第1 「北方領土の日」

 我が国においては,鈴木善幸内閣時代の198116日の閣議了解によって,毎年27日は「北方領土の日」となっています。

上記閣議了解によれば,「北方領土問題に対する国民の関心と理解を更に深め,全国的な北方領土返還運動の一層の推進を図るため「北方領土の日」を設ける」ものであり,「行事」としては,「北方領土問題関係機関,民間団体等の協力を得て集会,講演会,研修会その他この日の趣旨に沿った行事を全国的に実施するものとする」そうです。飽くまでも主体はお国であって,お国のお許しを得て「北方領土問題関係機関,民間団体等」として御「協力」申し上げるという形で参加する以外は,我々一般人民はお呼びでない,ということで安心してよいようです。

 とはいえ,「北方領土問題」に「関心」を持つこと程度までは,その結果としての「理解」がたとえ忖度(そんたく)不足の粗笨なものにとどまるとしても,そのような粗「理解」的雑音ごときはものともせずに正しい理解のみが最終的に残るものである以上,直ちに非国民の所行ということにはならないでしょう。

 

第2 グレゴリオ暦185527

 実は,かねてから暦の多様性に係る問題にこだわりがある筆者(「暦に係る法制に関する覚書」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1916178.html参照)としては,「27日」という日付自体を面白く思っているところです。

前記閣議決定に付された「「北方領土の日」設定の理由書」を見ると最後に「なお,27日は,1855年〔略〕日魯通好条約が調印された日である。」とありますので,当該条約の調印日にちなんでの日付の選択であったものと解されます。しかしながら,当該条約に下田で署名したロシア帝国代表のプチャーチンに対して当該署名がされた月はфевраль (February)であったものと皇帝に報告したのかと問えば,恐らくнет(ニェット)との回答が返って来,日本代表に対して「川路〔聖謨〕殿,安政二年二月の下田における魯国人との条約調印の儀,御苦労でござった」と言っても,ぽかんとした顔をされただけでしょう。グレゴリオ暦185527は,依然ユリウス暦を使用していた正教国ロシアでは1855126日であり,明治6年(1873年)の改暦より前の段階であって太陰太陽暦を使用していた我が国においてはなお正月前の慌ただしい年末である安政元年十二月二十一日だったのでした(上記「理由書」引用部分における〔略〕の箇所には,「(安政元年1221日)」とありました。)。

「北方領土の日」の日付を,当の日魯通好条約調印時においては両当事国のいずれもその日と認識していなかった「27日」と設定したということは,「北方領土問題」自体が,日露それぞれの愛国的観点のみからしてはよく分からず,かつ,解けないものなのだよ,という寓意を込めてのことだったのでしょうか。いずれにせよ,鈴木善幸内閣総理大臣は,なかなか奥の深い人物でした(「北方領土の日」設定の前記閣議了解がされた日の前日に,真藤恒氏が日本電信電話公社総裁に就任していますが,鈴木内閣総理大臣がその前月に白羽の矢を立てていた真藤総裁の実現(内閣総理大臣ではなく内閣の任命によるもの)は,198541日からの同公社民営化及び我が国の電気通信自由化に向けての最初の布石であったように思われます(『コンメンタールNTT法』(三省堂・2011年)2頁以下。また,同書268頁以下参照)。)。

 

第3 「北方領土問題」

 「北方領土問題」とは,前記閣議了解「理由書」によれば,「我が国の固有の領土である歯舞群島,色丹島,国後島及び択捉島の北方四島は,戦後35年〔73年〕を経過した今日,なおソ連〔ロシア〕の不当な占拠下にある」ことであるものと解されます。

その「問題」の解決の形は,当該「理由書」に「これら北方領土の一括返還を実現して日ソ〔露〕平和条約を締結し,両国の友好関係を真に安定した基礎の上に発展させるという政府の基本方針」とありますから,「北方領土の一括返還」であるようです(なお,「これら」は「歯舞群島,色丹島,国後島及び択捉島の北方四島」を承けるのでしょうから,「北方領土」の語は歯舞群島,色丹島,国後島及び択捉島の北方四島を意味するものと解されます。)。

そうであれば,「日ソ〔露〕平和条約」は「北方領土の一括返還」のための手段にすぎないようです。しかしながら,我が政府の基本方針は,「日ソ〔露〕平和条約」という一つの石で二羽の鳥を獲ろうとしているようでもあって,「北方領土の一括返還」の外に,日露「両国の友好関係を真に安定した基礎の上に発展させる」ことも目的であるようです。「日露平和条約」の締結に向け現に交渉されている政府御当局が,この二羽の鳥のうちどちらが重要であると実は考えておられるのか,あるいは手段としての石の投擲たるべき「日露平和条約」の締結そのものがかえって最重要の目的となっていないかは,正に忖度するしかありません。2019130日に掲載された読売新聞オンライン版の記事「北方領土の日,「島を返せ」たすきの使用中止」を読むと,同年の「北方領土の日」根室管内住民大会では「例年,参加者が着用している「島を返せ」と書いたたすきの使用を取りやめ」,「はちまきも「返せ!北方領土」から「平和条約の早期締結を」などに変更する」そうですが,これは,根室市ないしは北方領土隣接地域振興対策根室管内市町村連絡協議会なりの忖度の結果であるものと思われます(「名は体を表す」ものであるならば,当該協議会の目的は,まずは当該地域(北方四島自体は含まれない。)の振興なのでしょう。)。

 

第4 北方四島一括返還に係る「請求原因」

 とはいえ,やはり,我が国政府はロシアの「不当な占拠下」にある北方四島について北方「領土」の飽くまで一括しての返還を実現しようとしているのでしょう。領土権に基づいて,当該領土の返還を当該領土の無権原占拠国に対して要求するものと解されます。

領土権と土地の所有権とは異なるものの,日本民法における法律構成との類比で考えると,「北方領土の一括返還」の請求は,占有者に対する所有権に基づく不動産明渡請求訴訟の場面に似ています。以下,この類比の構図に沿って,要件事実論などの復習をしてみましょう。

まず,訴訟物は「所有権に基づく返還請求権としての土地明渡請求権」です(司法研修所『改訂 紛争類型別の要件事実』(司法研修所・2006年)46頁)。訴訟物の個数ですが,「所有権に基づく物権的請求権が訴訟物である場合の訴訟物の個数は,侵害されている所有権の個数と所有権侵害の個数によって定ま」るところ(司法研修所『改訂 問題研究 要件事実』(司法研修所・2006年)57頁),筆数を数えるのも何ですし「一括」返還ということですから北方四島をまとめて所有権は1個として,侵害態様も北方四島を「一括」した「不当な占拠」であって1個ということで,1個の訴訟物ということになるのでしょうか。
 上記請求権の発生要件は①原告X(日本)が不動産を所有していること及び②被告Y(ロシア)がその不動産を占有していることとなります(類型別
47頁)。

まず②から見れば,これについては,現在ロシアが占有していること(現占有説(類型別50頁))について当事者間に争いがないということで,「概括的抽象的事実としての「占有」について自白が成立したもの」(類型別51頁)としてよいわけでしょう。

次に①の「要件事実は,Xの所有権取得原因となる具体的事実であるが,現在若しくは過去の一定時点におけるX又はその前主等の所有について権利自白が成立する場合には,Xは,X又はその前主等の所有権取得原因となる具体的事実を主張立証する必要がない」ところです(類型別47頁)。

「権利自白」については,「請求の当否の判断の前提をなす先決的な権利・法律関係についての自白」のことであって「通説・判例は,権利自白がなされると相手方は一応その権利主張を根拠づける必要はなくなるが,なお裁判所の事実認定権は排除されず,当事者はいつでも撤回できるとみる。ただし,権利自白であっても,売買や賃貸借のような日常的な法律概念を用いている場合には具体的な事実の陳述と解して自白の成立を認める」と説明されています(上田徹一郎『民事訴訟法(第二版)』(法学書院・1997年)348頁)。

「①の要件事実が,Xの所有権取得原因となる具体的な事実であると考えると,Xは,究極的には甲土地が原始取得された時まで遡り,その後の所有権の移転をすべて主張しなければならず,これが立証できなければ請求が棄却される」ことになってしまうところ,「これではXに不可能を強いることになりますし,他方,所有という概念は日常生活にとけ込んでおり,一般人にとっても理解が容易ですから,これについて自白を認めても不当な結果は生じないと考えられます。そこで,所有権については,権利自白が認められる」ものと考えられています(問題研究61-62頁)。領土権も国家にとっては理解が容易でしょう。

権利自白の成立時点としては現在に最も近い時点を把握すべきところ(問題研究63頁),北方四島の日本による領有を認めるロシアの権利自白は,その第2条で「今より後日本国と魯西亜国との境「ヱトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし」と規定した1855年の日魯通好条約の時点においてまず確かに成立していますが,その第1条で「両締約国ハ両国間ニ平和及友好ノ関係ヲ維持シ且相互ニ他方締約国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スヘキコトヲ約ス」と協定した19414月の日ソ中立条約で再成立したと解してもよいように思われます。1941413日にモスクワで署名され,同月25日に両国が批准した日ソ中立条約の方が現在により近いところです。

以上の請求原因(日本の「もと所有」(問題研究62頁)及びロシアの現占有)が認められるとなると,土地の明渡請求に係る民事訴訟ならば,ロシアとしては,有効な抗弁を提出しないと負けてしまうような成り行きとなります。(なお,我が国は北方四島の返還のみを現在要求していますが,南樺太及びこれに近接する諸島並びに得撫島から占守島までの諸島も1941年の日ソ中立条約による権利自白の対象になっていたはずです。)

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択捉島ゆかりの高田屋嘉兵衛(北海道函館市)


第5 領有権喪失の「抗弁」

ロシアは我が国の北方四島一括返還要求に対して,北方四島は自国の領土だと主張しているようですから,日本の領有権喪失の抗弁を提出しているものと解されます。

北方四島に係る日本の領有権喪失の事由は1941年の日ソ中立条約より後のものとなるわけですが,当該事由としては,①1945年のヤルタ協定,②同年のポツダム宣言及び③1951年のサン・フランシスコ平和条約が挙げられているようです。

 

1 ヤルタ協定

1945211日のヤルタ協定では,“The leaders of the three Great Powers—the Soviet Union, the United States of America and Great Britain—have agreed that in two or three months after Germany has surrendered and the war in Europe has terminated the Soviet Union shall enter into the war against Japan on the side of the Allies on condition that […]3. The Kuril islands shall be handed over to the Soviet Union.”(三大国,すなわちソヴィエト連邦,アメリカ合衆国及びグレート・ブリテンの指導者は,ソヴィエト連邦が,ドイツが降伏し,かつ,欧州における戦争が終了した後2箇月又は3箇月で,次のことを条件として,連合国に味方して日本国に対する戦争に参加すべきことを協定した。〔略〕3.千島列島がソヴィエト連邦に引き渡されること。)及び “The Heads of the three Great Powers have agreed that these claims of the Soviet Union shall be unquestionably fulfilled after Japan has been defeated.”(三大国の首脳はこれらのソヴィエト連邦の要求が日本国が敗北した後に確実に満たされるべきことを合意した。)と合意されています。

「ローマ法では,契約は,当事者以外の者に利益を与えることも不利益を与えることもできないという原則があった」ところです(我妻榮『債権各論 上巻(民法講義Ⅴ₁)』(岩波書店・1954年)114頁)。ヤルタ協定の当事国であった米国も,195697日にダレス国務長官から駐ワシントンの我が国の谷正之大使に手交された覚書(aide-mémoire)において,“the United States regards the so-called Yalta agreement as simply a statement of common purposes by the then heads of the participating powers, and not as a final determination by those powers or of any legal effect in transferring territories.”(米国はいわゆるヤルタ協定なるものは,単にその当事国の当時の首脳者が共通の目標を陳述した文書にすぎないものと認め,その当事国によるなんらの最終的決定をなすものでなく,また領土移転のいかなる法律的効果を持つものではないと認めるものである。)との見解を表明しています。日本はそもそもヤルタ協定の当事国ではないことに加え,当該協定の当事国によってもロシアの解釈が否定されているわけです。

 

2 ポツダム宣言

 

(1)第8項及びカイロ宣言

合衆国大統領,中華民国政府主席及びグレート・ブリテン国総理大臣の名で1945726日に発せられたポツダム宣言の第8項は,“The terms of the Cairo Declaration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, Shikoku and such minor islands as we determine.”(「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州,北海道,九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ)とするものです。そこで引用されるローズヴェルト大統領,蒋介石総統及びチャーチル総理大臣の名で出されたカイロ宣言(19431127日)には, “The Three Great Allies are fighting this war to restrain and punish the aggression of Japan. They covet no gain for themselves and have no thought of territorial expansion. It is their purpose that Japan shall be stripped of all the islands in the Pacific which she has seized or occupied since the beginning of the first World War in 1914, and that all the territories Japan has stolen from the Chinese, such as Manchuria, Formosa, and The Pescadores, shall be restored to the Republic of China. Japan will also be expelled from all other territories which she has taken by violence and greed. The aforesaid three great powers, mindful of the enslavement of the people of Korea, are determined that in due course Korea shall become free and independent.”(三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ズ又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ/右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ1914年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国ガ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲,台湾及澎湖島ノ如キ日本国ガ中国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニアリ/日本国ハ又暴力及貪欲ニ依リ日本国ガ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルベシ/前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ(やが)朝鮮自由独立ノモノタラシムルノ決意)とありました。

ポツダム宣言にはその後ソヴィエト社会主義共和国連邦が参加します(adhered to by the Union of Soviet Socialist Republics194592日の降伏文書の文言))。194588日のモロトフ・ソ連外務人民委員から佐藤尚武駐モスクワ大使に手交した対日宣戦布告書にソ連政府は「本年726日の連合国宣言に参加せり」とあったところです(迫水久常『機関銃下の首相官邸』(恒文社・1964年)249頁の引用する外務省編「日ソ外交交渉記録」)。同月14日の同宣言受諾に係る「帝国政府の米英ソ支4国政府宛通告文は,現地時間の14日午後85分,帝国公使よりスイス国外務次官に手交」されています(宮内庁『昭和天皇実録第九』(東京書籍・2016年)770頁)。ポツダム宣言第8項にいう,日本がその主権を保持することを認められる「諸小島」の範囲を決定すべき「吾等」(we)は,米国,英国,中華民国及びソ連の四大国であったと解し得るように思われます。しかしてその「決定」は,そうであれば,四大国の一致によってされるべきものだったのでしょう。(ただし,米国国務省のOffice of Historian(「史料室」とでも訳すのでしょうか。)ウェブ・サイトに掲載されている195697日のダレス国務長官の谷大使との会見記録によれば,同長官は「“we”は〔ポツダム宣言の〕条項を作成した三国〔米国,英国及び中華民国〕を指し,それらの国々は特別の発言権を有する(entitled to an exceptional voice)。例えば,これら三国の政府の共同見解を得ることができて,かつ,公表されたならば,それは大きな重みを持つであろう。」というような発言をしています。)

 

(2)美濃部達吉の解釈

ポツダム宣言第8項について美濃部達吉は,同宣言の受諾によって直ちに領土権の変動がもたらされる部分とそうでない部分とがあるものと解釈していたようです。194641日付けの序文が付された美濃部の著作にいわく。「而シテポツダム宣言ニハ『日本国ノ主権ハ本州,北海道,九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ』トアリ,即チ明治二十七八年ノ日清戦役以後日本ノ取得シタル新領土ハ租借地及委任統治区域ト共ニ総テ之ヲ喪失スルコトトナレリ。台湾及澎湖列島ハ関東州租借地ト共ニ支那ニ復帰シ,朝鮮ハ独立ノ国家トナリ,樺太ハ蘇聯邦ニ帰属シ,南洋群島ハ米国ノ占領スル所トナリタリ。〔略〕支那事変及太平洋戦争中日本ノ占領シタル地域ガ各其ノ本国ニ復帰シタルコトハ言ヲ俟タズ。/此ノ如クシテ現在ニ於ケル帝国ノ領土ハ,明治二十七八年戦役以前ノ旧来ノ領土即チ本州,四国,九州,北海道及附属諸島ニ止マリ,而モ附属諸島ニ付テハ,追テ平和条約ニ依リ其ノ範囲ヲ確定セラルルニ至ル迄ハ,其ノ領土権ハ尚不確定ノ状態ニ在リ。」と(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)125頁)。

美濃部がなぜ1894-1895年の日清戦争以後とそれより前との間に線を引いたのかはなおはっきりしませんが,美濃部が引用していないポツダム宣言第8項前段の「「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク」の部分の解釈によるものでしょうか。「樺太ハ蘇聯邦ニ帰属シ」の部分はカイロ宣言に直接出ていないのですが,日清戦争の結果得た「台湾及澎湖島」も「暴力及貪欲ニ依リ日本国が略取シタル」ものであって「中華民国ニ返還」されるものならば,日露戦争の結果得た樺太も同様にソ連に返還されるのだと考えられたものでしょうか(国際法事例研究会『日本の国際法事例研究(3)領土』(慶応通信・1990年)22頁(芹田健太郎)参照)。「諸小島」は “minor islands”であって,minorは本来ラテン語parvusの比較級の「より小さい」という意味であるから,四国より広い南樺太は「諸小島」としてその主権が日本に保持されることはないのだ,という算数的解釈もあったものかどうか。


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(3)連合国の解釈

しかしながら,四大国は,ポツダム宣言の受諾によって直ちに大日本帝国の領土に変更が生じたものとは解していなかったようです。
 1946129日段階におけるGHQの「若干の外廓地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」 “Governmental and Administrative Separation of Certain Outlying Areas from Japan”の第4項において,わざわざ「(a1914年の世界大戦以来,日本が委任統治その他の方法で,奪取又は占領した全太平洋諸島,(b)満洲,台湾,澎湖列島,(c)朝鮮及び(d)樺太(Karafuto)」を「更に,日本帝国政府の政治上行政上の管轄権から特に除外せられる地域」(Further areas specifically excluded from the governmental and administrative jurisdiction of the Imperial Japanese Government)としています。また,19501124日に米国国務省によって公表されたいわゆる対日講和七原則においても「日本国は〔略〕(c)台湾・澎湖諸島・南樺太・千島列島の地位に関しては連合王国・ソヴィエト連邦・中国及び合衆国の将来の決定を受諾する。条約が効力を生じた後1年以内に決定がなかった場合には,国際連合総会が決定する。中国に於ける特殊な権利及び利益は放棄する。」とあったところです(国際法事例研究会24頁(芹田)参照)。

ところで,上記1946129日の覚書において北方四島は,その第3項後段において「(c)千島列島,歯舞群島(水晶,勇留,秋勇留,志発,多楽島を含む),色丹島」((c) the Kurile (Chishima) Islands, the Habomai (Hapomaze) Island Group (including Suisho, Yuri, Akiyuri, Shibotsu and Taraku Islandsand Shikotan Island)として当該指令の目的からする(For the purpose of this directive)日本(Japan)の定義において日本から除かれています。ここでは国後島及び択捉島は特に挙示されていませんので千島列島(the Kurile Islands)に含まれているのでしょう。ただし,第4項において除かれている満洲,台湾,澎湖島,朝鮮等と比べると,第3項では日本(Japan)から除く旨わざわざ言及されていますから,千島列島,歯舞群島及び色丹島は,第4項で除かれる樺太などと比べるとより日本に近いものとして分類されたものなのでしょう。もっとも,当該覚書の第6項は「この指令中の条項は何れも,ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。」(Nothing in this directive shall be construed as an indication of Allied policy relating to the ultimate determination of the minor islands referred to in Article 8 of the Potsdam Declaration.)と規定しています。

 

3 サン・フランシスコ平和条約

 

(1)第2条(c)

問題は,195198日に調印され,1952428日に発効したサン・フランシスコ平和条約です。北方四島については,同条約の第2条(c)が “Japan renounces all right, title and claim to the Kurile Islands, and to that portion of Sakhalin and the islands adjacent to it over which Japan acquired sovereignty as a consequence of the Treaty of Portsmouth of September 5, 1905”(日本語文では「日本国は,千島列島並びに日本国が190595日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄する。」)と規定しています。

ここで若干,ここでの「放棄」の字義解釈をすると,まず,当該「放棄」によってどこかの国が当該「放棄」に係る領土権を取得するということはありません。19515月の米英暫定草案では「ソ連に割譲する旨」が記されていたのが,同年7月の段階になって「アメリカはソ連に直接利益を与える形式を好まないほか,ソ連の条約不参加の場合に譲渡方式では現実に支配するソ連と日本との間の紛争にまきこまれることを懸念し,領土条項のなかで,朝鮮・台湾・南樺太・千島などを一括して取り扱い,統一的に日本による主権放棄のみを規定することを〔英国に〕提案し,結局これが採用された」ものです(国際法事例研究会26頁(芹田))。また,当該「放棄」に係る地域が,単純な先占により領土権を取得し得る無主地になるわけでもありません。後に見るように,日本が「放棄」した地域の「最終処分」に係る「未決の点は将来この条約外の国際的解決策で解きほごしていく」べきであるとするのが,サン・フランシスコ講和会議で示された,共同起草国中の一国である米国の意思でした。

ちなみに,所有権の放棄については現行日本民法に規定はありませんが,旧民法財産編(明治23年法律第28号)42条の第5は「物ヲ処分スル能力アル所有者ノ任意ノ遺棄」によって所有権は消滅するものと規定されていました。「所有権は〔略〕放棄により,目的物は無主物あるいは国有となって存続しても,元の所有権は観念的にその存在を失って消滅する」ところ(我妻榮著=有泉亨補訂『新訂物権法(民法講義Ⅱ)』(岩波書店・1983年)247頁),物権の放棄は単独行為であって,「所有権〔略〕の放棄は,特定の人に対する意思表示を必要としない(承役地の所有権を地役権者に対して委棄する場合は例外である。287条〔略〕参照)。占有の放棄その他によって,放棄の意思が表示されればよい。ただし,不動産所有権の放棄は,登記官に申請して登記の抹消をしなければ第三者に対抗しえないといわねばならない」とされています(我妻=有泉248頁)。国家の国土領有権についての登記官は考え難いところです。なお,注意すべきは,「物権の放棄も公序良俗に反してはならない(例えば危険な土地の工作物の放棄。717条参照)が,さらに,これによって他人の利益を害さない場合にだけ認められる」ものとされていることです(我妻=有泉249頁)。美濃部達吉は領土の放棄について,「無人地を抛棄するのは,何人の権利をも侵害するものではないから,敢て立法権の行為を必要とすべき理由は無いのである〔勅令をもって無人地たる領土の放棄は可能〕。之に反して現に臣民の居住して居る土地を抛棄することは之を独立の一国として承認する場合にのみ可能であつて,之を無主地として全く領土の外に置くことは,憲法上許されないところと見るのが正当である。何となれば臣民は国家の保護を要求する権利を有するもので,国家は之をその保護から排除することを得ないものであるからである。」と述べています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)83頁)。ただし,ここでは単独行為としての領土の抛棄について論ぜられているものでしょう。北方四島に居住していた我が国民については,「戦前,北方四島には,約17千人の日本人が住んでいましたが,その全員が,1948年までに強制的に日本本土に引き揚げさせられました。」とのことです(外務省「北方領土に関するQ&A」ウェブ・ページ(A4))。すなわち,サン・フランシスコ平和条約調印の時点において北方四島は「現に臣民の居住して居る土地」ではなかったようではあります。

  

(2)「千島列島」の範囲論による領有権喪失の否認

 

ア 北方四島=非「千島列島」

サン・フランシスコ平和条約2条(c)に関して,内閣府北方対策本部の「北方領土問題とは」ウェブ・ページには,「サン・フランシスコ平和条約で我が国は,千島列島に対する領土権を放棄しているが,我が国固有の領土である北方領土はこの千島列島には含まれていない。このことについては,樺太千島交換条約の用語例があるばかりでなく,米国政府も公式に明らかにしている(195697日付け対日覚書)。」とあります。サン・フランシスコ平和条約において日本は北方四島を放棄していない,それは,北方四島は同条約2条(c)にいう「千島列島」に含まれていないからだ,したがって結局日本は同条約によっても北方四島の領有権を喪失していない,ということのようです。

しかしながら,日本語でいう「千島列島」はどの範囲の島々を意味するのかということであれば日本語話者間における用法でもって決まるということでよいのでしょうが,サン・フランシスコ平和条約の正文は英語,フランス語及びスペイン語です。

 

イ 樺太千島交換条約

1875年の樺太千島交換条約はフランス語によるものなので,内閣府北方対策本部のウェブ・ページは同条約における用語例を援用したのでしょうか。

確かに,半年に及ぶ対露交渉の末同条約に調印した榎本武揚による和訳文を見ると,前文では「大日本国皇帝陛下ハ樺太島即薩哈嗹島上ニ存スル領地ノ権理/全魯西亜国皇帝陛下ハ「クリル」群島上ニ存スル領地ノ権理ヲ互ニ相交換スルノ約ヲ結ント欲シ」とありますから,同条約によって日本に譲与された島々イコール「クリル群島」なのだ,ということになりそうです。しかしながら,ここで相交換される「「クリル」群島」はフランス語文では “le groupe des îles Kouriles”です。“un groupe des îles Kouriles”でないのはよいのですが,端的に“les îles Kouriles”でないところが少々面白くないところです。

しかして,同条約第2款には「全魯西亜皇帝陛下ハ〔略〕現今所領「クリル」群島(le groupe des îles dites Kouriles qu’Elle [Sa Majesté l’Empereur de toutes les Russies] possède actuellement)即チ第1「シュムシュ」島〔中略〕第18「ウルップ」島共計18島ノ権理及ビ君主ニ属スル一切ノ権理ヲ大日本国皇帝陛下ニ譲リ而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ(désormais ledit groupe des Kouriles appartiendra à l’Empire du Japon)〔以下略〕」とあります。“le groupe des îles dites Kouriles, qu’Elle possède actuellement”というようにカンマがあるわけでもないので,「クリル全島中のうち現在ロシア領であるもの」が譲られるのだ,とも読み得るものでしょうか。“ledit groupe des Kouriles”であって“le groupe des Kouriles”ではないことも,“le groupe des îles Kouriles”が固有名詞ではないようでいやらしい。サン・フランシスコ平和条約2条(c)のフランス語文は,“Le Japon renounce à tous droits, titres et revendications sur les îles Kouriles, ainsi que sur la partie de l’île Sakhaline et sur les îles y adjacentes passées sous la souveraineté du Japon en vertu du Traité de Portsmouth du 5 septembre 1905.”です(イタリックは筆者によるもの)。「樺太千島交換条約」(これに相当するフランス語による題名も,日本外交文書デジタルコレクション掲載の当該条約を見る限りは無いようです。ただし,外務省条約局『旧条約彙纂第1巻第2部』(1934年)680頁には表題として“Traité d’Échange de l’Île de Sakhaline contre le Groupe des Îles Kouriles”とあります。)における「用語例」から北方四島は「千島列島」には含まれないのだ,と直ちに言い切って済ましては,不全感が残るようです。

ちなみに,1855年の日魯通好条約2条における択捉・得撫両島間国境関係部分のフランス語訳文は “La frontière entre la Russie et le Japon passera désormais entre les îles Itouroup et Ouroup. L’île Itouroup appartient tout entière au Japon, et l’île Ouroup, ainsi que les autres îles Kouriles situées au nord de cette île, appartiennent à la Russie.”となっています(『旧条約彙纂第1巻第2部』523頁)。ここで,カンマがあって"les autres îles Kouriles, situées au nord de cette île" であれば,「得撫島及び他のクリル諸島,すなわち該島〔得撫島〕より北に所在する島々は,ロシアに属す」(「「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す」)ということになって正確(つまり,得撫島以北の島々がクリル諸島であるということになります。),かつ,疑問を残さなかったようなのですが(しかし,クリル諸島の範囲が自明であれば不要のはずで,くどいといえばくどい。),カンマが無いばかりに,「得撫島及び他のクリル諸島のうち該島〔得撫島〕より北のもの」と解されて,では得撫島より南にもクリル諸島はあるのだね,との誤解が生じ得てしまうところです(得撫島より南ではなく得撫島以南であって,かつ,以南といえば得撫島を含むが実は同島だけであって,択捉島・国後島は含まれないのだよ,ともなお言い張り得ますが。)。

   

ウ ダレス9月覚書

 

(ア)「日本国の主権下にあるものとして認められなければならない」国後・択捉両島並びに北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島

内閣府北方対策本部が援用した195697日付けの前記ダレス米国国務長官の対日覚書(両国政府の協議の後同月12日に公表。当時の「日ソ平和条約交渉中に提起された諸問題」に関するもの。以下「ダレス9月覚書」といいます。)には,確かに,「米国は,歴史上の事実を注意深く検討した結果,択捉,国後両島は(北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島とともに)常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり,かつ,正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に達した。米国は,このことにソ連邦が同意するならば,それは極東における緊張の緩和に積極的に寄与することになるであろうと考えるものである。」(The United States has reached the conclusion after careful examination of the historical facts that the islands of Etorofu and Kunashiri (along with the Habomai Islands and Shikotan which are a part of Hokkaido) have always been part of Japan proper and should in justice be acknowledged as under Japanese sovereignty. The United States would regard Soviet agreement to this effect as a positive contribution to the reduction of tension in the Far East.)とあります。しかし,これでは,「北海道の一部」である歯舞群島及び色丹島はthe Kurile Islandsに含まれないものであると英語では理解されていることは分かりますが(また,19515月の対日平和条約米英暫定合同草案の段階において英語の本家の「英の解釈では,歯舞・色丹は千島列島の範囲に含まれていなかった」そうです(国際法事例研究会26頁(芹田))。),国後島及び択捉島は「千島列島」には含まれないのであるぞ,とまでは明文で述べられてはいません。

 

(イ)国後・択捉両島と「千島列島」

国後島及び択捉島と「千島列島」との関係については,米国国務省のOffice of Historianウェブ・サイトに掲載されている195693日付け極東担当国務次官(ロバートソン)発国務長官宛てメモ(Memorandum From the Assistant Secretary of State for Far Eastern Affairs (Robertson) to the Secretary of State)において,「しかしながら,これらの島〔国後島及び択捉島〕は日本の,及び国際的用法においては千島弧の一部として記述されてきており,サン・フランシスコ条約において用いられた語であるところの千島列島の一部ではないということは難しいであろう。」(The islands have been described in Japanese and international usage as part of the Kurile chain, however, and it would be difficult to prove that they are not a part of the Kurile Islands as the term is used in the San Francisco treaty.)と記されており,かつ,Office of Historianの註するところでは,同年8月に国務省歴史部政策研究課のハーバート・スピールマン(Herbert Spielman, Policy Studies Branch, Historical Division)が行った調査の結論は,「本件に関する米国文書のほとんど(most)において,国後及び択捉は千島列島(the Kuriles)の一部であるものとして認識されている。また,日本国内閣総理大臣〔吉田茂〕は平和条約調印のために招集されたサン・フランシスコ会議〔195197日の第8回全体会議〕において演説しつつ,「南千島に属するもの」(‘Of the South Kuriles’)であるものとしてこれら二島に特に言及している。」であったものとされています(スピールマンの調査結果については,溝口修平「日ソ国交正常化交渉に対する米国の政策の変化と連続性」国際政治(日本国際政治学会)第176号(20143月)119頁参照)

(なお,195197日の吉田茂発言は,内閣府北方対策本部の「北方領土問題」ウェブ・サイトの「外交文書(11)」では同月「8日」に行われたものとされていますが,「7日」の間違いです。当該発言は,日本外交文書デジタルコレクションの「平和条約の締結に関する調書第4冊」の「平和条約の締結に関する調書Ⅶ」中「Ⅱ桑港編」でも読むことができます(128-129頁(118-119頁)。1970年になってからの外務省条約局法規課作成の資料)。ただし,そこでは「千島南部の二島,択捉,国後両島」との日本語となっています。千島があって,その外の南側に位置する二島ということでしょうか。しかしながら,前後を含めて当該部分の英文は,“With respect to the Kuriles and South Sakhalin, I cannot yield to the claim of the Soviet Delegate that Japan had grabbed them by aggression. At the time of the opening of Japan, her ownership of two islands of Etoroff and Kunashiri of the South Kuriles was not questioned at all by the Czarist government. But the North Kuriles north of Urruppu and the southern half of Sakhalin were areas open to both Japanese and Russian settlers. On May 7, 1875 the Japanese and Russian Governments effected through peaceful negotiations an arrangement under which South Sakhalin was made Russian territory, and the North Kuriles were in exchange made Japanese territory.”となっています(日本外交文書デジタルコレクション「平和条約の締結に関する調書Ⅶ」の「付録3150325頁(313頁))。ただし,185527日調印の日魯通好条約では得撫島以北はロシア領とされたはずであり,また,1853年の交渉中にプチャーチンは我が国代表者に対して択捉島の分割を提案していたそうです(国際法事例研究会94頁(安藤仁介))。ちなみに,1956824日にロンドンの米国大使邸で行われた重光外務大臣とダレス国務長官等との会談において,重光大臣は“The legal question is clear. The Japanese surrendered this territory [Etorofu and Kunashiri (perhaps)] under the San Francisco Treaty with the Allies, among whom the Soviets were not included.”と口走り,ダレス長官は「サン・フランシスコ平和条約の時には,吉田政府から,歯舞及び色丹はthe Kurilesの一部ではないという立場を採るよう米国は頼まれていた。択捉及び国後については,彼らは同様の依頼をしてこなかった。」と述べています(米国国務省Office of Historianウェブ・サイト)。)

 

エ 国後・択捉両島=非「千島」の事実に対する雑音について

樺太千島交換条約及びダレス9月覚書を援用して国後島及び択捉島はサン・フランシスコ平和条約2条(c)の「千島列島」に含まれないものとする主張は,愛国的かつ真摯なものではありますが,なお全ての雑音を一掃し去るには至っていないようです。
 所有権に基づく土地明渡請求の例え話に戻れば,
Y(ロシア)によるサン・フランシスコ平和条約の調印・発効に係る事実の主張は,歯舞諸島及び色丹島に係るX(日本)の所有権喪失の抗弁を成り立たせるものではないものの,国後島及び択捉島についての当該抗弁に係る主張としては,当該条約の殊更な反日的解釈においては――天道(てんどう)()()非邪(ひか)――ひょっとすると成功することになるかもしれぬという懸念は完全には払拭できません(当該懸念が仮に現実のものとなるとしたら,同条約によって北方四島が,歯舞・色丹と国後・択捉との2筆に分筆されてしまったことにもなるものか)。ただし,サン・フランシスコ平和条約によるXの所有権の当該喪失は,Yによる当該所有権の取得までを意味するものではありません。

 

(3)サン・フランシスコ講和会議における米英全権の説明

ここで,サン・フランシスコ講和会議において対日平和条約案を共同提案した米英の代表がした演説中,サン・フランシスコ平和条約2条に関する部分を紹介しておきましょう。いずれも195195日午後の第2回全体会議でされたものです。

まず,米国全権のダレスいわく,「第2章(領域)は日本の領域について規定する。日本は6年前現実に実施された降伏条項の領土条項をここで正式に承認することになる。ポツダム降伏条項は日本と連合国が全体として拘束される唯一の平和条項の規定である。23の連合国政府間の私的了解が23あるけれどもそれらは日本や他の連合国を拘束しない。だから,条約は,降伏条項第8項を具体化した。第2章第2条の定める放棄は厳格に降伏条項に一致している。/第2条,(c)の千島列島(“Kurile Islands”)という地理的称呼がハボマイ諸島(the Habomai Islands)をふくむかどうかの問題が提起されたが,ふくまないというのが合衆国の見解である。この点について紛争があれば,紛争は第22条によって国際司法裁判所に付託しうる。/第2条は日本に主権を放棄させるだけでなく当該領域の最終処分を規定すべきであるという連合国もあった。しかし,どちらに与ゆべきであるかの問題の起る地域がある。ポツダム降伏条項にしたがつて日本に平和を与えるか,それとも,日本が放棄する用意があり放棄を求められる地域をどうするか連合国が争う間日本に平和を与えないかのどちらかである。日本に関するかぎり,今平和を与え未決の点は将来この条約外の国際的解決策で解きほごしていくのが明らかに賢明ないきかたである。(Clearly, the wise course was to proceed now, so far as Japan is concerned, leaving the future to resolve doubts by invoking international solvents other than this treaty.)」と(日本外交文書デジタルコレクション「Ⅱ桑港編」75頁(65頁))。

次に英国全権のヤンガーいわく,「これらの条項はポツダム宣言の規定を基礎にするものである。ポツダム宣言の規定は日本の主権が四大島と後日宣言署名国の決定する諸島に制限されることを規定している。琉球諸島と小笠原諸島については条約はこれらの諸島を日本の主権から切り離さない。条約は北緯29度以南の琉球諸島にたいする合衆国管治の継続を規定する。すなわち日本に至近の島々は日本の主権のもとに残るばかりでなく日本の管治のもとに残ることになる。これは,日本本土にきわめて接近しそして現在ソヴィエト連邦によつて占領されているも一つの重要な群島である千島列島にたいする日本主権の完全放棄の規定と顕著な対照をなすものである。われわれは千島列島にたいする日本主権の放棄に合意したが,より南にある琉球諸島と小笠原諸島に関する規定を非難する人たちはこの比較を銘記すべきであると思う。」と(日本外交文書デジタルコレクション「Ⅱ桑港編」90頁(80頁))。

ちなみに,第2回全体会議でソ連全権グロムイコは「琉球・小笠原諸島・西之島・火山列島・沖鳥島・南鳥島」に日本の主権を及ぼさせるべきだと主張しましたが(南西諸島等に係るサン・フランシスコ平和条約3条に反対。日本外交文書デジタルコレクション「Ⅱ桑港編」108頁(98頁)),翌6日午前の第4回全体会議においてセイロン代表は当該主張に痛烈な批評を加え,「ソヴィエト連邦は西南諸島を日本に返還せよという。では,南樺太・千島列島を日本に返還してはどうか。ソヴィエト連邦は日本は基本的人権を享有すべきであるといわれるが,その自由はソヴィエト国民こそ欲しているものである。」と述べています(日本外交文書デジタルコレクション「Ⅱ桑港編」113頁(103頁))。サン・フランシスコ平和条約3条に規定された諸島は,1972515日の沖縄の本土復帰を最後に既に米国から日本に返還されています。

 

(4)ダレス9月覚書における国後・択捉両島問題の位置付けに関する仮定論

 

ア ダレス9月覚書の関係部分

なお念のため,国後島及び択捉島がサン・フランシスコ平和条約2条(c)の「千島列島」に仮に含まれるのならば,同条約によって「放棄」された日本の領土に係るダレス9覚書における次の部分が,両島についても適用されることになるようです。
 いわく,「サンフランシスコ平和条約――この条約はソ連邦が署名を拒否したから同国に対してはなんらの権利を付与するものではないが――は,日本によって放棄された領土の主権帰属を決定しておらず,この問題は,サンフランシスコ会議で米国代表が述べたとおり,同条約とは別個の国際的解決手段に付せられるべきものとして残されている。/いずれにしても日本は,同条約で放棄した領土に対する主権を他に引き渡す権利を持っていないのである。このような性質のいかなる行為がなされたとしても,それは,米国の見解によれば,サンフランシスコ条約の署名国を拘束し得るものではなく,また同条約署名国は,かかる行為に対してはおそらく同条約によって与えられた一切の権利を留保するものと推測される。」(
The San Francisco Peace Treaty (which conferred no rights upon the Soviet Union because it refused to sign) did not determine the sovereignty of the territories renounced by Japan, leaving that question, as was stated by the Delegate of the United States at San Francisco, to ‘international solvents other than this treaty’. / It is the considered opinion of the United States that by virtue of the San Francisco Peace Treaty Japan does not have the right to transfer sovereignty over the territories renounced by it therein. In the opinion of the United States, the signatories of the San Francisco Treaty would not be bound to accept any action of this character and they would, presumably, reserve all their rights thereunder.)と。

 

イ “demonstration of moral support”

それでは「択捉,国後両島は・・・常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり,かつ,正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論」とは何だったのかといえば,ダレス9月覚書の原案作成者であるロバートソン国務次官の前記195693日付けメモ(以下「ロバートソン・メモ」といいます。)によれば,“demonstration of moral support”ということのようです。

つまり,“If we cannot directly assist Japan in its negotiations, there may be steps which would strengthen our bonds with Japan by way of contrast with Soviet imperialism. Any demonstration of moral support would be of some value from this standpoint, such as a declaration that we believe Japanese claims to Etorofu and Kunashiri are just.”(日本をその〔対ソ国交回復・北方四島返還〕交渉において我々は直接支援できないとしても,ソヴィエト帝国主義との対比によって我々の日本との絆を強化することとなるであろう方策はあり得るところである。この観点からすると,択捉島及び国後島に対する日本の請求権は正しいものであると我々は信ずる旨の宣言のような精神的弾込め(demonstration of moral support)には意味があるであろう。)という考え方が,ダレス9月覚書の背景にはあったのでした。

「精神的弾込め」とは意訳が過ぎるようですが,当該語句を筆者がつい用いた理由は,当時の重光葵外務大臣は前月の1956年「8月中旬,歯舞・色丹引き渡しを条件とするソ連案での妥協を日本政府に請訓したが,日本政府がこれを拒否した」という状態であって(国際法事例研究会108頁(安藤)),重光外務大臣には相当の叱咤が必要であったようであるからです(同年819日には,ロンドンにおいて同大臣に対する「ダレスの恫喝」として知られる「パワハラ」事件が起きています。なお,同月14日付けの在東京米国大使館から同国国務省への電報は,ソ連案で妥協するとの方針には外務大臣以外の日本の閣僚は一致して反対であるとの消息筋の情報を既に伝えていました(同月19日のダレス=重光会談に係る米国国務省のメモランダムに付された註参照(同省Office of Historianウェブ・サイト))。「ダレスの恫喝」といっても米国国務長官ダレスのみの発意によるものではなく,当の鳩山一郎内閣に代わって,その方針を同内閣の外務大臣に改めて告げたというお節介の側面もあったものでしょう(日本国憲法732号及び3に明らかなように,外務省は内閣の方針に従わなければなりません。)。同年1122日の衆議院日ソ共同宣言等特別委員会において重光外務大臣は,米国からの「俗にいうハッパ」について語っています(第25回国会衆議院日ソ共同宣言等特別委員会議録第519頁)。同年822日のダレス長官からの国務省宛て電報には「ソヴィエトとの平和条約締結交渉の頓挫(collapse)の結果,重光が憂慮し,取り乱した状態(in worried and distraught condition)にあるのは明白であった。彼は,最終的に地域の帰属を決定する(final territorial dispositions)問題を検討するための日ソ英及び恐らくその他による会議を米国が招集することが望ましいことを何度か仄めかした。」とあります(同省Office of Historianウェブ・サイト)。)。

 

ウ 日本の権能

なお,ロバートソン・メモは更にいわく。“In the light of Japanese reactions, it appears wise to […] assert simply that having renounced sovereignty over the territories, Japan does not have the right to determine the question, which is of concern to the community of nations, not to Japan and the Soviet Union alone. This formulation would enable the United States to reserve all its rights, whatever they may be, and to refuse to recognize Soviet sovereignty even if Japan should ultimately purport to do so.”(日本の反応に鑑みると,〔略〕当該地域に係る主権を放棄した以上,日本は,日本及びソヴィエト連邦のみの課題ではなく国際社会の課題であるところの〔当該地域の主権に係る〕当該問題を決する権利を有していないと簡潔に述べることが賢明であるものと思われる。この方法によって,米国は,いかなるものであってもその全ての権利を留保することができ,また,たとえ日本が最終的にそのようにしようとしても,ソヴィエトの主権を承認することを拒否することができる。)と。

さて,国後島及び択捉島に係る主権の所在が「国際社会の課題」であるのならば,皆で国際的に話し合えばよいかといえば,そうもいきません。195697日の会見においてダレス長官が谷大使に口頭で述べたところ(Oral Points)によれば「米国政府は,関係諸国による国際会議が領土問題を決することの助けになるものかどうか真剣に検討したが,現段階においては,そのような会議は当該問題に係る望ましい解決(a desired solution)を促進しないであろうという結論に達した。」とのことでした。ロバートソン・メモには,具体的な問題点として,そのような国際会議に仮にソ連が参加したとしても当該会議を「台湾,朝鮮,そして恐らく琉球の地位問題を含む全般的極東問題会議にしようとする」だろうし,「ソヴィエト連邦は,中共が招待されるべきことに恐らく固執するであろう。」との懸念が記載されています。(現在ではまた,国際的な紛争の一つの焦点たる海域である南シナ海の問題も,サン・フランシスコ平和条約2条(f)との関係で,提起されてしまう可能性がないでしょうか。(「南シナ海における大日本帝国」参照http://donttreadonme.blog.jp/archives/1043946377.html))

「日本は・・・当該問題を決する権利を有していない」との前提である結果,ロバートソン・メモに添付されていたダレス9月覚書の原案では「サン・フランシスコ平和条約によれば(by virtue of the San Francisco Peace Treaty),日本は同条約において放棄した地域に係る主権に関する決定権(the right to determine the sovereignty over the territories renounced by it)を有さず,かつ,それは,日本と連合国のいずれか一国との間の合意によって解決されるべき事項ではない,というのが米国の熟慮の末の意見である。米国は,当該性格のいかなる行為についても承諾すべく拘束されることはないであろうし,かつ,その全ての権利を留保しなければならないであろう。」との記載がありました。しかしこれでは,歯舞群島及び色丹島の返還(明渡)問題は別として,日ソ二国間交渉で国後島及び択捉島の主権の問題を決めることはできず,当該二島については交渉それ自体が無意味である(しかも米国の目からは越権行為)ということになります。

そこで,ダレス9月覚書では原案に変更を加え,上記の点については,「日本は,同条約で放棄した領土に対する主権を他に引き渡す権利を持っていないのである。」ということで,対ソ関係の「千島列島並びに日本国が190595日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島」ないしは少なくとも国後島及び択捉島については,日本がその「放棄」した領土権を回復することは妨げられない,という反対解釈がされるように書き直されたものなのでしょう。カイロ宣言では「日本国ハ又暴力及貪欲ニ依リ日本国ガ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルベシ」とありますが,いったん「駆逐」された後の復帰は可能と解するものか,それともそもそも千島列島等は「暴力及貪欲ニ依リ日本国ガ略取シタル」地域ではないので「駆逐」される必要性は最初から無かったと解するものか。

ちなみに,1956827日付け(ただし,「?」が付されています。)の米国国務省北東アジア室の在東京米国大使館宛て週報には,「法務顧問室はハイド(Hyde)の「国際法」を掘り返して,日本は,その放棄した主権が他の国に移転されるまでは,the Kuriles及び樺太にresidential sovereignty(我々が考えるには,琉球におけるresidual sovereigntyとは違うものではあるが,恐らくその発想の源(inspiration)であろう。)を有している,との長官の見解を支持するであろう理論を見つけ出した。」との記述があったところです(同省Office of Historianウェブ・サイト)。

(なお,「日本は,〔サン・フランシスコ〕平和条約で放棄した領土に対する主権を他に引き渡す権利を持っていない」にもかかわらずそのような僭越なことをした場合(例えば,本来日本が領土権を「放棄」しただけの島について,更に完全な主権をソ連に認めた場合)には同条約26条後段が働き,「これと同一の利益は,この条約の当事国にも及ぼされなければならない」ことになるとされていました(その場合,琉球に係る完全な主権を米国にも認めて,せっかくの琉球に係る潜在主権を日本は失うべし。だから譲歩せずに頑張れ。)。この機序の説明がいわゆる「ダレスの恫喝」になったわけです。)

 

エ 「国際的解決手段(international solvents)」とは

国後島及び択捉島の領土権の回復は妨げられないとして,それではそのための,ダレス9月覚書にいう「〔サン・フランシスコ平和〕条約とは別個の国際的解決手段に付せられるべき」ところの「国際的解決手段(international solvents)」とは――国際会議の招集は先にみたように論外であるとして――両島については何なのだ,という問題が残っています。
 この点に関しては,ダレス
9月覚書を手交された際に谷大使が正に当該国際的解決手段に関してした質問に対する同長官の発言を,米国国務省の記録は次のように伝えています。いわく,“He would say that the processes that he had in mind […] are the whole series of processes that are under way at present. The negotiation between Japan and the Soviet Union are a part, as are our own efforts to assist together with any pressures which we may possibly be able to bring about from other government. […]”(私の念頭にあるプロセスとは,〔略〕現在進行中の一連のプロセス全てであるというべきだろう。日本とソヴィエト連邦との間の交渉は〔その〕一部であるし,他の政府から我々が恐らく引き出すことのできるであろう圧力と共に〔日本を〕支援する我々自身の努力もそうである。〔略〕)と。いずれにせよ,日ソ二国間限りで決まる問題ではない,というのが米国の認識であったようです。一回の国際会議によってきっぱり綺麗に決まればよいのでしょうが,サン・フランシスコ講和会議がそれをできなかったように,やはりそうはいかないのでしょう。ただし,国後島及び択捉島に係る領土権の日本帰属は正当なものであると判断した以上,米国としては,日ソ間での当該趣旨での合意後に他国からの苦情紛糾があっても,結果よければ全てよしということで当該日ソ間合意を認容することとしてその辺のことは見切った,ということでありましょうか。

 

第6 日ソ共同宣言と「占有権原の抗弁」等

 19561019日にモスクワで署名され,同年1212日に発効した日ソ共同宣言の第9項は「日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は,両国間に正常な外交関係が回復された後,平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。/ソヴィエト社会主義共和国連邦は,日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して,歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡すことに同意する。ただし,これらの諸島は,日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。」と規定しています(日本側全権委員:内閣総理大臣鳩山一郎,農林大臣河野一郎及び衆議院議員松本俊一)。ここでの「平和条約の締結に関する交渉」は,同年929日付け松本俊一全権委員書簡及び同書簡に対する同日付けグロムイコ・ソ連第一外務次官書簡を根拠として,「領土問題をも含む」ものと,我が国では理解されています。(ただし,共同宣言案にあった「領土問題を含む」との文言が同年1018日にフルシチョフ・ソ連共産党第一書記の要求により落ちたという経緯があり,かつ,同第一書記は同月16日には「歯舞・色丹を書いてもよいが,その場合は平和条約交渉で領土問題を扱うことはない,歯舞・色丹で領土問題は解決する旨主張」したとされています(塚本孝「北方領土問題の経緯【第4版】」調査と情報(国立国会図書館)第697号(2011年)5-6頁)。)

 一読すると「なんだ,歯舞群島と色丹島とは返してもらえるんだね,よかったね。」ということになるのですが,よく読むと,日ソ(日露間)間の平和条約締結後まではソ連(ロシア)は歯舞群島及び色丹島の占拠を継続してよい旨日本側が認めてしまったようにも読めます。1945年のヤルタ協定,同年のポツダム宣言及び1951年のサン・フランシスコ平和条約のいずれによっても日本の歯舞群島及び色丹島に係る領土権の喪失はもたらされていないということで,X(日本)に対するY(ソ連)からの所有権喪失の抗弁が認められないとしても,1956年の日ソ共同宣言に至ってその第9項に基づくYの占有権原の抗弁は成り立って,XYに対する明渡請求は失敗してしまうかもしれません。また,当該占有権原はいつまで続くかといえば,XY間の平和条約締結のいかんはYの意思次第なので,いわばYは欲する限り日ソ共同宣言9項に基づき歯舞群島及び色丹島の占有を継続できるということになりそうです。何だか変ですね。しかしこの辺については,参議院外務委員会において19561129日,下田武三政府委員(外務省条約局長)が説明しています。いわく,「従来は,これらの島々に対するソ連の占領は戦時占領でございましたことは仰せの通りでございまするが,しかし共同宣言が発効いたしますと,第1項の規定によりまして戦争状態は終了するわけでございますから,その後におきましては,もはや戦時占領でなくなるわけでございます。しからば戦争状態終了後,歯舞,色丹をソ連が引き続き占拠しておることが不法であるかと申しますと,これはこの第9項で,平和条約終了後に引き渡すと,現実の引き渡しが行われるということを日本が認めておるのでありまするから,一定の期限後に日本に返還されることを条件として,それまで事実上ソ連がそこを支配することを日本はまあ認めたわけでございまするから,ソ連の引き続き占拠することが不法なりとは,これまた言えない筋合いであると思います。/それから国後,択捉等につきましては,これも日本はすぐ取り返すという主張をやめまして,継続審議で解決するという建前をとっております。従いまして,これにつきましても事実上ソ連が解決がつくまで押えてあるということを,日本は不問に付するという意味合いを持っておるのでありまするから,これもあながち不法占拠だということは言えません。要するに日本はあくまでも日本の領土だという建前を堅持しておりまして,実際上しばらくソ連による占拠を黙認するというのが現在の状態かと思います。」と(第25回国会参議院外務委員会会議録第66-7頁)。確かに,「北方領土の日」の前記閣議了解の「理由書」でも,「不当な占拠」とは言っていても,「不法な占拠」とは言っていませんでした。

 また,「日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して」という文言だけでも恩着せがましくて違和感があるのですが(日本の領土権が無視されています。),更に「引き渡す」との用語はいかがなものでしょうか。サン・フランシスコ平和条約6条では,占領軍の日本国からの「撤退」という表現をしています。「引き渡す」ということは領土権の移転である,ということであれば,歯舞群島及び色丹島に係るソ連の「領土権」を認める旨の日本の「権利自白」が1956年の日ソ共同宣言によってされてしまったことになるのかどうか。同年1125日の衆議院日ソ共同宣言等特別委員会において,同様の懸念を大橋武夫委員が表明しています(第25回国会衆議院日ソ共同宣言等特別委員会議録第74頁)。同委員の当該突っ込みに対しては,松本俊一全権委員及び下田武三政府委員が,日本文では「引き渡す」と表現されたロシア文のпередать(ペレダーチ)とは「単なる物理的な占有の移転」を意味するものなのですと答弁して頑張っています(同議事録5頁)。しかし,筆者の手元の『博友社ロシア語辞典』(1975年)でпередатьを引いてみると,「財産に対する権利を譲渡する」や「全権を譲り渡す」といった文章における「譲渡する」「譲り渡す」を意味する動詞でもあるようです。

 なお,軍事占領下の統治の法的性格について美濃部達吉は,「或る地域が既に平定して完全にわが軍の勢力の下に置かれた後には,その地域に於いては敵国の統治権を排除し,軍隊の実力を以てその統治を行ふことになるのであつて,その占領中は一時〔わが国〕の統治権がその地域に行はれる。併し此の場合の〔わが国〕の統治は一時の経過的現象であつて,法律上の権利として統治権が成立するのではなく,実力に依る統治に外ならぬ。それが結局に於いて,〔わが国〕の権利として承認せらるゝや又は原状に回復せらるゝやは,講和条約に待たねばならぬのである。」と説明しています(美濃部・精義96頁)。

 第198回国会における安倍晋三内閣総理大臣の施政方針演説(2019128日)においては,「ロシアとは,〔略〕領土問題を解決して,平和条約を締結する。〔略〕この課題について,〔略〕必ずや終止符を打つ,との強い意志を,プーチン大統領と共有しました。〔略〕1956年宣言を基礎として,交渉を加速してまいります。」と述べられています(下線は筆者によるもの)。

 

第7 燕雲十六州問題に係る澶淵の盟の前例

 しかし,形はどうであれ「領土問題を解決」することは,もちろんよいことなのでしょう。

漢族固有の地である長城内の燕雲十六州を異民族国家であるモンゴル系の遼(契丹)から取り戻すことを諦め,遼による領有の現状を認めた北宋の真宗が遼の聖宗と結んだ1004年の澶淵の盟(「宋からは以後毎年,銀10万両,絹20万匹を歳幣(毎年贈る金品)として贈り,互いに国境を侵犯しないことを誓約」したもの(宮崎市定『中国史(下)』(岩波文庫・2015年)16頁))も,“The peace signed by Song with the Liao (Khitan) in 1004 was the first in a series of acts of national disgrace.1004年に宋が遼(契丹)と締結した平和条約は,一連の国恥の最初のものであった。)と言われはしますが(Jian Bozan, Shao Xunzheng and Hu Hua, A Concise History of China (Beijing: Foreign Language Press, 1986), p.60),悪くはなかったとされているところです。

いわく,「この条約は宋側にとって非常な屈辱とされるのは,歳幣を贈る義務を負わされた上に,異民族王朝の君主を皇帝と称して,これと対等の立場で国交を行わねばならなかったからである。しかしながら宋側にとって有利な点があったことを見逃してはならない。従来中国は,万里の長城によって北方遊牧民の南下を遮断して自衛してきた,〔略〕もし相互不可侵条約を結ぼうとしても,その相手が見つからない。砂漠の政権は絶えず移動するからである。しかるに今度,遼王朝という安定政権の成立により,宋は恰好な交渉相手に直面することになった。歳幣は経済的の負担でもあり,不名誉な義務には相違ないが,しかし平和の代償と思えば,特に高価に過ぎるものではなかった。経済的先進の大国である中国が,発達途上国の遼に対して,経済援助の無償援助を行って悪い理由はなかった。/遼に対する歳幣は,宋政府の財政から見ても,大して痛痒を感ずるほどのものではなかった。それどころではない。国初以来の経済成長はなお持続し,これに伴って国庫収入も増加し続けた。」と(宮崎16-17頁)。

ただし,真宗は,遼軍が燕雲十六州から更に南下して黄河に到達し澶州(澶淵)に迫ったという苦難の遼宋戦争状態終結の必要のために澶淵の盟を提議したものです(宮崎16頁参照)。

 真宗(趙恒)は,何もないのに,「遼とは,国民同士,互いの信頼と友情を深め,燕雲十六州問題を解決して,盟約を締結する。後晋の石敬瑭〔936年〕以来七十年近く残されてきた,この課題について,次の世代に先送りすることなく,必ずや終止符を打つ,との強い意志を,耶律隆緒皇帝〔聖宗〕と共有しました。首脳間の深い信頼関係の上に,交渉を加速してまいります。」と見栄を切って,勇躍首脳外交のために開封を発したわけではありません。  

遼宋間の平和は澶淵の盟以後百十年以上続きますが,1115年には遼の東方で完顔阿骨打に率いられた女真人が金を建国,北宋(風流天子こと徽宗の時代)は新興の金を利用して「固有の領土」燕雲十六州を遼から奪回することを謀ります。

1125年,金宋同盟によって首尾よく遼は駆逐されます。しかし今度は,北宋の背信をとがめ,余勢を駆って南進して来た金(皇帝は阿骨打の弟・太宗晟)の軍隊によって北宋は首都開封を囲まれること2度,終に欽宗皇帝及びその父の徽宗上皇は人質となって金の内地に連行され(1127年。我が正平一統の際に退位せしめられた崇光天皇並びにその父の光厳太上天皇及び叔父の光明太上天皇が吉野方から被った取扱いに似ていますね。),北宋は滅亡するに至ります。嗚呼。かくも「固有の領土」の恢復は難しく,危険なものであったのでした。

宮崎市定教授は嘆じていわく。「このように宋金の交渉は宋側にとって惨憺たる結末に終った。これはむしろ宋側にその責任の大半があり,外交策の拙劣が自ら禍を招いたのであった。すなわち打つ手,打つ手がことごとく裏目に出て,次から次へと最悪の事態が展開して行ったのである。これは宋の政治家の本質を暴露したものであって,宋の国内で通用してきた最も効果的な政略は,対外的には最も愚劣な猿知恵に外ならなかったことを物語る。〔略〕もし宋の方から対応を誤らなければ,災害は途中で喰いとめる余地があったはずであると思われる。そしてこのような最悪の事態に陥ったことについては,盲目的な強硬論を唱えた愛国者の方にも責任がある。すべて国が滅亡に陥る時には,最も不適当な人間が国政の衝に当るように出来ているものなのだ。」と(宮崎83-84頁)。



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