カテゴリ: 民法

第1 一つの蝦夷地(総称)から北海道及び樺太への分離に関して

 

1 北海道には,北海道島は含まれるが樺太島は含まれない。

 前稿である「光格天皇の御代を顧みる新しい「国民の祝日」のために」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081364304.html)においては,つい北海道「命名」150年式典(201885日に札幌で挙行)に関しても論ずることになり,その際明治二年七月八日(1869815日)の職員令により設置された開拓使による開拓の対象には,当初は北海道のみならず樺太も含まれていたことに触れるところがありました。そうであれば,しかし,日本国五畿八道の八道の一たる北海道に,北海道島と同様に開拓がされるべきものであった樺太島の地が含まれなかったのはなぜであるのかが気になってしまうところです。

 

2 明治初年の開拓官庁の変遷

 ところで,2018年において北海道「開拓」(の数えでの)150年が記念されなかったことについては,王政復古後の明治天皇の政府において「諸地開拓を総判(総判諸地開拓)」すべき機関の設置は,実は1869年の開拓使が初めてのものではなかったからであって,折角天皇皇后両陛下の行幸啓を仰いでも,当該趣旨においては十日の菊ということになってしまうのではないかと懸念されたからでもありましょうか。

 

(1)外国事務総督及び外国事務掛から外国事務局を経て外国官まで

すなわち,既に慶応四年=明治元年一月十七日(1868210日)の三職(総裁,議定及び参与)の事務分課に係る規定において,議定中の外国事務総督が「外地交際条約貿易拓地育民ノ事ヲ督ス」るものとされて,「拓地育民」が取り上げられており(併せて,参与の分課中に外国事務掛が設けられました。),同年二月三日(1868225日)には外国事務総督と外国事務掛とが外国事務局にまとめられた上(「外国交際条約貿易拓地育民ノ事ヲ督ス」るものです。),同年閏四月二十一日(1868621日)の政体書の体制においては,外国官が「外国と交際し,貿易を監督し,疆土を開拓することを総判(総判外国交際監督貿易開拓疆土)」するものとされていたのでした(以上につき,山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)4-5頁,7-8頁,1114頁及び2026頁参照)。外国交際と直接関係する疆土(「疆」は,「さかい」・「領土の境界」の意味です(『角川新字源』(1978年))。)の開拓ということですから,当該開拓の事業は,対外問題(有体に言えば,ロシア問題)対策の一環として明治政府によって認識されていたものでしょう。

 

(2)北蝦夷地(樺太)重視からの出発

 ロシア問題対策のための疆土開拓ということであれば蝦夷地開拓ということになりますが,その場合,四方を海に囲まれた北海道(東西蝦夷地)よりも,ロシア勢力と直に接する樺太(北蝦夷地)こそがむしろ重視されていたのではないでしょうか。

 

ア 慶応四年=明治元年三月九日の明治天皇諮詢

 早くも慶応四年=明治元年三月九日(186841(駿府で徳川家家臣の山岡鉄太郎が,江戸攻撃に向けて東進中の官軍を率いる西郷隆盛と談判した日です。))に,明治「天皇太政官代ニ臨ミ三職ヲ召シテ高野保建少将清水谷公考建議ノ蝦夷開拓ノ可否ヲ諮詢ス群議其利ヲ陳ス〔略〕復古記」ということがありましたが(「群議其利ヲ陳ス」の部分は,太政官日誌では「一同大ヒニ開拓可然(しかるべき)()旨ヲ言上ス」ということだったそうです。),そこでの高野=清水谷の建議書(二月二十七日付け)には「蝦夷島周囲二千里中徳川家小吏()一鎮所而已(のみ)無事()時モ懸念御坐(さうらふ)(ところ)今般賊徒 御征討(おほせ) 仰出(いでられ)候ニ付テハ東山道徃来相絶シ徳川荘内等()者共(ものども)彼地(かのち)ニ安居仕事(つかまつること)難相(あひなり)(がたく)島内民夷ニ制度無之(これなく)人心如何(いかが)当惑(つかまつり)候儀ニ有之(これある)ヘクヤ不軌ノ輩御坐候ヘハ(ひそか)ニ賊徒ノ声援ヲナシ(まうす)(べく)難計(はかりがたし)魯戎元来蚕食()念盛ニ候ヘハ此虚ニ乗シ島中ニ横行シ(かね)テ垂涎イタシ候北地()(シュン)古丹(コタン)等ニ割拠シ如何様之(いかやうの)挙動可有之(これあるべく)難計(はかりがたく)候ヘハ一日モ早ク以御人撰(ごじんせんをもつて)鎮撫使等御差下シテ御多務中モ閑暇(なさ)為在(れあり)候勢ヲ示シ御外聞ニモ相成候(あひなりさうらふ)(やう)仕度(つかまつりたく)〔中略〕海氷(りう)()()時節相至(あひいたり)候ヘハ魯人軍艦毎年()春内(シュンナイ)罷出候間(まかりいでさうらふあひだ)当月中ニモ御差下(さしくだし)相成候様(あひなりさうらふやう)被遊度(あそばされたき)積リ〔後略〕」とありました(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070634100)。

()(シア)が元来その地について蚕食之念を有しており,かつ,横行が懸念されること並びに久春古丹(大泊,コルサコフ)及び久春内(樺太島西岸北緯48度付近の地)といった地名からすると,ここでいう「蝦夷島」については,北海道島というよりは「北地」たる樺太島が念頭に置かれていたものでしょう。当該建議については,公家の清水谷公考(きんなる)に対する阿波人・岡本監輔の入れ智恵があったそうですが(秋月俊幸「明治初年の樺太――日露雑居をめぐる諸問題――」スラブ研究40号(1993年)2頁),岡本は「尊皇攘夷時代には珍しい北方問題の先駆者の一人で,文久3年(1863)すすんで樺太詰めの箱館奉行支配在住となり,慶応元年(1865)には間宮林蔵によっても実現できなかった樺太北岸の周廻を計画し,足軽西村伝九郎とともにアイヌ8名の助力をえて,独木舟で北知床岬を廻り,非常な苦労ののち樺太北端のエリザヴェータ岬(ガオト)に達し,西岸経由でクシュンナイに帰着した」という「ロシアの樺太進出に悲憤慷慨して奥地経営の積極化を望んでいた」憂国の士だったそうですから(同頁),当然樺太第一になるべきものだったわけです。

 

イ 慶応四年=明治元年三月二十五日の岩倉策問等(2道設置論)及び箱館府(箱館裁判所)の設置

 慶応四年=明治元年三月二十五日(1868417日)には,議事所において,三職及び徴士列坐の下,「蝦夷地開拓ノ事」について,「箱館裁判所被取建(とりたてられ)候事」,「同所総督副総督参謀等人撰ノ事」及び「蝦夷名目被改(あらためられ)南北二道被立置(たておかれ)テハ何如(いかん)」との3箇条の策問が副総裁である岩倉具視議定からされています(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070634300)。蝦夷地の改称の話は既にこの時点で出て来ていますが,ここでの2道のうち南の道が後の北海道(東蝦夷地及び西蝦夷地)で,北の道は樺太(北蝦夷地)なのでしょう。これらの点については更に,同年四月十七日(186859日)の「蝦夷地開拓ノ規模ヲ仮定ス」と題された「覚」7箇条中の最初の2箇条において「箱館裁判所総督ヘ蝦夷開拓ノ御用ヲモ御委任有之(これあり)候事」及び「追テ蝦夷ノ名目被相改(あひあらためられ)南北二道ニ御立(なら)()早々測量家ヲ差遣(さしつかはし)山川ノ形勢ニ随ヒ新ニ国ヲ分チ名目ヲ御定有之(これあり)候事」と記されているとともに,第6条において「サウヤ辺カラフトヘ近ク相望(あひのぞみ)候場所ニテ一府ヲ被立置度(たておかれたく)候事」と述べられています(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070634500)。箱館裁判所の設置は同月十二日(186854日)に既に決定されており,同裁判所は,同年閏四月二十四日(1868614日)に箱館府と改称されています(秋月2頁)。

 

ウ 明治二年五月二十一日の蝦夷地開拓の勅問

 箱館府を一時排除して五稜郭に拠り,最後まで天朝に反抗していた元幕臣の榎本武揚らが開城・降伏してから3日後の明治二年五月二十一日(1869630日)には,皇道興隆,知藩事被任及び蝦夷地開拓の3件につき明治天皇から政府高官等に勅問が下されています。そのうち蝦夷地開拓の条は次のとおりでした。

 

  蝦夷地ノ儀ハ 皇国ノ北門直チニ山丹満州ニ接シ経界粗々(あらあら)定マルトイヘドモ北部ニ至ツテハ中外雑居イタシ候所(さうらふところ)是レマテ官吏ノ土人ヲ使役スル甚ハタ苛酷ヲ極ハメ外国人ハ頗フル愛恤(あいじゅつ)ヲ施コシ候ヨリ土人往々我カ邦人ヲ怨離シ彼レヲ尊信スルニ至ル一旦民苦ヲ救フヲ名トシ土人ヲ煽動スルモノ()レアルトキハ其ノ禍(たち)マチ函館松前ニ延及スルハ必然ニテ禍ヲ未然ニ防クハ方今ノ要務ニ候間(さうらふあひだ)函館平定ノ上ハ速カニ開拓教導等ノ方法ヲ施設シ人民繁殖ノ域トナサシメラルヘキ儀ニ付利害得失(おのおの)意見忌憚無ク申出ツヘク候事

  (アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070159100

 

ここでの「蝦夷地」は,東蝦夷地,西蝦夷地及び北蝦夷地のうち,北蝦夷地こと樺太のことでしょう。(なお,北蝦夷地ならざる東蝦夷地及び西蝦夷地の振り分けについていえば,明治二年八月十五日(1869920日)の太政官布告による北海道11箇国のうち,東部は胆振,日高,十勝,釧路,根室及び千島の6箇国,西部は後志,石狩,天塩及び北見の4箇国とされていました。11箇国目の渡島国は,東部・西部のいずれにも分類されていません。)山丹は黒龍江下流域のことですが,ユーラシア大陸の「山丹満州ニ接シ」ているのは,地図を見ればすぐ分かるとおり,北海道島ではなく,樺太島でしょう。「経界粗々定マルトイヘドモ北部ニ至ツテハ中外雑居イタシ候所」というのは,185527日に下田で調印された日魯通好条約2条後段の「「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是まて仕来の通たるへし」を承けた樺太島内の状況を述べるものでしょう。「是レマテ官吏ノ土人ヲ使役スル甚ハタ苛酷ヲ極ハメ外国人ハ頗フル愛恤ヲ施コシ候ヨリ土人往々我カ邦人ヲ怨離シ彼レヲ尊信スルニ至ル」については,文久元年(1861年)に,樺太においてトコンベ出奔事件というものがあったそうです。

 

   事件は,文久元年(1861)に北蝦夷地のウショロ場所〔樺太島西岸北緯49度付近〕で漁業に従事していたアイヌのトコンベが,番人の暴力に耐えかねてシリトッタンナイ〔樺太島西岸ウショロより北の地〕のロシア陣営に逃げ込んだことが発端であった。北蝦夷地詰の箱館奉行所官吏はロシア側の責任者であったジャチコーフにトコンベの引き渡しを要求したが,ジャチコーフはアイヌ使役の自由を主張して奉行所官吏の要求を拒否した。その後,トコンベは翌文久二年(1862)正月,ウショロに立ち戻ったところを奉行所役人に捕縛され久春内に移送された。しかし,同年三月にはジャチコーフが久春内に来航し,トコンベの引渡しを要求した。最終的にジャチコーフは暴力を伴いトコンベを「奪還」した。さらに,ウショロに在住したトコンベの家族やその周囲のアイヌ17人を連れ去るという事件に発展した。

  (檜皮瑞樹「19世紀樺太をめぐる「国境」の発見――久春内幕吏捕囚事件と小出秀実の検討から――」早稲田大学大学院文学研究科紀要:第4分冊日本史学・東洋史学・西洋史学・考古学・文化人類学・アジア地域文化学544号(20092月)18-19頁)

 

 ということで,明治二年五月二十一日(1869630日)の勅問は,樺太島重視の姿勢が窺われるものであったのですが,同年七月八日(1869815日)の職員令による開拓使設置を経た同年八月十五日(1869920日)の前記太政官布告においては,道が置かれたのは東西蝦夷地までにとどまり,樺太島は,新しい道たる北海道から外れてしまっています。(当該太政官布告により「蝦夷地自今(いまより)北海道ト被称(しょうされ)11ヶ国ニ分割」なので(下線は筆者によるもの),渡島,後志,石狩,天塩,北見,胆振,日高,十勝,釧路,根室及び千島の11箇国のみが北海道を構成するということになります。一番北の北見国には宗谷,利尻,礼文,枝幸,紋別,常呂,網走及び斜里の8郡が置かれていますが,宗谷郡,利尻郡又は礼文郡に樺太島が属したということはないでしょう。北海道庁版権所有『北海道志 上巻』(北海道同盟著訳館・1892年)5頁によれば,蝦夷地北海道改称の際「樺太ノ称ハ旧ニ仍ル」ということになったそうです。)蝦夷地開拓に係る上記勅問の段階からわずか3箇月足らずの期間中に,樺太の位置付けが低下したようでもあります。この間一体何があったのでしょうか。

 

3 函泊露兵占領事件及び樺太島仮規則(日露雑居制)確認並びにパークス英国公使の勧告 

 

(1)函泊露兵占領事件

 明治二年六月二十四日(186981日)に「露兵,樺太函泊を占領,兵営陣地を構築」(『近代日本史総合年表 第四版』(岩波書店・2001年))という事態が生じています。

「日本の本拠地クシュンコタンの丘一つ隔てた沢にあるハッコトマリ(凾泊)にデ・プレラドヴィチ中佐(この頃大隊長となる)の指揮する50人ほどのロシア兵が上陸し,陣営の構築を始めた。そこは場所請負人伊達林右衛門と栖原小右衛門が共同で経営するアニワ湾の一漁場で,海岸は水産乾場として使われ,多数の鰊釜が敷設されていた。ロシア側は丘の上に兵営を建てるので漁場の邪魔にはならぬと弁解したが,そこもアイヌの墓地となっており,アイヌたちはロシア人の立入りを止めさせるよう繰返し日本の役所に訴えている。しかし,デ・プレラドヴィチは,兵営の設置は本国からの命令によるものとして日本側の抗議を無視した。ロシア側は仮規則〔本稿の主題たる後出1867年の日露間の樺太島仮規則〕を盾にこの地に陣営を設けたのであるが,その意図はクシュンコタンに重圧をかけ,日本人の樺太からの退去を余儀なくする準備であった。やがてここにはトーフツから東シベリア第4正規大隊の本部が移され,多数の徒刑囚も到着して,その後の紛糾のもととなるのである。」(秋月3-4頁)ということです。

 

(2)樺太問題に係るパークス英国公使の寺島外務大輔に対する忠告

樺太担当(久春古丹駐在)の箱館府権判事(開拓使設置後は開拓判官)となっていた「岡本〔監輔〕が上京して開拓長官鍋島直正や岩倉具視,大久保利通らの政府要人たちにロシア軍の凾泊上陸を報告し,日本の出兵を訴えて間もない」(秋月4頁,2頁)同年八月一日(186996日)には,外務省で「寺島〔宗則〕外務大輔はパークス英国公使と会談し,英国側から北地におけるロシアの進出について厳しく忠告を受けた。日本政府は現地の情報に疎く,樺太の情勢だけでなくロシアの動向についてまったくと言ってよいほど捕捉していなかった。〔中略〕「小出大和〔守秀実〕魯都ニ参り雑居之約定取極メ調印致し候ニ付,此約定〔樺太島仮規則〕ハ動(ママ)〔す〕へからさる者に候。恐く唐太全島を失ふ而已(〔のみ〕)ならす蝦夷地に及ふへし」と,パークスの忠告は切迫した内容であった。」ということになっています(笠原英彦「樺太問題と対露外交」法学研究731号(2000年)102-103頁。『大日本外交文書』第2巻第2455-459頁,特に458頁)。更にパークスは,「唐太に於て無用に打捨あるを魯人ひろふて有用の地となす誰も是をこばむ能はさるを万国公法とす」と,日本がむざむざ樺太を喪失した場合における列強の支援は望み薄であるとの口吻でした(『大日本外交文書』第2巻第2458)。

 

(3)樺太島仮規則に係る明治政府官員の当初認識

 パークスが寺島外務大輔に樺太島仮規則の有効性について釘を刺したのは,我が国政府の樺太担当者が当該規則の効力を否認していたからでした。

例えば,樺太島における岡本監輔の明治二年五月二十六日(186975日)付けロシアのデ・プレラドヴィチ宛て書簡では,「貴方所謂(いはゆる)日本大君と(まうす)は国帝に無之(これなく)徳川将軍事にて二百年来国政委任に(あひ)成居候得共(なりをりさうらへども)将軍限りにて外国と国界等取極(さうろふ)(はず)無之処(これなきところ)(その)臣下たる小出大和守〔秀実〕輩一存を(もつて)雑居等相約候(あひやくしさうらふ)は僭越(いたり)申迄も無之(これなく)」して「不都合の次第」であるとし,「吾所有たる此〔樺太〕島を貴国吾国及ひ土人三属の地と御心得被成候(なられさうらふ)余り御鄙見にて貴国皇帝御趣意とは不存(ぞんぜず)ところ,仮規則締結については「貴国にても其権なき者と御約し被成候(なられさうらふ)は御不念事に可有之(これあるべく)と述べて日本側の「小出大和守輩」は無権代理人であったとし,かつ,勿論(もちろん)(この)島の儀未タ荒蕪空間の地所も有之(これある)(つき)土人漁民其外小前の者に至迄(いたるまで)差支無之(これなき)場所は開拓家作等(なら)(れさ)(うらひ)ても(よろ)(しく)御坐候に付此段此方詰合(つめあひ)()御届被成(なられ)差図被受(うけられ)(さうらふ)(やう)致度(いたしたく)候」として(以上『大日本外交文書』第2巻第1933-935頁),樺太島仮規則2条の「魯西亜人〔略〕全島往来勝手たるへし且いまた建物並園庭なき所歟総て産業の為に用ひさる場所へは移住建物等勝手たるへし」との規定にもかかわらず,「荒蕪空間の地所」についてもロシア人の勝手はならず日本国の官庁に届け出た上でその指示に従うべしと,樺太島南部における(同島周廻者である岡本の主観では,樺太全島における)我が国の排他的統治権を主張していました。

「雑居」を認める樺太島仮規則の効力を,小出秀実ら当該規則調印者の権限の欠缺を理由に否定した上で(民法(明治29年法律第89号)113条参照),それに先立つ日魯通好条約2条後段の「界を分たす是まて仕来の通たるへし」との規定は,樺太島における日露雑居を認めるものではなく,日露の各単独領土の範囲は「是まて仕来の通」であることを確認しつつ,その境界(岡本の主観では,間宮海峡がそれであるべきものでしょう。)の劃定がされなかったことを表明するにすぎないもの,と解するものでしょう(以下「境界不劃定説」といいます。)。

(ここで,「境界の劃定」とは何かといえば,その意義について美濃部達吉はいわく,「領土の変更とは領土たることが法律上確定せる土地の境界を変更することであり,境界の劃定とは何処に国の境界が有るかの不明瞭なる場合に実地に就いて之を確認し明瞭ならしむることである。一は権利を変更する行為であり,一は既存の権利を確認する行為である。即ち一は創設行為たり一は宣言行為たるの差がある。境界の確定は殊に陸地に於いて外国と境界を接する場合に必要であつて,ロシアより樺太南半分の割譲を受けた場合には,講和条約附属の追加約款第2に於いて両国より同数の境界劃定委員を任命して実地に就き正確なる境界を劃定すべきことを約し,此の約定に従つて翌年境界の劃定が行はれた。」と(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)88-89頁)。190595日に調印されたポーツマス条約に基づく日露間の境界劃定は北緯50度の線がどこにあるかを測定して決めることであったわけですが,1855年の下田条約(日魯通好条約)に基づく国境劃定を行う場合であれば,まず「是まて〔の〕仕来」が何であるかの確定から始まることになったわけのものでしょう。)

しかし,下田条約2条後段の文言は境界不劃定説によるものであり,かつ,一義的にそう解され得るものであったかどうか。後に考察します。

 

(4)明治政府要人との会見における樺太問題に係るパークスの慎重論

明治二年八月九日(1869914日)には,「パークスは東京運上所において,岩倉〔具視〕大納言・鍋島〔直正〕開拓長官・沢〔宣嘉〕外務卿・大久保〔利通〕参議・寺島〔宗則〕外務大輔・大隈〔重信〕大蔵大輔ら新政府の有力者たちと会見し,再び樺太問題を討議した。さきに寺島との会談で樺太への積極策〔日本側もクシュンコタン近辺に要害の地を占めること(「クシユンコタン辺に要害の地をしむれは唐太の北地処に人をうつすよりも切速なり」(『大日本外交文書』第2巻第2458頁))〕を勧めたパークスは,このたびは一変して「樺太はすでに大半がロシアに属しており,今から日本が着手するのは遅すぎる」ことを力説した。すでに彼は〔英国商船〕ジョリー号船長ウィルソンの〔ロシア軍の凾泊進出に係る〕詳報を検討の結果,ロシアがアニワ湾に2000人の兵力を集結して(これは過大である),日本人の追出しを意図していることを知ったのである。彼は日本側から近く高官とともに多数の移民を送る計画を聞いて,「それは火薬の傍らに火を近づけるのと同じ」といい,北海道の開拓に力をそそぐことを要望した。」という運びになっています(秋月5頁)。

「唯今に至り唐太を御開き被成(なられ)候は御遅延の事と存候」,「唐太を先に御開き被成(なられ)候は住居の屋根(ばか)りあつて礎無之(これなし)と申ものに有之(これあり)候」,「1867年小出大和守の約定は魯西亜と日本との人民雑居と申事に候へは当今同国人参り候ても追出し候権無之(これなき)事と存候」,「サカレン()御心配被成候内(なられさうらふうち)蝦夷は被奪(うばはれ)可申(まうすべく)候」というようなパークスの発言が記録されています(『大日本外交文書』第2巻第2465-478頁のうち,470頁,471頁,474頁及び477頁)。なお,同日段階では我が国政府は北海道島よりも樺太島の開拓を先行させるつもりであったようであり,「同所()は魯国人の来りしに付唐太を先に開らき候事にて蝦夷地ヲ差置候と申事には無之(これなく)候」及び「(まづ)差向唐太の方に尽力いたし候積に候」というような発言がありました(『大日本外交文書』第2巻第2472頁)。 

 蝦夷地改称に係る明治二年八月十五日の前記太政官布告が樺太島について触れなかったのは,樺太はもう駄目ではないかとパークスに冷や水を浴びせかけられてしまったばかりの我が国政府としては,きまりが悪かったからでしょうか。ただし,改称された北海道を11箇国に分割するところの当該太政官布告は,少なくともこれらの国が置かれた東西蝦夷地については,他の五畿七道諸国と同様のものとしてしっかり守ります,との決意表明ではあったのでしょう。なお,八月九日に我が国政府は,パークスからの「〔樺太島における事件に関し〕右様〔「御国内の事件を御存し無之(これなき)事」〕にては蝦夷地を被奪(うばはれ)(さうらふ)(とも)御存し有之(これある)間敷(まじく)」との皮肉に対して,「(これ)(より)開拓の功を成し国割にいたし郡も同しく分割いたし候積に候」と言い訳を述べていますところ(『大日本外交文書』第2巻第2476),そこでは,樺太島にも国及び郡を置くものとまでの明言はされてはいませんでした。

 

4 北海道と樺太との取扱いの区別へ

 

(1)三条右大臣の達し

 蝦夷地を北海道と改称した翌九月には(『法令全書 明治二年』では九月三日(1869107日)付け),三条実美右大臣から開拓使宛てに次のように達せられています(『開拓使日誌明治二年第四』)。

 

                              開拓使

  一北海道ハ

   皇国之北門最要衝之地ナリ今般開拓被仰付(おほせつけられ)候ニ付テハ(ふかく)

   聖旨ヲ奉体シ撫育之道ヲ尽シ教化ヲ広メ風俗ヲ(あつく)()キ事

  一内地人民漸次移住ニ付土人ト協和生業蕃殖(さうろふ)(やう)開化(こころ)ヲ尽ス可キ事

  一樺太ハ魯人雑居之地ニ付専ラ礼節ヲ主トシ条理ヲ尽シ軽率之(ふる)(まひ)曲ヲ我ニ取ルノ事アル可ラス自然(かれ)ヨリ暴慢非義ヲ加ル事アルトモ一人一己ノ挙動アル可カラス(かならず)全府決議之上是非曲直ヲ正シ渠ノ領事官ト談判可致(いたすべく)(その)(うへ)猶忍フ可カラサル儀ハ 廷議ヲ経全圀之力ヲ以テ(あひ)応スヘキ事ニ付平居小事ヲ忍ンテ大謀ヲ誤マラサル様心ヲ尽スヘキ事

  一殊方(しゆはう)〔『角川新字源』では,「異なった地域」・「異域」。もちろんここでは「外国」ではないですね。〕新造之国官員協和戮力ニ非サレハ遠大()業決シテ成功スヘカラサル事ニ付上下高卑ヲ論セス毎事己ヲ推シ誠ヲ(ひら)キ以テ従事決シテ面従腹非()儀アル可カラサル事

    九月        右大臣                                                                               

 

 最北の樺太ではなく,宗谷海峡を隔てたその南の北海道こそが「皇国之北門最要衝之地」であるものとされています。樺太については,ロシア人に気を遣って忍ぶべしと言われるばかりで,どうも面白くありません。東西蝦夷地のみに係る北海道命名の意義とは,東西蝦夷地と北蝦夷地との間のこの相違を際立たせることでもあったのでしょう。最終項に「新造之国」とありますが,当該新造之国11箇国の設置は北海道についてのみであったことは,既に述べたとおりです。

 北海道の命名を華やかに祝うに際しては,陰の主役たる失われた樺太(及び当該陰の主役に対するところの某敵役)をも思い出すべきなのでしょう。

 

(2)樺太放棄論者黒田開拓次官

 明治三年五月九日(187067日)兵部大丞黒田清隆が樺太専務の開拓次官に任ぜられますが,担務地たる樺太を視察した黒田はその年十月に政府に建議を行います。いわく,「夫レ樺太ハ魯人雑居ノ地ナルヲ以テ彼此親睦事変ヲ生セサラシメ(しかる)(のち)漸次手ヲ下シ功ヲ他日ニ収ムルヲ以テ要トス然レトモ今日雑居ノ形勢ヲ以テ(これ)ヲ観レハ僅ニ3年ヲ保チ得ヘシ」云々と(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070638700)。(ちなみに,鷗外森林太郎翻訳の『樺太脱獄記』(コロレンコ原作)において描かれた樺太島から大陸への脱獄劇を演じたロシアの囚人らが同島に到着した時期は,この年の夏のことでした。)また,同年十一月,黒田は「米国ニ官遊」しますが(樺太庁長官官房編纂『樺太施政沿革』(1912年)後篇上・従明治元年至同8年樺太行政施設年譜4頁),その際黒田は「上言シテ(いはく)力ヲ無用ノ地〔筆者註:樺太のことですね。〕ニ用テ他日ニ益ナキハ寧ロ之ヲ顧ミサルニ若カス故ニ之ヲ棄ルヲ上策ト為ス便利ヲ争ヒ紛擾ヲ致サンヨリ一着ヲ譲テ経界ヲ改定シ以テ雑居ヲヤムルヲ中策ト為ス雑居ノ約ヲ持シ百方之ヲ嘗試シ左支右吾遂ニ為ス可カラサルニ至ツテ之ヲ棄ルヲ下策ト為スト」ということがあったそうです(明治62月付け黒田清隆開拓次官上表(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A03023618600))。要は,黒田の樺太放棄論(「上策」)は明治三年中から始まっていたようです。

このようなことになって,「これまで樺太の維持のため努力を重ねてきた岡本監輔は,このような黒田の方針に追従できず,明治3年末に辞表を提出し,許可も届かないうちに離島した〔略〕。その後の樺太行政は,ロシアの軍事力に対抗して開拓を推進するよりは,むしろ移民や出稼人たちの保護に重点が移されたのである。」ということになりました(秋月7頁)。岡本の樺太統治の夢及び努力は,「樺太の行政官として下僚80余名と移民男女200余名を率いて,慶応46月末クシュンコタン(楠渓)に着任」(秋月2頁)してからわずか2年半ほどで終わりを告げたわけです。

その後,187557日にペテルブルクで調印され同年822日に批准書が交換された日露間の千島樺太交換条約によって,全樺太がロシア帝国の単独領有に帰したことは周知のとおりです。


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1 はじめに:配偶者及び兄弟姉妹が相続人である場合の配偶者の遺留分は8分の3か2分の1か

我が民法(明治29年法律第89号)の第1042条は,「遺留分の帰属及びその割合」との見出しの下に,次のように規定しています。

 

  第1042条 兄弟姉妹以外の相続人は,遺留分として,次条第1項に規定する遺留分を算定するための財産の価額に,次の各号に掲げる区分に応じてそれぞれ当該各号に定める割合を乗じた額を受ける。

   一 直系尊属のみが相続人である場合 3分の1

   二 前号に掲げる場合以外の場合 2分の1

  2 相続人が数人ある場合には,前項各号に定める割合は,これらに第900条及び第901条の規定により算定したその各自の相続分を乗じた割合とする。

 

これは,平成30年法律第72号たる民法及び家事事件手続法の一部を改正する法律によって,それまでの民法1028条が,201971日から(同法附則1条柱書き,平成30年政令第316号)改められたものです。

平成30年法律第72号による改正前の民法1028(以下,昭和22年法律第222号の施行(194811日(同法附則1条))以後平成30年法律第72号による改正前の民法の第5編第8章(現在は第9章)の各条を「旧〇〇〇〇条」のように表記します。)は,次のとおりでした。

 

 (遺留分の帰属及びその割合)

  第1028条 兄弟姉妹以外の相続人は,遺留分として,次の各号に掲げる区分に応じてそれぞれ当該各号に定める割合に相当する額を受ける。

   一 直系尊属のみが相続人である場合 被相続人の財産の3分の1

   二 前号に掲げる場合以外の場合 被相続人の財産の2分の1

 

民法旧1028条には現行10422項に相当する規定がありませんが,この点は,民法旧1044条で手当てがされていました(下線は筆者によるもの)。

 

 (代襲相続及び相続分の規定の準用)

 第1044条 第887条第2項及び第3項,900条,第901,第903条並びに第904の規定は,遺留分について準用する

 

六法を調べるのが億劫な読者もおられるでしょうから,民法900条及び901条の条文を次に掲げておきます。

 

 (法定相続分)

 第900条 同順位の相続人が数人あるときは,その相続分は,次の各号の定めるところによる。

  一 子及び配偶者が相続人であるときは,子の相続分及び配偶者の相続分は,各2分の1とする。

  二 配偶者及び直系尊属が相続人であるときは,配偶者の相続分は,3分の2とし,直系尊属の相続分は,3分の1とする。

  三 配偶者及び兄弟姉妹が相続人であるときは,配偶者の相続分は,4分の3とし,兄弟姉妹の相続分は,4分の1とする。

  四 子,直系尊属又は兄弟姉妹が数人あるときは,各自の相続分は,相等しいものとする。ただし,父母の一方のみを同じくする兄弟姉妹の相続分は,父母の双方を同じくする兄弟姉妹の相続分の2分の1とする。

 

 (代襲相続人の相続分)

 第901条 第887条第2項又は第3項の規定により相続人となる直系卑属の相続分は,その直系尊属が受けるべきであったものと同じとする。ただし,直系卑属が数人あるときは,その各自の直系尊属が受けるべきであった部分について,前条の規定に従ってその相続分を定める。

 2 前項の規定は,第889条第2項の規定により兄弟姉妹の子が相続人となる場合について準用する。

 

民法旧1028条及び旧1044条の当該部分(同法900条及び901条の準用の部分)を現行1042条の形に改めた趣旨は,平成30年法律第72号を立案起草された御当局の御担当者によれば,「〔平成30年法律第72号による改正前の〕旧法ではこれらの規律が明確に規定されておらず,一般国民からみて極めて分かりにくいという問題があったことから,新法においては,遺留分の額(第1042条)や遺留分侵害額(第1046条第2項)の算定方法を明確化することとしたものである。」とのことです(堂薗幹一郎=野口宣大『一問一答 新しい相続法――平成30年民法等(相続法)改正,遺言書保管法の解説』(商事法務・2019年)134頁)。

しかして,「明確化」された遺留分の額の「算定方法」は,要するに,「遺留分の具体的金額については,遺留分を算定するための財産の価額に,遺留分割合(原則2分の1)を乗じ,さらに遺留分権利者の法定相続分を乗じて,これを求める」とのことです(堂薗=野口133頁)。ここにいう「法定相続分」とは,民法10422項にいう同法「第900条及び第901条の規定により算定したその各自の相続分」であるものと了解されます(民法900条の見出しは,正に「法定相続分」です。)。

更により明確に数式化された「遺留分を求める計算式」は,次のとおりです(堂薗=野口134頁(注1))。

 

 遺留分=(遺留分を算定するための財産の価額)×1/2)(×(遺留分権利者の法定相続分)

 直系尊属のみが相続人である場合には,1/3

 

 ということで,「被相続人の弟及び妹並びに配偶者の計3人を相続人とする相続において,各相続人の遺留分は,それぞれ,遺留分を算定するための財産の価額の何分の1か。」と問われれば,弟及び妹については民法10421項柱書きによってそもそも遺留分が認められていないからそれぞれゼロであり,同柱書きによって遺留分権利者と認められている配偶者については,遺留分割合の2分の1(同法104212号。被相続人の配偶者及び兄弟姉妹は,いずれもその直系尊属ではありませんから,「3分の1」(同項1号)にはなりません。)に――民法9003号においては妻の法定相続分は4分の3であるので――4分の3を乗じて8分の3となりますよ,と素直に答えればよいように思われます。

 ところが,インターネット上の諸ウェブページを検するに,この場合,遺留分を算定するための財産の価額の8分の3をもって配偶者の遺留分とするのはよくある残念な間違いであって,正解は,遺留分を算定するための財産の価額の2分の1である,とするものが多く目に入ります(なお,「配偶者と兄弟姉妹が相続人になるとき配偶者の遺留分は1/23/8か?! - あなたのまちの司法書士事務所グループ|神戸・尼崎・三田・西宮・東京・北海道 (anamachigroup.com)」を参照)。遺留分権者は配偶者一人なので,専ら民法104212号そのままに,遺留分を算定するための財産の価額の2分の1を独り占めできるのだ,この場合同条2項は最初から問題にならないのだ,ということのようです。はてさて,せっかく「明確化」されたはずの条文の文理に素直に従って解釈したつもりが,無慈悲にも間違いとされるとは,トホホ・・・と若干自信を失いかけたところで,気を取り直して事態を明確化すべく,筆者は本稿を草することとしたのでした。

 

2 平成30年法律第72号制定前の通説:2分の1説

 まず諸書を検するに,配偶者及び兄弟姉妹が相続人である場合における配偶者の遺留分が遺留分を算定するための財産の価額の8分の3ではなく2分の1となるということは,通説であったようです。「あったようです」と留保するのは,これらの書物は,平成30年法律第72号の制定前に書かれたものであって,解釈の対象となっているのは民法旧1028条だからです。

 

  配偶者と兄弟姉妹が相続人となるときには,2分の1の遺留分は全て配偶者にいく。

(内田貴『民法Ⅳ 親族・相続』(東京大学出版会・2002年)505頁)

 

配偶者と兄弟姉妹が相続人であるときは,配偶者は2分の1,兄弟姉妹には遺留分がない。

(我妻榮=有泉亨著・遠藤浩補訂『民法3 親族法・相続法(新版)』(一粒社・1992年)394頁)

 

〔旧1028条において,直系尊属のみが相続人である場合以外の〕場合は,〔総体的遺留分の率は〕2分の1である(同条2号)。直系卑属のみ,配偶者のみ,配偶者と直系卑属,配偶者と直系尊属,⑤配偶者と兄弟姉妹の五つの場合があるが,兄弟姉妹は遺留分を有しないから,⑤の場合は,②の場合と同じに,配偶者だけが2分の1の遺留分をもつ。

(遠藤浩等編『民法(9)相続(第3版)』(有斐閣双書・1987年)244-245頁(上野雅和))

 

配偶者と兄弟姉妹が相続人の場合は,配偶者のみ3分の1

(中川善之助『相続法』(有斐閣・1964年)406頁)

 

  なお,中川善之助教授の1964年の上記著書『相続法』において「配偶者のみ3分の1」となっているのは,昭和55年法律第51号によって198111日から改正(同法附則1項)されるまで,民法旧1028条は次のとおりだったからでした。

 

     第1028条 兄弟姉妹以外の相続人は,遺留分として,左の額を受ける。

      一 直系卑属のみが相続人であるとき,又は直系卑属及び配偶者が相続人であるときは,被相続人の財産の2分の1

      二 その他の場合には,被相続人の財産の3分の1

 

    昭和55年法律第51号による改正後の民法旧1028条は次のとおりでした。

 

     第1028条 兄弟姉妹以外の相続人は,遺留分として,左の額を受ける。

      一 直系尊属のみが相続人であるときは,被相続人の財産の3分の1

      二 その他の場合には,被相続人の財産の2分の1

    

    民法旧1028条がその最終的な姿になったのは,平成16年法律第147号による改正によってでした(200541日から施行(同法附則1条,平成17年政令第36号))。当該改正は,配偶者の遺留分拡大に係る昭和55年法律第51号による改正のような実質的内容の改正ではありませんから,正に民法旧1028条の「明確化」のためのものだったのでしょうが,それでもなお,平成30年法律第72号による改正が更に必要だったのでした。

 

   配偶者と四人の兄弟姉妹があるとき〔略〕。兄弟姉妹には遺留分がないから,配偶者だけ一人で3分の1。従つて,被相続人は,遺産の3分の2は自由に処分することができる。

   (我妻榮=立石芳枝『親族法・相続法』(日本評論新社・1952年)633頁(我妻))

 

 確かに民法旧1028条の規定は,それ自体で一応完結しているので,遺留分権利者が一人であるときはそこで終わりだったのでしょう。遺留分権利者が複数であるときに初めて,同法旧1044条による900条及び901条の準用が必要となるものと解されていたのでしょう。

ちなみに,昭和22年法律第222号による改正前の民法1146(以下,昭和22年法律第222号の施行前の民法の第5編の各条を「旧々〇〇〇〇条」のように表記します。いわゆる「明治民法」ですね。なお,旧民法(明治23年法律第28号・第98号)は,「明治民法」の一つ前の別の法典です(施行はされず。)。)は,「〔略〕第1004条〔略〕ノ規定ハ遺留分ニ之ヲ準用ス」と規定し,旧々1004条は「同順位ノ相続人数人アルトキハ其各自ノ相続分ハ相均シキモノトス但直系卑属数人アルトキハ嫡出ニ非サル子ノ相続分ハ嫡出子ノ相続分ノ2分ノ1トス」と規定していましたところ,梅謙次郎は旧々1146条について淡々と「此条〔旧々1004条〕ハ遺産相続ニ於テ同順位ノ相続人数人アル場合ニ付キ各自ノ相続分ヲ定メタルモノナリ而シテ遺留分モ亦其相続分ノ割合ニ応シテ之ヲ定ムヘキモノトシタルナリ」と説明しています(梅謙次郎『民法要義巻之五 相続編(第21版)』(私立法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1913年)454頁。下線は筆者によるもの)。遺留分についても,遺留分権利者が「数人アル場合」が問題となるのだということでしょう。

民法旧々1131条は「遺産相続人タル直系卑属ハ遺留分トシテ被相続人ノ財産ノ半額ヲ受ク/遺産相続人タル配偶者又ハ直系尊属ハ遺留分トシテ被相続人ノ財産ノ3分ノ1ヲ受ク」と規定していました。当該規定の前提となる遺産相続に係る同法旧々994条から996条までは,直系卑属,②配偶者,③直系尊属,④戸主の順序の順位で遺産相続人となるものとしていましたので,遺留分権利者が存在する場合において,その範囲と遺産相続人の範囲とが異なるという事態(民法現行規定においては,配偶者及び兄弟姉妹が相続人であるときは,配偶者のみが遺留分権利者となります。)はなかったところです(遺留分のない戸主(旧々1131条参照)が遺産相続人となるのは,遺留分権利者でもある先順位の遺産相続人がないときでした。)。

なお,「遺産相続」といって単純に「相続」といわないことには理由があります。昭和22年法律第74号の施行(194753日から(同法附則2項))前の我が民法の相続制度は,家督相続と遺産相続との2本立てだったのでした(前者に係る規定は同法71項により適用停止)。家督相続は戸主権の相続で,遺産相続は,戸主ではない家族の死亡の場合におけるその遺産の相続です。(ちなみに,「日本国憲法施行に伴う民法の応急的措置に関する法律」は,昭和22年法律第74号の題名ではなく,件名です(当該官報を見るに,上諭における用語は「日本国憲法施行」であって,「日本国憲法の施行」ではありません。)。)

 

3 脱線その1:特別受益の価額は遺留分から減ずるのか遺留分侵害額から減ずるのか問題の解決の「明確化」

 しかし,平成30年法律第72号による民法1042条の「明確化」は,主に,遺留分についての同法旧1044条による「第903条〔略〕の規定」(同条は,特別受益者の相続分に係るもの)の準用の在り方(遺留分権利者が受けた特別受益の価額を,同人の遺留分の額からあらかじめ減じておくのか,それとも次の遺留分侵害額算定の段階においてそこから減ずるのか)に係るものでした。

なお,「特別受益者」は,共同相続人中「被相続人から,遺贈を受け,又は婚姻若しくは養子縁組のため若しくは生計の資本として贈与を受けた者」ですので(民法9031項。同項は「共同相続人中に,被相続人から,遺贈を受け,又は婚姻若しくは養子縁組のため若しくは生計の資本として贈与を受けた者があるときは,被相続人が相続開始の時において有した財産の価額にその贈与の価額を加えたものを相続財産とみなし,第900条から第902条までの規定により算定した相続分の中からその遺贈又は贈与の価額を控除した残額をもってその者の相続分とする。」と規定しています。),遺留分権利者が受けたことになる特別受益には,民法9031項の贈与のみならず,遺贈も含まれることになります(民法104621号参照)。

 最判平成81126日民集50102747頁が,「不明確性」の元凶ということになるのでしょうか。

当該平成8年最判の判示にいわく,「被相続人が相続開始の時に債務を有していた場合の〔①〕遺留分の額は,民法〔旧〕1029条〔現行1043条に相当〕,〔旧〕1030条〔現行10441項に相当〕,〔旧〕1044条に従って,被相続人が相続開始の時に有していた財産全体の価額にその贈与した財産の価額を加え〔この「贈与」については,当時,特別受益に係る9031項の贈与は,相続開始前1年間より前のものも全て含まれました(旧1044条による9031項前段の準用(我妻=立石637頁・656頁(我妻),遠藤等247頁(上野),内田505頁。最判平成10324日民集522433頁参照)。特別受益に係る贈与の加算を原則として相続開始前10年間のものに限定する現行10443項は新設規定です。)。〕,その中から債務の全額を控除して遺留分算定の基礎となる財産額を確定し,それに同法〔旧〕1028条所定の遺留分の割合を乗じ,複数の遺留分権利者がいる場合は更に遺留分権利者それぞれの法定相続分の割合を乗じ,遺留分権利者がいわゆる特別受益財産を得ているときはその価額を控除して算定すべきものであり,〔②〕遺留分の侵害額は,このようにして算定した遺留分の額から,遺留分権利者が相続によって得た財産がある場合はその額を控除し,同人が負担すべき相続債務がある場合はその額を加算して算定するものである。」と(下線は筆者によるもの)。

すなわち,平成8年最判においては「厳密には,遺留分権利者の特別受益の額の取扱いが第1046条第2項の規律とは異なる(上記判例では,遺留分額の算定の中で,この額を予め控除しているものと考えられる。)」というのが,平成30年法律第72号の法案立案御当局の事実認識でした(堂薗=野口134頁(注3))。確かに,現行104621号は,特別受益の価額を「遺留分の算定の中で」ではなく,遺留分侵害額の算定の段階において初めて減ずる処理をすることにしています。すなわち,遺留分の額を算定するに当たって,特別受益の価額が,1042条又は1043条においてあらかじめ控除されるものではありません。

「明確化」を必要とする前提状況として,従来の学説は,(a)平成8年判決方式を採るものと(b)現行民法1042条=10462項方式を採るものとに分かれていました。

a)平成8年最判方式を採る学説としては,①「各自の遺留分の額は,〔「被相続人が相続の時に有した財産の価額に贈与した財産の価額を加え,そこから債務の全額を控除した額である」ところの「元になる財産」〕の額に各自の遺留分と法定相続分の割合を掛けたものから特別受益を引いた額である」とするもの(星野英一『家族法』(放送大学教育振興会・1994年)168頁),②「各人の遺留分額は,遺留分算定の基礎となる遺産額〔略〕に各遺留分権利者の遺留分率(全体の遺留分率に法定相続分率を掛けたもの)を掛け,ここから相続人の特別受益額を差し引いたもの(1044条による903条の準用)ということになる」とするもの(内田506頁。ここで「〔旧〕1044条による903条の準用」というのは,民法9031項後段の「算定した相続分の中からその遺贈又は贈与の価額を控除した残額をもってその者の相続分とする」の部分を「算定した遺留分の中からその遺贈又は贈与の価額を控除した残額をもってその者の遺留分とする」と読み替えて準用するという意味でしょう。)及び③「〔旧々〕第1007条〔現行9031-3項に対応〕ニ依リ相続財産ニ算入スヘキモノハ遺留分ノ算定ニ付テモ亦之ヲ算入スヘク而シテ之ヲ遺留分中ヨリ控除スヘク尚ホ其額カ遺留分ニ均シキカ又ハ之ニ超ユルトキハ一切遺留分ヲ受クルコトヲ得サルモノトス」とするもの(梅455-456頁)があります。

b)現行民法1042条=10462項方式を採る学説としては,①遺産総額に相続人に対する生前贈与の額を加えた和(旧1029条,旧1044条・903条)に旧1028条の当該割合を乗じて得られた積に更に法定相続分に係る900条を準用(旧1044条)してそれぞれ算定した額を「各自の遺留分」とした上で,当該各自の遺留分額と各自の相続利益額(特別受益額(受贈額及び受遺額)と相続額との和)とを比較して後者が前者に及ばないときに遺留分侵害があるとする例を示すもの(我妻=立石639-641頁(我妻))及び②「それぞれの遺留分権利者の計算上の遺留分の額は,遺留分算定の基礎となる財産額〔「「被相続人が相続開始の時において有した財産の価額にその贈与した財産の価額を加え,その中から債務の全額を控除して」定める」〕に,その者の遺留分の率〔「遺留分権利者が複数あるときは,全体の遺留分の率に,それぞれの遺留分権利者の法定相続分の率を乗じたもの」〕を乗じたものである」とする一方,「遺留分侵害額の算出式」を「遺留分侵害額=遺留分算定の基礎となる財産額(A)×当該相続人の遺留分の率(B)-当該相続人の特別受益額(C)-当該相続人の純相続分額(D)」(ただし,「C=当該相続人の受贈額+受遺額 D=当該相続人が相続によって得た財産額-相続債務分担額」)とするもの(遠藤等247-249頁(上野))があります。

 平成30年法律第72号は,平成8年最判の存在にかかわらず,(a)星野vs.b)我妻の師弟対決において師匠の我妻説(b)を採用したものと解されます。「いずれの整理をしたとしても最終的に算出される遺留分侵害額に変わりはない」が「いわゆる遺留分超過額説を採用した判例(最一判平成10226日民集521274頁)では,「遺留分」の概念について第1046条第2項と同様の理解をしているのではないかと考えられること等を踏まえて」,(b)説が採用されたものとされています(堂薗=野口134頁(注3))。

 このうち,最判平成10226日以外の理由である「等」たる理由については,相続人の遺留分は「割合を乗じた額」なので(民法1042条参照),その算定作業は掛け算をもって終わるべきであるから,ということもあるでしょうか。確かに,特定受益の額を減ずるということで個々に更に引き算が加わると凹凸ができて,「割合を乗じた額」ではなくなってしまいます。

 

しかしてこの割合方式はローマ法時代からの伝統でしょうか。いわく,「lex Falcidia(前40年の平民会議決) 相続人は少くとも相続財産の4分の1を取得する。4分の3を超える遺贈の超過額は無効となり,受遺者多数のときは按分的に減額せられる。〔略〕知らずして超過額を相続人が履行すれば,非債弁済の不当利得返還請求訴権〔略〕を発生する。4分の1quarta Falcidia)とは相続債務,埋葬費用,解放せらるべき奴隷の値を全部遺産より控除した額の4分の1である。」と(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)371頁)。

ただし,我が民法の遺留分制度は,ローマ法と直結したものではありません。すなわち,「〔日本〕民法の遺留分制度(〔旧〕1028条以下参照)は,ゲルマン法系統の流を汲むフランス固有法のréserve制を模倣したものである。ローマ法の義務分制度と類似したものがあるが,又幾多の点で異つている。歴史的にいつてもローマの義務分が遺言の自由を制限して設けられた部分であるのに対して,遺留分は遺言の不能が解除せられた場合に依然として解除せられない部分であり,存在理由も倫理的義務よりは,家の維持のための経済的理由にあり(従つて遺留分額はもとは家産たる祖先伝来の不動産の幾分の一としてきめられた),又法定相続人が法定相続人として有する権利で(従つて被相続人の遠い親族でも相続人となれば遺留分はある),義務分の如く一定近親として与えられる権利ではなく(義務分では相続を拒絶しても義務分は請求できる),又遺留分の訴は不倫遺言の訴querela inofficiosi testamenti. 遺言者の一定近親者が遺言者の死亡に伴い受けた額が,無遺言相続人であったならば受けたところの額(pars legitima)の4分の1(義務分)に達しないときに,無遺言相続分(義務分ではない。)に障碍を与える限度において遺言を取り消すべく,当該近親者が提起し得る訴え〕の如く相続分額を求めることなく,遺留分額を要求するものであるが,その請求はローマの義務分補充の訴の如き単なる債権的な訴ではない。」とのことです(原田345-347頁)。「ゲルマン法では当初遺言制度を認めなかつた」ところです(原田329頁)。

 

 他方,主要な理由とされる最判平成10226日について見ると,同判決は,次のような判示をしています。いわく,「相続人に対する遺贈が遺留分減殺の対象となる場合においては,右遺贈の目的の価額のうち受遺者の遺留分額を超える部分のみが,民法〔旧〕1034〔「遺贈は,その目的の価額の割合に応じてこれを減殺する。但し,遺言者がその遺言に別段の意思を表示したときは,その意思に従う。」〕にいう目的の価額に当たるものというべきである。けだし,右の場合には受遺者も遺留分を有するものであるところ,遺贈の全額が減殺の対象となるものとすると減殺を受けた受遺者の遺留分が侵害されることが起こり得るが,このような結果は遺留分制度の趣旨に反すると考えられるからである。そして,特定の遺産を特定の相続人に相続させる趣旨の遺言による当該遺産の相続が遺留分減殺の対象となる場合においても,以上と同様に解すべきである。以上と同旨の原審の判断は,正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく,論旨は採用することができない。」と。

 当該最判は,直接には現行10471項柱書きの第3括弧書きに対応する,ということは分かります。

 しかしながら,当該最判と平成8年最判との食い合わせの悪さは,一見すると分かりづらいところです。最判平成10226日に係る調査官解説を見ると,そこには「本件における遺留分侵害額の算定及び減殺すべき額の計算例」が記載されており,確かに当該「計算例」においては,(b)現行民法1042条=10462項方式が採られています(野山宏「相続人に対する遺贈と民法1034条にいう目的の価額」『最高裁判所判例解説民事編平成10年度(上)(1月~5月分)』(法曹会・2001年)198-199頁)。しかし,当該解説は,平成8年最判が採用するところの遺留分概念に係る(a)説の否認にまで直接説き及んでいるものではありません。

それでも,極端な仮設例をもって考えてみると何だか分かってくるようではあります。相続人が息子3名のみの被相続人たる父が,6世紀前半漢土南朝梁の武帝こと蕭衍(皇帝菩薩)のように宗教に入れあげて,死亡前の1年間に正味財産の6分の5を某宗教法人にお布施(生前贈与)してしまったものの,宇宙大将軍🚀(実在の称号です。)こと侯景👽の乱的末期(まつご)の混乱の中,残った6分の1は辛うじて長男に遺贈されることを得た(なお,中世ヨーロッパのキリスト教「教会は,霊魂救済のための喜捨が,教会を受遺者として行われることを認め,進んではこれを勧奨し,後には,無遺言者は懺悔をしない者と視られ,敬虔な遺贈をしない死者は埋葬を禁じられるというようなことにまでなった」そうです(中川309頁)。強欲なキリスト教✞⛪を禁じた我が豊臣秀吉🐒は,烈士だったのですな。),という場合を考えてみましょう。平成10年最判は,このような場合の長男を,次男三男(3兄弟の遺留分の率はそれぞれ6分の1(民法1042条))から最初にされる遺留分減殺請求(現在は遺留分侵害額請求)攻撃(受贈者である某宗教法人より先に,受遺者である長男が遺留分侵害額を負担しなければなりません(民法104711号)。)から守って過ぎ越されしめ,矛先を本尊たる某宗教法人に向けさせようというものでしょう。ところが,平成8年最判ないしは星野説(a)風に長男の遺留分の額を算定すると,民法1042条によって算定される遺留分の価額と同額の遺贈(特別受益の供与)が当該相続人にされてしまっているので,その分を差し引いて,残額ゼロということにならざるを得ません。そうであれば,次男三男からの最初の遺留分侵害額請求によって――せっかくの平成10年最判の理論ないしは民法10471項柱書きの第3括弧書きの規定もものかは――受遺価額の全額につき身ぐるみを剝がされてしまうことになります。これは確かにおかしいところです。

 

4 本題:遺留分に係る民法900条及び901条の準用に関する「明確化」の成否

 

(1)御当局の御趣旨

 ところで,実はこちらが本稿の本題ですが,民法現行1042条におけるもう一つの「明確化」は,遺留分についての民法旧1044条による同法900条及び901条の準用の在り方に係るものであったと解されます。

すなわち,民法旧1044条及びそこにおいて遺留分について準用されるものとされた条項については,「これらの規定が具体的にどのように準用されるのか判然とせず,分かりにくいとの指摘がされていた」ところ,「法定相続分を規定する第900条,第901条については,相続人が複数いる場合の遺留分を算定するために適用する規律として第1042条第2項に」規定することとしたものとされています(堂薗=野口159頁。下線は筆者によるもの)。

 

(2)立法ミス説:相続人≠遺留分権利者

御当局による前記説明において「相続人が複数いる場合の」規律であるぞという趣旨が表明されています。民法900条柱書きの「同順位の相続人が数人あるときは」との表現に引きずられたのでしょうか(なお,ここでの「同順位の」は贅語でしょう。同順位だからこそ同時に相続人になっているわけです。ただし,民法旧々1004条も「同順位ノ相続人数人アルトキハ」云々と規定していました。ちなみに,明治23年法律第98号の旧民法財産取得編においては,同順位の相続人が複数いて相続人が複数となる場合はなかったところです(同編295条並びに313条及び314条)。)。出来上がりの民法現行10422項も「相続人が数人ある場合」に係る規定であるものと自己規定しています。

 しかし,最判平成81126日の「複数の遺留分権利者がいる場合は更に遺留分権利者それぞれの法定相続分の割合を乗じ」との判示部分ないしは「それぞれの遺留分権利者の遺留分(個別的遺留分)の率 遺留分権利者が複数あるときは,全体の遺留分の率に,それぞれの遺留分権利者の法定相続分の率を乗じたものが,その者の遺留分の率である(1044条による900条・901条の準用)。」という民法教科書の記述(遠藤編245頁(上野)。下線は筆者によるもの)がせっかくあるのに,何ゆえ「遺留分権利者」概念から出発するそれらが民法現行10422項の起草者によって無視されてしまったのかは疑問です。配偶者及び兄弟姉妹が相続人である場合に係る同項の規定の不都合(前記1末尾における筆者の困惑参照)の存在及び当該不都合回避のための解釈方法に関して特に喋々されていないところからすると(堂薗=野口133-134頁参照),立法過程において当該不都合が気付かれることはなかったのでしょう。民法旧1028条の規定と同法900条及び901条の規定とを機械的に接合してみた際に生じた見落としによる他意なき立法ミスだったのでしょうか。

 「10422項の「相続人が数人ある場合」は「遺留分権利者が数人ある場合は」と当然読むのだ。これは,同条1項が「兄弟姉妹以外の相続人は」と書いているから,当然そう解されるのだ。」と言って,従来からの解釈(配偶者及び兄弟姉妹が相続人である場合の配偶者の遺留分は,遺留分の算定のための財産の価額の8分の3ではなく2分の1)を維持しようとするのが,いわゆる大人の態度なのでしょう。

しかし,「遺留分権利者」概念が既にあるところ(民法1044条等参照),当該概念があるにもかかわらず,素直に当該概念が使用されずに「相続人」概念が使用されるということは,当該「相続人」概念は「遺留分権利者(=兄弟姉妹(なお,甥姪について次の(3)を参照)以外の相続人)」概念と同一のものではない,と解するのが法文解釈の常道でしょう。そうであれば,「明確化」を志向した改正によってかえって条文の趣旨が従来の解釈との関係で不明確になってしまった,ということになるようです。

 

(3)脱線その2:甥姪が遺留分権利者たり得る可能性(887条2項3項準用廃止の反対解釈)

相続人たる甥姪にも遺留分はないはずです。しかし,平成30年法律第72号による改正後の民法における文理上の根拠は難しい。

10422項で準用される9012項(同項により準用される同条1項によって,代襲者である甥姪の遺留分は,被代襲者である兄弟姉妹と同じゼロとなります。)がその根拠である,ということに一見なりそうです。しかし,甥又は姪一人のみが相続人であるときは,10422項の適用はないのでしょう(同項は「相続人が複数ある場合」の規定)。

この点,旧1044条においては,いわば二重の為念的手当てがされていたものと解されます。

まず,旧1044条においては,直系卑属の代襲相続に係る8872項・3項の準用はありましたが,甥姪の代襲相続に係る8892項の準用はありませんでしたので(なお,昭和37年法律第40号による改正(同法附則1項により196271日から施行)前は,「第888条」の準用はあったが第889条第2項の準用はなかった,という形になります。),反対解釈的に,甥姪が遺留分権利者であることはないのだ,と言い得たでしょう。

また,上記のような反対解釈がされずに類推解釈がされて,仮に甥姪が遺留分権利者になるものとされたとしても,旧1044条による9012項の準用は,甥又は姪一人のみが相続人であるときであっても可能であったはずです。(なお,我妻=立石656頁(我妻)は,旧1044条による901条の準用について「但し,兄弟姉妹及びその代襲者に関する部分が準用されないことはいうまでもない。」としていますので,8892項の準用がないことをもって甥姪排除には既に十分であるものと理解していたように思われます。これに対して,潮見佳男教授は現行規定について,「代襲相続に関しては,10422項で代襲相続に関する901条が指示されていることから,代襲相続人が遺留分権利者であることがわかる」ものとしています(潮見佳男『詳解相続法(第2)』(弘文堂・2022650)。)

以上に対して,平成30年法律第72号による改正以後の民法の現行規定においては「〔旧1044条による〕第887条第2項及び第3項の準用の趣旨を明らかにすることはしていない」とされているところ(堂薗=野口159頁(注)),その意味が問題となります。当該趣旨を明らかにすることをしないこととした理由は「代襲相続人も再代襲相続人も,「相続人」であることには変わりなく,遺留分権利者の範囲についてのみ相続人に代襲相続人等が含まれることを明文化することは,他の条文の解釈に影響を与えることから」であるとされています(堂薗=野口159頁(注))。そうであれば,甥姪についても「「相続人」であることには変わりなく」ということは同様に当てはまるはずであり,かつ,甥姪は被相続人の「兄弟姉妹」ではありませんから,その非遺留分権利者性については,改めて丁寧な論証が必要となるように思われます。「他の条文の解釈に影響を与えること」を嫌ってあえて「明文化」しなかったところ,こじつけ気味の甥姪の遺留分権利者性問題として足下の1042条の解釈に影響が出てしまったことになったとすれば,皮肉な結果です。

 

5 民法1042条解釈の方向性

 

(1)伝統的解釈態度

 とはいえ,「わが民法の伝統的解釈態度は,かなり特殊なものである。第一に,あまり条文の文字を尊重せず(文理解釈をしない),たやすく条文の文字を言いかえてしまう。〔略〕第二に,立法者・起草者の意図を全くといってよいほど考慮しない。第三に,それではどんなやり方をしているのかというと,目的論的解釈をも相当採用しているが,特殊な論理解釈をすることが多い。すなわち,適当にある「理論」を作ってしまって,各規定はその表現である。従ってそう解釈せよと論ずる。〔略〕これは,ドイツ民法学,それもある時代の体系をそっくり受け入れ,これを「理論」と称し,後に述べるように実はフランス民法により近い我が民法をドイツの学説体系からむりに説明しようとしたことに由来する。」(星野英一『民法概論Ⅰ(序論・総則)』(良書普及会・1971年(1993年改訂))61-62頁(一))と五十余年前に星野英一教授が歎ぜられた我が民法の伝統的解釈態度の特殊性は,令和の御代においても依然として尊重され続けるべきものなのでしょう。

したがって,今後も,平成30年第72号制定前の伝統的「理論」をもって民法の文言を超えた不易の真理として捧持しつつ,当該「理論」に基づく,配偶者及び兄弟姉妹が相続人であるときの配偶者の遺留分は2分の1であるのだ説をもって正解とすることが正統解釈であり続けるのでしょう。現に,潮見教授は,現行1042に関して,妻並びに妹及び弟が相続人である場合,「〔妻〕に遺留分権があるが,〔妹・弟〕にはない。なお,〔妻〕の遺留分は,104212号により2分の1である(〔妹・弟〕が遺留分権利者でないため,9003を準用する余地がない点に注意を要する)。」とその遺著で説いて(潮見650),2分の1説支持の立場を明らかにしておられます。(ただし,「〔妹・弟〕が遺留分権利者でないため,9003を準用する余地がない」との命題は,理論というよりも,平成30年第72号によってされたのは専ら「明確化」であるものとされているので,新文言についての文理解釈がどのようなものとなっても従来の解釈による結論(2分の1)の変更を伴うこと(「明確化」からの逸脱)はあり得ないのだ,というような「理論」から導出された結論がいきなり表明されているものでしょう。なお,「明確化」といっても,文言の修正にとどまらず,そこでは例えば遺留分概念の内容にまで触れ得たことにつき,前記3を参照。)


(2)文理解釈及びフランスの脱落に伴う独伊との提携

 しかしやはり,筆者としては,民法現行1042条の筆者流の文理解釈(配偶者及び兄弟姉妹が相続人である場合の配偶者の遺留分は,遺留分の算定のための財産の価額の2分の1ではなく8分の3)をあえて正当化してみたいとの内心の欲求を抑えることができません。以下のごとき蛇足🐍👣が描かれるゆえんです。

 

ア ゲルマン(フランク)=フランス法型からローマ=ドイツ法型へ

 手掛かりとして,平成30年法律第72号によって遺留分制度の効果が,遺贈又は贈与の物権的な減殺権(民法旧1031条)から債権的な遺留分侵害額請求権(同法現行10461項)に改められたことに注目すべきもののように思われます。つまり,我が遺留分制度は,今やゲルマン=フランス法型からローマ=ドイツ法型(独伊型)に決定的に移行したのだ,と解するところからの敷衍を試みるわけです。

 

   (a)フランス法型は,遺産のうち被相続人が自由に処分しうる割合額(自由分・可譲分)を定め,その残りを法定相続人のうち直系親に保障する。被相続人が可譲分を超えて財産を処分していた場合は,原則として,現物を取り戻すことができる。遺留分は,相続分の一部であり,遺留分権者たる相続人全体に帰属する遺産部分である。

   (b)ドイツ法型は,被相続人が遺産のうちから最近親者――直系卑属,親および配偶者に残さなければならない割合額(義務分・遺留分)を定め,これらの者に,被相続人から財産を承継した者に対して,遺留分を金銭で補償請求する権利を与える。遺留分は,最近親者に保障されるべき法定相続分の代償であり,各遺留分権者に個人的に帰属する債権的権利である。

   (遠藤編240頁(上野)。下線は筆者によるもの)

 

従来は,①民法旧1028条において「遺留分権者たる相続人全体に帰属する遺産部分」(総体的遺留分)を決め,②遺留分権利者が複数の場合には旧1044条の準用する900条及び901条によって内部的分配(個別的遺留分)を決めるという2段階方式であったが,現在は,「各遺留分権者に個人的に帰属する債権的権利」である遺留分権利者の権利の割合を,10421項の割合と同項2項の割合の掛け算によって――「遺留分権者たる相続人全体に帰属する遺産部分」なる概念を介さず(なお,当該概念は,「財産が家に固着せしめられて来た」(中川403頁)ゲルマン法的な「家の維持のため」(原田346頁)という目的に親和的ですね(なお,ゲルマンというと正にドイツGermanyなので混乱しますが,Frankreichのフランス法ですから,それはフランク的ということになるのでしょうか。)。しかし,我が憲法24条は「個人の尊厳と両性の本質的平等」を言挙げしていますが,「家の維持」には言及していません。)――一挙かつ直接に算定するのだ,と解してはどうでしょうか。すなわち,現在の遺留分は,各相続人の法定相続分(10422項参照)から出発するものであって,それに10421項の割合を乗じたものになるのだ,と割り切るわけです。

しかし,平成30年法律第72号による民法改正を解説する文献における「配偶者と兄弟姉妹が共同相続人となる場合,2分の1を乗じて計算される総体的遺留分を前提として,配偶者の個別的遺留分が決まる。他方,遺留分権利者ではない兄弟姉妹には,当然であるが,遺留分は認められない。」(窪田充見『家族法 民法を学ぶ 第4版』(有斐閣・2019569頁。下線は筆者によるもの)及び「1042条は,1028条とは異なって2項を新設し,相続人が数人ある場合に遺留分額の全体額を各相続人(遺留分権利者)に配分する際の割合は,900条および901条の規定によって算定した各相続人の相続分,すなわち法定相続分の割合であることを明確に規定するに至っているのである。」(潮見佳男=窪田充見=中込一洋=増田勝久=水野紀子=山田攝子編著『Before/After相続法改正』(弘文堂・2019175頁(川淳一)。下線は筆者によるもの)というような記述は,フランス法型的発想の根強さを示すものでしょう。ただし,遺留分額の全体額である総体的遺留分を――残さず――配分するのであれば2分の1説が帰結せられるのでしょうが,そこまでの明示はされていません。特に前者の文献においては,「前提として・・・決まる」という含みのある表現が採用された上で,当該部分に直接続けて「次に,この総体的遺留分に,さらに各自の法定相続分を乗じて,それぞれの遺留分権利者の遺留分(個別的遺留分)が決まる(改正民10422)。」と述べられており(窪田569頁。下線は筆者によるもの),8分の3説は必ずしも排除されていない,という読み方も可能であるものと筆者には思われます。

 

イ ドイツ民法2303

我が新母法たるべきドイツ民法2303条は,次のように規定しています(中川17頁参照)。

 

§ 2303 Pflichtteilsberechtigte; Höhe des Pflichtteils

(1) Ist ein Abkömmling des Erblassers durch Verfügung von Todes wegen von der Erbfolge ausgeschlossen, so kann er von dem Erben den Pflichtteil verlangen. Der Pflichtteil besteht in der Hälfte des Wertes des gesetzlichen Erbteils.

(2) Das gleiche Recht steht den Eltern und dem Ehegatten des Erblassers zu, wenn sie durch Verfügung von Todes wegen von der Erbfolge ausgeschlossen sind. Die Vorschrift des § 1371 bleibt unberührt.

 

  第2303条 義務分権利者,義務分の額

  (1)被相続人の直系卑属が死因処分によって相続から排除された場合においては,同人は,相続人から義務分を請求することができる。義務分は,法定相続分の価額の2分の1とする。

  (2)同様の権利が,死因処分によって相続から排除された場合において,被相続人の親及び配偶者に与えられる。ただし,第1371Zugewinnausgleich im Todesfallということですから,「夫婦財産剰余共同制における死亡による剰余の清算」ということになります。の規定に影響を及ぼさない。

 

 義務分の出発点は,正に各相続人の法定相続分(das gesetzliche Erbteil)となっています。

 1888年のドイツ民法第一草案19751項は「被相続人は,法定相続人として相続するもの又は被相続人の死因処分がなければ法定相続人として相続することになっていたものであるその直系卑属及び親のそれぞれに対して(jedem),並びに同様にその配偶者に対して,残されたものの価額が法定相続分の価額の2分の1に達する(daß der Werth des Hinterlassenen die Hälfte des Werthes des gesetzlichen Erbtheiles erreicht)だけの物を残さなければならない(義務分(Pflichttheil))。」という法文を提示していました。この義務分(Pflichtteil)に関して,当該草案に係る同年の理由書(Motive)は,「「法定相続分」の意味するところは,法律上与えられるべき相続分であって,実際に帰属した(又は取得された)相続分ではない。」と(S.388),更に「法定相続分の代償としての義務分は,各個の(einzelnen)権利者に対して,他の者とは独立に帰属する。権利者は,その権利を自己のためのものとして行使すること(für sich geltend machen)ができなければならないので,その法定相続分に応じた自立的な割当てを受けたものとして(nach seinem gesetzlichen Erbtheile selbständig zugemessen),当該権利を保有するのでなければならないのである。」と述べていたところです(ibidem)。総体的遺留分概念の介在は,ありません。

 なお,ドイツ民法においては,第1順位の法定相続人は直系卑属です(同法1924条。子らの相続分は均等(同条4項))。第2順位は両親及びその直系卑属ですが(同法19251項),相続開始時に両親健在の場合には両親のみが均等割合で相続し(同条2項),父母の一方が死亡していた場合には,当該死亡者の直系卑属が当該死亡者を代襲するものの,当該死亡者に直系卑属がないときは,生存している親のみが相続します(同条3項)。第3順位は祖父母及びその直系卑属で(同法19261項),全祖父母が健在ならば彼らのみが均等割合で相続し(同条2項),一方の祖父母夫妻中の祖父又は祖母が相続開始時に死亡していた場合には当該死亡者の直系卑属が当該死亡者を代襲し,当該直系卑属がないときは当該死亡者の配偶者に,当該配偶者が生存していないときはその直系卑属に当該死亡者の相続分が帰属し(同条3項),相続開始時に一方の祖父母夫妻がいずれも死亡しており,かつ,当該死亡者らの直系卑属もない場合には,他方の祖父母又はその直系卑属のみが相続します(同条4項)。第4順位は曽祖父母及びその直系卑属であって(同法19281条),相続開始時に曽祖父母が生存している場合には,当該生存者のみが(属する家系にかかわらず)均等の割合で相続し(同条2項),曽祖父母がいずれも生存していない場合にはその直系卑属のうち被相続人に最も親等の近い者が(複数のときは均等の割合で)相続します(同条3項)。以下どんどん世代を遡った先祖及びその直系卑属が順次法定相続人となります(同法1929条。同条2項は,19282項及び3項を準用しています。)。

 ドイツ民法上の配偶者の法定相続権は,次のとおり。

 

  第1931

  (1)被相続人の生存配偶者は,第1順位の血族と共に相続財産の4分の1の割合の,第2順位の血族又は祖父母と共に2分の1の割合の法定相続人となる。祖父母と祖父母の直系卑属とが相続にかかわるときは,配偶者は,他の2分の1の割合のうち,第1926条によれば直系卑属に帰属すべきものとなる部分をも受ける。

  (2)第1順位若しくは第2順位の血族又は祖父母のいずれもないときは,生存配偶者は全相続財産を受ける。

  (3)第1371条の規定に影響は及ばない。

  (4)相続開始時に夫婦財産別産制が行われており,かつ,生存配偶者と共に被相続人の一人又は二人の子が法定相続人であるときは,生存配偶者及びそれぞれの子は,均等の割合で相続する。第1924条第3項〔代襲相続〕が準用される。

 

ドイツにおいて配偶者及び兄弟姉妹が相続人であるときは,配偶者及び兄弟姉妹の相続分はいずれも2分の1,義務分は,配偶者に4分の1,兄弟姉妹にはゼロとなるようです。我が国の相続法は,こうしてみると,配偶者に手厚くないわけではないですね。

 

ウ 民法1046条1項の「承継人」及び1049条2項に関して

 

(ア)民法1046条1項の「承継人」と遺留分権利者の権利の一身専属性と

 ただし,今般我が民法は遺留分制度についてローマ=ドイツ法型を採用したのだと高々と言うためには,民法10461項が遺留分権利者のみならず,「その承継人」による遺留分侵害額請求をも認めていることが若干障碍となるように思われるところです(ここでの「承継人」は「包括承継人(遺留分権利者の相続人等)のほか,特定承継人も含む」ものとされています(内田507頁)。)。というのは,ローマ法の不倫遺言(「不倫」といっても,inofficiosusですから,「義務を果たさない」とか,「思いやりのない」といった意味です。)の訴えは,遺言者死亡の際義務分以上の額を受け得なかった近親者自身のみが(「自ら――その相続人には訴権は移転せず(復讐呼吸訴権〔「(actio vindictam spirans)――被害者の相続人に移転しない訴権」〕)」)提起し得るものとされていたからです(原田345頁・221頁)。(「復讐呼吸訴権」とはラテン語の生硬な直訳ですが,復讐・処罰vindicta. vindictamは対格形)の精神を表わすspirare. spiransは現在分詞形)訴権actioということですね。)また,遺言相続における遺留分制度の趣旨は,ローマ=ドイツ法型風であると思われる「被相続人死亡ノ後其近親カ饑餓ニ迫マルノ虞ナキ為メ多少ノ遺留分ヲ認ルノ必要アリ」ということだったそうであるところ(梅426頁),そうであったのであれば,「饑餓ニ迫マ」られた当該近親者のみに当該権利の行使を認めれば十分であったように解され得るところです。

しかしこの点,我が判例はつとに,民法の明文上遺留分権利者の権利に帰属上の一身専属性まで認めることはできないものの(「民法〔旧〕1031条が,遺留分権利者の承継人にも遺留分減殺請求権を認めていることは,この権利がいわゆる帰属上の一身専属性を有しないことを示すものにすぎず」云々),当該権利の行使上の一身専属性を認めて,債権者代位権の目的とはならないもの(民法4231項ただし書)としています(最判平成131122日民集5561033頁)。このように行使上の一身専属性は既に認められている一方,帰属上の一身専属性はなお認められていないことについての理論上の不都合の有無を更に考えれば,「饑餓ニ迫マ」られるような,困っている(困った)被相続人の相続人はやはり貧乏なのでしょうし,遺留分権利者がその権利を「第三者に譲渡」(上記平成13年最判はこれを認めています。)して換金するのも「饑餓」対策としてあり得るところですから,当該帰属上の一身専属性まで,純ローマ式に要求する必要はないのでしょう。民法10461項にある「承継人」の文言について,筆者は結局余計な気をまわしたにすぎないということになるのでしょう。

なお,民法10461項の文言は,旧々1134条(「遺留分権利者及ヒ其承継人ハ遺留分ヲ保全スルニ必要ナル限度ニ於テ遺贈及ヒ前条ニ掲ケタル贈与ノ減殺ヲ請求スルコトヲ得」)に由来するわけですが,実は旧々1134条は家督相続及び遺産相続の両者に共通の規定なのでした。家督相続における遺留分制度の趣旨は,「家督相続ニ在リテハ苟モ家督相続ヲ認ムル以上ハ家督相続人カ家名ヲ維持スルニ足ルヘキ方法ヲ講セサルコトヲ得ス故ニ家名ヲ維持スルニ必要ナ財産ハ必ス之ヲ家督相続人ニ遺スヘキモノトセサルコトヲ得ス」ということですので(梅425-426頁。下線は筆者によるもの),遺留分権利者たる家督相続人は家名のために当然当該権利を行使すべきものであって当該権利に係る行使上の一身専属性は認められず,また,当該権利については,家の財産に関するものとしての財産権性が前面に出て来るものであったわけです。このような家督相続を念頭に置いた遺留分制度についての解釈(梅は,家督相続と遺産相続とを区別せずに,遺留分権利者の権利をもって「一身ニ専属スル権利ト認ムヘカラサ」るものとしています(梅436頁)。)が,遺産相続における遺留分制度の解釈をも覆ってしまっていたのでしょう。「現行民法の遺留分規定の内容は,「単独相続である家督相続を中心とした(ママ)民法の規定を家督相続の廃止にともなって最小限度の修正を加えたのみでほとんどそのまま踏襲したものであるといわれている。そのため,現行民法のとる共同相続を前提として,共同相続人間で生起しうる遺留分の問題については何らの配慮もされていないといっても過言でない」(野田愛子=太田豊「共同相続と遺留分の減殺」ジュリスト439102頁)とされる」ところであったのでした(野山202頁)。

 

(イ)民法1049条2項と各相続人に係る個人的なものとしての遺留分と

前記のとおり,昭和22年法律第222号は遺留分に係る旧々条項をほとんどそのまま踏襲したものであるといわれているとはいえ,同法による新設規定である民法1049条の第2項が,筆者の立場からは注目に値します(なお,同条は,「農業資産相続の場合を考えて」,「遺産の細分防止の方法の一つとして」,「少なくとも均分相続に対する攻撃の矛先をそらす手段にはなるだろう」ということで立案されたものです(我妻榮編『戦後における民法改正の経過』(日本評論社・1956年)190-191頁)。)。同項は「共同相続人の一人のした遺留分の放棄は,他の各共同相続人の遺留分に影響を及ぼさない。」と規定していますが,これは「遺留分は,各相続人それぞれについて個人的に定められるものだから」とされています(我妻=立石655頁(我妻))。各相続人について,直接,個人的に帰属するということでしょう。すなわち,「遺留分権者たる相続人全体に帰属する遺産部分」としての総体的遺留分概念は,ここにおいて既に退場せしめられていたのでありました。

 

エ 結語

 以上長々とした駄文にお付き合いいただき,ありがとうございました。

我が8分の3説は,民法1042条の文理に忠実なものでもありますので,「ドイツ式に体系化し解釈する」ことはこの場面では「奇妙な状況」(星野・概論Ⅰ・62頁(一))ではないのだ,とここで改めて強弁することをお許しください。

更に付言しますと,平成30年法律第72号の法案可決の際衆議院法務委員会(2018615)及び参議院法務委員会(同年75)はいずれも附帯決議を付していますところ,両決議の各第2項は同文で「性的マイノリティを含む様々な立場にある者が遺言の内容について事前に相談できる仕組みを構築するとともに,遺言の積極的活用により,遺言者の意思を尊重した遺産の分配が可能となるよう,遺言制度の周知に努めること」について「格段の配慮」をするよう「政府」に対して要求しています(堂薗=野口7-8頁参照。下線は筆者によるもの)。「遺言者の意思を尊重した遺産の分配が可能」となるために「遺言制度の周知」を行うべきだということですから,遺言制度に附随する遺留分制度に関する解釈問題の解決も「遺言者の意思を尊重」する方向でされるべきだということが平成30年法律第72号の解釈に係る立法者たる国会の意図なのでありましょう。遺留分の割合について二つの可能な解釈があれば,遺言者の自由が大きくなる方(遺留分が小さくなる方)を採用すべし,ということになるのでしょう。

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1 某巡査の重婚的「婿入」

 鷗外森林太郎の小説『雁』(1911-1915年)のヒロインである玉は,岡田医学生と淡い交渉を持った1880年(明治13年)の段階(「古い話である。僕は偶然それが明治13年の出来事だと云ふことを記憶してゐる。」)において,貸金業者の末造の妾でありましたが,飽くまでも妾にとどまる限りにおいては,末造と婚姻していたものではありません。しかしながら,末造の妾になる前に,玉には某巡査が「婿」としてやって来ていたという事情がありました。当該事情は下記のとおりですが,玉は法的には,未婚であったのでしょうか,それとも元・人妻となったものだったのでしょうか。

 

  或る時〔飴細工屋の爺いさんの家の〕入口に靴の脱いであるのを見た。それから間もなく,此家の戸口に新しい標札が打たれたのを見ると,巡査(なん)何某(なにがし)と書いてあつた。末造は松永町から,(なか)(おかち)(まち)へ掛けて,色々な買物をして廻る間に,又探るともなしに,飴屋の爺いさんの内へ婿入(むこいり)のあつた事を(たしか)めた。標札にあつた巡査がその婿なのである。お玉を目の(たま)よりも大切にしてゐた爺いさんは,こはい顔のおまはりさんに娘を渡すのを,天狗にでも(さら)はれるやうに思ひ,その婿殿が自分の内へ這入り込んで来るのを,此上もなく窮屈に思つて,平生心安くする誰彼に相談したが,一人もことわつてしまへとはつきり云つてくれるものがなかつた。〔中略〕末造が此噂を聞いてから,やつと三月ばかりも立つた頃であつただらう。飴細工屋の爺いさんの家に,ある朝戸が締まつてゐて,戸に「貸家差配(さはい)松永町西のはづれにあり」と書いて張つてあつた。そこで又近所の噂を,買物の(ついで)に聞いて見ると,おまはりさんには国に女房も子供もあつたので,それが出し抜けに尋ねて来て,大騒ぎをして,お玉は井戸へ身を投げると云つて飛び出したのを,立聞をしてゐた隣の上さんがやう〔やう〕止めたと云ふことであつた。おまはりさんが婿に来ると云ふ時,爺いさんは色々の人に相談したが,その相談相手の中には一人も爺いさんの法律顧問になつてくれるものがなかつたので,爺いさんは戸籍がどうなつてゐるやら,どんな届がしてあるやら,一切無頓着でゐたのである。巡査が髭を(ひね)つて,手続は万事己がするから好いと云ふのを,少しも疑はなかつたのである。

  (『鷗外選集第3巻 小説三』(岩波書店・1979年)216-217頁)

 

法律顧問は,有益かつ必要です(御連絡・御相談は,saitoh@taishi-wakaba.jpへ。あるいは,03-6868-3194へ)。

令和の御代となっては遅蒔きながら,玉と某巡査との婚姻の成否について考えてみましょう。当該「婿入」騒動があったのは,明治11年か12年(1878-1879年)の頃のことであったとの前提での解説です。

 

2 重婚の許否の問題

まず,前回記事(「令和4年法律第102号による改正後の民法773条における「第732条」出現の「異次元」性に関して」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080634730.html)以来の問題である重婚の許否について検討します。

1888年(明治21年)の旧民法人事編第一草案41条は「配偶者アル者ハ重ネテ婚姻ヲ為スコトヲ得ス」と規定していますが,熊野敏三起稿の理由書には「本条ハ重婚ヲ禁スルモノニシテ一夫一婦ノ制ニ帰着スルモノナリ此規則ハ或ハ旧来ノ慣習ニ反スルヤ知ルヘカラスト雖モ刑法中重婚ヲ罰スレハ既ニ之ヲ一変シタルモノト云フヘシ」とあります(『明治文化資料叢書第3巻 法律編上』(風間書房・1959年)63頁)。ここでの「刑法」は,1882年(明治15年)11日から施行された(明治14年太政官第36号布告)旧刑法(明治13717日太政官第36号布告)のことになります。旧刑法354条は「配偶者アル者重()テ婚姻ヲ為シタル時ハ6月以上2年以下ノ重禁錮ニ処シ5円以上50円以下ノ罰金ヲ附加ス」と規定していました(重禁錮は禁錮場に留置し定役に服せしめる刑です(同法241項。他方,定役に服さないのが軽禁錮でした(同項)。)。)。

熊野の口吻を反対解釈すると我が国の「旧来ノ慣習」はあるいは重婚制であったということになるようですが,ボワソナアドは,重婚(bigamie)の罪は日本社会では稀であり(raretéであるとされています。),その民俗(mœurs)は重婚に赴かせしめるものではないと観察していたところです(cf. Gve Boissonade, Projet Révisé de Code Pénal pour l’Empire du Japon accmpagné d’un Commentaire, Tokio, 1886, p.1045)。稀ではあるが,重婚はあることはあった,ということになるようです。

梅謙次郎に至ると,きっぱりと,「蓋シ我邦ニ於テハ既ニ千有余年前ヨリ此〔一夫一婦の〕主義ヲ認メ敢テ一夫多妻若クハ一妻多夫ノ制ヲ取ラス」と述べています(梅謙次郎『民法要義巻之四 親族編(第22版)』(私立法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1912年(初版1899年))90頁)。民法(明治31年法律第9号)旧766条(「配偶者アル者ハ重ネテ婚姻ヲ為スコトヲ得ス」)の草案は18951122日の第139回法典調査会で審議されましたが,そこで参照条文等として掲げられたものは,我が国法関係では,旧民法人事編(明治23年法律第98号)31条(「配偶者アル者ハ重()テ婚姻ヲ為スコトヲ得ス」),旧刑法354条,戸婚律有妻更娶条,和娶人妻条,応政談,御定書百个条48(密通御仕置之事),明治8128日司法省指令,明治9623日太政官指令1条及び明治9717日「内務省1」となっています(日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録第46巻』91丁表)。これらの条文等が我が国における一夫一婦制の伝統を基礎付けていたのだ,ということでしょう。

 

 今日本に於ける沿革を案ずるに戸婚律に(第1)有妻更娶条(第2)和娶人妻条ありて配偶者ありながら他人と婚姻する者を罰し其婚姻を無効とせり。新律綱領,改定律(ママ)には明文なし。故に人の妻を娶るも罪なきに非さるやの疑を生するも実際は不応為罪中に之を含みたり。明治8128日司法省指令に由れば妻ある夫更に婚姻(ママ)ば不応為罪の重きに依て処断す。後婚の婦女其情を知らば同罪とすとあり。徳川時代に於ては百ヶ条に「密通致し候妻死罪,密通之男死罪」と規定したり。

 (中村進午『親族法』(東京専門学校・1899年)82頁)

 

 明治8年(1875年)128日司法省指令の事案は,玉と某巡査との事件と同型ですね。

 明治9年(1876年)717日「内務省1」の内容は筆者には調べがつかなかったのですが,同年623日の太政官指令1条は,18749月に夫が逃亡してしまったので妻が姑及び実家の父らに勧められてN松と「再婚」したところ,後に事実が当局に露見して187511月に妻の実父らはそれぞれ処分され,かつ,N松とは離隔せられたものの,18761月に妻が出産してしまった「後婚」の子を戸籍上どう取り扱うかについての回答であって,「子ハ双方ノ協議ニ任セ男又ハ女ニテ(ひき)引取(とりをなし)男ニテ引取候ハ庶子女ニテ引取候ハ私生ノ子ト記載スヘキ事」というものでした。N松との「後婚」は一妻多夫の重婚として無効なので,生まれた子は嫡出子にはならず(なお,同児は187511月の「離隔」前に懐妊されているところ,重婚も取消しまでは有効であって,かつ,取消しの効果は遡及しないとの現行民法(明治29年法律第89号)744条及び7481項の主義であれば,嫡出子たり得たところでしょう(同法7721項及び2項後段参照。また,旧民法人事編66条(「無効ノ言渡アリタル婚姻ハ子ニ付テハ其出生ノ婚姻前後ナルヲ問ハス法律上ノ効力ヲ生ス」))。),N松が認知(引取り)をすればその庶子となるが,そうでなければ(女ニテ引取の場合)父の知れない私生子であるということでしょう。

 不応為罪は,明治三年十二月二十日(187129日)の新律綱領の巻5雑犯律に「凡律令ニ正条ナシト雖モ情理ニ於テ為スヲ得()ヘカラサルノ事ヲ為ス者ハ笞30事理重キ者ハ杖70」との規定があったものです。罪刑法定主義(旧刑法2条「法律ニ正条ナキ者ハ何等ノ所為ト雖モ之ヲ罰スル(こと)ヲ得ス」)もあらばこそです。30及び杖70の刑は,明治6年(1873年)710日から施行の改定律例(明治6613日太政官第206号布告)によって,それぞれ30日の懲役及び70日の懲役に改められています(なお,改定律例は,新律綱領を廃止するものでも全部を改正するものでもなく,補充するものでした。)。ただし,玉の「婿」の某巡査は官吏でしょうから(「上は君主より下は交番の巡査に至る迄」いずれも国家機関である,とは美濃部達吉の不敬的かつ有名な表現です。),改定律例23条又は(平民の場合)24条の適用があり(重婚は,公務に係る公罪ではなく私罪でしょう。),重婚に係る不応為罪を犯したとしても,懲役70日ではなく,官吏私罪贖例図に照らして贖金1050銭に処せられるべきものだったのではないでしょうか(なお,等外吏ではなく,それより一つ偉い判任官であれば14円)。

 

3 婚姻の成立の問題

 次に重婚の成立,すなわち婚姻は何をもって成立することとされていたかの問題があります。

 「徳川時代の厳格なる用語にては,婚姻(〇〇)というは夫婦の関係を発生すべき祝言(〇〇)()挙行(〇〇)なり。而してこの婚姻を挙行する契約は即ち縁談取極にして,これは結納(〇〇)()授受(〇〇)に依りて成立するものとす」(中田薫『徳川時代の文学に見えたる私法』(1956年(岩波文庫版1984年))130頁),「江戸時代においては,武士と庶民とで違ったようであり,武士についての幕府法によると,双方の当主(戸主のようなもの)からそれぞれ幕府に縁組願いを出して許可を得た後に結納の授受と婚儀の挙行によって婚姻が成立し,その後その旨の届出を要し,庶民については,社会的には結納の授受と祝言の挙行が行われたが,法律上は変遷があり,末期には人別帳(当時の戸籍)に記載することを要した。」(星野英一『家族法』(放送大学教育振興会・1994年)56頁)というような状況であったところ,明治に入って,明治三年十一月四日(18701225日)に太政官から縁組規則(明治三年太政官第797号布告)というものが出ます。

 

  一華族ハ太政官ヘ願出士族以下ハ其管轄府藩県ヘ(ねがい)願出(いづべき)

  一華族士族取結候節ハ華族ハ太政官ヘ願出士族ハ其管轄官庁ヨリ太政官ヘ伺済ノ上可差許(さしゆるすべき)

  一府藩県管轄違ニテ取結候節ハ士族卒平民タリトモ双方ノ官ニテ聞済互ニ送リ状取替シ(もうす)(べき)

  右之通被定(さだめられ)候事

 

藩の字が出て来ますが,明治三年段階では,前年に版籍奉還はされているものの,なお廃藩置県はされていなかったところです(廃藩置県の詔書が出されたのは,明治四年七月十四日(1871829日)のことでした。)。

華族令(宮内省達)が出て五爵の制が定められたのは明治17年(1884年)77日のことですが,明治二年の版籍奉還の段階での「華族」は,それまでの公卿・諸侯の称を改めたものです。

明治三年の縁組規則は,翌明治四年四月二十二日(187169日)の太政官第198号布告で早速改められます。

 

 昨冬十一月御布告縁組規則中管轄違ニテ取結候節ハ士族卒平民トモ双方官庁ニテ聞済送リ状取替候様御達ニ相成居候処平民ハ不及其儀(そのぎにおよばず)今般御布告ノ戸籍法第5則ノ通可相(あひここ)心得(ろうべく)此段更ニ相達候事

 

 明治四年四月四日(1871522日)の太政官第170号布告たる戸籍法の第5則は,次のとおりです。

 

  編製ハ爾後6ヶ年目ヲ以テ改ムヘシト雖モ其間ノ出生死去出入等ハ必其時々戸長ニ届ケ戸長之ヲ其庁ニ届ケ出テ支配所アルモノハ支配所ニ届支配所ヨリ其庁ニ届ク其庁之ヲ受ケ人員ノ増減等本書ヘ加除シ毎年十一月中戸籍表ヲ改メ十二月中太政官ヘ差出スヘシ加除ハ生ルモノト入ルモノヲ加ヘ死者ト出ルモノヲ除ク類ヲ云フ

 

平民については「今般御布告ノ戸籍法第5則ノ通可相(あひここ)心得(ろうべく)」ということですから,平民の婚姻等については府藩県への願い出(及び当該府藩県からの許可)を要さず,戸長への報告的届出のみでよい,ということでしょうか。江戸時代の制とほぼ同様,ということになるのでしょう。

ただし,学説上「明治四年の戸籍法により,戸(ママ)への届出が婚姻の成立要件となったとする説」があるそうです(星野57頁)。しかし,明治四年太政官第170号布告戸籍法の趣旨については「戸籍人員ヲ詳ニシテ猥リナラサラシムルハ政務ノ最モ先シ重スル所ナリ夫レ全国人民ノ保護ハ大政ノ本務ナル(こと)素ヨリ云フヲ待タス然ルニ其保護スヘキ人民ヲ詳ニセス何ヲ以テ其保護スヘキヿヲ施スヲ得ンヤ是レ政府戸籍ヲ詳ニセサルヘカラサル儀ナリ又人民ノ各安康ヲ得テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ政府保護ノ庇蔭ニヨラサルハナシ去レハ其籍ヲ逃レ其数ニ漏ルモノハ其保護ヲ受ケサル理ニテ自ラ国民ノ外タルニ近シ此レ人民戸籍ヲ納メサルヲ得サルノ儀ナリ」とあるので,同法は,人民間における親族関係の私法的規整には直接の関心はなかったように思われます。

なお,明治四年戸籍法においては「届出をなすべき者は規定されていないが,戸主であることは常識として明文を待たぬ公理だったと指摘されている(福島正夫・「家」制度の研究資料篇一(195940-41頁)」そうです(二宮周平編集『新注釈民法(17)親族(1)』(有斐閣・2017年)3-4頁(二宮周平)。また,同81頁(二宮),谷口知平『戸籍法』(有斐閣・19577)。

明治四年八月二十三日(1871107日)太政官第437号布告によって,諸身分間の通婚が自由化されます。

 

 華族ヨリ平民ニ至ル迄互婚姻被差許(さしゆるされ)候条双方願ニ不及(およばず)其時々戸長へ可届出(とどけいづべき)

  但送籍方ノ儀ハ戸籍法第8則ヨリ11則迄ニ照準可致(いたすべき)

 

しかし,戸長への婚姻の届出は励行されなかったようです。

明治8129日の太政官第209号達(使府県宛て)は,次のように定めます。

 

 婚姻又ハ養子養女ノ取組若クハ其離婚離縁縦令(たとひ)相対熟談ノ上タリ𪜈(とも)双方ノ戸籍ニ登記セサル内ハ其効ナキ者ト看做スヘク候条右等ノ届方等閑ノ所業無之(これなき)(やう)精々説諭可致置(いたしおくべく)此旨相達候事

 

 この明治8年太政官第209号達についての重要な解釈を示す司法省達があります。明治10619日司法省丁第46号達(大審院・上等裁判所・地方裁判所宛て)です。

 

 8年第209号御達ノ儀ニ付有馬判事ヨリ甲号ノ通伺出ニ因リ乙号ノ通太政官ヘ上申候処丙号ノ通御裁令相成候条此段為心得(こころえのため)相達候事

   甲号  (ママ)律伺

 明治8年第209号公布婚姻又ハ養子養女ノ取組若クハ其離婚離縁縦令(たとひ)相対熟談ノ上タリトモ双方戸籍ニ登記セサル内ハ其効ナキ者ト看做ス可ク云々ト有之(これあり)候付テハ双方父母親属熟談ノ上人ノ妻トナリ男女ノ子アル者ト雖𪜈(とも)戸籍ニ登記無之(これなき)者ハ犯姦告訴等ノ節無論(ろんなく)処女ト看做シ処分致ス儀ニ可有之(これあるべく)尤右ノ者夫又ハ夫ノ祖父母父母ヲ謀殺故殺殴傷罵詈等ニ至ル迄総テ凡人ヲ以テ論シ且人ノ養子女トナリテ同居シ実際親子ノ会釈ヲ為ス者ト雖モ前同断ノ者ハ皆凡人ヲ以テ処分致シ可然(しかるべき)()已ニ戸籍法規則確定ノ上ハ婚姻又ハ養子女等其時々送籍等ヲ不為(なさざる)者ハ無之(これなき)筈ニ候得共(さうらへども)辺土僻隅ノ愚民(ママ)ニ至テハ絶テナシトモ難確定(かくていしがたく)候付(さうらふにつき)犯者アルニ臨ミ実際ト条理上ト不都合(しよう)(ずべき)有之(これある)関係不尠(すくなからず)(いささか)疑義ヲ生シ候条(あらかじ)メ御指揮ヲ受置度(うけおきたく)此旨相伺候也

                       在宮崎県

                        七等判事有馬純行

     明治9418

              司法卿大木喬任殿

   乙号  太政官ヘ上申

 婚姻又ハ養子女ノ取組若クハ離縁等ノ儀ニ付テハ8年第209号ヲ以テ使府県ヘ達セラレタリ然ルニ該達ハ文意稍々明確ヲ欠キ或ハ宮崎県伺ノ如キ疑団ヲ生スルアリト雖𪜈(とも)篤ト該達ノ文意ヲ熟案スルニ仮令ヒ相対熟談ノ上タリ𪜈(とも)云々ノ文字アリテ既ニ其婚姻ヲ行ヒ夫婦ト為リタル者ヲ指的スルニアラス其主意ヲ約言スレハ婚姻養子ノ取組等ヲ為スニ当リ双方ノ熟談ノミニテハ一概ニ之ヲ夫婦父子ト見ル可カラサル旨ヲ示シタルモノナリ(尤モ最初該達施行ノ際ハ此ノ辨明ト其旨意ヲ異ニセシヤモ知ル可カラサレト今日ノ日法律ノ改良修正ヲ要スルニ当テハ成ルヘク旧法ヲ破毀セス之カ辨明ヲ以テ其効ヲ得シムルヲ良トス)然ルニ若シ之ヲ以テ既ニ婚姻ヲ行ヒ親族隣里モ之ヲ認許セシ者ニ適用シテ凡人ヲ以テ処分スルハ実ニ人類社会ノ根本タル一家親族ノ大倫ヲ乱スヘキ法律ト云ハサルヲ得ス

 別紙有馬判事伺ノ如キ其実明々タル夫婦親子ニシテ独リ戸籍ノ登記ヲ欠ク者若シ謀殺故殺犯姦等ノ(こと)アランニ凡人ヲ以テ之ヲ論セン()是レ其形ヲ論シテ其実ヲ論セサル者大ニ法律ノ原旨ニ悖戻スト謂フ可シ

 然リト𪜈(とも)其戸籍登記ノ届ヲ為サヽル情実ニ因リ元ト其婚姻等ノ成リ立タサル不良ノ所為アルモノハ其効ヲ失ハシムル者モ之レアルヘシ因テ別紙ノ通指令可及(におよぶべし)ト存候且左ノ指令案ノ趣旨ニ従ヒ各裁判所ヘ念ノ為メ本省ヨリ布達ニ及ヒ(たく)此段相伺候条早速御裁令相成(たく)存候也

   丙号  太政官ヨリ御指令

 伺ノ趣8年第209号ノ諭達後其登記ヲ怠リシ者アリト雖モ既ニ親族近隣ノ者モ夫婦若シクハ養子女ト認メ裁判官ニ於テモ其実アリト認ムル者ハ夫婦若シクハ養父子ヲ以テ論ス可キ儀ト相心得ヘシ

 

 明治8年太政官第209号達と明治10年司法省丁第46号達との関係について,梅謙次郎は次のように述べています。

 

  〔前略〕我邦ニ於テハ明治8年ノ達(8129日太政官達209号)ニ依リテ夫婦双方ノ戸籍ニ登録スルヲ以テ其成立条件トセリ然レトモ此達ハ殆ト実際ニ行ハレス刑事ニ於テハ夙ニ明治10年司法省達(10619日司法省達丁46号)ニ依リテ苟モ親族,近隣ノ者夫婦ト認メ裁判官ニ於テモ其実アリト認ムル者ハ夫婦ヲ以テ論スヘキモノトセリ爾来民事ニ於テモ此達ニ依レル例尠カラス而シテ実際ノ慣習ニ於テハ上流社会ト雖モ先ツ事実上ノ婚姻ヲ為シタル後数日乃至数月ヲ経テ届出ヲ為ス者十ニ八九ナリ況ヤ下等社会ニ在リテハ竟ニ届出ヲ為ササル者頗ル多シトス此ノ如キハ実ニ神聖ナル婚姻ト私通トヲ混同スルノ嫌アリテ到底文明国ニ採用スヘキモノニ非サルナリ

  (梅105-106頁)

 

梅は,「刑事ニ於テハ」と,明治10年司法省丁第46号達の適用対象を刑事に限定していますが,これは同達発出の端緒たる有馬純行判事の司法卿宛て伺いが,直接には,犯姦謀殺故殺殴傷罵詈等の刑事事件に係る擬律の取扱いに係るものだったからでしょう。しかし,太政官への上申中において司法省は,明治8年太政官第209号達について,「文意稍々明確ヲ欠キ」,「実ニ人類社会ノ根本タル一家親族ノ大倫ヲ乱スヘキ法律ト云ハサルヲ得ス」といった射程の広い批判を加えており,当該太政官達が刑事関係以外でもなお無傷で残り得るということは,なかなか難しいところだったでしょう。「民事ニ於テモ此〔司法省〕達ニ依レル例尠カラス」とは,当然の成り行きでしょう。

我妻榮は,明治8年太政官第209号達と明治10年司法省丁第46号達との関係について,「明治8年第209号達は法律婚主義(戸籍の届出)を宣言したが,後の明治10年司法省達丁第46号は,事実婚主義に復帰したようにも思われる。実際上も,その後,届出のない夫婦関係を保護した判決はすこぶる多い。しかし,右の二つの法令の関係――復帰とみるか二本建になったとみるか――については,学説が分かれている」と述べています(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)38頁註(2))。ここでの「二本建」説は――梅による明治10年司法省丁第46号達の性格付けを前提にする――民事と刑事との二本建てであるとなす説であって,民事において当該司法省達によってしまったのは例外的事態であると解するものでしょうか(なお,星野57頁は「裁判実務にも混乱が見られるようである」と言っていますが,二宮編81頁(二宮)は,「大審院は,〔明治10年司法省丁第46号達〕を民事事件にも適用していた」とあっさり言い切っています。)。

しかし,明治10年司法省丁第46号達を乙号部分に注目して読めば,当該達と明治8年太政官第209号達との整合性の確保を司法省は志向し,両者は民事及び刑事において統一的に解釈・適用されるべきもの(換言すれば,司法省達は「文意稍々明確ヲ欠」く太政官達を,否定(「破毀」)はせずにその欠缺を補充するもの)と考えていたように思われます。しからばその解釈とはどのようなものかといえば,婚姻及び縁組については,

 

 婚姻又ハ養子養女ノ取組は,縦令(a)両家戸籍届出権者を含めての相対熟談ノ上タリ𪜈(とも)(b)双方ノ戸籍ニ登記をし,又は(β)親族近隣ノ者モ夫婦若シクハ養子女ト認メ裁判官ニ於テモ其実アリト認められなければ,其効ナキ者ト看做ス

 

ということになるのだ,ということではないでしょうか。

 江戸時代でいえば,(a)は縁談の取極ということになりましょう。当該縁談取極においては,太政官達の戸籍登記本則主義を司法省が真っ向から否認しない以上,両家戸籍届出権者の同意は必須でしょう。(a)を前提に,そこに(b)又は(β)の要件が加わることによって婚姻又は縁組が有効に成立するものとするのが当時の司法省及び裁判所の公定解釈であった,と筆者は考えてみたいのです。これは,民刑事共通に適用されるところの法律婚主義(「届出ありさえすれば現実の共同生活なくしても身分関係が認められた」(谷口9))と事実婚主義との二本建て説ということになりましょうか。建物賃借権の対抗要件に係る不動産登記(民法605条)と引渡し(借地借家法(平成3年法律第90号)31条)との二本建て主義と何だか似てしまっています(「民法605条僻見(後編)」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079742276.html)が不図想起されます。)。

 

4 当てはめ

 玉と某巡査との「婚姻」においては,「爺いさんは戸籍がどうなつてゐるやら,どんな届がしてあるやら,一切無頓着でゐたのである。」ということですから,(b)の要件は欠けていたようです(なお,婚姻それ自体については,明治21年(1888)段階の旧民法人事編第一草案の理由書において「殊ニ近時ニ至テハ其礼式大ニ破レ諾成ノ行為ト云フモ不可ナカラン」と観察されています(明治文化資料叢書361)。)。(a)の要件については,玉の父と某巡査との間では「おまはりさんが〔略〕,大きな顔をして酒を飲んで,上戸でもない爺さんに相手をさせてゐた間,まあ,一寸楽隠居になつた夢を見たやうなものですな」という情況だったそうですから(鷗外選集第3217-218頁),晩酌仲間の両者ともに戸籍届出権者であったのであれば,一応要件充足でしょうか。しかし,(β)の親族近隣ノ者モ夫婦ト認メ要件はどうでしょうか。確かに東京の練塀町(ねりべいちょう)下谷(したや)間にあった某巡査・玉の同居宅の「近隣」の人々は夫婦ト認め,玉の親族たる爺さんも同様だったのでしょうが,前婚の妻及びその子供を始めとする某巡査の親族側は,某巡査と玉とを夫婦ト認めるものでは全然なかったものでしょう。この要件は,上記(b)要件と共に未充足であったようです。

 そうであれば,玉は岡田を見知った時にはなお未婚であって,また,某巡査も玉との重婚に係る不応為罪を犯したわけではない,ということになるようです。

 とはいえ,玉は,末造の妾である限りにおいては,なお末造に対する守操義務があったようです。すなわち,改定律例260条は「凡和姦。夫アル者ハ。各懲役1年。妾ハ。一等ヲ減ス。〔以下略〕」と規定していたのでした。改定律例では,懲役1年の次は懲役100日であったようなので,一等ヲ減ぜられれば懲役100日となったものでしょうか。


DSCF2166
末造の妾宅があった無縁坂(左東京都台東区,右同文京区)


上野警察署(2)
上野警察署(1)
所轄の警察署

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1 「異次元の少子化対策」宣言

 岸田文雄内閣総理大臣は,今年(2023年)14日の伊勢神宮における年頭記者会見で,同年を「異次元の少子化対策に挑戦する」年としたいとの力強い抱負を述べられました。

異次元とは由々しい言葉です。これまでの常識を覆すような,行儀のよい保守派からするとスキャンダラスと指弾されるような「対策」が講じられるものかと緊張させられます。

しかし,続けて提示された三つの「対策の基本的な方向性」はどのようなものかといえば,「第1に,児童手当を中心に経済的支援を強化することです。第2に,学童保育や病児保育を含め,幼児教育や保育サービスの量・質両面からの強化を進めるとともに,伴走型支援,産後ケア,一時預かりなど,全ての子育て家庭を対象としたサービスの拡充を進めます。そして第3に,働き方改革の推進とそれを支える制度の充実です。」というものでした。より大きな財政赤字及び徴税並びに増額された社会保険料によって折角集めたお金を国民に撒き戻しつつ,関係省庁の関係業界を細やかな干渉を通じて助長する一方,従業員福祉を更に強化する実践及びその負担を企業に求めるということであれば,従来の政策次元の拡大延長面上にあるようでもあります。現状が既にスキャンダラスな衰退途下国においては,陳腐化した前例を同一次元において偸安的に踏襲することこそが,あるいは最悪のスキャンダルとなるかもしれません。

しかし,岸田救国内閣たるもの,謙虚を装いつつも,そのような因循姑息策にとどまることはあり得ません。別次元に飛び移るような爆発的な量的拡大による「異次元」化が意図されているのかもしれません。

 

2 民法新773条からの同法732条への脚光

 ところで最近筆者は,20221216日公布の令和4年法律第102号たる民法等の一部を改正する法律を研究していて,「実はこれが,岸田内閣からの隠された「異次元」メッセージなのではないか」などと不図妄想してしまう民法(明治29年法律第89号)の改正条項に逢着したのでした(当該改正は,202441日から施行されます(令和4年法律第102号附則1条本文,令和5年政令第173号)。)。

 

    (父を定めることを目的とする訴え)

 (現)第773条 733条第1の規定に違反して再婚をした女が出産した場合において,前条の規定によりその子の父を定めることができないときは,裁判所が,これを定める。

 

    (父を定めることを目的とする訴え)

 (新)第773条 732の規定に違反して婚姻をした女が出産した場合において,前条の規定によりその子の父を定めることができないときは,裁判所が,これを定める。

 

 民法732条は,重婚禁止の規定です(「配偶者のある者は,重ねて婚姻をすることができない。」)。

 これは,女性の再婚禁止期間を定める民法現733条が令和4年法律第102号によって削除され,かつ,同法によって民法772条の嫡出推定規定が整備されることに伴って現773条が不要となるはずのところ(人妻である彼女の前婚の解消又は取消しがあれば直ちに(再婚禁止期間なしに)人妻好き男性は当該彼女と婚姻できることになるのですから,「第733条第1項の規定に違反して再婚」をすることとなる女性はそもそもいなくなるわけです。),従来「重婚関係が存在する場合にも,〔嫡出〕推定重複の場合が生じうる。その場合にも,773条を準用(ママ)すべきである。」(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)218頁)とされて潜在していた重婚妻の生んだ子に係る現773条類推適用の必要性が,その背後にうまく隠れ得るとともに当該類推適用については抜かりなく可能であるものとしてくれていた773条の現行文言を失うことによってはしなくも表面化し,あからさまな適用規定たる新773条としてはしたなくも規定し直されたということになります。

 

3 重婚の有効性

 重婚が成立してもそれは婚姻の取消事由にしかならず(民法744条。無効ではありません。「婚姻ヲ無効トスルハ重大ナル影響ヲ夫婦間ノ関係及ヒ其子ノ利害ニ及ホシ延イテ一家ノ浮沈ニモ関スルコト稀ナリトセサルカ故ニ苟モ利害関係人ノ請求ナキ以上ハ暫ク之ヲ黙認シ敢テ之ニ干渉セサルコトトセリ」と梅謙次郎は説明しています(同『民法要義巻之四 親族編(第22版)』(私立法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1912年)120頁)。),かつ,婚姻の取消しは将来に向かってのみ効力を有する(遡及効はない)のですから(同法7481項),確かに重婚夫婦から生まれた子は,後婚配偶者の子であっても,本来は堂々たる嫡出子たるべきものであるところです。婚姻が取り消されても「夫婦間ニ挙ケタル子ハ之ヲ嫡出子ト看做シ総テ嫡出子ノ権利義務ヲ有スル者トスル」わけです(梅139-140頁)。

 しかし,重婚の後婚も取消しまでは有効な婚姻である(ちなみに,重婚でない婚姻も所詮は離婚まで有効なものにすぎず,後処理は重婚中の後婚取消しの場合のそれと同様です(民法749条)。),ということを想起せしめる規定振りは,余りうまくないように思われます(「第732条」と具体的な条番号が書かれていても,条文に当らない者が大部分なのでしょうが,たまに筆者のように細かくうるさい人間もいます。)。民法現7331項違反であるならば所詮再婚禁止期間違反にすぎず(梅も「余ハ敢テ我邦ノ公安ヲ害スルモノト云フヲ得スト信ス」と言っています(梅112)。),また,妻の前婚解消後直ちにされたアウグストゥスとリウィアとの婚姻に係る前例(ちなみに,両者婚姻時,リウィアは離婚した前夫ティベリウス・クラウディウス・ネロとの間の子であるドルススを妊娠中でした。)もあって,激しい愛の情熱が二人を急がせてしまったのだということでなお許されるのでしょうが(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1048584997.html),重婚となれば,刑法(明治40年法律第45号)184条に拘禁刑(令和4年法律第67号の施行までは「懲役」)の規定のある堂々たる犯罪です。重婚の民法上の有効性を示唆してしまって横着者に高を括らせてしまうような規定は,避けるべしというのが立法技術上の美学ではないでしょうか。我が国の戸籍吏は戸籍制度を前提に民法740条に基づき真面目に確認を行うから同法732条違反の重婚となる婚姻の届出を受理することはあり得ないのだ,だから気にするには及ばないのだ,とは言い切れないでしょう。いわんや法の適用に関する通則法(平成18年法律第78号)24条が適用される婚姻がからむ場合においてをや(刑法184条は,日本国外でも日本国民には適用はされますが(同法35号),ボワソナアドの旧刑法(明治13年太政官布告第36号)354条(「配偶者アル者重子テ婚姻ヲ為シタル時ハ6月以上2年以下ノ重禁錮ニ処シ5円以上50円以下ノ罰金ヲ附加ス」)解釈に倣えば,重婚罪は継続犯ではなく,状態犯となります(Gve. Boissonade, Projet Révisé de Code Pénal pour l’Empire du Japon accompagné d’un Commentaire, Tokio, 1886, pp.1046-1047)。2年以下の拘禁刑が法定刑である場合,公訴時効期間は3年です(刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)25026号)。)。

 

  (重婚)

  〔刑法〕第184条 配偶者のある者が重ねて婚姻をしたときは,2年以下の拘禁刑に処する。その相手方となって婚姻をした者も,同様とする。

 

4 多夫の妻が生んだ子の父を定める訴え

 嫡出推定に係る民法新7721項(「妻が婚姻中に懐胎した子は,当該婚姻における夫の子と推定する。女が婚姻前に懐胎した子であって,婚姻が成立した後に生まれたものも同様とする。」)及び同条新3項(「第1項の場合において,女が子を懐胎した時から子の出生の時までの間に2以上の婚姻をしていたときは,その子は,その出生の直近の婚姻における夫の子と推定する。」)を重婚の場合に適用し,新773条を不要化できないかと考えても(すなわち,後婚の夫が父と推定されるものとする。),同時に2箇所で婚姻届が受理されて重婚が成立したとき(星野英一『家族法』(放送大学教育振興会・1994年)60頁の挙げる例)はどうするのだ,という問題が残ります。というよりも,そもそも,民法新773条の立案者は,新7723項の規定は重婚の場合には適用されないものと考えているのでした。すなわち,2021112日の法制審議会民法(親子法制)部会第21回会議に提出された「部会資料21-2 補足説明(要綱案のたたき台(1))」の7頁には,「母が離婚した後に再婚したところ,前婚の離婚が無効とされた場合は,重婚状態となる。そして,その状態で子が生まれた場合には,前婚の夫も再婚後の夫も,子の出生時に母と婚姻中となり,子の出生の直近の婚姻における夫として,いずれも嫡出推定が及ぶこととなる。」と記されていたところです。

 竹内まりや作詞・作曲(河合奈保子が歌ったのは1982年ですか。嗚呼昭和は遠くなりにけり。)の「けんかをやめて」状態的一妻多夫の重婚の場合,共通妻のために二人が争うことはもはやなくとも,子が生まれてしまうと今度はパパを決めるために,二人はやはり争わなければならないのでした(令和4年法律第102号による改正後の人事訴訟法(平成15年法律第109号)4522号及び3号(前婚の夫vs.後婚の夫)。ただし,子又は母が男たちを訴える場合もあります(同項1号)。)。その間出生届は,取りあえず父未定として母がすることになっています(戸籍法(昭和22年法律第224号)54条)。生まれるとともに当然母の夫が父となる一夫多妻の重婚から生まれた子の場合とは異なります。嫡出推定が重複するから両方パパだよ,けんかをやめて,ということにはならないようです。あるいはこの辺が,将来,憲法24条ないしは141項に違反する男女差別の違憲立法だということで問題になるところかもしれません(一夫の妻と多夫の妻との間における女性対女性の同性内差別問題なのだということには,ならないのでしょうね,きっと。)。

なお,父を定めることを目的とする訴えについては「訴えの性質上,嫡出推定が重複しているため判決で父を定めるべき旨を主張すればよい。請求の趣旨において重複する父のいずれかを特定する必要はない。また,特定したとしても,裁判所は請求の趣旨に拘束されない」とのことで(二宮周平編『新注釈民法(17)親族(1)』(有斐閣・2017年)570頁(野沢紀雅)),民事訴訟法(平成8年法律第109号)246条の適用のない形式的形成訴訟(実質的には非訟事件)であるとされています。二人をとめる裁判官の作業は,「法が形成原因をはじめから具体的に規定せず」という状態なので,「要件事実の存否を判定するというよりは,合理的と思われる結果を直接に実現する合目的的処分行為という性格を強く帯び,法を適用するという性格(要件事実の存否を判断し,法的効果の有無を判断するという性格)が稀薄」となっているとのことです(新堂幸司『新民事訴訟法(第二版)』(弘文堂・2001年)181頁)。法的に父であることの要件事実とは何ぞや,という問題がここでも出て来ます。ちなみに,父を定めることを目的とする訴えについては「常に裁判上の形成の必要性が肯定され,裁判所は何等かの形成をしなければならぬ〔略〕(従って請求棄却の余地はない)」ということ(三ケ月章『民事訴訟法』(有斐閣・1959年)53頁)だったそうですが,現在は「審理の結果双方とも父でないとの心証に至った場合について,多数説は請求を棄却すべきであるとする〔略〕が,訴えを却下すべきであるとする説もある」とのことです(二宮編571頁(野沢))。

 

5 重婚の効用

 ところで,重婚といえば,通常は一夫多妻の場合が念頭に浮かんでしまうところです。

 しかして,民法新773条における一夫多妻等婚姻(同法732条違反)の(取消しがあるまでの)有効性の摘示と「異次元の少子化対策」とがなぜつながるのかというと,筆者がかつて読んだ経済学の教科書に(したがって,以下は筆者の私見ではありません。),一夫多妻制の方が一夫一婦制よりも女性の経済的厚生が高くなるのだなどというけしからぬことが書いてあったからでした(Roger D. Blair & Lawrence W. Kenny, Microeconomics with Business Applications, John Wiley & Sons, 1987, pp.8-9)。

 

   婚姻を,供給曲線と需要曲線とによって描写することができる。妻らの需要曲線と妻らの供給曲線とが存在しているのである。同様に,夫らの需要曲線と夫らの供給曲線とが存在する。一夫一婦制社会においては,婚姻は,(同時的には)一人の夫と一人の妻とによってなされるものと制限されている。一夫多妻婚は,一人の夫と複数の妻らとによってなされる婚姻である。一夫多妻婚は,世界中で行われてきた。例えば,イスラム教徒及び初期モルモン教徒は一夫多妻婚者である。一夫多妻婚は一人の男に1を超えた数の妻を持つことを認めるところから,一夫一婦制の下におけるよりも,一夫多妻制の下における方が妻らに対する需要が大きくなる。一夫多妻制下における高い妻需要は,彼女らの収入を増加させる。すなわち,女性は,一夫一婦制よりも一夫多妻制における方が,よい暮らしができるのである。この興味深い仮説は,経験的証拠によって支持されている。一夫一婦制社会においては,しばしば花嫁は,婚姻するに当たって持参金――これは,花嫁の家からの夫に対する贈物である――を用意しなければならない。反対に,一夫多妻制社会における花婿は,妻に対して,婚資と呼ばれる贈物をするのである。一夫多妻制社会における女性に対する婚姻のより大きな利益は,彼女らをして,一夫一婦制社会の女性たちよりも若い年齢での婚姻に向かわせる。恐らくよりよい暮らしを求めてのことであろうが,一夫一婦制社会から一夫多妻制社会に移住する女性もいる。a

   a  Gary A. Becker, A Treatise on the Family, Cambridge, Mass.; Harvard Univ. Press, 1981, pp.56-57

 

一夫一婦制社会は,あるいはむしろ,けんかをやめた男たちの互助協定によって皆に花嫁が行きわたるようにする,平凡な男本位の発想に基づく微温的な社会にすぎないのかもしれません。

シェアリング・エコノミーといいますが,有り余るほどお金のある男の当該余裕資産を一人の妻が不当に独占しないで他の女性たちと一緒に仲良く快適にシェアすれば,女性の経済的厚生が全体的に向上し,ひいてはその経済的余裕がより多くの嫡出子出産につながるのではないか,という発想は異次元的でしょうか,それとも単に,古臭い男性(ただし,男性といっても,競争に敗れ,かつ,うまく立ち回れない劣位男子を除く。)優位社会的発想への回帰にすぎないものでしょうか。

 重婚噺が続きそうです。

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1 はじめに:国語辞典及び創世神話

 企業法務の仕事をしていると,一週間の単位が問題となることがあり,そうなると週の最初の日が何曜日かが問題となります。

 筆者の手元の『岩波国語辞典 第四版』(1986年)には,「日曜」について「曜日の一つ。週の第1日で,役所・学校などが休日とする。」と,「月曜」について「曜日の一つ。日曜のつぎ。」とあります。したがって,週の初め(「週の第1日」)は日曜日であることが確定しているものと,筆者は漠然と考えていました。

 更にここに,宗教的権威も加わっています。

 

 igitur perfecti sunt caeli et terra et omnis ornatus eorum

    complevitque Deus die septimo opus suum quod fecerat

    et requievit die septimo ab universo opere quod patraverat

    et benedixit diei septimo et sanctificavit illum

    quia in ipso cessaverat ab omni opere suo quod creavit Deus ut faceret

    (Gn 2,1-3)

 

 すなわち,

 

  (かく)天地および(その)衆群(ことごと)(なり)ぬ 第七日(なぬかめ)に神其造りたる(わざ)(をへ)たまえり即ち其造りたる工を竣て七日(なぬか)安息(やすみ)たまへり 神七日を祝して之を神聖(きよ)めたまへり()は神其創造(つくり)(なし)たまへる工を(ことごと)く竣て(この)日に安息みたまひたればなり

  (創世記第21-3

 

 ということであって,ユダヤ人がその神に倣って土曜日を第七日の安息日(Sabbath)として休んでいるのなら,日曜日が週の初めということになるではないか,ということになります。

 しかしながら,国語辞典の記述やら異教の神話やらを根拠とした議論は法律家としていかがなものでしょうか。端的な法的根拠,が欲しいところです。

 

2 民法の143条の規定及び諸書における解説(の有無)

 ところで,民法(明治29年法律第89号)には次のような条文があります(下線は筆者によるもの)。

 

  (暦による期間の計算)

  第143条 週,月又は年によって期間を定めたときは,その期間は,暦に従って計算する。

  2 ,月又は年の初めから期間を起算しないときは,その期間は,最後の週,月又は年においてその起算日に応当する日の前日に満了する。ただし,月又は年によって期間を定めた場合において,最後の月に応当する日がないときは,その月の末日に満了する。

  

 「週の初め」という概念が,当然のように出て来ています。

 そうであれば,民法1432項について研究をすると,①週の初めが何曜日であるか,及びその根拠が明らかになりそうです。

 しかしながら,民法のいわゆる基本書に当たっても,なかなかはっきりしないのです。

 

  内田貴『民法 総則・物権総論』(東京大学出版会・1994年)256-257頁 記載なし。

遠藤浩等編『民法(1)総則(第3版)』(有斐閣・1987年)234-236頁(岡本坦) 記載なし。

  四宮和夫『民法総則 第四版』(弘文堂・1986年)284-285頁 記載なし。

  星野英一『民法概論(序論・総則)』(良書普及会・1971年)245-248頁 記載なし。

  我妻榮『新訂民法総則(民法講義)』(岩波書店・1965年)426-429頁 記載なし。

 

 荒寥たるものです。

 むしろ,民法143「条が週を加えることは無意味である。」と(我妻428頁),週ははなから切って棄てられてもおり(同条1項について遠藤等235頁(岡本),四宮285頁も同様),したがって,週の初めは何曜日かの問題も捨象されてしまっています。

 こうなると,現行民法の起草者の一人である梅謙次郎の著書に当たるしかありません。さすがにそこには,週の初めが日曜日であることを示唆する記述が,何とかありました。

 

  例ヘハ期間ノ初何曜日タルニ拘ハラス1週ト云ヘハ或ハ翌週ノ日曜日ヨリ土曜日ニ至ルマテヲ算スヘキカノ疑アリ(梅謙次郎『訂正増補民法要義巻之一 総則編』(私立法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1905年)366頁。下線は筆者によるもの)

 

 ただし,間接的な言及にとどまっています。

 この点,例外的に直截なのが,次の論述です。

 

   暦によれば,週の初めが日曜日,週の終りが土曜日,月の初めがその月の1日,月の終りがその月の末日であることは,明らかである。(川島武宜編『注釈民法(5)総則(5)』(有斐閣・1967年)9頁(民法143条解説・野村好弘))

 

前記の二つの問題のうち,①週の初めの曜日は日曜日であり,②その根拠は,民法1431項で「暦に従」うことになっているからだ,ということになります。

 

 ちなみに,法典調査会において,週の初めが日曜日なのか,それとも月曜日なのか,ということで認識のくいちがいが見られた(法典調査会速記録(学術振興会版)4117122126など参照)。暦による,とすれば,そのようなくいちがいは解消されることになる。だから,本条1項に週の文字を加えたのは,必ずしも無意味なことではない(反対説,〔我妻〕428)。

 (川島編9頁(野村))

 

野村説は,法典調査会における磯部四郎🎴(筆者註:この花札マークは,待合茶屋における芸妓を交えての花札博奕事件である1892年の弄花事件🍶🎴の関係者(大審院の司法高官)に付されます。)の議論を採用したものです。

 

3 189454日の法典調査会審議模様

野村好弘(当時は若き)東京都立大学助教授によって参照すべしとされた,189454日に開催された第9回の法典調査会の議事速記録を見てみましょう。同日の議長は,その二十代の大部分をパリで過ごし(1871-1880年),ソルボンヌ大学で法律を学んだ,後の内閣総理大臣・西園寺公望でした。

審議の対象となった案文はどのようなものであったかというと,法典調査会民法議事速記録第4111丁表に記載されているものを明治天皇裁可の民法143条の法文と比較すると,第1項と第2項との間の改行がされておらず,かつ,第2項の〔〕内部分が脱落し,更に《》内部分が付加されている形となっていますが(次に掲げるものを参照),少なくとも,各委員の手元資料では,第1項と第2項との間は改行がされており,かつ,〔〕内は脱落してはいなかったものでしょう。ただし,審議案に係る条の番号は,「第144条」となっていました。報告担当の起草委員は,梅謙次郎でした。

 

 期間ヲ定ムルニ週,月又ハ年ヲ以テシタルトキハ暦ニ従ヒテ之ヲ算ス

 週,月又ハ年ノ始ヨリ期間ヲ〔起算セサルトキハ其期間ハ最後ノ週,月又ハ年ニ於テ其〕起算日ニ応当スル《ノ》日ノ前日ヲ以テ《期間》満了ス《ルモノトス》但月又ハ年ヲ以テ期間ヲ定メタル場合ニ於テ最後ノ月ニ応当日ナキ〔トキ〕ハ其月ノ末日ヲ以テ満期日トス

 

 梅の冒頭説明が終ると,直ちに西園寺から疑問が発せられます。(なお,原文は,片仮名書き,句読点なし。以下,筆者において,原文の片仮名を平仮名に,平仮名を片仮名にし,かつ,句読点を補っています。)

 

  議長(西園寺侯) 週の始めは,何時からでありませうか。

  梅謙次郎君 月曜か日曜かでありませう。私は日曜であると考へますが,或は私の考へが間違つて居るかも知れませぬ。

   (民法議事速記録第4116丁裏)

 

冒頭から調子が狂ったのか,回答が明確ではありません。「強て梅君の缺点を挙ぐれば自信力が少し強過ぎた。」と起草委員仲間の富井政章に評された(東川徳治『博士梅謙次郎』(法政大学=有斐閣・1917年)219頁)梅らしくありません。

 続いて土方寧が質問します。

 

  土方寧君 週の暦に従うと云ふのは,疑ひが起りやしませぬか。

  梅謙次郎君 是は大分是迄疑ひの出たことでありますけれども,私は悉く此週に付て暦に従ふと云ふことは出て来やうと思ひます。古い暦には日子月子火子と皆書いてある。アレガ即ち必要である。此必要は決して西洋から来たことでなく,西洋の慣習が這入つて来てから多く用ゐらるると云ふことになつたのであります。加之((しかのみ))ならず,今日の暦には必ず日曜日が書いてあつて,自ら他の何が分かるやうに柱暦に迄書いてあるのであります。夫れで暦に従ふと云つて分らうと思ひます。

   (民法議事速記録第4116丁裏-117丁表)

 

この梅の回答のいわんとするところは,七曜日がめぐって1期間=1週間という観念は,嘉永六年(1853年)のペリー来航後に初めて「西洋から来たことでなく」,昔から我が国にあって,暦に日月火水木金土と書いてもあったのだが,明治の文明開化後,七曜日の1週間を主要な時間単位の一つとする「西洋の慣習が這入つて来てから多く用ゐらるると云ふことになつたので」,民法の期間の計算の章においては,週によるものについても規定しておくのがよかろう(「1週間の後とか2週間の後とか云ふやうなことは,今日随分やると思ひます」(民法議事速記録第4122丁裏)),ということのようです。

明治より前の暦に日月火水木金土の記載があるのかということで,インターネットで各種の具註暦を調べてみると(仕事振りがしつこいですね。国を,政府を,「専門家の技術的・専門的知識💉」を信じていたのに裏切られました。ひどい!くやしい‼とたやすく嘆き悲しむ善良温順な日本人ならざる不逞の筆者は,トマスの徒なのです。“nisi videro in manibus ejus figuram clavorum et mittam digitum meum in locum clavorum et mittam manum meam in latus ejus, non credam” (Io 20,25),確かに,各日の頭書部分に日月火水木金土が朱書されているものなどがあります(例えば,https://dl.ndl.go.jp/pid/1287511/1/8)。なお,アラビア数字及び左からの横書き導入前の時代のものなので,それらの暦は,我々が見慣れた,各月4段ないしは6段に7日分ずつアラビア数字を左から並べるという形のもの🗓ではありません。

しかしてこの七曜日の制は,9世紀初めに空海が唐土から請来した宿曜経こと文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経に由来するのだと言われています。それでは弘法大師の御請来目録にあるのかなと,不信のトマスの徒がまたもインターネット画像を見てみると,確かに空海が請来した経典中に宿曜経が含まれています(12齣目です。https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012887)。

 しかし,梅の回答は若干方向違いであったかもしれません。土方は,週の初日が不確実であるという点を問題にしていたようです。

 

  土方寧君 〔前略〕週の始めは日曜か月曜か分からぬと云ふやうな疑ひもあるから,夫れで私は,12項共に「週」の字は除いた方が宜からうと思ひます。

  横田國臣君 賛成。

  梅謙次郎君 此「週」の字を除くことは格別遺(ママ)はありませぬが,唯,之を此処に加へた理由丈けを申上げます。前に日を以てするときは云々,時を以てするときは云々と書いてあります。週丈け丸で除けものにして仕舞うと,始めに月,年,週と云ふやうに書いて置いたのと合はぬやうになる。夫れで週の始めが極まつて居らぬと云ふことでありますが,唯私が知らないと云ふことを申上げたのであつて,日曜日が始めと是迄心得て居つたのであります。疑ひの起らぬことでありますから,格別辯ずる程の必要はない。

   (民法議事速記録第4120丁表裏)

  

 「始めに月,年,週と云ふやうに書いて置いた」場所は,初日不算入の原則に係る民法140条本文です(「期間ヲ定ムルニ日,週,月又ハ年ヲ以テシタルトキハ期間ノ初日ハ之ヲ算入セス」)。

 梅としては,週の初日が日曜日であることについては自信がある(「疑ひの起らぬことであります」),ただその法的根拠を説明できないだけである,ということのようです。(と,当初は考えましたが,これは筆者が,富井流の「梅=自信力強過ぎ」説に引きずられ過ぎたようです。実は梅も,我妻流に,民法143条において週について規定することは本来不必要と考えていて,日曜始まりでも月曜始まりでも「起算日ニ応当スル日ノ前日ヲ以テ満了ス」で「疑ひの起らぬこと」だから,「格別辯ずる程の必要はない」と思ってはいたものの,やはり同法140条との平仄上「週ノ始」を書いたのだ,ということではないかと,皇紀2683年の春分日になって思い至りました。)

 箕作麟祥は,「成程週の始めが分からぬと云ふことでありましたが,私は始めは日曜と思ふて居る」と言ってくれました(民法議事速記録第4121丁表)。しかし,実は,おフランスかぶれの議長が難しかったところです。

 

  議長(西園寺侯) 私は今日白状するが,是迄週の始めは月曜と思つて居つたが,日曜が本統ですか。

  奥田義人君 西洋の暦では月曜日。

  議長(西園寺侯) 週の始めは,西洋では矢張り月曜日でせう。

  (民法議事速記録第4121丁裏)

 

  元田肇君 一寸伺ひますが,此週の始めと云ふのは何時の積りでありますか。

  梅謙次郎君 私は日曜日の積りであります。

  議長(西園寺侯) 私は何うも日本の週の始めの日と西洋の週の始めの日と違うのは甚だ遺憾に思ふ。奈何となれば,暦と云ふのは,今日西洋の暦を用ゐて居る。

   (民法議事速記録第4125丁表)

 

ここで西園寺のいう「西洋の暦」とは,明治五年太政官布告第337号によって採用された太陽暦のことですね(なお,1894年段階では,明治31年勅令第90号がまだ出ていなかったので,1900年も1年が366日のうるう年になってしまうユリウス暦的な太陽暦でした。したがって,精確には,1900年を平年とするグレゴリウス暦ではありません。)。

しかし,日本国は日本国,西洋は西洋ということで,別であってもよいではないか(筆者註:確かに,上記のとおり,当事者の意識にかかわらず,グレゴリウス暦は実は我が国においてなおも完全採用されていませんでした。),日本国の民法は日本国の暦に従って解釈すればよいのだ,そこは第1項の「暦ニ従ヒテ」規定を援用すればよいのだとの趣旨の磯部四郎🎴発言があって,明示の決議はありませんが,法典調査会においては,民法1432項にいう週の初めの日は日曜日ということで了解がされたようです。

 

 磯部四郎君 〔前略〕私は,此期間に関する法文中で此144条〔民法143条〕の如くに明瞭なる法文はなからうと思ひます。修正論の為めに此本体に多少の傷の付くやうなことがあつては如何にも慨嘆に堪へませぬから一言申して置きます。夫れで先程から此144条〔民法143条〕の「週」と云ふ文字に付て議論もありましたけれども,詰り,日曜が始まり日であるか,又は月曜が始まり日であるか分からぬと云ふことでありますが,然う云ふ所で暦に従ふと云ふので,暦に従つて(ママ)ある,日本の暦では日曜から書いてある。日曜が始めの日になるから,夫れで,144条〔民法143条〕の第1項に暦に従ふと云ふことで明になつて来る。夫れからして,始めの日から計へぬときは最後に応当する(ママ)を以て期間が満了すると云ふことが丁度分りますが,彼の日月火水木金土と云ふことが分り切つて居れば暦に従ふと云ふ必要はないかも知れませぬが,既に「週」と云ふ字に付て色々分からぬと云ふやうなことがあるから,週と云ふものは暦に従ふと云ふので,是は最も便利であらうと思ひますから,何うか是は成る可く傷の付かぬやうに希望致します。

 尾崎三良君 週の始めは日曜日に極まつて居ると云ふことでありますが,夫れは何処から然う云ふことが出るのでございませうか。

 磯部四郎君 夫れは日曜からと云ふことに暦に書いてあります。日月火水と云ふやうに,日が一番始めに書いてあります。

  (民法議事速記録第4126丁表裏)

 

 ということが,明治の立法経緯であったのでした。

しかし,暦といってもいろいろなものがあって,正に週が月曜日始まりのものも売られているのではないかしら,磯部🎴は「暦に書いてある」で単純に押し切ってしまい,尾崎はあっさり引っ込んでしまったけれども,そして野村先生は「暦による,とすれば,そのようなくいちがいは解消されることになる。」と妙に納得してしまっておられるけれども,何か変だよなぁ,まだ何かが足りないよなあ,との感想は,令和の我々にとってはもっともなところではないでしょうか。

ということで,筆者としては,衒学的にして空疎な「その先の議論」に陥らないように戒心しつつなおも研究を進めたのですが,行き着いたところは,法哲学や経済学の過去の業績なるものをおしゃれに踏まえたアカデミックな理論ではなく,やはり神様仏様なのでした。

 

4 本暦及び略本暦頒布の神宮による独占

現行民法制定の当時,暦(本暦及び略本暦)を頒布することは,神宮の専権に属しており,実は暦は統一されていました。すなわち,日曜日始まりやら月曜日始まりやらのいろいろな暦の並存はあり得なかったのでした。

1882426日の明治15年太政官布達第8号(内務卿連署)は,次のように規定していました。

 

 本暦並略本暦ハ明治16年暦ヨリ伊勢神宮ニ於テ頒布セシムヘシ

 一枚摺略暦ハ明治16年暦ヨリ何人ニ限ラス出版条例ニ準拠シ出版スルコトヲ得

  但明治910内務省甲第39号布達ハ取消ス

 右布達候事

 

 明治15年太政官布達第8号の前提として,明治三年四月二十二日の太政官布告は,「頒暦授時之儀ハ至重之典章ニ候処近来種々之類暦世上ニ流布候趣無謂(いはれなき)事ニ候自今弘暦者之外取扱候儀一切厳禁(おほ) 仰出(せいだされ)候事」と規定していました。

 明治9年内務省甲第39号布達は,「来明治10年暦ヨリ本暦略暦共別紙雛形印紙貼用可致(いたすべく)候略暦出版ノ儀ハ自今本暦頒布ノ後草稿相添出版書式ニ照準シ府県庁ヲ経テ当省ヘ可願出(ねがひいづべく)出版差許候分ハ右印紙相渡候間枚数ヲ限リ願出毎暦面ニ貼付ノ上販売可致(いたすべく)無印紙ノ暦ハ売買不相成(あひならざる)条此旨布達候事」というものでした。

 明治三年四月二十二日の太政官布告及び明治15年太政官布達第8号は,1946731日公布の昭和21年内務省令第32号によって同日限り廃止されています。換言すると,その時まで,内務省令たる法規として,大日本帝国憲法9条及び761項に基づき効力を有していたのでした。

暦の製造頒布は神宮の附属事業であり,大宮司(神宮司庁に置かれる祭主(皇族又は公爵)の下にある神官中の事務長官)の管理の下に置かれていた神宮神部署がこれを掌っていました(美濃部達吉『日本行政法 上巻』(有斐閣・1936年)662-663頁参照)。神宮のウェブサイトには,「神宮の暦は,御師(おんし)の配った伊勢暦の伝統を受け継ぎ,明治16年より迷信的記述を排除し,科学的情報のみを記述した我が国唯一の「正暦」として全国に頒布されました。暦の作成や販売が自由になった今日も,その心を受け継ぎ,科学的で実用的な暦として奉製され,神宮大麻とともに配られています。神宮暦は農林漁業関係者をはじめ,近年では家庭菜園やガーデニング等にも広く活用されています。」とあります。ちなみに,神宮大麻とはいわゆるお札であって,その所持等が昭和23年法律第124号によって取り締まられるものではありません。

 

なお,明治三年四月二十二日の太政官布告にも明治15年太政官布達第8号にも「取締ニ制裁ガゴザリマセヌ」ということで(第10回帝国議会貴族院議事速記録第948頁(中村元雄政府委員)参照),違反した暦等の刻版及び印本を差し押さえ,又は毀棄することができるようにするほか,違反した著作者及び発行者を11日以上6月以下の重禁錮に処し,かつ,10円以上200円以下の罰金をこれに附加しようという守札及暦ニ関スル取締法案が1897215日に政府から帝国議会に提出されていますが,同年315日には撤回されています。暦を頒布する「神宮ノ利益ヲ主トシテ保護スルノデソレカラコノ暦ハ成ルヘク諸方カラ出ルコトハ忌ミ且ツ色〻ノ歴史上法令ヲ以テ神宮ヘ許サレテアルコトデゴザイマスシ,又神宮ノ今日余程ノ収入モ関係スルコトデアリマス,其利益ヲ保護スルタメニ出シマスノデゴザイマス」ということでしたが(第10回帝国議会貴族院議事速記録第949頁(三崎龜之助政府委員)),残念でした。1897218日の貴族院本会議において,曽我祐準,村田保,何禮之,伊達宗敦,堀田正養らの諸議員に責め立てられて,「疎漏」・「迂闊」(第10回帝国議会貴族院議事速記録第950頁参照)の内務省は懲りたのでしょう。

 

明治16年(1883)の略本暦の写真がインターネット・オークションの見本として出ていて,それを筆者が確認するに,「七値」(「値」の漢字は,実物はちょっと違います。)の欄には右から順番に日曜・月曜・火曜・・・と並んでいて,日曜が週の最初の曜日とされていることが分かります(縦書きです。この七値ノ名の掲載は,1875の略本暦から1907年の略本暦まであったそうです(高橋潤三「略本暦内容及び体裁の変遷」(19541028日東京天文台暦研究課編))。1875の略本暦でも日曜日が七値の先頭です(同)。)。また,日曜表というものがあって,各月の日曜日の日付が記されています。1946129日の東京天文台の「編暦の方針案」には,「二十四節気,雑節,干支,日曜表,大祭日」について,「本項は古来暦象の基本事項なる故,当然これを〔国民暦たる「暦象年表」に〕載す。」との記載があるところ,ここでのゆゆしき「古来」は,キリスト教国流に日曜日が休日となる時期(官庁の日曜休業は1876312日の明治9年太政官達第27号により同年4月からです)より前からの伝統によって日曜表は意義付けられるのだ(「日曜は七値の筆頭だからなのだ」ということでしょうか。),という意識を示すものでしょう。ただし,日曜表が登場するのは,1880年の略本暦からです(高橋)。なお,現行民法制定当時の官俗ならぬ我が民俗は,「我邦ニ於テハ日曜日,大祭日等ニ其業ヲ休ム者ハ極メテ少数ニシテ未タ西洋ノ如キ慣習アラサル」状態でした(梅364)。

一枚摺略暦については,18901031日に公布された明治23年文部省令第2号が掲載可能事項を限定列挙しているところ,曜日については専ら日曜表が認められています。「今日の暦には必ず日曜日が書いてあつて,自ら他の何が分かるやうに柱暦に迄書いてあるのであります。」と梅が言っていたのは,この間の消息を示すものでしょうか。

 

 一一枚摺略暦ハ左ニ列記スル事項ニ限リ記載スルモノトス

  一年号及紀元ノ年数干支

  一毎月ノ1

  一日月食並其時間

  一大祭祝日並神社例祭大祓

  一日曜表甲子表庚申表己巳表

  一二十四節気及雑節

  一新月満月

  一前各項ニ相当スル陰暦日干支及陰暦ノ朔日干支並之ニ相当スル陽暦日

    以上ノ事項ハ帝国大学ニ於テ編纂スル所ノ暦ニ依ルヘシ但前各項規定ノ外本暦略本暦ニ掲載セサル事項ヲ記入スルハ此限ニ在ラス

 

 いずれにせよ,神宮は(ひの)(かみ)である天照大神大日孁(おほひるめの)(むち)祭っているのですから,その頒布する「正暦」において,七曜の第一が日曜とならなければおかしいでしょう。(つきの)(かみ)たる(つく)(ゆみの)(みこと)月夜(つくよ)(みの)(みこと)月読(つくよみの)(みこと)の神社が頒布する暦であれば,月曜始まりもあり得のでしょうが,事実においてそうではありませんでしたしかし,日本神話では,弟の素戔嗚尊に元気があり過ぎるせいか,月神は影が薄いです🌑


5 宿曜経及びそこにおける七曜

 ここで念のため,お大師様御請来の宿曜経における七曜の排列について,先頭は日曜🌞なのか月曜🌛なのか,やはり確認しておきましょう。


DSCF1162

弘法大師空海(成田山新勝寺)


 国立国会図書館のデジタルコレクションにある脇田文紹が18974月に出版した『縮刷宿曜経 二冊合巻』の30頁には,次のようにあります。

 

  宿曜経序七曜直品第四

  七曜者日月火水木金土也其精上曜於天神下直干人所以司善悪而主吉凶也其法一日一当直七日一周周而復始推求七曜直日法入此経巻末第七暦籌法中

 

 大正新脩大蔵経テキストデータベースでは,

 

    宿曜暦経序七曜直日品第四

  夫七曜日月五星也。其精上曜于天其神下直于人。所以司善悪而主理吉凶也。其行一日一易七日一周周而復始。直神善悪言具説之耳景風曰推求七曜直日法。今具在此経巻末第八暦算法中。具備足矣

 

です。

文言は必ずしも同一ではありませんが,要は,「七曜は,日月火水木金土なり。」又は「それ七曜は日月五星なり。」であって日曜🌞が先頭,「七日で一周し,周して復た始まる」ということです。やはり日曜日が週の初めなのでありました。

宿曜経請来から約二百年が経過した宮中においては同経に基づく占星術が流行っていたようです。光源氏の臣籍降下の決定に当たっては,その誕生日が何曜日であったかも勘案されたかもしれません。

 

 (きは)ことに賢くて,ただ人にはいとあたらしけれど,親王(みこ)となりたまひなば,世の疑ひ負ひたまひぬべくものしたまへば,宿曜(すくえう)の賢き道の人に(かんが)へさせたまふにも,同じさまに申せば,源氏になしたてまつるべく(おぼ)しおきてたり。

 (源氏物語・桐壺)

 

(ところで,紫式部の絵姿が,20007月に出た2千円札にあったことを筆者は覚えているのですが,あの2千円札はどこに消えてしまったのでしょうか。20進法嫌いの日本人には,おフランス式(フランス語で80は,quatre-vingts (=4×20)です。)は(週の月曜日始まりを含めて)駄目なのでしょうね。日本銀行法(平成9年法律第89号)461項は「日本銀行は,銀行券を発行する。」と,同法471項は「日本銀行券の種類は,政令で定める。」と規定しているところ,当該政令である日本銀行法施行令(平成9年政令第385号)の第13条にはなお2千円札が日本銀行券の種類の一つとして規定し残されてはいるのですが・・・。2千円札(及び紫式部の容姿)がどのようなものであるかについては,次のリンク先の一番下の部分を御覧ください。)

https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3487509/www.kantei.go.jp/jp/kidsold/school/school_lesson.html

 

6 東京天文台と国立天文台と

なお,1890年の前記明治23年文部省令第2号には「帝国大学ニ於テ編纂スル所ノ暦」とありました。神宮頒布の「迷信的記述を排除し,科学的情報のみを記述した我が国唯一の「正暦」」も,実は当該帝国大学編纂の暦に拠ったものでしょう。1888126日付け官報によって布告された明治21年勅令第81号は「天象観測及暦書調製ハ自今文部大臣ヲシテ之ヲ管理セシム」と規定していたところ,文部大臣は,暦書調製の実務は帝国大学にやらせていたわけです。

この明治21年勅令第81号は,19211124日公布・同日施行の東京天文台官制(大正10年勅令第450号)によって廃止されますが(同官制附則),同官制の第1条は「東京帝国大学ニ東京天文台ヲ附置ス」と,第2条は「東京天文台ハ天文学ニ関スル事項ヲ攻究シ天象観測,暦書編製,時ノ測定,報時及時計ノ検定ニ関スル事務ヲ掌ル」と規定していました。それまでは文部大臣の下請けだったものが,勅令ですから,暦書の編製を大正天皇から直接命じられた形になっています。「正朔を奉ずる」という言葉がありますが,「天子のこよみを用いることは天子の統治権下にあることになる」ところ(『角川新字源』),東京天文台は,天皇の統治大権の施行における重要な機関であったのでした。

東京天文台官制は,1949531日公布・施行の国立学校設置法(昭和24年法律第150号)によって廃止され(同法附則1項・2項),東京天文台は,「天文学に関する事項の攻究並びに天象観測,暦書編製,時の測定,報時及び時計の検定に関する事務」を目的とする研究所(東京大学に附置)となりました(同法4条)。

しかして現在,従来の東京天文台は,大学共同利用機関法人自然科学研究機構国立天文台となっています。国立天文台の法的位置付けはどうなっているかというと,国立大学法人法(平成15年法律第112号)52項及び別表第2に基づき国立大学法人法施行規則(平成15年文部科学省令第57号)1条及び別表第1によって大学共同利用機関法人自然科学研究機構が設置する大学共同利用機関であって,当該機関としての目的は「天文学及びこれに関連する分野の研究,天象観測並びに暦書編製,中央標準時の決定及び現示並びに時計の検定に関する事務」であるものとされています(国立大学法人施行規則別表第1)。暦書編製を行うこと自体は,東京天文台時代と変わりません。

しかし,東京天文台のしていた暦書編製は我が国政府の行政事務の一環であったのでしょうが,国立天文台のする暦書編製についても同じであると果たしていえるものかどうか。

すなわち,大学共同利用機関とは何かといえば,国立大学法人法24項によれば「この法律において「大学共同利用機関」とは,別表第2の第2欄に掲げる研究分野について,大学における学術研究の発展等に資するために設置される大学の共同利用の研究所をいう。」とされているところ,同法別表第2を見れば,大学共同利用機関法人自然科学研究機構に係る研究分野は「天文学,物質科学,エネルギー科学,生命科学その他の自然科学に関する研究」とされています。であれば,国立天文台の編製する暦書は,専ら,天文学その他の自然科学に関する研究分野について大学における学術研究の発展等に資するためのものであり,大学ないしはその関係者ならざる一般人民が直接利用すべきものではない,ということになってしまいそうです。何だかおかしいですね。暦書の編製が「国民生活及び社会経済の安定等の公共上の見地から確実に実施されることが必要な事務及び事業であって,国が自ら主体となって直接に実施する必要のないもののうち,民間の主体に委ねた場合には必ずしも実施されないおそれがあるもの又は一の主体に独占して行わせることが必要であるもの」に含まれるのならば(独立行政法人通則法(平成11年法律第103号)21項参照),個別法に基づく国立研究開発法人(同条3項)たる独立行政法人に行わせてもよさそうなところです。

ともあれ,対象が大学ないしはその関係者に限定されているのかもしれないものの,国立天文台(暦計算室)は現に暦書を編製しているわけで,翌年の暦要項を毎年2月初めに官報で発表しています。そこで,最新の2024年の暦要項を見てみると,おお,そこには依然日曜表が「古来」的に掲載されているのでした(https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/yoko/pdf/yoko2024.pdf)。すなわち,「古来」的かつ(かつて日曜を筆頭として「七値」の名を掲載していた)略本暦的体裁が維持されていることにより,国立大学法人法及び国立大学法人法施行規則に基づき国立天文台が編製する公的な暦書においては日曜日が週の初日であるものとなお示されているのであるといい得るのでありましょう。磯部四郎🎴(今年(2023年)91日をもって歿後100周年を迎えます。)及び民法1431と共に,我ら暦に従うべし。

(なお,「国立天文台の暦要項からいい得ることは,大学における自然科学に関する研究関係では日曜日が週の初日であるということまでであって,法律学上の議論はまた別である」というような強弁は――筆者は本稿をこの辺で終えたいので――勘弁してください。)

 

皇紀2683年春分日追記: しかし,インターネットでフランス翰林院の辞典(le Dictionnaire de l’Académie française)を過去のものまで遡って見ることができる今日は,なかなか油断がなりません。実は,我が民法143条の条文案が審議されていた1894年当時における現行版であった当該辞典の1878年版(第7版)を調べると,semaine(週)は日曜日から土曜日まで,dimanche(日曜日)は週の最初の日,lundi(月曜日)は週の2番目の日とそれぞれ定義されていたのでした。休みの日は働く日々の後に来るものだろ,だから週の始まりは月曜日なのだ,とお偉いアカデミーの辞典などには頓着なく信ずるフランス庶民の感覚を西園寺は語ったものであったか。しかし,後の法制局長官=司法大臣=中央大学学長たる奥田義人の「西洋の暦では月曜日。」との議長閣下に対するもっともらしい合いの手は,そうだとするといかなる典拠に基づいたものだったのでしょうか。

ロシア語では,月曜日は働かない日(неделя(ニジェーリャ))の翌日という意味のпонедельник(パニジェーリニク)であるところ,火曜日は2番目の日の意味のвторник(フトルニク),木曜は4番目の日のчетверг(チトベルク),金曜日は5番目の日のпятница(ピヤートニッツァ)であって,週月曜日から始まるようなのですが,果たして4世紀のフン族のようにスキタイの地を現在東方から攻撃中のロシアは,西洋文明の国なのでしょうか。


  (なお,現在当該スキタイの地を訪問中の我らが岸田総理の尊い命をロシア軍が狙うことはないものか,と人民の一員としては余計な心配をしていると不図,1943418日の米国海軍による山本五十六大将殺害作戦の発動は,山本がirreplaceableであるからこそその抹殺がadvisableであるのだという彼らの人事判断に基づいていたということを思い出しました(cf. Dan van der Vat, The Pacific Campaign (Simon & Schuster, New York, 1991) p.262)。山本殺害後,山本以上の才能がある提督が敵艦隊の司令長官になってしまってはかえって藪蛇で剣呑だという心配をしたのでしょう。)

 

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(前編):モーセ,ソロモン,アウグストゥス,モンテスキュー,ナポレオン,カンバセレス及びミラボー

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080442857.html



7 西暦1872年の監獄則(明治五年太政官第378号布告)及び西暦1881年の監獄則(明治14年太政官第81号達)

 

明治五年十一月二十七日(18721227日)の我が監獄則中典造十二条の第10条懲治監には,次のような規定がありました。第3項に御注目ください。

 

    第10条懲治監

 此監亦界区ヲ別チ他監ト往来セシメス罪囚ヲ遇スル他監ニ比スレハ稍寛ナルヘシ

 20歳以下懲役満期ニ至リ悪心未タ悛ラサル者或ハ貧窶営生ノ計ナク再ヒ悪意ヲ挟ムニ嫌アルモノハ獄司之ヲ懇諭シテ長ク此監ニ留メテ営生ノ業ヲ勉励セシム21歳以上ト雖モ逆意殺心ヲ挟ム者ハ獄司ヨリ裁判官ニ告ケ尚此監ニ留ム

 平民其子弟ノ不良ヲ憂フルモノアリ此監ニ入ン(こと)ヲ請フモノハ之ヲ聴ス

 〔第4項以下略〕

 

懲治監は,1881年に至って,明治14年太政官第81号達の監獄則では「懲治人ヲ懲治スルノ所」たる懲治場となり(同則13款),同則19条は,懲治人を定義して,旧刑法(明治13年太政官布告第36号)79条,80条及び82条の不論罪に係る幼年の者及び瘖啞者(明治14年監獄則191款)並びに「尊属親ノ請願ニ由テ懲治場ニ入リタル者」を掲げています(同条2款)。この尊属親の請願による懲治人については,「前条第2款ニ記載シタル懲治人ハ戸長ノ証票ヲ具スルニ非サレハ入場ヲ許サス但在場ノ時間ハ6個月ヲ1期トシ2年ニ過ルヲ得ス」(明治14年監獄則201項)及び「入場ヲ請ヒシ尊属親ヨリ懲治人ノ行状ヲ試ル為メ宅舎ニ帯往セント請フトキハ其情状ニ由リ之ヲ許スヘシ」(同条2項)という規定がありました。

 しかし,懲治場は,明治22年勅令第93号の監獄則では専ら「不論罪ニ係ル幼者及瘖啞者ヲ懲治スル所」となってしまっています(同則16号)。なお,明治22年勅令第93号は1889713日の官報で布告されていますが,その施行日は,公文式(明治19年勅令第1号)10条から12条までの規定によったのでしょう。

その附則2項で明治22年の監獄則を廃止した監獄法(明治41年法律第28号)は現行刑法(明治40年法律第45号)と共に1908101日から施行されたものですが(監獄法附則1項,明治41年勅令第163号),そこには懲治場の規定はありません(ただし,懲治人に関する明治22年の監獄則の規定は当分の内なお効力を有する旨の規定はありました(同法附則2項ただし書。また,刑法施行法(明治41年法律第29号)16条)。)。

なお,現行刑法の施行は旧少年法(大正11年法律第42号)のそれを伴うものではなく(後者の法律番号参照),旧少年法の施行は,192311日(同法附則及び大正11年勅令第487号)を待つことになります。

 

8 西暦1890年の旧民法人事編


(1)旧民法人事編の規定


  第149条 親権ハ父之ヲ行フ

   父死亡シ又ハ親権ヲ行フ能ハサルトキハ母之ヲ行フ

   父又ハ母其家ヲ去リタルトキハ親権ヲ行フコトヲ得ス

 

  第151条 父又ハ母ハ子ヲ懲戒スル権ヲ有ス但過度ノ懲戒ヲ加フルコトヲ得ス

  第152条 子ノ行状ニ付キ重大ナル不満意ノ事由アルトキハ父又ハ母ハ区裁判所ニ申請シテ其子ヲ感化場又ハ懲戒場ニ入ルルコトヲ得

   入場ノ日数ハ6个月ヲ超過セサル期間内ニ於テ之ヲ定ム可シ但父又ハ母ハ裁判所ニ申請シテ更ニ其日数ヲ増減スルコトヲ得

   右申請ニ付テハ総テ裁判上ノ書面及ヒ手続ヲ用ユルコトヲ得ス

   裁判所ハ検事ノ意見ヲ聴キテ決定ヲ為ス可シ父,母及ヒ子ハ其決定ニ対シテ抗告ヲ為スコトヲ得

 

旧民法人事編151条は,ナポレオンの民法典375条を承けたもののようではありますが,フランスでは「日常的な懲戒権は,「監護権の存在からも出てくる」が,「自然に慣習上存する」(谷口知平『現在外国法典叢書(14)佛蘭西民法[1]人事法』有斐閣1937 p.361ものとされる」とのことですから(広井多鶴子「親の懲戒権の歴史-近代日本における懲戒権の「教育化」過程-」教育学研究632号(19966月)17頁註2)),我が国産規定なのでしょう。確かに,ナポレオンの民法典375条は厳密にいえば懲戒の手段(moyens de correction)たるその次条以下の拘禁について,更にその前身である1802930日国務院提出案6条は矯正の施設に拘禁させる父の権能についていきなり語っているものであって,いずれもそれに先立つ懲戒権それ自体を基礎付けるものではありません。旧民法人事編151条の前身は,熊野敏三,光明寺三郎,黒田綱彦,高野真遜,磯部四郎🎴及び井上正一が分担執筆し,18887月頃に起草が終了(大久保泰甫『日本近代法の父 ボワソナアド』(岩波新書・1977年(1998年追補))157頁)した旧民法人事編第一草案の第243条(「父若クハ母ハ家内ニ於テ其子ヲ懲戒スルノ権ヲ有ス但シ過度ノ懲戒ヲ加フルコトヲ得ス」)であったところですが,そこにおいて「画期的」であったのはただし書で,理由書によれば「「我国ノ如キ父母・・・懲戒モ往々過度残酷ニ流ル」,ゆえに「過度ノ懲戒ヲ禁」じる必要があるという趣旨」で設けられ,更に親権の失権制度までも準備されていたのでした(小口恵巳子「明治民法編纂過程における親の懲戒権-名誉維持機能をめぐって-」比較家族史研究20号(2005年)71頁)。その際の起草委員らの意気込みは,これも理由書によれば,「此思想〔「親権ハ父母ノ利益ノ為メ之ヲ与フルモノニ非ス」,「子ノ教育ノ為」であるとの思想〕ハ我国ノ親族法ニ反スヘシト雖モ従来ノ慣習ヲ維持スルヲ得ヘカラス」,「其原則ヲ一変セスンハ是等ノ不都合ヲ改正スルヲ得ヘカラス」」(小口77頁)という勢いであって,「かなりヨオロッパ的,進歩的」であるのみならず(大久保157頁),むしろフランス民法よりも更に「進歩的」であったように思われます。当時の「仏国学者中ニハ民法ノ頒布以来父母ノ権力微弱ト為リタルコトヲ歎息シ羅馬ノ古制ヲ追慕スル者」がなおあったようです(旧民法人事編第一草案理由書『明治文化資料叢書第3巻 法律編上』(風間書房・1959年)183頁(熊野敏三起稿))。

旧民法人事編152条は,フランス的伝統が原則とするナポレオンの民法典376条には倣ってはいません。同法典377条以下の規定に倣っています。

旧民法人事編1524項は入場申請に関する決定に対する抗告を認めていますが,父の権威のために父子間の争訟を避けようという1802930日の国務院審議におけるブウレ発言の立場からするとどうしたものでしょうか。旧民事訴訟法(明治23年法律第29号)4622項には「抗告裁判所ハ抗告人ト反対ノ利害関係ヲ有スル者ニ抗告ヲ通知シテ書面上ノ陳述ヲ為サシムルコトヲ得」とありました。ナポレオンの民法典3822項の手続においては,父子直接対決ということにはならないようです。

 

(2)西暦1888年の旧民法人事編第一草案244条及び245

なお,旧民法人事編152条の前身は,その第一草案の第244条及び第245条ですが,両条の文言及びその理由は,次のとおりです。

 

 第244条 父若クハ母其子ノ行状ニ付重大ナル不満ノ事由ヲ有スルトキハ地方裁判所長ニ請願シテ其子ヲ相当ノ感化場若クハ懲戒場ニ入ルコトヲ得

  此請願ハ口頭ニテ之ヲ為スコトヲ得ヘク又拘引状ニハ其事由ヲ明示シ且ツ其他裁判上ノ書面及ヒ手続ヲ用ユルコトヲ得ス

  入場ノ日数ハ16年未満ノ子ナレハ3个月又満16年以上ノ子ナレハ6个月ヲ超過スルコトヲ得ス但シ父若クハ母ハ常ニ裁判所長ニ請願シテ其日数ヲ延長シ又ハ減縮スルコトヲ得(仏第375条以下,伊第222条)

 第245条 父母及ヒ子ハ裁判所長ノ決定ニ対シテ控訴院長ニ抗告スルコトヲ得

  所長及ヒ院長ハ検事ノ意見ヲ聴キ裁判ス可シ(伊第223条)

 (理由)若シ子ノ性質不良ニシテ尋常ノ懲戒ヲ以テ之ヲ改心セシムル能ハサルトキハ法律ハ一層厳酷ナル懲戒処分ヲ用フルコトヲ允許ス即チ其子ヲ拘留セシムルノ権是レナリ本条ハ其手続ヲ規定スルモノトス父母ハ其事由ヲ具シテ地方裁判所長ニ請願スヘシ所長ハ其事情ヲ調査シ検事ノ意見ヲ聴キ其請願ノ允当ナルトキハ其允許ヲ与フヘシ此拘留ハ子ノ為メ一生ノ恥辱トナルヘケレハ成ル可ク之ヲ秘密ニシ其痕跡ヲ留メサルヲ要ス故ニ其請求ハ口頭ニテモ之ヲ為スヲ得ヘク且ツ一切ノ書類及ヒ手続ヲ要セサルモノトス拘引状云々ハ之ヲ削除スヘシ然レトモ其子ヲ拘留スヘキ場所ハ如何是レ特別ノ懲戒場タラサルヘカラス若シ之ヲ普通ノ監獄ニ入レ罪囚ト同居セシムルトキハ懲戒ニ非ラスシテ却テ悪性ヲ進ムルニ至ルヘシ拘留ノ日数ハ子ノ年齢ニ従ヒ之ヲ定メ満16年以下ナレハ3ケ月又16年以上ナレハ6ケ月ヲ超ユヘカラサルモノトナセリ但シ場合ニ由リ其期限ヲ伸縮スルヲ得ヘシ若シ子其拘留ヲ不当ト信スルトキハ之ヲ控訴院長ニ抗告スルヲ得ヘシ

   (旧民法人事編第一草案理由書187頁(熊野))

 

「拘引状云々ハ之ヲ削除スヘシ」と条文批判をしている熊野敏三は,「理由」は起稿したものの,当該条項の起草担当者ではなかったのでしょう。確かに,「拘引状ニハ其事由ヲ明示シ」では,ナポレオンの民法典3781項(身体拘束令状に理由は記載されない。)と正反対になっておかしい。あるいは,「拘引状ニハ其の事由ヲ明示シ〔する〕コトヲ得ス」の積もりだったのかもしれませんが,それでも誤訳的仏文和訳だったというべきなのでしょう(筆者も人様のことは言えませんが。)。しかし,「拘引状」が消えてしまうと,ミラボー的問題児の身柄を強制的に抑える肝腎の手段がないことになって,同人が同意して自ら感化場又は懲戒場に入ってくれなければいかんともし難いことになり,かつ,素直に感化場又は懲戒場に入ってくれるようなよい子には,そもそもそこまでの懲戒は不要であるということにはならなかったでしょうか。

 

9 西暦1898年の民法第4編第5編(明治31年法律第9号)及び旧非訟事件手続法(明治31年法律第14号)

 

(1)親権

 

  民法877条 子ハ其家ニ在ル父ノ親権ニ服ス但独立ノ生計ヲ立ツル成年者ハ此限ニ在ラス  

   父カ知レサルトキ,死亡シタルトキ,家ヲ去リタルトキ又ハ親権ヲ行フコト能ハサルトキハ家ニ在ル母之ヲ行フ

 

 親権について,梅謙次郎は次のように説明しています。

 

  我邦に於ては,従来,法律上確然親権を認めたるの迹なし。唯,事実に於て多少之に類するものなきに非ずと雖も,戸主権熾なりしが為めに十分の発達を為すことを得ざりしなり。維新後に至りては漸く戸主権の必要を減じたるを以て,茲に親権の必要を生じ,民法施行前に在りても父は父として子の代理人となり,子の財産に付き全権を有するものとせるが如し。是れ即ち親権なりと謂ふも可なり。然りと雖も,其父は子の身上に付き果して如何なる権力を有せしか頗る不明に属す。又其財産に付ても多少の制限なくんば竟に子の財産は,寧ろ父の財産たるかの観あるを免れず。

  (梅謙次郎『民法要義巻之四 親族編(第22版)』(私立法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1912年)342-343頁。原文は片仮名書き,句読点・濁点なし。)

 

  蓋し親権は,自然の愛情を基礎とし,父をして子の監護,教育等を掌らしむるものな〔り〕。

  (梅346-347頁)

 

「自然の愛情を基礎」とする梅の考え方の根底は,ローマ法的というよりはフランス法的なのでしょう。

 

(2)懲戒権

 

ア 条文

 

  民法882条 親権ヲ行フ父又ハ母ハ必要ナル範囲内ニ於テ自ラ其子ヲ懲戒シ又ハ裁判所ノ許可ヲ得テ之ヲ懲戒場ニ入ルルコトヲ得

   子ヲ懲戒場ニ入ルル期間ハ6个月以下ノ範囲内ニ於テ裁判所之ヲ定ム但此期間ハ父又ハ母ノ請求ニ因リ何時ニテモ之ヲ短縮スルコトヲ得

 

民法旧882条の参照条文としては,旧民法人事編151条及び152条,フランス民法375条から383条まで,オーストリア民法145条,イタリア民法222条,チューリッヒ民法662条,スペイン民法156条から158条まで,ベルギー民法草案3612項及び363条並びにドイツ民法第1草案1504条及び同第2草案15262項が挙げられており(日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録第50巻』6丁裏-7丁表),1896115日の第152回会合において梅謙次郎が「本条ハ人事編ノ第151条及ヒ第152条ト同シモノテアリマス」と述べていますから(民法議事速記録507丁表),民法旧882条はフランス民法の影響を色濃く受けた条文であったものといってよいのでしょう。

 

イ ドイツ民法(参考)

ちなみにドイツ民法第1草案1504条は,次のとおりでした。

 

§. 1504.

      Die Sorge für die Person umfaßt insbesondere die Sorge für die Erziehung des Kindes und die Aufsicht über dasselbe. Sie gewährt die Befugniß, bei Ausübung des Erziehungsrechtes angemessene Zuchtmittel anzuwenden.

  (身上に対する配慮は,特に,子の教育に対する配慮及びその子の監督を包含するものであるとともに,教育権の行使に当たって,相応な懲戒手段を用いる権限を与えるものである。)

      Das Vormundschaftsgericht hat den Berechtigten auf dessen Antrag durch geeignete Zwangsmaßregeln in der Ausübung des elterlichen Zuchtrechtes nach verständigem Ermessen zu unterstützen.

  (後見裁判所は,当該権利者からの申立てがあるときには,適切な強制手段を執ることにより,親の懲戒権の行使において権利者を賢慮ある裁量をもって支援しなければならない。)

 

 結果として,ドイツ民法1631条は次のとおりとなりました。

 

§. 1631.

   Die Sorge für die Person des Kindes umfaßt das Recht und die Pflicht, das Kind zu erziehen, zu beaufsichtigen und seinen Aufenthalt zu bestimmen.

  (子の身上に対する配慮は,子を教育し,監督し,及びその居所を定める権利及び義務を包含する。)

      Der Vater kann kraft des Erziehungsrechts angemessene Zuchtmittel gegen das Kind anwenden. Auf seinen Antrag hat das Vormundschaftsgericht ihn durch Anwendung geeigneter Zuchtmittel zu unterstützen.

  (父は,教育権に基づき,相応な懲戒手段を子に対して用いることができる。父の申立てがあるときには,後見裁判所は,適切な懲戒手段を用いることによって同人を支援しなければならない。)

 

ウ 懲戒権に関する学説

 懲戒権については,次のように説かれ,ないしは観察されています。

 

  蓋し懲戒権は,主として教育権の結果なりと雖も,我邦に於ては之を未成年者に限らざるを以て,必ずしも教育権の結果なりと為すことを得ず。而して懲戒権の作用は敢て一定せず。或は之を叱責することあり,或は之を打擲することあり,或は之を一室内に監禁することあり。此等は皆,親権者が自己の一存にて施すことを得る所なり。唯,其程度惨酷に陥らざることを要す。法文には「必要ナル範囲内ニ於テ」と云ひ,実に已むことを得ざる場合に於てのみ懲戒を為すべきことを明かにせり。而して其方法も,亦自ら其範囲を脱することを得ざるものとす(若し惨酷に失するときは,896〔親権の喪失〕の制裁あり。)。

  (梅355-356頁)

 

  懲戒権は監護・教育には収まりきらない特殊な性質を持っている。おそらくこれは,親権が私的な権力であることが端的に表れている,と見るべきだろう。父は子に対して自律的な権力を有しており,子が社会に対して迷惑を及ぼさないよう,予防をする義務を負い権利を有するというわけである。

  (大村254頁)

 

懲戒権の対象となる子を未成年者に限るように起草委員の原案を改めるべきではないかという提案が法典調査会の第152回会合で井上正一から出ましたが,当該提案は賛成少数で否決されています(民法議事速記録5011丁表-12丁表)。その際原案維持(すなわち,成年の子も親権に服する以上懲戒の対象とする。)の方向で「実際ハ未成年者ヨリ成年者カ困ルカモ知レヌ未成年ハ始末カ付クガ成年ニ為ルト始末ノ付カヌコトカアラウト思ヒマス」(民法議事速記録5012丁表)と発言したのが村田保であったのが(筆者には)面白いところです。人間齢を取ると素直さを失って始末に困るようになる,ということでしょうが,夫子自身も,「村田は性格が執拗,偏狭という評を受け,貴族院における「鬼門」だといわれた」そうです(大久保164頁)。

 

エ 懲戒場に関して

 

(ア)梅謙次郎の説明

 

  親権者は尚ほ進んで之を懲戒場に入るることを得べし。唯,是が為めには特に裁判所の許可を得ることを必要とせり。蓋し子の身体を拘束すること殊に甚しく,且,其処分が子の徳育,智育,体育に重大なる影響を及ぼすべきを以て,単に親権者の一存に任せず,裁判所に於て果して其必要なるや否やを審査し,又之を必要なりとするも,其期間の長短に付き裁判所に於て必要と認めたる範囲内に於てのみ之を許すべきものとせり。而して,如何なる場合に於ても其期間は6个月を超ゆることを得ざるものとし,尚ほ一旦定めたる期間も亦親権者の請求に因り何時にても之を短縮することを得るものとせり。

  (梅356頁)

 

旧民法人事編1521項の「感化場又ハ懲戒場」から感化場が落ちたことについて梅は,「字ノ如ク感化丈ケテアルナラハ寧ロ之ハ教育上ニ属スヘキモノト思ヒマス夫レテアレハ之ハ教育権ノ範囲内テ態々裁判所ヲ煩スコトヲ要セス父カ勝手ニ出来ル事テアラウト思ヒマス」と述べる一方,「若シ又感化場ト云フ名ハアツテモ矢張リ幾分カ懲戒ノ方法ヲ用ヰルモノテ身体ヲ拘束スルトカ苦痛ヲ与ヘルトカ云フモノテアレハ矢張リ法律ノ上カラ見レハ懲戒場テアリマス詰リ此箇条ノ精神ト云フモノハ子ヲ監禁スルノテアリマス其監禁スルコトハ幾ラ父ト雖モ勝手ニハ出来ヌ幾ラ父ト雖モ裁判所ノ許可ヲ得ナケレハナラヌト云フコトテアラウト思ヒマス」と弁じて,懲戒場の機能における拘禁(détention)の本質性を明らかにしています(民法議事速記録507丁表裏)。

ただし,フランス語の“correction”は「懲戒」と訳し得るものの,“maison de correction”には「感化院」という訳が現在あるところです(1938年のフランス映画『格子なき牢獄(Prison sans barreaux)』の舞台であるmaison de correctionは,「感化院」であるとされています。わざわざ「格子なき」というのですから,感化院には通常は格子があるわけでしょう。)。これに対して,我が国初の感化院は1883年に池上雪枝が大阪の自宅に開設したものだそうですが,自宅であったそうですから,その周囲を格子で囲みはしなかったものでしょう。1885107日には高瀬眞卿により東京の本郷区湯島称仰院内に私立予備感化院が開設されていますが,これはお寺ですね。フランス式の方が,日本式よりごついのでしょう。

梅はフランス式で考えていたのでしょうが,感化場ではない懲戒場とは,具体的には何でしょうか。

 

   懲戒場(〇〇〇)とは如何なる場所なるか民法に於て之を定めざるのみならず,民法施行法其他の法令に於て未だ之を定むるものあらず。故に裁判所は,親権者の意見を聴き,適当の懲戒場を指定することを得べし。然と雖も,将来に於ては之に付き一定の規定を設くる必要あるべし。

  (梅356-357頁)

 

ただし,梅は,旧刑法79条(また,80条及び82条)の懲治場との関係については,当該施設において「刑事ノ被告人カ出マシテサウシテ年齢ノ理由ヲ以テ放免サレタ者ト又普通ノ唯タ暴ハレ小僧ト一緒ニスルト云フコトハ如何テアラウカ」,「例ヘハ無闇ト近所ノ子供ト喧嘩ヲシテ困ルト云フヤウナ事丈ケテ別ニ盗坊ヲスルト云フヤウナ者テモナイ者ヲ刑事ノ被告人ト一緒ニスルト云フコトハ危険テアラウト思ヒマス」ということで,「可成ハ別ナ処ヘ入レルコトカ出来ルナラハ別ノ所ニ入レタイト云フ考ヲ持ツテ居リマスカラ夫レテ態サト「懲治場」ト云フ字ヲ避ケマシタ」と述べています(民法議事速記録509丁表)。

また,梅は家内懲戒場を認めていたようであって,「此「相当ノ」ト云フコトカ這入ツテ居ル以上ハ親カ内ニ檻テモ造ツテ入レルト云フコトナラハ夫レヲモ許ス積リテアリマスカ」との横田國臣の質問に対して,「私ハ其積リテアリマス身分テモアル人ハ其方カ却テ宜シイカモ知レヌ」と回答しています(民法議事速記録509丁裏-10丁表)。しかし,当該問答がされた際の条文案は「親権ヲ行フ父又ハ母ハ必要ナル範囲内ニ於テ自ラ其子ヲ懲戒シ又ハ裁判所ノ許可ヲ得テ之ヲ相当ノ懲戒場ニ入ルルコトヲ得」というものであったのでしたが(下線は筆者によるもの),当該「相当ノ」の文言は,法律となった民法旧8821項からは落ちています。したがって,やはり「懲戒場」は「公の施設であることはいうまでもない」(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)331頁)という整理になるのでしょうか。後記17で見る平成23年法律第61号による懲戒場関係規定の削除に当たっては,法定の懲戒場の不存在がすなわち懲戒場の不存在としてその理由とされていること等に鑑みると,梅の意思にかかわらず,懲戒場=公の施設説が公定説となったものでしょう。


DSCF2164

20233月の称仰院(東京都文京区湯島四丁目)


(イ)手続規定

 

  旧非訟事件手続法13条 審問ハ之ヲ公行セス但裁判所ハ相当ト認ムル者ノ傍聴ヲ許スコトヲ得

 

  旧非訟事件手続法15条 検事ハ事件ニ付キ意見ヲ述ヘ審問ヲ為ス場合ニ於テハ之ニ立会フコトヲ得

   事件及ヒ審問期日ハ検事ニ之ヲ通知スヘシ

 

  旧非訟事件手続法20条 裁判ニ因リテ権利ヲ害セラレタリトスル者ハ其裁判ニ対シテ抗告ヲ為スコトヲ得

   申立ニ因リテノミ裁判ヲ為ス場合ニ於テ申立ヲ却下シタル裁判ニ対シテハ申立人ニ限リ抗告ヲ為スコトヲ得

 

  旧非訟事件手続法25条 抗告ニハ前5条ニ定メタルモノヲ除ク外民事訴訟法ノ抗告ニ関スル規定ヲ準用ス

 

  旧非訟事件手続法92条 子ノ懲戒ニ関スル事件ハ子ノ住所地ノ区裁判所ノ管轄トス

   検事ハ前項ノ許可ヲ与ヘタル裁判ニ対シテ抗告ヲ為スコトヲ得

   第78条ノ規定〔抗告手続の費用及び抗告人の負担に帰した前審の費用の負担者を定めるもの〕ハ前項ノ抗告ニ之ヲ準用ス

 

10 西暦17世紀末-18世紀前半の日本国

懲戒場に関する梅の所論がどうしても抽象的になってしまうのは,公の施設としてのhôpitaux générauxVincennes城等に対応するものが,我が国には現実のものとしてなかったからでしょうか。

我が国の伝統的な子の懲戒観及び懲戒方法はどのようなものだったのか,時代は前後しますが,ここで江戸時代の様子を見てみましょう。

 

   父母は子を懲戒(〇〇)するの権利を有す。西沢与四作「風流今平家」〔元禄十六年(1703年)〕五六之巻第三に

    「入道耳にいれず,()()()()くゝり(〇〇〇)せつ(〇〇)かん(〇〇)する(〇〇)()誰何(〇〇)といはん(〇〇〇〇),汝等がしる事にあらず」

とあるはその一例なり。この懲戒権に基づきて親はまた,子を座敷牢に監禁することを得,(みやこ)(にしき)作「風流日本(やまと)荘子(そうじ)」(元禄十五年1702年))巻之二(勘当の智恵袋の段)に,

    「父母今は詮方尽,流石(さすが)名高き山下さへ,閉口せし上からは,外の評議に及まじ,(さて)是非もなき仕合と,おどり揚つて腹立し,座敷(〇〇)()に入置,さま〔ざま〕のせつかん目も当られず,一門を初め親しき友どち集り,色替品替詫言すれど,さら〔さら〕以て聞入れず,終に公に訴へ元禄十三辰1700年〕の秋,あり〔あり〕と勘当帳にしるし,(あわせ)壱枚あたへ,それから直に追出す」

とあり。また後に出す「傾城歌三味線」〔享保十七年(1732年)〕にも,「或時は座敷(〇〇)()に追込まれ,又或時は内証勘当して云々」と見えたり。

 父母が子を勘当(〇〇)することもまた,その懲戒権の行使なり。〔後略〕

(中田薫『徳川時代の文学に見えたる私法』(岩波文庫・1984年)170頁)  

 

 座敷牢への監禁措置のためには,公儀のお許しは不要であったわけでしょう。

ただし,「親が願い出て「官獄」に入れたり,放蕩の子を他領の親類に預けるといった制度・慣習は従来から存在」してはいたそうです(広井13頁)。それらはどのようなものかといえば,「『全国民事慣例類集』によれば,「官ニテ厳戒シ手鎖足鎖ヲ加エテ拘留シ或ハ其家ニ付シテ監守セシム」(伊賀)といった監禁や,「辺土ノ村」(対馬)へ移したり,「遠島」(大隅)にするといった「流罪」の場合もあった」そうです(広井13頁)。しかしながら,あるいは当該「制度・慣習」は全国的かつ強固なものではなく,それゆえに1889年の監獄則による請願懲治廃止及び1898年の現行民法施行時における法定懲戒場不存在状態が生じていたのではないでしょうか。

 

11 西暦1900年の感化法(明治33年法律第37号)及び1933年の少年教護法(昭和8年法律第55号)

 

(1)感化法

梅謙次郎が民法旧882条の懲戒場について「将来に於ては之に付き一定の規定を設くる必要あるべし」と述べたのは,1899年のことでしたが(梅初版発行年),その翌年に当該規定が整備されています。感化法です(190039日裁可,同月10日布告)。ただし,感化法制定のための主な推進力としては,梅らの不満もあったのでしょうが,18971月の英照皇太后大喪の際に各府県等に御下賜のあった慈恵救済資金の使用先の一つに感化院が想定されていたということがあったようです(第14回帝国議会貴族院感化法案特別委員会議事速記録第12-4頁参照)。(なお,感化法の施行日は「府県会ノ決議ヲ経地方長官ノ具申ニ依リ内務大臣之ヲ定ム」ということで(同法14条),全国一律ではありませんでした。当初の政府案では,勅令で施行日を定めることとしていたものが衆議院において修正されたものです。)

感化法53号は,「裁判所ノ許可ヲ経テ懲戒場ニ入ルヘキ者」を感化院の入院者として規定しています。同号による入院者は,民法旧882条の子は未成年者に限られないものとする法意に忠実に,20歳を超えても在院できることになっています(感化法6条)。

しかし,親権の行使として子を懲戒場たる感化院に入れた父又は母は,財産の管理を除いて在院又は仮退院中の子に対して親権を行うことができなくなるという規定(感化法82項・3項。感化院長が親権を行使(同条1項))は,感化院に子の世話をお願いする以上仕方がないとしても(なお,現在,児童福祉施設に入所中の子の親権者はなお親権を行い得るものとされつつ(児童福祉法(昭和22年法律第164号)471項),児童福祉施設の長に監護・教育に関して措置をする権限が認められています(同条3-5項)。),子を退院させて自己の親権行使を再開させることが自由にできなければ本来の親権者としては変なことではあります。ところが,感化法では在院者の親族又は後見人が子を退院させようとすると地方長官に出願して許可を受けなければならないことになっています(同法12条(1度不許可となると6箇月は再出願不可(2項))・13条(不許可処分には訴願が可能))。そこで民法旧8822項により期間短縮をしようとすると,今度は裁判所の裁判が必要なようでもあります。親権を発揮したつもりが,実は自ら親権を制限ないしは停止したような形になるというのはどうしたものでしょうか(ナポレオンの民法典379条参照)。

また,旧民法人事編152条の「感化場」を排し置いた梅としては,民法旧882条の「懲戒場」とは感化院のことである,となってしまった成り行きをどう思ったものでしょうか。ただし,感化院法9条は「感化院長ハ命令ノ定ムル所ニ依リ在院者ニ対シ必要ナル検束ヲ加フルコトヲ得」と規定していますから,拘禁と全く無縁の施設ではないようではあります。しかし,この「検束」は,「矢張リ親権ノ作用ノ懲戒ニ過ギナイノデアリマス,〔略〕大体検束ト申シマスモノハ民法ナドニ申シテ居ル親ノ懲戒権ノ範囲ニ止マル積リデアリマスガ,其懲戒ノ手段トシテハ或ハ禁足ヲスルトカ若クハ必要ニ応ジマシテハ1食或ハ2食ヲ減食ヲ致シマス,又ハ一室ニ閉禁ヲスルトカ云フヤウナ懲戒手段ヲ加ヘル考デアル,是ガ若シ此規定ガゴザイマセヌト不法監禁デアルト云フヤウナ疑ヲ来スモノデゴザリマスカラ,明ニ此明文ヲ掲ゲタ方ガ明瞭ニナッテ宜カラウト云フ考デ検束ト云フ字ヲ加ヘマシタノデアリマス」ということであって(第14回帝国議会貴族院感化法案特別委員会議事速記録第14頁(小河滋二郎説明員)),感化法9条は,同法81項の感化院長の親権行使規定で本来十分であるものの誤解なきよう念のために設けた規定であるという位置付けでした。感化院は,親権を行う父又は母のためにその懲戒権の実行を専ら担当するものであるというわけではなく,親権を代行しつつ必要があれば検束を含む懲戒権の行使もするものである,ということのようです。

感化院は地方長官が管理するのが原則でしたが(感化法2条),内務大臣の認可を受けた民営の代用感化院も認められていました(同法4条)。

なお,「地方長官ハ在院者ノ扶養義務者ヨリ在院費ノ全部又ハ一部ヲ徴収スルコトヲ得」との規定(感化法111項)は,1804年のフランス民法3782項を彷彿とさせるものがあります。

明治41年法律第43号(同法の施行は,旧法例(明治31年法律第10号)1条により1908428日から)による改正後の感化法52号は「18歳未満ノ者ニシテ親権者又ハ後見人ヨリ入院ヲ出願シ地方長官ニ於テ其ノ必要ヲ認メタル者」も感化院への入院者としています(それまでの同号は「懲治場留置ノ言渡ヲ受ケタル幼者」でしたが,同年101日から施行の現行刑法では,そのような懲治場留置の幼者はいなくなります。)。受け身の裁判所よりも,積極的においコラしてくる府県庁の方が,臣民には親しまれていたのでしょうか。あるいは,「司法的措置に対抗しつつ,より教育的な子どもの保護を制度化しようとする行政的措置の流れ」(広井20頁註76))をそこに見るべきでしょうか。

 

(2)少年教護法

感化法は,1934101日からの少年教護法の施行によって廃止され(同法附則2項),従来の感化院及び代用感化院は,同法による少年教護院となりました(同法附則4項・5項)。少年教護院の入院者に「裁判所ノ許可ヲ得テ懲戒場ニ入ルベキ者」が含まれることについては少年教護法814号に,その年齢が20歳を超えてよいことについては同法11条に規定があります。また,「少年ニシテ親権者又ハ後見人ヨリ入院ノ出願アリタル者」も地方長官は少年教護院に入所させることになっていましたが(少年教護法812号),ここでの「少年」は,「14歳ニ満タザル者ニシテ不良行為ヲ為シ又ハ不良行為ヲ為ス虞アル者」です(同法1条)。

少年教護法は,児童福祉法によって,194811日から廃止されました(同法65条・63条)。従来の少年教護院は,児童福祉法44条の教護院となり(同法67条),当該教護院は,平成9年法律第74号による児童福祉法の改正の結果,199841日からは児童自立支援施設となっています(平成9年法律第74号附則1条・附則51項)。

 

12 西暦1922年の矯正院法(大正11年法律第43号)

旧少年法に併せて矯正院法が制定され,192311日から施行されています(同法附則及び大正11年勅令第487号)。矯正院法1条は「矯正院ハ少年審判所ヨリ送致シタル者及民法第882条ノ規定ニ依リ入院ノ許可アリタル者ヲ収容スル所トス」と規定しています。ただし,「矯正院ニ収容シタル者ノ在院ハ23歳ヲ超ユルコトヲ得ス」とされていました(矯正院法2条)。

感化院は内務省の所管でしたが,矯正院は司法省の所管でした(矯正院法7条)。

矯正院法は,旧少年院法(昭和23年法律第169号)19条によって194911日から(同法18条)廃止されています。

 

13 フランスにおける父の懲戒権のその後

 

(1)19351030日のデクレ

193568日にフランス共和国では,我が国家総動員法(昭和13年法律第55号)も三舎を避くべき法律が成立し(1935316日にドイツがヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄して再軍備宣言を発していますが,戦争はまだ始まってはいません。),ラヴァルを首相とする当時の政府に,「フラン通貨の防衛及び投機との戦いを確乎たるものとするために」,法律と同じ効力を有するデクレを同年1031日を期限として発することのできる授権がされます。

同年1030日,どういうわけかこれもフラン防衛のためであるということで,駆け込み的に,父の子に対する懲戒権に係る民法376条以下の改正が同日付けのデクレによってされます(官報掲載は同月31日)。大統領宛ての内閣報告書によれば,新制度は,従来のものと違い,「懲罰の性格を失っており(…perdent leur caractère de pénalité),専ら子の利益のためのもの」であるとされています。もはや懲戒ではなく,矯正の権ということになるのでしょう。主な被改正条項を見てみましょう。

新第376条は,次のとおり(デクレ1条)。

 

  子が満16歳未満であるときは,父は,司法当局をしてその託置(placement)を命じさせることができる。そのために,民事裁判所の所長は,申立てがあったときは身体拘束令状を発付しなければならない。民事裁判所の所長は更に,その定める期間(ただし,成年期には及ばない。)について,観護教育施設(maison d’éducation surveillée),慈善教育施設(institution charitable)又はその他行政当局若しくは裁判所によって認可され,かつ,子の監護(garde)及び教育を確保する責めを負う者を指定する。

 

 新377条は,次のとおり(デクレ2条)。

 

   満16歳から成年又は解放までのときは,父は,その子の託置を請求することができる。請求は民事裁判所の所長に宛ててされ,当該所長は,検察官の意見により,身体拘束令状を発して,前条に規定する条件における子の監護を確保することができる。

 

 新379条は,次のとおり(デクレ3条)。

 

   命じられた監護措置は,検察官の要求又は父若しくはその他当該措置を求めた者の請求に基づき,裁判所の所長によって,いつでも撤回され,又は変更されることができる。

 

(2)1945年9月1日のオルドナンス

 194591日,対独敗戦後ヴィシー政権に参画していたラヴァル元首相は獄中にあって,同年10月の裁判(及び同月15日の国家叛逆罪による刑死。ただし,ギロチンによる斬首ではなく,銃殺です。)を待っていたところですが,臨時政府のド=ゴールはオルドナンス(n˚45-1967)を発し(官報掲載は同年92日),ラヴァル政権によって改正されていたフランス民法における子の矯正に関する父の権力条項(375条から382条まで)は更に全面改正されます。理由書によれば,父の恣意を避けるために,全ての場合において矯正措置は司法当局の自由な判断に服するものとされ(旧376条関係),②矯正措置の請求権は,もはや父のみにではなく,母及び子の監護権者一般に認められ,③専ら子の利益のために矯正措置が採られるよう,その裁判手続が改善され,④裁判所の職権による矯正措置の撤回及び変更,託置を請求しなかった親による変更の請求並びに検察官及び矯正措置請求者による不服の申立てがそれぞれ認められることとなり,最後に,⑤託置された未成年者の賄い費用負担の国庫による全部又は一部の肩代わり制度の導入がされています。

 改正後のフランス民法の条項は,次のとおり。

 

  第375条 21歳未満の未成年者の父,母又は監護権者は,子について重大な不満意の事由があるときは,当該未成年者の住所地の少年裁判所(tribunal pour enfants)の所長に対して,父性的矯正措置(mesure de correction paternelle)を同人について採るよう求める申立てをすることができる。

    当該の子に対して監護権を行使していない父又は母も,監護権を喪失していない限り,申立てをすることができる。

 

  第376条 所長は,申立の評価のために有益な全ての情報を取得するものとする。特に,資格のある者による,当該家族の物的及び心的状況についての,当該の子の性格及び前歴ついての並びに同人が個人財産を有しているか及び職業を営んでいるかを知るための調査を行わなければならない。

    調査期間中において未成年者の身柄を確保する必要があると判断するときは,所長は,上訴にかかわらず執行することができる仮監護命令をもって,当該未成年者の利益にかなうものと判断される託置措置を執り,及び,必要があれば,観護教育施設への付託をすることができる。

    当該所長は,前項の措置を執る権限を,未成年者の居所の少年裁判所の所長に委託することができる。

 

  第377条 検察官の意見のほか,所長は,未成年者,申立人及び,必要があれば,申立てをしなかった父又は母の陳述を聴いて裁判する。

    有益であると認められるときは,未成年者の託置を命ずる。その際所長はそのために,その定める期間(ただし,成年期には及ばない。)について,観護教育施設,慈善教育施設又はその他行政若しくは司法当局によって認可され,かつ,子の監護及び教育を確保する責めを負う者を指定する。

 

  第378条 前条の命令は,上訴にかかわらず仮に執行される。

 

  第379条 第376条,第2(ママ)77条〔第377条〕及び第381条に基づき所長のした命令に対しては,検察官,父性的矯正措置を受けた未成年者,申立人及び申立てをしなかった父又は母であって手続に関与したものは,10日以内に,裁判所に対する書面により抗告することができる。

 

380条 前条の抗告に対する裁判は,当事者の陳述を聴き又は当事者を適式に呼び出した上で,検察官の意見を聴いて,控訴院の未成年事件担当部がする。

 

  第381条 採られた措置は,職権により,検察官の申立てにより,その他措置申立権を有する者又は未成年者の請求により,当該命令をした司法当局によって撤回され,又は変更されることができる。

 

  第382条 親族(les parents)は,その貧困を証明することにより,託置を命ずる司法当局から,未成年者の賄い費用負担の全部又は一部の免除を受けることができる。免除された費用は,国庫が負担する。

 

 何だかフランス民法が日本民法に追いついてきたような感じがします。

 

(3)19581223日のオルドナンス

 ところがフランス共和国は,更に我が日本国を出し抜きます。その年105日に第五共和制憲法を公布したばかりの19581223日,ド=ゴール首相の政府はオルドナンス(n˚58-1301)を発し(官報掲載は同月24日),その第1条によって父性的矯正措置(フランス民法375条から382条まで)を廃して,育成扶助措置(mesures d’assistance éducative)に入れ替えてしまったのでした。

 当該改正後のフランス民法375条は「その健康,安全,徳性又は教育が危うくなっている21歳未満の未成年者(Les mineurs de vingt et un ans dont la santé, la sécurité, la moralité ou l’éducation sont compromises)は,以下第375条の1から第382条までに規定する条件による育成扶助措置を受けることができる。」と規定していて,もはや親がその子について「重大な不満意の事由」を有しているかどうかは問題になっていません。また,同じく改正後のフランス民法375条の11項は,未成年者自身からも育成扶助を求めて裁判官に対して申立てをすることができるものとしています。子本位の制度の作りになっているわけです。

 

14 西暦1948年の我が民法(昭和22年法律第222号による改正(194811日)後のもの)

 

(1)条文

 

  第818条 成年に達しない子は,父母の親権に属する。

    子が養子であるときは,養親の親権に服する。

    親権は,父母の婚姻中は,父母が共同してこれを行う。但し,父母の一方が親権を行うことができないときは,他の一方が,これを行う。

 

  第822条 親権を行う者は,必要な範囲内で自らその子を懲戒し,又は家庭裁判所の許可を得て,これを懲戒場に入れることができる。

    子を懲戒場に入れる期間は,6箇月以下の範囲内で,家庭裁判所がこれを定める。但し,この期間は,親権を行う者の請求によつて,何時でも,これを短縮することができる。

 

(2)学説

 

現行民法の規定(822条)は明治民法の規定を引き継いでいるが,「懲戒場」はもはや存在しない。また,懲戒権に服するのは未成年の子に限られる。そうだとすると,起草者たちの認識とは異なり,懲戒権は監護・教育権に含まれると考えてもよいことになる。こう考えるならば,懲戒権の規定も廃止してもよいということになる。ただし,ここでも若干の配慮が必要になる〔略〕。

  (大村254頁)

 

   ()監護教育のためには,時に「愛の鞭」を必要とする。しかし,その限界は,社会の倫理観念によって定まる。これを越える場合には,親権の濫用であるばかりでなく,暴行罪を構成する(大刑判明治3721日刑録122頁,札幌高裁函館支部刑判昭和28218日高裁刑集61128頁)。()「家庭裁判所の許可を得て,懲戒場に入れる」という制度は,現行法の下では存在しない。ここにいう懲戒場は公の施設であることはいうまでもない。ところが,現行制度でこれに当るものは,児童福祉法による教護院(同法44条参照)と少年法による少年院(同法24条,少年院法1条参照)とであるが,いずれも親権者の申請によって未成年の子を入所させる途を開いていない(少年法24条,児童福祉法27条参照(少年院法の前身たる矯正院法では認められていた))。

  (我妻330-331頁)

 

 なお,我妻が「少年院法の前身たる矯正院法では認められていた」という部分には,感化法及び少年教護法も付け加えられるべきものでしょう。

 

   親権者はその子をこれらの施設〔少年院,教護院など〕に入れる処分に同意しまたはすすんで申請することができる。民法はこのような親の責務を定めたものと解すべきである。

  (我妻榮=有泉亨著,遠藤浩補訂『新版民法3 親族法・相続法』(一粒社・1992年)179頁)

 

この学説では,親の権利ないしは権限ではなく「責務」であるものとしつつ,義務とまではしていません。

少年法(昭和23年法律第168号)313号の虞犯少年について,保護者(少年に対して法律上監護教育の義務ある者及び少年を現に監護する者(同法22項))は,家庭裁判所に通告ができます(同法6条)。

児童相談所に相談があり(児童福祉法1112号ロ・123項(202341日の前は2項))又は要保護児童(保護者のない児童又は保護者に監護させることが不適当であると認められる児童(同法6条の38項))発見の通告があると(同法251項),相談又は通告を受けた児童相談所長がその旨都道府県知事に報告をして(同法2611号),当該報告を受けた都道府県知事が当該児童を児童自立支援施設に入所させる(同法2713号)ということがあり,また,当該入所措置には親権者の同意が必要である(同条4項)ということがあるところです。

ただし,少年院への収容についてですが,「特に親権者は,家庭裁判所に通告し,または児童相談所に相談して知事が家庭裁判所への送致措置をとった結果として(少6,児福27),家庭裁判所の行う保護処分を受けることを通して少年院収容の強制的な矯正教育を受けることもありうるが,それも本条〔民法822条〕にかかわる親権者個人の懲戒権の実行としてではない。」とされています(於保不二雄=中川淳編『新版注釈民法(25)親族(5)(改訂版)』(有斐閣・2004年)115頁(明山和夫=國府剛))。

 

   親権者にこのような懲戒権が与えられていることの法的な意味は,子の監護教育上必要な範囲で実力を行使しても,親権者が民事・刑事上の責任を問われることはないという点にあるに過ぎない。規定にある懲戒(ママ)に該当する施設は,戦後の児童福祉法・少年院法の制定とともに存在しなくなった(したがって,懲戒場に入れる期間について規定する8222項の意味は失われている)。

   懲戒権も必要な範囲を超えると親権の濫用となり(いわゆる児童虐待〔略〕),親権喪失原因になるとともに,暴行罪を構成する。

  (内田貴『民法 親族・相続』(東京大学出版会・2002年)212頁)

 

 懲戒場に該当する施設はもはや存在しない,その結果(旧)8222項の意味も失われているのだ,と淡白に説明を受けて,やれ民法の勉強は覚えることばかりではなく実は覚えないということもあるのだなと安易に安堵した学生は,当面の試験を前に当該安直な感想を早々に忘れつつ,それでも心の奥底に何やら物足りない思いをその後長く抱き続けることとなったのでした。

 

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(上):はじめに並びに連続複利法の場合の収束値及び旧判例

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080374749.html

(中):大判昭和11101日並びに山中評釈及び我妻説

     http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080374772.html



4 最判昭和45421

 

(1)最高裁判所判決

 ここで改めて最判昭和45421日の判示(前記1に掲載してあります。)を見てみると,「いわゆる法定重利につき民法405条が1年分の利息の延滞と催告をもつて利息組入れの要件としていることと,利息制限法が年利率をもつて貸主の取得しうべき利息の最高額を制限していることにかんがみれば,金銭消費貸借において,年数回にわたる組入れをなすべき重利の予約がなされた場合においては,毎期(●●)()おける(●●●)組入れ(●●●)利息(●●)()これ(●●)()対する(●●●)利息(●●)()()合算(●●)()()本来(●●)()元本(●●)()()対する(●●●)関係(●●)()おいて(●●●)1()()につき(●●●)同法(●●)所定(●●)()制限(●●)利率(●●)をもつて(●●●●)計算(●●)した(●●)()()範囲内(●●●)()ある(●●)とき(●● )()かぎり(●●●),その効力を認める(●●●)こと(●●)()でき(●●)その(●●)合算(●●)()()()()限度(●●)()こえる(●●●)とき(●●)(),そのこえる部分については効力を有しないものと解するのが相当である。」との部分のうち,下線部分には我妻説,傍点部分については山中評釈の影響が歴然としています(しかし,山中評釈から横着に「コピペ」したわけではないのでしょうが,発生した利息の全てが不払のまま元本に組み入れられるわけではなくきちんと弁済期に弁済される利息もあるのであろうところ,そのような弁済済み利息は利息制限「法所定の制限利率をもつて計算した額」と比較されるべき額に算入されないものとされてしまっているように読めます。それでよいのでしょうか・・・。また,金融法委員会「論点整理 メザニン・ローンに関わる利息制限法・出資法上の問題――重利特約の取扱いを中心に――」(201511月)7頁註19は,最判昭和45421日における「毎期における組入れ利息とこれに対する利息との合算額が本来の元本額に対する関係において,1年につき同法所定の制限利率をもつて計算した額の範囲内にあるときにかぎり」との判示の部分にいう「本来の元本額」とは,「各期における「組入れ前の元本額」(すなわち,各期の期初時点における前期までの元本組入れ額を含む元本金額)を指しているものと考えられる。」との解釈を示していますが,しかし,当該解釈は「本判決における事案への当てはめ部分を見ると,「組入れ前の元本額」という表現が用いられてお」ることからの推論であるところ,当該「当てはめ部分」は,利率が利息制限法上の上限利率であるときには利息の元本組入れを少しでもするとたちまち「1年につき同法所定の制限利率をこえる」ので「重利の約定に従つて元本に組み入れる余地を失つた」ことを説明するものです。すなわち,当該利率の場合は最初から利息の元本組入れはされないのですから,「各期の期初時点における」元本金額は最初の元本額から変わらないのであって,「前期までの元本組入額を含む」ことはそもそもないわけです。特殊な場合に係る表現を捉えて一般化することは適当ではないでしょう。)。ここでの問題は,「そのこえる部分については効力を有しない」の意味です。

前記32)第3段落(及び同(3)カ最終段落)のとおり山中評釈では,利息の計算をやり直せということになっています。しかし最高裁判所は,単に「効力を有しないもの」としています。しかしてその,効力を有しないものとなる主体は何かといえば,「年数回にわたる組入れをなすべき重利の予約がなされた場合においては」なのですから,当該「重利の予約」であるのでしょう。また,「そのこえる部分」が失効するということですから,前記33)の我妻説にも鑑みるに,不払利息の元本組入れの全部又は一部が認められなくなるということになるのでしょう。調査官解説も,我妻説式に「本件の事案についてみると,本件のような1年内に6回の組入れをする予約も全体として無効というわけではなく,1年を基準としてみて,利息制限法所定の制限利率をこえる〔筆者註:ここは,最判昭和45421日の記載にも鑑みるに,精確には「利息制限法所定の制限利率をもって計算した額をこえる」でしょう。制限利率を超える利率であれば制限利率に引き直されるだけです。〕額の部分はその組入れを認められない限度で特約が働く余地を失うことになる。」と述べています(吉井213頁。下線は筆者によるもの)。利息の発生自体には変化がないのでしょう。

 最判昭和45421日が上告論旨に直接答えている部分は,我妻説(「〔利息制限法上の〕最高の利率だから――債権者は,特約に拘わらず,単利計算による総計額を請求することができるだけである(但し,2年の後に請求する場合には,1年分の利息を催告なしに組み入れて計算してよい。その限りで特約の効力を認むべきだからである)。」)を彷彿とさせるものとなっています。いわく,「昭和32920日にその利率が日歩5銭(年利182厘強)に改定されて後は,上告人は右制限利率の範囲内〔利率年15パーセント又は18パーセント〕においてのみ利息の支払を求めうるのであるが,そればかりでなく,右利率改定の結果,重利の約定に従つて2箇月ごとの利息の組入れをするときは,ただちに,その組入れ利息とこれに対する利息の合算額が組入れ前の元本額に対する関係において,1年につき同法所定の制限利率をこえる状態に達したことになり,上告人は,右改定後は延滞利息を重利の約定に従つて元本に組み入れる余地を失つたものというべきである。それゆえ,これと同旨に出て,同32921日以降利息の元本組入れの効果を認めなかつた原判決には,なんら所論の違法はない。」と。上告論旨は,原審判決が「1年を経過しなければ利息を元本に組入れることを得ない」としたことが違法だと言っていましたが,では1年が経過したら利息を元本に組み入れることができるのかどうか,という点についてまでの判示はされていません(昭和32921日以後昭和33531日までの8箇月余間にされた利息の元本組入れの有効性が争われていたのであって,現実に1年経過前であった当該事案において,利息の元本組入れが認められないという結論を導くには,これで充分な判示であったわけでしょう。)。

とはいえ,1年が経過したら利息を元本に組み入れることができるのかどうかという点については,我妻説的には「1年分の利息を催告なしに組み入れて計算してよい。その限りで特約の効力を認むべきだからである」ということですから,肯定されるのでしょう。調査官解説も「原判決が述べるように,240万円の債権については,すでに約定利率が制限利率をこえているから,予約は制限利率に引き直された利率により単利計算をした1年分(昭3183日から同3282日まで)を元本に組み入れる限度で特約が働き,その後弁済期である同33531日までは1年に満たないから制限利率による単利計算の額を加えうるにとどまる。」と述べています(吉井213頁)。

しかし,我妻説において「但し,2年の後に請求する場合には,1年分の利息を催告なしに組み入れて計算してよい。その限りで特約の効力を認むべきだからである」とある部分の適用を,1年ずつということについて過度に限定的に考える必要はないのではないでしょうか。利率が上限利率である貸付けにおいて最終的に元本の弁済期が到来したときは,その時が直前の利息組入れ期又は当初貸付時から1年が経過する前であっても,筆者としては,「特約の効力」を認めてよいように思われます(最判昭和45421日の事案については,最後に組入れ手続のされた昭和33531日の日は各債権の弁済期であったことが,最高裁判所によっても認められています。)。この点については,前稿「(結)起草者意思等並びに連続複利法及び自然対数の底」の52)において御紹介した「日本近代法の父」ボワソナアドの見解,すなわち,旧民法財産編3941項に関する「法はそれについて述べていないが,最終的な形で(d’une manière finale)利息が元本と共に履行期が到来したもの(exigibles)となったときには,当該利息は1年分未満であっても,総合計額(la somme totale)について,請求又は特別の合意の日から利息が生ずる,ということが認められなければならない。返還期限又は支払期限が1年内である(remboursable ou payable avant une année)貸金又は売買代金に関する場合と同様である。これらの場合においては,債務者は,この禁制がそこに根拠付けられているところの累増の危険にさらされるものではないからである。」との見解が筆者を援護するものでしょう。利息制限法からする組入れ利息額の制限については,1年未満の期間については期間比例的に額を考えればよいはずです(通常の利息計算自体はそうされています。)。(ああ,心ならずも判例にケチをつけてしまった。)

 

(2)原審・東京高等裁判所昭和431217日判決に関して(及びニセ石田説再構成)

 最判45421日の事案における債権のうち,240万円の口の処理(これは上告論旨の対象となっていないものと判断されています。)及び1200万円の口のそれの是非が,筆者を悩ましています。

 まず,「昭和3181日付契約書によ」るものとされていながら,両口の貸付けについて現実に出捐がされたのは,昭和3183日であり同「日(ママ)前は利息を生ずる余地がない」もの(なお,民法5892項参照)と原審の東京高判昭和431217日によって認定されているところが,最初から少々いやらしかったところです(民集244338-339頁)。

 次に,「2箇月ごとの手形の満期日に利息を支払つて手形を切り替えて行くことにした」とされていますが,手形の満期日(利息の支払期)は精確に2箇月ごとではありませんでした。利息発生開始日である昭和3183日の後の各利息支払期は,同年930日(59日分),同年1130日(61日分),③昭和32131日(62日分),④同年331日(59日分),⑤同年531日(61日分),⑥同年720日(50日分)及び⑦同年920日(62日分)並びに⑧同年1120日,⑨昭和33131日,⑩同年228日,⑪同年331日及び⑫同年531日であったものと原審によって認定されています(民集244339頁)。

 約定利率については,240万円の口については前記1記載の判決文のとおり一貫して年36.5パーセントでしたが,1200万円の口のそれは,当初は年10.95パーセントだったものが,昭和32721日から年14.6パーセント(民集244339頁),同年921日から年18.25パーセント,同年1130日から年29.2パーセントへと変化しています。

 上記の利率のうち,年15パーセントを超えるものは利息制限法上の上限利率年15パーセントに引き直されるので(同法13号),ある意味分かりやすいところです。また,年10.95パーセントであれば,連続複利法でも1年後には元本は1.1157倍強(=e^0.1095)にしかなりませんので,利息制限法上の最低上限利率の年15パーセントを超えることはなく,同法上の問題を起すことにはなりません。しかし,年14.6パーセントは厄介です。組入れ間隔均等の年6回組入れで1年後に1.155175倍,同様の年2回組入れでも1年後に1.151329倍になってしまいます。いずれも上限利率年15パーセントに係る1.15倍を超えるものです。

 さて,筆者を悩ましている240万円及び1200万円の両口の処理に係る問題は3点ありましたが,そのうち,昭和32921日から元本弁済期の昭和33531日までの分の利息の組入れがされなかったことについては,既に前記(1)の最終段落で触れたところです。残っているのは,第1に,東京高等裁判所は,240万円の口について昭和3183日からきっかり1箇年経過時の昭和3282日限り単利年15パーセントでの利息36万円を元本に組み込んでいるが,その時点で利息の元本組入れを行う法的根拠は何か(その時点で利息の元本組入れをする旨の当事者の合意はありません。),第2に,上記のように剣呑な利率である年14.6パーセントの割合での利息62日分を当該62日経過時にあっさり元本に組み入れているが,それは許されるのか,という問題です(利率年14.6パーセントで2箇月ごとに利息を元本に組み込んでいけば,「1年につき」利息制限法所定の制限利率年15パーセントをもって計算した元利金合計額の範囲を超過する結果になることは,前記のところから明らかでしょう。)。

 前者については,民法405条に拠ろうにも同条は1年分以上といっているのできっかり1年分で組入れを行う理由付けには利用できないでしょうし,利息制限法は利息組入れを制限することはあっても積極的に根拠付けるものではないでしょう。1年経過以後最初の合意による利息組入日である昭和32920日での組入れではいけなかったのでしょうか(なお,計算上,昭和3282日組入れの場合における昭和33531日経過時の元利金合計額は3102542円であるのに対して,昭和32920日組入れの場合は310万円0316円となります。上告人としては,東京高等裁判所による2226円分の温情を感じていたかもしれません。)。

 後者については,東京高等裁判所は「1200万円〔略〕の〔略〕口につき日歩3銭〔年10.95パーセント〕或いは4銭〔年14.6パーセント〕の率により昭和32920日迄になされた大体2ヶ月毎の重利の約束による利息の元本組入れは,その結果が利息制限法の制限利率年15分〔略〕の率により単利計算した結果の範囲内であるから,有効と解すべきであるが,昭和32921日より日歩5銭〔年18.25パーセント〕と改訂された以降の前記利率の定めは利息制限法による前記制限利率を超える部分は無効であり,かつ,これらの率により昭和33531日迄になされた前記重利の約束による利息の元本組入れは,右改訂時から1年を経ていないから,利息制限法の関係で,これについて効力を認める余地がないものとするのが相当である」と判示しているところです(民集244340-341頁)。昭和32920日経過時の組入れ後元本額は13654663円ですが(民集244341頁・362頁),この額は昭和3183日から年15パーセントの利率で149日間分単利計算した場合の元利金合計額14041463円を下回るからよいのだ,ということのようです。しかし,利率年15パーセントである240万円の口については厳格に守られた端数なしの1箇年の区切りが,1200万円の口に係る利率が年15パーセント未満の期間については弛緩してしまっているようでもあります。(とはいえ実は,1200万円の口について機械的に1箇年の区切りを厳格に適用すると問題がありました。1200万円の口は,元本出捐日から1年経過時(昭和3282日経過時)において,組入れ済み元本額13324223円であったのですが(民集244362頁。なお,弁済期が未到来であるその時までの(利率年14.6パーセントの)利息分69285円との合計は13393508円。これは,利息制限法13号の上限利率である年15パーセントで単利計算をした算出額1380万円を優に下回ります。),当該元本額につき同月3日から年15パーセントの利率で単利計算をすると,元本弁済期の昭和33531日までの302日間には利息が1653663円つき,同日終了時の元利金合計額は15047171円となるはずでした(ちなみに,元本額13393508円で計算しても,15055770円)。ところが,現実に東京高等裁判所が認めた昭和33531日終了時の元利金合計額は15074373円であって(昭和32920日の組入れ後の元本13654663円及びこれに対する同月21日から昭和33531日まで253日間における年15パーセントの割合の利息1419710円の合計額),昭和3283日基準の利息制限法準拠上限額を27202円(又は18603円)超過していたのでした。1年きっかりの期間で区切って計算して見てみると,実は利息制限法違反の高裁判決に最高裁判所がお墨付きを与えていたのではないか,ということになってしまうのでした。)

東京高等裁判所の採用した理論を筆者なりに忖度してみましょう。

まず,同裁判所は,適用されている利率が利息制限法上の上限利率未満である場合と上限利率そのものである場合とを分けて処理するもののようです。

利息制限法上の上限利率未満の利率で発生する利息に係る元本組入れは,それを認めた上,その結果については――その間利率の変動があっても――通算し(実は最後まで通算せずに各1年経過以後最初の組入れ期で区切るのかもしれませんが,一応区切らずに通算するものと考えます。少なくともきっかり1年で締めるとまずいことになったのは,前記のとおりです。),これと,最初の元本額について利息制限法上の上限利率によって単利計算をし,かつ,1年ごとに元本組入れ(判決文には,単利計算をしつつも各1年経過時には元本組入れをするとは書かれていませんが,民法405条との関係で,1年ごとの元本組入れは必要でしょう。ここは正に筆者の忖度です。)をした結果たる元利金合計算定額(面倒ですから,以下「1+405条基準元利金合計額」といいましょう。)との比較を事後的にして,当該1+405条基準元利金合計額を超過していない限り有効とするのでしょう(しかし,超過した場合にはどう処理するのかははっきりしていません。本件の場合は結果オーライでしたが,厄介な問題です。むしろ,あらかじめ超過の結果が発生しないような仕組みにしておくべきもののようです。)。

利息制限法上の上限利率で発生する利息については,1年ごとの元本組入れしか認めないこととしているわけなのでしょう。しかし,上限利率も上限利率未満の利率も利息制限法上はいずれも適法な利率であるのに,利息の元本組入れの場面では取扱いが異なるのは奇妙ではあります。

以上のような筆者の諸小疑問にかかわらず,「延滞利息を元本に組み入れる重利の予約と利息制限法との関係に関する基本的なルールは既に確立されている状況にあると言ってよい」そうです(金融法委員会8頁)。所詮小疑問は小疑問にすぎず,「基本的なルール」は金甌無欠なものとして厳然と確立しているのでしょう。(なお,当該「ルール」の一環として,金利制限法規の適用において制限基準となる(それを超えてはならない)元利金合計額は,単純な単利計算に基づくものではなく,1+405条基準元利金合計額となるのだ,ということもあるものでしょうか(最判昭和45421日の射程に関する金融法委員会11-14頁参照)。)

 適用利率が上限利率である場合には1年未満の間隔での利息の元本組入れを一切認めないのは,1+405条基準元利金合計額を上回る額の組入れ後元本額(と既払利息額との合計額)の発生をもたらすこととなる余計な利息の発生をあらかじめ抑えるためなのでしょう。しかし,そうであれば,当該事前予防的効果を得るためには,組入れを制限するよりも,端的に利息自体の発生が制限されるものとする解釈を採用する方が,筆者には分かりやすいところです。上限利率が適用される場合でもそれ未満の利率が適用される場合でも,約定どおりの時期に不払利息の元本組入れを認めることとするが,その結果の組入れ後元本額と既払利息額との合計額が当該時点における1+405条基準元利金合計額を上回ることとなる場合には,(事後的に制限超過状態が発見されてしまってその修復処理を――改めて理論構築しつつ――することとなる面倒を避けるために)その都度,超過をもたらす分の利息はそもそも発生しなかったものとする(あるいは発生することに執着がされるのならば,「裁判上無効」でもよいでしょう。),というような解釈論の展開がされるわけにはいかないものでしょうか。(なお,その都度処理が望ましいことに関しては,利息制限法は「単に制限超過の利息契約(●●)をなすことを制限するに止まらず,制限超過の利息の生ずる法律(●●)状態(●●)そのものを禁圧する趣旨と解し,遡及効を認めなくとも,なお改正後における利息の発生を制限すると解するのが正当」と,利息制限法改正の際の法の適用関係に関して説かれてもいるところです(我妻51頁。下線は筆者によるもの)。ただし,経過規定の定めがなかった大正8年法律第59号による旧利息制限法の改正の際,判例は,「法律不遡及の原則」を理由として「大正7年中の契約により2000円につき12分の利息を生じているときに大正8年の改正があっても1割に制限されない(大判大正10523957頁)」としていたそうです(同頁)。しかし,当該前例にかかわらず,現行利息制限法附則4項は「この法律の施行前になされた契約については,なお従前の例による。」との明文規定を設けています。)

ちなみに,上記解釈論は,前記33)エのニセ石田説の修正版ということになりましょう(ということで,石田真説の孫だと思ってもらえば,全くの荒唐無稽の説ということにはならないでしょう。)。すなわち,その弁済期にちゃんと支払われていた利息についても忘れずに考慮に入れることとし,制限基準を純粋単利の「最初の元本に対する最高制限利率による〔貸付時からその時点までの〕利息の額」から1+405条基準元利金合計額に改め,利息の元本組入れに係る複利契約の効力を失わせるまでのことはしないこととし,「爾後は,約定利率の如何に拘わらず最初の元本に対する最高制限利率に依る利息が発生する」を「当該時点における1+405条基準元利金合計額を上回ることとなる場合には,その都度,超過をもたらす分の利息はそもそも発生しなかったものとする」と改める,というわけです。

 念のため検算すると,昭和3183日に貸付けられた1200万円について,昭和33531日経過時の1+405条基準元利金合計額は15512712円となります(=12,000,000×1.15×1+0.15×302÷365))。1200万円の口に係る昭和33531日経過時の現実の元利金合計額は,東京高等裁判所によれば,前記のとおり,元本13654663円及び利息1419710円の合計15074373円です。当該合計額について見れば,1+405条基準元利金合計額との関係はもとより問題ありません。ただ筆者としては,元金合計額ではなく,すっきりと元本額15074373円ということでもよかったのではないか,と(今年20231115日が来日150周年となるボワソナアドと共に(というProjet解釈(前記(1)最終段落参照)でよいのですよね))思うばかりであるところです。

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(上):はじめに並びに連続複利法の場合の収束値及び旧判例

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080374749.html


3 大判昭和11101日並びに山中評釈及び我妻説

最判昭和45421日の先駆とされる判例が,大審院第一民事部の昭和11101日判決(民集15221881頁)です。

最判昭和45421日について「本判決が右の学説の見解によったものであることは,その判文によって明らかである」といわれる場合の「右学説」は,大判昭和11101日に関する山中康雄・判民昭和11年度127事件評釈及びそれを承けた我妻榮の学説でした(吉井212頁及び216頁(注6))。

 

(1)大判昭和11101

 

ア 事案及び判示

大判昭和11101日の事案は,山中評釈によれば次のようなものでした。

 

  X(原告・控訴人・上告人)はY(被告・被控訴人・被上告人)先代に対し大正131217日より昭和673日に至る間数回に金3005010050300円を貸渡し利息を月15厘〔年18パーセント〕と定め,毎年12月末日之が支払なきときは夫々元本に組入るる旨の複利契約を為して居たのであるが,Xが先代死亡に因る家督相続を為したYに対して,右利率を〔旧〕利息制限法2条所定の利率〔元本50円の口は年15パーセント,300円及び100円の口は年12パーセント〕に引直し複利計算を為したる元利金の支払を訴を以て請求して来たのが本件である。所が一審二審共に,元本に利息を組入れ複利計算を為すべき場合と雖其の結果元本に組入れられたる利息及之に対する利息の合計額が最初の元本に対する関係に於て利息制限法の制限利息を超過するときは其の部分は無効なりとして,結局,最初の元金に前記各貸借成立の時より右制限利率に依る利息を加へたる金額の範囲に於てのみ,Xの請求を認容したに過ぎなかつた。そこで,Xは尚,制限内利(ママ)に依る複利計算の為さるべきことを要求して,上告を試みた。要するに,消費貸借に於て一定の弁済期に利息を支払はざる場合には之を元本に組入れ更に利息を生ぜしむべき旨を約した複利契約は,其の利率が利息制限法2条に定むる制限を超過せざる限り同法に抵触するものでは無く,之を有効と認むべし,と為す抽象論に関する限りは原審も又上告論旨と一致するのであるが,右の「利率が利息制限法2条に定むる制限を超過するか否か」に関して,右の有効なる複利契約に基き元本に組入れられたる利息及び之に対する利息を加へたる合算額が本来の元本自体に対する関係に於て利息制限法の制限利率の範囲を超ゆる結果を生ずる場合に,之を利息制限法2条に抵触すると見るべきか否かに関し,原審は之を肯定するに対し,上告論旨は否定する見地に立つのである。大審院は上告を容れて原判決を破毀差戻した。(480-481頁)

 

 大判昭和11101日は,次のとおり判示しています(原文は濁点及び句読点なし。)。

 

  按ズルニ,消費貸借ニ於テ一定ノ弁済期ニ利息ヲ支払ハザル場合ニハ之ヲ元本ニ組入レ更ニ利息ヲ生ゼシムベキ複利契約ハ,其ノ利率ガ利息制限法第2条ニ定ムル制限ヲ超過セザル限リ同法ニ抵触スルモノニアラズシテ有効ナリト解スルヲ相当トス(大正6年(オ)第510号同年88日当院判決)。尤モ複利契約自体ガ利息制限法ノ規定ヲ潜脱セントスル目的ニ出デタルモノト認ムベキ場合,例ヘバ利息組入ノ時期ヲ短期トナシ年数回ノ組入ヲ為スコトヲ約スルトキノ如キハ之ヲ無効ト解スベキハ論ヲ俟タズ。而シテ右有効ナル複利契約ニ基キ元本ニ組入レラレタル利息及之ニ対スル利息ヲ加ヘタル合算額ガ本来ノ元本自体ニ対スル関係ニ於テ利息制限法ノ制限利率ノ範囲ヲ超ユル結果トナルモ,之有効ナル複利契約ノ当然ノ結果ナレバ之ヲ認容スルノ外ナキモノトス。本件消費貸借ニ於テモ上告人〔X〕ガ被上告人〔Y〕ニ対スル貸金債権ノ利息ニ関シ原審認定ノ複利契約ニ基キ貸金元本ニ対スル利息制限法ノ利率ニ依ル利息(元本ニ組入レラルルモノ)ニ対シ更ニ同一ノ利率ヲ以テスル利息ヲ加算シタル結果ガ本来ノ元本ニ対スル関係ニ於テ制限法ノ利率ニ超過スルニ至ルモ,其ノ超過部分ハ法律上効力無キモノト謂フベカラズ。原審ガ,右ト反対ノ見解ニ基キ,元本債権ニ対スル利率ガ既ニ制限法ノ利率ナルトキハ複利契約アルモ結局元本ニ対スル右制限率以上ノ利息ノ支払ヲ求ムルヲ得ザルモノト判定シタルハ,利息制限法第2条ノ趣旨ヲ不当ニ厳格ニ解釈シタル違法アルモノニシテ破毀ヲ免レズ。

 

イ 利息の弁済期に関する問題

 ところで,山中評釈における事案説明を見ても利息の弁済期日がはっきりしないので(月当りの数字でもって利率が表現されていますから,1箇月ごとということでもありそうです。),大審院民事判例集15221882頁にある「事実」を見てみるのですが,そこでもやはり「利息ヲ月15厘ト定メ毎年12月末日之カ支払ナキトキハ夫々元本ニ組入ルル旨ノ複利契約」とあります。「12月末日」に元本組入れがされることは分かりますが,当該利息の支払期日はそれより前に既に到来していてもよいはずです(民法405条参照)。上告人の上告理由には「利息月15厘其ノ支払期毎年12月末日右期日ニ利息ヲ支払ハサルトキハ之ヲ元本ニ組入レ更ニ月15厘ノ利息ヲ附スル約ニテ」とあるのですから(同号1883-1884頁),そうであるのならばそのとおり利息の「支払期」たるものとしての「毎年12月末日」を明示してくれればよかったのに,一体どうしたことでしょうか。

 そこで,原審札幌控訴院の判決(民集15221889-1893頁)を見てみると,同控訴院の事実認定は,「控訴人〔X〕カ弁済期及利率ヲ其ノ主張ノ如ク〔弁済期は「定ナク」,利率は「月15厘」〕約シテ〔略〕各金員ヲ被控訴人〔Y〕先代〔略〕ニ貸渡シタルコトハ当事者間ニ争ナク」,かつ,「成立ニ争ナキ甲第1,第3号証並原審〔第一審の札幌地方裁判所〕ニ於ケル被控訴人〔Y〕本人ノ供述ニヨレハ利息ハ毎年末之ヲ計算シテ元本ニ組入レ更ニ月15厘ノ利息ヲ附スル約ナルコトヲ認ムルニ足ル」ということであって,利息については「毎年末之ヲ計算シテ元本ニ組入レ」るところまでは認定されていますが,「支払期毎年12月末日」であるのだとのXの主張までは採用されていません。同控訴院は「然レトモ元本ニ利息ヲ組入レ複利計算ヲ為スヘキ場合ト雖ソハ利息制限法ノ制限範囲ニ於テノミ有効ニシテ若シ制限法ノ利率ヲ超過スルトキハ該超過部分ハ効力ナキモノ」と述べていますが,ここでは専ら複利計算の場合における利息制限法の適用がどうあるべきかが問題になっているものでしょう。大審院は,「一定ノ弁済期ニ利息ヲ支払ハサル場合ニハ之ヲ元本ニ組入レ更ニ利息ヲ生セシムヘキ」ものたる複利契約の存在を前提として,当該契約がある場合の利息制限法の適用問題を論じたわけですが,札幌控訴院は,「毎年12月末日」は利息に係る当該「一定ノ弁済期」ではなく,複利計算上の区切りの日とのみ認定していたようにも思われます。

札幌控訴院は,元本弁済の時に初めて利息の弁済期も到来するものと解したものでしょうか。「当事者の意思表示,元本債権の性質,取引上の慣習などから,利息債権の弁済期を明らかにすることができないときは,利息債権の弁済期は元本債権の弁済期と同一であると解すべきであろう(勝本〔正晃〕・上248,小池隆一「利息債権」民法法学辞典(下)(昭352085)。」とされているところです(奥田昌道編『新版注釈民法(10)Ⅰ債権(1)債権の目的・効力(1)』(有斐閣・2003年)344頁(山下末人=安井宏))。当該解釈が採用され,利息の弁済期が元本の弁済期とされた場合,元本と同時にではなく,利息だけ先行して弁済できるかどうかがここでは問題になります。民法1362項ただし書は,期限の利益の放棄によって「相手方の利益を害することはできない」と規定していますが,ここでの「相手方の利益」に,元本弁済時までの期間における「利息の利息」収入を含めてよいものかどうか,という問題です。「旧法〔平成29年法律第44号による改正前の民法〕の下においては,民法第136条第2項を根拠に,利息付きの金銭消費貸借において,借主が弁済期の前に金銭を返還した場合であっても,貸主は,借主に対し,弁済期までの利息相当額を請求することができると解するのが一般的であった」ところです(筒井健夫=村松秀樹編著『一問一答 民法(債権関係)改正』(商事法務・2018年)299頁(注))。

利息の先行弁済が許されない(債権者に受領の義務がない)場合に関しては,「利息の弁済期が到来しても債権者に受領の義務はなく,当然その利息を元本に組み入れ,〔元本の〕弁済期において元利を支払うというような特約では,――各期の計算上の額は利息と呼ばれただけで――最初の元本に対して弁済期に支払われるべき余分額が真の意味の利息であるから,この数額について利息制限法を適用すべきことはいうまでもない。」とされているところです(我妻Ⅳ・46-47)。このような思考が,札幌控訴院の判決が前提とするところだったようにも思われます(ただし,大審院は,札幌控訴院の判決について,「元本債権ニ対スル利率カ既ニ〔利息〕制限法ノ利率ナルトキハ複利契約〔筆者註:利息の弁済期(及びその際における債権者の受領義務)の存在を前提とします。〕アルモ結局元本ニ対スル〔単利計算による〕右制限率以上ノ利息ノ支払ヲ求ムルヲ得サルモノト判定シタル」ものと理解しています。しかし,当該「判定」に係る理論は,札幌控訴院の判決においてその旨そこまで明示されていたわけではありません。)。

ところで,大審院は「原審認定ノ複利契約」と判示しています。札幌控訴院の認定し得た事実をもって,十分に複利契約の存在を認定できるということのようです。元本弁済前でも,貸主には利息受領の義務があったということになるのでしょう。利息の計算が云々される以上,そのときには元本とは別個のものとしての利息が存在することになるのだから,貸主に受領義務のないことが特約されていない以上,その際借主が当該利息のみを支払い得ることは当然であるというわけでしょうか。(また,そもそもXYの先代間との消費貸借には返還の時期の定めがなかったことも大きいのでしょう。借主がいつでも元本を返還できる以上,貸主は利息ないしは「利息の利息」をもってその既得権益視することはできません(民法1362項ただし書に関しては「例えば定期預金の預り主(銀行)も,期限までの利息をつければ,期限前に弁済することができる(大判昭和9915日民集1839頁〔略〕)。」と説かれていたところです(我妻榮『新訂民法総則(民法講義Ⅰ)』(岩波書店・1965年(1972年補訂))422頁。下線は筆者によるもの)。反対解釈すれば,定期預金でなければ,期限までの利息をつけて返還云々ということにはならないことになります。)。当該利息の弁済期限が元本の弁済期であるとしても,当該期限は債権者の利益のためのものとはいえないことになるでしょう。そうであれば,債務者は自己の期限の利益を放棄して元本の弁済期より前に利息を支払うことができることになるわけです。その際「相手方が損害を蒙るときは,その賠償をなすべきもの」とされてはいるものの(我妻Ⅰ・422頁),貸主は余計な苦情を言うべきものではない(賠償されるべき損害はない。)と解されるのでしょう。)。「一定ノ弁済期」といっても,債務者の弁済義務までは必要ではなく,その際利息を弁済できるということであればよいようです。


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旧札幌控訴院庁舎(札幌市中央区大通公園)

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旧札幌控訴院の正義の女神は丸顔ですね。また,「札幌控訴院」の文字(右から左へ横書き)も丸まっこく,モダンです。1926年竣工という時代の雰囲気を感じさせます。


ウ 「利息制限法ノ規定ヲ潜脱セントスル目的」による複利契約の無効に関する問題

しかし,大判昭和11101日に係る最大の解釈問題は,「尤モ複利契約自体カ利息制限法ノ規定ヲ潜脱セントスル目的ニ出テタルモノト認ムヘキ場合例ヘハ利息組入ノ時期ヲ短期トナシ年数回ノ組入ヲ為スコトヲ約スルトキノ如キハ之ヲ無効ト解スヘキハ論ヲ俟タス」との判示部分をどう理解するか,です(以下,当該判示部分を「昭和11年大判傍論」といいます。)。

 

(ア)石田文次郎による批判

石田文次郎(判批)・民商55345頁以下は,昭和11年大判傍論の存在ゆえに,当該判決におけるそもそもの本論部分についてまで,大審院の「見解の全幅的妥当性が疑はれねばならぬ」ものとなると痛論しています。

いわく,「元本(組入元本も含む)に対する利率が利息制限法に抵触しない限り,複利契約は有効と為す〔筆者註:ここの引用では,そう「為す」理論を以下「本論」といいます。〕のであるから,其の場合に当事者の目的を探究して複利契約を無効と解すべき余地は全然存在しないわけである。〔略〕60日の期限を以て手形により金を借りた場合には,年6回の利息の組入は現代に於ける取引上通常に行はれてゐる所である。然らば,毎月利息を元本に組入れらるべき複利(ママ)は,(ママ)利息制限法の規定を潜脱せんとする目的に出でたものとして,無効と解すべきか。私は大審院の如き見解に於て之を無効とすべき理由を発見し得ない。斯る複利契約を無効とせんとする考方は,既に〔本論〕の見解と矛盾し,それは〔本論〕の見解を棄たことを意味する。大審院が〔本論〕の見解を採りながら,其の見解と矛盾する但書を附けねばならぬ所に,其の見解の全幅的妥当性が疑はれねばならぬのである。」と(石田350頁)。

大審院は,蛇足👣ゆえに石田文次郎に噛みつかれる藪蛇🐍状態となったというわけです。(なお,1892年生まれの石田の干支は,巳ではなく,辰🐉です。)

確かに,次の利息弁済期到来までの期間が短く,利息弁済期が年数回到来する場合,例えば100万円を利率年15パーセント(利息制限法13号の上限利率)で貸し,かつ,年2回以上利息の弁済期が到来するものとした上での重利の予約は,直ちに「利息制限法ノ規定ヲ潜脱セントスル目的ニ出テタルモノト認ムヘキ」ものではないでしょう。なるほど,約定されたとおりに利息が支払われない場合,半年複利であれば1年経過後の元金は1155625円となってしまって,単利計算による元利金合計額115万円を5625円超過します。しかし,重利の予約だからとて債務者がその利息支払債務の履行を当然妨げられるということがお約束であるわけではなく,約定どおり利息支払期の都度きちんきちんとその弁済をしていけば,元利金支払合計額は単利契約の場合と同一になるはずですし,こちらの方が普通でしょう。

 

(イ)年複数回の利息組入れを有効とする前例

なお,大判昭和11101日が前例として引用する大審院大正688日判決(民録231289頁)は,6箇月ごとに(換言すれば,年2回)利息の元本組入れがされた事案であったようで,したがって,大判昭和11101日の段階で既に「年数回ノ組入ヲ為スコトヲ約スル」ことのみからは直ちに当該複利契約の無効はもたらされないものであるところでした。

すなわち,大判大正688日は,「金200円ニ金1円ニ付キ1个月12厘ノ割合〔利率年14.4パーセント〕ノ利息ヲ附シ期限ニ其支払ヲ延滞シタルトキハ之ヲ元金ニ組入レ同一利率ノ利息ヲ附スヘク尚ホ支払ヲ延滞シタルトキハ6个月毎ニ元金ニ組入レ更ニ同一利率ノ利息ヲ附スヘキコトヲ契約シタルハ有効ナル旨判示シタルハ相当ナリ」と判示しているところです(民録231292頁)。ただし,大判大正688日の時点における元本200円の場合の利息制限法上の上限利率は年15パーセントであったところ,年14.4パーセントの利率で半年ごとに利息の元本組入れを行っても1年後の元本額は当初元本額の1.149184倍にしかならず(=1.072^2),年15パーセントでの単利計算による元利金合計額に係る1.15倍にはなお及ばなかったところです。

大判大正688日が更にその前例とする大審院明治44510日判決(民録17275頁)も,「当事者間ノ契約ハ利子ヲ金1円ニ付1个月金12厘宛〔利率年14.4パーセント〕ト定メ6个月毎ニ支払フヘク之ヲ怠リタル場合ニ元金ニ組入ルル」元本659円(利息制限法上の上限利率は年15パーセント)の消費貸借の事案に係るものでしたが,この場合,元本額は当初(190311日)の659円から8年たった19101231日の経過時(半年当り7.2パーセントの利率で16回(=8年間×2)回ったことになります。)には1345円余増加して2004円余となっていたわけであるところ(=659×1.072^16)),当初の元本以外については「利子ニ利子ヲ附シ請求」する「利子」の請求が債権者からされているものであって,かつ,当該請求「利子」額は利息制限法上の上限利率によって認められるものを超過しているとの理由による債務者からの上告(ただし,元本659円に対する利息制限法上の上限利率年15パーセントでの単利8年分の利息79080銭(元利金合計144980銭)までであれば支払を受け容れるのでしょう。)は「元来当事者カ延滞利子ヲ元金ニ組入レ将来之ニ制限内ノ利息ヲ附スルノ契約ヲ為スハ違法ナリト云フヘカラス何トナレハ利息ノ性質ハ契約ニ因リ既ニ元金ニ変更シタルヲ以テ利息制限法ニ違背スルモノニアラサレハナリ」との判示がされた上退けられています(なお,上告理由では,債権者の請求において当初元本額に加算された金額(いうところの「利子」の額)は1345円余ではなく「1441円余」であるものとされています。誤記でしょうか,計算違いでしょうか,それとも他に理由があるのでしょうか。)。

 

(ウ)他人の無思慮・窮迫に乗じて不当の利を博する行為となるか否か

ところで,最初から各利息弁済期における利息の弁済が全く想定されない場合とはどのようなものかと考え,更にその場合における問題性を探ってみれば,複利契約の不当性は,弁済能力のおぼつかない危険な借主との間で,当該リスクに応じた高利率をも超える利率(これは,利息制限法上の上限利率を超えたものとなるというわけでしょう。)を実質的に実現すべく行なわれることにあるのである,ということになるのでしょうか。そうであれば,「他人の無思慮・窮迫に乗じて不当の利を博する行為」(我妻Ⅰ・274-276頁参照(同書275頁は,当該行為の規制の一環として「金銭の消費貸借については,利息制限法の制限がある」と述べています。))であるとまで評価されるのであれば,当該契約は無効となるのでしょう。

しかし,利率年15パーセントの場合,連続複利法によっても1年後の元本額は当初元本の約1.1618倍にしかならず,1年間全く利息を支払わない危険な債務者に対するリスク・プレミアムとして十分かどうか,「利息制限法ノ規定ヲ潜脱」云々と言って騒ぎ立てるべきほどのものかどうか,という点については,既に前記2において感想を述べ置いたところです。また,年に1度まとめて利息を支払わされるよりも,数度(「年数回」程度)に分割して支払うこととする方が,債務者にとってかえって優しい,ということにもならないでしょうか。

 

(エ)支払の遅滞を条件としない利息の元本組入れを対象とするものか否か

あるいは,昭和11年大判傍論では「利息組入ノ時期」が問題とされ,利息弁済の時期は問題とされていないところから,利息弁済期が年1回(大判昭和11101日の事案におけるXの主張であり,大審院もそのように認定しているわけです。)しかないのに,当該弁済期に係るもの(「①利息の支払を遅滞することを条件として,これを元本に組み入れる場合」(奥田編361頁(山下=安井)))のほか,弁済期未到来期間中における,債務者に弁済の機会がない利息に係る元本組入れ(「利息の遅滞を条件とせず,利息が発生したときは当然に元本に組み入れる場合」(奥田編361頁(山下=安井)))が更にされる場合が問題にされている,とは考えられないでしょうか。大判昭和11101日の事案では約定利率が利息制限法上の上限利率を超えていたため裁判上は当該上限利率で計算するものとなっていたところ,確かに,上限利率は1年当りのものなので,年2度以上の利息の元本組入れがされてしまうと直ちに当該上限を超過してしまう計算になります。しかし,債務者にその弁済の機会を与えずに利息の元本組入れがされることを約することまでをも「複利契約」といったのでしょうか,大審院は「弁済期ニ利息ヲ支払ハサル場合ニ」云々と述べていたはずです(ただし,奥田編361頁(山下=安井)は,上記①及び②のいずれも「いわゆる重利の予約」であるものとしており,吉井215頁(注2)も「利息の弁済期が到来しても債権者に受領の義務がなく,当然に利息分の金額を元本に組み入れ,元本の弁済期に元利金を支払うことを約する場合」を「重利の予約の他の形態」としています。)。

 

(オ)小括

 以上要するに,昭和11年大判傍論については,「しかし,このような概括的な基準を設定することは必ずしも賢明な方法とはいえない,〔略〕どの程度の期間,回数ならよいかが問題になるし,回数だけでは判定できず,利率との関係,さらに貸借の具体的事情も考慮すべきは当然であるから,その判定は困難であり,基準は不明確といわざるを得ない。このようなことは金融取引の実際面からみても望ましいことではない。」という厳しい評価が後輩裁判官から下されていました(吉井212頁)。

 

(2)山中評釈

山中評釈の説の特徴は,昭和11年大判傍論を解釈するに当たって「〔民法〕405条の1年の要件を強行規定と解する」ことと評されています(我妻47)。

山中評釈を見ると,「蓋し元金300円,利息月1〔年12パーセントとなり,当該元本額に係る当時の旧利息制限法2条における最高利率〕の複利契約の存する場合,法定重利に(イ)〔「利息が1年分以上延滞せること」との民法405条〕の要件存在せざるものと仮定せる場合には,右〔筆者註:昭和11年大判傍論にいう「年数回ノ組入」,ということでしょう。〕に付き〔旧〕利息制限法2条の「年」の文字に力点を置き右を無効と解することは困難であり,延いて約定重利に於いても之を有効と解せざるを得ぬと思はれる」と述べた上で(484頁),「(イ)の要件を設くる事により法定重利に於ては,1箇年につきて,利息制限法所定の制限利率以上の利息をあげ得ざる効果に関しては,我が民法が重利を認める上について示した最小限度の制限として,約定重利についても之を認むべきものと私は考へる」ものとされています(485頁)。

すなわち山中説は,「利息組入の時期を短期となし年数回の組入をなすことを約する」ときのごとき場合においては,「法定重利の場合に実現し得べき結果と同一に於て――蓋し,その限度に於てのみ民法は重利を容認したと解すべきを以て――即ち組入れられたる利息並に其れより生じたる利息の合算額が元本に対する関係に於て1年に付き利息制限法の制限利(ママ)を超ゆるを得ず〔筆者註:最判昭和45421日では「同法所定の制限利率をもつて計算した額の範囲内にあるときにかぎり,その効力を認めることができ」〕,若し之を超ゆる場合には之を制限利率に引直して計算せらるべきものと考へる。私は右述の如き趣旨に於いて理論は異にするが尚判旨の結論に賛成したいと思ふ。」というものです(山中485頁)。大判昭和11101日の結論に賛成というのは,当該事案においては,利息制限法上の上限利率によることになるのではあるが利息の元本組入れがうまいことに毎年12月末日にされる(すなわち,1年ごとにされる)ということによって民法405条の示す「1年分以上延滞」との「最小限度の制限」をクリアすることになっているからだ,ということでしょう(ただし,当該事案においては,11日にされた貸付けはなかったので,厳密にいえば各初回組入れは1年経過前にされたということになるようですが,そういう細かいことを気にするのは筆者のような小人ばかりでしょう。)。

前稿(「(結)起草者意思等並びに連続複利法及び自然対数の底」)で御紹介したとおり,民法起草者たる梅謙次郎は,契約の自由を根拠に(1年未満の短期(「月月」)組入れものを含め)重利をあっさり認めており,かつ,利息制限法の廃止を予期していたのですから,「1箇年につきて,利息制限法所定の制限利率以上の利息をあげ得ざる効果」が「我が民法が重利を認める上について示した最小限度の制限」であるのだ,というのは,立法経緯に即した事実論ではなく,理論的な解釈論でしょう。重利の特約なき場合における債権者保護のための補充規定として想定されていたはずのものが,利息制限法と合して,債務者保護のための強行規定に変じているわけです。しかし,あるいは梅的所論を無視すれば(「梅は,簡単だが示唆に富むコンメンタールを民法全体について書き〔『民法要義』〕,総則,債権総論などについての詳しい講義録も残されているが,早世したこともあって〔1910825日歿〕,その後の民法学への影響はそれほど大きくなかったように見受けられる。〔略〕その再発見は,第二次大戦後,比較的最近といえよう。」と言われていますから(星野英一『民法のもう一つの学び方(補訂版)』(有斐閣・2006年)166頁),1936年の判決に係る評釈が書かれたころには,梅の所論の影響は,確かに事実として「それほど大きくなかった」わけです。),民法405条の前身規定たる旧民法財産編3941(「要求スルヲ得ヘキ元本ノ利息ハ塡補タルト遅延タルトヲ問ハス其1个年分ノ延滞セル毎ニ特別ニ合意シ又ハ裁判所ニ請求シ且其時ヨリ後ニ非サレハ此ニ利息ヲ生セシムル為メ元本ニ組入ルルコトヲ得ス」)の趣旨にかなった当然の解釈,ということにもなるのでしょう(なお,旧民法財産編3941項については,前稿「民法405条に関して」の「(承)旧民法財産編3941項」を御参照ください(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080258062.html)。)。


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1 はじめに 

 20221222日の前稿「民法405条に関して」の最後(「(結)起草者意思等並びに連続複利法及び自然対数の底」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080258087.html)において,「民法405条と利息制限法1条との関係,具体的には最判昭和45421日の研究が残っています。「最高裁は,年数回利息の元本組入れの約定がある場合につき,組入れ利息とこれに対する利息との合計額が本来の元本に対して〔利息制限〕法の制限利率を超えない範囲においてのみ有効とした(最判昭和45421日民集298頁(年6回組入れをする))。(星野英一『民法概論Ⅲ(債権総論)』(良書普及会・1978年(1981年補訂))19-20頁)」と簡単に紹介されるだけでは済まない難しい問題が,筆者にとって,当該判決及びその対象となった事案にはあったのでした。」などと思わせぶりなことを書いてしまいました。本稿は,当該宿題に対する越年回答であります。

実は,前稿において筆者は当初――その性格にふさわしく――穏健に,判例理論をその妥当性と共にさらりと紹介し,もって行儀よく記事を終わらせるつもりだったのですが,頼りの御本尊である最高裁判所第三小法廷(関根小郷裁判長)は,昭和45421日判決(民集244298頁)において当時の流行学説の口ぶりを安易に採用してしまったもののようでもあって,当該判決において提示されたものと思われる理論を直ちに実地に応用展開しようとすると,少なくとも筆者にとっては,いろいろと心穏やかならぬ問題が生起してしまうのでした。

あらかじめ,最判昭和45421日の関係部分を掲記しておきましょう。

 

   上告代理人谷村唯一郎,同塚本重頼,同吉永多賀誠,同菅沼隆志の上告理由第1点について。

消費貸借契約の当事者間で,利息について定められた弁済期にその支払がない場合に延滞利息を当然に元本に組み入れ,これに利息を生じさせる約定(いわゆる重利の予約)は,有効であつて,その弁済期として1年未満の期限が定められ,年数回の組入れがなされる場合にもそのこと自体によりその効力を否定しうべき根拠はない。しかし,その利率は,一般に利息制限法所定の制限をこえることをえないとともに,いわゆる法定重利につき民法405条が1年分の利息の延滞と催告をもつて利息組入れの要件としていることと,利息制限法が年利率をもつて貸主の取得しうべき利息の最高額を制限していることにかんがみれば,金銭消費貸借において,年数回にわたる組入れをなすべき重利の予約がなされた場合においては,毎期における組入れ利息とこれに対する利息との合算額が本来の元本額に対する関係において,1年につき同法所定の制限利率をもつて計算した額の範囲内にあるときにかぎり,その効力を認めることができ,その合算額が右の限度をこえるときは,そのこえる部分については効力を有しないものと解するのが相当である。

本件についてこれをみると,原審の確定するところによれば,被上告人〔債務者〕は,上告人〔債権者〕との間で,昭和31年〔1956年〕81日付契約書により譲渡担保の被担保債権合計2140万円(原判示元本1200万円,700万円,240万円の各債権〔利息制限法(昭和29年法律第100号)上の上限利率はいずれも年15パーセント(同法13号)〕)の元利金の支払のため,上告人を受取人とする約束手形を振り出し,2箇月ごとの手形の満期日に利息を支払つて手形を切り替えて行くことにしたが,その後,右利息の支払期(手形の満期日)にその支払がないときは,当然に延滞利息を元本に組み入れる旨の契約(重利の予約)が成立するとともに,後には,その被担保債権に原判示の元本25万円および50万円の各債権〔利息制限法上の上限利率はいずれも年18パーセント(同法12号)〕が加えられ,右同様の約定がなされたものであるところ,右被担保債権のうち,論旨指摘の4口の債権(前記債権のうち240万円の債権を除くもの〔当該240万円の口の債権に係る約定利率は当初から日歩10銭,すなわち365日当たり36.5パーセント(民集244338頁)〕)の利率は,昭和32年〔1957年〕920日までは日歩3365日当たり10.95パーセント〕ないし4365日当たり14.6パーセント〕の約定であつたが,同日,翌21日以降は日歩5365日当たり18.25パーセント〕に,また,同年1120日には,同月30日以降は日歩8365日当たり29.2パーセント〕に順次改定された,というのである。してみれば,右利息の約定は,各債権につき利息制限法による制限利率をこえる限度では無効であるから,昭和32920日にその利率が日歩5銭(年利182厘強)に改定されて後は,上告人は右制限利率の範囲内においてのみ利息の支払を求めうるのであるが,そればかりでなく,右利率改定の結果,重利の約定に従つて2箇月ごとの利息の組入れをするときは,ただちに,その組入れ利息とこれに対する利息の合算額が組入れ前の元本額に対する関係において,1年につき同法所定の制限利率をこえる状態に達したことになり,上告人は,右改定後は延滞利息を重利の約定に従つて元本に組み入れる余地を失つたものというべきである。それゆえ,これと同旨に出て,同32921日以降利息の元本組入れの効果を認めなかつた原判決には,なんら所論の違法はない。

 

 「日歩(ひぶ)」は,「元金100円に対する1日分の利息で表した利率」です(『岩波国語辞典 第4版』(岩波書店・1986年))。

 なお,「〔上告〕論旨指摘の4口の債権(前記債権のうち240万円の債権を除くもの)」ということですから,240万円の債権に係る原審判決(東京高等裁判所第10民事部昭和431217日判決)における処理については上告がされていないものと解されたわけです(したがって,当該債権に係る利率も最高裁判所によっては言及されていませんでした。)。確かに,上告理由第1点においては,原判決中から「昭和33531日迄になされた前記重利の約束による利息の元本組入れは右改訂時(昭和32921日)から1年を経ていないから利息制限法の関係で,これについて効力を認める余地がないものとするのが相当である」と判示する部分が取り上げられ(民集244311頁),「しかし,特約による利息の元本組入れについては1年を経過するを要せず,これより短期に利息を元本に組入れることを約するのは契約自由の原則により有効であることは大正688日第3民事部が同年(オ)第510号貸金請求事件につき判示したところである。(大審院民事判決録第231289頁同抄録16684頁)〔略〕然るに原審判決が1年を経過しなければ利息を元本に組入れることを得ない〔略〕として上告人の請求を斥けたのは法令の解釈適用を誤つた違法がある。」と論じられていますから(民集244312頁。ちなみに,当時は法令違背も上告理由でした(旧民事訴訟法(明治23年法律第29号)394条)。),昭和32921日に利率の改訂がされなかった240万円の口(民集244338-340頁)は上告対象外であるわけです。

 

2 連続複利法の場合の収束値及び旧判例

 連続複利法がとられた場合であってもその結果は拡散せずに収束するので――すなわち,利率年100パーセントでもってあらゆる瞬間に連続的に利息が発生し,かつ,それが元本に組み入れられることとしても,t年後の元本額(利息は各瞬間に発生すると共に元本に組み入れられてしまうので,元本しか残りません。)はではなく,最初の元本額のe2.7183)のt乗(=e^t)倍にとどまり,利率が年Rパーセントであれば,e^rt倍にとどまるので(ただし,r=R/100――明治以来のかつての判例――これは,「右の内容〔「債務者が利息の弁済期に支払をしないとき,その延滞利息を当然に元本に組み入れてさらにこれに利息を付することをあらかじめ約する」〕の重利の予約について,「ソノ利率ニシテ(旧)利息制限法第2条ニ定ムル範囲内ニアルトキハ同法ニ抵触セズ又民法ニ於テ之ヲ禁ズル所ナキヲ以テ契約自由ノ原則ニ依リ有効ナルモノト謂ハザルヲ得ズ」(大判大688民録231289頁,同旨,大判明44510民録17275頁ほか多数)としてその有効性を認めてい」たもの,換言すれば,「組入れ利息とこれに対する利息の合計額が本来の元本に対する関係で利息制限法の制限利率をこえる結果となることを容認し,利率自体が制限の範囲であればよいとする」ものです(吉井直昭「25 年数回の組入れを約する重利の予約と利息制限法」最高裁判所判例解説民事篇(上)昭和45年度210-211頁。下線は筆者によるもの。この吉井解説が,最判昭和45421日のいわゆる調査官解説となります。)――は,実は筆者にとっては納得し得るものでした。利息制限法の規定の数字は単利によるものであっても,連続複利法による場合における数字との幅までをもそこにおいて許容しているものと吞み込んで割り切ってしまえば,確かにそれまでのことであるからです。

 ちなみに,旧利息制限法(明治10年太政官布告第66号)2条の規定は,制定当初は,「契約上ノ利息トハ人民相互ノ契約ヲ以テ定メ得ヘキ所ノ利息ニシテ元金100以下(ママ)1ヶ年ニ付100分ノ20二割100円以上1000以下(ママ)100分ノ15一割五分1000円以上100分ノ12一割二分以下トス若シ此限ヲ超過スル分ハ裁判上無効ノモノトシ各其制限ニマテ引直サシムヘシ」であり,同法を改正する大正8年法律第59(赤尾彦作衆議院議員提案の議員立法)の施行(旧法例(明治31年法律第10号)1条により191951日から)以後は,前段が「契約上ノ利息トハ人民相互ノ契約ヲ以テ定メ得ヘキ所ノ利息ニシテ元金100円未満ハ1ヶ年ニ付100分ノ15一割五分100円以上1000円未満ハ100分ノ12一割二分1000円以上100分ノ10一割以下トス」と改められています。現在の利息制限法(昭和29年法律第100号)は,旧利息制限法を1954年に「全面的に改正して,新法(法100号)を制定した。新法は,制限率を高め,旧法が制限を超える部分を「裁判上無効」と規定した文字を改め〔筆者註:昭和29年法律第1001条旧2項は「債務者は,前項の超過部分を任意に支払つたときは,同項の規定にかかわらず,その返還を請求することができない。」と規定していました。ただし,平成18年法律第115号によって,2010618日から削られています(同法5条及び附則14号並びに平成22年政令第128号)。,天引について新たに規定を設け,かつ遅延賠償金の予定の制限内容を明確にするなど,現時の情勢に適応するものとなった」ものです(我妻榮『新訂債権総論(民法講義)』(岩波書店・1964年(1972年補訂))49-50頁)。

 なお,現行利息制限法の規定の数字(法定重利規定の適用があった場合を含む。)と連続複利法による場合との間の幅を具体的に示すと次のとおりです。

 

   元本の額が10万円未満の場合の利息制限法上の上限利率は年20パーセントであって(同法11号),当該利率による1年後の元利合計高は当初元本の1.2倍となり(①),これに民法405(「利息の支払が1年分以上延滞した場合において,債権者が催告をしても,債務者がその利息を支払わないときは,債権者は,これを元本に組み入れることができる。」)によって1年ごとに利息の元本組入れをして重利計算をするとt年後には当初元本の1.2^t倍になりますが(②),連続複利法の場合,1年後の元本高が当初元本の約1.2214倍(1.2214e^0.2)となり(③),t年後には約1.2214^t倍となります()。

   元本の額が10万円以上100万円未満の場合(利息制限法12号)の数字は,それぞれ,①は1.18倍,②は1.18^t倍,③が約1.1972倍,④が約1.1972^t倍です。

   元本の額が100万円以上の場合(利息制限法13号)は,①は1.15倍,②は1.15^t倍,③が約1.1618倍,④が約1.1618^t倍です。

   ついでながら更に,旧利息制限法2条で出てきた利率年12パーセント及び同10パーセントについてそれぞれ見てみると,

   利率年12パーセントならば,①1.12倍,②1.12^t倍,③約1.1275倍,④約1.1275^t倍,

   利率年10パーセントならば,①1.1倍,②1.1^t倍,③約1.1052倍,④約1.1052^t倍となります。

 

20パーセントが22.14パーセントになり,18パーセントが19.72パーセントになり,15パーセントが16.18パーセントになり,12パーセントが12.75パーセントになり,そして10パーセントが10.52パーセントになるぐらいであれば呑んでもいいのかな,この程度であれば,「利息の組入れ時期を短かくし,年に数回もの組入れを約する場合」は「債権者はこのような特約をすることによって文字どおり巨利を博し,債務者には極めて酷な結果となる」こと(吉井211-212頁)が実現されるものとまでは――法定重利(これは,単利で規定する利息制限法も,民法405条の手前認めざるを得ません。)の場合と比較するならば――実はいえぬだろう,などと思ってしまうのは,弱い者を助けるという崇高かつ遼遠な目標の達成に挑む気概を忘れた,資本家の走狗🐕的な弱腰というものでしょうか。


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(起)「1年以上延滞」と「1年分以上延滞」との間

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080258052.html

(承)旧民法財産編3941

    http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080258062.html

(転)フランス民法旧1154

    http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080258084.html


 

5 民法405条に関し更に若干

 

(1)起草者意思

なお,我が現行民法起草者は,旧民法財産編394条は債務者保護のためには所詮役には立たぬものと冷淡に判断していました。「併し是は,矢張り始めからして元本の高を書換へさへ致しますれば何時でも高利貸の目的を達することが出来るのでありまして,幾らでも払ひましたものを元本に入れて実際一旦弁済して組入れることも出来まするし,又は唯(ママ)元本の数丈けを殖やして新たに書換へることも出来るのでありますからして,394条の規定と云ふものは利息制限法の精神を以て特別に債務者を保護すると云ふことの目的を達するには充分な力はあるまいと思ふのでございます。」と(民法議事速記録第17233丁表(穂積))。「貸主が借主のもとにいって今月分の利息を支払えと請求し,支払えないといったときに,元本に組み入れるなら我慢してやるといって承諾を得ることはきわめて容易であ」るわけです(我妻榮著・水本浩=川井健補訂『民法案内7 債権総論上』(勁草書房・2008年)150頁)。この間における準消費貸借の活用については,「既存の消費貸借上の債務を基礎として――多くの場合,延滞利息を元本に加え〔略〕――消費貸借を締結することもさしつかえない(通説,判例も古くからこれを認める〔略〕)。」と説かれています(我妻榮『債権各論 中巻一(民法講義Ⅴ₂)』(岩波書店・1957年(1973年補訂))366頁)。

むしろ民法405条は,債務者保護の旧民法財産編394条を換骨奪胎して反転せしめた,債権者保護のための規定とされています。「若し特約なきときは,濫に重利を附することを許さず。是れ他なし,当事者の意思の之に反すること多かるべければなり。然りと雖も,債務者が利息の支払を怠るも債権者は決して之に重利を附すること能はざるものとせば,債権者は尠からざる損害を被むり頗る不公平と謂はざるべからず。〔略〕故に本条に於ては」云々というわけです(梅三26-27頁)。第56回法典調査会で穂積は,「本案に於きましては,却て之を当然債務者が1个年分以上延滞致しました場合に,始め催告をしましても尚ほ之を払ひませぬときには,之を元本に組入れること(ママ)出来る,斯う云ふことに致しましたのでございます。〔略〕是は1个年分毎でなくても宜い。1个年又は1个年3个月でも何んでも一緒にやることが出来る。夫れから,特別の合意又は裁判所に請求すると云ふこともなくて,債権者が直ぐに之(ママ)出来る。即ち此手続が簡便になりまする。夫れから,本案に於きましては,決して高利貸に対して債務者を保護するとか云ふやうな精神(ママ)此処に這入つて居るのではないのでありまして,是は,当然斯の如く永い間払ふべき利息を払はずしてうつちやつて置きましたり何かする場合には,債権者は相当の保護を受けなければならぬから,1年分以上も延滞して催促しても尚ほ払はぬと云ふやうな場合に於ける債権者を保護する規則に致しましたのでございます。夫れで,此規則の上から見ましても,手続等のことに及ばぬのみならず,其精神に於ても既成法典とは違つております。」と述べています(民法議事速記録第17233丁表裏)。

上記穂積発言中「是は1个年分毎でなくても宜い。1个年又は1个年3个月でも何んでも一緒にやることが出来る」の部分は,ボワソナアドの前記解説(32)オ)においても旧民法財産編3941項について同旨が説かれていたところですが,「1个年分」を「1年分以上」として法文上も明らかにしたということでしょう。

「決して高利貸に対して債務者を保護するとか云ふやうな精神が此処に這入つて居るのではない」とは無慈悲なようですが,梅も,「新民法に於ては概して契約の自由を認むるが故に,利息制限法の廃止を予期せると同時に,重利の如きも敢て之を禁遏するものに非ず。故に,当事者の自由の契約に依れば,月月利に利を附するも可なり。」ということで,厳しい姿勢を示しています(梅三26頁)。金利の利率制限を不要とするのみならず,約定重利の場合における利息の元本への組入れ頻度に係る制限も不要であるとされているところです。

 

(2)最終組入れから1年未経過時点において最終弁済期が到来する場合に係る問題

何か余計な物が残ってしまうという感覚はいやなものです。

民法405条に基づく元本組入れが最後に行われた分の利息の後から発生する利息について,それに対応する元本存続期間の長さ(元本の弁済期限までの期間の長さ)が1年未満であるときにおける,当該利息の元本組入れの可否に係る問題があります。元本の弁済期限の経過によって利息は発生を止め,元本からは代わって遅延損害金たる遅延利息が発生することになります。したがって,利息が「1年分以上延滞」することにはもうなり得ません。当該残存利息について,そのままでは民法405条の適用はないことになります。

そこで遅延利息との通算を考えたいところです。大審院昭和1724日判決・民集21107頁は「民法405条ニ所謂利息ナル文字ニ付之ヲ観ルニ若シ之ヲ以テ約定利息ノミヲ指称シ遅延利息ヲ包含セサルモノトセハ債務者カ元本債務ニ付未タ履行遅滞ナク単ニ約定利息ヲ1年分以上延滞シタルトキハ債権者ハ催告シタル後之ヲ元本ニ組入ルルコトヲ得ルモ債務者カ元本債務ノ履行ヲ遅滞シ且遅延利息ヲ1年分以上延滞シタルニ拘ラス債権者ハ之ヲ元本債務ニ組入ルルコトヲ得サルコトトナリ従テ債務者トシテ情状重キ後ノ場合ニ却テ前ノ場合ニ於ケルカ如キ複利ノ責ヲ負担セサルコトトナリ正義衡平ニ合セサルヲ以テ同条ニ所謂利息中ニハ遅延利息ヲモ包含スルモノト解スルヲ相当トス」と判示し(下線は筆者によるもの),また,旧民法財産編3941項は「元本ノ利息ハ填補タルト遅延タルトヲ問ハス」と規定していたのであるから,利息と遅延損害金たる遅延利息とは民法405条において同一である,といえないでしょうか。

しかし,利息契約に基づく利息請求権と履行遅滞に基づく損害賠償請求権とはそもそも法的性質を異にし,それぞれ別個の訴訟物です。大判昭和1724日も,「民法ノ規定中ニ於テモ利息ナル文字ヲ以テ約定利息ノミナラス遅延利息ヲモ包含スル趣旨ニ用ヒタルノ例乏シカラス」との字義論の下,遅延利息は「経済上元本使用ノ対価トシテ」約定利息と「何等其ノ取扱ヲ異ニスルノ要ヲ見ス」とする経済上の同一性論及び上記の正義衡平論をもって理由付けとした上で,民法405条における「利息」なる同一の文字の下には,本来の利息に加えて遅延損害金たる遅延利息も「包含」されているとするものでしょう。同一名称下に2種のものがあるというわけです。名前が同じであっても,同一人物であるとは限りません。

「原審の確定するところによれば,本件においては,弁済期到来後に生ずべき遅延損害金については特別に重利の約束がなされた事実は認められないというのであり,その事実認定は本件記録中の証拠関係に照らして是認するに足りるし,また,利息の支払期を定めてこれについてなされた重利の約束が,当然に遅延損害金についても及ぶとする根拠がない旨の原審の判断もまた正当であるから,遅延損害金については単利計算によるべきものとした原判決に所論の違法はない。論旨引用の大審院判決(昭和1724日言渡,民集21107頁)は,無利息の貸金債権について生じた遅延損害金に対しても民法405条の適用があることを判示したものにすぎず,本件に適切でない。」と述べて利息と遅延損害金とを同一視しない最高裁判所昭和45421日判決・民集244298頁(上告代理人は上告理由において,「民法第405条に所謂利息なる文字には遅延利息を包含するものであり,利息に関する重利の特約は遅延利息にも及ぶ」と主張していました。)にも鑑みるに,利息と遅延損害金たる遅延利息とは異なるものと見るべきであって,したがって,利息と遅延利息とを当然のように通算して法定重利の規定の適用を考えることはできないのでしょう。

民法3752項(「前項の規定は,抵当権者が債務の不履行によって生じた損害の賠償を請求する権利を有する場合におけるその最後の2年分についても適用する。ただし,利息その他の定期金と通算して2年分を超えることができない。」)が利息と遅延損害金(損害の賠償)との通算を認めているではないかといっても,同項は同条1項の「利息」には遅延損害金は含まれないとの大審院の厳たる解釈ゆえに,それを前提として,明治34年法律第36号によって特に追加されたものです(梅謙次郎『訂正増補民法要義巻之二 物権編(第31版)』(私立法政大学=有斐閣書房・1911年)522頁参照。なお,大審院とは異なり,政府委員(文部総務長官)として当該法改正に関与した梅は,民法3751項の「利息」には遅延利息も含まれるものと解していました。)。ちなみに,大審院の当該解釈の根拠は,民法3751項には「利息その他の定期金」とあるので,同項の「利息」は定期金たる利息でなければならないということだったそうです(第15回帝国議会衆議院民法中改正法律案委員会会議録(筆記)第11頁(花井卓蔵委員))。利息と遅延損害金との通算規定は,関直彦,平岡萬次郎及び望月長夫の3衆議院議員による原提出案(「抵当権者カ債務ノ不履行ニ因リテ生シタル損害ノ賠償ヲ請求スル権利ヲ有スルトキハ満期日ヨリ2年分ニ付亦抵当権ヲ行フコトヲ得」(第15回帝国議会衆議院議事速記録第10116頁))に対する平岡議員の最終修正提案によるものですが,同議員の認識では,その間の「〔梅〕政府委員ノ修正〔「抵当権者カ債務ノ不履行ニ因リテ生シタル損害ノ賠償ヲ請求スル権利ヲ有スルトキハ最後ノ2年分ニ付亦抵当権ヲ行フコトヲ得」〕ニ依レハ約定利息ニ付テ2年遅延利息ニ付テ2年通シテ4ヶ年ノ利息ヲ請求シ得ルコトヽナルナリ」なので,「左ナクシテ只最後ノ2ヶ年分ノミニ抵当権ヲ行フモノナリ」ということを明らかにするためにされた提案なのでした(第15回帝国議会衆議院民法中改正法律案委員会会議録(筆記)第12頁。花井卓蔵が4箇年分について抵当権の行使が可能であるようにしたいと主張しましたが,梅政府委員は,4年間では「長キニ失スル」と反対していたところです(同頁)。)。そうであれば,起草者・平岡萬次郎の意思は,約定利息と遅延利息とは同じ利息だから当然通算されるのだが確認的に通算規定を入れるのだというものではなく,やはり,本来別のものを通算するために必要な規定を提案したのであったということになります。

以上のようなことであれば,1年分に達しない額のまま残された延滞利息は,新たな利息も遅延損害金もそこから生ずることのない全くの不毛の存在である🎴,ということになるのでしょう。

しかしこの点に関しては,旧民法財産編3941項に関するボワソナアドの次の見解が,注目すべきものであるように思われます。

 

 しかし,法はそれについて述べていないが,最終的な形で(d’une manière finale)利息が元本と共に履行期が到来したもの(exigibles)となったときには,当該利息は1年分未満であっても,総合計額(la somme totale)について,請求又は特別の合意の日から利息が生ずる,ということが認められなければならない。返還期限又は支払期限が1年内である(remboursable ou payable avant une année)貸金又は売買代金に関する場合と同様である。これらの場合においては,債務者は,この禁制がそこに根拠付けられているところの累増の危険にさらされるものではないからである。

 (Boissonade (1891), p.382

 

 旧民法について,ボワソナアドも利息(填補ノ利息)と遅延損害金たる遅延利息(遅延ノ利息)とを通算しての重利を認めないものの,元本弁済期限経過後の残存延滞利息については1年分未満であっても元本組入れを認めることによって,当該延滞利息を不毛状態から救い出そうとするものでしょう。財産編3941項により「1个年分ノ延滞セル毎」にしか利息の元本への組入れを認めなかった旧民法において斯くの如し,いわんや重利契約を原則自由とする現行民法においてをや,とはならないでしょうか。

 

6 連続複利法及び自然対数の底に関して

我が現行民法の起草者は重利に対して鷹揚だったわけですが,実は確かに,ある一定期間(例えば1年)につき一定利率(例えば元本の100パーセント)の借入れにおいて,その間における利息の組入れの頻度をどんどん増加していっても(組入れ間隔が当初の当該一定期間の1/nとなると,その間隔の期間に係る利率も当初の当該一定利率の1/nとなります(設例の事案について見ると,半年(1/2年)で利息組入れをすることとした場合,その半年の期間に係る利率は――100パーセントの1/2である――元本の50パーセントとなるわけです。四半期ごとに組入れの場合は,当該各3箇月間に係る利率は元本の25パーセントです。)。このように組入れの頻度が増えるとnの増加),組入れの間隔とその間隔期間に係る利率とが共に小さくなっていきます。),それにより返還額は確かに当初増えるものの(設例の場合,半年で組み入れると,1年で,返還額は元本の2倍ならぬ2.25倍となります。),組入れ数増加に伴う返還額の増加幅は減少を続け,最終的には発散することなく一定額に収束するのです。

利率年100パーセントでもってあらゆる瞬間に利息の元本組入れを行うこと(連続複利法(ヤコプ・ベルヌーイ(1654-1795)という数学者が命名しました(遠山啓『数学入門(下)』(岩波新書・1960年)105頁)。))とした場合,1年後に支払うべき額(利息は各瞬間に生ずると同時に元本に組み入れられていますので,利息の支払はないことになり,返還すべき最終元本額ということになります。)は,最初の元本額のe2.7183)倍となるのであって,それを超えることはありません。このeは,高等学校の数学で出て来た,自然対数の底という代物です。利率をr(年3パーセントならばr=0.03という形で示す。),期間をt(単位は年)とすれば,連続複利法でt年後に返還すべき額は,最初の元本額のe^rtert乗)倍ということになります(証明は――筆者が高等学校で習った数学は,「歌う〽数学」🐘でしかありませんでしたから――省略します。)。

利息制限法11号にいう年2割は,単利ですので,1年後の元利合計額は元本額の1.2倍です。しかし連続複利法であれば,1年後の最終元本額は,最初の元本額の約1.2214倍(=e^0.2)となります。同様に,年18分(同条2号)ならば,連続複利法による1年後の元本額は最初の元本額の約1.1972倍(=e^0.18)となり,年15分(同条3号)ならば,約1.1618倍(=e^0.15)となります。こうして見ると,重利の組入れ頻度を増加させていくと「負債の累増は厖大かつ真に恐るべきもの(énorme et vraiment effrayante)」となるとまでいうべきものかどうか。何はともあれ,たとえ1年ごと(年1度)の組入れであっても重利を認めてしまう(民法405条の法定重利)という決定的な一歩を踏み出してしまうのであれば――組入れ頻度が無限大の連続複利法であっても債務者の負担の増加には限界があるのですから――それ以上組入れ頻度について神経質になる必要は,あるいはなかったかもしれません(年15パーセントの利率での借金が連続複利法で増える場合,t年後には最初の元本の約1.1618^t倍になるのに対して,組入れ頻度を法定重利並みの1年ごとに1回に制限した重利の場合であってもt年後には1.15^t倍となります。)。すなわち,連続複利法による場合の増加幅までも吞み込んで割り切ってしまえばそれまでのことである,とはいえないでしょうか。

なお,我妻榮は,利息制限法による重利の制限に関して説明し,「〔元本額9万円の1年間貸付債権につき〕もし約定利率が年18分であるときには,右と同一額まで〔利息制限法による最高利率である年20パーセントで計算した18000円に達するまで〕は,〔1年以内に組み入れる〕重利の特約も効力をもつことになる。」と述べていますが(我妻47-48頁),上記の1.1972倍(e^0.18)の数字と対照してみると,例として適切なものではないことが分かります。当該我妻設例の場合においては,1年以内に組入れを行う重利の特約の結果が利息制限法違反になること(組入れ総額(元本増加額)が18000円を超えること)は,組入れ回数をどんなに増やしても――連続複利法であっても――そもそもあり得ないことなのでした。

 

7 蛇足

 最後に,現行民法405条の富井政章及び本野一郎によるフランス語訳を見てみましょう。 1年分以上」のところが,pour une année au moins”であってpendant une année au moins”ではないことに注意してください。

 

Art. 405 – Lorsque le débiteur omet de payer, pour une année au moins, les intérêts arriérés, malgré la sommation du créancier, celui-ci peut les ajouter au capital.

(債権者の催告にもかかわらず,債務者が少なくとも1年分の延滞利息の支払を怠ったときは,債権者は当該利息を元本に組み入れることができる。)

 

 また,ここまで我慢して読み通された読者であれば,「法定重利について,利息が1年以上滞納されるときに,債権者は,催告を経て,その間に発生する延滞利息を元本に組み入れることができる(405条)。」というような晦渋な表現(磯村編165頁(北居))についても,その意図せられているところを行間から読み取ることができるでしょう。

 なお,不図気が付くと,来年(2023年)は,我妻榮の歿後50周年(1021日)及び初洋行(米国ウィスコンシン州)100周年,磯部四郎🎴の歿後100周年(91日)並びにボワソナアドの来日150周年(1115日)に当たるのでした。民法学の当り年になるものかどうか。いずれにせよ,民法は弁護士の重要な飯の種の一つですので,学界とは無縁ながら,筆者は筆者なりに研究を進め,工夫を重ねねばなりません。

 と書きつつ実は,本稿関連で,民法405条と利息制限法1条との関係,具体的には最判昭和45421日の研究が残っています。「最高裁は,年数回利息の元本組入れの約定がある場合につき,組入れ利息とこれに対する利息との合計額が本来の元本に対して〔利息制限〕法の制限利率を超えない範囲においてのみ有効とした(最判昭和45421日民集298頁(年6回組入れをする))。」(星野英一『民法概論Ⅲ(債権総論)』(良書普及会・1978年(1981年補訂))19-20頁)と簡単に紹介されるだけでは済まない難しい問題が,筆者にとって,当該判決及びその対象となった事案にはあったのでした。その点について,どうしたものかと思うところを書いてみれば,稿を継ぐほどに論点も論旨も拡大発散してしまい,連続複利法の場合のようにある一定の結論にきれいに収束してはくれそうもない状態にあるのでした。

 

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(起)「1年以上延滞」と「1年分以上延滞」との間

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080258052.html

(承)旧民法財産編3941

    http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080258062.html



4 フランス民法旧1154

旧民法財産編3941項がそれに由来するフランス民法旧1154条は,次のように規定していました。(他方,同法旧1155条は,我が旧民法財産編3942項及び3項に対応する条項です。)

 

  Art. 1154  Les intérêts échus des capitaux peuvent produire des intérêts, ou par une demande judiciaire, ou par une convention spéciale, pourvu que, soit dans la demande, soit dans la convention, il s’agisse d’intérêts dus au moins pour une année entière.

  (元本の利息であって発生したものは,裁判上の請求又は特別の合意により,利息を生ずることができる。ただし,請求又は合意のいずれも,支払を要すべき(未払)利息であって少なくとも丸1年間分のものに係るものでなければならない。)(翻訳上難しかったのが“intérêts dus au moins pour une année entière”の部分です。ここでは“pour”が用いられていて“pendant”ではありませんから,「支払を要すべき利息であって少なくとも丸1年間分のもの」であって,「少なくとも丸1間延滞した利息」ではないものと判断しています。)

 

なお,フランス民法旧1154条の文言が,フランス語で読むと(むしろフランス語で読むのが本当なのですが。),重利許容の高らかな宣言から始まる形となっているのは,「複利(anatocismus)の契約は前51年の元老院議決より禁止せられている。」(原田157頁)とのローマ法以来の旧習を打破するのだとの意気込みを示すものでしょうか。

実は,共和暦12(ブリュ)(メール)11日(1803113日)の国務院(コンセイユ・デタ)の審議に付されたフランス民法旧1154条対応条文案(「第511項」)は,“Il n’est point dû d’intérêts d’intérêts.(「利息の利息によって支払が義務付けられることはない。」)と規定するものだったのでした(Procès-Verbaux du Conseil d’État, contenant la discussion du Projet de Code Civil, An XII. [Tome III], Paris, 1803; p.213)。これが,共和暦12霜月(フリメール)16日(1803128日)にビゴ=プレアムヌ(Bigot-Préameneu)から提出された修正案(「第55条」)においては,既にフランス民法旧1154条の条文となっています(Conseil d’État, p.322)。その間,霧月11日の国務院での審議(Conseil d’État, pp.256-261)においては,どのような議論がされていたものか。以下御紹介します。

 

ずルニョ(Regnaud)が,実際には終身年金権の年金については利息が認められていると言い出し,当該例外が認められます(我が旧民法財産編3942項参照)。

次にペレ(Pelet)が案文について,利息を締めて(liquider)元本に組み入れるという現に存在している慣行を廃止しようとしているのか,債権者が利息を元本に組み入れることによって強制執行による困難から債務者を免れさせてやるということもあるのだ,それに,利息が農地や建物の賃料よりも不利に扱われるのはなぜなのだ,と疑義を呈します。

ここでカンバセレス(Cambacérès)第二統領(第一統領は,あのボナパルトです。)が,原案511項の意味に係る考察を述べます。いわく,「当該規定は,専ら,裁判官が利息の利息の支払(une condamnation d’intérêts des intérêts)を命ずることを妨げようとするものですね。例えば,何年も延滞している金額及びその支払遅滞を理由とする利息の支払を債権者が求める場合,裁判所は,その双方を彼に認めます。しかし,裁判所は,元本から生じたものの支払の遅滞に係る利息〔利息の利息〕を同様に彼に認めることはできません。とはいえ,例えば新たな合意によって両当事者が共に取り決め,かつ,例えば元の元本に,既発生の利息を加え――当該新たな信用の対価たる利息に係る約定と共に――その全てについて債権者が債務者に対して新たな信用を供与した場合においては,当該約定がその効力を有すべきことについての疑問は全くありません。」と。

いい男(長谷川哲也『ナポレオン~覇道進撃~第4巻』(少年画報社・2013年)60-61頁参照の当該発言に対し,ビゴ=プレアムヌ及びトレイラアル(Treilhard)が,起草委員会(la section)はその意思をもって起草したのです,と直ちに協賛の意を表します。

マルヴィル(Maleville)は,当事者の合意によるものをも対象に含む重利全面禁遏原則の歴史を説きつつ,「タキトゥスいわく,Vetus urbi faenore malum(この都市に,利息による害悪は,古くからのものである)と。家庭,更には国家を滅ぼすためにこれより確かな手段はないのであります。ささやかな負債であっても,絶え間なく(sans cesse)新たな利息を他の利息について生じさせることにより,そのようにして当該負債を増大させしむることを貪欲な債権者に許したならば,その累増の厖大及び迅速(l’énorme et rapide progression)は,ほとんど観念しがたいものとなるのであります。」と獅子吼します。しかし,結論としては,重利は結局根絶できぬものではある,しかし法律で正面から認めることはやめてくれ,ということになります。いわく,「もちろん,監獄に入っている(dans les fers)債務者に請求する債権者が,彼に対し,既に生じた利息を,彼に貸し付けられた新たな元本として認めさせることを妨げることはできません。しかし,法が,彼にこの方法を示してやる必要はありません。また,何よりも,法は,利息の利息を正式かつ直截に肯認してはならないのであります。」と。

カンバセレスの発言にウホッと思ったのか,ペレは,自分の発言は,当事者による組入れについてではなく,裁判によって精算された(liquidés judiciairement)利息についてされたものである,と述べます。

ルニョは,示談によるものであっても裁判によるものであっても,全ての清算(liquidation)について,負債となる金額の総体について利息を生ぜしめるという同様の効果があるようにすべきだ,と求めます。裁判でも認めろというわけですから,すなわちこれは,原案に対する修正要求です。

これに対してレアル(Réal)は,利息が利息を生むようにするために債権者が3箇月ごとに債務者を出頭させるというような極めて大きな濫用がされるだろう,と後ろ向きかつ原案維持的な予言をします。

ここでガリ(Gally)が,債権譲渡の結果,譲渡された利息には利息が生ずるようになるのではないかと言い出し,マルヴィル,ジョリヴェ(Jollivet)及びトロンシェ(Tronchet)の間でひとしきり議論があります。

当該脱線的議論の終わったところで,ビゴ=プレアムヌが,清算された利息についての利息は支払が義務付けられるべきものかどうか国務院の見解が示されるべきだと発言したところ,ベルリエ(Berlier)は当事者の合意によるものと裁判によるものとを分けて議論すべきだとの原案維持的な分類学説を表明し,これに対してルニョは,両者間に違いはなかろうと言います。ベルリエは,合意による場合においては債務者がいったん弁済すると同時に同額の新たな利息約定付き貸付けがされたものと擬制されて新たな信用の供与がされたことになるが,裁判においては専ら既発生の利息債権に係る執行力が認められるのであって債務者にその支払が猶予されるわけではない,それに加えて裁判の通達と同時に更に利息に利息が当然発生するものとされるならば債務者に酷に過ぎると反論します。

トロンシェは,古法ではそのような(当事者の合意によるものと裁判によるものとの)区別はなかった,専ら高利(usure)対策であった,利息の混合された金額についての利息の支払を求めることはパリでは認められていなかったことは争われない,風俗が改善されていないのに立法者が(重利に対して)より甘い顔を見せるべきではない,と述べます。トロンシェは重利反対派です。

ペレは,自分の発言は高利に関するものではなかったと言います。

重利容認派のルニョは,(いわゆる高利に対する)過酷な政策は風俗を矯正するよりは悪化させ,悪意の債務者に支払を怠ることに利益を見出さしめ,債権者及びその家族に害を及ぼすであろうと述べるとともに,更に,しかし利息の利息は当然に発生すべきものではないので,利息を元本に組み入れる請求(筆者註:この請求は,裁判外のものでよいのでしょう。)の日から生ずるものとするのがよい,と提案します。

ここでカンバセレスが,高利について,「金銭の利息が法律で一定されない以上,大多数の約定が高利的であるものと判断することは難しいでしょう。商業界の動きは,利息の評価について,不確か,かつ,しばしば幻想的なものにすぎない基準しか与えてくれないものですから。」と述べます。ルニョの提案に対しては,利息が当然のものとして債務者の同意なしに生ずるようになるという点において不正義を生ずることになってしまう,というのが第二統領の判断でした。

「しかし,両当事者が歩み寄り,既発生の利息を元本に組み入れると共にその全体について合理的かつ穏当な利息を約束することによって支払を猶予することに合意したときは,これは債権者が債務者に供与した新たな元本となります。ですから,元本に本来は利息として支払われるべきであったものが混合されているからといって,債務者の誓言がこのような取決めを駄目にできるということは不正義ということになります。」というカンバセレス発言に続く,ビゴ=プレアムヌの次の言明が注目されるべきものです。

 

少なくとも丸1年間分の未払利息(intérêts dus au moins pour une année entière)に係るものでなければ,利息の利息は支払を求められ,又は合意される(être exigés ou convenus)ことができない,という手当てを少なくともする必要がありますね。

 

トロンシェ及びレアル並びにマルヴィルへの譲歩でしょうか。フランス民法旧1154条並びに我が旧民法財産編3941項及び現行民法405条の起源は,実にここにあったのでした。

なおもトロンシェが,「この,発生した利息と元本との自発的併合というやつが,一家の息子をすってんてんにするために高利貸しが用いた手段なんですがね。」と否定的な発言をしますが,いい男・カンバセレスは,「しかしここでは,成熟し,かつ,彼らの権利を行使している人々が問題となっているのですよ。」と述べ,トロンシェ発言を未成年者保護的な対策に係るものとして片付けてしまいます。第二統領は更に「高利を禁遏しようとするならば,何よりも利率を一定し,それを超過する者に対する刑罰を再導入しなければなりません。そこまでしなければ,全ての対策は幻想です。」と述べます。ウホッ,利息の元本組入れ頻度の制限は,高利禁遏策として,いい男からは高く評価されてはいないもののようです。あるいは「いい男」は,後記6で御紹介するeにちなんで,重利問題の場面においては「e男」と呼んでもよいものでしょうか。

ラクエ(Lacuée)が,債務者に甘すぎると債権者が借金をしなければならないことになって彼自身が債務者になってしまう,と述べて,重利容認の方向に背を押します。

最後にトレイラアルの発言(利息の支払請求の裁判においては当該利息の利息が認められていたこと及び利息付き貸付けが認められるようになった以上は当該貸付けに係る利息についても従来からのものと同様の規整がされるべきことについて)があって当日の審議は終了し,原案は起草委員会の再考に付されたのでした。


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3 旧民法財産編3941

 

(1)法文

 民法405条は,「〔旧民法〕財産編第394条を修正致したものであります」とされています(第56回法典調査会における穂積陳重説明。民法議事速記録17232丁裏)。旧民法財産編394条は,次のとおりです。

 

  第394条 要求スルヲ得ヘキ元本ノ利息ハ填補タルト遅延タルトヲ問ハス其1个年分ノ延滞セル毎ニ特別ニ合意シ又ハ裁判所ニ請求シ且其時ヨリ後ニ非サレハ此ニ利息ヲ生セシムル為メ元本ニ組入ルルコトヲ得ス

   然レトモ建物又ハ土地ノ貸賃,無期又ハ終身ノ年金権ノ年金,返還ヲ受ク可キ果実又ハ産出物ノ如キ満期ト為リタル入額ハ1个年未満ノ延滞タルトキト雖モ請求又ハ合意ノ時ヨリ其利息ヲ生スルコトヲ得

   債務者ノ免責ノ為メ第三者ノ払ヒタル元本ノ利息ニ付テモ亦同シ

 

 フランス語文は,次のとおり。

 

394  Les intérêts, tant compensatoires que moratoires, des capitaux exigibles, ne peuvent être capitalisés, pour porter eux-mêmes intérêts, qu’en vertu et à partir d’une convention spéciale ou d’une demande en justice faites seulement après une année échue, et ainsi d’année en année.〔なお,山田顕義委員長(司法大臣)に率いられた法律取調委員会が審議の対象としたボワソナアドの原案は,“Les intérêts des capitaux exigibles, tant compensatoires que moratoires, ne peuvent être capitalisés, pour porter eux-mêmes intérêts, qu’en vertu et à partir d’une convention spéciale ou d’une demande en justice faites seulement après une année échue et ainsi d’année en année.”であって(Boissonade, Projet du Code Civil pour l’Empire du Japon, accompagné d’un commentaire, t.2, 2ème éd., Tokio, 1883; pp.313-314),一部の語順及びカンマの有無の違いを除いて同文です。〕

Mais les revenus échus, tels que le prix des baux à loyer ou à ferme, les arrérages des rentes perpétuelles ou viagères, les restitutions à faire de fruits ou produits, peuvent porter intérêts à partir d’une demande ou d’une convention, lors même qu’ils seraient dus pour moins d’une année.

Il en est de même des intérêts de capitaux payés par un tier en l’acquit du débiteur.

 

 現行民法405条に対応するのは,旧民法財産編3941項ということになります。(旧民法財産編3942項は「土地建物の貸賃とか云ふやうなものは直接に利息とは云へぬ。無期又は終身の年金権の年金は,或場合に於ては利息でありませうが,又其利息でない場合もある。返還を受く可き果実又は産出物,こんなものは利息ではありませぬから例外として掲(ママ)なくても宜しい。ということで削られ,同条3項は「債務者の免責の為め第三者の払ひたる元本の利息,是は成程始めから見れば利息でありまするが,払つたものから見れば払(ママ)た金高が元本になりますから例外とはならない。」ということで削られています(民法議事速記録第17234丁表(穂積))。)

 

(2)解義

 しかし,旧民法財産編3941項もなかなか難しい。

 

ア 「要求スルヲ得ヘキ元本」:流動資本と固定資本との区別等

まず,旧民法財産編3941項にいう「要求スルヲ得ヘキ元本」とは何ぞやといえば,“les capitaux exigibles”ということですので,“exigible”を「支払期限の来た」の意味に解せば,同項で問題となっている利息(intérêts)は,実は,支払期限の経過した元本に係る遅延損害金のことであるのだなということになってしまいます(民法4121項)。確かに,旧民法財産編394条は,「人権及ヒ義務」(これは,「債権及び債務」の意味です。)の部における「義務ノ効力」の章中「損害賠償ノ訴権」の節における一箇条です。(ちなみに,「遅延利息債務も,一般の遅延賠償債務と同じく〔略〕,催告によって遅滞となり,その時から,それについての遅延利息を支払う〔のではなく〕,第405条を適用して,元本に組み入れることができるだけ」とされていますが(我妻139),旧民法以来の沿革からしてもそうなるということでしょう。ただし,不法行為に基づく損害賠償債務の遅延損害金は,民法405条の適用又は類推適用により元本に組み入れることはできないものとされています(最判令和4118日)。)

 しかし,旧民法財産編3941項の“exigible”は,特別の意味で使われているのでした。ボワソナアドの解説にいわく,「法文は,ここではexigibleの語を,フランス民法がところどころで(第529条及び第584条参照)それを用いている意味で用いている。すなわち,支払期限(l’échéance)が到来していて元本の請求がされ(être demandé)得るもの,ということをいわんとするものではない。むしろ,「債権者が支払を受けることを自ら禁じている」ものである年金権の元本(第1909条)とは異なるものであって,今後のある期日等において支払期限が到来するものである,ということをいわんとするものである。」と(Boissonade (1883), p.342 (i))。年金権については旧民法財産編3942項において規定されていますところ,“exigible”の語は,同条1項の元本と同条2項に係る「元本」との違いを表現するために用いられたもののようです。利息を生ずべき「元本債権は,特定物の返還を目的とするもの(固定資本)ではなく,同一種類の物を返還させるもの(流動資本)でなければならない」のです(我妻42)。(なお,ボワソナアドは1891年のProjet du Code Civil pour l’Empire du Japon, accompagné d’un commentaire, t.2, nouvelle éd, Tokio, 1891においては,従来の“capitaux exigibles”“capitaux dus, même exigibles”に改めるべきものとしています(p.350)。フランス語のdûは,支払を要するものであっても,履行期にまで至っている(exigible)必要は必ずしもないもののようです。)

 

イ 「損害賠償ノ訴権」の節にある理由:「債権の目的」の節の未存在

 遅延損害金に限られないものとしての,利息に係る重利に関する規定が「損害賠償ノ訴権」の節に設けられていることの問題性は残ります。しかしこれは,単に,母法であるフランス民法においても,我が旧民法財産編394条に対応するその旧1154条(後記4参照)及び旧1155条が「債権の効力について(De l’effet des obligations)」の節中「債務不履行により生ずる損害賠償について(Des dommages et intérêts résultant de l’inexécution de l’obligation)」の款に規定されていたことによるものでしょう。

我が現行民法第3編第1章第2節たる「債権の効力」の節には「債務不履行の責任等」,「債権者代位権」及び「詐害行為取消権」の3款しかないところ,405条は,フランス民法流にこれらの款のどこか(「債務不履行の責任等」の款でしょう。)に押し込まれてしまうよりは,同章第1節たる「債権の目的」の節にある方が,確かに落ち着くようです。しかして,「債権の目的」の節を設けることは,我が現行民法における発明であったところです。

1895111日の法典調査会(第55回)において穂積陳重は,「前に一旦議定になりました目録には債権の効力丈けが挙げてあつたので御座います(ママ)本案に於きましては,どうも効力丈けでは債権に通(ママ)ます規則を挙(ママ)るのに狭ま過ぎてどうも不都合なることを認めました。夫故更に其目を増して債権の目的を其前に加へましたので御座います。」と紹介しています(民法議事速記録第17110丁裏)。続けてその「債権の目的」の節についていわく,「是は前に申しました通り新たに挿入しました(ママ)であります(ママ)既成法典には此債権の目的に関する(ママ)は格別なかつたのでありますが,其目的に関しまする規定は,多くは弁済の部に這入つて居つたの(ママ)あります。併ながら,債権の目的と云ふものは,弁済に関する規則(ママ)はありませぬで,初め債権の成立ちます時より一部分を為して居つたもので,初めより存して居るものでありますから,夫故に,債権自身の目的として初めより存するものに関する規定は此所に掲(ママ)た方が宜いと思ふ。又,既成法典には合意の効力の中に其目的に関する規定が掲げてありますこともありますが,是れは合意丈けに関しませずして,孰れの債権の目的に関することも矢張り此処に挙(ママ)ましたの(ママ)あります。諸外国の例に依りましても,契約の部分には,少なくとも債権の目的と云ふものをば別々の条に置いて居ります。而て其契約の目的と云ふ中にあります規定は,外の債権の目的の中にも通じます所が随分多くあるので,夫故に此処は債権の総則を置きました以上は,初めより債権の目的を為します実体を一つの(ママ)として置いたので御座います。」と(民法議事速記録第17111丁裏-112丁表)。第56回会合においても,法定利率に係る現行民法404条を「債権の目的」ではなく「債権の効力」の節に置いたらどうかという土方寧の意見に対して,穂積は駄目押し的に「場所は,是は何うしても目的物の所でなければ往かぬと考へます。債権の効力の方に規定すれば,書き方を替えて,如何なる場合に於いては此金銭債務の目的物に付き5分の利率を以て払ふことを要す,斯う云ふ工合に書けば効力の所に入れられぬこともありませぬ。併し,此処では然う云ふ利が生ずべき債権の目的になるのでありますから,夫故に此場所を撰んだのであります。」と述べています(民法議事速記録第17231丁表裏)。確かに,ある債権にはその効力として利息が生ずるものであるところですが,他方,遅延損害金はともかくも,目的のいかんを問わず全ての債権の効力として利息が生ずるわけではありません。

現行民法404条に対応する規定は,旧民法においては――財産編ですらなく――その財産取得編1862項に,「消費貸借」の節の一部として「借主ヨリ利息ヲ弁済ス可キノ合意アリテ其額ノ定ナキトキハ其割合ハ法律上ノ利息ニ従フ」と規定されていたものです(また,当該規定は,同編190条により「〔前略〕金銭又ハ定量物ノ義務及ヒ合意上,法律上ノ利息ニ之ヲ適用ス」るものとされていました。なお,法定利息の利率を定める規定は実は旧民法中にはなく,旧利息制限法(明治10年太政官布告第66号)3条が「法律上ノ利息トハ人民相互ノ契約ヲ以テ利息ノ高ヲ定メサルトキ(トキ)裁判所ヨリ言渡ス所ノ者ニシテ元金ノ多少ニ拘ラス100分ノ6六分トス」と規定していました。同条において更に精確を期すれば「1ヶ年ニ付」との文言があるべきだったのですが,これは先行の同法2条に当該文言があるので省略されたものでしょう。ちなみに,旧利息制限法3条は,「明治10年第66号布告利息制限法第3条ハ之ヲ削除ス」と規定する民法施行法(明治31年法律第11号)52条によって削除されています(更に旧利息制限法は,現行利息制限法(昭和29年法律第100号)附則2項によって,同法施行の1954615日(同法附則1項)から廃止されています。)。)。金銭債権に関する現行民法402条及び403条の規定も「債権の目的」の節にありますが,当該両条に対応する旧民法財産編463条から466条までの規定は,「弁済」の節にありました。

 

ウ 填補の利息と遅延の利息と

「利息ハ填補タルト遅延タルトヲ問ハス」といわれれば,填補の(compensatoire)利息と遅延の(moratoire)利息とがあることになりますが,両者はそれぞれいかなるものか。そこでボワソナアドを尋ねれば,填補の利息は「貸し付けられた金銭に係る受益に対応するもの(représentant la jouissance d’argent prêté)」であり(Boissonade (1883), p.339; aussi, p.340),遅延の利息は「支払の遅れに対する補償(indemnité de son retard à payer)」ということのようです(Boissonade (1883), p.340)。利息が元本に組み入れられた後にそこから新たに生ずる利息(利息の利息)については組入れの事由によって填補の利息か遅延の利息かが分かれ,組入れが合意によるものならば「その場合一種の貸付けがされるのであるから」填補の利息であり,組入れが裁判によるものであれば遅延の利息である,とされています(Boissonade (1883), pp.341-342)。1888222日の法律取調委員会において鶴田皓委員が,填補のものとは「遅延ノ反対ヲ云フノデシヨ(ママ)ウ」と発言していますが(日本学術振興会『法律取調委員会民法草案財産編人権ノ部議事筆記自第29回至第34562丁裏),これは,おとぼけでしょう。

 いずれにせよ,旧民法財産編3941項は利息一般に関するものであって,同条についてボワソナアドは,「さてこれが,法によって債務者に与えられた,時の迅速及び利息の累進的蓄によって彼に対してもたらされる不意打ちに対する最終的防禦である。」と高唱しています(Boissonade (1883), p.339)。

 

エ 重利の制限

旧民法財産編394条が債務者のための最終的防禦(une dernière protection)といわれるのは,旧利息制限法には,最高利率に係る規制(同法2条:元金100以下(ママ)は年20パーセント以下,元金100円以上1000以下(ママ)は年15パーセント以下及び元金1000円以上は年12パーセント以下(大正8年法律第59号による改正前))はあっても(旧民法財産取得編187条の「法律ヲ以テ特ニ定メタル合意上ノ利息ノ制限」(同条1項)ないしは「法律ノ制限」(同条2項)です。),重利に関する規定はなかったからでしょう。

 (なお,旧利息制限法2条によって元本1000円以上の場合の上限とされた年12パーセントの利率は,ボワソナアドのいう古代ローマにおける通常の最高利率である月1パーセント(centesima usura)と同率ということになります(cf. Boissonade (1883), p.339)。すなわち,利率について「十二表法は利率の最高を月(新説)12分の1とする。〔略〕前346年以来は年2分の1となる。〔略〕共和政末より県に於て最高月100分の1usurae centesimae)とする規定現れ,ローマ帝政の通則となる。」とされていますところの(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)156頁),「ローマ帝政の通則」です。泥棒は倍返しの刑じゃが,高利貸は四倍返しの刑と法律で決められたのじゃ,これで,高利貸がいかに泥棒よりも碌でないものとされていたかが分かるじゃろ(ita in legibus posuerunt, furem dupli condemnari, faeneratorem quadrupli. Quanto pejorem civem existimaverint faeneratorem quam furem, hinc licet existimare.),とは,かの大カトーによる高利貸排撃の弁です(De Agri Cultura)。)

 旧民法財産編394条の目的は,ボワソナアドによれば,「anatocisme〔重利〕又は利息の組入れと呼ばれるところの利息自体による利息の産出を禁止するのではなく,制限し,妨げること」です(Boissonade (1883), p.340)。また,利息から債務者を守るに当たっては――母法であるフランス民法旧1154条及び旧1155条並びにイタリア民法を見ると――立法者は「常に彼〔債務者〕に対する警告の機会を増やすこと」に拠っていたものとされています(ibid.)。しかして,「利息ハ〔略〕其1个年分ノ延滞セル毎ニ特別ニ合意シ又ハ裁判所ニ請求シ且其時ヨリ後ニ非サレハ此ニ利息ヲ生セシムル為メ元本ニ組入ルルコトヲ得ス」との規定は,重利の制限においてどのように働くものか。

 ボワソナアドによれば,制限は3重です。

 

   ここに本案が提示する第1の制限は,前記の諸法典〔フランス民法及びイタリア民法〕と同様,組入れは1箇年ごと(d’année en année)にしか行われ得ないということである。

   第2に,それ〔組入れ〕は,当事者間の特別の合意又は債権者による裁判上の請求の効果としてしか生じ得ないということである。すなわち,一度の催告では十分ではないのである。

   第3に,当該合意は,請求と同様に,利息に係る1年の期限の前(avant l’échéance d’un an d’intérêt)にはなされ得ないということである。フランスにおいては,文言が不明確であるため,合意について議論されたところである。本案は,ここで,このことについて正式に明らかにしている。最初の1箇の合意によって年ごとの期日に利息が組み入れられることを認めてしまうと,彼の懈怠の予防手段として彼のための特段の防禦であるものと法が考えるところの反復的警告を債務者は受けないことになってしまうのである。〔筆者註:なお,現在のフランス民法1343条の2では“si le contrat l'a prévu”ということですから,事前の契約がむしろ本則のようです。〕

  (Boissonade (1883), p.341

 

オ 「其1个年分ノ延滞セル毎ニ」

前記3重の制限中第1のものに関する議論に戻れば,まず,当該制限を設ける原因となったボワソナアドの懸念は,「もし組入れが,1年ごとではなく,半年ごと,3箇月ごと又は1箇月ごとにされることになったならば,負債の累増は厖大かつ真に恐るべきものとなるだろう。」というものでした(Boissonade (1883), p.341)。後記4のマルヴィル的な懸念です。利率は利息制限法で上限が定められているとはいえ,同じ利率でも,利息の元本への組入れの頻度が増加するとその分更に債務者の負債が増大するから,当該頻度を制限しようというわけです。

したがって,「組入れは1年ごと」といわれる場合の「1年」は,組入れと組入れとの間の期間のことであって,「期限が到来して1年後に」(磯村保編『新注釈民法(8)債権(1)』(有斐閣・2022年)164頁(北居功))というような,利息に係る支払期限と当該利息の元本組入れがされる時との間に置かれるべき期間のことではないわけです。組入れが始まるまでは利息支払の最初の遅滞から1年間あるが,その後は次々続々と――1箇年の間を置かずに――月々,日々,更に極端な場合は連続的に利息の元本組入れがされ得るということでは,台無しです。ボワソナアドは,更に,「法文は,1箇年に,現在進行中の1箇年中の一部を加えた期間分の利息が既に支払を要すべきものとなっているときは(si les intérêts sont déjà dus pour une année et une fraction de l’année courante),当該発生分全てについて(pour tout ce qui est échu)組入れをすることができる,と表現する配慮を更にしているところである。しかし,更に1箇年が完全に経過した後でなければ,組入れをまた新たに行い得ないのである。」と説明しています(Boissonade (1883), p.341)。

ただし,日本語で利息の「1个年分」と表現すると,「1年分というのは合計して1年分ということで,必ずしも継続して1年分以上延滞することを要しない」(前掲奥田編362頁(山下=安井))ということになるのですが,旧民法財産編3941項のフランス語文における“après une année échue”の部分は,端的に,「1箇年の満了後」に組入れのための特別の合意又は裁判上の請求をするのだという意味ですので(なお,当該「1箇年」の起点は,そこから利息の生ずることとなる元本の交付・受領時でしょう。当該フランス語文についてボワソナアドは,1891年に,“après une année échue desdits intérêts”と修正するよう提案しています(Boissonade (1891), p.351)。これは,「当該利息(複数形です。)に係る(元本債権の存続期間たる(= de))1箇年の満了後」という趣旨と解すべきなのでしょう。ちなみに,旧民法債権担保編240条では,“pour les deux dernières années échuesが「経過シタル最後ノ2个年分」となっています(イタリック体及び下線は筆者によるもの)。),その「1箇年」の間に利息の一部が弁済されていて,未払利息額が1に満たない場合であっても,当該残余の未払利息の元本組入れはなお可能であるもののように解されます。この辺は,仏文和訳の微妙さ,ということになるのでしょうか。

 

(3)法律取調委員会における「仏学事始」

と以上,筆者は難解なフランス語文の読解に苦しめられ,かつ,なおも頭をひねりつつあるのですが,事情は旧民法のボアソナアド原案の審議に当たった法律取調委員会においても同様でした。「蘭学事始」ならぬ「仏学事始」的情況です。1888222日の同委員会会合に提出された,後の旧民法財産編3941項の日本語文案は,次のようなものでした。

 

 要求スルコトヲ得ヘキ元金ノ利息ハ填補ノモノナルト遅延ノモノナルトヲ問ハス満期ト為リタル1个年ノ後ニノミ為シ且此ノ如ク年毎ニ為シタル特別ノ合意又ハ裁判所ニ於ケル請求ニ憑リ及ヒ其時ヨリ後ニアラサレハ利息其モノニ利息ヲ生セシムル為メ之ヲ元金ト為スコトヲ得ス

 (前掲財産編人権ノ部議事筆記562丁表)

 

ボワソナアド原案の“après une année échue et ainsi d’ année en année”の部分が,「満期ト為リタル1个年ノ後ニ〔略〕且此ノ如ク年毎ニ」となっています。「満期」とは,由々しい。

本稿冒頭21)において申し述べた筆者の「素人風の考え」的な解釈が,法律取調委員間でも生じてしまっています。松岡康毅委員は「一口ニ云フト満期ニナツタヨリモ1年経タ後(ママ)ナケレ(ママ)〔組入れは〕出来ヌト云フコト」と解したようであり(前掲財産編人権ノ部議事筆記563丁裏),鶴田委員の「去年2月貸シテ今年1月迄利息ヲ払ハヌ,(ママ)ウスレ(ママ)元金ヘ入レルト云フノ(ママ)シヨ(ママ)ウ」との正解,栗塚省吾報告委員(なお,報告委員とは,「ボワソナアド案を基礎として,委員会に提出すべき草案の翻訳・調査・整理の任にあた」り,「委員会に列して草案の報告と説明をするが,議決権はもたなかった」役職でした(大久保泰甫『日本近代法の父 ボワソナアド』(岩波新書・1977年(1998年追補))151頁)。)のそれに対する是認(「左様デス満1年ニナレ(ママ)元金ニ繰込デ宜イト云フノデス」,「私ハ去年ノ11日カラ去年ノ大晦日マテ滞レ(ママ),今年ノ1月ハ元金ニ見積リ100円借リテ1割ノ利息ナレ(ママ)110円ニスルノテアリマス」)等に対して,「左様(ママ)ハアリマスマイ」,「ソレハ行クマイ」,「3月ヨリ3月トナケレ(ママ)ナラン」,「〔「満期」とは〕払ヒ期限ノコトデシヨ(ママ)ウ」,「間ヲ1年置カヌ(ママ)ハ徃カヌノデアリマス」,「払フ(ママ)キ期限(ママ)アル,1年経タ後デナケレ(ママ)元金ニ繰込マヌト云フノダ(ママ)ウ」と,南部甕男委員と共に異議を表明しています(同564丁表-65丁表)。これはやはり,栗塚報告委員による案文の日本語が(現在の一部民法教科書の日本語と同様)まずいのであって(「満期ト為リタル,1个年ノ後」と読むのが普通で,「満期ト為リタル1个年,ノ後」と読むのは難しいでしょう。),同報告委員は「私ハ昨年1月ニ1年中貸シテ居ルト,今年ノ1月カラ元金トシテ11円トスルノ(ママ)アリマス」などと一本調子に繰り返すものの,山田顕義委員長閣下は当該法文案につき「我輩モ左様思(ママ)テ居ツタガ,能ク見ルト1年アル様ニ思フ,来年1年ヲ置カナケレ(ママ)ナラン様原文ニ見(ママ)ルガ1年経過ノ後ト云ヘ(ママ),矢張リ間ハ1年置カナケレ(ママ)ナランノデシヨ(ママ)ウ」と,松岡委員の読み方に軍配を上げます(同565丁裏)。しかして更に同委員長は,「契約ノトキヨリ1ヶ年ヲ経過シタルトキハ」トスレ(ママ)皆サンノ云フ様ニナリマス」,「「但シ1ヶ年ノ後ニ為シ且其契約数年ニ渉ルモノハ年毎ニ為シタル特別ノ合意又ハ」トスルカ」と,案文修正の方向までを自ら示してくれていたのでありました(同566丁裏-67丁表,68丁裏)。


DSCF0598
 山田顕義委員長(東京都千代田区日本大学法学部前)


同日の審議の結果,案文は,次のように修正されました。

 

 要求スルコトヲ得ヘキ元金ノ利息ハ填補ノモノナルト遅延ノモノナルトヲ問ハス毎1ヶ年ノ後ニ為シタル特別ノ合意又ハ裁判所ニ於ケル請求ニ憑リ且其時ヨリ後ニアラサレハ利息其モノニ利息ヲ生セシムル為メ之ヲ元金ト為スコトヲ得ス

 (同572丁表)

 

これを最終的に制定された旧民法財産編3941項の法文と比較すると,「毎1ヶ年ノ後ニ」が,法文では「其1个年分ノ延滞セル毎ニ」となっていて,1箇年分相当の時間の経過のみならず,利息支払債務の履行遅滞(延滞)が元本への組入れの要件として書き加えられています。1888222日の法律取調委員会の審議の場で,「遅延ノ満期ハ入レテ宜シイト思フ」と栗塚報告委員が発言し,「満期ト為リタルハ欲シイ」と鶴田委員が和したことにようるものでしょう(前掲財産編人権ノ部議事筆記570丁裏)。栗塚としては,“après une année échue”を「満期ト為リタル1个年ノ後ニ」と訳したことについて深い思い入れがあったわけです(なお,現行民法3751項にも「〔利息その他の定期金〕の満期となった最後の2年分」という表現(富井政章=本野一郎のフランス語訳では“pour les deux dernières années échues”)がありますが,梅謙次郎によれば,ここでの「満期」は「支払期日ノ到来ヲ意味」するものであって,「仏語の「イッシュー〔échu〕」ヲ訳シタルモノ」です(第15回帝国議会衆議院民法中改正法律案委員会会議録(筆記)第11頁)。)。しかし,支分権たる利息債権については,そもそも「この〔基本的な〕債権の効果として,一定期において一定額を支払(ママ)べき支分権が生ずる」ものと考えられるべきものとされ(なお,精確には「一定額の支払を受けるべき支分権」でしょう。),それは「弁済期に達した各期の利息を目的とするもの」なのですから(前掲我妻43頁。下線は筆者によるもの),発生したことに加えて(既に弁済期です。),更に延滞要件を付することはあるいは蛇足ではないでしょうか。なお,「利息の弁済期が到来しても債権者に受領の義務はなく,当然その利息を元本に組み入れ,弁済期において元利を支払うというような特約」があった場合においては,これは延滞があるものとはいえないでしょうが,そのような場合については,「各期の計算上の額は利息と呼ばれただけで――最初の元本に対して弁済期に支払われるべき余分額が真の意味の利息」であって,「この数額について〔単利計算の〕利息制限法を適用すべき」ものとされていますから(我妻46-47),そもそも重利の場合とはいわないのでしょう。

ただし,民法892項の規定(「法定果実は,これを収取する権利の存続期間に応じて,日割計算によりこれを取得する。」)があるため,利息は弁済期において生ずるものではなく,日々生ずるものとも解され得るところから,弁済期限以後のものであることを明らかにするため「延滞」の語が用いられたのかもしれません。しかし,民法892項は,「果実権利者の変更する場合に於て,果実が前権利者に属すべきや後権利者に属すべきやを定めたるもの」であって(梅謙次郎『訂正増補民法要義巻之一 総則編(第33版)』(私立法政大学=有斐閣書房・1911年)196頁),本来そのような場合においてのみ働くべきものです。また,「権利の帰属を定めたものではなく,帰属権利者間の内部関係を定めたものと解」されており,「例えば,小作地の所有権が譲渡された場合にも,毎年末に支払うべき小作料は,その支払期の所有者に帰属し,日割計算は譲渡人と譲受人との内部関係として清算されるべきである。」とされています(我妻榮『新訂民法総則(民法講義)』(岩波書店・1965年)228頁)。

(なお,「延滞」の語は,後に民法405条を債権者保護の規定と位置付け直すに当たって,あるいはその一つの手掛かりとなったものかもしれません。「延滞金」といえば「地方税及び各種の公課がその納期限までに納付されない場合に,その納付遅延に対する行政制裁として納付義務が課される公法上の徴収金」ですし(吉国一郎等編『法令用語辞典〈第八次改訂版〉』(学陽書房・2001年)36頁),「延滞税」といえば「国税をその法定納期限までに完納しない場合に,その未納の税額の納付遅延に対する行政制裁として納付が義務付けられる税」です(同37頁)。「延滞」するとお仕置きが待っています。)

ちなみに,旧民法財産編3941項の「1个年」とは苦心の文字でしたが,同条2項においては,フランス語文のpour moins d’une année”の部分と対応する部分の日本語が,「1个年未満ノ」となっておらず,「1个年未満ノ」となっていて,不整合な形となってしまっています(4及び7参照)。

 

(4)強行規定性

ところで,旧民法財産編394条の規定は「前記の諸法典と同様」であるとボワソナアドにいわれた場合,フランス民法旧1154条は同国の判例(破毀院民事部1920621日,同院第1民事部196061日等)によって公の秩序(ordre public)に関するものとされていますので,我が旧民法財産編394条も強行規定(現行民法91条参照)と解され得たわけです。年2回以上の組入れを約する重利と利息制限法1条との関係で,民法405条の性格が問題となります(我妻Ⅳ・47頁参照)。



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 ille autem dixit eis

    nisi videro in manibus ejus figuram clavorum

    et mittam digitum meum in locum clavorum

    et mittam manum meam in latus ejus

    non credam

    (Io 20,25)

 

    beati qui non viderunt et crediderunt

    (Io 20,29)

 

1 はじめに

 民法(明治29年法律第89号)405条の文言は,当初の「利息カ1年分以上延滞シタル場合ニ於テ債権者ヨリ催告ヲ為スモ債務者カ其利息ヲ払ハサルトキハ債権者ハ之ヲ元本ニ組入ルルコトヲ得」から,平成16年法律第147号が施行された200541日以来(同法附則1条,平成17年政令第36号),次のように,「の支払」が挿入される形で改められています。延滞するのは――精確には――利息それ自身ではなくその支払であるからでしょう。

 

   (利息の元本への組入れ)

  第405条 利息の支払が1年分以上延滞した場合において,債権者が催告をしても,債務者がその利息を支払わないときは,債権者は,これを元本に組み入れることができる。

 

 本稿は,これに対して,小賢しく,

 

   (利息の元本への組入れ)

  第405条 支払の延滞した利息が1年分以上となった場合において,債権者が催告をしても,債務者がその利息を支払わないときは,債権者は,これを元本に組み入れることができる。

 

というような文言の方がよかったのではないか,との感慨を主に述べようとするものです。ただし,筆者においてはいつものことながら,本来は従たるべき3以下の脱線の部分が厖大なものとなってしまいました。

 

2 躓きの石とその回避と

 

(1)躓きの石:「1年以上延滞」と表現する諸書

あえて筆者が前記法文案の提示のような僭越な真似をしようとするのは,平成29年法律第44号による民法(債権関係)大改正を主導せられた内田貴・元法務省参与の著書その他における民法405条に係る次のような記載に,躓く者が多かろうと思うからです。

 

 利息が1年以上延滞して,債権者が催告しても支払がない場合には,特約がなくても,元本に組み入れて複利とすることができるとの規定(405条)

  (内田貴『民法Ⅲ 第4版 債権総論・担保物権』(東京大学出版会・2020年)68頁)

 

1年以上延滞した利息を支払わないとき,これを元本に組み入れることを認める(405条)。

(遠藤浩等編『民法(4)債権総論(第3版)』(有斐閣双書・1987年)21頁(新田孝二))

 

  民法は当事者間の合意がないかぎり,単利によるものとし,例外的に利息の支払いが1年以上遅延し,かつ債権者が催促してもなお支払いがない場合に限って,利息の元本への組入れを認めている(法定重利。405条)。

  (野村豊弘等『民法Ⅲ 債権総論(第3版補訂)』(有斐閣Sシリーズ・2012年)19頁(栗田哲男))

 

 上記のような説明を受けて素人風に考えると,次のようになります。

120万円を借りて,年に10%の利率で毎月末に利息を支払う合意」をした場合「(ママ)月末の到来とともに1万円の利息の支払を求める債権が発生」するが(内田68頁の設例。当該合意に基づく基本権たる利息債権の効果として,「一定期において一定額を支払うべき支分権が生ずる」のであり,その「支分権としての利息債権は,弁済期に達した各期の利息を目的とするもの」です(我妻榮『新訂債権総論(民法講義Ⅳ)』(岩波書店・1964年(1972年補訂))43頁)。なお,「当事者の意思表示,元本債権の性質,取引上の慣習などから,利息債権の弁済期を明らかにすることができないときは,利息債権の弁済期は元本債権の弁済期と同一であると解すべきであろう(勝本〔正晃〕・上248,小池隆一「利息債権」民法法学辞典(下)(昭352085)。」とされています(奥田昌道編『新版注釈民法(10債権(1)債権の目的・効力(1)』(有斐閣・2003年)344頁(山下末人=安井宏))。),当該金銭消費貸借の成立が2022年の年初であるとすると,同年1月末分の第1回の利息支払に係る1万円が弁済されないままであるときにその1万円の元本組入れが可能となるのは20231月末(この時点で当該「利息が1年以上延滞」したことになるはずです。)以後に催告をしてからのことであり,20222月末の第2回分1万円についても同様に20232月末以後に催告をしてから,そして202212月末分の第12回の利息支払に係る1万円については202312月末以後に催告をしてからの2024年になってからのこととなる,ということになるのであるな,また,1年分の利息12万円をまとめて2022年末に支払うべきものと約定された場合は,当該12万円の元本組入れができるのは,その全額につき,これも2023年の丸1年間が経過して以後催告を経ての2024年になってからであるな,と。

 

(2)躓きの石回避の道:「1年以上延滞」の意味

 

ア 梅謙次郎

 しかしながら不図,旧民法(明治23年法律第28号・第98号)の明治29年法律第89号及び明治31年法律第9号による全面改正に際しての法案起草者の一人たりし梅謙次郎・元法制局長官(在任期間:18971028日から,その月16日から現行民法が施行された1898727日まで(同年630日に第3次伊藤内閣に代わって第1次大隈内閣が発足しています。)の著作に当たってみると,次のように説かれているのでした。(なお,現行民法の施行日が1898716日(土)であったのは,民法第1編第2編第3編(明治29年法律第89号)2項,民法第4編第5編(明治31年法律第9号)2項等に基づく明治31年勅令第123号(1898621日裁可,同月22日公布)の規定によります。いわく,「明治29年法律第89号民法第1編第2編第3編明治31年法律第9号民法第4編第5編同年法律第10号法例同年法律第12号戸籍法及同年法律第15号競売法ハ明治31716日ヨリ之ヲ施行ス」と。外国人のいわゆる内地雑居の実施が,その1年後(1899717日以降(1894716日に記名調印された日英通商航海条約211項参照))に迫っていました。)

 

  本条〔405条〕に於ては,延滞せる利息1年分以上に達するまでは敢て重利を附することを許さずと雖も,若し其利息1年分以上に及ぶときは,債権者は一応催告を為すの後債務者が其延滞利息を支払はざるときは之を元本に組入れ,以て之をして更に利息を生ぜしむることを得るものとせり。例へば,年年利息を払ふべき場合に於ては,其利息を支払ふべき時期に至り債権者より一応の催告を為すも尚ほ債務者之を支払はざるときは直ちに之に重利を附することを得べく,又月月之を支払ふべきときは,12个月間は仮令債務者之を支払はざるも敢て重利を附することを得ず(12个月前と雖も月月の支払時期の到来する毎に其督促を為すことを得るは勿論,或は利息のみに付き強制執行を為すも亦可なることは固より言ふを竢たず。),然れども既に延滞利息12个月分に及ぶときは,債権者は一応催告を為したる後尚ほ債務者之を支払はざるときは,直ちに之を元本に組入れ更に之に利息を附することを得べし。

  (梅謙次郎『民法要義巻之三 債権編(第33版)』(私立法政大学=有斐閣書房・1912年)27頁。原文は片仮名書き,濁点・句読点なし。)

 

 これによれば,2022年初めに年10パーセントの利率で120万円を借り受けて利息を毎月末に支払う約束であるのに横着な債務者は月々の利息をちっとも払わない,という前記の例において債権者が延滞利息について催告後元本組入れをすることができることになる時期は,2022年中の12箇月分の利息12万円全額について2023年の初めから,ということになります(202212月末支払分については,1年以上延滞どころではなく,当該期限の経過後すぐに(民法4121項参照)ということになります。)。2023年の2月に入ってから以降毎月1万円ずつ五月雨式に催告をした上で元本への組入れを行う,という辛気臭いことにはならないようです。すなわち,民法405条は「1以上延滞」といっているのであって「1年以上延滞」といっているのではない,ここでの「1年分以上」は延滞している利息の額又は量の大きさにかかっているのであって(利息は,元本債権の「額と存続期間に比例して支払われる金銭その他の代替物」です(我妻Ⅳ・42頁。下線は筆者によるもの)。),利息の延滞期間の長さにかかっているのではない,いやしくも延滞していればその期間の長短は問われないのだ,というのが梅謙次郎による同条の読み方であるということになります。

 

イ 司法研修所

 御当局は,梅式の解釈を採用しています。

 

  例えば,利息を毎月末支払うことを約して消費貸借が成立したが,継続して1年間利息の支払を延滞した場合,延滞した利息を元本に組み入れる権利(組入権)を行使する債権者は,利息の発生要件事実〔略〕に加えて,

1 消費貸借契約成立の日から起算して1年経過したこと

     2 債権者が債務者に対し1で発生した利息の支払を求める旨の催告をしたこと

     3 右催告後相当期間が経過したこと

     4 債権者が債務者に対し右期間の経過後1で発生した利息を元本に組み入れる旨の意思表示をしたこと

      〔略〕

  を主張立証しなければならない。1は,利息が1以上延滞したことを示す事実である。

  (司法研修所民事裁判教官室編『民法の要件事実について(10)』(司法研修所・1992年)23-24頁。下線は筆者によるもの。)

(なお,上記要件事実論は「継続して1年間利息の支払を延滞した場合」に係るものですが,民法405条の「1年分というのは合計して1年分ということで,必ずしも継続して1年分以上延滞することを要しない(勝本・上274)」とされています(奥田編362頁(山本=安井))。)

 

ウ 法典調査会

 この点については既に,1895125日の法典調査会(第56回)の場で議論がされ,解答が与えられていたところでありました。

 

  土方 寧君 本条の「1年分以上延滞シタル場合」と云ふことは,例へば月に幾らと云ふ割合で利息を払ふべきのを12个月も払はぬで居つたとか,或は又1年幾らと云ふ割合(ママ)何年間年々払ふべきのを払はぬで居つたのは大変不都合である,1年分の利息を12个月の末に払(ママ)と云ふ約束である,夫れ(ママ)払はなかつたら1()()1年又は12月〕の末に払はなかつたならば直(ママ)に元本に組入れても宜いと云ふことに此文章では見えますが,其御旨意でありますか。

  穂積陳重君 明かに「1年分以上」と斯うある以上は,然うなる。能く私は知りませぬが,通常は6ケ月分とか,或は月々〔利息を〕払(ママ)のではありませぬか。

  梅謙次郎君 私共の考へでは,夫れで宜い積りであります。若し,1年の終に払(ママ)べきものを払はなかつたと云ふ場合であれば,元々1年の間債権者の方では利息なしに使はせて居るですから夫れに〔その利息に〕復た利が付ても一向構はぬ。唯,月々〔利に〕利が付くとか(ママ)或は6个月目に必(ママ)利が付くとか云ふやうなことになつては困る。併し,今日銀行抔では6个月毎に利が付く。然う云ふ契約は許す。契約のないときには1年分以上延滞した場合に利を付ける。夫れは,月々払(ママ)と云ふ約束でも,1年の終に払ふべき約束でも宜からうと私は考へて居る。

  議長(西園寺侯) 別段御発議がなくば確定致しまして次に移ります。

  (日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録第17巻』237丁裏-238丁表。原文は片仮名書き,句読点なし。)



(承)旧民法財産編3941

    http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080258062.html

(転)フランス民法旧1154

    http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080258084.html

(結)起草者意思等並びに連続複利法及び自然対数の底

    http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080258087.html

 

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(上):民法265条及び旧民法財産編171条(他人の土地の使用権vs.地上物の所有権及び権利の内容)

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079836154.html

(中):旧民法財産編172条から176条まで及び民法266条から268条まで(「山ノ芋カ鰻ニナル」,地代,1筆中一部の地上権,相隣関係等及び存続期間)

     http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079836168.html



9 旧民法財産編177条と現行民法269条と:工作物等の収去等

 

(1)条文

 旧民法財産編177条は次のとおりです。

 

  第177条 建物又ハ樹木ノ契約前ヨリ存スルト否トヲ問ハス地上権者之ヲ売ラントスルトキハ土地ノ所有者ニ先買権ヲ行フヤ否ヤヲ述フ可キノ催告ヲ1个月前ニ為スコトヲ要ス

   右先買権ニ付テハ此他尚ホ第70条ノ規定ニ従フ

 

Art. 177.  Soit que les constructions et plantations existent antérieurement ou non au contrat, le superficiaire qui veut les vendre doit sommer le propriétaire du fonds, un mois à l’avance, d’avoir à declarer s’il entend user du droit de préemption.

   L’article 70 s’applique audit cas, pour le surplus de ses dispositions.

 

 同編70条は次のとおり。

 

  第70条 用益権消滅ノ時用益者又ハ其相続人カ前条ニ従ヒテ収去スルコトヲ得ヘキ建物及ヒ樹木等ヲ売ラントスルトキハ虚有者ハ鑑定人ノ評価シタル現時ノ代価ヲ以テ先買スルコトヲ得

   用益者ハ虚有者ニ右先買権ヲ行フヤ否ヤヲ述フ可キノ催告ヲ為シ其後10日内ニ虚有者カ先買ノ陳述ヲ為サス又ハ之ヲ拒絶シタルトキニ非サレハ其収去ニ著手スルコトヲ得ス

   虚有者カ先買ノ陳述ヲ為シタリト雖モ鑑定ノ後裁判所ノ処決ノ確定シタル時ヨリ1个月内ニ其代金ヲ弁済セサルトキハ先買権ヲ失フ但損害アルトキハ賠償ノ責ニ任ス

   用益者又ハ其相続人ハ代金ノ弁済ヲ受クルマテ建物ヲ占有スルコトヲ得

 

 虚有権者とは,フランス語のnu-propriétaire(文字どおりには「裸の所有者」)です。

 現行民法269条は次のとおりです。

 

  第269条 地上権者は,その権利が消滅した時に,土地を原状に復してその工作物及び竹木を収去することができる。ただし,土地の所有者が時価相当額を提供してこれを買い取る旨を通知したときは,地上権者は,正当な理由がなければ,これを拒むことができない。

  2 前項の規定と異なる慣習があるときは,その慣習に従う。

 

(2)諸外国の例

 ボワソナアドによれば,当時の諸国における,「地上権」が消滅したときの地上物の取扱いの例は,次のようなものでした。

 

   常に地上権があらかじめ定められた期限と共に設定されるヨーロッパの一部の国,特にフランスにおいては,建物及び樹木は,期限の経過と共に,補償なしに土地の所有者によって取得される。地上権者はあらかじめ,法律又は合意に含まれるこの厳しい条件を承諾しているのであるから,これを不正義だということはできない。

   オランダ及びベルギーにおいては,代価支払の負担なしに,地上権者によって当初取得され,又は彼によって築造された建物を土地の所有者が再取得することはない。これは法定先買権(un droit légal de préemption)である。

  (Boissonade I, p.351

 

 ベルギー国1824110日法を見ると,次のようにあります。

 

  Art.6  À l’expiration du droit de superficie, la propriété des bâtiments, ouvrages ou plantations, passe au propriétaire du fonds, à charge par lui de rembourser la valeur actuelle de ces objets au propriétaire du droit de superficie, qui, jusqu’au remboursement, aura le droit de rétention.

  (地上権が消滅した時には,建物その他の工作物又は植物の所有権は,当該目的物の時価を地上権者に補償する負担とともに土地の所有者に移転する。地上権者は,償金の支払まで留置権を有する。)

 

Art.7  Si le droit de superficie a été établi sur un fonds sur lequel se trouvaient déjà des bâtiments, ouvrages ou plantations dont la valeur n’a pas été payée par l’acquéreur, le propriétaire du fonds reprendra le tout à l’expiration du droit, sans être tenu à aucune indemnité pour ces bâtiments, ouvrages ou plantations.

  (既に建物その他の工作物又は植物が存在していた土地の上に地上権が設定された場合であって,その価額が取得者によって支払われなかったときは,権利の消滅に伴い土地の所有者は,当該建物その他の工作物又は植物の補償をする負担なしに全てを再取得する。)

 

この「法定先買権」は,オプションというよりも,所有権移転の効果がまず当然生ずるもののようです。梅が「外国ニハ随分地上権ノ消滅シタル場合ハ建物樹木等ハ当然土地ノ所有者ノ所有物トナツテ其代リ夫レニ対スル償金ヲ払ハナケレハナラヌト云フ規定カアリマス」(日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録第11巻』3丁表)と言う「外国」は,ベルギー国等でしょうか。

 

(3)日本民法

 

ア 旧民法財産編177条から現行民法269条へ

 我が旧民法財産編177条の規定に対して,ボワソナアド自身は,土地所有者の先買権は当事者に特約がある場合にのみ認められるべきであって,「日本国においては,経済的に見てよく,かつ,所有権の規則に調和したものである同国の慣習を保持することが好ましいと筆者は考える。すなわち,地上権者は建物の所有権を有し,したがって,例外的な事情によって権利が当該建物の朽廃前に消滅したときには,それを収去することができるのである。」と述べていました(Boissonade I, pp.351-352)。日本国における地上物収去の容易性は,ボワソナアドに強い印象を与えていたようです。いわく,「筆者は既に,日本国においては建物(少なくとも木造のもの)が収去され,移築されることが非常に容易にできることに注意を喚起する機会〔略〕があった。喬木を含む樹木についても,移植を見越して根が幹から遠くまで伸びないようにするよう配慮された場合,又はそのような想定がなかった場合であっても,1ないし2年間,新しい根が生える間当該樹木を動かすことなく,順次太い根を切除していったときは,同様である。」と(Boissonade I, p.350 (c))。ただし,このボワソナアドの認識と梅謙次郎の認識とは異なっており,地上権者の地上物収去権のみ認めて土地所有者の買取権を認めない主義について梅は「是レハ経済上余リ面白クナイ,建物ヲ壊ハシテ持ツテ往ク樹木ヲ引キ抜イテ持ツテ往クト云フコトハ多クノ場合ニ於テハ其物ノ価ヲ減ズルモノデアリマスカラ一般ノ経済上カラ考ヘテモ面白クアリマセヌ」と述べていました(民法議事速記録第113丁裏)。

 現行民法269条の案文は,他の地上権規定が1894928日の第32回法典調査会で審議されていたのに対し,積み残されて,同年102日の第33回法典調査会で審議されています。梅謙次郎によれば,現行民法269条は旧民法「財産編第177条ト粗ホ精神ヲ同(ママ)シテ居」るものですが(民法議事速記録第112丁表),旧民法財産編177条では「地上権者カ土地ノ所有者ニ売リ度クナイノデ一旦ハ売ラナイ自分ノ方ニ都合カアツテ売ラナイト言ツテ取リ去ツテ又後日夫レヲ外ノ人ニ売ツテモ夫レハ仕方ガナイ」ということで「先買権ナ(ママ)ト云フ大層ナ名ヲ附ケルヨリモ実際双方ノ為メニ都合ノ宜イ様ニ規定シタ方ガ宜カラウ夫レデ本条ノ如ク書キマシタ」ということでした(同丁裏)。

ところで,現行2691項本文を設けた趣旨は,梅によれば「外国ノ例カ区々ニナツテ居ルシ又地上権ノ場合ニ於テハ権利ノ存在シテ居ル間ハ工作物及ヒ竹木ノ所有者テアルガ権利カ消滅スルト同時ニ添付ノ一般ノ規定カ当嵌マルト云フ様ナ学説カ立タヌコトモナイト思ヒマス又権利消滅ノ時ニ土地ヲ原状ニ復サナケレバナラヌト云フコトカアルカラ普通ノ原則ト少シ違ヒハシマセヌカ」ということです(民法議事速記録第117丁裏-8丁表)。

 

イ 土地を原状に復しつつする地上権者の地上物収去の権利に関して

 

(ア)原状回復義務のボワソナアド案における不在

 「権利消滅ノ時ニ土地ヲ原状ニ復サナケレバナラヌト云フコトカアルカラ普通ノ原則ト少シ違ヒハシマセヌカ」とは語尾がはっきりしませんが,確かに,旧民法財産編177条成立後のボワソナアドによる同条に係る理想案においては“Les constructions et plantations, tant celles établies antérieurement au contrat que celles faites par le superficiaire, peuvent être enlevées par celui-ci, à moins que le propriétaire du sol ne se soit réservé le droit de préemption.(土地の所有者が先買権を留保していない限り,建築及び植物は,契約の前から存していたものも地上権者によって設けられたものも,地上権者が収去することができる。)と規定されていて,地上物収去の際の原状回復義務については言及されていません(Boissonade I, p.342)。また,そもそも旧民法には「地上権」者による地上物収去の権利義務に関する規定がありません。

 

(イ)永借人,賃借人及び用益人による収去の際の旧状回復義務

 この点旧民法の永借権(「永貸借トハ期間30年ヲ超ユル不動産ノ賃貸借」です(同法財産編1551項)。最長期は50年でした(同条2項)。)及び賃借権並びに用益権(「用益権トハ所有権ノ他人ニ属スル物ニ付キ其用方ニ従ヒ其元質本体ヲ変スルコトナク有期ニテ使用及ヒ収益ヲ為ノ権利」です(同編44条)。)と比較すると,永借権においては「永借人カ永借地ニ加ヘタル改良及ヒ栽植シタル樹木ハ永貸借ノ満期又ハ其解除ニ当リ賠償ナクシテ之ヲ残置クモノトス」(同法財産編1701項),「建物ニ付テハ通常賃貸借ニ関スル第144条ノ規定ヲ適用ス」(同条2項)とされ,賃借権については同法財産編144条が「賃貸人ハ賃貸借ノ終ニ於テ第133条ニ依リテ賃借人ノ収去スルヲ得ヘキ建物及ヒ樹木ヲ先買スルコトヲ得此場合ニ於テハ第70条ノ規定ヲ適用ス」と規定しているところ,同編1332項は「賃借人ハ旧状ニ復スルコトヲ得ヘキトキハ其築造シタル建物又ハ栽植シタル樹木ヲ賃貸借ノ終ニ収去スルコトヲ得但第144条ヲ以テ賃貸人ニ与ヘタル権能ヲ妨ケス」(À la fin du bail, il peut enlever les constructions et plantations qu’il a faites, si les choses peuvent être rétablies dans leur état antérieur; sauf la faculté accordée au bailleur par l’article 144.)としており(下線は筆者によるもの),③用益権については「用益者ハ自己ノ設ケタル建物,樹木,粧飾物其他ノ附加物ヲ収去スルコトヲ得但其用益物ヲ旧状ニ復スルコトヲ要ス」(Il peut enlever les constructions, plantations, ornaments et autres additions par lui faites, en rétablissant les choses dans leur état primitif.)とされています(同編693項。下線は筆者によるもの。なお,同条1項は「用益者ハ用益権消滅ノ時猶ホ土地ニ附著シテ其収取セサリシ果実及ヒ産出物ノ為メ償金ヲ求ムル権利ヲ有セス」と,同条2項は「又用益物ニ改良ヲ加ヘテ価格ヲ増シタルトキト雖モ其改良ノ為メ虚有者ニ対シテ償金ヲ求ムルコトヲ得ス」と規定しています。)。こうしてみると,ボワソナアドがその「地上権」について,地上物収去に当たっての原状(旧状)回復を求めていないのは意図的なものだったと考えるべきなのでしょう。

 

(ウ)附加物収去権の由来

 賃借人の収去権(旧民法財産編1332項)に関するボワソナアドの解説を見ると,用益者のそれ(同編693項)を参照せよということになっています(Boissonade I, p.275)。そこで用益者の収去権に関するボワソナアドの解説を見ると,当該収去権は、母法であるフランス民法599条及び555条(同条は不動産に対する添付に係る旧民法財産取得編11条に対応)との関係に係る問題に遡る大層な由来を背負っているものなのでした。

 

   同様の状況〔他人の設けた地上物に係る土地の所有者からの除去請求の可否並びに除去されない場合における同人による償金支払の要否及び額が問題となる状況〕が用益地上に築造又は栽植をした用益者に生じた場合に当たっては,フランスでは,二つの主要な考え方(systèmes)が存在している。

   その一においては,用益者を,悪意で地上物を設けた者と同視するものとする〔フランス民法555条により,土地の所有者が除去を求めれば,悪意で地上物を設けた者は,その費用で,かつ,補償なしに地上物を除去しなければならず,更に土地の所有者に損害があった場合には,その賠償もしなければならないことになります(同条1項・2項)。なお,土地の所有者は,償金を払って地上物を保持することもできます(同条1項・3項)。〕。なぜかというと,彼は自分に所有権が帰属しないことを明白に知っているからである。しかして論者は,法は用益者がした改良(améliorations)に係る何らの補償も同人に認めないこととしてはいるが〔フランス民法5992項は,用益者の行った改良に対する償金を,用益物の価格が増加していても,用益権が終了した時に同人に与えることを否定しています。〕建築(constructionsは改良であるとはしていないと説きつつ,少なくともそれらの収去は同人に認め,更に,所有者がその保持を望むときは,第555条の第1の場合について規定されるところに対応する償金〔費用額又は価格の増加額〕を支払うべきだと説く。

   第2の考え方においては,論者は,第599条を,補償の否認において絶対的であるものとみなし,かつ,同条においては「粧飾物」のみが挙げられている物の収去権について〔同条3項は,原状回復を条件として,用益者又はその相続人は,用益者の設置した鏡,絵画その他粧飾物を収去することができるものとしています。〕限定的であるものとみなしている。

   この解決方法によっては,法は,論理的なものとも衡平なものとも受け取られないものとなる。〔筆者註:1885114日のフランス破毀院審理部決定は,土地に加わってその価格を高める新たな建築も,起工された建物を完成させ,又は既存のものを拡張する建築もフランス民法599条の改良とみなされねばならないものとし,かつ,用益者は用益権の消滅時において,何らの関係においても,追奪された第三占有者と同視され得ないので,その際,同法555条の適用を受け得ないものとしています。すなわち,用益者のした建築は,たとえ用益物の価格が増加されていても,フランス民法5992項の改良であるものとして,同項の規定により,用益権が消滅した時に何らの補償も受け得ないわけです。〕

  106. 日本国の〔法〕はこれらの考え方と全く異なるものである。

   〔旧民法財産編693項〕は,用益者に対して,その建築及び植物を収去することを正式に認めている。確かに彼は,彼のものではない土地に築造又は栽植をしているということを必然的に知っているわけではあるが,虚有者に対して贈与をするつもりではないということも明らかなのである。また,彼を悪意の占有者のように取り扱うことも正当ではない〔善意であれば,地上物の除去を強制されないことになります(フランス民法555条旧3項後段)。〕。なぜなら,用益物は他人のものだと知ってはいても,彼はそれを占有する正当な権原を有しているのである。

  (Boissonade, pp.159-160

 

単純に,用益者が附加物の所有者なのだ,とア・プリオリに言うことはできなかったようです。

梅謙次郎は民法旧598条(「借主は,借用物を原状に復して,これに附属させた物を収去することができる。」)について「蓋シ借主ハ物ノ使用ニ便スルタメ往往之ニ他物ヲ附属セシメテ之ヲ使用スルコトアリ此場合ニ於テハ其附属セシメタル物ハ貸主ノ所有物ニ非サルヲ以テ之ヲ収去スルコトヲ得ルハ殆ト疑ヲ容レサル所ナリ或ハ添附ノ原則ニ依リ之ヲ収去スルコトヲ得サルカヲ疑フ者ナシトセサレトモ第242条ニ依レハ権原ニ依リテ不動産ニ物ヲ附属セシメタル場合ニ於テハ敢テ添附ノ規定ヲ適用スヘカラサルモノトセリ而シテ借主ハ物ノ使用,収益ヲ為ス権利ノ結果トシテ其使用,収益ノ為メニ他ノ物ヲ附属セシムルコトヲ得ルカ故ニ之ニ添附ノ規定ヲ適用スヘカラサルヤ明カナリ」云々と述べていますが(梅謙次郎『民法要義巻之三債権編』(私立法政大学=有斐閣書房・1912年(第33版))620-621頁),用益者の収去権に関する上記の煩瑣な議論に鑑みるに,使用貸借が民法242条ただし書の権原であることが既に認められていることを前提に同法旧598条の規定が設けられたというよりは,同条があることによって,使用貸借が同法242条ただし書の「権原」であることになったというべきもののようにも思われます。

地上権の場合は,地上物が地上権者の所有物であることは定義上明らかであって(民法265条の「工作物又は竹木を所有するため」),地上権が消滅しても当該所有権の所在に変動がないこととするのならば,そのことを明らかにする条文さえあれば,地上権者の所有権に基づく地上物収去が可能であることを特に基礎付ける条文は不要であったはずです。

 

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(上):民法265条及び旧民法財産編171条(他人の土地の使用権vs.地上物の所有権及び権利の内容)

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079836154.html



3 旧民法財産編172条:「山ノ芋カ鰻ニナル」

旧民法財産編172条は「地上権設定ノ時土地ニ建物又ハ樹木ノ既ニ存スルト否トヲ問ハス設定行為ノ基本,方式及ヒ公示ハ不動産譲渡ノ一般ノ規則ニ従フ」(Soit qu’il existe déjà ou non des constructions ou plantations sur le sol, au moment de l’établissement du droit de superficie, l’acte constitutif en est soumis, tant pour le fond et la forme que pour la publicité, aux règles générales des aliénations d’immeubles.)と規定していましたが,現行民法からは落とされています。梅謙次郎の説明によれば「本案ニ於テハ既ニ第177条〔第176条〕及ヒ第178条〔第177条〕ヲ以テ物権ノ総則ト致シテモ設定ニ関スル規定カ掲ケテアリマスノテ茲ニ又地上権ニ付テ言フ必要カナイト考ヘマシタカラ取リマシタ訳テアリマス」ということでした(民法議事速記録第10170丁表裏)。しかしながら,当該条項について,ボワソナアドには当然思い入れがあったところです。

 

 241. 〔旧民法財産編117条及び156条〕と対応するものである本条〔旧民法財産編172条〕の目的は,地上権と,通常のもの及び永借権を含む賃借権との間に存在する大きな相違に注意を喚起することにある。この2種類の賃貸借は各々それと同じ名称を与えられた特別の契約によってのみ設定され得るのに対して,地上権は,制約されているとはいえ何よりもまず不動産所有権であることから,土地と建物又は植物とを結び付けつつ,通常の所有権と同一の設定の方式によるのである。

  地上権の移転の形式もまた同じである。特に相続であって,この点で,賃借権に似ているが,用益権とは異なるものとなっている。

 242. 以上に加えて,法は本条において,別異に規整されるべき二つの仮設例を分明にしている。

  第1 地上権設定の時に工作物及び植物が既に存在している場合。この場合は,これらの物の譲渡が主たるものとしてあり,土地を借りること(le bail du sol)は従たるものにすぎない。

  第2 土地が特に「築造又は栽植のために」貸与された(loué)場合。この場合は,当事者間での新たな行為は不要であるが,築造自体又は栽植と共にでなければ地上権は発生しない。長期賃貸借に係る条件の成就の結果として地上権が生ずるものといってよいだろう。

  第1の場合においては,売買若しくは交換又は贈与によって,地上権者が不動産の取得者となることは明らかである。したがって,地上権の設定について,処分の権能についても,契約書の書式及び本編第2部(〔旧民法財産編348条〕以下)に規定される第三者の利益のために満たされるべき公示の条件についても,不動産の譲渡に係る規整が適用される。

  第2の場合においては,賃借権は長期のものか永借権であり,単なる管理者の権限を越えるので,処分の権能がまた必要である。しかしながら,賃借人によってされる築造については,そもそも土地の所有者によって当該土地上に築造がされる場合と同様,取得の公示を目的とする手続を履むことは必要ではない。

 (Boissonade I, pp.345-346

 

上記242の第2の場合については,「先ツ賃借権カ生シテモ家カ建チ樹木カ植(ママ)ルト同時ニ山ノ芋カ鰻ニナル様ニ賃借権カ化ケテ地上権トナルト云フ様ナ主義テアリマス」と梅謙次郎は説明しています(民法議事速記録第10198丁表)。山の芋が鰻になるとは,土用丑の日の折柄めでたいようではありますが,「夫レニシテモ権利カ途中カラ性質ヲ変スルト云フノハ可笑シイカ拠ロナク然ウテモ言ハヌト説明カ出来マセヌ〔のだろう〕」と,梅は辛辣です(民法議事速記録第10198丁表)。

なお,「地上権」設定の公示方法としてボワソナアドが想定していたものは,契約書等の謄記でしょう。ベルギー国1824110日法3条は「地上権の設定証書は,当該公簿に謄記されなければならない。」(Le titre constitutif du droit de superficie devra être transcrit dans les registres publics à ce destinés.)と規定していました。(謄記については:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1068990781.html


4 旧民法財産編173条と現行民法266条と:地代

旧民法財産編173条は「地上権者カ譲受ケタル建物又ハ樹木ノ存スル土地ノ面積ニ応シテ土地ノ所有者ニ定期ノ納額ヲ払フ可キトキハ其権利及ヒ義務ハ其払フ可キ納額ニ付テハ通常賃貸借ニ関スル規則ニ従ヒ其継続スル期間ニ付テハ第176条ノ規定ニ従フ/右納額ニ付テハ新ニ建物ヲ築造シ又ハ樹木ヲ栽植スル為メ土地ヲ賃借シタルトキモ亦同シ」(Si le titre constitutif soumet le superficiaire au payment d’une redevance périodique envers le propriétaire du sol, à raison de l’espace occupé par les constructions ou plantations cédées, ses droits et obligations sont régis, à cet égard, par les dispositions établies pour le bail ordinaire, sauf en ce qui concerne leur durée, telle qu’elle est réglée par l’article 176 ci-après.Il en est de même, sous le rapport de ladite redevance, si le terrain a été loué pour bâtir ou pour établir des plantations.)と規定していましたが,整理されて,現行民法266条の規定は「第274条から第276条までの規定は,地上権者が土地の所有者に定期の地代を支払わなければならない場合について準用する。/地代については,前項に規定するもののほか,その性質に反しない限り,賃貸借に関する規定を準用する。」となっています。

 地上権設定時における地上物の有無で旧民法財産編1731項及び2項のように場合分けをするのをやめたのは,梅謙次郎によれば,「初メカラ地上権ハアルノテ工作物又ハ竹木カ既ニ存スルト後ニ設ケルト其間ニ権利ノ差異カナイトチラモ地上権テアルト云フコトニナツタカラ自ラ其区別カナクナツタ」がゆえです(民法議事速記録第10198丁裏)。地上権は飽くまでも土地の使用権であって,その成立について当該土地上の地上物の有無は関係がないわけです。

「土地ノ面積ニ応シテ」が削られたのは,梅によれば,「是ハ地上権許リテナイ普通ノ賃貸借又ハ永貸借テモ借賃ハ土地ノ面積ニ応スルト云フコトテナク此家賃幾ラト云フコトニ極メルコトカ却テ多イト思ヒマス旁々以テ「土地ノ面積ニ応シテ」ト云フコトヲ取ツタ」ものです(民法議事速記録第10198丁裏)。「土地ノ面積ニ応シテ」の文言の意味するところについて,ボワソナアドは特に言及していません(cf. Boissonade I, pp.346-347)。

旧民法財産編1731項の「通常賃貸借ニ関スル規則ニ従ヒ」が,現行民法266条においてはまず第1項による永小作権の規定の準用,続いて第2項による賃貸借の規定の準用という形になったのは,旧民法成立後になってから,「地上権」の地代について「通常賃貸借ニ関スル規則ニ従」わしめることの間違いに気付かれたからでもありましょう。「旧法文においては,「通常」賃借権に関する規定を地代に適用せしめていた。しかし,筆者は,永借権に関する規定を適用する方がよいものと信ずる。なぜならば,ここではなお長期の賃貸借が問題となっているからである。」とはボワソナアドの反省の弁でありました(Boissonade I, p.347 (2)。また,民法議事速記録第10199丁裏)。また,地上権者と土地の所有者との関係は,土地の賃借人と賃貸人との関係よりは不人情なものであるべきなのでした。梅謙次郎いわく,「私ノ考ヘテハ賃貸借ニ於テハ賃借人カ或ル条件ヲ以テ例ヘハ不可抗力ノ原因ニ依テ其借賃ヲ減少シテ貰(ママ)コトカアル或ル場合ハ丸テ負ケテ貰(ママ)コトカアル是レハ地上権ニ対スル借地人ハ地主ト密着ノ関係ヲ持ツテ居ルカラトウモ然ウテナケレハナラヌ所カ夫レハ地上権ニハ当嵌ラス然ルニ若シ274275条ノ準用ト云フコトナシニ直チニ賃貸借ノ規定ヲ準用スルト云フコトニナルト夫レカ嵌ル夫レカ不都合テアラウト思フノテ夫レテ之〔274条及び275条の準用規定〕ヲ置キマシタ」と(民法議事速記録第10201丁裏-202丁表)。なお,民法2661項による永小作権に係る同法274条及び275条の準用について,梅は,同法277条も準用されるものと考えていたようです(民法議事速記録第10201丁表-202丁表)。

 

5 旧民法財産編174条と旧不動産登記法111条と:1筆中一部の地上権の原則性

旧民法財産編174条は次のような規定でしたが,削られました。梅謙次郎によれば「是レハ元来地上権ヲ以テ建物ノ所有権竹木ノ所有権ト云フ見方テアリマスト云フト幾分カ斯ウ云フ規定モ必要ニナツテ来様カト思ヒマスカ本案ニ於テハ土地ヲ使用スル方カ趣意テ其土地ヲ使用スルニハ工作物又ハ竹木ヲ所有スル為メ必要ナル範囲ニ於テモ土地ヲ使用スルト云フコトニナツテ居リマス然ウ致シマスレハ只家カ建ツタ丈ケテハ実際イカヌト云フコトハ自ラ分リマス適当ノ地面ヲ夫レニ加ヘルト云フコトハ実際ニ於テ無論出テ来様ト思ヒマスカ其広サニ付テ斯様ニ杓子定規ニ極メルノハ如何テアリマセウカ従来ノ慣習ニモナイ様テアリマスシトウモ杓子定規ニナツテ可笑シイト思ヒマス夫レハ契約其他地上権ノ設定行為ニ一任シマシテ只其設定行為ノ解釈ニ一任シタ方カ宜シイトンナ場合ニモ建物ヲ所有スルニ必要ナ空地ハ日本テハ予算シテ残ツテ居ルカラ然ウ云フコトヲ別ニ掲ケヌテモ困ルコトハ実際ナカラウト考ヘテ居リマス夫レテ取リマシタ」ということでした(民法議事速記録第10170丁裏-171丁表)。

 

 第174条 既ニ存セル建物又ハ樹木ニ於ケル地上権ノ設定ニ際シ従トシテ之ニ属ス可キ周辺ノ地面ヲ明示セサルトキハ左ニ掲タル規定ニ従フ

  建物ニ付テハ地上権者ハ其建坪ノ全面積ニ同シキ地面ヲ得ルノ権利ヲ有ス此配置ハ鑑定人ヲシテ土地及ヒ建物ノ周囲ノ形状ト建物ノ各部ノ用法トヲ斟酌セシメテ之ヲ為ス

  樹木ニ付テハ地上権者ハ其最長大ナル外部ノ枝ノ蔭蔽ス可キ地面ヲ得ル権利ヲ有ス

 

 Art. 174.  Si, lors de l’établissement du droit de superficie sur des constructions et plantations déjà faites, il n’a pas été fait mention de la portion du sol environnant qui en dépendrait comme accessoire, il sera procédé ainsi qu’il suit:

     Le superficiaire a droit, s’il s’agit de constructions, à une portion de sol égale à la superficie totale du sol des bâtiments; la répartition de cet espace sera faite par experts, en tenant compte tant de la configuration respective du sol et des bâtiments que de la destination de chaque portion de ceux-ci;

     S’il s’agit de plantations, la superficiaire a droit à l’espace que pourraient couvrir les branches extérieures arrivées à leurs plus grand développement.

 

旧民法財産編174条は,「地上権」の設定時において既に建物又は樹木がある場合についての規定です。地上物がない土地を地上物所有のために借りる場合については,ボワソナアドもいわく,「土地が「築造のために」借りられた場合には,地上権者は彼の工作物の便益(service)のために必要な土地の大きさを考慮に入れていたものと推定され,かつ,後になってから追加を要求することはできない。」と(Boissonade I, p.348)。

なお,梅は「杓子定規」云々といっていますが,旧民法財産編174条は,飽くまでも当事者間の合意がない場合のための補充規定です。「疑いもなく,大多数の場合において当事者は,地上権者に譲渡された建物に附随する土地の広さを決めるだろう。しかし,法は常に,当事者の不用意を,彼らのそうであろうところの意思に沿いつつ補わなければならない。ところで,地上物の買主は,周囲の土地無しに建物のみを取得したものとは思っていないことは明白である。そうでなければ,彼にとってその使用はほとんど不可能になってしまうのだ。」とはボワソナアドの言です(Boissonade I, p.347)。

しかし,旧民法財産編174条の規定によれば,地上権の範囲は,その対象となる土地の筆とは必ずしも一致しないもののようです。確かに,地役権については,「承役地の利用者は,承役地が要役地の便益に供せられる範囲において義務を負う」ものであって(我妻=有泉411頁,舟橋426頁),地役権は「承役地の占有を排他的に取得するものではない。地役権は共同(●●)便益(●●)()開かれて(●●●●)おり,承役地の所有者の利用も排斥されない」と説かれており(内田168頁),1筆の土地の一部分の上に地役権を設定することも可能であるところです(不動産登記法(平成16年法律第123号)8012号の「範囲」,不動産登記令(平成16年政令第379号)311号,716号,別表35項(添付情報欄のロに「地役権設定の範囲が承役地の一部であるときは,地役権図面」))。しかして地上権についても実は,かつては1筆の土地の一部をその範囲とする地上権の設定の登記が認められていました。すなわち,旧不動産登記法(明治32年法律第24号)111条は「地上権ノ設定又ハ移転ノ登記ヲ申請スル場合ニ於テハ申請書ニ地上権設定ノ目的及ヒ範囲ヲ記載シ若シ登記原因ニ存続期間,地代又ハ其支払時期ノ定アルトキハ之ヲ記載スルコトヲ要ス」と規定していたところです(下線は筆者によるもの)。地上権の地上物役権的把握の余響というべきでしょうか。

ところが,地上権設定の範囲は,昭和35年法律第14号による旧不動産登記法の改正によって,196041日から(昭和35年法律第14号附則1条),登記事項から削られてしまっています。「地上権の設定の範囲を明確にしますため,1筆の土地の一部についての地上権の設定登記を認めないこととし」たものだそうです(1960216日の衆議院法務委員会における平賀健太政府委員(法務省民事局長)の説明(第34回国会衆議院法務委員会議録第36頁)。同年310日の参議院法務委員会における同政府委員の説明も同様(第34回国会参議院法務委員会会議録第58頁)。)。「土地に関する権利のうちで地上権の比重が大きくなったこともあって,権利の範囲を明確に登記面に表示する趣旨に出たものと思われる。」との忖度的敷衍説明がされています(我妻=有泉344頁)。あるいは,その範囲を登記事項とすることが観念されていなかった土地の賃借権の登記(旧不動産登記法127条)との横並びが考えられたのかもしれません。

無論,1筆の土地の一部に地上権を設定することは,「1筆の土地の一部について所有権の取引が可能であるのと同様に〔略〕,実体法上否定すべき理由はない」ところです(我妻=有泉344頁)。ただし,「1筆の土地の一部について地上権を設定することは可能であるが,これに対抗力を与えるためには,分筆した上で登記するほかはな」いわけです(我妻=有泉344頁)。

なお,「地上権は一筆の土地の全部に及ぶのが普通であり,具体的なある地上権が一筆の土地の一部にしか及ばないというのは,地上権の効力の例外的な制限と見ることができる。このことを前提とすると,かかる制限を受ける地上権が(この制限は登記する方法がないから)制限のないものとして登記されている以上,この地上権が第三者に譲渡されると,土地所有者は上述の制限をもって地上権譲受人に対抗しえなくなり,したがって,譲受人は制限のない地上権つまり一筆の土地全部に及ぶ地上権を取得することになる,と解すべきであろう。」と説かれているところの問題があります(川島=川井編873頁(鈴木禄弥))。これについては,旧民法財産編174条に鑑みれば「地上権は一筆の土地の全部に及ぶのが普通」とはいえないところ,更に“Nemo plus juris ad alium transferre potest, quam ipse habet.”(何人も自己が有するより多くの権利を他人に移転できない。)でもあるのですから,民法942項が類推適用されるべきものでしょう(善意の第三者のみ1筆全体に及ぶ地上権を取得する。)。

 

6 旧民法財産編175条と現行民法267条と:相隣関係の規定の準用及び地役権との関係

 旧民法財産編175条は次のとおりですが,これが現在の民法267条では,「前章第1節第2款(相隣関係)の規定は,地上権者間又は地上権者と土地の所有者との間について準用する。ただし,第229条の規定は,境界線上の工作物が地上権の設定後に設けられた場合に限り,地上権者について準用する。」となっています。

 

 第175条 地上権設定後ニ築造シタル建物又ハ栽植シタル樹木ニ付テハ地上権者ハ此種ノ作業ノ為メ法律ヲ以テ相隣者ノ為メニ規定シタル距離及ヒ条件ヲ遵守ス可シ縦令其隣人カ地上権ノ設定者ナルモ亦同シ

  又地上権者ハ働方又ハ受方ニテ其他ノ地役ノ規則ニ従フ

 

  Art. 175  À l’égard des constructions et plantations faites après la constitution du droit du superficie, le superficiaire doit observer les distances et conditions prescrites par la loi aux voisins pour les mêmes travaux, lors même que le voisin est le constituant.  

          Le superficiaire est également soumis aux autres règles concernant les servitudes actives et passives.

 

 旧民法財産編1751項の重点は,ボワソナアドによれば,その後段にあったようです。いわく,「たとえ彼が栽植し,又は築造することが,その隣人となる者から彼に付与された権利に基づく場合であっても,地上権者は,築造及び栽植について規定された距離(観望に関する〔旧民法財産編258条〕以下及び栽植に関する〔同編262条〕を参照)を遵守しなければならないということを表明し置くことはよいことである。当該地上権者の立場は,売主の隣人となる土地の買主のそれと異なるものではない。」と(Boissonade I, pp.348-349)。

同条2項は,ボワソナアドの草案では“Le superficiaire est également soumis aux autres servitudes légales ou du fait de l’homme et peut les invoquer.”(地上権者は,同様に,他の法定又は人為の地役に服し,及び援用することができる。)となっていますから(Boissonade I, p.341),そういう意味なのでしょう。

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1 他人の土地を使用する権利たる地上権と地上物の所有権たる「地上権」と

民法(明治29年法律第89号)265条以下に,地上権に関する規定があります。同条は,「地上権者は,他人の土地において工作物又は竹木を所有するため,その土地を使用する権利を有する。」と規定しています。

 

   地上権は,家屋を築造し,トンネル・溝渠・架橋などを建設し,植林をするなどの目的で,他人の土地を使用する物権である。現行法の体系では,土地所有権を一時的に制限する権利であり,その制限は,原則として,所有者の意思に基づいて成立する〔略〕。〔略〕物権法定主義〔略〕の結果,地上権を設定する以上,所有者の留保ないし獲得しうる有利な地位にもおのずから限度がある。そこで,所有者は,自分の土地を他人に使用させるという地上権と同様の目的を,賃貸借によって達成しようとする。賃貸借においては,賃借人の使用権は,土地に対する直接の支配権としてではなく,賃貸人に対する債権(土地を使用させるように請求する権利)を介して,間接に生ずる権能として,構成されている。したがって,賃借人の使用権は,地上権に比して,あたかも,債権がその効力において物権に劣る点だけ,弱いものとなる〔略〕。〔後略〕

  (我妻榮著=有泉亨補訂『新訂物権法(民法講義)』(岩波書店・1983年(1984年補正))338頁。下線は筆者によるもの)

 

  地上権(〇〇〇)jus superficies, superficie, Erbbaurecht)ハ土地ニ関スル物権ニシテ所有権ニ次イテ強力ナルモノナリ其定義ハ第265条ニ於テ之ヲ掲クヘシト雖モ従来我邦ニ行ハルル借地権ノ一種ナリ新法典ニ拠レハ借地権ハ之ヲ4種ニ分ツコトヲ得(第1地上権(〇〇〇),(第2()小作権(〇〇〇),(第3賃借権(〇〇〇),(第4使用(〇〇)借権(〇〇)是ナリ

  (梅謙次郎『訂正増補民法要義巻之二物権編』(私立法政大学=有斐閣書房・1911年(第31版))224-225頁)

 

  借地借家法(平成3年法律第90号)21号 借地権 建物の所有を目的とする地上権又は土地の賃借権をいう。

 

以上のような説明及び法文を読むと,地上権とは,土地の賃借権の物権版であって,当該土地の使用(ちなみに,富井政章=本野一郎のフランス語訳では,所有権に係る民法206条の「使用,収益」は“d’user, d’jouir”と,賃貸借に係る同法601条の「物の使用及び収益」は“l’usage et la jouissance d’une chose”となります(Code Civil de l’Empire du Japon, Livres I, II & III(新青出版・1997年))。の目的が工作物又は竹木を所有するためであるもの,というふうに早分かりすることになります。これで大過はないところです。

しかし,中小の興味深い事実を見逃してしまうかもしれません。

 

 本条〔民法265条〕ハ地上権ノ定義ヲ下シタルモノナリ地上権ノ性質ハ古来大ニ議論アル所ニシテ各国ノ法律亦一様ナラサル所ナリ旧民法ニ於テハ仏国ノ一部ノ学者ノ説ヲ採リテ地上権ヲ以テ建物又ハ竹木ノ所有権トセルカ如シ是レ必スシモ誤謬ナリト謂フコトヲ得スト雖モ若シ此説ノ如クンハ地上権ヲ以テ所有権ニ異ナレル一ノ物権トシテ視ルコトヲ得サルヘシ苟モ之ヲ所有権ノ支分権トシ所有権ニ異ナリタル一ノ物権トスル以上ハ建物,竹木ノ所有権以外ニ一種ノ権利ヲ認メサルヘカラス然ルニ他人ノ土地ノ上ニ建物若クハ竹木ヲ所有セント欲セハ勢ヒ其土地ヲ使用セサルコトヲ得ス此土地ノ使用権即チ之ヲ地上権ト謂フヘキカ如シ故ニ本条ニ於テハ地上権ヲ以テ他人ノ土地ノ上ニ工作物又ハ竹木ヲ所有スル為メ其土地ヲ使用スル権利トセシナリ〔後略〕

 (梅二225-226頁。下線は筆者によるもの)

 

 「地上権ヲ以テ建物又ハ竹木ノ所有権トセル」とは,確かに奇妙ですね。所有権は所有権なので,それがどうして「地上権」なる別の物権になるものか。旧民法における「地上権」は一体いかなる権利だったのか興味が湧いてきます。また,旧民法においては,賃貸借はせっかく物権として規定されていたところ(旧民法財産編(明治23年法律第28号)115条以下),それとは別にわざわざ「地上権」の規定を設けていたのも(同編171条以下),現在の土地の賃借権と地上権との関係を考えると不思議ではあります。かくして筆者による旧民法的「地上権」に関する探訪が始まるのでした。

 

2 旧民法財産編171条と現行民法265条と:権利の内容

 

(1)旧民法財産編171条の条文及びそれに対する梅謙次郎の批判

 

  旧民法財産編171条 地上権トハ他人ノ所有ニ属スル土地ノ上ニ於テ建物又ハ竹木ヲ完全ノ所有権ヲ以テ占有スル権利ヲ謂フ

 

ここでの「地上権」は,単純な「建物,竹木ノ所有権」自体ではなく,「他人ノ所有ニ属スル土地ノ上」で自己所有の建物又は竹木を「占有スル権利」ではあります。土地所有者から旧民法財産編361項本文(「所有者其物ノ占有ヲ妨ケラレ又ハ奪ハレタルトキハ所持者ニ対シ本権訴訟ヲ行フコトヲ得」)の本権訴権の行使を受けないという附加的効能があるわけでしょう。

しかしながら,現行民法の地上権規定の審議を行った1894928(ちなみに,この月の15-16日には平壌攻略戦があり,17日には黄海海戦があって,日清戦争たけなわの時期です。明治天皇は広島に行在していました。)の第32回法典調査会において,梅謙次郎は旧民法財産編171条を酷評します。いわく,「苟モ建物及ヒ竹木ノ所有者テアレハ夫レヲ占有スルコトハ言フヲ俟タヌコトテアツテ若シ占有スルコトカ出来ナイ場合ハ所有者テナイノテ所有者ト言ヘハコソ占有スルコトカ出来ルト言ツテ宜イ位テ若シ是レカ建物又ハ竹木ノ完全ノ所有権ノ為メニ他人ノ土地ヲ()()スル権利ト言ツタラ稍々本案〔「地上権者ハ他人ノ土地ニ於テ工作物又ハ竹木ヲ所有スル為メ其土地ヲ使用スル権利ヲ有ス」〕ト同シ様ニナリマスカ既成法典ハ然ウナツテ居ラヌと(日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録第10巻』175丁裏。下線は筆者によるもの)。

当該会合においては磯部四郎🎴が,旧民法流の「地上権者ハ他人ノ地上ニ於テ工作物又ハ竹木其他ノ物ヲ所有スル権利ヲ有ス」という保守的修正案を提出していますが,否決されています(民法議事速記録第10197丁表,184丁表-185丁裏)。

 

(2)現行民法265条とベルギー国1824110日法1条と

梅によれば,日本民法265条は,オランダ民法及びベルギー法に倣ったものです。

すなわち,「和蘭民法並ニ白耳義現行法ニ於キマシテハ地上権ハ他人ノ土地ノ上ニ建物工作物又ハ樹木ヲ有スル権利テアルト書イテアリマスカ是レカ一番日本ノ慣習ニ近クテ理窟モ一ト通リ分ツテ居ルト思ヒマス日本テハ土地ノ上ニアル建物及ヒ竹木ヲ土地ノ所有者テナイ者テモ得ラレルト云フコトニナツテ居リマスカラ夫レヲ採リマシタカ只必要ナル範囲ノ上ニ於テ他人ノ土地ヲ使用スルコトカ出来ル夫レカ(ママ)即チ地上権テアルト云フコトヲ一層明カニスル為メニ本案ノ如ク書キマシタ訳テアリマス」(民法議事速記録第10177丁裏-178丁表)ということでした。ここでの「白耳義現行法」は,同国の1824110日法で,今同法1条を見るに“Le droit de superficie est un droit réel, qui consiste à avoir des bâtiments, ouvrages ou plantations sur un fonds appartenant à autrui.”と規定しています。ちなみに,1824年にはベルギー国はまだ独立しておらずオランダの一部であり,実は梅のいう「和蘭民法並ニ白耳義現行法」の規定は同一のものであって,オランダでは当該規定が後に民法典に編入されたものです(cf. Gve Boissonade; Projet de Code Civil pour l’Empire du Japon accompagné d’un commentaire, Nouvelle Édition, Tome Premier, Des Droits Réels (Tokio, 1890). p.315 (a))。

 

(3)旧民法財産編171条に関するボワソナアドの説明

旧民法財産編171条は,フランス語文では次のとおり。

 

 Art. 171.  La Superficie est le droit de posséder en pleine propriété des constructions ou des plantations d’arbres ou de bambous, sur un sol appartenant à un autre propriétaire.

 

 梅に酷評されつつも,旧民法財産編171条は,梅推奨のベルギー国1824110日法1条と余り変わりないようです(旧民法財産編171条では地上権が物権(un droit réel)であることを特に規定していませんが,そのことは,規定の位置からして当然明らかであったところです。)。(ただし,ベルギー国1824110日法には「土地が返還される(…que le fonds soit remis…)」という表現がありますところ(同法5条),これによって地上権者による土地の占有が間接的ながらも示され得ることが,あるいは梅が同法を気に入った理由だったのでしょうか。)

 旧民法財産編171条については,単刀直入にボワソナアドの解説を見てみましょう。

 

  240. 地価が比較的高い諸国においては,その主要な性格を本条が示しているところの所有権の変容(modification)が行われている。土地自体,すなわち底地tréfonds)はある人に属し,かつ,構築物édifices)又は地上物superfices)は他の人に属する,というように。

   地上権(le droit de superficie)は,ローマ法において見出すことができる。フランス古法ではほとんど使われていなかったものである。フランス民法においても言及されておらず,イタリア法典においても同様である。しかしながら,フランスにおいて導入され始めており,また,オランダ,ベルギー及びその他の欧州諸国において見出すことができる。〔筆者註:こういわれてみると我が旧民法の「地上権」規定は,フランス法系法域における当時の最先端のものとして立案されたようではあります。〕

   日本国においては,所有権に係るこの変容は他国より広く普及しているようである。家賃が高いことによるものであるが,当該高値自体は火災が頻繁であることに由来し,次いで当該頻繫性は,一般に木材で作られているという工作物の性質によるものであり,しかして当該工作の方法自体は,石材が少ないということによってではなく,地震が多いことによって余儀なくされているものである。

   住民らは,毎月非常に高い家賃を払うよりは,火災のリスクを冒しても,投下資本に係る利息及び地代が毎年かかるだけの自宅に住むことの方を選好しているのである。

  (Boissonade I, p.314

 

(4)ローマ法

 ローマ法における地上権については,「地上権(superficies)は地代(solarium)を支払つて他人の土地に建物を建設し,「地上物は土地に従う」(superficies solo cedit)との原則〔略〕により,土地の所有者の所有となつた該建物をあたかも所有者の如くに使用する権利である。〔略〕少くともユ〔スティニアヌス〕帝法では所有物取戻訴権類似の対物地上権訴権(actio de superficie in rem)を認められ,物権となっている〔略〕。」と説明されています(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)133頁)。

 “Superficies solo cedit.”の原則の意味するところは,かねてから筆者には悩ましいところです(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1073804586.html)。

 ボワソナアドのいう「所有権の変容」との意味は,「大陸法の地上権は,「地上物は土地に従う」の原則は適用あるが,その適用の結果土地所有者の有となつた建物をあたかも自己の所有物であるかの如く使用する物権というローマ法の廻りくどい表現法を変更し,さきの原則の適用を排除する物権と構成されている」(原田133頁)ことになった,ということでしょう。地上物を己れに従わしめるところの土地の所有権を変容せしめて,土地の所有者以外の者による地上物の所有を可能ならしめる制度である,ということでしょうか。「完全ノ所有権(en pleine propriété)」という表現が採用された理由は,ローマ法式の廻りくどい使用権ではないよとの感慨がそうしからしめたところであるようにも思われます。

 

(5)フランス法

 

ア Droit de Superficie

 フランスにおける地上権に関しては,「然し,フランスでは,地上物は土地に附属する(superficies solo cedit)という原則は,右の両民法〔ドイツ民法及びスイス民法〕ほど徹底していない(同法553条は建物だけが時効取得されることを認めている)。その結果,宅地または農地の借主が建物を建設する承諾を得ているときは,その建設した建物は賃借人の所有に属するものとみられ,学者は,かような場合の賃借人の権利を「地上の権利」(droit de superficie)と呼んでいる。然し,住宅難の解決のために特にこの権利を強化する必要も感じられていないようである。」と紹介されています(我妻榮『債権各論中巻一(民法講義Ⅴ₂)』(岩波書店・1957年(1973年補訂))395-396頁)。

更に敷衍すれば,「フランス民法においては,地上権は法律の条文によって規定された権利ではなく,土地所有権はその上下に及ぶという5521項の原則に対する例外を構成するものと解されている。この意味での地上権は,わが民法における地上権と異なり,一つの真正なる有体不動産所有権(propriété corporelle, immobilière)を構成し,30年の不行使によっても消滅することなく,また所有権と同様,永久権である。地上権は契約または法律の規定によって設定されるほか,時効によって取得することもありうる。地上権が存在する場合にも,土地所有者(propriétaire de tréfonds)は,土地所有権に属するすべての権能を行使しうるが,定着物および地表に損害を与えない義務を負担する。農地の賃貸借および建物の賃貸借については特別法が存在するが,地上権について,この権利を強化する特別法は存在しない。」とのことです(川島武宜=川井健編『新版注釈民法(7)物権(2)』(有斐閣・2007年)859頁(渡辺洋三))。梅は,この,地上権=「一つの真正なる有体不動産所有権」論が旧民法の「地上権」の前提になっているものと考えていたのでしょう。

なお,我が国の地上権の時効消滅(民法1662項)については,梅は「土地ヲ使用スル権利テアルカラ使用シマセヌケレハ夫レハナクナルケレトモ工作物竹木カアレハ夫レカアル以上ハ使用シテ居ルノテアルカラ使用ノ権利カナクナル気使ヒハナイ又工作物又ハ竹木夫レ自身ヲ使用シタト云フコトテナクモ夫レヲ所有シテ居ル以上ハ固ヨリ地上権ハ消滅シナイ是レハ彼ノ時効ノ所ニ規定シタ如ク所有権ノ取得時効ト云フモノカナケレハ所有権ハ消滅シナイ〔ところである〕」と述べています(民法議事速記録第10180丁表)。(ちなみに,ベルギー国1824110日法の地上権にも,30年の消滅時効の適用がありました(同法93号)。)

 

イ フランス民法553条と旧民法財産取得編8条と

 フランス民法553条は次のとおり。

 

  Art. 553  Toutes constructions, plantations et ouvrages sur un terrain ou dans l’intérieur, sont présumés faits par le propriétaire à ses frais et lui appartenir, si le contraire n’est prouvé; sans prejudice de la propriété qu’un tiers pourrait avoir acquise ou pourrait acquérir par prescription, soit d’un souterrain sous le bâtiment d’autruit, soit de toute autre partie du bâtiment.

  (地上又は地中の全ての建築その他の工作物及び植物は,その土地の所有者が自費によりこれを築造又は栽植したものと推定されるとともに,それに対する反証のない限り同人に帰属する。ただし,他人の建物の地下又は建物の他の全ての部分について,第三者が時効により取得した,又は取得する所有権を妨げるものではない。)

 

 同条は,我が旧民法財産取得編(明治23年法律第28号)8条に継受されています。

 

  第8条 建築其他ノ工作(ママ)及ヒ植物ハ総テ其附著セル土地又ハ建物ノ所有者カ自費ニテ之ヲ築造シ又ハ栽植シタリトノ推定ヲ受ク但反対ノ証拠アルトキハ此限ニ在ラス

   右建築其他ノ工作物ノ所有権ハ土地又ハ建物ノ所有者ニ属ス但権原又ハ時効ニ因リテ第三者ノ得タル権利ヲ妨ケス

   植物ニ関スル場合ハ第10条ノ規定ニ従フ

 

 フランス語文は,次のとおり。

 

Art. 8  Toutes constructions, plantations et ouvrages quelconques, faits au-dessus et au-dessous du sol ou des bâtiments, sont présumés faits par le propriétaire desdits sol et bâtiments et à ses frais, si le contraire n’est prouvé.

La propriété desdits ouvrages et constructions lui appartient, s’il n’y a titre ou prescription au profit d’un tiers.

En ce qui concerne les plantations, le cas est réglé à l’article 10 du présent Livre.

 

 旧民法財産取得編8条の趣旨を,更にフランス民法553条のそれと併せつつ知るには,ボワソナアドの説くところに当たるのが捷径でしょう。

 

  24. 本条〔旧民法財産取得編8条〕は,2箇の別個,かつ,かなり異なった性質の規定を包含している 。

   フランス民法は,これらを単一の規定(第553条)にまとめたことにより,それらのうち一方の射程を弱めてしまっている。しかしながら,理論的及び法学的解釈が,その価値の回復をもたらしているところである。

   フランス民法によれば,ここには2箇の推定があり,かつ,そのいずれも反証によって否定され得る。第1の推定は,建築その他の工作物の築造及び植物の栽植は,土地の所有者がその自費をもってしたものとするものである。第2の推定は,それらの物は同人に帰属するとするものである。ところで,フランス民法は,ここで第2の推定を第1のものの上に据えて,第1の推定が否定されればその結果,第2の推定が倒れるものとしたように観察される。しかしながらこのようなことを,法は,その根底において考えていたものではない。建築その他の工作物の築造が,土地又は建物の所有者以外の者の意思に基づき,かつ,その費用によってされたことが立証された場合であっても,それゆえに,場合に応じて不当利得に係る償金を支払うべきこと又は取壊し及び材料の収去を求める権利があることは別として,当該建築その他の工作物が土地所有者に帰属しないものとなるものではない。

   これら二つの規定に法律上の推定の性格を与えるとしても,第1の推定は単純又は全ての反証を許すものである一方,第2の推定は,絶対的ではないとしても,少なくとも覆すことがより難しいものであるということが認識されるべきである。当該工作物を第三者に譲渡せしめる権原に基づく反証又は第三者による長期の占有の結果としてのもう一つの推定であるところの取得時効に基づく反証以外の反証は認められないのである。

   要するに,ここにおいては,ローマ法に遡る法原則のしかるべき再確認(consécration)がされているのである。すなわち,「土地の上に建造された全ての物は,当該土地に添付するものである(tout ce qui est construit sur le sol accède au sol)。Omne quod inædificatur solo cedit.

   この趣旨において,本案の本条は草されたものである。

   法文は,土地の所有者と建物のそれとを分けて規定する配慮をしている。この両者は,日本国においては,他国の大部分においてよりもより多くの場合において別人格である。ところで,建物の所有者は,地上権者(superficiaire),永借人(emphytéote),用益者(usufruitier),小作人(fermier)であり得る。しかして,これらのうちいずれかの者によって建物が建築され,増築され,又は修築された場合においては,工事及び出費は同人によってされたものと推定され,並びに他人に属する材料が使用されたことが立証されたときには,次条において規定される償金の支払は別として,同人がその材料を取得する。

   また,フランス民法とは異なり,本条においては建築又はその他の工作物と植物とが別異に取り扱われていることにも気が付かれるであろう。植物についても確かに,建築と同様,その栽植は土地の所有者が自費をもってしたものと推定される。しかしながら,栽植が他人の(木,灌木,草本)をもってされたことが立証された場合においては,〔旧民法財産取得編10条〕において規定されるように当該苗の所有者が1年以内に返還請求をしないときに初めて所有権が取得される。この例外の理由付けは,当該条項の解説において示されるであろう。

  (Gve Boissonade; Projet de Code Civil pour l’Empire du Japon accompagné d’un commentaire, Nouvelle Édition, Tome Troisième, Des Moyens d’Acquérir les Biens (Tokio, 1891). pp.35-36

 

(6)日本的特性

 「日本では土地と建物とは別々の不動産だから,建物所有を目的とする借地(地上権であることも賃借権であることもある)が存在するが,欧米では「地上物は土地に従う」という原則があって,建物は土地の一部と観念される(建物が土地に附合する)。このため,日本のような借地は例外的に存在するに過ぎない。しかも,〔例外的に存在する彼の地の「借地」は〕日本のような地表を借りる借地とは考え方が違い,他人の土地所有権と一体とならずに(附合せずに)一定期間建物を所有する権利と考えられている。」との説明(内田貴『民法 債権各論』(東京大学出版会・1997年)167頁)は,この文脈の中において合点がいきます。我が国においては,「地上権を規定するにあたっては,地上物の権利関係はほとんどこれを問題とする必要なく,ただ土地の使用権たる方面だけを見ればいいわけである。民法が,地上権を,「土地ヲ使用(●●)スル権利」だとしたのは,このゆえである(ただし,永小作権の場合(270条)と異なって,工作物または竹木を「所有」するためとしているのは,ローマ法およびこれを承継した各国民法典の影響によるものと認められる。〔後略〕)」ということだったようです(舟橋諄一『物権法』(有斐閣・1960年)396-397頁)。

しかし,土地の使用権として徹底されずに「他人の土地において工作物又は竹木を所有するため」というローマ法由来の尾骶骨があえて残されている点において,地上権の特殊性がなお見出されるということは果たしてないのでしょうか。

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前編(旧文言関係)から続く:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079742256.html


第3 現行605条の文言に関して

 

1 「その他の第三者に対抗することができる」の文言の採用に関して

 

(1)旧605条における「対抗」の語の不採用と現行605条における採用及びその必要(賃借権多重設定時の優劣決定基準)と

以上,大きな回り道をした上で,民法旧605条において「対抗」の語が採用されなかった意味を考えてみるに,実は「対抗要件」という語には2義があって,同条は,本家の同法177条,178条及び467条に「対抗」の語を譲って,その使用を遠慮していた,ということのようです。

 

  対抗要件という言葉は,物や債権の二重譲渡のように,1つの権利をめぐって相容れない者同士が争う場合(対抗問題)の優劣決定基準という意味で用いられることが多い(177条・178条・467条)。賃貸借の対抗要件は,賃貸借という本来は債務者に対してしか主張できない債権について,第三者である新所有者等に対しても,主張できるようにする(対抗力をもたせる)という機能をもつ。

(中田裕康『契約法[新版]』(有斐閣・2021年(第32022610日))448頁)

 

しかしそうであると,現行605条は,従来の遠慮を強引にかなぐり捨てたものということになるのでしょうか。

 

〔前略〕旧605条は,不動産賃貸借の登記をすると,その不動産の新所有者等に対して「その効力を生ずる」と規定していたが,605条は「対抗することができる」と規定する。これは,㋐第三者に対する賃借権の対抗の問題と,㋑第三者への賃貸人たる地位の移転の問題とを区別し,605条は㋐を規律し,新設の605条の2が㋑を規律することとして,規律内容を明確化したものである。〔後略〕

(中田447頁)

 

 ㋑の問題に対応する限りでの㋐の「第三者に対する賃借権の対抗の問題」は,「賃貸借の目的である不動産が譲渡された場合,賃借人は,賃貸借の対抗要件を備えていれば,所有権に基づく譲受人の明渡請求を拒むことができる。」ということでしょう(中田449頁)。「物や債権の二重譲渡のように,1つの権利をめぐって相容れない者同士が争う場合(対抗問題)」ではありません。それだけであれば,あえて旧605条の文言を改めて「対抗」の語を採用する必要があったものかどうか。

 この点,平成29年法律第44号の法案起草者は,民法現行605条には是非とも「対抗」の語を用いなければならないと考えたようです。同条は「物や債権の二重譲渡のように,1つの権利をめぐって相容れない者同士が争う場合(対抗問題)の優劣決定基準」に関する規定,すなわち本来的な対抗問題に関する規定でもある,という判断がされたからであるようなのです。いわく,「旧法第605条は,登記をした不動産の賃貸借について,「不動産について物権を取得した者に対しても,その効力を生ずる」と規定していたが,判例(最判昭和281218日〔民集7121515〕)は,この規定により対抗力を備えた賃(ママ)人は,当該不動産について二重に賃借権の設定を受けた者など物権を取得した者ではない対抗関係にある第三者にも,賃貸借を対抗することができるとしていた。そこで,新法においては,登記をした不動産の賃貸借は,「不動産について物権を取得した者その他の第三者」に「対抗することができる」としている(新法第605条)。」と(筒井=村松313頁)。しかして現行605条の「その他の第三者」はどのようなものかといえば,正に民法177条の「第三者」を彷彿させるがごとく,「その不動産について所有権,地上権,抵当権などの物権を取得した者,目的物を差し押さえた者(差押債権者),二重賃借人などである。」とされています(中田446頁)。

 

(2)最判昭和281218日に関して

 昭和27年(オ)第883号建物収去土地明渡請求事件に係る昭和281218日判決において最高裁判所第二小法廷(霜山精一(裁判長),栗山茂,藤田八郎及び谷村唯一郎各裁判官)は,次のように判示しています。

 

   民法605条は不動産の賃貸借は之を登記したときは爾後その不動産につき物権を取得した者に対してもその効力を生ずる旨を規定し,建物保護に関する法律では建物の所有を目的とする土地の賃借権により土地の賃借人がその土地の上に登記した建物を有するときは土地の賃貸借の登記がなくても賃借権をもつて第三者に対抗できる旨を規定しており,更に罹災都市借地借家臨時処理法10条によると罹災建物が滅失した当時から引き続きその建物の敷地又はその換地に借地権を有する者はその借地権の登記及びその土地にある建物の登記がなくてもその借地権をもつて昭和2171日から5箇年以内にその土地について権利を取得した第三者に対抗できる旨を規定しているのであつて,これらの規定により土地の賃借権をもつてその土地につき権利を取得した第三者に対抗できる場合にはその賃借権はいわゆる物権的効力を有し,その土地につき物権を取得した第三者に対抗できるのみならずその土地につき賃借権を取得した者にも対抗できるのである。従つて第三者に対抗できる賃借権を有する者は爾後その土地につき賃借権を取得しこれにより地上に建物を建てて土地を使用する第三者に対し直接にその建物の収去,土地の明渡を請求することができるわけである。

   ところで原審の判断したところによると本件土地はもと訴外Dの所有に係り同人から被上告人の父Eが普通建物所有の目的で賃借し,Eの死後その家督相続をした被上告人において右賃貸借契約による借主としての権利義務を承継したが,昭和136月を以て賃貸借期間が満了となつたので,右Dと被上告人との間で同年101日被上告人主張の本件土地賃貸借契約を結んだのであるが,その後昭和15517日本件土地所有権はDからその養子である訴外Fに譲渡され,Dの右契約による貸主としての権利義務はFに承継された。ところが被上告人が右借地上に所有していた家屋は昭和203月戦災に罹り焼失したが被上告人の借地権は当然に消滅するものでなく罹災都市借地借家臨時処理法の規定によつて昭和2171日から5箇年内に右借地について権利を取得した者に対し右借地権を対抗できるわけであるところ,上告人は本件土地に主文掲記の建物を建築所有して右土地を占有しているのであるがその理由は上告人は土地所有者のFから昭和226月に賃借したというのであるから上告人は被上告人の借地権をもつて対抗される立場にあり上告人は被上告人の借地権に基く本訴請求を拒否できないというのであるから,原判決は前段説示したところと同一趣旨に出でたものであつて正当である。それゆえ論旨は理由がない。

  〔上告棄却〕

 

罹災都市借地借家臨時処理法(昭和21年法律第13号)10条は「罹災建物が滅失し,又は疎開建物が除却された当時から,引き続き,その建物の敷地又はその換地に借地権を有する者は,その借地権の登記及びその土地にある建物の登記がなくても,これを以て,昭和2171日から5箇年以内に,その土地について権利を取得した第三者に,対抗できる。」と,同法1条は「この法律において,罹災建物とは,空襲その他今次の戦争に因る災害のために滅失した建物をいひ,〔略〕借地権とは,建物の所有を目的とする地上権及び賃借権をい〔略〕ふ。」と規定していました。罹災都市借地借家臨時処理法は,1957年の段階で既に「立法の体裁として,甚しく妥当を欠く。速に整理して,恒久的存在をもつ法律とすることが望ましい。」と言われていましたが(我妻Ⅴ₂・401頁),大規模な災害の被災地における借地借家に関する特別措置法(平成25年法律第61号)附則21号により,2013925日から(同法附則1条,平成25年政令第270号)廃止されています。

建物保護に関する法律11項は,前記のとおり,「建物ノ所有ヲ目的トスル地上権又ハ土地ノ賃借権ニ因リ地上権者又ハ土地ノ賃借人カ其ノ土地ノ上ニ登記シタル建物ヲ有スルトキハ地上権又ハ土地ノ賃貸借ハ其ノ登記ナキモ之ヲ以テ第三者ニ対抗スルコトヲ得」と規定していました。建物保護に関する法律は,借地借家法(平成3年法律第90号)附則21号により,199281日から(同法附則1条,平成4年政令第25号)廃止されています。建物保護に関する法律11項の規定に対応するのが,借地借家法101項の規定(「借地権は,その登記がなくても,土地の上に借地権者が登記されている建物を所有するときは,これをもって第三者に対抗することができる。」)です。「借地権」は「建物の所有を目的とする地上権又は土地の賃借権」(借地借家法21号),「借地権者」は「借地権を有する者」です(同条2号)。

しかし,最判昭和281218日の論理は,筆者には分かりづらいところです。どう理解すべきか,少々努力してみましょう。(なお,当該事案の特殊性を強調して,「罹処法等により特別の対抗力を与えられている者については,これを優先させないと法律の目的が達成されないことはいうまでもない。」(星野433頁)とは直ちには言わないことにしましょう。)

当該判例は,民法旧605条,建物保護に関する法律11項及び罹災都市借地借家臨時処理法10条を,その理由付けのために動員しています。当該事案には,直接には罹災都市借地借家臨時処理法10条が適用されましたが,同条は,その「その土地について権利を取得した第三者に,対抗することができる」という文言からして,「物や債権の二重譲渡のように,1つの権利をめぐって相容れない者同士が争う場合(対抗問題)の優劣決定基準」に関する規定でもあるのだ,と最高裁判所によって解されるとともに,その際その前提として,当該対抗要件の具備は「その賃借権〔に〕いわゆる物権的効力〔この場合は排他性〕を有」せしめる効力(「変態的拡張」)があるのだ,としているものでしょうか。(筆者がここで,「いわゆる物権的効力」について,「同一の目的物の上に一個の物権が存するときは,これと両立しない物権の並存することを許さない」ものたる排他性(我妻榮著=有泉亨補訂『新訂物権法(民法講義)』(岩波書店・1983年)11頁)を措定するのは,「物権の排他性は,第三者に対する影響が大きいから,この性質を持たせるためには,物権の存在,ないしその変動(設定・移転等)を表象する外形を必要とすること」となっているところ(同頁),外界から認識し得る何らかの表象に係る当該必要が公示の原則であって(同40頁),当該公示を貫徹するために,成立要件主義に拠らずに採用されたのが対抗要件主義であるからでした(同42-43頁)。なお,対抗要件具備の先後によって権利の優先劣後が定まるのは,その前提として早い者勝ちの原則があるからでしょう。フランスでは,不動産謄記を対抗要件とする制度の発足前は,法律行為に係る証書の確定日付の前後で権利の優劣が決まっていたのでした。(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1068990781.html))その際,同様の「第三者ニ対抗スルコトヲ得」との文言であって前例と考えられる建物保護に関する法律11項が,罹災都市借地借家臨時処理法10条に係る当該解釈を補強する前例としても援用されたものでしょうか(しかし,正に「建物保護」に関する法律としては,上告人の現に所有している建物が収去されてしまうという結論は辛いですね。)。

当該解釈をもって遡及的に,実はそうとははっきりしない文言である民法旧605条の意味をも最高裁判所は捉え直したものなのでしょうか。それを承けて,「賃借権の登記が旧605条の想定していた場面(新所有者に対する対抗)における対抗要件としてだけでなく,二重賃貸借の優劣判定基準として用いられることにもなったわけである。」(中田456-457頁)ということで,平成29年法律第44号による新しい民法605条は,最判昭和281218日によって捉え直された民法旧605条の真意義に従って表記されたものであるということになるのでしょうか。

最判昭和281218日に関する長谷部調査官説明は「排他性のない債権たる賃借権に,物権的請求権に比すべき妨害排除請求権が認められるかは問題であるが,少くとも排他的効力を具備する賃借権にはこれを認めて差支えないであろう。本件は,罹災都市借地借家臨時処理法10条により借地権を第三者に対抗できる被上告人が,その対抗を受ける新な借地権者たる上告人に対しその地上建物の収去土地の明渡を求めるものであつて,上告人においては被上告人に対し自己の借地権を主張し得ない立場にあるのだから,被上告人の賃借権という債権に基く請求といえども,通常の債権の二重譲渡または二重設定の場合と異りこれを拒否し得ないこととなると思われる。以上が本判決の立場である。」というものでした(判タ3641頁)。ここでも,罹災都市借地借家臨時処理法10条による対抗要件具備が土地の賃借権に排他性(「いわゆる物権的効力」)を与えるということが当然の前提となっているようです。

 しかし,「対抗」の語から,勝手に連想が膨らんで行っているもののようにも思われます。

賃借権は債権である以上,「債権は,たとい事実上両立することのできないもの(ある人が同一時間に別の劇場で演技する債務)でも,無数に成立しうる。」(我妻Ⅱ・11頁)のが大前提であるはずです。債権者平等の下,現に占有を有する者が占有訴権によって保護されるということでよいでないか,という考え(星野432頁の紹介する「これは対抗力の問題外であって,債権の平等性の問題であり,先に履行を受けた者が事実上優先する(他の者に対する賃貸人の債務が履行不能となる)とする」高木多喜男説)も成り立つでしょう。これを,当事者たる賃貸人の同意無しに(罹災都市借地借家臨時処理法10条及び建物保護に関する法律11項の対抗要件具備には賃貸人の同意は不要でした。),物権的排他性のあるものにしてしまってよいのでしょうか。また,罹災都市借地借家臨時処理法10条は「第三者に,対抗することができる」と,建物保護に関する法律11項は「第三者ニ対抗スルコトヲ得」と規定していて十分抽象的ではありますが,それと同時に,物権的排他性を付与するものであると明示するものでもありません。「変態的拡張」たる物権的排他性付与の効果を認めるには不十分であるともいい得るでしょう。梅謙次郎も,第95回法典調査会において,「成程人権ト云フコトガアツテハ第三者ニ対抗ガ出来ヌコトデアリマスガ立法者ノ万能力デサウ云フコトハ差支ナイト思フ」と述べており(民法議事速記録第3311丁表裏),これは反対解釈すると,第三者に対抗できないことが本来の性質である債権に第三者に対する対抗力を与えるには,法律の具体的明文による立法措置が必要であるということでしょう。(この点に関して,大審院大正10530日判決は,「然レトモ明治42年法律第40号〔建物保護に関する法律〕第1条ニ地上権又ハ土地ノ賃借権ハ其登記ナキモ之ヲ以テ第三者ニ対抗スルコトヲ得トアルハ建物ノ所有ヲ目的トスル地上権又ハ賃借権ヲ有スル者ヲ保護スル為メ地上権ニ付テハ民法第177条ニ対スル例外ヲ設ケ賃借権ニ付テハ民法第605条ノ規定ヲ以テ不充分ナリトシ同条ノ要求スル賃借権ノ登記ヲ必要ナラスト為シタルモノナルコト其法律制定ノ旨趣ニ照シテ明ラカニシテ物権タル地上権ト債権タル賃借権ヲ同一規定ノ内ニ網羅シタル為メ対抗ナル文字ヲ用ヰタルニ過キサルモノトス故ニ前示法律第1条ニ所謂賃借権ノ対抗トハ第605条ニ賃借権ハ云云其効力ヲ生ストアルト同一旨趣ニシテ他意アルニアラスト解スルヲ相当トス」と,建物の所有を目的とする土地の賃借権については,建物保護に関する法律11項の規定するところは民法605条のそれと同じである旨判示していたところです。)

 

なお,建物保護に関する法律は,議員立法でした。

その法案は,当初は「工作物保護ニ関スル法律案」として,高木益太郎衆議院議員外1名から衆議院(第25回帝国議会)に提出されたものであって,190926日の衆議院における第一読会に付されたその内容は「地上権又ハ土地賃借権ニ因リ工作物ヲ有スル者ハ登記ナシト雖其ノ事実ヲ知リタル第三者ニ対抗スルコトヲ得」というものでした(第25回帝国議会衆議院議事速記録第672頁)。

当該原案に対する修正点の指摘が,1909212日の衆議院工作物保護ニ関スル法律案委員会で平沼騏一郎政府委員(司法省民刑局長)からされており(第25回帝国議会衆議院工作物保護ニ関スル法律案委員会議録(速記)第2回),成立した建物保護に関する法律11項の法文は,当該指摘を取り入れたものとなりました。平沼政府委員の指摘は大別して3点。すなわち,①工作物では広過ぎるので保護対象は建物に制限されたい(「此案ト云フモノガ民法ノ規定ニ対シテ余程大キナ例外ニ相成ルノデアリマスカラ,成ルベク範囲ハ狭メマシテ,保護ノ必要ノアリマスルモノニ限定致シタイト考ヘマス」「極メテ極端ナ一例ヲ申上ゲルヤウデアリマスガ,旗竿1本土地ノ上ニ立テ居リマシテモ,是ハ工作物ニ相成ラウト思フ」「今日ノトコロデハ先ヅ地震売買ノタメニ害ヲ受ケルモノハ建物ダケト考ヘテ宜シカラウト思ヒマス」),②原案では新地主保護が不十分である,建物の登記を求めるべきではないか(「此建物ノ建テ居ルト云フコトハ,成程表顕スベキ事実デアルカラ,新タニ土地ヲ買ヒマスルモノハ,建物ノ工作物ガ現ニ土地ノ上ニ存在シテ居ルカラ見レバソレデ分ルデハナイカト云フコトデゴザイマセウガ,〔略〕併シ随分此土地ノ区劃ト云フコトモ,郡部ナドヘ参リマスレバ曖昧ニナッテ居ル所モアルノデアリマスカラ,単純ニ建物ノ建ッテ居ルト云フコトダケデハ十分ナ公示ノ事実ニナラヌ場合モアルデアラウカト考ヘル,此建物ト云フモノハ建物ノ所有者一人ノ行為ニ依リマシテ,登記ノ出来ルコトニ相成ッテ居リマスガ,其登記ト云フコトハ,現今法律ニ認メラレタ建物所有ノ公示ノ方法ニナッテ居ルノデアリマスカラ,或ハ之ニ加ヘマシテ建物ハ登記セラレテ居ルト云フコトヲ必要条件ト致サナケレバ,十分ニ新所有者即チ譲受人ヲ保護スルト云フコトニ於テ,缺クルトコロガアリハシナイカト云フ懸念ヲ有シテ居ルノデアリマス」),及び③善意悪意で区別することはやめた方がよい(「併ナガラ此善意悪意ヲ斯ウ云フ場合ニ区別スルト云フ趣意ハ,現行ノ民法ニ於テハ先ヅ採ラヌ方ノコトニナッテ居ルヤウニ考ヘル」「又此善意悪意ノ区別ト云フモノガ,ナカナカ争ヲ生ジマスル原因ニナルノデアリマスカラ,サウ云フ争ヲ生ズルヤウナ原因ハ,成ルベク法律ノ上デハ杜絶シテ置ク方ガ必要デアラウト思フ,若シ只今申シマシタ所有ノ建物ニ登記ノアルト云フコトヲ条件ト致シマスレバ,最早此善意悪意ト云フコトヲ区別スル必要モナクナラウト考ヘマス」)ということでした。

 

 最判昭和281218日を支持する学説は,建物の所有を目的とする土地の賃借権に関して,次のように説きます。

 

  後説〔先に履行を受けた方が事実上優先するとする高木多喜男説〕は,対抗力の「本来の」問題とか,物権と債権の区別といった抽象論にやや捉われている感がある。確に,賃借権の対抗力は,歴史的には目的物の新所有者に対する対抗を意味したが〔略〕,だからといって今日そう解しなければならない必然性はない。実質的に見ると,用益権としては賃借権と地上権とで内容に大差がなく〔略〕,対抗要件とされた登記は,地上権においてはまさに二重賃貸借(ママ)の処理のための制度でもあり,この点につき差違を認める理由がないといえる。登記のある者と占有のある者との間においては,新所有者に対して賃借権を主張できる者が,新所有者に対して賃借権を主張できない者に破れるのはおかしい。また,双方に登記がある場合〔「登記実務上,2個以上の賃借権登記は可能とされている。昭和30521民甲972号民事局長通達」(幾代=広中199頁(幾代))〕に,登記が後でも占有が先の者を優先させるのは果たして妥当であろうか〔略〕。勤勉さという点でも,占有もさりながら,やはり登記を得た方がより勤勉といえよう。従って,「対抗要件」は,二重賃貸借の問題についての優劣判定の基準ともなると解したい。

(星野432-433頁)

 

 「新所有者に対して賃借権を主張できる者が,新所有者に対して賃借権を主張できない者に破れるのはおかしい。」というのは,に対して勝てるが,に負けるには負けるというジャンケン的状況はおかしい,ということでしょうか。しかしこの議論は,がいまだ登場して来ていない段階にあっては,迫力ないしは具体性においてどうでしょうか。

結局決め手は,「実質的に見ると,用益権としては賃借権と地上権とで内容に大差がな」いことなのでしょう。建物の所有を目的とする土地の賃借権は,建物の所有を目的とする地上権と同様の排他性を有することになったのだ,しかしてその画期は,両者を合わせた借地権概念が創出せられた借地法(大正10年法律第49号。同法1条は「本法ニ於テ借地権ト称スルハ建物ノ所有ヲ目的トスル地上権及賃借権ヲ謂フ」と規定しました。)の制定(大正天皇が裁可した192147日)ないしは施行時(同法15条・16条に基づき,大正10年勅令第207号により1921515日から東京市及びその周辺,京都市,大阪市及びその周辺,横浜市並びに神戸市に施行,その後順次施行地区が拡大され,全国に施行されたのは1941310日から(昭和16年勅令第201号))なのだ,ということになるでしょうか。前記大判大正10530日の事案は大阪の事件だったようですので(第一審裁判所は大阪区裁判所),判決日には借地法の適用があったわけですが(同法18条),施行後なお日が浅かった段階での判決であり,かつ,建物保護に関する法律11項にいう賃借権の「対抗」には旧605条の効果を含まぬという上告人の主張に対してそれを排斥したものですので(なお,上告人は,一審では勝訴しており,二審では被控訴人でした。),その後の最判昭和281218日流の解釈の妨げにはならないようです(なお,我妻500頁は,両判決間において「判例に変遷があるとみるべきものではあるまいと思う。」と述べています。)。

 

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第1 民法605条の現行文言と旧文言と

 平成29年法律第44号(202041日から施行(同法附則1条,平成29年政令第309号))によって改正された民法(明治29年法律第89号)の第605条は,

 

不動産の賃貸借は,これを登記したときは,その不動産について物権を取得した者その他の第三者に対抗することができる。

 

と規定しています。平成29年法律第44号による改正前の民法605条(以下「民法旧605条」ないしは「旧605条」といいます。)については,かねてから「本条ハ不動産ノ賃貸借ヲ登記スルトキハ之ヲ第三者ニ対抗スルコトヲ得ル旨ヲ定メタリ」といわれていましたから(梅謙次郎『民法要義巻之三債権編』(私立法政大学=有斐閣書房・1912年(第33版))638頁),一見するに現行605条の書き振りは,当然のことをそのまま書いたものであるように思われます。しかしながら,更によく見ると,旧605条の条文は,

 

不動産の賃貸借は,これを登記したときは,その後その不動産について物権を取得した者に対しても,その効力を生ずる。

 

であり,更に,平成16年法律第147号による改正(200541日から施行(同法附則1条,平成17年政令第36号))前の文言は,

 

不動産ノ賃貸借ハ之ヲ登記シタルトキハ爾後其不動作ニ付キ物権ヲ取得シタル者ニ対シテモ其効力ヲ生ス

 

というものであって,広く「第三者」に対して「対抗することができる」とは規定されていませんでした(富井政章=本野一郎によるフランス語訳は,“Le bail d’immeuble, lorsqu’il a été inscrit, produit effet même contre ceux qui ont acquis, depuis lors, des droits réels sur l’immeuble.)。

筆者はかつて,民法旧605条について,「不動産の賃貸借は,登記すると対抗できるようになります。すなわち,民法605条に書いてあるとおり・・・」と講義しつつ,同条の文言中に「対抗」の語が無いことに気が付き狼狽したことがあります。

 

第2 旧605条の文言に関して

 

1 「変態的拡張」

確かに,「対抗」とは,「私法上,当事者間において効力の生じた法律関係を第三者に対して主張することをいう。」わけですが(吉国一郎等編『法令用語辞典〈第八次改訂版〉』(学陽書房・2001年)495頁),賃貸借に基づく賃借人の権利は,専ら賃貸人に対するものである債権でしかありませんから(民法605条は,その第2編「債権」の第2章「契約」中にある規定です。),それを,その,「特定の人をして特定の行為をなさしめる権利であ」って「排他性のない」ものである債権たる性質(我妻榮『新訂債権総論(民法講義)』(岩波書店・1964年(1972年補訂))5頁参照)のまま,登記で公示して「対抗するぞ」と力んでみても,債務者である賃貸人以外の第三者に対しては,最初から権利が無いのですから,うっかりすると全く無意義であることになるようです。

民法旧605条に関して「蓋シ登記ハ素ト物権ニ付テ之ヲ為スヘキヲ本則トスルト雖モ(177)本条ニ於テハ便宜ニ従ヒ例外ニテ債権ヲ登記セシムルコトトセリ蓋シ賃貸借ハ債権ヲ生スルニ過キスト雖モ而モ其債権ハ間接ニ不動産ヲ目的トシ登記ニ由リテ之ヲ公示スルコト極メテ容易ナレハナリ而シテ登記ニ由リテ之ヲ公示スル以上ハ第三者ハ之ヲ知ルコトヲ得ルカ故ニ之ヲ第三者ニ対抗スルモ為メニ第三者カ不慮ノ損害ヲ被ルカ如キコトハ万有ルヘカラサルナリ」と梅謙次郎が説くとき(梅三639頁),そこで「対抗」される「之」は――文脈を素直にたどれば単に「賃貸借」ではありますが――登記をすることによって不動産の賃貸借が新たに取得した「その後その不動産について物権を取得した者に対しても,その効力を生ずる」という効力であるものと一応解すべきなのでしょう。

大審院大正10711日判決(民録271378)は「不動産ノ賃貸借ト雖モ其性質ニ於テハ当事者間ニ債権関係ヲ発生スルニ止マリ唯其登記ヲ為シタル場合ニ於テ爾後其不動産ニ付キ物権ヲ取得シタルモノニ対シテモ契約上ノ効力ヲ生スルニ過キサレハ賃貸借ノ登記ナルモノハ法律カ契約本来ノ効力ニ付キ一種ノ変態的拡張ヲ認ムルノ要件ナリ」と判示しています。すなわち,ここでの登記は,賃貸借契約の効力に「爾後其不動産ニ付キ物権ヲ取得シタルモノニ対シテモ契約上ノ効力ヲ生スル」効力を加える変態的拡張を生じさせると同時に,当該変態的拡張を公示するものであるわけです。(「変態的拡張」とは,なかなか印象的な表現ですね。)

 

2 梅謙次郎の説明並びにフランス法,ドイツ法及びオーストリア法

 1895618日の第95回法典調査会において,旧605条に対応する第608条案(「不動産ノ賃貸借ハ之ヲ登記シタルトキハ其不動産ニ付キ物権ヲ取得シタル者ニ対シテモ其効力ヲ生ス但敷金又ハ借賃ノ前払ヲ以テ之ニ対抗スルコトヲ得ス」)に関して梅謙次郎は次のように解説しています。

 

   既成法典に於ては賃借権を物権と見ましたのでございますが,本案では之を人権〔筆者註:当時は,債権のことを「人権」といいました。〕と見ました。夫故に若し規定がなければ,賃貸借関係と云ふものは第三者に対抗することが出来ぬと云ふことになる。

去り乍ら,不動産の賃貸借だけは,之を第三者に対抗することを得るとして置きませぬと頗る不便であろうと思ふ。

各国の法律を調べて見ますのに,各国の法律も皆さうなつて居ります。仏蘭西,和蘭,以太利,澳太利,モンテネグロ,白耳義民法草案,独乙の二読会民法草案抔も皆さうなつて居ります。其他の法律でも,原則としては第三者に対抗の出来ぬと云ふ主義を取つて居る所でも,取得者が相当の期限を与へて,(ママ)うして解約を申し入れることが出来ると云ふ丈けで,当然に権利が消滅して居るとはしてない。例へは,瑞西債務法,ババリヤ(ママ)〔筆者註:Bavariaは,すぐ後に出て来る(バイ)威里(エルン)の英語名です。〕,独逸一読会民法草案,巴威里等は皆さうであります。

本案に於きましては,右の多数の例に依りまして,不動産の賃貸借は第三者に対抗することを得るとありましたが〔筆者註:1893519日の法典調査会民法主査会第2回会議で予決された議案乙第6号の2に「賃借人ノ権利ハ一定ノ条件ヲ以テ賃貸人ノ特定承継人ニ之ヲ対抗スルコトヲ得ルモノト定ムルコト」とありました。当該会議において富井政章は「地上権ヲ存シテ置クト云フコトニナレバ格別若シ地上権ヲ廃スルト云フコトニナレバ此第2項ハ実ニ必要ナモノテアルト思ヒマス此第2項ガ無ケレバ賃借権ヲ人権トスルト云フ事ニハ私共ハ或ハ反対スルカモ知レマセヌ夫レ程ノ大問題デアリマシテ賃借権ヲ人権ニスルト云フ償ヒトテ是非第2ハ附ケ添ヘテ出サネバナラヌ問題デアルト思ヒマス」と発言しています(日本学術振興会『法典調査会民法主査会議速記録第196丁裏-97丁表』)。なお,同会議で穂積陳重は,対象となる賃借物の範囲について「我我ハ先ツ不動産丈ケデ宜カラウト云フコトニ相談シマシタ」と説明しています(同94丁裏)。,併し之には必ず登記がなければならぬと云ふことにしてあります。又,此点は,太利,白耳義,索遜〔筆者註:ベルギー法及びサクソン法は,参照条文として掲げられていません(日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録第33巻』7丁表裏)。〕の民法,瑞西債務法皆同じで,それ等の例に倣つたのであります。

今申上げた三つ(ママ)の例は,仮令ひ登記の場合であつても矢張り解約期限を守らなければならぬ,双方期限を設けて置て其期限の後に立退けと云ふことが出来る,それ迄は仕方がないと云ふことになつて居りますが,本案では是れは取らなかつた。何も取らなかつたと言へば,登記すれば第三者に対抗することが出来ると云ふことを極めてある以上は,第三者に対抗しやうと思へは登記さへすれば宜しいので,夫れを登記しなければ,第三者に対抗しない積りで初めから権利を得ないものと見て差支なからう。既成法典には物権と見た代りに之を登記してなかつたら第三者に対抗出来ないとしたので,其点は既成法典の主義の方が判然して宜しいと思ひましたので,それで登記のないのは一切対抗が出来ない,登記があるのは対抗が出来ると()した()が簡便であらうと思ひました。

仏蘭西では18年を踰る期限の賃貸借に限つて登記をする(ママ)白耳義では9年を踰る期限の賃貸借には登記すると云ふことになつて居りますが,18年の期限と云ふのは長い期限でありますが,さう云ふ期限の長いものを賃貸借にして置きましたならば弊害があると思ひますから,どんな短かいのでも第三者に対抗するには登記が要るとしたので,今,従来の慣習を調べて見ますと,第三者に対抗することが出来ぬと云ふ方が多いやうであります。是れは誠に尤もな訳で,登記と云ふことがなければ仕方がないが,併し今日は登記があつて,賃貸借も登記が出来るとして置けば,最早第三者に対抗することが出来るとした方が便利と思ひますから,多少従来の慣習に違うかも知れませぬが,登記をすれは第三者に対抗することを得と云ふことにしました。

(民法議事速記録第337丁表-9丁表。原文は片仮名書き。句読点及び改行は筆者が補ったもの)

 

1804年のナポレオンの民法典1743条は,“Si le bailleur vend la chose louée, l’acquéreur ne peut expulser le fermier ou le locataire qui a un bail authentique ou dont la date est certaine, à moins qu’il ne se soit réservé ce droit par le contrat de bail.”(「賃貸人が賃貸物を売却した場合であっても,賃貸借契約において当該権利が留保されていない限り,買主は,公正証書たる,又は確定日付のある契約書を有する農地賃借人又は借家人を退去させることができない。」)と規定していました。1894年のドイツ民法第二草案512条は,„Wird das vermiethete Grundstück nach der Ueberlassung an den Miether von dem Vermiether an einen Dritten veräußert, so tritt der Erwerber an Stelle des Vermiethers in die während der Dauer seines Eigenthums sich aus dem Miethverhältniß ergebenden Rechte und Verpflichtungen ein. / Erfüllt der Erwerber die Verpflichtungen nicht, so haftet der Vermiether, soweit der Erwerber zum Schadensersatze verpflichtet ist, für den Schadensersatz wie ein Bürge, der auf die Einrede der Vorausklage verzichtet hat. Der Vermiether wird von der Haftung befreit, wenn der Miether, nachdem er von dem Uebergang des Eigenthums durch Mittheilung des Vermiethers Kenntniß erlangt hat, das Miethverhältniß nicht für den ersten Termin kündigt, für den die Kündigung zulässig ist.(「賃借人への引渡しの後に賃貸借の目的物である土地が賃貸人から第三者に譲渡されたときは,賃貸人に代わって譲受人が,その所有権の存続中に賃貸借関係から生ずる権利義務に係る当事者となる。/譲受人が義務を履行しないときは,同人の損害賠償義務の範囲内において,賃貸人は,検索の抗弁権の認められない保証人として,当該損害賠償について責任を負う。賃貸人からの通知によって賃借人が所有権の移転を知った後に,同人が,解約告知が認められる最初の期日において賃貸借関係の解約告知をしなかったときは,賃貸人は上記の責任を免れる。」)と規定していました(現行ドイツ民法566条に対応)。日本民法の登記に対して,フランス民法は公正証書又は確定日付のある証書,ドイツ民法は引渡しをもって賃借人保護の要件とするということになるようです。

我が国とは東方国仲間(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079413301.html)であるオーストリア(Österreich)の民法(1811年(前年,オーストリア皇帝フランツ1世は,ナポレオンの岳父となっています。))1095条は,„Wenn ein Bestandvertrag in die öffentlichen Bücher eingetragen ist; so ist das Recht des Bestandnehmers als ein dingliches Recht zu betrachten, welches sich auch der nachfolgende Besitzer auf die noch übrige Zeit gefallen lassen muß.“(「賃貸借契約が登記されたときは,賃借権は,その後の存続期間中,爾後の所有者も認容しなければならない物権的権利とみなされる。」)と規定しています。„ein dingliches Rechtを「物権」ではなく「物権権利」と訳したのは,端的に物権であれば不要であるはずの„welches“以下の修飾句が付いているからです。

なお,不動産登記法(平成16年法律第123号)では「賃借権」を登記することになっているのに(同法38号),民法605条では「賃貸借」を登記することになっている点も筆者としては気になっていたところですが(不動産登記制度は,不動産に関する「権利」を公示するためのものです(旧不動産登記法(明治32年法律第24号)1条等)。),「賃借権」ではなく「賃貸借」が登記されるものと規定されている理由は,直接的にはオーストリア民法1095条が「賃貸借契約」を登記する旨規定していたことに由来するものと考えてもよさそうですね。

 

3 賃借人の登記請求権に関して

旧民法(明治23年法律第28号・第98号)を全面改正する新(現行)民法下において不動産の賃貸借の登記が励行されるかどうかについて起草者らが抱いていた見通しについてですが,これについては,当時の登記法制がどのようなものであったかも考えてみるべきなのでしょう。

1895年当時の登記法(明治19年法律第1号)11項は,明治20年法律第1号による改正を経て「地所建物船舶ノ売買譲与質入書入ヲ為ス者ハ本法ニ従ヒ地所建物ハ其所在地船舶ハ其定繋ノ登記所ニ登記ヲ請フ可シ」と規定していたところです。したがって,新(現行)民法対応の新しい登記法においても,賃貸借を「為ス者ハ本法ニ従ヒ地所建物ハ其所在地船舶ハ其定繋ノ登記所ニ登記ヲ請フ可シ」というような,登記申請が義務付けられた形での規定がされるものと考えられていたかもしれません。(ちなみに,1886年の登記法制定に当たっては,「登録税による財政収入を図る目的」もあったそうです(幾代通『不動産登記法』(有斐閣・1957年)4頁)。)

しかしながら,その後の実際はといえば次のとおりとなりました。

 

〔前略〕判例は,賃借権は債権であるから登記請求権はないと判示した(大判大正10711日民録27-1378)。その結果,地上権などとは違い,賃貸借においては賃借人は自ら対抗要件を具備することができないこととなり,結局,「売買は賃貸借を破る」という原則をとったに等しい状態となった。

しかし,賃借人には登記請求権がないという結論は,論理必然的なものではない。そもそも605条の起草者は,賃借人に登記請求権ありと考えていたと推測され,債権だからということは,登記請求権を否定する決定的な理由とはならない。

  しかし,この判決がでたとき,学説は,ドイツ流の物権・債権峻別理論の影響からか,反対しなかった。かくして判例はその後も維持され,それにより605条は事実上機能しないこととなった。賃貸人はわざわざ登記に同意したりしないからである。

 (内田貴『民法 債権各論』(東京大学出版会・1997年)215頁)

 

「賃借権がその本質において債権として構成されるということから,致し方ないものと考えられてきたわけ」です(幾代通=広中俊雄編『新版注釈民法(15)債権(6) 増補版』(有斐閣・1996年)186頁(幾代通))。

しかし,大判大正10711日の「論理」は,単純に「賃借権は債権であるから」ということのみから登記請求権を否定したものではありませんでした。当該判決において大審院第二民事部は「〔前略〕賃貸借ノ登記ナルモノハ法律カ契約本来ノ効力ニ付キ一種ノ変態的拡張ヲ認ムルノ要件ナリト謂フヘク其要件ヲ履践スルト否トハ賃貸借本来ノ効力範囲ニ属セスシテ当事者カ任意ニ処分シ得ヘキ事項ナレハ賃借人ハ賃貸借ノ登記ヲ為スコトノ特約存セサル場合ニ於テハ特別ノ規定ナキ限リ賃貸人ニ対シテ賃貸借ノ本登記請求権ハ勿論其仮登記ヲ為ス権利ヲモ有セサルモノト解スルヲ相当トス」と判示しているのであって,反対解釈すれば,賃貸借の目的不動産について物権を取得した第三者に対してもその効力を生ずることが不動産の賃貸借の「契約本来ノ効力」に属するものとの解釈が採られれば,不動産の賃借権がなお債権であっても,当該「賃貸借契約ノミニ依リ当然登記請求権ヲ有スル」ことが認められ得たようにも思われます。

 いずれにせよ,「賃借権も,登記によって第三者に対抗でき(民605条),この点で物権と同じことになったのだから,賃借人に登記請求権があると解することも,完全に可能で,理論的に何の障害もない」(星野英一『借地・借家法』(有斐閣・1969年)383頁)といわれても,不動産の賃借権が「物権と同じこと」になるためにはまず「変態的拡張」のための登記が必要であって,当該「変態的拡張」の部分のある民法605条の登記は,「変態的拡張」がそもそも不要である通常の物権に係る第三者対抗要件具備のみのための登記とはやはり違う登記であるように思われます。「不動産ノ賃貸借ハ其不動産ニ付キ物権ヲ取得シタル者ニ対シテモ其効力ヲ生ス但其登記前ニ物権ヲ取得シタル者ニ対シテハ此限ニ在ラス」というような条文ででもあったならばともかくも,「あまりにもおかしい」ことである「賃貸人の横暴と,賃借人の不当な圧迫」とを防止すべしとする「政策判断」(星野383-384頁)だけでは,大審院にはなおも不足だったものでしょう。 

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 本稿は,「準消費貸借(民法588)の藪を漕ぐ(下)」ブログ記事中「9 準消費貸借山域の鳥瞰図」の「(3)要物性緩和論の由来」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079396090.html)に関しての追記となります。

 

1 純消費貸借における要物性の緩和

「要物性の緩和」は,準消費貸借(民法(明治29年法律第89号)588条「金銭その他の物を給付する義務を負う者がある場合において,当事者がその物を消費貸借の目的とすることを約したときは,消費貸借は,これによって成立したものとみなす。」)についてのみならず,本来の消費貸借(同法587条「消費貸借は,当事者の一方が種類,品質及び数量の同じ物をもって返還することを約して相手方から金銭その他の物を受け取ることによって,その効力を生ずる。」)についても観念され得るところです。

すなわち,本来の消費貸借についても「要するに,一定量の経済的価値が,貸主の負担において,適法に,借主に帰属することを要するだけである。」(我妻榮『債権各論中巻一(民法講義Ⅴ₂)』(岩波書店・1957年(補注1973年))358頁),「例えば,契約額の一部を借主に渡し,残部を借主及び保証人の旧債務と差し引きにしたとき(大判大正756890頁),借主が貸主に対する第三者の債務を弁済することにしてその金額を消費貸借にしたとき(大判明治4468379頁)などにも,要物性を充たす。けだし,これらの場合にも,貸主の負担において借主にそれだけの経済的価値が帰属するからである。」(同358-359頁),「判例は,消費貸借の要物性をゆるやかに解釈し,現実に目的物の授受がなくても借主に現実の授受があったと同一の経済上の利益を得しむれば足りるとしている。」(来栖三郎『契約法』(有斐閣・1974年)253頁註(3))等と説かれています。

 

2 準消費貸借=消費貸借

こうなると,消費貸借と準消費貸借との区別は曖昧になってきます。その結果が赴くところは,両者の同一視です。いわく。「消費貸借の要物性を厳格に解する立場に対して,次第に強調されてきた要物性緩和の傾向は,本条〔民法588条〕の解釈にも当然影響し,今日では本条は,民法自身消費貸借の要物性を緩和している場合と解されている(松坂123,我妻365366,山主123,柚木・民法下129,宗宮164,石田穣187,星野171)。すなわち,消費貸借における物的要件は,既存債務の存在をもって足るというところまでゆるめられているのだと考えられるのである(我妻366)。そして,このように本条が要物性緩和の規定であり,本条の契約は結局消費貸借にほかならぬと解する場合には,準消費貸借という名称は,前述(イ)の説〔「本条はドイツ民法と異なって,消費貸借が成立したものと「看做ス」というのみであるから,本条の契約は,純粋の消費貸借ではなくして,単に消費貸借と同じ法律効果を生ずる契約というにすぎないのであって,したがって,そのような準消費貸借においては,純消費貸借におけると同じ物的要件〔厳格な要物性〕の具備を説明する必要はないとする理論」〕のような積極的な意味〔「この立場からすれば,本条の契約に準消費貸借という名称を与えることは,まさに妥当である」〕を含んでいないのであって,したがって,本条の契約を特別にそう呼ばねばならないかどうかは疑わしいとの説もとなえられている」と(幾代通=広中俊雄編『新版注釈民法(15)債権(6)』(有斐閣・1989年)21頁(平田春二)。下線は筆者によるもの)。

ただし,平成16年法律第147号による改正においては,民法588条に「(準消費貸借)」との見出しがわざわざ付けられてしまっています。民法587条の前に「消費貸借」との共通見出しを一つ付けて済ますことはされていません。同一の条において規定されているドイツ民法旧6071項(「金銭又はその他の代替物を消費貸借の目的として受領した者は,貸主に対して,同じ種類,品質及び数量の物をもって受領物を返還する義務を負う。」)と同条2項(「他の原因により金銭又はその他の代替物に係る債務を負う者は,当該金銭又は物について,消費貸借の目的としての債務を負うものとする旨の合意を債権者とすることができる。」)との関係には倣わなかったわけです。

 

3 裁判例

(1)消費貸借から準消費貸借へ

判例も「当事者が金銭消費貸借に基づき金員支払を求める場合において,その貸借が現金の授受によるものでなく,既存債務を目的として成立したものと認めても,当事者の主張に係る範囲内においてなした認定でないとはいい得ない」としています(最判昭和41106日集民84543頁・判時47331頁)。(昭和38年(1963年)2月末か3月初めに3万円の敷金返還債権の譲渡があった場合における譲渡人(原告)から譲受人(被告)に対する「原告は被告に対し昭和3831日金3万円を弁済期(ママ)同年6月末日利息の定なく貸与した」ことを請求原因とする3万円の支払を求める訴えについて,事実審は「右事実によれば,昭和382月末か3月始め,現金の授受はないが,これと同視すべき金3万円の経済的利益の授受が原告より被告にあり,被告は同年6月末までにこの返還を約したのであるから,消費貸借の成立があつたというべきであり,被告は原告に対し右借受金3万円を支払う義務がある」との判決を下したところ,「X〔原告・被上告人〕は3万円の貸金債権に付単純なる貸金債権を主張して居るに過ぎず準消費貸借の成立を主張して居らない,〔略〕Xの主張を認容したことは明らかにXの主張して居らない事実を判決したか審理不尽又は理由不備の違法があるものと謂わざるを得ない。」との理由による上告があり,それに対して最高裁判所第一小法廷が「原審の事実認定は挙示の証拠によつて肯認し得るところである。」とした上で,「本件金3万円の債権につき原審は所論のごとき認定をしたのであるが,当事者が金銭消費貸借に基づき金員支払を求める場合において,その貸借が現金の授受によるものでなく,既存債務を目的として成立したものと認めても,当事者の主張に係る範囲内においてなした認定でないとはいい得ないから,畢竟,原判決には何等所論の違法はなく,論旨は採用に値しない。」と判示したものです(鈴木重勝「金銭消費貸借に基づく金員支払請求に対し,準消費貸借に基づく金員支払請求として認容することの可否」ジュリ増刊『昭和4142年度重要判例解説』(1973年)84頁)。)

つとに福岡高判昭和32910日判決高裁民集102435頁が「もつとも,消費貸借に基いて,貸与した金銭の返還を請求する訴訟においては,当事者が準消費貸借によつては請求しない旨特に表明しないかぎり,金銭の現実の消費貸借(狭義の消費貸借をいう)が認められない場合でも,裁判所はいわゆる準消費貸借の成否を判断し,その成立を認めて請求認容の判決をなしても,民事訴訟法第186条〔現246条「裁判所は,当事者が申し立てていない事項について,判決をすることができない。」〕に違背することはない」と判示していたところです。これについて将来の法務大臣は,「本件を眺めれば,準消費貸借と認めて認容しても申立の範囲内であるとすることは,実は消費貸借・準消費貸借という法律構成は原告に定立することを要求されている訴訟物の概念の中には要素としては入ってはいないのだ,という認識を表明するとみねばならない。」と述べています(三ケ月章「訴訟物をめぐる戦後の判例の動向とその問題点」『民事訴訟法研究 第一巻』(有斐閣・1962年)188頁)。

つまり,「消費貸借契約に基づく貸金返還請求につき,消費貸借の主張を準消費貸借の主張に変更しても,訴訟物は同一である」ということになります(岡口基一『要件事実マニュアル 第2版 上』(ぎょうせい・2007年)531頁)。

大判昭和18520日法学13167頁は「仮令該〔消費貸借〕契約成立に至るまでの来歴たる事実関係及該契約が現金の授受に基く消費貸借なるや或は現存の債務を目的としたる所謂準消費貸借なるや否の点等に於て被上告人〔貸主〕の主張するところを否定し却て上告人〔借主〕主張の一部を容れたる結果となるも右判定が〔消費貸借契約を表示する〕右甲第2号証の表示する契約其のものの成立と其の内容以外に亙るものにあらざる以上は之を以て被上告人の主張せざる事項を被上告人に帰せしめたるものと謂ふことを得ざるや勿論」と判示しています。

なお,民法666条が「受寄者カ契約ニ依リ受寄物ヲ消費スルコトヲ得ル場合ニ於テハ消費貸借ニ関スル規定ヲ準用ス但契約ニ返還ノ時期ヲ定メサリシトキハ寄託者ハ何時ニテモ返還ヲ請求スルコトヲ得」と規定していた時代の大判昭和269日民集68341頁は「消費寄託ヲ原因トスル訴訟ニ於テ初ニ現金ノ交付ニ因リ消費寄託成立シタリト主張シ後ノ弁論ニ於テ他ノ原因ニ因リ給付スヘキ債務アル金銭ヲ以テ消費寄託ノ目的ト為シタリト主張シタルトキハ単ニ民事訴訟法第196条〔「原告カ訴ノ原因ヲ変更セスシテ左ノ諸件ヲ為ストキハ被告ハ異議ヲ述フルコトヲ得ス」との柱書〕第1号ニ依リ事実上ノ申述ヲ更正シタルニ過キスシテ消費寄託タル訴ノ原因ヲ変更シタルモノト云フヲ得サルヲ以テ訴ノ変更アリタルモノニ非ス」と判示していました。

 

(2)準消費貸借から消費貸借へ

準消費貸借成立の主張に対して消費貸借の成立を認めたのは大判昭和9630日民集13151197頁で,「然レトモ当事者間ニ準消費貸借成立シタリト云フハ帰スルトコロ消費貸借ニ因ル債務ノ成立シタル事実ヲ主張スルニ外ナラサルヲ以テ当事者カ前者ノ事実ヲ主張シタル場合ニ裁判所カ簡易ノ引渡ニ因リ現金ノ授受ヲ了シ之ニ因リテ消費貸借ニ因ル債務ノ成立シタル旨ヲ判示シタレハトテ該認定カ訴訟資料ニ基クモノナル以上当事者ノ主張ニ係ル範囲内ニ於テ為シタル事実上ノ判断ニ非スト為スヲ得ス〔略〕所論ノ如ク当事者ノ主張セサル事実ニ基キ判決ヲ為シタリト言フヘカラサルヲ以テ論旨ハ理由ナシ」と判示しています。


(3)少数説

 以上の諸判例に抗して,小倉簡判昭和40112日判タ172222頁は,「消費貸借に基づいて貸与した金銭の返還を請求する訴訟においては,当事者が準消費貸借によつては請求しない旨を特に表明しない限り,金銭の現実の消費貸借が認められない場合でも裁判所は,準消費貸借の成否を判断し,その成立を認めて請求認容の判決をしても民事訴訟法186条〔現246条〕に違背しない旨の見解(福岡高等裁判所昭和32910日判決)があるけれども,当裁判所は,消費貸借に基づく返還請求権と準消費貸借に基づく返還請求権とは,その発生原因たる構成要件を異にするものであつて,全く異つた訴訟物であると解するので,訴の変更のない限りは,消費貸借に基づく金銭の返還請求訴訟において準消費貸借の成立の有無を判断することは違法であると考える(本件において原告は,準消費貸借に基く返還請求を主張しない旨明言しているので,右判例の見解にたつても同じ結論となる)。」と判示しています。最後の括弧書きを見るとあらずもがなということになるのですが,あえて上級裁判所である福岡高等裁判所の見解に公然異を立てています。しかし,前記最判昭和41106日の出現後も頑張り続け得たものかどうか。

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(上):藪山から登山口に戻る。

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(中):概念図及び当初山行計画

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079396057.html


9 準消費貸借山域の鳥瞰図

 以上の検討を経て,前記33)の6箇の問題をどう考えるべきでしょうか。

 

(1)旧債務の存否

旧債務は存続するのか消滅するのかの問題(①)については,民法起草者である富井も梅も,準消費貸借においては旧債務が消滅するものと考えていた,というのが筆者の認識です。

新旧債務の「同一性」の問題について我妻は「判例は,最初は,常に同一性を失うとなし(大判大正912272096頁参照),ついで,当事者の意思によるも原則として同一性を失わないと解し(大判昭和8224265頁参照),最後に,この見解を維持しながら,時効などについては,これを制限すべしとするもののようである(大判昭和86131484頁〔略〕)」とまとめています(我妻Ⅴ₂・367頁)。

当初の判例が「常に同一性を失うとなし」たのは,起草者の意思(更改型)に忠実な解釈であったというべきでしょう。

その後の「当事者の意思によるも原則として同一性を失わない」との解釈は,日本民法に即した固有の解釈というよりも,Protokolleにおける議論に現れたドイツ民法旧6072項流の解釈(債務変更型)を輸入したものでしょう。「ドイツ学説継受期には,〔準消費貸借は〕新旧債務が同一性を保つ〔――したがって,原因の交替する更改と同じものではない――〕固有の制度だとする説が多く主張され」たこと(柴崎41-42頁)の影響であるわけです。このドイツ流の解釈の導入の呼び水となり,またそれを容易にした理由の一つは,日本民法588条(の前半)の文言とドイツ民法旧6072項のそれとの類似性でしょう。準消費貸借について我妻は「思うに,当事者が全然同一性のない債務を成立させる契約をすることは可能である。」と説くに至っていますが(我妻Ⅴ₂・367頁),これは,同一性が維持されることを原則とするものであって,債務変更型のドイツ民法式の思考でしょう(更改制度を設けていない同法下でも,明文はないが――したがって例外的に――更改契約は可能であることは,前記62)のとおりです。)。

しかし,日本民法588条の後半の文言は新債務の発生を意味するもの(したがって旧債務は消滅しなければならない。)と解するときには(前記4及び61)参照),「当事者の意思によるも原則として同一性を失わない」とする解釈は,条文の文理に背反するのではないか,と気になるところです(同条は「みなす」とまでいっています。これについては,梅が「当事者ノ意思ニ任カセルト云フト動モスレバ意思ノ不明ナル為メニ問題ヲ生スル」との老爺心ないしは老婆心的見解を示していたところでした(前記4)。)。平成29年法律第44号による民法588条の改正は,新旧債務が同一性を失わないことを原則とすること(現在の判例と解されます(渡邊・新旧130頁)。)を立法的に改めて確認するものとしては,あるいは不十分なものだったのかもしれません。平成=令和流の「やってる感」的には,「金銭その他の物を給付する義務を負う者がある場合においては,当事者はその物を消費貸借の目的とすることを約することができる。」とまでの改正をも選択肢に入れるべきだったのではないかとは,軽薄な後知恵的思案でしようか。しかし,日本民法588条は,頭はドイツ式(債務変更型)・尻尾はフランス式(更改型)の藪山の鵺であると考えられ得るところ,そうであるのであれば,このねじくれた怪鳥――「わが民法の伝統的解釈態度は,かなり特殊なものである。第一に,あまり条文の文字を尊重せず(文理解釈をしない),たやすく条文の文字を言いかえてしまう。〔略〕第二に,立法者・起草者の意図を全くといってよいほど考慮しない。第三に,〔略〕わが民法学はドイツ民法学の影響が強く,フランス式民法をドイツ式に体系化し解釈するという,奇妙な状況を呈している。」(星野英一『民法概論Ⅰ(序論・総則)』(良書普及会・1993年)61-62頁註(1))――の退治は,全くの無意味ということにはならないでしょう。

 

(2)更改との関係

旧債務が消滅するとした場合における準消費貸借と更改との関係の問題(②)については,債務の要素を変更するものではないから準消費貸借は更改ではなく(民法旧5131項反対解釈),要物性に代えるに債務免除の利益に係る出捐をもってする要物性が緩和された消費貸借なのだ(債務免除説。梅三591-592頁),ということになるのでしょう。

なお,平成29年法律第44号による改正後の民法5131号は,「従前の給付の内容について重要な変更をするもの」である新たな債務を従前の債務に代えて発生させる契約をもって,更改による従前の債務の消滅をもたらす契約であるものとしていますが,改正後の同条は,改正前の同条1項における「債務の要素」の具体的な意味を読み取り得るようにするため,その明確化を図ったものとされています(筒井=村松208頁)。したがって,従来の民法旧513条に関する解釈は維持されるものと解してよいのでしょう。ちなみに,旧民法財産編490条は「当事者カ期限,条件又ハ担保ノ加減ニ因リ又ハ履行ノ場所若クハ負担物ノ数量,品質ノ変更ニ因リテ単ニ義務ノ体様ヲ変スルトキハ之ヲ更改ト為サス/商証券ヲ以テスル債務ノ弁済ハ其証券ニ債務ノ原因ヲ指示シタルトキハ更改ヲ為サス従来ノ債務ノ追認ハ其証書ニ執行文アルトキト雖モ亦同シ」と規定していましたところ,これについて梅謙次郎は,条件の加減は更改をもたらすものと変更し(民法議事速記録第23103丁表-104丁表。民法旧5132項),負担物の数量,品質の変更は目的を変ずるのである(そもそも義務の体様とはならない。)からこれも同様とし(同104丁裏-105丁表。民法旧5131項に含まれるとの解釈。ただし,「数量ノ変更ハ往往ニシテ旧債務ニ一ノ新債務ヲ加ヘ又ハ原債務ノ一部ノ消滅ヲ約スルニ過キサルコトアリ須ラク当事者ノ意思ヲ探究シテ之ヲ決スヘキモノトス」とされています(梅三356頁)。),「商証券ヲ以テスル債務ノ弁済ハ其証券ニ債務ノ原因ヲ指示シタルトキハ更改ヲ為サス」の部分を「債務ノ履行ニ代ヘテ為替手形ヲ発行スル亦同シ〔債務の要素を変更するものとみなす〕」に改めています(同105丁表-107丁表。平成16年法律第147号による改正前民法5132項後段)。

 

(3)要物性緩和論の由来

上記(2)の議論は,要物性緩和論の由来の問題(③)に対する解答ともなります。消費貸借の要物性を緩和するために準消費貸借の制度が設けられたのではなくて,金銭その他の物を給付する義務を負う者がある場合において当事者がその物を消費貸借の目的とすることを約してしまうという実態が先にあって,当該実態の法律構成のために要物性の緩和ということがされたのだ,ということになるのでしょう。

なお,我妻は「民法の要物性は既存の債務の存在で足る」といい(前記21)),法務省御当局は「消費貸借によらない物の返還債務を消費貸借の目的とする消費貸借」といっていますが(前記22)),既存債務がそのまま消費貸借の債務に採用される(名義が変わる)ということは,債務の名義の変更を認めない梅謙次郎の許すところではなかったでしょう。民法588条は給付義務の対象「物を消費貸借の目的〔物〕とする」と規定して,飽くまでも物レヴェルでの記述にとどめています。物の占有を問題にした占有改定説の名残ともいうべきでしょうか。

 

(4)準消費貸借の消滅時効

準消費貸借の消滅時効問題(④)は,梅が最も苦心したところです。梅の頑張りを尊重すれば,更改型の場合においてのみ消費貸借債務に係る時効期間が適用され,債務変更型の場合には既存債務に係る時効期間が適用されるものとせざるを得ません(また,渡邊・新旧154-155頁参照)。

新旧債務の同一性の有無にかかわらず判例は「最後には,時効については,常に別個に解すべきものと改めたとみてよいようである(大判昭和86131484頁)。最後の態度を正当とする。」ということであれば(我妻Ⅴ₂・368頁),常に消費貸借債務の時効となるわけですが,債務変更型の場合であって従前の債務の時効期間が消費貸借債務のそれよりも短いときにはいかがなものでしょうか。梅の意思の蹂躙問題はさておいても,民法146条の規定に鑑みるに,融通が利き過ぎるように思われます。(なお,民法146条の反対解釈により有効とされている時効期間を短くする合意が,別途可能であることはもちろんでしょう。)

ちなみに,大審院昭和8613日判決は,新旧債務の同一性が維持される場合においては「此の場合債務そのものは則ち従前の債務に外ならざるが故に厳格に云はば〔後に〕商行為により生じたる債務てふものは固より以て存すべくもあらず」であるが,「当事者の意思は此の債務をして爾今以後民法にもあれ商法にもあれ広く消費貸借に関する規定の支配を受けしめむとするに在」るのだから「準消費貸借締結自体が商行為なる以上商法中「商行為ニ因リテ生シタル債務」に関する規定の如きは総て其の適用あるものと解するを以て当事者の意思に合へりと為す」と判示しており(判決文の引用は渡邊・新旧119-120頁における紹介に基づくもの),当事者の意思に基づいて債権の消滅時効期間(平成29年法律第45号による削除前の商法(明治32年法律第48号)522条は,商事消滅時効の期間を,債権消滅時効の原則規定である民法旧1671項の10年よりも短い5年としていました。)を選択することができるかのような言明となっていました。当該判示については,「しかし,この判決の事件で準消費貸借の目的となった債務は機械器具の使用の対価とも,組合事業を一組合員が機械器具を使用し原料品等を処分する権利を与えられ単独で経営することを許された対価ともいわれる。前者だと動産の損料として民法〔旧〕1745号で時効は1年となるのであろうか。後者だと商行為として5年となろう。いずれにしても時効は完成しているので,時効はもとの債務の時効かそれとも準消費貸借債務の時効で,商行為なら5年であるなどと議論する必要はなかったように思われる。」との傍論性の指摘があり(来栖三郎『契約法』(有斐閣・1974年)268頁),更に「のみならず,当事者の意思が債務の同一性を維持するにある場合にも,準消費貸借によって,時効期間が変るとすることは,却って時効が当事者の意思によって左右されることをみとめることにならないだろうか。」との懸念も表明されています(同頁)。

いずれにせよ,平成29年法律第44号及び第45号による民商法の改正によって時効制度は単純化され,民法旧170条から174条までの短期消滅時効に係る規定も削除されていますから,準消費貸借の消滅時効をどう考えるべきかの問題は,その重要性を大きく失ってはいるとはいい得るところでしょう(渡邊・新旧154頁註(51)参照)。

 

(5)旧債務に伴っていた抗弁並びに担保及び保証の存否

旧債務に伴っていた抗弁並びに担保及び保証がどうなるかの問題(⑤)については,ドイツ法的解釈を貫けば,債務変更型なので原則としては全部残るが(ドイツ法における担保権及び抗弁権につき,渡邊・ドイツ124頁参照),当事者の意思によって変わり得ることはもちろん,ということになるのでしょう。当事者の意思の尊重は,Protokolleの議論において,他方の側(die andere Seite)が強調していたところです。なお,当事者の意思の解釈について我妻は,「然し,準消費貸借をする当事者の普通の意思には,おのずから一定の内容がある。それは,既存の債務に消費貸借としての性格を与えることである。従つて,この普通の意思を解釈の規準としなければならない。」と説いています(我妻Ⅴ₂・367頁)。ただし,「普通の意思」でない意思による,純消費貸借ならざる準消費貸借の存在は,排除されてはいないのでしょう(準消費貸借について,同時履行の抗弁権を我妻は認めてはいませんが(消費貸借は本来片務契約なので(民法587条),双務契約に係るものである同時履行の抗弁権(同法533条)が準消費貸借に認められるのはおかしい,ということでしょう。),認める判例があります(我妻Ⅴ₂・367頁)。)。

ところで,準消費貸借においては「先取特権(民法322条,328条)がない」とされますが(星野Ⅳ・171頁),これはボワソナアドの前記見解(前記7)及び「〔売買の代金を目的として〕消費貸借ト為スノ利益ハ〔略〕先取特権ナキトニ在ルヘシ(322328)」との梅の説明(梅三591頁)に倣ったものでしょうか。ボワソナアドも梅も旧債務が消滅するとの説であったので,旧債務に伴う抗弁並びに担保及び保証が全滅するのは当然ですが,債務変更型の準消費貸借においても同様とまで解し得るかどうかは疑問です。ドイツ民法では,我が先取物権に対応する担保物権は法定質権とされているそうですから,質権が存続するのであれば先取特権も存続するものとしてよいのではないでしょうか(下記筆者註2参照)

 

(6)要件事実論

要件事実論における被告説・原告説の争い(⑥)については,法律要件分類説の建前からすると,やはり原告説ということになるようです(梅本345-347頁参照)。

この点について付言すれば,ドイツ民法流の債務変更型理論に素直に従えば原告説ということになり,ただし当事者の合意次第では被告説となる場合もあり得る(Protokolleにおけるdie andere Seiteの議論参照),ということにもなるのでしょう。

ちなみに,Protokolleにおけるdie eine Seiteからの説明に「訴訟においては,原告は,被告が当該価額を受領したことを主張立証(nachweisen)しなければならない。当該主張立証に当たっては,被告が当該受領を争ったときは,消費貸借債務に変じた債権債務関係にまで遡らなければならない。」とあるのは,折衷的で面白い。被告説で訴状を書いてもよいが,被告が当該価額(Valuta)の受領を争うのならば,結局原告説に戻って当初の債権の成立まで遡らなければならなくなるというわけです。なお,ローマ法において,類似の取扱いがされていたようです。すなわち,ローマ法上の問答契約(ユスティニアヌス時代には,証書作成及びその上における“et stipulatus spopondi(要約せられて諾約候)との形式的約款の挿入を要する要式契約)は原則として「原因の記載のない場合には,原因が有効に成立していない場合にも有効に成立」し,訴えられたときには「原因不存在の挙証責任は固より諾約者にあ」ったものの,例外として,「若し金銭消費貸借を原因として問答契約がなされ,その証書が作成せられたときは,金銭不受領の抗弁(exceptio non numeratae pecuniae)の対抗が許され,成立の日附より1年(当初),5年(ヂ〔オクレティアヌス〕帝以来),2年(ユ〔スティニアヌス〕帝)内ならば,原因存在の証明を債権者がなすことを要する」ものとされていたそうです(原田173-175頁)。ローマ法では「利息は問答契約の形で約さねば発生せず」ということだったので,消費貸借(「代替物給付の債務を消費貸借上の債務に肩替することも許され」ていました。)は,「実際上問答契約で行われた」そうです(原田177-178頁)。

しかし,現在のドイツ民法学においては,「準消費貸借の合意がなされた場合に,〔略〕旧債務の不存在に基づく無効性については債務者に証明責任が負わされる。」ということになっているそうです(渡邊・ドイツ126頁)。Protokolleにおけるdie eine Seiteによる上記説明において想定されていたものとは異なった取扱いです。ドイツ人らも,文献考証の末,被告説を採る日本の判例理論に学んだのでしょうか。それとも,Protokolleにおいてdie andere Seiteが「いつもきちんと約されるものではない」と言っていた,「価額の受領の証明のために当初の法的基礎に遡る必要はない」とする「承認」が――債務承認まではいかないものの――その後,「いつもきちんと約されるもの」であるという推定を受けるようになったものでしょうか。

(なお,被告説を採ったものとして有名な我が前記最判昭和43216日の上告理由(弁護士小松亀一法律事務所のウェブサイトにありました。)を見ると,債務者は「一口の借金を返済しては又借(ママ)るといつたことを繰り返していたところ,残元金額は準消費貸借の公正証書にある98万円ではなく7万円にすぎないとして,98万円の支払を求める債権者と争っていたようです(すなわち,累次の弁済によって91万円分は消滅していたのだ,ということであったように思われます。)。原告説においても「旧債務の発生原因事実が要件事実で,その障害,消滅事由が抗弁に回るとの説」があるそうですが(岡口533頁の紹介する村上博巳説。また,『「10訂民事判決起案の手引」別冊 事実摘示記載例集』6頁は「準消費貸借契約の成立を主張する側で旧債務の発生原因事実〔筆者註:「存在」ではありません。〕を主張すべきであるとする見解」を原告説としています。),弁済による旧債務消滅の主張は被告の抗弁に回るとの解釈も,原告説内で可能なのでしょう。そうであれば,「明確に証明責任があるという説示は余り見られず,準消費貸借契約を示す借用書をはじめとする書面があることをもって,旧債務の存在を推定する」ものとし「結論として債務者に証明責任を負わせることに」なっていた(梅本345頁における,最判昭和43216日前の諸判例に係るまとめ。宇野栄一郎解説(『最高裁判所判例解説民事篇(上)昭和43年度』(法曹会)269-270頁)では「大審院は一般に,借用証書,消費貸借証書の授受が確定されている事案については,準消費貸借における旧債務の存否については,債務者が不存在の事実を立証することを要すると考えてきたようである。ただそれが,債務者に旧債務発生の権利根拠事実の不存在について立証責任ありとするのか,或いは,準消費貸借契約の成立が確定される場合には旧債務の存在が事実上推定され,債務者に反証を挙げる立証の必要があるということにとどまるものか必ずしも明らかではない。」)ことを前提に,当該最高裁判所判決(これも,「原審は証拠により〔略〕残元金合計98万円の返還債務を目的とする準消費貸借が締結された事実を認定」したことに言及しています。)における「旧債務の存否については〔略〕旧債務の不存在を事由に準消費貸借の効力を争う者においてその事実の立証責任を負うものと解する」との判示の部分は,権利障害事由及び権利消滅事由については本来の法律要件分類説(原告説)からしても当然のことを述べたものとして,権利の発生原因事実については当該事案における書証の存在による影響について述べたものとして理解することもあるいは可能かもしれません。すなわち,例の宇野調査官は「右にいう〔準消費貸借契約の効力を争う者がその立証責任を負担すべき〕旧債務の不存在の事実とは,旧債務につきその権利障害事実および権利滅却事実の存在をいうことはもとより,本件事案の内容に照らせば,権利根拠事実の不存在をも包含していると解すべきものであろう。」と書いているそうですが(梅本345頁。下線は筆者によるもの),そこでの「本件事案の内容」とは具体的には準消費貸借の締結に係る書証の存在であって,本件事案では当該書証(当該債権につきその譲渡後にされた債務確認及び弁済方法に係る合意に関する債務者作成の公正証書作成嘱託代理委任状並びに準消費貸借契約成立の際締結された保証契約に係る保証人の誓約書)の存在により旧債務の発生原因事実の存在が推定されて「権利根拠事実の不存在をも包含」ということになってしまったものの,旧債務の発生原因事実の不存在について債務者が当然かつ常に主張立証責任を負うものとまで同調査官は解しているものではない,と考えることも可能ではないでしょうか。)

ところで,Motiveによれば,ドイツ民法旧6072項の規定は,exceptio non numeratae pecuniaeが被告債務者から提起されたときに,そこで原告債権者が直ちに敗訴ということにならず更に原因存在の証明に進んで争うことができるようにするために,用心のために設けられたものでした。しかし,原告債権者の訴状が最初から原告説で書かれているのであれば,当該用心は不要であったはずです。2002年のドイツ民法改正によって同法旧6072項の制度に係る規定は削られたそうで,その理由は,「準消費貸借は単に「私的自治に基づく契約による内容形成および変更の自由」を規定した一般条項であるBGB3111項から導かれるにすぎない」から(渡邊・新旧156頁註(52))ないしは「債務法改正によって消費貸借も諾成契約として規律されたため,消費貸借への内容変更も私的自治上の内容変更の自由(契約自由の一般原則,BGB3111項)によって端的に規律されるにすぎない」からであるとされていますが(渡邊・ドイツ121頁),そこには上記のような訴訟手続的観点からの見切りも含まれていたものかどうか。(なお,ドイツ民法3111項の原文は,„Zur Begründung eines Schuldverhältnisses durch Rechtsgeschäft sowie zur Änderung des Inhalts eines Schuldverhältnisses ist ein Vertrag zwischen den Beteiligten erforderlich, soweit nicht das Gesetz ein anderes vorschreibt.(債権債務関係の法律行為による創設及び債権債務関係の内容の変更のためには,法律が別異に規定していない限り,当事者間の契約が必要である。)です。我が旧民法財産編も,その第2951号で義務は合意により生ずるものとしつつ(同条2号ないしは4号は,不当ノ利得,不正ノ損害及び法律ノ規定によっても義務が生ずるものとしています。),第2961項で「合意トハ物権ト人権トヲ問ハス或ル権利ヲ創設シ若クハ移転シ又ハ之ヲ変更シ若クハ消滅セシムルヲ目的トスル二人又ハ数人ノ意思ノ合致ヲ謂フ」と規定していました(下線は筆者によるもの)。)

翻って我が平成29年法律第44号による民法改正も,準消費貸借について,ドイツ流の債務変更型であるものときっぱり解釈することとし,かつ,司法研修所における原告説による司法修習生教育の徹底を前提とすることとすれば,一気に第588条の削除まで進み得たものなのかもしれません。201287日の法制審議会民法(債権関係)部会第54回会議において中田裕康委員から準消費貸借について「そもそも588条を置く必要があるかどうかについては,検討する必要があると思います。」との問題提起があり,山野目章夫幹事もそれに和していましたが(同会議議事録34-35頁),当該問題提起は結局,夏空を揺らぎ飛ぶ尻切れ蜻蛉(とんぼ)に終わってしまったようです。しかしそれとも,尻切れ蜻蛉は言い過ぎで,藪の向こうにおいてしっかりとした検討がされておりその結果,「最終法案の段階に至っては,書面による諾成的消費貸借契約の導入のみならず,従来通りの要物的消費貸借契約も維持されたため,従来と同様の準消費貸借の規定が意義を有すると考えられたとみることができる。」(渡邊・ドイツ148-149頁)ということとなったのでしょうか。

Parturient montes⛰⛰🌋nascetur ridiculus mus🐀

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(上):藪山から登山口に戻る。

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079396029.html


5 概念図その1:ドイツ民法草案のMotive und Protokolle

 ところで,ドイツ民法第一草案には理由書(Motive)が,第二草案には第二草案に関する委員会議事録(Protokolle)が存在しています。

 Motive及びProtokolleの当該部分の拙訳は,次のとおりです。

 

 ドイツ民法第一草案理由書

 

  第454

   それ自身確かに事柄に即したものである第454条の規定(ザクセン法1071条,ヘッセン法案136条,バイエルン法案622条,ドレスデン法案527条,ヴィントシャイト§37011参照)の採用は,少なくとも,用心によって要請されるものと見受けられる。それによって,消費貸借の目的返還の訴えを同条に掲げる合意に基づき提起した債権者は,次のような債務者の抗弁,すなわち,個々に決められた一定量の代替物を所有物として交付することを概念上前提とする消費貸借の目的(ein Darlehen)を彼は受領していない,したがって,不法の基礎の上に立つ当該請求は棄却されるべきである,との抗弁から守られるのである。当該規定がなければ,そのような抗弁を提出する債務者を排斥できるかどうか,疑問なしということには全くならないものである。当該事案は,当該危険を予防されざるべきものとするには,余りにも頻繁かつ重大なのである。ところで,当該規定は,既存の債務の拘束力について抗弁の付着していないことを前提としており,債務者が先行する債権債務関係に基づく抗弁により防御することができるか否か,また,できるとしてどの範囲においてかについて規定するものでは全くない。このことについては,他の規定によって決定されるものである。

  (Motive S.312

 

 ドイツ民法第二草案に関する委員会議事録

 

   第454条に対して,次のように規定されるべしとの動議が提出された。

 

    ある者が,相手方に対して,金銭又はその他の代替物に係る債務を負う場合においては,両者間において,当該債務の目的について,以後消費貸借の目的としての債務が負担されるべきものとする旨の合意をすることができる。

 

   草案は当該動議の規定振りによることとなった。

一方の側から(Von einer Seite),第454条の内容及び射程に関して,以下のことが強調された。

 

     訴訟においては,原告は,被告が当該価額を受領したことを主張立証しなければならない。当該主張立証に当たっては,被告が当該受領を争ったときは,消費貸借債務に変じた債権債務関係にまで遡らなければならない。また,今日の法は,短期時効期間に服するものであっても,存在する全ての債務に対して,消費貸借債務の性質を付与する可能性を認めている〔筆者註:ドイツ民法第二草案1831項(ドイツ民法旧2181項)によれば,執行証書(ドイツ民事訴訟法79415号)を組めば,本来は短期時効期間に服する債務の消滅時効期間も30年(ドイツ民法旧195条おける普通時効期間)に延びることになっていました。ちなみに,商人の非業務用商品代金債権の消滅時効期間は2年でした(ドイツ民法旧19611号)。他方,ドイツ民法旧2251文は,時効を排除し,又はその完成を難しくする法律行為を認めていませんでした。〕。しかし,この取扱いは,それによって既存の債務が消滅させられ,かつ,その価値をもって新債務が創設されるものと,ローマ法の意味で観念されるものではない。むしろそれは,今日の法観念に従って,既存の債務を今後はあたかも最初から消費貸借債務として創設されていたものとして存続するものに変更することに専らかかわるものである。旧債務の担保(Pfänder〔筆者註:なお,ドイツ民法においては,我が留置権に相当するものは「これを,Zurückbehaltungsrecht§§273, 274)とし,あくまでも同一債権関係から生じた二つの債権の間の拒絶権能として,債権編の総則の中に規定する。従って,学者はこれを債権的拒絶権能として,同時履行の抗弁権(同法320条)を包含する広い概念と解している」ということであり(我妻榮『新訂担保物権法(民法講義Ⅲ)』(岩波書店・1968年(1971年補正))21頁),我が先取特権に相当するものについては「債務者の総財産の上の優先弁済権のみならず不動産の上の優先弁済権をも廃止し,ただ特定の動産の上の優先弁済権を散在的に認めたに過ぎない。しかもこれを法定質権(gesetzliches Pfandrecht)となし,債権と目的物との場所的関係を考慮して公示の原則をできるだけ守ろうとしている。」とのことです(同51頁)。〕)及び保証人は消滅せず,依然として存続する。実業界においては,債務額の確定約束が消費貸借債務への変更によってされることが非常に多く,かつ,それに伴い債務証書(消費貸借証書)が作成されるのが一般である。実際のところ,これは,債権債務関係の承認であって価額の確定されるものにかかわるものである。債務を消費貸借債務として表示することは,特に抽象的約束に適している。債権債務関係は,当該変更によって,従前の法的基礎から解放されるのである。消費貸借は最初から丸められた関係を作出し,それ自体の中に,過去において胚胎し,その成立と共に締結され,出来上がった法的基礎を有している。消費貸借からは,受領者に係る拘束のみが生じ,当該拘束に反作用する貸主の義務は生じない。それにより,内容的には,消費貸借債務と抽象的債務約束との間には差異は存在しない。当初の法的基礎(売買,交換等)の影響から債務を引き離す目的のために,債務の変更は生ずるのである。確定した価額の消費貸借債務への債務変更に係るこの意味は,第683条〔債務約束に関する規定〕において考慮されるべきものである。

 

この説明に対して,他方の側から(von anderer Seite),第454条に係る事例は非常に多様であり得るものであるとの異議が述べられた。消費貸借債務への債権債務関係の変更に伴い,承認は,価額の受領の証明のために当初の法的基礎に遡る必要はないとの意味で,いつもきちんと約されるものではない。他方,確かに,当事者の意図に基づいて,変更と同時に本来の債務承認がされるべき場合も生ずるのである。合意の当事者が一方の意味かそれとも他方の意味を付与しようとしていたかどうかは,具体的な場合の情況からのみ解明されるものである。

  (Protokolle Band II. (Guttentag, Berlin: 1898) SS.42-43

 

債務約束(Schuldversprechen)及び債務承認(Schuldanerkenntniß)は,「債権の発生を目的とする無因契約」で,「契約の一方当事者が他方に対して,一定の債務を負担する旨――新たに独立の債務を負担する形式(ド民の債務約束)でも,従来の債務関係を清算した結果として一定の債務のあることを承認する形式(ド民の債務承認〔略〕)でもよい――を約束することによつて,その債務者は無因の債務(債務を負担するに至つた原因たる事実に基づく抗弁はできない)を負担するもの」です(我妻榮『債権各論上巻(民法講義Ⅴ₁)』(岩波書店・1954年)53頁)。これらについては「わが民法は,かような契約を認めていないけれども,契約自由の原則からいつて,有効に成立することは疑いないものであろう」とされています(我妻Ⅴ₁・54頁)。

上記無因の債務改変のみならず,そこまでは至らない,「旧債務が新しい消費貸借債務に完全に置き換えられることによって,その債務が消滅する」有因の債務改変も可能です(渡邊力「ドイツにおける準消費貸借と債務関係(契約内容)変更の枠組み」法と政治682号(20178月)125頁)。

 

6 当初山行計画:富井及び梅の準消費貸借理論(占有改定説から債務免除説へ)

 

(1)更改型理論

富井は,消費貸借契約の成立に必要な金銭その他の物の交付(借主が「受け取る」)は,必ずしも現実の引渡し(民法1821項)によるものに限られず,簡易の引渡し(同条2項)でも可能であると考えていたわけです。この場合において,この簡易の引渡しは具体的にはどのような形で現れるかといえば,「即チ一度売主ニ〔代金を〕交付シテ更ニ借主トシテ,交付ヲ受クルト云フ如キ無益ナル手数ヲ要セス(第588条),此レハ先キニノヘタル簡易引渡ニヨル占有ノ移転ナリ」ということのようです(「明治45年度(東大)富井博士述 債権法講義 下巻」(非売品。表紙に「此講義ハ同志ノ者相寄リ茲ニ45部ヲ限リ謄写ニ附シ配本セリ,本書ハ即チ其1部也」とあります。)250頁)。つまり,売買代金支払債務に係る金銭を目的とする消費貸借がされるときには,当該代金支払債務に係る金銭をいったん売主に交付して(これで,代金債務は弁済されて消滅します。),それから当該金銭を消費貸借の目的として売主(貸主)が買主(借主)に交付するのが本則であるが,金銭のやり取りについては省略してもよいというわけです。この金銭のやり取りの省略をどう法律構成するかについては,簡易の引渡しだけでは道具不足のようですが,「占有改定説は,〔略〕起草委員が当初構想していた方法であった」ということで(柴崎暁「「給付の内容について」の「重要な変更」――平成29年改正債権法(新債権編)における客観的更改の概念――」比較法学521号(20186月)43頁註(4)),占有改定説というからには占有改定(民法183条)も道具として使い得るようです。そうであれば,買主が代金を占有改定で弁済した上で,続いて売主(貸主)から借主(買主)への消費貸借の目的の交付は,借主(買主)が売主(貸主)のために代理占有している代金に係る金銭の簡易の引渡しによってされる,という構成なのでしょう。しかし,買主(借主)の手もとが「からつぽう」であれば――無に対する占有は無意味ですので――そもそも代金に係る金銭の占有改定もその簡易の引渡しも観念できないことになり,その困難に富井は気付いて,債務者が「からつぽう」であったときも対応できるドイツ民法流の準消費貸借規定の導入となったのでしょう。

富井のMotive理解は(Protokolle1895年末当時の我が国ではまだ見ることができなかったのではないでしょうか。),他の債務に基づく給付の目的を消費貸借の目的とした場合における貸主(債権者)からの消費貸借に基づく返還請求に対する借主(債務者)の「消費貸借の目的を〔自分〕は受領していない」との「抗弁(Einwand)」に対しては,本来,当該目的に係る占有改定・簡易の引渡しの意思表示の主張立証で対応できるのであるが,ドイツにおいても債務者が「からつぽう」のときには「そのような抗弁を提出する債務者を排斥」できないという危険があり,その用心のためにドイツ民法第一草案454条は置かれたのだ,ということになるのでしょう。

富井の準消費貸借理解では旧債務の弁済がいったんはされるので,準消費貸借においては,旧債務は消滅して新債務が成立するのだ(更改型)ということになるわけです。すなわち,日本民法588条においては新たな消費貸借契約が成立したものとみなされますから,旧債務はその新らたな消費貸借の債務と併存するわけにはいかず(併存するとなると債務者は二重の債務を負うことになってしまいます。),消滅するしかないわけでしょう(渡邊力「準消費貸借からみる契約内容の変更と新旧債務の関係」法と政治671号(20165月)128頁における大審院の最初期判例の背景解釈参照)。

梅謙次郎は,「本条〔588条〕ノ規定ニ依レハ前例〔代金支払債務に係る金銭を消費貸借の目的とする例〕ニ於テ買主ハ代価支払ノ義務ヲ履行シ更ニ同一ノ金額ヲ消費貸借トシテ受取リタルト同シク前債務ハ当事者ノ意思ニ因リ消滅シ(免除)更ニ買主ハ借主トシテ新ナル義務ヲ負フモノト謂フ(ママ)と述べていて(梅謙次郎『民法要義巻之三 債権編(第三十三版)』(法政大学=有斐閣書房・1912年)591-592頁),代金支払債務は弁済で消滅するものとはせずに「ト同シク」で続けて,「当事者ノ意思」に基づく免除(単独行為の免除(民法519条)ではなく,免除契約ということでしょう。)で消滅するものとしています。「旧債務の免除による利得(出捐)を以て物の交付に該当するとみる説」たる債務免除説でしょう(柴崎43頁註(4))。この説であれば,債務者の手もとが「からつぽう」でも,占有改定説のように難渋することはありません。いずれにせよ,旧債務は消滅してしまう更改型です。

 

(2)参照:ドイツ民法の理論(債務変更型)

これに対して,ドイツ人らのProtokolleにおける議論においては,一方の側(die eine Seite)が「それによって既存の債務が消滅させられ,かつ,その価値をもって新債務が創設されるものと,ローマ法の意味で観念されるものではない」,すなわち更改(novatio)ではないのだ,とドイツ民法旧6072項の制度を説明しているのに対し,当事者の意思の重要性を指摘する他方の側(die andere Seite)もその説明に反対はしていません。債務変更型のものであるとの理解です(ドイツ民法においては債務変更型が原則であることにつき,渡邊・ドイツ125-126頁参照)。これは,ドイツ民法にはそもそも更改の制度がないからでもありましょう。「近代法では債権債務自体の譲渡引受が自由に認められているので,更改の意味はあまりなく,ドイツ民法は従つてこれを規定していない」ところです(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)245頁)。(「但し同法の下においても契約自由の原則によって更改契約は有効と認められている(Oertmann, Vorbem. 3a z. §362 ff.)」そうではあります(我妻榮『新訂債権総論(民法講義Ⅳ)』(岩波書店・1964年(補注1972年))360頁)。)

なお,更改に係る日本民法513条の原案の参照条文としてドイツ民法第二草案3132項及び357条が掲げられています(『法典調査会民法議事速記録第23巻』(日本学術振興会)100丁裏)。しかし,そこでの後者は,債務引受けの規定です(„Eine Schuld kann von einem Dritten durch Vertrag mit dem Gläubiger in der Weise übernommen werden, daß der Dritte an die Stelle des bisherigen Schuldners tritt.(債務は,第三者と債権者との契約によって,当該第三者がそれまでの債務者に代わる形で引き受けられることができる。))。前者は,代物弁済に関して,更改成立の例外性を規定するものです(„Hat der Schuldner zum Zwecke der Befriedigung des Gläubigers diesem gegenüber eine neue Verbindlichkeit übernommen, so ist im Zweifel nicht anzunehmen, daß die Verbindlichkeit an Erfüllungsstatt übernommen ist.(債務者が債権者の満足のために同人に対して新しい拘束を引き受けた場合において,疑いがあるときは,当該拘束は履行に代えて引き受けられたものとは推定されないものとする。))。ちなみに,準消費貸借によって給付物は変更されませんから,この点で,それまでの「給付に代えて他の給付をする」代物弁済(民法482条)とは異なります。

 

7 概念図その2:旧民法489条2号及びボワソナアドのProjet(更改説)

ところで,我が旧民法財産編(明治23年法律第28号)においては,実は準消費貸借は更改の一種だったのでした(同編4892号。梅三590頁は同号を民法588条の対照箇条として掲げています。)。

旧民法財産編489条の条文は,次のとおり。

 

 第489条 更改即チ旧義務ノ新義務ニ変更スルコトハ左ノ場合ニ於テ成ル

  第一 当事者カ義務ノ新目的ヲ以テ旧目的ニ代フル合意ヲ為ストキ

  第二 当事者カ義務ノ目的ヲ変セスシテ其原因ヲ変スル合意ヲ為ストキ

  第三 新債務者カ旧債務者ニ替ハルトキ

  第四 新債権者カ旧債権者ニ替ハルトキ

 

  Art. 489.  La novation, ou changement d’une première obligation en une nouvelle obligation, a lieu:

      Lorsque les parties conviennent d’un nouvel objet de l’obligation substitué au premier;

      Lorsque, l’objet dû restant le même, les parties conviennent qu’il sera dû à un autre titre ou par une autre cause;

      Lorsqu’un nouveau débiteur prend la place de l’ancien;

  Lorsqu’un nouveau créancier est substitué au premier.

 

 ボワソナアド草案の対応条項(第511条)に係るその第2号解説を訳出すると次のとおりとなります。

 

   553.――第2の場合。当事者の変更も目的の変更も存在しない。しかしながら,原因cause)の変更が存在する。例えば,債務者が売買の代金又は賃貸借の賃料として一定額の金銭債務を負っている場合において,その支払に窮したとき,それを消費貸借の名義(titre)で負うことにする許しを債権者から得る。債権者は,もちろん,債務者に対して,それでもって従前の債務を弁済すべき貸付けをすることができる。彼はまた,弁済を受領した上で,直ちに同額の貸付けをすることができる。しかし,単純な合意によって債務の名義又は原因を変更する方がより単純である。

   債務者が賃貸借名義で債務を負い続ける代わりに今後は消費貸借名義で債務を負うということには,利害なきにしもあらずである。消費貸借の債務は30年の普通時効にかかるが(第1487条〔旧民法証拠編(明治23年法律第28号)150条〕),賃貸借のそれは5年である(第1494条〔旧民法証拠編1564号(借家賃又は借地賃)〕)。消費貸借債権は何らの先取特権によっても担保されていないが,賃貸借については(少なくとも不動産のそれについては),多くの場合先取特権付きである(第1152条)。かくして,更改は債権者にとって,訴権行使の期限については有利であり,担保については不利ということになる。

   原因の変更による更改は常に両当事者によって自発的に行われ得る,及び全ての原因が両当事者によって他のものに変更され得る,と信ぜらるべきものではない。したがって,前例の反対は認められ得ない。真に貸され,又は売られた物がなければ賃料又は代金prix)は存在しないのであるから,消費貸借名義による債務が今後売買又は賃貸借名義のものになる旨両当事者が合意することはできないであろう。また,消費貸借債務から売買代金債務へという,そうされたものと両当事者が主張するこの変換自体が,貸主にとっては非常に危険であり得る。というのは,債務者は売却された物の不存在を容易に証明して,原因の欠如に基づき,支払を拒むに至るであろうからである。これに対して,消費貸借の原因を装うことが許されるときには,前記のとおり,債務者が受領した価額によって同人のための真の消費貸借が実現できるであろうし,又は,先行する負担(dette)からの解放に必要な価額を同人に貸し付けることができるであろうということになる。更改においては,相互的な2個の金額の給付に代えて,何ごともなされないこととなる。しかしながら,債務の全ての原因,全ての合意が,2個の引渡しに係るこの虚構(フィクション)になじむものではない。

   なお,原因の変更の手段は,消費貸借のみではない。何らかの原因を有する金銭支払又は商品引渡に係る負担を寄託に変ずることは,同様に容易である。債務の目的物が債務者によって調達された上で,それが直ちに寄託の名義で同人に委ねられたものと常に観念されることとなろう。特定物の寄託も使用貸借に変更され得るであろうし,その逆も同様であろう。名義又は原因の変更の例としては,事務管理に基づく債務が,本人の追認によって委任による債務に変更される場合も挙げることができる。

  (Gve Boissonade, Projet de Code Civil pour l’Empire du Japon accompagné d’un commentaire, Tome Deuxième, Droits Personnels et Obligations (Tokio, 1891 (Nouvelle Édition)) pp.679-681

 

 準消費貸借に係る富井の占有改定説は,ボワソナアドの上記所説に淵源するものでしょう。

 また,ボワソナアドの所説においては寄託への更改の事例が出て来ますが,これを見ると,平成29年法律第44号による改正後の民法では消費寄託に係る第666条において第588条の準用がなくなったことに関する懸念が表明されていること(柴崎53-54頁)が想起されます。これについては,銀行等の預貯金口座開設者が「からつぽう」であることはないから第588条の準用がなくとも大丈夫であって当該懸念は不要である,という整理だったのでしょうか(しかし,準用条項からの第588条の消滅は,「「要綱仮案」に関する作業の中で唐突に削除が提案され,さしたる議論もないままに承認された」そうです(柴崎53頁)。なお,筒井=村松368頁は「新法には準消費寄託について根拠規定はないが,無名契約として認めることは可能であると考えられる。」としています。)。

旧民法財産編489条は,フランス民法旧1271条を下敷きにしています(Boissonade, p.671)。

 同条の文言は,次のとおり。

 

  Art. 1271  La novation s’opère de trois manières:

        Lorsque le débiteur contracte envers son créancier une nouvelle dette qui est substitué à l’ancienne, laquelle est éteinte;

  Lorsqu’un nouveau débiteur est substitué à l’ancien qui est déchargé par le créancier;

 Lorsque, par l’effet d’un nouvel engagement, un nouveau créancier est substitué à l’ancien, envers lequel le débiteur se trouve déchargé.

  (第1271条 更改は,3箇の場合において生ずる。)

   (一 債務者が債権者に対して,新負担であって旧負担に代わるものを負い,当該旧負担が消滅するとき。) 

   (二 新債務者が旧債務者に替わり,後者が債権者によって債務を免ぜられたとき。)

   (三 新しい約束の効果によって,新債権者が旧債権者に替わり,後者に対して債務者が債務を負わなくなるとき。)

 

フランス民法旧1271条は更改成立について三つの場合しか認めていませんが,ボワソナアドによれば,「原因の変更によって生ずるものを排除する意図を有し得たものではない。」とされています(Boissonade, p.678。また,柴崎49頁註(14))。イタリア民法12301項は,原因(titolo)の変更による更改を認めています(柴崎41頁註(1))。

原因(コーズ)は,厄介です。「講学上は,「債務のコーズ」は有償双務契約においては,債務者に対して相手方が負う債務の「objet」とされ」(森田修「契約法――フランスにおけるコーズ論の現段階――」岩村正彦=大村敦志=齋藤哲志編,荻村慎一郎等『現代フランス法の論点』(東京大学出版会・2021年)164頁),「これに対して要物契約の「債務のコーズ」は,契約成立に先行して交付された物の中に存在し,無償契約の「債務のコーズ」は,債務者を動機づけた「恵与の意図」の中に存在する」そうです(森田183-184頁註11))。売買に基づく代金支払債務を消費貸借に基づく貸金返還債務に変更することが「原因ヲ変スル」ことになるのは,前者のコーズは売買の目的たる財産権であったのに対して,後者のコーズは(交付済みの)金銭であって,両者異なっているからだ,ということでしょうか。現在の日本民法においては,旧民法にあった原因(コーズ)概念を排除しています。すなわち,梅によれば「所謂原因ハ我輩ノ言フ所ノ目的ニ過キス蓋シ売主ノ方ニ於テ契約ノ原因タル買主カ金銭ヲ支払フノ義務ハ買主ノ方ニ於テ契約ノ目的ニ過キス買主ノ方ニ於テ契約ノ原因タル売主カ権利ヲ移転スルノ義務ハ売主ノ方ニ於テ契約ノ目的ニ過キサルコトハ仏法学者ノ皆認ムル所ナリ若シ然ラハ原因ト云ヒ目的ト云フモ唯其観察者ヲ異ニスルノ名称ニシテ彼我地ヲ易フレハ原因モ亦目的ト為ルコト明カナリ故ニ寧ロ之ヲ目的ト称スルヲ妥当トスというわけであり(梅謙次郎『訂正増補民法要義巻之一 総則編(第三十三版)(法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1911年)223-224頁。句読点は筆者が補ったもの。なお,梅のここでいう「法律行為ノ目的」は「法律行為ノ履行ニ因リ生スヘキ事項又ハ其事項ニ繋レル物」です(同222頁)。),また,無償行為である贈与や免除については,「目的ノ外ニ相手方ノ誰タルカモ亦其要素タルコトアルモノトシテ可ナリ」ということになり(同224頁。なお,ここでは原因不要論が法律行為の要素の錯誤に係る民法95条に即して論ぜられています。),原因(コーズ)概念を使わなくても法律行為の目的又は相手方概念を用いて説明は可能だ,ということであるからであるようです。


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1 条文

 民法(明治29年法律第89号)に次のような条項があります。

 

  (準消費貸借)

  第588条 金銭その他の物を給付する義務を負う者がある場合において,当事者がその物を消費貸借の目的とすることを約したときは,消費貸借は,これによって成立したものとみなす。

 

平成29年法律第44号による202041日からの改正(同法附則1条,平成29年政令第309号)の前の条文は,次のとおりでした(下線は筆者によるもの)。

 

 (準消費貸借)

 第588条 消費貸借によらないで金銭その他の物を給付する義務を負う者がある場合において,当事者がその物を消費貸借の目的とすることを約したときは,消費貸借は,これによって成立したものとみなす。

 

 更にその前,平成16年法律第147号による200541日からの改正(同法附則1条,平成17年政令第36号)の前の条文は,次のとおり。これが,明治天皇の裁可(大日本帝国憲法6条)に係るものです。

 

  第588条 消費貸借ニ因ラスシテ金銭其他ノ物ヲ給付スル義務ヲ負フ者アル場合ニ於テ当事者カ其物ヲ以テ消費貸借ノ目的ト為スコトヲ約シタルトキハ消費貸借ハ之ニ因リテ成立シタルモノト看做ス

 

2 準消費貸借の趣旨

 

(1)我妻榮の説明

準消費貸借の趣旨とするところは,我妻榮の説くところでは次のとおりでした。

なお,令和の読者のために,我妻説の民法学界における位置について付言すれば,「我妻栄『民法講義Ⅰ~Ⅴ₄』(岩波書店,1932年~71年)が,少なくとも戦後20年ほどの間は〔1945年頃~1965年頃ということになります。〕支配的な地位を占めていた(いわゆる「通説」であった)」ところです(大村敦志=道垣内弘人=森田宏樹=山本敬三『民法研究ハンドブック』(有斐閣・2000年)218頁)。

 

民法がかような規定を設けたのは,消費貸借の要物性を緩和しようとする目的であることは疑ない(ド〔イツ〕民〔法旧〕6072項も同旨を定める)。判例は,ややもすると,これを簡易の引渡によつて金銭の授受があつたとみなされる趣旨だと説く。然し,要物性を緩和して解するときは,強いて簡易の引渡の理論を援用する必要はない。民法の要物性は既存の債務の存在で足るという点まで緩和されているものと解するだけで充分であろう(大判昭和86131484頁は同旨を述べる〔後記筆者註1参照〕)。

  (我妻榮『債権各論中巻一(民法講義Ⅴ₂)』(岩波書店・1957年(補注1973年))365-366頁)

 

(2)受験秀才的早分かり

「準消費貸借=(民法587条の消費貸借が要物契約であることに対する)要物性の緩和」であるな,との定式で早分かりして準消費貸借の本質をつかんだ気になるのは,要領を貴ぶ受験秀才としては当然のところでしょう。

また,準消費貸借条項には,受験秀才好みの,文理に反する「落とし穴」がありました。

 

 〔前略〕民法は「消費貸借ニ因ラ(ママ)シテ」というが,既存の消費貸借上の債務を基礎として〔中略〕消費貸借を締結することも,さしつかえない(通説,判例も古くからこれを認める(大判明治4154519頁,大判大正212411頁等))。

 (我妻Ⅴ₂・366頁)

 

 我妻は「消費貸借を締結する」と書いていますが,正確には「当該債務における給付物を消費貸借の目的とすることを約する」ということになるのでしょう。

 この,受験秀才は上手に回避し,全く勉強していない横着者はかえって山勘で切り抜け(「既存の消費貸借に係る返還物を目的とする準消費貸借は可能か,などとあえて訊くのはひっかけであろう。消費貸借が消費貸借になるのならば同じことであって意味がないと判断して「不可」と答えるのが素直なのであろうが,ここはその逆張りだな。」というような思考ですね。),中途半端に条文の知識までのみはある受験者は落ち込むであろう「落とし穴」は,平成29年法律第44号によって塞がれたことになっています。

 

   旧法第588条は,消費貸借によらない物の返還債務を消費貸借の目的とする消費貸借(準消費貸借)を成立させることができるとしていたが,判例(大判大正2124日)は,消費貸借による物の返還債務を消費貸借の目的とする準消費貸借も認めていたことから,その旨を明確化している(新法第588条)。

  (筒井健夫=村松秀樹編著『一問一答 民法(債権関係)改正』(商事法務・2018年)290頁)

 

なお,消費貸借の目的は物であって債務ではないはずなので,上記の文章にはちょっと不正確なところがあるようです。この点は,「民法の要性は既存の債務の存在で足る」という我妻の表現から,物と債務とが等号でつながれてしまったものでしょうか。

以上の2点の早分かり,すなわち,「準消費貸借=要物性の緩和」及び「既存の消費貸借に係る返還物を目的とする準消費貸借は可能」という知識まであれば天晴れ天下の受験秀才ということではあったのですが,進んで司法修習生になって要件事実論を学ばせられると,どんよりと暗い準消費貸借の深い藪に気が付くことになります。

 

3 準消費貸借の深い藪

 

(1)要件事実論:被告説及び原告説並びに二分説

 

ア 被告説vs.原告説

 

  準消費貸借に基づき,貸主が借主に対し目的物の返還を請求する場合に主張立証しなければならない要件は

  従前の債務の目的物と同種,同等,同量の金銭その他の代替物を返還する合意

 だけである。したがって,準消費貸借の合意の内容を明らかにするため,目的となった金銭その他の代替物を給付すべき旧債務を,特定できるように主張しなければならないが,その旧債務の存在についての主張立証は,準消費貸借の成立を主張する者の責任ではなく,かえってその不存在を主張し新債務の存在を争う相手方において,抗弁として主張立証しなければならない(大判大61151743頁,大9518823頁,大152151頁等)。

  右に反し,旧債務の成立については,準消費貸借の成立を主張する者に主張立証責任があるとする説もある。

 (司法研修所民事教官室編『民事訴訟における要件事実について』(司法研修所)53-54頁)

 

 上記のような内容の教材を交付されれば,「準消費貸借に基づくその目的の返還請求に係る要件事実論においては,原告がまず旧債務の発生原因事実を主張立証しなければならないものとする異端説(原告説)があるようだけれども,司法研修所の公認説は,旧債務の不存在が被告の抗弁に回るという説(被告説)なのだね,被告説さえ覚えておけば,二回試験(裁判所法(昭和22年法律第59号)671項の試験)の準備は完璧だね。」と早分かりしたくなるのも無理からぬところでしょう。

 ところが,司法研修所の他の教材を見ると,被告説を採る判例の存在もものかは,そこではむしろ原告説によって請求原因に係る争点整理がされており(司法研究所民事裁判教官室『第3版 民事訴訟第一審手続の解説 別冊記録に基づいて』(司法研修所・20044月)45頁),判決書の事実摘示も原告説によってされています(司法研修所民事裁判教官室『「10訂民事判決起案の手引」別冊 事実摘示記載例集』(司法研修所・20068月)6頁)。こうなると,つかの間の早分かりは当の司法研修所自身によって裏切られ,司法修習生は被告説と原告説との両方を丸暗記せざるを得ないことになり,弁護士となっては原告訴訟代理人として,苦しいながらも安全サイドをとって原告説で訴状を起案して主張立証活動をすることになります。

 すっきりしませんね。

 原告説の由来するところは「民法587条が金銭その他の物の交付と返還の合意を消費貸借契約の要件事実としている点を民法588条においてもパラレルに考え,旧債務の存在と返還の合意が準消費貸借契約の要件事実となると考える。」ということだそうです(村田渉=山野目章夫編著『要件事実論30講(第2版)』(弘文堂・2009年)189頁)。要物性(金銭その他の物の交付)に代えるに旧債務の存在をもってしていますから,これは,準消費貸借における「民法の要物性は既存の債務の存在で足るという点まで緩和されているものと解する」前記の我妻説からの演繹ですね。準消費貸借本質論における我妻説の理論的権威こそが,原告説をして,判例の左袒する被告説に拮抗ないしはむしろ優位に立たせている理由でしょうか。

なお,被告説の理由とするところは,こちらは現場的で,「準消費貸借契約を締結する際,旧債務の証書等は貸主から借主に返還されるのが取引の実情で,貸主が旧債務の存在を立証するのは困難であるとの理解」である(村田=山野目189頁)等と説かれています(最判昭和43216日民集222217頁に係る宇野栄一郎調査官の解説における紹介に基づく理解のようです(梅本吉彦「準消費貸借における実体法と手続法の交錯」専修法学論集130号(20177月)344-345頁・349頁註(25))。)。しかし,これに対しては批判があります。その一つにいわく,「判例は,準消費貸借に関する事案に限って,紛争実態に着目し,当事者が旧債務関係の証書を廃棄してしまうこと,取引関係が錯綜していて債権債務関係が明確でないこともある等の事情を理由に,法律要件分類説の原則論とは異なる立証の難易を基準とする公平の観念から判断基準を設定している。契約関係の当事者は当該契約から紛争が生じたときに備えているべきこと(ママ)である。契約関係においては,当事者はその証書を通常それぞれ保持し,保存しているのであり,火災をはじめ災害によってそれらが消失してしまっているといった特別の事情がない限り,債権者・債務者が自己の立場を守るために,関係文書を保存することは契約関係に内在する責務である。この問題に限って,今ただちに法律要件分類説の基本的立場を変更すべき理由はまったく見いだすことができ」ない,と(梅本345-346頁。更に同349頁註(27)には,「この類いの問題については,調査官解説も文献の考証に終始するのではなく,取引実態を詳細に調査する姿勢が必要なのではないか。最近の調査官解説を見ても,比較的司法試験受験生に多く読まれている概説書に依拠し,平板的に記述しているものが顕著である。限られた時間的制約の下で業務を遂行しているのであろうが,一層の研鑽を重ねることを心より期待する。」との手厳しい記述があります。)。

 

イ 二分説:債務変更型と更改型と

 すっきりしないまま更に探究を続けると,二分説というものが出て来ます。同説によると,準消費貸借には実は債務変更型と更改型という二つの型があって,債務変更型(既存の債権関係を維持したまま個々の事項に変更を加えるもの)の場合は原告説を採り,更改型(既存の債務を消滅させ新たにそれとは別個の債権関係を発生させるもの)の場合は被告説を採り,どちらの型か不明の場合は債務変更型として取り扱うべしということになります(岡口基一『要件事実マニュアル 第2版 上』(ぎょうせい・2007年)534-535頁の紹介する松本博之説)。ここでまた疑問が生じます。はて,「既存の債権関係を維持」とはこれいかに,「旧債務」といったからには,準消費貸借においては既存の債務は当然消滅するのではなかったのか,すなわち準消費貸借は更改の一種ではなかったのか,というわけです。

 

(2)新旧債務の「同一性」問題

 

ア 更改との異同

準消費貸借と更改(民法513条から518条まで)との関係については,「準消費貸借においては,もとの債務と準消費貸借契約によって生じた債務との関係が問題となることが多い。更改〔略〕や和解〔略〕におけると共通の問題である。これを通常,両債務の「同一性」の有無の問題として論じている」ということで(星野英一『民法概論Ⅳ(契約)』(良書普及会・1994年)172頁),更改と準消費貸借とは併記されていますから,後者が前者に含まれるということではないようです。準消費貸借は更改ではないのでしょう。しかし,そうならば準消費貸借=債務変更型で一貫すればよいのですが,更改型のものも存在するのだといわれると,これは(ぬえ)ではないかということで,どう頭を整理してよいのか困ってしまいます。

 

イ 抗弁並びに担保及び保証の存否並びに消滅時効期間の基準

更に情況を悪化させることには,準消費貸借においては,従前の債務にそれぞれ伴っていた抗弁並びに担保及び保証は消滅しているのか,存続しているのか,また,準消費貸借の消滅時効は旧債務のそれと別箇に解すべきものかどうかというような問題があります(我妻Ⅴ₂・367-368頁参照)。新旧両債務の「同一性」の有無によって判断するのが素直なのでしょうが(例えば,抗弁並びに担保及び保証は,債務変更型ならば存続し,更改型ならば消滅する,消滅時効は,債務変更型ならば旧債務について考え,更改型ならば別箇に解する,というような思考方法),「一律に決すべきものではなく,いくつかの問題ごとに検討すべきものである」といわれ(星野Ⅳ・172頁),「「同一性」といっても無内容であり,決め手は当事者が準消費貸借をなした趣旨(当事者の意思)にある。」とされてしまうと(内田貴『民法Ⅲ 債権各論』(東京大学出版会・1997年)243頁),取り付くホールドのないままずるずると斜面を滑り落ちる無力感に(さいな)まれます。

 

(3)小括

以上,準消費貸借については,①旧債務は存続するのか(債務変更型),消滅するのか(更改型),②消滅するとした場合においては更改との関係をどう説明するのか,③要物性緩和論はどこから由来するのか(「要物性を緩和しようとする目的」については,「それでは,なぜ消費貸借の要物性を緩和する規定を設ける必要性があるのかという疑問を誘うことになるのであるが,立法の必要性ということからはまったく説得力に欠けている。」と評されています(梅本324頁)。),④準消費貸借の消滅時効はどう考えるのか,⑤旧債務に伴っていた抗弁並びに担保及び保証はどうなるのか,並びに⑥旧債務の発生原因事実の主張立証責任が目的の返還を請求する原告にあるのか(原告説),旧債務の不存在が被告の抗弁に回るのか(被告説),といった問題があるようです。準消費貸借を蔽い込む深い藪山のどの稜線を辿れば,無事藪抜けができるのかどうか。ここはひたすら無暗に目先の藪と格闘するのではなく,まずは登山口に戻り,山域の概念図を眺め,そしてそもそもの当初の山行計画を振り返ってみるべきでしょう。

ここでの登山口は日本民法の立法経緯です。山域概念図は,その際参照された又は参照されるべきであった母法における理論ということになりましょう。民法起草者の意図が当初の山行計画であることはもちろんです。

 

4 登山口:法典調査会民法整理会

準消費貸借に係る条文は,民法の法案審議が一通り終わった後で開催された法典調査会の民法整理会において,18951230日(第12回の民法整理会),富井政章から提案され,更改の規定に関してされた己が議論を振り返る梅謙次郎の発言はあったものの,その日そのまま承認されています。

 

 富井政章君 次ニ移リマス前ニ,此ニ1箇条入レテ戴キタイ条ガアリマス。先ヅ初メニ其条文ヲ読上ゲマス。ソレカラ説明イタシマス。

 

  第586条 消費貸借ニ因ラスシテ金銭其他ノ物ヲ給付スル義務ヲ負フ者アル場合ニ於テ当事者カ其物ヲ以テ消費貸借ノ目的ト為スコトヲ約シタルトキハ消費貸借ハ之ニ因リテ成立シタルモノト看做ス

 

此規定ハ,左ノ様ナ場合ニ適用ガアル。例ヘバ,買主ガマダ代金ヲ払ツテ居ラナイ,即チ,(ママ)貸借ノ名称デナイ他ノ名義ニ於テ或ル物ヲ給付スル義務ヲ負(ママ)テ居ル,金銭其他ノ代替物ヲ給付スル義務ヲ負(ママ)テ居ル場合ニ,当事者ガ其物ヲ以テ消費貸借ノ目的トスル旨ヲ約シタトキハ,実際物ノ交付ガナイニ拘ハラズ消費貸借ハ法律ノ力ニ依テ成立シタモノト看ル。斯ウ云フ規定デアリマス。

此規定ハ,消費貸借ヲ以テ要物契約トスル以上ハドウモナクテハイカナイノデアラウト兼テカラ考ヘテ居リマシタ。昨日協議〔第11回の民法整理会は18951228日の開催なので,この「協議」は民法整理会の協議ではありません。〕ノ時ニ,此問題ニ付テ議スルコトヲ失念シタノデアリマス。ソレ()今朝協議シマシテ,ドウモアツタ方ガ宜カラウト云フノ()一致シテ遂ニ之ヲ提出スルコトニナリマシタ。

是ハ独逸民法草案抔ニハアル。実ハ初メカラ気附イテハ居ツタ。初メ消費貸借ノ規定ヲ書クトキニハ,無クテ済マウト思ツタ。其訳ハ,占有ノ規定デ足リ様ト思(ママ)テ居ツタ。此占有ノ章ノ第182条ニ,現実ノ占有ガナクテモ既ニ占有物ヲ所持シテ居ル場合ニハ占有権ノ譲渡ハ当事者ノ意思ノミニ依テ為スコトガ出来ルト云フコトガアリマス。是デ宜カラウト云フ雑トシタ考ヘ()置カナンダ。

併シ能ク能ク考ヘテ見マスト,成程今申シタ債務者ガ物ノ占有ヲ為シテ居レバ此規定デ宜シイ,併シ実際物ヲ占有シテ居ラヌ場合ガアル,却テサウ云フ場合ニ今申シタ訳ナ契約ガ起ルコトガ多イ。売買ノ代金トシテ金ヲ払ハナケレバナラヌ,丸デからつぽうデ一文モナイ,ソレヲ消費貸借ノ名義デ借リタコトニシテ居ル,サウ云フ場合ニハ182条ニ所謂占有物ヲ所持スル場合ニ於テト云フコトガ当リ憎イ。ソレデドウモ此規定ガアツタ方ガ便利デアラウト云フコトカラ,此規定ヲ置キタイト思ツタノデアリマス。何卒御採用ニナラムコトヲ希望シマス。

 

  梅 謙次郎君 一寸私モ関係ノアルコトデアリマスカラ説明致シマス。

実ハ更改ノ所デ書カウト思ツタガ,斯ウ云フ幅デ出サウト云フナラバ,賛成シタ方ガもつと広イ幅デ書カウト思ツタカラ反対シタ。

初メ売買ノ名義デ居ツタモノガ当事者ノ意思デ貸借ノ義務ヲ負フト広ク書クト,極端ノ場合ダガ,借リテ居ツタ物ヲ売却スル,交換ノ名義デ取ツタ物ヲ売買ニシヤウトカ,和解ノ名義デ取ツタ物ヲ売買ニシヤウトカ,契約ノ性質ノ違(ママ)物ヲ当事者ノ意思斗リテ勝手ニシヤウト云フノハ絶対的ニ反対ダト申シタノデ,多分意思解釈デ徃ケヤウト思ツタガ,併シ当事者ノ意思ニ任カセルト云フト動モスレバ意思ノ不明ナル為メニ問題ヲ生()ルト思ツテ之ヲ置クコトニ同意シタノデアリマス。

 

  議長(箕作麟祥君) ソレデハ他ニ御発議ガナケレバ,挿入ノ条ハ之ニ決シマス。

  (『民法整理会議事速記録第4巻』(日本学術振興会)94丁裏-96丁表。句読点及び改行は筆者が補ったもの)

 

「是ハ独逸(ドイツ)民法草案(など)ニハアル」ということですので,富井政章は,我が準消費貸借条項の起案に当たって当時のドイツ民法第一草案(1887年)及び第二草案(1894-1895年)を参考としたもののようです。両草案における準消費貸借関係規定は次のとおり。

 

ドイツ民法第一草案

§.454.

     Hat Jemand einem Anderen aus einem zwischen ihnen bestehenden Schuldverhältnisse eine Geldsumme zu zahlen oder andere vertretbare Sachen zu leisten, so kann zwischen denselben vereinbart werden, daß der Verpflichtete die Geldsumme oder die sonstigen vertretbaren Sachen als Darlehen schulden solle.

(ある者が,相手方に対して,両者間に存在する債権債務関係に基づき一定の金額の支払又はその他の代替物の給付をすべき義務を負う場合においては,当該両者間において,当該金額又はその他の代替物について,消費貸借の目的としての債務を義務者が負う旨の合意をすることができる。)

 

ドイツ民法第二草案(これは,1896年に制定されたドイツ民法旧607条と同じです。)

§.547.

     Wer Geld oder andere vertretbare Sachen als Darlehen empfangen hat, ist verpflichtet, dem Darleiher das Empfangene in Sachen von gleicher Art, Güte und Menge zurückzuerstatten.

     Wer Geld oder andere vertretbare Sachen aus einem anderen Grunde schuldet, kann mit dem Gläubiger vereinbaren, daß das Geld oder die Sachen als Darlehen geschuldet werden sollen.

(金銭又はその他の代替物を消費貸借の目的として受領した者は,貸主に対して,同じ種類,品質及び数量の物をもって受領物を返還する義務を負う。)

(他の原因により金銭又はその他の代替物に係る債務を負う者は,当該金銭又は物について,消費貸借の目的としての債務を負うものとする旨の合意を債権者とすることができる。)

 

 我が民法588条の書き振り(平成29年法律第44号による改正前)は,ドイツ民法第一草案454条よりも,第二草案5472項の方によりよく似ています。しかし,「消費貸借によらないで金銭その他の物を給付する義務を負う者がある場合において,当事者その物を消費貸借の目的とすることを約することができる。」ではなく,「消費貸借によらないで金銭その他の物を給付する義務を負う者がある場合において,当事者がその物を消費貸借の目的とすることを約したときは,消費貸借は,これによって成立したものとみなす。」と,ドイツ民法より一歩踏み込んで,当事者の合意の効果についてまで規定しています。新たな消費貸借契約が当該合意によって成立・登場するということでしょう。また,「みなす」なので,当該効果について例外は認められないのでしょう。富井政章=本野一郎のフランス語訳では,“Lorsque celui qui doit de l’argent ou d’autres choses à un autre titre qu’en vertu d’un prêt de consommation convient avec son créancier que l’argent ou les choses dont s’agit seront dus à l’avenier à titre de prêt, le prêt est considéré comme s’étant formé par ce fait.”となっています。


(中):概念図及び当初山行計画

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079396057.html

(下):山域鳥瞰図

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079396090.html


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第3 大阪高等裁判所令和2年1127日判決(令和2年大阪高裁判決):妻(及び生殖補助医療提供者)に対する夫からの損害賠償請求の可否の問題

 ところで,令和元年大阪家裁判決事件の元夫婦(「元」というのは,2017年(平成29年)1130日に当該の子の親権者を妻と定めて協議離婚しているからです。)の争いは,当該判決では終わってはいませんでした。

 

1 元夫の「自己決定権」侵害に係る損害賠償の認容

 元夫は,2017年中に元妻並びに当該生殖補助医療を行った診療所を経営する医療法人及び当該診療所の院長兼当該医療法人の理事長を相手取って共同不法行為に基づく損害賠償請求を提起していたのです。

第一審の大阪地方裁判所令和2312日判決・判時24593頁は,医療法人及び院長兼理事長の責任は認めませんでしたが,「原告は,被告Y₁〔元妻〕との間で本件子をもうけるかどうかという自己決定権を侵害されるなどしたものであって,これにより多大な精神的苦痛を被った」として,元妻に対して慰謝料800万円及び弁護士費用80万円の合計額である「880万円及びこれに対する平成27年〔2015年〕420(ママ)日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え」との判決を下しました(なお,大阪地方裁判所(菊池浩明裁判長並びに後藤誠裁判官及び足立瑞貴裁判官)は「融解胚移植の実施日である平成27420日」といっていますが,当該胚移植の実施日は2015422日ですので,同裁判所は誤判的誤記をしてしまったものでしょうか。)。

これに対して元夫及び元妻のいずれもが控訴し(元夫は,医療法人及び院長兼理事長に対する敗訴部分については控訴しませんでした。),控訴審の大阪高等裁判所令和21127日判決・判時249733頁(以下「令和2年大阪高裁判決」といいます。確定しています。)は,「一審被告〔元妻〕は,一審原告〔元夫〕に対し,5596400円及びこれに対する平成27422日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。」との判決を下しています(559万円の内訳は,慰謝料500万円,令和元年大阪家裁判決に係る訴訟のためにかかったDNA鑑定費用86400円及び弁護士費用51万円)。元妻の控訴が一部認められたわけです。

 

2 「自分の子をもうけることについての自己決定権」

 

ア 判示

 令和2年大阪高裁判決は,「自分の子をもうけることについての自己決定権」の存在を宣言しています。いわく,「個人は,人格権の一内容を構成するものとして,子をもうけるか否か,もうけるとして,いつ,誰との間でもうけるかを自分で決めることのできる権利,すなわち子をもうけることについての自己決定権を有すると解される。」と。すなわち,本件においては,民法709条(「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は,これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」)にいう侵害された「権利」は,「子をもうけることについての自己決定権」だ,というわけです。

 堂々たる押し出しの,なかなかゆかしい「権利」のようです。子は親の自己決定権に基づいてもうけるものであってどこやらから授かるものではない,ということであれば,「子を授かった」という,最近多い表現に対する違和感の由来するところが分かったような気がします。

 

  Dixit autem Maria ad angelum:

  Quomodo fiet istud, quoniam virum non cognosco?

       Et respondens angelus dixit ei:

       Spiritus Sanctus superveniet in te et virtus Altissimi obumbrabit tibi,

       ideoque et quod nascetur sanctum vocabitur Filius Dei. (Lc 1,34-35)

 

イ 人格権であることの意味

 ところで,令和2年大阪高裁判決を「自分の子をもうけることについての自己決定権」を「人格権」に由来するものとして裁判所は基礎付けているものと読んではいけないのでしょう。これは,「自分の子をもうけることについての自己決定権」があることを先に決めた上での分類学上の整理(物権でも債権でもない。)でしょう。

「判例は,名誉,氏名,肖像等の個別の人格的利益を指して人格権概念を用いるにとどまる(最大判昭61611民集404872頁(名誉),最判昭63216民集42227頁(氏名)など)。また,人格権論の法技術的有用性も,確たるものではない。第1に,人格権概念は,保護法益性が承認された人格的利益を総称する集合概念にとどまり,そこから個別の利益の法的保護が導き出されるような性質のものではない。」と説かれているところです(窪田充見編『新注釈民法(15)債権(8)』(有斐閣・2017年)319-320頁(橋本佳幸))。「あなたの行為は私に精神的苦痛という損害を与え,したがって,人格権という私の権利ないしは法律上保護される利益を侵害した」と宣言するだけで損害賠償金の支払を受け得るということは,本来はないはずです(「権利又は法律上保護された利益」の「侵害」とそれによって生じた「損害」とは,民法709条においては別個の要件です。)。「自分の子をもうけることについての自己決定権」の権利性を基礎付ける事由は,別途具体的に探究されなければなりません。

 

ウ その働く場面

 「子をもうけるか否か,もうけるとして,いつ,誰との間でもうけるかを自分で決めることのできる権利」の侵害は,生殖補助医療以前の時代であれば,一般的には性的自由の侵害に包摂され,他方,特に断種手術のような場合(生殖補助医療とは反対方向です。)については,身体の自由に対する侵害ないしは身体的自己決定権(「医療による身体侵襲との関連〔における〕患者〔の〕自らの意思で治療行為を選択・決定することができる地位」(窪田編321頁(橋本)))の侵害の問題に含められ得ていたはずです。性的自由の侵害については,「性的自由(貞操)も,〔身体の自由と〕同様に,身体支配の発露として絶対的保護を受ける(絶対権侵害型)。被害者を欺罔して性的自由を侵害した場合(大判明44126民録1716頁(名誉毀損とする),最判昭44926民集2391727頁)は,情交が被害者自らの意思に基づくことになるが,詐欺の場面〔略〕と同じ図式があてはまる。」と説かれています(窪田編321頁(橋本))。「自分の子をもうけることについての自己決定権」は,専ら生殖補助医療の場面において働くようです。

 生殖補助医療の場面においても,懐胎・出産を行う女性については,従来からの,身体の自由ないし身体的自己決定権で対応できそうです。卵子を提供した女性及び精子を提供した男性について,身体から分離後の卵子若しくは精子又は受精卵(胚)の運命についてどこまでの権利を認めるべきかが「自分の子をもうけることについての自己決定権」の問題になるようです。

 

エ 「子」の範囲の問題

 なお,ここで「自分の子」という場合,その子は法的な実親子関係のある子に限られるのでしょうか,それとも生物学上の親子関係があるにとどまるものも含まれるのでしょうか。本件の原告は,嫡出否認の訴え(令和元年大阪家裁判決)と「自己決定権」の侵害に係る不法行為に基づく損害賠償請求の訴え(令和2年大阪高裁判決)とを同時並行的に提起し,両方とも勝訴するつもりだったのでしょうから,生物学上の親子関係があるにとどまるものも含まれるものと理解していたはずです。自ら出産までしなければ卵子を提供した女性は出生子の法律上の母にはならず(生殖補助親子関係等法9条),AID型の生殖補助医療による出生子が出産女性の夫の嫡出子として確定した場合は精子を提供した男性が認知の訴えを提起されることはないことになってはいますが(同法10条),将来的には「生殖補助医療に用いられた精子又は卵子の提供者及び当該生殖補助医療により生まれた子に関する情報」の「開示」もあり得るようですから(同法附則313号),生物学上の親子関係があるにとどまるものも含まれると解しておくべきでしょう。

 

3 卵子又は精子の提供者の同意と「自分の子をもうけることについての自己決定権」との関係

 

ア 同意による制約

 しかし,生殖補助医療のために卵子又は精子を提供する者の「自分の子をもうけることについての自己決定権」は,提供に当たっての当該提供者の同意により,その内容(公序良俗に反するものを除く。)に従って制約されるものではないでしょうか。

「自分の子をもうけることについての自己決定権」の具体的内容の各項目(「①子をもうけるか否か,もうけるとして,③いつ,②誰との間でもうけるかを自分で決めることのできる権利」)に即して考えてみましょう。令和2年大阪高裁判決事案の原告である元夫は,2014410日の精子提供に当たって「私達夫婦は凍結保存してあった受精卵(胚)を用いての胚移植に同意します。」,「受精卵(胚)の凍結期間は1年であり〔筆者註:この「1年」は初月不算入の月単位のものであったようで,診療所からの2015319日付け元夫・元妻両名宛て書面には「平成27年〔2015年〕4月末日をもって保存期間が満了となる」との記載があったと認定されています。〕,それ以降の継続に,毎年,継続意思確認書類の手続きと費用の支払いが必要であることを理解しています。」等との内容の同意書(「本件同意書1」)を元妻と連署して作成し,かつ,診療所に提出していますから,①「子をもうけるか否か」については,肯定,②「誰との間でもうけるか」については,元妻との間でもうける,③「いつ」もうけるかについては,20154月末頃までの懐胎(胚移植)によってもうける,との同意をしていたことになります。当該同意の範囲内であれば(元妻が胚移植を受けたのは2015422日でした。),その撤回がない限り(米国UPA707条参照),元夫の「自分の子をもうけることについての自己決定権」の侵害はなかったことになる,というのが素直な結論でしょう。

 

イ 診療所の場合(責任否定)と元妻の場合(責任肯定)と

現に第一審の大阪地方裁判所令和2312日判決は,診療所についてその旨の判示をし,不法行為責任を認めていません。いわく「原告が本件同意書1に自署しているところ,同書面には,手術前に取りやめたくなった場合には同意書を取り下げることができると明確に記載されていることを指摘できるところ,原告が,本件移植以前に,被告医療法人Y₂らに対して,同意を撤回するとの意思表示をしていないことに照らせば,被告医療法人Y₂らは,胚移植の同意を含む本件同意書1に顕れた原告の同意に基づき,本件移植を実施したと認められる。」と。

 そうであると,なぜ診療所には不法行為責任が認められなかったのに元妻の責任が認められたのかが疑問となります。元妻の責任を認定する部分の上記大阪地方裁判所判決の判示は,元妻に対する元夫の明確な同意撤回までは認定しなかったものの「原告は,被告Y₁〔元妻〕が本件同意書2に原告名の署名をした平成27420日時点において,本件移植に同意していなかったものと認められ,被告Y₁も,同時点において,原告が本件移植に同意していないことを認識していたか容易に認識し得たものであったと認められる。/(2)したがって,被告Y₁は,原告に対し,被告Y₁との間で本件子をもうけるかどうかという自己決定権を侵害するなどした不法行為責任を負うものである。」ということです。元妻が本件同意書2に夫の名で署名した2015年(平成27年)420日の情態が論ぜられている一方,肝腎の同月22日の胚移植については言及されていないのでよく分からないところがありますが,言葉足らずかも知れないところ(前記のとおり,大阪地方裁判所令和2312日判決は,主文において遅延損害金の発生日を2015420日としている不思議な判決でもあります。)を無理に補わずに解釈すれば,妻たるもの,明示されていない夫の内心の真実をちゃんと忖度して,よく弁えて,胚移植を断念すべきだったのだ,ということなのでしょう(令和2年大阪高裁判決に係る内藤陽「公法判例研究」北大法学論集724号(202111月)275頁以下においては,「原判決では本件移植への同意の有無それ自体に判断の重心を置いている」との読み方が示されています(同282頁)。)。しかし,「原告と被告Y₁とは,そもそも夫婦関係が良好でなかった」ものであっても,子がいったん生まれれば,夫婦にとって子は(かすがい)ということもありますから,妻にそこまで忖度及び遠慮要求することいかがなものか,過度ではないか,夫婦に子どもが出来るのは当然じゃないか,という反論もあり得そうです。

 なお,「本件同意書2」とは,本件胚移植の日に元妻が診療所に提出した「融解胚移植に関する同意書」と題する書面であって,「「私たち夫婦は,現在凍結保存中の胚を貴院にて融解し胚移植を受けることに同意します」との記載があり,夫氏名及び妻氏名をそれぞれ記載する欄が設けられているところ,被告Y₁は,妻氏名欄に自署するとともに,夫氏名欄に自署と筆跡を変えて原告氏名を記載した(以下「本件署名」という。)」ものです。ちなみに,第一審判決は,本件署名の真正を認めたことについて診療所に過失はないものとしています。いわく,「本件同意書2の原告〔名義〕の署名は,その体裁に照らして,原告の従前の署名と対比して異なることが容易に判明するものであるとはいえない上,〔公益社団法人日本産科婦人科〕学会の見解(会告)においても,本件各同意書の書式及び作成方法はこれに沿ったものであり,同意書への署名以外に,本人に直接電話をかけるなどしてその同意を確認することまでを推奨してはいないから〔略〕,このような取り扱いが不妊治療についての医療水準として不相当なものといえないことに照らすと,原告が主張するその他の事情を考慮しても,被告医療法人Y₂らが,本件移植に際して,原告に対し,直接の意思確認をすべきであったのにこれを怠ったとは認められない。」と。

 

ウ 胚移植に対する改めての明示的な同意の必要性

 

(ア)判示

 夫が明示的に同意を撤回していない以上,やはり夫婦にとって子が(かすがい)となる期待もあるのだから,そのまま胚移植に進んでも夫の「自分の子をもうけることについての自己決定権が侵害されたと評価してしまうのはやはりいかがなものか論を封ずるためでしょうか,令和2年大阪高裁判決は,胚移植について,その際改めてそれに対する明示的な同意を必要とする規範があったのだ,としています。いわく,「一審被告が本件子を出産したのは本件移植を受けたからであるところ,本件移植を受けるためには夫である一審原告の明示的な同意が必要であったことは,本件同意書2に夫の署名欄が設けてあったことから明らかである。本件同意書2は一審原告・一審被告夫婦と本件クリニックとの間で取り交わされるものであるけれども,夫婦の間においても,子をもうけるか否か,もうけるとしていつもうけるかは,各人のその後の人生に関わる重大事項であるから,一審被告の立場からしても,平成26412日の別居以降,子をもうけることについて一審原告が積極的な態度を示していなかった経緯を踏まえれば,本件移植を受けるに先立ち,改めて一審原告の同意を得る必要があったことは明らかであったといえる。ところが,一審被告は,一審原告の意思を確認することなく,無断で本件同意書2に本件署名をして本件クリニックに提出し,本件移植を受けたのであるから,一審被告のこの一連の行為は,一審原告の自己決定権を侵害する不法行為(以下「本件不法行為」という。)に当たるというべきである。そして,本件不法行為のあった日は,一審被告が本件同意書2を本件クリニックに提出して本件移植を受けた平成27422日である。」と。遅延損害金は2015年(平成27年)422日から発生するものとされていますから,元夫の精神的苦痛等の損害は,移植=懐胎の時(子の出生時ではない。)に発生していることになります。

 

(イ)仕組みに対する妨害

 大阪高等裁判所(山田陽三裁判長並びに倉地康弘裁判官及び池町知佐子裁判官)は,お気楽的な「子は(かすがい)抑えるためでしょうか,子をもうけることは「各人のその後の人生に関わる重大事項である」慎重な立場採るべきことを説いています。「夫婦のその後の人生」ではなく,「各人のその後の人生」の問題とされていますから,夫婦関係の継続を前提とするにぎやかな「子は(かすがい)」論は当該裁判所からはこの形で門前払いされているのでしょう。

他方,夫婦・親子の関係についての価値判断的問題に深入りせずに結論を出すためでしょうか,令和2年大阪高裁判決の当該判示は,本件同意書2の重要性を再確認し,その意義論を展開した上で,生殖補助医療の提供の過程中における「自分の子をもうけることについての自己決定権」の尊重の必須性及びそのための仕組みの侵害を問題としたもののように思われます。すなわち,本件同意書2の取り交わしを求めた本件クリニックは,「本件同意書2に夫の署名欄が設けてあったことから明らか」なとおり,胚移植を行うためにはその段階において(その「自分の子をもうけることについての自己決定権」の侵害を避けるため,ということなのでしょう。)夫の「明示的な同意」を得ることを必要とするという規範に服していたところ,元妻は,夫名義の無断署名をして本件同意書2を作成し,かつ,提出するという欺罔行為をもって,夫の明示的な同意はないという事実を本件クリニックが了知することを妨害し,そのまま胚移植を受け,その結果夫の「自分の子をもうけることについての自己決定権」を侵害したのだ,という筋道が読み取れそうです。(一種の債権侵害的構図ともいえましょうか。)元妻による不法行為は「本件移植を受けた」ことのみならざる「一連の行為」によるものとされ,それがあった日は,単に「本件移植を受けた平成27422日」ではなく,「一審被告が本件同意書2を本件クリニックに提出して本件移植を受けた平成27422日」とされています。

なお,「本件同意書2は一審原告・一審被告夫婦と本件クリニックとの間で取り交わされるものであるけれども,夫婦の間においても,〔略〕重大事項であるから,一審被告の立場からしても〔略〕改めて一審原告の同意を得る必要があったことは明らかであったといえる。」との文の意義については,これを中心に据えた読み方もありますが(内藤291頁),筆者においては,「けれども」,「おいても」,「からしても」と「も」の多い文体から見ても,同文は,本件同意書2論にちなんだ副次的な言明と見るべきものと思われます。本件クリニックが本件同意書2をもって元夫について明示的な同意の有無を確認することを妨害してはならない,との元妻に係る当為を,違った角度からながら,重いものとして位置付けるための文ではないでしょうか。令和2年大阪高裁判決は,「不妊治療と出産に至る経緯」に係る判示を,「本件クリニックは,本件署名のある本件同意書2が提出されたからこそ本件移植を行ったのであり,その提出がなければ,本件移植は行われず,本件子が出生することもなかった。」との認識で締め括っており(その直後に「自分の子をもうけることについての自己決定権」の存在宣言が続きます。),そこでは本件同意書2こそが問題の中心に据えられているものと解されます。

 

(ウ)訴訟戦略の奏功?

 しかし以上の読み方を採る場合,元夫のためには,控訴の相手方から診療所経営の医療法人及び院長兼理事長を外したという訴訟戦略がうまく功を奏したもの,といい得ることになるように思われます。当該医療法人及び院長兼理事長が第一審で主張したところによれば,本件同意書2は,胚移植について改めて同意を取る趣旨のものではなかったからです。胚移植によって懐胎された胎児に障碍があり,母体に悪影響が生じたときのための用心だったようです。

 

   本件同意書2は,既に本件同意書1の同意を得ている本件移植を実施することに対する同意を得るためではなく,今一度,融解のリスク等を確認してもらい,万が一,そのリスクが顕在化した場合であっても被告医療法人Y₂らが損害賠償責任を負わないようにするために取得する書面であって,本件同意書2の本件署名が被告Y₁によるものであったとしても,少なくとも移植を受ける被告Y₁の同意を得ることで本件同意書2の目的は果たせているため,〔夫である〕原告の同意との関係で問題はない。

 

控訴審においてもこの説明が繰り返されると,いささか厄介なことになったように思われます。

ただし,生殖補助医療の仕組みに関しては「これらの医療行為は,一個の不妊治療行為として包括的に概念把握されるべきものではなく,多種の行為のそれぞれについて医師の説明が行われ,当事者が決定し,実施されるものである,という思想のもとで制度設計がなされている。」ともいわれています(内藤290頁)。しかしながら,現実的問題としては,「胚移植は成功率が必ずしも高くなく,多ければ月に一度,何度もチャレンジすることが多い。そのたびに夫の同意を要求すると,それこそ形式的な,妻が代筆して済むような軽い同意になりはしないだろうか。」との懸念も表明されています(稲葉62頁)。

 

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(上)令和元年大阪家裁判決本論(夫との父子関係:フランス的な方向性?)

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079345802.html


2 仮定論:胚移植時の夫の同意必要説

 次は,(„leider auch“との語句を挿むべきかどうかは悩ましい)仮定論です。

 

(1)判示

令和元年大阪家裁判決は,本論のフランス的な方向性(でしょう。)では一貫できず,なお仮定論を論ずることによって,現代日本的な(といってよいのでしょう。)迷いを公然吐露した上で,それでも結論は同じになるのだ,との正当化を行っています。いわく。

 

   なお,仮に,原告と被告との間の法律上の父子関係を認めるためには父である原告の同意が必要であるとしても,原告は,別居〔筆者註:この別居は,嫡出推定を妨げるものではないとされています。〕直前の平成26410日の体外受精に際し,精子を提供するとともに,同日付けの「体外受精・顕微授精に関する同意書」,「卵子,受精卵(胚)の凍結保存に関する同意書」及び「凍結保存受精卵(胚)を用いる胚移植に関する同意書」等からなる1通の本件同意書1に署名しており〔略〕,本件同意書1に基づく体外受精,受精卵(胚)の凍結保存及び凍結保存受精卵(胚)移植に同意したと認められる。そして,その後,〔略〕原告が,〔平成27422日の〕本件移植時までに,上記同意を明確に撤回したとまで認めるに足りる的確な証拠はない。そうすると,本件移植については,原告の個別の明示的な同意があったとはいえない〔略〕が,原告の意思に基づくものということができるから,本件で,原告と被告の法律上の父子関係を否定することはできない。

 

 ここで仮定論をあえて展開しなければならなかったということは,日本民法における,前記奈良家庭裁判所平成291215日判決の傍論的思考の強さを示すものでしょう。しかし,当該「思考の強さ」はどこから生じて来ているのでしょうか。

 

(2)生殖補助親子関係等法10条との関係

 

ア AID型に関する規整

AID=Artificial Insemination with Donor’s semen)型の生殖補助医療に関し,生殖補助医療の提供等及びこれにより出生した子の親子関係に関する民法の特例に関する法律(以下「生殖補助親子関係等法」と略称します。)10条が「妻が,夫の同意を得て,夫以外の男性の精子(その精子に由来する胚を含む。)を用いた生殖補助医療により懐胎した子については,夫は,民法第774条の規定にかかわらず,その子が嫡出であることを否認することができない。」と規定していることと関係があるのでしょうか。(ちなみに,同条における夫の同意は,法案提案者によれば,「懐胎に至った生殖補助医療の実施時に存在している必要があると考えてございます。懐胎に至った生殖補助医療の実施前に同意が撤回された場合には,第10条の夫の同意は存在しないと考えてございます。」とされています(秋野公造参議院議員・第203回国会衆議院法務委員会議録第36頁)。すなわち,体外受精胚移植(「体外受精により生じた胚を女性の子宮に移植すること」(生殖補助親子関係等法22項))たる生殖補助医療(同条1項)の場合においては,当該移植時に夫の同意が必要であることになるものと解されます。)他人の精子を用いる場合には移植前に同意の撤回は可能である,いわんや我が精子においてをや,という論理は,あり得るところでしょう。

 (なお,生殖補助親子関係等法10条の法案提出者の解釈は,懐胎に至った生殖補助医療の実施時を夫の同意撤回可能の最終期限としていますが,これは,人工授精(「男性から提供され,処理された精子を,女性の生殖器に注入すること」(同法22項))の場合はよいとしても,体外受精胚移植の場合についてはどうでしょうか。体外受精(「女性の卵巣から採取され,処置された未授精卵を,男性から提供され,処置された精子により受精させること」(生殖補助親子関係等法22項))後・体外受精胚移植前に夫の同意が撤回されたときには,当該体外受精により生じた胚はどうなるのでしょうか。当該胚は破棄されるということであれば,「これを人とみるか物とみるかについて,倫理上の問題が生じる。胚は,母体に戻せば人間になり得るからである。主体的価値からは,破棄は認められないことになる。かねて胎児に関しては,母親の決定権と胎児の生存権とが独立の問題となった。胚や受精卵についても,この二重の主体の関与が不可欠となる。」という難しい話があります(山野目章夫編『新注釈民法(1)総則(1)』(有斐閣・2018年)792頁(小野秀誠))。「二重の主体」のみならず,「自己決定権」を主張する夫も加わった三重の主体が関与する問題となるようです。懐胎に至った体外受精胚移植の場合は,その前段の体外受精の実施時に夫の同意が必要であり,その後の撤回は認められないのだ,との問題回避的追加説明もあるいは可能かもしれませんが,生殖補助親子関係等法2条は,体外受精と体外受精胚移植とを一連のものとしてではなく,別個の生殖補助医療として定義しています。)

 

イ AID型における父子関係とAIH型におけるそれとの相違

しかし,AID型とAIH型との場合を安易に同一視してよいのでしょうか(同一視するのならば,結果を先取りすることになります。)。AID型の場合においては,子の出生前に夫の同意がないときはもちろん,あるときであっても,民法の文言上,出生子は夫からの嫡出否認の対象となり得るところ(同法776条は子の出生後の夫による承認に否認権喪失の効果を認めていますが,反対解釈(出生前の承認には当該効果なし。)が可能です(梅248頁)。),生殖補助親子関係等法10条は,その嫡出否認権を否認するために夫の同意の意思を改めて根拠付けに用いた上で,解釈上更に慎重に,当該意思の撤回を,懐胎に至った生殖補助医療が行われた時までは可能であるとするものでしょう。これに対して,AIH型の場合は,夫の同意がないときであってもそもそも出生子が夫によって嫡出否認され得るのかという出発点自体が問題となっています。

 

(3)精子の所有権との関係

おれの精子はおれのものだから,勝手に使ってはならぬのだ,ということでしょうか。確かに,精子の所有権は,まずはその提供者に属するものと解してよいようです。「身体から分離した,毛髪や血液は,公序良俗に反しない場合には,〔権利の客体たる〕物となる。」(山野目編790頁(小野)),「身体から分離された皮膚や血液,臓器などは,公序良俗の範囲内で物となる」(同791頁(小野))とされているところです。しかし,受精卵が育って生まれた子の実父はだれかを決めるに当たって,当該卵子を受精させた精子に係る所有権という権利がだれに属していたかを問題にするのは,いかがなものでしょうか。日本民法においては,人は,物として権利の客体となることはありません(山野目編790頁(小野))。また,素朴論としてもむしろ,勝手に使われたとしてもあなたの精子だったのであるから,勝手に使った人の責任は別としても,生まれた子はやはりあなたの子ではないですか,ということにもなりそうです。あるいは,おれは精子の所有権を放棄したから,かくして無主となった精子によって受精した卵子が育って生まれた子は実父を有しないのだ,ということでしょうか。しかし,やはり,繰り返しになりますが,父子関係の認定に当たって,精子の所有権を云々するのは筋が違うように思われます。(そもそも,あえて精子の所有権をあらかじめ放棄しなくとも,少なくとも母体内における懐胎の段階では,当該受精卵(胚)を客体とする精子提供者の所有権(共有持分でしょうか。)の存否を云々することはもうできないはずです。また,体外受精された受精卵(胚)が所有権の客体である物であるとしても,卵子と精子とを比べて卵子の方が主たる動産であるということであるのならば,精子提供者の所有権はそこでは既に消滅していることとなりましょう(民法243条)。)

(なお,所有権の効能の拡張という発想は,筆者に「「物に関するパブリシティ権」と所有権」に関する議論を想起させるところです。当該議論については,こちらは3年前の「法学漫歩2:電波的無から知的財産権の尊重を経て偶像に関する法まで」記事を御参照ください(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1073804586.html)。)

 

(4)米国的発想?

 「今日のニュー・ヨークが,2週間後の東京です。」との警鐘が,新型コロナウイルス感染症(covid-19)に関して過去2年間頻繁に鳴らされ続けました。我が善良可憐な日本国民は真摯に当該警鐘を信じ,従順に従い,煩わしさに慣れつつ四六時中マスクを着用し,副反応に耐えつつ重ねてワクチンの接種を受けてきたところでした。

 「今日の米国の生殖補助親子関係法制が,2年後の日本のそれです。」ということにもなるのでしょうか。(ちなみに,生殖補助親子関係等法附則3条に基づく,生殖補助医療の適切な提供等を確保するための法制上の措置(同条3項参照)その他の必要な措置を講ずるための検討の期間は「おおむね2年」とされています。)

 親子関係に係る米国の州法統一のために,統一州法委員全国会議National Conference of Commissioners on Uniform State Laws. これは,民間の団体です(田中英夫『英米法総論 下』(東京大学出版会・1980年)642頁)。)によって作成された2017年統一親子法案(Uniform Parentage Act)の第7章を見てみましょう。同法案では,生殖補助医療assisted reproduction. 「性交渉(sexual intercourse)以外の妊娠をもたらす方法」と定義されています(同法案1024号)。)による出生子の親子関係については「第7章 生殖補助医療」において,性交渉による妊娠から出生した子の親子関係に係るものとは別立てで規定されています。

 

  第701条 (本章)の適用範囲

    本(章)は,性交渉(又は第8(章)の代理母合意に基づく生殖補助医療)によって懐胎された子の出生には適用されない。

 

  第702条 配偶子提供者の親としての地位

    配偶子提供者は,生殖補助医療によって懐胎された子の親ではない。

    〔筆者註:配偶子(gamete)は「精子,卵子又は精子若しくは卵子の一部」です(同法案10210号)。配偶子提供者(donor)は,「有償無償を問わず,生殖補助医療において使用されるための配偶子を提供する個人」ですが(同条9号柱書き),例外があって,「(第8(章)で別異に規定される場合を除き)生殖補助医療によって懐胎された子を出産する女性」(同号(A))及び「第7(章)に基づく親(又は第8(章)における親となる意思の表明者(intended parent))」(同号(B))は除かれています。〕

 

  第703条 生殖補助医療における親子関係

    当該生殖補助医療により懐胎された子の親となる意思をもって,女性の受ける生殖補助医療(assisted reproduction by a woman)に第704条に基づき同意した個人が,当該の子の親である。

   〔筆者註: “assisted reproduction by a woman”は,「女医による生殖補助医療」という意味ではないでしょう。〕

 

  第704条 生殖補助医療に対する同意

a)(b)項において別異に規定されている場合を除き,第703条の同意は,生殖補助医療によって懐胎された子を出産する女性と当該の子の親となる意思の個人とが署名した記録によるものでなければならない。

b)(a)項によって求められる記録による同意が子の出生の前後を通じてされなかった場合であっても,裁判所は,次のときには,親となることに対する同意の存在を認定することを妨げられない。

    (1)当該個人及び当該女性が両者そろって当該の子の親となる意思である旨の懐胎の前にされた明示の合意(express agreement)の存在を,当該女性又は当該個人が明白かつ説得的な(clear-and-convincing)証拠をもって立証したとき,又は

    (2)当該女性と当該個人とが,一時的な不在期を含めて当該の子の出生後最初の2年間,当該の子と共に同一の世帯において同居し,かつ,両者とも当該の子が当該個人の子であることを公然と示していたとき。ただし,当該個人が当該の子が2歳になる前に死亡し,若しくは意思無能力となり,又は当該の子が2歳にならずに死亡した場合においては,当該女性及び当該個人は同一の世帯において当該の子と共に同居する意思であったものであり,かつ,両者とも当該の子が当該個人の子であることを当該個人が公然と示すことを意図していたものの,当該個人は死亡又は意思無能力によって当該意図を実現できなかったということが明白かつ説得的な証拠をもって立証されたときには,裁判所は本項の親となることに対する同意を認めることができる。

 

  第705条 親であることを配偶者が争うことに対する制限

a)(b)項において別異に規定されている場合を除き,子の出生時において生殖補助医療によって当該の子を出産した女性の配偶者である個人は,当該個人が当該の子の親であることを争うことができない。ただし,次に掲げる場合は,この限りでない。

1)当該の子の出生後2年以内に,当該個人が当該個人と当該の子との間の親子関係に係る裁定手続を開始し,かつ, 

2)裁判所が,当該個人は当該の子の出生の前後を通じて当該生殖補助医療に同意していなかったこと又は第707条に基づき同意を撤回していたことを認めた場合

b)生殖補助医療によって生まれた子と配偶者との親子関係に係る裁定手続は,裁判所が次に掲げる全ての事項を認めたときは,何時でも開始することができる。

1)当該配偶者は,当該生殖補助医療のために,配偶子の提供も同意もしていなかったこと。

2)当該配偶者と当該の子を出産した女性とは,生殖補助医療がされたであろう時期以来同棲していないこと。

3)当該配偶者は,当該の子を当該配偶者の子として公然示したことはないこと。

c)本条は,生殖補助医療が行われた後に当該配偶者の婚姻が無効であると認められた場合であっても,親であることを配偶者が争う場合に適用される。

  〔筆者註:(c)項は,無効の婚姻は本来当初から無効であるところ,この場合は遡及効のないものとして取り扱おうとするものと解されます(次条参照)。しかして更に,本来無効なので,(c)項の適用は,離婚等で終らせようがないわけなのでしょう。〕

 

  第706条 婚姻に係る一定の法的手続の効果

    生殖補助医療によって懐胎した子を出産する女性の婚姻が,配偶子又は胚が当該女性に移植又は注入(transfer)される前に(離婚若しくは解消で終了し,法的別居若しくは別居手当授受関係となり,無効と認められ,又は取り消された)場合においては,当該女性の前配偶者は,当該の子の親ではない。ただし,生殖補助医療が(離婚,婚姻解消,取消し,無効確認,法的別居又は別居手当授受関係)の後に行われても当該前配偶者は当該の子の親となる旨の記録による同意が当該前配偶者によってされており,かつ,当該前配偶者が第707条に基づき同意を撤回していなかった場合は,この限りでない。

 

  第707条 同意の撤回

a)第704条に基づき生殖補助医療に同意する個人は,妊娠に至る移植又は注入の前には同意の撤回をいつでも,生殖補助医療によって懐胎した子を出産することに合意した女性及び当該生殖補助医療を提供する病院又は医療提供者に対する記録による同意撤回通知を行うことによってすることができる。病院又は医療提供者に対する通知の欠缺は,本(法)による親子関係の決定に影響を与えない。

b)(a)項に基づき同意を撤回する個人は,当該の子の本(章)に基づく親ではない。

 

  第708条 死亡した個人の親としての地位

a)生殖補助医療によって懐胎された子の親となる意思の個人が,配偶子又は胚の移植又は注入と当該の子の出生との間に死亡した場合においては,本(法)の他の規定に基づき当該個人が当該の子の親となるときは,当該個人の死亡は当該個人が当該の子の親となることを妨げない。

b)子を出産することに合意した女性の受ける生殖補助医療に記録により同意した個人が配偶子又は胚の移植又は注入の前に死亡した場合においては,次のときに限り,当該死亡した個人は当該生殖補助医療により懐胎された子の親である。

1)(A)当該個人が,当該個人の死後に生殖補助医療がされても当該個人が当該の子の親となる旨記録による同意をしていたとき,又は

B)当該個人の死後に生殖補助医療によって懐胎された子の親となろうとする当該個人の意思が,明白かつ説得的な証拠によって立証されたときであって,かつ,

2)(A)当該個人の死後(36)箇月以内に当該胚が母胎内にあったとき,又は,

B)当該個人の死後(45)箇月以内に当該の子が出生したとき。

 

 令和元年大阪家裁判決事件の原告たる夫(又はその訴訟代理人)においては,UPAの第705条(a)項(2)号を援用したものでしょうか。確かに,同号によれば,夫の同意が,生殖補助医療によって懐胎・出産された子の父を出産女性の夫とするための要件とされています。この点では,米国法は,原告側に有利に働きそうです。

しかし,UPA704条(a)項に準ずる形で同意してしまった以上,その撤回は生殖補助医療を受ける女性及び当該医療を提供する病院又は医療提供者に記録による形での(in record)通知(notice)でされなければなりません(UPA707条(a)項)。「上記同意を明確に撤回したとまで認めるに足りる的確な証拠はない」以上,米国法にすがろうとしても,結局,ゴールの手前で無情にも見捨てられることとはなるのでした。

 なお,将来的には,米国的法制の我が国への導入の可能性を全く否定することはできないでしょう。「〔生殖補助医療による〕親子関係を,実親子・養親子とは異なる第三のカテゴリーとしてとらえるべきでない」という考え方もありますが(大村123頁),生殖補助親子関係等法が「第三のカテゴリー」たる親子関係の受皿となり得るものとして既に存在しています。立派な新しい皿があれば,そこに新しい料理を盛りつけたくなるのは人情でしょう。

 

  …vinum novum in utres novos mittunt et ambo conservantur. (Mt 9,17)

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第1 おさらい:奈良家庭裁判所平成291215日判決における傍論の前例

今からちょうど年前(2021119日)の「生殖補助医療の提供等及びこれにより出生した子の親子関係に関する民法の特例に関する法律(令和2年法律第76号)に関して」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078236437.html)において筆者は,夫の精子を用いた妻に対する人工授精(AIH=Artificial Insemination with Husband’s semen)について「ほとんど問題はない。〔AIHにより懐胎され生まれた子は〕普通の嫡出子として取扱うべきである。」とする我妻榮の見解(同『親族法』(有斐閣・1961年)229頁)を引用しつつ,その「ほとんど」の場合に含まれない例外的状況の問題として,夫の精子によって受精した妻の卵子が凍結保存され,その後当該受精卵(=胚)によって当該妻が懐胎出産した子に対して,同意の不存在を理由に当該夫が実親子(父子)関係不存在確認の訴え(人事訴訟法(平成15年法律第109号)22号)を提起した事案(第一審・奈良家庭裁判所平成291215日判決,控訴審・大阪高等裁判所平成30426日判決,上告審・最高裁判所令和元年65日決定(民事訴訟法(平成8年法律第109号)312条に定める上告事由に該当しないため棄却(稲葉実香「生殖補助医療と親子関係(一)」金沢法学632号(20213月)41頁以下の55頁註10参照)))について御紹介するところがありました。

当該事案については,当該夫婦の関係は当該の子について嫡出推定(民法(明治29年法律第89号)772条)が及ぶに十分なものであったそうで(新聞報道によれば「別居していたが,旅行に出かけるなど夫婦の実態は失われていなかった」),嫡出否認の訴え(同法775条)によるべきであったのに当該訴えではなく実親子関係不存在確認の訴えを提起した,ということで夫の敗訴となっています。その際第一審の奈良家庭裁判所は「生殖補助医療の目的に照らせば,妻とともに生殖補助医療行為を受ける夫が,その医療行為の結果,仮に子が誕生すれば,それを夫と妻との間の子として受け入れることについて同意していることが,少なくとも上記医療行為を正当化するために必要である。以上によれば,生殖補助医療において,夫と子との間に民法が定める親子関係を形成するためには,夫の同意があることが必要であると解するべきである。」,「個別の移植時において精子提供者が移植に同意しないということも生じうるものであるから,移植をする時期に改めて精子提供者である夫の同意が必要であると解するべきである。」と判示していますが(稲葉53-54頁),当該判示は裁判官の学説たる傍論(obiter dictum=道行き(iterのついで(obに言われたこと(dictum)にすぎないものと取り扱われるべきものでありました。すなわち,夫敗訴の結論は,嫡出否認の訴えではなく実親子関係不存在確認の訴えを提起した,という入口を間違えた論段階で既に出てしまっていたところです。なお,実親子関係不存在確認の訴えとは異なり,嫡出否認の訴えは,「夫が子の出生を知った時から1年以内に提起しなければならない」ものです(民法777条)。入口を間違えた論というよりもむしろ,制限時間オーヴァー論というべきかもしれません。

AIH型(夫の精子を用いて妻が懐胎出産することを目的とする生殖補助医療には,人工授精によるものの外に体外受精及び体外受精胚移植によるものもあるので,AIHといいます。)の生殖補助医療において妻による子の懐胎出産に夫の同意が存在しない場合における法律問題(これには,①夫と子との間における実親子(父子)関係の成否の問題並びに②妻及び生殖補助医療提供者に対する夫からの損害賠償請求の可否の問題があります。)に関する筆者の実務家(弁護士として家事事件の受任を承っております(電話:大志わかば法律事務所03-6868-3194,電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp)。大学の非常勤講師として学生諸君に民法を講じてもおります。よろずお気軽に御相談ください。)としての検討の深化及び解明のためには,その後更に裁判例が現れることが待たれていたところでした。

 

第2 大阪家庭裁判所令和元年1128年判決(令和元年大阪家裁判決):実親子(父子)関係の成否の問題

無論,種々の問題を惹起しつつ進む生殖補助医療の発展はとどまるところはなく,その後,凍結保存されていた受精卵(胚)を用いて妻が懐胎出産した子について夫がその子との父子関係の不存在を主張するという同様の事案(夫の精子によって妻の卵子が受精したもの)で,きちんと嫡出否認の訴えをもって争われたものに係る判決が現れました。大阪家庭裁判所平成28年家(ホ)第568号嫡出否認請求事件平成29年家(ホ)第272号親子関係不存在確認請求事件令和元年1128日判決です(第272号は却下,第568号は棄却。松井千鶴子裁判長,西田政博裁判官及び田中一孝裁判官。確定。各種データベースにはありますが,公刊雑誌には未掲載のようです。「原告は,当庁に対し,平成281221日に甲事件〔嫡出否認請求事件〕を,平成29621日に乙事件〔親子関係不存在確認請求事件〕をそれぞれ提起した。」ということですから,二宮周平編『新注釈民法(17)親族(1)』(有斐閣・2017年)683頁(石井美智子)の紹介する「2017年〔平成29年〕1月と2月に奈良と大阪の2つのケースが明らかになっている(毎日新聞20174日付朝刊,読売新聞2017221日付朝刊)」もののうちの大阪の分でしょう。)。

当該大阪家庭裁判所判決(以下「令和元年大阪家裁判決」といいます。)の法律論は,2本立てになっています。本論の外に――当該本論の迫力を大いに減殺してしまうのですが――仮定論があるところです。以下,本論及び仮定論のそれぞれについて検討しましょう。

 

1 本論:自然生殖で生まれた子と同様に解する説

まずは本論です。

 

(1)判示

令和元年大阪家裁判決は,その本論において,嫡出推定の及ぶ範囲に係る判例の外観説を前提に(「民法772条所定の期間内に妻が懐胎,出産した子について,妻がその子を懐胎すべき時期に,外観上,既に夫婦が事実上の離婚をして夫婦の実態が失われ,又は夫婦が遠隔地に居住して夫婦間に性的関係を持つ機会がないことが明らかであるなどの事情がある場合に限り,その子は同条の嫡出推定が及ばない子として,親子関係不存在確認の訴えの提起が認められる」),当該事案に係る子には嫡出推定が及ぶものと判断した上で,「原告〔夫〕と被告〔子〕との間に生物学上の父子関係が認められることは前記112)で指摘したとおり〔すなわち,「被告〔の〕母〔原告の妻〕は,平成27422日,本件クリニックにおいて,前記(2)のとおり,平成26415日に凍結保存されていた受精卵(胚)〔すなわち,「平成26410日に原告が提供した精子と被告母が提供した卵子を使用して作製された受精卵(胚)は培養され,同月15日,凍結保存された。」〕を融解させて被告母に移植する本件移植により,被告を懐胎し,●●●被告を出産した。」〕であり,原告の嫡出否認の請求は理由がない。」と夫の主張を一刀両断にしています。

「生物学上の父子関係」のみがいわれているということは,夫の同意の有無は問題にならないということでしょう。(なお,ここでの「生物学上の父子関係」は,子がそこから育った受精卵に授精した精子の提供者(提供の方法は性交渉に限定されない。)とその子との間の関係のことと解されます。)

大阪家庭裁判所は続けていわく。「これに対し,原告は,被告が,自然生殖ではなく,生殖補助医療である凍結受精卵(胚)・融解移植により出生していることから,本件移植につき,父である原告の同意がない本件では,原告と被告との間の法律上の父子関係は認められないと主張するが,生殖補助医療によって出生した子についての法律上の親子関係に関する立法がなされていない現状においては,上記子の法律上の父子関係については自然生殖によって生まれた子と同様に解するのが相当であることは前記21)で指摘したとおりであり〔すなわち,「生殖補助医療によって出生した子についても,法律上の親子関係を早期に安定させ,身分関係の法的安定を保持する必要があることは自然生殖によって生まれた子と同様であり,生殖補助医療によって出生した子についての法律上の親子関係に関する立法がなされていない現状においては,上記子の法律上の父子関係については自然生殖によって生まれた子と同様に解するのが相当である。」〕,採用の限りではない。」と。

 

(2)「自然生殖によって生まれた子と同様に解する」意味

 妻が生殖補助医療によって出産した子について,夫との法律的父子関係を「自然生殖によって生まれた子と同様に解する」という場合,(ア)民法772条の嫡出推定の場面並びに(イ)当該推定の及ぶときに係る同法774条・775条の嫡出否認訴訟の要件事実に関する場面及び(ウ)当該推定が及ばないときに係る実親子(父子)関係不存在確認訴訟の要件事実に関する場面があることになります。

 

ア 嫡出推定

民法772条の嫡出推定の場面については,生殖補助医療によって出生した子についてもその出生日は当然観念できますし(同条2項),その懐胎された時期を基準とすること(同条1項)も容易に承認できます。妻の懐胎は,専ら母体側の事情です。

 

 Ecce virgo concipiet et pariet filium…(Is 7,14)

 

イ 嫡出否認訴訟の要件事実

 

(ア)生物学上の父子関係の不存在

 嫡出推定が及ぶときに係る嫡出否認訴訟の要件事実の場面については,子の嫡出を否認しようとする夫が主張立証すべき事実として「自然血縁的父子関係の不存在」が挙げられています(岡口基一『要件事実マニュアル 第2版 下』(ぎょうせい・2007年)255頁)。父たらんとする意思の不存在はそこでは挙げられていません。専ら「子カ何人ノ胤ナルカ」が問題となるものでしょう(梅謙次郎『民法要義巻之四 親族編 第二十二版』(法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1912年)245頁)。

令和元年大阪家裁判決が,生殖補助医療によって生まれた子についても「自然生殖によって生まれた子と同様に解する」とあらかじめ宣言しているにもかかわらず,なお執拗に,生殖補助医療はそもそも不自然だからそれによって生まれた子には「自然血縁的父子関係」はおよそあり得ないのだ,我妻榮も嫡出子は「〔母と〕夫との性的交渉によって懐胎された子でなければならない。」と言っているのだ(我妻214頁)と頑張ってしまえば,「自然血縁的父子関係」の存在は認知の訴え(民法787条)の要件事実でもありますから(岡口259頁),生殖補助医療によって出生した子は,そもそも実父を有すべきものではないことになってしまいます。しかしながら我妻榮も,その嫡出子に係る定義について一貫せず,AIHによる出生子について,前記のとおり普通の嫡出子として取り扱うべきものとしています。過去の裁判例の用語としても,最高裁判所平成1894日判決・民集6072563頁の原審である高松高等裁判所平成16716日判決は「人工(ママ)精の方法による懐胎の場合において,認知請求が認められるためには,認知を認めることを不相当とする特段の事情が存しない限り,子と事実上の父との間に自然血縁的な親子関係が存在することに加えて,事実上の父の当該懐胎についての同意が存するという要件を充足することが必要であり,かつ,それで十分である」と判示しており(下線は筆者によるもの),生殖補助医療によって出生した子にも「自然血縁的父子関係」が存在することが前提となっています。いずれにせよ,令和元年大阪家裁判決における「生物学上の父子関係」という用語には,「自然」か「不自然」か云々に関する面倒な議論を避ける意味もあったものでしょう。

 

(イ)ナポレオンの民法典との比較等

なお,民法774条の前身規定案(「前条ノ場合ニ於テ子ノ嫡出子ナルコトヲ否認スル権利ハ夫ノミニ属ス」)についての富井政章の説明には「仏蘭西其他多クノ国ノ民法ヲ見ルト云フト種々ノ規定カアルヤウテアリマス夫ハ前条〔民法772条に対応する規定〕ノ場合ニ於テ遠方ニ居ツタトカ或ハ同居カ不能テアツタトカ云フコトヲ証明シナケレハナラヌトカ或ハ妻ノ姦通ヲ証明シタ丈ケテハ推定ハ(〔くず〕)レナイトカ或ハ(ママ)体上ノ無勢力夫レ丈ケテハ推定ヲ覆ヘス丈ケノ力ヲ持タナイトカ云フヤウナ趣意ノ規定カアリマスガ之ハ何レモ不必要ナ規定テアツテ全ク事実論トシテ置テ宜カラウト云フ考テ置カヌテアリマシタとあります(日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録第50巻』143丁裏-144丁表)。

対応するフランス法の条項は,ナポレオンの民法典の第312条から第316条までとされているところ(民法議事速記録第50143丁裏),それらの法文は次のとおりです(ただし,1804年段階のもの。拙訳は,8年前の「ナポレオンの民法典とナポレオンの子どもたち」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/2166630.html)のものの再録ということになります。)

 

312.

L’enfant conçu pendant le mariage, a pour père le mari.

(婚姻中に懐胎された子は,夫を父とする。)

Néanmoins celui-ci pourra désavouer l’enfant, s’il prouve que, pendant le temps qui a couru depuis le trois-centième jusqu’au cent-quatre-vingtième jour avant la naissance de cet enfant, il était, soit par cause d’éloignement, soit par l’effet de quelque accident, dans l’impossibilité physique de cohabiter avec sa femme.

(しかしながら,夫は,子の出生前300日目から同じく180日目までの期間において,遠隔地にいたことにより,又は何らかの事故により,その妻と同棲することが物理的に不可能であったことを証明した場合には,その子を否認することができる。)

 

313.

Le mari ne pourra, en alléguant son impuissance naturelle, désavouer l’enfant : il ne pourra le désavouer même pour cause d’adultère, à moins que la naissance ne lui ait été cachée, auquel cas il sera admis à proposer tous les faits propres à justifier qu’il n’en est pas le père.

(夫は,自己の性的不能を理由として,子を否認することはできない。夫は,同人に子の出生が隠避された場合を除き,妻の不倫を理由としてもその子を否認することはできない。ただし,上記の〔子の出生が隠避された〕場合においては,夫は,その子の父ではないことを理由付けるために適当な全ての事実を主張することが許される。)

 

314.

L’enfant né avant le cent-quatre-vingtième jour du mariage, ne pourra être désavoué par le mari, dans les cas suivans : 1.o s’il a eu connaissance de la grossesse avant le mariage ; 2.o s’il a assisté à l’acte de naissance, et si cet acte est signé de lui, ou contient sa déclaration qu’il ne sait signer ; 3.o si l’enfant n’est pas déclaré viable.

(婚姻から180日目より前に生まれた子は,次の各場合には,夫によって否認され得ない。第1,同人が婚姻前に妊娠を知っていた場合,第2,同人が出生証書に関与し,かつ,当該証書が同人によって署名され,又は署名することができない旨の同人の宣言が記されている場合,第3,子が生育力あるものと認められない場合。)

 

315.

La légitimité de l’enfant né trois cents jours après la dissolution du mariage, pourra être contestée.

(婚姻の解消から300日後に生まれた子の嫡出性は,争うことができる。)

 

316.

Dans les divers cas où le mari est autorisé à réclamer, il devra le faire, dans le mois, s’il se trouve sur les lieux de la naissance de l’enfant ;

(夫が異議を主張することが認められる場合には,同人がその子の出生の場所にあるときは,1箇月以内にしなければならない。)

Dans les deux mois après son retour, si, à la même époque, il est absent ;

(出生時に不在であったときは,帰還後2箇月以内にしなければならない。)

Dans les deux mois après la découverte de la fraude, si on lui avait caché la naissance de l’enfant.

(同人にその子の出生が隠避されていたときは,欺罔の発見後2箇月以内にしなければならない。)

 

 ナポレオンの民法典においては例外的にのみ認められる「その子の父ではないことを理由付けるために適当な全ての事実を主張すること」(同法典313条末段)が,日本民法の嫡出否認の訴えにおいては常に認められることになっています。とはいえ,生殖補助医療出現より前の時代のことですから,自分の胤による子ではあるがその懐胎は自分の同意に基づくものではない,なる嫡出否認事由は,日本民法の制定時には想定されてはいないものでしょう。(ちなみに,富井政章はナポレオンの民法典の第312条以下を証拠法的なものと捉えていたようですが(ナポレオンの民法典3121項を承けた旧民法人事編(明治23年法律第98号)911項の「婚姻中ニ懐胎シタル子ハ夫ノ子トス」を「之ハドウモ「推定ス」テナクテハナラヌト思ヒマス固ヨリ反証ヲ許ス事柄テアリマス〔略〕此場合ニハ「子トス」ト断定シテアリマス之ハ甚タ穏カテナイト思ヒマスカラ「推定ス」ニ直(ママ)シマシタ」と修正してもいます(民法議事速記録第50109丁裏-110丁表)。),それらの条項は実体法的なものでもあったところです(「民法は,嫡出子の定義を定めていない。」ということ(我妻215頁)になったのは,富井らが旧民法人事編911項の規定を改めてしまったせいでしょう。)。「フランス法においては,親子法は様々な訴権によって構成されているが,そこでの訴権は,他の場合と同様に,手続・実体の融合したもの(分離していないもの)としてとらえられていると見るべきではないか。」と説かれているところです(大村敦志『民法読解 親族編』(有斐閣・2015年)132頁)。)

 昔から,人違いで結婚してしまった(imposuit mihi),目許醜い(lippis oculis),嫌いな(despecta, humiliata)嫁が,第三者の生殖補助で妊娠して(Dominus aperuit vulvam ejus)子を産んだのであっても(genuit filium),胤が自分のもの(fortitudo mea)であるのなら,その子はやはり自分の子です。

 

       [Laban] habebat vero filias duas. Nomen majoris Lia. Minor appellabatur Rahel.

Sed Lia lippis erat oculis,

       Rahel decora facie et venusto aspectu,

quam diligens Jacob ait:

Serviam tibi pro Rahel filia tua minore septem annis. (Gn 29,16-18)

 

  …vocatis multis amicorum turbis ad convivium, [Laban] fecit nuptias,

       et vespere filiam suam Liam introduxit ad eum

       …ad quam cum ex more Jacob fuisset ingressus,

       facto mane, vidit Liam et dixit ad socerum:

       Quid est quod facere voluisti?

       Nonne pro Rahel servivi tibi? Quare imposuisti mihi? (Gn 29,22-25)

 

       Videns autem Dominus quod [Jacob] despiceret Liam aperuit vulvam ejus…

       quae conceptum genuit filium vocavitque nomen ejus Ruben, dicens:

       Vidit Dominus humilitatem meam. Nunc amabit me vir meus. (Gn 29,31-32)

 

       Ruben, primogenitus meus,

       tu fortitudo mea… (Gn 49,3)

 

(ウ)子をもうけることに係る夫の「自己決定権」

令和元年大阪家裁判決事件において原告である夫は,判決文によれば,「原告の同意がない以上」「本件移植は,原告の自己決定権という重要な基本的人権を侵害するものであり,正当な医療とはいえず,許されないから,原告と被告との間の法律上の親子(父子)関係は認められるべきではない。」と主張していたところです。ここでの「原告の同意」は,「凍結受精卵(胚)を融解し,母胎に移植する時期に必要とすべきである」とされており,胚の母胎への移植時に存在する必要があったものとされています。また,「原告の自己決定権」といわれるだけでは何に関する自己決定権であるのか分かりませんが,これは,文脈上「子をもうけること」に係る自己決定の権利のことであるものと解されます。

しかし,ここで原告の「自己決定権」を侵害し得た者はその妻又は当該生殖補助医療を行った医師であって,生まれた子には関係がありませんから,当該「侵害」が当該子との父子関係の有無に影響を与えるのだとの主張には,当該子の立場からすると少々納得し難いところがあるようでもあります。

令和元年大阪家裁判決の本論においては,原告の主張に係るその「自己決定権」に言及して応答するところがありません。難しい議論をして状況を流動化させるよりも,ルールに関する明確性・安定性を求め(「法律上の親子関係を早期に安定させ,身分関係の法的安定を保持する必要」ということは,ルール及びその適用の明確性・安定性が必要であるということでしょう。),生殖補助医療により出生した子の法律上の父子関係についても「自然生殖によって生まれた子と同様に解するのが相当」であるものと判断されたものでしょう。

 

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7 旧民法財産編262条4項と34条等との関係論及び「ローマ法的解決」

 

(1)民法233条の同法上の位置付け問題

民法233条の趣旨をどう考えるべきかの問題に改めて立ち戻って考えるとしても,同条の民法中における位置付けは難しい。「土地の所有権は,法令の制限内において,その土地の上下に及ぶ。」(民法207条)とされている以上,民法2331項は,当該所有権に基づく妨害排除請求権と重複します(民法・不動産登記法部会資料72頁参照)。民法2332項は,土地に侵入した根の所有権が当該土地の所有者に属するのならば(この点が正に問題ですが。),「所有物の使用,収益及び処分」(同法206条)そのものの一環ということになり得ますから,これも重複しそうです。

 

(2)旧民法財産編34条等と同編2624項(民法233条)との関係

ただし,民法233条は旧民法財産編2624項を承けた規定であるということなので,旧民法の中での位置付けを考えると,ある程度なるほどと合点し得る説明ができそうではあります。

 

ア 旧民法財産編34条論

 

(ア)旧民法財産編34

実は旧民法における土地の所有権については,民法207条のような一般的な規定は伴われてはいませんでした。確かに旧民法財産編301項は「所有権トハ自由ニ物ノ使用,収益及ヒ処分ヲ為ス権利ヲ謂フ」と規定していましたが,所有物が土地である場合について同編34条は,「土地ノ所有者ハ其地上ニ一切ノ築造,栽植ヲ為シ又ハ之ヲ廃スルコトヲ得/又其地下ニ一切ノ開鑿及ヒ採掘ヲ為スコトヲ得/右孰レノ場合ニ於テモ公益ノ為メ行政法ヲ以テ定メタル規則及ヒ制限ニ従フコトヲ要ス/此他相隣地ノ利益ノ為メ所有権ノ行使ニ付シタル制限及ヒ条件ハ地役ノ章ニ於テ之ヲ規定ス」と規定していました(フランス民法5522項及び3項に対応)。民法207条の規定と比較すると,伸び伸びとした土地所有権の行使を認めるもののようには印象されません。

なお,不動産たる土地についてボワソナアドは,「真の不動産をなすものは,土地を構成する物というよりはそれが占める空間である(ce qui constitute le véritable immeuble, c’est moins la substance du sol que l’espace qu’il occupe)」と言っています(Gve Boissonade, Projet de Code Civil pour l’Empire du Japon accompagné d’un commentaire, Nouvelle Édition, Tome Premier, Des Droits Réels ; Tokio, 1890: p.34)。(しかし,空間は,有体物でしょうか。)

 

(イ)民法207

民法207条は,旧民法財産編34条の規定だけでは「事柄が足りないので,一般的な原則」を掲げるべく「同条を修正してつくられたもの」,と報告されています(川島=川井編319頁(野村=小賀野))。189468日の第19回法典調査会で梅謙次郎は民法207条の規定を置くべき必要について「唯疑ヒノ起ルノハ空中ノ話シテアリマス譬ヘバ私ノ地面ノ右ノ方ノ隣リノ者カ恰度(ちやうど)左ノ方ニ地面ヲ持ツテ居ルト仮定スル其間ニ電話ヲ架設シヤウトシテ私ノ地面ノ上ヲ通(ママ)ス其場合ニ空中ハ御前ノ所有物テナイカラ斯ウ云フコトヲシテモ構ハヌト言ツテヤラシテハ叶ハヌ是カラ段々世ノ中カ進歩スルニ従ツテ然ウ云フ事柄ハ余程多クナツテ来ヤウト思ヒマス然ウ云フコトヲ規定スベキ必要ガアラウト思フ」(日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録』第7119丁裏-120丁表)等と説明しています。こう言われると,土地の所有権に基づく妨害排除権の及ぶ範囲が第一に問題になっているように見えます。2055分まで審議が続き,磯部四郎からは修正案が出(追随者なし),奥田義人,村田保,菊池武夫,都筑馨六及び三浦安からは削除説が唱えられました。削除説についていえば,梅も当該規定について「若シ之カナカツタナラハ所有権ト云フモノハ土地ノ上下ニ及ハヌモノテアルノヲ此箇条ヲ以テ特ニ及ホシタモノデアルカト云フ御問ヒテアリマスガ私共ハ然ウハ思ツテ居リマセヌ」,「〔上の方,空中については〕疑ヒノアル点テアリマスカラ此処ニ規定シヤウト考ヘタノテアリマス」と述べており(民法議事速記録第7121丁裏-122丁表),したがって,民法207条は絶対不可欠とまでは言えなかったわけです。最後は議長の西園寺公望が採決し,削除説への賛成少数で梅の原案が可決されています。

 民法207条は難産で,梅謙次郎は苦労したわけですが,実は三起草委員の一人である富井政章は同条についてニュアンスの違った解釈をしていたようでもあります。同条に係る富井=本野のフランス語訳は “La propriété du sol emporte, sous réserve des restrictions apportées par les lois et ordonnances, la propriété du dessus et du dessous.” であって,直訳すれば,「土地の所有権は,法令の制限内において,その上下の所有権の取得を伴う。」でしょうか,「法令の制限内において」の部分を除いてフランス民法5521項と同じ表現となっています。しかしてフランス民法552条は,不動産上の添付(accession)に関する規定なのでした。添付は,所有権取得の一態様です。ローマの添付法には「地上物は土地に従う(superficies solo cedit)」とあります。

 

イ 旧民法財産編34条と枝の剪除請求権との関係及び同編36条の本権訴権等

 

(ア)枝の剪除請求権との関係

旧民法財産編341項及び4項を見ると,越境した枝の剪除を越境された土地の所有者が求めるためには,明文の特則があった方がよかったようです。

確かに,ボワソナアドは,「土地の所有者は,当該土地の上の空間の主人である。したがって,隣人は,分界線上において,当該分界線から垂直に伸ばした線を越える建築をすることはできない。また,隣人は,一所有地と他の所有地との間に橋を差し掛けて,中間の他人所有地の上を通過することもできない。何ら難しいことはない。」との解釈を説いてはいました(Boissonade, p.93)。しかしながら,土地上の空間に係る妨害排除のために占有訴権たる保持訴権を行使しようとすると,それは「其ノ占有ニ関シ〔略〕妨害ヲ受」けた者が「妨害ヲ止マシメ又ハ賠償ヲ得ルヲ目的」として行うものということになりました(旧民法財産編362項・200条)。そこにおいては,当該空間下の土地の占有に関する妨害の有無及び妨害を止ましめる方法は何であるべきかの判断が面倒そうでありました。

 

(イ)旧民法財産編36条の本権訴権等

ところで,従来,物権的請求権については,「民法には,所有権に基づく物権的請求権そのものの規定はありません。しかし,占有権については占有訴権が認められており,これより強力な所有権についてこれに基づく請求権を認めることが相当であることや,民法202条が占有の訴えのほかに本権の訴えを認めていることに照らし,所有権について物権的請求権が発生するものと解されています。」(司法研修所民事裁判教官室『改訂 問題研究 要件事実――言い分方式による設例15題――』と説かれていましたが(司法研修所・20069月)56頁),「本権の訴え」といわれるだけでは――筆者一人の感想でしょうか――漠としています。「本権ノ訴(action pétitoire, petitorische klage)即チ占有(ママ)ル権利其物ノ主張ヲ目的トスルモノ」とやや敷衍していわれても(梅87頁),フランス語及びドイツ語のお勉強にはなっても,なおよく分かりません。(『ロワイヤル仏和中辞典』(旺文社・1984年)には“action pétitoire”は「不動産所有権確認の訴訟」とあり,『独和大辞典(第2版)コンパクト版』(小学館・2000年)には„petitorische Ansprüche“は「本権上の請求権」とあるばかりです。)しかし,せっかく旧民法財産編361項本文に「所有者其物ノ占有ヲ妨ケラレ又ハ奪ハレタルトキハ所持者ニ対シ本権訴権ヲ行フコトヲ得(Si le propriétaire est troublé dans la possession de sa chose ou en est privé, il peut exercer contre tout détenteur l’action pétitoire)」とありますから,ここで,本権訴権とは何かについてボワソナアドの説くところを聴いてみましょう。

 

  ここまで論じられてきたrevendicationの訴え(action en revendication)は,まず,本権のpétitoire)〔訴え〕との名を占有のpossessoire)訴えとの対照において称する。本権の訴え(action pétitoire)は,原告が真にvraiment)所有権を有するものかどうかを裁判させようとするものであるf。占有の訴えは,原告が現実に(en fait)所有権を行使しているexerce)こと(占有するposséder),といわれること)を確認させようとのみするものである。本権の訴えは,権利の根拠le fond)について裁判せしめる。占有の訴えは,占有すなわち現実の行使l’exercice de fait)についてのみ裁判せしめるものである。

 (Boissonade, pp.96-97

 

  (f)ラテン語のpetere,すなわち「求める(demander)」に由来するpétitoireの語は,それ自体では十分確定した意味を有しない。しかし,ローマ法に影響された全ての立法において,上記の意味と共に,術語とされている(consacré)。

   本権の訴えは,所有権のみならず他の物権の多くについてそもそものau fond)その存在について裁判させるためにも行われる。

  (Boissonade, p.96

 

 本権の訴えは所有権その他の物権の存否を裁判させようとするものであるのはよいのですが,当該争点に係る肯定の裁判の結果,どのような請求を実現させようとするものであるのかというと,旧民法財産編36条に対応するボワソナアド草案37条の第1項及び第2項を見ると(Boissonade, p.76),action en revendication(所有物取戻訴権)及び’action négatoire(否認訴権)の行使が想定されていたところです。

フランス語のrevendicationは,ラテン語のrei vindicatio(所有物取戻訴権,所有物取戻しの訴え)に由来します。ローマ法においては「所有物取戻訴権は物権中の王位の権利の最強武器である。「予が予の物を発見するところ予これを取り戻す」(ubi rem meam invenio, ibi vindico)原則は何等の制限を受けない。何人の手からでも何等の補償も要せずして取り戻せるのである。その者が如何に善意で過失なくして取得したにしても,彼は保護せられない。比較法制史上個人主義がかくほど徹底した法制も稀である。」とのことでした(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)120頁)。

ローマ法における否認訴権(actio negatoria)については,「役権否認の訴権である。ドイツ普通法時代には占有侵奪以外のあらゆる妨害排除の訴権に高められている。目的は制限なき所有権の確認,侵害の排除,目的物(人役権〔用益権(旧民法財産編44条参照),準用益権,使用権(同編1101項参照)並びに住居権(同条2項参照)及び奴隷又は獣の労務権(原田127-128頁)〕につき問題となる)利益の返還,損害の賠償及び将来妨害せずとの担保問答契約の提供である。」と説明されています(原田120頁)。ボワソナアドは,否認訴権を説明していわく,「この場合,所有権者は彼の地所をなお占有しているので,彼がそれを要求するrevendiquer),彼がそれを取り戻そうとする,とはいえない。彼は専ら自由,解放を求めるのである。したがって,彼はその所有権を確認するのではない。その権利は争われていないからである。彼は,他者によって主張されている役権を争い,否認するdénie)のである。ここから,否認négatoire)訴権の名が生ずる。全くローマ由来の名である。」と(Boissonade, p.96)。

実は,旧民法財産編36条には立法上の不体裁があって,その第1項はaction en revendicationにのみ係るものでした(cf. Boissonade, p.76)。確かに同項の本権訴権行使の相手方は「所持者」です。ボワソナアドも,否認訴権はaction en revendicationの一種であると述べつつも,「否認訴権(action négatoire)は古いテキスト(l’ancien texte [sic])においては言及されていない〔筆者註:ボワソナアドのProjet1880年版及び1882年版のいずれにも否認訴権に係る規定はちゃんとありましたので,「古いテキスト」とは旧民法財産編36条のことを指すのでしょうか。〕。これは修正されなければならなかった脱漏であった。地役権の行使によって妨害された所有権者がそれを争うのは所有物取戻しの訴えによるものでないことを理解するには,〔ボワソナアド草案〕288条〔すなわち旧民法財産編2692項〕を待つまでもない。」と述べています(Boissonade, pp.95, 96(1))。

否認訴権に係るボワソナアド草案372項は次のとおりです(Boissonade, p.76)。

 

   Il peut aussi intenter une action négatoire contre ceux qui exerceraient sur son fonds des droits de servitude qu’il prétendrait ne pas exister.

  (所有権者は,また,彼が存在しないと主張する役権を彼の地所に行使する者に対して否認の訴えを提起することができる。)

 

「否認の訴え」というと嫡出否認の訴え(民法775条等)や,破産法(平成16年法律第75号)上の否認権の行使に係る訴え(同法173条)と紛らわしいですね。やはり旧民法財産編2692項流に「拒却訴権」の行使ないしは「拒却」の訴えとでもいうべきでしょうか。いずれにせよ,否認訴権を読み出しにくい旧民法財産編361項を前提とすれば,土地所有権に対する妨害の排除手段の明示に係る同編2624項の存在はその分の有用性を有していたわけです。

なお,我妻榮は「所有権についても,これ〔占有訴権〕に対応する所有物返還請求権(rei vindicatio)・所有物妨害除去請求権(actio negatoria)・所有物妨害予防請求権が,学説上一般に認められている。のみならず他の物権にも――物権それぞれの内容に応じて多少の差はあるが――これらに対応するものが認められている。そしてこれを物権一般の効力として,物上請求権または物権的請求権という(ドイツ民法は所有権について規定し(985条以下),他の物権に準用する。〔略〕)。」と述べており(我妻Ⅱ・22頁),そこでは所有物妨害予防請求権にラテン語名が付いていません。この点に関しては,ボワソナアドも,旧民法財産編36条に関して所有物妨害予防訴権については言及していなかったところです(Boissonade, pp.95-97)。

 

ウ 旧民法財産編34条と根の截去権との関係

また,根の截去についても,旧民法財産編342項の「開鑿及ヒ採掘(excavations, fouilles et extractions de matériaux)」にぴったり当てはまらないとともに(大は小を兼ねるのでしょうが,それでも,邪魔物たる隣地からの根の截去は,有益物であろうし,かつ,土地所有者の所有物又は無主物たるべきものであろうmatériauxの採掘に含まれ得るものでしょうか。),相隣関係なので地役の章を見なければならず(旧民法財産編344項),そこで同章を見れば,旧民法財産編261条は井戸,用水溜,下水溜及び糞尿坑,地窖並びに水路用石樋及び溝渠を穿つについて分界線から保つべき距離を規定しており,すなわち,分界線付近で穴を掘ることは注意してすべきものとされてあるところ,隣地から侵入して来た根の截去のための土堀りは分界線からどれだけ離れてすべきか,又は分界線に接してすることができるかは,やはり明文で規定されるべきものだった,とも考えられないものでしょうか。あるいはこじつけ気味に,第25回法典調査会における前記土方=梅問答にヒントを探してみると,旧民法財産編2624項は,竹木の存在する隣地を要役地とし,その枝又は根が侵入する土地を承役地とする地役権の存在を否定する趣旨であるように解されます(梅の言う「時効ニ依テ取得」するものは,地役権でしょう。)。旧民法財産編2621項から3項までは竹木の栽植又は保持において保つべき分界線からの距離を規定していますが,当該距離を保ちさえすればあとは枝又は根の侵入について隣地に対する地役権までが付随して認められるというわけではないよ,ということが同条4項の趣旨だったということもできないでしょうか。

しかし,さかしらなこじつけは,素直な事実認識を阻害しそうではあります。

結局のところ,越境した根の所有権の帰属はどうなっていたのでしょうか。

ちなみに,ある土地に生立している草木(及びその根)は土地の本質的構成部分となるという,いささか重たい表現である例のドイツ民法941項後段に相当する明示規定は,管見の限り旧民法にはないようです。旧民法財産編81項第5本文は「樹林,竹木其ノ他植物」を「耕地,宅地其他土地ノ部分」(同項第1)と並置して「性質ニ因ル不動産」としており(「性質ニ因ル不動産」は,その性質に因り遷移することを得ない物(同編7条)),同編81項第5ただし書を承けた同編12条は「植木師及ヒ園丁カ売ル為メニ培養シ又ハ保存シタル草木」(第3)及び「収去スル為メニ譲渡シタル樹木及ヒ収穫物」(第4)のような「仮ニ土地ニ定著セシメタル物」を「用法ニ因ル動産」としています。ただし,ボワソナアドは,樹林,木,小低木及びその他の植物並びに果実及び収穫物について,「土地から(du sol)分離して動産にすることが非常に容易(bien facile)な物であるが,そこにつながっている間は,それと一体をなし(tant qu’ils y sont attachés, ils font corps avec lui),かつ,性質上の不動産である。」とし,また,「栽植又は播種の場合,木及び種子は,なお根を下ろしていなくとも,地中に置かれるとともに不動産となる。」と述べています(Boissonade, p.35)。

 

(3)「ローマ法的解決」

 隣地の竹木から侵入して来た根の被侵入地内における所有権について,旧民法は土地所有者帰属説及び竹木所有者帰属説のうちどちらを採っていたのかがなおよく分からないのであれば,同法の母法たるフランス民法についてそれを問うべし,ということになります(我が民法233条と同様の規定として,フランス民法673条が存在します。当該条文は,後に御紹介します。)。ということで筆者は,頑ななる我がPCに手を焼きつつ,おフランス語でインターネット検索を重ねたのですが,そこで思わぬ収獲がありました。

フランス民法の淵源であるところのローマ法においては,隣地に侵入した根(radix)について樹木所有者帰属説が採られていたことが分かったのです(フランス民法及び我が旧民法も同説採用でしょう。)。日本民法の解釈問題は残るとしても,筆者の問題意識の主要部分はこれでひとまず解消したようです。

 当該収獲は,1823年にパリのImprimerie de Dondey-Dupréから出版されたポチエ(R.J.Pothier)の『ユスティニアヌスの学説彙纂(Pandectae Justinianeae, in Novum Ordinem Digestae, cum Legibus Codicis et Novellis quae Jus Pandectarum Confirmant, Explicant aut Abrogant)』第19巻の538-539頁にありました(Lib.XLVII. Pandectarum Tit.VII: III)。

 

   Non ideo minus autem furtim caesa arbor videbitur, quod qui radices hujus caecidit, eas in suo s[o]lo caecidit.

  (しかし,木の根を截った者が彼の地所でそれをしたからといって,それだけより窃盗的にではなくその木が伐られたことにはならない。)

   Enimvero si arbor in vicini fundum radices porrexit, recidere eas vicino non licebit: agere autem licebit non esse ei jus, sicuti tignum aut protectum immissum habere. Si radicibus vicini arbor aletur, tamen ejus est, in cujus fundo origo ejus (1) fuerit. l.6. §2. Pomp. lib.20. ad Sab.

  (確かに,「木が隣人の地所に根を伸ばした場合,当該隣人はそれを截ることはできない。彼に権利はない。しかし,梁又は廂が侵入してきたときと同様に行動することはできる。隣人の木がその根で養分を吸収するとしても,しかしそれは,それが最初に生えた場所がその地所内にある者のものである1。」6節第2款ポンポニウス第20編サビヌスについて

 

    (1Nec obstat quod in institut. lib.2. tit.1. §31 dicitur, ejus arborem videri, in cujus fundo radices egit. Hoc enim intelligendum quum integras radices egit, ita ut omnino ex hoc solo arbor alatur. Quod si mea arbor extremas du[m]taxat radices egerit in solo vicini: quamvis haec inde aliquatenus alatur, tamen mea manet; quum in meo solo et radicum maxima pars, et origo arboris sit.

     (『法学提要』第2編第1章第31節において,その地所に根が張った者に木は属するものと見られるといわれていることは,妨げにならない。それは,当該土地からその木が全ての養分を吸収するように全ての根が張っている場合のこととして理解されるべきものなのである。私の木が隣人の土地にせいぜい根の先端を延ばしたとして,その木がそこから幾分かの養分を吸収したとしても,根の大部分が,及び木の生え出した場所が,私の土地内にあれば,それは依然私のものである。)

 

ローマ法では,隣地の木の根が境界線を越えるときであっても,被越境地の所有者はその根を切り取ってはならないのでした。その理由は,隣人の梁や廂が侵入してきたときと同様に振る舞えというところからすると,越境した根はなお,その木の所有者の所有に属するから,ということになるわけでしょう。この点,S.P.スコットのDigesta英訳(1932年)では“but he can bring an action to show that the tree does not belong to him; just as he can do if a beam, or a projecting roof extends over his premises.(しかし,彼は,ちょうど梁又は廂が彼の地所に突き出てきたときにできるように,その木は彼のものではないことを示すために訴えを提起することができる。)となっていますnon esse ei jus”の不定法句は,agereを言説動詞とした,間接話法の内容ということでしょうか。当該不定詞句は,ポチエのフランス語では最後の文にくっつけて訳されていて,筆者の頭を悩ませたのでした。)

邦語でも「地下にある〔突出してきた〕根についても,これを切断させることが,可能です。相手方がその作業をしないときには,その人が自力で〔略〕根を切り取る行動に出ても差し支えありません。これは,法上許された「自力救済」の一つのパターンですね。」ということが紹介されています(柴田光蔵「ROMAHOPEDIA(ローマ法便覧)第五部」京都大学学術情報リポジトリ・紅(20184月)37頁)。自力截去は直ちにはできません。「又我が樹木根が隣地[に]出でるときは,隣人はこれを有害と認むるときは任意にこれを除去することを得。」というのは(吉原達也編「千賀鶴太郎博士述『羅馬法講義』(5)完」広島法学333号(2010年)85-86頁),反対解釈すると任意の除去は有害のときに限られ,無害のときは手を出せないということですが,これは当該越境樹木根の所有権を当該隣人が有していないからでしょう。

ローマ法においては,木の所有権は,その木が最初に生えた場所(origo)の属する土地の所有者に属する,ということでよいのでしょうか。註では根の大部分の所在をも要件としていますが,本文の方が簡明であるようです。

なお,名詞origoは,動詞oririに由来し,当該動詞には太陽等の天体が昇るという意味もあります(おやじギャグ的に「下りる」わけではありません。)。日出る東方を示すOrientの語源ですね。


(4)ボワソナアドの旧民法財産編262条4項解説探訪(空振り)

なお,民法財産編2624項の趣旨をボワソナアドのProjetに尋ねてみても,空振りです。同条はフランス民法の1881820日法による改正後671条から673条まで及びイタリア民法579条から582条までを参考にしたものであること並びに旧民法財産編262条における分界線・竹木間距離保持規定の目的は通気及び日照の確保による居住及び耕作の保護であり,「市街地では木は実用のためというよりは楽しみのためのものであるし,田園地においてはその広さが規定された距離を容易に遵守することを可能とすることから」,法は遠慮なし(sans scrupules)に所有権者の自由を制限しているものであることは説かれていますが,同条4項について特段の説明はありません(Boissonade, pp.565, 568-570)。

 

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    民法2332項は,面白い条文として紹介されることが多い一方,基本書・註釈書の類ではその説明はあっさりとしたものとなっています(我妻榮著・幾代通=川井健補訂『民法案内4 物権法下』(勁草書房・2006年)においては,同項の説明に当たって,末弘厳太郎と(たけのこ)とのエピソードが紹介されています(32-33頁)。)。最近筆者のブログ記事はみな一様に長く,くどくなり過ぎて評判が非常に悪そうだと懸念していたところ,同項についてならばコンパクトにまとまった気の利いたものが落語的に書けて名誉挽回かなと楽観視しつつ本稿を書き始めたのですが,あに図らんや,問題は意外に根深く,収拾をつけるためには旧民法から更にフランス法・ドイツ法のみならずローマ法まで掘り返さなければならない破目となりました。

 

1 条文

 民法(明治29年法律第89号)2332項(令和3年法律第24号の施行(2021428日から起算して2年を超えない範囲内において政令で定める日から施行(同法附則1条))からは2334項)は,土地の所有者は「隣地の竹木の根が境界線を越えるときは,その根を切り取ることができる。」と規定しています。富井政章及び本野一郎によるフランス語訳文では “Quant aux racines des arbres ou bambous du fonds voisin, qui dépassent la ligne séparative, il est permis de les couper.” となります。

平成16年法律第147号が施行された200541日(同法附則1条,平成17年政令第36号)より前は,「隣地ノ竹木ノ根カ疆界線ヲ踰ユルトキハ之ヲ截取スルコトヲ得」との文言でした。

 

2 根の切取りの費用負担問題

 しかし,びっしりと,あるいは深々と伸びた竹木の根を截取するのも大変な作業で物入りでしょう。自分で截取した後に当該竹木の所有者にその費用の償還を請求できないと,せっかくの民法2332項も画竜点睛を欠きます。ところが,意外とこの辺がはっきりしません。

従来は「根の切取りについては,費用負担に関する規定がなく,現行法上は越境された土地所有者が費用を負担するものと解される」(「民法・不動産登記法部会資料7 相隣関係規定等の見直し」(法制審議会民法・不動産登記法部会第4回会議(2019611日))6(ただし,大谷太幹事(法務省民事局参事官)は「根の方は,これはどう考えられているのかなというのも,ややよく分からないというところがございまして,根の方も同じように,恐らく,きちんとやろうとすれば,かなりお金が掛かることもあり得ると思いますけれども,今は少なくとも,根の方は,根を切り取る方が費用を負担しているということを前提に書きました。論理的に必ずそうだというわけではないとは思います。」と述べてはいます(同会議議事録52頁)。)),「民法第233条は,費用負担に関しては何らの定めもない。枝については竹木所有者に切除させ,根については土地所有者自らが切除するわけであるから,枝の切除に係る費用は竹木所有者が,根の切除に係る費用は土地所有者が負担することになり,本条に基づく限りでは特段の費用償還関係は生じないであろう。」(齋藤哲郎「リサーチ・メモ 隣地の樹木の枝や根が境界を越えてきたら:民法233条をめぐって」(土地総合研究所・2019731日)5頁),「事前通告等なしに切除が可能である分その費用は土地所有者の負担とするものと考えられる。」(同6頁)ということであったようです。

 

3 起草者の説明

民法233条の条文は,189473日の第25回法典調査会に「第236条」として提案され梅謙次郎が説明したものがそのまま採択されていますが(その第1項は「隣地ノ竹木ノ枝カ疆界線ヲ踰ユルトキハ其竹木ノ所有者ヲシテ其枝ヲ剪除セシムルコトヲ得」),梅は「是レハ既成法典財産編第262条第4項ニ文字ノ修正ヲ加ヘマシタ丈ケデ,是レハ誠ニ当然ノ規定ト思ヒマスカラ茲ニ掲ケマシタ」と述べているだけです(日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録』第931丁表)。

旧民法財産編(明治23年法律第28号)2624項は「右孰レノ場合〔分界線に接着して,又はそこから2尺若しくは6尺離して竹木を栽植若しくは保持することができ,又はしなければならない各場合〕ニ於テモ相隣者ハ竹木ノ所有者ニ対シ分界線ヲ踰エタル枝ノ剪除ヲ要求スルコトヲ得又自己ノ土地ヲ侵セル根ヲ自ラ截去スルコトヲ得」と規定していました(フランス語文は “Dans tous les cas, le voisin pourra requérir le propriétaire desdits arbres d’élaguer les branches qui dépasseraient la ligne séparative; il pourra lui-même couper les racines qui pénétreraient dans son fonds.” )。

なお,土方寧から「植(ママ)テカラ幾ラカ経ツタ樹木デ合意上ノ地役ト云フ様ナモノニ依ツテ隣地ノ所有者トノ約束ガ出来テ居ル場合ハ夫レデ後ノ所有者抔モ束縛スル様ナコトモ出来マスカ夫レハドウ云フ御考ヘデスカ」との質問が一つだけ出ていたところ,梅は「勿論地役ヲ設ケレバ其地役ニ依テ枝ヲ蔓コラセルコトハ相当ノコトト考ヘル,孰レ地役ノ事項ニ付テハ必ズはつきりシタ条文ガ極マルダラウト思ヒマスガ私一己ノ考ヘデハ斯ウ云フコトモ時効ニ依テ取得セシメテモ宜カラウト思ヒマス」と回答しています(民法議事速記録第931丁裏)。

梅は,その『訂正増補民法要義巻之二 物権編(第31版)』(法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1911年)においても,「仮令自己ノ所有地ニ之ヲ植ウルモ其枝又ハ根カ隣地ニマテ跋扈スルトキハ隣地ノ所有者ハ之ニ因リテ其土地ノ使用ヲ妨ケラレ為メニ損害ヲ受クルノ虞アリ故ニ隣地ノ所有者ハ其土地ニ蔓リタル枝ハ其所有者ヲシテ之ヲ剪除セシメ其蔓リタル根ハ自ラ之ヲ截取スルコトヲ得ルモノトセリ而シテ枝ト根トノ間ニ此区別ヲ設ケタルモノハ他ナシ根ハ自己ノ土地ニ於テ之ヲ截取スルコトヲ得ヘク又其土地ニ於テセサレハ之ヲ截取スルコト能ハサルカ故ニ若シ隣人ヲシテ之ヲ截取セシムヘキモノトセハ自己ノ土地ニ立入ラシメサルヘカラサルノ不便アルモ枝ハ往往ニシテ隣地ヨリスルニ非サレハ之ヲ剪除スルコト能ハサルカ故ニ若シ自ラ之ヲ剪除セント欲セハ隣地ニ立入ラサルヘカラサルノ不便アリ且枝ハ概シテ其価貴ク(果樹ニシテ已ニ成熟セル果実ヲ着クル場合ニ於テハ殊ニ然リトス)根ハ概シテ其価卑キヲ以テナリ」と述べているだけです(149-150頁)。

 

4 我妻榮の説明

我妻榮も「隣地の竹木の根が境界線を越えるときは,相隣者は自分で截取(●●)することができる(2332項)。枝に比して根は重要でないと考え,また,根の場合は移植の機会を与えるほどの必要はない,と考えて,枝と根との取扱いを異にしたのであろう。したがって,根の場合にも,何ら特別の利益がないのに截取することは,権利の濫用となる。なお,截取した根の所有権は,截取した者に属すと解されている(ス民6871項参照)。」と述べているだけです(我妻榮著=有泉亨補訂『新訂物権法(民法講義Ⅱ)』(岩波書店・1984年)295頁)。

ちなみに,スイス民法6871項は “Tout propriétaire a le droit de couper et de garder les branches et racines qui avancent sur son fonds, si elles lui portent préjudice et si, après réclamation, le voisin ne les enlève pas dans un délai convenable.(全ての所有者は,それらが彼に損害を及ぼし,かつ,催告後隣人が相当な期間内にそれらを除去しない場合においては,彼の土地に侵入する枝及び根を切断し,かつ,保持する権利を有する。)と規定するものです。

 

5 越境した根の所有権問題

しかし,截取の前後を問わず,越境した根の所有権の問題は重要でしょう。

 

(1)最判昭和461116日と物権的請求権と

 

ア 最判昭和461116

最高裁判所昭和461116日判決集民104295頁は,「原判決の認定したところによれば,本件係争地は被上告人らの所有に属し,上告人は,苗木を植え付けこれを維持管理するにつき正当な権原を有することなく,本件係争地内に本件杉および檜苗木を植え付けて同地を占有しているというのである。しかるに,権原のない者が他人の土地に植栽した樹木またはその苗木は,民法242条本文の規定に従い,土地に附合し,土地所有者がその所有権を取得するものと解されるから,右認定によれば,本件苗木は上告人の所有に属するものではなく,したがって,上告人において被上告人らに対しこれを収去する義務を負うものではないというべきである。してみれば,上告人に対して本件苗木を抜去して本件係争地を明け渡すことを求める被上告人らの請求を認容すべきものとした原判決は,右規定の解釈適用を誤り,ひいて理由にそごをきたしたものといわなければならず,論旨は理由がある。」と判示しています。

すなわち,隣地から侵入して来た竹木の根の所有権が被侵入地内の部分については被侵入地の所有者に属することになるのであれば(民法242条本文参照),当該被侵入地の所有者が自分の所有物である当該根を切り取り得ることは当然のこととなる一方,当該根の截去義務を隣地の当該竹木所有者は負わない,ということになりそうです。

 

イ 所有権に基づく妨害排除請求権

所有権に基づく所有物妨害排除請求権については,「所有権内容の実現が占有の喪失以外の事情によって妨げられている」所有者がその主体であって,「この請求権の相手方は,現に妨害を生じさせている事実をその支配内に収めている者である。」といわれています(我妻Ⅱ・266頁。下線は筆者によるもの)。確かに,自分の土地に対して,自分の土地内にある自分が所有する根が妨害を生じさせている場合,現に妨害を生じさせている当該事実をその支配内に収めている者は自分ですから,この場合には,当該土地の所有権に基づく妨害排除請求の相手方はいなくなってしまいます(自分で自分を訴えてどうするのでしょうか。)。

 

(2)土地所有者帰属説vs.竹木所有者帰属説

 

ア 土地所有者帰属説

越境した根の所有権の帰属については,一般に,「根は土地の一部となっているため,土地所有権に基づいて根も切り取ることができるなどと解することもできると思われ,実際の処理としても簡便で,〔民法2332項の規定には〕相応の合理性があると考えられる。」と(民法・不動産登記法部会資料76頁),あるいは,「侵入した竹木の根は,それが土地の構成部分か定着物かにはかかわらず,侵入当初より土地の所有権に包含」されると解すべきもの(齋藤5頁,また4頁),「境界線を越えて入り込んだ根は侵入を受けた土地の所有権の客体の一部となったと解される」もの(能見善久=加藤新太郎編集『論点体系 判例民法〈第3版〉2物権』(第一法規・2019年)274頁(松尾弘)),「竹木の根は土地の構成部分となり,土地所有者の所有に属する(242条本文参照)」もの(石田穣『民法大系(2)物権法』(信山社・2008年)327頁)とされているようです。

 

イ 竹木所有者帰属説

とはいえ根は,稈(竹の場合)又は幹(樹木の場合)及び枝葉花と共に構成される1個の竹木の一部のはずです。一物一権主義もあればこそ,「物権の目的物は独立(●●)()()であることを要する。物の一部ないし構成部分に対しては,直接的支配の実益を収めえないのみならず,公示することが困難であって,排他的権利を認めるに適さないからである。」と説かれています(我妻Ⅱ・12頁)。そこで,土地の人為的な筆界を分界線(面)として一物たる竹木の部分について各別の所有権を認めるとはいかがなものであろうかということでしょうか,民法2332項に基づき切断された根は「やはり竹木所有者に返すのが妥当であろう。」とする説もあります(川島武宜=川井健編『新版注釈民法(7)物権(2)』(有斐閣・2007年)365頁(野村好弘=小賀野晶一))。

なお,土地も竹木も不動産ではないものとしての解釈論として,「集合動産である土地Aに隣地Bから竹木という動産の一部が侵入することにより集合動産である土地Aの所有権が侵害されていることになることから,この場合に限って,集合動産である土地Aの所有権の優位を認め,当該集合動産としての土地A所有者の自救行為として隣地Bから伸びてくる竹木の根を切除することを認める違法性阻却事由として同法〔民法〕2332項が存在していると解する。違法性が阻却される結果,隣地竹木所有者は,当該竹木の根の切除を理由として損害賠償請求をすることができない。」と説くものがあります(夏井高人「艸――財産権としての植物(2)」法律論叢876号(20153月)152頁)。

 

ウ 対立の現状

法制審議会民法・不動産登記法部会第4回会議においては,佐久間毅幹事(同志社大学大学院司法研究科教授)は土地所有者帰属説に拠って,根は土地に付合していると思うと述べつつも「間違っているかもしれませんが。」との留保を付し,水津太郎幹事(慶応義塾大学法学部教授)は「隣地の竹木の根が境界線を越える場合に,その根のうち,越境している部分だけが,越境された土地に付合するのか,それとも付合することなく,その根は,枝と同じように,越境している部分も含め,隣地の土地所有者にとどまるのかは,議論の余地がありそうです。」と竹木所有者帰属説に理解を示す発言をしています(同会議議事録49頁)。

梅謙次郎は,土地と「之ニ栽植シタル草木」とは「2物」であって一物をなすものではないと見ていましたが(梅173頁),これは竹木所有者帰属説成立の余地を示すものでしょう。

なお,栽植された草木が土地と一体となってその構成要素となってしまう(土地に包含されてしまう)というのはドイツ法においては明らかな考え方のようであって,ドイツ民法941項は „Zu den wesentlichen Bestandteilen eines Grundstücks gehören die mit dem Grund und Boden fest verbundenen Sachen, insbesondere Gebäude, sowie die Erzeugnisse des Grundstücks, solange sie mit dem Boden zusammenhängen. Samen wird mit dem Aussäen, eine Pflanze wird mit dem Einpflanzen wesentlicher Bestandteil des Grundstücks.(土地(不動産)の本質的構成部分には,大地の定着物,特に建物及び土とつながっている限りにおいて当該土地の産出物が属する。種子は播種によって,草木は栽植によって土地の本質的構成部分となる。)と規定しています。「ドイツ民法は,動産と土地(Grundstück)とを対立させ,建物・樹木などを土地の本質的構成部分(wesentlicher Bestandteil)として土地と同一にとり扱う(ド民94条以下)。」というわけです(我妻榮『新訂民法総則(民法講義Ⅰ)』(岩波書店・1972年)211頁)。

しかし,要は竹木に係る所有権の単位を法律でどう決めるかの問題です。

 

(3)竹木に係る所有権の単位と土地との関係

 

ア 樹木:立木法等

竹木のうち樹木についてですが,明治42年法律第22号(立木に関する法律(立木法)。題名のない法律です。)11項には「本法ニ於テ立木ト称スルハ一筆ノ土地又ハ一筆ノ土地ノ一部分ニ生立スル樹木ノ集団ニシテ其ノ所有者カ本法ニ依リ所有権保存ノ登記ヲ受ケタルモノヲ謂フ」と,同条2項に基づいて樹木の集団の範囲を定める勅令(昭和7年勅令第12号)の第2条には「同一ノ土地ニ生立スル樹木ノ集団ニ付2箇以上ノ立木ノ登記ヲ為スコトヲ得ズ」と,同法13条には「立木登記簿ハ1個ノ立木ニ付1登記記録ヲ備フ」とありますから,樹木に係る所有権の単位は土地の筆による(また,1個の立木の所有権に属する樹木は複数であるのがむしろ原則)ということになるようです。

立木法によらない立木も,「ある程度の独立を有するものが判例によって認められるようになった。その理論は,要するに,立木は,その生育する山林(地盤)の一部であることを原則とするが,とくに地盤から独立した別個の物として取引をすれば,別個の物権の目的となり,明認方法(例えば木を削って所有者名を墨書するなど,所有権の所在を公示すること)を施せば,第三者に対抗することもできるというのである。」ということですから(我妻Ⅰ・215頁。下線は筆者によるもの),本来各筆の土地の一部として筆を単位に取り扱われ,明認方法をもって地盤から分離されるときも一般的には地盤に係る筆がその単位となるのでしょう。樹木の所有権の単位は,当該樹木が土地の定着物たる不動産である場合においては,土地の単位に従うのが自然であるわけです。

材木(これは動産)ならざる樹木の個別取引は,移植するためでしょうが(しからざれば,他人の土地の中に自分の木が1本ぽつんと生立していてそれを一体どうするのでしょうか。),移植の際にはそれは動産となります。「個々の樹木については,一般に,独立の物権変動は認められない。けだし,取引慣行は,普通(●●)()(),かようなものを生立したままでは独立の取引価値あるものと認めないからである。しかし,とくに独立の取引価値を認められる場合には,樹木の集団と同様に取扱ってさしつかえない。判例もこの理論を認めている(大判大正611101955頁――根まわししただけで,大根を切断しない場合は動産ではなく,所有権移転を第三者に対抗するためには明認方法を必要とする)。」と説かれています(我妻Ⅱ・204頁)。

 

イ 竹:最判昭和351129

竹については,次の判例があります。

最高裁判所昭和351129日判決集民46563頁は「所論の竹は「隣地から竹の根(地下茎)が本件土地へはいつて来て,それからはえた竹」であること,原審の認定するところであり,原判決挙示の証拠からみれば右竹材を土地の果実とみた原審の判断は首肯するに足りる」と判示しています(上告棄却)。ここでは竹材が土地の果実とされていますから,元物は土地です。筍,竹ないしは竹林は,筍として頭を出した地点に係る土地の一部とされるものであり(「未分離の天然果実は,普通は,元物の一部であって,独立の物ではなく(一般に土地の一部),従って,一般に,独立の物権の客体となりえない。」とされています(我妻Ⅰ・228頁)。),かつ,隣地からの地下茎も,侵入以後の部分は当該被侵入地に付合して,被侵入地の所有者がその所有権者となるということでしょうか。

この点,上記昭和35年判決に係る事実関係を具体的に知りたいところですが,上告代理人の上告理由及び当該判決の匿名解説(判時24447頁)によれば,「本件土地」は農地改革における農地買収処分の結果上告人の所有から被上告人らの先代の所有に移ったもののその後当該買収処分が取り消されたものであって(その結果,農地買収処分時からその取消時までの期間(「本件期間」)も上告人の所有であったことになります。),本件土地上に生育していた「所論の竹」を本件期間中被上告人らの先代が「〔生えてから〕1年ないし数年の間に切りとって利用」していたところ,その伐採について上告人が被上告人らに対して損害賠償を請求したもののようであって,これに対して「被上告人等は原審に於て係争の竹林は隣地より竹の根が係争地に入り其根から生育した竹であるから此竹林は被上告人等に於て勝手に伐採し得る権利ありと抗弁」があったということのようです。当該抗弁の趣旨はなおはっきりしませんが,当該「隣地」は被上告人らの先代に属し,その結果,そこから地下茎が延びてその地下茎から生育した「係争の竹林」も被上告人らの先代の所有に係るものである(「勝手に伐採し得る権利あり」)との主張だったものでしょうか。

結局上告人の損害賠償請求は認められませんでしたが,これは,切り取られた竹(生えている段階の竹ではありません。)は本件土地の天然果実であって,「その元物から分離する時に,これを収取する権利を有する者に帰属する」ところ(民法891項),被上告人らの先代は本件土地の善意の占有者として当該収取する権利を有するもの(同法1891項。上告理由には「竹林が同人〔被上告人らの先代〕の所有に属すると信じて居つたと否とに拘はらず」とのくだりがあります。ただし,果実たる本件竹材の元物は土地なので,善意で占有された物は本件土地でしょう。)と認められたものでしょう。隣地から地下茎が延びて来て生えた竹だからその所有権は隣地の所有者に属するということの認定は,されていません。

この認定省略の前提は,地下茎が境界線を越えると越えた先の部分の所有権は当該被侵入地の所有者に帰属する,当該「竹木の〔地下茎又は〕根から竹木が地上に成育している場合,その成育している竹木も土地所有者の所有に属する。」(石田327頁)ということでしょうか。しかし,民法2332項の根(地下茎)の截取権の対象には当該根(地下茎)から生えた竹木までもが含まれると解すれば,当該竹木の截取(果実の帰属に係る民法891項にいう「これを収取する権利」に基づく竹木材の収取)のためには土地の所有権があれば十分であって当該竹木の所有権までは不要であるということになり,したがってその所有権の帰属をあえて明らかにする必要のないまま,当該土地の善意の占有者による当該竹木に係る竹木材の取得について民法1891項の適用を見ることが可能であることとはなりましょう。

 

(4)土地所有者帰属説における付合に伴う償金問題

延びた根が隣地に付合するとなると(民法242条本文参照),当該越境した根に係る竹木の所有者が,民法248条に基づき隣地の所有者に償金を請求できるのではないかが問題になります。この点については「竹木の根は土地の構成部分であり,初めから土地所有者の所有に属する。したがって,附合による償金請求(248条)の問題は生じないと解される。」と説かれています(石田327頁。また,齋藤5頁)。少々分かりにくいので筆者なりに理解を試みると,根は延びつつ隣地に侵入するわけですが,延びて隣地に侵入する時及びその時以降は,根が新たに延びることと隣地に付合することとが同時に発生するのであって,竹木の所有者において当該延びた部分の所有権を取得する余地はなく(被侵入地の所有者が原始的に取得),したがって竹木の所有者について民法248条にいう損失はそもそも発生しない,ということでしょうか。根が延びるのは,その先端においてであるはずです。

 

 光る地面に竹が生え,

 青竹が生え,

 地下には竹の根が生え,

 根がしだいにほそらみ,

根の先より繊毛が生え,

 かすかにけぶる繊毛が生え,

 かすかにふるへ。

 (萩原朔太郎「竹」より)

 

6 法制審議会民法・不動産登記法部会における議論の揺らぎ

 しかしながら,以上の論点に係る解釈は,法制審議会民法・不動産登記法部会の場においては揺らぎを示しており,明快な公的解釈は示されなかったものと評価すべきように思われます。

 

(1)土地所有者帰属説隠し及び土地所有権に基づく妨害排除請求可能説の提起:201910

 20191029日の民法・不動産登記法部会第9回会議に提出された「民法・不動産登記法部会資料18 中間試案のたたき台(相隣関係規定等の見直し)」においては,「根については,民法第233条第2項に基づいて,隣地所有者は切り取った根の所有権をも取得すると解されており」と(10頁),截取した根の所有権を土地所有者が有するものとされる根拠が,土地への付合(民法・不動産登記法部会資料76頁)から,根の截取に係る民法2332項の効果に変更されています(水津幹事の指摘参照(第9回会議議事録58頁))。これは,「土地所有者は竹木の所有者に対し,土地所有権に基づく妨害排除請求として根の切除を請求することも可能と解され,その場合の強制執行の方法は〔略〕,竹木所有者の費用負担で第三者に切除させる代替執行の方法によることになると考えられる」とし,かつ,「隣地所有者が民法第233条第2項に基づいて切り取る場合の費用も,竹木の所有者の負担と整理することも考えられる」とするに当たって(民法・不動産登記法部会資料1810頁),侵入した根の所有権がなお竹木の所有者にあることにしようとしたゆえでしょうか(前記最判昭和461116日参照)。

なお,民法2332項を切り取った根の所有権取得の根拠条項とし得るとの主張の根拠は,筆者の忖度によれば,根は「価卑キ」ものであること(梅謙次郎前掲)のほか,旧民法財産編2624項では「截()」であった文言が平成16年法律第147条による改正前の民法2332項では「截()」となっていたことでありましょうか。

20201月付けの法務省民事局参事官室・民事第二課の「民法・不動産登記法(所有者不明土地関係)等の改正に関する中間試案の補足説明」103頁においても,民法・不動産登記法部会資料1810頁と同様の記述が維持されています。)

 

(2)不法行為に基づく損害賠償請求権の確認:2020年6月

 2020623日の民法・不動産登記法部会第14回会議の「民法・不動産登記法部会資料32 相隣関係規定等の見直し」においては,「現行法では,竹木の枝や根が越境する場合には,所有権に基づく妨害排除請求権として枝や根の切除を求めることが可能であると考えられるが,枝や根の越境について通常は不法行為が成立し,損害賠償請求権が発生することや,切除の強制執行方法が代替執行の方法によることになることを踏まえると,特に規律を設けなくとも,切除費用は通常竹木所有者の負担となると考えられるため,規律を設けないとすることも考えられる。」との記述となり(14-15頁),不法行為法への言及が登場します(切除された根の所有権の所在に関する記述は見られません。)。

 

(3)土地所有権に基づく妨害排除請求隠し:2020年9月

 2020915日の民法・不動産登記法部会第18回会議の「民法・不動産登記法部会資料46 相隣関係規定等の見直し」に至ると,「部会資料32(第212))では,竹木の枝の切除及び根の切取りの費用の規律を設けることについて取り上げていたが,第14回会議において,このような費用については新たな規律を設けるべきでないという意見や,現行法のもとで,枝や根の越境について通常は不法行為が成立し,損害賠償請求権が発生することなどを踏まえると,特に規律を設けなくても,切除費用は通常竹木所有者の負担となると考えられるため,あえて規律を設けないという考え方もあるとの意見があった。これらの議論を踏まえて,本資料では,この論点について特別の規律を設けないこととしている。」という記述となりました(6頁)。いろいろ難しい議論があるから特別の規律を設けないことにしてこの話はおしまいにします,という曖昧な決着です。「所有権に基づく妨害排除請求権として〔略〕根の切除を求めることが可能であると考えられる」との「考え」は,結局は考えのままで終わってしまいました。せっかくの令和3年法律第24号による改正の機会でしたが,民法2332項の趣旨・性格については,なおはっきりしないままとはなりました。

 土地所有権に基づく妨害排除請求権ではなく,土地所有権に対する不法行為に基づく損害賠償請求権に拠るべし,ということになるのでしょうか。(境界線を越えて入り込んだ根は侵入を受けた土地の所有権の客体の一部になると解する松尾弘慶応義塾大学大学院法務研究科教授は問題の法制審議会民法・不動産登記法部会の幹事でもありましたが,同教授の民法233条解説には「竹木の根が越境したことにより,隣地に何らかの損害があれば,隣地所有者は土地所有権に基づき,竹木の根の越境に対して何らの措置を施さなかった竹木所有者の不作為等を理由に,損害賠償請求(709条)をすることができよう。」とのみ記載されています(能見=加藤編274頁)。)

 いずれにせよ,「竹木が生物としては1個の個体であっても,土地の所有権の帰属に服する以上,法律上では,土地境界線を区切りとして異なる所有者の所有に属する財産権として扱うこととするほうが筋の通った論理になるはずである。しかし,それでは論理が破綻する。」(夏井151頁)というような,土地所有者帰属説に対する反対説は,なおもまだ,否定し去られてはいないようです。


(中)旧民法及びローマ法:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078900161.html

(下)フランス民法及びドイツ民法第一草案:

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078900162.html

 

 

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(上)『法典調査会民法議事速記録』等(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078842084.html

(中)ドイツ民法草案等(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078842106.html


4 旧民法

現行民法545条の旧民法における前身規定は,同法財産編4092項,421条,424条及び561条並びに同法財産取得編81条とされています(民法議事速記録第25108丁裏)。

 

 旧民法財産編4092項 解除ノ条件ノ成就スルトキハ当時者ヲシテ合意前ノ各自ノ地位ニ復セシム

  (フランス語文は前掲)

 

 旧民法財産編421条 凡ソ双務契約ニハ義務ヲ履行シ又ハ履行ノ言込ヲ為セル当事者ノ一方ノ利益ノ為メ他ノ一方ノ義務不履行ノ場合ニ於テ常ニ解除条件ヲ包含ス

  (Dans tout contrat synallagmatique, la condition résolutoire est toujours sous-entendue au profit de la partie qui a exécuté ses obligations ou qui offre de le faire, pour le cas où l’autre partie ne remplirait pas les siennes.

  此場合ニ於テ解除ハ当然行ハレス損害ヲ受ケタル一方ヨリ之ヲ請求スルコトヲ要ス然レトモ裁判所ハ第406条ニ従ヒ他ノ一方ニ恩恵上ノ期限ヲ許与スルコトヲ得

  (Dans ce cas, la résolution n’a pas lieu de plein droit: elle doit être demandée en justice par la partie lésée; mais le tribunal peut accorder à l’autre un délai de grâce, conformément à l’article 406.

 

 旧民法財産編424条 裁判上ニテ解除ヲ請求シ又ハ援用スル当事者ハ其受ケタル損害ノ賠償ヲ求ムルコトヲ得

  (La partie qui demande ou invoque la résolution, peut, en outre, obtenir la réparation du préjudice éprouvé.

 

 旧民法財産編561条 義務ハ第409条,第421条及ヒ第422条ニ従ヒ明示ニテ要約シタル解除又ハ裁判上得タル解除ニ因リテ消滅ス

  (Les obligations s’éteignent par la résolution ou résiliation, stipulée expressément ou obtenue en justice, conformément aux articles 409, 421 et 422.

  解除ヲ請求ス可キトキハ其解除訴権ハ通常ノ時効期間ニ従フ但法律ヲ以テ其期間ヲ短縮シタル場合ハ此限ニ在ラス

  (Lorsque la résolution doit être demandée en justice, l’action résolutoire ne se prescrit que par le laps de temps de la prescription ordinaire, sauf le cas où la loi fixe un délai plus court.

 

 旧民法財産取得編81条〔売買の解除〕 当事者ノ一方カ上ニ定メタル義務其他特ニ負担スル義務ノ全部若クハ一分ノ履行ヲ欠キタルトキハ他ノ一方ハ財産編第421条乃至第424条ニ従ヒ裁判上ニテ契約ノ解除ヲ請求シ且損害アレハ其賠償ヲ要求スルコトヲ得

  (Si l’une des parties manque à remplir tout ou partie de ses obligations, telles qu’elles sont déterminées ci-dessus ou de toutes autres obligations auxquelles elle se serait spécialement soumise, l’autre peut demander en justice la résolution du contrat, avec indemnité de ses pertes, s’il y a lieu, conformément aux articles 421 à 424 du Livre des Biens.

  当事者カ解除ヲ明約シタルトキハ裁判所ハ恩恵期間ヲ許与シテ其解除ヲ延ヘシムルコトヲ得ス然レトモ此解除ハ履行ヲ欠キタル当事者ヲ遅滞ニ付シタルモ猶ホ履行セサルトキニ非サレハ当然其効力ヲ生セス

  (Si la résolution a été expressément stipulée entre les parties, le tribunal ne peut la retarder par la concession d’un délai de grâce; mais elle ne produit son effet de plein droit que si la partie qui manque à executer a été inutilement mise en demeure.

 

 我が旧民法の母法は,フランス民法です。2016101日より前の同法1183条及び1184条は,次のとおりでした。

 

Article 1183

La condition résolutoire est celle qui, lorsqu'elle s'accomplit, opère la révocation de l'obligation, et qui remet les choses au même état que si l'obligation n'avait pas existé.

  (解除条件は,それが成就したときに,債務の効力を失わせ,かつ,その債務が存在しなかった場合と同様の状態に事態を復元させるものである。)

Elle ne suspend point l'exécution de l'obligation ; elle oblige seulement le créancier à restituer ce qu'il a reçu, dans le cas où l'événement prévu par la condition arrive.

  (当該条件は,債務の履行を停止させない。それは,条件によって定められた事件が発生したときに,専ら債権者をして受領したものを返還させる。)

Article 1184

La condition résolutoire est toujours sous-entendue dans les contrats synallagmatiques, pour le cas où l'une des deux parties ne satisfera point à son engagement.

  (解除条件は,当事者の一方がその約束を何ら果さない場合について,双務契約に常に包含される。)

Dans ce cas, le contrat n'est point résolu de plein droit. La partie envers laquelle l'engagement n'a point été exécuté, a le choix ou de forcer l'autre à l'exécution de la convention lorsqu'elle est possible, ou d'en demander la résolution avec dommages et intérêts.

  (前項に規定する場合において,契約は当然解除されない。約束の履行を受けなかった当事者は,それが可能なときの合意の履行の強制又は損害賠償の請求と共にするその解除の請求を選択できる。)
La résolution doit être demandée en justice, et il peut être accordé au défendeur un délai selon les circonstances.

  (解除は裁判所に請求されなければならない。裁判所は,被告に対し,事情に応じた期限を許与することができる。)

 

(1)旧民法財産編4211

「凡ソ双務契約ニハ義務ヲ履行シ又ハ履行ノ言込ヲ為セル当事者ノ一方ノ利益ノ為メ他ノ一方ノ義務不履行ノ場合ニ於テ常ニ解除条件ヲ包含ス」という旧民法財産編4211項(及びフランス民法旧11841項)の規定は双務契約の当事者の意思を推定した規定のように思われますが,なかなか面白い。ボワソナアドの説くところを聴きましょう。

 

  394. 黙示の解除条件(condition résolutoire tacite)は,双務契約(contrats synallagmatiques ou bilatéraux)における特有の効果の一つであって,かつ,既に〔ボワソナアド草案〕第318条〔旧民法財産編297条〕に関して述べたとおり(第22項),この種別の契約に多大の利益を与えるものである。フランス民法は,これについての一般原則を第1184条において規定し,かつ,種々の特定の契約――特に売買(第1610条及び第1654条から第1657条まで)及び賃貸借(第1741条)――について特則を設けている。イタリア民法は,当該原則を同一の文言で規定している(第1165条)。これら両法典にはなおいくつかの規定の欠缺があったところ,本案においてはそれらが補正されている。

   債務不履行によって不便を被る当事者に対して法律によって与えられた(accordée par la loi)この解除は,非常に大きな恩恵である。当該当事者がなし得ることが当初の行為(action originaire)に限定された場合においては,債務者に係る他の債権者らとの競争を余儀なくされて当該債務者の支払不能の累を被ることがあり得るところである。彼は彼自身の債務全部の履行を強いられた上で,彼が受け取るべきものの一部しか受け取ることができなくなるかもしれないのである。しかし,解除の手段によって,彼は,合意がそもそもなかったような当初の地位を回復することができる。彼が彼自身の債務をまだ履行していないときには,彼は,その債務者を解放すると同時にまた解放されるのである。彼が既に履行していたときには,現物又は代替物をもって,彼は,引き渡した物の返還を請求することができる。例えば,彼の合意のみをもって既に所有権を移転し,その上当該不動産を引き渡した不動産の売主は,買主に既に占有を移転し,かつ,権原(証書:titres)を与えてしまっている。当該買主は,定まった期日に代金を弁済しない。当該売主は,解除によって,所有権を回復し,かつ,売った物の占有を再び得ることができる。この権利は,買主に係る他の債権者らに先んじて代金の弁済を受けるために,解除を請求することなしに,売った物の差押え及び再売却を実行できる同様に貴重な権利である先取特権に類似したところがある(… a de l’analogie)。しかし,その利点自体のゆえに,解除権は,買主と取引をする第三者が不意打ちのおそれを抱かないように,本来の先取特権と同様の公示に服するものである(〔ボワソナアド草案〕第1188条及び第1276条の2を見よ。)。

売られた物を引き渡す動産,食料及び商品の売主にとって,事情はしかく良好ではない。一般に,彼は,第三取得者又は他の債権者に対しても優先して,現物で当該目的物を回復することはできない。解除は,常に,彼に債権しか与えない。ただ,当初取り決められた代金額ではなく,売られた物の現在の価額――これは増価している可能性がある――を回復し得るところである。

動産の先取特権について規定する折には,更に売主の保護のための他の手段が整えられるであろう(フランス民法2102条第4号及び同商法576条並びに本草案11382項参照)。

目的物が彼にとって便宜の時に引き渡されず,又はそれが約束された状態ではなかったときには,売主についてのみならず買主にとっても解除は役立つ。しかしながら,彼が既に代金を支払っていた場合は,その回復のために彼は,何らの先取特権もなしに,一般債権しか有しない。というのは,彼が支払った代金は,売主のもとで他の財貨と混和してしまっているからである。したがって,彼は,売主に支払能力があるときにのみ解除を用いることになる。しかしながら,売主の支払不能を知らずにうっかり解除してしまった場合には,彼は,少なくとも代金の返還までは留置権を行使することができるであろう(〔ボワソナアド草案〕第1096条を見よ。)。

Gve Boissonade, Projet de Code Civil pour l’Empire du Japon accompagné d’un commentaire, Nouvelle Édition, Tome Deuxisième, Droits Personnels et Obligations. Tokio, 1891. pp.454-456。なお,平井一雄「解除の効果についての覚書」獨協法学9号(197710月)50-51頁)

 

暗黙の解除条件の制度は,法律によって与えられたものとされていますが,「解除条件は,当事者の蓋然的意思の法律による解釈(par une interprétation faite par la loi de l’intention probable des parties)以外のものによって双務契約に付与されたものではない」ところです(Boissonade, p.458)。なお,「したがって,彼らは反対の意思を表示することができる。履行に係るこの保証は,公序(ordre public)に属するものではないからである。しかし,法律上の推定(présomption légale)を覆すためには,彼らは明白にその旨の放棄をしなければならない。」とされます(ibid.)。

契約の解除を先取特権と類似のものとして説明するというボワソナアドの視角は独創的なものであるようにも思われます。この点については,「なお,ボワソナードの見解が「黙示の解除条件」の法的基礎として,部分的にではあれ,先取特権の一種という解除条件の枠組みからは外れた法理論に依拠・連関していた実際の理由としては,わが国における(旧)民法典施行後の実務および理論上の参考に供するために,このような理論を示したのではないかとも思われる。法典施行後(法典論争の結果,旧民法典の施行は実現しなかったが),裁判上の解除として解除訴訟に現れることが容易に予想される紛争類型(不動産売買の解除事案)についてのみ,踏み込んだ先取特権〔と〕いう法的基礎を示したと考えられなくもない。だが,この点はあくまで筆者の推測の域を出ない。」と評されています(福本忍「ボワソナード旧民法典草案(Projet)における法定解除の法的基礎――『プロジェ・初版』を分析素材として――」九州国際大学法学論集23123号(20173月)295-296頁・註82)。ところで,ボワソナアドの説くところを読みつつ,筆者は,古代ローマにおける「契約責任の変貌」に関する次の文章を想起していたところでした。

 

  不履行の場合に何を請求しうるかであるが,この点でも原則が変化するわけではないにかかわらず実際には少しずつ今までにはありえなかった関心が浮上していく。農場を売ったとしよう。引き渡したが代金が支払われない。代金支払いについて過失を論ずる余地は少ないから,故意責任,そして重い懲罰的損害賠償,という筋道になる。こういう場合売った農場を取り戻そうという関心は希薄であろう。売った以上金銭を欲したはずである。ところがやがてその農場自体を取り戻したいという関心が生まれる。まさにそれしかないそれを別に売りたい,そしてまた賠償を取りたくとも相手に他に資産はなく,それを他の債権者と分けるなどまっぴらごめんだ,等々。売っておきながら反対方向の金銭の流れとの関係で紐つきであるという,あの観念の再浮上でもある。同時履行の抗弁権という諾成契約に相応しからぬ観念が,しかも契約当事者間の信義の名のもとに,生まれてくる事情でもある。

  〔略〕契約を一方当事者の主張に基づいて解消するという関心が現れる。引渡をしてしまっていても契約さえ解消できれば所有権は移らない。ここからはrei vindicatio〔所有権に基づく返還請求〕が使えるではないか,というのである。所有権者が半分纏っていたbona fidesの衣装をかなぐり捨てる瞬間である。〔後略〕

(木庭146-147頁)

 

 こうしてみると,ボワソナアドの視角は,むしろ正統的なものであったといい得るようです。

 なお,旧民法財産編4092項が解除条件成就の効果は合意前に遡及するものとしていましたから,旧民法財産編4211項の解除の効果も遡及したわけでしょう。また,旧民法財産編4211項の「義務不履行」状態にあると認められる者には,同条2項に係るボワソナアド解説によれば,「障碍に遮られた誠意ある債務者(débiteur embarrassé et de bonne foi)」も含まれたようです(Boissonade, p.458)。裁判所による恩恵上の期限の許与は,このような債務者に対してされるべきものと説かれています(ibid.)。

 

(2)旧民法財産編424

 旧民法財産編424条の損害ノ賠償と民法5454項の損害賠償との関係も難しい。

民法5454項の損害賠償については,「その性質は,債務不履行による損害賠償請求権であつて,解除の遡及効にもかかわらずなお存続するものと解すべきである。近時の通説である(スイス債務法と同様に消極的契約利益の賠償と解する少数の説もある〔略〕)。判例は,以前には,債権者を保護するために政策的に認められるものといつたことなどもあるが(大判大正610271867頁など(判民大正10年度78事件我妻評釈参照)),その後には,大体において,債権者を保護するために債務不履行の責任が残存するものだと解している(大判昭和8224251頁,同昭和86131437頁など)」ところであって(我妻200頁),「填補賠償額を算定する標準は,抽象的にいえば,契約が履行されたと同様の利益――履行期に履行されて,債権者の手に入つたと同様の利益――であつて,債務不履行の一般原則に従う」ものとされています(我妻201-202頁)。

これに対して,旧民法財産編424条の損害ノ賠償に関してボワソナアドが説くところは,異なります。いわく,「法は解除した当事者に「其受ケタル損害ノ賠償(la réparation du préjudice éprouvé)」しか認めず,かつ,得べかりし利益(gain manqués)の賠償は認めていないことが注目される。また,法は,通常用いられる表現であって,「その被った損失及び得られなかった得べかりし利益(la perte éprouvée et le gain manqué)」を含むところの(〔ボワソナアド草案〕第405条)dommages-intérêtsとの表現を避けている。実際のところ,解除をした者がその合意からの解放とそれから期待していた利益とを同時に得るということは,理性及び衡平に反することになろう。彼が第三者との新しい合意において得ることのできる当該利益を,彼が2度得ることはできない。日本の法案は,このように規定することによって,通常の形式(la formule ordinaire)に従って“des dommages-intérêts”を与えるものとする外国法典においては深刻な疑問を生ぜしめるであろう問題を断ち切ったものである。」と(Boissonade, p.461。なお,平井51-52頁)。「解除は事態を合意より前の時点の状態に置くことをその目的とするものの,当該結果は常に可能であるものではない。」ということですから(Boissonade, p.460),原状回復を超えた損害賠償は認められないということでしょう。すなわち,「解除に伴う損害賠償の範囲は,現物が返還された場合であれ,返還不能で価格による償還の場合であれ,解除時における目的物の客観的価格が限度」になるものと考えられていたようです(平井52頁)。

ボワソナアドの口吻であると,フランス民法旧11842項の損害賠償についても,得べかりし利益の賠償を含まず,かつ,原状回復が上限であるものと解するのが正しい,ということになるようです。我が旧民法及びフランス民法に係るボワソナアドの当該解釈を前提とすると,民法5454項に関して「わが民法は,フランス民法・旧民法に由来し,債務不履行により損害の生じた以上民法415条によりこれを賠償すべきものとの趣旨で,ただ反対の立法例もあるので念のため規定したとされる。」と言い切ること(星野Ⅳ・93頁。下線は筆者によるもの)はなかなか難しい。梅謙次郎は対照すべき条文として旧民法財産編424条を掲げつつ,民法5454項に関して「当事者ノ一方カ其不履行ニ因リテ相手方ニ損害ヲ生セシメタルトキハ必ス之ヲ賠償スヘキコト第415条ノ規定スル所ナリ而シテ是レ契約ノ解除ニ因リテ変更ヲ受クヘキ所ニ非サルナリ故ニ当事者ノ一方ノ不履行ニ因リテ相手者カ解除権ヲ行ヒタル場合ニ於テハ其解除ノ一般ノ効力ノ外相手方ヲシテ其不履行ヨリ生スル一切ノ損害ヲ賠償セシムルコトヲ得ヘシ(契約上ノ解除権ヲ行使スル場合其他不履行ニ因ラサル解除ノ場合ニ在リテモ若シ同時ニ契約ノ全部又ハ一部ノ不履行ノ事実アルトキハ同シク賠償ノ責ヲ生スルモノトス)」と述べていますが(梅謙次郎『民法要義巻之三 債権編(第33版)』(法政大学=有斐閣書房・1912年)453頁・454-455頁),ここでの旧民法財産編424条は,飽くまで単に対照されるだけのものだったのでしょう。

なお,穂積陳重の「既成法典〔すなわち旧民法〕抔ニ於テモ然ラハ解除ヲ請求スルカ損害賠償ヲ請求スルカト云フヤウニ選択ヲ為スコトノ出来ル場合抔モ徃々アルノテアリマス」との前記発言は,文言上解除と損害ノ賠償とが併存している旧民法財産編424条の存在を前提とすると理解が難しく,あるいは選択云々ということであればフランス民法旧11842項に関する言い間違いということになるのでしょうか。それとも,旧民法財産編424条の損害ノ賠償をボワソナアド流に正解した上で,同条の損害ノ賠償は原状回復の一部であって本来の損害賠償ではない,という判断が前提としてあったのでしょうか。

 

(3)旧民法財産編412

ところで,法典調査会の民法議事速記録にも梅謙次郎の『民法要義』にも民法545条に関して参照すべきものとして挙げられていないものの,なお同条に関して参考となるべき条文として旧民法財産編412条があります。

 

 旧民法財産編412条 条件ノ成就シタルトキハ物又ハ金銭ヲ引渡シ又ハ返還ス可キ当事者ハ其成就セサル間ニ収取シ又ハ満期ト為レル果実若クハ利息ヲ交付スルコトヲ要ス但当事者間ニ反対ノ意思アル証拠カ事情ヨリ生スルトキハ此限ニ在ラス

  (Lorsque la condition est accomplie, celle des parties qui doit livrer ou restituer une chose ou une somme d’argent doit en fournir les fruits ou intérêts perçus ou échus dans l’intervalle, à moins que la preuve d’une intention contraire des parties ne résulte des circonstances.

 

 ボワソナアドの解説は,次のとおり。

 

371. 〔ボワソナアド草案〕第432条〔すなわち旧民法財産編412条〕は,暫定的に収取される(intérimaires)果実及び利息について規定し,解除の効果を全からしめる。フランス及びイタリアの法典はひとしくこの点について沈黙しており,意見の相違をもたらしている。

 本案は,解除の自然な帰結をたどるものである。もし,解除が直接的なもので,かつ,移転された権利の受領者に対して成就したのであれば,同人は,一定の占有期間中において目的物の果実及び産物を収取できたのであるから,それらを返還する。他方,譲渡人は,代金を受領することができたのであるから,その利息を返還する。もし,停止条件の成就によって解除が間接的に作用するときは〔筆者註:旧民法では停止条件付法律行為の効力もその成立時に遡及し(同法財産編4091項),(遡及的)解除条件付法律行為の場合の裏返しのような形で,法律行為成立時と条件成就時との間における当事者間の法律関係が変動しました。〕,権利を譲渡した者は目的物を収取された果実と共に引き渡し,受領者は代金を利息と共に支払う。かくして事態は,第1の場合においては解除条件付合意がされなかった場合においてあるべきであった状態に至り,第2の場合においては停止条件付合意が無条件かつ単純であった場合においてあるべきであった状態に至る。

 〔ボワソナアド草案〕第432条〔すなわち旧民法財産編412条〕は,上記の解決を与えつつも,当事者の意図するところによって変更が可能であることを認める。実際にも,単純処理の目的のために,明示又は黙示に,条件の成否未定の間に一方当事者によって収取された果実を他方当事者から受領すべき代金の利息と相殺するように両当事者が認めることは可能である。当該相殺は,フランスにおいては遺憾にも,例外ではなくむしろ一般準則として認められているところであるが,日本においては裁判所によって極めて容易に認められるであろう。特に,合意と条件の成否決定との間の期間が長期にわたるときである。しかしながら,これは常に,状況によりもたらされた例外と観念されなければならない。

Boissonade, p.434

 

 フランス及びイタリア両民法には規定がなかったということで,穂積陳重はドイツ民法草案を参照したのでしょう。旧民法財産編412条は契約の解除の場合についてではなく条件成就の場合一般に係る規定である建前であったので,民法545条に係る参照条文とはされなかったものでしょうか。

 

跋 2021年の夏

 と以上長々と書いてきて,いささか収拾がつかなくなってきました。

 ここで原点に帰って,筆者の問題意識を再確認しておきましょう。

 そもそも本記事を起稿したのは,2021年夏の東京オリンピック大会開催に関する「開催都市契約に係るスイス債務法の適用等に関する走り書き(後編)」記事の「追記2:放送に関する払戻し契約」において(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078653594.html),平成29年法律第44号による民法改正を解説する筒井健夫=村松秀樹編著『一問一答 民法(債権関係)改正』(商事法務・2018年)の228頁(注3)における民法536条新1項に係る御当局流解釈論を紹介したことが発端です。すなわち,当該解釈論によれば,民法536条新1項においては「債権者は履行拒絶権がある反対給付債務の履行を常に拒絶することができるのであり,このような履行拒絶権の内容からすると,この場合の反対給付債務については,そもそも給付保持を認める必要すらないことから,債務としては存在しないのと同様に評価することができる。そのため,新法においても,旧法と同様に,債権者は,既に反対給付債務を履行していたときには,不当利得として,給付したものの返還を請求することができると解される」ものとされ(下線は筆者によるもの),債務者は,原則的には「その利益の存する限度において」当該利益を返還する義務を負うことになるわけですが(民法703条),ここで債権者が一声「あなたは債務を履行することができなくなっていますから,この契約を解除します。」と債務者に契約解除の意思表示をすれば(同法54211号,5401項),債務者は債権者を「原状に復させる義務を負」い,かつ,受領の時からの金銭の利息の支払及び受領物から生じた果実の返還もしなければならないことになるわけです(同法5451-3項)。要するに,「契約解除」の単なる一声で,返還を受け得るものの範囲が結構増加することになります(民法703条と545条との違い)。実務上は,合理的な債権者としてはなるべく一声添えて契約の解除構成とし,債務者に対し,給付したものに係るより多くの返還の請求をすることになるのでしょうが(裁判所の対応としては,契約の解除構成でも不当利得構成でもよい,ということにはなるのでしょう。),たった一声で結果に大きな差が出るのは奇妙ではあり,実用法学論はともかくも,そもそも本来的にはどちらが「正しい」構成なのかしら,という危険な好奇心を抱いてしまったところです(「正しさ」の追求は,おおむね剣呑です。)。

 ということで,契約の解除の効果に係る民法545条を,最近筆者に対して気難しく反抗的な机上のPCをなだめつすかしつ,『法典調査会民法議事速記録』等を参照しながら調べ始めてみたわけです。

 民法545条の原状回復義務は,沿革的には次のように説明されるのでしょう。

契約の解除制度を構築する際,既にあった解除条件付法律行為の制度に拠ったところ(フランス民法旧11841項,旧民法財産編4211項),当時の解除条件成就の効果は法律行為成立以前に遡及するものであったため(フランス民法11831項,旧民法財産編4092項。民法1272項とは異なる。),契約の解除の効果として旧民法財産編412条的な原状回復義務が疑問なく当然のものとして取り入れられ(ドイツ民法第一草案42712項,ドイツ民法第二草案298条),それがそのまま残っている,ということでしょうか。契約の解除の制度なるものに係る抽象的かつ超越的な「本質」に基づくものではないのでしょう。

遡及的解除条件の双務契約への付加及びその成就の効果は当事者の意思の推定に基づくものとされていたもののようです。しかし,当該条件付加の目的は,ボワソナアドとしては担保物権的効果を主眼としていたようであって(以上本記事41)参照),その点では,原状回復義務は債権でしかない限りにおいては重視されなかったということになるようです。確かに,原状回復債権以前に本来の契約に基づく債権があったのであって,まずはその担保の心配をせよ,ということになるものでしょうか。また,契約の解除が民法5361項の場面に闖入するに至った原因は平成29年法律第44号による改正によって契約の解除に債務者の帰責事由を不要としたからなのですが,当該改正の理由は,債権者が「契約を解除してその拘束力を免れること」をより容易にするということのようであって(筒井=村松234頁等),契約の解除の効能としては,それに伴うところの原状回復には重きが置かれていないようです(そもそも,契約が履行されていたなら得たであろう利益(履行利益)の賠償を民法5454項の損害賠償として認める解釈は,契約が締結されなかった状態に戻すはずのものである同条1-3項にいう原状回復とは食い合わせが悪いところです。)。「解除の機能は,相手が債務不履行に陥った場合に,債権者を反対債務から解放し,債務者の遅れた履行を封じ,あるいは,自らが先履行して引き渡した目的物の取り戻しを認めることによって,債権者を保護することにある。」と説かれています(内田85-86頁)。契約の解除制度の主要目的が債権の担保及び契約の拘束力からの離脱という,これからどうする的問題のみに係るものであれば,契約の成立時からその解除時までの期間における法的効力及び効果をあえて後ろ向きに剥奪しようとする債権的な原状回復の努力は,どうも当該主要目的に正確に正対したものとはいえず,過剰感のあるものともいい得るように思われます。

 契約の解除制度の基礎付けを契約当事者の意思に置く場合,民法5361項の場面において,債務者が既に受領していた反対給付に係る返還義務を契約の解除に基づく原状回復義務とすることも(従前は不当利得に基づく返還義務でした。),契約当事者の意思の範囲内にあるものと観念し得るかどうか。202041日以降の当事者の意思は制度的にそうなのだ(平成29年法律第44号附則32条),と言われればそういうことにはなるのでしょう。そうだとすると,民法536条新1項に係る御当局流の解釈論は,契約が解除されるまでは当該契約に基づき既受領の反対給付を債務者は当然保持できるのだ,との契約当事者の意思もまた措定される場合,当該意思を余りにも軽んずるものであるとされてはしまわないものでしょうか。

 以下余談。

 話題を開催都市契約ないしは放送に関する払戻し契約関係から,東京オリンピック大会開催下(2021年夏)の我が国の情態いかんに移せば,これに関しては,新型コロナウィルス感染症の「感染爆発」下にあって,我々は80年ほど前のいつか来た道を再び歩んでいるのではないか,と懸念する声もあるようです。

 しかし,ちょうど80年前の19417月末の我が国の指導者に比べれば,現在の我が国の政治家・国民ははるかに立派です。

 1941730日水曜日の午前,昭和天皇と杉山元参謀総長(陸軍)とのやり取りにいわく。

  

  また天皇は,南部仏印進駐の結果,経済的圧迫を受けるに至りしことを御指摘になる。参謀総長より予期していたところにして当然と思う旨の奉答を受けられたため,予期しながら事前に奏上なきことを叱責される。(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(東京書籍・2016年)445頁)

 

前年行った北部仏印進駐でも足らずに19417月にまた南部仏印進駐を更に行い,これに対して発動された関係諸国の経済的圧迫がけしからぬあの「ABCD包囲網」であるということで同年12月の対米英蘭開戦の災いに立ち至ったはずなのですが,いや,こういうことをしちゃえば当然ヤバくなることは分かっていました,と当の責任者からしゃあしゃあと言われると腹が立ちます。

前年以来重ねて緊急事態宣言を発しているにもかかわらず感染状況が改善しないところ,他方累次の宣言等によって国民が「経済的圧迫を受けるに至りしこと」を担当国務大臣に対して指摘すると,「予期していたところにして当然と思う」という他人事のような回答が返って来た,という悲劇には,今日の日本はまだ見舞われてはいないようです。

同じ1941730日の午後,今度は永野修身軍令部総長(海軍)です。

 

 永野より,前総長〔伏見宮博恭王〕と同様,できる限り戦争を回避したきも,三国同盟がある以上日米国交調整は不可能であること,その結果として石油の供給源を喪失することになれば,石油の現貯蔵量は2年分のみにしてジリ貧に陥るため,むしろこの際打って出るほかない旨の奉答を受けられる。天皇は,日米戦争の場合の結果如何につき御下問になり,提出された書面に記載の勝利の説明を信じるも,日本海海戦の如き大勝利は困難なるべき旨を述べられる。軍令部総長より,大勝利は勿論,勝ち得るや否やも覚束なき旨の奉答をお聞きになる。(宮内庁445-446頁)

 

 衆議院議員の任期満了まで2月余のみにしてジリ貧に陥るため,むしろこの際打って出るほかないとて,感染制圧に至る旨の説明が記載された書類と共に勇ましい新規大型施策の提案があったところ,その担当部署の長に対して「難しいんじゃないの」と牽制球を投げてみると,いや撲滅はもちろん効果があるかどうかも覚束ないんですとあっさり告白されてしまえば,脱力以前に深刻な事態です。しかし,このような漫画的事態(とはいえ,告白してしまっておけば,確実視される当該施策失敗の際に責任を負うのは,提案者ではなく採用者であるということにはなります。)が現在の永田町・霞が関のエリートによって展開されているということは,およそ考えられません。

 19417月末の大元帥とその両幕僚長との悲喜劇的やり取りにかんがみると,その4年後に我が民法等の立法資料の原本が甲府において灰燼に帰してしまうに至った成り行きも,何だか分かるような気がします。

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(上)『法典調査会民法議事速記録』等(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078842084.html


2 ドイツ民法草案

ところで,穂積陳重は我が民法545条の原案起草に当たってドイツ民法草案を参考にしたようですが(参照条文として,ドイツ帝国のものとしては,ドイツ民法第一草案427条,同第二草案298条,同商法354条,プロイセン国法第1部第11331条,ザクセン法911条から914条まで及び1109条並びにバイエルン草案第2326条,362条及び368条が挙げられています(民法議事速記録第25109丁表)。),ドイツ民法の当該草案はどのようなもので,当時のドイツにおける議論はどのようなものだったのでしょうか。

 

(1)ドイツ民法第一草案427

まず,1888年のドイツ民法第一草案427条。

 

  Der Rücktritt bewirkt, daß die Vertragschließenden unter einander so berechtigt und verpflichtet sind, wie wenn der Vertrag nicht geschlossen worden wäre, insbesondere, daß kein Theil eine nach dem Vertrage ihm gebührende Leistung in Anspruch nehmen kann, und daß jeder Theil verpflichtet ist, dem anderen Theile die empfangenen Leistungen zurückzugewähren.

 (解除により,契約締結者は相互に,当該契約が締結されなかった場合と同様の権利を有し,及び義務を負う状態となる。特に,いずれの当事者も当該契約により同人に与えられる給付を請求することはできず,かつ,各当事者は受領した給付を相手方に返還する義務を負う。)

   Eine empfangene Geldsumme ist mit Zinsen von der Zeit des Empfanges an, andere Gegenstände sind mit Zuwachs und allen Nutzungen zurückzugewähren, auch ist wegen der nicht gezogenen Nutzungen und wegen Verschlechterungen Ersatz zu leisten, soweit bei Anwendung der Sorgfalt eines ordentlichen Hausvaters die Nutzungen gezogen und die Verschlechterungen abgewendet worden sein würden.

  (受領された金額は受領の時からの利息と共に,他の目的物は増加及び全ての収益と共に返還されるべきものである。善き家庭の父の注意を尽くせば利益が収取され,及び劣化が回避されたであろう限りにおいて,収取されなかった利益及び劣化に係る代償も給付されるべきものである。)

   Wegen Verwendungen hat der zur Zurückgabe Verpflichtete die Rechte, welche dem Besitzer gegen den Eigenthümer zustehen.

  (支出した費用について,返還義務者は,占有者が所有者に対して有する権利を有する。)

   Kann der Empfänger einen Gegenstand nicht zurückgewähren, so ist er zur Ersatzleistung nur dann nicht verpflichtet, wenn ihm weder Vorsatz noch Fahrlässigkeit zur Last fällt.

  (受領者は,受領物を返還できない場合においては,故意及び過失が同人に帰せられないときに限り,代償給付の義務を負わない。)

 

 第一草案理由書(Motive)は,同条について次のように解説します。

 

  〔前略〕解除の意思表示(Rücktrittserklärung)によって,直接,両当事者のために(第426条第1項及び第2項),あたかも当該契約が締結されなかったごとくに,当該契約に基づく請求に対する独立の(時効にかからない)抗弁並びに返還に係る人的(persönlich)請求権及び人的義務が生ぜしめられる。原状回復義務(obligatio ad restituendum in integrum)である。債権的返還請求権に係る(des obligatorischen Restitutionsanspruches)この規格化は,解除の訴え(Wandelungsklage)に関係するところの権利と連結している(ヴィントシャイト394条第2,ザクセン法914条以下)。〔中略〕当該原則の定立と共に本案は,疑わしいときは解除による解除条件(Resolutivbedingung des Rücktrittes)の下に契約は締結されたものとみなされるという観念に――現存の諸法律においては,解除の効果を解除条件の成就に係る規定によって規整することは一般的ではなく,あるいは解除条件の成就がその結果として返還義務(die Verpflichtung zur Restitution)しかもたらさないにもかかわらず――規範として(für die Regel)依拠している通用の法律とは,その点において異なっているのである(ヴィントシャイト323条,プロイセン国法第1部第11331条,332条及び272条以下,フランス民法1184条,オーストリア法919条,1083条及び1084条,ザクセン法1107条以下,1111条,1115条,1436条及び1438条,スイス法1783項,ヘッセン草案第4部第251条,56条,57条,58条,59条以下,62条及び69-71条,バイエルン草案356条,362条,363条,364条,365条,368条,369条及び374-376条並びにドレスデン草案457条,459-463条,468条,473条,132条及び134条を見よ。)。取引の安全は,解除条件の帰結(当然直ちに生ずる(ipso jure)財産権の復帰,物権的拘束)を遠ざけておくことを要求する。本案の原則――これにより解除(Rücktritt)は当事者間における債権的法律関係のみを生じさせ,また,それにより同人らの間では契約がその効力において遡及的に(rückwärts)廃されるもの――は,両当事者の意思(Intention)の規則についてと同様,解除権の本質にもふさわしいものである。もし解除の意思表示が解除条件として働くのならば,両当事者はそのことを特約していなければならない。他者の債権に係る第三取得者の悪意は当該取得を妨げもせず当該取得者に損害賠償の義務を負わせないものとする本案の原則及び更に原理からは,同時に,解除権者は第三取得者に対して何らの請求権も有しないということが帰結される。

   第2項の規定は,原則の敷衍を含むとともに,そこにおいて,契約に基づきなされた給付は,単に理由なしにされたものとして返還請求権の規則に従って返還請求され得るものではないという当該原則の意味を明らかにする。原状回復への拘束から(Aus der Verbindlichkeit zur Herstellung des früheren Zustandes),相手方からと同様,解除権者から,受領した金額は受領した時からの利息(第217条)と共に,他の目的物は増加(第782条以下)及び全ての利益(第793条)と共に返還請求されるべきものであることが帰結される。当該原則により,返還義務者は,相手方を,具体的な状況により必要となるところの,契約がそもそも締結されなかったかのような状態に戻すための措置をするよう義務付けられる。当該契約に基づき生ずることとなった拘束からの解放及び当該契約に基づきなされた役務に対する代償給付もこれに属する。当初から解除(Rücktritt)の可能性が存在したということに鑑み,更に,各契約締結者の解除前からのものを含む過失に対する責任が理由付けられることとともに,このことから,善き家庭の父の注意を尽くせば利益が収取され,劣化が回避されたであろう限りにおいて,収取されなかった利益の又は劣化に係る代償給付の義務が帰結される。費用支出に基づき,返還義務者には,所有権主張者に対する占有者に帰属するものと同じ権利が認められる(第3項,第936条以下。ザクセン法1109条,1115条,1436条及び913条,ヘッセン草案第4部第157条,62条及び71条並びに第4部第2172条及び173条,バイエルン草案326条,362条,368条及び376条並びにドレスデン草案182条,168条,169条,460条以下及び473条参照)。第4項の規定は,既述の原理の帰結を述べるにすぎない。すなわち,ここにおいても,返還の不能(Unmöglichkeit)は,羈束からの解放としてのみ観念されるべきものなのである。

 

怪し気な翻訳ですが,要は,解約の解除の効果に係る理論構成としては間接効果説であり(「間接効果説は,解除によつて,未履行の債務については,履行を拒絶する抗弁権を生じ,既履行のものについては,新たに返還債務を生ずると説く」(我妻190頁)。),フランス民法11841項及び我が旧民法財産編4211項流の双務契約に解除条件が包含されているものとする構成は採らないということのようです。(なお,フランス及び我が国においては,解除条件は本来遡及効を有していたものです(フランス民法11831項,旧民法財産編4092項)。民法1272項が条件に遡及効がないことにしたのは,「当事者ノ意思及ヒ実際ノ便宜ヨリ之ヲ考フレハ或ハ其効力ヲ既往ニ遡ラシムルヲ可トスヘキカ」と悩みつつも,「一ニハ現在ノ事実ノ効力カ既往ニ遡ルハ普通ノ法理ニ反スルモノナルト一ニハ其効力カ既往ニ遡ルカ為メ第三者ノ権利ヲ攪乱シ又当事者間ニ於テモ既往ノ事実ニ変更ヲ生セシムルニ至リ大ニ不便ヲ感スルコトナシトセサルトヲ以テナリ」との理由であるそうです(梅謙次郎『訂正増補民法要義巻之一 総則編(第33版)』(法政大学=有斐閣書房・1911年)332-333頁)。無論,これについては当事者の意思により変更が可能です(民法1273項)。)

 

(2)ドイツ民法第二草案298

1894-95年のドイツ民法第二草案298条は次のようになっています。

 

   Hat sich bei einem Vertrag ein Theil den Rücktritt vorbehalten, so sind die Parteien, wenn der Rücktritt erfolgt, unter einander so verpflichtet, wie wenn der Vertrag nicht geschlossen wäre. Jeder Theil ist berechtigt, die ihm nach dem Vertrag obliegende Leistung zu verweigern, und verpflichtet, eine empfangene Leistung zurückzugewähren. Für geleistete Dienste sowie für die Ueberlassung des Gebrauchs oder der Benutzung einer Sache ist der Werth zu vergüten.

  (契約において一当事者が解除を留保している場合において,解除がされたときには,両当事者は,当該契約が締結されなかった場合と同様の相互の義務関係にあることとなる。各当事者は,当該契約によって同人に義務付けられた給付をすることを拒む権利を有し,かつ,受領した給付を返還する義務を負う。提供された役務に対して,及び物の使用又は収益の許与に対しては,価額が償還されるものとする。)

   Die Ansprüche auf Herausgabe oder Vergütung von Nutzungen sowie auf Schadensersatz wegen Unterganges oder Verschlechterung und der Anspruch auf Ersatz von Verwendungen bestimmen sich nach den Vorschriften, welche für das Verhältniß zwischen dem Eigenthümer und dem Besitzer vom Eintritte der Rechtshängigkeit des Eigenthumsanspruchs an gelten. Eine Geldsumme ist von der Zeit des Empfanges an zu verzinsen.

  (返還及び収益の償還並びに滅失又は劣化に係る損害賠償の請求並びに費用償還の請求については,本権に係る訴訟が係属してからの所有者と占有者との関係に係る規定の例による。受領の時から利息額が生ずるものとする。)

 

1項においては,未履行債務に対する抗弁構成が明確化されています。ドイツ民法第二草案までの段階では,いわゆる直接効果説の影は極めて薄いところでした。

 第一草案に関する議事録を見ると,次のような議論がされています(Protokolle 93. VI)。

 

427条について,次の提案がされた。

1. 第一草案の規定は,次の条項によって置き換えられるべきである。

 

   契約において一当事者が解除を留保している場合においては,解除は,当該契約を原因とする債務関係が消滅(erlischt)するという効力(Wirkung)を有する。両当事者は,当該契約が締結されなかった場合と同様の相互の義務関係にあることとなる。

   各当事者は,相手方に対し,受領した給付を返還する義務を負う。受領された金額は受領の時からの利息と共に償還されるものとし,他の物は増加及び全ての収益と共に返還されるものとする。受領された役務の給付に対しては,給付の時の価額が償還されるものとする。

   収取されなかった収益に関して,返還されるべき物の維持及び保管の責任に関して,並びに当該物に係る費用に関しては,本権に係る訴訟が係属してからの所有者と占有者との法律関係に係る規定が準用される。

 

2. 上記の提案については,第2項の第2文は削られるべきであり,第3項の最初の部分は「返還及び収益の償還に関して,」云々とされるべきであり,第3項に「受領された金額については,受領の時から利息が支払われるものとする。」との文が加えられるべきである。

 

   a) 第1の提案は,その第1文において,第一草案と次の点で相違する。すなわち,当該提案は,契約を原因とする債務関係を解除によって消滅させるものとしているのに対し,第一草案においては,債務関係は存続し,かつ,解除に基づいては抗弁のみが与えられるべきものとされている。当該提案のためには,次のように論じられた。

   第一草案における法律構成の基礎たる前提は,両当事者は当該契約はもはや存在しないものとして振る舞うべきものとしているにもかかわらず契約は存続するというものであるが,自然な理解に反するものである。実体法的抗弁は不可欠の法形式ではあるが,時効と同じようにそれと共に特別の目的が達成されるべき場合においてのみ援用されるものである。ここにおいては,当該法形式を用いる必要性が認められない。第一草案理由書281頁〔前記引用部分〕は,第一草案の奇異の感じを抱かせる法律構成を正当化するに当たって,解除が直接作用すること(die unmittelbare Wirkung des Rücktritts)は,債務の履行のためにされた物権行為(所有権の移転,地役権の設定等)を解除条件に適用される原理によって無効化し,かくして取引の安全を危殆化するという事態をもたらすという理由付けをもってした。これは誤りである。直接廃棄されるものは,債務関係,すなわち有因行為のみである。有因行為のためになされた物権関係の変動はそれとして存続し,両当事者は,しかし,反対の法律行為をもってそれを取り除くことを義務付けられるのである。解除後になお再び契約関係についてそのままにしておこうと両当事者が欲する場合において新たな契約の締結を省略することができるという点においても,第一草案の法律構成の利点なるものを認めることはできない。実行された解除を取り除くためには,その都度契約が必要である。解除によって廃棄された契約の有効化のためには一定の形式が必要である場合においても,無形式の合意をもって再び効力を持たせることは認められ得ないのである。

   当該陳述に対しては次のような異議があった。いわく,提案された規定は,物権契約に対する(債務関係法の外においても)その適用において,第一草案理由書において定められた原則からすると受け容れることができないものと思われると。これに対しては,もちろん,物権契約に関してはそもそも解除について論ずることはできないとの見解が主張された。当該見解も,専ら他の側から争われた。また,同時に,提案された文は「債務関係」との語が既に示しているように債権契約についてのみ関係するものである,という点にも注意喚起がされた。多数の者は当該理解に傾きつつも,第1の提案がその第1文において意図した第一草案の変更には大きな意義を見出さなかった。

   変更案は却下された。

   その理由は以下のとおりである。

   実務的には,ある必要な形式及びその費用の支出を繰り返すことによる契約の更新の省略が,第一草案によればなされる,ということがせいぜい考慮され得るにすぎない。この点を重視しないのであれば,問題は,第1の提案における専ら理論的な第1文が表現しようとする法律構成の相違のみにかかわる。双方の法律構成に対して,正当化の弁が述べられた。第1の提案の法律構成の方が自然な理解に近いということについては,疑いが存する。両当事者の見解によればむしろ,留保された解除が実行されたときは,当該契約はその時から消滅するのではなく,遡及的に無効となるのである(der Vertrag nicht erst von jetzt an erlöschen, sondern rückwärts hinfällig werden)。当該見解に対して,第一草案は,全体的にではないとしても,物権的効力(dingliche Wirkung)が〔契約の〕消滅について(dem Erlöschen)遡って(ex tunc)認められる,という顧慮をしているところである。

   b) 第一草案の第1項は――第1の提案は実質的にはその第1文においてのみ相違していたところであるが,同文の却下後――承認された。

   第2項については,他の点では専ら字句修正的な第2の提案が,「増加と共に(mit Zuwachs)」の文字を削るべきものとしている。

   これに関して委員会は,以下のように考慮した上,同意を表明した。

   増加の概念は,何の問題もなしに自明のものであるものではないし,いずれにせよここにおいては不可欠ではない。当該概念を第1878条において維持することを欲し,かつ,そうしなければならないのであれば,その旨留保することができる。第427条のためには,土地の構成物に関する一般規定――というのは,少なくとも主だったところでは,それについてのみ増加が問題となり得るからである(プロイセン国法第1部第9222条)――で申し分なく十分である。土地が返還されなければならない場合においては,それはその全ての構成物と共に返還されるべきことは自明のことである。第2項において増加を特に強調することは,費用をかけて生じた増加に第3項の適用があることを分かりにくくする。

   c) 第1の提案の第2項第2(ママ)文において提案された,受領された役務の給付は返還されるべきものとする,種類に関する第一草案に対する補充は承認された。

   第3項については,実質的に異議は唱えられなかった。

   d) 第4項は,第1の提案に倣って削られた。ここで示された規定は,第一草案の第2項及び第3項の条文が第1の提案の第3項によってこうむった変容を通じて大部分カヴァーされているとみなされ,また,部分的には,第429条がより分かりやすく表現していること〔「解除権者が受領した物がその責めに帰すべからざる事由によって滅失したときは,解除権はなお存続する。」〕と同じことを述べている限りにおいて,当該パラグラフとの関係では余計なものとみなされる。

 

契約の解除による消滅,ということはさすがになおも由々しいものだったのでしょうか。ローマ法について,「bona fides上,契約はたとえ不履行があっても一方当事者から解消しうるものではないし,不履行に備えるためにこそ,契約は存在していなくてはならない。当事者の意思のみによる解除の制度はついにローマ法では登場しない」と説かれています(木庭顕『新版ローマ法案内 現代の法律家のために』(勁草書房・2017年)147頁)。

なお,ローマ法上の売買の付加的約款中「一定期間内に代価の支払なき場合に売買を解除する約款」であるlex commissoria(ドイツ普通法時代に契約の解除理論構成の材料に用いられたもの)については,「当初は停止条件的に理解せられていた」そうです(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)188-189頁)。ここでの「停止条件」は我が民法1271項のそれでしょうから,lex commissoriaに基づく契約解除の効力は遡及的ではなかったものでしょう。

 

3 解除条件成就の遡及効に関して

解除条件の成就に遡及効がある場合(民法1273項参照)に関しては,我が国においては,「この遡及効は,物権的(絶対的)に生ずるものか,それとも,債権的(相対的)に生ずるものか。ドイツ民法は,明文規定(ド民159)をもつて債権的効力を生ずるものとしている。わが民法にはこれに対比すべき規定はない。多くの学説は,物権的にその効力を生じ,当事者間においてのみならず第三者との間においてもその効力を生ずるものと解している(鳩山537,三潴502,近藤461,今泉434)。それによつて被ることあるべき第三者の不利益は,対抗要件等(177178192467)によつて防止せられるからという(行判大6410新聞126029)。」とのことだそうです(於保編331頁(金山))。ドイツ民法159条は「法律行為の内容が,条件の成就に結び付けられた効果は既往に遡るものとしている場合においては,条件が成就したときには,各当事者は,当該既往の時点において当該効果が生じた場合に彼らが有すべきであったものを相互に与えるように義務付けられる。」と規定しています。

契約の解除に遡及効を認める直接効果説下においては,「解除の影響を受けない〔民法5451項ただし書〕の第三者とは,解除された契約から生じた法律効果を基礎として,解除までに,新たな権利を取得したものである(942項や963項の第三者の意味に同じ〔略〕)。契約の目的物の譲受人や目的物の上に抵当権・質権などを取得した者――但し,対抗要件を備えた者でなければならないことはいうまでもない(大判大正10517929頁)――は,第三者である」(我妻198頁。下線は筆者によるもの),「解除の遡及効が第三者の権利を害し得ないとう制限は,もとより,解除前の第三者に対する関係をいうに過ぎない。解除された後の第三者との関係は,対抗要件の問題として解決すべきである。」(我妻199頁)ということになっています。対抗要件が大活躍です。なお,「解除前の第三者に登記が要求されるのは,解除権者と対抗関係に立つからではなく,保護に値する第三者となるには権利者としてなすべきことを全て終えていなければならない,という発想による(〔解除の遡及効を前提とした上での〕権利保護資格要件の考え方〔略〕)。そうだとすると,第三者は解除までに登記を取得する必要がありそうである。〔中略〕少なくとも返還請求を受けるまでに第三者は登記をそなえていることが必要であり,かつ,解除権者自身は登記なくして未登記の第三者に勝てると考えるべきだろう。」との主張(内田貴『民法Ⅱ 債権各論』(東京大学出版会・1997年)100頁)は飽くまでも一学説であって,「判例は,対抗関係説に立っているようにみられる(大判大10.5.17民録27.929,最判昭33.6.14民集12.9.144966],最判昭58.7.5集民139.259)。解除の効果について,いわゆる直接効果説の見解に立つことを前提とした場合にも,解除者と第三者の関係を対抗関係と解することは可能であると思われる。対抗関係説によれば,Yが〔Xを売主,Aを買主とする売買契約の解除前に更にAから目的物を購入した〕解除前の第三者であるとの主張の法的構成については,目的物がAX間,AY間で二重に譲渡された場合と同様に解することができる」ものです(司法研修所『改訂 紛争類型別の要件事実 民事訴訟における攻撃防御の構造』(司法研修所・20069月)120頁)。

 

(下)旧民法等(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078842113.html

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序 『法典調査会民法議事速記録』等と甲府空襲と

 

(1)明治の資料と国立国会図書館デジタルコレクションと

 国立国会図書館デジタルコレクションで日本学術振興会版の『法典調査会民法議事速記録』等が利用できるようになって,民法(明治29年法律第89号)について何かを語る場合,専ら学説及び判例の上に立って才気ばしった「概念による計算」を披露するだけでは許されなくなっているようです。旧民法(明治23年法律第28号)に係るボワソナアド(Boissonade)のProjet(『日本帝国民法典草案ならびに註釈』)及びその手になるExposé(制定された旧民法に係る日本政府の『公定フランス語訳および立法理由書』)も同様に当該デジタルコレクションで利用可能となっていますからなおさらです。ProjetExposéとの関係については,パリ大学法学部長宛て18911018日付けのボワソナアド書簡にいわく。「〔前略〕日本の民法典は,私の草案に対する削除と修正(これらの「修正」――私が採用しかねる「修正」――については,パリで新たな評言がありましょう)の後,公布されましたが,この時,政府は,〔削除について〕私に責任のないことを明らかにするため,私の草案と註釈を再び出版しようと申し出ました。この提案は,同時に,どうしても引き受けてくれと頼まれた,相当重く相当骨の折れる仕事を交換条件とした申し出でありました。その仕事とは,新法典の立法理由書の起草であり,できる限り草案がうけた修正を正当化し,また,私の個人的見解を捨象して書いてくれ,という注文でした。/もちろん,私の「註釈」のうち,新法典にもまだ通用するものは,そのまま使ってもよろしいといわれました。そして,新条文はごく少なく,ほとんどが削除ばかりでありましたから,私は自分自身で自分を削除する羽目になったわけです。〔後略〕」と(大久保泰甫『日本近代法の父 ボワソナアド』(岩波新書・1998年)168頁)。〔 〕による付加は同書原文のもの)

 

(2)法典調査会民法議事速記録と日本学術振興会と

「これら旧民法典の審議過程の資料や現行民法典の法典調査会等での審議過程の資料は,当時の司法省に原本がわずか1部存在していたのみであって,明治29年〔1896年〕の現行民法典成立・〔1898716日の同法〕施行後も全く公刊等をされないまま昭和の時代に至った」ところであったそうです(池田真朗「法典調査会民法議事速記録等の立法資料について」同『債権譲渡の研究(増補第二版)』(弘文堂・2004年)492-493頁)。その間ドイツ法学説が,我が国を席捲します。

 

このような状況において,昭和8年〔1933年〕10月に,日本学術振興会第一(法学,政治学)常置委員会は,その最初の会合で,明治維新以後のわが国の立法資料の蒐集に関する小委員会を設置することを決定する。それが第九小委員会と呼ばれるものであり,この第九小委員会が,民法,商法,訴訟法,刑法,その他諸法(法例,戸籍法,不動産登記法等)に関する立法資料の印刷保存を行ったのである。(池田496頁)

こうして,日本学術振興会は昭和9年〔1934年〕から昭和14年〔1939年〕までにこれらの立法資料を全288巻にタイプ印刷(印書あるいは謄写印書)し,各巻とも8部製作して(製作時に各部ともタイプで印書したのか,何部ずつかを謄写印書したのかは,正確にはわからない。8部を付き合わせてミスタイプ等を点検すれば判明するであろうが),それらを同振興会,司法省,旧四帝国大学(現在の東京大学,京都大学,東北大学,九州大学)および早稲田大学,慶應義塾大学の8か所に各1部ずつ配付して保管せしめた(同振興会保管分は後に一橋大学に移管された)。その全288巻中最初の65巻が,この法典調査会民法議事速記録全65巻であり,この部分については,法典()調査会()第九小委員会委員長加藤正治博士の序によれば,昭和9年〔1934年〕11月から昭和10年〔1935年〕12月までかけて印書されたということである(先に述べたように,民法の最初の部分の審議は主査会と総会とで行われているのであるから,本来はそちらから先に印書すればよかったと思われるのであるが,実際はこの第100条(現在の99条)からの法典調査会議事速記録が先に印書され,主査会と総会の部分は,後に述べる旧民法関係の草案審議資料の後に印書された)。(池田496-497頁)

 

なお,これら全288巻の元になった原資料は,昭和20年〔1945年〕,戦災により,疎開先の甲府刑務所において,すべて焼失した。したがって,これらのタイプ印書資料がなければ,我々は永遠に民法や旧民法の立法段階の資料に接することができなくなり,民法研究にはまさに致命的な痛手となるところであった。日本学術振興会の尽力(およびそれに対する司法省の援助)に対して,感謝の念を禁じえない。(池田499頁)

 

(3)甲府空襲と歩兵第320聯隊と

194576-7日夜の甲府大空襲による立法資料焼失については,「惜しくも疎開さきの甲府刑務所で戦災のため焼失した旧民法いらいの豊富な立法資料のなかに,競売法関係のものは,無かったのであろうか。その書目(司法省調査課,和漢図書目録,昭和12年のXB300の部)から推測したところでは,どうもありそうもない。偶然にも,空襲の直後,急用で私は甲府の兵営の門に入ったが,この貴重な立法資料までやられたとは思いもよらないことであった。」との1945年当時36歳の助教授であった斎藤秀夫教授の追想があります(斎藤秀夫「「競売法」の執筆を終えて」法律学全集しおりNo.33(有斐閣・1960.33頁)。

甲府聯隊の兵舎は,甲府空襲における損害を免れていました(総務省「甲府市における戦災の状況(山梨県)」ウェブページ)。

なお,192678日生まれの星野英一教授は,「〔1945年の1月だかに徴兵検査を受けました。ただ,まさかと思っていたのに徴兵令状が来てしまいました。6月の中旬か下旬か,正確には覚えていませんが,甲府の連隊に入れということです。父が付いてきてくれ,中学からの親しい友達が二人ほど新宿駅まで送ってきてくれました。その前夜に宴会をやって,みんな悲壮な顔をしていました。」ということで(星野英一『ときの流れを超えて』(有斐閣・2006年)40頁),当時「甲府の連隊」で服役中であったわけなのですが,甲府空襲の直後に甲府聯隊の兵舎で東北帝国大学の斎藤助教授を望見するということはなかったようです。

 

場所は,甲府に入ったその日に,行軍して石和から少し南側の村に行き,そこの農協に中隊ごとに分宿しました。それから数週間ですか,今度は岡山県の勝間田という,津山のちょっと南になる低い山の中に行きました。そこでは,これも中隊ごとで,私どもはお寺に分宿でした。いろいろな所に泊まっているので,うまく当たった中隊は,軍の演習場の宿舎で,設備も食べ物も良いのだけれども,我々はそういう所でした。それから最後にまた移りまして,今度は伯耆(ほうき)大山(だいせん)という,米子の一つ手前の村に行きました。簸川(ひのかわ)のある所で,今度は分隊ごとに農家分宿です。(星野・超えて41-42頁)

 

星野教授の属した聯隊は,有名な歩兵第49聯隊ではなく,1945年に入ってにわかに甲府で編成された歩兵第320聯隊であったようです(第59軍(同年6月広島に司令部設置)の第230師団に属する。)。なお,伯耆大山は駅名です(伯備線が山陰本線に合流する所。星野教授は「実は私はローカル線に乗ってぼんやり景色を眺めているのも好きなのである」(星野英一『法学者のこころ』(有斐閣・2002年)189頁)ということでしたから,つい鉄っ気のある話し方になってしまったのでしょうか。ただし,「一つ手前」といっても,米子駅と伯耆大山駅との間には1993年以降東山公園駅が存在します。)。第320聯隊の駐屯地は,1945年当時は五千石村といったようです(現在は米子市の市域に含まれます。)。

 

(4)『法典調査会民法議事速記録』の活用に関して

法典調査会民法議事速記録の原本は甲府刑務所において滅びましたが,日本学術振興会の印刷本は生き残りました。正に第九小委員会の配慮が生きたことになります。

 

 此の速記録は原本が1部僅に司法省に存するのみであつて,若し火災等の危険を考へるならば,真に慄然たらざるを得ないのであるが,今,此の印刷が完了して,適当の場処に夫々それを保管することが出来るやうになつたのは,誠に結構な次第である。(加藤正治「序」(19379月)・日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録第1巻』)

 

とはいえ,第九小委員会の意図したところは資料の保存にとどまり,その普及にまでは及んでいませんでした。

 

しかしながら,この学術振興会版は右のようにごくわずかの部数しか製作されなかったため,これを利用してする研究も,戦後昭和40年代〔1965-1974年〕まではごく少なかった。また保管機関以外の研究者・実務家にとっては,利用上の不便が大きかったため,次第にその参観・入手の要望が多方面から強く出されるようになってきた。(池田499頁)

 

 1983年から1988年にかけて,商事法務研究会から『日本近代立法資料叢書』の一部として,法典調査会民法議事速記録全32巻が刊行されます。

しかし,『日本近代立法資料叢書』版を利用した研究が直ちに爆発的にされたということではないようです。我が民法の施行百周年を5年後に控えた1993年,星野教授は,「この機会に,わが民法典の本来の姿と,その後における「学説継受」の研究をすることである。この点は戦後かなり盛んに行われてきたが,これを一層進める必要がある。民法典の現代語化の研究に際して痛感しているのは,我々がいかに民法典の各条文をきちんと理解していないかということである。このことが,学生に対する民法の教育にとっても悪い結果を及ぼしていると感じている。」との所感を述べています(星野・こころ134頁)。(民法典の現代語化は,平成16年法律第147号によってなされています(200541日から施行(同法附則1条,平成17年政令第36号))。)「時々は,法典調査会議事速記録を参照することをお勧めしたい。講義の準備をしつつこれらの書に接しておくことは,研究の入口のところを歩いているようなもので,講義の準備の苦しさを少しばかり緩和してくれることになろう。」といわれても(米倉明『民法の教え方 一つのアプローチ(増補版)』(弘文堂・2003年)188頁),大学の図書館等の奥に鎮座する『日本近代立法資料叢書』にはなかなかアクセスしづらいところです。自宅の机上のPCからアクセスできる国立国会図書館のデジタルコレクションが,有り難く感じられます。

 

1 民法545条に関する法典調査会における議論

 

(1)穂積陳重の説明

とまた前口上が長くなりました。さて,筆者が最近法典調査会民法議事速記録を読んでいて面白く感じたのは,民法545条の原案(条番号は「第543条」ですが,条文はそのまま制定法律になっています。)についての穂積陳重による次の説明です(1895423日の第80回法典調査会)。

 

   本条ハ解除権行使ノ効果ヲ規定致シタモノテゴザイマシテ本案ノ中テ大切ナ箇条ノ一ツデゴザイマス,

デ解除権行使ノ結果ト云フモノハ通常是迄諸国ニ於キマシテハ所謂物権上ノ効果トデモ申シマセウカにてるれーふ〔ママ。Widerruf?〕・・・ト申シマシテ即チ当事者ハ相手方ヲ原状ニ復セシムルト云フ方テアツタノテゴザイマス本案テ採リマシタ主義ハ此解除権行使ノ効果ハ即チ人権上ノ効果テアリマシテ原状回復ノ義務ヲ負フ彼ノおふりがツしよんいんてらーぶ〔ママ。obligatio in integrum?〕原状回復ノ義務ヲ生セシメルト云フ方ノ主義ヲ採リマシタノテゴザイマス,

デ即チ此解除権ト云フモノヲ行フノハ前ノ法律行為ヲ根本カラ排斥スルノテハナイ法律行為ト云フモノハ其儘元トノ通リニナツテ居テ夫レガ其時ヨリシテナクナルノテアリマスガ之ニ代ツテ新タニ其義務ガ解ケテ而シテ新タニ法律上ノ債務ガ生ズルノテアル相手方ヲ原状ニ復セシムル方ノ債務ガ生ズルノテアル,

デ此主義ハ独逸民法ガ近頃採リマシタ主義テゴザイマスルガ経済(ママ)抔ハ何ウモ斯ウ云フ方ノ主義デナイト云フト取引上ノ保護,信用ノ保護ト云フモノハ其目的ヲ達スルコトハ出来ナイ本権カラシテ物権上ノ効果ヲ生シテ其者自身,権利自身ガ後トニ返ヘルト云フヤウナコトニ為ツテハ別シテ物ノ所有権ノ移転ヤ何カヲ目的トシテ居リマス所ノ契約抔ニ於キマシテハ第三者ニ迄其効果ヲ及ボスコトニナツテ自然信用ガ薄クナル第三取得者ノ安全ヲモ害スルコトニナツテ何ウシテモ人権上ノ効果ヲ生セシメル方ガ宜シイ又当事者ノ利害ニ於キマシテモ人権上ノ効果ヲ生セシメル方ガ簡易ニシテ双方原トニ復セシメルコトガ易イ第三者ノ権利ガ中ニ加ハツテ居ルト原トニ復スルニハ色々ノ費用ガ入ツタリ何カスルガ当事者ガ原トノ有様ニ復スルト云フ義務ヲ負フノハ当事者ノ便利ニシテ却テ其目的ヲ達スルコトハ易イト云フ斯ウ云フ主トシテ経済上ノ理由ヨリ致シマシテ人権上ノ効果則チ法律上ノ債務ヲ新タニ生スルト云フコトニ致シタノテゴザイマス

夫レテ其結果ト致シマシテ仮令斯ノ如キ解除権ガ行ハルルト云フコトガ或ハ分ツテ居リマシテモ其第三者ガ或場合ニ於テ其目的物ヲ取得致シタトシマシテモ夫レガ為メニ知ルナラハ損害賠償ノ責ニモ任セス又返還ノ責ニモ任セナイノモ勿論テアリマセウ夫レテ取引上ハ甚ダ安全ニ為ル況ヤ之ヲ知ラナイ場合ガ多ゴザイマスルカラシテ別シテ斯ノ如ク原トノ有様ニ復サセルト云フ義務ヲ負ハセル方ガ一般ノ為メニ便利テアル,

デ斯ノ如ク原状ニ復セシムル義務ト申シマシタ以上ハ矢張リ其間ノ果実抔モ元トニ返ヘスト云フコトハ之ニ這入ツテ居ル積リテアツテ果実返還ノ義務モ私共ハ別段ニ相談ハ致シマセヌガ之ニ這入ル積リテアリマス〔平成29年法律第44号による改正後の民法5453項参照〕金ハ原状ニ復スルト云ツテ元トノ高ヲ返ヘシタ丈ケテハ本(ママ)ノ元トニ復シタトハ言ヘヌ先ツ通常ノ場合ニ於キマシテハ之ガ融通セラルル利息ガ附クノガ当リ前テアリマスカラ矢張リ明文ガナケレハ徃カヌ夫レテ第2項ニ於テ即チ法定利息丈ケハ払ハナケレハ徃カヌト云フコトヲ特ニ掲ケマシタ国ニ依リマシテハ尚ホ細カニ原状ニ復スル有様ヲ規定シテアリマシテ或ハ増加シタモノハ之ニ入レナケレハナラヌ又労役ハ之ニ其賃銀ヲ払ハナケレハ徃カヌ甚タシキニ至リマシテハ損料,品物ノ使用ニ対スル損料迄計算シナケレハ徃カヌト云フ様ニ書イテアル所モ随分アリマスルケレトモ之等ノ細カイ所ニ立入ルノハ越権テアリマスルカラ一般ニ原状ニ復スルト書イテ置キマシタ

夫レカラ解除シテモ損害賠償ヲ求メラレヌト云フコトニナツテハ不都合テアリマスルカラ第3項〔現4項〕ニ於テ損害賠償ノ請求ヲ妨ゲヌト云フコトヲ殊更ニ記シタノテアリマス是ハ事ニ依ツタラハ或ハ要ラナイト云フ説モ出ルカモ知レマセヌガ併シナガラ御承知ノ通リ既成法典抔ニ於テモ然ラハ解除ヲ請求スルカ損害賠償ヲ請求スルカト云フヤウニ選択ヲ為スコトノ出来ル場合抔モ徃々アルノテアリマス又不履行ニ付テハ損害賠償ヲ請求スルコトヲ得ト云フノガ一般ノ原則テアリマス之等ハ不履行モナイカラ損害賠償ノ権モナクナツテ仕舞(ママ)ト云フ疑ヒモ起リ得ル夫故ニ是ハ何処ニモアリマス損害賠償ノ請求権ト云フモノハ成立シ得ルモノテアルト云フコトハ何ウモ明カニ書イテ置カナケレハ徃カナイト思ヒマス

夫レカラ尚ホ此効果ニ付テ生ジ得ヘキモノハ則チ原状ニ復スルト云フ場合ニハ保存費テアルトカ改良費テアリマスルトカ云フヤウナコトノ計算ノ問題ガ出テ参リマセウト思ヒマス併ナガラ是ハ占有ノ方ニ規則ガアリマス即チ197条〔民法196条参照〕ニ「占有者カ占有物ヲ返還スル場合ニ於テハ其物ノ保存ノ為メニ費シタル金額其他ノ必要費ヲ回復者ヨリ償還セシムルコトヲ得」「占有者カ占有物ノ改良ノ為メニ費シタル金額其他ノ有益費ニ付テハ其価格ノ増加カ現存スル場合ニ限リ回復者ノ選択(ママ)従ヒ其費シタル金額又ハ其増価格ヲ償還セシムルコトヲ得」ト云フ規定ガアリマス此規定ガ何時テモ其儘此処ニ当ル積リテ別段ニ此処ニ入レナカツタノテアリマス

(日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録』第25109丁表から111丁裏まで。段落分けは筆者によるもの。なお,中田裕康『契約法』(有斐閣・2017年)223頁等参照)

 

(2)折衷説

 これは,あれですね,判例・通説(我妻榮『債権各論上巻(民法講義Ⅴ₁)』(岩波書店・1954年)190-191頁)とされる直接効果説(契約の解除に遡及効を認めるもの)もあらばこそ,「未履行の債務については,解除の時から債務が消滅し(遡及効を認めない点で直接効果説と異なる),既履行のものについては,新たに返還義務を生ずる(間接効果説に同じ)」ところの「折衷説」(我妻190頁)ですね。

「わが民法の規定は,直接効果説から説明しやすいもの(民法5451項但書,同2項)」と,折衷説から説明しやすいもの(民法5451項本文・同3項〔現4項〕)とがある」ということでしたが(星野英一『民法概論Ⅳ(契約)』(良書普及会・1994年)94頁),直接効果説に親和的であるとされる民法5451項ただし書については,法典調査会の場で土方寧から当該規定は我が民法において本当に必要なのかとの質問があり,それに対して,為念規定であって,本来は無くともよいものである旨穂積陳重が陳弁し,既に同説には梯子が外されていたところです。

 

  「第三者ノ権利ヲ害スルコトヲ得ス」ト云フコトニ付テハ吾々モ余程相談ヲシテ見マシタガドウモ前ニ申シマシタ通リ是迄諸国ニ規定モ置イテアツテ原状ノ効果ヲ生ズルト云フヤウニナツテ居リマスルシ夫レカラシテ原状ニ復セシムル義務ヲ負フト斯ウ申シマスルト云フト既ニ第三者ノ権利ガ夫レニ加ハツテ居ツタノテモ尚ホ夫レヲ害シテモシナケレハ徃カヌト云フヤウナ風ノ疑ヒモ生シハシナイカト思ヒマシタカラ之ヲ置イタ方ガ宜カラウト云フノテ遂ニ置イタノテアリマスガ此但書ガナクテモ前ノ文章ヲ注意シテ読メハ多分間違ヒハ生ジハセヌト思ヒマス(民法議事速記録第25113丁裏-114丁表)

 

民法5452項について穂積陳重は「之ガナイト利息ガ附カナイ之ガアツテ始メテ附ク」と述べていますから(民法議事速記録第25114丁表),同項は,確認的規定ではなく,創設的規定なのでしょう。遡及効があるからこそ受領時から利息が付くのだと言えば言い得ますが,当該遡及効の結果を規定したのではなく将来効のみを有する同条1項の原状回復義務の内容を原状回復の結果をもたらすように具体化させた規定であるといい得るものなのでしょう(旧民法財産編の解除(同編4211項)は効果が遡及する解除条件の成就(同編4092項:“L’accomplissement de la condition résolutoire remet les parties dans la situation où elles étaient respectivement avant la convention.”)ということであったので,契約の解除に係る民法545条の原状回復義務(富井政章=本野一郎の訳によれば“chacune des parties est obligée de remettre l’autre dans l’état antérieur à la formation du contrat”)の内容もそれに揃えて規定された,ということになるのでしょう。なお,民法1272項の解除条件の成就は――「解除」との文言は同一ながらも――その時から解除条件付法律行為が「その効力を失う」ものであって,そこに遡及効はありません。とはいえ,「解除条件附法律行為が,物権行為または処分行為なるときは,条件の成就によつてその行為の効力を失い,それと同時に,ただちにその行為以前の権利の原状に当然に復帰」し,「解除条件附法律行為が債権行為なるときは,条件の成就によつて,その債権行為の効力が当然に消滅する。その債権行為にもとづく履行請求権も,それに応ずる履行義務も,また当然に消滅する。もし,その債権行為にもとづいて,履行としての物の引渡がなされていたときは,その物を返還すべきものとなる。債権の効力を失い,債権者の給付保持力が消滅するからである。」ということになります(於保不二雄編『注釈民法(4)総則(4)』(有斐閣・1967年)326頁(金山正信))。)。

契約の解除の効果に関する理論構成については,直接効果説,間接効果説及び折衷説があって「わが国でも争われている」ということでしたので(星野Ⅳ・94頁),初学者は訳も分からぬままに当該3説を丸暗記してみるなど民法学習上悩ませられていたところですが,起草担当者の意思は何とも平明なものでした。「そもそも右の議論はドイツ民法に特殊の面をも含み,わが国ではあまり意味がない。」(星野Ⅳ・94頁),したがってくよくよ悩まなくてもよいのだよと励まされるより先に,法典調査会民法議事速記録が早くから広く流通してドイツ法学流の特殊論点の侵入に対する防壁となってくれていた方が有り難かったところです。


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承前(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078727400.html


3 民法593条の2

 

(1)趣旨

平成29年法律第44号により我が使用貸借は諾成契約化されましたが,その拘束力は弱いものとされています。

 

もっとも,これにより,安易な口約束でも契約が成立してしまうことがあり得るが,使用貸借は無償契約であることを踏まえれば,贈与における贈与者と同様に(新法第550条参照),使用貸借の貸主についても,契約の拘束力を緩和し,解除を認めるのが適切である。

そこで,新法においては,使用貸借を諾成契約とし,使用貸借は,当事者の合意があれば,目的物の交付がなくともその効力を生ずるとした上で(新法第593条),書面による場合を除き,貸主は,借主が借用物を受け取るまでは,契約の解除をすることができるとしている(新法第593条の2)。

  (筒井=村松303頁)

 

 また,「旧法下においても,明文の規定はなかったが,借主はいつでも意思表示により使用貸借を終了させることができると解されていた」ところ(筒井=村松306頁(注)),平成29年法律第44号による改正後の民法5983項は「借主は,いつでも契約の解除をすることができる。」と規定しています。(この点については,1895611日の第93回法典調査会において,穂積八束が「借主ハイツデモ返セルモノデアロウト思フ」と発言し(民法議事速記録第3278丁裏),当該認識を富井政章は否定していません(同78丁裏-79丁裏)。)

 

(2)Pacta sunt servanda?

 しかしこうしてみると,折角諾成契約になったものの,書面によらない使用貸借は,成立後も借用物の借主への引渡しがされるまではなお,各当事者から任意に解除され得るわけです(いずれの当事者が解除する場合でも損害賠償は不要でしょう(民法587条の22項,657条の21項等参照)。)。契約を解除さえしてしまえば,その履行を債務者の「良心ニ委ス」ものである(旧民法財産編(明治23年法律第28号)562条)自然債務も残らないわけで,全くの非人情状態となるということでしょう。両当事者に対する拘束力の欠如ということでは,要物契約時代と事情は変わらないようです。否,要物契約時代の書面によらない使用貸借の予約の方が,解除自由のお墨付きがなかっただけ,かえって拘束力が強かったことにならないでしょうか(「使用貸借の予約として有効としてよいが,贈与の550条本文を類推適用して,書面によらない場合の撤回権を認めるべきだろう。」とのかつての主張(内田165頁。また,星野177頁)は,飽くまでも学説でした。)。書面によらない諾成使用貸借は,拘束力の欠如にもかかわらず契約として存在するだけにかえって,“Pacta sunt servanda.”(約束は守られるべし。)の大原則を公然逆撫でするが如し。

 とはいえ,“Pacta sunt servanda.”は,「現代契約法における,輝ける(!)無限定の原則」ではあるものの「実は,非ローマ的なもの」だったそうです(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法――ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)223頁)。「ローマの契約法は,《法によって認められた一定の契約類型のみが合意によって創設され得る》という考えに基づいている。これが,ローマ契約法における「契約類型法定主義numerus clausus(「閉じた数」の意)」である。」ということでした(ベーレンツ=河上223頁)。単なるpactumだけでは不足で,法定された契約類型においてのみ“Pacta sunt servanda.”が妥当したということのようです。ところが,書面によらざる諾成使用貸借は,正に典型契約の一種として法定までされているにもかかわらず,“Pacta sunt servanda.”原則と相性が悪いのです。(要物契約時代においても「当事者が返還の時期並びに使用及び収益の目的を定めなかったときは,貸主は,いつでも返還を請求することができる」ことになっていたのだから(民法旧5973項)どちらも同じだ,といおうにも,要物使用貸借契約の効果として,貸主の解約告知までは借主に,現に引渡しを受けた借用物を使用収益する権利があることになりますので,当該契約には,借主の使用収益を不当利得・不法行為ではないものとするという法的効果が,直ちにあったわけです。)

 

(3)民法550条による「正当化」について

 前記の無拘束力状態は,諾成使用貸借の貸主は「贈与における贈与者と同様」である(民法550条参照),ということで正当化がされています。しかし,以前論じたことのある民法550条の由来に関する筆者の少数説的理解(「民法549条の「受諾」に関して(後編)」(20201119日)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078025256.html)からすると,少々違和感があります。まず筆者の「少数説的理解」から説明しますと,それは,①民法550条の出発点は,要式契約たる贈与(公正証書によるもの)並びに単一の手渡しになる贈与及び慣習による贈物のみを有効として,方式を欠く贈与合意は無効であるとする旧民法の規定(同法財産取得編第14章(明治23年法律第98号)358条)であって,②方式を欠く無効の贈与合意に基づき,専ら当該「債務」の履行としてされた「贈与」の弁済を有効とする場合(当該「債務」が無効であることを知らずに(民法705条参照),贈与意思を失った(したがって,手渡しの贈与にもならない。)にもかかわらずされた当該弁済は,本来は非債弁済として無効のはずですが,有効としないのも変であるとの判断がされた場合)に生ずる贈与の成立時いかんという難問(そもそもは無効であった当初の合意の時か(合意が当初から有効だったことにする。),それとも履行時か(無効が治癒せられたことにする。))を解くために,③逆転の発想で,方式を欠く合意の場合でも贈与は一応成立することにするがその履行がされないうちに「取消」があったときは(原則どおり)契約が無かったことにしよう,という構成が採られたものという理解です。したがって,有効な無方式諾成契約を制約する(凹)ものとして「贈与の550条本文を類推適用」するのだというような趣旨が感じられる説明に接すると,いやいや民法550条は本来無効な無方式諾成契約の一部を救う(凸)ための規定であって凹凸の方向が逆ではないか,と思われてしまうところです。

 そもそも“Pacta sunt servanda.”ではないことになるのならば,要式諾成契約は別途認めるとしても,要物契約のままであってもさして差し支えはなかったのではないでしょうか。

 書面によらざる諾成使用貸借に基づき貸主が借用物を引き渡した場合において,平成29年法律第44号の施行前は,貸主はなお,当該「契約」に基づく借用物引渡債務が無効であることを知らず,かつ,当該引渡しは専ら当該無効の債務の履行としてされたものであってその際使用貸借の貸主たらんとする意思はなかったと主張して当該借用物の返還を請求できたが,同法施行以後はそのような面倒な主張は封じられた,という違いは,筆者にはそう大きなものとは思われません。

 

(4)旧民法財産取得編203条2項相当規定の欠如との関係

 なお,使用貸借を諾成契約としたスイス債務法には第3092項(Le prêteur peut réclamer la chose, même auparavant, si l’emprunteur en fait un usage contraire à la convention, s’il la détériore, s’il autorise un tiers à s’en servir, ou enfin s’il survient au prêteur lui-même un besoin urgent et imprévu de la chose.(借主が合意されたところに反する借用物の使用をしたとき,それを劣化させるとき若しくは第三者にそれを使用させるとき又は貸主自身に借用物を使用する急迫かつ予期せざる必要が生じたときには,期限前であっても,その物の返還を請求することができる。)),諾成契約と解しているドイツ民法には第6051号(Der Verleiher kann die Leihe kündigen: 1. wenn er infolge eines nicht vorhergesehenen Umstandes der verliehenen Sache bedarf,(貸主は,次に掲げる場合においては,使用貸借を告知することができる。/第1号 予期せざる事情により貸し渡した物を貸主が必要とする場合))の規定があります。ドイツ民法6051の「「予見されない事情」とは,病気とか貧困とかによる,その物の自己使用の必要性等である。この事情が予見可能であっても同様であると解されている。告知は必要性が生じてからなされなければならない。貸主の利益と借主の利益とが衝突する場合には,貸主の利益を優先させる。なお,1号は,借主の破産など,将来の返還請求の困難性がすでに予見されるときに類推適用される。」とのことです(右近編354頁(貝田))。我が旧民法財産取得編2032項も「然レトモ其物ニ付キ急迫ニシテ且予期セサル要用ノ生シタルトキハ貸主ハ裁判所ニ請求シテ期限前ニ一時又ハ永久ノ返還ヲ為サシムルコトヲ得」との規定がありました。同項に関してボワソナアドは「使用貸借は無償契約であること,貸主はその提供するサーヴィスに対してそれに相応するものを受け取っていないこと及び彼の意思は,絶対的にかつ何が起ころうとも彼の物を回復することはないというものではあり得なかったことを忘れてはならない。」と述べています(Boissonade, p.895)。

 民法旧財産取得編2032項が削られた理由は,第93回法典調査会における富井政章の説明によると,「是〔同項〕ハ使用貸借ト云フモノハ恩恵的ノ契約デアツテ即チ成ル可ク契約ハ結ンダトハ言ヘドノ貸主ニモ損害ヲ生ジナイヤウニスベキモノデアルト云フ所カラ出来タ規定デアラウト思フ併シ乍ラ幾ラ無償ノ契約デアツテモ一旦契約ヲ為シテサウシテ(ママ)主ガ或時期ニ返スト云フ約束ガ出来タ以上ハ借主ニ於テモ種々目的ガアツテ貸シタノデアラウ種々目的ガアツテ返還時期ヲ定メタノデアル,所ガソレヲ貸主ノ都合デ何時返スト言ハレルカ知ラヌト云フコトデアツテハ如何ニ報酬ノナイ契約デアツテモソレハ借主ニ取ツテハ非常ニ迷惑ニナルコトガアラウ〔略〕是ハ例ノ多イ規定デアリマスケレドモ如何ニモ契約上ノ拘束ト云フモノガナクナツテ仕舞ヒマスカラ是レハ思ヒ切ツテ置カナイト云フコトニシマシタ」とのこと(民法議事速記録第3273丁裏-74丁表。また,76丁表裏),また,「有名無実ノ権利シカ有シナイト云フ契約ハ法律ニ認メテ害カ多カラウ」ということ(同77丁裏-78丁表)でした。あゝ,「契約上ノ拘束」,“Pacta sunt servanda.”,有名無実の権利しかない契約を法認することの有害性――しかして民法593条の2本文・・・。


4 民法598条

 

(1)趣旨

 ところで,「解除」です。

 

   そこで,新法においては,使用貸借の借主は当該使用貸借が終了したときには目的物を返還するものであることを使用貸借の意義の中で明瞭にした上で(新法第593条),終了事由のうち,それが生じれば当然に使用貸借が終了するもの(期間満了,使用・収益の終了,借主の死亡)を新法第597条において規定し,当事者の意思表示によって使用貸借を終了させる行為を使用貸借の解除と位置付けた上で,解除原因を新法第598条において規定している。

  (筒井=村松305頁)

 

 分類学的整理がされたわけです。

 

(2)「解除」か「解約の申入れ」か

 

ア 星野分類学

しかし,民法598条の「解除」の語は,星野英一教授ならば「解約の申入れ」としていたものかもしれません。

 

   使用貸借も継続的契約関係〔略〕と解されるが,そこにおける契約の終了原因は,大別して三つある。第1は,いわばノーマルな終了原因ともいうべきもので,さらに二つに分かれる。〔①〕契約で存続期間(使用貸借では「返還」の時期と呼ばれている。賃貸借では「存続期間」という(604条など)),終了原因を定めた場合の期限の到来や原因の発生,〔②〕契約で存続期間等を定めなかった場合における貸主(または借主)からの一方的意思表示(解約(の)申入と呼ばれる(民法617条など))による終了である。第2は,いわばアブノーマルな終了原因で,両者を通じ,いわば異常事態が発生したためにノーマルな終了原因が生じなくても契約が終了する場合である(ある学者は,これらを「弱い終了原因」と「強い終了原因」と呼んでいる。)。〔略〕

  (星野179頁。下線は筆者によるもの)

 

  〔民法5981項の前身規定である民法旧5972項ただし書の返還請求について〕この場合,法律上は,返還請求と同時に解約申入がなされたものとされるわけである。(星野180頁。下線は筆者によるもの)

 

  解約申入  継続的債権(契約)関係において,期間の定めのない契約を,将来に向かって終了させる意思表示である(民法617条(賃貸借)・627条(雇傭))。解除(告知)が,期間の定めのある契約においてさえ途中でこれを終了させうる強力なものであるのに対し,こちらは,期間の定めのない継続的契約における通常の(本来の)終了原因である。従って,民法上は理由なしにすることができる〔略〕。

  (星野68-69頁。下線は筆者によるもの)

 

 星野教授の分類学では,ノーマルな契約の終了事由たる一方当事者の意思表示は解約の申入れであり,アブノーマルな契約の終了事由たる一方当事者の意思表示は解除であるということになるようです。

 

イ 我妻分類学

 しかし,我妻榮の分類学は異なります。

 

  継続的契約(賃貸借・雇傭・委任・組合など)は,一方の当事者の債務不履行を理由としてその契約関係を解消させる場合にも,遡及効を生ぜず,将来に向つて消滅(終了)するだけである(620条・630条・652条・684条参照)。民法は,かような場合にもこれを解除と呼んでいるが,その法律効果は,遡及効をもつ解除と大いに異なるので,学者は一般に告知(●●)と呼んでいる(もちろん,解除と告知と共通の点もある。その限りで告知に関する判決も引用する)。〔中略〕なお,民法は,継続的契約を終了させることを解約ともいつている。解除は直ちに効力を生ずるのに反して,解約は一定の猶予期間(解約期間)を経てから効力を生ずるのが常である(617条・618条・627条・629条・631条参照)。

  (我妻榮『債権各論上巻(民法講義Ⅴ₁)』(岩波書店・1954年)146-147頁)

 

 我妻は,ノーマル性・アブノーマル性による分類はせずに,契約を終了させる一方当事者の意思表示を解除とし,そのうち継続的契約に係るものであって遡及効を有しないものを告知とし,更に告知のうち猶予期間を伴うものを解約としています。

 

ウ 御当局

 内閣法制局筋では,「解約」は「賃貸借,雇傭,委任,組合のような現に存する継続的な契約関係について,当事者の一方的な意思表示によつて,その効力を将来に向かつて消滅させる行為をいう。学問上は,「解約告知」又は単に「告知」と呼ばれる。」ということで,「解約」に猶予期間が必ず伴うものとはしていません(吉国一郎等編『法令用語辞典〈第八次改訂版〉』(学陽書房・2001年)64-65頁)。また,「解約」と「解除」との使い分けにも余りこだわらないようで,「法令上の用語としては,〔「解除」は,〕「解約」と同じ意味,すなわち,現存する継続的な契約関係の効力を,当事者の一方の意思表示によつて,将来に向かつて消滅させる意味に用いられることも多い(民法620626630651652等,国有財産法24)。」とされています(吉国等編60頁)。ノーマル性・アブノーマル性いかんに頓着しない点において,内閣法制局筋は,星野流分類学は採用していないということでしょうか。

 となると,継続的契約に係る「解約の申入れ」と「解除」(遡及効のないもの)との民法内における使い分けをどう考えるべきか。その使い分けのメルクマールはやはり我妻理論によって猶予期間の有無なのだろうな,というのが,平成29年法律第44号段階までであれば可能な結論でした。(なお,民法6262項は,文面上は,解除が直ちに効力を生ずる(猶予期間を伴わない)ことを維持した上でその前に予告をすることを求める形になっています。しかし,解約の申入れ構成でもいけそうであったにもかかわらず(同項については「起草者以来,解除前に予告をするという意味でなく,解除の意思表示さえすれば3ヶ月後に契約が終了する意味だと解されている」そうです(星野248頁。また,梅692頁)),あえてそれを採らなかった理由を考えると,契約上の雇用期間中における契約終了であることに係るアブノーマル性に行き着くのかもしれません。)

 

エ 598条vs.1014条3項

 ところで,平成30年法律第72号による改正によって,201971日から(同法附則1条・平成30年政令第316号)民法1014条に第3項が設けられ,そこには「預金又は貯金に係る契約の解約の申入れ」という表現が出現してしまっているところです。民法6663項は同法5911項を準用していないので,同法6621項が働いて,「預金又は貯金に係る契約の解約の申入れ」に猶予期間が伴うことはないのでしょう。当該契約の委任ないしは準委任的側面(山本豊編『新注釈民法(14)債権(7)』(有斐閣・2018年)441頁(𠮷永))についても,猶予期間なしに「いつでもその解除をすることができる」はずです(民法651条)。それではなぜ,「解除」ではなく「解約の申入れ」の語を採用したのか。遡及効のないことを理由として「解約の申入れ」の語を採用する必要がないことは,「寄託は,継続的な法律関係であるから,債務不履行を理由として解除される場合にも,その効果は遡及しない」(我妻榮『債権各論中巻二(民法講義Ⅴ₃)』(岩波書店・1962年)723頁)と解されていることから説明されるはずです。

 「解除」と「解約の申入れ」との使い分けに係る猶予期間メルクマール論が働かないのならば,ノーマルかアブノーマルか論になるようです。しかし,そうなると今度は民法598条が「解除」の語を採用することと衝突します。いささか厄介です。

 

(3)民法620条準用条項の要否

 また,民法598条のおかげで使用貸借に係る「解除」が目立つことになりましたが,そうなると,解除の遡及効を排除する民法620条が使用貸借については準用されていないことも目立ってしまいます。継続的契約なのだから解除に遡及効がないことは当然だ,「けだし,使用貸借のような継続的法律関係について遡及的消滅を認めることは,何等の実益なく,いたずらに法律関係を紛糾させるだけだからである。」(我妻Ⅴ₂・384頁)と開き直るべきでしょうか。しかし,そうならば,翻って民法620条,630条,652条及び684条も削除すべきことになるでしょう。

 しかして,我妻榮は,「何故に〔民法620条を〕使用貸借に準用しなかつたかわからない」と述べています(我妻Ⅴ₂・384頁)。しかし,理由はありました。使用貸借の解除にむしろ遡及効を認めるのが,民法起草担当者の意思だったのです。

 1895625日の第97回法典調査会において,民法620条の原案に関し,「一寸御尋ネヲシマスルガ賃貸借ト使用貸借トハ殆ド相似寄ツタモノデアリマスガ使用貸借ノ場合ニ於テ斯ウ云フコト〔遡及効制限規定〕ノナイノハ解除ガアツタ場合ニハ既往ニ遡ルト云フ斯ウ云フコトノ適用ニナルノデアリマスカ何ウデスカ」との重岡薫五郎の質問に対し梅謙次郎は次のように述べていたのでした。

 

  無論然ウデス夫レデ差支ナイノハ使用貸借ノ方ハ無賃デス然ウスルト若シ果実ヲ採ツタナラバ其果実ハ返サナケレバナラヌ夫レハ又返シテモ宜カラウト思ヒマス只デ借リテ居ツタノハ詰リ果実ヲ採ル権利ハナイト云フコトニナル夫レハ夫レデ宜カラウト云フ考ヘデアリマス(日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録第33巻』186丁裏)

 

「解除」に係る民法新598条を設けるのならば,同法620条を使用貸借についても準用する旨の明文規定も設けるべきではなかったでしょうか。

 

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1 はじめに

 我が民法(明治29年法律第89号)593条以下に規定されている使用貸借は,なかなか難しい。前回のブログ記事においては,民法制定時には梅謙次郎等によって堂々たる双務契約と解されていた使用貸借がその後の解釈変更によって片務契約に分類替えされたことに関して,ついだらだらと埒もない文章を書き連ねてしまっていたところです(「双務契約に関して」(2021617日)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078701464.html)。

 さて,平成29年法律第44号によって,202041日から(同法附則1条・平成29年政令第309号)使用貸借に関する規定もいろいろ改められています。これらの変更部分についてあれこれ吟味を試みてみると,やはりなかなか悩ましい。

 

2 民法593条

 使用貸借の冒頭規定である第593条は,「使用貸借は,当事者の一方が無償で使用及び収益をした後に返還をすることを約して相手方からある物を受け取ることによって〔②〕,その効力を生ずる。」から「使用貸借は,当事者の一方がある物を引き渡すことを約し〔②〕,相手方がその受け取った物について無償で使用及び収益をして契約が終了したときに〔①〕返還をすることを約することによって,その効力を生ずる。」に改められています(下線は筆者によるもの)。これは,「①使用貸借の意義」及び「②使用貸借の諾成化」に関する改正であるものとされています(筒井健夫=村松秀樹編著『一問一答 民法(債権関係)改正』(商事法務・2018年)301頁)。

 

(1)「使用貸借の意義」

 「使用貸借の意義」云々とはどういうことかといえば,「旧法に規定はなかったが,使用貸借が終了したときに借主が目的物を返還することは使用貸借の本質的要素であるため,新法においては,借主が契約が終了したときに目的物を返還することを約することが使用貸借の合意内容であることを明確化している(新法第593条)。」とのことだそうです(筒井=村松301頁。下線は筆者によるもの)。借主の返還約束自体は旧593条にも既に現れているので,返還義務発生の事由及びその時期がそれぞれ契約の終了及びその時であることが使用貸借契約の「本質的要素」であることになるようです。

 当該文言は,同じく平成29年法律第44号によって賃貸借の冒頭規定である第601条に挿入された「及び引渡しを受けた物を契約が終了したときに返還すること」(下線は筆者によるもの)に揃えられたものでしょう。なお,旧601条には,賃借人の返還約束は現れていませんでした。

 しかし,そうなると平成29年法律第44号によって改められなかった消費貸借の冒頭規定である第587条の文言(「消費貸借は,当事者の一方が種類,品質及び数量の同じ物をもって返還をすることを約して相手方から金銭その他の物を受け取ることによって,その効力を生ずる。」)との関係が問題となります。同条には「契約が終了したときに」との文言がありません。「消費貸借の終了とは返還時期の問題である」(内田貴『民法Ⅱ 債権各論』(東京大学出版会・1997年)240頁)はずだったところです(したがって,消費貸借においても「契約が終了したときに返還」がされるものであったはずです。)。民法593条及び601条を原則規定とした上で,同法587条について反対解釈を施せば(平成29年法律第44号による折角の条文整備に対しては,厳格な反対解釈をもって報いてあげなければなりません。),消費貸借は,契約の終了を待たず「契約の目的物を受け取るや否や〔すなわち,契約の成立と同時に〕直ちに返還すべき貸借」であって,「返還時期の合意があることは,それによって利益を受ける当事者が主張立証すべきことになる」ようでもあります(司法研修所『増補民事訴訟における要件事実 第1巻』(1986年)276頁参照)。「貸借型の契約は,一定の価値をある期間借主に利用させることに特色があり,契約の目的物を受け取るや否や直ちに返還すべき貸借は,およそ無意味であるから,貸借型の契約にあっては,返済時期の合意は,単なる法律行為の附款ではなく,その契約に不可欠の要素であると解すべきである(いわゆる貸借型理論)」(司法研修所276頁)とする考え方は最近はやらないそうですが,いわゆる貸借型理論は,少なくとも消費貸借については全面的に否定されたということになるのでしょうか。確かに,「期限の定のない消費貸借においては,貸主の返還請求権は契約成立と同時に弁済期にあり,借主は単に催告のなかつたことをもつて抗弁となし得るだけだとなし(大判大正221987頁等),この抗弁を主張しない限り,貸主の請求の時から借主は遅滞に陥〔る〕(大判大正3318191頁,大判昭和564595頁)」という判例があったそうです(我妻榮『債権各論中巻一(民法講義Ⅴ₂)』(岩波書店・1973年)372-373頁。民法5911項は「当事者が返還の時期を定めなかったときは,貸主は,相当の期間を定めて返還の催告をすることができる。」と規定しています。)。

 使用貸借に係る民法旧593条の文言は,旧民法財産取得編(明治23年法律第28号)195条(「使用貸借ハ当事者ノ一方カ他ノ一方ノ使用ノ為メ之ニ動産又ハ不動産ヲ交付シ明示又ハ黙示ニテ定メタル時期ノ後他ノ一方カ其借受ケタル原物ヲ返還スル義務ヲ負担スル契約ナリ/此貸借ハ本来無償ナリ」)の第1項の規定から「明示又ハ黙示ニテ定メタル〔返還の〕時期」に言及されていた部分を削ったものとなっていましたが,これについては189567日の第92回法典調査会において富井政章が,「是ハ消費貸借ニ付テモ申シタコトデアリマス使用貸借ニ於テモ本案ハ孰レノ場合ニ於テモ当事者ガ返還ノ期日ヲ極メナイ場合ニ於テモ自ラ時期ガアルト云フ主義ヲ採ラナイ」ものとし,かつ,そうして「直チニ返還ヲ請求スル場合モアリマスカラ時期ノコトハ言ハナイコトニ致シマシタ」結果であるものと説明しています(日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録第32巻』52丁表。下線は筆者によるもの。また,同巻54丁表裏)。いわゆる貸借型理論(「契約の目的物を受け取るや否や直ちに返還すべき貸借は,およそ無意味である」)とはなかなか整合しない発言です。この起草担当者の重い発言等に鑑みると,民法593条及び601条に「契約が終了したときに」をわざわざ挿入した平成29年法律第44号による改正によって使用貸借及び賃貸借についてはいわゆる貸借型理論が再確認され強化された,とまでもいきなり早分かりはすべきではないのでしょう(ただし,親和的な方向の改正ではあります。)。忖度の先走り(又は過去の「お勉強」への執着)は,あるいは危険なことがあるでしょう。

 

(2)使用貸借の諾成化

 

ア 諾成化の理由

 使用貸借を要物契約から諾成契約に改めた理由は,「目的物を無償で貸すことについて貸主と借主が合意したにもかかわらず,貸主は,〔要物契約であるので〕契約はまだ成立していないとして,借主からの目的物の引渡請求を拒絶することができるとすれば,確実に目的物を無償で借りたい借主にとって不利益を生ずることになる。/そのため,旧法の下でも,当事者の合意のみで貸主に目的物を無償で貸すことを義務付ける契約をすることができると一般に解されており,これは諾成的使用貸借と呼ばれていた」からとのことのようです(筒井=村松303頁)。

 

イ 従来の学説

確かに,我妻榮は「使用貸借を要物契約としたのは,専ら沿革によるものである。然し,現代法の契約理論からいえば,使用貸借を要物契約としなければならない理由はない。〔略〕従つて,わが民法の下でも,諾成的使用貸借を有効と解してよい」と述べていました(我妻Ⅴ₂・377頁)。梅謙次郎も「純理ヨリ之ヲ言ヘハ使用貸借ニ限リ践成〔要物〕契約ニシテ賃貸借ハ諾成契約ナルヘキ理由アルコトナシ然リト雖モ諸国ノ古来ノ慣習ニ依リ使用貸借ハ貸主カ物ヲ借主ニ引渡シタル時ヨリ成立スルモノトシ賃貸借ハ双方ノ意思ノ合致アル以上ハ直チニ契約成立スヘキモノトスルヲ例トス是レ蓋シ使用貸借ニ在リテハ貸主ニ貸与ノ義務アリトスルモ此義務ハ通常引渡ニ因リテ履行セラレ借主ハ既ニ物ノ引渡ヲ受ケタル後始メテ其返還ノ義務ヲ生スルニ止マリ未タ物ノ引渡ヲ受ケサルニ既ニ返還ノ義務アリト云フハ普通ノ観念ニ反スルモノト謂フヘシ」と,「純理」上の諾成使用貸借の可能性を認めていました(梅謙次郎『民法要義巻之三 債権編(第33版)』(法政大学=有斐閣書房・1912年)606頁)。これに対して星野英一教授は「消費貸借の要物性は単に歴史的な沿革に基づくにすぎないものだが〔略〕,使用貸借の要物性は,その無償契約であることに基づくと解される。」と述べ(星野英一『民法概論Ⅳ(契約)』(良書普及会・1994年)175-176頁),使用貸借の要物性をその無償契約たる性質から説明しています。平成29年法律第44号の立法活動に関与した内田貴元法務省参与は,その民法教科書においては端的な諾成的使用貸借には言及しておらず,「当事者があえて使用貸借の合意をすれば,使用貸借の予約として有効としてよい」としていました(内田165頁。下線は筆者によるもの。また,星野176頁・177頁)。来栖三郎は,使用貸借の予約にも否定的であって,「使用貸借は無償だから,使用貸借の予約はみとむべきではない。少なくとも原則としてみとむべきではない。」と述べていました(来栖三郎『契約法』(有斐閣・1974年)393頁)。

 

ウ 実益

しかし,諾成的使用貸借の有効性を説く民法学者においても,その実益についての評価は高くなかったところです。そもそも「〔使用貸借は〕要物契約だが,その合理性に問題がないので,消費貸借におけるようなめんどうな解釈問題は生じていない」(星野177頁)との前提がありました。我妻は,「然し,実際上の必要からいえば,諾成的な使用貸借を認めること,――すなわち,その契約によつて貸主が貸す債務を負う場合を認めること,――はそれほど必要なことではない。その点は,消費貸借と異る。従つて,実際には,目的物の引渡があつたときに使用貸借が成立すると認定すべき場合が多いと思われる。但し,使用貸借についても,――民法に規定はないが――予約(貸主の貸す債務を成立させるもの)が成立し得ることはいうまでもない。」と述べていたところです(我妻Ⅴ₂・377頁)。

使用貸借の諾成契約化は,民法を改正したいから改正するということであって,平成・令和の「やってる感」重視の時代に係る一つの象徴とはなるものでしょうか。

 

エ 旧民法における使用貸借の要物性

なお,旧民法財産取得編195条のフランス語文は,“Le prêt à usage est un contrat par lequel l’une des parties remet à l’autre une chose mobilière ou immobilière, pour s’en servir, à charge de la rendre en nature, après le temps expressément ou tacitement fixé. / Ce prêt est essentiellement gratuit.”です。

使用貸借の要物性についてボワソナアドが説くところは次のとおり。

 

  当該契約は要物的réel)であって純粋に諾成的consensuel)ではない。事実,その主要な目的は,使用を許すことにある。ところで,ある物を人は,それをその手中に所持する前には使用できないのである。当該契約はまた,注意義務をもって当該物を保管すること及び合意された時期にそれを返還することを借主に義務付ける。ところで,「受け取った」ものでなければ,「保管し,及び返還する」ことはできないのである。

  このことは,使用させるために貸す旨の純粋な諾成の約束promesse)があっても無効である,といわんとするものではない。しかしながら,それは無名innommé)契約となるのであって,かつ,その使用貸借との相違は当事者の立場が顚倒する(les rôle seraient renversés)ほどのものなのである。すなわち,目的物を保管し(例えば,他の者に譲渡せず,貸与しない),しかる後に交付する義務を負う者は,将来の貸主futur prêteur)となるのである。貸す約束が実現されて第1の契約が履行されるときまでは,貸借は始まらないのである。

Gve Boissonade, Projet de Code Civil pour l’Empire du Japon accompagné d’un Commentaire, Nouvelle Édition, Tome Troisième, Des Moyens d’Acquérir les Biens. (Tokio, 1891) pp.877-878

 

 ボワソナアドに言わせれば,平成29年法律第44号による改正後の日本民法の「使用貸借」は,沿革的使用貸借契約に将来の貸主の保管・交付義務契約を結合させた混合契約的chimère(キメラ)であるということになるのでしょうか。

 なお,フランス民法1875条(Le prêt à usage est un contrat par lequel l’une des parties livre une chose à l'autre pour s’en servir, à la charge par le preneur de la rendre après s’en être servi.(使用貸借は,当事者の一方が他の一方の使用のためにある物を交付し,使用の後にそれを返還する義務を受領者が負担する契約である。))は,我が旧民法財産取得編1951項から富井政章が忌避した返還時期に係る規定等を除いた形の文言です。

 

オ ドイツ民法学における解釈変遷:要物契約から諾成契約へ

ドイツ民法598条(Durch den Leihvertrag wird der Verleiher einer Sache verpflichtet, dem Entleiher den Gebrauch der Sache unentgeltlich zu gestatten.(使用貸借契約により,ある物の貸主は,借主にその物の使用を対価なしに許容する義務を負う。))については,「ローマ法において要物契約(Realvertrag)とされていたので」,また「本条において,貸主に単に使用許容の義務のみを課し,したがってその物を借主が使用するに際しての忍容義務のみを課していることによりみても明らかである」として,従来は同条の使用貸借は要物契約と解されていたが,「近時は使用貸借を要物契約とはみないで,一種の諾成契約(Konsensualvertrag)とみる説が支配的である(LARENZ)」とのことです(右近健男編『注釈ドイツ契約法』(三省堂・1995年)346頁(貝田守))。

ドイツ民法第一草案549条(Wer eine Sache von einem Anderen zum unentgeltlichen Gebrauche empfangen hat (Entleiher), ist verpflichtet, die Sache nur vertragsmäßig zu gebrauchen und dem Anderen (Verleiher) dieselbe Sache zu der vertragsmäßigen Zeit zurückzugeben. Der Verleiher ist verpflichtet, bis dahin dem Entleiher den vertragsmäßigen Gebrauch der Sache ze belassen.(相手方からある物を無償で使用するために受領した者(借主)は,契約で定まったところのみによってその物を使用し,かつ,相手方(貸主)に当該の物を契約で定まった時期に返還する義務を負う。貸主は,それまで,借主にその物の契約で定まったところによる使用を許容する義務を負う。))に関して同草案の理由書はつとにいわく,「ローマ法によれば,Kommodatは要物契約である。最初に貸与物の引渡しと受領とが,使用がされた後に当該の物を返還する受領者の義務を基礎付けるのである〔略〕。他方,相手方に物を貸す義務を,無式の契約(formloser Vertrag)で有効に基礎付けることはできなかった。――無式の契約の訴求可能性に関する今日の普通法によれば使用(コモ)貸借(ダート)はもはや要物契約ではなく諾成契約として観念されるべきであって相手方にある物を貸す義務の引受けはもはや予約の意味を有さずに使用貸借(ライフェアトラーク)の構成部分であ,かつ,意図された目的のための当該の物の引渡しは当該使用貸借から生ずる義務に係る履行として現れ,他方,当該の物を返還する相手方の義務は,その受領を条件とするもののその受領より前に基礎付けられている――となし得るものかどうかは争われている。当該争点は,関連規定に係るところの理解は要物契約としての契約の観念Auffassung des Vertrages als eines Realvertrages)にとってより有利である,といい得るものの,プロイセン,オーストリア及びザクセン法の領域においてもなお存在している。当該観念(Auffassung)が,ヘッセン草案248条及びバイエルン草案640条〔略〕の基礎となっているように見受けられる。これに対して,ドレスデン草案598条及びスイス連邦法321条は,使用(ゲブラウ)貸借(フスライエ)を諾成契約として構成している。本草案は,消費貸借に関係する第453条の理解にとって決定的であったものと同様の理由から〔略〕,この549条についても,使用貸借は諾成契約であるという表現をもたらすような理解を採るものではなく,物の引渡しがされたときの両当事者の主要な義務を一般的に記述することに自らを制約したものである〔略〕。」と。その後の審議でドイツ民法第一草案549条は「我々は,使用貸借をローマ法的意味での要物契約と見るべきかとの問題は,法典において決せられるべきものではなく,学問に委ねられるべきだとの見解であり,しかしてまた,立法者の立場からは,ある物の貸与を約束した者と貸主とを区別せず,むしろ使用貸借を一つのものとして取り扱うことにおいて,草案に比べて改正提案の方がより適切であると考える。」との理由から,「Durch den Leihvertrag wird der Verleiher verpflichtet, dem Entleiher den Gebrauch einer Sache unentgeltlich zu gestatten. Der Entleiher ist verpflichtet, die empfangene Sache nach Beendigung seiner Befugniß zum Gebrauche dem Verleiher zurückzugeben.(使用貸借契約により,貸主は,借主にある物の使用を対価なしに許容する義務を負う。借主は,受領した物を,使用権能の終了後貸主に返還する義務を負う。)」に改められています(Protokoll 121, VIII.)。更に続くドイツ民法第二草案538条は,制定されたドイツ民法598条とほぼ同じです(後者の「den Gebrauch der Sache」が前者では「den Gebrauch derselben」になっています。)。借主の借用物返還義務は,ドイツ民法では604条に規定があります。

現在のドイツでは「使用貸借は,二つに分類され,目的物の引渡しを同時に伴う現実使用貸借(Handleihe)と,時間的に先に引き渡すべきものである諾成的使用貸借(Versprechensleihe)とになる。この後者の場合に貸主の他の義務に加えて,その上に借主に目的物を引き渡すべき義務が加えられているのである。従来は,使用貸借を要物契約としていたので,このような諾成的使用貸借を予約(Vorvertrag zum Leihvertrag)の型で承認しようとしていたが,今日支配的見解によれば,このような作為的なものを認める必要性がなくなっているといえるのである。」と説かれています(右近編346-347頁(貝田))。

 

カ 制定時の現行民法における要物性

92回法典調査会に提出された我が民法593条の原案は「使用貸借ノ目的トシテ或物ヲ受取リタル者ハ無償ニテ之ヲ使用スル権利ヲ有ス」でしたが(民法議事速記録第3251丁裏・52丁裏),これは富井によれば,ドイツ民法第二草案538条の文章を借主の権利の側から書き改めたものでした(民法議事速記録第3252丁裏)。

ドイツ民法の草案作成者は前記のとおり既に使用貸借の要物契約性には執着していなかったところですが,ドイツ民法草案流の表現を採用しつつも富井はなおそこまで踏み切れなかったようです。消費貸借についてですが,189564日の第91回法典調査会において同人曰く,「尤モ近来消費貸借ヲ要物契約トセスシテ諾成契約トスルガ宜イト云フ説ガ起ツテ居ル是ハ近頃随分勢力ノアル説テアツテ現ニ瑞西債務法ノ如キハ即チ其主義ニ依テ消費貸借及ヒ使用(ママ)借ノ定義ヲ掲ケテ居ル位テアリマス併シ本案ニ於テハ多少迷ヒハシマシタ理論上ハ或ハ其方ガ正シイカモ知レマセヌ併シ古来普通ニ行ハレテ居ル考ヘヲ一変スル丈ケノ勇気ハナカツタ今ノ説ニ従ヘハ片務契約ト云フモノハ殆トナクナツテ仕舞ツテ大抵ノ契約ハ双務契約ニナツテ仕舞(ママ)何ウモ少シ不安心テアリマシタカラ矢張リ昔カラ行ハレテ居ル所ノ学説ニ依テ要物契約主義ヲ採ツテ受取ルト云フコトヲ必要トシタ」と(日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録第28巻』131丁表)。

18951230日の第12回民法整理会において,民法587条の応当条項(当時は「第585条」)が「消費貸借ハ当事者ノ一方カ同一ノ種類,品等及ヒ数量ノ物ヲ以テ返還ヲ為スコトヲ約シテ相手方ヨリ金銭其他ノ物ヲ受取ルニ因リテ其効力ヲ生ス」(日本学術振興会『民法整理会議事速記録第4巻』93丁裏)に改まりましたが,その趣旨は,富井政章によれば「此三ツノ消費貸借ト使用貸借ト寄託ト要物契約ト称スル者ニ付テモ斯ウ云フ風ニ受取リタルニ因リテ効力ヲ生スト書ケバ文ハミンナ揃(ママ)テサウシテ外ノ諾成契約タルモノニ付テ疑ノナイ者ニ付テ斯ウ云フ風ニ〔「約スルニ因リテ効力ヲ生ス」という風に(日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録第34巻』21丁表-22丁表参照)〕言ツテ居モノガ全ク生キテ来ルソレデ少シモ不都合ハナカラウト思ヒマシテ遂ニサウ云フコトニスルコトニ一致シタノテアリマス」ということでした(同93丁裏-94丁表)。それと同時に,使用貸借の民法593条の応当規定(当時は「第591条」)に係る「文字ヲ揃ヘル為メ」(富井)の修正がされています(同96丁表裏)。日本民法の方がドイツ民法よりもローマ的とはなりました。

 

キ 諾成化されたスイス債務法

スイス債務法305条(Le prêt à usage est un contrat par lequel le prêteur s’oblige à céder gratuitement l’usage d’une chose que l’emprunteur s’engage à lui rendre après s’en être servi.(使用貸借は,貸主がある物の使用を無償で許与することを約し,借主がその物を使用の後に貸主に返還することを約する契約である。))の規定振りは,明白に諾成契約のものです。

 

後編に続く(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078761677.html)(うまく移動しないときは,一番下のタグの「使用貸借」をクリックしてください。) 続きを読む
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1 「双務契約」

 我が民法(明治29年法律第89号)中の重要概念として,「双務契約」というものがあります。同法533条及び553条,破産法(平成16年法律第75号)531項,551項及び2項並びに14818号等に出て来る語です。平成29年法律第44号による改正(202041日から(同法附則1条,平成29年政令第309号))によって削除される前の民法534条及び535条にも出て来ていたところです。

 なお,平成29年法律第44号による改正前の民法5361項は「前2条〔第534条及び第535条〕に規定する場合を除き,当事者双方の責めに帰することができない事由によって債務を履行することができなくなったときは,債務者は,反対給付を受ける権利を有しない。」と規定しており,現在の同項は「当事者双方の責めに帰することができない事由によって債務を履行することができなくなったときは,債権者は,反対給付の履行を拒むことができる。」と規定していますが,この民法536条の適用のある契約は双務契約であるものと一般に説かれています(内田貴『民法Ⅱ 債権各論』(東京大学出版会・1997年)62-63頁等)。しかし,同条に「双務契約」との明文はありません。ある債務と対になる「反対給付」(の債務)の語の存在でもって,「双務契約」との語がなくとも双務契約関係にあることが分かるということでしょうか。当該「反対給付」のフランス語は,富井政章及び本野一郎の訳によれば,“la contre-prestation”です。

 民法に双務契約の定義規定が無いのは,18935月の法典調査会の法典調査ノ方針13条に「法典中文章用語ニ関シ立法上特ニ定解ヲ要スルモノヲ除ク外定義種別引例等ニ渉ルモノハ之ヲ刪除(さんじょ)ス」とあったからでしょう。確かに「また定義は,むしろ研究の結果次第にかかわり,最後にでてくるものである」ところです(星野英一『民法概論Ⅰ(序論・総則)』(良書普及会・1993年)はしがき3頁)。189545日の第75回法典調査会で,富井政章が「既成法典ハ仏蘭西民法抔ニ傚ツテ〔財産編〕297条カラ303条迄合意ノ種類ヲ列挙シテアリマス,是レモ学説ニ委ネテ少シモ差支ナイ法典全体ノ規定カラ契約ニ斯ウ云フ種類カアル又其種類分ケヲスルニ付テ(どう)云フ結果ニ違ヒカアルト云フコトハ法典全体ノ上カラ自ラ分ルト思フ依テ此合意ノ種類ニ関スル規定ハ悉ク削除致シマシタ」と説明していたところです(日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録第23巻』158丁表裏)。

 

2 旧民法の定義による「双務合意(契約)」

ということで削られたとはいえ,旧民法財産編(明治23年法律第28号)297条には,「双務合意(契約)」の定義規定がありました。いわく。

 

  第297条 合意ニハ双務ノモノ有リ片務ノモノ有リ

   当事者相互ニ義務ヲ負担スルトキハ其合意ハ双務ノモノナリ

   当事者ノ一方ノミカ他ノ一方ニ対シテ義務ヲ負担スルトキハ其合意ハ片務ノモノナリ 

 

「合意」であって「契約」ではないのですが,旧民法財産編2962項は,「合意」と「契約」との関係について,「合意カ人権〔債権〕ノ創設ヲ主タル目的トスルトキハ之ヲ契約ト名ツク」と規定していました。

旧民法財産編297条のフランス語文は,次のとおり。

 

 Art.297 Les conventions sont bilatérales ou unilatérales.

La convention est bilatérale ou synallagmatique, lorsque les parties s’obligent réciproquement;

    Elle est unilatérale, lorsqu’une des parties s’oblige seule envers l’autre.

 

これは,次のボワソナアド案を若干簡約したものになっています。なお,法典調査会の審議が契約の章に入った18954月の前月の8日(189538日),「政府との契約もすでに終了した「禿頭白髯の老博士」〔ボワソナアドはこの時69歳〕は,朝野の熱烈な見送りを受けつつ,令嬢とともに新橋駅を発ち,午後6時,横浜港でシドニイ号に乗船した。その数日前,かれは外国人として初めて,勲一等瑞宝章を贈られることに決定していた。しかし老博士は,第二の祖国と呼び,永住するつもりであった日本を,結局は去っていった。」ということがありました(大久保泰甫『日本近代法の父 ボワソナアド』(岩波新書・1998年)195-196頁)。

 

 Art.318 Les conventions sont bilatérales ou unilatérales.

La convention est bilatérale ou synallagmatique, lorsque les parties s’obligent l’une envers l’autre ou réciproquement;

    Elle est unilatérale, lorsqu’une ou plusieurs parties s’obligent envers une ou plusieurs autres, sans réciprocité.

  (Boissonade, Projet de Code Civil pour l’Empire du Japon accompagné d’un Commentaire, Nouvelle Édition, Tome Deuxième, Droits Personnels et Obligations (Tokio, 1891). p.21)

 

 しかしてこのボワソナアド案は,フランス民法の次の両条に由来します。

 

Art.1102 (ancien) Le contrat est synallagmatique ou bilatéral lorsque les contractants s’obligent réciproquement les unes envers les autres.

 

      Art.1103 (ancien) Il est unilatéral lorsqu’une ou plusieurs personnes sont obligées envers une ou plusieurs autres, sans que de la part de ces dernières il y ait d’engagement.

 

上記両条は,現在は第1106条にまとめられています。

 

Article 1106 Le contrat est synallagmatique lorsque les contractants s’obligent réciproquement les uns envers les autres.

Il est unilatéral lorsqu’une ou plusieurs personnes s’obligent envers une ou plusieurs autres sans qu’il y ait d’engagement réciproque de celles-ci.

 

 ここで“synallagmatique”とは難しい綴りの単語ですが,元は古代ギリシア語のσυνάλλαγμαであるそうです(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)171頁)。

 なお,フランス民法における契約の種類の列挙及び定義に係る規定は,提案者であるビゴー=プレアムヌ(Bigot-Préameneu)によれば,「それを損なういくつかの煩瑣(quelques subtilités)を取り除きつつも,ほとんど全面的にローマ法から汲み出されたもの(sont puisées presque en entier dans le droit romain)」ということになるようです(共和国12(ブリュ)(メール)11日(1803113日)の国務院審議。民法典に関するコンセイユ・デタ議事録第3243頁)。確かにローマ法上の双務契約は,「一個の契約により当事者双方に(ultro citroque)債務を発生するもの」をいうそうです(原田171頁)。

 

3 民法533条の「双務契約」(富井政章)

 我が民法の起草担当者の意図していた同法533条の「双務契約」の意味については,1895416日の第78回法典調査会において富井政章から説明がありました。いわく。

 

双務契約ト云フコトハ契約ニ依ツテ双方ガ義務ヲ負フト云フ場合テアル然ウシテアル格段ナル場合ニ是レハ双務契約テアルカナイカト云フコトヲ法律()極メルコトハナイノテアリマスカラ夫レハ一々学者ニ任カス日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録第24巻』206丁裏)

 

ここで負担付贈与について一言していわく。

 

而シテ〔略〕仏蘭西当リテ負担附ノ贈与ト云フコトガアル斯ウ云フ品ヲオマヘニ贈与スルカラ其代リ斯ウ云フコトヲシテ呉レト云フ契約ガアル夫レハ双務カ片務カト云フコトニ付テ余程議論ガアル,ケレトモ苟モ反対給付ヲ以テ一方ノ義務ノ成立スル条件ト当事者ガシタ以上ハ矢張リ双務契約ノ中ニ入レルト云フ説ガ今日ニ於テハ最モ勢力ヲ持ツテ居ル,矢張リ事実ニ依テ極メナケレハナラヌコトテアツテ一般ニ極メルコトハ出来得ナイト思フ,ケレトモ概シテ然ウ云フ場合ハ双務契約ト云フ方カ宜カラウ(民法議事速記録第24206丁裏-207丁表)

 

また改めていわく。

 

何処迄モ原則ハ契約ニ依テ双方ガ義務ヲ負フノガ双務契約テアルト云フ趣意テ立テ居ル併シ或ル格段ナル場合ニハ我々デモ各々意見ヲ異ニスル様ナコトガアラウト思フ(民法議事速記録第24207丁表裏)

 

「有償契約」との関係について更にいわく。

 

例ヘハ貸借ト云フモノニ付テハ此事ニ付テ少シ説ガアリマスガ我々ノ内テモ意見ガ皆同一テナイカモ知ラヌガ利息附ノ貸借ハ確カニ有償契約テアル債権者ハ利息ヲ取ル債務者ハ其借リタモノヲ使用シテ利益ヲ受クルト云フノテアルカラドチラニモ利益ヲ生スルカラ立派ナ有償テアリマスガ是レガ双務契約テアルカト云フト普通ノ見方テハ双務契約テナイ貸借ト云フモノハ貸主カラ物ヲ引渡シテ初メテ成立スル〔民法587条参照〕其成立シタ契約ニ依テドンナ義務ガ生シタカト言ヘハ借主ト云フ一方ニ返還スル義務ガ生ジタト云フ丈ケノ話シテ是レハ双務契約テハナイ,ケレトモ有償契約テアルニハ違ヒナイ,夫故ニ有償契約ニシテ双務契約テナイモノハアルガ双務契約ニシテ有償契約テナイト云フモノハナカラウ(民法議事速記録第24208丁表裏)

 

 「双務契約ト云フコトハ契約ニ依ツテ双方ガ義務ヲ負フト云フ場合テアル」ないしは「何処迄モ原則ハ契約ニ依テ双方ガ義務ヲ負フノガ双務契約テアルト云フ趣意テ立テ居ル」ということであれば,削られたとはいえ,なお旧民法財産編2972項の規定が生きていたようです。

 

4 双務・有償契約たりし負担付贈与

 また,富井政章の負担付贈与(イコール)双務契約説を承けてということになるのでしょうが,民法553条の旧規定は「負担附贈与ニ付テハ本節〔贈与の節〕ノ規定ノ外双務契約ニ関スル規定ヲ適用ス」でありました(下線は筆者によるもの)。梅謙次郎も,当該旧規定について「本条ハ負担附(○○○)贈与(○○)ノ性質ヲ定メタルモノナリ〔略〕本条ニ於テハ本節ノ規定ノ外双務契約ニ関スル規定ヲ適用スヘキコトヲ明言セルカ故ニ其性質ノ双務契約即チ有償契約ナルコト蓋シ明カナリ〔略〕而シテ余ハ之ヲ以テ最モ正鵠ヲ(ママ)タル学説ニ拠レルモノナリト信ス蓋シ贈与者カ自己ノ財産ヲ相手方ニ与ヘ相手方モ亦之ニ対シテ一ノ義務ヲ負担スル以上ハ是レ固ヨリ報償アルモノニシテ且当事者双方ニ義務ヲ生スルモノナルコト最モ明カナレハナリ」と賛意を表しています(梅謙次郎『民法要義巻之三 債権編(第33版)』(法政大学=有斐閣書房・1912年)470-471頁)。

 しかし,民法553条は,平成16年法律第147号によって,200541日から(同法附則1条,平成17年政令第36号)「負担付贈与については,この節に定めるもののほか,その性質に反しない限り,双務契約に関する規定を準用する。」に改められてしまっています(下線は筆者によるもの)。適用ではなく準用ですから,負担付贈与は双務契約ではない,ということが前提となっています。同条旧規定に対する「(法文は適用といつているが,正確にいえば準用である)」との我妻榮の括弧書きコメント(我妻榮『債権各論中巻一(民法講義Ⅴ₂)』(岩波書店・1973年)235頁)を承けての変更でしょうか。我妻の負担付贈与()双務契約説の理由付けは,後に出て来ます(6,11(3)。また,7(3))。

 

5 双務契約にして有償契約でないものの存在(梅謙次郎及びボワソナアド)

 富井政章は「有償契約ニシテ双務契約テナイモノハアルガ双務契約ニシテ有償契約テナイト云フモノハナカラウ」と述べています。現在の民法学者も,「双務契約は常に有償契約であるが,有償契約が全て双務契約であるとは限らない。」と,同様のことを語っています(内田20頁)。

 ちなみに,有償契約については,これも旧民法財産編298条に定義規定がありました。

 

  第298条 合意ニハ有償ノモノ有リ無償ノモノ有リ

   各当事者カ出捐ヲ為シテ相互ニ利益ヲ得又ハ第三者ヲシテ之ヲ得セシムルトキハ其合意ハ有償ノモノナリ

   当事者ノ一方ノミカ何等ノ利益ヲモ給セスシテ他ノ一方ヨリ利益ヲ受クルトキハ其合意ハ無償ノモノナリ

 

 同条のフランス語文は,次のとおり。

 

  Art.298 Les conventions sont à titre onéreux ou à titre gratuit.

La convention est à titre onéreux, quand chacune des parties fait un sacrifice en faveur de l’autre ou en faveur d’un tiers;

Elle est à titre gratuit, quand l’une des parties reçoit avantage de l’autre, sans en fournir aucun, de son côté.

 

 ボワソナアドは,次のように解説しています。

 

当該「onéreux」の語は,「負担 “charge”」の意たるラテン語の「onus」に由来する。有償(à titre onéreux)契約においては,両当事者に負担ないしは出捐(sacrifice)が存在する。(Boissonade, p.34

 

 ところで,我が民法の制定当初において,梅謙次郎は,何と「双務契約ニシテ有償契約テナイト云フモノ」があることを高唱していました。いわく。

 

  双務(○○)契約(○○)Contrat synallagmatique, gegenseitiger Vertarg)トハ其成立ニ因リテ直チニ当事者双方ニ債務ヲ負担セシムルモノヲ謂フ例ヘハ売買,賃貸借,組合等ノ如キ是ナリ使用貸借ハ古来之ヲ片務契約トセリト雖モ余ハ双務契約ナリト信ス旧民法ニ於テモ初ノ草案ノ理由書ニハ之ヲ片務契約トセリト雖モ竟ニ其双務契約タルコトヲ認メタリ(梅411頁。下線は筆者によるもの)

  使用貸借ニ因リテ貸主ハ借主ヲシテ其所有物ノ使用及ヒ収益ヲ為サシムルノ義務ヲ負ヒ借主ハ其使用,収益ヲ為シタル後其物ヲ返還スル義務ヲ負フ〔したがって,双務契約である。〕(梅607頁)

古来一般ノ学説ニ拠レハ使用貸借ハ唯借主ヲシテ返還ノ義務ヲ負ハシメ貸主ハ何等ノ義務ヲモ負ハサルモノトセリ蓋シ使用貸借ハ概ネ貸主ノ好意ニ因レルモノナルカ故ニ古代ノ法律ニ在リテハ借主ハ敢テ物ヲ使用スル権利ヲ有スルニ非ス唯貸主ノ好意カ変セサル限リハ徳義上借主ヲシテ物ノ使用ヲ為サシムルニ過キサルモノトシ即チ貸主ハ何時ニテモ物ノ返還ヲ求ムルコトヲ得ルモノトセシヲ以テ使用貸借ハ真ニ借主ニ義務ヲ負ハシムルノミニシテ之ニ権利ヲ与ヘサリシモノト謂フヘシ(梅607-608頁)

然リト雖モ法律漸ク進歩スルニ及ヒテハ敢テ貸主カ故ナク物ノ返還ヲ求ムルコトヲ許サス唯自己ノ入用アルトキハ之ヲ求ムルコトヲ得ルモノトシ竟ニ普通ノ入用アルモ未タ返還ヲ求ムルコトヲ許サス唯臨時ノ必要ヲ生シタル場合ニ限リ其返還ヲ促スコトヲ得ルモノトスルニ至レリ(梅608頁)

殊ニ新民法ニ於テハ貸主ハ自己ノ為メニ如何ナル必要アルモ敢テ契約ヲ無視シテ物ノ返還ヲ求ムルコトヲ得サルモノトセルカ故ニ借主ハ純然タル権利ヲ有スルコト敢テ疑ナシト雖モ仏国法〔1889条〕,我旧民法〔財産取得編(明治23年法律第28号)2032項〕等ニ於テハ或場合ニ貸主ヲシテ物ノ返還ヲ求ムルコトヲ得セシムルニ拘ハラス余ハ夙ニ借主カ一ノ債権ヲ有スルコトヲ信シテ疑ハサリシナリ而シテ「ボワッソナード」氏カ之ヲ認メタルハ仏法学者中ニ在リテハ実ニ卓見ト謂フヘシ(同頁。下線は筆者によるもの)

 

使用貸借は「当事者の一方がある物を引き渡すことを約し,相手方がその受け取った物について無償で使用及び収益をして契約が終了したときに返還をすることを約することによって,その効力を生ずる」契約ですから(民法593条。下線は筆者によるもの),当然無償契約であり(梅605頁,606頁等),有償契約ではありません。しかし,梅及びボワソナアドによれば,双務契約であるというのです。(ただし,ボワソナアドは「しかし最後まで心中のしこりとして残るのは,かくして我々は,無償(gratuit ou de bienfaisance)であると同時に双務(synallagmatique)である契約を有するわけであるが,この二つの性質は,通常は両立不能なのである。」との苦衷を明かしてはいます(Boissonade, p34: note(4))。)

我が民法制定時の二大権威の使用貸借=双務・無償契約説に対して,現在の民法学説の使用貸借=片務・無償契約説(我妻榮『債権各論上巻(民法講義Ⅴ₁)』(岩波書店・1954年)49-50頁,内田165-166頁等)が対立します。

 

6 双務契約の現在の定義

前記の対立の由来はいずこにありや,と法律書の小さな文字を追って気が付くのは,現在の双務契約の定義が,旧民法財産編2972項のそれと微妙に異なっていることです。

 

  契約の各当事者が互に対価的な意義を有する債務を負担する契約が双務契約で,そうでない契約が片務契約である。(我妻Ⅴ₁・49頁。下線は筆者によるもの)

 

(イ)対価的な意義があるかどうかは,客観的に定められるのではなく,当事者の主観で定められる。代金がいかに廉くとも,当事者が売買のつもりなら,その代金は,対価的な意義があり,負担がいかに重くとも,当事者が贈与のつもりなら,その負担は対価的意義がない。〔負担付贈与≠双務契約説の理由付けは,これでしょう。

  (ロ)契約の各当事者が債務を負担する場合でも,その債務が互に対価的な意義をもたないときは,片務契約である。すなわち,(a)契約の当然の効果として双方の当事者が債務を負担するが,その債務が互に対価的な意義をもたない場合,例えば,使用貸借(貸主の使用させる債務と借主の返還債務とは対価的意義がない)は,不完全双務契約と呼ばれることもあるが,民法のいう双務契約ではない。また,(b)契約の成立後に一方の当事者が特別の事情で債務を負担する場合,例えば,無償委任(委任者は費用償還債務を負担することがある)は,双務契約ではない。(我妻Ⅴ₁・49頁)

 

 ここでは,「対価性」の要件が,旧民法ないしはフランス民法流の双務契約概念に追加されています(したがって,双務契約の範囲がより狭くなる。)。

また,現在の学説においては,一方当事者の債務と他方当事者の債務との間に対価的な関係があることこそが,「双務契約上の債務における牽連性」が認められる理由とされています。

 

   売主と買主の債務は,対価的な関係にあるために,両債務の間には特別な関係が生ずる。売主の債務をα,買主の債務をβで表すと,αとβとは,双務契約上の債務として特殊な関係に立つのである。この関係のことを牽連関係とか牽連性といい,3つのレベルに分けて論ずることができる。すなわち,債務の成立上の牽連性,履行上の牽連性,そして債務の存続上の牽連性である。(内田46頁。下線は筆者によるもの)

 

 しかし,梅謙次郎の理解する「双務契約」は,上記の牽連関係もあらばこそ,負担付贈与及び使用貸借も含むものであったのですから,我が民法の双務契約関係規定は,制定時においては,上記学説にいう牽連関係ないしは牽連性なるものを必ずしも前提とするものではなかったのでしょう。


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前編(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078645164.html)からの続き


6 開催都市契約66条:「不平等条約」

ところで,開催都市契約について,IOCのみがオリンピック開催中止を決定できるとする,当該契約の解除に係る第66条が「不平等条約だ」といわれています。これは,新型コロナウイルス感染症との関係では,そのa)項のi)後段が問題になるのでしょうか。また,オリンピック参加者の安全ばかりが心配されて,現地住民の安全が心配されていないことが,命をいとおしむ日本人としては不満なのでしょうか。

 

aIOCは,以下のいずれかに該当する場合,本契約を解除して,開催都市における本大会を中止する権利を有する。

i) 開催国が開会式前または本大会期間中であるかにかかわらず,いつでも,戦争状態,内乱,ボイコット,国際社会によって定められた禁輸措置の対象,または交戦の一種として公式に認められる状況にある場合,またはIOCがその単独の裁量で,本大会参加者の安全が理由の如何を問わず深刻に脅かされると信じるに足る合理的な根拠がある場合。

ii)(本契約の第5条に記載の)政府の誓約事項が尊重されない場合。

iii) 本大会が2020(当初の規定)年中に開催されない場合。〔付属合意書4(2020107日)で変更〕

iv) 本契約,オリンピック憲章,または適用法に定められた重大な義務に開催都市,NOCJOC〕またはOCOG〔東京オリンピック組織委員会〕が違反した場合。

v) 本契約第72条の重大な違反があり,是正されない場合。

  (東京都オリンピック・パラリンピック準備局ウェブページ)

 

 一応もっともな解除事由が並べられているので,これらの事由に基づいて開催都市契約が解除されてもIOCが損害賠償責任を負わないということは全く道理に反する,ということにはなりにくいようです。

 

7 開催都市契約の典型契約への当てはめ:請負説及び組合説

しかし,そもそも,開催都市契約はどういった種類の契約なのでしょうか。東京都,JOC及び東京オリンピック組織委員会を請負人とし,IOCを注文者とする請負(民法632条参照)なのか,それともIOC,東京都,JOC及び東京オリンピック組織委員会を組合員とする組合(民法667条参照)なのか。

 

(1)請負説

請負であれば,我が国では「請負人が仕事を完成させない間は,注文者は,いつでも損害を賠償して契約の解除をすることができる」わけで(民法641条),スイス債務法377条も「Tant que l’ouvrage n’est pas terminé, le maître peut toujours se départir du contrat, en payant le travail fait et en indemnisant complètement l’entrepreneur.」(「仕事が完成しない間は,注文者は,なされた仕事の報酬を支払い,かつ,請負人に対して完全に補償をして,いつでも契約を解除することができる。」)と規定しています。他方,請負においては,注文者に債務不履行がないのに,請負人が一方的に契約を解除するわけにはいかないでしょう。なお,スイス債務法377条における補償の対象は,「得べかりし利益」と解釈されているそうであり,同条と我が民法641条とは「同一に帰するであろう」とされています(我妻榮『債権各論 中巻二(民法講義Ⅴ₃)』(岩波書店・1962年)651頁)。

ところで,開催都市契約66a)項の規定は,スイス債務法377条と差し替えられるものでしょうか,それとも,同条の適用を前提としつつ,請負契約を解除する注文者が「なされた仕事の報酬を支払い,かつ,請負人に対して完全に補償」する必要のない場合を特に規定したものでしょうか。金を払ってやるからお前らオリンピックはやめろ,といきなり言われても開催都市側としては納得できないでしょうから,差替え説を採るべきか。

ちなみに,「請負人からの解除」については,「なお,明文の規定はないが,両当事者の高度の信頼関係を基礎とする場合には,解除に関する委任の規定(民法651条)を類推適用するのが妥当であろう」とも説かれています(星野英一『民法概論Ⅳ(契約)』(良書普及会・1994年)278頁)。我が民法6511項は「委任は,各当事者がいつでもその解除をすることができる。」と規定しています。スイス債務法404条も同旨を規定しています(「Le mandat peut être révoqué ou répudié en tout temps. / Celle des parties qui révoque ou répudie le contrat en temps inopportun doit toutefois indemniser l’autre du dommage qu’elle lui cause.」(委任は,いつでも撤回又は破棄することができる。/しかし,不利な時期に契約を撤回又は破棄した当事者は,相手方に被らせた損害を補償しなければならない。))。とはいえ,やはり開催都市契約には第66条のみが存在しているという事実が重い。「高度の信頼関係を基礎とする」請負であっても,東京都,JOC又は東京オリンピック組織委員会はいつでも開催都市契約を解除できて,しかもIOCに不利な時期でなければIOCに対する損害の補償も不要である,というわけにはいかないのでしょうから,スイス債務法404条の(類推)適用が前提であれば,日本側の解除権を制限する条項が必要であったはずです。当該制限条項がない,ということは,スイス債務法404条の(類推)適用ははなからあり得ないものとされていたのでしょう。IOCとの関係において「高度の信頼関係」までを求めるのは,欲張りすぎであるということでしょうか。

 

(2)組合説

組合ならば,我が国においては,「やむを得ない事由があるときは,各組合員は,組合の解散を請求することができる」ことになっています(民法683条)。「組合の目的である事業の〔略〕成功の不能」の場合には組合は当然解散しますが(民法6821号),1904年のセント・ルイス大会における堂々たるグダグダの前例に鑑みれば,オリンピックの「成功の不能」なるもののハードルは極めて高いものと解すべきでしょう(「コロナ禍で,競技によっては予選に出られなかった選手がいる。ワクチン普及が進む国とそうでない国とで厳然たる格差が生じ,それは練習やプレーにも当然影響する。選手村での行動は管理され,事前合宿地などに手を挙げた自治体が期待した,各国選手と住民との交流も難しい。憲章が空文化しているのは明らかではないか。」と主張する前記朝日新聞社社説は,要求水準が高過ぎるようです。)。富井政章及び本野一郎による我が民法683条のフランス語訳は「Tout associé peut demander la dissolution de la société, lorsqu’il y est constraint par la nécessité.」です。必要(nécessité)があれば解散可というのも漠としていますが,ここでの「やむを得ない事由」の例としては,「組合員中不正ノ行為アル者多クシテ〔略〕容易ニ公平ナル計算ヲ得ルノ望ミナキ場合」,「仮令組合員ニ不正ノ行為ナキモ組合ノ帳簿整頓セサルカ為メ全ク之ヲ解散シテ清算ヲ為スニ非サレハ組合ノ財産上ノ状況ヲ明カニスルコト能ハザルコト」(以上梅822頁)及び「経済界の事情の変更,組合の財産状態,組合員間の不和などによつて,組合の目的を達することが――成功の不能とまではいえなくとも――著しく困難となることなど」(我妻Ⅴ₃844頁)が,6781項の「やむを得ない事由」の例としては「脱退員ト他ノ組合員ト意見相衝突シ脱退員ハ某ノ行為ヲ為スヲ以テ組合ノ為メ極メテ危険ナリトシ他ノ組合員ハ之ヲ断行セント欲スル場合ニ於テハ脱退員ハ速ニ脱退ヲ為スニ非サレハ其行為動モスレハ累ヲ自己ノ財産ニ及ホスノ虞」ある場合(梅810頁)が挙げられています。

スイス債務法545条は次のとおり。

 

La société prend fin:

1. par le fait que le but social est atteint ou que la réalisation en est devenue impossible;

2. par la mort de l’un des associés, à moins qu’il n’ait été convenu antérieurement que la société continuerait avec ses héritiers;

3. par le fait que la part de liquidation d’un associé est l’objet d’une exécution forcée, ou que l’un des associés tombe en faillite ou est placé sous curatelle de portée générale;

4. par la volonté unanime des associés;

5. par l’expiration du temps pour lequel la société a été constituée;

6. par la dénonciation du contrat par l’un des associés, si ce droit de dénonciation a été réservé dans les statuts, ou si la société a été formée soit pour une durée indéterminée, soit pour toute la vie de l’un des associés;

7. par un jugement, dans les cas de dissolution pour cause de justes motifs.

La dissolution peut être demandée, pour de justes motifs, avant le terme fixé par le contrat ou, si la société a été formée pour une durée indéterminée, sans avertissement préalable.

  (組合は,次に掲げる事由によって解散する。

  (一 組合の目的が達成されたこと又はその実現が不可能になったこと。

  (二 事前にその相続人と共に組合が継続するものと合意されていなかった場合における一組合員の死亡

  (三 一組合員の清算持分が強制執行の目的であること又は一組合員が破産したこと若しくは被後見人となったこと。

  (四 総組合員の同意

  (五 組合の存続期間の満了

  (六 告知権が組合規約において留保された場合又は組合の存続期間が定められていない場合若しくはある組合員の終身間存続すべきことが定められた場合における一組合員による契約の告知

  (七 正当な理由を原因とする解散の場合における裁判

(正当な理由に基づく解散の請求は,契約の存続期間の満了前(vor Ablauf der Vertragsdauer)に,又は組合の存続期間が定められていない場合においては事前の予告なしにすることができる。)

 

 正当な理由(justes motifs)とは何ぞやが問題ですが,フランス民法1844条の75号を参照すると,そこでは,一組合員の債務不履行の場合と組合の機能を麻痺させる組合員間の不和(mésentente entre associés paralysant le fonctionnement de la société)の場合とが,正当な理由(justes motifs)の例として条文上示されています。

 開催都市契約66a)項は,スイス債務法54516号の「組合規約において留保」の留保をするものと解し得るでしょう。また,スイス債務法54517号の適用までをも開催都市契約66a)項は排除するものではないでしょう。なお,開催都市契約87条がありますから,スイス債務法54517号の「裁判」(jugement)は,「仲裁判断」と読み替えられるべきものでしょう。

 しかし,IOCと東京都,JOC及び東京オリンピック組織委員会とは仲良し(ils sont en entente)なのでしょうから,仲裁判断においても正当な理由(justes motifs)は認められず,スイス債務法54517号の出番はない,ということになりそうです。


8 開催都市契約51条:「違約金」条項

 なお,開催都市契約には「違約金」条項は存在しないと巷間言われているようですが,どうしたものでしょうか。開催都市契約51条は日本側を債務者とする「約定損害賠償金」(正文たる英文では“liquidated damages”)について規定しています。視力の悪い筆者の見間違いでしょうか。大所高所から東京オリンピック中止問題を語る有識者の方々の力強い声の中で,このようなつまらない発見を小声で語ることは心細い限りです。

「違約金」に関しては,我が民法420条には「当事者は,債務の不履行について損害賠償の額を予定することができる。/賠償額の予定は,履行の請求又は解除権の行使を妨げない。/違約金は,賠償額の予定と推定する。」とあるところです。富井=本野のフランス語訳では,「賠償額の予定」は“fixation de dommages-intérêts faite par avance”,「違約金(条項)」は “clause pénale”です。

なお,英米法においては,「債務不履行に際して債務者が支払うべき額をあらかじめ約定した場合に,それが「違約金(penalty)」であると判断されるとその効力が否定され,債権者は損害を証明して賠償を請求しなければならない。また,それが「損害賠償額の予定(liquidated damages)」であると判断されれば有効であり,実際に生じた損害額のいかんにかかわらず予定額を請求しうる。」とされているそうです(奥田昌道編『新版注釈民法(10)Ⅱ債権(1)債権の目的・効力(2)』(有斐閣・2011年)571頁(能見善久=大澤彩))。開催都市契約51条の「約定損害賠償金」は,“liquidated damages”という英文名称からすると,賠償額の予定(fixation de dommages-intérêts faite par avance)でなければならないもののようです。しかしながら,当該契約がそれに基づくスイス債務法では,“peine”(刑の意味があります。刑法は“Code pénal”です。)の語が用いられていてややこやしい。しかし“peine”ないしは“pénal”の語は刑に引き付けて狭く解する必要はないようで,我が旧民法財産編(明治23年法律第28号)388条は「当事者ハ予メ過怠約款ヲ設ケ不履行又ハ遅延ノミニ付テノ損害賠償ヲ定ムルコトヲ得」と規定し,「過怠約款」をもって賠償額の予定としていますが,そのフランス語文は“Les parties peuvent faire, à l’avance, au moyen d’une clause pénale, le règlement des dommages-intérêts, soit pour l’inexécution, soit pour le simple retard.” でした(イタリック体による強調は筆者によるもの)。すなわち,「過怠約款」=“clause pénale”です(我が民法4203項の原則とするところ)。

 スイス債務法1601項は「Lorsqu’une peine a été stipulée en vue de l’inexécution ou de l’exécution imparfaite du contrat, le créancier ne peut, sauf convention contraire, demander que l’exécution ou la peine convenue.」(契約の不履行又は不完全履行について違約金の定めがある場合においては,反対の取決め(convention contraire)がない限り,債権者は,履行又は取り決められた違約金以外の請求をすることができない。)と規定しています。我が民法4202項に対応します。開催都市契約51条に「反対の取決め」があるかといえば,同条においてIOCは,その権利についていろいろ留保をしています。

スイス債務法1611項は「La peine est encourue même si le créancier n’a éprouvé aucun dommage.」(債権者が損害を立証しない場合であっても,違約金は課せられる。)と規定して,違約金額までの金銭については損害の立証がなくとも支払を受けることができるようにし,同条2項は「Le créancier dont le dommage dépasse le montant de la peine, ne peut réclamer une indemnité supérieure qu’en établissant une faute à la charge du débiteur.」(違約金額を超える損害を被った債権者は,債務者に帰せられる過失(faute)を立証しなければ,超過分の補償を請求することができない。)と規定しています。同項においては,同法971項と比較すると,過失の有無に係る立証責任の所在が転換されています。

スイス債務法163条は,次のとおり。

 

   Les parties fixent librement le montant de la peine.

La peine stipulée ne peut être exigée lorsqu’elle a pour but de sanctionner une obligation illicite ou immorale, ni, sauf convention contraire, lorsque l’exécution de l’obligation est devenue impossible par l’effet d’une circonstance dont le débiteur n’est pas responsable.

Le juge doit réduire les peines qu’il estime excessives.

  (当事者は,違約金額を自由に定める。

  (約定違約金は,違法若しくは不道徳な債務を実効化する(bekräftigen)目的である場合又は,反対の取決めがない限り,債務者の責任に属さない事情によって債務の履行が不可能になった場合には,請求することができない。

  (裁判官は,過大と認める違約金を減額することができる。)

 

スイス債務法1632項後段の「反対の取決め」が開催都市契約51条にあるかといえば,一見したところ,無いようです。同条a)項における“due to any cause directly or indirectly attributable to the City, the NOC or the OCOG”の場合に「約定損害賠償金」が問題となるという表現からしても,そういうことでよいのでしょう。

なお,スイス債務法1612項及び1633項に関して一言すると,我が民法4201項には,従来後段があって「この場合において,裁判所はその額を増減することができない。」とされていましたが,当該規定は平成29年法律第44号によって削られているところです。「裁判実務においては現に公序良俗違反(旧法第90条)等を理由に予定されていた損害賠償額を増減する判断をしていたことを踏まえ,削除している。」と説明されています(筒井健夫=村松秀樹編著『一問一答 民法(債権関係)改正』(商事法務・2018年)70頁)。我が賠償額の予約に関する規整は,スイス債務法の違約金(peine)に関するそれに近付いたものになっている,ということでよろしいのでしょうか。

 

9 日本国政府による中止

 日本国は開催都市契約の当事者ではありません。

 したがって,日本国政府がその公権力を行使して東京オリンピック開催を中止に追い込んだ場合には,それは,開催都市契約を発生原因とする日本国の債務(当該債務はありません。)の不履行の問題ではなく,第三者による債権侵害の不法行為の問題となるはずです。

 日本国は開催都市契約の当事者ではないので,当該契約に含まれる仲裁合意の当事者でもありません。IOCは,日本国を仲裁被申立人として仲裁手続を利用することはできません。

 IOCが日本国を相手取って裁判所に訴えを提起する場合,国際法上,ある国の裁判権は外国国家には及びませんから,日本の裁判所(恐らく東京地方裁判所(訴訟の目的の価額が140万円以下ということはないでしょう(裁判所法(昭和22年法律第59号)3311号参照)。))に訴状を提出することになります。

 適用される法律は,不法行為の加害行為の結果が発生した地の法ということになります(法の適用に関する通則法(平成18年法律第78号)17条)。日本法の適用が素直でしょう。東京オリンピックの開催が中止されたことによってスイスにあるIOCが貧乏になったといっても,それは派生的・二次的な損害であって,スイスが結果発生地となるものではないでしょう(澤木=道垣内218頁参照)。そうなると国家賠償法(昭和22年法律第125号)11項(「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が,その職務を行うについて,故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは,国又は公共団体が,これを賠償する責に任ずる。」)の問題となります。違法性の有無が争点になりそうです。

 ただし,IOCの名誉又は信用の毀損が問題とされたときは,準拠法はなおスイス法です(法の適用に関する通則法19条)。とはいえ,不法行為については,成立も効力も結局日本法の枠内です(法の適用に関する通則法22条)。

 なお,民法720条(国家賠償法4条)の考え方に拠ることとして,IOCに対する加害行為だと言われるけれども新型コロナウイルス感染者による当該ウイルス拡散という不法行為から国民の生命又は身体という彼らの権利を防衛するため「やむを得ず」したものだからよいのだ,と主張する場合においては,「①「他人ノ不法行為」に対して当方も問題の加害行為をする以外に適切な方法がなく,②防衛すべき法益と,相手方(当初の不法行為者又は第三者)に与える損害(相手方の被侵害利益)との間に,社会観念上ほぼ合理的な均衡が保たれていることを要する。たとえば,些少な財産権を防衛するために相手を殺傷するがごときは,正当防衛となり難い場合が多いであろう。」(幾代通著=徳本伸一補訂『不法行為法』(有斐閣・1993年)102頁)との「やむを得ず」に係る要件が満たされているかどうかが問題になるでしょう。


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On aime les jeux Olympiques. (東京都新宿区・日本オリンピックミュージアム前庭)


追記:開催都市契約=請負説

 筆者は,前記において,開催都市契約に係る請負説と組合説とを併記しました。しかし,あえていえば,請負説を採るべきなのでしょう。開催都市契約は,IOCを一方当事者,東京都及びJOC(東京オリンピック組織委員会は後に設立されて参加)を相手方当事者として締結されており,かつ,その第1条においてIOCが日本側に業務(大会のplanning, organizing, financing and staging(計画,組織,資金調達及び運営))をentrust(東京都オリンピック・パラリンピック準備局ウェブページでは「委任」)する旨規定しています。開催都市契約44条は大会開催の結果生じた剰余金が東京オリンピック組織委員会,JOC及びIOCの間で配分されるものとしていますが(その後IOCは付属合意書№48項で東京オリンピック組織委員会のために剰余金の取り分を放棄),請負の「報酬の種類に制限はない。金銭には限らない。仕事の完成によつて得られるものの一部を与える契約も少くない(国有林払下げの請負で払い下げを受けた山林の何割かを与える契約はその例)。」とされているところです(我妻Ⅴ₃・602頁)。

 なお,請負を,スイス債務法363条は“Le contrat d’entreprise est un contrat par lequel une des parties (l’entrepreneur) s’oblige à exécuter un ouvrage, moyennant un prix que l’autre partie (le maître) s’engage à lui payer.”(請負契約は,当事者の一方(請負人)が,相手方(注文者)が支払を約する報酬を対価として,ある仕事を果すことを約する契約である。)と定義しています。また,他の類型に属しないデフォルトの組合(“société”ですので,訳語を「会社」とすることもできます。)を,スイス債務法5301項は“La société est un contrat par lequel deux ou plusieurs personnes conviennent d’unir leurs efforts ou leurs ressources en vue d’atteindre un but commun.”(組合は,2以上の者が,共通の目的を達成するために,労務又は資源を共同にすることを合意する契約である。)と定義しています。


追記2:放送に関する払戻し契約

 開催都市契約の付属合意書の第3.3項においてはIOCと東京オリンピック組織委員会との間で2018224日に締結された「放送に関する払戻し契約(Broadcast Refund Agreement)」の存在が言及されるとともに,当該契約が1年延期後のオリンピック東京大会にも適用される旨が規定されています。これが,オリンピック開催中止に伴う放送事業者からの放送権料引上げによって必要となる清算に関するIOCとの合意なのでしょう。

 

   オリンピック開催中止の場合に放送事業者がIOCに対して既払いの放送権料の返還を求め,未払の放送権料の支払を行わないことについては,スイス債務法1192項に“Dans les contrats bilatéraux, le débiteur ainsi libéré est tenu de restituer, selon les règles de l’enrichissement illégitime, ce qu’il a déjà reçu et il ne peut plus réclamer ce qui lui restait dû.”(双務契約の場合においては,前項の規定により債務を免れた債務者〔帰責事由なくその債務の履行が不能となった債務者〕は,既に給付を受けたものを不当利得の規定に従って返還する義務を負い,かつ,未履行の反対給付を請求することはできない。)との規定があります。我が民法5361項は「当事者双方の責めに帰することができない事由によって債務を履行することができなくなったときは,債権者は,反対給付の履行を拒むことができる。」とのみ規定していますが,同項に関しては「債権者は履行拒絶権がある反対給付債務の履行を常に拒絶することができるのであり,このような履行拒絶権の内容からすると,この場合の反対給付債務については,そもそも給付保持を認める必要すらないことから,債務としては存在しないのと同様に評価することができる。そのため,新法においても,旧法と同様に,債権者は,既に反対給付債務を履行していたときには,不当利得として,給付したものの返還を請求することができると解される。」と,敷衍した解釈が表明されています(筒井=村松228頁(注3))。スイス債務法1192項においては,条文中に,不当利得の規定に従って返還すべき義務ありと明示されているところです。

 

20171226日の東京都議会オリンピック・パラリンピック及びラグビーワールドカップ推進対策特別委員会に東京都庁から提出された「IOC拠出金の払戻しに関する契約について」資料がインターネット上にあります。それによると,東京オリンピック組織委員会は,IOCが集めた放送権料中から850億円を拠出してもらう予定で,オリンピック開催中止となると,当該拠出金につき,拠出元たるIOCに返還をせねばならないことになっています。ただし,保険が付される予定でもあったようです。

 しかし,偶発的事由(Contingency Events)による開催中止の場合についての取決めであって,日本側の責めに帰すべき事由による中止の場合には,これだけ返せば後は知らない,というわけにはいかないように思われます。

 

Addendum III: Scenes of the Namamugi Incident

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The Deathplace of Richardson(力査遜)

[On the 14th September 1862…] Namamugi, where poor Richardson’s corpse was found under the shade of a tree by the roadside. His throat had been cut as he was lying there wounded and helpless. The body was covered with sword cuts, any one of which was sufficient to cause death. (Ernest Satow, A Diplomat in Japan. London, 1921)


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The Spot, where the incident happened.

[Richardson], in company with a Mrs Borradaile of Hongkong, and Woodthorpe C. Clarke and Wm. Marshall both of Yokohama, were riding along the high road between Kanagawa and Kawasaki, when they met with a train of daimiô’s retainers, who bid them stand aside. They passed on at the edge of the road, until they came in sight of a palanquin, occupied by Shimadzu Saburô, father of the Prince of Satsuma. They were now ordered to turn back, and as they were wheeling their horses in obedience, were suddenly set upon by several armed men belonging to the train, who hacked at them with their sharp-edged heavy swords. (Satow)

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“Restaurant for Satsuma Boys” (Namamugi, Yokohama)

With unfailingly sanguine appetite, Satsuma samurai are fearsomely formidable even after 160 years.

 

[On 15th August 1863…] About three quarters of an hour after the engagement commenced we saw the [British] flagship hauling off, and next the “Pearl” (which had rather lagged behind) swerved out of the line. The cause of this was the death of Captain Josling and Commander Wilmot of “Euryalus” from a roundshot fired from fort No.7 [of Kagoshima, Satsuma]. Unwittingly she had been steered between the fort and a target at which the Japanese gunners were in the habit of practising, and they had her range to a nicety. A 10-inch shell exploded on her main-deck about the same time, killing seven men and wounding an officer, and altogether the gallant ship had got into a hot corner; under the fire of 37 guns at once from 10-inch down to 18 pounders. (Satow)

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1 神州の清潔に対する脅威

 牧歌的運動会のグダグダもまた楽し(「A Spirit of St. Louishttp://donttreadonme.blog.jp/archives/1078569029.html)などと思ってしまう筆者は,やはり不謹慎・不真面目な人間なのでしょうか。安政五年,その年六月からのコレラ大流行を予見し給うてのことか(しかし,当該流行による江戸での死者は結局3万余人にすぎなかったそうですから(『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)12頁),今般の新型コロナウイルス感染症が撒き散らしつつある空前絶後の兇悪に比べれば,大したことはありませんよね。),日米修好通商条約締結につきついに勅許を下し給うことのなかった孝明天皇の(かしこ)き御潔癖の如く(しかし,叡意を(なみ)する井伊直弼政権によって,1858729日,同条約及び貿易章程が調印されてしまっています。),多数の外国人らの渡来から我が神州の清潔を守るべく,日本のジャーナリズムの良心たる朝日新聞社の2021526日付け社説を始めとして,今年(2021年)夏の東京オリンピック開催を決然中止すべしとの声が現在澎湃として全国から沸き起こっています。(上記朝日新聞社社説によれば,「無観客にしたとしても,ボランティアを含めると十数万規模の人間が集まり,活動し,終わればそれぞれの国や地元に戻る。世界からウイルスが入りこみ,また各地に散っていく可能性は拭えない。/IOCや組織委員会は「検査と隔離」で対応するといい,この方式で多くの国際大会が開かれてきた実績を強調する。しかし五輪は規模がまるで違う。/選手や競技役員らの行動は,おおむねコントロールできるかもしれない。だが,それ以外の人たちについては自制に頼らざるを得ない部分が多い。」したがって「「賭け」は許されない」ということです。しかし,日本人特有の生真面目さをもってするマスク着用と手の消毒と外飲み禁止とによって新型コロナウイルスに対する我々の守りは既に鉄壁であったはずなのに,なぜ,数は多いといっても選手村等に隔離されて現地一般住民たる我々とはさほど接触は無いであろう外国人らの渡来を今更恐れなければならないのでしょうか。当局者が頑張れば,彼らを「おおむねコントロール」できるのでしょう。マスク着用も手の消毒も外飲み禁止も,実は単なる気休めで,何の効果もなかったのだよ,ということでしょうか。そういうことではないでしょうし,我が従順な日本の民草の「自制」には,安心して頼ることができるはずです(「自制」の軛を打ち破る叛逆の野性が超高齢化段階に達した我が民族にもまだあることが発見されれば,それはそれで結構なことです。それとも実は,現在の日本は,良識ある朝日新聞関係者を除く全国民(特に若者)が暴徒と化しており,全く「自制」せずにヒャッハーと新型コロナウイルスを放出撒布しつつある無法の巷状態にある,というのが正しい認識なのでしょうか。)。それに,大学での対面授業を禁じつつ学徒を大量動員し,ボランティアとしてオリンピックに献身奉仕させるということももう流行らないでしょう。であれば,選手村で兇悪な新型コロナウイルスに感染した選手らが帰国する先の諸外国にかかる迷惑が心配なのでしょうか。しかし,その心配は当該外国がすればよいことであって,心配ならば自国民のオリンピック参加をあらかじめ禁じ,又は対応可能な規模に参加者数を制限した上で帰国時に厳格な隔離・検査を行なえばよいだけのことのように思われます。とはいえ,そういう自存自衛のための配慮のできる国ないしは人は少ないのでしょう。やはり我々日本国民は,八紘一宇の精神をもって世界人類の幸福を考えなければなりません。)

 これに対して,しかし日本側が勝手にオリンピック開催を中止したら国際オリンピック委員会(IOC)に対して巨額の損害賠償金を支払わなければならないんじゃない,と懸念する声もあります。生麦事件等で多額の賠償金を支払わされたりなどした我が近代史上の対西洋列強トラウマは,なお根深いものがあるのでしょうか。懸念の声が上がるのはもっともです。しかし,懸念する良識の誇示ばかりで,具体的な事実関係は今一つはっきりしません。

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生麦事件碑(神奈川県横浜市鶴見区)

 

2 スイス民法・債務法

 この点,筆者は,良識的苦悩の思弁以前に具体的取材活動を元気に敢行する東京スポーツを極めて高く評価するところです。東スポWeb2021519日に掲載された「「東京五輪中止なら多額の賠償金」は本当? 判断基準スイス法の専門家は意外な見解」記事に,次のようにあったところです。

 

実は,開催都市契約の87条には「本契約はスイス法に準拠する」と明記されており,IOCのお膝元でもあるスイスの法律に答えが隠されているのだ。そこでスイス法に詳しい奧野総合法律事務所・外国法共同事業スイス連邦法弁護士のミハエル・ムロチェク氏を直撃した。

まず,同氏はスイス(ママ)法第971項「義務を全く履行しなかった債務者は,自分に過失がないことを証明できない限り,損害を賠償しなければならない」を示した。原則としては支払い義務を負うようだ。その一方で同氏は第1191項「債務者に帰責事由(落ち度)がない状況により履行が不可能になった場合,履行義務が消滅したとみなされる」を掲げる。つまり不可抗力の場合は支払いが免除されるのだ。

 

 つまり,専ら日本側によって東京オリンピック開催の中止がされた場合におけるIOC損害賠償請求は,開催都市契約を発生原因とする日本側の債務の不履行に対する損害賠償請求としてされるものであるわけです。我が民法(明治29年法律第89号)4151項には「債務者がその債務の本旨に従った履行をしないとき又は債務の履行が不能であるときは,債権者は,これによって生じた損害の賠償を請求することができる。ただし,その債務の不履行が契約その他の債務の発生原因及び取引上の社会通念に照らして債務者の責めに帰することができない事由によるものであるときは,この限りでない。」とあるところです。スイス債務法(Code des Obligations; Obligationenrecht971項のフランス語文は「Lorsque le créancier ne peut obtenir l’exécution de l’obligation ou ne peut l’obtenir qu’imparfaitement, le débiteur est tenu de réparer le dommage en résultant, à moins qu’il ne prouve qu’aucune faute ne lui est imputable.」,ドイツ語文は「Kann die Erfüllung der Verbindlichkeit überhaupt nicht oder nicht gehörig bewirkt werden, so hat der Schuldner für den daraus entstehenden Schaden Ersatz zu leisten, sofern er nicht beweist, dass ihm keinerlei Verschulden zur Last falle.」です。拙訳は,フランス語文については「債権者が債務の履行を受けることができないとき又は不完全にしか受けることができないときは,債務者は,その責めに帰すべき過失(faute)がないことを証明しない限り,これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」,ドイツ語文については「義務の履行がおよそされ得ないとき又は適切に(gehörig)され得ないときは,債務者は,帰責事由(Verschulden)がないことを証明しない限り,これによって生じた損害を賠償しなければならない。」です。

 スイス法といっても我が民法と似たようなものであるなぁ,という感想を持たれませんでしょうか。スイス民法及び同債務法について,我妻榮は次のように紹介しています。

 

  〔略〕欧洲大陸では,第18世紀末から第19世紀の初めにかけて,国家の中央権力の強大と自然法論の隆盛とによって,民法典編纂の気運が大いに勃興し,大民法典があいついで編纂された,そして,その産物のうち,1804年のフランスの「ナポレオン法典」(以後フ民何条として引用する)は,今日なお効力を有し,その後第19世紀の末尾1896年に編纂されたドイツ民法典(以後ド民何条として引用する)及び第20世紀初頭1907年のスイス民法典(以後ス民何条として引用する)(債権法については1911年のスイス債務法(以後ス債何条として引用する))とともに,今日における代表的な大民法典である。

   これらの民法典の法思想史上における地位を一言すれば,フランス民法典は,第18世紀の個人主義的法思想の結晶であるが,ドイツ民法典は,第19世紀の総決算として,個人主義思想の爛熟を示すものということができるであろう。そして,日本民法もまたこれらとその思想と同じくし,むしろ後者に近い。これに対し,第20世紀初頭のスイス民法典は,フランス,日本,ドイツの3民法典に比すれば,個人主義思想のうちに社会本位の思想の萌芽が現れてくることを示すものである。本書においては,必要に応じてこれらの法典を引用する。

  (我妻榮『新訂 民法総則(民法講義Ⅰ)』(岩波書店・1972年)7-8頁)

 

要は,スイス民法・債務法は,フランス民法及びドイツ民法と共に,日本民法の仲間なのです。フランス語及びドイツ語併用という点では,スイス民法学は,フランス法及びドイツ法学の影響を共に受けた我が国の民法学とあるいはよく似た情況にあるともいい得ましょうか。いずれにせよ,我妻榮の引用を通じて,その影響は何らかの形で日本の法律家に既に及んでいるはずです。外国法だ大変だ,と無暗矢鱈と緊張する必要はないでしょう。

 

3 スイス債務法1191項と我が債務転形論と

スイス債務法1191項の法文はフランス語文で「L’obligation s’éteint lorsque l’exécution en devient impossible par suite de circonstances non imputables au débiteur.」,ドイツ語文で「Soweit durch Umstände, die der Schuldner nicht zu verantworten hat, seine Leistung unmöglich geworden ist, gilt die Forderung als erloschen.」です。拙訳は,フランス語文について「債務は,債務者の責めに帰することのできない事情によってその履行が不能になったときは,消滅する。」,ドイツ語文について「債務者が責めを負わなくてよい事情によってその債務の履行が不可能になったときは,当該債権は消滅したものとする。」です。平成29年法律第44号によって挿入された我が民法412条の21項には「債務の履行が契約その他の債務の発生原因及び取引上の社会通念に照らして不能であるときは,債権者は,その債務の履行を請求することができない。」とあります。従来は,「履行不能(〇〇〇〇)ノ如キ当然言フヲ俟タサル〔債権の〕消滅原因アリ新民法〔明治29年法律第89号〕ニ於テハ之ニ付テ別段ノ規定ヲ設クルノ必要ナシト認メタリ但此事ヲ前(ママ)シタル第415条,第534条乃至第536条等ノ規定アルヲ以テ自ラ明カナル所ナリ」とされていたところです(梅謙次郎『民法要義巻之三 債権編(第33版)』(法政大学=有斐閣書房・1912年)231頁)。

ところで,日本民法412条の21項には,債務者の責めに帰すべき事由によって履行不能となった場合も含まれます。これに対してスイス債務法1191項においては,債務者の責めに帰すべき事情によって履行不能となったときは,なお債務が存続するものとされています。この点,両者間にはアルプスの峻峰の如く越えがたい相違があるようにも見えます。しかしながら,我が民法415条に関して,従来,「債務不履行による損害賠償請求権は,本来の債権の拡張(遅延賠償の場合)または内容の変更(塡補賠償の場合)であって,本来の債務と同一性を有する。」と解されていたところです(我妻榮『新訂 債権総論(民法講義Ⅳ)』(岩波書店・1972年)101頁)。この考え方(債務転形論)は,スイス債務法1191項と親和的です(同項は,債務者の責めに帰すべき事情によって債務の履行が不能になった場合には当該債務は損害賠償債務に転形されて存続するという意味である,というのが我妻榮的な読み方なのでしょう。)。ただし,この点については,平成29年法律第44号による改正によって,(非スイス的に,ということになるのでしょうか,)債務転形論は否定されたとされています(内田貴『民法Ⅲ(第4版)債権総論・担保物権』(東京大学出版会・2020年)146頁。「塡補賠償請求権が,本来の債務の履行を請求する権利と併存し,選択的に行使できる救済手段であることが明らか」になっているところです(民法41522号及び3号後段参照)。)。

 

4 開催都市契約87条:準拠法選択・仲裁合意

IOC並びに東京都,公益財団法人日本オリンピック委員会(JOC)及び公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会(東京オリンピック組織委員会)の4者を当事者とする(日本国は当事者ではありません。)東京オリンピックの開催都市契約87条は,次のように規定しています(東京都オリンピック・パラリンピック準備局のウェブページに掲載されている日本語訳)。

 

  本契約はスイス法に準拠する。その有効性,解釈または実施に関するいかなる争議も,スイスまたは開催国における通常の裁判所を排除して,仲裁によって最終的に判断され,スポーツ仲裁裁判所のスポーツ仲裁規則に従いスポーツ仲裁裁判所によって決定される。仲裁はスイスのヴォー州ローザンヌで行われる。スポーツ仲裁裁判所が何らかの理由でその権限を否定する場合,争議はスイスのローザンヌにある通常裁判所で最終的に判断されるものとする。〔以下略〕

 

 開催都市契約の当事者間における当該契約に関する紛争は,スポーツ仲裁規則に従って,スイスのローザンヌを仲裁地とする仲裁廷によって解決されるわけです。東京都,JOC又は東京オリンピック組織委員会に対する損害賠償請求権をIOCに認める仲裁判断が出た場合,それに基づく民事執行をIOCが我が国内でしようとするときには,仲裁法(平成15年法律第138号)46条の執行決定を(大方の場合)東京地方裁判所(同条4項,同法513号)から得なければなりません(同法451項,民事執行法(昭和54年法律第4号)226号の2)。スイス法に基づく仲裁判断であれば,我が国の公の秩序又は善良の風俗に反するもの(仲裁法4529号)として我が国の地方裁判所によって却下されること(同法468項)は,まあないのでしょう。なお,IOCは,我が国では外国法人として認許されませんが(民法351項。澤木敬郎=道垣内正人『国際私法入門(第8版)』(有斐閣・2018年)164頁),執行決定の申立て及び民事執行の申立ては可能です(仲裁法10条・民事執行法20条,民事訴訟法(平成8年法律第109号)29条)。

 

5 スイス債務法における損害賠償の範囲及び損害額の認定

 債務不履行による損害賠償の範囲については,我が民法はその第416条において規定しており,これは英国の判例法を継受したものです(「「直接損害」の謎に迫る」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1068320185.html)。これに対して,大陸法の正嫡ならむスイス債務法の規定はどうかといえば,その第99条に次のようにあります。

 フランス語文。

 

En général, le débiteur répond de toute faute.

Cette responsabilité est plus ou moins étendue selon la nature particulière de l’affaire; elle s’apprécie notamment avec moins de rigueur lorsque l’affaire n’est pas destinée à procurer un avantage au débiteur.

Les règles relatives à la responsabilité dérivant d’actes illicites s’appliquent par analogie aux effets de la faute contractuelle.

  (一般的に,債務者は,全ての過失(faute)について責任を負う。

  (当該責任の範囲は,事件の特性に応じて伸縮する。特に,債務者が特典を得るためのものに係るものでない事件の場合においては,それは,厳格性を減じて評定される。

  (不法行為から生ずる責任に関する規定が,契約に係る過失の効果について準用される。)

 

 ドイツ語文。

 

   Der Schuldner haftet im Allgemeinen für jedes Verschulden.

Das Mass der Haftung richtet sich nach der besonderen Natur des Geschäftes und wird insbesondere milder beurteilt, wenn das Geschäft für den Schuldner keinerlei Vorteil bezweckt.

Im übrigen finden die Bestimmungen über das Mass der Haftung bei unerlaubten Handlungen auf das vertragswidrige Verhalten entsprechende Anwendung.

  (債務者は,一般的に,全ての帰責事由(Verschulden)について責任を負う。

  (責任の量(Mass)は,行為の特性に従って評定され,かつ,行為が債務者にとっての利益(Vorteil)を目的とするものでないときは,特に,よりゆるやかに判断される。

  (その他不法行為における責任の量に関する規定が,契約違反行為について準用される。)

 

「不法行為から生ずる責任に関する規定」ないし「不法行為における責任の量に関する規定」とは,スイス債務法42条及び43条がそうでしょうか。

スイス債務法421項及び2項は,次のとおり(同条3項は省略)。

フランス語文。

 

La preuve du dommage incombe au demandeur.

Lorsque le montant exact du dommage ne peut être établi, le juge le détermine équitablement en considération du cours ordinaire des choses et des mesures prises par la partie lésée.

  (損害の立証責任は,原告に属する。

  (損害の正確な総額が立証できないときは,裁判官が,事物の通常の成り行き及び被害者によってとられた処置を考慮して,衡平をもって(équitablement)当該額を定める。)

 

 ドイツ語文。

 

   Wer Schadenersatz beansprucht, hat den Schaden zu beweisen.

Der nicht ziffernmässig nachweisbare Schaden ist nach Ermessen des Richters mit Rücksicht auf den gewöhnlichen Lauf der Dinge und auf die vom Geschädigten getroffenen Massnahmen abzuschätzen.

  (損害賠償を請求する者は,損害を証明しなければならない。

  (数額を明らかにできない損害は,事物の通常の成り行き及び被害者によってとられた処置を考慮し,裁判官の裁量(Ermessen)によって評定される。)

 

 スイス債務法431項は,次のとおり(同条2項及び3項は省略)。

 フランス語文。

 

   Le juge détermine le mode ainsi que l’étendue de la réparation, d’après les circonstances et la gravité de la faute.

  (損害賠償の方法及び範囲(l’étendue)は,過失(faute)に係る事情及び重さに応じて,裁判官が定める。)

 

 ドイツ語文。

 

   Art und Grösse des Ersatzes für den eingetretenen Schaden bestimmt der Richter, der hiebei sowohl die Umstände als die Grösse des Verschuldens zu würdigen hat.

  (生じた損害に係る賠償の方法及び大きさ(Grösse)は,裁判官が定める。この場合において,当該裁判官は,帰責事由(Verschulden)に係る事情及び大きさを衡量しなければならない。)

 

スイス債務法422項は,我が民事訴訟法248条(「損害が生じたことが認められる場合において,損害の性質上その額を立証することが極めて困難であるときは,裁判所は,口頭弁論の全趣旨及び証拠調べの結果に基づき,相当な損害額を認定することができる。」)を想起せしめます。前者は,後者の適用において参考となるというべきでしょうか。

スイス債務法431項は,損害賠償の範囲ないしは大きさ(l’étendue de la réparation Grösse des Ersatzes)について,我が国でいうところの相当因果関係に係る相当性の内実を示唆するものでしょうか。過失ないしは帰責事由の事情及び重さ(les circonstances et la gravité de la faute; sowohl die Umstände als die Grösse des Verschuldens)を考慮すべき要件としていますから,いわゆる義務射程=保護範囲説に親和的であるようです。

東京オリンピック開催を自ら中止してしまった場合,東京都,JOC又は東京オリンピック組織委員会としては,まず,「その責めに帰すべき過失がないことを証明」すべく頑張るわけですが(スイス債務法971項。なお,仲裁地たるローザンヌはフランス語圏内ですので,以下スイス債務法の紹介はフランス語文に拠ります。),当該立証がうまくいかなかったときは,損害賠償額の減額を狙って,「いやいや,オリンピックはそもそも非営利目的の催しのはずですし,我々も金儲けのためにやっていたわけではありません。」と主張するものか(同法992項参照),あるいは「良識あり,かつ,年齢を重ねて命(自己のものを含む。)をいとおしむようになった,知的容姿のwoke的端麗を好む日本国民の間に絶大な影響力を有する天下の大朝日新聞に「やめろ!」と言われてしまった,という深刻な事情を酌んでくださいよぉ。」と泣きを入れるものか(同条3項によって準用される同法431項参照)。

 

後編に続く(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078653594.html

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(上)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078601732.html(申命記第22章5節,禮記及び違式詿違条例)

(中)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078601795.html(セーヌ県警視総監命令等)


6 東京地方裁判所令和元年12月12日判決

 東京違式詿違条例62条及び他の違式詿違条例における応当規定が旧刑法の施行に伴い1881年限りをもって消滅(警察犯処罰令32号は度外視しましょう。)していたところの我が国ですが,出生した時に割り当てられた性別(男性)と自認している性別(女性)とが一致しない状態の者であって,専門医から性同一性障害の診断を受けているもの(性別適合手術を受けておらず,戸籍上の性別はなお男性)を原告として,原告が女装して勤務しているその職場(国の官庁)における処遇に関して国が訴えられた国家賠償請求事件に係る興味深い判決が令和元年(2019年)1212日に東京地方裁判所(江原健志裁判官(裁判長),清藤健一裁判官及び人見和幸裁判官)から出ています(判タ1479121頁)。異性装について論ずる本稿にとって関係が深そうな論点について見てみると,同裁判所は,次のような判示をしています。

 

  (1)イ 〔前略〕性別は,社会生活や人間関係における個人の属性の一つとして取り扱われており,個人の人格的な生存と密接かつ不可分のものということができるのであって,個人がその真に自認する性別に即した社会生活を送ることができるということは,重要な法的利益として,国家賠償法上も保護されるものというべきである。このことは,性同一性障害者特例法が,心理的な性別と法的な性別の不一致によって性同一性障害者が被る社会的な不利益の解消を目的の一つとして制定されたことなどからも見て取ることができる。〔後略〕

 

  (11)ア 〔略〕b原告の直属の上司(班長でしょうか。)であって,20143月末で定年退職予定〕が平成25年〔2013年〕117日面談において,原告に対して当該発言〔「なかなか手術を受けないんだったら,もう男に戻ってはどうか」〕とおおむね同じ内容の発言をしていたことを認めることができる。

     イ そこで,検討するに,このようなbの発言は,その言葉の客観的な内容に照らして,原告の性自認を正面から否定するものであるといわざるを得ない。

       〔略〕bは,「なかなか手術を受けないんだったら,服装を男のものに戻したらどうか」という発言をしたものであって,当該発言は,原告の性自認を否定する趣旨でされたものではない旨を主張している。しかしながら,性別によって異なる様式の衣服を着用するという社会的文化が長年にわたり続いている我が国の実情に照らしても,この性別に即した衣服を着用するということ自体が,性自認に即した社会生活を送る上で基本的な事柄であり,性自認と密接不可分なものであることは明らかであり,bの発言がたとえ原告の衣服に関するものであったとしても,客観的に原告の性自認を否定する内容のものであったというべきであって,上記(1)イのとおり,個人がその自認する性別に即した社会生活を送ることができることの法的利益としての重要性に鑑みれば,bの当該発言は,原告との関係で法的に許容される限度を超えたものというべきである(なお,被告は,bがそのような発言に至った事情として,丙〔原告の勤務部署〕において原告が性別適合手術を受けていないことを疑問視する声が上がっていたことや,当時の原告の勤務態度が芳しいものではなかったことなどを主張しているが,これらの事情を客観的に裏付ける的確な証拠はないし,仮にそのような事情があったとしても,上記の法的な評価を左右するに足りるものではないというべきである。)。

     ウ したがって,bによる上記の発言は,原告に対する業務上の指導等を行うに当たって尽くすべき注意義務を怠ったものとして,国家賠償法上,違法の評価を免れない。

 

 「なかなか手術を受けないんだったら,服装を男のものに戻したらどうか」との問題発言の問題性は,金銭換算すれば10万ないしは20万円でしょうか。「原告は,上記のとおり経産省が本件トイレに係る処遇を継続したことによって,個人がその自認する性別に即した社会生活を送ることができるという重要な法的利益等を違法に制約されるとともに,上記のbの発言によって性自認を否定されたものと受け止めざるを得ず,これらによって多大な精神的苦痛を被ったものと認めることができる。この制約された原告の法的利益等の重要性,本件トイレに係る処遇が継続された期間が長いことその他本件に現れた一切の事情を考慮すると,これらに対する慰謝料の額としては,合計120万円と認めるのが相当である。」と判示されているところ(本件判決第3の4(1)),120万円のうちその大部分は「本件トイレに係る処遇問題」に対応するのでしょうが,その対応部分が,切りのよい100万円を下回ることはないのでしょう。そうなるとbの発言に対応する部分は20万円以下ということになります。なお,不法行為による損害についての慰謝料額は,「事実審の口頭弁論終結時までに生じた諸般の事情を斟酌して裁判所が裁量によって算定」します(最判平9527民集5152024頁。名誉毀損による損害についての慰謝料額に関する判示)。


経済産業省別館
 

(1)「性別」の決定要素,「性別」に即した社会生活を送ることができることの法律上保護される利益性及び当該生活における「性別」に即した衣服を着用することの基本性

 本件東京地方裁判所判決は,「性別」について,それに即した社会生活を送ることができることが重要な法的利益として国家賠償法(昭和22年法律第125号)上(したがって,民法の不法行為法上も)保護されるものであるとした上で,それを決定するものは,生物学的性別ではなく本人の性自認であるとする判断を示しています。(そこでの「個人がその真に自認する性別」とは,当該個人が,自己がそうであるものと「心理的」に「持続的な確信を持ち」,かつ,それに「身体的及び社会的」に「適合させようとする意思を有する」ものなのでしょう(性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(平成15年法律第111号。以下「性別取扱特例法」と略します。)2条参照)。)「進歩的」なものとして歓迎される判断でしょう。しかし,そこから先の論理展開は,あるいは極めて保守的であるものと解し得るようにも思われます。

すなわち,本件東京地方裁判所判決における論理は,男女の性という二つの範疇(カテゴリー)を堅持した上で(本件原告は,飽くまでも自己の女性性貫徹の尊重を求め,「性別」に係る範疇の多様化,あるいは当該範疇の解消には直接関心を示してはいなかったようです。裁判所も,「性別は,社会生活や人間関係における個人の属性の一つとして取り扱われており,個人の人格的な生存と密接かつ不可分のもの」と言う以上は,従来取扱いの性別に係る個人の「性別」をおよそなみする社会制度は全ていけないものとするのでしょう。),性自認によって自己に割り当てた男女いずれかの「性別」に即した社会生活を送ることができるという法律上保護される利益(本件原告は,飽くまでも女性としての社会生活を送りたいと主張していたのであって,他の女性職員らとはまた区別された「性的少数者」としての社会生活を送ることは希望していなかったものでしょう。また,男女の社会生活はそれぞれ異なった種類のものであるということになるのでしょう。)を定立するとともに,その「性別」に即した社会生活の基本的な内容として「性別に即した衣服を着用するということ」を直接持ち込むものと解されます。「性別に即した衣服を着用するということ」が「性自認と密接不可分なものであることは明らか」であるとまで判示されていますから,男女いずれかを自己の「性別」とする「性自認に即した社会生活を送ることができる」法律上保護される利益をあえて主張しようとする者は,まず,当該性自認に即し,伝統的な「性別によって異なる様式の衣服を着用する」ことによる(あか)し立てから始めなければならないということのようでもあります。

「性別」の重要性が再確認されるとともに,「性別」とそれに即した服装との結び付きは,むしろ強化され,より緊密化されたようにも思われます。(また,ここでの「性別」は男女の二つ限りであり,必ずどちらか一方でなければならないのでしょう。)生物学的性別と性自認による「性別」と,ということで出発点は異なるとしても,結論としては申命記第22章第5節の教えはやはり依然として守られるべきものだ,ということになるのではないでしょうか。生物学的性別のいかんを問わず,性自認上その「性別」が女性である者に対して,服装を男のものにしたらどうかなどと(のたま)う者に対しては,神の怒りならぬ,慰謝料支払を命ずる東京地方裁判所判決の鉄槌が下されます(“Non induetur mulier veste virili.” “Abominabilis apud Deum est.”)。

 

(2)「個人の人格的な生存」と関係の薄い服装の場合

 性自認が男性である男性の女装及び性自認が女性である女性の男装並びに男装でも女装でもない服装をすることに係る各利益は,本件東京地方裁判所判決における「重要な法的利益として,国家賠償法上も保護されるもの」には,なお含まれないわけでしょう。法律上保護される利益性をそう簡単に安売りするわけにはいかないものでしょう。上記各利益は「個人の人格的な生存と密接かつ不可分」な利益とまでは認められないものでしょう。なお,「ジェンダー・フリー」なるものは,2006131日付け都道府県・政令指定都市男女共同参画担当課(室)宛て内閣府男女共同参画局「「ジェンダー・フリー」について」事務連絡において,当該用語の使用は不適切である旨宣告されています。

 しかし,「個人の人格的な生存」とは具体的には何でしょうか。言葉の輝きがまぶし過ぎて,よく考えにくいところがあります。民法については,伝統的には次のように説明されるということになるのでしょう。しかし,本件判決における用語法と整合するものかどうか。

 

   近世法が,すべての個人に権利能力を認め,これを人格者(Person)とすることは,個人について,他人の支配に属さない自主独立の地位を保障しようとする理想に基づく。それなら,近世法は,この自主独立の人格者をして,いかなる手段によってその生存を維持させようとしているのであろうか。一言にしていえば,私有(●●)財産権(●●●)の絶対を認め,契約(●●)自由(●●)()原則(●●)によってこれを活用させようとしているのである。

  (我妻榮『新訂民法総則(民法講義Ⅰ)』(岩波書店・1972年)46頁)

 

 とはいえ,「性別は,社会生活や人間関係における個人の属性の一つとして取り扱われているため,個人の人格的存在と密接不可分のものということができ」という文言は,最高裁判所第二小法廷平成31123日決定(集民2611頁)に係る鬼丸かおる裁判官及び三浦守裁判官の補足意見に出て来るものではあります。ただし,これは,性別取扱特例法31項の審判を受けられることが性同一性障害者にとって「切実ともいうべき重要な法的利益」である所以(ゆえん)を説明するという,当該審判制度の趣旨及びその設計の在り方をその利用者との関係で考えるという限定された場面で用いられた文言です。(「枕詞(まくらことば)的」文言と言うと,言い過ぎでしょうか。しかし,当該切実性・重要性は,実は論証不要の事実として既にそこにあったのではないでしょうか。)また,性別取扱特例法が性同一性障害者の「社会的な不利益の解消を目的」の一つとしているといっても,その解消方法は,同法自身,性別の取扱いの変更の審判経由の限定的なものとしています。これに対して,本件判決が「個人の人格的な生存と密接かつ不可分のもの」性から導出した「個人がその自認する性別に即した社会生活を送ることができることの法的利益」は,不法行為法を通じて,広く社会と直接かかわり,社会を拘束することになります(本件判決自身がそのことを示しています。)。このような重大な結果が,具体的な内容を有しない単なる修辞(レトリック)から生み出されるということはないはずです。

「性別」が「個人の人格的な生存と密接かつ不可分」であるのは「社会生活や人間関係における個人の属性の一つとして取り扱われ」ているからであるものとされています。しかし,「社会生活や人間関係における個人の属性」とされるものは男女の別だけではないはずです。しかして,当該他の「個人の属性」全てについても,個人がその真に自認する各属性に即した社会生活を送ることができることは法律上保護される利益である,とまで本件判決は大胆かつ積極的に含意するものではないのでしょう。「性別」のみがここで特に切り出された理由が,具体的な形でもう一つ欲しかったところです。

 

(3)19世紀パリとの比較

 本件原告の場合,いわゆるカミング・アウトをする前から既に国家公務員として就職していましたから,「通常男性がするものとされている職業に従事する女性」に対するセーヌ県警視庁の男装許可証交付の要否といった問題場面とは一応無関係であったわけです。女装しなければ国家公務員の職を失い,又は減給されるということも,我が国ではないはずです。なお,19世紀フランスにおける男尊女卑についていえば,パリにおける印刷工の日給は,同一労働であっても,男が4フラン,女が2.5フランであったので,女工として勤めていた工場を辞めて,男装して「男子工」として再就職をするに至った人がいたそうです(Bard: 5)。

他方,当事者の生物学上の男女の違いはありますが(本件原告は男性),異性装を必要とする「健康上の理由(cause de santé)」が認められる場合に係る問題としては,19世紀の悩めるParisien(ne)sと関連するところがあるでしょう。

 

(4)禮記等的懸念との関係

 「経産省においても,女性ホルモンの投与によって原告が遅くとも平成22年〔2010年〕3月頃までには女性に対して性的な危害を加える可能性が客観的にも低い状態に至っていたことを把握していたものということができる(その後,原告は,平成29年〔2017年〕7月頃までには男性としての性機能を喪失したと考えられる旨の医師の診断を受けたものである。)。」ということでしたから(本件判決第3の3(1)エ),性的交渉の発生防止に特に注意を払う前記の禮記的ないしは米国諸都市の条例的(更に前記申命記第22章第5節の立法趣旨の①的)懸念は無用であったようです。

 

(5)性自認否定の不法行為における注意義務違反

 「bによる上記の〔原告の性自認否定の〕発言は,原告に対する業務上の指導等を行うに当たって尽くすべき注意義務を怠った」ものとされていますが,この場合,業務上の指導等を行うに当たっての注意義務を尽くしたとされるためには,損害賠償請求訴訟による反撃をされてしまって役所内・社内でまずい立場にならないように,よく注意して,相手方の性自認を否定するものと客観的に解され得ると予見される発言はとにかく避けろ,ということになるのでしょうか。被侵害利益の種類と侵害行為の態様との相関関係において考察せよといわれても(我妻榮『事務管理・不当利得・不法行為(復刻版)』(日本評論社・1988年)125頁参照),相手方の性自認という極めて重い法的利益を侵害すると,その行為の態様のいかんを問わずに一発アウトとなるようです。

東京地方裁判所は,性自認否定の不法行為に係る違法性成立に必要な侵害態様について説くところが多くありません。原告は「平成2111月頃の時点において二,三年以内に性別適合手術を受けることを想定している旨を述べていた」そうですから(本件判決第3の3(12)イ),それから3年余経過しても性別適合手術を依然受けていない原告に対して,「原告が性別適合手術を受けていないことを疑問視する声が上が」ることは――原告の女性としての性自認(ここでは主に,女性としての性別に「身体的」に「適合させようとする意思」の部分)の有効性ないしは強度について,変化があり得ると考える立場を採れば――あるいは無理からぬことであり(性自認が変化したのではないかとの疑問に基づく「疑問視」),当該「疑問」の存在を行為の違法性判断に当たって考慮してもよかったようにも思われますが,同裁判所は「仮にそのような事情があったとしても,上記の法的な評価を左右するに足りるものではないというべきである。」と一蹴しています。

 ところで,慰謝料は,「不愉快ノ感情」といった形での「財産以外の損害」(民法710条)を「金銭ニ見積リ以テ之ヲ賠償」するものですが(梅謙次郎『民法要義巻之三 債権編(第33版)』(法政大学=有斐閣書房・1912年)885頁),その前提として,民法709条ならば「権利又は法律上保護される利益の侵害」,国家賠償法1条ならば「違法」行為が必要となるところです。本件判決は,「客観的に原告の性自認を否定する内容」の発言があれば直ちに国家賠償法1条の違法性があるとするもののようです。そうであれば,「個人がその真に自認する性別に即した社会生活を送ることができる」という法律上保護される利益は,当該利益の主体に対して,その性自認を客観的に否定する内容の発言が到達したときには,それだけで直ちに侵害されてしまうものとなります。なかなか脆弱です。あとは当該主体に損害としての「不愉快ノ感情」が起こるかどうかですが,自分の意見・考え・自意識を否定するような発言を聞かされ,あるいは読まされることは,通常,不愉快の感情を催させるものでしょう(民法4161項参照)。随分窮屈です。沈黙は金,ということになるのでしょう。

敬して遠ざけるか。しかし,separate-but-equal状態では,今度は,そもそもの「社会生活を送ること」がお膳立てされていないという苦情がありそうです。

なかなか難しいなぁと嘆息して倒れることとも,堪忍してよと逃げることも,およそ許されません。「性同一性障害者の性別に関する苦痛は,性自認の多様性を包容すべき社会の側の問題でもある」(前記最決平31123鬼丸=三浦補足意見)とともに,その正面からの否定は一切許されない重大な法益たる性自認は,生物学上の性別をそのまま自己の「性別」と自認している普通の人々にもそれぞれあるはずなのでした。

 

(6)性別取扱特例法3条1項の要件の不要と同法4条1項の効果の要否と

 さて,本件判決によれば,個人がその真に自認する「性別」に即した社会生活を送ることができるという法律上保護される利益を享受するには,(当該「性別」と生物学的性別とが一致しない者については)性別取扱特例法2条の性同一性障害者であればよく(原告は性同一性障害者であるとの専門医の診断を得ています。また,同判決は,「個人がその真に自認する性別に即した社会生活を送ることができるということは,重要な法的利益として,国家賠償法上も保護されるものというべきである」との判断の理由付けに性別取扱特例法を援用しています。),同法31項の要件(家庭裁判所の性別の取扱いの変更の審判。その前提条件としては,特に,生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること(同項4号)及びその身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること(同項5号))の充足は不要であるということになるようです。

ただし,性別取扱特例法31項の要件を充足しなければ,「民法(明治29年法律第89号)その他の法令の規定の適用については,法律に別段の定めがある場合を除き,その性別につき他の性別に変わったものとみなす。」との規定(性別取扱特例法41項)の適用を受けることはできません。しかし,当該規定の適用前の段階で既に社会生活上の保護は受けられるわけです。

生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること,その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること等の要件を満たして家庭裁判所の審判を受けた者もそうでない者も,自認する「性別」に即して社会生活を送ることができる点では同様ということになり,周囲の人々も,その性自認を否定しないように細心の気配りをしなければならない点ではいずれに対しても同様ということになります。しかも,社会生活において,男女間で「法令の規定の適用」の結果が異なることは実はそう多くはないようです。トイレの使用についてすら,法令の規定自体がはっきりしていません。本件判決は,「トイレを設置し,管理する者に対して当該トイレを使用する者をしてその身体的性別〔生物学的な性別〕又は戸籍上の性別と同じ性別のトイレを使用させることを義務付けたり,トイレを使用する者がその身体的性別又は戸籍上の性別と異なる性別のトイレを使用することを直接的に規制する法令等の規定は,見当たらない。」との認識を示しています(本件判決第3の3(1)ア)。

 

(7)性自認と「真の」性自認と

しかしながら,その性自認(以下,性別取扱特例法2条の性同一性障害者のそれに限らないこととします。)に係る「性別」が同じものである人たちも,内部においては一枚岩ではないようです。当該「性別」が生物学的性別と一致する人たちと一致しない人たちとの間の問題はここでは措くとしても,後者の内部でも,性別取扱特例法314及び5号の要件に係る評価をめぐり対立があるようです。

 

 〔略〕「身体」が重視される一方で,「装い」は軽視される傾向にあります。だから,現代の性同一性障害者の基本的な考え方のように,性別を変えるということは,イコール身体を変えること,性器の外形を変えることになってしまうのです。〔略〕

  今の日本の社会では,私のように「身体」よりも「装い」を重視し,性別を移行するのに,身体をいじらない人は少数派です。だから,性同一性障害の人からは,よく「変態」,「変態」と言われます。「三橋なんて,どんなに女を装っても,身体は変えていないのだから,裸になれば男じゃないか,それで女のふりして暮らしているのは変態だ。」ということです。〔後略〕

 (三橋順子「トランスジェンダー(性別越境)観の変容:近世から現代へ」女性学連続講演会(大阪府立大学)第5回講演(201014131頁)

 

 無論,自己を「身体的に〔略〕他の性別に適合させようとする意思」がなければ,そもそも性同一性障害者ではありません(性別取扱特例法2条)。本件東京地方裁判所判決は「個人がその真に自認する性別に即した社会生活を送ることができるという」法律上保護される利益を認めましたが,ここでいう「真に自認」の「真に」は,「身体的」にもその「性別」に適合させようとする意思の存在までを意味するもののように思われるところです。

 ここで用語を細分してみましょう。「性同一性障害者」は性別取扱特例法2条のそれとして(したがって,専門医2名以上のその旨の診断を受けています。),専門医2名以上の診断を受けていること以外の同条の要件のみを充足している者を「未診断性同一性障害者」と,未診断性同一性障害者の要件から「自己を身体的に他の性別に適合させようとする意思」の要件を除いた要件のみを充足する者を「異性自認者」と(なお,「自己を社会的に他の性別に適合させようとする意思」が無い者については,取りあえず,他者とのかかわりにおいて問題が提起されることはなさそうです。),性同一性障害者のうち性別適合手術を受ける意思のない者を「手術不希望性同一性障害者」ということにしましょう(ちなみに,本件原告が性別適合手術を受けていないのは「皮膚アレルギーが原因」であって(本件判決第3の3(12)イ),性別適合手術を受ける意思がないわけではないようです。)。

 本件東京地方裁判所の事案は性同一性障害者に係るものでしたが,その射程内には,論理上,未診断性同一性障害者も含まれそうです。異性自認者が含まれるのかどうかは,分かりません。

 手術不希望性同一性障害者と異性自認者とは別個に存在し得る理窟です。これには,前記最決平成31123日がかかわります。

 性別取扱特例法31項の審判を受けるための要件として同項4号の規定が設けられていることは憲法13条ないしは同141項に違反するのではないかという論点がかねてあり,最決平成31123日は,同号たる「本件規定は,現時点では,憲法13条,141項に違反するものとはいえない。」と判示しています(つまり,遠くない将来,違憲・不要とされる可能性がある。)。その際「性同一性障害者によっては,上記〔生殖腺除去〕手術まで望まないのに当該〔性別の取扱いの変更の〕審判を受けるためにやむなく上記手術を受けることもあり得る」との問題意識が前提とされています。すなわち,手術不希望性同一性障害者も性同一性障害者なのです。しかし,異性自認者ではないようです。性同一性障害者の定義に係る「自己を身体的に他の性別に適合させようとする意思」にも幅があり,必ずしも生殖腺除去手術を受ける意思までを必要とするものではない,と最高裁判所は考えているようです。(身体的に適合させようとする意思があるのならば,その意思に従った効果(医術的に可能な最大限の適合=性別適合手術による適合)を発生させるという決意が当然伴われており,かつ,当該決意は事故なき限り必ず貫徹される,という単純なことではないようです。)。手術不希望性同一性障害者と異性自認者にとどまるものとの切り分けは,実はなかなか微妙ではないかとも思われますが,専門的技術的知見を有する専門医にとっては問題とはならないものなのでしょう。あるいは,異性自認者という概念設定の方に無理があるということになるのかもしれません。

 また,本件東京地方裁判所判決は,個人の真の性自認という,意思の要素を専ら強調していますが,社会生活の実際の現場においては,当該意思の有無をどう判断するかは難しい問題でしょう。事実上は,提示可能な診断書とともに専門医2名以上からその旨の診断を得て性同一性障害者にならなければ「性自認に即した社会生活を送ることができる」という東京地方裁判所折角の法律上保護される利益の保護は画餅に帰するということになるのでしょうか。しかし,本件判決の意思主義的論理は,専門医の診断という制度的要件を不要のものとするはずです。

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1 申命記:第22章第5節

 ユダヤ教等の聖典に次のような規定があります。紀元前13世紀のモーセが書いたものか,紀元前7世紀・ヨシヤ改革王治下のユダ王国において書かれたものか。

 

  Non induetur mulier veste virili,

      nec vir utetur veste feminea;

      abominabilis enim apud Deum est qui facit haec.

      (Dt 22,5)

  (女は男の衣裳を着せらるることなく,

  (男は女の衣裳を用ゐることなし。

  (何となれば,これらのことを行ふ者は,主において忌まはしきものなればなり。)

  (申命記第22章第5

 

筆者が「衣裳」と訳した後は,ラテン語ではいずれもvestis”(女性名詞。“veste”奪格形)ですが,TheTorah.comウェブサイトに掲載されているヒラリー・リプカ(Hilary Lipka)博士の論文“The Prohibition of Cross-Dressing / What does Deuteronomy 22:5 prohibit and why?”https://www.thetorah.com/article/the-prohibition-of-cross-dressingによれば,ヘブライ語ではそれぞれ別の語が用いられており,前者はkeli” (item),後者はsimlah” (garment)であるそうです。また,ラテン語では“uti”“utetur”は三人称単数未来形。目的語は奪格形をとる。)とされた元のヘブライ語動詞の意味は“to wear, put on”であり,“non induetur“induetur”induereの受動態三人称単数未来形)に対応するヘブライ語部分の意味は“there shall not be upon”であるそうです。女性に対して禁止されている行為の範囲(virile “garment”の着用禁止に限られない。)の方が,男性に対するそれよりも広い。

King James’s Versionでは,“The woman shall not wear that which pertaineth unto a man, neither shall a man put on a woman’s garment: for all that do so are abomination unto the LORD thy God.”と訳されています。

申命記第22章第5節の立法趣旨としては,①淫行(illicit sexual activity)をする目的で男(女)性が女(男)装して専ら女(男)性のグループに立ち交じることの禁止,②異性装は偶像崇拝教の儀式として行われるものであるからという理由による禁止(筆者の手許のHerder社のEinheitsübersetzung版には「衣裳交換は,カナンの固有信仰において一の役割を演じていた。」との註が付されてあります。),③分かれてあるべきものとして神が作ったものを混ぜ合わせることの禁止,④更に壮大に,神による一連の分離の業によって創造された世界がそれを支える各分界が不明瞭にされることによって混沌に陥ることを防止するための禁止,並びに⑤男女の区別及び性別による役割分担のシステムを保持するための禁止といったものが唱えられていることを紹介した上で,リプカ博士は,⑥女性に対する禁止の方が幅広いことから,同節前段の「女性に対する,男性性に結び付いたあらゆる物――恐らく,衣服,伝統的武器並びに男性の仕事及び活動に結び付いている道具が含まれる――を着用又は佩用することの禁止は,男性の(優越的な)社会的地位を守ろうとする努力の一環だったのではないか。男性性に係る附随物を女たちから遠ざけておくことは,女たちがその「適正な」社会的位地にとどまることを確保する一方法である。」とし,後段については,「この法の制作者らは,「女っぽい」と見られる衣裳を着用することを男たちに禁ずることによって,彼らが,その外見を通じて彼ら自身の男性性(masculinity)の土台を掘り崩すこと(undermining)を防止しようと試みているのである。」と述べています。男性性を保護するため(Protecting Manhood”)ということですから,女性からの(潜在的)脅威の前に,男性らは兢々として防備を巡らしていたということになるようです。

女神の男装及び武装を是認する我がおおらかな神話の世界に比べると,せせこましい。

 

 天照大神〔中略〕(すなはち)(みかみを)(みづらと),縛(みもを)爲袴,〔略〕又(そびらに)千箭(ちのり)()(ゆきと)五百箭(いほのり)()(ゆき)(ひぢに)稜威(いつ)()高鞆(たかともを),振起(ゆはずを)急握劍柄(たかみを),蹈堅庭(かたにはを)而陷(むかももを),若沫雪(あわゆきの)蹴散(くゑはららかし),奮稜威(いつ)()雄誥(をたけびを),發稜威(いつ)()噴讓(ころひを)〔後略〕

 (日本書紀巻第一神代上〔第六段〕正文)

 

2 禮記:郊特牲第十一及び内則第十二

 ユーラシア大陸の東部に目を転ずると,禮記の郊特牲第十一には次のようにあります。

 

  男女有別。然後父子親。父子親然後義生。義生然後禮作。禮作然後萬物安。無別無義。禽獸之道也。

  男女別有りて,然る後に父子親しむ。父子親しみて,然る後に義生ず。義生じて,然る後に礼(おこ)る。礼(おこ)りて,然る後に万物安し。別無く義無きは,禽獣之道也。

 

 「男女有別」の意味は,正統的には,「男女は礼をもって交わるべきで,みだりになれ親しんではいけない。また,男と女とでは,守るべき礼式に区別があること」と解すべきもののようです(『角川新字源』(第123版・1978年)669頁)。しかし,原典においては続けて「然後父子親」とあるので,民法(明治29年法律第89号)などに親しんで,法律上の父子親子関係成立の難しさを知ってしまった法律家としては,ここでの「男女有別」を,「妻が婚姻中に懐胎した子は,夫の子と推定する。」との嫡出推定規定(民法7721項)が働く前提となる状態を示すものとひねって解したくなるところです。

我が民法7721項の嫡出推定規定の正当化根拠は「妻ハ稀ニ有夫姦ヲ犯スコトナキニ非スト雖モ是レ幸ニシテ例外中ノ例外ナル」ことだとされています(梅謙次郎『民法要義巻之四 親族編(第22版)』(法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1912年)240頁)。ということであれば,「男女有別」は妻による有夫姦を防止するための策ということになります。制度的にはどのように発現するかといえば,物理的隔離でしょうか。禮記の内則第十二にいわく。

 

  禮始於謹夫婦。爲宮室。辨外内。男子居外。女子居内。深宮固門。寺守之。男不入。女不出。

  礼は夫婦を謹むに始まる。宮室を(つく)りて,外内を辨じ,男子は外に居り,女子は内に居り,宮を深くし門を固くし,閽寺(こんじ)宮刑に処せられ門番をする者〕之を守り,男は入らず,女は出でず。

 

 またいわく。

 

  男不言内。女不言外。非祭非喪。不相授器。其相授則女受以。其無。則皆坐。奠之而后取之。外内不共井。不共。不通寝席。不通乞假。男女不通衣裳。内言不出。外言不入。

  男は内を言はず,女は外を言はず。祭に非ず喪に非ざれば,器を相授けず。其の相授くるには則ち女は受くるに()〔竹製の方形のかご〕を以てす。其の篚無きときは,則ち皆坐して,之を()きて而して后に之を取る。外内井を共にせず。(ひょく)浴〔湢は浴室〕を共にせず。寝席を通ぜず。乞仮を通ぜず。男女衣裳を通ぜず。内言出でず,外言入らず。

 

「不通寝席。不通乞假。男女不通衣裳。」の部分は,「寝るための筵を共用せず,物を貸し借りせず,衣裳を共用しない。」ということであるとされています(任夢渓「『礼記』における女性観――儒教的女子教育の起点――」文化交渉・東アジア文化研究科院生論集(関西大学)4103頁)。「不通」が,衣裳を共用しない,という意味であれば,男性が自己専用の女性用衣裳を着用し,女性が自己専用の男性用衣裳を着用することのみであれば,男女の出会いの機会を芟除(さんじょ)せんとするここでの禁止には直接抵触しないもの()(無論,男性が女装して女性の間に立ち交じり,女性が男装して男性の間に立ち交じるということは当然禁止でしょう。)。

なお,余談ながら,男女有別であるから,男女の性別に係る性を表わす英単語は,人に生まれながら備わっている心を表わす趣旨のもの(「性」を分解すると,「生」及び「心(忄)」となります。)ではなく,sexであるのでしょう。sexはラテン語のsexus(第四変化の男性名詞)に由来し,“sexus”は,「切る,切り分ける」という意味の動詞である“secare”(一人称単数直説法現在形は“seco”)に由来するものです。したがって,合体というよりは,別居している様子(「男子居外。女子居内。」)がむしろふさわしい単語です。

 

3 東京違式詿違条例62条等

 我が国では,「ざんぎり頭の唄」(ザンギリ頭をたたいて見れば,文明開化の音がする)がはやった風俗変動期の1873年(明治6年)に至って,その年8月に出された法令に次のようなものがあります。

 

  ○第131号(812日)〔司法省〕

  今般違式罪目左之(とおり)追加(そうろう)此旨(このむね)及布達(ふたつにおよび)候事(そうろうこと)

  第62条 男ニシテ女粧シ女ニシテ男粧シ或ハ奇(かい)ノ粉飾ヲ為シテ醜体ヲ露ス者

   但シ俳優歌舞(ママ)等ハ勿論女ノ着袴スル類此限ニ非ス

  ○第138号(827日)〔司法省〕

  当省第131号ヲ以テ相達候(あいたっしそうろう)違式罪目追加第62条文中粉飾ハ扮飾ノ誤ニ(そうろう)為心得(こころえのため)此旨(このむね)及布達(ふたつにおよび)候事(そうろうこと)

 

18738月といえば,その17日の閣議で西郷隆盛の朝鮮国派遣が決定されるという征韓論の盛んな時期でした。司法卿・江藤新平は,まだ下野していません。

 

  翌日,〔江藤新平は〕妾の小禄を屋敷によびよせた。小禄は婦人のくせに羽織をきてやってきた。

  〔江藤新平正夫人〕千代は,彼女の居間で小禄を引見したとき上座からひたい越しに小禄を見て,なによりもそのことにおどろいた。

 (女が,羽織を)

  ということであり,羽織とは男の用いるものだと千代は信じこんでいたが,東京はどうなっているのであろう。やがてのちに千代は例外があることを知った。江戸ではよほど以前から深川芸者が羽織を着ていたという。それをまねて他の場所の芸者や素人のあいだでもそれを着ることがあるという。しかし,このときは知らなかった。

 (司馬遼太郎『歳月』(講談社・1969年)129-130頁)

 

なお,明治6年司法省第131号布達で第62条が追加された先は,明治五年「十一月八日〔1872128日〕東京府布達ヲ以テ来ル十三日〔同月13日〕ヨリ施行」された明治五年十一月の司法省の違式詿違(かいい)条例です(施行地は東京府限りということになります。)前月の明治6年(1873年)719日太政官布告第256の違式詿違条例ではありません。当該明治6年太政官布告の違式詿違条例は布告文で「各地方違式詿違条例」であるものとされており,かつ,その第62条には詿違罪目の一として既に「酔ニ乗シ又ハ戯ニ車馬往来ノ妨碍ヲナス者」が掲げられていました。

ところで,東京の違式詿違条例の第62条は,規定の場所からは一見すると詿違罪目への追加であるかのようですが(同条例の原始規定においては,第29条から最後の第54条までは詿違罪目でした。),その追加の布達文を見ると,違式罪目となっています。「違式」と「詿違」とは何が違うかといえば,前者の方が後者よりも刑が重いのでした。すなわち,違式の刑は75銭より少なからず150銭より多からざる贖金の追徴(同条例1条)であったのに対して,詿違の刑の贖金の追徴額は655毛より少なからず125釐より多からざるものとされていました(同条例2条。ただし,1876613日の太政官東京警視庁宛達によって,5銭より少なからず70銭より多からざるに改められました。)。贖金は,18781021日の明治11年太政官布告第33号によって科料に改められています。無〔資〕力の者に対する「実決」は,違式の場合は10より少なからず20より多からざる笞刑であったのに対し,詿違の場合は1日より少なからず2日より多からざる拘留でした(同条例3条。ただし,1876914日の明治9年太政官布告第117号によって,違式については8日より少なからず15日より多からざる懲役に,詿違については半日より少なからず7日より多からざる拘留(ただし,適宜懲役に換えられることあり。)に改められました。その後明治11年太政官布告第33号によって,違式は5日より少なからず10日より多からざる拘留に,詿違は半日より少なからず4日より多からざる拘留に更に改められています。)。1876613日の前記達で加えられた第6条は弾力条項で「違式ノ罪ヲ犯スト雖モ情状軽キ者ハ減等シテ詿違ノ贖金〔科料〕ヲ追徴シ詿違ノ罪(ママ)ヲ犯スト雖モ重キハ加等シテ違式ノ贖金〔科料〕ヲ追徴スヘシ其犯ス所極メテ軽キハ()タ呵責シテ放免スル(こと)アルヘシ」と規定していました。

違式詿違条例の執行については,明治五年十月九日司法省伺同月十九日(18721119日)正院定に係る太政官の警保寮職制の第1条において,少警視・権少警視について「各大区ニ派出シ区中警保ノ事ヲ督シ警部巡査ヲ監視シ違式以下ノ罪ヲ処断ス其決シ難キモノハ決ヲ大警視ニ取ル」と,大警視・権大警視について「各府県ニ派出シ管下警保ノ事ヲ監督シ少警視及警部巡査ヲ総摂シ違式以下ノ罪決シ難キヲ処断ス」と定められていました(下線はいずれも筆者によるもの)。187541日から施行された行政警察規則(明治8年太政官達第29号)の第2章「警部勤務ノ事」の第7条には「違警犯人ハ其犯状ヲ按シ違警条目ニヨリ処断シテ後長官ニ具申シ其疑按アルモノハ長官ノ指揮ヲ受ケテ処分スヘシ」と規定されていました。裁判所を煩わすまでもない,ということでした。後の有名な違警罪即決例(明治18年太政官布告第31号)の(さきがけ)です。

東京の違式詿違条例62号の罪に該当する罪は明治6年太政官布告第256号にはなかったのですが,当該太政官布告の布告文には「但地方ノ便宜ニ依リ斟酌増減ノ(かど)ハ警保寮ヘ可伺(うかがいい)(づべく)(かつ)条例掲示ノ儀モ同寮ノ指揮ヲ可受(うくべき)(こと)」とされていたので,各地で追加が可能でした。例えば,大分県では1876年の警第35号違式詿違云々達により187711日から女装・男装行為が詿違の罪に加えられています(春田国男「違式詿違条例の研究―—文明開化と庶民生活の相克――」別府大学短期大学部紀要13号(1994年)46-47頁)。京都府では,1876102日の明治9年京都府布達第385号違式詿違条例52条において,東京の違式詿違条例62条の罪に相当する罪(ただし,「歌舞妓」ではなく「舞妓」)が違式の罪として定められていました(西村兼文『京都府違式詿違条例図解』(西村兼文・1876年))。187861日から施行の明治11417日栃木県乙第104号布達の栃木県違式詿違条例の第11条は,違式罪目の一として,「奇怪ノ扮装ヲ為シテ徘徊スル者」を掲げていました(平野長富編『栃木県違式詿違条例図解』(集英堂・1878年))。

東京の違式詿違条例(明治五年十一月・司法省)も各地方の違式詿違条例(明治6年太政官布告第256号)も,旧刑法(明治13年太政官布告第36号)の施行(188211日から(明治14年太政官布告第36号))によって消滅しました。旧刑法には東京の違式詿違条例62条の罪に相当する罪を罰する旨の規定は設けられていませんでした。

しかしながら,18778月に大木喬任司法卿から元老院に提出された旧刑法の法案においてはなお,異性装の罪が違警罪の一つとして全国的に処罰されるべきものとされていました。

 

 478. Seront punis de 5 sens à 50 sens d’amende:

  ………

  16° Les hommes ou femmes qui, hors des théâtres, se seront montrés en public avec des vêtements d’un autre sexe que le leur;

(第478条 左ノ諸件ヲ犯シタル者ハ5銭以上50銭以下ノ科料ニ処ス

  〔略〕

(十六 演劇外ニ於テ異性ノ者ノ衣裳ヲ着シテ公然現レタル男又ハ女)

  (Projet de Code Pénal pour l’Empire du Japon présenté au Sénat par le Ministre de la Justice, le 8e mois de la 10e année de Meiji. (Kokubunsha, Tokio, 1879) pp.158-159

 

 これは,ボワソナアドのフランス語でしょう(大久保泰甫『日本近代法の父 ボワソナアド』(岩波新書・1998年)114-115頁)。

 ボワソナアドは,旧刑法施行の4年余の後に印刷されたProjet Révisé de Code Pénal pour l’Empire du Japon accompagné d’un Commentaire” (Tokio, 1886)(「大日本帝国刑法典の註釈付き再訂草案」)において,なおも異性装の罪を設けるべきものとしています。しかも18778月案におけるものよりも刑が重くなっています。

 

  486. Seront punis de 1 à 3 jours d’arrêt et 50 sens à 1 yen 50 sens d’amende, ou de l’une de ces deux peines seulement:

    ………

    4° Les hommes ou femmes qui, hors des théâtres ou des fêtes autorisées, se seront montrés en public avec des vêtements d’un autre sexe que le leur;

  (第486条 左ノ諸件ヲ犯シタル者ハ1日以上3日以下ノ拘留及ヒ50銭以上150銭以下ノ科料又ハ両刑中一方ノミニ処ス

    〔略〕

(四 演劇又ハ公許ノ祭礼外ニ於テ異性ノ者ノ衣裳ヲ着シテ公然現レタル男又ハ女)

  Boissonade, pp.1269-1270

 

品位及び良俗に反する(contre la Décence et les Convenances Publiques)違警罪に分類されています(Boissonade, p.1269)。

司法省レヴェルではともかくも,その上部での,「男ニシテ女粧シ女ニシテ男粧シ或ハ奇(かい)ノ扮飾ヲ為シテ醜体ヲ露ス者(但シ俳優歌舞妓等ハ勿論女ノ着袴スル類此限ニ非ス)」ぐらいの行為は,やっぱりいちいち罰しなくてもよいよ,との我が国政府のさばけた判断に対して,フランス人ボワソナアドは随分生真面目に頑張っていたわけです。

異性装規制は,そもそも,我が国の伝統に根ざしていなかったということでしょうか。西洋人辺りから言われてつい導入しただけのものだったのでしょうか。

確かに,東京違式詿違条例62の構成要件をよく見ると,「(A)(α)男ニシテ女粧シ,(β)女ニシテ男粧シ,或ハ〔又は〕(γ)奇恠ノ扮飾ヲ為シテ,〔その結果〕(B)醜体ヲ露ス者」ですから,Aのみでは不足で,AかつB(醜体)でなければならず,更にAのうちα及びβは,あるいはγの例示にすぎないもののようにも思われます。(「醜体」は,警察犯処罰令(明治41年内務省令第16号)32号の「醜態」に係る大判大2123刑録191369号によれば「公衆ヲシテ不快ノ念ヲ抱カシムヘキ風俗即チ醜体」(伊藤榮樹(勝丸充啓改訂)『軽犯罪法 新装第2版』(立花書房・2013年)161頁(注2)における引用による。)ということになるようです。なお,東京違式詿違条例中の「醜体」仲間には,いずれも違式罪目として「裸体又ハ袒裼(たんせき)〔かたぬぎ・はだぬぎ〕シ或ハ股脚ヲ露ハシ醜体ヲナス者」(第22条)及び「男女相撲並蛇遣ヒ其他醜体ヲ見世物ニ出ス者」(第25条)がありましたが(註1),これらも旧刑法の違警罪からははずれています。ただしその後,警察犯処罰令32号で「公衆ノ目ニ触ルヘキ場所ニ於テ袒裼,裸(てい)〔裎も「はだか」〕シ又ハ臀部,股部ヲ露ハシ其ノ他醜態ヲ為シタル者」の形での復活があったわけです(すなわち,「醜態」であれば,「袒裼,裸裎シ又ハ臀部,股部ヲ露ハ」すもの以外の行為でも該当する建前である構成要件です。)。)要は見苦しさ(醜体)の有無の問題であって(脱衣の場合は東京違式詿違条例22条,着衣の場合は同条例62条),申命記22章第5節的な深刻な背景はなかったようでもあります(井上清『日本の歴史20 明治維新』(中央公論社・1966年)213頁においては,違式詿違条例の罪目は「およそ考えつくかぎりの,当時の役人の感覚で無作法あるいは見苦しい,他人の迷惑となる事項の禁止条項」であると評されています。)。これに対して,旧刑法18778月フランス語案47816号及びボワソナアド案4864号では,Bの要件抜きに,かつ,異性装と関係の無いγは排除して,α又はβのみの充足で直ちに犯罪成立ということになっていますから,異性装の端的な禁止規定としては,こちらの方が純化されています。(註2)(註3


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1 成年年齢引下げ

平成30年法律第59号によって,202241日から(同法附則1条)民法(明治29年法律第89号)4条が「年齢20歳をもって,成年とする。」から「年齢18歳をもって,成年とする。」に改まります。いかにも「やってる感」ある法改正でした。しかしながら,大学生が1年生及び2年生をも含めて堂々とお酒を飲んで仲間と楽しくコンパできるようになってキャンパス・ライフが昭和化するというわけではありません(平成30年法律第59号附則7条参照)。

ちなみに昭和とは,我が国が「激動の日々を経て,復興を遂げた」栄光の時代です(国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)2条)。「復興」とはどの時代との対比でいうのかといえば,皇室は正嫡の四皇子(皇太子裕仁親王,雍仁親王,宣仁親王及び崇仁親王)が揃っておられて盤石,国家はパリ講和会議における戦勝五大国のメンバーにして国際聯盟の四常任理事国(日本,英国,仏国及び伊国)の一,人民は当時のスペイン風邪(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1077312171.html)など令和の新型コロナウイルス感染症が深刻な情況をもたらしているほど気には病まずに四大政策(教育の改善,交通通信機関の整備,国防の充実及び産業の奨励)を掲げる原敬内閣の下に活気をもってデモクラシーに邁進していた若々しかりし大正の御代との対比においてでしょう。

 

2 改正後民法4条と皇室典範22条と

ところで,皇室典範(昭和22年法律第3号)22条は「天皇,皇太子及び皇太孫の成年は,18年とする。」と現在規定しているところ,平成30年法律第59号による民法4条の改正に伴って同条と重複した規定となるので「削除」となる,とはならないことになっています。天皇及び皇族に民法の適用があり,したがって皇室典範22条が単に民法4条の特則であるのならば,本則が特則に揃った以上不要となった特則は引っ込むべきなのですが,引っ込まずにそのまま居残るとはこれいかに。

201828日付けの産経ニュース・ウェブサイトの記事によれば「法務省は〔同月〕8日,成年年齢を20歳から18歳に引き下げる民法改正案の概要を与党に示した。成年年齢引き下げに併せて皇室典範の成年年齢条文の削除も検討されているが,自民党の法務部会など合同会議では,この点について議員から「皇室典範を議論に入れるのは不敬なのでは」などとの発言があり紛糾した。」ということですから,法務省の法案作成担当者は確かに「皇室典範22条=民法4条の特則」説を採っていたものの,それを条文の改正で示すことは「不敬」であるということで皇室典範22条の削除は諦めたということのようです。

画像

Nolite majestatem laedere!


3 平成30年法律第59号施行後の皇室典範22条

で,そのように諦めた上での皇室典範22条存置の理由付けはどうだったのでしょうか。平成30年法律第59号の法案審議がされた第196回国会では明らかにされなかったようです(国立国会図書館の国会会議録検索システムで筆者が「皇室典範」の検索語で検索をかけてもヒットしませんでした。)。言いっぱなしで,とどめを刺すべき後の始末が尻抜けということでは,「不敬!」と怒号せられた自由民主党の国会議員諸賢も法制的な詰めが甘い。当該理由付けを,なお考えねばならないことになります。

 

(1)意図的「立法ミス」説

理由付けとして考えられるものの一つは,天皇及び皇族に民法の適用があることを前提とした上で,法制執務の美学を犠牲にして意図的に「立法ミス」を犯したことによる規定の重複であるとするものです。

しかし,「通常国会に法案を提出する期限だった〔20213月〕9日。坂井学官房副長官は衆院議院運営委員会理事会で4件の法案をめぐる問題を説明したうえで,陳謝した。/デジタル改革関連法案の誤字や表記ミス▽地域的包括的経済連携(RCEP)協定承認案の日本語訳の欠落や重複▽保険料誤徴収などの発覚による貿易保険法改正案提出見送り▽与党内の調整が進まず,土地規制強化法案の提出期限が間に合わなかったこと――の4件だ。/高木毅議運委員長(自民)は「国会に対して,少し緊張感を持って対応して頂かないと困る」と苦言を呈した。小川淳也・野党筆頭理事(立憲)は「前代未聞の緩みだ」と指摘した。」ということですから(202139日付け朝日新聞Digitalウェブサイト),「意図的に緊張感を解き,気を緩めて法制上の不体裁をあえてやっちゃいました。」というテヘペロ的言い訳が通るかどうか。「霞が関官僚たる上級国民のくせになんだ!業者から国家公務員倫理法違反の74203円の高額接待ばっかり受けていい気になってるんじゃないよ。」と再び怒号の渦が逆巻くとすれば,恐ろしいことです。

 

(2)独自「成年」説の挫折

それでは,皇室典範22条の「成年」は,人の行為能力に係る民法4条の成年とは異なる皇室典範独自の「成年」なのだ,それは,それ未満であれば摂政を置くべきこととなる天皇の年齢(同法161項),摂政に就任可能な皇族の年齢(同法171項・19条)並びに皇族会議議員及び同予備議員に係る互選権を有し,かつ,就任可能な皇族の年齢(皇室典範283項・302項)のみに係る「成年」なのだ,という主張は可能か。

しかしこれは,皇太子又は皇太孫以外の皇族に係る「成年」の年齢については皇室典範中には規定がないのですがどこから持って来るのですか,との質問で倒れます。皇太子又は皇太孫以外の皇族の「成年」は,他の法律仲間を見渡して,やはり民法4条から持って来た成年であると答えざるを得ないでしょう(園部逸夫博士も「皇太子及び皇太孫以外の成年は,民法により満20年と定められることになる。」と説いています(同『皇室法概論―皇室制度の法理と運用―(復刻版)』(第一法規・2016年)253頁)。)。そうであれば皇室典範22条の「成年」も,民法4条の成年を前提とした上での年齢の数字に係るその特則と解すべきものとなるようです。したがって,平成30年法律第59号の施行後は,やはり皇室典範22条は民法4条と重複する盲腸規定(この表現も「不敬」でしょうか?)となりそうです。

 このままでは,故意に法制的不体裁を作出した「意図的「立法ミス」説」を採らざるを得ないようです。美しくないですね。

 

(3)国の儀式たる成年式根拠説

 しかし諦めるわけにはいきません。どう考えるべきか。そうだ,残される皇室典範22条に,天皇並びに皇太子及び皇太孫に係る行為能力規定であるとの意味を超えた何らかの独自の意味を持たせればよいではないか。

 ということで思い付いたのが,天皇並びに皇太子及び皇太孫の成年式を国事行為たる国の儀式として行うための根拠規定説です。確かに,その第13条で「天皇及皇太子皇太孫ハ満18年ヲ以テ成年トス」と,第14条で「前条ノ外ノ皇族ハ満20年ヲ以テ成年トス」と規定していた明治皇室典範の下,皇室成年式令(明治42年皇室令第4号)は,天皇(同令1条)並びに皇太子,皇太孫,親王及び王(同令9条)について成年式を行うべきことを定めていました。日本国憲法及び現行皇室典範下において満18歳となって成年に達した天皇又は皇太子(今上天皇が皇太子となったのは,28歳の時です。)若しくは皇太孫は,19511223日が満18歳の誕生日であった皇太子明仁親王(現在の上皇)のみですが,サン・フランシスコ講和条約発効(1952428日)後の19521110日に,立太子の礼(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1077209171.html)と併せて,皇太子成年式加冠の儀及び皇太子成年式・立太子の礼朝見の儀が国事行為たる国の儀式として行われています(更に同月12日から14日まで皇太子成年式・立太子の礼宮中饗宴の儀を開催)(園部262頁・263頁)。(なお,19511223日当日に祝賀行事が行われなかったのは,昭和天皇が依然御母・貞明皇后の崩御(同年517日)後の服喪中(期間は1年)であったためだそうです(宮内庁『昭和天皇実録 第十一』(東京書籍・2017年)323頁)。)他方,日本国憲法及び現行皇室典範下における他の親王及び王の成年式6件(王については例がありませんが。)については,国事行為たる儀式とはされなかったようです(園部263-264頁)。

ちなみに,人民の子女に係る「成人の日」(国民の祝日に関する法律2条)が初めて「国民の祝日」として祝われたのは,1949115日のことでした。

(なお,明治典憲体制下では,皇室の儀礼中,国の大典となるものは即位の礼,大嘗祭及び大喪儀その他の国葬のみだったようです(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)217頁。現行皇室典範24条・25条参照)。)

 

4 17歳天皇に対する18歳摂政に係る不権衡問題等

 

(1)17歳天皇に対する18歳摂政に係る不権衡問題

 やれやれ,こじつけがましいけど,霞が関法制官僚の無謬性はこうして守られたわい,と思ったものでしたが,一難去ってまた一難,今度は実質面でまた別の問題が見つかりました。皇太子又は皇太孫以外の皇族の摂政就任可能年齢を,民法4条改正の効果に流されるまま漫然と20歳から18歳に引き下げてよいのか,との問題です。

 明治皇室典範14条が皇太子又は皇太孫以外の皇族の成年を満20年としたのには,実は由々しく重いおもんぱかりがあったのでした。すなわち,当該成案が得られるまでには次のような議論があったところです。いわく,「〔明治皇室典範の〕柳原案ニ摂政ノ成年ハ天皇及皇族ノ例ト同シク18歳トシタリ然ルニ今茲ニ17歳ノ天子アルノ場合ニ当リ最近ノ皇族摂政ノ順位ニ当レル人ハ僅カニ18歳ヲ踰エ現在天皇ト1歳ノ差アラント仮定セハ仍ホ其人ハ家憲ニ依リ摂政トナルヘシ此レ事情ニ適セサルニ似タリ故ニ仏国葡国ノ例ニ依リ摂政ノ為ノ成年ヲ25歳ト定ムルカ又ハ伊国ニ依リ21歳ト定ムヘキカ如シ」と(園部258頁註(4)が引用する小林宏=島善高編著『日本立法資料全集・16 明治皇室典範(明治22年)(上)』(信山社・1996年)391頁「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々(井上毅,1887年2月)」)。またいわく,「17歳ノ帝ニ18歳ノ摂政不権衡ノ説ハ正理ユ(ママ)摂政ハ本邦一般ノ丁年ニ依リ満20歳以上トセハ可ナラン」と(園部258頁註(4)が引用する小林=島399頁「疑題件々ニ付柳原伯意見(柳原前光,1887年)」)。この結果,現行皇室典範についても,「皇太子及び皇太孫以外の皇族であっても国事行為を18年で行うことは〔内閣の助言と承認によるものである〕国事行為の性質上可能であると考えられるが,天皇との関係では,例えば,天皇が17歳の場合に18歳の皇族が摂政となることは適当ではないことにより,皇太子及び皇太孫以外の皇族の成年を20歳としているものと考える。」と説かれています(園部255頁)。

 さて,我々人民のおませな子女の成年が年齢20歳から年齢18歳へと早熟化することをもって(おませといっても,女子の婚姻適齢は平成30年法律第59号によって16歳以上から18歳以上に引き上げられ,むしろ晩稲(おくて)になるのですが),従来の天皇と摂政との年齢関する不権衡論17歳の天皇に対して18歳の摂政が置かれるのはおかしい,との議論。なお,皇太子又は皇太孫が,父又は祖父である天皇が17歳のときに18歳で摂政となることはありません。)までが当然のこととして無効化されてしまうものでしょうか。少々関連性が薄いように思われます。天皇の尊厳を懸命に護持せんとする誠忠の士による真摯な公論を更に経る必要が,なおあるのではないかと心配されるところです。「不敬!」と哀れなお役人を怒鳴りつけるだけで済ますのでは,折角の尊皇の真心があるにもかかわらず,なお丁寧な目配りが足りず点睛を欠くということになるのではないでしょうか。「保守」とは,不作為,偸安,知的怠惰を意味するものでは決してありません。

 

(2)皇室典範及び国事行為の臨時代行に関する法律の改正案

 しかし,筆者も言いっぱなしではいけません。

 次のような改正はいかがでしょうか。すなわち,現行皇室典範161項を「天皇が年齢18に達しないときは,摂政を置く。」と,同法171項柱書きを「摂政は,皇族であって年齢20年(皇太子又は皇太孫の場合にあっては,年齢18年。第19条及び第28条第3項(第30条第2項において準用する場合を含む。)において同じ。)に達したものが,左の順序により,これに就任する。」と(同項については,書かれざる第7号として,皇女たらざる親王妃及び王妃も摂政となり得るように解され得るかもしれませんが,あえてそのままにしました(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1077588867.html)。),同法第19条を「摂政となる順位にあたる者が,年齢20に達しないため,又は前条の故障があるために,他の皇族が,摂政となつたときは,先順位にあたつていた皇族が,年齢20に達し,又は故障がなくなつたときでも,皇太子又は皇太孫に対する場合を除いては,摂政の任を譲ることがない。」と,同法283項を「議員となる皇族及び最高裁判官の長たる裁判官以外の裁判官は,各々年齢20に達した皇族又は最高裁判所の長たる裁判官以外の裁判官の互選による。」と,国事行為の臨時代行に関する法律(昭和39年法律第83号)22項を「前項の場合において,同項の皇族が年齢20年(皇太子又は皇太孫の場合にあつては,年齢18年。以下本項及び次条において同じ。)に達しないとき,又はその皇族に精神若しくは身体の疾患若しくは事故があるときは,天皇は,内閣の助言と承認により,皇室典範第17条に定める順序に従つて,年齢20に達し,かつ,故障がない他の皇族に同項の委任をするものとする。」と,同法3条を「天皇は,その故障がなくなつたとき,前条の規定による委任を受けた皇族に故障が生じたとき,又は同条の規定による委任をした場合において,先順位にあたる皇族が年齢20に達し,若しくはその皇族に故障がなくなつたときは,内閣の助言と承認により,同条の規定による委任を解除する。」と改めるわけです。

 

5 昭和22年法律第3号に対する畏怖の由来論

 とはいえ,前記のような改正に対しても,少なくとも昭和22年法律第3号(題名は「皇室典範」)のそれについては「皇室典範を〔国会の〕議論に入れるのは不敬なのでは」という懸念がやはりなおあるかもしれません。(例えば,土屋正忠衆議院議員の20161021日付けウェブページには「そもそも皇室典範は「憲法第1章・天皇」の条項から直接導き出されている特別法で,一般法の延長ではない。」との認識が示されています。)

 

(1)明治40年皇室典範増補7条及び8条

「皇室典範」という題名の法規に係る前記「不敬なのでは」的畏怖の由来するところは,そもそもは1907年(明治40年)211日公布の皇室典範増補(1889年の明治皇室典範62条参照)の次の2箇条ではないでしょうか。

 

  第7条 皇族ノ身位其ノ他ノ権義ニ関スル規程ハ此ノ典範ニ定メタルモノノ外別ニ之ヲ定ム

皇族ト人民トニ渉ル事項ニシテ各々適用スヘキ法規ヲ異ニスルトキハ前項ノ規程ニ依ル

 

  第8条 法律命令中皇族ニ適用スヘキモノトシタル規定ハ此ノ典範又ハ之ニ基ツキ発スル規則ニ別段ノ条規ナキトキニ限リ之ヲ適用ス

 

 美濃部達吉は説明していわく。

 

  (イ)皇室に関する事項は原則として皇室の自ら定むる所に依る。皇室に関する事項とは天皇及皇族の御一身に属する権利義務に関する定を謂ふ。皇室の自ら定むる所の法規は即ち皇室典範及皇室令にして,天皇及皇族の権利義務は総て此等の皇室法に依り之を定むることを原則とするなり。明治40年の典範増補(71項)は此の趣意を言明して〔いる〕。『別ニ之ヲ定ム』とは別の皇室法即ち皇室令を以て之を定むるの意なり。其の皇族と曰へるは天皇に付ては言を待たずと為せるなり。

  (ロ)皇室に関する事項については皇室の定むる所の法が同時に国法として国家及国民を拘束する力を有す。即ち国家の統治権が事の皇室に関する限度に於て皇室に委任せらるるなり。〔略〕〔大日本帝国〕憲法(2条,171項)は皇位の継承及摂政の設置に付ては明文を以て之を皇室の自ら定むる所に任ずることを明にせり。其の他の事項に付ては明白には之を規定せずと雖も,憲法(741項)が『皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セズ』と曰へるは,総て皇室法は議会の議を経るを要せざるの意にして,而して議会の議を経るを要せずとは本来議会の議を経るを要する性質の事項なることを示す。本来議会の議を経るを要する事項は即ち性質上国の立法権に属するものならざるべからず。換言すれば此の憲法の規定は皇室に関する事項に付ては国の立法権を皇室に委任し,皇室の定むる所の法が国法たる効力を有することを示せるなり。典範増補(72項)は此の趣意を言明〔する〕。即ち皇族と人民との法律関係に付ても皇室法を以て之を定むることを得べく,人民は之に遵由することを要するの趣意なり。〔略〕是れ敢て典範増補に依り始めて定まれるものに非ず,憲法に於て既に定まれるものにして,典範増補は唯之を明白ならしめたるのみ。

  (ハ)一般の法律命令は原則として皇室に対し其の効力を及ぼすことなし。法律命令が皇室に適用せらるるは唯皇室が自ら其の適用を忍容する場合に限る。之を皇室の治外法権と謂ふことを得。典範増補(8条)は此の趣意を言明して〔いる〕。即ち皇室法を以て一般国法の皇室に対する適用を排除することを得べく,皇室に関する事項に付ては皇室法の規定が法律勅令に勝る効力を有す,一般国法は皇室法に反対の規定なき範囲に於てのみ皇室に其の効力を及ぼすことを得るに止まるなり。是も典範増補に依り始めて定まりたるものに非ず,憲法には此の点に付き別段の明文なしと雖も,是れ皇室自治の原則より生ずる当然の結果に外ならず。何となれば皇室の事は皇室自ら之を定むと謂ふは,其の反面に於て皇室の事は皇室の意に反しては国の立法に依り之を定むることなしと謂ふの意を含むものなればなり。

   以上の原則に基き,総て皇室に関する事項は単に皇室一家の内事に関するものは勿論,事同時に国家及人民に関渉あるものと雖も,尚皇室に於て自ら之を定め自ら之を処理するの権能を有す。之を皇室自治の大権と謂ひ,又は単に皇室大権と謂ふ。(美濃部210-213頁。原文の片仮名書きを平仮名書きに改めました。)

 

 明治典憲体制下においては,「総て皇室に関する事項」について皇室法が一般国法に優先するものとされています。両法とも制定権は天皇にあったわけですが(ただし,皇室法の制定には帝国議会は関与不可(大日本帝国憲法741項参照)である一方,一般国法たる法律の制定には帝国議会の協賛を要しました(同537条)。),前者に係る天皇は「皇室の家長たる天皇」,後者に係る天皇は「国の元首たる天皇」でした。何やら同君連合めいていますね。先の大戦において大日本帝国は連合国に敗れたのですが,当該敗戦に伴い,大日本帝国と大日本国皇室との関係にも大きな変動が生じたのでした。

 

(2)日本国憲法下における天皇及び皇族の国法上の地位

 日本国憲法下においては,「皇室に関する事項」であっても「国家及人民に関渉あるもの」は専ら一般国法の管轄となり,皇室法はそこから排除されるに至ったものと解されます(明治40年皇室典範増補72項の規定が一般国法絶対優位にひっくり返った,ということになります。)。また,皇室自ら「皇族ノ身位其ノ他ノ権義ニ関スル規程」を定めること(明治40年皇室典範増補71項参照)についても,天皇及び皇族の「国法上ノ地位」を定めるものはもはや皇室典範(これは憲法でも法律でもない正に皇室典範です。)以下の皇室法ではなく「普通ノ法律命令」それ自体ということになるのでしょうから(伊藤博文編『秘書類纂 雑纂 其壱』(秘書類纂刊行会・1936年)33頁の「皇室典範増補上議文案」第7条解説の記述参照),それは一般国法の許容する範囲内でしか認められないわけでしょう(なお,一般国法において皇室に関する事項について規定することが可能であることは,そもそも明治40年皇室典範増補8条自身がその前提としていました。)。皇室典範(1889年の皇室典範及び1907年の皇室典範増補のほか,1918年の皇室典範増補がありました。)及びそれ以下の皇室法が,194751日裁可同日公布の皇室典範及び同日裁可同月2日公布の昭和22年皇室令第12号によって同日限り全て「廃止」されということは,この意味でしょう。明治40年皇室典範増補の「廃止」は,明治天皇によるその裁定前の「従来此ノ点〔皇族の国法上ノ地位〕ニ関スル解釈区々ニ出テ法制亦帰一セザル」状態(伊藤編33頁)への単なる消極的な復帰をもたらすものではなく,より積極的に,天皇及び皇族の「国法上ノ地位」は,皇室典範(皇室法)及び帝国憲法(一般国法)の並立下にあって前者の下に位置付けられていた時のものとはもはや同じではなく,一般国法の下に位置付けられることになったことを明らかにするものでしょう。

昭和22年法律第3号(現行「皇室典範」)は,皇室に関する事項であって国家及び人民に関渉あるもの(国家に関渉ある事項中の皇位継承及び摂政に関するものは,国家の憲法事項ということになります(日本国憲法2条及び5条)。)等について,日本国憲法の施行前に国家の立法権が発動され置かれたものでしょう。皇室自治権が発動され得る範囲も,昭和22年法律第3号及び関係法令から読み取ることになるのでしょう。例えば,昭和22年法律第326条は「天皇及び皇族の身分に関する事項は,これを皇統譜に登録する。」と規定して天皇及び皇族に対する戸籍法(昭和22年法律第224号)の適用を排除していますので(園部613-614頁の引用する1979417日の衆議院内閣委員会における真田秀夫内閣法制局長官答弁参照),民法の規定事項中戸籍を前提にしたものについては,皇室自治権で補充されるものということになるのでしょう。

 皇室一家の内事についてなお残る皇室自治権については,次のような記述があります。

 

   なお,天皇と皇族との関係について,国としては,皇族を皇位継承資格者とし(〔現行皇室典範〕第2条),皇族の範囲につき天皇を中心とした規定(同第6条)を定める外,天皇が国の機関として行う国事行為についての制度化(摂政,国事行為の臨時代行)及び皇室経済〔筆者註:日本国憲法8条及び88条に基づき国家化されています。〕についての制度化(天皇と内廷皇族との関係)をしているものの,他には法制度上は存在しない。これは,天皇と皇族との関係の在り方は,国の機関としての地位にかかわる事項以外は皇室内の規範であるとして,国が積極的に関与することとしていないことによるものであると考える。仮に皇室内部の規範につき皇室からの要請があれば,皇室に関する事務として国がその制定を手伝うことはあるとしても,その制定権限は国にではなく,皇室にあり,そこで定められる規範は国法としての位置付けは有しないことになる。(園部479頁)

 

(3)昭和天皇の「御会釈」

 しかしなお,国会単独立法が可能な法律(日本国憲法41条・59条)ではあるとはいえ,現行皇室典範に対する畏怖はなかなか振り払い得ないものか。現行皇室典範の制定者であった昭和天皇(大日本帝国憲法5条)と当該大権行使の協賛機関であった帝国議会(同37条)の衆議院議員らとの間に同法の「不磨ノ大典」性に関して何らかの黙契があったものでもありましょうか(なお,当時はまだ参議院はありません。)。19461213日金曜日,衆議院皇室典範案委員に対して昭和天皇が「御会釈」をしています。

 

  午後,内廷庁舎御車寄前において衆議院皇室典範案委員会委員一行に御会釈を賜う。同委員会は,1126日衆議院に提出された皇室典範案の審議のため,去る125日院内に設置され,衆議院議員〔筆者註:前同議院議長〕樋貝詮三を委員長として,7日以降,実質審議を開始し,14日に賛成多数により原案どおり可決する。さらに同委員会においては,1210日に衆議院に提出された皇室経済法案についても審議を行い,19日全会一致を以て可決する。(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)249頁)

 

 龍顔厳粛にして,重い叡旨があった(と委員らは感じて圧倒された)のかもしれません。

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1 「確定日付のある証書」

 

(1)民法467条2項

 民法(明治29年法律第89号)4672項に「確定日付のある証書」という語が出て来ます。

 

   (債権の譲渡の対抗要件)

  467 債権の譲渡(現に発生していない債権の譲渡を含む。)は,譲渡人が債務者に通知をし,又は債務者が承諾をしなければ,債務者その他の第三者に対抗することができない。

  2 前項の通知又は承諾は,確定日付のある証書によってしなければ,債務者以外の第三者に対抗することができない。

 

民法467条の本野一郎及び富井政章によるフランス語訳Code Civil de l’Empire du Japon, Livres I, II & III(新青出版・1997年))は,次のとおり(ただし,第1項は,平成29年法律第44号による改正前の法文です。)。

 

  La cession d’une créance nominative n’est opposable au débiteur et aux autres tiers que si elle a été notifiée par le cédant au débiteur ou acceptée par celui-ci.

  La notification et l’acceptation, dont il est parlé à l’alinéa précedent, ne sont opposables aux tiers, autre que le débiteur, que si elles ont été faites dans un acte ayant date certaine.

 

 「確定日付」は,フランス語では“date certaine”ということになります。「証書」は,“acte”です。合わせて「確定日付のある証書」は,“un acte ayant date certaine”です。(なお,“acte”には「(法律)行為」との意味もあります。)

 

(2)民法施行法5条1項

 で,確定日付のある証書とは何ぞや,ということで民法中を探しても,分からないことになっています。民法467条の起草者である梅謙次郎は,1895322日の72法典調査会において「成程此確定日附ノ方法ト云フモノハ余程困難ニハ相違アリマセヌ,ケレトモ六ケ敷イカラト云ツテ規定シナイト云フ訳ニハ徃キマセヌカラ孰レ特別法ヲ以テ規定スヘキモノテアラウト考ヘマス」と述べていました(『法典調査会民法議事速記録第22巻』(日本学術振興会)139丁裏)。すなわち,当該特別法たる民法施行法(明治31年法律第11号)という,民法とはまた別の法律の第51項を見なければなりません。

 

  5 証書ハ左ノ場合ニ限リ確定日付アルモノトス

   一 公正証書ナルトキハ其日付ヲ以テ確定日付トス

   二 登記所又ハ公証人役場ニ於テ私署証書ニ日付アル印章ヲ押捺シタルトキハ其印章ノ日付ヲ以テ確定日付トス

   三 私署証書ノ署名者中ニ死亡シタル者アルトキハ其死亡ノ日ヨリ確定日付アルモノトス

   四 確定日付アル証書中ニ私署証書ヲ引用シタルトキハ其証書ノ日付ヲ以テ引用シタル私署証書ノ確定日付トス

   五 官庁又ハ公署ニ於テ私署証書ニ或事項ヲ記入シ之ニ日付ヲ記載シタルトキハ其日付ヲ以テ其証書ノ確定日付トス

   六 郵便認証司(郵便法(昭和22年法律第165号)第59条第1項ニ規定スル郵便認証司ヲ謂フ)ガ同法第58条第1号ニ規定スル内容証明ノ取扱ニ係ル認証ヲ為シタルトキハ同号ノ規定ニ従ヒテ記載シタル日付ヲ以テ確定日付トス

 

ア 柱書き

ここでいう「証書」とは,「紙片,帳簿,布その他の物に,文字その他の符号をもつて,何らかの思想又は事実を表示したもので,その表示された内容が証拠となり得る物,すなわち書証の対象となり得る文書」をいいます(吉国一郎等編『法令用語辞典〈第八次改訂版〉』(学陽書房・2001年)400頁)

 

イ 第1号

民法施行法511号の「公正証書」は,公証人が作成するものに限られず,「公務員がその権限内において適法に作成した一切の証書」たる広義のものです(吉国等250頁)

 

ウ 第4号

民法施行法514号に関しては,「同号にいう「確定日付ある証書中に私署証書を引用したるとき」とは,確定日付ある証書それ自体に当該私署証書の存在とその同一性が明確に認識しうる程度にその作成者,作成日,内容等の全部又は一部が記載されていることをいうと解すべきである。」と判示する最高裁判所判決があります(昭和58322日・集民138303頁)。

 

エ 第5号

民法施行法515号の「官庁又ハ公署」は,郵政事業庁(かつては,郵便事業は政府直営でした。)の後身たる日本郵政公社の存続期間中(200341日から2007930日まで)は「官庁(日本郵政公社ヲ含ム)又ハ公署」となっていました(日本郵政公社法施行法(平成14年法律第98号)90条による改正)。ここでの「官庁又ハ公署」は,「国または地方公共団体等の事務執行機関一般を指すもの」です(奥村長生「101 市役所文書課係員が受け付けた事実を記入し受付日付を記載した債権譲渡通知書と確定日付のある証書」『最高裁判所判例解説民事篇(下)昭和43年度』(法曹会・1969年)931頁)。確定日付の付与に係る事務を郵便局〠で行わせてはどうかという話は,民法467条に係る審議を行った第72回法典調査会で既に出ていたところです(『法典調査会民法議事速記録第22巻』156丁表)

民法施行法515号に関する判例として,最高裁判所第一小法廷昭和431024日判決・民集22102245頁があります。横浜市を債務者とする債権の譲渡に関する事件に係るものです。いわく,「本件通告書と題する文書(乙第3号証)は,地方公共団体たる被上告人市〔債務者〕の文書受領権限のある市役所文書課係員が,同市役所の文書処理規定にもとづき,私署証書たる訴外D作成の本件債権譲渡通知の書面に,「横浜市役所受付昭和三四・八・一七・財第六三九号」との受付印を押捺し,その下部に P.M.4.25 と記入したものであるというのであるから,これは,公署たる被上告人市役所において,受付番号財639号をもつて受け付けた事実を記入し,これに昭和34817日午後425分なる受付日付を記載したものというべく,従つて,右証書は民法施行法55号所定の確定日付のある証書に該当するものと解すべきである。/してみれば,右通告書をもつて,未だ確定日付ある証書とはいえないとして,上告人の本訴請求を排斥した原判決は,民法施行法55号の解釈適用を誤り,ひいては,民法4672項の解釈適用を誤つた違法のあるものといわなければならない。」と。

民法施行法515号が「同号にいう「確定日附」の要件として,〔略〕私署証書に「或事項ヲ記入」することを要求しているのは,登記所または公証人役場が,「私署証書ニ確定日附ヲ附スルコト」自体を,その本来の職務としている(民法施行法52号,6条)のに対し,その他の官庁または公署はそのようなことをその本来の職務とするものではないため,登記所または公証人役場以外の官庁または公署が私署証書に単なる日付のみを記載するということは通常考えられず,したがって,そのような官庁または公署の単なる日付のみの記載をもってしてはいまだ「確定日附」とはいえないという消極的な理由からにすぎない,と解するのが相当」であり,判例,学説も結論的に同旨の見解に立つものと解されています(奥村932頁)。昭和43年最高裁判所判決は,当該消極的趣旨を前提として「或事項ヲ記入シ」とは「格別に制限的に解しなければならない理由はなく,官庁または公署がその職務権限に基づいて作成する文書,すなわち,公文書と認めうる記載さえあれば充分であると解し」た上で,更に,「「官庁又ハ公署」の作成する文書の記載内容には,私署証書,すなわち,私人の作成する文書の記載内容に比して,高度の信用性があると認められる」という信用性は,当該公署が債権譲渡の通知を受ける債務者であるという当事者の場合であっても同様に認められるということができるから,当該事案における「通告書」を民法施行法515号所定の確定日付のある証書に該当するものと認めたもの,と評価されています(奥村931-932頁)

 

オ 第6号

民法施行法516号は,郵政民営化法等の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律(平成17年法律第102号)3条によって追加されたものです(併せて同条により,民法施行法51項中の「日附」が「日付」に改められました。)。従来は,民法施行法515号に含まれていたものです。内容証明郵便制度は,「郵便の送達により権利義務の発生保存移転若くは消滅等を証明せんとするものの利用に供するの目的を以て」(逓信省『郵便』(逓信省・1914年)48頁),当時の郵便規則(明治33年逓信省令第42号)が1910115日公布の逓信省令第106号によって改正されて,同月16日から発足しています(当時の逓信大臣は後藤新平)。

 

カ 第2項及び第3項

指定公証人が電磁的方式によって「日付情報」を付した「電磁的記録ニ記録セラレタル情報」を「確定日付アル証書ト看做ス」とともに,当該日付情報の日付をもって確定日付とする民法施行法52項及び3項は,商業登記法等の一部を改正する法律(平成12年法律第40号)3条によって追加されたものです。

 

(3)民法施行法旧4条

なお,民法施行法4条は,「証書ハ確定日附アルニ非サレハ第三者ニ対シ其作成ノ日ニ付キ完全ナル証拠力ヲ有セス」と従来規定していましたが,民法の一部を改正する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律(平成29年法律第45号)1条によって,202041日からさりげなく「削除」となっています。

民法施行法旧4条は,実は(有害)無益な規定であったにもかかわらず,従来何となく目こぼしされてきていたものであったのでしょうか。同条の削除は,「この規定は現在では意味を失ったと解されることによるものと思われる。」とされています(山本宣之「民法改正整備法案による改正の実像」産大法学511号(20174月)196頁)

 

本槁においては,民法施行法51項及び旧4条について調べてみたところを記していきます。

 

2 民法467条に係る先行規定

なお,ここで,民法467条に係る先行規定を掲げておきます。

 

(1)明治9年7月6日太政官布告第99号

先ず,明治976日太政官布告第99号。

 

 金穀等借用証書ヲ其貸主ヨリ他人ニ譲渡ス時ハ其借主ニ証書ヲ書換ヘシムヘシ若シ之ヲ書換ヘシメサルニ於テハ貸主ノ譲渡証書有之モ仍ホ譲渡ノ効ナキモノトス此布告候事

  但相続人ヘ譲渡候ハ此限ニアラス

 

当該太政官布告に言及しつつ梅謙次郎は,「我邦ニ於テハ従来債権ノ譲渡ヲ許ササルヲ本則トセシカ如シ(976日告99号参観)」と述べていました(梅謙次郎『訂正増補第33版 民法要義巻之三 債権編』(法政大学=有斐閣書房・1912年)204頁)

「外国人の起草した〔旧〕民法への反発から巻き起こった法典論争においては,「民法出テゝ忠孝亡フ」という有名なキャッチフレーズで争われた家族法の論点と並んで,財産法では債権譲渡が槍玉に挙げられた。(旧)民法典の施行延期を主張する延期派は,債権譲渡の自由は経済社会を攪乱し,弱肉強食を進めるものだと批判したのである。」とのことです(内田貴『民法Ⅲ 第4版 債権総論・担保物権』(東京大学出版会・2020年)245頁)

 

(2)旧民法財産編347条

続いて旧民法財産編(明治23年法律第28号)347条。

 

347 記名証券ノ譲受人ハ債務者ニ其譲受ヲ合式ニ告知シ又ハ債務者カ公正証書若クハ私署証書ヲ以テ之ヲ受諾シタル後ニ非サレハ自己ノ権利ヲ以テ譲渡人ノ承継人及ヒ債務者ニ対抗スルコトヲ得ス

 債務者ハ譲渡ヲ受諾シタルトキハ譲渡人ニ対スル抗弁ヲ以テ新債権者ニ対抗スルコトヲ得ス又譲渡ニ付テノ告知ノミニテハ債務者ヲシテ其告知後ニ生スル抗弁ノミヲ失ハシム

 右ノ行為ノ一ヲ為スマテハ債務者ノ弁済,免責ノ合意,譲渡人ノ債権者ヨリ為シタル払渡差押又ハ合式ニ告知シ若クハ受諾ヲ得タル新譲渡ハ総テ善意ニテ之ヲ為シタルモノトノ推定ヲ受ケ且之ヲ以テ懈怠ナル譲受人ニ対抗スルコトヲ得

 当事者ノ悪意ハ其自白ニ因ルニ非サレハ之ヲ証スルコトヲ得ス然レトモ譲渡人ト通謀シタル詐害アリシトキハ其通謀ハ通常ノ証拠方法ヲ以テ之ヲ証スルコトヲ得

 裏書ヲ以テスル商証券ノ譲渡ニ特別ナル規則ハ商法ヲ以テ之ヲ規定ス

 

(3)ボワソナアド草案367条

旧民法財産編347条は,ボワソナアド草案の367条に対応しますGustave Boissonade, Projet de Code Civil pour L’Empire du Japon accompagné d’un commentaire, Nouvelle Édition, Tome Deuxième, Droits Personnels et Obligations. Tokio, 1891; pp.202-203

 

  367. Le cessionnaire d’une créance nominative ne peut opposer son droit aux ayant[sic]-cause du cédant ou au débiteur cédé qu’à partir du moment où la cession a été dûment signifiée à ce dernier, ou acceptée par lui dans un acte authentique ou ayant date certaine.

  Le signification d’une cession faite sous seing privé doit être faite à la requête conjointe du cédant et du cessionnaire ou du cédant seul.

  L’acceptation du cédé l’empêche d’opposer au cessionnaire toutes les exceptions ou fins de non-recevoir qu’il eût pu opposer au cédant; la simple signification ne fait perdre au cédé que les exceptions nées depuis qu’elle a été faite.

   Jusqu’à l’un desdits actes, tous payements ou conventions libératoires du débiteur, toutes saisies-arrêts ou oppositions des créanciers du cédant, toutes acquisitions nouvelles de la créance, dûment signifiées ou acceptées, sont présumées faites de bonne foi et sont opposables au cessionnaire négligent.

   La mauvaise foi des ayant-cause ne peut être prouvée que par leur aveu fait par écrit ou en justice; toutefois, s’il y a eu fraude concertée avec le cédant, la collusion pourra être établie par tous les moyens ordinaires de preuve.

   Les règles particulières à la cession des effets de commerce, par voie d’endossement, sont établies au Code de Commerce.

 

(4)民法467条,旧民法財産編347条及びボワソナアド草案367条間の比較若干

 

ア 「記名証券」か「指名債権」か

 ボワソナアド草案3671項の“créance nominative”が旧民法財産編3471項では「記名証券」となっていますが,これはやはり「指名債権」と訳されるべきものだったのでしょう(平成29年法律第44号による改正前の民法4671項参照)。「指名債権トハ債権者ノ誰タルコト確定セルモノ」をいいます(梅208頁)

 

イ 「合式ニ告知」から譲受人通知主義を経て譲渡人通知主義へ

 民法4671項の譲渡人通知主義は,ボワソナアド草案3671(そのフランス語文言は,旧民法案審議当時も本稿のものと同じ(池田真朗『債権譲渡の研究(増補二版)』(弘文堂・2004年)28-29頁註(25))の「誤訳」により,旧民法財産編3471項においては譲受人が合式ニ告知するもののようになっていたところ(池田24-25頁),ボアソナアドの考えに「感服」した現行民法起草者によって採用されたものです(『法典調査会民法議事速記録第22巻』140丁表-141丁表)

ただし,ボワソナアド草案3672項は「私署証書によってされた譲渡に係る告知は,譲渡人及び譲受人共同の又は譲渡人単独の申請に基づいてされなければならない。」と規定するものなので,債権譲渡の当事者が自ら同条1項の告知を債務者に直接することは想定されておらず,申請を受けたお役所筋において債務者に対する告知を合式ニ(dûment)するものと考えられていたようです。旧民法において「告知」となっているフランス語の“signification”は,法律用語としては「[令状などの]通達」を意味するものとされています“signification d’un jugement par un huissier”は「執達吏による判決の通達」です。他方,“notification”は,法律用語ならぬ日常的な意味の語のようです。『ロワイヤル仏和中辞典』(旺文社・1985年))。わざわざ “dûment”の語をもって修飾しているのですから正にお役所の手を煩わすべきものなのでしょう。ボワソナアドは,「通達(signification)については,公証吏(officier public)によってされなければならないことから,これも確定日付を有することになるものである。」と述べていますBoissonade II, p.218。「執行官に通知してもらい,その執行官が何月何日何時に通知が着いたということを公正証書で証明するといった方法」が「債権譲渡法制の母法国フランスで用いられる方法であり,起草者もこれを想定していた」そうです(内田267頁)。ただし,ボワソナアドはともかく(池田35頁註(8)・80頁),梅謙次郎はそこまで具体的に「想定」していたものかどうか。梅は「執達吏カ只我々ノ手紙ヲ使ヒヲ以テヤル様ニ手数料ヲヤレハ持ツテ徃クトイフモノテハナイ執達吏規則ニ「告知及ヒ催告ヲ為スコト」トアリマスケレトモ告知及催告状ノ送達ヲ為スト云フコトハナイ「当事者ノ委任ニ依リ左ノ事務ヲ取扱フ」ト云フコトカアルカライツレ執達吏ニ依テ通知スルト云フトキハ所謂告知ニナツテ其証書自身カ証拠ニナルノテナクシテ執達吏カ其告知ノ手続ヲ履ンタノカ夫レカ証明ニナルト思フ」と述べています(『法典調査会民法議事速記録第22巻』164丁表裏)。「イツレ・・・其証書自身カ証拠ニナルノテナクシテ・・・夫レカ証明ニナルト思フ」ということで,曖昧であり,かつ,その手続は確定日付のある「証書」の証拠力(民法施行法旧4条参照)の発動の場ではないよというような口ぶりです(ただし,池田128頁註(20))

旧執達吏規則は,「規則」といっても法律(明治23年法律第51号)で(執行官法(昭和41年法律第111号)附則2条により19661231日から廃止(同法附則1条及び昭和41年政令第380号)),その旧執達吏規則2条の第1により,執達吏は当事者の委任によって「告知及催告ヲ為スコト」を「得」るものとされていたものです。なお,梅は「告知及催告状ノ送達ヲ為スト云フコトハナイ」と言っていましたが,現在の執行官法附則91項は「執行官は,当分の間,第1条に定めるもののほか,私法上の法律関係に関する告知書又は催告書の送付の事務を取り扱うものとする。」と規定しています。

 

ウ 「確定日付のある証書によってする」のは,通知又は承諾であってその証明ではない。

また,「古い判例には,4672項にいう「確定日付のある証書によって」とは,債務者が通知を受けたことを確定日付のある証書で証明せよということであって,単に確定日付のある証書で通知せよということではない,としたものもあった(大判明治36330日民録9-361)」そうですが,「大(連)判大正31222日(民録20-1146〔略〕)が明治36年判決を改め,確定日付のある証書による通知・承諾とは,通知・承諾が確定日付のある証書でなされることであって,通知・承諾が到達したこと〔「通知又ハ承諾アリタルコト」。ちなみに,最高裁判所昭和4937日判決・民集282174号は,確定日付のある債務者の承諾の場合は,到達の日時ではなく「確定日附のある債務者の承諾の日時の前後」を問題にしています。〕を確定日付のある証書で証明せよということではない,とした」ところです(内田267頁)。つとに第72回法典調査会において,民法4672項の文言を「前項ノ通知又ハ承諾ハ確定日附アル証書ヲ以テ証明スルニ非サレハ之ヲ以テ債務者以外ノ第三者ニ対抗スルコトヲ得ス」とすべきではないか,「仮令ヒ確定日附ノアルモノテナクテモ執達吏ニ頼ンテ或ル通知証書ヲイツ幾日何々ノ証書ヲ誰々ノ所ニヤツタト云フコトテモ夫レテモ本条2項ノ目的ハ十分達シ得ラルルト思ヒマス」との田部芳の修正案(『法典調査会民法議事速記録第22巻』162丁裏)には,賛成がなかったところです(同164丁裏)

なお,前記明治36年大審院判決は,民法4672項の「確定日附アル証書ヲ以テスル」「通知」は主に執達吏によってされることを想定していたようで「而シテ債務者ニ於テ通知ヲ受ケタル事実ヲ確定日附アル証書ヲ以テ証明スルニハ種々ナル方法ニ依ルヲ得可キモ猶其中ニ就テ例ヘハ執達吏規則第2条第10条ニ依レハ執達吏ハ当事者ノ委任ニ依リ告知等ヲ為ス可キ職務ヲ有シ且正当ノ理由アルニ非サレハ之ヲ拒ムコトヲ得サル責任アリ且若シ正当ノ理由アリテ之ヲ拒ミ委任ヲ為スコトヲ得サル場合ニ於テハ第11条乃至第13条等其手続完備シアルニヨリ同法律ノ規定ニ従ヒ執達吏ニ委任シテ通知ヲ為サシメ執達吏カ職務ノ執行ニ付キ作製セル公正証書ヲ以テ証明スルカ如キハ譲渡人及ヒ譲受人ノ為メ他日安全ニ立証シ得可キモノナリ」と判示しています。

エ 債務者の承諾

 

(ア)確定日付の要否

債務者の承諾については,ボワソナアド草案3671項においては債務者の承諾は「公正証書若しくは確定日付のある私署証書」ですべきものとなっていたところ,旧民法財産編3471項では,当該私署証書に確定日付を要求しないものとされていました。旧民法の制定過程において,確定日付制度を採用すべきものとするボワソナアドの提案は却下されてしまっていたのでした。

 

(イ)「承諾」の性質

民法467条における債務者の承諾は,「承諾」との文言にもかかわらず,「債務者が,債権が譲渡された事実についての認識――譲渡の事実を了承する旨――を表明することである。従って,その性質は,通知と同じく,観念の表示である(通説)。判例は,かつて,異議を留めない承諾は意思表示であって,譲受人に対してすることを要する,といったことがある(大判大正61021510頁。但し傍論)。然し,その後は,異議を留めない承諾もすべて観念の通知としているようである(例えば,大判昭和97111516頁〔略〕)。」(我妻榮『新訂債権総論(民法講義Ⅳ)』(岩波書店・1972年)532頁)と,また,「ここでいう承諾は,通知の機能的代替物だから,契約の成立の際の「承諾」のような意思表示ではない。譲渡に対する「同意」でもない。単に債権譲渡の事実を認識した旨の債務者の表示であり,これも「観念の通知」とされる。承諾の相手は,譲渡人でも譲受人でもよいとされている。」(内田234頁)ということで,観念の表示であるものと解されています。そうであれば,せっかくの平成29年法律第44号による改正の機会に,民法467条の「承諾」の語を同法152条における用語に揃えて「承認」とでも改めておけばよかったのにそれをしなかったのは,将来債権譲渡についての事前の包括的承諾というような「実務で用いられる「承諾」は,単なる観念の通知というより,意思表示としての「同意」とみる余地がある」から(内田273頁)でしょうか。

この「承諾」の性質問題についての起草者の認識はどうだったかといえば,梅謙次郎は,あっさり,「債務者カ承諾スルト言ヘハ夫レハ一ツノ契約テアル其契約ハ固ヨリ有効テアル」と,意思表示である旨述べていました(『法典調査会民法議事速記録第22巻』138丁裏)。そうだとすると,承諾に係る民法4672項の証書(acte)は,法律行為(acte)たる契約に係る処分証書であるということになるようです(ただし,契約書については「厳密にいえば,契約条項の部分は処分証書であるが,契約書作成の日時,場所,立会人などの記載部分は報告文書であると考えられている」そうです(司法研修所『民事訴訟における事実認定』(法曹会・2007年)18頁(*26))。)。また,梅は,債務者の承諾が用いられる場合として,債権譲渡がされるより前の事前の承諾の例を挙げています(『法典調査会民法議事速記録第22巻』151丁裏-152丁表)。フランスの「破棄院は1878年に至って〔略〕,債務者と譲受人との関係においては,債務者のした承諾は,それが私署証書によるものでも,口頭でされたものでも,さらには黙示のものであってさえも,そこから生じた債務者の対人的な約束engagement personnel)は債務者を譲受人に拘束するに十分であり,債務者に対し,譲受人以外に弁済をすることを禁じるものである,と認め」ていたそうです(池田311頁。下線は筆者によるもの)


オ 民法467条はボワソナアド草案367条の如クか?

なお,梅は民法467条について「本案ニ於テハ本トノ草案ノ如ク外国ニ於テ之ト同シ方式ヲ採用シテ居ル国ニ於ケルカ如ク確定日附ヲ必要ト致シタ」と述べていますが(『法典調査会民法議事速記録第22巻』140丁表),同条2項について見ても(同条1項の通知及び承諾は,そもそも確定日付のある証書を必要としていません。),承諾の方式についてはともかくも,ボワソナアド草案3671項(旧民法財産編3471項)の「合式ニ告知」の方式をどう解釈していたものでしょうか。債権譲渡の通知の方式(確定日付のある証書による通知)については「本トノ草案ノ如ク外国ニ於テ之ト同シ方式ヲ採用シテ居ル国ニ於ケルカ如ク」の方式であるとは言い切れないのではないか,と思われます。ボワソナアドは「「書記局ノ吏員ニ依テ」とか,「執達吏又ハ書記ノ証書ヲ以テ」」の方式を想定していたそうですし(池田80頁),「フランス法にいうsignificationは,「通知」ではなく「送達(●●)」もしくは「送達による通知」である。つまりそれは,huissier(執達吏)によって,exploit(送達証書)をもって行われる」そうです(同74-75頁)。当該exploit(送達証書)は,すなわち公証吏ないしは執達吏のexploitであるそうですから(池田75頁・76頁。また,同292-293頁),委任者作成の私署証書を送達するということではないようです。

 

(5)フランス民法1690条及び1691条

さて,次はボワソナアドの母国フランスの民法1690条及び1691条です。

 

 Art. 1690 Le cessionnaire n’est saisi à l’égard des tiers que par la signification du transport faite au débiteur.

  Néanmoins le cessionnaire peut être également saisi par l’acceptation du transport faite par le débiteur dans un acte authentique.

  (譲受人は,第三者との関係では,債務者に対して譲渡の通達がなければ権利者ではない。

  (ただし,譲受人は,公正証書でされた債務者による譲渡の承諾によっても同様に権利者となることができる。)

 

ここでの“saisir”は,“mettre (qqn) en possession (de qqch)”の意味(Le Nouveau Petit Robert)でしょう。

 

  Art. 1691 Si, avant que le cédant ou le cessionnaire eût signifié le transport au débiteur, celui-ci avait payé le cédant, il sera valablement libéré.

  (譲渡人又は譲受人によって債務者に対する譲渡の通達がなさしめられた前に当該債務者が譲渡人に弁済していたときは,債務の消滅は有効である。)


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1 第203回国会,菅義偉内閣及び生殖補助医療の提供等及びこれにより出生した子の親子関係に関する民法の特例に関する法律

 

(1)第203回国会及び菅義偉内閣の施政

 職業柄,筆者は国会の立法活動の状況を定期的に確認することもしています。今般,20201026日から同年125日まで開催された第203回国会における当該状況を同年末に確認したところですが,当該確認作業に着手する際には,同年916日に新たに発足した菅義偉内閣の性格ないしは意気込みを示すところの特徴ある法案があるいは多々提出されていたのではなかろうかとの想像があったところです。例えば,同年1026日の菅義偉内閣総理大臣の所信表明演説では「携帯電話料金の引下げなど,これまでにお約束した改革については,できるものからすぐに着手し,結果を出して,成果を実感していただきたいと思います。」との決意表明がありましたが,この値下げ問題は随分前から議論されていたはずのものであるところ,統制経済下の統制料金ならざる携帯電話料金の大幅値下げのような結果が,総務省の電気通信行政系官僚による行政指導が力押しに継続されることのみによって直ちに達成できるということでは,本来ないものでしょう。しかし,案外,内閣からの法案提出状況は低調であるように感じられました。

 「これは,新型コロナウイルス感染症騒動の渦中にあって,菅内閣総理大臣もそちらに精力を奪われ消耗しておられるのかしらん。」と思ったものです。そこでふと内閣総理大臣官邸ホームページというものを見てみると,そこには内閣総理大臣の近況写真が大きく掲載されています。しかし,その表情は冴えない。

 「うーん,疲れた顔だなぁ。生気が感じられんなぁ。厭になってないかなぁ。大丈夫かなぁ。」

 と感じたことを,よく覚えています。

 2021年に入ってから,同年17日に東京都,埼玉県,千葉県及び神奈川県について新型コロナウイルス感染症に係る緊急事態宣言が発出され(実施は同月8日から),同月13日には当該宣言の対象地が京都府,大阪府,兵庫県,福岡県,栃木県,愛知県及び岐阜県に拡大(発効は同月14日から),「国難の最中(さなか)にあって」,「社会経済活動を再開して,経済を回復し,「雇用を守り,事業が継続できるように」するとの菅義偉内閣総理大臣の目論見(20201026日所信表明演説)は,ここに一大頓挫を来したようです。

 

ただし,厚生労働省政策統括官付参事官付人口動態・保健社会統計室の20201221日付け報道発表資料「令和2年(2020)人口動態統計の年間統計について」によれば,「近年は,高齢化により増加傾向」であるにもかかわらず,同年の我が国の死亡数は,同年1月から10月までの累計で減少しているそうです。すなわち,人口動態統計速報によれば,当該時期の死亡数は前年同期比でマイナス1.2パーセントです(20191月から同年10月までの1147219人に対して1132904人と,14315人の減少)。ちなみに,我が国の死亡者数の増加の状況は,人口動態統計月報(概数)によれば,2016年(同年死亡数1307765人)は対前年比1.3パーセント増,2017年(同年死亡数1340433人)は同2.5パーセント増,2018年(同年死亡数1362482人)は同1.6パーセント増及び2019年(同年死亡数1381098人)は同1.4パーセント増でした。この暗鬱な死者の増加傾向が,明るく減少に反転したというのです。なお,202012312215分現在我が国で確認された新型コロナウイルス感染症に感染していたそれまでの死者の数(「新型コロナウイルス感染症による死者」のみではないことにつき,同年618日付け厚生労働省新型コロナウイルス感染症対策本部事務連絡「新型コロナウイルス感染症患者の急変及び死亡時の連絡について」参照)は3505人だったそうであるところ(202111日付け産経新聞1432面),当該数字は,2020年の我が国における1日当たりの死亡者数37百人余よりも実は少ない。

むしろ,「新型コロナウイルス感染症の流行にもかかわらず,安倍晋三・菅義偉両政権による適切な政策の下,令和の御代第2年の我が国の死亡数は前年よりも減少し,国民の命と健康とは守り抜かれているのである。」と,政府は胸を張ってよいのかもしれません。(「戦後最大の経済の落ち込み」(菅義偉内閣総理大臣20201026日所信表明演説)は,気にしない。)新型コロナウイルス感染症に感染していた死者の数は細かく数えられ,かつ,当該感染及び死亡という各事実の存在があること自体がそもそも絶対に許されない失政として各方面から執拗に批判される一方,新型コロナウイルス感染症対策によって(副次的ながらも)寿命が少しでも延びて喜んでおられるはずのところの他のお年寄りの数は物の数に入れられずに無視される,というのであっては,政権がお気の毒に過ぎます。

 

 2021118日,第204回国会の冒頭,施政方針演説で菅義偉内閣総理大臣は「私が,一貫して追い求めてきたものは,国民の皆さんの「安心」そして「希望」です。」と語り,その理念とするところを明らかにしました。しかし,「安心」とは,いかにも平成臭い(「内閣総理大臣の国会演説に見る「安心」の平成史」参照(前編http://donttreadonme.blog.jp/archives/1070538939.html,後編http://donttreadonme.blog.jp/archives/1070539114.html))。「希望」も陳腐です。やはり疲れておられるのでしょう。

 

(2)生殖補助医療の提供等及びこれにより出生した子の親子関係に関する民法の特例に関する法律(生殖補助親子関係等法)の成立

 と,以上いきなり脱線でしたが,第203回国会においては,民法関係の立法において注目すべきものがありました。秋野公造,古川俊治,石橋通宏,梅村聡及び伊藤孝恵の5参議院議員の発議に係る(いわゆる議員立法),生殖補助医療の提供等及びこれにより出生した子の親子関係に関する民法の特例に関する法律(令和2年法律第76号)です(2020124日成立)。同法の第3章が「生殖補助医療により出生した子の親子関係に関する民法の特例」であり,同章は次の2箇条から成っています。

 

   (他人の卵子を用いた生殖補助医療により出生した子の母)

  第9条 女性が自己以外の女性の卵子(その卵子に由来する胚を含む。)を用いた生殖補助医療により子を懐胎し,出産したときは,その出産をした女性をその子の母とする。

 

   (他人の精子を用いる生殖補助医療に同意をした夫による嫡出の否認の禁止)

  第10条 妻が,夫の同意を得て,夫以外の男性の精子(その精子に由来する胚を含む。)を用いた生殖補助医療により懐胎した子については,夫は,民法第774条の規定にかかわらず,その子が嫡出であることを否認することができない。

 

生殖補助医療の提供等及びこれにより出生した子の親子関係に関する民法の特例に関する法律(長い題名ですので,以下「生殖補助親子関係等法」と略することにします。)は20201211日に公布されていますところ,上記両条の規定は,20211211日から施行され(同法附則1条ただし書),同「日以後に生殖補助医療により出生した子」について適用されます(同法附則2条)。同日は,なかなか由々しい日であります。第9条及び第10条の規定を除いた部分については,生殖補助親子関係等法は,2021311日から施行されます(同法附則1条本文)。生殖補助親子関係等法9条及び10条の前提たる定義規定である同法2条も,同日から施行されます。

 

  (定義)

 第2条 この法律において「生殖補助医療」とは,人工授精又は体外受精若しくは体外受精胚移植を用いた医療をいう。

 2 前項において「人工授精」とは,男性から提供され,処置された精子を,女性の生殖器に注入することをいい,「体外受精」とは,女性の卵巣から採取され,処置された未受精卵を,男性から提供され,処置された精子により受精させることをいい,「体外受精胚移植」とは,体外受精により生じた胚を女性の子宮に移植することをいう。

 

また,生殖補助親子関係等法においては,国会に対して宿題を課するその附則3条が重いところです。

 

 (検討) 

〔附則〕第3条 生殖補助医療の適切な提供等を確保するための次に掲げる事項その他必要な事項については,おおむね2年を目途として,検討が加えられ,その結果に基づいて法制上の措置その他の必要な措置が講ぜられるものとする。

 一 生殖補助医療及びその提供に関する規制の在り方

 二 生殖補助医療に用いられる精子,卵子又は胚の提供(医療機関による供給を含む。)又はあっせんに関する規制(これらの適正なあっせんのための仕組みの整備を含む。)の在り方

 三 他人の精子又は卵子を用いた生殖補助医療の提供を受けた者,当該生殖補助医療に用いられた精子又は卵子の提供者及び当該生殖補助医療により生まれた子に関する情報の保存及び管理,開示等に関する制度の在り方

2 前項の検討に当たっては,両議院の常任委員会の合同審査会の制度の活用等を通じて,幅広くかつ着実に検討を行うようにするものとする。

3 第1項の検討の結果を踏まえ,この法律の規定について,認められることとなる生殖補助医療に応じ当該生殖補助医療により出生した子の親子関係を安定的に成立させる観点から第3章の規定の特例を設けることも含めて検討が加えられ,その結果に基づいて必要な法制上の措置が講ぜられるものとする。

 

以下,生殖補助親子関係等法に関して,「生殖補助医療の提供を受ける者以外の者の卵子又は精子を用いた生殖補助医療により出生した子の親子関係に関し,民法(明治29年法律第89号)の特例を定める」(同法1条後段)部分を中心に,第203回国会における審議模様等について見てみましょう。

 

2 生殖補助親子関係等法

 

(1)法案発議の理由

生殖補助親子関係等法案がそもそも発議された理由については,①「生殖補助医療については法律上の位置付けがな」いこと及び②「生殖補助医療により生まれた子の親子関係については,最高裁判例や解釈によって一定の方向性が示されているものの,法律上明確な規律がないため,その子の身分関係が不安定となり,その利益を害するおそれがある状況が続いていると指摘されてお」ることが発議者から表明されています(秋野公造参議院議員(第203回国会参議院法務委員会会議録第2号(20201117日の委員会)27頁。また,第203回国会衆議院法務委員会議録第3号(2020122日の委員会)(以下「衆法務」)3頁))。

 

(2)「生殖補助医療」

 

ア 「医療」概念との関係

「生殖補助医療」について法律上の位置付けがないといわれると,確かに,そもそも「生殖補助医療」は医療に該当するのか,という問題がありそうです。

法令用語としての「医療」に関する内閣法制局筋の解説によると,「医療」とは,「医学に基づいて,人の疾病の予防又は傷病の治療(助産を含む。)のために行われる給付又はその給付内容をいい,これらの給付を行うために,又はこれらの給付に付随して必要なもの,例えば,診察,病院等への入院,看護等の給付を含む。また,疾病の予防,リハビリテーションを含むものとして用いられることがある。」(吉国一郎等編『法令用語辞典〈第八次改訂版〉』(学陽書房・2001年)23頁)とされています。

「生殖補助医療」が医療であるということになると,妊娠していない女性は,「傷病」状態(傷害を負い,又は疾病に罹患している状態)にあるということになってしまうようでもあります(「助産」は,出産段階の話で,懐胎段階の話ではないでしょう。)。そこで,女性を妊娠させるべき男性の行為は医療行為である,などと不謹慎に強弁すると,「お医者さんごっこか,ふざけるな。」とお叱りを受けることになります。

「かつて厚生省の附属機関として設置された医療制度調査会が答申した「医療制度全般についての改善の基本方策に関する答申(昭和3832)」においては,医療が「人を対象として,健康時の健康養護および健康破たんからの回復を目的として医学の実践面に要求される機能」と定義されているが,これが,最も広義における医療の定義といえよう。」ともいわれていますが(吉国等24頁),この定義でも,「生殖補助医療」が医療である以上は,妊娠しない女性は不健康(健康破綻者)だ,ということになり,妊娠していない女性に対して「僕と頑張って,赤ちゃんを作ろう。」と語りかける男性は,当該女性の健康を慮る全くの親切なおじさんであるということになってもしまいそうです。すなわち,「不妊治療への〔健康〕保険適用を早急に実現します。」と菅義偉内閣総理大臣も宣言しているところです(20201026日所信表明演説)。ただし,夫婦間のものに限られるようで,「現時点〔2020122日〕におきましては,生殖補助医療のうち,夫婦間の体外受精等について,体外受精や顕微鏡受精についての保険適用を見据えて,治療技術の標準化を目指し,ガイドラインの策定等の検討を行っているところ」であるそうです(三原じゅん子厚生労働副大臣(衆法務17頁))。

 また,医療の対象は人であるということになると,精子及び卵子を対象とする体外受精は,それのみでは医療とはならず,「体外受精を用いた医療」の段階で初めて人を対象として医療となるのでしょうか。

 

イ 子をもうけることの価値の相対性宣言

なお,参議院法務委員会及び衆議院法務委員会は,生殖補助親子関係等法案を可決した際の附帯決議において「政府は,血縁のある子をもうけることを推奨するような誤解を招くことや,子をもうけることが人生のプロセスとして当然かのような印象を与えることがないよう,適切な措置を講ずること。」を求めています(第203回国会参議院法務委員会会議録第3号(20201119日の委員会)(以下「参法務」)18-19頁,衆法務20-21頁)。

「生殖補助医療」は,せっかく新たに法律上の位置付けを得ても,「皆さん,ぼやぼやせずに是非生殖補助医療の提供を受けて,子どもを沢山もうけましょう。」と積極的に推奨されるまでのものではないようです。生殖補助親子関係等法6条は「国は,広報活動,教育活動等を通じて,妊娠及び出産並びに不妊治療に関する正しい知識の普及及び啓発に努めなければならない。」と規定していますが,そこでの「正しい知識」の「正しさ」とは,上記の非積極性を包含するものでしょう。しかし,生殖補助親子関係等法7条の「国は,生殖補助医療の提供を受けようとする者,その提供を受けた者,生殖補助医療により生まれた子等からの生殖補助医療,子の成育等に関連する各種の相談に応ずることができるよう,必要な相談体制の整備を図らねばならない。」との規定に基づく相談において,必ず子どもを授かりたいと思い詰めてやってきた「生殖補助医療の提供を受けようとする者」に対して,にこにこしながら,「血縁のある子をもうけることの推奨はしませんし,子をもうけることは人生のプロセスとして当然あるべきことではないと思ってください。」と言い放つと,とんでもないことになりそうです。

 

ウ 「生殖補助医療」の対象者

「生殖補助医療」の対象者については,生殖補助親子関係等法においては「生殖補助医療の対象者につきましては,〔略〕法律上の夫婦という言葉を,限定する文言を用いていないところであります。よって,同性カップルやシングルの方々への生殖補助医療の提供,これが法律上制限することにはならないとまず考えております。」とされています(秋野参議院議員(参法務4頁))。参議院法務委員会及び衆議院法務委員会も生殖補助親子関係等法案の可決に際してのその附帯決議において「政府は,本法附則第3条に基づく法制上の措置が講ぜられるまでの間,生殖補助医療の提供等において婚姻関係にある夫婦のみを対象とするのではなく,同性間カップルへの生殖補助医療の提供等を制限しないよう配慮すること。」を求めています(参法務18-19頁,衆法務21頁)。同性間カップルの間において子が生まれないことは,医療の対象となるべき傷病状態又は健康破綻となるようでもあります。子が生まれないことそれ自体(これは同性間ではそうなってしまうものでしょう。)よりも,むしろそのことに係る悩みが切実な問題なのでしょうか。

 

(3)生殖補助親子関係等法9条

 

ア 趣旨

生殖補助親子関係等法9条の趣旨は,「懐胎をして出産をする,その女性が出生した子の母親であるという従来の民法の解釈,そしてこの解釈を改めて示した平成19年の最高裁の決定を踏まえつつ,子の福祉の観点から,代理懐胎であるかどうかを問わず,生殖補助医療により生まれた子の母子関係を安定的に成立させようとしたものでございます。懐胎し出産した女性が出生した子の母親であるということを法律で明らかにさせていただいております。」とのことです(秋野参議院議員(参法務3頁))。

 

イ 代理懐胎の位置付け

なお,「代理懐胎を明示した親子関係について,その明確な規定は設けていない」のは,発議者としては,「代理懐胎を積極的に容認するものでは決してありません」ところであり,また,「代理懐胎をめぐっては,そもそも代理懐胎を認めるかどうか」等について「現時点ではとても広い合意が得られている状況ではございません」からであるものとされています(秋野参議院議員(参法務3頁)。生殖補助親子関係等法附則33項は,代理懐胎に係る議論の結果の受皿として設けられています(同)。)。(「代理懐胎」というのも分かりにくい概念ですが,卵子提供女性と懐胎女性とが異なる場合において卵子提供女性が法律上の実母たらんとするときには,当該卵子提供女性を本人として当該懐胎をそう呼ぶようです(懐胎女性がそのまま法律上の実母たらんとするときには「代理懐胎」とはならないのでしょう。)。更には,民法旧728条後段の嫡母・庶子関係的な形態(精子は夫のものであり,卵子は懐胎女性のもの)も含めて考えられる場合もあるようです。


ウ 従来の民法の解釈

従来の民法の解釈は,「現行法上,第三者の卵子提供により生まれた子の母子関係を直接規定している規定はございません。もっとも,〔略〕母子関係につきましては,判例上,自然懐胎かあるいは生殖補助医療による懐胎かにかかわらず,分娩者が母となるとの解釈がされておりますので,これによりますれば,第三者の卵子提供により生まれた子につきましても分娩者が母となるものと考えられると考えております。」というものでした(小出邦夫政府参考人(法務省民事局長)(衆法務4頁))。

最高裁判所平成19323日決定・民集612619頁は,代理懐胎・出産の事案について,「現行民法の解釈としては,出生した子を懐胎し出産した女性をその子の母と解さざるを得ず,その子を懐胎,出産していない女性との間には,その女性が卵子を提供した場合であっても,母子関係の成立を認めることはできない。」と判示しています。当該決定が「母とその非嫡出子との間の母子関係についても,〔略〕母子関係は出産という客観的な事実により当然に成立すると解されてきた(最高裁昭和35年(オ)第1189号同37427日第二小法廷判決・民集1671247頁参照)。」と述べて引用する最高裁判所昭和37427日判決は,「母とその非嫡出子との間の親子関係は,原則として,母の認知を俟たず,分娩の事実により当然発生すると解するのが相当である」と判示して,「嫡出でない子は,その〔略〕母がこれを認知することができる。」と規定する民法779条の適用範囲を大幅に狭めています。ただし,「原則として」なので,例外の場合がなおあるわけであり,それは「棄児その他,分娩の事実の不分明な場合を指すものであることは,十分に理解されるのである。」と当該昭和37年判決に係る裁判体の藤田八郎裁判長はその後示唆していたところです(「「母」をたずねて」参照http://donttreadonme.blog.jp/archives/1053701038.html

 

エ 昭和37年最高裁判決の「原則として」文言との関係

生殖補助親子関係等法9条の出産女性と出生子との関係が嫡出母子関係にならない場合には,上記昭和37年判決の文言からすると,民法779条がなお適用される余地(「原則として」に対する例外が認められるとき。)がなければならないように一見思われます。しかし,「女性が自己以外の女性の卵子(その卵子に由来する胚を含む。)を用いた生殖補助医療により子を懐胎し,出産したとき」とまで認められるときとは正にその分娩の事実が分明なときであって,「棄児その他,分娩の事実の不分明な場合」には当たらないのだ,したがって,生殖補助親子関係等法9条において母の認知について規定するには及ばないのだ,ということになるのでしょう。

なお,昭和37年判決以後「母の認知を要する例外に関する判例は見当たらない」そうです(二宮周平編『新注釈民法(17)親族(1)』(有斐閣・2017年)603頁(前田泰))。

 

(4)生殖補助親子関係等法10

 

ア 現行法上の解釈

生殖補助親子関係等法10条の「妻が,夫の同意を得て,夫以外の男性の精子(その精子に由来する胚を含む。)を用いた生殖補助医療により懐胎した子」と当該夫との父子関係に関しては,現行法上は次のように解されています(小出政府参考人(衆法務4-5頁))。

 

 現行法上,第三者の精子提供により生まれた子の親子関係について明記した規定はなく,また,これについて明確に判断した裁判例も見当たらないところでございます。

 もっとも,現行法〔民法776条〕は,夫が子の出生後,その子が嫡出であることを承認したときは,嫡出否認をすることができないという規定を置いておりまして,子の出生前に,医療実施について夫が事前に同意したということのみでこの規定が直接適用されることはないと考えられるところですが,一般的に,妻の生殖補助医療に同意した夫が生まれた子について嫡出否認の訴えを提起することは,信義則違反又は権利の濫用に当たり,許されないと解釈されております。

 また,下級審の裁判例で,第三者の提供精子を用いて夫の同意のもとで行われた人工授精により生まれた子に関し,母親も,夫と子の間に父子関係が存在しないといった主張をすることは許されないと判示したものがございます。

 

 ちなみに,夫以外の第三者の精液による人工授精(AID=Artificial Insemination with Donor’s semen)であって「夫の同意の下に,夫の精液を混合して,行われる」「普通」「(是非そうすべきだと思う)」の場合について我妻榮は,つとに,「夫は否認の訴えを提起しうるか。否定すべきものと思う。けだし,夫妻の間の子をえようとする積極的な意思の下にできた子であり(単なる嫡出性の承認(776条)以上に強い。むしろ縁組に相当する。),その子に対し父としての責任を課すべきことは当然だからである。」と説いていました(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)229頁)。夫の精液が混合されない場合においても同様に解されるものでしょう。(なお,当該我妻説に対し,大村敦志教授は,「実質的には確かにその通りだが,〔776条について〕事前の承認を認めないという考え方からすると,このように断じてよいかどうか疑問がないわけではない。生殖補助医療に関する立法措置が必要とされた一つの理由はここにある。」と述べていました(大村敦志『民法読解 親族編』(有斐閣・2015年)146頁)。)

 

イ 夫の同意

 生殖補助親子関係等法10条の夫の同意については,「この同意には,すなわち,妻の懐胎に同意した夫は出生した子をみずからの子として引き受けるという意思を有しているというふうに考えられまして,この夫に父としての親の責任を負っていただくということが相当であるという趣旨でございます。」(古川参議院議員(衆法務6頁))ということで,「出生した子をみずからの子として引き受けるという意思」が夫に存在していることが前提とされています。

「精子提供者が誰であるかを知っていることまでは同意の要件としておりません」とされているところです(古川参議院議員(衆法務6頁))。

「書面による同意としなかった」ところであるが「当事者の十分な理解を得た上で,夫の同意を含む当事者の同意書がつくられることになるものと考えておりまして,この同意書というのは医療機関で適切に保管されるべきと私どもも考えてございます。」と期待されています(秋野参議院議員(衆法務6頁))。困った人が肝腎な重要書類を紛失しているということもままある話ですが,医療機関にお任せすれば,大丈夫なのでしょう。

同意の存在の時期については,「この同意は懐胎に至った生殖補助医療の実施時に存在している必要があると考えてございます。懐胎に至った生殖補助医療の実施前に同意が撤回された場合には,第10条の夫の同意は存在しないと考えてございます。」とされています(秋野参議院議員(衆法務6頁))。

 

ウ 夫の同意なしのAIDの場合における夫と子の父子関係

 AIDが「事実上夫の同意なしに行われた場合には,夫からの否認の訴えを認むべきである(外形的にも同棲の事実を欠く場合には,その理由で夫の子と推定されない子となる)。」と説かれています(我妻229頁)。「不妊治療中の妻が夫に無断でAIDを行ったケースにおいて」,大阪地方裁判所平成101218日判決・家月51971頁は,「夫はAIDには同意していなかったと判断し,夫のAID子に対する嫡出否認の訴えを認めた」ところです(二宮編690頁(石井美智子))。

 

エ 精子提供者との父子関係

 生殖補助親子関係等法10条の適用がある場合以外の場合において,精子提供で生まれた子が当該精子提供者に対して認知の訴えを提起できるか,また逆に当該精子提供者が当該子を認知できるかの問題については,発議者は回答を避けています(秋野参議院議員(参法務3頁))。「本法律案で規定するところではなく,各事案に応じて裁判所において決定される,その場合には,親子関係の規律,民法の規定により裁判所が判断をされるということになると考えております。」ということです(古川参議院議員(衆法務5頁))。生殖補助親子関係等法附則3条に基づき議論され決定されるべき問題であって,未確定であるものと発議者においては認識されているようでもあります(古川参議院議員(参法務12頁,衆法務5頁))。

これについて,AIDであって「事実上夫の同意なしに行われた」ものによる出生子の父子関係に係る我妻榮の見解は,当該「精液提供者との間に父子を認めることはできない(任意認知も強制認知も)」として消極です(我妻229-230)。「子の福祉を本体とする父子関係の本質に適さないからである」ことが当該消極説の理由とされています(我妻230頁)。

さりながら,夫の与り知らぬままされた人妻に対する不倫的AIDの場合であっても,精子提供者に確乎たる「出生した子をみずからの子として引き受けるという意思」があれば,当該精子提供者を父としても「子の福祉を本体とする父子関係の本質」に反しないようにも思われます(強制認知につき下記高松高等裁判所平成16716日判決参照。任意認知については「民法は,子が未成年の場合には子の承諾も母の承諾も認知の要件としていないので,精子提供者は,届出するだけで自分の精子によって生まれた子を自由に認知することができる。それに対して,子の側で,精子提供者であることを理由にまたは親とならない約束を理由に,血縁関係にある精子提供者の認知を無効とすることは難しいであろう。」と説かれていますが(二宮編694頁(石井)),この場合,自ら認知するということは「出生した子をみずからの子として引き受けるという意思」の現れであるということになるのでしょうか。)。しかしながら,そもそもAIDの実際においては,精子提供者にそのような意思は従来なかったものでしょう。「慶應義塾大学は,全国のAIDの約40%から50%をずっとやっておりました。年間で千五百ぐらいあったというふうに思っております。それまでは,ドナーは一定の人たちをお願いをして得ていたわけなんですけれども,2017年から,今後,国会で議論が進み,出自を知る権利ができるという可能性があるということをインフォームド・コンセントにおいて情報開示するようになりました。それから全くと言っていいほどドナーが現れなくなりました。」といわれています(古川参議院議員(参法務5-6頁))。「男の責任」は,男にとっては恐ろしいものです。

 

オ 夫の同意なしのAIHの場合における夫と子の父子関係

夫の精子を用いた妻に対する人工授精(AIH=Artificial Insemination with Husband’s semen)の場合であっても,夫の同意を得ていないときはどうでしょうか。この場合も,直ちに「ほとんど問題はない。普通の嫡出子として取扱うべきである。」(我妻229頁)といい得るものかどうか。一般論として「夫の精液によるもの(AIH)には,ほとんど問題はない」と判断するに当たっては,夫の同意があることが当然の前提とされていたものではないでしょうか。

最高裁判所平成1894日判決・民集6072563頁の原審である高松高等裁判所平成16716日判決は,冷凍保存された亡夫の精子によりその未亡人が受けた体外受精によって出生した死後懐胎子が提起した当該亡夫の子たることの死後認知の訴え(民法787条ただし書)に係る請求を認容しましたが(ただし,下記のとおり上告審で破棄),当該体外受精による当該死後懐胎子の懐胎に係る当該亡夫の同意を要件としています。判決文によれば,「人工(ママ)精の方法による懐胎の場合において,認知請求が認められるためには,認知を認めることを不相当とする特段の事情が存しない限り,子と事実上の父との間に自然血縁的な親子関係が存在することに加えて,事実上の父の当該懐胎についての同意が存することという要件を充足することが必要であり,かつ,それで十分である」ところ,当該「父の同意を必要とする理由は「自然懐胎の場合,当該懐胎は,父の意思によるものと認められるが,男子が精子を保存した場合,男子の意思にかかわらず,当該精子を使用して懐胎し,出生した子全てが認知の対象となるとすると,当該精子を保存した男子としては,自分の意思が全く介在せずに,自己と法的親子関係の生じる可能性のある子が出生することを許容しなければならなくなる。〔略〕このような事態は,自然懐胎の場合に比して,精子を保存した男子に予想外の重い責任を課すことになり,相当でない」からであるとされています。当該論理に従えば,夫としては,同意の欠缺を理由として,妻の分娩したAIH出生子に対する嫡出の否認が可能となりそうです。(ただし,「生殖補助医療に同意していなかったという理由で,夫が血縁関係にある子を嫡出否認するのは難しそうである。」という学説もあります(二宮編684頁(石井))。)

夫の精子によって受精した妻の卵子が凍結保存され,その後当該受精卵によって当該妻が懐胎出産した子に対して,当該懐胎出産は無断で行われたとして当該夫が父子関係不存在確認の訴え(二宮編683頁(石井))を提起した事案に係る奈良家庭裁判所平成291215日判決は,父子関係の成立のためには受精卵の移植時に夫の同意が必要であるとしつつ(「凍結受精卵を移植する際に夫が,生まれた子供を夫婦の子として受け入れることに同意していることが必要」),当該事案の解決としては,嫡出推定が及ぶ場合(「別居していたが,旅行に出かけるなど夫婦の実態は失われていなかった」)であるのにもかかわらず嫡出否認の訴えによるものではないとして当該夫の請求を退けています(産経WESTウェブサイト20171215日付け「同意ない体外受精は親子関係の成立なし,奈良家裁で初判断」。控訴審の平成30426日判決は控訴を棄却していますが,夫の同意の要否については判決において触れられなかったそうです(日経電子版2018426日付け「父子関係再び認定 凍結卵無断出産,大阪高裁 元夫の控訴棄却」)。令和元年65日には上告が棄却されています(産経新聞ウェブサイト201967日付け「受精卵の無断使用,最高裁も父子関係を認定」)。)。

 

カ 「父の意思」

なお,平成16716日判決において高松高等裁判所は,「自然懐胎の場合,当該懐胎は,父の意思によるものと認められる」ので,自然血縁的な親子関係だけで法的父子関係の成立を認めることができるのだ,という論理(したがって,実は,自然血縁的な親子関係のみが要件ではない。)を採用しているものと解されますが,ここでの自然懐胎の場合における「父の意思」の内実について考えるとき,筆者には,司馬遼太郎の小説の次のくだりが想起されたところです。

 

 〔前略〕秀吉は血縁の養子のたれよりも,この血のつながらぬ養子の宇喜多秀家を愛したといえるであろう。

 「まるで,実のお子のようじゃ」 

  と,ひとびとは蔭でささやいた。秀吉自身,八郎の母〔於ふく〕のからだを知っているだけに,うすうす,そのように錯覚しかねない情念をこの少年に対してもっていたのであろう。父親とは本来,出産の痛烈な動物的体験がなく,単にその子の母親のからだを知っているだけの存在にすぎない。その点では,秀吉は八郎秀家の父親としての資格は十分であった。

 「おとくな,公達よ」

  と,豊臣家の殿中では,秀吉に愛されている宇喜多直家の遺児のしあわせをうらやまぬ者はない。

  ――母御前のおかげであろう。

  という者もある。

   (『豊臣家の人々』「宇喜多秀家」)

 

「父の意思」とは,その子に対するものというよりは,直接には,男がその子の「母のからだを知」るということに帰着するもののようです。さてそうだとすると,母のからだを知らぬ精子提供者と当該精子による人工授精等によって出生した子との間に父子関係を認めようとするときは,母のからだを知る精子提供者(夫)の場合よりも「同意」の認定に慎重たらざるを得ないということになるものかどうか(精子提供者による認知に対して主張されるべき民法786条の「反対の事実」の問題ともなり得るでしょうか。)。

ちなみに,人工授精又は体外受精のための精子を提供するに当たっては,施設によっては提供者にグラビア雑誌の閲覧の便宜を図ってくれるという話を聞いたことがあります。それでは,その際当該提供者の当該提供時における「父の意思」的なるものは,どこに向かっていたものか(換言すれば,生まれてくるであろう子の母は,その時彼の想念の中ではだれであったのか)。当該事情の報告者の証言は,曖昧でした。

 

キ 最判平成18年9月4日

ところで,最高裁判所平成1894日判決は,前記高松高等裁判所平成16716日判決を破棄して死後懐胎子による死亡男性に対する認知請求を認めませんでしたが,その理由は,「死後懐胎子と死亡した父との関係は,〔民法の実親子に関する〕法制が定める法律上の親子関係における基本的な法律関係〔親権,監護・養育・扶養,相続,代襲相続〕が生ずる余地のないものである」ところ(なお,父の親族との間に親族関係が生ずることは最高裁判所も否定していませんが,当該親族関係はここでいう「法律上の親子関係における基本的な法律関係」には含まれないようです。),民法の実親子に関する法制が想定していない「その両者の間の法律上の親子関係の形成に関する問題〔を解決すべき〕立法がない以上,死後懐胎子と死亡した父との間の法律上の親子関係は認められない」とするものでした。死後懐胎子の請求であるから否定されたのであって,精子提供者に対する強制認知請求の要件の一般論に係る原審の判示部分を直接否定するものではないようです。

 

(5)子の「出自を知る権利」

児童の権利に関する条約(平成6年条約第2号)712文後段は「児童は〔略〕できる限りその父母を知りかつその父母によって養育される権利を有する。」と規定していますが,当該規定は,「他人の精子又は卵子を用いた生殖補助医療」により生まれた子の「出自を知る権利」(精子又は卵子の「ドナー情報」の開示請求権ということになりましょう。生殖補助親子関係等法附則313号参照)について適用があるものかどうか。生殖補助親子関係等法案の発議者である古川参議院議員が「子どもの権利条約につきましても,父母を知る権利についてはできる限りと,アズ・ファー・アズ・ノウと,そこに書いてありますので,アズ・ファー・アズ・ポッシブルと書いてありますので,そういう意味では,今後,この日本の文化というものも考えながらその点は話し合われることになるんだと理解しております。」と答弁していることもあり(参法務4頁),一見適用がありそうでもあります。しかし,法的な父母と,精子又は卵子の提供者とは本来別のものでしょう。児童の権利に関する条約712文後段の「その父母(his or her parents)」は,養育を担うべきものとされていることからも,やはり法的な父母として解すべきものではないでしょうか。ただし,「海外では,1984年のスウェーデンを始めとして,2000年代前半までにヨーロッパやオセアニアなどの国々では出自を知る権利が認められてきました。その根拠とされているのは子どもの権利条約なんですね。子どもの権利条約の7条と8条がその根拠となっています。」(長沖暁子参考人(慶応義塾大学講師)(参法務12頁)),「子どもの権利条約第7条,8条による子供の出自を知る権利は,国連の子どもの権利条約で保障されており,そして日本も批准していますので,それを守るべきじゃないかという世界の声というのが大きかったかなと思います。」(才村眞理参考人(手塚山大学非常勤講師)(衆法務14頁)),「許斐有さんという法学者なんですけれど〔略〕第7条ですね。そして,親とは,自然的な親,つまり,血のつながった実の親のことである〔以下略〕」(同)とされています。児童の権利に関する条約81項は「締約国は,児童が法律によって認められた国籍,氏名及び家族関係(family relations)を含むその身元関係事項(identity)について不法に干渉されることなく保持する(preserve)権利を尊重することを約束する。」と規定しています。とはいえ,同項については,法律の規定が同条約に先行しなければならないものとしているように読み得ます。

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前編から続く(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078123981.html


(2)旧民法財産編323条に関して

 

ア 第1項: “appréciable”の「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ」との翻訳

 旧民法財産編323条については特にその第1項が問題となりますが,同項に係るボアソナアド原案(3441項)は次のとおりでした。

 

  La convention est nulle pour défaut de cause quand le stipulant n’y pas d’intérêt légitime appréciable. [1131.]

  要約者が合意について正当かつ相当(appréciable)な利益を有しないときは,その合意は原因のないため無効である。(フランス民法1131条参照)

  (Boissonade II p.61

 

 おや,ここでは「相当な利益(intérêt appréciable)」であったものが,旧民法財産編3231項では「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ利益」(現行民法399条に係る富井政章=本野一郎のフランス語訳(新青出版・1997年)によれば“avantages susceptibles d’une évaluation en argent”ということになるものでしょう。)に変わっています。どうしてでしょうか。強気の意訳というべきか(旧民法財産編3231項の公定仏語訳は,依然“La convention est nulle pour défaut de cause, quand le stipulant n’y pas d’intérêt légitime et appréciable.”であり,同2項の「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ利益」もなお“intérêt appréciable”です(Code Civil de l’Empire du Japon accompagné d’un exposé des motifs, Tome Premier, Texte, Traduction Officielle. Tokio,1891. p.128)。)。民法399条をめぐる謎を解く鍵は,この辺にありそうです。

 なお,“appréciable”の語義は,『ロワイヤル仏和中辞典』(旺文社・1985年)によれば「1.評価し得る,価値のある;相当な,かなりの」又は「2.感知し得る;目につくほどの,それとわかる」というものであって,「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ」は,誤訳では全くないのですが,必ずそう訳さなければならないというわけでもないようです。

 では,ボワソナアド原案3441項の解説を見てみましょう。

 

   まず,利益が合意にとって必要な原因cause)であることが原則として据えられる。しかして,この利益は,同時に「正当かつ相当(légitime et appréciable)」でなければならないとのみ述べられている。もしそれが正当でなかったのならば,違法であるときと同様に,原因(コーズ)は無効である。もしそれが相当でなかったならば,裁判所にとってそれは,存在しないも同然である。すなわち,原因(コーズ)の欠缺があるわけである。この原則に議論の余地はなく,かつ,「利益なくして訴えなし(pas d’intérêt, pas d’action)」との法格言となっている。毎日,裁判所は,原告がその利益を証明しなかったとの理由で,訴えに係る主件であろうと副次的なものであろうと,請求を棄却しているのである。(Boissonade II pp.132-133. Code Civil de l’Empire du Japon accompagné d’un exposé des motifs, Tome Seconde, Exposé des Motifs du Livre des Biens, Traduction Officielle. Tokio,1891. pp.393-394も同様)

 

 「債権ノ目的ハ果シテ金銭ニ見積ルコトヲ得ルモノタルコトヲ要スルヤ否ヤハ学者間未タ説ノ一定セサル所タリ蓋シ羅馬法ニ於テハ学者動モスレハ債権ノ目的ノ金銭ニ見積ルヘキコトヲ要スル旨ヲ言ヒ今日ニ至リテモ羅馬法系ニ属スル法律ニ在リテハ大抵皆此主義ニ依レリ」(梅10頁)というようなローマ法に遡るような議論までは,ここではボワソナアドはしていません。穂積陳重も,「併ナガラ〔略〕ぼあそなーど〔Boissonade〕氏抔ノ説明ヲ読ンデ見マスト此事ハ一ツノあく志よん〔action〕デ」と書いてあるだけで「此主義〔筆者註:この「主義」は,「金銭ニ見積ルト云フコトガ必要デアルト云フコトニナツテ居ル」主義ということでしょう。〕ヲ取ツタト云フ訳モ何モ書イテナイ知レ切ツタモノデアルト云フヤウニ書イテアリマス」と証言しています(第55回法典調査会議事速記録969)。やや拍子抜けの体です。

この頼りなさのゆえでしょうか,穂積陳重は,債権(人権)は旧民法財産編に規定されていたという規定の位置論をも持ち出して「元債権ハ財産編ノ一部分デアリマス即チ債権ノ一部分デアリマス以上ハドウシテモ金銭ニ見積ルコトヲ目的トスルト云フコトニ土台ヲ取リマスノハ固ヨリノコトデ物質的ノ利益ト云フモノガ元ニナルノデアラウト思ヒマス諸外国ニ於キマシテモ例ヘバ仏蘭西抔ニ置キマシテモ債権ハ所有権取得ノ方法ノ一ツニ挙ゲテアル位デアリマス詰リ是レハ金銭ニ見積ルト云フ方ガ元トナルト云フベキ訳デアリマス」とも述べています(第55回法典調査会議事速記録969頁)。しかし,我妻榮によれば,フランスの通説では,同国民法における債権の目的は金銭に見積もることを得ざるものでもよいのでした(我妻Ⅳ・22-23頁(前掲))。「法典の編成にさいし,債権を財産編の一部となし,財産取得の方法として規定し,その財産は金銭に見積ることのできるものだということを念頭におくと,金銭に見積ることをえないものは,債権の目的に適しなくなる。わが旧民法はその建前をとっていた。」との説明(奥田編旧版52頁(金山正信))は穂積陳重の上記発言を採用したものでしょう。

 

イ 第2項:過怠約款による「金銭的に相当な利益」の証明

 ところで,旧民法財産編3232項に対応するボワソナアド原案3442項に係る次の解説が,同項の“intérêt appréciable”イコール「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ利益」との解釈及び翻訳をもたらし,更に同条1項にはね返ってその解釈及び翻訳をも規制したのかもしれません。

 

   しかして,ある者が,愛情又は何らかの動機によって他者のための利益を要約したときは,当該約束の履行は,裁判によって追求され得ない。すなわち,合意の当事者となっておらず,当該合意は彼に訴権を付与し得ないので〔略〕,当該第三者は追求できず,金銭的に相当な利益un intérêt pécuniairement appréciableを証明できないので,要約者も追求できないところである。(Boissonade II p.133. 下線は筆者によるもの。また,Exposé des Motifs du Livre des Biens p.394

 

 「過怠約款ヲ加ヘサルトキ」についての説明です。

懈怠約款(une clause pénale)をもって証明できるのは要約者にとっての「金銭的に相当な利益(un intérêt pécuniairement appréciable)」なのでそこを先取りする形で「金銭的に相当な利益を証明」云々といった定義付け的にも解し得る記述がされてしまった,ということでしょうか(旧民法財産編3234項では“payement de la clause pénale stipuléeが「過怠約款ノ履行」とされています。)。しかし,集合論的にはやはり“intérêt appréciable”“intérêt pécuniairement appréciable”なのではないでしょうか。「懈怠約款が要約者の利益の認定のためには最も簡単な方法であるとしても,それが唯一のものではないこと,すなわち,それは事情に応じて裁判所が判断すべき事実認定の問題であることが銘記されなければならない。」とボワソナアドは注意していますし(Boissonade II pp.133-134. また,Exposé des Motifs du Livre des Biens pp.394-395),旧民法財産編3233項もあったところです。

 

ウ フランス民法1131条

 なお,ここで,フランス民法1131条は次のとおり。

 

  Art. 1131   L’obligation sans cause, ou sur une fausse cause, ou sur une cause illicite, ne peut avoir aucun effet.

    1131条 原因がない債務又は虚偽の原因若しくは不法の原因に基づく債務は,いかなる効果も有することができない。(大村敦志『フランス民法』(信山社・2010年)174頁)

 

「有償契約においては反対給付,無償契約においては恵与の意図が,それぞれコーズ〔原因〕となるというのが伝統的な説明」であるそうです(大村174頁)。

 

(3)旧民法財産取得編266条に関して

 

ア 梅謙次郎による紹介

旧民法財産取得編266条に関して,梅謙次郎は,「例ヘハ教師,医師,弁護士等ノ勤労ハ敢テ之ヲ金銭ニ見積リ難キカ如シ而モ之ヲ以テ債権ノ目的ト為スコトヲ得サルモノトスルハ頗ル不便ニシテ到底文明国ノ需要ニ適セス故ニ我旧民法ノ如キモ原則トシテハ之ヲ債権ノ目的ト為スコトヲ得サルモノトスルニ拘ハラス種種ナル間接ノ方法ヲ以テ之ヲ目的トスル債権ヲ保護センコトヲ計レリ是レ寧ロ表面ヨリ之ヲ目的トスル債権ヲ保護スルノ(まさ)レルニ如カス」と述べています(梅10頁)。

そうであれば,旧民法財産取得編266条に対応するボワソナアド原案962条に係るProjetの説明において,「教師,医師,弁護士等ノ勤労」は「之ヲ金銭ニ見積リ難キ」こと,「原則トシテハ之ヲ債権ノ目的ト為スコトヲ得サルモノトスル」旨(これは第1項の「法定ノ義務ナシ」の部分に関するのでしょう。なお,ここでの「法定ノ義務」は旧民法財産編2941項の「人定法ノ義務」のことで,フランス語では,“ne sont pas civilement tenus de…”ですBoissonade, Projet de Code Civil pour l’Empire du Japon accompagné d’un commentaire, Nouvelle Édition, Tome Troisième, Des Moyens d’Acquérir les Biens. Tokio, 1891.p.1005. Code Civil de l’Empire du Japon, Texte. pp.115, 339。)及びそれでも当該「債権」(これは正に括弧付きのものですね)を保護するために設けられた「種種ナル間接ノ方法」(これは第4項の規定のことでしょうか)が詳論され,かつ,明らかにされていることになります。さて,実際にはどうでしょうか。

 

イ ボワソナアドの解説の実際

 

(ア)報酬の要求及び受領の通常視

 

  実際のところ,本条に掲記されている人々は,依頼者に対してサービス(services)を提供し,かつ,これらの人々から報酬(une rémunération)が通常要求され(demandée),受領されるのであるから,これらのサービスは一般に無償ではない。(Boissonade III p.1017

 

 ボワソナアド自身は,「教師,医師,弁護士等ノ勤労」は「金銭ニ見積」られるのがむしろ通常であると考えていたようではあります。正に旧民法財産取得編2662項は,有償を原則とするものと解し得るでしょう。ローマ法自体についても,「但し測量師,教師,医師,弁護士,助産婦,乳母の如き者に対しては,謝礼(honorarium, salarium)の名義を以て報酬を与える慣例を産み,古典時代〔元首政期〕には特別訴訟手続〔通常訴訟手続(政務官の面前で行われる法廷手続と通常一人の私人である審判人のもとにおける手続との2段階からなる。)と異なり,政務官自身が判決まで行う手続〕で請求ができた。」とのことであったそうです(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)198頁)。

 

(イ)委任=代理混同の未克服ゆえの特別な構成

 

  しかしながら,より注意深い検討は,我々をして第4の構成(système〔第1は雇用(これは,有償・双務契約であり,各当事者を履行又は損害賠償に義務付けることになって,報酬の受領及び支払云々以前に,一方においては職の品位(dignité)に反し,他方においては依頼者の利便(intérêt)に反し,適当ではない(Boissonade III pp.1017-1018参照)。),第2は代理(委任)(弁護士はともかく,医師及び教師の仕事は代理(委任)とはいえない(Boissonade III pp.1018-1019参照)。)及び第3は特別の無名契約(類推の対象となる典型契約は雇用か代理(委任)かとの問題がやはりあるし,各当事者を義務付ける点で第1の構成と同様の問題がある(Boissonade III p.1019参照)。)の各構成〕を提案せしむるに至った。当該構成は,我々が問題としている合意(convention)において,有名であろうと無名であろうとおよそ契約contrat)の存在を認めない。また,当該世話(soins)又はサービスを諾約した者にも,それを要約した者にも,何ら法定の義務(obligation civile)を負わせない。

  法は,法定の義務を相互に正式に免ぜしむる一方,道徳上の義務(une obligation morale)のみならず自然の義務(une obligation naturelle)もまた働くべきこと(laisser place à)を意図しているのである。

  しかしながら,法定の義務は,一方当事者が相手方にした約束promesse)からではなく,事後的に,相手方の提供したサービスから得た一方当事者の利益profit)又はその提供若しくは受領の拒絶がもたらし得た損害dommage)から生じ得るのである。

  本条の第1項は,当該合意からは法定の義務は生じないという原則を示し,続く3箇項は例外的責任を規定するものである。

 (Boissonade III pp.1019-1020

 

  自然の義務は明示されていない。しかし,その存在に疑問の余地はない。いずれの当事者も,十分な理由なしに,その結んだ約束を破ってはならないのである。(Boissonade III p.1022

 

 「委任は,多くの場合に法律行為をなすことを内容としたために,代理と混同された時代もあつた」(我妻榮『債権各論 中巻二(民法講義Ⅴ₃)』(岩波書店・)654頁)とされる当該時代は,我が国においては旧民法の時代でした。「金銭ニ見積リ難」いこと云々よりもむしろ,委任と代理との当該混同こそが,旧民法財産取得編266条の難しい規定が設けられた理由であるようです。

梅謙次郎としては,旧民法財産取得編266条が前提とする自然の義務(自然債務)などは債務ではない,と言い切って捨てたいのでしょうが,カフエー丸玉女給事件判決を経た今日においてはどう考えるべきものでしょうか。

 旧民法財産取得編2662項に基づく謝金又は報酬は法定の義務に係るものということになりますが(これに対して,謝金又は報酬の約束のみでは依頼者側には自然の義務が生ずるにすぎないわけです(Boissonade III p.1023)。),当該法定の義務の発生の根拠は「不当に惹起された損失及び法律上の原因なき利得(“dommages causés injustement et enrichissement sans cause légitime”)」とされています(Boissonade III p.1024)。法定の義務としての謝金又は報酬の額は「相互ノ分限ト慣習及ヒ合意」を酌量の上裁判所が決めることになるわけですが,弁護士に係る「相互ノ分限」についてボワソナアドが語るところは次のとおりです。

 

   弁護士についても〔医師と〕同様に,一方では当該弁護士が有名か無名かが,他方では依頼者の資産の状況(situation pécuniaire)が考慮されると共に,利得の観点から,訴訟による利益又は損失もまた大いに考慮される。(Boissonade III p.1025

 

   全てについて,時間,労力及び気遣い(le temps, les peines et soins)が,補償されるべきものとして発生した損害に対応することになる。(Boissonade III p.1025

 

弁護士にとっては,まず有名であること(célébrité),そしてお金持ちのお得意さんを確保することが肝要であるということのようです。

最後の2箇項の損害賠償は法定の義務とされつつ,その根拠は,第1項の原則により,合意(convention)ではないものとされています(Boissonade III p.1026)。

 

5 小括

以上,「ボアソナードの解説」を読んだ限りにおいては,ボワソナアドは債権の目的は金銭に見積もり得るものに限られると考えていたということが「明らか」であると直ちに断言できるとはいえないように思われます。

しかし,我が現行民法と同じ時期にされたドイツ民法の立法の過程においては債権の目的は財産的利益に限られるべきものかどうかが争われていたことは事実でありますので,我が現行民法の立案者としては,ドイツにおける当該議論の結果を承け(ドイツ民法第一草案の段階から財産権的利益であることを要しないものとされていたことは前記のとおりです。),併せて旧民法財産編3231項で“appréciable”がどういうわけかドイツで敗北した少数説風に「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ」と訳されていて気になるのでそれを打ち消すべく,第399条に「債権ハ金銭ニ見積ルコトヲ得サルモノト雖モ之ヲ以テ其目的ト為スコトヲ得」との規定が設けられたということでしょうか(第55回法典調査会に提出された案がそのまま法律になっています。)。起草者はドイツの議論(Motive等)をやはり勉強していたのだなと筆者に思わせる事情として,穂積陳重は,ドイツ風に,民法399条においては直接現れてはいないところの債権の目的の外枠に関して次のように説明しています。いわく,「表ノ方ノ標準ハ当事者ノ意思即チ法律上ノ結果ヲ生ゼシムル意思ヲ以テ為シタル行為ト云フ証拠ヲ要スル裏ノ方デハ公益ニ反セヌ善良ノ風俗ニ反セヌト云フコトガ其裏ノ標準デアリマス」と(第55回法典調査会議事速記録974頁。vgl. Motive II S.3.)。

 なお,ローマ法について見ると,「債権の目的に関する要件」は「(1)適法 (2)可能 (3)確定し又は確定し得べきこと (4)金銭評価の可能(「金銭を以てママわれ責任を負わされ得るものが債務関係の中にあり」)(反対民399条)。尤も例外あり。」ということであったそうですが(原田152頁),穂積陳重の認識では「羅馬法ヲ解釈スル人デアリマシテモ近頃ノ人ハ半数以上,是ハ羅馬法ニ一ト所明文ガアリマスガ其他ノ所カラ見マシテモ是ハ一般ノ規則トシテ殊更ニ言フタノデナイ重モナ場合丈ケヲ言フタモノデ必ズシモ必要トシナカツタノデアルト云フ解釈サヘ多クノ人ガ致シマス其当否ハ私ハ知リマセヌガ茲ニ当否ヲ決スル必要ハ認メナイ」ということでした(第55回法典調査会議事速記録969頁)。(ここでの「一ト所」とは,「羅馬ノダイゼスト法典ニ曰ク債務ニ於ケル行為ハ財産ヲ供与スルニ成ルト」ということですから(岡松14),ユスティニアヌスの学説彙纂でしょうか。確かに,その第40巻第7章(De Statuliberis(候補自由人(一定の条件の下で解放を約束された奴隷)について))第9法文第2節であるようです(赤松秀岳「民法399条の「歴史的意義」」法政研究78巻(2011年)2337頁・312頁)。ウルピアヌスの見解を紹介する同節はいわく。“Illud tractatum est, an liberatio contingat ei qui noxae dederit statuliberum. et octavenus putabat liberari: et idem dicebat et si ex stipulatu stichum deberet eumque statuliberum solvisset: nam et si ante solutionem ad libertatem pervenisset, extingueretur obligatio tota: ea enim in obligatione consistere, quae pecunia lui praestarique possunt, libertas autem pecunia lui non potest nec reparari potest. quae sententia mihi videtur vera.”と。とはいえ,どう訳すべきか。前提とすべき予備的知識としては,「相続人に対して幾金を与えることを条件として奴隷が遺言で解放せられたときに,相続人が奴隷〔候補自由人〕の特有財産〔略〕を取りあげた場合」は「条件の成就によつて不利益を受くべき当事者が故意に条件の成就をさまたげたとき」として「条件は成就したものと看做される(民130条)。」ということがあるようです(原田89頁)。試みに訳していわく,「候補自由人を加害者として委付〔原田234-235頁参照〕した者は解放行為をしたことになるのか,との問題が取り扱われる。しかして,オクタウェヌスは,解放されたものと解したところである。また,約束によって奴隷スティクス給付目的物ってお当該候補自由人が弁済場合つい同様である。しかしてnam),(幾金の)支払の前に自由となったときであっても,全ての義務(obligatio tota)が消えているのである。すなわち,金銭によって履行され(lui),かつ,責任を負わされ(praestari)得るものが義務(債務)を構成するものであるが(in obligatione consistere),他方自由は,金銭をもって履行されることも,回復されること(reparari)もできないのである。この見解は,私には正しいものと思われる。」と。(追記:当初筆者は"nam"を「というのは」と訳しましたが,これは,債務が残ると奴隷に落とされることもあるかしらん,と思ったからです。しかし,「ローマ市民はローマ領内では奴隷となることを得ないという原則」があるそうですし(原田55),ローマでの奴隷の発生の「最も大きな原因」は出生及び捕獲のみだったそうです(原田50-51)。そうであれば,"nam"以下ではむしろ,条件のみなし成就による解放後も幾金の支払が債務として残存するのかどうかが論ぜられているのでしょう。)なお,筆者は“lui”“luere”の受動態不定形)を「履行される」と訳しましたが,“luere”には「(約束を)履行する」のほかに,「洗う」との語義もあるところです(水谷智洋編『羅和辞典〈改訂版〉』(研究社・2009年))。)民法399条について語るためにローマ法まで遡るとかえって面倒であって,やはり「ドイツ普通法時代以来に争のあった点」であると言及するにとどめておくのがよいのでしょう(我妻Ⅳ・22頁(前掲))。

結局,筆者の疑問として残ったのは,なぜ旧民法財産編3231項では,“intérêt appréciable”を「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ利益」と訳したのか,というそもそも論ということになります。同条2項の解釈に引きずられたのか,それともまた別の理由があるものか。そこで,旧民法財産編323条の原案が審議された1888214日の法律取調委員会民法草案第二部第25回議事筆記を調べてみることになります。

 

6 法律取調委員会における旧民法財産編323条に関する議論

 

(1)原案

1888214日の前記法律取調委員会には,次のような案が提出されました。

 

 第344条 合意ハ要約者カ其合意ニ付キ正当ニシテ且金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ利害ヲ有セサルトキハ原由ナキ為メ無効タリ(第1131条)

要約ヲ第三者ノ利益ニ於テ為シ且之ニ過怠約款ノ伴ハサルトキハ其要約ハ要約者ノ為メ金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ利害ナキモノト看做ス(第1119条)

然レトモ他人ノ利害ニ於ケル要約ハ要約者カ自己ノ為メ為シタル要約又ハ(ママ)約者ニ為シタル贈与ノ従タル条件タルトキハ其要約ハ有効タリ(第1121条第1項)

2個ノ場合ニ於テ其従タル条件ノ不執行ハ要約者ニ合意解除ノ訴権又ハ要約シタル過怠約款ノ践行ノ訴権ノミヲ与フ

(法務大臣官房司法法制調査部監修『日本近代立法資料叢書8 法律取調委員会民法草案財産編人権ノ部議事筆記一 自第二十三回至第三十四回』(㈳商事法務研究会・1987年)67頁)

 

 この案の法典取調報告委員は,栗塚省吾でした。
 

(2)栗塚報告委員の見解の忖度

 会議の冒頭清岡公張委員から早速「金銭ニ見積ルコトヲ得ベキ利害ヲ有セザル者ハ無効ト云フ訳デモナイデシヨウネ」と第1項について批判され,栗塚は「利害ガナケレバ訴権ガ生ゼヌト云フノデス,利害ト云フ以上ニハ何カ損ヲスルトカ得ヲスルトカ云フコトガナケレバナラヌト云フコトデス,唯私ハ是レデハ損ヲシマスカラト云テモ行カヌ,凡ソ其損タルヤ人モ見テ分ル損デナケレバナラヌト云フコトデス」と反論するのですが,清岡に「金銭ニ見積ルコトノ出来ヌモノデ利害ニ関スルモノモ随分アリソウナモノダ,元トヨリ利害ノ関係ノナイモノハ何ウデモ宜シイ金銭ニ見積ルコトガ出来ナイデ利害ニ関スルモノガアリソウナモノダ」と言い返されます(法律取調委員会民法草案第二部第25回議事筆記67)。

 この後やり取りが続くのですが,栗塚は,ローマ法についてもドイツにおける議論の状況についても全く言及していません。また,要約者の利害が「人モ見テ分ル」のみならず「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ」ものであることまでが要求されることについて,「近代の法律が,金銭債権について強制執行を認めるだけでなく,特定物の引渡や債務者の行為についても強制執行を認めるようになったことが,金銭に見積りえない給付についても債権の成立を認めうる最大の理由である」のだが(我妻Ⅳ・23頁),まだそのような条件が我が民事執行の法制上整っていないから金銭に見積り得ない給付に係る債権は成立しないのだ,というような理由付けも栗塚は提示していません。「要約者ガ利害ヲ有セザルトキハ無効タリ,其利害モ漠然ノモノデハナラヌ,相当ノモノデナケレバナリマセン,加フルニ金銭ニ見積ルモノデナケレバ行ケヌ」(法律取調委員会民法草案第二部第25回議事筆記68)というのは案文の繰り返しであって,だから「相当ノモノ」であることに加えて何で更に「金銭ニ見積ルモノ」という要件が必要なのかね,という疑問に答えていることにはなりません。

しかし,清岡委員がした「利害ハ色々ノコトガアル,斯ウ書イテ置クト金銭ニ見積ルコトノ出来ヌモノハ利害デナイト見ナケレバナラヌ」との発言に対して「価ヲ決メルコトノ出来ルト云フコトデス,詰リ金銭ニナル」と答え(法律取調委員会民法草案第二部第25回議事筆記68頁),「一般利害ヲ目的トシテ居ルカラ利害ガ正当デナケレバナラヌ,然ウシテ又詰リ金ニナル」と言い(同68-69頁),「利害ト云テモ,金銭ト云テモ,詰リハ本統ニ損ガ立ツ額ヲ見積ルノデハナイガ,唯私ガ損ヲスルト云テモ行ケナイ,斯ウ云フ損ガ立チマスト云ヘバ宜シイ,額ヲ立ルト云フコトデハナイ」と言い(同69頁),「幾ラカハ知ラヌガ,兎モ角モ損ガ立ツト云フノデス」と言い(同頁),「裁判官ノ認定ニ任カセル様ナ「認定」ト云フ位ノ字デス」と言った(同70頁)栗塚の諸発言を見ていると,「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ利害」という表現でもって,その不履行について損害賠償金の支払が認められるべき給付に係るものでなければ合意は無効であるのだ,ということがいいたかったのだ,ということだけだったようでもあります。(なお,不履行に対して損害賠償が認められるから債務なのか,債務だからその不履行について損害賠償義務が生ずるのかの先後論がありますが,これは,実際の認定方法(「効果は要件にはね返る。」(米倉明『プレップ民法(第5版)』(弘文堂・2018年)101-102頁,228頁参照))はともかくも要件効果論的には債務の存在が先でしょう。)松岡康毅委員の表現では「仕舞ハ金銭ニ違ヒナイガ(よんどころ)ナク金銭トスルト,初メカラ金銭ニスルトノ差ガアル」ところですが(法律取調委員会民法草案第二部第25回議事筆記68頁),旧民法財産編3231項の「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ利益」は,「初メカラ金銭ニスル」ものではなく,「仕舞ハ金銭」になればよいものであるようです。「そもそも金銭に見積もることのできないものなどあるのだろうか。精神的な苦痛も慰謝料という形で金銭に評価される。現代の功利主義的発想からは,いかなる物やサービスも,それを得るためにお金を出す人がいる限り,金銭に見積もることができる。」(内田25頁)とは,実は旧民法に係る栗塚省吾的解釈であるということになるようです。「天下ノ事物殆ト皆金銭ニ見積ルコトヲ得ルモノニ非サルハナシ故ニ此広義ヲ以テスレハ債権ノ目的ノ金銭ニ見積ルコトヲ得ルモノタルコトヲ要スルモノトスルモ殆ト弊害ヲ見サル」ところである(梅10-11頁)という言明も同様です(なお,「弊害ヲ見サル」のならば放置してもよかったのでしょうが,「殆ト」ですから,反対解釈すると,やはり弊害はあったのでしょう。)。

 

(2)ボワソナアド原々案に関する忖度

 また,松岡委員からあった「詰リ価ニナルニ違ヒナイ,折レ合ツタ処デ原語ガ「価ヲ定ムヘキ」ト云フノナラ「評価スヘキ」位ニシテハ何ウダロウ」という発言(法律取調委員会民法草案第二部第25回議事筆記70頁)に対して,栗塚は「原語は“appréciable”であります」と打ち明けずに頑張っていますが(栗塚がうっかり打ち明けてしまうと,ほら見たことか“appréciable”か,これは仏文和訳的にはやっぱり「評価スヘキ」だよ,ということになって,同人は面目を失することになってしまったようにも思われます。なお,あえて“appréciable”と言ってはいませんから,武士の情けでなければ,松岡はフランス語の原文を見てはいなかったのでしょう。),実は,旧民法財産編3231項の“légitime et appréciable”は,そもそもボワソナアドの原々案にはなかった語だったのでした。すなわち,栗塚は「「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ」ト云フ形容詞ト「正当ニシテ」ト云フ形容詞ハ後トデ這入ツタノデス,利害ト云フノハ話ノ説明ヲ見ルト唯利害ト云テ置クト漠然トシテ居ルカラ同時ニ正当デナケレバナラズ,且価ヲ見積ル程ノモノデナケレバナラヌト云フデアリマス」と発言しているところです(法律取調委員会民法草案第二部第25回議事筆記68頁)。すなわち,「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ」たる形容詞をめぐるはっきりしない議論の発端は,ボワソナアドにではなく,これじゃ漠然とし過ぎて物足りないから何か形容詞を添えてくれいとの注文を出したのであろう日本側にあったもののようです。

 実は,ボワソナアドとしては,その原案3441項(旧民法財産編3231項)には,教育的な意義は認めても,創設的な意義は認めていなかったようなのです。ボワソナアド原案344条(旧民法財産編323条)に関するProjetの解説は,まずいわく。

 

   本条は,フランス民法1121条による例外を除く同法1119条が規定する第2の原則及びイタリア民法1128条に対応する。ただし,必要な補足的規定(les compléments nécessaires)も加えられている。(Boissonade II p.132

 

ここでいうフランス民法1119条の第2の原則とは,「人は,一般に、自己の名においては自己のためにしか要約できない。」ということで(同条の原文は“On ne peut, en général, s’engager, ni stipuler en son propre nom, que pour soi-même.”),同法1121条は「自分自身のための要約又は相手方にする贈与に係る条件としてならば,同様に,第三者の利益のために要約することができる。当該第三者が受益の意思を表示したときは,要約者は撤回することはできない。(On peut pareillement stipuler au profit d’un tiers, lorsque telle est la condition d’un stipulation que l’on fait pour soi-même ou d’une donation que l’on fait à l’autre. Celui qui a fait cette stipulation ne peut plus la révoquer, si le tiers a déclaré vouloir en profiter.)」との規定です。イタリア民法1128条もこれらと同様の規定なのでしょう。ここで注目すべきは,フランス民法1119条及び1121条は我が旧民法財産編3232項及び3項に対応するものである一方,同条1項(これはフランス民法1131条に対応します。)が言及されていないということです。当該不言及の意味するところは,旧民法財産編323条のうちその第1項は,同条の主要部分ではないということでしょう。すなわち,同条2項以下が刺身であれば,同条1項はそのつまにすぎないということになります。

それでは,当該つまの効用はいかん。ボワソナアドはいわく。

 

  〔旧民法財産編323条の〕第2項は,原因cause)又は利益の欠缺に係るこの〔第1項の〕原則に,他者のための要約la stipulation pour autrui)の無効を結び付ける。これは,フランス民法においては,いわば離れ離れとなっており(égarée),当案においては実現可能な目的objet réalisable)の欠缺に結び付けられている他者の作為に係る約束la promesse du fait d’autrui)の無効性〔筆者註:この無効性原則は旧民法財産編322条に関するものと解されます。わざわざ“réalisable”を「換金可能性」の意に解して同法財産編323条の「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ」性との関係をこじつける必要はないように思われます。〕というような,原則との連結を欠いているのである。(Boissonade II p.133

 

 要は,原則規定とそこから派生した規定とを並べて書いた方が読者の目に美しく,分かりやすいだろう,ということのようです。各皿ごってりそれぞれ完食どんと来い型のフランス料理よりも,日本式につまを添えたやさしい盛り付けの方が優れているのだ,とボワソナアドは独りごちたものか。

 しかして,せっかくの原則規定たる旧民法財産編3231項が同条2項以下の刺身のつま扱いされているのは,当該原則は,既に同法財産編3041項第3において,合意の成立のためには「真実且合法の原因」(フランス語では“une cause vraie et licite” (Code Civil de l’Empire du Japon, Texte, p.119))が不可欠であるという形で,こちらで正に刺身として規定されていたからでしょう。

 「合意の原因(コーズ)は,当事者の意思を一致させた決定的な理由(la raison déterminante)である。それは,当事者が得ようと欲した目的(le but)である。人は理性に基づき合意するのであって,気まぐれによってではない。そこにおいて人は,一般に,精神的な,金銭的な又は社会的適切性の満足(une satisfaction morale, pécuniaire ou de convenance)を求めるのである。〔略〕また,恐らくこれが最も多いのであろうが,快楽,虚栄の満足又は奢侈の追求を動機(mobile)とする合意又は約束が存在する。」といわれると(Exposé des Motifs du Livre des Biens. p.350),原因(コーズ)は金銭に見積もることを得べき利益以外においては存在しないのだ,との理論を大きく展開することは難しそうです。所詮刺身のつまなのですから,当該理論は第三者のための契約の原因(コーズ)に係る場面(皿)に限定されるものとして考える,ということも可能であったかもしれません。

(3)栗塚省吾に関する情報発信

 栗塚省吾は越前出身(出生地は江戸本所松坂町),後に大審院判事として弄花事件🎴の登場人物となります(越中の磯部四郎とはパリ留学仲間だったのでした。)。
 栗塚については,「わが国の近代法学形成期における最重要人物の一人としてその名前は知られているのだが,これまでの研究では,断片的に言及されてきたにすぎず,その人物像や法学識については,ほとんど知られていない。」と評されています(村上一博「パリ大学留学時代の栗塚省吾」(越前市立図書館ウェブサイト「栗塚文庫洋書目録」ウェブページ)1頁)。

 この,名のみ知られて「その人物像や法学識については,ほとんど知られていない」栗塚が,山田顕義司法大臣の下で立法関係の仕事に携わるうち残した痕跡中,我らの目前にあって現に顕著なものの一つが,民法399条の規定であった,ということになるように思われます。

 第55回法典調査会における穂積八束発言以来度々その存在意義が問われてきた民法399条でありましたが(例えば,「〔前略〕このようにみてくると,本条の規定上の存在理由が疑わしくなる。ドイツ民法にも(241参照),フランス民法にも(11011126参照),スイス債務法にも(19参照),債権ないし契約の目的のところにこれについて定めていないことも,理解できる(奥田編旧版55頁(金山正信))。」),平成29年法律第44号による民法改正のどさくさに際して改正という名の削除の憂き目に遭わなかったことは,栗塚の顕彰を志す方々にとって幸運なことでありました。民法399条を見るたびに,栗塚省吾の事績が想起されなければなりません。(なお,越前市は,2015年度に,明治大学大学院法学研究科法史学(日本)研究室の「越前市の偉人「栗塚省吾」関係資料調査,研究と情報発信」事業に対して,地域貢献活動支援補助事業(学生団体対象)補助金として10万円を支給しておられます。)

 

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1 教科書的説明とそれに対する感想

 

(1)教科書的説明

 民法(明治29年法律第89号)399条は,次のように規定しています。

 

  (債権の目的)

  第399条 債権は,金銭に見積もることができないものであっても,その目的とすることができる。

 

何となく読み飛ばしてしまう条文です。標準的民法教科書の一つにおいて次のように説明されても,「はあ,そうですか。」というだけで,さして印象に残らなかったところです(少なくとも筆者には)。

 

  (4) 給付の経済性 〔債務者のなすべき行為たる給付が法律上保護に値するために必要な4要件中〕以上三つの要件〔(1)給付の適法性,(2)給付の可能性(筆者註:ただし,民法412条の22項)及び(3)給付の確定性〕とは別だが,給付の内容は経済性をもたなくてもよい(399条)。取引上は,給付が経済的目的に奉仕する場合が普通であろう。けれども,これにこだわらず,給付の内容が経済的性質をもたないものであっても,法律上保護に値するものならば債権の成立に妨げとはならない,との趣旨である。このような内容の債権でも債務不履行になれば金銭による損害賠償に訴えざるをえないわけだから財産性はあるのだ,という考え方もある。結果論的にはそうもいえる。(遠藤浩等編『民法(4)債権総論(第3版)』(有斐閣双書・1987年)10頁(新田孝二))

 

(2)感想

 

ア 「法律上保護に値するもの」とは何か(附:ドイツ民法草案の見解に関して)

 給付が法律上保護されるためには「法律上保護に値するもの」であることを要する,ということであれば,これはtautologyというものでしょう。

「法律上保護に値するもの」であるには「経済性」は必ずしも必要ではないとされつつも,それでは積極的には何が要件なのだという問いに対する回答は,「法律上保護に値するもの」であることである,との当初の命題以外与えられていないところです。我妻榮に当たってみても,「給付は「金銭ニ見積ルコトヲ得ザルモノ」でも債権の目的とすることができる(399条)。ドイツ普通法時代に争のあった点を解決したものである。ドイツ,フランス両民法には明文はないが,通説はわが民法と同様に解している(但しド民法理由書は消極的見解であり,これを支持する者も相当ある。債権の範囲が不明となるという理由である(Oertmann, §241, 1b))。」と学界事情の一端が明らかにされてはいるものの(我妻榮『新訂 債権総論(民法講義Ⅳ)』(岩波書店・1972年)22-23頁),結局,「金銭に見積りえない給付については,法律的効力を認むべからず,という一般的な原則は存在しない。かような給付も,これに対して法律的効果を認めることを至当とする限りにおいては,債権たる効力を認めるべきである」との記述があるばかりです(我妻Ⅳ・23頁)。(なお,ドイツ普通法とは,「地域的・身分的に激しく分裂していたドイツの「地方特別法(Partikularrechte)」に対し,継受されたローマ法は,その間隙を埋める「共通法=普通法(gemeines Recht)」と呼ばれ,高度に発展した取引法上の必要に対応していた」ものであって,「ドイツ民法典190011日から施行〕編纂は,実際上,適用されていた普通法上の規範を汲み上げることから始められた」そうです(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法――ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)48頁)。)

(以下附論)

しかし,「ド民法理由書は消極的見解」であるとの我妻の紹介はいかがなものでしょうか。ドイツ民法第一草案206条(「債務関係の目的は,債務者の作為又は不作為(給付)であり得る。(Gegenstand eines Schuldverhältnisses kann ein Thun oder ein Unterlassen des Schuldners (Leistung) sein.)」)に関して,余計なことながら筆者がその理由書(Motive zu dem Entwurfe eines Bürgerlichen Gesetzbuches für das Deutsche Reich, Bd. II (Amtliche Ausgabe, 1888))を検するに,「財産権的利益(vermögensrechtliches Interesse)は,〔略〕当草案の見解によれば,債務の本質(Wesen der Obligation)に属しない。」(S.5),「債権者の財産権的利益は,当見解によれば,債務の本質に属しない。当該事案において法的な義務付け意思(Verpflichtungswille)が認められるかに係る証明を前提として,かつ,公序良俗に反する法律行為の無効(Hinfälligkeit)に係る規定を別として,債務関係の効力は,債権者が給付について他の保護に値する利益(anderes schutzwürdiges Interesse)を有していないことをもってしても争うことはできない。」(S.3. ただし,「保護に値する利益」不要論は,後に撤回されます。)というような記述があるところです。これは「消極的見解」ではなく,積極的見解でしょう。

第二草案205条(「債務関係に基づき,債権者は,債務者から給付を請求する権利を有する。給付は,作為又は不作為たることができる。(Kraft des Schuldverhältnisses ist der Gläubiger berechticht, von dem Schuldner eine Leistung zu fordern. Die Leistung kann in einem Thun oder einem Unterlassen bestehen.)」)に関する委員会審議録(Protokolle der Kommission für die zweite Lesung des Entwurfs des Bürgerliches Gesetzbuchs, Band II. 1897)を検すると,第一草案206条に関し,「債務関係の目的たり得るものは,財産的利益を有する給付(作為又は不作為)に限られる。(Gegenstand eines Schuldverhältnisses kann nur eine Leistung (Thun oder Unterlassen) von Vermögensinteresse sein.)」との内容を加えよとの提案及び「財産的価値を有しない給付は,その強制が取引慣行に反することになるときは,債務関係の目的たり得ない。(Eine Leistung, welche keinen Vermögenswerth hat, kann nicht Gegenstand eines Schuldverhältnisses sein, wenn es der Verkehrssitte widerstreiten würde, sie zu erzwingen.)」との項を加えよとの提案があったものの,いずれの提案も委員会において却下(ablehnen)されていたところです(S.279)。なお,同委員会は,第一草案の理由書における言明を修正して「保護に値する利益(schutzwürdiges Interesse)は,理由書3頁における言明にかかわらず,当然要求されなければならない。しかしながら,個人の自由に係る法によって認められている領域内に留まっている全ての利益は,保護に値するのである。拘束(Verbindlichkeit)の受容が法又は善良の風俗に反するものであってはならない,という制限以外の制限は,不要である。」との理解を示しています(Protokolle II S.281)。

「独乙民法草案ノ如キハ断然〔略〕債権ノ目的ハ必スシモ金銭ニ見積リ得ヘキモノタルヲ要セサルコトヲ明ニセリ(独一草206,同二草205,)」です(岡松参太郎『註釈民法理由 下巻』(有斐閣書房・1897年)16頁)。

なお,現在のドイツ民法241条は,「債務関係に基づき,債権者は,債務者から給付を請求する権利を有する。給付は,不作為たることもできる。/債務関係は,その内容に従い,相手方の権利,法的財産及び利益を配慮するように各当事者を義務付けることができる。(Kraft des Schuldverhältnisses ist der Gläubiger berechticht, von dem Schuldner eine Leistung zu fordern. Die Leistung kann auch in einem Unterlassen bestehen. / Das Schuldverhältnis kann nach seinem Inhalt jeden Teil zur Rücksicht auf die Rechte, Rechtsgüter und Interessen des anderen Teils verpflichten.)」と規定しています。

ついでながら,ドイツ民法第一草案206条に関し,「債務関係の目的たり得るものは,財産的利益を有する給付(作為又は不作為)に限られる。」との内容を加えよと主張した提案者の理由とするところは次のようなものでした。いわく,「その実現に債権者が財産的利益を有さない義務の義務付けをもって真正の債務関係であるものと認定することは,より新たな法の発展及び近代の取引の要求に対応するゆえんのものではない。当該認定は,一方において,財産権(Vermögensrechte)として必然的に金銭的価値(Geldwerthを有さねばならない債権(Forderungsrechte)と身分権(Familienrechte)との区別をなみすることになり,他方において,現行法からの,深くまで及び,かつ,高度に懸念される逸脱をもたらすことになる。ドイツの裁判所の実務(Praxis)として現れているところの当該法によれば,現実的執行(Naturalexekution)の方法による直接強制の可能性(direkte Erzwingbarkeit)は,物の給付及び非自由労働(operae illiberales)に係る対人権(obligatorische Rechte)にのみ認められ,これ対して,自由労働(operae liberales)に対する請求(Ansprüche)は否認されている。委託された事務の実行を求める委任者の受任者に対する,出版社の著作者に対する,定款上の総会出席義務の履行を求める団体のその構成員に対する権利等のごとし。全てのこのような義務は直接強制され得るものであると宣明することが求められるということであれば,契約の自由は無際限に拡張され,そして国家の裁判権に対してふさわしからぬ職務が要求されることになる。」と(Protokolle II S.280)。ここには「金銭的価値(Geldwerth)」との語が出て来ます。(なお,「契約の自由は無際限に拡張され,そして国家の裁判権に対してふさわしからぬ職務が要求されることになる。」とは,「或ハ斯ウ云フ法律ガアリマスレバ恐ラクハ私ハ猥リニ訴訟ヲ起シテ少シモ金銭ニ見積ルベキ利益ガナイデモ宜シイト云フコトガ明言シテアル以上ハ或ハ之ヲ極端ニ解釈シマシテ普通ノ約束事デモ一々之ヲ裁判所ニ持ツテ往ツテ裁判ヲ仰グコトガ出来ルカノ様ニ人ガ想像スル恐レハアルマイカト思フノデス〔略〕夫レ故此規定ヲ設ケルノハ恐ラクハ習慣ニ背クシ又ハ猥ニ訴訟ヲ起スト云フヤウナ畏レモアラウト思ヒマス」との,兄である陳重の提案に係る我が民法399条(の原案)不要論を唱える穂積八束の口吻を彷彿とさせるところがあります(第55回法典調査会(1895111日)(法務大臣官房司法法制調査部監修『日本近代立法資料叢書2 法典調査会民法議事速記録二』(㈳商事法務研究会・1984年)970-971頁))。八束は,「民法出デテ忠孝亡ブ」ことを避けるためならば,不悌たることも辞さなかったわけです。)

 

イ 非経済性と財産性との関係

また,「給付の内容は経済性をもたなくてもよい。」と一方では宣言しつつ,「このような内容の債権でも債務不履行になれば金銭による損害賠償に訴えざるをえないわけだから財産性はあるのだ,という考え方もある。結果論的にはそうもいえる。」となおもぶつぶつ言うのは,何やら「経済性」に依然未練があるようで,すっきりしません。しかし,この非すっきり感は,そのような債権を財産といえるのかという当該債権の財産性いかんの問題(債権の財産性がここで問題となるのは,「私権は,〔略〕人格権・身分権・財産権・社員権に分けることができる」ところ,「債権は,物権・無体財産権とならんで,財産権に属する。」(遠藤等編1頁(水本浩)。下線は筆者によるもの)とされているからでしょう。)を,当該債権の法律的効力の有無(経済性は不要)の問題と分けずに続けてべったりと記述したことから生じたもののようです。我妻は,別の問題としてきちんと段落を分けた上で,「金銭に見積りえない給付を目的とする債権は財産権ではないという見解がある。然し,法律的強制を加え,その不履行について金銭賠償を請求することができるものである以上,これを財産権の一種といっても不都合はあるまい。ただその財産性の稀薄なことを注意すれば充分であろう。」と説いています(我妻Ⅳ・24頁)。

 

2 沿革からする説明

 

(1)内田貴『民法Ⅲ 債権総論・担保物権』

前記のようにすっきりしていなかったところ,内田貴・法務省元参与による次のような説明には,読んでいて,なるほどと感じさせられるところがありました。

 

  では,なぜこのような条文〔民法399条〕が入ったのだろうか。これは,功利主義とは別系統の思想を背景とする古代ローマ法以来の沿革によっている。ローマ法では,たとえば,教師・医師・弁護士等の仕事は,本来金銭に見積もり得ない精神的なものとされていた。もちろん,これらの仕事を目的とする契約(委任契約)は可能であったが,それは本来は無償であり,これらの金銭に見積もり得ない義務の履行を求めて,強制的にその内容を実現することはできないと考えられていた。ボワソナードもこのような立場をとっており,旧民法は,原則として金銭に見積もることのできるものに限って債権の目的とするという立場に立っていた。しかし,これでは不便であり,そもそも今日の感覚に合わない。そこで,そのような立場を否定するために,念のためこのような規定が入ったのである。(内田貴『民法Ⅲ 第4版 債権総論・担保物権』(東京大学出版会・2020年)25-26頁)

 

 沿革による説明は,筆者の性分に合っているようです。

 

(2)星野英一『民法概論Ⅲ(債権総論)』

 ということで更に,内田教科書の当該記述の淵源は何処にありやということを探ってみたくなるのですが,これは,「私は〔星野英一〕先生の授業のプリントを下敷きにして講義を始めまして,そうやって徐々にできあがった講義ノートをもとに教科書を書いたものですから,私の教科書は星野理論を万人にわかるように書いたものであると言われるのです。」ということですから(星野英一『ときの流れを超えて』(有斐閣・2006年)225頁(内田貴発言)),星野英一教授の著書に当たるべきことになります。

 

   債権の目的は,「金銭ニ見積ルコトヲ得サルモノ」でもよいとの規定がある(民法399条)。旧民法は,反対に,金銭に見積ることのできるものに限って債権の目的としていたので(明文の規定があったわけではないが,若干の規定とボアソナードの解説とから明らかであるとされる),これを改める趣旨を明らかにするために置いた規定とされ,具体的には,教師・医師・弁護士などの仕事が挙げられている〔略〕。ただ,今日では,すべての事項は(右に挙げたものも)少なくとも主観的には金銭に評価されるのが通常であるので,同条は,「本来」金銭に見積ることのできないもの,という趣旨と読むべきであろう。古い下級審判決に,寺僧が依頼者の祖先のために永代常念仏を唱える旨の約束につき,外形上の行為を伴なう念仏を目的とする場合は有効としたものがある(東京地判大正2年月日不詳(ワ)922号新聞98625)。なお,他から蒙った精神的損害,より広く「財産以外ノ損害」につき賠償請求権のあることについては,明文の規定がある(民法710条,711条)。(星野英一『民法概論Ⅲ(債権総論)』(良書普及会・1981年)11-12頁)

 

なるほどさてそれでは旧民法の当該「若干の規定」及びそれらに係る「ボアソナードの解説」を自分でも検証してみよう,と筆者は今更思い立ったわけです。しかしこれは,新型コロナウイルス感染症対策国民精神総動員時代にふさわしからぬ不要不急の用事をみだりに好む弛んだゆるキャラ非国民の所行というべきでしょうか。

なお,前記永代常念仏に係る東京地判大正2年月日不詳(ワ)922号新聞98625頁の判示するところは,「寺院又は僧侶に財物を贈与するも,其意僧侶をして念仏又は他の供養を為さしむるに存し,施物はその念仏供養を為すに就ての資となさんとする場合に於て之を受けたるものが念仏供養等を為すべきことを約したるときは,斯る契約は法律上有効なるを以て,之が当事者は之を履行すべき義務あり・・・。蓋し,浄土宗の教義として,・・・正助の業は之を一心に為すに非れば其功徳な〔く〕,而も斯る内心の作用に就ての契約は法律上の効力を生せずと雖も,誦経礼拝し,又は香華灯明食物を供養するが如きは外形上の行為にして,且念仏も亦単に心中仏を念ずるを以て足れりとせず,称名念仏すべきものなる・・・を以て」(以上,奥田昌道編『新版注釈民法(10)Ⅰ 債権(1)債権の目的・効力(1)』(有斐閣・2003年)158-159頁(金山正信・直樹)における引用),「斯ル外形上ノ行為ノ部分ニ付テノ契約ハ法律上有効ナリト謂フヘク従ツテ債務者ハ宗教上ノ儀式ニ従ヒ荘厳ニ之ヲ修スルノ義務アルモノニシテ唯之ヲ修スルニ当リ一心ニ為スヘキコトヲ強要スルヲ得サルニ過キサルモノトス」というものでした(奥田昌道編『注釈民法(10)債権(1)』(有斐閣・1987年)58頁(金山正信)における引用)

 

3 旧民法における関連条項

星野教授の著書にいう旧民法の「若干の規定」とは,旧民法財産編(明治23年法律第28号)293条及び3231項並びに同財産取得編266条ということになるようです(梅謙次郎『訂正増補第三十版 民法要義巻之三 債権編』(法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1910年)9頁参照)。

 

 財産編第293条 人権即チ債権ハ常ニ義務ト対当ス

  義務ハ一人又ハ数人ヲシテ他ノ定マリタル一人又ハ数人ニ対シテ或ル物ヲ与ヘ又ハ或ル事ヲ為シ若クハ為ササルコトニ服従セシムル人定法又ハ自然法ノ羈絆ナリ

  義務ヲ負フ者ハ之ヲ債務者ト名ツケ義務ニ因リテ利益ヲ得ル者ハ之ヲ債権者ト名ツク

 

 財産編第323条 要約者カ合意ニ付キ金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ正当ノ利益ヲ有セサルトキハ其合意ハ原因ナキ為メ無効ナリ

  第三者ノ利益ノ為メニ要約ヲ為シ且之ニ過怠約款ヲ加ヘサルトキハ其要約ハ之ヲ要約者ニ於テ金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ利益ヲ有セサルモノト看做ス

  然レトモ第三者ノ利益ニ於ケル要約ハ要約者カ自己ノ為メ為シタル要約ノ従タリ又ハ諾約者ニ為シタル贈与ノ従タル条件ナルトキハ有効ナリ

  右2箇ノ場合ニ於テ従タル条件ノ履行ヲ得サルトキハ要約者ハ単ニ合意ノ解除訴権又ハ過怠約款ノ履行訴権ヲ行フコトヲ得

 

 財産取得編第266条 医師,弁護士及ヒ学芸教師ハ雇傭人ト為ラス此等ノ者ハ其患者,訴訟人又ハ生徒ニ諾約シタル世話ヲ与ヘ又ハ与ヘ始メタル世話ヲ継続スルコトニ付キ法定ノ義務ナシ又患者,訴訟人又ハ生徒ハ此等ノ者ノ世話ヲ求メテ諾約ヲ得タル後其世話ヲ受クル責ニ任セス

  然レトモ実際世話ヲ与ヘタルトキハ相互ノ分限ト慣習及ヒ合意トヲ酌量シテ其謝金又ハ報酬ヲ裁判上ニテ要求スルコトヲ得

  此等ノ者ノ世話ヲ受クルコトヲ諾約シタル後正当ノ原因ナクシテ之ヲ受クルコトヲ拒絶シタル者ハ其拒絶ヨリ此等ノ者ニ金銭上ノ損害ヲ生セシメタルトキハ其賠償ノ責ニ任ス

  之ニ反シテ世話ヲ与フルコトヲ諾約シタル後正当ノ原因ナクシテ之ヲ拒絶シタル者ハ因リテ加ヘタル損害ヲ賠償スル責ニ任ス

 

 これらの条項に関する現行民法起草者の理解は,1895111日の第55回法典調査会における穂積陳重の説明によると,「既成法典ニ於キマシテモ矢張リ其債権ノ目的ハ帰スル所金銭ニ見積ルコトガ出来ナケレバナラヌト云フ主義ヲ取ツテ居ツタモノト解シマス」というもので,その根拠としては「夫レハ合意ニ関スル所ノ規定ニモ合意ハ金銭ニ見積ルモノデナケレバ原因ト為スコトハ出来ヌト云フコトガアリマス又雇用契約ノ場合ニ於テモ医師デアルトカ弁護士教師ノ様ナ者ノ義務,其勤労ト云フモノハ強ヒテ継続サセルコトハ出来ヌト云フ規定ガアリマス」ということで旧民法財産編3231項及び同法財産取得編2661項の規定が挙げられていました(第55回法典調査会議事速記録969頁)。

 

4 ボワソナアドのProjetにおける解説

星野教授の著書にいう「ボアソナードの解説」は,ボワソナアドのProjetについて見るべきものでしょう。穂積陳重の前記理解に沿う記述があるかどうか。

 

(1)旧民法財産編293条等に関して

 

ア 旧民法財産編293条

旧民法財産編293の原案(314条)についてボワソナアドは,「人権(droits personnels)は,物権と共に,人の資産(le patrimoine)を組成する財産(Biens)の総体(l’ensemble)をなす。」と述べつつ(Boissonade, Projet de Code Civil pour l’Empire du Japon accompagné d’un commentaire, Nouvelle Édition, Tome Deuxième, Droits Personnels et Obligations. Tokio, 1891. p.2),「与えること(dare)とは,所有権又は他の物権を移転することである」(p.5),「為すこと(facere)とは,他者にとって有用又は有益な行為(un acte utile ou profitable)であって譲渡(dation)以外のものを実行することであって,肉体又は精神労働(un travail manuel ou intellectuel),使用人の仕事(un service personnel),仲立ち(une entremise),運搬(un voyage),特定の用途のための物の給付又は引渡し(une prestation ou livraison de chose pour un usage déterminé)のごとし」(pp.5-6)及び「為さざることとは,彼の財産についてであっても,又は他者の財産についてであっても債務者が原則として実行することができ,また合法である行為であって,債権者のより大きな利益のために実行しない旨約したものを差し控えることである。建物を賃貸し,又は商用地を譲渡した者が,賃借人又は譲受人の利益のために,彼らと競合するものとなるべき事業又は商業を行うことを自らに禁ずる場合のごとし。」(p.6)といった説明をしています。

旧民法財産編2931項にある「人権」の語は,「人権ト云フ字ハドウモ面白クナイノハ人権ト言ヘバ人ノ権デアリマスガ物権デモ人ノ権デアリマスガ物権デモ人ノ権デアリマスシ又対(ママ)権ト言ヒマシテモ矢張リ人ノ権デ只主タル目的ガ直接ノ物ニ関スルト云フ位デアリマシテドウモ此人権ト云フ字ハ能ク考ヘテ見マスト穏カデアリマセヌト思ヒマス人権消滅トカ人権ヲ譲渡ストカ人権ヲ抛棄スルトカドウモ斯ノ如キ場合ニ使ウ訳ニハ往キマセヌ55回法典調査会議事速記録966-967頁(穂積陳重)),「「各()天賦ノ()利」ノ意義ニモ之ヲ用ヒ日本ノ従来ノ慣例ニ視テ債権ト同一ノ意義ニ之ヲ用フルコト極メテ穏当ナラサルカ故ニ新民法ニ於テハ常ニ債権(〇〇)ナル文字ヲ用ヒ敢テ人権ナル文字ヲ用ヒス」ということで(梅2-3頁),現在は民法用語ではなくなっています。

旧民法財産編2932項の「人定法又ハ自然法ノ羈絆」とはものものしいのですが,同法財産編294条を見ると,「人定法ノ義務ハ其履行ニ付キ法律ノ許セル諸般ノ方法ニ依リテ債務者ヲ強要スルコトヲ得ルモノナリ/自然ノ義務ニ対シテハ訴権ヲ生セス」とあります。「法ノ羈絆」との語は,ローマ法用語のvinculum jurisに由来するものです(Boissonade II p.5)。

 

イ 自然の義務ないしは自然債務

 

(ア)起草者の見解

なお,旧民法財産編562条(「自然義務ノ履行ハ訴ノ方法ニ依リテモ相殺ノ抗弁ニ依リテモ之ヲ要求スルコトヲ得ス其履行ハ債務者ノ任意ナルコトヲ要シ之ヲ其良心ニ委ス」)以下にはあった自然義務(Obligation naturelle, Naturalobligation)ないしは自然債務の規定は現在の民法にはないのですが,梅謙次郎によれば,これは「元来羅馬法ノ如ク形式ニ拘泥スルノ極法律カ保護スヘキ権利ニシテ唯形式ニ缺クル所アルカ為メ之ヲ保護スルコト能ハサル場合ニ於テ其法律ノ不備ヲ矯正センカ為メニ完全ナル権利トシテ其効力ヲ認ムルコト能ハサルモ(ママ)メテハ是ヨリ自然義務ナルモノヲ生スルモノトシ之ニ幾分カ不完全ナル効力ヲ付スルヲ以テ已ムコトヲ得サルモノトセシハ敢テ怪シムニ足ラスト雖モ法律ノ進歩スルニ従ヒ凡ソ法律ノ保護スヘキ権利ハ総テ相当ノ方法ヲ以テ之ヲ保護スル以上ハ敢テ其外ニ所謂自然義務ナルモノヲ認ムルノ要ナシ是レ新民法ニ於テハ法律ニ定メタル普通ノ義務即チ法定義務ノ外一種異様ノ義務ヲ認ムルコトヲ為ササル所以ナリ但旧民法,仏民法等ノ如ク所謂原因(〇〇)ナルモノヲ以テ法律行為ノ要素トスルトキハ其原因ナキカ為メ無効タルヘキ法律行為尠カラサルヘキカ故ニ之ヲ有効トスル為メ往往自然義務ノ存在ヲ認ムルノ必要アルヘシト雖モ〔筆者註:ただし,旧民法財産編566条前段は「原因ノ欠缺〔略〕ノ為メ無効ナル合意ハ自然義務ヲ生スルコトヲ得ス」と規定していました。〕新民法ニ於テハ所謂原因ナルモノノ必要ヲ認メサルカ故ニ〔略〕益〻自然義務ノ必要ヲ認メサルナリ」ということでした(梅6-7頁)。

また,189362日の法典調査会第4回民法主査会において穂積陳重によって挙げられた,「既成法典ノ内デ最モ著シキ缺点ト思」われるもの(法典調査会民法主査会議事速記録1巻(日本学術振興会・1937324日写了)149丁裏)たる自然義務に関する規定(旧民法財産編第2部第4章)を,現行民法から削ることとした理由は次の諸点です。第1に「論理上ノ誤謬」を法典上に現わすべきではないということであって(151丁),①事後的な給付保持力だけあって(旧民法財産編5631項参照)後ろ向きである自然義務は義務としてふさわしくない(「日本ノ法典ニ於テ義務ト申シマスルモノハ常ニ人権ニ対(ママ)旧民法財産編2931項・2項参照),「然ルニ此自然義務ト云フモノハ作為若クハ不作為ノ義務ヲ尽サセル事ヲ法律デハ命ジテ居ナイ,唯法律ノ規定トナツテ現ハレルモノガ所謂自然義務ヲ尽シタ後ノ結果ノ事丈ケノコトテアル」(150丁表),「所謂自然ト云フ道徳上ノ義務ナルモノガアツテ夫レガ終リマシタ後ノ事丈ケガ書テアリマス」(150丁裏),「殊更ニ自然義務ト云フ事ヲ此処ニ掲ケテアリマスルト義務ト云フモノハ将来ニ於テ尽サシメルトアリナガラ又他ノ一方ニ於テ尽サシメル事ハ無イト云フコトニナリマスカラシテ即チ法典中ニ於テ前後撞着ノ事ヲ現ハスヤウニナツテ居ルト思ヒマス」(150丁裏)),②名称がおかしく,人定法ノ義務は自然ノ義務ではないから不自然な義務なのか,自然ノ義務は人定法ノ義務でない義務ならばそれを法律(人定法)たる民法典に規定してよいのか,という問題が提起され得る(「又此処ニ自然義務ト云フ事ヲ明カニ掲ケマシタトキハ他ノ義務所謂法定ノ義務ナルモノハ自然ノ道理ト云フモノニ反シテ居ル云フヤウナ意味モ自ラ現ハレルヤウナ嫌ヒモアリマス」(150丁裏),「又法定ノ義務ト云フ事ヲ言フト法定以外ノ義務ト云フモノ〔自然義務〕ヲ又法律デ定メルト云フヤウナ事ニナツテ法理上ノ誤謬ト云フモノヲ此内ニ含ムヤウニナリマス」(150丁裏)),及び③義務が消滅したはずなのに自然義務は存在する場合があって(旧民法財産編569条・570条参照)おかしい(「一方ニ於テハ義務ハ或ル原由ニ依テ消滅スルト云フ事ヲ法律デ殊更ニ定メテ置テ弁済トカ廃棄(ママ)トカ削除(ママ)トカメテキナガラテハ義務消滅原因アツタ義務シテル」等(151丁表)),というような点が指摘されています。第2は,「制裁ノ無イ権利義務ト云フモノガ存スルト云フ事ヲ公然認メルヤウニ」なることは避けたいこと(151丁裏)。第3は,「自然義務ニ関スル規程ト云フモノガ此義務自身ノ規程デ無クシテ或ル法律以外ノ義務ノ弁済ノ結果ト云フモノニ関スル規程デアリマスカラシテ此義務ト云フモノガ既ニ消ヘタ後ノ事ヲ規定スルノデアル,然レバ義務ノ規程デアリマセヌカラシテ縦令ヒ此規程カ入要デアルトシテモ他ノ所ニ之ヲ掲クヘキ」であること(151丁裏)。これは第1の①と関連しています。第4は,自然義務の「性質ト云フモノモ其範囲ト云フモノモ国ニ依リ人ニ依ツテ皆ナ変ツテ居リマスルモノテアリマスカラ一定ノ義務トシテ之ヲ法典ノ上ニ存シテ置ク事ハ宜クナイ」こと(151丁裏-152丁表)。第5は,自然義務の「弁済」は「法律上ノ目カラ言ヘハ義務ノ弁済デハ無」く「贈与ノ効果ヲ生スルモノデアル,即チ単純ノ手渡ニナル贈与ノ効果ヲ生スルモノ」と考えられること(152丁表)。最後に,「諸国ノ法典ニ於テモ我法典ノ如ク委シク緻密ナル事ニマデ立入ツテ此自然義務ノ規程ヲ掲ケタ所ハアリマセヌ,即チ言ハナクテモ宜イ事ヲ細カニ此処ニ挙ケテアルノテアリマシテ此各条デ御覧ニナルト他ノ場合ニ於テ既ニ当然分ツテ居ル結果ヲ殊更ニ列ヘテ居ルニ過キナイ事ガ多イノテアリマス」(152丁)とのボワソナアドのくどい仕事振り批判及び追認,更改又は質若しくは抵当の供与の目的となることによって自然義務が通常の法定の効力を生ずるようになる旨規定する旧民法財産編564条に関しての「之モ厳正ナル法理論カラ言ヘハ素ヨリ法律ノ規程ニ依テ是レヨリシテ新タニ法定ノ義務ノ生スル原因」であるのであって「是ニ依テ自然義務ナルモノガ存在シ継続スルト云フモノデハナイ」(152丁裏)との駄目押しがありました。

 

(イ)カフエー丸玉女給事件

しかし,起草者の前記見解に対して,カフエー丸玉女給事件判決(昭和10425日新聞38355頁)において大審院第一民事部(池田寅二郎裁判長)は注目すべき判示を行います。いわく,「案ずるに原判示に依れば上告人は大阪市南区道頓堀「カフエー」丸玉に於て女給を勤め居りし被上告人と遊興の上昭和81月頃より昵懇と為り其の歓心を買はんが為め将来同人をして独立して自活の途を立てしむべき資金として同年418日被上告人に対し金400円を与ふべき旨諾約したりと云ふに在るも叙上判示の如くんば上告人が被上告人と昵懇と為りしと云ふは被上告人が女給を勤め居りし「カフエー」に於て比較的短期間同人と遊興したる関係に過ぎずして他に深き縁故あるに非ず然らば斯る環境裡に於て縦しや一時の興に乗じ被上告人の歓心を買はんが為め判示の如き相当多額なる金員の供与を諾約することあるも之を以て被上告人に裁判上の請求権を付与する趣旨に出でたるものと速断するは相当ならず寧ろ斯る事情の下に於ける諾約は諾約者が自ら進で之を履行するときは債務の弁済たることを失はざらむも要約者に於て之が履行を強要することを得ざる特殊の債務関係を生ずるものと解するを以て原審認定の事実に即するものと云ふべく原審の如く民法上の贈与が成立するものと判断せむが為には贈与意思の基本事情に付更に首肯するに足るべき格段の事由を審査判示することを要するものとす」云々と。

 

ウ 道徳上の義務及び宗教上の義務

更に前記旧民法財産編294条に関しては,同条に係るボワソナアドの原案(315条)には後に削られた第3項があって,“La loi n’intervient pas dans l’exécution des obligations purement morales ni dans l’observation des devoirs religieux.”(法は,純然たる道徳上の義務の履行又は宗教上の義務の遵守には干与しない。)と規定していました。純然たる道徳上の義務又は宗教上の義務は,確かに現行民法399条を前提としても,同法上の債権の目的とはならないでしょう。「金銭に見積りえない給付を目的とする契約は,単に道徳・宗教などの規律を受けるだけで,法律的効力を生じないものと解すべき場合も絶無ではあるまい。」ということになります(我妻Ⅳ・23頁)。前記東京地判大正2年月日不詳(ワ)922号新聞98625頁も,「外形上の行為」をとらえて,そこに係る約束をもって法的に有効としたわけです(しかし,この判決の理論を推し進めれば,檀家に依頼されて仏教僧の唱える念仏には「一心ニ為ス」ものではない単なる「外形上」のものもあり得る,ということになりますから,かの津地鎮祭事件最高裁判所昭和52713日大法廷判決(民集314533頁)の追加反対意見において「神職は,単なる余興に出演したのではない。」との辛辣の言をもって当該地鎮祭を主宰した神職の尊厳のために獅子吼した藤林益三最高裁判所長官(1968年度の第一東京弁護士会常議員会議長)的発想からすれば,仏教及び仏教僧を侮辱する仏罰必至的判決であるということにもなりそうです。とはいえ藤林長官の潔癖は,基督教徒的生真面目というものであって(ちなみに,テオドシウス大帝的基督教信仰に従えば,新型コロナウイルス感染症の流行云々以前に,そもそも異教起源のオリンピック競技大会など最初から開催してはならないものなのでした。),たとえ念仏に心がこもっていなくても阿弥陀如来は衆生を必ず救ってくださるというところに仏教のおおらかな優越性があるのかもしれません。「念仏をとなえるにさいし「一心ニ為スヘキコトヲ強要スルコトヲ得サル」においては,文字通りの空念仏に帰する」(奥田編旧版58頁(金山正信))わけでは必ずしもないでしょう。「信ぜざれども,辺地懈慢,疑城胎宮にも往生して,果遂の願ゆへに,つゐに報土に生ずるは名号不可思議のちからなり。これすなはち,誓願不思議のゆへなれば,たひとつなるべし。」と『歎異鈔』にあります(しかし,やはり「浄土宗の教義として,・・・正助の業は之を一心に為すに非れば其功徳な」し,ということですので,藤林長官的憤慨は,なお有効であるようです。)。ボワソナアドによれば,「自己の天命を果し,かつ,同胞に対して有為の者たるべく,正直であり,かつ,規律ある生活を送る,というような,人の自己自身に対する義務についていえば,これは既に法的な義務ではなく,道徳上の義務である。」,「彼の悪徳(vices)が他者に直接かつ相当(appréciableな損害を与えない限り,法は干与しない。」ということでした(Boissonade II p.9)。1889年発布の大日本帝国憲法28条が信教の自由について規定していたことから(「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」),ボワソナアド原案3153項の維持は不要とされたとのことです(Boissonade II p.12 (1))。


後編に続く(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078124004.html 

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第5 フランス民法894条

 

1 影響の指摘

 民法549条の分かりにくさ(前出我妻Ⅴ₂223頁参照)に関しては,「フランス民法894条の規定の体裁に従ったがためであろう。」とも説かれています(柚木馨=高木多喜男編『新版注釈民法(14)債権(5)』(有斐閣・1993年)26頁(柚木馨=松川正毅))。

 

2 条文及びその解釈

 

(1)条文

フランス民法894条は,次のとおり。

 

  Art. 894   La donation entre vifs est un acte par lequel le donateur se dépouille actuellement et irrévocablement de la chose donnée en faveur du donataire qui l’accepte.(生前贈与は,それによって贈与者が現在において,かつ,不可撤回的に,それを受ける受贈者のために,被贈与物を委棄する行為である。)

 

(2)山口俊夫教授

フランス民法894条に係る山口俊夫教授の説明は,「生前贈与は,贈与者(donateur)が現実に(actuellement)かつ取消しえないものとして(irrévocablement),それを受諾する受贈者(donataire)に対し無償で自己の財産を与える法律行為(片務契約)である(894条)。」というものです(山口俊夫『概説フランス法 上』(東京大学出版会・1978年)526頁)。筆者の蕪雑な試訳よりもはるかにエレガントです。

 

(3)矢代操

しかし,筆者としては,矢代操による次のように古格な文章を面白く思います。

 

  今日は,〔フランス〕民法中無償名義にて財産を処置するの方法唯2箇あるのみ。生存中(○○○)()贈遺(○○)及び(○○)遺嘱(○○)()贈遺(○○)是なり〔フランス民法893条〕。其生存中の贈遺の定義は載せて第894条にあり。曰く,⦅生存中の贈遺とは,贈遺者贈遺(○○)()領承(○○)する(○○)受贈者の為め即時(○○)()確定(○○)()贈遺物を棄与する所為(○○)を云ふ⦆。此定義中に所為(○○)と記するは妥当ならず。蓋し契約と云ふの意にあるなり。何となれば遺嘱の贈遺は契約にあらずして唯一の所為なりと雖ども,生存中の贈遺は純粋の契約なればなり。

  又本文中に即時(○○)と記するの語に糊着するときは,生存中の贈遺の適法となるには其目的物を引渡し(○○○)受贈者之を占有するを要するものの如し。然れども決して其意に解釈す可からず。蓋し其即時とは,〔略〕生存中の贈遺は〔略〕贈遺の時直に其効を生す可しとの意にあるなり。故に其契約成立の後此執行は之を贈遺者の死去に至るまで遅引するを得可きなり。

  又此生存中の贈遺は遺嘱の贈遺と異にして,一たび贈遺を為したる以上は一般の契約の原則に従ひ法律に定めたる原由あるにあらざれば之を取消すを得ざるなり。(明治大学創立百周年記念学術叢書出版委員会編『仏国民法講義 矢代操講述』(明治大学・1985年)46-47頁)

 

(4)生前贈与は契約か否か

はて,「蓋し契約と云ふの意にあるなり」との矢代の指摘に従ってフランス民法894条の生前贈与(donation entre vifs)の定義を見ると,確かに行為(acte)であって,契約(contrat)でも合意(convention)でもないところです(なお,フランス民法1101条は,「契約(contrat)は,それにより一又は複数の者が他の一又は複数の者に対して,何事かを与え,なし,又はなさざる義務を負う合意(convention)である。」と定義しています。)。しかも当該行為を行う者は贈与者のみです(“un acte par lequel…et le donataire l’accepte.”とは規定されていません。)。

こうしてみると,フランス民法931条と932条との関係も気になってくるところです。同法931条は“Tous actes portant donation entre vifs seront passés devant notaires dans la forme ordinaire des contrats; et il en restera minute, sous peine de nullité.”(生前贈与が記載される全ての証書は,公証人の前で,契約に係る通常の方式をもって作成される。また,その原本が保管され,しからざれば無効となる。)と規定しています。贈与者と受贈者とが共に当事者となって「契約に係る通常の方式」で証書が作成されるのならば,受贈者の出番もこれで終わりのはずです。しかしながら,同法932条はいわく。“La donation entre vifs n’engagera le donateur, et ne produira aucun effet, que du jour qu’elle aura été acceptée en termes exprès. / L’acceptation pourra être faite du vivant du donateur par un acte postérieur et authentique, dont il restera minute; mais alors la donation n’aura d’effet, à l’égard du donateur, que du jour où l’acte qui constatera cette acceptation lui aura été notifié.”(生前贈与は,それが明確な表示によって受諾された(acceptée)日からのみ贈与者を拘束し,及び効力を生ずる。/受諾(acceptation)は,贈与者の存命中において,事後の(postérieur)公署証書であって原本が保存されるものによってすることができる。しかしながら,この場合においては,贈与は,贈与者との関係では,当該受諾を証明する証書が同人に送達された日からのみ効力を生ずる。)と。すなわち,同条2項は,生前贈与がまずあることとされて,それとは別に,事後的に当該生前贈与の受諾があり得ることを前提としているようなのです(贈与者の意思表示とそれとが合致して初めて一つの合意ないし契約たる生前贈与が成立するということではないのならば,フランス民法9322項の“acceptation”に,契約に係るものたるべき「承諾」の語は用い難いところです。また,フランス民法894条で受贈者が受けるものである「それ」は,生前贈与ということになるようです。)。

梅謙次郎は「贈与(○○)Donatio, donation, Schenkung)ノ性質ニ付テハ古来各国ノ法律及ヒ学説一定セサル所ニシテ或ハ之ヲ契約トセス遺贈ヲモ此中ニ包含セシムルアリ或ハ贈与ヲ以テ贈与者ノ単独行為トシ受贈者ノ承諾ナキモ既ニ贈与ナル行為ハ成立スルモノトスルアリ」と述べていますが(梅謙次郎『訂正増補第30版 民法要義巻之三 債権編』(法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1910年)462頁),これは実はフランス民法のことだったのでしょうか。

 

(5)コンセイユ・デタ

ここで,小樽商科大学ウェブ・サイトの「民法典に関するコンセイユ・デタ議事録(カンバセレス文庫)」を検すると,フランス民法894条の原案は,共和国11雨月(プリュヴィオーズ)7日(1803127日)に“La donation entre-vifs est un contrat par lequel le donateur se dépouille actuellement et irrévocablement en faveur du donataire, de la propriété de la chose donnée.”(生前贈与は,それによって贈与者が現在において,かつ,不可撤回的に,受贈者のために,被贈与物の所有権を委棄する契約である。)という形でビゴー・プレアムヌ(Bigot-Préameneu)からコンセイユ・デタ(国務院)に提出されており,同条に関する審議に入った劈頭ボナパルト第一執政閣下から「契約(contrat)っていうものは両当事者に相互的な負担を課するものだろう。よって,この表現は贈与にはうまく合わないようだな。」との御発言があり,ベレンジェ(Bérenger)があら捜しに追随して「この定義は,贈与者についてのみ述べて受贈者については述べていない点において不正確ですな。」と述べ,続いてルグノー(Regnaud)がそもそも定義規定は不必要なんじゃないのと言い出して法典における定義規定の要不要論に議論は脱線しつつ,その間トロンシェ(Tronchet)は「贈与及び遺言を定義することによってですな,我々は各行為に固有の性質を示そうとしており,そしてそこから両者を区別する相違点を引き出そうとしているのですよ。ここのところでは,両者を分かつ性質は,撤回可能性と不可撤回性ですな。」と指摘し,他方マルヴィル(Maleville)は「もし定義規定が必要であると判断されるのなら,贈与は“un acte par lequel le donateur se dépouille actuellement et irrévocablement d’une chose, en faveur du donataire qui l’accepte.”(それによって贈与者が現在において,かつ,不可撤回的に,それを受ける受贈者のために,ある物を委棄する行為である。)と定義できるのではないですか。」と,第一執政閣下の御指摘及びベレンジェ議員のいちゃもんを見事に取り入れた現行フランス民法894条の文言とほぼ同じ文言の案を早くも提示していたところですが,その場での結論は,一応,「同条は,「契約」(contrat)の語を「行為」(acte)の語に差し替えて,採択された。」ということでした。(Tome II, pp.321-323

 なお,ベレンジェが受贈者についての規定が必要だと言ったことの背景には,「生前贈与は,それによって,それを受諾する者がその条件を満たすべき義務を負う行為である。」,「また,全ての生前贈与は,相互的に拘束するもの(engagement réciproqueと観念されるので,与える者及び受諾する者の両当事者が関与することが不可欠である。このことは,宛先人が知っておらず,又は合意していないときは,恵与は存在するものとはなおみなされないものとするローマ法にかなうことである。」及び「全ての贈与について受諾は不可欠の要件であるので,それは明確な言葉でされることが求められる。」という認識がありました(カンバセレス文庫Ⅱ, p.804。共和国11花月(フロレアル)3日(1803423日)にコンセイユ・デタに提出された,立法府のための法案理由書)。正にフランス法では,「受贈者は贈与者に対して感謝の義務を負う。これは単なる精神的義務ではなく,〔略〕忘恩行為(ingratitude)は,一定の場合には贈与取消の制裁を蒙る」ところです(山口526-527頁)。(ボナパルト第一執政の前記認識との整合性をどううまくつけるかの問題はここでは措きます。)

 

第6 旧民法及びボワソナアド原案

 

1 旧民法

また,民法549条がその体裁に従うべき条文としては,フランス民法894条よりもより近い先例(というより以前にそもそもの改正対象)として,旧民法の関係規定があったところです。梅は,民法549条の参照条文として,旧民法財産取得編349条及び358条を掲げています(梅462頁)。当該両条は,次のとおり。

 

  第349条 贈与トハ当事者ノ一方カ無償ニテ他ノ一方ニ自己ノ財産ヲ移転スル要式ノ合意ヲ謂フ

 

  第358条 贈与ハ分家ノ為メニスルモノト其他ノ原因ノ為メニスルモノトヲ問ハス普通ノ合意ノ成立ニ必要ナル条件ヲ具備スル外尚ホ公正証書ヲ以テスルニ非サレハ成立セス

   然レトモ慣習ノ贈物及ヒ単一ノ手渡ニ成ル贈与ニ付テハ此方式ヲ要セス

 

2 ボワソナアド原案

旧民法に先立つボワソナアド原案の第656条は,次のように贈与を定義しています(Boissonade, Projet de Code Civil pour l’Empire du Japon accompagné d’un commentaire, nouvelle édition, Tome Troisième, des Moyens d’Acquérir les Biens. (Tokio, 1891) p.170)。

 

Art. 656.   La donation entre-vifs est une convention par laquelle le donateur confère gratuitement ou sans équivalent, au donataire qui accepte, un droit réel ou un droit personnel; [894.]

Elle peut consister aussi dans la remise ou l’abandon gratuit d’un droit réel du donateur sur la chose du donataire ou d’un droit personnel contre lui.

  (第656条 生前贈与は,贈与者が,承諾をする受贈者に対して物権又は債権を無償又は対価なしに与える合意である。(フランス民法894条参照)

  ( 受贈者の物を目的とする物権又は同人に対する債権に係る無償の免除又は放棄もまた生前贈与とすることができる。)

 

ボワソナアドは,贈与を典型契約又は有名契約(contrat nommé)の一とし,「既に何度も言及された全ての法律効果,すなわち,物権又は債権の設定又は移転,変更又は消滅を生じさせることのできる唯一の無償合意(convention gratuite)である。これだけの可能な射程(étendue possible)を持つ他の契約は,有償である。もちろんなお他にも,使用貸借,寄託,委任のような無償又は無約因の契約が存在するが,それらは債権を生じさせるのみである。」と述べています(Boissonade III, p.172)。

ボワソナアド原案656条の解説は,次のとおり(Boissonade III, pp.172-173)。

 

   法は,生前贈与の定義から始める。その性質は,遺言とは異なり,合意(convention),すなわち意思の合致(un accord de volontés)である。疑いもなく,〔略〕人は自分の意思に反して受遺者となることはできない。しかし,遺贈は,受諾される(accepté)前に存在するのである。すなわち,受遺者は,それと知らずに,拒絶することなく取得するのである。他方,受贈者は,彼が欲する場合であって彼が欲する時にのみ取得するのである。すなわち,彼の承諾(acceptation)は,当該法律行為(l’acte)の成立自体(la formation même)のために必要なのである。

   フランスでは,法は明確な受諾(acceptation)を求めている(フランス民法894条及び932条)。感謝のためのものではない場合においては,その性質からして,受贈者を義務付けるものではないそのような行為〔生前贈与〕というもの〔があり得るなどということ〕には驚かされ得るところである。

   ここで条文は,承諾(acceptation)を求めているが,それ以上の具体的な規定は無い。すなわち,この承諾(acceptation)に要式的かつ明確な性格を与えることが適当であると判断されるのならば,贈与の方式について規定するときにそのことについての説明が必ずやされるであろう。

   当該定義は更に,贈与は利益を無償で〔下線部は原文イタリック〕与えるものであると我々に述べ,かつ,その文言が不確定性を残さないように,別の概念である「対価なしに」によって説明がされている。

   贈与者が受贈者に与えることのできる多様な利益が,同条の文言によって明らかになるようにされている。次のようなものである。

1に,物に係る物権。すなわち,所有権,用益権,使用権,地役権。

2に,債権(droit personnel)又は贈与者が債務者となり受贈者が債権者となる債権(créance)。

3に,贈与者が受贈者の物について有する用益権,使用権又は地上権のような物権の受贈者への移転(remise〔筆者註:これで当該物権は混同で消滅するはずです。〕又は放棄(abandon)。

4に,贈与者が受贈者に対して有していた債権についての受贈者の債務を消滅させる免除(remise)。

法は,これまで既に論ぜられた種々の区別,すなわち,まず特定物の所有権と種類物ないしは定量物の所有権との間の区別,及び次に作為債務と不作為債務との間の区別について再論する要を有しない。より特殊な事項であることから遺贈については再掲することが必要であると解されたこれらの区別は,合意が問題になっているところであるから,ここでは問題にならない。

 

第7 穂積陳重原案の背景忖度

 

1 不要式契約

 現行民法では,贈与は公正証書によることを要する要式契約ではありませんから(旧民法財産取得編3581項対照),旧民法財産取得編349条からその要式性を排除することとして条文を考えると「贈与トハ当事者ノ一方カ無償ニテ他ノ一方ニ自己ノ財産ヲ移転スル合意ヲ謂フ」となります。

 

2 「移転スル」から「与える」へ

旧民法財産取得編349条では財産を「移転スル」こととなっていますが,現行民法549条では財産を「与える」ことになっています。これは,現行民法の贈与には,財産権の移転のみならず,財産権の設定等も含まれているからでしょう(なお,穂積陳重は「財産」について「物質的ノ権利ニシテ民法ニ認メラレテ居ル所ノ即チ物権,債権ノ全部ヲ含ム積リナノテアリマス」と述べています(民法議事速記録25141丁表)。)。いわく,「例ヘハ無償ニテ所有権,地上権,永小作権等ヲ移転若クハ設定スルハ勿論新ニ債権ヲ与ヘ又ハ既存ノ債権ノ為メニ無償ニテ質権,抵当権等ヲ与フルモ亦贈与ナリ之ニ反シテ相手方ノ利益ノ為メニ物権又ハ債権ヲ抛棄シ又ハ無利息ニテ金銭ヲ貸与シ其他無償ニテ自己ノ労力ヲ他人ノ用ニ供スル等ハ皆贈与ニ非ス」と(梅464頁)。

 

3 「合意」から「意思を表示し,相手方が受諾をする」へ

 

(1)民法549条の「趣旨」

 民法549条と旧民法財産取得編349条との相違は,更に,後者では単に「・・・合意ヲ謂フ」としていたところが前者では「・・・意思を表示し,相手方が受諾をすることによって,その効力を生ずる。」となっているところにあります。民法549条の趣旨は,穂積陳重によれば「贈与ノ効力ヲ生スル時ヲ定メマシタノテアリマス」,「本案ハ受諾ノ時ヨリ其効力ヲ生スルト云フコトヲ申シマシテ一方ニ於テハ此契約タル性質ヲ明カニ致シ一方ニハ何時カラシテ其効力ヲ生スルカト云フコトヲ示シタモノテアリマス」ということとなります(民法議事速記録25139丁表及び裏)。

しかし,贈与が契約であることは,贈与について規定する民法549条から554条までは同法第3編第2章の契約の章の第2節を構成しているところ,その章名からして明らかでしょう。更に,契約の成立については契約に係る総則たる同章の第1節中の「契約の成立」と題する第1款で既に規定されており(申込みと承諾とによる。),かつ,契約の効力の発生時期については,「契約上の義務は,一般に,特に期限の合意がない限り,契約成立と同時に直ちに履行すべきものである」ので(『増補民事訴訟における要件事実第1巻』(司法研修所・1986年)138頁),特殊な性質の契約でない限り,これらの点に関する規定は不要でしょう(民法549条は,これらの原則を修正するものではないでしょう。)。すなわち,筆者としては,穂積陳重のいう民法549条の前記趣旨には余り感心しないところです。

(2)民法550条との関係

 単純に考えれば,民法549条の原案は,「贈与ハ当事者ノ一方カ無償ニテ他ノ一方ニ自己ノ財産ヲ与フルコトヲ約スルニ因リテ其効力ヲ生ス」ないしは「贈与ハ当事者ノ一方カ自己ノ財産ヲ無償ニテ相手方ニ与フルコトヲ約スルニ因リテ其効力ヲ生ス」でよかったように思われます(終身定期金契約に係る同法689条参照)。

 しかし,民法550条(「書面によらない贈与は,各当事者が解除をすることができる。ただし,履行の終わった部分については,この限りでない。」)があって書面によらない贈与の拘束力は極めて弱いものになっていますので(同条について梅は「本条ハ贈与ヲ以テ要式契約トセル学説ノ遺物」であると指摘しています(梅464頁)。),他の典型契約同様の「約ス」という言葉では贈与者に対する拘束が強過ぎるものと思われたのかもしれません。そこで「贈与ハ当事者ノ一方カ自己ノ財産ヲ無償ニテ相手方ニ与フル意思ヲ表示スルコトニ因リテ其効力ヲ生ス」としてみると,今度は単独行為のようになってしまう。で,単独行為ではなく契約であることをはっきりさせるために「贈与ハ当事者ノ一方カ自己ノ財産ヲ無償ニテ相手方ニ与フル意思ヲ表示シ其相手方カ之ヲ承諾スルニ因リテ其効力ヲ生ス」とすると,お次はあるいは民法643条の委任の規定(受任者の「承諾」をいうもの)との関係で面白くない。同じ「承諾」であるのに,受任者は債務を負うのに受贈者は債務を負わないというのは変ではないか。ということで「受諾」の語を持って来たということはなかったでしょうか。

 と以上のように考えると一応もっともらしいのですが,第81回法典調査会において穂積陳重がそのような説明をせずに混乱してしまっているところからすると,違うようではあります。また,あえてフランス民法的発想を採るならば「全ての生前贈与は,相互的に拘束するもの」となるのですから,受贈者は何らの義務も負わないから「承諾」ではなく「受諾」なのだともいいにくいでしょう。

 それともあるいは民法550条との関係で,「承諾」であると契約が確定してしまうので,暫定的合意である場合(書面によらない贈与の場合)もあることをば示すために「受諾」ということにしたものか(梅によって「嫌ヤナ事ヲ承諾スル」と言われた際の「嫌ヤナ事」とは,この確定性を意味するのでしょうか。)。その上で,「暫定的合意であることを示すものです」と言ってしまうと,暫定的合意たる民法549条の贈与(書面によらないもの)は果たして契約か,また,要物契約だということになるとまだ契約は成立していないことになるのではないか云々ということで議論が面倒臭くなるので,「詰マリ感覚テアリマスナ」という,説明にならない説明的発言に留めたものであったのでしょうか。

穂積陳重は,第81回法典調査会で民法550条の原案(「贈与ハ書面ニ依リテ之ヲ為スニ非サレハ其履行ノ完了マテハ各当事者之ヲ取消スコトヲ得」)に関し「書面ナラバモウ完全ニ贈与契約ハ成立ツ」(民法議事速記録25146丁裏-147丁表)とは言いつつも,「書面テナクシテ口頭又ハ其他ノ意思表示ニ依テ為シタ贈与契約ハ如何ナモノテアルカ」という問題については,要式性を前提とする外国の法制における例として,①「此贈与契約ト云フモノハ成立タヌノテアル総テ成立タタヌノテアル手渡シヲシタナラバ之ヲ取返ヘスコトハ出来ヌ」とするもの〔筆者註:フランスでは,要式性の例外として,現実の手渡しによる現実贈与(don manuel)の有効性が判例で認められていますが,「しかし,現実の引渡が必要であるという要件から,現実贈与の約束なるものには効力を認めていない」そうです(柚木=高木28頁(柚木=松川))。この場合,必要な方式を欠くために無効である約束に法的に拘束されているものと誤信してされた出捐の履行は,返還請求可能の非債弁済と観念され得るようです(Vgl. Motive zu dem Entwurfe eines Bürgerlichen Gesetzbuches für das Deutsche Reich, Bd. II (Amtliche Ausgabe, 1888) S.295.)。(本稿の註1参照)並びに②「手渡ヲ以テ之ニヤツタトキニ於テハ其前カラ効力カアルト云フコトニナツテ居ル」もの及び③「前ニハ丸テ効力ガナカツタノテアルガ後トカラシテ其缺点ヲ補フト云フヤウナコトニナツテ居ル」もの〔筆者註:ドイツ民法5182項は„Der Mangel der Form wird durch die Bewirkung der versprochenen Leistung geheilt.“(方式の欠缺は,約束された給付の実現によって治癒される。)と規定しています。〕があると紹介した上で,「兎ニ角何時カラ契約トシテ成立ツカト云フコトハ能ク明カニナツテ居ラヌ」との残念な総括を述べ,更に旧民法〔財産取得編3582項〕について「此単一ノ手渡ニ為ル贈与ト云フコトハ贈与ノトキニ直クニ手渡ヲスルト云フコトテアラウト思ヒマス永イ間口頭ノ贈与ト云フモノガ成立ツテ居ルト云フコトテハアルマイト思フ」〔同項後段〕,「此慣習ノ贈物ト云フコトモ其範囲ガ明カテアリマセヌ」〔同項前段〕との解釈を語った上で,「夫故ニ書面ニ依ラナイモノハ兎ニ角贈与トシテ成立ツケレドモ其履行ノ完了ガアリマスルマテハ取消スコトガ出来ル」と述べるに留まっています(民法議事速記録25147丁表及び裏)。これはあるいは,方式を欠く贈与契約の拘束力欠如を前提とした上で,当該契約を無効としつつもその履行結果は是認することとした場合(債務がないのにした弁済ではないかとの問題を乗り越えることとした場合)の法律構成の難しさ(上記②及び③)を避けるために,契約は「兎ニ角」有効としつつ,拘束力の欠如をいう代わりに「取消し」の可能をいうことをもって置き換えたということでしょうか。この説明を思い付いて,筆者には自分なりに納得するところがあります。
 なお,この「取消し」の可能性は強行規定であって,弟の八束との兄弟対決において陳重は「書面ニ依ラスシテ取消サレヌ契約ヲ為スト云フヤウナ風ノコトハ許サナイ積リテアリマス」と述べています(民法議事速記録25169丁裏)。〔筆者註:ちなみに,米国では,“Because a gift involves no consideration or compensation, it must be completed by delivery of the gift to be effective. A gratuitous promise to make a gift is not binding.”ということになっているそうです(Smith et al., pp.1109-1110)。「英米法では捺印証書による贈与の場合にも特定履行を請求しえない」(来栖三郎『契約法』(有斐閣・1974年)235頁)。〕

また,穂積陳重の原案では「其履行ノ完了マテハ」当該贈与契約全体を取り消し得ることになっていましたが,第81回法典調査会での議論を経て出来上がった民法550条では「履行の終わった部分」以外の部分に対象が限定されてしまっています。これは,履行が終ったという事実の重みの方が優先されて,書面によらない贈与についてその諾成契約としての単位(契約の「取消し」は,その契約を単位としてされるべきものでしょう。)を重視しないということでしょう。当該修正も,書面によらない贈与も契約であるとの性格付けの意義を弱めるものでしょう。

我妻榮は,書面によらない贈与を「不完全な贈与」と呼んでいます(我妻Ⅴ₂230頁)。

 さてここまで来て不図気付くには,平成29年法律第44号による民法550条の改正が問題になりそうです。当該改正については,「旧法第550条本文は,各当事者は書面によらない贈与を「撤回」することができると定めていたが,ここでの「撤回」は契約の成立後にその効力を消滅させる行為を意味するものであった。もっとも,民法の他の条文ではこのような行為を意味する用語としては「解除」が用いられていることから,新法においては,民法中における用語の統一を図るため,「撤回」を「解除」に改めている(新法第550条本文)。」とされています(筒井=村松264頁)。しかしこれは,書面によらない贈与も堂々たる完全な普通の契約であることを前提とするものでしょう。すなわち,平成16年法律第147号による民法改正の結果として「意思表示に瑕疵があることを理由としないで契約の効力を消滅させる行為を意味する語として,「解除」と「撤回」が併存することとなったが」,用例を調べると,「この意味での撤回は同〔550〕条においてのみ用いられ」,「他方で,「撤回」の語については,同法第550条を除けば,意思表示の効力を消滅させる意味で用いられている」から,贈与という契約の効力の消滅に係るものである同条の「撤回」を「解除」に改めるということでした(法制審議会民法(債権関係)部会資料84-3「民法(債権関係)の改正に関する要綱案の原案(その1)補充説明」(20141216日)15頁)。一人ぼっちの550条を,「撤回」の仲間から省いて,「解除」の大勢に同調させようというわけです。20141216日の法制審議会民法(債権関係)部会第97回会議では,中田裕康委員から「これ自体は十分あり得ると思います。それから,要物契約が諾成化されたことに伴う引渡し前の解除という制度とも,恐らく平仄が合っているんだろうなとは思いまして,これでいいのかなという気もします。」と評されています(同会議議事録36頁)。(なお,当該改正は,深山雅也幹事にとって思い入れの深い,永年の懸案事項であったようで,次のような同幹事の発言があります。いわく,「今の「贈与」の点です。撤回を解除に変えるということについて,私はこの部会の当初,議論が始まった頃に,解除の方がいいのではないかという趣旨で,撤回という用語はあまりよくないということを申し上げた記憶があります。そのときは,ここは〔平成〕16年改正で変えたばかりなんだという御指摘を頂いて一蹴されて残念な思いをした覚えがあって,それで諦めていたところ〔筆者註:同部会第16回会議(20101019日)議事録6頁及び10頁参照〕,この土壇場で敗者復活したことについて非常に喜ばしく思っています。」と(同部会第97回会議議事録36頁)。ここで,「敗者復活」というのは,当該改正は,2014826日の民法(債権関係)の改正に関する要綱仮案には含まれていなかったからです。「この土壇場で」というのは,何やら,どさくさ紛れにという響きもあって不穏ですが,無論そのようなことはなかったものでしょう。)

 これに対して,民法549条において承諾ならぬ「受諾」の語にあえて固執した民法起草者らが,更に同法550条においては解除ならぬ「取消し」の語(同条の「解除」は,最初は「取消し」でした。「取消し」が「撤回」となったのは前記の平成16年法律第147号による改正の結果でした。ちなみに,富井=本野のフランス語訳では,民法550条の「取り消す」は“révoquer”,総則の「取り消す」は“annuler”,契約を「解除する」は“résilier”です。)をわざわざ用いたのは,彼らの深謀遠慮に基づくものではなかったと果たしていってよいものかどうか。(フランス民法的伝統の影をいうならば,生前贈与は契約にあらずとの前記ナポレオン・ボナパルト発言の重み及び贈与と遺贈との恵与(libéralités)としての統一的把握が挙げられるところです(「受諾」の語との関係で出て来た民法旧1217号及び旧142号は,いずれも贈与と遺贈とを一括りにする規定でした。また,「撤回」の語が示すものは,旧民法において「言消」(rétractation)又は「廃罷」(révocation)と呼称されたものを含んでいますが,旧民法においては廃罷は銷除,解除(本稿の註2参照)その他と共に義務の消滅事由の一つとされ(旧民法財産編4501項),贈与及び遺贈についてはその廃罷に係る規定があったところです(旧民法財産取得編363条から365条まで並びに399条から403条まで及び405条)。)。)

 とはいえ,民法549条の「受諾」の外堀が埋まりつつあるようにも思われます。同条の「受諾」の語は,早々に「承諾」に置き換えられるべきもの歟,それともなお保存されるべきもの歟。


 

  (註1)ドイツ民法第一草案の第440条は贈与契約の要式性を定めてその第1項は「ある者が他の者に何物かを贈与として給付する旨約束する契約は,その約束が裁判手続又は公証手続に係る方式で表示された場合にのみ有効である。(Der Vertrag, durch welchen Jemand sich verpflichtet, einem Anderen etwas schenkungsweise zu leisten, ist nur dann gültig, wenn das Versprechen in gerichtlicher oder notarieller Form erklärt ist.)」と規定し,続く同草案441条は「譲渡によって執行された贈与は,特別な方式の履践がない場合であっても有効である。(Die durch Veräußerung vollzogene Schenkung ist auch ohne Beobachtung einer besonderen Form gültig.)」と規定しています(ここの「譲渡」が誤訳でないことについては,以下を辛抱してお読みください。)。

   上記両条の関係について,第一草案理由書は,次のように説明しています(S.295)。ドイツ人は,理窟っぽい。

 

    第440441条の両規定は,自立しつつ並立しているものである。それらの隣接関係は,方式を欠く(受諾された(akzeptirten))贈与約束(Schenkungsversprechen)から,訴求不能ではあるものの,しかし履行のために給付された物の返還請求は許されない義務(自然義務(Naturalobligation))が発生すること,又は贈与約束の方式違背から生ずる無効性が執行によって治癒されることを意味するものではない。反対に,方式を欠き,又は方式に違背する贈与約束は,無効であり,かつ,執行によって事後的に治癒せられるものでもないのである。贈与者が,方式に違背し,したがって無効である契約の履行に法的に拘束されているという錯誤によって(solvendi causa(弁済されるべき事由により))給付した場合においては,第441条の意味において執行された贈与ではなく,存在するものと誤って前提された拘束力の実現があるだけである。したがって,存在しない債務(Nichtschuld)に係る給付に基づく返還請求に関する原則の適用がみられることになる。この結論は,反対の規定が欠缺しているところ(in Ermangelung entgegenstehender Bestimmungen),一般的法原則自体から生ずるものである〔略〕。このような場合,事実行為は,草案の意図するところの,譲渡によって執行された贈与である,との外観を有するだけである。贈与として給付されたのではなく,むしろ,〔有効な債務と誤解した無効な贈与債務を〕animo solvendi(弁済する意図で)されたものである。すなわち,有効な贈与約束の履行も,即自的にはそれ自体は贈与ではなく,存在する拘束力の実現であるがごとし,なのである。しかしながら,贈与者が,有効ではない贈与約束を見逃して(unter Absehen von dem ungültigen Schenkungsversprechen),ないしはその無効性の認識の下で(in Kenntnis von der Nichtichkeit des letzteren),贈与として給付すると約束したその物をanimo donandi(贈与する意図で)給付したときは,別様に判断される。そのときには,第441条によって有効な,独立の財産出捐が,すなわち,新しい,しかも執行済みの贈与が存在するのである。仮に,無効な約束がその動機をなしていたとしても,そうである。この法律関係は,先立つ約束なしに贈与者が直ちに「譲渡によって」受贈者に対してanimo domandi(贈与する意図で)贈与を執行する,かの場合と同一である。したがって,第441条の規定は,既存の(方式を欠く,又は方式に違背した)贈与約束を前提とするものでは全くないのである。それは,贈与者が既存の(無効な)約束を見逃して,又は先立つ約束なしに,被贈与物に応じた事実行為をもって贈与を執行したときに適用されるのである。



 (註
2)「解除」,「銷除」及び「廃罷」の使い分けについて,ボワソナアドは次のように説明しています(Boissonade II, pp.861-862)。

 

    慣用及び法律は,事実既に長いこと,「解除(résolution)」の語を,当該契約の成立後に生じた事情に基づく契約の廃棄(destruction)――ただし,合意又は法によってあらかじめ当該効果が付されている契約についてである――について使用するものと認めている。また,“résiliation”の語も,同じ意味で,特に賃貸借について,また場合によっては売買について,慣用に倣って法律において時に用いられる。「銷除(rescision)」の語は,〔略〕その成立における意思の合致(consentement)の瑕疵又はその際の無能力の理由をもって契約が廃棄される場合に用いられる。最後に,「廃罷(révocation)」の語は,まずもって,かつ,最も正確には,契約当事者が「その言葉を撤回する(retire sa parole)」,すなわち,譲渡した物を取り戻す(reprend ce qu’il a aliéné)場合に用いられる。特に,贈与の場合において,受贈者が忘恩的であり,又は課された負担の履行を欠くときである(フランス民法953条以下参照)。〔略〕

    「廃罷」の語は,また,債務者がした債権者の権利を詐害する譲渡又は約束を覆すためにされる債権者の訴訟(action)について用いられる。〔後略〕

 

なお,旧民法における契約の「解除」については,その財産編421条に「凡ソ双務契約ニハ義務ヲ履行シ又ハ履行ノ言込ヲ為セル当事者ノ一方ノ利益ノ為メ他ノ一方ノ義務不履行ノ場合ニ於テ常ニ解除条件ヲ包含ス/此場合ニ於テ解除(résolution)ハ当然行ハレス損害ヲ受ケタル一方ヨリ之ヲ請求スルコトヲ要ス然レトモ裁判所ハ第406条ニ従ヒ他ノ一方ニ恩恵上ノ期限ヲ許与スルコトヲ得」と規定していました(下線は筆者によるもの)。

  

 

 
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第1 申込みと承諾とによる契約の成立

 民法(明治29年法律第89号)の第5221項は,202041日から平成29年法律第44号の施行(同法附則1条及び平成29年政令第309号)によって新しくなって,「契約は,契約の内容を示してその締結を申し入れる意思表示(以下「申込み」という。)に対して相手方が承諾をしたときに成立する。」と規定しています。当該新規定の効能は,「契約は契約の申込みとこれに対する承諾によって成立するとの一般的な解釈を明文化するとともに,契約の「申込み」の定義を明文で定めている」ところにあるそうです(筒井健夫=村松秀樹編著『一問一答 民法(債権関係)改正』(商事法務・2018年)214頁)。

 契約の内容が示されるのは申込みにおいてなので,「承諾」は,「申込をそのまま承諾する必要があり」ます(内田貴『民法Ⅱ 債権各論』(東京大学出版会・1997年)31頁)。「このように,申込をあたかも鏡のように反映した内容で承諾しなければならないという原則は,アメリカではミラーイメージ・ルールと呼ばれている」そうです(同頁)。“An acceptance must be positive and unequivocal. It may not change any of the terms of the offer, nor add to, subtract from, or qualify in any way the provisions of the offer. It must be the mirror image of the offer.”ということになります(Len Young Smith, G. Gale Robertson, Richard A. Mann, and Barry S. Roberts, Smith and Robertson’s Business Law, Seventh Edition, St. Paul, MN (West Publishing, 1988), p.194)。「承諾者が,申込みに条件を付し,その他変更を加えてこれを承諾したときは,その申込みの拒絶とともに新たな申込みをしたものとみなす」ものとされます(民法528条)。

 

第2 贈与契約の冒頭規定(民法549条)における受贈者の「受諾」との文言

 さて,申込みと承諾とによる契約の成立に係る前記のような予備知識を几帳面にしっかり学んだ上で,我が民法における13の典型契約の筆頭たる贈与契約に係る冒頭規定を見ると,いきなりいささか混乱します。承諾であるものと通常解されるべきであろう行為について,なぜか「受諾」という語が用いられているからです。

 

   (贈与) 

  第549条 贈与は,当事者の一方がある財産を無償で相手方に与える意思を表示し,相手方が受諾をすることによって,その効力を生ずる。〔下線は筆者によるもの〕

 

 なお,同条は,平成29年法律第44号による改正前は次のとおりでした。

 

   (贈与)

  第549条 贈与は,当事者の一方が自己の財産を無償で相手方に与える意思を表示し,相手方が受諾をすることによって,その効力を生ずる。〔下線は筆者によるもの〕

 

それまでの民法549条を平成29年法律第44号によって改正した趣旨は,「旧法第549条は,文言上,贈与は「自己の財産」を無償で与えるものとしていたが,判例(最判昭和44131日)は,他人の物を贈与する契約も有効であると解していたことから,同条の「自己の財産」を「ある財産」に改めている(新法第549条)」ものだそうです(筒井=村松264頁)。

 平成16年法律第147号による200541日からの改正(同法附則1条及び平成17年政令第36号)前の民法549条は次のとおりでした。

 

  第549条 贈与ハ当事者ノ一方カ自己ノ財産ヲ無償ニテ相手方ニ与フル意思ヲ表示シ相手方カ受諾ヲ為スニ因リテ其効力ヲ生ス

 

なお,契約が申込みと承諾とにより成立することに関して指摘されるべき民法549条の文言の不自然性については,次のように説くものがあります。いわく,「贈与は契約(●●)である。申込をするのが贈与する者(贈与者)で,承諾(ママ)をするのが贈与を受ける者(受贈者)であることを必要とするのではない(549条の文字はそう読めるが,普通の場合のことをいつているだけのことである)。然し,とにかく,当事者の合意を必要とする」と(我妻榮『債権各論 中巻一(民法講義Ⅴ₂)』(岩波書店・1973年)223)。しかし,承諾であるべきものが,なぜ法文では「受諾」と呼ばれて「承諾」ではないのかについては,やはりここでも触れられてはいません。(ちなみに,贈与者から申込みがされる場合を普通の場合とする我妻榮先生は,「ねぇ,あれちょうだい,これちょうだい」と受贈者側からおねだり(申込み)をされたことはなかったもの歟。なお,申込みをする側と承諾をする側とが固定されてあるべき場合があることについては,「陰神乃先唱曰,妍哉,可愛少男歟。陽神後和之曰,妍哉,可愛少女歟。遂為夫婦」であれば残念ながら「生蛭児」であって「便載葦船而流之」ということになったが,やり直して「陽神先唱曰,妍哉,可愛少女歟。陰神後和之曰,妍哉,可愛少男歟。然後同宮共住」と正せば「而生児,号大日本豊秋津洲」となった,との日本書紀の記述(巻第一神代上・第4段一書第一)を御参照ください。)

「承諾」の語は,申込みに対する意思表示について用いられるのであって(申込みのいわば外側で使用される。「申込み」←承諾),申込みにおいて示される契約の内容を民法において記述する際には用いられず(申込みのいわば内側においては使用されない。),当該内容記述のためには,「承諾」ではなくて「約する」とか「受諾」の語が用いられるのだ(「申込み:契約の内容の表示(「約する」,「受諾」等)」←承諾),という説明も考えてみました。しかし,委任に係る民法643条は,契約の内容を示す際に「承諾」の語を用いており(「委任は,当事者の一方が法律行為をすることを相手方に委託し,相手方がこれを承諾することによって,その効力を生ずる。」),うまくいきません。しかも,旧民法財産取得編(明治23年法律第28号)230条では「代理ハ黙示ニテ之ヲ委任シ及ヒ之ヲ受諾スルコトヲ得」と「受諾」の語を用いていたものが,民法643条ではきちんと「承諾」に改められているところです。

 

第3 法典調査会における議論

 

1 第81回法典調査会

 

(1)原案

民法549条は,1895426日の第81回法典調査会に提出された原案においては次のとおりの文言でした(日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録第25巻』138丁裏)。

 

 第548条 贈与ハ当事者ノ一方カ自己ノ財産ヲ無償ニテ相手方ニ与フル意思ヲ表示シ其相手方カ之ヲ受諾スルニ因リテ其効力ヲ生ス

 

(2)箕作麟祥の質疑

やはり似たようなことを考える人がいるもので,筆者と同様の疑問を,第81回法典調査会における審議の際箕作麟祥委員が担当起草委員の穂積陳重に対してぶつけ,両者(及び梅謙次郎)の間で次のような問答が交わされます(民法議事速記録25141丁裏-142丁裏)。

 

 箕作麟祥君 一寸詰マラヌコトテアリマスガ伺ヒマスガ此「(ママ)諾」ト云フ字テアリマスガ是ハ前ノ申込ノ所ニアルヤウナ承諾ト云フ文字ノ方ガ当リハシナイカト思ヒマスガ何ウテアリマセウカ夫カラ「相手方カ之ヲ」ト云フコトガアリマスガ此「之ヲ」ハ何ヲ受諾スルノテアリマスカ

 穂積陳重君 「受諾」ノ字ハお考ノ通リ「承諾」ノ方カ全体本統カモ分リマセヌガ贈与丈ハ何ンダカ「受諾」ト申ス方カ宜イヤウナ心持テアリマシテ屢々使ヒマス例ヘハ第15条ノ第7号ニモ「遺贈若クハ贈与ヲ拒絶シ又ハ負担附ノ遺贈若クハ贈与ヲ受諾スルコト〔平成11年法律第149号による改正前の民法1217号は,準禁治産者がそれを行うには保佐人の同意を要する行為として「贈与若クハ遺贈ヲ拒絶シ又ハ負担附ノ贈与若クハ遺贈ヲ受諾スルコト」を掲げていました。〕夫レカラ第17条ノ第7号ニモアリマス贈与若クハ遺贈ヲ受諾シ又ハ拒絶スルコト〔昭和22年法律第222号で削除される前の民法142号は,妻がそれを行うには夫の許可を要する行為として「贈与若クハ遺贈ヲ受諾シ又ハ之ヲ拒絶スルコト」を掲げていました。〕」何ンタカ事ヲ諾フノテ承知シタト云フヨリ受ケル方カ宜イヤウナ心持テ是迄使ヒ来ツテ居ツタノテスカ・・・

  箕作麟祥君 夫レハ承知シテ居リマスガ夫レハマダ練レヌ中ノ御案テ・・・

  穂積陳重君 今度モ吾々ノ中テ考ヘテ見マシタガ贈与ト云フト此方カ宜イヤウニ思ヒマス夫レカラ「之ヲ」ト云フコトハ其前ノ事柄ヲト云フ意味ノ積リテアリマシタガ或ハ充分テナイカモ知レマセヌ

  箕作麟祥君 意思ヲ表示シタ事柄ヲ受諾スルト云フノテアリマスカ

  穂積陳重君 ソウテアリマス

  箕作麟祥君 事柄ト云フト可笑シクハアリマセヌカ事柄ト云フナラハ尚ホ「承諾」ト云フ方カ宜イヤウニ思ヒマスガ然ウ云フ理由カアルナラハ強テ申シマセヌガ尚ホ一ツ御一考ヲ願ヒタイモノテアリマス

  梅謙次郎君 詰マリ感覚テアリマスナ

  穂積陳重君 夫レハモウ然ウナツテモ一向差支ヘナイノテス,マア一度考ヘテ見マセウ

 

箕作麟祥が「是ハ前ノ申込ノ所ニアルヤウナ承諾ト云フ文字ノ方ガ当リハシナイカト思ヒマスガ何ウテアリマセウカ」と法典の整合性論で攻めて来たのに対し,穂積陳重は「「受諾」ノ字ハお考ノ通リ「承諾」ノ方カ全体本統カモ分リマセヌガ」及び「夫レハモウ然ウナツテモ一向差支ヘナイノテス」と,箕作の正しさを認めたような形でたじたじとなっています。そこに梅謙次郎が――自分たちの原案擁護のためでしょうが――口を挟んでいるのですが,「詰マリ感覚テアリマスナ」とはいかにも軽い。(「感覚」で済むのなら,世の法律論議は気楽なものです。)真面目に議論している箕作は,あるいはむっとなったものかどうか。同席していた富井政章などは,はらはらしたのではないでしょうか。

 

 〔自信力というものが非常に強かったことのほか,梅謙次郎の〕第2の欠点は,会議などには時時言葉が荒過ぎた,少し物を感情に持つ人は敬礼を失すると云ふやうな非難が時時あつた。私なども度度遭遇したのである(東川徳治『博士梅謙次郎』(法政大学=有斐閣・1917年)219-220頁(「富井政章氏の演説」))

 

(3)横田國臣の意見

 また,第81回法典調査会における穂積陳重案548条の議論の最後に,横田國臣委員が次のように発言しています(民法議事速記録25144丁表)。

 

  横田國臣君 文字ノコトテアリマスカラ,モウ別ニ私ハ主張ハ致シマセヌガ此「其相手方」ト云フ「其」ト云フ字ハ要ルマイト思フノテス「当事者ノ一方カ」トアルカラナクテモ宜カラウト思フ夫レカラ「之ヲ」ト云フ字モ要ルマイト思フノテゴザイマス指スノモ其事柄ト云フ位テアルカラナイ方カ宜カラウ是ハ唯整理ノトキノ御参考ニ申シテ置キマス

 

2 第11回民法整理会

 

(1)梅謙次郎の説明

 前記議論の結末は,18951228日の法典調査会第11回民法整理会において,結局次のようになりました(日本学術振興会『法典調査会民法整理会議事速記録第4巻』68丁裏-69丁裏。なお,筆者において適宜段落分けをしました。)。

 

  梅謙次郎君 之ハ当時横田さんカラ御注意カアツテ「其相手方」ト言フト上ニ「相手方」トアルカラ「其相手方」,「其相手方」カ一向分ラヌ当事者ノ一方ノ相手方ナラハ前ニ付テ居ル斯ウ云フ可笑シナ書キヤウハナイ
 「之ヲ」ト言フト「之ヲ」カ,トウモ何ヲ受ケテ居ルノカ意思ヲ受諾スルノテモナカラウ余程可笑シナ文字タカラ能ク考ヘテ置テ呉レト云フコトテアリマシタ之モ退テ考ヘテ見マスルト成程文章カ悪ルイ,ソレテ「相手方カ受諾ヲ為スニ因リテ」トシマシタ
 序テニ申シマスカ此「受諾」ト云フ文字ニ付テ箕作先生カラ之ハ既成法典ニモアツタカ可笑シナ字テ「承諾」ト云フヤウナ字ニテモ直シタラ,トウカト云フ御注意カアリマシタ之ニ付テモ相談ヲシマシタカ無論「受諾」ト云フ字テナケレハナラヌト云フコトモナイ「承諾」テモ宜シイ理窟ノ方カラ言
(ママ)テモ契約ノ方ニモ「承諾」トアツテ「贈与」モ契約テアルカラ理窟カラ言ツテモ其方カ無論宜シイ
 カ唯タ総則抔ニ「遺贈若クハ贈与ヲ受諾スル」ト云フヤウナ言葉カ使(ママ)テアリマシタカ,サウ云フヤウナトキハ契約テハアルカ大変意思ノ方ニ持ツテ来テ居リマスカラ同シ言葉テ言ヒ顕ハスコトカ出来ル
 又吾々ノ中テモ貰(ママ)コトヲ承諾スルト云フト嫌ヤナ事ヲ承諾スルト云フヤウニ聞ヘルカラ,ソレテ「受諾」ト言フ方カ宜シイト云ウヤウナ感シテ,ソレテ賛成スル方モアツタヤウテアリマスカラ旁々以テ此儘ニシテ置キマシタ

  議長(箕作麟祥君) ソレテハ547条ハ御発議カナケレハ朱書ニ決シマス〔略〕

 

 ということなのですが,よく理解するためには,なお細かな分析が必要であるようです。

 

(2)梅説明の分析

 

ア 「受諾」の対象(その1):「意思ヲ表示シタ事柄」ではない

梅は「「之ヲ」(),トウモ何ヲ受ケテ居ルノカ意思ヲ受諾スルノテモナカラウ」と横田國臣から注意されたものと整理した上で(なお,横田の発言は,前記のとおり,「之ヲ」が「指スノモ其事柄ト云フ位テアル」という認識に基づくものです。),「成程文章カ悪ルイ,ソレテ「相手方カ受諾ヲ為スニ因リテ」トシマシタ」というのですから,穂積陳重原案にあったところの先立つ「之ヲ」を削った民法549条の「受諾」の対象は「意思ヲ表示シタ事柄」ではないことになります。すなわち贈与契約の申込みの内側において表示されている契約の内容の「受諾」ではなく,なおそれとは異なった次元のものの「受諾」なのだということなのでしょう。「意思ヲ受諾スルノテモナカラウ」との疑念が生ずるおそれを払拭するということであれば,事柄ではなく「意思」が「受諾」の対象となるのでしょう。

 

イ 「受諾」の対象(その2):申込み

しかして,「理窟ノ方カラ言(ママ)テモ契約ノ方ニモ「承諾」トアツテ「贈与」モ契約テアルカラ理窟カラ言ツテモ其方カ無論宜シイ」との発言が続きます。結局民法549条の「受諾」は,贈与契約の申込みたる意思表示に対する承諾だったのかということになります。

ちなみに,富井政章及び本野一郎による1898年出版の我が民法549条のフランス語訳は“La donation produit effet par la déclaration de volonté que fait l’une des parties de transmettre à l’autre un bien à titre gratuit et par l’acceptation de celle-ci.”となっており(Code Civil du l’Empire du Japon Livres I, II et III promulgués le 28 avril 1896(新青出版・1997年)),最後の“celle-ci”“l’autre des parties”たる相手方のことです。この“par l’acceptation de celle-ci”(相手方の受諾により)と対になるのは“par la déclaration de volonté que fait l’une des parties”(当事者の一方がなす意思表示により)ですので,相手方の“l’acceptation”の対象は,「当事者の一方」の「意思表示」であるものと解すべきものでしょう。契約の効力の発生に際しての意思表示に対する“l’acceptation”ということになれば,「承諾」の文字が念頭に浮かぶところです(民法5221項参照)。

 

ウ 旧民法における「言込」及び「受諾」並びに「承諾」

ついでながら,梅は「受諾」の文字は旧民法(「既成法典」)にあったという認識であったようなのでこれについて見てみると,贈与に係る旧民法財産取得編第14編(明治23年法律第98号)349条から367条までには「受諾」の文字はないのですが,旧民法財産編(明治23年法律第28号)3041項の第1は,贈与がその一つである合意(贈与の定義に係る旧民法財産取得編349条参照)の成立要件として「当事者又ハ代人ノ承諾」を掲げ,旧民法3061項は「承諾トハ利害関係人トシテ合意ニ加ハル総当事者ノ意思ノ合致ヲ謂フ」と「承諾」を定義しているところ(総当事者が「承諾」をするのであって,相手方のみが承諾をするのではありません。),遠隔者間において合意を取り結ぶ場合については,「合意ノ言込」及びその「受諾」ということがあるものとされていました(旧民法財産編308条)。

フランス語ではどうかというと,「承諾トハ利害関係人トシテ合意ニ加ハル総当事者ノ意思ノ合致ヲ謂フ」は,“Le consentement est l’accord des volontés de toutes les parties qui figurent dans la convention comme intéressées.”ということで(Boissonade, Projet de Code Civil pour l’Empire du Japon accompagné d’un commentaire, nouvelle édition, Tome Deuxième, Droits Personnels et Obligations. (Tokio, 1891) p.53),「承諾」は“consentement”,また,「言込」は“offre”,「受諾」は“acceptation”となっていました(Boissonade II, p.53-54)。

現行民法の契約の章においては,「言込」が「申込み」に,「受諾」が「承諾」に改められたわけです。契約の内容を示してその締結を申し入れる意思表示を受けた相手方が「受諾」するものとする用語法であれば,旧民法の用語法を引きずったものということになります。

 

エ 民法旧1217号及び旧142項との横並び論

結局,承諾ではあるが「受諾」の文字を使うということであれば,総則の民法旧1217号及び旧142号との横並び論ということになるのでしょうが,これは,犬が尻尾を振るのであれば,尻尾が犬を振ってもいいじゃないか,というような議論であるようにも思われます。贈与に関することはまず贈与の節において決定されるべきであって,総則における用字は,それら各則における諸制度の共通性を踏まえて後から抽象化を経て決定されるべきものでしょう。

そもそも,総則の前記両号があるから贈与について当該両号に揃えたのだ,と言った場合,じゃあ遺贈についてはなぜ同じように当該両号と揃えなかったのかね,という反論が可能でありました。遺贈については,例えば民法旧1089条前段は「遺贈義務者其他ノ利害関係人ハ相当ノ期間ヲ定メ其期間内ニ遺贈ノ承認又ハ抛棄ヲ為スヘキ旨ヲ受遺者ニ催告スルコトヲ得」と規定していたところです(民法現行987条前段参照)。「遺贈義務者其他ノ利害関係人ハ相当ノ期間ヲ定メ其期間内ニ遺贈ノ受諾又ハ拒絶ヲ為スヘキ旨ヲ受遺者ニ催告スルコトヲ得」ではありません。

なお,「契約テハアルカ大変意思ノ方ニ持ツテ来テ居リマスカラ同シ言葉テ言ヒ顕ハスコトカ出来ル」との梅発言の意味は取りにくいのですが,これは,契約ならば厳密には申込みと承諾とによって成立することになるが,受遺者による遺贈の承認による効果(なお,遺贈は単独行為であって,契約ではありません。)と同様の効果を目的する受贈者の意思表示を当該遺贈の承認と一まとめにして「同シ言葉テ言ヒ顕ハ」して総称するのならば,「受諾」という言葉でいいじゃないか(効果意思は同様である。),ということでしょうか。しかし,民法旧1217号及び旧142号における,遺贈関係とまとめて規定しなければならないという特殊事情に基づく総称を,そのような事情のない同法549条の贈与の本体規定にそのまま撥ね返らせるのは,おかしい。

 

オ 「承」諾と「受」諾との感覚論

 

(ア)ポツダム宣言

感覚論としては,「承諾」はいやなことについてで,「受諾」はいいものを貰うときの用語である,というような説明がされています。しかし,そうだとすると,1945814日の詔書に「朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇4国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」とあって「承諾スル旨」とされていなかったのは,昭和天皇にとってポツダム宣言はありがたい申込みであって,渋々「承諾」するようなものではなく,実は欣然「受諾」せられたのであった,ということになるのでしょうか。(ただし,「受諾」は「条約において,acceptの訳語として多く用いられる」ので(吉国一郎等編『法令用語辞典〈第八次改訂版〉』(学陽書房・2001年)377頁),4敵国に対するポツダム宣言の「受諾」といういい方をここでもしただけなのだ,ということかもしれません。)

 

(イ)漢字「承」及び「受」並びに「諾」の成り立ち

なお,『角川新字源』(1978年・第123版)によれば,「承」の成り立ちは,「会意形声。もと,手と,持ち上げる意と音とを示す(ショウ)とからなり,手でささげすすめる,転じて「うける」意を表わす」ということだそうです。また,同辞書は,「受」の成り立ちについて,「形声。引き合っている手〔象形文字略。上の「爪」の部分と下の「又」の部分が対応するようです。〕と,音符(シゥ)(ワは変わった形。うつす意→(シュ))とから成り,うけわたしする,転じて「うける」意を表わす。」ということであると説明しています。手を上げる所作が必要な「承」に比べて「受」の方はより事務的である,ということになるのでしょうか。
 同じ漢和辞書における「諾」の成り立ちの説明は,「会意形声。言と,従う意と音とを示す若ジャク→ダクとからなり,「うべなう」意を表わす。」というものです。「うべなう」の意味は,『岩波国語辞典第四版』(1986年)によれば「いかにももっともだと思って承知する。」,『角川新版古語辞典』(1973年)では「①服従する。承服する。〔略〕②謝罪する。〔略〕③承諾する。」と説かれています。
 

カ 民法の現代語化改正による横並び論の根拠文言の消失(2005年4月)

ところで,民法旧12条は,平成16年法律第147号によって200541日から(同法附則1条及び平成17年政令第36号)民法13条に移動し,同条17号は「贈与の申込みを拒絶し,遺贈を放棄し,負担付贈与の申込みを承諾し,又は負担付遺贈を承認すること。」に改められて,同号から「受諾」の語は消えています。すなわち,同号においては,負担付きのものについてですが,贈与の申込みに対する肯定の意思表示は「受諾」ではなく承諾であるものと明定されるに至っているわけです。

民法現行1317号の改正は,「民法現代語化案」に関する意見募集に際して法務省民事局参事官室から発表された200484日付けの「民法現代語化案補足説明」において,「確立された判例・通説の解釈で条文の文言に明示的に示されていないもの等を規定に盛り込む」ものとも,「現在では存在意義が失われている(実効性を喪失している)規定・文言の削除・整理を行う」ものともされていませんので,当該「補足説明」にいう,民法「第1編から第3編までの片仮名・文語体の表記を平仮名・口語体に改める」と共に「全体を通じて最近の法制執務に則して表記・形式等を整備する」ことの一環だったのでしょう。「現代では一般に用いられていない用語を他の適当なものに置き換える」ということではなかったのでしょう。

しかしながら,他方,民法1317号(旧1217号)との横並び論もあらばこそ,平成16年法律第147号による改正を経ても民法549条の「受諾」は「承諾」に改められずにそのままとされました。同条の「受諾」がそのまま維持されたことが平成16年法律第147号の法案起草担当者による見落としによるものでないのならば,当該受諾について,これは契約の申込みに対する承諾そのものではないという判断が,「最近の法制執務に則して」されたことになるようです。

 

第4 現行法令における「受諾」の用法

 

1 辞典的定義

ところで,村上謙・元内閣法制局参事官によれば,「受諾」は「相手方又は第三者の主張,申出,行動等に同意することをいう」ものであって,前記のとおり「条約において,acceptの訳語として多く用いられる」ほか,「国内法上では調停案の受諾(労働関係調整法26)等の用例のほか,旧「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」(昭和20勅令542号)などというのがある」とのことです(吉国等377頁)。

 

2 実際の用例

 

(1)調停等,ポツダム命令,国際的約束及びその他

ということで,その実際を見るべく,e-Gov法令検索を利用して現行の法律並びに政令及び勅令(すなわち内閣法制局参事官の審査を経た法令)の本則中「受諾」の語を用いている条が何条あるかを調べてみると全部で69箇条であって,その内訳を4種類に分類して示せば,①調停案,和解案又は斡旋案について「受諾」をいうもの計40箇条(労働関係調整法(昭和21年法律第25号)261項及び2項,労働関係調整法施行令(昭和21年勅令第478号)10条,地方自治法(昭和22年法律第67号)250条の19251条の23項,4項及び7項並びに251条の311項から13項まで,金融商品取引法(昭和23年法律第25号)77条の23項,156条の4424号及び5号並びに6項並びに156条の506項,建設業法(昭和24年法律第100号)25条の134項,中小企業等協同組合法(昭和24年法律第181号)9条の223項,土地改良法(昭和24年法律第195号)65項,酪農及び肉用牛生産の振興に関する法律(昭和29年法律第182号)22条及び23条,生活衛生関係営業の運営の適正化及び振興に関する法律(昭和32年法律第164号)14条の122項,小売商業調整特別措置法(昭和34年法律第55号)163項,小売商業調整特別措置法施行令(昭和34年政令第242号)8条及び91項,入会林野等に係る権利関係の近代化の助長に関する法律(昭和41年法律第126号)84項,農業振興地域の整備に関する法律(昭和44年法律第58号)154項,公害紛争処理法(昭和45年法律第108号)23条の242号,341項及び3項並びに362項,公害紛争処理法施行令(昭和45年政令第253号)32項及び12条,雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律(昭和47年法律第113号)22条,銀行法(昭和56年法律第59号)52条の6724号及び5号並びに6項並びに52条の736項,貸金業法(昭和58年法律第32号)41条の4424号及び5号並びに6項並びに41条の506項,保険業法(平成7年法律第105号)308条の724号及び5号並びに6項並びに308条の136項,民事訴訟法(平成8年法律第109号)264条,特定債務等の調整の促進のための特定調停に関する法律(平成11年法律第158号)16条,独立行政法人国民生活センター法(平成14年法律第123号)25条,信託業法(平成16年法律第154号)85条の724号及び5号並びに6項並びに85条の136項並びに家事事件手続法(平成23年法律第52号)1732号,2422号,2522項及び2701項),②旧「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」が出て来るもの計9箇条(金融機関再建整備法(昭和21年法律第39号)336項及び37条の63項,昭和22年法律第721条の2,ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く大蔵省関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年法律第43号)813号,国の債権の管理等に関する法律施行令(昭和31年政令第337号)925号,連合国財産の返還等に伴う損失の処理等に関する法律(昭和34年法律第165号)1条,国民年金法等の一部を改正する法律の施行に伴う経過措置に関する政令(昭和61年政令第54号)124号,日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法(平成3年法律第71号)31号イ並びに特別会計に関する法律施行令(平成19年政令第124号)411号),③国際的約束に係る「受諾」をいうもの計9箇条(関税定率法(明治43年法律第54号)732号,9項から11項まで及び28項並びに822号,8項から10項まで及び31項,相殺関税に関する政令(平成6年政令第415号)45項及び112項から5項まで,不当廉売関税に関する政令(平成6年政令第416号)75項及び142項から5項まで,国際人道法の重大な違反行為の処罰に関する法律(平成16年法律第115号)31号ロ並びに武力紛争の際の文化財の保護に関する法律(平成19年法律第32号)23号及び61項)及び④その他計11箇条(民法4961項及び549条,手形法(昭和7年法律第20号)563項,国会法(昭和22年法律第79号)102条の153項及び4項並びに1042項及び3,国家公務員法(昭和22年法律第120号)1091号,議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律(昭和22年法律第225号)52項及び3項並びに5条の34項及び5,宗教法人法(昭和26年法律第126号)134号,港湾法施行令(昭和26年政令第4号)65号並びに特定外貿埠頭の管理運営に関する法律施行令(平成18年政令第278号)37号)ということになります。


 
(2)「その他」の内訳(更に6分類)

問題は,前記④の11箇条です。

 

ア 立法府対行政府

まず,国会法102条の15及び104条並びに議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律5条及び5条の3については,各議院又はその委員会等と内閣,官公署若しくは行政機関の長(国会法)又は公務所,監督庁若しくは行政機関の長(議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律)との間の関係において,前者の求めを後者が拒否する場合においてその理由として疎明されたところを前者が受け容れるときに「受諾」するという言葉が使われているものとして整理できそうです。無論これらの場面は,契約の申込みを承諾する場面とは異なります。

 

イ 公務員の任用等

次に,国家公務員法1091号(「第7条第3項の規定〔「人事官であつた者は,退職後1年間は,人事院の官職以外の官職に,これを任命することができない。」〕に違反して任命を受諾した者」)及び宗教法人法134号(「代表役員及び定数の過半数に当る責任役員に就任を予定されている者の受諾書」)は,人事上の就任行為に関するものですが,委任契約であれば,当然承諾の語が用いられるべきものです(民法643条参照)。一般社団法人及び一般財団法人に関する法律(平成18年法律第48号)においては,一般社団法人の設立時理事,設立時監事及び設立時代表理事並びに一般財団法人のそれら及び設立時評議員について就任の「承諾」という語が用いられています(同法31823号及び31925号。また,株式会社につき商業登記法(昭和38年法律第125号)47210号)。

しかし,公務員の任用行為の法律上の性質については,「任用行為の性質については,公法上の契約説と,単独行為説とがある。前者は,公務員の任用に本人の同意を要する点を重視し,後者は,公務員関係の内容が任命権者の一方的に定めるところである点を重視する。しかし,これは,法律上には格別意義のない論争で,かつては,この論争が政治的目的に悪用される弊害さえ生じたことがある。公法上の契約説は,天皇の任官大権を侵犯するものとして非難したごときこれである。その実体に即し,「相手方の同意を要件とする特殊の行為」と考えるべき」ものとされているところ(田中二郎『新版 行政法 中巻 全訂第2版』(弘文堂・1976年)245-246頁註(1)),特殊の行為であるがゆえに契約のように承諾の語を使うことができず(公法上の契約説にかつて加えられた上記非難に係るトラウマもあるいはあったかもしれません。),かつ,「同意」は「他の者がある行為をすることについて賛成の意思を表示することをいう」とされているので(吉国等558頁),任用行為の当事者である被任用者が他人事のように同意をするというのも変であろうということから(なお,国家公務員法51項参照),「任命の受諾」ということになったものでしょうか。

宗教法人の役員については,宗教団体法(昭和14年法律第77号)時代には「寺院又ハ教派,宗派若ハ教団ニ属スル教会ノ設立ノ認可ヲ申請セントスルトキハ申請書ニ寺院規則又ハ教会規則及管長又ハ教団統理者ノ承認書ノ外左ノ事項ヲ記載シタル書類並ニ住職又ハ教会主管者タルベキ者及総代タルベキ者ノ同意書ヲ添附シ之ヲ地方長官ニ提出スベシ(宗教団体法施行規則(昭和15年文部省令第1号)131項柱書き。下線は筆者によるもの。また,同条2項柱書き。なお,寺院は当然法人です(宗教団体法22項)。)とされていましたが,ここでの住職又ハ教会主管者タルベキ者の「同意」は,寺院又は教会の設立に対する同意ではなく,それぞれの就任についてのものであったように思われます。委任において用いられる「承諾」ではなく「同意」の語が用いられたのは,「大審院判例(大正7419,大正6125民)は右の太政官布達〔明治17811日太政官布達第19号〕に寺院の住職を任免することは「各管長ニ委任シ」云々とあることを根拠として,住職の任免は国家から管長に委任せられたもので,現在に於いてもそれは国の行政事務の一部であるとする見解を取つて居る」(美濃部達吉『日本行政法下巻』(有斐閣・1940年)564頁)という我が国の政教分離前の伝統によるものでもありましょうか。行政事務ということになれば,公務員の任用行為同様,民法の契約の概念を直接当てはめるわけにはいかないわけでしょう。しかして同意は,前記のとおり「他の者がある行為をすることについて賛成の意思を表示することをいう」ということなので,宗教法人法134号を起草するに当たって,役員らの就任行為については,「承諾」の語を避けつつ,自らするのは変はである「同意」ではなく,受諾のいかんが問題になるのだというふうに書き振りを改めたものでしょうか。


 
ウ 執行受諾行為

3に,港湾法施行令65号及び特定外貿埠頭の管理運営に関する法律施行令37号ですが,これは,港湾管理者の貸付金に関する貸付けの条件の基準の一つとして「貸付けを受ける者〔又は指定会社〕は,港湾管理者の指示により,貸付金についての強制執行の受諾の記載のある公正証書を作成するために必要な手続をとらなければならないものとすること。」を掲げるものです。債務名義たる執行証書に関する規定です。執行証書は,金銭の一定の額の支払又はその他の代替物若しくは有価証券の一定の数量の給付を目的とする請求について公証人が作成した公正証書で,債務者が直ちに強制執行に服する旨の陳述が記載されているもの」(民事執行法(昭和54年法律第4号)225号)ですが,「債務者が公証人に対して,直ちに強制執行に服する旨の意思を陳述することを執行受諾行為」というものとされています(『民事弁護教材 改訂民事執行(補正版)』(司法研修所・2005年)5頁)。「執行受諾行為は,執行力という訴訟上の効果を生ずる行為であり,また,公証人という準国家機関に対してする行為であるから,訴訟行為である」ところです(同頁)。

 

エ 参加引受け

4に,手形法563項(「参加ノ他ノ場合ニ於テハ所持人ハ参加引受ヲ拒ムコトヲ得若所持人ガ之ヲ受諾スルトキハ被参加人及其後者ニ対シ満期前ニ有スル遡求権ヲ失フ」)は,参加引受けという手形行為に関する規定です。参加引受けに対する所持人の承諾の有無ではなく受諾の有無が問題になるということは,参加引受けは参加引受人と所持人との間での契約(申込みと承諾とで成立)ではない,と観念されていることになるようです。

手形行為に関しては,周知のとおり交付契約説,創造説及び発行説があるわけですが,創造説,発行説又は参加引受けは手形の相手方への交付という単独行為と解する説(上柳克郎等編『手形法・小切手法』(有斐閣双書・1978年)47頁(上柳克郎)参照)からすると,「所持人ガ之ヲ受諾スルトキ」と規定されていることは自説の補強材料になるのだ,ということになるのでしょう。

なお,そもそもの為替手形及約束手形ニ関シ統一法ヲ制定スル条約(193067日ジュネーヴにおいて署名)第一附属書563項を見ると“In other cases of intervention the holder may refuse an acceptance by intervention. Nevertheless, if he allows it, he loses his right of recourse before maturity against the person on whose behalf such acceptance was given and against subsequent signatories.”ということであって,実はあっさりしたものです。参加は英語では“intervention”,引受けは“acceptance”です。すなわち,英語の“acceptance”には,契約の申込みに対する承諾との意味の外に,手形法上の引受けとの意味もあるのでした。さすがに“acceptance”“acceptance”するとは書けませんね。「acceptance=承諾」の出番はなかったのでした。

 

オ 供託

5に,供託に係る民法4961項(「債権者が供託を受諾せず,又は供託を有効と宣告した判決が確定しない間は,弁済者は,供託物を取り戻すことができる。この場合においては,供託をしなかったものとみなす。」)ですが,そもそも供託自体が弁済者と債権者との間での契約ではないところです。「供託の法律的性質は,第三者のためにする寄託契約である(537-539条・657条以下参照)。すなわち,供託者と供託所との契約は寄託であるが,これによって債権者をして寄託契約上の権利を取得せしめるものである。本来の債務者に代って供託所が債務者となるようなものである」と説かれています(我妻榮『新訂 債権総論(民法講義Ⅳ)』(岩波書店・1972年)307頁)。供託者からの供託の申込みを承諾するのは供託所であるということになるようです。「「放擲」(特殊な観念)と事務管理の融合したものとする異説」もあるそうですが(星野英一『民法概論Ⅲ(債権総論)』(良書普及会・1981年)275頁参照),この場合も債権者は契約の当事者になりません。民法4961項は富井=本野のフランス語訳では “La chose consignée peut être retirée, tant que le créancier n’a pas déclaré accepter la consignation ou qu’il n’a pas été rendu un jugement passé en forece de chose jugée déclarant la consignation régulière. Dans ce cas, la consignation est censée n’avoir pas été faite.となっていますので,フランス語の“accepter”は,「承諾する」及び「受諾する」のいずれをも含む幅広い意味の言葉であるということになります。なお,同項は,旧民法財産編4782項(「然レトモ債権者カ供託ヲ受諾セス又其供託カ債務者ノ請求ニテ既判力ヲ有スル判決ニ因リテ有効ト宣告セラレサル間ハ債務者ハ其供託物ヲ引取ルコトヲ得但此場合ニ於テハ義務ハ旧ニ依リ存在ス」)に由来するところ,旧民法財産編4782項の本となったボワソナアド原案の501条の21項は,次のとおりでした(Boissonade II, p.621)。

 

  500 bis.   Toutefois, tant que le créancier n’a pas accepté la consignation ou qu’elle n’a pas été, à la demande du débiteur, déclarée valable par jugement ayant acquis force de chose jugée, celui-ci peut la retirer et la libération est réputée non avenue.

 

 フランス語で“accepter”とあれば機械的に「承諾」と訳すのではなく,訳語の選択には工夫がされていたわけです。

 

カ 民法549条

 契約であるところの贈与に係る民法549条における用法に似た「受諾」の用法は,以上見た範囲では,ほかにはなさそうです。法制執務的には,一人ぼっちでちょっと心細い。

後編に続く(
http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078025256.html




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1 民法370条ただし書後段に係る違和感

 

(1)条文

 民法(明治29年法律第89号)370条は次のような規定であって,難解ですが,筆者にとっては特にそのただし書後段の書きぶりが,かねてからしっくり感じられなかったところです。

 

  (抵当権の効力の及ぶ範囲)

  第370条 抵当権は,抵当地の上に存する建物を除き,その目的である不動産(以下「抵当不動産」という。)に付加して一体となっている物に及ぶ。ただし,設定行為に別段の定めがある場合及び債務者の行為について第424条第3項に規定する詐害行為取消請求をすることができる場合は,この限りでない。

 

民法4243項は「債権者は,その債権が第1項に規定する行為の前の原因に基づいて生じたものである場合に限り,同項の規定による請求(以下「詐害行為取消請求」という。)をすることができる。」と規定しています。ですから,民法370条ただし書後段の「第424条第3項に規定する詐害行為取消請求」とは,同法4241「項の規定による請求」ということになるようです。民法4241項は「債権者は,債務者が債権者を害することを知ってした行為の取消しを裁判所に請求することができる。ただし,その行為によって利益を受けた者(以下この款において「受益者」という。)がその行為の時において債権者を害することを知らなかったときは,この限りでない。」と規定していますから,「同項の規定による請求」とは,債務者が債権者を害することを知ってした行為であって,かつ,(以下は抗弁に回りますが)受益者がそのされた時において悪意であったものの取消しに係る債権者による裁判所に対する請求,ということになります。

民法4241項にいう「行為」には,法律行為のほか,弁済など厳密な意味では法律行為には当たらない行為も含まれるものとされますが(筒井健夫=村松秀樹編著『一問一答 民法(債権関係)改正』(商事法務・2018年)100頁),「旧法〔平成29年法律第44号による改正前の民法〕下では,単なる事実行為は含まれないと解されていたが,このような解釈を否定するものではない。」(同頁(注1))とされています。端的にいえば,「単なる事実行為は含まれない」そうです(内田貴『民法Ⅲ(第4版)債権総論・担保物権』(東京大学出版会・2020年)365頁)。

さて,抵当不動産に物が付加されて一体となるのは厳密にいえば事実行為であるから,それについて,本来は法律行為を対象とする(平成29年法律第44号による改正前の民法4241項は,詐害行為取消請求の対象として「法律行為」のみを規定していました。)詐害行為取消請求を云々するのはおかしいんじゃない,というのが筆者の違和感でありました。

 

(2)学説

 

  新370条ただし書後段は,どのような場合を想定しているのだろうか。たとえば,債務者が一般財産に属する自分の高価な貴金属を抵当権の目的物である建物の壁に埋め込んだとする。壁に埋め込めば,不動産の構成部分となるが,これは一般債権者を害する行為である。旧4241項は取消しの対象を法律行為に限定していたが,新4241項は単に「行為」に改めた。しかし,「行為」にはこのような純然たる事実行為は含まないと解されている(⇒365頁〔前掲〕)。そこで,新370条ただし書後段は,このような場合も,詐害行為としての要件を満たしていれば,付加一体物の例外を認めることにしたのである。不動産の構成部分である以上,一体として売却されるが,詐害行為であることについて悪意の抵当権者は,当該貴金属の価額分からは優先弁済を受けることができない。(内田495頁)

 

 事実行為であっても,民法4241項の「行為」性以外の「詐害行為としての要件を満たしていれば」,同法370条ただし書後段は働くということでしょうか。しかし,「第424条第3項に規定する詐害行為取消請求をすることができる場合」(なお,平成29年法律第44号による改正前は「第424条の規定により債権者が債務者の行為を取り消すことができる場合」)とまで具体的に書き込まれて規定されてしまうと,やはり,事実行為については「第424条第3項に規定する詐害行為取消請求をすることができる場合」なる場合はそもそもあり得ないのではないですか,と依然文句を言いたくなるところです。

 「一般債権者を詐害するような付加行為を認めない趣旨だが,付加行為は法律行為ではないからそれを取り消すことは無意味なので,抵当権者はそのような付加物に優先弁済権がないとしたものである。」といわれると(遠藤浩=川井健=原島重義=広中俊雄=水本浩=山本進一編『民法(3)担保物権(第3版)』(有斐閣・1987年)123頁(森島昭夫)),取り消すことができるのだが取り消しても「無意味」であるというよりはむしろ,そもそも取り消すことができないのではないですか,とこれまた文句を申し上げたくなります。

「第370条は「第424条ノ規定ニ依リ債権者(ママ)債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合」をも,例外とする。実際に生じた事例は見出しえないが,強いて考えれば,負債の多い債務者が,一般財産に属する樹木または大きな機械などを,抵当権の目的となっている土地に移植しまたは据えつけて附合させる場合などがありうるであろう。債務者のかような行為は,一般債権者を詐害するものであるが,法律行為ではないから,第424条のように,これを取消すということは意味をなさない。一般債権者は何もしなくとも,抵当権の効力の及ばないことを主張しうる,と解すべきである。/建物についても全く同様である。とくに述べるべきことはない。」(我妻榮『新訂担保物権法』(岩波書店・1968年)266頁)とまでいわれると,ようやく,ああ,「取消権」の行使は「意味をなさない」からしないということであれば当該「取消権」なるものはそもそも無いっていうことが言いたいのではないかな,との感想が生じてきます。

 「抵当債(ママ)者が自分の物を抵当不動産に附着させて抵当権の目的物とすることによって他の債権者への弁済額を減らそうとして,つまり,抵当権者以外の債権者(同条の「債権者」は,この者のことである)を「害スルコトヲ知リテ」この附着行為をした場合,という意味であり,民法424条の要件が必要である(民法424条は「法律行為」に関するものだから同条そのものの問題ではない)。もっとも,実際はあまり問題になるまい。なお,〔略〕抵当不動産との附着の程度の強い場合には,抵当権の効力が及ぶと解されている。」(星野英一『民法概論Ⅱ(物権・担保物権)』(良書普及会・1976年)249頁),すなわち,民法370条ただし書後段は「第424条ノ規定ニ依リ債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合」と規定してはいるものの「民法424条は「法律行為」に関するものだから同条そのものの問題ではない」のだ,わざわざ「第424条」云々と書いてあるけれども空振っているのだ,ちょっと変な条文なのだ,と割り切った説明をされる方が,筆者には分かりがよいところです。しかし,我は立法技術的にはおかしな条文なり,と堂々胸を張られるというのでは,困ったことです。

「法文トシテハ如何(いか)ニモ解シ()クイ」もので,「唯タ精神上テハ取消スコトカ出来ル場合ニ見エテ其実ハ其訴権ヲ以テ取消スコトノ出来ヌト云フコトニ為ツテ仕舞(ママ)考ヘ」られるところ,「其精神ハ宜シイカ法文ノ分ラサルカ為メニ〔現行民法〕起草委員ノ折角ノ御骨折カ水泡ニ帰シハスマイカ」とも思われてしまいます。

 

2 民法370条ただし書後段の沿革

 この難解な民法370条ただし書後段の条文の沿革をたどると,次のとおりとなります。

 

(1)ナポレオンの民法典2133条

 まず,1804年のナポレオンの民法典2133条。

 

   L’hypothèque acquise s’étend à toutes les améliorations survenues à l’immeuble hypothéqué.

  (成立した抵当権は,抵当不動産に生じた全ての改良に及ぶ。)

 

これは,我が明治政府のお雇い外国人・ボワソナアドにいわせれば,「恐らく言葉(ラコー)足らず(ニック)に過ぎ,かつ,疑問点を残すもの」であって(Boissonade, Projet de Code Civil pour l’Empire du Japon accompagné d’un Commentaire, Tome Quatrième: des Sûretés ou Garanties des Créances ou Droits Personnels. Tokio, 1889. pp.386-387),「〔抵当不動産の〕増加については沈黙しており,また,改良の原因となるべき事由について説明していない」ものでした(Boissonade p.387)。

 

(2)ボワソナアド草案1206条及び旧民法債権担保編200条

フランス民法2133条の前記欠陥に対して,「ここに提案された解決策は,我々の考えによれば,フランス民法によって与えられるべきものである(celles qu’on doit…donner d’après le Code français)。」ということで起草された「解決策(solutions)」が(Boissonade p.387),旧民法に係るボワソナアド草案1206条です(Boissonade p.372)。

 

   1206.  L’hypothèque s’étend, de plein droit, aux augmentations ou améliorations qui peuvent survenir au fonds, soit par des causes fortuites et gratuites, comme l’alluvion, soit par le fait et aux frais du débiteur, comme par des constructions, plantations ou autres ouvrages, pourvu qu’il n’y ait pas fraude à l’égard des autres créanciers et sauf le privilége des archtectes et entrepreneurs de travaux, sur la plus-value, tel qu’il est réglé au Chapitre précédent. (2133)

      Elle ne s’étend pas aux fonds contigus que le débiteur aurait acquis, même gratuitement, encore qu’il les ait incorporés au fonds hypothéqué, au moyen de nouvelles clôtures ou par la suppression des anciennes.

  (抵当ハ寄洲ノ如キ意外及ヒ無償ノ原因ニ由リ或ハ建築,栽植又ハ其他ノ工作ニ因ル如ク債務者ノ所為及ヒ費用ニ因リテ不動産ニ生スルコト有ル可キ増加又ハ改良ニ当然及フモノトス但他ノ債権者ニ対シテ詐害ナキコトヲ要シ且前章ニ規定シタル如キ建築技師及ヒ工事請負人ノ増価ニ付キテノ先取特権ヲ妨ケス

  (抵当ハ債務者カ縦令無償ニテ取得シタルモノナルモ其隣接地ニ及ハサルモノトス但新囲障ノ設立又ハ旧囲障ノ廃棄ニ因リテ隣接地ヲ抵当不動産ニ合体シタルトキモ亦同シ)

 

 「債務者ノ所為及ヒ費用ニ因リテ不動産ニ生スルコト有ル可キ改良」に関して,ボワソナアドは次のように説明しています。

 

   次に,債務者の所為により,かつ,彼の費用負担によるところの改良,すなわち「建築,栽植又ハ其他ノ工作ノ如キモノ」である。ここにおいては,債務者がその資産(patrimoine)から取り出す物は債権者のうち一人の担保の増加のために債権者らの共同担保財産(gage général)から取り去られてしまう物であるという関係から,疑惑が生ずることになる。しかしながら,支出額(dépenses)の大きさは多様であり得ること及び多くの場合において当該支出は正当であり得ることから,法は,原則として,当該支出は抵当債権者の利益となるものとした。他方,濫用は可能であるところ,対抗策を直ちに示すためと同時にそれを防止するため,法は,まず,他の債権者に対して詐害となる場合を除外する。法は,次に,建築及びその他の工作は建築技師及び請負人に対して第1178条及び第1179条において規定される先取特権をもたらし得るものであることから,抵当による担保は,彼らが満足を得た後に残る増価分にしか及ばないことに注意を促す。(Boissonade p.387

 

ボワソナアド草案1206条が,ほぼそのまま旧民法債権担保編(明治23年法律第28号)200条となります。

 

  第200条 抵当ハ意外及ヒ無償ノ原因ニ由リ或ハ債務者ノ所為及ヒ費用ニ因リテ不動産ニ生スルコト有ル可キ増加又ハ改良ニ当然及フモノトス但他ノ債権者ニ対シテ詐害ナキコトヲ要シ且前章ニ規定シタル如キ工匠,技師及ヒ工事請負人ノ先取特権ヲ妨ケス

   抵当ハ債務者カ縦令無償ニテ取得シタルモノナルモ其隣接地ニ及ハサルモノトス但新囲障ノ設立又ハ旧囲障ノ廃棄ニ因リテ隣接地ヲ抵当不動産ニ合体シタルトキモ亦同シ

 

 旧民法債権担保編200条を梅謙次郎が修正したものが,現行民法370条となります。

 

(3)梅案365条ただし書後段

 

ア 条文

1894124日の第50回法典調査会に梅謙次郎が提出した現行民法370条の原案は,次のとおり(法典調査会民法議事速記録第168)。

 

 第365条 抵当権ハ其目的タル不動産ニ附加シテ之ト一体ヲ成シタル物ニ及フ但設定行為ニ別段ノ定アルトキ及ヒ第419条ノ規定ニ依リ債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合ハ此限ニ在ラス

 

 この梅案(松・竹・梅のうちの梅案ということではなくて,梅謙次郎案ということです。)では,更地であった抵当地の上に建物が建つと,その建物は抵当地に附加シテ之ト一体ヲ成シタル物であるということで,当該建物にも抵当権が及ぶことになっていたことに注意してください。

 なお,1895122日の第58回法典調査会に提出された民法419条案は次のとおりでした(法典調査会民法議事速記録第18119-120丁)。

 

  第419条 債権者ハ債務者カ其債権者ヲ害スルコトヲ知リテ為シタル法律行為ノ取消ヲ裁判所ニ請求スルコトヲ得

   前項ノ請求ハ債務者ノ行為ニ因リテ利益ヲ受ケタル者又ハ其転得者ニ対シテ之ヲ為ス但債務者及ヒ転譲者ヲ其訴訟ニ参加セシムルコトヲ要ス

 

イ 梅の冒頭説明

梅の365条案ただし書後段について,同人の説くところは次のとおりでした(原文の片仮名書きを平仮名に改め,濁点及び句読点を補いました。)。

 

原文〔旧民法債権担保編200条〕1項の但書の処でありますが,「他ノ債権者ニ対シテ詐害ナキコトヲ要シ」,斯うあります。此趣意は勿論本条に於ても採用したのであります。即ち彼の廃罷訴権と法典に名附けてあります「アクシユ(ママ)ーレヤナ」の矢張り適用の中であることは疑ひないのであります。夫れならば寧ろ向ふの規定に総て従ふやうにしないと,御承知の通りに「アクシパーレヤナ」には夫れ夫れ条件がありまするので,唯だ詐害と云ふ丈けでは「アクシパーレヤナ」のことを意味しない。去ればと云つて此場合に限つて「アクシユパーレヤナ」と違つて規則に依て取消を許すと云ふのも理由のないことゝ思ひます。夫れで之は「第419条ノ規定ニ依リ」としたので,之は「アクシユパーレヤナ」の箇条を規定する積りであります。尤も一寸考へると,之は条文は要らぬのではないか「アクシユパーレナヤ」と云ふものは総ての場合に当嵌まるから此処でも言はぬで置けば総ての場合に当嵌りはしないかと云ふ疑ひが起るかも知れませぬが,夫れは然う云ふ訳には徃きませぬ。何ぜ然うかならば,「アクシユパーレヤナ」の規定が何か云ふやうな規定になるか知れませぬが,何れにしても,沿革上から考へて見ても,又私共が起草の任に当つたとして考へて見ても然うでありますが,此「アクシユパーレヤナ」と云ふものは法律行為を取消すと云ふのが其目的であらうと思ひます。夫れは「アクシユパーレヤナ」で出来る。即ち此処の所で言うても,債務者が或る請負人か何にかと或る契約を結んで,然うして家を建てるとか,或は建て増しをするとか不動産に改良を加へるとか,詰り其土地を抵当に取つて居る債権者に特別なる利益を与へやうと云ふ考へで然う云ふ事を致すと云ふ場合でありますれば其建築契約を取消すことは無論出来ますが,建築は既に成つて其代価は払つて仕舞つた其建物夫れ自身を「アクシユパーレヤナ」に依て取消す訳に徃きませぬ。建物を取消す訳に徃きませぬ。夫れで「アクシユパーレヤナ」の直接の適用としては,此場合に於ては適用はないでありませうが,唯だ条件を同じ条件にして「アクシユパーレヤナ」を行ふことが出来るやうな場合でありますれば,其加へた物丈けは,抵当権者の担保と為らずして債権者の一般の担保に為ると云ふならば,「アクシユパーレヤナ」の精神を無論貫くことが出来る。無論原文も然う云ふ意味であつたらうと思ひますが,唯だ条件は「アクシユパーレヤナ」と同じやうにしないと徃けないと思ひますから斯う云ふ風に書きました。(法典調査会民法議事速記録第169-11丁)。

 

ウ パウルス訴権(actio Pauliana

「アクシユパーレヤナ」とは何かといえば,ラテン語のactio Pauliana。「所謂「パウルス(○○○○)訴権(○○)actio Pauliana, action Paulienne ou révocatoire, Paulianische Klage oder Anfechtungsklage)」だそうです(梅謙次郎『訂正増補第27版 民法要義巻之二 物権編』(私立法政大学=有斐閣書房・1908年)508頁)。

パウルス訴権(パウリアーナ訴権)はローマ法上の制度であって,法務官法上の不法行為に係る訴権の一であり,次のように解説されています(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)232-234頁)。

 

  (一)歴史 4年のlex Aelia Sentiaは債権者詐害in fraudem creditorisの奴隷解放を無効とした〔同法(lex)は奴隷解放の要件を絞るためのもの〕。爾余の債務者の詐害行為には法務官は,(1)詐害的特示命令(interdictum fraudatorium〔特示命令は,訴権(actio)による普通手段の外に,純粋に法務官が創設した保護手段〕,(2)原状恢復in integrum restitutio。法律上一応は合法的形式を備えるが不当な結果が生じたときにその不当な結果を排除するのに用いられる。特示命令の外に法務官が創設した権利保護手段の一つ〕,(3)事実訴権actio in factum concepta。請求の表示が法律訴権のように一定の型にあてはめることを得ずして,具体的事実を記載し,判決をその有無にかからしめる場合の訴権〕等の救済手段を認めたが,ユ〔スティーニアーヌス〕帝は是等の保護手段を融合統一してパウリアーナ訴権(actio Pauliana)――glossema〔写本中の附註〕に基づく名称?――を作つたため,以前の歴史は不明になつている。

  (二)ユ帝法のパウリアーナ訴権の要件 (1)債務者の詐害行為 債務者の行つた譲渡,免除,新債務の負担の如き積極的行為のみならず,期限訴権の不提起,時効中断の懈怠の如き不作為も亦詐害行為である。但し人格権侵害訴権iniuriaの訴権。市民法上の不法行為訴権の一。iniuriaは,人の身体を傷つけ,無形的名誉を毀損し,公共物の使用を妨げるような行為(窃盗の未遂まで包含される。)〕,不倫遺言の訴〔適当額の遺産を近親に与えない遺言を不倫遺言(inofficiosum testamentum)といった。〕の如き訴を提起せず,又は相続を承継せず,遺贈を受領しないような利得行為をなさずとも,債権者は取消ができない。

  (2)債権者に対する実害の発生(eventus damni

  (3)債務者の詐害意思(consilium fraudis

  (4)債務者以外の者――実際的には最も通常の場合――に提起するには,有償行為の場合にはその者が詐害を知つたこと(conscius fraudis)。無償のときは知るを要しない。

  (三)性質効果 専決訴権actio arbitraria。金銭判決をなるべく避けるため,審判人に対し,判決前訴訟物自体の給付返還を被告に勧告すべき旨を命ずる文言の含まれている訴権〕,期限訴権actio temporalis。訴権消滅時効期間が30年以下のもの〕で,1年内に提起せられると全部の賠償義務,1年後は利得額の返還義務を発生する。加害者委附〔加害した奴隷又は動物を被害者に委附して復讐に委ね,あるいはその労働をもって罰金額損害額を弁済せしめる。〕を許さず,重畳的競合〔数人の加害者が存するとき,加害者の一人が罰金を支払っても他の加害者は依然責任を免れないこと。〕もしない〔略〕

 

 あるいは,「信義に反して債権者を害するような債務者の財産減少行為も,債権者を欺くものとして詐欺の関連で問題とされ,法務官法上,原状回復のための訴え(破産手続における破産財団への財産取戻し)や悪意の受益者に対する返還命令(特示命令)が認められた。ユスチニアヌス帝のもとで両者は統合され,その内容がパウルスの章句(Paulus, D.22,1,38,4)として伝えられるところから,「パウリアナ訴権(actio Pauliana)」と呼ばれる。債務者の詐害的行為に対する債権者取消権制度の原点である(日本民法第424条。〔略〕)。」ともいわれています(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法―ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)194-195頁)。ユスティーニアーヌス帝のDigesta(学説彙纂)中上記パウルスの章句は,次のとおり(拙訳は,あやしげですね。)。

 

In fabiana quoque actione et pauliana, per quam quae in fraudem creditorum alienata sunt revocantur, fructus quoque restituuntur: nam praetor id agit, ut perinde sint omnia, atque si nihil alienatum esset: quod non est iniquum (nam et verbum "restituas", quod in hac re praetor dixit, plenam habet significationem), ut fructus quoque restituantur.

  (債権者らに係る詐害となって逸出した物quae in fraudem creditorum alienata suntがそれによってper quam回復されるrevocanturファビウス及びパウルス訴権のいずれにおいてもin fabiana quoque actione et pauliana,果実もまたfructus quoque返還されるrestituuntur。というのはnam,法務官がpraetor,何も逸失しなかった場合とちょうどatque si nihil alienatum esset同様に全てがなるようにut perinde sint omnia取り運ぶからであるid agit。果実も返還されるようにすることもut fructus quoque restituantur,(というのはnam,本件において法務官が宣したquod in hac re praetor dixit「原状回復すべし」との言葉もet verbum "restituas",完全な意味を有しているのであるからplenam habet significationem)不当ではないところであるquod non est iniquum。)

 

 パウルス訴権は「ローマ共和政末期の法務官パウルス(Paulus)が提案した刑事懲罰の性格を有する制度」であって「ローマ法において,actio paulianaは,もともと商人の民事破産手続における制度として登場した」と一応説かれていますが(張子玄「フランス法における詐害行為取消権の行使と倒産手続(1)」北大法学論集706号(20203月)32頁・註1),「実は謎に包まれた制度であり,この「パウルス」(Paulus)がどの時代の誰かも判然としない遅い産物」だそうです(木庭顕『新版ローマ法案内』(勁草書房・2017年)199頁)。

 ナポレオンの民法典1167条においては,次のように規定されていました。

 

   Ils peuvent aussi, en leur nom personnel, attaquer les actes faits par leur débiteur en fraude de leurs droits.

       Ils doivent néanmoins, quant à leurs droits énoncés au titre des Successions et au titre du Contrat de Mariage et des Droits respectifs des époux, se conformer aux règles qui y sont prescrites.

  (彼ら〔債権者〕はまた,彼ら個人の名で,債務者によってされた彼らの権利を詐害する行為を攻撃することができる。/ただし,相続の章並びに婚姻契約及び各配偶者の権利の章に掲げられた彼らの権利については,そこにおいて定められた規定に従わなければならない。)

 

 現在のフランス民法1341条の2は,次のとおりです。

 

   Le créancier peut aussi agir en son nom personnel pour faire déclarer inopposables à son égard les actes faits par son débiteur en fraude de ses droits, à charge d'établir, s'il s'agit d'un acte à titre onéreux, que le tiers cocontractant avait connaissance de la fraude.

  (債権者はまた,彼個人の名で,債務者によってされた彼の権利を詐害する行為を彼との関係において対抗することができないものと宣言せしめることができる。ただし,有償行為に関する場合においては,第三者である契約当事者が詐害について悪意であったことを立証したときに限る。)

 

 フランスでは,「詐害行為の取消請求が認められた場合,逸出財産を債務者財産に取り戻す必要はなく,取消債権者は受益者の手元に置いたまま財産売却を求めることができる。つまり,取消債権者は裁判所に対し対象財産に対する強制売却(vente forcée)を求める権限を有することになる。その結果,取消債権者は財産売却によって自ら債権回収を図ることができる。この点から見ると,「対抗不能」の終局的意義は,取消債権者に対して差押債権者に相当する権限を与えることにあるといえる。なぜなら取消債権者は自ら強制売却の申立てを行わなければ,債権回収をすることはできないからである。」ということになるそうです(張35-36頁)。

 Dalloz2011年版Code Civil, 110e éditionを見ると,フランス民法1167条(当時)によって攻撃される行為の例の性質(Nature des actes attaqués (exemples))として,贈与(donations),合併に基づくある会社から他の会社への不動産の承継(apport d’immeubles par une société à une autre, à titre de fusion),債権譲渡(cession de créance),代物弁済(dation en paiement),会社の合併(fusion de sociétés),不動産の売却(vente d’immeuble)及び買戻権付きの家財売却(vente à réméré de meubles meublants)並びに(以下は第2項関係でしょう。)贈与分割(donation-partage),無償譲与の減殺権の放棄(renonciation à réduction d’une libéralité),相続放棄(renonciation à succession),財産分割(partage)及び復帰権条項付き贈与契約に基づき贈与を受けた財産の当該受贈者による贈与(donation d’un bien que le donateur a lui-même reçu par donation assortie d’une clause de retour)が挙げられています(Actes visés, pp.1445-1446)。

 相続放棄もaction paulienneの対象となるとされると,相続を承継しないことないしは相続の放棄は詐害行為にならないとする前記ローマ法の規範内容及び我が最高裁判所の昭和49920日判決(民集2861202頁)との関係でいささか説明が必要となります。しかし,この点については,「相続放棄」は「ローマ法と異なり,フランス民法が明文の規定〔旧788条・現779条〕で詐害行為の対象とした」ものであるとつとに紹介されています(工藤祐巌「民法4242項の「財産権を目的としない法律行為」の意味について」名古屋大學法政論集254号(2014年)336頁及び353頁・註(15))。また,「ローマ法と異なり,フランス法ではすべての相続が被相続人の死亡によって完全に効力を生じる」ものとされているそうです(工藤337。ボワソナアドも同様の理解を有していたことについて,同346)。

フランス民法旧11672項と我が民法4242(なお,同項に対応する規定は旧民法にはありませんでした。)との関係が気になりますが,我が民法4242項が典型的に想定していたのは,「隠居,家督相続ノ承認等」であったようで(梅謙次郎『訂正増補第30版 民法要義巻之三 債権編』(私立法政大学=中外出版=有斐閣書房・1910年)87頁。「仮令財産上ニ影響ヲ及ホシ而シテ債務者カ債権者ヲ害スルコトヲ知リテ之ヲ為スモ敢テ其隠居,承認等ヲ取消スコトヲ得ス」),しかも,「但是等ノ場合ニ於テ債権者ヲ保護スヘキ規定ハ親族編及ヒ相続編ニ之ヲ設ケタリ(761〔「隠居又ハ入夫婚姻ニ因ル戸主権ノ喪失ハ前戸主又ハ家督相続人ヨリ前戸主ノ債権者及ヒ債務者ニ其通知ヲ為スニ非サレハ之ヲ以テ其債権者及ヒ債務者ニ対抗スルコトヲ得ス」〕988〔「隠居者及ヒ入夫婚姻ヲ為ス女戸主ハ確定日附アル証書ニ依リテ其財産ヲ留保スルコトヲ得但家督相続人ノ遺留分ニ関スル規定ニ違反スルコトヲ得ス」〕989〔「隠居又ハ入夫婚姻ニ因ル家督相続ノ場合ニ於テハ前戸主ノ債権者ハ其前戸主ニ対シテ弁済ノ請求ヲ為スコトヲ得/入夫婚姻ノ取消又ハ入夫ノ離婚ニ因ル家督相続ノ場合ニ於テハ入夫カ戸主タリシ間ニ負担シタル債務ノ弁済ハ其入夫ニ対シテ之ヲ請求スルコトヲ得/前2項ノ規定ハ家督相続人ニ対スル請求ヲ妨ケス」〕1041乃至1050〔財産ノ分離〕)」ということでした(同頁)。「現行民法起草者の立場は,「非財産的権利に関する行為」のみを詐害行為取消の対象となる行為の範囲を画する枠組みとして有していたということができる。すなわち,一身専属権の中で,債務者の資産としての財産的価値を有しないが故に一身専属権とされる権利,すなわち,主として身分行為を取消の対象から排除する立場であった。これに対し,債務者の資産としての財産的価値を有するものの,それを行使するか否かを債務者自身が決すべき権利,すなわち,狭義の一身専属権については,詐害行為取消権の行使の対象となりうることになる」(工藤349頁),「なぜ,4231項但書きと同様に一身専属権の言葉を用いなかったのかといえば,その範囲が異なるから」である(同350頁),とのことです。

  

エ 梅謙次郎 vs. 磯部四郎

梅の365条案ただし書後段に関する前記最初の説明を聴いた上で,磯部四郎🎴が「又「第419条」と云ふのは多分「アクシヨンポーリアンド」〔ここの語尾の「ド」は,磯部の発音するおフランス語の“action Paulienne”に速記者が勝手に付加したものでしょう。ちなみに磯部は富山の出身です。〕の場合であらうと思ひますが,其条文の規定ニ依テ債権者と云ふのは抵当債権者でなく一般の債権者であらうと思ひますが,夫れを以て債務者の行為を取消した場合には,抵当権者の行為を取消したと云ふことは言はずして分つて居らうと思ひますが,殊に此但書以下の必要なる所以を伺ひたい」と改めて質問をしたのに対し(法典調査会民法議事速記録第1613丁),梅は次のように回答します。

 

 今御疑ひに為つたやうな意味でありませぬ。此「第419条」と云ふのは無論「アクシヨンポーリエス」〔梅のフランス語については,“action Paulienne”が「アクションポーリエス」となってしまっています。これはあるいは,和文タイピストが「ヌ」を「ス」と取り違えたのかもしれません。なお,ついでにいえば,国立国会図書館デジタルコレクションにおいてせっかく公開していただいている法典調査会民法議事速記録(日本学術振興会)でありますが,和文タイプの印字が,いささか潰れ気味で読みづらい。〕の積りであります。或は準用に為るかも知れませぬ。「アクシヨンポーリエス」の規則に従へば一般の債権者たる者が債務者の行為を取消すことの出来るやうな場合には,抵当設定者が取消される場合には,其行為を取消すのでない。家ならば家を建つて仕舞つた,其契約抔はてんで履行して仕舞つて金は払つて仕舞つた,けれども其金を払つたと云ふのは,例へばもう自分は無資力である近(ママ)内に破産の宣告を受けるかも知れぬ,抵当債権者は自分の親友である,是に少し特別の利益を与へたい,土地の価では足らぬから家を建てやるとか,或は今家は建つて居るが小さい,夫れに建て増しをして土地の価を増してやらうと云ふ,斯う云ふ訳で建てる。其建てた物を壊はすと云ふのではない,其行為を取消すと云ふのではない,けれども其建てた物に及ばない。抵当権が及ばない。矢張り夫れは一般の債権者の担保に為ると云ふ,斯う云ふ意味に為りますから,夫れで此明文が要ると云ふ考へであります。(法典調査会民法議事速記録第1613-14丁)

 

磯部はなおも釈然としません。むしろ不要論を唱えます。

 

  一般の債権者が取消すことを得る場合,其理由は能く分りましたが,勿論是丈けのことにして置いた所が,是れが行為を取消すことが出来る場合である場合でないと云ふことは矢張り裁判所でずつと調べて徃かなければ分ることでないと思ひます。果して裁判所で調べると云ふことになると,先刻仰言つた所の「アクシヨンポーリアンド」の中に為るか或は「アクシヨンポーリアンド」を実行し得ざる場合と為るかも知れぬと思ひます。然うして見ると,斯の如き規定がなくとも実際の便宜から考へて,却てない方が簡略で能く分りはしないかと云ふ考へが浮んで来ました。今,一体ヲ為シタル物ニ及フと云ふ通則の所に於て斯うして置かぬと不都合である,其不都合の所は特別の契約でしたときは仕方がないと云ふ先刻の御説明でありますが,特別の契約でも然う云ふ不都合が生ずるときは何んとか他に始末をしなければならぬ。夫れが甘く始末が着くならば,普通の場合でも甘く始末が着て徃かなければならぬと思ひますが,其処の所を一つ伺ひたい。夫れで「債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合」と云ふものを定めるには,矢張り裁判所で定めなければならぬ。然うすれば寧ろ裁判所では「コントラクシヨン」をやつて来たもので差支へないではないか。又先程・・・実際に取消すことを得ると云ふ中に或は数へられると云ふことでありますが,私の考へでは数へられぬかも知れぬと云ふ考へが起りましたが,然うすると折角斯う云ふ明文が出来ましたが,実際には不必要に為りはしないかと云ふ疑ひが起りましたが,何う云ふものでございませうか,一寸伺ひます。(法典調査会民法議事速記録第1617-18丁)

 

確かに,民法370条ただし書後段については,その後「実際に生じた事例は見出しえない」(我妻266頁)とされたところではあります。

 梅の回答。起草の趣旨の繰り返しであって,磯部の不要論には正面から答えていません。

 

  私は斯う云ふ積りであります。即ち,私が磯部君に金を借りて居る,私の所有の地面を抵当に入れて金を借りて居る所が,私が無資力と為つて売ると云ふときに為ると,借りて居る丈けの価ひがない。夫れで私は無資力と云ふことを自から知つて居る,夫れであなたに向つて言つても宜し,言はなくても宜しいが,私の意思では,何うせ外の債権者に取られる位ならば外の人よりも磯部君丈けは迷惑を少なくさせたいものであると云ふ所から,然う云ふ場合に新たに入りもしない家を建てたとか,又は新に建て増しをしたとか,其場合に「アクシヨンポーリエス」を直ぐに行ふと云つても行はれぬ,「アクシヨンポーリエス」は行為を取消す名を持つて居るが,今のは行為を取消すのではない,行為は・・・先づ履行にてせんであつたと仮定を致します。其場合には,其建てた家と云ふものは磯部君の担保には為らぬと云ふことにならんと,磯部君の為めには大変都合が宜しいが外の債権者の為めには大変迷惑であると云う,斯う云ふことであります。然う云ふ場合には,即ち斯う云ふ意味に依て,夫れが法律行為であつたならば取消せる行為である,其場合には抵当権が後とから喰着けた物には及ばぬ。斯う云ふ意味に為るのであります。(法典調査会民法議事速記録第1618-19丁)

 

磯部はなおも喰い着いてきます。

 

  然うすると,債務者が一の債権者の利益を図る為めに他の債権者を詐害する考へを以て一つの建物を建てた,之は其建物に付て代価を払つた以上は其建物を壊はすことは出来ぬ,けれども其建物に付ては抵当債権者は権利は持たない,其土地丈けに付てしか抵当権は持たない,建物は他の普通債権者の権利が及ぶと云ふことに為る。其処で,何うでせう,他の債権者の利益を願つた為めに抵当債権者の利益を大変害するやうなことがありはしますまいか。何ぜならば,矢張り建物ならば何時でも其場合には地上権を設定しなければ仕方がないものと思ひますが,此「一体ヲ成シタル物ニ及フ」と云ふ通則の御説明の理由と,又此「第419条ノ規定ニ依リ債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合ハ此限ニ在ラス」と云うことの御説明と大変抵触して来るやうな考へがありますが,どんなものでございませうか。(法典調査会民法議事速記録第1620-21丁)

 

 梅の回答。

 

  私は抵触しない積りであります。此場合に於てはどちらも債務者の所有物であつて然うして前の例の場合・・・其手続は競売法にても極まると思ひますが,然う云ふ場合は,土地と建物と同時に売る,売つて其内で土地の価が幾ら,家の価が幾らと云ふことを競売の場合に極める。然うして土地の価は抵当債権者に与へ,家の価は他の債権者に与へると云ふことに為らうと思ひます。(法典調査会民法議事速記録第1621丁)

 

次に磯部は――不要論はもう捨てたのか――要件論を論じ始め,梅と議論になります(法典調査会民法議事速記録第1621-24)。

 

  磯部四郎君 其処で抵当権の主義と云ふものがありますので,之が抵当債権者が・・・知つた時計りに夫れ丈けの規則で特に利益を与へやうと云ふのは,債務者丈けの考へで債権者に其考へがなかつたときは何うか。「アクシヨンポーリアンド」の実行条件でありますが,其処は何う為るのでございませうか。「ボアソナード」氏の元との200条でありますが,唯だ「他ノ債権者ニ対シテ詐害ナキコトヲ要シ」と云ふ丈けで,必ず「アクシヨンポーリアン(ママ)」の規則の適用を此処に持つて来たやうには見(ママ)ませぬが,今あなたの御起草に為つたのを見ると「第419条ノ規定ニ依リ」とありますから「アクシヨンポ(ママ)リアンド」の規則を其儘適用するやうに為らうと思ひますが,然うすると抵当権者が通牒してやつた場合を言ふのであるか,又は通牒せずとも唯だ債務者丈けが,私なら私を一つ利益してやらうと云ふとき丈けに当たるのでございませうか。

  梅謙次郎君 恰も其為めに此「第419条ノ規定ニ依リ」と云ふ規定が必要であらうと思つたのであります。即ち「アクシヨンポーリエス」の規定は何う云ふ風に極まるか分りませぬが,今の法典の儘であつたならば,御承知の通りに,有償行為に付ては双方の悪意を要し無償行為に付ては債務者丈けで宜しいと云ふ規定は或は変へらるるかも知れませぬが,若し其通りであつたならば,債務者が債権者から別段今催促を受けて居ると云ふのでも何んでもない,唯だ先刻私が申したやうに磯部君は親友であるから外の債権者は損をしても宜しいが是丈けは損をさせたくないと云ふ考へでやつたならば,夫れは無償行為であります。金を借りるときは是丈けで宜しいと云ふことで借りた,債権者は知らなくても宜しいことである。是は無償行為であります。然うでなく,債権者と談判をしてもう期限が来て催促をされる,夫れでは家を建つて斯う云ふことにしたい,実は私は斯う云ふ位置に為つて居るから私に差押抔の手続抔をしてからに破産の宣告でも受けるやうにしたらお前は損をしなければならぬから,今の内に自分から急いで家を建つて置かう,然うすればお前の抵当の目的物と為つてお前の方で損をせぬやうに為るから其代はり1ヶ月なり2ヶ月なり待つて呉れろ,宜しい,と云ふことに為つたらば,夫れは有償行為であります。夫れは一つの例でありますが,此有償行為ならば双方の悪意がなければならぬ。然うい云ふことになります。無償行為には悪意は要らぬと云ふことになるかも知れませぬが,何れにしても,「アクシヨンポーリエス」の場合に相手方の悪意が要ると云ふのに,此処の場合に限つて相手方の悪意が要らぬと云ふことは何うしても分らぬのであります。夫れで権衡を得るやうにして置かなければならぬと云ふので,態々「第419条ノ規定ニ依リ債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合」と云ふ風に書いたのであります。

磯部四郎君 一寸修正案を出さうと云ふ考へであります。段々伺ひましたが,何れ此「第419条ノ規定」と云ふもので,只今御述べになつた如くに,一の債務者が一の抵当債権者を特に利益する積りで抵当物に向つて一の建築をした,其費用等は已に弁済をして仕舞つて完全の所有権を持つて居る,夫れを即ち其建築物の配当金を抵当債権者に与へたと云ふ場合が「アクシヨンポーリアンド」で取消し得る場合と云ふものに嵌まりませうか。私の考へでは嵌まるまいと思ひます。「アクシヨンポーリアンド」と云ふものは,詰,債務者が債権者を詐害するの意思を以て己れの財産を匿して仕舞つたとか或は虚妄の負債でも拵へたとか云ふやうな場合に当嵌まるものと思ひます。現に自分の持つて居る物で金を借りても自分の土地に一の建物を拵へて自分の所有物を増加すると云ふのを取消し得る場合に於ては,到底此「アクシヨンポーリアンド」の規則では嵌まらぬと思ひますが,此一点からして既成法典の200条の「但他ノ債権者ニ対シテ詐害ナキコトヲ要シ」と云ふことは之は「アクシヨンポーリアンド」の適用を此処に挙げたのではない,特に斯う云ふ場合を挙げたのと思ひます。「アクシヨンポーリアンド」の「アナロジー」でないか知れませぬけれども決して「アクシヨンポーリアンド」の適用を此処に挙げたのでないと思ひます。何ぜならば,只今御示しに為つたやうな場合は「アクシヨンポーリアンド」の規則の適用に依て徃くことの出来ぬ場合であらうと思ひますが,何うでございませいか。

  梅謙次郎君 私は然うは思ひませぬ。「アクシヨンポーリエス」の適用が当嵌まらぬと云ふのは,行為を取消すのでないから当嵌まらぬので,其事柄は矢張り「アクシヨンポーリエス」の規定で取消し得べき性質のものであると思ひます。何ぜならば,家を建てる,其家は競売に因て消(ママ)るのでありますが,其代はり代価を払はなければならぬ,成程相当の代価を,高い価を払へば損が徃く,夫故に随分建築夫れ自身ですらも取消されるかも知れぬ,契約夫れ自身でも随分取消されるかも知れぬ,殊に其建築した物をば直ぐ或る独りの債権者の特別担保にして仕舞(ママ)と云ふ,夫れは徃かぬと云ふのであります。若し此処で新に,磯部君に金を借りて居る,其抵当として1000円の形に500円の価しかない不動産を抵当に入れて居つた,夫れでは磯部君が損をするであらうと云ふので更らに私のもう一つ所有して居る500円の不動産を附け加へて抵当にすると仮定致します。此場合には,無論,「アクシヨンポーリエス」で適用が出来る。唯だ名義であるが,此処は「アクトアニユレー」〔acte annulé(取り消された行為)〕でないから,純然たる適用でない,所謂準用でありますが,準用は余程風の変つた準用でありますから,夫れで明文が要ります。

 
オ 磯部修正案及びその取下げ

 その後,磯部は次のように修正案を提出します。

 

  尚ほ私は末項の分に付て一の修正案を出さうと云ふ勇気を持つて提出致します。其訳は,法文の全体から考へると,精神と云ひ何うも斯くなければなるまいと私も考へるが,如何せん,「第419条ノ規定ニ依リ債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合」と云ふ法文は,精神は分りましたが,法文としては如何にも解し悪くい。先程梅君から御示しになつた例の如き場合は,所謂第419条の規則を以て取消すことは出来ないことに帰して仕舞(ママ)と思ひます。唯だ精神上では取消すことが出来る場合に見えて,其実は其訴権を以て取消すことの出来ぬと云ふことに為つて仕舞(ママ)と考へますから,其精神は宜しいが法文の分らざるが為めに今日の起草委員の折角の御骨折が水泡に帰しはすまいかと思ひます。却て右様な場合は利益を得る抵当債権者が実際上適用すると云ふ恐れがあります。寧ろ此処に「第419条ノ規定」と云ふことは言はぬで置て,既成法典の文章に傚つて私は二た通りに書て見ましたが,夫れは「及ヒ」の下に持つて来て「及ヒ他ノ債権者ニ対シテ詐害アルトキハ此限ニ在ラス」。斯うやつた方が此精神を悉く取りまして,然うして「アクシヨンポーリアンド」の規定でもなし,一の抵当債権者を単へに利するが為めにありもしない資力を以て建築をして他の債権者を害するやうな不都合をやつたときは,則ち抵当債権者は通謀のあると無きとに拘はらず兎に角債務者が他の債権者に対して詐害を為すの目的を以て右様な建築を為した場合には,縦令其一体を成した建築物と雖も抵当債権者は夫れに対しては先取特権(ママ)を持たないぞ,と云ふことが明に為らうと思ひますから,夫れで私は此365条の「及ヒ」までは此儘にして,「及ヒ」以下の「第419条ニ依リ債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合ハ」と云ふこと丈け削除して,其代はりに唯だ此処に持つて来て「他ノ債権者ニ対シテ詐害アルトキハ」と云ふ丈けの文字を加へて,「此限ニ在ラス」を存して置くが宜しいと思ひます。夫れで然う云ふ修正説を提出して置きます。(法典調査会民法議事速記録第1631-32丁)

 

 しかしながら賛同者が無かったこと(あるいは単に“action Paulienne”の発音比べをさせられるのがいやなので,他の委員は黙っていたのかもしれません。)もあってか,磯部は上記修正説を取り下げてしまいます(法典調査会民法議事速記録第1638丁)。梅365条案の修正案(有名な「抵当地ノ上ニ存スル建物ヲ除ク外」が挿入されました。)が議された第51回法典調査委員会(189412月〔法典調査会民法議事速記録第1683丁には「11月」とあるが,これは誤り。〕7日)においても,再提出は結局されませんでした(法典調査会民法議事速記録第16131丁)。

 明治天皇に裁可せられた民法370条は,次のとおりとなりました。

 

  第370条 抵当権ハ抵当地ノ上ニ存スル建物ヲ除ク外其目的タル不動産ニ附加シテ之ト一体ヲ成シタル物ニ及フ但設定行為ニ別段ノ定アルトキ及ヒ第424条ノ規定ニ依リ債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合ハ此限ニ在ラス

 

同条ただし書後段に係る「法文トシテハ如何ニモ解シ悪クイ」との磯部の批判に対して敢然自己の原案を枉げなかった梅は,いわゆる確信犯だったわけです。
 梅は1910825日に大韓帝国の漢陽において歿しますが,翌1911827日付け読売新聞に掲載された磯部の回顧談には,「私は法典問題の起つた時のみ〔梅〕博士と一所になつた。兎も角博士は勉強家であり,又弁論家であつた。彼は〔略〕法律に関係したことは総て研究し,読破したが,余りにも議論家であつた為めに,時に或は其の論鋒にいくらか疑を抱かしめることもあつた。」とありました(東川徳治『博士梅謙次郎』(法政大学=有斐閣・1917年)231頁)。
 

3 民法370条ただし書後段の要件論及び立法論

 梅謙次郎によるところ,民法370条ただし書後段の要件は,次のとおりです。

 

其条件モ亦「パウルス」訴権ニ同シ即チ(第1)債務者カ他ノ債権者ヲ害スルコトヲ知リテ之ヲ為シタルコトヲ要ス而シテ他ノ債権者ヲ害スルトハ債務者カ已ニ無資力ナル場合ニ於テ金銭其他ノ財産ヲ以テ特ニ不動産ニ工作ヲ施シ以テ抵当権者ノ特別担保ヲ増加シ為メニ他ノ債権者カ受クヘキ弁済額ヲ減殺スルカ如キヲ謂フ(第2)其工事ヲ施スノ当時抵当権者カ右ノ事情ヲ知レルコトヲ要ス故ニ実際ハ大抵抵当権者ト抵当権設定者ト通謀シテ之ヲ為シタル場合ナルヘシ(424)然リト雖モ本条ノ規定ノ純然タル「パウルス」訴権ト異ナル所ハ(第1)「パウルス」訴権ハ以テ一ノ法律行為ヲ取消スヲ目的トスルニ本条ノ規定ハ工作ヲ施スニ付キ為シタル法律行為ヲ取消スニ非ス其行為ハ依然其効力ヲ存シ又工作物モ敢テ之ヲ除去スルニ非ス唯其工作物ヲ以テ抵当権ノ目的ト為スコトヲ得サルニ止マリ(第2)「パウルス」訴権ハ必ス裁判所ニ於テ之ヲ行フコトヲ要スルニ本条ノ規定ハ特ニ裁判所ニ請求スルコトヲ必要トセス右ニ掲ケタル条件ヲ具備スル以上ハ当然適用セラルヘキニ在リ是レ本条但書ニ於テ特ニ規定ヲ設クルノ必要アル所以ナリ(梅巻之二508-509頁)

 

 民法370条ただし書後段が問題となるのは,抵当権が実行されて(民事執行法(昭和54年法律第4号)180条),配当異議の申出の段階となって以降のようではあります(同法188条,89条・90条,111条)。しかしこの場合,債権者は配当異議の申出(民事執行法891項)をし,更に配当異議の訴えの提起(同法901項)をしなければならないのですから,やはり,「本条ノ規定ハ特ニ裁判所ニ請求スルコトヲ必要トセス右ニ掲ケタル条件ヲ具備スル以上ハ当然適用セラル」るわけではなく,結局「裁判所ニ請求スルコトヲ必要」とすることになるようです。なお,「配当期日において配当異議の申出をしなかった一般債権者は,配当を受けた他の債権者に対して,その者が配当を受けたことによって自己が配当を受けることができなかった額に相当する金員について不当利得返還請求をすることができないものと解するのが相当である。けだし,ある者が不当利得返還請求権を有するというためにはその者に民法703条にいう損失が生じたことが必要であるが,一般債権者は,債権者の一般財産から債権の満足を受けることができる地位を有するにとどまり,特定の執行の目的物について優先弁済を受けるべき実体的権利を有するものではなく,他の債権者が配当を受けたために自己が配当を受けることができなかったというだけでは右の損失が生じたということができないからである。」と判示する最高裁判所判決があります(最判平成10326日民集522513頁)。

 ところで,平成29年法律第44号による今次民法改正により,民法に第424条の3が加わったことをどう考えるべきでしょうか。民法370条ただし書後段の場合は,要は抵当債権者のために追加的に担保が供与された場合であるようですので,同法424条よりもむしろ同法424条の3にそろえて修文した方がよかったのではないでしょうか。「既存の債務について特定の債権者に担保を供与する行為は,〔平成29年法律第44号による民法の〕改正前の判例では,典型的な詐害行為とされてきた」ものの,「改正法は,特定の債権者に優先的に弁済する行為と同様に扱い,偏頗行為の一種として〔新424条の3の〕のルールを適用した。判例法の修正といえる。」とされています(内田369-370頁)。すなわち,「典型的な詐害行為」に係る「第424条第3項に規定する詐害行為取消請求をすることができる場合」とは異なるということでしょう。

 そうであるとすれば,民法370条ただし書を,更に次のように改めてはいかん。

 

  ただし,設定行為に別段の定めがある場合及び第424条の3第1項又は同条第2項に規定する場合においては,この限りでない。

 

「○項場合において」と「○項に規定する場合において」との違いは,「「前項に規定する場合において」という語は,〔略〕当該前項に仮定的条件を示す「・・・の場合において(は)」,「・・・の場合において,・・・のときは」又は「・・・のときは」という部分がある場合に,この部分をうけて「その場合」という意味を表そうとするときに用いられる。したがって,当該前項中の一部分のみをうけるのであり,「前項の場合において」という語が,前項の全部をうけるのとは,明らかに異なる。」という説明(前田正道編『ワークブック法制執務(全訂)』(ぎょうせい・1983年)618-619頁)から御理解ください。

さて,「債務者カ已ニ無資力ナル場合」は,支払不能の場合(民法424条の311号)ということでよいのでしょう(「支払不能は,債務超過とともに,いわば,無資力概念を具体化・実質化するもの」です(内田367頁)。)。また,当該行為が債務者の義務に属せず,又はその時期が債務者の義務に属しないものであるときは更に30箇日支払不能前に遡るのであれば(民法424321号),民法370条ただし書後段においてもそうなるべきなのでしょう。「実際ハ大抵抵当権者ト抵当権設定者ト通謀シテ之ヲ為シタル場合ナルヘシ」なのですから,「その行為が,債務者と受益者とが通謀して他の債権者を害する意図をもって行われたものであるとき」でよいのでしょう(民法424条の312号・第22号)。

泉下の磯部四郎も梅謙次郎も納得するものかどうか。

ちなみに,修正が必要であるとボワソナアドが批判していたナポレオンの民法典2133条ですが,現在はフランス民法23972項となっています。現在の同項の文言は“L’hypothèque s’étend aux améliorations qui surviennent à l’immeuble.”(抵当権は,当該不動産に生ずる改良に及ぶ。)です。確かに「全ての改良」が「改良」に改められるような微修正がされていますが,結局,ボワソナアドが細かくもわざわざ構想し,梅謙次郎が更に難しく手を入れて(かつ,磯部四郎の忠告的異論を撥ねつけて)出来上がった我が民法370条ただし書後段的規定の採用は,なかったわけです。


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磯部四郎の建てた墓(東京都港区虎ノ門三丁目光明寺)ただし,磯部の遺骨はここには眠っていません。
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光明寺のこの山号の意味は,「梅が,上」か,はた「梅の上」か。
梅上山光明寺
磯部としては,上の方にいるつもりだったのでしょう。

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192391日,関東大震災により発生した火災旋風🔥に襲われ,数万の避難民と共に磯部が落命した被服廠跡の地(東京都墨田区横網町公園)

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今度は大丈夫,なのでしょう。


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梅謙次郎の墓(東京都文京区護国寺)
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1 推定されない嫡出子の問題と民法772条

 民法における分かりにくい概念のうちの一つに,「推定されない嫡出子」というものがあります。

 婚姻成立後200日以内に妻が分娩した嬰児は直ちにその夫の子(法律上の子,の意味です。)となるものであるか否かが,民法772条の文言(「妻が婚姻中に懐胎した子は,夫の子と推定する。/婚姻の成立の日から200日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から300日以内に生まれた子は,婚姻中に懐胎したものと推定する。」)からははっきりしないところに分かりにくさの原因があります。(なお,夫が当該嬰児の父となる場合,当該嬰児を分娩した妻も当該嬰児の母となることは,当然の前提とされているものと解されます。)

 

2 嫡出子とは何者か

 ちなみに,「(ちゃく)」の字の成り立ちは,「形声。女と音符(テキ)(正対する意→(テキ))とから成り,正夫人。」ということだそうです(小川環樹=西田太一郎=赤塚忠『角川新字源』(第123版・1978年))。「正夫人=敵」というところが,我が邦漢学者の家庭事情を窺知せしめて興味深いところです。

「嫡出子」は,そうすると,夫から見た表現であって,正妻()から生した我が,ということになります。我が民法の起草者の一人である梅謙次郎は,「嫡出子トハ婚姻ヲ為シタル男女間ニ生マレタル者ヲ謂」う,と定義しています(梅謙次郎『訂正増補第20版民法要義巻之四・親族編』(法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1910年)238頁。下線は筆者によるもの)。「既ニ妻カ懐胎シテ其子カ夫ノ子ナル以上ハ其嫡出子タルコト固ヨリ言フヲ竢タサル所ナリ」です(梅240頁。下線は筆者によるもの)。しかし,懐胎と出生との間には,十月十日(約9箇月)の時間の経過(time gap)があるところです。

 

3 フランス民法新旧312条

 「婚姻中に懐胎された子は,夫を父とする。(L’enfant conçu pendant le mariage, a pour père le mari.)」と定めた同国民法旧3121項の規定の下におけるフランスでは(当ブログの「ナポレオンの民法典とナポレオンの子どもたち」記事を御参照ください(http://donttreadonme.blog.jp/archives/2166630.html)。),「婚姻前の懐胎子を嫡出子とするかどうか」については,「否定する」とされていたそうです(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)215頁註(1))。

そうだとすると,フランス民法の現行312条(200671日以降)が「婚姻中に懐胎され,又は出生した子は,夫を父とする。(L’enfant conçu ou né pendant le mariage a pour père le mari.)」と規定して,あえて「婚姻中に出生した」もの(l’enfant né pendant le mariage)をも加えているのは,従前の文言では,婚姻中に妻から出生したものの既に婚姻前に懐胎されてしまっていた嬰児は,夫を父とするものとは解し得なかったからでしょう。

 

4 梅謙次郎の解釈

梅謙次郎は「妻カ婚姻成立前ニ懐胎シ〔略〕タルモノト認メタルトキト雖モ若シ妻カ常ニ夫タルヘキ者〔略〕ト同棲セシ証拠歴然トシテ而モ他ノ男子ト関係アリシ事跡ナキトキハ其子ハ夫ノ子ト看做ササルコトヲ得ス但此場合ニ於テハ其子ハ当然嫡出子タルニ非ス唯婚姻ニ生マレタル子ニシテ其父母カ之ヲ認知シタルトキハ第836条〔現行789条〕ノ規定ニ依リ嫡出子タル身分ヲ取得スヘ」しと述べています(梅242頁。下線は筆者によるもの)。やはり嫡出子ではないようです。しかし,婚姻成立に出生した場合は準正の問題だと述べつつ,肝腎の婚姻成立出生の場合については説明がないのは不親切です。
 (ただし,これについては,梅は民法旧
824条(776条)の規定(「夫カ子ノ出生後ニ於テ其嫡出ナルコトヲ承認シタルトキハ其否認権ヲ失フ」)の活用を考えていたとの指摘があります(福永有利「推定されない嫡出子」星野英一編集代表『民法講座7 親族・相続』(有斐閣・1984年)182-183頁)。確かに,梅は同条に関して「所謂否認権トハ嫡出子タルコトヲ認メサルノ権利ナルカ故ニ本条ニ於テハ特ニ嫡出ナルコトヲ承認シタル場合ニ付テ規定セリト雖モ夫カ一旦其子ナルコトヲ承認シタルトキハ仮令〔旧〕第820772条)ノ規定ニ依リ嫡出子ト認メ難キ場合ト雖モ夫ハ復否認権ヲ行フコトヲ得サルヤ蓋シ論ヲ竢タサル所ナリ」と述べています(梅248頁。下線は筆者によるもの)。しかし,民法776条に係る現在の理解は,「いかなる事態がここでいう「承認」に当たるかは必ずしも明らかではない。自分の子だと信じて可愛がることで否認権を失うのでは,夫に酷である。〔略〕単に子供を可愛がったというだけで否認権を失うというのも妥当ではない。776条が適用されるのは,よほど明確に否認権を放棄した場合に限るべきだろう。裁判例において本条が適用された例はないといわれている。」というものです(内田貴『民法Ⅳ 親族・相続』(東京大学出版会・2002年)170頁)。そう言われてしまうと,同条はなかなか心もとない。)

「立法者は,婚姻前に懐胎された子は準正によって嫡出子となる他なし,と考えたと推測されることにつき,谷口〔知平〕・〔日本〕親族法325頁参照。」ということになるわけですが(我妻215頁註(1)),しかし,民法旧836条(789条)の規定は,梅によれば,「父母共ニ認メタル子ハ其父母ノ婚姻ニ因リテ当然嫡出子タル身分ヲ取得スルモノトシ」(同条1項),「婚姻前ニ父母共又ハ其一人カ之ヲ認知セサリシトキト雖モ猶ホ後日之ヲ認知スル時ハ其時ヨリ嫡出子タル身分ヲ取得スルモノトセリ」(同条2項)ということですから(梅270頁。下線は筆者によるもの。なお民法旧836条(789条)1項については「「〔略〕()父母(○○)ノ婚姻ニ因リ云々」ト云ヒ此場合ニ於テハ特ニ父母共ニ知レタル場合即チ父母共ニ認知シタル場合ニ付テ規定」したものだと念が押されています(梅271頁。下線は筆者によるもの)。),そこでは,婚姻前に認知の対象となるべき者が存在していたことが前提されています。この梅謙次郎の説明を厳格に適用すると,婚姻前に懐胎され婚姻成立後に出生した嬰児については,旧836条(789条)2項の類推適用(端的な適用ではない。)の可否が問題となるということになるわけですが(824条(776条)の活用説についてはここでは措いておきます。),これについては,「子が婚姻前に生まれている場合だけでなく,婚姻後に生まれた場合も含みうる――立法者の意思は必ずしもはっきりしないとされるが〔略〕」との7892適用説が大村敦志教授によって説かれています(大村敦志『民法読解 親族編』(有斐閣・2015年)132頁)。

 

5 婚姻後200日以内に妻が分娩した子の準正(上)

準正の要素を「準正=婚姻+認知(=生物学的親子関係+認知意思)」と考えれば,婚姻前に懐胎され婚姻成立後200日内に出生した嬰児を準正するということになれば,そのためには,更に夫婦それぞれによる認知が必要になります(本稿においては,「母とその非嫡出子との親子関係は,原則として,母の認知を俟たず,分娩の事実により当然発生する」ものとする例の有名な最高裁判所昭和37427日判決(民集1671247頁)にかかわらず,民法の条文どおりの解釈を試みています。なお,当該判決に関しては,「「母」をたずねて」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1053701038.html)をも御参照ください。)。

 

(1)非嫡出子として母が出生の届出をする場合

婚姻成立後200日以内に妻が分娩した嬰児はその夫婦の嫡出子ではないとすれば(有名な大審院聯合部昭和15123日判決(民集1954頁)より前には,正に「判例には,〔略〕婚姻成立の前に懐胎された子(婚姻成立の日から200日経たないうちに生まれた子)を非嫡出子としたものがあった」ところです(我妻215頁)。),当該嬰児の出生届は当該分娩をした妻がすることになり(戸籍法(昭和22年法律第224号)522項は「嫡出でない子の出生の届出は,母がこれをしなければならない。」と規定しています。旧戸籍法(大正3年法律第26号)722項後段も同様です。),自己が届出人となって自己を母と記載して(戸籍法4923号)された当該出生の届出には認知の効力があるので(最高裁判所昭和53224日判決(民集321110頁)は父の認知についてですが「嫡出でない子につき,父から,これを嫡出子とする出生届がされ,又は嫡出でない子としての出生届がされた場合において,右各出生届が戸籍事務管掌者によって受理されたときは,その各届は認知届としての効力を有する」と判示しています。)母の認知は備わるのですが(谷口知平『戸籍法』(有斐閣・1957年)75頁も「母の出生届があるときは認知の意思表示が含まれるものと解すべき」ものとします。),当該嬰児が民法7892項の「婚姻中父母が認知した子」となるためにはなお父の認知が足りず,当該夫婦の嫡出子たるものとしてまだ準正されません。

 

(2)旧戸籍法83条後段の父母による届出

と,くよくよするのは迂路であって,戸籍法62条は,端的に,「民法第789条第2項の規定によつて嫡出子となるべき者について,父母が嫡出子出生の届出をしたときは,その届出は,認知の届出の効力を有する。」と定めています。前身条文である旧戸籍法83条は「父カ庶子出生ノ届出ヲ為シタルトキハ其届出ハ認知届出ノ効力ヲ有ス民法第836条第2項ノ規定ニ依リ嫡出子タルヘキ者ニ付キ父母カ嫡出子出生ノ届出ヲ為シタルトキ亦同シ」と規定していました。(なお,庶子とは何者かについては,「父カ認知シタル私生子ハ之ヲ庶子トス」との規定がありました(民法旧8272項)。)

 

(3)嫡出子出生の届出に係る第1次義務者:父=夫のみ

しかし,嫡出子として出生届をするのならば,通常その第1次届出義務者は専ら当該嬰児を分娩した妻の夫であったところでした(旧戸籍法721項前段)。この子は我らの嫡出子だ,と思う夫婦においては,旧戸籍法83条後段に規定される父母による届出を,わざわざしようという発想にはなかなかなれなかったものでしょう。

(なお,嫡出子出生の第1次届出義務者に係る戸籍法521項の規定が,「父がこれをし,父が届出をすることができない場合又は」から「父又は母がこれをし,」に改められたのは,昭和51年法律第663条によるものです(1976121日施行)。「母を第2順位の届出義務者とする合理的理由に乏しい等の理由」からの改正だったそうです(木村三男監修・竹澤雅二郎=荒木文明著『設題解説 戸籍実務の処理――Ⅲ出生・認知編――』(日本加除出版・1994年)105頁)。)

 

6 父の認知の母の認知に対する先行の可否及びベンジャミン・フランクリンの非嫡出子問題

 

(1)父の認知の先行:可

と,ここにおいて筆者にはふと,非嫡出子を,その母の認知がないままに父が認知できるものかしら,という疑問が生じます。これは,例の十三徳(節制,沈黙,規律,決断,節約,勤勉,誠実,正義,中庸,清潔,平静,純潔及び謙譲)を誇る大先生ベンジャミン・フランクリン(松本慎一=西川正身『フランクリン自伝』(岩波文庫・1957年)135-136頁)の庶子ウィリアム(後にロンドンの法曹学院(Inns of Court)で学び(Randall, Willard Sterne. Thomas Jefferson: a life. HarperPerennial, New York, NY, 1994; p.46),ニュー・ジャージー植民地の王党派の知事閣下となるも,アメリカ独立革命に反対の立場から英国に移住。)の母が不明であるということ(松本=西川訳書5頁)を知って以来,筆者にとって気になっていたところです。戸籍法601号は,「父が認知をする場合には,母の氏名及び本籍」を認知届書に記載すべきものとしています。

大村敦志教授の著書においても同じ疑問が提起されていますが,父がまず認知するということは可能である,と民法起草者の富井政章も梅謙次郎も考えていたと報告されています(大村154-155頁)。

すなわち,梅によれば,旧々戸籍法(明治31年法律第12号)では「父カ認知ヲ為ス場合ニハ必ス母ノ氏名ヲ其届書ニ記載スヘキモノトセリト雖モ〔同法801項柱書「私生子認知ノ届書ニハ左ノ諸件ヲ記載スルコトヲ要ス」,同項4号「父カ認知ヲ為ス場合ニ於テハ母ノ氏名,職業及ヒ本籍地」〕棄児,無届ノ子等ニ付キ母カ認知ヲ為スコトヲ欲セス又ハ母ノ所在不分明ニシテ其認知ヲ得難ク又ハ母カ既ニ死亡セル場合ニ於テ父カ認知ヲ為サント欲スルトキハ法律上母ノ知レサル子ナルカ故ニ父ハ濫ニ自己ノ一存ヲ以テ母ノ氏名ヲ届書ニ記スルコトヲ得サルモノト謂ハサルコトヲ得ス殊ニ〔旧々戸籍法〕80条〔14号〕ニハ母ノ職業及ヒ本籍地マテヲモ記載スヘキコトヲ言ヘリト雖モ父ニ於テ之ヲ知ラサルコトハ敢テ稀ナリトセサルヘシ故ニ此等ノ個条ヲ解釈スルニ方リテハ宜シク〔旧々戸籍法〕第50条ノ通則〔「本法ノ規定ニ依リ届書ニ記載スヘキ事項中其事実ノ存セサルモノ又ハ知レサルモノアルトキハ其旨ヲ記載スルコトヲ要ス但戸籍吏ハ各届出事件ニ付キ特ニ重要ト認ムル事項ヲ記載セサル届書ヲ受理スルコトヲ得ス」〕ニ依リ特別ノ場合ニ於テ母ノ知レサルトキハ之ヲ記載スルコトヲ要セサルモノト解スヘキノミ」ということになります(梅256-257頁)。戸籍法341項も「届書に記載すべき事項であつて,存しないもの又は知れないものがあるときは,その旨を記載しなければならない。」と規定しています。ここでの「存しないもの又は知れないもの」の例として,「無職,本籍不存在・不明,父・母不明など,明治311022日民刑局長回答民刑915号」が挙げられています(谷口64頁)。

 

(2)ベンジャミン・フランクリンの「青春の情熱」

1706年生れのフランクリン大先生の十三徳が樹立されたのは1731年のこととされており(松本=西川訳書293頁),「純潔」の徳については「性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い,これに耽りて頭脳を鈍らせ,身体を弱め,または自他の平安ないし信用を傷つけるがごときことあるべからず。」との戒律が付されています(同書136頁)。しかして,その頃の夫子の行状は次のとおり。

 

 当時の彼の私生活は,極めて複雑であった。デボラ・リードは結婚したが,彼女の夫は彼女を棄て,姿を消していた。一つの縁談の試みは,事業上の負債を弁済するための100ポンドの持参金をフランクリンが求めていたため,失敗した。強い性的欲求,すなわち「かの抑えられがたき青春の情熱(that hard-to-be-govern’d Passion of Youth)」は,彼を“low Women”の許に赴かせしめつつあった。そして,彼は,結婚する必要が非常にあると考えた。彼のデボラに対する愛情は「復活し(revived)」,173091日,彼は「彼女を嫁に取った(took her to Wife)」。この時点において,デボラは,フィラデルフィアにおいて,彼を受け容れる唯一の女性であったであろう。というのは,彼は,ついにその身元が明らかにされることのなかった某女との間に生まれたばかりの非嫡出子であるウィリアムを,新婚家庭に連れ込んだからである。フランクリンのコモン・ロー上の婚姻は,1774年のデボラの死まで継続した。彼らは,4歳で死んだ息子・フランキィ及び彼ら両者の死後までも生存した娘・サラを儲けた。ウィリアムは当該家庭において育てられ,明らかにデボラとはうまくいっていなかった。(Encyclopædia Britannica. The Founding Fathers. John Wiley & Sons, Inc., Hoboken, NJ, 2007; p.80. また,松本=西川訳書82-83頁及び109-112頁参照)

 

「頭脳を鈍らせ,身体を弱め,または自他の平安ないし信用を傷つけるがごときこと」のない限りにおいては,「健康」のために大いにいそしもう,嫁とならば「子孫」のためにもなるしな,というような不埒なことを考えている絶倫人であったからこそ,フランクリンは後に大をなし得たものでしょうか。

閑話休題。

 

7 婚姻後200日以内に妻が分娩した子の準正(下)

 

(1)戸籍実務

ところで,実は,大審院昭和15123日判決前の実務は,「甲乙婚姻後200日以内に生れた子丙は,〔略〕嫡出子の推定を受けないので一応乙の非嫡出子であるが,甲において認知した限り,或は甲から嫡出子出生届をして認知の意思を表示した限り,準正されて嫡出子の取扱を受けた。」ということでした(谷口177頁)。このうち夫甲による出生届については,「旧戸83条後段参照」とされていますが(我妻榮=有泉亨著・遠藤浩補訂『新版民法3 親族法・相続法』(一粒社・1992年)129頁),旧戸籍法83条後段は前記のように「父カ嫡出子出生ノ届出ヲ為シタルトキ」と規定していて,母も共同届出人になるべきものとしていました。当該文理にかかわらず,母乙の名義(認知)は不要とされていたのでしょうか。民法旧836条(現行789条)2項との関係でいかがなものでしょうか(同項は「婚姻後ニ至リ父母共ニ認知スルニ至リタル場合ヲ言」うものです(梅271頁。下線は筆者によるもの)。)。どうも難しい。

この点,191441日から施行された旧戸籍法下の戸籍実務は,「「婚姻成立後200日以内の出生子は,たとえ父から嫡出子出生届がなされても準正嫡出子であって(旧民8362項),生来の嫡出子ではないから受理できない。母からまず嫡出でない子の出生届をし,次いで,父からの認知をまって嫡出子として記載すべきであるが,しかし,むしろ戸籍法第83条(現行62条)後段の届出により嫡出子出生の記載をするのが適切であるとしていた(大正41021557号回答第一,大正111130民事4297号回答)。」とのことです(木村三男=竹澤雅二郎編著『詳解 処理基準としての戸籍基本先例解説』(日本加除出版・2008年)522頁)。(なお,戸籍実務上は,当時既に母の認知は問題とされていなかったそうです(「(3)早分かり」参照。)
 (その前の旧々戸籍法下の戸籍実務については,「現在と同様に父母が婚姻中に出生した子であれば,婚姻成立後200日以内に出生した子は,法律上の嫡出性の推定(旧民820条)こそ受けないが,生来の嫡出子として取り扱うものとされていた(明治31825民刑1025号回答,明治311027民刑1132号回答)。」と解するものと(木村=竹澤522頁),「司法省の回答は,概して,嫡出子出生届が提出されたなら受理してよいというものであった(民刑局長回答1898(明治31)年825日民刑1025号,民刑局長回答1898(明治31)年96日民刑1079号など。)」が「嫡出推定と戸籍の扱いは別だとする趣旨ではなく,父からの嫡出子出生届には認知の効力がある(したがって,その子は準正嫡出子である),との考え方によるようである(民事局長回答1911(明治44)年74日民433号(父の死亡後は母から私生子出生届をすべきだとしたもの)参照)。この扱いは,1914年の戸籍法改正(大正3年法律第26号)により,制定法上の裏付けを与えられた(同法83条後段(現62条))。」とするものとがあります(阿部徹「民法772条・774条」広中俊雄=星野英一編『民法典の百年Ⅳ 個別的観察(3)親族編・相続編』(有斐閣・1998年)76頁)。)

 

(2)「理由付け」の忖度

しかし,旧戸籍法83条後段の届出は父のみでできるものとする解釈は,夫について説かれる次のような「当為」を,妻にも応用したものと考えるべきでしょうか。

 

  しかしながら,フランスでは(そして日本の一部の学説においても暗黙裡に)婚姻にはそれ〔婚姻から妻の貞操義務と性関係の継続性という「事実」が導出されること。〕以上の意味があると考えられてきた。すなわち,婚姻は,妻がこれから産む子を〔夫が〕自己の子として引き受けるという合意(包括的な事前の認知)を含むというのである。(大村138頁)

 

  ヨーロッパ(特にフランス)では,婚姻とは妻が産んだ子を自らの子として認めるという約束であるという考え方が根強く存在している(たとえば,カルボニエによれば,婚姻とは「女が産んだ子を当然に男に帰さしめる結合,あるいは,女が産んだすべての子を自分のものとすることを事前に承認する男の意思として定義されうる」(Carbonnier, [Droit civil, tome 2, PUF, 21e éd. Refondu, 2002] p.245)としている)。「Pater is est, quem nuptiae demonstrant=父は婚姻が示す」という法格言もこのような観点から解釈される。(大村149-150頁)

 

 すなわち,夫に係る上記合意に加えて,「婚姻は,妻がこれから自ら分娩する嬰児を当該嬰児が夫の子とされる場合において自己の子として引き受けるという合意(包括的な事前の認知)を含む」のであり,しかして,妻が婚姻前に夫以外の者と性交渉を持ったかどうかは夫には実のところ分からないので,婚姻後200日以内の出生児については夫婦の嫡出子たらしめるにはなお夫の認知を要するものとする,という合意が婚姻の合意なのだという解釈が暗黙裡に採用されていたということなのではないか,というわけです。

 妻の分娩した嬰児に係るここにおける夫の認知を,「合法婚姻の子のみ父に従い,父又はその家長の家父権に服する。古代には更に家長の取り上げる(tollere, suscipere)行為が,家に入るに必要との学説がある。」(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)296頁)との古代ローマの法に関する学説のいうtollere又はsuscipereになぞらえて考えてよいものかどうか。いずれにせよ,新生児を最初に抱くべき男性は,その父親でなければならないでしょう。


(3)早分かり

 と,妻の認知意思に関していろいろ論じてみましたが,戸籍実務上は,最高裁判所昭和37427日判決の出る前から,「嫡出でない子と母との法律上の親子関係については,母の認知をまつまでもなく分娩の事実によって当然に発生するもの〔略〕(〔略〕大正51025805号回答,大正75301159号回答,大正11516民事1688号回答)」とされていたそうです(木村・竹澤=荒木186。また,同書28)。

 

8 大審院昭和15年1月23日判決

 大審院昭和15123日判決は,次のようなものです(我妻228-229頁註(1)から引用)。

 

   連合部判決の事案は,婚姻届の翌日生まれた子とその後の壻養子との家督相続の順位に関する〔家督相続の順位に関しては,民法旧97012号は「親等ノ同シキ者ノ間ニ在リテハ男ヲ先ニス」と,同項3号は「親等ノ同シキ男〔略〕ノ間ニ在リテハ嫡出子ヲ先ニス」と,同項4号は「親等ノ同シキ嫡出子,庶子及ヒ私生子ノ間ニ在リテハ嫡出子及ヒ庶子ハ女ト雖モ之ヲ私生子ヨリ先ニス」と,及び同項5号は「前4号ニ掲ケタル事項ニ付キ相同シキ者ノ間ニ在リテハ年長者ヲ先ニス」と,並びに同条2項は「第836条〔準正〕ノ規定ニ依リ又ハ養子縁組ニ因リテ嫡出子タル身分ヲ取得シタル者ハ家督相続ニ付テハ其嫡出子タル身分ヲ取得シタル時ニ生マレタルモノト看做ス」と規定していました。〕AB女夫婦に女子Cがある。妻B死亡後,ADと内縁関係を結び,D懐胎し,婚姻届の翌日X男を生んだが,他人の子として届け出た〔つまり,X男は,AD婚姻後に生まれたものの,A男からもD女からも認知されていない私生子であったわけです。私生子であれば,X男は戸主Aに係る家督相続の順位につき嫡出子であるC女に劣後します(民法旧97014号)。〕。ついでC女に壻養子Yを迎え,その後Xを養子として家に入れた〔嫡出子たる養子(民法旧860条)同士としては,縁組が先であるYXに優先します(同法旧97015号・2項)。〕。それから,Aは隠居してYが家督相続をした〔「隠居ハ隠居者及ヒ其家督相続人ヨリ之ヲ戸籍吏ニ届出ツルニ因リテ其効力ヲ生スル」(民法旧757条)ので,A及びYから共同届出がされたわけです。〕A死亡の後,XからYに対し,相続回復請求の訴〔民法旧966条(884条)〕を提起した。自分が法定推定家督相続人であるからAD夫婦の嫡出子たる男子として出生したので,C女にはもちろん(民法旧97012号。なお,同項4号),その後養子となったYにも優先する(同条15号・2項)ということでしょう。〕,隠居は無効でありA及び真の家督相続人であるXの共同届出ではなかったから。〕Aの死亡によって戸主となった〔民法旧9641号〕という理由である。同様の子について,これより前に,大判大正8108日(民録〔25輯〕1756頁)は,嫡出子と判示し〔「父母の婚姻成立後93日目に出生し,父によって嫡出子出生届のなされている子(Y)と,その子の出生届から約2週間たらずの時期に縁組された養子(X)との間で,どちらが亡父の相続権をもつかが争われた事件において,「民法第836条第1項(現7891項)ノ法則ヲ基本トシテ推究スレハ父母ノ婚姻中ニ生レタル子ハ仮令其婚姻前ニ懐胎シタルモノト雖モ苟クモ其父ニ於テ否認セサル限リハ嫡出子ニ他ナラサルコトヲ知ルコトヲ得ヘシ」という理由で,Yが出生の時から嫡出子たる身分を有することは明白であり,Xに先立って父を相続すると判示した」(福永185頁)。父による嫡出子出生届はY出生2日後,また,Y出生の約1年半後に更に母がわざわざ認知の届出をしたもののようです(阿部73頁)。〕,大判昭和3126日(新聞29577頁)は,非嫡出と判示した〔「AB女の内縁関係中に懐胎され,婚姻成立から約180日後に出生した子Xが,Xの出生の20日前に死亡したAが生前,胎児であったXを自分の子と認めていたからAの嫡出子であると主張し,亡Aの遺族扶助料受給権を取得する目的で,祖父Yを被告として「嫡出子に変更届出手続請求」の訴えを提起したのに対し,「Xは其父A其母Bの子なりとするも其の父母の婚姻成立以前に懐胎したるものと認むるの外なく元より法律上当然Aの嫡出子たるものに非ず。唯婚姻外に生まれたる子として父母が之を認知するときは民法第836条(現789条)の規定に従ひ嫡出子たる身分を取得するに過ぎざるものとす」として,Xの主張を排斥した」(福永185頁)。Xの出生はAB婚姻後186日目であって,X出生後まもなく母も死亡したため養祖父が私生子出生届をしたものであって,Aによる胎児認知はされていないものです(阿部73頁)。〕。連合部判決は,これを統一し,嫡出子と宣言したものである。判示は「・・・既ニ事実上ノ夫婦トシテ同棲シ所謂内縁関係ノ継続中ニ内縁ノ妻ガ内縁ノ夫ニ因リテ懐胎シ而モ右内縁ノ夫妻ガ適式ニ法律上ノ婚姻ヲ為シタル後ニ於テ出生シタル子ノ如キハ,仮令婚姻ノ届出ト其〔ノ〕出生トノ間ニ民法〔第〕820〔現行772条〕所定ノ200日ノ期間ヲ存セザル場合ト雖モ之ヲ民法上私生子ヲ以テ目スベキモノニアラズ。カクノ如キ子ハ特ニ父母ノ認知ノ手続ヲ要セズシテ出生ト同時ニ当然ニ父母ノ嫡出〔子〕タル身分ヲ有スルモノト解スルハ之ヲ民法中親子法ニ関スル規定全般ノ精神ヨリ推シテ当ヲ得タルモノト謂ハザルベカラズ・・・」。

 

本件において「カクノ如キ子ハ特ニ父母ノ認知ノ手続ヲ要セズシテ」ということとなる理由(なお,準正に必要な要件のうち,父母の婚姻は既に備わっています。)を母及び父についてそれぞれ考えてみましょう。母の認知については,D女は,A男と婚姻することにより,これから(慌ただしくも翌日となりましたが。)自ら分娩する嬰児を当該嬰児が夫Aの子とされる場合において自己の子として引き受けるという合意(包括的な事前の認知)をしたと解すべきなのでしょう。父の認知については,A男は,D女を妻とする婚姻をすることによって「妻がこれから産む子を自己の子として引き受けるという合意(包括的な事前の認知)」をしたことを前提としつつ,婚姻前200日間における妻の性生活に係る認識不能性を理由として一般の婚姻においては夫に認められている婚姻後200日以内出生児に係る認知の留保は,Aについては,Xの懐胎前から継続していたADの内縁関係からして認められない,ということなのでしょう。

「外国の取扱も婚姻後の出生子は夫婦の嫡出子とする。懐胎した女と婚姻する者は父であることを認むるものだという思想が含まれている。谷口・親子法の研究25頁」といわれています(谷口80頁)。ナポレオンの民法典314条は「婚姻から180日目より前に生まれた子は,次の各場合には,夫によって否認され得ない。第1,同人が婚姻前に妊娠を知っていた場合,第2,同人が出生証書に関与し(s'il a assisté à l'acte de naissance),かつ,当該証書が同人によって署名され,又は署名することができない旨の同人の宣言が記されている場合,第3,子が生育力あるもの(viable)と認められない場合。」と規定していました。第3の場合は別として,第2の場合は我が民法・戸籍法における父による嫡出子出生の届出の場合に相当し,第1の場合に係る「婚姻前に妊娠を知っていた」ことが,大審院昭和15123日判決における「既ニ事実上ノ夫婦トシテ同棲シ所謂内縁関係ノ継続中ニ内縁ノ妻ガ内縁ノ夫ニ因リテ懐胎シ」の部分に対応するのでしょう。

 

9 「判例の一歩先を行く」実務

しかしながら,大審院昭和15123日判決の後,内縁関係の先行に言及することによって当該判決もなお原則的には認めていたものであろう婚姻後200日以内出生児に対する夫の認知の必要性は,有名無実化しました。実務は,「判例の一歩先を行く扱い」をしています(阿部96頁)。(なお,「生来嫡出子としての扱い」が「内縁先行または内縁中懐胎の場合に限定されるかどうかは,判例上いまだに明確化されていない。」とされています(阿部75頁(1998年))。)

 

 昭和15123日大審院聨合部判決によって内縁関係中懐胎し婚姻後生れた子は当然の嫡出子だとされた結果形式的審査権しか有しない戸籍吏としては,内縁関係中の懐胎なりや否やの事実審査ができぬので,とりあえず嫡出子として出生届を受理すべきものとされた(昭和1548日民甲432号民事局長通(ママ))。(谷口177-178頁)

 

 なお,戸籍吏には実質的審査権がないので「婚姻後200日以内の出生子すべてについて嫡出子出生届を受理すべきものとされるに至った」のは,「事実審査をしないで届出を受理するのは大審院判決の趣旨に反するのではないかとの照会に対する回答」である民事局長回答昭和1565日民甲701号からだそうです(阿部77頁)。

 

 婚姻後200日以内の出生子については,昭和15123日大審院連合部判決の趣旨により父の認知を待つまでもなく出生と同時に父母の嫡出子の身分を有するものとして取り扱う(昭1548民事甲432号通牒)(『戸籍実務六法(平成31年版)』(日本加除出版・2018年)200-201頁)

 

 昭和15年民事甲432号通牒は,「連合部判決ノ趣旨ニ依リ取扱フコトニ〔司法省〕省議決定」した旨の通牒です(阿部76頁)。

 

 婚姻後200日以内の出生子については,父の認知を待つまでもなく出生と同時に父母の嫡出子の身分を有するものとして,出生の届出を受理する(昭和1548民事甲432号通牒)(戸籍実務六法68頁)

 

戸籍担当者に内縁の存否を判断する審査権もないので,婚姻後の出生子は一応嫡出子として届出でしむることになっている〔略〕。例えば200日以内の出生子につき父が嫡出子出生届を拒んでいるときは母から届出ずべく(昭和27129日民甲82号民事局長回答),婚姻届出後19日で夫死亡し,その後26日で出生〔婚姻中の出生ではないことになります。〕した子の嫡出子出生届をすれば受理される(昭和30715日民甲1487号民事局長回答)。婚姻前に非本籍地で嫡出子出生届を受理された場合,父母の婚姻後に送附されたときは,本籍地では,出生届に父母婚姻の旨追完させて受理する。之は戸籍法62条の嫡出子出生届と解するわけである(昭和2437日民甲499号,昭和231130日民甲3186号各民事局長通達)。(谷口80頁)

 

  生来嫡出子というのであるから,通常の嫡出子出生届による。したがって,母その他の後順位届出義務者(旧戸72条参照)からの嫡出子出生届も受理すべきことになるし,本人または父母死亡後の嫡出子出生届も受理される(民事局長回答1940(昭和15)年824日民甲1087号,民事局長回答1940(昭和15)年810日民甲1043号)。準正嫡出子ではないから,認知の扱いはしない(民事局長回答1941(昭和16)年520日民甲490号)。他男からの庶子出生届(非嫡出子であることが前提になる)も受理されない(民事局長回答1941(昭和16)年1023日民甲970号)。(阿部77頁)

 

  また,〔昭和15123日〕連合部判決以前の扱いにより非嫡出子として記載されている者について,嫡出子としての記載への訂正を許可する審判(戸113条)がなされたときは,訂正の申請を受理することになった(民事局長回答1963(昭和38)年95日民甲2564号)。(阿部77頁)


 我妻榮は,次のようにその説くところをまとめています。

かような子が嫡出子であることは,戸籍の記載のいかんによって影響を生じない。()かような子も,夫婦の間の嫡出子として届け出られるときは,母〔戸籍法521項。同法62条に基づくものではない(我妻=有泉130頁)。〕や同居人〔同法523項第1〕が届出人であるときでも,受理される〔略〕。内縁の先行の有無に関係しない。内縁の先行の有無というような実質的な関係は,戸籍吏の調査しうることではないからである。()しかし,戸籍の記載が妻の非嫡出子とされている場合でも,他人の子とされている場合でも,嫡出子である実体には変りはない。(我妻227頁。下線は筆者によるもの)

 夫の認知のいかんにかかわらず,婚姻後に妻の分娩した嬰児はいずれも当該夫婦の嫡出子とされ,父子関係を否定するためには,嫡出否認の訴えか,親子関係不存在確認の訴えによらなければならないとは,なかなかしんどい。そうであれば,「推定されない」といってもその否定には親子関係不存在確認の訴えが必要なのですから,看板に偽りありで,強くはなくとも「一応推定される」嫡出子であるわけです(内田183頁。また,同書181頁は「嫡出性を争う側が立証責任を負っているという点では,まさに訴訟法的な意味での推定が働いている。」と述べています。)。

ただし,この見解については,以下に見るように,妻が婚姻成立後200日以内に分娩したその子を非嫡出子として届出をすることが戸籍実務上認められていることが問題となります(あらかじめ父子関係不存在を裁判手続で明らかにする必要はありません。「そのような取扱いが何故許されるのかが逆に問題となろう。」とされています(福永193頁)。)。そうであれば,「〔自然的父子関係の〕不存在の証明(不存在を認める判決)があるまでは嫡出父子関係(法的効果)があると考えるものではない」ということとなり(福永192頁),「嫡出子としての戸籍の届出が直ちに受理されるのは,通達によってそのような取扱いがなされることになったにすぎないということ」になって(同頁。法律に基づくものではなく,単にお役所内の掟に従っているものということになります。),「夫側は嫡出否認の訴えによることなく,これを否認することができ,ひとたび否認された場合には,子の側で夫の子であることを証明しなければならない」(大村133頁)ということにもなりそうです。

 

10 妻の選択権:婚姻成立後200日以内に妻が分娩した嬰児の(本命彼氏との)非嫡出子としての戸籍記載

 

(1)妻の選択権:非嫡出子としての出生の届出

 前記「戸籍の記載が妻の非嫡出子とされている場合」が生じ得ることについては,次のような取扱いがされているところです。

 

  婚姻成立後200日以内に生れた子は,嫡出子として届出をすることが認められている。併し之は内縁中の懐胎を前提として父に異議なくば嫡出子扱をするという意味であるから,もし夫の子でないことに夫婦間で争がなければ母から嫡出でない子として届出してもよいとされ(昭和26627日民甲1332号民事局長回答),かかる子は出生当時の母の戸籍に入ると解される(昭和2445日札幌管内協議会決議,民事局承認)。(谷口82頁)

 

  もつとも,結婚成立後200日以内の出生子は――本条〔民法772条〕の推定を受けない結果――常に嫡出子の扱いを受けるとは限らず,夫の子でないことについて夫婦間に異論がなければ,嫡出でない子(結婚外の子)として取り扱つてよく,出生届も,母から嫡出でない子として出すべきである(回答昭和26627民甲1332号)。そうするとその子は,出生当時の母の戸籍に記載される(指示昭和25117)。(我妻榮=立石芳枝『親族法・相続法』(日本評論新社・1952年)159頁(立石))

 

  婚姻成立後200日以内に生まれた子を妻から嫡出でない子として届け出ることは差し支えない(昭和26627民事甲1332号回答)(戸籍実務六法68頁)

 

  しかし,母の夫によって懐胎された子でないときは,嫡出子ではないから,母から嫡出でない子として出生の届出があった場合は,これを受理して差し支えないこととされている(昭和26627民事甲1332号回答)。右は結局,婚姻成立後200日以内に出生した子については,民法上,嫡出子・嫡出でない子の区別が明定されていないため,出生子の父が母の夫であるか,それとも夫以外の男性であるかの事実関係に基づいて,「嫡出子」又は「嫡出でない子」のいずれかに決定される性質のものだからである。(木村・竹澤=荒木13頁)

 

これはどう考えるべきでしょうか。大審院昭和15123日判決は内縁の先行を前提としており,昭和1548日民甲432号民事局長通牒による取扱いは戸籍吏に内縁先行の有無・期間に係る審査権がないことに基づくものであるところ,嬰児の当の母親から,「実は私は,婚姻前,冴えない今のダメ夫ではなく,カッコいい本命彼氏と熱い恋をしていたのです」との趣旨の強力かつ積極的な「自白」が,公正証書の原本として用いられる電磁的記録に記録されるべき申立てとして公務員に対してされたのならば(刑法157条があるので,虚偽の申立てにはハードルが高いはずです。),当該大審院判例が前提とするところ(婚姻前の当該妻の生活(vita sexualis)が当該嬰児の父が夫であることを正当化せしめ得るものであること。)が崩れたものとして,原則に戻って当該嬰児は非嫡出子として取り扱おう(夫の認知の必要性が復活する。),ということでしょうか。ただし,「生来嫡出子説に立つとすれば一貫しない」ところです(阿部77頁)。

 

(2)妻の選択権の欠如:母としての届出

なお,嬰児を分娩した人妻がその嬰児を懐胎せしめたものたる本命彼氏の存在を自白しようとする場合,当該出生の届出を当該嬰児の母として(戸籍法522項)しなければならないのでしょうか(すなわち,母の認知が伴うことになります。)。出生の届書の様式は,戸籍法28条に基づく戸籍法施行規則(昭和22年司法省令第94号)59条・附録第11号様式によって定められていますが,そこでは届出人の資格(戸籍法52条・56条)を明らかにすることが求められています。

この点,出生の届出がされないままである場合又は父若しくは第三者が届出をした場合はやはり当該嬰児は当該夫婦の嫡出子のままなのでしょうから,いったん婚姻した以上は,妻は,婚姻中に自ら分娩した嬰児の母たることからなかなか逃れることはできないのだ,ということでよいのだというべきでしょうか。

むしろそもそも,戸籍事務上は,婚姻の有無を問わず「戸籍法は非嫡出子は母に出生届をなす義務を課している(戸522項)」ところ,「出生届は認知の意思表示を認めるとして,出生届義務を認めるとすれば,母については父と異って任意認知というものはなく子の請求なくとも母子血縁の証明を第三者がすることによって〔それによって当該母の出生届出義務が明らかになり〕公法上認知を強制せられている」のだ(谷口85-86頁),難しく考える必要はないのだ,ということでよいのでしょう。戸籍法137条は「正当な理由がなくて期間内にすべき届出又は申請をしない者は,5万円以下の過料に処する。」と規定しています。(婚姻後200日以内に分娩した嬰児の母たることを回避するためには,当該女性は,戸籍法522項及び137条にかかわらず,母として出生の届出(母の認知)を自らすることは避けつつ,当該嬰児と夫との父子関係の不存在を裁判手続(判決(人事訴訟法22号)ないしは合意に相当する審判(家事事件手続法277条・281条))において明らかにし置けばよいのだ,ということになりましょうか。)

 
(3)非嫡出子としての戸籍記載の効果

 

ア 夫の認知の復活からその再否定まで

大審院昭和15123日判決の前の原則に戻るのならば,夫による認知が改めて脚光を浴びます。

 

  〔婚姻後200日以内出生児については〕戸籍上〔略〕,妻から嫡出でない子として出生届をすることは差支えなく,又かかる届出をした後,夫がその子を認知することもできるとされる(昭和26627日民甲1332号民事局長回答)。(谷口178頁(1957年)。下線は筆者によるもの)

 

しかし,夫による認知の必要性は,実は本格復活していなかったようです。父の認知を可能としていた上記昭和26年民甲1332号回答による取扱いを改める次のような通達が,1959年に出ています。

 

  父母婚姻後200日以内の出生子につき非嫡出子の出生届がされた後に,父から認知届があつた場合は,子の戸籍を生来の嫡出子に訂正する旨の申出として扱う(昭34828民事甲1827号通達)(戸籍実務六法206頁)

 

そのように「認知届」を訂正の申出として取り扱った上で「本籍地の市町村長は,監督局の長の許可〔戸籍法242項〕を得て職権で左記振合いの記載により,その子の父欄に父の氏名を記載し,母欄の氏を消除し,父母との続柄を訂正することとされている(昭和34828民事甲1827号通達)〔略〕。/「父の申出により平成926日許可同月9日父欄記載父母との続柄訂正㊞」」とのことです(木村・竹澤=荒木270頁)。昭和26年民甲1332号回答以来の過去の取扱いも全否定されて,こちらは,「〔婚姻後200日以内に出生した〕子について,従前の取扱いにより,既に母の夫である父の認知届を受理して,父と子の戸籍に認知事項を記載し,子の父欄の記載及び父母との続柄欄の訂正がなされている場合には,本籍地の市町村長は,これを発見の都度監督局の長の許可〔戸籍法242項〕を得て,左記の振合いにより父と子の双方の戸籍の認知事項の記載のみを消除すべきものとされている(前記〔昭和34年民甲1827号〕通達二参照)。/「誤記につき○年○月○日許可同年○月○日認知の記載消除㊞」」とのことです(木村・竹澤=荒木271頁)。

なお,昭和34年民事甲1827号通達の論理は,「母からの嫡出でない子の出生届がなされた後,母の夫からの認知届ができるとするのは,生来の嫡出子に対し父からの認知届を認める結果となり妥当ではない。」というものです(木村=竹澤523頁)。「この訂正申出は,本来嫡出子として出生届をすべきであったにもかかわらず,母から嫡出でない子の出生届により戸籍の記載がなされたものであることが,後日,父の申出により判明したために採られる措置であるから,出生届の追完ではなく,あくまでも訂正の申出と解して取り扱うべきもの」だそうです(木村=竹澤523頁)。夫からあえて申出があった場合には,妻の子の心情及び将来を考えて,なるべく準正嫡出子よりは生来嫡出子にしてあげようということでしょうか。(ちなみに,民法7892項の準正嫡出子についても,戸籍実務上の先例においては「「認知準正の効果は,婚姻の時から生ずるものと解される」としている(昭和4238民事甲373号回答)」そうです(木村・竹澤=荒木23頁)。)

 

イ 本命彼氏による任意認知の許容

ところで,婚姻成立後200日以内に分娩した子をあえて非嫡出子(すなわち夫の子ではないもの)として出生の届出をする人妻としては,任意認知,すなわち「真実の父〔略〕が,他人の嫡出子の推定を受け又は嫡出子として戸籍に記載せられてない子又は,他人の認知を受けておらない子について,市町村長に対して認知の届出をなすことによって有効になされる」ものであるところの認知(谷口87頁)を,gallantな本命彼氏が直ちに我が子に対してしてくれることを期待するものでしょう(なお,嫡出推定が働きませんから,本命彼氏に対して子又はその法定代理人から認知の訴え(民法787条)を提起できることは当然です(最高裁判所昭和41215日判決(民集202202頁)参照)。)。

従来は「他男からの庶子出生届(非嫡出子であることが前提になる)も受理されない(民事局長回答1941(昭和16)年1023日民甲970号)」とされていたのですが(阿部77頁),当該子は確かに夫の嫡出子としての推定を受けず(民法772条参照),かつ,夫婦の嫡出子としては戸籍に記載されておらず(父親欄が空欄である妻の非嫡出子として戸籍に記載),更に出生届のその段階ではどの男性からも「認知」がされていないのですから,当該人妻の健気な期待は満足せしめられてもよさそうに思われます。すなわちこの場合,「他男からこれを認知することはもとより差し支えない」ものとされているところです(木村・竹澤=荒木270頁)。

  

ウ 本命彼氏 v.現夫:けんかをやめて

しかし,本命彼氏による任意認知の効果に関しては,夫からの認知届を子の戸籍を生来の嫡出子に訂正する旨の申出として扱うものとする前記昭和34828日民事甲1827号通達並びに認知をした男性からの民法786条に基づく認知無効の主張を認めた最高裁判所平成26114日判決(民集6811頁)に付された次の木内道祥裁判官の補足意見及び寺田逸郎裁判官の意見が気になるところです。

木内補足意見は,いわく。

 

  なお,原審の認定によると,上告人〔被認知者〕にはフィリピン人である血縁上の実父が存在しており,既に法律上の父が存在する子に対する認知としてその効力が問題となりうる(既に存在する法律上の父のあり方によっては,後の認知が無効なのか取消うべきものかが異なりうる。例えば,我が国において認知届が誤って受理されたとして,被認知者が推定を受ける嫡出子,認知判決による子であるか,既に任意認知された子,推定を受けない嫡出子であるかによって異なりうる)が,本件においては,その点を論じるまでもなく,被上告人の認知無効の請求が認められるものである。

 

 「推定を受けない嫡出子」(法律上の父はいることになります。)であれば,その子を被認知者とする認知届の受理は,「誤って」されたものになるようです。

また,寺田意見は,いわく。

 

  ところで,日本の民法下では,認知は,その性格上,現に父がある子を対象としてはすることができないと解される。父が重複することがあってはならないことは,嫡出子の場合に限られるものではなく嫡出でない子にも共通の制約であるはずで,これは親子関係の公的な秩序として許されるべきではないのである。この点については明文の規定を欠くが,より一般的に父子関係がないことを理由に無効となることが786条で明らかにされているから,ことさらに規定を置くことは避けられたのであろう。〔略〕

   (注)779条は,嫡出でない子は,その父又は母が認知をすることができる旨を定めるが,これは嫡出子については認知が問題とならないということを前提とした上で,認知の主体がその子と父又は母の関係に立つ者に限られることを規定したものであって,これを反対解釈して,既に他の者の「嫡出でない子」となっている子を別の者が認知することは認められるのであると解することは相当でない。〔後略〕

 

 とはいえ,本命彼氏が認知してその旨戸籍に記載されある場合,当該子は夫の「生来の嫡出子」であるとしても,夫とその子との父子関係には民法772条の嫡出推定が働かない以上,夫が既成事実に抗ってみても,生物学上の父であり,かつ,認知意思を有する本命彼氏が,結局は勝ってそのまま父として認められ続けるのでしょう。

 となれば,問題となるのは,婚姻前の恋に係る人妻の未練がすげなく無視されて,同女によるせっかくの非嫡出子出生届にもかかわらず本命彼氏が認知をしなかった場合,ということになるようです。

 その場合に夫が,「これはおれの子だ。」と名乗り出れば,前記昭和34828日民事甲1827号通達的処理がされることになるのでしょう。「現行の戸籍処理は,父が拒んでも母から嫡出子出生届をすることができる一方,母は任意に嫡出でない子の出生届をすることもできるというものであり,あたかも母が否認権をもつような取扱いとなっている」ものの(福永188頁),本命彼氏が冷たければ,最後に夫による一種のどんでん返しが可能なようではあります。

 しかし,夫が,「何を今更」と,妻による非嫡出子出生届に係る訂正の申出をいつまでもしない場合はどうなるのでしょうか。「右の出生子について,嫡出子として届出をするべきところ,母から誤って嫡出でない子として届出をし,戸籍の記載がされている場合に,父(母の夫)の死亡後,戸籍の記載を嫡出子と訂正するには,原則として戸籍法113条の戸籍訂正手続によるべきであるが,出生届書の誤記を理由として子の記載を嫡出子とする旨の追完届があった場合には,これを受理して子の父欄の父の氏名を記載し,母欄の氏を消除するとともに父母との続柄を訂正して差し支えない取扱いである(昭和398~(ママ)6島根県戸住協決,昭和391216民事二発458号民事局変更指示)。」とはされています(木村・竹澤=荒木270頁)。しかしこれは,「父(母の夫)の死亡後」の取扱いです(あの世で亡夫はどう思うのでしょうか。)。夫の生前においては,「親子関係の戸籍訂正はほとんどが親族相続法上の重要な影響ある場合であるから〔戸籍法113条ではなく〕,戸籍法116条により確定判決・審判によるべき」ことになる(谷口158頁)ということで,実親子関係の存在確認の訴えに係る勝訴判決を要することになるようです。法務省の戸籍制度に関する研究会の第5回会議(2015219日)の資料5においては「従来の通説及び大審院判例〔略〕は,〔戸籍法113条の〕戸籍訂正許可は,訂正事項が戸籍の記載自体で一見明白である場合(明白性の要件)又は訂正事項が軽微で訂正の結果親族法・相続法上重大な影響を生ずることのない場合(軽微性の要件)に限り認められるとするものとされるが,戦後は学説・裁判例が錯綜しており,最高裁判所の判例もないが,上記各要件のほか,関係者間に争いのないこと等を考慮する裁判例が多い。」とされており(9頁),かつ,実親子関係存否確認,認知無効及び取消し等は,確定判決により戸籍訂正をすべき場合とされているものとして挙げられています(7頁(注20))。

 いささか悩ましい。「母からの非嫡出子出生届を受理する扱いについては,学説上,賛否両論がある」そうです(阿部78頁。また,同80頁註(14))。

     


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1 ベルギー国憲法の王朝関係条項

 

   ベルギーは1830年の革命の結果生まれたヨーロッパの小国であるが,その憲法には,いろいろの点で,われわれの興味をそそるものがある。1831年に制定され,成典憲法としては古いものであるが,今日〔1976年〕まで145年の長命を保っている。19世紀前半につくられたものとしては,かなり進歩的な内容をもち,しかも,法典として割合によくまとまっていたので,外国の憲法でこれにならったものも少なくない。1848年のドイツのフランクフルト憲法,1849年のオーストリア憲法,1850年のプロイセン憲法などは,そのいちじるしい例であり,わが明治13年〔1880年〕の元老院の憲法および〔1889年の〕明治憲法も影響をうけている。

   この憲法には,規模は小さいが,立憲君主制のもとに,自由主義的議会民主制のひとつの見本が示されている。そうして,形式的には,君主制をとりながら,その基礎原理は民主主義と自由主義であり,そのうえに君主制をみとめているところにこの憲法の本領がある。すべての権力は国民に由来し(第〔33〕条),国王は,憲法の制定者ではなく,憲法の所産であって,政治の実権をもたない装飾的な存在にすぎず,日本国憲法における天皇の国事行為の場合と同じように,憲法および憲法にもとづく特別の法律の明文によって与えられた権能のみをもつ。

  (清宮四郎;宮沢俊義編『世界憲法集 第二版』(岩波文庫・1976年)66頁)

 ベルギー国を訪問した皇太子裕仁親王に対し,1921610日,アルベール1世国王は,その歓迎の辞の中で特に次のように同国憲法に言及しています(宮内庁『昭和天皇実録 第三』(東京書籍・2015年)293頁)。

 

  殿下は我が国において其の国民が憲法の下に,克く自らの運命を支配し,且つ狭小な地域において欧洲強国の間に伍しつゝ其の国民的個性を保持し,自由を愛好し,以て社会に於ける知識,道徳の向上並に物質上の繁栄に資する諸種の事業を起し,且つこれを確立せんとして努力し居るを看取せられるでありませう。


  ちなみに,1830年にベルギー国憲法草案の起草を中心となって担ったのは25歳のジャン=バティスト・ノトン(Jean-Baptiste Nothomb)と29歳のポール・ドゥヴォー(Paul Devaux)との二人であって,最初の原案(なお,立憲君主制になるか共和制になるかは当時未定)は両名によって同年1012日から同月16日までの間に作成されたそうです(Dimitri Vanoverbeke, The Development of Belgian Constitutional Practice: the Head of State Between Law and Custom, 憲法論叢第8号(20023月)32頁)。少数の若者による短期間の制作という事実は,某国の憲法草案の19462月における起草作業を彷彿とさせます。

 ベルギー国憲法には,次のような条項があります(拙訳は,清宮86-87頁・90頁を参照しました。)。

 

Art. 85


Les pouvoirs constitutionnels du Roi sont héréditaires dans la descendance directe, naturelle et légitime de S.M. Léopold, Georges, Chrétien, Frédéric de Saxe-Cobourg, par ordre de primogéniture.

Sera déchu de ses droits à la couronne, le descendant visé à l'alinéa 1er, qui se serait marié sans le consentement du Roi ou de ceux qui, à son défaut, exercent ses pouvoirs dans les cas prévus par la Constitution.

Toutefois il pourra être relevé de cette déchéance par le Roi ou par ceux qui, à son défaut, exercent ses pouvoirs dans les cas prévus par la Constitution, et ce moyennant l'assentiment des deux Chambres.

 

85条 国王の憲法上の権能は,レオポルド・ジョルジュ・クレティアン・フレデリック・ド・サクス・コブール陛下の直系,実系かつ嫡系の子孫が,長子継承の順序により,これを世襲する。

  第1項に規定する子孫であって,国王又は憲法によって定められた場合に国王に代わって国王の権能を行う者の同意なしに婚姻したものは,王位につく権利を失う。

  ただし,当該子孫は,国王又は憲法によって定められた場合に国王に代わって国王の権能を行う者によって,かつ,両議院の同意を得て,王位につく権利の回復を受けることができる。

 

Art. 86

A défaut de descendance de S.M. Léopold, Georges, Chrétien, Frédéric de Saxe-Cobourg, le Roi pourra nommer son successeur, avec l'assentiment des Chambres, émis de la manière prescrite par l'article 87.

S'il n'y a pas eu de nomination faite d'après le mode ci-dessus, le trône sera vacant.

 

  第86条 レオポルド・ジョルジュ・クレティアン・フレデリック・ド・サクス・コブール陛下の子孫がないときは,国王は,第87条に規定する方法で表明された議院の同意を得て,その継承者を指名することができる。

    前項に掲げた方法による指名が行われない場合は,王位は空位となる。

 

Art. 87

Le Roi ne peut être en même temps chef d'un autre État, sans l'assentiment des deux Chambres.

Aucune des deux Chambres ne peut délibérer sur cet objet, si deux tiers au moins des membres qui la composent ne sont présents, et la résolution n'est adoptée qu'autant qu'elle réunit au moins les deux tiers des suffrages.

 

  第87条 国王は,両議院の同意がなければ,同時に他国の元首となることができない。

    両議院のいずれも,その総議員の3分の2以上が出席しなければ,前項の同意に関する議事を行うことができない。また,3分の2以上の多数によらなければ,可決の議決をすることができない。

 

Art. 95

En cas de vacance du trône, les Chambres, délibérant en commun, pourvoient provisoirement à la régence, jusqu'à la réunion des Chambres intégralement renouvelées; cette réunion a lieu au plus tard dans les deux mois. Les Chambres nouvelles, délibérant en commun, pourvoient définitivement à la vacance.

 

  第95条 王位が空位の場合は,全部改選された両議院が会同するまで,両議院の合同会で,暫定的に摂政職について措置する。新議院の会同は,2箇月以内にこれを行う。新議院の合同会は,確定的に空位を補充する。

 

 ベルギー国憲法851項は,当初は,「・・・男系に従って,長子継承の順序により,・・・女子及び女系の子孫は,永久に継承の権利を有しない。」(de mâle en mâle, par ordre de primogéniture, et à l’exclusion perpétuelle des femmes et de leur descendance)とされていたところです。その後ベルギー国にあっては,「永久に(perpétuel)」の文言もものかは,憲法の改正があったわけです(1991年)。なお,ベルギー国の先王アルベール2世には非嫡出子がありますが,嫡系(légitime)ではないので,当該非嫡出子たる女性は王位継承とは無縁です(我が最大決平成2594日(民集6761320頁)などからするといかがなものでしょうか。)。

 

2 日本国憲法における「「王朝」形成原理」

 

(1)明治典憲体制における「原理」の「維持」が求められているとの説

 かつて小嶋和司教授は,「〔日本国〕憲法2条は「王朝」形成原理を無言の前提として内包しているとなすか,それとも「国会の議決した皇室典範」はそれをも否認しうるとなすかは憲法論上の問題とすべきものである。」とされ(「「女帝」論議」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』(木鐸社・1988年)65頁),かつ,憲法に内包される当該「無言の前提」たり得る「「王朝」形成原理」に関しては,いわゆる「マッカーサー・ノート」における“dynastic”との用語から,大日本帝国憲法改正時にマッカーサー連合国軍総司令官は,「現王朝(dynasty)を前提として,王朝に属する者が王朝にふさわしいルールで継承すべきことを要求」するとともに当該王朝の「王朝形成原理の維持を要求」していたのではないかと示唆されていました(同64頁。下線は筆者によるもの)。すなわち,「憲法論的に男帝制を指示するとも考えうる史実」があったところです(小嶋・女帝63頁)。

確かに,大日本帝国憲法の改正に係る1946213日のGHQ草案の第2条(Article II. Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.)及び第4条(Article IV. When a regency is instituted in conformity with the provisions of such Imperial House Law as the Diet may enact, the duties of the Emperor shall be performed by the Regent in the name of the Emperor; and the limitations on the functions of the Emperor contained herein shall apply with equal force to the Regent.)においては“such Imperial House Law as the Diet may enact”なる法規の存在が現れていましたが,これは,当時の皇室典範(明治皇室典範(1889年)並びに明治40年皇室典範増補(1907年)及び大正7年皇室典範増補(1918年))の改正憲法下での存続を前提に,皇位継承及び摂政設置に関して,天皇と競合し,かつ,優越する立法権(ただし,憲法の枠内であることは当然。)を国会に与えるとの趣旨ではなかったかとは,両条に係る「国会ノ制定スル皇室典範」との外務省による翻訳以来の定訳に対して,不遜にも異見を提示する筆者の思い付きでありました(「日本国憲法2条に関する覚書」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065867686.html)。

 

(2)明治典憲体制における三大則

明治皇室典範における皇位継承の大原則は,その第1条(「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」)に係る『皇室典範義解』の解説によれば,「祖宗以来皇祚継承の大義炳焉(へいえん)として日星の如く,万世に亙りて易ふべからざる者,(けだし)左の三大則とす。/第一 皇祚を践むは皇胤に限る。/第二 皇祚を践むは男系に限る。/第三 皇祚は一系にして分裂すべからず。」であったそうです。この三大則は,「世襲」の意味内容たる,又は昭和22年法律第3号がなおも皇室典範たる以上その当然の前提とするところの「「王朝」形成原理」として,日本国憲法2条に内包されているものでしょうか。

(ちなみに,男系ノ女子による皇位継承までならば,前記「皇祚継承の大義」には抵触しないようですので,「皇祚継承の大義」をも圧伏し得る人民の主権意思(the sovereign will of the People)の発動たる憲法改正までは要さず,法律の形での皇室典範改正によって可能なのでしょう。)

 

ア 皇胤主義

「皇胤」とはだれのことかというと,『皇室典範義解』には「祖宗の皇統とは一系の正統を承くる皇胤を謂ふ。而して和気清麻呂の所謂皇緒なる者と其の解義を同くする者なり。」とあって,宇佐八幡宮からの和気清麻呂の還奏(「我国家開闢以来,君臣分定矣,以臣為君未之有也,天之日嗣,必立皇緒」)を見よ,ということになっています。道鏡が皇位に就くことを排斥する理窟は,単に道鏡は臣下だからということ(「以臣為君未之有也」)だったというわけなのですね。「我国家開闢以来,君臣分定矣,以臣為君未之有也」なので,明治40年皇室典範増補6条において「皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス」とされたものなのでしょう(また,昭和22年法律第315条)。「皇統トハ唯皇族タル身分ヲ有スル者ノミヲ意味シ,既ニ臣籍ニ入リタル者ヲ含マズ。一タビ皇族ノ身分ヲ脱シテ臣籍ニ降ルトキハ,皇位継承ノ資格ハ消滅シテ又之ヲ復スルヲ得ザルコトハ,当然ノ原則トシテ認メラルル所ナリ」というわけです(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)178頁)。

しかし,「吾是去来(いざ)穂別(ほわけの)天皇(すめらみこと)〔履中天皇〕之孫〔同天皇の皇子である市辺(いちのべの)忍歯別(おしはわけ)王の子〕なのだけれども播磨国において困事於人(ひとにたしなみつかへて)(うし)牧牛(うまを)(かふ)境遇にまで(新編日本古典文学全集3『日本書紀②』(小学館・1996年)230-231頁)いったん下った後に(雄略天皇は市辺忍歯別王を自ら射殺し給うていますから,同王の子らは雄略朝期には皇族扱いなどつゆされなかったものでしょうが,同天皇も崩御して既に暫くたった時期に)宴会で踊りと歌とを披露して山部連(やまべのむらじが)先祖(とほつおや)()(よの)来目部(くめべの)小楯(おだて)身分を顕わし再上昇して皇位を継承し給うた顕宗・仁賢の兄弟天皇の古例があり,藤原高子(白玉か何ぞと人の問ひしとき露とこたへて消えなましものを)系は勘弁してくれということで光孝天皇(君がため春の野に出でて若菜が衣手に雪はりつつ)の子である源定省が皇族に復帰して皇位を継承した宇多天皇前例ありますから,皇祚を践むは皇胤に限る。」とは明治天皇の決意ではあっても,例外を一切許さぬ「炳焉として日星の如く,万世に亙りて易ふべからざる」ものとまでいえるかどうか。

 

イ 一系主義

「皇祚は一系にして分裂すべからず。」については,『皇室典範義解』自ら「後深草天皇以来数世の間,両統互に代り,終に南北二朝あるを致しゝは,皇家の変運にして,祖宗典憲の存する所に非ざるなり。」と嘆きつつも大覚寺統の諸天皇の在位を否認することはしていませんから,できちゃったものは仕方ないが,以後気を付けよう,という位置付けでしょうか。ただし,美濃部達吉によれば,一系主義は世襲主義からの説明が可能です。いわく,「純粋の世襲主義に於いては,必ず単一の系統に於いて之を世襲するものでなければならぬことは,当然である。若し皇統が2系以上に分たれ,その各系の出が対等の権利を以て皇位の継承を主張し得ることが認めらるゝならば,それは世襲主義の思想とは相容れないものである。」と(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)105頁)。

しかし,古代スパルタ人に言わせれば,二系の王家があって王が二人いたってええじゃないか,ということになるのでしょう。

 

ウ 男系主義

最後に,「皇祚を践むは男系に限る。」については,これは『皇室典範義解』も安心してか,「先王の遺意を紹述する者にして,苟も新例を創むるに非ざるなり。」と記しています。「日本における「帝室ノ眷族」の形成原理は,父母の同等婚を要求しないかわり,たんに片親の皇統性で足りるとはせず,厳格に父系の皇族性を要求した。明治憲法第1条のいう「万世一系ノ天皇」が男系に着目しての一系制で,「皇統ハ男系ニ限リ女系ノ所出ニ及ハサルハ皇家ノ成法」(『典範義解』)である」こと(小嶋・女帝60-61頁)に留意せよということになります。「〔昭和22年法律第3号たる〕皇室典範を改正して女の天皇を認めることは,もとより可能である。」(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)132頁。下線は筆者によるもの)といわれる場合において,ここでの「女性」に「女」までをも読者において読み込み得るものかどうかは,難しいところです。

女系の皇統を認めるということは,従来の皇室=皇族の範囲・枠組みを抜本的に変更することになるようですから,憲法改正の革命的手続によるのが無難でしょうか。というのは,皇室典範は本来皇室の家法であり,かつ,日本国憲法も「皇室典範」の文字によって当該性格を承認していると考えるならば(しかしこれは,「戦後日本社会の支配層は,明治期に確立した皇室関係法の特殊性を何とかして残し,天皇の「萬世一系」性を日本人たちに納得させる一助たることを期待して,憲法第2条の異例な言葉遣いにこだわった。この作戦は,かなり成功した気味がある。この言葉遣いが持つ特殊な煙幕効果のゆえに,相当の知識人・文化人でさえも,「皇室典範」というものは,憲法規範の一部と誤解したり,そうでないとしても何か特別な法であって,その修正には特別な手続が必要であると勘違いしている向きがある。そういう誤謬をおかす点において,「ふつうの日本人」は――自ら気づかないままに――天皇制の明治的伝統を引き継いでいるというわけである。」というだけのことかもしれませんが(奥平康弘『「萬世一系」の研究(上)』(岩波現代文庫・2017年)17頁)。),昭和天皇の裁可に係る昭和22年法律第3号について国会が法律で改正を加えるに当たっては(「宮内府」が「宮内庁」になった昭和24年法律第134号による改正のようなものを除き),少なくとも事実上,皇室(又はその家長たる天皇)の同意が必要不可欠であるのだと考えることも可能であるようなのですが19466月の法制局「憲法改正草案に関する想定問答(増補第1輯)」では,法律としての皇室典範の取扱いについて,「国会の側から皇室について謂はば差出がましい発案は行はないと云ふ様な慣習法が成立することもあらうか,と考へる。」との希望や,「国会その他の意思をも反映させるための方法」として「特殊の諮詢機関の議を経べきこと」もあり得べきか,というようなアイデアが示されています。同月8日,帝国議会の議に付される帝国憲法改正案が可決された枢密院会議において,昭和天皇の弟宮である崇仁親王から「皇室典範改正への皇族の参与につき再考を願」う旨の発言があり,かつ,同親王は棄権し退席していたところです(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)136頁)。,その場合,天皇は「国政に関する権能を有しない。」という例の日本国憲法41項後段との関係が大問題になり得るからです(「日本国憲法41項及び元法制局長官松本烝治ニ関スル話」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065184807.html)。

 

3 王朝交代に係る憲法規定について

 

(1)ベルギー国憲法における存在と日本国憲法における不存在と

「皇統の全く絶ゆることは,わが憲法の予想しないところで,皇統連綿天壌と共に窮なかるべきことを前提として居る」ので(美濃部・精義106頁),「王統の絶えた場合を予想して,之に応ずべき処置を定めて居る」ベルギー国憲法の規定は,我が神州の憲法にとっては,正に単なる「備考」に止まるべきものです(同頁)。

しかし,ついベルギー国憲法86条を眺めると,「はて,これは我が憲法では「神武天皇の子孫がないときは」と書くべきところかな。それとも「明治天皇の子孫がないときは」かな。」などと余計なことを考えてしまいます。これについては,少なくとも「明治天皇の子孫がないときは」とはならないようです。明治典憲体制下においては,後花園天皇の弟宮の貞常親王系である伏見宮系の皇族も皇位継承の可能性があるものとされていました。したがって,「崇光天皇の子孫がないときは」とすべきでしょうか。しかし,それでは,我々臣民がその意思をもって折角推戴し奉った後光厳天皇(崇光天皇の弟)から始まった皇統(ただし,一休さんは継承できず。)は何だったのだということになりますから(「「日本国民の総意に基づく」ことなどについて」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1003236277.html),「光厳天皇の子孫がないときは」でしょうか。しかしまたそれでは,吉野方贔屓の方々の御不満もあることでしょう。結局,持明院統・大覚寺統どちらも仲良く「後嵯峨天皇の子孫がないときは」でしょうか。仁治三年正月四日(1242年)の四条天皇の崩御後「承久の乱の再発を恐れる〔北条〕泰時は,その際討幕派であった順徳院の皇子の即位を喜ばず,〔非戦派であった〕土御門の皇子を推し,鶴ヶ岡八幡宮の神意によると称して,その旨を京都に伝えた。泰時は順徳院の皇子の即位が実現するようなことがあれば,退位させよという決意を,使者の安達義景に伝えたという。さて,土御門院の皇子は,幕府の推戴をうけ,仁治三年正月二十日元服して邦仁と名乗り,冷泉(れいぜい)万里(までの)小路(こうじ)殿(どの)(せん)()した。後嵯峨(ごさが)天皇である。」ということですから上横手雅敬『北条泰時』(吉川弘文館・1958年)197頁),鶴ヶ岡八幡宮の神意並びに承久三年における我ら人民の達成及びその保持の必要性に鑑みるに,「後嵯峨天皇の子孫がないときは」でよいのでしょう。後鳥羽院=順徳院系の皇位継承は,避けられるべきものでした。

 

  奥山のおどろが下も踏み分けて道ある世ぞと人に知らせん

 

 なお,19471013日の皇室会議の議による同月14日の伏見宮系11宮家の皇籍離脱に係る昭和天皇の叡旨はいかんといえば(これら両日には,実は昭和天皇は長野県及び山梨県を行幸中でした(実録第十486-499頁)。),19461227日公布の明治40年皇室典範増補の改正(同皇室典範増補1条が「王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムルコトアルヘシ」から「内親王王女王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ臣籍ニ入ラシムルコトアルヘシ」に改められました。)について19461229日に伊勢の皇大神宮において勅使掌典室町公藤が奏した祭文には「今し国情の推移に伴ひ内親王王女王にして臣籍に入るへき途を広むるはむへくも有らぬ事となもおもほしきこしめし今回皇室典範増補の規定に改正を加へ其か事を制定さだめ給ひぬ」とあったところからみると(同書262頁。また,神武天皇山陵,明治天皇山陵及び大正天皇山陵にもそれぞれ奉告されています。),当該皇籍離脱は飽くまでも「国情の推移に伴」う「已むへくも有らぬ事」であって,皇考大正天皇の子孫以外の皇族を皇統から除かむとすなどという後醍醐天皇的に積極的ないしは苛烈なものではなかったようです(昭和22年法律第3号の第11条の手続においては天皇の意思表示は不要である建前ですので,昭和天皇もやや気楽に甲信の秋を楽しめたものでしょう。)。(これに対して,19471013日の皇室会議の議長たりし内閣総理大臣片山哲は,我が国史的には,華府ならぬ鎌倉の指令に従った承久三年夏の京都における北条泰時・時房的立場に置かれたものというべきなお当該皇室会議皇族議員出席二方高松親王秩父親王親王妃た(議案全会一致可決)。秩父高松絶家っていす。親王194672日の皇族討論会において「皇族の特権剥奪に対する批評の如き言辞は慎むよう」兄の昭和天皇から「仰せ」を受けており,その場で「御討論」(兄弟げんかということでしょう。)になっていましたが(実録第十155頁),19471013日には沈黙を守っておられたものでしょう。


DSCF2138

神奈川県藤沢市・秩父宮記念体育館近傍


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東京都世田谷区船橋(なお高からずとも,やはり,松です。)



(2)1810年スウェーデン王位継承法の前例

 王位継承問題に係るベルギー国憲法86条的解決の前例としては,スウェーデン王国の議会が議決し国王カール13世が裁可した同王国の1810926日王位継承法を考えるべきでしょうか。同法に基づき,同王国においては,1818年,ホルシュタイン=ゴットルプ王朝からベルナドッテ王朝への王朝交代がなされています。

ベルナドッテ朝の初代国王カール14世ヨハンは,元はフランスの一将軍であったジャン=バティスト・ベルナドットです。毎年12月,寒いストックホルムまでわざわざ出かけてベルナドッテ朝の王様からノーベル賞を貰って皆感謝感激するのですが,当該王朝には,その歴史にも由来にも,万世一系の神聖は全くありません。1763年に南仏ベアルンのポーで生まれたジャン=バティストは,同市で法律事務見習いをした後1780年に一兵卒として軍隊に入り,革命を経て累進,マルセイユの商人の娘であるデジレ・クラリーと1798年に結婚します(その翌年のクーデタでフランス共和国の政権を奪取したボナパルト第一執政は,彼女の元婚約者)。ベルナドット元帥は,1810年にスウェーデンの王太子。翌々1812年のロシア遠征の段階における元上司・フランス皇帝と元部下・スウェーデン王太子との関係は,次のように描かれています(長谷川哲也『ナポレオン~覇道進撃~第14巻』(少年画報社・2018年)134-136頁)。

 

  ベルティエ元帥  悪いニュースが〔中略〕スウェーデン王太子のベルナドットがロシアと密約を結んでおります

  ナポレオン1世 (あのくそ野郎/さっそく俺の敵に回ったか/イエナ・アウエルシュタット戦の時に銃殺しておくべきだった)

 

 余りお上品な人たちではないようです。

 ルイ16世らを血祭りに上げたフランス大革命を経て成り上がったベルナドットは,1810821日にスウェーデン議会によって王太子に選ばれていますが,その約2箇月前の段階においては,Ancien Régimeの粋・『ベルサイユのばら』のあの人物が,スウェーデンの王位をその近くから窺覦する者の一人として考えられていたようです。

 

  彼の敵は,この厚顔な封建貴族がフランスに復讐するためにみずからスウェーデン王となって国民を戦争に引きずりこもうとしている,と,ひそかに言いふらした。そして18106月にスウェーデンの王位継承者が急死すると,フェルセン名誉元帥がみずから王冠をつかまんがために毒を盛って片づけたのだという,とんでもない,危険なうわさが,わけのわからぬうちにストックホルムじゅうにひろがった。この瞬間から,革命のときのマリー・アントワネットとまったく同じように,フェルセンは人民の怒りに生命をおびやかされることとなった。このため,いろんな計画のたてられていることを知っていた好意的な友人たちは,埋葬の日に強情なフェルセンに警告して,葬式には出ないで用心深く家にいた方がいいとすすめた。しかしこの日は620日,フェルセンの神秘的な運命の日である〔1791620日にルイ16世一家のヴァレンヌ逃亡事件発生〕。〔略〕儀装馬車が(やかた)を出るか出ないかに,たけり狂う(ママ)民の一団が軍隊の警戒線を突破し,こぶしを固めて,白髪の老人を馬車から引きずり出し,防ぐすべもない彼をステッキや石で打ち倒した。620日の幻像はここに実現されたのである。マリー・アントワネットを断頭台に連れて行ったのと同じ,狂暴でどうもうな分子に踏みにじられて,「美しいフェルセン」,最後の王妃の最後の騎士の死体は,血を流し,見るも無残なすがたとなってストックホルムの市役所の前に横たわっていた。(ツワイク,関楠生訳『マリー・アントワネット』(河出書房・1967年)440-441頁)

 ベルナドッテ王朝は,気さくで人懐っこいというべきでしょうか。万世一系の我が皇室が苦難の中にあった19461128日,「これより先,スウェーデン国皇帝グスタフ5世より,皇孫ヴェステルボッテン公グスタフ・アドルフの皇子イェムトランド公カール・グスタフ誕生去る430を報じる510日付の親書が寄せられ,この日答翰を発せられる。これは終戦後初めて外国元首から送られた親書にて,聯合国最高司令部を経由して送付された。また答翰についても,最高司令部の検閲があるため,開封のまま外務省に送付される。なお,この答翰は平仮名混じり口語体とされ,初めて「当用漢字表」及び「現代かなづかい」が用いられた。」(実録第十244頁)ということがありました。1946430日生まれのイェムトランド公は,現在のカール16世グスタフ国王です。1945429日の天長節に際しても「スウェーデン国・満洲国・アフガニスタン国・タイ国の各皇帝,並びに中華民国国民政府主席代理より祝電が寄せられ,それぞれ答電を発せられる。なお,ドイツ国総統からの祝電はこの日の時点において到着なく,電信連絡も途絶状態にあり。」ということで(宮内庁『昭和天皇実録 第九』(東京書籍・2016年)656頁),グスタフ5世は義理堅いところを見せていました。昭和天皇がお下品に「あのくそ野郎/さっそく俺の敵に回ったか」とジャン=バティスト・ベルナドットの子孫について独白することは全くあり得なかったわけです。 

4 同君国関係

 ベルギー国憲法871項も面白いですね。

 大日本帝国憲法下でも「天皇が同時に或る外国の君主として,2箇国又は数箇国に君臨したまふことも,憲法上敢て不可能ではない。同君国関係には偶然の同君関係(Personal Union)と法律上の同君関係(Real Union)との2種が有る。前の場合には,日本とその外国との間には何等の法律上の関係も無く,唯2国が同一君主を戴いて居るといふだけに止まるもので,仮令それが起り得るとしても,日本の憲法には何の関係も無い。後の場合は,2国(時としては数国のことも有り得る)間の条約に依り永久に2国とも同一の君主を戴くことを約するものであり,此の如き条約を結ぶことは固より憲法(第13条)上の天皇の大権に依るものであるが,併しその条約に基き天皇が外国の君主として行はせたまふところは,外国の憲法に依るのであつて,日本の憲法には関しない,それは外国の統治権であつて,全く日本の統治権ではない。法律上の同君関係の場合には,単に同君であるばかりではなく,之に伴うて一定の範囲に於いて政務を共同にすることを約するのが通常で,此の場合にはその共同の政務に関しては両国の合同の意思に依つて之を処理することを要し,随つてその共同の機関を設くることが必要であるが,此の共同の機関を如何に組織するかも,亦日本の憲法に依つて定まるものではなく,専ら両国間の協定に依つて定まるものであり,その共同政務の処理に関しても日本の憲法は適用せられない。日本の憲法は日本の単独の統治権に関する規定で,此の場合は憲法以外に,共同的の統治権が成立するのである。」ということでした(美濃部・精義98-99頁)。

しかし,19108月の条約は,大日本帝国と大韓帝国とは後嵯峨天皇の子孫たる同一の君主(条約発効時には睦仁天皇兼皇帝)を戴くことを約す,というものではありませんでした。(すなわち,大韓帝国の国璽・皇帝御璽等(大韓国璽,皇帝之宝,勅命之宝2種,制誥之宝,大元帥宝,内閣之印及び内閣総理大臣章)は,無慈悲に破壊・亡失されることはなく大日本帝国の宮内省に保管されていましたが(実録第十170頁参照),使用される機会はなかったところです。これらは,GHQを通じて返還されたものの,大韓国璽等は朝鮮戦争の際亡失したそうです。

 閑話休題。

 

5 王朝選択の重要性

 ベルギー国憲法95条に関して,例のトニセン本(「大日本帝国憲法19条とベルギー国憲法(1831年)6条」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1038090379.html)に次のような一節があります。

 

   この場合,事は新王朝の開基に(de fonder une dynastie nouvelle)かかわるので,受任者の選任という形で,少なくとも間接的に選挙民団(le corps électoral)の意思が問われるべきこと(soit consulté)が至当(juste)である。国家の命運(les destinées du pays)は,君臨する一族(la famille régnante)の徳及び智(des vertus et des lunières)に大きくかかっているのである。(Thonissen, J.J., Constitution Belge annotée, offrant, sous chaque article, l’état de la doctrine, de la jurisprudence et de la législation; Hasselt, 1844. p.227)

 

「国家の命運は,君臨する一族(famille)の徳及び智に大きくかかっている」のです。「日本では,君主政というと「上御一人の支配」のごとく考え,目を君主にのみ注いでしまう」が,世襲君主制が前提とする基礎的事項は,君主は「支配王朝(dynasty)の所属者,すなわち「王族」であること」であって,「君主制政体を,君主の支配政体であるよりも王朝の支配政体と考えるが故に,これが「第一主義」とされ」,「「王族」とされるための条件の確定が,憲法上「之ニ次グ」重要性をもつ」(小嶋・女帝58-59頁)という西洋流の思考の片鱗がここにあります。

 

6 人臣摂政の憲法問題

 

(1)QUI REGIT IN INTERREGNO

なお,ベルギー国憲法95条の暫定的な摂政職は,レオポルド・ジョルジュ・クレティアン・フレデリック・ド・サクス・コブールを初代の王とする王朝の子孫が絶えてしまったときに設けられるものですから,王族ではなく(王族が残っていれば即位すべきです。),我が藤原良房から二条斉敬までの先例同様,人臣が就くものでしょう。

なるほど。我が国でも政権の粗相で皇位の安定的継承が確保できず,古事記の清寧天皇伝(清寧天皇は雄略天皇の子)の伝える「此〔清寧〕天皇,無皇后,亦無御子。〔略〕故,天皇崩後,無可(あめのした)(しらし)天下之王也(めすべきみこなかりき)。」というような状況になった場合は,当時採られた()(こに)(ひつ)日継所知之(ぎしらしめすみこを)(とふに)市辺忍歯別(いろも)忍海(おしぬみの)郎女,(またの)(なは)飯豊(いひとよの)王,坐葛城忍海之高木角刺宮也(かつらぎのおしぬみのたかきのつのさしのみやにいましましき)。」飯豊(いひとよ)(あをの)(みこと)(倉野憲司校注『古事記』(岩波文庫・1963年)195頁・300頁)の例のように女性皇族の摂政で暫時凌いで(ただし,昭和22年法律第31713号から6号までは,摂政就任可能女性皇族を皇后,皇太后,太皇太后,内親王及び女王に限っています。)顕宗=仁賢=武烈的新王朝の出現を待つべし,女性皇族も不在となれば人臣摂政でいくべし,ということでよいのでしょうか。

摂政については,明治皇室典範19条(昭和22年法律第316条に対応)の解説において『皇室典範義解』は「本条は摂政を認めて摂位を認めず。以て大統を厳慎にするなり。」と述べていますが,空位時に摂位を行うRegentは認めないといい得るのは,万世一系の建前により「皇統の全く絶ゆることは,わが憲法の予想しないところで」あるとともに,明治皇室典範10条が「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定して「皇位の一日も曠闕すべからざるを示し」ているからでしょう(『皇室典範義解』。また,昭和22年法律第34条)。現実に空位が生じてしまえば,必要に応じて,摂位的摂政も認められざるを得ないはずです。なお,「摂位トハ皇位曠シキガ故ニ一時仮ニ皇位ヲ充タシ正常ナル皇祚定マルヲ待ツヲ謂」います(美濃部・撮要237頁)。

先の大戦における我が同盟国たりしハンガリー王国においても,人臣摂政による摂位がされていました。

 

 〔19401121〕 日独伊三国条約にハンガリー国加盟日本時間1120日午後730につき,同国摂政ホルティ・ミクローシュと祝電を交換になる。(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(東京書籍・2016年)242頁)

 

(2)日本国憲法5条

ところで,最終手段としての人臣摂政を可能にするためには,摂政就任資格者を皇族に限定している昭和22年法律第3号の第17条を改正しなければなりません。

 

ア 日本国憲法5条の「皇室典範」の法的性質

そこで,念のため,日本国憲法5条を見てみると,同条も難しい。「皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは,摂政は,天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には,前条第1項の規定を準用する。」とあって,「国会の議決した」なしに「皇室典範」が裸で出て来ます。この「皇室典範」は,皇室の家法として,国会の関与なしに天皇によって裁定され得るものなのでしょうか。そうであると,明治典憲体制的でなかなか由々しい。しかし,ここでの一般的説明は,日本国憲法2条で「国会の議決した皇室典範」とあるので皇室典範は今や法律であり,したがって同5条の皇室典範も法律なのだ,というものでしょう。

いやいや皇室典範も複数あり得て「国会の議決しない皇室典範」も存在し得るのではないですか,という反論が許されないのは,皇位継承及び摂政設置に関する条項を含めて,皇室典範は「皇室典範」という題名の単一の法典として制定されていなければならないのだ(したがって法的性質も同一),皇室典範事項をばらばら分けて複数の法典にしてはならないのだ,という暗黙かつ強固な前提があるからでしょう(これに対して,Kaiserliche Hausgesetzeが複数であり得ることについては,小嶋和司「ロエスレル「日本帝國憲法草案」について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)58頁参照)。そうであると,皇室典範は単一の法典でなければならない,という当該要請は憲法的なものとなります。天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)においてわざわざ昭和22年法律第3号の附則に「この法律の特例として天皇の退位について定める天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)は,この法律と一体を成すものである。」との呪文的第4項が加えられたのは,日本国憲法5条の「皇室典範」の法律性を確保するためでもあったものでしょう。なお,日本国憲法5条がGHQの米国人らをクリアしたのは,同条の英文は“When, in accordance with the Imperial House Law, a Regency is established…”であるので,ここの定冠詞付きの“the Imperial House Law”は第2条の“the Imperial House Law passed by the Diet”を承けたものでございます,との説明が可能だったからでしょうか。

 

イ 皇室典範事項について規定するものたる法律が定め得る内容の範囲

さて,人臣摂政の可能性なのですが,普通の法律ではなく,皇室典範事項について規定するものたる法律によって摂政の設置について定める以上は,皇室典範事項という枠をなお尊重して,摂政は皇室の家法の適用されるべき者(皇族)でなければならないという憲法的要請までをも日本国憲法5条の「皇室典範」との文言に見出すべきものかどうか。19211125日の「朕久キニ亙ルノ疾患ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルヲ以テ皇族会議及枢密顧問ノ議ヲ経テ皇太子裕仁親王摂政ニ任ス茲ニ之ヲ宣布ス」との詔書の副署者は,牧野伸顕宮内大臣及び高橋是清内閣総理大臣でしたが(宮内庁『昭和天皇実録 第三』(東京書籍・2015年)525頁),これは摂政の設置は「大権ノ施行ニ関スル」ものではなく,「皇室ノ大事」であったことを示しています(公式令(明治40年勅令第6号)12項参照)。確かに,明治皇室典範35条は「皇族ハ天皇之ヲ監督ス」と規定していたところ,同36条は「摂政在任ノ時ハ前条ノ事ヲ摂行ス」と規定し,同条について『皇室典範義解』は「(つつしみ)て按ずるに,摂政は大政を摂行するのみならず,兼て又皇室家父たるの事を摂行す。故に,皇族各人は摂政に対し家人従順の義務を有すべし。と解説していました。明治皇室典範19条に関しても『皇室典範義解』は「摂政は天皇の天職を摂行し,一切の大政及皇室の内事皆天皇に代り之を総攬す。而して至尊の名位に居らざるなり。」と述べています(下線は筆者によるもの)。

しかし,天皇が不在であり,かつ,皇族も不在となって摂政も不在となれば,天皇又は摂政が行うものと日本国憲法の定める国事に関する行為を行う者がいなくなり,国家として不便でしょう。そうであれば,摂政に関する皇室典範事項について国会の立法権があえて及ぶ以上,「皇嗣発見」までの期間における人臣による摂政事務管理に関する規定を憲法改正によらず法律の制定の形で行いおくことも許されるもの()そもそも明治皇室典範21条に関して『皇室典範義解』は,「而して本条皇后・皇女に摂政の権を付与するは,(けだし)上古以来の慣例に遵ひ,且摂政其の人を得るの道を広くし,人臣に下及するの漸を(ふさ)がむとなり。」と述べており,皇族摂政たり得る者がいなくなれば,やむを得ず摂政職が「人臣に下及」することもあり得るものと考えられていたものでしょう((ぜん)は,ここでは「いとぐち」の意味でしょう(『角川新字源』1978年))。)。「已ヲ得ザル事実上ノ必要ハ明文ノ定ムルモノナシトスルモ尚必然ニ国法ノ認容スル所ト認メザルベカラズ」です(美濃部・撮要245頁参照)。人臣主導の機関たる皇室会議の設置も既に昭和天皇の裁可せられたところです(皇室会議については,1946920日に昭和天皇が皇族及び王公族に語ったところによると「国政の問題」であるところです(実録第十186頁)。皇室会議は,皇家の機関ではなく,六波羅探題的な国家の機関であるということなのですね。)


(3)日本国憲法4条2項

 摂政の話をしてしまうと,つい国事行為臨時代行についても調べてみたくなります。

監国という言葉があります。「天子が征伐などで都をはなれるとき,皇太子が代理で国政を統べること」です(『角川新字源』)。『皇室典範義解』は,明治皇室典範19条解説において,「(もし)天皇一時の疾病違和又は国彊の外に(いま)すの故を以て,皇太子皇太孫に命じ代理監国せしむるが如きは,大宝令「以令(りやうをもつて)(ちよくに)(かへよ)」の制に依り,別に摂政を置かず(欧洲各国亦此の例を(おなじ)くす)。」と述べています。「監国ハ摂政ト異ナリ勅命ニ依リ其ノ任ニ就クモノニシテ,摂政ガ法定代表ノ機関ナルニ反シテ監国ハ授権ニ基ク代表機関ナリ。」,「監国ハ大権ヲ代表スル機関ナルヲ以テ摂政ニ準ジテ皇太子皇太孫ヲシテ之ニ当ラシムルヲ正則トシ,皇太子皇太孫ナキトキ又ハ未成年ナルトキハ皇位継承ノ順序ニ従ヒ他ノ皇族ヲシテ其ノ任ニ就カシムルヲ当然ト為スベシ。」,「憲法及皇室典範ニ別段ノ規定ナシト雖モ,是レ摂政ヲ置クベキ場合ニ非ズシテ而モ天皇大政ヲ親ラスル能ハザル故障アル場合ナルヲ以テ,一時大権ヲ代行スベキ機関ヲ置クコトハ缺クベカラザル事実上ノ必要ナリ。其ノ憲法ノ禁止スル所ニ非ザルコトハ明瞭であると美濃部達吉は説いています(美濃部・撮要245-246頁)。(なお,これに対して上杉慎吉は,「憲法の規定以外に自由に所謂る監国を置きて大権の行使を委任することを得ざるもの」との監国不可論を主張していました(上杉慎吉『訂正増補帝国憲法述義』(有斐閣書房・1916年)269頁)。)

 現在では,国事行為の臨時代行に関する法律(昭和39年法律第83号)による国事行為臨時代行が,監国に相当することになるようです(同法2条参照)。

 しかしながら,天皇を代表し「摂政ニ準」ずる機関ならば1964428日の参議院内閣委員会において高辻正巳政府委員(内閣法制次長)も「摂政の場合と実は行為の性格は同じようになります」と答弁しています(46回国会参議院内閣委員会会議録第284頁)。),天皇の国事に関する行為の委任による臨時代行についても皇室典範で定められるべきであって(日本国憲法5条前段),単なる法律で定められること(同42項)はおかしい,ということになりそうです(上記委員会における「これは単独の国事行為の臨時代行に関する法律ということでなく,〔憲法〕第5条の皇室典範の改正ということでもいいのじゃないのですか。」との山本伊三郎委員の問題意識です(同頁)。)

 この点,実は,GHQ草案33項において“The Emperor may delegate his functions in such manner as may be provided by law.”と規定されており,1946620日の帝国議会提出案においては「天皇は,法律の定めるところにより,その権能を委任することができる。」との文言であった日本国憲法42項は,当時の政府の考えによれば,監国に直接かつ積極的に関係する規定とは必ずしも考えられてはいなかったようなのでした。

 19464月の法制局の「憲法改正草案に関する想定問答(第2輯)」においては,「権能委任は,一般的に又は個別的に何れも差支へなきや」との問いに対し,「大体左様であります。然し一般的といひましても例へば第7条第2号なり第3号なりを全部委任してしまふが如きは予想して居りません。/而して天皇の例へば外国旅行中一般的に権能委任者を置き得るか否か,例へば監国の如き制度を設け得ることが出来るか否かは,必ずしも否定出来ないのでありますが,かかる場合には寧ろ摂政制度を活用すべきものではないかと考へて居ります。」との回答が準備されていました(抹消線は原資料鉛筆書き)。監国制度に対応するものと前向きかつ素直に受け取られていません。同年5月の法制局の「憲法改正草案逐条説明(第1輯)」には「本条第2項には更にこの権能が法律の定める所により内閣その他の機関に委任されることを定めて居るのであります。/従来と雖も例へば三級事務官の任免等のやうに大権事項に関して一部委任が認められて居りましたが,それは憲法を俟たずして行はれて居たものでありますが,本条はその根拠を憲法上明かに規定したのであります。/この委任の範囲は明かにはされて居らず従つて全部委任も亦認められるかの様でありますが,天皇の象徴たる御地位に不可分に伴ふ権能まで一括委任することは許されぬ所と解すべきであります。」と記されています。同年6月の法制局「憲法改正案に関する想定問答(増補第2輯)」では「元来第4条第2項の規定は,かりにこれがないとしても,委任はできるはずである。しかるにこの規定を置いたのは,事が重大であるからであるが,同時に天皇の大権の特殊性〔略〕に鑑み,その委任につき法律で定める必要があることを明らかにするためであると考へられる。差当り〔略〕委任の限度は法律で明定されることとならう。」との記述が見られます。行政庁間の委任のイメージです。法律が必要であって,勅旨ないしは政令その他の命令に基づく委任は認められない,ということでしょう。「国事行為の中の比較的軽度であり,しかも相当頻度が高いというようなものにつきまして〔特定の事項を限って〕,天皇が一定の機関に対して権能を授与してその行為を行わせる」場合です(第46回国会参議院内閣委員会会議録第284頁(高辻政府委員))

 その後,1964年に国事行為の臨時代行に関する法律が単独の法律として制定されることとされて,昭和22年法律第3号の改正という形にならなかったことについては,「皇室典範に規定しても間違いとは言えないと思」われつつも,「憲法の4条の2項で委任することができる」ことには国事行為の臨時代行に関する法律が考えている監国的なことも正に含まれるので,「第4条第2項の「法律の定めるところにより,」というふうに出ておりますので,やはりこれは単独の法律で第4条第2項の「法律(ママ)定めるところにより,」の法律として立案するのが適当であろうというふうに考えた」のだとの説明が政府からされるに至っています(第46回国会参議院内閣委員会会議録第284頁(高辻政府委員))。はしなくも憲法42項によって,監国関係事項は皇室典範事項から外れて国会立法専管事項に移管されたものと解されるのだあっさりと単独の法律として立法した方が皇室典範の改正の在り方という問題との関係で余計な議論をせずに済んでよいのだ,ということになったということでしょうか。

 なお,日本国憲法42項の法律を活用して,当該法律をもって制度的に,天皇の行う国事行為の範囲を絞ることができるかといえば,そうはならないようです。つとに19466月の法制局「憲法改正案に関する想定問答(増補第2輯)」において,「法定委任はみとめられない。これは,天皇が親ら委任することができるといふ趣旨に規定してある文理上からも明白である。又,天皇の大権と無関係に成立する法律で,憲法上天皇に帰属させた大権事項を,第三者の手に実際上任せてしまふことは,憲法の精神からも承服しかねる。」との解釈が準備されていました。

 

7 三種の神器その他の由緒物の管理に関する問題

 

(1)皇位継承なき天皇崩御の場合における由緒物の行方

ところで,天皇又は摂政が行うものと日本国憲法が定める国事に関する行為をどうするかの問題より先に,天皇の私有財産としての「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」(三種の神器を含む。)に関する相続問題が起こりそうです。

皇室経済法(昭和22年法律第4号)7条は,「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。」と規定しています。これは民法の分割相続原則に対する例外を定める規定のようなのですが,天皇崩御の際皇位継承がされない場合においては,民法の原則にやはり戻って,皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,大行天皇の配偶者(同法890条)と女系卑属(同法887条)又は直系尊属(同法88911号)若しくは姉妹(同項2号)若しくは姉妹の子たる甥姪(同条2項)との間で共同相続されて,各物件は共同相続人間の共有物となるのでしょう(同法898条・899条)。しかして,当該相続において皇嗣ではない方々によって相続せられた「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」は,相続税法(昭和25年法律第73号)1211号の「皇位とともに皇嗣が受けた物」には該当しないことになるので,相続税の課税価格に算入されます。

 

(2)三種の神器と民法897条と

 三種の神器は,民法8971項の祭具に該当するのでしょう。「祭具とは,祖先の祭祀,礼拝の用に供されるもの(位牌,仏壇,霊位,十字架やそれらの従物など)」(谷口知平=久貴忠彦編『新版注釈民法(27)相続(2)(補訂版)』(有斐閣・2013年)82頁(小脇一梅・二宮周平)),あるいは「位牌・仏壇その他祖先を祭る用に供するもの。〔旧〕民事訴訟法第570条第10の「神体,仏像其他礼拝ノ用ニ供スル物」よりも――祖先を祭るためのものに限定されるから――狭いと解されている。」とされています(我妻榮=立石芳枝『親族法・相続法』(日本評論新社・1952年)411頁(我妻))。祭具は動産であるものと想定されているようです。

宮中三殿については,これらは不動産でしょうし,系譜にも墳墓にも該当しないでしょうから,民法897条の適用はなさそうです。系譜は「歴代の家長を中心に祖先以来の系統(家系)を表示するもの」であり(谷口=久貴82頁(小脇=二宮)),墳墓は「遺体や遺骨を葬っている設備(墓石・墓碑などの墓標,土葬のときの埋棺など)」であって「その設置されている相当範囲の土地(墓地)は,墳墓そのものではないが,それに準じて同様に取り扱うべきものであろう」とされています(同頁)。

相続税法1212号は,墓所,霊廟及び祭具並びにこれらに準ずるものは,相続税の課税価格に算入されないものとしています。

天皇崩御の際皇位継承がされないとき(皇室経済法7条が働かないとき)には,祭具たる三種の神器の所有権は誰に移転するのでしょうか。

まず,祖先の祭祀を主宰すべき者に係る大行天皇による指定があれば,それによります(民法8971項ただし書)。民法上,指定の方法及び被指定者の資格については,「被相続人が指定するその方法は,生前行為でも遺言でもよく,また,それらは口頭,書面,明示,黙示のいかんを問わず〔略〕,いかなる仕方によるも指定の意思が外部から推認されるものであればよい。被指定者の資格についても別段の制限はない(通説)。」とのことです(谷口=久貴84頁(小脇=二宮))。そもそも祭祀財産の承継者は,「必ずしも被相続人の親族関係者殊に相続人にかぎらず,かつまた,同氏者たるを要しない」ところです(同頁)。

しかし,三種の神器の承継者の指定は,正に祖先の祭祀を主宰すべき天皇の祭祀大権を承継すべき者の指定でしょう(なお,祭祀大権については「大日本帝国憲法下における祭祀大権の摂政による代行に関して」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060801001.htmlを参照)。「国政に関する権能を有しない」はずの天皇が(日本国憲法41項後段),そのような際どい指定行為をしてよいのか,との懸念が生じないものでしょうか。上皇から今上天皇への「贈与」(天皇の退位等に関する皇室典範特例法附則7条参照)がせられたときと同様に済ますわけにはいきません(なお,「三種ノ神器と天皇の退位等に関する皇室典範特例法案要綱とに関して」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065923275.html参照)。しかし,飽くまでも単なる財産の授受関係と見れば,皇室内限りであれば(皇位の継承がないときですから,被指定者たり得る皇族として残っている方々は,皇后,太皇太后,皇太后,親王妃,内親王,王妃若しくは女王又は上皇若しくは上皇后ということになります。),日本国憲法8条の国会の議決という形で臣民が容喙すべきものではないようではあります。

被相続人による指定に次ぐ祭祀財産承継者決定の方法に係る民法8971項本文の「慣習」は,「祭祀財産承継の問題の起こっているその地方の慣習あるいは被相続人の出身地の慣習またはその職業に特有の慣習などである」そうです(谷口=久貴85頁(小脇=二宮))。しかし,三種の神器の承継に係る慣習(すなわちこれは祭祀大権を伴うところの皇位の継承に係る慣習ということになります。)が確立していれば,皇位の継承もそれに従って安定的にされるはずですが,皇位の安定的継承の方法が議論の対象になっているということは,そもそもそのような確立した慣習がないということでしょう。

祖先の祭祀を主宰すべき者に係る被相続人による指定もなく,慣習も明らかではないときは,系譜,祭具及び墳墓の所有権の承継者は家庭裁判所が定めます(民法8972項)。この家庭裁判所による承継者指定の基準については,「「承継候補者と被相続人との間の身分関係や事実上の生活関係,承継候補者と祭具等との間の場所的関係,祭具等の取得の目的や管理等の経緯,承継候補者の祭祀主宰の意思や能力,その他一切の事情(例えば利害関係人全員の生活状況及び意見等)を総合して判断すべきであるが,祖先の祭祀は,今日もはや義務ではなく,死者に対する慕情,愛情,感謝の気持ちといった心情により行われるものであるから,被相続人と緊密な生活関係・親和関係にあって,被相続人に対し上記のような心情を最も強く持ち,他方,被相続人からみれば,同人が生存していたのであれば,おそらく指定したであろう者をその承継者と定めるのが相当である」とする(東京高決平18419判タ1239289〔略〕)」のが判例であるそうです(谷口=久貴87頁(小脇・二宮))。しづなる庶民感覚をもってされてしまう裁判ということになりましょうか。

民法897条で解決がつかない場合には,「特別の規定が用意されていないので,普通の相続財産と同様に,相続人もいなければ,最後は国庫に帰属すると解すべきであろう」とされています(谷口=久貴84頁(小脇・二宮))。

 

(3)「由緒物法人」案

皇位の継承はされず,大行天皇は祖先の祭祀を主宰すべき者の指定をしておらず(遺言もなく),慣習も明らかではなく,東京家庭裁判所(家事事件手続法(平成23年法律第52号)1901項・民法883条)に対する承継者指定の審判の申立てがされるような関係者の不穏な動きもないときは,結局三種の神器も法定相続されるようです。そうなると,後になって「皇嗣発見」があったとき,新天皇は果たして無事かつ円滑に三種の神器その他の皇位とともに伝わるべき由緒ある物を大行天皇の相続人(並びに更にそれらの方々の相続人及び由緒物の即時取得主張者等々)から回復できるものかどうか。

あるいは用心のため,皇室経済法に次のような規定を加えおくべきでしょうか。

 

  第7条の2 天皇が崩じた時に皇嗣が明らかでないときは,前条の物(以下「由緒物」という。)は,法人とする。

  第7条の3 前条の場合には,家庭裁判所は,検察官の請求によって,由緒物の管理人を選任しなければならない。

  第7条の4 民法(明治29年法律第89号)第955条の規定は,第7条の2の法人について準用する。

  2 民法第27条から第29条まで,第952条第2項及び第956条第2項の規定は,前条の由緒物の管理人について準用する。この場合において,同法第27条第1項及び第29条第2項中「不在者の財産の中から」とあるのは「国庫から」と読み替えるものとする。

 

万世一系ですから,皇嗣が不存在であるとき(「皇嗣のあることが明らかでない」場合に含まれます。)という事態は観念上許されないのでしょう。

飽くまでも私物の管理の問題ですので,内閣総理大臣,宮内庁長官その他の行政官庁を煩わすべきものでもないのでしょう。特に,由緒物には宗教的な物が含まれているところが剣呑です。

管理人の選任の公告(民法9522項)の趣旨が「一つには,相続財産上に利害関係を有する者に対し,この「管理人ニ対シテ必要ナル行為ヲ為スノ便」を与えるためで,もう一つは,相続人捜索の第1回の公告を意味しており,「若シ相続権ヲ有スル者アラバ,此公告ヲ見テ速ニ其権利ヲ主張スルノ便」を与えるため(梅〔謙次郎『民法要義巻之五(相続編)』(有斐閣・1900年)〕246-247)」ならば(谷口=久貴694頁(金山正信=高橋朋子)),この場合,当該公告規定の準用は,本来は不要でしょう。皇嗣にあらざるにもかかわらず由緒物について利害関係を有する旨主張する者(大行天皇の債権者又は大行天皇から由緒物の賜与若しくは遺贈を受けた者であると主張するもの,ということになりましょうか。)にわざわざ便宜を与える必要はないでしょうし,「皇嗣発見」のために,現代の忠臣小楯は既に活発な活動議論を行っているであろうからです。とはいえ,人民の相続に関する手続においては公告がされることが,畏き辺りでは公告されない,というのも変ではあります。

皇嗣が明らかになったときには法人は存立しなかったものとし,しかもなお管理人の権限内の行為は効力を失わないものとする「技巧」を用いるのは,「あまり優れた立法技術といえない」わけです(我妻=立石534頁(我妻))。しかし,由緒物に係る所有権の相続による移転という建前を維持すれば,折角の相続税法1211号の規定を生かすことができるでしょう。

由緒物の管理の費用は,由緒物を消尽散逸させてはならないということで国庫から出すことになるのでしょうが(由緒物の拝観料を取ってそれで支弁しろなどというのも不謹慎だとお叱りを受けるのでしょう。),本来ならば内廷費から出ていたものなのでしょうから,その分皇室経済法施行法(昭和22年法律第113号)7条などに必要な修正が施されるものでしょう。

    


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1 共同不法行為の謎

 

   共同不法行為とは,719条という1カ条の条文に規定されているに過ぎない制度であるが,従来から大きな論争点のひとつであり,その解釈は混迷を極めている。なぜだろうか。

   まず,「数人が共同の不法行為に因りて他人に損害を加へたるときは各自連帯にてその賠償の責に任ず」と規定する1項前段は,加害者に連帯責任を課すことにより被害者を保護した規定らしいことは分かるが,「共同の不法行為」とは何かが明らかではない。また,共同行為者中の孰れがその損害を加へたるかを知ること能はざるとき亦同じ」と規定する後段は,加害者不明の場合の規定らしいことは分かるが,「共同行為」とは何かが明らかではない。そして,「共同の不法行為」と「共同行為」との関係も明らかではない。

   これらの点について,起草者の考え方自体はっきりせず(というより一貫せず),かつその後の学説も,各人各様で対立している。そして,判例も,何をもって共同不法行為と考えているのか,必ずしもはっきりしない。このような混迷の原因は,何のために719条があるのかについてそもそも見解が一致しないところにある。

        (内田貴『民法Ⅱ債権各論』(東京大学出版会・1997年)486-487頁)

 

こういわれると,民法(明治29年法律第89号)719条は避けて通りたくなるのですが,そうもいきません。

 

   このように,〔民法719条は〕理論的に問題の多い制度であることに加えて,とくに公害訴訟との関連で,実践的にも,この制度の理解いかんが実際の訴訟の結論に影響を与えることとなったため,以来注目を集めるに至っているのである。(内田Ⅱ487頁)

 

 ということでやむなく,かつて筆者は,夫子・内田貴弁護士の学説に従って民法719条を整理して理解し人にも説明しようと試みたのですが,やはりうまくいかない。

 

  「内田先生のあの本,共同不法行為のところ,何書いているのかさっぱり分からない・・・」

 

 との,某学部長先生(現在は第一東京弁護士会所属の弁護士)からかつて伺った御意見が,誠にむべなるかなと筆者の記憶中に改めてよみがえったところです。

 しかし,「現在のところ,719条の適用領域を画する基準については諸説が乱立し,帰一するところを知らない状況である。判例の考え方も明確ではない。」ということですから(内田Ⅱ490頁),何らかのもっともらしい理屈に基づき何かを言う限りは完全に間違った妄言ということにはならないのでしょう。その意味では,本稿を書きつつ筆者はやや気楽です。

 

  (共同不法行為者の責任)

  第719条 数人が共同の不法行為によって他人に損害を加えたときは,各自が連帯してその損害を賠償する責任を負う。共同行為者のうちいずれの者がその損害を加えたかを知ることができないときも,同様とする。

  2 行為者を教唆した者及び幇助した者は,共同行為者とみなして,前項の規定を適用する。

 

2 旧民法財産編378条並びにドイツ民法830条及び840条1項

 

(1)旧民法財産編378条の条文

民法719条の前身規定として同法起草者の一人である梅謙次郎によって挙げられているものには外国法の規定はなく,旧民法財産編(明治23年法律第28号)378条のみが示されています(梅謙次郎『民法要義巻之三債権編(訂正増補第30版)』(法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1910年)906頁)。

 

 第378条 本節〔第3節 不正ノ損害即チ犯罪及ヒ准犯罪〕ニ定メタル総テノ場合ニ於テ数人カ同一ノ所為ニ付キ責ニ任シ各自ノ過失又ハ懈怠ノ部分ヲ知ル能ハサルトキハ各自全部ニ付キ義務ヲ負担ス但共謀ノ場合ニ於テハ其義務ハ連帯ナリ

 

(2)ドイツ民法830条及び840条1項の各条文

しかしながら,日本民法719条とドイツ民法(我が民法第1編から第3編までの公布と同年の1896年公布)830条とはよく似ています。

 

       §830

  (1) Haben mehrere durch eine gemeinschaftlich begangene unerlaubte Handlung einen Schaden verursacht, so ist jeder für den Schaden verantwortlich. Das Gleiche gilt, wenn sich nicht ermitteln lässt, wer von mehreren Beteiligten den Schaden durch seine Handlung verursacht hat.

  (2) Anstifter und Gehilfen stehen Mittätern gleich.

 

     第830条

  1 数人が一の共同(gemeinschaftlich)にされた不法行為によって一の損害を惹起したときは,各人は当該損害に対して責任を負う。数人の関与者のうち(von mehreren Beteiligten)だれがその行為によって損害を惹起したかを知ることができないときも,同様とする。

  2 教唆者及び幇助者は,共同行為者と同様である(stehen Mittätern gleich)。

 

ただし,日本民法7191項は連帯債務であることを明言していますが,ドイツ民法8301項では「各人は当該損害に対して責任を負う。」とだけあってその点がなおはっきりしていません。ドイツ民法8401項を見なくてはなりません。ドイツでも連帯債務です。

 

        §840

  (1) Sind für den aus einer unerlaubten Handlung entstehenden Schaden mehrere nebeneinander verantwortlich, so haften sie als Gesamtschuldner.

 

     第840条

  1 一の不法行為から生ずる損害に対して数人が併存的に(nebeneinander)責任を負うときは,当該数人は連帯債務者として(als Gesamtschuldner)責任を負う。

 

(3)ドイツ民法第一草案714条(1888年)の条文

ドイツ民法830条は,1888年の第一草案では次のとおりでした(ドイツ民法の草案やその理由書・議事録がインターネットで見ることができてしまうので,髭文字を読解せねばならず,かえって大変です。)。

 

     §714

Haben Mehrere durch gemeinsames Handeln, sei es als Anstifter, Thäter oder Gehülfen, einen Schaden verschuldet, so haften sie als Gesammtschuldner. Das Gleiche gilt, wenn im Falle eines von Mehreren verschuldeten Schadens von den Mehreren nicht gemeinsam gehandelt, der Antheil des Einzelnen an dem Schaden aber nicht zu ermitteln ist.

 

     第714条

数人が(Mehrere),教唆者,行為者又は幇助者のいずれかとして,「共同」の行為(gemeinsames Handeln)によって一の損害をひき起こした(verschuldet)ときは,連帯債務者(Gesammtschuldner)として責任を負う。数人によってひき起こされた一の損害について当該数人が「共同」に行為していなかった(nicht gemeinsam gehandelt)場合において,しかし当該損害に係る各人の寄与分(Antheil)を知ることができないときも,同様とする。

 

ここで「共同」と括弧がついているのは„gemeinsam“であって,括弧なしの共同である„gemeinschaftlich“との訳し分けを試みたものです。

„Antheil“を「寄与分」と訳してみましたが,どうでしょうか。「原因力の大小等」(我妻榮『事務管理・不当利得・不法行為』(日本評論社・1937年(第1版))194頁参照)ともいい得るものでしょうか。(なお,ある結果に対してある事実が原因であるかどうかは厳密にはディジタル的な有無の問題であって,アナログ的な大小の問題ではないところです。)

 このドイツ民法第一草案714条は,見たところ,我が旧民法財産編378条と同じようなところのある規定であるようです。

 まず,ドイツ民法第一草案714条の第1文(「数人が,教唆者,行為者又は幇助者のいずれかとして,「共同」の行為(gemeinsames Handeln)によって一の損害をひき起こしたときは,連帯債務者(Gesammtschuldner)として責任を負う。」)は,我が旧民法財産編378条ただし書(「共謀ノ場合(であってすなわち当該「数人カ同一ノ所為ニ付キ責ニ任」ずる場合)ニ於テハ其義務ハ連帯ナリ」)と同じ規定であるように思われます(当該ただし書においては教唆者及び幇助者の取扱いについては明文で取り上げられてはいませんが。)。

ドイツ民法第一草案714条の第2文は,当該数人の「共同」の行為(gemeinsames Handeln)ではない場合ではあるが,それらの者の全員が各々当該損害の発生に何らかの寄与をしているときに関する規定であると読むことができます。我が旧民法財産編378条本文も,同条ただし書の場合以外の場合(共謀ではない場合)を含んでおり,かつ,「数人カ同一ノ所為ニ付キ責ニ任シ各自ノ過失又ハ懈怠ノ部分ヲ知ル能ハサルトキハ各自全部ニ付キ義務ヲ負担ス」というのですから,共謀でない当該場合において「数人カ同一ノ所為ニ付キ責ニ任」ずるのは,当該数人のいずれについても損害の発生の原因行為をしていることが認められるときであるということを前提とするもののようです(当該損害を惹起した「過失又ハ懈怠」の各人における存在を前提としているものと解されます。ただし,「同一ノ所為」であって「損害」ではないのですが,次に見るボワソナアドの草案では「所為」は"fait"ですので,ここでは,なされた結果に重点を置いて理解すべきなのでしょう。)。しかしながら効果については,ドイツ民法第一草案第2文は連帯債務とするのに対し,我が旧民法財産編378条本文は全部義務とするところにおいて,両者は相違します。

 

(4)ボワソナアド草案398条

とここで,旧民法財産編378条が基づいたところのボワソナアドの草案398条及びその解説を見てみる必要があるようです。少々長い寄り道となります。

 

   398.  Dans tous les cas prévus à la présente Section, si plusieurs personnes sont responsables d’un même fait, sans qu’il soit possible de connaître la part de faute ou de négligence de chacune, l’obligation est intégrale pour chacune, conformément à l’article 1074.

      S’il y a eu entre elles concert dans l’intention de nuire, ells sont solidairement responsables. [C. it. 1156]

  Boissonade, M. Gve, Projet de Code Civil pour l’Empire du Japon, accompagné d’un Commentaire, Nouvelle Édition, Tome Deuxième, Droits Personnels et Obligations (Tokio, 1891) p.311

 

“concert dans l’intention de nuire”ですから,旧民法378条の「共謀」は,故意の加害に係る共謀ということになります。

イタリア民法典の第1156条が参考条文として挙げられていますが,残念ながら筆者はイタリア語をつまびらかにしません。

 ボワソナアド草案1074条とは,旧民法債権担保編(明治23年法律第28号)73条のことです。

 

       第4款 全部義務

  第73条 財産編第378条,第497条第2項及ヒ其他法律カ数人ノ債務者ノ義務ヲ其各自ニ対シ全部ノモノト定メタル場合ニ於テハ相互代理ニ付シタル連帯ノ効力ヲ適用スルコトヲ得ス但其総債務者又ハ其中ノ一人カ債務ノ全部ヲ弁済スル言渡ヲ受ケタルトキモ亦同シ

   然レトモ一人ノ債務者ノ為シタル弁済ハ債権者ニ対シ他ノ債務者ヲ免レシム又弁済シタル者ハ事務管理ノ訴権ニ依リ又ハ債権者ニ代位シテ得タル訴権ニ依リテ他ノ債務者ニ対シ其部分ニ付キ求償権ヲ有ス

 

             DE L’OBLIGATION SIMPLEMENT INTÉGRALE.

    ART. 1074. --- Dans le cas des articles 88, 152, 398, 519, 2e alinéa, et tous autres où l’obligation de plusieurs débiteurs est déclarée par la loi “intégrale ou pour le tout” à l’égard de chacun d’eux, il n’y a pas lieu de leur appliquer ceux des effets de la solidarité qui sont attachés au mandate réciproque, même après qu’ils ont, en tout ou en partie, subi la condemnation intégrale.

        Mais le payement fait par un seul libère tous les autres vis-à-vis du créancier, et celui qui a payé a son recours contre les autres pour leur part et portion, tant par l’action de gestion d’affaires que par les actions du créancier auxquelles il est subrogé de plein droit.

      Boissonade, M. Gve, Projet de Code Civil pour l’Empire du Japon, accompagné d’un Commentaire, Nouvelle Édition, Tome Quatrième, Des Preuves et de la Prescription, Des sûretés ou Garanties. (Tokio, 1891) p.162

 

ボワソナアド草案3981項は全部義務となる場合を規定し,同条2項は連帯債務となる場合を規定します。ボワソナアドによる同条の解説は,いわく。

 

  我々はここ〔ボワソナアド草案398条〕において,複数の人の用益に供され,又は複数の人に賃貸された家屋の火災に関して既に見たところ(草案88条及び153条参照)の責任の規整と同様の規整を見出す。

  この節において法が過失あるものと推定するところの複数の者(personnes que la loi présume en faute)中の各人についてその過失又は懈怠(négligence)の部分(part)を知り,かつ,決定することが可能である場合においては,彼らに対して全部義務(une responsabilité intégrale)を課することは衡平を欠くこととなろう。しかしながら,各個の過失の程度に係る当該確認は,ほぼ常に不可能である。そこで(alors),法は,各人が過失全体について有責であるものとみなすのである。読者は,第1074条について,債務に係るこの形態(cette modalité des obligations)――連帯債務(solidarité)の隣人ではあるが,それと混同してはならない――についての詳細を知ることができる。

  均一又は不均一に定められた持分において(pour des parts)複数の人によって所有される動物によって,又はそのような建物の崩壊によって損害(dommage)が惹起された場合においては,人はあるいは躊躇するであろう。この場合においては,衡平は,損害を生じさせた物に係る彼の所有権の割合に応じた責任以外の責任を各人に課することを許さないようにあるいは思われるであろう。しかし,これは幻覚である。例えば,建物の半分の持分の共有者でしかない者であっても,その半分のみについて建物を維持し,及び修繕するということは許されず,全体についてしなければならなかったのである。より強い理由をもって,危険な動物について,彼はそれをその全体について管理しなければならなかったのである。すなわち,その一部分以外については動物が管理されずにあり得るというようなことはおよそ考えることができない。共有者の各権利の割合に応じて責任を分割するものとする反対説は,知らず知らずのうちに,委付(abandon noxal)に係るローマの古い理論の影響を被ってしまっているのである。すなわち,生物又は無生物によって惹起された損害に係る責任から,損害の被害者に当該物を委付することによって逃れることを許す法制下においては,各共有者の責任がその持分を超え得ないことは明白である。しかしながら,この上なくより合理的かつ衡平な現在の制度は,もはやそうではない。そこにおいては,責任は,所有者の懈怠の上にのみ基礎付けられるのである。しかして,監督(surveillance)は性質上不可分であるので,責任は全部に及ぶものでなければならないのである。

  復数の人による過失(la faute de plusieurs)が意図的かつ共謀に基づくもの(volontaire et concertée)である場合においては,そうであればそれは私法上の犯罪(un délit civil)を構成するのであって,法は,複数の人による刑法上の犯罪の場合と同様に,そうであれば当該債務は連帯solidaire)であるものと宣言する。全部義務(l’obligation simplement intégrale)よりもより厳格な連帯債務(l’obligation solidaire)については,第4編第1部(第1052条以下)において説明される1

 

(1)〔ボワソナアドの原註〕古い案文においては,全ての場合において連帯義務(la responsabilité solidaire)となるものとされていた。その後,ここに示された区分(distinction)を我々(nous)は提案し,しかして当該区分は正式法文(第378条)に採用された。

Boissonade, Tome II, pp332-333

 

 「この節において法が過失あるものと推定するところの複数の者中の各人についてその過失又は懈怠の部分を知り,かつ,決定することが可能である場合においては,彼らに対して全部義務を課することは衡平を欠くこととなろう。」とありますから,その過失又は懈怠が,部分(part)としてはいかに小さいにせよ,損害の原因となっていることは証明されている,ということが前提とされているものでしょう。

 なお,そもそも「この節において法が過失あるものと推定するところの複数の者中の各人についてその過失又は懈怠の部分を知り,かつ,決定することが可能である場合」以外の場合(その過失又は懈怠の部分を知り,かつ,決定することが不可能である場合)において,分割債務(民法427条)又は連合ノ義務(旧民法財産編440条)の規定によらないこととされているのは,「数人の〔略〕債務者が同一内容の給付を〔略〕履行すべき義務を有し,而して〔略〕一人のなす履行によつて消滅する同じ数個の債権債務関係」が「不法行為又は債務不履行によつて損害を発生した場合」に発生するものとされていたローマ法(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)273-274頁)以来の伝統のゆえでしょうか。

 ローマ法における委付の話も出て来ますが,これは,「家長主人が権力服従者の加害行為に関し罰金又は損害額を支払う(noxam sarcire)代りに,加害者,加害動物を委附して(noxae dedere, noxae datio)その責を免れるを特色とする訴権を加害訴権(actio noxalis)という。〔略〕当初に於ては委附が本来の債務で,ただ支払によつて委附債務を免れ得たと解せられる。委附の目的は被害者の復讐に任せるにあつた。」というものだったそうです(原田234-235頁)。

 ボワソナアド草案88条は,次のとおり。

 

    88.  Si les choses soumises à l’usufruit ont péri par un incendie, en tout ou en partie, l’usufruitier n’en est responsable que si sa faute est prouvée en avoir été la cause.

      S’il y a plusieurs usufruitiers, la responsabilité est intégrale à la charge de chacun de ceux qui sont en faute.

  (Boissonade, M. Gve, Projet de Code Civil pour l’Empire du Japon, accompagné d’un Commentaire, Nouvelle Édition, Tome Premier, Des Droits Réels. (Tokio, 1890) pp.167-168

 

  第88条 用益権の目的である物の全部又は一部が火災により滅失した場合においては,用益者は,その過失が原因であったことの証明がない限り責任を負わない。

    用益者が複数であるときは,責任は,過失のあった者の各々について全部の支払となる。

 

 ボワソナアド草案882項についての同人の説明は,次のとおり。

 

法はまた,複数の共同用益者(plusieurs usufruitiers conjoints)が存在する場合であって,彼らについて共同の過失(faute collective)が立証されたときについて備えなければならなかった。この場合,彼らは連帯して責任を負うものと宣言すべきであったろうか,それとも彼らの責任を等分すべきであったろうか。これらの解決案のいずれも受け容れ難く思われた。すなわち,連帯は重きに過ぎ,分割は――一つの過失は複数の部分によってなされるものではないのであるから――非論理的であった。法は,中道を採るものである。すなわち,債務は全部義務であって(l’obligation sera intégrale ou pour le tout),連帯ではない。この解決は,第4編第1部において連帯債務(第1052条以下)及び全部義務(第1074条)がどのようなものであるかを読者が見たときに,よりよく理解されるであろう。(Boissonade, Tome I, pp.187-188

 

 ボワソナアド草案152条及び153条は,次のとおり。

 

 ..152.  Si les choses louées ont péri, en tout ou en partie, par un incendie, le preneur n’en est responsable que si l’incendie est prouvé avoir été causé par sa faute. [Contrà 1733.]

 

 ..153.  Au cas de plusieurs locataires de la même chose, tous ceux dont dont la faute est prouvée sont intégralement responsables de l’incendie.

  [Contrà 1734; L. fr. du 5 janv. 1883]

                                             Boissonade, Tome I, p.280

 

 第152条 賃借物の全部又は一部が火災により滅失した場合においては,賃借人は,当該火災はその過失を原因とするとの証明がない限り責任を負わない。(反対:フランス民法1733条)

 

  第153条 同一の物の賃借人が複数であるときは,そのうちその過失が証明された全ての者は,火災につき全部義務を負う。

  (反対:フランス民法1734条,フランス188315日法)

 

フランス民法1733条は賃借人の過失を推定し,同法1734条は連帯債務とし,フランス188315日法は,各自の住居の賃料に比例した責任を負うものとしていたそうです(Boissonade, Tome I, p.288)。

 

(5)ドイツ民法第一草案714条の理由書(Motive

 さて,再びドイツ民法第一草案714条。

 同条について,ドイツ民法第一草案理由書(Motive)は,次のように述べます。

 

教唆者,行為者又は幇助者のいずれかとして,「共同」の行為によって一の損害をひき起こした数人は,連帯債務者として責任を負う,という規定は,現行法を踏襲(wiedergeben)するものである。もっとも,普通法理論においては(in der gemeinrechtlichen Theorie),そのようなものとしての教唆者の責任について,異論がある。しかしながら,今日の法にとっては,そのような論争に意義は認められない。

同様の連帯債務者責任(die gleiche gesammtschuldnerische Haftung)が,数人によってひき起こされた一の損害の場合であって,当該数人が「共同」に行為しておらず(diese Mehreren nicht gemeinsam gehandelt haben),しかし当該損害に係る各人の寄与分を知ることができないときに生ずる(ザクセン法典第1495条,バイエルン草案第71条,ドレスデン草案第128条を参照)。この規定は,当該数人全員(die sämmtlichen Mehreren)が共通の不法行為の基礎に基づいて(nach allgemeinen Deliktsgrundsätzen)具体的な形で(in concreto)責任を負う(ein Verschulden trifft),という前提の限りにおいて(vorausgesetzt immer),どの行為が当該損害を直接(gerade)惹起したかが不確か(ungewiß)であるときにも特に適用を見るものである(greift namentlich auch Platz)。当該規定は,例えば,乱闘における(in Raufhändeln)致死事案(Tödtung)又は傷害事案(Körperverletzung)について実用的(praktisch)であろう。

事後援助者(Begünstiger)又は隠匿者(Hehler)の責任義務についての規定は,必要ではない。彼らが彼ら自らの行為によって(第704条及び第705条。刑法第257条以下参照)損害を惹起した限りにおいては,これらの者の損害賠償義務は自明のことである。他者の不法行為によって獲得された利益(Vortheile)について自ら不法行為をすることなく参与する(partizipiren)第三者は,その限りにおいて(insoweit)被害者に対して責めを負うものとする一般規定は,しかし,有益であるかもしれない(positiv wäre)。不法行為者(Delinquent)が参与を認めた第三者に対しての利得返還請求の可否の問題は,本草案の一般原則によって解決される。

 

 ここで,「どの行為が当該損害を直接惹起したかが不確かであるとき(wenn ungewiß ist, welche Handlung gerade den Schaden verursacht hat)」の問題は,寄与分の大小ではなく,そもそもの寄与(原因性)の有無に係る問題であるように思われます。ドイツ民法第一草案7142文の「しかし当該損害に係る各人の寄与分を知ることができないときder Antheil des Einzelnen an dem Schaden aber nicht zu ermitteln ist)」の文言の枠内にとどまるものか否か。


(6)ドイツ民法第二草案(1894年)に係る議事録(Protokolle)をめぐって

 ドイツ民法第一草案714条の文言は,同第二草案(1894年)753条において既に現行ドイツ民法830条の文言になっています。

 第一草案から第二草案への移行においてどのような議論があったのか。第二読会委員会の議事録(Protokolle der Kommission für die Zwite Lesung)は,いわく。

 

   その第1文に対しては異議の提起がなかった第714条について,第2文を次のようにすべきだとの提案がされた。

 

     数人が非共同的に行為し,かつ,だれの行為が損害を惹起したかを知ることができないときも,同様とする。Das Gleiche gilt, wenn Mehrere nicht gemeinschaftlich gehandelt haben und sich nicht ermitteln läßt, wessen Handlung den Schaden verursacht hat.

 

   当該提案は,採択された。ただし,文言(Fassung)については,編集委員会(die Red. Komm.)の審査(Prüfung)を受けるものとされた(blieb…vorbehalten)。

   当該提案は,第714条第2文の規定が次のような場合においても適用されることを明らかにしようとするものである。すなわち,違法な結果(ein rechtswidriger Erfolg)が,当該行為に係る数人の関与者の合同作業(das Zusammenwirken mehrerer an der Handlung Betheiligten)によってではなく,数人の関与者中の一人の行為(die Handlung eines von mehreren Betheiligten)によってもたらされたものの,当該行為を行った者(der Urheber)がだれであるか証明(nachweisen)できない場合である。したがって,当該行為をした数人中の(von den mehreren Handelnden)一人が当該損害を惹起したこと,当該損害は当該数人中のいずれによっても(von einem Jeden)惹起された可能性があること(möglicherweise...verursacht ist),及び行為者中の各人について(in der Person jedes der Handelnden),彼が損害惹起者(der Schädigende)であるときは,やはり不法行為責任を問い得ること(auch Verschuldung vorliegt)が前提されれば足りるものである。例えば,乱闘において(bei einem Raufhandel)数人がある一人に殴りかかり,かつ,当該殴打のうちの(von den Schlägen)一つが死をもたらした場合であって,当該致命的殴打がだれから直接出来したかが証明され得ないときには,第714条が適用され得なければならない。現草案によれば(nach dem Entw.),このような場合においては,第714条第1文の適用が疑わしくなるようなのである(würde...zweifelhaft sein)。

     委員会は,一の「共同」の非行に係る関与者の責任義務(Haftpflicht der an einem gemeinsamen Vergehen Betheiligten)をそのように法律上拡大することを承認した。

 

 前記議事録に記載された第7142文の改正案(以下「ドイツ民法83012文プロトコル案」又は単に「プロトコル案」といいます。)は,大胆です。

ドイツ民法83012文プロトコル案の文言であれば,「ある場所で喫煙した数人のうちの,だれかが吸いがらの始末を怠ったために出火した場合」(幾代通著=徳本伸一補訂『不法行為法』(有斐閣・1993年)228頁),「Aは猟に出かけ,Xを猪と間違えて猟銃で撃ってしまったが,同時に,同じく猟に来ていたBも,Xを猪と思って銃で撃った。弾丸は一発だけがXに命中し,Xは瀕死の重傷を負ったが,その弾丸がABいずれのものかが分からなかった(たまたま両者の銃が全く同じ物だったとしよう)」場合(内田Ⅱ489-490頁),山の上からハイカーA及びBがそれぞれ別々に不注意に石を投げて,そのうち一つの石が下の道を歩いていた人に当たって怪我をさせたが,その石を投げたのがAなのかBなのか分からない場合(内田Ⅱ492頁参照)等についても,ドイツ民法83011文の適用(「各人は当該損害に対して責任を負う」)があるものでしょう。「数人が非共同的に行為したとき(Mehrere nicht gemeinschaftlich gehandelt haben)」であっても大丈夫であることが明文化されているということは,心強いところです。

しかしながら,ドイツ民法案起草に係る編集委員会(die Red. Komm.)は,ドイツ民法83012文プロトコル案を大幅に修正しています。

一番大きな変更は,「非共同的に(nicht gemeinschaftlich)」との文言が落とされたことです。やはり,損害を惹起させたことの積極的証明のない者にまで当該損害に係る賠償責任を負わせるには,「共同的に行為する(gemeinschaftlich begehen)」ことは必須であると判断されたものでしょうか。これに対して,ドイツ民法第一草案7142文の場合は,損害に対する寄与分(Antheil)がどれだけかが既に云々されている段階の者に係る損害賠償の分量が問題になっていた(すなわち,既に因果関係は認められていた)ところです。

そうであれば,ドイツ民法83012文の意義は,「例えば,乱闘において数人がある一人に殴りかかり,かつ,当該殴打のうちの一つが死をもたらした場合であって,当該致命的殴打がだれから直接出来したかが証明され得ないときには,第〔830〕条が適用され得なければならない。〔かつての〕草案によれば,このような場合においては,第〔830〕条〔第1項〕第1文の適用が疑わしくなるようなのである。」という疑問を解消するための,為念的規定ということにすぎなかったものでしょうか。確かに,プロトコル案採択の趣旨も,「委員会は,一の「共同」の非行に係る関与者の責任義務(Haftpflicht der an einem gemeinsamen Vergehen Betheiligten)をそのように法律上拡大することを承認した。」ということであって,「一の「共同」の非行(ein gemeinsames Vergehen)」という縛りがかかっています。

ドイツ民法第一草案7142文に係る理由書の記述も「この規定は当該数人全員die sämmtlichen Mehrerenが共通の不法行為の基礎に基づいてnach allgemeinen Deliktsgrundsätzen具体的な形でin concreto責任を負うein Verschulden trifft),という前提の限りにおいてvorausgesetzt immer),どの行為が当該損害を直接gerade惹起したかが不確かungewißであるときにも特に適用を見るものであるgreift namentlich auch Platz。」というものであって,「共通の不法行為の基礎」という枠内限りでの適用拡大で満足し,それ以上の野心的主張はしていなかったところです。
 また,ドイツ民法83011文と同条2項とは共にgemeinschaftlich(又はgemeinsam)な場合であるので,その両者に挟まれた同12文もgemeinschaftlichな場合に係る規定であると解するのが自然でしょう(オセロ・ゲーム的思考:●○●→●●●)。

 ところで,ドイツ民法83012文ではプロトコル案とは異なり「非共同的に(nicht gemeinschaftlich)」との文言が落ちているのですが,そうなるとそれに対応する「数人が「共同」に行為していなかった(nicht gemeinsam gehandelt)場合」に係るドイツ民法第一草案7142文の規律はどこに行ってしまうのかが気になるところです(ドイツ民法83012文も同項1文と同様に共同(gemeinschaftlich)性の枠内にあると解する場合)。この点,ドイツ人は抜かりのないところで,ドイツ民法8401項が受皿規定になっています(ただし,「当該損害に係る各人の寄与分を知ることができないとき」に限らず,連帯債務となります。)。ドイツ民法8401項はドイツ民法第二草案7641項に由来していますが,ドイツ民法第二草案764条については,既にそこにおいてドイツ民法第一草案713条,714及び7362項が原規定である旨如才なく註記がしてありました(なお,法典調査会民法議事速記録41115丁を見ると,我が民法の第719条の起草に当たっての参照条文としてドイツ民法第一草案714条及び同第二草案753条(現行ドイツ民法830条)は挙げられていますが,同第二草案764条(現行ドイツ民法840条)には言及されていません。)。ドイツ民法8401項の「一の不法行為から生ずる損害に対して数人が併存的に責任を負うとき」との文言は,我が旧民法財産編378条本文の「数人カ同一ノ所為ニ付キ責ニ任」ずるときとの文言を彷彿とさせるようでもあります。

 

3 フランス語訳(富井=本野)から見た日本民法719条

「起草者の考え方自体はっきりせず(というより一貫せず)」と内田弁護士には評されているものの,現行民法の起草者の一人である富井政章が,本野一郎と共にした日本民法のフランス語訳(筆者の手元には,新青出版による1997年の復刻版があります。)における第719条は,次のとおり。

 

   ART. 719. --- Lorsque plusieurs personnes ont causé un dommage à une autre par un act illicite commis en commun, elles sont tenues solidairement à la réparation de ce dommage. Il en est de même, lorsqu’il est impossible de reconnaître lequel des coauteurs de l’acte a causé le dommage.

   L’instigateur et le complice sont considérés comme coauteurs.

 

 筆者の手許の辞典(Nouveau Petit Le Robert, 1993)では,“coauteur”とは“Participant à un crime commis par plusieurs autres, à degré égal de culpabilité”とされていますから,これは「共同正犯」ですね。

 また,富井=本野フランス語訳日本民法7191項第2文では“l’acte”と定冠詞付きの「行為」が問題となっていますから,同文は第1文の続き(その内容に関する敷衍)であって,第1文とは別の場面のことを新たに規定しようとするものではないようです。ドイツ民法83012文プロトコル案風に“Il en est de même, lorsqu’il est impossible de reconnaître lequel des acteurs qui n’agissaient pas en commun a causé le dommage.”と読み替えるのは,なかなか難しい。

 となると,民法71912文(後段)は,同項1文(前段)を承けて,共謀に基づき当該不法行為を行った当該数人の者たる「共同行為者」(les “coauteurs”)のうちだれの行為によって当該損害が惹起されたかまでが明らかにされずとも,その全員について連帯債務関係が生ずることには変わりがない旨が規定された,ということになるのでしょう。

 かくして日本民法7191項後段は,本来は,さきに筆者が理解したところのドイツ民法83012文に係る前記為念的趣旨と同じ趣旨の規定だったのでしょうか。そうだとすると,プロトコル案流に「〔民法7191項〕後段の規定の存在理由は,当該数人の者の間には〔同項前段〕の型におけるような主観的共同関係が存在しない場合にも,なお被害者の保護の機会を大きくするために特に政策的に認められた推定規定」であって,だれだか分からないがそのうちのだれかが吸いがらの始末を怠ったために出火したことは確かである事案における容疑者が属するのが「一般公衆が自由に出入りできる場所でたまたま同時に喫煙していた数人といったような」「偶然的な状況の場合であっても,本1項後段の適用を認めてよい」(幾代228-229頁・229頁註3),「ABいずれの行為と損害との間に事実的因果関係があるのか不明であるにもかかわらず,両者に連帯して全損害について賠償責任を負わせることを定めたのが〔民法7191項〕後段だというわけである」,「1項後段の法律的意味は,加害者が不明である限り因果(●●)関係(●●)()推定(●●)する(●●)というところにある」(内田490頁,492頁)とまで大胆に言い切ることは,類推適用の主張であればともかくも,躊躇されます。当該躊躇に対しては,「これに対しては,それでは責任を負わされる容疑者の範囲が不当に広くなる,との批判が出るかもしれないが,「加害者は,この数人のうちのだれかであり,この数人以外に疑いをかけることのできる者は一人もいない」という程度までの証明があり,かつ各人に因果関係の点を除いてそのほかの不法行為の要件がすべて揃っているときに本規定の適用があると解するならば,不当ではあるまい。」(幾代229頁註3)との叱咤があります。ドイツ民法83012文プロトコル案の提案者もそのようなことを言っていたところです。しかし,当該プロトコル案は結局そのままでは採用されず現行ドイツ民法83012文(及び日本民法7191項後段)の文言に変更されている,という事実の重みは厳として存在しています。民法7191項後段が「共同(●●)行為者(●●●)中・・・」といっているのがやや気になる点である」(幾代229頁註3。下線は筆者によるもの)程度どころか,いろいろ気になる筆者にとっては,大いに問題です。

(ただし,ドイツ民法83012文は„Das Gleiche gilt, wenn sie nicht ermitteln lässt, wer von mehreren Beteiligten den Schaden durch seine Handlung verursacht hat.“であってDas Gleiche gilt, wenn sie nicht ermitteln lässt, wer von den mehreren Beteiligten den Schaden durch seine Handlung verursacht hat.“ではなくかつ„Beteiligten“であって„Mittätern“ではないのでプロトコル案的解釈を許容する余地があるのだということになるのかもしれません。

  

4 主観的共同関係のない旧民法財産編378条本文の場合に係る適用条文の行方の問題

 

(1)削られた全部義務関係規定

ところで,前記見てきたところにかんがみ,日本民法719条をドイツ民法830条と同趣旨の規定と考え,日本民法7191項前段の規整対象は,「主観的共同関係のある場合の共同不法行為」すなわち「数人が共謀して強窃盗をしたり,他人に暴行を加えるなど,数人が共同する意識をもって行動した結果として他人に損害を与えた場合」であると解すると(幾代225頁),旧民法財産編378条との関係で問題が残ります。つまり,現行民法719条は旧民法財産編378条のただし書(共謀の場合に係ります。)に対応するものであると理解した場合,それでは爾余の旧民法財産編378条本文の規律(全部義務の場合を定める。)はどこへ行ってしまったのだろうか,という問題です。ドイツ民法の場合は同法8401項で拾い得るのですが(ただし,効果は連帯債務),我が民法においては見たところ規定を欠くようです。

「古い案文においては,全ての場合において連帯義務となるものとされていた。その後,ここに示された〔全部義務との〕区分を我々(nous)は提案し,しかして当該区分は正式法文(第378条)に採用された。」とProjetにおいてボワソナアドが自慢していた新工夫の全部義務の制度に係る規定が,現行日本民法では落とされてしまっていることと関係があるようです。

 

  連帯債務の性質に関しては,〔略〕連帯債務の中に共同連帯Korrealobligation)と単純連帯Blosssolidarobligation)とを分け,〔略〕第19世紀の中葉以後,〔略〕2種共に多数の債務が存するものであって,ただ前者はその多数の債務の間により一層緊密な関係があるに過ぎない,とする説がこれに代った。そして,近世の立法はいずれも,連帯債務の中に2種を区別することをしない(フ民1197条以下,ド民421条以下,ス債143条以下――ドイツ民法,スイス債務法は単純連帯の主要な場合である共同不法行為もこれを連帯債務とする(ド民830条〔筆者註:ここは,正確には,前記のとおり8401項でしょう。〕,ス債50条)。但しフランス民法には規定はない)。わが民法もまたこれにならった432条〔現在は436条〕以下,719条――旧民法は連帯債務の他に連帯でない全部義務を認める(財378条・439(ママ)条〔筆者註:「437条」の方がよいようです。〕以下)。その差は,前者においては債務者間に代理関係があり,後者においてはそうでない点にある(債担52条・73条))。(我妻榮『新訂債権総論』(岩波書店・1964年(第10刷は1972年))401頁。下線は筆者によるもの)

 

 どうでしょうか。「やっぱりもともとフランス民法には無かったし,ドイツ民法草案にも無いし,ボワソナアドの思い付きに係る新奇の「全部義務」などというものは,一度は我が民法に入れることにしたけれど,やめておいた方が「日本人は変だ」と言われなくて無難じゃないの」というような決定が現行民法の起草者間でされたかのように思わせられる記述です。ボワソナアドの渋面が目に浮かびます。

全部義務の日本民法典からの消滅に係る事情について,梅謙次郎は何と言っているかというと,次のごとし。

 

 連帯債務ハ従来分チテ完全(○○)ナル(○○)連帯(○○)Solidarité parfaite)及ヒ不完全(○○○)ナル(○○)連帯(○○)Solidarité imparfaite)ノ2トセリ而シテ旧民法ニ於テハ甲ヲ単ニ連帯(○○)ト謂ヒ乙ヲ全部(○○)義務(○○)ト謂ヘリ而シテ2者ノ分ルル所ハ代理ノ有無ニ在リトセリ然レトモ新民法ニ於テハ連帯ヲ以テ必スシモ代理アルモノトセス而モ或場合ニ於テハ幾分カ代理ニ類スル関係ヲ生スルモノトセリ故ニ其性質タルヤ旧民法ノ連帯ト全部義務トノ中間ニ在ルモノト謂フヘシ而シテ当事者ハ旧民法ニ所謂全部義務ノ如キ義務ヲ約スルコト固ヨリ其自由ナリト雖モ余ノ信スル所ニ拠レハ特ニ此ノ如キ義務ヲ約スルコトハ蓋シ極メテ稀ナルヘク寧ロ純然タル連帯ヲ約スヘキノミ又立法者モ法律上数人ノ債務者ヲシテ各自債務ノ全部ニ付キ責ヲ負ハシメント欲スル場合ニ於テハ単ニ所謂全部義務アルモノト云ハスシテ寧ロ連帯債務アルモノトスヘキノミ故ニ新民法ニ於テハ連帯債務ノ外別ニ所謂全部義務ノ如キモノヲ規定セス但稀ニハ自ラ所謂全部義務ヲ生スルコトナキニ非スト雖モ特ニ法文ノ規定ヲ竢タスシテ其関係明白ナルヘキノミ例ヘハ第714条,第715条及ヒ第718条ノ場合ニ於テ無能力者ノ監督義務者及ヒ之ニ代ハリテ無能力者ヲ監督スル者,使用者及ヒ之ニ代ハリテ事業ヲ監督スル者,動物ノ占有者及ヒ之ニ代ハリテ動物ヲ保管スル者ハ皆各損害ノ全部ニ付キ賠償ノ責ニ任シ被害者ハ其孰レニ対シテモ之ヲ訴求スルコトヲ得ヘシ故ニ是レ旧民法ニ所謂全部義務ナラン然リト雖モ是等ノ場合ニ於テ被害者ハ其一人ヨリ賠償ヲ受クレハ復損害ナキカ故ニ更ニ他ノ者ニ対シテ賠償ヲ求ムルコトヲ得サルハ固ヨリニシテ又其義務者相互ノ関係ニ於テハ監督義務者,使用者,占有者ハ自己ニ代ハリテ監督,保管等ヲ為ス者ニ対シテ求償権ヲ有スヘキコトハ特ニ明文ヲ竢タスシテ明カナル所ナリ是レ本款ニ於テ単ニ連帯債務ニ付テノミ規定スル所以ナリ(梅103-105頁)

 

 つまり,旧民法財産編378条本文は,「法律上の全部義務の効果とその生ずる場合は当然であるから特に規定しないとして削除された」(星野英一『民法概論Ⅲ(債権総論)』(良書普及会・1978年(補訂版1981年))169頁)ということになります。しかし,削除といっても,「旧民法の全部義務」は「民法の起草者も否定していなかった」わけで,「明文こそないが当然のこととされている」ところです(星野170頁・171頁)。

  

(2)民法427条の存在と719条1項の適用と

しかし,民法714条,715条及び718条の場合は条文があるから全部義務になることについてはよいとしても,甲倉庫会社が過って受寄物と異なる記載をした倉庫証券を寄託者乙に発行し,乙がこれを使用して丙銀行から金を詐取した事案(大判大正2426日民録19281頁の事案)における丙に対する甲乙の不法行為責任などについては,民法714条,715条又は718条のような特別条項がないことから,被害者原告としては,各債務者に対する損害賠償の全額請求を行うためには,それらの特別条項に代わる一般条項の適用を確保しなければならないところです。すなわち,不法行為についても,そのままでは,多数の債務者の債務は分割債務となることを原則とする民法427条の適用可能性があるからです。

我妻榮は,分割債務を生ずる場合にはどのようなものがあるかを検討する際「当事者の直接の意思(●●)()基づかず(●●●●)()数人の者が共同債務を負担する著しい例は,共同不法行為であるが,それについては連帯債務となる旨の規定がある(719〔略〕)。」と述べています(我妻・債権総論389頁。下線は筆者によるもの)。星野英一教授も,「民法上は,分割債権・債務が原則となっている」ところ,「なお,法律の定める場合,〔略〕その他(民法719など)連帯債務の要件を充たす場合(その主張・立証責任がある)にそれらになることはいうまでもない。」と述べています(星野147-148頁。下線は筆者によるもの)。内田弁護士も民法427条の適用について「ただし,給付が分割できない場合(不可分性)のほか,別段の意思表示があるときや,法律の規定のあるとき(442項,7191),あるいは特別の慣習のあるときは,427条の適用は排除される。」との見解を示しています(内田貴『民法Ⅲ債権総論・担保物権』(東京大学出版会・1996年)335頁。下線は筆者によるもの)。「共同の不法行為」であっても,放っておくと分割債務になってしまうぞということのようです。いわんや主体間に通謀又は共同の認識の無い場合においてをや。

民法7191項の「共同の不法行為」たるための要件として「当該数人間に共謀などの主観的共同関係があることを要せず客観的共同関係があれば足りる,というのが従来の判例・通説の見解であったように思われる」とされています(幾代225頁。前記大判大正2426日民録19281頁が判例のリーディング・ケース(我妻・事務管理等194頁註2参照))。しかしながら,これは,客観的共同関係しかない場合(主体間に通謀又は共同の認識の無い場合)について旧民法財産編378条本文(全部義務とする。)又はドイツ民法8401項(連帯債務とする。)のような受皿を欠く現行民法において,損害賠償債務の分割債務化を避けるための法文上の手掛かりを,「従来の判例・通説」が,窮余というか折角そこにあるということで7191項に求めただけ,ということではないでしょうか。これを,「共同の不法行為」の外延に係る堂々たる概念解釈の大問題としてしまうから混乱する(少なくとも学生時代の筆者は当惑しました。)ように思われます。

ところで,民法7191項前段の「共同の不法行為」たるには「当該数人間に共謀などの主観的共同関係があることを要せず客観的共同関係があれば足りる,という」従来の判例・通説の見解については,「なお,このような解釈は,旧民法(同財産編378条)を意識的に改めたと思われる民法起草者の意思にも一致する,というのが一般の理解である。」といわれています(幾代227頁註2)。なるほど。民法起草者の書き残したものを検討しなければなりません。

 

5 『民法要義巻之三』の共同不法行為解説に関して

梅謙次郎の民法719条解説を見てみましょう。

 

(1)総論

 

 本条〔719条〕ハ数人カ共同シテ一ノ不法行為ヲ為シタル場合ニ於テ各自連帯ノ責任ヲ負フヘキコトヲ定メタルモノナリ例ヘハ数人共謀シテ他人ノ家屋ヲ毀チタルトキハ其各自ハ被害者ノ請求ニ応シ家屋ノ代価及ヒ他ノ損害ノ全部ヲ賠償スヘク其他総テ連帯債務者ノ負フヘキ責任ヲ負フモノトス是レ他ナシ此場合ニ於テハ各加害者ノ行為皆損害ノ原因ナルカ故ニ被害者ハ其孰レニ対シテモ損害ノ全部ヲ請求スルコトヲ得ヘキハ殆ト論ヲ竢タサル所ナリ而シテ法律ハ特ニ被害者ノ便ヲ計リ加害者間ニ連帯ノ責任アルモノトシタルナリ(梅906-907頁。下線は筆者によるもの)

 

ア 主観的共同関係必要説か否か:719条1項前段

 まず,民法7191項前段の「共同の不法行為」は,共謀に基づきされた不法行為なのだとされているように一見思われます。

しかし,「例ヘハ」の語は「共同の不法行為」の一例として共謀に基づく不法行為を挙げるのだとの趣旨を示すものであり,共謀に基づかない「共同の不法行為」の存在をも前提としているのだ,との読解も可能です。「例ヘハ」の位置は「数人共謀シテ」の前であって,「数人共謀シテ例ヘハ他人ノ家屋ヲ毀チタルトキ」という語順とはなっていません。

 なお,穂積陳重は,民法719条(案文では727条)の文言について,1895107日の第121回法典調査会において「互ヒニ共謀ガアツタトカサウ云フヤウナコトヲ有無ヲ論スル必要ハ本案ニ於テハナイヤウニナツテ居ルノテアリマス」と述べ(法典調査会議事速記録41116丁),同月9日の第122回法典調査会においては共同の不法行為について「皆ガ故意カ又ハ過失ガアル或ル場合ニ於テハ共謀モアリマセウ又或ル場合ニ於テハ過失モアリマセウ」と述べています(同124。また,同127)。

 また,梅による122回法典調査会での「些細ノ違ヒシカナイノニ此場合ニ一方ハ全部〔義務〕ト見ル一方ハ連帯ト見ルノハ小刀細工テアルカラ両方トモ連帯トシタ」との発言は(法典調査会議事速記録41138丁),民法7191項は旧民法財産編378条における全部義務となる場合及び連帯債務となる場合のいずれについても連帯債務とする趣旨の規定である,との認識を示すものでしょう。

イ 同条外における解釈上の全部義務関係の発生を認めるものか。

注目すべきは,「各加害者ノ行為皆損害ノ原因ナルカ故ニ被害者ハ其孰レニ対シテモ損害ノ全部ヲ請求スルコトヲ得ヘキハ殆ト論ヲ竢タサル所ナリ」の部分です。「法律上の全部義務の効果とその生ずる場合は当然である」(星野169頁)ところの「当然」に「〔法律上の全部義務〕の生ずる場合」の一例が,ここに示されているということでしょうか。「当然」全部義務が生ずるのであるならば,民法7191項前段の意義は,専ら,全部義務関係から百尺竿頭一歩を進めて,「共同の不法行為」について「特ニ被害者ノ便ヲ計リ加害者間ニ連帯ノ責任アルモノトシタ」ことにあることになります。

しかし,当然全部義務になるのならば,わざわざ民法7191項前段を適用した上で,連帯債務であるぞとする法律の明文を更にわざわざ枉げてドイツ法学流(我妻・債権総論402頁参照)の「不真正連帯債務」とする(最判昭和5734日判時104287頁)などということは,とんだ迂路でした。梅謙次郎に言わせれば,連帯債務と全部義務との違いを云々することは「小刀細工」にすぎないのでしょうが。

 (2)同時行為者を共同行為者と見なすものとする解釈:719条1項後段

次の梅の記述は,難しい。

 

 右ハ数人カ共同ノ不法行為ニ因リテ一ノ損害ヲ加ヘタル場合ニ付テ論シタリ然ルニ往往ニシテ数人カ同時ニ不法行為ヲ為シ他人ニ一ノ損害ヲ生セシメタリト雖モ而モ其孰レノ行為カ之ヲ生セシメタルカヲ知ルコト能ハサルコトアリ例ヘハ数人同時ニ他人ノ家屋ニ向ヒテ石ヲ投シタルニ其一カ家屋ニ命中シテ其一部ヲ破壊シタリトセンニ其石ハ必ス一人ノ投シタルモノナリト雖モ誰カ其石ヲ投シタルカヲ知ルコト能ハス而シテ同時ニ石ヲ投セシ者数人アリトセハ法律ハ恰モ其共同ノ行為ニ因リテ損害ヲ生シタルモノノ如ク見做シ同シク連帯シテ其責ニ任スヘキモノトセリ是レ理論上ヨリ見レハ聊カ解シ難キモノアルニ似タレトモ而モ此場合ニ於テ連帯責任アルモノトセサレハ被害者ハ竟ニ誰ニ向テカ其賠償ヲ請求スルコトヲ得ンヤ故ニ立法者ハ特ニ被害者ヲ保護シ右ノ行為者全体ヲシテ連帯ノ責任ヲ負ハシメタルナリ蓋シ仮令実際ハ其一人ノ行為ニ因リテ損害カ生シタルニモセヨ各自皆其損害ヲ生セシムルノ意思アリタルカ故ニ之ヲシテ連帯ノ責任ヲ負ハシムルモ敢テ酷ニ失スルモノト為スヘカラサルナリ(梅907-908頁。下線は筆者によるもの)


 民法7191項後段については,第121回法典調査会において穂積陳重が「此「共同行為者中ノ孰レカ其損害ヲ加ヘタルカヲ知ルコト能ハサルトキ」即チ大勢ガ寄ツテたかツて人ヲ打ツ併シ誰ノ手ガ当ツタノカ誰ノ拳ガ当ツタノカ分ラヌト云フヤウナ場合ニ於テ若シ其加害者ト云フモノヲ差示ス,直接ニ害ヲ加ヘタ者丈ケヲ差示ストイフコトヲ要スルトナリマスレバ多クノ場合ニ於テ大勢ガ乱暴ヲ働イタトカ云フソンナ場合ニハ実際其証明ガ六ケ敷クシテ害ヲ受ケマシタ者ハ夫レ丈ケノ損ヲシナケレバナラヌ其場合ニ於テハ法律ノ保護ハナイト云フコトニナリマスソレ故ニ公益上カラシテ斯ノ如ク規定スルノガ相当テアラウト考ヘマス夫レカラ理由モナイコトハナイノテアリマスル即チ大勢ガ寄ツテ或行為ヲ為シタ一人々々ナラセナイカモ知ラヌ大勢ノ行為テ矢張リ或事ヲスルノテアリマスカラシテ直接ニ手ヲ下シタト下サヌトニ拘ラズ矢張リ勢ヒヲ出シテ其事ニ就イテハ何処マテモ法律ニ違ウテ居ル結果ヲ生スベキ事柄夫レヲ覚悟シテ自分ガシタノテアリマスカラ矢張リ斯ウ致シテ置キマシテ全ク純然タル道理モ立タヌコトモナイ併シ主トシテ公益上カラシテ斯ノ如キ規定ヲ置イタノテアリマス」と説明していたところです(法典調査会議事速記録41117-118丁)。

民法7191項後段の「共同行為者」について穂積は,第122回法典調査会において「此第2(ママ)〔文〕ノ共同行為者ト云フ場合モ固ヨリ第1(ママ)〔文〕ノ中ニ籠リマス積リデアリマス」と述べ,数人が共謀して人を殴る例を挙げています(法典調査会議事速記録41121-122丁)。しかして,穂積は更に「第2(ママ)〔文〕ニハサウ云フ関係〔共謀〕モナイ皆ガ起ツテ例ヘハ或ル事ニ激シテ皆ガ打チヤルト云フヤウナ風ノ時ニ当タリマセウト思ヒマス」と発言します(同123丁。また,同127丁)。主観的共同関係のある共同不法行為者については,そのうちだれが損害を加えたかが不明であっても,7191項後段の規定をまたずに同様の結果(全員の連帯責任)になるのは当然であるので(幾代228頁参照。同229頁註2は「この点は,民法典起草段階においても議論のあったところである」と報告しますが,法典調査会議事速記録41128丁の富井政章発言が分かりやすいでしょうか。),当該規定の独自の存在理由を考えてみた,ということでしょうか。しかし,「共同行為者」の文字の枠内でそこまで読み得るかどうか,「共同行為者ト云フコトニナルト兎ニ角予メ合同シテ居ツタヤウニシカ読メヌノテアリマス」「共同行為者ト云フト予メ意思ノ通謀ガアツタ人ダケニシカママヌヤウテアリマス」と磯部四郎🎴が疑問を提示します(同124-125丁)。

これに対する梅謙次郎の助け舟は,「共同行為者」の意味の拡張解釈論でした。「併シ乍ラ斯ウ云フ風ニ読メヌコトモナイ共同ト言ヘハ共ニ同ジクテアリマスカラ同時ニ同ジ行為ヲ為シタ其同ジト云フ幅ハ只一ツ手ヲ打ツトキガ同ジカ是レモ打チアレモ打ツト云フノガ同ジカソコハ見様テアリマスガアレヲ殴ツテヤラウト云フ約束ヲシナクテモソコヘ徃ツテ甲モ打チ乙モ打チ竟ニ死ンダドレガ打ツタノテ死ンダノカ分ラヌ此場合ニ共同行為者,共ニ同ジク為シタル行為ト云フコトニナラウ」と(法典調査会議事速記録41125丁)。

しかし,富井政章は,なおも通謀の存在を認定すべきものとするようです。いわく,「サウスレバ第2(ママ)〔文〕ノ方ハ例ヘハ酒ノ席ニ聘バレタ者ガ一時ニ己レモ殴ツテヤラウ己モ殴ツテヤラウ誰ガ殴ツタカ分ラヌト云フ場合ニ適用サレル同時ニト云フトモ矢張リ通謀シテ甲乙ノ2人ガ入ツテサウシテ実際甲ダケガ打ツタト云フヤウニ適用ガ読メル」と(法典調査会議事速記録41128-129丁)。

 『民法要義巻之三』では,梅は,民法7191項後段の「共同行為者」には同時行為者が含まれるものと「見做」される,と主張しています。「見做シ」なので,同時行為者は本来「共同ノ行為」をするものではないということが前提されています。したがって,第122回法典調査会における拡張解釈説から改説があったということになるのでしょう。しかしながら,民法7191項後段の法文自体には,当該見なし規定の存在を読み取り得せしめる文字はありません。

なかなか苦しいのですが,この窮屈な解釈を梅(及び穂積)は納得の上甘受しているということになるのでしょうか。民法7191項後段の法文については,「同時ニ不法行為ヲ為シタル者ノ中ノ孰レガ其損害ヲ加ヘタルカヲ知ルコト能ハサルトキ亦同シ」という修正案の可能性を梅自ら第122回法典調査会で発言し(法典調査会議事速記録41127丁),更に当該調査会において箕作麟祥議長から起草委員に対し「尚ホ文章ハ御考ヘヲ願ヒマス」との依頼がされていたのですが(同145丁),結局原案が維持されてしまっています。

  

(3)教唆者及び幇助者:719条2項

 梅の7192項解説は,次のとおりです。

 

  教唆者及ヒ幇助者ハ果シテ共同行為者ト為スヘキカ是レ刑法ニ於テハ稍〻疑ハシキ問題ニ属シ其制裁ニ付テモ亦一様ナラスト雖モ不法行為ヨリ生スル民法上ノ責任ニ付テハ之ヲ共同行為者ト看做セリ蓋シ理論上ニ於テモ純然タル共同行為ナリト謂フヘキ場合極メテ多ク又仮令純然タル共同行為ト視ルヘカラサル場合ト雖モ其行為ハ相連繋シテ密着離ルヘカラサル関係ヲ有スルカ故ニ之ヲシテ連帯責任ヲ負ハシムルハ固ヨリ至当ト謂フヘケレハナリ例ヘハ前例ニ於テ自ラ石ヲ投セスト雖モ他人ニ之ヲ投スヘキコトヲ教唆シタル者又ハ其投スヘキ石ヲ供給シタル者ハ皆之ヲ共同行為者ト看做スナリ(梅908頁)

    


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1 民法884条

 民法884条に相続回復請求権という七文字熟語があって,なかなか難しい。「そもそも884条が何を定めているのかという点からして見解は一致せず,この規定がどのような紛争類型に適用されるのか等をめぐって学説・判例が分かれ,百花繚乱という状態となった」とされています(内田貴『民法Ⅳ 親族・相続』(東京大学出版会・2002年)433頁)。条文は,次のとおりです。

 

   (相続回復請求権)

  第884条 相続回復の請求権は,相続人又はその法定代理人が相続権を侵害された事実を知った時から5年間行使しないときは,時効によって消滅する。相続開始の時から20年を経過したときも,同様とする。

 

「本条は,相続回復請求権の短期消滅時効を規定するだけのように見えるが,実は,相続回復請求権という特殊の請求権を認める,という意味をももつている。かような請求権を認めることは,ローマ法に淵源し,ドイツ民法(同法2018条以下),スイス民法(同法598条以下)に承継されているが,フランスでも,判例の努力によつて,ほぼ同一の制度が認められている。かような制度を認める理由は,相続権のない者が相続人らしい地位にあつて相続財産の管理・処分をする場合に,真正の相続人に対して,相続財産を一括して回復することができるような便宜を与えようとすることである。」と,1952年段階では確信あり気に述べられています(我妻榮=立石芳枝『親族法・相続法』(日本評論新社・1952年)361頁(相続法は我妻執筆)。下線は筆者によるもの)。しかし,1947年の昭和22年法律第222号による民法親族編・相続編の「改正の際,戸主制度を廃止したにもかかわらず,遺産相続に関して以上の規定〔現行884条の前身である昭和22年法律第222号改正前民法966条及び993条〕がそのまま維持されてしまった。しかも,はっきりとした確信のもとに維持されたというより,改正を急いだために十分な検討を経ずに旧規定が承継されたという面が強い。」というのが実相だったのではないかとも説かれています(内田433頁)。

 

2 民法旧966条及び旧993条並びに起草者によるそれらの解説

昭和22年法律第222号改正前民法966条及び993条の条文は,次のとおりです。

 

 第966条 家督相続回復ノ請求権ハ家督相続人又ハ其法定代理人カ相続権侵害ノ事実ヲ知リタル時ヨリ5年間之ヲ行ハサルトキハ時効ニ因リテ消滅ス相続開始ノ時ヨリ20年ヲ経過シタルトキ亦同シ

 

第993条 第965条乃至第968条ノ規定ハ遺産相続ニ之ヲ準用ス

 

 我が民法の起草者の一人たる梅謙次郎は,民法旧966条について次のように解説します。

 

  本条ハ家督(○○)相続権(○○○)()消滅(○○)時効(○○)ヲ定メタルモノナリ蓋シ家督相続ナルモノハ頗ル複雑ナルモノニシテ一旦事実上ノ相続ヲ為シタル者アルノ後数年乃至数十年ヲ経テ其者ノ相続権ヲ奪ヒ之ヲ他ノ者ニ与フルトキハ之カ為メニ生スル当事者間及ヒ第三者ニ対スル権利義務ノ関係非常ノ攪乱ヲ受ケ為メニ経済上,社会上容易ナラサル結果ヲ惹起スルコト多カルヘシ故ニ之ニ関シテ時効ノ規定ヲ設クヘキハ勿論其時効ハ寧ロ普通ノ時効ヨリモ其期間ヲ短ウスルノ理由アリ相続権シテ貴重ナルモノナルカ正当相続人権利サレタル場合事情リテ不問クカキハ人情ヘカラサルナリ外国テハ相続権普通時効最長期時効リテノミ消滅スヘキモノトセルカラス民法ヘリ〕(証155後略(梅謙次郎『第18版民法要義巻之五 相続編』(私立法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1910年)10-11頁)

  

 旧993条については,次のとおり。

 

  本条ニ於テハ家督相続ニ関スル第965条乃至第968条ノ規定ヲ遺産相続ニ準用セリ蓋シ〔略〕相続権ノ時効(966)〔略〕ニ付テハ家督相続ト遺産相続トノ間ニ区別ヲ設クル理由ナキカ故ニ此等ノ事項ニ付テハ家督相続ニ関スル規定ヲ遺産相続ニ準用スルヲ以テ妥当トシタルナリ(梅93頁)

 

民法966には「家督相続回復ノ請求権」と大きく打ち出されてはいるものの,梅謙次郎の解説を読む限りでは同条は飽くまでも相続権の短期時効による消滅(この点外国法制と異なる。)について定めたいわば消極的規定であるようで,新たに「家督相続回復ノ請求権」なる特殊な請求権を積極的に創出するという趣は窺われません。

 

3 旧民法証拠編155条並びにボワソナアド草案1492条及びボワソナアド解説

民法旧966条の前身規定は旧民法証拠編155条とされていますので(梅10頁),更に旧民法の当該規定を見てみましょう。同編第2部「時効」の第8章「特別ノ時効」の章にあります。

 

 第155条 相続人又ハ包括権原ノ受遺者若クハ受贈者ノ分限ヲシテ効用ヲ致サシムル為メノ遺産請求ノ訴権ハ相続人又ハ包括権原ノ受贈者若クハ受遺者ノ権原ニテ占有スル者ニ対シテハ相続ノ時ヨリ30个年ヲ経過スルニ非サレハ時効ニ罹ラス

 

 民法旧規定の「相続回復ノ請求権」とは,旧民法の「相続人ノ分限ヲシテ効用ヲ致サシムル為メノ遺産請求ノ訴権」に対応するということでしょうか。

 旧民法証拠編155条は,次のボワソナアド草案に基づくものです。

 

   Art. 1492. L’action en pétition d’hérédité, pour faire valoir la qualité d’héritier légitime ou de légataire ou donataire à titre universel ne se prescript que par trente ans, à partir de l’ouverture de la succession, contre ceux qui possèdent, à l'un des mêmes titres, tout ou partie des biens du défunt. [133, 137]

  (Boissonade, M. Gve, Projet de Code Civil pour l’Empore du Japon accompagné d’un Commentaire, Tome Cinquième: Des Preuves et de la Prescription (Tokio, 1889) p. 388)

 

旧民法証拠編155条は,ボワソナアド草案1492条そのままですね。ただし,ボワソナアド草案1492条の“L’action en pétition d’hérédité”の部分が「遺産請求ノ訴権」と訳されており,その相手方である「占有スル者」が占有する物であるtout ou partie des biens du défunt”(死者(被相続人)の財産の全部又は一部)の部分は省略されているものです。後者については,恐らく,「遺産請求ノ訴権で問題になっているのは遺産なんだから,その相手方たる「占有スル者」が占有している物が被相続人の財産の全部又は一部であることは自明だろう」ということだったのでしょう。

[133, 137]は,ナポレオンの民法典における対応条項でしょう。

 

 第133条 失踪者の子及び直系卑属も同様に,〔関係権利者への〕確定的占有付与から30年間は,前条に定めるところに従い当該失踪者の財産の返還を請求することができる。

 

   第132条 失踪者が帰還し,又はその生存が証明されたときは,確定的占有付与の後であっても,当該失踪者は,現状におけるその財産及び処分された財産の対価又は売却されたその財産の対価の使用によって得られた財産を回復する。

 

   (旧民法人事編第284条 失踪者ノ相続順位ニ在ル者ハ他ノ者カ財産占有ヲ得タル日ヨリ30个年間其財産ノ返還ヲ請求スルコトヲ得

    此場合ニ於テモ果実ハ前条ノ規定ニ従ヒテ之ヲ取戻スコトヲ得)

 

第137条 前2条の規定は,失踪者又はその承継相続人若しくは承継人に帰属し,かつ,所定の時効期間の経過によらなければ消滅しないもの(lesquels)である遺産請求の訴権(actions en pétition d’hérédité)及び他の権利(autres droits)を害しない。

 

第135条 その生存が確認されていない個人に帰属した権利を主張する者は,当該権利が生じた時に当該個人が生存していたことを証明しなければならない。当該証明がされない限り,同人の請求は受理されない。

 

第136条 生存が確認されていない個人を相続権利者とする相続が開始された場合においては,相続財産は,専ら同人と同等の権利を有する者又は同人の代襲者に対してのみ帰属する。

 

    (旧民法人事編第287条 前2条ノ規定ハ失踪者又ハ其相続人及ヒ承継人ニ属スル相続ノ請求其他ノ権利ヲ行フヲ妨クルコト無シ此等ノ権利ハ普通ノ時効ニ因ルニ非サレハ消滅セス)

 

 その草案1492条に係るボワソナアドの解説は,次のとおりです。

 

   法は,かつて(autrefois),特にローマ法において,非常によく使われた表現(une expression très-usitée)であって,フランスの法典(第137条)ではただ1回のみ使用されているもの――“la pétition d’hérédité”――をあらかじめ定立する(La loi consacre…)。これは,物的訴権の一つ(une action réelle)であって,我々の条項にいうとおり「被相続人の財産の全部又は一部を相続人又は包括承継人の権原をもって占有する者に対して,相続人又は包括承継人の分限(qualité)をして効用を致さしむるため(à faire valoir)」のものである。〔追記:1891年の新版第41005頁では,「我々の条項にいうとおり「相続人又は包括承継人の分限(qualité)をして効用を致さしむるため(à faire valoir)」のものである。当該訴権は「被相続人の財産の全部又は一部を相続人又は包括承継人の権原をもって占有する者に対して」行使される。」と微妙に修正されています。〕相続人又は包括の受遺者若しくは受贈者の分限の承認(reconnaissance)は,結果として(pour conséquence),相続において当該分限に伴うところの財産(les biens de la succession attachés à cette qualité)の原告に対する回復(restitution au demandeur)をもたらすものである。

   相続財産中のある財産の占有者が,当該財産を買主若しくは特定の受贈者として,又は他の同様の特定の権原をもって占有している場合においては,la pétition d’héréditéによって訴えが提起されるべきものではなく,通常の返還請求の訴え(la revendication ordinaire)によるべきものであって,かつ,そうであるので時効期間は,不動産については15年又は30年,動産については即時となる。

   これに対して,占有が包括の権原によるものである場合においては,動産不動産の区分,正権原及び善意の有無を問わず,時効期間は一様に(uniformément30年である。

   この長い時効期間は,伝統的なものであり,並びに家産(patrimoine)の全体又は割り前が問題になっているという状況によって,及び相続の開始又は相続人若しくは受遺者としてのその権利に係る無知という相続権利者が陥り得る宥恕すべき情況によって説明されるものである。

   この訴権については(sur cette action),失踪に関して第1編において,相続並びに包括の贈与及び遺贈に関して第3編第2部においても触れられる(On reviendra…)。

                           (Boissonade pp.393-394

 

上記解説の最終段落について更に解説を加えれば,ボワソナアド当初案による旧民法の編別は次のとおりであったところです(大久保泰甫『日本近代法の父 ボワソナアド』(岩波新書・1998年(第3刷))135頁)。

 

 第1編 人事編

 第2編 財産編

 第3編 財産取得編

第1部 特定名義の取得法

    第2部 包括名義の取得法

  第4部 債権担保編

  第5編 証拠編

 

 「ここで注意しなければならないのは,このうち第1編人事編(すなわち家族法)と,第3編第2部包括名義の取得法(すなわち相続,贈与と遺贈,夫婦財産契約)は,初めから日本人委員が起草するてはず(●●●)になっていたことである。つまりはっきりいえば,ボワソナアドは,家族法相続法の起草は依頼されなかったのである。」ということでした(大久保135-136頁)。であるので,la pétition d’héréditéの実体についての詳しい規定の起草を,ボワソナアドとしては日本人委員(熊野敏三,光明寺三郎,黒田綱彦,高野真遜,磯部四郎及び井上正一(大久保157頁))に期待していたのでしょう。しかしながら,そのような起草はされず,旧民法におけるla pétition d’héréditéに関する規定は証拠編155条のみと観念される結果となったようです(梅10頁は民法旧966条に係る参考条項として旧民法証拠編155条のみを掲げています。)。旧民法人事編287条はナポレオンの民法典137条のほぼそのままの翻訳なのですが,そこではナポレオンの民法典137条における“actions en pétition d’hérédité”が「相続ノ請求」とされていて,証拠編155条における“action en pétition d’hérédité”に係る「遺産請求ノ訴権」の語と整合していません。結局,日本人委員はla pétition d’héréditéについて特に考えることはなかったのでしょう。

結果として,旧民法におけるaction en pétition d’héréditéの内実は,ボワソナアドが前記解説で説いたところに尽きるものであったことになるようです。すなわち,飽くまでも時効に係るものにすぎず(なお,旧民法証拠編155条の文言は,action en pétition d’héréditéのうち「相続人又ハ包括権原ノ受贈者若クハ受遺者ノ権原ニテ占有スル者ニ対シテ」行使されるものに限って時効期間の特別規定を設けた形になっています。),「真正の相続人に対して,相続財産を一括して回復することができるような便宜を与えようとすること」(前掲我妻等361頁)や,「相続回復請求権」を「「自分が相続人であるから遺産を全部返還せよ」と一括して請求」できる「個々の財産の返還請求権とは別の独立の請求権と構成」すること(内田434頁の紹介する「独立権利説」)までは,少なくともその旨明示的かつ積極的に表明されてはいなかったということになります。「相続回復請求権は,ローマ法以来の制度で,ドイツにもフランスにも存在する。日本にも,ボワソナード草案を通じて継受され」たとされてはいますが(内田432頁),ボワソナアドとしては,自分は「遺産請求ノ訴権」(l’action en pétition d’hérédité)との「表現」(expression)の定立(consacrer)を法典においてすることにはしたが,その定義は時効に係るものとしての自分の草案1492条に書いてある限りのものであって,相続に係るローマ法以来の西洋の制度をそれとしてそのまま日本の民法に積極的に持ち込むまでのことはしていない,飽くまでも当該「表現」を使った(あるいは「有り難く頂戴」(consacrer)した)にすぎない,そもそも相続法本体の起草は日本人の領分である,といささかの修正的弁明を試みたくなるかもしれません。

ちなみに,ボワソナアドのProjetは,現在国立国会図書館デジタルコレクションで自由にアクセスできるようになっています。当該書籍の印刷発行についてボワソナアドは後世読者のために紙や活字にまで気を配り精魂を傾けていますから,今日民法について何か語ろうとする者は,当該Projetを避けて通るわけにはいきません。

 

 〔略〕磯部〔四郎〕の談話によると,明治16,7年〔1883-1884年〕頃のこと,ボワソナアドが草案を「出版スルノニ,是レデハ紙質ガ悪イダノ,是レデハ活字ガ鮮明デナイダノト,兎角下ラナイ処ニ気ヲ配ツテ」,「肝腎ナ事務ガ運バナイ」ようになった。そこで今後は,いっさいボワソナアドに口をきかせないようにしようとして,大木〔喬任〕司法卿に会い,「ボアソナード氏ハ,卿ニ向テ何ト申スカハ存ジマセヌガ,民法編纂ノ実際ハ斯クノ如キ状態デアルカラ」,以後は,かれこれいわせないようにしたい,と申し出たところ,大木卿にたいそう叱られた。同卿は,「お前,ボワソナアドに1年どれほど金を払うか知っているだろう。1万5千円支払っているではないか。ずいぶん高い出費だが,国家の急務であるから,このような高い金を払って仕事をさせているのである。それを,わずかに活字のことや紙質のことぐらいで,けんか(●●●)をして感情を害し,その結果草案の起草がはかどらぬ時には,それこそ政府の損だから,そんな片々たることはやめて,ボワソナアドをだまして,仕事をさせるようにいたさねばならぬ」といったという。(大久保138-139頁)

 

後に芸妓をあげての花札ばくち🎴大好き大審院検事となる磯部四郎(大久保177-178頁参照。令和の聖代における事例のように,むくつけき新聞記者相手にこそこそと賭け麻雀🀄をしていたというような謙虚なものではないようです。)は,さすが人間が小さい。実は自分らの手間暇等の問題にすぎない事務方的正義論による悪口を偉い人に言いつけて,本当の仕事を一生懸命している真に有能な人の心を折ろうとする。

しかし,ここでボワソナアドを救ったのは,その高給であったということは興味深いところです。変に良心的に薄給に甘んじていると,甘く見られて,真の仕事をなす前に横着かつ感情的な事務方的正義に圧倒され揉みくちゃにされあるいは排除されてしまうことがあるということでしょう。高い報酬を請求するということにも,正義があるものです。

閑話休題。

ボワソナアド草案1492条(旧民法証拠編155条)及びそのボワソナアド解説から分かる範囲での遺産請求ノ訴権の性質を考えるに,まずこれは,物的訴権(action réelle)であるとされています。物的訴権とは,日本の法律家としては見慣れない概念なのですが,これはローマ法にいう対物訴権なのでしょう。対物訴権は,債権の訴権ではない訴権です。

 

  〔略〕対物訴権(actio in rem),対人訴権(actio in personam) ローマ人の考では前者は物自体に対する訴権,後者は人に対する訴権である。前者は物権,家族法上の権利,相続法上の権利に関する訴権及び確認〔略〕の訴権,後者は債権の訴権である。債権は相手方の行為を要求する権利であるから,法律関係成立の時から被告となり得べき者が定まり,従つて当然請求の表示〔略〕の部分に被告の名が見えて来るが,物権に於ては個別的な相手方はなく,その訴の相手方は法律関係自体からは定まらずして,権利侵害という後発事情の附加によつて定まらざるを得ない。この法律関係の非個別性に基づいて,請求の表示の部分には被告の名は示されない。〔略〕(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣全書・1955年)398-399頁)

 

  〔略〕物権とその基本観念 ローマ法には物権の語はない。ただ訴訟上対物訴権と対人訴権の区別があり〔略〕,現代人はローマ法上物に対する支配権にして対物訴権を附与せられた権利をば物権と称して,訴訟法上の区別を実体法上の観念に建て直しているのである。その対物訴権とはローマ人自身の考では,物自体に対して訴訟を提起しているのであつて,結局物的追求,第三者対抗可能がその基本観念である。(原田94頁)

 

  〔略〕対物訴訟〔略〕に於ては被告に応訴の義務がない。被告が認諾もせず,争点の決定もしないときは,法務官の命令によつて,訴訟物の占有は原告にうつるだけである。訴訟は確定しない。被告が後日争うときは,原告となるためにその地位が不利となるだけである。(原田386頁)

 

 相続財産返還請求訴訟は,基本的に「対物訴訟(actio in rem)」で,「所有物返還請求訴訟(rei vindicatio)」に類似したものであるといわれる〔略〕。そして,その場合の「正しい被告」(被告となるべき者)は,相続財産占有者のみである。(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法――ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)297頁)

 

ところで,旧民法証拠編155条の遺産請求ノ訴権は,相続財産を直ちに取り戻す訴権と等号で結ばれるものではなかったように思われます。ボワソナアドは,遺産請求ノ訴権に関して「相続人又は包括の受遺者若しくは受贈者の分限(qualité)の承認(reconnaissance)は,結果として(pour conséquence),相続において当該分限に伴うところの財産(les biens de la succession attachés à cette qualité)の原告に対する回復(restitution au demandeur)をもたらす(a (=avoir))」と述べていますが,「結果として(pour conséquence)」という間接効果的文言がありますので,遺産請求ノ訴権の効果についてボワソナアドは腰が引けているな,というのが一読しての筆者の感想です。確かに,「相続人又ハ包括権原ノ受遺者若クハ受贈者ノ分限ヲシテ効用ヲ致サシムル為メノ」訴権というのはもって回った表現であって,物の引渡し(Herausgabe)を求めるためのものに限定されねばならないということにはならないようです。

あるいは,原告に係る「相続人又は包括の受遺者若しくは受贈者の分限(qualité)の承認(reconnaissance)」の可否が争われる訴訟の訴権であることこそが,実はボワソナアドの考えた遺産請求ノ訴権のメルクマールであったものと解すべきでしょうか。この点,最高裁判所大法廷昭和531220日判決(民集3291674頁)は,民法884条の相続回復請求権について「思うに,民法884条の相続回復請求の制度は,いわゆる表見相続人が真正相続人の相続権を否定し相続の目的たる権利を侵害している場合に,真正相続人が自己の相続権を主張して表見相続人に対し侵害の排除を請求することにより,真正相続人に相続権を回復させようとするものである。」と判示しています(下線は筆者によるもの)。原告たる「真正相続人の相続権」の有無が争われるわけであって,ここでの「相続権」を「相続人ノ分限」で置き換えることができるのであれば(当該「相続権」は「相続開始後の相続人の地位」とも一応いい得るようですが(我妻榮=有泉亨著,遠藤浩=川井健=水本浩補訂『民法3 親族法・相続法(新版)』(一粒社・1992年)305頁),しかし,上掲最判昭和531220日の大塚喜一郎=吉田豊=団藤重光=栗本一夫=本山亨=戸田弘意見は「相続人の地位と相続権とは別個の観念」であるとします。とはいえ,当該判例の事案においては,被告たる他の共同相続人によって,原告たる共同相続人の相続権は全否定されていた(したがって相続人扱いされていなかった)のではないでしょうか(内田436-437頁によれば,原告の母は姑(その夫(原告の祖父)が被相続人)と折り合いが悪く,実家に帰って原告を出産してそのままとなり,その後原告と他の共同相続人との間には親戚付き合いもなかったそうです。。),相続回復請求の制度は,ボワソナアドの言及した原告たる相続人の分限(qualité)の承認(reconnaissance)の可否の争いに係るものと考えた場合における遺産請求ノ訴権の制度とパラレルなものと捉えることができそうです。相続回復請求訴訟においては,原被告は「互いに被相続人の権利を前提としながら,その承継を争う」ものとされています(我妻=有泉312頁)。

ただし,ボワソナアド草案1492及び旧民法証拠編155条は,「通常の返還請求の訴え」による場合においては「不動産については15年又は30年,動産については即時」の期間による時効取得によって真正相続人が害されるところ,相手方の「占有が包括の権原によるものである場合」に係る特則を設けて,その場合おいては「動産不動産の区分,正権原及び善意の有無を問わず,時効期間は一様に30年である」ものとして,より長い時効期間によって真正相続人を特に保護しようとするものでした。ところが,これとは反対に,民法旧966条及び旧993条以降の相続回復の請求権に係る消滅時効制度は,「表見相続人が外見上相続により相続財産を取得したような事実状態が生じたのち相当年月を経てからこの事実状態を覆滅して真正相続人に権利を回復させることにより当事者又は第三者の権利義務関係に混乱を生じさせることのないよう相続権の帰属及びこれに伴う法律関係を早期かつ終局的に確定させるという趣旨に出たものである。」とされ(前記最判昭和531220日。下線は筆者によるもの),むしろより短い時効期間によって表見相続人等を特に保護しようとするものとされています。「日本の相続回復請求権制度は,単に時効期間が短くなったというにとどまらない質的変化を遂げ,ローマ法以来の相続回復請求権とは異なる制度になったとすらいえる」(内田433頁)とは正にむべなるかなであって,ここでの「質的変化」とは,あえていえば正反対のものとなったということでしょう。日本人は「家」を大事にするといわれているようでもありますが,実は相続の真正には余り重きを置かず,その場その時の家関係者「みんな」の便宜こそが最優先されるということでしょうか。天一坊が徳川第9代将軍として政権を把握し,かつ,その政権が一応安定して「みんな」の居場所と出番とが確保されたのならば,将軍位継承権を否定されたとて家重やら宗武やら宗尹やらが今更がたがた言うな,引っ込んでおれ,ということなのでしょう。また,相続の真正について一番文句を言いそうな家の関係者「みんな」が忖度し,認許する以上は,法律関係が「早期かつ終局的に確定」されるという利益が「第三者」に対しても及んで当然ということになるのでしょう。


4 ドイツ民法のErbschaftsanspruch及びその影響

ドイツ民法2018条以下の規定が,日本民法の解釈に影響を与えてしまったようです。しかしながら,前記のとおり,ローマ法以来の流れを汲むドイツ民法は真正相続人を保護しようとしているのに対して,日本民法の相続回復請求権の消滅時効制度は表見相続人及び第三者を保護しようとするものとなってしまっているのですから,もっともらしくドイツ法を参照すればするほど混乱が深まったのかもしれません。

なお,ドイツ民法においては「〔相続回復〕請求権を個別的請求権とは独自の請求権とし,その中に相続財産の包括性を考慮した効果,相続財産の所在等に関する遺産占有者の通知義務など,主として相続人に有利な内容を付与している。そして,起草者によれば,こうした規定の背景には次のような考慮があった。すなわち,相続回復請求権の対象としての相続財産はいわゆる特別財産ではないが,その包括性を考慮した取扱がなされるのが妥当であること,そして,その際,法規や法律関係の簡明化という立法技術的要請から法文上個別的請求権とは独立の相続回復請求権を創立する,というものである。」ということだそうです(副田隆重「相続回復請求権」星野英一編集代表『民法講座第7巻 親族・相続』(有斐閣・1984年)444頁・註(20))。
 

節 相続回復請求権Erbschaftsanspruch

 

  第2018条 相続人(Erbe)は,現実には(in Wirklichkeit)その者に帰属しない相続権に基づいて(auf Grund eines...Erbrechts)相続財産(Erbschaft)から物(etwas)を入手した(erlangt hat)者(相続財産占有者(Erbschaftsbesitzer))に対し,当該入手物の引渡し(Herausgabe des Erlangten)を請求することができる。

 

第2019条 相続財産に属する手段をもってする(mit Mitteln)法律行為によって相続財産占有者が取得した物(was)も,相続財産から入手したものとみなされる。

債務者(Schuldner)は,当該帰属についての認識を得たときは,前項のような方法で取得された債権(Forderung)が相続財産に帰属するということ(Zugehörigkeit...zur Erbschaft)をまず自らについて実現させなければならない(hat…erst dann gegen sich gelten zu lassen)。この場合において,第406条から第408条までの規定が準用される。

 

第2020条 相続財産占有者は,得られた収益(die gezogenen Nutzungen)を相続人に引き渡さなければならない。引渡しの義務は,相続財産占有者が所有権(Eigentum)を取得した果実(Früchte)にも及ぶ。

 

第2021条 相続財産占有者が引渡しについて無能力(außer Stande)であるときは,その義務は,不当利得の引渡し(Herausgabe einer ungerechtfertigen Bereicherung)に係る規定により定められる。

 

第2022条 相続財産占有者は,当該費用(Verwendungen)が前条により引き渡す利得の計算において算入されていない(nicht…gedeckt werden)ときは,全ての費用の償還(Ersatz)と引換えにのみ相続財産に属する物の引渡しの義務を負う。この場合において,所有権に基づく請求権(Eigenthumsanspruch)について適用される第1000条から第1003条までの規定が準用される。

相続財産の負担に係る支出(Bestreitung von Lasten der Erbschaft)又は遺産債務(Nachlaßverbindlichkeiten)の弁済(Berichtigung)のために相続財産占有者がした出費(Aufwendungen)も,費用に含まれる。

個別の物についてされたものではない出費,特に前項に掲げられた出費に対して相続人が一般の条項によってより広い範囲で償還をしなければならない範囲において,相続財産占有者の請求権は変更されない(bleibt…unberührt)。

 

第2023条 相続財産占有者が相続財産に属する物を引き渡さなければならないときは,不良品化(Verschlechterung),沈没(Untergang)又は他の原因により生じる引渡しの不能に起因する損害賠償に係る相続人の請求権は,訴訟の係属の時から,所有者と占有者との間の関係について所有権に基づく請求権に係る訴訟の係属の時から適用される規定に従う。

収益の引渡し又は償還(Vergütung)に係る相続人の請求権及び費用の償還に係る相続財産占有者の請求権についても,前項と同様である。

 

第2024条 相続財産占有者は,相続財産占有の開始時において善意(in gutem Glauben)でなかった場合においては,その時において相続人の請求が訴訟係属していた(rechtshängig)ときと同様の責任を負う(haftet)。相続財産占有者が後に自分が相続人でないことを知った場合においては,当該事実を認識した時から同様の責任を負う。遅滞に基づく(wegen Verzugs)継続的責任(weitergehende Haftung)は,変更されない。

 

第2025条 相続財産占有者は,相続目的物(Erbschaftsgegenstand)を犯罪行為(Straftat)により,又は相続財産に属する物を禁じられた自力救済(verbotene Eigenmacht)により取得した場合においては,不法行為に基づく(wegen unerlaubter Handlungen)損害賠償に係る規定により責任を負う。ただし,当該規定により善意の相続財産占有者が禁じられた自力救済に基づく責任を負うのは,相続人が当該物件の占有を既に現実に(thatsächlich)獲得していたときに限る。

 

第2026条 相続財産占有者は,相続回復請求権が時効にかかっていない限りは,相続人に対して,相続財産に属するものとして占有していた物の時効取得(Ersitzung)を主張できない。

 

第2027条 相続財産占有者は,相続財産の状況(Bestand)及び相続目的物の所在(Verbleib)を相続人に通知する義務を負う。

相続人が当該物件の占有を現実に獲得する前に遺産(Nachlaß)から物を取得して占有した者は,相続財産占有者ではなくとも,前項と同じ義務を負う。

 

第2028条 相続開始時に(zur Zeit des Erbfalls)被相続人(Erblasser)と家庭共同体を共にしていた者は(Wer sich...in häuslicher Gemeinschaft befunden hat),その行った相続に関する行為(erbschaftliche Geschäfte)及び相続目的物の所在について知っていることを相続人に対し,求めに応じて通知する義務を負う。

必要な注意をもって(mit der erforderlichen Sorgfalt)前項の通知がされなかったとの推定(Annahme)に理由があるときは,同項の義務者は,相続人の求めに応じ,調書において(zu Protokoll),同人はその申述(seine Angaben)をその最善の知識に基づき(nach bestem Wissen),かつ,可能な限り(als er dazu imstande sei)完全に(vollständig)行った旨の宣誓に代わる(an Eides statt)保証をしなければならない(hat...zu versichern)。

   第259条第3項及び第261条の規定が準用される。

 

第2029条 個別の相続目的物について見た場合において(in Ansehung der einselnen Erbschaftsgegenstände)相続人に帰属する請求権に係る相続財産占有者の責任も,相続回復請求権に係る規定によって定められる。

 

  第2030条 相続財産占有者から相続分(Erbschaft)を契約(Vertrag)によって取得した者は,相続人との関係においては,相続財産占有者と同様の立場にある。

 

  第2031条 死亡したものと宣告された者又は失踪法の規定(Vorschriften des Verschollenheitsgesetzes)によりその死亡時期(Todeszeit)が定められた者であって,その死亡の時とされた時の経過後も生存したものは,相続回復請求権に適用される規定によりその財産の引渡し(Herausgabe ihres Vermögens)を請求することができる。同人がなお生存するときは,同人がその死亡宣告(Todeserklärung)又は死亡時期の定め(Feststellung der Todeszeit)を認識した時から1年を経過するまではその請求権は時効にかからない。

    死亡宣告又は死亡時期の定めなしに不当に(mit Unrecht)ある者が死亡したものとされたときも,同様である。

 

 以上ドイツ民法の関連条項を訳してみて思う。ドイツ人は,細かい。

さて,ドイツ民法の相続回復請求権は「包括的な返還請求権」であるということですが(中川善之助『相続法』(有斐閣・1964年)36頁),これは,「個々の財産に対する既存の個別の請求権」(「集合権利説」に関する内田435頁参照)について同法の相続回復請求権の規律を及ぼすための規定と解されるべきものであろうところの同法2029条の反対解釈に基づき,そのようなものとして理解すべきものでしょうか。なお,ローマ法においても,「相続人は相続財産を一括しての保護手段と,相続財産を構成する個々の財産の保護手段の2を享有」していたそうです(原田360頁)。

「今日わが民法で相続回復請求権といっているのは,真正相続人が,〔略〕自己の相続権を主張して,遺産の占有を回復せんとする請求」といわれますが(中川36頁),ここで「占有を回復」することが目的とされるのは,ドイツ民法の相続回復請求権が,引渡し(Herausgabe)を請求するものだからでしょうか。

日本民法の相続回復請求権について「相続開始の時以後に,遺産が滅失して損害賠償に代わったり,僭称相続人の処分によって代金債権に代わったりした場合,この請求権はこれらの代わりのものの上に行使することができる」と(我妻=有泉307頁),また「相続財産の果実は相続財産に属するから,表見相続人は善意であっても,取得することはできない。」と(泉久雄『民法(9)相続(第3版)』(有斐閣双書・1987年)136頁)説明されていますが,当該説明とドイツ民法2019条及び2020条とは関係がありそうです。

「ドイツ民法は,相続回復請求権――Erbschaftsanspruch――の相手方を表見相続人に限ったから(独民2018条),表見相続人から相続財産を譲受けた第三者に対し,その財産の返還を求めるのは,相続回復請求ではないとしている。わが大審院もこれと同じ見解を固執して来た」(中川39頁)といわれています。すなわち,当該学説においては,「表見相続人」とは「現実にはその者に帰属しない相続権に基づいて相続財産から物(etwas)を入手した(erlangt hat)者」(ドイツ民法2018条)ということになるようです。また,ドイツ民法2030条のErbschaftは,相続財産中の個々の財産ではなく包括的な相続分であるということになります。

ところで,「現実にはその者に帰属しない相続権(ein ihm in Wirklichkeit nicht zustehenden Erbrecht)」に基づき占有するのが表見相続人だということになると,現実にその者に帰属している共同相続権に基づき占有する共同相続人は(全く相続権を有さない者である)表見相続人にはならないということになってしまいます。しかし,我が判例は,民法884条は共同相続人間についても適用されるものとしています(前掲最高裁判所昭和531220日判決)。当該判例においては「共同相続人のうちの一人又は数人が,相続財産のうち自己の本来の相続持分をこえる部分について,当該部分の表見相続人として当該部分の真正共同相続人の相続権を否定し,その部分もまた自己の相続持分であると主張してこれを占有管理し,真正共同相続人の相続権を侵害している場合につき,民法884条の規定の適用をとくに否定すべき理由はない」と判示していますので(下線は筆者によるもの),「表見相続人」の概念について拡張解釈がされたものでしょう。また,「相続持分」の「占有」ということがいわれていますが,相続持分は有体物たる物(民法85条)ではないですから,当該「占有」は,「物を所持」することに係る占有(同法180条)ではなく,厳密にいえば,財産権の行使に係る準占有(同法205条)ということになるのでしょうか。

なお,相続回復の請求権の消滅時効に係る規定の効果が及ぶ相手方の範囲について,民法旧966条及び現行884条には,旧民法証拠編155条(「相続人又ハ包括権原ノ受贈者若クハ受遺者ノ権原ニテ占有スル者ニ対シテハ」)のような明文での限定規定はありません。そういうこともあるがゆえでしょうか,つとに,表見相続人から相続財産を譲り受けた第三者に対して真正相続人がする相続財産の返還請求について「思うに,かような返還請求は,仮に判例のいうように相続の回復請求ではないとしても,表見相続人に相続権がないこと(正確にいえば,当該財産について処分権のないこと)を前提とするものであつて,相続回復請求権が時効によつて消滅し,真正の相続人において,表見相続人にその処分権のないことを主張することができなくなつた以上,〔相続権侵害者から相続財産を譲り受けた〕第三者はその時効の利益を援用できるというべきであろう。いいかえれば,この問題は,右のような第三者に対する返還請求を相続の回復請求とみるべきかどうかには必ずしも関係なく,時効の利益を援用しうる者の範囲だけの問題としても,解決しうるように思う。そして,第三者に援用権を与えないと,本条に短期消滅時効を規定した実益の大半は失われるであろう。」と説かれていたところです(我妻等369-370頁)。「相続の回復請求」なる積極的なものがされるべき相手方の範囲の限定に係る問題と民法884条の消滅時効という消極的なものの援用権者の範囲に係る問題とは別の問題であることを明らかにしたところが,快刀乱麻を断った部分です。その後,「仮に〔表見相続人からの〕第三取得者に対する真正相続人からの物権的請求権に884条が直接適用されないとしても,表見共同相続人のもとで完成した消滅時効を第三取得者が援用できれば同じことである。そして,前掲最(大)判昭和531220日〔略〕は,第三取得者もそのような時効の利益を享受できることを前提としている(第三者の利益を共同相続人への適用肯定の根拠としてあげるのだから)。」と説かれるに至っています(内田442頁)。

なお,「相続財産が僭称相続人から第三者に譲渡された場合に,その処分は無効」(我妻=有泉312頁)であるのが原則です。

第三取得者ではなく,すなわち表見相続人を介しないで,「自分の相続権を主張しないで,単に相続人の相続権を否認し,または相続以外の特定の権原を主張して相続財産を占有する者」は相続「回復請求権の消滅時効を援用」できないと解すべきものとされています(我妻=有泉309-310頁)。旧民法証拠編155条の「相続人又ハ包括権原ノ受遺者若クハ受贈者ノ分限ヲシテ効用ヲ致サシムル為メノ遺産請求ノ訴権」については,間口が広くとも,消滅時効について「相続人又ハ包括権原ノ受贈者若クハ受遺者ノ権原ニテ占有スル者ニ対」するものかどうかで絞りをかけることができたところです。民法884条の「相続回復の請求権」に関してはそのような限定規定がないので,当該請求権自体について,相手方を「相続を理由に占有を開始または継続している者に限るべき」ものとする(我妻=有泉310頁)書かれざる定義規定を(恐らく旧民法証拠編155条からではなくドイツ民法2018条から)解釈で読み込むものでしょう。

さらには,相続を理由とするとしても,単に相続人と自称するだけでは駄目であるようです。前記最高裁判所昭和531220日判決は,「自ら相続人でないことを知りながら相続人であると称し,又はその者に相続権があると信ぜられるべき合理的な事由があるわけではないにもかかわらず自ら相続人であると称し,相続財産を占有管理することによりこれを侵害している者は,本来,相続回復請求制度が対象として考えている者にはあたらない」ものと判示しています(なお,共同相続の場合には,「たとえば,戸籍上はその者が唯一の相続人であり,かつ,他人の戸籍に記載された共同相続人のいることが分明でないとき」が上記「合理的事由」であるそうですから,むしろ原告(相続回復請求をする者)が共同相続人ではないと信ずることに係る合理的事由が問題となっているともいえそうです。)。確かに,天一坊程度のちゃちな僭称者(「自己の侵害行為を正当行為であるかのように糊塗するために口実として名を相続にかりているもの又はこれと同視されるべきもの」であって「いわば相続回復請求制度の埒外にある者」)にいちいち表見相続人としての保護を与えてはいられないでしょう(なお,判例が上記部分で「相続回復請求制度」という場合,相続回復の請求権の消滅時効制度という意味でしょう。)。また,無権利者によって対外的・社会的には客観的な外観が存在するように作為されていても(老中・奉行も信じてしまうように暴れん坊将軍のお墨付きが精巧に偽造されていても),結局静的安定が優先されるべきものとされています(最判昭和531220日の高辻正己=服部高顯補足意見及び環昌一補足意見参照)。保護を受けるのならば,当該保護に値する旨自ら証しをなすべし,ということになります(最判平成11719日(民集5361138頁))。

なお,真正相続人を保護するためのErbschaftsanspruch制度下ならば,自ら相続人と称していわば不利な状態になることは,その者の勝手であって,この辺は論点とならないのでしょう。ちなみに,古代ローマの市民法上の相続請求権(hereditatis petitio)については,被告には,自己が相続人であるとの主張をなさず「何故に占有するかと問われたならば,「占有するが故に占有する」と答えるより外ない者ではあるが,なお原告の相続人であることを争う者(possessor pro possessore 占有者として占有する者)」までもが含まれていました(原田360-361頁)。

 本来の消滅時効の期間が相続回復請求権よりも短い場合には,その期間は相続回復請求権のもの(5年及び20年)に揃えよといわれています(我妻=有泉313頁)。旧民法証拠編155条の遺産請求ノ訴権に係る30年との関係についても,ボワソナアド解説によれば,「一様に(uniformément)」当該長い期間に揃えるべきものであったと解されます。

 相続回復請求権の消滅時効とは別に,(特に表見相続人のもとで)相続財産上の取得時効は進行するかについては,互いにその進行を妨げないと解すべきだといわれています(中川49頁(「特に表見相続人から譲渡をうけた第三者の場合を考えれば一層明白」),我妻=有泉313-314頁(「表見相続人の相続財産の上」のものについて),内田444頁(一般に「相続財産を占有している者のもと」の場合について),泉138頁(「表見相続人についても」))。これに対して,ドイツ民法2026条は表見相続人はその相続財産上の取得時効を主張できないとし,旧民法証拠編155条の遺産請求ノ訴権に関するボワソナアド解説によれば当該占有が包括の権原によるものである場合には取得時効期間は当該訴権の消滅時効期間に揃うものとされています(大判昭和729日(民集11192頁)も僭称相続人のもとでの取得時効の成立を否定)。しかし,表見相続人及び「みんな」の保護のためには,取得時効の進行及び成立を認めた方が一貫するのでしょう。これについては,「判例・学説は従来から第三取得者による時効取得を認めていたが,最判昭和4798日民集2671348頁は,従来判例上否定されていた表見相続人による時効取得を一定の場合に肯定した。」とされています(副田464頁・註(77))。

 


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1 暴対法第5章

 平成20年法律第28号によって同法の公布の日である200852日から,3条からなる次の章が,暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律(平成3年法律第77号。以下「暴対法」といいます。)に加えられています(平成20年法律第28号附則1条)。ただし,第31条及び第31条の3の規定は,既に平成16年法律第38号によって暴対法旧15条の2及び旧15条の3として存在していたところ(平成16年法律第38号の附則1条によって同法が公布・施行された2004428日から暴対法に追加),改めて当該新章に移されたものです。

 

    第5章 指定暴力団の代表者等の損害賠償責任

   (対立抗争等に係る損害賠償責任)

  第31条 指定暴力団の代表者等は,当該指定暴力団と他の指定暴力団との間に対立が生じ,これにより当該指定暴力団の指定暴力団員による暴力行為(凶器を使用するものに限る。以下この条において同じ。)が発生した場合において,当該暴力行為により他人の生命,身体又は財産を侵害したときは,これによって生じた損害を賠償する責任を負う。

  2 一の指定暴力団に所属する指定暴力団員の集団の相互間に対立が生じ,これにより当該対立に係る集団に所属する指定暴力団員による暴力行為が発生した場合において,当該暴力行為により他人の生命,身体又は財産を侵害したときも,前項と同様とする。

   (威力利用資金獲得行為に係る損害賠償責任)

  第31条の2 指定暴力団の代表者等は,当該指定暴力団の指定暴力団員が威力利用資金獲得行為(当該指定暴力団の威力を利用して生計の維持,財産の形成若しくは事業の遂行のための資金を得,又は当該資金を得るために必要な地位を得る行為をいう。以下この条において同じ。)を行うについて他人の生命,身体又は財産を侵害したときは,これによって生じた損害を賠償する責任を負う。ただし,次に掲げる場合は,この限りでない。

   一 当該代表者等が当該代表者等以外の当該指定暴力団の指定暴力団員が行う威力利用資金獲得行為により直接又は間接にその生計の維持,財産の形成若しくは事業の遂行のための資金を得,又は当該資金を得るために必要な地位を得ることがないとき。

   二 当該威力利用資金獲得行為が,当該指定暴力団の指定暴力団員以外の者が専ら自己の利益を図る目的で当該指定暴力団員に対し強要したことによって行われたものであり,かつ,当該威力利用資金獲得行為が行われたことにつき当該代表者等に過失がないとき。

   (民法の適用)

31条の3 指定暴力団の代表者等の損害賠償の責任については,前2条の規定によるほか,民法(明治29年法律第89号)の規定による。

 

「指定暴力団」とは暴対法3条の規定により都道府県公安委員会の指定した暴力団をいい(同法23号),「暴力団」とは「その団体の構成員(その団体の構成団体の構成員を含む。)が集団的に又は常習的に暴力的不法行為等を行うことを助長するおそれがある団体」をいい(同条2号),「暴力的不法行為等」とは暴対法「別表に掲げる罪のうち国家公安委員会規則で定めるものに当たる違法な行為」をいい(同条1号),「代表者等」とは,「当該暴力団を代表する者又はその運営を支配する地位にある者」をいい(同法33号),「指定暴力団員」とは「指定暴力団等の暴力団員」をいい(同法9条柱書き),「指定暴力団等」とは「指定暴力団又は指定暴力団連合」をいい(同法25号),「指定暴力団連合」とは同法4条の規定により都道府県公安委員会が指定暴力団の連合体として指定した暴力団をいい(同法24号),「暴力団員」とは「暴力団の構成員」をいいます(同条6号)。このうち「代表者等」については,「指定暴力団の代表者等は,組長,総裁,会長,総長等と称する当該指定暴力団の首領,あるいは若頭,若頭補佐,会長補佐,理事長補佐等と称するいわゆる最高幹部会議のメンバーが該当する。」とされています(堀誠司(警察庁刑事局組織対策部企画分析課課長補佐)「指定暴力団の代表者等に係る無過失損害賠償責任制度について」法律のひろば575号(20045月号)14頁)。

 

2 暴対法31条の2の解釈論の例

ところで,最近筆者の興味を惹いた暴対法31条の2の解釈論があります。次のような事案においては,指定暴力団員のした身体に対する侵害に係る損害賠償を,同条の規定を適用して当該指定暴力団の代表者等に対して請求し得るのだ,という原告訴訟代理人弁護士たちによる主張がそれです。

 

 事案1

  Aの幹部の子息である原告が指定暴力団U(以下「U」といいます。)の構成員であったaにより刃物で複数刺突されるという襲撃行為(以下「本件刺突」といいます。)を受けて負傷したところ,これはaが威力利用資金獲得行為を行うについて他人である原告の生命及び身体を侵害したものであるから,Uの代表者等である被告ら(総裁(Y₁)及び会長(Y₂))は損害賠償の責任を負う。Uは,Aのかかわる工事の利権獲得を目指していた(原告自身はAと全く関係のない,異分野の専門職として働いていました。)。U傘下の暴力団であるVの本部長であったbが,本件刺突の前,V構成員であったaに対し,原告を刃物で襲撃するよう指示していた。本件刺突「はUの威力を維持し資金獲得を容易ならしめるために行われたものであるから,暴対法31条の2に基づき,原告の生命及び身体の侵害による損害を賠償すべき責任を負う。」(判時242759-60頁)

 

 事案2

  Uの捜査・取締りを指揮していた元警察官であった原告が,退職から1年余り経過した後の2012年某月某日,aから拳銃で銃撃されるという襲撃行為(以下「本件銃撃」といいます。)を受けて負傷したところ,本件銃撃はY₁及びY₂が共謀し,aに指示して行わせたものであって,構成員であるaが資金獲得活動に向けたUの威力を維持するための行為を行うについて他人である原告の生命及び身体を侵害したものである。本件銃撃「はUの威力を維持し資金獲得を容易ならしめるために行われたものであるから,暴対法31条の2に基づき,原告の生命及び身体の侵害による損害を賠償すべき責任を負う。」(判時242765-66頁)

 

 上記主張によれば,暴対法31条の2の威力利用資金獲得行為は,指定暴力団員のする,「当該指定暴力団の威力を利用して生計の維持,財産の形成若しくは事業の遂行のための資金を〔同人が〕得,又は当該資金を得るために必要な地位を〔同人が〕得る行為」ではなくて,「当該指定暴力団の威力を利用して生計の維持,財産の形成若しくは事業の遂行のための資金を〔同指定暴力団が〕得,又は当該資金を得るために必要な地位を〔同指定暴力団が〕得る行為」(当該行為に密接に関連する行為も含まれる。)ということになるようです。はて,このように読み得るものなのか。

 

3 威力利用資金獲得行為とは何か


(1)第169回国会
  

   威力利用資金獲得行為でございますが,指定暴力団員がその所属する指定暴力団の威力を利用して資金を得,又は資金を得るために必要な地位を得ると,こういった行為を考えておりまして,典型的に申しますと,その相手方に指定暴力団の威力を示して行う恐喝行為でありますとか,〔略〕みかじめ料の要求でありますとか,用心棒代の要求といった暴力的要求行為,こういったものが該当するというふうに考えております。(宮本和夫政府参考人(警察庁刑事局組織犯罪対策部長)・第169回国会参議院内閣委員会会議録第88頁)

 

やはり,資金を得,又は資金を得るために必要な地位を得る主体は,指定暴力団ではなく,指定暴力団員であるように思われるところです。

 

   威力利用資金獲得行為でございますけれども,指定暴力団員がその所属する指定暴力団(ママ)の威力を利用して資金を得,又は資金を得るために必要な地位を得る行為ということをいっております。

   具体的には,典型的な例といたしましては,相手方に暴力団の威力を示して行う恐喝行為というものが考えられます。また,彼らの有力な資金源となっておりますみかじめ料要求とか用心棒代要求とか,暴対法で規制の対象としております暴力的要求行為〔同法27号及び9条〕,こういったものが典型的な事例として該当するものでございます。(宮本政府参考人・第169回国会参議院内閣委員会会議録第811頁)

 

暴対法9条には,27種類の行為が,それに違反する行為が暴力的要求行為となるもの(同法27号)として掲げられていますが,全て「要求すること」です。すなわち,次のごとし。

「・・・金品その他の財産上の利益(以下「金品等」という。)の供与を要求すること」(同条1号),「・・・みだりに金品等の贈与を要求すること」(同条2号),「・・・当該業務の全部若しくは一部の受注又は当該業務に関連する資材その他の物品の納入若しくは役務の提供の受入れを要求すること」(同条3号),「・・・その営業を営むことを容認する対償として金品等の供与を要求すること」(同条4号),「・・・物品を購入すること,・・・興行の入場券,パーティー券その他の証券若しくは証書を購入すること又は・・・用心棒の役務・・・その他の日常業務に関する役務の有償の提供を受けることを要求すること」(同条5号),「・・・債務者に対し,その履行を要求すること」(同条6号),「・・・報酬を得て又は報酬を得る約束をして・・・債務者に対し・・・その履行を要求すること」(同条7号),「・・・債務の全部又は一部の免除又は履行の猶予をみだりに要求すること」(同条8号),「・・・金銭の貸付けを要求すること」(同条9号),「・・・金融商品取引行為を行うことを要求し,又は・・・有価証券の信用取引を行うことを要求すること」(同条10号),「・・・当該株式会社の株式の買取り若しくはそのあっせん(以下この号において「買取り等」という。)を要求」すること(同条11号),「・・・預金又は貯金の受入れをすることを要求すること」(同条12号),「・・・明渡しを要求すること」(同条13号),「・・・明渡し料その他これに類する名目で金品等の供与を要求すること」(同条14号),「・・・宅地・・・若しくは建物(以下この号及び次号において「宅地等」という。)の売買若しくは交換をすること又は宅地等の売買,交換若しくは賃借の代理若しくは媒介をすることを要求すること」(同条15号),「・・・宅地等の売買若しくは交換をすることをみだりに要求し,又は・・・賃借をすることをみだりに要求すること」(同条16号),「・・・建設工事・・・を行うことを要求すること」(同条17号),「・・・施設を利用させることを要求すること」(同条18号),「・・・示談の交渉を行い,損害賠償として金品等の供与を要求すること」(同条19号),「・・・損害賠償その他これに類する名目で・・・金品等の供与を要求すること」(同条20号),「行政庁に対し・・・要求すること」(同条21号及び22号),「国,特殊法人等・・・又は地方公共団体(以下この条において「国等」という。)に対し・・・要求すること」(同条23号。また,同条24号,26号及び27号)及び「・・・入札に参加しないこと又は一定の価格その他の条件をもって当該入札に係る申込みをすることをみだりに要求すること」(同条25号)。

問答無用で刺突又は銃撃する行為自体は,暴対法の暴力的要求行為には該当しませんし,そもそも本件刺突及び本件銃撃の際には「資金を得,又は当該資金を得るために必要な地位を得る」ための要求が相手方(被害者)に対して表示されていません。

 

   また,今回の事案の対象になりますのは,そうした資金獲得活動を行うについて与えた損害ということでございます。そういった,例えばみかじめ料の支払要求などをする際にこれに応じない業者に傷害を与えたりとか,又はその店舗を破壊をしたりする,こういったような事案,こういった深刻な事態が生じております。(宮本政府参考人・第169回国会参議院内閣委員会会議録第811頁)

 

   対象となりますのが,いわゆる恐喝行為でありますとか一般のみかじめ要求行為でありますとか,一般の方々が被害を受ける,もちろん財産犯のみならず,それについて行われた殺傷行為なども含みますけれども,そういう非常に幅広い類型を対象にしておりますので,大変大きな効果があるものというふうに考えております。(宮本政府参考人・第169回国会衆議院内閣委員会議録第129頁)

 

殺傷行為は含まれるけれども,当該殺傷行為は「財産犯」に「ついて」されたものであることが想定されているようです。やはり,財産的要求を伴わない問答無用の刺突又は銃撃行為は,威力利用資金獲得行為には該当しないようです。「「威力利用資金獲得行為・・・を行うについて他人の生命,身体又は財産を侵害したとき」に該当する場合」としては,「相手方に指定暴力団の威力を示して恐喝し,金品の供与を受けるなど,威力利用資金獲得行為の一環として他人の生命,身体又は財産を侵害する場合のほか,例えば,指定暴力団の威力を示してのみかじめ料の要求に応じない者に対し報復目的で傷害を加えるなど,威力利用資金獲得行為を効果的に行うために他人の生命,身体又は財産を侵害する場合も含まれる。」とまとめられているところです(島村英(前警察庁暴力団対策課理事官)=工藤陽代(前警察庁企画分析課課長補佐)=松下和彦(警察庁暴力団対策課課長補佐)「「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律の一部を改正する法律」について」警察学論集619号(20089月号)59頁。下線は筆者によるもの)。用心深く「等」が付されていますが,天衣無縫に拡張解釈をするわけにはいかないでしょう。

なお,暴対法上の「威力」とは,「集団的又は常習的な暴力的不法行為等の被害を受けるおそれを抱かせることにより人の意思を制圧するに足りる勢力をいい,これは指定暴力団の名称やいわゆる代紋に表象されるものである。」とされています(堀・ひろば14頁)。威力利用資金獲得行為における「威力を利用して」とは,「当該指定暴力団に所属していることにより資金獲得行為を効果的に行うための影響力又は便益を利用することをいい,当該指定暴力団の指定暴力団員としての地位と資金獲得活動とが結び付いている一切の場合をいう。典型的には,暴力的不法行為等又はこれに準ずる不法な行為の手段として相手方に指定暴力団の威力を示すことが該当する。」と解説されていますが(島村=工藤=松下59頁),この解釈ですと,非典型的な場合には,「威力を示すこと」は「威力」利用資金獲得行為たるために必ずしも必要ではないと解する余地があることになります。

 「生計の維持,財産の形成若しくは事業の遂行のための資金」とは,「およそ何らかの使途のための資金を指すものであり,使途を限定する趣旨ではない。また,金銭以外の財産上の利益を得る行為も,最終的に資金を得ることにつながる行為であり,本条にいう「資金を得・・・る行為」に含まれる。」とされています(島村=工藤=松下59頁)。「資金を得るための地位を得る行為」には,「契約の一方当事者たる地位を得る行為や,行政庁から許認可等を受けて事業者たる地位を得る行為が該当」します(島村=工藤=松下59頁)。

 

(2)特殊詐欺事案における裁判例の展開
 ところで,水戸地判令和元年523日(裁判所ウェブ・サイト)は,威力利用資金獲得行為概念の範囲を拡張する注目すべき判断を示しています。すなわち,同判決においては,暴対法31条に2にいう「「威力を利用」するとは,「威力を示す」(同法9条参照)とは異なり,より幅の広い行為態様を意味するものと解」され,かつ,当該行為の「定義の文言からは,直ちに,威力利用資金獲得行為が,指定暴力団の威力を資金獲得行為それ自体に利用する場合に限定されると解することはできない」とした上で,「同条にいう「威力利用資金獲得行為」には,当該指定暴力団の指定暴力団員が,資金獲得行為それ自体に当該指定暴力団の威力を利用する場合のみならず,当該指定暴力団員が指定暴力団の威力を利用して共犯者を集める場合など,資金獲得行為の実行に至る過程において当該指定暴力団の威力を利用する場合も含まれる」ものと判示されています。また,威力利用資金獲得行為は暴力的不法行為等(暴対法21号)に限定されないとも判示しています(詐欺行為も含まれる。)。具体的には,指定暴力団員が,所属指定暴力団の威力を利用して,所属暴力団の使い走りをしていた知人(暴力団員ではない。)に詐欺の受け子を探し出させて詐欺グループを構成し(ただし,当該受け子については同人に対する当該威力の利用があったものとは認定されていません。),当該グループにおいて他人の親族になりすましてその親族が現金を至急必要としているかのように装って現金をだまし取った行為(当該受け子が現金を受領)は,暴対法31条の2の威力利用資金獲得行為であるものとされています。 

しかし,特殊詐欺事案における威力利用資金獲得行為概念の範囲拡大の動きは上記水戸地判令和元年523日のみでは止まらず,翌月の東京地判令和元年621日(裁判所ウェブ・サイト)は,2015年版警察白書「組織犯罪対策の歩みと展望」等を参照しつつ,いわゆる振り込め詐欺事案において威力利用資金獲得行為の範囲を更に大きく拡張しています。そこでは,「威力の利用」は,当該判決の判決文の文字どおり「背景」に退いてしまっています。詐欺行為については「それ自体が威力を必要とすることを必要とするものではない」とされるとともに,上記水戸地判令和元年523日とは異なり,詐欺グループ内における威力の具体的利用も認定されていません。いわく。

 

 〔略〕本件各詐欺〔いわゆる振り込め詐欺〕のような特殊詐欺は,それ自体が当然に暴力団としての威力を利用する犯罪類型であるとまではいえないものの,暴力団の構成員の多くが,典型的な威力利用資金獲得行為に対する種々の規制,取締りを回避して,新たな資金獲得源を確保すべく,暴力団の威力の利用を背景としてこれを実行しているという実態があり,本件当時において,このような実態が社会一般に認識されていたというべきであって,I会も,日本第3位の規模の指定暴力団であることから,その下部組織を含め,このような特殊詐欺に従事,加担する構成員が多数いたであろうことが社会一般に認識されていたといわなければならない。

  そして,前記〔略〕でみた本件各詐欺の具体的な態様は,いずれも,本件詐欺グループを構成した者らが役割を分担して本件詐欺グループが管理する預金口座に金員を振りこませるという組織的,計画的なものであって,上記でみた暴力団の構成員が従事,加担し,暴力団の威力の利用を背景として資金を獲得する活動に係るものに通有する類型であるということができる。

  そうすると,本件各詐欺は,いずれも,F組の構成員すなわちI会の指定暴力団員であったE〔本件詐欺グループに所属〕がこれを実行した以上,I会の構成員による威力利用資金獲得行為と関連する行為であるというほかないのであって,本件各詐欺は,I会の指定暴力団員であるEにおいて,威力利用資金獲得行為を行うについて他人の財産を侵害したものといわなければならない。
 

 これに対して,東京地判令和元年1111日(裁判所ウェブ・サイト)は揺り戻しを示します。指定暴力団I会所属の指定暴力団員がリーダーとなった詐欺グループによる特殊詐欺事件の被害者からのI会長への損害賠償請求に対して,当該詐欺グループの活動に係る当該指定暴力団員による準備に協力した組織がI会又は指定暴力団であったとは必ずしも認められないこと及び当該詐欺グループのメンバーについて当該リーダーが「指定暴力団の構成員であることを恐れて本件詐欺をしたと認められるものではない」ことを具体的に判示した上で「その他に,〔当該指定暴力団員〕が,犯行グループ内で指揮命令系統を維持確保し,規律の実効性を高めるためにI会又は指定暴力団の威力を利用して本件詐欺をしたと認めるに足りる証拠はない」と駄目を押して,「以上によれば,本件詐欺は,威力利用資金獲得行為であると認めることはできないから,被告〔指定暴力団I会会長〕に暴対法31条の2に基づく責任を認めることはできない。」と論結しています(民法715条に基づく使用者責任も,当該特殊詐欺活動がI会の事業として行われたものと認めることはできないとして否定。)。

 
4 暴対法5章と民法715条と

 

(1)国会における説明

ところで,暴対法第5章の指定暴力団の代表者等の損害賠償責任は,使用者の責任等に係る民法715条の特則であるものであると一応は考えられそうです。

まず,暴対法31条については,次のような国会答弁があります。

 

   暴力団の代表者,いわゆる首領,組長と言われる人間に責任を負わせるとなりますと,やはりこれは民法715条の使用者責任的な責任ということで,見も知らない末端の組員が北海道なり九州なりというところで不法行為を行う,そういう場合にトップの神戸なり東京に住んでおる組長が責任を取るというのは,やはり違法行為,不法行為自体が組織的な行為であるということ,また逆に,上から見ればそれが抽象的にでも組長の統制下にあるというふうな構成が抽象的に,観念的にでも取れなければ,なかなか幾ら民事訴訟,民事責任といっても責任を負わせるというのは非常に無理があるというようなことから,今回,条文としてくくる,類型としてくくるには対立抗争,内部抗争というのがこれは今言ったようなことに当てはまるだろう,あとのいろんな不法行為,犯罪行為,これはなかなかそこではくくる,条文としてくくるのは難しいんではないかということで,こういうふうな対立抗争,内部抗争ということに絞らせていただいたのであります。(近石康宏政府参考人(警察庁刑事局組織犯罪対策部長)・第159回国会参議院内閣委員会会議録第1119頁。下線は筆者によるもの)

 

ただし「使用者責任的な責任」であって,端的に「使用者責任」とはされていません。何やら含みのある表現です。

 暴対法31条の2については次のように説明されています。

 

   不法行為を行った暴力団の代表者あるいは傘下の組織の組長の損害賠償責任を追及するためには,現在では民法の使用者責任715条の規定によることとなるわけでありますが,この場合には,被害者側においていわゆる事業性,使用者性及び事業執行性,ちょっと難しいことでございますが,こうした事柄を主張,立証しなければならないわけであります。

   しかし,そのためには被害者側において,不法行為を行った暴力団員の所属する暴力団内部の組織形態,意思決定過程,代表者〔等〕や傘下組織の組長による内部統制の状況,上納金の徴収システム,こうした事柄を具体的に解明,立証しなければならないということになるわけであります〔下記藤武事件判決参照〕。こうしたことは一般の方々にとっては大変難しいことでございまして,例えば法人や法令に基づく許認可等を受けた事業を行うものとは暴力団は異なっておりまして,その事業の範囲(ママ)定款,法令において明確化されていないという状況でございます。

   また,暴力団は最近組織の内部を隠す,運営事項等を隠していくという方向に走っておりまして,これらの点を具体的に解明,立証するということは警察の支援が不可欠である,警察の現法体系の中ではなかなか難しい,警察自身もなかなか難しい点がある,こういうことでございまして,被害者の方に大きな負担をお掛けしておるというのが実態でございます。(泉信也国務大臣(国家公安委員会委員長)・第169回国会参議院内閣委員会会議録第811頁。また,宮本政府参考人・第169回国会衆議院内閣委員会議録第123頁。なお,下線は筆者によるもの)

 

   今回の改正案につきましては,民法の使用者責任の規定による場合と比べまして,〔略〕被害に遭われた方が,代表者等の損害賠償責任を追及するに当たりまして,訴訟上の負担が相当程度軽減され,被害の回復の促進が図られるものと考えております。(宮本政府参考人・第169回国会参議院内閣委員会会議録第811頁。下線は筆者によるもの)

 

暴対法31条の2は,「民法第715条の規定を適用して代表者等の損害賠償責任を追及する場合において生ずる被害者側の立証負担の軽減を図ることとした」ものとされています(工藤陽代(きよ)(警察庁刑事局)「対立抗争等における暴力行為の抑止,暴力団による被害の回復の促進及び暴力団の資金源の封圧を図る」時の法令1816号(2008830日号)13頁。下線は筆者によるもの)。民法715条を前提とするものでしょう。前記水戸地判令和元年523日も暴対「法31条の2は,指定暴力団の代表者等に配下の指定暴力団員の威力利用資金獲得行為に係る損害賠償責任を負わせるものとし,民法715条の規定を適用して代表者等の損害賠償責任を追及する場合において生ずる被害者側の立証の負担の軽減を図ることとしたものである。」と判示しています。暴対法31条の2の「「(威力利用資金獲得行為・・・を行う)について」とは,民法第715条第1項の「(事業の執行)について」と同義である。」とされています(島村=工藤=松下59頁)。

 

(2)民法715条と報償責任論等と(判例)

 民法715条の規定は,次のとおりです。

 

   (使用者等の責任)

  第715条 ある事業のために他人を使用する者は,被用者がその事業の執行について第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし,使用者が被用者の選任及びその事業の監督について相当の注意をしたとき,又は相当の注意をしても損害が生ずべきであったときは,この限りでない。

  2 使用者に代わって事業を監督する者も,前項の責任を負う。

  3 前2項の規定は,使用者又は監督者から被用者に対する求償権の行使を妨げない。

 

 民法715条の使用者責任の根拠は何かといえば,判例は,「使用者の損害賠償責任を定める民法7151項の規定は,主として,使用者が被用者の活動によつて利益をあげる関係にあることに着目し,利益の存するところに損失をも帰せしめるとの見地から,被用者が使用者の事業活動を行うにつき他人に損害を加えた場合には,使用者も被用者と同じ内容の責任を負うべきとしたもの」とのいわゆる報償責任の思想を挙げ(ただし,「主として」との限定はありますが。),更に「被用者が使用者の事業の執行につき第三者との共同の不法行為により他人に損害を加えた場合」に係る当該判決の事案に関して,「使用者と被用者とは一体をなすものとみて,右第三者との関係においても,使用者は被用者と同じ内容の責任を負うべきものと解すべき」だと述べています(最判昭和6371日(香川保一裁判長)民集426451頁(以下「昭和63年香川判決」といいます。「香川判決」の本家については,「新しい相続法の特定財産承継遺言等にちなむ香川判決その他に関するあれこれ」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1075445695.html)を御参照ください。)。

(遠藤浩等編『民法(7)事務管理・不当利得・不法行為(第4版)』(有斐閣双書・1997年)166頁(伊藤進)は,「危険責任をも根拠とする説が多くなりつつある」としつつ(下線は筆者によるもの),報償責任の原理に民法715条の根拠を求めるのが通説であるとしています。我妻榮『事務管理・不当利得・不法行為』(日本評論社・1937年)162頁が,使用者責任の民法715条による加重は「これを報償責任の一顕現となすを至当と考へる」と唱えていたところです。また,幾代通著=徳本伸一補訂『不法行為法』(有斐閣・1993年)196頁注(1)は,「判例〔昭和63年香川判決〕もまた,この考え方〔報償責任の思想〕に依拠する」とのみ述べていて,昭和63年香川判決における「主として」の語句において含意されているところのものであろう他の根拠思想(危険責任主義でしょうか。)を,補充的なものにすぎないと解してのことでしょうか,捨象しています。)

 「報償責任主義」は,「社会において大規模な事業を営む者は,それだけ大きな利益をあげているのが通例であるから,万が一にその事業活動が原因となって他人に損害を与えた場合には,当該事業者をして,つねづね彼が得ている利益のなかから当然にそれを賠償させるのが公平に適う,という考え方」であるとされています(幾代=徳本7頁註(5))。

 なお,報償責任主義の外に民法715条の根拠として挙げられることのある「危険責任主義」は,「危険物を支配し管理する者は,その物から生ずる損害については,一般の場合のような過失の有無を問題とすることなく絶対的な責任を負うべきである,という思想」であるとされています(幾代=徳本7頁註(4))。

 とはいえ,判例・通説においては,「「事業」について,一時的・継続的,営利・非営利を問わず,違法であっても構わないとされ」ていたところです(松並重雄・[32]事件解説『最高裁判所判例解説民事篇平成16年度(下)(7月~12月分)』(法曹会・2007年)661頁。下線は筆者によるもの)。制度の根拠思想に係るそもそも論を論ずる場面と違って,いったん作られた制度の運用に係る解釈は軽やかたるべきものなのでしょう。

 なお,「判例・通説によれば,「ある事業のために他人を使用する」とは,事実上の指揮監督の下に他人を仕事に従事させることを意味するものと解され」ており,「他人を使用する」については,「期間の長短,報酬の有無,選任の有無,契約の種類,有効無効を問わず,契約の存在すら必要ないと解されて」います(松並661頁)。また,ここでの指揮監督関係は,「現実に指揮監督が行われていたことを要するものではなく,客観的にみて指揮監督をすべき地位にあったことをもって足りると解されてい」るところです(松並662頁)。

 

(3)民法715条と自己責任論と(起草者)

ところで,我が民法の起草者においては,報償責任論はなお採られてはいませんでした。自己責任論です。

 

 例ヘハ車夫カ車ヲ曳クノ際其不注意ニ因リテ路人ニ損害ヲ加ヘタルトキハ其車夫カ被害者ニ対シテ賠償ノ責ヲ負フヘキハ固ヨリナリト雖モ主人モ亦此ノ如キ不注意ナル車夫ヲ選任シ且其車ヲ曳クニ際シ路人ニ損害ヲ加フルノ虞アルトキハ特ニ注意ヲ与フヘキニ〔人力車であれば主人がそこに乗っているのでしょう。〕之ヲ為サスシテ遂ニ第三者ニ損害ヲ加フルニ至リタルカ故ニ自己ノ不注意ニ付キ亦賠償ノ責ヲ負ハサルコトヲ得ス但是レ亦車夫ノ不法行為ニ付キ責任ヲ負フニ非スシテ自己カ其選任ヲ誤リ又ハ監督ヲ怠リタルニ付キ責任ヲ負フモノナルカ故ニ若シ其選任及ヒ監督ニ付キ相当ノ注意ヲ為シタルコト又ハ相当ノ注意ヲ為スモ損害ハ猶ホ生スヘカリシコトヲ証明シタルトキハ其責ヲ免ルヘキモノトス(梅謙次郎『訂正増補第三十版 民法要義巻之三 債権編』(法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1910年)894-895頁)

 

 なお、そもそも梅謙次郎は,「不法(〇〇)行為(〇〇)unerlaubte Handlung)ハ一ニ犯罪(〇〇)準犯罪(〇〇〇)Délit ou quasi-délit)ト謂フ債権発生ノ原因トシテ羅馬法以来(つと)ニ認メラルル所ナリ」(梅882-883頁),「犯罪ハ故意ヲ以テ他人ニ損害ヲ加フルヲ謂ヒ準犯罪ハ過失,怠慢ニ因リ他人ニ損害ヲ加フルヲ謂フ」(梅883頁)という認識でした(旧民法財産編(明治23年法律第28号)第2部第1章第3節の節名及び3702項参照)。犯罪又は準犯罪と言われると,確かに自己責任でなければいけないのでしょう。不法行為制度に関して,「ローマに於ては復讐なり懲罰は,早くから加害者個人に加えらるべきものとの考が確立し,家族親族の連帯責任制度は見えない。」とあります(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)220頁)。

 旧民法財産編371条は「何人ヲ問ハス自己ノ所為又ハ懈怠ヨリ生スル損害ニ付キ其責ニ任スルノミナラス尚ホ自己ノ威権ノ下ニ在ル者ノ所為又ハ懈怠及ヒ自己ニ属スル物ヨリ生スル損害ニ付キ下ノ区別ニ従ヒテ其責ニ任ス」と規定していたところ,その原案(“Chacun est responsible non seulement de ses propres faits ou négligences, mais encore des faits et négligences des personnes sur lesquelles il a autorité et des dommages causés par les choses qui lui appartiennet, sous les distinctions ci-après.”)に関して,ボワソナアドは次のように説明しています。

 

  274. 法案は,ここで,重要なものとされる区分に従うことになる。人は常に自らの行為に,及び特定の場合であれば「他人の行為」についても責任を負う,と述べられるのが仕来りである。しかし,物事の根底を探ってみれば容易に分かることであるが,既に指摘されたように,全ての場合において人は,彼自らの行為又は彼自らの懈怠についてのみ責任を負うものである。彼の行為又は彼の意思に基づくことなしに義務付けられてしまうということであれば,実際,それは全ての正義に反することになるであろう。人が彼の個人的行為なしに義務付けられることがあるのは,法律によって課せられた義務の場合(しかして,その数は,次節〔旧民法財産編380条参照〕において見るように,極めて少数である〔旧民法財産編380条に掲げられているものは,①親族・姻族間の養料の義務,②後見の義務,③共有者間の義務及び④相隣者間の義務で地役をなさないもののみでした。〕。)においてのみである。本条が掲げ,及び次条以下によって規定される各場合においては,法律が責任ありとする者の側に懈怠〔又は〕注意若しくは監督の欠如が常にあるのであって,これこそが彼の責任の原因(cause)及び根拠となる原理(principe)なのである。動物又は更には無生物によって惹起された被害又は損害に対しても責任が拡張されることについての説明も,同様である。このような場合においては「他人の行為」を云々できないことはそのとおりである。しかし,所有者の側に懈怠が常にあるのである。なお,懈怠が意識的かつ他人に害を与える意図をもって生ぜしめられることはまれであるので,ここにおいては准犯罪(quasi-délits)があるのみである。(Boissonade, Projet de Code Civil pour l’Empire du Japon, accompagné d’un commentaire, tome deuxième (Droits Personnels et Obligations), nouvelle édition, Tokio, 1891, pp.318-319

 

 ただし,自己責任論であっても,選任及び監督についての相当の注意による使用者免責に係る民法7151項ただし書のような規定が,必ずなければならないというものではありません。旧民法財産編373条は「主人,親方又ハ工事,運送等ノ営業人若クハ総テノ委託者ハ其雇人,使用人,職工又ハ受任者カ受任ノ職務ヲ行フ為メ又ハ之ヲ行フニ際シテ加ヘタル損害ニ付キ其責ニ任ス」とのみ規定して,その前条,すなわち,①父権を行う尊属親,②後見人,③「瘋癲白痴者」を看守する者並びに④教師,師匠及び工場長の責任(それぞれ,①同居する未成年の卑属親,②同居する被後見人,③「瘋癲白痴者」並びに④未成年の生徒,習業者及び職工(教師等の監督の下にある間に限る。)の行為に対するもの)について規定する同編372条のその第5項にある「本条ニ指定シタル責任者ハ損害ノ所為ヲ防止スル能ハサリシコトヲ証スルトキハ其責ニ任セス」のような免責規定がなかったところです。

これについて,ボワソナアドは,旧民法財産編373条の原案(“Les maîtres et patrons, les entrepreneurs de travaux, de transports ou d’autres services, les administrations publiques et privées, sont responsables des dommages causés par leurs serviteurs, ouvriers, employés ou préposés, dans l’exercice ou à l’occation des fonctions qui leur sont confiées.”)に関して次のように説明していました。(なお,ボワソナアドは,当該原案の参照条項として当時のフランス民法13843項(現在のフランス民法はその後の改正の結果条ずれを起こしてしまっています。)を挙げています。同項にも,防止不能による抗弁の規定(同条5項)は適用されていませんでした。)

 

  279.本条に掲げられた者らの責任は,前条の者らと同様,懈怠の推定(présomption de négligence)に基づいている。しかしながら,そこには,この特別規定を設けさせるに至った,前条のものとの注目すべき相違があるのである。

   第1。ここに掲げられた者らは,彼らが与えた職務(fonctions)の機会又はその過程においてなされた侵害行為についてのみ責任を負う。実際,不法行為者に対して彼らが指揮命令権(autorité)を有するのは,この範囲内のみにおいてである。また,無能な又はよろしからざる人間に信頼を与え又はそれを維持したことについて彼らが非難され得るのも,この範囲内においてである。

   第2。当該上記の者らは,侵害を防止することができなかったことを証明することを前条の者らのようには認められていない。その理由は,彼らの懈怠は,当該侵害行為の時点においてよりもむしろ彼らが選任をした時点及びそれ以後の期間において評価されるものだからである。すなわち,自由に,彼らは選任し,かつ,無能又は不誠実な被用者を罷免することができたのである。このことは,養子縁組の場合を除いては子供を選ぶものではなく,かつ,親子の縁を切ることのできない尊属についてはいえないところである。(Boissonade, p.323

 

ただし,「責任者ハ損害ノ所為ヲ防止スル能ハサリシコトヲ証スルトキハ其責ニ任セス」との免責規定はなくとも,意外の事実又は不可抗力によるもの(un cas fortui ou une force majeure)であったのだとの一般条項(“la resource équitable”)による抗弁は可能であるとされてはいました(Boissonade, p.325)。旧民法財産編374条は,動物についてですが,「動物ノ加ヘタル損害ノ責任ハ其所有者又ハ損害ノ当時之ヲ使用セル者ニ帰ス但其損害カ意外ノ事実又ハ不可抗力ニ出タルトキハ此限ニ在ラス」と規定していたところです。

 旧民法財産編373条については,「結果責任主義をとって,使用者の免責を認めない法制」と同じ立場に基づくものであると説かれていますが(幾代=徳本208頁),以上見たところからすると,「過失といった主観的事情の有無を問わずに,行為と損害との間に因果関係さえあれば賠償義務を負わせる,いわゆる原因主義ないしは結果責任主義」(幾代=徳本4頁)を同条は端的に採用したものとはいいにくいようです。


 
(4)藤武事件判決

最判平成161112日民集5882078頁(藤武事件判決)は,階層的に構成されている暴力団の最上位の組長と下部組織の構成員との間に民法7151項所定の使用者と被用者との関係の成立を認め,更に当該構成員が暴力団間の対立抗争においてした殺傷行為を同項にいう「事業の執行について」した行為と認めて,同項に基づき,当該組長に対し,当該殺傷行為の被害者の遺族に損害賠償をすべき責任があるものと認めて,当該組長からの上告を棄却しています。

(なお,藤武事件判決に暴対法31条の規定の適用がなかったのは,藤武事件に係る殺人行為の発生時が1995年(平成7年)825日であって,平成16年法律第38号の施行前であったことから,当該殺人行為については同法附則2条によって当該規定の適用がないものとされていたからです。)

藤武事件判決においては,暴力団組長に係る民法715条の事業は,「組の威力を利用しての資金獲得活動に係る事業」であるものとされています。「組の威力を利用して」であるところ,最高裁判所は「違法・不法な活動であっても民法715条の「事業」に当たることを肯定したものと解される」,と説かれています(松並680頁)。

当該暴力団の最上位の組長(上告人)の事業が組の威力を利用しての資金獲得活動に係る事業であることを認定するに当たって,藤武事件判決では,「①〔略〕組は,その威力をその暴力団員に利用させ,又はその威力をその暴力団員が利用することを容認することを実質上の目的とし,下部組織の構成員に対しても,〔略〕組の名称,代紋を使用するなど,その威力を利用して資金獲得活動をすることを容認していたこと」(暴対法31号,同法31条の2括弧書き参照),「②上告人は,〔略〕組の1次組織の構成員から,また,〔略〕組の2次組織以下の組長は,それぞれその所属組員から,毎月上納金を受け取り,〔略〕資金獲得活動による収益が上告人に取り込まれる体制が採られていたこと」(なお,暴対法31条の21号参照)及び「③上告人は,ピラミッド型の階層的組織を形成する〔略〕組の頂点に立ち,構成員を擬制的血縁関係に基づく服従統制下に置き,上告人の意向が末端組織の構成員に至るまで伝達徹底される体制が採られていたこと」(暴対法33号参照)が,前提事実として認定されています。

また,「暴力団にとって,縄張や威力,威信の維持は,その資金獲得活動に不可欠のものであるから,他の暴力団との間に緊張対立が生じたときには,これに対する組織的対応として暴力行為を伴った対立抗争が生ずることが不可避であること」等を挙げた上で「組の下部組織における対立抗争においてその構成員がした殺傷行為は,〔略〕組の威力を利用しての資金獲得活動に係る事業の執行と密接に関連する行為」であるので事業の執行についてしたものである,と藤武事件判決は判示しています。これで,「事業の執行について」した行為であるものと認めるためには十分なのですが,暴力団組長の事業の執行行為それ自体とまでは認められていないところが気になるところです。しかしながら,これは,「対立抗争等というおよそ犯罪に当たる行為を行うことを内容とする事項が民法715条の事業に該当するか否かについては,これまでの下級審の裁判例では否定するものが多」かったところ(堀・ひろば13頁)当該事業性否定説を最高裁判所も採用したのだ,ということではありません(そうであれば,「違法・不法」な「組の威力を利用しての資金獲得活動」を,そうであっても民法715条の事業とした先行する判断と矛盾してしまいます。)。単に,「組の威力を利用しての資金獲得活動」を事業として据えた場合においては,当該事業との関係では,対立抗争における殺傷行為は,当該事業の執行行為それ自体ということにはならず,当該「事業の執行と密接に関連する行為」という位置付けになってしまう,というだけのことであると解されます。この辺の位置付けは相対的なものであって(当該事案において何を指定暴力団の事業とするかは,原告の主張次第ということになるところです。),藤武事件判決は「抗争を暴力団組長の事業とすることを否定するものでない」ので,「事案によっては抗争を事業と捉えて使用者責任を肯定する余地を残すもの」であると解されています(松並691-692頁(注38))。すなわち,藤武事件判決に付された北川弘治裁判長裁判官の補足意見はいわく。

 

   法廷意見の指摘するとおり,暴力団にとって,縄張や威力,威信の維持拡大がその資金獲得活動に不可欠のものであり,このため,同様の活動を行っている他の暴力団との対立抗争が必然的な現象とならざるを得ない。この対立抗争において,自己の組織の威力,威信を維持しなければ,組織の自壊を招きかねないことからすれば,対立抗争行為自体を暴力団組長の事業そのものとみることも可能である


 その後,東京地判平成19920日(裁判所ウェブ・サイト,判時200054頁)は暴力団の「威力・威信の維持拡大活動」としての事業を暴力団組長の事業として認め,横浜地中間判平成201216日(浦川道太郎「組長訴訟の生成と発展」Law & Practice No.04 (2010) 158頁に紹介。判時2016110頁)は更に「縄張の維持・防衛活動」も暴力団組長の事業として認めています。 

後編に続く
http://donttreadonme.blog.jp/archives/1076999730.html



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