1 墓参り
特別縁故者に対する相続財産分与審判の手続代理人の仕事(2018年2月25日の当ブログ記事「特別縁故者に対する相続財産分与制度等について」を御参照ください。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1070203577.html)をしていて,亡くなった被相続人の人となり,周囲の人々との交渉等を調べて書面にまとめつつ,筆者はふと,明治・大正の文豪・森鷗外の手になる史伝物を思い出したことでした。筆者は当該手続事件の被相続人の墓にも詣でて調査を行ったのですが,鷗外もその史伝の主人公について同様のことをしています。1915年10月30日(松本清張『両像・森鷗外』(文藝春秋・1994年)147頁参照)におけるその次第は次のとおり。
わたくしは谷中の感応寺に往つて,抽斎の墓を訪ねた。墓は容易く見附けられた。南向の本堂の西側に,西に面して立つてゐる。「抽斎澀江君墓碣銘」と云ふ篆額も墓誌銘も,皆小島成斎の書である。漁村の文は頗る長い。後に〔抽斎の息子である澀江〕保さんに聞けば,これでも碑が余り大きくなるのを恐れて,割愛して刪除したものださうである。〔略〕
わたくしは自己の敬愛してゐる抽斎と,其尊卑二属とに,香華を手向けて置いて感応寺を出た。(森鷗外『澀江抽斎』(1916年)その八)
当該墓参を,70年後,昭和の文豪・松本清張が自ら再現しています。
本年(昭和60年〔1985年〕)6月2日の午後,私は谷中に行った。感応寺は谷中霊園の南端に相対した西側道路から横通りに入ったところにある。小さな山門に「光照山感応寺」の古い扁額がかかっている。日蓮宗。門を入った正面の本堂は四注造,前に破風造の廂が付いている。墓地は本堂の向かって左側にある。広くない墓地には石塔が密集し,仕切りの各筋の径も人一人がようやく通れるくらいである。私は抽齋墓を容易く見つけることができず,本堂前に人は居らぬかとさがしたが,そこには小学2,3年生くらいの子供が5,6人遊んでいるだけだった。右側の庫裡へ行った。私を見て犬がほえた。
住職は居るか居ないかわからない。私を墓地へ導いたのは14,5くらいの少女だった。
抽齋墓は本堂西から二筋目を北に入ってすぐだった。黝い墓石は高さ2メートル,横1.5メートル,上がゆるやかな山形をなしている。篆額に当る上部は広く仕切ってそのスペースに「抽齋澀江君墓碣銘」と2行に篆書体文字が彫られてある。したがってその下の墓誌銘は方1メートルの中に長い海保漁村の文が楷書の細字で窮屈そうに埋められている。
抽齋の墓に詣る人の有無を少女に聞くと,ときたまに人が見えるという。私が墓の形や篆額の文字を書体どおりにノートに写し取っていると,このお墓の方はどういう人ですかと少女はきいた。むかしのえらいお医者さんで学者ですと私は答えた。少女は,そうですか,どうぞごゆっくりと頭をさげて去った。(松本148‐149頁)
〔前略〕〔永井〕荷風ですら〔中略〕谷中感応寺までは足を伸ばしていない。また鷗外研究家諸氏の文章にも抽齋墓を訪ねたとは見えないようである。「鷗外写真アルバム」といった刊行物にも,この墓の写真は載っていない。私が一応満足したのはこうした理由からである。(松本150頁)
2 鷗外の史伝
ところで,鷗外の史伝物に対する清張の評言は,なかなか厳しい。1909年の「「半日」は純自然派だが,早くも細君の抗議に遇っている。つづけて書いて発表した「ヰタ〔・セクスアリス〕」は陸軍次官石本新六の戒飭を受け,雑誌は発禁処分を受けた。どうも自然派は難物である。」(松本280頁),「諸事百般の現象はすべて仮象である,それが存在するかのように映っているだけだと「かのやうに」〔1912年〕で遁げようとしても,それも不可能になってきた。天皇制が存在する限り,狭い潜水艦の室内に居るように,ちょっと身動きしただけでも,こっちの角,あっちの角にぶっつかってしまう。」(松本281頁),「歴史小説に筆を取った。が,歴史小説が現代の寓意と取られている以上,これも窮屈を感じてくる。」(松本281頁)という諸々の「危険」を避けつつあった果ての,要は安全な場所での衒学趣味が鷗外の史伝だ,というのです。
官吏の道を踏みはずさないためには,文壇の外に立つことが必要であった。文学を第二義的にする故である。しかし,常に群小の上に聳立していなければならない。類なきペダンティックの文学がそれである。
それは,何の危険物もない考証学者の伝記にとりかかったとき,存分にペダンティックの自由が発揮された。ジェネアロジックの方向というのは,くりかえして云うように,澀江保の「抽齋歿後」によって発想を得たものだが,そうは云わないで,魏収の名を出して,ペダンティックに糊塗するところなどはいかにも鷗外らしいのである。(松本282頁)
ここで出て来る魏収は,『角川新字源』によると,「506‐572。北斉の人。鉅鹿(河北省)の人。字は伯起。北魏から北斉に仕え,中書令兼著作郎となり,「魏書」を編集した。」とあります。魏収の「魏書」は南北朝の北魏(439年華北統一,534年滅亡)の歴史を記したもので,邪馬台国の「魏志」とは異なります。魏収について鷗外は,次のように述べていました。
わたくしは此叙法〔「一人の事蹟を叙して其死に至つて足れりとせず,其人の裔孫のいかになりゆくかを追蹤して現今に及ぶ」叙法〕が人に殊なつてゐると云つた。しかし此叙法と近似したるものは絶無では無い。昔魏収は魏書を修むるに当つて,多く列伝中人物の末裔を載せ,後に趙翼〔1727‐1814。清代前期の史学者・詩人。〕の難ずる所となつた。しかし収は曲筆して同世の故旧に私したのである。一種陋劣なる目的を有してゐたのである。わたくしの無利害の述作とは違ふ。〔後略〕(森鷗外『伊沢蘭軒』(1916‐1917年)その三百七十)
特別縁故者に対する相続財産分与の審判の申立書などは,どうしても「無利害の述作」というわけにはいかないので,鷗外にいわせればやはり「一種陋劣なる目的を有」するものになってしまうのでしょうか。とはいえ自営業者たる弁護士は,自分で食っていかねばなりません。
「説明を入れたくて仕方がないのは鷗外の性分である。考証物にその自由を見出したのは鷗外の幸福である。」とは清張の『両像・森鷗外』の結語です(松本283頁)。説明に夢中になってしまって脱線することを,五十代半ばの鷗外は楽しんでいたのでしょうか。『伊沢蘭軒』の書き方についてですが,清張は次のように説明します。
伊澤徳の「蘭軒略傳」「歴世略傳」を骨子にして,それを編年的に順序立て,「勝手気儘に」考証随筆として書きすすめて行くことである。この方法だと,鷗外の広博強識を以てすればいくらでも思うままに書ける。話は話を生み,枝から枝へと岐れ,煩瑣な梢を茂らせる。人物は次々と出て来きて,その小伝や軼事(逸事・逸話)はくりひろげられる。(松本194‐195頁)
3 京水と鷗外
(1)京水を追跡する鷗外
前記のような脱線のうち,鷗外が特に力を入れたのが,澀江抽斎の「痘科の師」である「池田氏,名は奫,字は河澄,通称は瑞英,京水と号した」池田京水(『抽斎』その十四)と池田独美との関係の調査です。
独美の家は門人の一人が養子になつて嗣いで,2世瑞仙と称した。これは上野国桐生の人村岡善左衛門常信の二男である。名は晉,字は柔行,又直卿,霧渓と号した。躋寿館の〔痘科の〕講座をも此人が継承した。
〔略〕
独美の初代瑞仙は素源家の名閥だとは云ふが,周防の岩国から起つて幕臣になり,駿河台の池田氏の宗家となつた。それに業を継ぐべき子がなかつたので,門下の俊才が入つて後を襲つた。遽に見れば,なんの怪しむべき所もない。
しかしこゝに問題の人物がある。それは抽斎の痘科の師となるべき池田京水である。
京水は独美の子であつたか,甥であつたか不明である。向島嶺松寺に立つてゐた墓に刻してあつた誌銘には子としてあつたらしい。然るに2世瑞仙晉の子直温の撰んだ過去帖には,独美の弟玄俊の子だとしてある。子にもせよ甥にもせよ,独美の血族たる京水は宗家を嗣ぐことが出来ないで,自立して町医になり,下谷徒士町に門戸を張つた。当時江戸には駿河台の官医2世瑞仙と,徒士町の町医京水とが両立してゐたのである。(『抽斎』その十五)
わたくしは抽斎の師となるべき人物を数へて京水に及ぶに当つて,こゝに京水の身上に関する疑を記して,世の人の教を受けたい。(『抽斎』その十六)
「調べてみても京水の身もとはよくわからない。そこで穿鑿欲が出てくる。人に知られざる人の,そのまた謎への挑みである。「抽齋」を開始したのが大正5年〔1916年〕1月である。その前年から京水を探していたと思われるふしがある」(松本77頁)ということになります。「鷗外の京水に対するモノマニアックなまでの執拗な追跡」(松本206頁)がなされます。
(2)向島弘福寺
ところで,被相続人の特別縁故者であるかどうかの該当性判断に当たっては被相続人の「死後における実質的供養の程度」も考慮されますから(広島高等裁判所平成15年3月28日決定(家月55巻9号60頁)等),特別縁故者に対する相続財産分与審判の手続代理人の仕事には被相続人の菩提寺から故人の「供養」に関する事情を聴取することも含まれ,筆者は,当該手続事件の依頼者に慫慂されてお寺の住職訪問をしたのでした。鷗外もまた,池田京水の身もと調査に当たって,住職訪問をしています。池田氏の墓があったという向島の嶺松寺を探しての帰り道です。
わたくしは幼い時向島小梅村に住んでゐた。初の家は今須崎町になり,後の家は今小梅町になつてゐる。〔略〕
わたくしは再び向島へ往つた。そして新小梅町,小梅町,須崎町の間を徘徊して捜索したが,嶺松寺と云ふ寺は無い。わたくしは絶望して踵を旋したが,道の序なので,須崎町弘福寺にある先考〔亡父〕の墓に詣でた。さて住職奥田墨汁師を訪つて久濶を叙した。対談の間に,わたくしが嶺松寺と池田氏の墓との事を語ると,墨汁師は意外にも両つながらこれを知つてゐた。
墨汁師は云つた。嶺松寺は常泉寺の近傍にあつた。其畛域内に池田氏の墓が数基並んで立つてゐたことを記憶してゐる。墓には多く誌銘が刻してあつた。然るに近い頃に嶺松寺は廃寺になつたと云ふのである。〔略〕(『抽斎』その十六)
向島牛頭山弘福寺の奥田住職は,親切です。
弘福寺の現住墨汁師は大正5年〔1916年〕に入つてからも,捜索の手を停めずにゐた。そしてとうとう下目黒村海福寺所蔵の池田氏過去帖と云ふものを借り出して,わたくしに見せてくれた。〔略〕
此書の記する所は,わたくしのために創聞に属するものが頗る多い。就中異とすべきは,独美に玄俊と云ふ弟があつて,それが宇野氏を娶つて,二人の間に出来た子が京水だと云ふ一事である。此書に拠れば,独美は一旦姪京水を養つて子として置きながら,それに家を嗣がせず,更に門人村岡晉を養って子とし,それに業を継がせたことになる。(『抽斎』その十九)
〔前略〕わたくしは撰者不詳の〔京水の〕墓誌の残欠に,京水が刺つてあるのを見ては,忌憚なきの甚だしきだと感じ,晉が〔自分に対する〕養父の賞美の語を記して,一の抑損の句をも著けぬのを見ては,簡傲も亦甚だしいと感ずることを禁じ得ない。わたくしには初代瑞仙独美,2世瑞仙晉,京水の3人の間に或るドラアムが蔵せられてゐるやうに思はれてならない。〔後略〕(『抽斎』その二十)
(3)京水廃嫡一件
前記の「ドラアム」については,その後事情が判明します。「京水廃嫡一件」と鷗外によって名づけられるところの「池田の家の床下に埋蔵せられてゐた火薬」であって,ついには「爆発」(『蘭軒』その二百三十一(1917年))させられるに至ったものです。
ア 独美の養子・京水
廃嫡させられることとなった京水は,独美の弟・玄俊の子として天明六年(1786年)に京都に生まれ,生後間もなく伯父・独美の養子に迎えられたのでした。現在では「成年に達した者は,養子をすることができる」わけですが(民法792条),独美は元文元年(1736年)又は享保二十年(1735年)生まれですから(『蘭軒』その二百二十三),天明六年には当然既に成人に達しておりました(というか五十代ですね。)。なお,「幕藩時代の武士が養子を願い出るときは,17歳以上,通常は30歳以上の者に限って許される慣例であった。ただやむを得ない事情がある場合,たとえば奉公相勤め難い事情があるときは,30歳以下の者にも願い出を許した。しかし16歳以下の者には,絶対に養親資格を認めなかった」そうです(中川高男『新版注釈民法(24)親族(4)親子(2)養子§§792~817の11』(有斐閣・1994年)792条解説・153頁)。
〔独美の弟・玄俊に天明〕六年〔1786年〕五月五日に三男が生まれた。名は貞之介であつた。是が後の京水である。貞之介の母〔宇野氏〕秀は此月二十六日に死んだ。恐くは産後の病であつただらう。〔略〕
貞之介は恃を失つた直後に,伯父瑞仙〔独美〕の養子にせられて大坂に往つた。〔京水の〕自筆の巻物に「善郷〔独美〕養て兄弟二人を祐ると云意を用て〔貞之介を〕祐二と改む」と云つてある。「兄弟二人を祐る」とは,玄俊は家に女子が無いので,赤子を兄に託して祐けられ,兄瑞仙は男子が無いので,貞之介の祐二を獲て祐けられたと云ふ意であらう。〔後略〕(『蘭軒』その二百二十七)
「嬰幼児をその父母が他人の養子にやるという制度は,わが国では古くから行われた。そこには,親が子を自由に支配しうるとする思想があったであろうし,子の福祉を考えるよりは,収養する方の家の承継や,養子にやる親と貰う親との経済的な理由(実質的には子の売買)もあったであろう。濫用の弊も少なくはなかった。」と説かれてはいたところです(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)269頁)。現在では「養子となる者が15歳未満であるときは,その法定代理人が,これに代わって,縁組の承諾をすることができる。」(民法797条1項)と規定されるとともに,「未成年者を養子とするには,家庭裁判所の許可を得なければならない。ただし,自己又は配偶者の直系卑属を養子とする場合は,この限りでない。」とされています(同法798条)。民法798条本文の許可は,養子となるべき者の住所地を管轄する家庭裁判所の審判によってされます(家事事件手続法(平成23年法律第52号)39条,別表第一の61の項,161条)。
イ 独美の後妻・沢と「家庭の友」・佐々木文仲
此推定にして誤らぬならば,瑞仙〔独美〕の3人目の妻沢は寛政七年〔1795年〕若しくは八年〔1796年〕に,養子祐二のゐる処へ迎へられたのである。沢は〔数え〕31歳若くは32歳で,祐二は10歳若くは11歳であつた。次で瑞仙が召されて江戸に来り,沢と祐二改杏春とを迎へ取つた。是が瑞仙62,沢33,杏春12の時である。(『蘭軒』その二百三十)
祐二が杏春と改められた由来については,「京水は「善郷〔独美〕(中略)〔幕府に〕実子の届に言上するに及て杏春と称す」と自記してゐる」そうです(『蘭軒』その二百二十九)。
ところで,「独美先生は還暦過ぎて,29歳も年下の若い奥さんをもらったのか,男のロマンだなぁ・・・」などと呑気なことを言ってはいけません。
しかし其裏面には幾多の葛藤があつたものと看なくてはならない。わたくしは後よりして前を顧み,果よりして因を推し,錦橋瑞仙〔独美〕の妻沢を信任することが稍過ぎてゐたのではないかと疑ふ。其家に出入する佐々木文仲と云ふものをして,余りに深く内事に干渉するに至らしめたのではないかと疑ふ。佐々木は恐くは洋人の所謂「家庭の友」に類した地位を占むるに至つたのであらう。そして佐々木と沢との関係は,遂に養子杏春をしてこれが犠牲たらしめたのであらう。(『蘭軒』その二百三十一)
「ここに云う洋人の所謂「家庭の友」とは,暗にその家の主人の黙認の下にその妻と密通した男が公然と家庭に出入りすることの意味に当てているようである。」とは清張の註釈です(松本76頁)。
夫と三十も年が違う沢は,自分よりずっと年下の若者を愛人にし,すでに衰老に達した瑞仙は,この後妻を寵愛しつつも佐々木との関係に眼をふさいでいたのである。(松本76頁)
古代ローマの2代目皇帝ティベリウスは60歳の男が50歳未満の女と結婚することを禁じ,いかなる場合でも60歳の男が罰を受けずに結婚することができないようにしたそうですが(De l’Esprit des lois XXIII, 21),このような不様な事態の発生を避けしめようとしたものでしょうか。なお,当該規定は4代目皇帝クラウディウスによって廃止されますが(スエトニウス『ローマ皇帝伝』(岩波文庫・1986年)「クラウディウス」第23章に,「元首ティベリウスが,60歳の人はもう子供が生めないかのように考えて,パピウス・ポッパエウス法に追加していた条規を〔クラウディウスは〕廃止した。」とあります(国原吉之助訳)。),クラウディウス自身が58歳の年(西暦紀元48年)になって結婚しており,25歳年下のその妻がネロの母のアグリッピナでした。しかし,クラウディウスは,その後7年目(54年)に毒殺されます。
…per ipsam Agrippinam, quae boletum medicatum avidissimo ciborum
talium obtulerat.
クラウディウスはきのこ(boletus)が大好物で,一説によれば,毒をしみ込ませたきのこを食べさせられて死んだのでした。
ウ 京水辞嗣及び池田家のその後
さて,独美先生が眼をふさぐのをよいことに,お沢さんと佐々木文仲とは散々悪乗りしたようです。京水少年は我慢がならない。
京水自筆の巻物中参正池田家譜善直〔京水〕の条には,「享和元年〔1801年〕病に依て嗣を辞するの後瑞英と改む」と書してある。嗣を辞したのと,杏春を瑞英と改めたのは,辛酉の出来事である。当時養父錦橋66,養母沢37,杏春の瑞英16であつた。(『蘭軒』その二百三十一)
当該辞嗣に関する事情について京水が書いたところを,鷗外は次のように紹介します。「種々謀計」というのは,お沢さんと文仲とがこもごも独美先生のところにやって来ては,京水についてあることないこと悪口を言い,告げ口してなどいたのでしょう。
〔京水の家の〕生祠記は既に佚した。しかし京水は養父の幕府に呈した系図を写して,其後に数行の文を書した。わたくしは此書後に由つて生祠記の内容の一端を知ることを得た。京水の辞嗣は霧渓の受嗣と表裏をなしてゐて,其内情は下の如くである。
「右直郷(霧渓2世瑞仙晋)は初佐佐木文仲の弟子なり。文仲は於沢の方に愛せられて,遂に余を追て嗣とならむの志起り,種々謀計せしかど,余辞嗣の後にも養子の事(文仲自ら養子となる事)成らず,終に直郷に定まりたり。其間山脇道作の男玄智,瑞貞と云,堀本一甫の男某,田中俊庵の男,瑞亮と云,皆一旦は養子となれども,何れも於沢の方と文仲に追出されたり。善直(京水瑞英)誌。」(『蘭軒』その二百三十一)
京水辞嗣後,さすがに独美先生も,妻の愛人である佐々木文仲を自らの養子にさせられるところまでコケ(コキュ)にされることには耐えられなかったのでしょう。
しかしめげずに,お沢さんらは自分らに都合のよい弟子筋の2世瑞仙晉が養子になるまでは(2世瑞仙晉が正式に養嗣子となったのは,独美の死ぬる6箇月前の文化十三(1816年)年三月のことでした(『蘭軒』その二百三十二)。),不都合な養子3人を連続していびり出したのですか。恐ろしいですねぇ,お局様ですねぇ,後妻業ですねぇ。
4 後妻業
さて,後妻業。
(1)妻の相続権
現在は「被相続人の配偶者は,常に相続人となる」ものとされ(民法890条1項),「子及び配偶者が相続人であるときは,子の相続分及び配偶者の相続分は各2分の1」ということになります(同法900条1号)。しかしながら,江戸時代には「被相続人に子孫なくまた養子なくして死亡せるときは,その家名は妻これを相続す。」ということでしたから(中田薫『徳川時代の文学に見えたる私法』(岩波文庫・1984年)202頁),反対解釈すれば,お沢さんとしては養子の京水がいては夫の独美の遺産に係る相続権が全く無かったわけです。(しかし,いずれにせよお沢さんが自ら幕府の官医の職を継ぐわけにはいかなかったでしょうから,都合のよい後任の養子は必要です。)なお,昭和22年法律第222号による改正前の民法では,「旧法の家督相続においては,初めから配偶者の法定相続権はなく,また遺産相続においても,直系卑属なき場合にのみ,配偶者の法定相続権は認められたに過ぎなかった」ところでした(中川善之助『相続法』(有斐閣・1964年)86頁)。「子は孝養を尽くすはずのものであり,その子が父の遺産を承継する以上,別に母が遺産の一部を相続する必要はさらにないと考えられていた」ものです(中川87頁)。しかし,お沢さんとしては,生意気な小僧と思われたのであろう京水少年の「孝養」は当てにならぬものと信ぜられ,聡明でフレンドリーな男性たる文仲との愛の方が頼りがいのあるものと思われたものなのでしょう。
(2)養子に対する離縁の訴え
ア 辣腕弁護士氏登場
ところで,現代において後妻業をやるような方にあっては,富裕かつ老耄の我が夫に養子などがあった場合,遺産の2分の1(民法900条1号)では我慢できない,自分が全財産を受けるという遺言書を夫に書かせても,養子の遺留分としてなお残る4分の1(同法1028条2号)が実に惜しい,そこで,辣腕弁護士氏(「弁護士は,他の弁護士・・・との関係において相互に名誉と信義を重んじる。」ものとされています(弁護士職務基本規程70条)。)を雇い,かつ,難しいことはもう面倒くさくなっている夫を外界から遮断してあげて,夫を励まし夫の名で,養子に対して離縁の訴えを提起せしめ(民法814条),又は家庭裁判所に廃除の請求をせしめ(同法892条。家事事件手続法39条,別表第一の86の項,188条),若しくは廃除の遺言をさせる(民法893条)という内助に及ぶということが,あり得ます。そうであるのならば,鷗外のいう「火薬」の晃々たる「爆発」的紛争は,昔も今も必ずしも珍しいものではないことになるようです。
イ 養父の住居権等
さて,離縁の訴えに先立つ離縁を求める家事調停(家事事件手続法257条)の申立書の写しの送付(同法256条)を受けた養子は驚きます。また,そこには「縁組を継続し難い重大な事由」(民法814条1項3号参照)云々として自分が「刺つてあるのを見ては,忌憚なきの甚だしきだと感じ」ざるを得ません。どうせこれはあの後妻の仕業であって養父の本意ではあるまいということで養父に会いに行くのですが,養父と同居している後妻(民法752条において「夫婦は同居」するものとされています。)によって,お前なんかともう会いたくないと言っているわよと言われて家に入ることを妨げられます。正当な理由がないのに人の住居に侵入すると3年以下の懲役又は10万円以下の罰金に処せられ(刑法130条前段),未遂も罰せられます(同法132条)。最高裁判所昭和58年4月8日判決・刑集37巻3号215頁は「刑法130条前段にいう「侵入シ」とは,他人の看守する建造物に管理権者の意思に反して立ち入ることをいう」と判示しています。
そこで知り合いの弁護士に相談して,先生,養父と会って話をしてくれないかと頼んでも,「弁護士職務基本規程52条に「弁護士は,相手方に法令上の資格を有する代理人が選任されたときは,正当な理由なく,その代理人の承諾を得ないで直接相手方と交渉してはならない。」とあるんで,相手方に弁護士が立てられている以上,それはおれにはできない。」と頼りないことを言われます。そこでやはり自分で何とか養父と直談判しようと気を取り直すのですが,これもまた,「おれを代理人にするのならそれはやめてくれ。」と当該弁護士に止められるでしょう。日本弁護士連合会弁護士倫理委員会編著の『解説弁護士職務基本規程 第3版』(日本弁護士連合会・2017年)には,弁護士職務基本規程52条に関して「依頼者が相手方本人と直接交渉をしようとしているのを知って,弁護士がこれを止めなかったからといって,直接本条に違反するものではないが,弁護士は,原則として,自らの依頼者に対してそのような直接交渉を慫慂すべきではない。むしろ,依頼者に対して,そのような直接交渉を思いとどまるよう,すすんで説得すべきであろう。」とあるところです(155頁)。養子とその弁護士との間の関係は早くもぎくしゃく。後妻さんが老耄の夫のために辣腕弁護士氏を雇った効用が早速現れます。智謀恐るべし。
ウ 養親子関係破綻の主張
辣腕弁護士氏は,裁判所にはなかなか現れぬ存在となっている原告たる養父の離縁意思の強固性及び養親子関係破綻の事実性を見てきたように(実際見てきたのでしょう。)執拗かつ熱心に言い募ります。それまで特段の問題はなかったところで養親子間の現実の交渉が後妻さんによって遮断されてしまっているのですから,両当事者間における現実の衝突ではなく,もはや専ら養父の一方的な感情なるものに関する議論とはなります。しかし,辣腕弁護士氏による一種忌憚なき刺りの言をいつまでも繰り返し読まされ聞かされ,更には「当事者間の感情的・経済的な争が極度に達した場合には――真実の親子なら,親権の喪失(834条・835条参照),相続の廃除(892条)などの手段によって処置すべきだが,人為的な親子関係において,しかも一方がその解消を望むときは――これ〔離縁〕を認めるのが至当であろう。」と民法学の権威から説かれてしまい(我妻306頁),また,「「縁組を継続し難い重大な事由があるとき」とは,養親子としての精神的経済的生活関係を維持もしくは回復することがきわめて困難なほどに縁組を破綻せしめる事由の存する場合の意味である。あるいはこれ以上縁組の継続を強制しても,正常な親子的社会関係の回復は期待できない場合といってもよい。「縁組を継続し難い重大な事由があるとき」〔略〕とは養親子関係の破綻のことであるというのは,すでに指摘したように,相手方の有責事由を必要としない」などと説明されると(深谷松男『新版注釈民法(24)親族(4)』814条解説・509‐510頁),養子側としては,自らに有責事由の無いことは明白ながら,とうとう最後は根負けということになるようです。
エ 金銭的解決
やはりお金の問題になるのでしょうか。「解釈論として,離縁の止むなきに至らしめた当事者は賠償責任を負うべきである(人訴は離縁の訴に附帯して訴えることを認める(人訴26条による7条の準用)〔人事訴訟法(平成15年法律第109条)17条〕)。」とされています(我妻309頁)。賠償の範囲は「縁組によって期待された合理的な親子関係が破綻したことによる精神的苦痛が主なものであろう」と解されつつ,「財産的損害についても,理論としては,肯定すべきである。」とのことです(我妻309頁)。しかしながら,「養子が養親の財産を相続する期待権を失ったことは計算されるべきではあるまい。」と説かれてしまうのは(我妻309頁),正に遺産相続目当ての後妻さんが実質的当事者としてその背後にいるようにも思われる離縁請求事件においては,いかがなものでしょうか。本来保護に値しないのだと辣腕弁護士氏が言い募っていた「財産を相続する期待権」がどういうわけか後妻さんについては反射的に堂々保護されることになって,何だか悔しいですね。
結局,判決で損害賠償をもらうよりも,和解で和解金を得る方がよさそうです。後妻さんとしても,その献身的かつ熱意ある愛護にもかかわらず訴訟が長引いている間に富裕かつ老耄の夫が死亡して,紛争相手の養子をも共同相続人とする相続が始まってしまっては面倒でしょう。
(3)再び池田家
とはいえ,池田京水のように四の五の言わずにすぱっと離縁してしまうような豪胆な人が当事者では,なかなかお金は動きません。
なお,京水の「廃嫡」は京水が満15歳の時のことのようですが,現行民法でも養子は満15歳になれば自ら養親と協議離縁をすることができます(同法811条1項・2項)。いずれにせよ,既に15歳にして己が俊才に恃むところがあり,事実逆境に打ち克って痘科医として名を成したのですから,池田京水は立派な大先生でした。
これに対して,佐々木文仲はどうなってしまったのでしょうか。池田宗家にいそいそとやって来てはお沢さんと小部屋に籠り,たまに小部屋を出れば,我は一流学者なりと自得しつつ2世瑞仙晉に対して師匠面していつまでもかつての「弟子」にたかっていたのでは見苦しく,かつ,迷惑だったことでしょう。
弁護士 齊藤雅俊
大志わかば法律事務所
〒150‐0002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階
電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp
石見国津和野の出身とはいえ,鷗外には,隅田川にカモメ飛ぶ向島・小梅村の少年時代の思い出も大きなものだったのでしょう。
弁護士ランキング