遂罪を犯しても日本刑法が適用されることはないのですが(同法2条参照),ペンシルヴァニア州フィラデルフィア市において1797年3月4日から同月8日(同月9日木曜日早朝にワシントン一家は同市を退去 (Ferling p.336))までの間にヴァジニア州で農場を経営するジョージ・ワシントン氏(当時65歳)が,実際の齢よりも若いものと偽って老馬2頭をアメリカ合衆国大統領ジョン・アダムズ氏(当時61歳)に対して売り付けようとした行為は,仮に日本刑法が適用される場合,詐欺未遂で有罪でしょうか。

 

 日常の商取引においては,例えば販売者,購買者ともに自己に有利になるように駆引きを行い,地域や職種によっては一定の誇張・虚偽の宣伝が通常のものとなっている。これらの行為を,形式的に一般人を錯誤に陥らせるものとして,これらのすべてを処罰することは明らかに妥当ではない。刑法上の詐欺は,ある程度強度なものに限る。誇大広告も,著しいもの以外は詐欺罪には該当しない。(前田雅英『刑法各論講義 第4版』(東京大学出版会・2007年)266頁)

 

アダムズに一蹴されてしまっている程度のようですから,詐欺未遂罪容疑云々で騒ぎ立てるほどのことではないのでしょう。

 

(2)民事法における詐欺に関して

他方,我が民事法の方面での詐欺とは,どのようなものでしょうか。日本民法96条1項は「詐欺又は強迫による意思表示は,取り消すことができる。」と規定しています。

 

違法性のあるもの,すなわち,信義の原則に反するものでなければ,詐欺ではない。社会生活上,多少の欺罔行為は,放任されるべきだからである。ドイツ民法(ド民123条)にarglistige Täuschung(悪意の欺罔)というのは,善意に対する悪意というだけでなく,倫理的な意義を含むものと解されている〔略〕。この意味で,沈黙・意見の陳述などは,詐欺とならない場合が多いのである。(我妻榮『新訂民法総則』(岩波書店・1965年)310頁)

 

ドイツ民法123条1項は„Wer zur Abgabe einer Willenserklärung durch arglistige Täuschung oder widerrechtlich durch Drohung bestimmt worden ist, kann die Erklärung anfechten.“と規定しています。すなわち,「悪意の欺罔により,又は違法に強迫によって意思表示をさせられた者は,当該意思表示を取り消すことができる。」とあります。Arglistigの訳語には,手元の独和辞典によれば「悪だくみのある,邪悪な奸知にたけた」(小学館『独和大辞典〔第2版〕』),「悪がしこい,悪ぢえのある」(三修社『現代独和辞典』)というような言葉が当てられています。

(ちなみに,「《ドイツ民族》,つまり,だまし民族と呼ばれたのは(うべ)なるかなだ。――」(木場深定訳のニーチェ『善悪の彼岸』244の最終文)と註釈なしに言われるだけでは何のことやらよく分かりませんが,原文は„man heisst nicht umsonst das »tiusche« Volk, das Täusche-Volk ...“で,何のことはない,Deutsche(ドイッチェ)täuschen(トイッシェン)(動詞で,「だます」)との駄洒落でした。さらには,Tauschen(タウッシェン) ist Täuschen(トイッシェン) .“(交換とはだますことである。)ともいいます。

馬の売買は,絵画の売買と並んで社会生活上買主側に大きな注意ないしは判断力の働きが要求される取引領域である,といい得たようです。

 

・・・イギリスのコモン・ローでは,売買,殊に動産売買には「買主をして注意せしめよ」(caveat emptor)のマキシムが適用され,売主の明示の担保があるか,売主に詐欺があるかするのでなければ,たとえ売買の目的物に隠れた瑕疵があっても売主の責任を追及しえないのが一般的ルールであった。・・・

 アメリカにおける売主の瑕疵担保責任の出発点をなしたのも,イギリスのコモン・ローであり,やはりcaveat emptor のマキシムが適用され,売買の目的物について売主による黙示の担保がないのを一般的ルールとしつつ,それに対する例外としての黙示の担保をみとめ,その範囲を拡大する傾向にあったが,統一売買法はその傾向に沿って制定され多くの州で採用され,現在では統一商事法典がそれに代っている。

 ・・・

 このように,動産売買においてはcaveat emptorの一般的ルールに対して,その例外として商品性と特定目的への適性の黙示の担保がみとめられているが,その例外が広汎にみとめられてきたので,caveat emptorは実際には例外となったといわれる(イギリス)。或いは「caveat emptorは,かつてはいかに活力をもっていたとしても,死にかかっている」。「現在のルールは『売主をして注意せしめよ』であるし,またあるべきである」ともいわれる(アメリカ)。

 それでは,現在,caveat emptorはどんな場合に適用されるかというに――買主が任意に買う物を選んだとき適用されるのであるが,特に適用されるのは――買主が自分自身の判断を行使しうるし,また通常行使する特定物売買,例えば,絵とか,なかんずく馬などの売買である。(来栖三郎『契約法』(有斐閣・1974年)7779頁)
 

(3)馬齢及び歯に関して

 馬の齢は,馬の歯を調べれば分かるといいますから,隠れた瑕疵にもなるのかどうか。

 とはいえ,歯の話は,1797年3月当時,新旧のアメリカ合衆国大統領としては避けたかった話題でしょう。歯の弱かった初代大統領の最後の歯(左下の小臼歯)は1796年に抜かれてしまっており,大統領退任時のワシントンは既に歯の無い老人となっていました(see Chernow pp. 642, 644)。第2代大統領は,副大統領時代の1792年から歯槽膿漏を患って歯が抜けてしまうようになっており,発音も悪くなっていたところです(see Ferling p.319)。

 

4 「大統領の家」をめぐって

ところで,フィラデルフィアの「大統領の家」の所有者は,1795年3月,ロバート・モリスからアンドリュー・ケネディに代わっていました。

 

 1790年代の半ば,ワシントン大統領の居住中に,ロバート・モリスは,チェストナット,ウォルナット,七番及び八番の各ストリートに囲まれたブロックに建設を計画していた宏壮な邸宅のための費用を調達するために,彼のマーケット・ストリートの全不動産を売却した。「大統領の家」及び東側の林園 (wood yard) は,1795年3月にアンドリュー・ケネディに3万7000ドルで売却されたのである。ケネディは,裕福な商人であって,執行権の長の邸宅として当該不動産を市に対して賃貸することを継続した。(Lawler, Edward, Jr., The President’s House in Philadelphia: The Rediscovery of a Last Landmark (The Pennsylvania Magazine of History of Biography, January 2002 (Parts I&II)) Part II. 日本語は拙訳)

 

「売買は賃貸借を破る。」かどうかが問題となるところですが(我が国法では,売買が不動産賃貸借を破らないようにするためには,賃借権の登記をし(民法605条,不動産登記法3条8号・81条),建物所有目的の土地の賃貸借については土地の上に借地権者が登記されている建物を所有し(借地借家法10条1項),又は建物の賃貸借については建物の引き渡し(同法31条1項)をすることになります。),新しい所有者が現状維持を認めたのですから問題はなかったのでしょう。

フィラデルフィアは1800年にコロンビア特別区ワシントンに合衆国の首都が移転するまでの暫定首都とされていましたが,フィラデルフィア市当局は,合衆国の首都としての地位を恒久化すべく,同市の九番街に大統領用の邸宅を建造していました。

 

 ワシントンの第2の任期が終了するまでに,及び11万ドル以上の費用をかけた上で,九番街の大統領用邸宅が完成した。新しい建物は巨大だった。面積ではマーケット・ストリートの家屋の3倍以上,独立記念館 (Independence Hall) の2倍以上の大きさがあった。ペンシルヴァニア州知事は,当該邸宅の賃貸を,次期大統領に選出されたアダムズに対して,「フィラデルフィアにおいて他の適当な家屋を使用することが (obtain) できる額の賃料」であればよいと,いささか必死になって申し込んだ。アダムズは「合衆国憲法の素直な解釈からして,議会の意思及び権威の無いまま貴申込みを承諾する自由が私にあるのかどうか,大きな疑問を有しているところです・・・」と回答しつつ,申込みを拒絶した。当該大邸宅の占用――当該動きは,全国の首都にとどまることに係るフィラデルフィアの沈下しつつあるチャンスを回復させるものとなった可能性がある――をするように彼に加えられる圧力をおそらく増大させるためであろうが,市当局は,マーケット・ストリートの家屋の年間賃料額をペンシルヴァニア通貨1000ポンド(約2666ドル)に倍増させた。新大統領は頑張り,1797年3月半ばにはマーケット・ストリートの建物に移り住んだ。アダムズ一家の家事使用人団は,ワシントン一家のものよりも少人数であり,かつ,彼らの社交活動はより質素であったようである。(ワシントンは大統領在任中ほとんどの年において報酬額以上の出費をしていたところ,彼の後継者は報酬の15パーセント以上を貯蓄するようにやり繰りをした。)1790年の首都法 (Residence Act of 1790) 180012月の第1月曜日からコロンビア特別区が正式に全国の首都となるものとしていた。マサチューセッツの彼の農場に滞在後,アダムズは11月1日に新しい連邦市 (Federal City) に移転した。

 アダムズはフィラデルフィアの「大統領の家」を1800年5月遅くまで占用した。彼の退去後数週間で,当該家屋はジョン・フランシスに貸し出された。フランシスは,アダムズ及びジェファソンがそれぞれの副大統領時代に宿所にした滞在施設の所有者であり,それまでの「大統領の家」はフランシス・ユニオン・ホテルとなった。(Lawler Part II

 

なお,アンドリュー・ケネディは独身のまま1800年2月に死亡しており,前の「大統領の家」をホテル用にフランシスに貸し出したのはアンドリューの同胞(きょうだい)で相続人のアンソニーであったということになります(see Lawler Part II)。

フィラデルフィアは,当時は夏になるごとに黄熱病が流行していたそうですから,そもそも合衆国の恒久首都となる見込みは薄かったところです。

 さて,1797年3月9日に行われたフィラデルフィアの「大統領の家」からのワシントン一家の退去は,あまり見事ではなかったようです。ワシントン一家の退去後,アダムズ新大統領は「大統領の家」に入ったのですが・・・

 

 ・・・しかしながら,その優美さにかかわらず,当該邸宅はワシントン一家の出発後きちんと清掃されていなかったこと,及び前大統領の召使らが,酔いどれて,おそらく主人のポトマック河畔の邸宅〔マウント・ヴァーノン〕における厳しい労働の生活に戻る将来の悲観のゆえ,彼の新しい調度類のいくつかを損壊してしまっていることを発見したアダムズは,ショックを受けた。更にアダムズは,いくつかの部屋が小さな役に立たない小部屋に没論理的に分割されていることを見出した。したがって,広い家屋の一隅に落ち着きつつ,彼は,他の場所について小修繕がされるように指示をした。(Ferling p.336

 

ジョン・アダムズ夫人アビゲイルは1797年3月にはフィラデルフィアには未着であって,マサチューセッツ州から同市に到着したのは同年5月の中旬でした(Ferling p.346)。したがって,アビゲイルの意見はジョンからの伝聞に基づくもののように思われるのですが,ワシントン一家退去直後の「大統領の家」の状況について,アビゲイルの批評は殊更厳しかったとチェーナウは伝えます。

 

・・・執行権の長の邸宅がだらしのない状態にあることにぞっとしたとジョン及びアビゲイル・アダムズは主張した。特にアビゲイルは当該家屋を,「私が今まで聞いた中で (that I ever heard of) 最もスキャンダラスな,召使ら仲間による飲酒及び無秩序の現場」であるところの豚小屋 (pigsty) といってけなした。・・・(Chernow p.769

 

 

5 「大統領の家」におけるワシントン一家の家事使用人団に関して

 フィラデルフィアの「大統領の家」でワシントン一家に仕えていた召使らとは,アフリカ系奴隷やらドイツ系の年季奉公人やらだったようです。「ワシントンは大体20人から24人ほどの家事使用人団をフィラデルフィアにおいて維持していた――これらのうち,アフリカ系奴隷の数は,同市において職務を開始した直後の8名から最後の2ないしは3名へと推移した。」及び「アフリカ系奴隷の大部分は,ドイツ系の年季奉公人 (German indentured servants) に置き換えられた。」とあります(Lawler Part I)。ドイツ人は,das Täusche-Volkであるとともに,ビール等のお酒を飲むのが好きそうです。アフリカ系奴隷の一人,料理長のハーキュリーズは,1797年3月9日のワシントン一家フィラデルフィア退去の際に逃亡しています。

 

  ハーキュリーズは,1797年3月に自由に向けて逃亡した。伝えられるところによると,引退したばかりの大統領とその家族とがヴァジニアへ帰る旅行を開始した朝のことである。当該逃亡から1箇月たたないうちにルイ=フィリップ(後のフランス国王)がマウント・ヴァーノンを訪れた。彼の男性召使の一人がハーキュリーズの娘と言葉を交わし,「小さなお嬢ちゃんはお父さんと二度と会えなくなったことについてきっと深く動転しているのだろうと言ってみた。彼女は,とんでもありません,だんなさま,とても喜んでいます,だって父は今や自由なのですから,と答えた。」

  ワシントンの遺言の規定によって,ハーキュリーズは1801年に解放され,彼は逃亡奴隷ではなくなった。彼についてはそれ以上のことは知られていない。〔ハーキュリーズの子である〕リッチモンド,エヴェイ及びデリアは母を通じて寡婦産奴隷であり,奴隷のままでとどめおかれた。(Lawler, Edward, Jr., The President’s House in Philadelphia: The Rediscovery of a Last Landmark (The Pennsylvania Magazine of History of Biography, October 2005) Revisited

 

ハーキュリーズがフィラディフィアで謳歌した自由は,逃亡に向け彼を大胆ならしめる一方,ヴァジニアに帰るという将来像をより抑圧的なものに感じさせただけであっただろう。(Chernow p.762

 

アメリカ南部・ヴァジニア州のマウント・ヴァーノンは評判が悪く,ワシントンの大統領任期末期には,フィラデルフィアの家事使用人団の士気は頽廃していたということでしょうか。
 (
なお,マサチューセッツ人であるアダムズは,奴隷を所有していませんでした。)

料理長ハーキュリーズは逃亡したものの,アダムズから引取りを拒否された2頭の老馬は,ぽっくりぽっくり,フィラデルフィアからマウント・ヴァーノンへの陸路6日間の旅(see Chernow p.769)に同行したものでしょうか。まさか,泥酔した召使たちに食べられてしまっていたわけではないでしょう。

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マウント・ヴァーノン

 

6 古代ローマの奴隷所有者とアメリカ合衆国建国期の奴隷所有者

遺言で自分の奴隷(ただし,妻の寡婦産に属するものではありません。)を解放するなど,奴隷に対するワシントンの態度は,大カトーほどドライではなかったようです。

大カトーは「友人や同僚を饗応した時に,食事が終ると直ぐ,何事についても粗略な振舞をした給仕人や料理人を笞で懲らしめ」,「何か死罪に当るやうな事を犯したと思はれるものはすべての奴隷のゐるところで裁判に掛け,有罪と決まればこれを殺した」りしたようです(河野訳77頁。なお,Dryden訳によれば,有罪判決は奴隷仲間に出させしめたようです。)。

これに対して,ワシントンは,「通常は奴隷が鞭打たれることを許さなかったが,他の方法が尽きたときはときどき (sometimes) それを許した。「無精」かつ「怠惰」とマーサが認定したシャーロットという名の奴隷に係る1793年1月の一件は,その一例である。」といった具合にとどまり,「〔アメリカ独立〕戦争前にワシントンは,困った奴隷2名を西インド諸島に船で送り出した。同地においては,熱帯性気候のため,想定される余命は短かった。」程度であったそうではあります(Chernow p.640)。

 

7 時効管理

しかしながら,大カトーとワシントンと,どちらがより「せこい」かというと,むしろワシントンだったかもしれません。

 

1791年4月の初め,司法長官エドモンド・ランドルフがワシントン夫妻に驚くべきニュースを告げた。1780年のペンシルヴァニア法により,6箇月連続して同州〔当時のアメリカ合衆国の首都は同州のフィラデルフィア市にあったことは前記のとおりです。〕に居住する成人奴隷は自動的に自由民となるのであった。〔ヴァジニア出身の〕ランドルフ自身の奴隷のうち3名が,彼らの自由となる権利を行使する予定である旨通告してきていた。奇態なことであるが,合衆国の司法長官は,大統領及びファースト・レディに対して,当該現地法を潜脱 (evade) することを勧めた。どうしたらよいかと説明しつつ,彼が言うには,いったん奴隷がペンシルヴァニア州外に移出されて,それからまた移入されたのならば,時計の針は元に戻るのであって,それから彼らが自由民となることを請求することができるためには,また6箇月が経過しなければならないのであった。(Chernow p.637

 

 ランドルフ司法長官の「ニュース」とは,1780年の上記ペンシルヴァニア法(漸次奴隷制廃止法 Gradual Abolition Law)の適用除外対象を,連邦議会の議員及び彼らの奴隷の外(1780年当時には,連邦の行政府も司法府も存在していませんでした。),合衆国大統領,副大統領及び各省長官並びに合衆国最高裁判所判事と彼らの奴隷とに拡張しようというペンシルヴァニア州議会に1791年2月に提出された法案(連邦の首都がコロンビア特別区に更に移転することを阻止するために必要だという考えも同州においてはあったのでしょう。)が,ペンシルヴァニア奴隷制廃止協会(Pennsylvania Abolition Society)の強力な反対運動等によって同議会において否決されたことだったようです(see Lawler Revisited)。

 

  間違いが起きないように,ワシントンは,6箇月の制限期間が経過してしまわないうちに,彼の奴隷らを〔ペンシルヴァニア州外での〕短期間の滞在のためにマウント・ヴァーノンとの間で往復させるよう決定した。クリストファー・シールズ〔その後1799年9月に逃亡計画が発覚しましたが,同年1214日のワシントンの最期に立ち会うことになったワシントンの従者です(see Chernow p.801, 809)。〕,リッチモンド〔前記ハーキュリーズの息子。後に金を盗みますが,当該窃盗はハーキュリーズと共に逃亡する計画があったがゆえのようです(see Chernow p.763)。〕及びオネィ・ジャッジ〔ワシントン夫人マーサの女召使。1796年5月に逃亡し,ニュー・ハンプシャー州ポーツマスに居住(see Chernow p.759)。同州グリーンランドで1848年2月25日に死亡しましたが,1793年にワシントン大統領の署名した逃亡奴隷法の下で最後まで逃亡奴隷身分でした(see Lawler Revisited)。〕は未成年者であったので,皆,自由民身分の取得からは除外されていた。成人の奴隷を奴隷身分にとどめるために,ワシントンは様々な策略 (ruses) を用い,彼らがなぜ短期間家に帰されるのかが彼らに知られないようにした。彼がずばり言うには,「彼ら(すなわち奴隷ら)及び公衆双方を欺き (deceive) おおせるような口実でもって本件を処理したい。」ということであった〔1791年4月12日付けの秘書トビアス・リア宛書簡〕。これは,ジョージ・ワシントンによる密謀 (scheming) の稀有の例であり,マーサ・ワシントンとトビアス・リアとはその間彼との秘密の共謀関係にあった。(Chernow p.638

 

時効管理も大変です。

我が民法は,平成29年法律第44号によって一部改正されることになり,同法施行後の民法(以下「改正後民法」といいます。)からは,3年,2年又は1年の短期消滅時効に関する条項(民法170条から174条まで)は削除されます。「飲み屋のツケの消滅時効は1年」ということで有名な民法174条4号等も当該被削除条項に含まれますが,平成29年法律第44号の附則10条4項は同法の施行日前に債権が生じた場合(当該施行日以後に債権が生じた場合であって,その原因である法律行為が施行日前にされたときを含む。)におけるその債権の消滅時効の期間については,なお従前の例によるものとしています。平成29年法律第44号施行日の前夜には不良呑み助が酒場を徘徊して「最後の晩だからツケで飲ませろ。」と飲み屋の経営者らにせこく迷惑をかけまくるなどということがあるのでしょうか(法律行為が施行日前であればよいので,注文をして,「ヘーイ,承りましたぁ。」という返事が返ってきた時が正子前であればよいのでしょう。)。弁護士の職務に関する債権に係る短期消滅時効期間の規定(民法172条。同条1項は「弁護士・・・の職務に関する債権は,その原因となった事件が終了した時から2年間行使しないときは,消滅する。」)も削除されます。

現在の民法167条1項は「債権は,10年間行使しないときは,消滅する。」と規定していますが,改正後民法166条1項は次のように規定しています。

 

166条 債権は,次に掲げる場合には,時効によって消滅する。

 一 債権者が権利を行使することができることを知った時から5年間行使しないとき。

 二 権利を行使することができる時から10年間行使しないとき。

 

 商事消滅時効に係る商法522条(「商行為によって生じた債権は,この法律に別段の定めがある場合を除き,5年間行使しないときは,時効によって消滅する。ただし,他の法令に5年間より短い時効期間の定めがあるときは,その定めるところによる。」)も,民法の一部を改正する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律(平成29年法律第45号)3条によって削除されます。経過規定として同法4条7項は「施行日前にされた商行為によって生じた債権に係る消滅時効の期間については,なお従前の例による。」としています。

 不法行為による損害賠償の請求権は「被害者又はその法定代理人が損害及び加害者を知った時から3年間行使しないときは,時効によって消滅」しますが(民法724条前段),この消滅時効期間は,「人の生命又は身体を害する不法行為」については3年から5年に延ばされます(改正後民法724条の2)。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002  東京都渋谷区渋谷三丁目5-16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール: saitoh@taishi-wakaba.jp

 

民法改正への対応準備も重要です。


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1 紀元前49年1月10日,11日又は12

紀元前49年「1月10日の夜,カエサル,ルビコン川を越え内乱始まる。」と,スエトニウス=国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(上)』(岩波文庫・1986年)330頁のローマ史年表にあります。また,プルタルコス=河野与一訳『プルターク英雄伝(八)』(岩波文庫・1955年)197頁(「ポンペーイウス」60)の割注も,ルビコン川渡河を「前49年1月10日」のこととしています。村川堅太郎教授は「1月7日,元老院はシーザー〔カエサル〕の召還をきめ,戒厳令を発布してポンペイウスに指揮をゆだねた。3日後にこの情報を得たシーザーは,しばらく熟慮したのち,古代にも諺となっていた「骰子は投げられた」の句を吐いて,自分の任地の属州とイタリアとの境をなすルビコン川を渡り,10日の夜のうちにアドリア海岸の要衝アリミㇴムを占領した。」と記しています(村川編『世界の歴史2 ギリシアとローマ』(中央公論社・1961年)311‐312頁)。一見簡単です。しかしながら,実際にはいつのことだったのか,よく考えると難しいところがあります。

(1)季節 :秋

まず季節は,冬ではなく,秋でしょう。紀元前45年のユリウス暦開始に当たって,「この太陽暦が新しい年の1月1日から将来にかけて,季節の正しい推移と,いっそうぴったり符合するように,前の年の11月と12月の間に,2ヶ月をはさむ。/このように調整されたその年は,それまでの慣例上,この年のために設けられていた1ヶ月の閏月も加えて,ついに1年が15ヶ月となった」という季節調整が必要だったのですから(スエトニウス「カエサル」40・スエトニウス=国原前掲書48頁)。

(2)一日が始まる時(暦日の区切り):正子 

次に,ローマ暦では一日は何時から始まったのか。これは意外なことに,根拠と共に明言してくれる日本語文献が少ないようです。真夜中の正子(午前零時)から始まるのが当然だからと思われているからでしょうか。手元にある「ローマ人の一日の時間配分」の表(塩野七生『ローマ人への20の質問』(文春新書・2000年)145頁)も,特段の説明なく正子から一日が始まることになっています。

しかしながら,せっかくインターネットによって世界中から情報を入手できる時代ですので,何らかの文献的根拠ではっきりさせたいところです。そこで英語のウェッブ・サイトをいろいろ調べてみると,紀元2世紀の人であるアウルス・ゲッリウスの『アッティカ夜話』のBook3の2に説明がありました。以下,J.C. RolfeLoeb Classical Library版(1927, Revised 1947)の英訳からの重訳です。

 

どの日が,夜の第三時,第四時及び他の時間に生まれた者の誕生日とみなされ,かつ,そう唱えられるべきかは,よく問われる問題である。すなわち,その夜の前の日なのか,後の日なのか。マルクス・ワッロ〔カエサルの同時代人〕は,彼の書いた『古代史』の「日について」においていわく,「一正子から次の正子までの24時間中に生まれた者らは,同一の日に生まれたものとみなされるものである。」これらの言葉から,日没後ではあるが正子前に生まれた者の誕生日は,そののちに当該夜が始まったところの日であるものとするように,彼は日を分けて数えていたことが分かる。しかしながら他方,夜の最後の六時間中〔「ローマの一時間は日出から日没までを12等分したものなので,夏季と冬季とでは,また昼と夜とでも,長さが違っていた。」(スエトニウス=国原前掲書338頁)〕に生まれた者は,その夜の後に明けた日に生まれたものとみなされるのである。

しかしながら,ワッロはまた同じ書において,アテネ人たちは違った数え方であり,一日没から次の日没までの間の全ての時間を単一の日とみなしている,と書いていた。バビロニア人はまた異なった数え方をしていたとも書いていた,すなわち,彼らは一つの日の出から次の日の出の始まりまでの間の全ての時間を一日の名で呼んでいたからである。しかしウンブリアの地では,多くの人々が正午から次の正午までが同一の日だと言っていたとも,書いていた。・・・

しかしながら,ワッロが述べたように,ローマの人民は毎日を正子から次の正子までで数えていたことは,豊富な証拠によって示されている。・・・

 

 そうであれば,問題は,カエサルがルビコン川を渡ったのは,1月9日の夜が更けて正子を過ぎた同月10日の未明であったのか,それとも1月11日になろうとする同月10日の晩(正子前)であったのか,ということになります。

(3)スエトニウスとプルタルコス 

 

  ・・・カエサルはキサルピナ・ガリアにやってきて巡回裁判を終えると,ラウェンナに踏みとどまる,自分のため拒否権を行使するはずの護民官に対し,もし元老院が何か重大な決定を行なったら武力で復讐してやろうと覚悟して。

  ・・・

  さてカエサルは,護民官の拒否権が無効とされ,彼ら自身首都から脱出した〔「1月7日,門閥派がカエサルの軍隊の解体を決議し,ポンペイユスに独裁官の権限を与える。」とされています(スエトニウス=国原前掲書330頁の年表)。この1月7日の日付は,カエサルの『内乱記』のBook 1, Chapter 5に,a.d. VII Id. Ian.と言及されています。〕という知らせを受けとると,直ちに数箇大隊をこっそりと先発させる。しかし疑惑の念を一切与えぬように表面をいつわり,公けの見世物に出席し,建てる手筈をととのえていた剣闘士養成所の設計図を検討し,いつものように盛大な宴会にも姿を見せた。

  日が暮れると近くの製粉所から驢馬を借り,車につけると,最も人目にたたない道を,わずかの護衛者らとともに出発した。

  松明が消えて正道からそれ,長い間迷い,夜明けにやっと道案内を見つけて,非常に狭い道を徒歩で通り抜けた。

  先発の大隊に追いついたのは,ルビコン川である。この川は彼の治めている属州の境界線であった。しばらく立ち停り,「われながらなんと大それたことをやることか」と反省し,近くに居合わせた者を振り返り,こう言った。

  「今からでも引き返せるのだ。しかしいったん,この小さな橋を渡ってしまうと,すべてが武力で決められることになろう」

  こう遅疑逡巡していたとき,じつに奇蹟的な現象が起った。体格がずばぬけて大きく容貌のきわだって美しい男が,忽然として近くに現われ,坐ったまま葦笛を吹いている。これを聞こうと大勢の牧人ばかりでなく,兵士らも部署から離れて駆け寄った。兵士の中に喇叭吹きもいた。その一人から喇叭をとりあげると,その大男は川の方へ飛び出し,胸一杯息を吸い,喇叭を吹き始めた。そしてそのまま川の向う岸へ渡った。

  このときカエサルは言った。

  「さあ進もう。神々の示現と卑劣な政敵が呼んでいる方へ。賽は投げられた(Iacta alea est)」と。

  こうして軍隊を渡した・・・(スエトニウス「カエサル」30‐33・スエトニウス=国原前掲書384041頁)

 

 これは,夜間渡河ではなく,早朝渡河ですね。 
 しかし,プルタルコスによれば,夜明け前の夜間渡河ということになっています。

 

・・・そこで将軍や隊長に,他の武器は措いて剣だけを持ち,できる限り殺戮と混乱を避けてガリアの大きな町アリーミヌム〔現在のリミニ〕を占領するやうに命じ,ホルテーンシウスに軍勢を託した。

さうして自分は昼間は公然と格闘士の練習に顔を出して見物しながら過ごし,日の暮れる少し前に体の療治をしてから宴会場に入り,食事に招いた人々と暫く会談し,既に暗くなつてから立上つたが・・・自分は1台の貸馬車に乗つて最初は別の道を走らせたが,やがてアリーミヌムの方へ向けさせ,アルプスの内側のガリアとイタリアの他の部分との境界を流れてゐるルービコーと呼ばれる河に達すると,思案に耽り始め大事に臨んで冒険の甚しさに眩暈を覚えて速力を控へた。遂に馬を停めて長い間黙つたまま心の中にあれかこれかと決意を廻らして時を過ごした際には計画が幾変転を重ね,アシニウス ポㇽリオーも含めて居合はせた友人たちにも長い間難局について諮り,この河を渡ることが,すべての人々にとつてどれ程大きな不幸の源となるか,又後世の人人にどれ程多くの論議を残すかを考慮した。しかし結局,未来に対する思案を棄てた人のやうに,その後誰でも見当のつかない偶然と冒険に飛込むものが弘く口にする諺となつた,あの『賽は投げることにしよう。』といふ言葉を勢よく吐いて,河を渡る場所に急ぎ,それから後は駈足で進ませ,夜が明ける前にアリーミヌムに突入してこれを占領した。・・・(「カエサル」32・河野与一訳『プルターク英雄伝(九)』(岩波文庫・1956年)140‐141頁)

 

 渡河の時点において「1月10日」であるということであれば,スエトニウスによれば,1月9日の夕暮れに出発して翌同月10日の早朝にルビコン川を渡ったようでもあります。しかしながら,プルタルコスによれば,1月10日の夕暮れに出発してその夜のうち(正子前)にルビコン川を渡ったように読めます。

(4)距離と移動速度 

 さて,ラヴェンナ・リミニ間の距離は約50キロメートル, ローマ・ラヴェンナ間の距離は350キロメートル超。これらの距離と時間との関係をどう見るかについてギボンの『ローマ帝国衰亡史』を参照すると,同書のVol. I, Chap.Iにはローマの「軍団兵らは,特に荷物とも思わなかった彼らの兵器のほか,炊事用具,築城用具及び幾日分にも及ぶ糧食類を背負っていた。彼らは,恵まれた近代の兵士では耐えられないであろうこの重量下において,歩武を揃えて約6時間で約20マイル移動するよう訓練されていた。(Besides their arms, which the legionaries scarcely considered as an encumbrance, they were laden with their kitchen furniture, the instruments of fortification, and provision of many days. Under this weight, which would oppress the delicacy of a modern soldier, they were trained by a regular step to advance, in about six hours, near twenty miles.)」と,同Chap. IIには,皇帝らの設けた駅逓制度(institution of posts)を利用すれば「ローマ街道伝いに一日で100マイル移動することは容易であった。(it was easy to travel an hundred miles in a day along the Roman roads.)」とあります。古代のローマの1マイルは1480メートルで(スエトニウス=国原前掲書401頁),英国の1マイルは1609メートル。1日で100ローマ・マイルの移動は神速ということのようで,「〔カエサルは〕長距離の征旅は,軽装で雇った車にのり,信じ難い速さで1日ごとに100マイルも踏破した。・・・その結果,カエサルが彼の到着を知らせるはずの伝令よりも早く着くようなことも再三あった。」とあります(スエトニウス「カエサル」57・スエトニウス=国原前掲書65頁)。

 「他の武器は措いて剣だけを持」ったとしても,50キロメートルは兵士らにとってはやはり2日行程であるべきものとすれば,50キロメートル先を1月10日の払暁に襲撃するためにはできれば同月8日に出発すべきということになります。しかし,350キロメートル超離れたところからの1月7日発の連絡の到着にはやはり2日以上はかかって,早くとも同月9日着ということにはならないでしょうか。(弓削達『ローマはなぜ滅んだか』(講談社現代新書・1989年)50頁には,「馬を使った早飛脚の最高の例としては,4世紀の初めの皇帝マクシミヌスが殺害されたことを知らせる早飛脚が,1日約225キロメートル行ったという例がある。120ないし150キロメートルの早飛脚の速度は少しも無理ではなかったと思われる。」とあります。)

(5)1月11日未明ないしは早朝か 

 結局,通常「1月10日の夜」といわれれば,同日の日没から翌11日の夜明けまでのことでしょうから(現在の我々がそうなので古代ローマ人もそうであったと一応考えることにします。),カエサルのラウェンナ出発は,紀元前49年1月10日の夕方ということでよいのではないでしょうか。

しかし,プルタルコス流に夜中に橋をぞろぞろどやどや渡ったというのでは夜盗のようで恰好が悪いので,早朝,神の示現にも祝福されつつ太陽と共に爽やかにかつ勇ましくルビコン川を渡って世界制覇が始まった,というスエトニウス流のお話が作られたのでしょう。(小林標『ラテン語文選』(大学書林・200163頁には「11日にユーリウス・カエサルが軍隊を伴なったままルビコー川を越えてローマ側へ入っている。」とあります。

(なお,11日朝ルビコン川渡河ということでも時間的にはぎりぎりのようですから,11日出発,12日朝に渡河のスケジュールの方が現実的であると判断されるのももっともではあります。キケロー=中務哲郎訳『老年について』(岩波文庫・2004年)のキケロー「年譜」(兼利琢也作成)の13頁では「49年 1月12日,カエサル,ルビコーン川を越え,内乱始まる。」とされています。)

2 2017年1月10日

(1)勝訴
 ところで,筆者にとっての2017年1月10日は,幸先よく勝訴判決を頂くことから始まりました。損害賠償請求事件の被告代理人を務めたものです。「・・・原告の前記(1)主張を認めるに足りる証拠はない。/・・・よって,その余の争点について判断するまでもなく,原告の請求は理由がないから,これを棄却することとし,訴訟費用の負担につき,民事訴訟法61条を適用して,主文のとおり判決する。」というのが当該地方裁判所判決の結論部分で,主文は,「1 原告の請求を棄却する。/2 訴訟費用は原告の負担とする。」というものでした。

 敗訴した原告側としては,証拠が無くとも慰謝料等の損害賠償請求自体はできるものの,裁判になった場合には証拠がないと請求が認められない,という当該分野の専門弁護士の説く一般論そのままの結果に終わったわけです。

(2)「問状」の効力いかん 

損害賠償金の支払を得るべくせっかく弁護士に頼んでお金を払って内容証明郵便や訴状を書いてもらったのに何だ,何の効果もなかったではないか,というのが敗訴原告の憤懣の内容となるでしょうか。

しかしながら,「就訴状被下問状者定例也」(訴状につきて問状を下さるるは定例なり)であるからといって(すなわち,訴状が裁判所に提出されて訴えが提起されると(民事訴訟法133条),裁判長の訴状審査(同法137条)を経て訴状が被告に送達され(同法138条1項),これに対して被告は,口頭弁論を準備する書面として(同法161条),答弁書(民事訴訟規則80条)を裁判所に提出し(同規則79条),かつ,原告に直送することになるところ(同規則83条),実務では,裁判所は,「問状を下す」のではなくて呼出状(当事者の呼出しについて民事訴訟法139条,呼出状の送達に関して同法94条)と一体となった「第1回口頭弁論期日呼出状及び答弁書催告状」といった書面を訴状の副本(民事訴訟規則58条1項)と共に被告に送達します。),それを承けた原告が被告に対して「以問状致狼藉事」(問状をもって狼藉を致すこと)をすること(例えば,「「第1回口頭弁論期日呼出状及び答弁書催告状」と題した問状を裁判所がお前にお下しになっただろう。これは,裁判官様がこちらの訴えが正しいと既にお認めになった証拠である。したがって,往生際悪く裁判所で無慈悲に拷問されるより前にさっさと素直にゲロして答弁書に「私が悪うございました。全て原告の言うとおりです。」と書け。」と迫る詐欺ないしは強迫的な狼藉を致すようなことなど)ができるかといえばそれは「姦濫之企」であって,「難遁罪科」(罪科遁れ難し)であることは,貞永元年(1232年)七月の御成敗式目によっても明らかなことです(第51条。なお,当時は問状は原告が自ら被告に交付していたそうです(山本七平『日本的革命の哲学』(祥伝社・2008年)424頁参照)。)。
 訴状提出による訴訟提起等の直接的効果に関して過大な期待を煽ってはいけませんし,また,「裁判所から書面が送達されて来た。」といってもいたずらに過剰に反応する必要もありません。まずは事実及び証拠です。信用のできる弁護士に相談すべきです。

3 ポンペーイウスの大弁護士 

 話はまた古代ローマに戻って,「賽を投げろ」と賭博的にルビコン川を渡河した(これは「名()○○号に乗()する」のような重複表現なのですが,御容赦ください。)カエサルの攻勢に対しっし対応,ポンペーイウスにはよい参謀はついていなかったものでしょうか。これについては,少なくとも弁護士の選択については,それまでの赫々たる名声だけで「弁護士」ありがたがって安易に帷幄に参じさせてはならないもの
 マルクス・トウㇽリウス・キケロー大弁護士は,カエサルルビコン渡河直後「戦争に対して名誉のある立派な理由を持ってゐた」ポンペーイウスと「情勢をうまく利用して自分自身ばかりでなく仲間のものの安全を図つていた」カエサルとの間で右顧左眄していましたが(プルタルコス「キケロー」
37・プルタルコス=河野与一訳『プルターク英雄伝(十)』(岩波文庫・1956年)209頁),紀元前49年4月のカエサルのイスパニア向け発足後に至って同年6月にギリシヤに向け「ポンペーイウスのところへ渡つた」ものの,そこにおいて「ポンペーイウスがキケローを一向重く用ゐないことが,キケローの意見を変へさせ」,キケロー大弁護士は「後悔してゐることを否定せず,ポンペーイウスの戦備をけなし,その計画を密かに不満とし,味方の人々を嘲弄して絶えず警句を慎しまず,自分はいつも笑はず渋面を作つて陣営の中を歩き廻りながら,笑ひたくもない他の人々を笑はせてゐた」そうです(プルタルコス「キケロー」38・河野訳上掲書210頁)。大先生自らお気に入りの下手なおやじギャグは,味方をまず腐らせるということでしょうか。
 紀元前
48年8月のファルサーロスの「敗北の後に,ノンニウスが,ポンペーイウスの陣営には鷲が7羽(軍旗が7本)残つてゐるからしつかり希望を持たなければならないと云ふと,キケローは『我々が小鴉と戦争をしてゐるのなら君の勧告も結構なのだが。』と云」い,「又,ラビエーヌスが或る託宣を引合に出して,ポンペーイウスが勝つ筈になつてゐると云ふと,キケローは『全くだ。その戦術を使つて今度我々は陣営を失つてしまつた。』と云つた」そうです(プルタルコス「キケロー」38・河野訳前掲書211212頁)。何でしょうねぇ, この当事者意識の欠如は。しかもこの口の達者な大先生は,肝腎の天下分け目の「ファルサーロスの戦には病気のためキケローは加はらなかつた」ものであったのみならず,カエサルに敗れて「ポンペーイウスも逃亡したので,デュㇽラキオンに多数の軍隊と有力な艦隊を持つてゐた〔小〕カトーは,法律に従つてコーンスルの身分で上官に当るキケローに軍の統率を依頼した」ところ,「キケローは支配を辞退したばかりでなく全然軍事に加はることを避けたため,ポンペーイウスの息子や友人たちがキケローを裏切者と呼んで剣を抜いたので,〔小〕カトーがそれを止めてキケローを陣営から脱出させなかつたならば,もう少しで殺されるところであつた」との頼りない有様であったとのことでした(プルタルコス「キケロー」39・河野訳前掲書212頁)。

 

 という難しい大先生がかつていたとはいえ,それでも弁護士は使いようであります。まるっきり法的にも見通しなしの賭博として「賽を投げる」ことはやはり危険でしょう。大事を前にして,信頼できる弁護士を探しておくことは無価値ではないものと思います。

 

 弁護士 齊藤雅俊

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1 ポンペイヤとクロディウス

 「カエサルの妻」(uxor caesaris)といった場合,「薬鑵頭の女たらし」であったカエサルの女性遍歴が問題になるというよりは,「李下の冠」又は「瓜田の履」といった意味になります。

 故事にいわく。

 

  〔カエサルは〕コルネリアの後添えとして,クィントゥス・ポンペイユスの娘で,ルキウス・スラの孫娘でもあるポンペイヤを家に迎えた。やがて彼女を,プブリウス・クロディウスに犯されたと考えて離婚した。この男は女に変装し,公けの祭礼の中に忍びこみ,ポンペイヤに不倫な関係をせまったという噂がたって,なかなか消えず,ついに元老院は,祭儀冒涜の件に関して真相を究明することを決議したほどであった。

  ・・・

  プブリウス・クロディウスがカエサルの妻ポンペイヤを犯した罪で,そして同じ理由で聖儀冒涜の罪で告発されたとき,カエサルは証人として呼び出されても,「私は何も知らない」と主張した。母アウレリアも姉ユリアも,同じ審判人の前で一部始終を自信たっぷりと陳述していたのであるが。「ではどうして妻を離婚したのか」と尋ねられ,カエサルはこう答えた。

  「私の家族は,罪を犯してはならぬことは勿論,その嫌疑すらかけられてはならぬと考えているからだ〔Quoniam meos tam suspicione quam crimine iudico carere oportere〕」と。

(スエトニウス『ローマ皇帝伝』「カエサル」6,74(国原吉之助訳・岩波文庫))

 

  ・・・カエサルに有難くない出来事がその家庭に起つて来た。プーブリウス クローディウスは家柄が貴族で財産も弁舌も立派であつたが,傲慢と横暴にかけては厚顔で有名な何人にも劣らなかつた。この男がカエサルの妻のポンペーイアに恋慕し,女の方も厭とは云はなかつたが,女たちの部屋の警戒が厳重であつた上,カエサルの母アウレーリアは貞淑な人で嫁を監視してゐたので,二人の密会はいつも困難で危険を伴なつてゐた。

  ・・・

  この祭〔男子禁制のボナ・デアの祭。男は皆家を出て,家に残った妻が主宰。主要な行事は夜営まれる。女たちで戯れ,音楽が盛んに催される。〕をこの頃(前6212月)ポンペーイアが催ほしたが,クローディウスはまだ髭が生えてゐなかつたので人目に附かないと考へ,琴弾き女の衣装と飾りを著け,若い女のやうな風をしてその家へ向つた。行つて見ると,門が開いてゐて,諜し合はせて置いた召使の女の手で無事に引入れられたが・・・クローディウスは,入れてくれた召使の部屋に逃げ込んでゐるのを発見され,何者だか明らかになつた上,女たちに戸口から追ひ出された。この事をそこから出て来た女たちが夜の間に直ぐ夫に話し,夜が明ける頃には,クローディウスが不敬な行為をして,その侮辱を受けた人々ばかりでなく国家及び神々からも裁きを受けなければならないといふ噂が町中に弘まつた。そこでトリブーヌス プレービスの一人がクローディウスを不敬の廉で告発し(前61年),元老院の有力者はこれを有罪にするために協力・・・した。しかしこれらの人の努力に対抗した民衆はクローディウスを擁護し,それに驚き恐れてゐた裁判官を向ふに廻してクローディウスに非常な援助を与へた。カエサルは直ちに(前61年1月)ポンペーイアを離別したが,法廷に証人として呼び出された時にはクローディウスに対して述べられた事実は何も知らないと云つた。その言葉が背理と思はれたので,告発者が「ではどうして妻を離別したのか。」と訊くと,「私の妻たるものは嫌疑を受ける女であつてはならないから。」と云つた。

  或る人はこれをカエサルが考へてゐる通り述べたのだと云ひ,或る人はクローディウスを一心に救はうとしてゐる民衆の機嫌を取つたのだと云つてゐる。とにかくクローディウス〔は〕この告発に対して無罪となつた・・・

(『プルターク英雄伝』「カエサル」9,10(河野与一訳・岩波文庫))

 

2 離婚原因としての「不貞な行為」

 我が民法770条1項1号によれば,「配偶者に不貞な行為があったとき」は,夫婦の一方は離婚の訴えを提起することができる(つまり,離婚できる。)と規定しています。

 カエサルの妻ポンペイヤは「不貞な行為」をしたのでしょうか。

 

 「不貞行為とは,夫婦間の貞節義務(守操義務)に反する行為をいう。姦通がその代表的な場合であり,実際上も姦通の事例が多い。しかし,不貞行為の概念はかなり漠然としている。」とされます(阿部徹『新版注釈民法(22)親族(2)』(有斐閣・2008年)360頁)。微妙な言い回しですが,これは,不貞行為を姦通の場合に限定すべきか否かについては学説上の対立があり,判例の立場も必ずしも明らかではないからです(阿部徹362頁)。「不貞行為」に含まれ得る姦通以外の性関係としては,「不正常な異性関係,同性愛,獣姦・鶏姦など」が考えられています(阿部徹363頁参照。ただし,鶏姦といっても相手は鶏ではないはずです。)。

 「姦通」は,フランス語のadultèreですね。

 1804年のナポレオンの民法典にいわく。

 

   229

 Le mari pourra demander le divorce pour cause d’ adultère de sa femme.

 (夫は,妻の姦通を原因として離婚を請求することができる。)

 

      230.

  La femme pourra demander le divorce pour cause d’ adultère de son mari, lorsqu’il aura tenu sa concubine dans la maison commune.

 (妻は,夫の姦通を原因として離婚を請求することができる。ただし,夫が姦通の相手を共同の家に同居させたときに限る。)

 

詰まるところ,おれは浮気はするけれどジョゼフィーヌに妻妾同居を求めることまではしないよ,というのがナポレオンの考えであったようです。

昭和22年法律第222号で1948年1月1日から改正される前の我が民法813条は,「妻カ姦通ヲ為シタルトキ」には夫が(2号),「夫カ姦淫罪ニ因リテ刑ニ処セラレタルトキ」には妻が(3号)離婚の訴えを提起することができるものと規定していました。

 昭和22年法律第124号により19471115日から削除される前の我が刑法183条は次のとおり。人妻でなければよかったようです。したがって,ナポレオンの民法典が気にしたようには妻妾同居は問題にならなかったようです。

 

 第183条 有夫ノ婦姦通シタルトキハ2年以下ノ懲役ニ処ス其相姦シタル者亦同シ

  前項ノ罪ハ本夫ノ告訴ヲ待テ之ヲ論ス但本夫姦通ヲ縦容シタルトキハ告訴ノ効ナシ

 

 ところで,民法の旧813条3号及び刑法旧183条並びにそれぞれの改正日付だけを見ると,19471115日から同年1231日までは,夫はいくら姦通をしても妻から離婚の訴えを提起されることはなかったようにも思われるのでドキドキしますが,その辺は大丈夫でした。昭和22年法律第74号(「日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律」は件名)によって,日本国憲法施行の日(1947年5月3日)から19471231日までは(同法附則),「配偶者の一方に著しい不貞の行為があつたときは,他の一方は,これを原因として離婚の訴を提起することができる。」とされていました(同法5条3項)。なお,ここでの「著しい不貞の行為」の意味は,「姦通も場合によっては著しい不貞の行為とならず,また反対に,姦通まで至らなくとも場合によっては著しい不貞の行為となりうるという趣旨であった,と解するのが正しいであろう。」とされています(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)176頁注1)。

 それでは,ポンペイヤとクロディウスとの関係が,1回限りの過ちであった場合はどうでしょうか。

 

 ・・・実際の離婚訴訟では,原告はさまざまの事実を併せて主張するのが普通であり,裁判所も,1度の性交渉が証明されただけで離婚を認めることはまずない。しかし,ときには被告が,性交渉の事実を認めながらも,それは「一時の浮気」にすぎないとか,「酔余の戯れ」でしかないといった抗弁を出すことがあり,下級審判例の中には,2ヵ月に及ぶ異性関係を「一時の迷と考えられぬことはない」として,不貞行為の成立を否定した例もある(名古屋地判昭26627下民集26824)。しかし,一時的な関係は不貞ではないとの解釈は無理であり,学説は一般に,不貞行為にあたると解している・・・(阿部徹360頁)

 

これによれば,学説では,1度限りの姦通でもやはり不貞行為になるということのようです。「離婚請求の最低線」(「裁判官の自由裁量の余地なく,必ず離婚が認められるという保障」(我妻121122頁参照))を維持するためにこそ,学説は,「不貞な行為」を「姦通(性交関係)に限ると解したい。」としています(我妻171頁)。「例えば,夫に不貞の行為があった場合にも,裁判官の裁量によって離婚の請求を棄却することができるとすることは,妻の離婚請求の最低線を崩すことになって不当ではないか。」というわけです(我妻124頁)。

「姦通の事実がある場合にも離婚の請求を認めないのは,〔民法770条〕2項〔「裁判所は,前項第1号から第4号までに掲げる事由がある場合であっても,一切の事情を考慮して婚姻の継続を相当と認めるときは,離婚の請求を棄却することができる。」〕の適用に限る。」とされ(我妻171頁),「原告が事後的にこれを「宥恕」したとか,異性関係を知りつつ黙認していたような場合は本条〔民法770条〕2項の問題になる。」とされています(阿部徹360頁)。

 

3 「婚姻を継続し難い重大な事由」

しかし,カエサルは,法廷において,そもそもポンペイヤとクロディウスとの間に姦通があったとの主張をしていません。(なお,「不貞行為の証明責任は〔離婚を求める〕原告側にあ」ります(阿部徹363頁)。)

そうであれば,カエサルは,我が民法でいえば第770条1項5号の「その他婚姻を継続し難い重大な事由」があるものとしてポンペイヤと離婚したものでしょうか。「厳格な意味で姦通といえない場合(肉体的関係の存在までは立証されない場合)・・・などにも,それらの事由によって婚姻が明らかに破綻しているときは,この〔民法770条1項5号の〕重大な事由にあたる。」とされています(我妻174頁)。ちなみに,「婚姻を継続し難い重大な事由」とは,「一般に,婚姻関係が深刻に破綻し,婚姻の本質に応じた共同生活の回復の見込みがない場合をいうもの」と解されています(阿部徹375頁)。(なお,婚姻を継続し難い重大な事由存在の「証明責任は〔離婚を求める〕原告にあ」ります(阿部徹382頁)。)

 

 不貞行為には該当しないとされる貞節義務違反(性的非行)が破綻離婚(770)の一要素として考慮され,結局,離婚が認められるに至る場合も少なくない(・・・東京高判昭37226〔妻の同意のもとでの夫の女性関係〕,名古屋地判昭47229判時67077〔同性愛〕,東京高判昭471130判時68860〔特定の女性を中心とした徹夜麻雀・グループ旅行などの交遊関係を夫が婚姻後も継続〕など)。本条〔民法770条〕1項5号は具体的離婚原因に該当しない場合を包摂する離婚原因であるから,実体法の理論としては,とくに問題はないであろう。(阿部徹366頁)

 

 実際の訴訟では,「不貞行為が認定されることはそれほどないのです。」とされています(阿部潤「「離婚原因」について」『平成17年度専門弁護士養成連続講座・家族法』(東京弁護士会弁護士研修センター運営委員会編,商事法務・2007年)16頁)。「もちろん,被告が不貞の事実を認めている場合は認定します。また,絶対的な証拠がある場合にも認定します。」とは裁判官の発言ですが,「しかし,多くの場合には,怪しいという程度にとどまるのです。」ということのようです(阿部潤16頁)。

 そこで,民法770条1項5号が登場します。「離婚訴訟を認容するには,不貞行為の存在は必要条件ではありません。婚姻が破綻していれば,不貞行為が認定できなくても,離婚請求は認容されます。例えば,婚姻関係にありながら,正当化されない親密な交際の事実が立証できれば十分です。」ということになるわけです(阿部潤16頁)。民法770条1項1号ばかりが念頭にあると,「親密な交際の事実を認めながら,性的関係はないので,離婚原因はないとの答弁をする場合がありますが,これは正しくはありません(これまた,弁護士が被告代理人となっていながら,このような答弁書が多いのです)。」ということになってしまいます(阿部潤1617頁)。他方,同項5号の「婚姻を継続し難い重大な事由があるかどうかという観点」からは,「夫が妻以外の女性と,複数回,ラブホテルに宿泊」した場合には,被告である夫がいくら「性的関係をもたなかった」と主張しても,「すでに,自白が成立しているようなもの」だとされてしまうわけです(阿部潤17頁)。

 なお,不貞行為の立証のための証拠収集作業としては,「不貞行為の相手の住民票及び戸籍謄本の徴求,写真,録音テープ,メールの保存,携帯電話の受信・着信履歴の保存,クレジットカードの利用明細書の収集等」及び「興信所による素行調査報告書」が挙げられています(東京弁護士会法友全期会家族法研究会編『離婚・離縁事件実務マニュアル(改訂版)』(ぎょうせい・2008年)87頁)。「夫と交際相手の女性との間の不貞行為について争われた事案において,妻や娘等が夫を尾行して見た夫と交際相手の女性との行動,交際相手の女性のことで夫と妻が争っている際の夫の妻に対する発言内容,盗聴によって録音された夫と交際相手の女性との電話での会話内容などから,夫の不貞行為の存在を推定できるとした裁判例がある(水戸地判平成3年1月・・・)。」とされていますが,「収集方法によってはプライバシーの侵害,違法収集証拠性が問題となる」のはもちろんです(東京弁護士会法友全期会家族法研究会8788頁)。

 

4 ローマの離婚

 古代ローマの離婚制度に関しては,初代王ロムルスについて次のように伝えられています。

 

 ・・・ロームルスは尚幾つかの法律を定めた。その中でも烈しいのは,妻が夫を見棄てることを禁じながら,毒を盛つたり代りの子供をそつと連れて来たり鍵を偽造したり姦通する妻を追ひ出すことを認めた法律である。但し他の理由で妻を離別した夫の財産は一部分妻のものとして残りをケレース(収穫の女神)に献ぜさせ,その夫は地下の神々に犠牲を供へるやうに命じてゐる。・・・(『プルターク英雄伝』「ロームルス」22(河野・岩波文庫))

 

離婚貧乏ですね。

なお,古代アテネの法におけると同様,古代ローマの女性も,夫を離別する権利を保持していたとされています(De l’Espris des lois, Livre XVI, Chapitre XVI)。「合意による離婚の自由は,婚姻自由に対応するものとして,少なくとも古典期末までは不可侵とされてい」ました(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法―ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)146頁)。「というのは,妻又は夫がそれぞれ離別権を有する以上,両者は協議により,すなわち合意によって別れることができることはもちろんのことであったのである。」というわけです(De l’Espris des lois, Livre XVI, Chapitre XVI)。

ここで,divorcerépudiationとの意味は異なるとされています。同じ離婚の結果を生ずるとしても,前者は配偶者両者の合意によるもの,後者は配偶者の一方のみの意思によるものとされています(De l’Espris des lois, Livre XVI, Chapitre XV)。カエサルとポンペイヤとの離婚はどちらだったのでしょうか。スエトニウスは,divortium facereであったとしつつ(Divus Julius 6),法廷ではカエサルはなぜポンペイヤをrepudiareしたのかと訊問されたと伝えています(Divus Julius 74)。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

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電話:0368683194

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

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 弁護士の弁の字は,難しい康熙字典の旧字体では「辯」。これは意符の言を真ん中に,音符の辡(べん)で挟んだ文字で,訴訟を分け治める,ひいて,ことわけを明らかにする意を表す文字だそうです(『角川新字源』)。

 名前に言の字が入っているくらいですから,辯護士にとって最重要なのは辯舌ということになるのでしょうか。

 しかしながら,なかなかそういうことにも,簡単にはならないようです。


 口頭弁論の必要性に係る民事訴訟法87条1項本文は「当事者は,訴訟について,裁判所において口頭弁論をしなければならない。」と規定しています。しかし,準備書面に係る民事訴訟法161条1項は,また,「口頭弁論は,書面で準備しなければならない。」と規定しています。そうなると,裁判所における口頭弁論期日における当事者の陳述の実際は,あらかじめ裁判所に提出され,かつ,相手方に直送されているところの「準備書面に記載のとおり陳述いたします。」ということになってくるわけです。

 まずは,弁護士にとっては,書面をしっかりと,かつ,「簡潔な文章で整然かつ明瞭に」書く(民事訴訟規則5条)腕が重要ということになります。


 しかし,これは現代日本に特有な話で,辯護士らはその華麗な辯舌でもって法廷で争うべきことが原則なのではないか,他の国ないしは時代においてはそのような原則が貫徹している例があるはずではないか,とも考えてしまうところです。そのような場合,つい念頭に浮かぶのは,古代ローマの弁護士(また,執政官。「祖国の父」との称号を得る。)にして第一の雄弁家とされるキケロー(前106年-前43年)です。


 キケローは,うぬぼれやで毒舌家(例えば,プルタルコスによれば,天分も学識もないくせに法律家を自称している男を証人に呼んだところ「何も知らない」と答えたので,キケローは「どうやら君は法律のことを訊かれたと思っているらしいね」と言ったとか。)。弁護士報酬は受けなかったものの(ローマの法律家は金銭を要求しなかったものとされています。),厚く感謝する依頼者から,返す必要のないお金を貸してもらったり,遺産相続人に指名されるなどしつつローマの政界で台頭します。(確かに,プルタルコスは,キケローは自己所有の地所からの収入で支出を賄えたので,弁護に立っても報酬や贈物を受け取らなかったと書いていますが,そこでは「借金」や遺産相続には言及されていません。なお,日本民法の委任契約においても,その旨の特約がなければ受任者は委任者に対して報酬を請求できないものとされています(民法6482項)。)

 しかし,キケローは,武器を取るのは苦手で,演説でも実は調子が出てくるまではあがり症。政争における殺人の罪で告発されたアンニウス・ミローを弁護するときには,ポンペーイウスが陣取って武器立ち並ぶ政治裁判法廷の物々しさにすっかり取り乱して震えが止まらず,声がつかえて散々の出来栄え。ミローは有罪,マルセイユに逃亡しました。

 ところが,当該弁論に失敗した後,キケローは『ミローのための演説』を今度は悠然と書き直し,公刊します。今に残る当該「名演説」をマルセイユで読んだミローは,「キケローよ,君がこのとおりしゃべっていたのなら,今ごろおれはここで魚を食ってはいなかったはずだぞ!」と吠えたとか。


 カエサル暗殺(前44315日)後,キケローはアントーニウスと敵対。一連の『フィリッピカ』演説(アテネのデーモステネースの同名の反マケドニア(当時の同国国王は,アレクサンドロス大王の父のフィリッポス2世)演説集にちなんで命名)でアントーニウスを攻撃します。しかし,カエサルの後継者であるオクターウィアーヌスがアントーニウス及びレピドゥスと組むに至り(第二回三頭政治),キケローの運命は暗転。アントーニウスの要求により,三頭政治家のボローニャ会議においてキケローは死すべきものと決定。前4312月7日,キケローは海辺の別荘地で,アントーニウスの手の者によって殺害されました。

 アントーニウスは,キケローの首と,自分を攻撃する『フィリッピカ』を書いたその右手とを切り取ってローマに持って来させ,呵呵大笑,フォルムにさらします。


 キケローの舌(首)を取っただけではアントーニウスの腹の虫は納まらず,書面を書く右手までさらしてやっと十分満足したということは,古代ローマの弁護士にとっても書面作成こそが重要な仕事であったということを推認させる事実でしょうか。前48年に死んでいたミローに言わせれば,残る右手で名文さえ書ければ,キケローの図々しいうぬぼれにとっては,舌が少々使えないくらい何でもないことを忘れるな,ということでしょうか。


 いずれにせよ,右手が使えないのは不便なことです。


 (なお,プルタルコスは,アントーニウスの伝記では右手と書きつつ,キケローの伝記では,その両手が切り取られたものとしています。この分かりにくさは,さすがプルタルコスというべきか。両手を切ったということならば,アントーニウスの手下が,キケローが左利きであった場合のことをも考えて周到に処置したということでしょうか。いずれにせよ,最近の弁護士はパーソナル・コンピュータのキーボードを両手で打って書面を作成していますから,現代のアントーニウスは,「しっかり両手を切り取れ」と命ずることになるのでしょう。)


 現在,キケローの名から派生したcicéroneないしはCiceroneという単語がフランス語やドイツ語に存在します。ただし,これらは弁護士とは関係なく,(雄弁な)観光ガイドという意味です。



(参考)河野与一訳『プルターク英雄伝』(岩波文庫)10:169頁・195頁・205頁・207頁・222頁・224225頁,1192; I.モンタネッリ・藤沢道郎訳『ローマの歴史』(中公文庫)256257頁・278279

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