2021年12月

(上)「違法の後法」ならぬ「違法の現法」問題:

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(中)平成28年法律第49号附則5条と「民意」:

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079288885.html

 

(3)「全国民を代表する国会議員」の解釈論

平成28年法律第49号附則5条(改めて法文を確認すると,「この法律の施行後においても,全国民を代表する国会議員を選出するための望ましい選挙制度の在り方については,民意の集約と反映を基本としその間の適正なバランスに配慮しつつ,公正かつ効果的な代表という目的が実現されるよう,不断の見直しが行われるものとする。」です。)には「全国民を代表する国会議員を選出するための望ましい選挙制度」とあるところ,まず「全国民を代表する国会議員」の意味に関する憲法431項(「両議院は,全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」)の解釈問題が一応あります。全国民を代表するのは()議員なのでしょうか,議員ら全員で全国民を代表するのでしょうか。日本語は,単数か複数かがはっきりしないので難しいのです。(「おれは主権者国民だぞ」と役所の窓口において一人で頑張る難しい方々もいます。しかし,一人で日本国における主権を保持するとなると,明治天皇,大正天皇及び進駐軍上陸前の昭和天皇並みの至高の権力者ということになります。)

 

ア 通説・判例

「〔憲法〕431項が①両議院が「選挙された議員」で構成されること,しかもとくに②その議員は「全国民(の)代表」であること,を明記していることには特別の意味がある。すなわち,国会は,それを構成する議員がとくに選挙によって選ばれるということによって,民意を忠実に反映すべき機関であるとともに,同時に,その議員が単にその選挙区や特定の団体などの利益ではなく,国民全体の「福利」の実現を目指すべき存在にして,かつ法上その存在にふさわしい行動をとる自由を保障されるということによって,統一的な国家意思を形成決定できる機関であるということである(狭義の代表観念)。」ということですから(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)136頁),各議員が全国民を代表するということでしょう。判例も同様です。あるいは,「日本国憲法431項が「全国民を代表する選挙された議員」とのべるとき,そこでの定式化は,議員が地域や職能など部分の代表であることを禁止すると同時に,全国民の意思をできるだけ反映すべしという積極的要請を含む。」ともいわれています(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)152-153頁)。しかしながら,国会は「民意を忠実に反映すべ」しといわれれば«peuple»主権的である一方,議員は国民を代表して「国民全体の「福利」の実現を目指す」といわれれば«nation»主権的ではあります。要は我が選良諸賢は(ぬえ)的存在であるということでしょうか。

ちなみに,各議員が全国民を代表するのならば,全国1区制度がいいじゃないか,とも考えられます。広過ぎて大変だと言われるかもしれませんが,米国のアラスカ州及びモンタナ州選出の連邦下院議員は,2年ごとの改選(米国憲法121項)の都度日本よりも広い当該各州内を駆け回っているのです(両州から選出される連邦下院議員はそれぞれ1名のみ)。しかし全国1区論は,極論でしょう。

 

イ 憲法431項の英語文から

 

(ア)英語文

ところで,ここで憲法431項の英語文を見ると,実は難しい。

“Both Houses shall consist of elected members, representative of all the people.”とあります。“elected members”は,“representative of all the people”ではあるが, “representatives of all the people”ではないのです。後者の複数形名詞であれば,各議員が全国民の代表であると素直に解釈できます。しかし,現実の正文は単数形ですので,議員ら全体で全国民を代表する(各議員についてはその限りでない。)という解釈が可能になりそうです。立法経緯に基づく解釈を試みてみましょうか。しかしそのためには同項の発案者を知らねばなりません。GHQ民政局か,それとも日本側か。少し調べてみると,どうもやはりこれも,GHQの権威下に定められた条項であるようです。

 

(イ)GHQ民政局

1946213日に日本国政府に交付されたGHQ草案においては一院制が採用されており,その第41条は“The Diet shall consist of one House of elected representatives with a membership of not less than 300 nor more than 500.”(国会は,300人以上500人以上の選挙された代議員によって組織される一つの議院によって構成される。)というものでしたが,両院制を採るに至った現在の日本国憲法の第431項もまたGHQの発案によるものなのでした。

日本国憲法431項に対応する条項については,194634日から同月5日までのGHQ民政局と日本政府との徹宵協議の場において「両議院共通ノ条文トスベシ,各院別々ノ規定ハ不可ト云フ。「国民ニ依リ選挙セラレ国民全体ヲ代表スル議員ヲ以テ組織ス」ト為スベシトス。(然ルニ決定案ニハ「国民ニ依リ」ニ当ルベキ英文ナシ理由不明)定数ハ法律ヲ以テ定ムルコトト為ル」との指示が日本側に対してあったそうです(佐藤達夫(法制局第一部長)「三月四,五両日司令部ニ於ケル顚末」)。GHQ側は既にあらかじめ準備を整えていたようで,「先方ニテ対案ヲ予メ準備セルモノノ如ク逐一,松本案ニ付修正申入アリ」ということでした(佐藤達夫・同)。194636日付けのGHQ資料(同日発表の日本国政府による憲法改正案草案要綱の英語版)を見ると,日本国憲法431項に対応する条項の英語文は,既に現在のものと同じです。佐藤達夫部長に対してされた修正申入れの英語も,当該英語文に対応するものだったのでしょう。

 

(ウ)アメリカ的な立場:議員=選挙区の代表者

 各議員が全国民を代表することを明示するrepresentativesの語が用いられなかったことは,あるいはアメリカ独立革命の精神からすると当然のことであったように思われます。イギリス領時代の北米植民地における議会の議員の性格について,田中英夫教授はいわく。

 

   ここで注目すべきことは,議員は何よりもまずその選挙区の代表者であるというアメリカ的な立場が,すでにこの時期に確立されていることである。議員に選ばれる者は,その選挙区に住所を有していなければならないとされた〔筆者註:米国憲法122項及び第33項は,選挙された時点で選出州の住民でない者は連邦議会の議員たり得ないと規定しています。〕。また,その選挙区の住民が具体的問題について議員は議会においてこう行動しなければならないという決議をしたときは,それに従うのが議員としての道であるという考え方が,支配的であった。イギリスでも,中世にはこのような考え方が存在したことがあるが,この時期においては,国会議員は(地方の利益を離れて)国全体の利益を代表し国全体のために討議すべきであるという観念が確立されていたのである。代議制観における本国と植民地の間の差異は,独立に際しての両者の間の憲法上の主張の対立の背景の一つとなるのである。

  (田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)190-191頁。下線は筆者によるもの)

 

「代表なければ課税なし」とのアメリカ独立革命の有名なスローガンを掲げるためには,北米植民地人は,イギリス本国的なvirtual representation(観念的代表制)の考え方を採るわけにはいかなかったわけです(田中200-201頁参照)。

(なお,GHQ「全国民を代表する」との文言を入れさせたことについては,「我帝国議会は主権者であり,又は固有の参政権を有つて居る所の人民を代表するものでないことは申すまでもない,〔略〕我国に於て国会を以て人民全体であるといふ法律上の擬制を立てたと見るべき根拠は全く無いのである,又政治上の精神と致しても人民を代表するといふことは出来ぬのである」(上杉慎吉『訂正増補帝国憲法述義(第九版)』(有斐閣書房・1916年)329頁),「帝国議会は一個の官府である,独立固有の存在を有つて居るものでなくして,天皇の意思を本として其存在を有して居るものであります」(同331-332頁)というような学説に対して念を入れた警戒をしたということもあるかもしれません。)

 以上のようなことであれば,各議員はその選挙区を代表するものの,議員ら全体(国会)においては全国民を代表するのだ,という憲法431項解釈の定式化も実は可能ではあったかもしれません。(ルソーの『社会契約論』第2編第3章には,「〔私的利害しか考慮しない全員(みんな)の意思(la volonté de tous)は,〕各個の意思の総和にすぎない。しかし,これらの意思から,相殺する(プラス)(マイナス)とを取り除けば,差の総和として,一般意思(la volonté générale)が残るのである。」とあります。また,検察審査会がその「域内の人々全体を真実に代表する」ものである(the body is truly representative of the people as a whole)ことを確保するために,検察審査員候補者の予定者に係る選挙人名簿からの抽籤による選定制(検察審査会法101項)が採用されたと説明する前記GHQ担当者による記者会見も想起されるところです。

 

(エ)ベルギー的定式の可能性:全国民と選挙区との二重代表

あるいは,「アメリカ的な立場」の例に加えて,ベルギー国憲法42条のLes membres des deux Chambres représentent la Nation, et non uniquement ceux qui les ont élus.”(両議院の議員は全国民(la Nation)を代表し,彼らを選出した者のみを代表するものではない。)との規定の後段の反対解釈を援用し,日本国憲法431項の解釈として,同項は各国会議員に係る全国民の代表たる性格を規定するものの,他方,彼(女)がその選挙区を同時に代表することを否定してはいないのだ,と主張することは可能ということにはならないでしょうか。

すなわち,ベルギー国のトニセンは,その同国憲法逐条解説書の第32条(「両議院ノ議員ハ国民ヲ代表スル者ニシテ之ヲ選挙シタル州又ハ州ノ一部ノミヲ代表スルニ非ス」(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)448-449頁記載の訳)。現行42条に対応)解説においていわく。「議員は国家の受託者であり,彼らが当選した選挙区のそれではない」し,同条は「命令的委任(mandat impératif)と両立するものではない」,しかしながら,「疑いなく,議員は,彼がより直接代表する(représente plus directement)選挙区の期待や必要を等閑に付してはならない。しかしながら,地域の利害が国の一般的利害に反する全ての場合においては,祖国が,州,更にいわずもがなであるが郡(arrondissement)及び市町村(commune)に優先しなければならないということを彼は決して忘却してはならない。」と(J.-J. Thonissen, La Constitution belge annotée, offrant, sous chaque article, l’état de la doctrine, de la jurisprudence et de la législation (Bruylant-Christophe, Bruxelles; 1879) p.135)。これは,政治の実際に照らして,現実的な解釈論ではないでしょうか。(「単にその選挙区や特定の団体などの利益ではなく」云々と説く,日本国憲法に関する前記の学説も,「憲法は,議員が選挙区単位で選任され,各議員が各選挙区の選挙人の意向を忠実にくみとるべきことを期待しつつ,同時に,そのことを前提にして,自由な討論・表決を通じて国会が統一的な国家意思を形成することを期待しているもの」と解釈しています(佐藤幸治141頁。下線は筆者によるもの)。)

ただし,美濃部達吉は,ベルギー国憲法旧32条を「両議院の議員が共に全国民を代表する者であることは,多くの国の憲法に明言せられて居る」うちの一つとして紹介しつつ,その著書の本文においては大日本帝国憲法の解釈として「衆議院の議員は各選挙区に於いて選挙せられるにしても,法律上はその選挙区を代表する者ではなく,等しく全国民を代表する者である。」と,衆議院議員がその選挙区を代表することをばっさりと否定しています(美濃部448-449頁。下線は筆者によるもの)。

 

(4)「民意の集約と反映」及び「その間の適正なバランス」

 平成28年法律第49号附則5条においては更に「民意の集約と反映を基本としその間の適正なバランスに配慮」すべきことが規定されています。どう読むべきなのでしょうか。

 まず,この「配慮」は,「選挙制度」にかかるものでしょう。「民意の集約と反映」とを行うべく国会内における議論・折衝をどのように行うかの話ではありません。(また,「不断の見直し」にかかるものでもないでしょう。)当選した国会議員が登院して来た時において既に一定の「民意の集約と反映」とがなされてあることになります。

しかし,各議員の全国民代表性をとことん追求する議論をして,いったん選ばれた各議員は等しく純粋に全国民の代表であるものであるとすれば,選挙制度がどのようなものであったのかは問題にならないことになってしまうように思われます(なお,「1票の格差」問題は,専ら純粋に個々の有権者の1票の重みに係る平等問題として考えれば,ゲリマンダリングによる是正でもよいのでしょうし(あるいは,ふるさと納税式のふるさと投票というのはどうでしょうか。),地域ごとの民意がどう国政において反映されるかの問題にはならないわけです。)。しかし,やはり議員はその選挙区における実在の民意を代表するものであるからこそ,選挙制度が問題となるのでしょう。

判例は,議席の多数を確保する政権政党への民意の「集約」を考えているようです。いわく,「小選挙区制は,全国的にみて国民の高い支持を集めた政党等に所属する者が得票率以上の割合で議席を獲得する可能性があって,民意を集約し政権の安定につながる特質を有する反面,このような支持を集めることができれば,野党や少数派政党等であっても多数の議席を獲得することができる可能性があ」る,と(最大判平成111110日民集5381704頁)。ここでは各議員ではなく政党が単位となっており,政権政党が「得票率以上の割合で議席を獲得」することが「民意の集約」であるということになっています。野党の観点からすれば,「民意の集約」だと上品に言ってはいるが要は少数民意の切捨てだ,ということになるかもしれません。

政党という書かれざる要素を算入して解釈すれば,平成28年法律第49号附則5条においては,「集約」(これは各議員に対するものではなく,政党に対するもの)は政権の安定(それと同時に,政権交代の可能性)という価値(小選挙区制)であり,「反映」は得票率に応じた議席数を各政党が確保することの価値(比例代表制)を意味するということになるのでしょう。

 なお,「憲法は,政党について規定するところがないが,その存在を当然に予定しているものであり,政党は,議会制民主主義を支える不可欠の要素であって,国民の政治意思を形成する最も有力な媒体であるから,国会が,衆議院議員の選挙制度の仕組みを決定するに当たり,政党の右のような重要な国政上の役割にかんがみて,選挙制度を政策本位,政党本位のものとすることは,その裁量の範囲に属することが明らかであるといわなければならない。」というのが判例です(前掲最大判平成111110日)。しかし,これに対しては,「政党の存在を憲法上「当然に予定」されたものという説明は,近代憲法=議会制の発展史からして,自明のものとはいえない。もともと憲法が「無視」さらには「敵視」さえしてきた政党が,そのはたらきの重要性ゆえに憲法上「予定」され,さらには,明記されるようになる例もあらわれるようになったことを,「当然」のこととしてでなく,緊張関係の経過の認識でとらえる必要がある。そうすれば,政党を法が処遇すること自体,結社しない自由を含む結社の自由を侵す可能性をもたらすことにならないか,という問題が意識されることになろう。」という批判的見解があります(樋口・憲法Ⅰ・191-192頁)。憲法13条の「すべて国民は,個人として尊重される。」との規定によれば国家創設の社会契約の当事者は個人であったはずなのに,当該国家の国政運営に関与する段階になると,「すべて国民は,政党員ないしは政党支持者として尊重される(respiciuntur)。」ということになるのかいな,という感慨が生ずるところです。「「代表」の禁止的規範意味は,「地域」や「職能」や「身分」を基礎単位とする社会編成原理を否定し,諸個人(●●)の自由な結合として国民(●●)を想定する近代個人主義の世界観を反映するもの」です(樋口・憲法Ⅰ・154頁)。

 

(5)「公正かつ効果的な代表という目的」

「公正かつ効果的な代表」という文言も,判例に基づくものでしょう。「代表民主制の下における選挙制度は,選挙された代表者を通じて,国民の利害や意見が公正かつ効果的に国政の運営に反映されることを目標とし,他方,政治における安定の要素をも考慮しながら,それぞれの国において,その国の実情に即して具体的に決定されるべきものであり,そこに論理的に要請される一定不変の形態が存在するわけではない。我が憲法もまた,右の理由から,国会の両議院の議員の選挙について,およそ議員は全国民を代表するものでなければならないという制約の下で,議員の定数,選挙区,投票の方法その他選挙に関する事項は法律で定めるべきものとし(43条,47条),両議院の議員の各選挙制度の仕組みの具体的決定を原則として国会の広い裁量にゆだねているのである。」とともに「国会は,その裁量により,衆議院議員及び参議院議員それぞれについて公正かつ効果的な代表を選出するという目標を実現するために適切な選挙制度の仕組みを決定することができる」というわけです(前掲最大判平成111110日等)。選挙後の国政運営の在り方も当該理念の射程に含まれるのでしょう。平成28年法律第49号附則5条の「公正かつ効果的な代表」とは,「国民の利害や意見が公正かつ効果的に国政の運営に反映」されている代表民主政の状態を意味するようです。「公正かつ効果的な代表を選出」するための,各候補者の資質を測定・判断する仕組みが整っている状態を指すものではないのでしょう。「国民の利害や意見」は,「民意」とほぼ同視してよいのでしょう。

「公正かつ効果的」とは何か。「公正」は,『岩波国語辞典 第四版』(1986年)によれば「かたよりがなく正当なこと」又は「はっきりしていて正しいこと」です。「効果」は,同じ辞書によれば「よい結果。望ましい結果。ききめ。」です。民意の国政への反映が効果的であるということは,国政が民意に忠実に従って運営されることの確保であり,民意の国政への反映が公正であるということは,国政が民意に従うに当たっては偏りなく総花的たるべしということである,と解すべきでしょうか。ただし,なおいろいろな解釈の余地がありそうです。

ところで,「およそ議員は全国民を代表するものでなければならない」ということは,判例のいうように「制約」でしょうか。筆者には,むしろ「制約」を緩和してしまうもののように思われます。すなわち,名誉革命後の混合政体下イギリスにおける選挙制度及びその考え方は次のようなものだったといわれています。

 

    (iii)議員数は人口に比例すべきだという考えは,とられなかった。

    (iv)選出された議員は,選挙民の意思には拘束されないものとされた。

   この(iii)と(iv)は,virtual representation(観念的代表制)の理論で説明される。すなわち,議員は,どこの選挙区から選ばれていようと,常に全国民の代表なのである;従って,選挙民の意思には拘束されない;ある地区が人口に相応する数の議員を送っていないということがあっても,その地区は,その議員によってのみ代表されるのでなく,庶民院の全議員によって代表されているのであるから,不都合はない,とされた。

  (田中141頁)

 

4 再び細野議長発言に関して

 細田議長は,小選挙区選出の各衆議院議員に係るその選挙区の人口数を彼此比較した場合の多寡・較差を問題とはせず(これはいわゆるアダムズ方式で是正されます。),むしろその先の,そもそも都会地から選出された議員の比率が増えることが問題なのだ,と考えておられます。

確かに,「人口の都市集中化の現象等の社会情勢の変化を選挙区割りや議員定数の配分にどのように反映させるかという点も,国会が政策的観点から考慮することができる要素の一つである」ところです(前掲最大判平成111110日等)。しかし,だから当該反映の速度は今回は緩和されるべきなのだという主張に対しては,それは前から分かっていた上で決めた話なのだし(前掲小池日本共産党書記局長発言参照。第190回国会の衆議院本会議で,不断の見直しに当たっては「特に人口が急激に減少している地域の民意を適切に反映させることに留意す」べしとする民進党提出法案(同法案附則42項)は否決されています(2016428日)。日本共産党は当該法案に反対しているので一貫しているのですが,旧民進党系の方々はどうするのでしょうか。),これからの制度としても,2020年の国勢調査結果による今次改正に続く公職選挙法別表110年ごと改正に係る10年という期間は十分長いではないか(「十年一昔」),という反論が可能なようであります。これに対する再反論は,高齢化社会における正統な多数派である老人にとって,頭も体も錆びついてからの変化は過酷であり,「十年一日」のancien régime(現在の日本においては,昭和的なるもの,でしょうか。)の維持こそが望ましいのだ,平成28年法律第49号の制定当時(2016年)の我々はまだ元気だったので分からなかったが,最近になって寄る年波でつくづくそう実感するのだ,ということになりましょうか。なるほどもっともではあります。(Mais, “ils n’ont rien appris, ni rien oublié.”

あるいは,都会地選出議員の比率が高まると,「民意の集約」に係る利点たる「政権の安定」効果及び「政権の交代を促す特質」が弱まる,ということでしょうか。しかし,ここでの「政権の安定」は,議会における与党現有議席数が十二分に多いことによる専ら当該議員らの任期中における政権の安定であって,「政権の交代を促す特質」と矛盾してはならないものでしょう。むしろ,選挙ごとに与野党間における大幅な議席の入れ替わりを伴う政権交代が可能であることが期待されていたはずです。そうであれば,仮に都会の方が人心の変化が速くてかつ大きいのであれば,都会地選出議員の比率が高まることは,むしろ当該効能に親和的であるように思われます。

マディソン的に細田議長の前記危惧を正当化するならば,都会地出身の議員の比率が増加すると多数党派による弊害・抑圧が起こりやすい,ということでしょうか(しかしこれは,多数派の意思たる民意は実は必ずしも無謬ではない,「代表」の(ふるい)による是正が必要である,という認識を含意することになりそうです。確かに,「おかしな思い込み若しくはいかがわしい利得に衝き動かされ,又は利害関係者による巧妙なまやかしに誤導されて,人民が,彼ら自身後になって思いきり悔やみかつ非難することになる政策を求める常ならざる事態が,政事においては起こるものである」(Madison, op. cit. No. 63)ところではあります。)。都会地からより多くの議員が選出される場合,都会地は狭い地域なので,彼らはその近接性によって利害をより強く共同にし,かつ,その間の連絡協働も容易であり,党派をなした上で国全体に害を及ぼす危険が地方選出の議員らの場合に係るそれよりも大きい,というような説明が試みられるのでしょうか。地方人一人の方が都会人一人よりも人として価値があるのだ,とか,浮華の巷における積極的堕落のゆえ,あるいは消極的遊惰のゆえ,都会人の民意の内容は地方人の民意のそれよりも劣っているのだ,などとはなかなか言えないでしょう。(マディソンは,都会人たる古代アテネ市民の資質に対して偏見を持っていたようですが。)

 地方は弱いから弱者を救済してくれ,でしょうか。しかし,弱者救済という崇高な政策に対してならば,当該地方からの選出議員ならずとも,全国民を代表する高潔な議員ならば皆々賛成してくれるのではないでしょうか。それとも弱者救済は,実は国民全体の利益にはならないのでしょうか。

 無論,国会は,平成28年法律第49号附則5条に規定する見直しをするに当たって,専ら同条の枠組みに拘束されるものではありません(なお,同条自体が「集約と反映」との「適正なバランス」をいっていますから,小選挙区の方における何らかの無理の辻褄を比例代表区の方で合わせるということも,あるいはあるかもしれません。)。2016427日の衆議院政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会の附帯決議においては,「本改正案附則第5条に規定する選挙制度の見直しに際しては,1票の較差の是正,定数等の在り方の検討という課題への対応のみにとどまらず,国会の果たすべき役割といった立法府の在り方についても議論を深め,全国民を代表する国会議員を選出するためのより望ましい制度の検討を行うものとする。」とされています(第190回国会衆議院政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会議録第921頁)。「立法府の在り方」ですから,極めて間口が広い。また,理論的一貫性も重視し過ぎてはならないのでしょう。18世紀のイギリス混合政体論からすると「民主制がいかにたてまえとして優れ,理論として一貫しているとしても,それは結局は暴民政治に走り,やがてはその反動として専制をもたらすことは,人類の歴史の明示するところ」なのでした(田中142頁。下線は筆者によるもの)。

細田議長発言による問題提起はどのような波動を起しつつ,我が国の空気中に伝播していくのでしょうか。いずれにせよ,主権が国民に存する我が日本国においては,全てはその時々の民意という風次第です。しかして,1828年には,風を呼ぶ男・ジャクソンに,いわゆるアダムズ方式のアダムズは敗れたのでした。

 

 〔前略〕民主政の時代が来たのである(Democracy was in)。エリートの時代は終わった。新しい力が解き放たれつつあり,新しい方途がとられつつあった。「彼は,風と共にやって来る。(When he comes, he will bring a breeze with him.)」と〔ダニエル・〕ウェブスターはジャクソンについて語った。「どちらの方角にそれが吹くのか,私には,分からない。」分からないのは,彼一人だけではなかった。

 (Jon Meacham, American Lion: Andrew Jackson in the White House (Random House, New York; 2008) p.51

 

Hütet euch gegen den Wind zu speien!

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3 平成28年法律第49号附則5条の解釈論

しかし,平成28年法律第49号附則5条の解釈論は,憲法論的な観点等からして,面白い。

 

(1)法令用語としての「民意」の用例

まず「民意」という語が法令で用いられていること自体が珍しい。

 

ア 他の6法律・7箇条

e-Gov法令検索ウェブサイトで「民意」の語を検索してみると,実は,当該語は現在7法律中の全部で8箇条において出現しているだけです。しかして,平成28年法律第49号附則5条以外の6法律・7箇条は次のとおり(下線は筆者によるもの)。

 

 検察審査会法(昭和23年法律第147号)11項及び39条の25

  「公訴権の実行に関し民意を反映させてその適正を図るため,政令で定める地方裁判所及び地方裁判所支部の所在地に検察審査会を置く。ただし,各地方裁判所の管轄区域内に少なくともその一を置かなければならない。」(11項)

  「審査補助員は、その職務を行うに当たつては,検察審査会が公訴権の実行に関し民意を反映させてその適正を図るため置かれたものであることを踏まえ,その自主的な判断を妨げるような言動をしてはならない。」(39条の25項。11項の規定の繰り返しですね。)

 社会福祉法(昭和26年法律第45号)1144

  「第30条第1項の所轄庁は,共同募金会の設立の認可に当たつては,第32条に規定する事項のほか、次に掲げる事項をも審査しなければならない。

   〔第1号から第3号まで略〕

  四 役員,評議員又は配分委員会の委員が,当該共同募金の区域内における民意を公正に代表するものであること。」

 中央省庁等改革基本法(平成10年法律第103号)502

  「政府は,政策形成に民意を反映し,並びにその過程の公正性及び透明性を確保するため,重要な政策の立案に当たり,その趣旨,内容その他必要な事項を公表し,専門家,利害関係人その他広く国民の意見を求め,これを考慮してその決定を行う仕組みの活用及び整備を図るものとする。」

 文化芸術基本法(平成13年法律第148号)34

  「国は,文化芸術に関する政策形成に民意を反映し,その過程の公正性及び透明性を確保するため,芸術家等,学識経験者その他広く国民の意見を求め,これを十分考慮した上で政策形成を行う仕組みの活用等を図るものとする。」

 環境教育等による環境保全の取組の促進に関する法律(平成15年法律第130号)21条の21

  「国及び地方公共団体は,環境保全活動,環境保全の意欲の増進及び環境教育並びに協働取組に関する政策形成に民意を反映させるため,政策形成に関する情報を積極的に公表するとともに,国民,民間団体等その他の多様な主体の意見を求め,これを十分考慮した上で政策形成を行う仕組みの整備及び活用を図るよう努めるものとする。」

 生物多様性基本法(平成20年法律第58号)212

  「国は,生物の多様性の保全及び持続可能な利用に関する政策形成に民意を反映し,その過程の公正性及び透明性を確保するため,事業者,民間の団体,生物の多様性の保全及び持続可能な利用に関し専門的な知識を有する者等の多様な主体の意見を求め,これを十分考慮した上で政策形成を行う仕組みの活用等を図るものとする。」

 

イ 中央省庁等改革基本法502項等

 文化芸術基本法,環境教育等による環境保全の取組の促進に関する法律及び生物多様性基本法の各条項が中央省庁等改革基本法502項の影響を受けていることは歴然としています。「政策形成に民意を反映」ということですが,主に「専門家」及び「利害関係人」から意見を求めるということですから,ここでの「民意」は,実際的には民間の専門家(専門知に基づく専門家の意見は,一般人「民」の「意」見とは違うはずですが,朝臣・草莽間身分峻別論を前提とした上で,野の遺賢の意見としての官意ならぬ民意なのでしょう。)及び統治の客体(政策の受け手)のそれということになるのでしょう。

なお,中央省庁等改革基本法案が審議された第142回国会の衆議院行政改革に関する特別委員会(1998422日)において達増拓也委員が「役所が内閣提出法案の準備ということで国民の意見を吸収,民意を吸収して法律をつくっていくというのは,国会とのバランス上,非常に問題があるのではないかと思うわけであります。」と大きく問題提起をしていますが,「現状のような審議会への依存というものは,行政の法令立案機能を肥大化させて国会とのバランスを崩すものではないでしょうか,この点について伺いたいと思います。」と審議会論に議論は収縮され,当該質疑に対して橋本龍太郎内閣総理大臣も審議会の在り方に係る答弁をしています(第142回国会衆議院行政改革に関する特別委員会議録第539頁)。審議会については,「行政庁のいわば隠れ蓑になっていたりしているという批判の存在」が指摘されていました(塩野宏『行政法Ⅰ』(有斐閣・1991年)226頁)。「〔審議会〕の設置の理由は,概ね,行政の民主化,専門知識の導入,処分の公正さの確保,利害の調整にある(金子正史「審議会行政論」現代行政法大系7〔・〕118頁参照)」ものとされていたところ(塩野226頁),中央省庁等改革基本法502項の「民意を反映」は,審議会による「行政の民主化」機能を意味したものなのでしょう。いわゆるパブリック・コメントの制度に係る行政手続法(平成5年法律第88号)第6章は,2005年の平成17年法律第73号によって追加されたものであり,200641日からの施行です。

 

ウ 社会福祉法1144

 社会福祉法の「民意」は「共同募金の区域内」(都道府県単位(同法112条))のそれですから,あえて国家・国民レベルのものとして大きく出るものではなく,また,当該「民意」を代表する主体は共同募金会たる社会福祉法人にすぎません(同法1132項)。社会福祉法人をもって,統治主体であるとはいえないでしょう。同法1143号(「当該共同募金の配分を受ける者が役員,評議員又は配分委員会の委員に含まれないこと。」)と併せ考えると,寄附金配分の偏頗性の防止ないしはその疑いの回避のための「民意を公正に代表」云々なのでしょうか。

 

エ 検察審査会法1

 1948年の検察審査会法は連合国軍占領下における立法です。検察審査会の審査は英米法における「大陪審の穏やかな若しくは未発達な形態として性格づけることができる」ものとされていますので(アルフレッド・オプラー著・内藤頼博監訳(納谷廣美=高地茂世訳)『日本占領と法制改革――GHQ担当者の回顧』(日本評論社・1990年)87頁),同法における「民意」については,大陪審の制度を知っているGHQの担当者の見解が参考になるように思われます。

そこで,GHQ法務局及び民間情報教育局による検察審査会(The Inquest of Prosecution)に係る共同記者会見(1949127日。検察審査会制度に係る推奨的啓蒙が日本の新聞記者相手に図られたものです。)におけるステートメント(GHQ/SCAP Records (RG331) Box no. 2580)を見てみると,次のような説明があります。いわく,“the Committee, like the Grand Jury in England and America, expresses local public opinion, and can without formal application, examine cases well-known to the community which have not been prosecuted for various reasons.”(審査会は,イングランド及び米国の大陪審と同様に,地域の世論(local public opinion)を表明するとともに,正式な申立てがなくとも,いろいろな理由で訴追されなかったが地元(コミュニティ)ではよく知られた事件を調査することができます。), “Membership in the Committee is determined on such basis to insure that this body is truly representative of the people as a whole. The Local Election Administration Commission select 400 candidates by lot from among the voters registered as eligible to vote for members of the House of Representatives.”(検察審査員は,審査会が域内()()人々(プル)全体を真実に代表するようにするための基準に従って選ばれます。地域選挙管理委員会が,衆議院議員の選挙権を有する登録有権者の中から400名の候補者をくじで選定します。),“the entire scope of the procurators’ operations is examined by the community, and their views can be made in an effective manner. It will be hard to ignore such a strong expression of public opinion, and such power in the Inquest Committee should act as an effective popular control over the activities of the procurators.”(検察官の業務の全範囲がコミュニティによって吟味され,その見解(views)が効果的な形で形成されることができます。世論のそのように強力な表明に抵抗することは難しいことであって,検察審査会のそのような力は,検察官の活動に対する効果的な民衆的コントロールとして働くべきものであります。)とのことです。地元共同体における現存の世論(public opinion)が,すなわち検察審査会法にいう「民意」であって,検察審査会におけるその忠実な反映が意図されている,ということになるのでしょう。国家レヴェルでの「民意」ではありません。

 

(2)平成28年法律第49号附則5条の「民意」

 

ア 国家統治に関する主体的意思

 以上の「民意」に対して,平成28年法律第49号附則5条の「民意」については,その集約及び反映がされる場が国権(state power)の最高機関(憲法41条)たる国会であるという認識が前提となっているものと解されます。そうであれば,国政(government)の権力(power)の行使(憲法前文的言い回しです。)は「民意」に従うべきものである,ということが平成28年法律第49号附則5条において示された国会の憲法解釈であり,我が現行法であるということになるのでしょう。ここでの「民意」は,国家統治に関する主体的意思ということになります。これまでの用例にない,最高最強の由々しい意思です。また,当該「民意」は,国会外において既にそこに実在しているものとして観念されているのでしょう。

 

イ «peuple»主権と«nation»主権と

 つとに学界においては,日本国憲法の「「国民主権」は,男女普通選挙制を採用するとともに憲法改正について国民の直接投票を予定しているほか,最高裁判所裁判官の国民審査や地方自治特別法での住民投票など,部分的に国民の直接決定を機構化し,公務員の選定罷免権を原理上国民に留保している条文上の制度から見ただけでも,実在する国家構成員の総体の意思による国政決定の原理,すなわち«peuple»主権を意味するものであることが,認定できるであろう。」との認識がありました(樋口陽一『比較憲法(全訂第三版)』(青林書院・1992年)426-427頁。下線は筆者によるもの)。平成28年法律第49号附則5条は,当該認識を実定法化したものと考えてよいのでしょう。

 日本国憲法の「国民主権」が«peuple»主権であることが確認されなければならなかったのは,«nation»主権というものがまた別にあるからです。

 

  «nation»は,不可分で永続的な集合体として考えられた国民であり,«peuple»は,具体的な「市民」=国家構成員の集合体としてとらえられた国民であった。したがって,«nation»は性質上,非実体的・抽象的な存在であって自分自身の意思をもつことができず,「授権」によって「代表者」とされた者を通してしか,自分の意思をもつこと自体できないこととなる。それに対し,«peuple»は,少なくとも建前として自分の意思をもつことができ,国民自身による決定が,少なくとも建前として承認され,代表機構に対する国民意思によるコントロールという建前が,承認される。こうして,一般的に«nation»主権は,国民自身による決定の可能性を建前からして排除し,代表機構の意思決定の独立性を要求する「純粋代表制」を生み出すのに対し,«peuple»主権は,国民自身による決定の制度をみとめ,あるいは少なくとも代表機構が国民意思を反映すべきことを要求する「半代表制」(エスマン)に対応する(樋口・比較憲法425頁。下線は筆者によるもの)

 

ウ «nation»主権か人民主権下のマディソン主義か

 ところで,「「授権」によって「代表者」とされた者を通してしか,自分の意思をもつこと自体できない」といわれると,ふと想起してしまうのが,日本国憲法前文の「日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動しacting through our duly elected representatives),〔略〕この憲法を確定する。」及び「〔国政〕の権力は国民の代表者がこれを行使しexercised by the representatives of the people)」の部分です(下線は筆者によるもの)。これらは«nation»主権的な言明ではないでしょうか。

 とはいえ,日本国憲法前文の原案作成者であるハッシー中佐は米国人ですから,«peuple»主権対«nation»主権の二分法的枠組みによるフランス的議論の影響よりも,むしろ米国建国の父の一員にして同国4代目大統領たるジェームズ・マディソンの,人民主権の前提下における(合衆国憲法を制定確立(ordain and establish)したのは,We the people of the United States(我ら合衆国の人民)です。)democracyrepublicとを対比させて後者に軍配を上げる思考の影響を考えた方がよいのでしょう。

 

  〔前略〕他方,ある党派(faction)に多数者(a majority)が属する場合においては,民衆政体(the form of popular government)は,当該党派が彼ら自らを支配する思い込み又は利害(its ruling passion or interest)のために,公益及び他の市民の権利(the public good and the rights of other citizens)を二つながら犠牲に供することを可能ならしめる。したがって,そのような党派の危険から公益と私権とを守ること並びにそれと同時に民衆政の精神及び制度を維持することが,我々の研究がそれに向けられる大目的なのである。更に付言させてもらえば,それこそが,この政体を,かくも長い間その下で苦しんでいた汚名から救い出し,かつ,人類によるその評価及び採用に向けて薦めることができるようにそれ一つでなすところの,大いに望まれていた解決(great desideratum)なのである。

   どのような方法によってこの目的は達成できるであろうか?二つのうちの一つだけであることは明らかである。多数者中において同一の思い込み又は利害が同時に存在することが防止されなければならないか,そのような思い込み又は利害を共有しつつも,その数及び地域的事情によって,多数者が,抑圧策を共謀し,かつ,実行に移すことができないようにされなければならないか,である。〔略〕

   この観点からすると,純粋な民主政(pure democracy)――私はこの語によって,少数の市民からなる社会であって,彼らが自身で集会し,かつ,国政を処理するものを意味している――は,党派の弊害に対する治癒策を受け容れることができないのである。共通の思い込み又は利害が,ほぼ常に,全体中の多数者によって感じられている。意思連絡及び協働が,政体それ自体から結果として生ずる。そして,弱小派又は目障りな個人(obnoxious individual)を犠牲に供すべき誘引を掣肘(チェック)するものは何も存在していないのである。ゆえに,そのような民主政は,常に動揺及び紛争の演ぜられる場であり続けたのであり,身体の安全(personal security)又は財産権(rights of property)と常に不適合であったのであり,一般にその寿命は短く,かつ,その終焉も暴力的であったのである。この種の政体を贔屓する理論派の政治家は,人類を政治的権利において完全に平等にすれば,彼らは同時にその財産(possessions),意見及び思い込みにおいても完全に平等かつ同一化されるものとの誤った推論をしていたのである。

   共和制(republic)――私はこの語によって,代表制(scheme of representation)が採られている政体を意味している――が,異なった展望を開き,かつ,我々の求めている治癒策を約束する。それが純粋民主政と異なる諸点を検討しよう。そうすれば我々は,治癒策の性質及びそれが連合(Union)から得るところの効用の双方を理解することができる。

   民主制と共和制との間における二つの大きな相違点は,次のとおりである。第1,後者〔共和制〕における,他の市民から選ばれた少数の市民への政治の委任(delegation of the government)。第2,後者〔共和制〕がその上に拡張され得る,より大きい市民人口及びより大きい国の領域。

   第1の相違点の効果は,まず,その知恵が彼らの国の真の利害を最もよく見分け,かつ,その愛国心及び正義への愛は一時的又は一部的考慮のために国益を犠牲にすることの最も少ないであろうところの選ばれた市民団という媒体を通ることによって,公共の視点が洗練され,かつ,拡大されることである。そのような規整下においては,人民の代表者らによって表明される公共の声(public voice)は,当該目的のために招集された人民彼ら自身によって表明されるときよりも,公益により適合しているということがよく生じ得るところである。他方,当該効果は反転され得る。党派的気質,地域的偏見又は悪しき企みの男たちが,陰謀,腐敗又は他の手段によって,まず選挙を制し,次に人民の利害を裏切るということが起こり得るのである。そこから帰結される問題は,公共の福祉に係るふさわしい守護者を選ぶために最も適切なのは小さな共和国か,広い共和国か,ということである。しかして,二つの明白な考慮によって,後者〔広い共和国〕が優れているものとの決定がはっきりとなされるところである。

   〔略〕大共和国においては小共和国におけるよりも適格者の比率が低いということのない限り,前者〔大共和国〕の方がより大きな選択可能性を提示するのであり,したがって,適切な選択の可能性がより大きいのである。

   次に,各代表者は,大共和国においての方が小共和国においてよりもより多い人数の市民によって選ばれるところ,選挙がそれによって余りにもたびたび決せられてしまうところの邪悪な術策を弄して成功することが,不適格な候補にとってより難しくなるのである。さらには,より自由である人民の投票は,最も魅力的な長所及び最も拡がりを持ちかつ確立した性格を有する者に集中するとの傾向を強めるであろう。

    〔略〕

   他の相違点は,共和政体における方が民主政体におけるよりもその範囲内により多く包含され得る市民人口及び領土の広がりである。しかして,主にこの事情こそが,党派的結合に係る危惧を,前者〔共和政体〕において後者〔民主政体〕におけるよりもより小さくするのである。社会が小さければ小さいほど,当該社会を構成する各別の党派及び利害は恐らく少なくなるであろう。各別の党派及び利害が少なければ少ないほど,当該党派が多数者となる機会がより多くあるであろう。多数者を構成する個人の数が少なければ少ないほど,また,彼らの所在する場が小さければ小さいほど,彼らはより容易に彼らの抑圧計画を協議し実行するであろう。領域を拡大すれば,より大きな多様性を持つ党派及び利害を招き入れることになる。全体中の多数者が他の市民の権利を侵害すべき共通の動機を持つ可能性はより低くなるのである。また,そのような共通の動機が存在する場合であっても,それを感ずる者の全体が彼ら自身の勢力を発見し,かつ,相互に協力一致して行動することはより難しいであろう。ここで述べておくが,他の障碍があるほかに,不正又は不名誉な目的のためであるとの自覚がある場合,その同意を要する者の数の増加に比例して,相互連絡は,相互不信によって常に掣肘を被るのである。

   したがって,党派の影響をコントロールすることにおいて共和政が民主政に対して有する利点は,同様に大共和国によって小共和国に対する関係でも享受されている――すなわち,連合(ユニオン)によって構成諸州との関係で享受される――ということが明らかとなるものである。〔後略〕

  (The Federalist Papers No. 10

 

  〔前略〕我々は共和政体(a republic)を,その全権力が直接又は間接に人民の偉大な集合体(the great body of the people)から由来し,かつ,限られた期間その欲する限りにおいて又はその行動が善良である限りにおいて官職を保有する者によって運営される(is administered)政体であるものと定義できるであろうし,少なくともその名をそれに与えることができよう。〔略〕そのような政体にとっては,その運営者が直接又は間接に人民によって任命され,かつ,上記の任期のいずれかの間在任するものであるということで十分である。さもなければ,連合各邦の政体及び他のよく組織されかつ運営されてきた,又はされることができる全ての民衆政体(popular government)は,共和的性格を有するものではないものとされる降格の憂き目を見ることになってしまう。〔後略〕

  (op. cit. No. 39. 下線部は原文イタリック体

 

〔前略〕我々の政治的計算を算術的原理の上に基礎付けることほど誤ったことはない。一定の権力を委ねるには,60ないしは70名の人々に対してする方が,6又は7人に対するよりも適当であろう。しかしながら,だからといって600ないしは700人になれば比例的によりよい受託機関となるわけではない。更に我々が想定を6000ないしは7000人にまで進めると,それまでの全推論は顚倒されざるを得ない。実際のところは,全ての場合において,自由な協議及び議論の利益を確保し,並びに不適切な目的のための結合を防ぐためには最低限一定数の参加者が必要であるものと観察はされるものの,他方,多数群衆(a multitude)の混乱及び放縦を防ぐためには,人数は一定の最大値以下に抑えられなければならないのである。どのような資質の人々によって構成されていようとも,全ての非常に多人数の集会においては,情動(passion)が理性からその王尺を奪い損ねるということは全くない。全アテネ市民がソクラテスであったとしても,全てのアテネの集会はなお暴民の群れ(a mob)であったことであろう。

  (op. cit. No. 55

 

   これらの事実――更に多くのものを付け加えることができようが――から,代表の原理(principle of representation)は古代人に知られていなかったわけではなく,また,彼らの政治体制(political constitutions)において全く無視されていたわけではないことが明らかである。それらとアメリカの諸政体との真の相違は,後者〔アメリカの諸政体〕においてはそこへの参与から,その集団としての資格において(in their collective capacity)人民を完全に排除しているということにあるのであって,前者〔古代人の諸政治体制〕の運営から人民の代表者らが完全に排除されていたというようなことにはないのである〔古代の共和政においても代表制が採用されていなかったわけではない。〕。しかしながら,このように修正された上での当該相違は,合衆国のために最も有利な優越性を残すものであることが認められなければならない。〔後略〕

  (op. cit. No. 63. 下線部は原文イタリック体)

 

マディソンは,後にジョージ・ワシントン初代大統領の時代,トーマス・ジェファソンの子分になってワシントン政権(及び初代財務長官アレグザンダー・ハミルトン(The Federalist Papersをマディソンと一緒に書いています。))に対する反対党を結成するに至り,当該政党が現在の米国の民主党(Democratic Party)につながっているのですが,マディソンを幹部に戴く当該政党がDemocratic Partyなどと自ら名乗ることは当然なく,当初の名乗りは――現在からすると紛らわしいことに――Republicansでした。当該政党が,いわゆるアダムズ方式の第6代ジョン・クインジー・アダムズとOK男たる第7代アンドリュー・ジャクソン(その肖像画をトランプ大統領が執務室に飾っていました。)とが争った1824年及び1828年の大統領選挙を経て分裂し,1828年における後者の勝利及び18293月の大統領就任の後に,後者の下で単にDemocratsとなります。

日本国憲法前文においては,憲法については国民(というより人民(people))が代表者を通じて(through)行動してそれを確定(firmly establish)しているのに対して,その他の国政の権力に係るその行使は,国民の代表者がする(国民の代表者によって(by)される)ものとされています。ここでthroughbyとの使い分けにこだわれば,憲法制定はさすがに人民の意思に基づかねばならぬのでthroughであるが(それでもthroughですから代表者を通じた間接的な基礎付けです。),その他の国政の権力の行使はいちいち人民の意思に基づかなくてよいよ,知恵並びに愛国心及び正義への愛において卓越する代表者限りでその責任で(byで)やってくれた方が公益により適合するだろうからね,人民の意思(民意)それ自体は直接民主政アテネの民会決議のようなもので,暴民の群れのおめき声にすぎないからね,とまでハッシー中佐のマディソン的思考は進んでいたものかどうか気になるところです。リンカンのゲティスバーグ演説の有名な部分(government of the people, by the people, for the people)を我が憲法前文にそのまま借用すれば「その権力は国民が(又は,国民がその代表者を通じて)これを行使し」という表現となっていたはずですのでなおさらです。憲法改正ですと(さすがに人民の意思に基づく必要があるということでしょうか)国民投票があるのですが(憲法961項),発議者たる代表者・国会(全国民を代表する選挙された議員で組織された両議院により構成されています(同431項・42条))を通じて我ら日本国の人民は行動すべく,「黙々として野外で政務官に導かれるままに投票するローマの民会」的な場面(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)5頁)が展開されることが想定されているのでしょう。我が国における当該政務官は,国会に設けられる国民投票広報協議会ということになるのでしょうか(国会法(昭和22年法律第79号)102条の11及び102条の12並びに日本国憲法の改正手続に関する法律(平成19年法律第51号)11条から19条まで)。「劇場に座して討論の坩堝の中に熱狂するギリシャの民会」(原田5頁)は危険です。

 平成28年法律第49号附則5条に戻りましょう。

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1 20211220日の細田博之衆議院議長発言

 202112201623分付けの時事ドットコムニュースは,「細田衆院議長が「1010減」批判」との見出しで,次のように報じています。

 

   細田博之衆院議長は〔202112月〕20日,自民党衆院議員の会合に出席し,15都県で衆院選の小選挙区定数を「1010減」とする「1票の格差」是正策について,「数式によって地方(の分)を減らし,都会を増やすだけが能ではない」と批判した。法律に基づいて決まった方向について衆院議長が表立って異論を唱えるのは異例だ。

 

この細田議長発言を機縁として,筆者は,清宮四郎的な「違法の後法」問題ならぬ「違法の現法」問題に関しての検討を余計なことながらすることとなってその結果本件はそうはならぬのかと安心をし,さらにはその際,同議長らがかつて法案を提出した平成28年法律第49号の附則5条(これは憲法論喚起的な条項です。)に逢着したことから,続いて「民意」,代表,憲法431項等々の問題が誘起せられて,それらに関してのだらだらとした駄文を書き連ねることとなりました。日本国憲法はGHQ(連合国軍総司令部)の御指導による産物ですから憲法431項及び前文を通じて話柄は米国建国の父の政治論(Madison in The Federalist Papers)にも向かうことになり,さらに筆者の憲法漫談ではおなじみのベルギー国憲法も少し登場します。昔話も,新型コロナウイルス対策問題猖獗下の今日の我が国民主権国家における混迷・苦難の情況を観察・評価するに当たって,何らかの参考を提供してくれるものでしょう。

しかし前置きは,これくらいにしておきましょう。

 

2 「違法の後法」ならぬ「違法の現法」問題

さて,前記細田議長発言の記事を電車車中スマートフォンで一読して筆者が咄嗟に思ったのは,「これは,前法に「違反」した立法の作為に係るかの「違法の後法」問題ならぬ――立法の不作為に係る「違法の()法」問題を衆議院議長御自ら惹起せしめんとしているのではないか。」ということでした。

当該思案は,当blogに前回掲載した「明治35年法律第38号(「違法の後法」の前々法)に関して」記事((前編)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079233644.html;(後編)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079233646.html)に関係します。

清宮四郎の有名な「違法の後法」論文(1934年)が想起されてしまったのでした。

 

(1)清宮論文(前半):「違法の後法」の存在

清宮四郎の「違法の後法」論文(樋口陽一編・清宮四郎『憲法と国家の理論』(講談社学術文庫・2021年)293-322頁収載)は,「現行法〔大正14年法律第47号たる衆議院議員選挙法〕の前身たる大正8年の選挙法(大正8年法律第60号)〔正確には,同法によって改正された明治33年法律第73号たる衆議院議員選挙法〕の別表〔選挙区及び各選挙区において選挙すべき議員の数を定めるもの〕の後に〔略〕10年間不更正の旨の規定〔「本表ハ十年間ハ之ヲ更正セス」〕が存したにも拘わらず,それから10年経過しない大正14年に法律を以て普通選挙制を採用すると同時に別表全部を改正し」たことを「「違法の後法」という題下に,あらためて問題にし」たものです(同293-294頁)。清宮は,「10年くらいの不更正は法の可変性とも矛盾せず,〔略〕法の内容としては可能である」として(樋口編305頁)当該10年間不更正規定の法規範性を肯定した上で(同294-295頁)――ただし,「法律自らが法律自身の創設変更についての定めをなす」ことは法律の制定に係る憲法の授権の範囲を越えて無効となるのではないか,との「まず解決される必要がある」問題の解決については,清宮は「留保」したままです(同295-296頁)――「前の10年不更正を宣明する法律が有効に成立するとすれば,それは法律でありながら法律の変更規定を包有するもので,普通の法律と同じ段階にあり得ず,これより上位段階の規範と見做されねばなら」ず「いわば憲法補充的性質の法律」となるとし(同306頁),「選挙法の例において後の法律が前の法律に違反する法律,違法の後法なのは疑ない」ものと断じています(同307頁)。

 

(2)平成28年法律第49号によって改正された衆議院議員選挙区画定審議会設置法32項等

細田議長の発言が「違法の後法」ならぬ「違法の現法」問題を惹起するのではないかと筆者が懸念した理由は,平成28年法律第49号(「衆議院議員選挙区画定審議会設置法及び公職選挙法の一部を改正する法律」)によって改正された衆議院議員選挙区画定審議会設置法(平成6年法律第3号)の規定にあります。

すなわち,衆議院議員選挙区画定審議会設置法2条により「衆議院小選挙区選出議員の選挙区の改定に関し,調査審議し,必要があると認めるときは,その改定案を作成して内閣総理大臣に勧告するもの」とされる衆議院議員選挙区画定審議会(内閣府に置かれています(同法1条)。)は,当該勧告を「国勢調査(統計法第5条第2項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査に限る。〔直近のものは2020年に行われました。〕)の結果による人口が最初に官報で公示された日〔2020年の国勢調査については2021625日付け官報掲載の令和3年総務省告示第207号で公示〕から1年以内に行うもの」であるところ(衆議院議員選挙区画定審議会設置法41項〔したがって,2020年の国勢調査に係るものは,2022年の625日までに勧告されることになります。〕),当該勧告に係る改定案(同法31項)の作成に当たっては,各都道府県の区域内の衆議院小選挙区選出議員の選挙区の数をいわゆるアダムズ方式によって決めるものとされているところです(同条2項)。(いわゆるアダムズ方式の説明は大仕事なのですが,当該方式については,その発案者であるジョン・クインジー(クインーではありません。)・アダムズ米国連邦下院議員(発案当時はもう第6代米国大統領ではありませんでした。)の紹介と共に,「いわゆるアダムズ方式に関して」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078277830.html)を御参照ください。)しかして,平成28年法律第49号の法案提出理由はいわく。

 

衆議院小選挙区選出議員の選挙区間における人口較差に係る累次の最高裁判所大法廷判決及び平成28114日に行われた衆議院選挙制度に関する調査会の答申を踏まえ,衆議院議員の定数を10人削減するとともに,衆議院小選挙区選出議員の選挙区間における人口較差の是正措置について,各都道府県の区域内の選挙区の数を平成32年〔2020年〕以降10年ごとに行われる国勢調査の結果に基づきいわゆるアダムズ方式により配分することとし,あわせて平成27年の国勢調査の結果に基づく特例措置を講ずる等の必要がある。これが,この法律案を提出する理由である。

 

 つまり,一見したところ,2020年に行われた国勢調査の結果に基づきいわゆるアダムズ方式に忠実に各都道府県の区域内の選挙区(衆議院小選挙区選出議員の選挙区)の数を配分すること(具体的には,当該配分を実現すべく公職選挙法(昭和25年法律第100号)の別表第1(同法131項参照)を遅滞なく改正すること)は,第190回国会において成立した平成28年法律第49号によって,国会の法的義務となったように思われるのです。その結果,立法の不作為があれば,それは違問題云々以前に,違なもの(それに伴い,改正されざる現行法も違なもの)となるようであります。しかも,いわゆる議員立法である平成28年法律第49号の法案提出者は,細田博之,逢沢一郎,岩屋毅,北側一雄及び中野洋昌の衆議院議員5名でした。夫子御自らが筆頭提出者となっていたのです。

 ゆえに,日本共産党の小池晃書記局長は細野議長に対して口汚くならざるを得ません。

 細田発言があった当日である202112202018分に配信された朝日新聞Digitalの記事は,「共産・小池氏「天につばする発言」 細田議長の「1010減」批判」と題していわく。

 

共産・小池晃書記局長(発言録) 〔略〕天につばする発言だと言わざるを得ない。2016年〔平成28年〕に国勢調査の結果に基づき,自動的に定数を変えていくという形での法改正をした。その時の各党協議会の座長が細田氏だ。

 

 「天つば」はやめろ,ですね。確かにきたない。(なお,当該報道をした朝日新聞に対して,「國賊朝日新聞」と公然罵詈非難することは侮辱罪(刑法(明治40年法律第45号)231条)に当たる可能性があるので御注意ください(小野清一郎の説くところです。「侮辱罪(刑法231条)に関して(上)」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079121894.html)参照)。)

自らのつばきを浴びつつする,違法の法律に係るそれにもかかわらざる法的有効性の論証作業は面倒そうです。

 

(3)清宮論文(後半):「違法の後法」の法的有効性

ここで「違法の後法」論文に戻れば,「違法の後法〔大正14年法律第47号たる衆議院議員選挙法〕が現在有効の法として存在しているのである。」(樋口編307頁)という事実がありますから,当該事態を法的に説明しなければならなくなって,清宮四郎は大いに苦労しています。(宮沢俊義及び美濃部達吉のように10年間不更正規定の法規範性(法的効力ないしは立法者を拘束する力)を最初にあっさり否定しておけば(樋口編294頁),しなくても済んだ仕事のようではありますが。)

清宮は「革命の結果出来た憲法も憲法としての法的効力に変わりはなく」(樋口編309頁),「法がその実定法としての存立要件を充たす場合には,必ずしも適法の法のみならず,違法の法も実定法として存立し得る。」と説くことになります(同310頁)。それではその存立要件は何かといえば,①被定立性(これは自然法又は理法との相違)及び②通用性であるとされます(樋口編310頁)。更に法の通用性について,「一言にしていえば,法が実現の可能性をもつことである。法が遵守さるべき規範として行なわれ,生きていることである。法が実効性(Wirksamkeit)又は法的実力(Rechtsmacht)と拘束性(Verbindlichkeit)とをもつことである。」と(樋口編311頁),いろいろな言い換えがされます。実定法の通用性が実効性と言い換えられた上で,「実効性は法の存続の要件であると同時にその成立の要件である。ここにおいてわれわれは事実と法との密接不離の関係を見る。〔略〕法と事実との闘いにおいては,法は少なくとも一応は事実に屈服せねばならない。」と(樋口編313頁),事実の力の話となり,更に「事実は法の創成・存続の基礎である。「事実の規範力」は「法源」である。」ということになって(同314頁),事実の規範力なる理論が出てきます。しかして「事実の規範力」を認めるべき淵源は,「事実の規範力を認むべし」という原理(「根本規範」),「事実によって「底礎」され,事実に基づいて創設される法を法として認むべしとの根本原理」であるそうです(樋口編315頁)。「実定法通用の論理的基礎がここにおいて与えられた。」との宣言が高らかになされ(樋口編315頁),「かくして問題の違法の後法が実定法として存在する基礎づけは一まず終った。」とされます(同316頁)。で,当該根本規範ないしは根本原理は何かといえば,それは人類の団体生活に伴う公理です。「これは実は,われわれが団体生活を営み,法が「団体規則」であることから当然認めねばならない原理である。われわれは好むと好まぬとに拘わらず,これを認めねばならず,これを倫理的或いは政治的立場から評価するのは自由であるが,取除くことは不可能のものである。これこそ実定法の存在及び変更の究極の基礎原理」であるということでありました(樋口編316頁)。(ただし,当該論文の最後は,「問題の解決に曙光を得ようと努力したが,残された謎はなお頗る多い。」ということで(樋口編322頁),まだなかなかすっきりしません。)

前法の変更に係る当該前法における規定に違反した後法ないしは現法は違法である(かっこよいドイツ語だとRechtsbruchということでしょうか(樋口編317頁参照)。)ということになると,当該違法の法の法的有効性を説明することが大仕事になるのでした。違法の法も法であるという矛盾的事態の説明は難しい。辛抱強い人でなければ当該説明は聴いてもらえず,最後まで聴いてもすっきり理解してくれる人は更に少ないことでしょう。しかし,細田議長ともあろう人物が,「事実の規範力」,「根本規範」,「実定法の存在及び変更の究極の基礎原理」等々の晦渋な概念が深々と繁茂する苦難の藪山にうっかり自ら足を踏み入れるようなことをするのでしょうか。

 

(4)問題解決:公職選挙法別表1改正の法的義務の不存在

小池日本共産党書記局長は,「国勢調査の結果に基づき,自動的に定数を変えていく」ものとあっさり述べています。それが現行法の仕組みであるということでしょう。しかし,実はこの辺からが怪しい。当該「自動」性が法律上どのように規定されているのかを知るべく衆議院議員選挙区画定審議会設置法を眺めてみると,そこにはその旨の明文規定が存在していないのです。同法5条が「内閣総理大臣は,審議会から第2条の規定による勧告を受けたときは,これを国会に報告するものとする。」と規定しているのみです(ただし,岸田文雄内閣総理大臣は,20211221日の記者会見において「政府としては,その勧告に基づく区割り改定法案を粛々と国会に提出するというのが現行法に基づく対応であると認識をしております。」と,内閣総理大臣からの報告にとどまらず内閣からの法案提出までをする旨の認識を示しています。)。当該報告を受けた国会がどのような対応をとるべきかについては,衆議院議員選挙区画定審議会設置法は沈黙しています。公職選挙法においても,衆議院(比例代表選出)議員の選挙区及び各選挙区において選挙すべき議員の数について定める別表2(同法132項)については,西暦末尾0の年の国勢調査の結果によっていわゆるアダムズ方式により「更正することを例とする」と規定していますが(同条7項),小選挙区選出の衆議院議員の選挙区に係る別表1についてはそのような規定はありません(同条参照)。

なお,「例とする」との規定が折角あっても,その効力は実は弱い。法的義務付けはされていないのです。すなわち,「「例とする」又は「常例とする」とは,通常の場合,当該規定の定めるところにより,一定事項をすべきであるが,絶対にこれに違背することを許さないという趣旨ではなく,仮に違背しても法律上の義務違反にはならないという,ごく緩い訓示的規定を意味する」ものなのです(吉国一郎等編『法令用語辞典〈第八次改訂版〉』(学陽書房・2001年)758頁)。

衆議院議員選挙区画定審議会設置法5条の内閣総理大臣報告がされても,国会としてはただ聞き措いて公職選挙法別表1を改正しないという対応も可能であり,そこに違法性はなく,法律上の義務違反ではもちろんないということになります。当該内閣総理大臣報告の採否及び採用の場合のその範囲は,その時点での政治情勢次第ということなのでしょう。

しかのみならず,上記「その時になってから」的な政治的対応を正当化すべく,平成28年法律第49号の法案提出者らはあらかじめ周到な準備をしています。同法附則5条の規定がそれです。

 

(不断の見直し)

5条 この法律の施行後においても,全国民を代表する国会議員を選出するための望ましい選挙制度の在り方については,民意の集約と反映を基本としその間の適正なバランスに配慮しつつ,公正かつ効果的な代表という目的が実現されるよう,不断の見直しが行われるものとする。

 

 同条の精神によれば,不断の見直しの結果,いわゆるアダムズ方式による結論をそのまま採用することはやめることにした,という事態は当然あり得ることとなるのでしょう。ただし,「公正かつ効果的な代表という目的が実現される」ためのものである「全国民を代表する国会議員を選出するための望ましい選挙制度」としては,いわゆるアダムズ方式の丸呑みではないこちらの改正案(現状維持案を含む。)の方が優れているからだ,という理由付けは,少なくとも政治的には必要となるのでしょう。


(中)平成28年法律第49号附則5条と「民意」:

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079288885.html

(下)平成28年法律第49号附則5条と憲法431項その他:

   http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079288902.html

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(承前:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079233644.html

 

ウ 貴族院における復活

衆議院で削られた10箇年間不更正条項は,190238日の貴族院の選挙法改正法案特別委員会において,小澤武雄委員の提案により,復活すべきことが可決され(第16回帝国議会貴族院選挙法改正法案特別委員会議事速記録第311-12頁),同月9日の同院本会議で,衆議院送付案についてその旨の修正可決がされています(第16回帝国議会貴族院議事速記録第25463頁)。しかしてその際貴族院は,望月衆議院議員が懸念したような「愚」なる解釈に拠ったものかどうか。

190239日の貴族院本会議における選挙法改正法案特別委員会の廣澤金次郎特別委員長による報告中,10箇年間不更正条項の復活に関する部分は次のとおりです。

 

此復活ノ理由ニ附イテ申上ゲマスレバ詰リ斯ノ如キ大切ナル法案デアルシ,且ツ又衆議院議員選挙法ノ如キハ外国ノ例ニ比シテモ成ルベク一タビ制定シタ以上ハ之ヲ改正シナイト云フノガ精神デアルガ故ニ,政府原案ノ如ク此処10年間ハ之ヲ改正シナイト云フ制限ヲ附ケルノガ必要デアルニ依ッテ,此末項ヲ復活シタ次第デアリマス,此10年ト云フ数ニ於キマシテハ是ハ一ハ各国ノ例ガ重ニ10年或ハ10年以上ニナッテ居リマスシ,且ツ又政府ハ人口調査ヲ5年置キニスルト云フコトデアッテ即チ2回目ノ人口調査以後デナケレバ此別表ヲ改正シナイ,其中ヲ採リマシテ茲ニ10年ト云フ制限ヲ設ケタ次第デアリマス

(第16回帝国議会貴族院議事速記録第25457頁。下線は筆者によるもの)

 

 この10箇年間不更正条項=精神規定論については,法制局長官たる奥田政府委員によって当該本会議において敷衍されるところがありました。

 

  政府ニ於キマシテハ矢張原案ノ通ニナシテ置イテ,サウシテ万一ニモ屢〻改正ヲスルト云フヤウナ意見ノ出マシタトキノ防ギニモシ,且ツ又斯ノ如キ法律案ハ屢〻改正ヲスベキモノデナイト云フコトノ精神ヲ法律ノ上ニ明ニ示シテ置キタイト云フ,斯ウ云フ積デアリマス

  (第16回帝国議会貴族院議事速記録第25459頁。下線は筆者によるもの)

 

エ 衆議院における回付案に対する同意

10箇年間不更正条項が復活した貴族院190239日可決の回付案は,同日中に衆議院本会議において同意の議決がされ,結果として政府提出案と同内容での帝国議会の協賛がされたことになりました。当該同意の議決の状況は,次のとおり。

 

  〇尾崎行雄君(52番) ソレハ少シク衆議院ノ意見トハ違フ所ガアリマスケレドモ,其大要ニ於テハ,貴族院ノ修正通ニシタ所ガ,大体ニ於テ強テ差支ガナイコトヽ信ジマスガ故ニ,枉ゲテ是ニ同意シテ,此案ヲ成立セシメルコトヲ希望致スタメニ,此動議ヲ提出致シマス

     (「賛成々々」ノ声起ル)

  〇議長(片岡健吉君) 貴族院ノ修正ニ同意スルコトニ,御異議ハアリマセヌカ

     (「異議ナシ異議ナシ」ト呼フ者アリ)

  〇議長(片岡健吉君) 御異議ガナケレバ同意スルコトニ致シマス

  (第16回帝国議会衆議院議事速記録第29628頁)

 

駆け足で議決がされてしまったことについては,190239日が第16回帝国議会の会期の最終日であったとともに,衆議院議員らとしては,同年夏の任期満了に向けて,総選挙がもう間近に迫って気がせいていたという事情もあるものでしょう。

尾崎議員が「大体ニ於テ強テ差支ガナイコトヽ信ジ」た内容は,10箇年間不更正条項によって「屢〻改正ヲスルト云ウヤウナ」意見は事実上通りにくくはなるが,精神規定にとどまるものであって,立法権の自己制限としての法的効力は当該条項にはないのである,ということであったものでしょう。また,さきに見たように,それが政府及び貴族院の解釈でもあったはずです。

 

3 小括

 

(1)「違法の後法」論文再訪

「いわゆる法律の自主合法性の原理により,かかる規定と雖も君主と議会との有権解釈一致して成立した国家最高の意志たる法律として制定され,国法上これを審査し得る機関なく,たとえ一応は違憲と見られても,実際上,適法なものとして取扱うの外はない」と清宮とともに論じようにも(樋口編296頁),それ以前に,明治35年法律第38号に関して政府と議会両院との有権解釈が一致していたところは,10箇年間不更正条項は精神規定であって法的効力はない,とするものでした。したがって,後法を違法化するまでの力はなかったようです。

「かくしてわが選挙法の問題から計らずも国家作用論に関する諸種の難問に逢着し,一面ウイン学派の純粋法学における法の動学・法創設理論と,他面,主としてゲ・イェリネックの事実の規範力とを省みつつ,問題の解決に曙光を得ようと努力したが,残された謎はなお頗る多い。一般の示教を仰いで更に想を練り,一段の高処に到る一階梯にというのが筆者せめてもの念願である。」と清宮はその「違法の後法」論文を結んでいますが(樋口編322頁),当該階梯の上り口の最初に据えてある我が衆議院議員選挙法(明治35年法律第38号による一部改正から,大正8年法律第60号による改正を経て,大正14年法律第47号による全部改正まで)は,足場としてはなかなか無安心なものであったように思われます。大正14年法律第47号が違法の後法として実在してくれているのでなければ(少なくともその可能性がなければ),議論はいささか迫力を欠くようです。しかしこれは,「条文の解釈にのみ逃避するの怠慢に陥った」ところの「易きに」つくの俗徒特有の感慨であって,「実定法秩序の全体に通ずる理論的研究,ことに,国家的法秩序の論理的構造の究明」という「法学者にとって極めて重要な課題」に取り組むための端緒としてはなお十分なものだったのでしょう(清宮四郎「ブルクハルトの組織法・行態法論」(樋口編353頁)参照)

 

(2)10年間不更正条項の消滅

衆議院議員選挙法(大正14年法律第47号)別表の10年間不更正条項は,19451217日裁可,同日公布の昭和20年法律第42号による同表の全部改訂において削られています(政府提出案の段階から)。大日本帝国憲法の改正が日程に上っている時期にあって,帝国憲法附属の法律につき「10年間ハ之ヲ更正セス」というのはちょっとした浮世離れであるものと感じられたがゆえでしょう。なお,1925年の改正からは,10年はとうに過ぎていたところです。

 

4 思い付き及び蛇足

 

(1)立法技術的に見た10年間不更正条項

ところで,不図思うに,10年間不更正条項の効力については,我が国の法制執務が立法技術的にいわゆる溶け込み方式を採用していることに由来する問題が,実はあったのではないでしょうか。すなわち,明治35年法律第38号の10箇年間不更正条項及び大正8年法律第60号の10年間不更正条項はいずれも明治33年法律第73号に溶け込んでしまっていたところ,そうであれば当該10年間の起算時点は,明治33年法律第73号の裁可日の1900328日か,公布日の同月29日か,又はその施行がされた第7回総選挙の開始日(当該総選挙を行うことを命ずる詔勅の日付は1902421日,その官報掲載日は同月22日,投票日は同年810日)であるべきことになっていたのではないでしょうか(立法機関自身の自己拘束規定であるとすれば,裁可日が起算日になりそうです。)。であればすなわち,1919年制定の大正8年法律第60号の10年間不更正条項は,効力期限が既に過ぎてしまった条項の事後的修文にすぎなかったということになってはしまわないでしょうか。しかしこれは,余りにもふざけた話だということになりそうです(1919年当時の原敬内閣の法制局長官は横田千之助)。

公職選挙法(昭和25年法律第100号)137項前段の「別表第2は,国勢調査(統計法(平成19年法律第53号)第5条第2項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査に限る。以下この項において同じ。)の結果によって,更正することを例とする。」との規定のように繰り返し適用される規定であるのならばよかったのでしょうか。そうだとすると,10年間不更正条項をもって(繰り返し繰り返し)「10年後には更正すべきものであることの趣意を言明して居る」ものでもあるとする解釈(美濃部102頁)は,条項の文言自体からは一見読み取りづらいところですが,あるいはこの点を慮ってのものかもしれません。

 

(2)中央省庁等改革基本法3316

 最後に蛇足です。

前世紀末の中央省庁等改革基本法(平成10年法律第103号)の第331項柱書きは「政府は,次に掲げる方針に従い,総務省に置かれる郵政事業庁の所掌に係る事務を一体的に遂行する国営の新たな公社(以下「郵政公社」という。)を設立するために必要な措置を講ずるものとする。」と規定し,同項6号は「前各号に掲げる措置により民営化等の見直しは行わないものとすること。」と規定しています。同法制定の1998年当時,この中央省庁等改革基本法3316号があるから郵政三事業が民営化されることは永久になくなったのだ,しかも郵政公社職員はあっぱれお役人なのだ,我々の勝利だ,橋本龍太郎(内閣総理大臣)を担いだ通商産業省の陰謀になんか負けないのだ,我々の政治力はすごいのだと威張る郵政省関係者が大勢いたものかどうか。しかし,そういう安易な自得及び安心に対しては,当該規定は,郵政三事業を民営化等する立法を禁止することにより,将来的に「違法の後法」問題という難しい問題をいたずらに惹起してしまうだけのものではないか,その場合やはり結局のところ後法は前法を破るとの結果になるのではないかとの心配がされました。とはいえ,そういう不正確な心配をするのは閣法(内閣提出法律案)中心主義に毒されていたからであって,中央省庁等改革基本法331項の名宛人は行政府であって立法府ではなく,同項6号の問題は,立法機関における内面的拘束力による自らの義務付け・法律の自己制限の問題には該当しないものでした。法律をもって憲法上の内閣の法案提出権を制限することの可否いかんの問題でありました。

中央省庁等改革基本法3316号の法的効力に関する政府の解釈は,2002521日の衆議院本会議において,当時の小泉純一郎内閣総理大臣から次のように表明されています。

 

  中央省庁等改革基本法についてのお尋ねでございます。

  基本法は,郵政三事業について,国営の新たな公社を設立するために必要な措置を講ずる際の方針の一つとして,「民営化等の見直しは行わない」旨を定めておりますが,これは,公社化までのことを規定したものであります。

  したがって,民営化問題も含め,公社化後のあり方を検討すること自体は,法制局にも確認しておりますが,法律上,何ら問題はありません。

  そこで,今回の公社化関連法案には削除は盛り込まないこととしたものでありますが,郵政事業のあり方については,この条項にとらわれることなく,自由に議論を進めてまいりたいと考えております。

 (第154回国会衆議院会議録第367頁。「総理が重ねて主張してきた,中央省庁等改革基本法第33条第1項第6号の「民営化等の見直しは行わないものとする」という条項が削除されておりませんが,断念したという理解でよろしいのでしょうか。」との荒井聰議員の質疑(同6頁)に対する答弁)

 

 「政府の法案提出権が憲法上認められていることを前提とした上で,法律によって政府の憲法上の権限を制限できるかどうかが問題となる。この場合,憲法上は,議員立法が原則であり,それを補充するものとして閣法があるとすれば,法律でそれを制限することも憲法の禁ずるものではなく,完全な立法裁量に委ねられることになる。しかし,そのような原則を日本国憲法から読み取ることはできないので,立法による政府の法案提出権の制限は認められないと言う結論が導き出されるのが自然である。〔略〕郵政事業の経営形態論議が,政府の憲法上の提案権を制約するに足る合理性を有するものであるとは言い難い。」(塩野宏「基本法について」日本学士院紀要第63巻第1号(2008年)13-14頁)とぴしゃりと言い放って,中央省庁等改革基本法3316号には法的効力がそもそもなかったのだと宣言すると角が立ったのでしょうから,皆さんのお信じになられたとおり同号には政府の法案提出権を制限するという法的効力が本当にあったんですけれどもね,条文をよく読んでもらうとお分かりになると思いますが,それは日本郵政公社の設立までの話だったんですよ,法案を提出した政府はうそはついていませんからね,法的効力の全くない条文を法的効力があるもののように偽って皆さんに中央省庁等改革に賛成していただくなどという詐欺師のようなことを日本国政府がするわけないじゃないですか,という趣旨の小泉内閣総理大臣の答弁は,内閣の憲法上の法案提出権を法律によって一時的にでも制限することを認容するものと解され得るものではあって憲法論上の議論の余地はなおあるものでしょうが,よくできた答弁だと思います。

 

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1 「違法の後法」の前々法:明治35年法律第38

 清宮四郎が1934年に執筆・発表した論文「違法の後法」(樋口陽一編・解説,清宮四郎『憲法と国家の理論』(講談社学術文庫・2021年)293-322頁)において,後法たる1925年の衆議院議員選挙法(大正14年法律第47号)を「違法」たらしめるものとされた大正8年法律第60号による改正後の衆議院議員選挙法(明治33年法律第73号)の別表(選挙区及び選挙区において選出すべき議員の数を定めるもの(同法12項))末項の「本表ハ10年間ハ之ヲ更正セス」との規定の濫觴は,明治33年法律第73号の当該別表を最初に一部改正した明治35年法律第38190244日裁可,同月5日公布,同月25日施行(同法には施行期日に関する規定なし。法例(明治31年法律第10号)1条参照))にありました。すなわち,明治35年法律第38号は,その末尾において「別表ノ終リニ左ノ1項ヲ加フ/本表ハ選挙区ノ人口ニ増減ヲ生スルモ少クトモ10箇年間ハ之ヲ更正セス」と規定していたものです(政府提出案段階からあったもの)。当該規定は,清宮の紹介する美濃部達吉の説明によると「唯単純な人口の増減だけでは10年間は之を動かさないといふ方針を言明して居るだけで,それも立法の方針の予定に止まり絶対に立法者を拘束する力を有するものではない」ということになるものとされていました(樋口編294頁。美濃部達吉『選挙法概説』(春秋社(春秋文庫)・1929年)103頁)

学説はともかくとして,明治35年法律第38号の当該規定に係る立法者意思がいかなるものであるかを知るために1902年の枢密院及び第16回帝国議会における法案審議の跡を尋ねると,下記のような経緯があったところです。大正8年法律第60号による10年間不更正条項(同法においては明治35年法律第38号によるそれまでの文言が改められています。)が,別表の大更正(註)を伴うその6年後1925年の衆議院議員選挙法の全部改正を阻害しなかったことについては,清宮の報告によると,「当時から現在まで学者の間にも実際家の間にも,これに対して疑問を挿む者は殆ど無かった模様」であったそうであり(樋口編293頁),また,宮中においても192541日「午前1150分,貴族院議員の任期満了及び普通選挙法案等の重要案件議了につき,〔摂政裕仁親王は,〕正殿において〔加藤高明内閣総理大臣らの〕国務大臣・貴族院議員・衆議院議員・政府委員・内閣書記官・内閣総理大臣秘書官・貴族院事務局高等官・衆議院事務局高等官計約七百名に列立拝謁を仰せ付けられ,酒饌を下賜される。」ということで(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)227-228頁。下線は筆者によるもの),よかったよかったということになっていましたが,その23年前1902年の明治35年法律第38号による10箇年間不更正条項の導入に当たっては,実際家の間において喧々囂々たる議論があったところです。

 

 (註)大正8年法律第60号による小選挙区制から,中選挙区単記投票制への変更がされ,明治33年法律第73号以来の市部と郡部との独立制が撤廃されています(美濃部97-98頁参照)。なお,最初の衆議院議員選挙法(明治22年法律第3号)以来の人口13万人につき議員1人を出す大体の主義は踏襲されています(美濃部101頁参照)。

 

なお,清宮の引用する(樋口編294頁・296頁註1宮澤俊義の『選挙法要理』(一元社・1930年)84頁註4には「明治33年法まではかうした〔不更正期間を定める〕制限はなかつたが,第16議会(明治3435年)に政府は法別表改正案を提出し,別表の内容を改正すると同時に「本表ハ選挙(●●)()()人口(●●)()増減(●●)ヲ生(●●)ズルモ(●●●)少クトモ10年間ハ之ヲ更正セス」との規定をこれに加へようとした。衆議院はこの規定を削除したが,貴族院これを復活し,衆議院亦これに同意してここにこの規定が成立した(明治35年法律第38号)。而して大正8年法に至つて現行法の如く文句を改めたのである。併し乍ら,これらの規定はただ立法上の方針を宣明したにすぎぬのであつて,何らの法的効力を有つものではない。現に実際においても,大正8年法別表のこの規定にも拘らず,大正14年法は10年立たぬ中に別表の全部を改正した。」とありますが,そこでは第16回帝国議会における審議模様及び立法者意思についてまでの立ち入った紹介はないので,本稿はそこを補充するものということになります。清宮は,上記「ただ立法上の方針を宣明したにすぎぬのであつて,何らの法的効力を有つものではない」の部分は,宮澤の学説にすぎないものと解しているようです(樋口編294頁)

 

2 明治35年法律第38号をめぐる実際家の議論

 

(1)枢密院における予兆

 明治35年法律第38号の法案(政府提出)に係る1902222日の枢密院会議においては,わずかに九鬼隆一枢密顧問官から次のような発言がありましたが,議場においてそれに応ずる声はなく(所管の内務省からは,内海忠勝大臣及び山縣伊三郎総務長官が出席していましたが,沈黙していました。),政府原案がそのまま可定されています。

 

総委員会ニ於テ(ママ)ニ質問シタルニ郡部ノ方ニテモ多少人口ノ増減アル趣ナルカ只市ノ方ノミ明確ノ調査出来タル〔ヲ〕以テ議員ノ配当ヲ為ス由ニ聞及ヘリ然ル〔ニ〕郡部ニモ人口ノ増シタル所ト減シタル所トアリトスレハ其増減ハ人民ノ権利ニ至大ノ関係アリ只郡部ノ調査ハ(〔いまだ〕)充分ニ明確ナラサルヲ理由トシテ単ニ市ノ議員ノミヲ増スハ不権衡極レリ又法案ノ体裁トシテモ宜シキヲ得ス殊ニ今日此改正ヲナスノ後ハ10箇年間据置クモノトスレハ明亮ノ調査行届キタル所ノミ増員シ然ラサル所ハ増員セストノ結果トナリ夫レニテ10年間ハ其儘ニ施行スルトハ甚理由ナキコトナリ而カモ今日是非此案ヲ急キテ発表セサル可ラサルノ理由アリトハ信セラレサルヲ以テ充分ニ全国ノ人口ヲ調査シタル上ニテ適当ノモノヲ発表セラルノ方宜シカルヘシ就テハ唯今ハ此案ヲ廃案トシテ更ニ精査ノ上提案セラレンコトヲ乞フ

  (アジア歴史資料センター資料。下線は筆者によるもの)

 

九鬼枢密顧問官の発言の趣旨は,忖度するに,政府はその中途半端な人口調査で衆議院議員選挙法の別表を今回改正することとしつつも,「選挙区ノ人口ニ増減ヲ生」じたならばそれには応ぜねばならぬのだとの同じ論理でその後も五月雨式にだらだら改正を続けなければならなくなることは面倒だから,あえてここで別表の更正を打切り,封印する旨を明らかにするために「本表ハ選挙区ノ人口ニ増減ヲ生スルモ少クトモ10箇年間ハ之ヲ更正セス」との一文を追加することにしたのではないか,しかしこれは,横着ではないか,姑息ではないか,ということでしょうか。同日の枢密院会議において内閣員から当該法案の説明があえてされなかったのも,堂々反駁しようにも,その間の事情ないしは論理にすっきりしないものがあったからでしょうか。

 

(2)帝国議会における紆余曲折

 

ア 衆議院における追及

 

(ア)政府委員の趣意説明

1902225日の衆議院本会議における山縣伊三郎政府委員による法案趣意説明は簡単なものであり,かつ,10箇年間不更正条項には言及されていません。

 

  此改正ヲ致シマスル趣意ハ,改正選挙法〔明治33年法律第73号〕制定ノ当時,市ニシテ未ダ人口3万ニ充タザルモノデアッテ,今日ハ其以上ニ達シタルヲ以テ,之ヲ各1選挙区トシテ各議員ヲ1人配当セントスル次第デゴザリマス,其中福岡県ノ小倉,群馬県ノ高崎,是ガ其後市制ヲ施行シタモノデゴザリマス,独リ横浜ニ至リマシテハ,少シク理由ヲ異ニ致シマスガ,是ハ昨年4月附近ノ各数町村ヲ合併致シマシテ,ソレガタメニ非常ニ大キクナリマシタ,ソレデ是ハ行政処分ノ結果,異同ヲ生ジタモノデアリマスカラ,此改正ノ中ニ加ヘタ訳デアリマス,何卒御協賛ヲ希望致シマス

 (第16回帝国議会衆議院議事速記録第19404頁)

 

 要は,市部選出の衆議院議員数を12増加させたいという法案でした。高崎市,四日市市,若松市,青森市,秋田市,鳥取市,尾道市,丸亀市,久留米市,門司市及び小倉市の11市を独立の選挙区として議員各1名を追加するとともに,町村合併で拡大した横浜市について,同市から選出される議員の数を1から2に増加させようというものでした。この12議席は純増であって,他に選出議員数の削減は提案されていませんでした。

 

(イ)質疑及び答弁

 しかしながら,滋賀県の弁護士である望月長夫議員が先陣を切り,代議士らは10箇年間不更正条項の問題性を追及し,山縣政府委員はたじたじとなっています。

 

  〇望月長夫君(242番) 此案ノ一番終リニ――「別表ノ終ニ左ノ1項ヲ加フ」「本表ハ選挙区ノ人口ニ増減ヲ生ズルモ少クトモ10箇年間ハ(ママ)ヲ更正セス」斯ウ云フ規定ガ如何ナル制裁ヲ加ヘルカ,何ヲ拘束スルカ,立法権ヲ持ッタ者ガ立法ヲスルノニ,ソレヲ此法律ニ斯ウ制限ヲ致シテ置イテモ,翌日矢張之ヲ改正スル,此別表ノ10年以内ニハ直サヌト云フヤツヲ改正スルト云フ案ガ,明日デモ〔,〕斯ウ云フコトヲ書イテ置クト,是ハ如何ナルコトヲ拘束スルカ,此文章ニ何ノ制裁ガアルカト云フコトヲ,政府委員ニ尋ネマス

  〇政府委員(山縣伊三郎君) 御答ヲ致シマス,御説ノ通,又法律ヲ以テ之ヲ改正スルト云フコトニナレハ,別段効能モナイヤウニ見エマスガ,併シ人口ノ異同アル度毎ニ之ヲ変更スルト云フコトニナル,始終ヤッテ居ラナケレバナラヌト云フ結果ヲ生ジマス,ソレデ先ヅ之ヲ変更セヌト云フ精神ヲ,茲ニ現シタノデゴザイマス

  (第16回帝国議会衆議院議事速記録第19404頁。下線は筆者によるもの)

 

  〇安藤龜太郎君(22番) 〔略〕併シ此本案ニ依リマスルト「本表ハ選挙区ノ人口ニ増減ヲ生スルモ少クトモ10箇年間ハ(ママ)ヲ更正セス」トアル,何ヲ以テ10年間ハ人口ノ増減ヲスルトモ,是ヲ更正セヌト云フ御意見ヲ立テラレタンデアルカ,其辺ガ本員ハ甚ダ怪ム所デアル,市ニ於テモ郡ニ於テモ,此人文ノ発達スルニ従ッテ,又実業ノ奨励発達スルニ従ッテ,必ズ人口ノ増減ガアラウト思フ,然ルニ10箇年ハ之ヲ更正セズト云フ標準ハ,何ニ依ッテ立テラレタカ,此点ヲ本員ハ甚ダ怪ムノデアリマスルカラ,明ニ御答弁ヲ請ヒマス

  〇政府委員(山縣伊三郎君) 唯今ノ御尋ハ先刻確カ望月君カラノ御尋ト同一ノヤウニ思ヒマスルデ,別ニ御答スルニ及ブマイカト存ジマス

     (安藤龜太郎君「何デス,10箇年ト云フ標準ハ」ト呼フ)

  〇田邊爲三郎君(267番) チョット質問致シマス,政府ハ度々当議会ニ出テモ説明シタコトガゴザイマス,憲法附属ノ法律ト云フモノハ,容易ニ改正スベキモノニアラズト云フコトハ,数回明言サレテアル,然ルニ此明治33年ノ73号ノ法律ト云フモノハ,改正以来未ダ実施期ニモ達セザルモノデアル,然ルニモ拘ラズ,早ヤ此本表ニ就イテ改正ヲセネバナラヌト云ウテ,此案ヲ出シタノハ,平素政府ガ主張スル所ノ趣旨トハ,大ニ齟齬シテ居ル,此事ニ附イテハ政府ハ何等ノ理由ヲ以テ,斯様ナル変更ヲ試ルノデアルカ,本案ノ中ノ最末項ニハ,最前ヨリ度々質問ノアル通リ「本表ハ選挙区ノ人口ニ増減ヲ生スルモ少クトモ10箇年間ハ之ヲ更正セス」ト云フ,是ガ即チ政府本来ノ主張デアル,是ガ即チ政府ガ従来唱ヘ来ッタ所ノ本旨デアル,果シテ然ラバ何ガ故ニ斯ウ云フ風ニ改正スル必要ヲ生ジタデアルカ,此点ニ附イテ明瞭ナル答弁アランコトヲ望ミマス

  〇政府委員(山縣伊三郎君) 固ヨリ容易ニ之ヲ改正スルコトハ致サヌ積デアリマスル,併シ本表ハ未ダ実施ニナッテ居リマセヌカラ,其実施前ニ当ッテ必要ヲ認ムルモノハ之ヲ改正シテ差支ナカラウト思ヒマス

  〇山内吉郎兵衞君(137番) 抑〻代議士ヲ選出スルニハ,人口ヲ以テ計算スルト云フコトガ,73号ノ基礎ニナッテ居ル,本案ニ於テハ10年間之ヲ更正セヌト云コトニナレハ,本文ト抵触スル嫌ヒハナイカ,本文ハドウスル積デアルカト云フコトヲ,質問致シマス

   〔略〕

  〇政府委員(山縣伊三郎君) 唯今ノ第一ノ御尋ニ御答シマスガ,必ズ人口ヲ標準トシタト云フ訳テハアリマセヌガ,先ヅ市ハ3万以上,郡ハ13万ト云フコトニナッテ居リマス,ソレデ別段抵触スル所ハナイト思ヒマス,ソレカラ少クトモ10年ト云フハ,是ハ或ハ是非改正セネバナラヌト云フ必要ガアレバ,之ヲ改正スルコトモアリマセウガ,先ヅ少クトモ10年ハ改正セヌ,斯ウ云フ趣意デアリマス

  (第16回帝国議会衆議院議事速記録第19405頁。下線は筆者によるもの)

 

(ウ)10箇年間不更正条項の法的効力の有無について

清宮の学説を採用して,「立法方針の宣明にすぎぬにしても,立法機関によって宣明されたかかる方針は,いやしくもそれが法律として成立すると仮定すれば,かかるものとして少なくともいわゆる内面的拘束力を有し,立法機関の行態を義務づけ,拘束する法規範として,法上有意義なものと見做されねばならない。立法機関自らが右の宣明によって10年間不更正の法的義務を負い,もし,美濃部博士の説明の如く,右の法律の主旨とするところが「単純な人口の増減だけでは10年間は之を動かさないといふ方針」の「言明」にあるとすれば,立法機関は10年以内には少なくとも人口の増減を理由としては別表の更正を行なわない義務を負うものと解さねばなるまい。」(樋口編295頁)という趣旨の強気の答弁をしていたならば,代議士らの攻撃はますます激しく,山縣政府委員は帝国議会の議場で立ち往生していたことでしょう。

 

(エ)10箇年間の標準について

また,なぜ10箇年間なのかその標準はどこに求めたのかとの安藤議員の質疑に山縣政府委員は正面から答えられなかったところですが,清宮式の「憲法との問題は別として,10年くらいの不更正は法の可変性とも矛盾せず,立法政策上の問題はとに角,法の内容としては可能である」(樋口編305頁)との答弁では,待ってください憲法問題から逃げるのですか,それにそもそもの政府の立法政策はだからなんなんですか,と法案反対派の安藤龜太郎議員(第16回帝国議会衆議院議事速記録第21461頁参照)の闘志をかき立て(すっぽん)のように噛みつかれる破目に陥っていたかもしれません(なお,安藤議員は神奈川県選出,第5回総選挙(1898315日投票)初当選。第8回総選挙(190331日投票)及び第9回総選挙(190431日投票)においては当選者中に名がないところ,「後零落して坐骨神経痛を病み〔明治〕38年〔1905年〕21日縊死を遂ぐ年47」とあります(大植四郎編『国民過去帳明治之巻』(尚古房・1935年)862頁)。)

ちなみに,190235日の貴族院の明治33年法律第73号衆議院議員選挙法中改正法律案外1件特別委員会(以下「選挙法改正法案特別委員会」と略称します。)においては,さすがに山縣政府委員会は準備ができていたようで,「少クトモ10年ハ之ヲ変更セザルコトニスルト云フ理由ハ,御承知ノ通リ戸口調ガ5年毎ニ之ヲナスコトニナッテ居リマス,ソレデソレヲ5年ニシテハ余リ短過ギルカラ,マア5年ヲソレニ加ヘルト云フコトヨリシテ10年ト云フコトガ出タノデアリマス,ソレカラ欧米ノ例ニ依リマシテモ,タシカ米国ガ10年グラヰニナッテ居ッタト思ヒマス」との答弁がされています(第16回帝国議会貴族院明治33年法律第73号衆議院議員選挙法中改正法律案外1件特別委員会議事速記録(以下「第16回帝国議会貴族院選挙法改正法案特別委員会議事速記録」と略称します。)第14頁)

 

(オ)前提としての明治33年法律第73

なお,山縣政府委員のいう「先ヅ市ハ3万以上,郡ハ13万ト云フコトニナッテ居リマス」の意味は,「人口13万人につき議員1人を出すことを大体の主義とすることは,最初の選挙法から以来の伝統」であるところ(美濃部101頁),明治33年法律第73号は――「郡部選出の議員はどうしても地主の代表に傾き易いから,それと相対して適当に商工業者の利益を代表せしむるには,市部選出の議員を多くする必要があるといふのが,その理由とするところ」だったのですが(同93頁)――「市部と郡部とを独立せしめ,人口3万以上の市は総て独立の一選挙区とした」のでした(同91頁)。しかし,「その結果として,郡部及び東京市や大阪市のやうな大都会地では,人口13万人につき1人の割合で議員を選出するに拘らず,小き市では人口3万人で既に1選挙区を為し随つて1人の議員を選出するものとせられ,随つて市部と郡部とが不釣合であるのみならず,同じく市部の内でも,大都市と小市とは議員を選出する上に甚だ権衡を失ひ,小市が比較的に最も多くの議員を出すといふ不公平な結果を生じ」ていました(美濃部93-94頁)。

1902227日の衆議院本会議において鈴木儀左衞門議員は「商工業者ガ何ガ故ニ他ノ業者ヨリモ,其権利ヲ多ク与ヘネバナラヌノデアルカ,同ジ帝国ノ臣民デアッテ斯様ナルコトハ決シテアルマジキコトデアル」とこの不公平性に再び触れていますが(第16回帝国議会衆議院議事速記録第21459頁),「郡部或ハ市ト其関係ガ違フ,比例ガ違フカラ,不公平デアルト云フ鈴木君ノ御議論ハ,最早〔明治〕33年〔1900年〕ニ於テ聞クベキデ,今日ニ於テ聞ク必要ハナイコトデアラウト信ジマス」との反撃を武市庫太議員から受けています(同459-460頁)190239日の貴族院本会議においては谷干城議員が「凡ソ人民ノ権利ニ於テ工商即チ市ニ住ッテ居ル者ハ郷ニ住ッテ居ル者ヨリ数等ノ権利ノアルト云フ道理ハナイ,総テ国家ノタメニ議スル代議士ヲ選ブニ附イテハ四千万人平等ニ其選ブ権ヲ持タナケレバナラヌト云フノガ私ノ最初ヨリノ論デアル,ソレデ此市ヲ独立サセルト云フヤウナ事柄ハ最モ不公平ナコトヽ云フ論カラシテ絶対ニ反対ヲシマシタ〔中略〕況ヤ此僅ニ数年前ニ之ヲ改革シテ又今日又之〔市部選出議員〕ヲ増スト云フ」云々と獅子吼したのに対し(第16回帝国議会貴族院議事速記録第25458頁),問題の蒸し返しを予防すべく奥田義人政府委員(法制局長官)は「既ニ市ヲ独立ノ選挙区ト為スト云フコトガ原則ニ於テ極ッテ居リマスルノデ,此原則ガ壊レマセヌ以上ハ今谷子爵ノ御述ニナリマシタルガ如キ御論ハ如何ナモノデアラウカト政府〔第1次桂太郎内閣〕ニ於テハ信ジマスル」とたしなめ(同頁),尾崎三良議員も「此人民ノ思想ガ十分ニ公平ニ代表セラルヽノ方法ヲ執ルノガ此代議政体ノ最肝要ナル所ト考ヘル,〔略〕選挙法ノ定メ方ガ甚ダ片ッ方ニ偏シテ居ルト云フコトヲ認メテ,政府モ本院モ衆議院モ認メテ,一昨年デシタカ今日ノ現行法ニ改メラレタノデアル,其主義タルヤ最早一定シテ動カスベカラザルモノアッテ,谷子爵ガドレ位御論ジニナッタ所ガ,ソレハ動カサレヌノデアル」と政府委員を応援しています(同460頁)

 

イ 衆議院による削除

16回帝国議会衆議院における審議状況に戻ると,山縣政府委員の学術的ならざる苦心の政治的答弁にもかかわらず,政府案の10箇年間不更正条項は,1902227日,望月長夫議員の提案により,同院本会議(第二読会)でいったん削られています(第16回帝国議会衆議院議事速記録第21461頁)

望月議員は,10箇年間不更正条項を削るべき理由を次のように述べていました。

 

  本員ハ此一番仕舞ニ書イテアル「別表ノ終リニ左ノ1項ヲ加フ本表ハ選挙区ノ人口ニ増減ヲ生スルモ少クトモ10箇年間ハ之ヲ更正セス」ト云フ,此2行ノ条文ヲ削除致ス意見ヲ提出致シマス(「賛成」ト呼フ者アリ)是ハ多クハ述ベマセズトモ,斯ノ如キ規定ガ何等ノ法律上ニ効力ヲ持タナイト云フコトハ,皆様モ御承知ノ通デアル,今日ノ立法権ニ於テ,決シテ明日ノ立法権ヲ拘束スルコトハ出来ナイカラ,斯ノ如キ規定ヲシテ置イテモ,明日直チニ之ヲ廃止スルト云フコトハ,何デモナイ話,或ハ斯ノ如ク書イテ置カネバ,上院ノ通過ガ覚束ナイト云フヤウナコトヲ,苦ニ御病ミナサル御方ガアッテ,之ヲ存シテ置ク必要ガアルト云フ御考ガ,ナキニシモアラズト云フヤウニ,私ハ見受ケマスケレドモ,是ハ如何ニモ上院議員諸君ヲ,愚ニシタ話,斯ノ如キ箇条ガアルカラ,衆議院ハドウシテモ再ビ此別表ノ変更ヲ試ミル権能ガナイト云フコトハ,上院諸公ノ賢明ナル,左様ナ馬鹿気タコトヲ考ヘテ居ル筈ハナイ,斯ノ如キ子供瞞シノ条文ヲ此処ニ置イテ,上院ヲ胡麻化スト云フノハ,実ニ馬鹿気切ッタ話デアリマス,斯ノ如キ箇条ヲ存スルコトハ,衆議院ノ面目ニ関スルト信ジマスガ故ニ,是ダケヲ削除致シタイ

 (第16回帝国議会衆議院議事速記録第21461頁。下線は筆者によるもの)

 

 要するに,望月議員の理解としては10箇年間不更正条項には法的効力は一切ないものであり,当該理解に対して衆議院もその議決をもって同意したということでしょう。清宮の分類学によれば,「一般の国家機関の自己制限の場合と同じくこれらの法律の特別規定は,憲法の一般に定める法律制定規定に違反し憲法の授権の範囲を越えるものとして無効と看做す」見解(樋口編296頁)が採られていたということでしょう。

衆議院による当該修正議決に対する政府の認識は,190235日の貴族院選挙法改正法案特別委員会における山縣政府委員の答弁によると「此末項ヲ衆議院ニ於テ削リマシタ訳ハ,法律ヲ改正スレバ,是等ハ効力ノ無イモノデアル,其効力ノ無イモノニ対シテ,之ヲ爰デ掲ゲテ置ク必要ハナイデハナイカト云フヤウナ理由デ削ラレタノデアリマス,併シ政府ニ於テハ或ハ其改正ニナレバ効力ノ無イト云フコトハアラウガ,兎ニ角10年間ハ是デ変更セザルノ精神デアルト云フコトヲ答ヘテ置キマシタ」ということであり(第16回帝国議会貴族院選挙法改正法案特別委員会議事速記録第14頁)同月9日の貴族院本会議における奥田政府委員の答弁によれば「何年間変更セヌトモ何トモ加ヘテナクシテ〔明治22年法律第3号の衆議院議員選挙法は〕既ニ10年間モ変更セラレズニ今日マデ来テ居ルノデアリマス,法律ヲ改正サヘスリヤ何時デモ出来得ルコトデアッテ,殊ニ斯ウ云フコトヲ挿ンデ置カヌカラト云ウテモ,事実ニ於テ決シテサウ屢〻改正ヲスルト云フコトノナイノハ,従来ノ・・・即チ現行ノ選挙法ニ於テ既ニ其証拠ヲ示シテ居ッテ,書イテ置イタカラト云ウテモ又改正ヲスリヤ出来得ルコトヂヤナイカ,サウスリヤ殊更斯ウ云フノヲ入レテ置クト云フ必要ハナイト云フ,斯ウ云フヤウナ精神ヲ以テ削除セラレタヤウニ認メマス」ということでした(第16回帝国議会貴族院議事速記録第25459頁)。なお,1900329日に公布された明治33年法律第73号の衆議院議員選挙法は「次ノ総選挙ヨリ之ヲ施行ス」ということになっていたので(同法111条本文),1898810日投票の第6回総選挙と衆議院議員の任期満了による1902810日投票の第7回総選挙との間の19023月の段階での現行法は,依然として明治22年法律第3号の衆議院議員選挙法なのでした。

望月議員の提案理由の後半部分をどう理解すべきか。

実は,衆議院議員らが自分らの議席数を増加すべく運動するのにいちいち付き合わされることに貴族院議員らは閉口している,というような事情があって,あと10年はもう御迷惑をおかけしませんから今回限りは御協力くださいと言ってなだめなければならないのだよというようなことになっていたようではあります。すなわち,190239日の貴族院本会議において尾崎三良議員は「本院〔貴族院〕ニ於キマシテハ兎角此衆議院議員ノ殖エルコトヲ望マヌヤウナ風ガアル」との観察を述べており(第16回帝国議会貴族院議事速記録第25460頁),現に当該本会議において,衆議院議員数を12増やす明治35年法律第38号の法案から10箇年間不更正条項を衆議院が削ったことに関して,谷干城議員は「之ヲ以テモ明ナコトデ,ハヤ来年ナリ来々年ナリ人為デ又市ヲ作ル,其目的デ之ヲ削ッタモノデアル,斯ノ如キ有様デハ実ニ此前途ノコトガ案ジラレル」と(同458頁),曾我祐準議員は「衆議院デ削ッタ意思ヲ推測シテ見ルト矢張3万ノ市ガ出来タナレバ今年モ3市,来年モ5市ト云フヤウニ加ヘルコトヲ得ルト云ウヤウニ考ヘマス」と(同459頁),衆議院議員らの底意について非好意的な発言がされていました。

なお,望月衆議院議員は,10箇年間不更正条項を除いた,議員数増加部分の法案自体には,なるほど賛成であったようです(第16回帝国議会衆議院議事速記録第21460頁参照)

望月議員としては,また,法的には無効の条項を法的効力のある条項であるものと誤解する解釈で貴族院が可決してしまうと,正解たる無効説を採る衆議院としては後々厄介であるので,「愚」の貴族院が「子供瞞シ」に遭って「胡麻化」されるという「馬鹿気」た事態が生ずる可能性の芽はあらかじめ摘んでおくにしかず,ということであったようでもあります。

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1 「最悪の事態を想定」しての外国人の入国停止措置をめぐる正しい民意と言論と

 12月に入り,寒くなりました。

 いつまでも秋が続いている気分でうっかりすると,つい風邪をひきやすい季節です。

 しかし,現在は非常時です。従来型の風邪ならばともかくも(とはいえ風邪もなお万病のもとです。),新型コロナウイルス感染症を,たなびく霧(Nebelstreif)のごとき単なる風邪と同一視して軽視するなどという横着な邪見に陥ることは,決して許されることではありません。

 コロナウイルスは,恐ろしい。岸田文雄第101代内閣総理大臣も,2021126日の衆参各議院の本会議における所信表明演説で警鐘を乱打しておられます。

 

大事なのは,最悪の事態を想定することです。

オミクロン株のリスクに対応するため,外国人の入国について,全世界を対象に停止することを決断いたしました。

まだ,状況が十分に分からないのに慎重すぎるのではないか,との御批判は,私が全て負う覚悟です。国民からの負託は,こうした覚悟で,仕事を進めていくために頂いたと理解し,全力で取り組みます。

  (第207回国会における岸田文雄内閣総理大臣の所信表明演説(2021126日)(以下略称として「岸田202112」を用います。))

 

このくだり,「まだ,状況が十分に分からないのに慎重すぎるのではないか,との御批判は,私が全て負う覚悟です。」と一応謙遜しておられます。しかしながら,同日99分付けの「読売新聞オンライン」の記事(「オミクロン株の水際対策「評価」89%,スピード感に肯定的受け止め読売世論調査」)には「読売新聞社は〔202112月〕35日に全国世論調査を実施し,新型コロナウイルスの変異株「オミクロン株」への政府の水際対策を「評価する」との回答が89%に上った。「評価しない」は8%。岸田内閣の支持率は62%で前回(〔2021年〕1112日調査)から6ポイント上昇,不支持率は22%(前回29%)に低下した。/政府は海外でのオミクロン株の感染拡大を受け,11月末に全世界からの外国人の新規入国を停止した。日本着の国際線の予約停止要請を3日間で撤回する混乱はあったものの,スピード感を持って対策を打ち出していることが肯定的に受け止められたようだ。」とあります。御本人としては,内心「してやったり」というところだったのでしょう。

我が神聖清浄なる大八洲国に立ち入りを禁じられた外国の方々から苦情が申し立てられるとしても,「「国民の理解や,後押しのある外交・安全保障ほど強いものはない」。48か月外務大臣を務めた経験から,強くそう感じています。」と(岸田201212),善良かつ主権の存する日本国民の圧倒的民意に支えられ,岸田総理は自信満々です。

国内においても, 8パーセントの不謹慎な開国容(コロナ)派が仮に言挙げをしても,その人心惑乱の暴言は89パーセントの真摯な鎖国攘(コロナ)派によって直ちに発火炎上せしめられて撤回削除に追い込まれ,反省自粛の上,彼らの口は清き心を示す白いマスク(weiße Masken)をもって覆われることとなるのでしょう。80年前,対米英蘭戦開始直後制定の昭和16年法律第97号(19411218日裁可,同月19日公布,同月21日施行(同法附則1項・昭和16年勅令第1077号))の第17条は「時局ニ関シ造言飛語ヲ為シタル者ハ2年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ2000円以下ノ罰金ニ処ス」と,第18条は「時局ニ関シ人心ヲ惑乱スベキ事項ヲ流布シタル者ハ1年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ1000円以下ノ罰金ニ処ス」と規定していましたが,令和の御代の上品かつ自主的な我が国民においては,昭和の昔のお下劣な民草とは異なり,時局にふさわしからぬ言論の規制のために司法御当局の手を煩わすまでの必要はありません。

なお,外国人の新規入国停止の根拠となっているのは,出入国管理及び難民認定法(昭和26年政令第319号)5114号の「前各号に掲げる者を除くほか,法務大臣において日本国の利益又は公安を害する行為を行うおそれがあると認めるに足りる相当の理由がある者」たる外国人は本邦に上陸することができないものとする条項です。同法511号(及び手続について同法92項)では足らずに同法5114号が発動されるのですから,コロナウイルスは,単なる公衆衛生上の問題となるばかりではなく,大きく我が国の国益及び公安までをも脅かす非常に兇悪な存在なのです。正に昭和16年法律第97も,「戦時ニ際シテ」我が国の「安寧秩序ヲ保持スルコトヲ目的トス」るものだったのでした(同法1条)。ちなみに,日本国憲法に拠って出入国管理及び難民認定法5114号の運用を掣肘しようにも,「憲法上,外国人は,わが国に入国する自由を保障されているものでない」ところです(最大判昭和53104日民集3271223頁)。

 

2 「時局ニ関シ人心ヲ惑乱スベキ事項ヲ流布」することの一般的禁止又は回避

ところで,昭和16年法律第9718条の趣旨は,19411216日の東條英機内務大臣(内閣総理大臣が陸軍大臣及び内務大臣を兼任)の議会答弁によれば,それまで不可罰であった「真正ナル事実及ビ意見,信仰,臆説等ノ流布」をも処罰し得るようにするものです(第78回帝国議会衆議院言論,出版,集会,結社等臨時取締法案委員会議録(速記)第12頁。また,第78回帝国議会貴族院言論,出版,集会,結社等臨時取締法案特別委員会議事速記録第12頁)。これについては,一松定吉委員が心配して,「事実ニ即シタコトヲ言ツテモ,ソレガ所謂人心ヲ惑乱スル,米ガナクテハ戦ハ出来ヌヂヤナカラウカト云フノデ人心ヲ惑乱スル,或ハ油ガナケレバ戦サガ出来ヌヂヤナイカト云フコトデ人心ニ動揺ヲ来スト云フヤウナ場合モ,ヤハリ第18条〔略〕ニ当嵌マルト云フコトニナリマスト,一寸シタコトデモ,事実ヲ我々ハ口ニ出シテ言ヘナイト云フヤウナコトニナリハシナイカ」ということで,例示を求める質疑をしていますが,東條内務大臣は「茲ニ一ツノ例ヲ以テ御示シスルコトハ不可能デアラウト思ヒマス」と言って例示をすることを拒んでいます(第78回帝国議会衆議院言論,出版,集会,結社等臨時取締法案委員会議録(速記)第19頁)。そんなの罰しませんよ大丈夫ですよ,とさわやかに言ってもらえてはいません。

翻って,命にかかわるコロナ克服の厳しい戦いが戦われている現在においては,隠しごとありげな見苦しさ及び眼鏡が曇る,息苦しい等々の鬱陶しさを補ってなお余りある感染予防に係る十分な効果が本当にマスク着用にあるのだろうか,「ワクチンについては,医療従事者の方から,3回目の接種を始めました。2回目の接種から8か月以降の方々に順次,接種することを原則としておりましたが,感染防止に万全を期す観点から,既存ワクチンのオミクロン株への効果等を一定程度見極めた上で,優先度に応じ,追加承認されるモデルナを活用して,8か月を待たずに,できる限り前倒しします。」と言われても(岸田202112)ワクチン(Vakzine)の接種(einspritzen)の副反応はひょっとして人によっては結構危険なんじゃないだろうか,というような意見,憶説等を流布することは,仮に造言飛語をなすことには当たらないとしても,少なくとも人心を惑乱すべきものと忖度されるべき悪魔的ないしは魔王的所業なのでしょう。いささか悩ましい。

疑心暗鬼の惑乱に陥らないためには,枯れ葉にさやぐ(in dürren Blättern säuselt)風の音(der Wind)ならぬ新型コロナウイルス感染症対策専門家等からの権威ある御発言及び総務大臣の御監督を受けているテレビ局等による高齢者の魂にも奥深く響く力強くかつ分かりやすい報道を専ら信ずべきでしょう。新型コロナウイルス感染症対策の専門家であると自他共に認めておられるお医者様方(Doktoren)は,藪でないことはもちろん,幽霊のような古柳(alte Weiden)でもありません。

 

3 令和3年度補正予算

岸田総理の御決意は,力強い。

 

   新型コロナについて,細心かつ慎重に対応するとの立場を堅持します。感染状況が落ち着いていますが,コロナ予備費を含めて13兆円規模の財政資金を投入し,感染拡大に備えることとしました。

    

   同時に,一日も早く,日本経済を回復軌道に持っていかなければなりません。新型コロナにより,厳しい状況にある人々,事業者に対して,17兆円規模となる手厚い支援を行います。

    

   危機に対する必要な財政支出は躊躇なく行い,万全を期します。経済あっての財政であり,順番を間違えてはなりません。

 

通常に近い経済社会活動を取り戻すには,もう少し時間がかかります。

それまでの間は,断固たる決意で,新型コロナでお困りの方の生活を支え,事業の継続と雇用を守り抜きます。

かねてより申し上げているとおり,経済的にお困りの世帯,厳しい経済状況にある学生,子育て世帯に対し,給付金による支援を行います。特に生活に困窮されている方には,生活困窮者自立支援金の拡充など,様々なメニューを用意します。総額7兆円規模を投入します。

事業者向けには,2.8兆円規模の給付金により,事業復活に向けた取組を強力に後押しします。

  (以上岸田202112

 

 大盤振る舞いです。

しかもこれは,今次第207回国会で議決予定の令和3年度(2021年度)の補正予算(財政法(昭和22年法律第34号)291号(「法律上又は契約上国の義務に属する経費の不足を補うほか,予算作成後に生じた事由に基づき特に緊要となつた経費の支出(当該年度において国庫内の移換えにとどまるものを含む。)又は債務の負担を行なうため必要な予算の追加を行なう場合」)参照。なお,「現行財政法第29条は,各省の予算要求を抑えようとする大蔵当局の希望で設置されたという。国会修正権への制限論と彼此勘考するとき,筆者には,あまりにも大蔵当局中心的な便宜主義的態度のようにおもえる。」という指摘は面白いですね(小嶋和司「財政法をめぐる最近の問題」『小嶋和司憲法論集三 憲法解釈の諸問題』(木鐸社・1989年)203頁註(3))。「大蔵当局中心的な便宜主義」が昭和の昔には通用していたのです。)における支出であるところ,コロナウイルス感染が続く限り,何だかおかわりがありそうです。「具体的な行動によって,国民の皆さんの安心を取り戻し,何としても,国民の命と健康を守り抜く決意です。」というのですから(岸田202112),もう後には引けません。心配性の(hypochondrisch)人々の心配が絶えることはあり得ません。

ところで,生活向けに7兆円規模,事業向けに2.8兆円といいますから,給付金の規模は合計9.8兆円となるようです。貰う側からすると,有り難い話です。ただし,ばらまきによる人気確保策には,落とし穴がありそうです。

 

 ことに下にては仁政といへば金穀をほどこしたまふものとのみおもへば,いかなる事被仰出(おほせだされ)候ともあきたるべしとも思はず。ことに上京之度々花やかなる振舞なしなば,此のちきたるものも,またおとらじと思ふやうになりもて行て,つゐには下へへつらふといふことにも近かるべし

 (松平定信『宇下人言』(岩波文庫・1942年)79頁)

 

この給付金というものは,要は所得移転です。したがって,無から有が生まれない限りは,左のポケットに9.8兆円入れるためには右のポケットから9.8兆円を取り出さなければなりません。現在ここでの右のポケットは,一見,公債を発行して補正予算の財源を確保する財務省のようですが(なお,財政法41項(「国の歳出は,公債又は借入金以外の歳入を以て,その財源としなければならない。但し,公共事業費,出資金及び貸付金の財源については,国会の議決を経た金額の範囲内で,公債を発行し又は借入金をなすことができる。」)にかかわらず,令和3年法律第13号(202141日から施行(同法附則1条))による改正後の財政運営に必要な財源の確保を図るための公債の発行の特例に関する法律(平成24年法律第101号)31項(「政府は,財政法(昭和22年法律第34号)第4条第1項ただし書の規定により発行する公債のほか,令和3年度から令和7年度までの間の各年度の一般会計の歳出の財源に充てるため,当該各年度の予算をもって国会の議決を経た金額の範囲内で,公債を発行することができる。」)を参照。今次補正予算においては同項の特例公債が192310億円分発行されるそうです(令和3年度一般会計補正予算予算総則補正62項)。),究極的には実は納税者ということになるのでしょう。しかし,合わせて9.8兆円也と抽象的な数字をいわれただけでは,この納税者の負担の程度が実感しにくい。

202110月の我が国の就業者数は6659万人であるそうですから(同年1130日総務省統計局公表・労働力調査(基本集計)),9.8兆円といえば就業者1人当たり147千円余ということになりますか。しかし,就業者でも給付金を貰う側の人がいるのでしょうし,累進課税ということもありますから,いや私は結構高収入だよという人については147千余円では済まないことになるのでしょう。

 国税庁の統計によれば,令和2年度(2020年度)の所得税の収納済額が22412661百万円,消費税及び地方消費税のそれは27051210百万円です(国税全体では70467163百円(地方消費税分5605843百万円を含む。))。9.8兆円を1年で調達するためには(ちなみに,個人の借金については,「住居費を引いた手取り収入の3分の1」を弁済原資の目安として,完済までの分割返済回数が36回(月)(すなわち3年)までならば任意整理が可能であるが,それを超えると破産相当であるといわれています(『クレジット・サラ金処理の手引(5訂版補訂)』(東京弁護士会=第一東京弁護士会=第二東京弁護士会・2014年)40-41頁)。),現在の所得税額を43.7パーセント強増加するか,消費税及び地方消費税の税率が現在10パーセントであるとして(軽減税率があるので面倒なのですが),それを約13.6パーセントに引き上げねばならないことになります。(なお,法人税から取ればよいのだ云々という考えもあるかもしれません。しかし,ここでは,税は究極的には個人(法人税については当該法人の社員(株主)たる個人)が負担することになるものと考えています(現行税制の基礎をなしているシャウプ勧告の考え方と同じです(金子宏『租税法 第十七版』(弘文堂・2012年)265-266頁参照)。)。)

 これでは,臆病(feige)なくらい「細心かつ慎重」であるどころか行政(Verwaltung)による大胆に過ぎる濫費(Verschwendung)であって,経済あっての財政といっても,その財政が経済(Wirtschaft)を破壊してしまっては元も子もないではないか,将来の莫大な負担を考えると,安心を取り戻すどころかかえって投げやりないしは暗い心持ちとなって納税者たる国民の元気が萎えてしまうではないか,と言い募ることもあるいは可能でしょう。しかしそれでは,非国民的に人心を惑乱させてしまうことになってしまいそうでもあります。

そもそも財政の健全化は,難しい。

令和3年法律第13号によって財政運営に必要な財源の確保を図るための公債の発行の特例に関する法律4条が「政府は,前条〔第3条〕第1項の規定により公債を発行する場合においては,平成32年度〔2020年度〕までの国及び地方公共団体のプライマリーバランスの黒字化に向けて経済・財政一体改革を総合的かつ計画的に推進し,中長期的に持続可能な財政構造を確立することを旨として,各年度において同項の規定により発行する公債の発行額の抑制に努めるものとする。」から「政府は,前条第1項の規定により公債を発行する場合においては,同項に定める期間が経過するまでの間,財政の健全化に向けて経済・財政一体改革を総合的かつ計画的に推進し,中長期的に持続可能な財政構造を確立することを旨として,各年度において同項の規定により発行する公債の発行額の抑制に努めるものとする。」に改められ(下線は筆者によるもの),同法2条にあった「国及び地方公共団体のプライマリーバランスの黒字化」に係る定義規定も削られています。これは,20213月末までに国及び地方公共団体のプライマリーバランスの黒字化を達成するという具体的数値目標(平成28年法律第23号(201641日から施行(同法附則1条))による改正によって法文上設定)の達成に安倍晋三=菅義偉政権が失敗したので,令和3年度(2021年度)を迎えるに当たって漠とした未来における「財政の健全化」という抽象的な目的に差し替えたというものとして結局理解されるものでしょう。しかし,政府としては,法律には書いてはいなくとも,今度は2025年度までにプライマリーバランスの黒字化を目指すものとしています。とはいえ,何度電話しても「今そちらに向かっています」との答えばかりが返ってくる蕎麦屋の出前的ではあります。どうしたものでしょう。

個人の多重債務者については,

 

 〔略〕計画性に欠ける,約束を守れない,ときには弁護士に対しても平気で嘘を言うなどの問題のある依頼者が決して少なくないことも間違いはありません。

  しかし,このような問題のある依頼者でも,弁護士による指導監督のよろしきを得れば,多くは経済的更生が可能になります。

 

といわれてはいます(『クレジット・サラ金処理の手引(5訂版補訂)』2頁)。これは,個人債務者の「経済的更生」のためには,「免責許可の決定が確定したときは,破産者は,破産手続による配当を除き,破産債権について,その債務を免れる」ものたらしめる免責(破産法(平成16年法律第75号)2531項本文)という荒技があるからでしょう。しかし,国の場合はどうでしょうか。個子ちゃんが活躍する個人向け国債のにぎやかな広告宣伝を見るたびに,考えさせられてしまいます。

 

4 行動制限の強化と国民の理解との関係等

 

(1)強化された司令塔機能の下の行動制限の強化

 ところで,国民の元気の有無云々以前に,コロナウイルスの元気次第で経済活動の停止がされることがあり得ることも否定されてはいません。

 

   〔略〕来年の6月までに,感染症危機などの健康危機に迅速・的確に対応するため,司令塔機能の強化を含めた,抜本的体制強化策を取りまとめます。

    

   〔略〕感染が再拡大した場合には,国民の理解を丁寧に求めつつ,行動制限の強化を含め,機動的に対応します。

  (以上岸田201212

 

 せっかく抜本的に強化された司令塔機能の下で行動制限が強化されるというのですから,行動制限強化のため(罰則を設け,又は義務を課し,若しくは国民の権利を制限するため)の新規立法がされるのでしょうか。熱烈なファンがなお多そうでもある強力な封城・ロックダウン(der Lockdown)がいよいよ法制度として我が国にも導入されるのでしょうか。しかし,「国民の理解」を前提に「機動的」に対応するというのですから,大袈裟な法的強制ではない従来からの臨機的な自粛要請の手法をより効果的に行うということに落ち着くようでもあります。

そうであると,そこでの「丁寧に求め」は,おいみんなが迷惑するぞ,みんながいやな思いをするぞ云々といった利他道徳的説得がよりもっともらしく,かつ,より執拗に行われてその必達が期されるということになりそうです(しかし,そこでいわれる「みんな」とはそもそも何者なのでしょうか。当該話者が,利己的にそこに含まれていることは確実ですが。)。その場合,理解不能者又は理解した上でむしろ理解したがゆえに賛同しない者の存在は,およそあり得べくもない無能漢又は不道徳漢として,想定されざることとなるのでしょう。すなわち,「若者も,高齢者も,障害のある方も,男性も,女性も,全ての人が生きがいを感じられる,多様性が尊重される社会を目指します。」とは言われるものの(岸田201212),それは,多様な対象を,彼らに共通の「理解」を通じて同一の「正しい」態様・方法をもって振る舞わせることによって(この場合は,白いマスク花盛りの新しい生活様式(die neue Lebensweise)に従わせることによって,ということになるのでしょう。)「尊重」するものであって,それは可能であるし,さらにはそうすればみんな一緒,みんな同じということになって重ね重ねいいことじゃないかね,ということになるのかもしれません。

 

(2)「御理解」と鉄道運輸規程2条と

 ところで,「理解を丁寧に求め」られついでにいえば,筆者が鉄道の電車に乗っていていつもうんざりするのは「皆様の御理解・御協力をお願い申し上げます。」と繰り返される車掌による車内放送中の「御理解」の部分です。鉄道営業法(明治33年法律第65号)2条で「本法其ノ他特別ノ法令ニ規定スルモノノ外鉄道運送ニ関スル特別ノ事項ハ鉄道運輸規程ノ定ムル所ニ依ル/鉄道運輸規程ハ国土交通省令ヲ以テ之ヲ定ム」と根拠付けられている鉄道運輸規程(昭和17年鉄道省令第3号)2条に「旅客,貨主及公衆ハ鉄道係員ノ職務上ノ指図ニ従フベシ」とあるので,車掌のする正当な「職務上ノ指図」に「御協力」して従うことは旅客の当然の法的義務である,したがって,いちいち車掌が「御理解」までを要求するのは無用のことであり,かつ,こちらも「御理解」するためには脳を働かせなければならないので疲れる余計な面倒である(脳は大量にエネルギーを消費します。),また,理解はしても賛同できないという結論に至ってしまった場合においてそれでも鉄道営業法令上の義務として従わねばならないときは,理解しなければ感ずることのなかった,あらずもがなの不快な思いをしなければならないことになってしまう,というわけです。

「御理解」まで馬鹿丁寧に求めるのは,その車掌の当該要請が正当な職務上ノ指図でないからでしょうか。しかし,そうであれば,そんな余計な事項について,うるさいばかりの車内放送はするな,ということになります。

「御理解」までをも下手(したて)になって求めずとも,そもそも「御協力」を求めたにもかかわらず「車内ニ於ケル秩序ヲ紊ルノ所為アリタル」けしからぬ旅客については,鉄道係員において無慈悲に「車外又ハ鉄道地外ニ退去セシ」め,かつ,「既ニ支払ヒタル運賃ハ之ヲ還付セス」ということでよいのでしょう(鉄道営業法4214号・2項)。

なお,話してもらえば分かる風にもっともらしく「お前の言うことは理解できないから従わない」と言う人が間々いますが,実はそういう人は「従わない」という結論を既に決定してしまっている場合が多く,そうですかやはりまず御理解していただくことが必要なのですねとこちらがナイーヴに合点してしまって改めて理解を求めて一生懸命理屈をるる説明しても,先方ははなから「理解」しようなどとはしてはくれず,残念かつ悲しい思いをすることになるようです。(理屈の理解以前に,こちらが下手に出たことそれ自体に満足して「御協力」に転じてくれればよいのですが。)

 

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