2015年04月

1 責任と「責任」

責任というのは,難しい言葉です。

 

(1)日本語

 国語辞書的には,責任は,「人や団体が,なすべき務めとして,みずから引き受けなければならないもの。「それは彼の――だ」「――を取る」「――を果たす」」とされています(『岩波国語辞典 第四版』(1986年))。

 「なすべき務め」というから,責任は作為義務(なす債務)ということですね。その内容は,善良な管理者の注意義務で決まる(民法644条)ということになるようです。

 

(2)民法

 しかし,民法を勉強していると,違う「責任」が出てきて,頭を大いにひねることになります。

 

  執行力のうち,特に金銭債権について,債務者の一般財産への強制執行(差押え・換価)により債権の内容を実現する効力を摑取力(かくしゅりょく)といい,この摑取力に服することを,債務者の責任という。これに対して,債権の内容をそのままの形で強制的に実現する効力のことを貫徹力ということがある。(内田貴『民法Ⅲ債権総論・担保物件[第2版]』(東京大学出版会・2004年)111頁)

 

「○○力」が出てくると,自己啓発本みたいですね。

しかし,「債務者に責任があるのは当たり前だろう。」と普通に考えて(確かに,日本語では前記のとおり,責任=債務です。),この辺を気楽に読むと,少し先の頭の体操で難儀することになります。

 

 ・・・執行力のない債権はあるだろうか。/たとえば,執行しないとの特約をした債権はこれにあたる。判決はもらえる(したがって自然債務ではない)が,執行はできない。特に,金銭債権の場合,執行できないということは,債務者の一般財産が債務の引当になること(つまり責任)がない,ということを意味する。このため,責任なき債務と呼ばれる。(内田113頁)

 

「貧乏で財産がないから差し押さえるべき財産も無いということか。それで執行しないことにしてもらったのか。つまり,貧乏なくせに借金するのは無責任なやつということかな。」というわけではありません。「責任」なき債務の場合,債務者がどんなにお金持ちであっても債権者は債務者の財産に手をつけることができず,かつ,そのことは債務者の人格の道徳的評価とは無関係です。債務者の性格が無責任なのではなくて,債務に「責任」が伴っていないだけです。したがって,「責任」のない債務は,善意の第三者に債権譲渡されてもなおその「責任」のない性質を持続するものとされています(我妻榮『新訂債権総論』(岩波書店・1964年)74頁)。

 

  これに対して,責任だけがあって債務がない場合もある。たとえば,友人が借金するというので自分の土地を担保に提供し,抵当権を設定した場合である。このような人のことを物上保証人という。債務は負っていないが,友人が弁済しなければその土地が債務の引当になるという意味で責任のみを負っている。(内田113頁)

 

「なるほど。金を返さなきゃならないのは債務者で,物上保証人は抵当権設定のための書面に,債務者に頼まれてはんこを押しただけだからね。つまり,保証人は,自分が金を返すという債務を債権者に対して負わないってことだね。」とまとめると,間違いということになってしまうのが法律の困ったところです。物上保証人は債権者に対して債務者ではないのですが,「物上」のつかない保証人(「連帯」保証人を含む。)は,債権者に対して保証債務を負う債務者です。保証契約は,保証人と債務者との間の契約ではなくて,保証人と債権者との間の契約です。

 

(3)ゲルマン法とSchuld und Haftung

債務と「責任」とを分けて論ずる煩瑣な思考は,ゲルマン法由来であるそうです。

 

 一定の財産が債務の「引き当て」(担保)となっていること,いいかえれば,債務が履行されない場合にその債権の満足をえさせるために一定の財産が担保となっていることを「責任」(Haftung)という。債務(Schuld)は一定の給付をなすべしという法律的当為(rechtliches Sollen)を本質とするのに対し,責任はこの当為を強制的に実現する手段に当る。元来かような意味での債務と責任とを区別することは,ゲルマン法において顕著であったといわれている。そこでは,債務自体としては,常に法律的当為だけを内容とし,この当為を実行しない者が債権者の摑取力(Zugriffsmacht)に服すること,すなわち責任は,債務とは別個の観念とされた。殊に最初は,契約その他の事由によって債務を生じても,責任はこれに伴わず,責任は別に責任の発生自体を目的とする契約その他の原因によって始めて生じたものであり,またその責任も人格的責任(人格自体が債権者の摑取力に服する)と財産的責任とに大別され,それぞれ更に種々に区別されていた。・・・(我妻72頁)

 

 つまり,責任感あふるる債務者だから「責任」はいらない,ということになるわけです。すなわち,「おれが責任をもって金を返すって言ってるんだから,おれに「責任」まで負わせる必要はないだろう。」「そうだね,きみは責任を果たすから「責任」設定契約まではいらないね。」というような具合です。責任と「責任」とは食い合わせが悪いようです。

 なお,前記の人格的責任は,「ごめんなさい」と道徳的に謝罪をする責任のことではなく,「債奴,民事拘束」(我妻73頁)のように身体が抑えられ,いわばからだで償うことです。

 

2 「責任」のアヤ(und Verantwortung

 ところで,Schuld(債務,罪)とHaftung(「責任」)とは,ゲルマン人の後裔による次のドイツ文では意識的に使い分けられていたのでしょうか。

 

  Wir alle, ob schuldig oder nicht, ob alt oder jung, müssen die Vergangenheit annehmen. Wir alle sind von ihren Folgen betroffen und für sie in Haftung genommen.

 (我々は皆,罪があってもなくても,老いていても若くても,過去を受け入れなければなりません。我々皆に,その帰結はかかわるものであり,かつ,「責任」が及んでいるのです。)

 

 1985年5月8日にされたドイツ連邦共和国のリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領によるドイツ終戦40周年記念日演説(我が国では「荒れ野の40年」演説として知られています。)の一節です。ヴァイツゼッカーは,東部戦線からの復員後,法律を勉強していました。(また,自分の父エルンスト(第三帝国の外交官)の戦争犯罪に係る裁判で弁護のために働いています。)

過去をannehmenするのを「引き受ける」と訳すると,債務引受けが連想されそうなので,別の訳語を採用してみました。「責任」は,能動態で引き受けるものとはされておらず,受動態で及んでいるものとされています。民法の用法ですと,SchuldはないけどHaftungだけ及んでいるということになるようです。„Wir alle, ob schuldig oder nicht, sind in Haftung genommen,“であれば,そういうことでよいのでしょうね。なお, ドイツ大統領官邸ウェッブサイトの英訳版では, 「責任」にliableの語が当てられています。

 前回のブログ記事(「「七十年」と「四十年」」)で,「我々のもとでは,政治責任の分野に,新たな世代が成長してきました。若者は,かつて起こったことには責任を負いません。しかしながら,彼らは,そこから歴史において生ずることに対して責任を負うのです。」とあっさり訳したヴァイツゼッカー演説の部分における「責任」(Verantwortung, verantwortlich)も,日本語の責任とはちょっと違うようです。名詞のVerantwortungには「申し開き,弁明」という意味もあり,動詞のverantwortenには「責任を負う」と共に「申し開きをする」という意味があります。英語のaccountabilityに対する従来の訳語である「説明責任」に該当するものでしょう(ただし, ドイツ大統領官邸ウェッブサイトの英訳版ではresponsibleの語が当てられています。)。すなわち,ドイツの若者は,そこ〔かつて起こったこと〕から(daraus)歴史において生ずる(wird。現在形)ことに対しては「説明責任」を負う(申し開きができるようにする)必要がある,ということのようです。

 責任又は「責任」を論ずるには,やはり,「言葉のアヤ」等「文学方面」をもよく研究しなければならないということを,ドイツ連邦共和国の貴族的(名前にvon付き)国家元首は示しているように思います。

 

 我が国では昭和天皇がその1月に崩御した1989年の11月,東西ドイツを分断するベルリンの壁が落ちた直後,ヴァイツゼッカー大統領は同市のポツダム広場を訪れました。あたかも東側のドイツ民主共和国の兵士たちが東西間の通路を啓開しつつありました。一士官が西側のドイツ連邦共和国大統領に気付きます。同士官は気を付けの姿勢をとり,報告します。

 

 「異常なしであります。大統領閣下。」

 

 リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーは,今年(2015年)1月31日,94歳で歿しました。(Obituary, The Economist. February 14, 2015


(附記)ちなみに,ナチス・ドイツ滅亡直後の1945年5月29日に米国の首都ワシントンで行われたトーマス・マンの「ドイツとドイツ人」講演のドイツ語原稿においては,ドイツ人として生まれた者の「ドイツの運命及びドイツの責任」とのかかわりに関して,Man hat zu tun mit dem deutschen Schicksal und deutscher Schuld, wenn man als Deutscher geboren ist.という表現が見られます。Schuldであって,Haftungではありません。




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1 戦後70

 今年(2015年)は,先の大戦が終わってから70周年ということで,「節目」の年ということになっています。

 

  なお,先の大戦の終結の日には諸説があり得ます。

終戦の詔書は1945年8月14日付けで作成され,同日付けの官報号外で公布されています。中立国経由の連合国に対するポツダム宣言受諾の通知もこの日にされています。

他方,1945年9月2日には,重光葵及び梅津美治郎がポツダム宣言の条項を「日本国天皇,日本国政府及び日本帝国大本営ノ命ニ依リ且ツ之ニ代リ受諾」し,並びに「日本帝国大本営並ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ聯合国ニ対スル無条件降伏ヲ布告」し,及び「日本帝国大本営ガ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ指揮官ニ対シ自身及其ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ガ無条件ニ降伏スベキ旨ノ命令ヲ直ニ発スルコトヲ命」ずる「降伏文書」が東京湾上において署名され,かつ,聯合国最高司令官及び各聯合国代表者によって受諾されました。

1945年8月15日は,正午に社団法人日本放送協会によって前記終戦の詔書(・・・「朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇4国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ・・・」)の玉音放送がされた日です。

 

 2015年2月25日に内閣総理大臣官邸4階の大会議室で開催された20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会(21世紀構想懇談会。「戦後70年談話」にかかわるものだそうです。)の第1回会合において,同懇談会座長の西室泰三日本郵政株式会社取締役兼代表執行役社長は「戦後70周年という節目の年に,大変重要な任務を果たす懇談会の座長にご指名いただき,非常に光栄であると同時に,身が引き締まる思いである」と挨拶したそうですが(内閣総理大臣官邸のウェッブサイトにある議事要旨),そこでは「70周年」が他の「○十周年」と異なる特段の「節目」である理由までは明らかにされていません。そこで,当該会合の冒頭でされた安倍晋三内閣総理大臣の挨拶(内閣総理大臣官邸ウェッブサイト)を見てみるのですが,「今年は,戦後70年目に当たる年であります。戦後産まれた赤ちゃんが,70歳を迎えることになります。」ということを超えた「70年目」の特別な意味についての言及はありません。初めはどんなに可愛い赤ちゃんでも,死なずに生きていれば,だれでもいつかは70歳の老爺老婆になるのは当たり前のことであって,1945年生れの赤ん坊についても変わりはありません。「未来の土台は過去と断絶したものではあり得ません。今申し上げたような先の大戦への反省,戦後70年の平和国家としての歩み,そしてその上に,これからの80年,90年,100年があります。」ということで,「70年」は,安倍内閣総理大臣によって80年,90年及び100年と単純に並べられていますから,むしろ,数ある十年区切りの中の単なる一つとしての「70年目」ということであるようです。さらにいえば, 20世紀を振り返り21世紀を構想する時期としてならば, 21世紀もなお浅かった戦後60年目の2005年の方がよかったようにも思われます。

 

2 「四十年」

 

(1)ドイツの戦後40

 政治家としては,自分の任期中にたまたま何かの「○十周年」があれば,これは幸いとその機会を活用して名を上げたいというのが普通かつ健康な反応でしょうが,それをそのまま言ってしまうと芸がないところです。この点,外国の政治家などはうまい。リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(Richard von Weizsäcker)は1984年にドイツ連邦共和国の大統領に就任しましたが,たまたまその翌年の1985年の5月8日は,ヨーロッパにおける第二次世界大戦の終戦40周年記念日に当たりました。当日,ボンの連邦議会の演壇においてヴァイツゼッカーは,その記念演説を歴史に刻みつけるべく,40周年が25周年又は30周年とは異なった特別の意味のある節目であるゆえんを,ユダヤ教及びキリスト教の聖典を引きつつ解き明かします。

 

  多くの若い人たちが,この数箇月,自ら,そして私たちに問いかけました。なぜ,終戦後40年たって,過去についてのこんなにも活発な議論が起こったのであろうかと。なぜ,25年又は30年のときよりも,より活発なのであろうか?その内的必然性は,どこにあるのであろうか?

  このような質問に答えることは簡単ではありません。しかしながら,我々はその理由を,外からの影響に主として求めてはいけません。確かに,そのような影響は疑いもなく存在しましたが。

  四十年は,人の一生及び民族の運命に係る期間として,大きな役割を演ずるものであります。

  ここにおいても,私に,改めて旧約聖書を参照することをお許しいただきたい。その信仰にかかわりなく,すべての人のための深い洞察を蔵する旧約聖書を。そこでは,四十年は,何度も回帰し,かつ,本質にかかわる役割を演じております。

  四十年,歴史の新たな段階が約束の地への侵入と共に始まる前に,イスラエルの民は荒れ野に留まっていなければなりませんでした。

  四十年が,当初責任を有していた父の世代が完全に更迭されるために必要でした。

  また,他の場所(士師記)においては,援助及び救済の経験の記億がいかにしばしば四十年しか持続しなかったかが明らかにされています。記憶が剥落したとき,平穏の時は終わりました。

  すなわち,四十年は,常に大きな刻み目を意味するのです。当該期間は,人間の意識において作用します。それは,あるいは,新しくかつ善い未来への自信と共に来る,暗い時代の終わりとしてであります。あるいはまた,忘却の危険又は次代の人々への警告としてであります。両側面のいずれも,よくよくの考慮に値するものであります。

  我々のもとでは,政治責任の分野に,新たな世代が成長してきました。若者は,かつて起こったことには責任を負いません。しかしながら,彼らは,そこから歴史において生ずることに対して責任を負うのです。

 

当該演説の岩波書店による邦訳名である「荒れ野の40年」は,「四十年,歴史の新たな段階が約束の地への侵入と共に始まる前に,イスラエルの民は荒れ野に留まっていなければなりませんでした。」(Vierzig Jahre sollte Israel in der Wüste bleiben, bevor der neue Abschnitt in der Geschichte mit dem Einzug ins verheißene Land begann.)の部分から採ったものなのでしょうね。ドイツ連邦共和国大統領がドイツ終戦40周年記念日に「荒れ野の40年」なる演説をしたといわれれば,第二次世界大戦後のドイツ連邦共和国国民は40年間荒れ野にあるがごとき試練に気高く耐え,「対立を超え,寛容を求め,歴史に学ぶ」立派な道徳的国民になったのか,と思ってしまうのですが,看板に若干分かりにくいところがありました。実は「荒れ野の40年」は,直接には20世紀のドイツ人の話ではなくて,紀元前13世紀,モーセに率いられてエジプトを脱出したもののカナンの地に侵入するまで荒れ野を四十年さまよったイスラエルの民の内部における指導世代の交代についてのことでした。

 

(2)曠野の四十年

それではイスラエルの民はなぜ「荒れ野の40年」を経験しなければならなかったかといえば,その直接の原因は,かえって侵略のいくさ(「・・・汝の神ヱホバの汝に与へて産業となさしめたまふこの国々〔約束の地カナン〕の邑々(まちまち)においては呼吸(いき)する者を一人も生し存(おく)べからず 即ちヘテ人(びと)アモリ人カナン人ペリジ人ヒビ人ヱブズ人などは汝かならずこれを滅ぼし尽して汝の神ヱホバの汝に命じたまへる如くすべし」(申命記第2016-17))を避けたからのようでもありました。

エジプト脱出後,モーセは約束の地カナンに先遣隊を派遣して状況を偵察させます。

ところが,偵察の報告にいわく。

 

・・・その地に住む民は猛(たけ)くその邑々(まちまち)は堅固にして甚だ大(おほい)なり・・・(民数紀略1328)・・・我等はかの民の所に攻上ることを得ず彼らは我らよりも強ければなりと 彼等すなはちその窺ひたりし地の事をイスラエルの子孫(ひとびと)の中に悪(あし)く言ふらして云(いは)く我等が行巡りて窺ひたる地は其中に住む者を呑みほろぼす地なり且またその中に我等が見し民はみな身幹(たけ)たかき人なりし 我等またアナクの子ネピリムを彼処(かしこ)に見たり是ネピリムより出(いで)たる者なり我儕(われら)は自ら見るに蝗(いなご)のごとくまた彼らにも然(しか)見なされたり(同章31-33

 

カナンの住人は大きく強い。簡単には同地に侵入できないと知ったイスラエルの民は一晩中泣き叫び,モーセとアロンとを非難します。もうこんなのいやだ帰りたい,と。

 

・・・嗚呼我等はエジプトの国に死たらば善(よか)りしものを又はこの曠野(あらの)に死(しな)ば善らんものを 何とてヱホバ我等をこの地に導きいりて剣(つるぎ)に斃れしめんとし我らの妻子(つまこ)をして掠(かす)められしめんとするやエジプトに帰ること反(かへつ)て好からずやと 互に相語り我等一人の長(かしら)を立てエジプトに帰らんと云(いへ)り 是をもてモーセとアロンはイスラエルの子孫(ひとびと)の全会衆の前において俯伏(ひれふし)たり(民数紀略第142-5

 

俯伏す(ひれふす)というのですから,モーセとアロンとは土下座です。民衆を指導すべき政治家が人々の前で土下座するのは我が国の選挙運動ばかりではありません。

しかし,偉そうな態度で文句ばかり言って,言うことを聞かないイスラエルの民に対して神は怒ります。もうお前らのうち大人は約束の地に入れてやらん,四十年かけて総入れ替えだと。

 

・・・ヱホバ曰ふ我は活く汝等が我耳に言しごとく我汝等になすべし 汝らの屍はこの曠野に横(よこた)はらん即ち汝ら核数(かぞへ)られたる二十歳以上の者の中我に対ひて呟ける者は皆ことごとく此に斃るべし ヱフンネの子カルブとヌンの子ヨシュアを除くの外汝等は我が汝らを住(すま)しめんと手をあげて誓ひたりし地に至ることを得ず 汝等が掠められんと言たりし汝等の子女等(こどもら)を我導きて入ん彼等は汝らが顧みざるところの地を知るに至るべし 汝らの屍はかならずこの曠野に横はらん 汝らの子女等は汝らが屍となりて曠野に朽るまで四十年の間曠野に流蕩(さまよひ)て汝らの悸逆(はいぎやく)の罪にあたらん 汝らはかの地を窺ふに日数四十日を経たれば其一日を一年として汝等四十年の間その罪を任(お)ひ我(わ)が汝らを離(はなれ)たるを知べし 我ヱホバこれを言(いへ)り必ずこれをかの集(あつま)りて我に敵する悪(あし)き会衆に尽く行なふべし彼らはこの曠野に朽ち此に死(しに)うせん(民数紀略第1428-35

 

神のイスラエルの民総入れ替えは徹底していました。四十年のうちに曠野に朽ちて死に,約束の地カナンに入ることができなかった者には,モーセも含まれます。

メリバの地で,水が無いぞと荒れ狂う民を鎮めるべく,モーセは岩から水を出すことになりました。その際の神の指示は,杖を持って岩に向かって水を出すよう命ぜよ,でした。

 

モーセすなはちその命ぜられしごとくヱホバの前より杖を取り アロンとともに会衆を磐(いは)の前に集めて之に言けるは汝ら背反者等(そむくものども)よ聴け我等水をしてこの磐より汝らのために出しめん歟と モーセその手を挙げ杖をもて磐を二度(ふたたび)撃(うち)けるに水多く湧出(わきいで)たれば会衆とその獣畜(けもの)ともに飲り 時にヱホバ,モーセとアロンに言たまひけるは汝等は我を信ぜずしてイスラエルの子孫(ひとびと)の目の前に我の聖(きよき)を顕さざりしによりてこの会衆をわが之に与へし地に導きいることを得じと(民数紀略第209-12

 

 何で神が怒ってモーセとアロンとはカナンに入れさせないぞと決めたのか,一読しただけではちょっとよく分かりません。

 しかし,神をSuica式カード開発に携わった誇り高い電波技術者であるものとして考えると納得がいきます。せっかく非接触で水が出る(改札機を通ることができる)ようにしたのに何でわざわざ杖で磐を撃つ(カードで改札機をタッチする)必要があるのですか,わたくしの開発した技術を信用しないのですか,いつになったら分かってくれるんですか,というわけです。Suicaの場合は,実際の運用上,やはり電波の強さの関係でカードを改札機にぐっと近づけないとうまく作動しないので,それならいっそのことタッチするものであると利用方法を説明することにしてしまえ,ということになったそうですが,毎日Suicaで改札機を通る際メリバの水の話を思い出す筆者は,あえてSuicaを改札機に触れさせないようにして通ってみたりしています。

 

(3)日本の戦後40

 ところで,『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)によれば,1985年8月14日に,「藤波官房長官,閣僚の靖国神社参拝につき,おはらい・玉ぐし捧呈・拍手は行わず一礼,供花の実費を公費とする公式参拝の新見解を発表」し,同月15日には,「中曽根首相,初めて内閣総理大臣の資格で参拝(野党・市民団体,一斉に抗議)」ということになっています。日本でも,戦後40年たって「新しくかつ善い未来への自信と共に来る,暗い時代の終わり」(Ende einer dunklen Zeit mit der Zuversicht auf eine neue und gute Zukunft)が感じられたものでしょうか。

 

3 「七十年」

 

(1)ユダ王国の滅亡とバビロン捕囚

 さて,戦後70年。

しかし,ヴァイツゼッカーの顰(ひそみ)に倣って旧約聖書に敗戦後「七十年」の用例を探すと,どうも紀元前6世紀初めの新バビロニア(カルデア)帝国に対するユダ王国の敗北(紀元前597年)及び滅亡(紀元前587年)並びにそれに伴うユダヤ民族指導層のバビロン捕囚(第1次連行(紀元前597年)及び第2次連行(紀元前587年))の話になってしまうようです。

 

 ・・・万軍のヱホバかく云たまふ汝ら我言(ことば)を聴かざれば 視よ我(われ)北の諸(すべて)の族(やから)と我僕(わがしもべ)なるバビロンの王ネブカデネザルを招きよせ此地(このくに〔ユダ王国〕)とその民と其四囲(そのまはり)の諸国(くにぐに)を攻滅(せめほろぼ)させしめて之を詫異物(おどろくべきもの)となし人の嗤笑(わらひ)となし永遠の荒地となさんとヱホバいひたまふ またわれ欣喜(よろこび)の声歓楽(たのしみ)の声新夫(はなむこ)の声新婦(はなよめ)の声磐磨(ひきうす)の音および燈(ともしび)の光を彼らの中にたえしめん この地はみな空曠(あれち)となり詫異物(おどろくべきもの)とならん又その諸国(くにぐに)は七十年の間バビロンの王につかふべし ヱホバいひたまふ七十年のをはりし後我バビロンの王と其民とカルデヤの地をその罪のために罰し永遠の空曠(あれち)となさん(ヱレミヤ記第258-12。紀元前605年のエレミヤの預言)

 

 ヱホバかくいひたまふバビロンに於て七十年満ちなばわれ汝らを眷(かへり)み我嘉言(わがよきことば)を汝らになして汝らをこの処に帰らしめん(ヱレミヤ記第第2910

 

 即ちヱホバ,カルデヤ人(びと)の王を之〔ヱルサレム〕に攻きたらせたまひければ彼その聖所の室(いへ)にて剣(つるぎ)をもて少者(わかきもの)を殺し童男(わらべ)をも童女(わらはめ)をも老人(おいびと)をも白髪(しらが)の者をも憐まざりき皆ひとしく彼の手に付(わた)したまへり 神の室(いへ)の諸(もろもろ)の大小の器皿(うつはもの)ヱホバの室(いへ)の貨財王とその牧伯等(つかさたち)の貨財など凡て之をバビロンに携へゆき 神の室(いへ)を焚(や)きヱルサレムの石垣を崩しその中の宮殿(みやみや)を尽く火にて焚(や)きその中(うち)の貴き器を尽く壊(そこ)なへり また剣(つるぎ)をのがれし者等(ものども)はバビロンに虜(とらは)れゆきて彼処(かしこ)にて彼とその子等(こら)の臣僕(しもべ)となりペルシヤの国の興るまで斯(かく)てありき 是ヱレミヤの口によりて伝はりしヱホバの言(ことば)の応ぜんがためなりき斯(かく)この地遂にその安息を享(うけ)たり即ち是はその荒をる間安息して終に七十年満ちぬ ペルシヤ王クロスの元年に当りヱホバ曩(さき)にヱレミヤの口によりて伝へたまひしその聖言(みことば)を成(なさ)んとてペルシヤ王クロスの心を感動したまひければ王すなはち宣命(みことのり)をつたへ詔書を出(いだ)して徧(あまね)く国中(こくちう)に告示(つげしめ)して云(いは)く ペルシヤ王クロスかく言ふ天の神ヱホバ地上の諸国を我に賜へりその家をユダのエルサレムに建(たつ)ることを我に命ず凡そ汝らの中(うち)もしその民たる者あらばその神ヱホバの助を得て上りゆけ(歴代志略下第3617-23

 

ネブカドネザル2世の新バビロニア軍によるエルサレムの破壊は紀元前587年,新バビロニアの滅亡は紀元前539年,ペルシヤ帝国のキュロス2世のエルサレム帰還の詔書は紀元前538年のことです(ただし,諸本によって年代が微妙に異なります。)。エレミヤは「七十年」続くと言ったものの,ユダ王国滅亡後,新バビロニア帝国は五十年ほどしか続かなかったことになります。

なお,エレミヤについては,後の東京大学教養学部長・総長である矢内原忠雄による伝記(『余の尊敬する人物』)が,先の大戦における対米英蘭戦前の1940年に岩波新書で出ていました。

 

(2)バビロン捕囚期の意義:Erinnerung

新バビロニアによってユダ王国は滅ぼされ,ダビデの子孫はもはや王ではなく,エルサレムの神殿も破壊され,民族の指導層はバビロンに連行されてしまいました。このバビロン捕囚期,ユダヤ人は全てを失ったかのように見えました。

 

・・・神とのつながりを保証する具体的なものは,すべて失われてしまったかのような状況だった。けれども全くすべてが失われてしまったのでもなかった,残っていたのは「思い出」である。(加藤隆『旧約聖書の誕生』(筑摩書房・2008年)205頁)

 

・・・捕囚の状態では,過去の出来事を想起することで,現在の神と民との関係が確認されている。・・・そして過去を想起して現在の神と民との関係を確認するというメンタリティーは,今日も存続している。(同206-207頁)

 

・・・出エジプトの出来事は捕囚時代のユダヤ人にとって,たいへん重要な意味をもつことになった。エジプトで奴隷状態にあったヘブライ人たちを,出エジプトの際に神が導いて解放した。捕囚時代のユダヤ人たちは,現在,バビロニア帝国の支配下で奴隷のような状態に置かれている。過去において神は自分たちの祖先を奴隷状態から解放したのだから,今,奴隷状態にある我々も神は必ず解放するに違いないと考えたのである。(同207頁)

 

 ここで,「思い出」ないしは「想起」が出て来ます。

 ヴァイツゼッカーの「荒れ野の40年」演説にも次のくだりがあったところです。

 

 ・・・思い出(Erinnerung)は,ユダヤ人の信仰を構成する(gehört)ものだからです。

  「忘却しようとする意思は,捕囚(Exil)を長引かせる。

 そして,救済の秘密は,思い出(Erinnerung)と言われる。」

  このよく引用されるユダヤ人の知恵の言葉が言わんとしていることは,確かに,神に対する信仰は歴史における神の働きに対する信仰である,ということであります。

 

(3)再び戦後70

 

ア Japanische Erinnerung?

 さて,日本は,戦後70年間,過去の何を思い出し,何を想起し続けたものか。

 どちらかというと,1945年の日本の敗戦は,紀元前587年のユダ王国の滅亡よりは紀元前597年の同王国の敗戦に似ていて,ただし,戦勝帝国に無謀な叛乱を起こして亡国にまで至るものではなかったもの(しかも,占領期間が七十年どころか7年(1952年4月28日の「主権回復」)で終わったもの),ということのように見えなくもないところです。亡国もなく離散もなければ,思い出,想起又はErinnerungに係る特段の必要は感じられなかったということでしょうか。基本的に我が国民は,人として自然なことですが,現在志向であるように思われます。

 

イ Das Joch des Imperiums

 紀元前597年のユダ王国の敗戦後の紀元前594年,預言者エレミヤは,同王国の新バビロニア帝国に対する服従の必要を説き,かつ,可視化させるべく,索(なわ)と軛(くびき)とを作って自分の項(うなじ)に置きます(エレミヤ記第272)。その姿で首都エルサレムをうろうろするのですから,嫌味で目障りですね。何だこんなもんみっともないと,卑屈な軛をエレミヤの項(うなじ)から取り上げて壊した上で,ネブカドネザルの覇権など2年のうちにこんなふうにぶっ壊されるのだ,と会衆の前で見得を切る預言者ハナニア(エレミヤ記第2810-11)の方が普通の「愛国者」らしいところです。エレミヤはいつも売国奴っぽい。しかし,こういう「愛国者」の熱気に当てられてしまって敗戦ユダ王国は新バビロニア帝国に叛旗を翻し,紀元前587年の悲惨な滅亡・亡国を招いたのですから,そういう勇ましい有力者のいなかった戦後日本は結構なことでした。

 

ウ Weltmachtwechsel

 とはいえ,「七十年」が経過して,さしもの戦勝帝国の覇権も揺らぎ,次の新秩序が見えて来たときにどう対処するのかは難しい問題です。仮にユダ王国が新バビロニア帝国下の優等生的属国として存続していた場合,キュロス大王率いるペルシヤ帝国勃興の新事態にはどのように対応したものでしょうか。「エレミヤ先生は「70年」と言っておられたから,まだ70年たっていない以上飽くまで新バビロニア帝国の軛を担い,共にペルシヤ人に抵抗すべきだ。必要ならばバビロニア様のために国外派兵もあり得べし。」と妙に杓子定規過ぎるのも,勝ち馬に乗り損ねてしまうようでいけなかったでしょう。

 しかし,機会主義的なのも,余り格調が高くないですね。

 「捕囚の七十年」でなければ,「古希の七十年」ですか。確かに,戦後70周年の今年2015年,我が国民の高齢化は,我が国にとって避けて通れない大問題です。

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 東京大学教養学部の矢内原公園(目黒区駒場)

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1 1860年春のカリフォルニア州における福沢諭吉のワシントンの「子孫」問答

 福沢諭吉の『福翁自伝』(1899年)に,次の有名なくだりがあります。

 時は1860年3月18日(安政七年二月二十六日)ないしは5月9日(万延元年閏三月十九日),所はアメリカ合衆国カリフォルニア州(1848年3月メキシコから割譲。1850年9月州昇格)のサン・フランシスコ又はその近郊(咸臨丸の一行はサン・フランシスコ近傍メールアイランドの米国海軍港官舎に止宿)。

 

  ところで私がふと胸に浮んである人に聞いてみたのは,ほかでない,いまワシントンの子孫はどうなっているかと尋ねたところが,その人の言うに,ワシントンの子孫には女があるはずだ,いまどうしているか知らないが,なんでもだれかの内室になっている様子だと,いかにも冷淡な答でなんとも思っておらぬ。これは不思議だ。もちろん私もアメリカは共和国,大統領は4年交代ということは百も承知のことながら,ワシントンの子孫といえばたいへんな者に違いないと思うたのは,こっちの脳中には源頼朝,徳川家康というような考えがあってソレから割り出して聞いたところが,いまのとおりの答に驚いてこれは不思議と思うたことはいまでもよく覚えている。理学上のことについては少しも肝をつぶすということはなかったが,一方の社会上のことについては全く方角がつかなかった。(テキストは,慶応義塾創立百年記念版(1958年)104頁)

 

 これは質問がよろしくないです。日本人のアメリカ合衆国理解に,若干の不正確を生じさせたように思われる問答です。また,サン・フランシスコ(又はその近傍)の「ある人」も,親切なようでいて知ったかぶりはいけない。「いかにも冷淡」だったのは,知識が必ずしも十分ではなかったゆえでしょう。

 アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンには子どもが生まれませんでした。子どものいないワシントンの「子孫」について訊かれても,本来答えようがありません。

 

2 初代アメリカ合衆国大統領にとっての子の不在の意味

 実は,子どもがいなかったからこそ,ワシントンが初代大統領に選ばれたふしがあります。

 

  ワシントンが大統領になるべきだとの輿論は,彼の英雄的行動,彼の無私の愛国心及び戦時の統帥権を進んで返上した彼の意志から生じた。もう一つの――大きなものではないにしても――要因は,彼には見たところ生殖能力が欠けており(apparent sterility),かつ,子どもがいないことであった。このことは,彼は,神意によって,彼の国の国父(the Father of His Country)となるべき清浄なる地位(immaculate state)に定められているように思わせるものであった。1788年3月に「マサチューセッツ・センティネル」紙は,ワシントンを選出すべき理由を枚挙して掲載したが,その中には「息子がいない――したがって,世襲の後継者という危険に我々をさらすことがない」というものが含まれていた。このことは,諸君主が政略結婚を当然のこととし(routinely made dynastic marriages),また,欧州列強による新しい共和制政府の転覆を人々がおそれていた当時にあっては,もっともな懸念であった。ジョン・アダムズは,ジェファソンに対して,ワシントンが子どものいない大統領となることに覚えた安堵について述べている。「ワシントン将軍に娘がいたら,フランスかイングランドの王室,若しくはおそらく両方から,求婚されたものと私は堅く信じます。また,もし彼に息子がいたら,彼は花嫁さがしの旅にヨーロッパに招待されたことでしょう。」と。ワシントンに出馬を説得するため,彼に子どもがいない事実を示唆しつつ,グーヴェルヌール・モリスは茶目に言った。いわく,「あなたは三百万人を超える子どもらの父になるのですぞ。〔178812月6日付け書簡〕」(Chernow, Ron. Washington: a life. Penguin, 2010. pp.549-550

 

ワシントンに子どもができなかったのは,マーサ夫人に原因があったのか,ワシントン自身の若いころの病気によるものか,議論があるようです。

 

・・・この子どもの生まれなかった婚姻について説明する多くの仮説(theories)が提示された。マーサは,彼女の最後の子であるパッツィー(Martha Parke Custis)の分娩の際に傷害を負い,その後の出産が不可能になったのかもしれない。ジョージの若いころの天然痘又は他の病気が, 彼から生殖能力を奪ったのではないかと考える学者もいる。・・・(Chernow, p.103

 

 ワシントンと結婚した時(1759年1月6日),マーサ・ダンドリッジは二人の子持ちの富裕な未亡人でした(亡夫はDaniel Parke Custis)。二人の連れ子のうち,兄のジャッキー(John Parke Custis)は,178110月のヨークタウン戦に参加しますが陣中で病を得て翌11月に幼い3人の娘と一人の息子(George Washington Parke Custis)を残して死亡しました。妹のパッツィーは,てんかんに苦しんで早逝しています。

 
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ヴァジニア州マウント・ヴァーノンのワシントン邸
 

3 息子の不在と人妻:初期アメリカ合衆国大統領の妻子について

 

(1)息子の不在

どうもアメリカ合衆国大統領は,息子と縁のない人物が多いようです。福沢諭吉の渡米時までに2期8年を務め上げた大統領はワシントンのほか次の4名がいますが,みな男児には恵まれていません。

 第3代(18011809年)のジェファソンには娘はいましたが,アメリカ独立宣言起草後の9月にジェファソンがMonticelloの妻のもとに戻った時に懐胎され,1777年5月28日に生まれたただ一人の息子は,洗礼を受ける間もなく死亡してしまいました(Randall, Willard Sterne. Thomas Jefferson: a life. HarperPerennial, 1994 (H. Holt, 1993). pp.282, 305)。

第4代(1809年‐1817年)の虚弱なマディソンには子どもがありませんでした。

第5代(18171825年)のモンローの一人息子は夭折しています。

第7代(18291837年)の武闘派ジャクソンにも子どもがいませんでした。

 

(2)人妻ないしは未亡人

 ちなみにこれらの大統領は,5代目のモンローを除いて,人妻であった女性と結婚しています。

ジェファソン夫人もマーサですが,また未亡人でもありました(亡夫はBathhurst Skelton)。マディソン夫人のドリーも未亡人で(亡夫はJohn Todd),連れ子のジョン・ペイン(John Payne Todd)は浪費家となってマディソン家の頭痛の種になりました。ジャクソン夫人のレイチェルもジャクソンと婚姻する前から人妻でした(夫はLewis Robards)。文字どおりの人妻で,レイチェルに懸想しているジャクソンが「おれにこんな素敵な女房がいたら,かわいい瞳に涙を浮かべさせるようなことをわざわざしたりはしないぜ。」と言えば,「ほう,多分な・・・けれど,あの女はてめえの女房じゃないよ。」と亭主のロバーズが言い返すという西部劇的場面もテネシーはナッシュヴィルの街であったそうです(Meacham, Jon. American Lion. Random House, 2008. p.22)。ジャクソン夫妻は,妻の前夫との離婚が法的に完了する前に結婚してしまい,その後不倫・重婚の非難に悩まされることになりました。1828年の大統領選挙の時のネガティヴ・キャンペーンは大変なもので,心痛のレイチェル夫人は,ジャクソンの大統領当選後,ホワイト・ハウス入りすることなく亡くなりました。

 

4 福沢諭吉のワシントンの「子孫」架空問答

 

(1)ヴァジニア州編

 ところで,1860年の春,福沢諭吉が太平洋岸のカリフォルニア州ではなく,首都ワシントンに隣接する南部のヴァジニア州(アーリントン付近)にいたらどうだったでしょうか。

 

  ・・・私がふと胸に浮んである人に聞いてみたのは,ほかでない,いまワシントンの子孫はどうなっているかと尋ねたところが,その人の言うに,ワシントンにはそもそも子どもが生まれなかった,ただ内室の連れ子から,男児の孫が一人いて,それに女(むすめ)がある,その女がいまどうしているかといえば,メキシコとの戦争で手柄を立て,去年当州のハーパーズ・フェリーで黒人奴隷解放の叛乱の陰謀を粉砕した当州出身のロバート・リーという陸軍軍人の内室になっていると。なるほどワシントンの縁者だけあって武門の家柄のようだ。・・・

 

 ロバート・E・リー将軍は,1861年からの米国の南北戦争において,南軍の総司令官になる人物ですね。妻は前記のGeorge Washington Parke Custisの娘です。

 

(2)マサチューセッツ州編

 それではヴァジニア州ではなく,北東部ニュー・イングランドのマサチューセッツ州(ボストン近辺)だったらどうでしょうか。

 

  ・・・私がふと胸に浮んである人に聞いてみたのは,ほかでない,いまワシントンの子孫はどうなっているかと尋ねたところが,その人の言うに,ワシントンには子どもが生まれなかったと。こっちの脳中には源頼朝,徳川家康というような考えがあってソレから割り出して聞いたところがいかにも淡泊な答で拍子抜けだ。これは参った。そこで初代に子孫がいないのなら,2代目はどうかと聞いてみたところが,その人が嬉しそうに言うには,2代目大統領はアダムズというが,当地の出身で,その同名の長男は6代目の大統領になったと。6代目も今は亡くなったが,その息子も政事家であって,黒人奴隷の解放を主張する党派に属して大統領の札入れの際副大統領候補に推されたことがあり,現在は当地からの代議員としてワシントン府で公議に参与している,これもナカナカの人物だという。これは不思議だ。私は,アメリカは共和国,大統領は4年交代ということを承知していたが,アメリカでも大統領の子が大統領になるということで,いまのとおりの答に驚いてこれは不思議と思うたことはいまでもよく覚えている。理学上のことについては少しも肝をつぶすということはなかったが,一方の社会上のことについてはそれまで全く方角がつかなかったのだけれども,子は親に似て親の稼業を継ぐものであるということは不思議なことにやはり東西変わらぬものだと思うたわけだ。

 

2代目のジョン・アダムズと区別するため,6代目はジョン・クインジー・アダムズ又はジョン・Q・アダムズと表記されることになります(6代目はQですが,41代目H.Wの子の43代目はWですね。)。ジョン・クインジー・アダムズの人となりについては,「少年期から(あるいは外交官であった父に随行しあるいは単独で留学して)しばしばヨーロッパで生活し,アメリカに帰ってはハーヴァード大学を卒業し,11歳の時から名文で自己反省に満ちた日記をつけ,大統領となってからも早朝4時に起きて読書を楽しんでいた物静かで学究的」な人物であったと紹介されています(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)258頁)。

6代目大統領ジョン・Q・アダムズの息子で1860年当時マサチューセッツ州選出の連邦下院議員(1858年当選)をしていたのは,三男のチャールズ・フランシスです。チャールズ・フランシスが,奴隷制の新しい州への拡大に反対する自由土地党(Free Soil Party)から副大統領候補として,同党の大統領候補である元大統領(8代目)ヴァン・ビューレンと共に出馬したのは,1848年の大統領選挙です。チャールズ・フランシス・アダムズは,南北戦争中には,リンカン大統領に駐英公使に任命されて活躍しています(なお,祖父のジョン及び父のジョン・クインジーも駐英公使経験者でした。)。

 

5 米国における自然の貴族

 

(1)ジェファソン書簡

米国にも名家名門というものがあるのですね。4代目マディソン大統領時代の1813年,ジョン・クインジーの父にしてチャールズ・フランシスの祖父たる前々大統領ジョン・アダムズあての書簡(同年1028日付け)において,前大統領トーマス・ジェファソンは,自然の貴族(natural aristocracy)と人造の貴族(artificial aristocracy)に関して次のように論じています。

 

 ・・・というのは,私は,人々の間には自然の貴族がいるのだということについてあなたに同意するからです。徳と才と(virtue and talents)に基づくものです。・・・また,徳も才もないのではあるが,富と家柄と(wealth and birth)に基づいた人造の貴族もいます。・・・社会の教化,信託及び統治のため,自然の貴族は,自然の与える最も貴重な賜物であると思います。・・・政府の官職にこれら自然の貴族たち(natural aristoi)をこそ選任するために最も効果的な方策を講じた政府の形体が最善のものであるとまで,我々は言わないものでしょうか。人造の貴族は,政府にとって有害な分子であって,その進出を抑える方策が講じられるべきです。何が最善の方策かという問題においては,あなたと私の意見は分かれます。・・・あなたは,擬似貴族(pseudo-aristoi)を立法府の一院に置くのが最善だと考えています。そこでは,彼らの策謀は他の部門(co-ordinate branches)によって妨げられるのでしょうし,また,彼らは人民の多数による土地分配的かつ収奪的な試みに対する富のための防壁となるのでしょう。私の方は,彼らの策謀を抑えるために彼らに権力を与えることは,そのために彼らを武装させるものであり,害悪を匡正するのではなくかえって増大させるものだと考えます。というのは,他の部門が彼らの行動を停止させることができるのならば,彼らも他の部門に対して同じことができるだろうからです。策謀は,積極的にのみならず,消極的にも行い得るものです。このことについては,合衆国元老院(Senate)における一徒党が多くの証拠を提供しています。富者を守るために必要だとも思われません。すなわち,彼らのうちから十分な数の者が,彼ら自身を守るため,立法府の全ての部門に入り込むことだろうからです。・・・最善の解決策は,正に全ての我々の憲法において講じられているところのものであると考えます。すなわち,市民に,自由な選挙及び擬似貴族からの貴族のより分け,小麦のもみ殻からのより分けを委ねることです。一般的に,彼らは真に善い者及び賢い者を選ぶものです。時には富が彼らを腐敗させ,家柄が彼らの目を曇らせることがあるでしょう。しかしながら,社会を危険に陥らせるほどのものではありません。

  私たちの意見の相違は,ある程度は,我々の住む地域の人々の性格の相違に由来するものでもあるようです。私自身がマサチューセッツ及びコネチカットで見たところ,並びに更に私が聞いたところ,及び両州についてよりよく御存じのあなたが御自身の著作において示された前者の性格によりますと,これらの両州においてはいくつかの名家に対する伝統的な崇敬(traditionary reverence)があるようで,それによって政府の官職がこれらの名家にとって世襲のものに近いものになっているようです。あなたがたの歴史の初期の段階から,たまたまこれらの名家の人々は徳と才との所有者であって,人民の利益のためにそれらを公正に行使し,そして彼らの奉仕によって彼らの家名を人民にとって親しいものにしたものであると想像します。・・・しかしながら,あなたがたのもとにおけるこの官職の世襲的継承は,ある程度は真の一族の実力に基づくものでしょうが,より多くは,あなたがたのもとにおける政教の緊密な協調関係(your strict alliance of Church and State)に由来するものです。それらの名家は,人民の見るところにあっては,「あなたが私を掻き,私はあなたを掻いてあげよう。」との共通原則において列聖されているのです。我々のヴァジニアにあっては,そのようなことは全くありません。革命前,我々の聖職者たちは,固定給によって競争者から保護されていて,人民に対する影響力を獲得しようとする努力をしませんでした。富については,イングランドの継嗣限定法の下,世代から世代に受け継がれて特定の家への大きな集中が存在していました。しかしながら,富裕者の唯一の野心の目標は,政府の参議会(King’s Council)における議席でした。彼らは王冠とその取り巻きの機嫌ばかり伺っていました。・・・したがって,彼らは不人気でした。そして,その不人気は彼らの家名になおも付着しています。・・・独立宣言後最初に開かれた我々の議会の会期においては,継嗣限定法を廃止する法律を制定しました。長子の特権を廃止するとともに無遺言被相続人の土地を全ての子又は他の相続人に平等に分割するものとする法律が続きました。私自身によって起草されたこれらの法律は,擬似貴族(pseudo-aristocracy)の根本に大なたをふるったものです。そして,私の準備したもう一つの法案が議会によって採択されていれば,我々の仕事は完了していたところでした。それは,より全般的に知識を広めるための法案でした。・・・各学区に読み書き及び基礎的な算数のための無料の学校を設立するようにします。これらの学校から最優秀の生徒を毎年選抜するようにし,それらの生徒は公費でより高等な教育を地区の学校で受けることができるようにします。そして,これらの地区学校から,一定数の最も前途有望な生徒を選ぶようにし,全ての有益な科学が教授される大学において学業を完了させるようにします。このようにして,あらゆる境遇の中から,ふさわしい者及び天才が探し出され,公共の信託をめぐる競争において富と家柄とに基づく競争者を打ち倒すべく教育によって完全に準備されるのです。・・・聖職貴族(aristocracy of the clergy)を押さえ付けることによってこのシステムの一部をなすとともに市民に精神の自由を回復させた信教自由法並びに市民間の条件の平等を促進する継嗣限定及び不動産相続に関する各法律。この教育に関する法律は,人民大衆を,彼ら自身の安全及び秩序ある統治のために必要な道徳的立派さの高みにまで向上させるはずのものであって,偽者(pseudalists)を排除し,統治の信託のために真の貴族を選び得る資質を彼らに備えさせるという大目標を完結させるはずのものでありました。・・・

 貴族というもの(aristocracy)については,我々は更に次のことを考えなければなりません。すなわち,アメリカ各邦の成立前には,歴史において,狭く又は混雑した境界内にあくせくし,そのような環境がもたらす悪習に染まった旧世界の人間しか知られていなかったということです。そのような連中に適合する政府というものは一つあります。しかし,我らが各州の人間に適合する政府とは非常に異なったものです。こちらにおいては,そう望めば,だれもがそこで自らのために働くべき土地を取得することができます。また,他の仕事をするのが好みであれば,相当の生活(comfortable subsistence)ができるのみならず仕事をやめた老後に備えることもできるだけの収入をそこから得ることができます。全ての人が,彼の財産ないしは満足すべき境遇からして,法と秩序との擁護に利益を有しています。そして,そのような人々は,安全かつ有益に,彼らの公共事務に係る堅実な監理並びに,ヨーロッパの都市のごろつきどもの手に落ちたならば公私にわたる全てのものの解体及び破壊に直ちに変ぜられてしまうこととなるところの高度の自由までを自ら保持することができるのです。過去25年間のフランスの歴史及び過去40年,否,過去二百年間のアメリカの歴史は,この観察の双方の真実を証明してくれます。

 しかし,ヨーロッパでも,目立って人間の精神に変化が生じています。科学が,読みかつ考える人たちの考え方を解放し,アメリカの範例が,人民の権利の感情を喚起しました。続いて,軽蔑されるようになった地位及び家柄に対する,科学,才能及び勇気の叛乱が始まりました。それは,最初の試みにおいては失敗しました。というのは,その達成のために使われた道具たる都市の群衆(mobs)は,無知,貧困及び悪習によって堕落しており,理性的な行動の枠内にとどめることができなかったからです。しかしながら,世界はこの最初の惨害の恐慌から回復するでしょう。科学は進歩しつつあり,才能と企業心は覚醒しています。かれらの節操及び従順からしてより統御可能な勢力であるところの地方人民に対する働きかけがされることでしょう。そして,地位及び家柄並びに虚飾の貴族制度(tinsel-aristocracy)は,かの地においても小さなものとなって最終的に意義薄きものとなるでしょう。しかしながら,このことには,我々は介入する権利を有しておりません。我々にとっては,不忠実なしもべが企む策謀が取り返しのつかない段階に進む前に彼を取り除くことができるように短い期間を置いて行われるものとされた選挙制度の下,我々自身の市民の精神的及び物質的な条件(moral and physical condition)が,彼らを彼らの政府の運営のために有能かつ善良な者を選ぶことができるものと資格づけるものであれば,十分です。

私はこのようにして,我々の意見が相違する点について私の意見を申し述べましたが,これは論争のためではありません。研究及び思索に過ごした長い人生の結果である意見を変えるには,我々は齢を取り過ぎているからです。あなたの以前のお手紙にあった,我々は我々自身をお互いに説明する前には死ぬべきではない,との御提案に従った次第です。・・・

 

 181310月といえば,同月16日からのライプツィヒにおける「諸国民の戦いVölkerschlacht」でナポレオンは敗れ,フランス第一帝政は既に終末期となっていました。しかし,この段階ではジェファソンも,フランス革命は失敗だったと認めていたのですね。ワシントン政権内におけるアレグザンダー・ハミルトンとの抗争の際には,ジェファソンはフランス革命を支持していたはずであり,1792年に王政が廃止されて共和国となり過激化するフランス革命について,「全地上の自由は,この抗争の結果いかんにかかっていたのです。そして,このように貴重な獲得物が,かつてこれほど少ない無辜の血によってあがなわれたことがあったでしょうか。」,「かの地における停滞は,他の諸国における自由の回復を遅らせるでしょう。私は,彼らの政府の確立とその成功とを,我々自身の政府を支持し,かつ,それが英国的国制なる中途半端なものへ転落することを防ぐために必要なものであるとみなしています。」と言って弁護していたのですが(1793年1月3日付けWilliam Shortあて書簡。Randall, p.512)。

 
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ジェファソンを創立者とするヴァジニア大学 (ヴァジニア州シャーロッツヴィル)
 

(2)ジョン・アダムズ家の場合

 ジョン・アダムズの長男の第6代アメリカ合衆国大統領ジョン・クインジーは,徳と才とに満ちた自然の貴族(natural aristocrat)だったのでしょう。ところでそれでは,ジョン・クインジーの二人の弟たちはどのような人物だったのでしょうか。

 第2代大統領の次男のチャールズは,十代の半ばには既に両親の心配の種で,ハーヴァード大学の学部学生時代にはアルコール中毒(母方に,アルコール中毒で若くして死んだおじがいました。)の兆候を示しており,更に独立戦争の功労者ながら同性愛者であると見られていたフォン・シュトイベン将軍とニュー・ヨークで同居するなど一般的ならざる性癖を示していたようです(Ferling, John. John Adams: a life. Oxford University Press, 2010 (The University of Tennessee Press, 1992), pp.322-323)。1792年には弁護士業を始めましたが,結局アルコール中毒で肝臓を壊し,父のジョンが大統領選挙でジェファソンのリパブリカン党に敗れた年である1800年の1130日に30歳で死亡しました。チャールズの死の前年の秋,回復不能のダメ人間になっていた次男をニュー・ヨークで見たアダムズ大統領は激怒し,「放蕩者」,「けだもの」,「悪魔に取りつかれた狂人」とののしり,もう二度と会わないし,かかわりも持たないと宣言して,結局そのとおりとなってしまっています(Ferling, p.386)。

 「幸せなワシントン!子どもがないのは幸せだ!」「私の子どもたちは,私の敵全体からよりも多くの苦痛を私に与える。」とは,妻アビゲイルへの書簡中におけるジョン・アダムズの嘆きです(Ferling, p.388)。

 三男のトーマス・ボイルストンも弁護士になりましたが,結局当該稼業は好きになれず,フィラデルフィアからマサチューセッツの地元に移って「青い悪魔」と自ら呼んだ憂鬱の発作に悩まされるようになりました。33歳で結婚し,それから偉大な親のプレッシャーを感じてマサチューセッツ州議会議員となりますが,1年もたたないうちに辞任しています。彼をも蝕むようになったアルコール中毒に関係があるようです。(Ferling, pp.420-42118181028日に母アビゲイルが亡くなった後,父の住むピースフィールド(マサチューセッツ州クインジーにある1788年からのアダムズ邸)に妻と6人の子どもと共に移って来ますが,それには,老父を介助するという目的だけではなく,経済的な理由もあったところです。長兄のジョン・クインジーはワシントンでモンロー政権の国務長官になっていましたが,トーマス・ボイルストンはアルコール中毒が進み,頼りない初老の男になっていました。父の元大統領は,次男チャールズに係る辛い思い出のゆえか,三男のアルコール中毒にかかわることから逃げています。(Ferling, p.438

 

 酒は恐ろしく,子育ては難しい。

 

6 再び福沢諭吉

 

(1)酒

 ところで,酒といえば,我らが福沢諭吉先生も大変なものでした。『福翁自伝』にいわく。

 

  ・・・そもそも私の酒癖は,年齢の次第に成長するにしたがって飲み覚え飲み慣れたというでなくして,生まれたまま物心のできたときから自然に好きでした。いまに記憶していることを申せば,幼少のころ月代をそるとき頭のぼんのくぼをそると痛いからいやがる。スルトそってくれる母が「酒をたべさせるからここをそらせろ」というその酒が飲みたさばかりに,痛いのをがまんして泣かずにそらしていたことは,かすかに覚えています。天性の悪癖,まことに恥ずべきことです。・・・(慶応義塾創立百年記念版48頁)

  ・・・年25歳のとき江戸に来て以来,嚢中も少し暖かになって酒を買うくらいのことはできるようになったから,勉強のかたわら飲むことを第一の楽しみにして,朋友の家に行けば飲み,知る人が来ればスグに酒を命じて,客に勧めるよりも主人の方がうれしがって飲むというようなわけで,朝でも昼でも晩でも時をきらわずよくも飲みました。(同293頁)

 

しかしながら,福沢諭吉は,32ないし33歳のころ,節酒を決意し,3年ほどかけて成功します。健康な人物です。

 

 ・・・支那人が阿片をやめるようなものでずいぶん苦しいが,まず第一に朝酒を廃し,しばらくして次に昼酒を禁じたが,客のあるときはやはり客来を名にして飲んでいたのを,ようやくがまんして,のちにはその客ばかりにすすめて自分は一杯も飲まぬことにして,これだけはどうやらこうやら首尾よくできて,サア今度は晩酌の一段になって,その全廃はとても行われないから,そろそろ量を減ずることにしようと方針を定め,口では飲みたい,心では許さず,口と心と相反してけんかをするように争いながら,次第次第に減量して,やや穏やかになるまでには3年もかかりました・・・私が生涯鯨飲の全盛はおよそ10年間と思われる。その後酒量は減ずるばかりで増すことはない。初めの間はみずから制するようにしていたが,自然に減じて飲みたくも飲めなくなったのは,道徳上の謹慎というよりも年齢老却のせいでしょう。・・・(同293頁)

 

(2)子どもの教育

 さて,子どもの教育は,自然の貴族たるべく厳しくしつけるべきかどうか。

 

  ・・・長男一太郎と次男捨次郎と両人を帝国大学の予備門に入れて修学させていたところが,とかく胃が悪くなる,ソレカラ宅に呼び返していろいろ手当すると次第によくなる。よくなるからまた入れるとまた悪くなる。とうとう3度入れて3度失敗した。・・・なにぶんらちがあかず,子供は相変わらず3ヵ月やっておけば3ヵ月引かしておかなければならぬというようなわけで,なんとしても予備門の修業に堪えず,私もついに断念してしもうて,それからこちらの塾(慶応義塾なり)に入れて普通の学科を卒業させて,アメリカにやって,かの大学校の世話になりました。・・・なんとしてもからだが大事だと思います。(『福翁自伝』慶応義塾創立百年記念版269頁)

 

 優しいお父さんでよかったですね。

まずは独立自尊。

「心身の独立を全うし,自ら其身を尊重して,人たるの品位を辱めざるもの,之を独立自尊の人と云ふ。」ですね(修身要領第2条『福沢諭吉選集第3巻』(岩波書店・1980年)293頁)。自然の貴族となるまでの無理はしなくともよいのでしょう。


諭吉墓
His admirers know well that he adores alcoholic drinks. (東京都港区麻布山善福寺

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