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(Champagne, France)


 19181111日午前11時に連合国とドイツとの間の休戦協定が発効し,第一次世界大戦の戦闘は終了しました。

昨日はその記念日でした。

1111日を休日として今も記念式典を行うフランスにとっては,第一次世界大戦こそが悲惨な大戦争であって,第二次世界大戦2年目の1940年にフランスがドイツにいわばあっさりと降参してしまったのは,ヴェルサイユ条約の恨みを抱いていたドイツとは異なり,第一次世界大戦でもう戦争は懲り懲りになっていたからだ,と以前英国の歴史家の本で読んだ記憶があります。

今でもフランスのシャンパーニュ地方の田舎道をドライブすると,白い墓標の群れが各所に現われ,町々の広場にはフランス軍兵士の像が東方をにらんで立っているのが見られます。

 第一次世界大戦には,日本も連合国側に立って参戦しました。中学校・高等学校で教わったところを思い返すと,日英同盟のよしみで参戦した日本は,少ない犠牲で山東省青島のドイツ租借地及びドイツ領南洋群島を占領し,他方国内では戦争景気で成金続出,戦後のパリ講和会議では,欧州正面での苛烈な戦闘には参加しなかったにもかかわらず,米国,英国,フランス及びイタリアと並んで,五大国の一つに数えられるに至った,というようなところでしょうか。

 

 日本の対独宣戦の理由に関しては,大正3年(1914年)8月23日付けの大正天皇の詔書は次のように述べています。


  ……朕ハ深ク現時欧州戦乱ノ殃禍ヲ憂ヒ専ラ局外中立ヲ恪守シ以テ東洋ノ平和ヲ保持スルヲ念トセリ此ノ時ニ方リ独逸国ノ行動ハ遂ニ朕ノ同盟国タル大不列顛国ヲシテ戦端ヲ開クノ已ムナキニ至ラシメ其ノ租借地タル膠州湾ニ於テモ亦日夜戦備ヲ修メ其ノ艦隊荐ニ東亜ノ海洋ニ出没シテ帝国及与国ノ通商貿易為ニ威圧ヲ受ケ極東ノ平和ハ正ニ危殆ニ瀕セリ是ニ於テ朕ノ政府ト大不列顛国皇帝陛下ノ政府トハ相互隔意ナキ協議ヲ遂ケ両国政府ハ同盟協約ノ予期セル全般ノ利益ヲ防護スルカ為必要ナル措置ヲ執ルニ一致シタリ朕ハ此ノ目的ヲ達セムトスルニ当リ尚努メテ平和ノ手段ヲ悉サムコトヲ欲シ先ツ朕ノ政府ヲシテ誠意ヲ以テ独逸帝国政府ニ勧告スル所アラシメタリ然レトモ所定ノ期日ニ及フモ朕ノ政府ハ終ニ其ノ応諾ノ回牒ヲ得ルニ至ラス……


ドイツ艦隊がしきりに「東亜ノ海洋ニ出没」シテ「帝国及与国ノ通商貿易」を「威圧」したために「極東ノ平和」が「正ニ危殆ニ瀕」したことが日本の対独開戦の直接の理由であり,攻撃目標はまず「東亜ノ海洋」のドイツ艦隊及びその根拠地であるということでしょうか。


 当時の第三回日英同盟協約(1911713日ロンドンで調印。「日本外交文書」明治44年第12110377頁以下))は,その目的を「東亜及印度ノ地域ニ於ケル全局ノ平和ヲ確保スルコト」,「清帝国ノ独立及領土保全並清国ニ於ケル列国ノ商工業ニ対スル機会均等主義ヲ確実ニシ以テ清国ニ於ケル列国ノ共通利益ヲ維持スルコト」及び「東亜及印度ノ地域ニ於ケル両締盟国ノ領土権ヲ保持シ並該地域ニ於ケル両締盟国ノ特殊利益ヲ防護スルコト」と定めていました(前文)。

したがって,「両締盟国ノ一方カ挑発スルコトナクシテ(unprovoked)一国若ハ数国ヨリ攻撃(attack)ヲ受ケタルニ因リ又ハ一国若ハ数国ノ侵略的行動(aggressive action)ニ因リ該締盟国ニ於テ本協約前文ニ記述セル其ノ領土権又ハ特殊利益ヲ防護セムカ為交戦スルニ至リタルトキハ前記ノ攻撃又ハ侵略的行動カ何レノ地ニ於テ発生スルヲ問ハス他ノ一方ノ締盟国ハ直ニ(will at once)来リテ其ノ同盟国ニ援助ヲ与ヘ協同戦闘ニ当リ講和モ亦双方合意ノ上ニ於テ之ヲ為スヘシ」との規定(同協約2条)があったものの,東アジア及びインドの地域(the regions of Eastern Asia and of India)以外の地域,すなわち欧州等は,その守備範囲外であったところです。


 しかし,日本海軍は,地中海にまで駆逐艦等による特務艦隊を派遣して,連合国から感謝されています。また,陸軍についても対独苦戦の連合諸国から累次の欧州派兵要請が我が国政府にあり,歴史のifとしては,シャンパーニュの美しくなだらかな丘陵地帯のあちらこちらに,日本兵の墓標が並んでいるという可能性もあったところでした。


 これら連合国からの欧州派兵要請に対して19141114日,時の大隈内閣の外務大臣加藤高明は,駐日英国大使に派兵不可の旨覚書を手交しています(「日本外交文書」大正3年第310621643頁以下)参照)。


 当該加藤メモランダムが,昨今の政治の動きをめぐる最近の論説において,次のように紹介されています。



  いったん国防の役割を越えた国防軍が,それこそ地球の裏側まで戦闘行為をしに行くことを押しとどめる力量を,日本の議会政治が発揮できるのか。対イラク戦争でのブッシュ政権への協力についての総括をも果たしていない中で,9条の歯止めを取り払おうという主張はあまりに無責任ではないでしょうか。かつて第一次大戦の開戦直後,どこまで積極的に連合諸国側に立ってドイツと戦うかの真剣な議論の中で,当時の外務大臣は,日英同盟の相手方の出兵要請に対し,「帝国軍隊ノ唯一ノ目的ハ国防ニ在ルカ故ニ,国防ノ性質ヲ完備セサル目的ノ為帝国軍隊ヲ遠ク国外ニ出征セシムルコトハ其組織ノ根本タル主義ト相容レサル所」という覚書を英国大使に手交しています(加藤高明)。日米同盟一本槍の今の政治家たちと違って,そのような認識を持ちながらも,その後の大日本帝国がどんな途に突き進んだか,痛切な教訓ではないでしょうか。(樋口陽一「なぜ立憲主義を破壊しようとするのか―現状を見定めることの責任」『世界』201312月号66-67頁)



 日本はかつて,大日本帝国憲法下において,
“The dispatch of the Imperial army far away from home for purposes other than those partaking of the nature of national defence is  .incompatible with the fundamental principle of its system and was never contemplated in its organization.” との主義を,世界に対して明らかにしていたところでありました。


 それでは特務艦隊の地中海派遣はどのように説明されたのでしょうか。1917年6月26日,第39回帝国議会衆議院本会議において,島田三郎議員の問いに対し,加藤友三郎海軍大臣は,「我国旗ヲ樹ッテ居リマストコロノ船舶ガ,欧洲海面ニ於テ沈没ヲ致シマスル数ガ漸次殖エテ」いるので「軍事当局者ト致シマシテハ,是等我船舶ヲ保護致シマスル上ニ,多少ノ考慮ヲ費サナクテハナラナイ」と考え「腹案」を立てていたところ,「英国政府ヨリ地中海方面ニ或一隊ノ派遣方ノ交渉」が「敵ノ潜水艦ニ対スル作戦上必要」であるところからあったため,「或一隊ヲ地中海ニ派遣シタト云フ次第デゴザイマス」と答弁しており,「聯合作戦ヲ実施」するためという理由のみをもっては説明していなかったところです(第39回帝国議会衆議院議事速記録316-17頁)。本野一郎外務大臣も,「共同作戦ノ必要」に加えて「帝国ノ航海ノ保護ノ必要」を特務艦隊派遣の理由として挙げています(同速記録17頁)。「共同作戦ノ必要」だけでは,島田前衆議院議長以下の議会政治家たちを納得させられなかったということでしょう。


 日本が戦間期「いわゆるワシントン体制の枠組みの中で逐次孤立」していったことについて,「一次大戦における欧州派兵問題もその原因の一つではあるまいか」,「言を左右にして小さな艦隊しか援軍を派遣しなかった「頼りにならない同盟国」日本と,一度参戦するや2百万の将兵を始め陸海軍の総力を挙げて救援に馳せ参じた「頼りになる同盟国」アメリカとの「信頼性の差」は影響していないか」とする意見があります(永井煥生「第一次世界大戦における欧州戦線派兵要求と日本の対応」防衛研究所戦史部年報1号(19983月)18頁)。


 しかし,米国は,第一次世界大戦で約12万人の戦死者(American Battle Monuments Commissionのウェッブサイトによれば116,516人)を出し,戦間期は孤立主義に回帰。国際連盟にも加盟していません。欧州で第二次世界大戦が始まり,フランスが敗れ,英国が苦戦していても,「頼りになる同盟国」は,なお欧州戦線派兵を行いませんでした。苦戦中の英国宰相チャーチルがこれで勝ったと歓喜したのは,実は日本の真珠湾攻撃(1941127日(ハワイ現地時間))のニュースを聞いた時でした。

19411211日に,日独伊三国同盟条約の当事国であるドイツ及びイタリアが米国に対して宣戦。これは,ヒトラーの失敗だといわれています。ドイツの対米国宣戦通告文では,米国軍によるドイツ潜水艦の攻撃及びドイツ商船の拿捕を挙げて,米国がドイツに対してopen acts of warを行っているものと主張していますが,同日ヒトラーがドイツ国会議事堂でした長い演説が同じ月の30日付けで日独旬刊社出版局から『一千年の歴史を作らん』(「ヒトラー総統の対米宣戦布告の大演説」)との題名で出版されているところ,そこには次のようなくだりがあります。いわく,「茲に於いて独伊両国は,遂ひに,1940年9月27日附の三国条約の規定に遵ひ(getreu den Bestimmungen des  Dreimaechtepakts vom 27. September 1940),日本と相携へて,それら三国とその国民とを防衛し,且つそれに依つてその自由と独立とを維持せんがために,アメリカ合衆国と英国とに対する戦ひを開始するの止むなきに至つたのである(haben...sich...gezwungen gesehen)。」と(61頁。ドイツ文はWorld Future Fundのウェッブページから)。)


 また,12万の戦死者数は,日露戦争における我が戦死者数約8万4千人を大きく超えるものです(約84千人は,アジア歴史資料センターの「日露戦争特別展」ウェッブサイトの「はやわかり」ウェッブページが紹介する数字。当該サイトの「統計」ウェッブページには別に戦死者数55,655人という数字が出ています。)。旅順で苦戦中の乃木希典将軍の留守邸が投石を受け,ポーツマス条約の講和条件が「勝者」にとって不十分であるとして日比谷で焼き打ち事件が起こったのは,第一次世界大戦の当時,遠い昔の話ではありませんでした。


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(ヴェルダンの地下要塞見学コース)