筆者の母方の曽祖父の残した「由緒」書きにおける下記日清戦争関係の記載に係る考証話の第4回です。1894年7月23日の「京城ノ変」及び同月29日の成歓の戦いの直前までを取り扱います。

 

明治26年〔1893年〕11月1日徴兵ニ合格シテ騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ〔第1回はここまで〕

明治27年〔1894年〕6月朝鮮国ニ東学党蜂起シ韓国居留民保護ノ目的ヲ以ツテ(どう)年6月11日混成旅団ヲ編成セラ(ママ)大島義昌少将ヲ旅団長トシ平城盛次少尉ヲ小隊長トシ選抜セラレテ山城丸ニ乗舶シ宇品港出帆玄海灘ヲ経テ仁川ニ向フ此ノ日山陽鉄道広島駅()()開通ノ日ナリ〔第2回はここまで〕

明治27年8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル

〔前回はここまで〕仝7月23日京城ノ変ニ出張爾来〔今回はここまで〕成歓ニ牙山ニ平壌義洲鴨緑江鳳凰城(ママ)馬集崔家房(ママ)家台竜頭塞興隆勾瀇嶺海城牛荘田庄台ト転戦ス

明治27年9月15日大本営ヲ広島旧城エ進メ給ヘリ

明治28年〔1895年〕6月5日講和トナリ凱旋

仝年1112日日清戦役ノ功ニ依リ瑞宝章勲八等及び金50円幷ニ従軍徽章下賜セラル 

明治29年〔1896年〕1130日善行証書ヲ授与セラレ満期除隊トナル

 

1 「京城ノ変」

 

(1)『蹇蹇録』の記載

 我が聯合艦隊第一遊撃隊と清国艦隊との間における豊島沖海戦の発生(1894年7月25日。日清開戦)の前々日,朝鮮国の首都漢城で筆者の曽祖父のいうところの「京城ノ変」が起こっています。

 

  既にして〔1894年7月〕22日の期限は来たれり。朝鮮政府の回答は例に依り漠然として要領を得ず。大鳥〔圭介〕公使は最早寸刻も遅延する能わず,一面には外務督弁趙秉稷に照会し,朝鮮政府は日本政府の勧告に対し期日に至るも満足なる回答を与えず,最早日本政府は当然自らなすべき所をなすの外なし,事宜に依れば我が権利を伸長するため兵力を使用するも計られず,と言明し置き,他の一面には大島〔義昌〕旅団長と協議を凝らし,翌23日の払暁を以て竜山に在営する若干の兵員を急に入京せしめたる際,王宮の近傍において突然韓兵より先ず発砲したるを以て我が軍はこれを追撃し,城門を押し開き闕内に進入したり。朝鮮政府の狼狽は名状すべからず。諸閔,事大党は何方(いずかた)にか遁逃せり。いわゆる開化党は得々たる顔色を顕し大院君は王勅に依り入闕し,(つい)で朝鮮国王は勅使を以て大鳥公使の参内を求め,大院君は国王に代り同公使を引見し,自今国政を総裁すべき勅命を奉じたることを述べ,内政改革の事は必ず同公使と協議に及ぶべしと約せり。朝鮮改革の端緒はここに開けたり。而して朝鮮は公然清韓条約を廃棄する旨を宣言せり。また国王は更に同公使に向かい,牙山駐屯の清軍を駆逐するために援助を与えんことを依頼したり。尋で日本軍隊は牙山,成歓において大いに清軍を打破し,これを遁走せしめたり。(陸奥宗光著・中塚明校注『新訂 蹇蹇録』(岩波文庫・1983年)7475頁)

 

(2)脱線

 

ア 申込みに対する承諾義務の有無

 陸奥宗光が『蹇蹇録』の前記部分で言いたかったのは,締切日を付して回答を求められたのに対してその締切日までに相手方の満足する回答を与え得なかった場合においては,多少の痛い目に遭っても仕方がないのだ,ということでしょうか。

しかしながら,民法学においては契約の申込みに対する承諾に関して,「申込を受けても,承諾をするかどうかは,自由であるのを原則とする。契約自由の原則の一内容だからである。」,「特別の事情がなければ,申込者が勝手に,「お返事がなくばお承諾とみなす」といつても,その効力を生じない。勝手に品物を送付して,購入しなければ返送せよ(返送しなければ購入とみなす)といつても,返送の義務も生じない。」と説かれています(我妻榮『債権各論上巻(民法講義Ⅴ₁)』(岩波書店・1954年)67頁,7172頁。なお,特定商取引に関する法律(昭和51年法律第57号)59条参照)。無論,この原則にも例外があって,例えば医師法(昭和23年法律第201号)19条1項は「診療に従事する医師は,診察治療の求があつた場合には,正当な事由がなければ,これを拒んではならない。」と規定しています。ただし,「その承諾義務違反は,公法的制裁を伴うだけであつて,当事者間において契約の成立を認めることはできないと解すべきであろう。」とはされています(我妻19頁)。

 

イ 医師の応召義務

 しかし,お医者さんは大変です。

医師法19条1項に関して(旧)厚生省は,通知・回答として,昭和24年9月10日医発752号厚生省医務局長通知においては「)医業報酬が不払いであってもこれを理由に診療を拒むことはできない。/)診療時間を制限している場合でも,これを理由に急施を要する患者の診療を拒むことは出来ない。/)天候の不良なども,事実上往診の不可能な場合を除いて「正当な事由」には該当しない。/)医師が自己の標榜する診療科以外の診療科に属する疾患について診療を求められる場合も,患者がこれを了承する場合は一応の理由と認めうるが,了承しないで依然診療を求めるときは,応急の措置その他出来るだけの範囲のことをしなければならない。」と,昭和30年8月12日医収755号厚生省医務局医務課長回答においては「)医師法19条にいう「正当な事由」のある場合とは,医師の不在又は病気等により事実上診療が不可能な場合に限られるのであって,患者の再三の求めにもかかわらず,単に軽度の疲労の程度をもってこれを拒絶することは,第19条の義務違反を構成する。/)医師が第19条の義務違反を行った場合には罰則の適用はないが,医師法第7条にいう「医師としての品位を損するような行為のあったとき」にあたるから,義務違反を反復するが如き場合において同条の規定により医師免許の取消又は停止を命ずる場合もありうる。」と,昭和301026日医収1377号厚生省医務局長回答においては「休診日であっても,急患に対応する応召義務を解除されるものではない。」と表明しているそうです(渋谷真一郎「応召義務を考える」山形県医師会会報785号(2017年1月)11頁)。患者様の尊いお命と御健康の前には医師のわがままごときは許されない,ということでしょうか。深夜の思い詰めた患者様の長いお尋ね・突然の御来訪にもさわやかに応対せねばなりません。

 

ウ 弁護士の自由と独立

これに対して,弁護士職務基本規程(平成16年日本弁護士連合会会規第70号)20条は「弁護士は,事件の受任及び処理に当たり,自由かつ独立の立場を保持するように努める。」と定めているところです。「弁護士は依頼者が少なくとも自分には真実を打ち明けて事件を依頼していると信じて職務を行い,依頼者の側においても弁護士の能力や人格を信じて自分のために最善を尽くしてくれると信じて依頼を行うものであって,両者には高度の信頼関係が必要である。そのため,信頼関係を築けないおそれがあると弁護士が判断した場合には,弁護士は受任を断ることができるのであって,弁護士は,事件の受任義務を負わないとされている。業務の遂行に信頼関係を前提としない司法書士や行政書士に依頼の応諾義務があるのとは異なる(司法書士法21条,行政書士法11条)。医師にも応召義務がある(医師法19条)が,これは患者の生命身体を守る見地からであり,その趣旨は異なる。」と解説されています(日本弁護士連合会弁護士倫理委員会『解説「弁護士職務基本規程」第3版』(日本弁護士連合会・2017年)44頁)。司法書士法(昭和25年法律第197号)21条は「司法書士は,正当な事由がある場合でなければ依頼(簡裁訴訟代理等関係業務に関するものを除く。)を拒むことができない。」と,行政書士法(昭和26年法律第4号)11条は「行政書士は,正当な事由がある場合でなければ,依頼を拒むことができない。」と規定しています。弁護士職務基本規程43条は更に「弁護士は,受任した事件について,依頼者との間に信頼関係が失われ,かつ,その回復が困難なときは,その旨を説明し,辞任その他の事案に応じた適切な措置を採らなければならない。」と規定しています。弁護士の心を無慙に折ってしまっては,次のような弁護士に対する熱い期待の言葉も空しくなります。いわく,「あんな奴に譲歩するなんて絶対いやです。先生は,わたしの味方じゃないんですか。わたしのように弱い者を弁護士が助けなくてだれが弱い者を助けるんです。関係者全員のための円満解決がどうのこうと他人の裁判所に四の五の言わせないで,早く勝訴判決をもらってください。」,「警察官にすぐ後ろから現認されており,かつ,防犯カメラにも写っているからオレの犯行自体は争っても見込みはないだとぉ。おいっ,それで最善の弁護といえるのか。お前はよぉ,弁護士なんだろ。オレを無罪にしろっ,ごるぁ。」等々。「委任は,各当事者がいつでもその解除をすることができる」ものなのです(民法651条1項)。

しかし,仁術の医師とは異なりお客さまを選ぶことができる旨を高々と宣言している弁術の徒輩が,当該資格者の供給過剰の故かどうかはともかくも,貧乏になってしまっていることについては,「自業自得である。」と溜飲を下げる向きもあることでしょう。

 閑話休題。

 

(3)様々な呼称

 1894年7月23日の「京城ノ変」については様々な呼称が提案されています。

 日清戦争を研究した歴史家の意見について見れば,檜山幸夫中京大学教授によればそれは「日朝戦争」であり,原田敬一佛教大学教授によれば「七月二十三日戦争」と呼ばれるべきものであるそうです(大谷正『日清戦争』(中公新書・2014年)243244頁)。

 当時の陸奥外務大臣は「明治二十七年七月二十三日事変」,「七月二十三日事変」などと表現しています(陸奥149頁,152頁)。

 ただし,単に7月23日に漢城で発生した事変といえば,1882年7月23日の壬午事変と紛らわしいところです。壬午事変は,「〔1882年〕7月23日に組織的な行動を始めた〔当時の開化政策のなかで冷遇されていた在来朝鮮国軍の〕兵士たちに,零細商人,手工業者などの〔漢城の〕都市下層民が加わって,〔開化政策を進めた〕閔氏政権の高官の屋敷を破壊し,別技軍教官の堀本礼造少尉を殺害して,さらに奪った武器で武装し,西大門外の日本公使館を襲撃した。公使館を脱出した花房義質(よしもと)公使らは死傷者を出しながら翌24日仁川に逃亡し,最終的にはイギリスの測量船に助けられて長崎に逃げ帰った。24日,兵士たちは王宮(昌徳宮)に向かい,閔氏政権の高官を殺害したが,最大の攻撃目標であった閔妃を発見できなかった。」というものです(大谷8頁)。こちらで痛い目に遭っているのは日本側です。

1894年8月20日に我が大鳥公使と朝鮮国の金允植外務大臣との間で調印された暫定合同条款の日本文では同年7月23日の事変は「日本暦明治二十七年七月二十三日/朝鮮暦開国五百三年六月二十一日漢城ニ於テ両国兵ノ偶爾衝突ヲ興シタル事件」,「本年七月二十三日王宮近傍ニ於テ起リタル両国兵員偶爾衝突事件」と表現され,漢訳文では「朝鮮暦開国五百三年六月二十一日/日本暦明治二十七年七月二十三日両国兵丁在漢城偶爾接仗一事」,「本年七月二十三日在大闕相近之地両国兵丁偶爾接仗」と表記されています。「偶爾衝突」ないしは「偶爾接仗」との表現については,同年8月25日付けの大鳥公使から陸奥外務大臣宛ての報告によれば,「朝鮮政府ノ請求ニ従ヒ両国兵ノ衝突ヲ偶然ノ衝突ト改正致候」ということだったそうです。当該暫定合同条款においては,「本年七月二十三日王宮近傍ニ於テ起リタル両国兵員偶爾衝突事件ハ彼此共ニ之ヲ追究セサル可シ」とされています。(日本外交文書)

「朝鮮王宮の武力占領」という表現もあります(大谷59頁)。しかし,我が軍部隊が朝鮮王宮に武力をもって侵入するという事件は,翌189510月8日未明にも発生しています(閔妃殺害事件)。閔妃は,壬午事変の際1882年7月24日の朝鮮国軍兵士らによる王宮侵入の後に一度「行方不明の閔妃は死亡したとして葬儀」が行われていたのですが(大谷9頁),結局王宮で殺害される運命であったようです。

 

(4)平城盛次騎兵少尉の偵察報告

 1894年7月24日付けの大島混成第九旅団長発有栖川宮参謀総長宛て混成旅団報告第16号(アジア歴史資料センター)には,前日同月23日の「京城ノ変」に係る平城盛次騎兵少尉の偵察報告が記載されています。筆者の曽祖父も平城少尉に従って,当該偵察の一翼を担っていたわけであります。(そうでないと話が面白くなりません。)なお,この日の天候は雨でした。

 

  一〔1894年7月23日〕午前第10時情況視察ニ出セル平城騎兵少尉ノ報告

    7月23日京城王宮附近ニ於ケル情況偵察ノ報告

   本日午前4時49分歩兵第二十一連隊ノ一部ハ迎秋門ニ到着シ第三中隊ヲ王宮ノ西方ヨリ第六中隊ヲ王宮ノ東方ヨリ王宮ノ背後ニ迂回セシメタルニ朝鮮兵ハ射撃ヲ始メタルヲ以テ猶1中隊ヲ増加シ之ニ向テ射撃ヲ始メタリ是ト同時ニ迎秋門ニアリシ一部ハ門ヲ破壊シ王宮内ニ侵シ猶ホ第一大隊ノ一部モ光化門左側ノ壮衛営ヲ襲ヒ内外相応シテ吶喊セリ

   是ニ於テ壮衛営及ヒ王宮内ノ兵ハ尽ク武器ヲ棄テ逃走セリ先ニ我ニ向テ射撃シタルモ多クハ白岳方向ニ逃走シ猶ホ王宮北方ノ村落内ニ両3名宛埋伏シ我斥候等ノ至ルヲ見レハ直チニ出テヽ射撃ヲ行ヘリ然レ𪜈(とも)王宮ノ各門ハ已ニ我手ニ落チ是ニ歩哨ヲ配布セリ

   午前5時30分朝鮮国外務督弁王宮内ヨリ出テ来テ我公使館ニ至ルト称スルヲ以テ之ニ護衛兵ヲ付シ公使館ニ送レリ

   午前5時40分右捕将王宮ニ来レリ是ニ於テ王ノ所在ヲ詰問シ嚮導セシメタルニ雍和門(義和門ナラン)ニ至リ武器アルヲ発見シ之ヲ没収セントス国王出テ来リ之ヲ制シテ曰ク日本公使館ニ向テ外務督弁ヲ遣セリ故ニ()還スル迠猶予アリタシト然レ𪜈(とも)遂ニ武器ハ没収スル(こと)トセリ(其員数ハ取調中ナリ)我兵ヲ以テ国王ヲ護衛シ大ニ之ヲ慰メタリ

   午前6時20分射撃モ殆ント止ミタルヲ以テ6時30分公使館ニ帰還報告セリ

   備考 壮衛営ニハ小銃(スペンセル火縄銃混合)及ヒ刀剣各数百前装黄銅砲約十門後装砲(多分クルツプ山砲ナラン)6門皆我手ニ()セリ又王宮内ノ武器モ大約我手ニ()セリ

 

「我兵ヲ以テ国王ヲ護衛シ大ニ之ヲ慰メタリ」ということになった朝鮮国王李載晃(高宗は廟号)は明治天皇と同年の1852年生まれ。無論,我が混成第九旅団の兵士らに「護衛」されたとしても,心が慰められたことはなかったでしょう。

筆者の曽祖父は,我が軍将兵に猶予を乞い,又は「護衛」せられつつある朝鮮国王の姿を見たのでしょうか。見たとしても印象に残らなかったものでしょうか。

 

(5)文明国の前例

 さて,一公使が自国派遣軍の指揮官と共謀して武力により赴任先国政府を圧迫し,ほしいままにその政権に変動を与えしめるということは行儀が悪いというべきか,何といわんか。

 しかし,そのようなことは,当時は必ずしも天人共に赦さざる極悪非道の所行とは思われていなかったようです。前年の1893年1月に,別の王国で別の文明国公使により似たような事変が惹起せられています。

 

  〔前略〕1893年1月14日,主権独立国たるハワイ王国に駐箚する米国公使ジョン・L・スティーヴンス(以下本決議において「米国公使」という。)は,米国市民を含むハワイ王国在住の非ハワイ人の少数グループと共に現地の正統なハワイ政府の転覆を共謀したところ,

   ハワイ政府転覆の当該陰謀に基づき,米国公使及び米国海軍代表者は,米国の海軍兵力をして1893年1月16日に主権ハワイ国家に侵入せしめ,かつ,リリウオカラニ女王及び彼女の政府を強迫するためにハワイ政府諸庁舎及びイオラニ宮の近傍に配置せしめたところ,

   1893年1月17日の午後,欧米人のサトウキビ農園主,宣教師の子孫及び金融業者を代表する公安委員会が,ハワイの王政を廃し,かつ,臨時政府の設立を宣言したところ,

   それを承けて米国公使は,ハワイ原住国民又は正統ハワイ政府の同意なく,かつ,両国間の諸条約及び国際法に違背して当該臨時政府に外交上の承認を与えたところ,

   〔中略〕

   1893年2月1日,米国公使は米国国旗を掲揚し,かつ,ハワイは米国の保護領であると宣言したところ,〔後略〕

  (19931123日の米国両院合同決議から抜粋)

 

 1894年7月4日,ハワイの臨時政府は共和国宣言を発しています。イオラニ宮に幽閉されていたリリウオカラニ女王は,1895年1月24日,ハワイ共和国の代表者らによって正式に退位せしめられています。


DSCF0932
こちらは日清戦争期間中の在東京駐日米国公使であったエドウィン・ダン(札幌市南区真駒内)
銅像で遊びながらも,当該人物は「エド・ウィンダンじじい」だと思っている子供もいました。


2 七原のロバ等

 

(1)騎兵第五大隊第一中隊経歴書の記載

 1895年8月24日付けの騎兵第五大隊第一中隊経歴書(アジア歴史資料センター)には,1894年「7月23日京城ノ変ニ参与シ即日竜山ニ来〇どう25日中隊ハ前衛騎兵トナリ牙山方向ヘ出発」とあります。

 

(2)7月24

 1894年7月24日は「晴天」,野戦砲兵第五聯隊第三大隊では「午後命令第六中隊第五中隊第一小隊ヲ附シ都合8門ヲ牙山ニ向ケ明25日午前10時出発ノ事,依テ兼而(かねて)恩賜アリタル酒ヲ分配シ別盃ヲナス」という儀式が行われました(原田敬一「混成第九旅団の日清戦争(1)―新出史料の「従軍日誌」に基づいて―」佛教大学歴史学部論集創刊号(2011年3月)36頁)。

 

(3)7月25

 7月25日の龍山は「晴天」(原田36頁)。同月27日付けの大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団報告第18号(アジア歴史資料センター)の別紙によると,豊辺新作中隊長の騎兵第五大隊第一中隊の全員が「前衛騎兵」となったわけではなく,「前衛」に属しているのは「騎兵中隊(1小隊欠)」となっています。「1小隊欠」の騎兵小隊はどこに行ったかといえば,臨津江独立支隊(司令官歩兵少佐山口圭蔵)に「騎兵1小隊(25騎)」,京城守備隊(司令官歩兵少佐一戸兵衛)に「騎兵5騎」,仁川兵站守備隊に「騎兵7騎」,給養隊(司令官歩兵中尉石丸言知)に「伝令騎兵5名」,東路独立枝隊(司令官歩兵大尉小原文平)に「騎兵5騎」,本隊の旅団司令部に「伝令騎兵士官1名下士1名卒19名」及び輜重司令部(司令官砲兵少佐押上森蔵)に「伝令騎兵下士1名卒10名」が属していました。なお,「7月25日になって大島旅団長は混成第九旅団主力(歩兵3000名,騎兵47騎,山砲8門,兵站部隊)を率いて牙山に向かった。」とされています(大谷62頁)。

 この7月25日の朝に日清間の豊島沖海戦が発生しています。ただし,当該海戦の名称については,「大本営命令から考えても「豊島沖輸送船団襲撃戦」と名称変更するべきだろう」とも主張されています(原田36頁)。「大本営が伊東佑亨聯合艦隊司令長官に命じた電文(7月20日佐世保軍港で受領)は,/二,清国更ニ兵員ヲ増加派遣スルニ至ラハ彼レ我ニ敵意ヲ表スルモノト認ム故ニ我艦隊ハ直チニ清国艦隊及運送船ヲ破壊スベシ。」というものだったそうです(原田3536頁)。清国兵を運送する高陞号を東郷平八郎大佐が撃沈したことは,Union Jackが掲揚されていたことを捨象すれば,「事件」というよりは大本営の命令どおりの軍事行動であったようです。

 

(4)7月26日:七原のロバ

 7月26日の騎兵第五大隊第一中隊の行動については,豊辺新作中隊長による「戦闘詳報7月26日午後5時素沙場ニ於テ」があります(アジア歴史資料センター。当該戦闘詳報は,手書き文字のままではなく活字になっています。)。

 

  一前衛司令官ノ命ニ依リ騎兵中隊ハ捜索ニ任セラレ午前3時〔漢城南方の〕水原府出発〔その更に南方の〕牙山方向ニ行進ス途次烏山洞及七原ニ逓騎哨ヲ配布ス

  二午後4時37分七原駅三叉路ノ南(ママ)約千米突(メートル)ナル畑地ニ於テ敵ノ騎兵約十騎ニ遭遇ス中隊ハ直ニ之ヲ射撃シ素沙場北方高地迄追撃ス此際敵ノ通弁ノ使用セシ驢馬(ろば)1頭ヲ捕獲ス而シテ敵ノ騎兵ハ〔更に南方の〕成歓幕営地ニ退却セリ

  三成歓駅幕営地ハ素沙場ト約4千米突(メートル)ノ大水田ヲ隔テ相対セリ未タ詳細ニ偵察スル能ハスト雖𪜈(とも)前方ニ3ヶ所後方独立丘上ニ1ヶ所ヲ発見ス

   午後8時中隊ハ素沙場ニ於テ人馬ノ給養ヲ為シ(どう)1030分素沙場ノ北方約千米突(メートル)ノ森林内ニ露営ス

  (ママ)午前3時水原府ヨリ将校斥候1組(4名)ヲ南陽ヲ経鶏頭津方向ニ出セリ

 

実に七原南方における日清両騎兵隊の衝突こそが,日清戦争における日清両軍陸上戦の始まりだったのでした。我が軍の(さきがけ)たる騎兵第五大隊第一中隊は,幸先よい勝利の戦利品としてロバ1頭を捕獲したのでした。

この7月26日には,混成第九旅団本隊は水原に進み,22時頃に漢城の大鳥公使から次のような申進を受けています(混成旅団報告第18号)。

 

 右牙山清兵ヲ撤回セシムル儀ニ付昨25日朝鮮政府ヨリ外務督弁ノ記名調印ヲ以テ右取計方代弁ノ依頼有之候間(これありそうろうあいだ)御承知ノ上(しかる)(べく)御取計相成度(あいなりたく)此段申進(もうしすすめ)候也

  27年7月26日  特命全権公使大鳥圭介

 

 この「右取計方代弁ノ依頼」は,「国王・大院君・外務督弁(外相)趙秉稷が抵抗するのを,脅迫して出させた公文であった。しかし,朝鮮側が抵抗した結果,曖昧な内容になってしまったらしく公開されなかった。」というものです(大谷62頁)。『蹇蹇録』には,「七月二十三日の事変に乗じ,韓廷より牙山にある清国軍隊を国外に駆逐するの委託を強取するに至りたるもの」とあります(陸奥133134)。

 

(5)7月27日:古志正綱少佐の憤死

 前記混成旅団報告第18号に「本日〔1894年7月27日〕水源府出発前歩兵少佐古志正綱死去ス進級補助ノ権ヲ仮サレサル為メ不得止(やむをえず)代理官ヲ置キタリ代理ヲ以テ実戦ニ望ムハ義昌ノ甚タ遺憾トスル処ナリとあります。これだけではよく分かりませんが,この椿事は,「〔混成第九旅団の龍山からの〕移動に際して軍夫には仁川・漢城の在留邦人を動員したが,人数が限られたので,7月25日の出発時には武力で威嚇して朝鮮人軍夫と牛馬を徴発した。しかし強制的に動員した人夫は,同日深夜,水原で牛馬を連れて逃亡したので,牙山進撃に支障をきたした。このとき,食料のみならず,小銃弾や山砲弾も失われた。歩兵第二十一連隊第三大隊では,所属の人夫と牛馬すべてが逃亡,26日の混成第九旅団の出発が困難になったので,大隊長古志正綱少佐が責任を取って翌日に自刃するという異常事態さえ生じた。」ということでした(大谷63頁)。

 この日混成旅団本隊は振威県まで到達し,「同所ニ於テ聶提督ノ貯蔵シ置キタル精米薪藁凡1日分ヲ徴発ス」ということになりましたが,朝鮮人軍夫が牛馬と共に逃亡してしまう状況にあって「本日迠ニ於テ前記ノ如ク稍軍需品ヲ徴発シ得タリト雖𪜈(とも)当地以南ニ於テハ其見込ナシ輜重不継ノ為メニ作戦ヲ渋滞セシメサルヤノ恐レ之レナキニ非ス」(混成旅団報告第18号)という有様でした。

 

(6)7月28

 1894年7月28日,混成第九旅団本隊は振威県の露営地を出発して素沙場北方高地に進み,そこで露営します(同日付け大島混成第九旅団長発竹内兵站監宛て混成旅団報告第19号(アジア歴史資料センター))。翌日の成歓攻撃に備えた軍隊区分及び「命令大意」によれば,騎兵第五大隊第一中隊(1小隊欠)は独立騎兵中隊ということになって「独立騎兵中隊ハ予備隊ニ在ルヘシ」とされます(混成旅団報告第19号)。ただし,「騎兵第五大隊第一中隊(1小隊欠)」の全員が独立騎兵中隊を構成したわけではありません。独立騎兵中隊以外にも騎兵は配備されており,その内訳は,鶏頭津独立支隊に騎兵3騎,軍勿浦独立支隊に騎兵2騎,東路独立支隊に騎兵5騎,右翼隊(司令官・武田秀山中佐)に騎兵5騎,左翼隊(司令官・歩兵中佐西島助義)に騎兵5騎,予備隊に騎兵1分隊(8騎)となっています(混成旅団報告第19号)。

 ところでこの日,平城盛次騎兵少尉の率いる1分隊(筆者の曽祖父の属する分隊であることにしましょう。)が牙山方向の偵察行に出ています。混成旅団報告第21号たる混成旅団戦闘詳報(アジア歴史資料センター)には次のようにあります。

 

  騎兵将校ニ1分隊ヲ率(ママ)シメ牙山ノ敵情ヲ偵察セシム此斥候ハ翌29日午前10時始メテ報告ヲ出ス曰ク牙山土民ノ報ニ依レハ昨今両日ニテ清兵不残のこらず成歓及天安ニ向ヘリ其兵数約千人ナリ尚紅貝ニ小数ノ清兵残留セリト(平城騎兵少尉報告戦闘后ニ受領シタルモノ)

 

  〔1894年7月28日〕午后11時半攻撃命令ヲ達ス〔略〕(かくの)(ごとく)ニ伝達ノ遅緩セシ所以(ゆえん)ハ牙山ニ出セシ騎兵斥候ノ()来ヲ待チシカ為メナリシモ距離遠大ノ為メ遂ニ其情報ヲ得ル(こと)能ハサリシ

 

さて,平城分隊はいずこにありや。ともあれ1894年7月29日未明,混成第九旅団は素沙場から南下し,成歓の戦いが始まります。「此夜陰雨点々稀ニ星光ヲ見ル全団(ばい)(ふく)零時露営地ヲ出発ス士気(うた)タ盛ナリ(混成旅団報告第21号)。

                             (つづく)

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp