前編から続く(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078123981.html)
(2)旧民法財産編323条に関して
ア 第1項: “appréciable”の「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ」との翻訳
旧民法財産編323条については特にその第1項が問題となりますが,同項に係るボアソナアド原案(344条1項)は次のとおりでした。
La convention est nulle pour défaut de cause quand le stipulant n’y pas d’intérêt légitime
appréciable. [1131.]
要約者が合意について正当かつ相当(appréciable)な利益を有しないときは,その合意は原因のないため無効である。(フランス民法1131条参照)
(Boissonade II p.61)
おや,ここでは「相当な利益(intérêt appréciable)」であったものが,旧民法財産編323条1項では「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ利益」(現行民法399条に係る富井政章=本野一郎のフランス語訳(新青出版・1997年)によれば“avantages susceptibles d’une évaluation en
argent”ということになるものでしょう。)に変わっています。どうしてでしょうか。強気の意訳というべきか(旧民法財産編323条1項の公定仏語訳は,依然“La convention est nulle pour défaut de cause, quand le stipulant
n’y pas d’intérêt légitime et appréciable.”であり,同2項の「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ利益」もなお“intérêt appréciable”です(Code Civil de l’Empire du Japon
accompagné
d’un exposé des
motifs, Tome Premier, Texte, Traduction Officielle.
Tokio,1891. p.128)。)。民法399条をめぐる謎を解く鍵は,この辺にありそうです。
なお,“appréciable”の語義は,『ロワイヤル仏和中辞典』(旺文社・1985年)によれば「1.評価し得る,価値のある;相当な,かなりの」又は「2.感知し得る;目につくほどの,それとわかる」というものであって,「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ」は,誤訳では全くないのですが,必ずそう訳さなければならないというわけでもないようです。
では,ボワソナアド原案344条1項の解説を見てみましょう。
まず,利益が合意にとって必要な原因(cause)であることが原則として据えられる。しかして,この利益は,同時に「正当かつ相当(légitime et appréciable)」でなければならないとのみ述べられている。もしそれが正当でなかったのならば,違法であるときと同様に,原因は無効である。もしそれが相当でなかったならば,裁判所にとってそれは,存在しないも同然である。すなわち,原因の欠缺があるわけである。この原則に議論の余地はなく,かつ,「利益なくして訴えなし(pas
d’intérêt, pas d’action)」との法格言となっている。毎日,裁判所は,原告がその利益を証明しなかったとの理由で,訴えに係る主件であろうと副次的なものであろうと,請求を棄却しているのである。(Boissonade II pp.132-133. Code
Civil de l’Empire du Japon accompagné d’un exposé des motifs, Tome Seconde, Exposé des Motifs du Livre des Biens, Traduction
Officielle. Tokio,1891. pp.393-394も同様)
「債権ノ目的ハ果シテ金銭ニ見積ルコトヲ得ルモノタルコトヲ要スルヤ否ヤハ学者間未タ説ノ一定セサル所タリ蓋シ羅馬法ニ於テハ学者動モスレハ債権ノ目的ノ金銭ニ見積ルヘキコトヲ要スル旨ヲ言ヒ今日ニ至リテモ羅馬法系ニ属スル法律ニ在リテハ大抵皆此主義ニ依レリ」(梅10頁)というようなローマ法に遡るような議論までは,ここではボワソナアドはしていません。穂積陳重も,「併ナガラ〔略〕ぼあそなーど〔Boissonade〕氏抔ノ説明ヲ読ンデ見マスト此事ハ一ツノあく志よん〔action〕デ」と書いてあるだけで「此主義〔筆者註:この「主義」は,「金銭ニ見積ルト云フコトガ必要デアルト云フコトニナツテ居ル」主義ということでしょう。〕ヲ取ツタト云フ訳モ何モ書イテナイ知レ切ツタモノデアルト云フヤウニ書イテアリマス」と証言しています(第55回法典調査会議事速記録969頁)。やや拍子抜けの体です。
この頼りなさのゆえでしょうか,穂積陳重は,債権(人権)は旧民法財産編に規定されていたという規定の位置論をも持ち出して「元債権ハ財産編ノ一部分デアリマス即チ債権ノ一部分デアリマス以上ハドウシテモ金銭ニ見積ルコトヲ目的トスルト云フコトニ土台ヲ取リマスノハ固ヨリノコトデ物質的ノ利益ト云フモノガ元ニナルノデアラウト思ヒマス諸外国ニ於キマシテモ例ヘバ仏蘭西抔ニ置キマシテモ債権ハ所有権取得ノ方法ノ一ツニ挙ゲテアル位デアリマス詰リ是レハ金銭ニ見積ルト云フ方ガ元トナルト云フベキ訳デアリマス」とも述べています(第55回法典調査会議事速記録969頁)。しかし,我妻榮によれば,フランスの通説では,同国民法における債権の目的は金銭に見積もることを得ざるものでもよいのでした(我妻Ⅳ・22-23頁(前掲))。「法典の編成にさいし,債権を財産編の一部となし,財産取得の方法として規定し,その財産は金銭に見積ることのできるものだということを念頭におくと,金銭に見積ることをえないものは,債権の目的に適しなくなる。わが旧民法はその建前をとっていた。」との説明(奥田編旧版52頁(金山正信))は穂積陳重の上記発言を採用したものでしょう。
イ 第2項:過怠約款による「金銭的に相当な利益」の証明
ところで,旧民法財産編323条2項に対応するボワソナアド原案344条2項に係る次の解説が,同項の“intérêt appréciable”イコール「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ利益」との解釈及び翻訳をもたらし,更に同条1項にはね返ってその解釈及び翻訳をも規制したのかもしれません。
しかして,ある者が,愛情又は何らかの動機によって他者のための利益を要約したときは,当該約束の履行は,裁判によって追求され得ない。すなわち,合意の当事者となっておらず,当該合意は彼に訴権を付与し得ないので〔略〕,当該第三者は追求できず,金銭的に相当な利益(un intérêt pécuniairement appréciable)を証明できないので,要約者も追求できないところである。(Boissonade II p.133. 下線は筆者によるもの。また,Exposé des Motifs du Livre des Biens p.394)
「過怠約款ヲ加ヘサルトキ」についての説明です。
懈怠約款(une clause pénale)をもって証明できるのは要約者にとっての「金銭的に相当な利益(un intérêt pécuniairement appréciable)」なのでそこを先取りする形で「金銭的に相当な利益を証明」云々といった定義付け的にも解し得る記述がされてしまった,ということでしょうか(旧民法財産編323条4項では“payement de la clause pénale stipulée”が「過怠約款ノ履行」とされています。)。しかし,集合論的にはやはり“intérêt appréciable”⊃“intérêt pécuniairement appréciable”なのではないでしょうか。「懈怠約款が要約者の利益の認定のためには最も簡単な方法であるとしても,それが唯一のものではないこと,すなわち,それは事情に応じて裁判所が判断すべき事実認定の問題であることが銘記されなければならない。」とボワソナアドは注意していますし(Boissonade II pp.133-134. また,Exposé des Motifs du Livre des Biens pp.394-395),旧民法財産編323条3項もあったところです。
ウ フランス民法1131条
なお,ここで,フランス民法1131条は次のとおり。
Art. 1131 L’obligation sans cause, ou sur une fausse
cause, ou sur une cause illicite, ne peut avoir aucun effet.
第1131条 原因がない債務又は虚偽の原因若しくは不法の原因に基づく債務は,いかなる効果も有することができない。(大村敦志『フランス民法』(信山社・2010年)174頁)
「有償契約においては反対給付,無償契約においては恵与の意図が,それぞれコーズ〔原因〕となるというのが伝統的な説明」であるそうです(大村174頁)。
(3)旧民法財産取得編266条に関して
ア 梅謙次郎による紹介
旧民法財産取得編266条に関して,梅謙次郎は,「例ヘハ教師,医師,弁護士等ノ勤労ハ敢テ之ヲ金銭ニ見積リ難キカ如シ而モ之ヲ以テ債権ノ目的ト為スコトヲ得サルモノトスルハ頗ル不便ニシテ到底文明国ノ需要ニ適セス故ニ我旧民法ノ如キモ原則トシテハ之ヲ債権ノ目的ト為スコトヲ得サルモノトスルニ拘ハラス種種ナル間接ノ方法ヲ以テ之ヲ目的トスル債権ヲ保護センコトヲ計レリ是レ寧ロ表面ヨリ之ヲ目的トスル債権ヲ保護スルノ愈レルニ如カス」と述べています(梅10頁)。
そうであれば,旧民法財産取得編266条に対応するボワソナアド原案962条に係るProjetの説明において,「教師,医師,弁護士等ノ勤労」は「之ヲ金銭ニ見積リ難キ」こと,「原則トシテハ之ヲ債権ノ目的ト為スコトヲ得サルモノトスル」旨(これは第1項の「法定ノ義務ナシ」の部分に関するのでしょう。なお,ここでの「法定ノ義務」は旧民法財産編294条1項の「人定法ノ義務」のことで,フランス語では,“ne sont pas civilement tenus de…”です(Boissonade, Projet de Code Civil pour
l’Empire du Japon accompagné d’un commentaire, Nouvelle Édition, Tome
Troisième, Des Moyens d’Acquérir les Biens. Tokio, 1891.p.1005. Code
Civil de l’Empire du Japon, Texte. pp.115, 339)。)及びそれでも当該「債権」(これは正に括弧付きのものですね)を保護するために設けられた「種種ナル間接ノ方法」(これは第4項の規定のことでしょうか)が詳論され,かつ,明らかにされていることになります。さて,実際にはどうでしょうか。
イ ボワソナアドの解説の実際
(ア)報酬の要求及び受領の通常視
実際のところ,本条に掲記されている人々は,依頼者に対してサービス(services)を提供し,かつ,これらの人々から報酬(une rémunération)が通常要求され(demandée),受領されるのであるから,これらのサービスは一般に無償ではない。(Boissonade III p.1017)
ボワソナアド自身は,「教師,医師,弁護士等ノ勤労」は「金銭ニ見積」られるのがむしろ通常であると考えていたようではあります。正に旧民法財産取得編266条2項は,有償を原則とするものと解し得るでしょう。ローマ法自体についても,「但し測量師,教師,医師,弁護士,助産婦,乳母の如き者に対しては,謝礼(honorarium, salarium)の名義を以て報酬を与える慣例を産み,古典時代〔元首政期〕には特別訴訟手続〔通常訴訟手続(政務官の面前で行われる法廷手続と通常一人の私人である審判人のもとにおける手続との2段階からなる。)と異なり,政務官自身が判決まで行う手続〕で請求ができた。」とのことであったそうです(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)198頁)。
(イ)委任=代理混同の未克服ゆえの特別な構成
しかしながら,より注意深い検討は,我々をして第4の構成(système)〔第1は雇用(これは,有償・双務契約であり,各当事者を履行又は損害賠償に義務付けることになって,報酬の受領及び支払云々以前に,一方においては職の品位(dignité)に反し,他方においては依頼者の利便(intérêt)に反し,適当ではない(Boissonade III pp.1017-1018参照)。),第2は代理(委任)(弁護士はともかく,医師及び教師の仕事は代理(委任)とはいえない(Boissonade III pp.1018-1019参照)。)及び第3は特別の無名契約(類推の対象となる典型契約は雇用か代理(委任)かとの問題がやはりあるし,各当事者を義務付ける点で第1の構成と同様の問題がある(Boissonade III p.1019参照)。)の各構成〕を提案せしむるに至った。当該構成は,我々が問題としている合意(convention)において,有名であろうと無名であろうとおよそ契約(contrat)の存在を認めない。また,当該世話(soins)又はサービスを諾約した者にも,それを要約した者にも,何ら法定の義務(obligation civile)を負わせない。
法は,法定の義務を相互に正式に免ぜしむる一方,道徳上の義務(une obligation morale)のみならず自然の義務(une obligation naturelle)もまた働くべきこと(laisser place à)を意図しているのである。
しかしながら,法定の義務は,一方当事者が相手方にした約束(promesse)からではなく,事後的に,相手方の提供したサービスから得た一方当事者の利益(profit)又はその提供若しくは受領の拒絶がもたらし得た損害(dommage)から生じ得るのである。
本条の第1項は,当該合意からは法定の義務は生じないという原則を示し,続く3箇項は例外的責任を規定するものである。
(Boissonade III pp.1019-1020)
自然の義務は明示されていない。しかし,その存在に疑問の余地はない。いずれの当事者も,十分な理由なしに,その結んだ約束を破ってはならないのである。(Boissonade III p.1022)
「委任は,多くの場合に法律行為をなすことを内容としたために,代理と混同された時代もあつた」(我妻榮『債権各論 中巻二(民法講義Ⅴ₃)』(岩波書店・)654頁)とされる当該時代は,我が国においては旧民法の時代でした。「金銭ニ見積リ難」いこと云々よりもむしろ,委任と代理との当該混同こそが,旧民法財産取得編266条の難しい規定が設けられた理由であるようです。
梅謙次郎としては,旧民法財産取得編266条が前提とする自然の義務(自然債務)などは債務ではない,と言い切って捨てたいのでしょうが,カフエー丸玉女給事件判決を経た今日においてはどう考えるべきものでしょうか。
旧民法財産取得編266条2項に基づく謝金又は報酬は法定の義務に係るものということになりますが(これに対して,謝金又は報酬の約束のみでは依頼者側には自然の義務が生ずるにすぎないわけです(Boissonade III p.1023)。),当該法定の義務の発生の根拠は「不当に惹起された損失及び法律上の原因なき利得(“dommages causés injustement et enrichissement sans cause légitime”)」とされています(Boissonade
III p.1024)。法定の義務としての謝金又は報酬の額は「相互ノ分限ト慣習及ヒ合意」を酌量の上裁判所が決めることになるわけですが,弁護士に係る「相互ノ分限」についてボワソナアドが語るところは次のとおりです。
弁護士についても〔医師と〕同様に,一方では当該弁護士が有名か無名かが,他方では依頼者の資産の状況(situation pécuniaire)が考慮されると共に,利得の観点から,訴訟による利益又は損失もまた大いに考慮される。(Boissonade III p.1025)
全てについて,時間,労力及び気遣い(le
temps, les peines et soins)が,補償されるべきものとして発生した損害に対応することになる。(Boissonade III p.1025)
弁護士にとっては,まず有名であること(célébrité),そしてお金持ちのお得意さんを確保することが肝要であるということのようです。
最後の2箇項の損害賠償は法定の義務とされつつ,その根拠は,第1項の原則により,合意(convention)ではないものとされています(Boissonade III p.1026)。
5 小括
以上,「ボアソナードの解説」を読んだ限りにおいては,ボワソナアドは債権の目的は金銭に見積もり得るものに限られると考えていたということが「明らか」であると直ちに断言できるとはいえないように思われます。
しかし,我が現行民法と同じ時期にされたドイツ民法の立法の過程においては債権の目的は財産的利益に限られるべきものかどうかが争われていたことは事実でありますので,我が現行民法の立案者としては,ドイツにおける当該議論の結果を承け(ドイツ民法第一草案の段階から財産権的利益であることを要しないものとされていたことは前記のとおりです。),併せて旧民法財産編323条1項で“appréciable”がどういうわけかドイツで敗北した少数説風に「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ」と訳されていて気になるのでそれを打ち消すべく,第399条に「債権ハ金銭ニ見積ルコトヲ得サルモノト雖モ之ヲ以テ其目的ト為スコトヲ得」との規定が設けられたということでしょうか(第55回法典調査会に提出された案がそのまま法律になっています。)。起草者はドイツの議論(Motive等)をやはり勉強していたのだなと筆者に思わせる事情として,穂積陳重は,ドイツ風に,民法399条においては直接現れてはいないところの債権の目的の外枠に関して次のように説明しています。いわく,「表ノ方ノ標準ハ当事者ノ意思即チ法律上ノ結果ヲ生ゼシムル意思ヲ以テ為シタル行為ト云フ証拠ヲ要スル裏ノ方デハ公益ニ反セヌ善良ノ風俗ニ反セヌト云フコトガ其裏ノ標準デアリマス」と(第55回法典調査会議事速記録974頁。vgl. Motive II S.3.)。
なお,ローマ法について見ると,「債権の目的に関する要件」は「(1)適法 (2)可能 (3)確定し又は確定し得べきこと (4)金銭評価の可能(「金銭を以て洗われ責任を負わされ得るものが債務関係の中にあり」)(反対民399条)。尤も例外あり。」ということであったそうですが(原田152頁),穂積陳重の認識では「羅馬法ヲ解釈スル人デアリマシテモ近頃ノ人ハ半数以上,是ハ羅馬法ニ一ト所明文ガアリマスガ其他ノ所カラ見マシテモ是ハ一般ノ規則トシテ殊更ニ言フタノデナイ重モナ場合丈ケヲ言フタモノデ必ズシモ必要トシナカツタノデアルト云フ解釈サヘ多クノ人ガ致シマス其当否ハ私ハ知リマセヌガ茲ニ当否ヲ決スル必要ハ認メナイ」ということでした(第55回法典調査会議事速記録969頁)。(ここでの「一ト所」とは,「羅馬ノダイゼスト法典ニ曰ク債務ニ於ケル行為ハ財産ヲ供与スルニ成ルト」ということですから(岡松14頁),ユスティニアヌスの学説彙纂でしょうか。確かに,その第40巻第7章(De Statuliberis(候補自由人(一定の条件の下で解放を約束された奴隷)について))第9法文第2節であるようです(赤松秀岳「民法399条の「歴史的意義」」法政研究78巻(2011年)2号337頁・312頁)。ウルピアヌスの見解を紹介する同節はいわく。“Illud tractatum est, an liberatio contingat ei qui noxae dederit statuliberum. et octavenus putabat liberari: et idem dicebat et si ex stipulatu stichum deberet eumque statuliberum solvisset: nam et si ante solutionem ad libertatem pervenisset, extingueretur obligatio tota: ea enim in obligatione consistere, quae pecunia lui praestarique possunt, libertas autem pecunia lui non potest nec reparari potest. quae sententia mihi videtur vera.”と。とはいえ,どう訳すべきか。前提とすべき予備的知識としては,「相続人に対して幾金を与えることを条件として奴隷が遺言で解放せられたときに,相続人が奴隷〔候補自由人〕の特有財産〔略〕を取りあげた場合」は「条件の成就によつて不利益を受くべき当事者が故意に条件の成就をさまたげたとき」として「条件は成就したものと看做される(民130条)。」ということがあるようです(原田89頁)。試みに訳していわく,「候補自由人を加害者として委付〔原田234-235頁参照〕した者は解放行為をしたことになるのか,との問題が取り扱われる。しかして,オクタウェヌスは,解放されたものと解したところである。また,約束によって奴隷が給付の目的物となっており,かつ,当該候補自由人が弁済された場合についても同様に説かれたところである。しかして(nam),(幾金の)支払の前に自由となったときであっても,全ての義務(obligatio tota)が消えているのである。すなわち,金銭によって履行され(lui),かつ,責任を負わされ(praestari)得るものが義務(債務)を構成するものであるが(in obligatione consistere),他方自由は,金銭をもって履行されることも,回復されること(reparari)もできないのである。この見解は,私には正しいものと思われる。」と。(追記:当初筆者は"nam"を「というのは」と訳しましたが,これは,債務が残ると奴隷に落とされることもあるかしらん,と思ったからです。しかし,「ローマ市民はローマ領内では奴隷となることを得ないという原則」があるそうですし(原田55頁),ローマでの奴隷の発生の「最も大きな原因」は出生及び捕獲のみだったそうです(原田50-51頁)。そうであれば,"nam"以下ではむしろ,条件のみなし成就による解放後も幾金の支払が債務として残存するのかどうかが論ぜられているのでしょう。)なお,筆者は“lui”(“luere”の受動態不定形)を「履行される」と訳しましたが,“luere”には「(約束を)履行する」のほかに,「洗う」との語義もあるところです(水谷智洋編『羅和辞典〈改訂版〉』(研究社・2009年))。)民法399条について語るためにローマ法まで遡るとかえって面倒であって,やはり「ドイツ普通法時代以来に争のあった点」であると言及するにとどめておくのがよいのでしょう(我妻Ⅳ・22頁(前掲))。
結局,筆者の疑問として残ったのは,なぜ旧民法財産編323条1項では,“intérêt appréciable”を「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ利益」と訳したのか,というそもそも論ということになります。同条2項の解釈に引きずられたのか,それともまた別の理由があるものか。そこで,旧民法財産編323条の原案が審議された1888年2月14日の法律取調委員会民法草案第二部第25回議事筆記を調べてみることになります。
6 法律取調委員会における旧民法財産編323条に関する議論
(1)原案
1888年2月14日の前記法律取調委員会には,次のような案が提出されました。
第344条 合意ハ要約者カ其合意ニ付キ正当ニシテ且金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ利害ヲ有セサルトキハ原由ナキ為メ無効タリ(第1131条)
要約ヲ第三者ノ利益ニ於テ為シ且之ニ過怠約款ノ伴ハサルトキハ其要約ハ要約者ノ為メ金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ利害ナキモノト看做ス(第1119条)
然レトモ他人ノ利害ニ於ケル要約ハ要約者カ自己ノ為メ為シタル要約又ハ要約者ニ為シタル贈与ノ従タル条件タルトキハ其要約ハ有効タリ(第1121条第1項)
右2個ノ場合ニ於テ其従タル条件ノ不執行ハ要約者ニ合意解除ノ訴権又ハ要約シタル過怠約款ノ践行ノ訴権ノミヲ与フ
(法務大臣官房司法法制調査部監修『日本近代立法資料叢書8 法律取調委員会民法草案財産編人権ノ部議事筆記一 自第二十三回至第三十四回』(㈳商事法務研究会・1987年)67頁)
この案の法典取調報告委員は,栗塚省吾でした。
(2)栗塚報告委員の見解の忖度
会議の冒頭清岡公張委員から早速「金銭ニ見積ルコトヲ得ベキ利害ヲ有セザル者ハ無効ト云フ訳デモナイデシヨウネ」と第1項について批判され,栗塚は「利害ガナケレバ訴権ガ生ゼヌト云フノデス,利害ト云フ以上ニハ何カ損ヲスルトカ得ヲスルトカ云フコトガナケレバナラヌト云フコトデス,唯私ハ是レデハ損ヲシマスカラト云テモ行カヌ,凡ソ其損タルヤ人モ見テ分ル損デナケレバナラヌト云フコトデス」と反論するのですが,清岡に「金銭ニ見積ルコトノ出来ヌモノデ利害ニ関スルモノモ随分アリソウナモノダ,元トヨリ利害ノ関係ノナイモノハ何ウデモ宜シイ金銭ニ見積ルコトガ出来ナイデ利害ニ関スルモノガアリソウナモノダ」と言い返されます(法律取調委員会民法草案第二部第25回議事筆記67頁)。
この後やり取りが続くのですが,栗塚は,ローマ法についてもドイツにおける議論の状況についても全く言及していません。また,要約者の利害が「人モ見テ分ル」のみならず「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ」ものであることまでが要求されることについて,「近代の法律が,金銭債権について強制執行を認めるだけでなく,特定物の引渡や債務者の行為についても強制執行を認めるようになったことが,金銭に見積りえない給付についても債権の成立を認めうる最大の理由である」のだが(我妻Ⅳ・23頁),まだそのような条件が我が民事執行の法制上整っていないから金銭に見積り得ない給付に係る債権は成立しないのだ,というような理由付けも栗塚は提示していません。「要約者ガ利害ヲ有セザルトキハ無効タリ,其利害モ漠然ノモノデハナラヌ,相当ノモノデナケレバナリマセン,加フルニ金銭ニ見積ルモノデナケレバ行ケヌ」(法律取調委員会民法草案第二部第25回議事筆記68頁)というのは案文の繰り返しであって,だから「相当ノモノ」であることに加えて何で更に「金銭ニ見積ルモノ」という要件が必要なのかね,という疑問に答えていることにはなりません。
しかし,清岡委員がした「利害ハ色々ノコトガアル,斯ウ書イテ置クト金銭ニ見積ルコトノ出来ヌモノハ利害デナイト見ナケレバナラヌ」との発言に対して「価ヲ決メルコトノ出来ルト云フコトデス,詰リ金銭ニナル」と答え(法律取調委員会民法草案第二部第25回議事筆記68頁),「一般利害ヲ目的トシテ居ルカラ利害ガ正当デナケレバナラヌ,然ウシテ又詰リ金ニナル」と言い(同68-69頁),「利害ト云テモ,金銭ト云テモ,詰リハ本統ニ損ガ立ツ額ヲ見積ルノデハナイガ,唯私ガ損ヲスルト云テモ行ケナイ,斯ウ云フ損ガ立チマスト云ヘバ宜シイ,額ヲ立ルト云フコトデハナイ」と言い(同69頁),「幾ラカハ知ラヌガ,兎モ角モ損ガ立ツト云フノデス」と言い(同頁),「裁判官ノ認定ニ任カセル様ナ「認定」ト云フ位ノ字デス」と言った(同70頁)栗塚の諸発言を見ていると,「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ利害」という表現でもって,その不履行について損害賠償金の支払が認められるべき給付に係るものでなければ合意は無効であるのだ,ということがいいたかったのだ,ということだけだったようでもあります。(なお,不履行に対して損害賠償が認められるから債務なのか,債務だからその不履行について損害賠償義務が生ずるのかの先後論がありますが,これは,実際の認定方法(「効果は要件にはね返る。」(米倉明『プレップ民法(第5版)』(弘文堂・2018年)101-102頁,228頁参照))はともかくも要件効果論的には債務の存在が先でしょう。)松岡康毅委員の表現では「仕舞ハ金銭ニ違ヒナイガ拠ナク金銭トスルト,初メカラ金銭ニスルトノ差ガアル」ところですが(法律取調委員会民法草案第二部第25回議事筆記68頁),旧民法財産編323条1項の「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ利益」は,「初メカラ金銭ニスル」ものではなく,「仕舞ハ金銭」になればよいものであるようです。「そもそも金銭に見積もることのできないものなどあるのだろうか。精神的な苦痛も慰謝料という形で金銭に評価される。現代の功利主義的発想からは,いかなる物やサービスも,それを得るためにお金を出す人がいる限り,金銭に見積もることができる。」(内田25頁)とは,実は旧民法に係る栗塚省吾的解釈であるということになるようです。「天下ノ事物殆ト皆金銭ニ見積ルコトヲ得ルモノニ非サルハナシ故ニ此広義ヲ以テスレハ債権ノ目的ノ金銭ニ見積ルコトヲ得ルモノタルコトヲ要スルモノトスルモ殆ト弊害ヲ見サル」ところである(梅10-11頁)という言明も同様です(なお,「弊害ヲ見サル」のならば放置してもよかったのでしょうが,「殆ト」ですから,反対解釈すると,やはり弊害はあったのでしょう。)。
(2)ボワソナアド原々案に関する忖度
また,松岡委員からあった「詰リ価ニナルニ違ヒナイ,折レ合ツタ処デ原語ガ「価ヲ定ムヘキ」ト云フノナラ「評価スヘキ」位ニシテハ何ウダロウ」という発言(法律取調委員会民法草案第二部第25回議事筆記70頁)に対して,栗塚は「原語は“appréciable”であります」と打ち明けずに頑張っていますが(栗塚がうっかり打ち明けてしまうと,ほら見たことか“appréciable”か,これは仏文和訳的にはやっぱり「評価スヘキ」だよ,ということになって,同人は面目を失することになってしまったようにも思われます。なお,あえて“appréciable”と言ってはいませんから,武士の情けでなければ,松岡はフランス語の原文を見てはいなかったのでしょう。),実は,旧民法財産編323条1項の“légitime
et appréciable”は,そもそもボワソナアドの原々案にはなかった語だったのでした。すなわち,栗塚は「「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ」ト云フ形容詞ト「正当ニシテ」ト云フ形容詞ハ後トデ這入ツタノデス,利害ト云フノハ話ノ説明ヲ見ルト唯利害ト云テ置クト漠然トシテ居ルカラ同時ニ正当デナケレバナラズ,且価ヲ見積ル程ノモノデナケレバナラヌト云フデアリマス」と発言しているところです(法律取調委員会民法草案第二部第25回議事筆記68頁)。すなわち,「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ」たる形容詞をめぐるはっきりしない議論の発端は,ボワソナアドにではなく,これじゃ漠然とし過ぎて物足りないから何か形容詞を添えてくれいとの注文を出したのであろう日本側にあったもののようです。
実は,ボワソナアドとしては,その原案344条1項(旧民法財産編323条1項)には,教育的な意義は認めても,創設的な意義は認めていなかったようなのです。ボワソナアド原案344条(旧民法財産編323条)に関するProjetの解説は,まずいわく。
本条は,フランス民法1121条による例外を除く同法1119条が規定する第2の原則及びイタリア民法1128条に対応する。ただし,必要な補足的規定(les
compléments nécessaires)も加えられている。(Boissonade II p.132)
ここでいうフランス民法1119条の第2の原則とは,「人は,一般に、自己の名においては自己のためにしか要約できない。」ということで(同条の原文は“On ne peut, en général, s’engager, ni stipuler en son propre nom, que pour soi-même.”),同法1121条は「自分自身のための要約又は相手方にする贈与に係る条件としてならば,同様に,第三者の利益のために要約することができる。当該第三者が受益の意思を表示したときは,要約者は撤回することはできない。(On peut pareillement stipuler au profit d’un tiers, lorsque telle
est la condition d’un stipulation que l’on fait pour soi-même
ou d’une donation que l’on fait à l’autre. Celui qui a fait cette stipulation
ne peut plus la révoquer, si le tiers a déclaré vouloir en profiter.)」との規定です。イタリア民法1128条もこれらと同様の規定なのでしょう。ここで注目すべきは,フランス民法1119条及び1121条は我が旧民法財産編323条2項及び3項に対応するものである一方,同条1項(これはフランス民法1131条に対応します。)が言及されていないということです。当該不言及の意味するところは,旧民法財産編323条のうちその第1項は,同条の主要部分ではないということでしょう。すなわち,同条2項以下が刺身であれば,同条1項はそのつまにすぎないということになります。
それでは,当該つまの効用はいかん。ボワソナアドはいわく。
〔旧民法財産編323条の〕第2項は,原因(cause)又は利益の欠缺に係るこの〔第1項の〕原則に,他者のための要約(la stipulation pour autrui)の無効を結び付ける。これは,フランス民法においては,いわば離れ離れとなっており(égarée),当案においては実現可能な目的(objet réalisable)の欠缺に結び付けられている他者の作為に係る約束(la promesse du fait d’autrui)の無効性〔筆者註:この無効性原則は旧民法財産編322条に関するものと解されます。わざわざ“réalisable”を「換金可能性」の意に解して同法財産編323条の「金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ」性との関係をこじつける必要はないように思われます。〕というような,原則との連結を欠いているのである。(Boissonade II p.133)
要は,原則規定とそこから派生した規定とを並べて書いた方が読者の目に美しく,分かりやすいだろう,ということのようです。各皿ごってりそれぞれ完食どんと来い型のフランス料理よりも,日本式につまを添えたやさしい盛り付けの方が優れているのだ,とボワソナアドは独りごちたものか。
しかして,せっかくの原則規定たる旧民法財産編323条1項が同条2項以下の刺身のつま扱いされているのは,当該原則は,既に同法財産編304条1項第3において,合意の成立のためには「真実且合法の原因」(フランス語では“une cause vraie et licite” (Code Civil de l’Empire du Japon,
Texte, p.119))が不可欠であるという形で,こちらで正に刺身として規定されていたからでしょう。
「合意の原因は,当事者の意思を一致させた決定的な理由(la raison déterminante)である。それは,当事者が得ようと欲した目的(le but)である。人は理性に基づき合意するのであって,気まぐれによってではない。そこにおいて人は,一般に,精神的な,金銭的な又は社会的適切性の満足(une satisfaction
morale, pécuniaire ou de convenance)を求めるのである。〔略〕また,恐らくこれが最も多いのであろうが,快楽,虚栄の満足又は奢侈の追求を動機(mobile)とする合意又は約束が存在する。」といわれると(Exposé des Motifs
du Livre des Biens. p.350),原因は金銭に見積もることを得べき利益以外においては存在しないのだ,との理論を大きく展開することは難しそうです。所詮刺身のつまなのですから,当該理論は第三者のための契約の原因に係る場面(皿)に限定されるものとして考える,ということも可能であったかもしれません。
(3)栗塚省吾に関する情報発信
栗塚省吾は越前出身(出生地は江戸本所松坂町),後に大審院判事として弄花事件🎴の登場人物となります(越中の磯部四郎とはパリ留学仲間だったのでした。)。
栗塚については,「わが国の近代法学形成期における最重要人物の一人としてその名前は知られているのだが,これまでの研究では,断片的に言及されてきたにすぎず,その人物像や法学識については,ほとんど知られていない。」と評されています(村上一博「パリ大学留学時代の栗塚省吾」(越前市立図書館ウェブサイト「栗塚文庫洋書目録」ウェブページ)1頁)。
この,名のみ知られて「その人物像や法学識については,ほとんど知られていない」栗塚が,山田顕義司法大臣の下で立法関係の仕事に携わるうち残した痕跡中,我らの目前にあって現に顕著なものの一つが,民法399条の規定であった,ということになるように思われます。
第55回法典調査会における穂積八束発言以来度々その存在意義が問われてきた民法399条でありましたが(例えば,「〔前略〕このようにみてくると,本条の規定上の存在理由が疑わしくなる。ドイツ民法にも(241参照),フランス民法にも(1101・1126参照),スイス債務法にも(19参照),債権ないし契約の目的のところにこれについて定めていないことも,理解できる(奥田編旧版55頁(金山正信))。」),平成29年法律第44号による民法改正のどさくさに際して改正という名の削除の憂き目に遭わなかったことは,栗塚の顕彰を志す方々にとって幸運なことでありました。民法399条を見るたびに,栗塚省吾の事績が想起されなければなりません。(なお,越前市は,2015年度に,明治大学大学院法学研究科法史学(日本)研究室の「越前市の偉人「栗塚省吾」関係資料調査,研究と情報発信」事業に対して,地域貢献活動支援補助事業(学生団体対象)補助金として10万円を支給しておられます。)