2016年10月

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師直冢(兵庫県伊丹市池尻一丁目)

1 象徴的役割にふさわしい待遇を求める憲法的規範とそれに対する横着者の発言

 

 憲法は,「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く」(1条)と規定する。「象徴」とは,無形の抽象的な何ものかを,ある物象を通じて感得せしめるとされる場合に,その物象を前者との関係においていうものである。鳩が「平和」の,ペンが「文」の象徴とされるがごときがその例である。したがって,この「象徴」は元来社会心理的なものであって,それ自体としては法と関係を有しうる性質のものではない。にもかかわらず,「象徴」関係が法的に規定されることがあるのは,基本的には,右の社会心理の醸成・維持を願望してのことである。・・・

  日本国憲法が天皇をもって「日本国」「日本国民統合」の「象徴」とするのも,基本的には右のような意味において理解される(ここに「日本国の象徴」と「日本国民統合の象徴」とある点については諸説があるが,前者は一定の空間において時間的永続性をもって存在する抽象的な国家それ自体に関係し,後者はかかる国家を成り立たしめる多数の日本国民の統合という実体面に関係していわれているものと解される)。・・・ただ,ここで「象徴」とされるものは,国旗などと違って人格であるため,その地位にあるものに対して象徴的役割にふさわしい行動をとることの要請を随伴するものとみなければならず,また,そのような役割にふさわしい待遇がなされなければならないという規範的意味が存することも否定できないであろう。・・・(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)238239頁。なお,下線は筆者によるもの)

 

憲法的規範として,①象徴たる天皇の側においては「象徴的役割にふさわしい行動」をとるよう自制せられることが要請されており,②他方,国民の側においては「そのような役割」すなわち象徴的役割に「ふさわしい待遇」を 天皇に対してなすことが当然求められているということでしょう。(「国民としてもまた政府としても,象徴たるにふさわしい処遇といいますか,お取り扱いをするということは,その〔憲法の〕第1条から当然読み取れるということでございます。」との政府答弁があります(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第8号19頁)。)しかしながら,あさましいことには,象徴的役割にふさわしい待遇をなし申し上げるのを面倒臭がる横着者もいるもののようです。

 

「都に,王と云ふ人のましまして,若干(そこばく)の所領をふさげ〔多くの所領を占有し〕内裏(だいり),院の御所と云ふ所のありて,馬より()るるむつかしさよ〔うっとうしさよ〕。もし王なくて(かな)ふまじき道理あらば,木を以て作るか,(かね)を以て()るかして,生きたる院,国王をば,いづくへも皆流し捨てばや」(兵藤裕己校注『太平記(四)』(岩波文庫・2015年)280頁・第二十七巻7(なお,この岩波文庫版は西源院本を底本とする。))

 

2 皇室費,皇室用財産等

 「若干(そこばく)の所領をふさげ,内裏(だいり),院の御所と云ふ所のありて」についての不平は,毎年度の国の予算に皇室の費用が計上され憲法88条後段。皇室経済法(昭和22年法律第4号)3条は「予算に計上する皇室の費用は,これを内廷費,宮廷費及び皇族費とする。」と規定),その額が約62億円となること(宮内庁のウェッブ・サイトによると,皇室費の平成29年度歳出概算要求額は合計6238百万円です。内訳は,内廷費が3億24百万円,宮廷費が5684百万円,皇族費が2億30百万円です。そのほか平成28年度末の予算定員が1009人である宮内庁の宮内庁費が11157百万円要求されていますが,これは大部分人件費です。),国有財産中に「国において皇室の用に供し,又は供するものと決定したもの」である行政財産たる皇室用財産(国有財産法(昭和23年法律第73号)3条2項3号)が存在することなどについてのものでしょうか。

 

(1)内廷費

 皇室経済法4条1項は「内廷費は,天皇並びに皇后,太皇太后,皇太后,皇太子,皇太子妃,皇太孫,皇太孫妃及び内廷にあるその他の皇族の日常の費用その他内廷諸費に充てるものとし,別に法律で定める定額を毎年支出するものとする。」と規定し,当該定額について皇室経済法施行法(昭和22年法律第113号)7条は,「法第4条第1項の定額は,3億2400万円とする。」と規定しています(平成8年法律第8号による改正後)。「内廷費として支出されたものは,御手元金となるものとし,宮内庁の経理に属する公金としない」ものとされています(皇室経済法4条2項)。また,内廷費及び皇族費として受ける給付には所得税が課されない旨丁寧に規定されています(所得税法(昭和40年法律第33号)9条1項12号)。
 ちなみに,宮中祭祀は「純然たる皇室御一家の祭祀であつて,皇室の家長たる御地位に於いて天皇の行はせらるる所であり,国家とは何等の直接の関係の無いもの」となっているところ(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)555頁),天皇の祭祀に関与する「内廷職員とよばれる25名の掌典,内掌典は,天皇の私的使用人にすぎない」のですから(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)214頁),その報酬は内廷費から出るわけです。なお,今上天皇即位の際の大嘗祭(1990年)の費用は内廷費からではなく後に説明する公金たる宮廷費から出ていますが,大嘗祭は「皇室の宗教上の儀式」ということですから理由付けは難しく,「その際,皇位世襲制を採用する憲法のもとで皇位継承にあたっておこなわれる大嘗祭には,公的性格がある,と説明された(即位の礼準備委員会答申に基づく政府見解)。ここでは,政教分離違反の問題が生じないというための大嘗祭の私事性と,それへの公金支出を説明するための「公的性格」とを,皇位世襲制を援用することによって同時に説明しようと試みられている。」と指摘されています(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)124頁)。
 内廷費の定額は1947年当初は800万円でしたが,その内訳については,「御内帑金,これは御服装とかお身の回りの経費でございますが,その御内帑金が約50%,皇子の御養育費が約5%,供御供膳の費用,これはお食事とか御会食の経費でございますが,その供御供膳の経費が約10%,公でない御旅行の費用が約17%,お祭りの費用,用度の費用が残りというような説明がなされていた」とされています(第136回国会衆議院内閣委員会議録第3号3頁(角田素文政府委員(皇室経済主管)))。 

 

(2)皇族費

 内廷費の対象となる皇族以外の皇族に係る皇族費は,皇室経済法6条1項の定額が皇室経済法施行法8条において3050万円となっていますので(平成8年法律第8号による改正後),独立の生計を営む親王については年額3050万円(皇室経済法6条3項1号),その親王妃については年額1525万円(同項2号本文),独立の生計を営まない未成年の親王又は内親王には年額305万円(同項4号本文),独立の生計を営まない成年の親王又は内親王には年額915万円(同号ただし書),王,王妃及び女王に対してはそれぞれ親王,親王妃及び内親王に準じて算出した額の10分の7に相当する額の金額(同項5号)ということになります(なお,親王,内親王,王及び女王について皇室典範(昭和22年法律第3号)6条は,「嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫は,男を親王,女を内親王とし,3世以下の嫡男系嫡出の子孫は,男を王,女を女王とする。」と規定)。部屋住みの成年の王又は女王には,年額640万5千円という計算です。皇族費も,御手元金となり,宮内庁の経理に属する公金とはされません(皇室経済法6条8項)。
 1996年当時の国会答弁によると,各宮家には平均5人程度の宮家職員が雇用されており,給与は国家公務員の給与に準じた取扱いがされ,一般企業の従業員と同様に社会保険・労働保険に加入して事業主負担分については皇族費から支弁がされています(第136回国会衆議院内閣委員会議録第3号5頁(森幸男政府委員(宮内庁次長)))。
 なお,内廷費及び皇族費の定額改定は,1968年12月に開催された皇室経済に関する懇談会(皇室経済会議の構成員に総理府総務長官を加えた懇談会)において,物価の上昇(物件費対応)及び公務員給与の改善(人件費対応)に基づいて算出される増加見込額が定額の1割を超える場合に実施するという基本方針(「原則として,物価のすう勢,職員給与の改善その他の理由に基づいて算出される増加見込額が,定額の1割をこえる場合に,実施すること」)が了承されています(第136回国会衆議院内閣委員会議録第3号4頁・同国会参議院内閣委員会会議録第3号2頁(
角田政府委員))。 

 

(3)宮廷費及び会計検査院の検査

 宮廷費は,「内廷諸費以外の宮廷諸費に充てるものとし,宮内庁で,これを経理」します(皇室経済法5条)。宮廷費は宮内庁の経理に属する公金であるので,会計検査院の検査を受けることになるわけです。会計検査院法(昭和22年法律第73号)12条3項に基づく会計検査院事務総局事務分掌及び分課規則(昭和22年会計検査院規則第3号)の別表によると,宮内庁の検査に関する事務は会計検査院事務総局第一局財務検査第二課が分掌しているところです。平成21年度決算検査報告において,宮廷費について,「花園院宸記コロタイプ複製製造契約において,関係者との間の費用の負担割合を誤ったなどのため,予定価格が過大となり契約額が割高となっていたもの」8百万円分が指摘されています。

 これは,花園天皇に関する狼藉というべきか。しかし,才なく,徳なく,勢いがなくなれば,万世一系といえどもあるいは絶ゆることもあらんかと元徳二年(1330年)二月の『誡太子書』において甥の量仁親王(光厳天皇)に訓戒していた花園天皇としては,宮廷費に一つ不始末があるぞと臣下が騒いでもさして動揺せらるることはなかったものではないでしょうか。「余聞,天生蒸民樹之君司牧所以利人物也,下民之暗愚導之以仁義,凡俗之無知馭之以政術,苟無其才則不可処其位,人臣之一官失之猶謂之乱天事,鬼瞰無遁,何況君子之大宝乎」。また更に「而諂諛之愚人以為吾朝皇胤一統不同彼外国以徳遷鼎依勢逐鹿・・・纔受先代之余風,無大悪之失国,則守文之良主於是可足・・・士女之無知聞此語皆以為然」,「愚人不達時変,以昔年之泰平計今日之衰乱,謬哉・・・」云々。唐土の皇帝らとは異なっているので何もせずとも代々終身大位に当たってさえおれば我が国の万世一系は安泰だと奏上するのは諂諛(てんゆ)之愚人で,そうか安泰なのかと思わされるのは士女之無知だ,必要な才がないのであればその位におるべからず,時変・衰乱の今日にあっていつまでも昔のやり方でよいというのは愚人のあやまであるというようなこととされているのでしょう。

なお,大日本帝国憲法下では,「皇室経費に付いては,国家は唯定額を支出する義務が有るだけで,その支出した金額が如何に費消せらるゝかは,全然皇室内部の事に属し,政府も議会も会計検査院も之に関与する権能は無い。皇室の会計は凡て皇室の機関に依つて処理せられるのである。」ということにされていました(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)686頁)。明治皇室典範48条は「皇室経費ノ予算決算検査及其ノ他ノ規則ハ皇室会計法ノ定ムル所ニ依ル」と規定していましたが,この「皇室会計法」は「法」といっても帝国議会の協賛を経た法律ではありませんでした。1912年には,皇室令たる皇室会計令(明治45年皇室令第2号)が制定されています。皇室令は,1907年の公式令(明治40年勅令第6号)によって設けられた法形式で,「皇室典範ニ基ツク諸規則,宮内官制其ノ他皇室ノ事務ニ関シ勅定ヲ経タル規程ニシテ発表ヲ要スルモノ」です(同令5条1項)。

 

(4)ちょっとした比較

 天皇制維持のための毎年の皇室の費用約62億円及び宮内庁費約112億円は高いか安いか。ちなみに,「議会制民主政治における政党の機能の重要性にかんがみ・・・政党の政治活動の健全な発達の促進及びその公明と公正の確保を図り,もって民主政治の健全な発展に寄与することを目的」として(政党助成法(平成6年法律第5号)1条),国民一人当たり250円という計算で毎年交付される政党交付金の総額(同法7条1項)は,2016年につき31892884千円で,そのうち自由民主党分が1722079万円,民進党分が974388万円,公明党分が297209万8千円となっています(2016年4月1日総務省報道資料「平成28年分政党交付金の交付決定」)。

 

(5)国有財産及び旧御料

 GHQの意図に基づき「憲法施行当時の天皇の財産(御料)および皇族の財産を,憲法施行とともにすべて国有財産に編入するという意味」で日本国憲法88条前段は「すべて皇室財産は,国に属する。」と規定していますので(佐藤260頁),現在の「所領をふさげ」等の主体は,「王と云ふ人」ではなく,国ということになります(行政財産を管理するのは,当該行政財産を所管する各省各庁の長(衆議院議長,参議院議長,内閣総理大臣,各省大臣,最高裁判所長官及び会計検査院長)です(国有財産法5条,4条2項)。)。(なお,「皇室の御料」の沿革は,「明治維新の後は唯皇室敷地,伊勢神宮及び各山陵に属する土地及び皇族賜邸があつたのみで,その他には一般官有地の外に特別なる御料地は全く存しなかつたのであつたが,〔大日本帝国〕憲法の制定に先ち,将来憲政の施行せらるに当つては皇室の独立の財源を作る必要あることを認め,一般官有地の内から,御料地として宮内省の管轄に移されたものが頗る多く,皇室典範の制定せらるに及んでは,新に世伝御料の制をも設けられた〔明治皇室典範45条は「土地物件ノ世伝御料ト定メタルモノハ分割譲与スルコトヲ得ス」と規定〕。」というもので,「此等の御料から生ずる収入は,皇室に属する収入の重なる部分を為すもので,国庫より支出する皇室経費は其の以外に皇室の別途の収入となるもの」であったそうです(美濃部・精義685頁)。)「院の御所」は,太上天皇の住まいですから,天皇の生前退位を排除する皇室典範4条(「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」)の現在の解釈を前提とすると,問題にはなりません。

 (ちなみに,世伝御料は「皇室ノ世襲財産」で(皇室の家長が天皇),「世伝御料タル土地物件ハ法律上ノ不融通物タルモノニシテ,売買贈与等法律行為ノ目的物タルコトヲ得ズ,又公用徴収若クハ強制執行ノ目的物トナルコトナシ」とされていますが(美濃部・撮要229230頁),これにはなかなかの慮り(おもんぱかり)があったようです。すなわち,『皇室典範義解』は「(つつしみ)て按ずるに,世伝御料は皇室に係属す。天皇は之を後嗣に伝へ,皇統の遺物とし,随意に分割し又は譲与せらることを得ず。故に,〔父の〕後嵯峨天皇,〔その兄息子であって持明院統の祖である〕後深草天皇をして〔弟息子であって大覚寺統の祖である〕亀山天皇に位を伝へしめ,遺命を以て長講堂領二百八十所を後深草天皇の子孫に譲与ありたるが如きは,一時の変例にして将来に依るべきの典憲に非ざるなり。」と述べていますが(宮沢俊義校註『憲法義解』(岩波文庫・1940年)166頁),これは,南北朝期における皇統間の争いは,皇位のみならず御料の継承をもめぐるものとの側面もあったという認識を示唆するものでしょう。また,長講堂領については正に,「若干そこばくの所領をふさげ」ということになります。ただし,現在においては,御料は前記のとおり国有財産に編入されてしまっていて皇室の所有権から離れていますから,そういう点では南北朝期的事態の発生原因の一つは消えているというべきでしょうか。)

 

3 太上天皇襲撃の罪と罰

 「馬より()るるむつかしさ」といっても,さすがに「からからと笑うて,「なに院と云ふか。犬ならば射て置け」と云ふままに,三十余騎ありける郎等(ろうどう)ども,院の御車を真中(まんなか)()()め,索涯(なわぎわ)(まわ)して追物(おうもの)()にこそ射たりけれ。御牛飼(おんうしかい)(ながえ)を廻して御車を(つかまつ)らんとすれば,胸懸(むながい)を切られて(くびき)も折れたり。供奉(ぐぶ)雲客(うんかく),身を以て御車に()たる矢を防かんとするに,皆馬より射落とされて()()ず。(あまっさ)へ,これにもなほ飽き足らず,御車の下簾(したすだれ)かなぐり落とし,三十輻(みそのや)少々踏み折つて,(おの)が宿所へぞ帰りける。」(『太平記(四)』60頁・第二十三巻8)ということが許されないことはもちろんです。しかし,この場合,院(太上天皇)の身体に対する行為に係る刑罰はどうなるか。

 

(1)暴力行為等処罰に関する法律及び刑法

傷害の結果が生じていれば,「銃砲又ハ刀剣類」を用いたものとして暴力行為等処罰に関する法律(大正15年法律第60号)1条ノ2第1項に基づき1年以上15年以下の懲役に処し得るものとなるかといえば,「銃砲」にも「刀剣類」にも弓矢は含まれないようなので(銃砲刀剣類所持等取締法(昭和33年法律第6号)2条),やはり刑法(明治40年法律第45号)204条の傷害罪ということで15年以下の懲役又は50万円以下の罰金ということになるようです。ただし,常習としてしたものならば1年以上15年以下の懲役です(暴力行為等処罰に関する法律1条ノ3)。

なお,暴力行為等処罰に関する法律1条ノ3にいう常習性については「反復して犯罪行為を行なう習癖をいい(常習賭博についての,大審院昭和2・6・29集6・238参照),それは行為の特性ではなく,行為者の属性であると解せられており,かような性癖・習癖を有する者を常習者または常習犯人とよぶ」と説明されています(安西搵『特別刑法〔7〕』(警察時報社・1988年)54頁)。(ついでながら更に述べれば,常習性は,必要的保釈に係る刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)89条3号においても同様に解すべきでしょう。この場合,業として行うことは,習癖の発現として行うこと(安西55頁参照)には当たらないでしょう。筆者は,「業として」長期3年以上の懲役又は禁錮に当たる罪を犯した被告人について,保釈許可決定を得たことがあります。)

傷害の結果が生ぜず暴行にとどまれば(刑法208条参照),「団体若ハ多衆ノ威力ヲ示シ・・・又ハ兇器ヲ示シ若ハ数人共同シテ」行っていますから,暴力行為等処罰に関する法律1条により3年以下の懲役又は30万円以下の罰金ということになります。暴行を常習として行ったのならば3月以上5年以下の懲役です(暴力行為等処罰に関する法律1条ノ3)。

院に傷害が生じたかどうかが明らかではないこと,また,「猛将として知られ,青野原合戦で活躍」した「元来(もとより)酔狂(すいきょう)の者」であって「この(ころ)特に世を世ともせざ」るものであっても(『太平記(四)』59頁),それだけで直ちに暴力行為を累行する習癖が同人にあるものと断定してよいものかどうか躊躇されることといった点に鑑みて保守的に判断すると,刑罰は3年以下の懲役又は30万円以下の罰金ということになりましょうが,少々軽いようにも思われます(しかし,平安時代の花山院襲撃事件の下手人である藤原伊周・隆家兄弟は「むつかし」いこともなく大宰府及び出雲国にそれぞれ左遷で済んでいますから,むしろ重過ぎるというべきか。)。

 

(2)皇室ニ対スル罪

この点,昭和22年法律第124号によって19471115日から削除される前の刑法73条又は75条によれば,太上天皇襲撃事件の犯人は院に「危害ヲ加ヘタル者」としてすっぱりと死刑とされたことでしょう。皇室ニ対スル罪に係る両条における「危害(・・)とは生命・身体に対する侵害又は其の危険を謂ふ。」とされています(小野清一郎『刑法講義各論』(有斐閣・1928年)7頁)。現実にも康永元年(1342年)の光厳院襲撃犯である土岐頼遠は,「六条河原にて首を刎ね」られています(『太平記(四)』62頁)。ただし,太上天皇は「天皇,太皇太后,皇太后,皇后,皇太子又ハ皇太孫」に含まれるものとして刑法旧73条を適用するか,その他の皇族として同法旧75条を適用するかの問題が残っています。

 

4 象徴の必要性

ところで,前記横着者は,「王なくて(かな)ふまじき道理あらば」と認容的な言葉も発していますから,我が国体においては「日本国及び日本国民統合の象徴」(2012年4月27日決定の自由民主党日本国憲法改正草案1条の文言)の存在が不可欠であるということを完全に否認するものではないのでしょう。「日本国は,長い歴史と固有の文化を持ち,国民統合の象徴である天皇を戴く国家」なのであります(自由民主党日本国憲法改正草案前文)。

 

5 国王遺棄及び「金を以て鋳」た象徴の例

 「木を以て作るか,(かね)を以て()るかして,生きたる院,国王をば,いづくへも皆流し捨てばや」という発言は,王を移棄するぞということなのでしょうが,神聖王家の王を遺棄去って代わりに木造又は金で鋳造した御神体(象徴)を奉戴するという方法も含まれるのでしょう。後者については次のような前例がありますが,余り快適な結果にはならなかったようです。

 

 かくてイスラエル(みな)〔レハベアム。同王は,ソロモンの子,すなわちダビデの孫〕(おのれ)(きか)ざるを見たり(ここ)において(たみ)王に答へて(いひ)けるは我儕(われら)ダビデの(うち)(なに)(ぶん)あらんやヱサイ〔ダビデの父〕の子の(うち)に産業なしイスラエルよ(なんぢ)()天幕(てんまく)に帰れダビデよ(いま)(なんぢ)の家を視よと(しか)してイスラエルは(その)天幕に去りゆけり

 然れどもユダの諸邑(まちまち)(すめ)るイスラエルの子孫(ひとびと)の上にはレハベアム(その)王となれり

 レハベアム王徴募頭(ちやうぼがしら)なるアドラムを遣はしけるにイスラエル(みな)石にて彼を(うち)(しな)しめたればレハベアム王急ぎて(その)車に登りエルサレムに逃れたり

 (かく)イスラエル,ダビデの家に背きて今日にいたる 

(列王紀略上第121619

 

古代イスラエルでも王は臣民から推戴されるものだったようです。紀元前10世紀のソロモン王の死後その息子レハベアムを国王に推戴するためシケムで集会があった際,臣民の側からソロモン王時代の重い負担を軽減してくれとの請願があったところ,舐められてはならぬと思ったものか,偉大な親父の貫目に負けじとレハベアムは,お前らの負担をむしろもっと重くしてやると答えてしまったのでした。そこで,ソロモンの王国は,ダビデ王朝に反発して離反した北の十部族のイスラエル王国と,引き続きダビデ王朝の下に留まった南のユダ王国(ユダはダビデの出身部族)との二つに分裂したというわけです。イスラエル王国の初代国王としては,王位を窺う者として,ソロモン王の生前エジプトに逃れていたヤラベアムが推戴されました(列王紀略上第1220)。ところが,

 

(ここ)にヤラベアム(その)心に(いひ)けるは国は今ダビデの家に帰らん

(もし)此民(このたみ)エルサレムにあるヱホバの家に礼物(そなへもの)(ささ)げんとて上らば(この)(たみ)の心ユダの王なる(その)(しゅ)レハベアムに帰りて我を殺しユダの王レハベアムに帰らんと

(ここ)に於て王計議(はかり)(ふたつ)の金の(こうし)を造り人々に(いひ)けるは(なんぢ)らのエルサレムに上ること既に(たれ)りイスラエルよ(なんぢ)をエジトの地より導き上りし汝の神を視よと

(しか)して(かれ)(ひとつ)をベテルに()(ひとつ)をダンに(おけ)

此事(このこと)罪となれりそ(たみ)ダンに(まで)(ゆき)(その)(ひとつ)の前に(まうで)たればなり

(列王紀略上第122630

 

「時代の隔たりや権力の規模とかかわりなく,およそ王権は,宗教的基盤を離れては存在しえない」ところです(村上4頁)。新たに独立したイスラエル王国の初代王ヤラベアムとしては,ダビデの神聖王家が擁する宗教的権威に対抗するために,「(かね)を以て()」った(こうし)2体必要とたのでした。

けれども,「(かね)を以て()」った(こうし)では,「生前退位」云々といった面倒はないものの生きて務めを果たしてくれるものではなく,やはり霊験が不足するのか,ヤラベアムの王朝は2代目で断絶してしまいました。

 

ユダの王アサの第二年にヤラベアムの子ナダブ,イスラエルの王と()り二年イスラエルを治めたり

彼ヱホバの目のまへに悪を(なし)(その)父の道に歩行(あゆ)(その)イスラエルに犯させたる罪を行へり

(ここ)にイツサカルの家のアヒヤの子バアシヤ彼に敵して党を結びペリシテ人に属するギベトンにて彼を(うて)()はナダブとイスラエル(みな)ギベトンを囲み()たればなり

ユダの王アサの第三年にバアシヤ彼を殺し彼に代りて王となれり

バアシヤ王となれる時ヤラベアムの全家を撃ち気息(いき)ある者は一人もヤラベアムに残さずして尽く之を(ほろぼ)せり

(列王紀略上第152529

 

ヤラベアム王朝を滅ぼしたバアシヤの王朝も,2代目が暗殺され,全家が滅ぼされて断絶します(列王紀略上第161012)。イスラエル王国ではその後最後まで頻繁に王朝交代が生ずることになりました(同王国は前721年頃にアッシリアに滅ぼされ, その構成部族は離散して「失われた十支族」となる。)。これに対してダビデ神聖王家のユダ王国は,同一王朝の下に前587年頃まで存続しました(バビロン捕囚となったものの, 後に帰還。)。神聖王家を戴く方が,「(かね)を以て()」った(こうし)を戴くよりも安定するのだと言うのは即断でしょうか。

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 こちらは,銅を以て鋳った牛(東京都文京区湯島神社)

6 妙吉侍者対高師直・師泰兄弟及び不敬罪

さて,本稿における前記横着者は,一般に高武蔵(こうのむさし)(のかみ)師直(もろなお)であるとされています。しかしながら発言主体を明示せずに書かれた『太平記』の当該部分の文からは,その兄弟である越後守(もろ)(やす)の発言であるという読み方も排除できないようです。「天皇・・・ニ対シ不敬ノ行為アリタル者」として3月以上5年以下の懲役に処せられるべき不敬罪(刑法旧74条1項)を犯したということになるようですが,このことは,高師直にとっての濡れ衣である可能性はないでしょうか。

そもそも,高師直・師泰兄弟に帰せられる当該発言は,(みょう)(きつ)侍者(じしゃ)とい,高僧・夢窓疎石の同門であることがわずかな取り柄といえども道行(どうぎょう)ともに足らずして,われ程の(がく)()の者なしと思」っている慢心の仏僧(『太平記(四)』170頁・第二十六巻2)が,足利直義に告げ口をしたものです。妙吉の人となり及び学問は,兄弟弟子の夢窓疎石の成功を「見て,羨ましきことに思ひければ,仁和寺に()一房(いちぼう)とて外法(げほう)成就の人のありけるに,(だぎ)尼天(にてん)の法を習ひて,三七日(さんしちにち)行ひけるに,頓法(とんぽう)立ちどころに成就して,心に願ふ事(いささ)かも(かな)はずと云ふ事なし。」なったというものですが(『太平記(四)』267268頁・第二十七巻5),有名人(夢窓疎石)の出るような大学に入ったものの,学者としての見栄えばかりを求める人柄で(「羨ましきことに思ひ」),そのくせ腰を入れ年月をかけて学問を成就する根気及び能力がないものか,優秀な学者・実務家が集まって伝統的仏法に係る主要経典の解釈に携わる正統的な解釈学等の学問分野からは脱落して「外法」に踏み入り,速習可能で(「三七日」すなわち21日学ぶだけ),かつ,すぐ目先の願望確保に役立つであろう浮華な流行的分野(「頓法」は,「速やかに願望を成就する修法」)に飛びついて専攻し,咜祇(だぎ)尼天(にてん)が云々と一見難解・結局意味不明禅語的言辞をもって衆人をくらまし自己を大きく見せようとばかりする,一種さもしい似非学者といったような人物だったのでしょう。夢窓疎石が妙吉を,自分に代わる禅の教師として「語録なんどをかひがひしく沙汰し,祖師〔達磨大師〕の心印をも(じき)に承当し候はんずる事,恐らくは恥づべき人〔うわまわる人〕も候は」ずと足利直義に推薦し,「直義朝臣,一度(ひとたび)この僧を見奉りしより,信心肝に銘じ,渇仰類なかりけ」りということになったのですが『太平記(四)』268頁),夢窓疎石には,同一門下の兄弟弟子らが身を立てることができるように世話を焼いてついつい法螺まで吹いてしまうという俗なところがあり(頼まれれば前記土岐頼遠の助命嘆願運動もしています(『太平記(四)』62頁)。),他方,足利直義が後に観応の擾乱の渦中においてよい死に方をしなかったのは,そもそも同人には人を見る目がなかったからだということになるのでしょうか。(また,妙吉坊主なんぞの告げ口を真に受けたということは,「権貴幷びに女性禅律僧の口入を止めらるべき事」との建武式目8条違反でもあったわけです。)

しかし,高師直・師泰兄弟のような実務の実力者からすると,似非学者の中身の無さはお見通しであり,それを夢窓疎石に対する配慮か何か知らぬが妙にありがたがっている足利直義の様子は片腹痛く,妙吉は,軽蔑・無視・嘲弄の対象にしかならなかったところです。

 

 かやうに〔妙吉侍者に対する〕万人崇敬(そうきょう)類ひなかりけれども,師直,師泰兄弟は,何条〔どうして〕その僧の智恵才学,さぞあるらんと(あざむ)いて〔たいしたことあるまいと侮って〕,一度(ひとたび)も更に相看せず。(あまっさ)へ門前を乗り打ちにして,路次(ろし)に行き合ふ時も,大衣(だいえ)を沓の鼻に蹴さする(てい)にぞ振る舞ひける。(『太平記(四)』269頁)

 

しかし,似非学者たりとはいえ(あるいは似非学者であるからこそ),妙吉のプライドは極めて高い。

 

・・・(きつ)侍者,これを見て,安からぬ事に思ひければ,物語りの端,事の(つい)でに,ただ執事兄弟の振る舞ひ(穏)便ならぬ物かなと,云沙汰せられ・・・

 吉侍者も,元来(もとより)(にく)しと思ふ高家の者どもの振る舞ひなれば,事に触れて,かれらが所行の(あり)(さま),国を乱し(まつりごと)を破る最長たりと,〔足利直義に〕讒し申さるる事多かりけり。・・・

(『太平記(四)』269270頁)

 

すなわち,前記「皆流し捨てばや」発言の出どころは似非学者の讒言であって,かつ,伝聞に基づくものであったのでした(師直・師泰兄弟とは「一度(ひとたび)も更に相看せず」ですから,妙吉が直接聞いたものではないでしょう。)。軽々に高師直を不敬罪で断罪するわけにはいかないようです。

正面から自己の智恵才学を高々と示して高兄弟を納得改心させ,その尊敬を獲得しようとはせず,妙吉侍者のわずかばかりの「智恵才学」は,権力者に媚び,告げ口によって高兄弟の失脚を狙おうとする御殿○中的かつ陰湿なものでありました。福沢諭吉ならば,妙吉とその取り巻きに対して,次のようにでも説諭したものでしょうか。いわく,「廊下その他塾舎の内外往来頻繁の場所にては,たとい教師先進者に行き合うとも,ていねいに辞儀するは無用の沙汰なり。」とおれは言っていたではないか,「教師その他に対していらざることに敬礼なんかんというような田舎らしいことは,塾の習慣において許さない。」(『福翁自伝』(慶応義塾創立百年記念・1958年)197頁),「独立自尊の人たるを期するには,男女共に,成人の後にも,自ら学問を勉め,知識を開発し,徳性を修養するの心掛を怠る可らず。」であって,「怨みを構へ仇を報ずるは,野蛮の陋習にして卑劣の行為なり。恥辱を雪ぎ名誉を全うするには,須らく公明の手段を択むべし。」だよ(「修身要領」『福沢諭吉選集第3巻』(岩波書店・1980年)294頁),文明開化期に示された「識者の所見は,蓋し今の日本国中をして古の御殿の如くならしめず,今の人民をして古の御殿女中の如くならしめず,怨望に(かう)るに活動を以てし,嫉妬の念を絶て相競ふの勇気を励まし,禍福誉悉く皆自力を以て之を取り,満天下の人をして自業自得ならしめんとするの趣意」なのだろうけど(「学問のすゝめ 十三編」『福沢諭吉選集第3巻』144頁),おれもそう思うよ自分の学問で勝負せずに陰険な告げ口ばかりするのは見苦しいからやめろよ恥ずかしいよお前らからは腐臭がするよと。

(なお,本文とは関係がありませんがついでながら,刑法旧74条1項の不敬罪の成立については判例(大審院明治44年3月3日判決・刑録17輯4巻258頁)があるので紹介します。「不敬罪ハ不敬ノ意思表示ヲ為スコトニ因リテ完成シ他人ノ之ヲ知覚スルト否トハ問フ所ニ非ス左レハ被告カ至尊ニ対スル不敬ノ事項ヲ自己ノ日誌ニ記載シ以テ不敬ノ意思ヲ表示シタルコト判示ノ如クナル以上ハ其行為タルヤ直ニ刑法第74条第1項の罪を構成シ被告以外ノ者ニ於テ右不敬ノ意思表示ヲ知覚セサリシ事実アリトスルモ同罪ノ成立ニ何等ノ影響ヲ及ホササル」ものとされているものです。どういうわけか児童買春,児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律(平成11年法律第52号)7条1項の構成要件が想起されるところです。)

 
 しかし,似非学者はなかなかしぶとく生き残るものです。

 貞和(じょうわ)五年(1349年),足利直義と高師直・師泰兄弟との最初の対決が,直義の逃げ込んだ足利尊氏邸を取り囲んだ高兄弟の勝利に終わり,直義は政務から引退することになった翌朝,

 

 ・・・やがて人を遣はして,(きつ)侍者らん先立堂舎(こぼ)取り散浮雲(ふうん)富貴(ふっき)(たちま)り。

 (『太平記(四)』299頁・第二十七巻11

 

その後の妙吉侍者はもと住所すみかって太平記(314頁・第二十七巻13閑居して,残された数少ない献身的かつ熱意ある信奉者と有益な議論などをし,更に農事などに手を染めつつ,我は夢窓疎石の同門なるぞとの誇りとともに,つつがなく余生を過ごしたものでしょうか。

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 お局様及びその墓(東京都文京区麟祥院)


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1 大隅良典博士と所得税法9条1項13号ホ
 大隅良典博士に
2016年のノーベル生理学・医学賞が授与されるということで,ノーベル賞の賞金には課税がされるものかどうかが,関心のある向きの間で話題にされています。

 解答は,六法をひもとく労を惜しまなければ非常に難しいものではなく,所得税法(昭和40年法律第33号)9条1項13号ホを見ると,「ノーベル基金からノーベル賞として交付される金品」には所得税が課されないものとされています。

 同号は,次のとおり。

 

  (非課税所得)

 第9条 次に掲げる所得については,所得税を課さない。

  〔第1号から第12号まで略〕

  十三 次に掲げる年金又は金品

   イ 文化功労者年金法(昭和26年法律第125号)第3条第1項(年金)の規定による年金

   ロ 日本学士院から恩賜賞又は日本学士院賞として交付される金品

   ハ 日本芸術院から恩賜賞又は日本芸術院賞として交付される金品

   ニ 学術若しくは芸術に関する顕著な貢献を表彰するものとして又は顕著な価値がある学術に関する研究を奨励するものとして国,地方公共団体又は財務大臣の指定する団体若しくは基金から交付される金品(給与その他対価の性質を有するものを除く。)で財務大臣の指定するもの

   ホ ノーベル基金からノーベル賞として交付される金品

   ヘ 外国,国際機関,国際団体又は財務大臣の指定する外国の団体若しくは基金から交付される金品でイからホまでに掲げる年金又は金品に類するもの(給与その他対価の性質を有するものを除く。)のうち財務大臣の指定するもの

  〔第14号から第18号まで略〕

 2〔第2項略〕

 ちなみに,ただで金品を貰うのであれば贈与であるから贈与税の問題となるのではないかとも思われるかもしれませんが,贈与税は「相続税の補完税であるため,個人からの贈与による財産のみが課税の対象とされ」(金子宏『租税法 第十七版』(弘文堂・2012年)543頁),「法人からの贈与により取得した財産」は贈与税の課税価格に算入しないものとされています(相続税法(昭和25年法律第73号)21条の3第1項1号)。それでは法人から贈与された金品は非課税なのかといえば,「利子所得,配当所得,不動産所得,事業所得,給与所得,退職所得,山林所得及び譲渡所得以外の所得のうち,営利を目的とする継続的行為から生じた所得以外の一時の所得で労務その他の役務又は資産の譲渡の対価としての性質を有しないもの」である一時所得(所得税法34条1項)に「法人からの贈与」は含まれ(金子247頁),所得税が課されるわけです。
 

2 湯川秀樹博士と昭和25年法律第71号による旧所得税法6条6号の追加 

 さて所得税法9条1項13号ホは最近の改正による規定であろうか,何だか記憶に残るところではノーベル賞受賞者で所得税の申告漏れがあった人もいたようだったが,と思って各種ウェッブ・ページを見てみると,1949年に湯川秀樹博士がノーベル物理学賞を受賞したところ,ノーベル賞の賞金には所得税が課されるものであることが当時問題視されたことにより法改正がされてノーベル賞の賞金は非課税になったとの説明があります。

 確かに,湯川博士のノーベル賞受賞の翌年である1950年の昭和25年法律第71号(同年3月31日成立)によって,旧所得税法(昭和22年法律第27号)の第6条6号として,非課税所得となるものとして「国,地方公共団体,外国,国際機関,国際団体又は大蔵大臣の指定する団体,基金若しくはこれらに準ずるものが学術に対する顕著な貢献を表彰するものとして又は顕著な価値がある学術の研究を奨励するものとして交付する金品(給与又は対価の性質を有するものを除く。)で大蔵大臣の定めるもの」が追加されています。大蔵大臣によってノーベル基金が指定され,そのノーベル物理学賞などの賞金等の金品(「品」としてはノーベル賞メダルがありました。金銭のみならず,現物給付等の経済的利益も所得税法では課税の対象となります(同法36条1項・2項参照)。)は「学術に対する顕著な貢献を表彰するものとして又は顕著な価値がある学術の研究を奨励するものとして交付する金品(給与又は対価の性質を有するものを除く。)」として更に同大臣によって定められたものであるわけです。

 昭和25年法律第71号の法案が審議された1950年3月9日の衆議院大蔵委員会において平田敬一郎政府委員(大蔵省主税局長)は旧所得税法6条の新しい第6号について「この非課税は新しく入れたわけでありまして,学術研究のための特別な奨励金等を,これによりまして免税する考えであります。具体的には国,地方団体等が出します場合は,無条件にこの条文に該当するということでいいと思いますが,民間の団体等で支出します場合におきましては,個別的に審査いたしまして,告示することによってその関係を明らかにしたい。大蔵省の告示で,その関係をはつきりいたしたいと考えております。」と答弁しています(第7回国会大蔵委員会議録第29号1頁)。

 ところが,肝腎の湯川博士に対する課税についてですが,前尾繁三郎委員が心配して「ちよつとこれに付随してお尋ねしたいのは,昨年の湯川博士の例のノーベル賞に関してでありますが,この法律は遡及されるわけではないと思いますが,ノーベル賞については,おそらく湯川博士はアメリカに住居が移つておる,あるいは居所が移つておるというような理由で,非課税になると思うのでありますが,この点はいかがでありますか。」と尋ねたところ,平田政府委員の回答は「湯川博士の場合は,家族とも一緒にアメリカに住居を移しておられるものに該当するものと考えますので,課税にならないと解釈いたします。」ということでした(第7回国会衆議院大蔵委員会議録29号1頁)。せっかく心配していたのに,そもそも我が国によって課税されるものではなかったとは,ちょっと肩透かしです。
 昭和25年法律第71号によって設けられた旧所得税法6条6号に係る大蔵省告示は,1950年6月13日に出され,次のようなものでした(昭和25年6月13日大蔵省告示第441号)。

  所得税法(昭和22年法律第27号)第6条第6号の規定により,同号に規定する団体,基金又はこれらに準ずるもの及び学術に対する顕著な貢献を表彰するものとして又は顕著な価値がある学術の研究を奨励するものとして交付する金品を次のように指定し,昭和25年1月1日以後交付があつた金品から,これを適用する。

  昭和25年6月13

      大蔵大臣 池田 勇人

 一 ノーベル基金よりノーベル賞として授与する金品

 二 日本学士院が日本学術会議法(昭和23年法律第121号)第24条第2項の規定により恩賜賞又は日本学士院賞として授与する賞はい(、、)賞金

 三 国が科学研究費交付金等取扱規程(昭和24年文部省令第32号)の規定により交付する科学研究費交付金,科学試験研究費補助金及び人文科学研究費補助金並びに文部大臣の裁定により交付する研究成果刊行費補助金及び科学研究奨励交付金

 四 財団法人朝日新聞文化事業団が交付する朝日科学奨励金

 五 株式会社朝日新聞社が朝日文化賞(学術に関するものに限る。)として交付する金品

 六 株式会社毎日新聞社が交付する毎日学術奨励金及び毎日出版文化賞(学術に関するものに限る。)として交付する賞金

 七 株式会社読売新聞社が読売文学賞(学術に関するものに限る。)として交付する金品
 

 旧所得税法6条の前記規定は,1965年に全部改正された現行所得税法の当初の第9条1項17号に「文化功労者年金法(昭和26年法律第125号)第8条第1項(年金)の規定による年金及び学術に関する顕著な貢献を表彰するものとして又は顕著な価値がある学術に関する研究を奨励するものとして国,地方公共団体,外国,国際機関,国際団体又は大蔵大臣の指定する団体若しくは基金から交付される金品(給与その他対価の性質を有するものを除く。)で大蔵大臣の指定するもの」として引き継がれています。当該第9条1項17号に基づく指定に係る告示として昭和40年5月28日大蔵省告示第174号が出されており,「所得税法(昭和40年法律第33号)第9条第1項第17号の規定に基づき,同号に規定する団体又は基金及び学術に関する顕著な貢献を表彰するものとして又は顕著な価値がある学術に関する研究を奨励するものとして交付される金品を次のように指定し,昭和40年4月1日以後交付される金品から適用する。なお,所得税法第6条第12号に規定する団体,基金又はこれらに準ずるもの及び学術に対する顕著な貢献を表彰するものとして又は顕著な価値がある学術の研究を奨励するものとして交付する金品を指定する告示(昭和25年6月大蔵省告示第441号)は,同日付をもつて廃止する。」との柱書きに続いて,第1号として「ノーベル基金からノーベル賞として授与される金品」が掲げられています(第2号から第14号までは省略)。

3 川端康成と昭和44年法律第14号による所得税法9条1項18号の改正 

 ところで,現行所得税法の当初の第9条1項17号(昭和41年法律第31号によって1号繰り下げられて第9条1項18号になっていました。)は,昭和44年法律第14号によって次のように改正され,「ノーベル基金からノーベル賞として交付される金品」が具体的に書き出される形になっています(改正部分に下線)。

 

 文化功労者年金法(昭和26年法律第125号)第8条第1項(年金)の規定による年金,ノーベル基金からノーベル賞として交付される金品並びに学術に関する顕著な貢献を表彰するものとして又は顕著な価値がある学術に関する研究を奨励するものとして国,地方公共団体又は大蔵大臣の指定する団体若しくは基金から交付される金品及び外国,国際機関,国際団体又は大蔵大臣の指定する外国の団体若しくは基金から交付されるこれらの年金又は金品に類する金品これらの金品のうち給与その他対価の性質を有するものを除く。)で大蔵大臣の指定するもの

 

さて,昭和44年といえば1969年。その前年にノーベル賞関係で何かなかったものかと調べれば,1968年のノーベル文学賞受賞者は川端康成であって,同年1212日にはストックホルムで「美しい日本の私」と題した講演がされています(なお,『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)には12月「11日」にストックホルムの「授賞式」で講演がされたと記載されていますが,どうでしょうか。)。「美しい日本」では租税法規も美しく,ノーベル基金に感謝の真心をこめてノーベル賞は非課税である旨を所得税法に確認的に明示したということでしょうか。

いやいや,昭和44年法律第14号による所得税法9条1項18号の改正は,確認的なものにとどまらず,なかなか創設的なものであったものと考えられます。すなわち,川端康成が受賞した賞は「文学」賞であって,「学術」に係る賞ではなかったので,1965年の物理学賞の朝永振一郎博士などのようには非課税の恩典に素直にあずかれなかったという事情があるところです(小谷野敦・深澤晴美編『川端康成詳細年譜』(勉誠出版・2016年)の609頁を見ると,川端康成のノーベル文学賞受賞が発表された1963年10月17日の翌日から国税庁は川端康成のノーベル文学賞に係る課税問題について検討を始め,同月22日に至って正式に非課税と決したといいますから,正に素直ではありません。)。昭和44年法律第14号の法案が審議された1969年3月25日の参議院大蔵委員会で細見卓政府委員(大蔵大臣官房審議官)は「所得税制の整備」の一環として「すなわち,ノーベル賞の賞金はすべて非課税であるということを法律の上で明記することと」したと述べていますが(第61回国会参議院大蔵委員会会議録第6号20頁),ここでわざわざ付加された「すべて」は,「文学賞及び平和賞をも含めて」という意味であったものと解されます。
 というのはすなわち,前年1968年11月6日の衆議院大蔵委員会の閉会中審査において,弁護士という面倒くさい職業人である岡澤完治委員が,川端康成のノーベル文学賞に対しては所得税を課さないものとする同年10月22日の国税庁長官見解に対して批判的な質疑をしたところ,細見大蔵大臣官房審議官(この場では政府委員ではなく説明員です。)から「おっしゃるように紛議もございますので,機会を見て,むしろこれは法律ないし告示なりを訂正願うというのが筋だろう,かように考えております。」と答弁しているからです(第59回国会衆議院大蔵委員会議録第5号9頁)。
 なかなか興味深い問答なのですが,まず岡澤委員が「川端康成先生のノーベル文学賞受賞に関連して課税の問題が論議されたことは,お互いに承知いたしておるところでございますが,結論的には,去る10月22日の国税庁長官の見解で課税されないということになったわけでございます。私はその結論に必ずしも異議があるわけではございませんけれども,所得税法の9条18項〔号〕を見てまいりますと,「学術に関する顕著な貢献を表彰するものとして又は顕著な価値がある学術に関する研究を奨励するものとして国,地方公共団体,外国,国際機関,国際団体又は大蔵大臣の指定する団体若しくは基金から交付される金品で大蔵大臣の指定するもの」という大前提がございます。この大前提をすなおに読みました場合,法文解釈としてはどう考えましても,文学,いわゆる今度受賞の対象になりました川端康成先生の文学を含めまして,学術という結論は出てこないような感じがいたします。現に学術会議の会長で,ノーベル賞の受賞の先任者であります朝永振一郎博士自身が,文学は学術の中に入らないと思うという意味の見解を明らかにしておられます。同じく学術会議の副会長の桑原武夫京大名誉教授も同じ趣旨の結論を述べておられます。・・・通常の解釈からすれば,当然課税されるべきものである。国民感情がその逆だから結論を先に出して,それに合うように非課税の結論を出すということになりますと,やはり国民一般としては,川端先生に対する感情は別として,法律の解釈,適用に納得できないものがあるのじゃないか。もちろん,法のもと平等であるべきでございます・・・」と堂々の法解釈に関する議論を展開したのに対して(
第59回国会衆議院大蔵委員会議録第5号9頁),細見説明員は「このノーベル賞を,所得税法9条〔旧所得税法6条〕に基づきまする非課税賞金として指定いたしましたときには,御承知のように,湯川博士が初めてノーベル賞をおとりになったときで,この立法の当時,立法に伴います告示を出しました。当時はすべてノーベル賞というのは世界的な権威というところにむしろ重点を置きまして,もちろんそのころ平和賞,文学賞のあることも存じてはおったのですが,日本人がノーベル賞をとられるときには学術であろうということで,ここに掲示いたしておりますのは,ノーベル賞はそのものずばりで書いております。ごらん願いますように,その告示で,あとのほうにいろいろ朝日新聞の朝日学術奨励金及び朝日文化賞というようなもの,また,毎日学術奨励賞並びに毎日出版文化賞というものが特に学術ということをかぶせておりますので,立法者の意図といたしましては,当時はノーベル賞はおよそ学術ということであろうと思いますし,今日解釈いたします場合に,川端さんの活動というような,特定の文学作品ということでなくて,多数の文学作品を通ずる文化活動というような面で,かりにこういう点の広い文化活動という意味で,学術ということもいえないこともないかと思いますが・・・」と苦心の答弁をし,上記の「おっしゃるように紛議もございますので,機会を見て,むしろこれは法律ないし告示なりを訂正願うというのが筋だろう,かように考えております。」との結論に達しているところです。
 この段階での政府の所得税法9条1項18号の解釈は「この9条の趣旨は学術ということであります。その意味では,学術に限って解釈いたさなければならないと思います。ただ,立法論といたしまして,もっと広く,文化活動あるいは社会のために御活躍になった方の特別の賞金のようなものは非課税にしていいんじゃないかという立法論がございますれば別でございます,そういう意味でございます。」というものでしたので(細見説明員・
第59回国会衆議院大蔵委員会議録第5号9頁),税務当局の認識するところでは,川端康成に対するノーベル文学賞は,飽くまでも「特定の文学作品ということでなくて,多数の文学作品を通ずる文化活動というような・・・意味で〔の〕学術」を対象とする「ノーベル賞」だったのでしょう。川端康成は文学者ではなく文・学者であった,ということでしょうか。

なお,昭和44年法律第14号の制定時には,スウェーデン国立銀行による経済学賞は,まだ第1回の表彰が発表される前の段階でした(1969年から授賞開始)。現在の「所得税法第9条第1項第13号ニ又はヘに規定する団体又は基金及び交付される金品等を指定する件」(昭和441017日大蔵省告示第96号)においても,スウェーデン国立銀行及びその経済学賞の金品は所得税法9条1項13号ヘに基づき指定されていません。

ちなみに,昭和44年大蔵省告示第96号の20号の「国際レーニン平和賞委員会から国際レーニン平和賞として交付される金品」とは,何だったものやら。

4 佐藤榮作とノーベル平和賞
 ところで,ノーベル平和賞の金品も我が所得税法上非課税所得となることが明定された
昭和44年法律第14号の制定時の内閣総理大臣は佐藤榮作でした。佐藤榮作は5年後の1974年に自らノーベル平和賞を受賞しています。しかしながら,ノーベル平和賞の金品のことをあらかじめ予感しつつ,昭和44年法律第14号の法案作成に当たる主税官僚らを督励していたわけではないでしょう。

5 所得税法9条1項18号から所得税法9条1項13号ホまで
 昭和44年法律第14号による改正によって当時の所得税法9条1項18号に「ノーベル基金からノーベル賞として交付される金品」が法律上の文言として登場したわけですが,その後同号が現在のようにイからヘまでの箇条書き方式に改められたのは昭和48年法律第8号による改正によってです。同法による改正後の所得税法9条1項18号は,現在の所得税法9条1項13号とほぼ同じ文言となっています。現在のイの「文化功労者年金法(昭和26年法律第125号)第3条第1項(年金)」が当時はなお「文化功労者年金法(昭和26年法律第125号)第8条第1項(年金)」であり,現在のニ及びヘでは「財務大臣」であるところが「大蔵大臣」になっているほか,現在のニでは「学術若しくは芸術に関する顕著な貢献を表彰するものとして」となっているところが当時はなお「学術に関する顕著な貢献を表彰するものとして」となっている点のみが異なります。それまでの所得税法9条1項18号が学術中心であったことからすると,ハにおいて「日本芸術院から恩賜賞又は日本芸術院賞として交付される金品」が非課税所得となったことが,昭和48年法律第8号による所得税法9条1項18号の改正における主要な点であったということになるものと考えられます。
 それまでの所得税法9条1項18号が同項13号に繰り上がったのは,昭和63年法律第109号による改正によってです。
 平成2年法律第12号による改正によって,所得税法9条1項13号ニの
「学術に関する顕著な貢献を表彰するものとして」が「学術若しくは芸術に関する顕著な貢献を表彰するものとして」に改められています。当該改正規定に基づき非課税となる芸術賞の金品の基準は「受賞者は全日本または全世界を対象として選考されるものであること。それから,受賞者は長年にわたり芸術の水準向上に関する顕著な業績を上げた者であって,その金品が特定の作品の対価といった色彩を有するものではないこと。それから,芸術分野の専門家を含む委員から成る適切な選考を確保するための委員会を設けまして,そこで受賞者を選考するものであること。4番目には,その賞金の名称は特定の営利企業や特定の商品等の名称を使用するものではないこと。」である旨1990年3月27日の衆議院大蔵委員会で答弁がされています(尾崎護政府委員(大蔵省主税局長)・第118回国会衆議院大蔵委員会議録第6号10頁)。功なり名を遂げた老大家先生らに,それまでの栄誉及び富に加えて更に非課税の賞金等を,企業メセナ等のパトロンから増し加えるということであったのでしょうか。当時は,バブル時代。しかしながら,"Whosoever hath, to him shall be given, and he shall have more abundance: but whosoever hath not, from him shall be taken away even that he hath."とは常に変わらぬ真理であります。

あとがき

 さて,さして長くもないブログ記事に「あとがき」も何ですが,今回のブログ記事の執筆動機は2016年7月21日付けの「明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)に関して」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.html)の中にあるといえば牽強付会が過ぎるでしょうか。実は,大隅良典博士のノーベル生理学・医学賞受賞のニュースを聞いた晩の筆者は「日本も米国並みに当たり前のようにノーベル賞を取るようになったんだから,マスコミ関係者諸氏はお仕事だから仕方がないとしても,普通の米国の庶民がノーベル賞なんぞにはそもそも関心を示さないように,科学の夢やロマンが何だかだと,いい歳をして見苦しく「科学少年」ぶって,いちいち興奮して騒ぎ立てはしないよ。」と思っていたのですが,その後大隅博士一族の学者一家振りに関する報道を見てあれれと思うところがあり,関心を喚起され,ついにはおっちょこちょいに同博士のノーベル賞の賞金と所得税との関係についての考察から出発するこの記事を書くこととはなったものでした(ノーベル賞の賞金と所得税との関係についてのウェッブ・ページは多いのですが,所得税法の当該規定に係る改正経緯について条文等に具体的に当たったものは少ないようなので,このブログ記事にも何がしかの存在意義が認められ得るのではないかと願っています。)。

 大隅良典博士は,筆者がこの夏に前記の「明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)に関して」を書くに当たってその「君臣秩序と儀礼」論文(大津透・大隅清陽・関和彦・熊田亮介・丸山裕美子・上島亨・米谷匡史『日本の歴史08 古代天皇制を考える』(講談社・2001年)3186頁)から豊富に引用をした日本史学者である山梨大学の大隅清陽教授の叔父上だったのでした。

 国民が皆天皇制について考えることとなった2016年の夏が過ぎれば国民がこぞって祝うノーベル賞の秋が来て,そこにはいずれも大隅一族の偉い学者の存在があることだわい,というのが7月21日付けのブログ記事と10月5日付けのこのブログ記事とを結ぶ筆者なりの感慨であったわけです。

 ところで,甥の大隅清陽教授についてはその『律令官制と礼秩序の研究』(吉川弘文館・2011年)の「あとがき」において自らについて語っているところがありますので,一部紹介してみます。当該「あとがき」の冒頭の次の部分が,筆者にとって印象深いところです。

 

  学界関係者にはご存じの方も多いと思うが,筆者の父は,中世思想史を専攻する同業の研究者である。父が北海道大学に勤めていた関係で,筆者は,2歳から中学2年までを札幌で過ごした。父親の職業からは,「日本史」や「日本文化」というものがごく身近な家庭環境に育ったはずなのだが,ポプラやアカシアは知っていても,「日本的」な花鳥風月とは無縁の風土に育った筆者にとって,「日本史」はどこか,遠い異国の歴史のように思われた。中学3年からは家族で東京に転居したが,高温多湿の「内地」(北海道の人々は,本州以南の日本をこう呼ぶ)の気候には未だに馴染めない。こうした個人史は,「日本」を研究する者にとって,致命的な欠陥ともなり得るのだろうが,「日本」というもの(内国植民地で,入植した民族の側の子どもとして育った者にとって,それは壮大なフィクションでもある)に対する,表現し難いかすかな違和感は,自分の研究の根底とも,どこかでつながっているように思う。(大隅394頁)

 

日本史学者としての自らを語っている文章ですからオートファジー云々を連想させる話は全くありませんが,確かに大隅という苗字はそうそう多くあるものではないところでした。

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 札幌市南区真駒内の5月 


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