2022年08月

1 山口県出身の3人の元内閣総理大臣並びに国葬及び国葬儀

 山口県出身の元内閣総理大臣が202278日に駅前で銃撃によって殺害されたとの報に接し(満67歳歿・享年六十九),同日夜,悪友らと某駅前地下の酒場で飲んだ筆者は,19091026日に駅頭で銃撃によって殺害された山口県出身の元内閣総理大臣の死(満68歳歿・享年六十九)についてこれまた山口県出身の元内閣総理大臣(当時満71歳)が述べたという次の言葉を想起しつつ,「政治家としてはよい死に方だったんじゃないの。国葬になるだろうしさ。」と発言したところです🍶(最近の国葬関連のブログ記事は,当該思い付き発言の後始末でもあります。)

 

   征露戦局〔1904-1905年の日露戦争〕の結果,彼我の情偽が,明白と為り,露国は我が日本を重視し,日本も亦彼を知るに至り,両国親善の度が漸く濃厚を加へ来つた。〔山縣有朋・伊藤博文〕両公の苦心経営は,此に至り徒労に似て徒労にあらず,伊藤が此機に乗じ,日露提携を策して,東邦禍根の発源地なる支那問題を解決せんとしたるは,寔に其機を得たのであつた。然るに,伊藤が不幸にも兇豎の狙撃する所と為りて其志を果さなかつたことは,〔山縣〕公に取りて何等の恨事ぞや。

   伊藤客死の報が,〔山縣〕公の許に達したとき,公は椿山荘にありて,之を聞き,痛嘆するもの之を久うしたが,忽ち左右を顧みて,「伊藤は最後まで好運の人物であつた。予は武弁として,其の最後が如何にも欽羨に勝へない」とて,左の什を詠んだ。

      伊藤公爵をいたみて

    かたりあひて尽しゝ人は先たちぬ

        今より後の世をいかにせむ

  (徳富猪一郎編述『公爵山縣有朋伝 下巻』(山縣有朋公記念事業会・1933年)742-743頁。下線は筆者によるもの)

 

伊藤博文の国葬は,1909114日に日比谷公園で行われています(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065458056.html)。

山縣有朋は,今からちょうど100年前の年である1922年の21日に小田原・古稀の畳の上で薨去し,その国葬は同月9日にこれも日比谷公園で行われましたが(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079865191.html),大阪朝日新聞の同月10日付けの記事によると「4間に18間の幄舎2棟は1万の参列者を入れる為に設けられたものだといふが実際の数は2棟で1千にも満たず雨に濡れた浄白な腰掛はガラ空きであつた」ということでした🎾ただし,帝室博物館総長兼図書頭森林太郎は出席です。鷗外の日記『委蛇録』192229日条にいわく「九日。木。晴。会山県公有朋葬於日比谷公園。久保田米斎来示松崎復書幅。」と(『鷗外選集第21巻 日記』(岩波書店・1980年)341頁)。当日は晴であって,国葬会場を濡らした雨は前日のものだったようです。「八日。水。雨。参館。」とあります(同頁)。(ついでにいえば,前掲徳富編述1030頁には「〔1922年〕23日,第45期帝国議会は,満場一致を以て,〔山縣〕公の薨去に関する国葬費予算を可決した。」とありますが,これは,同日の衆議院本会議における南・森下両代議士による山縣国葬反対の大気焔(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079865197.html:(9)エ(イ))及びその結果たる「議長(奥繁三郎君) 南鼎三君,森下龜太郎君ヲ除クノ外一致賛成デゴザイマス」(第45回帝国議会衆議院議事速記録第10150頁)との同議院における満場一致議決未達の失態をしゃあしゃあと無視する読者誤導の曲筆であって,蘇峰徳富猪一郎が我が国を代表するジャーナリストであったのであれば,我が国のジャーナリズムの水準は,歴史的には,常に誇らしく高いものでは必ずしもないわけです。)

2022927日のこちらは日本武道館で行われる国葬儀も,移り気な我が人民の間における人気は,現在なかなか芳しくはないようです。当該国葬儀を1箇月後に控えた同年827日に西日本新聞ウェブサイトに掲載された「「絶対やって良かったとなる」安倍氏国葬の世論二分・・・弔問外交に託す政権」と題された記事には,次のようにあります。高い意識の諸外国の指導者から示されることとなる正しい認識が頼りであるようです。

 

〔国葬儀実施に対する〕批判の矛先をそらしたい政府,与党は各国の要人が集う「弔問外交」の舞台となる意義を前面に出し,内容も「弔問客を受け入れる最低限の様式で派手にしない」(政府高官)。費用は2020年に行われた中曽根康弘元首相の内閣・自民党合同葬の約19千万円を引き合いに「参列者が大幅に増えることや警備強化を考えれば簡素で妥当だ」(自民党幹部)と訴える。

  国葬まで1カ月。反発がさらに強まるのか,弔いムードの高まりで容認論が広がるのか-。首相周辺は安倍氏が力を注いだ外交実績に期待を込めてこう望みを託す。「海外の評価を見て世論は絶対に国葬をやって良かったとなるはずだ」

 (大坪拓也,岩谷瞬)

 

 今となっては,「Japan’s state funeralであるぞ」ということでどしどし英語を駆使して海外広報に努めるべしということになっているのでしょう。しかし,国葬儀と国葬とは必ずしも同じものではないところ(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079865200.html),国葬儀の英語訳は,state funeralでよいものかどうか。

 

2 国葬儀はstate funeral

 実は,今次国葬儀の英語での正式名称を,筆者は内閣総理大臣官邸及び外務省の各ウェブサイトでいまだに見付けられずにいます。国葬儀をa funeral in the form of a state funeral“state funeral”ないしはstate funeralと表現し,ないしは訳する記者会見の英語訳記事はあるのですが(2022714日の岸田文雄内閣総理大臣記者会見,同月20日の小野日子外務報道官記者会見及び同月22日の林芳正外務大臣記者会見),いずれにも暫定訳(provisional translation)である旨の注意書きが厳めしく付いています。

岸田内閣総理大臣の発言の英語訳には“we will hold a funeral for former Prime Minister Abe this autumn in the form of a state funeral.”とあります。端的に“in the form of state funeral”(国葬の形式で)と述べるものではありません(確かに元の日本語は,「国葬儀の形式で」です。)。“in the form of a state funeral”と,不定冠詞であるaが一つ入って奥歯に物が挟まっています。「国葬儀の形式で」ということは,「いわゆる一つの国葬的な形式で」というようなこころであるわけでしょうか。

 小野外務報道官の記者会見では,「国葬儀」との括弧付きの日本語が,the “state funeral”と,引用符付きの英語に訳されています。国葬ではない国葬儀は飽くまでも引用符付きの“state funeral”であって,引用符抜きの端的なstate funeralではないものと,翻訳業者も外務省の担当者も理解しているということでしょう。

 故安倍晋三国葬儀準備事務局(the Special Secretariat for the State Funeral for former Prime Minister Abe Shinzo)の外務省内設置に係る林外務大臣発言に至って,括弧無しの国葬儀と引用符無しのstate funeralとが等号で結ばれることとなっています。

 

3 State Funerals in the UK

 国葬儀とstate funeralとを同一視することに躊躇があったのは,英語といえば本家の英国英語に厳密に準拠しなければならないという,英語専門家にありがちな囚われた英国本位の観念のゆえだったものでしょうか。

 確かに,我が国でいう国葬儀をstate funeralと訳することは,英国においては許されないことであるようです。(御本家の英国が現在,ボリス・ジョンソン内閣後の政権交代に係る流動期にあって,極東の一国における英語の用法にまでは気が回らないであろうことは,我が国政府にとって結構なことでした。)

 上記の点に関しては,英国庶民院図書館(House of Commons Library)の議会及び憲法センター(Parliament and Constitution Centre)の調査員(なのでしょう)であるポール・バウワーズ(Paul Bowers)氏による「国葬及び公喪儀(State and ceremonial funerals)」という調査ペーパー(2013731日付けSN/PC/06600)をインターネットで読むことができます。そこでは,state funeral(国葬)の定義が,R・アリソン=S・リッデル編の『王室(ザ・ロイヤル)百科(・エンサイク)事典(ロペディア)()1991年)の引用という形で,「一般には国家(ソヴ)元首(リンズ)に限定されるが,在位の君主の勅命及び費用を負担する議会の議決により,偉勲ある者についても行われ得る」(generally limited to Sovereigns, but may, by order of the reigning monarch and by a vote of Parliament providing the fund, be extended to exceptionally distinguished persons)ものと示されているのでした。すなわち,state funeralたるには,君主の勅命と議会の財政議決とが要素となります。

 筆者の脳内対談。

 

   “Oh, you are going to hold a state funeral for the late Prime Minister Abe Shinzo. What was the Imperial Comment by His Majesty Emperor Naruhito, when He sanctioned it? How were the pomps and sincerities of the parliamentary speeches supporting the provision of state fund therefor?”

   “The Emperor and the Diet? Neither of them had any say in making the decision. It has been exclusively the Kishida Cabinet’s business as a matter of the administration of state.”

   “Is it really so? If so, it is my personal understanding that it would not be properly called a state funeral, at least here in Britain.”

   “What? Surely, our Imperial Ordinance concerning State Funerals of 1926 is no longer effective, but no statute law is necessary for the Japanese state to hold ceremonies, since it has nothing to do with rights and duties of people, our opposition parties’ persistent prejudices notwithstanding. Our prudent Prime Minister Kishida, having well considered and studied the matter in consultation with experts of the Cabinet Legislation Bureau, gave a brave go to this issue and will hold for the late prime minister…”

   “I do not say that a state cannot hold legally any ceremonies without explicit legislative authorization given in the form of statute law. Simply, the English word -- state funeral -- is associated with such concepts as the monarchical will and the parliamentary consent thereto.”

 

 在位の君主たる今上天皇の特旨によるわけでもなく,202283日から同月5日までの第209回国会においてそのための費用に係る議案が政府から提出・可決されたわけでもないので,同年927日の我が国葬儀は,確かに英国式のstate funeralであるとは言いにくいところです。国葬儀を直訳してstate-funerary ceremonyとでも称すべきでしょうか。しかしこれでは,羊頭狗肉の誹りを免れるにしても,不格好ですね。とはいえ,kokusōgiのままでは意味不明でしょう。

 更にいえば,英国のstate funeralでは,遺骸が納められた柩が水兵らによって牽かれた砲車によってウェストミンスター・ホールに運ばれて暫く正装安置された上で,ウェストミンスター()会堂(ビー)又はセント・ポール大聖堂で宗教儀式が行われるそうなのですが,いわば主役である遺骸が既に焼かれてお骨になってしまっているというのでは,state funeralとしての絵にならないということもあることでしょう。

 「国家元首以外の者のために国葬がされるときに係る決定手続は,稀に,かつ,長い歴史的な間を置いて起ることであることもあって,余りはっきりしない。公表された公式の手続というものは無いが,過去においては,国家元首,首相及び議会が関与していた。」とは英国における国葬実行決定手続に関するバウワーズ氏の評です。不文憲法の国だけあって,成文法に基づかない国葬はあり得ないというような窮屈な議論はされていません。

 1965124日に死亡し,同月30日にstate funeralが執り行なわれたチャーチルの場合はどうであったかというと,まず,同月25日,庶民院に対してハロルド・ウィルソン首相がエリザベス2世女王の自署のある勅語を提出し,議長がそれを朗読します。

  

 私は,ガーター騎士たるサー・ウィンストン・チャーチル閣下の死去によって私たちが被った喪失に対して最もふさわしい方法による対応がされるべきこと並びに戦争においても平和においても五十年以上にわたってたゆまず彼の国に尽くし,かつ,私たちにとって最大の危険の時において,私たち全てを力づけ,支えてくれた精力的指導者であった偉大な人物に係る喪失の悲しみ及びその記憶に対する敬重を表明する機会を持つべきことが,私の国民全ての望みであることを認識しています。私の忠実な庶民院議員らの支持並びに私たちの感謝の負債の弁済及び国民的悲しみの表明を適切に行うためにふさわしい手配(provision)をするに当たっての彼ら鷹揚(liberality)に信頼し得ることを確信しつつ,私は,サー・ウィンストンの遺骸がウェストミンスター・ホールに正装安置され,かつ,その後に喪儀がセント・ポール大聖堂で行われるよう指示しました。

 

 ウィルソン首相は,女王陛下の最も優渥なる勅語(Her Majesty’s Most Gracious Message)を議題にすべき旨動議し,かつ,次の議案を提出します。

 

   ガーター騎士たるサー・ウィンストン・チャーチル閣下の遺骸がウェストミスター・ホールに正装安置されるべき旨及びセント・ポール大聖堂で喪儀が行なわれるべき旨を指示されたことについて女王陛下に謹んで感謝するため,並びに当議院及び女王陛下の忠実なる臣民全てが保持する当該偉人の記憶に係る愛着及び称賛を表明するためのこれらの手段に対する,我々の真摯な助力及び協賛を女王陛下に確証しつつ,女王陛下に対して恭しい奉答がなされるべし。

 

これに「この動議を可決することにより,当議院,及び当議院において代表されているところに基づき国民は,偉大な政治家,偉大な議会人にしてかつこの国の偉大なる指導者に対する集合的かつ敬虔な敬意を表明することになるのであります」以下の同首相の演説が続き,更にダグラス・ホーム(Douglas-Home),グリモンド(Grimond)及びタートン(Turton)各議員の各賛成演説があって(これらの演説は,精彩に富み,なかなか読み応えがあります。),1965125日中に当該議案は全会一致で可決されています。

 

4 チャーチルの国葬及び吉田茂の国葬儀における山口県出身の元内閣総理大臣及び現職内閣総理大臣

チャーチルの国葬に日本国政府を代表して参列した特使は,これも山口県出身の元内閣総理大臣でした(当時満68歳)。当該元内閣総理大臣は,1965128日の早朝,ロンドンのヒースロー空港で,待ち構えていた朝日新聞の現地特派員に遭遇してしまっています。

 

「お疲れのところ恐縮です」と挨拶したうえで「今回のチャーチル国葬は,参列者の顔ぶれからいって第2次大戦の戦友葬という性格をもっています」。つづけてアイゼンハワー,ドゴール,〔ソ連の〕コーネフら3将軍について手短に説明した。「ところで岸さんは1941128日,東條英機内閣の商工大臣として,米英に対する宣戦の詔書に副署なさっています。そのようなお立場から,チャーチル国葬参列にあたって,どんな感想をお持ちでしょうか」。岸〔信介〕氏は「それはですよ,それはですよ,それはですよ」と3回,繰り返した。

絶句した元総理大臣を,それ以上,問い詰めては礼を失する。そう考えて「敗戦後20年,いまや日本は平和国家として生まれ変わった,ということでしょうか」と問うと,「そうです,その通りです」と。

  (有馬純達「チャーチル国葬」日本記者クラブ・ウェブサイト(20074月))

 

 「弔問外交」といっても,余りお気楽なものではないようです。対独苦戦中のチャーチルは我が海軍による真珠湾攻撃の報を聞いて,これで米国が参戦してくれるぞ助かったと喜んだそうですが,だからといって日本国の特使がチャーチルの国葬において英国民の前で,図々しく恩着せがましい顔をするわけにはいかなかったことでしょう。プリンス・オヴ・ウェイルズ及びレパルスを沈めてしまったし,シンガポールも奪ってしまっていたのでした。何やら肩身の狭い「弔問外交」であったことでしょう。

 19671031日の吉田茂の国葬儀において,葬儀委員長たる現職内閣総理大臣佐藤榮作(山口県出身,当時満66歳)は,その追悼の辞においていわく,「吉田先生,あなたは国家と国民がいちばん苦しんでいるときに登場され,国民の苦悩をよく受けとめ,自由を守り平和に徹する戦後日本の進むべき方向を定め,もっとも困難な時機における指導者としての責務を立派に果たされました。あなたはまさしく歴史が生んだ偉大なる政治家であります。」と。すなわち,「平和に徹する戦後日本」が,その当初指導者の国葬儀をもって,ここで歴史的に大肯定されたということでしょう(「わが国は戦後22年にして,国力は充実し,国際的地位も飛躍的に向上しつつあります」)。「いまや日本は平和国家として生まれ変わった」ところの戦後レジームが,断乎明徴せられています。(しかし,「自由に徹し平和を守る」のではないのですね。)

 

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1 はじめに

 前日(2022810日)掲載のブログ記事「国葬及び国葬令並びに国葬儀に関して」において,国葬対象者の死亡が国会開会中であったとき,その国葬費の手当ては予備費からの支出でよいのか,国会の予算議定権を尊重して補正予算の提出・議決の方途を執らなければならないかの問題に逢着したところです((中)の9エ)。

 

(上)大日本帝国憲法下の国葬令:

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079865191.html

(中)日本国憲法下の国葬令:

    http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079865197.html

(下)吉田茂の国葬儀の前例及びまとめ:

    http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079865200.html

 

 本稿ではつい,前稿では敬遠していた, 畏き辺りの大喪の礼等に係る前例を見てみましょう。

 

2 昭和天皇の大喪の礼

 198917日に崩御した昭和天皇に係る同年224日に行われた大喪の礼の経費は,当時は第114回通常国会の会期(19881230日から1989528日まで)中でありましたが,予備費から支出されています。帝国議会の協賛を経た昭和22年法律第3号たる皇室典範の第25条に「天皇が崩じたときは,大喪の礼を行う。」とあるので,昭和29416日閣議決定「予備費の使用について」以来の閣議決定における予備費支出可能4項目中の「令又は国庫債務負担行為により支出義務が発生した経費」ということで,補正予算の提出・議決の方途を採ることなく,予備費からの支出がされたものと考えられます。

当該予備費支出は,1991年の第122回国会に至って国会の承諾を得ていますが,その際問題となったのは昭和天皇武蔵野陵の鳥居の建設費が予備費から出たのはけしからぬ(日本社会党(第122回国会衆議院決算委員会議録第219頁(時崎雄司委員)及び同国会参議院決算委員会会議録第230頁(村田誠醇委員))),「絶対主義的天皇制を権威づけることを目的として制定された旧皇室諸(ママ)にのっとって行われた葬場殿の儀などを含む大喪の礼」等に関係する予備費支出は容認できない,また,陵は天皇家の私的なものであって,公的行事に使用する宮廷費(皇室経済法(昭和22年法律第4号)3条・5条)から支出されるのはおかしく,憲法の政教分離原則にも反する(日本共産党(第122回国会衆議院決算委員会議録第220頁(寺前嚴委員)及び同国会参議院決算委員会会議録第230頁(諌山博委員)))というようなものでした(なお,陵墓についても,法律たる皇室典範の第27条において規定されています。)。補正予算の提出・議決によらなかったこと自体は問題視されていません。


DSCF1296(昭和天皇武蔵野陵)
昭和天皇武蔵野陵の鳥居(東京都八王子市)


3 節子皇太后(貞明皇后)の「大喪儀」

 昭和天皇の母・節子皇太后(貞明皇后)の崩御(1951517日)も第10回通常国会の会期(19501210日から195165日まで)中でしたが,その喪儀の経費は予備費から支出されました。当該予備費支出は,1952年,第13回通常国会で承諾されています。

1952415日の衆議院決算委員会において,井之口政雄委員から「〔昭和〕26年度の分を見てみますと,皇室費として大分出ておるようであります。多摩東陵の分とか,皇族に必要な経費というようなものが,たくさんでておるようでありますが,こうした費用は,一般予算の中からまかなえるものではないでしょうか。冠婚葬祭について,官吏にしたところで,別にだれしも政府から特別の支給は受けておりません。こういう皇室費は,皇太后の葬儀に必要な経費その他陵の造営等についての経費が出ておりますが,こうした修理費とかいうものも,予備費からいつも出すような仕組みになっておるのですか。」との質疑がありました(第13回国会衆議院決算委員会議録第103頁)。これに対する東條猛猪政府委員(主計局次長)の答弁は,「宮廷費にいたしましても,天皇が国の象徴としてのお立場におきましての必要経費でありますが,それらの経費につきましても,きわめて金額は切り詰めたものになつております。従いまして,この予備費の内容でごらんをいただきますように,当初予算の編成にあたつて予想いたしておりません皇太后陛下の崩御せられたという場合におきましては,この大喪儀に必要な経費でありますとか,あるいは多摩東陵を造営いたしますような経費は,とうてい当初予算ではまかなえないわけでありまして,29百万円と3千何万円の予備金支出をいたしておるわけであります。」というものでしたが,Wikipediaでは「革命家」と紹介されている井之口委員から更に厳しい追及がされるということはありませんでした(同会議録第103-4頁)。

前記昭和29416日閣議決定の前の時代ではありました。(なお,昭和27年(1952年)45日の閣議決定では,例外的に国会開会中も予備費の使用ができる場合は,大蔵大臣の指定する経費の外,①事業量の増加などに伴う経常の経費,②法令又は国庫債務負担行為により支出義務が発生した経費及び③その他比較的軽微と認められる経費だったそうです(大西祥世「憲法87条と国会の予備費承諾議決」立命館法学20154号(362号)15-16頁)。)


DSCF1295 (2)

貞明皇后多摩東陵(東京都八王子市)

 

4 大正天皇の大喪儀

 以上,その妻及び長男の喪儀及び大喪の礼に係る経費の国庫負担については,予備費の支出といういわば捷径が採られたのですが,大正天皇自身の大喪儀に係る経費については,若槻禮次郎内閣総理大臣及び片岡直溫大蔵大臣の下,帝国議会に予算追加案を堂々提出してその協賛を得る(大日本帝国憲法641項)との正攻法が執られています。

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3 吉田茂の国葬儀の前例

19671020日に死亡した吉田茂に対して,同月31日に国葬儀が行われています。当該国葬儀の経費ためには,同月30日の閣議で,一般会計予備費から18096千円の支出が決定されました(前田80頁註(37)。なお,当時は国会閉会中(第56回臨時国会と第57回臨時国会との間)でした。)。

 

(1)国葬との異同について

吉田の国葬儀は,身分上の国葬対象者以外の者に係る前記①から⑤までの国葬の構成要素のうち,死亡した「国家ニ偉勲アル者」のために(①)国の事務として国庫の負担で行われる喪儀が行なわれるもの()の2要素を充足するものではあったわけです(吉田の業績の「偉勲」性には議論があり得るでしょうが。)。国民に対しても弔意表明の呼びかけが広範にされたようです(⑤)。このような呼びかけがされれば,法的義務ではないものの周囲の皆が政府御推奨のマスクを着用しているのに自分だけがしていないと不謹慎な非国民のようできまりが悪いのと同様,我が善良な日本人民は弔意表明的自粛をついしてしまうものなのでしょう(ただし,前田74頁は「政府の「お願い」に対しては,国民は冷淡な対応をとった。」と評しています。)。(なお,吉田茂の国葬儀当日における吉田一色のテレビ及びラジオ並びに新聞の報道振りについては,196832日の衆議院予算委員会において,佐藤榮作内閣総理大臣は「政府は何もタッチしておりません。」と答弁していますが(第58回国会衆議院予算委員会議録第1110頁),実際には「吉田国葬においては,総理府広報室長を中心に各報道機関との折衝が行われ,報道機関との間で,取材配置や方法などに関する取材協定が結ばれる。さらに国葬儀委員会〔委員長は佐藤内閣総理大臣〕でも,ラジオ・テレビなどに協力を求めることを決定した。これを受けて各局は国葬を実況中継するとともに,その前後にも「ふさわしくない」ドラマや歌謡ショー,CM等の自粛・差替えを行っている。」ということであったようです(前田73頁)。)

しかし,廃朝を含む天皇の主体的役割という要素()がなければ,吉田茂の国葬儀を国葬たる喪儀と同視してよいものかどうか。

 

(2)昭和天皇の動静

 吉田茂の死亡からその国葬儀までの間の昭和天皇と佐藤榮作内閣総理大臣との交渉状況は次のとおり。

 

10月〕23日 月曜日 〔前略〕午後455分御泊所の埼玉県知事公館にお戻りになる〔筆者註:昭和天皇は同月22日から26日まで埼玉県行幸中〕。その後,拝謁・奏上室において内閣総理大臣佐藤栄作の拝謁を受けられ,佐藤首相より故吉田茂の従一位叙位・菊花賞頸飾の授与が決定したこと,及び先の東南アジア・オセアニア訪問についてお聞きになる。なお佐藤首相は去る8日からインドネシア国・オーストラリア国・ニュージーランド国・フィリピン国・ベトナム共和国を歴訪し,21日に帰国した。

(宮内庁『昭和天皇実録 第十四』(東京書籍・2017年)412-413頁)

 

 実はこの23日に開かれた臨時閣議で,吉田の叙位叙勲のみならず,国葬儀の挙行が決定されていたのでした(前田64-65頁)。

 

  〔10月〕27日 金曜日 夕刻,〔皇居〕拝謁の間において,内閣総理大臣佐藤栄作より文化勲章・秋の叙勲等についての内奏をお聞きになる。

  (実録十四420頁)

 

両者の間で吉田茂の国葬儀の話が出たとの明らかな記録はありません。当該国葬儀挙行に,天皇の意思の関与を認めることは難しいでしょう。

なお,昭和天皇には,吉田茂の死について次の御製があります。

 

 君のいさをけふも思ふかなこの秋はさびしくなりぬ大磯の里

 外国(とつくに)の人とむつみし君はなし思へばかなしこのをりふしに

 (実録十四408頁)

 

( 「いさを」というだけでは,偉勲ということには必ずしもならないでしょう。あるいは,佐藤内閣総理大臣から報告があった叙位の話に係る位階令の勲又は功だったかもしれません。

外国の人とむつむことのできる日本人は,昭和時代には珍しかったのでした。被占領下においてもそうだったのでしょう。

しかし最近は,気難しい米国大統領相手に接待ゴルフをしてニンジャ的にバンカーに転落してみせたり(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1071112369.html),「〔略〕,君と僕は同じ未来を見ている。」「ゴールまで,〔略〕,二人の力で,駆けて,駆け,駆け抜けようではありませんか。」と,筆者などからすると気恥ずかしい言葉で(いわゆるBL風というのでしょうか。),したたか,かつ,強面のロシア連邦大統領に呼びかけたりした(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1073895005.html)優しい心根の内閣総理大臣もいたそうです。

 吉田茂の国葬儀の当日の昭和天皇の動静は次のとおり。

 

 〔10月〕31日 火曜日 午前,拝謁の間において,前皇宮警察本部警務部長山下禎造の拝謁を皇后と共にお受けになる。

 表三の間において,松栄会会員田島道治前宮内庁長官以下24名の拝謁を皇后と共に受けられる。

 午後,元内閣総理大臣吉田茂の国葬儀につき,天皇より勅使として侍従入江相政を,皇后より皇后宮使として侍従徳川義寛を葬場の日本武道館に差し遣わし,それぞれ拝礼させられる。またこの葬儀に際し,天皇・皇后より故吉田茂国葬儀委員長に生花を賜う。なお,国葬儀の模様は吹上御所において皇后と共にテレビにて御覧になる。また,米国大統領リンドン・ベインズ・ジョンソンの代理として国葬儀参列のため来日した元連合国最高司令官マシュー・バンカー・リッジウェイより,滞日中に受けた御厚誼への御礼と吉田への弔意が駐日米国大使を通じて伝えられる。これに対し,謝意を伝えるよう侍従長に仰せ付けられ,この日式武官より駐日米国大使へこの旨が伝達される。また,吉田の国葬儀のために来日したフィリピン国特派大使グレゴリオ・アバド並びにユーロヒオ・バラオ,ニカラグア国特派大使カルロス・マヌエル・ペレス・アロンソ駐日特命全権大使の信任状を受けられ,1130日これを御覧になる。

 (実録十四422-423頁)

 

 24年前の山本五十六国葬の日よりもくつろいでいる感じの記述です。

 

  〔19436月〕5日 土曜日 この日,故元帥海軍大将山本五十六国葬につき,廃朝を仰せ出される。侍従徳大寺実厚を勅使として日比谷公園内葬斎場に差し遣わし,玉串を供えられる。終日御文庫において過ごされ,生物学御研究所・内庭にもお出ましなし。ただし,側近の土曜定例御相伴はお許しになる。

  (実録九114頁)

 

なお,天皇の御使が葬式に来てくれるのは,国葬の喪儀又は国葬儀の場合に限られません。1948417日死去の鈴木貫太郎の葬儀に係る例は次のごとし。

 

 〔同月〕23日,葬儀執行につき,天皇・皇后より御使として侍従徳川義寛を葬儀場文京区護国寺に差し遣わし,焼香させられる。天皇・皇后・皇太后より祭粢料及び供物・花を賜い,天皇・皇后より菓子を賜う。また天皇・皇后より喪中御尋として夫人タカ元侍女に果物缶詰を賜う

 (実録十637頁)。

 

 御使であって勅使ではないのは,GHQ占領下という時節柄でしょうか。二・二六事件で殺害された両元内閣総理大臣高橋是清及び齋藤實の各葬儀には勅使が差遣されています(宮内庁『昭和天皇実録 第七』(東京書籍・2016年)57-58頁)。

 以上,吉田茂の国葬儀について天皇が主体的役割を果たしたという形はなかったものと認めるべきでしょう。その点で,当該国葬儀は国葬たる喪儀ではありません。

 

(3)国会における議論と予備費支出の承諾

 さて,吉田茂の国葬儀挙行を承けての国会における議論は次のとおり。

 

ア 受田衆議院議員vs.八木総理府総務副長官及び田中龍夫大臣:公式制度整備推進論

 1968312日の衆議院予算委員会第一分科会において民社党の受田新吉分科員が「吉田さんのその功績に対する報い方として,私,国葬というやり方にあえて反対するわけではございません。」と述べつつ「しかしこういうものを政府がかってにやるような制度というものに,私は疑義がある。きちっとした法律をつくり,そうして公式的ないろいろな〔略〕,こういう公式的なものをすみやかに制度化して,そこで国民が納得するように,国民の名における法律で,これがきちっとされるのが私は好ましいのであって,政府の行政措置で,こういう大事な組織上の,行政上の基本問題をいいかげんに処理されて,そして得々としておられることは許されないと思います。」と質したのに対して,八木徹雄政府委員(総理府総務副長官)は「〔略〕閣議決定という措置でやったと思うのでありますけれども,受田先生御指摘のとおり,いま御指摘のあった,かくかくの問題につきましては,ただ便宜的に措置するということは適当でないと思いますので,それが明文化できるように,上司に対して十分にひとつおぼしめしのほどを伝えて,善処してまいりたいと思います。」と,上司に下駄を預ける答弁をしています(第58回国会衆議院予算委員会第一分科会議録第128頁)。

 公式制度の整備に熱心な受田衆議院議員は,今度は同年43日の衆議院内閣委員会で,八木副長官の上司の田中龍夫総理府総務長官(国務大臣)に決意を迫りますが,同長官は真面目に頑張りますということでかわしています。いわく,「それからまた,いまこういうふうな問題が特に法律の規定によらないで慣習法的国葬なら国葬というものが一つできた,こういうふうなことからさらに積み上げていっておのずから出る結論,これは特に英米法的な慣習法を重んずる考え方もありましょう。しかしながら,何ぶんにも御皇室を中心とした典範の問題やらその他の問題の中には,ほんとうに御指摘になるような不備な点が多々あると存じますので,いまここでいついつまでにこうするのだということはお約束はできませんけれども,この問題につきましては,私は真剣にまじめにひとつ今日ただいまからでもいろいろと調査し検討してみたい,かように考えております。」と(第58回国会衆議院内閣委員会議録第818頁)。慣習法云々という発言が出たのは,生硬かつ優等生的な成文法主義者に対する閉口の気持ちゆえでしょうか。

 

イ 山崎参議院議員vs.田中大臣:「戦後におきます国民感情等」

 196849日の参議院内閣委員会では,田中長官は現在国葬法の制定は考えていない旨はっきり述べるに至っています。すなわち,日本社会党の山崎昇委員からの「少なくとも国民全体をあげて喪に服する場合,そういう場合には,それらしい根拠を設けておく必要があるんじゃないか。ただ,そのつどそのつど国費だけ出せばいいというものではないのではないか。そういう意味で,もう少し政府としてはこういう点について整備する必要があるんじゃないか。」との問いかけに対して同長官は,「お説のごとくに,当然,国葬法といったようなものも制定を行なうべきでございましょうけれども,まだ戦後におきます国民感情等が,最近の諸情勢のもとにおきましては,かような国葬法を制定するまでに立ち至っておらないというような考え方もございます。いずれはさようなことに相なるだろうと思いますが,今日の段階におきましては政府は考えておりません。」と答弁しています(第58回国会参議院内閣委員会会議録第1011頁)。

 この「戦後におきます国民感情等」なのですが,令和の御代の今となってはよく分からないところがあります。天皇が特旨により賜う国葬は,民主主義を奉ずる大衆政国家である我が日本国にはふさわしくないということでしょうか。それとも,国葬というと軍人臭くて嫌だということだったのでしょうか。

昭和に入ってからの国葬について見ると,行われたのは大正天皇の大喪儀並びに東郷平八郎,西園寺公望,山本五十六及び載仁親王の各喪儀であって,大正天皇を別とすれば西園寺公望以外は皆軍人です。このうち特に山本の喪儀の国葬化は,山本の事績が本当に国家に対する偉勲に相当するものであったのかがなお不明である戦争中にあって(真珠湾攻撃は,無邪気な日本臣民を喜ばせたものの,かえって米国民の偉大なエネルギーを覚醒させてしまった逆効果だったかもしれません。ネルソンならば,対ナポレオン戦争が続いているといっても,トラファルガー沖で仏西連合艦隊を圧倒しおえていましたが,山本の場合,勢いを増す敵軍の前に頽勢を挽回できることのないままあえなく討ち取られています。)――海軍当局が山本戦死の公表を長い間躊躇していたことにも鑑みると――問題隠蔽的な軍国的宣伝効果を専ら狙ってされたものではないかともあるいは考え得るかもしれません。すなわち,山本の戦死が昭和天皇に伝えられたのはその翌日の1943419日,山本の国葬に係る内奏があったのは更に1箇月後の同年518日で,その際「〔同日〕午後35分,御学問所において内閣総理大臣兼陸軍大臣東条英機に謁を賜い,来たる21日に海軍大将山本五十六戦死を公表する件の奏上,山本を大勲位功一級に叙す件並びに山本の国葬を6月に実施する件の内奏,及び大本営政府連絡会議・閣議関係の奏上を受けられる。」ということでしたから(実録九73頁・97頁),山本の戦死という不吉な事実を民草にあえて発表するためには,国葬等で山本をあらかじめ金ぴかにしておく必要があったわけでしょう。

 

ウ 省葬・庁葬及び華山衆議院議員の見解

 省葬・庁葬というものがあって,役所の公金で葬式を出すということがあります。

196856日の衆議院決算委員会において日本社会党の華山親義委員はその金の出元はどこかと船後正道政府委員(大蔵省主計局次長)に問うて,「各省の省葬,庁葬につきましては,その費用はおおむね庁費から支出いたしております。」との答弁を得た上で,「吉田茂氏の場合,社会党は吉田茂氏の国葬について,別にそのこと自体について,政府はおやりになるならやっても別に何とも言わないような態度をとってきた。それにつきましても,どうしてこれは内閣の庁費でやらないで予備費なんか出すのです。国と省と同じじゃないですか。」「それを庁費の中でおやりになったというならば,私はあまりどうとも思いませんけれども,予備費から出すというふうなことはどうかと思うのです。国葬ということについての準則が何もないのでしょう。」云々と自説を展開しています。これは,国葬儀の実施自体ではなく,予備費支出を必要とするほどの多額の出費をしたことがけしからぬとの批判なのでしょう。

なお,庁費については,「予算科目としての庁費は,目の一区分の名称であり,狭義には,事務遂行上必要な物の取得,維持又は役務の調達等の目的に充てる経費として区分された目の名称であるとされている。」との説明があります(会計検査院「国土交通省の地方整備局等における庁費等の予算執行に関する会計検査の結果についての報告書(要旨)」(20099月)1-2頁)。

 

エ 田中大臣の行政措置優先論

 196859日の衆議院決算委員会において田中総理府総務長官は改めて「今後これに対する何らかの根拠法的なものはつくらないかという御趣旨でありますが,これは行政措置といたしまして,従来ありましたような国民全体が喪に服するといったようなものはむしろつくるべきではないので,国民全体が納得するような姿において,ほんとうに国家に対して偉勲を立てた方々に対する国民全体の盛り上がるその気持ちをくみまして,そのときに行政措置として国葬儀を行なうということが私は適当ではないかと存じます。/なお,御意見といたしまして,基準を定めるべきであるという御意見は承っておきます。」と答弁しています(第58回国会衆議院決算委員会議録第151頁)。天皇の特旨ではなく,国民全体の盛り上がる気持ちが決めるのだ,また,義務を課し権利を制限する法律事項は不要なのだ,という整理のようです。

ただし,所管の大臣の消極論に対して,水田三喜男大蔵大臣は積極論でした。いわく,「国葬儀につきましては,御承知のように法令の根拠はございません。だから,いまその基準をつくったらいいかどうかということについて長官からお答えがございましたが,私はやはり何らかの基準というものをつくっておく必要があると考えています。幸いに,法令の根拠はございませんが,貞明皇后の例がございますし,今回の吉田元総理の例もございますので,もう前例が幾つかここに重なっておりますから,基準をつくるということでしたら簡単に素晴らしいものが私はつくれるというふうに考えています。そうすれば,この予備費の支出もこれは問題がなくなることになりますので,私はやはり将来としてはそういうことは望ましいというふうに考えています。」と(同会議録2頁)。しかしこれは,財政当局的な規律・形式重視論というものでしょうか。文字で書かれた,いわば死んだ固定的基準は,あるいは年功序列的な,上がりを目指す出世双六の道案内のようなものに堕してしまって,その時々に生動する「国民全体の盛り上がるその気持ち」とうまく符合しないのではないでしょうか。

 

オ 日本社会党華山衆議院議員による吉田茂国葬儀違法論及び国会によるその不採択

 同じ196859日,吉田茂の国葬儀の費用を含む昭和42年度一般会計予備費使用総調書(その1)の承諾に係る衆議院決算委員会における採決がありました。その際それまで「吉田茂氏の国葬について,別にそのこと自体について,政府はおやりになるならやっても別に何とも言わないような態度をとってきた」日本社会党は反対に転じています。

日本社会党を代表して華山委員は,その討論においていわく,「ただいま討論に付せられました予備費使用等の承諾を求むる件に関して,日本社会党を代表し,次の諸事項については承諾し得ないことを申し述べます。〔中略〕第3に,吉田茂元総理の国葬儀の経費の支出についてであります。新憲法制定とともに多くの法令がそのまま継続された中において,旧憲法下の国葬に関する勅令は廃止されたのであります。そして皇室典範第25条に「天皇が崩じたときは,大喪の礼を行う。」とあって,これが国葬に関する唯一の規定であります。これを総合するに,新憲法下においては,天皇崩御の場合以外は国葬は行なわれないものと解すべきであって,吉田元総理が皇太后のなくなられたときに際し,国葬を行なわなかったのは,この理由に基づくものと私は承っております。吉田元総理の功績の評価は別個の問題として,法のたてまえとして,本件の支出には反対せざるを得ません。〔後略〕」と(第58回国会衆議院決算委員会議録第157頁)。

しかしこれは,皇室典範25条からする強引な反対解釈論なのですが,貞明皇后の大喪儀経費に係る国庫負担を当該大喪儀は国葬ではないからということで是認するのであれば,吉田茂の喪儀に係る国庫負担もこれは国葬であって国葬ではないからという理由で是認しなければならなくなります。弱い。華山委員独自の当該法律論は,国会の採用するところとはなりませんでした。

衆議院決算委員会は賛成多数で昭和42年度一般会計予備費使用総調書(その1)に承諾を与えるべきものとしています(第58回国会衆議院決算委員会議録第159頁)。510日の衆議院本会議においても賛成多数で承諾が与えられました(第58回国会衆議院会議録第321050頁)。

 参議院では,決算委員会で1968515日,本会議では同月17日,過半数の賛成を得て昭和42年度一般会計予備費使用総調書(その1)に承諾が与えられています。決算委員会では,討論も行われていません(第58回国会参議院決算委員会会議録第1816頁)。

 以上吉田茂の国葬儀の前例は,予備費支出の事後承諾という形で,国権の最高機関たる国会によって是認されたということになります。(なお,「吉田の国葬の際に,これを先例としないという社会党の申し入れ」があったそうですが(前田67-68頁),厳密にいえば,一政党の一方的申入れにすぎないものでしょう。)

 

4 まとめ:国葬と国葬儀との異同

 話は国葬ないしは国葬たる喪儀と国葬儀との異同に戻ります(ただし,身分上の国葬対象者に係るものはここでの議論から除きます。)。

 

(1)共通点:国庫による経費負担及び対象者の属性

両者の共通点は,いずれも国庫が経費を負担する国費葬であること及び対象者が「国家ニ偉勲アル者」(国葬たる喪儀)ないしはそのような者として評価されている者(国葬儀)であることです。

なお,「そのような者として評価されている者」と曖昧な表現になっているのは,2022714日の岸田文雄内閣総理大臣の記者会見における次の言明をどう解釈してよいのか悩ましいからです。

 

〔略〕元総理におかれては,憲政史上最長の88か月にわたり,卓越したリーダーシップと実行力をもって,厳しい内外情勢に直面する我が国のために内閣総理大臣の重責を担ったこと,②東日本大震災からの復興,③日本経済の再生,日米関係を基軸とした外交の展開等の大きな実績を様々な分野で残されたことなど,その御功績は誠にすばらしいものであります。
 外国首脳を含む国際社会から極めて高い評価を受けており,また,⑥民主主義の根幹たる選挙が行われている中,突然の蛮行により逝去されたものであり,⑦国の内外から幅広い哀悼,追悼の意が寄せられています。
 こうした点を勘案し,この秋に国葬儀の形式で〔略〕元総理の葬儀を行うことといたします。国葬儀を執り行うことで,〔略〕元総理を追悼するとともに,我が国は,暴力に屈せず民主主義を断固として守り抜くという決意を示してまいります。あわせて,活力にあふれた日本を受け継ぎ,未来を切り拓いていくという気持ちを世界に示していきたいと考えています。

  (丸数字は筆者が加えたもの

 

 「国家ニ偉勲」があった,との端的な総括はされていません。

 しかし,①については,在職期間の長さそれ自体は偉勲とはならないでしょう。単に長く地位にしがみついてさえいれば偉いということになるのか,ということにもなりかねません。偉勲があったからこそ,その結果として長期在職になったのだということかもしれませんが,そうであればそのような偉勲の数々を個々具体的に挙示すべきでしょう。地位を長く保持する手段は――どこの組織でもあることですが――正攻法以外にもいろいろあるのです。また,「卓越したリーダーシップと実行力」は個人の資質の話で,その資質をもって国家のために何をしたのかが問題です。

 次に②及び③ですが,東日本大震災のショックを承けて止められた原子力発電所が動かぬまま盛夏・厳冬期等の大規模停電が懸念され,また,日本は今や衰退途下国(衰退は,上るのではなく下るのでしょう。)になってしまったとの認識が広まっている現在の状況下にあっては,違和感のある認識です。それとも偉勲あるリーダーの下で衰退途下国になってしまったのは,専ら愚昧なる人民の咎なのでしょうか。

外交関係に関する④及び⑤です。まず,④の「日米関係を基軸とした外交の展開」は,米国のリードにうまく乗ることができたということでしょうか。しかし,米国とうまくやりさえすれば日本国に対する偉勲になるというのも余り気宇壮大ではありませんし,むしろ専ら米国についてその偉大さ真面目さ寛大さが改めて認識されることとなるところです。⑤は,外国本位の評価であって,外国人が喜ぶことと日本国の利益となることとは必ずしも一致しません。しかしながら,「活力にあふれた」先進大国として「極めて高い評価」をもって世界から遇される花やかな日々は,衰廃老人国にはもう数えられてしまっているのでしょうから,去り行くよき時代に係る国際的な醍醐の花見――当該花見は豊臣秀吉の生前葬だったのでしょうか――的行事としてはあるいは適当かもしれません。

実は⑥及び⑦が重かったのかもしれません。しかし,⑥にいう人に殺害されることは,お気の毒ではありますが,国家に対するあるいは損失であるとはしても,偉勲にはならないでしょう。⑦についても,死後の他者からの哀悼・追悼が,遡って生前の本人の偉勲を創出するものではないでしょう。とはいえ,戦死した山本五十六国葬の前例があるところです。なお,選挙応援活動中に殺害されたことは,政治家としての殉職なのでしょうが,当該被応援候補者のための活動中の死であって,これを直接国家のために活動していて命を落としたものと同視することはできないでしょう。また,そもそも選挙というものは,必ずしもお行儀のよいものではなく,そこでは人がまま死ぬるものであったようです。南鼎三衆議院議員が山縣有朋批判に当たって言及していた1892年の第2回総選挙では,政府の選挙干渉下,各地で騒擾が起り,全国で25名の死者が出たそうです(無論,現在の新型コロナウイルス感染症に由来する被害に比べれば,大したことはないのでしょうが。)。

以上,「のような」という表現が採られたゆえんです。

 

(2)相違点:天皇の役割

国葬と国葬儀との相違点は,前者は天皇が賜うものであるのに対して,後者は内閣が決定し挙行するものであって,かつ,天皇が主体的な役割を果たす形のものではないことです。ただし,国葬儀と称することによって,後者は前者たる喪儀と同一・同格ではないか,という誤った印象が与えられ得るところです。(むしろそのような印象こそが国葬儀の重み有り難みを構成するものとして,意図的に「国葬儀」という名称が採用されたのではないか,と考えるのはうがち過ぎでしょう。いずれにせよ,天皇の栄典授与大権の干犯であるとか,不敬である云々の話にはならないのでしょう。なお,昭和以前の元号と平成以後の元号との性質の相違(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1073399256.html),あるいは内閣の助言と承認に基づく天皇による叙勲と内閣総理大臣による国民栄誉賞授与との違いが,不図想起されるところです。)

 

(3)「国民喪ヲ服ス」:法的位置付けの相違及び結果の(恐らく)実質的類似

「国民喪ヲ服ス」ることについては,法的位置付けは国葬たる喪儀の場合と国葬儀の場合とで異なるのですが,自粛好きな我が国民性に鑑みるに,実質的な違いは余りなさそうです。むしろ積極的に,国葬儀なのになぜ休日にしてくれないんだとか,喪を服して休業するから国は補償金を出してくれ,あるいは喪服・喪章を購入するから国は補助金を出してくれと不平を鳴らす向きが多々あるかもしれません。Kishidanocrapeの配付は間に合うのでしょうか。

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(9)国葬令の効力の有無再考:昭和22年法律第721条との関係

 

ア 失効したとの取扱い

昭和22年法律第721条(「日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定で,法律を以て規定すべき事項を規定するものは,昭和221231日まで,法律と同一の効力を有するものとする。」)によって19471231日限り国葬令の法律事項規定は失効したとされています(廃止の手続は採られていません。なお,昭和22年政令第141項は「日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定は,昭和22年法律第72号第1条に規定するものを除くの外,政令と同一の効力を有するものとする。」と規定しています。)。しかし,細かく見てみるとどうでしょうか。

 

イ 逐条検討

 

(ア)第1条及び第2条:皇室典範25条との関係

身分上の国葬対象者に係る国葬令1条及び2条はそれらの喪儀が国葬であること(国庫による経費負担)を義務付けるものですが,これは昭和22年法律第3号たる皇室典範(194753日施行)の第25条(「天皇が崩じたときは,大喪の礼を行う。」)の反対解釈として,大行天皇の大喪儀以外の喪儀に係る国庫負担を国に対して法的に義務付ける効力を早くも194752日限り失ったということになるのでしょう。

しかし,大行天皇の大喪儀以外の喪儀をあえて国の儀式として行うことまでが禁止されているわけではなく,1951517日午後410分崩御の節子皇太后の喪儀の場合,同日「午後654分,宮内庁より皇太后崩御が発表される。それに引き続き内閣官房長官岡崎勝男・法務総裁大橋武夫・田島〔道治宮内庁〕長官が皇太后の大喪儀の挙行につき協議する。その後,天皇は侍従長三谷隆信を介し,故皇太后の御葬儀に関する政府の意向をお聞きになる。翌18日未明からは,大橋法務総裁・法務府法制意見長官佐藤達夫・田島長官等により大喪儀に関する法制問題が協議され,その結果,皇太后の大喪儀を国葬に準じて国の儀式として行うこととなる。」ということになりました(実録十一219頁)。ただし,理由付けは,国葬令31項的に,貞明皇后は国家に偉勲があったから経費を国庫負担にするのだ,という不敬なものではなかったでしょう。

 

(イ)第3条:「内閣の助言と承認により」の読み込みの可否

国葬令3条は,194753日からは「内閣の助言と承認により」(日本国憲法7条)が当然の前提として読み込まれているものとすれば,あるいは天皇の国事行為として国葬を賜うということで生き残ることができないものかどうか(同条7号参照。臣下の国葬には勅使差遣のみであって天皇のお出ましはないので,同条10号の「儀式を行ふこと」に当たるとするのは難しいようです。なお,後出の位階令(大正15年勅令第325号)3条・4条参照)。

 

(ウ)第4条:天皇の不自由と国民の自由な自粛と

4条中天皇の廃朝部分は,内閣の助言と承認ならぬ内閣制定の政令の効力として(昭和22年政令第141項参照),天皇の政務を拘束することは可能なのでしょう。

同条中国民が喪を服する部分は,義務を課し権利を制限する法律事項(内閣法(昭和22年法律第5号)11条参照)としては失効しているのでしょう(大日本帝国憲法下では法律によらずに義務を課し権利を制限できたことについては,同憲法9条参照。ただし,当時もそのように強い効力が国葬令4条後段にあったものと解されていたかははっきりしないところで,前記昭和9年内閣告示第3号発出に到るまでの事務当局内の議論においては,結局採用されなかったものの,喪を服することについては「国民ノ常識ニ委シテ全然之ヲ放任」すべしという意見もあったところです。)。しかし,思いやりの国における一種の自粛要請規定――三密回避ならぬ遏密をして,マスクならぬ喪章を付けましょうとの呼びかけ――としては,存在を否定し去ることはできないでしょう。

 

(エ)第5条:天皇の国政不関与

国葬令5条中「勅裁ヲ経テ」の部分は,内閣総理大臣を天皇が指導監督することになりますから,法律事項云々以前に現行憲法違反ということになりましょう(日本国憲法3条・41項後段参照)。

 

(オ)小括

このように破れ穴だらけのぼろぼろの姿では法令全体がもう立つことができないのだとして,国葬令は失効したものと判断されたのでしょう。

 

ウ 侵害留保の原則との関係

なお,国の事務として国庫の負担で喪儀を行うこと自体については,私人の自由・財産を侵害する行為ではありませんから,行政活動に対する法律の留保に係る侵害留保の原則に鑑みれば,そもそも法律をもってする根拠付けは不要であり,法律事項を規定する命令の規定の効力の失効に係る昭和22年法律第721条の触れるところではないはずです。予算の裏付けが得られれば――喪儀ですので,いわゆる政教分離に係る日本国憲法20条に抵触しない範囲内でという別の制約がありますが――行うことは可能である,ということになります。

 

エ 国会による財政統制との関係


(ア)内閣による予備費支出及びそれに対する国会による事後承諾


しかしながら,この予算の裏付けなるものが問題です。国葬たる喪儀は不時に行なわれるものでしょうし,かつ,経費は多額に上るでしょうから,通常は予備費からの支出がされることを前提とするものでしょうが(なお,国会開会中であっても,予算の追加のための補正予算の作成・提出は,実は財政法(昭和22年法律第34号)上必ずしも自由ではなく,「法律上又は契約上国の義務に属する経費の不足を補うほか,予算作成後に生じた事由に基づき特に緊要となつた経費の支出(当該年度において国庫内の移換えにとどまるものを含む。)又は債務の負担を行なうため必要な予算の追加を行なう場合」に限定されています(同法291号。ただし現行財政法の同条は,「各省の予算要求を抑えようとする大蔵当局の希望で設置されたという」ことです(小嶋和司「財政法をめぐる最近の問題」『小嶋和司憲法論集三 憲法解釈の諸問題』(木鐸社・1989年)203頁註(3))。)。旧会計法(大正10年法律第42号)72項においては,追加予算の提出ができる場合を「必要避クヘカラサル経費及法律又ハ契約ニ基ク経費ニ不足ヲ生シタル場合」としていたものです。国会開会中において国葬費を予備費から支出しようとするときは,それは「〔国会の〕予算議定権無視か」という問題があるところ(小嶋和司「財政制度はどう運営されたか」小嶋170頁参照),その「実際的解決」(同頁)たる昭和29416日閣議決定「予備費の使用について」以来の閣議決定における予備費支出可能4項目のうちの(4)「その他比較的軽微と認められる経費」としてするのでは不謹慎でしょう。また,(1)の「事業量の増加等に伴う経常の経費」としてではないでしょう。政令に基づき内閣が天皇に対する助言と承認として挙行を決めた国葬の経費が(2)の「法令又は国庫債務負担行為により支出義務が発生した経費」に含まれるかどうかは正に議論になってしまうところです。恐らく(3)の「災害に起因して必要を生じた諸経費その他予備費の使用によらなければ時間的に対処し難いと認められる緊急な経費」の後段によることになるのでしょうが,対象者死亡から喪儀までの期間が長い場合には,これもだめでしょう。第75回通常国会会期(19741227日から197574日まで)中の197563日に死亡した佐藤榮作の国民葬(同月16日)のための国費支出(総費用約4200万円中の2004万円)の予備費からの支出の閣議決定は,同月13日にされています(前田69頁)。),予備費の支出は事後に国会の承諾を得なければならないところ(日本国憲法872項,財政法36条),予備費からの支出を前提とする国葬について内閣の政令という形で規定し置くことは,国会の承諾権との関係で危なっかしく(「政令に基づきしました。」と言っても「国会の関与なしに出来たそんな政令知らんよ。」と国会に言われ,承諾に向け有利ということにはならず,更に「どうせ事後的に国会は承諾せざるを得ないと思って,国会をなめた政令を内閣は振り回すのか。」との誤解をも招くかもしれません。),いかがなものかということになりそうです。国の財政処理権限をその議決に基づかせる国会(日本国憲法83条)が自ら制定する法律ならばよいのですが,政令ならばむしろ無い方がよいようで(補正予算について見ると,法律上国の義務に属する経費の不足を補うためならば素直に補正予算を提出できますが,「政令上国の義務に属する経費」であれば,当該政令云々は問題とならず,専ら「予算作成後に生じた事由に基づき特に緊要となつた経費」であるかどうかが問題となるところです(財政法291号参照)。),その方がその内閣自身の権威及びその内閣限りの責任でその喪儀のために予備費を支出した(日本国憲法871項)ということが明らかであって,かえってさわやかでしょう。(ただし,総理府の公式制度連絡調査会議において内閣法制局の吉國一郎第一部長は,196518日,「単に,国葬をやってやるというのなら,政令でやることができるであろう。」との解釈を披露していたそうです(前田63頁)。)

大日本帝国憲法時代においても,前記の江木・山川問答に見るように,議会の予算協賛権との関係で同様の問題があったわけなのですが(予備費支出の承諾につき,同642項,旧会計法10条),国葬令は法律ではなく勅令という形式となっています。内閣が制定する政令及び内閣の閣議決定と天皇が勅定する勅令及び天皇の特旨との間には,やはり質的な重みの違いがあるというべきでしょうか。


(イ)大日本帝国憲法下の追加予算方式:附・山縣の霊及び松方の霊の受難

 なお,国葬令施行前の個別勅令勅定方式時代の前例は,帝国議会開会中に死亡した者に国葬を賜うに当たっては,さきに山縣,貞愛親王及び松方の各国葬について見たように,国葬費に係る追加予算を政府から議会に提出して,その協賛を得た上で勅令を裁可公布するというものでした。議会対策を回避して予備費支出がされてしまうということはありませんでした。(前記佐藤榮作の国民葬の経費に係る予備費からの支出の前例とこれとを比較すると,日本国憲法下の国会の財政統制権は,大日本帝国憲法下の帝国議会のそれよりもかえって弱くなっているように印象されます。それとも,国葬ではなく国民葬だから,「比較的軽微と認められる経費」なのでしょうか。)すなわち,議会開会中に死亡するへまな偉勲者は,まずその国葬費予算に対する帝国議会の協賛が得られなければ,天皇ないしは摂政の特旨による国葬の恩恵に与れないのでした。

山縣,貞愛親王及び松方の各国葬費に係る追加予算の帝国議会における具体的審議状況を見ると,さすがに皇族である貞愛親王の国葬費に係る追加予算に反対する者はいませんでしたが,山縣の霊及び松方の霊は,国葬をもって成仏させてもらう前にしばし居心地の悪い思いをしたようです。

山縣のための追加予算には,南鼎三衆議院議員及び森下龜太郎衆議院議員が反対しています(第45回帝国議会衆議院議事速記録第10148-149頁・150頁)。

 

南衆議院議員:「彼ノ〔明治〕23年〔1890年〕初テ帝国議会ガ開カレマスルトキニ,〔山縣〕公ハ其首班ニ立ッタノデアリマス,第一ニ此時ニ於キマシテ,我国立憲政治ヲ試験的ニ此議会ヲ以テ解散ヲ行ヒマシタ,ソレハ単ニ僅少ナル予算ノ削除ヲ理由トシタノデアリマス〔筆者註:第1回帝国議会において衆議院は解散されていません。〕,ソレカラ其次ニハ又議員ヲ個個別々ニ脅迫シ,或ハ贈賄等ヲ試ミテ僅ニ其妥協ヲ遂ケ,彼ノ〔明治〕25年〔1892年〕,総選挙ノ如キハ,品川〔彌二郎内務大臣〕或ハ白根〔専一内務次官〕ノ如キ者ヲ陣頭ニ立タシメマシテ,極端ナル選挙干渉ヲ行ヒ,全国ニ流血ノ惨ヲ見ルガ如キ不祥事ヲ惹起セシメタコトデアリマス〔筆者註:この総選挙は第1次松方正義内閣の下で行われたもの〕」「此〔選挙〕干渉ノ範ヲ作リ之ヲ示シ,此歴史ヲ作ッタ者ハ即チ山縣公デアルノデアリマス(「馬鹿ナ事ヲ言フナ」ト呼フ者アリ)」「即チ山縣公ハ此民衆政治,政党ノ発達ヲ阻害視スルコトハ,世既ニ定評ガアリマス,軍閥ノ総本山ダトカ,或ハ官僚ノ張本人デアルトカ,身其内閣ニ何等関係ナキニ拘ラズ,大御所ト云フ所ノ一種ノ俗称ヲ以テ国民ノ上下ガ彼ヲ迎ヘテ居ル,憲法ノ章条ニ何等ノ規定ナキ彼ノ元老職ヲ振廻ハシマシテ,政変毎ニ之ニ深ク喰入ッテ,此民意圧迫ニ非常ニ努メタ人デアリマス」「一体山縣公ハ常ニ自己ノ周囲ヲ取巻ク所ノ人ノ言ヲ聴イテ,之ヲ信条トシテ,一般国論民意ト云フモノヲ度外シテ,常ニ耳ヲ蔽ウタ人デアリマス」「近クハ昨年〔1921年〕彼ノ宮中某重大事件ノ如キハ如何デアリマスカ」「山縣公ハ天下ノ事ハ思ウテ成ラザルハナシ,成シテ遂ゲザルハナシト云フ,其総テノ国政ノ上ニ於テ威張ル所ノ・・・」「此度国費ヲ以テ其最後ヲ飾ルト云フコトニ出デラレントスル政府ノ心情ハ,私ニハ解セラレナイノデアル,即チ山縣公ヲシテ国葬ノ礼儀ヲ以テ最後ヲ飾ラシメルト云フコトハ,政府ヲ中心トシタル官僚軍閥ノ輩ノ之ヲ行フベキコトデアッテ,国民全体トハ殆ド没交渉デアル(「ノウ〔ノウ〕」)又国意民論ヲ圧迫シタル覚エノアル山縣公ハ,国葬ニシテ貰フコトヲ決シテ(いさぎよ)シトセラレナカッタデアラウト私ハ考ヘル」「国民ヨリ支出シテ貰ッテ其葬式ヲ国デ営ムト云フコトハ,蓋シ其意思デナカラウト本員ハ考ヘルノデアリマス,寧ロ政府ハ肝煎ヲシテ之ヲ官僚葬或ハ軍閥葬位ニスレバ,最モ山縣公ノ最後ヲ飾ルニ適当デアラウト考ヘルノデアリマス」「大隈〔重信〕侯ガ野ニ下リマシテ,サウシテ山縣公ハ死スル今迄,三寸ノ息ノ根ガ止マル迄,未練タラシク其官職ニ握リ附イテ居ッタト云フ為ニ,之ヲ国葬ニスル,是レ即チ我ガ政府ノ官尊民卑ノ弊風ヲ益増長セシムル所ノ原動力デアラウト考ヘルノデアリマス」「斯〔本案の精神〕ノ如キコトハ益〻民衆ヲ圧迫シ,官尊民卑,官権万能,民意圧迫ノ弊風ヲ増長スルモノデアラウト私ハ考ヘマス,此我国ノ政党ヲ畸形児的ニナラシメタノモ彼ノ山縣公デアル,此変態性タル現在ノ此議会モ亦彼レ山縣公ガ遺シタモノデアル」。

森下衆議院議員:「国民中ニハ,〔山縣〕公ヲ以テ憲法政治ノ破壊者デアルトマデノ極論ヲシナイニ致シマシテモ,憲法政治ノ進歩発達ヲ阻害シタル政治的罪悪ノ中枢,憲政ノ賊ダト考ヘル国民モ無イ訳デナイノデアリマス,(「ヒヤ〔ヒヤ〕」)国葬ハ是等国民ニモ礼拝ヲ強ユルモノデアリマス,是等国民ニモ香典ヲ強ユルモノデアリマス,信仰ナキ者ニ礼拝ヲ強ヒ,菩提心無キ者ニ奉加帳ヲ廻スト云フコトハ一種ノ強奪ニ外ナラヌト云フ解釈ヲ下シ得ザルニアラズ」。

 

松方のための追加予算には,猪野毛利榮衆議院議員が反対し(「松方公ニ対シテ今日国葬ノ礼ヲ以テセズトモ今マデ致セル所ノ礼デ十分デアルト考ヘル」「朝ニ在ッタ者ノミヲ国葬ノ礼ヲ以テシ,野ニ於テ国家ノ為ニ働イタ所ノ者ニ向ッテハ更ニ国葬ノ礼ヲシナイト云フコトハ,ドウ云フモノデアルカト云フコトヲ本員ハ疑フノデアリマス」「一方ハ特権階級ノ代表デアルガ故ニ国家ハ此最高ノ待遇ヲシ,一方ハ民衆ノ輿望ヲ荷ウテ野ニ立ッタガ故ニ,斯ノ如キ功労者ニ向ッテハ顧ミヌト云フコトニナッタナラバ,果シテ多数民人(ママ)ノ今日ノ感情ハ如何デアラウカト云フコトヲ慮ルノデアリマス」),田淵豊吉衆議院議員はねちねちと質疑をして(当日学校・官庁は休むのか(加藤高明内閣総理大臣の答弁は,休まない。),当日議会が審議を休んでよいのか(加藤内閣総理大臣の答弁は,「諸君ノ意ニ於テ決セラレタラ宣カラウ」。),国葬費に係る追加予算の議会提出すらないうちに松方家に国葬内定を内達したというがそれでよいのか(加藤内閣総理大臣の答弁は,「帝国議会ノ協賛ヲ経ナケレバ,政府ノ独断デ費用ノ支払ノ出来ヌコトハ固ヨリ言フマデモナイコトデアル」。),4万円という金額は妥当か)粕谷義三議長に打ち切られています(第49回帝国議会衆議院議事速記録第679-81頁)。

(ちなみに,最近第209回国会が202283日にせっかく召集されましたが,政府から補正予算の提出のないまま,同月5日をもって閉会となっています。)

 

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1 はじめに:一文字多いのは大違い

 「一言多い人」は困った人で,また,一文字多いことによって言葉の意味が大いに変ずることがあります。例えば,「被告」と書けば穏便な民事事件であるところ,「被告人」と書けば剣呑な刑事事件となるが如し。

 「国葬」と「国葬儀」との関係も同様でしょう。両者は似てはいるのですが,異なるものと解されます。(正確には「国葬儀」に対応するのは「国葬たる喪儀」なのですが,「国葬たる喪儀」を含めて「国葬」といわれているようです。)

 

2 国葬令

 まず,「国葬」の語義を確かめるべく,19261021日付けの官報で公布された大正15年勅令第324号を見てみましょう。

 

(1)条文

 

  朕枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ国葬令ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 

   御名 御璽

    摂政名

 

    大正151021

     内閣総理大臣  若槻禮次郎

     陸軍大臣  宇垣 一成

     海軍大臣  財部  

     外務大臣男爵幣原喜重郎

     文部大臣  岡田 良平

     内務大臣  濱口 雄幸

     逓信大臣  安達 謙藏

     司法大臣  江木  翼

     大蔵大臣  片岡 直溫

     鉄道大臣子爵井上匡四郎

     農林大臣  町田 忠治

     商工大臣  藤澤幾之輔

 

  勅令第324

第1条 大喪儀ハ国葬トス

  第2条 皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃及摂政タル親王内親王王女王ノ喪儀ハ国葬トス但シ皇太子皇太孫7歳未満ノ殤ナルトキハ此ノ限ニ在ラス

  第3条 国家ニ偉勲アル者薨去又ハ死亡シタルトキハ特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアルヘシ

   前項ノ特旨ハ勅書ヲ以テシ内閣総理大臣之ヲ公告ス

  第4条 皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ヲ行フ当日廃朝シ国民喪ヲ服ス

  第5条 皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ノ式ハ内閣総理大臣勅裁ヲ経テ之ヲ定ム

 

(なお,官報に掲載された文言には誤植がありましたので,御署名原本により改めました。1条の「国喪」を「国葬」に,②第3条の第1項と第2項との間に改行がなかったところを改行,③第3条の「勅書ヲ以テ内閣総理大臣」を「勅書ヲ以テシ内閣総理大臣」に)

 

 大正15年勅令第324号には施行時期に関する規定がありません。しかしながらこれは,公式令(明治40年勅令第6号)によって手当てがされています。すなわち,同令11条(「公布ノ日ヨリ起算シ満20日ヲ経テ之ヲ施行」)により,19261110日からの施行ということになります。

 

(2)枢密院会議

 

ア 摂政宮裕仁親王臨場

国葬令の上諭には枢密顧問の諮詢を経た旨が記されています(公式令73項参照)。当該枢密院会議は,19261013日に開催されたものです。同日午前の摂政宮裕仁親王の動静は次のとおり。

 

 13日 水曜日 午前10時御出門,宮城に御出務になる。神宮神嘗祭に勅使として参向の掌典長谷信道,今般欧米より帰朝の判事草野豹一郎ほか1名に謁を賜う。1030分より,枢密院会議に御臨場になる。皇室喪儀令案・国葬令ほか1件が〔筆者註:当該「ほか1件」は,開港港則中改正ノ件〕審議され,いずれも全会一致を以て可決される。正午御発,御帰還になる。(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)542頁)

 

イ 審議模様

 当該枢密院会議における国葬令案審議の様子は,枢密院会議筆記によれば次のとおりです(アジア歴史資料センター(JACAR: Ref. A03033690300)。

 

(ア)伊東巳代治

 まず,枢密院の審査委員長であった伊東巳代治が審査結果の大略を報告します。

 

   国葬ハ国家ノ凶礼〔死者を取りあつかう礼。喪礼。(『角川新字源』(1978年(123版)))〕ニシテ素ヨリ重要ノ儀典ナルカ故ニ国法ヲ以テ其ノ条規ヲ昭著スルハ当然ノ措置ナリ則チ本案ハ〔天皇の勅定する〕勅令ノ形式ヲ以テ国葬ノ要義ヲ定メ以テ皇室喪儀令〔筆者註:こちらは大正15年皇室令第11号です。皇室令とは,「皇室典範ニ基ツク諸規則,宮内官制其ノ他皇室ノ事務ニ関シ〔天皇の〕勅定ヲ経タル規程ニシテ発表ヲ要スルモノ」です(公式令51項)。〕ニ承応セムトスルモノニシテ先ツ天皇及三后〔太皇太后,皇太后及び皇后〕ノ大喪儀〔皇室喪儀令4条・5条・8条参照〕並皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃及摂政タル親王内親王王女王ノ喪儀ハ国葬トスルコトヲ定メ其ノ他ノ皇族又ハ皇族ニ非サル者ニシテ国家ニ偉勲アルモノ薨去(こうきよ)〔皇族・三位以上の人が死亡すること。(『岩波国語辞典第四版』(1986年))〕又ハ死亡シタルトキハ〔天皇の〕特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアルヘク此ノ特旨ハ勅書ヲ以テシ内閣総理大臣之ヲ公告スヘキモノトシ皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ヲ行フ当日廃(ママ)シ国民喪ヲ服スヘク其ノ喪儀ノ式ハ内閣総理大臣〔天皇の〕勅裁ヲ経テ之ヲ定ムヘキモノトス

以上述ヘタル所カ両案〔皇室喪儀令案(これの説明部分は本記事では省略されています。)及び国葬令〕ノ大要ナリ之ヲ要スルニ皇室ノ喪儀及国葬ハ倶ニ国家ノ式典ニシテ儀礼ヲ修メテ(せん)(ばう)〔あおぎしたう。(『角川新字源』)〕(そな)ヘサルヘカラサルモノナリ本案皇室喪儀令及国葬令ノ2令ハ則チ之カ要義ヲ昭著スルモノニシテ(まこと)允当(ゐんたう)〔正しく道理にかなう。(『角川新字源』)〕ノ制法ナリト謂ハサルヘカラス今ヤ帝室ノ令制(やうや)ク整頓シテ典章正ニ燦然タルニ(あた)リ更ニ之ニ加フルニ皇室喪儀令ヲ以テシテ皇室喪儀ノ項目ヲ明徴ニスルハ(けだ)シ前来規程ノ足ラサルヲ補ヒテ皇室制度ノ完備ヲ図ラムトスルモノニ外ナラス又国葬令ヲ以テ皇室喪儀令ト相()チテ国家凶礼ノ大綱ヲ昭明ナラシムルハ蓋シ国法ノ完璧ヲ期スルノ所以(ゆゑん)タルヘキコト言ヲ俟タサルナリ更ニ本案2令ノ条文ヲ通看スルニ孰レモ事ノ宜シキニ適シテ特ニ非議スヘキ点ヲ認メス(より)テ審査委員会ニ於テハ本案ノ2件ハ倶ニ此ノ儘之ヲ可決セラレ然ルヘキ旨全会一致ヲ以テ議決シタリ

 

(イ)江木枢密顧問官vs.山川法制局長官

江木千之枢密顧問官が,お金に細かい質問をします。

 

 35番(江木) 国葬令ニ付当局ニ一応質問シタキ事アリ国葬令第3条ニ依リ国家ニ偉勲アル者薨去又ハ死亡シタルトキ特旨ニ依リ国葬ヲ賜フ場合ニハ先ツ以テ其ノ勅書ヲ発セラルルヤ又ハ国葬ニ関スル費用ニ付帝国議会ノ協賛〔筆者註:大日本帝国憲法641項参照〕ヲ経タル後該勅書ヲ発セラルルコトト為ルヤ

 

 山川端夫法制局長官はさらりとかわそうとしますが,江木枢密顧問官は,しつこい。

 

  委員(山川) 国葬令ニ於テハ国葬ノ行ハルル場合ノ大綱ヲ示セルニ止リ愈其ノ実行セラルル場合ニ於テハ予算等ノ関係ヲ生スヘシ其ノ際ニハ一般ノ例ニ従ヒ夫々必要ナル手続ヲ尽シタル上ニテ実行セラルヘキナリ

  35番(江木) 国葬ヲ行フ場合ニハ先ツ以テ帝国議会ニ其ノ予算ヲ提出シ協賛ヲ経タル上ニテ勅書ヲ発セラルルヤ其ノ辺ノ御答弁明瞭ナラス

  委員(山川) 既定予算ニ項目ナキ事項ニ付テハ別ニ予算ヲ立テテ議会ノ協賛ヲ経サルヘカラス然レトモ緊急ノ場合ニハ予備費支出等ノ途アリ其ノ孰レカノ方法ニ依リ先ツ支出ノ途ヲ講セサルヘカラス

  35番(江木) 然ラハ帝国議会開会ノ場合ニ於テハ先ツ以テ国葬費ノ予算ヲ提出シ其ノ協賛ヲ経タル後勅書ヲ発セラルルモノト了解シテ可ナルカ

  委員(山川) 然リ

 

(3)国葬令3条による国葬の例

いやはや議会対策は大変そうだねと思われますが,その後国葬令3条に基づいて国葬を賜わった者の薨去が,帝国議会開会中に生じてしまうということはありませんでした。

193465日に国葬たる喪儀があった東郷平八郎は同年530日に薨去したもので,当時,帝国議会は閉会中でした(第65回通常議会と第66回臨時議会との間)。1940125日に国葬たる喪儀があった西園寺公望についても同年1124日の薨去と当該喪儀との間に帝国議会は開かれていません(第75回通常議会と第76回通常議会との間)。1943418日の山本五十六戦死と同年65日の国葬たる喪儀との間も閉会中でした。(第81回通常議会と第82回臨時議会との間)。ただし,閑院宮載仁親王薨去の1945520日とその国葬たる喪儀の同年618日との間には,同月9日に開会し,同月12日に閉会した第87回臨時議会がありましたが,載仁親王が午前410分に薨去したその日の午後430分には早くも「情報局より,親王薨去につき,特に国葬を賜う旨を仰せ出されたことが発表される。」という運びになっており,かつ,当初は同年528日に斂葬の儀までを終える予定でした(宮内庁『昭和天皇実録 第九』(東京書籍・2016年)671頁)。宮城までも焼失した525日夜から26日未明までの東京空襲で,日程が狂ってしまったものです(実録九682頁)。第87回帝国議会召集の詔書に係る上奏及び裁可は,62日のことでした(実録九687頁)。

 

(4)国費葬

ついお金の話になってしまうのは,天皇及び三后並びに直系皇嗣同妃及び摂政並びにその他の皇族にして国家に偉勲あるものの大喪儀ないしは喪儀を皇室限りの事務とはせずに,国葬として国家の事務とするのは,そもそも皇室費ではなく国費をもってその費用を負担することとするのがその眼目であったからでしょう。

美濃部達吉いわく,「皇室ニ関スル儀礼ノ中或ハ国ノ大典トシテ国家ニ依リテ行ハルルモノアリ,即位ノ礼,大嘗祭,大喪儀其ノ他ノ国葬ハ是ナリ。即位ノ礼及大嘗祭ハ皇室ノ最モ重要ナル儀礼ニシテ其ノ式ハ皇室令(〔明治〕42年皇室令1登極令)ノ定ムル所ナレドモ,同時ニ国家ノ大典ニ属スルガ故ニ,国ノ事務トシテ国費ヲ以テ挙行セラル。〔略〕国葬モ亦国ノ事務ニ属ス〔略〕。此等ノ外皇室ノ儀礼ハ総テ皇室ノ事務トシテ行ハル。」と(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)217-218頁。下線は筆者によるもの)。

1926913日付けで一木喜徳郎宮内大臣から若槻内閣総理大臣宛てに出された照会書別冊の国葬令案の説明(JACAR: A14100022300)にも「恭テ按スルニ天皇及三后ノ喪儀ハ国家ノ凶礼ニシテ四海(あつ)(みつ)〔音曲停止。鳴りものをやめて静かにする。(『角川新字源』)〕挙テ喪ヲ服シ悼ヲ表スル所則チ国資ヲ以テ其ノ葬時ノ用ニ供スルハ亦我国体ニ於テ当然ノコトニ属ス皇嗣皇嗣妃及摂政ノ喪儀ハ身位ト重任トニ視テ宜ク国葬トスヘキナリ又近例国家ニ偉勲アル者ノ死亡ニ当リ之ニ国葬ヲ賜フコトアルハ蓋其ノ偉蹟ヲ追想シ之ヲ表章スルニ国家ノ凶礼ヲ以テスルノ特典タルニ外ナラス既ニ皇室服喪令ノ制定アリ今又皇室喪儀令ノ制定セラルルニ当リテハ国葬ノ定義ヲ明ニシ兼テ其ノ条規ヲ昭著スル所ナカルヘカラス是レ本令ノ制定ヲ必要トスル所以ナリ」とあります(下線は筆者によるもの)。

 

(5)国葬令(勅令)と皇室喪儀令及び皇室服喪令(皇室令)と

 国葬令と皇室喪儀令及び皇室服喪令(明治42年皇室令第12号)とには密接な関係があるわけです。実は,法令番号と第1条との間に「国葬令」との題名が記載されていないので,厳密には,「国葬令」は,大正15年勅令第324号の題名ではなく上諭の字句から採った件名にすぎず,その理由をどう理解すべきか悩んでいたのですが,単なる立法ミスによる欠落でなければ,皇室喪儀令及び皇室服喪令の附属法令として,ことごとしく題名を付けることは遠慮した,ということでしょうか。

 皇室喪儀令及び皇室服喪令は皇室令ですが,国葬令は勅令です。これは,経費の国庫負担を定める法形式として皇室令はふさわしくないからでしょう。共に天皇が総覧する皇室の大権と国家統治の大権との相違点の一つとして,美濃部達吉いわく,「其ノ経費ノ負担ヲ異ニス。国ノ事務ニ要スル経費ハ国庫ノ負担ニ属スルニ反シテ,皇室ノ事務ニ要スル経費ハ皇室費ノ負担ニ属ス。皇室ノ財産及皇室ノ会計ハ国ノ財産及国ノ会計トハ全ク分離セラレ,国庫ハ唯毎年定額ノ皇室経費ヲ支出スル義務ヲ負フコトニ於テ之ト関係アルニ止マリ,其ノ以外ニ於テハ皇室ノ財産及皇室ノ会計ノ管理ハ一ニ皇室ノ自治ニ属シ,国ノ機関ハ之ニ関与スルコトナク,而シテ皇室事務ニ要スル一切ノ経費ハ皇室費ヲ以テ支弁セラル。」と(美濃部215頁)。国葬令の副署者には,ちゃんと大蔵大臣が含まれています。

 なお,1909年の皇室服喪令162項には「親王親王妃内親王王王妃女王国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ヲ行フ当日臣民喪ヲ服ス」と規定されており(下線は筆者によるもの),国葬の存在を既に前提としていました。ちなみに,皇室令をもって臣民を規律し得ることは,「或ハ〔皇室令が〕単ニ皇室ニ関スルニ止マラズ同時ニ国家及国民ニ関スルモノナルコトアリ,此ノ場合ニ於テハ皇室令ハ皇室ノ制定法タルト共ニ又国法タル効力ヲ有ス。」というように認められており(美濃部104頁),それが可能である理由は大日本帝国憲法に求められていて,「憲法ノ趣意トスル所ハ皇室制度ニ関スル立法権ハ国法タル性質ヲ有スルモノニ付テモ之ヲ皇室自ラ定ムル所ニ任ジ議会ハ之ニ関与セズト謂フニ在」るからであるとされていました(美濃部102頁)。

 

(6)国葬の定義を明らかにする必要性

 なお,一木宮相照会書にいう「国葬ノ定義ヲ明ニシ」に関しては,帝室制度調査局総裁である伊藤博文の明治天皇に対する1906613日付け上奏(JACAR: A10110733300)において「而シテ近例国家ニ偉勲アル者死亡ノ場合ニ当リ之ニ国葬ヲ賜フコトアルハ蓋其ノ偉蹟ヲ追想シ之ヲ表章スルニ国家ノ凶礼ヲ以テスルノ特典タルニ外ナラス然ルニ其ノ本旨(やや)モスレハ明瞭ヲ()(あたか)モ国葬即チ賜葬ノ別名タルカ如ク従テ其ノ制モ亦定準ナキノ観アリ殊ニ皇室喪儀令及皇室服喪令ノ制定セラルルニ当リテハ国葬ノ定義ヲ明ニシ兼テ其ノ条規ヲ昭著スルモノナクハ両令ノ運用ヲ円滑ニシ憲章ノ完備ヲ期スルコト能ハス是レ本令ノ制定ヲ必要トスル所以ナリ」とありました(下線は筆者によるもの)。1906年の当時,天皇が国葬を賜う(あるいは天皇に葬式をおねだりする)基準が弛緩していると感じられていたわけです。

 

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