Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

2016年05月

前編(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1057864864.html)からの続き

 

(3)『晩年の父』

 

ア 「はじめて理解できた『父・鷗外』」と「不律安楽死殺人事件」

不律は殺されたものとする主張の出典はどこにあるのかと探したところ,『諸君』1979年1月号に掲載された197810月7日付けの「はじめて理解できた『父・鷗外』」という記事(小堀杏奴(鷗外の二女。1909年生まれ)。同著者の岩波文庫版『晩年の父』(1981年)に「あとがきにかえて はじめ悪しければ終り善し」と改題して併載されています。筆者が読んだのは,当該岩波文庫に収載されたものです。)にありました。

 

・・・その大切な不律が,父の小説,『金毘羅』にあるように,百日咳にかかり,一医師の提案により,モルヒネの注射によって安楽死させられているのである。この事件については,こうして父自身書いており,私も『晩年の父』に,当事者の一人である母から聞いたままを,正直に書き記している。兄はその折,看護に当った某女の話を伝えているが,当時,祖母と,母との確執は,表面上,一応おさまっている如く見えるだけで,母にとって不利な証言をすることは,祖母側の人々を喜ばせる効果のあることを心得ている某女の言辞を私は全く信頼出来ない。いずれにしても,軽々に論ずべき事柄でなく,当事者である父母の言を信じ,余分の臆測は慎むべきである。ただ,私にとって,最愛の亡母のために一言!何処の国に,全く,母方の祖父の言葉ではないが,何処の国に肉親の,血をわけた我が子に,「早く楽に死なせる薬を注射して下さい」などと,愚かしい叫びをあげる母親があろうか!(岩波文庫版『晩年の父』204頁)

 

 不律及び茉莉の百日咳をめぐる1908年1月から同年3月にかけての出来事に基づく森鷗外の小説『金毘羅』(1909年)では,「半子(はんす)及び「百合」が百日咳にかかり,「半子」が死亡したことは書かれてありますが,「半子」が「一医師の提案により,モルヒネの注射によって安楽死」させられたことは書かれてありません。そうであれば,記の「この事件」が「不律安楽死殺人事件」であるのならば,「この事件については,こうして父自身〔『金毘羅』において〕書いており」ということはなかったはずです。当時の旧々刑事訴訟法(明治23年法律第96号)8条1号では死刑に該たる罪に係る公訴時効期間は15年でしたので,1908年に殺人事件があったのならば,その公訴時効が成立するのは1923年ということになります。1922年に亡くなった森鷗外が,刑事事件捜査がらみで家族や知人に迷惑がかかる可能性のあるような話を『金毘羅』以外においてどこかで公表されるような形で文章にしていたものとも考え難いところです。

 「私も『晩年の父』に,当事者の一人である母から聞いたままを,正直に書き記している。」の部分ですが,これは岩波文庫版の『晩年の父』では,「母から聞いた話」(19351115日記)中の181頁から185頁までのことでしょう。そこにも「不律が・・・百日咳にかかり,一医師の提案により,モルヒネの注射によって安楽死させられている」ことは書かれていません。森鷗外の長男の『屍室断想』(森於菟(解剖学者)。時潮社・1935年)中「高瀬舟と父鷗外」において紹介された不律の死に関する次の挿話が,『晩年の父』においては「・・・恐らく兄が内科の教授某氏から直接聞いたか,あるいはその人の口から他の人に伝わり,間接に耳にしたかは明瞭しないが,とにかく事実とは全然違った事柄である」として否認されており,代わりに「茉莉安楽死殺人予備事件」が紹介されているものです。(ということで,「はじめて理解できた『父・鷗外』」における当該記述は,明晰であるものとはなかなかいえません。)

 

  ・・・これについて余程前のことですから,云つても悪くないと思ひますのでお話してみませう。

  それは,私の弟に不律といふのがありましたが,父の二男で,極く小さい頃死にました。・・・こんな赤ん坊が,苦しいのを我慢して愛想笑するのが,父はいぢらしくて,見るに堪へなかつたのです。その時もそんなことをする必要はないと思つたのに,注射して,生かしては又苦しめた事がいつまでも父の心残りであつたでせう。

  その時,橋本軍医の外に参考医として,ある大学の内科の教授を頼んでゐましたが,その人が来た時,父に「どうです?もう止めませうか,」と父の考へを推し測つてきいたので,父は「それはもう止めた方がいゝ,注射したら続くことは続くけれども」といつたのです。すると母は一生懸命子供の世話をしてゐたから興奮してゐたのでせう,「それぢや早く楽に死なせる薬を注射して下さい」と大声で云ひました。

  其時父は「さう云ふことは,暗黙の裡にやるべきことで,口に出していつては決して医者としては出来ないことである。又することではないと云つて断然母の乞を斥けて注射を続けさせました。・・・

  この子供の死んだのは明治41年で,「高瀬舟」の書かれたのはずつと後ですが,かうした心持があつた上に,更に「翁草」の故事があつたために,更に刺戟されて,あの小説が出来たのではなからうかと思ひます。(森於菟214216頁)

 

 橋本軍医は,幼時の森茉莉のかかりつけ医であったようです。森茉莉の「幼い日々」(初出1954年)に,「熱があると陸軍省に電話を掛けて,橋本先生という軍医の人を呼んで貰った。」,「仏蘭西の帝政時代の(ずる)武士(さむらい)といった風貌」であったと紹介されています(森茉莉『父の帽子』(講談社文芸文庫・1991年)48頁)。

 当時の「大学の内科の教授」であって鷗外とも親しかった人物といえば,鷗外の日露戦争からの凱旋を新橋駅に出迎えることもした(岩波文庫版『晩年の父』175頁参照)東京帝国大学医科大学教授たる入沢達吉でしょうか。『金毘羅』に出て来る医学の大学教授の氏は「広沢」ですから,「入沢」と「広沢」と何やら符合するところがありそうです。なお,入沢達吉教授の治療中止に関する態度をうかがわせるものとしては,次のようなエピソードがあります。いわく,「伊東〔忠太〕氏の胃腸の工合依然としてよくないので再三〔入沢達吉〕先生に訴へた。先生一寸思案して思ひ出したやうに「いいものがある,それは近頃独逸で発明した妙薬で万病に特効があつて,然も薬価が非常に安く,何処でも得られる,(それ)を試みるがよい」と,ちと変だと思つて「其薬は何と言ふ」と訊ねると,先生は莞爾として「夫は「ほつとけ」だ〔」〕と言はれた。成程と伊東氏も感心したといふことであります。」と(楠本長三郎「恩師入沢先生を偲びて」『入沢先生追憶』(水曜会・1939年)34頁)。ちなみに,『金毘羅』の当時は百日咳の治療薬としての抗生物質が登場する前の時代であって,当該小説中で半子らに施されていたものも対症療法にすぎませんでした。

 『晩年の父』中の「母から聞いた話」においては,兄が書いて本で出している話は実は勘違いで,不律の治療中止の話があったのではなくて「茉莉安楽死殺人予備事件」があったのだ,という主張であったように理解されるのですが,1978年になると,実は不律については治療中止の話があったどころか安楽死させられたのだ,というように話が発展しています。

 

イ 「母から聞いた話」における「茉莉安楽死殺人予備事件」

 1936年に初版が出た『晩年の父』の「母から聞いた話」において,「後日誤ったまま世間に伝えられる事を恐れて,此処に本当の話を書いておく。」とて書かれた「母から聞いたまま」の話は,次のとおりでした。

 

  その時某氏は姉の命がもう廿四時間であることを宣告し,死ぬにしても甚だしい苦痛が伴うのであるからむしろ注射をして楽に死なせたらどうだろうか,モルヒネを注射すれば十分間で絶命するといわれ,父に計るところがあった。

  父もその気になって母にその事をいって聞かせたので,母も父のいうままにそうするような気持になって,()う注射するばかりになっているところへ母の実家の父が見舞に来た。

  母は祖父に

  「既う茉莉はとても助かる見込はないので,某さんが注射して下さるそうです」

 と話すと祖父は眼を洞穴(うろ)のようにして大声で

  「馬鹿な」

 というより大変なけんまくで

  「人間は天から授った命というものがある。天命が自然に尽きるまでは例えどんな事があろうとも生かしておかなくてはならない。私も子供を3人まで既う駄目だと医者に見放された事があったが3人とも立派に助かって生きているじゃないか」

  といって断然注射を行う事を退けさせた。

  某氏は

  「こういう事は一人でも他人の耳に入ったら実行出来ません」

 といってそれを中止したそうである。

  その後容態が変って姉はずんずん()くなって行った。だから姉の命は全く明舟町の祖父のために救われたと言ってもよいので,実に命の恩人であった。

  自分は兄がこの事を書かないずっと以前から,この話は度々母に聞かされていたので,兄がこの事を誤って書いた時,直接彼にその誤りを直し,彼自身で改めて事実を書いてもらった方が好いとも考えたが,兄は医者という位置にあるし,事柄が事柄であるから,かえって彼をして苦しい立場に陥らせてはと考慮して,無関係の私が事の真相を書かしてもらった。

 (「母から聞いた話」岩波文庫版『晩年の父』183185頁)

 

確かに,ここでの鷗外夫人は,「肉親の,血をわけた我が子に,「早く楽に死なせる薬を注射して下さい」などと,愚かしい叫びをあげる母親」ではありません。とはいえ,「愚かしい叫び」はあげていませんが,鷗外夫人が「そうするような気持になって」はいたことは認められているところです。しかし,鷗外夫人の同じような内容の発言によって,「不律治療中止検討事件」では不律が死亡するまで対症療法の注射を受け続けることになったのに反して,「茉莉安楽死殺人予備事件」では注射がされずに茉莉の命が助かった功名になっています。また,ここでは,安楽死を言い出したのが夫人ではなく鷗外であるということが大きいのでしょうか。しかし,家長たる鷗外がいったん決定したとなると森家ではだれも止めることができなくなるので,鷗外夫人の父である荒木博臣判事閣下が折よく現れてくれて止めてくれたのでよかった,ということになるのでしょう。(なお,裁判所構成法(明治23年法律第6号)67条によれば,判事は終身官でした。荒木博臣「大審院判事」という表現もありますが,現在は最高裁判所判事という官名があるものの(裁判所法39条等参照),裁判所構成法上は「大審院判事」という官名はありませんでした。荒木博臣の「閣下」性については,坂本秀次「森鷗外と岳父荒木博臣―漢詩文集『猶存詩鈔』を中心に―」(鷗外(森鷗外記念会)24号(1979年1月号)70頁以下)の荒木博臣略年譜に,明治27年「3月19日退官,高等官2等従4位となる。」とあります。高等官官等俸給令(明治25年勅令第96号)1条は「親任式ヲ以テ叙任スル官ヲ除ク外高等官ヲ分テ9等トス親任式ヲ以テ叙任スル官及1等官2等官ヲ勅任官トシ3等官乃至9等官ヲ奏任官トス」と規定していました。荒木博臣判事はそれまでの奏任官から,退職に当たって勅任官閣下にしてもらったということでしょうか。判事は終身官ですから「退官」よりも「退職」の方がよいでしょう。)

 

ウ 理由付き否認としての「茉莉安楽死殺人予備事件」

『屍室断想』が1935年に出て,その「高瀬舟と父鷗外」の内容を知ったなお存命の鷗外未亡人又は二女が,「肉親の,血をわけた我が子に,「早く楽に死なせる薬を注射して下さい」などと,愚かしい叫びをあげる母親」ではない,と柳眉を逆立て,そこで同年1115日までに「母から聞いた話」の中に反論が書かれたものでしょうか。とはいえ,「高瀬舟と父鷗外」にある話は全く架空のでっち上げだと端的に否認して済まさずに,「茉莉安楽死殺人予備事件」の披露ということになったのはなぜでしょう。民事訴訟規則79条3項は「準備書面において相手方の主張する事実を否認する場合には,その理由を記載しなければならない。」とありますから,否認の理由を付加したということでしょうか。しかし,民事訴訟規則79条3項の「理由」としては「これと両立し得ない事実がある」こと等が想定されているところ(最高裁判所事務総局民事局監修『条解民事訴訟規則』(司法協会・1997年)173頁参照),「茉莉安楽死殺人予備事件」と「不律治療中止検討事件」とは両立し得るので,「茉莉安楽死殺人予備事件」の紹介をもって「不律治療中止検討事件」の主張に対する鮮やかな理由付き否認(積極否認)がされたということにはなっていないように思われます。

 

エ 伝聞供述

しかし,「茉莉安楽死殺人予備事件」の現場にいた鷗外,同夫人,荒木判事及び某医師のうち(瀕死の患者には記憶はなかったでしょうし,「看護に当った某女」のいるところで機微にわたる話がされたということはなかなかないでしょう。),当該「事件」について「はじめて理解できた『父・鷗外』」の著者に語ったのは鷗外夫人だけだったようです(「自分は兄がこの事を書かないずっと以前から,この話は度々母に聞かされていた」)。「不律治療中止検討事件」については,『屍室断想』には話の出所が書かれていないので,全くの創作でなければ,鷗外当人又は「ある大学の内科の教授」から話が出た可能性を考えざるを得ないのでしょう(当該「事件」の否認者である鷗外夫人からは話は出ていないのでしょう。)。その後の「不律安楽死殺人事件」の主張については,これも専ら鷗外夫人の話に基づいたものなのでしょう(「当事者の一人である母から聞いたままを,正直に書き記している」)。

仮に,「はじめて理解できた『父・鷗外』」の著者を,不律にモルヒネ致死注射をした医師を被告人とする殺人被告事件の公判期日に召喚して供述を求めた場合,当該供述は既に亡くなった鷗外夫人の供述を内容とするものとなりますから,現行刑事訴訟法324条2項により同法321条1項3号が準用されることになります(同号の規定は,「前2号に掲げる書面以外の書面〔被告人以外の者が作成した供述書又はその者の供述を録取した書面で供述者の署名若しくは押印のあるもの〕については,供述者が死亡,精神若しくは身体の故障,所在不明又は国外にいるため公判準備又は公判期日において供述することができず,且つ,その供述が犯罪事実の存否の証明に欠くことができないものであるとき〔は,証拠とすることができる〕。但し,その供述が特に信用すべき情況の下にされたものであるときに限る。」というものです。被告人及び弁護人は同法326条の同意をしないものとします。)。当該準用に係る刑事訴訟法321条1項3号のただし書への該当性いかんが問題となります。しかし,「はじめて理解できた『父・鷗外』」の文章からは,亡鷗外夫人がどのような状況で当該原供述をしたかも分からないのですよねえ。(なお,同じ「はじめて理解できた『父・鷗外』」によれば,「不律兄を失った母も,恰度(ちょうど)半年ばかりというものは,団子坂の自宅から電車に乗り,隅田河畔で一銭蒸気に乗換えて,寒い日も暑い日も,雨の日も風の日も,一日も欠かさず,不律兄の墓に通いつめたという」(岩波文庫版『晩年の父』205頁)とのことです。しかしながら,『鷗外全集第35巻』(岩波書店・1975年)の鷗外の明治41年日記によれば,1908年3月15日(日)に「家人等不律の遺骨を弘福寺に葬る。」のところ,鷗外夫人はその前日14日(土)に「妻単独大原に徃く。」ということで墓への埋葬には立ち会っておらず,同月19日(木)に至って「妻日在より帰る。大原の松濤館に宿り,中ごろ日在の別墅に遷りたりしに,是日還り来ぬるなり。」ということであり,同年4月5日(日)の項に「妻不律の墓に詣づ。」とありました。お墓参りが毎日のことであればわざわざ墓参が特記されることもなかったようにも思われますが,どういうものでしょう。)


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東京都墨田区向島の弘福寺(鷗外ら森家の墓は,後に三鷹市の禅林寺に移されています。)

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隅田川越しに向島方面を望む4月5日の風景(ただし,撮影は2017年。なお,気象庁のデータによれば,1908年3月下旬から同年4月上旬までの東京はどんよりとしていて,降雨が無かったのは,3月下旬は22日,23日及び31日,4月上旬は3日及び10日のみでした。同年4月4日には26.2ミリメートル,同月5日は5.8ミリメートルの降水量が記録されています。)
 

 (4)父と娘とそれぞれの『半日』及び『金毘羅』

鷗外の母・峰子の関与が初めて示唆されたのは,1953年初出の森茉莉の『「半日」』でしょうか。森茉莉の『「半日」』は,先の大戦後の鷗外全集で初めて読んだ父・鷗外の『半日』(夫の母を嫌う妻から苦情を受ける困惑した夫の視線から描く鷗外の家庭をモデルにした小説。鷗外夫人の反対によってそれまでは単行本・全集に収載されていませんでした。)に触発されて書かれたものでした。

森鷗外の『半日』(1909年)の冒頭は「六畳の間に,床を三つ並べてとつて,七つになる娘を真中に寝かして,夫婦が寝てゐる。」となっています。森茉莉をモデルにしたこの娘の名は,玉。森茉莉は1903年生まれなので,数えで七つであるのは1909年です。文章中「今日は孝明天皇祭」とありますので(孝明天皇祭は1月30日(明治6年太政官布告第344号)),『半日』は1909年1月30日の出来事を描いた小説ということになります。『金毘羅』の百日咳事件からちょうど約1年後のことです。

しかし,森茉莉の『「半日」』では,「「半日」に描かれたのは,「奥さん」が「博士」の所に嫁して来たばかりの時期の様子である。」(森茉莉67頁)とされています。夫婦間の娘が数えで七つなので「「奥さん」が「博士」の所に嫁して来たばかりの時期」ではないわけですし,1902年1月4日の鷗外の再婚後当時の様子について1903年生まれの長女が知っていることもないでしょう。「8歳の「玉」の見た「博士」は,「母君」と食卓を共にしたいと言うような感情を,持っていなかった。「奥さん」は大分おとなしくなっていた。やはり「博士」に向ってヒステリックな苦情を言っていたが,苦情の中味は,「母君」の事から去って,「博士」と「奥さん」との間のことに,移っていた。」(森茉莉67頁)と書かれていますが,この「8歳」が数えならば1910年の状況の観察,満年齢ならば1911年の状況の観察ということになるのでしょう(次に見るように,玉が「5歳」の時に百日咳にかかったとされていますから,それならば満年齢でしょう。)。「「半日」に描かれた時期と,「玉」がものを観察し始めるようになった頃との間には,3年程の月日がある。その月日の間には,一つの事件があった。その月日の間を,「博士」の家に起った一つの事件が横切っていてそれが3人〔「博士」,「奥さん」及び「母君」〕の関係を,変えたのである。その間の時期に「博士」の家で,5歳になった「玉」と,次に生れた赤ん坊とが,死にかけた。病名は百日咳である。」(同頁)とありますが,これでは,1908年1月から同年3月までを描いた『金毘羅』の時期と,1909年1月30日のことであるはずの『半日』の時期との時間的前後関係とが逆転してしまっています。

更に森茉莉は,『金毘羅』で描かれた出来事をリライトします。

 

・・・その時,その寂しい,暗い家の片隅で,或相談がなされていた。「百合さん」の苦痛を無くす為に,致死量の薬を射とうと言う計画である。この「安楽死(ユウタナジイ)」を思い立って,医者に計ったのが,「母君」であった。医者がそれを「博士」に仄めかした。子供の苦しむのを日夜みていて,精神が弱った父と母とは遂に,医者の仄めかしに乘って,注射を肯んじようとした。幸,この計画は,医者が注射の仕度をしていた時偶々部屋に入って来た,「奥さん」の父親によって阻止せられた。・・・「安楽死(ユウタナジイ)」は哀れみから,成り立つものである。その時「母君」の心にあったのは,哀れみである。医者が相談に乗ったのも哀れみからである。それが「博士」に解っていて尚,胸の中に素直に溶けてゆかない,なにものかがあった。それが「博士」の心に,あるか無いかの(おり)になって,残った。「百合さん」は,奇蹟的に生きたが,その事があってから,「博士」と「母君」との間柄は,微妙な変化をしたのである。

 その時の「博士」の心痛は,後に「高瀬舟」を生んだ。・・・「高瀬舟」の裏にあるのが,「博士」の心の痛みと怒りとであり,「半日」の中にあるものが,「博士」の一時的な興奮であった事は,人は知らない。・・・(森茉莉6869頁)

 

 8歳の「玉」の見たところ「「博士」は,「母君」と食卓を共にしたいと言うような感情を,持っていなかった。」と,娘によって父の感情の情態が忖度決定された上で,当該決定と符合しない『半日』の出来事の時期が鷗外自身の示唆する時期から3年ほど前にずらされ,更に「博士」の当該情態の淵源を尋ねる「玉」は,『半日』と前後順序交代させられた上でリライトされた『金毘羅』における「百合さん」の「安楽死(ユウタナジイ)」計画発案者であった「母君」に対する「博士」の心に残った「滓」をそこに発見したということでしょうか。

 ところで,森茉莉は,事実の主張をしているものとの断乎たる姿勢は,示してはいません。予防線が張られています。

 

  以上の文章は,(ママ)歳の頃の私の観察と,成長してから後の考えとによるものだが,「観察違いである」,或は「考え方が間違っている」と言うような批難をする人があるかも知れない。若しあった場合は,「人間には間違いのあるものだ」と言う事に於て,お許しを願うより他はない。何しろ「奥さん」から生まれた「玉」の考える事である。観察違いも,ヒステリックな思惑も,あり得ないとは,言えまい。・・・(森茉莉70頁。下線は筆者によるもの)

 

確かに,森茉莉の『「半日」』は,鷗外の『半日』に触発されて書かれたものであって,「唯「半日」という小説だけの為に,「親類」という,何処の家でも兎角嫉み,反目,小競合い等の塊りである一群の,母に対する批難が正当化される事に対しては,落胆しない訳にはいかない」ところ(森茉莉69頁),「この文章は言ってみれば成長した「玉」の「博士」に対する,哀しい訴えである。「私」の文章である。」とあります(同70頁)。小説『半日』の「玉」からする当該小説の「博士」に対する「訴え」は,やはり当該小説中のものでしょう(また,森茉莉のエッセイ「注射」(初出1949年)も,未里(マリイ)の話ということになっていて,小説仕立てになっています。)

 

(5)明治41年鷗外日記等

なお,「某氏は姉〔森茉莉〕の命がもう廿四時間であることを宣告」したという事態になった日は,『金毘羅』によれば1908年2月8日(土)のことのようです。しかし,明治41年鷗外日記の同日の項には「松本三郎来話す。/〔欄外〕午後1時華族会館茶会」とのみあって,荒木博臣判事の訪問は記されていません。同月9日及び同月10日はそもそも日記に何ら記載なし。松本三郎というのは,第1師団軍医部長として森林太郎陸軍省医務局長の後任である松本三郎軍医監のことでしょう。

ただし,この時期の荒木博臣判事の森家訪問は,同月3日には確実にありました。不律が死亡した同月5日の2日前です。明治41年鷗外日記に「2月3日(月) 夜親族会を自宅に開く。荒木博臣,小金井良精,長谷文,森久子至る。/〔欄外〕午後5時親族会」とあります。同年1月10日に亡くなった鷗外の弟・森篤次郎の家に係る今後についての会議でした(森鷗外『本家分家』,大村敦志『民法読解 親族編』(有斐閣・2015年)382383頁参照)。その折荒木判事が百日咳に苦しむ孫・茉莉及び不律を見舞い,心配している娘・鷗外夫人に対して「人間は天から授った命というものがある。天命が自然に尽きるまでは例えどんな事があろうとも生かしておかなくてはならない。私も子供を3人まで既う駄目だと医者に見放された事があったが3人とも立派に助かって生きているじゃないか」というようなことを言って励ましたことはあるかもしれません。

ちなみに,森茉莉は,その「明舟町の家」の中で「この祖父〔荒木博臣〕は私が百日咳に罹った時,虎の門の金比羅神社に願を懸けて呉れた。もう24時間より()たないと医者から宣告される所まで行った私の容態が,ふと好転してどうやら助かるという目星のついた日,丁度来ていたが「よかった。よかった。」と喜び,その日明舟町の家に帰ると玄関から大きな声で,「まりはもうこっちのものだ。まりはもうこっちのものだ。」と言い言い,右肩を怒らせ,畳ざわりも荒々しく奥まで入って行ったので,祖母は吃驚したそうだ。」とのみ書いており(森茉莉81頁),「茉莉安楽死殺人予備事件」及び当該予備を予備のみに止めた荒木判事の一喝については触れていません。「明舟町の家」は初出不詳ですが,1957年に筑摩書房から出た単行本『父の帽子』に収載されていたものです。1957年の21年前に,森茉莉の妹による『晩年の父』は出ていました。

虎ノ門金刀比羅宮の月次祭は毎月10日(同宮は京極藩邸内にあったので,江戸時代は毎月十日に限り一般の参拝が許可されていたそうです(同宮ウェッブ・サイト参照)。)ですが,『金毘羅』によれば「これが百合さんの病気の好くなる初で,それから一日々々と様子が直つた」発端である百合の「牛と葱」摂取が1908年2月9日(日)のことでしたので,10日はその翌日になります。この2月10日も,金刀比羅宮に参詣する人が多かったことでしょう。明治41年鷗外日記には,3月に入り,「10日(火) 茉莉始て起坐す。」と記されています。

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東京・虎ノ門金刀比羅宮境内で:「大願成就」

なお,今般筆者が虎ノ門金刀比羅宮で神籤を抽いたところ,
「病ひ」は「充分保養せよ」,
「老後(ゆきさき)」は「辛抱すれば末は安楽」でした。
ちなみに,弁護士にとっては気になる「諍ひ(いさかい)」は,「勝つ 自然(かみ)に逆ふな」。
 

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 東京・虎ノ門金刀比羅宮(祭神は,大物主神及び 崇徳天皇。社殿設計校閲者は,伊東忠太。)

1 人生百年時代

 医療・福祉大国にして世界に冠たる長寿を誇る我が日本国においては,現在,かえって「長生きリスク」ということが心配されています。人生百年時代において長生きしているうちに,「老後破産」ということで破産法と関係ができたり,生活保護法に基づき各種の扶助を受けることになったり,当該「リスク」が現実化するとなかなか法律との縁は切れません。あるいは病気になって入院して,からだは苦しくこころ寂しく,「安楽死」についてふと考えることもあるかもしれません。

 どうも辛気臭くなって申し訳ありません。しかし,人にとって不可避である死についていろいろ考える際には,「安楽死」の問題が念頭に去来するときもあるであろうことは,事実でしょう。

 

2 治療中止

 

(1)川崎協同病院事件最高裁判所決定

ところで,一般に「安楽死」といってもいろいろな形態があるわけですが(「広義の安楽死とは,死期が迫っていることが明らかな場合に,患者の苦痛をやわらげるために,一定の条件の下にその死期を早める,あるいは死期を人工的に延ばすのを止めることで,2つの型に大別しうる。1つは,末期患者から人工的な生命維持装置をはずす延命措置の中止(尊厳死)である。・・・これに対して,死期の迫ったしかも苦痛の甚だしい患者の苦痛を柔らげるためにモルヒネなどを投与したり,積極的に死期を早める措置をとる行為が狭義の安楽死である。」(前田雅英『刑法各論講義 第4版』(東京大学出版会・2007年)14‐15頁)),そのうち治療中止(延命措置の中止)については,法律上許容されるもの(医師による殺人行為に該当しないもの)があるということが最高裁判所の判例であるものと解されます。すなわち,気管支(ぜん)の重積発作で心肺停止状態となって病院に搬送され,心肺は蘇生したが(こん)状態が続いていた患者(大脳機能のみならず脳幹機能にも重い後遺症が残り,細菌感染症に敗血症を合併)について,気道確保のため鼻から気管内に挿入されていた気管内チューブの被告人医師)による抜管行為(なお,抜管に伴い当該患者は「身体をのけぞらせるなどして苦もん様呼吸を始め」,その後()剤であるミオブロック3アンプルの静脈注射を受け絶命した。)の違法性に関し職権で判断を行った最高裁判所平成2112月7日決定(刑集63111899。川崎協同病院事件最高裁判所決定)は,次のとおりです。

 

  所論は,被告人は,終末期にあった被害者について,被害者の意思を推定するに足りる家族からの強い要請に基づき,気管内チューブを抜管したものであり,本件抜管は,法律上許容される治療中止であると主張する。

  しかしながら,上記の事実経過によれば,被害者が気管支ぜん息の重積発作を起こして入院した後,本件抜管時までに,同人の余命等を判断するために必要とされる脳波等の検査は実施されておらず,発症からいまだ2週間の時点でもあり,その回復可能性や余命について的確な判断を下せる状況にはなかったものと認められる。そして,被害者は,本件時,こん睡状態にあったものであるところ,本件気管内チューブの抜管は,被害者の回復をあきらめた家族からの要請に基づき行われたものであるが,その要請は上記の状況から認められるとおり被害者の病状等について適切な情報が伝えられた上でされたものではなく,上記抜管行為が被害者の推定的意思に基づくということもできない。以上によれば,上記抜管行為は,法律上許容される治療中止には当たらないというべきである。

  そうすると,本件における気管内チューブの抜管行為をミオブロックの投与行為と併せ殺人行為を構成するとした原判断は,正当である。

(下線は筆者によるもの)

 

(2)東海大学安楽死事件判決における治療中止

 

ア 事案

 川崎協同病院事件最高裁判所決定を読むに当たって参照すべき治療中止の許否についての先行裁判例としては,横浜地方裁判所平成7年3月28日判決(判時153028。東海大学安楽死事件判決)があります。多発性骨髄腫で入院し末期状態であって死が迫っていた患者に対する当該殺人被告事件においては公訴提起の対象外であったものの(対象となった事実は,最終段階における,徐脈・一過性心停止等の副作用のある不整脈治療剤である塩酸ベラパミル製剤(商品名「ワソラン」注射液)の通常の2倍の使用量の静脈注射及び希釈しないで使用すれば心停止を引き起こす作用のある塩化カリウム製剤(商品名「KCL」注射液)の希釈しないでの静脈注射によって患者を死に致した行為),当該公訴提起対象事実に先立って被告人(医師)によってされた,点滴(栄養や水分を補給),フォーリーカテーテル(排尿用のカテーテル)及びエアウェイ(舌根低下対策の管)を患者から外した治療中止行為の適法性が裁判所によって検討されたものです。

 

イ 要件

当該判決において横浜地方裁判所は,「治療行為の中止は,意味のない治療を打ち切って人間としての尊厳性を保って自然な死を迎えたいという,患者の自己決定を尊重すべきであるとの患者の自己決定権の理論と,そうした意味のない治療行為までを行うことはもはや義務ではないとの医師の治療義務の限界を根拠に,一定の要件の下に許容される」とし,要件としては,①患者が治癒不可能な病気に冒され,回復の見込みがなく死が避けられない末期状態にあること,②治療行為の中止を求める患者の意思表示が存在し,それは治療行為の中止を行う時点で存在すること,しかし,中止を検討する段階で患者の明確な意思表示が存在しないときには,患者の推定的意思によることを是認してよい(患者の事前の意思表示が何ら存在しないときは,家族の意思表示から患者の意思を推定することが許される。),③どのような措置をいつどの時点で中止するかは,死期の切迫の程度,当該措置の中止による死期への影響の程度等を考慮して,医学的にはもはや無意味であるとの適正さを判断し,自然の死を迎えさせるという目的に沿って決定されるべきである,ということを挙げています。

 

ウ 当てはめ

しかし,東海大学安楽死事件に係る具体的事案についての横浜地方裁判所の判断においては,事件当日の患者の余命はあと1日ないしは2日と診断されており上記①の要件は満たされているとされたのですが,事前のものを含め患者の明確な意思表示が存在していなかったため上記②の要件については家族の意思表示からの推定が問題になったところ,家族は治療の中止を求める旨強く意思表示していたものの「その家族の意思表示の内容をなお吟味してみると,家族自身が患者の病状,特に治療行為の中止の大きな動機となる苦痛の性質・内容について,十分正確に認識していたか疑わしく,最終的に治療の中止を強く要望した4月13日当時の患者の状態は,すでに意識も疼痛反応もなく,点滴,フォーリーカテーテルについて痛みや苦しみを感じる状態にはなかったにもかかわらず,その状態について,家族は十分な情報を持たず正確に認識していなかったのであり,家族自身が患者の状態について正確な認識をして意思表示をしたものではなかったのである。そうすると,この家族の意思表示をもって患者の意思を推定するものに足りるものとはいえない。」ということで,③にたどり着く前に,②で倒れてしまいました。「患者の病状,治療内容,予後等について,十分な情報と正確な認識を持っていることが必要」であるのに,当該認識がなかったというわけです。

 この家族は,そもそも夜中に担当医の自宅にまで電話をかけることもあったところ(熱心ですね。),患者死亡当日の4月13日の4日前である同月9日から治療中止を求め始め,病院側の抵抗にかかわらず当該要求は執拗に続き,同月11日には被告人と共に担当医であった女性研修医が前夜自宅にかかってきた患者の妻からの抗議電話等を理由としてそれまでの家族対応から外れて(どうしたのでしょうね。)同月1日に赴任したばかりの超多忙(「超・・・」という表現は使いたくないのですが,判決文に表れた被告人の仕事及び生活の状況は,「超多忙」としかいいようがありません。例えば,事件前日の同月12日は「この日はほとんど他の危篤状態の患者の治療に当たり,その患者が死亡したので,夜その病理解剖のための書類作りをし,一旦結婚記念日のため妻と外で食事をした後病院に戻り,翌午前3時過ぎころ帰宅した。」という状態だったそうです。)な被告人(ちなみに助手です。)が家族対応をすることになったところ,同月13日の患者家族による治療中止の意思表示の内容は,「もう1週間も寝ずに付き添ってきたので疲れました。もう治らないのなら治療を全てやめてほしいのです。」「点滴やフォーリーカテーテルを抜いてほしい。もうやるだけのことはやったので早く家に連れて帰りたい。これ以上父の苦しむ姿を見ていられないので,苦しみから解放させてやりたい。楽にしてやってほしい,十分考えた上でのことですから。」「家族としてこれ以上見ておれない。私たちも疲れたし,患者もみんな分かっているのです。もうやるだけのことはやったので,早く家に連れて帰りたい。楽にしてやってください。」というようなもので,かつ,「強固な態度」を伴うものでした。「患者が苦しそうにしているとみじめでかわいそう」という憐憫の情はそれとして貴いのですが,裁判所のいうように患者は既に「点滴,フォーリーカテーテルについて痛みや苦しみを感じる状態にはなかった」ことを飽くまで前提とするのであれば,患者を見守る苦しみから解放されて楽になって今日は早く家に帰りたいのは患者ではなく実はその家族ばかりであったということになるのでしょう。治療中止を求める当該意思表示は家族自身のものであるばかりであって,「患者の立場に立った上での真摯な考慮に基づいた意思表示」ではなかったということにもなるのでしょうか。家族だからとて,実は専ら自分の感情や希望であるものをもって安易にもの言わぬ立場の他の家族に投影して,当該他の家族に対する「同情」と共に「患者もみんな分かっているのです。」などというように自己都合を言い張ってはならないということになるもの()(ちなみに,最後の静脈注射の直前には患者の長男は,夕食をとろうと外出していた被告人をポケットベルで病院に呼び戻させ,「怒ったような顔をし腕組みをしたまま,「先生は何をやっているんですか。まだ息をしているじゃないですか。早く父を家に連れて帰りたい。何とかして下さい。」と,激しい調子で被告人に迫った」そうです。

 

3 『高瀬舟』の作家の子らと安楽死問題

 ところで,「安楽死」といえば,鷗外森林太郎がちょうど100年前に発表した時代小説『高瀬舟』(1916年)が連想されるところです。

 

(1)ウィキペディアの風説

その鷗外の妻・森志げに係るウィキペディアの記事を最近ふと読んだのですが,次のような記載があって驚きました。

 

 1907年に第二子になる不律を出産(鷗外にとっては第三子)。翌年,〔鷗外との長女〕茉莉と不律が百日咳にかかり,不律が亡くなる。茉莉はのちに著書で,不律の死は,苦しむ不律を不憫に思った〔鷗外の母〕峰が医師に頼んで薬物で安楽死させたものと聞いたと書き,この安楽死事件以降,鷗外は峰を疎むようになったとされていたが,のちに〔鷗外との二女・小堀〕杏奴は,鷗外も峰の提案を了承しており,苦しむ茉莉にも薬を飲ませようとしたところ,志げの父親に発覚して断念した,と書いた。鷗外の『高瀬舟』はこの一件をきっかけに書かれたものと言われている。

 

1908年2月5日に鷗外の二男・不律(ふりつ)が百日咳死亡していますが(生後半年),これは実は医師による殺人(現行刑法199条「人を殺した者は,死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。」)であって,また,同時期には,同じく百日咳に罹患していた長女・茉莉(1903年1月7日生まれの当時満5歳)に対する殺人予備(現行刑法201条「第199条の罪を犯す目的で,その予備をした者は,2年以下の懲役に処する。ただし,情状により,その刑を免除することができる。」)もされていたところ,黒幕は鷗外の母・峰子であって,かつ,鷗外も加担していた,ということでしょうか。

しかし,ウィキペディアの当該記述については,出典が明らかにされていません。また,飽くまでも「・・・聞いたと書き・・・と書いた。」という文体を用いて伝聞の態がとられており,堂々たる事実の主張の形になっておりません。姑息に逃げ道は用意されているようで,横着ですね。これに対して,旧刑事訴訟法(大正11年法律第75号)277条は,「犯罪ニ関シ匿名ノ申告又ハ風説アル場合ニ於テハ特ニ其ノ出所ニ注意シ虚実ヲ探査スヘシ」と規定していたところです。

 

(2)旧刑法との関係

 

ア 旧刑法の適用

なお,現行刑法が施行され,かつ,旧刑法が廃止されたのは190810月1日からなので(現行刑法上諭及び明治41年勅令第163号),不律及び茉莉の百日咳をめぐる出来事が起きた同年1月から3月にかけては,旧刑法(明治13年太政官布告第36号)が適用されていました。

 

イ 謀殺

旧刑法293条によれば,薬物による殺人は死刑でしょう(「毒物ヲ施用シテ人ヲ殺シタル者ハ謀殺ヲ以テ論シ死刑ニ処ス」)。同法105条によれば,教唆者も死刑です(「人ヲ教唆シテ重罪軽罪ヲ犯サシメタル者ハ亦正犯ト為ス」)。「重罪軽罪違警罪ヲ分タス所犯情状原諒ス可キ者ハ酌量シテ本刑ヲ減軽スル(こと)ヲ得」るところ(旧刑法89条1項),「酌量減軽ス可キ者ハ本刑ニ1等又ハ2等ヲ減ス」ですから(同90条),実際は無期徒刑又は有期徒刑でしょうか(同法67条2・3号)。「徒刑ハ無期有期ヲ分タス島地ニ発遣シ定役ニ服ス」ものであり(旧刑法17条1項),「有期徒刑ハ12年以上15年以下ト為ス」とされていました(同条2項)。ただし,「徒刑ノ婦女ハ島地ニ発遣セス内地ノ懲役場ニ於テ定役ニ服ス」とされていました(旧刑法18条)。男女差別ですね。

 

ウ 殺人予備

ところで,殺人予備ですが,旧刑法111条は「罪ヲ犯サンヿヲ謀リ又ハ其予備ヲ為スト雖モ未タ其事ヲ行ハサル者ハ本条別ニ刑名ヲ記載スルニ非サレハ其刑ヲ科セス」と規定しており,同法に内乱予備陰謀(同法125条),私戦予備(同法133条後段),貨幣偽造予備(同法186条2項)の規定はあるのですが,殺人予備の規定はないので,不可罰だったのでしょう(罪刑法定主義の帰結ですね。もっとも,大日本帝国憲法23条(「日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」)については「本条は唯法律に依らずして処罰を加ふることを禁止して居るのであつて,司法権及び行政権に対する制限であるに止まり,立法権を制限する意味を含んで居らぬ。故に本条の規定のみから言へば,法律を以て遡及的の処罰を定めたとしても,本条に違反するものとは言ひ難い。」ということではありました(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)363頁)。)。ちなみに,殺人予備の意義については,「殺人予備とは,殺害の実行の着手にいたる以前の準備行為一般を意味する。例えば,殺害の為の凶器を準備して,被害者の家の周りを徘徊するとか,不特定の人の殺害の目的で毒入り飲料を道端に置く行為などである。ただ,準備行為のすべてが予備罪として可罰的であるわけではなく,目的地との距離,準備の程度などから判断して,客観的に殺人の危険性が顕在化する必要がある。」と説明されています(前田21頁)。

 

後編に続く(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1057864958.html

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