Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

カテゴリ: ローマ

1 紀元前49年1月10日,11日又は12

紀元前49年「1月10日の夜,カエサル,ルビコン川を越え内乱始まる。」と,スエトニウス=国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(上)』(岩波文庫・1986年)330頁のローマ史年表にあります。また,プルタルコス=河野与一訳『プルターク英雄伝(八)』(岩波文庫・1955年)197頁(「ポンペーイウス」60)の割注も,ルビコン川渡河を「前49年1月10日」のこととしています。村川堅太郎教授は「1月7日,元老院はシーザー〔カエサル〕の召還をきめ,戒厳令を発布してポンペイウスに指揮をゆだねた。3日後にこの情報を得たシーザーは,しばらく熟慮したのち,古代にも諺となっていた「骰子は投げられた」の句を吐いて,自分の任地の属州とイタリアとの境をなすルビコン川を渡り,10日の夜のうちにアドリア海岸の要衝アリミㇴムを占領した。」と記しています(村川編『世界の歴史2 ギリシアとローマ』(中央公論社・1961年)311‐312頁)。一見簡単です。しかしながら,実際にはいつのことだったのか,よく考えると難しいところがあります。

(1)季節 :秋

まず季節は,冬ではなく,秋でしょう。紀元前45年のユリウス暦開始に当たって,「この太陽暦が新しい年の1月1日から将来にかけて,季節の正しい推移と,いっそうぴったり符合するように,前の年の11月と12月の間に,2ヶ月をはさむ。/このように調整されたその年は,それまでの慣例上,この年のために設けられていた1ヶ月の閏月も加えて,ついに1年が15ヶ月となった」という季節調整が必要だったのですから(スエトニウス「カエサル」40・スエトニウス=国原前掲書48頁)。

(2)一日が始まる時(暦日の区切り):正子 

次に,ローマ暦では一日は何時から始まったのか。これは意外なことに,根拠と共に明言してくれる日本語文献が少ないようです。真夜中の正子(午前零時)から始まるのが当然だからと思われているからでしょうか。手元にある「ローマ人の一日の時間配分」の表(塩野七生『ローマ人への20の質問』(文春新書・2000年)145頁)も,特段の説明なく正子から一日が始まることになっています。

しかしながら,せっかくインターネットによって世界中から情報を入手できる時代ですので,何らかの文献的根拠ではっきりさせたいところです。そこで英語のウェッブ・サイトをいろいろ調べてみると,紀元2世紀の人であるアウルス・ゲッリウスの『アッティカ夜話』のBook3の2に説明がありました。以下,J.C. RolfeLoeb Classical Library版(1927, Revised 1947)の英訳からの重訳です。

 

どの日が,夜の第三時,第四時及び他の時間に生まれた者の誕生日とみなされ,かつ,そう唱えられるべきかは,よく問われる問題である。すなわち,その夜の前の日なのか,後の日なのか。マルクス・ワッロ〔カエサルの同時代人〕は,彼の書いた『古代史』の「日について」においていわく,「一正子から次の正子までの24時間中に生まれた者らは,同一の日に生まれたものとみなされるものである。」これらの言葉から,日没後ではあるが正子前に生まれた者の誕生日は,そののちに当該夜が始まったところの日であるものとするように,彼は日を分けて数えていたことが分かる。しかしながら他方,夜の最後の六時間中〔「ローマの一時間は日出から日没までを12等分したものなので,夏季と冬季とでは,また昼と夜とでも,長さが違っていた。」(スエトニウス=国原前掲書338頁)〕に生まれた者は,その夜の後に明けた日に生まれたものとみなされるのである。

しかしながら,ワッロはまた同じ書において,アテネ人たちは違った数え方であり,一日没から次の日没までの間の全ての時間を単一の日とみなしている,と書いていた。バビロニア人はまた異なった数え方をしていたとも書いていた,すなわち,彼らは一つの日の出から次の日の出の始まりまでの間の全ての時間を一日の名で呼んでいたからである。しかしウンブリアの地では,多くの人々が正午から次の正午までが同一の日だと言っていたとも,書いていた。・・・

しかしながら,ワッロが述べたように,ローマの人民は毎日を正子から次の正子までで数えていたことは,豊富な証拠によって示されている。・・・

 

 そうであれば,問題は,カエサルがルビコン川を渡ったのは,1月9日の夜が更けて正子を過ぎた同月10日の未明であったのか,それとも1月11日になろうとする同月10日の晩(正子前)であったのか,ということになります。

(3)スエトニウスとプルタルコス 

 

  ・・・カエサルはキサルピナ・ガリアにやってきて巡回裁判を終えると,ラウェンナに踏みとどまる,自分のため拒否権を行使するはずの護民官に対し,もし元老院が何か重大な決定を行なったら武力で復讐してやろうと覚悟して。

  ・・・

  さてカエサルは,護民官の拒否権が無効とされ,彼ら自身首都から脱出した〔「1月7日,門閥派がカエサルの軍隊の解体を決議し,ポンペイユスに独裁官の権限を与える。」とされています(スエトニウス=国原前掲書330頁の年表)。この1月7日の日付は,カエサルの『内乱記』のBook 1, Chapter 5に,a.d. VII Id. Ian.と言及されています。〕という知らせを受けとると,直ちに数箇大隊をこっそりと先発させる。しかし疑惑の念を一切与えぬように表面をいつわり,公けの見世物に出席し,建てる手筈をととのえていた剣闘士養成所の設計図を検討し,いつものように盛大な宴会にも姿を見せた。

  日が暮れると近くの製粉所から驢馬を借り,車につけると,最も人目にたたない道を,わずかの護衛者らとともに出発した。

  松明が消えて正道からそれ,長い間迷い,夜明けにやっと道案内を見つけて,非常に狭い道を徒歩で通り抜けた。

  先発の大隊に追いついたのは,ルビコン川である。この川は彼の治めている属州の境界線であった。しばらく立ち停り,「われながらなんと大それたことをやることか」と反省し,近くに居合わせた者を振り返り,こう言った。

  「今からでも引き返せるのだ。しかしいったん,この小さな橋を渡ってしまうと,すべてが武力で決められることになろう」

  こう遅疑逡巡していたとき,じつに奇蹟的な現象が起った。体格がずばぬけて大きく容貌のきわだって美しい男が,忽然として近くに現われ,坐ったまま葦笛を吹いている。これを聞こうと大勢の牧人ばかりでなく,兵士らも部署から離れて駆け寄った。兵士の中に喇叭吹きもいた。その一人から喇叭をとりあげると,その大男は川の方へ飛び出し,胸一杯息を吸い,喇叭を吹き始めた。そしてそのまま川の向う岸へ渡った。

  このときカエサルは言った。

  「さあ進もう。神々の示現と卑劣な政敵が呼んでいる方へ。賽は投げられた(Iacta alea est)」と。

  こうして軍隊を渡した・・・(スエトニウス「カエサル」30‐33・スエトニウス=国原前掲書384041頁)

 

 これは,夜間渡河ではなく,早朝渡河ですね。 
 しかし,プルタルコスによれば,夜明け前の夜間渡河ということになっています。

 

・・・そこで将軍や隊長に,他の武器は措いて剣だけを持ち,できる限り殺戮と混乱を避けてガリアの大きな町アリーミヌム〔現在のリミニ〕を占領するやうに命じ,ホルテーンシウスに軍勢を託した。

さうして自分は昼間は公然と格闘士の練習に顔を出して見物しながら過ごし,日の暮れる少し前に体の療治をしてから宴会場に入り,食事に招いた人々と暫く会談し,既に暗くなつてから立上つたが・・・自分は1台の貸馬車に乗つて最初は別の道を走らせたが,やがてアリーミヌムの方へ向けさせ,アルプスの内側のガリアとイタリアの他の部分との境界を流れてゐるルービコーと呼ばれる河に達すると,思案に耽り始め大事に臨んで冒険の甚しさに眩暈を覚えて速力を控へた。遂に馬を停めて長い間黙つたまま心の中にあれかこれかと決意を廻らして時を過ごした際には計画が幾変転を重ね,アシニウス ポㇽリオーも含めて居合はせた友人たちにも長い間難局について諮り,この河を渡ることが,すべての人々にとつてどれ程大きな不幸の源となるか,又後世の人人にどれ程多くの論議を残すかを考慮した。しかし結局,未来に対する思案を棄てた人のやうに,その後誰でも見当のつかない偶然と冒険に飛込むものが弘く口にする諺となつた,あの『賽は投げることにしよう。』といふ言葉を勢よく吐いて,河を渡る場所に急ぎ,それから後は駈足で進ませ,夜が明ける前にアリーミヌムに突入してこれを占領した。・・・(「カエサル」32・河野与一訳『プルターク英雄伝(九)』(岩波文庫・1956年)140‐141頁)

 

 渡河の時点において「1月10日」であるということであれば,スエトニウスによれば,1月9日の夕暮れに出発して翌同月10日の早朝にルビコン川を渡ったようでもあります。しかしながら,プルタルコスによれば,1月10日の夕暮れに出発してその夜のうち(正子前)にルビコン川を渡ったように読めます。

(4)距離と移動速度 

 さて,ラヴェンナ・リミニ間の距離は約50キロメートル, ローマ・ラヴェンナ間の距離は350キロメートル超。これらの距離と時間との関係をどう見るかについてギボンの『ローマ帝国衰亡史』を参照すると,同書のVol. I, Chap.Iにはローマの「軍団兵らは,特に荷物とも思わなかった彼らの兵器のほか,炊事用具,築城用具及び幾日分にも及ぶ糧食類を背負っていた。彼らは,恵まれた近代の兵士では耐えられないであろうこの重量下において,歩武を揃えて約6時間で約20マイル移動するよう訓練されていた。(Besides their arms, which the legionaries scarcely considered as an encumbrance, they were laden with their kitchen furniture, the instruments of fortification, and provision of many days. Under this weight, which would oppress the delicacy of a modern soldier, they were trained by a regular step to advance, in about six hours, near twenty miles.)」と,同Chap. IIには,皇帝らの設けた駅逓制度(institution of posts)を利用すれば「ローマ街道伝いに一日で100マイル移動することは容易であった。(it was easy to travel an hundred miles in a day along the Roman roads.)」とあります。古代のローマの1マイルは1480メートルで(スエトニウス=国原前掲書401頁),英国の1マイルは1609メートル。1日で100ローマ・マイルの移動は神速ということのようで,「〔カエサルは〕長距離の征旅は,軽装で雇った車にのり,信じ難い速さで1日ごとに100マイルも踏破した。・・・その結果,カエサルが彼の到着を知らせるはずの伝令よりも早く着くようなことも再三あった。」とあります(スエトニウス「カエサル」57・スエトニウス=国原前掲書65頁)。

 「他の武器は措いて剣だけを持」ったとしても,50キロメートルは兵士らにとってはやはり2日行程であるべきものとすれば,50キロメートル先を1月10日の払暁に襲撃するためにはできれば同月8日に出発すべきということになります。しかし,350キロメートル超離れたところからの1月7日発の連絡の到着にはやはり2日以上はかかって,早くとも同月9日着ということにはならないでしょうか。

(5)1月11日未明ないしは早朝か 

 結局,通常「1月10日の夜」といわれれば,同日の日没から翌11日の夜明けまでのことでしょうから(現在の我々がそうなので古代ローマ人もそうであったと一応考えることにします。),カエサルのラウェンナ出発は,紀元前49年1月10日の夕方ということでよいのではないでしょうか。

しかし,プルタルコス流に夜中に橋をぞろぞろどやどや渡ったというのでは夜盗のようで恰好が悪いので,早朝,神の示現にも祝福されつつ太陽と共に爽やかにかつ勇ましくルビコン川を渡って世界制覇が始まった,というスエトニウス流のお話が作られたのでしょう。

(なお,11日朝ルビコン川渡河ということでも時間的にはぎりぎりのようですから,11日出発,12日朝に渡河のスケジュールの方が現実的であると判断されるのももっともではあります。キケロー=中務哲郎訳『老年について』(岩波文庫・2004年)のキケロー「年譜」(兼利琢也作成)の13頁では「49年 1月12日,カエサル,ルビコーン川を越え,内乱始まる。」とされています。)

2 2017年1月10日

(1)勝訴
 ところで,筆者にとっての2017年1月10日は,幸先よく勝訴判決を頂くことから始まりました。損害賠償請求事件の被告代理人を務めたものです。「・・・原告の前記(1)主張を認めるに足りる証拠はない。/・・・よって,その余の争点について判断するまでもなく,原告の請求は理由がないから,これを棄却することとし,訴訟費用の負担につき,民事訴訟法61条を適用して,主文のとおり判決する。」というのが当該地方裁判所判決の結論部分で,主文は,「1 原告の請求を棄却する。/2 訴訟費用は原告の負担とする。」というものでした。

 敗訴した原告側としては,証拠が無くとも慰謝料等の損害賠償請求自体はできるものの,裁判になった場合には証拠がないと請求が認められない,という当該分野の専門弁護士の説く一般論そのままの結果に終わったわけです。

(2)「問状」の効力いかん 

損害賠償金の支払を得るべくせっかく弁護士に頼んでお金を払って内容証明郵便や訴状を書いてもらったのに何だ,何の効果もなかったではないか,というのが敗訴原告の憤懣の内容となるでしょうか。

しかしながら,「就訴状被下問状者定例也」(訴状につきて問状を下さるるは定例なり)であるからといって(すなわち,訴状が裁判所に提出されて訴えが提起されると(民事訴訟法133条),裁判長の訴状審査(同法137条)を経て訴状が被告に送達され(同法138条1項),これに対して被告は,口頭弁論を準備する書面として(同法161条),答弁書(民事訴訟規則80条)を裁判所に提出し(同規則79条),かつ,原告に直送することになるところ(同規則83条),実務では,裁判所は,「問状を下す」のではなくて呼出状(当事者の呼出しについて民事訴訟法139条,呼出状の送達に関して同法94条)と一体となった「第1回口頭弁論期日呼出状及び答弁書催告状」といった書面を訴状の副本(民事訴訟規則58条1項)と共に被告に送達します。),それを承けた原告が被告に対して「以問状致狼藉事」(問状をもって狼藉を致すこと)をすること(例えば,「「第1回口頭弁論期日呼出状及び答弁書催告状」と題した問状を裁判所がお前にお下しになっただろう。これは,裁判官様がこちらの訴えが正しいと既にお認めになった証拠である。したがって,往生際悪く裁判所で無慈悲に拷問されるより前にさっさと素直にゲロして答弁書に「私が悪うございました。全て原告の言うとおりです。」と書け。」と迫る詐欺ないしは強迫的な狼藉を致すようなことなど)ができるかといえばそれは「姦濫之企」であって,「難遁罪科」(罪科遁れ難し)であることは,貞永元年(1232年)七月の御成敗式目によっても明らかなことです(第51条。なお,当時は問状は原告が自ら被告に交付していたそうです(山本七平『日本的革命の哲学』(祥伝社・2008年)424頁参照)。)。
 訴状提出による訴訟提起等の直接的効果に関して過大な期待を煽ってはいけませんし,また,「裁判所から書面が送達されて来た。」といってもいたずらに過剰に反応する必要もありません。まずは事実及び証拠です。信用のできる弁護士に相談すべきです。

3 ポンペーイウスの大弁護士 

 話はまた古代ローマに戻って,「賽を投げろ」と賭博的にルビコン川を渡河した(これは「名()○○号に乗()する」のような重複表現なのですが,御容赦ください。)カエサルの攻勢に対しっし対応,ポンペーイウスにはよい参謀はついていなかったものでしょうか。これについては,少なくとも弁護士の選択については,それまでの赫々たる名声だけで「弁護士」ありがたがって安易に帷幄に参じさせてはならないもの
 マルクス・トウㇽリウス・キケロー大弁護士は,カエサルルビコン渡河直後「戦争に対して名誉のある立派な理由を持ってゐた」ポンペーイウスと「情勢をうまく利用して自分自身ばかりでなく仲間のものの安全を図つていた」カエサルとの間で右顧左眄していましたが(プルタルコス「キケロー」
37・プルタルコス=河野与一訳『プルターク英雄伝(十)』(岩波文庫・1956年)209頁),紀元前49年4月のカエサルのイスパニア向け発足後に至って同年6月にギリシヤに向け「ポンペーイウスのところへ渡つた」ものの,そこにおいて「ポンペーイウスがキケローを一向重く用ゐないことが,キケローの意見を変へさせ」,キケロー大弁護士は「後悔してゐることを否定せず,ポンペーイウスの戦備をけなし,その計画を密かに不満とし,味方の人々を嘲弄して絶えず警句を慎しまず,自分はいつも笑はず渋面を作つて陣営の中を歩き廻りながら,笑ひたくもない他の人々を笑はせてゐた」そうです(プルタルコス「キケロー」38・河野訳上掲書210頁)。大先生自らお気に入りの下手なおやじギャグは,味方をまず腐らせるということでしょうか。
 紀元前
48年8月のファルサーロスの「敗北の後に,ノンニウスが,ポンペーイウスの陣営には鷲が7羽(軍旗が7本)残つてゐるからしつかり希望を持たなければならないと云ふと,キケローは『我々が小鴉と戦争をしてゐるのなら君の勧告も結構なのだが。』と云」い,「又,ラビエーヌスが或る託宣を引合に出して,ポンペーイウスが勝つ筈になつてゐると云ふと,キケローは『全くだ。その戦術を使つて今度我々は陣営を失つてしまつた。』と云つた」そうです(プルタルコス「キケロー」38・河野訳前掲書211212頁)。何でしょうねぇ, この当事者意識の欠如は。しかもこの口の達者な大先生は,肝腎の天下分け目の「ファルサーロスの戦には病気のためキケローは加はらなかつた」ものであったのみならず,カエサルに敗れて「ポンペーイウスも逃亡したので,デュㇽラキオンに多数の軍隊と有力な艦隊を持つてゐた〔小〕カトーは,法律に従つてコーンスルの身分で上官に当るキケローに軍の統率を依頼した」ところ,「キケローは支配を辞退したばかりでなく全然軍事に加はることを避けたため,ポンペーイウスの息子や友人たちがキケローを裏切者と呼んで剣を抜いたので,〔小〕カトーがそれを止めてキケローを陣営から脱出させなかつたならば,もう少しで殺されるところであつた」との頼りない有様であったとのことでした(プルタルコス「キケロー」39・河野訳前掲書212頁)。

 

 という難しい大先生がかつていたとはいえ,それでも弁護士は使いようであります。まるっきり法的にも見通しなしの賭博として「賽を投げる」ことはやはり危険でしょう。大事を前にして,信頼できる弁護士を探しておくことは無価値ではないものと思います。

 

 弁護士 齊藤雅俊

 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

 大志わかば法律事務所

 電話:0368683194

 電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

 

1 ポンペイヤとクロディウス

 「カエサルの妻」(uxor caesaris)といった場合,「薬鑵頭の女たらし」であったカエサルの女性遍歴が問題になるというよりは,「李下の冠」又は「瓜田の履」といった意味になります。

 故事にいわく。

 

  〔カエサルは〕コルネリアの後添えとして,クィントゥス・ポンペイユスの娘で,ルキウス・スラの孫娘でもあるポンペイヤを家に迎えた。やがて彼女を,プブリウス・クロディウスに犯されたと考えて離婚した。この男は女に変装し,公けの祭礼の中に忍びこみ,ポンペイヤに不倫な関係をせまったという噂がたって,なかなか消えず,ついに元老院は,祭儀冒涜の件に関して真相を究明することを決議したほどであった。

  ・・・

  プブリウス・クロディウスがカエサルの妻ポンペイヤを犯した罪で,そして同じ理由で聖儀冒涜の罪で告発されたとき,カエサルは証人として呼び出されても,「私は何も知らない」と主張した。母アウレリアも姉ユリアも,同じ審判人の前で一部始終を自信たっぷりと陳述していたのであるが。「ではどうして妻を離婚したのか」と尋ねられ,カエサルはこう答えた。

  「私の家族は,罪を犯してはならぬことは勿論,その嫌疑すらかけられてはならぬと考えているからだ〔Quoniam meos tam suspicione quam crimine iudico carere oportere〕」と。

(スエトニウス『ローマ皇帝伝』「カエサル」6,74(国原吉之助訳・岩波文庫))

 

  ・・・カエサルに有難くない出来事がその家庭に起つて来た。プーブリウス クローディウスは家柄が貴族で財産も弁舌も立派であつたが,傲慢と横暴にかけては厚顔で有名な何人にも劣らなかつた。この男がカエサルの妻のポンペーイアに恋慕し,女の方も厭とは云はなかつたが,女たちの部屋の警戒が厳重であつた上,カエサルの母アウレーリアは貞淑な人で嫁を監視してゐたので,二人の密会はいつも困難で危険を伴なつてゐた。

  ・・・

  この祭〔男子禁制のボナ・デアの祭。男は皆家を出て,家に残った妻が主宰。主要な行事は夜営まれる。女たちで戯れ,音楽が盛んに催される。〕をこの頃(前6212月)ポンペーイアが催ほしたが,クローディウスはまだ髭が生えてゐなかつたので人目に附かないと考へ,琴弾き女の衣装と飾りを著け,若い女のやうな風をしてその家へ向つた。行つて見ると,門が開いてゐて,諜し合はせて置いた召使の女の手で無事に引入れられたが・・・クローディウスは,入れてくれた召使の部屋に逃げ込んでゐるのを発見され,何者だか明らかになつた上,女たちに戸口から追ひ出された。この事をそこから出て来た女たちが夜の間に直ぐ夫に話し,夜が明ける頃には,クローディウスが不敬な行為をして,その侮辱を受けた人々ばかりでなく国家及び神々からも裁きを受けなければならないといふ噂が町中に弘まつた。そこでトリブーヌス プレービスの一人がクローディウスを不敬の廉で告発し(前61年),元老院の有力者はこれを有罪にするために協力・・・した。しかしこれらの人の努力に対抗した民衆はクローディウスを擁護し,それに驚き恐れてゐた裁判官を向ふに廻してクローディウスに非常な援助を与へた。カエサルは直ちに(前61年1月)ポンペーイアを離別したが,法廷に証人として呼び出された時にはクローディウスに対して述べられた事実は何も知らないと云つた。その言葉が背理と思はれたので,告発者が「ではどうして妻を離別したのか。」と訊くと,「私の妻たるものは嫌疑を受ける女であつてはならないから。」と云つた。

  或る人はこれをカエサルが考へてゐる通り述べたのだと云ひ,或る人はクローディウスを一心に救はうとしてゐる民衆の機嫌を取つたのだと云つてゐる。とにかくクローディウス〔は〕この告発に対して無罪となつた・・・

(『プルターク英雄伝』「カエサル」9,10(河野与一訳・岩波文庫))

 

2 離婚原因としての「不貞な行為」

 我が民法770条1項1号によれば,「配偶者に不貞な行為があったとき」は,夫婦の一方は離婚の訴えを提起することができる(つまり,離婚できる。)と規定しています。

 カエサルの妻ポンペイヤは「不貞な行為」をしたのでしょうか。

 

 「不貞行為とは,夫婦間の貞節義務(守操義務)に反する行為をいう。姦通がその代表的な場合であり,実際上も姦通の事例が多い。しかし,不貞行為の概念はかなり漠然としている。」とされます(阿部徹『新版注釈民法(22)親族(2)』(有斐閣・2008年)360頁)。微妙な言い回しですが,これは,不貞行為を姦通の場合に限定すべきか否かについては学説上の対立があり,判例の立場も必ずしも明らかではないからです(阿部徹362頁)。「不貞行為」に含まれ得る姦通以外の性関係としては,「不正常な異性関係,同性愛,獣姦・鶏姦など」が考えられています(阿部徹363頁参照。ただし,鶏姦といっても相手は鶏ではないはずです。)。

 「姦通」は,フランス語のadultèreですね。

 1804年のナポレオンの民法典にいわく。

 

   229

 Le mari pourra demander le divorce pour cause d’ adultère de sa femme.

 (夫は,妻の姦通を原因として離婚を請求することができる。)

 

      230.

  La femme pourra demander le divorce pour cause d’ adultère de son mari, lorsqu’il aura tenu sa concubine dans la maison commune.

 (妻は,夫の姦通を原因として離婚を請求することができる。ただし,夫が姦通の相手を共同の家に同居させたときに限る。)

 

詰まるところ,おれは浮気はするけれどジョゼフィーヌに妻妾同居を求めることまではしないよ,というのがナポレオンの考えであったようです。

昭和22年法律第222号で1948年1月1日から改正される前の我が民法813条は,「妻カ姦通ヲ為シタルトキ」には夫が(2号),「夫カ姦淫罪ニ因リテ刑ニ処セラレタルトキ」には妻が(3号)離婚の訴えを提起することができるものと規定していました。

 昭和22年法律第124号により19471115日から削除される前の我が刑法183条は次のとおり。人妻でなければよかったようです。したがって,ナポレオンの民法典が気にしたようには妻妾同居は問題にならなかったようです。

 

 第183条 有夫ノ婦姦通シタルトキハ2年以下ノ懲役ニ処ス其相姦シタル者亦同シ

  前項ノ罪ハ本夫ノ告訴ヲ待テ之ヲ論ス但本夫姦通ヲ縦容シタルトキハ告訴ノ効ナシ

 

 ところで,民法の旧813条3号及び刑法旧183条並びにそれぞれの改正日付だけを見ると,19471115日から同年1231日までは,夫はいくら姦通をしても妻から離婚の訴えを提起されることはなかったようにも思われるのでドキドキしますが,その辺は大丈夫でした。昭和22年法律第74号(「日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律」は件名)によって,日本国憲法施行の日(1947年5月3日)から19471231日までは(同法附則),「配偶者の一方に著しい不貞の行為があつたときは,他の一方は,これを原因として離婚の訴を提起することができる。」とされていました(同法5条3項)。なお,ここでの「著しい不貞の行為」の意味は,「姦通も場合によっては著しい不貞の行為とならず,また反対に,姦通まで至らなくとも場合によっては著しい不貞の行為となりうるという趣旨であった,と解するのが正しいであろう。」とされています(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)176頁注1)。

 それでは,ポンペイヤとクロディウスとの関係が,1回限りの過ちであった場合はどうでしょうか。

 

 ・・・実際の離婚訴訟では,原告はさまざまの事実を併せて主張するのが普通であり,裁判所も,1度の性交渉が証明されただけで離婚を認めることはまずない。しかし,ときには被告が,性交渉の事実を認めながらも,それは「一時の浮気」にすぎないとか,「酔余の戯れ」でしかないといった抗弁を出すことがあり,下級審判例の中には,2ヵ月に及ぶ異性関係を「一時の迷と考えられぬことはない」として,不貞行為の成立を否定した例もある(名古屋地判昭26627下民集26824)。しかし,一時的な関係は不貞ではないとの解釈は無理であり,学説は一般に,不貞行為にあたると解している・・・(阿部徹360頁)

 

これによれば,学説では,1度限りの姦通でもやはり不貞行為になるということのようです。「離婚請求の最低線」(「裁判官の自由裁量の余地なく,必ず離婚が認められるという保障」(我妻121122頁参照))を維持するためにこそ,学説は,「不貞な行為」を「姦通(性交関係)に限ると解したい。」としています(我妻171頁)。「例えば,夫に不貞の行為があった場合にも,裁判官の裁量によって離婚の請求を棄却することができるとすることは,妻の離婚請求の最低線を崩すことになって不当ではないか。」というわけです(我妻124頁)。

「姦通の事実がある場合にも離婚の請求を認めないのは,〔民法770条〕2項〔「裁判所は,前項第1号から第4号までに掲げる事由がある場合であっても,一切の事情を考慮して婚姻の継続を相当と認めるときは,離婚の請求を棄却することができる。」〕の適用に限る。」とされ(我妻171頁),「原告が事後的にこれを「宥恕」したとか,異性関係を知りつつ黙認していたような場合は本条〔民法770条〕2項の問題になる。」とされています(阿部徹360頁)。

 

3 「婚姻を継続し難い重大な事由」

しかし,カエサルは,法廷において,そもそもポンペイヤとクロディウスとの間に姦通があったとの主張をしていません。(なお,「不貞行為の証明責任は〔離婚を求める〕原告側にあ」ります(阿部徹363頁)。)

そうであれば,カエサルは,我が民法でいえば第770条1項5号の「その他婚姻を継続し難い重大な事由」があるものとしてポンペイヤと離婚したものでしょうか。「厳格な意味で姦通といえない場合(肉体的関係の存在までは立証されない場合)・・・などにも,それらの事由によって婚姻が明らかに破綻しているときは,この〔民法770条1項5号の〕重大な事由にあたる。」とされています(我妻174頁)。ちなみに,「婚姻を継続し難い重大な事由」とは,「一般に,婚姻関係が深刻に破綻し,婚姻の本質に応じた共同生活の回復の見込みがない場合をいうもの」と解されています(阿部徹375頁)。(なお,婚姻を継続し難い重大な事由存在の「証明責任は〔離婚を求める〕原告にあ」ります(阿部徹382頁)。)

 

 不貞行為には該当しないとされる貞節義務違反(性的非行)が破綻離婚(770)の一要素として考慮され,結局,離婚が認められるに至る場合も少なくない(・・・東京高判昭37226〔妻の同意のもとでの夫の女性関係〕,名古屋地判昭47229判時67077〔同性愛〕,東京高判昭471130判時68860〔特定の女性を中心とした徹夜麻雀・グループ旅行などの交遊関係を夫が婚姻後も継続〕など)。本条〔民法770条〕1項5号は具体的離婚原因に該当しない場合を包摂する離婚原因であるから,実体法の理論としては,とくに問題はないであろう。(阿部徹366頁)

 

 実際の訴訟では,「不貞行為が認定されることはそれほどないのです。」とされています(阿部潤「「離婚原因」について」『平成17年度専門弁護士養成連続講座・家族法』(東京弁護士会弁護士研修センター運営委員会編,商事法務・2007年)16頁)。「もちろん,被告が不貞の事実を認めている場合は認定します。また,絶対的な証拠がある場合にも認定します。」とは裁判官の発言ですが,「しかし,多くの場合には,怪しいという程度にとどまるのです。」ということのようです(阿部潤16頁)。

 そこで,民法770条1項5号が登場します。「離婚訴訟を認容するには,不貞行為の存在は必要条件ではありません。婚姻が破綻していれば,不貞行為が認定できなくても,離婚請求は認容されます。例えば,婚姻関係にありながら,正当化されない親密な交際の事実が立証できれば十分です。」ということになるわけです(阿部潤16頁)。民法770条1項1号ばかりが念頭にあると,「親密な交際の事実を認めながら,性的関係はないので,離婚原因はないとの答弁をする場合がありますが,これは正しくはありません(これまた,弁護士が被告代理人となっていながら,このような答弁書が多いのです)。」ということになってしまいます(阿部潤1617頁)。他方,同項5号の「婚姻を継続し難い重大な事由があるかどうかという観点」からは,「夫が妻以外の女性と,複数回,ラブホテルに宿泊」した場合には,被告である夫がいくら「性的関係をもたなかった」と主張しても,「すでに,自白が成立しているようなもの」だとされてしまうわけです(阿部潤17頁)。

 なお,不貞行為の立証のための証拠収集作業としては,「不貞行為の相手の住民票及び戸籍謄本の徴求,写真,録音テープ,メールの保存,携帯電話の受信・着信履歴の保存,クレジットカードの利用明細書の収集等」及び「興信所による素行調査報告書」が挙げられています(東京弁護士会法友全期会家族法研究会編『離婚・離縁事件実務マニュアル(改訂版)』(ぎょうせい・2008年)87頁)。「夫と交際相手の女性との間の不貞行為について争われた事案において,妻や娘等が夫を尾行して見た夫と交際相手の女性との行動,交際相手の女性のことで夫と妻が争っている際の夫の妻に対する発言内容,盗聴によって録音された夫と交際相手の女性との電話での会話内容などから,夫の不貞行為の存在を推定できるとした裁判例がある(水戸地判平成3年1月・・・)。」とされていますが,「収集方法によってはプライバシーの侵害,違法収集証拠性が問題となる」のはもちろんです(東京弁護士会法友全期会家族法研究会8788頁)。

 

4 ローマの離婚

 古代ローマの離婚制度に関しては,初代王ロムルスについて次のように伝えられています。

 

 ・・・ロームルスは尚幾つかの法律を定めた。その中でも烈しいのは,妻が夫を見棄てることを禁じながら,毒を盛つたり代りの子供をそつと連れて来たり鍵を偽造したり姦通する妻を追ひ出すことを認めた法律である。但し他の理由で妻を離別した夫の財産は一部分妻のものとして残りをケレース(収穫の女神)に献ぜさせ,その夫は地下の神々に犠牲を供へるやうに命じてゐる。・・・(『プルターク英雄伝』「ロームルス」22(河野・岩波文庫))

 

離婚貧乏ですね。

なお,古代アテネの法におけると同様,古代ローマの女性も,夫を離別する権利を保持していたとされています(De l’Espris des lois, Livre XVI, Chapitre XVI)。「合意による離婚の自由は,婚姻自由に対応するものとして,少なくとも古典期末までは不可侵とされてい」ました(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法―ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)146頁)。「というのは,妻又は夫がそれぞれ離別権を有する以上,両者は協議により,すなわち合意によって別れることができることはもちろんのことであったのである。」というわけです(De l’Espris des lois, Livre XVI, Chapitre XVI)。

ここで,divorcerépudiationとの意味は異なるとされています。同じ離婚の結果を生ずるとしても,前者は配偶者両者の合意によるもの,後者は配偶者の一方のみの意思によるものとされています(De l’Espris des lois, Livre XVI, Chapitre XV)。カエサルとポンペイヤとの離婚はどちらだったのでしょうか。スエトニウスは,divortium facereであったとしつつ(Divus Julius 6),法廷ではカエサルはなぜポンペイヤをrepudiareしたのかと訊問されたと伝えています(Divus Julius 74)。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

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 弁護士の弁の字は,難しい康熙字典の旧字体では「辯」。これは意符の言を真ん中に,音符の辡(べん)で挟んだ文字で,訴訟を分け治める,ひいて,ことわけを明らかにする意を表す文字だそうです(『角川新字源』)。

 名前に言の字が入っているくらいですから,辯護士にとって最重要なのは辯舌ということになるのでしょうか。

 しかしながら,なかなかそういうことにも,簡単にはならないようです。


 口頭弁論の必要性に係る民事訴訟法87条1項本文は「当事者は,訴訟について,裁判所において口頭弁論をしなければならない。」と規定しています。しかし,準備書面に係る民事訴訟法161条1項は,また,「口頭弁論は,書面で準備しなければならない。」と規定しています。そうなると,裁判所における口頭弁論期日における当事者の陳述の実際は,あらかじめ裁判所に提出され,かつ,相手方に直送されているところの「準備書面に記載のとおり陳述いたします。」ということになってくるわけです。

 まずは,弁護士にとっては,書面をしっかりと,かつ,「簡潔な文章で整然かつ明瞭に」書く(民事訴訟規則5条)腕が重要ということになります。


 しかし,これは現代日本に特有な話で,辯護士らはその華麗な辯舌でもって法廷で争うべきことが原則なのではないか,他の国ないしは時代においてはそのような原則が貫徹している例があるはずではないか,とも考えてしまうところです。そのような場合,つい念頭に浮かぶのは,古代ローマの弁護士(また,執政官。「祖国の父」との称号を得る。)にして第一の雄弁家とされるキケロー(前106年-前43年)です。


 キケローは,うぬぼれやで毒舌家(例えば,プルタルコスによれば,天分も学識もないくせに法律家を自称している男を証人に呼んだところ「何も知らない」と答えたので,キケローは「どうやら君は法律のことを訊かれたと思っているらしいね」と言ったとか。)。弁護士報酬は受けなかったものの(ローマの法律家は金銭を要求しなかったものとされています。),厚く感謝する依頼者から,返す必要のないお金を貸してもらったり,遺産相続人に指名されるなどしつつローマの政界で台頭します。(確かに,プルタルコスは,キケローは自己所有の地所からの収入で支出を賄えたので,弁護に立っても報酬や贈物を受け取らなかったと書いていますが,そこでは「借金」や遺産相続には言及されていません。なお,日本民法の委任契約においても,その旨の特約がなければ受任者は委任者に対して報酬を請求できないものとされています(民法6482項)。)

 しかし,キケローは,武器を取るのは苦手で,演説でも実は調子が出てくるまではあがり症。政争における殺人の罪で告発されたアンニウス・ミローを弁護するときには,ポンペーイウスが陣取って武器立ち並ぶ政治裁判法廷の物々しさにすっかり取り乱して震えが止まらず,声がつかえて散々の出来栄え。ミローは有罪,マルセイユに逃亡しました。

 ところが,当該弁論に失敗した後,キケローは『ミローのための演説』を今度は悠然と書き直し,公刊します。今に残る当該「名演説」をマルセイユで読んだミローは,「キケローよ,君がこのとおりしゃべっていたのなら,今ごろおれはここで魚を食ってはいなかったはずだぞ!」と吠えたとか。


 カエサル暗殺(前44315日)後,キケローはアントーニウスと敵対。一連の『フィリッピカ』演説(アテネのデーモステネースの同名の反マケドニア(当時の国王は,アレクサンドロス大王の父のフィリッポス2世)演説集にちなんで命名)でアントーニウス 

を攻撃します。しかし,カエサルの後継者であるオクターウィアーヌスがアントーニウス及びレピドゥスと組むに至り(第二回三頭政治),キケローの運命は暗転。アントーニウスの要求により,三頭政治家のボローニャ会議においてキケローは死すべきものと決定。前4312月7日,キケローは海辺の別荘地で,アントーニウスの手の者によって殺害されました。

 アントーニウスは,キケローの首と,自分を攻撃する『フィリッピカ』を書いたその右手とを切り取ってローマに持って来させ,呵呵大笑,フォルムにさらします。


 キケローの舌(首)を取っただけではアントーニウスの腹の虫は納まらず,書面を書く右手までさらしてやっと十分満足したということは,古代ローマの弁護士にとっても書面作成こそが重要な仕事であったということを推認させる事実でしょうか。前48年に死んでいたミローに言わせれば,残る右手で名文さえ書ければ,キケローの図々しいうぬぼれにとっては,舌が少々使えないくらい何でもないことを忘れるな,ということでしょうか。


 いずれにせよ,右手が使えないのは不便なことです。


 (なお,プルタルコスは,アントーニウスの伝記では右手と書きつつ,キケローの伝記では,その両手が切り取られたものとしています。この分かりにくさは,さすがプルタルコスというべきか。両手を切ったということならば,アントーニウスの手下が,キケローが左利きであった場合のことをも考えて周到に処置したということでしょうか。いずれにせよ,最近の弁護士はパーソナル・コンピュータのキーボードを両手で打って書面を作成していますから,現代のアントーニウスは,「しっかり両手を切り取れ」と命ずることになるのでしょう。)


 現在,キケローの名から派生したcicéroneないしはCiceroneという単語がフランス語やドイツ語に存在します。ただし,これらは弁護士とは関係なく,(雄弁な)観光ガイドという意味です。



(参考)河野与一訳『プルターク英雄伝』(岩波文庫)10:169頁・195頁・205頁・207頁・222頁・224225頁,1192; I.モンタネッリ・藤沢道郎訳『ローマの歴史』(中公文庫)256257頁・278279

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