Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

2018年06月

 筆者の母方の曽祖父の残した「由緒」書きにおける下記日清戦争関係の記載に係る考証話の今回は第2回です。1894年の朝鮮国における東学党の蜂起から曽祖父の仁川上陸までを取り扱おうと思います。

 

明治26年〔1893年〕11月1日徴兵ニ合格シテ騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ〔前回はここまで〕

明治27年〔1894年〕6月朝鮮国ニ東学党蜂起シ韓国居留民保護ノ目的ヲ以ツテ(どう)年6月11日混成旅団ヲ編成セラ(ママ)大島義昌少将ヲ旅団長トシ平城盛次少尉ヲ小隊長トシ選抜セラレテ山城丸ニ乗舶シ宇品港出帆玄海灘ヲ経テ仁川ニ向フ此ノ日山陽鉄道広島駅()()開通ノ日ナリ〔今回はここまで〕

明治27年8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル

仝7月23日京城ノ変ニ出張爾来成歓ニ牙山ニ平壌義洲鴨緑江鳳凰城ママ馬集崔家房ママ家台竜頭塞興隆勾瀇嶺海城牛荘田庄台ト転戦ス

明治27年9月15日大本営ヲ広島旧城エ進メ給ヘリ

明治28年〔1895年〕6月5日講和トナリ凱旋

仝年1112日日清戦役ノ功ニ依リ瑞宝章勲八等及び金50円幷ニ従軍徽章下賜セラル 

明治29年〔1896年〕1130日善行証書ヲ授与セラレ満期除隊トナル

 

1 東学党の蜂起

 岩波書店の『近代日本総合年表 第四版』(2001年)の1894年の部分を見ると,同年における朝鮮国の東学党蜂起について次のような記載があります。「朝鮮国ニ東学党蜂起」があったのは,いきなり同年6月のことではなく,同年2月頃から動きがあったのでした。

 

   2.15 朝鮮の全羅道古阜郡で,郡主趙秉甲に対する民衆の反乱おこる。2.25自発的に解散,政府は東学に責任ありとして弾圧を始める。

   3.29 朝鮮の全羅道で東学党蜂起。全琫準,総督となる。5.14忠清道・慶尚道に広がる。

   5.31 東学党,全州〔全羅道の首府〕を占領。朝鮮国王〔高宗・李載晃。日韓併合後は徳寿宮李太王〕,総理交渉通商事宜の袁世凱に清軍派遣を要請。6.4李鴻章,900人の派兵を指令。6.9援軍,朝鮮牙山に到着。

   6.7 日本,朝鮮に出兵を通告。6.9李鴻章,英公使に日本の朝鮮派兵阻止を要請。

   6.11 東学軍,全州を撤退。

   10.― 朝鮮,東学農民軍,再蜂起し,日本軍に抗戦。

 

東学党蜂起の時系列の日付は,大谷正『日清戦争』(中公新書・2014年)の説くところは岩波年表によるものと少し違っています。1894年2月15日の古阜における「東学異端派の指導者全琫準が地方官吏の苛斂誅求に蜂起」した事件が「一時収まった」ところまでは同じですが(大谷270頁・40頁),「再蜂起」は同年3月末のことではなく,同年「4月末に再蜂起」したのであって,具体的には4月25日に「朝鮮の全羅道茂長で,東学農民軍が蜂起」したものとされています(大谷40頁・270頁)。なお,同年6月11日の「東学軍,全州を撤退」の具体的事情は,同月1日に全州城外に到着した朝鮮政府軍に対して「農民軍は政府軍陣地を2度にわたって攻撃したが,多数の犠牲者を出して撃退され」,その後「休戦交渉が開始され,農民軍は27ヵ条の弊政改革請願を国王に上達することを条件に,6月11日に和約に応じ,全州から撤退した。」というものでした(大谷41頁)。また,岩波年表では189410月に「東学農民軍,再蜂起」とされていますが,これは11月の「第二次農民戦争」だとされています(大谷269頁)。すなわち,「大院君〔高宗の実父・李昰応〕は国王の密書を偽造して,農民軍の再蜂起を促した。これを受け取った全琫準は秋の収穫が終わるのを待って11月上旬に再蜂起」したという経緯だそうです(大谷106頁)。「東学農民軍との大規模な戦闘は,忠清道の公州に入った〔日本陸軍後備歩兵〕第十九大隊第二中隊と朝鮮政府軍を,北接〔忠清道を中心とする東学の組織〕と南接〔全羅道を中心とする東学の組織〕の東学連合軍が1120日に攻撃したことから始まった。2次にわたる公州の戦闘は12月7日まで続き,農民軍は数に勝っていたにもかかわらず,ライフル銃(スナイドル銃)を装備した日本軍の前に多数の犠牲者を出して敗北した。」とのことでした(大谷108頁)。その後,日本軍の「作戦は当初の予定を2ヵ月近く延長して1895年2月末まで続けられ」ました(大谷110頁)。「第二次農民戦争」における農民軍側の犠牲者数については,趙景達『異端の民衆反乱――東学と甲午農民戦争』(岩波書店・1998年)においては「全体の犠牲者は3万名を優に超えていたのは確実」で,「5万に迫る勢いである,との推計値」が示されているそうですが(大谷110頁),村川堅太郎=江上波夫他編『世界史小辞典』(山川出版社・1979年(第2版第19刷))の「東学党の乱」の項(佐々木正哉執筆)の「3040万の犠牲者」からは随分減っています。

なお,そもそもの東学については,「東学は没落両班(ヤンパン)の崔済愚が1860年に提唱した民衆宗教で,キリスト教を意味する西学に対して東学と称した。崔済愚が処刑された後,第2代教主崔時亨のもとで,東学は朝鮮南部一帯に広がり,さらに拡大した。崔時亨は政府の弾圧を避けるため「守心正気」の内省主義を東学教徒に求めたが,一方で民衆の変革志向に期待する東学異端派も存在した。」と紹介されています(大谷40頁)。

 

2 日本政府による半島派兵決定

当時の我が国は第2次伊藤博文内閣の時代でした。外務大臣陸奥宗光,陸軍大臣大山巌,海軍大臣西郷従道,内務大臣井上馨,文部大臣井上毅,逓信大臣黒田清隆,内閣書記官長伊東巳代治。

しかし,第2次伊藤博文内閣は,第6回帝国議会の衆議院を相手に窮地に陥っていました。(また,貴族院も批判的で,年初の1894年1月24日には「近衛篤麿〔当時2歳の文麿の父〕・谷干城ら貴族院議員38人,首相伊藤博文に忠告書を送り,衆議院の条約励行論〔不平等条約改正交渉を進める政府に対する排外主義的反対運動。居留地外での外国人の活動を現行条約どおり厳格に制限せよとするもの〕抑圧に抗議。」ということが起っています(岩波年表)。)

1894年5月31日,衆議院は内閣弾劾上奏案を可決します。この上奏は,「両議院ハ各天皇ニ上奏スルコトヲ得」との大日本帝国憲法49条に基づくものです。議院法(明治22年法律第2号)51条1項には「各議院上奏セムトスルトキハ文書ヲ奉呈シ又ハ議長ヲ以テ総代トシ謁見ヲ請ヒ之ヲ奉呈スルコトヲ得」とありました。当該弾劾上奏の文章は次のとおり(第6回帝国議会衆議院議事速記録第14369370頁掲載の特別委員長(江原素六)報告書のもの)。

 

     上奏

      衆議院議長楠木正隆誠惶誠恐謹ミ

    奏ス

  叡聖文武天皇陛下登

    極ノ首メ五事ノ誓文ヲ下シ明カニ億兆ニ示シ給ヒ上下心ヲ一ニシ盛ニ経綸ヲ行ハシム

    大詔ノ厳ナル屹トシテ山嶽ノ如ク

  天恩ノ厚キ穆トシテ春風ニ似タリ等瞻迎景従日夜孳々トシテ

    盛徳ヲ翼賛シ

    鴻志ニ奉答セント欲スルモノ年已ニ久シ然ルニ比年閣臣ノ其施設ヲ誤リ内治外交共ニ其職責ヲ失シ動モスレハ則チ累ヲ帝室ニ及ホスニ至ル曩ニ第4期帝国議会ニ方リ閣臣ノ見ト等ノ議ト相触レ等内閣ト並ヒ立ツ能ハス謹テ上奏以テ罪ヲ俟ツ

  陛下畏クモ誓文ノ意ニ基ツカセラレ

    大詔ヲ下シ在廷ノ臣僚及帝国議会ノ各員ニ告ケ和協ノ道ニ由リ以テ大事ヲ補翼シ有終ノ美ヲ成サンコトヲ望ミ特ニ閣臣ニ命スルニ行政各般ノ整理ヲ以テシ給ヘリ国務大臣モ亦隆渥ノ

  聖旨ヲ奉シ第5期帝国議会ヲ期シ政綱ヲ振厲シ政費ヲ節減シ海軍ヲ釐革センコトヲ誓ヘリ是ニ於テカ挙国ノ民

  陛下カ輿論ヲ嘉納シ給フヲ聴キ額手シテ第5期帝国議会ヲ俟チ来蘇ノ慶アランコトヲ翹望セリ然ルニ閣臣ノ経営一時ヲ弥縫スルニ止マリ政綱未タ振厲セス海軍未タ釐革セス惟僅ニ費途ヲ節シ吏員ヲ沙汰シ以テ大事ヲ模稜スルニ過キス特ニ外政ニ至テハ偸安姑息唯外人ノ歓心ヲ失ハンコトヲ是レ畏レ内外親疎軽重ノ弁別ヲ顚倒スルニ至ル是レ等カ偏ヘニ

  聖旨ニ背戻センコトヲ恐レ戦競自ラ安スル能ハサル所以ナリ等区々ノ微衷

    恭ク

    大詔ニ遵ヒ努メテ経綸ヲ画シ至誠以テ

  天意ニ奉答セント欲スト雖モ閣臣常ニ和協ノ道ニ背キ等ヲシテ大政翼賛ノ重責ヲ全フスル能ハサラシム此ヲ以テ等閣臣ニ信ヲ置ク能ハサルナリ今ニシテ之ヲ匡正セスンハ等窃ニ恐ル憲政内ニ紊乱シ国威外ニ失墜センコトヲ是レ等カ黙セント欲シテ黙スル能ハス敢テ赤心ヲ披瀝シ

  闕下ニ陳奏スル所以ナリ仰キ願クハ

  陛下天地覆載ノ恩ヲ敷キ日月ノ照鑿ヲ垂レ玉ハンコトヲ衆議院議長楠木正隆誠惶誠恐謹ミ

    奏ス

 

当該上奏の文書は,1894年6月1日に楠木議長が参内して土方久元宮内大臣経由で奉呈されました(第6回帝国議会衆議院議事速記録第15378頁)。

しかして同じ1894年6月1日,在朝鮮国日本公使館書記生である鄭永邦(明の遺臣・鄭成功の子孫とされます。長崎通事出身)は駐劄朝鮮総理交渉通商事宜の袁世凱を訪ねて会談し,情報を収集,それを承けて日本公使館の杉村(ふかし)一等書記官(大鳥圭介公使が休暇中のため代理公使)は「全州 fell into hands of rebels yesterday. 袁世凱 said Corean Government asked Chinese reinforcement. See 機密第六十三号信 dated 五月廿二日.」という電報を同日発し,当該電報(電受第168号)は翌2日に東京の外務省に到達しました(大谷4345頁,41頁)。なお,当該電報において言及されている杉村一等書記官の同年5月22日付け(同月28日外務省接受)の機密第63号信(「全羅忠清両道ノ民乱ニ付鄙見上申ノ件」)には,「(さて)支那兵カ万一入韓(公然通知ノ手続ヲ践ミ)スルニ至ラバ朝鮮将来ノ形勢ニ向テ或ハ変化ヲ来スモ難計(はかりがたき)ニ付我ニ於テモ差当リ我官民保護ノ為メ又日清両国ノ権衡ヲ保ツカ為メ民乱鎮定清兵引揚迄公使館護衛ノ名義ニ依リ旧約ニ照シ出兵可相成(あひなるべき)ヤ又ハ清兵入韓候トモ我政府ハ別ニ派兵ノ御沙汰ニ及ハレサルヤ右ハ大早計ニ似タリト雖モ(かね)テ御詮議相成候様致度候」とあったところです(日本外交文書)。ここでの「公使館護衛ノ名義ニ依リ旧約ニ照シ出兵」の「旧約」については,1882年8月30日に調印された我が国と朝鮮国との間の済物浦条約の第5条1項に「日本公使館置兵員若干備警事」とありました。また,「公然通知ノ手続」としては,1885年4月18日に伊藤博文と李鴻章とが取りまとめた日清間の天津条約に「将来朝鮮国若シ変乱重大ノ事件アリテ日中両国或ハ1国兵ヲ派スルヲ要スルトキハ応ニ先ツ互ニ行文知照スヘシ其事定マルニ及テハ仍即チ撤回シ再タヒ留防セス」とありました。

 陸奥宗光の『蹇蹇録』には1894年6月2日の我が国政府の動きについて次のようにあります。

  

  〔前略〕6月()1日()〔5月31日〕に至り衆議院は内閣の行為を非難するの上奏案を議決するに至りたれば〔6月1日に議長により上奏〕政府は止むを得ず最後の手段を執り議会解散の詔勅を発せられむことを奏請するの場合に至り翌2日内閣総理大臣の官邸に於て内閣会議を開くことなりたるに(たま)(たま)杉村より電信ありて朝鮮政府は援兵を清国に乞ひしことを報じ来れり是れ実に容易ならざる事件にして若し之を黙視するときは既に偏頗なる日清両国の朝鮮に於ける権力の干繋をして尚ほ一層甚しからしめ我邦は後来朝鮮に対し唯清国の為すが儘に任ずるの外なく日韓条約の精神も為めに或は蹂躙せらるの虞なきに非ざれば余は同日の会議に赴くや開会の初に於て先づ閣僚に示すに杉村の電信を以てし尚ほ余が意見として若し清国にして何等の名義を問はず朝鮮に軍隊を派出するの事実あるときは我国に於ても亦相当の軍隊を同国に派遣し以て不慮の変に備へ日清両国が朝鮮に対する権力の平均を維持せざるべからずと述べたり閣僚皆此議に賛同したるを以て伊藤内閣総理大臣は直に人を派して参謀総長〔有栖川宮〕熾仁親王殿下及参謀本部次長川上〔操六〕陸軍中将の臨席を求め其来会するや(すなは)ち今後朝鮮へ軍隊を派出するの内議を協へ内閣総理大臣は本件及議会解散の閣議を携へ直に参内して式に依り 聖裁を請ひ裁可の上之を執行せり

 

当該閣議において,混成1個旅団の半島派兵が決定され(大谷4546頁,御厨貴『明治国家の完成 18901905』(中央公論新社・2001年)284頁),「距離的な便宜から,広島に師団司令部を置く第五師団の第九旅団(歩兵第十一聯隊と歩兵第二十一聯隊を基幹とする)を抽出して編制」するところまで決まっています(原田敬一「混成第九旅団の日清戦争(1)―新出史料の「従軍日誌」に基づいて―」佛教大学歴史学部論集創刊号(2011年3月)20頁)。

同日,参内の楠木衆議院議長に対して土方宮内大臣から前日の「衆議院ノ上奏ハ御採用ニ相成ラス」との口達があり,更に衆議院は大日本帝国憲法7条により解散せしめられました(第6回帝国議会衆議院議事速記録第16428頁)。貴族院は,停会です(大日本帝国憲法44条2項)。

「条約励行論から間髪をおかず日清戦争へ。この時点で日清戦争が起きたということは,ナショナリスティックな国民の感情のはけ口をつくったという点で,少なくとも日本の統治の安定という意味では,まさに「天佑」であったと言わざるをえないだろう。」ということになります(御厨279280頁)。

 半島派兵決定の閣議があった1894年6月2日に大山陸軍大臣,西郷海軍大臣,有栖川宮参謀総長及び中牟田倉之助海軍軍令部長宛てに下された勅語には,派兵目的として「同国〔朝鮮国〕寄留我国民保護」との文字があったそうです(大谷46頁)。


3 大島混成旅団の編成

 1894年6月3日,寺内正毅参謀本部第一局長は「混成1旅団ノ編制表」を有栖川宮参謀総長に提出します(原田21頁)。当該混成旅団たる混成第九旅団の編制は,原田敬一佛教大学教授によれば,歩兵第九旅団に「野戦砲兵第五聯隊の第三大隊本部と第五中隊(〔略〕野砲6門),工兵第五大隊の第一中隊,騎兵第五大隊,第一野戦病院(師団に属すもの),輜重隊半部,兵站監部・司令部1箇」が付加された「合計約8000名」の規模のものとされています(原田22頁)。大谷専修大学教授によれば「混成旅団は歩兵第九旅団(広島を衛戍地地とする歩兵第十一連隊と二十一連隊が所属)を基幹に,これに騎兵1中隊,砲兵1大隊(山砲),工兵1中隊,輜重兵隊,衛生部,野戦病院および兵站部を加えて編成された」(大谷47頁),「戦時定員で8000名を超える」もの(大谷45頁)ということになります。筆者にとっての最関心事である騎兵部隊について,騎兵第五大隊全部が混成第九旅団に属したのか,それとも同大隊の第一中隊だけだったのか,少々分かりにくい(外山操=森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧第1巻』(芙蓉書房・1993年)171頁においては,騎兵第五大隊第一中隊のみが混成第九旅団に属していたことになっています。)。しかして早くも,参謀総長に編制表が提出されたこの日の「午後9時55分新橋発広島ママ行きの列車には,参謀本部第一局員東条英教少佐〔当時9歳の英機少年の父〕が乗り込み,第五師団司令部に渡す動員計画や戦闘序列などを記した重要書類をしっかりと持っていた。」という運びになります(原田21頁)。ただし,山陽鉄道の「糸崎・広島間開業し,兵庫・広島間の鉄道開業」となったのは同月10日のことなので(岩波年表等),東条少佐が同月3日夜に新橋から乗った列車がそのまま「広島行き」であったということはないでしょう(大谷47頁では,東条少佐の乗った新橋発の列車の行先までは書いてありません。)。

 1894年6月5日,大鳥圭介駐朝鮮国公使は,海軍陸戦隊70名及び巡査21名を伴い巡洋艦八重山に乗り込み朝鮮国の仁川に向かいます(原田21頁)。本野一郎参事官も一緒です(大谷47頁)。陸軍においては,「東条少佐も,この日昼頃ようやく広島に着き,野津道貫第五師団長に大本営命令を直接伝えた。協議の後,午後4時野津師団長は,大島義昌第九旅団長に,充員召集を下令する。」という動きとなりました(原田21頁)。さて,ここに出て来る「大本営」なのですが,参謀本部内に大本営を置くことが決まったのが東条少佐の旅行中の前日4日のことであり(大谷47頁),設置されたのは正に同少佐が広島に到着した6月5日のことでした。同日午後に打合せを行った東条少佐,野津中将等に対して,大本営設置の連絡が既に伝わっていたものかどうか。

 なお,当該大本営は1893年5月19日裁可,同月22日公布の戦時大本営条例(明治23年勅令第52号)に基づくものであって,同条例1条には「天皇ノ大纛下ニ最高ノ統帥部ヲ置キ之ヲ大本営ト称ス」と規定されていました。「大本営ニ在テ帷幄ノ機務ニ参与シ帝国陸海軍ノ大作戦ヲ計画スルハ参謀総長ノ任トス」とされ(同条例2条),当時は参謀総長が海軍の大作戦についても責任者とされていました。1894年「6月5日,愈初の大本営の設置が令せられた。そして時の参謀総長陸軍大将有栖川宮熾仁親王には,大本営幕僚長として輔翼の大任に(あた)らせ給ひ,其の下に於て陸軍高級参謀としては参謀本部次長陸軍中将川上操六,海軍高級参謀としては海軍軍令部長中牟田倉之助の両名が,相並んで総長宮を輔佐し奉つたのである。」ということです(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)269頁)。

DSCF0892

日清戦争開戦時の参謀総長・有栖川宮熾仁親王(東京都港区南麻布有栖川宮記念公園)


 1894年7月1日調べの陸軍現役将校同相当官実役停年名簿によれば,歩兵第九旅団長の大島義昌少将は,山口県士族従四位勲三等,年齢は44年となっていました。

 原田佛教大学教授が「佛教大学歴史学部論集」に連載して紹介する混成第九旅団野戦砲兵第五聯隊第三大隊第五中隊の将校(ただし,氏名不詳)による従軍日誌(原田20頁。以下「砲兵中隊従軍日誌」といいます。)によると,東条少佐広島到着日の翌日である6月6日(晴れ)の夕方には,野戦砲兵第五聯隊第三大隊に動員下令がありました(原田21頁)。騎兵第五大隊第一中隊にも同じ頃動員下令があったかといえば,1895年8月24日付けの同中隊の経歴書(アジア歴史資料センター)によれば,「6月5日動員ノ令下ル」とあります。

 筆者の曽祖父が直属将校として特に名を記している騎兵第五大隊の平城盛次小隊長は,1894年7月1日調べの陸軍現役将校同相当官実役停年名簿によれば,大隊附,長崎県士族正八位,年齢は25年6箇月となっています。筆者の曽祖父からすると,年齢の近い頼れる兄貴のような優秀な騎兵少尉殿であったということでしょう。

 砲兵中隊従軍日誌によれば,6月6日から直ちに「軍医ハ戦役ニ堪ユル者ト堪ヘザルモノヲ区別シ其手続ヲナス」とあります(原田21頁)。「由緒」書きにおける「選抜セラレテ」という力の入った表現に,筆者は曽祖父の誇らしげな自恃を感じたものですが,まずは軍医による「選抜」があった模様です。

 6月7日(晴れ)の砲兵中隊従軍日誌によれば,砲兵は「第一種衣袴(即新絨衣)」の分配を受けています(原田22頁)。

 6月8日(雨)には,「〔前略〕諸隊ハ来ル1011日ノ間ニ宇品港ニ着スル輸送船ニ乗載シ仁川ニ向テ出発セシム可シ/但シ軍艦吉野ヲ以テ護衛セシム」との命令が大本営の「参謀長 有栖川熾仁親王」から到達しています(「砲兵中隊従軍日誌」原田22頁)。砲兵中隊従軍日誌によれば,この日の段階における一般兵士の様子は,「此日下士卒満期々限ヲ延スノ報ニ接シ各兵士ハ始メテ其意ナラザルヲ知リ千差万別ノ評ヲ下スト雖モ未タ其実戦遠ク派遣セラルヽトハ素ヨリ知ル者ナク亦規律厳ニシテ柵ハ空天ニ貫カントスル高柵ノ内ニ別世界ヲ織組シ居ル吾人軍人何ソ之レヲ知ルニ由アラン」というようなものでした(原田22頁)。動員下令はあったものの,いまだに作戦命令は教えられておらず,「千差万別ノ評ヲ下ス」ばかりとの情況です。同日,騎兵第五大隊第一中隊の動員は完成しています(同中隊経歴書)。

 6月9日(晴れ)には,野戦砲兵第五聯隊第三大隊(第六中隊を除く。)は「明日出発」である旨の命令を受けています(「砲兵中隊従軍日誌」原田22頁)。騎兵第五大隊第一中隊等他の部隊も同様出発に関する命令を受けたことでしょう。ただし,一足先に朝鮮国に向かわせられた部隊もあり,「歩兵1大隊(第十一連隊第一大隊,大隊長一戸兵衛少佐)が先発隊として,6月9日に宇品を出航,12日仁川に到着した」ところです(大谷4748頁)。

 

4 大島混成旅団第1次輸送隊の出航

 筆者の曽祖父の記述によれば,曽祖父は山城丸に乗船して6月11日に宇品港を出たようであり,しかしあるいは山陽鉄道の糸崎・広島間の開業日であった6月10日に出港したようにも読み得ます。これについては,騎兵第五大隊第一中隊経歴書によれば「6月11日衛戍地広島出発同日宇品ニ於テ乗舩出発(2ヶ小隊ヲ中隊長自ラ引率)」ということでした。6月11日は,大島旅団長が宇品港を出た日でもあります。

砲兵中隊従軍日誌の6月11日(午前曇り,午後晴れ)の項に「午前5時呉港ヲ抜錨シテ宇品港ニ至リ其間約1時間我旅団長及随行ノ者3名海軍将校2名及信号手3名乗セ(どう)6時10分宇品ヲ発シテ仝6時40分宮島ノ沖ヲ通過ス」とあります(原田23頁)。更に同項には,同日午後「5時25分安岡〔現在は下関市〕ニ着ス,時ニ第1次輸送船中幾分ハ此処ニ集合セリ,之(ママ)昨夜我船ノ呉港ニ至リシ内ニ其レ々当地ヲ指シテ集マリシモノ。/時ニ軍艦吉野ハ既ニ茲ニアリテ信号ニ曰ク(どう)行ス可キ兵庫丸未タ着セザルモ今ヨリ行進ヲ起シ我ニ随行ス可シト,依テ5時40分抜錨。/午後6時10分 連島〔六連島〕ノ北方ヲ進ム,我先登ハ吉野艦ニシテ輸送船中我近江丸ハ先登ニ至リ之レニ次クハ山城酒田遠江越後熊本千代(ママ)住ノ江和可ノ浦等ニシテ縦隊トナリテ進ムとあります(原田23頁)。(なお,アジア歴史資料センターのウェブ・サイトにある大島義昌旅団長作成名義の1894年6月17日付け「広島出発ヨリ仁川到着迠ノ景況報告」によると,宇品抜錨は6月11日「午前5時半」,門司到着は「午后4時」,同日「午後4時過キ六連島附近ニ集マルモノ近江越後酒田熊本遠江ノ5艘ナリ他ノ兵庫仙台住ノ江山城ノ4艘ハ未タ六連島ニ来ラス午后5時30分吉野艦ト共ニ先ツ集合セル5艘ヲ以テ抜錨ス」ということで砲兵中隊従軍日誌の記述と時刻及び同日の輸送船団構成の輸送船名について若干の異同があり,同月「13日午前6時20分兵庫仙台住ノ江山城ノ4艘追尾シ来リ運送船ノ全数始テ集マル」ということとなっていました。)

砲兵中隊従軍日誌の記者の部隊は6月10日(雨)の午前4時30分に広島の屯営を発し,「既ニ大手町一丁目ニ至ルヤ市民起床シ決然トシテ余輩ノ出師ヲ望見ス」との広島市民の見送りを得て午前6時宇品港着,午前10時近江丸に乗船ということになったのですが,「馬ハ常ノ乗船演習ニ熟練シ居ラザルヲ以テ乗船殆ント困難ス」ということで時間がかかり,宇品抜錨は午後6時30分になってしまっていました(「砲兵中隊従軍日誌」原田23頁。それから近江丸は水の積込みのために呉港に寄港しています。)。

広島からの出発に際しての大島義昌旅団長の訓示は次のとおりでした(アジア歴史資料センターのウェブ・サイトにあります。)。

 

 斯ノ名誉ナル出師ニ際シ混成旅団ノ将校以下諸員ニ告ク

 今ヤ朝鮮国ノ匪徒其勢日ニ猖獗ニシテ而シテ朝鮮政府ノ力善ク之ヲ鎮圧スル(こと)能ハス匪徒将ニ京城ニ迫ラントスルノ勢アリ

 陛下至仁在同国帝国公使館及在留帝国人民保護之大御心ヲ以テ我旅団ヲ同国ニ派遣シ玉フ我旅団業已ニ此ノ大任ニ膺ル宜ク忠勇尽職上下一致以テ其奏効ヲ期セサル可カラス

 我旅団素ヨリ朝鮮ノ内治ニ干渉シテ其匪徒ヲ鎮定スルノ当務ヲ有セス即チ当団ノ動作全ク平時姿勢ニ在リ然而事体総テ外国ニ関係ス乃チ一卒ノ動作モ亦大ニ帝国軍隊ノ声誉ニ関スルヲ以テ各幹部宜ク其部下ヲ戒飾シ仮初ニモ粗暴ノ振舞ヲ為スヿナク又朝鮮国官民並ニ同国在留ノ外国人ニ対シテハ侮ラス又懼レス一層ノ穏和ヲ旨トシ以テ帝国軍隊ノ名誉ヲ発揚スルニ勉ム可シ

 支那国モ亦軍隊ヲ朝鮮国ニ発遣セリトノ説アリ果シテ信ナラン乎若シ或ハ相会スルノ時アランカ

 陛下修好善鄰ノ大御心ヲ奉体シ軍隊ノ礼儀ヲ重ンシ其武官ニ対シテハ官等相当ノ敬意ヲ表シ親密ヲ主トシ苟モ喧噪等ノ事アルヘカラス

 飲食ヲ莭シ摂生ヲ守ルハ軍人ノ貴重スヘキ事タリ夫レ祗役中疾病ノ害毒ヲ流スヿ硝烟弾雨ヨリモ尚且ツ甚シキモノアリ前年台湾ノ役ニ徴シテ知ル可キナリ今ヤ我旅団ハ炎暑ノ気候ニ向ヒ水土ニ慣レサルノ地ニ臨マントス各幹部及衛生諸官ハ厚ク注意ヲ加ヘ部下ヲ訓戒シ一人ノ不注意ハ啻ニ自己ノ生命ヲ危フスルノミナラス延イテ全団ノ利害ニ関スル所以ノモノヲ了觧シ自愛摂養セシメ一人ト雖𪜈(とも)疾病ノ為メニ不帰ノ鬼ト為サシムヘカラス

 航海中軍紀風紀ヲ恪守スルハ勿論艦舩事務員ノ通報ハ之ヲ遵行シ仮令異変ノ時ト雖𪜈将校ノ命令アル時ニアラサレハ自席ヲ離レ若クハ騒擾スルヿアルヘカラス

 困苦欠乏ニ耐フルハ軍人ノ本色ナリ朝鮮ノ地供給力ニ乏シ想フニ意外ノ困苦ニ遭遇スルノ時機多カラン我旅団ハ帝国軍人ノ堪忍力ヲ試験スルノ好運ニ際会セリ勉メスンハアルヘカラス

 我旅団出師ノ事皆将来帝国陸軍進歩ノ好材料ナラサルハナシ各官此意ヲ以テ典則其他百般ノ業務ニ就キ彼是参照潜心其利弊ヲ研究シ毎週報告ヲ懈ル勿ランヿヲ


 なお,「第1次輸送船」があれば「第2次輸送隊」があるのですが,筆者の曽祖父の属した「第1次輸送隊(大島旅団長の率いる部隊,混成旅団の約半分)が16日に仁川に到着して上陸を開始した」一方(大谷48頁。なお,到着自体は後に見るように15日からです。),混成第九旅団の残部である「第2次輸送部隊は〔1894年〕6月24日に宇品を出帆し,27日に仁川に着き,29日に漢城郊外の龍山に到着」しています(大谷5152頁)。

 

5 玄海灘を越え仁川港へ

 砲兵中隊従軍日誌によれば,6月11日夜の玄界灘の様子は,「当時音モ名高キ玄海ニシテ鳥モ通ハズ(ひた)スラ大浪ノ織ルカ如キノミ」というものでした(原田23頁)。詩的表現です。

 6月12日(晴れ)には「午前4時左方ニ壱岐ヲ見ル,仝7時対馬ヲ右ニ見ル」ということでしたが,「本日ヨリ船酔ヲ催フスルモノ多」しという状態となりました(「砲兵中隊従軍日誌」原田24頁)。中国山地の盆地出身であった筆者の曽祖父も,山城丸船内で船酔いを催したものか。

 6月13日(晴れ)には遅れていた兵庫丸が第1輸送隊に加わります(「砲兵中隊従軍日誌」原田24頁)。その後「夕食ノ頃海上一面ニ大霧起リ為メニ咫尺弁セズ,各船其序列ヲ失ス」ということになりました(「砲兵中隊従軍日誌」原田24頁)。船酔いに加えて大霧と,海はこわい。

 6月14日(雨)には霧なお濃く,「序列ヲ失」したままの各船は,島嶼及び岩礁の多い半島西側の海を進むのに難渋します。近江丸について見れば,「午前11時頃突然行進ヲ留ム,驚キ右ヲ見レハ島嶼或ハ岩礁嶬峨トシテ並立セリ,其時漸ク霧少シ晴ルヲ以テ之レヲ知ルヲ得タリ,今一歩ヲ進メハ余等将来成ス有ルノ大業ヲ負担セシ身ヲ空シク魚(ママ)ニ葬ルノ惨界危難ニ陥ル可キ,幸ニシテ虎口ヲ逃レ九死ニ一生ヲ得タルモ長大息各兵士顔色生草タリというようなこともありました(「砲兵中隊従軍日誌」原田24頁)。「午後8時〔吉野は〕信号シテ曰ク仁川ニ向ケ各船行進ヲ起シ安全ナル処ニ於テ碇泊ヲナセ,蓋シ前夜来風雨甚シク到底現在ノ位置ニ有ルコト能ザルヲ以テナリ/時ニ山城丸モ亦来リ会セシガ覆盆傾ノ大雨来リ,波浪甚シク烈風ノ為メニ見ル内ニ錨1箇ヲ切断セラレタリ〔後略〕」ということで(「砲兵中隊従軍日誌」原田24頁),仁川への航海は,決して安全・安心かつ快適なものではありませんでした。

 6月15日(霧かつ雨)には,ようやく仁川港到着です(「砲兵中隊従軍日誌」原田25頁)。「大霧のため船団の進行は別れ別れになり,吉野,近江丸,住ノ江丸だけがまず到着し,次いで他の輸送船も着き始めた。15日に巡洋艦吉野に守られて仁川に入港したのは,近江丸,兵庫丸,仙台丸,住ノ江丸,山城丸,酒田丸の6隻。翌16日巡洋艦千代田に護衛されて熊本丸,越後丸,遠江丸の3隻が入港した(『日清戦史』第1巻123頁)。」(原田25頁),ということです。山城丸乗船の筆者の曽祖父も15日に仁川港に着いたわけですが,直ちに上陸することはできませんでした。「混成第九旅団には,仁川港に到着はしたが,上陸はさし止める,という八重山艦経由の大本営命令が伝えられた。これは,混成旅団8000名の派兵というのが「居留民保護」という名目からは多すぎ,欧米公使館の疑惑を招く,という大鳥圭介公使の判断により指示となったもの」だそうです(原田25頁)。しかしながら,結局,「15日に仁川港に到着した第1次輸送隊は,「輜重及荷物ヲ除クノ外16日中ニ悉ク」(〔『日清戦史』第1巻〕111頁)仁川港に上陸し,仁川の日本居留地付近に宿営した(同)。上陸したのは人員2673名と馬匹186頭だった(同)。」ということになりました(原田25頁)。

 

6 仁川上陸

 6月16日(曇り,午後晴れ)の砲兵中隊従軍日誌によれば,「午前7時50分吉野信号シテ曰ク陸兵上陸ヲ始ム可シ」とのことで,「午前8時ヨリ人馬及ヒ材料ノ上陸ニ着手シ(どう)港海岸ニ砲廠ヲ作リ哨兵ヲシテ之レヲ守ラシム」云々ということになりました(原田27頁)。
 
アジア歴史資料センターのウェブ・サイトにある混成第九旅団の「第6月16日仁川港居留地舎営割」を見ると,騎兵の人員は110人で,一人当たり1畳が割り当てられています。他に歩兵2072人,砲兵271人,工兵252人,輜重兵84人,野戦病院人員169人及び兵站部人員54人(合計すると3012人となってしまって,2673という数字と整合しないのが悩ましいところです。)。地図を見ると,騎兵の宿営した場所の南には工兵がいて更にその先は海,騎兵の西隣は兵站部,北には歩兵で更にその先が日本領事館,東も歩兵の大軍です。日本領事館の西に砲兵が陣取り,その西隣には清国租界があり,更にその先の岬には英国領事館がありました。テント生活(幕営)ではなく,まずは「狭縮」ながらも家屋に宿営です。その理由は,1894年6月17日作成の大島旅団長から有栖川宮熾仁参謀総長宛て混成旅団報告第4号(アジア歴史資料センターのウェブ・サイトにあります。)によれば,「目下旅団カ幕営ノ用意アルニ拘ラス幕営ニ決セサルモノハ旅団ハ今日ニモ明日ニモ前進シテ京城ニ侵入スルノ勢ヲ示サンカ為メナリ是レ示威ヲ以テ清兵ノ決心ヲ促サンカ為メナリ」ということでした。しかしながら,「仁川滞在数日ニ渉ルトキハ徒ラニ居留民ノ迷惑ヲ(商売上)起サシムルヲ以テ止ムヲ得ス幕営スルニ至ルヘシ」と予定はされていたところです。

 仁川は「新開地ナルモ日本人最モ多ク,支那人之レニ次キ,米仏英人アリ」という町でした(「砲兵中隊従軍日誌」原田27頁)。前日の第一印象では,近江丸の「甲板上ヨリ仁川港市街ヲ望メハ一面盛ンナル市街ト察セラル,黒灯ハ戸々ニ起リ(ママ)瓦作リノ家ニ至モ亦少カラズシテ其望見最モ佳ナリシ」(「砲兵中隊従軍日誌」原田25頁)との悪くはないものではあったのですが,実際の仁川はどうであるかといえば,これは我が軍兵士らにとってなかなか快適ではなかったようです。砲兵中隊従軍日誌の6月16日の項に更にいわく(原田27頁)。

 

  韓人ハ一斑不潔ニシテ一種ノ臭気アリ,我砲廠ニ接シ亦ハ其間ヲ遮ラントスルヲ禁止スルニ皆畏懼シテ走リ,為メニ相衝突スルヲ見ル,亦其小胆ナル一斑ヲ伺フニ足ル

 

  平時ニ於テモ飲用水乏シク水ヲ売ルモノアリト,特ニ日本ノ大群上陸飲用水ノ欠乏ニ困却ス

 

飲む水が足らぬとても,出る物はまた出る。「ついで屎尿の処理が問題となった。内地の駐屯の場合,農家の肥料として処理していたが,それができず困ったことになった。」と原田佛教大学教授はあっさり記しておられますが(原田27頁),ワンダーフォーゲル用語でいうところのキジ花が宿営地周辺に咲き乱れ,独特の香気芬々ということになってしまっていた,という表象は,余りさわやかではありません。1894年6月21日の大島旅団長の有栖川宮熾仁参謀総長宛て混成旅団報告第5号(アジア歴史資料センターのウェブ・サイトにあります。)には「又下肥排棄ノ為メニモ数多ノ人夫ヲ要スル等予想外ノ出来事多シ」とありますから,一応宿営場所の汲取便所に溜めてはいたものでしょう。)

半島の魚も日本の青年たちに友好的ではありませんでした。砲兵中隊従軍日誌6月17日(雨)の項には,次のように記されています(原田27頁)。

 

 (どう)港ニ滞在

 本夜(ママ)食物ハ「メタ」ト称スル海魚ナリシガ元来本品ハ一夜間水中シテ後之レヲ煮ル可キ者ナルニ之レヲ塩煮セシ故カ忽チニシテ吐瀉シ(ママ)痛甚シク或ハ下痢等ニテ突然患者甚シ。

 

 宿営所には苦痛の声が満ち,便所の奈落に積もるキジ花のお花畑には更に肥やしが加えられたようです。

                                   (つづく)

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

  

 先般筆者の母方の祖父の十七回忌法要があり,親戚が集まったところで当該故人及びその父(すなわち筆者の母方の曽祖父)の残した書き物が印刷物とされて一同に配付されました。これがなかなか興味深い。

 曽祖父の「由緒」書きにおけるその兵役に関する記録中最初の部分は次のとおり。中国地方の山中から広島の第五師団に騎兵として入営して約半年で直ちに半島に出動,日清戦争前夜からその終結まで,我が大日本帝国陸軍の主要な軍事行動の現場にあってその当事者であり続けたのでした。

 曽祖父・祖父の記録癖に付加せらるるところの筆者の悪癖は考証癖でありますが,いささか註釈を施してみる次第です。今回は,最初の1行の部分です。

 

明治26年〔1893年〕11月1日徴兵ニ合格シテ騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ〔今回はここまで〕

明治27年〔1894年〕6月朝鮮国ニ東学党蜂起シ韓国居留民保護ノ目的ヲ以ツテ(どう)年6月11日混成旅団ヲ編成セラ(ママ)大島義昌少将ヲ旅団長トシ平城盛次少尉ヲ小隊長トシ選抜セラレテ山城丸ニ乗舶シ宇品港出帆玄海灘ヲ経テ仁川ニ向フ此ノ日山陽鉄道広島駅()()開通ノ日ナリ

明治27年8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル

仝7月23日京城ノ変ニ出張爾来成歓ニ牙山ニ平壌義洲鴨緑江鳳凰城塞馬集崔家房礬家台竜頭塞興隆勾瀇嶺海城牛荘田庄台ト転戦ス

明治27年9月15日大本営ヲ広島旧城エ進メ給ヘリ

明治28年〔1895年〕6月5日講和トナリ凱旋

仝年1112日日清戦役ノ功ニ依リ瑞宝章勲八等及び金50円幷ニ従軍徽章下賜セラル

明治29年〔1896年〕1130日善行証書ヲ授与セラレ満期除隊トナル

 

1 1893年の徴兵に関する状況

 

(1)明治22年徴兵令

1893年当時施行されていた兵役法令は,明治22年法律第1号(1889121日裁可,同月22日官報で公布)の「徴兵令」を頂点とするものでした。ところで,同令の下で「徴兵ニ合格」するとはどういうことかといえば,そもそも「日本帝国臣民ニシテ満17歳ヨリ満40歳迄ノ男子ハ総テ兵役ニ服スルノ義務アルモノトス」ることが原則とされていたところ(同令1条),「陸軍現役兵ハ毎年所要ノ人員ニ応シ壮丁ノ身材芸能職業ニ従ヒ歩兵騎兵砲兵工兵輜重兵職工及雑卒ニ区別シ抽籤ノ法ニ依リ当籤ノ者ヲ以テ之ニ充ツ」ということでしたから(同令8条1項),通常は,むしろ「合格」というよりは「当籤」といったほうが法令用語としては正しかったように思われます。

「合格」又は「不合格」の概念は,徴兵検査規則(明治25年陸軍省令第3号)に出てきます。同規則1条は「徴兵検査ハ徴兵令ニ拠リ兵役ニ服スヘキモノ体格ヲ検査シ其適否ヲ定ムルモノトス/此検査ハ学術上諸種ノ方法ヲ施スコトヲ得」と規定し,第2条1項に「不合格」となるべき「疾病畸形」を23号にわたって掲げ(ただし,同条2項は「前項ノ疾病畸形中軽症ニシテ服役シ得ヘキモノハ合格トシ爾余ノ疾病畸形ト雖モ服役シ得ヘカラサルモノハ不合格トス」と規定),第3条において甲種(身長5尺以上にして身体強健なるもの),乙種(身長5尺以上にして身体甲種に()ぐもの),丙種(身長5尺以上にして身体乙種に亜ぐもの及び身長5尺未満4尺8寸以上にして丁種戊種に当らざるもの),丁種(第2条に当るもの及び身長4尺8寸に満たざるもの)及び戊種明治22年徴兵令第18条第1項(体格完全且強壮なるも身幹未だ定尺に満たざる者)第2項(疾病中又は病後にして労役に堪へざる者)に当るもの)を定義した上で,第4条において「第3条ノ甲種乙種丙種ヲ合格トシ其甲種乙種ハ現役ニ徴スヘキモノ丙種ハ国民兵役ニ置クモノトシ丁種ヲ不合格戊種ヲ徴集延期トス」と規定していました。

丙種合格者が置かれる国民兵役とは「国民兵役ハ満17歳ヨリ満40歳迄ノ者ニシテ常備兵役及後備兵役ニ在ラサル者之ニ服ス」ものと規定されており(明治22年徴兵令5条),具体的には「国民兵ハ戦時若クハ事変ニ際シ後備兵ヲ召集シ仍ホ兵員ヲ要スルトキニ限リ之ヲ召集ス」るものにすぎませんでした(同令16条)。これでも徴兵検査に「合格」というのはややおこがましい。

現役は「満20歳ニ至リタル者之ニ服」するものでした(明治22年徴兵令3条2項)。徴兵検査との関係での「満20歳」の意味は,「毎年1月ヨリ12月迄ニ満20歳ト為ル者ハ其年ノ1月1日ヨリ同月31日迄ニ書面ヲ以テ戸主ニ非サル者ハ其戸主ヨリ本籍ノ市町村長ニ届出可シ」とあって(同令25条本文),それを承けて「町村長ハ毎年徴兵令第25条ノ届書ヲ戸籍簿ニ照較シ壮丁名簿ヲ作リ2月15日迄ニ島司又ハ郡長ニ差出シ島司郡長ハ点検ノ後之ヲ1徴募区ニ取纏メ前年仮決ノ諸名簿ト共ニ大隊区徴兵署又ハ警備隊区徴兵署ニ提出ス可シ/市長ハ前項ノ例ニ依リ壮丁名簿ヲ作リ前年仮決ノ諸名簿ト共ニ大隊区徴兵署ニ提出ス可シ」(徴兵事務条例(明治22年勅令第13号。明治25年勅令第33号で一部改正)23条)ということになって,その年(満20歳になる年)の徴兵検査及び抽籤を受けることとなるというものでした。

 明治22年徴兵事務条例26条1項は,徴兵検査について,「兵役ノ適否ヲ定ムル為メ大隊区徴兵署又ハ警備隊区徴兵署及検査所ニ於テ壮丁ノ身体検査ヲ行フ其検査ハ徴兵官及徴兵参事員ノ面前ニ於テスルモノトス」と規定していました。「大隊区徴兵署警備隊区徴兵署及徴兵検査所ハ島司郡市長ニ於テ適当ノ家屋ヲ選定シ大隊区司令官又ハ警備隊司令官到著ノ上之ヲ開設ス可シ」とされていました(徴兵事務条例施行細則(明治22年陸軍省令第1号)4条1項)。

 明治22年徴兵令8条の「抽籤ノ法」については,明治22年徴兵事務条例34条1項及び2項に「身体検査ニ合格シ現役ニ徴スヘキ壮丁ハ徴集順序ヲ定ムル為メ徴募区毎ニ体格ノ等位及兵種ヲ分チ旅管徴兵署ニ於テ抽籤ヲ行フ」及び「抽籤ハ旅管徴兵官旅管徴兵参事員及大隊区徴兵官又ハ警備隊区徴兵官ノ面前ニ於テ抽籤総代人之ヲ為スモノトス」と規定されていました。徴募区については,「徴募区ハ1郡又ハ1市ヲ以テ1区ト為ス」のが原則でした(同条例3条1項)。旅管徴兵署とはどこかといえば,「毎年徴募事務執行ノトキハ旅管内府県毎ニ旅管徴兵署ヲ設ク」るものとされていました(同条例32条)。抽籤総代人については「身体検査終ルノ後大隊区徴兵官又ハ警備隊区徴兵官ハ合格者ヲシテ抽籤総代人ヲ選ハシメ其人名ヲ旅管徴兵官ニ報告スヘシ」とされていました(明治22年徴兵事務条例施行細則9条。明治22年徴兵事務条例34条3項は「抽籤総代人ハ籤丁ノ選ヲ以テ徴募区毎ニ2名若クハ3名ヲ出スモノトス」と規定していました。)。

 

(2)1893年の徴兵状況

 ここで,1893年に行われた徴兵の状況を計数的に見てみようとすると,陸軍省大臣官房副官部編纂の『陸軍省第7回統計年報』(189411月)という便利なものがあります。

 1893年の我が国における20歳の壮丁の総員は384536人であったところ,①現役として当籤した者は1万9040人で,その4.95パーセントということになりました95頁)。その外に②志願者が769(この「志願者」は,明治22年徴兵事務条例施行細則8条に「身体検査ノ際現役ニ服センコトヲ志願スル者アルトキハ大隊区徴兵官ハ本人ノ身元ヲ調査シ其景況書ヲ添ヘ旅管徴兵官ニ具申ス可シ/其志願者ハ体格甲種ニシテ身元確実ト認ムル者ハ旅管徴兵官ニ於テ之ヲ許可スルコトヲ得」と規定されていたもので,「甲種合格者ニシテ抽籤ノ者」より先に現役兵に編入されました(同細則23条)。これらの者にとっては,現役兵編入は「当籤」ではなく「合格」ということになります。他方,同年報100102頁の「現役兵志願者人員」の表の「現役兵志願者」は,明治22年徴兵令10条(満17歳以上20歳未満の現役兵志願者)及び11条(一年志願兵志願者)に係る現役の志願者であって,また別のカテゴリーでした。)及び③明治22年徴兵令28条によって徴集された者が11人ありましたから,20歳の壮丁中現役として徴集された者は①から③までの合計1万9820人で,全体の5.15パーセントということになります95頁)。3年の現役に服することがなければ予備役に服することはなく(明治22年徴兵令3条2項参照),更に後備兵役にも服することはなくなりますから(同令4条参照),結局日本男児20人中約19人はせいぜい国民兵役に服するのみで(同令5条),兵士となることは実質的にはなかったということになります(同令16条)。

 なお,上記明治22年徴兵令28条は「兵役ヲ免レンカ為メ身体ヲ毀傷シ疾病ヲ作為シ其他詐偽ノ所為ヲ用ヒ又ハ逃亡若クハ潜匿シタル者又ハ正当ノ事故ナク身体ノ検査ヲ受ケサル者ハ抽籤ノ法ニ依ラスシテ之ヲ徴集ス」ると規定していましたので(甲種合格者及び乙種合格者のそれぞれにつき最優先で現役兵に編入(明治22年徴兵事務条例施行細則23条)),同条に基づき徴集された兵士らは,いじめられるしか外にすることはなさそうです。ちなみに,1893年中の陸軍内での自殺者数は35人で,兵員千人につき0.64人ということになっていました182頁)。また,同年中に神経系病を発した者は826164頁),陸軍刑法の逃亡罪による行刑者数は555人でした198頁)

 1893年の徴兵検査の前の段階において,同年の20歳の壮丁中6101人は,「逃亡失踪」しています96頁)。全体の1.59パーセント。

 逃亡失踪するようなあからさまな非国民でなくとも,我が日本男児は,実は相当非軍国的なのです。1893年の徴兵手続において,20歳の壮丁中,身長が5尺に足らず徴集延期となった者(明治22年徴兵令18条第1)が153人,疾病で徴集延期となった者(同条第2)が1557人(この両者は徴兵検査では戊種ということになります。),身長4尺8寸未満又は癈疾不具ということで兵役が免ぜられた者(同令17条)が2万9352人(徴兵検査不合格の丁種),「身体検査上徴集ニ適セサル者」が101110人(徴兵検査での丙種でしょう。)であって,その合計132171人は20歳の壮丁全体の34.37パーセントに達します96頁)。分母から逃亡失踪者等を除けばその比率はもう少し高いはずです。みやびやかなる我が大和民族は,少なくとも20歳の男性の3分の1は身体的に兵士たり得ぬ民族なのですな。これに加えるに,『陸軍省第7回統計年報』を見ると,「身体検査上徴集ニ適セサル者」の外に「選兵上徴集ニ適セサル者」とのカテゴリーが徴集を免ぜられる者の諸カテゴリー中に更にあって,これは同年報の対象である1893年には,20歳の壮丁について122050人に上っていました96頁)

 中国四国地方を管轄する第五師管から1893年に騎兵現役兵に徴集された20歳の壮丁は101人(うち12人は近衛師団へ),その外21歳以上の壮丁からは8人(うち3人は近衛師団へ)が徴集されています9899頁)。騎兵は,「成ル可ク馬匹ノ使用ニ慣レ体格ハ軽捷ニシテ筋肉肥満ニ過キサル者」が選ばれています(明治22年徴兵事務条例施行細則11条1項2号)。

 

(3)入営期日

 「現役年期ノ計算ハ総テ其入営スル年ノ12月1日ヨリ起算」するものとされていたところ(明治22年徴兵令29条),明治22年徴兵事務条例47条1項は「新兵入営期日ハ毎年12月1日トス但疾病犯罪其他ノ事故ニ由リ12月1日ニ入営シ難キ者ハ同月31日迄ニ入営セシム」と規定していましたから,筆者の曽祖父による「明治2611月1日・・・騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ」との記載は,本来「明治2612月1日・・・騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ」とあるべきものの誤記でしょう。

 

2 騎兵第五大隊の幹部

 

(1)野津師団長,木村大隊長及び豊辺・吉良両中隊長

 189312月1日現在の騎兵第五大隊関係の幹部人事はいかんというに,1893年7月1日調べ及び1894年7月1日調べの陸軍現役将校同相当官実役定年名簿を併せ見て検討するに,所属の第五師団(広島)の師団長閣下は子爵野津道貫中将(1894年7月1日で年齢52年9箇月),大隊長は兵庫県士族従六位勲六等の木村重騎兵少佐(1894年7月1日で年齢41年5箇月),大隊の二つの中隊のうち,一方の中隊長は奈良県平民正七位の吉良秀識騎兵大尉(1894年7月1日で年齢37年1箇月。189211月1日任官)であったことは,その間に異動がなく,はっきりしています。これに対して,もう一方の中隊長は,佐賀県士族従六位勲五等の梅崎信量騎兵大尉が留任していたのか,新潟県士族正七位豊辺新作騎兵大尉(1894年7月1日で年齢32年3箇月。18901110日任官)に既に交代していたのかが若干問題となります。しかしながら,梅崎大尉は1893年7月19日に騎兵少佐に任官していますから昇進後も中隊長を続けられるものではなく,これは豊辺大尉です。1894年1月1日調査の印刷局の職員録を見ると,豊辺大尉が騎兵第五大隊の中隊長として,吉良大尉の上席となる右側に記載されています。

 

(2)第一中隊長豊辺新作大尉

 1894年6月に半島に出動した筆者の曽祖父が所属した騎兵第五大隊第一中隊の中隊長は豊辺大尉及び吉良大尉のうちいずれかといえば,豊辺大尉であったということになります(外山操=森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧第1巻』(芙蓉書房・1993年)171頁参照)。豊辺大尉は同年7月2617時に漢城の南方にある素沙場において騎兵中隊の戦闘詳報を作成しており当時既に半島に出動していたことは明らかですが(当該戦闘詳報はアジア歴史資料センターのウェブ・ページにあります。),吉良大尉は同年9月10日においてまだ広島にいたところです。すなわち,アジア歴史資料センターのウェブ・ページにある両大尉の「結婚願之件」書類(陸軍省受領番号は豊辺大尉につき肆第902号,吉良大尉につき肆第1061号)を見てみると,豊辺大尉の結婚願は同年7月18日に作成され野津第五師団長を経て大山巌陸軍大臣に提出されていますが,同年9月10日に作成された吉良大尉の結婚願は山沢静吾留守第五師団長事務取扱を通じて陸軍大臣に提出されています。「留守第五師団」であって,「第五師団」ではありません。

 豊辺新作の人物については,自ら書いた『万朝報』の連載月旦記事をまとめた燧洋高橋鉄太郎の『当面の人物フースヒー』(フースヒー社・1913年)に次のようにあります。表題は,「第二の乃木将軍豊辺新作」。

 

   帝国陸軍に於て騎兵科の模範戦将と唄はれて()る騎兵四旅団長豊辺新作を評論する,彼は一見婦人の如き柔和温厚の極て(やさし)い将軍で,(おほき)い声で物もいはねば,虫も殺さぬ様な風だが,一度戦場に臨むと勇猛豪胆,鬼神の如き勢で奮戦する勇将で,乃木将軍を猶少しく地味にした様な(いは)沈勇の人だ

   彼の沈勇気胆が陸軍部内に認識されて騎兵科中の模範将軍と唄はる様になつたのは日清戦争以来のことで,(その)以前は彼は無能平凡の一軍人として無視されて()た,元来日本は蕞爾たる島国(たうこく)で,馬術といふものは一向発達せず,奥州野辺地馬なども亜刺比(あらび)()(たね)には追附(おつつか)ぬので封建時代から馬に(のつ)た兵隊といふのは土佐と紀州にあつたのみだから騎兵の進歩は(おほい)に遅れた,彼は(この)幼稚の時代の騎兵科の青年将校として当時騎兵科の総大将たる大蔵平三などに聯盟反抗を企てたので,()られる所を日清戦争に従軍して偉勲を(たて)たので初めて威名を博した,彼は越後長岡の藩士で郷党勇武の感化がある,長岡は河合蒼龍窟〔河井継之助〕の出たけに越後式ではない,彼は長岡武士の面目を辱めないものだ

   人に全きを求むるは素より酷だが,彼は温情沈勇は即ち余りあるが,惜むらくは彼には行政的才幹手腕がない,秋山好古(かうこ)が先輩中将でありながら()だ師団長にもなれないのは,一は騎兵監の後任に人物が無い為で,順番からいへば()()だが他の特科兵監に対し樽俎折衝に適しない,さらばとて本多道純では徳望が(たら)(こまつ)たものだが,軍人は戦争(いくさ)にさへ強ければ()いから,彼の如きも第二の乃木将軍として天分を尽すべきだ179181頁)

 

 筆者の曽祖父も自分の中隊長殿を見て,「おとなしい,優しい人だな。軍人といっても怖い人ばかりじゃないんだな。けれどあまりパッとしないから,大丈夫かなぁ。」などと思ったものでしょうか。

 豊辺新作は,司馬遼太郎の『坂の上の雲』において日露戦争黒溝台会戦の場面で登場します。

 

脱線その1:夏目金之助青年の兵役回避策

 明治二十年代の徴兵事情を検討していると,漱石夏目金之助が1892年(明治25年)4月に北海道後志国岩内に本籍を移したという有名な挿話をつい思い出してしまったところです。当該転籍の理由は,兵役回避のためだとされています。当該挿話をめぐる兵役法令関係を少々検討してみましょう。(なお,慶応三年(1867年)生まれの漱石の満年齢は明治の年と一致するので,この部分は元号優先で記述します。)

 明治20年に適用されていた兵役法令は,明治16年太政官布告第46号「徴兵令」(明治19年勅令第73号で一部改正)を頂点とするものでした。明治16年徴兵令3条は「常備兵役ハ別チテ現役及ヒ予備役トス其現役ハ3個年ニシテ年齢満20歳ニ至リタル者之ニ服シ其予備役ハ4個年ニシテ現役ヲ終リタル者之ニ服ス」と規定し,同令8条1項は「陸軍現役兵ハ毎年所要ノ人員ニ応シ壮丁ノ身材芸能職業ニ従ヒ歩兵騎兵砲兵工兵輜重兵及ヒ雑卒職工ニ区別シ抽籤ノ法ニ依リ当籤ノ者ヲ以テ之ニ充ツ」と規定していましたが,明治20年に第一高等中学校予科在学中であった塩原金之助(塩原家に養子に出されていた金之助青年が夏目家に復籍するのは明治21年1月)のためには,明治16年徴兵令19条の「官立府県立学校小学校ヲ除ク及ヒ文部大臣ニ於テ認タル之ト同等ノ学校ニ於テ修業1個年以上ノ課程ヲ卒リタル生徒ハ6個年以内徴集ヲ猶予ス」との規定が働いていました(いまだ同令18条第3項の「官立大学校及ヒ之ニ準スル官立学校本科生徒」として「其事故ノ存スル間徴集ヲ猶予ス」ということにはならなかったはずです。)。明治16年徴兵令19条については「課程を終りたる生徒とある上は数年前入学しあるも落第せるものは或ハ1箇年に足らざるものもあるべく又入学の時上級に入れば1箇年に満たずとも猶予を受くるを得べきなり」と説かれていました(今村長善『徴兵令詳解(増補再版)』(1889年)46頁)。塩原金之助青年は,明治19年7月には進学試験を受けられずに留年してしまいましたが,明治17年に第一高等中学校予科(当時は東京大学予備門予科)に入学していたところです。

 明治21年9月に夏目金之助青年は第一高等中学校本科第一部(文科)に進学しましたが,第一高等中学校本科在学中に明治16年徴兵令が明治22年徴兵令に代わります。経過措置規定として明治22年徴兵令41条は「旧令第18条第3項若クハ第19条ニ依リ徴集猶予ニ属シ在校ノ者ハ其事故6箇年以内ニ止ミタルトキ又ハ6箇年ヲ過クルモ仍ホ止マサルトキハ抽籤ノ法ニ依リ徴集ス但一年志願兵ヲ志願スルコトヲ得」と規定していました。

 夏目青年は明治23年9月に帝国大学文科大学英文学科に入学し,その後明治26年7月には帝国大学大学院に入ったので,明治16年徴兵令「19条ニ依リ徴集猶予ニ属シ在校ノ者」という状態は続いていたのですが,「6箇年ヲ過クルモ仍ホ止マサルトキ」の期限が迫って来ました。1箇年徴集猶予ならば明治21年に徴兵検査を受けなければならなかったのでしょうから,そう考えると,6箇年の猶予を得ても明治26年(1893年)の徴兵検査を筆者の曽祖父同様に受けなければならないことになります。明治25年中に何かをせねばならない。(なお,実は明治26年法律第4号(同年3月3日公布)によって,明治22年徴兵令41条の「6箇年」は「8箇年」に延長されたところではありました。)

 そこで明治22年徴兵令についていろいろ調べたところ,同令33条が発見されたものでしょう。同条は「本令ハ北海道ニ於テ函館江差福山ヲ除クノ外及沖縄県並東京府管下小笠原島ニハ当分之ヲ施行セス」としていました。

 ということで,明治25年4月段階における漱石の北海道後志国岩内への転籍ということになったのでしょうか,どうでしょうか。なお,明治22年徴兵令31条は「兵役ヲ免レンカ為メ逃亡シ又ハ潜匿シ若クハ身体ヲ毀傷シ疾病ヲ作為シ其他詐偽ノ所為ヲ用ヒタル者ハ1月以上1年以下ノ重禁錮ニ処シ3円以上30円以下ノ罰金ヲ附加ス」と規定していたところ,「民刑局長明30年甲第124号回答に依れば「徴兵を免れんが為の目的を以て虚偽の転籍を為したる事実あるに於ては徴兵令第31条の犯罪を構成す」と判示して居る」とのことで(日高巳雄『軍事法規』(日本評論社・1938年)39頁),漱石先生は少なくとも李下の冠的な危険なことをしてしまったことにはなります。

DSCF0888

「吾輩は北海道平民である。名前は既に夏目金之助である。」(東京都新宿区早稲田南町漱石公園)


 その後明治22年徴兵令33条は,明治28年法律第15号によって明治28年4月1日から「本令ハ北海道ニ於テ函館江差福山ノ外及沖縄県並東京府管下小笠原島ニハ漸ヲ以テ施行ス其時期区域及特ニ徴集ヲ免除シ若クハ猶予ス可キモノハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム」に改められました。当該勅令たる明治28年勅令第126号の第1条は「明治29年1月1日ヨリ北海道渡島,後志,胆振,石狩ノ4箇国ニ徴兵令ヲ施行ス」と規定していましたので,漱石はヒヤリとしたかもしれません。しかしながら,同勅令においては特段難しい経過措置規定は無かったので,結局明治9年以後に生まれた大日本帝国臣民男子にのみ関係があるものということでよかったのでしょう。現に明治31年1月発行の『陸軍省第10回統計年報』を見ると,北海道を管轄する第七師管における明治29年の20歳の壮丁は4409人であって前年の798人から大幅に増加している一方,明治29年の21歳以上の壮丁は535人にすぎません(109頁。明治28年の第七師管における21歳以上の壮丁の数は『陸軍省第10回統計年報』では417人と読めますが109頁),明治30年3月発行の『陸軍省第9回統計年報』では447人となっています49頁)。)。函館,江差及び福山以外の渡島,後志,胆振及び石狩に本籍を有するところの明治29年に21歳から40歳までになる日本男児までもが,同年からの徴兵令の施行に伴いどっと徴兵検査を受けなくてはならなくなった(したがって,徴兵令施行の最初の年である同年には20歳の壮丁よりも21歳以上の壮丁の方が何倍もの大きい人数になる。),ということはなかったわけです。

なお,明治30年勅令第257号により,明治31年1月1日から天塩,北見,日高,十勝,釧路,根室及び千島の7箇国にまで北海道における徴兵令の施行が拡大されました。また,明治22年徴兵令33条自体は,大正7年法律第24号によって191912月1日から削られています。

脱線その2:昭和18年法律第4号の経過措置規定並びに1944年及び1945年における朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者の徴兵状況

 

(1)昭和18年法律第4号の経過措置規定

 

ア 昭和18年法律第4号

 北海道内における明治22年徴兵令の施行拡大に係る明治28年勅令第126号及び明治30年勅令第257号におけるものとは異なり,朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に対して兵役法(昭和2年法律第47号。明治22年徴兵令を全部改正したもの)の適用を拡大する昭和18年法律第4号の経過措置規定は読みごたえのあるものです。

 1943年3月1日裁可,同月2日公布の昭和18年法律第4号によって,1943年8月1日から(同法附則1項),朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者も兵役法9条2項に基づき第二国民兵役に服し,同法23条1項に基づき徴兵検査を受けることになりました1943年1月30日の貴族院兵役法中改正法律案特別委員会における木村兵太郎政府委員(陸軍次官)の法案趣旨説明(第81回帝国議会貴族院兵役法中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1頁)及び同年2月17日の衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会における同政府委員の法案趣旨説明(第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第2回3頁)参照)

 

イ 昭和18年法律第4号附則2項及び3項

昭和18年法律第4号はその附則の第2項及び第3項において次のような経過措置規定を設けています。

 

  第9条第2項及第23条第1項の改正規定ハ本法施行ノ際徴兵適齢ヲ過ギ居ル者及徴兵適齢ノ者ニシテ其ノ際現ニ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クルモノ又ハ本法施行後其ノ適用ヲ受クルニ至リタルモノ(第3条ノ規定ニ該当スル者ヲ除ク)ニ之ヲ適用セズ

  前項ノ規定ニ該当スル者ニ付テハ第52条第1項ノ改正規定ニ拘ラズ従前ノ例ニ依ル

 

 どう読んだものやら,難しい。

 

(ア)昭和18年法律第4号附則2項前段

まず附則2項前段ですが,これは「本法施行ノ際」である1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」であって同日午前零時に「現ニ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クルモノ」については,徴兵検査はしないし(兵役法23条1項改正規定の不適用),第二国民兵ともしない(同法9条2項改正規定の不適用),ということのようです。

 

なお,附則2項における「者」と「モノ」との使い分けですが,「者」は「法令上,自然人,法人を通じ,法律上の人格を有するものを指称する場合に用いる」ところ(前田正道編『ワークブック法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)650頁),同項での「者」は自然人を指称しているものであり,「もの」は「あるものに更に要件を重ねて限定する場合(この場合には,外国語における関係代名詞に相当する用法となる。)」に用いられるところ(前田650頁),同項での「モノ」はその前の「者」に更に要件を重ねて限定しているものと読み解くべきでしょう。

また,「徴兵適齢」(兵役法23条2項)の概念も難しいのですが,「陸軍省軍務局・陸軍大学教官歩兵中佐」の肩書の中井良太郎による『兵役法綱要 附徴発法大要』(松華堂書店・1928年)によると,「前年ノ12月1日ヨリ其ノ年1130日迄ノ間ニ於テ年齢20年ニ達スル年ヲ徴兵適齢ト称ス」85頁)ということになっています。兵役法23条は当時「戸籍法ノ適用ヲ受クル者ニシテ前年12月1日ヨリ其ノ年1130日迄ノ間ニ於テ年齢20年ニ達スル者ハ本法中別段ノ規定アルモノヲ除クノ外徴兵検査ヲ受クルコトヲ要ス/前項ニ規定スル年齢ハ之ヲ徴兵適齢ト称ス」と規定していました。

 

そもそも昭和18年法律第4号の施行日が1943年8月1日とされたことについては,「本法ハ協賛ヲ得マスレバ,一日モ速カニ施行致シマシテ,2千4百万ノ朝鮮同胞ト,其ノ慶ビヲ共ニ致シタイト存ズルノデアリマスガ,7月31日迄ハ本年ノ徴兵検査ガ実施セラレマスノデ,其ノ以前ニ施行セラレマスルト,現役志願ノ者ガ徴兵検査ヲ受検スルコトトナリ,諸般ノ徴集準備ノ円滑ヲ害シマスノデ,其ノ終了ノ後,即チ昭和18年8月1日ト致シタイト存ズルノデアリマス」と木村兵太郎政府委員から説明がありました(第81回帝国議会貴族院兵役法中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1頁。また第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第2回3‐4頁)。したがって,朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に係る最初の徴兵検査は1944年に行われました。昭和18年法律第4号の法案に係る貴衆両議院の本会議における趣旨弁明の段階で既に「昭和19年ヨリ朝鮮同胞ヲ徴集」するものと明言されていたところです1943年1月29日貴族院本会議における木村政府委員弁明(第81回帝国議会貴族院議事速記録第3号40頁)及び同年2月12日衆議院本会議における東条英機国務大臣(陸軍大臣)弁明(第81回帝国議会衆議院議事速記録第10213頁))

附則2項前段は,要するに,「本法施行ノ際,朝鮮同胞ノ中デ徴兵適齢ヲ過ギテ居ル者,及ビ本年ノ徴兵適齢者ニ付キマシテハ,志願ニ依リマシテ兵籍ニ入ッテ居リマス者ヲ除キ,其ノ他ハ依然従来通リ兵役ニ服セシメナイコトト致シタイト存ズルノデアリマス」ということでした(第81回帝国議会貴族院兵役法中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1頁及びた第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第2回4頁(木村政府委員))

 

(イ)昭和18年法律第4号附則2項後段

附則2項後段は,1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」であって,同日以後に「朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クルニ至リタルモノ」についての規定です。(なお,兵役法3条は「志願ニ依リ兵籍ニ編入セラルル者」に関する規定です。)1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」である台湾人が,同日以降に朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者になっても今更兵役を課さないということでしょう(大日本帝国の臣民男子ではあっても,台湾人にはいまだ兵役義務はありませんでした。)。(ちなみに,兵役法52条2項は「徴兵適齢ヲ過ギ帝国ノ国籍ヲ取得シ又ハ回復シタル者」に対しては「徴集ヲ免除ス」る旨規定していました。)

戸籍法の適用を受ける内地人であって1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」であり,同日以後に「朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クルニ至リタルモノ」についてはどうかといえば, 1943年8月1日から共通法(大正7年法律第39号)3条3項を「戸籍法ノ適用ヲ受クル者ハ兵役ニ服スル義務ナキニ至リタル者ニ非サレハ他ノ地域ノ家ニ入ルコトヲ得ス」から「戸籍法又ハ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者ハ兵役ニ服スル義務ナキニ至リタル者ニ非サレハ内地及朝鮮以外ノ地域ノ家ニ入ルコトヲ得ス」へと改正する昭和18年法律第5号の附則2項に「本法施行ノ際〔同法附則1項により同法は兵役法の一部改正に係る昭和18年法律第4号と同時に施行〕徴兵適齢ヲ過ギ居ル者及徴兵適齢ノ者ニシテ其ノ際現ニ戸籍法ノ適用ヲ受クルモノ又ハ本法施行後其ノ適用ヲ受クルニ至リタルモノニ付テハ〔共通法〕第3条第3項ノ改正規定ニ拘ラズ仍従前ノ例ニ依ル」とありましたので,そもそも兵役義務がなくなるまでは改正前共通法3条3項の例により朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者になる(朝鮮ノ家ニ入ル)ことは法律上不能なのであって,心配には及ばぬよう手当てされていたのでした。すなわち,昭和18年法律第5号の附則2項によって「尚内地人で〔1943年8月1日に〕徴兵適齢ガ過ギテ居ル者,及ビ徴兵適齢ノ者ハ,既ニ兵役ノ義務ヲ荷ッテ居リマスガ,朝鮮デハ〔昭和18年法律第4号附則2項後段により〕兵役ノ義務ガアリマセヌノデ,朝鮮同胞ノ家ニ入ルノハ兵役ノ義務ヲ終ッタ後ニ限定セムトスルモノデアリアス」ということでした(第81回帝国議会貴族院兵役法中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1頁(木村政府委員)。また,第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第2回4頁(同政府委員))

 

(ウ)昭和18年法律第4号附則3項

附則3項は兵役法52条1項の改正規定(「戸籍法及朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受ケザル者ニシテ徴兵適齢ヲ過ギ戸籍法又ハ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者ノ家ニ入リタルモノニ対シテハ徴集ヲ免除ス」)を適用しないで「従前ノ例ニ依ル」ということのようです(なお,改正前の兵役法52条1項は「戸籍法ノ適用ヲ受ケザル者ニシテ徴兵適齢ヲ過ギ戸籍法ノ適用ヲ受クル者ノ家ニ入リタル者ニ対シテハ徴集ヲ免除ス」と規定していました。)。台湾人(「戸籍法及朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受ケザル者」としては「台湾人」が考えられていたことについては,1943年2月18日の帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会における那須義雄政府委員の答弁を参照(第81回帝国議会衆議院兵役法中改正法律案外三件委員会議録(筆記速記)第3回23頁))について「従前ノ例」を考えると,徴兵適齢を過ぎて朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける家に入っても,「徴集ヲ免除」してもらう必要はそもそも無く,最初から懲役検査を受ける義務も第二国民兵役に服する義務もなかったということになります。(「徴集」とは,「広義では強制的に現役又は補充兵役に就かしむべき行政作用即ち徴兵検査に出頭を命じ徴兵検査を受けしめ現役又は補充兵役に就かしむる迄の一切の作用を謂ひ,狭義では現役又は補充兵役編入を決し之を本人に通告する行為換言すると現役又は補充兵役編入の行政処分を意味」します(日高12頁)。)1943年8月1日に「徴兵適齢ヲ過ギ居ル者」又は「徴兵適齢ノ者」である台湾人については,同日以降もこのような従前ノ例ニ依ル」ということは附則2項後段から読み取られるところですが,改正後の兵役法52条1項を反対解釈すると(徴集免除とは関係のない)第二国民兵役には服することになるので,当該矛盾を排除するために昭和18年法律第4号の附則3項は設けられたのでしょう。

(2)1944年及び1945年における朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者の徴兵状況

 

ア 「朝鮮軍歴史別冊 朝鮮人志願兵・徴兵の梗概」

1944年に始められた朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に対する我が兵役法に基づく徴兵検査,徴集及び入営に関する状況については,朝鮮軍残務整理部が残した「朝鮮軍歴史別冊 朝鮮人志願兵・徴兵の梗概」というガリ版刷り文書があり,アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることができます(なお,ここでいう「朝鮮軍」は我が帝国陸軍の朝鮮駐屯軍のことであり,外国の軍隊ではありません。)。当該「梗概」の作成者は,末尾に「元朝鮮軍徴兵主任参謀/吉田俊隈記す」と記載されています。「梗概」が作成された時期は明示されていませんが,「朝鮮軍関係資料」として「梗概」と共に合冊されている「朝鮮に於ける戦争準備」という文書の表紙には「昭和21年2月/朝鮮軍残務整理部/昭和27年2月復員課複写」と記されているところ,やはり1946年1月前後に作成されたものと考えるべきでしょうか。

以下本稿は,1944年及び1945年における朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者の徴兵状況に関し,「朝鮮軍歴史別冊 朝鮮人志願兵・徴兵の梗概」の更に梗概を紹介するものです。

 

イ 1943年の臨時特別志願兵と高橋留守第三十師団長閣下解職

早速1944年の話に入りたいのですが,その前,194310月以降の「臨時特別志願兵」騒動がちょっと見逃せないところです。「梗概」にいわく。

 

 昭和18年〔1943年〕10月朝鮮に於ては明春よりの歴史的第1回徴兵検査を目前に控え最後の準備完整に大童(おおわらわ)の時,戦局の要請に基き内地人学生に対する従来の徴集延期制度の一部改正せられ大学,高等,専門学校の法文系学生は,同年11月より臨時徴兵検査を実施せられ翌19年〔1944年〕1月より入営せしめらるる事となれり。

 本制度の実施に伴い,同じく法文系に籍を有し,内地学生と机を並べ,勉学の途にいそしめる朝鮮人学生にも同窓の内地人学生と共に相携へ祖国の急に馳せ参じ得るの臨時特別志願兵の途を開かれたり。

 

 いい話じゃないですか,ということで,「俄然朝野の視聴を集め志願慫慂,全員受検の民間運動が内鮮全体に亘り活発に展開」されたそうです。大人はいい気なものです。しかし,当事者学生にとってはなかなか煩わしい。

 

  当時内地に在りし朝鮮人学生中には父母の同意を得るに名を藉り,休学帰鮮する者多く又鮮内学生に在りては無断休学し居所を杳晦する者等相次いで出で一時は相当の混乱状態を呈せるも逐次先輩有志の説得官民の熱誠なる支援,学生自身の自覚に依り検査開始迄には在鮮学徒の約90%は志願するに至りたり。

 

後日「梗概」は自ら,「或は一部野心家の後日の社会的地位獲得の為の裏面的策動に依る強制受検等の多少ありたるは否めざる事実なりしも」と述べてはいますが,やはり,これら「約90%」の学徒は公式的には飽くまでも自発的に志願したものなのでしょう。

詮衡検査は194311月から同年12月にかけて行われ,朝鮮内での受検者総数は3366人,うち現役兵として徴集された者2735人,補充兵として徴集された者382人,不合格者249人でした(「梗概」第7表の2)。この外,朝鮮軍管外の受検で721人が現役兵として徴集されています(同)

「軍に於ては同志願兵の部隊配当を実施するに方り素質優秀なるものは鮮外部隊に充当し,多少とも強制志願と目せらるるが如き明朗性を欠くものは鮮内部隊へ充当」したそうです。「梗概」の第7表の2を見ると,朝鮮軍管内採用の現役兵たる臨時特別志願兵の入隊先を見ると朝鮮軍に423人(羅南師団127人,京城師団106人,平壌師団153人及び軍直部隊37人),内地の東部軍,中部軍及び西部軍に1279人並びに当時戦闘中であった支那派遣軍に996人となっています(同表ではこれらの合計が「2732」人であるとしていますが,筆者の電卓検算では2698人で,どうも34人分数字が合いません。)。

これでめでたしめでたしかといえば,なかなかそうは問屋が卸しません。

 

 昭和19年〔1944年〕1月平壌留守第三十師団に入営せる志願兵中(これ)()自発的に依らざりし者は入営せば必ず将校たり得るの既得権を有する如く誤信しありし者或は入営前の放逸なる生活に憧るゝ者等の不平分子は幹部候補生甲,乙決定の際甲種の詮衡率僅少(約3%)なりしに端を発し,部隊相互に(ママ)密裡に連絡し,党与して鮮外に逃亡せんと謀りしが事前に発覚し事件は大事に至らずして解決せるも時の師団長高橋中将は引責解職せらるるに至りたり。

 

 お気の毒なのは高橋留守第三十師団長閣下です。鬼畜米英撃滅以前に,隷下の自軍兵士に足元をすくわれました。しかし,「進級等自己ノ意ニ満タサル場合著シク性格上ノ缺陥ヲ暴露」すること1943年8月14日陸軍省副官からの昭和18年陸密第2848号通牒の一節(アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることができます。))は,だれにでもあることです。

 気の毒ついでにこの高橋中将はどの高橋中将なのかインターネットをいろいろ調べてみたのですが,Hiroshi Nishida氏のウェブ・サイトに,1944年4月29日に予備役から留守第三十師団長に返り咲き,1945年3月31日に召集解除となった高橋中将として,高橋多賀二の名が出ていました。岡山出身,陸軍士官学校第22期,陸軍大学校第35期だそうです。

 ウ 1944年の徴兵

 

(ア)徴兵検査

朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に対する最初の徴兵検査の実施時期について「梗概」は,昭和「19年〔1944年〕4月より8月に亘り此の歴史的第1回徴兵検査を各兵事部主宰の下に全鮮に亘り一斉に開始せり」と述べています。(なお,兵役法施行規則(昭和2年陸軍省令第22号)103条1項は「聯隊区徴兵署ノ事務ハ毎年4月16日ヨリ7月31日迄ノ間ニ於テ之ヲ行フヲ例トス」と規定していましたが,19431224日公布,同日施行の昭和18年陸軍省令第69号の第3条が「昭和19年ニ於ケル徴兵検査ハ昭和19年4月1日ヨリ概ネ同年8月末日迄ノ間ニ実施スルモノトス」と規定していました。)

「検査は順調且成功裡に終始するを得たり」とはいえ,「珍談奇景」はやはり生じたそうで,「梗概」はそのうち4話を紹介しています。いわく。①病気で「晴の入営の能はざるは男子として不名誉此の上なきも未だ五体には愛国の熱血を存すとの意志を表示する為め机上の小刀を以て指を斬り血書せんとしたる」壮丁に対して,その場にいた徴兵署事務員は自分が斬りつけられるのかとびっくりして「格斗の末之を憲兵に引渡」した。②徴用されて労務者として内地に滞在している兄に代わってその弟が代人として受検に来たが,「(これ)本人の無智もさる事(なが)ら検査の当日には何はともあれ頭数だけ何とか揃えんとの末端邑面吏員の知識の一端を窺ひ知るを得べし」。邑は内地の町,面は村に相当します。③「徴兵検査は検査場より直ちに本人を入営せしむるものと誤解せる母親は数里の山奥より多量の餅を携え吾が愛子と最後の別れをなさんと悲壮な面持にて検査場を訪れたるものあり」。④学力調査のため片仮名平仮名を示しても「唯頭を横に振るばかり」の壮丁であったが「自己の本籍地氏名を漢字にて鮮かに書流せるを以て調査の結果書堂にて儒学を若干習ひ漢字ならお手の物と判明」して「(これ)(また)唖然」。

「本検査を機とし畏き辺におかせられては5月侍従武官尾形健一中佐を御差遣あらせられ(つぶさ)に徴兵検査の状況を視察せしめられ其の労を(ねぎらわ)せ給ひたり」と「梗概」述べるところ,宮内庁の『昭和天皇実録第九』(東京書籍・2016年)によれば,1944年6月1日に「御文庫において侍従武官尾形健一に謁を賜い,朝鮮軍及び朝鮮における民間軍需品製造工場への御差遣につき復命を受けられる。尾形は昨月2日出発,28日帰京する。」とのことでした361頁)。無論,昭和天皇の耳には前記のような「珍談奇景」の話は入っていないでしょう。

「逃亡,自傷,詐病等の犯罪を犯せる者も多少ありたるも之等は総員の僅か1%程度に過ぎざる状況なりき」だったそうです。そうであれば,逃亡失踪率1.59パーセントだった1893年の我が日本内地内の徴兵検査受検状況に比べて,真面目さにおいて勝るとも劣りません。なお,アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることのできる内務省用紙に和文タイプ打ちの194412月付け「朝鮮ノ統治事情説明」の第1の2「徴兵制実施ノ状況」によれば「半島人壮丁予定総員231424名ニ対シ受験者総数(222295名)ハ其ノ9割6分ニ達シ,不参者ハ0.06(ママ)(1万2905名)此ノ大半ハ疾病,受刑中,兵籍編入,在外延期其ノ他已ムヲ得サル事由ニ依ルモノ多ク,所在不明ノ為ノ不参加者ハ6228名(予定総員ノ0.027)ニ過キス此ノ所在不明者中ニハ徴兵制度発表以前ヨリ所在不明ノ者ガ大部分テアツテ,真ニ忌避的手段ニ出テタル者ハ極メテ少数ト判断セラレ,同様事故不参者ハ僅ニ422名テアツテ,総括的ニ見ル時順調ナル経過ヲ以テ終了シタノテアル」ということでした。

また,「梗概」によれば,「検査の結果甲種は30%国語理解者60%の成績」だったそうです。

 

 受検壮丁は内外地を合し約23万にして其の中5万ママを現役兵として徴集し検査終了後より所要の入営準備教育を実施し〔昭和〕19年〔1945年〕9月より逐次入営せしめられたり

 

「梗概」の第8表によれば,1944年の徴兵検査で現役兵として徴集された朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者は,朝鮮軍管区から5万1737人(うち1万人は海軍兵),関東軍管区からは3260人及び台湾軍管区から3人の合計5万5000人となっています。(南方軍及びフィリピンの第十四軍地区に残留するものは上記とは別に徴兵検査を受けたものとされています。)

 

(イ)部隊配当

 「梗概」には,第1回徴兵検査後「朝鮮兵の部隊配当は全軍に亘り且其の入営の要領は〔1944年〕9月より逐次先づ朝鮮軍司令官の定むる鮮内部隊に入営せしめ軍隊生活に若干馴れしめたる後本属の内外地入営部隊に転属することとせられたり」とあります。

配当先の「内外地入営部隊」はどのようなものかと「梗概」の第9表(「昭19朝鮮現役兵各軍配当区分表」)を見ると,内地及び樺太の東部軍,中部軍,西部軍及び北方軍に合計8245人,朝鮮軍に1585人,台湾軍に3人,関東軍に9925人,戦闘中の支那派遣軍に1万0445人,同じく戦闘中の南方軍に7647人,蘭印(インドネシア)の第二方面軍に1540人,ラバウルの第八方面軍に2710人,第一航空軍(司令部は東京)に2300人及び船舶司令部(司令部は広島の宇品)に600人並びに鎮海鎮守府に海軍兵を1万人となっていました。合計5万5000人。しかしながら,当該「第9表」は徴兵検査前の計画値を示しているもののようで,その備考欄には「各軍司令官は本配当表に基き〔中略〕細部の部隊配当を定め昭和19年4月末日迄に朝鮮軍司令官に通報し朝鮮軍司令官は之に基き部隊配当を行ふものとす」と記されています。

その後の1944年5月26日付けの東条英機陸軍大臣からの陸機第129号昭和19年徴集現役兵ノ入営及外地派遣等ニ関スル件達(アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることができます。)を見ると,同年徴集の「朝鮮人初年兵(航空,船舶部隊ノ要員及び海軍兵ヲ除ク)ノ入営及外地派遣等」について,改めて次のように定められています。

まず,「関東軍,支那派遣軍,第五方面軍〔北方軍の改組されたもの〕,朝鮮軍及び内地各軍要員(朝鮮以外ノ地ニ在リテ直接現地ノ部隊ニ入営スルモノヲ除ク)ハ概ネ当該内地人要員ノ入営日ニ朝鮮軍司令官ノ定ムル其ノ隷下部隊ニ入営セシメ関係部隊長相互協議ノ上所属部隊ニ転属スルモノトス但シ関東軍及支那派遣軍ノ要員(満洲,支那ニ在ル大本営直轄部隊ノ要員ヲ含ム)ハ成ル可ク当該部隊内地人初年兵ノ朝鮮通過時之ニ合スル如ク転属スルモノトス」とされています。これは,「梗概」の記すところとほぼ同じですが,「関東軍及支那派遣軍ノ要員」については,「軍隊生活に若干馴れしめたる後本属の内外地入営部隊に転属」ではなく,「成ル可ク当該部隊内地人初年兵ノ朝鮮通過時之ニ合スル如ク転属スルモノ」とされています。

南方軍,第二方面軍及び第八方面軍への配当予定初年兵は宙ぶらりんになったようです。すなわち,「南方軍,第八方面軍,第二十七軍〔択捉島〕,第三十一軍〔サイパン〕,第三十一軍(ママ)及小笠原兵団ノ要員ハ昭和19年陸密第513号ノ規定ニ拘ラズ之ヲ配当残余人員トス」ということとなり,かつ,「配当残余人員ノ処理ニ関シテハ別ニ示ス」とされています。

台湾軍に配当されたものについては「在台湾部隊ノ要員タル初年兵(台湾ニ於テ徴集セル朝鮮人ヲ含ム)」ということで,内地人初年兵と一緒にされています。

「航空部隊及船舶部隊ノ要員タル初年兵(朝鮮人ヲ含ム)」については,「内地,朝鮮,台湾及満州国(関東洲ヲ含ム)ニ於テ徴集セル初年兵ニシテ当該地区以外ノ部隊ニ入営スルモノハ航空総軍司令官若ハ船舶司令官,関係軍司令官ト相互協議ノ上当該地区内ノ適宜ノ場所ニ集合地〔ママ〕入営セシムルモノトス」とありますから,結局地元に留まっていたことになるのでしょう。

(ウ)入営

 前出194412月付け「朝鮮ノ統治事情説明」いわく。

 

  合格者ノ入営ニ際シテハ母子相擁シテ号泣スルトカ,自暴自棄的トナツテ遊興,暴行ヲスルトカ目ニ余ル事例モ無イテハナカツタカ大体ニ於テハ各方面ノ壮行,見送リヲ受ケテ感奮シツツ入隊シ〔タ〕

 

「梗概」いわく。

 

斯くて朝鮮出身兵は〔1944年〕9月より逐次入営せしめらるるに至りたるも漸次後退の途を辿りありたる戦況の推移とも関聯し入営後脱営するもの或は鮮外部隊に転属の途次逃亡するもの等頻発し一時は相当の苦慮を要せしも日を経るに従ひ次第に落着きを取り戻し大なる考慮を要せざるに至りしも直接入営業務を担任する部隊側の苦心は(ママ)大抵のものにては非らざりき

一時逃亡者続出せる時代に在りては某部隊の如きは之が防止対策として巡察不寝番の増加潜伏斥候分哨の配置,兵営周囲の鉄柵の補修増強等本末を顚倒せる挙に出でたるものもあり其の苦心の一端を察するを得べし

 

 1944年6月15日米軍はサイパン島に上陸,同月19日のマリアナ沖海戦で我が連合艦隊は惨敗,7月4日には大本営はようやくインパール作戦中止を命令,同月7日サイパン島の我が守備隊玉砕,同月18日東条英機内閣総辞職,8月3日我がテニアン守備隊玉砕,同月10日グアムの我が守備隊玉砕,1020日米軍レイテ島上陸,同月24日のレイテ沖海戦で連合艦隊は大敗,同月25日海軍神風特別攻撃隊の初めての体当たり攻撃,1124日にはマリアナ基地のB29による東京初空襲といった戦況ですから(『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)参照),なかなか勇ましい気分にはなれなかったものでしょう。

 なお,現役兵の入営期日が兵役法施行規則231条による同規則附表第1に規定されているものと異なるではないかと怪訝に思われる向きもあるかもしれませんが,これについては,193910月2日に公布され同日から施行された昭和14年陸軍省令第52号が「当分ノ内陸軍現役兵ノ入営期日ハ兵役法施行規則附表第1ノ規定ニ拘ラズ別ニ定ムル所ニ依ル」としてしまっていたところです。したがって,9月ないしは11月生まれの者はあるいは19歳で現役兵として入営ということになるのですが,明治22年徴兵令3条の「現役ハ〔略〕満20歳ニ至リタル者之ニ服シ」のような規定は,兵役法にはありませんでした(同法5条参照)。

 

 又入営後に在りても面会人は踵を接して至れり

 特に母親の如きは毎日営庭を見渡し得る場所に腰を下し終日吾が愛児の身の上を案じ続ける者も相当数ありて部隊側の之等(これら)面会人に対する応接整理は想像に余りあるものありたり

 

 母の愛。これを受けてしまえば「即チ孝ヲ第一義トシ直接的孝養ヲ以テ最高ノ道徳ト思惟」することになります(前出昭和18年陸密第2848号通牒)

 現役兵のほか,補充兵についても,「約23万の壮丁中より現役として入営せるは僅か4万5千名(別に海軍兵1万名)にして他の大部分は補充兵として在郷に待機しありしも本土の兵備鞏化に伴い逐次各勤務隊現地自活要員として召集せらるるに至りたり」とあります。しかしながら,飽くまでも「現地自活要員」ですから,兵士としての戦闘は期待されていなかったのでしょう。この辺の数字については,アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることのできる「支那事変・大東亜戦争間動員概史(草稿)」(表紙には「第一復員局」とあります。)の「第9章 異民族ノ使用」において,1944年及び1945年の両年で朝鮮人兵を「35000」人を「召集」したとの記載があります。「召集」とは「帰休兵,予備兵,後備兵,補充兵又は国民兵を軍隊に編入する為に召致し集める行政作用を謂ふ」ものとされています(日高2829頁)

 

エ 1945年の徴兵

 

(ア)朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者

 1945年2月10日から,昭和20年法律第3号によって,「戦時又ハ事変ノ際其ノ他特ニ必要アル場合ニ於テハ命令ノ定ムル所ニ依リ徴兵検査ノ執行ヲ次年ニ延期スルコトヲ得」とする弱気な兵役法44条の2が同法に挿入されました。

 しかしながら,朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受ける者に対する第2回の徴兵検査は,「梗概」のいうところ,「戦局の要請に応じ〔1945年〕2月より5月に亘りて早期に実施」されています。「梗概」の第10表によれば,陸軍の現役兵は,朝鮮軍管区で4万1965人,関東軍管区で3035人の合計4万5000人を徴集しています(同表の合計欄の「46,000」は誤記でしょう。)。前年と同数ということになります。同第11表によれば海軍兵の現役徴集数は1万人ですが,これらについての入団期日は194511月以降になっていますので,これらの海軍兵は結局入団しなかったわけです(降伏文書署名は同年9月2日)。

 陸軍現役兵は果たして入営に至ったかどうかについては,「梗概」は,「又入営準備訓練も前年度に準じ着々実施しつありしが8月15日遂に終戦の大詔を拝し茲に朝鮮徴兵史も終焉を告ぐるに至りたり」とのみ記しています。


(イ)戸籍法の適用を受ける者の例(脱線の脱線)

 ちなみに,1945年の内地における戸籍法の適用を受ける者に係る徴兵状況については,民法の星野英一教授の回想があります。

星野教授は,1926年7月8日生まれなので,その年の7月に19歳になる1945年に徴兵検査を受けることになりました。先の大戦の末期には戸籍法の適用を受ける者に係る徴兵適齢は20年ではなく19年に引き下げられていたことについては,筆者はかつて本ブログにおいて紹介したことがあります(「兵役法(昭和2年法律第47号)等瞥見(後編)」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1013932816.html)。

   ところが,私は不幸にして,兵隊にとられました。割合年は若く18歳でしたが。もともと徴兵年齢が20歳で,20歳の12月に徴兵検査を受けるのです。それが戦争で1年短く19歳になり,私の年から18歳になってしまったのです。確か1944年の末に決まったので,45年の1月だかに徴兵検査を受けました。ただ,まさかと思っていたのに徴兵令状が来てしまいました。6月の中旬か下旬か,正確には覚えていませんが,甲府の連隊に入れということです。(星野英一『ときの流れを超えて』(有斐閣・2006年)40頁)

 

 1945年の徴兵検査は,兵役法23条及び徴兵適齢臨時特例(昭和18年勅令第939号)によって194412月1日から19451130日までの間に年齢19年に達する者が受けることになっていたので,誕生日が徴兵検査の日より後の者については18歳で徴兵検査を受けることになることは実は当然あり得たところです。「私の年から18歳になってしまったのです」ということではありません。また,徴兵適齢臨時特例による徴兵適齢の20年から19年への引き下げは19431223日の昭和天皇の裁可で決まったのであって(公布・施行は同月24日),「1944年の末」に決まったものではありません。(この徴兵適齢臨時特例は「兵役法第24条ノ2ノ規定ニ依リ当分ノ内同法第23条第1項及第24条ニ規定スル年齢ハ之ヲ19年ニ変更ス」としたものです。ただし,当該特例は,内地人にのみ適用されました(同特例附則1項ただし書(昭和19年勅令第2812条による改正後は附則2項))。)新年を迎えて早々1月に徴兵検査をすることについては,19441116日公布・同日施行の昭和19年陸軍省令第51号の第2条1項が,1945年における徴兵検査は同年1月15日から同年4月30日までの間に行うものと定めていたところでした。また,「徴兵令状」というのは,兵役法施行規則218条及び附録第3様式からすると,「現役兵証書」であったようです。   

                                  (つづく)

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

 



このページのトップヘ