Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

カテゴリ: 憲法

1 高輪会議(1887年3月20日)と内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文の「高裁」

1887年3月20日に内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文,賞勲局総裁柳原前光,宮内省図書頭井上毅及び伊藤の秘書官伊東巳代治が高輪の伊藤博文別邸において行った「高輪会議」は,柳原の同月14日付け伊藤宛て書簡によれば,当時柳原が起案していた「皇室典範再稿」等について「井上毅・前光等貴館へ参会,大小(るち)縷陳(んにおよび)(こう)高裁(さいをえ)(そうら)()()公私ノ幸也(さいわいなり)不堪仰望(ぎょうぼうにたえず)(そうろう)」という趣旨で行われたものです(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立(木鐸社・1988年)187頁(振り仮名,読点及び中黒は筆者によるもの))。皇室典範の成案作成に向け,松下村塾生徒利助たりし維新の元勲・内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文の「高裁」を得ようとするものですから,はなはだ重い。この高輪会議については,筆者も当ブログで何度か御紹介したところです。

 

「明治皇室典範10条に関して」

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.html

「続・明治皇室典範10条に関して」

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060127005.html

 

 同会議において,柳原「皇室典範再稿」の「第1章 皇位継承」中「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」と規定する第12条が伊藤及び柳原の首唱で削られ(小嶋「明治皇室典範」190頁),それに伴い同「第2章 尊号践祚」中第17条の「天皇崩シ又ハ譲位ノ日皇嗣践祚シテ即チ尊号ヲ襲ヒ祖宗以来ノ神器ヲ承ク」との規定が伊藤の首唱によって「第10条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と修正されました(小嶋「明治皇室典範」191頁)(章名も伊藤の首唱で「第2章 践祚即位」に変更(小嶋「明治皇室典範」190頁))。その結果,天皇の生前退位は,明治天皇の裁定に係る1889年2月11日の皇室典範(第10条が「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定)及び昭和天皇の裁可(1947年1月15日)に係る昭和22年1月16日法律第3号の皇室典範(第4条が「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」と規定)を通じて一貫して認められないもの(無効である,ということでしょう。)とされているものと広く解されていることは周知のとおりです(ただし,岩井克己「宮中取材余話・皇室の風103」選択43巻3号(2017年3月1日号)88頁を参照)。

 伊藤博文の「高裁」の重みは()くの如し,というべきか。

 実務上,伊藤博文名義の『皇室典範義解』の記述(「本条〔明治皇室典範10条〕に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はる者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」(下線は筆者によるもの)。なお,筆者は岩波文庫版の宮沢俊義校註『憲法義解』(1940年)を用いています。)は,皇室典範の本文それ自体に勝るとも劣らぬ解釈上の権威を有するものなり,というべきでしょうか。

 しかしながら,伊藤の「高裁」ないしは『皇室典範義解』における託宣にも,動揺し,遂に後には撤回変更に至らざるを得なくなった例があるところです。長州出身の大宰相だからとて,なかなか信用し切るわけにはいきません。

 永世皇族制(皇族は子々孫々永世皇族であるものとする制度)の採否をめぐる問題がそれです。

 

2 高輪会議における臣籍降下制度の採用と伊藤の変心・食言

 1887年3月20日の高輪会議の冒頭,柳原前光は,伊藤博文の見解を質し,「皇玄孫以上ヲ親王ト称シ以下ヲ諸王ニ列シ皇系疎遠ナルモノハ逓次臣籍ニ降シ世襲皇族ノ制ヲ廃スル事。附山階宮久邇宮庶子ヲ臣籍ニ列セラルル事」との確認を得ています(小嶋「明治皇室典範」188頁)。すなわち,臣籍降下制度を伴うことのない永世皇族制を採らないとの言質を内閣総理大臣兼宮内大臣から取ったわけです。柳原の「皇室典範再稿」の第105条には「皇位継承権アル者10員以上ニ充ル時ハ皇玄孫以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍ニ列スルコトアルヘシ」とあり,高輪会議を経て「第64条 皇位継承権アル皇族ノ増加スルニ随ヒ皇玄孫以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍ニ列スヘシ」となっています(小嶋「明治皇室典範」199頁)。「臣籍ニ列スルコトアルヘシ」から「臣籍ニ列スヘシ」へと,天皇から遠縁の皇族にとっては厳しい表現になっています。(なお,明治天皇の権典侍柳原愛子の兄である柳原前光は,後の大正天皇である嘉仁親王(1887年3月当時満7歳)の実の伯父に当たります。)

高輪会議を承けて同年4月25日に伊藤博文に,同月27日に井上毅にそれぞれ提出された柳原の「皇室典範草案」では「第71条 皇位継承権アル者増加スルニ従ヒ皇位ヲ距ルコト5世以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍ニ列スヘシ」となっており,それを井上は同年8月より前の段階で「第 条 皇族ノ増加スルニ従ヒ5世以下ノ疎属ハ逓次臣籍ニ列スヘシ」と修正しています(小嶋「明治皇室典範」202頁・206頁・208頁。ここで修正された皇室典範案は「井上の七七ヶ条草案」と呼称されています。)。

 しかし高輪会議におけるこの伊藤の「高裁」は動揺し,食言となります。すなわち,井上毅の前記七七ヶ条草案に対し,伊藤は変心したのか,「皇族ヲ臣籍ニ列スル2条削ルベシ」と指示するに至っているところです(小嶋「明治皇室典範」209頁・220頁)。

 

3 永世皇族制論者井上毅の1888年3月20日「修正意見」

とはいえこれは,井上毅にとっては喜ぶべき食言だったでしょう。18821218日に岩倉具視が総裁心得となった宮内省の内規取調局(駐露公使であった柳原前光とも連絡)による1883年の皇族令案には「親王ヨリ5世ニ至リ姓ヲ賜ヒ華族ニ列シ家産ヲ賜ヒ帝室ノ支給ヲ止ム/但シ養子トナルモ(なお)其ノ世数ヲ変スルコトナシという規定があったのでしたが,同年7月付けの「参謀山県有朋」名義の文書を代筆して,井上は・・・果シテ然ラハ四親王家ノ如キモ終ニ之ヲ廃セントスル() 按スルニ伏見宮ハ崇光ノ皇子栄仁親王ヲ祖トシ其ノ後八条宮今ノ桂宮高松宮今ノ有栖川宮閑院宮ヲ立テラレ(おのおの)猶子親王ヲ以テ世襲ノサマトナリ来レルハ・・・朝議継嗣ヲ広メ皇基ヲ固ウスルノ深慮ヨリ創設セラレシ者ナラン ・・・五百年ノ久シキニ因襲シ来ルトキハ今日ニ在リテ容易ニ廃絶ス()キニ非ス ・・・将来皇胤縄々ノ盛ナルニ拘ラス旧ニ依テ此ノ四家ヲ存シ四家(もし)継嗣ナキトキハ(すなわち)他ノ皇親ヲ以テ之ヲ継カシメ永ク小宗支流トナサンコト遠大ノ計ナルヘキ() 又5世ニ至リ華族ニ列スルノ議ハ周ノ礼ニ五世而親尽トイヒ大宝令ニ自親王(しんのうより)五世(おうのな)(をえた)王名(りといえども)不在皇親之限(こうしんのかぎりにあらず)トイヘルニ拠レルカ 然ルニ右ニ親尽トイフモ族尽トイハス 不在皇親之限(こうしんのかぎりにあらず)トイフモ不在皇族之限(こうぞくのかぎりにあらず)トイハス 故ニ5世以下ハ挙ケテ皇族ニ非ストナスコト(また)古典ニ(そむ)クニ似タリ ・・・」と批判していたところでした(小嶋和司「帝室典則について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』119頁‐124頁。振り仮名は筆者によるもの)。

1888年3月20日の井上の「修正意見」においては,井上の七七ヶ条草案から「第70条 皇族増加スルニ従ヒ5世以下疎属ヨリ逓次臣籍ニ列スヘシ」及び「第71条 皇族臣籍ニ列スル時ハ姓ヲ賜ヒ爵ヲ授ク」の2箇条はざっくり削られています(小嶋「明治皇室典範」210頁・220頁)。

 

4 枢密院審議における議長・伊藤の動揺

ところが,枢密院における皇室典範案の審議が始まり,1888年6月4日午後,皇室典範案第33条(「皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ生レナカラ男ハ親王女ハ内親王ト称フ5世以下ハ生レナカラ王女王ト称フ」)に関し,三条実美内大臣が口火を切って臣籍降下制度の必要を説き(「或ハ但シ書キヲ以テスルモ可ナリ桓武天皇以来ノ成例ヲ存シ姓ヲ賜フテ臣下ニ列スルノ余地ヲ存シ置タシ」),枢密顧問官ら(土方久元宮内大臣兼枢密顧問官,山田顕義司法大臣,榎本武揚逓信大臣兼農商務大臣,佐野常民枢密顧問官及び吉井友実枢密顧問官並びに次の伊藤議長発言後には寺島宗則枢密院副議長及び大木喬任枢密顧問官)からも例外なき永世皇族制採用に対する疑問ないしは臣籍降下制度に賛成する意見が次々と提示されると,伊藤博文枢密院議長は動揺します(これらの枢密院の議事の筆記は,アジア歴史資料センターのウェッブ・サイトで見ることができます。)。

 

議長 各位ノ修正説モ種々起リタレトモ,本条ニハ決シテ人臣ニ下スヲ得スト云フ(こと)ナシ。説明モ人臣ニ下スヲ禁スルノ意ニアラス。抑モ典範ハ未タ人臣ニ下ラサル皇族以上ノ為メニ設クルモノニシテ,既ニ人臣ニ降リタル者ハ典範ノ支配スル所ニアラス。又外国ノ例ヲ引テ皇族ノ人臣ニ列スルノ可否ヲ論セラルレトモ,外国ニ於テハ皇族ノ臣ニ列スルニ姓ヲ賜フト云フカ如キ厳格ナルモノアラス。故ニ比類シテ論スヘキニアラス。要スルニ此問題ハ典範中ノ難件ニシテ,最初原案取調ノ際ニハ5世以下人臣ニ下スノ条ヲ設ケ漸次疎遠ノ皇族ヨリ人臣ニ下スヿヲ載セタリシカ,種々穏カナラサル所アリテ遂ニ削除シタリシナリ。(振り仮名及び句読点は筆者によるもの)

 

 要は,伊藤博文が言いたかったのは,皇室典範案の文言だけ見ると例外なき永世皇族制度であって皇族の臣籍降下はないように見えるがそうではないのだよ,現に我々も原案においては臣籍降下制度の明文化を考えていたけれども「種々穏カナラサル所アリテ遂ニ削除シタ」だけなのだよ,オレが悪いんじゃないよ,ということのようです。

 しかし,このような説明が通るのであれば,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定する明治皇室典範10条についても,「本条ニハ決シテ譲位スルヲ得スト云フヿナシ説明〔「上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり」〕モ譲位ヲ禁スルノ意ニアラス・・・要スルニ此問題ハ典範中ノ難件ニシテ最初原案取調ノ際ニハ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得ノ規定ヲ設ケ譲位ノヿヲ載セタリシカ種々穏カナラサル所アルト思ヒテツイ削除シタリシナリ」といい得てしまうことになりそうです。
 なお,皇室典範枢密院諮詢案
33条について伊藤博文が言及する「説明」は,『皇室典範義解』の基となった枢密院の審議資料として配布されたコンニャク版(小嶋「明治皇室典範」258頁)の「皇室典範義解草案 第一」のことでしょう(伊藤博文編,金子堅太郎・栗野愼一郎・尾佐竹猛・平塚篤校訂『帝室制度資料 上巻〔秘書類纂第19巻〕』(秘書類纂刊行会・1936年)81頁以下。なお,『秘書類纂』も国立国会図書館のウェッブ・サイトで見ることができます。)。「皇室典範義解草案 第一」における枢密院諮詢案第32条(「皇族ト称フルハ太皇太后皇太后皇后皇子孫皇女孫及皇子孫ノ妃ヲ謂フ」)の説明には,「凡ソ皇族ノ男子ハ皆皇位継承ノ権利ヲ有スルモノナリ。・・・蓋シ5世ノ内外ハ親等ヲ分ツ所以ニシテ,其ノ宗族ヲ絶ツニ非ザルナリ。故ニ中世以来,(かたじけなく)累封邑(ふうゆうをかさね)空費府庫(むなしくふこをついやす)ヲ以テ(嵯峨天皇詔)姓ヲ賜ヒ臣籍ニ列スルノ例ハ本条ノ取ラザル所ナリ。・・・(之ヲ外国ニ参照スルニ,凡ソ王位継承ノ権アル者ハ総テ王族ト称ス,而シテ君主ノ子孫兄弟伯叔姪ノミヲ称ヘテ専ラ王族ト謂ヘル場合アルハ,其ノ等親及ビ特別ノ敬礼ニ就テ謂ヘルナリ,・・・若シ(それ)姓ヲ改メテ臣ト為ルノ事ハ各国ノ見ザル所ナリ)とあります(伊藤編『帝室制度資料 上巻』109110頁。振り仮名は筆者によるもの)。「中世以来・・・ノ例ハ本条ノ取ラザル所ナリ」は,「中古以来・・・の慣例を改むる者なり」と酷似した理由付けです。

 1888年6月4日に続く同月6日午前の枢密院の審議において,永世皇族制の推奨者である井上毅枢密院書記官長の見解は,伊藤議長を厳しく叱咤するごとし。

 

 ・・・議長ト其意見ヲ異ニセサルヲ得ス。本条〔枢密院諮詢案第33条〕正文ノ構成ヲ正当ニ読下セハ,天皇ノ御子孫ハ万世王女王ナリ。(句読点は筆者によるもの)

 

「・・・5世以下ハ生レナカラ王女王ト称フ」なのですから,「本条正文ノ構成ヲ正当ニ読下セハ天皇ノ御子孫ハ万世王女王ナリ」であることは当然のことです。問題は,「本条ニハ決シテ人臣ニ下スヲ得スト云フヿナシ」と言う伊藤「議長ト其意見ヲ異ニセサルヲ得ス」の部分ですが,これは,「生レナカラ王女王」として皇室典範の条文上有する特権を皇室典範における明文の根拠なしに当人の意思を無視して一方的に剥奪して「人臣ニ下ス」ことができないことはもちろんだ,ということでしょう。天皇ないしは天皇及び皇嗣自らの意思に基づくものである生前退位ないしは譲位とは,問題の場面が異なるようです。

臣籍降下制度の規定を設けるかどうかに係る前記の問題は,1888年6月6日午前,ついに採決となり,当該規定を設けることに賛成する者は10名,原案そのままに賛成する者14名で,1889年2月11日の皇室典範においては皇族の臣籍降下の制度は設けられないこととなりました(なお,小嶋「明治皇室典範」244頁)。

さて,賛成者・反対者の色分けはどうだったのでしょうか。伊藤議長及び寺島副議長以外の皇族,国務大臣及び枢密顧問官の出席者は合計24名でした。これらのうち,臣籍降下制度条項に賛成する発言をしていた者は,三条,土方,山田,榎本,佐野,吉井及び大木の7名,臣籍降下制度条項を不要とする発言をしていた者は松方正義大蔵大臣,副島種臣枢密顧問官及び河野敏鎌枢密顧問官の3名。残り14票は,熾仁親王,彰仁親王,能久親王,威仁親王,黒田清隆内閣総理大臣,山県有朋内務大臣,大隈重信外務大臣,大山巌陸軍大臣,森有礼文部大臣,福岡孝弟枢密顧問官,佐々木高行枢密顧問官,東久世通禧枢密顧問官,元田永孚枢密顧問官及び吉田清成枢密顧問官。これら14票はどう分かれたものでしょうか。柳原,三条等に見られるように一般に永世皇族制に冷淡なような公家の出身者の東久世枢密顧問官は臣籍降下制度条項に賛成したでしょうか。永世皇族制度を説く井上毅に名義を貸したことのある山県有朋は不要論でしょう。審議中沈黙を守っていた宮様ブロックの4名は,一致して臣籍降下条項不要の側に立ったことでしょう。

5 明治皇室典範30条及び31条と井上毅及び柳原前光

 

(1)井上毅

最終的に,1889年2月11日の皇室典範の第30条及び第31条は,次のとおりとなりました。

 

30条 皇族ト称フルハ太皇太后皇太后皇后皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃内親王王王妃女王ヲ謂フ

31条 皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ内親王トシ5世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス

 

皇室典範に別に特則が設けられなければ,当該皇族の同意なき一方的臣籍降下はないわけですが,「本条ニハ決シテ人臣ニ下スヲ得スト云フヿナシ」との伊藤博文発言が飛び出すような状況では,永世皇族制論者としての井上毅は不安であったでしょう。また,後に皇室典範の改正又は増補がされてしまうかもしれません。条文の外に「説明」においても強固な防備をしておく必要が感じられたもののようです。明治皇室典範10条に係る「・・・中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」との説明だけでは天皇の終身在位論の理由付けとしては弱いものとつとに考えていたであろう井上は(注),「皇室典範義解草案 第一」にあった「・・・故ニ中世以来,辱累封邑空費府庫ヲ以テ(嵯峨天皇詔)姓ヲ賜ヒ臣籍ニ列スルノ例ハ本条ノ取ラザル所ナリ。」だけでは同様に不十分であると当然思ったことでしょう(1888年6月4日午後の枢密院会議において松方大蔵大臣は,「断言」する強い表現だと受け取ってくれていたのですが。)。

(注)ついでながら,明治皇室典範10条の説明は,「皇室典範義解草案 第一」では「・・・中古権臣ノ強迫ニ因リ,両統互譲十年ヲ限トスルニ至ル。而シテ南北朝ノ乱亦此ニ源因セリ。故ニ後醍醐天皇ハ遺勅シテ在世ノ中譲位ナク,又剃髪ナカラシム(細々要記)。本条ニ践祚ヲ以テ先帝崩御ノ後ニ行ハルルモノト定メタルハ,上代ノ恒典ニ因リ中古以来譲位ノ慣例ヲ改ムルモノナリ。」となっていました(伊藤編『帝室制度資料 上巻』93頁。下線は筆者によるもの)。非妥協的かつ戦闘的な御性格であらせられた『太平記』の大主人公・後醍醐天皇の遺勅であるから終身在位なのだ,持明院統には互譲などせず皇位は譲らないのだ,ということではかえって剣呑であるようです(現皇室は持明院統の裔)。そもそも後醍醐天皇(大覚寺統傍系)は,文保の和談を承けて,在位10年の花園天皇(持明院統)から譲位を受けることができたところです。『皇室典範義解』においては書き改められて,後醍醐天皇云々が消えているのはあるいは当然の措置でしょう。

 したがって,『皇室典範義解』においては,「凡そ皇族の男子は皆皇位継承の権利を有する者なり。故に,中古以来
空費府庫(むなしくふこをついやす)を以て姓を賜ひ臣籍に列するの例は本条の取らざる所なり。」との説明(第30条解説)に加えて,1888年6月4日午後の枢密院会議で井上が弁じた永世皇族制弁護論の要旨が第31条解説に次のように付加されています。「皇室典範義解草案 第一」の枢密院諮詢案33条解説にはなかったものです。

 

 大宝令5世以下は皇親の限に在らず。而して正親司(おおきみのつかさ)司る所は4世以上に限る。然るに,継体天皇の皇位を継承したまへるは実に応神天皇5世の孫を以てす。此れ(すなわ)ち中古の制は(かならず)しも先王の遺範に非ざりしなり。本条に5世以下王・女王たることを定むるは,宗室の子孫は5世の後に至るも,亦皇族たることを失はざらしめ,以て親々の義を広むるなり・・・。

 
 井上は,前記枢密院会議において,「不幸ニシテ皇統ノ微継体天皇ノ時ノ如キことアラハ5世6世ハ申スまでモナシ百世ノ御裔孫ニ至ル迠モ皇族ニテハサンヿヲ希望セサルベカラス」「姓ヲ賜フテ臣籍ニ列スルノヿハ大宝令ニモ之ヲ載セス畢竟中古以後王室式微ノ時代一時ノ便宜ニ従テ御処分アリシ事ナルカ如シ」「皇葉ノ御繁栄マシマサハ是レ誠ニ喜フベキ事ニシテ継体天皇宇多天皇ノ御場合ノ如キハ大ニ不祥ノ事ト云ハサルヘカラス然ラハ仮令多少ノ支障ハアラントモ成ルベク皇族ノ区域ヲ拡張スルヿ誠ニ皇室将来ノ御利益ト云フヘシ」等と熱弁をふるっていたところです。
 

(2)柳原前光

 臣籍降下制度設置論者である柳原前光は,当該制度を皇室典範に設けないという食言的決定に対して,1888年5月頃伊藤博文宛てに次のように書き送っていました(「皇室典範箋評」。小嶋「明治皇室典範」238頁。振り仮名は筆者によるもの)。

 

 拙者ハ祖宗ノ例ヲ保守シ疎属ヨリ逓次臣籍ニ列スルノ持説ナリ 但シ本案永世皇族ヲ設クルニ決セラレタル上ハ波瀾ヲ避ケ謹テ緘黙傍観ス (より)テ安意ヲ乞フ 但シ遅ク(さんじゅう)年以内ヲ出テス実際大ニ(くるし)ミ必ス此事件ヨリ典範修正アラン 若シ不幸ニシテ其事ニ()閣下(こいねがわ)クハ僕ノ先見者タルヲ保証セラレンコトヲ願フ(のみ) 恐(しょう)々々

 

柳原は,枢密顧問官になるには年齢が足りず,枢密院における皇室典範案の審議に参加することができませんでした。

 

6 1907年の皇室典範増補と臣籍降下制度の(再)導入

 

(1)1907年皇室典範増補

しかしてその後,1889年の明治皇室典範の裁定から18年しかたたぬ1907年2月11日,皇族の臣籍降下制度を定める皇室典範増補が明治天皇により裁定され,同日公布(公式令(明治40年勅令第6号)4条1項)されました。

 

第1条 王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムルコトアルヘシ

 第2条 王ハ勅許ニ依リ華族ノ家督相続人トナリ又ハ家督相続ノ目的ヲ以テ華族ノ養子トナルコトヲ得

 第4条 特権ヲ剥奪セラレタル皇族ハ勅旨ニ由リ臣籍ニ降スコトアルヘシ

  〔第2項略〕

 第5条 第1条第2条第4条ノ場合ニ於テハ皇族会議及枢密顧問ノ諮詢ヲ経ヘシ

 第6条 皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス

 

(2)草葉の陰

 

ア 山田顕義

 1888年6月6日午前の枢密院会議で,「種々穏カナラサル所」からの影響のゆえか何のゆえか臣籍降下制度不要論を強硬に吠えた河野敏鎌(この人物は,司馬遼太郎の『歳月』において,「いい親分がみつかると,河野はどんなことでもする」と書かれてしまっていて損をしています。筆者は『歳月』に関して本ブログに記事(「司馬遼太郎の『歳月』の謎の読み方」)を書いたことがあります。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1842010.html)の発言に関して,「・・・本条原案ノ(まま)ニ存シ置クハ典範上ノ体面ハ美ナルカ(ごと)シト(いえど)モ,18番〔河野敏鎌〕自身ニモ既ニ陳述シタル如ク,本条将来ノ変換ハ勢ヒ免レ難キ所トス。賜姓列臣ヲ明条ニ掲クルハ忍ヒサル所ナリト雖モ,皇室万世ノ為メニ模範ヲ(のこ)サントスル今日ニ於テ,姑息ニ流レ徒ラニ体面(よそおう)ハ本官ノ取ラサル所ナリ。其変換ニシテ予期スヘカラサラシメハ止マン。(いやしく)モ予期スヘクンハ,他日典範ヲ変換シテ賜姓列臣ノ例ヲ開カサルヘカラサルノ時期ニ際会シ,何ノ必要アリテ祖宗千年ノ習慣ヲ此ノ中間ニ特ニ変更シタルカヲ(わら)フヘシ・・・次ニ18番ハ,御先代ノ経験ヲ鑑ミ帝室将来ノ利益ヲ(おもんぱかっ)テ之ヲ今日ニ改ムルハ忠精ヲ(つく)所以(ゆえん)ナリト論シタリ。然レトモ,他日必ス御先代ノ例ニ復スヘキヲ期シナカラ差シタル必要ナクシテ(みだ)リニ之ヲ改ムルハ,遂ニ後世ノ(わらい)ヲ免レス。各位幸ヒニ18番ノ説ニ迷ハス,23番〔佐野常民〕6番〔三条実美〕ノ修正ニ賛成アリタシ」(振り仮名及び句読点は筆者によるもの)と,臣籍降下制度を結局は導入する破目になって嗤われ者になるなとの警告を発していたこちらは長州の武家出身の山田顕義は,18921111に急死していました。山田がボアソナアドの協力を得てその編纂に心血を注いだ(旧)民商法の施行延期法(明治25年法律第8号(民法及商法施行延期法律))が明治天皇によって裁可されたのは山田急死の月の22日(副署した内閣総理大臣は伊藤博文,司法大臣は山県有朋),公布されたのは同月24日でした。

 

イ 柳原前光

臣籍降下制度導入に係る「先見者タルヲ保証セラレ」ることを見ることなく,柳原前光は,日清戦争の対清宣戦布告の翌月,1894年9月2日に早逝しました。

 

ウ 井上毅

 永世皇族制の防衛者たるべかりし井上毅は,1895年3月17日,宿痾の結核で不帰の客となりました。伊藤博文が陸奥宗光と共に下関・春帆楼で李鴻章と第1回日清講和会談を行う3日前のことでした。

 

 「国家多事の日に際して,蒲団の上に死す。斯る不埒者には,黒葬礼こそ相当なれ」(長尾龍一「陰沈たる鬼才の謀臣 井上毅」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)3738頁参照)

 

(3)生き残る男・伊藤博文

ところで,1907年の皇室典範増補裁定の仕掛け人はだれだったでしょうか。ほかでもない,高輪会議での決定を翻して井上毅の七七ヶ条草案に対し「皇族ヲ臣籍ニ列スル2条削ルベシ」と食言的な指示をするに至った夫子御自身――伊藤博文その人でした。

19041012日に帝室制度調査局総裁として伊藤博文が明治天皇に対して行った上奏にいわく。

 

  臣博文帝室制度調査ノ

大命ヲ(つつし)ミ伏シテ(おもんみ)ルニ,皇室典範ハ

陛下立憲ヲ経始(けいし)〔開始〕シタマヘル制作ノ一ニシテ,帝国憲法ト並ニ不刊(ふかん)〔摩滅しない〕ニ垂ル,(しこう)シテ国家ノ景運蒸々(じょうじょう)向上するさまトシテ()(へん)〔大いに変ずる〕シ,皇室ノ基礎益々鞏固ニシテ文経武緯国光(あまね)寰宇(かんう)〔天子の治める土地全体〕ニ顕揚スルコト,今ハ(はるか)(ちゅう)(せき)ノ比ニアラズ。・・・是ニ於テ()皇室ノ宝典モ(また)(いささ)カ其ノ未ダ備ハラザルモノヲ増補シテ以テ(こう)(こん)〔後の子孫〕ニ昭示スルノ必要ヲ生ズ。即チ皇族支胤ノ繁盛ト皇室費款ノ増益トニ視テ,其ノ疎通ヲ図ルガ如キ・・・ハ特ニ其ノ(ゆう)ナルモノニシテ,実ニ日新ノ時宜ニ鑑ミ乾健ノ宏綱ヲ進張スル所以(ゆえん)ノ道ナルコトヲ信ズ。(ここ)ニ別冊皇室典範増補条項ニ付キ慎重審議ヲ()ヘ,其ノ事由ヲ前条ノ下ニ注明セシメ謹デ上奏シ(うやうやし)

 聖裁ヲ仰グ。(伊藤博文編,金子堅太郎・栗野愼一郎・尾佐竹猛・平塚篤校訂『雑纂 其壱〔秘書類纂第24巻〕』(秘書類纂刊行会・1936年)2526頁。振り仮名は筆者によるもの

 

 「何が今更「是ニ於テ乎皇室ノ宝典モ亦聊カ其ノ未ダ備ハラザルモノヲ増補シテ以テ後昆ニ昭示スルノ必要ヲ生ズ」だ,最初から臣籍降下制度がのちのち必要になるって分かっていたくせに。自分の失敗を棚に上げて。」と,1888年6月4日午後及び同月6日午前の枢密院会議のいずれにも臨御していた明治天皇は,内心苦笑いしていたことでしょう。

 とはいえ,山田,柳原,井上らは既に亡し。「何ノ必要アリテ祖宗千年ノ習慣ヲ此ノ中間ニ特ニ変更シタ」んだったっけねと嗤われもせず,それみたことか「僕ノ先見者タルヲ保証セ」よと嫌味を言われもせず,「其意見ヲ異ニセサルヲ得ス」と叱られもせず,政治家たるもの,長生きするのが勝ちです。

 

7 皇室典範の「増補」について

 しかしながら,「改正」といわず,「亦聊カ其ノ未ダ備ハラザルモノヲ増補」という方が法典に手を入れやすいですね。「改正」ですと,被改正条項が将来のことをよく考えていなかったから状況の変化に対応しきれずに駄目になったので改めて正されねばならないのか,あるいは最初から駄目だったので改めて正されねばならないのか,ということでそもそもの立法者の面子の問題になってしまいます。その点を避けることのできる「増補」概念は,皇室典範自身の規定するものです。

 

 第62条 将来此ノ典範ノ条項ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要アルニ当テハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シテ之ヲ勅定スヘシ

 

状況が変化してしまったので足らざるところが生じたところ,当該変化に素直に応じた増補である,という方が,説明がしやすい。「増補」概念がそもそも組み込まれている点において,皇室典範は動的かつ柔軟ないわば開かれた規範体系である,ともいい得るかもしれません。伊藤博文は,自身の失敗指示の回復策である1907年皇室典範増補の実現に向けて,当該「増補」概念をうまく活用したということであるようにも思われます。(ただし,公式令4条1項における整理では,「増補」は「改正」に含まれるものとされているようです。)

 しかしてこの「増補」概念の導入者はだれでしょうか。

 柳原前光です。

1887年3月20日の高輪会議後の同年4月25日に伊藤博文に,同月27日に井上毅にそれぞれ提出された柳原の前記「皇室典範草案」において,「此典範ヲ改正増補セント欲スル時ハ皇族会議及ヒ内閣,宮中顧問官ニ諮詢シ之ヲ決定ス」との条項が新加されていたところです(小嶋「明治皇室典範」202203頁。下線は筆者によるもの)。井上毅はその七七ヶ条草案に至る過程において,当該条項については,「此ノ典範ハ改正増補スヘカラザル者ナリ 改正増補ハ不得已(やむをえざる)ノ必要ニ限ルヘキナリ 故ニ左ノ如ク修正スヘシ/将来此ノ典範ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要ヲ見ルニ当テハ皇族会議及内閣宮中顧問官ニ諮詢シ之ヲ決定スヘシ」とています(小嶋「明治皇室典範」207頁。振り仮名は筆者によるもの)。確かに「欲スル」だけで改正増補がされ得るのはおかしい。しかしながら,「増補」概念は維持されています。

上記高輪会議の結果としては「天皇譲位の制度の否認されたことがもっとも注目される」ところですが(小嶋「明治皇室典範」200頁),その直後における皇室典範に係る「増補」概念の導入に当たって柳原及び井上の念頭に共通にあったのは,生前退位ないしは譲位に関する規定の「増補」だったのかもしれません。(臣籍降下制度についてまず「増補」がされることになるとは,高輪会議の終了時点では予想されていなかったでしょう。)

 

・・・是ニ於テ乎皇室ニ関スル法典モ亦聊カ其ノ未タ備ハラサルモノヲ増補シテ以テ後昆ニ昭示スルノ必要ヲ生ス即チ 聖上及ヒ皇族ノ御長寿ト国事行為及ヒ象徴トシテノオ務メノ御増益トニ視テ皇位ノ疎通ヲ図ルカ如キハ特ニ其ノ尤ナルモノニシテ実ニ日新ノ時宜ニ鑑ミ乾健ノ宏綱ヲ進張スル所以ノ道ナルコトヲ信ス・・・

 

 無論,臣下による天皇の廃位に関する規定の増補ということは全く考えられていなかったはずです。
 また,そのような国賊的なことを,長州出身の元尊皇の志士・俊輔伊藤博文が許したわけがありません。文久二年十二月二十一日(1863年2月9日),和学講談所の塙忠宝は,「天皇廃立の先例を調べているとの風聞によって」,伊藤博文(当時21歳)らによって暗殺されています(伊藤博文伝(春畝公追頌会編)に基づく『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)の記載。塙は翌二十二日死亡)。 

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

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1 序

 筆者は,かつて「「法の下の平等」(日本国憲法14条1項)の由来に関する覚書」などという大仰な題名を掲げたブログ記事(2015年9月26日)を書きましたが,当該記事の中にあって筆者の主観において主役を務めていたのは,「1946年2月28日の松本大臣の決断によって,19世紀トニセン流の狭い射程しかない法律の前の平等概念を超えた,広い射程の「法(律)の下の平等」概念が我が国において生まれたと評価し得るように思われます。」との評価を呈上することとなった憲法担当国務大臣松本烝治でした。松本烝治こそが,日本国憲法14条1項の前段と後段との連結者であって,その結果,同項の「法の下の平等」概念はその後松本自身も予期しなかったであろう大きな発展を遂げることになった,というのが筆者の観察でした。

 松本大臣の筆先からは,思いもかけぬ日本国憲法上の論点がひょこりひょこりと飛び出して来るようです。

 今回筆者が逢着したのは,天皇に係る日本国憲法4条1項後段の「国政に関する権能」概念でした。

 

天子さま――という表現を,松本国務相は使う。

  〔中略〕

  「父にしてみれば,ほかの明治人と同じように,ひたすら天子さまでしょ。終戦にしても,天皇制を護持するために終戦にしたんで,日本人民のためにだけ終戦にしたのじゃないという考え方ですよ」

  と,松本正夫がいい〔後略〕

   (児島襄『史録 日本国憲法』(文春文庫・1986年(単行本1972年))88頁,90頁)

 

 ということで,松本烝治は天皇及び皇室のためを思って仕事をしていたようなのですが,天皇の意思表示と「天皇は,国政に関する権能を有しない。」とする日本国憲法4条1項後段との関係を検討しているうちに,筆者は,忠臣小楠公・楠木正行の奮闘がかえって不敬の臣・高師直の増長を招いてしまったようなことがあったなぁというような感慨を覚えるに至ったのでした。

 

「「法の下の平等」(日本国憲法14条1項)の由来に関する覚書」

(松本烝治は後編に登場します。)

前編http://donttreadonme.blog.jp/archives/1041144048.html

後編http://donttreadonme.blog.jp/archives/1041144259.html

 

2 関係条文

 日本国憲法4条1項は「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」と規定しています。三省堂の『模範六法』にある英文では“The Emperor shall perform only such acts in matters of state as are provided for in this Constitution and he shall not have powers related to government.”となっています。

 下らない話ですが,日本語文では,天皇は「この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ」という表現になっているので,天皇は当該国事行為をする以外は食事睡眠等を含めて何もしてはならないのかという余計な心配をしたくなるのですが,英語文では,国事(matters of state)についてはこの憲法の定める行為しかしないのだよと読み得るので一安心です。政府見解的には「国事行為は,天皇の国家機関としての地位に基づく行為」であるそうですから(園部逸夫『皇室法概論』(第一法規・2002年)124頁),換言すると,日本国憲法4条1項前段は,天皇が国家機関としての地位に基づき行う行為は「この憲法の定める国事に関する行為のみ」だということのようです。(ちなみに,「宮廷費で賄うこととされている」天皇の「公的行為」は,「天皇の自然人としての行為であるが,象徴としての地位に基づく行為」です(園部131頁,126頁)。)

日本国の日本国憲法の解釈に英語が出てくるのはわずらわしくありますが,1946年の日本国憲法制定当時の法制局長官である入江俊郎は,日本国憲法の英語文について「アメリカとの折衝では,英文で意見を合致した。憲法解釈上有力な参考になる。」と同年の枢密院審査委員会で述べていたところです(佐藤達夫(佐藤功補訂)『日本国憲法成立史 第三巻』(有斐閣・1994年)387頁)。

 

3 GHQ草案

 話を1946年2月13日,東京・麻布の外務大臣官邸において松本烝治憲法担当国務大臣,吉田茂外務大臣らにGHQ民政局のホイットニー准将,ケーディス陸軍大佐,ハッシー海軍中佐及びラウエル陸軍中佐から手交されたいわゆるGHQ草案から始めましょう。

同日のGHQ草案では,日本国憲法4条に対応する第3条の規定は次のとおりとなっていました(国立国会図書館ウェッブ・サイトの電子展示会「日本国憲法の誕生」の「資料と解説」における「315 GHQ草案 1946年2月13日」参照)。

 

Article III.     The advice and consent of the Cabinet shall be required for all acts of the Emperor in matters of State, and the Cabinet shall be responsible therefor.

The Emperor shall perform only such state functions as are provided for in this Constitution. He shall have no governmental powers, nor shall he assume nor be granted such powers.

The Emperor may delegate his functions in such manner as may be provided by law.

      

日本国憲法4条1項に対応する部分は,「天皇は,この憲法の定める国の職務(state functions)のみを行う。天皇は,政治の大権(governmental powers)を有さず,かつ,そのような大権を取得し,又は与えられることはない。」となっています。「天皇は,この憲法の定める国の職務のみを行う。」の部分は,「天皇は,国の職務を行うが,この憲法の定めるものに限られる。」と敷衍して意訳しないと,天皇の食事睡眠等がまた心配になります。この点については,それとも,その前の項では天皇の行う国事に関する行為(acts of Emperor in matters of State)が問題になっていますから,「国事に関する行為(acts in matters of State)であって天皇が行うものは,この憲法の定める国の職務(state functions)のみである」という意味(こころ)なのでしょうか。(State functionsは,国家機関としての地位に基づき行う行為だということになるのでしょう。)

 後に日本国憲法4条1項となるこのGHQ草案3条2項は,大日本帝国憲法4条(「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ従ヒ之ヲ行フ」)の清算規定でしょう。

大日本帝国憲法4条の伊東巳代治による英語訳文は次のとおり(Commentaries on the Constitution of the Empire of Japan(中央大学・1906年(第2版))。同書は『憲法義解』の英訳本です。)。

 

ARTICLE IV

 The Emperor is the head of the Empire, combining in Himself the rights of sovereignty, and exercises them, according to the provisions of the present Constitutions(sic).

 

ちなみに,米国人らは真面目で熱心であるので,当然伊東巳代治による英語訳『憲法義解』を研究していました。

1946年7月15日にGHQを訪問した佐藤達夫法制局次長は,次のようなケーディス大佐の姿を描写しています(佐藤達夫(佐藤功補訂)『日本国憲法成立史 第四巻』(有斐閣・1994年)681頁。下線は筆者によるもの)。

 

 第1条についての政府の説明は,かつて松本博士がその試案における天皇の地位について自分に説明した考え方と同じだ・といって,英訳〈憲法義解〉をもち出し次のように述べた。〔後略〕

 

この点については,既に同年3月4日の段階で,「先方〔GHQ民政局〕は伊東巳代治の明治憲法の英訳を持っており」と観察されていたところです(佐藤達・三112頁)。
 GHQ草案3条は外務省によって次のように訳されました(佐藤達・三
34頁)。

 

国事ニ関スル(in matters of State)皇帝ノ一切ノ行為ニハ内閣ノ輔弼及協賛ヲ要ス而シテ内閣ハ之カ責任ヲ負フヘシ

皇帝ハ此ノ憲法ノ規定スル国家ノ機能(state functions)ヲノミ行フヘシ彼ハ政治上ノ権限(governmental powers)ヲ有セス又此ヲ把握シ又ハ賦与セラルルコト無カルヘシ

皇帝ハ其ノ権能ヲ法律ノ定ムル所ニ従ヒ委任スルコトヲ得

 

Governmental powersとは,国家機関としての権力的な権限のことだと思われます(日本国憲法の英語文をざっと見ると,powerは,主,国政の権力,全権委任状の全,国,行政,最高裁判所の規則を定める権限,憲法に適合するかしないかを決定する権限,国の財政を処理する権限といった語の対応語となっています。)。「政治上ノ権限」は外務省の訳語ですが,いずれにせよ「国政権」,「政府に係る権限」などとそれらしく重く訳されるべきでした。「政治」はなお,筆者の感覚では,卑俗ないしは非公的なものとなり得ますが,「政治の大権」は,12世紀以来武士どもの棟梁が天皇から奪い取ったものを指称する軍人勅諭(1882年1月4日)における明治天皇の用語です。

日本国憲法88条に基づき皇室財産が国有化されて皇室が財産を失ったように,同4条1項についても,同項で天皇も「この憲法の定める国事に関する行為」をする仕事を残して政治の大権を失っており,今や後堀河院以降の時代と同様であって政治の大権は天皇から臣下の手に落ちているところ(軍人勅諭的表現),願わくは当該臣下が北条泰時のような者ならんことを,といい得ることになっていれば,依然同項後段に関する解釈問題がなお今日的なものとなっているという事態とはなっていなかったものでしょうか。天皇ないしは皇族の少々の発言等では天皇の政治の大権という巨大なものは回復したことに到底ならずしたがって天皇が政治の大権を有する違憲状態となったとの問題も発生せず,天皇及び皇族の振る舞い方の問題は日本国憲法4条1項後段の憲法論とは別の次元で(例えば皇室の家法における行為規範の問題として)論じられるようになっていたのではないでしょうか。しかしながら, 日本国憲法4条1項の規定については,「国家機関としての天皇は,憲法に定める国事に関する行為のみを行い,国政に関与する権能を全く持たない旨を定めるものである」のみならず,「一般に天皇の行為により事実上においても国政の動向に影響を及ぼすようなことがあってはならないという趣旨を含むものと解されている」ところです(園部128‐129頁)。

 

4 日本側3月2日案と松本モデル案

 

(1)3月2日案

GHQ草案を承けた日本側1946年3月2日案の第4条は次のようになりました(佐藤達・三94頁)。

 

第4条 天皇ハ此ノ憲法ノ定ムル国務ニ限リ之ヲ行フ。政治ニ関スル権能ハ之ヲ有スルコトナシ。

 天皇ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ権能ノ一部ヲ委任シテ行使セシムルコトヲ得。

 

(2)松本モデル案

 

ア 文言

3月2日案の第4条は,松本国務大臣が1946年2月26日に佐藤達夫法制局第一部長に渡したモデル案どおりなのです。GHQ草案の「一応大ナル(いが)ヲ取リ一部皮ヲ剥クべしとの意図をもって作成された松本大臣のモデル案の調子を見るため,その第1条から第4条までを次に記載します(佐藤達・三72頁,6970頁)。

 

第1条 天皇ハ民意ニ基キ国ノ象徴及国民統合ノ標章タル地位ヲ保有ス

第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ世襲シテ之ヲ継承ス

第3条 天皇ノ国事ニ関スル一切ノ行為ハ内閣ノ輔弼ニ依ルコトヲ要ス内閣ハ之ニ付其ノ責ニ任ス

第4条 天皇ハ此ノ憲法ノ定ムル国務ニ限リ之ヲ行フ政治ニ関スル権能ハ之ヲ有スルコトナシ

 天皇ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ権能ノ一部ヲ委任シテ行使セシムルコトヲ得

 

イ ちょっと小説

 冒頭の「天皇ハ民意ニ基キ」で松本大臣はがっくり元気がなくなり,続く「国ノ象徴及国民統合ノ標章タル地位」で頭が痛くなり,皇室典範については議会の関与に係る規定を後ろの条項に回して少し気が楽になり,内閣の輔弼(advice)は当然あるべきことと認めても生意気な同意(consent)は毅然として認めず,内閣が天皇の行為について責任を負うとあからさまに書くと天皇が被保護者みたいであるから「之ニ付其ノ責ニ任ス」とうまく表現し,国務を行うのは当然でも「ニ限リ」はちょっと嫌だなぁと眉をしかめたところで,「天皇ハ此ノ憲法ノ定ムル国務ニ限リ之ヲ行ヒ政治ノ大権ヲ有スルコトナシ」とはとても書けなかったものでしょう。

 「・・・ニ限リ之ヲ行フ政治ニ関スル権能ハ之ヲ有スルコトナシ」と書いた松本大臣の心理はどういうものであったか。

 「政治上ノ権限」というのがgovernmental powersに対応する外務省の訳語だったのですが,どうしてこれをそのまま採らずに「政治ニ関スル権能」を採用したのか。

 

ウ 「権能」

まず,「権能」ですが,これは,「権限」よりは「融通性の広い」,その意味ではやや輪郭がぼやけ,かつ,微温的な語として採用されたのではないでしょうか。日本国憲法の英語文でpowerが「権能」と対応するものとされているのは第4条1項だけです。「権能」とは,「法律上認められている能力をいう。あるいは権限,職権と同じように,あるいは権利に近い意味で用いられる。「権限」,「権利」というような用語よりは融通性の広い,いずれかといえば,能力の範囲ないし限界よりは,その内容ないし作用に重きを置いた用語であるといえよう。」と定義されており,かつ,用例として正に日本国憲法4条が挙げられています(吉国一郎等編『法令用語辞典〈第八次改訂版〉』(学陽書房・2001年)橘武夫執筆)。

 

エ 「政治」

「政治」という語の維持は,政治家の方々には悪いのですが,dirty imageがあることはかえって結構であって,否定の対象語として適当であると思われたのかもしれません。ちなみに,1946年7月11日付けのGHQ民政局長宛てビッソン,ピーク及びコールグローヴ連名覚書「憲法草案の日本文と英文の相違」では「日本人は天皇が政治的(ポリテイクス)な意味で政治(ガバメント)に積極的にたずさわったり,政府の行政そのものに直接介入することを望んだことはこれまで一度もなかった。したがって,日本人は憲法にこのような禁止条項がはいることにはなんら反対していない。」と観察していました(佐藤達・四700702頁)。「統治」であれば,大日本帝国憲法告文(「皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範」)及び上諭(「国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所」)並びに1条(「天皇之ヲ統治ス」)及び3条(「国ノ統治権ヲ総攬」)の真向否定になるのであって論外であり(伊東巳代治の訳するところでは統治権は“the rights of sovereigntyであって,統治=主権ということになっていました。),「政府に係る権限」も天皇ノ政府を失うとの文言であって寂しい。

 

オ 「ニ関スル」

しかし,「政治上ノ権能ハ之ヲ有サス」と,失う権能の対象を比較的くっきりはっきり書くと,たといそれがdirty imageを伴うものであっても,やはり喪失感が辛く厳しい。そこで「上ノ」に代えて「ニ関スル」が出て来ての更に朧化した表現となったのではないでしょうか。

「政治ニ関スル権能」ということになると,しかし,外延が弛緩します。「政治」は必ずしも国家の機関の公的活動をのみ意味しませんし,「に関する」は「に係る」よりも更に広い対象を含み得るからです。「に係る」に関して,「に係る」は「「・・・に関する」又は「・・・に関係する」に近い意味であるが,これらより直接的なつながりがある場合に用いられる。」とされているところです(吉国等編『法令用語』澄田智執筆)。換言すると,「に係る」が「・・・より直接的」であるということは,「に関する」は「に係る」より間接的であるわけです。

「国政に関する(related to government)」の「に関する」のせいで日本国憲法4条1項の解釈について後日紛糾が生ずるのですが,その紛糾の種は松本大臣がまいたものだったのでした。

 

5 佐藤・GHQ折衝及び3月6日要綱から4月13日草案まで

 

(1)佐藤・GHQ折衝および3月6日要綱

1946年3月4日から同月5日にかけての佐藤達夫部長とGHQ民政局との折衝においては,日本側3月2日案の第4条については「その中で,天皇の権能の委任について,マ草案では単に「其ノ権能ヲ法律ノ定ムル所ニ従ヒ委任スルコトヲ得」となっていたのに対し日本案で「其ノ権能ノ一部ヲ委任・・・」としていたことが問題となり,その「一部」を削ることとした」だけでした(佐藤達・三112113頁)。その結果の第4条の第1項の英語文は,次のとおりです(佐藤達・三178頁)。

 

The Emperor shall perform only such functions as are provided for in this constitution. Nor shall he have powers related to government.

 

英語文においても,GHQ草案にあったgovernmental powersが,松本大臣の手を経た結果,将来紛糾をもたらすこととなる,より幅広いものと日本側が解釈するpowers related to governmentになってしまっていたわけです。

1946年3月6日内閣発表の憲法改正草案要綱の第4は,次のとおりです(佐藤達・三189頁)。

 

第4 天皇ハ此ノ憲法ノ定ムル国務ヲ除クノ外政治ニ関スル権能ヲ有スルコトナキコト

 天皇ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ権能ヲ委任スルコトヲ得ルコト

 

このうち第1項は,3月2日案(及びそこから変更の無かった3月5日案(佐藤達・三164頁))とは異なった表現となっています。「これは,この憲法に列挙される天皇の権能も,一応は「政治ニ()スル(﹅﹅)権能(﹅﹅)」と見られるから,「除クノ外」でつなぐ方が論理的だ・という考えによるものであったと思う。」ということですが(佐藤達・三178頁),松本大臣の毒がまわってきたわけです。「邪推するならば,政府は天皇の権能にかんして,民政局にたいする関係においてはその政治的権能を否定しながら,日本国民にたいする関係においてはそれを復活させたと考えることもできるし,また,すくなくとも民政局発案のものをただしく把握していなかったことだけは疑ない。」(小嶋和司「天皇の権能について」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』(木鐸社・1988年)92頁)というのはやはり「邪推」で,「政治的権能」よりも「政治ニ関スル権能」の方が意味する範囲がはるかに広かっただけであり(天皇の「政治的権能」プラス・アルファが否定されたことになります。「此ノ憲法ノ定ムル国務」はプラス・アルファの部分に含まれてしまうのでしょう。),また,文句を言われようにも,“governmental powers”から“powers related to government”への用語の変更をGHQが十分重く受け止めていなかっただけだということのようです。

 

(3)4月13日草案まで

とはいえ,1946年4月2日に法制局とGHQ民政局との打合せがあったのですが,前記の点は,「第4条の「国務ヲ除クノ外」は,要綱作成のときに入れたのであったけれども,この打ち合せの段階で,それは英文にもないし,また「国務」が形式的な仕事をあらわしている点からいって,「除クノ外」でつなぐことは反って適切ではなかろうという意見が出たが,これは成文化のときの考慮に残した。」というように再び問題となり(佐藤達・三289頁),同月13日の日本国草案作成段階では,「英文との関係もあっていろいろと迷った」結果,日本側限りで「国務ヲ除クノ外」を「国務のみを行(ママ),」としています(佐藤達・三326頁)。1946年4月13日の憲法改正草案4条は,次のとおり(佐藤達・三336頁)。

 

第4条 天皇は,この憲法の定める国務のみを行ひ,政治に関する権能を有しない。

  天皇は,法律の定めるところにより,その権能を委任することができる。

 

6 枢密院審査委員会

とはいえ,憲法改正草案4条1項後段から「その他の」を完全に切り捨てる割り切りは難しかったようで,1946年4月22日の第1回の枢密院審査委員会における幣原喜重郎内閣総理大臣の説明要旨では「改正案においては,天皇は一定の国務のみを行ひ,その他においては,政治に関する権能を有せられないこととしてゐるのである。」と述べています(佐藤達・三381382頁。下線は筆者によるもの)。(ここでの「一定の国務」の範囲については,1946年4月の法制局「憲法改正案逐条説明(第1輯)」では「天皇が具体的に統治権の実施に当たらるる範囲」と観念されていました(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「44 「憲法改正草案に関する想定問答・同逐条説明」1946年4月~6月」参照。下線は筆者のもの)。)同年5月3日の委員会においては林頼三郎枢密顧問官も「第4条の国務と政治とは別なやうによめる。国務即政治なり。要綱のときの「除くの外政治に関する・・・」の方がよくわかつた。」と発言し,これに対して入江法制局長官が「その国務だけで,それ以外は政治に関する権能を有せずといふ意なるもこの国務のみを行ふといふこととそれ以外は行はぬといふ2点をかきたかつたのである。」と答弁すると,更に「そういふ意味ならそれ以外といふ字を入れたらどうか。」と二の矢を放っています(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「41 枢密院委員会記録 1946年4月~5月」)。

しかしながら,枢密院審査委員会においては草案4条1項の文言は修正されませんでした。とはいえ1946年5月の法制局「憲法改正草案逐条説明(第1輯)」は,なお第4条1項について「天皇が行はせられる国務の範囲は第6条及び第7条に規定されて居りますが,本条はそこに定められた国務のみを行はせられることを明らかにし,その他の政治に関する権能を有せられないことを定めたのであります。」と述べています(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「44 「憲法改正草案に関する想定問答・同逐条説明」1946年4月~6月」参照。下線は筆者によるもの)。「その他の」の挿入等何らかの手当ての必要性は決して消えてはいませんでした。

問題解決は先延ばしにされ,その後の修正作業は,帝国議会の審議期間中において概略後記のような経緯で行われていきます。

7 第90回帝国議会会期中の修正及びその意味

 

(1)芦田小委員会修正

 第90回帝国議会衆議院の憲法小委員会(芦田均小委員長)において1946年8月2日までに修正を経た日本国憲法案4条は,次のとおりでした(佐藤達・四783頁参照)。下線部が小委員会による修正後の文言で,括弧内が被修正部分です。

 

 第4条 天皇は,この憲法の定める国務のみを行ひ,その他の国政(政治)に関する権能を有しない。

 

   天皇は,法律の定めるところにより,前項の国務に関する(その)権能を委任することができる。

 

 上記第1項の英語文は,次のとおりでした(佐藤達・四802頁)。

 

    The Emperor shall perform only such state functions as are provided for in this Constitution. Never shall he have powers related to government.

 

第4条1項の「政治に関する権能を有しない」を「その他の国政に関する権能を有しない」と改めることは,同年7月25日に芦田小委員長から提案されていました(佐藤達・四715頁)。

 

(2)7月29日の入江・ケーディス会談

 

ア GHQ側の認識:本来的形式説

前記のように第4条1項の「政治に関する権能を有しない。」を「その他の国政に関する権能・・・」と改めようとしている点については,1946年7月29日,入江俊郎法制局長官がGHQ民政局のケーディス大佐を訪問した際GHQ側が,「何故に「その他の」を加えるのか,それでは,国務(state function)と国政(government)とが同一レベルのものとなり,天皇が儀礼的国務のみを行うという意味がぼやけてしまう。せっかく,前文及び第1条で主権在民を明文化しても,第4条において,あたかも天皇がそれを行使するかのように規定したのでは何にもならない。」とおかんむりだったそうです(佐藤達・四757頁)。

第4条1項前段の天皇の「国務」は儀礼的な行為にすぎないものであるというのがGHQの認識であり,儀礼的な行為にすぎないから国政(government)とは同一レベルにはない,すなわちそもそも国政に含まれるものではない,ということのようです。「4条は,天皇に単なる「行為」権のみを認め,「国政に関する権能」を認めていないのであって,6条,7条の「国事に関する行為」は本来的に形式的・儀礼的行為にとどまるものと解す」る「本来的形式説」が採用されているわけです(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)253254頁)。

 

イ 日本側の認識:国政に関する権能による国事行為の権能の包含

日本側のその場における反論は,「それに対して,「国政」のほうが意味がひろく,「国務」も国政のなかに含まれる。したがって「その他の国政・・・」としないと,第1項前段の「天皇は,この憲法の定める国務のみを行ひ」と矛盾する」というものだったそうですが(佐藤達・四757頁),なお言葉足らずだったでしょう。より精確には,「「その他の」を加える理由として,「国政に関する」とあるために,事務的,儀礼的の仕事でも,およそ「国政」に関連するものは含まれることとなる。したがって「その他の」を入れることが論理上正確であり,且つ,天皇の権能として許されない事がらが一層明確となる」ということが日本の法制局の思考だったようです(佐藤達・四758頁)。「国政に関する」の「に関する」こそが問題であって,この文言があるばかりに,国政自体に係る権能のみならず国政に関連するだけの仕事に係る権能をも含むこととなって,「国政に関する権能」の行使となる仕事のレベルは上下分厚く,「国務」のレベルの仕事もそこに含まれてしまうことになっているのだ,ということだったようです。しかし,こう理屈を明らかにすればするほど「その他の」の文言が必要不可欠ということになり,結局「その他の」がない場合には矛盾が生じ,「そのような理解は4条の文言からいって無理」(佐藤幸253頁)ということになるようです。

なお,第4条1項のgovernmentが「政治」から「国政」に改まることについては,1946年7月15日に佐藤達夫法制局次長がケーディス大佐に対して,努力する旨約束していたところでした(佐藤達・四682頁,683頁)。これは,同月11日付けの前記ビッソンらの民政局長宛て覚書で,「政治」の語にはgovernmentのほかpoliticsの意味がある旨指摘されていたところ(佐藤達・四702頁),それを承けてケーディス大佐から一義的にgovernmentと理解されるような語を用いるように要求されたからでしょうか。

 

(3)8月6日の入江・ケーディス会談

 

ア 日本側妥協による日本国憲法4条1項の日本語文言の成立

1946年7月29日には対立解消に至らなかったものの,しかしながら,同年8月6日,入江長官はケーディス大佐を訪問し,「天皇の章について,「国務」等の語を「国事に関する行為」に改め,〔芦田小委員会の修正した第4条1項の〕「その他の国政」の「その他」〔ママ〕を削ることにしたい,もしこれに同意ならば,政府として議会側に働きかける用意がある・と述べ」るに至りました(佐藤達・四801頁)。「ケーディス大佐は,ゴルドン中尉を呼び入れて用語の適否を確かめた上,これに賛成し,「国事に関する行為」は,英文がまちまちの表現をしているにくらべて改善であると述べた」そうです(佐藤達・四801頁。なお,「国務」の語については,英語に戻すとstate affairsとなり「functionよりもいっそう積極的で強い語感を含む言葉」となっているとの指摘が同年7月11日付けのビッソンらの民政局長宛て覚書でされていました(佐藤達・四702頁)。)。第4条1項の文言は,「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ, 国政に関する権能を有しない。」という現在の日本国憲法4条1項の文言となることになったわけです。(なお,ジョゼフ・ゴードン陸軍中尉は,GHQ草案作成時26歳でGHQの翻訳委員会のスタッフであり,また,後に日本国憲法24条関係で有名となるベアテ・シロタ嬢と結婚します。「エール大学の民事要員訓練所でみっちり学んだというゴードン氏の日本語は,読み書きは立派なものだが,会話はまったく駄目。妻のベアテさんは,会話は日本人と変わりないが,読み書きは苦手。ベアテさんに来た日本語の手紙を,ご主人が読んで英語で聞かせてあげるというから,なんとも不思議な夫婦だ。」と紹介されています。(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川文庫・2014年(単行本1995年))6970頁))

 

イ 4条1項前段と同項後段との関係に係るGHQの認識:逆接

第4条1項の前段と後段とは英文では二つの文になっていたところ,前記合意成立の際,「ケーディス大佐〔は〕,この二つの語句は,althoughbutで結ばれる関係にある,日本文がandで結ばれているような感じになっているのはおもしろくない・と述べた」そうです(佐藤達・四802頁)。すなわち,日本国憲法4条1項後段は,前段で国事行為(前記のとおり,これは儀礼的なものなので国政とは別レベルである,というのがGHQの認識でした。)を行う旨規定しているのでそれらの行為を通じて天皇が国政の権能を有するもののように誤解される恐れがあるから,天皇の国事行為の性格についてのそのような誤解を打ち消すために(「althoughbutで結ばれる関係」ということはこういう意味でしょう。)書かれた文言である,ということのようです。

 

ウ 4条1項前段と同項後段との関係に係る日本側の認識:順接

ただし,「これに対しては,日本側からalthough又はbutというのはonlyを見落としているもので,むしろ,論理上thereforeと解すべきである。また,もし日本文で二つの文章に分けるとすれば,短い文章で「天皇」の主語をくり返すことになり翻訳臭がでてきわめておかしなものとなる・と反対した結果,先方はその提案を撤回した。」との落着となりました(佐藤達・四802頁)。

第4条1項前段の「のみ(only)」の語に天皇に対する制限ないしは禁止規範の存在が見出されたところ,therefore,当該制限ないしは禁止規範の内容たる「天皇の権能として許されない事がら」が明文化されることとなったのが同項後段である,というのが日本の法制局の理解なのでしょう。(これに対して,あるいはGHQの理解は,第4条1項前段の「のみ(only)」による天皇に対する制限ないしは禁止は同項前段自体の内部で閉じている,すなわち,同項前段の意味は「天皇は,国事に関する行為を行う。ただし,この憲法の定めるものに限る。」というものである,同項後段は具体的な制限ないしは禁止規範ではなくて天皇に政治の大権が無いことを改めて確認する為念規定である(「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ふ。この国事に関する行為を行ふ権限は,政治の大権のために認められたものと解釈してはならない。」),ということででもあったのでしょうか。)GHQの理解では日本国憲法4条1項後段は同項前段に向かっているものであるのに対して,日本の法制局の理解では同項後段は天皇に向かっている,と比喩的に表現できるでしょうか。

日本側は第4条1項をどのように解釈することにしたのでしょうか。「国政に関する権能(powers related to government)」を「国政の権能(governmental powers)」と解釈することにしたのでしょうか。しかし,当座のところは,むしろ原案復帰にすぎないということで,「その他の国政に関する権能を有しない。」の「その他の」を元のとおり解釈で補うことにした,ということの方があり得ることではないでしょうか。帝国議会で政府は,「此処の意味は,天皇は政治に関する権能を有せられない,併しながら其の政治に関する権能の中でも,此の憲法にはつきり書いてある部分は行はせらるゝことが出来る,斯う云ふ意味であります」との答弁を行っていたところです(小嶋「天皇の権能について」9192頁参照)。

 

エ Governmentの訳語:「国政」か「統治」か

なお,日本国憲法4条1項後段の「国政に関する権能」(powers related to government)の語について当該会談において「ゴルドン中尉は,「国政に関する権能を有しない」の「国政」を「統治」と改めることを提案したが,日本側はこれに反対し,またケーディス大佐も「統治」とすると,天皇はrulingに関する権能はもたないが,もっと軽易なadministrativeな権能はもち得るように解せられる恐れがあるから「国事」に対するものとして「国政」とした方がいい・と述べ,「国政」とすることに落ち着いた」そうです(佐藤達・四802頁)。

大日本帝国憲法の完全否定になる「統治」の語の採用を日本側が拒んだことは分かります。大日本帝国憲法の告文及び上諭並びに1条及び3条は,天皇は大日本帝国の統治の大権を有してきたものであり,また今後も有するものであることを規定していましたし,伊東巳代治の英語訳(統治=sovereignty)からしても, 「統治」の語は主権論争を惹起せざるを得なかったからです。

天皇に対する制約規範として,「統治に関する権能を有しない」と「国政に関する権能を有しない」とを比較すると,権能を有しないものとされるものの範囲は後者(「国政」)の方が前者(「統治」)より広いのです(というのが筆者及びケーディス大佐の理解です。)。だからこそ,ケーディス大佐は軽易なadministrative権能まで天皇に与えまいとして日本側の「国政」説に与したのでした。

 

オ 英語文の修正

1946年8月24日の段階で,日本国憲法案4条1項の英語文は,“The Emperor shall perform only such acts in matters of state as are provided for in this Constitution. Never shall he have powers related to government.”という形になっていたもののようです(佐藤達・四876頁)。

8 「結果的形式説」の妥当性

 

(1)当初の政府説明の維持不能性:「その他の」の不在

 日本国憲法4条1項における,天皇が「国政に関する権能を有しない」こと(同項後段)とその同じ天皇が「この憲法の定める国事に関する行為」を行うこと(同項前段)との関係に係る「此処の意味は,天皇は政治に関する権能を有せられない,併しながら其の政治に関する権能の中でも,此の憲法にはつきり書いてある部分は行はせらるゝことが出来る,斯う云ふ意味であります」との第90回帝国議会における政府説明は,確かに,同項後段は「その他の国政に関する権能を有しない」と規定していておらず,かつ,そのことは再三公然と指摘されていたことでもあるので,いつまでも維持され得るものではありませんでした。

 

(2)本来的形式説の難点:松本烝治元法制局長官の「ニ関スル」の呪縛

 しかし,日本国憲法4条1項前段の国事行為を行うことに係る天皇の権能は同項後段の国政に関する権能には含まれない,との解釈(天皇の国事行為に係る本来的形式説の前提となる解釈)は,我が日本国の法制局参事官の頑として受け付けないところでした。

 

ア 「国事に関する行為」を行う権能と「国政に関する権能」と

日本国憲法4条1項の前段と後段との関係を後段冒頭に「その他の」の無いまま整合的に説明するための努力に関してでしょうが,「多くの論者は「国事に関する行為」と「国政に関する権能」とを単純に相排斥する対立的概念であるとして,その区分基準を「国事」と「国政」との相違にもとめ,ここで敗退する。」との指摘があります(小嶋和司「再び天皇の権能について」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』113頁)。当該指摘に係る状況について精密に見てみると,国事行為を行う権能は国政に関する権能に含まれるのだ,と言う主張の壁の前に当該論者らは敗退したということでしょう。

 

イ 「国政に関する権能」概念の縮小解釈の可能性いかん

 

(ア)「国政の動向を決定するような権能」:小嶋和司教授

そこで,本来的形式説の首唱者(小嶋和司教授)は,本丸の「国政に関する権能」概念を操作することにします。当該概念を縮小せしめることとして,「国政に関する権能」は「国政の動向を決定(﹅﹅)する(﹅﹅)ような権能」であるものと主張します(小嶋「再び」113頁。「国政運営に影響を及ぼすような権能」との理解から改説)。そこには「「国事に関する行為」を行う権能」は含まれないのだ,と主張するわけです。しかし,「国政の権能」,せめて「国政に係る権能」との文言であったのならばともかくも,「に関する」がそこまでの縮小を認めるものかどうか。内閣法制局は,無理だと考えているのでしょう。

 

(イ)「国政に関して実質的な影響を与えるような行為をする権能」:内閣法制局

「国政」に関して,元法制局参事官の佐藤功教授は,「国政」とは「国の政治を意味する。」としつつ,「憲法4条は,天皇が憲法の定める国事に関する行為のみを行い国政に関する権能を有しない旨を定めている。この場合に「国政に関する権能」とあるのは,国家意思を決定する国政に関して実質的な影響を与えるような行為をする権能という意味である。」と,なおも「国政に関する権能」を広く定義しています(吉国等編『法令用語辞典』。下線は筆者によるもの)。松本烝治元法制局長官の筆にした「ニ関スル」は,実に重いものなのです。

日本国憲法4条1項の前段と後段との関係の解釈については,憲法学界の大勢は本来的形式説を採るようなのですが,内閣法制局筋の実務家から見るとどういうものなのでしょうか。

 

ウ またも小説

「ここは,「関する」ですか,若しくは「係る」ですか,又は「の」なのですか。」

と夜半内閣法制局参事官に「詰め」られたとき,

「いやぁ,そこは作文ですから,よくご存じの参事官が文学的フィーリングで決めてくださいよ。」

などと学識不足のゆえか疲労に由来する横着のゆえかうっかり言おうものなら,法令案の審査がストップして大騒ぎになります。

「なんですかそれは。それが審査を受ける者の態度ですか。」

担当官庁の法案作成担当チームの頑冥無学迷走ぶりに憤然として大机の前で御機嫌斜めの内閣法制局参事官殿のところに本省局長閣下がちょこちょことやって来て,御免お願い機嫌を直して審査を再開してちょうだいよこちらは死ぬ気で頑張るからさと懇願している様子を実見した者の言うには,「ふぅーん,人間の頭の使い方には2種類あるんだな。」と思ったとの由。

「考える」と「下げる」。

無論,後者の方が前者よりもはるかに高い価値があるものです。

 

(3)結果的形式説

 本来的形式説が,「に関する」に伴う「国政に関する権能」概念の広さゆえ採用が難しいところから,別の解決策が求められざるを得ません。

日本国憲法4条1項前段の国事行為には「すべて内閣の助言と承認が要求され,この助言と承認権には実質的決定権が含まれるから,結果的には「国事に関する行為」は形式的・儀礼的になる,というように説く見解」たる「結果的形式説」(佐藤幸254頁参照)が,アポリアからの最後の脱出路となるわけです。

ただし,「行為」が「形式的・儀礼的になる」と落着するのだと述べるだけで説明を打ち切るのは,なお議論が行為レベルにとどまっていて不親切です。「形式的・儀礼的」な行為を行う権能であっても「国政に関する権能」ではないわけではなかったのですから。より正確には,日本国憲法4条1項前段の国事行為を行う権能「のうち『国政に関する』部分は『内閣の助言と承認』の中にあって,天皇にはないのであって,その形式的宣布の部分だけが天皇の権能として現れてくるのである」というように(小嶋「天皇の権能について」96頁の引用する佐藤功教授の論説参照),権能のレベルで問題を処理しておく必要があります。

結果的形式説であれば,日本国憲法4条1項前段の国事行為を行う天皇の権能については,当該国事行為に係る内閣の助言と承認を経ることによって,そのうち国政に関する部分はいわば内閣に吸収されて失われ,そもそも国政に関しない部分しか残らないものとなっている,ということになります。したがって,同項後段の天皇は「国政に関する権能を有しない」規定との抵触は存在せず,同項後段冒頭に「その他の」を置く必要も無い,ということになります。

 

9 その他

本稿では,日本国憲法4条1項をめぐる紛糾や論争を追ってきたのですが,時代はまた,第90回帝国議会において日本国憲法案が審議中の時期に戻ります。

 

(1)日本国憲法4条1項後段不要論

1946年7月23日に行われた金森徳次郎憲法担当国務大臣とGHQのケーディス大佐との会談において,当該規定の生みの親の一人であったはずのケーディス大佐は,日本国憲法案4条1項後段はそもそも実は不要だったという意味の重大発言をしていたという事実があります。

 

〔日本側から天皇の章の〕第4条第1項の後段「政治に関する権能を有しない」を削るという修正意見があることを述べたところ,先方は,はじめからこの字句がなかったとすれば,その方がいいと考えるが,すでにあるものを削るとなると,それによって天皇が政治に関する権能を有することになるというような誤解を与えるおそれがあるから,その削除には賛成できない・と述べた。(佐藤達・四693頁)

 

思い返せば,初めからこの字句がなければその方がよかったのだ,というわけです。

これは,GHQにとっては,天皇の権能の制限は他の条項で既に十分であって,日本国憲法4条1項後段は実はいわば添え物のような宣言的規定だったのだ,ということでしょうか。同項後段の今日の日本における現実の働きぶりを見ると,隔世の感がします。

 

(2)日本国憲法4条1項の当初案起草者:リチャード・A・プール少尉

そうなると,GHQ民政局内で当該まずい添え物規定をそもそも最初に起草したのはだれなのだとの犯人捜しが始まります。

下手人は,割れています。

本職は米国国務省の外交官であったところのリチャード・A・プール海軍少尉です(当時26歳)。

日本国憲法4条1項の規定の濫觴としては,GHQ草案の作成過程の初期において,1946年2月6日の民政局運営委員会(ケーディス大佐,ハッシー中佐及びラウエル中佐並びにエラマン女史)との会合に,プール少尉及びネルソン陸軍中尉の天皇,条約及び授権員会から次のような案文が提出されていました(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「314 GHQ原案」参照。下線はいずれも筆者によるもの)。

 

Article IV.  All official Acts and utterances of the Emperor shall be subject to the advice and consent of the Cabinet. The Emperor shall have such duties as are provided for by this Constitution, but shall have no governmental powers, nor shall he assume or be granted such powers. The Emperor may delegate his duties in such manner as may be provided by Law.

When a regency is instituted in conformity with the provisions of such Imperial Home Law as the Diet may enact, the duties of the Emperor shall be performed by the Regent in the name of the Emperor; and the limitations on the functions of the Emperor contained herein shall apply with equal force to the Regent.

 

 日本国憲法4条1項に対応する部分は,「天皇は,この憲法の定める義務を有するが(but),政治の大権(governmental powers)を有さず,かつ,そのような大権を取得し,又は与えられることはない。」となっています。天皇はこの憲法の定める仕事をする,しかしながら(but)政治の大権は有さないのである,というのですから,同年8月6日のケーディス大佐の前記発言に至るまで,当該条文の構造に係るGHQの論理(逆接とするもの)は一貫していたわけです。

 これが,GHQ草案の前の天皇,条約及び授権委員会の最終報告書では次のようになります。

 

 Article     The advice and consent of the Cabinet shall be required for all acts of the Emperor in matters of State, and the Cabinet shall be responsible therefor. The Emperor shall perform such state functions as are provided for in this Constitution. He shall have no governmental powers, nor shall he assume or be granted such powers. The Emperor may delegate his functions in such manner as may be provided by law.

       When a regency is instituted in conformity with the provisions of such Imperial House Law as the Diet may enact, the duties of the Emperor shall be performed by the Regent in the name of the Emperor; and the limitations on the functions of the Emperor contained herein shall apply with equal force to the Regent.

 

「天皇は,この憲法の定める国の職務(state functions)を行う。天皇は,政治の大権を有さず,かつ,そのような大権を取得し,又は与えられることはない。」ということで,「義務(duties)」の代わりに「国の職務」という言葉が出てきます。また,butでつながれた一つの文であったものが,二つの文に分割されています。

日本国憲法4条1項前段の「のみ(only)」の文言はなお欠落していましたが,当該文言は1946年2月13日のGHQ草案には存在します。すなわち,天皇,条約及び授権委員会からの最終報告の後,同月12日の最終の運営委員会あたりでこの「のみ(only)」は挿入されたものでしょう。ホイットニー准将か,ケーディス大佐か,ハッシー中佐か,ラウエル中佐か。だれの手によるものかは筆者には不明です。

 

(3)最後の小説

Governmental powersとの語は,プール少尉らの最初の案から使用されていたものです。

プール少尉の高祖父であるエリシャ・ライス大佐は幕末における箱館の初代米国領事ですから,当然プール少尉は,自分の高祖父が箱館にいた時代の日本は「政治の大権」を江戸幕府が把持していて軍人勅諭のいうところの「浅間しき次第」ではあったが,天皇はやはりなお天皇であった,ということは知っていたことでしょう。

高祖父以来代々日本に住んで仕事をしていた一族の家系に生まれ,少年時代を横浜で過ごした1919年生まれのプール少尉が最初の案を起草した天皇のgovernmental powers放棄規定を受け取るに至った1877年生まれの松本烝治憲法担当国務大臣が,自らのモデル案を作成の際,「なにぃ,「天皇ハ政治ノ大権ヲ有セス又此ヲ把握シ又ハ賦与セラルルコト無カルヘシ」だとぉ。GHQはワシントン幕府の東京所司代のつもりかぁ。増長しおって。後水尾天皇の御宸念がしのばれることだわい。」と憤然口汚くののしりつつも,あっさり尊皇的闘争をあきらめて,「政治ニ関スル権能」ではなくあえておおらかに「政治ノ大権」の語を採用していたならばどうだったでしょうか。

 

芦原やしげらば繁れ荻薄とても道ある世にすまばこそ

 

天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,政治の大権を有しない。

 

日本国憲法4条1項の前段と後段との関係をめぐる議論は本来的形式説で片が付き,同項後段は政体の転換を闡明するための宣言的規定と解されて天皇の日常を規制するinstructionとまでは受け取られなかった,ということになったかどうか。

「天皇は,国政に関する権能を有さない」という規範の存在は,天皇を寡黙にさせるものなのでしょう。しかしながら,更に当該規範を積極的に振り回す横着な実力者が登場して寡黙が沈黙にまで至ると・・・木を以て作るか,金を以て鋳るかした像を連想するような者も出て来る可能性があり・・・本稿冒頭での高師直想起につながるわけです。

 

 「「木を以て作るか,金を以て鋳るかして,生きたる院,国王をば,いづくへも皆流し捨てばや」発言とそれからの随想」(20161030日)

  http://donttreadonme.blog.jp/archives/1062095479.html

 

10 跋

ところで,実は,1994年6月12日,米国コロンビア特別区ワシントン市で,米国訪問中の今上天皇と「知日派の米国人」プール少尉とが会話する機会があったという事実があります。

しかし,日本国憲法4条1項後段規定の現在唯一の名宛人被規律者である今上天皇と当該規定の立案責任者であった元日本占領軍士官との間で,本稿で以上論じたようなことどもを十分語り尽くすだけの時間があったものかどうか・・・。

松本烝治は,「実は,私は今の憲法に何と書いてあるか見たことがないのです。それほど私は憲法が嫌いになったのです・・・」(児島380頁)と日本国憲法に背を向け,195410月8日に死去していました。

 

「「知日派の米国人」考」(2014年3月4日)

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1000220558.html

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

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1 承久三年の宇治川渡河戦

 当ブログにおける今年(2017年)最初の前々回の記事(「カエサルのルビコン川渡河の日付について」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1063677215.html)においては,共和政から帝政に向け古代ローマの歴史を大きく変えた紀元前49年のカエサルによるルビコン川の渡河について書きました。

 となれば渡河つながりで,我が国の歴史を大きく変えたものとして一番重要な渡河は何であっただろうかと考えれば,公家の世から武家の世に向かう歴史の流れの節目となった承久の変における,承久三年(1221年)六月十四日に敢行された北条泰時率いる鎌倉方の軍勢による宇治川渡河こそがそれでありましょうか。

 

  明けて十四日の宇治川合戦も必ずしも幕軍に有利ではなかった。〔その前日,「足利義氏・三浦義村は,泰時に連絡せず宇治に進出した。そのため京方の猛反撃をうけて死者続出,平等院(京都府宇治市)にたてこもり,栗子山(宇治市西南部)の泰時に援軍を求めた」ところです。〕ここ〔宇治〕は近江から山城への要衝で京方の抵抗もきびしかった。泰時はこの日,元服の際〔建久五年(1194年)〕に〔源〕頼朝から与えられた剣を帯びていた。泰時の命により芝田兼義,春日貞幸,佐々木信綱等が敵前渡河を試みた。・・・

  京方の激しい抵抗と,宇治の急流〔前夜は豪雨〕に,幕軍の犠牲はおびただしかった。泰時は「味方の敗色濃く,今や大将の死すべき時。河を渡り軍陣に命を棄てよ」と〔数え年〕十九歳になる子の時氏〔経時及び時頼の父〕に命じた。三浦泰村らも渡河を試みた。泰時は黙然として,不利な戦局を見詰める目も血走っていた。京方には勝ち誇る気色があった。「あたら侍共を失い,わが身一人残り止っても益なし。運尽きた今は死あるのみ」と意を決した泰時は,自ら乗馬して渡河しようとした。これを留めたのは〔春日〕貞幸であった。・・・そして宇治川先陣の殊勲は佐々木信綱に輝いた。〔なお,佐々木信綱が先か芝田兼義が先だったかは,勲功調査において問題となったところです。〕

  抗戦をしりぞけ幕軍は遂に宇治川渡河に成功した。その夜泰時は,深草河原(京都市伏見区)に陣取った。・・・(上横手雅敬『北条泰時』(吉川弘文館・1958年)3739頁)

 

承久の変の戦後処理は,「在位わずか七十余日〔承久三年四月二十日「即位」(児玉幸多編『日本の歴史 別巻5 年表・地図』(中央公論社・1967年)469頁)〕の天皇は廃位され(当時は九条廃帝,または半帝とよばれ,明治時代になって初めて仲恭天皇とおくり名された)〔承久三年七月九日「譲位」,同日後堀河天皇「践祚」(児玉編108頁)〕,後鳥羽上皇の兄(ぎょう)(じょ)法親王の子が新たに天皇の位をついだ〔同年十二月一日即位(児玉編469頁)〕。後堀河天皇である。・・・」ということになりました(石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』(中央公論社・1965年)380頁)。

仲恭天皇は,臣下によって廃位されたというわけです。

ここで用語法について一言しておくと,君主がその意思表示に基づきその位を去ることを退位(Abdankung)といい,君主に当該意思表示が無いにもかかわらずその位から去らしめられることを廃位(Absetzung)ということにしましょう。『岩波国語辞典 第四版』(1986年)においては,「退位」は「帝王が位を退くこと。」と,「廃位」は「君主をその位から去らせること。」と定義されています。

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常楽寺(鎌倉市大船)にある北条泰時の墓 
(北条泰時は仁治三年(1242年)「六月十五日亥刻(午後10時)に永眠した。享年六十歳。死因は過労の上に,赤痢を併発したためという。」(上横手199頁)宇治川渡河戦の勝利の翌日入京してから奇しくも21年目の当日でした。)
 

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常楽寺山門


 
2 皇統における仲恭天皇の位置等


(1)明治三年に諡号が追贈された三天皇:弘文,淳仁及び仲恭 

明治三年七月二十三日(1870年8月19日)に弘文天皇,淳仁天皇及び仲恭天皇の諡号が追贈されています。しかし,現実に皇位についてはいたものの怖い太上天皇(孝謙=稱德女帝)によって廃位されたということが明らかな奈良時代の淳仁天皇はともかくも,7世紀天智天皇の崩御後の皇位争いにおいて大海人皇子(天武天皇)に敗れた弘文天皇(太政大臣大友皇子)及び鎌倉時代の仲恭天皇については,皇位についていたこと自体がはっきりしていなかったのではないでしょうか。

(2)牧野伸顕宮内大臣の懸念及び考査対象からの除外:弘文天皇及び仲恭天皇 

大正時代,皇統譜令案の施行を全うするために必要な史実を明確にするために1924年3月7日に設置された臨時御歴代史実考査委員会に対して,同年4月21日に牧野伸顕宮内大臣から諮問事項が示されたところですが,その際牧野宮内大臣から同委員会の伊東巳代治総裁に対して,「弘文・仲恭両天皇に関しては,すでに御歴代に数え,皇霊殿に奉祀されているため,今更問題にすべからざることなどの指示があった」そうです(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)547549頁)。これは,反対解釈すると,「今更問題にす」ると,弘文・仲恭両天皇についてはやはり皇位についていなかったという結論となることが十分あり得るということが宮中自身の認識であったということでしょう。

(3)『神皇正統記』における仲恭天皇:日嗣にくはへたてまつられざる廃帝 

仲恭天皇の皇統における位置付けについて,現在はともかく,承久の変から百二十年ほど後の当時における公家知識人の認識はいかん。

 

 廃帝。諱は(かね)(なり),順徳の太子。御母東一条院,藤原立子(のりつこ),故摂政太政大臣良経(のむすめ)也。

 承久三年春の比より〔順徳〕上皇おぼしめしたつことありければ,にはかに譲国したまふ。順徳御身をかろめて合戦の事をも(ひとつ)御心にせさせ給はん御はかりことにや,新主に譲位ありしかど,即位登壇までもなくて軍やぶれしかば(ははかたの)(をぢ)摂政道家の大臣の九条の(てい)へのがれさせ給。三種(さんしゅの)神器をば閑院の内裏にすて((お))かれにき。譲位の後七十七ヶ日のあひだ,しばらく神器を伝給しかども,日嗣にはくはへたてまつらず(イ﹅)(とよ)の天皇の(ためし)になぞらへ申べきにこそ。元服などもなくて十七歳にてかくれまします。北畠親房(岩佐正校注『神皇正統記』(岩波文庫・1975年)152頁。下線は筆者)

 

北畠親房はその『神皇正統記』において,「第八十四代,(じゅん)(とくの)院。」,「第八十五代,()堀河(ほりかわの)院。」と記していて北畠149頁,154頁),その間仲恭天皇はスキップされています(なお,何の位の第何代かといえば,神武天皇が「(にん)(わう)第一代」とされていますから(北畠45頁),順徳天皇は人皇第84代,御堀河天皇は人皇第85代ということになります。人皇の前は(あま)(てらす)(おほ)(みかみ)以下地神(ちじん)五代です北畠29頁,44頁)。ちなみに,前記伊東巳代治の臨時御歴代史実考査委員会には牧野宮内大臣から附帯事項として「皇統譜中太古ノ神系ハ之ヲ神武天皇ノ前ニ特書スベキヤ否」について参考意見が求められたところ(『昭和天皇実録 第四』548頁),同委員会の意見は積極だったようで,旧皇統譜令(大正15年皇室令第6号)39条は「神代ノ大統ハ勅裁ヲ経テ大統譜ノ首部ニ登録スヘシ」と規定しています。)。

(4)『神皇正統記』における淳仁天皇:人皇第四十七代たる淡路廃帝 

淳仁天皇についてはさすがに,北畠親房によっても「第四十七代,淡路廃(あはぢのはい)(たい)一品(いつぽん)舎人(とねりの)親王の子,天武の御孫也。・・・(つちのえ)(いぬの)年即位。/天下を治給こと六年。事ありて淡路国にうつされ給き。三十三歳おましましき。と記されて北畠8990頁),人皇第47代にしっかりカウントされています。

(5)飯豊天皇:日嗣にはかぞへたてまつられざる「女帝」 

仲恭天皇というよりは九条廃帝ないしは半帝がその「例になぞらへ申すべき」ものとされた飯豊の天皇とはだれかといえば,清寧天皇と顯宗(けんぞう)天皇(在位期間は宮内庁ウェッブ・サイトの「天皇系図」によればそれぞれ西暦480年から484年まで及び同485年から487年まで)の間「しばらく位に居給」うた「天皇」であるそうです。すなわち,清寧天皇の後は本来顯宗の「御(このかみ)仁賢(まづ)位に(つき)(たまふ)べかりしを,〔仁賢・顯宗の兄弟は〕相共に(ゆづり)ましまししかば,同母の御姉飯豊(いひとよ)の尊しばらく位に居給き。されどやがて顯宗定りましまししによりて,飯豊天皇をば日嗣にはかぞへたてまつらぬなり。」ということです(北畠69頁)。伊藤博文の『皇室典範義解』における明治皇室典範1条(「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」)の解説には「飯豊(いひとよ)(あをの)(みこと)政を摂し清寧天皇の後を承けしも,亦未だ皇位に即きたまはず。」とあります(同じく『皇室典範義解』における明治皇室典範19条解説では,「飯豊青尊の摂政に居たまへるは此れ〔「君祚を仮摂」〕に近し。」とあり,「人臣を以て大政を摂行」する「摂政」とは異なるものとされています。)。推古天皇以来女帝の例もあったのですから,現在の女帝可不可論の問題は別にして,仲恭天皇を歴代天皇に数えることにしたのならば飯豊天皇飯豊青尊代に列せしめることにしてもよかったように思われますが,どうでしょうか。とはいえ,吉野の長慶天皇を1926年に皇代に列した際には「宮内大臣一木喜徳郎は,御歴代大統中に御一代を加えることは皇室の大事にして,詔書を以て宣誥せらるべきもの」とし,同年1021日に摂政宮裕仁親王により詔書が出されていますが(『昭和天皇実録 第四』549550頁),「皇室ノ大事ヲ宣誥」するための詔書(公式令(明治40年勅令第6号)1条1項)という形式は現在もそのようなものとしてあるものかどうか。

(6)順徳天皇・後堀河天皇間における「空位」の意味等 

ところで,『神皇正統記』の記載から窺われる,承久三年四月二十日に順徳天皇が退位し同年七月九日に後堀河天皇が践祚するまでは実は皇位は空位であったことにしよう,という整理ないし事件処理は,敢えて絶妙であったというべきでしょう。関東の東夷どもが人民の分際であるにもかかわらず畏れ多くも現在の天皇を廃位申し上げてしまったのだなどというスキャンダラスな事態(美濃部達吉は,大日本帝国憲法3条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」との規定に関して,「日本ではその固有の歴史的成果として古来既に久しく認められて居た」原則であり,当該原則によれば「既に践祚あつた後に於いては,如何なる事由の起ることが有つても・・・皇位を廃することは法律上絶対に不可能」,「天皇の廃位は絶対に不可能」と強調しています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)115頁,118頁,120頁)。)は,実は我が光輝ある国史においてはなかったのだ,北条義時・泰時父子は,天皇OBの後鳥羽上皇・順徳上皇父子の勢力と争ったものではあるが,現役の天皇に対して刃向かったものではないのだ,空位期間だったのだ,すなわち明治大帝が大日本帝国憲法発布の勅語において畏くも確認しておられるように,日本国民の祖先は全て飽くまでも一貫して,天皇たる「祖宗ノ忠良ナル臣民」であったのである,ということになり得るからです。だからこそ北畠親房も安心して承久三年の宇治川渡河戦の勝利者にして京都への乱入者である北条泰時をほめ,「大方泰時心ただしく(まつりこと)すなほにして,人をはぐくみ物におごらず,公家の御ことをおもくし,本所のわづらひをとどめしかば,風の前にちりなくして,天の下すなはちしづまりき。かくて年代をかさねしこと,ひとへに泰時が力とぞ申伝ぬる。」と記すことができたのでしょう(北畠156頁)。

承久の変の際仲恭天皇はなお満3歳に満たない幼児であらせられました。物心もついておられたものかどうか。飯豊青皇女は自ら政を摂したとのことですが,仲恭天皇の場合はそれもなかったわけです。また,意思能力も有しておられなかったわけで,退位の意思表示は無理だったわけでしょう。摂政が天皇を代理して,退位の意思表示をするわけにもいかなかったでしょう。しかも当時は人臣摂政の時代。ちなみに, 仲恭天皇の摂政であった九条道家は, 次代鎌倉将軍予定者たる三寅(頼経)の実父でもありました。

なお,源平合戦期に後白河法皇が後鳥羽天皇を立てた際安德天皇は同法皇によって廃位されたのかどうかが問題になり得,前記臨時御歴代史実考査委員会には牧野宮内大臣から附帯事項として「安德天皇ノ御在位年数後鳥羽院天皇登極ノ時期ハ如何ニ定ムベキカ」についても参考意見が求められていたところ(『昭和天皇実録 第四』548頁),「記載は原則として皇統譜に基づく」ものとされる宮内庁ウェッブ・サイトの「天皇系図」によれば,第81代の安德天皇は壇ノ浦の戦いの西暦1185年まで在位していたものとされている一方,第82代の後鳥羽天皇は平家都落ちの同1183年から在位していたものとされています。治天の君たる後白河法皇といえども,二人目の天皇を立てることはできても現天皇を一方的に廃位することはできなかった,ということでしょうか(なお, 当時3歳児であらせられた第79代六条天皇から第80代高倉天皇(その中宮は平清盛の娘である徳子)への「譲位」の有効性についてはそもそも問題にされていないようです。)。承久の変後,高倉天皇の皇子である行助法親王が後高倉院として院政を始めましたが,その後高倉院にとっては,後白河法皇は余り手本にしたくはない祖父だったかもしれません(平家都落ち後の新天皇選びの際後高倉院は後白河法皇に気に入られずに践祚できなかったそうです(代わりに弟の後鳥羽天皇が践祚)。)。他方,孝謙太上天皇による淳仁天皇の廃位はどう考えるべきかということについては,「太上天皇とは・・・律令の規定では,天皇と同じ待遇と政治的権限を有していた」ところであり,かつ,「8世紀においては,まだ権力を天皇一人のみに集中させることはできず,太上天皇や皇后・皇太后など,2~3名の皇族による権力の分掌体制が残っていたのである。」ということ(大隅清陽「君臣秩序と儀礼」大津透=大隅清陽=関和彦=熊田亮介=丸山裕美子=上島享=米谷匡史『日本の歴史08 古代天皇制を考える』(講談社・2001年)65頁,66頁)並びに,つとに淳仁天皇在位中の「天平宝字六年(762)六月孝謙上皇は,「政事は,常の(まつり)へ。国家大事賞罰(もと)(われ)天皇さい賞罰国家大事宣言ていと(丸山裕美子天皇祭祀変容大津218頁)などを参考にすべきでしょうか。

 

3 我が国史における皇位に係る空位の存否

しかし,我が国の皇位に空位期間があってよいものでしょうか。『皇室典範義解』の明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)の解説は「本条は皇位の一日も曠闕すべからざるを示」すと記しています。

しかしこれは,明治皇室典範以降のことであって,万古不易の定則ではなかったところです。

美濃部達吉も「皇位の継承には何等の時間の経過なく,先帝位を去りたまふ瞬間は即ち新帝の践祚したまふ瞬間であり,皇位は寸毫の間隙も無く連続する。此の原則も亦純粋の意義に於いての世襲主義から生ずる当然の結果である。」と唱えつつも,「日本の歴史に於いても,例へば清寧天皇崩ずるの後皇嗣定まらざること3年に及び,その間飯豊青皇女が政を摂せられたやうな例も有る。」という事実は認めざるを得なかったところです(美濃部103頁)。

そもそも前記臨時御歴代史実考査委員会には宮内大臣から附帯事項として「天智天皇持統天皇ノ称制年間ハ御在位中ト見ルベキヤ否」及び「我国古代ニ於ケル皇位継承ノ際ノ空位ハ之ヲ如何ニ取扱フベキカ」についても参考意見が求められていましたが(『昭和天皇実録 第四』548頁),宮内庁ウェッブ・サイトの前記「天皇系図」によれば,結局皇位継承に当たって空位期間が生じることはあり得べきことであったものとされています。第37代の齊明天皇の在位は西暦661年までであるのに対して第38代の天智天皇の在位は同668年から始まったことになっており,かつ,第40代の天武天皇の在位は同686年で終わったものとされる一方第41代持統天皇の在位は同690年から始まったものとされています。他方,古代最初の皇位継承があった神武天皇と綏靖天皇との間で早速空位期間(西暦紀元前585年と同581年との間)が生じています。また,第14代の仲哀天皇の在位期間は西暦200年までとされているのに対して第15應神天皇の在位期間は同270年から始まったことになっていて,その間の空位期間は極めて長い。『神皇正統記』では,仲哀天皇と應神天皇との間のこの長い期間において「第十五代」として神功皇后が人皇の位にあったこととされています(北畠57頁)。承久の変後にも,1242年,第87代四条天皇と第88代後嵯峨天皇との間には「空位期間12日」(上横手197頁)がありました(皇子のないまま突如崩御した四条天皇(後高倉院の孫)の後は承久の変に関与していなかった土御門天皇の皇子である後嵯峨天皇(後高倉院の大甥)が践祚すべき旨は,鎌倉の鶴ケ岡八幡宮の神意として鎌倉から京都に伝えられ,その際,北条「泰時は順徳院の皇子の即位が実現するようなことがあれば,退位させよという決意を,使者の安達義景に伝えた」そうであるところ(上横手197頁),ここでうっかり「皇位は一日も曠闕すべからず」などとしてお公家さんらが間の悪い順徳上皇(なお佐渡で存命)の皇子を勝手に践祚させていたならば承久三年の二の舞。空位にも効用があったわけです。)。そもそも,第121代孝明天皇の在位期間が西暦1866年までとされ,第122代明治天皇の在位期間が同1867年から始まったものとされているのは,実に明治時代の直前まで皇位継承に当たって空位期間が生ずることが容認されていたということでしょうか(なお,孝明天皇の崩御日は慶応二年(十一月二十五日まで1866年)十二月二十五日ではありますが,グレゴリオ暦では1867年1月30日になります。)。

1887年3月20日の伊藤博文邸における高輪会議に提出された柳原前光の「皇室典範再稿」第39条柱書きには「空位又ハ左ノ事項ニ関シ天皇政ヲ親ラスル能ハサル間ハ摂政一員ヲ置クコト神功皇后以来ノ例ニ依ル」とあったところ,同会議の決定によって「空位」が削られていますから(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」同『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)193頁),「皇位の一日も曠闕すべからざる」原則も,同会議において初めて決定されたものでしょう(伊東巳代治も当該会議に出席していました。)。(なお,柳原前光は神功皇后を摂政の原型としていましたが,「本朝には應神うまれ給て襁褓にましまししかば,神功皇后天位にゐ給。しかれども摂政と申伝たり。これは今の儀にはことなり。」(北畠107頁。下線は筆者)という認識の存在を前提とすれば,天皇が皇位にあることを前提とした摂政を説明するのに適当な先例であったとはいえないでしょう。「神功皇后ヲ皇代ニ列スベキヤ否」は前記臨時御歴代史実考査委員会に対し1924年4月21日に諮問された事項の第一であり,その答申は皇代に列せざるを可とすだったのですが(『昭和天皇実録 第四』548‐549頁),換言すれば,神功皇后の皇統中の位置付けは,大正時代の末まではっきりしていなかったということです。)

 

4 「国政に関する権能を有しない」ことと天皇の退位の意思

日本国憲法4条1項は「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」と規定していることから,国事行為の臨時代行に関する法律(昭和39年法律第83号)に基づく天皇によるその国事に関する行為の委任における天皇の意思の位置付けが問題になり得ます(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)139頁参照)。当該委任及びその解除について,天皇の意思が実質的に働く余地が認められるのか認められないのか。天皇の国事行為の委任及びその解除には内閣の助言と承認が必要とされているところ(国事行為の臨時代行に関する法律2条,3条),国事に関する行為の委任もまた国政に関することであるとして天皇の意思が実質的に働く余地が認められないということでしょうか,そうであるのならば,その延長で,天皇の意思に基づく退位(国事行為の臨時代行の委任よりも極めて重大な行為です。)は認められないことになるのでしょうか(2017年1月1日に毎日新聞ウェッブ・サイトに掲載された野口武則記者の記事によると「政府は,〔今上〕天皇陛下に限り退位を認める特別立法に関し,退位の要件として「天皇の意思」は書き込まない方針を固めた。・・・内閣法制局は天皇の意思を退位の要件とすることは「憲法改正事項になる」との見解を示しているという。・・・法制局は,天皇の意思による退位を法律で明記すると・・・天皇が政治に影響を及ぼす可能性が残るとする。」ということですが,この「政府方針」は,同様の消極解釈に基づくものでしょう。)。それともやはり,退位となると次元の異なる場面であるということで,ベルギー国憲法の解釈(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060127005.html)に倣って,究極的には天皇個人の決断に基づく退位が認められるものかどうか。

天皇の退位の意思表示を要件とせずに天皇をその位から去らしめることは,これはもはや退位ではなく廃位であるといい得るように思われます(無論,言葉の問題に過ぎないということであれば,そうなのでしょう。)。国会においてみんなで決めた法律である退位特例法によるのだからよいのだ,廃位特例法などと変な言い方で言うのはやめろ,和を尊べ,と言われても,天皇には国会議員の選挙権はありませんから,そこでの「みんな」に含まれておられるものと直ちに解し得るものかどうか。また,英国とは異なり,現行憲法下,天皇には名目的にも立法に係る裁可権はありませんから,1936年のエドワード8世のように,自分の意思に基づく裁可によって自らを王位から去らしめる法律を制定したという形にもなりません。(なお,園部逸夫『皇室法概論』(第一法規・2002年)462頁は,「天皇の自由意思によらない廃立であっても,象徴性・世襲制に反しない場合もあり得ないとは言えず,直ちに違憲とは考えない。」と述べています。美濃部のような廃位ダメ絶対論は,飽くまでも,天皇の神聖不可侵を規定する大日本帝国憲法3条があってのものである,ということになるのでしょう(「諸国の立憲主義憲法は「国王の身体は〔原文は傍点〕不可侵」とするにとどまる。この体制において廃位の考えられるこというまでもないが,明治憲法第3条は意図してこれを避けたのである。」との指摘があります(小嶋和司「再び天皇の権能について」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』(木鐸社・1988年)118頁)。)。「廃立」とは,『岩波国語辞典 第四版』によれば,「臣下が勝手に今の君主をやめさせて別人を君主にすること」です。)

 

5 北条義時の最期

仲恭天皇を廃位したものではない建前とはなった模様である北条義時でしたが,承久の変の後3年で急死しています。「吾妻鏡では脚気の上に霍乱をわずらって死んだとあるが,保暦間記四には「元仁元年〔1224年〕六月十五日義時思ひの外めしつかひける若侍に突き殺されける」と述べて,承久の乱における身の業因の然らしめるところで「とりわきかかるむくい」と覚えて恐ろしい限りだと評している。」とのことです(北畠233頁(岩佐正の補注))。ただし,「六月十五日」は承久の変における鎌倉方の入京日なので,日付には作為があるのかもしれません。一般には義時の死亡日は六月十三日と伝えられています(上横手58頁)。義時の死因には上記の近侍による殺害説のほか,妻による毒殺説もありますが,「・・・上皇を配流したり,道徳的には道ならぬ事の限りをつくしたこのあくの強い人物の死については・・・噂こそが真実だったのかもしれない。」とされています(上横手60頁)。

 山の端に隠れし人は見えもせで入りにし月はめぐり来にけり 泰時

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北条義時の墳墓堂たる法華堂の跡地(鎌倉市。源頼朝の墓の東)

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義時法華堂とは別にインターネット情報の伝える「義時やぐら」(義時法華堂跡から更に東。向かって右側の穴がそれであるようです。)

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(承久三年の勝報を受けて「今ハ義時,思フ事ナシ。義時ハ,果報ハ,王ノ果報ニハ猶勝リマイラセタリケレ」(上横手41頁における『承久記』からの引用)とまでの揚言をあえてした北条義時も空しくなりました。)   

 

6 ロマノフ王朝の最期

しかしながらそもそも,今年(2017年)から百年前のロシア革命のことを思えば,王家に生まれた者にとっては,退位の自由や践祚拒否の自由があったとしても,詮無いことかもしれません。革命騒擾の中,グレゴリオ暦1917年3月15日にロシア帝国の皇帝ニコライ2世は退位宣言に署名して帝位を弟のミハイル大公に譲り,同大公は翌同月16日に帝位を拒否してロマノフ王朝は終焉を迎えましたが,このように降りかかる火の粉を払い,火中の栗を避けてはみたものの,ニコライもミハイルも,結局,ボルシェヴィキによる虐殺の赤い魔の手からは逃れることはできなかったところです。1918年7月17日にニコライとその家族はエカテリンブルクで皆殺しにされ,ミハイルもその前に殺されています。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

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 内閣総理大臣官邸ホームページの「内閣総理大臣一覧」の表を見ると,昭和15年(1940年)7月22日に昭和天皇によって2度目に内閣総理大臣に任じられ,翌年昭和16年(1941年)1016日に内閣総辞職して政権を投げ出すこととなった近衛文麿を首班とする内閣は,その間昭和16年(1941年)7月18日を境にして,それ以前が第2次近衛内閣,それ以後同年1018日の東条英機内閣の成立までが第3次近衛内閣であるものとされています。これに対して,大正13年(1924年)6月11日に摂政宮裕仁親王によって内閣総理大臣に任じられた加藤高明は,その死亡の日である大正15年(1926年)1月28日まで一貫して一つの加藤高明内閣の内閣総理大臣であり続けていたものとされています。

http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html

 この取扱いについては,我が国の近代史に詳しい向きから疑問を呈せられることがあります。

 

ものの本には,大正14年(1925年)8月2日以後を第2次加藤高明内閣とし,それ以前を第1次加藤高明内閣としているものがあるが,内閣総理大臣官邸ホームページはそのように取り扱っていないのはなぜか。

 

 内閣総理大臣官邸ホームページにおける「内閣総理大臣一覧」の表の記載を所与のものとしていた者にとっては意表を衝かれる質問です。「内閣総理大臣官房の人事課がそう言ったのだ。」だけでは回答にはならないでしょう。

そこで,そもそも1925年8月2日に加藤高明内閣に何が起こったのかから調べなければなりません。

 宮内庁の『昭和天皇実録 第四』(2015年・東京書籍)の1925年7月30日の項を見ると,当時の摂政宮裕仁親王は,「午後4時,内閣総理大臣加藤高明参殿につき謁を賜い,税制整理案をめぐり,政友会の2閣僚の反対により閣内不一致に陥った状況につき,奏上を受けられる。・・・政局紛糾につき,明日の日光行啓はお取り止めとなる。」とあって(295頁),翌31日については次のとおり(同頁)。

 

 31 金曜日 午前1110分,内閣総理大臣加藤高明に謁を賜い,国務大臣全員の辞表の捧呈を受けられる。同25分,内大臣牧野伸顕をお召しになり,爾後の措置につき御下問になり,牧野は公爵西園寺公望の意見を徴すべき旨を奉答する。・・・東宮侍従長入江為守をお召しになり,御殿場の西園寺の許へ赴くことを命じられる。入江は正午出発,西園寺と面会するも,西園寺は,時局に鑑み,熟慮の間しばらく奉答を猶予せられたき旨を回答する。午後9時45分,入江は摂政に復命する。

 

 これは,加藤高明内閣総辞職ということでしょう。

 しかして,それに続く1925年8月1日には「午後5時10分,内閣総理大臣加藤高明をお召しになり,加藤に内閣の再組織を命じられる。加藤は,熟慮の上奉答する旨を言上し,退下する」ということになり(『昭和天皇実録 第四』297頁),同月2日の日曜日に「〔午前10時〕35分内閣総理大臣加藤高明参殿につき,内謁見所において謁を賜い,大命拝受の言上並びに閣員名簿の捧呈を受けられる。」(同頁)という運びになっています。

「大正13年〔1924年〕6月清浦内閣の後を襲つた加藤高明内閣(大正13年6月より同14年〔1925年〕8月まで)は・・・所謂(いわゆる)「護憲三派」(憲政会,政友会,国民党)の聯立内閣であつたところ,「大正14年8月,護憲三派の聯立が破れて,加藤高明が再び組閣の命を受けた」ということになるわけですから(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)281頁),確かに,政治的に加藤高明内閣の性格は変化し,第1次加藤高明内閣から第2次加藤高明内閣への交替があったといってもよいようではあります。

 どうしたものでしょうか。加藤高明内閣総理大臣の内閣に係る1925年8月2日の取扱い(同年7月31日に国務大臣全員の辞表の捧呈があったものの,内閣の交替がなかったものとする。)と近衛文麿内閣総理大臣の内閣に係る1941年7月18日の取扱い(以下に見るように同月16日に全閣僚の辞表捧呈があったところ,内閣総理大臣は変わらずとも内閣の交替があったものとする。)との違いはどう説明されるものか。

安直にWikipediaでもって「加藤高明」及び「加藤高明内閣」について調べると,ネット上の賢者らは,1941年7月18日の第2次近衛内閣から第3次近衛内閣への交替の際においては「この時には辞表の差し戻しがなく」,又「辞表差し戻しが行われておらず,再度の首相拝命扱いとなっている」ものとしています。すなわち,1925年7月31日に捧呈された加藤高明内閣総理大臣の辞表は摂政宮裕仁親王から差し戻されたのに対して,1941年7月16日に捧呈された近衛文麿内閣総理大臣の辞表は昭和天皇から差し戻されることなくそのまま受理された,この点に両者の違いがあるのだ,ということのようです。

なるほど。

加藤高明内閣総理大臣の前例に係る『昭和天皇実録 第四』1925年8月2日の記載は,次のとおり。

 

・・・〔午前10時〕40分,内謁見所において加藤総理に謁を賜い,総理の辞表をお下げ戻しの上,閣僚人事の内奏を受けられる。1140分,狩ノ間において加藤総理侍立のもと親任式を行われ,内閣書記官長江木翼を司法大臣に,大蔵政務次官早速整爾を農林大臣に,内務政務次官片岡直温を商工大臣に任じられ,ついで留任閣僚の辞表を下げ渡される。(297298頁。下線は筆者)

 

辞表の提出だけでは内閣総理大臣辞職の効力は生じていなかったということでしょう。

「国務大臣の任免は,憲法上 天皇の大権事項に属する。従つて内閣総理大臣の罷免――内閣の退陣は,一に聖旨に存する。例へば内閣総理大臣が,闕下に伏して骸骨を乞ひ奉るが如き場合に於ても,其の之を聴許し給ふと否とは,全く天皇の御自由である。」とされていました(山崎326頁)。1925年7月31日に加藤高明内閣総理大臣は摂政宮裕仁親王に辞表を捧呈して骸骨を乞うたものの,聴許せられなかったということになるわけです。(なお,「骸骨を乞う」とは,三省堂『新明解国語辞典 第五版』によれば,「在任中,主君に捧げた身の残骸をもらい受ける意で,高官が辞職を願い出ること」とあります。)

それでは1941年7月18日の場合はどうであったのでしょうか。

まず,同15日,昭和天皇は「午後4時15分,内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜う。首相は,大本営政府連絡懇談会における日米諒解案の交渉継続の決定経緯を説明の上,昨14日夜,外相〔松岡洋右〕が自分の意向に反し,独断にて国務長官のオーラル・ステートメントに対する拒否回答のみを駐米大使に電訓したこと,さらに米国には未提示の日本側修正対案をドイツ側に内報する挙に出たことを問題視し,本日の閣議が終了した後,首内陸海四相協議の結果,外相更迭又は内閣総辞職との結論に至りし旨を奏上する。天皇は,外相のみ更迭の可否を御下問になり,首相より慎重熟慮の上善処する旨の奉答を受けられる。」という状況だったところ(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(2016年・東京書籍)429頁),同月16日の項には次のようにあります(同431頁・432頁)。

 

・・・午後4時15分,再び内大臣〔木戸幸一〕に謁を賜い,内閣が午後5時30分より臨時閣議を開き,総辞職を決定する旨の情報をお聞きになる。

・・・

午後9時頃,内閣総理大臣近衛文麿参邸〔葉山御用邸〕につき,謁を賜い,全閣僚の辞表捧呈を受けられる。首相に対し,何分の沙汰あるまで国務を執るよう仰せになる。・・・

 

同月17日には事態は次のように推移します(『昭和天皇実録 第八』432頁)。

 

午後3時30分,内大臣木戸幸一をお召しになる。内大臣より,本日午後1時,枢密院議長〔原嘉道〕及び首相経験者男爵若槻礼次郎・海軍大将岡田啓介・従二位広田弘毅・陸軍大将林銑十郎・同阿部信行・海軍大将米内光政が西溜ノ間に参集し,全員一致を以て公爵近衛文麿を後継首班に推薦した旨の言上を受けられる。・・・5時15分,参内の公爵近衛文麿内閣総理大臣に謁を賜い,内閣組織を命じられる。

 

そしていよいよ1941年7月18日。

 

午後4時23分,内大臣木戸幸一をお召しになり,組閣の状況を御聴取になる。7時13分,御学問所において公爵近衛文麿内閣総理大臣に謁を賜い,閣員名簿の捧呈を受けられる。御下問の後,閣員名簿を御聴許になる。ついで内大臣をお召しになり,閣員名簿の閲覧を許され,同30分,閣僚人事に関する内閣上奏書類を御裁可になる。8時50分,近衛をお召しになり,留任となる首相及び陸軍大臣東条英機・海軍大臣及川古志郎・文部大臣橋田邦彦・逓信大臣村田省蔵・農林大臣井野碩哉・国務大臣兼企画院総裁鈴木貞一の辞表を下げ渡される。9時,鳳凰ノ間において親任式を行われ,商工大臣豊田貞次郎海軍大将を外務大臣兼拓務大臣に,従三位勲二等田辺治通を内務大臣に,国務大臣小倉正恒を大蔵大臣に,海軍中将左近司政三を商工大臣に,逓信大臣村田省蔵を兼鉄道大臣に,陸軍軍医中将小泉親彦を厚生大臣に,内務大臣平沼騏一郎を国務大臣に,司法大臣柳川平助陸軍中将を国務大臣にそれぞれ任じられる。また,内閣総理大臣近衛文麿を兼司法大臣に任じられる。(『昭和天皇実録 第八』433434頁。下線は筆者)

 

「辞表差し戻しが行われておらず,再度の首相拝命扱いとなっている」ではなく,内閣総理大臣辞任の辞表は,骸骨は返さないよ留任だよと近衛文麿に下げ渡され,また,近衛は兼司法大臣に任じられてはいるものの改めて内閣総理大臣に任じられているものではありません。せっかくのWikipediaにおける理由付けではありましたが,なかなか成り立たないものであるようです。加藤高明内閣に係る1925年8月2日の前例どおり,1941年7月18日には第2次近衛内閣は一部閣僚の更迭はあったもののそのまま継続したものと取り扱うべきもののようではあります。山崎丹照法制局参事官は,その『内閣制度の研究』(1942年)の「附録」の「歴代内閣一覧表」において,加藤高明内閣は1925年8月2日の前後を通じて一つの内閣とする一方(附録16頁),1941年7月18日以前の内閣を「第二次近衛内閣」としつつ(附録26頁)同日以後の内閣を「所謂第三次近衛内閣」としていますが(附録27頁),ここに「所謂(いわゆる)」とあることに大いに注目すべきでしょう。

法制局参事官的な厳格な法制思考においては,「所謂第三次近衛内閣」は,実は法的には「第2次近衛内閣改造内閣」であるということであるようです。

それでは,なぜ「第三次近衛内閣」という呼称が生まれたのでしょうか。

1941年7月162315分の段階で,次のように勇ましい「政府発表」をしてしまったからでしょうか(山崎356頁)。

 

現内閣は昨夏大命を拝して以来閣内一致内外諸般の施策に最善の努力を致し来つたのであるが,変転極まりなき世界の情勢に善処してますます国策の遂行を活溌ならしめん為めには,先づ国内態勢の急速なる整備強化を必要とし,従つて内閣の構成も亦一大刷新を加ふるの要あることを痛感し,こゝに内閣総辞職を決行することゝなり,近衛内閣総理大臣は本日の臨時閣議に於て閣僚の辞表を取り纏め午後9時葉山御用邸に伺候して,之を御前に捧呈した。陛下より何分の沙汰あるまで国務を見よとの優諚を賜はつたので,近衛内閣総理大臣は恐懼して御前を退下し,待機中の各閣僚に報告した。(昭和16年7月17日 朝日新聞所載)

 

 閣内問題児である外務大臣一人を辞めさせることに手を焼いて,閣僚総出で「一緒に辞めよう」と偽装心中まがいの大げさな内閣総辞職をしたものの,お騒がせしましたが実は閣内痴話げんかの末の単なる内閣改造でしたではいかにも恰好が悪いので,これは「国内態勢の急速なる整備強化を必要とし,従つて内閣の構成も亦一大刷新を加ふるの要あることを痛感し,こゝに内閣総辞職を決行」した結果の新内閣なのだ,最早古い第2次近衛内閣ではないのだ,ヴァージョン・アップされ,「一大刷新」された「第三次近衛内閣」なのだ,と内閣自ら言い張ったのだということでしょうか。

 これに対して加藤高明としては,政友会の連中が何と言って騒ごうともやはり摂政宮殿下の信任は我にありなのだ,「護憲三派内閣」云々よりも先に飽くまで加藤高明内閣であって,それは一貫していたのだ,と自己規定した方が,元気が出たものではないのでしょうか。

1 象徴的役割にふさわしい待遇を求める憲法的規範とそれに対する横着者の発言

 

 憲法は,「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く」(1条)と規定する。「象徴」とは,無形の抽象的な何ものかを,ある物象を通じて感得せしめるとされる場合に,その物象を前者との関係においていうものである。鳩が「平和」の,ペンが「文」の象徴とされるがごときがその例である。したがって,この「象徴」は元来社会心理的なものであって,それ自体としては法と関係を有しうる性質のものではない。にもかかわらず,「象徴」関係が法的に規定されることがあるのは,基本的には,右の社会心理の醸成・維持を願望してのことである。・・・

  日本国憲法が天皇をもって「日本国」「日本国民統合」の「象徴」とするのも,基本的には右のような意味において理解される(ここに「日本国の象徴」と「日本国民統合の象徴」とある点については諸説があるが,前者は一定の空間において時間的永続性をもって存在する抽象的な国家それ自体に関係し,後者はかかる国家を成り立たしめる多数の日本国民の統合という実体面に関係していわれているものと解される)。・・・ただ,ここで「象徴」とされるものは,国旗などと違って人格であるため,その地位にあるものに対して象徴的役割にふさわしい行動をとることの要請を随伴するものとみなければならず,また,そのような役割にふさわしい待遇がなされなければならないという規範的意味が存することも否定できないであろう。・・・(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)238239頁。なお,下線は筆者によるもの)

 

憲法的規範として,①象徴たる天皇の側においては「象徴的役割にふさわしい行動」をとるよう自制せられることが要請されており,②他方,国民の側においては「そのような役割」すなわち象徴的役割に「ふさわしい待遇」を 天皇に対してなすことが当然求められているということでしょう。しかしながら,あさましいことには,象徴的役割にふさわしい待遇をなし申し上げるのを面倒臭がる横着者もいるもののようです。

 

「都に,王と云ふ人のましまして,若干(そこばく)の所領をふさげ〔多くの所領を占有し〕内裏(だいり),院の御所と云ふ所のありて,馬より()るるむつかしさよ〔うっとうしさよ〕。もし王なくて(かな)ふまじき道理あらば,木を以て作るか,(かね)を以て()るかして,生きたる院,国王をば,いづくへも皆流し捨てばや」(兵藤裕己校注『太平記(四)』(岩波文庫・2015年)280頁・第二十七巻7(なお,この岩波文庫版は西源院本を底本とする。))

 

2 皇室費,皇室用財産等

 「若干(そこばく)の所領をふさげ,内裏(だいり),院の御所と云ふ所のありて」についての不平は,毎年度の国の予算に皇室の費用が計上され憲法88条後段。皇室経済法(昭和22年法律第4号)3条は「予算に計上する皇室の費用は,これを内廷費,宮廷費及び皇族費とする。」と規定),その額が約62億円となること(宮内庁のウェッブ・サイトによると,皇室費の平成29年度歳出概算要求額は合計6238百万円です。内訳は,内廷費が3億24百万円,宮廷費が5684百万円,皇族費が2億30百万円です。そのほか平成28年度末の予算定員が1009人である宮内庁の宮内庁費が11157百万円要求されていますが,これは大部分人件費です。),国有財産中に「国において皇室の用に供し,又は供するものと決定したもの」である行政財産たる皇室用財産(国有財産法(昭和23年法律第73号)3条2項3号)が存在することなどについてのものでしょうか。

 

(1)内廷費

 皇室経済法4条1項は「内廷費は,天皇並びに皇后,太皇太后,皇太后,皇太子,皇太子妃,皇太孫,皇太孫妃及び内廷にあるその他の皇族の日常の費用その他内廷諸費に充てるものとし,別に法律で定める定額を毎年支出するものとする。」と規定し,当該定額について皇室経済法施行法(昭和22年法律第113号)7条は,「法第4条第1項の定額は,3億2400万円とする。」と規定しています(平成8年法律第8号による改正後)。「内廷費として支出されたものは,御手元金となるものとし,宮内庁の経理に属する公金としない」ものとされています(皇室経済法4条2項)。また,内廷費及び皇族費として受ける給付には所得税が課されない旨丁寧に規定されています(所得税法(昭和40年法律第33号)9条1項12号)。
 ちなみに,宮中祭祀は「純然たる皇室御一家の祭祀であつて,皇室の家長たる御地位に於いて天皇の行はせらるる所であり,国家とは何等の直接の関係の無いもの」となっているところ(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)555頁),天皇の祭祀に関与する「内廷職員とよばれる25名の掌典,内掌典は,天皇の私的使用人にすぎない」のですから(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)214頁),その報酬は内廷費から出るわけです。なお,今上天皇即位の際の大嘗祭(1990年)の費用は内廷費からではなく後に説明する公金たる宮廷費から出ていますが,大嘗祭は「皇室の宗教上の儀式」ということですから理由付けは難しく,「その際,皇位世襲制を採用する憲法のもとで皇位継承にあたっておこなわれる大嘗祭には,公的性格がある,と説明された(即位の礼準備委員会答申に基づく政府見解)。ここでは,政教分離違反の問題が生じないというための大嘗祭の私事性と,それへの公金支出を説明するための「公的性格」とを,皇位世襲制を援用することによって同時に説明しようと試みられている。」と指摘されています(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)124頁)。
 内廷費の定額は1947年当初は800万円でしたが,その内訳については,「御内帑金,これは御服装とかお身の回りの経費でございますが,その御内帑金が約50%,皇子の御養育費が約5%,供御供膳の費用,これはお食事とか御会食の経費でございますが,その供御供膳の経費が約10%,公でない御旅行の費用が約17%,お祭りの費用,用度の費用が残りというような説明がなされていた」とされています(第136回国会衆議院内閣委員会議録第3号3頁(角田素文政府委員(皇室経済主管)))。 

 

(2)皇族費

 内廷費の対象となる皇族以外の皇族に係る皇族費は,皇室経済法6条1項の定額が皇室経済法施行法8条において3050万円となっていますので(平成8年法律第8号による改正後),独立の生計を営む親王については年額3050万円(皇室経済法6条3項1号),その親王妃については年額1525万円(同項2号本文),独立の生計を営まない未成年の親王又は内親王には年額305万円(同項4号本文),独立の生計を営まない成年の親王又は内親王には年額915万円(同号ただし書),王,王妃及び女王に対してはそれぞれ親王,親王妃及び内親王に準じて算出した額の10分の7に相当する額の金額(同項5号)ということになります(なお,親王,内親王,王及び女王について皇室典範(昭和22年法律第3号)6条は,「嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫は,男を親王,女を内親王とし,3世以下の嫡男系嫡出の子孫は,男を王,女を女王とする。」と規定)。部屋住みの成年の王又は女王には,年額640万5千円という計算です。皇族費も,御手元金となり,宮内庁の経理に属する公金とはされません(皇室経済法6条8項)。
 1996年当時の国会答弁によると,各宮家には平均5人程度の宮家職員が雇用されており,給与は国家公務員の給与に準じた取扱いがされ,一般企業の従業員と同様に社会保険・労働保険に加入して事業主負担分については皇族費から支弁がされています(第136回国会衆議院内閣委員会議録第3号5頁(森幸男政府委員(宮内庁次長)))。
 なお,内廷費及び皇族費の定額改定は,1968年12月に開催された皇室経済に関する懇談会(皇室経済会議の構成員に総理府総務長官を加えた懇談会)において,物価の上昇(物件費対応)及び公務員給与の改善(人件費対応)に基づいて算出される増加見込額が定額の1割を超える場合に実施するという基本方針(「原則として,物価のすう勢,職員給与の改善その他の理由に基づいて算出される増加見込額が,定額の1割をこえる場合に,実施すること」)が了承されています(第136回国会衆議院内閣委員会議録第3号4頁・同国会参議院内閣委員会会議録第3号2頁(
角田政府委員))。 

 

(3)宮廷費及び会計検査院の検査

 宮廷費は,「内廷諸費以外の宮廷諸費に充てるものとし,宮内庁で,これを経理」します(皇室経済法5条)。宮廷費は宮内庁の経理に属する公金であるので,会計検査院の検査を受けることになるわけです。会計検査院法(昭和22年法律第73号)12条3項に基づく会計検査院事務総局事務分掌及び分課規則(昭和22年会計検査院規則第3号)の別表によると,宮内庁の検査に関する事務は会計検査院事務総局第一局財務検査第二課が分掌しているところです。平成21年度決算検査報告において,宮廷費について,「花園院宸記コロタイプ複製製造契約において,関係者との間の費用の負担割合を誤ったなどのため,予定価格が過大となり契約額が割高となっていたもの」8百万円分が指摘されています。

 これは,花園天皇に関する狼藉というべきか。しかし,才なく,徳なく,勢いがなくなれば,万世一系といえどもあるいは絶ゆることもあらんかと元徳二年(1330年)二月の『誡太子書』において甥の量仁親王(光厳天皇)に訓戒していた花園天皇としては,宮廷費に一つ不始末があるぞと臣下が騒いでもさして動揺せらるることはなかったものではないでしょうか。「余聞,天生蒸民樹之君司牧所以利人物也,下民之暗愚導之以仁義,凡俗之無知馭之以政術,苟無其才則不可処其位,人臣之一官失之猶謂之乱天事,鬼瞰無遁,何況君子之大宝乎」。また更に「而諂諛之愚人以為吾朝皇胤一統不同彼外国以徳遷鼎依勢逐鹿・・・纔受先代之余風,無大悪之失国,則守文之良主於是可足・・・士女之無知聞此語皆以為然」,「愚人不達時変,以昔年之泰平計今日之衰乱,謬哉・・・」云々。唐土の皇帝らとは異なっているので何もせずとも代々終身大位に当たってさえおれば我が国の万世一系は安泰だと奏上するのは諂諛(てんゆ)之愚人で,そうか安泰なのかと思わされるのは士女之無知だ,必要な才がないのであればその位におるべからず,時変・衰乱の今日にあっていつまでも昔のやり方でよいというのは愚人のあやまであるというようなこととされているのでしょう。

なお,大日本帝国憲法下では,「皇室経費に付いては,国家は唯定額を支出する義務が有るだけで,その支出した金額が如何に費消せらるゝかは,全然皇室内部の事に属し,政府も議会も会計検査院も之に関与する権能は無い。皇室の会計は凡て皇室の機関に依つて処理せられるのである。」ということにされていました(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)686頁)。明治皇室典範48条は「皇室経費ノ予算決算検査及其ノ他ノ規則ハ皇室会計法ノ定ムル所ニ依ル」と規定していましたが,この「皇室会計法」は「法」といっても帝国議会の協賛を経た法律ではありませんでした。1912年には,皇室令たる皇室会計令(明治45年皇室令第2号)が制定されています。皇室令は,1907年の公式令(明治40年勅令第6号)によって設けられた法形式で,「皇室典範ニ基ツク諸規則,宮内官制其ノ他皇室ノ事務ニ関シ勅定ヲ経タル規程ニシテ発表ヲ要スルモノ」です(同令5条1項)。

 

(4)ちょっとした比較

 天皇制維持のための毎年の皇室の費用約62億円及び宮内庁費約112億円は高いか安いか。ちなみに,「議会制民主政治における政党の機能の重要性にかんがみ・・・政党の政治活動の健全な発達の促進及びその公明と公正の確保を図り,もって民主政治の健全な発展に寄与することを目的」として(政党助成法(平成6年法律第5号)1条),国民一人当たり250円という計算で毎年交付される政党交付金の総額(同法7条1項)は,2016年につき31892884千円で,そのうち自由民主党分が1722079万円,民進党分が974388万円,公明党分が297209万8千円となっています(2016年4月1日総務省報道資料「平成28年分政党交付金の交付決定」)。

 

(5)国有財産及び旧御料

 GHQの意図に基づき「憲法施行当時の天皇の財産(御料)および皇族の財産を,憲法施行とともにすべて国有財産に編入するという意味」で日本国憲法88条前段は「すべて皇室財産は,国に属する。」と規定していますので(佐藤260頁),現在の「所領をふさげ」等の主体は,「王と云ふ人」ではなく,国ということになります(行政財産を管理するのは,当該行政財産を所管する各省各庁の長(衆議院議長,参議院議長,内閣総理大臣,各省大臣,最高裁判所長官及び会計検査院長)です(国有財産法5条,4条2項)。)。(なお,「皇室の御料」の沿革は,「明治維新の後は唯皇室敷地,伊勢神宮及び各山陵に属する土地及び皇族賜邸があつたのみで,その他には一般官有地の外に特別なる御料地は全く存しなかつたのであつたが,〔大日本帝国〕憲法の制定に先ち,将来憲政の施行せらるに当つては皇室の独立の財源を作る必要あることを認め,一般官有地の内から,御料地として宮内省の管轄に移されたものが頗る多く,皇室典範の制定せらるに及んでは,新に世伝御料の制をも設けられた〔明治皇室典範45条は「土地物件ノ世伝御料ト定メタルモノハ分割譲与スルコトヲ得ス」と規定〕。」というもので,「此等の御料から生ずる収入は,皇室に属する収入の重なる部分を為すもので,国庫より支出する皇室経費は其の以外に皇室の別途の収入となるもの」であったそうです(美濃部・精義685頁)。)「院の御所」は,太上天皇の住まいですから,天皇の生前退位を排除する皇室典範4条(「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」)の現在の解釈を前提とすると,問題にはなりません。

 (ちなみに,世伝御料は「皇室ノ世襲財産」で(皇室の家長が天皇),「世伝御料タル土地物件ハ法律上ノ不融通物タルモノニシテ,売買贈与等法律行為ノ目的物タルコトヲ得ズ,又公用徴収若クハ強制執行ノ目的物トナルコトナシ」とされていますが(美濃部・撮要229230頁),これにはなかなかの慮り(おもんぱかり)があったようです。すなわち,『皇室典範義解』は「(つつしみ)て按ずるに,世伝御料は皇室に係属す。天皇は之を後嗣に伝へ,皇統の遺物とし,随意に分割し又は譲与せらることを得ず。故に,〔父の〕後嵯峨天皇,〔その兄息子であって持明院統の祖である〕後深草天皇をして〔弟息子であって大覚寺統の祖である〕亀山天皇に位を伝へしめ,遺命を以て長講堂領二百八十所を後深草天皇の子孫に譲与ありたるが如きは,一時の変例にして将来に依るべきの典憲に非ざるなり。」と述べていますが(宮沢俊義校註『憲法義解』(岩波文庫・1940年)166頁),これは,南北朝期における皇統間の争いは,皇位のみならず御料の継承をもめぐるものとの側面もあったという認識を示唆するものでしょう。また,長講堂領については正に,「若干そこばくの所領をふさげ」ということになります。ただし,現在においては,御料は前記のとおり国有財産に編入されてしまっていて皇室の所有権から離れていますから,そういう点では南北朝期的事態の発生原因の一つは消えているというべきでしょうか。)

 

3 太上天皇襲撃の罪と罰

 「馬より()るるむつかしさ」といっても,さすがに「からからと笑うて,「なに院と云ふか。犬ならば射て置け」と云ふままに,三十余騎ありける郎等(ろうどう)ども,院の御車を真中(まんなか)()()め,索涯(なわぎわ)(まわ)して追物(おうもの)()にこそ射たりけれ。御牛飼(おんうしかい)(ながえ)を廻して御車を(つかまつ)らんとすれば,胸懸(むながい)を切られて(くびき)も折れたり。供奉(ぐぶ)雲客(うんかく),身を以て御車に()たる矢を防かんとするに,皆馬より射落とされて()()ず。(あまっさ)へ,これにもなほ飽き足らず,御車の下簾(したすだれ)かなぐり落とし,三十輻(みそのや)少々踏み折つて,(おの)が宿所へぞ帰りける。」(『太平記(四)』60頁・第二十三巻8)ということが許されないことはもちろんです。しかし,この場合,院(太上天皇)の身体に対する行為に係る刑罰はどうなるか。

 

(1)暴力行為等処罰に関する法律及び刑法

傷害の結果が生じていれば,「銃砲又ハ刀剣類」を用いたものとして暴力行為等処罰に関する法律(大正15年法律第60号)1条ノ2第1項に基づき1年以上15年以下の懲役に処し得るものとなるかといえば,「銃砲」にも「刀剣類」にも弓矢は含まれないようなので(銃砲刀剣類所持等取締法(昭和33年法律第6号)2条),やはり刑法(明治40年法律第45号)204条の傷害罪ということで15年以下の懲役又は50万円以下の罰金ということになるようです。ただし,常習としてしたものならば1年以上15年以下の懲役です(暴力行為等処罰に関する法律1条ノ3)。

なお,暴力行為等処罰に関する法律1条ノ3にいう常習性については「反復して犯罪行為を行なう習癖をいい(常習賭博についての,大審院昭和2・6・29集6・238参照),それは行為の特性ではなく,行為者の属性であると解せられており,かような性癖・習癖を有する者を常習者または常習犯人とよぶ」と説明されています(安西搵『特別刑法〔7〕』(警察時報社・1988年)54頁)。(ついでながら更に述べれば,常習性は,必要的保釈に係る刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)89条3号においても同様に解すべきでしょう。この場合,業として行うことは,習癖の発現として行うこと(安西55頁参照)には当たらないでしょう。筆者は,「業として」長期3年以上の懲役又は禁錮に当たる罪を犯した被告人について,保釈許可決定を得たことがあります。)

傷害の結果が生ぜず暴行にとどまれば(刑法208条参照),「団体若ハ多衆ノ威力ヲ示シ・・・又ハ兇器ヲ示シ若ハ数人共同シテ」行っていますから,暴力行為等処罰に関する法律1条により3年以下の懲役又は30万円以下の罰金ということになります。暴行を常習として行ったのならば3月以上5年以下の懲役です(暴力行為等処罰に関する法律1条ノ3)。

院に傷害が生じたかどうかが明らかではないこと,また,「猛将として知られ,青野原合戦で活躍」した「元来(もとより)酔狂(すいきょう)の者」であって「この(ころ)特に世を世ともせざ」るものであっても(『太平記(四)』59頁),それだけで直ちに暴力行為を累行する習癖が同人にあるものと断定してよいものかどうか躊躇されることといった点に鑑みて保守的に判断すると,刑罰は3年以下の懲役又は30万円以下の罰金ということになりましょうが,少々軽いようにも思われます(しかし,平安時代の花山院襲撃事件の下手人である藤原伊周・隆家兄弟は「むつかし」いこともなく大宰府及び出雲国にそれぞれ左遷で済んでいますから,むしろ重過ぎるというべきか。)。

 

(2)皇室ニ対スル罪

この点,昭和22年法律第124号によって19471115日から削除される前の刑法73条又は75条によれば,太上天皇襲撃事件の犯人は院に「危害ヲ加ヘタル者」としてすっぱりと死刑とされたことでしょう。皇室ニ対スル罪に係る両条における「危害(・・)とは生命・身体に対する侵害又は其の危険を謂ふ。」とされています(小野清一郎『刑法講義各論』(有斐閣・1928年)7頁)。現実にも康永元年(1342年)の光厳院襲撃犯である土岐頼遠は,「六条河原にて首を刎ね」られています(『太平記(四)』62頁)。ただし,太上天皇は「天皇,太皇太后,皇太后,皇后,皇太子又ハ皇太孫」に含まれるものとして刑法旧73条を適用するか,その他の皇族として同法旧75条を適用するかの問題が残っています。

 

4 象徴の必要性

ところで,前記横着者は,「王なくて(かな)ふまじき道理あらば」と認容的な言葉も発していますから,我が国体においては「日本国及び日本国民統合の象徴」(2012年4月27日決定の自由民主党日本国憲法改正草案1条の文言)の存在が不可欠であるということを完全に否認するものではないのでしょう。「日本国は,長い歴史と固有の文化を持ち,国民統合の象徴である天皇を戴く国家」なのであります(自由民主党日本国憲法改正草案前文)。

 

5 国王遺棄及び「金を以て鋳」た象徴の例

 「木を以て作るか,(かね)を以て()るかして,生きたる院,国王をば,いづくへも皆流し捨てばや」という発言は,王を移棄するぞということなのでしょうが,神聖王家の王を遺棄去って代わりに木造又は金で鋳造した御神体(象徴)を奉戴するという方法も含まれるのでしょう。後者については次のような前例がありますが,余り快適な結果にはならなかったようです。

 

 かくてイスラエル(みな)〔レハベアム。同王は,ソロモンの子,すなわちダビデの孫〕(おのれ)(きか)ざるを見たり(ここ)において(たみ)王に答へて(いひ)けるは我儕(われら)ダビデの(うち)(なに)(ぶん)あらんやヱサイ〔ダビデの父〕の子の(うち)に産業なしイスラエルよ(なんぢ)()天幕(てんまく)に帰れダビデよ(いま)(なんぢ)の家を視よと(しか)してイスラエルは(その)天幕に去りゆけり

 然れどもユダの諸邑(まちまち)(すめ)るイスラエルの子孫(ひとびと)の上にはレハベアム(その)王となれり

 レハベアム王徴募頭(ちやうぼがしら)なるアドラムを遣はしけるにイスラエル(みな)石にて彼を(うち)(しな)しめたればレハベアム王急ぎて(その)車に登りエルサレムに逃れたり

 (かく)イスラエル,ダビデの家に背きて今日にいたる 

(列王紀略上第121619

 

古代イスラエルでも王は臣民から推戴されるものだったようです。紀元前10世紀のソロモン王の死後その息子レハベアムを国王に推戴するためシケムで集会があった際,臣民の側からソロモン王時代の重い負担を軽減してくれとの請願があったところ,舐められてはならぬと思ったものか,偉大な親父の貫目に負けじとレハベアムは,お前らの負担をむしろもっと重くしてやると答えてしまったのでした。そこで,ソロモンの王国は,ダビデ王朝に反発して離反した北の十部族のイスラエル王国と,引き続きダビデ王朝の下に留まった南のユダ王国(ユダはダビデの出身部族)との二つに分裂したというわけです。イスラエル王国の初代国王としては,王位を窺う者としてソロモン王の生前エジプトに逃れていたヤラベアムが推戴されました(列王紀略上第1220)。ところが,

 

(ここ)にヤラベアム(その)心に(いひ)けるは国は今ダビデの家に帰らん

(もし)此民(このたみ)エルサレムにあるヱホバの家に礼物(そなへもの)(ささ)げんとて上らば(この)(たみ)の心ユダの王なる(その)(しゅ)レハベアムに帰りて我を殺しユダの王レハベアムに帰らんと

(ここ)に於て王計議(はかり)(ふたつ)の金の(こうし)を造り人々に(いひ)けるは(なんぢ)らのエルサレムに上ること既に(たれ)りイスラエルよ(なんぢ)をエジトの地より導き上りし汝の神を視よと

(しか)して(かれ)(ひとつ)をベテルに()(ひとつ)をダンに(おけ)

此事(このこと)罪となれりそ(たみ)ダンに(まで)(ゆき)(その)(ひとつ)の前に(まうで)たればなり

(列王紀略上第122630

 

「時代の隔たりや権力の規模とかかわりなく,およそ王権は,宗教的基盤を離れては存在しえない」ところです(村上4頁)。新たに独立したイスラエル王国の初代王ヤラベアムとしては,ダビデの神聖王家が擁する宗教的権威に対抗するために,「(かね)を以て()」った(こうし)2体必要とたのでした。

けれども,「(かね)を以て()」った(こうし)では,「生前退位」云々といった面倒はないものの生きて務めを果たしてくれるものではなく,やはり霊験が不足するのか,ヤラベアムの王朝は2代目で断絶してしまいました。

 

ユダの王アサの第二年にヤラベアムの子ナダブ,イスラエスの王と()り二年イスラエルを治めたり

彼ヱホバの目のまへに悪を(なし)(その)父の道に歩行(あゆ)(その)イスラエルに犯させたる罪を行へり

(ここ)にイツサカルの家のアヒヤの子バアシヤ彼に敵して党を結びペリシテ人に属するギベトンにて彼を(うて)()はナダブとイスラエル(みな)ギベトンを囲み()たればなり

ユダの王アサの第三年にバアシヤ彼を殺し彼に代りて王となれり

バアシヤ王となれる時ヤラベアムの全家を撃ち気息(いき)ある者は一人もヤラベアムに残さずして尽く之を(ほろぼ)せり

(列王紀略上第152529

 

ヤラベアム王朝を滅ぼしたバアシヤの王朝も,2代目が暗殺され,全家が滅ぼされて断絶します(列王紀略上第161012)。イスラエル王国ではその後最後まで頻繁に王朝交代が生ずることになりました(同王国は前721年頃にアッシリアに滅ぼされ, その構成部族は離散して「失われた十支族」となる。)。これに対してダビデ神聖王家のユダ王国は,同一王朝の下に前587年頃まで存続しました(バビロン捕囚となったものの, 後に帰還。)。神聖王家を戴く方が,「(かね)を以て()」った(こうし)を戴くよりも安定するのだと言うのは即断でしょうか。

6 妙吉侍者対高師直・師泰兄弟及び不敬罪

さて,本稿における前記横着者は,一般に高武蔵(こうのむさし)(のかみ)師直(もろなお)であるとされています。しかしながら発言主体を明示せずに書かれた『太平記』の当該部分の文からは,その兄弟である越後守(もろ)(やす)の発言であるという読み方も排除できないようです。「天皇・・・ニ対シ不敬ノ行為アリタル者」として3月以上5年以下の懲役に処せられるべき不敬罪(刑法旧74条1項)を犯したということになるようですが,このことは,高師直にとっての濡れ衣である可能性はないでしょうか。

そもそも,高師直・師泰兄弟に帰せられる当該発言は,(みょう)(きつ)侍者(じしゃ)とい,高僧・夢窓疎石の同門であることがわずかな取り柄といえども道行(どうぎょう)ともに足らずして,われ程の(がく)()の者なしと思」っている慢心の仏僧(『太平記(四)』170頁・第二十六巻2)が,足利直義に告げ口をしたものです。妙吉の人となり及び学問は,兄弟弟子の夢窓疎石の成功を「見て,羨ましきことに思ひければ,仁和寺に()一房(いちぼう)とて外法(げほう)成就の人のありけるに,(だぎ)尼天(にてん)の法を習ひて,三七日(さんしちにち)行ひけるに,頓法(とんぽう)立ちどころに成就して,心に願ふ事(いささ)かも(かな)はずと云ふ事なし。」なったというものですが(『太平記(四)』267268頁・第二十七巻5),有名人(夢窓疎石)の出るような大学に入ったものの,学者としての見栄えばかりを求める人柄で(「羨ましきことに思ひ」),そのくせ腰を入れ年月をかけて学問を成就する根気及び能力がないものか,優秀な学者・実務家が集まって伝統的仏法に係る主要経典の解釈に携わる正統的な解釈学等の学問分野からは脱落して「外法」に踏み入り,速習可能で(「三七日」すなわち21日学ぶだけ),かつ,すぐ目先の願望確保に役立つであろう浮華な流行的分野(「頓法」は,「速やかに願望を成就する修法」)に飛びついて専攻し,咜祇(だぎ)尼天(にてん)が云々と一見難解・結局意味不明禅語的言辞をもって衆人をくらまし自己を大きく見せようとばかりする,一種さもしい似非学者といったような人物だったのでしょう。夢窓疎石が妙吉を,自分に代わる禅の教師として「語録なんどをかひがひしく沙汰し,祖師〔達磨大師〕の心印をも(じき)に承当し候はんずる事,恐らくは恥づべき人〔うわまわる人〕も候は」ずと足利直義に推薦し,「直義朝臣,一度(ひとたび)この僧を見奉りしより,信心肝に銘じ,渇仰類なかりけ」りということになったのですが『太平記(四)』268頁),夢窓疎石には,同一門下の兄弟弟子らが身を立てることができるように世話を焼いてついつい法螺まで吹いてしまうという俗なところがあり(頼まれれば前記土岐頼遠の助命嘆願運動もしています(『太平記(四)』62頁)。),他方,足利直義が後に観応の擾乱の渦中においてよい死に方をしなかったのは,そもそも同人には人を見る目がなかったからだということになるのでしょうか。(また,妙吉坊主なんぞの告げ口を真に受けたということは,「権貴幷びに女性禅律僧の口入を止めらるべき事」との建武式目8条違反でもあったわけです。)

しかし,高師直・師泰兄弟のような実務の実力者からすると,似非学者の中身の無さはお見通しであり,それを夢窓疎石に対する配慮か何か知らぬが妙にありがたがっている足利直義の様子は片腹痛く,妙吉は,軽蔑・無視・嘲弄の対象にしかならなかったところです。

 

 かやうに〔妙吉侍者に対する〕万人崇敬(そうきょう)類ひなかりけれども,師直,師泰兄弟は,何条〔どうして〕その僧の智恵才学,さぞあるらんと(あざむ)いて〔たいしたことあるまいと侮って〕,一度(ひとたび)も更に相看せず。(あまっさ)へ門前を乗り打ちにして,路次(ろし)に行き合ふ時も,大衣(だいえ)を沓の鼻に蹴さする(てい)にぞ振る舞ひける。(『太平記(四)』269頁)

 

しかし,似非学者たりとはいえ(あるいは似非学者であるからこそ),妙吉のプライドは極めて高い。

 

・・・(きつ)侍者,これを見て,安からぬ事に思ひければ,物語りの端,事の(つい)でに,ただ執事兄弟の振る舞ひ(穏)便ならぬ物かなと,云沙汰せられ・・・

 吉侍者も,元来(もとより)(にく)しと思ふ高家の者どもの振る舞ひなれば,事に触れて,かれらが所行の(あり)(さま),国を乱し(まつりごと)を破る最長たりと,〔足利直義に〕讒し申さるる事多かりけり。・・・

(『太平記(四)』269270頁)

 

すなわち,前記「皆流し捨てばや」発言の出どころは似非学者の讒言であって,かつ,伝聞に基づくものであったのでした(師直・師泰兄弟とは「一度(ひとたび)も更に相看せず」ですから,妙吉が直接聞いたものではないでしょう。)。軽々に高師直を不敬罪で断罪するわけにはいかないようです。

正面から自己の智恵才学を高々と示して高兄弟を納得改心させ,その尊敬を獲得しようとはせず,妙吉侍者のわずかばかりの「智恵才学」は,権力者に媚び,告げ口によって高兄弟の失脚を狙おうとする御殿○中的かつ陰湿なものでありました。福沢諭吉ならば,妙吉とその取り巻きに対して,次のようにでも説諭したものでしょうか。いわく,「独立自尊の人たるを期するには,男女共に,成人の後にも,自ら学問を勉め,知識を開発し,徳性を修養するの心掛を怠る可らず。」であって,「怨みを構へ仇を報ずるは,野蛮の陋習にして卑劣の行為なり。恥辱を雪ぎ名誉を全うするには,須らく公明の手段を択むべし。」だよ(「修身要領」『福沢諭吉選集第3巻』(岩波書店・1980年)294頁),文明開化期に示された「識者の所見は,蓋し今の日本国中をして古の御殿の如くならしめず,今の人民をして古の御殿女中の如くならしめず,怨望に(かう)るに活動を以てし,嫉妬の念を絶て相競ふの勇気を励まし,禍福誉悉く皆自力を以て之を取り,満天下の人をして自業自得ならしめんとするの趣意」なのだろうけど(「学問のすゝめ 十三編」『福沢諭吉選集第3巻』144頁),おれもそう思うよ自分の学問で勝負せずに陰険な告げ口ばかりするのは見苦しいからやめろよ恥ずかしいよお前らからは腐臭がするよと。

(なお,本文とは関係がありませんがついでながら,刑法旧74条1項の不敬罪の成立については判例(大審院明治44年3月3日判決・刑録17輯4巻258頁)があるので紹介します。「不敬罪ハ不敬ノ意思表示ヲ為スコトニ因リテ完成シ他人ノ之ヲ知覚スルト否トハ問フ所ニ非ス左レハ被告カ至尊ニ対スル不敬ノ事項ヲ自己ノ日誌ニ記載シ以テ不敬ノ意思ヲ表示シタルコト判示ノ如クナル以上ハ其行為タルヤ直ニ刑法第74条第1項の罪を構成シ被告以外ノ者ニ於テ右不敬ノ意思表示ヲ知覚セサリシ事実アリトスルモ同罪ノ成立ニ何等ノ影響ヲ及ホササル」ものとされているものです。どういうわけか児童買春,児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律(平成11年法律第52号)7条1項の構成要件が想起されるところです。)

 
 しかし,似非学者はなかなかしぶとく生き残るものです。

 貞和(じょうわ)五年(1349年),足利直義と高師直・師泰兄弟との最初の対決が,直義の逃げ込んだ足利尊氏邸を取り囲んだ高兄弟の勝利に終わり,直義は政務から引退することになった翌朝,

 

 ・・・やがて人を遣はして,(きつ)侍者らん先立堂舎(こぼ)取り散浮雲(ふうん)富貴(ふっき)(たちま)り。

 (『太平記(四)』299頁・第二十七巻11

 

その後の妙吉侍者はもと住所すみかって太平記(314頁・第二十七巻13閑居して,残された数少ない献身的かつ熱意ある信奉者と有益な議論などをし,更に農事などに手を染めつつ,我は夢窓疎石の同門なるぞとの誇りとともに,つつがなく余生を過ごしたものでしょうか。

1 祭祀大権の摂政による代行に関する議論

 

  「天皇ハ我ガ有史以前ヨリ伝ハレル国家的宗教トシテノ古神道ニ於テ其ノ最高ノ祭主トシテノ地位ニ在マシ,親シク皇祖皇宗並歴代天皇及皇親ノ霊ヲ祀リ及天地神明ヲ祭ル,之ヲ祭祀大権ト謂フコトヲ得。祭祀大権ハ憲法ニモ皇室法ニモ何等ノ規定ナク,一ニ慣習法ニ其ノ根拠ヲ有スルモノナリ。祭祀大権ハ其ノ性質上輔弼ノ責ニ任ズルモノナキコトニ於テ其ノ特色ヲ有ス。」(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)188頁)

 

  「祭祀ハ一般国務及皇室ノ事務ノ外ニ之ト相並ビテ重要ナル天皇ノ大権ヲ為スモノナリ。」(美濃部205頁)

 

  「・・・歴史上の天皇は,何よりもまず,祭りをする人であり,この本質は,終始,天皇の宗教的権威の原基をなしてきた。敗戦後の日本国においても,天皇の最高祭司としての本質は不変であり,「祭祀大権」は,基本的には揺らいではいない。」(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)217頁)

 

 さて,この祭祀大権は,摂政が置かれたとき(現行憲法5条,大日本帝国憲法17条)にはどうなるか。摂政による祭祀大権の代行には制限はないのでしょうか。美濃部達吉は「摂政ガ天皇ヲ代表スルノ範囲ハ一切ノ大権ニ及ビ,国務上ノ大権ノ外皇室大権軍令大権及栄典大権モ亦等シク其ノ代行スル所ナリ。」と説いていますが(美濃部238頁),そこでは祭祀大権は,摂政によって代行されるものとして明示的に言及されていません。

摂政と祭祀大権との関係については,2016年7月21日付けの当ブログ記事「明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)に関して」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.htmlにおいて次のように記したところです。

 

「皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは,摂政は,天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には前条第1項の規定〔「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」〕を準用する。」と規定する現行憲法5条を前提とすれば, 摂政は国事行為に係る代理機関にすぎず(また,「摂政は天皇ではないから,「象徴」としての役割を有しない。」とも説かれています(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)259頁)。)祭祀については困る,とあるいは更に反論できたのでしょうが, 大日本帝国憲法下では(その第17条2項は「摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ」と規定。『皇室典範義解』には「摂政は以て皇室避くべからざるの変局を救済し,一は皇統の常久を保持し,二は大政の便宜を疎通し,両つながら失墜の患を免るゝ所以なり。摂政は天皇の天職を摂行し,一切の大政及皇室の内事皆天皇に代り之を総攬す。而して至尊の名位に居らざるなり。」と説明されていました(岩波文庫147頁)。), 「祭祀ニ付テ」も「天皇ノ出御アルコト能ハザル場合ニ於テ摂政之ヲ代行スル」こととなっていました(美濃部239頁。ただし,「祭祀ニ付テ・・・皇室祭祀令ニハ天皇幼年ノ場合ニモ親ラ出御アルベキコトヲ定メ,以テ摂政ノ必ズシモ代行スル所ニ非ザルコト」が示されていたそうです(美濃部239頁)。確かに,皇室祭祀令(明治41年皇室令第1号)の附式には「天皇襁褓ニ在ルトキハ女官之ヲ奉抱ス」等の「注意」が記されています。)。ちなみに,摂政令(明治42年皇室令第2号)1条は「摂政就任スル時ハ附式ノ定ムル所ニ依リ賢所ニ祭典ヲ行ヒ且就任ノ旨ヲ皇霊殿神殿ニ奉告ス」と規定していました。これは,1909年1月27日の枢密院会議における奥田義人宮中顧問官の案文説明によれば,「其〔摂政〕ノ誠実ヲ表明スル為メ設ケタル規定」です。いずれにせよ,大日本帝国憲法下の摂政の制度は特殊なもので,同日の奥田宮中顧問官の説明においてはまた「然ルニ摂政ニツキテハ古来依ルヘキ例ナシ故ニ此ノ〔摂政令〕案ノミハ全ク新タニ出来タルモノト御承知ヲ乞フ」と述べられていました。なお,19451215日のGHQのいわゆる神道指令後には天皇の「祭祀大権は全く失は」れ,宮中祭祀は「純然たる皇室御一家の祭祀」となって「皇室の家長たる御地位に於いて天皇の行はせらるる所」とされています(美濃部555頁)。皇室の家長の交代には,譲位が必要ということになるのでしょうか。

 

 以上の点に関して,園部逸夫博士は,現行憲法における摂政について,「摂政としての私的な行為」の存否いかんとの問題設定(「一つは,摂政にも摂政としての私的な行為があるとする考えである。・・・/他の一つは,摂政とは,国の機関としての地位のことであり,摂政としての私的な行為はそもそも存在しないとする考えである。・・・私的な行為については,摂政の地位にある皇族が皇族として私的に行うのであればともかく,摂政として私的に行うことは,摂政概念上あり得ないという立場である。」(園部逸夫『皇室法概論』(第一法規・2002年)149頁))の下に,宗教的色彩のある行為について,「こうした旧皇室令の登極令及び摂政令〔1条〕による儀式は,いずれも摂政の立場で行うことに意義があるとともに,宗教的色彩を有すると見られることは否定できない行為であり,これを両立させるためには,摂政に私的な立場があることを認めその上で摂政が私的立場で私的な行為として行うと解するか,摂政たる皇族に対して皇室として摂政たる皇族としての私的な地位・身分を付与し,それを便宜上摂政と称するものと解するか,が考えられるが後者はいかにも無理がある。/したがって,摂政が設置される事態が生じ,これらの儀式に当たる儀式を皇室の行事として行うような場合があれば,それは,摂政たる皇族が私的な立場で私的な行為として行うことになるが,それは事実上摂政である皇族が,天皇の御告文を奏し,また,自らの告文を奏することになるものと解される。」と論じています(園部151頁)。「摂政としての私的な行為」の存在を認めず(「摂政たる皇族」の「私的な行為」であるものとされていて,端的に「摂政としての私的な行為」が行われるものとはされていません。),かつ,「皇室として摂政たる皇族としての私的な地位・身分を付与」することも無理であるとしつつ,最後は「事実上」の解決に委ねるものとするということでしょうか。
 ところで,2016年7月21日付けの当ブログ記事における前記の記載はいわば学説の紹介にとどまるものであって,大日本帝国憲法下において,皇太子裕仁親王が大正天皇の摂政として天皇の事を摂行した際(
19211125日から19261225日まで)における具体的実例の紹介にまで及んでいないところに意に満たないところがありました。

 そこで今般,宮内庁の『昭和天皇実録 第三』(東京書籍・2015年)を入手し,皇太子裕仁親王の摂政就任当時の実例及び議論を調べてみたところをまとめたのが,このブログ記事です。

 それにしても,函入りで堂々たる装丁の本文989頁の書物が消費税額込みで2041円との値段は(古書店において1000円で売っているのも見かけました。),日本の20世紀についていささか内容と深みのあるかのごとき言説を行おうとする者に対して,『昭和天皇実録』の利用の回避という横着は許さないぞという価格設定ではあります。

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 昭和天皇記念館(東京都立川市) 

 

2 摂政宮裕仁親王による大正天皇の祭祀大権の代行

 

(1)光格天皇例祭(小祭)に当っての宮中における整理:「摂政は天皇に代わり祭祀を行うもの」とする。

 さて,『昭和天皇実録 第三』(以下「実録第三」)の19211212日の項によると,実は前月の皇太子裕仁親王の摂政就任後になってから初めて,摂政による祭祀大権の代行についての整理が行われたもののようです。

 

 この日光格天皇例祭につき,侍従徳川義恕が御代拝を奉仕する。これより先,本祭典は摂政御就任後初めての御親祭につき,宮内次官関屋貞三郎・宮内省参事官南部光臣・同渡部信・式部長官井上勝之助・式部次長西園寺八郎・掌典長九条道実・帝室会計審査局長官倉富勇三郎・内匠頭小原〔馬偏に全〕吉等関係高等官は数次にわたり協議を行い,摂政は天皇に代わり祭祀を行うものとし,摂政御拝礼実際は行啓中につき御代拝・皇后御拝礼の順とすること,摂政御拝礼なきときは,その御代拝が行われることなどを定める。(実録第三539頁)

 

光格天皇は大正天皇の4代前の天皇ですから(光格天皇,仁孝天皇,孝明天皇,明治天皇,大正天皇と続く。),その毎年の崩御日に相当する日には先帝以前3代の例祭の一として,天皇が皇族及び官僚を率いて(みずか)拝礼し掌長が祭典を行う祭が行われたものです(皇室祭祀令(明治41年皇室令第1号)21条,20条1項)。小祭に係る皇室祭祀令20条2項には「天皇喪ニ在リ其ノ他事故アルトキハ前項ノ拝礼ハ皇族又ハ侍従ヲシテ之ヲ行ハシム」とありますから,大正天皇に事故アルトキとして大正天皇の侍従が代拝をしたということでもよさそうなのですが(天皇が「親ラ拝礼」することが原則になっているので,天皇の親拝又は代拝は必須ということになります。),徳川侍従は行啓中の摂政宮裕仁親王の代拝を,皇后御拝礼に先立ってしたということになるようです。19211212日当日の摂政宮裕仁親王の行啓日程は,翌日の伊勢神宮での摂政就任奉告のため,朝静岡御用邸発,午後伊勢山田の神宮司庁着というものでした(実録第三538539頁)。

先帝以前3代の例祭は皇霊殿で行われ(皇室祭祀令25条1項),皇室祭祀令附式第2編皇霊殿ノ儀によると,天皇,皇后,皇太子,皇太子妃及び諸員の順で御拝礼及び拝礼があるべきもののようです。

しかしながら,「摂政は天皇に代わり祭祀を行う」という前記の結論に達するまでは,宮内省関係高等官中にも異論が多く侃々諤々(かんかんがくがく)であったようです。

 

ただし,摂政の権限は祭祀に及ばずとの解釈があり,あるいは摂政は明文ある場合の外は摂政として祭祀を行うべきではなく,また,摂政の班位は皇太子よりも下となるため,摂政として皇太子が祭祀に参列する場合は,皇后の次に拝礼すべきであり,摂政としての拝礼のほか皇太子としても拝礼を要するなどの異論もあり,『宮内省省報』には,御代拝の場合は単に御代拝の事実とその奉仕者のみを記し,その主体は摂政であるとも天皇であるとも明示せず。(実録第三539頁)

 

なかなかすっきりしていません。

なお,摂政の班位(席次)については,「皇族ノ班位ニ関シ,皇太子,皇太孫,又ハ皇后,皇太后,太皇太后ノ摂政タル場合ニ於テハ普通ノ例ニ依ルト雖モ,他ノ皇族ノ摂政タル場合ニ於テハ三后及皇太子又ハ皇太孫及其ノ妃ヲ除クノ外他ノ皇族ノ上ニ列セシム(皇族身位令5条)」るものだったそうです(美濃部240241頁)。皇族身位令(明治43年皇室令第2号)1条によれば,皇族の班位の順序は①皇后,②太皇太后,③皇太后,④皇太子,⑤皇太子妃,⑥皇太孫,⑦皇太孫妃,⑧親王親王妃内親王王王妃女王となっていました。皇族身位令5条の条文は「摂政タル親王内親王王女王ノ班位ハ皇太孫妃ニ次キ故皇太孫ノ妃アルトキハ之ニ次ク」というものでした。親王,内親王,王及び女王については,明治皇室典範31条は「皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ内親王トシ5世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス」と規定していました(なお,同典範57条は「現在ノ皇族5世以下親王ノ号ヲ宣賜シタル者ハ旧ニ依ル」と規定)。

 

(2)摂政による代行の例外:四方拝(歳旦祭(小祭)に先立ち行われる祭儀)

また,「摂政は天皇に代わり祭祀を行う」としても,天皇に専属するものであって摂政が代行すべきではないものとされた祭儀があります。元旦の四方拝です。『昭和天皇実録 第三』の1922年1月1日の項には次のようにあります。

 

摂政御就任後初めて新年を迎えられる。四方拝は執り行われず,歳旦祭の儀には,侍従原恒太郎が摂政御代拝を奉仕する。四方拝については従来,天皇に事故あるときは行わないとする説と,摂政が代わりに行うとする説との両説が存在し,一旦は実施と決定したが,その後,皇室祭祀令第23条第2項中「但シ天皇喪ニ在リ其ノ他事故アルトキハ四方拝ノ式ヲ行ハス」の規定に基づき,これを行わないこととなる。晴御膳もまた四方拝と同じく,天皇に専属する儀であり,摂政において摂行せらるべきものではないとされ,行われず。

(実録第三555頁)  

 

「四方拝は,元日早朝に天皇が諸神,諸陵を遥拝し,年災を祓い,五穀の豊饒,宝祚の長久,国家国民の安寧を祈る重儀」で,「古制では,陽気の発する正寅の刻(午前4時)に,(ぞく)(しょう)(北斗七星の一つ)を唱えて,天地四方を拝することから四方拝とよばれ,古代以来,天皇をはじめ,ひろく一般でも行われた年頭の儀式でした(村上96頁)。「天皇は,潔斎後,午前5時に綾綺(りょうき)殿に出御して,黄櫨(こうろ)(ぜん)(ほう)に着がえ,手水の儀ののち,侍従が脂燭(しそく)先導するなかを,午前5時30分,仮殿に出御する。天皇は,拝座で,皇大神宮,豊受大神宮を遥拝し,つぎに四方の天神地祇,神武天皇と先帝の各山陵,氷川,石清水,賀茂,熱田,鹿島,香取の各神社を順次拝礼するという。」とのことですから(村上9697頁),寒い冬の早朝から大変です。四方拝については,皇室祭祀令23条2項本文に「歳旦祭ノ当日ニハ之ニ先タチ四方拝ノ式ヲ行」うとあります。歳旦祭は1月1日に行われる小祭です(皇室祭祀令21条)。

晴御膳については,平田久の『宮中儀式略』(民友社・1904年)に次のような解説があります(28頁)。

 

(はれ)御膳(のおもの)は新年の御儀式中,1月1日2日3日の三ヶ日に,鳳凰之間に出御あらせられて此供進を聞食すなり。明治四年の比より行はせらるゝと云ふ。

謹案するに晴御膳は維新前の御儀式に,正月一日二日三日清凉殿の朝餉(あさかれひ)(御間の名)に出御あらせられて聞食す朝餉の御膳に当れり。此名称は維新前の節会に供進する御膳の中に,(はれ)御膳(のおもの)(わき)御膳(のおもの)などあるより出でたるものならんか。

 

(3)他の大祭・小祭

 

ア 賢所御神楽(小祭)

これより先19211215日には,賢所御神楽(みかぐら)の小祭(皇室祭祀令21条)がありましたが,同日摂政宮裕仁親王はなお行啓中(京都を発して静岡着)だったので,「侍従清水谷実英が御代拝を奉仕する。」ということになりました(実録第三542頁)。

 

イ 元明天皇千二百年式年祭(小祭)

1922年1月2日の元明天皇千二百年式年祭(皇室祭祀令21条の小祭。同令25条2項,10条1項)については,「侍従松浦靖が摂政御代拝を奉仕する。」ということでした(実録第三558頁)。皇太子裕仁親王がなお摂政に就任する前の1921年1月1日の歳旦祭(小祭)におけるような「皇太子御代拝を東宮侍従長入江為守が奉仕する。」(実録第三1頁)というものではありません。

 

ウ 元始祭(大祭)

1922年1月3日は,皇太子裕仁親王の摂政就任後最初の大祭である元始祭でした(皇室祭祀令9条)。

「大祭ニハ天皇皇族及官僚ヲ率ヰテ親ラ祭典ヲ行フ」ものとされ(皇室祭祀令8条1項),「天皇喪ニ在リ其ノ他事故アルトキハ前項ノ祭典ハ皇族又ハ掌典長ヲシテ之ヲ行ハシム」とされていました(同条2項)。小祭においては掌典長が祭典を行うところで天皇が親ら拝礼をするもの(皇室祭祀令20条1項)であるのに対して,大祭においては掌典長ではなく天皇が親ら祭典を行うものであるところに小祭と大祭との違いがあります。1922年1月3日,摂政宮裕仁親王は,

 

元始祭につき,午前9時30分,摂政の御資格にて御出門になる。綾綺殿にて御儀服にお召し替えの後,賢所へ御参進になる。このとき掌典長が前行し,侍従1名が御剣を奉じ,別の侍従1名が後ろに候す。内陣に御着座になり御拝礼,御告文を奏される。続いて皇霊殿・神殿にもそれぞれ御拝礼,御告文を奏される。

 

とあります(実録第三558頁)。「摂政の御資格にて」元始祭の祭典を行ったということでしょう。摂政就任前の1921年1月3日の元始祭では,皇太子裕仁親王は「元始祭につき賢所・皇霊殿・神殿に御拝礼」になっただけです(実録第三2頁)。

 なお,元始祭等の宮中祭祀については,2014年5月4日付けの当ブログの記事「国民の祝日に関する法律及び「山の日」などについて」において若干説明したところがありますので,御参照ください(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1002497213.html)。

 

エ 孝明天皇例祭(小祭)

 1922年1月30日は,小祭たる孝明天皇の例祭(皇室祭祀令21条)。摂政宮裕仁親王は,

 

 孝明天皇例祭につき,午前9時20分摂政の御資格にて御出門,皇霊殿に御拝礼になる。(実録第三575頁)

 

オ 紀元節祭(大祭)

 1922年2月11日は,大祭たる紀元節祭(皇室祭祀令9条)。

 

 午前9時35分,摂政特別鹵簿にて御出門,紀元節祭につき皇霊殿に参進し御拝礼,御告文を奏される。続いて御参内,豊明殿における紀元節宴会に御臨席になる。・・・午後零時45分終了,一旦還啓の後,紀元節御神楽の儀につき午後5時10分再び御出門,皇霊殿に御拝礼になる。(実録第三580頁)

 

鹵簿(ろぼ)とは,「行幸・行啓の行列。」とあります(『岩波国語辞典第四版』(1986年))。前年1921年の紀元節祭では,摂政就任前の皇太子裕仁親王は「紀元節祭の儀につき,皇霊殿において天皇御代拝に続き御拝礼」になっていました(実録第三13頁)。

 

カ 祈年祭(小祭)

 1922年2月17日は,小祭たる祈年祭(皇室祭祀令21条)。

 

 祈年祭につき,午前9時25分,摂政の御資格にて御出門,賢所・皇霊殿・神殿に御拝礼になる。(実録第三581582頁)

 

「古制の祭典である祈年祭は,イネの予祝祭に起源し,古代には,奉幣と神祇官での祭典が行われた。古来,宮中をはじめ各神社でも重要な祭典として行われており,伊勢神宮では,神嘗祭,新嘗祭と並ぶ大祭にさだめられた。皇室祭祀の祈年祭は,年穀の豊饒,産業の発展,皇室と国家の隆昌を祈る祭りとされ,2月17日を祭日としている」ものだそうです(村上97頁)。ただし,「実際に天皇による祈年祭の拝礼が行われたのは,1916年(大正5)2月17日が最初であるという。」とされています(村上98頁)。

 

キ 仁孝天皇例祭(小祭)

1922年2月21日は,小祭たる仁孝天皇例祭(皇室祭祀令21条)。

 

仁孝天皇例祭につき,午前9時25分摂政の御資格にて御出門,皇霊殿に御拝礼になる。終了後,還啓される。(実録第三583頁)

 

ク 春季皇霊祭・同神殿祭(大祭)

 1922年3月21日には,いずれも大祭である春季皇霊祭及び春季神殿祭がありました(皇室祭祀令9条)。

 

 春季皇霊祭・同神殿祭につき,午前9時30分,摂政の御資格にて御出門,皇霊殿・神殿にそれぞれ御拝礼,御告文を奏される。(実録第三595頁)

 

ケ 神武天皇祭(大祭)

 1922年4月3日,大祭たる神武天皇祭(皇室祭祀令9条)。

 

 神武天皇祭につき,午前9時35分,摂政の御資格にて御出門,皇霊殿に御拝礼,御告文を奏される。1035分御帰還になる。(実録第三601頁)

 

コ 昭憲皇太后例祭(小祭)

1922年4月11日は,明治天皇の皇后であった昭憲皇太后の例祭(皇室祭祀令21条の小祭)。

 

昭憲皇太后例祭につき,午前9時25分摂政の御資格にて御出門,皇霊殿に御拝礼になる。(実録第三607頁)

 

サ 明治天皇十年式年祭(大祭)

 1922年7月30日は,大祭たる明治天皇十年式年祭(皇室祭祀令10条2項,9条)の山陵の儀(同令18条)がありました。

 

 明治天皇十年式年祭山陵の儀につき,午前7時40分自動車にて大宮御所を御出門,8時10分桃山御陵所に御到着になる。参集所において皇后御名代の鳩彦王妃允子内親王及び恒憲王等と御対面の後,摂政の御資格にて御陵に御参進になり御拝礼,御告文を奏される。ついで非公式にて昭憲皇太后陵に御拝礼の上,大宮御所に還啓される。なお皇霊殿の儀,御神楽の儀には雍仁親王が摂政御名代として拝礼する。(実録第三691頁)

 

 皇室祭祀令18条には「神武天皇及先帝ノ式年祭ハ陵所及皇霊殿ニ於テ之ヲ行フ但シ皇霊殿ニ於ケル祭典ハ掌典長之ヲ行フ」とありました。摂政宮裕仁親王の1歳違いの弟である秩父宮(やす)(ひと)親王につてはこの年6月25日に成年式が行われ(満20年(明治皇室典範14条)),秩父宮の称号が与えられています(実録第三655656頁)。秩父宮雍仁親王は,明治天皇十年式年祭の前々日(同月28日)に陸軍士官学校を卒業したばかりでした(実録第三690頁)。前年1921年の明治天皇祭においては,欧洲訪問の帰途アデン湾を航行する御召艦香取艦上にあった摂政就任前の皇太子裕仁親王のために「東宮侍従本多正復が御代拝を奉仕」しています(実録第三430頁)。

 朝香宮鳩彦(やすひこ)王妃の允子(のぶこ)内親王は,大正天皇の異母妹。Art décoの朝香宮邸は,現在,東京都庭園美術館(東京都港区白金台)となっています。

 賀陽(かや)宮恒憲王は,掌典長の公爵九条道実の娘である敏子と前年1921年5月3日に結婚していますが(実録第三112頁),九条道実の妹・節子(さだこ)こそが,摂政宮裕仁親王の母たる大正天皇の皇后(貞明皇后)なのでした。

 

シ 天長節祭(小祭)

 1922年8月31日は,大正天皇の天長節祭の小祭でした(皇室祭祀令21条)。

 

 午前7時50分東宮仮御所御出門,上野駅8時10分発の列車にて日光田母沢御用邸に行啓される。正午御到着。天皇・皇后に御拝顔の後,天長節の内宴に御臨席になり天皇・皇后並びに昌子内親王と御会食,宮内大臣牧野伸顕以下側近高等官に御陪食を仰せ付けられる。なお,去る26日カムチャッカ沖において軍艦新高遭難につき,軍楽隊による奏楽は君が代1回に止められる。午後2時30分より御用邸内御馬場において,天皇・皇后・昌子内親王と御同列にて近衛兵による乗馬戦その他の催しを御覧になる。・・・

 天長節につき,侍従松浦靖が賢所・皇霊殿・神殿への摂政御代拝を奉仕する。(実録第三702703頁)

 

 大正天皇の天長節でありますが,祭祀としては,摂政宮皇太子裕仁親王について,皇太子のための代拝(摂政就任前の1921年の代拝者は東宮侍従牧野貞亮(実録第三445頁))ではなく摂政のための代拝がされています。

 昌子内親王は,大正天皇の異母妹で,竹田宮恒久王に嫁しました。

 

ス 秋季皇霊祭・同神殿祭(大祭)

 1922年9月24日,大祭である秋季皇霊祭・同神殿祭(皇室祭祀令9条)。

 

 秋季皇霊祭・同神殿祭につき,午前9時30分摂政の御資格にて御出門,皇霊殿・神殿に御拝礼になり,御告文を奏される。(実録第三711頁)

 

 前年1921年9月23日の秋季皇霊祭・同神殿祭においては,なお摂政に就任していない皇太子裕仁親王は「天皇御代拝に続き皇霊殿・神殿に御拝礼」になっていたところです(実録第三481頁)。

 

セ 神嘗祭(大祭)

 19221017日,大祭である神嘗祭(皇室祭祀令9条)。

 

 神嘗祭につき,午前9時30分摂政の御資格にて御出門,神嘉殿南庇に設けられた御座より神宮を御遥拝になり,ついで賢所に御拝礼,御告文を奏される。1045分還啓になる。(実録第三728頁)

 

前年1921年の神嘗祭では,摂政就任前の皇太子裕仁親王は「賢所に行啓され,天皇御代拝,皇后御拝礼についで御拝礼」になっていました(実録第三495頁)。

 

ソ 1922年の新嘗祭(大祭)

 さて,19221123日の新嘗祭。

「天皇の宗教的権威は,イネの祭りの新嘗祭(にいなめさい)に淵源している。新嘗祭は,古代から現在にいたるまで,つねに天皇の祭祀の中心であり,天皇の即位にさいしては,新嘗祭の大祭である大嘗祭(だいじょうさい)が,一代一度の祭典として挙行される。」といわれ(村上1頁),「新嘗祭は,皇室神道にとって最重要の祭典」です(村上14頁)。「本来の新嘗祭は,穀霊ないしムスビの神と王が一体化する儀礼であったのであろう。」とされ,「穀霊は,一般に生産する力,生殖する力をそなえた女性の霊格とされるから,新嘗祭の祭司をつとめることをもっとも重要な宗教的機能とする天皇は,終始,男帝を原則とし,女帝は例外的な存在にとどまったであろう。」ともいわれています(村上19頁)。

ところが,192211月,摂政宮裕仁親王は,香川県における特別大演習統裁のため同月12日東京を出発(実録第三742743頁),同月14日高松着(実録第三744頁)。軍事に係る当該特別大演習の日程は同月19日をもって終了したものの,同月20日からは「皇太子の御資格による南海道行啓」が続きました(実録第三750751頁)。同月22日に松山市内に入り,御泊所久松伯爵別邸に御到着(実録第三755頁)。そして,同月23日。

 

新嘗祭につき,午後9時15分御遥拝を行われる。また東宮侍従牧野貞亮を天皇・皇后への御使として宮城に差し遣わされる。この日は終日御泊所に御滞留になり,朝融王,元東宮職出仕久松定孝及び供奉員等を御相手に,ビリヤード・将棋等にて過ごされる。(実録第三756頁)

 

21歳の青年らしい,旅先での滞留日の過ごし方というべきでしょうか。しかしながら,「摂政は天皇に代わり祭祀を行う」にもかかわらず,「天皇の祭祀の中心」である「皇室神道にとって最重要の祭典」たる新嘗祭に対して御遥拝で済ますとは,いささか淡泊であるようでもあります。

久邇宮(あさ)(あきら)王は,摂政宮裕仁親王と同年の1901年生まれ,後の香淳皇后となる良子(ながこ)女王の兄。久松定孝は,摂政宮裕仁親王の学習院初等学科・東宮御学問所時代の学友。同年代の若者3人で遊んで,随分楽しかったことでしょう。
 なお,この日にはまた,23年後に昭和天皇の聖断の下内閣総理大臣としてポツダム宣言を受諾することとなる鈴木貫太郎呉鎮守府司令長官も久松伯爵別邸を訪れています(実録第三756頁)。 

 

3 1923年の新嘗祭まで

 

(1)麻疹

四国及び和歌山県の南海道行啓から,摂政宮裕仁親王は192212月4日に東京に還啓しました(実録第三772頁)。

摂政宮裕仁親王は,畏るべきいわゆるパワー・スポットたる香川の金刀比羅宮(19221118日),同じく香川の崇徳天皇白峯陵(同月20日),更に淡路島の淳仁天皇陵(同月30日)をきちんと訪れたのですが(実録第三748頁,751頁,767頁),『昭和天皇実録 第三』の帰京後19221212日の項はいわく(776頁)。

 

近来御鼻塞の症状があり,去る9日よりアスピリンを服用され,11日には吸入を行われるものの,次第に御風気様の症状が増し,この日午前7時30分の検温では御体温が39度に達したことから,御仮床に就かれる。正午には39度7分まで御体温が上昇する。

 

御違例です。同日の光格天皇例祭については「侍従加藤泰通に御代拝を仰せ付けられる。」ということになりました(実録第三776頁)。

13日には発疹が確認され,麻疹(はしか)と診断されました(実録第三776頁)。同日午後8時には体温が40度9分にまで上昇(実録第三776頁)。はしかといっても子供ばかりがかかるわけではありません(ただし,最近の我が国でははしかはほとんど見られなくなりました。)。御違例は長引きました。摂政宮裕仁親王の内々の御床払は1923年1月19日,正式の御床払は同月22日となりました(実録第三782頁,783頁)。その後も,同月25日から沼津で静養となり(実録第三787頁),東京の東宮仮御所への御帰還は実に同年3月20日となりました(実録第三802頁)。

 

(2)北白川宮成久王の自動車事故死事件

1923年4月1日には,パリ滞在中の北白川宮成久王がノルマンディー方面に向けて自動車を自ら運転中,パリから約134キロメートルの地点で先行車を追い抜いた際路側の並木のアカシアに自動車を衝突させてしまって薨去し,同乗の成久王妃房子内親王(大正天皇の異母妹)及び朝香宮鳩彦王も重傷を負うという事故が発生します(実録第三810頁)。摂政宮裕仁親王による同月3日の神武天皇祭の御拝礼は取り止め,九条道実掌典長が御代拝を奉仕ということになりました(実録第三810頁)。

 

(3)台湾行啓に際しての水兵殉職

1923年4月13日の金曜日,熊野灘において,御召艦金剛で台湾に向かう摂政宮裕仁親王の供奉艦比叡(なお,旗艦は霧島)から三等水兵松尾与作が海中に転落,救助することはできませんでした(実録第三817818頁)。

 

(4)潜水艦沈没事故

1923年8月21日には,神戸川崎造船所で竣工した第70潜水艦が淡路仮屋沖において試験航行中沈没し,海軍側・造船所側の乗員計八十余名が殉職しました(実録第三911頁)。

 

(5)現職内閣総理大臣加藤友三郎の死

1923年8月24日,現職の内閣総理大臣である海軍大将加藤友三郎が死亡し(ただし「危篤」ということにされた。),翌25日,同日死去と発表されました(実録第三911912頁)。

 

(6)関東大震災

そして1923年9月1日,関東大震災。皇族では,山階宮武彦王妃佐紀子女王,東久邇宮師正王及び閑院宮(こと)(ひと)親王の四女である寛子女王がいずれも建物倒壊のため薨去しました(実録第三918頁)。帝都大荒廃。(「其ノ震動極メテ峻烈ニシテ家屋ノ潰倒男女ノ惨死幾万ナルヲ知ラス剰ヘ火災四方ニ起リテ炎燄天ニ冲リ京浜其ノ他ノ市邑一夜ニシテ焦土ト化ス・・・流言飛語盛ニ伝ハリ人心洶々トシテ倍々其ノ惨害ヲ大ナラシム」「朕前古無比ノ天殃ニ際会シテ卹民ノ心愈々切ニ寝食為ニ安カラス」(同月12日の詔書(実録第三929頁,930頁))。なお,更に同年1110日には国民精神作興の詔書が発せられています(実録第三962964頁)。)

 

(7)御婚儀延期

1923年9月19日には,同年秋の予定だった摂政宮皇太子裕仁親王と久邇宮良子女王との御婚儀が翌年まで延期される旨が発表されました(実録第三937頁)。

 

(8)1923年の新嘗祭

しかして,19231123日の新嘗祭。

 

新嘗祭当日につき,御座所は朝より清められ,新しい卓子・椅子が設けられ,皇太子は只管お慎みになる。午後4時過ぎ御入浴・御斎戒,陸軍通常礼装に召し替えられ,5時30分赤坂離宮御出門,摂政通常鹵簿にて賢所に行啓される。綾綺殿にて斎服を召され,6時15分神嘉殿に御参進,夕の儀を執り行われる。式部長官井上勝之助前行,次に侍従松浦靖・同岡本愛祐が脂燭をり左右に前行,侍従原恒太郎が壺切御剣を奉じて御後に従い,続いて侍従長徳川達孝・侍従本多正復が候す。一旦隔殿の座に御着座になり,神饌行立の後本殿の座に御参進,神饌を御供進になり,終わって御拝礼,御告文を奏される。雍仁親王・載仁親王以下参列の皇族・王族及び諸員の拝礼,神饌退下の後,一旦御退出になる。午後11時より再び神嘉殿に御参進,暁の儀を執り行われ次第夕の儀に同じ,午前1時10分賢所御発,御帰還になる。(実録第三969970頁)

 

1年前に松山において仲間らとビリヤード・将棋三昧で過ごした楽しい一日とは打って変わって,「皇太子は只管(ひたすら)お慎みになる。」とわざわざ特記されています。21歳から22歳にかけての若き摂政宮裕仁親王にとって,その間多端多難な1年があったのでした。初の新嘗祭の祭典執行を終えた翌日の19231124日,疲れの出たゆえか,摂政宮裕仁親王は「軽微の御風気のため定例御参内はお取り止め」となりました(実録第三970頁)。

 

4 つけたり:「摂政」の読み方について

 ところで,摂政を「せつしょう」と読むのは,「政」について呉音読みになります。漢音読みでは「せつせい」のはずです。明治10年代以降は公文書の世界は基本的に漢音が支配することになっていたのですから(20131210日付けのプログ記事「大審院の読み方の謎:呉音・漢音,大阪・パリ」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1611050.html参照),井上毅らが大日本帝国憲法及び明治皇室典範の「義解」を「ぎかい」と読んでいたのならば,「摂政」はあるいは「せつせい」と読まれていたかもしれません。

しかしながら,「摂政」の読み方についても,皇太子裕仁親王が実際に摂政に就任した翌月の19211215日になってから後付け式に正式通告されています。

 

この日宮内省は,「摂政」を「セツシヤウ」と訓読すること・・・を内閣・枢密院等に通告する。(実録第三542頁)

 

 大日本帝国憲法及び明治皇室典範の下の摂政は「摂政ニツキテハ古来依ルヘキ例ナシ」ということだったそうですが,明治天皇幼時の摂政であった二条(なり)(ゆき)に至るまでの過去の日本史上における摂政を含めていずれも「せつしょう」と読むことになったわけです。

 なお,Regentの語源はラテン語のregereであって,regnareではないそうです。

 

 弁護士 齊藤雅俊
 

 大志わかば法律事務所

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1 「譲位の慣例を改むる者」の強行規定性の有無

 明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)に関する前回のブログ記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.html)においては,同条に関する伊藤博文の『皇室典範義解』の解説(「本条に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はるゝ者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」(宮沢俊義校註『憲法義解』岩波文庫(1940年)137頁))をもって,同条及び現在の皇室典範(昭和22年法律第3号)4条には「天皇の生前譲位を排除する趣旨」があるものとあっさり記しました。しかしながらよく考えるとその先の問題として,「譲位の慣例を改むる」ことによって,実際に天皇が「退位」した場合(「・・・花山寺におはしましつきて御髪おろさせたまひ・・・」)に退位によってもはや天皇ではなくなるという法律効果までも無効になるものかどうか,なお議論の余地があるようです。

(なお,「譲位」というと皇嗣に皇位を譲るという先帝の意思の存在及び更には当該先帝の意思と皇位を譲られる皇嗣の意思との合致が含意されるようでもありますが,「退位」ならば先帝の単独の行為であり,かつ,皇嗣に皇位を譲る効果意思を必ずしも含まないものとするとのニュアンスがより強いようです。美濃部達吉は「皇位ノ継承ハ法律行為ニ非ズシテ法律上当然ニ発生スル事実ナリ」と述べていますが(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)183頁),皇位継承は天皇の効果意思に基づくものではないということでしょう。)

譲位を慣例とはしないということのみであれば,「例外的」譲位は有効にあり得るようにも思われます。明治皇室典範の性格に関して『皇室典範義解』は「祖宗国を肇め,一系相承け,天壌と与に無窮に垂る。此れ(けだし)言説を仮らずして既に一定の模範あり。以て不易の規準たるに因るに非ざるはなし。今人文漸く進み,遵由の路(かならず)憲章に依る。而して皇室典範の成るは実に祖宗の遺意を明徴にして子孫の為に永遠の銘典を(のこ)す所以なり。」と説いていますが(岩波文庫127頁),従来多くの天皇が行った生前譲位を有効と認める以上は,生前譲位は「不易の規準」に反して本来的に無効であるということにはならないでしょう。そもそも明治皇室典範については「既に君主の任意に制作する所に非ず。」とされていますから(『皇室典範義解』岩波文庫127頁),従来有効であった生前譲位ないしは退位を明治天皇の「任意に制作する所」の強行規定をもって1889年2月11日以降無効化したとまでいい得るものでしょうか。『皇室典範義解』の説明文は,退位の有効性を前提としつつも,あえて生前に退位はしないという「上代の恒典」への運用の復帰を求めているものというようにも解することができそうです。そう考えて明治皇室典範10条を見ると,確かに同条の文言自体は,それだけで退位有効論を完全に排除するものとまではいえません。また,現在の皇室典範の法案が審議された1946年12月の第91回帝国議会においても,政府は天皇の「退位」はおよそ無効であるとまでは答弁していません。同議会における金森徳次郎国務大臣の答弁の言葉尻を見てみると,「・・・天皇に私なし,すべてが公事であるという所に重点をおきまして,御譲位の規定は,すなわち御退位の規定は,今般の典範においてこれを予期しなかった次第でございます。」(第91回帝国議会衆議院議事速記録第6号67頁),「・・・かような〔天皇の〕地位は,その基本の原則に照して処置せらるべきものでありまするが故に,一人々々の御都合によつてこれをやめて,たとえば御退位になるというような筋合いのものではなかろうと思うのであります」(同議会衆議院皇室典範案委員会議録(速記)第4回20頁),「退位の問題につきましては,相当理論的にも実際的にも考慮すべき点が残されておるように思うのでありまして・・・」(同26頁),「・・・或はお叱りを受けるか知りませんが,まずそういう場面〔「天皇が自発的に退位されたいという場合」,「天皇が希望される婚姻をどうしても皇室会議が承認できないというような場合」〕が起らないように,適当に事実が実質において調節せらるゝものであろうということを仮定をして,この皇室典範ができておるわけでありまして・・・」(同33頁),「・・・しかして国民はかような場合におきまして,御退位のあることを制度の上に書くことは希望していない,かように考えます」(同33頁),「事実としてそういう考え〔「象徴の地位におられることを欲しないという精神作用」〕が起るかどうかということにつきましては,歴史の示す所は,事実としてかような考えが起つておることを認め得るがごとくであります,しかし事実ではない,かくあるべきものとしての姿としてそれを認めるかどうかということになりますれば,私自身の見解から言えば,日本の皇位は万世一系の血統を流れるものである,しかもそれは一定の原理に従つて流れるものであるということを前提として,憲法はこれを掲げております,従つてそれを打切ることはできないものであると,かように考えております」(34頁),「・・・細かい理窟を抜きに致しまして,国民は矢張り御退位を予想するやうな規定を設けないことに賛成をせらるゝのではなからうか,斯う云ふ前提の下に皇室典範の起草を致しました・・・」(同議会貴族院議事速記録第6号88頁)等々,生前退位はあるべきものではないとしつつ,そこから先は,「予期しなかった」ということで,必ずしも詰めてはいなかったようです。 

 

2 1887年3月20日の高輪会議再見

 伊藤博文,井上毅,柳原前光らの1887年3月20日の高輪会議(憲法案に係る同年1015日のものとは異なります。)において柳原前光の「皇室典範再稿」12条(「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」)が削られるに至った過程について,前回のブログでは,伊藤博文の削るべしとの首唱に柳原が「迎合」したと書きました。しかしながら,柳原前光は,何の考えもなしに伊藤に対して単純に迎合したわけではなかったようです。

柳原は「但書ヲ削除スルナレハ寧ロ全文ヲ削ルヘシ」と言っています。肥後人井上毅の「人間だもの」論(「至尊ト(いえども)人類ナレハ其欲セサル時ハ何時ニテモ其位ヨリ去ルヲ得ベシ」)くらいでは生前退位を排除しようとする長州藩の足軽出身の権力者・内閣総理大臣伊藤博文の翻意は無理と見て取った京都の公家出身の柳原は,「但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」として退位を容認することとしていたただし書のみならず,「天皇ハ終身大位ニ当ル」として終身在位を制度化する本文も併せて削られることを確保することとして,生前退位容認論と終身在位制度化論との間での法文上でのいわば相討ちを図ったのではないでしょうか。

高輪会議後の1887年4月25日に伊藤に提出された柳原の「皇室典範草案」では,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」との高輪会議決定案10条が二つの条に分割され,当該「皇室典範草案」を検討して井上毅が作成した「七七ヶ条草案」においても「第10条 天皇崩スル時ハ皇嗣即チ践()ス」及び「第11条 皇嗣践()スル時ハ祖宗ノ神器ヲ承ク」とされ崩御による践祚についての規定と践祚の際(先帝の崩御によるものに限定はされていません。)の剣璽渡御についての規定との別立て維持されていました。結局両条は再統合されますが,生前退位容認論者であったの立法技術的操作には,それなりの含意があったというべきでしょう。
 なお,「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」と規定する大日本帝国憲法2条に関する『憲法義解』の解説は,「恭て按ずるに,皇位ノ継承ハ祖宗以来既に明訓あり。以て皇子孫に伝へ,万世易ふること無し。若夫継承の順序に至つては,新に勅定する所の皇室典範に於て之を詳明にし,以て皇室の家法とし,更に憲法の条章に之を掲ぐることを用ゐざるは,将来に臣民の干渉を容れざることを示すなり。」というものです(岩波文庫25頁。下線は筆者によるもの)。井上毅が書いたものとして,新たな明治皇室典範は専ら皇位「継承の順序」を「詳明」にすべきものであって,継承の原因等は依然「祖宗以来」の「明訓」のままでよいのだという趣旨まで深読みしてよいものかどうか。はてさて。 


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 東京都港区高輪四丁目の伊藤博文高輪邸宅地跡(1889年,岩崎久弥に売却)
 

3 『皇室典範義解』の拘束力の射程

 現在の皇室典範4条の文言(「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」)は,剣璽渡御に関係する明治皇室典範10条後段を削ったことによって,むしろ井上毅の「七七ヶ条草案」10条と対応するものになっています。(なお,法文からは削られたもののやはり必要な儀式ということでしょうが,今上天皇践祚に当たって「剣璽等承継の儀」が新天皇の国事行為として行われています。これは先帝が崩じたから伝統的な意味での践祚のために行われたものか,皇嗣が既に「直ちに即位」したから行われたものか。)

明治皇室典範10条に係る『皇室典範義解』の解釈に過度に拘束されずに,現在の皇室典範4条は,単に「皇位ノ継承ハ法律行為ニ非ズシテ法律上当然ニ発生スル事実」であること(また,「皇位の一日も曠闕すべからざる」こと(『皇室典範義解』岩波文庫137頁)),皇位継承に新天皇の宣誓(例えば,1831年のベルギー国憲法80条2項は「国王は,両議院合同会の前で,厳粛に次の宣誓をするまでは,王位につくことができない。/「余は,ベルギー国民の憲法および法律を遵守し,国の独立および領土の保全を維持することを誓う。」」と規定していました(清宮四郎訳『世界憲法集 第二版』(岩波文庫・1976年)89頁)。)は不要であるということ,先帝崩御は皇位継承をもたらす一つの法律事実であること,を意味するものにすぎないと解することは可か不可か。

 大日本帝国憲法と『憲法義解』との関係について,小嶋和司教授は,「『憲法義解』は法源ではないが,政府の憲法解釈を拘束した」が,大日本帝国憲法の「わずか4人の起草関係者の間に存した・・・解釈の対立は,それが法の指示においてさえ完璧でなかったことを断定せしめる」ところ,「今日,明治憲法典の起草趣旨を簡単に知る方法として『憲法義解』の参照がおこなわれる」が「しかし,それが叙述しないか,叙述を不明確にしている場合に,起草者は問題を知らなかったとか看過したと断定してはならない。それ〔は〕学問的には怠惰な即断となる」と述べています(小嶋和司「明治二三年法律第八四号の制定をめぐって」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)441頁,440頁)。明治皇室典範ないしは現在の皇室典範と『皇室典範義解』との関係も,同様に考えるべきでしょう。そう簡単ではありません。ちなみに,『皇室典範義解』における明治皇室典範10条解説の結語である「本条に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はるゝ者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」は,高輪会議の前月である1887年2月段階における井上毅の「皇室典範」案13条の「説明」案に「本条ハ実ニ上代ノ恒典ニ因リ断シテ中古以来ノ慣例ヲ改ムル者ナリ」とあったものを(園部逸夫『皇室法概論』(第一法規・2002年)438頁参照)承けたものでしょう。しかしながら,井上自身は当該理由付けをもって例外を許さないほど強いものとは評価していなかったところです。その上記「皇室典範」案13条は生前譲位についても定めているのです。いわく,「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ノ重患アルトキハ皇位継承法ニ因リ其位ヲ譲ルコトヲ得」と(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』185‐186頁参照)。明治皇室典範10条に関する『皇室典範義解』の解説について奥平康弘教授は「譲位制度はよろしくなく,「上古ノ恒典」に戻るべきであるとする説明に『皇室典範義解』は,十分に成功していないというのが,私の印象である。」と述べていますが(同「明治皇室典範に関する一研究―「天皇の退位」をめぐって―」神奈川法学第36巻第2号(2003年)159頁),当該「印象」は,井上毅の立場からすると,むしろ正しい読み方に基づくものということになるのかもしれません。

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 東京都台東区谷中の瑞輪寺にある井上毅の墓

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 「病弱な井上は,その後〔1893年・第2次伊藤内閣〕文部大臣にもなったが,明治28年〔1895年〕に逝去し,はやく忘れられた。」(小嶋「明治二三年法律第八四号」442頁)

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 瑞輪寺山門の扁額は井上毅の揮毫したもの 

 
4 英国における特別法による国王退位

 しかしながら,事実として,国王による単独の法律行為としての退位は無効であるとする法制は可能ではあります。

英国がその例です。

エドワード8世は,19361210日に退位声明を発しましたが(いわゆる「王冠を賭けた恋」事件),当該退位が効力を発するためには議会及び国王による同月11日の立法を要しました。次に,19361211日の「国王陛下の退位宣言に効力を与え,及び関連する事項のための法律(An Act to give effect to His Majesty’s declaration of abdication; and for purposes connected therewith.)」を訳出します。

 

  国王陛下は,本年1210日の勅語(His Royal Message)において陛下御自身及びその御子孫のために王位を放棄する不退転の御決意(irrevocably determined)である旨声明あそばされ,並びに当該目的のために本法の別記に掲載された退位詔書(Instrument of Abdication)を作成され,並びにそれに対して効力が直ちに与えられるべき旨の御要望を表明されたところ,

  並びに,国王陛下の前記声明及び要望の海外領土に対する伝達を承け,カナダは1931年のウェストミンスター憲章第4節の規定に従い本法の立法を要求しかつそれを承認し,並びにオーストラリア,ニュー・ジーランド及び南アフリカはそれに同意したところ,

  よって,至尊なる国王陛下により,現議会に召集された聖俗の貴族及び庶民の助言及び承認によりかつそれらと共に,並びに現議会の権威により,次のように立法されるべし。

  1(1)本法が裁可されたときに,現国王陛下が19361210日に作成した本法の別記に掲載されている退位詔書は直ちに効力を発し,並びにそれに伴い国王陛下は国王ではなくなり(His Majesty shall cease to be King),及び王位継承(a demise of the Crown)が生じ,並びにしたがって次の王位継承順位にある王族の一員が王位並びにそれに附随する権利,特権及び栄誉を承継する。

  (2)国王陛下の退位後には,陛下,もし誕生があればそのお子及び当該お子の子孫は,王位の継承において又はそれに対して何らの権利,権原又は利益を有さず,並びに王位継承法(Act of Settlement)第1節はそれに応じて読み替えられるものとする。

  (3)御退位後には,1772年の王室婚姻法は,陛下にも,もし誕生があれば陛下の子又は当該子の子孫にも適用されない。

  2 本法は,1936年の国王陛下退位宣言法(His Majesty’s Declaration of Abdication Act, 1936)として引用されることができる。

 

  別記

  

  余,グレート・ブリテン,アイルランド及び英国海外領土の王,インド皇帝であるエドワード8世は,王位を余自身及び余の子孫のために放棄する余の不退転の決意並びにこの退位詔書に直ちに効力が与えられるべしとの余の要望をここに宣言する。

  上記の証として,下記署名に係る証人の立会いの下,19361210日,ここに余が名を記したるものなり。

                           国王・皇帝 エドワード

  アルバート

  ヘンリー

  ジョージ

  の立会いの下,フォート・ベルヴェデールで署名

 

なお,英国の1689年の権利章典は,「ウエストミンスタに召集された前記の僧俗の貴族および庶民は,次のように決議する。すなわち,オレンヂ公および女公であるウィリアムとメアリは,イングランド,フランス,アイルランド,およびそれに属する諸領地の国王および女王となり,かれらの在世中,およびその一方が死亡した後は他の一方の在世中,前記諸王国および諸領地の王冠および王位を保有するものとし,かつその旨宣言される。王権は,公および女公双方の在世中は,王権は〔ママ〕,公および女公の名において,前記オレンヂ公が単独かつ完全に行使するものとし,公および女公ののちは,前記の諸王国および諸領地の王冠および王位は,女公の自然血族たる直系卑属の相続人に伝えられ」,「王権および王政は,両陛下とも在世のうちは,両陛下の名において,国王陛下のみによって,完全無欠に行使さるべきこと。両陛下とも崩御されたのちは,前記王位および諸事項は,女王陛下の自然血族たる直系卑属に帰すべきこと。」と規定しています(田中英夫訳『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)83‐84頁,86‐87頁)。議会によって,「在世中」(during their lives)は王位にあるべきもの(to hold the crown and royal dignity)とされ,法律となっています。
 エドワード8世の退位問題には昭和天皇が深い関心を持っていました。宮内庁の『昭和天皇実録第七』(東京書籍・2016年)の1936年12月4日の項には「侍従長百武三郎に対し,新聞報道されている英国皇帝エドワード8世に関する件につき,外務省とよく連絡を取り報告するよう命じられる。後刻,侍従長より,本日英国駐箚特命全権大使よりもたらされた情報として,同皇帝が米国人ウォリス・シンプソンとの御結婚に固執のため内閣と衝突状態にある旨の言上を受けられる。翌日午後,侍従長より,英国首相スタンリー・ボールドウィンの憲法上の理由により御結婚に反対する旨の声明につき言上を受けられる。また8日にも侍従長より,外務省からの情報の言上を受けられる。なお,エドワード8世は皇位放棄を決意され11日に御退位,皇弟ヨーク公がジョージ6世として皇位に就かれる。」とあります(240‐241頁)。立憲君主とその内閣とが衝突すれば,君主が引っ込まざるを得ないということでしょうか。ボールドウィンは,同月10日の英国庶民院における演説において"We have, after all, as the guardians of democracy in this little island to see that we do our work to maintain the integrity of that democracy and of the monarchy, which, as I said at the beginning of my speech, is now the sole link of our whole Empire and the guardian of our freedom."と述べています。『昭和天皇実録第七』の同月11日の項においては「午前,侍従長百武三郎が入手した英国皇帝エドワード8世の御退位に関する英国駐箚特命全権大使の電報を御覧になり,侍従長に対し,同皇帝御退位に関して発する電報の内容につき,式部職と連絡し処理するよう命じられる。13日,英国大使より外務省を経て新皇帝即位の公報到達につき,新皇帝ジョージ6世に対し祝電を御発送になる。なお,前皇帝御退位については触れられず,新皇帝即位に対する祝意のみを伝えられる。15日,答電が寄せられる。」と記録されています(244‐245頁)。

 

5 ベルギー国における憲法に規定のない国王退位の実例

大日本帝国憲法がその手本の一つとしたベルギー国憲法においては,明治皇室典範(及び現行の皇室典範)同様に崩御による王位継承に関する条項しかないにもかかわらず,同国においては国王の生前退位が認められています。

リエージュ大学教授クリスチャン・ベーレント(Christian Behrendt)及び同大学准教授フレデリック・ブオン(Frédéric Bouhon)の『一般国法学入門・教科書(Introduction à la Théorie générale de l’État. Manuel)』(Larcier, 2009年)には次のようにあります(138頁)。こちらの国では,国王の退位を有効ならしめるための立法までは必要としないようです。

 

 ベルギー法においては,国王の公的生活に係る全ての行為は,大臣副署の義務に服する。純粋に私的な行為のみが当該憲法規律に服さないところである。公的生活においては,退位が,大臣副署なしに国王が実現できる唯一の行為である。ベルギーの歴史において,レオポルド3世が,退位した(1951年7月16日)唯一の〔2013年7月21日のアルベール2世の退位前の記述です。〕国王である(註)。ベルギー国憲法が国王に対して退位する権利を明示的に認めていないとしても,そこでは条文の沈黙の中においても存在する権能(faculté)が問題となっていると考えることについて意見は一致している。もはや彼の務めを果たそうという気を全く失っている人物,又は――レオポルド3世が退く前がそうであったように――叛乱の雰囲気を醸成し,及び本格的内乱のおそれが国家の上に漂うことを許すまでに全国の国民を分極化せしめる人物を頭に戴き続けることは,実際のところ明らかに,国家の利益にかなうものではない。

 

(註)彼の退位詔書(acte d’abdication)は1951年7月1617日の官報(Moniteur belge)に掲載された。レオポルド3世が実際に退位した唯一の国王であるとしても,退位の権利の存在は,王国の始めに遡るようである。1859年に国王レオポルド1世は,彼の心に特にかかる事案に関して国会議員らに圧力を加えるために,退位に訴える旨威嚇した。当該君主は,本当に退位する気は恐らくなかったであろう。しかしながら,当該権利を有していることを彼が確信していたことは明らかである(ジャン・スタンジャ(Jean Stengers)『1831年以来のベルギー国における国王の行動 権力及び影響力(L’action du Roi en Belgique depuis 1831. Pouvoir et influence)』(第3版,ブリュッセル,Racine, 2008年)195頁参照)。ベルギー国王は退位する権限(prérogative)を有するという考えは,彼の息子のレオポルド2世の治下において更に確認された。1892年,深刻な消沈の際,当該国王は真剣に退位を考えたが,その後よりよい決意(à de meilleures résolutions)に立ち戻った(ジャン・スタンジャ・前掲書125頁参照)

 

 ド・ミュレネル(De Muelenaere)記者が2013年7月3日付けでベルギー国のLe Soir紙のウェッブ・ページに掲載した記事(“Abdication, comment ça marche?”)によると,同国における国王の生前退位から次期国王の即位への流れは次のようなものだそうです(同月のアルベール2世の生前退位及びフィリップ現国王の即位に関する予想記事)。

 

  1 首相によって査証された(visée)アルベール2世の退位宣言(Une déclaration d’abdication

  2 退位の日(7月21日)

  3 両議院合同会の前におけるフィリップの宣誓

  4 直ちに宣誓が行われれば「空位期間」は生じない。そうでない場合であっても,国王の憲法上の権限を内閣(le conseil des ministres)が確保するから,摂政の必要はない。

 

議会は新国王の宣誓(即位の効力要件)に立ち会うだけで,前国王の退位に効力を与えるための行為をすることはないようです。首相の「査証」と訳しましたが,これは憲法上の副署(contreseing)ではないわけです。退位宣言の詔書は,官報に掲載されたものでしょう。ド・ミュレネル記者によれば,前記のベーレント教授は「国王は退位詔書を作成し,当該詔書は決定の公式性(caractère public de la décision)を確保するために続いて官報に掲載されなければならない。」と述べていました。

 

6 ドイツにおける国王退位に関する学説など

 ベルギー国憲法の話が出たとなると,大日本帝国憲法のもう一つのお手本であったプロイセン憲法の話をせざるを得ません。19世紀のドイツ国法において国王の退位はどのように考えられていたものか。

ズーザン・リヒター(Susan Richter)及びディルク・ディルバッハ(Dirk Dirbach)編の『王位放棄 中世から近代までの君主政における退位(Thronverzicht: die Abdankung in Monarchien vom Mittelalter bis in die Neuzeit)』(Böhlau, 2010年)中のカロラ・シュルツェ(Carola Schulze)による論文「王権神授説からドイツ立憲主義までの法秩序観念における退位(Die Abdankung in den rechtlichen Ordnungsvorstellung vom Gottesgnadentum bis zum deutschen Konstitutionalismus)」には次のようにあります(68頁)。

 

  絶対王政の下では王室法(Hausgesetz)によってのみ規制された王位継承及び摂政の問題を,立憲国家は王室立法権(Hausgesetzgebung)から引き離し,憲法典(Verfassungsrecht)の領域に移管した。もっとも,憲法典に記載された君主の神聖不可侵性(Heiligkeit und Unverletzlichkeit)のゆえに,退位――及びそれと共に廃位(Absetzung)――は,ドイツ連邦諸国の国法自体においては明定されなかった(wurde…nicht fixiert)。したがって,国家元首としての君主の地位(Stellung des Monarchen als Staatsoberhaupt)及びその王位継承に関する規律との関連において退位の制度(das Rechtsinstitut der Abdikation)を定めてあった初期立憲主義憲法は存在しない。唯一,184812月5日の押し付けプロイセン憲法が,第55条において,国王が統治不能(in der Unmöglichkeit zu regieren)であるときは, 特別法によってそれらについて手当てされていない限りにおいて,次の王位継承権者又は王室法によりそれに代わる者が,合同会で摂政及び後見について第54条〔国王未成年の場合の摂政及び後見に関する規定〕に準じて定めるために両議院を召集する旨規定していた。当該規定は,改訂された1850年のプロイセン憲法にはもう既になくなっていたが,君主の統治不能は退位及び王位継承者に対する王位の移行の意味においても理解されるべきだ(auch im Sinne einer Abdankung und des Übergangs der Krone auf den Nachfolger zu verstehen ist)との確たる解釈を許すものであった。

     要するに,次のようにいうことができる。初期立憲主義諸憲法が退位について沈黙していたとしても,国民意識,国の歴史,学説の伝統又は思考の必然からして規範的地位(normativer Rang)を与えられていた19世紀の一般ドイツ国法において,退位は,正規の王位継承に対して補充的な(subsidiär)例外的王位継承の形式として(als Form der außerordentlichen Thronfolge)認められ,かつ,そのようにしてドイツ立憲主義の秩序観念中に位置付けられていたのである。

 

「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」だから譲位の規定はいらないのだ,とは伊藤博文の発想の源でもありました(「余ハ将ニ天子ノ犯冒スヘカラサルト均シク天子ハ位ヲ避クヘカラスト云ハントス」と高輪会議で発言しています。)。
 プロイセン国王ヴィルヘルム1世は議会との対立の中で退位を考えましたし,その孫ヴィルヘルム2世は第1次世界大戦の最終段階におけるドイツ革命の渦中で,ドイツ皇帝としては退位するがプロイセン国王としては退位しないと頑張ります。これらは生前退位が有効であるとの理解を前提としています。

ところで,シュルツェの議論では君主の統治不能(die Unmöglichkeit des Monarchen zu regiern)には退位(Abdankung)も含まれるということのようですが,そうだとすると1848年のプロイセン憲法的には,国王が「退位する。」と宣言した場合には統治不能の当該国王は押し込められ,両議院合同会によって摂政及び後見人が任命され,かつ,当該状況は国王の生存中続くということにはならなかったでしょうか。ちょっと分かりづらい。あるいは,1850年のプロイセン憲法56条は「国王が未成年であるとき又はその他継続的に自ら統治することが妨げられている(dauernd verhindert ist, selbst zu regieren)ときに」摂政を置くとの規定になっていますので,継続的な故障程度ではいまだ統治不能ではないから摂政設置で対応するが,退位されてしまうと統治不能であるので摂政どころではなくなって直ちに新国王即位になる,というように理解すべきなのでしょうか。
 この点明治皇室典範
19条2項は「天皇久シキニ亘ルノ故障ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルトキハ皇族会議及枢密顧問ノ議ヲ経テ摂政ヲ置ク」となっていて,1850年のプロイセン憲法56条的です。これは1889年1月18日の枢密院再審会議(小嶋「明治皇室典範」249250頁)を経た段階では「天皇未タ成年ニ達セサルカ又ハ精神若ハ身体ノ不治ノ重患ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサル間ハ摂政一員ヲ置ク」であったものが(同228頁),正にドイツ人であるロエスレルの修正意見に基づき(同251頁),同月24日に「精神若ハ身体ノ不治ノ重患」が「久シキニ亙ルノ故障」に修正され,更にその後最終的な形に修正されて(同254頁),同年2月5日の枢密院会議を経たものです(同255頁)。ロエスレルの修正案は「天皇未タ成年ニ達セサルカ又ハ其ノ他ノ故障ニ由リ久シク大政ヲ親ラスルコト能ハスシテ臨時ニ応スル為ニ予シメ親ラ計画ヲ為サス若クハ為シ能ハサルトキハ次条ノ明文ニ循ヒ摂政ヲ置クヘシ」というものでした(小嶋「明治皇室典範」251頁)。「其ノ他ノ故障」との文言は「疾病ノ外ニ於テモ亦他ノ事由ノ生スルコトアラン例ヘハ・・・」ということで用いられることになったもので(小嶋「明治皇室典範」251頁),「久シク本国ニ在ラサルトキ,戦時ニ当テ俘虜トナリタルトキ,又高齢ニナリタルトキノ如キ是ナリ」とされています(小林宏・島善高編著『明治皇室典範〔明治22年〕(下) 日本立法資料全集17』(信山社・1997年)642頁)。またそもそも「不治ノ重患」の「不治ノ」は「啻ニ贅字タルノミナラズ甚シキ危険アル」ことがロエスレルによって述べられていました(小嶋「明治皇室典範」251頁)。しかし,「不治ノ」は「甚シキ危険アル」言葉であるのに,皇位継承順位の変更に係る明治皇室典範9条では「皇嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シ前数条ニ依リ継承ノ順序ヲ換フルコトヲ得」となっていて「不治ノ」が維持されています(現在の皇室典範3条も同様)。ということは,「不治ノ」は天皇についてだけ「甚シキ危険アル」言葉なのでしょう。しかしながら,天皇が「不治ノ重患」であると発表してしまうと摂政どころではなく譲位が問題になってしまうという意味での「甚シキ危険」であったのかとまで考えるのは考え過ぎで,飽くまでロエスレルは摂政を置くべきか否かを検討する場面に留まりつつ「凡ソ疾病ノ治不治ハ,医家ニ在テモ亦一ノ争論点ニシテ,之カ為ニ紛議ノ種因ヲ他日ニ貽スノ恐レアレハナリ。而シテ摂政ヲ置クノ当否ニ関スルコトヲ以テ,此ノ如キ曖昧ノ間ニ附シ去ルハ大ニ不可ナリ。」と「甚シキ危険」について述べ,更に「・・・大政ヲ親ラスルコト能ハスト謂ハ丶,先ツ疾病ノ有無ヲ問ハス,果シテ大政ヲ親ラスルコト能ハサルカ否ヲ立証セサルヘカラス。現ニ君主重病ニ罹リテ尚ホ大政ヲ自ラ総攬シ得ルコトアリ。又総攬スルノ精神ヲ有スルコト屢々之レ有リ。例ヘハ「ポーランド」瓦敦堡〔ヴュルテンベルク〕ノ今王及び「メクレンボルグ」大公等ハ,既ニ不治ノ重患ニ罹ルト雖,尚大政ヲ親ラスルニアラスヤ。・・・」と述べています(小林・島641頁)。

ロエスレルの修正意見に基づく1889年1月24日の修正前の明治皇室典範19条案にいう「精神若ハ身体ノ不治ノ重患ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサル間」という摂政設置の前提状態たる不治ノ重患は,実は,1887年3月20日の高輪会議にかけられた柳原前光の前記「皇室典範再稿」では天皇の譲位を可能とする状態(「精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時」)でした。柳原の「皇室典範再稿」39条では,摂政を置く場合は,「天皇幼年ノ時」,「天皇本邦ニ在サル時」又は「天皇ノ精神又ハ身体ノ重患アル時」が挙げられていました(小嶋「明治皇室典範」193頁)。柳原前光の段階論では,「精神又ハ身体ノ重患アル時」はまだ摂政設置相当だけれども,「精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時」まで至ってしまうとむしろ譲位すべきだという判断だったのでしょう。現在の皇室典範16条2項は「天皇が,精神若しくは身体の重患・・・により,国事に関する行為をみずからすることができないときは,皇室会議の議により,摂政を置く。」と規定していますが,柳原の「皇室典範再稿」39条における摂政設置の場合の考え方におおよそ符合しています(ちなみに,ロエスエルは「精神又ハ身体ノ重患」の字は「不快ノ感ヲ喚起スル」と述べており(小林・島641頁),明治皇室典範19条2項には当該表現は用いられませんでしたが,現在の皇室典範においては復活したわけです。)。

なお,カロラ・シュルツェは,ドイツの学者らしく,法的意味における退位の成立に必要な構成要件のメルクマールを次のように分析的に述べています。

 

単独の公的行為(einseitige obrigkeitliche Maßnahme)であって,

君主によってされ(eines Monarchen),

君主の位の放棄,すなわち王位及びそれに附随する権利の放棄に向けられたものであり(die auf die Niederlegung der monarchischen Würde bzw. auf den Verzicht des Throns sowie der damit verbundenen Rechte gerichtet ist),

自由意思性及び自主性により,並びに(die sich durch Freiwilligkeit und Selbständigkeit sowie durch

補充性によって特徴付けられるものであり(Subsidiarität auszeichnet),

並びに不可撤回性を有するもの(und die unwiderrufbar ist.),

 

ということだそうです(シュルツェ69頁)。
 さて,シュルツェによれば「絶対王政の下では王室法(Hausgesetz)によってのみ規制された王位継承及び摂政の問題を,立憲国家は王室立法権(Hausgesetzgebung)から引き離し,憲法典(Verfassungsrecht)の領域に移管した」わけですが,このことについては,1850年のプロイセン憲法53条を素材に,美濃部達吉が次のように説明しています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)108109頁)。

 

  プロイセン旧憲法53条にも略本条〔大日本帝国憲法2条「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」〕と同様に,Die Krone ist, den Königlichen Hausgesetzen gemäss, erblich in dem Mannesstamme des Königlichen Hauses nach dem Rechte der Erstgeburt und der agnatischen Linealfolgeといふ規定が有る。その他のドイツ諸邦にも同様の規定の有るものが尠くない。文言に於いては極めて本条の規定と類似して居るけれども,趣意に於いては甚だ異なつて居つて,ドイツの学者は一般に,憲法の此の規定に依つて従来の王室家法が憲法の内容の一部を為すに至つたもので,随つて此の以後に於いては王室家法の変更は,憲法改正の法律に依つてのみ為すことを得べく,勿論議会の議決を必要とする・・・。即ちドイツ諸邦の憲法に於いては『王室家法ノ定ムル所ニ依リ』といふ明文が有つても,それは王室の自律権を認めたものではなく,却つて王室家法をして憲法の一部たらしめたもの・・・。

 

日本国憲法2条は「皇位は,世襲のものであつて,国会の議決した皇室典範の定めるところにより,これを継承する。」と規定しています(下線は筆者によるもの)。(同条の英文は,“The Imperial Throne shall be dynastic and succeeded to in accordance with the Imperial House Law passed by the Diet.”です。)ここでの「国会の議決した」は,その第74条1項で「皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス」と規定していた大日本帝国憲法との違いを示すものでしょう。現在の皇室典範の法形式は(皇室典範の「法律案」を審議した第91回帝国議会で問題にする議員がありましたが)法律ですが,少なくともその皇位継承(日本国憲法2条)及び摂政(同5条)に係る部分の改正は,19世紀ドイツ国法学的には,憲法改正と同等の重みのある行為であるということになります。「而して皇位継承に関する法則は,決して皇室御一家の内事ではなく,最も重要なる国家の憲法の一部を為すもの」なのです(美濃部『憲法精義』110頁)。

この点,1946年2月13日に我が国政府に提示されたGHQの憲法改正草案には“Article II. Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.”(外務省罫紙に記された閣議提出の訳文では「第2条 皇位ノ継承ハ世襲ニシテ国会ノ制定スル皇室典範ニ依ルヘシ」)及び“Article IV. When a regency is instituted in conformity with the provisions of such Imperial House Law as the Diet may enact, the duties of the Emperor shall be performed by the Regent in the name of the Emperor; and the limitations on the functions of the Emperor contained herein shall apply with equal force to the Regent.”(「第4条 国会ノ制定スル皇室典範ノ規定ニ従ヒ摂政ヲ置クトキハ皇帝ノ責務ハ摂政之ヲ皇帝ノ名ニ於テ行フヘシ而シテ此ノ憲法ニ定ムル所ノ皇帝ノ機能ニ対スル制限ハ摂政ニ対シ等シク適用セラルヘシ」)とあって,“such Imperial House Law”は国会の単独立法に係るものですから,やはり法律が想定されていたようで,皇室の家法たることを強く含意する「皇室典範」との訳は余り良い訳ではなかったようです。ところで,“in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact”であって,“in accordance with the Imperial House Law enacted by the Diet”ではありませんから,第2条の訳としては「皇位ノ継承ハ世襲テアリ且ツ国会ノ制定スルコトアル皇室法ニ従フモノトス」というものもあり得なかったでしょうか。このように解すると,たとい皇室典範という法形式が日本国憲法の施行に伴い消滅しても,国会が別異に立法しない限りは皇位の継承は従来の慣習に従う,ということにはならなかったものでしょうか。

しかし,我が国政府は皇位の継承に関する成文規範の存在及び皇室典範という法形式の存続にこだわったものか,憲法改正に係るその1946年3月2日案においては次のような条文が用意されています。

 

  第1章 天皇

第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ世襲シテ之ヲ継承ス。

第3条 天皇ノ国事ニ関スル一切ノ行為ハ内閣ノ輔弼ニ依ルコトヲ要ス。内閣ハ之ニ付其ノ責ニ任ズ。

  第9章 補則

106条 皇室典範ノ改正ハ天皇第3条ノ規定ニ従ヒ議案ヲ国会ニ提出シ法律案ト同一ノ規定ニ依リ其ノ議決ヲ経ベシ。

  前項ノ議決ヲ経タル皇室典範ノ改正ハ天皇第7条ノ規定ニ従ヒ之ヲ公布ス。

 

これに対して,佐藤達夫法制局第一部長の記す次のような1946年「三月四,五両日司令部ニ於ケル顛末」を経て,皇室典範の議案に係る天皇の発議権は消え,憲法2条は少なくとも英文については現在の形になっています。

 

第2条 皇室典範ガ国会ノ議決ヲ経ベキ条項ナシトテ相当強硬ナル発言アリ,補則ニ規定セリ,今回ハ全面的ニ補則ニ依リ改正セラルルコトデモアリ茲ニ特記スル要ナシ,又法律ト同一手続ニ依ルハ当然ナルモ,皇室ノ家法故発議ハ天皇ニ依リ為サルルコトトシタリト言フモ第1章ハ交付案ガ絶対ナリトテ全然応ゼズ,「国会ノ議決ヲ()タル(○○)passed by the Diet)(交付案ハ(as the Diet may enact))トシテ挿入スルコトトス(「経タル」ガ将来提案権ノ問題ニ関聯シテ万一何等カノ手懸ニナリ得ベキカトノ考慮モアリテ)。
 

ただし,佐藤部長の「考慮」にもかかわらず,現在の日本国憲法2条の当該部分の文言は「国会の議決した皇室典範」であって,「国会の議決を経た皇室典範」ではありません。現在の皇室典範は,昭和22年法律第3号です。
 (以上の日本国憲法の制定経緯については,国立国会図書館ウェッブ・サイトの「電子展示会」における「日本国憲法の誕生」を参照)
 

1 現在の皇室典範4条と明治皇室典範10

 昭和天皇の裁可に係る現在の皇室典範(昭和22年法律第3号。日本国憲法100条2項参照)4条は,「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」と規定しています。この規定の意味するところを知るためには,その前身規定に遡ることが捷径です。

明治天皇の裁定に係る皇室典範(明治22年2月11日。公布されず(ただし,後の公式令(明治40年勅令第6号)4条1項参照)。)10条が,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と定めていたところです。(なお,明治皇室典範は,1947年5月1日昭和天皇裁定(同日付け官報)の皇室典範及皇室典範増補廃止の件によって同月2日限り廃止されたものであり,昭和22年法律第3号の皇室典範によって廃止されたものではありません。)

明治皇室典範10条について伊藤博文の『皇室典範義解』は,「・・・(つつしみ)て按ずるに,神武天皇より舒明天皇に至る迄34世,嘗て譲位の事あらず。譲位の例の皇極天皇に始まりしは,(けだし)女帝仮摂より来る者なり(継体天皇の安閑天皇に譲位したまひしは同日に崩御あり。未だ譲位の始となすべからず)。聖武天皇・光仁天皇に至て遂に定例を為せり。此を世変の一とす。其の後権臣の強迫に因り両統互立を例とするの事あるに至る。而して南北朝の乱亦此に源因せり。本条に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はる者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」と説いています(宮沢俊義校註『憲法義解』(岩波文庫・1940年)137頁による。)。明治皇室典範10条を引き継いだ現在の皇室典範4条は,天皇の生前譲位を排除する趣旨をも有しているわけです。

7世紀の舒明天皇まで生前譲位がなかったことについては,「大和王権における大王位は基本的に終身制であり,大王は生前に新大王に譲位をすることはできなかった。記紀などの記述では,まれに,大王が生前に後継者を指名することもあるが,指名を受けた者が即位しない場合も多く,後継者指名の効力は,実際にはほとんどなかったとみてよい。・・・王位継承の候補者は常に複数おり,5世紀には,候補者同士の熾烈な殺し合いも繰り広げられたが,即位に際しては,大和政権を構成する豪族たちの広範な支持も必要であったことはいうまでもなかった。そして,より発達した政治機構としての畿内政権が形成される6世紀には,群臣による大王の推挙は,王位継承を行ううえで,不可欠の手続きとして確立していったのである。/『日本書記』などの文献から復元される王位継承の手続きでは,まず群臣の議によって大兄などの王族から候補者が絞られ,群臣による即位の要請がなされる。候補者の辞退などで擁立が失敗すると,別の候補者への要請が行われ,候補者がそれを受けた段階で,即位儀礼が挙行された。」と説明されています(大隅清陽「君臣秩序と儀礼」『日本の歴史08 古代天皇制を考える』(大津透・大隅清陽・関和彦・熊田亮介・丸山裕美子・上島享・米谷匡史,講談社・2001年)40‐41頁)。「ある種の選挙王制といってもよい王位継承のシステム」(大隅43頁。また同49頁)ではあるが,現職の大王の意思による「解散総選挙」のようなものは認められなかったということでしょう。なお,現行の皇室典範4条において三種の神器について言及されていないことの意味(皇室経済法7条の趣旨も含む。)及び「南北朝の乱」の「源因」たる「権臣の強迫」については,2014年5月21日付けの本ブログ記事「「日本国民の総意に基づく」ことなどについて」(その6の部分)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1003236277.htmlを御参照ください。

 美濃部達吉は,「皇位ノ継承ハ天皇ノ崩御ノミニ因リテ生ズ。天皇在位中ノ譲位ハ皇室典範ノ全ク認メザル所ニシテ,典範(10条)ニ『天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク』ト曰ヘルハ即チ此ノ意ヲ示スモノナリ。中世以来皇位ノ禅譲ハ殆ド定例ヲ為シ,時トシテハ権臣ノ強迫ニ因リテ譲位ヲ余儀ナクセシムルモノアルニ至リ,(しばしば)禍乱ノ源ヲ為セリ。皇室典範ハ此ノ中世以来ノ慣習ヲ改メタルモノニシテ,其ノ『天皇崩スルトキハ』ト曰ヘルハ,崩スルトキニ限リト謂フノ意ナリ。」と述べていました(美濃部達吉『改訂 憲法撮要』(有斐閣・1946年)183頁)。『皇室典範義解』の説明を承けたものでしょう。

 現行の皇室典範4条の解釈も,いわく。「天皇の「崩御」だけが皇位継承の原因とされる(典範4条)。天皇生前の退位に関しては,皇室典範の審議の際に積極論も主張されたが,結局のところ採用されなかった。皇室典範の改正によって退位制度を設けることは可能であるが,一般的な立法論としていえば,生前退位の可能性を認めることは,皇位を政治的ないし党派的な対立にまきこむおそれがあることを,考慮しなければならない。」と(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)132頁)。

 「女帝仮摂」のゆえならざる生前譲位が始まったことについては,インドからの外来宗教たる仏教の影響があったとは,上杉慎吉の指摘するところです。いわく。「皇位継承の行はるのは天皇崩御の時のみであります,譲位受禅は典範の認めざる所であります,之は我古代の法制であつて神武天皇以下武烈天皇に至りまする迄御譲位と云ふことは無かつた,継体天皇の25年皇太子を立て天皇(ママ)とせられ,天皇即日崩御せられた事があります,其後持統天皇,元明天皇,元正天皇の御譲位の事があります,元来女帝の御即位は皇太子尚幼くまします場合に其成長を待たる意味に出たものでありますから女帝の御譲位の事は例とすることは出来ぬのであります,聖武天皇が位を孝謙天皇に譲られたのが真の譲位の初としなければならぬのであつて,それ以来譲位受禅が頻に行はるに至つたのであります,之は主として仏教の影響に出るものであります,併ながら我皇位継承の本義ではありませぬ,それ故に典範は譲位の事を言はずして天皇崩御の場合にのみ皇位継承あるものとしたのであります,欧羅巴諸国では君主の譲位と云ふことは之を認むるを常とし,明文が無くとも譲位を為し得ることは当然としてあります,我国と制度の根本の趣旨が異ることを見ることが出来ます,多数の国の憲法では一定の原因ある場合には君主が位を譲つたものと認むるものとしてあります,又或は一定の場合には君主を廃することを得るものと定めてある憲法もある」と(上杉慎吉『訂正増補 帝国憲法述義 第九版』(有斐閣書房・1916年)257259頁)。東大寺等の造営で有名な8世紀・奈良時代の聖武天皇は自らを「三宝の奴」として仏教に深く帰依したところですが,確かに 現人神としては,少なくとも神仏分離を前提とすると,いかがなものでしょうか。

 父・聖武天皇からの生前譲位(天平感宝元年(749年))により皇位を継承した孝謙天皇は,自らもいったん大炊王(天武天皇の子である舎人親王の子)に生前譲位したものの(天平宝字二年(758年)),その後大炊王を皇位から追い,重祚します(称徳天皇)。女帝によって淡路に流謫せられた廃帝は,逃亡を図るも急死。この淡路廃帝に淳仁天皇との諡号が贈られたのは,ようやく明治になってからのことでした。

 皇嗣時代の大炊王の御歌にいわく。

 

 天地(あめつち)を照らす日月の極みなくあるべきものを何をか思はむ(万葉集4486

 

 河内出身の僧・道鏡が天皇になることは,和気清麻呂の宇佐八幡宮からの還奏(「我が国開闢より以来(このかた)君臣定まりぬ。臣を以て君となすことは未だこれあらず。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし。」)によって阻止されましたが,その後結局,聖武天皇,孝謙天皇,淳仁天皇らが属したところの,「極みなくあるべきもの」であった天武天皇系の皇統は,断絶しました。称徳天皇崩御後の後任である光仁天皇(天智天皇の孫であり,かつ,嗜酒韜晦の人であった白壁王)の皇子であって,女系で天武天皇系に連なっていた(おさ)()親王(聖武天皇を父とする井上(いのえ)内親王の子)も失脚し,その後急死しています(「光仁の即位も,当初は他戸への中継ぎとしての性格を持っていたのだろう」とされますが(大隅69頁),光仁天皇から譲位を受けることになったのは(天応元年(781年)),百済系の高野新笠の子である桓武天皇でした。)。

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皇居お濠端の和気清麻呂像(2016年9月10日撮影)一見入牢風のこの姿は,皇位継承に関する還奏に係る称徳天皇の勅勘が復活したわけではなく,地下の東京メトロ竹橋駅の工事のためです。 

 

2 明治皇室典範10条の起草過程

 明治皇室典範10条の起草過程をざっと見てみましょう。

(1)高輪会議まで

 187610月の元老院第1次国憲草案第4篇第2章の第11条には「皇帝崩シ又ハ其位ヲ辞スルニ当リ会マ元老院ノ開会セサルトキハ預メ召集ノ命ナクトモ直チニ自ラ集会ス可シ」とありましたから(小嶋和司「帝室典則について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)6970頁),生前譲位制が考えられていたわけです。

1878年3月の岩倉具視の「奉儀局或ハ儀制局開設建議」の「憲法」に関する「議目」には「太上太皇 法皇 贈太上天皇」というものがありました(小嶋「帝室典則」74頁)。これに関して,188212月段階での宮内省一等出仕伊地知正治の口述には「太上天皇並法皇 仙洞ニ被為入候得バ太上天皇尊号贈上ハ勿論ナリ。法皇ノ事ハ院号サヘ御廃止ノ今日ナレバ釈氏ニ出ル法号等ハ皇室ニ於テ口ヲ閉ヂテ可ナリ。」という発言が見られます(小嶋「帝室典則」78頁)。「仙洞(せんとう)」とは,『岩波国語辞典 第四版』(1986年)によれば,「上皇の御所。転じて,上皇の尊称。▷仙人のすみかの意から。」とあります。

 (史上初の太上天皇となったのは,孫の軽皇子(文武天皇)に生前譲位した女帝・持統天皇(在位690年‐697年)です。「696年に太政大臣高市皇子(天武の長男)が亡くなると,持統は宮中に皇族や重臣を召集し,次の皇位継承者について諮問するが,群臣の意見はまとまらず,会議は紛糾した。この時,故大友皇子〔天武天皇に壬申の年に敗れた弘文天皇〕の子である葛野王は,皇位は「子孫相承」するのがわが国古来の法であり,継承が兄弟におよぶのは内乱のもとであるとして,草壁〔持統と天武との間の子〕の異母兄弟である天武天皇の諸皇子の即位に反対し,持統を喜ばせたという(『懐風藻』葛野王伝)。葛野王の発言が,どの程度当時の共通認識であったかには疑問がある・・・」ということですので(大隅60‐61頁),当時はなお皇位継承者の決定には群臣の議が必要であったようですが,「結局持統は,翌697年二月に軽皇子の立太子を強行し,同八月には皇太子に譲位して文武天皇とし」ています(同61頁)。「8世紀の天皇権力は,皇位継承に群臣を介在させず,独自に直系の継承を行おうとし」ますが(大隅62頁),その努力の始めである7世紀末の文武天皇の即位には,天皇の生前譲位が伴っていたのでした。なお,「太上天皇とは,おそらく大宝律令の制定にともない,譲位した元天皇の称号として新しく設けられたもので,律令の規定では,天皇と同じ待遇と政治的権限を有して」いました(大隅65頁)。「太上天皇制の成立により,8世紀には,天皇が生前のうちに譲位し,自らは太上天皇となって天皇を後見する,という形の皇位継承が一般化する。これは,皇位継承の過程に群臣が介在する余地を結果的に排除したとも言え,天皇権力の群臣からの自立という点で,大きな意味をもっていた」わけです(大隅65頁)。ただし,太上天皇の在り方は嵯峨上皇の時に変化します。「この政変〔薬子の変〕への反省から学んだ 嵯峨天皇は,823年(弘仁十四)に弟の淳和天皇に譲位すると,自らは「後院」とよばれる離宮的な施設に隠居して政治的権限を放棄し,天皇に対しては臣下の礼をとるという新しい試みをする。これをうけた淳和天皇は,嵯峨に「太上天皇」を尊号として奉上し,以後この手続きが通例になるが,この結果,太上天皇がたんなる称号となり,またその授与の権限が現役の天皇に帰したことの意義は大きかった。」ということでした(大隅75頁)。


 しかしながら,
1885年又はそれ以前に宮内省で作成された(小嶋「帝室典則」129130頁。なお,1884年3月21日から宮内卿は伊藤博文(同月17日から制度取調局長官であったところに兼任(同局は1885年12月廃止)))「皇室制規」の第9条は「天皇在世中ハ譲位セス登遐ノ時儲君直ニ天皇ト称スヘシ」と規定して生前譲位を認めないものとしたところです(同125頁。ただし,「譲位の制は「皇室制規」の第2稿まで存した」とありますから(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』175頁),この「皇室制規」は第3稿以後のものなのでしょう。)。「登遐(とうか)」とは崩御のこと。これに対する井上毅の「謹具意見」1885年以前のものです(小嶋「帝室典則」130頁,135頁)。)には,「天子違予ニシテ政務ニ堪ヘ玉ハザルノ不幸アラバ,時宜ニ由テハ摂政ヲ置クコトアルベシト雖(議院ニ問ハズ),亦,叡慮次第ニハ並ニ時宜次第ニハ穏ニ譲位アラセ玉フコト尤モ美事タルベシ 起草第9条ノ上項ハ削去アリテ然ルベキカ」との批判がありました(同134頁)。この井上毅の譲位容認論の理由付けについて奥平康弘教授は,「非常に要約」して,「摂政には議会をつうじて人民に宣告し,なんらかの納得を得ることが不可避であるのに,譲位は人民による公知なしに―その理由など明らかにせずに―宮中内かぎりで片付けられ得る,代替りという線でやってのけられる利点があるではないかとする論理」があるものとしています(奥平康弘「明治皇室典範に関する一研究―「天皇の退位」をめぐって―」神奈川法学第36巻第2号(2003年)165‐166頁)。「「天子ノ失徳ヲ宣布スルニ至ラズ人民ヲ激動セズシテ外ハ譲位ノ美名ニ依リ容易ニ国難ヲ排除スル事ヲ得」たという事例〔陽成天皇譲位の例〕がある」旨「謹具意見」では述べられていたとされています(奥平165頁)。

 筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞ積もりて淵となりける(陽成院)
 

1885年の宮内省の「帝室典則」第2稿(小嶋「帝室典則」129頁)では「皇室制規」9条の規定は維持されていましたが,1886年6月10日の「帝室典則」では,同条に該当する規定は削られています(同140頁)。生前譲位がないことは当然とされたゆえ削られたのか(小嶋「皇室典範」175頁参照),それとも反対解釈すべきか(生前譲位を明示的に否認する「帝室典則」第2稿に対して井上毅は「謹具意見」の立場から改めて異議申立てをしています(奥平170‐171頁・註(14))。)。なお,井上毅の梧陰文庫蔵の「帝室家憲 スタイン起草」(用紙として「内閣罫紙」が使用されているため内閣制度が設けられた188512月以降に作成されたものと考えられています(小嶋「帝室典則」108頁)。ただし,小嶋教授は1887年以後に依頼され作成されたのではないかとも考えていました(同118119頁)。)の第7条(伊東巳代治遺文書中にあった下訳と認定される史料による(小嶋「帝室典則」108109頁)。)の第1項は「皇帝譲位セラレントスルノ場合ニ於テハ各高殿下,殿下及高等僧官ヲ招集シテ之ニ其旨ヲ言明シ必ス一定ノ公式ニ依リ書面ヲ以テ之ヲ証明シ譲位セントスル皇帝ノ家事モ亦タ之ニ因テ定ムヘキモノトス」と,第2項末段は「摂政5箇年ノ久シキニ渉リ仍ホ皇帝ノ疾病快癒ノ望ナキトキハ立法院ノ承認ヲ経タル上高殿下一同ニテ皇位継承ノ事ヲ布告スヘシ」と規定していました(小嶋「帝室典則」114115頁)。

 1887年1月25日に「帝室制度取調局総裁」柳原前光(大正天皇の生母・愛子の兄,白蓮の父)が宮内省図書頭・井上毅に提出した「皇室法典初稿」(小嶋「皇室典範」172173頁。伊藤博文(1885年12月22日から1888年4月30日まで内閣総理大臣,1887年9月16日まで宮内大臣兼任)に起草を命じられたものです(同172頁)。なお,小嶋教授は「柳原が当時,帝室制度取調局総裁の地位にあった」と記していますが(同頁),宮内庁の「宮内庁関係年表(慶応3年以後)」ウェッブ・ページを見ると,1885年12月22日に制度取調局が廃止された後,1888年5月31日に「臨時帝室制度取調局を置く。」とありますので,実は1887年初頭当時に「帝室制度取調局」があったものかどうか。岩波書店の『近代日本総合年表 第四版』(2001年)の1887年3月20日の項には「帝室制度取調局総裁柳原前光」との記載があり,これは稲田正次教授の『明治憲法成立史』に基づくものとされています。稲田教授の『明治憲法成立史』については「そこですべてが明らかにされたわけではなく,不明の断点が何ヶ所か残され,重要な事実の脱漏もある」との評価を加えつつも(小嶋「皇室典範」171頁),この部分については,小嶋教授は稲田教授の記述を踏襲したものでしょうか。ちなみに,国立国会図書館の「柳原前光関係文書」ウェッブ・ページの「旧蔵者履歴」欄を検すると,1887年当時,柳原は確かに総裁ではあったものの,賞勲局総裁であったところです。)の第8条には「天皇ハ皇極帝以前ノ例ニ依リ終身其位ニ((ママ))ヲ正当トス但シ心性又ハ外形ノ虧缺(きけつ)ニ係リ快癒シ難ク而シテ嫡出ノ皇太子又ハ皇太孫成年ニ達スル時ハ位ヲ譲ルコトヲ得とありました(小嶋「皇室典範」175頁)。再び生前譲位制が認められています。ただし,例外としての位置付けです。

 1887年2月26日に井上毅が伊藤博文に提出した「皇室典範」(小嶋「皇室典範」179頁)の第13条にも天皇の生前退位の制度が定められていました(同183頁)。「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ノ重患アルトキハ皇位継承法ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」というものでした(小嶋「皇室典範」185186頁)。附属の「説明案」において井上毅は,「天皇重患ニ因リ大位ヲ遜ルゝハ亦一時ノ権宜ニシテ実ニ已ムヲ得サルニ出ルモノアリ」と断じた上で,「大位ヲ遜譲シテ国家ノ福ヲ失ハズ是レ亦変通ノ道ナリ」と述べています(奥平172頁)。

 1887年3月14日に柳原前光から伊藤博文に提出された「皇室典範再稿」(小嶋「皇室典範」184頁)の第12条には「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」とありました(同185186頁,190頁)。当該「皇室典範再稿」では更に,第15条において「譲位ノ後ハ太上天皇ト称スルコト文武天皇大宝令ノ制ニ依ル」と,第16条において「天皇崩後諡号ヲ奉ルコト文武天皇以来ノ制ニ依ル太上天皇ヘモ亦同シ」と,第17条において「天皇崩シ又ハ譲位ノ日皇嗣践祚シテ即チ尊号ヲ襲ヒ祖宗以来ノ神器ヲ承ク」と,第23条において「天皇及皇族ノ位次ヲ定メ左ニ開列ス/第一天皇 第二太上天皇 第三太皇太后〔以下略〕」と,第31条において「天皇太上天皇太皇太后皇太后皇后ヘノ敬称ハ陛下ト定ム」と,第37条において「皇室ノ徽章ハ歴代ノ例ニ依リ菊花ヲ用ヒ桐之ニ亜ク太上天皇ハ菊唐草ヲ用ユ」とも規定していました(小嶋「皇室典範」190193頁)。

 

(2)1887年3月20日高輪会議及びその後

 天皇の生前譲位制が排されたのは,1887年3月20日午前10時半から伊藤博文の高輪別邸において開催された伊藤博文,柳原前光,井上毅及び伊東巳代治による会議(小嶋「皇室典範」187頁)においてでした。すなわち,「典範・皇族令体制の骨子」が定められた当該会議(小嶋「皇室典範」200頁)において,前記柳原「皇室典範再稿」12条の生前譲位規定は,伊藤博文及び柳原前光の首唱により削られることになったのでした(同190頁)。原案作成者の柳原前光が削ることを首唱したというのも不思議ですが,伊藤博文の首唱に対して,なるほどもっともと積極的に賛成したところです。「皇室典範再稿」の第15条及び第16条を削ること並びに第17条を「第10条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と修正すること(この高輪会議決定案は既に明治皇室典範10条と同じですね。)の首唱者も伊藤博文となっています(小嶋「皇室典範」190191頁)。奥平康弘教授の引用する伊東巳代治の「皇室典範・皇族令草案談話要録」によれば,「皇室典範再稿」12条に係る議論においては,まず伊藤博文が「本案ハ其意ノ存スル所ヲ知ルニ困シム天皇ノ終身大位ニ当ルハ勿論ナリ又一タヒ践祚シ玉ヒタル以上ハ随意ニ其位ヲ遜レ玉フノ理ナシ抑継承ノ義務ハ法律ノ定ムル所ニ由ル精神又ハ身体ニ不治ノ重患アルモ尚ホ其君ヲ位ヨリ去ラシメズ摂政ヲ置テ百政ヲ摂行スルニアラスヤ昔時ノ譲位ノ例ナキニアラスト雖モ是レ浮屠氏ノ流弊ヨリ来由スルモノナリ余ハ将ニ天子ノ犯冒スヘカラサルト均シク天子ハ位ヲ避クヘカラスト云ハントス前上ノ理由ニ依リ寧ロ本条ハ削除スヘシ」と宣言し(なお,「浮屠」とは,仏のことです。),これに対して井上毅が抗弁して「『ブルンチェリー』氏ノ説ニ依レハ至尊ト雖人類ナレハ其欲セサル時ハ何時ニテモ其位ヨリ去ルヲ得ベシト云ヘリ」と言ったものの,柳原前光は伊藤内閣総理大臣に迎合して「但書ヲ削除スルナレハ寧ロ全文ヲ削ルヘシ其『ブルンチェリー』氏ノ説ハ一家ノ私語ナリ」と自らの原案を否定し,結論として伊藤博文が「然リ一家ノ学説タルニ相違ナシ本条不用ニ付削除スヘシ」と述べています(奥平177頁)。「至尊ト雖人類ナ(リ)」という議論は斥けられたのでした。
 (「皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは,摂政は,天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には前条第1項の規定〔「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」〕を準用する。」と規定する現行憲法5条を前提とすれば, 摂政は国事行為に係る代理機関にすぎず(また,「摂政は天皇ではないから,「象徴」としての役割を有しない。」とも説かれています(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)259頁)。)祭祀については困る,とあるいは更に反論できたのでしょうが, 大日本帝国憲法下では(その第17条2項は「摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ」と規定。『皇室典範義解』には「摂政は以て皇室避くべからざるの変局を救済し,一は皇統の常久を保持し,二は大政の便宜を疎通し,両つながら失墜の患を免るゝ所以なり。摂政は天皇の天職を摂行し,一切の大政及皇室の内事皆天皇に代り之を総攬す。而して至尊の名位に居らざるなり。」と説明されていました(岩波文庫147頁)。), 「祭祀ニ付テ」も「天皇ノ出御アルコト能ハザル場合ニ於テ摂政之ヲ代行スル」こととなっていました(美濃部239頁。ただし,「祭祀ニ付テ・・・皇室祭祀令ニハ天皇幼年ノ場合ニモ親ラ出御アルベキコトヲ定メ,以テ摂政ノ必ズシモ代行スル所ニ非ザルコト」が示されていたそうです(美濃部239頁)。確かに,皇室祭祀令(明治41年皇室令第1号)の附式には「天皇襁褓ニ在ルトキハ女官之ヲ奉抱ス」等の「注意」が記されています。)。ちなみに,摂政令(明治42年皇室令第2号)1条は「摂政就任スル時ハ附式ノ定ムル所ニ依リ賢所ニ祭典ヲ行ヒ且就任ノ旨ヲ皇霊殿神殿ニ奉告ス」と規定していました。これは,1909年1月27日の枢密院会議における奥田義人宮中顧問官の案文説明によれば,「其〔摂政〕ノ誠実ヲ表明スル為メ設ケタル規定」です。いずれにせよ,大日本帝国憲法下の摂政の制度は特殊なもので,同日の奥田宮中顧問官の説明においてはまた「然ルニ摂政ニツキテハ古来依ルヘキ例ナシ故ニ此ノ〔摂政令〕案ノミハ全ク新タニ出来タルモノト御承知ヲ乞フ」と述べられていました。なお,1945年12月15日のGHQのいわゆる神道指令後には天皇の「祭祀大権は全く失は」れ,宮中祭祀は「純然たる皇室御一家の祭祀」となって「皇室の家長たる御地位に於いて天皇の行はせらるる所」とされています(美濃部555頁)。皇室の家長の交代には,譲位が必要ということになるのでしょうか。)

 明治天皇裁定の皇室「典範は,無能不適格な天皇が位に即く危険を冒し,指名権も譲位も否定して,血統原理をもって一貫した。そのような場合の能力の補充者たるべき摂政についてさえ,天皇の未成年及び「久シキニ亘ルノ故障ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルトキ」という厳重な条件を附し,しかも就任順位を血統原理に従って厳重に法定し,能力原理の介在を一切斥けた。天皇主権の憲法を,天皇の能力に全く依存しない仕方で運用しようとする立法者の強い意思の表明であり,この皇室制度は一番の「利害関係者」である天皇の意思を殆んど徴さないままに創り出された。」と評されていますが(長尾龍一「井上毅と明治皇室典範」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)5152頁),当該「立法者」ないしは「天皇制の完全な制度化を実現した人物」は,「謹具意見」で生前譲位容認説を唱えていた井上毅ではなく,やはり,長州藩の足軽から「能力原理」で立身出世を遂げた伊藤博文だったのでした(同52頁参照)。皇位に係る血統原理の貫徹及び能力原理の排斥は,「下級武士と下級貴族によって形成された明治政府が,幕府や大名などの旧勢力に対する支配の正統性を取得するために,天皇に,実際には与えるつもりのない巨大な権力を帰した」(長尾龍一「天皇制論議の脈絡」『思想としての日本憲法史』207頁)過程における必要な手当てだったわけです。

 前記高輪会議の後1887年4月に,柳原前光は「皇室典範草案」と題するものを作成して伊藤博文(同月25日)及び井上毅(同月27日)に提出しています(小嶋「皇室典範」202頁)。そこでは,高輪会議決定案の前記第10条が2箇条に分割されてしまっており(小嶋「皇室典範」204頁),当該柳原案に手を入れた井上毅の「七七ヶ条草案」では,「第10条 天皇崩スル時ハ皇嗣即チ践()ス」及び「第11条 皇嗣践阼スル時ハ祖宗ノ神器ヲ承ク」となっています(同212頁)。ただし,1888年3月20日の井上毅修正意見においては,「第10条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践阼シ祖宗ノ神器ヲ承ク」に戻っています(小嶋「皇室典範」212頁)。確かに2箇条に分かれていると,先帝崩御に基づかない皇嗣の践祚もあるように解釈する余地がより多く出てきます。

 

(3)枢密院における審議

 皇室典範の枢密院御諮詢案は,1888年3月25日に伊藤博文出席の夏島の会議で決定しています(小嶋「皇室典範」222頁)。御諮詢案の第10条は「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」となっていて,枢密院において修正されることはありませんでした(小嶋「皇室典範」227頁)。なお,柳原前光は枢密顧問官になるには年齢が足らず(枢密院官制(明治21年勅令第22号)4条により40歳に達していることが必要),枢密院における審議には出席できませんでした(小嶋「皇室典範」236頁参照)。

 枢密院の審議において,明治皇室典範10条は,1888年5月25日に第一読会,同月28日に第二読会,同年6月15日に第三読会に付されています(小嶋「皇室典範」240241頁)。しかしながら,それらの読会において同条に関する議論は一切ありませんでした。アジア歴史資料センターのウェッブ・サイトにある枢密院の「皇室典範議事筆記」によれば,第一読会においては「〔伊藤博文〕議長 第10条ニ質問ナケレハ第11条ニ移ルヘシ」とのみあり(第17コマ),第二読会においては「議長 本条ニ付別ニ意見ナケレハ直ニ原案ノ表決ヲ取ルヘシ原案同意者ノ起立ヲ請フ」に対して「総員一致」となって「議長 総員一致ニ付原案ニ決シ本日ハ最早時刻モ後レタレハ是ニテ閉会スヘシ・・・」で終わっており(第65コマ),第三読会では井上毅書記官長による条文朗読のみでした(第294コマ)。
 しかし,同年6月18日の午前,枢密院が大日本帝国憲法の草案の審議に入るに当たって議長・伊藤博文が行った演説中における次の有名なくだりに,明治典憲体制において天皇の生前譲位が排除されることとなった理由が見いだされるように思われます。確かに,我が国未曽有の変革である憲法政治に乗り出したとき,宗教(ヨーロッパ諸国においてはキリスト教)に代わってどっしりと我が日本国家の機軸であることが求められる皇室の長たる天皇が,生前譲位(更には煩悩を逃れての仏門入り)等の非religious institution的な振る舞いをしてしまうということでは,いささか心もとなかったわけでしょう。それはともかく,いわく。「・・・抑欧洲ニ於テハ憲法政治ノ萠芽セルヿ千余年独リ人民ノ此制度ニ習熟セルノミナラス又タ宗教ナル者アリテ之カ機軸ヲ為シ深ク人心ニ浸潤シテ人心此ニ帰一セリ然ルニ我国ニ在テハ宗教ナル者其力微弱ニシテ一モ国家ノ機軸タルヘキモノナシ仏教ハ一タヒ隆盛ノ勢ヲ張リ上下ノ人心ヲ繋キタルモ今日ニ至テハ已ニ衰替ニ傾キタリ神道ハ祖宗ノ遺訓ニ基キ之ヲ祖述スト雖宗教トシテ人心ヲ帰向セシムルノ力ニ乏シ我国ニ在テ機軸トスヘキハ独リ皇室アルノミ是ヲ以テ此憲法草案ニ於テハ専ラ意ヲ此点ニ用ヰ君権ヲ尊重シテ成ルヘク之ヲ束縛セサランコトヲ勉メタリ・・・」と(アジア歴史資料センターのウェッブ・サイトにある「憲法草案枢密院会議筆記」第6コマ)。

 

3 皇位継承の根本義

 ところで,皇位継承の根本義とは何でしょうか。

 

  以上,皇位継承とは,位が主に非ずして(くらゐ)種子(たね)が主である。皇位(みくら)の中核とまします「皇天不二の御神霊」を当然継承し給ひ,此の人格者は即神格者として皇位にましますのである。「御人格(○○○)()()もの(○○)()()()にま(○○)します(○○○)()より(○○)自然(○○)()事実(○○)()変遷(○○)()応じ(○○)自然(○○)()()ながらに(○○○○)皇天二(○○○)()()御延長(○○○)たり(○○)()()」実を,発揮し給ふのである。位といふ有形・無形の座が外に在りて夫を占領し給ふ一種の作用を申すのではない。(筧克彦『大日本帝国憲法の根本義』(岩波書店・1936年)268269頁)

 

 「自然の事実の変遷に応じ」,「御神霊」の「当然継承」がされるのが皇位継承であって,皇嗣たる人格者による皇位の「占領」とは違うということになると,生前譲位は本来の皇位継承ではないということになりそうです。しかし,従来の生前譲位は無効ということになると,万世一系はどうなるのでしょうか。

 

 然しながら,是は第一段の根本につき申すこと故,第二段(○○○)第三段(○○○)()()ては(、、)()()いふ(、、)形式(、、)から(、、)()人格者(、、、)()制約(、、)する(、、)こと(、、)()()つて(、、)来る(、、)。史実としても,皇胤たり給ふ御方様の数多ましませし時には,皇胤ではあらせられても皇位を得給はざりし御方は,具体的には 皇祖の御本系を成就され給ふものといふことが出来ざりし次第であつた。皇胤中に於て御本系を明らかにするには神器(かむだから)の正当なる授受の事実によりて決すべき史実も在つたのである。(筧269頁)

 

「皇天不二の御神霊」の継承は,「神器の正当なる授受」によって生ずるものと考えてよいのでしょうか。

ところが,そうなると,現行の皇室典範4条から「祖宗ノ神器ヲ承ク」を削ってしまったのは早計だったものか。

 しかしながら,今上帝の即位に際しては「臨時閣議において,憲法7条10号,皇室典範4条,皇室経済法7条を根拠に,「剣璽等承継の儀」・・・が()天皇の国事行為と決定され」(昭和64年1月7日内閣告示第4号),1989年1月7日午前10時に行われています(平成元年1月11日宮内庁告示第1号)(佐藤247248頁)。憲法7条10号は「儀式を行ふこと」を天皇の国事行為としています。けれども,現行の皇室典範4条は,信仰にかかわるということから意図的に三種の神器に触れなかったのではないでしょうか。「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。」との皇室経済法7条の規定は,民法の相続に関する規定の例外規定にすぎなかったのではないでしょうか。「神器の正当なる授受」が皇位継承の要素であることは,憲法7条10号に包含された不文の憲法的規範であるということでしょうか。なお,「一定の準備期間を必要とする即位儀とは別に,天皇から皇太子への譲位が決定されると,すぐに剣璽などの宝器(レガリア)を皇太子=新天皇の居所に運んでしまい,それをもって一応の皇位継承が行われたとする「剣璽渡御」(践祚)の儀が成立」するのは「桓武朝以後」と考えられているそうですが(大隅71頁),そうだとすると,「剣璽等承継の儀」は本来的には生前譲位の場合における儀式として始まったということにもなるように思われます。
 ところで,明治天皇は,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚」するものと自ら明治皇室典範10条を裁定したのですが,早くも明治天皇から大正天皇への皇位の継承に当って齟齬が生じています。当時内務大臣であった原敬の記す明治最後の日・1912年7月29日の日記にいわく。
 「午後10時40分天皇陛下崩御あらせらる。実に維新後始めて遭遇したる事として種々に協議を要する事多かりしなり。/崩御は30日零時43分として発表することに宮中に於て御決定ありたり,践祚の御式挙行の時間なき為めならんかと拝察せり」(隅谷三喜男『日本の歴史22 大日本帝国の試煉』(中央公論社・1966年)456頁)
 明治天皇は,現実の崩御後なお2時間3分の間「在位」していることになっており,「死後譲位」がされたのでした。
 なるほど,明治皇室典範10条以来,皇位継承は,天皇自らの意思によってすることのできないことはもちろん,実は崩御によって直ちに生ずるものでもなく,決定的なのは儀式をつかさどる臣下らの都合なのでした。その後も明治天皇祭の祭祀が行われる日は,7月29日ではなく7月30日で一貫します。

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俊德院殿頴譽巍寂大居士正二位勲一等伯爵柳原前光(1894年9月2日死去・行年四十五歳)の眠る東京都目黒区中目黒の祐天寺にある柳原伯爵家の墓(隣には,大正天皇の生母である智孝院殿法譽妙愛日實大姉従一位勲一等柳原愛子の墓があります。)


弁護士 齊藤雅俊
大志わかば法律事務所
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(前編からの続き)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1054087409.html

 

4 GHQ法務局とラジオ・コード的規定の採否

 

(1)第2回国会提出の放送法案とGHQのラジオ・コード

しかし,「日本側として何とかして復活実現させよう」と最終的には頑張ることになったにもかかわらず,第7回国会における内閣提出の放送法案においては現在の放送法4条1項(同法原始規定44条3項・53条)のような規定が当初は設けられていなかったのは,そもそもなぜだったのでしょうか。

実は,第2回国会に出した放送法案について194812月2日にGHQ法務局(LS)からされた罵倒が,逓信省(1949年6月1日から電気通信省電波庁)及びGHQ民間通信局のトラウマになっていたようです。

第2回国会に内閣が提出した放送法案には,次のような規定がありました(放送法制立法過程研究会164166頁,182183頁,189190頁参照)。

 

 (定義)

第2条 この法律においては,左の用語を各下記の意義に用いる。

  〔第1号から第8号まで略〕

 九 「一般放送局」とは,日本放送協会が施設した以外の放送局をいう。

  〔第10号及び第11号略〕

 十二 「放送番組」とは,公衆に直接提供する目的で行なわれる電気通信の内容をいう。

 

 (ニユース放送)

第4条 ニユース記事の放送については,左に掲げる原則に従わなければならない。

 一 厳格に真実を守ること。

 二 直接であると間接であるとにかかわらず,公安を害するものを含まないこと。

 三 事実に基き,且つ,完全に編集者の意見を含まないものであること。

 四 何等かの宣伝的意図に合うように着色されないこと。

 五 一部分を特に強調して何等かの宣伝的意図を強め,又は展開させないこと。

 六 一部の事実又は部分を省略することによつてゆがめられないこと。

 七 何等かの宣伝的意図を設け,又は展開するように,一の事項が不当に目立つような編集をしないこと。

2 時事評論,時事分析及び時事解説の放送についてもまた前項各号の原則に従わなければならない。〔参議院における修正案(194810月9日付け同議院通信委員会資料)では「時事分析及び時事解説の放送についても前号〔ママ〕の原則に従わなければならない。評論,演芸その他の放送であつて,その内容に明らかにニユース記事,時事分析及〔ママ〕時事解説を含むものも,また同様とする。」とされ(放送法制立法過程研究会200頁参照),全ての放送に適用があるものとされています。〕

3 〔放送法現行9条に相当する規定〕

 

 (放送番組の編集)

46条2項 〔日本放送〕協会は,放送番組の編集に当つては,左の各号の定めるところによらなければならない。

 一 公衆に対し,できるだけ完全に,世論の対象となつている事項を編集者の意見を加えないで放送すること。

 二 意見が対立している問題については,それぞれの意見を代表する者を通じて,あらゆる角度から論点を明らかにすること。

 三 成人教育及び学校教育の進展に寄与すること。

 四 音楽,文学及び娯楽等の分野において,常に最善の文化的な内容を保持すること。

 

 (政治的公平)

47条 協会の放送番組の編集は,政治的に公平でなければならない。

2 公選による公職の候補者に政見放送その他選挙運動に関する放送をさせたときは,その選挙における他の候補者に対しても申出により同一放送設備を使用し,同等な条件の時間において,同一時間数を与えなければならない。

 

 (免許の取消又は業務の停止)

68条1項 放送委員会は,免許人〔一般放送局(法案2条9号)の設置の免許を受けた者(法案58条1項)。なお,法案38条2項の規定では日本放送協会の設置する放送局に法案68条の準用はなし。〕が,左の各号の一に該当すると認めた場合には,当該免許を取り消し,又は1箇月以内の期間を定めて,業務の停止を命ずることができる。

 〔第1号略〕

 二 この法律又はこの法律に基く放送委員会規則に違反した場合

 〔第3号から第5号まで略〕

 

第2回国会の放送法案の第4条1項及び2項と同法案68条1項2号との関係は,現在の放送法4条1項と電波法76条1項との関係と極めてよく似ていますね。第2回国会の放送法案4条1項1号と放送法4条1項3号と, 及び第2回国会の放送法案4条1項2号と放送法4条1項1号とはいずれも対応関係がはっきりしています。放送法4条1項2号の「政治的に公平であること」が政治的「宣伝的意図」を排除すべきことを意味するのならば,同号は, 第2回国会の放送法案4条1項の4号,5号及び7号と対応することになります。

なお,1945年9月22日にGHQから我が国に下されたラジオ・コードと第2回国会の放送法案4条との承継関係は歴然としており,同法案4条1項各号及び第2項は,それぞれラジオ・コードの「一,報道番組」のAB及びFからJまでの各項並びにK項に対応し(なお,CからEまでの各項は聯合国批判及び進駐軍批判の禁止並びに聯合軍の動静の秘密保持に関するもの),参議院通信委員会の意図した第2回国会の放送法案4条2項の改正案も「劇,風刺物,脚色物,詩,寄席演劇,喜劇等ヲ含ム慰安番組ハ・・・報道放送ニ関スル第1項中ニ挙ゲラレタル諸要求ニ合致スベシ」とするラジオ・コードの「二,慰安番組」の規制に正に合致していました(放送法制立法過程研究会2324頁参照)。

 

(2)GHQ法務局の見解:ラジオ・コード的規定違憲論

このような第2回国会の放送法案に対するGHQ法務局の託宣(194812月2日)は,次のとおりでした(放送法制立法過程研究会207208頁,212213頁参照)。

 

・・・

二,第4条

 A この条文には,強く反対する。何故ならば,それは憲法第21条に規定せられている「表現の自由の保証〔ママ〕」と全く相容れないからである。現在書かれているまの第4条を適用するとすれば絶えずこの条文に違反しないで放送局を運用することは不可能であろう。反対の側から言えば,政府にその意志があれば,あらゆる種類の報道の真実〔realistic reporting〕あるいは,批評を抑えることに,この条文を利用することができるであろう。この条文は,戦前の警察国家〔former police state〕のもつていた思想統制機構〔thought control devices〕を再現し,放送を権力〔forces in power〕の宣伝機関〔propaganda vehicle〕としてしまう恐れがある。――これは,この立法の目的としているところは〔ママ〕,正反対である。放送が現在日本において,公の報道〔public information〕,教育機関として最も重要な手段〔most important means of communication〕であることを考えれば,上記の如き方向への発展(への可能性)の危険性は,如何に声を大にしても過ぎるということはない。

   例えば,第2項は,ニユース評論(News Comentary (sic))は,厳密に真実であり,編集者の意見を含まず,「着色」していないことを要求している。しかし「評論」とは,定義によれば「個人の意見」の発表であり,「報道上及び教育上の価値判断」の顕現である。条文にあるような制限の下に「評論」が不可能であること〔deprive … of their informative and educational values〕は,自明の理であろう。政治の面を離れても「制限」を実行することはむづかしい〔not workable〕。例えば,台風その他全国的天災等も第2項〔ママ〕第2号によつて報道するわけにはゆかなくなる。何故ならば,その報道は,公安を害する〔disturb public tranquility〕かもしれないからである。

 B この条文を,弁護するものは,それが1945年9月19SCAPIN33号〔ラジオ・コードの3日前に出されたプレス・コード「日本新聞規則ニ関スル覚書」〕に基いているというかもしれない。然し,SCAPINの内容と国内法とは,相違がなくてはならない。このSCAPIN33号は純然たる国内事件を規律しようとしたものではない。それは「占領に」関係あることのみを目的としている。このSCAPINは意見の制限や抑圧に用いられたことがないのみならず〔has this SCAPIN never been used for restriction or suppression of opinion〕,国内事件に関しては,それは1945年9月第660号及び1946年第99SCAPINによつて置きかえられている。

 C 言論の自由抑圧を一掃するため〔because of the sweeping prohibition of freedom of speechLSはこの第4条の全文削除を勧告する。何故なら放送の本来の目的は,「不偏不党」をも含めて第3章〔日本放送協会の章〕第46条,第47条で尽されているからである〔in as much as the reasonable objectives of broadcasting, including impartiality, are covered by the standards expressed in Chapter III, Articles 46 and 47〕。

  ・・・

 

 逓信省及びGHQ民間通信局の事務方としては,参りました,といったところだったのでしょう。「適切な意見と思はれるのでこれを取入れることとした」と伝えられています(荘=松田=村井37頁)。

  しかし,第2回国会の放送法案4条1項及び2項には, 「編集の詐術」等を防止するための真面目かつ立派でごもっともなことばかり書いてあるのですが,意外にもそれらを非難するGHQ法務局の前記意見をどう読むべきでしょうか。もしかしたら,「ごもっとも」なことばかり言う「真面目」かつ「立派」な人々こそが実は,言論の自由を扼殺して警察国家を招来する最も恐るべき危険な人々だということなのでしょうか。なかなか米国人の言うことは,我々善良かつ真面目な日本人にとっては難しいところです。

 また,LS意見のC項の意味するところは正確には何でしょうか。第2回国会の放送法案46条2項及び47条に書かれてある程度の番組準則であれば,日本放送協会のみならず一般的にも許されるということでしょうか。しかし,GHQ法務局は,番組準則については直接語らず,放送に係る妥当な目的(the reasonable objectives of broadcasting)が日本放送協会について定める上記法案の46条及び47条において準則(standards)の形で書かれてあるんだから,同法案4条までは不要であると言っているようです。日本における放送の目的が問題であり,それについては真面目な日本放送協会が果たすのであるから,他の「一般放送事業者」については気にしなくともよい,ということのように解釈され得ます。「一般放送事業者」の放送番組の編集に係る条項を設けなかったところからすると,第7回国会に放送法案を提出するに当たって,我が国政府はそのように理解していたように思われます。
 (なお,B項に出てくるプレス・コードについては,メリーランド大学プランゲ文書に保存されているものとしてインターネット上で紹介されている1945年9月21日版があり,それには前文が付いていて,当該前文によれば,プレス・コードは「日本に出版の自由を確立するため」発令されたものとされ,「出版を制限するもので無く,寧ろ日本の出版機関を教育し,出版の自由の責任と,重要性とを示さうとするものである(This PRESS CODE, rather than being one of restrictions of the press, is one which is designed to educate the press of the Japanese in the responsibilities and meaning of a free press.)。従って報道の真実性と宣伝の排除といふことに重点を置いてゐる(Emphasis is placed on the truth of news and the elimination of propaganda.)」ものであるとされていました。プランゲ文庫版の日本語訳は,日本の新聞記者諸賢の自尊心をおもんぱかった言葉づかいになっていますね。直訳調だと,「このプレス・コードは,取締り云々以前に,日本原住民連中の「報道機関」に,自由なプレスに伴う責任及びそもそも自由なプレスの何たるかを教育してやるために作成されたものなんだよ。うそニュースはいかんし,どこかの宣伝ばかりするようになってはいかんということを分からせてやろうってものなんだよ。」とも訳せそうな気がします。)
 

5 高塩修正のGHQ通過並びにGHQ説得の技術及びその副産物

 

(1)目糞鼻糞,袈裟の下の鎧等

 しかし,我が国においては,「一般放送事業者」だから「不真面目」でよい,ということにはなりません。やはり,せいぜい「おもしろまじめ」であって,飽くまでも真面目でなければ許されないのです。日本放送協会及び「一般放送事業者」を通じて適用されるべき番組準則は,やはり必要だったのです。

番組準則を導入する高塩修正に向けて,中村純一衆議院電気通信委員以下日本側は,どのようにGHQ民政局を説得したのか。

やはり,目糞鼻糞論というべきか(余り上品な比喩ではないですね。),GHQのラジオ・コードは御立派なものであったので今後とも当該御指導に引き続きあやかりたい,という方向からの口説きがあったようです。

 

塩野〔宏〕 放送法〔原始規定〕第44条第3項が〔1950年4月7日の〕衆議院修正で四原則をもって規律することとされたのですが,こういった文句もFCC〔米国の連邦通信委員会〕のレギュレーションを参考にしたのですか。

野村〔義男〕 これは,大体司令部〔GHQ〕から日本側に出たラジオ・コードあるいはプレス・コードをここへ入れたわけです。だから通ったので,日本側の発案で持って行ったらおそらく通らなかったでしょうね。・・・

  (1978年3月11日に東京・内幸町の飯野ビル(改築前)のレストラン・キャッスルでされた座談会から。放送法制立法過程研究会564頁)

 

自らが散々活用したラジオ・コードの例を出されてしまうとGHQもなかなか強い姿勢を続けられなかったようです(なお,前記GHQのGS文書に係るBox No.2205の26‐27コマ目にある1950年3月30日付け民政局宛て民間情報教育局(CIE)の照会回答文書では,「聯合国最高司令官のラジオ・コードの規定を採用することによって,修正案は,原案のいくつかの重要な点(several important details)を失うことになっている。協会は今や「公衆に関係がある事項について報道すること(inform listeners of all public issues)」を義務付けられないし,事実をまげてはならないとの制約が適用される範囲も「ニュース」のみに狭められている。これは,他の番組においては事実をまげてよいことを含意するものである。」と述べられています。)。それでも,袈裟衣の下の鎧たる電波法76条1項の修正案は,やはり見とがめられたのかもしれません(ただし,主役の民政局及び民間通信局はともかく民間情報教育局は,上記Box No.2205の33コマ目の1950年3月30日付け民政局宛て照会回答文書で「民間情報教育局は,このような性格の技術的立法には直接関係しないものであるが,〔電波法案に係る〕当該修正案に対する反対は無いところである。」と述べています。)。以下は想像になりますが,そこで日本側としてはGHQ法務局の以前の見解の手前もあり(そこでは,GHQのプレス・コードといえども占領目的に関するものはともかくも純粋の日本の内国事項に係る意見の制限又は抑圧にまでは用いられたことはないとの主張もされていました。自由と民主主義の国たることを標榜する米国の軍人としては,そういう建前でなければ受け付けられないのでしょう。),いやいやGHQさま放送法案の新しい第44条3項は「道徳的,社会的な基準」にすぎないものでありましてこれでもって電波法76条1項の行政処分をして憲法21条1項を弑逆するようなことはありません,御ラジオ・コードを超えるようなあつかましいことに用いるような意図は毛頭ございません,といったような言い訳がされたのではないかと思われます(飽くまでも想像です。なお,1950年3月16日付けの辻衆議院電気通信委員長からホイットニーGHQ民政局長宛ての前記書簡においては,「私どもが御提案申し上げた修正は占領政策に合致し(the amendments we proposed will coincide with the occupation policies),また,我が国の民主化を推進するものと確信しております。」と述べられていました。)。これが,1950年4月7日の衆議院電気通信委員会における,高塩修正に対する中村純一委員の賛成討論における前記発言につながったのではないでしょうか(飽くまでも想像です。)。

 

(2)取りもどすべき日本及び合格すべき司法試験答案について

さて,放送法4条1項に基づく電波法76条1項の処分の可否の問題に戻ります。

「できる」という側には,1945年9月22日のGHQのラジオ・コードを依然奉戴しているみたいで,「主権回復」から60年以上たち占領体制を脱却する自由と民主の我が国にふさわしくないという非難が可能なようではあります。しかし,「できない」という側にも,194812月2日のGHQ法務局の「押し付け憲法解釈」を依然奉戴しているみたいで,これも同じく,「主権回復」から60年以上たち占領体制を脱却する自由と民主の我が国にふさわしくないという非難が可能なようであります。はてさて,取りもどすべき日本は,どちらの側にあるのでしょうか。

とはいえ,194812月2日のGHQ法務局の意見のとおり,1995年の司法試験における憲法の前記設問に回答していたらどうなっていたことでしょうか。合憲性審査に係る「二重の基準」やら精神的自由権に係る「厳格な審査基準」やら「明白かつ現在の危険」基準やら「より制限的でないほかに選び得る手段の原則」やらがちゃんと書かれていないので,落第点でしょうか。そうだとすると,司法試験受験生的には,前記GHQ法務局的論証パターンは論外であって,したがって,放送法4条1項違反を理由に電波法76条1項の処分をすることは違憲であるとは電波法・放送法の立法過程の実務において正しく論証されてはいなかったのだ,日本の司法試験に合格していない米国人は困ったものだったのだ,ということになるようにも思われます。

(3)岸信介内閣による放送法改正(昭和34年法律第30号)

 ところで,1950年に成立した放送法の最初の本格的改正は,第2次岸信介内閣時代の1959年に成立した昭和34年法律第30号によってされたものです。電波法・放送法の運用も8年を超えたところでの改正であって,当時の政府当局の見解が反映されたものであったわけです。放送法の当該改正に向けた岸内閣の郵政大臣ら(電波監理委員会は,1952年に廃止され,放送を含む電波監理行政は郵政省に引き継がれていました。)の精励については,次のように紹介されています。(紹介者は,例の荘宏氏。荘氏は,1952年8月に電波監理総局の文書課長から郵政省電波監理局次長となって,その後1959年6月に東京郵政局長として転出するまで7年近く電波の「万年次長」を務めておられました。いやしくも「高級官僚」たる者は短い期間で「無責任に」ポストからポストへどんどん異動しては偉くなっていくはずなのですが,この塩漬け人事はなかなかのもの,郵政省は違ったようですね。)

 

  かくて,この時期〔第1次岸内閣改造内閣発足時,すなわち1957年7月10日〕に就任した郵政大臣田中角栄氏は,テレビジョン局開設について全国的に大量の予備免許を与えるとともに,永年の懸案であった放送法の改正法律案を閣議を経て国会に提出した。予備免許は世人も驚くほどまことに迅速且つ果断の措置であったが,法案は政府の権力を番組面に加うることは毫もなく,番組についてはあくまで放送事業者の自主的規律を重んずるものであった。

  この法律案は国会審議の都合で成立するに至らなかったが,この案を基礎としこれに若干の修正を加えた案が,次の郵政大臣寺尾豊氏〔1958年6月12日就任〕によって作成され,閣議を経て国会に提出された。この案は国会において部分的に若干の修正を受けたが,大綱においては変わることなく成立した〔昭和34年法律第30号〕。その結果が現行〔19639月当時〕の放送法である。この改正の主要眼目は,良質放送番組の確保にあり,しかもその方法としては,法律において番組のあり方について明文を以て指示する以外は,一切を放送事業者の自律に求めることとし,官の権力はいささかも及ぼさないというものであった。

  この法律案の立案及び国会説明に,寺尾大臣は非常な努力をされた。夜も官舎に係官を呼び自ら逐条審議を続け,早朝も4時頃には起きて国会への準備をされたのである。しかもこの際見落してならないことは,この肝胆をくだいての努力が,放送の自由,言論表現の自由をまもるためのものであったことである。法律の立案権をもつということは,極めて大きな権力である。その力をもつ人が,この方向にこれほどの積極性を示したその良識と信念とには,十分の敬意が払われて然るべきである。(荘宏『放送制度論のために』(日本放送出版協会・1963年)221222頁)

 

 「法案は政府の権力を番組面に加うることは毫もなく,番組についてはあくまで放送事業者の自主的規律を重んずるものであった。」,「改正の主要眼目は,良質放送番組の確保にあり,しかもその方法としては,法律において番組のあり方について明文を以て指示する以外は,一切を放送事業者の自律に求めることとし,官の権力はいささかも及ぼさないというものであった。」ということです(下線は筆者)。したがってこれは,当時の政府当局者は,当時の放送法44条3項(現在の第4条1項)は「道徳的,社会的な基準」にすぎないとの中村純一委員の前記解釈を依然採用しており,かつ,それを前提としていたということでしょう。

 昭和34年法律第30号によって,番組基準(放送法現行5条参照)及び放送番組審議機関(同法現行6条及び7条参照)に関する制度が導入されたのですが,これらは,「放送法は,・・・各放送事業者が自らの判断と力によって自らの放送番組を適正なものにすることを求めている。そこには官憲の介入,干渉は全くない。放送番組については必要最少限度の準則を法が直接に定め,それ以外はすべて放送事業者の自律にまかされているのである。」という法制度を前提に,「そこでもう一段の工夫を加え」たものとされています(荘289頁)。

 どうも当時の政府当局は,放送法原始規定44条3項及び53(なお,高塩修正によって「一般放送事業者」にも放送法原始規定44条3項の準用が同53条を通じてあることになったの理由の一つとしては,「一般放送事業者」にも土地収用法の適用があるようにしようという(放送法原始規定49条参照)虫のよい提案が衆議院電気通信委員会からの原案段階であったからのようです。高塩修正の原案に係る放送法案53条について,GHQ民間情報教育局の前記1950年3月30日文書(Box No.2205の27コマ目)は,「第53条第3項――民間放送事業者に土地収用法の特権を認めることは,不必要であり,かつ,財産所有者に対して有害であるようである。私立の学校,新聞社及び劇団が同様の特権を有するものであるのかどうか,考えさせられる。」と批判しています。)に基づく電波法76条1項の運用停止等の処分はないものと考えていたようです。この状況において,それでは,当時の岸信介内閣総理大臣はどのように考えていたかというと,次のような答弁が,1959年3月10日の参議院逓信委員会でされています。

 

 ○森中守義君 ・・・あなたの手によって出される法案に対しては,すべての国民が不安と疑惑と嫌悪を持っておる。そういう岸内閣によっていずれ,先刻あなたのお答えからいくならば用意したいという放送法の改正は,防諜法あるいは軍機保護法の制定がそうそう簡単にいかぬ。従ってこの機会に事務的あるいは法体系の整備という一つの口実を設けて,その裏に隠れて日本放送協会や一般放送事業者に対する悪らつな政治的意図のもとに法改正が用意されないとは,私は残念ながら岸総理のもとにおいてはどうしても信頼ができません。・・・

 ○国務大臣(岸信介君)・・・しかしいずれの意味にいたしましても,今森中委員のお話のように,私は放送法を根本的に検討して,そして何かここに言論統制の意図を持ってこれを改正するというような考えは毛頭持っておりません。・・・決して政治的な特殊の意図をもって,特に言論の自由を統制し制限するというような意図のもとに,いかなる意味においても将来も放送法をそういう意図をもって改正するとか,検討するという意思は毛頭持っておらないことをここに明白に申し上げておきます。

 (第31回国会参議院逓信委員会会議録第1110頁)

 

放送法を改正せず,検討もしないというのですから,当然「言論の自由を統制し制限する」方向での解釈変更もしないということのようです。「いかなる意味においても将来も」というのですから,非常に重い言葉です。

岸信介の衣鉢を継ぐものと自己規定する政治家であれば,放送法4条1項と電波法76条1項との関係についての見解表明においてやや窮屈を感じざるを得ないことになるようです。

とはいえ,「不安と疑惑と嫌悪」やら「悪らつ」やら,一国の内閣総理大臣をボロクソに言う日本社会党の森中守義委員はなかなかのものでしたが,その同委員も見逃していた昭和34年法律第30号による「悪らつ」な改正条項が実は存在していたのではないでしょうか。同法による改正後の放送法44条4項及び51条に係る「・・・国内放送の放送番組の編集に当つては,・・・教養番組又は教育番組並びに報道番組及び娯楽番組を設け,放送番組の相互の間の調和を保つようにしなければならない。」との規定(前出)が,それです。娯楽番組をしっかり放送して庶民を満足させなければならないと法認したというのがよいですね。現在はとんと見かけなくなりましたが,かつてはプロ野球中継が大人気の放送番組でした。昭和34年法律第30号成立の翌年である1960年の1月19日,米国ワシントン市で新たな日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約が調印され,同条約をめぐっては,国会の承認(憲法61条・602項)を経ての同年6月23日の発効に向けて世情は騒然としたと伝えられていますが,無論,後楽園球場などは善良な庶民で満員でありました。難しい報道番組などを視聴して悲憤慷慨するよりも,ひいきのプロ野球チームを楽しく応援する方が,気が利いているようです。(とはいえ,「プロ野球」といわれると,覚せい剤取締法違反被疑事件ないしは被告事件弁護を最近は思い出してしまって楽しめないのは,弁護士の職業病でしょうか。) 

1 緒論

 

(1)問題の所在

 電波法(昭和25年法律第131号)76条1項は,「総務大臣は,免許人等がこの法律,放送法若しくはこれらの法律に基づく命令又はこれらに基づく処分に違反したときは,3箇月以内の期間を定めて無線局の運用の停止を命じ,又は期間を定めて運用許容時間,周波数若しくは空中線電力を制限することができる。」と規定しています。この条項については,特に放送法(昭和25年法律第132号)4条1項との関係で,放送事業者が同項に違反するものと総務大臣が判断したときには,同大臣は当該放送事業者を免許人等とする無線局の運用の停止を命ずることができるかどうかという問題がよく話題とされます。

 放送法4条1項は,次のとおり。

 

  (国内放送等の放送番組の編集等)

 第4条 放送事業者は,国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては,次の各号の定めるところによらなければならない。

  一 公安及び善良な風俗を害しないこと。

  二 政治的に公平であること。

  三 報道は事実をまげないですること。

  四 意見が対立している問題については,できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 

1995年(なお, いわゆる「椿事件」の発生は1993年です。)の司法試験第二次試験における論文式試験の憲法の第1問においては,次のような問題が出題されています。

 

 放送法は,放送番組の編集に当たって「政治的に公平であること」,「意見が対立している問題については,できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」を要求している。新聞と対比しつつ,視聴者及び放送事業者のそれぞれの視点から,その憲法上の問題点を論ぜよ。

 

 この問題文であれば電波法76条1項との関係を論ぜずにすむので,司法試験受験生としてはなお書きやすかったでしょうが,現実の「けしからぬ」放送事業者に対する電波法・放送法に基づく行政処分の可否という具体的な問題を前にするとなると,なかなか判断表明は難しいところでしょう。

 とはいえ,現実の問題が生じた場合は,いたずらに自己の伝来的予断を言い募るばかりというわけにはいかず,たとい判断停止という結論に最終的には至ってしまうとしても,まず何らかの法学的検討はなされるべきでしょう。とはいえ,法学的検討といっても,受験秀才的答案構成を考えたり,高尚な憲法理論を華麗に論ずるのは当ブログ筆者の柄ではありません。

 

(2)いくつかの用語の解説

 なお,あらかじめ電波法76条1項及び放送法4条1項に出てくる諸概念について説明しておくと,次のとおりです。

 電波法76条1項にまず出てくる「免許人等」とは,同法「第14条第2項第2号の免許人又は第27条の23第1項の登録人」のことです(同法6条1項9号)。このうち「免許人」とは「無線局の免許を受けた者」であり(同法14条2項2号),「登録人」とは同法「第27条の18第1項の登録を受けた者」です(同法27条の23第1項)。免許人や登録人になるとどういういいことがあるかというと,無線局を開設することができ(免許人につき電波法4条本文,登録人につき同条4号),更にその無線局は交付された免許状(免許人の場合(同法14条))又は登録状(登録人の場合(同法27条の22))の記載に係る制限の下において運用され得る(同条52条から55条まで参照)ということになります。免許人等以外の者が無線局を開設すると1年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処せられます(電波法110条1号)。

 なお,無線局と無線設備とは別概念で,無線設備は電気的設備にすぎない(電波法2条4号)のに対して,無線局は人をも含んで「無線設備及び無線設備の操作を行う者の総体をいう。但し,受信のみを目的とするものを含まない。」と定義されています(同条5号)。

 電波法76条1項にいう「これらの法律に基づく命令」は,行政処分のことではなくて(こちらは同項の「処分」),政令,電波監理委員会規則,郵政省令,総務省令といったものの総称としての命令です。

 電波法76条1項では単に「周波数」とされていますが,厳密には「電波の周波数」ですね。周波数にも音の周波数等いろいろあります。

 放送法4条1項の「放送事業者」は一見単純なようですが,実は「放送事業者」には「基幹放送事業者」と「一般放送事業者」とがあり(同法2条26号),「基幹放送事業者」は「認定基幹事業者及び特定地上基幹放送事業者」である一方(同条23号),「一般放送事業者」とは同法「第126条第1項の登録を受けた者及び第133条第1項の規定による届出をした者をいう。」ということになると(同法2条25号)もう何が何だか分からなくなってきますね。しかしながら,「「特定地上基幹放送事業者」とは,電波法の規定により自己の地上基幹放送の業務に用いる放送局(以下「特定地上基幹放送局」という。)の免許を受けた者をいう。」ということですから(放送法2条22号),日本放送協会(NHK)やら「民放」やらの「地上波放送局」は,この特定地上基幹放送事業者ということになるようです。しかし,厳密かつ細かしい概念規定はまだまだ続きます。「地上基幹放送」とは「基幹放送であつて,衛星基幹放送及び移動受信用地上基幹放送以外のものをいう。」とされ(放送法2条15号),「基幹放送」とは「電波法(昭和25年法律第131号)の規定により放送をする無線局に専ら又は優先的に割り当てられるものとされた周波数の電波を使用する放送」であり(同条2号。なお,「放送をする無線局に専ら又は優先的に割り当てられるものとされた周波数」については電波法26条2項5号ア参照),「衛星基幹放送」は「人工衛星の放送局を用いて行われる基幹放送」であり(放送法2条13号),「移動受信用地上基幹放送」は「自動車その他の陸上を移動するものに設置して使用し,又は携帯して使用するための受信設備により受信されることを目的とする基幹放送であつて,衛星基幹放送以外のもの」だそうです(同条14号)。NOTTVはこの移動受信用地上基幹放送をやっていたのですかね。何だか移動しながら視聴しないと怒られそうな基幹放送だったので落ち着かず,それゆえ結局潰れることになったのでしょうか。「放送局」についても丁寧に,「放送をする無線局」であると定義規定があります(放送法2条20号)。

 放送法4条1項の「国内放送」とは「国内において受信されることを目的とする放送」で(同法2条4号),「内外放送」とは「国内及び外国において受信されることを目的とする放送」です(同条12号)

 放送法4条1項の「放送番組」にも定義があって,「放送をする事項の種類,内容,分量及び配列」のことだそうです(同法2条28号)。

 

(3)原始規定

 どうも現在の放送法は,有線ラジオ放送業務の運用の規正に関する法律(昭和26年法律第135号),有線テレビジョン放送法(昭和47年法律第114号),電気通信役務利用放送法(平成13年法律第85号)及び有線放送電話に関する法律(昭和32年法律第152号)までをも取り込んでしまったので(平成22年法律第65号附則2条参照),かえって分かりづらいですね。電波法76条1項及び放送法4条1項に係る1950年の両法成立当初の原始規定を見てみましょう。

 

  (無線局の免許の取消等)

 電波法76条1項 電波監理委員会は,免許人がこの法律,放送法若しくはこれらの法律に基く命令又はこれらに基く処分に違反したときは,3箇月以内の期間を定めて無線局の運用の停止を命じ,又は期間を定めて運用許容時間,周波数若しくは空中線電力を制限することができる。

 

  (放送番組の編集)

 放送法44条3項 〔日本放送〕協会は,放送番組の編集に当つては,左の各号の定めるところによらなければならない。

  一 公安を害しないこと。

  二 政治的に公平であること。

  三 報道は事実をまげないですること。

  四 意見が対立している問題については,できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 

  (放送番組の編集)

 放送法53条 第44条第3項の規定は,一般放送事業者に準用する。

 

放送法の原始規定における「一般放送事業者」とは,「〔日本放送〕協会以外の放送事業者をいう。」とされており(同法旧51条括弧書き),「放送事業者」とは「電波法(昭和25年法律第131号)の規定により放送局の免許を受けた者」とされています(放送法旧4条1項括弧書き)。原始規定における「一般放送事業者」は,放送法の現段階における一般放送事業者ではなく,「特定地上基幹放送事業者であって日本放送協会ではないもの」ですね。

なお,放送法原始規定の第44条3項1号には「及び善良な風俗」が入っていませんが,当該部分が挿入されたのは,第2次岸信介内閣時代に制定された昭和34年法律第30号によってです。


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 東京都渋谷区神南にある日本放送協会の放送センター
 

2 電波法・放送法施行当時における電波監理総局の解釈

さて,これらの規定について,電波法・放送法及び電波監理委員会設置法(昭和25年法律第133号)の施行(1950年6月1日(「電波の日」)から)当時における電波監理委員会の事務局たる電波監理総局(電波監理委員会設置法20条1項)の人々がどのような解釈を与えていたかを知るべく,同総局の文書課長たる荘宏,放送課長たる松田英一及び法規課長たる村井修一の3氏共著の『電波法 放送法 電波監理委員会設置法詳解』(日信出版・1950年)を見てみたのですが,実はほとんど何も書かれていません。

電波法76条1項の解説においては,同項に基づく電波監理委員会の処分の単位に関する考察がされているだけで,同項にいう「・・・放送法若しくはこれらの法律に基く命令又はこれらに基く処分」(下線は筆者)に関して説くところがありません(荘=松田=村井221222頁参照)。

放送法旧44条3項については,「第3項は,放送番組の編集についての準則である。いわゆるラジオコードと称すべきものである。この外にも本法中にラジオコードに相当する規定があるが,これらは大綱を示しただけで,協会は更に詳細な放送準則を定め,それに従つて放送番組の編集を行うことになるであらう。」とだけ記されています(荘=松田=村井327頁)。ちなみに1950年当時はいまだテレビジョン放送はされていません。「ラジオコード」とは,当時日本を占領中のGHQからの指令たるSCAPIN43「日本ニ与フル放送準則(Memorandum Concerning Radio Code for Japan)」(1945年9月22日)にいうRadio Codeのことですね(放送法制立法過程研究会『資料・占領下の放送立法』(東京大学出版会・1980年)2327頁参照)。

放送法旧53条については,「本条は,一般放送事業者の放送番組の編集について規定している。/第44条第3項各号は協会の放送番組編集の場合の放送準則いわゆるラジオコードに相当する事項であるが,一般放送も放送のもつ社会的影響から考えて公共的な色彩をもつものであるから,協会と同様の原則に従うことが要求せられるのである。」とのみ解説が付されています(荘=松田=村井334頁)。

 

3 高塩修正と中村委員発言

 

(1)内閣提出法案における欠缺並びに衆議院における修正及び追加

「何も書いてない。政府当局には何か隠し事があったのか。けしからん。総務大臣答えなさい。」と代議士の先生が居丈高に政府を攻撃されても,政府御当局の方々は困ってしまって,後知恵で理屈を頑張ってひねくり出すうちに,問題が難しくなるだけでしょう。

実は,電波法76条1項における行政処分の根拠としての「放送法」との文言及び「放送番組の編集」に関する放送法旧44条3項及び旧53条(同法現行4条1項)の規定は,1950年4月7日の第7回国会衆議院電気通信委員会において高塩三郎委員から提出され採択された修正案(放送法制立法過程研究会339343頁参照)に基づくものです(電波法案については自由党,日本社会党,民主党,国民協同党及び農民協同党の共同提案,放送法案については自由党,民主党,国民協同党及び農民協同党の共同提案(第7回国会衆議院電気通信委員会議録第12号1頁))。電気通信省の電波庁の事務方が,GHQ民間通信局(C.A.ファイスナー氏等),法務府法制意見第三局(吉國一郎参事官)等と調整して作り上げた内閣提出法案には,そのような規定は無く(電波法76条1項の「放送法」関係部分及び放送法旧53条は高塩修正で追加),あるいは違った内容でした(放送法旧44条3項は高塩修正で変更)。自分が立案したのではないものとされている事項について,詳しい解説を書けと言われても建前上無理でしょう。

19491222日に国会に提出された電波法案76条1項並びに放送法案44条3項及び45条は,次のとおりでした(放送法制立法過程研究会315頁,282頁参照)。

 

(無線局の免許の取消等)

電波法案76条1項 電波監理委員会は,免許人がこの法律若しくはこの法律に基く命令又はこれらに基く処分に違反したときは,3箇月以内の期間を定めて無線局の運用の停止を命じ,又は期間を定めて運用許容時間,周波数若しくは空中線電力を制限することができる。

 

 (放送番組の編集)

放送法案44条3項 協会は,放送番組の編集に当つては,左の各号の定めるところによらなければならない。

 一 公衆に関係がある事項について,事実をまげないで報道すること。

 二 意見が対立している問題については,できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 三 音楽,文学,演芸,娯楽等の分野において,最善の内容を保持すること。

 

 (政治的公平)

放送法案45条 協会の放送番組の編集は,政治的に公平でなければならない。

2 協会が公選による公職の候補者に政見放送その他選挙運動に関する放送をさせた場合において,その選挙における他の候補者の請求があつたときは,同一の放送設備により,同等な条件の時刻において,同一時間の放送をさせなければならない。

 

 当初の内閣提出放送法案においては,放送番組の編集に関する規定は日本放送協会についてのみあって「一般放送事業者」(当時)についてはありませんでしたが,これは,1950年1月24日の衆議院電気通信委員会でされた網島毅電波監理長官の概要説明にいう「民間放送につきましては,できる限り自由に委せる方針にいたしましたので・・・第3章に最小限度必要な規定を単に2箇条〔放送番組の編集に関するものとしてのそれとしての条項は無し。〕設けているだけであります。将来民間放送がいかなる発達するか見透をつけることが困難でありますし,特権を認めたりこれに伴う監督を行いますよりは将来の発達の状況によりそこで適当に考慮をするのがよいと存ずるもでございます。」ということであったのでしょう(荘=松田=村井73頁)。

 放送法案44条3項を見ると,同項3号では「音楽,文学,演芸,娯楽等」の番組が放送されることが想定されており,何だかほのぼのしてきますね。同項1号も「報道は事実をまげないですること。」ではなく,「報道すること。」になっています。こうしてみると,同項で問題となっている「放送番組」については,放送をする事項の内容ではなく,むしろその種類に重点があったようにも思われます(放送法2条28号(同法原始規定では4号)参照)。同項2号も,時事の評論,分析又は解説の放送番組の存在を前提としているものでしょうか(第2回国会に内閣から提出された放送法案4条2項(放送法制立法過程研究会165頁)参照)。放送をする事項の種類に係る規定の欠缺は後に気が付かれたらしく,昭和34年法律第30号によって,放送法旧44条に新たに第4項(「協会は,国内放送の放送番組の編集に当つては,特別な事業計画によるものを除くほか,教養番組又は教育番組並びに報道番組及び娯楽番組を設け,放送番組の相互の間の調和を保つようにしなければならない。」)が付け加えられています(同項は,昭和34年法律第30号で新たに設けられた放送法旧51条によって当時の「一般放送事業者」にも準用。放送法現行106条1項)。また,放送法案45条1項の「政治的に公平」については,同条2項との並びで考えると,主に政治家の選挙運動との関係が考えられていたようであり,かつ,その重点は,放送をする事項の内容よりも,むしろ分量や配列にあったようです(なお,放送法案45条2項と同様の規定は「一般放送事業者」に係る第52条にもあり,両者はそれぞれ放送法原始規定の第45条(候補者放送)及び第52条(候補者放送)となった後,現在は放送法13条(候補者放送)に統一されています。)。

 

(2)高塩修正の理由

前記高塩修正の理由について高塩委員は,次のように説明しています。いわく,「〔放送法案〕第44条は,協会の放送番組編集上の準則でありまして,その第3項は,いわゆるラジオ・コードに相当する規定でありますが,諸般の角度から検討の結果,修正案におきましては,公安を害しないこと,政治的に公平であること,報道は事実を曲げないですること,意見が対立している問題については,できるだけ多くの角度から論点を明らかにすることの4原則をもつて規律することが,最も適当であるとして,原案に対し所要の修正を施したものであります。/なおこれとともに放送事業は民間放送といえども,高度の公共性を帯びるものでありまするから,協会放送に対して要求されるこのラジオ・コードは,民間放送に対してもまた要求さるべきものであるとの見解に立つて,修正案は第52条の次に1条を設け,前述の4原則を一般放送事業者に準用することにいたしました。・・・〔電波法案〕第76条は,無線局の運用の停止,制限及び免許の取消しに関する規定でありますが,原案においては,これらの処分をなす場合を電波法またはこれに基く命令,処分に違反したときに限つておりまするのを,放送法関係の場合をも含めることに修正いたしました。」と(第7回国会衆議院電気通信委員会議録第1212頁)。

GHQから下されたいわゆるラジオ・コードが,所与のものとして前提とされています。電波法案76条に関する説明では,放送法の具体的にどの条項が運用停止等命令発動の根拠として想定されているのか必ずしも明らかではなく,なお不親切ですね。

 

(3)中村委員発言とその背景

 

ア 中村委員発言:「道徳的,社会的な基準」

高塩修正に係る放送法旧44条3項の規定の性格については,衆議院電気通信委員会における有力委員であった元逓信官僚(電務局長, 簡易保険局長)の中村純一委員による同委員会における高塩修正採択の際の賛成討論における発言があり,注目すべきものです。いわく,「・・・日本放送協会たると民間放送たるとを問わず,いやしくも放送が社会的な公共性を有するものである以上は,放送として当然守られなければならないところの道徳的,社会的な基準に関するものでありまして,これまた適当であると考えるものでございます。」と(第7回国会衆議院電気通信委員会議録第12号4頁)。

「法的基準」ではなく,飽くまでも「道徳的,社会的な基準」であるものとされています。

 

イ 中村委員と高塩修正案の作成経緯

なお,ここで中村委員の発言を注目すべきものと述べたのには,理由があります。1950年4月7日提出の高塩修正案の作成に関して,次のような事情があったからです。

 

 〔第7回国会における電波法案,放送法案及び電波監理委員会設置法案に係る〕両院の審査は極めて熱心に行なわれ,衆議院においては24年〔ママ。昭和25年(1950年)の誤り〕2月10日をもって3法案の公聴会も了したので,同11日から箱根奈良屋〔当時はまだ営業中〕別館で修正案作成の作業が行なわれた。参加した者は,衆院から電気通信委員会委員中村純一,同専門員吉田弘苗〔元逓信院電波局長〕,法制局第三部長鮫島真男等の諸氏,電波庁からは網島〔電波監理〕長官,野村〔義男〕法規経済部長等の諸氏で,総員9人であった。13日帰京したが,その後修正案は衆院内,衆参両院間,国会政府間で検討が続けられ,3月15日衆議院はその修正案をGSGovernment Section. 民政局〕の長ホイットニー氏宛に送附した〔なお,国立国会図書館のGHQ文書のうちGSに関する“Telecommunications Ministry 7th Diet 1950-02”(Box No.2205)の21‐22コマのホイットニー局長宛て辻寛一衆議院電気通信委員長の書簡の日付は,同月16日〕

 ・・・

 GHQの・・・強い意向に鑑み,衆議院も数次のGHQ折衝の後,設置法案については遂に委員長国務大臣は断念,政府提出案のままで進めることになった。電波法案,放送法案についてもGSは衆院修正案に対して意見を出してきた。前者に関するものは比較的簡単に解決したが,放送法案については,受信料の法定を廃そうとする点および日本放送協会予算に対する国会承認を政府認可に移そうとする点が,GSの容るるところとならなかったNHKの受信料を月額35円とする放送法案32条2項が削られ,修正放送法案37条4項により「・・・受信料の月額は,国会が,〔NHKの〕収支予算を承認することによつて,定める。」ことになった(放送法制立法過程研究会341342頁参照)。荘氏の記述ではよく分からないが,放送法案32条2項は吉國一郎参事官の意見によるものだったところ,修正放送法案37条4項はGHQの当初意見案に戻ったものである(放送法制立法過程研究会435‐436頁(吉國発言))。〕。結局これらの国会修正の動きは,いずれも政府がGHQと渡り合って承認を得られなかったものを,日本側として何とかして復活実現させようとの最後の努力であったが,主要点についてはGHQはいささかも応ずるところがなかったのである。

 かくて3法案修正案についてGSの承認がでたのは4月4日であった。ここにおいて衆院電通委は,4月7日,設置法案は政府提出原案のまま,また他の2法案にはGSOKを得た修正を加えて可決,翌8日3法案は電通委議決通りで衆院本会議を通過した。(荘宏「電波三法の制定」『逓信史話 下』(電気通信協会・1962年)360361頁)

 

高塩修正というよりは,実質的には奈良屋別館組の中村純一衆議院電気通信委員による修正であって,衆議院電気通信委員会を代表してGHQ民政局と折衝したのも中村委員が中心であったものと思われます。

放送法原始規定44条3項が「道徳的,社会的な基準」であるとの中村委員の前記発言は,対GHQ折衝を経て最終化された立法者意思の表明であったものと考えられます。中村委員は前記『電波法 放送法 電波監理委員会設置法詳解』の出版に際して援助をしたものとも同書のはしがきにおいて言及されており(「・・・併せて,三法律の成立につき国会の審議にも参画せられた衆議院議員中村純一先生(愛媛県選出)を始め本書出版に際して援助せられた各位の御好意に対して御礼を申し上げる。」),同委員の見解は,電波監理総局関係者によっても了解されていたものと解すべきことも裏書きされています。

 

(後編に続きます。)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1054087468.html

(前編 http://donttreadonme.blog.jp/archives/1041144048.html からの続き)

3 日本国憲法14条1項の制定経緯瞥見

 

(1)憲法研究会の「憲法草案要綱」

 まず,1946年2月13日のGHQ草案に影響を与えたとされる高野岩三郎,鈴木安蔵らによる憲法研究会の「憲法草案要綱」(19451226日)における「国民権利義務」の部分を見てみると,次のとおりです。

 

一,国民ハ法律ノ前ニ平等ニシテ出生又ハ身分ニ基ク一切ノ差別ハ之ヲ廃止ス

一,爵位勲章其ノ他ノ栄典ハ総テ廃止ス

一,国民ノ言論学術芸術宗教ノ自由ニ〔ママ〕妨ケル如何ナル法令ヲモ発布スルヲ得ス

 一,国民ハ拷問ヲ加ヘラルルコトナシ

 一,国民ハ国民請願国民発案及国民表決ノ権利ヲ有ス

一,国民ハ労働ノ義務ヲ有ス

一,国民ハ労働ニ従事シ其ノ労働ニ対シテ報酬ヲ受クルノ権利ヲ有ス

一,国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有ス

一,国民ハ休息ノ権利ヲ有ス国家ハ最高8時間労働ノ実施勤労者ニ対スル有給休暇制療養所社交教養機関ノ完備ヲナスヘシ

一,国民ハ老年疾病其ノ他ノ事情ニヨリ労働不能ニ陥リタル場合生活ヲ保証サル権利ヲ有ス  

 一,男女ハ公的並私的ニ完全ニ平等ノ権利ヲ享有ス

 一,民族人種ニヨル差別ヲ禁ス

 一,国民ハ民主主義並平和思想ニ基ク人格完成社会道徳確立諸民族トノ協同ニ努ムルノ義務ヲ有ス

 

 これを見ると,最初の項の法律の前の平等は,出生又は身分による差別の廃止に係るもので,伝統的な身分制廃止の意味で用いられているようです。したがって,次の項の華族(=爵位を有する者(華族令(明治40年皇室令第2号)1条1項が「凡ソ有爵者ヲ華族トス」と規定))の廃止につながるのでしょう。男女平等や民族差別・人種差別の禁止は,法律の前の平等の第1項からは離れたところの第11項及び第12項に出てきます。法律の前の平等とは直結していないようです。

 ところで,他の箇所ではヴァイマル憲法的なところも多いのですが,「憲法草案要綱」の第6項及び第7項並びに第9項から第12項までは,今は亡きソヴィエト社会主義共和国連邦(同盟)の1936年憲法(スターリン憲法)の香りがしますね。

 

 第12条1項 ソ同盟においては,労働は,「働かざる者は食うべからず」の原則によって,労働能力あるすべての市民の義務であり,また名誉である。

 第118条1項 ソ同盟の市民は,労働の権利すなわち労働の量および質に相当する支払を保障された仕事を得る権利を有する。

 第119条 ソ同盟の市民は,休息の権利を有する。

   休息の権利は,労働者および職員のために,8時間労働日を制定し,かつ困難な労働条件を有する若干の職業のために,労働日を7時間ないし6時間に,かつ特別に困難な労働条件を有する職場においては,4時間に短縮することによって保障され,さらに労働者および職員に対して,年次有給休暇を設定し,かつ勤労者に対する奉仕のために,広く行きわたった療養所,休息の家,およびクラブを供与することによって,保障される。

 第120条1項 ソ同盟の市民は,老齢,ならびに病気および労働能力喪失の場合に,物質的保障をうける権利を有する。

 第122条 ソ同盟における婦人は,経済的,国家的,文化的および社会的・政治的生活のすべての分野において,男子と平等の権利を与えられる。

   これらの婦人の権利を実現する可能性は,婦人に対して,男子と平等の労働,労働賃金,休息,社会保険および教育に対する権利が与えられること,母および子の利益が国家的に保護されること,子供の多い母および独身の母に対する国家的扶助,妊娠時に婦人に有給休暇が与えられること,広く行きわたった産院,託児所および幼稚園の供与によって保障される。

 第123条 ソ同盟の市民の権利の平等は,その民族および人種のいかんを問わず,経済的,国家的,文化的および社会的・政治的生活のすべての分野にわたり不変の法である。

   市民の人種的または民族的所属からする,いかなる直接もしくは間接の権利の制限も,または反対に,直接もしくは間接の特権の設定も,ならびに人種的もしくは民族的排他性の宣伝,もしくは憎悪および軽侮の宣伝も,法律によって罰せられる。

  (山之内一郎訳『人権宣言集』(岩波文庫)292-294頁)

 

(2)「憲法草案要綱」のGHQへの紹介

 法律の前の平等がかかわる出生又は身分の問題と,男女平等及び民族差別・人種差別の禁止の問題とを最初に同一の範疇にひっくるめてしまったのは,GHQ「民政局法規課長として,高野岩三郎らの「憲法研究会」・・・のメンバーや,リベラルなグループとのつきあいも多く,日本側の在野の憲法草案を取り入れるに当たって,橋渡し役として動いた人物」であるマイロ・E・ラウエル中佐(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川文庫・2014年(単行本1995年))47頁)でしょう。

 ラウエル中佐がまとめた1946年1月11日付けのGHQ参謀長あてのメモランダム“Comments on Constitutional Revision proposed by Private Group”(「私的グループによる憲法改正草案に対する所見」)では,憲法研究会の「憲法草案要綱」における「14.素晴らしくリベラルな条項」(14. Outstanding Liberal Provisions)として,“b. Discriminations by birth, status, sex, race and nationality are prohibited. The peerage is abolished.”b. 出生,身分,性別,人種及び民族による差別は,禁止される。華族制度は,廃止される。)が挙げられています。性別,人種又は民族に基づく差別禁止問題と伝統的な身分制廃止問題とが融合されて,全体として差別禁止の話とされています。

 

(3)GHQ民政局国民の権利委員会における検討

 GHQ原案の起草に携わったGHQ民政局の国民の権利委員会(“Civil Rights Committee”は,「人権委員会」と訳するよりも,こう訳した方がよいでしょう。その構成員は,ピーター・K・ロウスト中佐,ハリー・エマソン・ワイルズ氏及びベアテ・シロタ氏)は,どのように考えていたか。実は,初稿及びそれに対する書き込みからすると,法律の前の平等と,性別,人種又は民族による差別の禁止とは,前者が後者を包摂するような関係であるものとは考えられていなかったようです。

 国立国会図書館ウェッブ・サイトの電子展示会「日本国憲法の誕生」のハッシー文書のウェッブ・ページによると,国民の権利委員会による日本国憲法14条の原型規定は,最初は次のようなものでした(102コマ目,121コマ目,123コマ目,126コマ目及び129コマ目)。

 

 6.  All persons are equal before the law. No discrimination shall be authorized or tolerated in political, economic, educational, and domestic relations on account of race, creed, sex, caste or national origin. No special privilege shall accompany any ownership or grant of title, honor, decoration or other distinction; nor shall any such ownership or grant of distinction, whether now existing or hereafter to be conferred, be valid beyond the lifetime of the individual who owns or may receive it.

 

 挿入の書き込みがあるのは,及びの部分です。

 最初のの所には,“natural”が挿入されています(102コマ目,121コマ目,123コマ目,126コマ目及び129コマ目)。

 次のの所には,華族制度廃止規定が挿入されるべきものとされていたようです。102コマ目では“Insert”121コマ目では“peerage clause”126コマ目では“Insert peerage clause”129コマ目では“Peerage Clause”と書き込まれています。

 “Peerage Clause”とは,1946年2月3日のマッカーサー三原則の第3項における次の第2文及び第3文のことでしょう。

 

 No rights of peerage except those of the Imperial family will extend beyond the lives of those now existent.

  No patent of nobility will from this time forth embody within itself any National or Civic power of government.

 

最高司令官御自らのお筆先になる規定が脱落してしまっているということは大変なことです。慌てて原案初稿に挿入することになったようです。しかし,そこでは,華族制度の廃止こそが,法律の前の平等に直ちに続くものと考えられていたようです。換言すると,「人種,信仰,性別,カースト又は民族的出自」による差別の禁止より前に華族制度の廃止が先行すべきものとされていて,「人種,信仰,性別,カースト又は民族的出自」による差別の禁止は,法律の前の平等と直接結びついたものとは考えられていなかった,ということになるように思われます。前記憲法研究会の「憲法草案要綱」でもそのような並びになっていました。しかしながら,単に,マッカーサー元帥のお筆先を順番の上で優先させようとしていたのかもしれません。

なお,前記ラウエル中佐の「私的グループによる憲法改正草案に対する所見」における14.b.の部分とは異なり,「出生,身分(birth, status)」による差別の禁止は,国民の権利委員会の案にはそれとして出ていません。法律の前に平等(equal before the law)ということで,その点は尽くされていると考えられたものでしょうか。

「性別」,「人種」及び「民族」は,憲法研究会の「憲法草案要綱」にありましたが,“creed”及び“caste”は,国民の権利委員会が付加したものということになります。“Creed”は,西洋の歴史にかんがみると宗教的なものでしょう。1786年ヴァジニア信教自由法の第2項は,“the same (their opinions in matters of religion) shall in no wise diminish, enlarge, or  affect their civil capacities.”と規定していましたから,換言すると,宗教的意見のいかんによって,市民としての資格について縮小,拡大その他の影響を受けていたわけです。“Caste”は,インドのあのカーストですね。しかし,なぜ,カーストが日本で問題になるのか。とはいえ,国民の権利委員会のロウスト中佐は,実際にインドの大学で講師をもしていたという風変わりな人物でしたので(鈴木57-58頁),その影響があったものでもありましょう。しかし,この謎は,神智をもってしないと解くことのできない神秘の謎のまま残りそうでもあります(http://www.theosophy.wiki/mywiki/index.php?title=Pieter_K._Roest#cite_note-4)。

国民の権利委員会の修正後の原案は,次のとおりです(167コマ目)。

 

5.  All natural persons are equal before the law. No discrimination shall be authorized or tolerated in political, economic, educational and domestic relations on account of race, creed, sex, caste or national origin. No patent of nobility shall from this time forth embody within itself any national or civil power of government. No right of peerage except those of Imperial family shall extend beyond the lives of those now existent. No special privilege shall accompany any ownership or grant of title, honor, decoration or other distinction; nor shall any such ownership or grant of distinction be valid beyond the lifetime of the individual who owns or may receive it.

 

結局,華族制度の廃止規定が,法律の前の平等規定と「人種,信仰,性別,カースト又は民族的出自」による差別の禁止規定との間に割って入ることはありませんでした。確かにワイマル憲法109条でも,身分制度の廃止関係は,(公民としての)男女同権の後ろにまわっています。

 

(4)GHQ草案13

これが,1946年2月13日に松本烝治憲法担当国務大臣らに手交されたGHQ草案では次のとおりとなっています。

 

 Article XIII.  All natural persons are equal before the law. No discrimination shall be authorized or tolerated in political, economic or social relations on account of race, creed, sex, social status, caste or national origin.

         No patent of nobility shall from this time forth embody within itself any national or civic power of government.

         No rights of peerage except those of the Imperial dynasty shall extend beyond the lives of those now in being. No special privilege shall accompany any award of honor, decoration or other distinction; nor shall any such award be valid beyond the lifetime of the individual who now holds or hereafter may receive it.

 

第1項後段の差別禁止の場面から,“educational and domestic relations”が抜けています。これは,教育及び家族生活の問題は他の個別条項(現行日本国憲法では第26条及び第24条)で手当てされるからここで規定する必要は無い,ということでしょう。ところが,それに代わって,広く“social relations”(社会的関係)における差別が禁止されることになり,また,差別の理由(“on account of”という表現が用いられています。)とすることが許されないものとして“social status”(社会的身分)が加えられています。これらの修正は,国民の権利委員会によってではなく,運営委員会(Steering Committee。構成員は,ケーディス大佐,ラウエル中佐及びハッシー中佐並びにルース・エラマン氏)によってされたものでしょう。ラウエル中佐あたりが,「カーストなんてインドみたいで,かつ,特殊に過ぎるではないか。これはやはり「身分」とは違うのではないか。わしの「私的グループによる憲法改正草案に対する所見」の14.b.に,“birth, status”による差別は禁止されると書いておいたぞ。“Social status”を入れて,出生・身分を理由とした差別の禁止もはっきりさせるべきだろう。」と考えて,筆を入れたものでしょうか。“Social status”が身分制的身分であるとすると,第1項後段における「身分」による差別の禁止は,身分制の廃止に係る同項前段の法律の前の平等と相重なることになります。前段と後段との架橋が,ここでされてしまったようです。(しかし,ここまで思いつきを書いてしまうと,ブログでなければ許されない妄想の域に入ってしまうようです。)なお,ヴァイマル憲法109条2項の英訳をインターネット上で調べてみると,ドイツ語のStandを,“social standing”とするものがあります(www.zum.de)。一般には“rank”と訳されているようですが。

 

(5)日本国政府の対応

 

ア 外務省訳

 GHQ草案13条の我が外務省訳は次のとおり。

 

13条 一切ノ自然人ハ法律上平等ナリ政治的,経済的又ハ社会的関係ニ於テ人種,信条,性別,社会的身分,階級又ハ国籍起源ノ如何ニ依リ如何ナル差別的待遇モ許容又ハ黙認セラルルコト無カルヘシ

爾今以後何人モ貴族タルノ故ヲ以テ国又ハ地方ノ如何ナル政治的権力ヲモ有スルコト無カルヘシ

皇族ヲ除クノ外貴族ノ権利ハ現存ノ者ノ生存中ヲ限リ之ヲ廃止ス栄誉,勲章又ハ其ノ他ノ優遇ノ授与ニハ何等ノ特権モ附随セサルヘシ又右ノ授与ハ現ニ之ヲ有スル又ハ将来之ヲ受クル個人ノ生存中ヲ限リ其ノ効力ヲ失フヘシ

 

法律の「前」でも「下」でもなく,法律「上」平等ということになっています。“Creed”が「信条」と訳された以上,「宗教的信仰に限らず,政治や人生に関する信念を包含するものと解される」ことになるのでしょう(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)471頁)。“Caste”を「階級」と訳したのは,確信犯的誤訳でしょうか。“National origin”に「民族的出自」という訳語が当てられず,帰化した国民にのみ関係しそうな「国籍起源」という訳語が当てられたのは,当時の大日本帝国の外務省においては,大日本帝国はそもそも多民族帝国ではなかったという意識があったものか,受諾したポツダム宣言の第8項に基づき,早くも朝鮮,台湾等は考慮の外になってしまっていたのか,考えさせられるところです。

 

イ 佐藤達夫部長の検討と松本烝治国務大臣の決断

 

(ア)1946年2月28日まで

これに対する日本政府(松本烝治憲法担当国務大臣,佐藤達夫法制局第一部長及び入江俊郎法制局次長)の1946年2月28日案(初稿)は,次のとおり(ウェッブ・ページ6コマ目及び7コマ目)。主に佐藤達夫部長の手になるものとされています。

 

13第5条 国民ハ凡テ法律ノ前ニ平等トス。 

  国民ハ門閥,出生又ハ性別ニ依リ政治上,経済上其ノ他一般ノ社会関係ニ於テ差別ヲ受クルコトナシ。 

  (爾今何人ト雖モ貴族(・・)タルノ故ヲ以テ政治上ノ特権ヲ附与セラルルコトナシ)

  

 ―別案―

国民ハ門閥,出生又ハ性別ニ依リ法律上差別セラルルコトナシ。

 補則, 王公族,華族及朝鮮貴族ノ特権ハ之ヲ廃止ス。

  此ノ憲法施行ノ際現ニ王公族,華族又ハ朝鮮貴族タル者ノ有スル特権ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ者ノ生存中ニ限リ仍従前ノ例ニ依ル。

 

「人種,信条」及び「社会的身分,階級又ハ国籍起源」が,「門閥,出生」に置き換えられています。ここでの「門閥」がドイツ語の“Stand”に対応するのならば,佐藤部長は,前記ヴァイマル憲法109条的条項を考えていたものでしょうか。

なお,ここで出てくる「王公族」及び「朝鮮貴族」が,日本国憲法14条2項において含意されているところの「貴族(華族を除く。)」です(会社法のような表現で,失礼します。)。いずれも日韓併合条約に基づくものでした。王公族については,大韓帝国皇帝家が王族,同帝国の皇族2家が公族となっていました。朝鮮貴族には公侯伯子男の5爵があり,華族が内地人に限られるのと対応して,朝鮮貴族の受爵者は朝鮮人に限られていました。

 

(イ)1946年2月28日の打合せとその後

佐藤達夫部長は,後に,1946年「2月28日さきの〔内閣総理大臣官邸〕放送室で松本大臣と第1回の打ち合わせをした。これには当時の法制局次長入江俊郎氏も参加したはずである。」と回想しています(佐藤達夫著=佐藤功補訂『日本国憲法成立史第3巻』(有斐閣・1994年)71頁)。入江次長はやや影が薄い。

1946年3月1日案(第2稿)では次のようになっています(ウェッブ・ページ6コマ目)。変化した部分は,松本烝治大臣の責任によるものとすべきでしょう。「法律ノ前ニ」が「法律ノ下ニ」になったのは,佐藤達夫部長としては,「表現上の変更にとどまったものと思っている」ところだったそうです(佐藤=佐藤119頁)。

 

 1314条 凡テノ国民ハ法律ノ下ニ平等ニシテ人種,信条,性別,社会上ノ身分又ハ門閥ニ依リ政治上,経済上又ハ社会上ノ関係ニ於テ差別セラルルコトナシ。

   爵位,勲章其ノ他ノ栄典ハ特権ヲ伴フコトナシ。

 

ここで,「法律の下の平等」と「人種,信条,性別,社会上の身分又ハ門閥」による差別の禁止とが初めて一文に合体します。なお,ここでの「門閥」は,「階級又ハ国籍起源」(カースト又は民族)の言い換えということになるようです。

いずれにせよ,1946年2月28日の松本大臣の決断によって,19世紀トニセン流の狭い射程しかない法律の前の平等概念を超えた,広い射程の「法(律)の下の平等」概念が我が国において生まれたと評価し得るように思われます。(これも非学術的な言い過ぎのようでありますが。長尾龍一教授によれば, なお,「要するに法の下の平等の規定は, 封建制の遺産の除去という目的に限定されているのである。」ということではあります(同『憲法問題入門』(ちくま新書・1997年)97頁)。)

松本大臣は,「男女平等」についてはどのような考えを持っておられたものか。

 

松本国務相の・・・夫人は慶應義塾の重鎮小泉信吉の令嬢,つまり小泉信三の姉千子である。

松本家では,千子夫人の“威令”がゆきとどき,松本国務相はときに夫人の横に寝ころび,夫人に羊かん,果物をツマ楊枝で食べさせてもらったり,政治談議の好きな夫人の舌鋒にへきえきして,当時は草深いおもかげを残す綱島温泉に逃げだしたりした,と長女峰子は語る。

その長女峰子は,・・・東大教授田中耕太郎にとつぎ,次女文子は慶應義塾大学医学部三辺謙夫人である。そして,三辺謙は,松本国務相の秘書をつとめた・・・(児島襄『史録日本国憲法』(文春文庫・1986年(単行本1972年))88-89頁)

 

なお,松本大臣は,本業の商法学の分野では,1935年の中央大学五十周年記念論文集において「従来の定説に対し相当大胆な叛逆を試みた」ものである『株式会社に於ける定款自由の原則と其例外』という論文を発表していて,「併し乍ら解釈論上は定款規定自由の大原則に対し如何なる場合に於ても株主平等ならざるべからずとする一般的の制限を存すべき理はなく,株主平等に反する定款規定が正義衡平の観念に反するや否や,即ち公序良俗に反するや否やを個個の場合に付き考察して其規定の効力を判定するに止まるべきである。会社の個個の株主総会の決議其他の行為に付ても亦同様に解して誤ないと考へる。・・・之を要するに株主平等の原則なるものは解釈上は寧ろ之を排斥すべきものである。」「所謂株主平等の原則なるものは実際上は寧ろ誤解を招き又は膠柱の不便を生ぜしむる無用の原則であつて,法律解釈上是の如き根拠に乏しき原則を高調するは其利を以て害を償ふに足らないものと考へる。」と,平等原則中少なくとも「株主平等原則」に対しては警告を発していました(松本烝治『私法論文集(続編)』(巌松堂書店・1938年)316頁,304頁,311頁)。

 1946
年3月4日にGHQ民政局に提出された同月2日案は次のとおり(ウェッブ・ページ3コマ目及び4コマ目)。

 

13条 凡テノ国民ハ法律ノ下ニ平等ニシテ,人種,信条,性別,社会上ノ身分又ハ門閥ニ依リ政治上,経済上又ハ社会上ノ関係ニ於テ差別セラルルコトナシ。

爵位,勲章其ノ他ノ栄典ハ特権ヲ伴フコトナシ。

 

なお,我が3月2日案の第14条は「外国人ハ均シク法律ノ保護ヲ受クルノ権利ヲ有ス」と規定していました。GHQ草案XVI条( “Aliens shall be entitled to the equal protection of law.”)に対応するものです。

 

(6)1946年3月4日から同月5日にかけての佐藤部長とGHQとの折衝から同月6日の憲法改正草案要綱まで

 

ア 佐藤部長とGHQ民政局との折衝

「三月四,五両日司令部ニ於ケル顛末」(佐藤達夫作成)には,1946年3月4日から同月5日にかけて徹夜で行われたGHQ民政局と日本側(佐藤達夫部長)との折衝について次のようにあります(ウェッブ・ページ6コマ目)。

 

13条 「ナチユラル・パーソンズ」ハ自然人トスベシ尚「ナシヨナル・オリジン」ヲ脱セリト云フ,之ハ「人種」ニ含ムト考ヘタリト述ベタルモ,ソレハ違フト云フ,然ラバXVIノ外国人ノ条文トノ関係如何ト述ベタルニ夫レデハXVIヲ削ツテ之ニ合スベシトテ(XVI当方案14条ノ「均シク」(equal protection)ノ意ヲ質シタルニ日本国民トイクオール(・・・・・)ナリト云フ)「自然人ハ・・・タルト・・・タルトヲ問ハズ」トシ門閥ノ下ニ「又ハ国籍」ヲ入レルコトニシテ落付ク。(ナシヨナル・オリジンハ出身国ト云フベキカ)

次ニ貴族制ノ廃止ハ何故ニ規定セザリシヤト云フ,(ママ)ハ重要問題故是非規定スベシ,トテ〔1946年2月13日のGHQ〕交付案ノ趣旨ヲ入ルルコトトス。〔「ただ「皇族(imperial dynasty)ヲ除ク外」は当然のこととして削り,その他マ草案の英文にも若干の手直しが加えられた。」(佐藤=佐藤118頁)〕

 

 閣議で配布された日本国憲法1946年3月5日案では,次のとおり。

 

 第13条 凡テノ自然人ハ其ノ日本国民タルト否トヲ問ハズ法律ノ下ニ平等ニシテ,人種,信条,性別,社会上ノ身分若ハ門閥又ハ国籍ニ依リ政治上,経済上又ハ社会上ノ関係ニ於テ差別セラルルコトナシ。

  爾今何人モ貴族タルノ故ヲ以テ国又ハ地方ノ如何ナル政治的権力ヲモ有スルコト無カルヘシ。華族ハ現存ノ者ノ生存中ヲ限リ之ヲ廃止ス栄誉,勲章又ハ其ノ他ノ優遇ノ授与ニハ何等ノ特権モ附随セサルヘシ又右ノ授与ハ現ニ之ヲ有スル又ハ将来之ヲ受クル個人ノ生存中ヲ限リ其ノ効力ヲ失フヘシ

 

この第13条1項については吉田茂外務大臣から「国籍により政治上差別を受けることがないという規定,すなわち外国人も日本人と同様政治上の権限をひとしく享有するが如き規定は不適当であるから改めること」については「さらにマッカーサー司令部に申し入れて再考を乞うことにしたい」との発言があり(佐藤=佐藤161頁参照),翌6日午後同大臣から文書をもって申し入れがされ,GHQは直ちに当該部分を改めたそうです(同162頁参照。「これについては,国籍云々と書いておくと,外交官の治外法権も,日本国内では認められなくなるといったら,司令部側は早速ひっこんだそうです」(同))。ただし,佐藤達夫部長は,「私が5日の夕方司令部から総理官邸にもどった後,〈3月5日案〉第13条の「国籍」及び「日本国民タルト否トヲ問ハズ」について,白洲氏から司令部に交渉してもらい,これを削ることの了解を得ていた」と記憶しています(佐藤=佐藤176頁。また,同119頁)。

なお,5日の閣議中断中の幣原喜重郎内閣総理大臣及び松本国務大臣の内奏の際,昭和天皇から「華族廃止についても堂上華族だけは残す訳には行かないか」との発言があったと伝えられています(佐藤=佐藤162-163頁参照)。

 

イ 内閣発表憲法改正草案要綱(1946年3月6日)

 1946年3月6日の内閣発表憲法改正草案要綱では,次のようになっています。

 

 第14 凡ソ人ハ法ノ下ニ平等ニシテ人種,信条,性別,社会的地位,又ハ門地ニ依リ政治的,経済的又ハ社会的関係ニ於テ差別ヲ受クルコトナキコト

  将来何人ト雖モ華族タルノ故ヲ以テ国又ハ地方公共団体ニ於テ何等ノ政治的権力ヲモ有スルコトナク華族ノ地位ハ現存ノ者ノ生存中ニ限リ之ヲ認ムルコトトシ栄誉,勲章又ハ其ノ他ノ栄典ノ授与ニハ何等ノ特権ヲ伴フコトナク此等ノ栄典ノ授与ハ現ニ之ヲ有シ又ハ将来之ヲ受クル者ノ一代ニ限リ其ノ効力ヲ有スベキコト

 

ここで「法律ノ下ニ」が「法ノ下ニ」になりましたが,それは「形式的意味の“法律”との混同を避ける趣旨」であったそうです(佐藤=佐藤179頁)。

「社会上ノ身分」が「社会的地位」になり,「門閥」は「門地」になっています。「社会的地位」は現在の日本国憲法14条1項では「社会的身分」にまた改められていますから,やはり,「社会的身分」は,身分的なものなのでしょう。GHQ草案からの由来に鑑みると,「門地」は「カースト又は民族」ということになるようです。しかしながら,門地(family origin)は,現在,「人の出生によって決定される社会的地位のことで,いわゆる「家柄」がこれにあたる。貴族制度の廃止(142項)は,その当然の帰結である。」と解されていて(佐藤幸治475頁),むしろこちらの方が本来の身分(Stand)に相当するものであるかのように理解されています。ロウスト中佐のインド体験が悪いのか,また,スターリン憲法賛美がうまく理解されなかったのか,翻訳上の辻褄合わせが,「憲法14条1項にいう社会的身分と門地との違いって何だ」という難問を生み出してしまったようです。

ハッシー中佐の文書中の1946年3月6日の日本国憲法案では次のとおり(ウェッブ・ページ5コマ目)。

 

 Article XIII.     All natural persons are equal under the law and there shall be no discrimination in political, economic, or social relations because of race, creed, sex, social status, or family origin. No right of peerage shall from this time forth embody within itself any national or civic power of government, nor shall peerage extend beyond the lives of those now in being. No privilege shall accompany any award of honor, decoration or any distinction; nor shall any such award be valid beyond the lifetime of the individual who now holds or hereafter may receive it.

 

 なお,3月5日案の英文は,次のようなものでした(佐藤=佐藤179-180頁参照)。

 

 Article XIII.     All natural persons, Japanese or alien, are equal under the law and there shall be no discrimination in political, economic, or social relations because of race, creed, sex, social status, family origin, or nationality. No right of peerage shall…… No privilege shall accompany any award of honor, decoration or other distinction; nor……

1 「法の下の平等」の用例

 

(1)憲法

 日本国憲法14条1項は,「すべて国民は,法の下に平等であつて,人種,信条,性別,社会的身分又は門地により,政治的,経済的又は社会的関係において,差別されない。」と規定しています。英文では,“All of the people are equal under the law and there shall be no discrimination in political, economic or social relations because of race, creed, sex, social status or family origin.”となります。同条には,【法の下の平等,貴族の廃止,栄典】などと六法の編集者が見出しを付けています。ただし,憲法の原本には固有の見出しが付いていないので,飽くまでも編集者が私的に付けた見出しです。「昭和24年以降の法令(及び昭和22年,同23年の法令の一部)には条文見出しがついているので,( )を用いて条名の右肩(まれには下)にそのまま表示した。さらに古い法令で見出しのついていないものについては,編集委員が見出しを付し,【 】に入れて条名の下に収めた。」ということです(井上正仁=山下友信編集代表『六法全書 平成27年版 Ⅰ』(有斐閣・2015年)8頁)。見出しは「利用上の便宜が極めて大きいので,構成の極めて簡単な法令で検索の手掛かりを特に必要としないものを除いては,最近では,例外なく見出しが付けられる」ことになっています(前田正道編『ワークブック法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)155頁)。日本国憲法は,「さらに古い法令で見出しのついていないもの」に該当します。2012年4月27日決定の自由民主党の日本国憲法改正草案では,憲法14条全体に,「(法の下の平等)」という見出しが付けられています。

 

(2)男女平等関係3法律

 この「法の下の平等」の語が他の法令で用いられている例はないかと総務省行政管理局による法令データ提供システムで検索したところ,3例がありました(なお,以下引用条文における下線は筆者によるもの)。

 第1は,雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律(昭和47年法律第113号)1条です。

 

  (目的)

第1条 この法律は,法の下の平等を保障する日本国憲法の理念にのつとり雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保を図るとともに,女性労働者の就業に関して妊娠中及び出産後の健康の確保を図る等の措置を推進することを目的とする。

 

 この法律の当初の題名は「勤労婦人福祉法」で,当時の第1条は「この法律は,勤労婦人の福祉に関する原理を明らかにするとともに,勤労婦人について,職業指導の充実,職業訓練の奨励,職業生活と育児,家事その他の家庭生活との調和の促進,福祉施設の設置等の措置を推進し,もつて勤労婦人の福祉の増進と地位の向上を図ることを目的とする。」と規定していました。「法の下の平等」が入ってきたのは,雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保を促進するための労働省関係法律の整備等に関する法律(昭和60年法律第45号)による改正によってです。同法による改正により改題された雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律の第1条は,次のとおりとなりました。

 

  (目的)

第1条 この法律は,法の下の平等を保障する日本国憲法の理念にのつとり雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇が確保されることを促進するとともに,女子労働者について,職業能力の開発及び向上,再就職の援助並びに職業生活と家庭生活との調和を図る等の措置を推進し,もつて女子労働者の福祉の増進と地位の向上を図ることを目的とする。

 

 第2は,男女共同参画社会基本法(平成11年法律第78号)の前文の第1項です。

 

  我が国においては,日本国憲法に個人の尊重と法の下の平等がうたわれ,男女平等の実現に向けた様々な取組が,国際社会における取組とも連動しつつ,着実に進められてきたが,なお一層の努力が必要とされている。

 

「最近では,法令の第1条に目的規定又は趣旨規定を置くものが多く・・・,わざわざ前文を置かなくても,法令の制定の目的を知ることができる」のですが,「前文は,その法令の制定の理念を強調して宣明する必要がある場合に置かれることが多く,憲法以外の法令では,いわゆる基本法関係・・・に多い。」とされています(前田146頁)。「前文は,具体的な法規を定めたものではなく,その意味で,前文の内容から直接法的効果が生ずるものではないが,各本条とともに,その法令の一部を構成するものであり,各条項の解釈の基準を示す意義・効力を有する」ものです(前田・同頁)。

第3は,配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律(平成13年法律第31号)の前文第1項です。

 

 我が国においては,日本国憲法に個人の尊重と法の下の平等がうたわれ,人権の擁護と男女平等の実現に向けた取組が行われている。

 

 この配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律は,議員立法です。前文を特に設けた理由は,「配偶者からの暴力は,犯罪となる行為であるにもかかわらず,これまで被害者の救済が必ずしも十分に行われてきませんでした。また,被害者の多くは女性であり,配偶者からの暴力は個人の尊厳を害し,男女平等の実現の妨げとなっており,配偶者からの暴力を防止し,被害者の保護を図ることは,人権の擁護と男女平等の実現のみならず,女性に対する暴力の根絶という国際社会の要請にも沿うものであります。そのため,特に前文を設け,この法律の趣旨及び目的を明らかにしております。」と説明されています(提案者南野知惠子参議院議員・第151回国会参議院共生社会に関する調査会会議録第5号(2001年4月2日)2頁)。

 以上見た範囲では,「法の下の平等」といえば,主に男女平等を意味するものと受け取られているようです。(ただし,女性の職業生活における活躍の推進に関する法律(平成27年法律第64号)には,「法の下の平等」の語はありません。)

 

2 法律の前の平等と「法の下の平等」との相違

 ところが,前回のブログ記事「大日本帝国憲法19条とベルギー国憲法(1831年)6条」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1038090379.html)で見た「法律の前の平等」に関するベルギーの法学者トニセンによる説明によれば,「立憲国家において法律の前の平等l’égalité devant la loiは,主に4種の態様において現れる。①全ての身分ordresの区別の不在において,②全ての市民が差別なく全ての文武の官職に就任し得ることにおいて,③裁判権juridictionに関する全ての特権の不在において,④課税に関する全ての特権の不在において。」ということでありました。19世紀立憲主義的には,法律の前の平等の主眼はAncien Régime的身分制の廃止であって,そこに「男女平等」は含まれていなかったわけです。

 20世紀に入り1919年に制定されたドイツのヴァイマル憲法109条は次のように規定していました。

 

 Art.109.  Alle Deutschen sind vor dem Gesetze gleich.

Männer und Frauen haben grundsätzlich dieselben staatsbürgerlichen Rechte und Pflichten.

Öffentlich-rechtliche Vorrechte oder Nachteile der Geburt oder des Standes sind aufzuheben. Adelsbezeichnungen gelten nur als Teil des Namens und dürfen nicht mehr verliehen werden.

Titel dürfen nur verliehen werden, wenn sin ein Amt oder einen Beruf bezeichnen; akademische Grade sind hierdurch nicht betroffen.

Orden und Ehrenzeichen dürfen vom Staat nicht verliehen werden.

Kein Deutscher darf von einer ausländischen Regierung Titel oder Orden annehmen.

 

 第109条(1)すべてのドイツ人は,法律の前に平等である。

  (2)男子および女子は,原則として同一の公民権を有し,および公民としての義務を負う。

  (3)出生または身分にもとづく公法上の特権または,不利益は廃止されなければならない。貴族の称号は,氏名の一部としてのみ通用し,将来はこれを授与してはならない。

  (4)称号は,官職または職業を表示する場合にのみ,これを授与することができる,学位はこれに関係がない。

  (5)国は,勲章および名誉記章を授与してはならない。

  (6)いかなるドイツ人も,外国政府から称号または勲章を受領してはならない。

 (山田晟訳『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)201頁)

 

法律の前の平等を宣言した第1項に続いて,第2項で「男子および女子は,原則として同一の公民権を有し,および公民としての義務を負う。」と規定していますから,これは,法律の前の平等に「男女平等」も含めるものとしたものか。しかしながら,公民としての権利及び義務(staatsbürgerliche Rechte und Pflichten)が同一であることのみが規定されていますので,我が憲法14条1項のように,広く経済的又は社会的関係における差別までをも禁ずる射程は有していないようです。公民権(staatsbürgerliche Rechte)は個人権(bürgerliche Rechte)と対になる概念ですが,「公民権とは国,市町村等の意思形成に参与し得る権利」であり,「個人権とはそれ以外の基本権(平等権・自由権等)」であると,ヴァイマル憲法136条2項についてですが説明されています(山田217頁註3)。

 「人種,信条,性別,社会的身分又は門地により,政治的,経済的又は社会的関係において,差別されない」ことを含む我が憲法14条1項の「法の下の平等」は,伝統的な法律の前の平等の概念よりも射程が随分広いものになっているようです。これは一体なぜなのか。日本国憲法の立案過程を見てみる必要があるようです(国立国会図書館ウェッブ・サイトの電子展示会「日本国憲法の誕生」を参照)。

 

(以下,後編 http://donttreadonme.blog.jp/archives/1041144259.html に続く)

 

1 大日本帝国憲法草案からの「法律ノ前ニ於テ平等トス」規定の消失

 1889年2月11日に発布された大日本帝国憲法にはそれとして平等条項が無いところですが,その第19条は「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得」と規定しています。これは,1888年3月の「浄写三月案」(国立国会図書館の電子展示会「史料にみる日本の近代―開国から戦後政治までの軌跡」の「第2章 明治国家の展開」27ウェッブ・ページ参照)の段階で既にこの形になっていました(ただし,「其他」の「」は朱筆で追記)

 しかし,伊東巳代治関係文書の「憲法説明 説明(第二)」は,1888年1月17日付けで作成され同年2月に条文が修正されたものですが(国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができます。),そこでの「第22条」は,「日本臣民タル者法律ノ前ニ於テ平等トス又法律命令ニ由リ定メタル資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其他ノ公務ニ就クコトヲ得」とありました(なお,「法律ノ前ニ於テ平等」は「法律ニ対シ」とすべきか「法律ニ於テ」とすべきか迷いがあったようで,「ニ対シ」及び「ニ於テ」の書き込みがあります。)。すなわち,1888年1月段階では「法律ノ前ニ於テ平等」という文言があったところです。

 188710月の修正後の夏島草案(「浄写三月案」と同様に国立国会図書館のウェッブ・ページを参照)では「日本臣民タル者ハ法律ノ前ニ於テ平等トス又適当ノ法律命令ニ由リ定メタル資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其他ノ公務ニ就クコトヲ得」とありました。同年8月作成時の夏島草案では「第50条 日本臣民タル者ハ政府ノ平等ナル保護ヲ受ケ法律ノ前ニ於テ平等トス又適当ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其他ノ公務ニ就クコトヲ得」とあり,「政府ノ平等ナル保護」まであったところです。

 夏島草案の1887年8月版は,同年4月30日に成立した(小嶋和司「ロエスレル「日本帝國憲法草案」について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)4頁)ロエスレルの草案の第52条の影響を受けたものでしょう。

 

 第52条 何人タリトモ政府ノ平等ナル保護,法律ニ対スル平等及凡テ公務ニ従事シ得ルノ平等ヲ享有ス

 Art. 52.  Jeder geniesst den gleichen Schütz des Staats, Gleichheit vor dem Gesetz und die gleiche Zulassung zu allen öffentlichen Ämtern.

  (小嶋24-25頁参照)

 

「法律ニ対スル平等Gleichheit vor dem Gesetz」は,もっと直訳風にすると「法律の前の平等」になりますね。

なお,「政府」の語は,本来「国家」であるべきものStaatの誤りです(小嶋53頁)

 

2 1831年ベルギー国憲法,1849年フランクフルト憲法及び1850年プロイセン憲法

ところで,ロエスレル草案の「表現は,あくまでロエスレルの脳漿に発するロエスレルの言葉でおこなわれた」ところですが(小嶋39頁),そもそも,臣民権利義務に係る大日本帝国憲法第2章については,「その規定の内容に於いて最も多くプロイセンの1850年1月の憲法の影響を受けて居ることは,両者の規定を対照比較することに依つて容易に知ることが出来る,而してプロイセンの憲法は,此の点に於いて,最も多く1831年のベルジツク憲法及び1848年のフランクフルト国民会議に於いて議決せられた『ドイツ国民の基礎権』の影響を受けて居るもので,随つてわが憲法も亦間接には此等の影響の下に在るものと謂ふことが出来る。」ということですから(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)329頁)1831年ベルギー国憲法,1849年フランクフルト憲法及び1850年プロイセン憲法の当該条文をそれぞれ見てみましょう。

 

(1)ベルギー国憲法6条

まず,1831年ベルギー国憲法。

 

第6条 国内にいかなる身分の区別も存してはならない。

  ベルギー国民は,法律の前に平等である。ベルギー国民でなければ,文武の官職に就くことができない。ただし,特別の場合に,法律によって例外を設けることを妨げない。

  (清宮四郎訳『世界憲法集 第二版』(岩波文庫・1976年)71頁)

 Article 6

    Il n’y a dans l’État aucune distinction d’ordres.

    Les Belges sont égaux devant la loi; seuls ils sont admissibles aux emplois civils et militaires, sauf les exceptions qui peuvent être établies par une loi pour des cas particuliers.

 

(2)フランクフルト憲法137

次に1849年フランクフルト憲法。

 

137条(1)法律の前に,身分Ständeの区別は存しない。身分としての貴族は廃止されたものとする。

 (2)すべての身分的特権は,除去されたものとする。

 (3)ドイツ人は,法律の前に平等である。

 (4)すべての称号は,役職とむすびついたものでないかぎり,廃止されたものとし,再びこれをみとめてはならない。

 (5)邦籍を有する者は,何人も,外国から勲章を受領してはならない。

 (6)公職は,能力ある者がすべて平等にこれにつくことができる。

 (7)国防義務は,すべての者にとって平等である,国防義務における代理はみとめられない。

  (山田晟訳『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)172頁)

§.137.

  [1]Vor dem Gesetze gilt kein Unterschied der Stände. Der Adel als Stand ist aufgehoben.

[2]Alle Standesvorrechte sind abgeschafft.

[3]Die Deutschen sind vor dem Gesetze gleich.

[4]Alle Titel, in so weit sie nicht mit einem Amte verbunden sind, sind aufgehoben und dürfen nie wieder eingeführt werden.

[5]Kein Staatsangehöriger darf von einem auswärtigen Staate einen Orden annehmen.

[6]Die öffentlichen Aemter sind für alle Befähigten gleich zugänlich.

[7]Die Wehrpflicht ist für Alle gleich; Stellvertretung bei derselben findet nicht statt.

 

 なお,美濃部達吉の言う「1848年のフランクフルト国民会議に於いて議決せられた『ドイツ国民の基礎権』」とは,後にフランクフルト憲法に取り入れられた18481227日のドイツ国民の基本権に関する法律Gesetz, betreffend die Grundrechte des deutschen Volksのことでしょうか(山田170頁参照)

 

(3)プロイセン憲法4条

最後に1850年プロイセン憲法。

 

 第4条(1)すべてのプロイセン人は,法律の前に平等である。身分的特権は,みとめられない。公職は,法律の定める条件のもとに,その能力あるすべての者が,平等にこれにつくことができる。

   (山田訳189頁)

 Art.4.  Alle Preußen sind vor dem Gesetz gleich. Standesvorrechte finden nicht statt. Die öffentlichen Aemter sind, unter Einhaltung der von den Gesetzen festgestellten Bedingungen, für alle dazu Befähigten gleich zugänglich.

 

(4)大日本帝国憲法19条との比較

 これらの条項を眺めていると,お話の流れとしては,①身分制を廃止し(ベ1項,フ1項),身分的特権を除去すれば(フ2項,プ2文),②国民は法律の前に平等になり(ベ2項前段,フ3項,プ1文),③その結果国民は均しく公職に就くことができるようになる(ベ2項後段,フ6項,プ3文)ということのようです。フランクフルト憲法137条4項及び5項は身分制の復活の防止,同条7項は平等の公職就任権の裏としての平等の兵役義務ということでしょうか。①は前提,②は宣言,③がその内容ということであれば,我が大日本帝国憲法19条は,前提に係る昔話や難しい宣言などせずに,単刀直入に法律の前の平等が意味する内容(③)のみを規定したものということになるのでしょう。

なお,『憲法義解』における第2章の冒頭解説の部分では,「抑中古,武門の政,士人と平民との間に等族を分ち,甲者公権を専有して乙者預らざるのみならず,其の私権を併せて乙者其の享有を全くすること能はず。公民〔おほみたから〕の義,是に於て滅絶して伸びざるに近し。維新の後,屢大令を発し,士族の殊権を廃し,日本臣民たる者始めて平等に其の権利を有し其の義務を尽すことを得せしめたり。本章の載する所は実に中興の美果を培殖し,之を永久に保明する者なり。」とあって,「士族の殊権を廃し」,すなわち身分的特権を除去して(①),「日本臣民たる者始めて平等に其の権利を有しその義務を尽す」,すなわち法律の前の平等が達成されたものとする(②)との趣旨であろうところの補足的説明がされています1888年3月の「浄写三月案」における当該部分の朱字解説にはなかった文章です。「浄写三月案」では,代わりに,「彼ノ外国ニ於テ上下相怨ムノ余リニ国民ノ権利ヲ宣告シテ以テ譲予ノ契約トナスカ如キハ固ヨリ我カ憲法ノ例ヲ取ル所ニ非サルナリ」とのお国自慢が記されています。)

 

3 ベルギー国憲法流の「法律の前の平等」の意味

 しかし,身分的特権を除去して国民が均しく公職に就けるようにすることのみが法律の前の平等の意味だったのでしょうか。「法律の前の平等」にはもう少し多くの内容があってもよさそうな気もします。そもそもの規定である1831年ベルギー国憲法6条2項における“Les Belges sont égaux devant la loi”の意味を詳しく見てみる必要があるようです。

 便利になったことに,Jean Joseph ThonissenLa Constitution belge annotée, offrant, sous chaque article, l’état de la doctrine, de la jurisprudence et de la legislation1844 年版が現在インターネットで読むことができるようになっています(「東海法科大学院論集」3号(2012年3月)113頁以下の「憲法21条の「通信の秘密」について」を書く際には国立国会図書館まで行って,「これってもしかしたら井上毅も読んだのだろうか」というような古い現物の本(1876年版)に当たったものでした。ちなみに,上記論文執筆当時,1831年ベルギー国憲法の解説本を読もうとして国立国会図書館でフランス語本を探したとき見つかった一番古い本が,当該トニセン本でした。トニセンは,1844年には27歳。刑法学者,後にベルギー国王の大臣)。その22頁以下に第6条の解説があります。

 

 22 立憲国家において法律の前の平等l’égalité devant la loiは,主に4種の態様において現れる。①全ての身分ordresの区別の不在において,②全ての市民が差別なく全ての文武の官職に就任し得ることにおいて,③裁判権juridictionに関する全ての特権の不在において,④課税に関する全ての特権の不在において。平等l’égalitéに係る前2者の態様が第6条によって承認されている。他の2者は,第7条,第8条,第92条及び第112条において検討するものとする。Thonissen, p.23

 

ベルギー国憲法7条は「個人の自由は,これを保障する。/何人も,あらかじめ法律の定めた場合に,法律の定める形式によるのでなければ,訴追されない。/現行犯の場合をのぞいては,何人も,裁判官が理由を付して発する令状によらなければ,逮捕されない。逮捕状は,逮捕のとき,または遅くとも逮捕ののち24時間以内に,これを示さなければならない。」と,第8条は「何人もその意に反して,法律の定める裁判官の裁判を受ける権利を奪われない。」と規定していました(清宮訳71頁)。第92条は「私権にかかわる争訟は,裁判所の管轄に専属する。」と規定しており(同92頁),第112条は「租税に関して特権を設けることはできない。/租税の減免は,法律でなければ,これを定めることができない。」と規定していました(同99頁)。これらはそれぞれ,大日本国帝国憲法23条,24条,57条1項及び62条1項に対応します。

 

 23 このように理解された法律の前の平等は,いわば,立憲的政府の決定的特徴を成す。それは,フランス革命の最も重要,最も豊饒な成果である。かつては,特権privilège及び人々の間の区別distinctions personnellesが,人間精神,文明及び諸人民の福祉の発展に対する障碍を絶えずもたらしていた。ほとんど常に,人は,出生の偶然が彼を投じたその境遇において生まれ,そして死んでいった。立憲議会は,それ以後全ての自由な人民の基本法において繰り返されることになる次の原則を唱えることによって新しい時代を開いた。いわく,「人は,自由かつ権利において平等なものとして出生し,かつ生存する。社会的差別は,共同の利益の上にのみ設けることができる。・・・憲法は,自然的及び市民的権利として次のものを保障しなければならない。第一,全て市民は徳性及び才能以外の区別なしに地位及び職務に就任し得ること。第二,全ての税contributionsは,全ての市民の間においてその能力に応じて平等に配分されること。第三,人による区別なく,同一の犯罪には同一の刑罰が科されること。」と(1791年憲法,人権宣言,第1条及び第1編唯一の条)。Thonissen, p.23

 

「人は,自由かつ権利において平等なものとして出生し,かつ生存する。社会的差別は,共同の利益の上にのみ設けることができる。」とは,1789年の人及び市民の権利宣言の第1条の文言です(山本桂一訳『人権宣言集』(岩波文庫)131頁)1789年の人及び市民の権利宣言は,1791年の立憲君主制フランス憲法の一部となっています(当時の王は,ルイ16世)。トニセンがした上記引用部分の後半は,フランス1791年憲法の第1編(憲法によって保障される基本条項(Dispositions fondamentales garanties par la Constitution))の最初の部分です(ただし,フランス憲法院のウェッブ・ページによると,原文は,「保障しなければならない(doit garantir)」ではなく,単に「保障する(garantit)」であったようです。)

前記伊東巳代治関係文書の「憲法説明 説明(第二)」の第22条(大日本帝国憲法19条)の朱書解説1888年1月)は「本条ハ権利ノ平等ヲ掲ク蓋臣民権利ノ平等ナルコト及自由ナルコトハ立憲ノ政体ニ於ケル善美ノ両大結果ナリ所謂平等トハ左ノ3点ニ外ナラズ第一法律ハ身分ノ貴賤ト資産ノ貧富ニ依テ差別ヲ存スルヿナク均ク之ヲ保護シ又均ク之ヲ処罰ス第二租税ハ各人ノ財産ニ比例シテ公平ニ賦課シ族類ニ依テ特免アルコトナシ第三文武官ニ登任シ及其他ノ公務ニ就クハ門閥ニ拘ラズ之ヲ権利ノ平等トス」と述べていますが,トニセンの書いていることとよく似ていますね。日本がベルギーから知恵を借りたのか,それとも両者は無関係だったのか。最近似たようなことが問題になっているようでもありますが,井上毅はフランス語を読むことができたところです(と勿体ぶるまでもなく,トニセン本及びその訳本は,大日本帝国憲法草案の起草に当たっての参考書でした(山田徹「井上毅の「大臣責任」観に関する考察:白耳義憲法受容の視点から」法学会雑誌(首都大学東京)48巻2号(2007年12月)453頁)。)。ただし,上記引用部分に続く「彼ノ平等論者ノ唱フル所ノ空理ニ仮托シテ以テ社会ノ秩序ヲ紊乱シ財産ノ安全ヲ破壊セントスルカ如キハ本条ノ取ル所ニ非サルナリ」の部分は,トニセンのベルギー国憲法6条解説からとったものではありません。

なお,「①全ての身分ordresの区別の不在」については,「憲法説明 説明(第二)」の第22条(大日本帝国憲法19条)朱書解説は,「維新ノ後陋習ヲ一洗シテ門閥ノ弊ヲ除キ又漸次ニ刑法及税法ヲ改正シテ以テ臣民平等ノ主義ニ就キタリ而シテ社会組織ノ必要ニ依リ華族ノ位地ヲ認メ以テ自然ノ秩序ヲ保ツト雖亦法律租税及就官ノ平等タルニ於テ其分毫ヲ妨クルナシ此レ憲法ノ保証スル所ナリ」と述べています。「法律租税及就官ノ平等タルニ於テ其分毫ヲ妨クルナシ」なのだから,華族制度も問題は無い,ということのようです。

 

 24 1815年の基本法は,この関係において,大いに足らざるところがあった。同法は,三身分ordresの封建的区別を再定立していた。すなわち,貴族又は騎士団身分,都市身分及び村落身分である。主にこの階層化classificationこそが,国民会議Congrès nationalが,国内にいかなる身分の区別も存してはならないと決定して禁止しようとしたものであった(第75〔国王の栄典授与権に関する条項〕のレオポルド勲章を制定した法律に関する議論の分析を参照)。Thonissen, p.23

 

 25 第6条第2項は,全ての市民は全ての文武の官職に差別なしに就任し得ることを宣言するものである。この規定は,法律の前の平等の原則を採用したことの必然的帰結であった。「第二次的な法律において初めてseulement規定されるべきではなく,憲法自身において規定されるべきものである原則は,公職に対する全ての市民の平等な就任可能性の原則である。実際,この種の特典faveursの配分における特権及び偏頗ほど,市民を傷つけ,落胆させるものはない。そして,ふさわしくかつ有能な人物のみを招聘するための唯一の方法は,職を才能及び徳性によるせりにかける以外にはない〔Macarel1833年版Élèm. de dr. pol. (『政治法綱要』とでも訳すべきか)246頁からの引用〕。」Thonissen, pp.23-24

 

 上杉慎吉は,大日本帝国憲法19条について「第19条は仏蘭西人権宣言の各人平等の原則に当たるものである,我憲法は各人平等の原則を定めずして,唯た文武官に任ぜられ公務に就くの資格は法律命令を以て予め定むべく,而して法律命令が予め之を定むるには均しくと云ふ原則に依らなければならぬことを定めたのである・・・均くと云ふのは門閥出生に依りて資格の差等を設けざるの意味である,諸国の憲法が此規定を設けたる理由は従来門閥出生に依つて官吏に任じ公務に就かしめたることあるのを止める趣意でありまするから,均くと云ふのは必しも文字通りに解すべきではありませぬ,例へば男女に就て差等を設くるとも第19条の趣意に反するものではない」と述べていました(同『訂正増補帝国憲法述義』(有斐閣書房・1916年)294-295頁)。大日本帝国憲法19条と1789年のフランスの人及び市民の権利宣言とのつながりがこれだけでは分かりにくかったのですが,その間に1791年フランス憲法並びに1831年ベルギー国憲法及び1850年プロイセン憲法が介在していたのでした。

 しかし,ヨーロッパAncien Régimeの身分制のえげつなさが分からなければ,当時唱えられるに至った「法律の前の平等」の意味もまたなかなか分からないようです。
 なお,尊属殺人罪に係る刑法200条を違憲とした最高裁判所大法廷昭和48年4月4日判決(刑集27巻3号265頁)に対する下田武三裁判官の反対意見では「わたくしは,憲法14条1項の規定する法の下における平等の原則を生んだ歴史的背景にかんがみ,そもそも尊属・卑属のごとき親族間の身分関係は,同条にいう社会的身分には該当しないものであり,したがつて,これに基づいて刑法上の差別を設けることの当否は,もともと同条項の関知するところではないと考えるものである。」と述べられていましたが,そこにいう「歴史的背景」とは,前記のようなものだったわけでしょう。