2018年05月

1 「食育」

「食育」という法令用語があるのですが,筆者においてはかねてからその意味するところがよく分からずにおりました。最近出て来た言葉のようです。

しかし,調べれば分かるであろうことを調べずにいて横着に「分かんねーょ」で済ますのは,人間頽廃の第一歩でしょう。そこで,大きな六法全書にも収載されていない2005年の食育基本法(平成17年法律第63号)等をインターネットで調べてみたところです。

なお,食育基本法161項及び2621号に基づき国の食育推進会議によって作成された2016年度から2020年度までの5箇年計画Пятилеткаたる第3次食育推進基本計画においては,「我が国の食育の理念や取組等を積極的に海外に発信し,「食育(Shokuiku)」という言葉が日本語のまま海外で理解され,通用することを目指す。」という記述が見られます(第372))。実は「食育」概念は既に成熟し,その内容もはっきりしているものとして扱われているようです。当該概念をなお十分理解していない筆者による試みである本ブログ記事は,あるいは食育推進会議の公定解釈から大きく逸脱したものとなるかもしれません。しかし,やってみましょう。

まず,法令用語としての「食育」の定義は,食育基本法の前文第2項にあるということでよいようです。そこでは「様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し,健全な食生活を実践することができる人間を育てる食育」とありますから,「食育」とは「様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し,健全な食生活を実践することができる人間を育てる」こと,ということになります。同法の本則においては,特段「食育」に係る定義規定を設けずに,第1条から「食育」の語が自明のものとして用いられています。

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「様々な経験」1:ちゃんぽんうどん,サラダうどん,ビール及びワイン

また,食育は,食育基本法によって「生きる上での基本であって,知育,徳育及び体育の基礎となるべきものと位置付け」られています(前文第2項)。食育がないと生きていけそうもないということですから,食育は人生の最初段階において受けるものであって,「知育,徳育及び体育」がいわゆる教育ならば,教育より前のいわば無意識のレヴェルに刷り込まれるべきものということになるようでもあります。少なくとも,字を覚えることよりも優先されるべきものなのでしょう。

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「様々な経験」2()()塩辛

全き食育の成果たる人間はどのようなものかといえば,「様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し,健全な食生活を実践することができる」人間ということになります。したがって,様々な経験を通じて「食」に関する知識及び選択力を習得し得る能力が要素であって,「健全な食生活を実践すること」は可能性にとどまるわけです。食育を受けた国民全員による輝かしき「健全な食生活」の実践は必ず実現するものとは限らないし,またその必要もない(個人の選択に委ねられる。),ということになり得るところです。

 

2 「健全な食生活」

しかしながら,食育基本法の第2条から第8条までに掲げられた食育に関する「基本理念」(同法9条)に基づき推進される食育は,当該基本理念の実現までを目指すものとならざるを得ません。同法2条は「食育は,食に関する適切な判断力を養い,生涯にわたって健全な食生活を実現することにより,国民の心身の健康の増進と豊かな人間形成に資することを旨として,行われなければならない。」と規定していますから(下線は筆者によるもの),食育は,食育を受けた人間が「生涯にわたって健全な食生活を実現」する者となるようにすることを目指すのだということになります。

「健全な食生活」とは何かといえば,まずは「心身の健康の増進と豊かな人間形成に資する」ものであるということになるのでしょう(食育基本法2条。また,同法1条にも「国民が生涯にわたって健全な心身を培い,豊かな人間性を育むための食育」との文言があります。)。十分な栄養を摂って身体が健康になりその結果心が健康になる(mens sana in corpore sano erit.)というだけではなく,「豊かな人間形成」までされるというものですから仰々しいところです。

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「様々な経験」
3:ワイン及びオリーブの実

 Oleam quam primum terra tollito. Si inquinata erit, lavito, a foliis et stercore purgato.

 「オリーブの実が落ちちまっても急いで拾って,葉っぱでも糞でも汚れはきれいに洗っちまえばいいんだよ。」とは,いかにもあの大カトー流です(「偉大な人物と「せこさ」とに関して」参照http://donttreadonme.blog.jp/archives/1067827246.html)。

食育基本法8条には「食品の安全性が確保され安心して消費できることが健全な食生活の基礎である」とありますから,「健全な食生活」においては,安全な食品を消費して身体が健康になるだけではだめで,そこに「安心」がなければ心は病んでしまって健康ではなく,かつ,「豊かな人間形成」もなされない,ということになるようです。不殺生戒・不飲酒戒等を安全にクリアした食事を安心(あんじん)と共に摂っていればこそ,そこにおいて初めて仏教者としての「豊かな人間形成」も達成されるのだということになるのでしょうか当ブログの2018321日付けの記事である「内閣総理大臣の国会演説に見る「安心」の平成史(後編)」の17を参照http://donttreadonme.blog.jp/archives/1070539114.html)。

「健全な食生活」における「健全」な料理は更に,伝統的な日本食にして地元食であって,かつ,その食材は国内産であるものと理解されているようでもあります。食育基本法7条は「食育は,我が国の伝統のある優れた食文化,地域の特性を生かした食生活〔略〕に配意し,〔略〕農山漁村の活性化と我が国の食料自給率の向上に資するよう,推進されなければならない。」と規定しています(同法前文第4項も「食料自給率の向上に寄与すること」がされることを期待)。この「食料自給率の向上」がどんどん進めば,最終的には外国産食料は我が豊葦原瑞穂国においては一切消費されない姿となります(食育基本法前文第3項は「「食」の海外への依存」を「問題」であるものと認識)。であれば,「様々な経験を通じて」の「様々な経験」は,国産食品に係る範囲内においてという制限下のものであるということなのでしょう。とはいえ,「(ここに)大気都比売(おほげつひめ)自鼻口及(はなくちまたしり)(より)種種(くさぐさの)味物(ためつものを)取出(),種種作具(つくりそなへ)()(たてまつる)」(古事記』(岩波文庫・1963年)上巻)というふうに,我が国における食料は本来,女神の鼻孔,口腔及び肛門から安易かつ豊富に出て来るはずものでありましたから,外国の産物が食べられないことなどを心配するのは無用のことです。

また,「豊かな人間形成」がされた人間は,具体的には,「食生活が,自然の恩恵の上に成り立っており,また,食に関わる人々の様々な活動に支えられていることについて,感謝の念や理解が深ま」っている人間ということのようであります(食育基本法3条。また,同法前文第5項)。当該「感謝の念や理解」を端的に表明するためには,食事の際に祝福(benedicere)あるべし,さすれば少量の食材(quinque panes et duo pisces)でも豊かに満腹(saturatum esse)あるべしということになるのでしょうか。

 

 et acceptis quinque panibus et duobus piscibus

   intuens in caelum benedixit et fregit panes

   et dedit discipulis suis ut ponerent ante eos

   et duos pisces divisit omnibus

   et manducaverunt omnes et saturati sunt

 (secundum Marcum 6.41-42)

 

 なお,アメリカ合衆国の感謝祭(Thanksgiving)においては,感謝の対象は「自然の恩恵」でも「食に関わる人々」でもありません。

 

  …Washington also signed a proclamation for the first Thanksgiving on November 26,1789,declaring that “Almighty God” should be thanked for the abundant blessings bestowed on the American people, including victory in the war against England, creation of the Constitution, establishment of the new government, and the “tranquility, union, and plenty” that the country now enjoyed.

      (Chernow, Ron. Washington: a life. (2010) p.609)   

  ワシントンは,また,〔1789年〕1126日の最初の感謝祭のための宣言書に署名した。そこにおいては,対イングランド戦争における勝利,憲法の制定,新政府の設立並びに国家が現在享受している「安寧,統一及び豊穣」を含むアメリカ人民に与えられた惜しみない祝福に対して「全能の神」に感謝すべき旨が表明されていた。


 ところで,食について「自然の恩恵」や「食に関わる人々」に対して感謝すべしとする
2005年の我が食育基本法は,その60年前の先の大戦における敗戦によりもたらされた我が国における「我国体に戻り」たる「浅間しき次第」(1882年の明治天皇の軍人勅諭に見られる表現)を反映するものとも解し得るかもしれません。すなわち,皇室祭祀の新嘗祭に関する明治元年(
1868)十一月十五日の政府の布告は人民に対し「面々,毎日食し候米穀は,其元,天祖の賜物なる事を知り,御国恩のかたじけなき事を相わきまへ候はば,遊興安臥して在るべきにあらず。寒村僻邑の土民,雨を祈り晴を願ひ候も,必ず感応之有り,況や天下一同,至尊の御仁慮を体認し奉り,共に祈請し奉るに於ては,神祇の冥感,殊にすみやかなるべき事に候。」と「天祖の賜物」について「御国恩の辱き事を相弁へ」るべきことを訓戒していたところでしたが(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)69頁参照),食育基本法の文言からは,食が「天祖の賜物」であることも「御国恩の辱き事を相弁へ」るべきことも読み取り難くなっているからです。なお,上記布告での「天祖の賜物なる事」とは,「まず,皇国の稲穀は,天照大神,うつしき蒼生あおひとぐさの食して活すべきものなりと詔命あらせられ,天上に於て,,長田に殖えさせ給ひし稲を,皇孫降臨の時,下し給へる」との「神恩」の働きを意味します(村上68頁参照)。

 

3 我が国民の正しい在り方

 現在の我が国では「国民は,家庭,学校,保育所,地域その他の社会のあらゆる分野において,〔食育基本法の〕基本理念にのっとり,生涯にわたり健全な食生活の実現に自ら努めるとともに,食育の推進に寄与するよう努めるものとする。」との責務が全国民に負わされています(食育基本法13条)。この責務を果たそうと努めない者は非国民であるということになります。しかしながら,「健全な食生活」とは何かということがはっきりしなければ,愛国的国民は一向安心できません。また,「食育の推進に寄与」するためには具体的に何をすべきかが明らかでなくてはなりません。

 

4 第3次食育推進基本計画における具体的目標

 国の食育推進会議による第3次食育推進基本計画(2016年度から2020年度まで)を見てみましょう。

 第3次食育推進基本計画は,その第22において「食育の推進に当たっての目標」を掲げています。そこにある15の見出しは,①食育に関心を持っている国民を増やす,②朝食又は夕食を家族と一緒に食べる「共食」の回数を増やす(この「共食」は,トモグイと読んではいけないのでしょう。),③地域等で共食したいと思う人が共食する割合を増やす,④朝食を欠食する国民を減らす,⑤中学校における学校給食の実施率を上げる,⑥学校給食における地場産物等を使用する割合を増やす,⑦栄養バランスに配慮した食生活を実践する国民を増やす,⑧生活習慣病の予防や改善のために,ふだんから適正体重の維持や減塩等に気をつけた食生活を実践する国民を増やす,⑨ゆっくりよく噛んで食べる国民を増やす,⑩食育の推進に関わるボランティアの数を増やす,⑪農林漁業体験を経験した国民を増やす,⑫食品ロス削減のために何らかの行動をしている国民を増やす,⑬地域や家庭で受け継がれてきた伝統的な料理や作法等を継承し,伝えている国民を増やす,⑭食品の安全性について基礎的な知識を持ち,自ら判断する国民を増やす及び⑮推進計画を作成・実施している市町村を増やす,というものです。

 

1)食育に関心を持っている国民を増やす

 「食育に関心を持っている国民を増やす」との目標については,2015年度においては国民の75パーセントしか食育に関心を持っていなかったところ,2020年度までには90パーセント以上を目指すそうです。最終的には全国民が食育に関心を持たねばならないのです。日本国憲法19条には「思想及び良心の自由は,これを侵してはならない。」などと書いてありますが,食育に係る関心の有無それ自体に限れば,思想でもなければ良心でもないということでしょう。「「思想及び良心」の自由の保障すなわち沈黙の自由の保障の対象は宗教上の信仰に準ずべき世界観,人生観等個人の人格形成の核心をなすものに限られ,一般道徳上,常識上の事物の是非,善悪の判断や一定の目的のための手段,対策としての当不当の判断を含まない」とする長野地方裁判所昭和3962日判決(判時3748頁)を引用しつつ,当該判決の採用する憲法19条の解釈を是とする説があります(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)485486頁)。

 「食育に関心を持っている国民を増やす」ことにあるいはつながるであろうこのブログ記事を書いている筆者などは,「食育の推進に寄与するよう努め」ている(食育基本法13条)愛国的国民として,お上からほめていただけるものでしょうか。

 

2)朝食又は夕食を家族と一緒に食べる「共食」の回数を増やす

 「朝食又は夕食を家族と一緒に食べる「共食」の回数を増やす」ことについては,当該共食回数を2015年度の現状値週9.7回から2020年度は週11回以上にするそうです。これも将来的には週14回が達成されるべきものでしょう。婚姻の実体意思(真に婚姻をする意思)の内容は「常識的には,ローマで言われていたという「食卓と床をともにする関係」に入る意思といえる」とされており(星野英一『家族法』(放送大学教育振興会・1994年)55頁),更に「ローマ法における最も古い宗教上の婚姻方式は,「パン共用式婚姻(confarreatio)」と称するもので,ローマのパンの最古の形である「ファール(far)」を,儀式的に男女が共同で食した。」とのことですから(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法――ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)141頁),我が食育推進会議の婚姻観,ひいては家族観は古代ローマ以来の伝統的なものである,ということになるのでしょう。父たるもの,妻子を食わせるべし。

 

  Pater noster…

       panem nostrum supersubstantialem da nobis hodie

       (secundum Mattheum 6.9, 11)

  父ちゃん・・・腹ペコだからおいらたちのパンを今ちょうだい。

 

3)地域等で共食したいと思う人が共食する割合を増やす

「地域等で共食したいと思う人が共食する割合を増やす」ことについては,当該共食がされる割合を,2015年度の現状値64.6パーセントを2020年度には70パーセント以上にするそうです。「地域や所属するコミュニティ(職場等を含む)」とありますから(下線は筆者によるもの),仕事上の接待での共食も含まれるものと解してよいのでしょう。「家族との共食は難しいが,共食により食を通じたコミュニケーション等を図りたい」お得意さまについて,そのような思いを忖度(そんたく)して差し上げ,料理屋等で接待申し上げるのは,単なる利己的な営利営業活動といったまらないものにとどまるものではなく,我が国における食育の推進に寄与する活動でもあるのでした。

ところで,非婚少子化が進み伝統的家族の減少しつつある我が国においては,将来は,「彼らは共同食堂で共食し,駐屯地の兵士らのような共同生活を行うものとする。」(プラトン『国家』416 e)というところまで行くものかどうか。しかし,食育推進会議もさすがにそこまでは考えてはいないようです。

 

4)朝食を欠食する国民を減らす

「朝食を欠食する国民を減らす」ことについては,朝食を欠食する子供の割合を2015年度の現状値4.4パーセントから2020年度には零パーセントに,朝食を欠食する20歳代及び30歳代の男女の割合を2015年度の現状値24.7パーセントから2020年度には15パーセント以下にするそうです。40歳代以上となれば,朝食は食べなくてもよいようです(反対解釈)。それとも,40歳以上はもはや国民の数には入らないのでしょうか。確かに,40歳を過ぎた臣民には第二国民兵役すらも既にお役御免ではありました(1943111日改正前兵役法(昭和2年法律第47号)92項)。

しかし,そもそも朝食については「〔中世の〕修道院では,ローマ時代の慣習に従い,第9時(nona hora),すなわち午後3時に最も大切なお祈りをしてからその日の唯一の食事をした。〔略〕この時の食事をフランス語ではdéjeunerと言ったのである。ところが,厳しい労働のために,ただ1回の食事では空腹に悩まされることが多く,déjeunerまでに軽い食事をする習慣が生まれ,この食事をフランス語でpetit déjeunersmall breakfast)と呼んだ。今日では一般に「朝食」という意味をもつ。」ということではあったそうです(梅田修『英語の語源事典』(大修館書店・1990年)209頁)。厳格に一日一食をなお守る伝統主義的修道院において祈り,かつ,働く(orant et laborant)清らかな生活を送る若き僧尼らに対して,いやしくも日本国民たる者は必ず朝食を摂るべしと啓蒙・食育することは,信教の自由(日本国憲法20条1項前段)を侵す余計なお世話であるということにはならないのでしょうか。それとも,朝食を摂らないということは,そもそもからして我が国の安寧秩序を妨げることになるのか,臣民たるの義務に背くことになるのか(大日本帝国憲法28条参照)。いずれにせよ,30歳代前半の元肉体労働者系の男性がつい長いこと絶食してふらふらになっているのを見ると,ちゃんと朝から食事をしろよパンでいいからさ(でも石は食べられないよね),と声をかけるのが親切な心というものでしょう。

 

 Et cum jejunasset quadraginta diebus et quadraginta noctibus postea esuriit

   et accedens temptator dixit ei

   si Filius Dei es dic ut lapides isti panes fiant

   qui respondens dixit

   scriptum est

   non in pane solo vivet homo sed in omni verbo quod procedit de ore Dei

   

   vade Satanas

 (secundum Mattheum 4.2-4, 10) 

 

せっかくの親切な声かけに対して,偉い本には何やらが書いてあると理屈で返した上で相手を悪魔(Satanas)呼ばわりすることも,信教の自由の認めるところなのでしょう。

 

5)中学校における学校給食の実施率を上げる

 「中学校における学校給食の実施率を上げる」ことについては,2014年度の実施率現状値87.5パーセントを2020年度には90パーセント以上にするそうです。「栄養バランスのとれた豊かな食事」であり,かつ,「食事について理解を深め,望ましい食習慣を養う」ことのできる素晴らしい学校給食に対して,家人の作った弁当その他の食事はそうではない,ということゆえのようです。そうであればやはり,ちまちまと中学校に限ることはせず,プラトンの理想国ないしは古代スパルタのように,日本国民は全員,共同食堂で学校給食業者の提供する給食を共食することが究極の理想であるということになるようです。

 

更に〔古代スパルタのリュクールゴスは〕最も立派な政策を取り入れた。それは会食の制度である。市民たちは互ひに共通な一定の料理とパンのあるところに集まつて食事し,家で豪奢な臥椅子や食卓に依つて,暗い処で食を貪る獣のように召使ひや料理人の手で肥らされ,性格のみならず身体までも台無しにして,長い眠りや温浴や多くの安息や云はば日毎の看病を必要とするすべての欲望と奢侈に身を委ねるやうなことを許されなかつた。確かにこれは大事業であつた〔中略〕。家で先に食事を済ませて,満腹のまま会食に行くことは許されなかった。他の人々が念入りに見張りをしてゐて,自分たちと一緒に飲みも食べもしないものを,自制力のない,共通の食物を食べようとしない意気地無しだと非難したからである。(河野与一訳『プルターク英雄伝(一)』(岩波文庫・1952年)116117頁)

 

6)学校給食における地場産物等を使用する割合を増やす

「学校給食における地場産物等を使用する割合を増やす」ことについては,学校給食における地場産物(都道府県単位)を使用する割合を2014年度の現状値である26.9パーセントから2020年度には30パーセント以上に,学校給食における国産食材を使用する割合を2014年度における現状値77.3パーセントから2020年度には80パーセント以上にするそうです。「食料安全保障」の観点からは,これらの数字は多々益々弁ず,ということになるのでしょう。最終的には自給自足の江戸時代への復帰が理想,ということなのでしょう。

 

  Edo solum cibum Japonem.

 

   〔前略〕どの国でも食糧は重要なことで,船を使はないやうにその国で賄はねばならんのであります。それが世界の戦争国家の共通的な方法であります。 

   この日本において遠く南洋の天地から何十万トン何百万トンの船を使つて外米を輸入して,その外米を食はなければならんといふ食ひ方ではならんのであります。われわれは玄米でも何でも,無駄のないやうに食はなければならんのであります。国が亡んだら元も子もないのであります。我々は千早城に立て籠つた〔楠木〕正成の様に,畳を食つても生きて行かねばならぬのであります。然も肉がない,魚がないなどと,さういふことをいつて居つて一体この戦争が出来ると思つてゐてよいでせうか。われわれの生活を最小限度に切詰めて,さうしてその輸送力や凡てのエネルギーを,戦争に全部集中しなければならんのであります。〔後略〕

  (奥村喜和男(情報局次長)『尊皇攘夷の血戦』(旺文社・1943年)183184頁)

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 a tatami-eater facing the Imperial Palace, Tokyo


(7)栄養バランスに配慮した食生活を実践する国民を増やす
 「栄養バランスに配慮した食生活を実践する国民を増やす」ことについては,主食・主菜・副菜を組み合わせた食事を12回以上ほぼ毎日食べている国民の割合を2015年度の現状値57.7パーセントから2020年度には70パーセント以上にし,20歳代及び30歳代の男女については2015年度の現状値43.2パーセントから2020年度には55パーセント以上にするそうです。主食は米その他の穀物でしょうが,更に主菜及び副菜とあります。主菜は「魚,肉等」,副菜は「野菜,海藻等」であるようです(第3次食育推進基本計画の第331)注1)。

主食は,米よりも他の雑穀の方が何かとよいようです。

 

  〔前略〕食物を大切ニ可仕(つかまつるべく)候ニ付,雑穀専一ニ候(あいだ),麦(あわ)(ひえ)()大根,其外何に()も雑穀を作り,米を多く喰つ()し候ハぬ様に可仕(つかまつるべく)候,〔略〕大豆の葉あ()きの葉さゝ()の葉大角(ささ)()はまめ科の一年生植物で,さや・種子が食用になります。〕いもの落葉なと,むさとすて候儀ハ,もつたいなき事に候(慶安御触書(慶安二年(1649年)))

 

主菜として,牛肉,馬肉,犬肉,猿肉又は鶏肉を食べる者は,乱臣賊子です。

 

  庚寅,詔諸国曰,自今以後,〔中略〕莫食牛馬犬猿鶏之宍。以外不在禁例。若有犯者罪之。(『日本書紀』(新編日本古典文学全集(小学館・1998年))天武天皇四年(675年)四月庚寅(十七日)条)

  庚寅に諸国に(みことのり)して(のたま)はく,今より以後,〔中略〕牛・馬・犬・猿・鶏の(しし)を食ふこと莫れ。以外は禁例にあらず。し犯す者あらば罪せむ」とのたまふ。

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 乱臣賊子の食物:馬刺しユッケ

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 馬の次は,鹿(「持鹿献於二世曰。馬也。二世笑曰。丞相誤邪。謂鹿為馬。問左右。左右或黙或言馬。以阿順趙高。」『史記』秦始皇本紀)


 我が国では,畏くも天武天皇の詔において許されてある豚肉を食べるべきなのです。

 しかしながら,

    …

 et sus qui cum ungulam dividat non ruminat

    horum carnibus non vescemini nec cadavera contingetis quia inmunda sunt vobis

    (Liber Levitici 11.7-8)

 

豚さんは爪は割れているかもしれないけれども反芻はしないから食べてもいけないし死体に触ってもいけないんだよ,だって(きたな)いんだもーん,などとのたまう理屈っぽいへそ曲がりは,やはり「安寧秩序ヲ妨ケ」る輩でしょう。

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「様々な経験」4:旭川しょうゆ豚丼駅弁


8)生活習慣病の予防や改善のために,ふだんから適正体重の維持や減塩等に気をつけた食生活を実践する国民を増やす

「生活習慣病の予防や改善のために,ふだんから適正体重の維持や減塩等に気をつけた食生活を実践する国民を増やす」については,当該実践を行う国民の割合を2015年度の現状値69.4パーセントから2020年度には75パーセントにし,あわせて食品中の食塩や脂肪の低減に取り組む食品会社の登録数を2014年度の67社から2020年度には100社以上にするそうです。

「適正体重の維持・・・に気をつけた食生活を実践」しさえすればよいので,それでも適正体重を維持できずに「肥満ややせ」になった残念な姿をさらしていても直ちに非国民ということにはならないようです。また,単位ごとに食品中の食塩や脂肪が低減されていればよいので,物足りないなと思ったら,おかわりをして追加摂取すればよいのでしょう。

しかし,塩味であることが畏怖すべき存在との重いお約束になっている場合,そもそも減塩などという罪が赦されるのでしょうか。

 

  quicquid obtuleris sacrificii sale condies

       nec auferes sal foederis Dei tui de sacrificio tuo

       in omni oblatione offeres sal

       (Liber Levitici 2.13)

  上納した食品は何でも塩で味付けすべし。

  お前の親分である恐ろしい御方との契りの塩をお前の上納食品から欠かしてはならぬ。

  全ての貢の食品には塩を加えなければならぬ。

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 後鳥羽院ゆかりの水無瀬神宮(大阪府三島郡島本町)

 もしほやく(あま)もいき 遠島首)


(9)ゆっくりよく噛んで食べる国民を増やす
 「ゆっくりよく噛んで食べる国民を増やす」ことについては,そのような食べ方をする国民の割合を2015年度の現状値49.2パーセントから2020年度には55パーセント以上にするそうです。生きたまま踊り食いをされるシロウオなどは大変でしょう。

“Festina lente”(ゆっくり急げ)をモットーとしていた初代ローマ皇帝アウグストゥスでしたが,死を間近にして,陰鬱な2代目皇帝となるティベリウスに関して曰く。

 

  “Miserum populum R., qui sub tam lentis maxillis erit.”

  (Suetonius, Vita Tiberi 21)

  「あんなに(のろ)い顎で咀嚼されるローマ人は可哀想だ」(国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(上)』(岩波文庫・1986年)251頁)

 

10)食育の推進に関わるボランティアの数を増やす

「食育の推進に関わるボランティアの数を増やす」ことについては,食育の推進に関わるボランティア団体等において活動している国民の数を2014年度の現状値である34.4万人から2020年度は37万人以上にするそうです。きっちりとした「食生活改善推進員等のボランティア」のみがカウントされるようなので,このブログ記事などに漫筆を動かすのみの筆者などは員数外です。

 

11)農林漁業体験を経験した国民を増やす

「農林漁業体験を経験した国民を増やす」ことについては,当該経験をした国民(世帯)の割合を2015年度の現状値36.2パーセントから2020年度には40パーセント以上にするそうです。

これは,かつて中華人民共和国にあったという下放運動のようなものでしょうか。

しかし,「農林漁業体験」といっても,農林漁業従事労働者となって働かされるというわけでもなく,また,政策として農林漁業への新規参入が推進されるというわけでもないようです。

 

12)食品ロス削減のために何らかの行動をしている国民を増やす

「食品ロス削減のために何らかの行動をしている国民を増やす」ことについては,当該行動をしている国民の割合を2014年度の現状値67.4パーセントから2020年度には80パーセント以上にするそうです。当該「何らかの行動」には,次のような結果をもたらす食べ方に対してmottainai!と苦情を言うことも含まれるのでしょうか。

  

    et sustulerunt reliquias fragmentorum duodecim cofinos plenos et de piscibus

    (secundum Marcum 6.43)

 〔食後には〕12の大かごにいっぱいのパンのかけら及び魚の残りが取り集められた。

 

13)地域や家庭で受け継がれてきた伝統的な料理や作法等を継承し,伝えている国民を増やす

「地域や家庭で受け継がれてきた伝統的な料理や作法等を継承し,伝えている国民を増やす」ことについては,そのような国民の割合を2015年度の現状値41.6パーセントから2020年度には50パーセント以上にし,そのような20歳代及び30歳代の男女の割合を2015年度の現状値49.3パーセントから2020年度には60パーセント以上にするそうです。

現に存在する「地域や家庭」の「伝統的な料理や作法等」でさえあればたとえどんなものであってもそのまま継承されるべきものなのであって,変によその地域や家庭の真似をして,上品ぶったりかしこぶったりグルメぶったりカッコつけたりするんじゃねぇよ,ということでしょうか。

 

 われわれの子供時代のことを考へても,私は九州の田舎で育ちましたが,生魚といへば御祭の時か,正月に食つた位のものなのであります。簡単な質素な生活であつたのであります。(奥村194頁)

 

「主食であるごはんを中心に,魚,肉等の主菜,野菜,海藻等の副菜,牛乳・乳製品,果物等の多様な副食等を組み合わせた栄養バランスに優れた食生活」こそが「日本型食生活」であるとされていますが(第3次食育推進基本計画の第331)注1),これは,我が国の現実具体の歴史に根差すものではない思弁的構想物であるようです。

なお,「作法等」には「箸使い」が含まれています。しかしながら,魏志倭人伝には「食飲用籩豆手食」とあります。3世紀の倭人は,飲食に(へん)(とう)これは『角川新字源』によれば,「まつりや宴会に用いる器の名。籩は竹製で,果実などをもる。豆は木製で塩などをもる。」というものです。)は用いたものの,食べ方は手づかみ(手食)であったようです。箸を使うということは,我が国独自かつ有史以来連綿の「日本人の伝統的な食文化」というわけではないようです。とはいえ今や,正しく箸を使えぬ者は,非国民なのでしょう。

 

14)食品の安全性について基礎的な知識を持ち,自ら判断する国民を増やす

「食品の安全性について基礎的な知識を持ち,自ら判断する国民を増やす」ことについては,そのような国民の割合を2015年度の現状値72.0パーセントから2020年度には80パーセント以上にし,20歳代及び30歳代の男女については2015年度の現状値56.8パーセントから2020年度には65パーセント以上にするそうです。

12千万国民の3割弱が食品の安全性について基礎的な知識を持たず,又は食品の安全性について自ら判断できないというのですから,我が国においては食中毒が猖獗を極めているということが憂慮されます。しかしながら,厚生労働省のウェブサイトにある2017年の我が国の食中毒統計によると,同年中の食中毒発生件数は1014件で患者数は16464人,死者は3人だったそうです。家庭での食中毒に限ると,件数は100件,患者数は179人,死者2人ということでした。食中毒の発生件数が一番多かった場所は飲食店で598件,死者は1人でした。この数字を大きいと見るべきか,小さいと見るべきか。しかし,死はあってはならないということであれば,3を零にするための資源の投入をためらい,怠るわけにはいきません。人は,長い老後を生き続けねばなりません。

 

  abstulit clarum cita mors Achillem,

       longa Tithonum minuit senectus.

       (Horatius, Carmina 2.16.29)

  輝けるアキレウスを速やかな死が奪った。

  長い老後がティトノスを衰廃させた。

Tithonus
Tithonus in senectute longissima
 

15)推進計画を作成・実施している市町村を増やす

「推進計画を作成・実施している市町村を増やす」ことについては,当該作成・実施市町村の割合を2015年度の現状値76.7パーセントから2020年度には100パーセントにするそうです。食育基本法の文言上は市町村が市町村食育推進計画を作成することは努力義務にとどまるのですが(同法181項),食育の推進という素晴らしいことをすべきときに当たって,「いやこれは努力義務だから,努力しても食育推進計画が出来なければそれはそれでいいんです。」などとつまらぬ理屈を言って抵抗することは許されません。

 

5 「健康美」

食育基本法は一つの美のイデアを前提としています。すなわち,その第19条において,国及び地方公共団体は家庭における食育の推進に関して「健康美に関する知識の啓発」をするものとされているところです。
 しかしながら,この「健康美」のイデアは,なおはっきりしません。(ちなみに,健康の女神であるHygieiaないしはSalusは,容姿云々よりは蛇と一緒ということが特徴です。)

食育基本法案を審議する200546日の衆議院内閣委員会において,小宮山洋子委員が同法案19条に関して「だからそんな,料理教室とか健康美なんということまで,何で基本法でこんなことをやるんですか。」と怒りをこめて質疑したところ,提案者西川京子衆議院議員の答弁は「もちろんこれは一つの例示でありまして,そこに必ず行ってくれと言っているわけではないわけでございまして,あくまでもこれは特定の価値観を国民に押しつけるようなことは毛頭ございません。/そういう中で,やはりこういうメニューがあると,今現実に,そういうアンバランスな食生活をしている子供たちや若い人が大変ふえている現実が目の当たりにあるわけですね。そういう中で,できれば家庭,学校教育の場,そういうところでこういうことにお互いにもうちょっと積極的にかかわる中で,健全な生活を営めるような体づくり,こころの健康性,そういうものについてこういうメニューをそろえますよ,そういう程度と考えていただけたらいいと思います。」と飽くまで低姿勢でした(第162回国会衆議院内閣委員会議録第79頁)。低姿勢のゆえ積極的な定義付けはされていないのですが,少なくとも「健康美」の構成要素としては,「健全な生活を営めるような体」があって,「こころ」も「健康」であるということが含まれているようです。

「肥満」の増加及び「過度の痩身志向」が「問題」とされていますから(食育基本法前文第3項。また,同法20条),肥満者及び過度痩身者は「健康美」ではないということでしょう。しかし,「健康美」ではないからといって美ではないということではないのであって,「特定の価値観」が国民に押し付けられることはなく,「肥満美」及び「過度痩身美」も美としては「健康美」と平等の価値を有するものなのでしょう。実に価値観は様々であって,若くて健康な奴など不愉快だとまでのたまう気難しいおじさんも現に存在します。

 

 友とするにわろき者,七つあり。一つは高くやんごとなき人。二つには若き人。三つには病なく身強き人。四つには酒を好む人。五つにはたけく勇める(つはもの)。六つには虚言(そらごと)する人。七つには欲深き人。(『徒然草』第117段)

 

しかし,まあ,人それぞれです。酒嫌いの草食偏屈タイプは,またその好むように食事をすればよいのです。

 

  Sei guter Dinge, antwortete ihm Zarathustra, wie ich es bin. Bleibe bei deiner Sitte, du Trefflicher, malme deine Körner, trink dein Wasser, lobe deine Küche: wenn sie dich nur fröhlich macht!

(Das Abendmahl) 

 

水しか飲まないのならば仕方がありませんが,葡萄酒は結構なものです。疲労困憊からの急激な回復及び即興的健康。

 

  Wasser taugt auch nicht für Müde und Verwelkte: uns gebührt Wein, --- der erst giebt plötzliches Genesen und stegreife Gesundheit!

 

葡萄酒に羊肉。羊の肉は,天武天皇の禁制にも含まれてはいません。セージで味付けし,根菜及び果実並びに胡桃を添える。

 

  Aber der Mensch lebt nicht vom Brod allein, sondern auch vom Fleische guter Lämmer, deren ich zwei habe:

--- Die soll man geschwinde schlachten und würzig, mit Salbei, zubereiten: so liebe ich’s. Und auch an Wurzeln und Früchten fehlt es nicht, gut genug selbst für Lecker- und Schmeckerlinge; noch an Nüssen und andern Räthseln zum Knacken.

 

そして,陽気な宴会。
 骨つよく足かろき者の健康及び元気を賛美し,たけく勇み,欲深く嘯きます。

 

  Wer aber zu mir gehört, der muss von starken Knochen sein, auch von leichten Füssen, ---

      --- lustig zu Kriegen und Festen, kein Düsterling, kein Traum-Hans, bereit zum Schwersten wie zu seinem Feste, gesund und heil.

   Das Beste gehört den Meinen und mir; und giebt man’s uns nicht, so nehmen wir’s: --- die beste Nahrung, den reinsten Himmel, die stärksten Gedanken, die schönsten Fraun!  

   

  食は人の天なり。よく味はひを調へ知れる人,大きなる徳とすべし。(『徒然草』第122段)




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1 「感動」の法定化

 2002年サッカー・ワールド・カップ大会の決勝トーナメント1回戦における日本チーム対トルコ・チームの試合に係る同年6月18日の生中継テレビジョン放送を,友人らと一緒に,我が日本チームを熱く応援し,狂乱しながら観た結果,次のような想いを抱いた中年男は,非国民でしょうか。

 

  あの日・・・

  あの日・・・

  分かってしまった・・・!

  オレは・・・

  唐突に・・・

  分かってしまった・・・!

 

  感動などないっ・・・!

 

  あんなものに・・・

  感動などないのだ・・・!

  人一倍・・・

  そう・・・まわりの誰よりも大騒ぎしながら,

  オレは・・・

  胸の奥がどんどん冷えていくのを感じていた・・・!

  そうだ・・・

  そう・・・

  オレが求めているのは・・・

 

   「中田っ・・・!」

   「森島っ・・・!」

 

  っていうようなことじゃなくて・・・

  オレの鼓動・・・

  オレの歓喜。

  オレの咆哮。

  オレのオレによる,

  オレだけの・・・

  感動だったはずだ・・・!

 

  他人事じゃないか・・・!

  どんなに大がかりでも,あれは他人事だ・・・!

  他人の祭りだ・・・!

  いったい・・・

  いつまで続けるつもりなんだ・・・?

  こんな事を・・・!(福本伸行『最強伝説黒沢』第1話)

 

 これに対して,2011年8月24日からそれまでのスポーツ振興法(昭和36年法律第141号)が全部改正されたものである,新たな我がスポーツ基本法(平成23年法律第78号)は,その前文第5項において,次のように高らかに謳い上げています。

 

  〔前略〕国際競技大会における日本人選手の活躍は,国民に誇りと喜び,夢と感動を与え,国民のスポーツへの関心を高めるものである。これらを通じて,スポーツは,我が国社会に活力を生み出し,国民経済の発展に広く寄与するものである。〔後略〕

 

すなわち,我が国国権の最高機関たる国会(日本国憲法41条)が立法を通じて示した判断によると(ちなみに,スポーツ基本法は正に議員立法です。),「国際競技大会における日本人選手の活躍」を見ても「誇りと喜び」を感じず,「夢」を抱かず「感動」もしない者は,「国民」に非ずということになるようです。

福本伸行作品は,反日漫画なのでしょうか。

否。前記福本作品主人公に生じたところの「感動などないっ・・・!」との唐突な感覚については,日本チームとトルコ・チームとの当該試合において,日本チームが0対1で不甲斐なくも敗退したことが原因であったというべきです。

予選リーグ突破でさんざん期待を高めておいた挙句に決勝トーナメント1回戦であっさり零敗してしまう当該日本人選手らは,国際競技大会において「活躍」していたものとはいえません(「競」技大会なので,勝ち負けが争われ,したがって,勝つことが重要です。)。「活躍」なければ「感動」なし。これはスポーツ基本法からしても当り前のことです。そうであれば,国際競技大会における勝利なき日本人選手らは,何ら我ら国民の「誇り」の対象とはならず,罵声を浴びることなく無関心をもって遇されれば上々ということになるのでしょう。

 

2 健全な肉体と健全な精神

ところで,スポーツ基本法は,「国は,優秀なスポーツ選手及び指導者等〔スポーツの指導者その他スポーツの推進に寄与する人材(同法11条)〕が,生涯にわたりその有する能力を幅広く社会に生かすことができるよう,社会の各分野で活躍できる知識及び技能の習得に対する支援並びに活躍できる環境の整備の促進その他の必要な施策を講ずるものとする。」(同法25条2項)と規定していますが,国からの「生涯にわた」る当該支援の対象となるスポーツ選手は飽くまでも「優秀な」スポーツ選手です。ここでの優秀なスポーツ選手に係る「その有する能力」とは,健全な身体のみならず輝くばかりの健全な精神に裏打ちされたものなのでしょう(そうでなければそもそも「幅広く社会に生かす」べきものとはならないでしょう。なお「JOC強化指定選手を対象にした調査では,競技引退後の職業としてもっとも希望が多いのは「スポーツ指導者」である」そうです(日本スポーツ法学会編『詳解スポーツ基本法』(成文堂・2011年)189頁)。)。他方,国民に感動を与えられなかった優秀ではないスポーツ選手は,支援対象にはなりません。優秀なスポーツ選手に比べて精神の健全性がなお不十分だということになるからでしょうか。

 

mens sana in corpore sano. (Juvenalis, Saturae 10.356)

健全な精神は健全な肉体に宿る。

 

有名なユウェナリスの句は,「〔前略〕「身体を健全に保っておきさえすれば,精神なんていうものはおのずと健全になるものだ」と読める〔後略〕」ものです(柳沼重剛『ギリシア・ローマ名言集』(岩波文庫・2003年)112頁)。(ただし,原文の一部のみが切り取られて人口に膾炙したものだそうで,正確には“orandum est ut sit mens sana in corpore sano.”の形で引用されるべきものだそうです。「健全な精神が健全な肉体に宿るようにと祈られるべきである」が原意であって,“mens sana in corpore sano est.”との事実を述べる文ではありません。)

スポーツ基本法前文第2項は,伝ユウェナリスの“mens sana in corpore sano”原則に関して,「スポーツは,心身の健全な発達〔略〕等のために個人又は集団で行われる運動競技その他の身体活動であり,今日,国民が生涯にわたり心身ともに健康で文化的な生活を営む上で不可欠なものとなっている。」と宣言しています。スポーツは身体活動ですから第一次的には身体の健全な発達をもたらし(健全な肉体corpus sanum),その結果として精神(心)も健全に発達するものでしょう(mens sana)。しかして,スポーツは,心身ともに健康で文化的な生活を営む上で「不可欠」であるとされています。すなわち,スポーツなければ心身ともに健康で文化的な生活なし,という関係の存在が認定されているわけです。

 

3 スポーツ参加への熱きすゝめ

ということは,物臭なのか信念なのか何らかの理由でスポーツをしない者は,心身ともに健康で文化的な生活を営むことが不可能になりますから,日本国憲法25条1項によってありがたくも国民に与えられた「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を不逞にもなみする者ということになります。

 

  Il faut sauver les peoples malgré eux. (Napoléon Bonaparte)

  人民は,その意に反して救われねばならぬ。

  

 2011年8月23日以前の古いスポーツ振興法1条2項は,やや慎重に,「この法律の運用に当たつては,スポーツをすることを国民に強制し,又はスポーツを前項の目的〔「国民の心身の健全な発達と明るく豊かな国民生活の形成に寄与する」目的〕以外の目的のために利用することがあつてはならない。」と規定していましたが,スポーツをすることを強制することの禁止等に係る当該条項は,スポーツ基本法からは削られています。

「施策の方針」との見出しが付されたスポーツ振興法3条の第1項は,また,「国及び地方公共団体は,スポーツの振興に関する施策の実施に当たつては,国民の間において行われるスポーツに関する自発的な活動に協力しつつ,ひろく国民があらゆる機会とあらゆる場所において自主的にその適性及び健康状態に応じてスポーツをすることができるような諸条件の整備に努めなければならない。」と規定してなお国民の側からする「自発的な活動」を待つ受け身の姿勢を前提としていたようなのですが,「基本理念」との見出しが付されたスポーツ基本法2条の第1項は「スポーツは,これを通じて幸福で豊かな生活を営むことが人々の権利であることに鑑み,国民が生涯にわたりあらゆる機会とあらゆる場所において,自主的かつ自律的にその適性及び健康状態に応じて行なうことができるようにすることを旨として,推進されなければならない。」と規定して今や直接的にスポーツの推進がされる形になっています(要は「スポーツは・・・推進されなければならない。」ということです。)。「国,地方公共団体及びスポーツ団体」は,飽くまでも,「スポーツへの国民の参加及び支援を促進するように努めなければならない。」ので(スポーツ基本法6条),スポーツ嫌いだからとわがままを言ってもスポーツへの参加及び支援を促す熱い働きかけは止まりません。

 

4 スポーツの目的

 

(1)スポーツ基本法による拡大

スポーツ振興法の目的は「国民の心身の健全な発達と明るく豊かな国民生活の形成に寄与する」こと(同法1条1項)に限定されていましたが(同条2項後段),スポーツ基本法は欲張って,「国民の心身の健全な発達,明るく豊かな国民生活の形成」に加えて「活力ある社会の実現及び国際社会の調和ある発展に寄与すること」をも同法の目的にしています(同法1条)。スポーツの利用目的も限定的なものとはされていません(スポーツ振興法1条2項後段対照)。

 

(2)スポーツによる「活力ある社会の実現」

スポーツによる「活力ある社会の実現」の具体的イメージは,「スポーツは,人と人との交流及び地域と地域との交流を促進し,地域の一体感や活力を醸成するものであり,人間関係の希薄化等の問題を抱える地域社会の再生に寄与するものである。さらに,スポーツは,心身の健康の保持増進にも重要な役割を果たすものであり,健康で活力に満ちた長寿社会の実現に不可欠である。」というもの(スポーツ基本法前文第4項)等のようです。

その結果,「スポーツは,人々がその居住する地域において,主体的に協働することにより身近にスポーツに親しむことができるようにするとともに,これを通じて,当該地域における全ての世代の人々の交流が促進され,かつ,地域間の交流の基盤が形成されるものとなるよう推進されなければならない。」ということになって(スポーツ基本法2条3項),なかなか面倒臭い。

 

(3)スポーツによる「国際社会の調和ある発展」

スポーツによる「国際社会の調和ある発展」の具体的イメージは,「スポーツの国際的な交流や貢献が,国際相互理解を促進し,国際平和に大きく貢献するなど,スポーツは,我が国の国際的地位の向上にも極めて重要な役割を果たすものである。」というもののようです(スポーツ基本法前文第5項後段)。

しかし,サッカー・ワールド・カップ予選での両国チームの対戦を契機に勃発した1969年7月のエル・サルバドルとホンジュラスとの間のサッカー戦争というものもありましたから,スポーツが国際平和に常に直ちに貢献するとは限らないようなので,「国際相互理解を促進し,国際平和に大きく貢献」する国際スポーツ交流は,洗練された「接待ゴルフ」的なものが想定されているのでしょうか。確かに,我が国の内閣総理大臣は,アメリカ合衆国大統領と親しくゴルフをしつつ,「我が国の国際的地位の向上」に努めています。

 

 Playing golf with Prime Minister Abe and Hideki Matsuyama, two wonderful people!

   Donald J. Trump, @realDonaldTrump, November 4, 2017 (U.S. Time)

 

  While they were on the green at the swanky Kasumi[gaseki] Country Club on Sunday, Abe fell into a bunker and performed a ninja-like stunt – all without Trump’s knowledge.

   The Washington Post website (by Anna Fifield), November 8, 2017


  
Q Did you see Abe fall at the sand trap?

       PRESIDENT TRUMP: I didn’t. I say this: If that was him, he is one of the greatest gymnasts  because the way he – (laughter) – it was like a perfect – I never saw anything like that.

         Remarks by President Trump in Press Gaggle aboard Air Force One en route Hanoi, Vietnam (November 11, 2017) whitehouse.gov

 

七転び八起き

そうであれば,むきになって日本人選手による勝利の独占ばかりを目指して諸外国の不興をかってはいけないように思われます。しかし,この点,スポーツ基本法2条6項は「大人の対応」的ではない条項です。「スポーツは,我が国のスポーツ選手(プロスポーツの選手を含む。以下同じ。)が国際競技大会(オリンピック競技大会,パラリンピック競技大会その他の国際的な規模のスポーツの競技会をいう。以下同じ。)又は全国的な規模のスポーツの競技会において優秀な成績を収めることができるよう,スポーツに関する競技水準(以下「競技水準」という。)の向上に資する諸施策相互の有機的な連携を図りつつ,効果的に推進されなければならない。」と規定されています。文部科学大臣が2017年3月24日に定めた第2期スポーツ基本計画(平成29年度~平成33年度)(スポーツ基本法9条1項に基づくもの)においては,「政策目標」として,「日本オリンピック委員会(JOC)及び日本パラリンピック委員会(JPC)の設定したメダル獲得目標を踏まえつつ,我が国のトップアスリートが,オリンピック・パラリンピックにおいて過去最高の金メダル数を獲得する等優秀な成績を収めることができるよう支援する。」と記されています(第3章3)。

なお,プロスポーツの選手についても,スポーツ基本法2条6項の括弧書きによってアマチュアのスポーツ選手と同様に取り扱われることになっています。この点,スポーツ振興法3条2項は「この法律に規定するスポーツの振興に関する施策は,営利のためのスポーツを振興するためのものではない。」と規定していたところです。

 

(4)勝ちにこだわるべき競技水準重視主義

 プロスポーツの選手は,スポーツ振興法においては,その第16条の2で「国及び地方公共団体は,スポーツの振興のための措置を講ずるに当たつては,プロスポーツの選手の高度な競技技術が我が国におけるスポーツに関する競技水準の向上及びスポーツの普及に重要な役割を果たしていることにかんがみ,その活用について適切な配慮をするように努めなければならない。」との形で登場していました。「競技技術」が高度だからプロスポーツの選手も活用をするに足りる,ということです。「技」は定義上優劣を争うものであって勝ち負けがありますから,「競技技術」が高度なプロスポーツの選手とはよく勝つプロスポーツの選手ということであり,「スポーツに関する競技水準の向上」ということはスポーツ競技で勝てるようにするということでしょう。スポーツ競技で勝てば,当該「スポーツの普及」は後からついてくる,という発想だったのでしょう。なお,枝番号であることから分かるとおり,スポーツ振興法16条の2は1961年の制定当初にはなかった条文で,1998年の平成10年法律第65号によって後から挿入されたものです。

 スポーツ振興法16条の2と3条2項との関係については,1998年2月17日の参議院文教・科学委員会において,馳浩委員から「本法律案の16条の2はプロ選手の協力を仰ぐ形になっておりまして,すなわちプロ選手の技術指導に期待しております。この点は非常によいことと評価したいと思います。/しかし,プロ選手からの恩恵を受けることを考えながらも,3条において「この法律に規定するスポーツの振興に関する施策は,営利のためのスポーツを振興するためのものではない。」,プロスポーツの振興はこの法律では無関係だとうたっております。これは語弊があるかもしれませんが,プロ選手の技術指導等の恩恵を受けることを念頭に置きながらも,第3条があることによってプロ選手,プロ協会に対して恩をあだで返すような,非常に国や自治体は虫がよ過ぎるのではないかというふうな印象を受けますが,この点についてどうお考えでしょうか。」との質疑がありました。

 スポーツ振興法においては,競技水準の向上は同法16条の2に出て来る程度でした。同法14条は「国及び地方公共団体は,わが国のスポーツの水準を国際的に高いものにするため,必要な措置を講ずるよう努めなければならない。」と規定していましたが,努力義務にとどまるとともに,「スポーツの水準」という漠とした言い方を採用して具体的な「競技水準」の向上云々にまでは言及していません。

 これに対してスポーツ基本法においては,「競技水準」の語が頻出します(2条6項,5条1項,12条1項,16条2項,18条,19条及び28条並びに第3章第3節節名)。およそスポーツ団体(スポーツの振興のための事業を行うことを主たる目的とする団体(スポーツ基本法2条2項括弧書き))たるものはちんたらのどかにスポーツの普及をすることにとどまることなく「競技水準の向上」にも「重要な役割」を果たすべきものと位置付けられ(同法5条1項),国及び地方公共団体の努力義務の対象たるスポーツ施設整備等はのんびり「国民が身近にスポーツに親しむことができるようにする」ためのみならず厳しく「競技水準の向上を図ることができるよう」にするためにも行われるべきものとされ(同法12条1項),「競技水準の向上を図るための調査研究の成果及び取組の状況に関する〔略〕国の内外の情報の収集,整理及び活用について必要な施策を講ずる」ことまでをも国がするものとされ(同法16条2項),更に国は「スポーツ産業の事業者」が「スポーツの普及又は競技水準の向上」を図る上で重要な役割を果たすことを認め(同法18条),国及び地方公共団体による「スポーツに係る国際的な交流及び貢献を推進」するための施策は端的に「我が国の競技水準の向上を図るよう努める」ことの一環であるとされ(同法19条),並びに企業は事業でお金儲け,学生は学問が本分であるように思われるにもかかわらず「国は,スポーツの普及又は競技水準の向上を図る上で企業のスポーツチーム等が果たす役割の重要性に鑑み,企業,大学等によるスポーツへの支援に必要な施策を講ずるもの」とまでされています(同法28条。同条については,大学スポーツ支援に関して「具体的なことはまったく不明であるし,そもそも法律で規定する必要があるのか疑問である。」と評されています(日本スポーツ法学会編61頁)。)。

 「国は,優秀なスポーツ選手を確保し,及び育成するため,〔略〕必要な施策を講ずるものとする。」ということであれば(スポーツ基本法25条1項),外国選手に対して次々と勝利を重ねる「優秀なスポーツ選手」は,今や国家的に期待される日本の宝なのでしょう。

 スポーツ振興法15条は「国及び地方公共団体は,スポーツの優秀な成績を収めた者及びスポーツの振興に寄与した者の顕彰に努めなければならない。」と規定していましたが,スポーツ基本法20条は「国及び地方公共団体は,スポーツの競技会において優秀な成績を収めた者及びスポーツの発展に寄与した者の顕彰に努めなければならない。」と一部修正しています。顕彰に値する「スポーツの優秀な成績」とは「スポーツの競技会」における「優秀な成績」,すなわちスポーツ競技における勝利でしかあり得ない,ということを明らかにしたという趣旨なのでしょう(日本スポーツ法学会編127頁参照)。
 「日本スポーツ法学会」も,スポーツの要素は競争であるとの認識を有しているようです。「スポーツについて,本学会〔日本スポーツ法学会〕の初代会長であった故千葉正士先生は「一定の規則の下で,特殊な象徴的様式の実現をめざす,特定の身体行動による競争」と定義し(千葉正士=濱野吉生編『スポーツ法学入門』6頁(1995年))」ていたとのことです(日本スポーツ法学会編・はしがきⅰ)。

 

5 体育の日と被収容者等のスポーツを通じて幸福で豊かな生活を営む権利との関係

 

(1)スポーツの日から体育の日へ

 スポーツ基本法においては,スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことが権利である旨謳われるとともに(同法2条1項,前文第2項),「国及び地方公共団体は,国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)第2条に規定する体育の日において,国民の間に広くスポーツについての関心と理解を深め,かつ,積極的にスポーツを行う意欲を高揚するような行事を実施するよう努めるとともに,広く国民があらゆる地域でそれぞれその生活の実情に即してスポーツを行うことができるような行事が実施されるよう,必要な施策を講じ,及び援助を行うよう努めなければならない。」と規定しています(スポーツ基本法23条。努力規定なのは,せっかくの「国民の祝日」の休日(国民の祝日に関する法律3条1項)に行事があるのは,お役人さま方にとってしんどいからでしょうか。)。これは,1961年の成立当初のスポーツ振興法5条に「国民の間にひろくスポーツについての理解と関心を深めるとともに積極的にスポーツをする意欲を高揚するため,スポーツの日を設ける。/スポーツの日は,10月の第1土曜日とする。/国及び地方公共団体は,スポーツの日の趣旨にふさわしい事業を実施するとともに,この日において,ひろく国民があらゆる地域及び職域でそれぞれその生活の実情に即してスポーツをすることができるような行事が実施されるよう,必要な措置を講じ,及び援助を行なうものとする。」と規定されていたものを承けたものです。当時のスポーツの日は「国民の祝日」ではなかったわけで,したがって休日ではありませんでした。
 体育の日が建国記念の日及び敬老の日と共に「国民の祝日」に加えられたのは,
1966年の昭和41年法律第86号によってでした(同法によるスポーツ振興法5条のスポーツの日及び老人福祉法(昭和38年法律第133号)5条の老人の日の各「国民の祝日」化は,政治的に大議論となった建国記念の日を「国民の祝日」に加えることを呑んでもらうためのいわば甘いオブラートだったのでしょう。)。体育の日の趣旨は,「スポーツにしたしみ,健康な心身をつちかう」となっています(国民の祝日に関する法律2条)。その後の体育の日及び敬老の日関係の法改正を見ると,1998年の平成10年法律第141号によって体育の日は1010日から10月の第2月曜日に変更になり(スポーツ振興法においてスポーツの日が復活することはなし。),他方,2001年の平成13年法律第59号によって敬老の日が9月15日から9月の第3月曜日に変更されるとともに,9月15日の老人の日が老人福祉法5条において復活しています。

 

(2)体育の日における被収容者等の運動

しかし,国民の祝日に関する法律2条及びスポーツ基本法23条は,刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律(平成17年法律第50号)との関係でいささか皮肉な規定となっています。

 刑事施設の被収容者(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律2条1号),留置施設の被留置者(同条2号)及び海上保安留置施設の海上保安被留置者(同条3号)も日本国民である限りにおいては,スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営む権利を有するはずです(スポーツ基本法2条1項,前文第2項)。これに対応して,刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律57条1項本文は「被収容者には,日曜日その他法務省令で定める日を除き,できる限り戸外で,その健康を保持するため適切な運動を行う機会を与えなければならない。」と規定しており,当該規定は被留置者について準用され(同法204条。「法務省令」を「内閣府令」に読み替える。),海上保安被留置者については「海上保安被留置者には,国土交通省令で定めるところにより,その健康を保持するための適切な運動を行う機会を与えなければならない。」と規定されています(同法255条)。
 しかるに,刑事施設及び被収容者の処遇に関する規則(平成
18年法務省令第57号)24条1項1号は国民の祝日に関する法律に規定する休日(同規則19条2項2号)をも刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律57条に規定する法務省令で定める日(被収容者に運動を行う機会を与えない日)とし,国家公安委員会関係刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律施行規則(平成19年内閣府令第42号)16条は同法204条において準用する同法57条の内閣府令で定める日(運動を実施しない日)を当該留置施設の属する都道府県の休日(のうち日曜日を除いた日)としています(国民の祝日に関する法律に規定する休日は都道府県の休日となります(地方自治法(昭和22年法律第67号)4条の2第2項2号)。)。すなわち,国民の祝日に関する法律の規定する休日たる体育の日には,同法2条及びスポーツ基本法23条の規定にかかわらず,被収容者及び被留置者は運動ができないのです。(ただし,海上保安留置施設及び海上保安被留置者の処遇に関する規則(平成19年国土交通省令第61号)11条柱書きは「法第255条に規定する運動の機会は,海上保安被留置者が運動を行いたい旨の申出をした場合において,次に掲げるところにより与えるものとする。」と規定し,「次に掲げるところ」は「運動の場所は,居室外の採光,通風等について適当な場所とすること。」(同規則11条1号)及び「運動の時間は,1日につき30分を下回らない範囲で海上保安留置業務管理者が定める時間とすること。」(同条2号)のみであるので,体育の日()あって(﹅﹅﹅)()海上保安被留置者は運動ができるようです。)

 

6 「スポーツ立国」とは何か

 

(1)スポーツ基本法前文の文言

 ところで,スポーツ基本法前文第7項は「国民生活における多面にわたるスポーツの果たす役割の重要性に鑑み,スポーツ立国を実現することは,21世紀の我が国の発展のために不可欠な重要課題である。」と記し,同第8項は「ここに,スポーツ立国の実現を目指し,国家戦略として,スポーツに関する施策を総合的かつ計画的に推進するため,この法律を制定する。」と結んでいます。ここでいう「スポーツ立国」とは何を意味するのでしょうか。(2011年6月16日の参議院文教科学委員会において江口克彦委員から「スポーツ立国」とは何かという端的な問いかけがあったのですが,これに対して髙木義明文部科学大臣は「スポーツ立国戦略」の説明をもって答えており,噛み合っていません。)

 

(2)“Sport Nation”

 文部科学省のウェブサイトにある非公式の英語への仮訳では,「スポーツ立国」は“sport nation”ということだそうです。手元の辞書(Oxford Advanced Learner’s Dictionary of Current English, 4th edition)によれば“make sport of somebody”との熟語があり,当該熟語は“mock or joke about somebody”の意味であるとありますから,“The ‘sport nation’ idealized by Japan’s Basic Act on Sport shall be realized through making sport of the Japanese Nation.”ということになるとまずいですね。生物学ではsport“plant or animal that deviates in some unusual way from the normal type”という意味で使うこともあるようです。確かに日本は特殊ではあるのでしょう。(20231224日追記:ところで実際に,日本は“sport nation”であるという趣旨の英語の用例がありました。先の大戦における我が国の惨敗からなお程もない1949,米国ニュー・ヨークでジョン・デイ社から白濠主義オーストラリアの外交官Wマクマホン・ボール(Macmahon Ball)の著書である『日本--敵か味方か?』(Japan--Enemy or Ally?)が出版されているのですが,コロンビア大学のナサニエル・ペッファー(Nathaniel Peffer)教授が同書に寄せた序文(Introduction)にそれはあったところです。いわく,"Modern Japan is a variant from national type. It is in politics the equivalent of a biplogical sport. It conforms to nothing in the history of modern nations, whether European or Western, industrial or agrarian. Certainly in Eastern Asia its development has been unique, especially in the last hundred years. [...]"と。すなわち,「近代日本は,国家型式(national type)における変異株である。それは,政治における,生物学的変種(sport)の等価物なのである。ヨーロッパ又は西側の,工業的あるいは農業的のいかんを問わぬ近代諸国民(modern nations)の歴史において起ったことに,それは対応することがないのである。確かに,東アジアにおいて,特に過去百年間,その発展は独特なものであった。」云々,ということでした。なお,現在文部科学省は“Sports Nation”との表記を採用しています。)

 

(3)スポーツ基本法における「スポーツ」   

 スポーツ基本法の本則には「スポーツ」の定義はないのですが,「心身の健全な発達,健康及び体力の保持増進,精神的な充足感の獲得,自律心その他の精神の(かん)養等のために個人又は集団で行われる運動競技その他の身体活動」ということなのでしょう(同法前文第2項)。スポーツ振興法2条では「この法律において「スポーツ」とは,運動競技及び身体運動(キャンプ活動その他の野外活動を含む。)であって,心身の健全な発達を図るためにされるものをいう。」と定義されていました。目的についていろいろとうるさいのは,推進ないしは振興されるべき「スポーツ」が邪悪な目的のものであっては困るからでしょう

 しかし,「スポーツは,次代を担う青少年の体力を向上させるとともに,他者を尊重しこれと協同する精神,公正さと規律を尊ぶ態度や克己心を培い,実践的な思考力や判断力を育む等人格の形成に大きな影響を及ぼすものである。」ということになると(スポーツ基本法前文第3項),真面目過ぎて息苦しく,楽しくないですね。無論,このような立派な効能は,「次代を担う」青少年にのみ期待されるものであって,人格が既に形成されてしまった残念な大人は,スポーツをしても,他者を尊重しこれと協同する精神,公正さと規律を尊ぶ態度や克己心などはもはやつゆ培われず,実践的な思考力や判断力も今更身に付かないのでしょう。期待値が低いということは,ある意味気楽ではあります。しかして,そのような大人から生まれた子であるのですから,「次代を担う」ほどの才質に恵まれない平凡な多数青少年にとっても事情は同様でしょう。(ただし,スポーツ基本法2条2項は,およそ「心身の成長の過程にある青少年」であれば「公正さと規律を尊ぶ態度や克己心を培う」スポーツの効能は全員に及ぶべきものであるという認識を前提としています。)なお,青少年が学校で行うべきものと国会が考えるスポーツの種類はスポーツ基本法17条の規定から窺知されるところです。同条においては「体育館,運動場,水泳プール,武道場その他のスポーツ施設の整備」が国及び地方公共団体の努力義務の対象とされていますから,「武道場」で行われるべき武道が含まれるようです。相手方に物理的実力を加えることによって勝つことを学ぶ術ですね。
  スポーツ基本法2条2項は児童の権利に関する条約(平成6年条約第2号)31条1項の「休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利」と「関連」するものであるとも説かれています(日本スポーツ法学会編24‐25頁)。しかし,大人びて「規律を尊」び「克己心を培」いつつ過ごすのでは,休息や余暇もなかなか子供らの疲れを回復させにくいようです。


(4)Sportの原義

 とはいえ,スポーツ基本法のように「スポーツ」をひたすら真面目一方かつ御立派なものと位置付けるのは,sportの本来の語義からの逸脱であるように思われます。

 

   sportdisport(遊ぶ;戯れる)から15世紀に語頭音消失(aphesis)によって生まれた言葉である。L dis- (away)L portareから造語されたOF desporter (to seek amusement)が借入されたものであり,この言葉の原義はto carry oneself in the opposite direction,すなわち,to carry oneself from one’s workである。(梅田修『英語の語源辞典』(大修館書店・1990年)306頁。なお,Lはラテン語,OFは古フランス語の意味です。)

 

 仕事(one’s work)から逃避して時間潰しの楽しみを求める(to seek amusement)のが本来のsportならば,sportで立国が可能なものかどうか。福沢諭吉流には立国の大本は瘠我慢ということになるのですが(『瘠我慢の説』),瘠我慢は楽しくはありません。「スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営む」ことと瘠我慢とは別でしょう。

 

  duas tantum res anxius optat,

     panem et circenses. (Juvenalis, Saturae 10.80)

  二つのことばかりを心配し望んでいる,すなわち,麵麭と大円形競技場における競技とを。

 
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 optamus, calidum canem et basipilam.

(5)頑張れ!日本ニッポン

 あるいは「スポーツ立国」とは,スポーツ競技における国別対抗性を是認した上で,「すでに一国の名を成すときは人民はますますこれに固着して自他の分を(あきらか)にし,他国他政府に対しては(あたか)も痛痒相感ぜざるがごとくなるのみならず,陰陽表裏共に自家の利益栄誉を主張してほとんど至らざるところなく,そのこれを主張することいよいよ盛なる者に附するに忠君愛国等の名を以てして,国民最上の美徳と称する」(『瘠我慢の説』)ところの現実に棹さして,我が国人民が日本人選手・日本チームの勝利栄誉を主張支援してほとんど至らざるところなきことを全からしめようとするものでしょうか。そうであれば,「スポーツは,我が国の国際的地位の向上にも極めて重要な役割を果たすものである」とは国際競技大会における日本人選手・日本チームの勝利栄誉あってのことであり,「国際相互理解」とは外国及び外国人が「我が国の国際的地位」の高きことを認めることであり,「国際平和」にとっては我が国の国際的地位の高さに係る他国による当該「国際相互理解」が前提として不可欠であるということになるようにも思われます(スポーツ基本法前文第5項)。2009年5月29日にスポーツ議員連盟(超党派)によって了承された「スポーツ基本法に関する論点整理」には,「スポーツの普遍的な価値や公共的な意義」の一つとして,「スポーツを通じた国際交流によって〔略〕健全な国家アイデンティティの育成に貢献すること」が挙げられていたところです。

 しかし,「国際相互理解」や「国際平和」に関する点については,2010年8月26日に文部科学大臣が決定した「スポーツ立国戦略」においては「スポーツの国際交流は,言語や生活習慣の違いを超え,同一ルールの下で互いに競い合うことなどにより,世界の人々との相互の理解を促進し,国際的な友好と親善に資する」ものであるとされています。一応もっともらしいのですが,「同一ルールの下」に共にいる姿となっていることによって深い「国際相互理解」等があたかも達成されているかのように見える(実は,双方とも,理解しているのは相手ではなく,「ルール」だけかもしれません。),ということだけのようにも思われます。どうでしょうか。

 

(6)「新たなスポーツ文化」

 前記「スポーツ立国戦略」は,「スポーツの意義や価値が広く国民に共有され,より多くの人々がスポーツの楽しさや感動を分かち,互いに支え合う「新たなスポーツ文化」を確立することを目指すものである。」とされています。それなら「スポーツ立国戦略」といわずに「新たなスポーツ文化確立戦略」とでもいってくれた方が分かりやすかったようです。

 「スポーツ立国戦略」では,「さらに多くの人々が様々な形態(する,観る,支える(育てる))でスポーツに積極的に参画できる環境を実現することを目指している。」ともいわれています。スポーツをする人がスポーツの「楽しさ」を感じて,スポーツを観る人がトップアスリートに「感動」して,それらの人々がトップアスリート等を支える(お金を出す等)といった形が想定されているのでしょうか(ただし,「支える(育てる)人」については,清貧に,「指導者やスポーツボランティア」といった人たちが一応考えられていたようです(日本スポーツ法学会編17頁)。)。いずれにせよ,「感動」は「スポーツ立国」における鍵概念であるようです。スポーツを観ることには「感動などないっ・・・!」と一方的に言い募られてしまっては全てがぶち壊しです。2018年の今年は,ロシアでサッカー・ワールド・カップ大会が開催されます

 

  頑張れ!日本(ニッポン)

 

  Libenter homines id quod volunt credunt. (Caesar, De Bello Gallico 3.18)

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp


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