カテゴリ: 民法

第1 一つの蝦夷地(総称)から北海道及び樺太への分離に関して

 

1 北海道には,北海道島は含まれるが樺太島は含まれない。

 前稿である「光格天皇の御代を顧みる新しい「国民の祝日」のために」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081364304.html)においては,つい北海道「命名」150年式典(201885日に札幌で挙行)に関しても論ずることになり,その際明治二年七月八日(1869815日)の職員令により設置された開拓使による開拓の対象には,当初は北海道のみならず樺太も含まれていたことに触れるところがありました。そうであれば,しかし,日本国五畿八道の八道の一たる北海道に,北海道島と同様に開拓がされるべきものであった樺太島の地が含まれなかったのはなぜであるのかが気になってしまうところです。

 

2 明治初年の開拓官庁の変遷

 ところで,2018年において北海道「開拓」(の数えでの)150年が記念されなかったことについては,王政復古後の明治天皇の政府において「諸地開拓を総判(総判諸地開拓)」すべき機関の設置は,実は1869年の開拓使が初めてのものではなかったからであって,折角天皇皇后両陛下の行幸啓を仰いでも,当該趣旨においては十日の菊ということになってしまうのではないかと懸念されたからでもありましょうか。

 

(1)外国事務総督及び外国事務掛から外国事務局を経て外国官まで

すなわち,既に慶応四年=明治元年一月十七日(1868210日)の三職(総裁,議定及び参与)の事務分課に係る規定において,議定中の外国事務総督が「外地交際条約貿易拓地育民ノ事ヲ督ス」るものとされて,「拓地育民」が取り上げられており(併せて,参与の分課中に外国事務掛が設けられました。),同年二月三日(1868225日)には外国事務総督と外国事務掛とが外国事務局にまとめられた上(「外国交際条約貿易拓地育民ノ事ヲ督ス」るものです。),同年閏四月二十一日(1868621日)の政体書の体制においては,外国官が「外国と交際し,貿易を監督し,疆土を開拓することを総判(総判外国交際監督貿易開拓疆土)」するものとされていたのでした(以上につき,山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)4-5頁,7-8頁,1114頁及び2026頁参照)。外国交際と直接関係する疆土(「疆」は,「さかい」・「領土の境界」の意味です(『角川新字源』(1978年))。)の開拓ということですから,当該開拓の事業は,対外問題(有体に言えば,ロシア問題)対策の一環として明治政府によって認識されていたものでしょう。

 

(2)北蝦夷地(樺太)重視からの出発

 ロシア問題対策のための疆土開拓ということであれば蝦夷地開拓ということになりますが,その場合,四方を海に囲まれた北海道(東西蝦夷地)よりも,ロシア勢力と直に接する樺太(北蝦夷地)こそがむしろ重視されていたのではないでしょうか。

 

ア 慶応四年=明治元年三月九日の明治天皇諮詢

 早くも慶応四年=明治元年三月九日(186841(駿府で徳川家家臣の山岡鉄太郎が,江戸攻撃に向けて東進中の官軍を率いる西郷隆盛と談判した日です。))に,明治「天皇太政官代ニ臨ミ三職ヲ召シテ高野保建少将清水谷公考建議ノ蝦夷開拓ノ可否ヲ諮詢ス群議其利ヲ陳ス〔略〕復古記」ということがありましたが(「群議其利ヲ陳ス」の部分は,太政官日誌では「一同大ヒニ開拓可然(しかるべき)()旨ヲ言上ス」ということだったそうです。),そこでの高野=清水谷の建議書(二月二十七日付け)には「蝦夷島周囲二千里中徳川家小吏()一鎮所而已(のみ)無事()時モ懸念御坐(さうらふ)(ところ)今般賊徒 御征討(おほせ) 仰出(いでられ)候ニ付テハ東山道徃来相絶シ徳川荘内等()者共(ものども)彼地(かのち)ニ安居仕事(つかまつること)難相(あひなり)(がたく)島内民夷ニ制度無之(これなく)人心如何(いかが)当惑(つかまつり)候儀ニ有之(これある)ヘクヤ不軌ノ輩御坐候ヘハ(ひそか)ニ賊徒ノ声援ヲナシ(まうす)(べく)難計(はかりがたし)魯戎元来蚕食()念盛ニ候ヘハ此虚ニ乗シ島中ニ横行シ(かね)テ垂涎イタシ候北地()(シュン)古丹(コタン)等ニ割拠シ如何様之(いかやうの)挙動可有之(これあるべく)難計(はかりがたく)候ヘハ一日モ早ク以御人撰(ごじんせんをもつて)鎮撫使等御差下シテ御多務中モ閑暇(なさ)為在(れあり)候勢ヲ示シ御外聞ニモ相成候(あひなりさうらふ)(やう)仕度(つかまつりたく)〔中略〕海氷(りう)()()時節相至(あひいたり)候ヘハ魯人軍艦毎年()春内(シュンナイ)罷出候間(まかりいでさうらふあひだ)当月中ニモ御差下(さしくだし)相成候様(あひなりさうらふやう)被遊度(あそばされたき)積リ〔後略〕」とありました(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070634100)。

()(シア)が元来その地について蚕食之念を有しており,かつ,横行が懸念されること並びに久春古丹(大泊,コルサコフ)及び久春内(樺太島西岸北緯48度付近の地)といった地名からすると,ここでいう「蝦夷島」については,北海道島というよりは「北地」たる樺太島が念頭に置かれていたものでしょう。当該建議については,公家の清水谷公考(きんなる)に対する阿波人・岡本監輔の入れ智恵があったそうですが(秋月俊幸「明治初年の樺太――日露雑居をめぐる諸問題――」スラブ研究40号(1993年)2頁),岡本は「尊皇攘夷時代には珍しい北方問題の先駆者の一人で,文久3年(1863)すすんで樺太詰めの箱館奉行支配在住となり,慶応元年(1865)には間宮林蔵によっても実現できなかった樺太北岸の周廻を計画し,足軽西村伝九郎とともにアイヌ8名の助力をえて,独木舟で北知床岬を廻り,非常な苦労ののち樺太北端のエリザヴェータ岬(ガオト)に達し,西岸経由でクシュンナイに帰着した」という「ロシアの樺太進出に悲憤慷慨して奥地経営の積極化を望んでいた」憂国の士だったそうですから(同頁),当然樺太第一になるべきものだったわけです。

 

イ 慶応四年=明治元年三月二十五日の岩倉策問等(2道設置論)及び箱館府(箱館裁判所)の設置

 慶応四年=明治元年三月二十五日(1868417日)には,議事所において,三職及び徴士列坐の下,「蝦夷地開拓ノ事」について,「箱館裁判所被取建(とりたてられ)候事」,「同所総督副総督参謀等人撰ノ事」及び「蝦夷名目被改(あらためられ)南北二道被立置(たておかれ)テハ何如(いかん)」との3箇条の策問が副総裁である岩倉具視議定からされています(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070634300)。蝦夷地の改称の話は既にこの時点で出て来ていますが,ここでの2道のうち南の道が後の北海道(東蝦夷地及び西蝦夷地)で,北の道は樺太(北蝦夷地)なのでしょう。これらの点については更に,同年四月十七日(186859日)の「蝦夷地開拓ノ規模ヲ仮定ス」と題された「覚」7箇条中の最初の2箇条において「箱館裁判所総督ヘ蝦夷開拓ノ御用ヲモ御委任有之(これあり)候事」及び「追テ蝦夷ノ名目被相改(あひあらためられ)南北二道ニ御立(なら)()早々測量家ヲ差遣(さしつかはし)山川ノ形勢ニ随ヒ新ニ国ヲ分チ名目ヲ御定有之(これあり)候事」と記されているとともに,第6条において「サウヤ辺カラフトヘ近ク相望(あひのぞみ)候場所ニテ一府ヲ被立置度(たておかれたく)候事」と述べられています(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070634500)。箱館裁判所の設置は同月十二日(186854日)に既に決定されており,同裁判所は,同年閏四月二十四日(1868614日)に箱館府と改称されています(秋月2頁)。

 

ウ 明治二年五月二十一日の蝦夷地開拓の勅問

 箱館府を一時排除して五稜郭に拠り,最後まで天朝に反抗していた元幕臣の榎本武揚らが開城・降伏してから3日後の明治二年五月二十一日(1869630日)には,皇道興隆,知藩事被任及び蝦夷地開拓の3件につき明治天皇から政府高官等に勅問が下されています。そのうち蝦夷地開拓の条は次のとおりでした。

 

  蝦夷地ノ儀ハ 皇国ノ北門直チニ山丹満州ニ接シ経界粗々(あらあら)定マルトイヘドモ北部ニ至ツテハ中外雑居イタシ候所(さうらふところ)是レマテ官吏ノ土人ヲ使役スル甚ハタ苛酷ヲ極ハメ外国人ハ頗フル愛恤(あいじゅつ)ヲ施コシ候ヨリ土人往々我カ邦人ヲ怨離シ彼レヲ尊信スルニ至ル一旦民苦ヲ救フヲ名トシ土人ヲ煽動スルモノ()レアルトキハ其ノ禍(たち)マチ函館松前ニ延及スルハ必然ニテ禍ヲ未然ニ防クハ方今ノ要務ニ候間(さうらふあひだ)函館平定ノ上ハ速カニ開拓教導等ノ方法ヲ施設シ人民繁殖ノ域トナサシメラルヘキ儀ニ付利害得失(おのおの)意見忌憚無ク申出ツヘク候事

  (アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070159100

 

ここでの「蝦夷地」は,東蝦夷地,西蝦夷地及び北蝦夷地のうち,北蝦夷地こと樺太のことでしょう。(なお,北蝦夷地ならざる東蝦夷地及び西蝦夷地の振り分けについていえば,明治二年八月十五日(1869920日)の太政官布告による北海道11箇国のうち,東部は胆振,日高,十勝,釧路,根室及び千島の6箇国,西部は後志,石狩,天塩及び北見の4箇国とされていました。11箇国目の渡島国は,東部・西部のいずれにも分類されていません。)山丹は黒龍江下流域のことですが,ユーラシア大陸の「山丹満州ニ接シ」ているのは,地図を見ればすぐ分かるとおり,北海道島ではなく,樺太島でしょう。「経界粗々定マルトイヘドモ北部ニ至ツテハ中外雑居イタシ候所」というのは,185527日に下田で調印された日魯通好条約2条後段の「「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是まて仕来の通たるへし」を承けた樺太島内の状況を述べるものでしょう。「是レマテ官吏ノ土人ヲ使役スル甚ハタ苛酷ヲ極ハメ外国人ハ頗フル愛恤ヲ施コシ候ヨリ土人往々我カ邦人ヲ怨離シ彼レヲ尊信スルニ至ル」については,文久元年(1861年)に,樺太においてトコンベ出奔事件というものがあったそうです。

 

   事件は,文久元年(1861)に北蝦夷地のウショロ場所〔樺太島西岸北緯49度付近〕で漁業に従事していたアイヌのトコンベが,番人の暴力に耐えかねてシリトッタンナイ〔樺太島西岸ウショロより北の地〕のロシア陣営に逃げ込んだことが発端であった。北蝦夷地詰の箱館奉行所官吏はロシア側の責任者であったジャチコーフにトコンベの引き渡しを要求したが,ジャチコーフはアイヌ使役の自由を主張して奉行所官吏の要求を拒否した。その後,トコンベは翌文久二年(1862)正月,ウショロに立ち戻ったところを奉行所役人に捕縛され久春内に移送された。しかし,同年三月にはジャチコーフが久春内に来航し,トコンベの引渡しを要求した。最終的にジャチコーフは暴力を伴いトコンベを「奪還」した。さらに,ウショロに在住したトコンベの家族やその周囲のアイヌ17人を連れ去るという事件に発展した。

  (檜皮瑞樹「19世紀樺太をめぐる「国境」の発見――久春内幕吏捕囚事件と小出秀実の検討から――」早稲田大学大学院文学研究科紀要:第4分冊日本史学・東洋史学・西洋史学・考古学・文化人類学・アジア地域文化学544号(20092月)18-19頁)

 

 ということで,明治二年五月二十一日(1869630日)の勅問は,樺太島重視の姿勢が窺われるものであったのですが,同年七月八日(1869815日)の職員令による開拓使設置を経た同年八月十五日(1869920日)の前記太政官布告においては,道が置かれたのは東西蝦夷地までにとどまり,樺太島は,新しい道たる北海道から外れてしまっています。(当該太政官布告により「蝦夷地自今(いまより)北海道ト被称(しょうされ)11ヶ国ニ分割」なので(下線は筆者によるもの),渡島,後志,石狩,天塩,北見,胆振,日高,十勝,釧路,根室及び千島の11箇国のみが北海道を構成するということになります。一番北の北見国には宗谷,利尻,礼文,枝幸,紋別,常呂,網走及び斜里の8郡が置かれていますが,宗谷郡,利尻郡又は礼文郡に樺太島が属したということはないでしょう。北海道庁版権所有『北海道志 上巻』(北海道同盟著訳館・1892年)5頁によれば,蝦夷地北海道改称の際「樺太ノ称ハ旧ニ仍ル」ということになったそうです。)蝦夷地開拓に係る上記勅問の段階からわずか3箇月足らずの期間中に,樺太の位置付けが低下したようでもあります。この間一体何があったのでしょうか。

 

3 函泊露兵占領事件及び樺太島仮規則(日露雑居制)確認並びにパークス英国公使の勧告 

 

(1)函泊露兵占領事件

 明治二年六月二十四日(186981日)に「露兵,樺太函泊を占領,兵営陣地を構築」(『近代日本史総合年表 第四版』(岩波書店・2001年))という事態が生じています。

「日本の本拠地クシュンコタンの丘一つ隔てた沢にあるハッコトマリ(凾泊)にデ・プレラドヴィチ中佐(この頃大隊長となる)の指揮する50人ほどのロシア兵が上陸し,陣営の構築を始めた。そこは場所請負人伊達林右衛門と栖原小右衛門が共同で経営するアニワ湾の一漁場で,海岸は水産乾場として使われ,多数の鰊釜が敷設されていた。ロシア側は丘の上に兵営を建てるので漁場の邪魔にはならぬと弁解したが,そこもアイヌの墓地となっており,アイヌたちはロシア人の立入りを止めさせるよう繰返し日本の役所に訴えている。しかし,デ・プレラドヴィチは,兵営の設置は本国からの命令によるものとして日本側の抗議を無視した。ロシア側は仮規則〔本稿の主題たる後出1867年の日露間の樺太島仮規則〕を盾にこの地に陣営を設けたのであるが,その意図はクシュンコタンに重圧をかけ,日本人の樺太からの退去を余儀なくする準備であった。やがてここにはトーフツから東シベリア第4正規大隊の本部が移され,多数の徒刑囚も到着して,その後の紛糾のもととなるのである。」(秋月3-4頁)ということです。

 

(2)樺太問題に係るパークス英国公使の寺島外務大輔に対する忠告

樺太担当(久春古丹駐在)の箱館府権判事(開拓使設置後は開拓判官)となっていた「岡本〔監輔〕が上京して開拓長官鍋島直正や岩倉具視,大久保利通らの政府要人たちにロシア軍の凾泊上陸を報告し,日本の出兵を訴えて間もない」(秋月4頁,2頁)同年八月一日(186996日)には,外務省で「寺島〔宗則〕外務大輔はパークス英国公使と会談し,英国側から北地におけるロシアの進出について厳しく忠告を受けた。日本政府は現地の情報に疎く,樺太の情勢だけでなくロシアの動向についてまったくと言ってよいほど捕捉していなかった。〔中略〕「小出大和〔守秀実〕魯都ニ参り雑居之約定取極メ調印致し候ニ付,此約定〔樺太島仮規則〕ハ動(ママ)〔す〕へからさる者に候。恐く唐太全島を失ふ而已(〔のみ〕)ならす蝦夷地に及ふへし」と,パークスの忠告は切迫した内容であった。」ということになっています(笠原英彦「樺太問題と対露外交」法学研究731号(2000年)102-103頁。『大日本外交文書』第2巻第2455-459頁,特に458頁)。更にパークスは,「唐太に於て無用に打捨あるを魯人ひろふて有用の地となす誰も是をこばむ能はさるを万国公法とす」と,日本がむざむざ樺太を喪失した場合における列強の支援は望み薄であるとの口吻でした(『大日本外交文書』第2巻第2458)。

 

(3)樺太島仮規則に係る明治政府官員の当初認識

 パークスが寺島外務大輔に樺太島仮規則の有効性について釘を刺したのは,我が国政府の樺太担当者が当該規則の効力を否認していたからでした。

例えば,樺太島における岡本監輔の明治二年五月二十六日(186975日)付けロシアのデ・プレラドヴィチ宛て書簡では,「貴方所謂(いはゆる)日本大君と(まうす)は国帝に無之(これなく)徳川将軍事にて二百年来国政委任に(あひ)成居候得共(なりをりさうらへども)将軍限りにて外国と国界等取極(さうろふ)(はず)無之処(これなきところ)(その)臣下たる小出大和守〔秀実〕輩一存を(もつて)雑居等相約候(あひやくしさうらふ)は僭越(いたり)申迄も無之(これなく)」して「不都合の次第」であるとし,「吾所有たる此〔樺太〕島を貴国吾国及ひ土人三属の地と御心得被成候(なられさうらふ)余り御鄙見にて貴国皇帝御趣意とは不存(ぞんぜず)ところ,仮規則締結については「貴国にても其権なき者と御約し被成候(なられさうらふ)は御不念事に可有之(これあるべく)と述べて日本側の「小出大和守輩」は無権代理人であったとし,かつ,勿論(もちろん)(この)島の儀未タ荒蕪空間の地所も有之(これある)(つき)土人漁民其外小前の者に至迄(いたるまで)差支無之(これなき)場所は開拓家作等(なら)(れさ)(うらひ)ても(よろ)(しく)御坐候に付此段此方詰合(つめあひ)()御届被成(なられ)差図被受(うけられ)(さうらふ)(やう)致度(いたしたく)候」として(以上『大日本外交文書』第2巻第1933-935頁),樺太島仮規則2条の「魯西亜人〔略〕全島往来勝手たるへし且いまた建物並園庭なき所歟総て産業の為に用ひさる場所へは移住建物等勝手たるへし」との規定にもかかわらず,「荒蕪空間の地所」についてもロシア人の勝手はならず日本国の官庁に届け出た上でその指示に従うべしと,樺太島南部における(同島周廻者である岡本の主観では,樺太全島における)我が国の排他的統治権を主張していました。

「雑居」を認める樺太島仮規則の効力を,小出秀実ら当該規則調印者の権限の欠缺を理由に否定した上で(民法(明治29年法律第89号)113条参照),それに先立つ日魯通好条約2条後段の「界を分たす是まて仕来の通たるへし」との規定は,樺太島における日露雑居を認めるものではなく,日露の各単独領土の範囲は「是まて仕来の通」であることを確認しつつ,その境界(岡本の主観では,間宮海峡がそれであるべきものでしょう。)の劃定がされなかったことを表明するにすぎないもの,と解するものでしょう(以下「境界不劃定説」といいます。)。

(ここで,「境界の劃定」とは何かといえば,その意義について美濃部達吉はいわく,「領土の変更とは領土たることが法律上確定せる土地の境界を変更することであり,境界の劃定とは何処に国の境界が有るかの不明瞭なる場合に実地に就いて之を確認し明瞭ならしむることである。一は権利を変更する行為であり,一は既存の権利を確認する行為である。即ち一は創設行為たり一は宣言行為たるの差がある。境界の確定は殊に陸地に於いて外国と境界を接する場合に必要であつて,ロシアより樺太南半分の割譲を受けた場合には,講和条約附属の追加約款第2に於いて両国より同数の境界劃定委員を任命して実地に就き正確なる境界を劃定すべきことを約し,此の約定に従つて翌年境界の劃定が行はれた。」と(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)88-89頁)。190595日に調印されたポーツマス条約に基づく日露間の境界劃定は北緯50度の線がどこにあるかを測定して決めることであったわけですが,1855年の下田条約(日魯通好条約)に基づく国境劃定を行う場合であれば,まず「是まて〔の〕仕来」が何であるかの確定から始まることになったわけのものでしょう。)

しかし,下田条約2条後段の文言は境界不劃定説によるものであり,かつ,一義的にそう解され得るものであったかどうか。後に考察します。

 

(4)明治政府要人との会見における樺太問題に係るパークスの慎重論

明治二年八月九日(1869914日)には,「パークスは東京運上所において,岩倉〔具視〕大納言・鍋島〔直正〕開拓長官・沢〔宣嘉〕外務卿・大久保〔利通〕参議・寺島〔宗則〕外務大輔・大隈〔重信〕大蔵大輔ら新政府の有力者たちと会見し,再び樺太問題を討議した。さきに寺島との会談で樺太への積極策〔日本側もクシュンコタン近辺に要害の地を占めること(「クシユンコタン辺に要害の地をしむれは唐太の北地処に人をうつすよりも切速なり」(『大日本外交文書』第2巻第2458頁))〕を勧めたパークスは,このたびは一変して「樺太はすでに大半がロシアに属しており,今から日本が着手するのは遅すぎる」ことを力説した。すでに彼は〔英国商船〕ジョリー号船長ウィルソンの〔ロシア軍の凾泊進出に係る〕詳報を検討の結果,ロシアがアニワ湾に2000人の兵力を集結して(これは過大である),日本人の追出しを意図していることを知ったのである。彼は日本側から近く高官とともに多数の移民を送る計画を聞いて,「それは火薬の傍らに火を近づけるのと同じ」といい,北海道の開拓に力をそそぐことを要望した。」という運びになっています(秋月5頁)。

「唯今に至り唐太を御開き被成(なられ)候は御遅延の事と存候」,「唐太を先に御開き被成(なられ)候は住居の屋根(ばか)りあつて礎無之(これなし)と申ものに有之(これあり)候」,「1867年小出大和守の約定は魯西亜と日本との人民雑居と申事に候へは当今同国人参り候ても追出し候権無之(これなき)事と存候」,「サカレン()御心配被成候内(なられさうらふうち)蝦夷は被奪(うばはれ)可申(まうすべく)候」というようなパークスの発言が記録されています(『大日本外交文書』第2巻第2465-478頁のうち,470頁,471頁,474頁及び477頁)。なお,同日段階では我が国政府は北海道島よりも樺太島の開拓を先行させるつもりであったようであり,「同所()は魯国人の来りしに付唐太を先に開らき候事にて蝦夷地ヲ差置候と申事には無之(これなく)候」及び「(まづ)差向唐太の方に尽力いたし候積に候」というような発言がありました(『大日本外交文書』第2巻第2472頁)。 

 蝦夷地改称に係る明治二年八月十五日の前記太政官布告が樺太島について触れなかったのは,樺太はもう駄目ではないかとパークスに冷や水を浴びせかけられてしまったばかりの我が国政府としては,きまりが悪かったからでしょうか。ただし,改称された北海道を11箇国に分割するところの当該太政官布告は,少なくともこれらの国が置かれた東西蝦夷地については,他の五畿七道諸国と同様のものとしてしっかり守ります,との決意表明ではあったのでしょう。なお,八月九日に我が国政府は,パークスからの「〔樺太島における事件に関し〕右様〔「御国内の事件を御存し無之(これなき)事」〕にては蝦夷地を被奪(うばはれ)(さうらふ)(とも)御存し有之(これある)間敷(まじく)」との皮肉に対して,「(これ)(より)開拓の功を成し国割にいたし郡も同しく分割いたし候積に候」と言い訳を述べていますところ(『大日本外交文書』第2巻第2476),そこでは,樺太島にも国及び郡を置くものとまでの明言はされてはいませんでした。

 

4 北海道と樺太との取扱いの区別へ

 

(1)三条右大臣の達し

 蝦夷地を北海道と改称した翌九月には(『法令全書 明治二年』では九月三日(1869107日)付け),三条実美右大臣から開拓使宛てに次のように達せられています(『開拓使日誌明治二年第四』)。

 

                              開拓使

  一北海道ハ

   皇国之北門最要衝之地ナリ今般開拓被仰付(おほせつけられ)候ニ付テハ(ふかく)

   聖旨ヲ奉体シ撫育之道ヲ尽シ教化ヲ広メ風俗ヲ(あつく)()キ事

  一内地人民漸次移住ニ付土人ト協和生業蕃殖(さうろふ)(やう)開化(こころ)ヲ尽ス可キ事

  一樺太ハ魯人雑居之地ニ付専ラ礼節ヲ主トシ条理ヲ尽シ軽率之(ふる)(まひ)曲ヲ我ニ取ルノ事アル可ラス自然(かれ)ヨリ暴慢非義ヲ加ル事アルトモ一人一己ノ挙動アル可カラス(かならず)全府決議之上是非曲直ヲ正シ渠ノ領事官ト談判可致(いたすべく)(その)(うへ)猶忍フ可カラサル儀ハ 廷議ヲ経全圀之力ヲ以テ(あひ)応スヘキ事ニ付平居小事ヲ忍ンテ大謀ヲ誤マラサル様心ヲ尽スヘキ事

  一殊方(しゆはう)〔『角川新字源』では,「異なった地域」・「異域」。もちろんここでは「外国」ではないですね。〕新造之国官員協和戮力ニ非サレハ遠大()業決シテ成功スヘカラサル事ニ付上下高卑ヲ論セス毎事己ヲ推シ誠ヲ(ひら)キ以テ従事決シテ面従腹非()儀アル可カラサル事

    九月        右大臣                                                                               

 

 最北の樺太ではなく,宗谷海峡を隔てたその南の北海道こそが「皇国之北門最要衝之地」であるものとされています。樺太については,ロシア人に気を遣って忍ぶべしと言われるばかりで,どうも面白くありません。東西蝦夷地のみに係る北海道命名の意義とは,東西蝦夷地と北蝦夷地との間のこの相違を際立たせることでもあったのでしょう。最終項に「新造之国」とありますが,当該新造之国11箇国の設置は北海道についてのみであったことは,既に述べたとおりです。

 北海道の命名を華やかに祝うに際しては,陰の主役たる失われた樺太(及び当該陰の主役に対するところの某敵役)をも思い出すべきなのでしょう。

 

(2)樺太放棄論者黒田開拓次官

 明治三年五月九日(187067日)兵部大丞黒田清隆が樺太専務の開拓次官に任ぜられますが,担務地たる樺太を視察した黒田はその年十月に政府に建議を行います。いわく,「夫レ樺太ハ魯人雑居ノ地ナルヲ以テ彼此親睦事変ヲ生セサラシメ(しかる)(のち)漸次手ヲ下シ功ヲ他日ニ収ムルヲ以テ要トス然レトモ今日雑居ノ形勢ヲ以テ(これ)ヲ観レハ僅ニ3年ヲ保チ得ヘシ」云々と(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070638700)。(ちなみに,鷗外森林太郎翻訳の『樺太脱獄記』(コロレンコ原作)において描かれた樺太島から大陸への脱獄劇を演じたロシアの囚人らが同島に到着した時期は,この年の夏のことでした。)また,同年十一月,黒田は「米国ニ官遊」しますが(樺太庁長官官房編纂『樺太施政沿革』(1912年)後篇上・従明治元年至同8年樺太行政施設年譜4頁),その際黒田は「上言シテ(いはく)力ヲ無用ノ地〔筆者註:樺太のことですね。〕ニ用テ他日ニ益ナキハ寧ロ之ヲ顧ミサルニ若カス故ニ之ヲ棄ルヲ上策ト為ス便利ヲ争ヒ紛擾ヲ致サンヨリ一着ヲ譲テ経界ヲ改定シ以テ雑居ヲヤムルヲ中策ト為ス雑居ノ約ヲ持シ百方之ヲ嘗試シ左支右吾遂ニ為ス可カラサルニ至ツテ之ヲ棄ルヲ下策ト為スト」ということがあったそうです(明治62月付け黒田清隆開拓次官上表(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A03023618600))。要は,黒田の樺太放棄論(「上策」)は明治三年中から始まっていたようです。

このようなことになって,「これまで樺太の維持のため努力を重ねてきた岡本監輔は,このような黒田の方針に追従できず,明治3年末に辞表を提出し,許可も届かないうちに離島した〔略〕。その後の樺太行政は,ロシアの軍事力に対抗して開拓を推進するよりは,むしろ移民や出稼人たちの保護に重点が移されたのである。」ということになりました(秋月7頁)。岡本の樺太統治の夢及び努力は,「樺太の行政官として下僚80余名と移民男女200余名を率いて,慶応46月末クシュンコタン(楠渓)に着任」(秋月2頁)してからわずか2年半ほどで終わりを告げたわけです。

その後,187557日にペテルブルクで調印され同年822日に批准書が交換された日露間の千島樺太交換条約によって,全樺太がロシア帝国の単独領有に帰したことは周知のとおりです。


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1 はじめに:配偶者及び兄弟姉妹が相続人である場合の配偶者の遺留分は8分の3か2分の1か

我が民法(明治29年法律第89号)の第1042条は,「遺留分の帰属及びその割合」との見出しの下に,次のように規定しています。

 

  第1042条 兄弟姉妹以外の相続人は,遺留分として,次条第1項に規定する遺留分を算定するための財産の価額に,次の各号に掲げる区分に応じてそれぞれ当該各号に定める割合を乗じた額を受ける。

   一 直系尊属のみが相続人である場合 3分の1

   二 前号に掲げる場合以外の場合 2分の1

  2 相続人が数人ある場合には,前項各号に定める割合は,これらに第900条及び第901条の規定により算定したその各自の相続分を乗じた割合とする。

 

これは,平成30年法律第72号たる民法及び家事事件手続法の一部を改正する法律によって,それまでの民法1028条が,201971日から(同法附則1条柱書き,平成30年政令第316号)改められたものです。

平成30年法律第72号による改正前の民法1028(以下,昭和22年法律第222号の施行(194811日(同法附則1条))以後平成30年法律第72号による改正前の民法の第5編第8章(現在は第9章)の各条を「旧〇〇〇〇条」のように表記します。)は,次のとおりでした。

 

 (遺留分の帰属及びその割合)

  第1028条 兄弟姉妹以外の相続人は,遺留分として,次の各号に掲げる区分に応じてそれぞれ当該各号に定める割合に相当する額を受ける。

   一 直系尊属のみが相続人である場合 被相続人の財産の3分の1

   二 前号に掲げる場合以外の場合 被相続人の財産の2分の1

 

民法旧1028条には現行10422項に相当する規定がありませんが,この点は,民法旧1044条で手当てがされていました(下線は筆者によるもの)。

 

 (代襲相続及び相続分の規定の準用)

 第1044条 第887条第2項及び第3項,900条,第901,第903条並びに第904の規定は,遺留分について準用する

 

六法を調べるのが億劫な読者もおられるでしょうから,民法900条及び901条の条文を次に掲げておきます。

 

 (法定相続分)

 第900条 同順位の相続人が数人あるときは,その相続分は,次の各号の定めるところによる。

  一 子及び配偶者が相続人であるときは,子の相続分及び配偶者の相続分は,各2分の1とする。

  二 配偶者及び直系尊属が相続人であるときは,配偶者の相続分は,3分の2とし,直系尊属の相続分は,3分の1とする。

  三 配偶者及び兄弟姉妹が相続人であるときは,配偶者の相続分は,4分の3とし,兄弟姉妹の相続分は,4分の1とする。

  四 子,直系尊属又は兄弟姉妹が数人あるときは,各自の相続分は,相等しいものとする。ただし,父母の一方のみを同じくする兄弟姉妹の相続分は,父母の双方を同じくする兄弟姉妹の相続分の2分の1とする。

 

 (代襲相続人の相続分)

 第901条 第887条第2項又は第3項の規定により相続人となる直系卑属の相続分は,その直系尊属が受けるべきであったものと同じとする。ただし,直系卑属が数人あるときは,その各自の直系尊属が受けるべきであった部分について,前条の規定に従ってその相続分を定める。

 2 前項の規定は,第889条第2項の規定により兄弟姉妹の子が相続人となる場合について準用する。

 

民法旧1028条及び旧1044条の当該部分(同法900条及び901条の準用の部分)を現行1042条の形に改めた趣旨は,平成30年法律第72号を立案起草された御当局の御担当者によれば,「〔平成30年法律第72号による改正前の〕旧法ではこれらの規律が明確に規定されておらず,一般国民からみて極めて分かりにくいという問題があったことから,新法においては,遺留分の額(第1042条)や遺留分侵害額(第1046条第2項)の算定方法を明確化することとしたものである。」とのことです(堂薗幹一郎=野口宣大『一問一答 新しい相続法――平成30年民法等(相続法)改正,遺言書保管法の解説』(商事法務・2019年)134頁)。

しかして,「明確化」された遺留分の額の「算定方法」は,要するに,「遺留分の具体的金額については,遺留分を算定するための財産の価額に,遺留分割合(原則2分の1)を乗じ,さらに遺留分権利者の法定相続分を乗じて,これを求める」とのことです(堂薗=野口133頁)。ここにいう「法定相続分」とは,民法10422項にいう同法「第900条及び第901条の規定により算定したその各自の相続分」であるものと了解されます(民法900条の見出しは,正に「法定相続分」です。)。

更により明確に数式化された「遺留分を求める計算式」は,次のとおりです(堂薗=野口134頁(注1))。

 

 遺留分=(遺留分を算定するための財産の価額)×1/2)(×(遺留分権利者の法定相続分)

 直系尊属のみが相続人である場合には,1/3

 

 ということで,「被相続人の弟及び妹並びに配偶者の計3人を相続人とする相続において,各相続人の遺留分は,それぞれ,遺留分を算定するための財産の価額の何分の1か。」と問われれば,弟及び妹については民法10421項柱書きによってそもそも遺留分が認められていないからそれぞれゼロであり,同柱書きによって遺留分権利者と認められている配偶者については,遺留分割合の2分の1(同法104212号。被相続人の配偶者及び兄弟姉妹は,いずれもその直系尊属ではありませんから,「3分の1」(同項1号)にはなりません。)に――民法9003号においては妻の法定相続分は4分の3であるので――4分の3を乗じて8分の3となりますよ,と素直に答えればよいように思われます。

 ところが,インターネット上の諸ウェブページを検するに,この場合,遺留分を算定するための財産の価額の8分の3をもって配偶者の遺留分とするのはよくある残念な間違いであって,正解は,遺留分を算定するための財産の価額の2分の1である,とするものが多く目に入ります(なお,「配偶者と兄弟姉妹が相続人になるとき配偶者の遺留分は1/23/8か?! - あなたのまちの司法書士事務所グループ|神戸・尼崎・三田・西宮・東京・北海道 (anamachigroup.com)」を参照)。遺留分権者は配偶者一人なので,専ら民法104212号そのままに,遺留分を算定するための財産の価額の2分の1を独り占めできるのだ,この場合同条2項は最初から問題にならないのだ,ということのようです。はてさて,せっかく「明確化」されたはずの条文の文理に素直に従って解釈したつもりが,無慈悲にも間違いとされるとは,トホホ・・・と若干自信を失いかけたところで,気を取り直して事態を明確化すべく,筆者は本稿を草することとしたのでした。

 

2 平成30年法律第72号制定前の通説:2分の1説

 まず諸書を検するに,配偶者及び兄弟姉妹が相続人である場合における配偶者の遺留分が遺留分を算定するための財産の価額の8分の3ではなく2分の1となるということは,通説であったようです。「あったようです」と留保するのは,これらの書物は,平成30年法律第72号の制定前に書かれたものであって,解釈の対象となっているのは民法旧1028条だからです。

 

  配偶者と兄弟姉妹が相続人となるときには,2分の1の遺留分は全て配偶者にいく。

(内田貴『民法Ⅳ 親族・相続』(東京大学出版会・2002年)505頁)

 

配偶者と兄弟姉妹が相続人であるときは,配偶者は2分の1,兄弟姉妹には遺留分がない。

(我妻榮=有泉亨著・遠藤浩補訂『民法3 親族法・相続法(新版)』(一粒社・1992年)394頁)

 

〔旧1028条において,直系尊属のみが相続人である場合以外の〕場合は,〔総体的遺留分の率は〕2分の1である(同条2号)。直系卑属のみ,配偶者のみ,配偶者と直系卑属,配偶者と直系尊属,⑤配偶者と兄弟姉妹の五つの場合があるが,兄弟姉妹は遺留分を有しないから,⑤の場合は,②の場合と同じに,配偶者だけが2分の1の遺留分をもつ。

(遠藤浩等編『民法(9)相続(第3版)』(有斐閣双書・1987年)244-245頁(上野雅和))

 

配偶者と兄弟姉妹が相続人の場合は,配偶者のみ3分の1

(中川善之助『相続法』(有斐閣・1964年)406頁)

 

  なお,中川善之助教授の1964年の上記著書『相続法』において「配偶者のみ3分の1」となっているのは,昭和55年法律第51号によって198111日から改正(同法附則1項)されるまで,民法旧1028条は次のとおりだったからでした。

 

     第1028条 兄弟姉妹以外の相続人は,遺留分として,左の額を受ける。

      一 直系卑属のみが相続人であるとき,又は直系卑属及び配偶者が相続人であるときは,被相続人の財産の2分の1

      二 その他の場合には,被相続人の財産の3分の1

 

    昭和55年法律第51号による改正後の民法旧1028条は次のとおりでした。

 

     第1028条 兄弟姉妹以外の相続人は,遺留分として,左の額を受ける。

      一 直系尊属のみが相続人であるときは,被相続人の財産の3分の1

      二 その他の場合には,被相続人の財産の2分の1

    

    民法旧1028条がその最終的な姿になったのは,平成16年法律第147号による改正によってでした(200541日から施行(同法附則1条,平成17年政令第36号))。当該改正は,配偶者の遺留分拡大に係る昭和55年法律第51号による改正のような実質的内容の改正ではありませんから,正に民法旧1028条の「明確化」のためのものだったのでしょうが,それでもなお,平成30年法律第72号による改正が更に必要だったのでした。

 

   配偶者と四人の兄弟姉妹があるとき〔略〕。兄弟姉妹には遺留分がないから,配偶者だけ一人で3分の1。従つて,被相続人は,遺産の3分の2は自由に処分することができる。

   (我妻榮=立石芳枝『親族法・相続法』(日本評論新社・1952年)633頁(我妻))

 

 確かに民法旧1028条の規定は,それ自体で一応完結しているので,遺留分権利者が一人であるときはそこで終わりだったのでしょう。遺留分権利者が複数であるときに初めて,同法旧1044条による900条及び901条の準用が必要となるものと解されていたのでしょう。

ちなみに,昭和22年法律第222号による改正前の民法1146(以下,昭和22年法律第222号の施行前の民法の第5編の各条を「旧々〇〇〇〇条」のように表記します。いわゆる「明治民法」ですね。なお,旧民法(明治23年法律第28号・第98号)は,「明治民法」の一つ前の別の法典です(施行はされず。)。)は,「〔略〕第1004条〔略〕ノ規定ハ遺留分ニ之ヲ準用ス」と規定し,旧々1004条は「同順位ノ相続人数人アルトキハ其各自ノ相続分ハ相均シキモノトス但直系卑属数人アルトキハ嫡出ニ非サル子ノ相続分ハ嫡出子ノ相続分ノ2分ノ1トス」と規定していましたところ,梅謙次郎は旧々1146条について淡々と「此条〔旧々1004条〕ハ遺産相続ニ於テ同順位ノ相続人数人アル場合ニ付キ各自ノ相続分ヲ定メタルモノナリ而シテ遺留分モ亦其相続分ノ割合ニ応シテ之ヲ定ムヘキモノトシタルナリ」と説明しています(梅謙次郎『民法要義巻之五 相続編(第21版)』(私立法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1913年)454頁。下線は筆者によるもの)。遺留分についても,遺留分権利者が「数人アル場合」が問題となるのだということでしょう。

民法旧々1131条は「遺産相続人タル直系卑属ハ遺留分トシテ被相続人ノ財産ノ半額ヲ受ク/遺産相続人タル配偶者又ハ直系尊属ハ遺留分トシテ被相続人ノ財産ノ3分ノ1ヲ受ク」と規定していました。当該規定の前提となる遺産相続に係る同法旧々994条から996条までは,直系卑属,②配偶者,③直系尊属,④戸主の順序の順位で遺産相続人となるものとしていましたので,遺留分権利者が存在する場合において,その範囲と遺産相続人の範囲とが異なるという事態(民法現行規定においては,配偶者及び兄弟姉妹が相続人であるときは,配偶者のみが遺留分権利者となります。)はなかったところです(遺留分のない戸主(旧々1131条参照)が遺産相続人となるのは,遺留分権利者でもある先順位の遺産相続人がないときでした。)。

なお,「遺産相続」といって単純に「相続」といわないことには理由があります。昭和22年法律第74号の施行(194753日から(同法附則2項))前の我が民法の相続制度は,家督相続と遺産相続との2本立てだったのでした(前者に係る規定は同法71項により適用停止)。家督相続は戸主権の相続で,遺産相続は,戸主ではない家族の死亡の場合におけるその遺産の相続です。(ちなみに,「日本国憲法施行に伴う民法の応急的措置に関する法律」は,昭和22年法律第74号の題名ではなく,件名です(当該官報を見るに,上諭における用語は「日本国憲法施行」であって,「日本国憲法の施行」ではありません。)。)

 

3 脱線その1:特別受益の価額は遺留分から減ずるのか遺留分侵害額から減ずるのか問題の解決の「明確化」

 しかし,平成30年法律第72号による民法1042条の「明確化」は,主に,遺留分についての同法旧1044条による「第903条〔略〕の規定」(同条は,特別受益者の相続分に係るもの)の準用の在り方(遺留分権利者が受けた特別受益の価額を,同人の遺留分の額からあらかじめ減じておくのか,それとも次の遺留分侵害額算定の段階においてそこから減ずるのか)に係るものでした。

なお,「特別受益者」は,共同相続人中「被相続人から,遺贈を受け,又は婚姻若しくは養子縁組のため若しくは生計の資本として贈与を受けた者」ですので(民法9031項。同項は「共同相続人中に,被相続人から,遺贈を受け,又は婚姻若しくは養子縁組のため若しくは生計の資本として贈与を受けた者があるときは,被相続人が相続開始の時において有した財産の価額にその贈与の価額を加えたものを相続財産とみなし,第900条から第902条までの規定により算定した相続分の中からその遺贈又は贈与の価額を控除した残額をもってその者の相続分とする。」と規定しています。),遺留分権利者が受けたことになる特別受益には,民法9031項の贈与のみならず,遺贈も含まれることになります(民法104621号参照)。

 最判平成81126日民集50102747頁が,「不明確性」の元凶ということになるのでしょうか。

当該平成8年最判の判示にいわく,「被相続人が相続開始の時に債務を有していた場合の〔①〕遺留分の額は,民法〔旧〕1029条〔現行1043条に相当〕,〔旧〕1030条〔現行10441項に相当〕,〔旧〕1044条に従って,被相続人が相続開始の時に有していた財産全体の価額にその贈与した財産の価額を加え〔この「贈与」については,当時,特別受益に係る9031項の贈与は,相続開始前1年間より前のものも全て含まれました(旧1044条による9031項前段の準用(我妻=立石637頁・656頁(我妻),遠藤等247頁(上野),内田505頁。最判平成10324日民集522433頁参照)。特別受益に係る贈与の加算を原則として相続開始前10年間のものに限定する現行10443項は新設規定です。)。〕,その中から債務の全額を控除して遺留分算定の基礎となる財産額を確定し,それに同法〔旧〕1028条所定の遺留分の割合を乗じ,複数の遺留分権利者がいる場合は更に遺留分権利者それぞれの法定相続分の割合を乗じ,遺留分権利者がいわゆる特別受益財産を得ているときはその価額を控除して算定すべきものであり,〔②〕遺留分の侵害額は,このようにして算定した遺留分の額から,遺留分権利者が相続によって得た財産がある場合はその額を控除し,同人が負担すべき相続債務がある場合はその額を加算して算定するものである。」と(下線は筆者によるもの)。

すなわち,平成8年最判においては「厳密には,遺留分権利者の特別受益の額の取扱いが第1046条第2項の規律とは異なる(上記判例では,遺留分額の算定の中で,この額を予め控除しているものと考えられる。)」というのが,平成30年法律第72号の法案立案御当局の事実認識でした(堂薗=野口134頁(注3))。確かに,現行104621号は,特別受益の価額を「遺留分の算定の中で」ではなく,遺留分侵害額の算定の段階において初めて減ずる処理をすることにしています。すなわち,遺留分の額を算定するに当たって,特別受益の価額が,1042条又は1043条においてあらかじめ控除されるものではありません。

「明確化」を必要とする前提状況として,従来の学説は,(a)平成8年判決方式を採るものと(b)現行民法1042条=10462項方式を採るものとに分かれていました。

a)平成8年最判方式を採る学説としては,①「各自の遺留分の額は,〔「被相続人が相続の時に有した財産の価額に贈与した財産の価額を加え,そこから債務の全額を控除した額である」ところの「元になる財産」〕の額に各自の遺留分と法定相続分の割合を掛けたものから特別受益を引いた額である」とするもの(星野英一『家族法』(放送大学教育振興会・1994年)168頁),②「各人の遺留分額は,遺留分算定の基礎となる遺産額〔略〕に各遺留分権利者の遺留分率(全体の遺留分率に法定相続分率を掛けたもの)を掛け,ここから相続人の特別受益額を差し引いたもの(1044条による903条の準用)ということになる」とするもの(内田506頁。ここで「〔旧〕1044条による903条の準用」というのは,民法9031項後段の「算定した相続分の中からその遺贈又は贈与の価額を控除した残額をもってその者の相続分とする」の部分を「算定した遺留分の中からその遺贈又は贈与の価額を控除した残額をもってその者の遺留分とする」と読み替えて準用するという意味でしょう。)及び③「〔旧々〕第1007条〔現行9031-3項に対応〕ニ依リ相続財産ニ算入スヘキモノハ遺留分ノ算定ニ付テモ亦之ヲ算入スヘク而シテ之ヲ遺留分中ヨリ控除スヘク尚ホ其額カ遺留分ニ均シキカ又ハ之ニ超ユルトキハ一切遺留分ヲ受クルコトヲ得サルモノトス」とするもの(梅455-456頁)があります。

b)現行民法1042条=10462項方式を採る学説としては,①遺産総額に相続人に対する生前贈与の額を加えた和(旧1029条,旧1044条・903条)に旧1028条の当該割合を乗じて得られた積に更に法定相続分に係る900条を準用(旧1044条)してそれぞれ算定した額を「各自の遺留分」とした上で,当該各自の遺留分額と各自の相続利益額(特別受益額(受贈額及び受遺額)と相続額との和)とを比較して後者が前者に及ばないときに遺留分侵害があるとする例を示すもの(我妻=立石639-641頁(我妻))及び②「それぞれの遺留分権利者の計算上の遺留分の額は,遺留分算定の基礎となる財産額〔「「被相続人が相続開始の時において有した財産の価額にその贈与した財産の価額を加え,その中から債務の全額を控除して」定める」〕に,その者の遺留分の率〔「遺留分権利者が複数あるときは,全体の遺留分の率に,それぞれの遺留分権利者の法定相続分の率を乗じたもの」〕を乗じたものである」とする一方,「遺留分侵害額の算出式」を「遺留分侵害額=遺留分算定の基礎となる財産額(A)×当該相続人の遺留分の率(B)-当該相続人の特別受益額(C)-当該相続人の純相続分額(D)」(ただし,「C=当該相続人の受贈額+受遺額 D=当該相続人が相続によって得た財産額-相続債務分担額」)とするもの(遠藤等247-249頁(上野))があります。

 平成30年法律第72号は,平成8年最判の存在にかかわらず,(a)星野vs.b)我妻の師弟対決において師匠の我妻説(b)を採用したものと解されます。「いずれの整理をしたとしても最終的に算出される遺留分侵害額に変わりはない」が「いわゆる遺留分超過額説を採用した判例(最一判平成10226日民集521274頁)では,「遺留分」の概念について第1046条第2項と同様の理解をしているのではないかと考えられること等を踏まえて」,(b)説が採用されたものとされています(堂薗=野口134頁(注3))。

 このうち,最判平成10226日以外の理由である「等」たる理由については,相続人の遺留分は「割合を乗じた額」なので(民法1042条参照),その算定作業は掛け算をもって終わるべきであるから,ということもあるでしょうか。確かに,特定受益の額を減ずるということで個々に更に引き算が加わると凹凸ができて,「割合を乗じた額」ではなくなってしまいます。

 

しかしてこの割合方式はローマ法時代からの伝統でしょうか。いわく,「lex Falcidia(前40年の平民会議決) 相続人は少くとも相続財産の4分の1を取得する。4分の3を超える遺贈の超過額は無効となり,受遺者多数のときは按分的に減額せられる。〔略〕知らずして超過額を相続人が履行すれば,非債弁済の不当利得返還請求訴権〔略〕を発生する。4分の1quarta Falcidia)とは相続債務,埋葬費用,解放せらるべき奴隷の値を全部遺産より控除した額の4分の1である。」と(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)371頁)。

ただし,我が民法の遺留分制度は,ローマ法と直結したものではありません。すなわち,「〔日本〕民法の遺留分制度(〔旧〕1028条以下参照)は,ゲルマン法系統の流を汲むフランス固有法のréserve制を模倣したものである。ローマ法の義務分制度と類似したものがあるが,又幾多の点で異つている。歴史的にいつてもローマの義務分が遺言の自由を制限して設けられた部分であるのに対して,遺留分は遺言の不能が解除せられた場合に依然として解除せられない部分であり,存在理由も倫理的義務よりは,家の維持のための経済的理由にあり(従つて遺留分額はもとは家産たる祖先伝来の不動産の幾分の一としてきめられた),又法定相続人が法定相続人として有する権利で(従つて被相続人の遠い親族でも相続人となれば遺留分はある),義務分の如く一定近親として与えられる権利ではなく(義務分では相続を拒絶しても義務分は請求できる),又遺留分の訴は不倫遺言の訴querela inofficiosi testamenti. 遺言者の一定近親者が遺言者の死亡に伴い受けた額が,無遺言相続人であったならば受けたところの額(pars legitima)の4分の1(義務分)に達しないときに,無遺言相続分(義務分ではない。)に障碍を与える限度において遺言を取り消すべく,当該近親者が提起し得る訴え〕の如く相続分額を求めることなく,遺留分額を要求するものであるが,その請求はローマの義務分補充の訴の如き単なる債権的な訴ではない。」とのことです(原田345-347頁)。「ゲルマン法では当初遺言制度を認めなかつた」ところです(原田329頁)。

 

 他方,主要な理由とされる最判平成10226日について見ると,同判決は,次のような判示をしています。いわく,「相続人に対する遺贈が遺留分減殺の対象となる場合においては,右遺贈の目的の価額のうち受遺者の遺留分額を超える部分のみが,民法〔旧〕1034〔「遺贈は,その目的の価額の割合に応じてこれを減殺する。但し,遺言者がその遺言に別段の意思を表示したときは,その意思に従う。」〕にいう目的の価額に当たるものというべきである。けだし,右の場合には受遺者も遺留分を有するものであるところ,遺贈の全額が減殺の対象となるものとすると減殺を受けた受遺者の遺留分が侵害されることが起こり得るが,このような結果は遺留分制度の趣旨に反すると考えられるからである。そして,特定の遺産を特定の相続人に相続させる趣旨の遺言による当該遺産の相続が遺留分減殺の対象となる場合においても,以上と同様に解すべきである。以上と同旨の原審の判断は,正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく,論旨は採用することができない。」と。

 当該最判は,直接には現行10471項柱書きの第3括弧書きに対応する,ということは分かります。

 しかしながら,当該最判と平成8年最判との食い合わせの悪さは,一見すると分かりづらいところです。最判平成10226日に係る調査官解説を見ると,そこには「本件における遺留分侵害額の算定及び減殺すべき額の計算例」が記載されており,確かに当該「計算例」においては,(b)現行民法1042条=10462項方式が採られています(野山宏「相続人に対する遺贈と民法1034条にいう目的の価額」『最高裁判所判例解説民事編平成10年度(上)(1月~5月分)』(法曹会・2001年)198-199頁)。しかし,当該解説は,平成8年最判が採用するところの遺留分概念に係る(a)説の否認にまで直接説き及んでいるものではありません。

それでも,極端な仮設例をもって考えてみると何だか分かってくるようではあります。相続人が息子3名のみの被相続人たる父が,6世紀前半漢土南朝梁の武帝こと蕭衍(皇帝菩薩)のように宗教に入れあげて,死亡前の1年間に正味財産の6分の5を某宗教法人にお布施(生前贈与)してしまったものの,宇宙大将軍🚀(実在の称号です。)こと侯景👽の乱的末期(まつご)の混乱の中,残った6分の1は辛うじて長男に遺贈されることを得た(なお,中世ヨーロッパのキリスト教「教会は,霊魂救済のための喜捨が,教会を受遺者として行われることを認め,進んではこれを勧奨し,後には,無遺言者は懺悔をしない者と視られ,敬虔な遺贈をしない死者は埋葬を禁じられるというようなことにまでなった」そうです(中川309頁)。強欲なキリスト教✞⛪を禁じた我が豊臣秀吉🐒は,烈士だったのですな。),という場合を考えてみましょう。平成10年最判は,このような場合の長男を,次男三男(3兄弟の遺留分の率はそれぞれ6分の1(民法1042条))から最初にされる遺留分減殺請求(現在は遺留分侵害額請求)攻撃(受贈者である某宗教法人より先に,受遺者である長男が遺留分侵害額を負担しなければなりません(民法104711号)。)から守って過ぎ越されしめ,矛先を本尊たる某宗教法人に向けさせようというものでしょう。ところが,平成8年最判ないしは星野説(a)風に長男の遺留分の額を算定すると,民法1042条によって算定される遺留分の価額と同額の遺贈(特別受益の供与)が当該相続人にされてしまっているので,その分を差し引いて,残額ゼロということにならざるを得ません。そうであれば,次男三男からの最初の遺留分侵害額請求によって――せっかくの平成10年最判の理論ないしは民法10471項柱書きの第3括弧書きの規定もものかは――受遺価額の全額につき身ぐるみを剝がされてしまうことになります。これは確かにおかしいところです。

 

4 本題:遺留分に係る民法900条及び901条の準用に関する「明確化」の成否

 

(1)御当局の御趣旨

 ところで,実はこちらが本稿の本題ですが,民法現行1042条におけるもう一つの「明確化」は,遺留分についての民法旧1044条による同法900条及び901条の準用の在り方に係るものであったと解されます。

すなわち,民法旧1044条及びそこにおいて遺留分について準用されるものとされた条項については,「これらの規定が具体的にどのように準用されるのか判然とせず,分かりにくいとの指摘がされていた」ところ,「法定相続分を規定する第900条,第901条については,相続人が複数いる場合の遺留分を算定するために適用する規律として第1042条第2項に」規定することとしたものとされています(堂薗=野口159頁。下線は筆者によるもの)。

 

(2)立法ミス説:相続人≠遺留分権利者

御当局による前記説明において「相続人が複数いる場合の」規律であるぞという趣旨が表明されています。民法900条柱書きの「同順位の相続人が数人あるときは」との表現に引きずられたのでしょうか(なお,ここでの「同順位の」は贅語でしょう。同順位だからこそ同時に相続人になっているわけです。ただし,民法旧々1004条も「同順位ノ相続人数人アルトキハ」云々と規定していました。ちなみに,明治23年法律第98号の旧民法財産取得編においては,同順位の相続人が複数いて相続人が複数となる場合はなかったところです(同編295条並びに313条及び314条)。)。出来上がりの民法現行10422項も「相続人が数人ある場合」に係る規定であるものと自己規定しています。

 しかし,最判平成81126日の「複数の遺留分権利者がいる場合は更に遺留分権利者それぞれの法定相続分の割合を乗じ」との判示部分ないしは「それぞれの遺留分権利者の遺留分(個別的遺留分)の率 遺留分権利者が複数あるときは,全体の遺留分の率に,それぞれの遺留分権利者の法定相続分の率を乗じたものが,その者の遺留分の率である(1044条による900条・901条の準用)。」という民法教科書の記述(遠藤編245頁(上野)。下線は筆者によるもの)がせっかくあるのに,何ゆえ「遺留分権利者」概念から出発するそれらが民法現行10422項の起草者によって無視されてしまったのかは疑問です。配偶者及び兄弟姉妹が相続人である場合に係る同項の規定の不都合(前記1末尾における筆者の困惑参照)の存在及び当該不都合回避のための解釈方法に関して特に喋々されていないところからすると(堂薗=野口133-134頁参照),立法過程において当該不都合が気付かれることはなかったのでしょう。民法旧1028条の規定と同法900条及び901条の規定とを機械的に接合してみた際に生じた見落としによる他意なき立法ミスだったのでしょうか。

 「10422項の「相続人が数人ある場合」は「遺留分権利者が数人ある場合は」と当然読むのだ。これは,同条1項が「兄弟姉妹以外の相続人は」と書いているから,当然そう解されるのだ。」と言って,従来からの解釈(配偶者及び兄弟姉妹が相続人である場合の配偶者の遺留分は,遺留分の算定のための財産の価額の8分の3ではなく2分の1)を維持しようとするのが,いわゆる大人の態度なのでしょう。

しかし,「遺留分権利者」概念が既にあるところ(民法1044条等参照),当該概念があるにもかかわらず,素直に当該概念が使用されずに「相続人」概念が使用されるということは,当該「相続人」概念は「遺留分権利者(=兄弟姉妹(なお,甥姪について次の(3)を参照)以外の相続人)」概念と同一のものではない,と解するのが法文解釈の常道でしょう。そうであれば,「明確化」を志向した改正によってかえって条文の趣旨が従来の解釈との関係で不明確になってしまった,ということになるようです。

 

(3)脱線その2:甥姪が遺留分権利者たり得る可能性(887条2項3項準用廃止の反対解釈)

相続人たる甥姪にも遺留分はないはずです。しかし,平成30年法律第72号による改正後の民法における文理上の根拠は難しい。

10422項で準用される9012項(同項により準用される同条1項によって,代襲者である甥姪の遺留分は,被代襲者である兄弟姉妹と同じゼロとなります。)がその根拠である,ということに一見なりそうです。しかし,甥又は姪一人のみが相続人であるときは,10422項の適用はないのでしょう(同項は「相続人が複数ある場合」の規定)。

この点,旧1044条においては,いわば二重の為念的手当てがされていたものと解されます。

まず,旧1044条においては,直系卑属の代襲相続に係る8872項・3項の準用はありましたが,甥姪の代襲相続に係る8892項の準用はありませんでしたので(なお,昭和37年法律第40号による改正(同法附則1項により196271日から施行)前は,「第888条」の準用はあったが第889条第2項の準用はなかった,という形になります。),反対解釈的に,甥姪が遺留分権利者であることはないのだ,と言い得たでしょう。

また,上記のような反対解釈がされずに類推解釈がされて,仮に甥姪が遺留分権利者になるものとされたとしても,旧1044条による9012項の準用は,甥又は姪一人のみが相続人であるときであっても可能であったはずです。(なお,我妻=立石656頁(我妻)は,旧1044条による901条の準用について「但し,兄弟姉妹及びその代襲者に関する部分が準用されないことはいうまでもない。」としていますので,8892項の準用がないことをもって甥姪排除には既に十分であるものと理解していたように思われます。これに対して,潮見佳男教授は現行規定について,「代襲相続に関しては,10422項で代襲相続に関する901条が指示されていることから,代襲相続人が遺留分権利者であることがわかる」ものとしています(潮見佳男『詳解相続法(第2)』(弘文堂・2022650)。)

以上に対して,平成30年法律第72号による改正以後の民法の現行規定においては「〔旧1044条による〕第887条第2項及び第3項の準用の趣旨を明らかにすることはしていない」とされているところ(堂薗=野口159頁(注)),その意味が問題となります。当該趣旨を明らかにすることをしないこととした理由は「代襲相続人も再代襲相続人も,「相続人」であることには変わりなく,遺留分権利者の範囲についてのみ相続人に代襲相続人等が含まれることを明文化することは,他の条文の解釈に影響を与えることから」であるとされています(堂薗=野口159頁(注))。そうであれば,甥姪についても「「相続人」であることには変わりなく」ということは同様に当てはまるはずであり,かつ,甥姪は被相続人の「兄弟姉妹」ではありませんから,その非遺留分権利者性については,改めて丁寧な論証が必要となるように思われます。「他の条文の解釈に影響を与えること」を嫌ってあえて「明文化」しなかったところ,こじつけ気味の甥姪の遺留分権利者性問題として足下の1042条の解釈に影響が出てしまったことになったとすれば,皮肉な結果です。

 

5 民法1042条解釈の方向性

 

(1)伝統的解釈態度

 とはいえ,「わが民法の伝統的解釈態度は,かなり特殊なものである。第一に,あまり条文の文字を尊重せず(文理解釈をしない),たやすく条文の文字を言いかえてしまう。〔略〕第二に,立法者・起草者の意図を全くといってよいほど考慮しない。第三に,それではどんなやり方をしているのかというと,目的論的解釈をも相当採用しているが,特殊な論理解釈をすることが多い。すなわち,適当にある「理論」を作ってしまって,各規定はその表現である。従ってそう解釈せよと論ずる。〔略〕これは,ドイツ民法学,それもある時代の体系をそっくり受け入れ,これを「理論」と称し,後に述べるように実はフランス民法により近い我が民法をドイツの学説体系からむりに説明しようとしたことに由来する。」(星野英一『民法概論Ⅰ(序論・総則)』(良書普及会・1971年(1993年改訂))61-62頁(一))と五十余年前に星野英一教授が歎ぜられた我が民法の伝統的解釈態度の特殊性は,令和の御代においても依然として尊重され続けるべきものなのでしょう。

したがって,今後も,平成30年第72号制定前の伝統的「理論」をもって民法の文言を超えた不易の真理として捧持しつつ,当該「理論」に基づく,配偶者及び兄弟姉妹が相続人であるときの配偶者の遺留分は2分の1であるのだ説をもって正解とすることが正統解釈であり続けるのでしょう。現に,潮見教授は,現行1042に関して,妻並びに妹及び弟が相続人である場合,「〔妻〕に遺留分権があるが,〔妹・弟〕にはない。なお,〔妻〕の遺留分は,104212号により2分の1である(〔妹・弟〕が遺留分権利者でないため,9003を準用する余地がない点に注意を要する)。」とその遺著で説いて(潮見650),2分の1説支持の立場を明らかにしておられます。(ただし,「〔妹・弟〕が遺留分権利者でないため,9003を準用する余地がない」との命題は,理論というよりも,平成30年第72号によってされたのは専ら「明確化」であるものとされているので,新文言についての文理解釈がどのようなものとなっても従来の解釈による結論(2分の1)の変更を伴うこと(「明確化」からの逸脱)はあり得ないのだ,というような「理論」から導出された結論がいきなり表明されているものでしょう。なお,「明確化」といっても,文言の修正にとどまらず,そこでは例えば遺留分概念の内容にまで触れ得たことにつき,前記3を参照。)


(2)文理解釈及びフランスの脱落に伴う独伊との提携

 しかしやはり,筆者としては,民法現行1042条の筆者流の文理解釈(配偶者及び兄弟姉妹が相続人である場合の配偶者の遺留分は,遺留分の算定のための財産の価額の2分の1ではなく8分の3)をあえて正当化してみたいとの内心の欲求を抑えることができません。以下のごとき蛇足🐍👣が描かれるゆえんです。

 

ア ゲルマン(フランク)=フランス法型からローマ=ドイツ法型へ

 手掛かりとして,平成30年法律第72号によって遺留分制度の効果が,遺贈又は贈与の物権的な減殺権(民法旧1031条)から債権的な遺留分侵害額請求権(同法現行10461項)に改められたことに注目すべきもののように思われます。つまり,我が遺留分制度は,今やゲルマン=フランス法型からローマ=ドイツ法型(独伊型)に決定的に移行したのだ,と解するところからの敷衍を試みるわけです。

 

   (a)フランス法型は,遺産のうち被相続人が自由に処分しうる割合額(自由分・可譲分)を定め,その残りを法定相続人のうち直系親に保障する。被相続人が可譲分を超えて財産を処分していた場合は,原則として,現物を取り戻すことができる。遺留分は,相続分の一部であり,遺留分権者たる相続人全体に帰属する遺産部分である。

   (b)ドイツ法型は,被相続人が遺産のうちから最近親者――直系卑属,親および配偶者に残さなければならない割合額(義務分・遺留分)を定め,これらの者に,被相続人から財産を承継した者に対して,遺留分を金銭で補償請求する権利を与える。遺留分は,最近親者に保障されるべき法定相続分の代償であり,各遺留分権者に個人的に帰属する債権的権利である。

   (遠藤編240頁(上野)。下線は筆者によるもの)

 

従来は,①民法旧1028条において「遺留分権者たる相続人全体に帰属する遺産部分」(総体的遺留分)を決め,②遺留分権利者が複数の場合には旧1044条の準用する900条及び901条によって内部的分配(個別的遺留分)を決めるという2段階方式であったが,現在は,「各遺留分権者に個人的に帰属する債権的権利」である遺留分権利者の権利の割合を,10421項の割合と同項2項の割合の掛け算によって――「遺留分権者たる相続人全体に帰属する遺産部分」なる概念を介さず(なお,当該概念は,「財産が家に固着せしめられて来た」(中川403頁)ゲルマン法的な「家の維持のため」(原田346頁)という目的に親和的ですね(なお,ゲルマンというと正にドイツGermanyなので混乱しますが,Frankreichのフランス法ですから,それはフランク的ということになるのでしょうか。)。しかし,我が憲法24条は「個人の尊厳と両性の本質的平等」を言挙げしていますが,「家の維持」には言及していません。)――一挙かつ直接に算定するのだ,と解してはどうでしょうか。すなわち,現在の遺留分は,各相続人の法定相続分(10422項参照)から出発するものであって,それに10421項の割合を乗じたものになるのだ,と割り切るわけです。

しかし,平成30年法律第72号による民法改正を解説する文献における「配偶者と兄弟姉妹が共同相続人となる場合,2分の1を乗じて計算される総体的遺留分を前提として,配偶者の個別的遺留分が決まる。他方,遺留分権利者ではない兄弟姉妹には,当然であるが,遺留分は認められない。」(窪田充見『家族法 民法を学ぶ 第4版』(有斐閣・2019569頁。下線は筆者によるもの)及び「1042条は,1028条とは異なって2項を新設し,相続人が数人ある場合に遺留分額の全体額を各相続人(遺留分権利者)に配分する際の割合は,900条および901条の規定によって算定した各相続人の相続分,すなわち法定相続分の割合であることを明確に規定するに至っているのである。」(潮見佳男=窪田充見=中込一洋=増田勝久=水野紀子=山田攝子編著『Before/After相続法改正』(弘文堂・2019175頁(川淳一)。下線は筆者によるもの)というような記述は,フランス法型的発想の根強さを示すものでしょう。ただし,遺留分額の全体額である総体的遺留分を――残さず――配分するのであれば2分の1説が帰結せられるのでしょうが,そこまでの明示はされていません。特に前者の文献においては,「前提として・・・決まる」という含みのある表現が採用された上で,当該部分に直接続けて「次に,この総体的遺留分に,さらに各自の法定相続分を乗じて,それぞれの遺留分権利者の遺留分(個別的遺留分)が決まる(改正民10422)。」と述べられており(窪田569頁。下線は筆者によるもの),8分の3説は必ずしも排除されていない,という読み方も可能であるものと筆者には思われます。

 

イ ドイツ民法2303

我が新母法たるべきドイツ民法2303条は,次のように規定しています(中川17頁参照)。

 

§ 2303 Pflichtteilsberechtigte; Höhe des Pflichtteils

(1) Ist ein Abkömmling des Erblassers durch Verfügung von Todes wegen von der Erbfolge ausgeschlossen, so kann er von dem Erben den Pflichtteil verlangen. Der Pflichtteil besteht in der Hälfte des Wertes des gesetzlichen Erbteils.

(2) Das gleiche Recht steht den Eltern und dem Ehegatten des Erblassers zu, wenn sie durch Verfügung von Todes wegen von der Erbfolge ausgeschlossen sind. Die Vorschrift des § 1371 bleibt unberührt.

 

  第2303条 義務分権利者,義務分の額

  (1)被相続人の直系卑属が死因処分によって相続から排除された場合においては,同人は,相続人から義務分を請求することができる。義務分は,法定相続分の価額の2分の1とする。

  (2)同様の権利が,死因処分によって相続から排除された場合において,被相続人の親及び配偶者に与えられる。ただし,第1371Zugewinnausgleich im Todesfallということですから,「夫婦財産剰余共同制における死亡による剰余の清算」ということになります。の規定に影響を及ぼさない。

 

 義務分の出発点は,正に各相続人の法定相続分(das gesetzliche Erbteil)となっています。

 1888年のドイツ民法第一草案19751項は「被相続人は,法定相続人として相続するもの又は被相続人の死因処分がなければ法定相続人として相続することになっていたものであるその直系卑属及び親のそれぞれに対して(jedem),並びに同様にその配偶者に対して,残されたものの価額が法定相続分の価額の2分の1に達する(daß der Werth des Hinterlassenen die Hälfte des Werthes des gesetzlichen Erbtheiles erreicht)だけの物を残さなければならない(義務分(Pflichttheil))。」という法文を提示していました。この義務分(Pflichtteil)に関して,当該草案に係る同年の理由書(Motive)は,「「法定相続分」の意味するところは,法律上与えられるべき相続分であって,実際に帰属した(又は取得された)相続分ではない。」と(S.388),更に「法定相続分の代償としての義務分は,各個の(einzelnen)権利者に対して,他の者とは独立に帰属する。権利者は,その権利を自己のためのものとして行使すること(für sich geltend machen)ができなければならないので,その法定相続分に応じた自立的な割当てを受けたものとして(nach seinem gesetzlichen Erbtheile selbständig zugemessen),当該権利を保有するのでなければならないのである。」と述べていたところです(ibidem)。総体的遺留分概念の介在は,ありません。

 なお,ドイツ民法においては,第1順位の法定相続人は直系卑属です(同法1924条。子らの相続分は均等(同条4項))。第2順位は両親及びその直系卑属ですが(同法19251項),相続開始時に両親健在の場合には両親のみが均等割合で相続し(同条2項),父母の一方が死亡していた場合には,当該死亡者の直系卑属が当該死亡者を代襲するものの,当該死亡者に直系卑属がないときは,生存している親のみが相続します(同条3項)。第3順位は祖父母及びその直系卑属で(同法19261項),全祖父母が健在ならば彼らのみが均等割合で相続し(同条2項),一方の祖父母夫妻中の祖父又は祖母が相続開始時に死亡していた場合には当該死亡者の直系卑属が当該死亡者を代襲し,当該直系卑属がないときは当該死亡者の配偶者に,当該配偶者が生存していないときはその直系卑属に当該死亡者の相続分が帰属し(同条3項),相続開始時に一方の祖父母夫妻がいずれも死亡しており,かつ,当該死亡者らの直系卑属もない場合には,他方の祖父母又はその直系卑属のみが相続します(同条4項)。第4順位は曽祖父母及びその直系卑属であって(同法19281条),相続開始時に曽祖父母が生存している場合には,当該生存者のみが(属する家系にかかわらず)均等の割合で相続し(同条2項),曽祖父母がいずれも生存していない場合にはその直系卑属のうち被相続人に最も親等の近い者が(複数のときは均等の割合で)相続します(同条3項)。以下どんどん世代を遡った先祖及びその直系卑属が順次法定相続人となります(同法1929条。同条2項は,19282項及び3項を準用しています。)。

 ドイツ民法上の配偶者の法定相続権は,次のとおり。

 

  第1931

  (1)被相続人の生存配偶者は,第1順位の血族と共に相続財産の4分の1の割合の,第2順位の血族又は祖父母と共に2分の1の割合の法定相続人となる。祖父母と祖父母の直系卑属とが相続にかかわるときは,配偶者は,他の2分の1の割合のうち,第1926条によれば直系卑属に帰属すべきものとなる部分をも受ける。

  (2)第1順位若しくは第2順位の血族又は祖父母のいずれもないときは,生存配偶者は全相続財産を受ける。

  (3)第1371条の規定に影響は及ばない。

  (4)相続開始時に夫婦財産別産制が行われており,かつ,生存配偶者と共に被相続人の一人又は二人の子が法定相続人であるときは,生存配偶者及びそれぞれの子は,均等の割合で相続する。第1924条第3項〔代襲相続〕が準用される。

 

ドイツにおいて配偶者及び兄弟姉妹が相続人であるときは,配偶者及び兄弟姉妹の相続分はいずれも2分の1,義務分は,配偶者に4分の1,兄弟姉妹にはゼロとなるようです。我が国の相続法は,こうしてみると,配偶者に手厚くないわけではないですね。

 

ウ 民法1046条1項の「承継人」及び1049条2項に関して

 

(ア)民法1046条1項の「承継人」と遺留分権利者の権利の一身専属性と

 ただし,今般我が民法は遺留分制度についてローマ=ドイツ法型を採用したのだと高々と言うためには,民法10461項が遺留分権利者のみならず,「その承継人」による遺留分侵害額請求をも認めていることが若干障碍となるように思われるところです(ここでの「承継人」は「包括承継人(遺留分権利者の相続人等)のほか,特定承継人も含む」ものとされています(内田507頁)。)。というのは,ローマ法の不倫遺言(「不倫」といっても,inofficiosusですから,「義務を果たさない」とか,「思いやりのない」といった意味です。)の訴えは,遺言者死亡の際義務分以上の額を受け得なかった近親者自身のみが(「自ら――その相続人には訴権は移転せず(復讐呼吸訴権〔「(actio vindictam spirans)――被害者の相続人に移転しない訴権」〕)」)提起し得るものとされていたからです(原田345頁・221頁)。(「復讐呼吸訴権」とはラテン語の生硬な直訳ですが,復讐・処罰vindicta. vindictamは対格形)の精神を表わすspirare. spiransは現在分詞形)訴権actioということですね。)また,遺言相続における遺留分制度の趣旨は,ローマ=ドイツ法型風であると思われる「被相続人死亡ノ後其近親カ饑餓ニ迫マルノ虞ナキ為メ多少ノ遺留分ヲ認ルノ必要アリ」ということだったそうであるところ(梅426頁),そうであったのであれば,「饑餓ニ迫マ」られた当該近親者のみに当該権利の行使を認めれば十分であったように解され得るところです。

しかしこの点,我が判例はつとに,民法の明文上遺留分権利者の権利に帰属上の一身専属性まで認めることはできないものの(「民法〔旧〕1031条が,遺留分権利者の承継人にも遺留分減殺請求権を認めていることは,この権利がいわゆる帰属上の一身専属性を有しないことを示すものにすぎず」云々),当該権利の行使上の一身専属性を認めて,債権者代位権の目的とはならないもの(民法4231項ただし書)としています(最判平成131122日民集5561033頁)。このように行使上の一身専属性は既に認められている一方,帰属上の一身専属性はなお認められていないことについての理論上の不都合の有無を更に考えれば,「饑餓ニ迫マ」られるような,困っている(困った)被相続人の相続人はやはり貧乏なのでしょうし,遺留分権利者がその権利を「第三者に譲渡」(上記平成13年最判はこれを認めています。)して換金するのも「饑餓」対策としてあり得るところですから,当該帰属上の一身専属性まで,純ローマ式に要求する必要はないのでしょう。民法10461項にある「承継人」の文言について,筆者は結局余計な気をまわしたにすぎないということになるのでしょう。

なお,民法10461項の文言は,旧々1134条(「遺留分権利者及ヒ其承継人ハ遺留分ヲ保全スルニ必要ナル限度ニ於テ遺贈及ヒ前条ニ掲ケタル贈与ノ減殺ヲ請求スルコトヲ得」)に由来するわけですが,実は旧々1134条は家督相続及び遺産相続の両者に共通の規定なのでした。家督相続における遺留分制度の趣旨は,「家督相続ニ在リテハ苟モ家督相続ヲ認ムル以上ハ家督相続人カ家名ヲ維持スルニ足ルヘキ方法ヲ講セサルコトヲ得ス故ニ家名ヲ維持スルニ必要ナ財産ハ必ス之ヲ家督相続人ニ遺スヘキモノトセサルコトヲ得ス」ということですので(梅425-426頁。下線は筆者によるもの),遺留分権利者たる家督相続人は家名のために当然当該権利を行使すべきものであって当該権利に係る行使上の一身専属性は認められず,また,当該権利については,家の財産に関するものとしての財産権性が前面に出て来るものであったわけです。このような家督相続を念頭に置いた遺留分制度についての解釈(梅は,家督相続と遺産相続とを区別せずに,遺留分権利者の権利をもって「一身ニ専属スル権利ト認ムヘカラサ」るものとしています(梅436頁)。)が,遺産相続における遺留分制度の解釈をも覆ってしまっていたのでしょう。「現行民法の遺留分規定の内容は,「単独相続である家督相続を中心とした(ママ)民法の規定を家督相続の廃止にともなって最小限度の修正を加えたのみでほとんどそのまま踏襲したものであるといわれている。そのため,現行民法のとる共同相続を前提として,共同相続人間で生起しうる遺留分の問題については何らの配慮もされていないといっても過言でない」(野田愛子=太田豊「共同相続と遺留分の減殺」ジュリスト439102頁)とされる」ところであったのでした(野山202頁)。

 

(イ)民法1049条2項と各相続人に係る個人的なものとしての遺留分と

前記のとおり,昭和22年法律第222号は遺留分に係る旧々条項をほとんどそのまま踏襲したものであるといわれているとはいえ,同法による新設規定である民法1049条の第2項が,筆者の立場からは注目に値します(なお,同条は,「農業資産相続の場合を考えて」,「遺産の細分防止の方法の一つとして」,「少なくとも均分相続に対する攻撃の矛先をそらす手段にはなるだろう」ということで立案されたものです(我妻榮編『戦後における民法改正の経過』(日本評論社・1956年)190-191頁)。)。同項は「共同相続人の一人のした遺留分の放棄は,他の各共同相続人の遺留分に影響を及ぼさない。」と規定していますが,これは「遺留分は,各相続人それぞれについて個人的に定められるものだから」とされています(我妻=立石655頁(我妻))。各相続人について,直接,個人的に帰属するということでしょう。すなわち,「遺留分権者たる相続人全体に帰属する遺産部分」としての総体的遺留分概念は,ここにおいて既に退場せしめられていたのでありました。

 

エ 結語

 以上長々とした駄文にお付き合いいただき,ありがとうございました。

我が8分の3説は,民法1042条の文理に忠実なものでもありますので,「ドイツ式に体系化し解釈する」ことはこの場面では「奇妙な状況」(星野・概論Ⅰ・62頁(一))ではないのだ,とここで改めて強弁することをお許しください。

更に付言しますと,平成30年法律第72号の法案可決の際衆議院法務委員会(2018615)及び参議院法務委員会(同年75)はいずれも附帯決議を付していますところ,両決議の各第2項は同文で「性的マイノリティを含む様々な立場にある者が遺言の内容について事前に相談できる仕組みを構築するとともに,遺言の積極的活用により,遺言者の意思を尊重した遺産の分配が可能となるよう,遺言制度の周知に努めること」について「格段の配慮」をするよう「政府」に対して要求しています(堂薗=野口7-8頁参照。下線は筆者によるもの)。「遺言者の意思を尊重した遺産の分配が可能」となるために「遺言制度の周知」を行うべきだということですから,遺言制度に附随する遺留分制度に関する解釈問題の解決も「遺言者の意思を尊重」する方向でされるべきだということが平成30年法律第72号の解釈に係る立法者たる国会の意図なのでありましょう。遺留分の割合について二つの可能な解釈があれば,遺言者の自由が大きくなる方(遺留分が小さくなる方)を採用すべし,ということになるのでしょう。

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1 某巡査の重婚的「婿入」

 鷗外森林太郎の小説『雁』(1911-1915年)のヒロインである玉は,岡田医学生と淡い交渉を持った1880年(明治13年)の段階(「古い話である。僕は偶然それが明治13年の出来事だと云ふことを記憶してゐる。」)において,貸金業者の末造の妾でありましたが,飽くまでも妾にとどまる限りにおいては,末造と婚姻していたものではありません。しかしながら,末造の妾になる前に,玉には某巡査が「婿」としてやって来ていたという事情がありました。当該事情は下記のとおりですが,玉は法的には,未婚であったのでしょうか,それとも元・人妻となったものだったのでしょうか。

 

  或る時〔飴細工屋の爺いさんの家の〕入口に靴の脱いであるのを見た。それから間もなく,此家の戸口に新しい標札が打たれたのを見ると,巡査(なん)何某(なにがし)と書いてあつた。末造は松永町から,(なか)(おかち)(まち)へ掛けて,色々な買物をして廻る間に,又探るともなしに,飴屋の爺いさんの内へ婿入(むこいり)のあつた事を(たしか)めた。標札にあつた巡査がその婿なのである。お玉を目の(たま)よりも大切にしてゐた爺いさんは,こはい顔のおまはりさんに娘を渡すのを,天狗にでも(さら)はれるやうに思ひ,その婿殿が自分の内へ這入り込んで来るのを,此上もなく窮屈に思つて,平生心安くする誰彼に相談したが,一人もことわつてしまへとはつきり云つてくれるものがなかつた。〔中略〕末造が此噂を聞いてから,やつと三月ばかりも立つた頃であつただらう。飴細工屋の爺いさんの家に,ある朝戸が締まつてゐて,戸に「貸家差配(さはい)松永町西のはづれにあり」と書いて張つてあつた。そこで又近所の噂を,買物の(ついで)に聞いて見ると,おまはりさんには国に女房も子供もあつたので,それが出し抜けに尋ねて来て,大騒ぎをして,お玉は井戸へ身を投げると云つて飛び出したのを,立聞をしてゐた隣の上さんがやう〔やう〕止めたと云ふことであつた。おまはりさんが婿に来ると云ふ時,爺いさんは色々の人に相談したが,その相談相手の中には一人も爺いさんの法律顧問になつてくれるものがなかつたので,爺いさんは戸籍がどうなつてゐるやら,どんな届がしてあるやら,一切無頓着でゐたのである。巡査が髭を(ひね)つて,手続は万事己がするから好いと云ふのを,少しも疑はなかつたのである。

  (『鷗外選集第3巻 小説三』(岩波書店・1979年)216-217頁)

 

法律顧問は,有益かつ必要です(御連絡・御相談は,saitoh@taishi-wakaba.jpへ。あるいは,03-6868-3194へ)。

令和の御代となっては遅蒔きながら,玉と某巡査との婚姻の成否について考えてみましょう。当該「婿入」騒動があったのは,明治11年か12年(1878-1879年)の頃のことであったとの前提での解説です。

 

2 重婚の許否の問題

まず,前回記事(「令和4年法律第102号による改正後の民法773条における「第732条」出現の「異次元」性に関して」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080634730.html)以来の問題である重婚の許否について検討します。

1888年(明治21年)の旧民法人事編第一草案41条は「配偶者アル者ハ重ネテ婚姻ヲ為スコトヲ得ス」と規定していますが,熊野敏三起稿の理由書には「本条ハ重婚ヲ禁スルモノニシテ一夫一婦ノ制ニ帰着スルモノナリ此規則ハ或ハ旧来ノ慣習ニ反スルヤ知ルヘカラスト雖モ刑法中重婚ヲ罰スレハ既ニ之ヲ一変シタルモノト云フヘシ」とあります(『明治文化資料叢書第3巻 法律編上』(風間書房・1959年)63頁)。ここでの「刑法」は,1882年(明治15年)11日から施行された(明治14年太政官第36号布告)旧刑法(明治13717日太政官第36号布告)のことになります。旧刑法354条は「配偶者アル者重()テ婚姻ヲ為シタル時ハ6月以上2年以下ノ重禁錮ニ処シ5円以上50円以下ノ罰金ヲ附加ス」と規定していました(重禁錮は禁錮場に留置し定役に服せしめる刑です(同法241項。他方,定役に服さないのが軽禁錮でした(同項)。)。)。

熊野の口吻を反対解釈すると我が国の「旧来ノ慣習」はあるいは重婚制であったということになるようですが,ボワソナアドは,重婚(bigamie)の罪は日本社会では稀であり(raretéであるとされています。),その民俗(mœurs)は重婚に赴かせしめるものではないと観察していたところです(cf. Gve Boissonade, Projet Révisé de Code Pénal pour l’Empire du Japon accmpagné d’un Commentaire, Tokio, 1886, p.1045)。稀ではあるが,重婚はあることはあった,ということになるようです。

梅謙次郎に至ると,きっぱりと,「蓋シ我邦ニ於テハ既ニ千有余年前ヨリ此〔一夫一婦の〕主義ヲ認メ敢テ一夫多妻若クハ一妻多夫ノ制ヲ取ラス」と述べています(梅謙次郎『民法要義巻之四 親族編(第22版)』(私立法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1912年(初版1899年))90頁)。民法(明治31年法律第9号)旧766条(「配偶者アル者ハ重ネテ婚姻ヲ為スコトヲ得ス」)の草案は18951122日の第139回法典調査会で審議されましたが,そこで参照条文等として掲げられたものは,我が国法関係では,旧民法人事編(明治23年法律第98号)31条(「配偶者アル者ハ重()テ婚姻ヲ為スコトヲ得ス」),旧刑法354条,戸婚律有妻更娶条,和娶人妻条,応政談,御定書百个条48(密通御仕置之事),明治8128日司法省指令,明治9623日太政官指令1条及び明治9717日「内務省1」となっています(日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録第46巻』91丁表)。これらの条文等が我が国における一夫一婦制の伝統を基礎付けていたのだ,ということでしょう。

 

 今日本に於ける沿革を案ずるに戸婚律に(第1)有妻更娶条(第2)和娶人妻条ありて配偶者ありながら他人と婚姻する者を罰し其婚姻を無効とせり。新律綱領,改定律(ママ)には明文なし。故に人の妻を娶るも罪なきに非さるやの疑を生するも実際は不応為罪中に之を含みたり。明治8128日司法省指令に由れば妻ある夫更に婚姻(ママ)ば不応為罪の重きに依て処断す。後婚の婦女其情を知らば同罪とすとあり。徳川時代に於ては百ヶ条に「密通致し候妻死罪,密通之男死罪」と規定したり。

 (中村進午『親族法』(東京専門学校・1899年)82頁)

 

 明治8年(1875年)128日司法省指令の事案は,玉と某巡査との事件と同型ですね。

 明治9年(1876年)717日「内務省1」の内容は筆者には調べがつかなかったのですが,同年623日の太政官指令1条は,18749月に夫が逃亡してしまったので妻が姑及び実家の父らに勧められてN松と「再婚」したところ,後に事実が当局に露見して187511月に妻の実父らはそれぞれ処分され,かつ,N松とは離隔せられたものの,18761月に妻が出産してしまった「後婚」の子を戸籍上どう取り扱うかについての回答であって,「子ハ双方ノ協議ニ任セ男又ハ女ニテ(ひき)引取(とりをなし)男ニテ引取候ハ庶子女ニテ引取候ハ私生ノ子ト記載スヘキ事」というものでした。N松との「後婚」は一妻多夫の重婚として無効なので,生まれた子は嫡出子にはならず(なお,同児は187511月の「離隔」前に懐妊されているところ,重婚も取消しまでは有効であって,かつ,取消しの効果は遡及しないとの現行民法(明治29年法律第89号)744条及び7481項の主義であれば,嫡出子たり得たところでしょう(同法7721項及び2項後段参照。また,旧民法人事編66条(「無効ノ言渡アリタル婚姻ハ子ニ付テハ其出生ノ婚姻前後ナルヲ問ハス法律上ノ効力ヲ生ス」))。),N松が認知(引取り)をすればその庶子となるが,そうでなければ(女ニテ引取の場合)父の知れない私生子であるということでしょう。

 不応為罪は,明治三年十二月二十日(187129日)の新律綱領の巻5雑犯律に「凡律令ニ正条ナシト雖モ情理ニ於テ為スヲ得()ヘカラサルノ事ヲ為ス者ハ笞30事理重キ者ハ杖70」との規定があったものです。罪刑法定主義(旧刑法2条「法律ニ正条ナキ者ハ何等ノ所為ト雖モ之ヲ罰スル(こと)ヲ得ス」)もあらばこそです。30及び杖70の刑は,明治6年(1873年)710日から施行の改定律例(明治6613日太政官第206号布告)によって,それぞれ30日の懲役及び70日の懲役に改められています(なお,改定律例は,新律綱領を廃止するものでも全部を改正するものでもなく,補充するものでした。)。ただし,玉の「婿」の某巡査は官吏でしょうから(「上は君主より下は交番の巡査に至る迄」いずれも国家機関である,とは美濃部達吉の不敬的かつ有名な表現です。),改定律例23条又は(平民の場合)24条の適用があり(重婚は,公務に係る公罪ではなく私罪でしょう。),重婚に係る不応為罪を犯したとしても,懲役70日ではなく,官吏私罪贖例図に照らして贖金1050銭に処せられるべきものだったのではないでしょうか(なお,等外吏ではなく,それより一つ偉い判任官であれば14円)。

 

3 婚姻の成立の問題

 次に重婚の成立,すなわち婚姻は何をもって成立することとされていたかの問題があります。

 「徳川時代の厳格なる用語にては,婚姻(〇〇)というは夫婦の関係を発生すべき祝言(〇〇)()挙行(〇〇)なり。而してこの婚姻を挙行する契約は即ち縁談取極にして,これは結納(〇〇)()授受(〇〇)に依りて成立するものとす」(中田薫『徳川時代の文学に見えたる私法』(1956年(岩波文庫版1984年))130頁),「江戸時代においては,武士と庶民とで違ったようであり,武士についての幕府法によると,双方の当主(戸主のようなもの)からそれぞれ幕府に縁組願いを出して許可を得た後に結納の授受と婚儀の挙行によって婚姻が成立し,その後その旨の届出を要し,庶民については,社会的には結納の授受と祝言の挙行が行われたが,法律上は変遷があり,末期には人別帳(当時の戸籍)に記載することを要した。」(星野英一『家族法』(放送大学教育振興会・1994年)56頁)というような状況であったところ,明治に入って,明治三年十一月四日(18701225日)に太政官から縁組規則(明治三年太政官第797号布告)というものが出ます。

 

  一華族ハ太政官ヘ願出士族以下ハ其管轄府藩県ヘ(ねがい)願出(いづべき)

  一華族士族取結候節ハ華族ハ太政官ヘ願出士族ハ其管轄官庁ヨリ太政官ヘ伺済ノ上可差許(さしゆるすべき)

  一府藩県管轄違ニテ取結候節ハ士族卒平民タリトモ双方ノ官ニテ聞済互ニ送リ状取替シ(もうす)(べき)

  右之通被定(さだめられ)候事

 

藩の字が出て来ますが,明治三年段階では,前年に版籍奉還はされているものの,なお廃藩置県はされていなかったところです(廃藩置県の詔書が出されたのは,明治四年七月十四日(1871829日)のことでした。)。

華族令(宮内省達)が出て五爵の制が定められたのは明治17年(1884年)77日のことですが,明治二年の版籍奉還の段階での「華族」は,それまでの公卿・諸侯の称を改めたものです。

明治三年の縁組規則は,翌明治四年四月二十二日(187169日)の太政官第198号布告で早速改められます。

 

 昨冬十一月御布告縁組規則中管轄違ニテ取結候節ハ士族卒平民トモ双方官庁ニテ聞済送リ状取替候様御達ニ相成居候処平民ハ不及其儀(そのぎにおよばず)今般御布告ノ戸籍法第5則ノ通可相(あひここ)心得(ろうべく)此段更ニ相達候事

 

 明治四年四月四日(1871522日)の太政官第170号布告たる戸籍法の第5則は,次のとおりです。

 

  編製ハ爾後6ヶ年目ヲ以テ改ムヘシト雖モ其間ノ出生死去出入等ハ必其時々戸長ニ届ケ戸長之ヲ其庁ニ届ケ出テ支配所アルモノハ支配所ニ届支配所ヨリ其庁ニ届ク其庁之ヲ受ケ人員ノ増減等本書ヘ加除シ毎年十一月中戸籍表ヲ改メ十二月中太政官ヘ差出スヘシ加除ハ生ルモノト入ルモノヲ加ヘ死者ト出ルモノヲ除ク類ヲ云フ

 

平民については「今般御布告ノ戸籍法第5則ノ通可相(あひここ)心得(ろうべく)」ということですから,平民の婚姻等については府藩県への願い出(及び当該府藩県からの許可)を要さず,戸長への報告的届出のみでよい,ということでしょうか。江戸時代の制とほぼ同様,ということになるのでしょう。

ただし,学説上「明治四年の戸籍法により,戸(ママ)への届出が婚姻の成立要件となったとする説」があるそうです(星野57頁)。しかし,明治四年太政官第170号布告戸籍法の趣旨については「戸籍人員ヲ詳ニシテ猥リナラサラシムルハ政務ノ最モ先シ重スル所ナリ夫レ全国人民ノ保護ハ大政ノ本務ナル(こと)素ヨリ云フヲ待タス然ルニ其保護スヘキ人民ヲ詳ニセス何ヲ以テ其保護スヘキヿヲ施スヲ得ンヤ是レ政府戸籍ヲ詳ニセサルヘカラサル儀ナリ又人民ノ各安康ヲ得テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ政府保護ノ庇蔭ニヨラサルハナシ去レハ其籍ヲ逃レ其数ニ漏ルモノハ其保護ヲ受ケサル理ニテ自ラ国民ノ外タルニ近シ此レ人民戸籍ヲ納メサルヲ得サルノ儀ナリ」とあるので,同法は,人民間における親族関係の私法的規整には直接の関心はなかったように思われます。

なお,明治四年戸籍法においては「届出をなすべき者は規定されていないが,戸主であることは常識として明文を待たぬ公理だったと指摘されている(福島正夫・「家」制度の研究資料篇一(195940-41頁)」そうです(二宮周平編集『新注釈民法(17)親族(1)』(有斐閣・2017年)3-4頁(二宮周平)。また,同81頁(二宮),谷口知平『戸籍法』(有斐閣・19577)。

明治四年八月二十三日(1871107日)太政官第437号布告によって,諸身分間の通婚が自由化されます。

 

 華族ヨリ平民ニ至ル迄互婚姻被差許(さしゆるされ)候条双方願ニ不及(およばず)其時々戸長へ可届出(とどけいづべき)

  但送籍方ノ儀ハ戸籍法第8則ヨリ11則迄ニ照準可致(いたすべき)

 

しかし,戸長への婚姻の届出は励行されなかったようです。

明治8129日の太政官第209号達(使府県宛て)は,次のように定めます。

 

 婚姻又ハ養子養女ノ取組若クハ其離婚離縁縦令(たとひ)相対熟談ノ上タリ𪜈(とも)双方ノ戸籍ニ登記セサル内ハ其効ナキ者ト看做スヘク候条右等ノ届方等閑ノ所業無之(これなき)(やう)精々説諭可致置(いたしおくべく)此旨相達候事

 

 この明治8年太政官第209号達についての重要な解釈を示す司法省達があります。明治10619日司法省丁第46号達(大審院・上等裁判所・地方裁判所宛て)です。

 

 8年第209号御達ノ儀ニ付有馬判事ヨリ甲号ノ通伺出ニ因リ乙号ノ通太政官ヘ上申候処丙号ノ通御裁令相成候条此段為心得(こころえのため)相達候事

   甲号  (ママ)律伺

 明治8年第209号公布婚姻又ハ養子養女ノ取組若クハ其離婚離縁縦令(たとひ)相対熟談ノ上タリトモ双方戸籍ニ登記セサル内ハ其効ナキ者ト看做ス可ク云々ト有之(これあり)候付テハ双方父母親属熟談ノ上人ノ妻トナリ男女ノ子アル者ト雖𪜈(とも)戸籍ニ登記無之(これなき)者ハ犯姦告訴等ノ節無論(ろんなく)処女ト看做シ処分致ス儀ニ可有之(これあるべく)尤右ノ者夫又ハ夫ノ祖父母父母ヲ謀殺故殺殴傷罵詈等ニ至ル迄総テ凡人ヲ以テ論シ且人ノ養子女トナリテ同居シ実際親子ノ会釈ヲ為ス者ト雖モ前同断ノ者ハ皆凡人ヲ以テ処分致シ可然(しかるべき)()已ニ戸籍法規則確定ノ上ハ婚姻又ハ養子女等其時々送籍等ヲ不為(なさざる)者ハ無之(これなき)筈ニ候得共(さうらへども)辺土僻隅ノ愚民(ママ)ニ至テハ絶テナシトモ難確定(かくていしがたく)候付(さうらふにつき)犯者アルニ臨ミ実際ト条理上ト不都合(しよう)(ずべき)有之(これある)関係不尠(すくなからず)(いささか)疑義ヲ生シ候条(あらかじ)メ御指揮ヲ受置度(うけおきたく)此旨相伺候也

                       在宮崎県

                        七等判事有馬純行

     明治9418

              司法卿大木喬任殿

   乙号  太政官ヘ上申

 婚姻又ハ養子女ノ取組若クハ離縁等ノ儀ニ付テハ8年第209号ヲ以テ使府県ヘ達セラレタリ然ルニ該達ハ文意稍々明確ヲ欠キ或ハ宮崎県伺ノ如キ疑団ヲ生スルアリト雖𪜈(とも)篤ト該達ノ文意ヲ熟案スルニ仮令ヒ相対熟談ノ上タリ𪜈(とも)云々ノ文字アリテ既ニ其婚姻ヲ行ヒ夫婦ト為リタル者ヲ指的スルニアラス其主意ヲ約言スレハ婚姻養子ノ取組等ヲ為スニ当リ双方ノ熟談ノミニテハ一概ニ之ヲ夫婦父子ト見ル可カラサル旨ヲ示シタルモノナリ(尤モ最初該達施行ノ際ハ此ノ辨明ト其旨意ヲ異ニセシヤモ知ル可カラサレト今日ノ日法律ノ改良修正ヲ要スルニ当テハ成ルヘク旧法ヲ破毀セス之カ辨明ヲ以テ其効ヲ得シムルヲ良トス)然ルニ若シ之ヲ以テ既ニ婚姻ヲ行ヒ親族隣里モ之ヲ認許セシ者ニ適用シテ凡人ヲ以テ処分スルハ実ニ人類社会ノ根本タル一家親族ノ大倫ヲ乱スヘキ法律ト云ハサルヲ得ス

 別紙有馬判事伺ノ如キ其実明々タル夫婦親子ニシテ独リ戸籍ノ登記ヲ欠ク者若シ謀殺故殺犯姦等ノ(こと)アランニ凡人ヲ以テ之ヲ論セン()是レ其形ヲ論シテ其実ヲ論セサル者大ニ法律ノ原旨ニ悖戻スト謂フ可シ

 然リト𪜈(とも)其戸籍登記ノ届ヲ為サヽル情実ニ因リ元ト其婚姻等ノ成リ立タサル不良ノ所為アルモノハ其効ヲ失ハシムル者モ之レアルヘシ因テ別紙ノ通指令可及(におよぶべし)ト存候且左ノ指令案ノ趣旨ニ従ヒ各裁判所ヘ念ノ為メ本省ヨリ布達ニ及ヒ(たく)此段相伺候条早速御裁令相成(たく)存候也

   丙号  太政官ヨリ御指令

 伺ノ趣8年第209号ノ諭達後其登記ヲ怠リシ者アリト雖モ既ニ親族近隣ノ者モ夫婦若シクハ養子女ト認メ裁判官ニ於テモ其実アリト認ムル者ハ夫婦若シクハ養父子ヲ以テ論ス可キ儀ト相心得ヘシ

 

 明治8年太政官第209号達と明治10年司法省丁第46号達との関係について,梅謙次郎は次のように述べています。

 

  〔前略〕我邦ニ於テハ明治8年ノ達(8129日太政官達209号)ニ依リテ夫婦双方ノ戸籍ニ登録スルヲ以テ其成立条件トセリ然レトモ此達ハ殆ト実際ニ行ハレス刑事ニ於テハ夙ニ明治10年司法省達(10619日司法省達丁46号)ニ依リテ苟モ親族,近隣ノ者夫婦ト認メ裁判官ニ於テモ其実アリト認ムル者ハ夫婦ヲ以テ論スヘキモノトセリ爾来民事ニ於テモ此達ニ依レル例尠カラス而シテ実際ノ慣習ニ於テハ上流社会ト雖モ先ツ事実上ノ婚姻ヲ為シタル後数日乃至数月ヲ経テ届出ヲ為ス者十ニ八九ナリ況ヤ下等社会ニ在リテハ竟ニ届出ヲ為ササル者頗ル多シトス此ノ如キハ実ニ神聖ナル婚姻ト私通トヲ混同スルノ嫌アリテ到底文明国ニ採用スヘキモノニ非サルナリ

  (梅105-106頁)

 

梅は,「刑事ニ於テハ」と,明治10年司法省丁第46号達の適用対象を刑事に限定していますが,これは同達発出の端緒たる有馬純行判事の司法卿宛て伺いが,直接には,犯姦謀殺故殺殴傷罵詈等の刑事事件に係る擬律の取扱いに係るものだったからでしょう。しかし,太政官への上申中において司法省は,明治8年太政官第209号達について,「文意稍々明確ヲ欠キ」,「実ニ人類社会ノ根本タル一家親族ノ大倫ヲ乱スヘキ法律ト云ハサルヲ得ス」といった射程の広い批判を加えており,当該太政官達が刑事関係以外でもなお無傷で残り得るということは,なかなか難しいところだったでしょう。「民事ニ於テモ此〔司法省〕達ニ依レル例尠カラス」とは,当然の成り行きでしょう。

我妻榮は,明治8年太政官第209号達と明治10年司法省丁第46号達との関係について,「明治8年第209号達は法律婚主義(戸籍の届出)を宣言したが,後の明治10年司法省達丁第46号は,事実婚主義に復帰したようにも思われる。実際上も,その後,届出のない夫婦関係を保護した判決はすこぶる多い。しかし,右の二つの法令の関係――復帰とみるか二本建になったとみるか――については,学説が分かれている」と述べています(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)38頁註(2))。ここでの「二本建」説は――梅による明治10年司法省丁第46号達の性格付けを前提にする――民事と刑事との二本建てであるとなす説であって,民事において当該司法省達によってしまったのは例外的事態であると解するものでしょうか(なお,星野57頁は「裁判実務にも混乱が見られるようである」と言っていますが,二宮編81頁(二宮)は,「大審院は,〔明治10年司法省丁第46号達〕を民事事件にも適用していた」とあっさり言い切っています。)。

しかし,明治10年司法省丁第46号達を乙号部分に注目して読めば,当該達と明治8年太政官第209号達との整合性の確保を司法省は志向し,両者は民事及び刑事において統一的に解釈・適用されるべきもの(換言すれば,司法省達は「文意稍々明確ヲ欠」く太政官達を,否定(「破毀」)はせずにその欠缺を補充するもの)と考えていたように思われます。しからばその解釈とはどのようなものかといえば,婚姻及び縁組については,

 

 婚姻又ハ養子養女ノ取組は,縦令(a)両家戸籍届出権者を含めての相対熟談ノ上タリ𪜈(とも)(b)双方ノ戸籍ニ登記をし,又は(β)親族近隣ノ者モ夫婦若シクハ養子女ト認メ裁判官ニ於テモ其実アリト認められなければ,其効ナキ者ト看做ス

 

ということになるのだ,ということではないでしょうか。

 江戸時代でいえば,(a)は縁談の取極ということになりましょう。当該縁談取極においては,太政官達の戸籍登記本則主義を司法省が真っ向から否認しない以上,両家戸籍届出権者の同意は必須でしょう。(a)を前提に,そこに(b)又は(β)の要件が加わることによって婚姻又は縁組が有効に成立するものとするのが当時の司法省及び裁判所の公定解釈であった,と筆者は考えてみたいのです。これは,民刑事共通に適用されるところの法律婚主義(「届出ありさえすれば現実の共同生活なくしても身分関係が認められた」(谷口9))と事実婚主義との二本建て説ということになりましょうか。建物賃借権の対抗要件に係る不動産登記(民法605条)と引渡し(借地借家法(平成3年法律第90号)31条)との二本建て主義と何だか似てしまっています(「民法605条僻見(後編)」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079742276.html)が不図想起されます。)。

 

4 当てはめ

 玉と某巡査との「婚姻」においては,「爺いさんは戸籍がどうなつてゐるやら,どんな届がしてあるやら,一切無頓着でゐたのである。」ということですから,(b)の要件は欠けていたようです(なお,婚姻それ自体については,明治21年(1888)段階の旧民法人事編第一草案の理由書において「殊ニ近時ニ至テハ其礼式大ニ破レ諾成ノ行為ト云フモ不可ナカラン」と観察されています(明治文化資料叢書361)。)。(a)の要件については,玉の父と某巡査との間では「おまはりさんが〔略〕,大きな顔をして酒を飲んで,上戸でもない爺さんに相手をさせてゐた間,まあ,一寸楽隠居になつた夢を見たやうなものですな」という情況だったそうですから(鷗外選集第3217-218頁),晩酌仲間の両者ともに戸籍届出権者であったのであれば,一応要件充足でしょうか。しかし,(β)の親族近隣ノ者モ夫婦ト認メ要件はどうでしょうか。確かに東京の練塀町(ねりべいちょう)下谷(したや)間にあった某巡査・玉の同居宅の「近隣」の人々は夫婦ト認め,玉の親族たる爺さんも同様だったのでしょうが,前婚の妻及びその子供を始めとする某巡査の親族側は,某巡査と玉とを夫婦ト認めるものでは全然なかったものでしょう。この要件は,上記(b)要件と共に未充足であったようです。

 そうであれば,玉は岡田を見知った時にはなお未婚であって,また,某巡査も玉との重婚に係る不応為罪を犯したわけではない,ということになるようです。

 とはいえ,玉は,末造の妾である限りにおいては,なお末造に対する守操義務があったようです。すなわち,改定律例260条は「凡和姦。夫アル者ハ。各懲役1年。妾ハ。一等ヲ減ス。〔以下略〕」と規定していたのでした。改定律例では,懲役1年の次は懲役100日であったようなので,一等ヲ減ぜられれば懲役100日となったものでしょうか。


DSCF2166
末造の妾宅があった無縁坂(左東京都台東区,右同文京区)


上野警察署(2)
上野警察署(1)
所轄の警察署

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1 「異次元の少子化対策」宣言

 岸田文雄内閣総理大臣は,今年(2023年)14日の伊勢神宮における年頭記者会見で,同年を「異次元の少子化対策に挑戦する」年としたいとの力強い抱負を述べられました。

異次元とは由々しい言葉です。これまでの常識を覆すような,行儀のよい保守派からするとスキャンダラスと指弾されるような「対策」が講じられるものかと緊張させられます。

しかし,続けて提示された三つの「対策の基本的な方向性」はどのようなものかといえば,「第1に,児童手当を中心に経済的支援を強化することです。第2に,学童保育や病児保育を含め,幼児教育や保育サービスの量・質両面からの強化を進めるとともに,伴走型支援,産後ケア,一時預かりなど,全ての子育て家庭を対象としたサービスの拡充を進めます。そして第3に,働き方改革の推進とそれを支える制度の充実です。」というものでした。より大きな財政赤字及び徴税並びに増額された社会保険料によって折角集めたお金を国民に撒き戻しつつ,関係省庁の関係業界を細やかな干渉を通じて助長する一方,従業員福祉を更に強化する実践及びその負担を企業に求めるということであれば,従来の政策次元の拡大延長面上にあるようでもあります。現状が既にスキャンダラスな衰退途下国においては,陳腐化した前例を同一次元において偸安的に踏襲することこそが,あるいは最悪のスキャンダルとなるかもしれません。

しかし,岸田救国内閣たるもの,謙虚を装いつつも,そのような因循姑息策にとどまることはあり得ません。別次元に飛び移るような爆発的な量的拡大による「異次元」化が意図されているのかもしれません。

 

2 民法新773条からの同法732条への脚光

 ところで最近筆者は,20221216日公布の令和4年法律第102号たる民法等の一部を改正する法律を研究していて,「実はこれが,岸田内閣からの隠された「異次元」メッセージなのではないか」などと不図妄想してしまう民法(明治29年法律第89号)の改正条項に逢着したのでした(当該改正は,202441日から施行されます(令和4年法律第102号附則1条本文,令和5年政令第173号)。)。

 

    (父を定めることを目的とする訴え)

 (現)第773条 733条第1の規定に違反して再婚をした女が出産した場合において,前条の規定によりその子の父を定めることができないときは,裁判所が,これを定める。

 

    (父を定めることを目的とする訴え)

 (新)第773条 732の規定に違反して婚姻をした女が出産した場合において,前条の規定によりその子の父を定めることができないときは,裁判所が,これを定める。

 

 民法732条は,重婚禁止の規定です(「配偶者のある者は,重ねて婚姻をすることができない。」)。

 これは,女性の再婚禁止期間を定める民法現733条が令和4年法律第102号によって削除され,かつ,同法によって民法772条の嫡出推定規定が整備されることに伴って現773条が不要となるはずのところ(人妻である彼女の前婚の解消又は取消しがあれば直ちに(再婚禁止期間なしに)人妻好き男性は当該彼女と婚姻できることになるのですから,「第733条第1項の規定に違反して再婚」をすることとなる女性はそもそもいなくなるわけです。),従来「重婚関係が存在する場合にも,〔嫡出〕推定重複の場合が生じうる。その場合にも,773条を準用(ママ)すべきである。」(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)218頁)とされて潜在していた重婚妻の生んだ子に係る現773条類推適用の必要性が,その背後にうまく隠れ得るとともに当該類推適用については抜かりなく可能であるものとしてくれていた773条の現行文言を失うことによってはしなくも表面化し,あからさまな適用規定たる新773条としてはしたなくも規定し直されたということになります。

 

3 重婚の有効性

 重婚が成立してもそれは婚姻の取消事由にしかならず(民法744条。無効ではありません。「婚姻ヲ無効トスルハ重大ナル影響ヲ夫婦間ノ関係及ヒ其子ノ利害ニ及ホシ延イテ一家ノ浮沈ニモ関スルコト稀ナリトセサルカ故ニ苟モ利害関係人ノ請求ナキ以上ハ暫ク之ヲ黙認シ敢テ之ニ干渉セサルコトトセリ」と梅謙次郎は説明しています(同『民法要義巻之四 親族編(第22版)』(私立法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1912年)120頁)。),かつ,婚姻の取消しは将来に向かってのみ効力を有する(遡及効はない)のですから(同法7481項),確かに重婚夫婦から生まれた子は,後婚配偶者の子であっても,本来は堂々たる嫡出子たるべきものであるところです。婚姻が取り消されても「夫婦間ニ挙ケタル子ハ之ヲ嫡出子ト看做シ総テ嫡出子ノ権利義務ヲ有スル者トスル」わけです(梅139-140頁)。

 しかし,重婚の後婚も取消しまでは有効な婚姻である(ちなみに,重婚でない婚姻も所詮は離婚まで有効なものにすぎず,後処理は重婚中の後婚取消しの場合のそれと同様です(民法749条)。),ということを想起せしめる規定振りは,余りうまくないように思われます(「第732条」と具体的な条番号が書かれていても,条文に当らない者が大部分なのでしょうが,たまに筆者のように細かくうるさい人間もいます。)。民法現7331項違反であるならば所詮再婚禁止期間違反にすぎず(梅も「余ハ敢テ我邦ノ公安ヲ害スルモノト云フヲ得スト信ス」と言っています(梅112)。),また,妻の前婚解消後直ちにされたアウグストゥスとリウィアとの婚姻に係る前例(ちなみに,両者婚姻時,リウィアは離婚した前夫ティベリウス・クラウディウス・ネロとの間の子であるドルススを妊娠中でした。)もあって,激しい愛の情熱が二人を急がせてしまったのだということでなお許されるのでしょうが(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1048584997.html),重婚となれば,刑法(明治40年法律第45号)184条に拘禁刑(令和4年法律第67号の施行までは「懲役」)の規定のある堂々たる犯罪です。重婚の民法上の有効性を示唆してしまって横着者に高を括らせてしまうような規定は,避けるべしというのが立法技術上の美学ではないでしょうか。我が国の戸籍吏は戸籍制度を前提に民法740条に基づき真面目に確認を行うから同法732条違反の重婚となる婚姻の届出を受理することはあり得ないのだ,だから気にするには及ばないのだ,とは言い切れないでしょう。いわんや法の適用に関する通則法(平成18年法律第78号)24条が適用される婚姻がからむ場合においてをや(刑法184条は,日本国外でも日本国民には適用はされますが(同法35号),ボワソナアドの旧刑法(明治13年太政官布告第36号)354条(「配偶者アル者重子テ婚姻ヲ為シタル時ハ6月以上2年以下ノ重禁錮ニ処シ5円以上50円以下ノ罰金ヲ附加ス」)解釈に倣えば,重婚罪は継続犯ではなく,状態犯となります(Gve. Boissonade, Projet Révisé de Code Pénal pour l’Empire du Japon accompagné d’un Commentaire, Tokio, 1886, pp.1046-1047)。2年以下の拘禁刑が法定刑である場合,公訴時効期間は3年です(刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)25026号)。)。

 

  (重婚)

  〔刑法〕第184条 配偶者のある者が重ねて婚姻をしたときは,2年以下の拘禁刑に処する。その相手方となって婚姻をした者も,同様とする。

 

4 多夫の妻が生んだ子の父を定める訴え

 嫡出推定に係る民法新7721項(「妻が婚姻中に懐胎した子は,当該婚姻における夫の子と推定する。女が婚姻前に懐胎した子であって,婚姻が成立した後に生まれたものも同様とする。」)及び同条新3項(「第1項の場合において,女が子を懐胎した時から子の出生の時までの間に2以上の婚姻をしていたときは,その子は,その出生の直近の婚姻における夫の子と推定する。」)を重婚の場合に適用し,新773条を不要化できないかと考えても(すなわち,後婚の夫が父と推定されるものとする。),同時に2箇所で婚姻届が受理されて重婚が成立したとき(星野英一『家族法』(放送大学教育振興会・1994年)60頁の挙げる例)はどうするのだ,という問題が残ります。というよりも,そもそも,民法新773条の立案者は,新7723項の規定は重婚の場合には適用されないものと考えているのでした。すなわち,2021112日の法制審議会民法(親子法制)部会第21回会議に提出された「部会資料21-2 補足説明(要綱案のたたき台(1))」の7頁には,「母が離婚した後に再婚したところ,前婚の離婚が無効とされた場合は,重婚状態となる。そして,その状態で子が生まれた場合には,前婚の夫も再婚後の夫も,子の出生時に母と婚姻中となり,子の出生の直近の婚姻における夫として,いずれも嫡出推定が及ぶこととなる。」と記されていたところです。

 竹内まりや作詞・作曲(河合奈保子が歌ったのは1982年ですか。嗚呼昭和は遠くなりにけり。)の「けんかをやめて」状態的一妻多夫の重婚の場合,共通妻のために二人が争うことはもはやなくとも,子が生まれてしまうと今度はパパを決めるために,二人はやはり争わなければならないのでした(令和4年法律第102号による改正後の人事訴訟法(平成15年法律第109号)4522号及び3号(前婚の夫vs.後婚の夫)。ただし,子又は母が男たちを訴える場合もあります(同項1号)。)。その間出生届は,取りあえず父未定として母がすることになっています(戸籍法(昭和22年法律第224号)54条)。生まれるとともに当然母の夫が父となる一夫多妻の重婚から生まれた子の場合とは異なります。嫡出推定が重複するから両方パパだよ,けんかをやめて,ということにはならないようです。あるいはこの辺が,将来,憲法24条ないしは141項に違反する男女差別の違憲立法だということで問題になるところかもしれません(一夫の妻と多夫の妻との間における女性対女性の同性内差別問題なのだということには,ならないのでしょうね,きっと。)。

なお,父を定めることを目的とする訴えについては「訴えの性質上,嫡出推定が重複しているため判決で父を定めるべき旨を主張すればよい。請求の趣旨において重複する父のいずれかを特定する必要はない。また,特定したとしても,裁判所は請求の趣旨に拘束されない」とのことで(二宮周平編『新注釈民法(17)親族(1)』(有斐閣・2017年)570頁(野沢紀雅)),民事訴訟法(平成8年法律第109号)246条の適用のない形式的形成訴訟(実質的には非訟事件)であるとされています。二人をとめる裁判官の作業は,「法が形成原因をはじめから具体的に規定せず」という状態なので,「要件事実の存否を判定するというよりは,合理的と思われる結果を直接に実現する合目的的処分行為という性格を強く帯び,法を適用するという性格(要件事実の存否を判断し,法的効果の有無を判断するという性格)が稀薄」となっているとのことです(新堂幸司『新民事訴訟法(第二版)』(弘文堂・2001年)181頁)。法的に父であることの要件事実とは何ぞや,という問題がここでも出て来ます。ちなみに,父を定めることを目的とする訴えについては「常に裁判上の形成の必要性が肯定され,裁判所は何等かの形成をしなければならぬ〔略〕(従って請求棄却の余地はない)」ということ(三ケ月章『民事訴訟法』(有斐閣・1959年)53頁)だったそうですが,現在は「審理の結果双方とも父でないとの心証に至った場合について,多数説は請求を棄却すべきであるとする〔略〕が,訴えを却下すべきであるとする説もある」とのことです(二宮編571頁(野沢))。

 

5 重婚の効用

 ところで,重婚といえば,通常は一夫多妻の場合が念頭に浮かんでしまうところです。

 しかして,民法新773条における一夫多妻等婚姻(同法732条違反)の(取消しがあるまでの)有効性の摘示と「異次元の少子化対策」とがなぜつながるのかというと,筆者がかつて読んだ経済学の教科書に(したがって,以下は筆者の私見ではありません。),一夫多妻制の方が一夫一婦制よりも女性の経済的厚生が高くなるのだなどというけしからぬことが書いてあったからでした(Roger D. Blair & Lawrence W. Kenny, Microeconomics with Business Applications, John Wiley & Sons, 1987, pp.8-9)。

 

   婚姻を,供給曲線と需要曲線とによって描写することができる。妻らの需要曲線と妻らの供給曲線とが存在しているのである。同様に,夫らの需要曲線と夫らの供給曲線とが存在する。一夫一婦制社会においては,婚姻は,(同時的には)一人の夫と一人の妻とによってなされるものと制限されている。一夫多妻婚は,一人の夫と複数の妻らとによってなされる婚姻である。一夫多妻婚は,世界中で行われてきた。例えば,イスラム教徒及び初期モルモン教徒は一夫多妻婚者である。一夫多妻婚は一人の男に1を超えた数の妻を持つことを認めるところから,一夫一婦制の下におけるよりも,一夫多妻制の下における方が妻らに対する需要が大きくなる。一夫多妻制下における高い妻需要は,彼女らの収入を増加させる。すなわち,女性は,一夫一婦制よりも一夫多妻制における方が,よい暮らしができるのである。この興味深い仮説は,経験的証拠によって支持されている。一夫一婦制社会においては,しばしば花嫁は,婚姻するに当たって持参金――これは,花嫁の家からの夫に対する贈物である――を用意しなければならない。反対に,一夫多妻制社会における花婿は,妻に対して,婚資と呼ばれる贈物をするのである。一夫多妻制社会における女性に対する婚姻のより大きな利益は,彼女らをして,一夫一婦制社会の女性たちよりも若い年齢での婚姻に向かわせる。恐らくよりよい暮らしを求めてのことであろうが,一夫一婦制社会から一夫多妻制社会に移住する女性もいる。a

   a  Gary A. Becker, A Treatise on the Family, Cambridge, Mass.; Harvard Univ. Press, 1981, pp.56-57

 

一夫一婦制社会は,あるいはむしろ,けんかをやめた男たちの互助協定によって皆に花嫁が行きわたるようにする,平凡な男本位の発想に基づく微温的な社会にすぎないのかもしれません。

シェアリング・エコノミーといいますが,有り余るほどお金のある男の当該余裕資産を一人の妻が不当に独占しないで他の女性たちと一緒に仲良く快適にシェアすれば,女性の経済的厚生が全体的に向上し,ひいてはその経済的余裕がより多くの嫡出子出産につながるのではないか,という発想は異次元的でしょうか,それとも単に,古臭い男性(ただし,男性といっても,競争に敗れ,かつ,うまく立ち回れない劣位男子を除く。)優位社会的発想への回帰にすぎないものでしょうか。

 重婚噺が続きそうです。

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1 はじめに:国語辞典及び創世神話

 企業法務の仕事をしていると,一週間の単位が問題となることがあり,そうなると週の最初の日が何曜日かが問題となります。

 筆者の手元の『岩波国語辞典 第四版』(1986年)には,「日曜」について「曜日の一つ。週の第1日で,役所・学校などが休日とする。」と,「月曜」について「曜日の一つ。日曜のつぎ。」とあります。したがって,週の初め(「週の第1日」)は日曜日であることが確定しているものと,筆者は漠然と考えていました。

 更にここに,宗教的権威も加わっています。

 

 igitur perfecti sunt caeli et terra et omnis ornatus eorum

    complevitque Deus die septimo opus suum quod fecerat

    et requievit die septimo ab universo opere quod patraverat

    et benedixit diei septimo et sanctificavit illum

    quia in ipso cessaverat ab omni opere suo quod creavit Deus ut faceret

    (Gn 2,1-3)

 

 すなわち,

 

  (かく)天地および(その)衆群(ことごと)(なり)ぬ 第七日(なぬかめ)に神其造りたる(わざ)(をへ)たまえり即ち其造りたる工を竣て七日(なぬか)安息(やすみ)たまへり 神七日を祝して之を神聖(きよ)めたまへり()は神其創造(つくり)(なし)たまへる工を(ことごと)く竣て(この)日に安息みたまひたればなり

  (創世記第21-3

 

 ということであって,ユダヤ人がその神に倣って土曜日を第七日の安息日(Sabbath)として休んでいるのなら,日曜日が週の初めということになるではないか,ということになります。

 しかしながら,国語辞典の記述やら異教の神話やらを根拠とした議論は法律家としていかがなものでしょうか。端的な法的根拠,が欲しいところです。

 

2 民法の143条の規定及び諸書における解説(の有無)

 ところで,民法(明治29年法律第89号)には次のような条文があります(下線は筆者によるもの)。

 

  (暦による期間の計算)

  第143条 週,月又は年によって期間を定めたときは,その期間は,暦に従って計算する。

  2 ,月又は年の初めから期間を起算しないときは,その期間は,最後の週,月又は年においてその起算日に応当する日の前日に満了する。ただし,月又は年によって期間を定めた場合において,最後の月に応当する日がないときは,その月の末日に満了する。

  

 「週の初め」という概念が,当然のように出て来ています。

 そうであれば,民法1432項について研究をすると,①週の初めが何曜日であるか,及びその根拠が明らかになりそうです。

 しかしながら,民法のいわゆる基本書に当たっても,なかなかはっきりしないのです。

 

  内田貴『民法 総則・物権総論』(東京大学出版会・1994年)256-257頁 記載なし。

遠藤浩等編『民法(1)総則(第3版)』(有斐閣・1987年)234-236頁(岡本坦) 記載なし。

  四宮和夫『民法総則 第四版』(弘文堂・1986年)284-285頁 記載なし。

  星野英一『民法概論(序論・総則)』(良書普及会・1971年)245-248頁 記載なし。

  我妻榮『新訂民法総則(民法講義)』(岩波書店・1965年)426-429頁 記載なし。

 

 荒寥たるものです。

 むしろ,民法143「条が週を加えることは無意味である。」と(我妻428頁),週ははなから切って棄てられてもおり(同条1項について遠藤等235頁(岡本),四宮285頁も同様),したがって,週の初めは何曜日かの問題も捨象されてしまっています。

 こうなると,現行民法の起草者の一人である梅謙次郎の著書に当たるしかありません。さすがにそこには,週の初めが日曜日であることを示唆する記述が,何とかありました。

 

  例ヘハ期間ノ初何曜日タルニ拘ハラス1週ト云ヘハ或ハ翌週ノ日曜日ヨリ土曜日ニ至ルマテヲ算スヘキカノ疑アリ(梅謙次郎『訂正増補民法要義巻之一 総則編』(私立法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1905年)366頁。下線は筆者によるもの)

 

 ただし,間接的な言及にとどまっています。

 この点,例外的に直截なのが,次の論述です。

 

   暦によれば,週の初めが日曜日,週の終りが土曜日,月の初めがその月の1日,月の終りがその月の末日であることは,明らかである。(川島武宜編『注釈民法(5)総則(5)』(有斐閣・1967年)9頁(民法143条解説・野村好弘))

 

前記の二つの問題のうち,①週の初めの曜日は日曜日であり,②その根拠は,民法1431項で「暦に従」うことになっているからだ,ということになります。

 

 ちなみに,法典調査会において,週の初めが日曜日なのか,それとも月曜日なのか,ということで認識のくいちがいが見られた(法典調査会速記録(学術振興会版)4117122126など参照)。暦による,とすれば,そのようなくいちがいは解消されることになる。だから,本条1項に週の文字を加えたのは,必ずしも無意味なことではない(反対説,〔我妻〕428)。

 (川島編9頁(野村))

 

野村説は,法典調査会における磯部四郎🎴(筆者註:この花札マークは,待合茶屋における芸妓を交えての花札博奕事件である1892年の弄花事件🍶🎴の関係者(大審院の司法高官)に付されます。)の議論を採用したものです。

 

3 189454日の法典調査会審議模様

野村好弘(当時は若き)東京都立大学助教授によって参照すべしとされた,189454日に開催された第9回の法典調査会の議事速記録を見てみましょう。同日の議長は,その二十代の大部分をパリで過ごし(1871-1880年),ソルボンヌ大学で法律を学んだ,後の内閣総理大臣・西園寺公望でした。

審議の対象となった案文はどのようなものであったかというと,法典調査会民法議事速記録第4111丁表に記載されているものを明治天皇裁可の民法143条の法文と比較すると,第1項と第2項との間の改行がされておらず,かつ,第2項の〔〕内部分が脱落し,更に《》内部分が付加されている形となっていますが(次に掲げるものを参照),少なくとも,各委員の手元資料では,第1項と第2項との間は改行がされており,かつ,〔〕内は脱落してはいなかったものでしょう。ただし,審議案に係る条の番号は,「第144条」となっていました。報告担当の起草委員は,梅謙次郎でした。

 

 期間ヲ定ムルニ週,月又ハ年ヲ以テシタルトキハ暦ニ従ヒテ之ヲ算ス

 週,月又ハ年ノ始ヨリ期間ヲ〔起算セサルトキハ其期間ハ最後ノ週,月又ハ年ニ於テ其〕起算日ニ応当スル《ノ》日ノ前日ヲ以テ《期間》満了ス《ルモノトス》但月又ハ年ヲ以テ期間ヲ定メタル場合ニ於テ最後ノ月ニ応当日ナキ〔トキ〕ハ其月ノ末日ヲ以テ満期日トス

 

 梅の冒頭説明が終ると,直ちに西園寺から疑問が発せられます。(なお,原文は,片仮名書き,句読点なし。以下,筆者において,原文の片仮名を平仮名に,平仮名を片仮名にし,かつ,句読点を補っています。)

 

  議長(西園寺侯) 週の始めは,何時からでありませうか。

  梅謙次郎君 月曜か日曜かでありませう。私は日曜であると考へますが,或は私の考へが間違つて居るかも知れませぬ。

   (民法議事速記録第4116丁裏)

 

冒頭から調子が狂ったのか,回答が明確ではありません。「強て梅君の缺点を挙ぐれば自信力が少し強過ぎた。」と起草委員仲間の富井政章に評された(東川徳治『博士梅謙次郎』(法政大学=有斐閣・1917年)219頁)梅らしくありません。

 続いて土方寧が質問します。

 

  土方寧君 週の暦に従うと云ふのは,疑ひが起りやしませぬか。

  梅謙次郎君 是は大分是迄疑ひの出たことでありますけれども,私は悉く此週に付て暦に従ふと云ふことは出て来やうと思ひます。古い暦には日子月子火子と皆書いてある。アレガ即ち必要である。此必要は決して西洋から来たことでなく,西洋の慣習が這入つて来てから多く用ゐらるると云ふことになつたのであります。加之((しかのみ))ならず,今日の暦には必ず日曜日が書いてあつて,自ら他の何が分かるやうに柱暦に迄書いてあるのであります。夫れで暦に従ふと云つて分らうと思ひます。

   (民法議事速記録第4116丁裏-117丁表)

 

この梅の回答のいわんとするところは,七曜日がめぐって1期間=1週間という観念は,嘉永六年(1853年)のペリー来航後に初めて「西洋から来たことでなく」,昔から我が国にあって,暦に日月火水木金土と書いてもあったのだが,明治の文明開化後,七曜日の1週間を主要な時間単位の一つとする「西洋の慣習が這入つて来てから多く用ゐらるると云ふことになつたので」,民法の期間の計算の章においては,週によるものについても規定しておくのがよかろう(「1週間の後とか2週間の後とか云ふやうなことは,今日随分やると思ひます」(民法議事速記録第4122丁裏)),ということのようです。

明治より前の暦に日月火水木金土の記載があるのかということで,インターネットで各種の具註暦を調べてみると(仕事振りがしつこいですね。国を,政府を,「専門家の技術的・専門的知識💉」を信じていたのに裏切られました。ひどい!くやしい‼とたやすく嘆き悲しむ善良温順な日本人ならざる不逞の筆者は,トマスの徒なのです。“nisi videro in manibus ejus figuram clavorum et mittam digitum meum in locum clavorum et mittam manum meam in latus ejus, non credam” (Io 20,25),確かに,各日の頭書部分に日月火水木金土が朱書されているものなどがあります(例えば,https://dl.ndl.go.jp/pid/1287511/1/8)。なお,アラビア数字及び左からの横書き導入前の時代のものなので,それらの暦は,我々が見慣れた,各月4段ないしは6段に7日分ずつアラビア数字を左から並べるという形のもの🗓ではありません。

しかしてこの七曜日の制は,9世紀初めに空海が唐土から請来した宿曜経こと文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経に由来するのだと言われています。それでは弘法大師の御請来目録にあるのかなと,不信のトマスの徒がまたもインターネット画像を見てみると,確かに空海が請来した経典中に宿曜経が含まれています(12齣目です。https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012887)。

 しかし,梅の回答は若干方向違いであったかもしれません。土方は,週の初日が不確実であるという点を問題にしていたようです。

 

  土方寧君 〔前略〕週の始めは日曜か月曜か分からぬと云ふやうな疑ひもあるから,夫れで私は,12項共に「週」の字は除いた方が宜からうと思ひます。

  横田國臣君 賛成。

  梅謙次郎君 此「週」の字を除くことは格別遺(ママ)はありませぬが,唯,之を此処に加へた理由丈けを申上げます。前に日を以てするときは云々,時を以てするときは云々と書いてあります。週丈け丸で除けものにして仕舞うと,始めに月,年,週と云ふやうに書いて置いたのと合はぬやうになる。夫れで週の始めが極まつて居らぬと云ふことでありますが,唯私が知らないと云ふことを申上げたのであつて,日曜日が始めと是迄心得て居つたのであります。疑ひの起らぬことでありますから,格別辯ずる程の必要はない。

   (民法議事速記録第4120丁表裏)

  

 「始めに月,年,週と云ふやうに書いて置いた」場所は,初日不算入の原則に係る民法140条本文です(「期間ヲ定ムルニ日,週,月又ハ年ヲ以テシタルトキハ期間ノ初日ハ之ヲ算入セス」)。

 梅としては,週の初日が日曜日であることについては自信がある(「疑ひの起らぬことであります」),ただその法的根拠を説明できないだけである,ということのようです。(と,当初は考えましたが,これは筆者が,富井流の「梅=自信力強過ぎ」説に引きずられ過ぎたようです。実は梅も,我妻流に,民法143条において週について規定することは本来不必要と考えていて,日曜始まりでも月曜始まりでも「起算日ニ応当スル日ノ前日ヲ以テ満了ス」で「疑ひの起らぬこと」だから,「格別辯ずる程の必要はない」と思ってはいたものの,やはり同法140条との平仄上「週ノ始」を書いたのだ,ということではないかと,皇紀2683年の春分日になって思い至りました。)

 箕作麟祥は,「成程週の始めが分からぬと云ふことでありましたが,私は始めは日曜と思ふて居る」と言ってくれました(民法議事速記録第4121丁表)。しかし,実は,おフランスかぶれの議長が難しかったところです。

 

  議長(西園寺侯) 私は今日白状するが,是迄週の始めは月曜と思つて居つたが,日曜が本統ですか。

  奥田義人君 西洋の暦では月曜日。

  議長(西園寺侯) 週の始めは,西洋では矢張り月曜日でせう。

  (民法議事速記録第4121丁裏)

 

  元田肇君 一寸伺ひますが,此週の始めと云ふのは何時の積りでありますか。

  梅謙次郎君 私は日曜日の積りであります。

  議長(西園寺侯) 私は何うも日本の週の始めの日と西洋の週の始めの日と違うのは甚だ遺憾に思ふ。奈何となれば,暦と云ふのは,今日西洋の暦を用ゐて居る。

   (民法議事速記録第4125丁表)

 

ここで西園寺のいう「西洋の暦」とは,明治五年太政官布告第337号によって採用された太陽暦のことですね(なお,1894年段階では,明治31年勅令第90号がまだ出ていなかったので,1900年も1年が366日のうるう年になってしまうユリウス暦的な太陽暦でした。したがって,精確には,1900年を平年とするグレゴリウス暦ではありません。)。

しかし,日本国は日本国,西洋は西洋ということで,別であってもよいではないか(筆者註:確かに,上記のとおり,当事者の意識にかかわらず,グレゴリウス暦は実は我が国においてなおも完全採用されていませんでした。),日本国の民法は日本国の暦に従って解釈すればよいのだ,そこは第1項の「暦ニ従ヒテ」規定を援用すればよいのだとの趣旨の磯部四郎🎴発言があって,明示の決議はありませんが,法典調査会においては,民法1432項にいう週の初めの日は日曜日ということで了解がされたようです。

 

 磯部四郎君 〔前略〕私は,此期間に関する法文中で此144条〔民法143条〕の如くに明瞭なる法文はなからうと思ひます。修正論の為めに此本体に多少の傷の付くやうなことがあつては如何にも慨嘆に堪へませぬから一言申して置きます。夫れで先程から此144条〔民法143条〕の「週」と云ふ文字に付て議論もありましたけれども,詰り,日曜が始まり日であるか,又は月曜が始まり日であるか分からぬと云ふことでありますが,然う云ふ所で暦に従ふと云ふので,暦に従つて(ママ)ある,日本の暦では日曜から書いてある。日曜が始めの日になるから,夫れで,144条〔民法143条〕の第1項に暦に従ふと云ふことで明になつて来る。夫れからして,始めの日から計へぬときは最後に応当する(ママ)を以て期間が満了すると云ふことが丁度分りますが,彼の日月火水木金土と云ふことが分り切つて居れば暦に従ふと云ふ必要はないかも知れませぬが,既に「週」と云ふ字に付て色々分からぬと云ふやうなことがあるから,週と云ふものは暦に従ふと云ふので,是は最も便利であらうと思ひますから,何うか是は成る可く傷の付かぬやうに希望致します。

 尾崎三良君 週の始めは日曜日に極まつて居ると云ふことでありますが,夫れは何処から然う云ふことが出るのでございませうか。

 磯部四郎君 夫れは日曜からと云ふことに暦に書いてあります。日月火水と云ふやうに,日が一番始めに書いてあります。

  (民法議事速記録第4126丁表裏)

 

 ということが,明治の立法経緯であったのでした。

しかし,暦といってもいろいろなものがあって,正に週が月曜日始まりのものも売られているのではないかしら,磯部🎴は「暦に書いてある」で単純に押し切ってしまい,尾崎はあっさり引っ込んでしまったけれども,そして野村先生は「暦による,とすれば,そのようなくいちがいは解消されることになる。」と妙に納得してしまっておられるけれども,何か変だよなぁ,まだ何かが足りないよなあ,との感想は,令和の我々にとってはもっともなところではないでしょうか。

ということで,筆者としては,衒学的にして空疎な「その先の議論」に陥らないように戒心しつつなおも研究を進めたのですが,行き着いたところは,法哲学や経済学の過去の業績なるものをおしゃれに踏まえたアカデミックな理論ではなく,やはり神様仏様なのでした。

 

4 本暦及び略本暦頒布の神宮による独占

現行民法制定の当時,暦(本暦及び略本暦)を頒布することは,神宮の専権に属しており,実は暦は統一されていました。すなわち,日曜日始まりやら月曜日始まりやらのいろいろな暦の並存はあり得なかったのでした。

1882426日の明治15年太政官布達第8号(内務卿連署)は,次のように規定していました。

 

 本暦並略本暦ハ明治16年暦ヨリ伊勢神宮ニ於テ頒布セシムヘシ

 一枚摺略暦ハ明治16年暦ヨリ何人ニ限ラス出版条例ニ準拠シ出版スルコトヲ得

  但明治910内務省甲第39号布達ハ取消ス

 右布達候事

 

 明治15年太政官布達第8号の前提として,明治三年四月二十二日の太政官布告は,「頒暦授時之儀ハ至重之典章ニ候処近来種々之類暦世上ニ流布候趣無謂(いはれなき)事ニ候自今弘暦者之外取扱候儀一切厳禁(おほ) 仰出(せいだされ)候事」と規定していました。

 明治9年内務省甲第39号布達は,「来明治10年暦ヨリ本暦略暦共別紙雛形印紙貼用可致(いたすべく)候略暦出版ノ儀ハ自今本暦頒布ノ後草稿相添出版書式ニ照準シ府県庁ヲ経テ当省ヘ可願出(ねがひいづべく)出版差許候分ハ右印紙相渡候間枚数ヲ限リ願出毎暦面ニ貼付ノ上販売可致(いたすべく)無印紙ノ暦ハ売買不相成(あひならざる)条此旨布達候事」というものでした。

 明治三年四月二十二日の太政官布告及び明治15年太政官布達第8号は,1946731日公布の昭和21年内務省令第32号によって同日限り廃止されています。換言すると,その時まで,内務省令たる法規として,大日本帝国憲法9条及び761項に基づき効力を有していたのでした。

暦の製造頒布は神宮の附属事業であり,大宮司(神宮司庁に置かれる祭主(皇族又は公爵)の下にある神官中の事務長官)の管理の下に置かれていた神宮神部署がこれを掌っていました(美濃部達吉『日本行政法 上巻』(有斐閣・1936年)662-663頁参照)。神宮のウェブサイトには,「神宮の暦は,御師(おんし)の配った伊勢暦の伝統を受け継ぎ,明治16年より迷信的記述を排除し,科学的情報のみを記述した我が国唯一の「正暦」として全国に頒布されました。暦の作成や販売が自由になった今日も,その心を受け継ぎ,科学的で実用的な暦として奉製され,神宮大麻とともに配られています。神宮暦は農林漁業関係者をはじめ,近年では家庭菜園やガーデニング等にも広く活用されています。」とあります。ちなみに,神宮大麻とはいわゆるお札であって,その所持等が昭和23年法律第124号によって取り締まられるものではありません。

 

なお,明治三年四月二十二日の太政官布告にも明治15年太政官布達第8号にも「取締ニ制裁ガゴザリマセヌ」ということで(第10回帝国議会貴族院議事速記録第948頁(中村元雄政府委員)参照),違反した暦等の刻版及び印本を差し押さえ,又は毀棄することができるようにするほか,違反した著作者及び発行者を11日以上6月以下の重禁錮に処し,かつ,10円以上200円以下の罰金をこれに附加しようという守札及暦ニ関スル取締法案が1897215日に政府から帝国議会に提出されていますが,同年315日には撤回されています。暦を頒布する「神宮ノ利益ヲ主トシテ保護スルノデソレカラコノ暦ハ成ルヘク諸方カラ出ルコトハ忌ミ且ツ色〻ノ歴史上法令ヲ以テ神宮ヘ許サレテアルコトデゴザイマスシ,又神宮ノ今日余程ノ収入モ関係スルコトデアリマス,其利益ヲ保護スルタメニ出シマスノデゴザイマス」ということでしたが(第10回帝国議会貴族院議事速記録第949頁(三崎龜之助政府委員)),残念でした。1897218日の貴族院本会議において,曽我祐準,村田保,何禮之,伊達宗敦,堀田正養らの諸議員に責め立てられて,「疎漏」・「迂闊」(第10回帝国議会貴族院議事速記録第950頁参照)の内務省は懲りたのでしょう。

 

明治16年(1883)の略本暦の写真がインターネット・オークションの見本として出ていて,それを筆者が確認するに,「七値」(「値」の漢字は,実物はちょっと違います。)の欄には右から順番に日曜・月曜・火曜・・・と並んでいて,日曜が週の最初の曜日とされていることが分かります(縦書きです。この七値ノ名の掲載は,1875の略本暦から1907年の略本暦まであったそうです(高橋潤三「略本暦内容及び体裁の変遷」(19541028日東京天文台暦研究課編))。1875の略本暦でも日曜日が七値の先頭です(同)。)。また,日曜表というものがあって,各月の日曜日の日付が記されています。1946129日の東京天文台の「編暦の方針案」には,「二十四節気,雑節,干支,日曜表,大祭日」について,「本項は古来暦象の基本事項なる故,当然これを〔国民暦たる「暦象年表」に〕載す。」との記載があるところ,ここでのゆゆしき「古来」は,キリスト教国流に日曜日が休日となる時期(官庁の日曜休業は1876312日の明治9年太政官達第27号により同年4月からです)より前からの伝統によって日曜表は意義付けられるのだ(「日曜は七値の筆頭だからなのだ」ということでしょうか。),という意識を示すものでしょう。ただし,日曜表が登場するのは,1880年の略本暦からです(高橋)。なお,現行民法制定当時の官俗ならぬ我が民俗は,「我邦ニ於テハ日曜日,大祭日等ニ其業ヲ休ム者ハ極メテ少数ニシテ未タ西洋ノ如キ慣習アラサル」状態でした(梅364)。

一枚摺略暦については,18901031日に公布された明治23年文部省令第2号が掲載可能事項を限定列挙しているところ,曜日については専ら日曜表が認められています。「今日の暦には必ず日曜日が書いてあつて,自ら他の何が分かるやうに柱暦に迄書いてあるのであります。」と梅が言っていたのは,この間の消息を示すものでしょうか。

 

 一一枚摺略暦ハ左ニ列記スル事項ニ限リ記載スルモノトス

  一年号及紀元ノ年数干支

  一毎月ノ1

  一日月食並其時間

  一大祭祝日並神社例祭大祓

  一日曜表甲子表庚申表己巳表

  一二十四節気及雑節

  一新月満月

  一前各項ニ相当スル陰暦日干支及陰暦ノ朔日干支並之ニ相当スル陽暦日

    以上ノ事項ハ帝国大学ニ於テ編纂スル所ノ暦ニ依ルヘシ但前各項規定ノ外本暦略本暦ニ掲載セサル事項ヲ記入スルハ此限ニ在ラス

 

 いずれにせよ,神宮は(ひの)(かみ)である天照大神大日孁(おほひるめの)(むち)祭っているのですから,その頒布する「正暦」において,七曜の第一が日曜とならなければおかしいでしょう。(つきの)(かみ)たる(つく)(ゆみの)(みこと)月夜(つくよ)(みの)(みこと)月読(つくよみの)(みこと)の神社が頒布する暦であれば,月曜始まりもあり得のでしょうが,事実においてそうではありませんでしたしかし,日本神話では,弟の素戔嗚尊に元気があり過ぎるせいか,月神は影が薄いです🌑


5 宿曜経及びそこにおける七曜

 ここで念のため,お大師様御請来の宿曜経における七曜の排列について,先頭は日曜🌞なのか月曜🌛なのか,やはり確認しておきましょう。


DSCF1162

弘法大師空海(成田山新勝寺)


 国立国会図書館のデジタルコレクションにある脇田文紹が18974月に出版した『縮刷宿曜経 二冊合巻』の30頁には,次のようにあります。

 

  宿曜経序七曜直品第四

  七曜者日月火水木金土也其精上曜於天神下直干人所以司善悪而主吉凶也其法一日一当直七日一周周而復始推求七曜直日法入此経巻末第七暦籌法中

 

 大正新脩大蔵経テキストデータベースでは,

 

    宿曜暦経序七曜直日品第四

  夫七曜日月五星也。其精上曜于天其神下直于人。所以司善悪而主理吉凶也。其行一日一易七日一周周而復始。直神善悪言具説之耳景風曰推求七曜直日法。今具在此経巻末第八暦算法中。具備足矣

 

です。

文言は必ずしも同一ではありませんが,要は,「七曜は,日月火水木金土なり。」又は「それ七曜は日月五星なり。」であって日曜🌞が先頭,「七日で一周し,周して復た始まる」ということです。やはり日曜日が週の初めなのでありました。

宿曜経請来から約二百年が経過した宮中においては同経に基づく占星術が流行っていたようです。光源氏の臣籍降下の決定に当たっては,その誕生日が何曜日であったかも勘案されたかもしれません。

 

 (きは)ことに賢くて,ただ人にはいとあたらしけれど,親王(みこ)となりたまひなば,世の疑ひ負ひたまひぬべくものしたまへば,宿曜(すくえう)の賢き道の人に(かんが)へさせたまふにも,同じさまに申せば,源氏になしたてまつるべく(おぼ)しおきてたり。

 (源氏物語・桐壺)

 

(ところで,紫式部の絵姿が,20007月に出た2千円札にあったことを筆者は覚えているのですが,あの2千円札はどこに消えてしまったのでしょうか。20進法嫌いの日本人には,おフランス式(フランス語で80は,quatre-vingts (=4×20)です。)は(週の月曜日始まりを含めて)駄目なのでしょうね。日本銀行法(平成9年法律第89号)461項は「日本銀行は,銀行券を発行する。」と,同法471項は「日本銀行券の種類は,政令で定める。」と規定しているところ,当該政令である日本銀行法施行令(平成9年政令第385号)の第13条にはなお2千円札が日本銀行券の種類の一つとして規定し残されてはいるのですが・・・。2千円札(及び紫式部の容姿)がどのようなものであるかについては,次のリンク先の一番下の部分を御覧ください。)

https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3487509/www.kantei.go.jp/jp/kidsold/school/school_lesson.html

 

6 東京天文台と国立天文台と

なお,1890年の前記明治23年文部省令第2号には「帝国大学ニ於テ編纂スル所ノ暦」とありました。神宮頒布の「迷信的記述を排除し,科学的情報のみを記述した我が国唯一の「正暦」」も,実は当該帝国大学編纂の暦に拠ったものでしょう。1888126日付け官報によって布告された明治21年勅令第81号は「天象観測及暦書調製ハ自今文部大臣ヲシテ之ヲ管理セシム」と規定していたところ,文部大臣は,暦書調製の実務は帝国大学にやらせていたわけです。

この明治21年勅令第81号は,19211124日公布・同日施行の東京天文台官制(大正10年勅令第450号)によって廃止されますが(同官制附則),同官制の第1条は「東京帝国大学ニ東京天文台ヲ附置ス」と,第2条は「東京天文台ハ天文学ニ関スル事項ヲ攻究シ天象観測,暦書編製,時ノ測定,報時及時計ノ検定ニ関スル事務ヲ掌ル」と規定していました。それまでは文部大臣の下請けだったものが,勅令ですから,暦書の編製を大正天皇から直接命じられた形になっています。「正朔を奉ずる」という言葉がありますが,「天子のこよみを用いることは天子の統治権下にあることになる」ところ(『角川新字源』),東京天文台は,天皇の統治大権の施行における重要な機関であったのでした。

東京天文台官制は,1949531日公布・施行の国立学校設置法(昭和24年法律第150号)によって廃止され(同法附則1項・2項),東京天文台は,「天文学に関する事項の攻究並びに天象観測,暦書編製,時の測定,報時及び時計の検定に関する事務」を目的とする研究所(東京大学に附置)となりました(同法4条)。

しかして現在,従来の東京天文台は,大学共同利用機関法人自然科学研究機構国立天文台となっています。国立天文台の法的位置付けはどうなっているかというと,国立大学法人法(平成15年法律第112号)52項及び別表第2に基づき国立大学法人法施行規則(平成15年文部科学省令第57号)1条及び別表第1によって大学共同利用機関法人自然科学研究機構が設置する大学共同利用機関であって,当該機関としての目的は「天文学及びこれに関連する分野の研究,天象観測並びに暦書編製,中央標準時の決定及び現示並びに時計の検定に関する事務」であるものとされています(国立大学法人施行規則別表第1)。暦書編製を行うこと自体は,東京天文台時代と変わりません。

しかし,東京天文台のしていた暦書編製は我が国政府の行政事務の一環であったのでしょうが,国立天文台のする暦書編製についても同じであると果たしていえるものかどうか。

すなわち,大学共同利用機関とは何かといえば,国立大学法人法24項によれば「この法律において「大学共同利用機関」とは,別表第2の第2欄に掲げる研究分野について,大学における学術研究の発展等に資するために設置される大学の共同利用の研究所をいう。」とされているところ,同法別表第2を見れば,大学共同利用機関法人自然科学研究機構に係る研究分野は「天文学,物質科学,エネルギー科学,生命科学その他の自然科学に関する研究」とされています。であれば,国立天文台の編製する暦書は,専ら,天文学その他の自然科学に関する研究分野について大学における学術研究の発展等に資するためのものであり,大学ないしはその関係者ならざる一般人民が直接利用すべきものではない,ということになってしまいそうです。何だかおかしいですね。暦書の編製が「国民生活及び社会経済の安定等の公共上の見地から確実に実施されることが必要な事務及び事業であって,国が自ら主体となって直接に実施する必要のないもののうち,民間の主体に委ねた場合には必ずしも実施されないおそれがあるもの又は一の主体に独占して行わせることが必要であるもの」に含まれるのならば(独立行政法人通則法(平成11年法律第103号)21項参照),個別法に基づく国立研究開発法人(同条3項)たる独立行政法人に行わせてもよさそうなところです。

ともあれ,対象が大学ないしはその関係者に限定されているのかもしれないものの,国立天文台(暦計算室)は現に暦書を編製しているわけで,翌年の暦要項を毎年2月初めに官報で発表しています。そこで,最新の2024年の暦要項を見てみると,おお,そこには依然日曜表が「古来」的に掲載されているのでした(https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/yoko/pdf/yoko2024.pdf)。すなわち,「古来」的かつ(かつて日曜を筆頭として「七値」の名を掲載していた)略本暦的体裁が維持されていることにより,国立大学法人法及び国立大学法人法施行規則に基づき国立天文台が編製する公的な暦書においては日曜日が週の初日であるものとなお示されているのであるといい得るのでありましょう。磯部四郎🎴(今年(2023年)91日をもって歿後100周年を迎えます。)及び民法1431と共に,我ら暦に従うべし。

(なお,「国立天文台の暦要項からいい得ることは,大学における自然科学に関する研究関係では日曜日が週の初日であるということまでであって,法律学上の議論はまた別である」というような強弁は――筆者は本稿をこの辺で終えたいので――勘弁してください。)

 

皇紀2683年春分日追記: しかし,インターネットでフランス翰林院の辞典(le Dictionnaire de l’Académie française)を過去のものまで遡って見ることができる今日は,なかなか油断がなりません。実は,我が民法143条の条文案が審議されていた1894年当時における現行版であった当該辞典の1878年版(第7版)を調べると,semaine(週)は日曜日から土曜日まで,dimanche(日曜日)は週の最初の日,lundi(月曜日)は週の2番目の日とそれぞれ定義されていたのでした。休みの日は働く日々の後に来るものだろ,だから週の始まりは月曜日なのだ,とお偉いアカデミーの辞典などには頓着なく信ずるフランス庶民の感覚を西園寺は語ったものであったか。しかし,後の法制局長官=司法大臣=中央大学学長たる奥田義人の「西洋の暦では月曜日。」との議長閣下に対するもっともらしい合いの手は,そうだとするといかなる典拠に基づいたものだったのでしょうか。

ロシア語では,月曜日は働かない日(неделя(ニジェーリャ))の翌日という意味のпонедельник(パニジェーリニク)であるところ,火曜日は2番目の日の意味のвторник(フトルニク),木曜は4番目の日のчетверг(チトベルク),金曜日は5番目の日のпятница(ピヤートニッツァ)であって,週月曜日から始まるようなのですが,果たして4世紀のフン族のようにスキタイの地を現在東方から攻撃中のロシアは,西洋文明の国なのでしょうか。


  (なお,現在当該スキタイの地を訪問中の我らが岸田総理の尊い命をロシア軍が狙うことはないものか,と人民の一員としては余計な心配をしていると不図,1943418日の米国海軍による山本五十六大将殺害作戦の発動は,山本がirreplaceableであるからこそその抹殺がadvisableであるのだという彼らの人事判断に基づいていたということを思い出しました(cf. Dan van der Vat, The Pacific Campaign (Simon & Schuster, New York, 1991) p.262)。山本殺害後,山本以上の才能がある提督が敵艦隊の司令長官になってしまってはかえって藪蛇で剣呑だという心配をしたのでしょう。)

 

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(前編):モーセ,ソロモン,アウグストゥス,モンテスキュー,ナポレオン,カンバセレス及びミラボー

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080442857.html



7 西暦1872年の監獄則(明治五年太政官第378号布告)及び西暦1881年の監獄則(明治14年太政官第81号達)

 

明治五年十一月二十七日(18721227日)の我が監獄則中典造十二条の第10条懲治監には,次のような規定がありました。第3項に御注目ください。

 

    第10条懲治監

 此監亦界区ヲ別チ他監ト往来セシメス罪囚ヲ遇スル他監ニ比スレハ稍寛ナルヘシ

 20歳以下懲役満期ニ至リ悪心未タ悛ラサル者或ハ貧窶営生ノ計ナク再ヒ悪意ヲ挟ムニ嫌アルモノハ獄司之ヲ懇諭シテ長ク此監ニ留メテ営生ノ業ヲ勉励セシム21歳以上ト雖モ逆意殺心ヲ挟ム者ハ獄司ヨリ裁判官ニ告ケ尚此監ニ留ム

 平民其子弟ノ不良ヲ憂フルモノアリ此監ニ入ン(こと)ヲ請フモノハ之ヲ聴ス

 〔第4項以下略〕

 

懲治監は,1881年に至って,明治14年太政官第81号達の監獄則では「懲治人ヲ懲治スルノ所」たる懲治場となり(同則13款),同則19条は,懲治人を定義して,旧刑法(明治13年太政官布告第36号)79条,80条及び82条の不論罪に係る幼年の者及び瘖啞者(明治14年監獄則191款)並びに「尊属親ノ請願ニ由テ懲治場ニ入リタル者」を掲げています(同条2款)。この尊属親の請願による懲治人については,「前条第2款ニ記載シタル懲治人ハ戸長ノ証票ヲ具スルニ非サレハ入場ヲ許サス但在場ノ時間ハ6個月ヲ1期トシ2年ニ過ルヲ得ス」(明治14年監獄則201項)及び「入場ヲ請ヒシ尊属親ヨリ懲治人ノ行状ヲ試ル為メ宅舎ニ帯往セント請フトキハ其情状ニ由リ之ヲ許スヘシ」(同条2項)という規定がありました。

 しかし,懲治場は,明治22年勅令第93号の監獄則では専ら「不論罪ニ係ル幼者及瘖啞者ヲ懲治スル所」となってしまっています(同則16号)。なお,明治22年勅令第93号は1889713日の官報で布告されていますが,その施行日は,公文式(明治19年勅令第1号)10条から12条までの規定によったのでしょう。

その附則2項で明治22年の監獄則を廃止した監獄法(明治41年法律第28号)は現行刑法(明治40年法律第45号)と共に1908101日から施行されたものですが(監獄法附則1項,明治41年勅令第163号),そこには懲治場の規定はありません(ただし,懲治人に関する明治22年の監獄則の規定は当分の内なお効力を有する旨の規定はありました(同法附則2項ただし書。また,刑法施行法(明治41年法律第29号)16条)。)。

なお,現行刑法の施行は旧少年法(大正11年法律第42号)のそれを伴うものではなく(後者の法律番号参照),旧少年法の施行は,192311日(同法附則及び大正11年勅令第487号)を待つことになります。

 

8 西暦1890年の旧民法人事編


(1)旧民法人事編の規定


  第149条 親権ハ父之ヲ行フ

   父死亡シ又ハ親権ヲ行フ能ハサルトキハ母之ヲ行フ

   父又ハ母其家ヲ去リタルトキハ親権ヲ行フコトヲ得ス

 

  第151条 父又ハ母ハ子ヲ懲戒スル権ヲ有ス但過度ノ懲戒ヲ加フルコトヲ得ス

  第152条 子ノ行状ニ付キ重大ナル不満意ノ事由アルトキハ父又ハ母ハ区裁判所ニ申請シテ其子ヲ感化場又ハ懲戒場ニ入ルルコトヲ得

   入場ノ日数ハ6个月ヲ超過セサル期間内ニ於テ之ヲ定ム可シ但父又ハ母ハ裁判所ニ申請シテ更ニ其日数ヲ増減スルコトヲ得

   右申請ニ付テハ総テ裁判上ノ書面及ヒ手続ヲ用ユルコトヲ得ス

   裁判所ハ検事ノ意見ヲ聴キテ決定ヲ為ス可シ父,母及ヒ子ハ其決定ニ対シテ抗告ヲ為スコトヲ得

 

旧民法人事編151条は,ナポレオンの民法典375条を承けたもののようではありますが,フランスでは「日常的な懲戒権は,「監護権の存在からも出てくる」が,「自然に慣習上存する」(谷口知平『現在外国法典叢書(14)佛蘭西民法[1]人事法』有斐閣1937 p.361ものとされる」とのことですから(広井多鶴子「親の懲戒権の歴史-近代日本における懲戒権の「教育化」過程-」教育学研究632号(19966月)17頁註2)),我が国産規定なのでしょう。確かに,ナポレオンの民法典375条は厳密にいえば懲戒の手段(moyens de correction)たるその次条以下の拘禁について,更にその前身である1802930日国務院提出案6条は矯正の施設に拘禁させる父の権能についていきなり語っているものであって,いずれもそれに先立つ懲戒権それ自体を基礎付けるものではありません。旧民法人事編151条の前身は,熊野敏三,光明寺三郎,黒田綱彦,高野真遜,磯部四郎🎴及び井上正一が分担執筆し,18887月頃に起草が終了(大久保泰甫『日本近代法の父 ボワソナアド』(岩波新書・1977年(1998年追補))157頁)した旧民法人事編第一草案の第243条(「父若クハ母ハ家内ニ於テ其子ヲ懲戒スルノ権ヲ有ス但シ過度ノ懲戒ヲ加フルコトヲ得ス」)であったところですが,そこにおいて「画期的」であったのはただし書で,理由書によれば「「我国ノ如キ父母・・・懲戒モ往々過度残酷ニ流ル」,ゆえに「過度ノ懲戒ヲ禁」じる必要があるという趣旨」で設けられ,更に親権の失権制度までも準備されていたのでした(小口恵巳子「明治民法編纂過程における親の懲戒権-名誉維持機能をめぐって-」比較家族史研究20号(2005年)71頁)。その際の起草委員らの意気込みは,これも理由書によれば,「此思想〔「親権ハ父母ノ利益ノ為メ之ヲ与フルモノニ非ス」,「子ノ教育ノ為」であるとの思想〕ハ我国ノ親族法ニ反スヘシト雖モ従来ノ慣習ヲ維持スルヲ得ヘカラス」,「其原則ヲ一変セスンハ是等ノ不都合ヲ改正スルヲ得ヘカラス」」(小口77頁)という勢いであって,「かなりヨオロッパ的,進歩的」であるのみならず(大久保157頁),むしろフランス民法よりも更に「進歩的」であったように思われます。当時の「仏国学者中ニハ民法ノ頒布以来父母ノ権力微弱ト為リタルコトヲ歎息シ羅馬ノ古制ヲ追慕スル者」がなおあったようです(旧民法人事編第一草案理由書『明治文化資料叢書第3巻 法律編上』(風間書房・1959年)183頁(熊野敏三起稿))。

旧民法人事編152条は,フランス的伝統が原則とするナポレオンの民法典376条には倣ってはいません。同法典377条以下の規定に倣っています。

旧民法人事編1524項は入場申請に関する決定に対する抗告を認めていますが,父の権威のために父子間の争訟を避けようという1802930日の国務院審議におけるブウレ発言の立場からするとどうしたものでしょうか。旧民事訴訟法(明治23年法律第29号)4622項には「抗告裁判所ハ抗告人ト反対ノ利害関係ヲ有スル者ニ抗告ヲ通知シテ書面上ノ陳述ヲ為サシムルコトヲ得」とありました。ナポレオンの民法典3822項の手続においては,父子直接対決ということにはならないようです。

 

(2)西暦1888年の旧民法人事編第一草案244条及び245

なお,旧民法人事編152条の前身は,その第一草案の第244条及び第245条ですが,両条の文言及びその理由は,次のとおりです。

 

 第244条 父若クハ母其子ノ行状ニ付重大ナル不満ノ事由ヲ有スルトキハ地方裁判所長ニ請願シテ其子ヲ相当ノ感化場若クハ懲戒場ニ入ルコトヲ得

  此請願ハ口頭ニテ之ヲ為スコトヲ得ヘク又拘引状ニハ其事由ヲ明示シ且ツ其他裁判上ノ書面及ヒ手続ヲ用ユルコトヲ得ス

  入場ノ日数ハ16年未満ノ子ナレハ3个月又満16年以上ノ子ナレハ6个月ヲ超過スルコトヲ得ス但シ父若クハ母ハ常ニ裁判所長ニ請願シテ其日数ヲ延長シ又ハ減縮スルコトヲ得(仏第375条以下,伊第222条)

 第245条 父母及ヒ子ハ裁判所長ノ決定ニ対シテ控訴院長ニ抗告スルコトヲ得

  所長及ヒ院長ハ検事ノ意見ヲ聴キ裁判ス可シ(伊第223条)

 (理由)若シ子ノ性質不良ニシテ尋常ノ懲戒ヲ以テ之ヲ改心セシムル能ハサルトキハ法律ハ一層厳酷ナル懲戒処分ヲ用フルコトヲ允許ス即チ其子ヲ拘留セシムルノ権是レナリ本条ハ其手続ヲ規定スルモノトス父母ハ其事由ヲ具シテ地方裁判所長ニ請願スヘシ所長ハ其事情ヲ調査シ検事ノ意見ヲ聴キ其請願ノ允当ナルトキハ其允許ヲ与フヘシ此拘留ハ子ノ為メ一生ノ恥辱トナルヘケレハ成ル可ク之ヲ秘密ニシ其痕跡ヲ留メサルヲ要ス故ニ其請求ハ口頭ニテモ之ヲ為スヲ得ヘク且ツ一切ノ書類及ヒ手続ヲ要セサルモノトス拘引状云々ハ之ヲ削除スヘシ然レトモ其子ヲ拘留スヘキ場所ハ如何是レ特別ノ懲戒場タラサルヘカラス若シ之ヲ普通ノ監獄ニ入レ罪囚ト同居セシムルトキハ懲戒ニ非ラスシテ却テ悪性ヲ進ムルニ至ルヘシ拘留ノ日数ハ子ノ年齢ニ従ヒ之ヲ定メ満16年以下ナレハ3ケ月又16年以上ナレハ6ケ月ヲ超ユヘカラサルモノトナセリ但シ場合ニ由リ其期限ヲ伸縮スルヲ得ヘシ若シ子其拘留ヲ不当ト信スルトキハ之ヲ控訴院長ニ抗告スルヲ得ヘシ

   (旧民法人事編第一草案理由書187頁(熊野))

 

「拘引状云々ハ之ヲ削除スヘシ」と条文批判をしている熊野敏三は,「理由」は起稿したものの,当該条項の起草担当者ではなかったのでしょう。確かに,「拘引状ニハ其事由ヲ明示シ」では,ナポレオンの民法典3781項(身体拘束令状に理由は記載されない。)と正反対になっておかしい。あるいは,「拘引状ニハ其の事由ヲ明示シ〔する〕コトヲ得ス」の積もりだったのかもしれませんが,それでも誤訳的仏文和訳だったというべきなのでしょう(筆者も人様のことは言えませんが。)。しかし,「拘引状」が消えてしまうと,ミラボー的問題児の身柄を強制的に抑える肝腎の手段がないことになって,同人が同意して自ら感化場又は懲戒場に入ってくれなければいかんともし難いことになり,かつ,素直に感化場又は懲戒場に入ってくれるようなよい子には,そもそもそこまでの懲戒は不要であるということにはならなかったでしょうか。

 

9 西暦1898年の民法第4編第5編(明治31年法律第9号)及び旧非訟事件手続法(明治31年法律第14号)

 

(1)親権

 

  民法877条 子ハ其家ニ在ル父ノ親権ニ服ス但独立ノ生計ヲ立ツル成年者ハ此限ニ在ラス  

   父カ知レサルトキ,死亡シタルトキ,家ヲ去リタルトキ又ハ親権ヲ行フコト能ハサルトキハ家ニ在ル母之ヲ行フ

 

 親権について,梅謙次郎は次のように説明しています。

 

  我邦に於ては,従来,法律上確然親権を認めたるの迹なし。唯,事実に於て多少之に類するものなきに非ずと雖も,戸主権熾なりしが為めに十分の発達を為すことを得ざりしなり。維新後に至りては漸く戸主権の必要を減じたるを以て,茲に親権の必要を生じ,民法施行前に在りても父は父として子の代理人となり,子の財産に付き全権を有するものとせるが如し。是れ即ち親権なりと謂ふも可なり。然りと雖も,其父は子の身上に付き果して如何なる権力を有せしか頗る不明に属す。又其財産に付ても多少の制限なくんば竟に子の財産は,寧ろ父の財産たるかの観あるを免れず。

  (梅謙次郎『民法要義巻之四 親族編(第22版)』(私立法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1912年)342-343頁。原文は片仮名書き,句読点・濁点なし。)

 

  蓋し親権は,自然の愛情を基礎とし,父をして子の監護,教育等を掌らしむるものな〔り〕。

  (梅346-347頁)

 

「自然の愛情を基礎」とする梅の考え方の根底は,ローマ法的というよりはフランス法的なのでしょう。

 

(2)懲戒権

 

ア 条文

 

  民法882条 親権ヲ行フ父又ハ母ハ必要ナル範囲内ニ於テ自ラ其子ヲ懲戒シ又ハ裁判所ノ許可ヲ得テ之ヲ懲戒場ニ入ルルコトヲ得

   子ヲ懲戒場ニ入ルル期間ハ6个月以下ノ範囲内ニ於テ裁判所之ヲ定ム但此期間ハ父又ハ母ノ請求ニ因リ何時ニテモ之ヲ短縮スルコトヲ得

 

民法旧882条の参照条文としては,旧民法人事編151条及び152条,フランス民法375条から383条まで,オーストリア民法145条,イタリア民法222条,チューリッヒ民法662条,スペイン民法156条から158条まで,ベルギー民法草案3612項及び363条並びにドイツ民法第1草案1504条及び同第2草案15262項が挙げられており(日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録第50巻』6丁裏-7丁表),1896115日の第152回会合において梅謙次郎が「本条ハ人事編ノ第151条及ヒ第152条ト同シモノテアリマス」と述べていますから(民法議事速記録507丁表),民法旧882条はフランス民法の影響を色濃く受けた条文であったものといってよいのでしょう。

 

イ ドイツ民法(参考)

ちなみにドイツ民法第1草案1504条は,次のとおりでした。

 

§. 1504.

      Die Sorge für die Person umfaßt insbesondere die Sorge für die Erziehung des Kindes und die Aufsicht über dasselbe. Sie gewährt die Befugniß, bei Ausübung des Erziehungsrechtes angemessene Zuchtmittel anzuwenden.

  (身上に対する配慮は,特に,子の教育に対する配慮及びその子の監督を包含するものであるとともに,教育権の行使に当たって,相応な懲戒手段を用いる権限を与えるものである。)

      Das Vormundschaftsgericht hat den Berechtigten auf dessen Antrag durch geeignete Zwangsmaßregeln in der Ausübung des elterlichen Zuchtrechtes nach verständigem Ermessen zu unterstützen.

  (後見裁判所は,当該権利者からの申立てがあるときには,適切な強制手段を執ることにより,親の懲戒権の行使において権利者を賢慮ある裁量をもって支援しなければならない。)

 

 結果として,ドイツ民法1631条は次のとおりとなりました。

 

§. 1631.

   Die Sorge für die Person des Kindes umfaßt das Recht und die Pflicht, das Kind zu erziehen, zu beaufsichtigen und seinen Aufenthalt zu bestimmen.

  (子の身上に対する配慮は,子を教育し,監督し,及びその居所を定める権利及び義務を包含する。)

      Der Vater kann kraft des Erziehungsrechts angemessene Zuchtmittel gegen das Kind anwenden. Auf seinen Antrag hat das Vormundschaftsgericht ihn durch Anwendung geeigneter Zuchtmittel zu unterstützen.

  (父は,教育権に基づき,相応な懲戒手段を子に対して用いることができる。父の申立てがあるときには,後見裁判所は,適切な懲戒手段を用いることによって同人を支援しなければならない。)

 

ウ 懲戒権に関する学説

 懲戒権については,次のように説かれ,ないしは観察されています。

 

  蓋し懲戒権は,主として教育権の結果なりと雖も,我邦に於ては之を未成年者に限らざるを以て,必ずしも教育権の結果なりと為すことを得ず。而して懲戒権の作用は敢て一定せず。或は之を叱責することあり,或は之を打擲することあり,或は之を一室内に監禁することあり。此等は皆,親権者が自己の一存にて施すことを得る所なり。唯,其程度惨酷に陥らざることを要す。法文には「必要ナル範囲内ニ於テ」と云ひ,実に已むことを得ざる場合に於てのみ懲戒を為すべきことを明かにせり。而して其方法も,亦自ら其範囲を脱することを得ざるものとす(若し惨酷に失するときは,896〔親権の喪失〕の制裁あり。)。

  (梅355-356頁)

 

  懲戒権は監護・教育には収まりきらない特殊な性質を持っている。おそらくこれは,親権が私的な権力であることが端的に表れている,と見るべきだろう。父は子に対して自律的な権力を有しており,子が社会に対して迷惑を及ぼさないよう,予防をする義務を負い権利を有するというわけである。

  (大村254頁)

 

懲戒権の対象となる子を未成年者に限るように起草委員の原案を改めるべきではないかという提案が法典調査会の第152回会合で井上正一から出ましたが,当該提案は賛成少数で否決されています(民法議事速記録5011丁表-12丁表)。その際原案維持(すなわち,成年の子も親権に服する以上懲戒の対象とする。)の方向で「実際ハ未成年者ヨリ成年者カ困ルカモ知レヌ未成年ハ始末カ付クガ成年ニ為ルト始末ノ付カヌコトカアラウト思ヒマス」(民法議事速記録5012丁表)と発言したのが村田保であったのが(筆者には)面白いところです。人間齢を取ると素直さを失って始末に困るようになる,ということでしょうが,夫子自身も,「村田は性格が執拗,偏狭という評を受け,貴族院における「鬼門」だといわれた」そうです(大久保164頁)。

 

エ 懲戒場に関して

 

(ア)梅謙次郎の説明

 

  親権者は尚ほ進んで之を懲戒場に入るることを得べし。唯,是が為めには特に裁判所の許可を得ることを必要とせり。蓋し子の身体を拘束すること殊に甚しく,且,其処分が子の徳育,智育,体育に重大なる影響を及ぼすべきを以て,単に親権者の一存に任せず,裁判所に於て果して其必要なるや否やを審査し,又之を必要なりとするも,其期間の長短に付き裁判所に於て必要と認めたる範囲内に於てのみ之を許すべきものとせり。而して,如何なる場合に於ても其期間は6个月を超ゆることを得ざるものとし,尚ほ一旦定めたる期間も亦親権者の請求に因り何時にても之を短縮することを得るものとせり。

  (梅356頁)

 

旧民法人事編1521項の「感化場又ハ懲戒場」から感化場が落ちたことについて梅は,「字ノ如ク感化丈ケテアルナラハ寧ロ之ハ教育上ニ属スヘキモノト思ヒマス夫レテアレハ之ハ教育権ノ範囲内テ態々裁判所ヲ煩スコトヲ要セス父カ勝手ニ出来ル事テアラウト思ヒマス」と述べる一方,「若シ又感化場ト云フ名ハアツテモ矢張リ幾分カ懲戒ノ方法ヲ用ヰルモノテ身体ヲ拘束スルトカ苦痛ヲ与ヘルトカ云フモノテアレハ矢張リ法律ノ上カラ見レハ懲戒場テアリマス詰リ此箇条ノ精神ト云フモノハ子ヲ監禁スルノテアリマス其監禁スルコトハ幾ラ父ト雖モ勝手ニハ出来ヌ幾ラ父ト雖モ裁判所ノ許可ヲ得ナケレハナラヌト云フコトテアラウト思ヒマス」と弁じて,懲戒場の機能における拘禁(détention)の本質性を明らかにしています(民法議事速記録507丁表裏)。

ただし,フランス語の“correction”は「懲戒」と訳し得るものの,“maison de correction”には「感化院」という訳が現在あるところです(1938年のフランス映画『格子なき牢獄(Prison sans barreaux)』の舞台であるmaison de correctionは,「感化院」であるとされています。わざわざ「格子なき」というのですから,感化院には通常は格子があるわけでしょう。)。これに対して,我が国初の感化院は1883年に池上雪枝が大阪の自宅に開設したものだそうですが,自宅であったそうですから,その周囲を格子で囲みはしなかったものでしょう。1885107日には高瀬眞卿により東京の本郷区湯島称仰院内に私立予備感化院が開設されていますが,これはお寺ですね。フランス式の方が,日本式よりごついのでしょう。

梅はフランス式で考えていたのでしょうが,感化場ではない懲戒場とは,具体的には何でしょうか。

 

   懲戒場(〇〇〇)とは如何なる場所なるか民法に於て之を定めざるのみならず,民法施行法其他の法令に於て未だ之を定むるものあらず。故に裁判所は,親権者の意見を聴き,適当の懲戒場を指定することを得べし。然と雖も,将来に於ては之に付き一定の規定を設くる必要あるべし。

  (梅356-357頁)

 

ただし,梅は,旧刑法79条(また,80条及び82条)の懲治場との関係については,当該施設において「刑事ノ被告人カ出マシテサウシテ年齢ノ理由ヲ以テ放免サレタ者ト又普通ノ唯タ暴ハレ小僧ト一緒ニスルト云フコトハ如何テアラウカ」,「例ヘハ無闇ト近所ノ子供ト喧嘩ヲシテ困ルト云フヤウナ事丈ケテ別ニ盗坊ヲスルト云フヤウナ者テモナイ者ヲ刑事ノ被告人ト一緒ニスルト云フコトハ危険テアラウト思ヒマス」ということで,「可成ハ別ナ処ヘ入レルコトカ出来ルナラハ別ノ所ニ入レタイト云フ考ヲ持ツテ居リマスカラ夫レテ態サト「懲治場」ト云フ字ヲ避ケマシタ」と述べています(民法議事速記録509丁表)。

また,梅は家内懲戒場を認めていたようであって,「此「相当ノ」ト云フコトカ這入ツテ居ル以上ハ親カ内ニ檻テモ造ツテ入レルト云フコトナラハ夫レヲモ許ス積リテアリマスカ」との横田國臣の質問に対して,「私ハ其積リテアリマス身分テモアル人ハ其方カ却テ宜シイカモ知レヌ」と回答しています(民法議事速記録509丁裏-10丁表)。しかし,当該問答がされた際の条文案は「親権ヲ行フ父又ハ母ハ必要ナル範囲内ニ於テ自ラ其子ヲ懲戒シ又ハ裁判所ノ許可ヲ得テ之ヲ相当ノ懲戒場ニ入ルルコトヲ得」というものであったのでしたが(下線は筆者によるもの),当該「相当ノ」の文言は,法律となった民法旧8821項からは落ちています。したがって,やはり「懲戒場」は「公の施設であることはいうまでもない」(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)331頁)という整理になるのでしょうか。後記17で見る平成23年法律第61号による懲戒場関係規定の削除に当たっては,法定の懲戒場の不存在がすなわち懲戒場の不存在としてその理由とされていること等に鑑みると,梅の意思にかかわらず,懲戒場=公の施設説が公定説となったものでしょう。


DSCF2164

20233月の称仰院(東京都文京区湯島四丁目)


(イ)手続規定

 

  旧非訟事件手続法13条 審問ハ之ヲ公行セス但裁判所ハ相当ト認ムル者ノ傍聴ヲ許スコトヲ得

 

  旧非訟事件手続法15条 検事ハ事件ニ付キ意見ヲ述ヘ審問ヲ為ス場合ニ於テハ之ニ立会フコトヲ得

   事件及ヒ審問期日ハ検事ニ之ヲ通知スヘシ

 

  旧非訟事件手続法20条 裁判ニ因リテ権利ヲ害セラレタリトスル者ハ其裁判ニ対シテ抗告ヲ為スコトヲ得

   申立ニ因リテノミ裁判ヲ為ス場合ニ於テ申立ヲ却下シタル裁判ニ対シテハ申立人ニ限リ抗告ヲ為スコトヲ得

 

  旧非訟事件手続法25条 抗告ニハ前5条ニ定メタルモノヲ除ク外民事訴訟法ノ抗告ニ関スル規定ヲ準用ス

 

  旧非訟事件手続法92条 子ノ懲戒ニ関スル事件ハ子ノ住所地ノ区裁判所ノ管轄トス

   検事ハ前項ノ許可ヲ与ヘタル裁判ニ対シテ抗告ヲ為スコトヲ得

   第78条ノ規定〔抗告手続の費用及び抗告人の負担に帰した前審の費用の負担者を定めるもの〕ハ前項ノ抗告ニ之ヲ準用ス

 

10 西暦17世紀末-18世紀前半の日本国

懲戒場に関する梅の所論がどうしても抽象的になってしまうのは,公の施設としてのhôpitaux générauxVincennes城等に対応するものが,我が国には現実のものとしてなかったからでしょうか。

我が国の伝統的な子の懲戒観及び懲戒方法はどのようなものだったのか,時代は前後しますが,ここで江戸時代の様子を見てみましょう。

 

   父母は子を懲戒(〇〇)するの権利を有す。西沢与四作「風流今平家」〔元禄十六年(1703年)〕五六之巻第三に

    「入道耳にいれず,()()()()くゝり(〇〇〇)せつ(〇〇)かん(〇〇)する(〇〇)()誰何(〇〇)といはん(〇〇〇〇),汝等がしる事にあらず」

とあるはその一例なり。この懲戒権に基づきて親はまた,子を座敷牢に監禁することを得,(みやこ)(にしき)作「風流日本(やまと)荘子(そうじ)」(元禄十五年1702年))巻之二(勘当の智恵袋の段)に,

    「父母今は詮方尽,流石(さすが)名高き山下さへ,閉口せし上からは,外の評議に及まじ,(さて)是非もなき仕合と,おどり揚つて腹立し,座敷(〇〇)()に入置,さま〔ざま〕のせつかん目も当られず,一門を初め親しき友どち集り,色替品替詫言すれど,さら〔さら〕以て聞入れず,終に公に訴へ元禄十三辰1700年〕の秋,あり〔あり〕と勘当帳にしるし,(あわせ)壱枚あたへ,それから直に追出す」

とあり。また後に出す「傾城歌三味線」〔享保十七年(1732年)〕にも,「或時は座敷(〇〇)()に追込まれ,又或時は内証勘当して云々」と見えたり。

 父母が子を勘当(〇〇)することもまた,その懲戒権の行使なり。〔後略〕

(中田薫『徳川時代の文学に見えたる私法』(岩波文庫・1984年)170頁)  

 

 座敷牢への監禁措置のためには,公儀のお許しは不要であったわけでしょう。

ただし,「親が願い出て「官獄」に入れたり,放蕩の子を他領の親類に預けるといった制度・慣習は従来から存在」してはいたそうです(広井13頁)。それらはどのようなものかといえば,「『全国民事慣例類集』によれば,「官ニテ厳戒シ手鎖足鎖ヲ加エテ拘留シ或ハ其家ニ付シテ監守セシム」(伊賀)といった監禁や,「辺土ノ村」(対馬)へ移したり,「遠島」(大隅)にするといった「流罪」の場合もあった」そうです(広井13頁)。しかしながら,あるいは当該「制度・慣習」は全国的かつ強固なものではなく,それゆえに1889年の監獄則による請願懲治廃止及び1898年の現行民法施行時における法定懲戒場不存在状態が生じていたのではないでしょうか。

 

11 西暦1900年の感化法(明治33年法律第37号)及び1933年の少年教護法(昭和8年法律第55号)

 

(1)感化法

梅謙次郎が民法旧882条の懲戒場について「将来に於ては之に付き一定の規定を設くる必要あるべし」と述べたのは,1899年のことでしたが(梅初版発行年),その翌年に当該規定が整備されています。感化法です(190039日裁可,同月10日布告)。ただし,感化法制定のための主な推進力としては,梅らの不満もあったのでしょうが,18971月の英照皇太后大喪の際に各府県等に御下賜のあった慈恵救済資金の使用先の一つに感化院が想定されていたということがあったようです(第14回帝国議会貴族院感化法案特別委員会議事速記録第12-4頁参照)。(なお,感化法の施行日は「府県会ノ決議ヲ経地方長官ノ具申ニ依リ内務大臣之ヲ定ム」ということで(同法14条),全国一律ではありませんでした。当初の政府案では,勅令で施行日を定めることとしていたものが衆議院において修正されたものです。)

感化法53号は,「裁判所ノ許可ヲ経テ懲戒場ニ入ルヘキ者」を感化院の入院者として規定しています。同号による入院者は,民法旧882条の子は未成年者に限られないものとする法意に忠実に,20歳を超えても在院できることになっています(感化法6条)。

しかし,親権の行使として子を懲戒場たる感化院に入れた父又は母は,財産の管理を除いて在院又は仮退院中の子に対して親権を行うことができなくなるという規定(感化法82項・3項。感化院長が親権を行使(同条1項))は,感化院に子の世話をお願いする以上仕方がないとしても(なお,現在,児童福祉施設に入所中の子の親権者はなお親権を行い得るものとされつつ(児童福祉法(昭和22年法律第164号)471項),児童福祉施設の長に監護・教育に関して措置をする権限が認められています(同条3-5項)。),子を退院させて自己の親権行使を再開させることが自由にできなければ本来の親権者としては変なことではあります。ところが,感化法では在院者の親族又は後見人が子を退院させようとすると地方長官に出願して許可を受けなければならないことになっています(同法12条(1度不許可となると6箇月は再出願不可(2項))・13条(不許可処分には訴願が可能))。そこで民法旧8822項により期間短縮をしようとすると,今度は裁判所の裁判が必要なようでもあります。親権を発揮したつもりが,実は自ら親権を制限ないしは停止したような形になるというのはどうしたものでしょうか(ナポレオンの民法典379条参照)。

また,旧民法人事編152条の「感化場」を排し置いた梅としては,民法旧882条の「懲戒場」とは感化院のことである,となってしまった成り行きをどう思ったものでしょうか。ただし,感化院法9条は「感化院長ハ命令ノ定ムル所ニ依リ在院者ニ対シ必要ナル検束ヲ加フルコトヲ得」と規定していますから,拘禁と全く無縁の施設ではないようではあります。しかし,この「検束」は,「矢張リ親権ノ作用ノ懲戒ニ過ギナイノデアリマス,〔略〕大体検束ト申シマスモノハ民法ナドニ申シテ居ル親ノ懲戒権ノ範囲ニ止マル積リデアリマスガ,其懲戒ノ手段トシテハ或ハ禁足ヲスルトカ若クハ必要ニ応ジマシテハ1食或ハ2食ヲ減食ヲ致シマス,又ハ一室ニ閉禁ヲスルトカ云フヤウナ懲戒手段ヲ加ヘル考デアル,是ガ若シ此規定ガゴザイマセヌト不法監禁デアルト云フヤウナ疑ヲ来スモノデゴザリマスカラ,明ニ此明文ヲ掲ゲタ方ガ明瞭ニナッテ宜カラウト云フ考デ検束ト云フ字ヲ加ヘマシタノデアリマス」ということであって(第14回帝国議会貴族院感化法案特別委員会議事速記録第14頁(小河滋二郎説明員)),感化法9条は,同法81項の感化院長の親権行使規定で本来十分であるものの誤解なきよう念のために設けた規定であるという位置付けでした。感化院は,親権を行う父又は母のためにその懲戒権の実行を専ら担当するものであるというわけではなく,親権を代行しつつ必要があれば検束を含む懲戒権の行使もするものである,ということのようです。

感化院は地方長官が管理するのが原則でしたが(感化法2条),内務大臣の認可を受けた民営の代用感化院も認められていました(同法4条)。

なお,「地方長官ハ在院者ノ扶養義務者ヨリ在院費ノ全部又ハ一部ヲ徴収スルコトヲ得」との規定(感化法111項)は,1804年のフランス民法3782項を彷彿とさせるものがあります。

明治41年法律第43号(同法の施行は,旧法例(明治31年法律第10号)1条により1908428日から)による改正後の感化法52号は「18歳未満ノ者ニシテ親権者又ハ後見人ヨリ入院ヲ出願シ地方長官ニ於テ其ノ必要ヲ認メタル者」も感化院への入院者としています(それまでの同号は「懲治場留置ノ言渡ヲ受ケタル幼者」でしたが,同年101日から施行の現行刑法では,そのような懲治場留置の幼者はいなくなります。)。受け身の裁判所よりも,積極的においコラしてくる府県庁の方が,臣民には親しまれていたのでしょうか。あるいは,「司法的措置に対抗しつつ,より教育的な子どもの保護を制度化しようとする行政的措置の流れ」(広井20頁註76))をそこに見るべきでしょうか。

 

(2)少年教護法

感化法は,1934101日からの少年教護法の施行によって廃止され(同法附則2項),従来の感化院及び代用感化院は,同法による少年教護院となりました(同法附則4項・5項)。少年教護院の入院者に「裁判所ノ許可ヲ得テ懲戒場ニ入ルベキ者」が含まれることについては少年教護法814号に,その年齢が20歳を超えてよいことについては同法11条に規定があります。また,「少年ニシテ親権者又ハ後見人ヨリ入院ノ出願アリタル者」も地方長官は少年教護院に入所させることになっていましたが(少年教護法812号),ここでの「少年」は,「14歳ニ満タザル者ニシテ不良行為ヲ為シ又ハ不良行為ヲ為ス虞アル者」です(同法1条)。

少年教護法は,児童福祉法によって,194811日から廃止されました(同法65条・63条)。従来の少年教護院は,児童福祉法44条の教護院となり(同法67条),当該教護院は,平成9年法律第74号による児童福祉法の改正の結果,199841日からは児童自立支援施設となっています(平成9年法律第74号附則1条・附則51項)。

 

12 西暦1922年の矯正院法(大正11年法律第43号)

旧少年法に併せて矯正院法が制定され,192311日から施行されています(同法附則及び大正11年勅令第487号)。矯正院法1条は「矯正院ハ少年審判所ヨリ送致シタル者及民法第882条ノ規定ニ依リ入院ノ許可アリタル者ヲ収容スル所トス」と規定しています。ただし,「矯正院ニ収容シタル者ノ在院ハ23歳ヲ超ユルコトヲ得ス」とされていました(矯正院法2条)。

感化院は内務省の所管でしたが,矯正院は司法省の所管でした(矯正院法7条)。

矯正院法は,旧少年院法(昭和23年法律第169号)19条によって194911日から(同法18条)廃止されています。

 

13 フランスにおける父の懲戒権のその後

 

(1)19351030日のデクレ

193568日にフランス共和国では,我が国家総動員法(昭和13年法律第55号)も三舎を避くべき法律が成立し(1935316日にドイツがヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄して再軍備宣言を発していますが,戦争はまだ始まってはいません。),ラヴァルを首相とする当時の政府に,「フラン通貨の防衛及び投機との戦いを確乎たるものとするために」,法律と同じ効力を有するデクレを同年1031日を期限として発することのできる授権がされます。

同年1030日,どういうわけかこれもフラン防衛のためであるということで,駆け込み的に,父の子に対する懲戒権に係る民法376条以下の改正が同日付けのデクレによってされます(官報掲載は同月31日)。大統領宛ての内閣報告書によれば,新制度は,従来のものと違い,「懲罰の性格を失っており(…perdent leur caractère de pénalité),専ら子の利益のためのもの」であるとされています。もはや懲戒ではなく,矯正の権ということになるのでしょう。主な被改正条項を見てみましょう。

新第376条は,次のとおり(デクレ1条)。

 

  子が満16歳未満であるときは,父は,司法当局をしてその託置(placement)を命じさせることができる。そのために,民事裁判所の所長は,申立てがあったときは身体拘束令状を発付しなければならない。民事裁判所の所長は更に,その定める期間(ただし,成年期には及ばない。)について,観護教育施設(maison d’éducation surveillée),慈善教育施設(institution charitable)又はその他行政当局若しくは裁判所によって認可され,かつ,子の監護(garde)及び教育を確保する責めを負う者を指定する。

 

 新377条は,次のとおり(デクレ2条)。

 

   満16歳から成年又は解放までのときは,父は,その子の託置を請求することができる。請求は民事裁判所の所長に宛ててされ,当該所長は,検察官の意見により,身体拘束令状を発して,前条に規定する条件における子の監護を確保することができる。

 

 新379条は,次のとおり(デクレ3条)。

 

   命じられた監護措置は,検察官の要求又は父若しくはその他当該措置を求めた者の請求に基づき,裁判所の所長によって,いつでも撤回され,又は変更されることができる。

 

(2)1945年9月1日のオルドナンス

 194591日,対独敗戦後ヴィシー政権に参画していたラヴァル元首相は獄中にあって,同年10月の裁判(及び同月15日の国家叛逆罪による刑死。ただし,ギロチンによる斬首ではなく,銃殺です。)を待っていたところですが,臨時政府のド=ゴールはオルドナンス(n˚45-1967)を発し(官報掲載は同年92日),ラヴァル政権によって改正されていたフランス民法における子の矯正に関する父の権力条項(375条から382条まで)は更に全面改正されます。理由書によれば,父の恣意を避けるために,全ての場合において矯正措置は司法当局の自由な判断に服するものとされ(旧376条関係),②矯正措置の請求権は,もはや父のみにではなく,母及び子の監護権者一般に認められ,③専ら子の利益のために矯正措置が採られるよう,その裁判手続が改善され,④裁判所の職権による矯正措置の撤回及び変更,託置を請求しなかった親による変更の請求並びに検察官及び矯正措置請求者による不服の申立てがそれぞれ認められることとなり,最後に,⑤託置された未成年者の賄い費用負担の国庫による全部又は一部の肩代わり制度の導入がされています。

 改正後のフランス民法の条項は,次のとおり。

 

  第375条 21歳未満の未成年者の父,母又は監護権者は,子について重大な不満意の事由があるときは,当該未成年者の住所地の少年裁判所(tribunal pour enfants)の所長に対して,父性的矯正措置(mesure de correction paternelle)を同人について採るよう求める申立てをすることができる。

    当該の子に対して監護権を行使していない父又は母も,監護権を喪失していない限り,申立てをすることができる。

 

  第376条 所長は,申立の評価のために有益な全ての情報を取得するものとする。特に,資格のある者による,当該家族の物的及び心的状況についての,当該の子の性格及び前歴ついての並びに同人が個人財産を有しているか及び職業を営んでいるかを知るための調査を行わなければならない。

    調査期間中において未成年者の身柄を確保する必要があると判断するときは,所長は,上訴にかかわらず執行することができる仮監護命令をもって,当該未成年者の利益にかなうものと判断される託置措置を執り,及び,必要があれば,観護教育施設への付託をすることができる。

    当該所長は,前項の措置を執る権限を,未成年者の居所の少年裁判所の所長に委託することができる。

 

  第377条 検察官の意見のほか,所長は,未成年者,申立人及び,必要があれば,申立てをしなかった父又は母の陳述を聴いて裁判する。

    有益であると認められるときは,未成年者の託置を命ずる。その際所長はそのために,その定める期間(ただし,成年期には及ばない。)について,観護教育施設,慈善教育施設又はその他行政若しくは司法当局によって認可され,かつ,子の監護及び教育を確保する責めを負う者を指定する。

 

  第378条 前条の命令は,上訴にかかわらず仮に執行される。

 

  第379条 第376条,第2(ママ)77条〔第377条〕及び第381条に基づき所長のした命令に対しては,検察官,父性的矯正措置を受けた未成年者,申立人及び申立てをしなかった父又は母であって手続に関与したものは,10日以内に,裁判所に対する書面により抗告することができる。

 

380条 前条の抗告に対する裁判は,当事者の陳述を聴き又は当事者を適式に呼び出した上で,検察官の意見を聴いて,控訴院の未成年事件担当部がする。

 

  第381条 採られた措置は,職権により,検察官の申立てにより,その他措置申立権を有する者又は未成年者の請求により,当該命令をした司法当局によって撤回され,又は変更されることができる。

 

  第382条 親族(les parents)は,その貧困を証明することにより,託置を命ずる司法当局から,未成年者の賄い費用負担の全部又は一部の免除を受けることができる。免除された費用は,国庫が負担する。

 

 何だかフランス民法が日本民法に追いついてきたような感じがします。

 

(3)19581223日のオルドナンス

 ところがフランス共和国は,更に我が日本国を出し抜きます。その年105日に第五共和制憲法を公布したばかりの19581223日,ド=ゴール首相の政府はオルドナンス(n˚58-1301)を発し(官報掲載は同月24日),その第1条によって父性的矯正措置(フランス民法375条から382条まで)を廃して,育成扶助措置(mesures d’assistance éducative)に入れ替えてしまったのでした。

 当該改正後のフランス民法375条は「その健康,安全,徳性又は教育が危うくなっている21歳未満の未成年者(Les mineurs de vingt et un ans dont la santé, la sécurité, la moralité ou l’éducation sont compromises)は,以下第375条の1から第382条までに規定する条件による育成扶助措置を受けることができる。」と規定していて,もはや親がその子について「重大な不満意の事由」を有しているかどうかは問題になっていません。また,同じく改正後のフランス民法375条の11項は,未成年者自身からも育成扶助を求めて裁判官に対して申立てをすることができるものとしています。子本位の制度の作りになっているわけです。

 

14 西暦1948年の我が民法(昭和22年法律第222号による改正(194811日)後のもの)

 

(1)条文

 

  第818条 成年に達しない子は,父母の親権に属する。

    子が養子であるときは,養親の親権に服する。

    親権は,父母の婚姻中は,父母が共同してこれを行う。但し,父母の一方が親権を行うことができないときは,他の一方が,これを行う。

 

  第822条 親権を行う者は,必要な範囲内で自らその子を懲戒し,又は家庭裁判所の許可を得て,これを懲戒場に入れることができる。

    子を懲戒場に入れる期間は,6箇月以下の範囲内で,家庭裁判所がこれを定める。但し,この期間は,親権を行う者の請求によつて,何時でも,これを短縮することができる。

 

(2)学説

 

現行民法の規定(822条)は明治民法の規定を引き継いでいるが,「懲戒場」はもはや存在しない。また,懲戒権に服するのは未成年の子に限られる。そうだとすると,起草者たちの認識とは異なり,懲戒権は監護・教育権に含まれると考えてもよいことになる。こう考えるならば,懲戒権の規定も廃止してもよいということになる。ただし,ここでも若干の配慮が必要になる〔略〕。

  (大村254頁)

 

   ()監護教育のためには,時に「愛の鞭」を必要とする。しかし,その限界は,社会の倫理観念によって定まる。これを越える場合には,親権の濫用であるばかりでなく,暴行罪を構成する(大刑判明治3721日刑録122頁,札幌高裁函館支部刑判昭和28218日高裁刑集61128頁)。()「家庭裁判所の許可を得て,懲戒場に入れる」という制度は,現行法の下では存在しない。ここにいう懲戒場は公の施設であることはいうまでもない。ところが,現行制度でこれに当るものは,児童福祉法による教護院(同法44条参照)と少年法による少年院(同法24条,少年院法1条参照)とであるが,いずれも親権者の申請によって未成年の子を入所させる途を開いていない(少年法24条,児童福祉法27条参照(少年院法の前身たる矯正院法では認められていた))。

  (我妻330-331頁)

 

 なお,我妻が「少年院法の前身たる矯正院法では認められていた」という部分には,感化法及び少年教護法も付け加えられるべきものでしょう。

 

   親権者はその子をこれらの施設〔少年院,教護院など〕に入れる処分に同意しまたはすすんで申請することができる。民法はこのような親の責務を定めたものと解すべきである。

  (我妻榮=有泉亨著,遠藤浩補訂『新版民法3 親族法・相続法』(一粒社・1992年)179頁)

 

この学説では,親の権利ないしは権限ではなく「責務」であるものとしつつ,義務とまではしていません。

少年法(昭和23年法律第168号)313号の虞犯少年について,保護者(少年に対して法律上監護教育の義務ある者及び少年を現に監護する者(同法22項))は,家庭裁判所に通告ができます(同法6条)。

児童相談所に相談があり(児童福祉法1112号ロ・123項(202341日の前は2項))又は要保護児童(保護者のない児童又は保護者に監護させることが不適当であると認められる児童(同法6条の38項))発見の通告があると(同法251項),相談又は通告を受けた児童相談所長がその旨都道府県知事に報告をして(同法2611号),当該報告を受けた都道府県知事が当該児童を児童自立支援施設に入所させる(同法2713号)ということがあり,また,当該入所措置には親権者の同意が必要である(同条4項)ということがあるところです。

ただし,少年院への収容についてですが,「特に親権者は,家庭裁判所に通告し,または児童相談所に相談して知事が家庭裁判所への送致措置をとった結果として(少6,児福27),家庭裁判所の行う保護処分を受けることを通して少年院収容の強制的な矯正教育を受けることもありうるが,それも本条〔民法822条〕にかかわる親権者個人の懲戒権の実行としてではない。」とされています(於保不二雄=中川淳編『新版注釈民法(25)親族(5)(改訂版)』(有斐閣・2004年)115頁(明山和夫=國府剛))。

 

   親権者にこのような懲戒権が与えられていることの法的な意味は,子の監護教育上必要な範囲で実力を行使しても,親権者が民事・刑事上の責任を問われることはないという点にあるに過ぎない。規定にある懲戒(ママ)に該当する施設は,戦後の児童福祉法・少年院法の制定とともに存在しなくなった(したがって,懲戒場に入れる期間について規定する8222項の意味は失われている)。

   懲戒権も必要な範囲を超えると親権の濫用となり(いわゆる児童虐待〔略〕),親権喪失原因になるとともに,暴行罪を構成する。

  (内田貴『民法 親族・相続』(東京大学出版会・2002年)212頁)

 

 懲戒場に該当する施設はもはや存在しない,その結果(旧)8222項の意味も失われているのだ,と淡白に説明を受けて,やれ民法の勉強は覚えることばかりではなく実は覚えないということもあるのだなと安易に安堵した学生は,当面の試験を前に当該安直な感想を早々に忘れつつ,それでも心の奥底に何やら物足りない思いをその後長く抱き続けることとなったのでした。

 

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(上):はじめに並びに連続複利法の場合の収束値及び旧判例

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080374749.html

(中):大判昭和11101日並びに山中評釈及び我妻説

     http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080374772.html



4 最判昭和45421

 

(1)最高裁判所判決

 ここで改めて最判昭和45421日の判示(前記1に掲載してあります。)を見てみると,「いわゆる法定重利につき民法405条が1年分の利息の延滞と催告をもつて利息組入れの要件としていることと,利息制限法が年利率をもつて貸主の取得しうべき利息の最高額を制限していることにかんがみれば,金銭消費貸借において,年数回にわたる組入れをなすべき重利の予約がなされた場合においては,毎期(●●)()おける(●●●)組入れ(●●●)利息(●●)()これ(●●)()対する(●●●)利息(●●)()()合算(●●)()()本来(●●)()元本(●●)()()対する(●●●)関係(●●)()おいて(●●●)1()()につき(●●●)同法(●●)所定(●●)()制限(●●)利率(●●)をもつて(●●●●)計算(●●)した(●●)()()範囲内(●●●)()ある(●●)とき(●● )()かぎり(●●●),その効力を認める(●●●)こと(●●)()でき(●●)その(●●)合算(●●)()()()()限度(●●)()こえる(●●●)とき(●●)(),そのこえる部分については効力を有しないものと解するのが相当である。」との部分のうち,下線部分には我妻説,傍点部分については山中評釈の影響が歴然としています(しかし,山中評釈から横着に「コピペ」したわけではないのでしょうが,発生した利息の全てが不払のまま元本に組み入れられるわけではなくきちんと弁済期に弁済される利息もあるのであろうところ,そのような弁済済み利息は利息制限「法所定の制限利率をもつて計算した額」と比較されるべき額に算入されないものとされてしまっているように読めます。それでよいのでしょうか・・・。また,金融法委員会「論点整理 メザニン・ローンに関わる利息制限法・出資法上の問題――重利特約の取扱いを中心に――」(201511月)7頁註19は,最判昭和45421日における「毎期における組入れ利息とこれに対する利息との合算額が本来の元本額に対する関係において,1年につき同法所定の制限利率をもつて計算した額の範囲内にあるときにかぎり」との判示の部分にいう「本来の元本額」とは,「各期における「組入れ前の元本額」(すなわち,各期の期初時点における前期までの元本組入れ額を含む元本金額)を指しているものと考えられる。」との解釈を示していますが,しかし,当該解釈は「本判決における事案への当てはめ部分を見ると,「組入れ前の元本額」という表現が用いられてお」ることからの推論であるところ,当該「当てはめ部分」は,利率が利息制限法上の上限利率であるときには利息の元本組入れを少しでもするとたちまち「1年につき同法所定の制限利率をこえる」ので「重利の約定に従つて元本に組み入れる余地を失つた」ことを説明するものです。すなわち,当該利率の場合は最初から利息の元本組入れはされないのですから,「各期の期初時点における」元本金額は最初の元本額から変わらないのであって,「前期までの元本組入額を含む」ことはそもそもないわけです。特殊な場合に係る表現を捉えて一般化することは適当ではないでしょう。)。ここでの問題は,「そのこえる部分については効力を有しない」の意味です。

前記32)第3段落(及び同(3)カ最終段落)のとおり山中評釈では,利息の計算をやり直せということになっています。しかし最高裁判所は,単に「効力を有しないもの」としています。しかしてその,効力を有しないものとなる主体は何かといえば,「年数回にわたる組入れをなすべき重利の予約がなされた場合においては」なのですから,当該「重利の予約」であるのでしょう。また,「そのこえる部分」が失効するということですから,前記33)の我妻説にも鑑みるに,不払利息の元本組入れの全部又は一部が認められなくなるということになるのでしょう。調査官解説も,我妻説式に「本件の事案についてみると,本件のような1年内に6回の組入れをする予約も全体として無効というわけではなく,1年を基準としてみて,利息制限法所定の制限利率をこえる〔筆者註:ここは,最判昭和45421日の記載にも鑑みるに,精確には「利息制限法所定の制限利率をもって計算した額をこえる」でしょう。制限利率を超える利率であれば制限利率に引き直されるだけです。〕額の部分はその組入れを認められない限度で特約が働く余地を失うことになる。」と述べています(吉井213頁。下線は筆者によるもの)。利息の発生自体には変化がないのでしょう。

 最判昭和45421日が上告論旨に直接答えている部分は,我妻説(「〔利息制限法上の〕最高の利率だから――債権者は,特約に拘わらず,単利計算による総計額を請求することができるだけである(但し,2年の後に請求する場合には,1年分の利息を催告なしに組み入れて計算してよい。その限りで特約の効力を認むべきだからである)。」)を彷彿とさせるものとなっています。いわく,「昭和32920日にその利率が日歩5銭(年利182厘強)に改定されて後は,上告人は右制限利率の範囲内〔利率年15パーセント又は18パーセント〕においてのみ利息の支払を求めうるのであるが,そればかりでなく,右利率改定の結果,重利の約定に従つて2箇月ごとの利息の組入れをするときは,ただちに,その組入れ利息とこれに対する利息の合算額が組入れ前の元本額に対する関係において,1年につき同法所定の制限利率をこえる状態に達したことになり,上告人は,右改定後は延滞利息を重利の約定に従つて元本に組み入れる余地を失つたものというべきである。それゆえ,これと同旨に出て,同32921日以降利息の元本組入れの効果を認めなかつた原判決には,なんら所論の違法はない。」と。上告論旨は,原審判決が「1年を経過しなければ利息を元本に組入れることを得ない」としたことが違法だと言っていましたが,では1年が経過したら利息を元本に組み入れることができるのかどうか,という点についてまでの判示はされていません(昭和32921日以後昭和33531日までの8箇月余間にされた利息の元本組入れの有効性が争われていたのであって,現実に1年経過前であった当該事案において,利息の元本組入れが認められないという結論を導くには,これで充分な判示であったわけでしょう。)。

とはいえ,1年が経過したら利息を元本に組み入れることができるのかどうかという点については,我妻説的には「1年分の利息を催告なしに組み入れて計算してよい。その限りで特約の効力を認むべきだからである」ということですから,肯定されるのでしょう。調査官解説も「原判決が述べるように,240万円の債権については,すでに約定利率が制限利率をこえているから,予約は制限利率に引き直された利率により単利計算をした1年分(昭3183日から同3282日まで)を元本に組み入れる限度で特約が働き,その後弁済期である同33531日までは1年に満たないから制限利率による単利計算の額を加えうるにとどまる。」と述べています(吉井213頁)。

しかし,我妻説において「但し,2年の後に請求する場合には,1年分の利息を催告なしに組み入れて計算してよい。その限りで特約の効力を認むべきだからである」とある部分の適用を,1年ずつということについて過度に限定的に考える必要はないのではないでしょうか。利率が上限利率である貸付けにおいて最終的に元本の弁済期が到来したときは,その時が直前の利息組入れ期又は当初貸付時から1年が経過する前であっても,筆者としては,「特約の効力」を認めてよいように思われます(最判昭和45421日の事案については,最後に組入れ手続のされた昭和33531日の日は各債権の弁済期であったことが,最高裁判所によっても認められています。)。この点については,前稿「(結)起草者意思等並びに連続複利法及び自然対数の底」の52)において御紹介した「日本近代法の父」ボワソナアドの見解,すなわち,旧民法財産編3941項に関する「法はそれについて述べていないが,最終的な形で(d’une manière finale)利息が元本と共に履行期が到来したもの(exigibles)となったときには,当該利息は1年分未満であっても,総合計額(la somme totale)について,請求又は特別の合意の日から利息が生ずる,ということが認められなければならない。返還期限又は支払期限が1年内である(remboursable ou payable avant une année)貸金又は売買代金に関する場合と同様である。これらの場合においては,債務者は,この禁制がそこに根拠付けられているところの累増の危険にさらされるものではないからである。」との見解が筆者を援護するものでしょう。利息制限法からする組入れ利息額の制限については,1年未満の期間については期間比例的に額を考えればよいはずです(通常の利息計算自体はそうされています。)。(ああ,心ならずも判例にケチをつけてしまった。)

 

(2)原審・東京高等裁判所昭和431217日判決に関して(及びニセ石田説再構成)

 最判45421日の事案における債権のうち,240万円の口の処理(これは上告論旨の対象となっていないものと判断されています。)及び1200万円の口のそれの是非が,筆者を悩ましています。

 まず,「昭和3181日付契約書によ」るものとされていながら,両口の貸付けについて現実に出捐がされたのは,昭和3183日であり同「日(ママ)前は利息を生ずる余地がない」もの(なお,民法5892項参照)と原審の東京高判昭和431217日によって認定されているところが,最初から少々いやらしかったところです(民集244338-339頁)。

 次に,「2箇月ごとの手形の満期日に利息を支払つて手形を切り替えて行くことにした」とされていますが,手形の満期日(利息の支払期)は精確に2箇月ごとではありませんでした。利息発生開始日である昭和3183日の後の各利息支払期は,同年930日(59日分),同年1130日(61日分),③昭和32131日(62日分),④同年331日(59日分),⑤同年531日(61日分),⑥同年720日(50日分)及び⑦同年920日(62日分)並びに⑧同年1120日,⑨昭和33131日,⑩同年228日,⑪同年331日及び⑫同年531日であったものと原審によって認定されています(民集244339頁)。

 約定利率については,240万円の口については前記1記載の判決文のとおり一貫して年36.5パーセントでしたが,1200万円の口のそれは,当初は年10.95パーセントだったものが,昭和32721日から年14.6パーセント(民集244339頁),同年921日から年18.25パーセント,同年1130日から年29.2パーセントへと変化しています。

 上記の利率のうち,年15パーセントを超えるものは利息制限法上の上限利率年15パーセントに引き直されるので(同法13号),ある意味分かりやすいところです。また,年10.95パーセントであれば,連続複利法でも1年後には元本は1.1157倍強(=e^0.1095)にしかなりませんので,利息制限法上の最低上限利率の年15パーセントを超えることはなく,同法上の問題を起すことにはなりません。しかし,年14.6パーセントは厄介です。組入れ間隔均等の年6回組入れで1年後に1.155175倍,同様の年2回組入れでも1年後に1.151329倍になってしまいます。いずれも上限利率年15パーセントに係る1.15倍を超えるものです。

 さて,筆者を悩ましている240万円及び1200万円の両口の処理に係る問題は3点ありましたが,そのうち,昭和32921日から元本弁済期の昭和33531日までの分の利息の組入れがされなかったことについては,既に前記(1)の最終段落で触れたところです。残っているのは,第1に,東京高等裁判所は,240万円の口について昭和3183日からきっかり1箇年経過時の昭和3282日限り単利年15パーセントでの利息36万円を元本に組み込んでいるが,その時点で利息の元本組入れを行う法的根拠は何か(その時点で利息の元本組入れをする旨の当事者の合意はありません。),第2に,上記のように剣呑な利率である年14.6パーセントの割合での利息62日分を当該62日経過時にあっさり元本に組み入れているが,それは許されるのか,という問題です(利率年14.6パーセントで2箇月ごとに利息を元本に組み込んでいけば,「1年につき」利息制限法所定の制限利率年15パーセントをもって計算した元利金合計額の範囲を超過する結果になることは,前記のところから明らかでしょう。)。

 前者については,民法405条に拠ろうにも同条は1年分以上といっているのできっかり1年分で組入れを行う理由付けには利用できないでしょうし,利息制限法は利息組入れを制限することはあっても積極的に根拠付けるものではないでしょう。1年経過以後最初の合意による利息組入日である昭和32920日での組入れではいけなかったのでしょうか(なお,計算上,昭和3282日組入れの場合における昭和33531日経過時の元利金合計額は3102542円であるのに対して,昭和32920日組入れの場合は310万円0316円となります。上告人としては,東京高等裁判所による2226円分の温情を感じていたかもしれません。)。

 後者については,東京高等裁判所は「1200万円〔略〕の〔略〕口につき日歩3銭〔年10.95パーセント〕或いは4銭〔年14.6パーセント〕の率により昭和32920日迄になされた大体2ヶ月毎の重利の約束による利息の元本組入れは,その結果が利息制限法の制限利率年15分〔略〕の率により単利計算した結果の範囲内であるから,有効と解すべきであるが,昭和32921日より日歩5銭〔年18.25パーセント〕と改訂された以降の前記利率の定めは利息制限法による前記制限利率を超える部分は無効であり,かつ,これらの率により昭和33531日迄になされた前記重利の約束による利息の元本組入れは,右改訂時から1年を経ていないから,利息制限法の関係で,これについて効力を認める余地がないものとするのが相当である」と判示しているところです(民集244340-341頁)。昭和32920日経過時の組入れ後元本額は13654663円ですが(民集244341頁・362頁),この額は昭和3183日から年15パーセントの利率で149日間分単利計算した場合の元利金合計額14041463円を下回るからよいのだ,ということのようです。しかし,利率年15パーセントである240万円の口については厳格に守られた端数なしの1箇年の区切りが,1200万円の口に係る利率が年15パーセント未満の期間については弛緩してしまっているようでもあります。(とはいえ実は,1200万円の口について機械的に1箇年の区切りを厳格に適用すると問題がありました。1200万円の口は,元本出捐日から1年経過時(昭和3282日経過時)において,組入れ済み元本額13324223円であったのですが(民集244362頁。なお,弁済期が未到来であるその時までの(利率年14.6パーセントの)利息分69285円との合計は13393508円。これは,利息制限法13号の上限利率である年15パーセントで単利計算をした算出額1380万円を優に下回ります。),当該元本額につき同月3日から年15パーセントの利率で単利計算をすると,元本弁済期の昭和33531日までの302日間には利息が1653663円つき,同日終了時の元利金合計額は15047171円となるはずでした(ちなみに,元本額13393508円で計算しても,15055770円)。ところが,現実に東京高等裁判所が認めた昭和33531日終了時の元利金合計額は15074373円であって(昭和32920日の組入れ後の元本13654663円及びこれに対する同月21日から昭和33531日まで253日間における年15パーセントの割合の利息1419710円の合計額),昭和3283日基準の利息制限法準拠上限額を27202円(又は18603円)超過していたのでした。1年きっかりの期間で区切って計算して見てみると,実は利息制限法違反の高裁判決に最高裁判所がお墨付きを与えていたのではないか,ということになってしまうのでした。)

東京高等裁判所の採用した理論を筆者なりに忖度してみましょう。

まず,同裁判所は,適用されている利率が利息制限法上の上限利率未満である場合と上限利率そのものである場合とを分けて処理するもののようです。

利息制限法上の上限利率未満の利率で発生する利息に係る元本組入れは,それを認めた上,その結果については――その間利率の変動があっても――通算し(実は最後まで通算せずに各1年経過以後最初の組入れ期で区切るのかもしれませんが,一応区切らずに通算するものと考えます。少なくともきっかり1年で締めるとまずいことになったのは,前記のとおりです。),これと,最初の元本額について利息制限法上の上限利率によって単利計算をし,かつ,1年ごとに元本組入れ(判決文には,単利計算をしつつも各1年経過時には元本組入れをするとは書かれていませんが,民法405条との関係で,1年ごとの元本組入れは必要でしょう。ここは正に筆者の忖度です。)をした結果たる元利金合計算定額(面倒ですから,以下「1+405条基準元利金合計額」といいましょう。)との比較を事後的にして,当該1+405条基準元利金合計額を超過していない限り有効とするのでしょう(しかし,超過した場合にはどう処理するのかははっきりしていません。本件の場合は結果オーライでしたが,厄介な問題です。むしろ,あらかじめ超過の結果が発生しないような仕組みにしておくべきもののようです。)。

利息制限法上の上限利率で発生する利息については,1年ごとの元本組入れしか認めないこととしているわけなのでしょう。しかし,上限利率も上限利率未満の利率も利息制限法上はいずれも適法な利率であるのに,利息の元本組入れの場面では取扱いが異なるのは奇妙ではあります。

以上のような筆者の諸小疑問にかかわらず,「延滞利息を元本に組み入れる重利の予約と利息制限法との関係に関する基本的なルールは既に確立されている状況にあると言ってよい」そうです(金融法委員会8頁)。所詮小疑問は小疑問にすぎず,「基本的なルール」は金甌無欠なものとして厳然と確立しているのでしょう。(なお,当該「ルール」の一環として,金利制限法規の適用において制限基準となる(それを超えてはならない)元利金合計額は,単純な単利計算に基づくものではなく,1+405条基準元利金合計額となるのだ,ということもあるものでしょうか(最判昭和45421日の射程に関する金融法委員会11-14頁参照)。)

 適用利率が上限利率である場合には1年未満の間隔での利息の元本組入れを一切認めないのは,1+405条基準元利金合計額を上回る額の組入れ後元本額(と既払利息額との合計額)の発生をもたらすこととなる余計な利息の発生をあらかじめ抑えるためなのでしょう。しかし,そうであれば,当該事前予防的効果を得るためには,組入れを制限するよりも,端的に利息自体の発生が制限されるものとする解釈を採用する方が,筆者には分かりやすいところです。上限利率が適用される場合でもそれ未満の利率が適用される場合でも,約定どおりの時期に不払利息の元本組入れを認めることとするが,その結果の組入れ後元本額と既払利息額との合計額が当該時点における1+405条基準元利金合計額を上回ることとなる場合には,(事後的に制限超過状態が発見されてしまってその修復処理を――改めて理論構築しつつ――することとなる面倒を避けるために)その都度,超過をもたらす分の利息はそもそも発生しなかったものとする(あるいは発生することに執着がされるのならば,「裁判上無効」でもよいでしょう。),というような解釈論の展開がされるわけにはいかないものでしょうか。(なお,その都度処理が望ましいことに関しては,利息制限法は「単に制限超過の利息契約(●●)をなすことを制限するに止まらず,制限超過の利息の生ずる法律(●●)状態(●●)そのものを禁圧する趣旨と解し,遡及効を認めなくとも,なお改正後における利息の発生を制限すると解するのが正当」と,利息制限法改正の際の法の適用関係に関して説かれてもいるところです(我妻51頁。下線は筆者によるもの)。ただし,経過規定の定めがなかった大正8年法律第59号による旧利息制限法の改正の際,判例は,「法律不遡及の原則」を理由として「大正7年中の契約により2000円につき12分の利息を生じているときに大正8年の改正があっても1割に制限されない(大判大正10523957頁)」としていたそうです(同頁)。しかし,当該前例にかかわらず,現行利息制限法附則4項は「この法律の施行前になされた契約については,なお従前の例による。」との明文規定を設けています。)

ちなみに,上記解釈論は,前記33)エのニセ石田説の修正版ということになりましょう(ということで,石田真説の孫だと思ってもらえば,全くの荒唐無稽の説ということにはならないでしょう。)。すなわち,その弁済期にちゃんと支払われていた利息についても忘れずに考慮に入れることとし,制限基準を純粋単利の「最初の元本に対する最高制限利率による〔貸付時からその時点までの〕利息の額」から1+405条基準元利金合計額に改め,利息の元本組入れに係る複利契約の効力を失わせるまでのことはしないこととし,「爾後は,約定利率の如何に拘わらず最初の元本に対する最高制限利率に依る利息が発生する」を「当該時点における1+405条基準元利金合計額を上回ることとなる場合には,その都度,超過をもたらす分の利息はそもそも発生しなかったものとする」と改める,というわけです。

 念のため検算すると,昭和3183日に貸付けられた1200万円について,昭和33531日経過時の1+405条基準元利金合計額は15512712円となります(=12,000,000×1.15×1+0.15×302÷365))。1200万円の口に係る昭和33531日経過時の現実の元利金合計額は,東京高等裁判所によれば,前記のとおり,元本13654663円及び利息1419710円の合計15074373円です。当該合計額について見れば,1+405条基準元利金合計額との関係はもとより問題ありません。ただ筆者としては,元金合計額ではなく,すっきりと元本額15074373円ということでもよかったのではないか,と(今年20231115日が来日150周年となるボワソナアドと共に(というProjet解釈(前記(1)最終段落参照)でよいのですよね))思うばかりであるところです。

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(上):はじめに並びに連続複利法の場合の収束値及び旧判例

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080374749.html


3 大判昭和11101日並びに山中評釈及び我妻説

最判昭和45421日の先駆とされる判例が,大審院第一民事部の昭和11101日判決(民集15221881頁)です。

最判昭和45421日について「本判決が右の学説の見解によったものであることは,その判文によって明らかである」といわれる場合の「右学説」は,大判昭和11101日に関する山中康雄・判民昭和11年度127事件評釈及びそれを承けた我妻榮の学説でした(吉井212頁及び216頁(注6))。

 

(1)大判昭和11101

 

ア 事案及び判示

大判昭和11101日の事案は,山中評釈によれば次のようなものでした。

 

  X(原告・控訴人・上告人)はY(被告・被控訴人・被上告人)先代に対し大正131217日より昭和673日に至る間数回に金3005010050300円を貸渡し利息を月15厘〔年18パーセント〕と定め,毎年12月末日之が支払なきときは夫々元本に組入るる旨の複利契約を為して居たのであるが,Xが先代死亡に因る家督相続を為したYに対して,右利率を〔旧〕利息制限法2条所定の利率〔元本50円の口は年15パーセント,300円及び100円の口は年12パーセント〕に引直し複利計算を為したる元利金の支払を訴を以て請求して来たのが本件である。所が一審二審共に,元本に利息を組入れ複利計算を為すべき場合と雖其の結果元本に組入れられたる利息及之に対する利息の合計額が最初の元本に対する関係に於て利息制限法の制限利息を超過するときは其の部分は無効なりとして,結局,最初の元金に前記各貸借成立の時より右制限利率に依る利息を加へたる金額の範囲に於てのみ,Xの請求を認容したに過ぎなかつた。そこで,Xは尚,制限内利(ママ)に依る複利計算の為さるべきことを要求して,上告を試みた。要するに,消費貸借に於て一定の弁済期に利息を支払はざる場合には之を元本に組入れ更に利息を生ぜしむべき旨を約した複利契約は,其の利率が利息制限法2条に定むる制限を超過せざる限り同法に抵触するものでは無く,之を有効と認むべし,と為す抽象論に関する限りは原審も又上告論旨と一致するのであるが,右の「利率が利息制限法2条に定むる制限を超過するか否か」に関して,右の有効なる複利契約に基き元本に組入れられたる利息及び之に対する利息を加へたる合算額が本来の元本自体に対する関係に於て利息制限法の制限利率の範囲を超ゆる結果を生ずる場合に,之を利息制限法2条に抵触すると見るべきか否かに関し,原審は之を肯定するに対し,上告論旨は否定する見地に立つのである。大審院は上告を容れて原判決を破毀差戻した。(480-481頁)

 

 大判昭和11101日は,次のとおり判示しています(原文は濁点及び句読点なし。)。

 

  按ズルニ,消費貸借ニ於テ一定ノ弁済期ニ利息ヲ支払ハザル場合ニハ之ヲ元本ニ組入レ更ニ利息ヲ生ゼシムベキ複利契約ハ,其ノ利率ガ利息制限法第2条ニ定ムル制限ヲ超過セザル限リ同法ニ抵触スルモノニアラズシテ有効ナリト解スルヲ相当トス(大正6年(オ)第510号同年88日当院判決)。尤モ複利契約自体ガ利息制限法ノ規定ヲ潜脱セントスル目的ニ出デタルモノト認ムベキ場合,例ヘバ利息組入ノ時期ヲ短期トナシ年数回ノ組入ヲ為スコトヲ約スルトキノ如キハ之ヲ無効ト解スベキハ論ヲ俟タズ。而シテ右有効ナル複利契約ニ基キ元本ニ組入レラレタル利息及之ニ対スル利息ヲ加ヘタル合算額ガ本来ノ元本自体ニ対スル関係ニ於テ利息制限法ノ制限利率ノ範囲ヲ超ユル結果トナルモ,之有効ナル複利契約ノ当然ノ結果ナレバ之ヲ認容スルノ外ナキモノトス。本件消費貸借ニ於テモ上告人〔X〕ガ被上告人〔Y〕ニ対スル貸金債権ノ利息ニ関シ原審認定ノ複利契約ニ基キ貸金元本ニ対スル利息制限法ノ利率ニ依ル利息(元本ニ組入レラルルモノ)ニ対シ更ニ同一ノ利率ヲ以テスル利息ヲ加算シタル結果ガ本来ノ元本ニ対スル関係ニ於テ制限法ノ利率ニ超過スルニ至ルモ,其ノ超過部分ハ法律上効力無キモノト謂フベカラズ。原審ガ,右ト反対ノ見解ニ基キ,元本債権ニ対スル利率ガ既ニ制限法ノ利率ナルトキハ複利契約アルモ結局元本ニ対スル右制限率以上ノ利息ノ支払ヲ求ムルヲ得ザルモノト判定シタルハ,利息制限法第2条ノ趣旨ヲ不当ニ厳格ニ解釈シタル違法アルモノニシテ破毀ヲ免レズ。

 

イ 利息の弁済期に関する問題

 ところで,山中評釈における事案説明を見ても利息の弁済期日がはっきりしないので(月当りの数字でもって利率が表現されていますから,1箇月ごとということでもありそうです。),大審院民事判例集15221882頁にある「事実」を見てみるのですが,そこでもやはり「利息ヲ月15厘ト定メ毎年12月末日之カ支払ナキトキハ夫々元本ニ組入ルル旨ノ複利契約」とあります。「12月末日」に元本組入れがされることは分かりますが,当該利息の支払期日はそれより前に既に到来していてもよいはずです(民法405条参照)。上告人の上告理由には「利息月15厘其ノ支払期毎年12月末日右期日ニ利息ヲ支払ハサルトキハ之ヲ元本ニ組入レ更ニ月15厘ノ利息ヲ附スル約ニテ」とあるのですから(同号1883-1884頁),そうであるのならばそのとおり利息の「支払期」たるものとしての「毎年12月末日」を明示してくれればよかったのに,一体どうしたことでしょうか。

 そこで,原審札幌控訴院の判決(民集15221889-1893頁)を見てみると,同控訴院の事実認定は,「控訴人〔X〕カ弁済期及利率ヲ其ノ主張ノ如ク〔弁済期は「定ナク」,利率は「月15厘」〕約シテ〔略〕各金員ヲ被控訴人〔Y〕先代〔略〕ニ貸渡シタルコトハ当事者間ニ争ナク」,かつ,「成立ニ争ナキ甲第1,第3号証並原審〔第一審の札幌地方裁判所〕ニ於ケル被控訴人〔Y〕本人ノ供述ニヨレハ利息ハ毎年末之ヲ計算シテ元本ニ組入レ更ニ月15厘ノ利息ヲ附スル約ナルコトヲ認ムルニ足ル」ということであって,利息については「毎年末之ヲ計算シテ元本ニ組入レ」るところまでは認定されていますが,「支払期毎年12月末日」であるのだとのXの主張までは採用されていません。同控訴院は「然レトモ元本ニ利息ヲ組入レ複利計算ヲ為スヘキ場合ト雖ソハ利息制限法ノ制限範囲ニ於テノミ有効ニシテ若シ制限法ノ利率ヲ超過スルトキハ該超過部分ハ効力ナキモノ」と述べていますが,ここでは専ら複利計算の場合における利息制限法の適用がどうあるべきかが問題になっているものでしょう。大審院は,「一定ノ弁済期ニ利息ヲ支払ハサル場合ニハ之ヲ元本ニ組入レ更ニ利息ヲ生セシムヘキ」ものたる複利契約の存在を前提として,当該契約がある場合の利息制限法の適用問題を論じたわけですが,札幌控訴院は,「毎年12月末日」は利息に係る当該「一定ノ弁済期」ではなく,複利計算上の区切りの日とのみ認定していたようにも思われます。

札幌控訴院は,元本弁済の時に初めて利息の弁済期も到来するものと解したものでしょうか。「当事者の意思表示,元本債権の性質,取引上の慣習などから,利息債権の弁済期を明らかにすることができないときは,利息債権の弁済期は元本債権の弁済期と同一であると解すべきであろう(勝本〔正晃〕・上248,小池隆一「利息債権」民法法学辞典(下)(昭352085)。」とされているところです(奥田昌道編『新版注釈民法(10)Ⅰ債権(1)債権の目的・効力(1)』(有斐閣・2003年)344頁(山下末人=安井宏))。当該解釈が採用され,利息の弁済期が元本の弁済期とされた場合,元本と同時にではなく,利息だけ先行して弁済できるかどうかがここでは問題になります。民法1362項ただし書は,期限の利益の放棄によって「相手方の利益を害することはできない」と規定していますが,ここでの「相手方の利益」に,元本弁済時までの期間における「利息の利息」収入を含めてよいものかどうか,という問題です。「旧法〔平成29年法律第44号による改正前の民法〕の下においては,民法第136条第2項を根拠に,利息付きの金銭消費貸借において,借主が弁済期の前に金銭を返還した場合であっても,貸主は,借主に対し,弁済期までの利息相当額を請求することができると解するのが一般的であった」ところです(筒井健夫=村松秀樹編著『一問一答 民法(債権関係)改正』(商事法務・2018年)299頁(注))。

利息の先行弁済が許されない(債権者に受領の義務がない)場合に関しては,「利息の弁済期が到来しても債権者に受領の義務はなく,当然その利息を元本に組み入れ,〔元本の〕弁済期において元利を支払うというような特約では,――各期の計算上の額は利息と呼ばれただけで――最初の元本に対して弁済期に支払われるべき余分額が真の意味の利息であるから,この数額について利息制限法を適用すべきことはいうまでもない。」とされているところです(我妻Ⅳ・46-47)。このような思考が,札幌控訴院の判決が前提とするところだったようにも思われます(ただし,大審院は,札幌控訴院の判決について,「元本債権ニ対スル利率カ既ニ〔利息〕制限法ノ利率ナルトキハ複利契約〔筆者註:利息の弁済期(及びその際における債権者の受領義務)の存在を前提とします。〕アルモ結局元本ニ対スル〔単利計算による〕右制限率以上ノ利息ノ支払ヲ求ムルヲ得サルモノト判定シタル」ものと理解しています。しかし,当該「判定」に係る理論は,札幌控訴院の判決においてその旨そこまで明示されていたわけではありません。)。

ところで,大審院は「原審認定ノ複利契約」と判示しています。札幌控訴院の認定し得た事実をもって,十分に複利契約の存在を認定できるということのようです。元本弁済前でも,貸主には利息受領の義務があったということになるのでしょう。利息の計算が云々される以上,そのときには元本とは別個のものとしての利息が存在することになるのだから,貸主に受領義務のないことが特約されていない以上,その際借主が当該利息のみを支払い得ることは当然であるというわけでしょうか。(また,そもそもXYの先代間との消費貸借には返還の時期の定めがなかったことも大きいのでしょう。借主がいつでも元本を返還できる以上,貸主は利息ないしは「利息の利息」をもってその既得権益視することはできません(民法1362項ただし書に関しては「例えば定期預金の預り主(銀行)も,期限までの利息をつければ,期限前に弁済することができる(大判昭和9915日民集1839頁〔略〕)。」と説かれていたところです(我妻榮『新訂民法総則(民法講義Ⅰ)』(岩波書店・1965年(1972年補訂))422頁。下線は筆者によるもの)。反対解釈すれば,定期預金でなければ,期限までの利息をつけて返還云々ということにはならないことになります。)。当該利息の弁済期限が元本の弁済期であるとしても,当該期限は債権者の利益のためのものとはいえないことになるでしょう。そうであれば,債務者は自己の期限の利益を放棄して元本の弁済期より前に利息を支払うことができることになるわけです。その際「相手方が損害を蒙るときは,その賠償をなすべきもの」とされてはいるものの(我妻Ⅰ・422頁),貸主は余計な苦情を言うべきものではない(賠償されるべき損害はない。)と解されるのでしょう。)。「一定ノ弁済期」といっても,債務者の弁済義務までは必要ではなく,その際利息を弁済できるということであればよいようです。


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旧札幌控訴院庁舎(札幌市中央区大通公園)

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旧札幌控訴院の正義の女神は丸顔ですね。また,「札幌控訴院」の文字(右から左へ横書き)も丸まっこく,モダンです。1926年竣工という時代の雰囲気を感じさせます。


ウ 「利息制限法ノ規定ヲ潜脱セントスル目的」による複利契約の無効に関する問題

しかし,大判昭和11101日に係る最大の解釈問題は,「尤モ複利契約自体カ利息制限法ノ規定ヲ潜脱セントスル目的ニ出テタルモノト認ムヘキ場合例ヘハ利息組入ノ時期ヲ短期トナシ年数回ノ組入ヲ為スコトヲ約スルトキノ如キハ之ヲ無効ト解スヘキハ論ヲ俟タス」との判示部分をどう理解するか,です(以下,当該判示部分を「昭和11年大判傍論」といいます。)。

 

(ア)石田文次郎による批判

石田文次郎(判批)・民商55345頁以下は,昭和11年大判傍論の存在ゆえに,当該判決におけるそもそもの本論部分についてまで,大審院の「見解の全幅的妥当性が疑はれねばならぬ」ものとなると痛論しています。

いわく,「元本(組入元本も含む)に対する利率が利息制限法に抵触しない限り,複利契約は有効と為す〔筆者註:ここの引用では,そう「為す」理論を以下「本論」といいます。〕のであるから,其の場合に当事者の目的を探究して複利契約を無効と解すべき余地は全然存在しないわけである。〔略〕60日の期限を以て手形により金を借りた場合には,年6回の利息の組入は現代に於ける取引上通常に行はれてゐる所である。然らば,毎月利息を元本に組入れらるべき複利(ママ)は,(ママ)利息制限法の規定を潜脱せんとする目的に出でたものとして,無効と解すべきか。私は大審院の如き見解に於て之を無効とすべき理由を発見し得ない。斯る複利契約を無効とせんとする考方は,既に〔本論〕の見解と矛盾し,それは〔本論〕の見解を棄たことを意味する。大審院が〔本論〕の見解を採りながら,其の見解と矛盾する但書を附けねばならぬ所に,其の見解の全幅的妥当性が疑はれねばならぬのである。」と(石田350頁)。

大審院は,蛇足👣ゆえに石田文次郎に噛みつかれる藪蛇🐍状態となったというわけです。(なお,1892年生まれの石田の干支は,巳ではなく,辰🐉です。)

確かに,次の利息弁済期到来までの期間が短く,利息弁済期が年数回到来する場合,例えば100万円を利率年15パーセント(利息制限法13号の上限利率)で貸し,かつ,年2回以上利息の弁済期が到来するものとした上での重利の予約は,直ちに「利息制限法ノ規定ヲ潜脱セントスル目的ニ出テタルモノト認ムヘキ」ものではないでしょう。なるほど,約定されたとおりに利息が支払われない場合,半年複利であれば1年経過後の元金は1155625円となってしまって,単利計算による元利金合計額115万円を5625円超過します。しかし,重利の予約だからとて債務者がその利息支払債務の履行を当然妨げられるということがお約束であるわけではなく,約定どおり利息支払期の都度きちんきちんとその弁済をしていけば,元利金支払合計額は単利契約の場合と同一になるはずですし,こちらの方が普通でしょう。

 

(イ)年複数回の利息組入れを有効とする前例

なお,大判昭和11101日が前例として引用する大審院大正688日判決(民録231289頁)は,6箇月ごとに(換言すれば,年2回)利息の元本組入れがされた事案であったようで,したがって,大判昭和11101日の段階で既に「年数回ノ組入ヲ為スコトヲ約スル」ことのみからは直ちに当該複利契約の無効はもたらされないものであるところでした。

すなわち,大判大正688日は,「金200円ニ金1円ニ付キ1个月12厘ノ割合〔利率年14.4パーセント〕ノ利息ヲ附シ期限ニ其支払ヲ延滞シタルトキハ之ヲ元金ニ組入レ同一利率ノ利息ヲ附スヘク尚ホ支払ヲ延滞シタルトキハ6个月毎ニ元金ニ組入レ更ニ同一利率ノ利息ヲ附スヘキコトヲ契約シタルハ有効ナル旨判示シタルハ相当ナリ」と判示しているところです(民録231292頁)。ただし,大判大正688日の時点における元本200円の場合の利息制限法上の上限利率は年15パーセントであったところ,年14.4パーセントの利率で半年ごとに利息の元本組入れを行っても1年後の元本額は当初元本額の1.149184倍にしかならず(=1.072^2),年15パーセントでの単利計算による元利金合計額に係る1.15倍にはなお及ばなかったところです。

大判大正688日が更にその前例とする大審院明治44510日判決(民録17275頁)も,「当事者間ノ契約ハ利子ヲ金1円ニ付1个月金12厘宛〔利率年14.4パーセント〕ト定メ6个月毎ニ支払フヘク之ヲ怠リタル場合ニ元金ニ組入ルル」元本659円(利息制限法上の上限利率は年15パーセント)の消費貸借の事案に係るものでしたが,この場合,元本額は当初(190311日)の659円から8年たった19101231日の経過時(半年当り7.2パーセントの利率で16回(=8年間×2)回ったことになります。)には1345円余増加して2004円余となっていたわけであるところ(=659×1.072^16)),当初の元本以外については「利子ニ利子ヲ附シ請求」する「利子」の請求が債権者からされているものであって,かつ,当該請求「利子」額は利息制限法上の上限利率によって認められるものを超過しているとの理由による債務者からの上告(ただし,元本659円に対する利息制限法上の上限利率年15パーセントでの単利8年分の利息79080銭(元利金合計144980銭)までであれば支払を受け容れるのでしょう。)は「元来当事者カ延滞利子ヲ元金ニ組入レ将来之ニ制限内ノ利息ヲ附スルノ契約ヲ為スハ違法ナリト云フヘカラス何トナレハ利息ノ性質ハ契約ニ因リ既ニ元金ニ変更シタルヲ以テ利息制限法ニ違背スルモノニアラサレハナリ」との判示がされた上退けられています(なお,上告理由では,債権者の請求において当初元本額に加算された金額(いうところの「利子」の額)は1345円余ではなく「1441円余」であるものとされています。誤記でしょうか,計算違いでしょうか,それとも他に理由があるのでしょうか。)。

 

(ウ)他人の無思慮・窮迫に乗じて不当の利を博する行為となるか否か

ところで,最初から各利息弁済期における利息の弁済が全く想定されない場合とはどのようなものかと考え,更にその場合における問題性を探ってみれば,複利契約の不当性は,弁済能力のおぼつかない危険な借主との間で,当該リスクに応じた高利率をも超える利率(これは,利息制限法上の上限利率を超えたものとなるというわけでしょう。)を実質的に実現すべく行なわれることにあるのである,ということになるのでしょうか。そうであれば,「他人の無思慮・窮迫に乗じて不当の利を博する行為」(我妻Ⅰ・274-276頁参照(同書275頁は,当該行為の規制の一環として「金銭の消費貸借については,利息制限法の制限がある」と述べています。))であるとまで評価されるのであれば,当該契約は無効となるのでしょう。

しかし,利率年15パーセントの場合,連続複利法によっても1年後の元本額は当初元本の約1.1618倍にしかならず,1年間全く利息を支払わない危険な債務者に対するリスク・プレミアムとして十分かどうか,「利息制限法ノ規定ヲ潜脱」云々と言って騒ぎ立てるべきほどのものかどうか,という点については,既に前記2において感想を述べ置いたところです。また,年に1度まとめて利息を支払わされるよりも,数度(「年数回」程度)に分割して支払うこととする方が,債務者にとってかえって優しい,ということにもならないでしょうか。

 

(エ)支払の遅滞を条件としない利息の元本組入れを対象とするものか否か

あるいは,昭和11年大判傍論では「利息組入ノ時期」が問題とされ,利息弁済の時期は問題とされていないところから,利息弁済期が年1回(大判昭和11101日の事案におけるXの主張であり,大審院もそのように認定しているわけです。)しかないのに,当該弁済期に係るもの(「①利息の支払を遅滞することを条件として,これを元本に組み入れる場合」(奥田編361頁(山下=安井)))のほか,弁済期未到来期間中における,債務者に弁済の機会がない利息に係る元本組入れ(「利息の遅滞を条件とせず,利息が発生したときは当然に元本に組み入れる場合」(奥田編361頁(山下=安井)))が更にされる場合が問題にされている,とは考えられないでしょうか。大判昭和11101日の事案では約定利率が利息制限法上の上限利率を超えていたため裁判上は当該上限利率で計算するものとなっていたところ,確かに,上限利率は1年当りのものなので,年2度以上の利息の元本組入れがされてしまうと直ちに当該上限を超過してしまう計算になります。しかし,債務者にその弁済の機会を与えずに利息の元本組入れがされることを約することまでをも「複利契約」といったのでしょうか,大審院は「弁済期ニ利息ヲ支払ハサル場合ニ」云々と述べていたはずです(ただし,奥田編361頁(山下=安井)は,上記①及び②のいずれも「いわゆる重利の予約」であるものとしており,吉井215頁(注2)も「利息の弁済期が到来しても債権者に受領の義務がなく,当然に利息分の金額を元本に組み入れ,元本の弁済期に元利金を支払うことを約する場合」を「重利の予約の他の形態」としています。)。

 

(オ)小括

 以上要するに,昭和11年大判傍論については,「しかし,このような概括的な基準を設定することは必ずしも賢明な方法とはいえない,〔略〕どの程度の期間,回数ならよいかが問題になるし,回数だけでは判定できず,利率との関係,さらに貸借の具体的事情も考慮すべきは当然であるから,その判定は困難であり,基準は不明確といわざるを得ない。このようなことは金融取引の実際面からみても望ましいことではない。」という厳しい評価が後輩裁判官から下されていました(吉井212頁)。

 

(2)山中評釈

山中評釈の説の特徴は,昭和11年大判傍論を解釈するに当たって「〔民法〕405条の1年の要件を強行規定と解する」ことと評されています(我妻47)。

山中評釈を見ると,「蓋し元金300円,利息月1〔年12パーセントとなり,当該元本額に係る当時の旧利息制限法2条における最高利率〕の複利契約の存する場合,法定重利に(イ)〔「利息が1年分以上延滞せること」との民法405条〕の要件存在せざるものと仮定せる場合には,右〔筆者註:昭和11年大判傍論にいう「年数回ノ組入」,ということでしょう。〕に付き〔旧〕利息制限法2条の「年」の文字に力点を置き右を無効と解することは困難であり,延いて約定重利に於いても之を有効と解せざるを得ぬと思はれる」と述べた上で(484頁),「(イ)の要件を設くる事により法定重利に於ては,1箇年につきて,利息制限法所定の制限利率以上の利息をあげ得ざる効果に関しては,我が民法が重利を認める上について示した最小限度の制限として,約定重利についても之を認むべきものと私は考へる」ものとされています(485頁)。

すなわち山中説は,「利息組入の時期を短期となし年数回の組入をなすことを約する」ときのごとき場合においては,「法定重利の場合に実現し得べき結果と同一に於て――蓋し,その限度に於てのみ民法は重利を容認したと解すべきを以て――即ち組入れられたる利息並に其れより生じたる利息の合算額が元本に対する関係に於て1年に付き利息制限法の制限利(ママ)を超ゆるを得ず〔筆者註:最判昭和45421日では「同法所定の制限利率をもつて計算した額の範囲内にあるときにかぎり,その効力を認めることができ」〕,若し之を超ゆる場合には之を制限利率に引直して計算せらるべきものと考へる。私は右述の如き趣旨に於いて理論は異にするが尚判旨の結論に賛成したいと思ふ。」というものです(山中485頁)。大判昭和11101日の結論に賛成というのは,当該事案においては,利息制限法上の上限利率によることになるのではあるが利息の元本組入れがうまいことに毎年12月末日にされる(すなわち,1年ごとにされる)ということによって民法405条の示す「1年分以上延滞」との「最小限度の制限」をクリアすることになっているからだ,ということでしょう(ただし,当該事案においては,11日にされた貸付けはなかったので,厳密にいえば各初回組入れは1年経過前にされたということになるようですが,そういう細かいことを気にするのは筆者のような小人ばかりでしょう。)。

前稿(「(結)起草者意思等並びに連続複利法及び自然対数の底」)で御紹介したとおり,民法起草者たる梅謙次郎は,契約の自由を根拠に(1年未満の短期(「月月」)組入れものを含め)重利をあっさり認めており,かつ,利息制限法の廃止を予期していたのですから,「1箇年につきて,利息制限法所定の制限利率以上の利息をあげ得ざる効果」が「我が民法が重利を認める上について示した最小限度の制限」であるのだ,というのは,立法経緯に即した事実論ではなく,理論的な解釈論でしょう。重利の特約なき場合における債権者保護のための補充規定として想定されていたはずのものが,利息制限法と合して,債務者保護のための強行規定に変じているわけです。しかし,あるいは梅的所論を無視すれば(「梅は,簡単だが示唆に富むコンメンタールを民法全体について書き〔『民法要義』〕,総則,債権総論などについての詳しい講義録も残されているが,早世したこともあって〔1910825日歿〕,その後の民法学への影響はそれほど大きくなかったように見受けられる。〔略〕その再発見は,第二次大戦後,比較的最近といえよう。」と言われていますから(星野英一『民法のもう一つの学び方(補訂版)』(有斐閣・2006年)166頁),1936年の判決に係る評釈が書かれたころには,梅の所論の影響は,確かに事実として「それほど大きくなかった」わけです。),民法405条の前身規定たる旧民法財産編3941(「要求スルヲ得ヘキ元本ノ利息ハ塡補タルト遅延タルトヲ問ハス其1个年分ノ延滞セル毎ニ特別ニ合意シ又ハ裁判所ニ請求シ且其時ヨリ後ニ非サレハ此ニ利息ヲ生セシムル為メ元本ニ組入ルルコトヲ得ス」)の趣旨にかなった当然の解釈,ということにもなるのでしょう(なお,旧民法財産編3941項については,前稿「民法405条に関して」の「(承)旧民法財産編3941項」を御参照ください(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080258062.html)。)。


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1 はじめに 

 20221222日の前稿「民法405条に関して」の最後(「(結)起草者意思等並びに連続複利法及び自然対数の底」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080258087.html)において,「民法405条と利息制限法1条との関係,具体的には最判昭和45421日の研究が残っています。「最高裁は,年数回利息の元本組入れの約定がある場合につき,組入れ利息とこれに対する利息との合計額が本来の元本に対して〔利息制限〕法の制限利率を超えない範囲においてのみ有効とした(最判昭和45421日民集298頁(年6回組入れをする))。(星野英一『民法概論Ⅲ(債権総論)』(良書普及会・1978年(1981年補訂))19-20頁)」と簡単に紹介されるだけでは済まない難しい問題が,筆者にとって,当該判決及びその対象となった事案にはあったのでした。」などと思わせぶりなことを書いてしまいました。本稿は,当該宿題に対する越年回答であります。

実は,前稿において筆者は当初――その性格にふさわしく――穏健に,判例理論をその妥当性と共にさらりと紹介し,もって行儀よく記事を終わらせるつもりだったのですが,頼りの御本尊である最高裁判所第三小法廷(関根小郷裁判長)は,昭和45421日判決(民集244298頁)において当時の流行学説の口ぶりを安易に採用してしまったもののようでもあって,当該判決において提示されたものと思われる理論を直ちに実地に応用展開しようとすると,少なくとも筆者にとっては,いろいろと心穏やかならぬ問題が生起してしまうのでした。

あらかじめ,最判昭和45421日の関係部分を掲記しておきましょう。

 

   上告代理人谷村唯一郎,同塚本重頼,同吉永多賀誠,同菅沼隆志の上告理由第1点について。

消費貸借契約の当事者間で,利息について定められた弁済期にその支払がない場合に延滞利息を当然に元本に組み入れ,これに利息を生じさせる約定(いわゆる重利の予約)は,有効であつて,その弁済期として1年未満の期限が定められ,年数回の組入れがなされる場合にもそのこと自体によりその効力を否定しうべき根拠はない。しかし,その利率は,一般に利息制限法所定の制限をこえることをえないとともに,いわゆる法定重利につき民法405条が1年分の利息の延滞と催告をもつて利息組入れの要件としていることと,利息制限法が年利率をもつて貸主の取得しうべき利息の最高額を制限していることにかんがみれば,金銭消費貸借において,年数回にわたる組入れをなすべき重利の予約がなされた場合においては,毎期における組入れ利息とこれに対する利息との合算額が本来の元本額に対する関係において,1年につき同法所定の制限利率をもつて計算した額の範囲内にあるときにかぎり,その効力を認めることができ,その合算額が右の限度をこえるときは,そのこえる部分については効力を有しないものと解するのが相当である。

本件についてこれをみると,原審の確定するところによれば,被上告人〔債務者〕は,上告人〔債権者〕との間で,昭和31年〔1956年〕81日付契約書により譲渡担保の被担保債権合計2140万円(原判示元本1200万円,700万円,240万円の各債権〔利息制限法(昭和29年法律第100号)上の上限利率はいずれも年15パーセント(同法13号)〕)の元利金の支払のため,上告人を受取人とする約束手形を振り出し,2箇月ごとの手形の満期日に利息を支払つて手形を切り替えて行くことにしたが,その後,右利息の支払期(手形の満期日)にその支払がないときは,当然に延滞利息を元本に組み入れる旨の契約(重利の予約)が成立するとともに,後には,その被担保債権に原判示の元本25万円および50万円の各債権〔利息制限法上の上限利率はいずれも年18パーセント(同法12号)〕が加えられ,右同様の約定がなされたものであるところ,右被担保債権のうち,論旨指摘の4口の債権(前記債権のうち240万円の債権を除くもの〔当該240万円の口の債権に係る約定利率は当初から日歩10銭,すなわち365日当たり36.5パーセント(民集244338頁)〕)の利率は,昭和32年〔1957年〕920日までは日歩3365日当たり10.95パーセント〕ないし4365日当たり14.6パーセント〕の約定であつたが,同日,翌21日以降は日歩5365日当たり18.25パーセント〕に,また,同年1120日には,同月30日以降は日歩8365日当たり29.2パーセント〕に順次改定された,というのである。してみれば,右利息の約定は,各債権につき利息制限法による制限利率をこえる限度では無効であるから,昭和32920日にその利率が日歩5銭(年利182厘強)に改定されて後は,上告人は右制限利率の範囲内においてのみ利息の支払を求めうるのであるが,そればかりでなく,右利率改定の結果,重利の約定に従つて2箇月ごとの利息の組入れをするときは,ただちに,その組入れ利息とこれに対する利息の合算額が組入れ前の元本額に対する関係において,1年につき同法所定の制限利率をこえる状態に達したことになり,上告人は,右改定後は延滞利息を重利の約定に従つて元本に組み入れる余地を失つたものというべきである。それゆえ,これと同旨に出て,同32921日以降利息の元本組入れの効果を認めなかつた原判決には,なんら所論の違法はない。

 

 「日歩(ひぶ)」は,「元金100円に対する1日分の利息で表した利率」です(『岩波国語辞典 第4版』(岩波書店・1986年))。

 なお,「〔上告〕論旨指摘の4口の債権(前記債権のうち240万円の債権を除くもの)」ということですから,240万円の債権に係る原審判決(東京高等裁判所第10民事部昭和431217日判決)における処理については上告がされていないものと解されたわけです(したがって,当該債権に係る利率も最高裁判所によっては言及されていませんでした。)。確かに,上告理由第1点においては,原判決中から「昭和33531日迄になされた前記重利の約束による利息の元本組入れは右改訂時(昭和32921日)から1年を経ていないから利息制限法の関係で,これについて効力を認める余地がないものとするのが相当である」と判示する部分が取り上げられ(民集244311頁),「しかし,特約による利息の元本組入れについては1年を経過するを要せず,これより短期に利息を元本に組入れることを約するのは契約自由の原則により有効であることは大正688日第3民事部が同年(オ)第510号貸金請求事件につき判示したところである。(大審院民事判決録第231289頁同抄録16684頁)〔略〕然るに原審判決が1年を経過しなければ利息を元本に組入れることを得ない〔略〕として上告人の請求を斥けたのは法令の解釈適用を誤つた違法がある。」と論じられていますから(民集244312頁。ちなみに,当時は法令違背も上告理由でした(旧民事訴訟法(明治23年法律第29号)394条)。),昭和32921日に利率の改訂がされなかった240万円の口(民集244338-340頁)は上告対象外であるわけです。

 

2 連続複利法の場合の収束値及び旧判例

 連続複利法がとられた場合であってもその結果は拡散せずに収束するので――すなわち,利率年100パーセントでもってあらゆる瞬間に連続的に利息が発生し,かつ,それが元本に組み入れられることとしても,t年後の元本額(利息は各瞬間に発生すると共に元本に組み入れられてしまうので,元本しか残りません。)はではなく,最初の元本額のe2.7183)のt乗(=e^t)倍にとどまり,利率が年Rパーセントであれば,e^rt倍にとどまるので(ただし,r=R/100――明治以来のかつての判例――これは,「右の内容〔「債務者が利息の弁済期に支払をしないとき,その延滞利息を当然に元本に組み入れてさらにこれに利息を付することをあらかじめ約する」〕の重利の予約について,「ソノ利率ニシテ(旧)利息制限法第2条ニ定ムル範囲内ニアルトキハ同法ニ抵触セズ又民法ニ於テ之ヲ禁ズル所ナキヲ以テ契約自由ノ原則ニ依リ有効ナルモノト謂ハザルヲ得ズ」(大判大688民録231289頁,同旨,大判明44510民録17275頁ほか多数)としてその有効性を認めてい」たもの,換言すれば,「組入れ利息とこれに対する利息の合計額が本来の元本に対する関係で利息制限法の制限利率をこえる結果となることを容認し,利率自体が制限の範囲であればよいとする」ものです(吉井直昭「25 年数回の組入れを約する重利の予約と利息制限法」最高裁判所判例解説民事篇(上)昭和45年度210-211頁。下線は筆者によるもの。この吉井解説が,最判昭和45421日のいわゆる調査官解説となります。)――は,実は筆者にとっては納得し得るものでした。利息制限法の規定の数字は単利によるものであっても,連続複利法による場合における数字との幅までをもそこにおいて許容しているものと吞み込んで割り切ってしまえば,確かにそれまでのことであるからです。

 ちなみに,旧利息制限法(明治10年太政官布告第66号)2条の規定は,制定当初は,「契約上ノ利息トハ人民相互ノ契約ヲ以テ定メ得ヘキ所ノ利息ニシテ元金100以下(ママ)1ヶ年ニ付100分ノ20二割100円以上1000以下(ママ)100分ノ15一割五分1000円以上100分ノ12一割二分以下トス若シ此限ヲ超過スル分ハ裁判上無効ノモノトシ各其制限ニマテ引直サシムヘシ」であり,同法を改正する大正8年法律第59(赤尾彦作衆議院議員提案の議員立法)の施行(旧法例(明治31年法律第10号)1条により191951日から)以後は,前段が「契約上ノ利息トハ人民相互ノ契約ヲ以テ定メ得ヘキ所ノ利息ニシテ元金100円未満ハ1ヶ年ニ付100分ノ15一割五分100円以上1000円未満ハ100分ノ12一割二分1000円以上100分ノ10一割以下トス」と改められています。現在の利息制限法(昭和29年法律第100号)は,旧利息制限法を1954年に「全面的に改正して,新法(法100号)を制定した。新法は,制限率を高め,旧法が制限を超える部分を「裁判上無効」と規定した文字を改め〔筆者註:昭和29年法律第1001条旧2項は「債務者は,前項の超過部分を任意に支払つたときは,同項の規定にかかわらず,その返還を請求することができない。」と規定していました。ただし,平成18年法律第115号によって,2010618日から削られています(同法5条及び附則14号並びに平成22年政令第128号)。,天引について新たに規定を設け,かつ遅延賠償金の予定の制限内容を明確にするなど,現時の情勢に適応するものとなった」ものです(我妻榮『新訂債権総論(民法講義)』(岩波書店・1964年(1972年補訂))49-50頁)。

 なお,現行利息制限法の規定の数字(法定重利規定の適用があった場合を含む。)と連続複利法による場合との間の幅を具体的に示すと次のとおりです。

 

   元本の額が10万円未満の場合の利息制限法上の上限利率は年20パーセントであって(同法11号),当該利率による1年後の元利合計高は当初元本の1.2倍となり(①),これに民法405(「利息の支払が1年分以上延滞した場合において,債権者が催告をしても,債務者がその利息を支払わないときは,債権者は,これを元本に組み入れることができる。」)によって1年ごとに利息の元本組入れをして重利計算をするとt年後には当初元本の1.2^t倍になりますが(②),連続複利法の場合,1年後の元本高が当初元本の約1.2214倍(1.2214e^0.2)となり(③),t年後には約1.2214^t倍となります()。

   元本の額が10万円以上100万円未満の場合(利息制限法12号)の数字は,それぞれ,①は1.18倍,②は1.18^t倍,③が約1.1972倍,④が約1.1972^t倍です。

   元本の額が100万円以上の場合(利息制限法13号)は,①は1.15倍,②は1.15^t倍,③が約1.1618倍,④が約1.1618^t倍です。

   ついでながら更に,旧利息制限法2条で出てきた利率年12パーセント及び同10パーセントについてそれぞれ見てみると,

   利率年12パーセントならば,①1.12倍,②1.12^t倍,③約1.1275倍,④約1.1275^t倍,

   利率年10パーセントならば,①1.1倍,②1.1^t倍,③約1.1052倍,④約1.1052^t倍となります。

 

20パーセントが22.14パーセントになり,18パーセントが19.72パーセントになり,15パーセントが16.18パーセントになり,12パーセントが12.75パーセントになり,そして10パーセントが10.52パーセントになるぐらいであれば呑んでもいいのかな,この程度であれば,「利息の組入れ時期を短かくし,年に数回もの組入れを約する場合」は「債権者はこのような特約をすることによって文字どおり巨利を博し,債務者には極めて酷な結果となる」こと(吉井211-212頁)が実現されるものとまでは――法定重利(これは,単利で規定する利息制限法も,民法405条の手前認めざるを得ません。)の場合と比較するならば――実はいえぬだろう,などと思ってしまうのは,弱い者を助けるという崇高かつ遼遠な目標の達成に挑む気概を忘れた,資本家の走狗🐕的な弱腰というものでしょうか。


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(起)「1年以上延滞」と「1年分以上延滞」との間

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080258052.html

(承)旧民法財産編3941

    http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080258062.html

(転)フランス民法旧1154

    http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080258084.html


 

5 民法405条に関し更に若干

 

(1)起草者意思

なお,我が現行民法起草者は,旧民法財産編394条は債務者保護のためには所詮役には立たぬものと冷淡に判断していました。「併し是は,矢張り始めからして元本の高を書換へさへ致しますれば何時でも高利貸の目的を達することが出来るのでありまして,幾らでも払ひましたものを元本に入れて実際一旦弁済して組入れることも出来まするし,又は唯(ママ)元本の数丈けを殖やして新たに書換へることも出来るのでありますからして,394条の規定と云ふものは利息制限法の精神を以て特別に債務者を保護すると云ふことの目的を達するには充分な力はあるまいと思ふのでございます。」と(民法議事速記録第17233丁表(穂積))。「貸主が借主のもとにいって今月分の利息を支払えと請求し,支払えないといったときに,元本に組み入れるなら我慢してやるといって承諾を得ることはきわめて容易であ」るわけです(我妻榮著・水本浩=川井健補訂『民法案内7 債権総論上』(勁草書房・2008年)150頁)。この間における準消費貸借の活用については,「既存の消費貸借上の債務を基礎として――多くの場合,延滞利息を元本に加え〔略〕――消費貸借を締結することもさしつかえない(通説,判例も古くからこれを認める〔略〕)。」と説かれています(我妻榮『債権各論 中巻一(民法講義Ⅴ₂)』(岩波書店・1957年(1973年補訂))366頁)。

むしろ民法405条は,債務者保護の旧民法財産編394条を換骨奪胎して反転せしめた,債権者保護のための規定とされています。「若し特約なきときは,濫に重利を附することを許さず。是れ他なし,当事者の意思の之に反すること多かるべければなり。然りと雖も,債務者が利息の支払を怠るも債権者は決して之に重利を附すること能はざるものとせば,債権者は尠からざる損害を被むり頗る不公平と謂はざるべからず。〔略〕故に本条に於ては」云々というわけです(梅三26-27頁)。第56回法典調査会で穂積は,「本案に於きましては,却て之を当然債務者が1个年分以上延滞致しました場合に,始め催告をしましても尚ほ之を払ひませぬときには,之を元本に組入れること(ママ)出来る,斯う云ふことに致しましたのでございます。〔略〕是は1个年分毎でなくても宜い。1个年又は1个年3个月でも何んでも一緒にやることが出来る。夫れから,特別の合意又は裁判所に請求すると云ふこともなくて,債権者が直ぐに之(ママ)出来る。即ち此手続が簡便になりまする。夫れから,本案に於きましては,決して高利貸に対して債務者を保護するとか云ふやうな精神(ママ)此処に這入つて居るのではないのでありまして,是は,当然斯の如く永い間払ふべき利息を払はずしてうつちやつて置きましたり何かする場合には,債権者は相当の保護を受けなければならぬから,1年分以上も延滞して催促しても尚ほ払はぬと云ふやうな場合に於ける債権者を保護する規則に致しましたのでございます。夫れで,此規則の上から見ましても,手続等のことに及ばぬのみならず,其精神に於ても既成法典とは違つております。」と述べています(民法議事速記録第17233丁表裏)。

上記穂積発言中「是は1个年分毎でなくても宜い。1个年又は1个年3个月でも何んでも一緒にやることが出来る」の部分は,ボワソナアドの前記解説(32)オ)においても旧民法財産編3941項について同旨が説かれていたところですが,「1个年分」を「1年分以上」として法文上も明らかにしたということでしょう。

「決して高利貸に対して債務者を保護するとか云ふやうな精神が此処に這入つて居るのではない」とは無慈悲なようですが,梅も,「新民法に於ては概して契約の自由を認むるが故に,利息制限法の廃止を予期せると同時に,重利の如きも敢て之を禁遏するものに非ず。故に,当事者の自由の契約に依れば,月月利に利を附するも可なり。」ということで,厳しい姿勢を示しています(梅三26頁)。金利の利率制限を不要とするのみならず,約定重利の場合における利息の元本への組入れ頻度に係る制限も不要であるとされているところです。

 

(2)最終組入れから1年未経過時点において最終弁済期が到来する場合に係る問題

何か余計な物が残ってしまうという感覚はいやなものです。

民法405条に基づく元本組入れが最後に行われた分の利息の後から発生する利息について,それに対応する元本存続期間の長さ(元本の弁済期限までの期間の長さ)が1年未満であるときにおける,当該利息の元本組入れの可否に係る問題があります。元本の弁済期限の経過によって利息は発生を止め,元本からは代わって遅延損害金たる遅延利息が発生することになります。したがって,利息が「1年分以上延滞」することにはもうなり得ません。当該残存利息について,そのままでは民法405条の適用はないことになります。

そこで遅延利息との通算を考えたいところです。大審院昭和1724日判決・民集21107頁は「民法405条ニ所謂利息ナル文字ニ付之ヲ観ルニ若シ之ヲ以テ約定利息ノミヲ指称シ遅延利息ヲ包含セサルモノトセハ債務者カ元本債務ニ付未タ履行遅滞ナク単ニ約定利息ヲ1年分以上延滞シタルトキハ債権者ハ催告シタル後之ヲ元本ニ組入ルルコトヲ得ルモ債務者カ元本債務ノ履行ヲ遅滞シ且遅延利息ヲ1年分以上延滞シタルニ拘ラス債権者ハ之ヲ元本債務ニ組入ルルコトヲ得サルコトトナリ従テ債務者トシテ情状重キ後ノ場合ニ却テ前ノ場合ニ於ケルカ如キ複利ノ責ヲ負担セサルコトトナリ正義衡平ニ合セサルヲ以テ同条ニ所謂利息中ニハ遅延利息ヲモ包含スルモノト解スルヲ相当トス」と判示し(下線は筆者によるもの),また,旧民法財産編3941項は「元本ノ利息ハ填補タルト遅延タルトヲ問ハス」と規定していたのであるから,利息と遅延損害金たる遅延利息とは民法405条において同一である,といえないでしょうか。

しかし,利息契約に基づく利息請求権と履行遅滞に基づく損害賠償請求権とはそもそも法的性質を異にし,それぞれ別個の訴訟物です。大判昭和1724日も,「民法ノ規定中ニ於テモ利息ナル文字ヲ以テ約定利息ノミナラス遅延利息ヲモ包含スル趣旨ニ用ヒタルノ例乏シカラス」との字義論の下,遅延利息は「経済上元本使用ノ対価トシテ」約定利息と「何等其ノ取扱ヲ異ニスルノ要ヲ見ス」とする経済上の同一性論及び上記の正義衡平論をもって理由付けとした上で,民法405条における「利息」なる同一の文字の下には,本来の利息に加えて遅延損害金たる遅延利息も「包含」されているとするものでしょう。同一名称下に2種のものがあるというわけです。名前が同じであっても,同一人物であるとは限りません。

「原審の確定するところによれば,本件においては,弁済期到来後に生ずべき遅延損害金については特別に重利の約束がなされた事実は認められないというのであり,その事実認定は本件記録中の証拠関係に照らして是認するに足りるし,また,利息の支払期を定めてこれについてなされた重利の約束が,当然に遅延損害金についても及ぶとする根拠がない旨の原審の判断もまた正当であるから,遅延損害金については単利計算によるべきものとした原判決に所論の違法はない。論旨引用の大審院判決(昭和1724日言渡,民集21107頁)は,無利息の貸金債権について生じた遅延損害金に対しても民法405条の適用があることを判示したものにすぎず,本件に適切でない。」と述べて利息と遅延損害金とを同一視しない最高裁判所昭和45421日判決・民集244298頁(上告代理人は上告理由において,「民法第405条に所謂利息なる文字には遅延利息を包含するものであり,利息に関する重利の特約は遅延利息にも及ぶ」と主張していました。)にも鑑みるに,利息と遅延損害金たる遅延利息とは異なるものと見るべきであって,したがって,利息と遅延利息とを当然のように通算して法定重利の規定の適用を考えることはできないのでしょう。

民法3752項(「前項の規定は,抵当権者が債務の不履行によって生じた損害の賠償を請求する権利を有する場合におけるその最後の2年分についても適用する。ただし,利息その他の定期金と通算して2年分を超えることができない。」)が利息と遅延損害金(損害の賠償)との通算を認めているではないかといっても,同項は同条1項の「利息」には遅延損害金は含まれないとの大審院の厳たる解釈ゆえに,それを前提として,明治34年法律第36号によって特に追加されたものです(梅謙次郎『訂正増補民法要義巻之二 物権編(第31版)』(私立法政大学=有斐閣書房・1911年)522頁参照。なお,大審院とは異なり,政府委員(文部総務長官)として当該法改正に関与した梅は,民法3751項の「利息」には遅延利息も含まれるものと解していました。)。ちなみに,大審院の当該解釈の根拠は,民法3751項には「利息その他の定期金」とあるので,同項の「利息」は定期金たる利息でなければならないということだったそうです(第15回帝国議会衆議院民法中改正法律案委員会会議録(筆記)第11頁(花井卓蔵委員))。利息と遅延損害金との通算規定は,関直彦,平岡萬次郎及び望月長夫の3衆議院議員による原提出案(「抵当権者カ債務ノ不履行ニ因リテ生シタル損害ノ賠償ヲ請求スル権利ヲ有スルトキハ満期日ヨリ2年分ニ付亦抵当権ヲ行フコトヲ得」(第15回帝国議会衆議院議事速記録第10116頁))に対する平岡議員の最終修正提案によるものですが,同議員の認識では,その間の「〔梅〕政府委員ノ修正〔「抵当権者カ債務ノ不履行ニ因リテ生シタル損害ノ賠償ヲ請求スル権利ヲ有スルトキハ最後ノ2年分ニ付亦抵当権ヲ行フコトヲ得」〕ニ依レハ約定利息ニ付テ2年遅延利息ニ付テ2年通シテ4ヶ年ノ利息ヲ請求シ得ルコトヽナルナリ」なので,「左ナクシテ只最後ノ2ヶ年分ノミニ抵当権ヲ行フモノナリ」ということを明らかにするためにされた提案なのでした(第15回帝国議会衆議院民法中改正法律案委員会会議録(筆記)第12頁。花井卓蔵が4箇年分について抵当権の行使が可能であるようにしたいと主張しましたが,梅政府委員は,4年間では「長キニ失スル」と反対していたところです(同頁)。)。そうであれば,起草者・平岡萬次郎の意思は,約定利息と遅延利息とは同じ利息だから当然通算されるのだが確認的に通算規定を入れるのだというものではなく,やはり,本来別のものを通算するために必要な規定を提案したのであったということになります。

以上のようなことであれば,1年分に達しない額のまま残された延滞利息は,新たな利息も遅延損害金もそこから生ずることのない全くの不毛の存在である🎴,ということになるのでしょう。

しかしこの点に関しては,旧民法財産編3941項に関するボワソナアドの次の見解が,注目すべきものであるように思われます。

 

 しかし,法はそれについて述べていないが,最終的な形で(d’une manière finale)利息が元本と共に履行期が到来したもの(exigibles)となったときには,当該利息は1年分未満であっても,総合計額(la somme totale)について,請求又は特別の合意の日から利息が生ずる,ということが認められなければならない。返還期限又は支払期限が1年内である(remboursable ou payable avant une année)貸金又は売買代金に関する場合と同様である。これらの場合においては,債務者は,この禁制がそこに根拠付けられているところの累増の危険にさらされるものではないからである。

 (Boissonade (1891), p.382

 

 旧民法について,ボワソナアドも利息(填補ノ利息)と遅延損害金たる遅延利息(遅延ノ利息)とを通算しての重利を認めないものの,元本弁済期限経過後の残存延滞利息については1年分未満であっても元本組入れを認めることによって,当該延滞利息を不毛状態から救い出そうとするものでしょう。財産編3941項により「1个年分ノ延滞セル毎」にしか利息の元本への組入れを認めなかった旧民法において斯くの如し,いわんや重利契約を原則自由とする現行民法においてをや,とはならないでしょうか。

 

6 連続複利法及び自然対数の底に関して

我が現行民法の起草者は重利に対して鷹揚だったわけですが,実は確かに,ある一定期間(例えば1年)につき一定利率(例えば元本の100パーセント)の借入れにおいて,その間における利息の組入れの頻度をどんどん増加していっても(組入れ間隔が当初の当該一定期間の1/nとなると,その間隔の期間に係る利率も当初の当該一定利率の1/nとなります(設例の事案について見ると,半年(1/2年)で利息組入れをすることとした場合,その半年の期間に係る利率は――100パーセントの1/2である――元本の50パーセントとなるわけです。四半期ごとに組入れの場合は,当該各3箇月間に係る利率は元本の25パーセントです。)。このように組入れの頻度が増えるとnの増加),組入れの間隔とその間隔期間に係る利率とが共に小さくなっていきます。),それにより返還額は確かに当初増えるものの(設例の場合,半年で組み入れると,1年で,返還額は元本の2倍ならぬ2.25倍となります。),組入れ数増加に伴う返還額の増加幅は減少を続け,最終的には発散することなく一定額に収束するのです。

利率年100パーセントでもってあらゆる瞬間に利息の元本組入れを行うこと(連続複利法(ヤコプ・ベルヌーイ(1654-1795)という数学者が命名しました(遠山啓『数学入門(下)』(岩波新書・1960年)105頁)。))とした場合,1年後に支払うべき額(利息は各瞬間に生ずると同時に元本に組み入れられていますので,利息の支払はないことになり,返還すべき最終元本額ということになります。)は,最初の元本額のe2.7183)倍となるのであって,それを超えることはありません。このeは,高等学校の数学で出て来た,自然対数の底という代物です。利率をr(年3パーセントならばr=0.03という形で示す。),期間をt(単位は年)とすれば,連続複利法でt年後に返還すべき額は,最初の元本額のe^rtert乗)倍ということになります(証明は――筆者が高等学校で習った数学は,「歌う〽数学」🐘でしかありませんでしたから――省略します。)。

利息制限法11号にいう年2割は,単利ですので,1年後の元利合計額は元本額の1.2倍です。しかし連続複利法であれば,1年後の最終元本額は,最初の元本額の約1.2214倍(=e^0.2)となります。同様に,年18分(同条2号)ならば,連続複利法による1年後の元本額は最初の元本額の約1.1972倍(=e^0.18)となり,年15分(同条3号)ならば,約1.1618倍(=e^0.15)となります。こうして見ると,重利の組入れ頻度を増加させていくと「負債の累増は厖大かつ真に恐るべきもの(énorme et vraiment effrayante)」となるとまでいうべきものかどうか。何はともあれ,たとえ1年ごと(年1度)の組入れであっても重利を認めてしまう(民法405条の法定重利)という決定的な一歩を踏み出してしまうのであれば――組入れ頻度が無限大の連続複利法であっても債務者の負担の増加には限界があるのですから――それ以上組入れ頻度について神経質になる必要は,あるいはなかったかもしれません(年15パーセントの利率での借金が連続複利法で増える場合,t年後には最初の元本の約1.1618^t倍になるのに対して,組入れ頻度を法定重利並みの1年ごとに1回に制限した重利の場合であってもt年後には1.15^t倍となります。)。すなわち,連続複利法による場合の増加幅までも吞み込んで割り切ってしまえばそれまでのことである,とはいえないでしょうか。

なお,我妻榮は,利息制限法による重利の制限に関して説明し,「〔元本額9万円の1年間貸付債権につき〕もし約定利率が年18分であるときには,右と同一額まで〔利息制限法による最高利率である年20パーセントで計算した18000円に達するまで〕は,〔1年以内に組み入れる〕重利の特約も効力をもつことになる。」と述べていますが(我妻47-48頁),上記の1.1972倍(e^0.18)の数字と対照してみると,例として適切なものではないことが分かります。当該我妻設例の場合においては,1年以内に組入れを行う重利の特約の結果が利息制限法違反になること(組入れ総額(元本増加額)が18000円を超えること)は,組入れ回数をどんなに増やしても――連続複利法であっても――そもそもあり得ないことなのでした。

 

7 蛇足

 最後に,現行民法405条の富井政章及び本野一郎によるフランス語訳を見てみましょう。 1年分以上」のところが,pour une année au moins”であってpendant une année au moins”ではないことに注意してください。

 

Art. 405 – Lorsque le débiteur omet de payer, pour une année au moins, les intérêts arriérés, malgré la sommation du créancier, celui-ci peut les ajouter au capital.

(債権者の催告にもかかわらず,債務者が少なくとも1年分の延滞利息の支払を怠ったときは,債権者は当該利息を元本に組み入れることができる。)

 

 また,ここまで我慢して読み通された読者であれば,「法定重利について,利息が1年以上滞納されるときに,債権者は,催告を経て,その間に発生する延滞利息を元本に組み入れることができる(405条)。」というような晦渋な表現(磯村編165頁(北居))についても,その意図せられているところを行間から読み取ることができるでしょう。

 なお,不図気が付くと,来年(2023年)は,我妻榮の歿後50周年(1021日)及び初洋行(米国ウィスコンシン州)100周年,磯部四郎🎴の歿後100周年(91日)並びにボワソナアドの来日150周年(1115日)に当たるのでした。民法学の当り年になるものかどうか。いずれにせよ,民法は弁護士の重要な飯の種の一つですので,学界とは無縁ながら,筆者は筆者なりに研究を進め,工夫を重ねねばなりません。

 と書きつつ実は,本稿関連で,民法405条と利息制限法1条との関係,具体的には最判昭和45