2023年02月

(前編):モーセ,ソロモン,アウグストゥス,モンテスキュー,ナポレオン,カンバセレス及びミラボー

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7 西暦1872年の監獄則(明治五年太政官第378号布告)及び西暦1881年の監獄則(明治14年太政官第81号達)

 

明治五年十一月二十七日(18721227日)の我が監獄則中典造十二条の第10条懲治監には,次のような規定がありました。第3項に御注目ください。

 

    第10条懲治監

 此監亦界区ヲ別チ他監ト往来セシメス罪囚ヲ遇スル他監ニ比スレハ稍寛ナルヘシ

 20歳以下懲役満期ニ至リ悪心未タ悛ラサル者或ハ貧窶営生ノ計ナク再ヒ悪意ヲ挟ムニ嫌アルモノハ獄司之ヲ懇諭シテ長ク此監ニ留メテ営生ノ業ヲ勉励セシム21歳以上ト雖モ逆意殺心ヲ挟ム者ハ獄司ヨリ裁判官ニ告ケ尚此監ニ留ム

 平民其子弟ノ不良ヲ憂フルモノアリ此監ニ入ン(こと)ヲ請フモノハ之ヲ聴ス

 〔第4項以下略〕

 

懲治監は,1881年に至って,明治14年太政官第81号達の監獄則では「懲治人ヲ懲治スルノ所」たる懲治場となり(同則13款),同則19条は,懲治人を定義して,旧刑法(明治13年太政官布告第36号)79条,80条及び82条の不論罪に係る幼年の者及び瘖啞者(明治14年監獄則191款)並びに「尊属親ノ請願ニ由テ懲治場ニ入リタル者」を掲げています(同条2款)。この尊属親の請願による懲治人については,「前条第2款ニ記載シタル懲治人ハ戸長ノ証票ヲ具スルニ非サレハ入場ヲ許サス但在場ノ時間ハ6個月ヲ1期トシ2年ニ過ルヲ得ス」(明治14年監獄則201項)及び「入場ヲ請ヒシ尊属親ヨリ懲治人ノ行状ヲ試ル為メ宅舎ニ帯往セント請フトキハ其情状ニ由リ之ヲ許スヘシ」(同条2項)という規定がありました。

 しかし,懲治場は,明治22年勅令第93号の監獄則では専ら「不論罪ニ係ル幼者及瘖啞者ヲ懲治スル所」となってしまっています(同則16号)。なお,明治22年勅令第93号は1889713日の官報で布告されていますが,その施行日は,公文式(明治19年勅令第1号)10条から12条までの規定によったのでしょう。

その附則2項で明治22年の監獄則を廃止した監獄法(明治41年法律第28号)は現行刑法(明治40年法律第45号)と共に1908101日から施行されたものですが(監獄法附則1項,明治41年勅令第163号),そこには懲治場の規定はありません(ただし,懲治人に関する明治22年の監獄則の規定は当分の内なお効力を有する旨の規定はありました(同法附則2項ただし書。また,刑法施行法(明治41年法律第29号)16条)。)。

なお,現行刑法の施行は旧少年法(大正11年法律第42号)のそれを伴うものではなく(後者の法律番号参照),旧少年法の施行は,192311日(同法附則及び大正11年勅令第487号)を待つことになります。

 

8 西暦1890年の旧民法人事編


(1)旧民法人事編の規定


  第149条 親権ハ父之ヲ行フ

   父死亡シ又ハ親権ヲ行フ能ハサルトキハ母之ヲ行フ

   父又ハ母其家ヲ去リタルトキハ親権ヲ行フコトヲ得ス

 

  第151条 父又ハ母ハ子ヲ懲戒スル権ヲ有ス但過度ノ懲戒ヲ加フルコトヲ得ス

  第152条 子ノ行状ニ付キ重大ナル不満意ノ事由アルトキハ父又ハ母ハ区裁判所ニ申請シテ其子ヲ感化場又ハ懲戒場ニ入ルルコトヲ得

   入場ノ日数ハ6个月ヲ超過セサル期間内ニ於テ之ヲ定ム可シ但父又ハ母ハ裁判所ニ申請シテ更ニ其日数ヲ増減スルコトヲ得

   右申請ニ付テハ総テ裁判上ノ書面及ヒ手続ヲ用ユルコトヲ得ス

   裁判所ハ検事ノ意見ヲ聴キテ決定ヲ為ス可シ父,母及ヒ子ハ其決定ニ対シテ抗告ヲ為スコトヲ得

 

旧民法人事編151条は,ナポレオンの民法典375条を承けたもののようではありますが,フランスでは「日常的な懲戒権は,「監護権の存在からも出てくる」が,「自然に慣習上存する」(谷口知平『現在外国法典叢書(14)佛蘭西民法[1]人事法』有斐閣1937 p.361ものとされる」とのことですから(広井多鶴子「親の懲戒権の歴史-近代日本における懲戒権の「教育化」過程-」教育学研究632号(19966月)17頁註2)),我が国産規定なのでしょう。確かに,ナポレオンの民法典375条は厳密にいえば懲戒の手段(moyens de correction)たるその次条以下の拘禁について,更にその前身である1802930日国務院提出案6条は矯正の施設に拘禁させる父の権能についていきなり語っているものであって,いずれもそれに先立つ懲戒権それ自体を基礎付けるものではありません。旧民法人事編151条の前身は,熊野敏三,光明寺三郎,黒田綱彦,高野真遜,磯部四郎🎴及び井上正一が分担執筆し,18887月頃に起草が終了(大久保泰甫『日本近代法の父 ボワソナアド』(岩波新書・1977年(1998年追補))157頁)した旧民法人事編第一草案の第243条(「父若クハ母ハ家内ニ於テ其子ヲ懲戒スルノ権ヲ有ス但シ過度ノ懲戒ヲ加フルコトヲ得ス」)であったところですが,そこにおいて「画期的」であったのはただし書で,理由書によれば「「我国ノ如キ父母・・・懲戒モ往々過度残酷ニ流ル」,ゆえに「過度ノ懲戒ヲ禁」じる必要があるという趣旨」で設けられ,更に親権の失権制度までも準備されていたのでした(小口恵巳子「明治民法編纂過程における親の懲戒権-名誉維持機能をめぐって-」比較家族史研究20号(2005年)71頁)。その際の起草委員らの意気込みは,これも理由書によれば,「此思想〔「親権ハ父母ノ利益ノ為メ之ヲ与フルモノニ非ス」,「子ノ教育ノ為」であるとの思想〕ハ我国ノ親族法ニ反スヘシト雖モ従来ノ慣習ヲ維持スルヲ得ヘカラス」,「其原則ヲ一変セスンハ是等ノ不都合ヲ改正スルヲ得ヘカラス」」(小口77頁)という勢いであって,「かなりヨオロッパ的,進歩的」であるのみならず(大久保157頁),むしろフランス民法よりも更に「進歩的」であったように思われます。当時の「仏国学者中ニハ民法ノ頒布以来父母ノ権力微弱ト為リタルコトヲ歎息シ羅馬ノ古制ヲ追慕スル者」がなおあったようです(旧民法人事編第一草案理由書『明治文化資料叢書第3巻 法律編上』(風間書房・1959年)183頁(熊野敏三起稿))。

旧民法人事編152条は,フランス的伝統が原則とするナポレオンの民法典376条には倣ってはいません。同法典377条以下の規定に倣っています。

旧民法人事編1524項は入場申請に関する決定に対する抗告を認めていますが,父の権威のために父子間の争訟を避けようという1802930日の国務院審議におけるブウレ発言の立場からするとどうしたものでしょうか。旧民事訴訟法(明治23年法律第29号)4622項には「抗告裁判所ハ抗告人ト反対ノ利害関係ヲ有スル者ニ抗告ヲ通知シテ書面上ノ陳述ヲ為サシムルコトヲ得」とありました。ナポレオンの民法典3822項の手続においては,父子直接対決ということにはならないようです。

 

(2)西暦1888年の旧民法人事編第一草案244条及び245

なお,旧民法人事編152条の前身は,その第一草案の第244条及び第245条ですが,両条の文言及びその理由は,次のとおりです。

 

 第244条 父若クハ母其子ノ行状ニ付重大ナル不満ノ事由ヲ有スルトキハ地方裁判所長ニ請願シテ其子ヲ相当ノ感化場若クハ懲戒場ニ入ルコトヲ得

  此請願ハ口頭ニテ之ヲ為スコトヲ得ヘク又拘引状ニハ其事由ヲ明示シ且ツ其他裁判上ノ書面及ヒ手続ヲ用ユルコトヲ得ス

  入場ノ日数ハ16年未満ノ子ナレハ3个月又満16年以上ノ子ナレハ6个月ヲ超過スルコトヲ得ス但シ父若クハ母ハ常ニ裁判所長ニ請願シテ其日数ヲ延長シ又ハ減縮スルコトヲ得(仏第375条以下,伊第222条)

 第245条 父母及ヒ子ハ裁判所長ノ決定ニ対シテ控訴院長ニ抗告スルコトヲ得

  所長及ヒ院長ハ検事ノ意見ヲ聴キ裁判ス可シ(伊第223条)

 (理由)若シ子ノ性質不良ニシテ尋常ノ懲戒ヲ以テ之ヲ改心セシムル能ハサルトキハ法律ハ一層厳酷ナル懲戒処分ヲ用フルコトヲ允許ス即チ其子ヲ拘留セシムルノ権是レナリ本条ハ其手続ヲ規定スルモノトス父母ハ其事由ヲ具シテ地方裁判所長ニ請願スヘシ所長ハ其事情ヲ調査シ検事ノ意見ヲ聴キ其請願ノ允当ナルトキハ其允許ヲ与フヘシ此拘留ハ子ノ為メ一生ノ恥辱トナルヘケレハ成ル可ク之ヲ秘密ニシ其痕跡ヲ留メサルヲ要ス故ニ其請求ハ口頭ニテモ之ヲ為スヲ得ヘク且ツ一切ノ書類及ヒ手続ヲ要セサルモノトス拘引状云々ハ之ヲ削除スヘシ然レトモ其子ヲ拘留スヘキ場所ハ如何是レ特別ノ懲戒場タラサルヘカラス若シ之ヲ普通ノ監獄ニ入レ罪囚ト同居セシムルトキハ懲戒ニ非ラスシテ却テ悪性ヲ進ムルニ至ルヘシ拘留ノ日数ハ子ノ年齢ニ従ヒ之ヲ定メ満16年以下ナレハ3ケ月又16年以上ナレハ6ケ月ヲ超ユヘカラサルモノトナセリ但シ場合ニ由リ其期限ヲ伸縮スルヲ得ヘシ若シ子其拘留ヲ不当ト信スルトキハ之ヲ控訴院長ニ抗告スルヲ得ヘシ

   (旧民法人事編第一草案理由書187頁(熊野))

 

「拘引状云々ハ之ヲ削除スヘシ」と条文批判をしている熊野敏三は,「理由」は起稿したものの,当該条項の起草担当者ではなかったのでしょう。確かに,「拘引状ニハ其事由ヲ明示シ」では,ナポレオンの民法典3781項(身体拘束令状に理由は記載されない。)と正反対になっておかしい。あるいは,「拘引状ニハ其の事由ヲ明示シ〔する〕コトヲ得ス」の積もりだったのかもしれませんが,それでも誤訳的仏文和訳だったというべきなのでしょう(筆者も人様のことは言えませんが。)。しかし,「拘引状」が消えてしまうと,ミラボー的問題児の身柄を強制的に抑える肝腎の手段がないことになって,同人が同意して自ら感化場又は懲戒場に入ってくれなければいかんともし難いことになり,かつ,素直に感化場又は懲戒場に入ってくれるようなよい子には,そもそもそこまでの懲戒は不要であるということにはならなかったでしょうか。

 

9 西暦1898年の民法第4編第5編(明治31年法律第9号)及び旧非訟事件手続法(明治31年法律第14号)

 

(1)親権

 

  民法877条 子ハ其家ニ在ル父ノ親権ニ服ス但独立ノ生計ヲ立ツル成年者ハ此限ニ在ラス  

   父カ知レサルトキ,死亡シタルトキ,家ヲ去リタルトキ又ハ親権ヲ行フコト能ハサルトキハ家ニ在ル母之ヲ行フ

 

 親権について,梅謙次郎は次のように説明しています。

 

  我邦に於ては,従来,法律上確然親権を認めたるの迹なし。唯,事実に於て多少之に類するものなきに非ずと雖も,戸主権熾なりしが為めに十分の発達を為すことを得ざりしなり。維新後に至りては漸く戸主権の必要を減じたるを以て,茲に親権の必要を生じ,民法施行前に在りても父は父として子の代理人となり,子の財産に付き全権を有するものとせるが如し。是れ即ち親権なりと謂ふも可なり。然りと雖も,其父は子の身上に付き果して如何なる権力を有せしか頗る不明に属す。又其財産に付ても多少の制限なくんば竟に子の財産は,寧ろ父の財産たるかの観あるを免れず。

  (梅謙次郎『民法要義巻之四 親族編(第22版)』(私立法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1912年)342-343頁。原文は片仮名書き,句読点・濁点なし。)

 

  蓋し親権は,自然の愛情を基礎とし,父をして子の監護,教育等を掌らしむるものな〔り〕。

  (梅346-347頁)

 

「自然の愛情を基礎」とする梅の考え方の根底は,ローマ法的というよりはフランス法的なのでしょう。

 

(2)懲戒権

 

ア 条文

 

  民法882条 親権ヲ行フ父又ハ母ハ必要ナル範囲内ニ於テ自ラ其子ヲ懲戒シ又ハ裁判所ノ許可ヲ得テ之ヲ懲戒場ニ入ルルコトヲ得

   子ヲ懲戒場ニ入ルル期間ハ6个月以下ノ範囲内ニ於テ裁判所之ヲ定ム但此期間ハ父又ハ母ノ請求ニ因リ何時ニテモ之ヲ短縮スルコトヲ得

 

民法旧882条の参照条文としては,旧民法人事編151条及び152条,フランス民法375条から383条まで,オーストリア民法145条,イタリア民法222条,チューリッヒ民法662条,スペイン民法156条から158条まで,ベルギー民法草案3612項及び363条並びにドイツ民法第1草案1504条及び同第2草案15262項が挙げられており(日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録第50巻』6丁裏-7丁表),1896115日の第152回会合において梅謙次郎が「本条ハ人事編ノ第151条及ヒ第152条ト同シモノテアリマス」と述べていますから(民法議事速記録507丁表),民法旧882条はフランス民法の影響を色濃く受けた条文であったものといってよいのでしょう。

 

イ ドイツ民法(参考)

ちなみにドイツ民法第1草案1504条は,次のとおりでした。

 

§. 1504.

      Die Sorge für die Person umfaßt insbesondere die Sorge für die Erziehung des Kindes und die Aufsicht über dasselbe. Sie gewährt die Befugniß, bei Ausübung des Erziehungsrechtes angemessene Zuchtmittel anzuwenden.

  (身上に対する配慮は,特に,子の教育に対する配慮及びその子の監督を包含するものであるとともに,教育権の行使に当たって,相応な懲戒手段を用いる権限を与えるものである。)

      Das Vormundschaftsgericht hat den Berechtigten auf dessen Antrag durch geeignete Zwangsmaßregeln in der Ausübung des elterlichen Zuchtrechtes nach verständigem Ermessen zu unterstützen.

  (後見裁判所は,当該権利者からの申立てがあるときには,適切な強制手段を執ることにより,親の懲戒権の行使において権利者を賢慮ある裁量をもって支援しなければならない。)

 

 結果として,ドイツ民法1631条は次のとおりとなりました。

 

§. 1631.

   Die Sorge für die Person des Kindes umfaßt das Recht und die Pflicht, das Kind zu erziehen, zu beaufsichtigen und seinen Aufenthalt zu bestimmen.

  (子の身上に対する配慮は,子を教育し,監督し,及びその居所を定める権利及び義務を包含する。)

      Der Vater kann kraft des Erziehungsrechts angemessene Zuchtmittel gegen das Kind anwenden. Auf seinen Antrag hat das Vormundschaftsgericht ihn durch Anwendung geeigneter Zuchtmittel zu unterstützen.

  (父は,教育権に基づき,相応な懲戒手段を子に対して用いることができる。父の申立てがあるときには,後見裁判所は,適切な懲戒手段を用いることによって同人を支援しなければならない。)

 

ウ 懲戒権に関する学説

 懲戒権については,次のように説かれ,ないしは観察されています。

 

  蓋し懲戒権は,主として教育権の結果なりと雖も,我邦に於ては之を未成年者に限らざるを以て,必ずしも教育権の結果なりと為すことを得ず。而して懲戒権の作用は敢て一定せず。或は之を叱責することあり,或は之を打擲することあり,或は之を一室内に監禁することあり。此等は皆,親権者が自己の一存にて施すことを得る所なり。唯,其程度惨酷に陥らざることを要す。法文には「必要ナル範囲内ニ於テ」と云ひ,実に已むことを得ざる場合に於てのみ懲戒を為すべきことを明かにせり。而して其方法も,亦自ら其範囲を脱することを得ざるものとす(若し惨酷に失するときは,896〔親権の喪失〕の制裁あり。)。

  (梅355-356頁)

 

  懲戒権は監護・教育には収まりきらない特殊な性質を持っている。おそらくこれは,親権が私的な権力であることが端的に表れている,と見るべきだろう。父は子に対して自律的な権力を有しており,子が社会に対して迷惑を及ぼさないよう,予防をする義務を負い権利を有するというわけである。

  (大村254頁)

 

懲戒権の対象となる子を未成年者に限るように起草委員の原案を改めるべきではないかという提案が法典調査会の第152回会合で井上正一から出ましたが,当該提案は賛成少数で否決されています(民法議事速記録5011丁表-12丁表)。その際原案維持(すなわち,成年の子も親権に服する以上懲戒の対象とする。)の方向で「実際ハ未成年者ヨリ成年者カ困ルカモ知レヌ未成年ハ始末カ付クガ成年ニ為ルト始末ノ付カヌコトカアラウト思ヒマス」(民法議事速記録5012丁表)と発言したのが村田保であったのが(筆者には)面白いところです。人間齢を取ると素直さを失って始末に困るようになる,ということでしょうが,夫子自身も,「村田は性格が執拗,偏狭という評を受け,貴族院における「鬼門」だといわれた」そうです(大久保164頁)。

 

エ 懲戒場に関して

 

(ア)梅謙次郎の説明

 

  親権者は尚ほ進んで之を懲戒場に入るることを得べし。唯,是が為めには特に裁判所の許可を得ることを必要とせり。蓋し子の身体を拘束すること殊に甚しく,且,其処分が子の徳育,智育,体育に重大なる影響を及ぼすべきを以て,単に親権者の一存に任せず,裁判所に於て果して其必要なるや否やを審査し,又之を必要なりとするも,其期間の長短に付き裁判所に於て必要と認めたる範囲内に於てのみ之を許すべきものとせり。而して,如何なる場合に於ても其期間は6个月を超ゆることを得ざるものとし,尚ほ一旦定めたる期間も亦親権者の請求に因り何時にても之を短縮することを得るものとせり。

  (梅356頁)

 

旧民法人事編1521項の「感化場又ハ懲戒場」から感化場が落ちたことについて梅は,「字ノ如ク感化丈ケテアルナラハ寧ロ之ハ教育上ニ属スヘキモノト思ヒマス夫レテアレハ之ハ教育権ノ範囲内テ態々裁判所ヲ煩スコトヲ要セス父カ勝手ニ出来ル事テアラウト思ヒマス」と述べる一方,「若シ又感化場ト云フ名ハアツテモ矢張リ幾分カ懲戒ノ方法ヲ用ヰルモノテ身体ヲ拘束スルトカ苦痛ヲ与ヘルトカ云フモノテアレハ矢張リ法律ノ上カラ見レハ懲戒場テアリマス詰リ此箇条ノ精神ト云フモノハ子ヲ監禁スルノテアリマス其監禁スルコトハ幾ラ父ト雖モ勝手ニハ出来ヌ幾ラ父ト雖モ裁判所ノ許可ヲ得ナケレハナラヌト云フコトテアラウト思ヒマス」と弁じて,懲戒場の機能における拘禁(détention)の本質性を明らかにしています(民法議事速記録507丁表裏)。

ただし,フランス語の“correction”は「懲戒」と訳し得るものの,“maison de correction”には「感化院」という訳が現在あるところです(1938年のフランス映画『格子なき牢獄(Prison sans barreaux)』の舞台であるmaison de correctionは,「感化院」であるとされています。わざわざ「格子なき」というのですから,感化院には通常は格子があるわけでしょう。)。これに対して,我が国初の感化院は1883年に池上雪枝が大阪の自宅に開設したものだそうですが,自宅であったそうですから,その周囲を格子で囲みはしなかったものでしょう。1885107日には高瀬眞卿により東京の本郷区湯島称仰院内に私立予備感化院が開設されていますが,これはお寺ですね。フランス式の方が,日本式よりごついのでしょう。

梅はフランス式で考えていたのでしょうが,感化場ではない懲戒場とは,具体的には何でしょうか。

 

   懲戒場(〇〇〇)とは如何なる場所なるか民法に於て之を定めざるのみならず,民法施行法其他の法令に於て未だ之を定むるものあらず。故に裁判所は,親権者の意見を聴き,適当の懲戒場を指定することを得べし。然と雖も,将来に於ては之に付き一定の規定を設くる必要あるべし。

  (梅356-357頁)

 

ただし,梅は,旧刑法79条(また,80条及び82条)の懲治場との関係については,当該施設において「刑事ノ被告人カ出マシテサウシテ年齢ノ理由ヲ以テ放免サレタ者ト又普通ノ唯タ暴ハレ小僧ト一緒ニスルト云フコトハ如何テアラウカ」,「例ヘハ無闇ト近所ノ子供ト喧嘩ヲシテ困ルト云フヤウナ事丈ケテ別ニ盗坊ヲスルト云フヤウナ者テモナイ者ヲ刑事ノ被告人ト一緒ニスルト云フコトハ危険テアラウト思ヒマス」ということで,「可成ハ別ナ処ヘ入レルコトカ出来ルナラハ別ノ所ニ入レタイト云フ考ヲ持ツテ居リマスカラ夫レテ態サト「懲治場」ト云フ字ヲ避ケマシタ」と述べています(民法議事速記録509丁表)。

また,梅は家内懲戒場を認めていたようであって,「此「相当ノ」ト云フコトカ這入ツテ居ル以上ハ親カ内ニ檻テモ造ツテ入レルト云フコトナラハ夫レヲモ許ス積リテアリマスカ」との横田國臣の質問に対して,「私ハ其積リテアリマス身分テモアル人ハ其方カ却テ宜シイカモ知レヌ」と回答しています(民法議事速記録509丁裏-10丁表)。しかし,当該問答がされた際の条文案は「親権ヲ行フ父又ハ母ハ必要ナル範囲内ニ於テ自ラ其子ヲ懲戒シ又ハ裁判所ノ許可ヲ得テ之ヲ相当ノ懲戒場ニ入ルルコトヲ得」というものであったのでしたが(下線は筆者によるもの),当該「相当ノ」の文言は,法律となった民法旧8821項からは落ちています。したがって,やはり「懲戒場」は「公の施設であることはいうまでもない」(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)331頁)という整理になるのでしょうか。後記17で見る平成23年法律第61号による懲戒場関係規定の削除に当たっては,法定の懲戒場の不存在がすなわち懲戒場の不存在としてその理由とされていること等に鑑みると,梅の意思にかかわらず,懲戒場=公の施設説が公定説となったものでしょう。


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20233月の称仰院(東京都文京区湯島四丁目)


(イ)手続規定

 

  旧非訟事件手続法13条 審問ハ之ヲ公行セス但裁判所ハ相当ト認ムル者ノ傍聴ヲ許スコトヲ得

 

  旧非訟事件手続法15条 検事ハ事件ニ付キ意見ヲ述ヘ審問ヲ為ス場合ニ於テハ之ニ立会フコトヲ得

   事件及ヒ審問期日ハ検事ニ之ヲ通知スヘシ

 

  旧非訟事件手続法20条 裁判ニ因リテ権利ヲ害セラレタリトスル者ハ其裁判ニ対シテ抗告ヲ為スコトヲ得

   申立ニ因リテノミ裁判ヲ為ス場合ニ於テ申立ヲ却下シタル裁判ニ対シテハ申立人ニ限リ抗告ヲ為スコトヲ得

 

  旧非訟事件手続法25条 抗告ニハ前5条ニ定メタルモノヲ除ク外民事訴訟法ノ抗告ニ関スル規定ヲ準用ス

 

  旧非訟事件手続法92条 子ノ懲戒ニ関スル事件ハ子ノ住所地ノ区裁判所ノ管轄トス

   検事ハ前項ノ許可ヲ与ヘタル裁判ニ対シテ抗告ヲ為スコトヲ得

   第78条ノ規定〔抗告手続の費用及び抗告人の負担に帰した前審の費用の負担者を定めるもの〕ハ前項ノ抗告ニ之ヲ準用ス

 

10 西暦17世紀末-18世紀前半の日本国

懲戒場に関する梅の所論がどうしても抽象的になってしまうのは,公の施設としてのhôpitaux générauxVincennes城等に対応するものが,我が国には現実のものとしてなかったからでしょうか。

我が国の伝統的な子の懲戒観及び懲戒方法はどのようなものだったのか,時代は前後しますが,ここで江戸時代の様子を見てみましょう。

 

   父母は子を懲戒(〇〇)するの権利を有す。西沢与四作「風流今平家」〔元禄十六年(1703年)〕五六之巻第三に

    「入道耳にいれず,()()()()くゝり(〇〇〇)せつ(〇〇)かん(〇〇)する(〇〇)()誰何(〇〇)といはん(〇〇〇〇),汝等がしる事にあらず」

とあるはその一例なり。この懲戒権に基づきて親はまた,子を座敷牢に監禁することを得,(みやこ)(にしき)作「風流日本(やまと)荘子(そうじ)」(元禄十五年1702年))巻之二(勘当の智恵袋の段)に,

    「父母今は詮方尽,流石(さすが)名高き山下さへ,閉口せし上からは,外の評議に及まじ,(さて)是非もなき仕合と,おどり揚つて腹立し,座敷(〇〇)()に入置,さま〔ざま〕のせつかん目も当られず,一門を初め親しき友どち集り,色替品替詫言すれど,さら〔さら〕以て聞入れず,終に公に訴へ元禄十三辰1700年〕の秋,あり〔あり〕と勘当帳にしるし,(あわせ)壱枚あたへ,それから直に追出す」

とあり。また後に出す「傾城歌三味線」〔享保十七年(1732年)〕にも,「或時は座敷(〇〇)()に追込まれ,又或時は内証勘当して云々」と見えたり。

 父母が子を勘当(〇〇)することもまた,その懲戒権の行使なり。〔後略〕

(中田薫『徳川時代の文学に見えたる私法』(岩波文庫・1984年)170頁)  

 

 座敷牢への監禁措置のためには,公儀のお許しは不要であったわけでしょう。

ただし,「親が願い出て「官獄」に入れたり,放蕩の子を他領の親類に預けるといった制度・慣習は従来から存在」してはいたそうです(広井13頁)。それらはどのようなものかといえば,「『全国民事慣例類集』によれば,「官ニテ厳戒シ手鎖足鎖ヲ加エテ拘留シ或ハ其家ニ付シテ監守セシム」(伊賀)といった監禁や,「辺土ノ村」(対馬)へ移したり,「遠島」(大隅)にするといった「流罪」の場合もあった」そうです(広井13頁)。しかしながら,あるいは当該「制度・慣習」は全国的かつ強固なものではなく,それゆえに1889年の監獄則による請願懲治廃止及び1898年の現行民法施行時における法定懲戒場不存在状態が生じていたのではないでしょうか。

 

11 西暦1900年の感化法(明治33年法律第37号)及び1933年の少年教護法(昭和8年法律第55号)

 

(1)感化法

梅謙次郎が民法旧882条の懲戒場について「将来に於ては之に付き一定の規定を設くる必要あるべし」と述べたのは,1899年のことでしたが(梅初版発行年),その翌年に当該規定が整備されています。感化法です(190039日裁可,同月10日布告)。ただし,感化法制定のための主な推進力としては,梅らの不満もあったのでしょうが,18971月の英照皇太后大喪の際に各府県等に御下賜のあった慈恵救済資金の使用先の一つに感化院が想定されていたということがあったようです(第14回帝国議会貴族院感化法案特別委員会議事速記録第12-4頁参照)。(なお,感化法の施行日は「府県会ノ決議ヲ経地方長官ノ具申ニ依リ内務大臣之ヲ定ム」ということで(同法14条),全国一律ではありませんでした。当初の政府案では,勅令で施行日を定めることとしていたものが衆議院において修正されたものです。)

感化法53号は,「裁判所ノ許可ヲ経テ懲戒場ニ入ルヘキ者」を感化院の入院者として規定しています。同号による入院者は,民法旧882条の子は未成年者に限られないものとする法意に忠実に,20歳を超えても在院できることになっています(感化法6条)。

しかし,親権の行使として子を懲戒場たる感化院に入れた父又は母は,財産の管理を除いて在院又は仮退院中の子に対して親権を行うことができなくなるという規定(感化法82項・3項。感化院長が親権を行使(同条1項))は,感化院に子の世話をお願いする以上仕方がないとしても(なお,現在,児童福祉施設に入所中の子の親権者はなお親権を行い得るものとされつつ(児童福祉法(昭和22年法律第164号)471項),児童福祉施設の長に監護・教育に関して措置をする権限が認められています(同条3-5項)。),子を退院させて自己の親権行使を再開させることが自由にできなければ本来の親権者としては変なことではあります。ところが,感化法では在院者の親族又は後見人が子を退院させようとすると地方長官に出願して許可を受けなければならないことになっています(同法12条(1度不許可となると6箇月は再出願不可(2項))・13条(不許可処分には訴願が可能))。そこで民法旧8822項により期間短縮をしようとすると,今度は裁判所の裁判が必要なようでもあります。親権を発揮したつもりが,実は自ら親権を制限ないしは停止したような形になるというのはどうしたものでしょうか(ナポレオンの民法典379条参照)。

また,旧民法人事編152条の「感化場」を排し置いた梅としては,民法旧882条の「懲戒場」とは感化院のことである,となってしまった成り行きをどう思ったものでしょうか。ただし,感化院法9条は「感化院長ハ命令ノ定ムル所ニ依リ在院者ニ対シ必要ナル検束ヲ加フルコトヲ得」と規定していますから,拘禁と全く無縁の施設ではないようではあります。しかし,この「検束」は,「矢張リ親権ノ作用ノ懲戒ニ過ギナイノデアリマス,〔略〕大体検束ト申シマスモノハ民法ナドニ申シテ居ル親ノ懲戒権ノ範囲ニ止マル積リデアリマスガ,其懲戒ノ手段トシテハ或ハ禁足ヲスルトカ若クハ必要ニ応ジマシテハ1食或ハ2食ヲ減食ヲ致シマス,又ハ一室ニ閉禁ヲスルトカ云フヤウナ懲戒手段ヲ加ヘル考デアル,是ガ若シ此規定ガゴザイマセヌト不法監禁デアルト云フヤウナ疑ヲ来スモノデゴザリマスカラ,明ニ此明文ヲ掲ゲタ方ガ明瞭ニナッテ宜カラウト云フ考デ検束ト云フ字ヲ加ヘマシタノデアリマス」ということであって(第14回帝国議会貴族院感化法案特別委員会議事速記録第14頁(小河滋二郎説明員)),感化法9条は,同法81項の感化院長の親権行使規定で本来十分であるものの誤解なきよう念のために設けた規定であるという位置付けでした。感化院は,親権を行う父又は母のためにその懲戒権の実行を専ら担当するものであるというわけではなく,親権を代行しつつ必要があれば検束を含む懲戒権の行使もするものである,ということのようです。

感化院は地方長官が管理するのが原則でしたが(感化法2条),内務大臣の認可を受けた民営の代用感化院も認められていました(同法4条)。

なお,「地方長官ハ在院者ノ扶養義務者ヨリ在院費ノ全部又ハ一部ヲ徴収スルコトヲ得」との規定(感化法111項)は,1804年のフランス民法3782項を彷彿とさせるものがあります。

明治41年法律第43号(同法の施行は,旧法例(明治31年法律第10号)1条により1908428日から)による改正後の感化法52号は「18歳未満ノ者ニシテ親権者又ハ後見人ヨリ入院ヲ出願シ地方長官ニ於テ其ノ必要ヲ認メタル者」も感化院への入院者としています(それまでの同号は「懲治場留置ノ言渡ヲ受ケタル幼者」でしたが,同年101日から施行の現行刑法では,そのような懲治場留置の幼者はいなくなります。)。受け身の裁判所よりも,積極的においコラしてくる府県庁の方が,臣民には親しまれていたのでしょうか。あるいは,「司法的措置に対抗しつつ,より教育的な子どもの保護を制度化しようとする行政的措置の流れ」(広井20頁註76))をそこに見るべきでしょうか。

 

(2)少年教護法

感化法は,1934101日からの少年教護法の施行によって廃止され(同法附則2項),従来の感化院及び代用感化院は,同法による少年教護院となりました(同法附則4項・5項)。少年教護院の入院者に「裁判所ノ許可ヲ得テ懲戒場ニ入ルベキ者」が含まれることについては少年教護法814号に,その年齢が20歳を超えてよいことについては同法11条に規定があります。また,「少年ニシテ親権者又ハ後見人ヨリ入院ノ出願アリタル者」も地方長官は少年教護院に入所させることになっていましたが(少年教護法812号),ここでの「少年」は,「14歳ニ満タザル者ニシテ不良行為ヲ為シ又ハ不良行為ヲ為ス虞アル者」です(同法1条)。

少年教護法は,児童福祉法によって,194811日から廃止されました(同法65条・63条)。従来の少年教護院は,児童福祉法44条の教護院となり(同法67条),当該教護院は,平成9年法律第74号による児童福祉法の改正の結果,199841日からは児童自立支援施設となっています(平成9年法律第74号附則1条・附則51項)。

 

12 西暦1922年の矯正院法(大正11年法律第43号)

旧少年法に併せて矯正院法が制定され,192311日から施行されています(同法附則及び大正11年勅令第487号)。矯正院法1条は「矯正院ハ少年審判所ヨリ送致シタル者及民法第882条ノ規定ニ依リ入院ノ許可アリタル者ヲ収容スル所トス」と規定しています。ただし,「矯正院ニ収容シタル者ノ在院ハ23歳ヲ超ユルコトヲ得ス」とされていました(矯正院法2条)。

感化院は内務省の所管でしたが,矯正院は司法省の所管でした(矯正院法7条)。

矯正院法は,旧少年院法(昭和23年法律第169号)19条によって194911日から(同法18条)廃止されています。

 

13 フランスにおける父の懲戒権のその後

 

(1)19351030日のデクレ

193568日にフランス共和国では,我が国家総動員法(昭和13年法律第55号)も三舎を避くべき法律が成立し(1935316日にドイツがヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄して再軍備宣言を発していますが,戦争はまだ始まってはいません。),ラヴァルを首相とする当時の政府に,「フラン通貨の防衛及び投機との戦いを確乎たるものとするために」,法律と同じ効力を有するデクレを同年1031日を期限として発することのできる授権がされます。

同年1030日,どういうわけかこれもフラン防衛のためであるということで,駆け込み的に,父の子に対する懲戒権に係る民法376条以下の改正が同日付けのデクレによってされます(官報掲載は同月31日)。大統領宛ての内閣報告書によれば,新制度は,従来のものと違い,「懲罰の性格を失っており(…perdent leur caractère de pénalité),専ら子の利益のためのもの」であるとされています。もはや懲戒ではなく,矯正の権ということになるのでしょう。主な被改正条項を見てみましょう。

新第376条は,次のとおり(デクレ1条)。

 

  子が満16歳未満であるときは,父は,司法当局をしてその託置(placement)を命じさせることができる。そのために,民事裁判所の所長は,申立てがあったときは身体拘束令状を発付しなければならない。民事裁判所の所長は更に,その定める期間(ただし,成年期には及ばない。)について,観護教育施設(maison d’éducation surveillée),慈善教育施設(institution charitable)又はその他行政当局若しくは裁判所によって認可され,かつ,子の監護(garde)及び教育を確保する責めを負う者を指定する。

 

 新377条は,次のとおり(デクレ2条)。

 

   満16歳から成年又は解放までのときは,父は,その子の託置を請求することができる。請求は民事裁判所の所長に宛ててされ,当該所長は,検察官の意見により,身体拘束令状を発して,前条に規定する条件における子の監護を確保することができる。

 

 新379条は,次のとおり(デクレ3条)。

 

   命じられた監護措置は,検察官の要求又は父若しくはその他当該措置を求めた者の請求に基づき,裁判所の所長によって,いつでも撤回され,又は変更されることができる。

 

(2)1945年9月1日のオルドナンス

 194591日,対独敗戦後ヴィシー政権に参画していたラヴァル元首相は獄中にあって,同年10月の裁判(及び同月15日の国家叛逆罪による刑死。ただし,ギロチンによる斬首ではなく,銃殺です。)を待っていたところですが,臨時政府のド=ゴールはオルドナンス(n˚45-1967)を発し(官報掲載は同年92日),ラヴァル政権によって改正されていたフランス民法における子の矯正に関する父の権力条項(375条から382条まで)は更に全面改正されます。理由書によれば,父の恣意を避けるために,全ての場合において矯正措置は司法当局の自由な判断に服するものとされ(旧376条関係),②矯正措置の請求権は,もはや父のみにではなく,母及び子の監護権者一般に認められ,③専ら子の利益のために矯正措置が採られるよう,その裁判手続が改善され,④裁判所の職権による矯正措置の撤回及び変更,託置を請求しなかった親による変更の請求並びに検察官及び矯正措置請求者による不服の申立てがそれぞれ認められることとなり,最後に,⑤託置された未成年者の賄い費用負担の国庫による全部又は一部の肩代わり制度の導入がされています。

 改正後のフランス民法の条項は,次のとおり。

 

  第375条 21歳未満の未成年者の父,母又は監護権者は,子について重大な不満意の事由があるときは,当該未成年者の住所地の少年裁判所(tribunal pour enfants)の所長に対して,父性的矯正措置(mesure de correction paternelle)を同人について採るよう求める申立てをすることができる。

    当該の子に対して監護権を行使していない父又は母も,監護権を喪失していない限り,申立てをすることができる。

 

  第376条 所長は,申立の評価のために有益な全ての情報を取得するものとする。特に,資格のある者による,当該家族の物的及び心的状況についての,当該の子の性格及び前歴ついての並びに同人が個人財産を有しているか及び職業を営んでいるかを知るための調査を行わなければならない。

    調査期間中において未成年者の身柄を確保する必要があると判断するときは,所長は,上訴にかかわらず執行することができる仮監護命令をもって,当該未成年者の利益にかなうものと判断される託置措置を執り,及び,必要があれば,観護教育施設への付託をすることができる。

    当該所長は,前項の措置を執る権限を,未成年者の居所の少年裁判所の所長に委託することができる。

 

  第377条 検察官の意見のほか,所長は,未成年者,申立人及び,必要があれば,申立てをしなかった父又は母の陳述を聴いて裁判する。

    有益であると認められるときは,未成年者の託置を命ずる。その際所長はそのために,その定める期間(ただし,成年期には及ばない。)について,観護教育施設,慈善教育施設又はその他行政若しくは司法当局によって認可され,かつ,子の監護及び教育を確保する責めを負う者を指定する。

 

  第378条 前条の命令は,上訴にかかわらず仮に執行される。

 

  第379条 第376条,第2(ママ)77条〔第377条〕及び第381条に基づき所長のした命令に対しては,検察官,父性的矯正措置を受けた未成年者,申立人及び申立てをしなかった父又は母であって手続に関与したものは,10日以内に,裁判所に対する書面により抗告することができる。

 

380条 前条の抗告に対する裁判は,当事者の陳述を聴き又は当事者を適式に呼び出した上で,検察官の意見を聴いて,控訴院の未成年事件担当部がする。

 

  第381条 採られた措置は,職権により,検察官の申立てにより,その他措置申立権を有する者又は未成年者の請求により,当該命令をした司法当局によって撤回され,又は変更されることができる。

 

  第382条 親族(les parents)は,その貧困を証明することにより,託置を命ずる司法当局から,未成年者の賄い費用負担の全部又は一部の免除を受けることができる。免除された費用は,国庫が負担する。

 

 何だかフランス民法が日本民法に追いついてきたような感じがします。

 

(3)19581223日のオルドナンス

 ところがフランス共和国は,更に我が日本国を出し抜きます。その年105日に第五共和制憲法を公布したばかりの19581223日,ド=ゴール首相の政府はオルドナンス(n˚58-1301)を発し(官報掲載は同月24日),その第1条によって父性的矯正措置(フランス民法375条から382条まで)を廃して,育成扶助措置(mesures d’assistance éducative)に入れ替えてしまったのでした。

 当該改正後のフランス民法375条は「その健康,安全,徳性又は教育が危うくなっている21歳未満の未成年者(Les mineurs de vingt et un ans dont la santé, la sécurité, la moralité ou l’éducation sont compromises)は,以下第375条の1から第382条までに規定する条件による育成扶助措置を受けることができる。」と規定していて,もはや親がその子について「重大な不満意の事由」を有しているかどうかは問題になっていません。また,同じく改正後のフランス民法375条の11項は,未成年者自身からも育成扶助を求めて裁判官に対して申立てをすることができるものとしています。子本位の制度の作りになっているわけです。

 

14 西暦1948年の我が民法(昭和22年法律第222号による改正(194811日)後のもの)

 

(1)条文

 

  第818条 成年に達しない子は,父母の親権に属する。

    子が養子であるときは,養親の親権に服する。

    親権は,父母の婚姻中は,父母が共同してこれを行う。但し,父母の一方が親権を行うことができないときは,他の一方が,これを行う。

 

  第822条 親権を行う者は,必要な範囲内で自らその子を懲戒し,又は家庭裁判所の許可を得て,これを懲戒場に入れることができる。

    子を懲戒場に入れる期間は,6箇月以下の範囲内で,家庭裁判所がこれを定める。但し,この期間は,親権を行う者の請求によつて,何時でも,これを短縮することができる。

 

(2)学説

 

現行民法の規定(822条)は明治民法の規定を引き継いでいるが,「懲戒場」はもはや存在しない。また,懲戒権に服するのは未成年の子に限られる。そうだとすると,起草者たちの認識とは異なり,懲戒権は監護・教育権に含まれると考えてもよいことになる。こう考えるならば,懲戒権の規定も廃止してもよいということになる。ただし,ここでも若干の配慮が必要になる〔略〕。

  (大村254頁)

 

   ()監護教育のためには,時に「愛の鞭」を必要とする。しかし,その限界は,社会の倫理観念によって定まる。これを越える場合には,親権の濫用であるばかりでなく,暴行罪を構成する(大刑判明治3721日刑録122頁,札幌高裁函館支部刑判昭和28218日高裁刑集61128頁)。()「家庭裁判所の許可を得て,懲戒場に入れる」という制度は,現行法の下では存在しない。ここにいう懲戒場は公の施設であることはいうまでもない。ところが,現行制度でこれに当るものは,児童福祉法による教護院(同法44条参照)と少年法による少年院(同法24条,少年院法1条参照)とであるが,いずれも親権者の申請によって未成年の子を入所させる途を開いていない(少年法24条,児童福祉法27条参照(少年院法の前身たる矯正院法では認められていた))。

  (我妻330-331頁)

 

 なお,我妻が「少年院法の前身たる矯正院法では認められていた」という部分には,感化法及び少年教護法も付け加えられるべきものでしょう。

 

   親権者はその子をこれらの施設〔少年院,教護院など〕に入れる処分に同意しまたはすすんで申請することができる。民法はこのような親の責務を定めたものと解すべきである。

  (我妻榮=有泉亨著,遠藤浩補訂『新版民法3 親族法・相続法』(一粒社・1992年)179頁)

 

この学説では,親の権利ないしは権限ではなく「責務」であるものとしつつ,義務とまではしていません。

少年法(昭和23年法律第168号)313号の虞犯少年について,保護者(少年に対して法律上監護教育の義務ある者及び少年を現に監護する者(同法22項))は,家庭裁判所に通告ができます(同法6条)。

児童相談所に相談があり(児童福祉法1112号ロ・123項(202341日の前は2項))又は要保護児童(保護者のない児童又は保護者に監護させることが不適当であると認められる児童(同法6条の38項))発見の通告があると(同法251項),相談又は通告を受けた児童相談所長がその旨都道府県知事に報告をして(同法2611号),当該報告を受けた都道府県知事が当該児童を児童自立支援施設に入所させる(同法2713号)ということがあり,また,当該入所措置には親権者の同意が必要である(同条4項)ということがあるところです。

ただし,少年院への収容についてですが,「特に親権者は,家庭裁判所に通告し,または児童相談所に相談して知事が家庭裁判所への送致措置をとった結果として(少6,児福27),家庭裁判所の行う保護処分を受けることを通して少年院収容の強制的な矯正教育を受けることもありうるが,それも本条〔民法822条〕にかかわる親権者個人の懲戒権の実行としてではない。」とされています(於保不二雄=中川淳編『新版注釈民法(25)親族(5)(改訂版)』(有斐閣・2004年)115頁(明山和夫=國府剛))。

 

   親権者にこのような懲戒権が与えられていることの法的な意味は,子の監護教育上必要な範囲で実力を行使しても,親権者が民事・刑事上の責任を問われることはないという点にあるに過ぎない。規定にある懲戒(ママ)に該当する施設は,戦後の児童福祉法・少年院法の制定とともに存在しなくなった(したがって,懲戒場に入れる期間について規定する8222項の意味は失われている)。

   懲戒権も必要な範囲を超えると親権の濫用となり(いわゆる児童虐待〔略〕),親権喪失原因になるとともに,暴行罪を構成する。

  (内田貴『民法 親族・相続』(東京大学出版会・2002年)212頁)

 

 懲戒場に該当する施設はもはや存在しない,その結果(旧)8222項の意味も失われているのだ,と淡白に説明を受けて,やれ民法の勉強は覚えることばかりではなく実は覚えないということもあるのだなと安易に安堵した学生は,当面の試験を前に当該安直な感想を早々に忘れつつ,それでも心の奥底に何やら物足りない思いをその後長く抱き続けることとなったのでした。

 

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はじめに

20221210日に成立し,同月16日に公布された令和4年法律第102号の第1条によって,民法(明治29年法律第89号)の一部がまた改正されることとなり(令和4年法律第102号は,一部を除いて,2024615日以前の政令で定める日から施行されます(同法附則1条本文)。),そのうちの更に一部は公布の日である20221216日から既に改正されてしまっています(令和4年法律第102号附則1条ただし書)。2023年度版の各種「六法」が2022年の秋に出てしまった直後の改正であって,20234月の新学期からの民法(親族編)の学びにとっては余り嬉しくない時期の改正です。

令和4年法律第102号による民法改正の内容は,提出された法案に内閣が付記した「理由」によれば,「子の権利利益を保護する観点から,嫡出の推定が及ぶ範囲の見直し及びこれに伴う女性に係る再婚禁止期間の廃止,嫡出否認をすることができる者の範囲の拡大及び出訴期間の伸長,事実に反する認知についてその効力を争うことができる期間の設置等の措置を講ずるとともに,親権者の懲戒権に係る規定を削除し,子の監護及び教育において子の人格を尊重する義務を定める等の措置を講ずる」というものです。女性に係る再婚禁止期間の廃止は,愛する彼女の婚姻解消又は取消後直ちに再婚してもらいたい人妻好き男性にとっての朗報でしょうが,子の嫡出推定及び嫡出否認並びに認知に関する改正は――難しい女性との関係又は女性との難しい関係の無い者にとっては余計なこととはいえ――男性が父となることないしは父であることについての意味を改めて考えさせるものでありそうです。子の父であるということは,まずは法的な問題なのです。親権者の懲戒権に係る規定(旧822条)の削除並びに子の監護及び教育における子の人格尊重義務の規定(新821条)は,父母双方にかかわるものですが,頑固親父,雷親父その他の厳父の存在はもはや許されなくなるものかどうか,これも父の在り方にとってあるいは小さくない影響を及ぼし得るものでしょう。

本稿は,令和4年法律第102号附則1条ただし書によって既に施行されてしまっている「民法第822条を削り,同法第821条を同法第822条とし,同法第820条の次に1条を加える改正」に触発されて,旧822条に規定されていた親権者の懲戒権及び更にその昔同条に規定されていた懲戒場に関して,諸書からの抜き書き風随想をものしてみようとしたものです。どうもヨーロッパその他の西方異教の獰猛な男どもは,我々柔和かつ善良な日本男児とは異なり,歴史的に,婦女子を暴力的かつ権力的に扱ってきていたものであって,したがって,西洋かぶれの民法旧822条はそもそも我が国体・良俗には合わなかったのだ,令和の御代に至って同条を削ったことは,あるべき姿に戻っただけである,と当初は簡単に片付けるつもりだったのでしたが,確かに父子関係は各国の国体・政体・民俗の重要な要素をなすものであるのでなかなか面白く,ローマやらフランスやらへの脱線(といっても,おフランスは我が母法国(ああ,法国ではないのですね。)なので,脱線というよりは,長逗留でしょう。)をするうちに,ついつい長いものとなってしまいました。

なお,令和4年法律第102号附則1条ただし書をもって施行が特に急がれた改正は,実は民法のそれではなく,児童虐待の防止等に関する法律(平成12年法律第82号)141項の規定の差し替え(令和4年法律第1024)であったかもしれません(後編の19及び20参照)。


1 西暦紀元前13世紀のシナイ半島

 

    Honora patrem tuum et matrem tuam, ut sis longevus super terram quam Dominus Deus tuus dabit tibi.

  (Ex 20, 12

    汝の父母を敬へ。是は汝の神ヱホバの汝にたまふ所の地に汝の生命の長からんためなり。

 

これは,心温まる親孝行の勧めでしょうか。しかし,うがって読めば,単純にそのようなものではないかも知れず,異民族をgenocideしつつ流血と共にこれから侵入する敵地・カナンにおける民族の安全保障のための組織規律にかかわる掟のようでもあります。

 

2 西暦紀元前53世紀の中近東

 

  Qui parcit virgae suae odit filium suum; qui autem diligit illum instanter erudit. (Prv 13, 24)

  鞭をくはへざる者はその子を憎むなり。子を愛する者はしきりに之をいましむ。

 

  Noli subtrahere a puero disciplinam; si enim percusseris eum virga, non morietur. (Prv 23, 13)

  子を懲すことを為さざるなかれ。鞭をもて彼を打とも死ることあらじ。

 

  Erudi filium tuum ne desperes; ad interfectionem autem ejus ne ponas animam tuam. (Prv 19, 18)

  望ある間に汝の子を打て。これを殺すこころを起すなかれ。

 

これは・・・ひどい。「児童の身体に外傷が生じ,又は生じるおそれのある暴行を加えること」たる児童虐待(児童虐待の防止等に関する法律21号)など及びもつかぬ嗜虐の行為をぬけぬけと宣揚する鬼畜の暴言です。外傷が生ずるおそれだけで震撼してしまうユーラシア大陸東方沖の我が平和愛好民族には想像を絶する修羅の世界です。死んでしまってはさすがにまずいが,半殺しは当たり前であって,しかもそれがどういうわけか世にも有り難い親の愛だというのですね。正しさに酔ってへとへとになるまで我が子を鞭打ち続ける宗教的なまで真面目な人々は,恐ろしい。これに比べれば,冷静に買主の不安心理を計測しつつ安心の壺を恩着せがましく売り歩くやり手の人々の方が,善をなす気はなくとも,あるいはより害が少ない存在ではないでしょうか。

 

3 西暦紀元前後のローマ

 

(1)アウグストゥスによる三つのおでき懲戒

 

Sed laetum eum atque fidentem et subole et disciplina domus Fortuna destituit. Julias, filiam et neptem, omnibus probris contaminatas relegavit; ….. Tertium nepotem Agrippam simulque privignum Tiberium adoptavit in foro lege curiata; ex quibus Agrippam brevi ob ingenium sordidum ac ferox abdicavit seposuitque Surrentum. ….. Relegatae usum vini omnemque delicatiorem cultum ademit neque adiri a quoquam libero servove nisi se consulto permisit, ….. Ex nepte Julia post damnationem editum infantem adgnosci alique vetuit. Agrippam nihilo tractabiliorem, immo in dies amentiorem, in insulam transportavit saepsitque insuper custodia militum. ….. Nec aliter eos appellare quam tris vomicas ac tria carcinomata sua.

(Suetonius, De Vita Caesarum, Divus Augustus: 65)

けれども〔sed〕運命の女神は〔Fortuna〕,一家の子孫とその薫陶に〔et subole et disciplinā domūs〕喜ばしい期待と自信を抱いていたアウグストゥスを〔eum (Augustum) laetum atque fidentem〕見捨てたのである〔destituit〕。娘と孫娘の〔filiam et neptem〕ユリアは〔Julias〕,あらゆるふしだらで〔omnibus probris〕穢れたとして〔contaminatas〕島に流した〔relegavit〕。〔略〕3番目の孫アグリッパ〔tertium nepotem Agrippam〕と同時に〔simul〕継子ティベリウスと〔privignum Tiberium〕も,民会法に則り〔lege curiatā〕広場で〔in foro〕養子縁組を結ぶ〔adoptavit〕。このうち〔ex quibus〕アグリッパの方は〔Agrippam〕,まもなく〔brevi〕野卑で粗暴な性格のため〔ob ingenium sordidum ac ferox〕勘当し〔abdicavit〕,スレントゥムへ〔Surrentum〕隔離した〔seposuit〕。〔略〕追放した娘からは〔relegatae〕飲酒を〔usum vini〕始め,快適で優雅な暮しに必要な一切の手段を〔omnem delicatiorem cultum〕とりあげ〔ademit〕,誰であろうと自由の身分の人でも奴隷でも〔a quoquam libero servove〕,自分に相談せずに〔nisi se consulto〕面接することは許さなかった〔neque permisit adiri〕。〔略〕孫娘ユリアが〔ex nepte Juliā(孫娘ユリアから)〕,断罪された後で〔post damnationem〕生んだ赤ん坊を〔editum infantem(生まれた赤ん坊に対して)〕,アウグストゥスは認知し養育することを〔adgnosci et ali(認知されること及び養育されることを)〕拒否した〔vetuit〕。孫のアグリッパは〔Agrippam〕従順になるどころか,日に日にますます気違いじみてきたので〔nihilo tractabiliorem, immo in dies amentiorem〕,島へ転送した〔in insulam transportavit〕上に〔insuper〕,幽閉し〔saepsit〕兵士の監視をつけた〔custodiā militum〕。〔中略〕そして彼らを〔eos〕終始ただ〔nec aliter…quam〕,「わたしの三つのおでき(﹅﹅﹅)tris vomicas〕」とか「三つの癌」〔ac tria carcinomata sua〕とのみ呼んでいた〔appellare (solebat)〕。

(スエトニウス,国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(上)』(岩波文庫・1986年)161-162頁)

 

(2)ローマ法における家父権

 

   ローマ法によれば,子供は生涯にわたって「家父権」に服した。父親が生きている限り,60歳になってもまだこの「家父権」に服しているということがあり得たし,執政官もまたそうであった。従って,そのような父を持つ子供は,その祖父の権力下におかれていたわけである。

   これに対して,「母権」のようなものは存在せず,従って,「親権」というものもない。そのかぎりで,家族の構成は,極端に家父長主義的であった。しかも,古典期の学説によると,父親は,妻を含む家族成員の全てに対して「生殺与奪の権利(ius vitae ac necis)」を有していた。これは,実際上,ある種の刑罰権として家内裁判の基礎をなしたものである。このような極端な法の中に,大ローマ帝国内部での,ほとんど君主制度に近い木目細かに監督された初期の経済的一体性を持った集団としての家父長主義的家族の興隆が,反映している。

  (オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法――ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)149頁)

 

「ほとんど君主制度に近い・・・家父長主義的家族」の理念型は共和政下の貴族階層の中にあったのでしょうが,これに関しては,次のような説明があります。

 

  〔共和革命後のローマの政治制度の成立にとって〕最も重要であったのが,政治という活動を直接担う階層の創出である。上位の権力や権威に制約されない頂点を複数確保し続けるという意義を有した。政治はさしあたりこれら頂点の自由な横断的連帯として成立した。ギリシャでもそうであったが,このために身分制,つまり貴族制が採用される。言うならば,世襲により頂点が維持され続ける仕組の「王」=王制を複数設定するのである。patriciと呼ばれる人々が系譜により特定され,彼らのうち独立の各系譜現頂点は〔略〕「父達」(patres)と呼ばれた。そしてpatriciの中から300人が(ただし選挙ではなく職権で)選ばれ元老院(senatus)を構成した。〔後略〕

 (木庭顕『新版 ローマ法案内――現代の法律家のために』(勁草書房・2017年)18頁)


Lupa Romana4

Patriam potestatem nondum habent.

 

(3)モンテスキューによるローマの家父権とローマ共和政との関係解説

しかし,アウグストゥスはなお自らの家族(おでき)に家父権を断乎行使したわけですが,当該家父権自体は,夫子御導入の元首政体がそれに取って代わってしまった共和政体の重要な支柱の一つであったとは,18世紀フランスの啓蒙主義者の観察であるようです。民衆政体の原理にとって有益なもの(moyen de favoriser le principe de la démocratie)の一つとして,モンテスキューは家父権を挙げます。

 

  家父権(l’autorité paternelle)は,良俗(les mœurs)の維持のために,なお非常に有用である。既に述べたように,共和政体には,他の政体におけるような抑圧的な力は存在しない。したがって,法はその欠缺の補充の途を求めねばならず,それを家父権によってなすのである。

  ローマでは,父たちは子らに対して生殺与奪の権を有していたe。スパルタでは全ての父が,他者の子に対する懲戒権を有していた。

  家父の権力(la puissance paternelle)は,ローマにおいては,共和政体と共に衰微した。風俗が純良であって申し分のない君主政下にあっては,各個人が官の権力の下に生活するということが望まれるのである。

  若者を依存状態に慣れさせたローマ法は,長期の未成年期を設けた。この例に倣ったことは,恐らく間違いであったろう。君主政下にあっては,そこまでの規制は必要ではないのである。

  共和政体下における当該従属関係が,そこにおいて――ローマにおいてそのように規整されていたように――生きている限り父はその子らの財産の主であることを求めさせ得たものであろう。しかしながらそれは,君主政の精神ではないのである。

 

 e)共和政体のためにいかに有益にこの権力が行使されたかをローマ史に見ることができる。最悪の腐敗の時代についてのみ述べよう。アウルス・フルウィウスは〔国家を転覆せしめようとする陰謀家〕カティリナに会うために外出していた。彼の父は彼を呼び戻し,彼を死なしめた(サルスティウス『カティリナの戦争〔陰謀〕』)。他の多くの市民も同様のことをした(ディオン〔・カッシウス〕第3736)。

Montesquieu, De l’Esprit des lois: Livre V, Chapitre VII

 

共和国を民衆政的腐敗堕落から守るのは,共和主義的頑固親父の神聖な義務であって,お上のガイドラインを慎重謙虚に待つなどと称しての偸安退嬰は許されない,ということでしょう。

 

  〔エルバ島における皇帝執務室の中〕

 皇帝ナポレオン: 私は,皇帝だぞ。

 市民ポン(=「石頭の共和主義者」): わっ,わしは市民です。

        〔ポンの両脚は震えている。〕

  〔皇帝執務室の外〕

 近衛兵A: 毎日喧嘩しているな。

 近衛兵B: うむ。

       あの爺ィ,とっちめるか。

 近衛兵A: おう。

 ベルトラン将軍: やめておけ。

   せっかくケンカ相手ができたのだ。

   皇帝の楽しみを邪魔するな。

 近衛兵A: はい?

  〔再び皇帝執務室の中〕

 P: わしを牢に,ぶち込めばええだろ。

 N: 君は法を破っていない。

   私は暴君ではない。

   だが,

    (バアン)

     〔NPの左胸に何かを叩き付ける。〕

  P: (勲章!)

  N: 君は勇敢で心正しい。

    さらにこの私を何度も負かした。

  P: あ・・・

    ありがとうございます。

    伯爵(●●)

  〔Pのいつもの言い間違いに,Nは口もとを歪めている。〕

  N: あんたは,男だ。

  (長谷川哲也「ナポレオン-覇道進撃-」129; Young Kingアワーズ 334号(202111月)538-541頁)

 

なお,君主政体(gouvernement monarchique)及び専制政体(gouvernement despotique)においては,前者には法の力(la force des lois),後者には常に行使の用意がある権力者の腕力(le bras du prince toujours levéがあるので,実直(probité)が政体の保持ないしは支持のためにさほど必要であるものとはされていないのに対して,民衆国においては,それを動かす力として更に(un resort de plus)徳(vertu)が,その原理として必要であるものとされています(cf. Montesquieu: III, 3)。しかして,共和国(république)における徳は,共和国に対する愛(amour de la république)であって,それは知識によって得られるものではなく,感情的なものであるそうです(cf. Montesquieu: V, 2)。この共和国に対する愛は,民衆政体においては,平等(égalité)及び質素(frugalité)に対する愛ということになります(cf. Montesquieu: V, 3)。

ちなみに,徳に代わる,君主政体における原理は,名誉(honneur)です(cf. Montesquieu: III, 6-7)。

 

4 西暦1790824:革命期フランス王国の司法組織に関する法律(Loi sur l’Organisation judiciaire

 

Titre X.  Des bureaux de paix et du tribunal de famille

(第10章 治安調停所及び家内裁判廷に関して)

 

Article 15.

Si un père ou une mère, ou un aïeul, ou un tuteur, a des sujets de mécontentement très-graves sur la conduite d’une enfant ou d’un pupille dont il ne puisse plus réprimer les écarts, il pourra porter sa plainte au tribunal domestique de la famille assemblée, au nombre de huit parens les plus proches ou de six au moins, s’il n’est pas possible d’en réunie un plus grand nombre; et à défaut de parens, il y sera suppléé par des amis ou des voisins.

  (子又は未成年被後見人の行状について重大な不満意の事由があり,かつ,その非行をもはや抑止することのできない父若しくは母若しくは直系尊属又は未成年後見人は,8名又はそれより多くの人数を集めることができないときは少なくとも6名の最近親の親族(ただし,親族の曠欠の場合には,友人又は隣人をもって代えることができる。)が参集した一族の内的裁判廷に訴えを起こすことができる。)

Article 16.

Le tribunal de famille, après avoir vérifié les sujets de plainte, pourra arrêter que l’enfant, s’il est âgé de moins de vingt ans accomplis, sera renfermé pendant un temps qui ne pourra excéder celui d’une année, dans les cas les plus graves.

  (家内裁判廷は,訴えの対象事項について確認をした後,事案が最も重い場合であって,その年齢が満20歳未満であるときは,1年の期間を超えない期間において子が監禁されるものとする裁判をすることができる。)

Article 17.

L’arrêté de la famille ne pourra être exécuté qu’après avoir été présenté au président du tribunal de district, qui en ordonnera ou refusera l’exécution, ou en tempérera les dispositions, après avoir entendu le commissaire du Roi, chargé de vérifier, sans forme judiciaire, les motifs qui auront déterminé la famille.

  (一族の裁判は,地区の裁判所の所長に提出された後でなければ執行されることができない。当該所長は,国王の検察官の意見を聴いた上で,裁判の執行を命じ,若しくは拒絶し,又はその内容を緩和するものとする。当該検察官は,司法手続によらずに,一族の決定の理由を確認する責務を有する。)


 1790824日の司法組織に関する法律第1015条以下の制度は,「共和暦4年風月9日〔1796228日〕のデクレによって家族裁判所〔tribunal de famille〕が廃止されたのちも,通常裁判所の関与による懲戒制度として残」ったそうです(稲本洋之助『フランスの家族法』(東京大学出版会・1985年)381頁)。


5 西暦1804年のフランス民法(ナポレオンの民法典)

 

(1)条文

 

TITRE IX

DE LA PUISSANCE PATERNELLE

(第9章 父の権力について)

 

371.

L’enfant, à tout âge, doit honneur et respect à ses père et mère.

(子は,いかなる年齢であっても,父母を敬い,尊ばなくてはならない。)

372.

Il reste sous leur autorité jusqu’à sa majorité ou son émancipation.

(子は,成年又は解放まで,父母の権威の下にある。)

373.

Le père seul exerce cette autorité durant le mariage.

(婚姻中は,専ら父が当該権威を行使する。)

 

375.

Le père qui aura des sujets de mécontentement très-graves sur la conduite d’un enfant, aura les moyens de correction suivans.

  (子の行状について重大な不満意の事由がある父は,以下の懲戒手段を有する。)

376.

Si l’enfant est âgé de moins de seize ans commencés, le père pourra le faire détenir pendant un temps qui ne pourra excéder un mois; et, à cet effet, le président du tribunal d’arrondissement devra, sur sa demande, délivrer l’ordre d’arrestation.

  (子が満16歳未満であるときは,父は1月を超えない期間において子を拘禁させることができる。そのために,区裁判所の所長は,申立てがあったときは身体拘束令状を発付しなければならない。)

377.

Depuis l’âge de seize ans commencés jusqu’à la majorité ou l’émancipation, le père pourra seulement requérir la détention de son enfant pendant six mois au plus; il s’adressera au président dudit tribunal, qui, après en avoir conféré avec le commissaire du Gouvernement, délivrera l’ordre d’arrestation ou le refusera, et pourra, dans le premier cas, abréger le temps de la détention requis par le père.

  (満16歳から成年又は解放までのときは,父は,最長6月間のその子の拘禁を請求することのみができる。請求は区裁判所の所長に宛ててされ,当該所長は,検察官と協議の上,身体拘束令状を発付し,又は請求を却下する。身体拘束令状を発付するときは,父によって求められた拘禁の期間を短縮することができる。)

378.

Il n’y aura, dans l’un et l’autre cas, aucune écriture ni formalité judiciaire, si ce n’est l’ordre même d’arrestation, dans lequel les motifs n’en seront pas énoncés.

  (前2条の場合においては,身体拘束の令状自体を除いて,裁判上の書面及び手続を用いず,身体拘束令状に理由は記載されない。)

Le père sera seulement tenu de souscrire une soumission de payer tous les frais, et de fournir les alimens convenables.

  (父は,全ての費用を支払い,かつ,適当な食糧を支給する旨の引受書に署名をしなければならないだけである。)

379.

Le père est toujours maître d’abréger la durée de la détention par lui ordonnée ou requise. Si après sa sortie l’enfant tombe dans de nouveaux écarts, la détention pourra être de nouveau ordonnée de la manière prescrite aux articles précédens.

  (父は,いつでも,その指示し,又は請求した拘禁の期間を短縮することができる。釈放後子が新たな非行に陥ったときは,前数条において定められた手続によって,新たに拘禁が命ぜられ得る。)

380.

Si le père est remarié, il sera tenu, pour faire détenir son enfant du premier lit, lors même qu’il serait âgé de moins de seize ans, de se conformer à l’article 377.

  (父が再婚した場合においては,前婚による子を拘禁させるには,その子が16歳未満であっても,第377条に従って手続をしなければならない。)

381.

La mère survivante et non remariée ne pourra faire détenir un enfant qu’avec le concours des deux plus proches parens paternels, et par voie de réquisition, conformément à l’article 377.

  (寡婦となり,かつ,再婚していない母は,父方の最近親の親族2名の同意があり,かつ,第377条に従った請求の方法によってでなければ,子を拘禁させることができない。)

382.

Lorsque l’enfant aura des biens personnels, ou lorsqu’il exercera un état, sa détention ne pourra, même au-dessous de seize ans, avoir lieu que par voie de réquisition, en la forme prescrite par l’article 377.

  (子が個人財産を有し,又は職業を営んでいる場合においては,16歳未満のときであっても,第377条に規定された形式での請求によってでなければ拘禁は行われない。)

L’enfant détenu pourra adresser un mémoire au commissaire du Gouvernement près le tribunal d’appel. Ce commissaire se fera rendre compte par celui près le tribunal de première instance, et fera son rapport au président du tribunal d’appel, qui, après en avoir donné avis au père, et après avoir recueilli tous les renseignemens, pourra révoquer ou modifier l’ordre délivré par le président du tribunal de première instance.

  (拘禁された子は,控訴院に対応する検察官に意見書を提出することができる。当該検察官は,第一審裁判所に対応する検察官に報告をさせた上で,自らの報告を控訴院長に対して行う。当該院長は,父に意見を通知し,かつ,全ての記録を受領した上で,第一審裁判所の所長によって発せられた命令を撤回し,又は変更することができる。)

383.

Les articles 376, 377, 378 et 379 seront communs aux pères et mères des enfans naturels légalement reconnus.

  (第376条,第377条,第378条及び第379条は,認知された非嫡出子の父及び母にも共通である。)

 

(2)国務院における審議模様

1804年のナポレオンの民法典における前記条文に関するそもそも論について理解するため,共和国(まだ帝国ではありません。)11葡萄(ヴァンデミ)(エール)8日(1802930日)の国務院(コンセイユ・デタ)における審議模様を見てみましょう(Procès-Verbaux du Conseil d’État, contenant la Discussion du Projet de Code Civil, Tome II; L’Imprimerie de la République (Paris, 1804): pp.43-52)。

当日の議長は,「諸君,休んでるヒマは無いぞ。国民が民法典を待っている。」と叱咤する(長谷川哲也『ナポレオン-覇道進撃-第3巻』(少年画報社・2012年)123頁参照)精力的かつ野心的な若きボナパルト(Bonaparte)終身第一統領(まだ皇帝ではありません。)ではなく,いい男・カンバセレス(Cambacérès)第二統領であって,報告者はビゴ=プレアムヌ(Bigot-Préameneu)でした。

 

ナポレオンの民法典371条に係る原案は,法律となったものと同じ内容でした。当該原案について,ベレンジェ(Bérenger)が,法律事項(disposition législative)がないから削るべきだと言いますが,ブウレ(Boulay)は婚姻の章に配偶者の義務について述べる条項を置いたのと同様,息子であることによって課される義務を章の冒頭に置くことは有用であると反論し,更にビゴ=プレアムヌが,当該条項は,他の条項はその結果を展開し確定するだけであるという関係にあるところの諸原則を含むものであること,及び他にも多くの場合において裁判官の一つの拠り所となるものであることを付言し,そのまま採択されます。

cf. Conseil d’État, p.44

 

 「「子の義務」に関する規定は,「親の義務」を基礎づけるのである。親の義務性の強調とのバランスをとるためにこの種の規定を置くことは,日本法でも考えられるのではないか。」といわれています(大村敦志『民法読解 親族編』(有斐閣・2015年)258頁)。

 

ナポレオンの民法典372条に係る原案は,「又は解放まで」のところが「又は婚姻による解放まで」となっていて,成年以外の親権を脱する事由を婚姻に限定するものでした。結果として,トレイラアル(Treilhard)の提案に基づき「婚姻により」との限定句が削られています。

当該結果自体は単純ですが,その間トロンシェ(Tronchet)からフランス私法の歴史に関する蘊蓄ばなしがありました。いわく,慣習法地域(北部)では法律行為による解放(émancipation par acte)ということはなく,そこでは,父の権力は保護のための権威(autorité de protection)にすぎず,成年に達するか婚姻するかまでしか続かなかった,これに対して成文法地域(南部)においては法律行為によって解放とするということがあったのは,そこでは父の権力は,身体及び財産についての絶対的かつ永久的なものであったからなのだ,ところが当院は財産関係の父の権力を慣習法地域式に作ったのだから,よって,法律行為によって解放するということにはならないのではないか,というわけです。また,トレイラアルは,トロンシェの紹介したもののほかに18歳での法定解放(émancipation légale)というものがあると付け足しますが,こちらは未成年被後見人に関するものです。ビゴ=プレアムヌは,交通整理を試みて,それぞれの種類の解放について固有の規定は法律で定められるのであるから混乱を恐れる必要はないと述べ,また,確かに新法においては古い成文法ほどには父の権力からの解放は必要ないであろうが,現在審議中の(父の権力に関する)当章の全条項の適用を排除するのであるから,効用がないわけではない,解放された子は父の居宅を離れてよいし,もう拘禁施設(maison de détention)に入れられることは許されないし,父母による財産の利用は終了する,これらの関係では重要な効果があるのだ,と述べています。

cf. Conseil d’État, pp.44-47

 

 家父権からの解放(emancipatio)は,ローマ法では「いくつかの法律行為の組み合わせによって行われた。すなわち,子供は,先ず親から第三者に「譲渡」され,これによって生じた「召使い」の状態から,その譲受人によって「棍棒による解放(manumissio vindicta)」の手段で解放された。そこで,子供は再びもとの家父権に服することになる。このようなことが,さらに二度繰り返されると,最終的に子供は家父権から自由となる。〔略〕この儀式は,「十二表法」にある「もし父がその息子を三度売ったなら,息子は父から自由になるべし(Si pater filium ter venum du(u)it [venumdet] filius a pater [sic (patre)] liber esto)」という文章を利用したものである。」とのことです(ベーレンツ=河上150頁)。フランス成文法地域での法律行為による解放も,この流れを汲むものだったのでしょうか。

 なお,我が旧民法人事編(明治23年法律第98号)213条以下には,自治産の制度がありました。

 

   ナポレオンの民法典373条に係る原案は,法律となったものと同じ内容でした。ルニョ(Regnaud)が,父が長期間不在のときには当該権威は母によって行使されるものと決定すべきである,提示された案のままではその間子が監督されない状態になってしまう,などと細かいことを言いましたが,トロンシェからその辺のことは不在者の章において規定されていると指摘されて,原案どおり採択となりました。

  (Conseil d’État, p.47

 

 ナポレオンの民法典375条以下の条項に対応する原案の審議は,次の原案3箇条をまず一括して始められました。

 

Art. VI.

Le père qui aura des sujets de mécontentement très-graves sur la conduite d’un enfant dont il n’aura pu réprimer les écarts, pourra le faire détenir dans une maison de correction.

   (子の行状について重大な不満意の事由があり,かつ,その非行を抑止することのできない父は,その子を矯正の施設に拘禁させることができる。)

Art. VII..

À cet effet, il s’adressera au président du tribunal de l’arrondissement, qui, sur sa demande, devra délivrer l’ordre d’arrestation nécessaire, après avoir fait souscrire par le père une soumission de payer tous les frais, et de fournir les alimens convenables.

   (そのために,区裁判所の所長に宛てて申立てをするものとし,当該所長は,父の申立てがあったときは,全ての費用を支払い,かつ,適当な食糧を支給する旨の引受書に当該父の署名を得た上で,必要な身体拘束令状を発付しなければならない。)

    L’ordre d’arrestation devra exprimer la durée de la détention et la maison qui sera choisie par le père.

   (身体拘束令状には,拘禁期間及び父によって選択された施設が記載されなければならない。)

Art. VIII.

La détention ne pourra, pour la première fois, excéder six mois: elle pourra durer une année, si l’enfant, redevenu libre, retombe dans les écarts qui l’avaient motivée.

   (初回の拘禁期間は6月を超えることができない。ただし,釈放後,前の拘禁の原因となったものと同じ非行に子が陥ったときは,拘禁を1年続けることができる。)

    Dans tous les cas, le père sera le maître d’en abréger la durée.

   (全ての場合において,父は,いつでも,拘禁期間を短縮することができる。)

 

 出来上がりのナポレオンの民法典375条以下と比較すると,原案では,子の年齢による区別も,その職業・財産の有無による区別もなしに,およそ父から子の拘禁を要求されると,区裁判所の所長殿は,費用及び食糧の提供の約束がされる限り,言われるがまま身体拘束令状を発しなければならないという仕組みになっています。身体の自由の剥奪を実現するためには国家の手によらなければならないとはいえ,子に対する父の権力の絶対性が際立っています。当該絶対性は,国務院における審議を経て緩和されたわけですが,当該緩和は,カンバセレス第二統領による修正の指示によるものです。「🌈色執政」たるカンバセレス(長谷川哲也『ナポレオン-覇道進撃-第4巻』(少年画報社・2013年)61頁)には,自らが父になるなどという気遣いはなかったのでしょうが,やはり,男の子に優しいのでした。

 絶対的であるとともに国家的手段を用いるものである父による子の拘禁権の淵源は,ベルリエ(Berlier)による下記の原案批判発言から推すに,モンテスキュー経由のローマ法的家父権の共和主義的復活と旧体制(アンシャン・レジーム)下の国王による封印状(lettre de cachet)制度の承継とが合流したmariageの結果ということになるようです。国父たるルイ16世が斬首されてしまった以上,父の権力の発動権能が個々の父に戻るということは当然であると同時に,フランス的伝統として,国家権力がその執行を担わせられるということになったものか。具体的な審議状況を見てみましょう。

 

    第6条,第7条及び第8条が議に付される。

    ビゴ=プレアムヌ評定官いわく,父の申立てと身体拘束令状発付との間に3日の期間を置くことが適当であるというのが起草委員会(la section)における意見である,と。

    ベルリエ評定官いわく,第6条は修正されなければならない,と。皆が父に与えようとしている権利に私は反対するものではない。しかしながら,この権利の行使が,他のいかなる権威の同意もなしに,一人の父の意思又は恣意のみによってされるべきものとは私は信じない。しかして本発言者としては,監禁の申立てについて審査も却下もできない裁判官なる者が,当該権威であるものと見ることはできない。

    諸君は,父たちは一般的に正しいと言うのか!しかしながら,当該与件を否定しないにしても,法は,悪意ある,又は少なくとも易怒性の父たちがこの権利を付与されたことによって行い得る濫用を予防しなければならない。

    諸君は,モンテスキュー及び他の著述家を,家父権擁護のために引用するのか?しかし,本発言者は,当該権力について争うものでは全くない。本発言者は,当該権力を,我々の良俗にとって適切な限界内に封ずることを専ら求めるものである。本発言者は,父の権威を認める。しかし,父による専制を排するものであり,かつ,専制は,国家においてよりも家庭においてよく妥当するものではないと信ずるものである。

    続いてベルリエ評定官は,王制下における状況がどのようなものであったかを検討していわく,親族による協議が,一家の息子の監禁に係る封印状(lettres de cachet)に先行しないということは非常に稀であった,と。

    いわく,本発言者は封印状及び旧体制を称賛しようとするものでは更にない,しかし,我々の新しい制度が君主政下の当該慣行との比較において劣ったものと評価され得ることがないよう用心しようではないか,したがって,本件と同じように重要な行為が問題となるときには,父の権威に加えて,明らかにし,又は控制する権力の存在が必要となるのである,と。

    当該権力はどのようなものであろうか?通常裁判所であろうか,又はその構成員によるものであろうか?それは親族会(conseil de famille)であろうか?

    多くの場合において,法的強制手段を要する事件を司法に委ねることが非常に微妙かつ難しいことになり得るのであり,当該考慮が,ベルリエ評定官をして,親族会に対する選好を表明せしめる。
 その意見表明を終えるに当たって,同評定官は,1790824日法及び多くの控訴院――特に,本件提案に係る権利に対して全て制限を求めるレンヌ,アンジェ,ブリュッセル及びポワチエの控訴院――の意見を援用する。

    ビゴ=プレアムヌ評定官が,当該条項の理由を説明する。

    同条は,次のような正当な前提の上に立つものである。父は,専ら,愛情(un sentiment d’affection)によって,かつ,子の利益のためにその権威を行使するものであること,父は,専ら,その愛する子を,その名誉を損なうことなく,名誉ある道(le chemin de l’honneur)に立ち戻らせるために行為するものであること,しかし,この優しさ(tendresse)自体が,懲戒を行う(corriger)べく父を義務付けること。これが,実際のところ,最も通常の場合(le cas le plus ordinaire)であって,したがって,法が前提としなければならないものなのである(celui par conséquent que la loi doit supposer)。1790824日法は,父に十分大きな権威を与えたものであるものとは観察されない。良俗,社会及び子ら自身のその利益とするところが,父の権力がより大きな範囲にわたることを求めるのである。警察担当官の証言するところでは,不幸な父らはしきりに,彼らの子らの不行跡問題を裁判所に引き継がなくてもよいような懲戒権を求めているのである。しかしながら,起草委員会は,父の権威の行使を和らげる必要があると信じた。しかしてその観点から,当該委員会は,裁判所の所長から身体拘束令状の発付を受けることを父に義務付けるものである。

    ブウレ評定官いわく,起草委員会は一族の前のものであろうとなかろうと父子間の全ての争訟を防止しようとしていたものである,と。すなわち,父が敗れた場合,その権威の大きな部分も同時に失われてしまうのである。また,一族は,余りにも多くの場合分裂しており,その各員は,余りにも多くの場合,その将来についての審議のために招集された当の未成年者の利害よりも自分の子らの利害の方に関心を有しているのであって,この両者の利害が競合する場合,後者が前者を全面的に圧伏するということが懸念されるのである。

    トレイラアル評定官いわく,子らの咎は通常,父たちの弱さ,無配慮又は悪い手本の結果である,したがって父たちに絶対的な信頼を寄せるわけにはいかない,と。他方,息子の懲戒を裁判沙汰にするということは,よくよく避けられなければならないのである。しかしながら,身体拘束令状の発付前に一族の意見を聴くことを裁判所所長に義務付ければ,調和が得られるのである。この令状には,更に,理由が記載されてはならない。

    カンバセレス統領いわく,2件の修正提案はいずれも不十分であると信ずる,と。

    非常に多くの場合において,憎悪と利害とが,血が結び付けるものを分裂させていることに鑑みると,一族の同意を要するものとすることを私は望むものではない。本職は,全ての紛争に係る中正かつ自然な裁判者である通常裁判所を選好するものである。

    また,父の申立てと身体拘束令状発付との間に置かれる3日の期間は長すぎるものと思う。子が企み,かつ,正に実行しようとしている犯罪を防止するということが必要となるからである。

    しかしながら,子の年齢及びその置かれた状況についてされる考慮に従って,父の権力を規制することは非常に重要である。

    既に社会的地位もあるであろう20歳と10箇月の青年を,15歳の少年同様に,父による懲戒に服させるべきものではない。

    12歳の児童をその一存で数日間監禁させる権利を父に与えることが理にかなっているのと同程度に,よい教育を受けた年若い青年であって早熟な才能を示そうとしているもの(un jeune adolescent d’une éducation soignée, et qui annoncerait des talens précoces)を父に委ね,いわば彼の裁量に任すということは不当なことであろう。父たちがいかほどの信頼に値するとしても,全員が同様に優秀かつ有徳であるという誤った仮定の上に,法は基礎付けられるべきものではない。法は,衡平との間にバランスを保たねばならず,厳しい法はしばしば国家の革命を準備するということを忘れてはならない。

    したがって,裁判所の所長及び検察官には,父が16歳を超えた若者を監禁しようするとき又は16歳未満の子を一定の日数を超えて拘禁させようとするときにおいて,その理由を検討する権限が与えられなければならない。

    彼らには,身体拘束令状の発付を拒絶し,また,拘禁の期間を定めることが許されなければならない。

    〔後略〕

    これら各種の修正は,採択された。

   (Conseil d’État, pp.48-51) 

 

 16歳以上の「よい教育を受けた年若い青年(男性形です。)であって早熟な才能を示そうとしているもの」には,第二統領閣下は,ウホッ!と格別の配慮をしてくださったものでしょう。いや「チュッ,チュッ,チュッ」でしょうか。

 

   🌈: 今夜はわたしと一緒に・・・

   若い髭の軍人: もちろんです,カンバセレス執政閣下。

   🌈: 堅苦しいな,ジャンちゃんとでも呼んでくれ。

   髭: はい,ジャンちゃん。

    (チュッ,チュッ,チュッ)

   (長谷川・覇道460頁)

 

ここで採択された制度ともはや調和しない,として削られた原案の第9条は,「父が再婚したときは,前婚の子を拘禁させるには,その子の母方の最近親の親族2名の同意がなければならない。」と規定するものでした(Conseil d’État, pp.51, 44)。出来上がりのナポレオンの民法典380条と比べてみると,当該制度(システム)の採択とは,父権行使の規制を行う者を親族ではなく裁判所とする旨の決定のことのようです。

ナポレオンの民法典381条に「かつ,再婚していない」との修飾句が付されているのは,「子に対する権力を再婚した母に保持させることには大きな難点がある。寡婦であるときに当該権力を彼女に与えるということが,既に大したことだったのである。」とのカンバセレス第二統領発言を承けてのビゴ=プレアムヌによる修正の結果です(Conseil d’État, p.51)。新しいボーイ・フレンドのみならず,前夫の息子までをも支配し続けようとする欲張り女は許せない,との憤り(死別ならぬ離別のときはなおさらでしょう)があったものでしょうか。(なお,ナポレオンの民法典381条の文言自体は,寡婦は再婚するとかえって子の父方親族からの掣肘なく子を拘禁させることができるようになるようにも読めますが,それは誤読ということになるのでしょう。)ちなみに同条については,19351030日のデクレに係るラヴァル内閣のルブラン大統領宛て報告書(同月31日付けフランス共和国官報11466頁)において,「立法者は,母の2番目の夫の憎悪を恐れたのである。」との忖度的理解が示されています。しかし,自らを女の夫の立場に置いて考えるというところまで,「🌈色執政」の頭は回ったものでしょうか。

ナポレオンの民法典383条は,非嫡出子であっても認知されたものの父及び母に父の権力を認めていますが,これについては,ブウレが「父の権力(puissance paternelle)は婚姻(mariage)に由来するのであるから,その対象は嫡出子に限定されるべきである」と反対意見を述べたのに対し,トロンシェが「出生のみ(la naissance seule)で,父とその生物学的子(enfans naturels)との間の義務が創設されるのである。非嫡出子(enfans naturels)らは,何者かによる監督(direction)の下になければならない。したがって,彼らを世話するように自然(la nature)によって義務付けられる者の監督下に当該の子らを置くことは正当なことなのである。」と反論しています(Conseil d’État, pp.51-52)。ナポレオンの民法典がトロンシェの所論に与したものであるのならば,“puissance paternelle”は「父の権力」であって,「家父権」ではないのでしょう。ブウレの考え方はローマ法的なのでしょう。ローマ法においては「合法婚姻の子のみ父に従い,父又はその家長の家父権に服する」とされ(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)296頁),家父権が取得される場合は,「合法婚姻よりの出生」,「養子縁組」及び「準正」とされています(同286-292頁)

 

(3)制度の利用状況

 ナポレオンの民法典375条以下の懲戒制度の利用状況については,次のように紹介されています。

  

  〔前略〕リペェル/ブゥランジェが引用する司法省統計では,1875年~1895年の年平均は1,200件弱,1901年~1910年の年平均は800件弱であり,その85%は――別の調査によれば――貧困家庭の子を対象とするものであった。1913年の数字では,男子271人,女子233人(その3分の2は,パリのセェヌ民事裁判所長管轄事件),1931年ではさらに減少して男子69人,女子42人となり,制度の存在理由は,その威嚇的効果を考慮しても大きく失われたことを否定することができない。Ripert et Boulanger, Traité de droit civil, t. I, n˚2305.

  (稲本93-94頁註(47))

 

6 西暦18世紀フランス王国旧体制下の封印状

 さて,ここで,時間は前後しますが,18世紀のフランス王国旧体制下における封印状(lettre de cachet)の働きを見てみましょう。

 封印状とは,「一般的には《国王の命令が書かれ,(国王の署名及び)国務大臣の副署がなされ,国王の印璽で封印された書状》と定義付けられ」,そのうち「特定の個人や団体にその意思を知らせるもので,該当者に宛てられ,封をし,封印を押した非公開の書状lettre close」が「一般に封印状と称されるもの」です(小野義美「フランス・アンシアン・レジーム期における封印状について」比較家族史研究2号(1987年)51-52頁)。

 

   18世紀のパリ市民は貴賤を問わず,家庭内で生じた深刻なトラブルを国王に訴え出ることで,その解決を図ることができた。一般の市民が,それも下層階級に属する市民までもが,殴打する夫を,酒浸りの妻を,駆け落ちした娘を,遊蕩に耽る息子を,(まかない)費の支払いを条件として総合施療院(hôpital général)に監禁してくれるよう王権に縋り出たのである。

   庶民からのこうした切実な請願に対して国王は,当事者の監禁を命ずる封印状(lettre de cachet)を発してこれに応えた。驚くべきことに君主自らが,政治や外交といった国事からすれば何とも些細な最下層階級の家庭生活にまで介入し,庶民の乏しい暮しをいっそう惨めなものとしている家族の一員を,裁判にかけることもなければ期間も定めない,拘留措置によって罰したのである。

   もちろん庶民が畏れ多くも国王にじかに願い出たわけではない。両者を仲介し,封印状による監禁という解決策を推進したのが,当時のパリ警察を統括する立場にあった警察総監(lieutenant général de police)である。〔後略〕

  (田中寛一「18世紀のパリ警察と家族封印状」仏語仏文学41巻(2015年)113頁)

 

  〔前略〕この警察総監がさまざまな警察事案を解決するにあたり,柔軟で単純で迅速な国王封印状制度を好んで多用したのである。徒党を組んだ労働争議の首謀者,公序良俗を乱す売春婦,騒乱の扇動者と化す喜劇役者や大道芸人,もはや火刑に処せられはしない魔女は,これが封印状によって監獄や施療院へ送り込んだ常連である。

   だからこそ一般市民も,民事案件に過ぎない家庭内の混乱を収拾するべく,国王からの封印状を取り付けてくれるよう警察総監に依頼することができた。封印状による監禁は法制上の刑罰ではなく,その性質から逮捕も秘密裏に行われるので,醜聞を撒き散らさずに済んだからである。警察総監にしても,民政を掌握している以上はその苦情処理も引き受けざるを得ず,持ち込まれた民事案件に介入せざるを得なかったが,むしろ「18世紀にあって警察は,そのままが民衆の幸福を建設するというひとつの夢の上に築かれている」Arlette Farge et Michel Foucault, Le désordre des familles, Gallimard/Julliard, 1982, p.345という命題からすれば,進んでこれを受け付けていたとも言えるだろう。「パリでの家族に対する監禁要請は首都に特有の手続を経る。名家はその訴え(請願書)を国王その人にあるいは宮内大臣に差し出す。請願書が注意深く吟味されるのは,国王の臨席する閣議においてである。庶民はまったく異なる手続を踏む。彼らは警察総監に請願書を提出する。総監はこれを執務室で吟味し,調査を指揮し,判断を下す。調査は必然的に地区担当警視に案件を知らしめる。警視はその情報収集権限を警部に委ねる。(・・・)情報を得た総監は大臣宛に詳細な報告書を作成し,国務大臣が命令を発送するのを待つのである。それが少なくともルイ14世下に用いられた最も習慣的手続である。これがルイ15世の治世下になると,たちまち変形し,次第に速度を増すのである。よく見かけるのは警察総監がごく短い所見しか記さず,もはや国王の返答を待つことさえなく国王命令の執行に努める姿である」Farge et Foucault, pp.15-16

   だがこうして封印状を執行された庶民が収監される施設は,身分あり高貴なる者を待遇よく監禁したバスチーユやヴァンセンヌといった国家監獄でない。民衆には民衆のための監禁施設が整備されていたのである。すなわち1657年の王令により開設されていた総合施療院がそれである。本来は当時の飢饉と疫病に苦しむ生活困窮者を収容する慈善的な目的で設置されたビセートルやサルペトリエールといった施療院が,物乞いや浮浪者のみならず,警察総監が封印状によって送り込んできた,放浪者・淫蕩家・浪費家・同性愛者・性倒錯者・瀆神者・魔術師・売春婦・性病患者・自殺未遂者・精神病者などなど,不道徳または非理性にある者すべてを公共福祉の一環として閉じ込め,これを監禁したのである。〔後略〕

  (田中114-115頁)

 

   もとより封印状とは,周知のように,反乱を企てた貴族とか不実を働いた臣下といった国事犯の追放または監禁を,一切の司法手続を経ることなく国王が専横的に命ずるために認めた書状を意味し,その措置は王権神授に基づく国王留保裁判権の一環としての行政処分と解されたが,確かにヴォルテールやディドロのように,何らかの筆禍事件により国王の逆鱗に触れたことで監禁された例も少なくはない。「封印状というのは法律とか政令ではなくて,一人の人物に個人的に関わって何かをするように強制する国王命令でした。封印状により誰かに結婚するよう強制することさえできました。けれども大部分の場合,それは処罰の道具だったのです」Foucault, La vérité et la forme juridique›, Dits et écrits, tome 2, Gallimard, 1994, p.601

  (田中116頁)

 

   ルイ15世の治世後半1741年から1775年の35年間で2万通を超える国王命令が発されたといい,確かに濫用の目立った封印状ではあったが,その大部分はしかし,庶民からの請願によって発令された家族封印状であって,君主の専横のみの結果ではなかった。家庭生活を悲嘆の淵へと追い込んだ家族の一員を排除することによって事態の収拾を図るべく,身内により請願された結果に過ぎず,その実態は国王の慈悲による一種の「公共サーヴィス」に他ならなかったのである。だから書面が画一的で半ばは印刷されており,国王は令状執行官と被監禁者の名前およびその投獄先,それに決定の日付を記入するだけでよかったというのも当然であろう。

  (田中117頁)

 

   親子間の衝突には,盗癖・非行・同棲・淫行・放蕩・怠惰などを訴因として挙げることができるが,その底には利害の対立が隠されている場合が多い。「(・・・)それは後見行為を弁明すべき時期が両親に訪れたときに,あるいは最初の結婚でできた子供がその権利を,義父母または再婚でできた子供に対して主張するときに起こるのである」Farge et Foucault, p.159

  (田中131-132頁)

 

 封印状の濫用については旧体制下において既に高等法院の批判があり,政府側にも改善に向けた動きがあります。

 

  〔前略〕1770年,租税法院長Maleshelbesも建言書を草し,その濫用を批判した。彼は後に国務大臣になり,全監獄について監禁者と監禁理由を調査したり,あるいは一時的ではあったが,家族問題のための封印状の濫用を防止すべく家族裁判所tribunal de familleを組織化した。〔後略〕

  (小野・アンシアン55-56頁)

 

  〔前略〕更に1784年には宮内大臣Breteuilが地方長官及びパリ警視総監に対し封印状の濫用を防止すべく注目すべき「回状circulaire」を発した。この「回状」はとくに家族問題のための封印状に対し大きな制約を加えるものであった。先ず監禁期間について問題とし,精神病者や犯罪者についてはともかくも,不身持,不品行,浪費等による監禁については「矯正」が目的故,原則として12年を越えてはならないとする。次に家族員に対する監禁請求について,未成年者に関しては父母の一致した要請では足らず23人の主だった親族の署名が必要である。夫の妻に対する,あるいは妻の夫に対する監禁請求については最大の慎重さで対処することが必要である。更に,もはや親族の支配下にない成人に対しては,治安当局の注意をひくに足る犯罪のない場合には,たとえ家族の一致した要請があっても監禁されてはならない,とした。〔後略〕

  (小野・アンシアン56頁)

 

「以上の如く封印状の濫用に対する批判や対策が相次いだが,実態は改められなかった」まま(小野・アンシアン56頁),ルイ16世治下のフランス王国は,1789年を迎えます。

 

   1789年に三部会が召集されることになり,それに向けて各層からの陳情書cahier de doléanceが多数提出され,その殆ど全てが市民的自由の保障と封印状の廃止を要求した。ただ,家族問題のための封印状については,全廃ではなく,親族会assemblée de familleの公正な判断に基づく封印状の必要性を主張するものもあった。封印状廃止問題が積極化したのは立憲議会assemblée constituanteにおいてであった。178911月にはCastellane伯爵,Mirabeau伯爵ら4名による封印状委員会が組織され,委員会は,封印状により監禁されている者の調査をした上で,封印状廃止に関するデクレ草案を議会に提出した。デクレ草案は1790316日可決され,326日裁可・公布された。〔後略〕

(小野・アンシアン56頁)

 

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