(上)「違法の後法」ならぬ「違法の現法」問題:
http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079288866.html
(中)平成28年法律第49号附則5条と「民意」:
http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079288885.html
(3)「全国民を代表する国会議員」の解釈論
平成28年法律第49号附則5条(改めて法文を確認すると,「この法律の施行後においても,全国民を代表する国会議員を選出するための望ましい選挙制度の在り方については,民意の集約と反映を基本としその間の適正なバランスに配慮しつつ,公正かつ効果的な代表という目的が実現されるよう,不断の見直しが行われるものとする。」です。)には「全国民を代表する国会議員を選出するための望ましい選挙制度」とあるところ,まず「全国民を代表する国会議員」の意味に関する憲法43条1項(「両議院は,全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」)の解釈問題が一応あります。全国民を代表するのは各議員なのでしょうか,議員ら全員で全国民を代表するのでしょうか。日本語は,単数か複数かがはっきりしないので難しいのです。(「おれは主権者国民だぞ」と役所の窓口において一人で頑張る難しい方々もいます。しかし,一人で日本国における主権を保持するとなると,明治天皇,大正天皇及び進駐軍上陸前の昭和天皇並みの至高の権力者ということになります。)
ア 通説・判例
「〔憲法〕43条1項が①両議院が「選挙された議員」で構成されること,しかもとくに②その議員は「全国民(の)代表」であること,を明記していることには特別の意味がある。すなわち,国会は,それを構成する議員がとくに選挙によって選ばれるということによって,民意を忠実に反映すべき機関であるとともに,同時に,その議員が単にその選挙区や特定の団体などの利益ではなく,国民全体の「福利」の実現を目指すべき存在にして,かつ法上その存在にふさわしい行動をとる自由を保障されるということによって,統一的な国家意思を形成決定できる機関であるということである(狭義の代表観念)。」ということですから(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)136頁),各議員が全国民を代表するということでしょう。判例も同様です。あるいは,「日本国憲法43条1項が「全国民を代表する選挙された議員」とのべるとき,そこでの定式化は,議員が地域や職能など部分の代表であることを禁止すると同時に,全国民の意思をできるだけ反映すべしという積極的要請を含む。」ともいわれています(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)152-153頁)。しかしながら,国会は「民意を忠実に反映すべ」しといわれれば«peuple»主権的である一方,議員は全国民を代表して「国民全体の「福利」の実現を目指す」といわれれば«nation»主権的ではあります。要は我が選良諸賢は鵺的存在であるということでしょうか。
ちなみに,各議員が全国民を代表するのならば,全国1区制度がいいじゃないか,とも考えられます。広過ぎて大変だと言われるかもしれませんが,米国のアラスカ州及びモンタナ州選出の連邦下院議員は,2年ごとの改選(米国憲法1条2節1項)の都度日本よりも広い当該各州内を駆け回っているのです(両州から選出される連邦下院議員はそれぞれ1名のみ)。しかし全国1区論は,極論でしょう。
イ 憲法43条1項の英語文から
(ア)英語文
ところで,ここで憲法43条1項の英語文を見ると,実は難しい。
“Both Houses shall consist of elected members, representative of all the people.”とあります。“elected members”は,“representative of all the people”ではあるが, “representatives of all the people”ではないのです。後者の複数形名詞であれば,各議員が全国民の代表であると素直に解釈できます。しかし,現実の正文は単数形ですので,議員ら全体で全国民を代表する(各議員についてはその限りでない。)という解釈が可能になりそうです。立法経緯に基づく解釈を試みてみましょうか。しかしそのためには同項の発案者を知らねばなりません。GHQ民政局か,それとも日本側か。少し調べてみると,どうもやはりこれも,GHQの権威下に定められた条項であるようです。
(イ)GHQ民政局
1946年2月13日に日本国政府に交付されたGHQ草案においては一院制が採用されており,その第41条は“The Diet shall consist of one House of elected representatives with a membership of not less than 300 nor more than 500.”(国会は,300人以上500人以上の選挙された代議員によって組織される一つの議院によって構成される。)というものでしたが,両院制を採るに至った現在の日本国憲法の第43条1項もまたGHQの発案によるものなのでした。
日本国憲法43条1項に対応する条項については,1946年3月4日から同月5日までのGHQ民政局と日本政府との徹宵協議の場において「両議院共通ノ条文トスベシ,各院別々ノ規定ハ不可ト云フ。「国民ニ依リ選挙セラレ国民全体ヲ代表スル議員ヲ以テ組織ス」ト為スベシトス。(然ルニ決定案ニハ「国民ニ依リ」ニ当ルベキ英文ナシ理由不明)定数ハ法律ヲ以テ定ムルコトト為ル」との指示が日本側に対してあったそうです(佐藤達夫(法制局第一部長)「三月四,五両日司令部ニ於ケル顚末」)。GHQ側は既にあらかじめ準備を整えていたようで,「先方ニテ対案ヲ予メ準備セルモノノ如ク逐一,松本案ニ付修正申入アリ」ということでした(佐藤達夫・同)。1946年3月6日付けのGHQ資料(同日発表の日本国政府による憲法改正案草案要綱の英語版)を見ると,日本国憲法43条1項に対応する条項の英語文は,既に現在のものと同じです。佐藤達夫部長に対してされた修正申入れの英語も,当該英語文に対応するものだったのでしょう。
(ウ)アメリカ的な立場:議員=選挙区の代表者
各議員が全国民を代表することを明示する“representatives”の語が用いられなかったことは,あるいはアメリカ独立革命の精神からすると当然のことであったように思われます。イギリス領時代の北米植民地における議会の議員の性格について,田中英夫教授はいわく。
ここで注目すべきことは,議員は何よりもまずその選挙区の代表者であるというアメリカ的な立場が,すでにこの時期に確立されていることである。議員に選ばれる者は,その選挙区に住所を有していなければならないとされた〔筆者註:米国憲法1条2節2項及び第3節3項は,選挙された時点で選出州の住民でない者は連邦議会の議員たり得ないと規定しています。〕。また,その選挙区の住民が具体的問題について議員は議会においてこう行動しなければならないという決議をしたときは,それに従うのが議員としての道であるという考え方が,支配的であった。イギリスでも,中世にはこのような考え方が存在したことがあるが,この時期においては,国会議員は(地方の利益を離れて)国全体の利益を代表し国全体のために討議すべきであるという観念が確立されていたのである。代議制観における本国と植民地の間の差異は,独立に際しての両者の間の憲法上の主張の対立の背景の一つとなるのである。
(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)190-191頁。下線は筆者によるもの)
「代表なければ課税なし」とのアメリカ独立革命の有名なスローガンを掲げるためには,北米植民地人は,イギリス本国的なvirtual representation(観念的代表制)の考え方を採るわけにはいかなかったわけです(田中200-201頁参照)。
(なお,GHQが「全国民を代表する」との文言を入れさせたことについては,「我帝国議会は主権者であり,又は固有の参政権を有つて居る所の人民を代表するものでないことは申すまでもない,〔略〕我国に於て国会を以て人民全体であるといふ法律上の擬制を立てたと見るべき根拠は全く無いのである,又政治上の精神と致しても人民を代表するといふことは出来ぬのである」(上杉慎吉『訂正増補帝国憲法述義(第九版)』(有斐閣書房・1916年)329頁),「帝国議会は一個の官府である,独立固有の存在を有つて居るものでなくして,天皇の意思を本として其存在を有して居るものであります」(同331-332頁)というような学説に対して念を入れた警戒をしたということもあるかもしれません。)
以上のようなことであれば,各議員はその選挙区を代表するものの,議員ら全体(国会)においては全国民を代表するのだ,という憲法43条1項解釈の定式化も実は可能ではあったかもしれません。(ルソーの『社会契約論』第2編第3章には,「〔私的利害しか考慮しない全員の意思(la volonté de tous)は,〕各個の意思の総和にすぎない。しかし,これらの意思から,相殺する正と負とを取り除けば,差の総和として,一般意思(la volonté générale)が残るのである。」とあります。また,検察審査会がその「域内の人々全体を真実に代表する」ものである(the body is truly representative of the people as a whole)ことを確保するために,検察審査員候補者の予定者に係る選挙人名簿からの抽籤による選定制(検察審査会法10条1項)が採用されたと説明する前記GHQ担当者による記者会見も想起されるところです。)
(エ)ベルギー的定式の可能性:全国民と選挙区との二重代表
あるいは,「アメリカ的な立場」の例に加えて,ベルギー国憲法42条の“Les membres des deux Chambres représentent la Nation, et non uniquement ceux qui les ont élus.”(両議院の議員は全国民(la Nation)を代表し,彼らを選出した者のみを代表するものではない。)との規定の後段の反対解釈を援用し,日本国憲法43条1項の解釈として,同項は各国会議員に係る全国民の代表たる性格を規定するものの,他方,彼(女)がその選挙区を同時に代表することを否定してはいないのだ,と主張することは可能ということにはならないでしょうか。
すなわち,ベルギー国のトニセンは,その同国憲法逐条解説書の第32条(「両議院ノ議員ハ国民ヲ代表スル者ニシテ之ヲ選挙シタル州又ハ州ノ一部ノミヲ代表スルニ非ス」(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)448-449頁記載の訳)。現行42条に対応)解説においていわく。「議員は国家の受託者であり,彼らが当選した選挙区のそれではない」し,同条は「命令的委任(mandat impératif)と両立するものではない」,しかしながら,「疑いなく,議員は,彼がより直接代表する(représente plus directement)選挙区の期待や必要を等閑に付してはならない。しかしながら,地域の利害が国の一般的利害に反する全ての場合においては,祖国が,州,更にいわずもがなであるが郡(arrondissement)及び市町村(commune)に優先しなければならないということを彼は決して忘却してはならない。」と(J.-J. Thonissen, La Constitution belge annotée, offrant, sous chaque article, l’état de la doctrine, de la jurisprudence et de la législation (Bruylant-Christophe, Bruxelles; 1879) p.135)。これは,政治の実際に照らして,現実的な解釈論ではないでしょうか。(「単にその選挙区や特定の団体などの利益ではなく」云々と説く,日本国憲法に関する前記の学説も,「憲法は,議員が選挙区単位で選任され,各議員が各選挙区の選挙人の意向を忠実にくみとるべきことを期待しつつ,同時に,そのことを前提にして,自由な討論・表決を通じて国会が統一的な国家意思を形成することを期待しているもの」と解釈しています(佐藤幸治141頁。下線は筆者によるもの)。)
ただし,美濃部達吉は,ベルギー国憲法旧32条を「両議院の議員が共に全国民を代表する者であることは,多くの国の憲法に明言せられて居る」うちの一つとして紹介しつつ,その著書の本文においては大日本帝国憲法の解釈として「衆議院の議員は各選挙区に於いて選挙せられるにしても,法律上はその選挙区を代表する者ではなく,等しく全国民を代表する者である。」と,衆議院議員がその選挙区を代表することをばっさりと否定しています(美濃部448-449頁。下線は筆者によるもの)。
(4)「民意の集約と反映」及び「その間の適正なバランス」
平成28年法律第49号附則5条においては更に「民意の集約と反映を基本としその間の適正なバランスに配慮」すべきことが規定されています。どう読むべきなのでしょうか。
まず,この「配慮」は,「選挙制度」にかかるものでしょう。「民意の集約と反映」とを行うべく国会内における議論・折衝をどのように行うかの話ではありません。(また,「不断の見直し」にかかるものでもないでしょう。)当選した国会議員が登院して来た時において既に一定の「民意の集約と反映」とがなされてあることになります。
しかし,各議員の全国民代表性をとことん追求する議論をして,いったん選ばれた各議員は等しく純粋に全国民の代表であるものであるとすれば,選挙制度がどのようなものであったのかは問題にならないことになってしまうように思われます(なお,「1票の格差」問題は,専ら純粋に個々の有権者の1票の重みに係る平等問題として考えれば,ゲリマンダリングによる是正でもよいのでしょうし(あるいは,ふるさと納税式のふるさと投票というのはどうでしょうか。),地域ごとの民意がどう国政において反映されるかの問題にはならないわけです。)。しかし,やはり議員はその選挙区における実在の民意を代表するものであるからこそ,選挙制度が問題となるのでしょう。
判例は,議席の多数を確保する政権政党への民意の「集約」を考えているようです。いわく,「小選挙区制は,全国的にみて国民の高い支持を集めた政党等に所属する者が得票率以上の割合で議席を獲得する可能性があって,民意を集約し政権の安定につながる特質を有する反面,このような支持を集めることができれば,野党や少数派政党等であっても多数の議席を獲得することができる可能性があ」る,と(最大判平成11年11月10日民集53巻8号1704頁)。ここでは各議員ではなく政党が単位となっており,政権政党が「得票率以上の割合で議席を獲得」することが「民意の集約」であるということになっています。野党の観点からすれば,「民意の集約」だと上品に言ってはいるが要は少数民意の切捨てだ,ということになるかもしれません。
政党という書かれざる要素を算入して解釈すれば,平成28年法律第49号附則5条においては,「集約」(これは各議員に対するものではなく,政党に対するもの)は政権の安定(それと同時に,政権交代の可能性)という価値(小選挙区制)であり,「反映」は得票率に応じた議席数を各政党が確保することの価値(比例代表制)を意味するということになるのでしょう。
なお,「憲法は,政党について規定するところがないが,その存在を当然に予定しているものであり,政党は,議会制民主主義を支える不可欠の要素であって,国民の政治意思を形成する最も有力な媒体であるから,国会が,衆議院議員の選挙制度の仕組みを決定するに当たり,政党の右のような重要な国政上の役割にかんがみて,選挙制度を政策本位,政党本位のものとすることは,その裁量の範囲に属することが明らかであるといわなければならない。」というのが判例です(前掲最大判平成11年11月10日)。しかし,これに対しては,「政党の存在を憲法上「当然に予定」されたものという説明は,近代憲法=議会制の発展史からして,自明のものとはいえない。もともと憲法が「無視」さらには「敵視」さえしてきた政党が,そのはたらきの重要性ゆえに憲法上「予定」され,さらには,明記されるようになる例もあらわれるようになったことを,「当然」のこととしてでなく,緊張関係の経過の認識でとらえる必要がある。そうすれば,政党を法が処遇すること自体,結社しない自由を含む結社の自由を侵す可能性をもたらすことにならないか,という問題が意識されることになろう。」という批判的見解があります(樋口・憲法Ⅰ・191-192頁)。憲法13条の「すべて国民は,個人として尊重される。」との規定によれば国家創設の社会契約の当事者は個人であったはずなのに,当該国家の国政運営に関与する段階になると,「すべて国民は,政党員ないしは政党支持者として尊重される(respiciuntur)。」ということになるのかいな,という感慨が生ずるところです。「「代表」の禁止的規範意味は,「地域」や「職能」や「身分」を基礎単位とする社会編成原理を否定し,諸個人の自由な結合として国民を想定する近代個人主義の世界観を反映するもの」です(樋口・憲法Ⅰ・154頁)。
(5)「公正かつ効果的な代表という目的」
「公正かつ効果的な代表」という文言も,判例に基づくものでしょう。「代表民主制の下における選挙制度は,選挙された代表者を通じて,国民の利害や意見が公正かつ効果的に国政の運営に反映されることを目標とし,他方,政治における安定の要素をも考慮しながら,それぞれの国において,その国の実情に即して具体的に決定されるべきものであり,そこに論理的に要請される一定不変の形態が存在するわけではない。我が憲法もまた,右の理由から,国会の両議院の議員の選挙について,およそ議員は全国民を代表するものでなければならないという制約の下で,議員の定数,選挙区,投票の方法その他選挙に関する事項は法律で定めるべきものとし(43条,47条),両議院の議員の各選挙制度の仕組みの具体的決定を原則として国会の広い裁量にゆだねているのである。」とともに「国会は,その裁量により,衆議院議員及び参議院議員それぞれについて公正かつ効果的な代表を選出するという目標を実現するために適切な選挙制度の仕組みを決定することができる」というわけです(前掲最大判平成11年11月10日等)。選挙後の国政運営の在り方も当該理念の射程に含まれるのでしょう。平成28年法律第49号附則5条の「公正かつ効果的な代表」とは,「国民の利害や意見が公正かつ効果的に国政の運営に反映」されている代表民主政の状態を意味するようです。「公正かつ効果的な各代表者を選出」するための,各候補者の資質を測定・判断する仕組みが整っている状態を指すものではないのでしょう。「国民の利害や意見」は,「民意」とほぼ同視してよいのでしょう。
「公正かつ効果的」とは何か。「公正」は,『岩波国語辞典 第四版』(1986年)によれば「かたよりがなく正当なこと」又は「はっきりしていて正しいこと」です。「効果」は,同じ辞書によれば「よい結果。望ましい結果。ききめ。」です。民意の国政への反映が効果的であるということは,国政が民意に忠実に従って運営されることの確保であり,民意の国政への反映が公正であるということは,国政が民意に従うに当たっては偏りなく総花的たるべしということである,と解すべきでしょうか。ただし,なおいろいろな解釈の余地がありそうです。
ところで,「およそ議員は全国民を代表するものでなければならない」ということは,判例のいうように「制約」でしょうか。筆者には,むしろ「制約」を緩和してしまうもののように思われます。すなわち,名誉革命後の混合政体下イギリスにおける選挙制度及びその考え方は次のようなものだったといわれています。
(iii)議員数は人口に比例すべきだという考えは,とられなかった。
(iv)選出された議員は,選挙民の意思には拘束されないものとされた。
この(iii)と(iv)は,virtual representation(観念的代表制)の理論で説明される。すなわち,議員は,どこの選挙区から選ばれていようと,常に全国民の代表なのである;従って,選挙民の意思には拘束されない;ある地区が人口に相応する数の議員を送っていないということがあっても,その地区は,その議員によってのみ代表されるのでなく,庶民院の全議員によって代表されているのであるから,不都合はない,とされた。
(田中141頁)
4 再び細野議長発言に関して
細田議長は,小選挙区選出の各衆議院議員に係るその選挙区の人口数を彼此比較した場合の多寡・較差を問題とはせず(これはいわゆるアダムズ方式で是正されます。),むしろその先の,そもそも都会地から選出された議員の比率が増えることが問題なのだ,と考えておられます。
確かに,「人口の都市集中化の現象等の社会情勢の変化を選挙区割りや議員定数の配分にどのように反映させるかという点も,国会が政策的観点から考慮することができる要素の一つである」ところです(前掲最大判平成11年11月10日等)。しかし,だから当該反映の速度は今回は緩和されるべきなのだという主張に対しては,それは前から分かっていた上で決めた話なのだし(前掲小池日本共産党書記局長発言参照。第190回国会の衆議院本会議で,不断の見直しに当たっては「特に人口が急激に減少している地域の民意を適切に反映させることに留意す」べしとする民進党提出法案(同法案附則4条2項)は否決されています(2016年4月28日)。日本共産党は当該法案に反対しているので一貫しているのですが,旧民進党系の方々はどうするのでしょうか。),これからの制度としても,2020年の国勢調査結果による今次改正に続く公職選挙法別表1の10年ごと改正に係る10年という期間は十分長いではないか(「十年一昔」),という反論が可能なようであります。これに対する再反論は,高齢化社会における正統な多数派である老人にとって,頭も体も錆びついてからの変化は過酷であり,「十年一日」のancien régime(現在の日本においては,昭和的なるもの,でしょうか。)の維持こそが望ましいのだ,平成28年法律第49号の制定当時(2016年)の我々はまだ元気だったので分からなかったが,最近になって寄る年波でつくづくそう実感するのだ,ということになりましょうか。なるほどもっともではあります。(Mais, “ils n’ont rien appris, ni rien oublié.”)
あるいは,都会地選出議員の比率が高まると,「民意の集約」に係る利点たる「政権の安定」効果及び「政権の交代を促す特質」が弱まる,ということでしょうか。しかし,ここでの「政権の安定」は,議会における与党現有議席数が十二分に多いことによる専ら当該議員らの任期中における政権の安定であって,「政権の交代を促す特質」と矛盾してはならないものでしょう。むしろ,選挙ごとに与野党間における大幅な議席の入れ替わりを伴う政権交代が可能であることが期待されていたはずです。そうであれば,仮に都会の方が人心の変化が速くてかつ大きいのであれば,都会地選出議員の比率が高まることは,むしろ当該効能に親和的であるように思われます。
マディソン的に細田議長の前記危惧を正当化するならば,都会地出身の議員の比率が増加すると多数党派による弊害・抑圧が起こりやすい,ということでしょうか(しかしこれは,多数派の意思たる民意は実は必ずしも無謬ではない,「代表」の篩による是正が必要である,という認識を含意することになりそうです。確かに,「おかしな思い込み若しくはいかがわしい利得に衝き動かされ,又は利害関係者による巧妙なまやかしに誤導されて,人民が,彼ら自身後になって思いきり悔やみかつ非難することになる政策を求める常ならざる事態が,政事においては起こるものである」(Madison, op. cit. No. 63)ところではあります。)。都会地からより多くの議員が選出される場合,都会地は狭い地域なので,彼らはその近接性によって利害をより強く共同にし,かつ,その間の連絡協働も容易であり,党派をなした上で国全体に害を及ぼす危険が地方選出の議員らの場合に係るそれよりも大きい,というような説明が試みられるのでしょうか。地方人一人の方が都会人一人よりも人として価値があるのだ,とか,浮華の巷における積極的堕落のゆえ,あるいは消極的遊惰のゆえ,都会人の民意の内容は地方人の民意のそれよりも劣っているのだ,などとはなかなか言えないでしょう。(マディソンは,都会人たる古代アテネ市民の資質に対して偏見を持っていたようですが。)
地方は弱いから弱者を救済してくれ,でしょうか。しかし,弱者救済という崇高な政策に対してならば,当該地方からの選出議員ならずとも,全国民を代表する高潔な議員ならば皆々賛成してくれるのではないでしょうか。それとも弱者救済は,実は国民全体の利益にはならないのでしょうか。
無論,国会は,平成28年法律第49号附則5条に規定する見直しをするに当たって,専ら同条の枠組みに拘束されるものではありません(なお,同条自体が「集約と反映」との「適正なバランス」をいっていますから,小選挙区の方における何らかの無理の辻褄を比例代表区の方で合わせるということも,あるいはあるかもしれません。)。2016年4月27日の衆議院政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会の附帯決議においては,「本改正案附則第5条に規定する選挙制度の見直しに際しては,1票の較差の是正,定数等の在り方の検討という課題への対応のみにとどまらず,国会の果たすべき役割といった立法府の在り方についても議論を深め,全国民を代表する国会議員を選出するためのより望ましい制度の検討を行うものとする。」とされています(第190回国会衆議院政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会議録第9号21頁)。「立法府の在り方」ですから,極めて間口が広い。また,理論的一貫性も重視し過ぎてはならないのでしょう。18世紀のイギリス混合政体論からすると「民主制がいかにたてまえとして優れ,理論として一貫しているとしても,それは結局は暴民政治に走り,やがてはその反動として専制をもたらすことは,人類の歴史の明示するところ」なのでした(田中142頁。下線は筆者によるもの)。
細田議長発言による問題提起はどのような波動を起しつつ,我が国の空気中に伝播していくのでしょうか。いずれにせよ,主権が国民に存する我が日本国においては,全てはその時々の民意という風次第です。しかして,1828年には,風を呼ぶ男・ジャクソンに,いわゆるアダムズ方式のアダムズは敗れたのでした。
〔前略〕民主政の時代が来たのである(Democracy was in)。エリートの時代は終わった。新しい力が解き放たれつつあり,新しい方途がとられつつあった。「彼は,風と共にやって来る。(When he comes, he will bring a breeze with him.)」と〔ダニエル・〕ウェブスターはジャクソンについて語った。「どちらの方角にそれが吹くのか,私には,分からない。」分からないのは,彼一人だけではなかった。
(Jon Meacham, American Lion: Andrew Jackson in the White House (Random House, New York; 2008) p.51)
Hütet euch gegen den Wind zu speien!