1 はじめに:国語辞典及び創世神話

 企業法務の仕事をしていると,一週間の単位が問題となることがあり,そうなると週の最初の日が何曜日かが問題となります。

 筆者の手元の『岩波国語辞典 第四版』(1986年)には,「日曜」について「曜日の一つ。週の第1日で,役所・学校などが休日とする。」と,「月曜」について「曜日の一つ。日曜のつぎ。」とあります。したがって,週の初め(「週の第1日」)は日曜日であることが確定しているものと,筆者は漠然と考えていました。

 更にここに,宗教的権威も加わっています。

 

 igitur perfecti sunt caeli et terra et omnis ornatus eorum

    complevitque Deus die septimo opus suum quod fecerat

    et requievit die septimo ab universo opere quod patraverat

    et benedixit diei septimo et sanctificavit illum

    quia in ipso cessaverat ab omni opere suo quod creavit Deus ut faceret

    (Gn 2,1-3)

 

 すなわち,

 

  (かく)天地および(その)衆群(ことごと)(なり)ぬ 第七日(なぬかめ)に神其造りたる(わざ)(をへ)たまえり即ち其造りたる工を竣て七日(なぬか)安息(やすみ)たまへり 神七日を祝して之を神聖(きよ)めたまへり()は神其創造(つくり)(なし)たまへる工を(ことごと)く竣て(この)日に安息みたまひたればなり

  (創世記第21-3

 

 ということであって,ユダヤ人がその神に倣って土曜日を第七日の安息日(Sabbath)として休んでいるのなら,日曜日が週の初めということになるではないか,ということになります。

 しかしながら,国語辞典の記述やら異教の神話やらを根拠とした議論は法律家としていかがなものでしょうか。端的な法的根拠,が欲しいところです。

 

2 民法の143条の規定及び諸書における解説(の有無)

 ところで,民法(明治29年法律第89号)には次のような条文があります(下線は筆者によるもの)。

 

  (暦による期間の計算)

  第143条 週,月又は年によって期間を定めたときは,その期間は,暦に従って計算する。

  2 ,月又は年の初めから期間を起算しないときは,その期間は,最後の週,月又は年においてその起算日に応当する日の前日に満了する。ただし,月又は年によって期間を定めた場合において,最後の月に応当する日がないときは,その月の末日に満了する。

  

 「週の初め」という概念が,当然のように出て来ています。

 そうであれば,民法1432項について研究をすると,①週の初めが何曜日であるか,及びその根拠が明らかになりそうです。

 しかしながら,民法のいわゆる基本書に当たっても,なかなかはっきりしないのです。

 

  内田貴『民法 総則・物権総論』(東京大学出版会・1994年)256-257頁 記載なし。

遠藤浩等編『民法(1)総則(第3版)』(有斐閣・1987年)234-236頁(岡本坦) 記載なし。

  四宮和夫『民法総則 第四版』(弘文堂・1986年)284-285頁 記載なし。

  星野英一『民法概論(序論・総則)』(良書普及会・1971年)245-248頁 記載なし。

  我妻榮『新訂民法総則(民法講義)』(岩波書店・1965年)426-429頁 記載なし。

 

 荒寥たるものです。

 むしろ,民法143「条が週を加えることは無意味である。」と(我妻428頁),週ははなから切って棄てられてもおり(同条1項について遠藤等235頁(岡本),四宮285頁も同様),したがって,週の初めは何曜日かの問題も捨象されてしまっています。

 こうなると,現行民法の起草者の一人である梅謙次郎の著書に当たるしかありません。さすがにそこには,週の初めが日曜日であることを示唆する記述が,何とかありました。

 

  例ヘハ期間ノ初何曜日タルニ拘ハラス1週ト云ヘハ或ハ翌週ノ日曜日ヨリ土曜日ニ至ルマテヲ算スヘキカノ疑アリ(梅謙次郎『訂正増補民法要義巻之一 総則編』(私立法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1905年)366頁。下線は筆者によるもの)

 

 ただし,間接的な言及にとどまっています。

 この点,例外的に直截なのが,次の論述です。

 

   暦によれば,週の初めが日曜日,週の終りが土曜日,月の初めがその月の1日,月の終りがその月の末日であることは,明らかである。(川島武宜編『注釈民法(5)総則(5)』(有斐閣・1967年)9頁(民法143条解説・野村好弘))

 

前記の二つの問題のうち,①週の初めの曜日は日曜日であり,②その根拠は,民法1431項で「暦に従」うことになっているからだ,ということになります。

 

 ちなみに,法典調査会において,週の初めが日曜日なのか,それとも月曜日なのか,ということで認識のくいちがいが見られた(法典調査会速記録(学術振興会版)4117122126など参照)。暦による,とすれば,そのようなくいちがいは解消されることになる。だから,本条1項に週の文字を加えたのは,必ずしも無意味なことではない(反対説,〔我妻〕428)。

 (川島編9頁(野村))

 

野村説は,法典調査会における磯部四郎🎴(筆者註:この花札マークは,待合茶屋における芸妓を交えての花札博奕事件である1892年の弄花事件🍶🎴の関係者(大審院の司法高官)に付されます。)の議論を採用したものです。

 

3 189454日の法典調査会審議模様

野村好弘(当時は若き)東京都立大学助教授によって参照すべしとされた,189454日に開催された第9回の法典調査会の議事速記録を見てみましょう。同日の議長は,その二十代の大部分をパリで過ごし(1871-1880年),ソルボンヌ大学で法律を学んだ,後の内閣総理大臣・西園寺公望でした。

審議の対象となった案文はどのようなものであったかというと,法典調査会民法議事速記録第4111丁表に記載されているものを明治天皇裁可の民法143条の法文と比較すると,第1項と第2項との間の改行がされておらず,かつ,第2項の〔〕内部分が脱落し,更に《》内部分が付加されている形となっていますが(次に掲げるものを参照),少なくとも,各委員の手元資料では,第1項と第2項との間は改行がされており,かつ,〔〕内は脱落してはいなかったものでしょう。ただし,審議案に係る条の番号は,「第144条」となっていました。報告担当の起草委員は,梅謙次郎でした。

 

 期間ヲ定ムルニ週,月又ハ年ヲ以テシタルトキハ暦ニ従ヒテ之ヲ算ス

 週,月又ハ年ノ始ヨリ期間ヲ〔起算セサルトキハ其期間ハ最後ノ週,月又ハ年ニ於テ其〕起算日ニ応当スル《ノ》日ノ前日ヲ以テ《期間》満了ス《ルモノトス》但月又ハ年ヲ以テ期間ヲ定メタル場合ニ於テ最後ノ月ニ応当日ナキ〔トキ〕ハ其月ノ末日ヲ以テ満期日トス

 

 梅の冒頭説明が終ると,直ちに西園寺から疑問が発せられます。(なお,原文は,片仮名書き,句読点なし。以下,筆者において,原文の片仮名を平仮名に,平仮名を片仮名にし,かつ,句読点を補っています。)

 

  議長(西園寺侯) 週の始めは,何時からでありませうか。

  梅謙次郎君 月曜か日曜かでありませう。私は日曜であると考へますが,或は私の考へが間違つて居るかも知れませぬ。

   (民法議事速記録第4116丁裏)

 

冒頭から調子が狂ったのか,回答が明確ではありません。「強て梅君の缺点を挙ぐれば自信力が少し強過ぎた。」と起草委員仲間の富井政章に評された(東川徳治『博士梅謙次郎』(法政大学=有斐閣・1917年)219頁)梅らしくありません。

 続いて土方寧が質問します。

 

  土方寧君 週の暦に従うと云ふのは,疑ひが起りやしませぬか。

  梅謙次郎君 是は大分是迄疑ひの出たことでありますけれども,私は悉く此週に付て暦に従ふと云ふことは出て来やうと思ひます。古い暦には日子月子火子と皆書いてある。アレガ即ち必要である。此必要は決して西洋から来たことでなく,西洋の慣習が這入つて来てから多く用ゐらるると云ふことになつたのであります。加之((しかのみ))ならず,今日の暦には必ず日曜日が書いてあつて,自ら他の何が分かるやうに柱暦に迄書いてあるのであります。夫れで暦に従ふと云つて分らうと思ひます。

   (民法議事速記録第4116丁裏-117丁表)

 

この梅の回答のいわんとするところは,七曜日がめぐって1期間=1週間という観念は,嘉永六年(1853年)のペリー来航後に初めて「西洋から来たことでなく」,昔から我が国にあって,暦に日月火水木金土と書いてもあったのだが,明治の文明開化後,七曜日の1週間を主要な時間単位の一つとする「西洋の慣習が這入つて来てから多く用ゐらるると云ふことになつたので」,民法の期間の計算の章においては,週によるものについても規定しておくのがよかろう(「1週間の後とか2週間の後とか云ふやうなことは,今日随分やると思ひます」(民法議事速記録第4122丁裏)),ということのようです。

明治より前の暦に日月火水木金土の記載があるのかということで,インターネットで各種の具註暦を調べてみると(仕事振りがしつこいですね。国を,政府を,「専門家の技術的・専門的知識💉」を信じていたのに裏切られました。ひどい!くやしい‼とたやすく嘆き悲しむ善良温順な日本人ならざる不逞の筆者は,トマスの徒なのです。“nisi videro in manibus ejus figuram clavorum et mittam digitum meum in locum clavorum et mittam manum meam in latus ejus, non credam” (Io 20,25),確かに,各日の頭書部分に日月火水木金土が朱書されているものなどがあります(例えば,https://dl.ndl.go.jp/pid/1287511/1/8)。なお,アラビア数字及び左からの横書き導入前の時代のものなので,それらの暦は,我々が見慣れた,各月4段ないしは6段に7日分ずつアラビア数字を左から並べるという形のもの🗓ではありません。

しかしてこの七曜日の制は,9世紀初めに空海が唐土から請来した宿曜経こと文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経に由来するのだと言われています。それでは弘法大師の御請来目録にあるのかなと,不信のトマスの徒がまたもインターネット画像を見てみると,確かに空海が請来した経典中に宿曜経が含まれています(12齣目です。https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012887)。

 しかし,梅の回答は若干方向違いであったかもしれません。土方は,週の初日が不確実であるという点を問題にしていたようです。

 

  土方寧君 〔前略〕週の始めは日曜か月曜か分からぬと云ふやうな疑ひもあるから,夫れで私は,12項共に「週」の字は除いた方が宜からうと思ひます。

  横田國臣君 賛成。

  梅謙次郎君 此「週」の字を除くことは格別遺(ママ)はありませぬが,唯,之を此処に加へた理由丈けを申上げます。前に日を以てするときは云々,時を以てするときは云々と書いてあります。週丈け丸で除けものにして仕舞うと,始めに月,年,週と云ふやうに書いて置いたのと合はぬやうになる。夫れで週の始めが極まつて居らぬと云ふことでありますが,唯私が知らないと云ふことを申上げたのであつて,日曜日が始めと是迄心得て居つたのであります。疑ひの起らぬことでありますから,格別辯ずる程の必要はない。

   (民法議事速記録第4120丁表裏)

  

 「始めに月,年,週と云ふやうに書いて置いた」場所は,初日不算入の原則に係る民法140条本文です(「期間ヲ定ムルニ日,週,月又ハ年ヲ以テシタルトキハ期間ノ初日ハ之ヲ算入セス」)。

 梅としては,週の初日が日曜日であることについては自信がある(「疑ひの起らぬことであります」),ただその法的根拠を説明できないだけである,ということのようです。(と,当初は考えましたが,これは筆者が,富井流の「梅=自信力強過ぎ」説に引きずられ過ぎたようです。実は梅も,我妻流に,民法143条において週について規定することは本来不必要と考えていて,日曜始まりでも月曜始まりでも「起算日ニ応当スル日ノ前日ヲ以テ満了ス」で「疑ひの起らぬこと」だから,「格別辯ずる程の必要はない」と思ってはいたものの,やはり同法140条との平仄上「週ノ始」を書いたのだ,ということではないかと,皇紀2683年の春分日になって思い至りました。)

 箕作麟祥は,「成程週の始めが分からぬと云ふことでありましたが,私は始めは日曜と思ふて居る」と言ってくれました(民法議事速記録第4121丁表)。しかし,実は,おフランスかぶれの議長が難しかったところです。

 

  議長(西園寺侯) 私は今日白状するが,是迄週の始めは月曜と思つて居つたが,日曜が本統ですか。

  奥田義人君 西洋の暦では月曜日。

  議長(西園寺侯) 週の始めは,西洋では矢張り月曜日でせう。

  (民法議事速記録第4121丁裏)

 

  元田肇君 一寸伺ひますが,此週の始めと云ふのは何時の積りでありますか。

  梅謙次郎君 私は日曜日の積りであります。

  議長(西園寺侯) 私は何うも日本の週の始めの日と西洋の週の始めの日と違うのは甚だ遺憾に思ふ。奈何となれば,暦と云ふのは,今日西洋の暦を用ゐて居る。

   (民法議事速記録第4125丁表)

 

ここで西園寺のいう「西洋の暦」とは,明治五年太政官布告第337号によって採用された太陽暦のことですね(なお,1894年段階では,明治31年勅令第90号がまだ出ていなかったので,1900年も1年が366日のうるう年になってしまうユリウス暦的な太陽暦でした。したがって,精確には,1900年を平年とするグレゴリウス暦ではありません。)。

しかし,日本国は日本国,西洋は西洋ということで,別であってもよいではないか(筆者註:確かに,上記のとおり,当事者の意識にかかわらず,グレゴリウス暦は実は我が国においてなおも完全採用されていませんでした。),日本国の民法は日本国の暦に従って解釈すればよいのだ,そこは第1項の「暦ニ従ヒテ」規定を援用すればよいのだとの趣旨の磯部四郎🎴発言があって,明示の決議はありませんが,法典調査会においては,民法1432項にいう週の初めの日は日曜日ということで了解がされたようです。

 

 磯部四郎君 〔前略〕私は,此期間に関する法文中で此144条〔民法143条〕の如くに明瞭なる法文はなからうと思ひます。修正論の為めに此本体に多少の傷の付くやうなことがあつては如何にも慨嘆に堪へませぬから一言申して置きます。夫れで先程から此144条〔民法143条〕の「週」と云ふ文字に付て議論もありましたけれども,詰り,日曜が始まり日であるか,又は月曜が始まり日であるか分からぬと云ふことでありますが,然う云ふ所で暦に従ふと云ふので,暦に従つて(ママ)ある,日本の暦では日曜から書いてある。日曜が始めの日になるから,夫れで,144条〔民法143条〕の第1項に暦に従ふと云ふことで明になつて来る。夫れからして,始めの日から計へぬときは最後に応当する(ママ)を以て期間が満了すると云ふことが丁度分りますが,彼の日月火水木金土と云ふことが分り切つて居れば暦に従ふと云ふ必要はないかも知れませぬが,既に「週」と云ふ字に付て色々分からぬと云ふやうなことがあるから,週と云ふものは暦に従ふと云ふので,是は最も便利であらうと思ひますから,何うか是は成る可く傷の付かぬやうに希望致します。

 尾崎三良君 週の始めは日曜日に極まつて居ると云ふことでありますが,夫れは何処から然う云ふことが出るのでございませうか。

 磯部四郎君 夫れは日曜からと云ふことに暦に書いてあります。日月火水と云ふやうに,日が一番始めに書いてあります。

  (民法議事速記録第4126丁表裏)

 

 ということが,明治の立法経緯であったのでした。

しかし,暦といってもいろいろなものがあって,正に週が月曜日始まりのものも売られているのではないかしら,磯部🎴は「暦に書いてある」で単純に押し切ってしまい,尾崎はあっさり引っ込んでしまったけれども,そして野村先生は「暦による,とすれば,そのようなくいちがいは解消されることになる。」と妙に納得してしまっておられるけれども,何か変だよなぁ,まだ何かが足りないよなあ,との感想は,令和の我々にとってはもっともなところではないでしょうか。

ということで,筆者としては,衒学的にして空疎な「その先の議論」に陥らないように戒心しつつなおも研究を進めたのですが,行き着いたところは,法哲学や経済学の過去の業績なるものをおしゃれに踏まえたアカデミックな理論ではなく,やはり神様仏様なのでした。

 

4 本暦及び略本暦頒布の神宮による独占

現行民法制定の当時,暦(本暦及び略本暦)を頒布することは,神宮の専権に属しており,実は暦は統一されていました。すなわち,日曜日始まりやら月曜日始まりやらのいろいろな暦の並存はあり得なかったのでした。

1882426日の明治15年太政官布達第8号(内務卿連署)は,次のように規定していました。

 

 本暦並略本暦ハ明治16年暦ヨリ伊勢神宮ニ於テ頒布セシムヘシ

 一枚摺略暦ハ明治16年暦ヨリ何人ニ限ラス出版条例ニ準拠シ出版スルコトヲ得

  但明治910内務省甲第39号布達ハ取消ス

 右布達候事

 

 明治15年太政官布達第8号の前提として,明治三年四月二十二日の太政官布告は,「頒暦授時之儀ハ至重之典章ニ候処近来種々之類暦世上ニ流布候趣無謂(いはれなき)事ニ候自今弘暦者之外取扱候儀一切厳禁(おほ) 仰出(せいだされ)候事」と規定していました。

 明治9年内務省甲第39号布達は,「来明治10年暦ヨリ本暦略暦共別紙雛形印紙貼用可致(いたすべく)候略暦出版ノ儀ハ自今本暦頒布ノ後草稿相添出版書式ニ照準シ府県庁ヲ経テ当省ヘ可願出(ねがひいづべく)出版差許候分ハ右印紙相渡候間枚数ヲ限リ願出毎暦面ニ貼付ノ上販売可致(いたすべく)無印紙ノ暦ハ売買不相成(あひならざる)条此旨布達候事」というものでした。

 明治三年四月二十二日の太政官布告及び明治15年太政官布達第8号は,1946731日公布の昭和21年内務省令第32号によって同日限り廃止されています。換言すると,その時まで,内務省令たる法規として,大日本帝国憲法9条及び761項に基づき効力を有していたのでした。

暦の製造頒布は神宮の附属事業であり,大宮司(神宮司庁に置かれる祭主(皇族又は公爵)の下にある神官中の事務長官)の管理の下に置かれていた神宮神部署がこれを掌っていました(美濃部達吉『日本行政法 上巻』(有斐閣・1936年)662-663頁参照)。神宮のウェブサイトには,「神宮の暦は,御師(おんし)の配った伊勢暦の伝統を受け継ぎ,明治16年より迷信的記述を排除し,科学的情報のみを記述した我が国唯一の「正暦」として全国に頒布されました。暦の作成や販売が自由になった今日も,その心を受け継ぎ,科学的で実用的な暦として奉製され,神宮大麻とともに配られています。神宮暦は農林漁業関係者をはじめ,近年では家庭菜園やガーデニング等にも広く活用されています。」とあります。ちなみに,神宮大麻とはいわゆるお札であって,その所持等が昭和23年法律第124号によって取り締まられるものではありません。

 

なお,明治三年四月二十二日の太政官布告にも明治15年太政官布達第8号にも「取締ニ制裁ガゴザリマセヌ」ということで(第10回帝国議会貴族院議事速記録第948頁(中村元雄政府委員)参照),違反した暦等の刻版及び印本を差し押さえ,又は毀棄することができるようにするほか,違反した著作者及び発行者を11日以上6月以下の重禁錮に処し,かつ,10円以上200円以下の罰金をこれに附加しようという守札及暦ニ関スル取締法案が1897215日に政府から帝国議会に提出されていますが,同年315日には撤回されています。暦を頒布する「神宮ノ利益ヲ主トシテ保護スルノデソレカラコノ暦ハ成ルヘク諸方カラ出ルコトハ忌ミ且ツ色〻ノ歴史上法令ヲ以テ神宮ヘ許サレテアルコトデゴザイマスシ,又神宮ノ今日余程ノ収入モ関係スルコトデアリマス,其利益ヲ保護スルタメニ出シマスノデゴザイマス」ということでしたが(第10回帝国議会貴族院議事速記録第949頁(三崎龜之助政府委員)),残念でした。1897218日の貴族院本会議において,曽我祐準,村田保,何禮之,伊達宗敦,堀田正養らの諸議員に責め立てられて,「疎漏」・「迂闊」(第10回帝国議会貴族院議事速記録第950頁参照)の内務省は懲りたのでしょう。

 

明治16年(1883)の略本暦の写真がインターネット・オークションの見本として出ていて,それを筆者が確認するに,「七値」(「値」の漢字は,実物はちょっと違います。)の欄には右から順番に日曜・月曜・火曜・・・と並んでいて,日曜が週の最初の曜日とされていることが分かります(縦書きです。この七値ノ名の掲載は,1875の略本暦から1907年の略本暦まであったそうです(高橋潤三「略本暦内容及び体裁の変遷」(19541028日東京天文台暦研究課編))。1875の略本暦でも日曜日が七値の先頭です(同)。)。また,日曜表というものがあって,各月の日曜日の日付が記されています。1946129日の東京天文台の「編暦の方針案」には,「二十四節気,雑節,干支,日曜表,大祭日」について,「本項は古来暦象の基本事項なる故,当然これを〔国民暦たる「暦象年表」に〕載す。」との記載があるところ,ここでのゆゆしき「古来」は,キリスト教国流に日曜日が休日となる時期(官庁の日曜休業は1876312日の明治9年太政官達第27号により同年4月からです)より前からの伝統によって日曜表は意義付けられるのだ(「日曜は七値の筆頭だからなのだ」ということでしょうか。),という意識を示すものでしょう。ただし,日曜表が登場するのは,1880年の略本暦からです(高橋)。なお,現行民法制定当時の官俗ならぬ我が民俗は,「我邦ニ於テハ日曜日,大祭日等ニ其業ヲ休ム者ハ極メテ少数ニシテ未タ西洋ノ如キ慣習アラサル」状態でした(梅364)。

一枚摺略暦については,18901031日に公布された明治23年文部省令第2号が掲載可能事項を限定列挙しているところ,曜日については専ら日曜表が認められています。「今日の暦には必ず日曜日が書いてあつて,自ら他の何が分かるやうに柱暦に迄書いてあるのであります。」と梅が言っていたのは,この間の消息を示すものでしょうか。

 

 一一枚摺略暦ハ左ニ列記スル事項ニ限リ記載スルモノトス

  一年号及紀元ノ年数干支

  一毎月ノ1

  一日月食並其時間

  一大祭祝日並神社例祭大祓

  一日曜表甲子表庚申表己巳表

  一二十四節気及雑節

  一新月満月

  一前各項ニ相当スル陰暦日干支及陰暦ノ朔日干支並之ニ相当スル陽暦日

    以上ノ事項ハ帝国大学ニ於テ編纂スル所ノ暦ニ依ルヘシ但前各項規定ノ外本暦略本暦ニ掲載セサル事項ヲ記入スルハ此限ニ在ラス

 

 いずれにせよ,神宮は(ひの)(かみ)である天照大神大日孁(おほひるめの)(むち)祭っているのですから,その頒布する「正暦」において,七曜の第一が日曜とならなければおかしいでしょう。(つきの)(かみ)たる(つく)(ゆみの)(みこと)月夜(つくよ)(みの)(みこと)月読(つくよみの)(みこと)の神社が頒布する暦であれば,月曜始まりもあり得のでしょうが,事実においてそうではありませんでしたしかし,日本神話では,弟の素戔嗚尊に元気があり過ぎるせいか,月神は影が薄いです🌑


5 宿曜経及びそこにおける七曜

 ここで念のため,お大師様御請来の宿曜経における七曜の排列について,先頭は日曜🌞なのか月曜🌛なのか,やはり確認しておきましょう。


DSCF1162

弘法大師空海(成田山新勝寺)


 国立国会図書館のデジタルコレクションにある脇田文紹が18974月に出版した『縮刷宿曜経 二冊合巻』の30頁には,次のようにあります。

 

  宿曜経序七曜直品第四

  七曜者日月火水木金土也其精上曜於天神下直干人所以司善悪而主吉凶也其法一日一当直七日一周周而復始推求七曜直日法入此経巻末第七暦籌法中

 

 大正新脩大蔵経テキストデータベースでは,

 

    宿曜暦経序七曜直日品第四

  夫七曜日月五星也。其精上曜于天其神下直于人。所以司善悪而主理吉凶也。其行一日一易七日一周周而復始。直神善悪言具説之耳景風曰推求七曜直日法。今具在此経巻末第八暦算法中。具備足矣

 

です。

文言は必ずしも同一ではありませんが,要は,「七曜は,日月火水木金土なり。」又は「それ七曜は日月五星なり。」であって日曜🌞が先頭,「七日で一周し,周して復た始まる」ということです。やはり日曜日が週の初めなのでありました。

宿曜経請来から約二百年が経過した宮中においては同経に基づく占星術が流行っていたようです。光源氏の臣籍降下の決定に当たっては,その誕生日が何曜日であったかも勘案されたかもしれません。

 

 (きは)ことに賢くて,ただ人にはいとあたらしけれど,親王(みこ)となりたまひなば,世の疑ひ負ひたまひぬべくものしたまへば,宿曜(すくえう)の賢き道の人に(かんが)へさせたまふにも,同じさまに申せば,源氏になしたてまつるべく(おぼ)しおきてたり。

 (源氏物語・桐壺)

 

(ところで,紫式部の絵姿が,20007月に出た2千円札にあったことを筆者は覚えているのですが,あの2千円札はどこに消えてしまったのでしょうか。20進法嫌いの日本人には,おフランス式(フランス語で80は,quatre-vingts (=4×20)です。)は(週の月曜日始まりを含めて)駄目なのでしょうね。日本銀行法(平成9年法律第89号)461項は「日本銀行は,銀行券を発行する。」と,同法471項は「日本銀行券の種類は,政令で定める。」と規定しているところ,当該政令である日本銀行法施行令(平成9年政令第385号)の第13条にはなお2千円札が日本銀行券の種類の一つとして規定し残されてはいるのですが・・・。2千円札(及び紫式部の容姿)がどのようなものであるかについては,次のリンク先の一番下の部分を御覧ください。)

https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3487509/www.kantei.go.jp/jp/kidsold/school/school_lesson.html

 

6 東京天文台と国立天文台と

なお,1890年の前記明治23年文部省令第2号には「帝国大学ニ於テ編纂スル所ノ暦」とありました。神宮頒布の「迷信的記述を排除し,科学的情報のみを記述した我が国唯一の「正暦」」も,実は当該帝国大学編纂の暦に拠ったものでしょう。1888126日付け官報によって布告された明治21年勅令第81号は「天象観測及暦書調製ハ自今文部大臣ヲシテ之ヲ管理セシム」と規定していたところ,文部大臣は,暦書調製の実務は帝国大学にやらせていたわけです。

この明治21年勅令第81号は,19211124日公布・同日施行の東京天文台官制(大正10年勅令第450号)によって廃止されますが(同官制附則),同官制の第1条は「東京帝国大学ニ東京天文台ヲ附置ス」と,第2条は「東京天文台ハ天文学ニ関スル事項ヲ攻究シ天象観測,暦書編製,時ノ測定,報時及時計ノ検定ニ関スル事務ヲ掌ル」と規定していました。それまでは文部大臣の下請けだったものが,勅令ですから,暦書の編製を大正天皇から直接命じられた形になっています。「正朔を奉ずる」という言葉がありますが,「天子のこよみを用いることは天子の統治権下にあることになる」ところ(『角川新字源』),東京天文台は,天皇の統治大権の施行における重要な機関であったのでした。

東京天文台官制は,1949531日公布・施行の国立学校設置法(昭和24年法律第150号)によって廃止され(同法附則1項・2項),東京天文台は,「天文学に関する事項の攻究並びに天象観測,暦書編製,時の測定,報時及び時計の検定に関する事務」を目的とする研究所(東京大学に附置)となりました(同法4条)。

しかして現在,従来の東京天文台は,大学共同利用機関法人自然科学研究機構国立天文台となっています。国立天文台の法的位置付けはどうなっているかというと,国立大学法人法(平成15年法律第112号)52項及び別表第2に基づき国立大学法人法施行規則(平成15年文部科学省令第57号)1条及び別表第1によって大学共同利用機関法人自然科学研究機構が設置する大学共同利用機関であって,当該機関としての目的は「天文学及びこれに関連する分野の研究,天象観測並びに暦書編製,中央標準時の決定及び現示並びに時計の検定に関する事務」であるものとされています(国立大学法人施行規則別表第1)。暦書編製を行うこと自体は,東京天文台時代と変わりません。

しかし,東京天文台のしていた暦書編製は我が国政府の行政事務の一環であったのでしょうが,国立天文台のする暦書編製についても同じであると果たしていえるものかどうか。

すなわち,大学共同利用機関とは何かといえば,国立大学法人法24項によれば「この法律において「大学共同利用機関」とは,別表第2の第2欄に掲げる研究分野について,大学における学術研究の発展等に資するために設置される大学の共同利用の研究所をいう。」とされているところ,同法別表第2を見れば,大学共同利用機関法人自然科学研究機構に係る研究分野は「天文学,物質科学,エネルギー科学,生命科学その他の自然科学に関する研究」とされています。であれば,国立天文台の編製する暦書は,専ら,天文学その他の自然科学に関する研究分野について大学における学術研究の発展等に資するためのものであり,大学ないしはその関係者ならざる一般人民が直接利用すべきものではない,ということになってしまいそうです。何だかおかしいですね。暦書の編製が「国民生活及び社会経済の安定等の公共上の見地から確実に実施されることが必要な事務及び事業であって,国が自ら主体となって直接に実施する必要のないもののうち,民間の主体に委ねた場合には必ずしも実施されないおそれがあるもの又は一の主体に独占して行わせることが必要であるもの」に含まれるのならば(独立行政法人通則法(平成11年法律第103号)21項参照),個別法に基づく国立研究開発法人(同条3項)たる独立行政法人に行わせてもよさそうなところです。

ともあれ,対象が大学ないしはその関係者に限定されているのかもしれないものの,国立天文台(暦計算室)は現に暦書を編製しているわけで,翌年の暦要項を毎年2月初めに官報で発表しています。そこで,最新の2024年の暦要項を見てみると,おお,そこには依然日曜表が「古来」的に掲載されているのでした(https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/yoko/pdf/yoko2024.pdf)。すなわち,「古来」的かつ(かつて日曜を筆頭として「七値」の名を掲載していた)略本暦的体裁が維持されていることにより,国立大学法人法及び国立大学法人法施行規則に基づき国立天文台が編製する公的な暦書においては日曜日が週の初日であるものとなお示されているのであるといい得るのでありましょう。磯部四郎🎴(今年(2023年)91日をもって歿後100周年を迎えます。)及び民法1431と共に,我ら暦に従うべし。

(なお,「国立天文台の暦要項からいい得ることは,大学における自然科学に関する研究関係では日曜日が週の初日であるということまでであって,法律学上の議論はまた別である」というような強弁は――筆者は本稿をこの辺で終えたいので――勘弁してください。)

 

皇紀2683年春分日追記: しかし,インターネットでフランス翰林院の辞典(le Dictionnaire de l’Académie française)を過去のものまで遡って見ることができる今日は,なかなか油断がなりません。実は,我が民法143条の条文案が審議されていた1894年当時における現行版であった当該辞典の1878年版(第7版)を調べると,semaine(週)は日曜日から土曜日まで,dimanche(日曜日)は週の最初の日,lundi(月曜日)は週の2番目の日とそれぞれ定義されていたのでした。休みの日は働く日々の後に来るものだろ,だから週の始まりは月曜日なのだ,とお偉いアカデミーの辞典などには頓着なく信ずるフランス庶民の感覚を西園寺は語ったものであったか。しかし,後の法制局長官=司法大臣=中央大学学長たる奥田義人の「西洋の暦では月曜日。」との議長閣下に対するもっともらしい合いの手は,そうだとするといかなる典拠に基づいたものだったのでしょうか。

ロシア語では,月曜日は働かない日(неделя(ニジェーリャ))の翌日という意味のпонедельник(パニジェーリニク)であるところ,火曜日は2番目の日の意味のвторник(フトルニク),木曜は4番目の日のчетверг(チトベルク),金曜日は5番目の日のпятница(ピヤートニッツァ)であって,週月曜日から始まるようなのですが,果たして4世紀のフン族のようにスキタイの地を現在東方から攻撃中のロシアは,西洋文明の国なのでしょうか。


  (なお,現在当該スキタイの地を訪問中の我らが岸田総理の尊い命をロシア軍が狙うことはないものか,と人民の一員としては余計な心配をしていると不図,1943418日の米国海軍による山本五十六大将殺害作戦の発動は,山本がirreplaceableであるからこそその抹殺がadvisableであるのだという彼らの人事判断に基づいていたということを思い出しました(cf. Dan van der Vat, The Pacific Campaign (Simon & Schuster, New York, 1991) p.262)。山本殺害後,山本以上の才能がある提督が敵艦隊の司令長官になってしまってはかえって藪蛇で剣呑だという心配をしたのでしょう。)