Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

2014年11月

(前編からの続き)

 

3 その後の兵役法令改正

 岩波書店の『近代日本総合年表 第四版』から1938年9月以降の兵役法関係の記事を拾うと,次のようなものがあります。

 

1939年3月9日 兵役法改正公布〔法〕(兵役期間延長,短期現役制廃止)。

19391111日 兵役法施行令改正公布〔勅〕(徴兵合格に第3乙種設定)。

1943年3月2日 兵役法改正公布〔法〕(朝鮮に徴兵制を施行)。8.1施行。

1943年9月21日 陸軍省,兵役法施行規則改正公布〔省〕(’30年以前検査の第2国民兵も召集)。

1943年9月23日 閣議,台湾に’45年度より徴兵制実施を決定。

194310月2日 在学徴集延期臨時特例公布〔勅〕(学生・生徒の徴兵猶予停止)。12.1第1回学徒兵入隊(学徒出陣)。

19431021日 文部省・学校報国団本部,徴兵延期停止により出陣する学徒壮行大会を神宮外苑競技場で挙行。東京近在77校の学徒数万,雨中に劇的の分列行進。

194311月1日 兵役法改正公布〔法〕(国民兵役を45歳まで延長)。

19431224日 徴兵適齢臨時特例公布〔勅〕(適齢を1年引下げ)。

 

 1939年3月9日の年表記事にある兵役法改正(昭和14年法律第1号によるもの)による兵役期間延長は,陸軍関係では(海軍は世帯が小さいので,陸軍で代表させます。),補充兵役が12年4月から17年4月になっています(兵役法8条改正)。現役2年,予備役5年4月及び後備兵役10年の合計17年4月とそろったことになります。また,教育のための召集は第一補充兵のみならず第二補充兵も受け得ることになりました(同法57条改正)。なお,兵役法41条が次のようになっています。

 

 第41条 徴兵検査ヲ受クベキ者ニシテ勅令ノ定ムル学校ニ在学スル者ニ対シテハ勅令ノ定ムル所ニ依リ年齢26年迄ヲ限トシ其ノ徴集ヲ延期ス

  〔第2項及び第3項略〕

 ④戦時又ハ事変ニ際シ特ニ必要アル場合ニ於テハ勅令ノ定ムル所ニ依リ徴集ヲ延期セザルコトヲ得

 

 兵役法41条1項の当該改正に基づき昭和14年勅令第75号で改正された兵役法施行令101条1項においては,大学医学部は大学の他学部とは別格にされました。すなわち,徴集延期が年齢26年までなのは医学部だけで,他学部は25年までになっています。

 また,兵役法は,昭和16年法律第2号によっても改正されています。その結果,1941年4月1日から後備役が廃止され(兵役法7条削除),予備役に併合されました。

 さらに,兵役法は,対米英蘭戦開始後の昭和17年法律第16号によっても改正されており(公布日である1942218日から施行),国民兵も簡閲点呼を受けることがあり得るようになった(兵役法60条改正)ほか,徴兵適齢等に関して,第24条ノ2として「前2条ニ規定スル年齢及時期ハ戦時又ハ事変ノ際其ノ他特ニ必要アル場合ニ於テハ勅令ノ定ムル所ニ依リ之ヲ変更スルコトヲ得」という条項が加えられました。

 1943年3月2日の年表記事では,兵役法の改正により同年8月1日から「朝鮮に徴兵制を施行」とありますが,兵役義務は属人的なものであって現に居住滞在する地域を問わないので(美濃部『憲法精義』354頁参照),ちょっと不正確な記述です。それまでは帝国臣民男子のうち(兵役法1条),戸籍法の適用を受ける者(内地人)にのみ兵役義務が課されることになっていたところ,「朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者」にも兵役義務が課されるようになった改正です(兵役法92項,231項等改正(昭和18年法律第4号))。

 1943年9月23日の年表記事にある閣議決定に基づく兵役法改正は,同年11月1日公布の昭和18年法律第110号によるものでしょう。同法(公布日から施行)によって,大日本帝国臣民の兵役期間も古代ローマ市民並みとなった(兵役法9条2項及び18条の「40年迄」を「年齢45年に満ツル年ノ3月31日迄」に改める。)ほか,帝国臣民男子すべてに兵役義務がかかるようになりました(同法9条2項及び23条1項から「戸籍法又ハ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者ニシテ」を削る。)。ただし,台湾人の兵役義務に係る後者の改正の施行日は,別に勅令で定めるものとされました(昭和18年法律第110号附則1項ただし書。昭和19年勅令第2811条により,当該改正は1944年9月1日から施行)。

 194310月2日に公布され同日から施行された在学徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755号)は,「兵役法第41条第4項ノ規定ニ依リ当分ノ内在学ノ事由ニ因ル徴集ノ延期ハ之ヲ行ハズ」としたものです。

 しかし,在学徴集延期臨時特例の上記文言を見ると,文科の学生も理科の学生も等しく学徒出陣ということになりそうですが,確か,学徒出陣といえば文科の学生だったはず。実は理科の学生を救出するタネは,昭和18年法律第110号によって194311月1日から兵役法に挿入された同法45条ノ2にありました。

 

 第45条ノ2 第41条第4項ノ規定ニ依リ徴集ヲ延期セラレザルニ至リタル者現役兵トシテ入営スベキ場合ニ於テ軍事上仍修学ヲ継続セシムルノ必要アルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ其ノ入営ヲ延期スルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ当該期間ニ相当スル期間現役期間ヲ延長ス

   〔第2項略〕

 

 兵役法45条ノ2第1項の命令として,19431113日に公布され同日から施行された昭和18年陸軍省令第54号(修学継続の為の入営延期等に関する件)があり,当該省令1条に基づく同日の昭和18年陸軍省告示第54号において,理科系(師範学校系も)の学生が入営延期の対象者とされたのでした(大学院又は研究科の特別研究生も当該告示に掲げられた。)。

 19431224日に公布され同日から施行された徴兵適齢臨時特例(昭和18年勅令第939号)は,「兵役法第24条ノ2ノ規定ニ依リ当分ノ内同法第23条第1項及第24条ニ規定スル年齢ハ之ヲ19年ニ変更ス」としたものです。ただし,当該特例は,内地人にのみ適用されました(徴兵適齢臨時特例附則1項ただし書(昭和19年勅令第2812条による改正後は附則2項)。)。

 1945年2月10日に公布され同日から施行された昭和20年法律第3号による兵役法の改正は,徴兵適齢前の17歳・18歳の少年をも召集することが日程に上っていたことがうかがわれる改正です。当該改正後の兵役法67条(及び第67条ノ2)には「第二国民兵ニシテ未ダ徴兵検査ヲ受ケザル者(徴集ヲ延期セラレアル者ヲ含ム以下同ジ)ヲ召集シタル場合」という表現が見られます。つとに1944年10月18日公布の昭和19年陸軍省令第45号によって,同年11月1日から(同省令附則1条),兵役法施行規則(昭和2年陸軍省令第24号)50条は「・・・徴兵終結処分ヲ経ザル第二国民兵(海軍ニ召集セラレタル者及船舶国籍証書ヲ有スル船舶ノ船員ヲ除ク以下同ジ)ハ之ヲ本籍所在ノ連隊区ノ兵籍ニ編入シ当該連隊区司令官ノ管轄ニ属セシム」と規定していました。

 

4 義勇兵役法

 「兵役義務はその性質上日本臣民にのみ限らるのみならず,日本臣民の中でも男子に限」るとは美濃部達吉の主張でしたが(同『憲法精義』354頁),大日本帝国憲法20条の「日本臣民」は,文言上,男子に限られていませんでした(大日本帝国憲法2条と対照せよ。)。

 大日本帝国憲法は男女同権を排斥するものではありませんでした。

 1945年6月23日には,義勇兵役法(昭和20年法律第39号)というすさまじい法律が公布され,同日から施行されています。

すさまじいというのは,上諭からして異例だからです。

 

朕ハ曠古ノ難局ニ際会シ忠良ナル臣民ガ勇奮挺身皇土ヲ防衛シテ国威ヲ発揚セムトスルヲ嘉シ帝国議会ノ協賛ヲ経タル義勇兵役法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 

普通の上諭ならば,「朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル義勇兵役法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム」となったはずです。

義勇兵役法の主な条項を見ると,次のとおり。義勇兵役といっても,臣民の義務であって,volunteerではありません。

 

第1条 大東亜戦争ニ際シ帝国臣民ハ兵役法ノ定ムル所ニ依ルノ外本法ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ服ス

②本法ニ依ル兵役ハ之ヲ義勇兵役ト称ス

  〔第3項略〕

第2条 義勇兵役ハ男子ニ在リテハ年齢15年ニ達スル年ノ1月1日ヨリ年齢60年ニ達スル年ノ1231日迄ノ者(勅令ヲ以テ定ムル者ヲ除ク),女子ニ在リテハ年齢17年ニ達スル年ノ1月1日ヨリ年齢40年ニ達スル年ノ1231日迄ノ者之ニ服ス

  〔第2項略〕

第5条 義勇兵ハ必要ニ応ジ勅令ノ定ムル所ニ依リ之ヲ召集シ国民義勇戦闘隊ニ編入ス

②本法ニ依ル召集ハ之ヲ義勇召集ト称ス

第7条 義勇召集ヲ免ルル為逃亡シ若ハ潜匿シ又ハ身体ヲ毀傷シ若ハ疾病ヲ作為シ其ノ他詐偽ノ行為ヲ為シタル者ハ2年以下ノ懲役ニ処ス

②故ナク義勇召集ノ期限ニ後レタル者ハ1年以下ノ禁錮ニ処ス

 

女性も兵役に服したのですから,男女平等。次の衆議院議員総選挙で婦人参政権が認められたのは当然のことでした(市川房枝は陸軍省兵務課主催の「婦人義勇戦闘隊ニ関スル懇談」に出席しています。)。女性もSHINE!です。
 なお,昭和20年秋の凄惨な「本土決戦」を描いた小松左京の小説『地には平和を』においては,15歳の主人公・河野康夫が属した「本土防衛特別隊」である黒桜隊は,「隊員は15歳から18歳までで,一応志願制度だった」ということになっています。しかし,兵役法及び義勇兵役法を素直に読むと,本土決戦があれば,17歳以上の少年は第二国民兵として陸軍に召集され(海軍はもうないでしょう。),15歳及び16歳の少年はそれとは別に義勇兵として国民義勇戦闘隊に義勇召集されていたことになるようですから,黒桜隊の法的位置付けはちょっと難しいようです。
 ところで,国民義勇戦闘隊はどのように武装する予定だったかというと,次のようなものだったそうです。鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長(現在の内閣官房長官。内閣官房長官の英訳名Chief Cabinet Secretaryは「内閣書記官長」のままですね。)であった後の郵政大臣たる迫水久常が回想していわく。「国民義勇隊の問題が論議されていた当時のある日の閣議のとき,私は陸軍の係官から,国民義勇戦闘隊に使用せしむべき兵器を別室に展示してあるから,閣議後見てほしいという申入れを受けた。総理を先頭にその展示を見にいって,一同腹の底から驚き,そして憤りと絶望を感じたのであった。さすがに物に動じない鈴木〔貫太郎〕首相も唖然として,側にいた私に「これはひどいなあ」とつぶやかれた。展示してある兵器というのは,手榴弾はまずよいとして,銃というのは単発であって,銃の筒先から,まず火薬を包んだ小さな袋を棒で押しこみ,その上に鉄の丸棒を輪ぎりにした弾丸を棒で押しこんで射撃するものである。それに日本在来の弓が展示してあって麗々しく,射程距離,おおむね三,四十米,通常射手における命中率50%とかいてある。私は一高時代,弓術部の選手だったから,これには特に憤激を感じた。人を馬鹿にするのも程があると思った。その他は文字どおり,竹槍であり,昔ながらのさす又である。いったい陸軍では,本気にこんな武器で国民を戦わせるつもりなのか,正気の沙汰とも覚えず」云々と(迫水久常『機関銃下の首相官邸』(恒文社・1964年)220-221頁)。阿南惟幾陸軍大臣はそれでも胸を張っていたものかどうか。しかしながら,内閣総理大臣自ら「これはひどいなあ」と思いつつも,義勇兵役法案が閣議を通ってしまい(内閣官制(明治22年勅令第135号)5条1項1号),帝国議会も協賛してしまうのですから(大日本帝国憲法5条,37条),安全保障関連法案の取扱いが苦手なのは,我が日本のお国柄でしょう。
 

5 カイロ宣言

 19431122日から同月26日まで,ルーズベルト,蒋介石及びチャーチルの第1回カイロ会談が開催され,同月27日,三者は「カイロ宣言」に署名し,当該宣言は同年12月1日に発表されました。ところで,当該宣言中に次のようなくだりがあります。

 

  前記の三大国は,朝鮮の人民の奴隷状態に留意し,やがて朝鮮を自主独立のものにする決意を有する。

 

 「奴隷状態」とはゆゆしい言葉ですが,上記のくだりの英文は,次のとおり。

 

 The aforesaid three great powers, mindful of the enslavement of the people of Korea, are determined that in due course Korea shall become free and independent.

 

朝鮮の人民はenslaveされているということですが,どういうことでしょうか。大日本帝国においてはかつてのアメリカ合衆国のようには奴隷制(slavery)は無かったところです。しかしながら,日付に注目すると,1943年8月1日からは,内地人(「祖宗ノ忠良ナル臣民ノ子孫」である臣民(大日本帝国憲法発布勅語)にして「朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所」の「朕カ親愛スル所ノ臣民」(大日本帝国憲法上諭))でもないのに,朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル男子も兵役法により兵役義務を課されて,involuntary servitudeたる「その意に反する苦役に服」することになっていました。この点をとらえてのenslavementとの表現なのでしょうか。兵役義務が認められることに係る大日本帝国憲法20条は「日本臣民」といっていても,「憲法の総ての規定がそのまゝ新附の人民に適用せらるゝものでない」とされていました(美濃部『憲法精義』351頁)。
 なお,朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者の先の大戦に対する態度については,清沢洌の『暗黒日記』1944年8月27日の条に「・・・鮮人である平山君は公然曰く,大東亜戦争は,日本が勝っても,敗けても朝鮮にいい。勝てば朝鮮を優遇するだろうし,敗ければ独立するのだと。大熊真君の話しでは,外務省に朝鮮人の官吏がいるが,明らかに日本が敗けてくれることを希望するような口吻であると。」とありました。
 
 

 

弁護士 齊藤雅俊

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 日本国憲法18 何人も,いかなる奴隷的拘束も受けない。又,犯罪に因る処罰の場合を除いては,その意に反する苦役に服させられない。

 Article 18. No person shall be held in bondage of any kind. Involuntary servitude, except as punishment of crime, is prohibited.

 

1 兵役義務の違憲性

 2014年7月1日の我が閣議決定「国の存立を全うし,国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」を受けて,内閣官房国家安全保障局は,ウェッブ・サイトに「「国の存立を全うし,国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」の一問一答」という記事を掲載しています。その15番目及び16番目の問答は次のとおりです。

 

 【問15】徴兵制が採用され,若者が戦地へと送られるのではないか?

 【答】全くの誤解です。例えば,憲法第18条で「何人も(中略)その意に反する苦役に服させられない」と定められているなど,徴兵制は憲法上認められません。

 

【問16】今回,集団的自衛権に関して憲法解釈の変更をしたのだから,徴兵制も同様に,憲法解釈を変更して導入する可能性があるのではないか?

【答】徴兵制は,平時であると有事であるとを問わず,憲法第13条(個人の尊重・幸福追求権等),第18条(苦役からの自由等)などの規定の趣旨から見て許容されるものではなく,解釈変更の余地はありません。

 

 これは,1980年8月15日に鈴木善幸内閣がした閣議決定,すなわち,「閣議,稲葉誠一社会党代議士提出の〈徴兵制問題に関する質問主意書〉につき〈徴兵は違憲,有事の際も許されない〉との答弁書決定(初の体系的統一見解)」(『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年))との立場の確認ですね。つとに,19701028日の衆議院内閣委員会での高辻正己内閣法制局長官の答弁及び同年11月5日の参議院決算委員会での中曽根康弘防衛庁長官の答弁を受けて,憲法「第9条が自衛隊の存在を容認すると解する政府も,徴兵制は,憲法第13条ないし第18条に反し違憲だとしているようである。」と観察されていたところです(宮沢俊義『憲法Ⅱ〔新版〕』(有斐閣・1971年)335頁)。

 政府の見解と学説との関係を見ると,憲法18条「にいう「苦役」が兵役の義務をも含むと解することは,この規定の歴史的意味からいって,あまり自然ではない。しかし,日本国憲法では,戦争を放棄し,軍隊を否認している第9条の規定からいって,兵役の義務は,みとめられる余地がないだろう。」(宮沢335頁)として兵役義務の違憲性について第9条を決め手とするものと解される学説と,政府の見解とは直ちには符合しませんね。「憲法18条は,「その意に反する苦役」,すなわち強制的な労役を,刑罰の場合を除いて禁止する。徴兵制は,憲法9条だけでなく本条にも違反すると考えるべきである。」(樋口陽一『憲法』(創文社・1992年)244頁)として第9条と第18条とを並置するものと解される学説と,より符合するものでしょう。

 「非常災害などの緊急の必要がある場合に,応急的な措置として労務負担が課されることがあるが(災害対策基本法65条・71条,災害救助法〔7〕条・〔8〕条,水防法〔24〕条,消防法29条5項など),これは,災害防止・被害者救済という限定された緊急目的のため必要不可欠で,かつ応急一時的な措置であるという点で,本条〔憲法18条〕に反するものとはいえない。しかし,明治憲法下にみられた国民徴用のように,積極的な産業計画のために長期にわたって労務負担を課すことは許されない。」ということですから(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)585-586頁),徴用が許されないのならばいわんや徴兵をやということでしょう(ただし,国民徴用は,「むしろ,職業選択の自由(憲22条)に含まれると解される勤労の自由に対する侵害と見るほうが,いいのではないか。」ともされています(宮沢336337頁)。)。

 ちなみに,我が憲法18条のモデルであるアメリカ合衆国憲法修正13条1節(Neither slavery nor involuntary servitude, except as a punishment for crime whereof the party shall have been duly convicted, shall exist within the United States, or any place subject to their jurisdiction.)の「その意に反する隷属状態(involuntary servitude)」には,債務の履行としての強制労役たる債務労働(peonage)は含まれるが,「国民が国に対して負う義務」の履行たる兵役や陪審員になる義務などは含まれないとされています(宮沢333334335頁)。修正13条は,米国政府を縛るための規定というよりは,むしろ私人間効力のための規定であるということでしょうか。確かに,南部の私人が奴隷を所有していたのですよね。

我が政府は,徴兵制が違憲であるとの解釈を導き出すために,憲法18条になお同13条を加えての合わせ技にしています。とはいえ憲法13条は,そもそも「立法その他の国政」について広くかかっていますが。

 政府の憲法解釈によれば,国民に兵役義務を課するには,大日本帝国憲法20条(「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」)のような条項を,憲法を改正して設けなければならないということのようです。

 美濃部達吉は,大日本帝国憲法20条について,同条に「或る特別なる法律上の意義を附せんとする見解は,総て正当とは認め難い。」との見解を述べていましたが(同『憲法精義』(有斐閣・1927年)352頁),現在の日本国憲法については状況が異なっているということになります。

 なお,伊藤博文の『憲法義解』は,大日本国憲法20条について,明治「5年古制に基き徴兵の令を頒行し,全国男児20歳に至る者は陸軍海軍の役に充たしめ,平時毎年の徴員は常備軍の編制に従ひ,而して17歳より40歳迄の人員は尽く国民軍とし,戦時に当り臨時召集するの制としたり。此れ徴兵法の現行する所なり。本条〔大日本帝国憲法20条〕は法律の定むる所に依り全国臣民をして兵役に服するの義務を執らしめ,類族門葉に拘らず,又一般に其の志気身体を併せて平生に教養せしめ,一国雄武の風を保持して将来に失墜せしめざらむことを期するなり。」と解説していました。美濃部的には,大日本帝国憲法20条は,「志気身体を併せて平生に教養」して「一国雄武の風を保持」するという「臣民の道徳的本分を明にする」ものにすぎない(美濃部『憲法精義』351352頁),ということでしょう。

 

2 1938年の兵役法紹介

 前置きが長くなりました。

前回(20141115日)の記事(「離婚と「カエサルの妻」」補遺(裁判例紹介)」)を書いていて,描写が又太郎の愛情生活に及ぶうちに,先の大戦中における我が臣民の兵役への服役状況が気になりだしたのですが,今回は,当時兵役義務について定めていた兵役法(昭和2年法律第47号)等についてのお話です。

 なお,そもそも兵とは,美濃部達吉によれば,「単に公務を担任する義務を意味するのではなく,忠実に無定量の勤務に服すべき公法上の義務」であるところの「公法上の勤務義務(öffentliche Dienstpflicht)」を国家に対して官吏と並んで負う者です。兵と官吏との相違は,「一に兵は臣民たる資格から生ずる当然の義務として其の関係に立つものであり,仮令本人の志願に依つて現役に服する場合でも,それは唯義務の変形であるに止まるに反して,官吏は一般臣民の法律上の義務に基づくのではなく,常に本人の自由意思に依る同意に基づいてのみ任命せらるるものであることに在る。」とされています。(同『日本行政法 上』(有斐閣・1936年)676-677頁)

 

兵役法の主要規定は次のとおりです(19389月当時)。

   

 第1条 帝国臣民タル男子ハ本法ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ服ス

 第2条 兵役ハ之ヲ常備兵役,後備兵役,補充兵役及国民兵役ニ分ツ

 ②常備兵役ハ之ヲ現役及予備役ニ,補充兵役ハ之ヲ第一補充兵役及第二補充兵役ニ,国民兵役ハ之ヲ第一国民兵役及第二国民兵役ニ分ツ

 第4条 6年ノ懲役又ハ禁錮以上ノ刑ニ処セラレタル者ハ兵役ニ服スルコトヲ得ズ

 第5条 現役ハ陸軍ニ在リテハ2年,海軍ニ在リテハ3年トシ現役兵トシテ徴集セラレタル者之ニ服ス

 ②現役兵ハ現役中之ヲ在営セシム

 第6条 予備役ハ陸軍ニ在リテハ5年4月,海軍ニ在リテハ4年トシ現役ヲ終リタル者之ニ服ス

 第7条 後備兵役ハ陸軍ニ在リテハ10年,海軍ニ在リテハ5年トシ常備兵役ヲ終リタル者之ニ服ス

 第8条 第一補充兵役ハ陸軍ニ在リテハ12年4月,海軍ニ在リテハ1年トシ現役ニ適スル者ニシテ其ノ年所要ノ現役兵員ニ超過スル者ノ中所要ノ人員之ニ服ス

 ②第二補充兵役ハ12年4月トシ現役ニ適スル者ノ中現役又ハ第一補充兵役ニ徴集セラレザル者及海軍ノ第一補充兵役ヲ終リタル者之ニ服ス但シ海軍ノ第一補充兵役ヲ終リタル者ニ在リテハ11年4月トス

 第9条 第一国民兵役ハ後備兵役ヲ終リタル者及軍隊ニ於テ教育ヲ受ケタル補充兵ニシテ補充兵役ヲ終リタル者之ニ服ス

 ②第二国民兵役ハ戸籍法ノ適用ヲ受クル者ニシテ常備兵役,後備兵役,補充兵役及第一国民兵役ニ在ラザル年齢17年ヨリ40年迄ノ者之ニ服ス

 18 第5条乃至第8条,第9条第1項及第10条〔師範学校卒業者の短期現役兵〕ニ規定スル服役ハ其ノ期間ニ拘ラズ年齢40年ヲ以テ限トス

23 戸籍法ノ適用ヲ受クル者ニシテ前年12月1日ヨリ其ノ年1130日迄ノ間ニ於テ年齢20年ニ達スル者ハ本法中別段ノ規定アルモノヲ除クノ外徴兵検査ヲ受クルコトヲ要ス

②前項ニ規定スル年齢ハ之ヲ徴兵適齢ト称ス

 32条1項 身体検査ヲ受ケタル者ハ左ノ如ク之ヲ区分ス

  一 現役ニ適スル者

  二 国民兵役ニ適スルモ現役ニ適セザル者

  三 兵役ニ適セザル者

  四 兵役ノ適否ヲ判定シ難キ者

 34 国民兵役ニ適スルモ現役ニ適セザル者ハ之ヲ徴集セズ

 54 帰休兵,予備兵,後備兵,補充兵又ハ国民兵ハ戦時又ハ事変ニ際シ必要ニ応ジ之ヲ召集ス

 

 兵役法1条及び9条2項の意味は,「内地人たる男子は満17年に達するに因り,何等の行為を待たず,法律上当然に兵役義務に服するのであるが,此の意義に於ける兵役義務は,現に軍事上の勤務に服する義務ではなくして,唯国家より勤務に服することを命ぜられ得べき状態に在るに止まる。・・・随つて又兵役義務に服する者の総てが軍人であるのではなく,唯或る条件の下に其の自由意思に依らずして軍人となるべき地位に在るのである。」ということになります(美濃部達吉『日本行政法 下』(有斐閣・1940年)1321-1322頁)。

手元の辞書を見ると,ラテン語のjunioresの定義は,“les plus jeunes=les jeunes gens destinés à former l’armée active, de 17 ans à 45 ans, les citoyens capables de porter les armes”となっていて,古代ローマでは17歳から45歳までの男性市民は武器を執って軍務に服すべきものとされていたようです。40歳で打ち止めとする大日本帝国(兵役法92項,18条)は,若者には古代ローマ並みに厳しいものの,中年には優しかったということになります(それとも日本男児には早老の気があるということでしょうか。)。

 兵役法4条は,兵役に服することの「権利たる性質を明示して居るもの」です(美濃部『日本行政法 下』1322頁)。また,「兵役義務は憲法に定むる義務であるが,兵役義務に服するが為に刑罰に服する義務を無視することの出来ないことは勿論で,兵役に服することが出来なくなつても,尚刑罰に服しなければならぬ」ところでもありました(美濃部『憲法精義』353354頁)。すなわち我が軍には「囚人部隊」というものはなかったわけです。

徴兵検査は「(1)身体検査(2)身上に関する調査(3)徴兵処分の三を包含し,徴兵官がこれを行ふ」ものとされていました(美濃部『日本行政法 下』1324頁)。

徴兵検査後の兵役の流れには,次のように大きく3系統がありました。太字部分が常備兵役です。「「常備兵役」は軍編成上の骨幹を為す兵員を包含する兵役で,常時国防の義務ありとの観念に立脚せるもの」です(日高巳雄『軍事法規』(日本評論社・1938年)2頁)。

 

現役→予備役→後備役→第一国民兵役

 ②第一又は第二補充兵役→第一又は第二国民兵役

 ③第二国民兵役

 

この外,「兵役ニ適セザル者」(兵役法3213号)があって,兵役を免除されました(同法35条)。

現役兵が「現役ニ適スル者」であることは当然ですが,補充兵もまた「現役ニ適スル者」であるものとされています(兵役法8条,331項・3項。補充兵のうち第一補充兵は現役兵闕員の場合の補闕要員となり(同法481項),また,教育のため召集されることがありました(同法571項)。)。

これに対して,第二国民兵役に服する者はそもそも現役に適さない者(兵役法3212号の「国民兵役ニ適スルモ現役ニ適セザル者」)ということになります。なお,兵役法34条の「徴集」は,ここでは現役又は補充兵役編入を決してこれを本人に通告する行為の意味と解されます(日高12頁参照)。

さて,徴兵検査中の身体検査の結果区分(①現役に適する者,②国民兵役に適するも現役に適せざる者,③兵役に適せざる者及び④兵役の適否を判定し難き者(兵役法321項))の標準は勅令で定めるものとされ(同条2項),兵役法施行令(昭和2年勅令第330号)68条1項1号の第2項は「現役ニ適スル者ハ其ノ体格ノ程度ニ応ジ之ヲ甲種及乙種ニ,乙種ハ之ヲ第一乙種及第二乙種ニ分ツ」と,同条1項2号は「国民兵役ニ適スルモ現役ニ適セザル者」を「丙種トス」と,同項3号は「兵役ニ適セザル者」を「丁種トス」と,同項4号は「兵役ノ適否ヲ判定シ難キ者」を「戊種トス」と規定し,更に同条2項は「疾病其ノ他身体又ハ精神ノ異常ニ因リ第一乙種,第二乙種,丙種又は丁種ト為スベキ細部ノ標準ハ陸軍大臣之ヲ定ム」と規定していました。

すなわち,甲乙ならば現役に適して現役兵又は補充兵であるのに対し,丙ならば第二国民兵であって徴集されず,丁ならば兵役免除となる,というわけです。

ところで,昔から視力検査となると0.1が見えずにじりじりと前に進んでは恥ずかしい思いをしていた筆者は,徴兵検査を受けたならば,丙種で第二国民兵相当だったようです。すなわち,兵役法施行令68条2項に基づき制定された陸軍身体検査規則(昭和3年陸軍省令第9号)の制定当初の規定によれば,同規則18条4項は「各眼ノ裸視力(以下単ニ視力ト称ス)「0.6」ニ満チザル者ハ甲種ト為スコトヲ得ズ」と規定している一方,同規則6条1項本文(「疾病其ノ他身体又ハ精神ノ異常ニ因リ第一乙種,第二乙種,丙種及丁種ト為スベキ標準ハ附録第2ニ因ル」)に基づく附録第2の表の第18号を見ると,「近視又ハ近視性乱視ニシテ視力右眼「0.4」左眼「0.3」以上ノモノ及5「ヂオプトリー」以下ノ球面鏡ニ依ル各眼ノ矯正視力「0.6」以上ノモノ」は第二乙種であるのに対し「近視又ハ近視性乱視ニシテ球面鏡ニ依ル矯正視力良キ方ノ眼ニテ「0.3」以上ノモノ」が丙種であり,「近視又ハ近視性乱視ニシテ球面鏡ニ依ル矯正視力良キ方ノ眼ニテ「0.3」ニ満タザルモノ」は丁種だったからです。

なお,上記陸軍身体検査規則附録第2の表の第15号には不思議な規定があります。「著シキ頭蓋,顔面ノ変形」のある者及び「全禿頭」の者は丙種とされ,その結果第二国民兵になるというものです。毛が無いと軍隊で怪我無いことになるということのようですが,どういうことでしょうか。兵役法33条2項においては,現役兵及び第一補充兵の属すべき兵種は「身材,芸能及職業ニ依リ之ヲ定ム」るものとされ,「身材」とは「独り身体と謂ふのみでなく容姿,気品等を包含する」とされていますから(日高17頁),「全禿頭」の者は身材的に難ありということだったのでしょうか。陸軍の軍医であった森鷗外の小説『金貨』(1909年)には「八は子供の時に火傷をして, 右の外眥(めじり)から顳顬(こめかみ)に掛けて, 大きな引弔(ひつつり)があるので, 徴兵に取られなかつた。」というくだりがあります。著シキ顔面ノ変形の一例ということでしょう。

 

 とこの辺で,本件記事は一つのブログ記事として掲載するには分量が多くなり過ぎたので前編を終わります。続きは後編をどうぞ。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

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 「前々回(20141031日)の記事(「離婚と「カエサルの妻」」)では,諸碩学の著書を種々引用させていただきましたが,そこで紹介されている裁判例の事案が,実際にはどういうものであるのかが気になるところです。4件の裁判例について調べてみました。

 

1 名古屋地方裁判所昭和26年6月27日判決(夫が徒食して生計を顧みない場合と「婚姻を継続し難い重大な事由」)

 まずは,「2ヵ月に及ぶ異性関係を「一時の迷と考えられぬことはない」として,不貞行為の成立を否定した例」として紹介された(『新版注釈民法(22)』(有斐閣・2008年)360頁)名古屋地方裁判所昭和26年6月27日判決の事例(下級裁判所民事裁判例集第2巻第6号824頁以下)。

 実は,当該事件において離婚を求める原告(妻)の請求原因においては,被告である夫について,民法770条1項1号の「不貞な行為」があったとは主張されていませんでした。

「・・・右の次第で原告母子は被告と婚姻関係を継続していけば生活を維持して行くことが出来なくなつて自滅の他はないので止むなく被告と正式に離婚して将来原告母子が生活を立て行く途を講じ度いために,こゝに民法第770条第2号及び第5号を理由として裁判上の離婚を求めるため本訴に及んだ。」ということでした(下民集26826)。すなわち,配偶者からの悪意の遺棄(2号)及び婚姻を継続し難い重大な事由の存在(5号)が理由とされていたわけです。

 判決は,結局,婚姻を継続し難い重大な事由の存在を認めて原告の離婚請求を認容しています(下民集26829)。

 「被告が他に女をもつたといつても右は前記・・・の如く〔「・・・昭和21年2,3月から約2ヶ月程のことではあつたが他に女をもつたこともあり・・・」〕期間も短いことでもあるからこれは一時の迷と考えられぬことはないので直に離婚の事由とは認められぬ。」と判示はされていますが(下民集26828829),原告の請求は夫の当該異性関係を不貞行為として直ちに離婚を求めるもの(民法77011号)ではなかったので,当該異性関係だけからでは直ちに離婚の事由としての「婚姻を継続し難い重大な事由」(同項5号)の存在は認められないよ,ということでしょうか。むしろそもそも,本件事案の夫婦が入籍したのは昭和23年4月26日のことなので,昭和21年2,3月といえば実は婚姻前のことであったところです。

 しかし,この事案を見ていると,先の大戦で散華された若き英霊たちが不憫でならなくなりますね。

 

  被告〔仮名で「又太郎」ということにしましょう。〕は現在41歳になつているが昭和16年頃同じ会社に勤務中知り合つた5歳年上の右証人松子〔仮名〕と夫婦約束をし同女方に入つて同棲を始めたもので・・・(下民集26826

 

 昭和26年に41歳ですから,又太郎は昭和16年には31歳。すると,31歳の又太郎が,当時36歳だった松子と同棲を始めたということになります。昭和16年(1941年)といえば,西に大陸における泥沼の戦闘は長引き,東に強硬なフランクリン・ルーズヴェルト率いるアメリカ合衆国との開戦前夜という時期で,お国としては深刻な事態であったはずなのですが,職場で年上女性との恋愛やら同棲やら,何やらのどかな話です。「ABCD包囲網」ならぬ恋のABCですか。

「支那事変以前に17箇師団,20数万人であった〔我が陸軍の〕兵力が,ほぼ4年半を経過した日米開戦の時点には,51箇師団,210万人に膨れ上がってい」たとはいえ(戸部良一『逆説の軍隊』(中央公論社・1998年)307頁),30歳を過ぎてしまうともう召集はされなかったものでしょうか。「1927(昭和2)年の兵役法によれば,陸軍の常備兵役は現役2年,それを終えたあとの予備役が5年4ヵ月で,そのあとに10年の後備兵役に編入されることになっていた(1941年に後備兵役を廃止,予備役が15年4ヵ月となった)」そうで,「現役徴集率は1933年(昭和8)年に20パーセントだったが,37年に23パーセント,40年に47パーセント,44年には68パーセント」だったそうです(戸部327326頁)。徴兵検査の結果の「甲種と乙種が現役に適すとされたが,平時では甲種でも全員が現役徴集されたわけではなかったのに,支那事変以降は乙種まで現役徴集されるようになった」ということですから(戸部326327頁),換言すれば,現役ならぬ予備役以下の年配者には,なお余裕があったということでしょうか。

 

 ・・・〔又太郎は〕昭和20年初頃から松子の二女で当時17歳ばかりの原告〔仮名で「竹子」ということにしましょう。〕と肉体関係を結ぶようになり,間もなく松子に右関係を知られたが其頃竹子は既に又太郎の子を懐姙していて同年12月病院で之を死産し,竹子及び又太郎は其儘松子方に戻らす〔ママ〕同月から又太郎の現肩書住所地で事実上の夫婦として同棲を始めるに至つた・・・(下民集26826-827

 

34歳のおじさんが内縁の妻の17歳の娘(まあ義理の娘のようなものですね。)に手を出してしまったわけです。若い男性が戦争で少なくなると,おじさんであっても女の子にもてるようになるものでしょうか。それとも,今では児童福祉法34条1項6号,60条1項で罰せられるような情況であったのか。

ところで,昭和20年(1945年)初めといえば,硫黄島の戦いの時期です。玉砕しつつある若い兵隊さんたちに申し訳ない,とは思わなかったのでしょうかね,又太郎は。名古屋空襲で大変だったということでしょうか。いずれにせよ,松子・竹子の女性二人にかしずかれて御機嫌だったのでしょう。

 

・・・竹子と又太郎とが右の如く別居同棲を始めてから間もなく一時絶えていた松子との往来も次第に回復するに至つたものゝ右・・・記載の如く又太郎がもともと松子と内縁関係にあつたものであり,竹子より17歳も年長である等の関係から竹子と又太郎との婚姻は松子の同意が得られず為に・・・長女梅子〔仮名〕が出生した後の昭和23年4月13日〔ママ。13日は梅子の出生の日。両者の婚姻は同月26日〕になつて漸く其の届出を為した・・・(下民集26827

 

 ところで,女に囲まれていい気になるのは大好きな又太郎ですが,とにかく仕事をしない(あるいは,仕事ができない。)。ばくちと徒食と家庭内暴力との日々となりました。

 

  又太郎は右記の如く竹子と共に現在地で〔昭和2012月から〕同棲を始めて後間もなく勤先の会社を退いて独立して建築の設計,請負の仕事を始めたがこの仕事で工事の前受金等といつたような金が入つて一時手元が潤沢になると早くも喫茶店等に出入して金銭を費消することが次第に多くなり昭和21年2,3月から約2ヶ月程のことではあつたが他に女をもつたこともあり,其後も金を手にすれば賭博に費す等金銭を浪費して得意先に不義理を重ねたので次第に信用を失つて昭和24年9月頃には営業上の収入は殆んどないような状況になり,竹子及び又太郎には共に格別の資産はなかつたので生活上の借財,不義理もかさみ,豊かでもない竹子の母からもその頃までに現金で合計3万7,8千円,外に質草として衣類等を借受けたまゝになつているという始末で又太郎方の生活は全く行きづまり状態に立到つたのに又太郎は依然註文もなくなつた右営業以外の仕事には従事せぬといつて,十分健康体でありながら他に収入をあげる仕事方法を尋ねる等のこともなしに徒食し,竹子に他から金借して来ることを強要し時に暴力をふるうという始末で,為に生活の破綻から竹子と又太郎との間に風波絶えず竹子の又太郎に対する愛情も冷却の一途を辿つて,遂に・・・〔昭和24年9月〕竹子の家出となつた・・・(下民集26827

 

 よくある話ですが,才能もないのに,プライドばかり高いんでしょうかねぇ。

 困ったものです。

 

2 東京高等裁判所昭和471130日判決(夫と不貞の関係にあることの確証はないがその交際の程度が一定の程度を超えこれが夫婦の婚姻関係破綻の要因となったことを理由に妻から夫の相手の女性に対する慰藉料請求を認容した事例)

次は,「特定の女性を中心とした徹夜麻雀・グループ旅行などの交遊関係を夫が婚姻後も継続」したことが「不貞行為には該当しないとされる貞節義務違反(性的非行)」であって民法770条1項5号の婚姻を継続し難い重大な事由の一要素であるとされたとの趣旨で紹介されているものと解され得る(『新版注釈民法(22)』366頁)東京高等裁判所昭和471130日判決の事例です(判例時報68860頁以下)。

結婚前からのグループでの交遊を結婚後も継続していたら奥さんが嫉妬したということですと,若干,いやはや悋気持ちだなぁという気にもなるようですが,どういうことだったのでしょうか。「特定の女性を中心」にしていることがやはり問題なのでしょうが,当該グループ自体は,当該女性の外は男友達ばかりのようでもあります。まあ,確かに,妻帯者となると男同士で独身時代のようにつるんでいるわけにはいかないとはいえ,同性愛(下記4参照)でなければ,男友達同士で赤ちょうちんを飲み歩く程度のようなことは「貞節義務違反」ではないですよね。「いつまでも,皆で昔のマドンナを追っかけてるんじゃないよ。」ということでしょうか。やはり具体的な状況が分からないとピンと来ません。

 

・・・原告〔妻〕は〔昭和42〕年5月ごろから〔同年2月25日挙式の上同年5月1日婚姻届をした夫である甲野〕一郎方が有限会社組織で営む食肉販売業のうち○○市内○○○にある店の手伝いを時々していたところ,客の一人から一郎と乙山〔夏子〕との間に特殊な関係があるらしきことを暗示され,このことを一郎に問いたしたが,同人はたゞ,乙山は自分のプレーン〔ママ〕の一人で,若いときから口では言えない位,世話になっていると答えるのみであったので,原告はこのころから一郎と乙山との関係につき不満の念をもつにいたった。・・・また乙山が男の子との二人住いで市内に洋裁店等を開いているうえ,男まさりともいうべき気性で気軽に男性ともつき合うところから,同人宅には麻雀や飲食のため男の仲間達が集ること多く,土曜の夜などはしばしば徹夜し,中には寝込んでしまう者もあった。一郎自身は高校時代からこのような状態でここに出入りするもっとも古い連中の一人であって,・・・〔見合いのうえ,一郎側から懇望されて婚姻した初婚の〕原告はもとよりあらかじめこのような事情を明かされることなく,前記の経緯の後も乙山と一郎との関係について疑惑をもち,それにつれて生ずる一郎に対する不信感に悩んでいた。・・・(判時68861

 

 一郎は,高校生(15歳ないし18歳)の時から徹夜麻雀と飲酒ですか,困ったものですね。

 しかし,乙山夏子は当時,色気も既に枯れた,豪快な肝っ玉中年女性ででもあったものか。

 そうではないようで,元気な盛りの男子高校生・一郎が付き合いだしたころ,夏子は12歳年上の20代後半のバツイチ女性だったのでした。

 

 ・・・ところで乙山は一郎より12才も年長で昭和30年ごろ先夫と離婚し,一人息子(現在19才位〔ということは昭和30年には2歳くらい〕)の正一と二人暮しで女手一つで○○市内に洋裁店を持ち,あわせてアパートの経営もしていて,同人の性格は男まさりのいわゆる姉御肌ともいうべきものであって,酒や遊びごとも辞さないところから同人宅には常に男性の出入りが多く,土曜の夜などは一郎や他の男性達と徹夜で麻雀をすることもしばしばあり,また,男女相携えてグループで旅行するなど,その派手で無軌道とも見える生活振りから一部世間の者のひんしゅくを買い,とかくの噂をする者もあるが,同人は一々そのようなことを気にすることなく,現在もその生活態度をかえていない。・・・(判時68862

 

麻雀と酒ばかりで学校の勉強はしないとはいえ,高校生なのですから,大人からいろいろ教えてもらうことはあったはずではあります。

しかし,「一郎同様乙山宅に出入りしていた他の男性達は,一郎と乙山との間に特に肉体関係があるなどとは疑うこともなく,現在もなお乙山宅に出入し,遊び仲間として依然交際を続けてい」たそうです(判時68862)。やっぱり夏子には色気は余りなかったものか。裁判所も,「一郎の乙山宅への出入りは度を過すものがあり,両者の関係は相当密着の感があるとはいえ,右両者間に不純な情交関係があったものと認めるには十分でなく・・・本件にあらわれたすべての証拠によっても右両者の間は怪しい,或いは原告主張の如き交情があるのではなかろうかとの推測を示すに止まるのみであって,一方前記のような乙山の性格,生活態度,交遊関係等からすれば,そのような関係はないのではないかとの合理的疑いを解消しえず,結局において一郎が乙山との間に不貞の関係を有するとの事実はこれを認定するには不十分であるとせざるをえない」と判示しています(判時68862)。「前記のような乙山の性格,生活態度,交遊関係等」は,むしろ不純な情交関係の存否の判断において消極方向に働く事実とされていますね。

とはいえ,いずれにせよ,男児たるもの,夫となった以上は,己の誕生日には注意しなければいけません。

 

・・・たまたま〔昭和42〕年1130日は婚姻後はじめて迎える一郎の誕生日であったのに,一郎が原告を避けるようで同人の挙動に不審の点があったので原告は,同日午后7時ころ乙山宅を訪れたところ,案の定一郎はそこにいて丙川夫妻や丁村ら乙山方に出入りする者達とともに誕生パーティと称して飲食していた。そこで原告はますます乙山との関係に疑惑の念を深めるにいたり,丙川夫妻らが帰宅した後,深夜まで乙山を交えて3人で話合ったが,それによっては右疑惑を解くにいたらなかった。・・・(判時68861

 

 実は筆者は,かつて,法曹関係の有名な方(男性)が,自分の誕生日の晩に職場の関係者と華やかな夜の街で豪快華麗に飲んでおられるのを見たことがあるのですが,お家の方は大丈夫だったのでしょうか・・・。

 一郎は,上記「誕生日パーティ事件」直後の昭和42年の「12月はじめごろには2度も乙山から電話で,一郎が酔っぱらって来ているので引取りに来るように連絡があり」,甲野家の家族で迎えに行くという状態だったそうですから(判時68861),相も変わらず,反省の色がありませんでした。

 また,男児たるもの,下着には常に意を払わなければなりません。

 

 ・・・一郎は,幼時特に祖母に可愛がられて育ち,一人息子であるところから比較的甘やかされていた風もあり,・・・資金の貸借とか,乙山の性格にひかれて,頻繁に乙山宅に出入りし,前記の無軌道とも見える環境に没入し,麻雀でそのまま夜を明かしたり,乙山方から洗濯に出した一郎の下着に乙山のマークがつけられても意に介せず原告の目にふれしめる等のこと〔が〕あった・・・(判時68862

 

 「乙山のマーク」とは,「乙山のネーム」だったそうです(判時68864)。

結論として裁判所は,「原告と一郎との間には民法770条1項5号にいう婚姻を継続しがたい重大な事由がある」と認定していますが,当該認定の際挙げられた事実は,一郎と乙山夏子との関係について原告が「払拭し難い疑惑の念を抱いている」こと及び「かかる場合夫たる者はよろしくその疑惑を解き妻の不信を回復するよう百方誠意を尽しその生活態度を改めるべきであるのに,一郎はなんらそのことなく」終始したこと, だけではありませんでした。原告と一郎との間の長女秋子(昭和43827日生)の「出産を是とするか否かの意見の対立〔一郎は「原告にすでに相当月の進んだ胎児をおろすよう強要」〕,秋子出産後の一郎の態度〔「秋子を一目見に来院したのみで,生活費,養育費,入院費など全く負担しようとせず秋子の健康保険加入も拒絶」〕,原告が〔昭和43年4月中旬に〕甲野家を出てすでに4年半にも達すること,両名間に互いにもはや婚姻を継続する意思が存しないことなどの事実」が徴されています。(判時68862

 

3 東京高等裁判所昭和37年2月26日判決(過去における配偶者でない者との性的交渉が「不貞な行為」にはあたらないが,それに起因する現在の言動が「婚姻を継続し難い重大な事由」にあたるとして離婚を認めた事例)

三つ目は,「妻の同意のもとでの夫の女性関係」が「不貞行為には該当しないとされる貞節義務違反(性的非行)」であって民法770条1項5号の婚姻を継続し難い重大な事由の一要素であるとされたとの趣旨で紹介されているものと解され得る(『新版注釈民法(22)』366頁)東京高等裁判所昭和37年2月26日判決の事例(下級裁判所民事裁判例集第13巻第2号288頁以下)です。

前記1の又太郎事件では,又太郎は母・松子及び娘・竹子を相手に二股をかけていたのですが,東京高等裁判所昭和37年2月26日判決に係る事案においては,姉妹相手の二股が問題になっています。離婚を請求された二股夫(「又次」という仮名にしましょう。)は,妻である月子(仮名)と結婚する前にその妹の花子(仮名)と肉体関係があったのに,月子及び花子姉妹の母である雪子(仮名)は,「花子よりも先に月子に身を堅めさせる方が一家のために好都合であると考え」,又次に「懇望」して姉の月子と結婚してもらった,というこれまた不思議複雑な経緯がありました(下民集132289)。

「月子と又次が昭和301212日結婚の式を挙げ」たのですが,夫婦水入らずの生活ではなく,「月子の母雪子方で同棲生活を始め」ています(下民集132289)。雪子には,既に夫はいなかったものでしょう。また,「昭和34年5月頃雪子が花子を別居させれば月子らの夫婦仲も少しは良くなるであろうと考え,花子を東京都練馬区のそば屋に住込みで勤めさせた」といいますから(下民集132290),又次は,妻の月子とその母・雪子とのみならず,かつて肉体関係があった花子とも同居していたことになります。これでは問題が起きない方がおかしい。

 

・・・雪子はこのこと〔又次と花子との間に以前から肉体関係があったこと〕を知つていたが,花子よりも先に月子に身を堅めさせる方が一家のために好都合であると考え,月子にはこのことを知らせずにいた。なお,花子は雪子の説得によつて月子と又次との結婚を認め,一応又次との関係を断つた。(下民集132289-290

 

 というのですから,花子は又次に未練があったでしょうし,又次も同様

 

 ・・・結婚後も花子に未練を有し,それがまま素振りに表われた。そして,4,5カ月して月子が花子の告白により右肉体関係の事実を知り,又次をなじると,又次は月子に対し「おれは本当は花子が好きだつたが,おかあさんが引き離してお前と一緒にさせたのだ」とか「お前との結婚は同情結婚だ,花子は愛情が細やかであたかかつたがお前は冷い」等といい,その後は何かにつけて同様の侮辱的言辞を弄するばかりでなく,格別の理由もなく暴行したり,勤務先を欠勤して月子に将来に対する不安を抱かせるようにな〔った。〕(下民集132290

 

これが昭和31年の前半のことですが,依然として花子と又次らとの同居は,前記昭和34年5月ころのそば屋住込みまで約3年間続いていたわけです。花子には,実家を出て生活できないような事情があったものか。判決文からは当事者の年齢は分かりませんが,花子は若過ぎたものか。

しかし,又次は花子との同居に固執していたようで,これはまた,困ったものです。

 

・・・花子を東京都練馬区のそば屋に住込みで勤めさせたとき等は,〔又次は〕月子に対し「お前が花子を隠した」「花子は良かつた,お前のようにきつくなかつた」等といつて怒り,花子は結局〔昭和34年5〕月25日雪子によつて連れ帰られた・・・(下民集132290

 

花子を出せ,と婿の又次に言われて,雪子が素直に花子を又次のもとに連れて来てしまったというのは変ですね。又次の機嫌をとるのではなく,花子はあんたの女じゃない,と言って頑張るべきだったように思われますが,どうしたことでしょう。ただし,裁判所は,「又次が月子との婚姻中に月子の承諾なしに花子と性的交渉をもつたことを認めるに足りる証拠はない。」と判示しているところです(下民集132291)。

しかしながら,

 

・・・月子は又次との夫婦生活に絶望し,その頃又次〔,〕花子,雪子の3名と善後処置を話し合い,月子と又次とは離婚し,又次は花子と結婚することとし,又次は同年〔昭和34年〕6月9日頃花子と一緒に他に引き越した・・・(下民集132290

 

というのですから,又次と花子との関係は実は切れずに続いていたようでもあります。とはいえ,月子と別れて,又次が花子と結婚するというのならば,本来あるべきであった形になったということで,一応これで落着したかと思えば,さにあらず。

 

・・・又次は〔花子との引っ越し後〕ものの半月もたつと月子に対し復縁を求めるようになつた・・・(下民集132290

 

「愛情が細やかであたか」であったはずの妹・花子の正体は,実はそうではなかったのでしょうか。分からないものです。

又次の復縁の求めに対し,月子は「子供が二人もあることを考えて又次の許に復縁した。」ということで,二人は振り出しに戻ります(下民集132290)。しかし,それからの又次がまた相変わらずいけない。

 

・・・しかるに,又次は月子が復縁すると間もなく同年〔昭和34年〕7月13日頃月子に対し金策を要求し,月子がこれを拒絶すると,折りたたみ傘で直ぐには起き上れない程に殴つた。このときは,又次が直ぐに謝つたので月子も折れて又次の許に止まることとし,又次の現住所の家を二人で探して引き越したが,10日もすると又次は勤務先を休み,月子が出勤するように勧めても出勤しなくなつた。かくて,月子は今はこれまでと思い定めて雪子方え〔ママ〕帰り,次で同年9月中又次を相手取り横浜家庭裁判所に離婚並びに慰藉料支払の調停申立をした・・・(下民集132290

 

 家事事件手続法257条1項は「第244条の規定により調停を行うことができる事件について訴えを提起しようとする者は,まず家庭裁判所に家事調停の申立てをしなければならない。」と規定していて,離婚を求める訴えを提起する前には,まず家事調停を申し立てなければならないことになっています。同法244条は,「家庭裁判所は,人事に関する訴訟事件・・・について調停を行うほか,この編〔第3編「家事調停に関する手続」〕の定めるところにより審判をする。」と規定しています。

 横浜家庭裁判所の調停委員からは2年くらい様子を見たらとの勧告があったので,月子は調停では所期の目的を遂げるのは難しいと考え,昭和35年1月14日に調停申立てを取り下げ,同年4月28日に離婚を求める訴えを提起したのですが(下民集132290-291),第一審では敗訴したようです(月子が離婚を求めて控訴しています(下民集132288-289)。)。なお,控訴審では,月子は又次に対して慰謝料請求をしていません。

 月子側は,民法770条1項1号の不貞行為が又次と花子との間にあったと主張しましたが,これは認められていません。「前認定の又次と花子の性的交渉が,或は月子と又次の婚姻前のものであり,又は月子の承諾に基くもの」であるからです(下民集132291)。この月子の「承諾」は,又次と花子とが結婚することを認めていったん又次と別れることにした昭和34年6月ころの経緯におけるものでしょう(なお,裁判所は「不承不承の承諾」であるものと認めてはいます(下民集132291)。)。

 しかし,東京高等裁判所は,民法770条1項5号の「婚姻を継続し難い重大な事由」が月子と又次の間にあることは認めて,両者を離婚させました。

 

 ・・・夫婦の一方が婚姻前に性的交渉をもつていた異性に対し婚姻後も長く未練を有し,それを何かにつけ相手方に対する言動に表わし,果ては格別の理由もないのに暴行したり,勤務先を休んで夫婦生活の将来に不安を感ぜさせるようなことが相手方に対し致命的な侮辱感と絶望感を与え婚姻の継続を妨げる重大な事由となるものであることは疑の余地のないところである・・・(下民集132291-292

 

「未練」を月子に対して表す「言動」,月子に対する暴行及び勤め先の欠勤が,月子に侮辱感及び絶望感を与え,それが「婚姻を継続し難い重大な事由」を構成したということであって,「妻の同意のもとでの夫の女性関係」がそれとして直ちに「婚姻を継続し難い重大な事由」を構成する一要素とされてはいないようです。未練を表す言動の一環ということでしょうか。「婚姻を継続し難い重大な事由」に係る『新版注釈民法(22)』の分類(385-393頁)に従って整理すると,本件では,又次について,月子に対する「重大な侮辱」,月子に対する「暴行・虐待」及び勤労意欲がないことによる「家族の放置」があったということになるようです。

 

4 名古屋地方裁判所昭和47年2月29日判決(同性愛)

 最後に,「同性愛」が「不貞行為には該当しないとされる貞節義務違反(性的非行)」であって民法770条1項5号の婚姻を継続し難い重大な事由の一要素であるとされたとの趣旨で紹介されているものと解され得る(『新版注釈民法(22)』366頁)名古屋地方裁判所昭和47年2月29日判決の事例(判時67077)ですが,これについては,内田貴教授の『民法Ⅳ[補訂版]』(東京大学出版会・2004年)における紹介があります。

 「結婚後数ヵ月で夫が同性愛に陥り,妻に全く性的関心を示さなくなって,その後特定の男性に執拗につきまとうようになった,という事案で,770条1項5号の離婚原因があるとして,妻からの離婚請求を認めた」ものです(内田116頁)。民法770条1項1号の不貞行為との関係については,「同性愛を,異性との不貞行為に匹敵する有責行為と考える社会意識があるかどうか」が問題であるとされ,「もしそれが怪しいのであれば,あえて「不貞行為」を拡大することなく,端的に5号で破綻を認定するのが安全であろう。名古屋地裁の事案は,原告が5号に基づく離婚を請求したために,裁判所もそれを認容したものと思われる」とされています(内田116頁)。
 時系列的には,下記のようになります。
 なお,要件事実をやってみると,離婚請求の要件事実は,①婚姻の届出がなされていること,及び②①の婚姻を継続し難い重大な事由があること,ということになります(岡口基一『要件事実マニュアル 第2版 下』(ぎょうせい・2007年)240頁)。

 昭和39年11月26日に,原告(甲野花子(仮名))と被告(甲野正樹(仮名))とが結婚(婚姻届はいまだ出さず。)。
 昭和40年2月頃には早くも,正樹は,花子に対して性交渉を全く求めようとしなくなる。花子からの求めにも一向に意欲を示そうとはしない。
 同年3月5日,原被告の婚姻の届出。
  同年8月28日,原被告間に長女星子(仮名)誕生。
 昭和43年頃,正樹,乙山高和(仮名)と知り合って同性愛の関係に陥る。
 正樹・高和間では,男女間におけると同様の関係が繰り返される。
 昭和45年頃,乙山高和に結婚話が持ち上がったのを機に,いったん正樹・高和間の関係解消。
しかし,正樹は,高和に対する未練をいまだ断ちがたく,執拗につきまとう。

 昭和46年2月頃,花子,派出所の警察官から,正樹が他の男性と同性愛関係にあると知らされる。花子は,驚きのあまり,直ちに星子を連れて実家に帰り,以来正樹と別居する。
 同年6月9日 本件離婚等請求訴訟に係る訴状の正樹への送達。

 既に「セックスレス」になっていたのですから,あえて婚姻届を出すべきではなかったようにも思われますが,花子は星子を懐胎してしまっていたところです(女性を妊娠させる能力については,正樹には問題がなかったわけです。)。派出所の警察官から同性愛の事実が告げられたというのは,正樹の愛が暴走して,警察沙汰を起こしたものでしょうか。
 「右認定の事実によれば,被告は,性的に異常な性格を有していることが明らかである。」とずばり判示されていますが(判時670・77),「同性愛即異常」との認定には,現在では異議の声を挙げる人が少なくないかもしれません。
 なお,「原告が被告との離婚によって受けた精神的損害に対する慰藉料」として150万円を花子に支払うべきことが正樹に対して命じられています。
           

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所(弊事務所の鈴木宏昌弁護士が「離婚・男女関係」に強い辣腕弁護士として,週刊ダイヤモンド(20141011日号)で紹介されました。)

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1 リップ・ヴァン・ウィンクル

 米国の小説家ワシントン・アーヴィングに“Rip van Winkle”という作品があります。18世紀,北アメリカはハドソン川流域のオランダ系植民者の村に住んでいたリップ・ヴァン・ウィンクルを主人公とした物語です。森鷗外による邦題は,『新浦島』。

アメリカ独立革命が起こる前のこと,怖い奥さんを苦手とするリップが,難を避け,いつも仲間とその前のベンチにたむろして駄弁っていた旅館には「ジョージ3世陛下の血色のよい肖像(a rubicund portrait of His Majesty George III)」が目印の看板として掲げられていました。ところが,リップがうっかりキャッツキルの山中に入って一眠りして20年を過ごしてしまってから村に戻って来た時には,その間に建て替えられた旅館の看板に依然として描かれてある赤々とした顔(ruby face of King George)はかつてと同じようであっても,赤い袍は青と淡黄褐色のコートに変わっていて,手は笏の代わりに剣を持っており,頭には三角帽,そして看板の下部には大きな文字で「ワシントン将軍(GENERAL WASHINGTON)」と書いてありました・・・というようなお話です。

 

2 ジョージ3世

 ところでリップの村の旅館の看板になっていたアメリカ独立革命時の英国及び北米13植民地の王であったジョージ3世とは,どのような人だったのでしょうか。

 

ジョージ3世は,〔ドイツから来たハノーヴァー朝の〕先代のジョージ1世や2世と異なり,イギリスで生まれ,イギリス風の教育を受けた生粋のイギリス人で,母からつねに「ジョージよ,王者たれ」とはげまされ,テューターのボリングブルックから「愛国王の思想」を吹きこまれていた。ジョージ3世は王権の回復をめざし,ウォルポール以来の議会政治を変更しようと試みたが,ステュアート朝の諸王のような絶対君主たらんとしたわけではない。ただ曽祖父〔ジョージ1世〕や祖父〔ジョージ2世〕が失った権力をとりかえして,ウィリアム3世〔名誉革命で即位した王〕の昔に帰り,一政党,一党派ではなく,あらゆる政党,党派のベストメンバーをすぐって王に奉仕させようとしたにとどまる。王は,「王の側近(キングス‐フレンド)」を中心として親政を行ない,「君臨すれども統治せず」の原則に暗影を投じたが,アメリカの植民地の独立やアイルランド問題などで失敗した。そして1783年,24歳の青年小ピットが首相の地位につくにおよび,議会政治がふたたび回復にむかったのである。(大野真弓『世界の歴史8絶対君主と人民』(中央公論社・1961年)475476頁)

 

  1760年に即位したジョージ3世は,国王が自らCabinetに臨み,行政権の首長として行動するという体制を復活しようとした。ビュート(Earl of Bute; John Stuart)がPrime Minister176263年,ノース(Frederick North)がPrime Minister177082年と,ジョージ3世は国王親政を試みる。

  ・・・

  もしジョージ3世がその統治に成功していれば,あるいは,国王が名実ともに行政権の首長であるという体制が〔英国に〕一時復活したかもしれない。しかし彼は,アメリカ植民地問題をかかえて,結局その処理に失敗し,アメリカの独立を招いた。この失敗がどこまで国王個人に帰せられるべきかは,はっきりしないが,失敗したという事実は決定的である。また,ジョージ3世の政治指導力が,例えば〔その孫の〕ヴィクトリア女王などに比べれば劣っていることは否めまい。また彼が,1765年,178889年,180304年と精神病にかかったことも,その指導力を低下させたに違いない。(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)143頁)

 

 アメリカ独立宣言では暴君呼ばわりされていて,ややお気の毒な王様です。

 

3 トーマス・ジェファソン

これに対して,ジョージ3世の当該悪口をアメリカ独立宣言に書き連ね,かつ,同王治下の英国が大嫌いであったトーマス・ジェファソンの人柄は,どのようなものだったのでしょうか。

 ジェファソン(5セント玉)の宿命の政敵であったワシントン政権の元財務長官アレグザンダー・ハミルトン(10ドル札)が,ジェファソンが第3代大統領に当選した1801年の米国大統領選挙(連邦議会下院における投票にまでもつれ込んだもの)の際,フェデラリスト党の仲間であるJ.A.Bayardあてに同年1月16日付けで書いた書簡にいわく。

 

 ・・・恐らく私が最初に,自分の不人気と引換えにジェファソンの正体(true character)をあばいたわけですから,今更彼の弁護人(apologist)になるのには遅過ぎますし,その気にもなれません。私は,彼の政見(politics)には狂信(fanaticism)の気味があること,彼がその民衆政治論(democracy)において大真面目に過ぎること,彼は我らが今までの政権〔ワシントン及びアダムズ政権〕の主要政策に対して有害な敵(mischevoussic enemy)であったこと,彼はその目的のためには狡猾かつ執拗(crafty & persevering)であること,彼は成功のためには手段を選ばない(not scrupulous)こと,彼は真実を必ずしも尊重しないこと(not very mindful of truth),そして彼は見下げ果てた偽善者(contemptible hypocrite)であることを認めます。・・・

 

なかなか取り柄がなさそうです。しかし,不幸中の幸い,その悪さには限界があるようです。

 

・・・彼は,私の知る他の人間と同様に俗物的です(to temporize)――何が彼自身の評判を高め,彼の有利に働くだろうかを計算するわけです。そして,このような気質から想定される結果は,当初は反対したとはいえ,いったん出来上がった以上は,それを試みる者に対する危険なしにはそれを覆し得ないところの諸制度の維持ということになります。私の思うところでは,J氏の性格の正確な衡量からは,暴力的なシステムというよりは妥協的なシステム(a temporizing rather than a violent system)を期待することが保障されるところです。・・・彼が腐敗させられ得るとの考えを支持すべき相当な理由はない(no fair reason)ということもつけ加えましょう。このことは,彼はある一定の限度を越えることはないということの保証になります。・・・

 

 同じくハミルトンの18001226日付けG.Morrisあて書簡には次のとおり。

 

 ・・・この世界において私が憎むべき者がいるならば,それは,ジェファソンです。・・・

 

というのは,ジェファソンは,「宗教においては無神論者(Atheist),政治においては狂信者(Fanatic)」だったからでしょう(A.ハミルトン・同年5月7日付けJ.Jayあて書簡)。「無神論者」は,米国では負の評価を帯びた由々しい言葉です。

同じくヴァジニア出身である国務長官ジェファソンと独立戦争における有能な副官であった財務長官ハミルトン(こちらはカリブ海出身)との不仲は,初代大統領ジョージ・ワシントンにとって心痛の種でした。両者の和解の勧試がされたものの,両雄は並び立ちません。

 

・・・私〔ハミルトン〕は,ジェファソン氏が同氏の現在の職〔国務長官〕に就くためにニュー・ヨーク市〔アメリカ合衆国の最初の首都〕に来着した当初〔1790年〕から,私が同氏からの変わることなき妨害(uniform opposition)の対象であったことを知っています。最も信頼の置ける情報源から,私がしばしば当該方面からの意地悪なささやき(most unkind whispers)やあてこすりの対象とされていたことを知らされています。私は,彼の後援の下に私を失脚させようとして形成された党派〔Republicans又はDemocratic-Republicans。ただし,現在の共和党の前身ではなく,民主党の前身〕が,立法府に存在しているのを見てきました。私の手元にある証拠からして,〔ワシントン政権を攻撃する〕ナショナル・ガゼット紙が政治的目的のために彼によって設立されたこと,並びに同紙の主要目的の一つが,私及び私の省が関係する政策のすべてが可能な限りいとわしいものとして認識されるようにすることであったことを疑うことはできません。・・・(A.ハミルトン・1792年9月9日付けG.ワシントンあて書簡)

 

 ハミルトンの言い分ばかり伝えるのは不公平でしょうか。とはいえ筆者には,ハミルトンについては格別の思い出があります。

 初めて米国に渡った時,同国のお札に肖像が出ている人物中,ベンジャミン・フランクリン(100ドル札),グラント(50ドル札),ジャクソン(20ドル),リンカン(5ドル)及びワシントン(1ドル)は何者だか分かっていても(フランクリン,リンカン及びワシントンについては我が国に子供向けの伝記もあって周知。グラントは,南北戦争の北軍の有名な司令官であって後に大統領になったということで記憶がありました(なお,グラントは実は尖閣諸島問題にもからむ人のようです。)。ジャクソンについては,山川の高校世界史の教科書に「ジャクソニアン・デモクラシー」ということが書かれていて,これは大学受験勉強的には何やら重要なのであろうという認識がありました。まあ,ジャクソンは,簡単にいえばOKの人なのですが。),しかし10ドル札のハミルトンというのが分からない。大統領でもないのになぜお札に顔が出ているのか。田舎の街の雑貨用品店で,他にお客もいないようなので,レジの中年女性に,10ドル札を出しながら,それまでなかなか通じず苦労した下手な英語で図々しく“Who is he?”と訊いてみたところ,怪しい東洋人の妙な質問でありながらも親切にも理解してくれて,

 

 “Ooh, Alexander Hamilton. Our first Secretary of the Treasury!”

  (うーん,アレグザンダー・ハミルトン。初代の財務長官ね。)

 

 とのご名答。

 アメリカの女性は偉いものだ,と思ったことです。

 

4 ジョージ3世vs.ジェファソン

 この性格の悪いジェファソンが,北米独立13邦の駐仏公使として,ロンドンで「暴君」ジョージ3世に接見せられたことがあります。1786年3月17日,セント・ジェイムズ宮殿における接見会でのことでした。35年後のジェファソンの自伝にいわく。

 

  例によって私が接見会(levees)に国王及び王妃に伺候したところ,アダムズ氏〔当時の駐英公使〕及び私を見た彼らの態度ほど不快(ungracious)なものはなかった。私は,このラバ的生物(mulish being)の狭隘な精神に生じている潰瘍からして,私の伺候からは何も期待できないことを直ちに了知した。(Randall, W.S. Thomas Jefferson: a life. New York; HarperPerennial, 1994. P.412

 

分かりにくいのですが,どうも,駐英公使アダムズが接見会において駐仏公使ジェファソンをジョージ3世及びシャルロット王妃に紹介して両公使がお辞儀をしたところ,王及び王妃はつと玉座から立ち上がって両者に背を向け,満座の外交団の前で北アメリカ13邦を代表する両閣下に恥をかかせた,ということのようです(Randall, p.413)。

しかし,極めて几帳面なジョン・アダムズ自身がこの時のことを書いておらず,また,シャルロット王妃はジョージ3世の接見会には臨席しない仕来りだったようで,上記の話には疑わしいところがあります。つまり,実際のところは違うようです。すなわち,ジョージ3世の接見会は,弧状に並んだ外交官たちの前を,お付き二人を従えただけの国王が,その右側に立つ各国外交官と短い会話を交わしながら歩いて行くという格式張らない形式のものであって,華麗なヴェルサイユ宮殿の儀式に慣れたジェファソンとしては興ざめし,かつ,ジョージ3世もジェファソンとは特に話すべき話題はなかったので(さすがにアメリカ独立宣言の内容について「あれはひどいね」と議論するわけにはいかなかったでしょう。)さっさと次の外交官との会話に移ってしまったということだったようです。英国の歴史家Ritchesonによれば,ジョージ3世自身は,公の場で横柄な態度をとること(public rudeness)は国王のすべきこととは考えていなかったようで,また,「彼の親しみやすさ,礼儀正しさ,打ち解けやすさ並びに小咄,お上手及び冗談の種を豊富に持っていることは称賛されていた。」とのことでありました。(以上,Randall, p.413

ジェファソンとしてはジョージ3世に馬鹿にされたように感じたのかもしれませんが,確かに,ハミルトンによれば,ジェファソンは「真実を必ずしも尊重しない」人物でありました。

 

5 二人のジョージ

ジェファソンにかかるとラバ並みの扱いですが,ジョージ3世は,むしろ公正な人物であったように思われます。

パリ条約(1783年)後の北米13邦からの初代駐英公使であるアダムズ(彼もアメリカ独立宣言起草委員の一人でしたね。)の英国国王による接受(1785年)は,「アダムズにとって感動的な経験(moving experience)であった」そうです。「かつての叛臣であるアダムズは,神経質に震える声で,今や連合13邦は英国との友誼を求めている旨言上した。国王は,アメリカの離脱を押しとどめることはできなかったが,今やそれがなされてしまった以上,彼も同様に友好関係を望むと答えた。会見は短かった。ジョージ3世は,堅苦しくお辞儀をして,アダムズに下がってよい旨を伝えた。当該使節は外交儀礼に従い3度お辞儀をし,おぼつかなく後ずさりして接受の間から引き下がった。直後のロンドン・クロニクル紙は「ジョン・アダムズ閣下は,極めて丁重に(most graciously)接受された。」と報道した。」ということです(Ferling, John. John Adams: a life.  New York; Oxford University Press, 2010. p.280)。「うわさ好きの外交団の間では,アダムズが信任状を捧呈した後,アダムズを歓迎するに当たって国王の目には涙があり,そして,胸がいっばいであるとの様子であったとの話までが伝えられた。」ともいわれています(Randall, p.412)。

ジョージ3世は,ジョージ・ワシントンの偉大さを,率直に評価していました。

北アメリカ出身の宮廷画家ベンジャミン・ウェストとの間での会話。

 

・・・ある日,国王〔ジョージ3世〕はウェストに対し,〔アメリカ独立〕戦争が終わったときにワシントンは軍の最高司令官になるのか国家元首になるのかどちらかと訊いた。ワシントンの唯一の望みは自分の地所に戻ることだとウェストが答えると,雷に撃たれたようになって国王は叫んだ。「もし彼がそうするとなると,彼は世界で最も偉大な男だということになる。」と。(Chernow, Ron. Washington: a life. New York; Penguin, 2010. P.454

 

その後,ワシントンが2期8年をもって合衆国の大統領を辞するに当たってのジョージ3世の総括。

 

・・・最初は統帥権を,そして今,統治権を返上することによって,彼は「現代最大の偉人」として屹立した,とジョージ3世は言ったと伝えられている(By giving up first military and now political power, he stood out as “the greatest character of the age” according to George III)。彼は,かつての敵を,遅ればせながら評価するようになっていた。・・・(Chernow, p.757

 

 ジョージ3世にとって,ジョージ・ワシントンはやはり格別の存在だったのです。

 

・・・〔1789年〕2月末には二人のジョージの奇妙に対照的な運命は更に一層奇妙なものになったところであって,パリからグーヴェルヌール・モリスが,王の狂気の思いがけぬ進行について報告してきた。「ところで」と彼はワシントンに書いた。「哀れなイングランド国王が陥った悲しむべき情況についてなのですが,あなたとの関係で私が聞いたところによりますと,何やら妙なことがあったようです。」狂気の発作の中で――モリスが書くには――王は「自分のことを,何とだれあろう,アメリカ軍の先頭に立つジョージ・ワシントンだと思っていたのです。つまりあなたは,彼のはらわたに一番ひどくわだかまっている何やらをやったのだったというわけですね。」妄想は一過性のものであった。1789年4月23日,すなわちジョージ・ワシントンが群衆の歓呼の中で大統領に就任する精確に1週間前に,ジョージ3世は奇跡的に譫妄状態から回復し,ロンドンのセント・ポール教会では感謝の儀式が執り行われた。彼は,稀な遺伝性疾患であるporphyria(ポルフィリン症。20世紀になるまでは正確に診断することができなかった。)を患っていたのではないかとの仮説が提出されている。・・・(Chernow, p .570

 

 ジョージ3世とジョージ・ワシントンとを区別することが難しかったのは,リップ・ヴァン・ウィンクルばかりではなかったわけです。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

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