Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

2015年10月

1 南シナ海とサン・フランシスコ平和条約

 最近南シナ海関係のニュースが多いところですが,かつて南シナ海は,大日本帝国の海でもありました。

 先の大戦に係る我が国と連合国との間のサン・フランシスコ平和条約(日本国との平和条約(昭和27年条約第5号)。1951年9月8日署名,1952年4月28日発効)2条(f)項には次のような規定があります。

 

 (f)日本国は,新南群島及び西沙群島に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄する。

  (f)  Japan renounces all right, title and claim to the Spratly Islands and to the Paracel Islands.

 

 ここにいう新南群島(Spratly Islands)は,現在では南沙諸島といわれる島々です。

 

2 大日本帝国領たりし新南(南沙)群島

 新南(南沙)群島については,

 

19381223日,日本は新南群島の領土編入を閣議決定し,1939年3月30日,日本政府は台湾総督府令(第31号)により,新南群島を台湾高雄市の管轄区域に編入した。(国際法事例研究会『日本の国際法事例研究(3)領土』(慶応通信・1990年)64頁(川島慶雄))

 

 ということで,第1次近衛内閣末期の19381223日(当時は皇太子であった今上天皇の5歳の誕生日ですが,「この日皇太子は〔昭和天皇のもとに〕参内予定のところ,軽微な風気につき,用心のため取り止め」となっています(宮内庁『昭和天皇実録第七』(東京書籍・2016年)690頁)。)の閣議決定を経て,同月28日に新南群島は台湾総督府の管轄下に入れられています(『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年))。アジア歴史資料センターのウェッブ・ページにある「新南群島ノ所属ニ関スル件」一件資料によると,同月27日に当該閣議決定(外甲116)に対する昭和天皇の裁可があり,同月28日はそれに基づく指令がされた日です。当該裁可の日(1938年12月27日)に昭和天皇は,「午後,1時間余にわたり内大臣湯浅倉平に謁を賜」った後に,「午後3時より1時間10分にわたり,御学問所において外務大臣有田八郎に謁を賜い,新南群島の所属の件につき奏上を受け」ています(『昭和天皇実録第七』694頁)。
 その後昭和14年台湾総督府令第31号を経て,新南群島は,先の大戦における敗戦による喪失まで大日本帝国の領土だったのでした。

 

3 フランス帝国主義の野望の摧かれたる「支那に属する」西沙群島

 新南群島が大日本帝国の領土であったのならば,同じサン・フランシスコ平和条約2条(f)項にある西沙群島(Paracel Islands)も大日本帝国の領土であったのではないか,とつい考えたくなるところです。インターネット上には,そのような推論からか,西沙群島はかつて大日本帝国の領土であったとの主張を掲載するウェッブ・ページも散見されます。しかしながら,考え過ぎでしょう。「西沙群島につきましては,いまだかつて日本は領土的主権を主張したことはございません。」とされています(1951年10月17日の衆議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会における西村熊雄政府委員(外務省条約局長)の説明(第12回国会衆議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会議録2号11頁)。同月26日の参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会における同政府委員の説明も同旨(第12回国会参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会会議録4号3頁))。むしろ,

 

  1938年7月4日,フランス政府は突然この群島〔西沙群島〕の決定的かつ完全な先占を日本政府〔第1次近衛内閣。宇垣一成外務大臣〕に通知した。これに対し,日本政府は同年7月12日付口上書で,「帝国政府としては西沙島の主権が支那に属するものと従来の見解を何ら変更するの必要及理由を認めず」と回答した。(国際法事例研究会6667頁(川島))

 

とされています。支那事変中であっても,「支那に属するもの」である西沙群島はなお「支那に属する」というのが我が国の立場であったようです。したがって,フランス帝国主義に対する姿勢は,厳しい。「194111月1日,駐日仏大使〔Charles Arsène-Henry〕より日本商社が西沙群島において現に実施しつつある燐鉱採掘事業を拡張する際には,〔仏領〕インドシナ官憲の許可を受けるよう申し入れたが,日本政府〔東条英機内閣。東郷茂徳外務大臣〕はフランスの同群島に対する主権を認めない以上,許可を受けるべき筋合のものではないとの回答」を行っています(国際法事例研究会67頁(川島))。1951年11月6日の参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会においても,草葉隆圓政府委員(外務政務次官)は,西沙群島について「日本政府はむしろこれを中国の領有ではないかということの意見を持つて参つた土地であります。」と答弁しています(第12回国会参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会会議録11号2頁)。

 それでは,サン・フランシスコ平和条約2条(f)項になぜ西沙諸島が入ったのかといえば,「アメリカ原案には,同群島についての記載はなかったが,フランスの主張によるものであろうが,最終案では日本は同群島に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄するものとされ,同条約第2条(f)の規定となった。」とされています(国際法事例研究会67頁(川島))。フランス式心配の産物であったようです。1940年9月23日の我が軍の北部仏印進駐(第2次近衛内閣),1941年7月28日の南部仏印進駐(第3次近衛内閣),1945年3月9日の我が軍による仏領インドシナのフランス軍武装解除,更にヴェトナムにおけるバオ・ダイ政権の成立という一連の歴史の流れにおいて,フランスは,我が国にいじめられ続けて参っていたのでしょう。
 サン・フランシスコ平和条約2条(f)項では,日本は西沙群島に対する「すべての権利,権原及び請求権」を放棄するものとされていますが,実際には,専ら「西沙群島に対します一種の日本の立場」が「請求権」なるものとして放棄されるものと理解されていたようです(1951年11月5日の参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会における西村政府委員の答弁(第12回国会参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会会議録10号26頁)参照)。「この最後の請求権は,財産的請求権という意味ではなく,領有関係の主張と申しましようか,そういうものを放棄させる趣旨でございます。」ということでした(同日の同委員会における同政府委員の答弁(同会議録同頁))。
 なお,1939年1月には,日本政府が天皇の勅裁を得て西沙群島の占領を決定したとの噂が欧州で立っていたようです。アジア歴史資料センターのウェッブ・ページにある内閣情報部の〔昭和〕14・1・30付けの情報第11号では,同盟通信からの来電(不発表)として「ロンドン27日発/日本政府は西沙諸島占領を計画中であり,既に旧臘〔1938年12月〕28日勅裁を仰いだとの風評もあるが,英国外交筋では日本軍の西沙島占領はあり得まいと見てゐる。」との情報を紹介しています。しかし,そもそも内閣情報部が付したのであろうその「情報」の表題の「西沙島占領決定説」において「西沙島」のルビが「パラセル」ではなく「プラタス」(東沙)となっているところがお粗末ではありました。 

 

4 新南群島領有までのフランス帝国主義との争い

 新南群島の領有は,無主地であったものを我が国が占領して領土に編入したという形式でされたのですが,そこでもやはり,フランス帝国主義との争いがありました。

 

  1933年7月24日,フランス政府は在仏日本大使館宛公文をもってスプラトリー島〔新南群島の西鳥島〕および他の5島の主権は今後フランスに属する旨を通知した。その理由はスプラトリー島は1930年4月,その他の島は1933年4月にフランス海軍が占領したことによるということにあった。(国際法事例研究会64頁(川島))

 

新南群島は,「1915(大正4)年,日本人平田末治が発見し,自ら平田群島と命名して,燐鉱石採集および漁業を経営した。」ものとも伝えられ(国際法事例研究会63頁),「1917~18年頃から,日本人がこの群島を踏査するようになり」,1921年にはラサ島燐鉱株式会社が政府の承認援助の下に燐鉱採掘に着手していましたが(「新南群島」は同社の命名による。),1929年4月に同社は経済不況のため操業を中止し,全員日本内地に引き揚げていたところです(国際法事例研究会63‐64頁(川島)参照)。(ただし,新南群島の領土編入に係る1938年12月23日の外甲116閣議決定書には上記の1915年に平田末治が発見して云々ということに係る記載は無く,「・・・新南群島ハ従来無主ノ礁島トシテ知ラレ大正6年〔1917年〕以降本邦人ハ外国人ガ全然之ヲ顧慮セザル前ニ於テ之ニ巨額ノ資本ヲ投下シ恒久ノ施設ヲ設ケテ帝国政府ノ承認及援助ノ下ニ其ノ開発ニ従事シ居リタル次第ナル処・・・」と,1917年以降の邦人の活動のみが言及されています。国際法事例研究会の本は,三田の慶応通信株式会社発行という慶応ブランドを背負ったものなのですが,「慶応」というだけで安心していいものやらどうやら。なかなか新南群島に係る「平田発見説」を伝える他の文献が見つかりません。というよりむしろ,国立国会図書館デジタルコレクションにある台湾高雄市湊町の平田末治述『最近の国情に鑑み特に青年諸君に寄す』(平田末治(非売品)・1936年4月)の表紙の地図を見れば,平田群島と新南群島とは別物で,西沙群島が平田群島とされていました。)

フランスは,ラサ島燐鉱株式会社の操業中止の隙に占領を試みたようです。

 

  これに対し,駐仏日本代理大使は,同群島〔新南群島〕はこれまで無主地であったところを日本が継続的に占領および使用したものであり,目下事業を一時中断しているが,日本政府の同群島に対して有する権原および利益は尊重されるべきであり,これに反してフランス政府の今回の先占宣言は国際法上実効的占有の完了を伴っていないと抗議し,その後も日仏間に同群島の帰属をめぐって応酬があった。(国際法事例研究会64頁(川島))
 

その後前記1938年12月23日の外甲116閣議決定書においては,「・・・而シテ昭和11年〔1936年〕本邦人ガ再ビ同群島〔新南群島〕ニ於テ開発ニ従事スルヤ仏国政府ハ之ニ対シ数次本件島嶼ニ於ケル仏国ノ主権ヲ主張シ最近ニ及ンデハ商船ヲ同島ニ派遣シ施設ヲ構築スル等我方ノ勧請ヲ無視シテ著々同島ノ占領ヲ実効的ナラシメントシツツアリ帝国政府ニ於テハ此ノ事態ニ深ク稽〔かんが〕ヘ各般ノ措置ヲ講ジテ同島ノ占有ヲ確保スルニ遺憾ナキヲ期シタル次第ナルガ仏国政府ノ飜意ノ絶望トナリタルニ鑑ミ帝国政府従来ノ権原ヲ明ニシ仏国政府ノ高圧策ニ対抗スルノ建前ヨリシテ此ノ際仏国ガ領土権ヲ主張スル諸島及右ト一連ノ新南群島諸島ガ帝国ノ所属タルコトヲ確定スルコト必要トナレリ」と述べられています。
 新南群島の大日本帝国編入に際しては,「その旨をフランスはじめ関係諸国に通告したが,フランスはもとより,英,米などの諸国もこれに抗議した。」とされています(国際法事例研究会
65頁(川島))。当時の中華民国政府からの抗議はなかったものでしょうか。

 

5 先の大戦後の台湾及び新南群島と日本国と中華民国との間の平和条約

とはいえ新南群島は,台湾の一部(高雄市所属)とされていたので,先の大戦後には,その命運を台湾と共にしたようです。蒋介石としては,お芋の形の台湾を取り返したら,その尻尾の先にフランス帝国主義から守って大日本帝国が育てた遺産の新南群島が付いていた,というような感じだったでしょうか。

 

 台湾は,第二次大戦末期1945年2月にフィリピンを掌握した米軍がここを素通りして4月に沖縄に上陸したこともあってか,9月2日の連合国最高司令官の一般命令第1号の占領地域分配では,蒋介石に授権された。1025日には受降典礼が行われ,中国は「台湾澎湖列島の日本陸海軍およびその補助部隊の投降」を受け「台湾澎湖列島の領土人民に対する統治権,軍政施設並びに資産を接収」し,同日より「台湾および澎湖列島は正式に中国の版図に再び入り,すべての土地,人民,政治はすでに中華民国国民政府の主権下におかれた」と声明した。こうして中華民国は台湾の自国編入措置を国内法的に完了させ,台湾をその一省とした。日本統治時代の州は県に改称され,台湾の一部に編入されていた新南(南沙)群島は切り離され,広東省に編入された。日本は対日平和条約において,帰属先を明示しないまま,単に「台湾及び澎湖諸島」と「新南群島」に対するすべての権利,権原および請求権を「放棄」した。そして,この放棄は1952年の日華平和条約によって「承認」された。日本の判例はこれにより台湾が中華民国に譲渡されたと解する(最判,昭3712月5日)・・・。(国際法事例研究会2728頁(芹田健太郎))

 

 日本国と中華民国との間の平和条約(昭和27年条約第10号。1952年4月28日台北で署名,同年8月5日発効)2条は,「日本国は,1951年9月8日にアメリカ合衆国のサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約(以下「サン・フランシスコ条約」という。)第2条に基き,台湾及び澎湖諸島並びに新南群島及び西沙群島に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄したことが承認される (is recognized)。」と規定していました。

 外国人登録法違反被告事件に係る昭和3712月5日の最高裁判所大法廷判決(刑集16121661頁)においては,「日本の国内法上台湾人としての法的地位をもつた人・・・は,台湾が日本国と中華民国との間の平和条約によつて,日本国から中華民国に譲渡されたのであるから,昭和27年8月5日同条約の発効により日本の国籍を喪失したことになるのである。」と判示されています。最高裁判所の当該多数意見に基づき考えれば,新南(南沙)群島は,日本国と中華民国との間の平和条約によって1952年8月5日に我が国から中華民国に譲渡されたことになるようです。(しかし,この最高裁判所的解釈は,外務省の心知らずというべきでしょう。表立ったものではありませんが(with no publicity)1952年5月に日本とフランスとは外交当局間で書簡を交換しており,そこにおいて岡崎勝男外務大臣は,日本国と中華民国との間の平和条約2条はサン・フランシスコ平和条約2条(f)項によって含意されたもの以外の特別な意義又は意味(special significance or meaning)を有するものと解釈されるべきではないとのフランス側の理解に同意しています(Tønneson, Stein. “The South China Sea in the Age of European Decline.” Modern Asian Studies 40.1 (2006): 43)。)

 普通は,領土の変更は,国際条約に基づくものでしょう。日本国と中華民国との間の平和条約も,最高裁判所によって(外務省の心はともかくも)領土の変更の原因となる国際条約であるものと考えられたのでしょう。

 

 領土ノ変更ハ国際条約ニ依リテ生ズルヲ普通トス。国際条約ノ外ニ新領土取得ノ原因トシテハ無主地ノ占領ヲ挙グルコトヲ得ベク〔モ〕・・・無主地ハ今日ニ於テハ殆ド其ノ跡ヲ絶チ・・・領土変更ノ通常ノ原因ハ専ラ国際条約ニ在リト謂フコトヲ得。(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)126頁)

 

ただし,奥野健一裁判官は,前記最高裁判所昭和3712月5日判決に係る補足意見で,「私見によれば,わが国はポツダム宣言受諾により台湾等の領土権を放棄したものであり,日本国との平和条約及び日本国と中華民国との間の平和条約は,何れもこれを確認したものと解する。従つて本来の台湾人及びその子孫はわが国がポツダム宣言を受諾した時から,日本国籍を離脱したものと解すべき」と述べています。この点は,美濃部達吉も同様であったようで,1946年8月段階で,「台湾及澎湖列島ハ関東州租借地ト共ニ支那ニ復帰シ,朝鮮ハ独立ノ国家トナリ,樺太ハ蘇聯邦ニ帰属シ,南洋群島ハ米国ノ占領スル所トナリタリ。」と述べています(美濃部・撮要125頁)。「第三国人」とは「敗戦後の一時期,在日朝鮮人・同中国人を指して言った語」と定義されていますが(『新明解国語辞典 第五版』(三省堂・2002年)),これら美濃部枢密顧問官=奥野裁判官的なポツダム宣言の解釈(ポツダム宣言受諾物権行為説ともいうべきでしょうか。)に基づき生まれた言葉でしょうか。これに対して,後になってからの前記最高裁判所の多数意見(そこでは,同裁判所の判例(昭和36年4月5日大法廷判決・民集15巻4号657頁)は「日本の国内法上で朝鮮人としての法的地位をもつた人は,日本国との平和条約発効により,日本の国籍を喪失したものと解している。」とも述べられています。)によれば,日本の国内法上で朝鮮人又は台湾人としての法的地位をもった人については,日本国との平和条約又は日本国と中華民国との間の平和条約の発効(それぞれ1952年4月28日,同年8月5日)前は,なお日本国籍が保持されていたようです。(朝鮮人としての法的地位をもった人と台湾人としての法的地位をもった人とで日本国籍の喪失の時期が違うのは,サン・フランシスコ平和条約2条(a)項では「日本国は,朝鮮の独立を承認」しているのに対して,同条(b)項は台湾及び澎湖諸島の独立を承認してはいないからでしょう。すなわち, 次のような考え方に由来するものでしょうか。いわく,「無人地を抛棄するのは,何人の権利をも侵害するものではないから,敢て立法権の行為を必要とすべき理由は無い」一方,「之に反して現に臣民の居住して居る土地を抛棄することは之を独立の一国として承認する場合にのみ可能であつて,之を無主地として全く領土の外に置くことは,憲法上許されないところと見るのが正当である。何となれば臣民は国家の保護を要求する権利を有するもので,国家は之をその保護から排除することを得ないものであるからである」(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)83頁)。)とはいえ,占領下の実際にあっては,「連合国総司令部の覚書は,あるいは朝鮮人を外国人と同様に取扱い,あるいは「非日本人」という言葉のうちに朝鮮人を含ませ,あるいは「外国人」という言葉のうちに朝鮮人を含ませていた」そうです(上記最判昭和36年4月5日)。なお,「連合国総司令部の覚書に基いて発せられた日本政府の「外国人登録令」〔昭和22年5月2日勅令第207号〕は,朝鮮人を当分の間外国人とみなし,これに入国の制限と登録を強制した」そうですが(上記最判昭和36年4月5日。外国人登録令11条1項は「台湾人のうち内務大臣の定めるもの〔外国人登録令施行規則(昭和22年内務省令第28号)10条によれば「台湾人で本邦外に在るもの及び本邦に在る台湾人で中華民国駐日代表団から登録証明書の発給を受けた者のうち,令第2条各号に掲げる者〔連合国軍又は外交関係者〕以外の者」〕及び朝鮮人は,この勅令の適用については,当分の間,これを外国人とみなす。」と規定),そこでは「みなす」が効いていて,台湾人及び朝鮮人は,なお完全に外国人ではないものとする認識が窺われます。

ちなみに,新南群島がそうであった無主地の領土編入の法形式については,「領土ノ変更ノ為ニ議会ノ議決ヲ経タルコトナシ。事実上ノ占領ニ依リ無主地ヲ領土ト為ス場合ハ条約ニ依ルニ非ズト雖モ,此ノ場合ニ於テモ毫モ臣民ノ自由ヲ制限シ又ハ其ノ権利ニ影響スルモノニ非ザルガ故ニ,法律ヲ以テスルヲ要スル理由ナク,天皇ノ大権ニ依リテ之ヲ為スコトヲ得。其ノ形式ニ於テハ必ズシモ勅令タルヲ要セズ」と説かれていました(美濃部・撮要129頁)。

 

6 日仏友好:Vive la France!

我が外務省のウェッブ・ページによれば,2015年6月7日にドイツのエルマウで安倍晋三内閣総理大臣とオランド・フランス大統領との間で日仏首脳会談があり,その席で安倍内閣総理大臣が「南シナ海では中国による埋め立てが急速に進展しており,この点について懸念を共有したい」と述べたところ,オランド大統領は「南シナ海の状況について懸念を共有する,安全,平和の確保のためには,力ではなく対話による解決が重要である」と答えたそうです。麗しい日仏関係です。

無論,オランド大統領は,「我がフランスによるパラセル(西沙)群島及びスプラトリー(南沙)群島の領有の邪魔をして,その結果としてはChineの南シナ海進出の露払いのような形になり,さらには力を用いて我が仏領インドシナの解体をもたらしたのはどこのどの国だったっけ。本来南シナ海は,フランス文明の海になるはずだったんだぞ。」などと考える意地悪な人ではないはずです。(なお,我が外務省には当然フランス贔屓の人々がいて,前記の1933年7月のフランス政府によるスプラトリー島等に係る領有宣言に関して,同月25日パリ発の在仏長岡大使より内田外務大臣宛の電報においては,「・・・仏国ノ領有ハ米国ニ帰属スルニ比シ遥ニ好都合ト存スルニ付若シ右諸島中本邦トノ経済関係上何分留保スヘキモノアラハ此ノ際之ニ対スル保障ヲ取付ケ且同島ノ軍事施設ニ付華府〔ワシントン〕条約適用ヲ見ルヘキモノナルコトヲ明カニシタル上承認セラルルコト然ルヘキヤニ存ス」と,フランスの領有を認めるべきものとする意見具申がされていました(『日本外交文書 昭和期Ⅱ第2部第2巻(昭和8年対欧米・国際関係)』929頁)。サン・フランシスコ平和条約の承認を求めるための参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会における説明においても,西村政府委員(外務省条約局長)は「新南群島は1939年,日本が一方的に台湾の高雄市の管轄に属せしめた地域であります。その群島につきましては1933年以来,日本とフランスの間にいわゆる先占権について紛争があつて遂に外交上妥結に達しないで,日本のほうで一方的に領域変更の措置をとつた経緯がある地域であります。」と述べており(下線は筆者。第12回国会参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会会議録4号3頁),何やらフランスに同情的な雰囲気がにじんでいました(同政府委員は,この後パリで駐仏大使を務めます。)。2005年段階において,フランスはなお,スプラトリー群島に係る領有権の主張を公式には放棄していないようであると報告されています(Tønneson: 56)。)

ちなみに,日本軍進駐下の仏領インドシナの獄中にいたフランス人ピエール・ブールが後に書いた有名なSF小説が,『猿の惑星』でした。

1 ソクラテス的問答法

 

(1)星野英一教授のソクラティック・メソッド

 法学教育に関して,ソクラティック・メソッドとはよく聞く言葉です。2012年9月に86歳で亡くなった星野英一教授の回想にも「〔東京大学法学部で〕筆者は,最高裁判所判例研究の演習を,50人のクラスで,席次を決め,このメソッドだけで進めた。各人のあたる回数が同じになるように,席次表に印をつけていた。10回,各2時間以上の授業で,毎回20人程度,一人合計5回くらいあたるようにしていた。これは,かなり成功だったように思っている。」との記述があり(同『法学者のこころ』(有斐閣・2002年)146頁),また,「もちろん,法律の勉強には,ケース・メソッドというよりソクラティック・メソッドの授業があったほうがいいと思っています。法律的訓練のために有効だということです。私自身,ゼミですが,東大,千葉大,放送大を通じて,そのようなゼミを30年くらいやってきました。しかし,教えるほうは,その質問を考えておくことも大変だし,その場で思いがけない答えが出てきたときに臨機応変に対応するのでとても疲れます。やっと東大の停年〔1987年3月〕の数年前くらいから,自分である程度うまくできたと思えるようになりました。」とあります(同『ときの流れを超えて』(有斐閣・2006年)234頁)。「数年前くらい」を3ないし4年くらい前と考えれば,1983年度の冬学期くらいから最高裁判所判例研究の演習を「自分である程度うまくできたと思えるようになった。」ということでしょうか。当時の東京大学法学部の学生は,どのような様子だったものやら。なお,星野教授の理解では「ソクラティック・メソッドとは,授業進行の方法であって,授業の内容に関するものでない。教師の一方的な話でなく,対話的に授業を進める方法一般を意味するものであろう。それゆえ,よい方法」であるということでした(同『法学者のこころ』145頁)。

 

(2)「論理の万力」

他方,紀元前5世紀末のアテネにおける本家ソクラテスによる実際の問答はどのようなものであったのでしょうか。1917年にドイツ帝国のミュンヘンでされたマックス・ヴェーバーの講演『職業としての学問』において,次のような紹介があります。

 

  Die leidenschaftliche Begeisterung Platons in der »Politeia« erklärt sich letztlich daraus, daß damals zuerst der Sinn eines der großen Mittel allen wissenschaftlichen Erkennens bewußt gefunden war: des Begriffs. Von Sokrates ist er in seiner Tragweite entdeckt. … Hier zum erstenmal schien ein Mittel zur Hand, womit man jemanden in den logischen Schraubstock setzen konnte, so daß er nicht herauskam, ohne zuzugeben: entweder daß er nichts wisse: oder daß dies und nichts anders die Wahrheit sei, die ewige Wahrheit, die nie vergehen würde, wie das Tun und Treiben der blinden Menschen. Das war das ungeheure Erlebnis, das den Schülern des Sokrates aufging.

 

  『国家』におけるプラトンの情熱的熱狂は,つまりのところ,当時初めて,全ての学問的認識に係る偉大な手段の一つ,すなわち概念の意義が自覚されたということから説明される。ソクラテスによって,それは,その有効射程と共に発見されたのである。・・・ここにおいて,何人をも論理の万力に据えて,彼は何も知らないこと,又は他のものではなくあるものこそが真理,すなわち,盲目の人々の行為や営為のように廃れてしまうものではない永遠の真理であることを彼が認めざるを得ないようにすることができる手段が初めて手に入ったものと思われた。これが,ソクラテスの生徒らに対して明らかになった,おそるべき経験であった。

 

対話の相手方を論理の万力(der logische Schraubstock)に据えてギリギリと締め上げ,参りました私は間違っていました,そうです全く先生のおっしゃるとおりでございますと言わせてしまう,なかなか意地悪なものだったようです。これが古代ギリシャ人ということでしょうか。相手を気遣った優しいものではありません。これに対して星野教授のゼミにおいては,ソクラティック・メソッドといっても,「知識を正確にするためという場合もあ〔るが〕・・・しかし,私は,まず判例等における事実関係をきちんと把握する練習から始めました。・・・それから,法律的な考え方を自分でできる訓練をする趣旨で,答えが合っている秀才型の人には,さらに突っこんでゆきました。答えが間違いまたは不正確な人にも,類似の例などを示して,自分で考えて正解に達するようにしました。」というような配慮がされていました(星野『ときの流れを超えて234頁)。

 

(3)刑事弁護におけるソクラテス的意地悪質問

ところで,刑事公判における弁護人の被告人質問などにおいては,筆者はソクラテス的意地悪質問をするときがあります。証言台で緊張している被告人に任せておくだけでは,その内心の反省を表現する的確な言葉がなお十分出て来ないであろうときなどです。

「先生の弁護人質問の方が,検察官からの質問よりも怖かった。」

と国選弁護の被告人から言われたことがあります。

「それは君の考えが甘いよ。弁護士が付いたからって,何もせずに任せていればいい結果が出て来るものと,のほほんと期待されては困るよ。刑事訴訟における主役は飽くまでも君だよ。意地悪質問といわれたって,君のために有効な質問を考え出すのは大変なんだぞ。」

とは筆者の内心の声でした。

日本人たる筆者が,古代ギリシャ人のように意地悪になれるわけがありません。

 

2 書かれた言葉と語られる言葉

 

(1)判決の宣告と判決書

 なお,前記被告人は,かつて同種事犯で執行猶予付きの懲役刑の判決を受けたことがありました。

 国選弁護人として選任された当初筆者は,「前の判決については,執行猶予の言渡しが取り消されることなくその猶予の期間を経過しているのだから,刑法27条によって刑の言渡し自体の効力が失われているよね。だから,前に禁錮以上の刑に処せられたことがない者として,刑法25条1項1号で執行猶予付きの判決が可能だよね。」と楽観していました。しかしながら,検察官から公判での取調べを請求する予定の証拠書類として,閲覧の機会を与えられた(刑事訴訟法299条1項本文,刑事訴訟規則178条の6第1項1号),当該被告人に係る前の事件における判決書の写しを見て,絶句したものです。第一審では実刑判決だったところ,控訴審判決で執行猶予が付いたのですが,当該控訴審判決にいわく。

 

 ・・・被告人に対しては,今回に限り,その刑の執行を猶予するのが相当である。(下線は筆者)

 

 えっ,「今回に限り」なんだからまたやったら実刑だよ,という厳しい警告を高等裁判所から受けてしまっているではないか。それなのに,なぜまた同じような犯罪を行ってしまったのかね。執行猶予付き判決を受け得るチャンスは使い尽くしてしまっていることになっているではないか。今更,今回も執行猶予になるように先生よろしくお願いしますと頼まれても困るよ。裁判所にも立場というものがあるのだよ・・・。

情状弁護で頑張るとして,執行猶予になるのかどうかは,なお苦しいところです。

 「あのね,前の事件が無事執行猶予付き判決で終わった時にね,「今回に限り」だから次にまた同じことをやったら執行猶予は付かないよって,控訴審での弁護人の○○先生から注意されていなかったの。控訴審の判決書は見なかったの。」

と,保釈によって釈放中の被告人に問いただしたのですが(筆者は保釈も頑張っていたのでした。),回答は次のとおり。

 

 控訴審の弁護人がだれであったかは,覚えていない。

 判決書は,見ていない。

 

 頭を抱えそうになったのですが,確かに刑事裁判ではあり得ることです。○○先生(控訴審の判決書に名前が出ている。)は,ひょっとしたら控訴審の判決書謄本の交付を請求(刑事訴訟法46条)せず,したがって当該判決書謄本ないしはその写しを被告人に渡すこともしていなかったのではないでしょうか。民事訴訟では,判決書が当事者に送達されます(民事訴訟法255条)。しかしながら,刑事訴訟においては,「判決は,公判廷において,宣告によりこれを告知する」だけです(刑事訴訟法342条。控訴審につき,同法404条)。

刑事訴訟規則34条は,「裁判の告知は,公判廷においては,宣告によつてこれをし,その他の場合には,裁判書の謄本を送達してこれをしなければならない。但し,特別の定のある場合は,この限りでない。」と規定しています。裁判書の謄本の送達が,公判廷において宣告された裁判の告知のためにされることはないわけです。判決書の謄本又は抄本の送付については,検察官の執行指揮を要する場合にする旨の規定が刑事訴訟規則36条にありますが,その送付先は検察官だけです。(なお,同規則222条参照)

 ちなみに,刑事訴訟法46条に基づいて裁判書又は裁判を記載した調書の謄本又は抄本の交付を請求するには費用がかかり,その額は,「当分の間,その謄本又は抄本の用紙1枚につき60円」です(刑事訴訟法施行法(昭和23年法律249号)10条1項前段)。通常,収入印紙で納めることになります(刑事訴訟法施行法10条2項)。

 将来の戒めのためには,判決を耳で聞いたままにしておくよりも,何か書き物の形で被告人に交付しておく方がよいよう思われるので,筆者は,判決書又は判決書に代わる記載のある調書(調書判決)の写しを入手して被告人に送ることにしています。さすがに,額に入れて部屋に飾って毎日それを見ることまでは期待しませんが。

  己は主人と一しよに立ち上がつた。そして出口の方へ行かうとして,ふと壁を見ると,今迄気が附かなかつたが,あつさりした額縁に嵌めたものが今一つ懸けてあつた。それに荊(いばら)の輪飾(わかざり)がしてある。薄暗いので,念を入れて額縁の中を覗くと,肖像や画ではなくて,手紙か何かのやうな,書いた物である。己は足を留めて,少し立ち入つたやうで悪いかとも思つたが,決心して聞いて見た。

  「あれはなんだね。」

  「判決文です。」エルリングはかう云つて,目を大きく睜(みは)つて,落ち着いた気色で己を見た。

  「誰の。」

  「わたくしのです。」

  「どう云ふ文句かね。」

  「殺人犯で,懲役5箇年です。」緩やかな,力の這入つた詞で,真面目な,憂愁を帯びた目を,怯(おそ)れ気もなく,大きく睜つて,己を見ながら,かう云つた。

  ・・・

  ・・・その肩の上には鴉が止まつてゐる。この北国神話の中の神の様な人物は,宇宙の問題に思を潜めてゐる。それでも稀には,あの荊の輪飾の下の扁額に目を注ぐことがあるだらう。・・・(ハンス・ラント,森鷗外訳『冬の王』)

 

(2)ソクラテスの文字使用批判:『パイドロス』

ところでソクラテスは,書き物が嫌いであったようで,弟子プラトンの著作たる『パイドロス』の主人公「ソクラテス」として,エジプトの古い神が発明した文字の使用に対して全エジプトの王たる神アモン(又はThamus)がしたという批判を対話者たるパイドロスに紹介しています。すなわち,「(文字によって)学徒が記憶力を用いなくなるのであるから,(文字は)学徒の魂に忘れっぽさを生み出すだろう,彼らは自らを思い返すことなく,外界の書かれた記号を信用するようになるだろう。」及び「(文字は)想起の助けとはなっても記憶の助けにはならず,汝の弟子らに対して真理ではなく真理らしく見えるもののみを与えるものである。彼らは多くの事物についての耳学者とはなるが,何事をも学ばないだろう。彼らは全知のようにみえるだろうが,概して何も知らないことだろう。現実性の無い知恵ばかり誇示する彼らは,一緒にいるには煩わしい者となるであろう。」という文字批判です。ソクラテスとしては,書かれた言葉よりもむしろ,「学徒の魂に刻み込まれた知識の言葉であって,自らを守ることができ,語るべきときと沈黙すべきときとを知っているもの」を推奨しています。(以上はBenjamin Jowettの英訳からの重訳)

しかしながら,我々の日々の現実は,このような高尚な議論の場ではありません。世の中の皆が,向学心にあふれたソクラテスの弟子たちのような異常な人たちではありません。文字の使用によって記憶力が弱められる以前に,そもそも記憶することが苦手な人々が存在することを否定することは難しいでしょう。

 

(3)調書判決とその記載

前記の被告人にも, 調書判決の写しを入手して自宅に郵送しました。実は,ありがたいことに執行猶予が付き,判決はそのまま確定したのでした。ただし,執行猶予期間は5年であって,法律上の最長期間でした(刑法25条1項参照。執行猶予期間は,1年以上5年以下。3年が標準といわれています。)。ぎりぎりの執行猶予付き判決であったことが分かります(判決の宣告において量刑の理由が告げられる際にも「実刑も十分あり得る」ところだったと言われていました。)。

なお,調書判決とは,「裁判をするときは,裁判書を作らなければならない。但し,決定又は命令を宣告する場合には,裁判書を作らないで,これを調書に記載させることができる。」との刑事訴訟規則53条の原則(判決をするときには全て判決書を作らなければならないとの建前)の例外として,同規則219条で「地方裁判所又は簡易裁判所においては,上訴の申立てがない場合には,裁判所書記官に判決主文並びに罪となるべき事実の要旨及び適用した罰条を判決の宣告をした公判期日の調書の末尾に記載させ,これをもつて判決書に代えることができる。ただし,判決宣告の日から14日以内でかつ判決の確定前に判決書の謄本の請求があつたときは,この限りでない。」と規定されているものです(同条1項)。

ところで,前記被告人の調書判決の写しを見た際,そこに裁判官の訓戒等が記されていないのは当然なのですが(「裁判所としては軽く見るわけにはいきませんが,しかし,特に執行猶予付きの判決にしました。・・・あなたは今回が2回目ですから,次もやったら,実刑の可能性が高いですからね。ですから,3回目のときは,いくら深く反省しても,いくらいい弁護士さんが頑張っても,実刑になるものと理解してください。」といった趣旨の説諭がありました。――しかし,この部分については,「2回目の時の弁護では,いい弁護士さんが頑張っていたね」との評価までをも読み込んでよいものでしょうか。――),裁判官及び検察官の氏名はそれぞれ記載されている一方,弁護人の氏名は記載されないことに改めて気が付きました。裁判書には,裁判をした裁判官が署名押印しなければならず(刑事訴訟規則55条),判決書には公判期日に出席した検察官の官氏名を記載しなければならないのですが(同規則56条2項),弁護人の氏名は判決書に記載すべきものとはされていないのでした(同条参照)。お上からお上の御責任で下される文書なのですから,お上ならざる弁護人の氏名の記載は必須ではないわけでしょう(旧刑事訴訟法関係事件ですが,最大判昭和25年9月27日刑集4巻9号1783頁は,「原判決書には,本件公判に立会つた弁護人の氏名を記載していないことは所論のとおりであるが,しかしその為何等旧刑訴法の条規に反するところはなく,また憲法37条3項に反するものでもない。」とつとに判示していました。司法研修所『平成19年版 刑事判決書起案の手引』134頁以下の「判決書の例」にも弁護人の氏名は記載されていません。)。ただし,筆者が弁護人を務めた別の事件において,公訴事実について争ったりして正式の判決書が書かれたときには,弁護人である筆者の氏名も記載されていました。

せっかく調書判決の写しを入手して送付しても,そこに名前は無いわけですから,筆者も,前記被告人の記憶の中では,同人の前回被告事件における○○先生と同じ運命をたどりそうな気がします。

無論,いずれにせよ,被告人が無事更生することが一番です。

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