Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

2014年03月

1 また『この国のかたち』から

 司馬遼太郎の『この国のかたち』を読むと,統帥権の独立の制度については,1908年の制度改正が画期であったとされています。




 参謀本部にもその成長歴があって,当初は陸軍の作戦に関する機関として,法体制のなかで謙虚に活動した。

 日露戦争がおわり,明治41年(1908年),関係条例が大きく改正され,内閣どころか陸軍大臣からも独立する機関になった。やがて参謀本部は“統帥権”という超憲法的な思想(明治憲法が三権分立である以上,統帥権は超憲法的である)をもつにいたる・・・(司馬遼太郎「3 “雑貨屋”の帝国主義」『この国のかたち 一』)

 

 明治憲法はりっぱに三権分立の憲法で,三権に統帥権は入らない。

 が,やがてこの憲法思想外の権がガン細胞のように内閣から独立し(1908年),昭和10年以後はあらゆる国家機関を超越する権能を示しはじめた。このことへいたる情念の歴史として,前記の正成の劇的情景〔楠木正成湊川出陣決定御前会議〕がある。(司馬遼太郎「5 正成と諭吉」『この国のかたち 一』)

DSCF0052
 (皇居前広場楠木正成像)

 上記の各文章によれば,1908年の参謀本部条例の改正によって,それまで内閣及び陸軍大臣に属していた参謀本部が,新たにこれらの機関から独立することになったということのようです。



2 参謀本部条例の1908年改定の前と後




(1)1908年改定前後の参謀本部条例

 190812月の改正前後の新旧参謀本部条例を見てみましょう。

 まずは,新参謀本部条例。




朕参謀本部条例ヲ改定シ之カ施行ヲ命ス

 御 名 御 璽

  明治411218日〔官報・同月19日〕

     陸軍大臣 子爵 寺内正毅

軍令陸第19

   参謀本部条例

第1条 参謀本部ハ国防及用兵ノ事ヲ掌ル所トス

第2条 参謀総長ハ陸軍大将若ハ陸軍中将ヲ以テ親補シ 天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル計画ヲ掌リ参謀本部ヲ統轄ス

第3条 参謀総長ハ参謀ノ職ニ在ル陸軍将校ヲ統督シ其ノ教育ニ任シ陸軍大学校及陸地測量部ヲ管轄ス

第4条 参謀次長ハ参謀総長ヲ輔佐シ本部一切ノ事務整理ニ任ス

第5条 参謀本部部長ハ参謀総長ノ命ヲ承ケ課長以下ヲ指揮シ其ノ主務ヲ掌理ス

第6条 参謀本部ノ編制ハ別ニ定ムル所ニ拠ル

第7条 参謀本部ニ於ケル服務規則ハ参謀総長之ヲ定ム



 なるほど,第2条で参謀総長は「天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画」するとありますから,天皇直属であって,内閣からも陸軍大臣からも独立しているわけです。

 司馬遼太郎によれば,当該規定は,1908年の改定前の旧参謀本部条例にはなかったということでしょう。旧参謀本部条例(1905年の第4条改正後のもの)は,次のとおり。




朕参謀本部条例ノ改正ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 御 名 御 璽

  明治32年1月14日〔官報・同月16日〕

     内閣総理大臣 侯爵 山縣有朋

     陸軍大臣 子爵 桂太郎

勅令第6号

   参謀本部条例

第1条 参謀本部ハ国防及用兵ノ事ヲ掌ル所トス

第2条 参謀総長ハ陸軍大将若クハ陸軍中将ヲ以テ親補シ

 天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル一切ノ計画ヲ掌リ又参謀本部ヲ統轄ス

第3条 参謀総長ハ国防ノ計画及用兵ニ関スル命令ヲ立案シ

 親裁ノ後之ヲ陸軍大臣ニ移ス

第4条 参謀総長ハ陸軍参謀将校ヲ統督シ其教育ヲ監視シ陸軍大学校,陸地測量部,陸軍文庫並在外国大使館附及公使館附陸軍武官ヲ統轄ス

第5条 参謀本部次長ハ陸軍中将若クハ陸軍少将ヲ以テ之ニ補シ参謀総長ヲ輔佐シ本部一切ノ事務整理ニ任ス

第6条 参謀本部ノ編制ハ別ニ定ムル所ニ拠ル



おやおや,ほとんど同じですね。特に新旧条例各2条の「参謀総長ハ・・・天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ」は,全く同一です。



(2)1878年の参謀本部条例と統帥権の独立

実は,参謀本部の独立は,187812月5日の参謀本部条例(右大臣岩倉具視から参謀本部あて「其部条例別冊ノ通被定候条此旨相達候事」との達)によって既に達成されていたのでした。




・・・従来の参謀局は陸軍省に隷属し,参謀局長は陸軍卿に隷してゐたけれども,参謀本部は陸軍省より独立し,本部長は天皇の「帷幕ノ機務ニ参画スルヲ司トル」〔
1878年参謀本部条例2条〕ところの最高の統帥機関となつたのである。即ち参謀本部長は統帥権に関する天皇の幕僚長として「軍中ノ機務,戦略上ノ動静,進軍,駐軍,転軍ノ令,行軍路程ノ規,運輸ノ方法,軍隊ノ発差等,其軍令ニ関スル者」を管知し,之を「参画シ,親裁ノ後直ニ之ヲ陸軍卿ニ下シテ施行セシム」〔同5条〕るものであり,又「戦時ニ在テハ凡テ軍令ニ関スルモノ,親裁ノ後直ニ之ヲ監軍部長,若クハ特命司令将官ニ下ス」〔同6条〕ものである。従つて参謀本部長は,統帥権に関する最高の輔弼機関である関係上,軍政に於ける陸軍卿の地位にあるのではなくて,寧ろ其の上の太政大臣〔三条実美〕に相等する地位に在るものである。何となれば陸軍卿は直接天皇輔弼の責に任ずるものではなく,それは専ら太政官の三職〔太政大臣・左右大臣・参議〕,就中太政大臣にあつたからである。換言すれば参謀本部長の権限は,従来の陸軍卿及び太政大臣の権限より統帥権に関する部分を独立せしめたものといふことが出来る。従つて参謀本部長の地位は,陸軍卿に優越するものと解せられるのである。

 かくして陸軍に在つては,明治11年に於て名実共に統帥部の独立が実現したのである。・・・(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)227228頁)



3 勅令から軍令へ

 さて,それでは,司馬遼太郎は1908年の参謀本部条例のどこに注目して警鐘を鳴らしたのでしょうか。

 法形式と副署者に注目しましょう。

 1899年の参謀本部条例は,勅令であって,内閣総理大臣及び陸軍大臣が副署しています。

 これに対して,1908年の参謀本部条例は,軍令であって,副署者は陸軍大臣だけです。



(1)勅令

 勅令は,「旧憲法時代,天皇によって制定された法形式の一つで,天皇の権能に属する事項(皇室の事務及び統帥の事務を除く。)について抽象的な法規を定立する場合に用いられた法形式」です(前田正道編『ワークブック法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)49頁)。美濃部達吉は次のように説明しています。

 


・・・〔公文式(明治
19年勅令第1号)〕は,等しく天皇の勅定したまふ国家の意思表示の中に,法律と勅令との2種の形式を区別したのであるが,併し憲法実施までは,法律と勅令とは唯名称だけの区別で,何等法律上の意義ある区別ではなかつた。憲法の実施に依りて,それは単に名称だけの区別ではなく,(1)その制定手続に於いて,(2)その規定し得べき内容に於いて,(3)及びその効力に於いて相異なるものとなつたのである。(1)制定手続に於いては,法律は議会の議決を経て定められ,勅令はその議決を経ずして定められる。(2)内容に於いては,法律は原則として如何なる事項でも定むることが出来るが,勅令は唯憲法上限られた事項だけを定むることができる。(3)効力に於いては,法律は勅令の上に在り,法律を以ては勅令を変更することが出来るが,勅令を以ては法律を変更することは出来ない。(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)168169頁)

 ・・・勅令が他の国務上の詔勅と区別せらるゝ所以は,勅令は国民に向つて法規を定めることを主たる目的とすることに在る。固より勅令を以て規定せらるゝ所が常に法規のみに限るといふのではない。行政命令〔「電信規則・電話規則・各種の学校令・鉄道乗車規程の如く,全然国民の権利義務に付いての規律を定むるものではなく,唯人民が自己の自由意思を以て之を利用するに付いての条件たるに止まる」もの〕の性質を有するものが,勅令を以て定めらるゝものは甚だ多いけれども,その主たる目的とする所が,法規を定むるに在ることは疑を容れぬ所である。・・・(美濃部・235頁,232頁)



(2)軍令及びその誕生




ア 軍令

 軍令は,軍令に関する件(明治40911日軍令第1号。同令には題名なし。件名をもって,軍令に関する件と呼ばれています。)の第1条において,「陸海軍ノ統帥ニ関シ勅定ヲ経タル規程ハ之ヲ軍令トス」と定められていたものです。(なお,軍令に関する件の官報掲載日は1907912日ですが,上諭の日付は同月11日であって,同令4条は「軍令ハ別段ノ施行時期ヲ定ムルモノノ外直ニ之ヲ施行ス」と規定しています。)「統帥権の作用として定めらるゝ命令」であって,「国務上の命令ではない」ものであり,「唯統帥権に服する者即ち平時に於いては唯軍人に対してのみ効力を有するもので,一般の人民に対して効力を有するものではない」ものです(美濃部261頁)。「軍隊内部の命令たるに止まるのであるから,国の法令に牴触することを得ないのは勿論」です(同)。公布によって初めて「以て臣民遵行の効力を生ず」る(『憲法義解』)法規とは異なり,軍令は正式に公布されませんでした(軍令に関する件2条参照)。「公示」を要する軍令は,官報で公示されました(同令3条)。「故らに公布なる文字を用ひないのは,軍令は勅令と其の性質を同じくせざることを示し,以て軍令を特殊の勅令と認むるが如き嫌ひを避けたもの」と考えられています(山崎248頁)。

 「予算に影響を及ぼさない限度に於いて,軍隊の内部の編制を定むるの権」は「内部的編制権」であり,内部的編制権は,美濃部においても大日本帝国憲法11条(「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」)の統帥権の範囲内にあるものとされていました(美濃部259頁)。参謀本部条例は,統帥権の一環たる内部的編制権の発動により参謀本部の構成について天皇が定める規程であるから,1908年の参謀本部条例については軍令の形式が採られたということでしょう。



イ 軍令の誕生

 それでは,1899年の参謀本部条例はなぜ軍令の形式ではなく,勅令の形式で定められたのでしょうか。理由は簡単です。軍令の形式は,1907年の明治40年軍令第1号によって初めてできたものであって,それ以前には軍令の形式は存在しておらず,当該形式の採りようがなかったからです。



(ア)公式令制定に伴う内閣総理大臣の副署対象の全勅令への拡大

 それでは更に,なぜ1907年9月に軍令という形式が定められたのでしょうか。これは,同年2月1日から施行されていた公式令(明治40年勅令第6号)7条2項の規定が原因です。勅令に係る国務大臣の副署(大日本帝国憲法552項「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」)については,それまでの公文式3条が「法律及一般ノ行政ニ係ル勅令ハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ主任大臣ト倶ニ之ニ副署ス其各省専任ノ事務ニ属スルモノハ主任大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス」と規定していて,各省専任の事務に属する勅令については内閣総理大臣の副署を要さず主任の国務大臣の副署だけで足りるものとしていたのに対して,新しい公式令7条2項は,「〔勅令〕ノ上諭ニハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ国務各大臣若ハ主任ノ国務大臣ト倶ニ之ニ副署ス」と規定し,各省専任の事務に属する勅令をも含めて例外なく,すべての勅令について内閣総理大臣が副署するものとしていたからです。

 勅令に対する国務大臣の副署の効力については,「法律勅令及其の他国事に係る詔勅は大臣の副署に依て始めて実施の力を得。大臣の副署なき者は従て詔命の効なく,外に付して宣下するも所司の官吏之を奉行することを得ざるなり。」とされていました(『憲法義解』)。



(イ)公文式時代の慣行及びその維持

 明治40年軍令第1号の起案を担当したのは,陸軍省軍務局軍事課です(陸軍省であって,参謀本部ではないですね。)。同課によれば,軍令の形式を定める「理由」は,次のとおりでした(中尾裕次「史料紹介「軍令ニ関スル件」」戦史研究年報4号(防衛省防衛研究所(20013月))。




従来軍機軍令ニ関スル事項ハ内閣官制第7条ニ依リ陸軍大臣海軍大臣ヨリ帷幄上奏ヲ以テ親栽ヲ仰キ而シテ陸海軍部外ニ発表ヲ要スルモノハ公文式第3条ニ依リ単ニ陸軍大臣海軍大臣ノ副署ノミヲ以テ公布シ来レリ然ルニ先般公式令制定ト共ニ公文式ヲ廃止セラレタル結果勅令ハ総テ内閣総理大臣ノ副署ヲ要スルコトトナレリ抑モ事ノ軍機軍令ニ関シ若ハ之レト同一ノ性質ヲ有スル軍事命令ハ憲法第
11条同第12条ノ統帥大権ノ行使ヨリ生スルモノニシテ普通行政命令ト全ク其性質軌道ヲ異ニシ専門以外ノ立法機関若ハ行政機関ノ干与ヲ許ササルヲ以テ建軍ノ要義ト為ス

統帥大権ノ行使夫レ斯ノ如ク又内閣官制第7条ハ現行法トシテ尚ホ存在スルカ故ニ此際統帥事項ニ関スル命令ハ特別ノ形式即チ軍令ヲ以テ公布シ主任大臣ノミ之ニ副署スルコトト為シ以テ行政事項ニ属スル命令ト判然之ヲ区別シ統帥大権ノ発動ヲ明確ナラシメントス

 

 お前のサインなどもらわないぞと,内閣総理大臣も嫌われたものですね。しかし,確かに,内閣総理大臣もいろいろではあります。

 内閣官制(明治22年勅令第135号)7条は,「事ノ軍機軍令ニ係リ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニ依リ之ヲ内閣ニ下付セラルノ件ヲ除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」と規定していました。いわゆる帷幄上奏に関する規定です。内閣官制7条の前は,1885年の内閣職権6条ただし書で「但事ノ軍機ニ係リ参謀本部長ヨリ直ニ上奏スルモノト雖トモ陸軍大臣ハ其事件ヲ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」と規定されていました。帷幄上奏は「本来参謀総長・海軍軍令部長の職務として規定せられたのであるが,其の後陸軍大臣又は海軍大臣からも帷幄上奏を為し得る慣習が開かれ,陸軍及び海軍大臣だけは,総理大臣を経由せず単独に上奏し得ることが慣習上認められて居」たものです(美濃部532533頁)。これに対して,陸海軍大臣以外の国務大臣の上奏については,内閣総理大臣が「機務ヲ奏宣スル」(内閣官制2条)ものとされていることから,「総理大臣を経由するか,又は少くとも総理大臣の承認を得た場合であることを要するので,総理大臣の知らぬ間に,各大臣から直接に上奏することは,総理大臣の職責から見て,許されない」とされていました(美濃部532頁)。

 従来陸軍大臣は,統帥事項については内閣総理大臣にも内緒で勅令案を持って行って天皇に上奏して綸言汗のごとき裁可を得て,自分一人がその勅令に副署してそうして施行できたのだから,今更公式令ができたからといって,(政党政治家である可能性もある)内閣総理大臣に「そんな勅令の話,おれは聞いてない。だから,統帥事項だか何だか知らぬがこの勅令には副署しない。」といやがらせをされ得るようになるのはいやだ,ということだったのでしょう。性格の悪い内閣総理大臣との悶着を避けるべく,軍令に関する件2条は,「軍令ニシテ公示ヲ要スルモノニハ上諭ヲ附シ親署ノ後御璽ヲ鈐シ主任ノ陸軍大臣海軍大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス」と規定していました。軍部の主観的意見としては,軍令の形式は部外者には一見あやしげに見えるといっても,統帥事項に係る勅令に関する従来の権限・慣行を維持せしめただけで,「ガン細胞」呼ばわりは心外だ,ということになるのでしょう。

 なお,軍令に対する陸軍大臣又は海軍大臣の副署は,「是は国務大臣としての副署ではなく,帷幄の機関として奉行の任に当たることを証明する行為たるに止まるものと見るべき」とされています(美濃部261頁)。「蓋し我が国法に於ける副署には2種の意義がある。即ち一は憲法第55条の大臣副署と,他は憲法以前より行ひ来りたる副署とである。・・・後者は単に執行当局者たることを表明するものである。宮内大臣の皇室令に副署し,賞勲局総裁の勲記に副署するが如きは専ら後者に属する。陸海軍大臣の軍令に副署するのも亦之と其の性質を同じくするもの」というわけです(山崎249250頁)。



(3)「一般行政」から統帥権の聖域へ

 しかし,1899年の段階では参謀本部条例はなお「一般行政ニ係ル」ものとして内閣総理大臣の副署をも受けていたのに対して(公文式3条),1908年になると,参謀本部条例は純粋な統帥事項に係るものであるとして,内閣総理大臣の副署を要さぬ軍令の形式が採用されるに至っています。この点においては,「一般行政」の領域から自らを引き離すことによって政治の統制から離れ,統帥権が「ガン細胞」化して「一般行政」を侵食することが可能になり始めたといえそうです。

 さらにいえば,「行政各部ノ官制其ノ他ノ官規ニ関スル重要ノ勅令」は枢密院に諮詢することになっていて(枢密院官制69号)厄介でしたが,参謀本部条例が軍令であるということになると,堂々と当然「枢密院ノ諮詢ヲ経ヘキモノニアラス」ということになりました(『統帥綱領・統帥参考』(偕行社・1962年)18頁)。

 いずれにせよ,公文式時代においても,軍部関係の勅令について「傾向としては年を経るにしたがい,軍部大臣だけの副署によるものが多くなったようである」そうです(戸部良一『日本の近代9 逆説の軍隊』(中央公論社・1998年)158頁)。



4 統帥権の独立の「効用」:福沢諭吉の『帝室論』等
 ところで一体,先の大戦以前における我が統帥権の独立の「効用」としては,何が考えられていたのでしょうか。最後は「ガン細胞」になったとはいえ,そもそもの初めには,もっともな目的のために働くべき正常細胞であったはずです。

 「統帥権の独立は,軍の政治介入を意図してつくられた制度ではない。むしろそれは,軍の政治的中立性を確保し,軍人の政治不関与を保証するものとさえ,期待されたのである。」とされています(戸部77頁)。

(1)政治の統帥関与の弊害防止
 政治家が統帥に関与し,あるいは統帥権を握った場合の弊害について,美濃部達吉は「軍人以外の政治家が兵馬の事に容喙することが軍の戦闘力を弱くする虞」がある旨軍事側から見た危惧に言及しているところですが(美濃部257頁),他方,1932年にまとめられた陸軍大学校の『統帥参考』においては,次のように述べられていました。




抑々統帥ノ独立ハ反面ヨリ観レハ政治ノ独立少クモ其保障ニシテ我国ニ於ケル往昔ノ武家政治又ハ現代労農露国ノ政治ノ如ク政府カ兵権ト政権トヲ把握行使スルトキハ政権ノ自然ナル移動授受カ行ハレサルノ虞アリ(『統帥綱領・統帥参考』
7頁)

 

 統帥権の独立は,政府に対抗する在野勢力をもその対象に含めた「政治ノ独立」のためのものだというのです。

先の大戦末期満洲国等に侵入して大暴れした恐ろしい「労農赤軍ノ如キハ彼等ノ意識ヲ以テスレハ元首ノ軍隊ニモアラス所謂国家ノ軍隊ニモアラス全ク共産党ノ軍隊」であったところ(『統帥綱領・統帥参考』1頁),共産党支配下のソ聯においては,「政権ノ自然ナル移動授受」は行われてはいませんでした。

 軍隊の政党化は,明治十四年の政変後,立憲政治の導入に向けた動きの中で,福沢諭吉も憂慮したところでした。




・・・然るに爰に恐る可きは政党の一方が兵力に依頼して兵士が之に左袒するの一事なり国会の政党に兵力を貸す時は其危害実に言ふ可らず仮令ひ全国人心の多数を得たる政党にても其議員が議に在る時に一小隊の兵を以て之を解散し又捕縛すること甚だ易し殊に我国の軍人は自から旧藩士族の流を汲て政治の思想を抱く者少なからざれば各政党の孰れかを見て自然に好悪親疎の情を生じ我は夫れに与せんなどと云ふ処へ其政党も亦これを利して暗に之を引くが如きあらば国会は人民の論場に非ずして軍人の戦場たる可きのみ斯の如きは則ち最初より国会を開かざる方,万々の利益と云ふ可し・・・(福沢諭吉『帝室論』(
1882年))



 1776年7月4日のアメリカ合衆国の独立宣言では,イギリス国王について,「彼は,平時において,我々の立法機関の同意なしに,我々の間において常備軍を保持した」ことが非難されています。そもそも軍隊は,外国と無名の戦争をすることが問題であるばかりではなく,それによって国内において市民の自由が抑圧されることが恐れられていたのでした。同年6月12日のヴァジニア権利章典の第13条は「人民団体によって組成され,武器の使用について訓練された紀律正しい民兵は,自由な邦にふさわしく,自然かつ安全な防衛者である。平時における常備軍は,自由にとって危険なものとして避けられるべきである。あらゆる場合において,軍隊は,市民の権力(the civil power)に厳格に服し,規制されるべきである。」と規定しています。これに対して,自由民主党の日本国憲法改正草案(2012427日決定)9条の2第1項では,「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため,・・・国防軍を保持する。」と,高らかに常備軍の設置がうたわれています。国王に反逆したアメリカ人らの常備軍に対する暗い猜疑の目と比べて,長い歴史にはぐくまれた日本人同士の厚い信頼をそこに見るべきでしょう。いわゆる「安保闘争」に係る1960年6月10日のハガチー事件後,「同事件の原因を「警察力の脆弱さ」に求める岸〔信介内閣総理大臣〕は,・・・〔赤城宗徳〕防衛庁長官にたいして,今度は「研究」ではなく,実際に「自衛隊出動」そのものを求め〔たが〕(結局,防衛庁内の「反対」を岸が受け入れて,これは実現しなかった)」といった激動の時代(原彬久『岸信介―権勢の政治家―』(岩波新書・1995年)220頁)は,遠い過去のことになりました。なお,ちなみに,「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため」に必要な最低限以上の戦力を保持することが憲法上の要請ということになると,財務省の主計官殿がうっかり国防予算に厳しい査定をすると,「国防権干犯!」といって怒られるようになるかもしれません。また,自由民主党の日本国憲法改正草案9条の2第1項の規定する国防軍の目的は,自衛隊法31項の文言を基礎に,そこに「国民の安全」の確保が加えられたもののようですが,ここにいう「国民」には,外国在留の我が同胞が含まれるのでしょうか(同草案25条の3参照)。「居留民保護其他我権益擁護ノ為必要已ムヲ得サル場合ニ於テハ断然目的ヲ達成スル為十分ナル兵力ヲ出動セシメ速ニ其目的ヲ達成」する必要があるとされていたところです(『統帥綱領・統帥参考』29頁)。

120106_042717
ヴァジニア植民地議会議事堂(Williamsburg, VA)
(ヴァジニア権利章典はジョージ・メイソンの起草に係ります。)

(2)天皇統帥の必要性及び功徳
 統帥権者が政治家ではなく,天皇でなければならない理由は,取り戻すべき日本のかたちとして,軍人勅諭(188214日)において明らかにされていました。いわく,「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある」,「夫兵馬の大権は朕か統ぶる所なれば其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を伝へ天子は文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降の如き失体なからむことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそ」と。
 さらに,実際的な理由としては,福沢諭吉が次のように述べています(『帝室論』)。

 まず,軍人に政治的中立を守らせること。




・・・今この軍人の心を収攬して其運動を制せんとするには必ずしも〔ママ〕帝室に依頼せざるを得ざるなり帝室は遥に政治社会の外に在り軍人は唯この帝室を目的にして運動するのみ,帝室は偏なく党なく政党の孰れを捨てず又孰れをも援けず軍人も亦これに関し,固より今の軍人なれば陸海軍卿の命に従て進退す可きは無論なれども卿は唯其形体を支配して其外面の進退を司るのみ内部の精神を制して其心を収攬するの引力は独り帝室の中心に在て存するものと知る可し・・・



 また,命を賭して戦う戦士の心を受けとめて支えることは,議会政治家の大臣ごときでは,器量不足です。




・・・仮令ひ其大臣が如何なる人物にても其人物は国会より出たるものにして国会は元と文を以て成るものなれば名を重んずるの軍人にして之に心服せざるや明なり唯帝室の尊厳と神聖なるものありて政府は和戦の二議を帝室に奏し其最上の一決御親裁に出るの実を見て軍人も始めて心を安んじ銘々の精神は恰も帝室の直轄にして帝室の為に進退し帝室の為に生死するものなりと覚悟を定めて始めて戦陣に向つて一命をも致す可きのみ帝室の徳至大至重と云ふ可し・・・



 さらに,いったん戦いがあり,それが終わった後に,なお殺気立った戦場帰りの大軍を平穏に日常生活に復帰させることは,議院内閣制政府の首班ごときでは到底無理な大事業であろうと考えられていました。(兵士らのみならず,栄光に包まれた凱旋将軍も危険でしょう。アメリカ独立戦争のときも,ジョージ3世の軍をヨークタウンで破ったジョージ・ワシントン将軍を立てて,王制を樹立しようという動きがあったようです。)




・・・〔
1877年の西南戦争の徴募巡査らは〕戦場には屈強の器械なれども事収るの後に至て此臨時の兵を解くの法は如何す可きや殺気凛然たる血気の勇士,今日より無用に属したれば各故郷に帰りて旧業に就けよと命ずるも必ず風波を起すことならんと我輩は其徴募の最中より後日の事を想像して窃に憂慮したりしが同年9月変乱も局を結で臨時兵は次第に東京に帰りたり我輩は尚当時に至る迄も不安心に思ひし程なるに兵士を集めて吹上の禁苑に召し簡単なる慰労の詔を以て幾万の兵士一言の不平を唱る者もなく唯殊恩の渥きを感佩して郷里に帰り曽て風波の痕を見ざりしは世界中に比類少なき美事と云ふ可し仮に国会の政府にて議員の中より政府の首相を推撰し其首相が如何なる英雄豪傑にても明治10年の如き時節に際してよく此臨時兵を解くの工夫ある可きや我輩断じて其力に及ばざるを信ずるなり

 

 福沢諭吉は不安心のため西南戦争中お腹が痛くなったことでしょうが,偉大な明治天皇の力をもって,無事に兵らは復員して行きました。同様のことが,先の大戦の終了時にも起こったわけです(194581415日夜の宮城を舞台としたクーデタ未遂事件等いろいろありましたが。)。

 自由民主党の日本国憲法改正草案は,天皇を日本国の元首としつつも(同1条),その第9条の2第1項及び第72条3項において,内閣総理大臣をもって国防軍の最高指揮官としています。福沢諭吉がその将来を懸念し,帝室への依頼をなお不可欠と考えていた明治の日本から,今の日本は随分変わり,進歩したわけです。「慶応ブランド」創始者の福沢諭吉も,時代遅れになりました。

現在の問題はむしろ,ゆるゆると続く不況に伴う心優しい閉塞状況の副作用なのか,貔貅たるべき我が国の男児から,真面目な獰猛さが失われてしまってはいないか,ということかもしれません。

(3)蛇足
 なお,憲法に統帥権者を書き込んでしまった場合,「聯合作戦ニ際シ外国軍司令官ヲシテ一時タリトモ帝国軍隊〔国防軍〕ヲ統帥指揮セシムルハ法律的ニ言ヘハ憲法違反ナリ」(『統帥綱領・統帥参考』12頁)というようなうるさいことにならないでしょうか。ちなみに,あるいは意外なことながら,先の大戦前の陸軍(少なくとも陸軍大学校の教官)は「政略上ノ目的ヲ以テ平時妄リニ海外ニ軍隊ヲ出動セシムルコトハ努メテ之ヲ避ケサルヘカラス」と考えていたようです(『統帥綱領・統帥参考』29頁)。「帝国軍ハ皇軍ニシテ皇道ヲ擁護シ皇威ヲ発揚スル為ニ設ケ置カルルモノナリ故ニ妄リニ政略的ニ兵ヲ動カスコトハ之ヲ慎マサルヘカラス」ということで(同),政治家のみだりな政略の道具にされたくはないということだったのでしょう。「而シテ国際関係ノ錯綜,世相ノ変化等ノ為海外出兵ニ依リ所望ノ政略目的ヲ達成スルノ如何ニ困難ナルカハ往年の西伯利出兵並最近ニ於ケル支那出兵ノ明証スル所ナリ」と(同書2930頁),少なくとも当時は懲りていたようです。シベリア出兵において,日米両国は同盟国の関係にあったはずですが,うまくいかなくなったようです。


120105_233530
ヨークタウン古戦場(Yorktown, VA)
(ヨークタウンに陣取ったコーンウォリス将軍のイギリス軍は優勢な米仏連合軍の攻撃を受けて,1781年10月19日,終に降伏。敗報に接したイギリスのノース首相は「神よ,すべては終わった!」と叫び,アメリカ独立戦争は実質的に終結しました。降伏式においてイギリス側は最初,連合軍の主力だったフランス軍のロシャンボー将軍にコーンウォリス将軍の剣を渡そうとしましたが,こっちじゃないよあっちだよとジョージ・ワシントン将軍を示されて,降伏の印の剣はアメリカ大陸軍が受け取りました。フランスの王さまルイ16世は,いい人でしたね。)

120106_004947
イギリス軍降伏の場所(Surrender Field, Yorktown, VA) 

 弁護士 齊藤雅俊
  大志わかば法律事務所
  東京都渋谷区代々木一丁目57番2号ドルミ代々木1203
  電話: 03-6868-3194 (法律問題について,何でも,お気軽にお問い合わせください。)
  電子メール: saitoh@taishi-wakaba.jp

1 統帥権及び「機密の中の“国家”」
 自由民主党の日本国憲法改正草案(2012年4月27日決定)を見ていると,第9条の2(国防軍)1項に「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため,内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。」との規定,第72条(内閣総理大臣の職務)3項に「内閣総理大臣は,最高指揮官として,国防軍を統括する。」との規定があります。勇ましいですね。
 大日本帝国憲法11条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」との規定に対応するものであるわけです。「内閣総理大臣ハ国防軍ヲ統帥ス」ということでしょうか。
 この「統帥」という言葉からの次の連想は,やはりというべきか,統帥権の問題性について論ずるところ多かった司馬遼太郎の,次の文章に飛びます(『この国のかたち』「6 機密の中の“国家”」)。


 かつて,一冊の古本を見つけた。
 『統帥綱領・統帥参考』という題の本である。復刊されたもので,昭和37年,偕行社(註・旧陸軍の正規将校を中心とした親睦団体)刊となっている。
 ・・・
 もとは2冊だったようである。『統帥綱領』のほうは昭和3年,『統帥参考』のほうは昭和7年,それぞれ参謀本部が本にしたもので,むろん公刊の本ではない。公刊されれば,当然,問題になったはずである。内緒の本という以上に,軍はこの本を最高機密に属するものとし,特定の将校にしか閲覧をゆるさなかった。
 ・・・
 『統帥参考』のなかに,憲法(註・明治憲法)に触れたくだりがある。おれたちは――という言葉づかいではむろんないが――じつは憲法外なのだ,と明快に自己規定しているのである。
 ・・・
 一握りの人間たちが,秘密を共有しあった以上は,秘密結社としか言いようがないが,こまったことには参謀本部は堂々たる官制による機関なのである。その機関が,憲法を私議し,私的に合意して自分たちの権能を“憲法外”としている以上は,帝国憲法による日本帝国のなかに,もう一つの国があったことになる(むろん日露戦争のころの参謀本部はそういう鬼胎ともいえるような性格のものではなかった)。
 そのことについては『統帥参考』の冒頭の「統帥権」という章に,以下のように書かれている。

 ・・・之ヲ以テ,統帥権ノ本質ハ力ニシテ,其作用ハ超法規的ナリ。(原文は句読点および濁点なし。以下,同じ)

 超法規とは,憲法以下のあらゆる法律とは無縁だ,ということなのである。
 ついで,一般の国務については憲法の規定によって国務大臣が最終責任を負う(当時の用語で輔弼する)のに対して,統帥権はそうじゃない,という。「輔弼ノ範囲外ニ独立ス」と断定しているのである。

 従テ統帥権ノ行使及其結果ニ関シテハ,議会ニ於テ責任ヲ負ハズ。議会ハ軍ノ統帥・指揮並之ガ結果ニ関シ,質問ヲ提起シ,弁明ヲ求メ,又ハ之ヲ批評シ,論難スルノ権利ヲ有セズ。・・・

 すさまじい断定というほかない・・・。
 国家が戦争を遂行する場合,作戦についていちいち軍が議会に相談する必要はない。このことはむしろ当然で,常識に属するが,しかし『統帥参考』のこの章にあっては,言いかえれば,平時・戦時をとわず,統帥権は三権(立法・行政・司法)から独立しつづけている存在だとしているのである。
 さらに言えば,国家をつぶそうがつぶすまいが,憲法下の国家に対して遠慮も何もする必要がない,といっているにひとしい。いわば,無法の宣言(この章では“超法規的”といっている)である。こうでもしなければ,天皇の知らないあいだに満洲事変をおこし,日中戦争を長びかせ,その間,ノモンハン事変をやり,さらに太平洋戦争をひきおこすということができるはずがない。

 ・・・然レドモ,参謀総長・海軍軍令部長等ハ,幕僚(註・天皇のスタッフ)ニシテ,憲法上ノ責任ヲ有スルモノニアラザルガ故ニ・・・

 天皇といえども憲法の規定内にあるのに,この明文においては天皇に無限性をあたえ,われわれは天皇のスタッフだから憲法上の責任なんかないんだとするのである。
 さらにこの明文にはおそるべき項目がある。戦時や“国家事変”の場合においては,兵権を行使する機関(統帥機関・参謀本部のこと)が国民を統治することができる,というのである。・・・統治権は天皇にある。しかしながらこの『統帥参考』の第2章「統帥ト政治」の章の「非常大権」の項においては,自分たちが統治する,という。

 ・・・兵権ヲ行使スル機関ハ,軍事上必要ナル限度ニ於テ,直接ニ国民ヲ統治スルコトヲ得・・・

 とあって,この文章でみるかぎり,天皇の統治権は停止されているかのようである。天皇の統治権は憲法に淵源するために――そしてその憲法が三権分立を規定しているために――超法機関である統帥機関は天皇の統治権そのものを壟断もしくは奪取する,とさえ解釈できるではないか(げんにかれらはそのようにした)。
 要するに,戦時には,日本の統治者は参謀本部になるのである。しかもこの章では「軍権ノ行使スル政務ニ関シテハ,議会ニ於テ責任ヲ負ハズ」とあくつよく念を押している。
 ・・・いまふりかえれば,昭和前期の歴史は,昭和7年に成立したこの“機密”どおりに展開したのである。
 ・・・
 美濃部達吉博士は・・・昭和10年,その学説(いわゆる天皇機関説)を攻撃され,内閣によってその著作『憲法撮要』(大正12年刊)などが発売禁止の処分をうける。
 ・・・
 統帥機関としては,法学界をおおっている美濃部学説を痛打することによって,自前の憲法観(というより非立憲化)への大行進を出発させなければならなかったにちがいない。
 ・・・
 ともかくも昭和10年以後の統帥機関によって,明治人が苦労してつくった近代国家は扼殺されたといっていい。このときに死んだといっていい。
 ・・・

 さて,たまたま手もとに1962年の偕行社版『統帥綱領・統帥参考』が存在します。「日本国を支配しようとしたことについて」の陸軍部内の「思想的合意の文書というべき機密文書」です(司馬遼太郎『この国のかたち』「81 別国」)。『統帥参考』等の実物に当たりつつ,司馬遼太郎の上記の議論を跡付けてみましょう。

2 統帥権の「超法規」性
 まず,「・・・之ヲ以テ,統帥権ノ本質ハ力ニシテ,其作用ハ超法規的ナリ。」の部分ですが,司馬遼太郎の引用では省
略されている前段後段部分をも含めた原文は,


政治ハ法ニ拠リ,統帥ハ意志ニ拠ル。一般国務上ノ大権作用ハ,一般ノ国民ヲ対象トシ,其生命,財産,自由ノ確保ヲ目的トシ,其行使ハ『法』ニ準拠スルヲ要スト雖,統帥権ハ,『陸海軍』ト云フ特定ノ国民ヲ対象トシ,最高唯一ノ意志ニ依リテ直接ニ人間ノ自由ヲ拘束シ,且,其最後ノモノタル生命ヲ要求スルノミナラズ,国家非常ノ場合ニ於テハ主権ヲ擁護確立スルモノナリ。
之ヲ以テ,統帥権ノ本質ハ力ニシテ,其ノ作用ハ超法的ナリ。即チ爾他ノ大権ト其本質ニ於テ大ニ趣ヲ異ニスルモノト言ハザルベカラズ。而モ軍隊ハ最高唯一ノ意志ニ基キテ教育訓練セラレ一糸紊レザル統一ト団結トヲ保持シ,一旦緩急アルニ際シテハ完全ナル自由ト秘密トヲ保持シテ神速機敏ノ行動ニ出デザルベカラザルガ故ニ,統帥権ノ輔翼及執行ノ機関ハ政治機関ヨリ分離シ,軍令ハ政令ヨリ独立セザルベカラズ。(『統帥綱領・統帥参考』3‐4頁)

 となっています(見出しは「統帥権独立ノ必要」)。司馬遼太郎は,「超法的」を「超法規的」と写し間違えていますね。「超法的」であればやや形而上学のもやがかかっているようですが,「超法規的」であるとより法学的に明晰な表現になるようです。
 『統帥参考』のいう「超法的」の意味は,三つの側面から見ることができるようです。
 第1には,実定法学的に考えれば,一般国務における「『法』ニ準拠スル」法治主義が,特別権力関係にある軍隊内では適用されないということでしょう。「特別の権力関係に於いては,権利者は単に特定の作為・不作為・給付を要求し得るだけではなく,一定の範囲に於いて包括的な権力を有し,其の権力の及ぶ限度に於いては不特定な作為・不作為を命令し及び時としてはこれを強制し得る権利を有する」ものとされていました(美濃部達吉『日本行政法 上』(有斐閣・1936年)132頁)。「現役兵及び戦時事変に際し又は勤務演習其の他のために召集中の兵」は,国家の単独の意思による公法上の勤務関係に服するものとされています(美濃部・同書135頁)。特別権力関係に基づき権力者のなす命令は,「公法的の行為であり,民事訴訟を以つて争ひ得ないことは勿論,法律は多くの場合に行政訴訟をも許して居らぬ」ところでした(美濃部・同書139頁)。
 また,同じ公法上の勤務関係に服するものであっても,「一般官吏の職務上の義務は勅令たる官吏服務紀律に依り定められて居るが,軍人の職務上の義務は主としては統帥権の発動としての命令に依つて定められ」ており,「軍人の勤務義務に関しては,官吏に於けるとは異なり,必ずしも勅令の定めに依るを要せず,所属上官の命ずる所が直ちに其の義務の内容を為す」ものとなっていました(美濃部達吉『日本行政法 下』(有斐閣・1940年)1361‐1362頁)。さらには,「一般の官吏に在りては,上官の命令が有効であるや否やに付いては官吏が自らこれを審査する責任が有」るのに対して,「軍人は上官の命令に対しては絶対の服従義務を負ひ,これに反抗することは,其の事の如何を問はず許されないのであるから,仮令上官の命令が其の内容に於いて犯罪に相当し,随つて其の命令は無効であると見るべき場合であつても,其の命令に従つて犯罪行為を為した者は,それに付いての責任を負はず,其の命令を為した上官に於いて,専ら其の責に任ずるものと解せねばならぬ。上官の命令に従つて殺人の幇助を為した陸軍軍人が,軍法会議に於いて無罪を判定せられた実例の有るのは此の理由に因るのである。」とされていました(美濃部・同書1364頁)。統帥権の発動として上官から軍人に下された命令には「違法により無効」ということがないのならば,確かにこれは一種の「超法的」なものではあります。そもそも大日本帝国憲法の臣民権利義務の章にある第32条は「本章ニ掲ケタル条規ハ陸海軍ノ法令又ハ紀律ニ牴触セサルモノニ限リ軍人ニ準行ス」と規定しており,帝国議会の協賛を要する法律(大日本帝国憲法5条,37条)によらなくとも,軍人に対する権利制限は可能であったところです。
 第2には,「統帥権ハ,・・・国家非常ノ場合ニ於テハ主権ヲ擁護確立スルモノ」であり,法のよって立つ基盤である主権自体を支えるものは兵権であって,その意味では統帥権は法に先立つのだ,ということのようです。「抑々主権ヲ確立スル為ノ第一次的要素ヲ為スモノハ兵権ニシテ,此主権ヲ擁護シ,法ヲ支持スル最後的ノモノモ亦兵権ナリトス」とされ(『統帥綱領・統帥参考』4頁),「元来国権乃至政権ガ兵権ニヨリ確立セラルルモノナルコトハ古今ノ歴史ノ明証スル所ニシテ,我源,平,北条,足利,織田,豊臣,徳川ノ武家政権,王政復古,仏国革命政権,露国ノ労農政権,支那ノ国民党政権等皆然ラザルナシ。之ヲ以テ国家非常ナル場合兵権ガ最後ノ断案ヲ下シ政権ヲ確立スルノ作用ハ,理論ヲ超越シタル事実上ノ必要ニ基クモノナリ」と述べられています(同書28‐29頁)。
 第3は,「統帥ハ意志ニ拠ル」として,統帥の意志性が強調されているということです。「人ハ各々其意志ノ自由ヲ有シテ自己ノ存在ヲ意識シ,其存在ヲ成ルベク永ク保持セントスル本能ヲ有ス。統帥ハ,即チ,意志ノ自由ヲ有スル人間ヲシテ,其本能的ニ保持セントスル生命ヲ抛チ,敵ノ意志ノ自由ヲ奪ヒ之ヲ圧伏センガ為ニ邁進セシムルモノナリ。之ヲ以テ統帥ニ関スル学理ハ,『意志ノ自由』ト『死』ニ関スル学理ナリト言フモ過言ニアラズ」(『統帥綱領・統帥参考』64‐65頁)との説明は,一種形而上学的であります。『統帥参考』を作成した陸軍大学校には,このような哲学的修辞が好きな軍人が教官として集まっていたのでしょうか。「戦争,会戦,戦闘等ハ総テ彼我自由意志ノ大激突ニシテ,戦勝トハ則チ意志ノ勝利ナリ。勝利ハ物質的破壊ニ依リテ得ラルルモノニアラズ,敵ノ勝利ヲ得ントスル意志ヲ撃砕スルコトニヨリ獲得セラルルモノトス。「ジョセフ・ド・メストル」ガ『敗レタル会戦トハ,敗者ガ敗レタルヲ自認シタル会戦ナリ。之,会戦ハ決シテ物質的ニ敗ルルモノニアラザレバナリ。』ト道破シタルハ至言ナリト言フベシ。/軍ノ意志ハ則チ将帥ノ意志ニ関シ,軍ノ勝敗ハ主トシテ将帥ノ意志如何ニ因ル」ものとされ(同書45頁),カエサル,ハンニバル,アレクサンドロス大王,フリードリッヒ大王等の人物が称揚されています(同書46頁)。過去の軍事的天才の意志に思いを馳せつつ,陸軍大学校教官氏は,筆を休めては英雄崇拝の少年時代を想起したものでしょう。意志と法との関係についてはなお,「国民参政,即チ議会制度ノ出現ハ,実ニ国民各種ノ意志・利害ノ平均点ヲ発見シテ『法』ヲ定メ,以テ政治運用ノ基調タラシメントスル目的ニ出ヅルモノナリ。従テ,政治ニ於テハ合議,妥協,中庸,平均等ハ重要ナル価値ヲ有シ,『法』ハ絶対ノ権威アリト雖,統帥ハ最高唯一ノ『意志』ヲ断乎トシテ強制シ,直ニ人間ノ生命ヲ要求スルモノニシテ,統帥ニハ『法』ナルモノナク,其緩急,政治ト同日ノ論ニアラズ」とされています(同書32頁)。そもそも「意志」に伴い「死」が出てくれば,「法」も引っ込むのでしょう。また,「蓋シ一般政治ノ実施ハ『法』ニ拠ルモノナルヲ以テ,国務大臣ハ只管『法』ニ準拠・・・スレハ可ナリト雖,作戦行動ニハ『法』ナルモノナク到ル処ニ臨機ノ独断ヲ必要トシ,情況ニ適スル略ト術トヲ機ニ投ジ応用スルモノ」であるともされています(同書9頁)。
 以上,『統帥参考』は,「法」的の性質と「超法」的の性質とを対立させることにより,「統帥権ノ輔翼及執行ノ機関ハ政治機関ヨリ分離シ,軍令ハ政令ヨリ独立」すべきことを,大日本帝国憲法制定前からの慣行論(下記3(1)において見ます。)からのみならず,本質論からも基礎付けることを,当該記述の直接の目的としていたのではないでしょうか。この場合,統帥権があえて「憲法以下のあらゆる法律とは無縁」である必要まではないことになるようですが,どうでしょう。

3 統帥権と議会との関係
 統帥権は「輔弼ノ範囲外ニ独立ス」と「すさまじい断定」をしている部分は,『統帥参考』の原文では次のとおりです。


陸海軍ニ対スル統治ハ,即チ統帥ニシテ,一般国務上ノ大権ガ国務大臣ノ輔弼スル所ナルニ反シ,統帥権ハ其輔弼ノ範囲外ニ独立ス。従テ統帥権ノ行使及其結果ニ関シテハ,議会ニ於テ責任ヲ負ハズ。議会ハ軍ノ統帥・指揮並之ガ結果ニ関シ,質問ヲ提起シ,弁明ヲ求メ,又ハ之ヲ批評シ,論難スルノ権利ヲ有セズ。(『統帥綱領・統帥参考』7頁)

(1)統帥権独立の根拠論
 統帥権の国務大臣輔弼の範囲からの独立の効果として,議会おいて責任を負わなくてよいことになるとされているわけですが,その前に,統帥権が国務大臣の輔弼の範囲外に現に独立していると「断定」するについて『統帥参考』が挙げている理由を見ると,次のとおりです。
 
・・・我帝国ニ於テハ立憲政治ノ反面ノ弊竇ヲ認メ,其害ヲ局限スルガ為,統帥,祭祀,栄典授与等ニ関スル大権ノ行使ハ,国務大臣輔弼ノ範囲外ニ置キタリ。之帝国憲法ノ精神ナリト雖,統帥権ノ独立ハ,憲法ノ成文上ニ於テ明白ナラザルガ故ニ屡々問題ト為レリ。然レドモ,憲法制定ノ前後ヲ通ズル慣行ト事実並憲法以外ノ附属法ハ叙上ノ憲法ノ精神ヲ明徴シ,統帥権独立ノ法的根拠ハ実ニ茲ニ存ス。憲法義解ニモ『兵馬ノ統一ハ至尊ノ大権ニシテ専ラ帷幄ノ大令ニ属ス』ト述ベ,事実ニ於テ参謀本部,軍事参議院等ノ軍令機関ハ既ニ憲法制定以前ニ於テ政治機関ト相対立シテ存在シ,憲法ハ其第76条(法律,規則,命令又ハ何等ノ名称ヲ用ヒタルニ拘ラス此憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ総テ遵由ノ効力ヲ有ス)ニ於テ之ヲ承認シタルモノナリ。(『統帥綱領・統帥参考』8頁)

 「統帥権独立ノ法的根拠」として,「憲法制定ノ前後ヲ通ズル慣行ト事実並憲法以外ノ附属法」が挙げられているわけです。さらには,これらに加えて,「一般政治ノ実施」については「議会ハ『法』ノ実行ヲ監視スレバ可ナリ」ではあるが,「作戦行動ニハ『法』ナルモノナク」,したがって,法に準拠すべき国務大臣が統帥について議会に対してどう責任を負担し得るのか疑問であるとの実質論,憲法学者の大多数が統帥権独立制を擁護又は承認しているとの学説の大勢及び1925年2月20日の貴族院における「政府ハ憲法第11条ノ統帥権ハ憲法第55条ニ於ケル各大臣輔弼ノ範囲ヨリ除外セラルルモノト考フ」との政府委員答弁が挙げられています(同書9頁)。
 「すさまじい断定」ではあっても,「秘密結社」における得手勝手な独断とまでは必ずしもいえないようです。 
 なお,統帥に関する「立憲政治ノ反面ノ弊竇(へいとう)」としては,第一次大戦中のフランスにおいて「軍ノ統帥ガ政治機関ノ干与,議会ノ干渉ニ因リテ禍セラルルノ極メテ危険ナルヲ立証シ,1917年春仏国ニ於テハ有名ナル「ニヴェル」,「パンルウェー」事件ヲ惹起シ軍隊ノ一部ハ叛乱ヲ起シ,人ヲシテ仏軍ノ瓦解近キニアラザルヤヲ思ハシメタコト」及び英国に係る1915年ダーダネルス作戦の「大失敗」等の第一次大戦初期における不振が挙げられ,結論的に「政府ハ事実上議会ノ監督下ニ在ルノミナラズ,其政策ハ内閣ノ更迭ト共ニ変動ス。而モ立憲政治ノ発達ハ政党内閣ノ出現ヲ常態タラシムルト共ニ,其党争ハ愈々激甚ヲ加ヘツツアルハ事実ナリ。国軍ノ統帥ガ此ノ如キ政治機関乃至議会等ノ干与ニ依リテ行ハルルモノトセバ,其危険窮リナキモノト言フベシ」と述べられています(同書5‐6頁)。

(2)議会における責任追及の限界
 国務大臣の輔弼の範囲外にあると議会において責任を負わなくなるということについては,大日本帝国憲法54条(「国務大臣及政府委員ハ何時タリトモ各議院ニ出席シ及発言スルコトヲ得」)及び55条1項(「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」)が関係します。
 大日本帝国憲法55条1項については,そこにおける「国務大臣に特別なる責任は,専ら其の議会に対する責任に在る」ものとされています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)544頁)。「議会は国民に代つて政府を監視する機関であつて,議会が国務大臣の職務行為に付いて之を論難し得ることは当然であり,憲法第54条にも国務大臣が議会と交渉する職権あることを規定して居るのは,議会が国務大臣の行為を是非し,批評し得る権能あることを暗示して居るもの」であるわけです(美濃部・同書545頁)。議会が国務大臣の責任を質す方法としては,質問権,不信任決議の権及び弾劾的上奏権が挙げられています(美濃部・同書545‐547頁)。ただし,「国務大臣が憲法上に責任を負担するのは,唯その国務大臣としての職務の範囲に限ることは言ふまでもな」く,「就中,天皇の大権に付き国務大臣が輔弼の責任を負ふのは,唯法律上に輔弼すべき職務を有する範囲に限る」のであって,「随つて現在の制度に於いては,陸海軍統帥の大権,栄典授与の大権,祭祀に関する大権,国務に関係なき皇室の大権に付いては,国務大臣の責任に属するものではない」ものとされていました(美濃部・同書543‐544頁)。すなわち,統帥事項について議員が議会で国務大臣を攻撃しようにも,そもそも国務大臣の責任の範囲外ということで,肩透かしということになります。
 そこで,議会政治家としては,統帥部の軍人を議会に呼び付けて,「質問ヲ提起シ,弁明ヲ求メ,又ハ之ヲ批評シ,論難」したいのですが,なかなかそうはいきません。大日本帝国54条がそこに立ちはだかっており,「議会が政府と交渉し得るのは,専ら国務大臣及び国務大臣の代理者としての政府委員を通じてのみであつて,その他の機関に対しては,文書を以て天皇に上奏し得ることの外には,直接には全く交渉の権能を有たないもの」とされていました(美濃部『逐条憲法精義』502頁)。同条の趣旨に基づくとされる議院法75条は,「各議院ハ国務大臣及政府委員ノ外他ノ官庁及地方議会ニ向テ照会往復スルコトヲ得ス」と明言していたところです。さらには,同法73条は「各議院ハ審査ノ為ニ人民ヲ召喚シ及議員ヲ派出スルコトヲ得ス」と規定していました(ただし,美濃部によれば,同条の規定は大日本帝国憲法の要求するところではないものです(美濃部・同書490頁)。)。大日本帝国憲法下においては,天皇を輔弼するからといってすべての者が議会に対して責めに任ずるわけではなく,内大臣,枢密顧問,元老等に対して,「議会は此等の者に対して其の責任を問ふべき何等の行為をも為し得ない」ものとされていたのでした(美濃部・同書547‐548頁)。また,「厳格なる三権分立を基礎とするアメリカ主義の憲法に於いては,議会と政府とを全く没交渉の地位に置いて居る」との例もあったところです(美濃部・同書502頁)。
 ちなみに,議会が軍事に口を出すことを軍人が恐れるのももっともかなとあるいは思わせる事例が,第一次大戦中のフランスでありました。


1918年3月,独逸軍ハ仏国「ビカルヂー」地方ニ於ケル聯合軍ノ戦線ヲ突破シ「アミアン」附近ニ迫レル時,議会ハ責任将軍ノ処刑ヲ要求スルヤ,首相「クレマンソー」ハ答ヘテ曰ク。『国軍ニ対スル信用ハ,之ガ為毫モ変化ナシ。然ルニ吾人狼狽シ,或ハ最善ナリシヤモ知レザル指揮官ニ迄早々手ヲ触レ,以テ軍中ニ不安ノ念ヲ投ズルガ如キハ罪悪ニシテ,予ハ断ジテ此罪悪ヲ犯スモノニアラズ云々』ト。(『統帥綱領・統帥参考』23頁) 

 単なる更迭ではなく,処刑の要求です。
 人材豊富な大日本帝国の政界といえども,クレマンソーのような大政治家が常にいて議会を抑えて守ってくれるものとは,陸軍大学校の教官らは安んじて信頼できなかったものでしょう。(ちなみに,「ビカルヂー」とは,Picardieのことですよね。)

4 「憲法上ノ責任」をめぐる政治機関と統帥機関との相違
 「・・・然レドモ,参謀総長・海軍軍令部長等ハ,幕僚(註・天皇のスタッフ)ニシテ,憲法上ノ責任ヲ有スルモノニアラザルガ故ニ・・・」の『統帥参考』における原文は,統帥権の独立を保障するものとしての「武官ノ地位ノ独立」及び「其職務執行ノ独立」の必要性並びに政治機関と統帥機関との対立平等性を説く場面に登場しており,詳しくは次のとおりです。


国務大臣ハ憲法上ノ輔弼ノ責ニ任ズル者ナルヲ以テ,主権者ガ大臣ノ意見ニ反シテ決裁セラレタルトキハ,憲法上ノ責任ヲ採リテ辞職セザルベカラズ。然レドモ,参謀総長,海軍軍令部長等ハ幕僚ニシテ憲法上ノ責任ヲ有スルモノニアラザルガ故ニ,其進退ハ国務大臣ト大ニ趣ヲ異ニス。之『法』ニ拠ル政治ト『意志』ニ拠ル統帥トノ本質的差異ヨリ生ズル自然ノ帰結タラズンバアラズ。(『統帥綱領・統帥参考』11頁)

 「われわれは天皇のスタッフだから憲法上の責任なんかないんだ」ということは,無責任宣言ということでしょうか。確かに,国務大臣が有する「憲法上ノ輔弼ノ責」と同一の「憲法上ノ責任」は,参謀総長や軍令部総長は国務大臣ではないですから,有してはいなかったところです。しかし,ここでは天皇が奏上を嘉納しなかった場合の進退が問題になっているわけですが,「其進退ハ国務大臣ト大ニ趣ヲ異ニス」というのですから,国務大臣は辞職しても(「若し国務大臣が自己の責任上国家の為に是非或る行為を為すことが必要であると信じてその御裁可を奏請し,而もそれが嘉納せられなかつたとすれば,国務大臣は当然辞職せねばならぬ」(美濃部『逐条憲法精義』513頁)。),参謀総長・軍令部総長等は辞職せずに留まり,大元帥の命令に従うのだ,ということが本来の文意であるのだと解することも可能であるように思われます(国務大臣であれば,「・・・必ずしも君命に服従することを要するものではない。・・・君命と雖も若しそれが憲法法律に違反し若くは国家の為に不利益であると信ずるならば,国務大臣は之に従ふことを得ない」ところでした(美濃部・同書513頁)。)。あるいは,政治機関の進退と統帥機関の進退との相互独立性が言いたかったのではないでしょうか。上記部分に続けて『統帥参考』は,「参謀総長,海軍軍令部長等ノ地位ガ内閣又ハ陸,海軍大臣ノ意志ニ依リテ左右セラレザルコトモ亦統帥ノ独立ヲ保障スル為ニ極メテ必要」であると述べています(『統帥綱領・統帥参考』11頁)。
 事変下南京陥落後1938年1月15日の大本営と政府との連絡会議における出来事が,興味深い素材を提供します。第1次近衛内閣(外務大臣・広田弘毅,海軍大臣・米内光政)側はトラウトマン工作による中華民国国民政府との和平交渉を打ち切る方針であったのに対して,参謀本部(多田駿次長)は和平交渉継続を主張して反対したところ,これに対して政府側は内閣総辞職の威嚇をもって参謀本部に圧力をかけ,参謀本部は政変回避のため屈服したという出来事です(内閣が和平交渉を打ち切っての事変継続を主張し,参謀本部がそれに反対していたのですから,通常のステレオタイプの見方からすると,倒錯した事態であったわけです。)。辞職の可能性に裏付けられた「憲法上ノ責任」が「統帥権」の反対にかかわらず貫徹したような具合です。参謀本部側は辞職ということは言い出さなかったようです(多田次長は,「天皇に辞職なし」であるのに総辞職を云々する内閣は無責任だとなじったとも伝えられていますから,自らの辞職をちらつかせて開き直ることはできなかったでしょう。)。辞職できるということは,実は強みでもあります(「国務大臣の進言に対し,一応の注意を加へたまふことはあつても,裁可を拒ませらるゝことは,内閣瓦解の原因ともなるべき容易ならぬ事態を生ずる」のでしたから(美濃部『逐条憲法精義』513頁),天皇も政府に対して拒否権を発動できなかったわけです。)。(ちなみに,トラウトマン工作による和平交渉を打ち切る旨の上奏が嘉納されなかった場合には,近衛内閣はあるいは総辞職したのでしょうが,参謀本部が近衛内閣と進退を共にすることは当然なかったわけでしょう。)なお,統帥部の人事が内閣によって左右されていたのならば,大激論になる前に,多田次長を更迭すればよいだけだったはずであり,そもそもそれ以前に,楽観的かつ勇ましい政権側の軍人をもって統帥部が固められていたはずでしょう。
 いずれにせよ,1938年1月15日のこの場面では,「日中戦争を長びかせ」たのは参謀本部ではないですね。なお,『統帥参考』の認識では,「開戦,和戦,戦争ノ目的,同盟,聯合其他戦時外交ノ方針等ハ事重大ナルヲ以テ,事実上統帥部ト政府トノ意見ノ一致ヲ見ザレバ決定シ得ベキモノニアラズ」であって,これらの事項については政府から最高統帥部に協議するのが至当,ということではありました(『統帥綱領・統帥参考』24頁)。

5 大日本帝国憲法31条の非常大権の解釈論
 「・・・兵権ヲ行使スル機関ハ,軍事上必要ナル限度ニ於テ,直接ニ国民ヲ統治スルコトヲ得・・・」の部分について,司馬遼太郎が省略したところをも含めた『統帥参考』の原文は,次のとおりです。


兵・政ハ原則トシテ相分離スト雖,戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テハ,兵権ヲ行使スル機関ハ,軍事上必要ナル限度ニ於テ,直接ニ国民ヲ統治スルコトヲ得ルハ憲法第31条ノ認ムル所ナリ。而シテ此軍権ノ行使スル政務ニ関シテハ議会ニ於テ責任ヲ負ハズ。(『統帥綱領・統帥参考』28頁)

 一応しおらしく,大日本帝国憲法31条に拠った立言になっています。臣民権利義務の章にある同条は,「本章ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」と規定していました。同条は「天皇大権ノ施行」といっていますから,『統帥参考』の上記部分も天皇を全くないがしろにするものではないでしょう。
 「戦時又ハ国家事変ノ場合」に「軍事上必要ナル限度ニ於テ,直接ニ国民ヲ統治」する「兵権ヲ行使スル機関」について『統帥参考』は,「戦時大本営ハ,所謂非常大権ノ発動ニ依リ,軍事上必要ナル限度ニ於テ直接国民ヲ拘束スル命令ヲ発スルコトヲ得ベク,又戒厳ノ宣告セラレタル場合ニ於テハ,国家統治作用ノ一部ハ軍権ノ権力ニ移サレ,行政及司法権ノ全部又ハ一部ハ軍権ノ掌ル所トナル。軍事占領地ノ統治亦然リ。」と説明しており(『統帥綱領・統帥参考』28頁),直接「参謀本部」に言及してはいません。大本営については更に,「大本営ハ,国軍直接統帥ノ外,国軍ノ動員,新設,補充・補給ヲ規画シ,且,国内警備ヲ統轄シ,戒厳ノ布告ナキ場合ニ於テモ,要スレバ憲法第31条非常大権ノ発動ニ基キ,軍事行動ニ直接必要ナル限度ニ於テ,直接一般国民ヲ拘束スベキ命令ヲ発スルコトヲ得ルモノナリ(美濃部博士著『憲法提要』参照)。」と述べられていました(『統帥綱領・統帥参考』34頁)。
 おや,と思わせるのは,美濃部達吉の『憲法提要』が,『統帥参考』において典拠として引用されていた事実です。統帥機関としては,1932年の段階においては,「法学界をおおっている美濃部学説を痛打」するどころか,進んでその権威に依拠しようとしていたもののごとくです。昭和10年の天皇機関説事件のわずか3年前のことでありました。
 『憲法提要』は手もとにないのですが,大日本帝国憲法31条に関する美濃部達吉の所説は,次のとおり。


 要するに,本条の規定は戦争又は内乱に際し軍隊を動かす場合には,軍隊の活動の為に必要なる限度に於いて,大元帥としての天皇の命令に依り又は天皇の委任に基く軍司令官の命令に依り,法律に依らずして人民の自由及び財産を侵害し得べきことを定めて居るものである。平時に於いては,軍隊の権力は唯軍隊の内部に行はれ得るに止まり,軍隊以外の一般の人民に及び得るものではないが,戦時又は国家事変に際しては,軍隊が軍事行動の必要の限度において一般人民を支配する権力を得るのであつて,約言すれば本条は軍隊統治の制を認めたものに外ならぬのである。
 軍隊の権力に依つて人民を支配し得る最も著しい場合は,戒厳の宣告せられた場合である。・・・併しながら若し本条の規定を以て戒厳の場合のみを意味するものと解するならば,本条は第14条と全然相重複し無意味の規定とならねばならぬ。随つて本条の規定の結果としては,戒厳の宣告せられた場合の外に,尚大本営の命令に依つても一般人民に対し軍事上必要なる命令を為し得るものと解せねばならぬ。又兵力を以て敵地を占領した場合には,軍隊にその地域の統治を委任し得ることは当然で,即ち此の場合にも本条に依る軍隊統治が行はれるのである。(美濃部『逐条憲法精義』417‐418頁)

 非常の事変に際し,普通の警察隊の力を以つては治安を保つことが困難である場合には,特に軍隊の力を以つて治安維持の任に当ることが有る。これを非常警察と称する。それは実質上から見て警察と称し得るのであるが,行政権の作用ではなく,軍隊の権能に依つて行はるるもので,其の権能の源は統帥大権に在り,形式的の意義に於いては行政作用には属しない。唯其の実質に於いては,等しく社会公共の秩序を維持するが為めにする命令強制の権力作用であり,此の意義に於いて警察作用たるのである。非常事変に際して行はれるのであるから,憲法第31条の適用を受くるもので,一般法律の拘束を受けず,治安を維持するに必要なる限度に於いては,法律に依らずして人民の自由を拘束し得るのである。(美濃部『日本行政法 下』56頁)

 「軍事機密」である『統帥参考』も,作成の現場においては,いろいろなソースから「コピペ」して,それらを「おれたちは」的言葉づかいでまとめて出来上がったものなのでしょう。
 日本の秀才のすることは,古今余り変わらないものです。

(補足)なお, 国は違いますが, 非常大権の発動例として有名なものに1863年1月1日付けの米国リンカン大統領の奴隷解放宣言があります。当時は, アメリカ合衆国憲法を改正しても全国一斉に奴隷を解放することはできない(憲法改正権の範囲外)と考えられていたのに対して, 「大統領のwar power(戦時権限)に基づいた・いわば戦争遂行の一手段としてのもの」として, 「連邦に対して叛乱状態にある地域の奴隷を解放するという内容」の奴隷解放宣言が出されたものです。(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)277頁)

6 統帥権の範囲に係る美濃部説と『統帥参考』との相違
 『統帥参考』は,必ずしも美濃部達吉の学説に全面的に背馳するものではなく,むしろ美濃部説を援用して所説を正当化するところもありました。しかし,「統帥権の正当なる範囲」を①指揮権,②内部的編制権,③教育権及び④紀律権の4種の作用に限るものとしている美濃部説(美濃部『逐条憲法精義』259頁)に対して,『統帥参考』の見解には,大きな相違が3点あります。
 第1に,指揮権において,美濃部は「軍隊の出動を命ずることは政務の作用に属する」(美濃部『逐条憲法精義』書259頁)としていますが,『統帥参考』では「軍隊ヲ動員シ,軍隊ニ出動ヲ命ジ」ることは統帥権の範囲に属するものとしています(『統帥綱領・統帥参考』15頁)。「外国ニ於テハ軍隊ニ出動ヲ命ズルノ権利ハ多ク議会ノ掌握スル所」であるが,「統帥上ニ於ケル 天皇ト大統領トノ地位ノ異ナル主要点ハ実ニ茲ニ存ス」るものとされています(同書16頁)。「我帝国ノ軍隊ハ,国家ノ軍隊タルノミナラズ皇軍ニシテ,外国ノ軍隊ト全然異ナル」のは(同書1頁),こういった点に現れるということでしょうか。ただし一応,「動員及軍隊ノ出動派遣ハ統帥ノ第一歩ニシテ,統帥部之ヲ計画スルモ,其目的,必要ニ応ジ範囲等ヲ決定スル為ニハ,政府ト協議スルヲ至当トス。」として(同書27頁),政府と「協議スルヲ至当」とするものとはされています。しかし,至当に至らなくとも妥当ではあるという場合もあるものと解されそうではあります。
 第2に,武官人事について,美濃部は大日本帝国憲法10条(「天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル」)による政務上の大権に属するものとし,「勅任官及地方長官ノ任命及進退」は閣議を経るべきものとする内閣官制5条1項7号を引いて「少くとも陸海軍将官の任免に付いては閣議を経ることを要する」としているのに対して(美濃部『逐条憲法精義』259頁),『統帥参考』は大日本帝国憲法11条は同10条ただし書の特例に当たるのだとして「勅任官ノ人事ハ閣議ヲ経ルヲ要スル規定ナルモ,陸軍武官ノ進級ハ奏任,勅任,親任共ニ陸軍進級令ニ依リ帷幄上奏ニ属」するものとしています(『統帥綱領・統帥参考』16頁)。人事を仲間内で決めたがるのは,官僚集団(のうちムラの人事権を握る主流派)の秩序本能ですね。官僚機構内において,人生の意義をかけて展開される暗闘あるいは公然たる派閥抗争は,結局人事権をめぐる争いでしょう。サラリーマンの仕事は,人事権者の方を見ながらされるものです。
 第3は,「等」の有無です。美濃部説では統帥権の範囲に属する事項は限定列挙ですが,『統帥参考』では「原則トシテ,国軍ヲ対象トシ之ニ対スル総ユル命令権ハ,即チ統帥権ニ属スルモノトス」とした上で,「軍隊ヲ動員シ,軍隊ニ出動ヲ命ジ,之ヲ指揮運用シ,又ハ其内部ノ編制ヲ定メ,或ハ之ヲ教育訓練シ,若ハ其軍紀ヲ維持スル等ノ権限ハ,総テ統帥権ノ範囲ニ属スルモノナリ。」とされています(『統帥綱領・統帥参考』15頁)。後段部分は美濃部説の4項目は当然統帥権の範囲に入るものであるということを確認確保するだけの記載ですね。しっかりと「等」がありますから,統帥権の範囲の大枠は,結局前段にいう原則の解釈によって決まるということになります。
 なお,「超法的」な統帥権も現実には,先立つものがなければどうしようもないのが泣き所でした。「国の歳出は予算に依つて議会の議を経ることを要し,予算外の支出も亦議会の事後承諾を要するものであるから,軍の行動殊に国防計画に関しても,その経費の支出を要する限度に於いては,帷幄の大権に依つては決することの出来ないもので,必ず内閣の輔弼に待たねばならぬ」ものとされ(美濃部『逐条憲法精義』258頁),この点は『統帥参考』も,「兵力ノ増加モ亦統帥部之ヲ計画スルモ,政府ノ同意ヲ得ルニアラザレバ之ヲ実行スルヲ得ズ。」と認めていました(『統帥綱領・統帥参考』27頁)。

1 つかみ:2000年5月参議院憲法調査会の二人の参考人

 日本国憲法の「内閣」の章に係るGHQ草案(の更に原案)の作成に携わったミルトン・J・エスマン教授(19462月当時米国陸軍中尉)が健康上の理由で欠席した200052日の第147回国会参議院第7回憲法調査会(村上正邦会長)には,当時のGHQ民政局(Government Section)の関係者たる参考人として,ベアテ・シロタという女性とリチャード・A・プール(Richard A. Poole)氏(19462月当時米国海軍少尉)とが出席していました。

 シロタ女史はここでは取り上げることとはしないとして,今回は,プール氏について若干御紹介したいと思います。同氏は,19462月のGHQの憲法草案作成作業において,ジョージ・A・ネルソン(George A. Nelson)氏(当時米国陸軍中尉)と共に天皇,条約及び授権委員会(Emperor, Treaties and Enabling Committee)の担当者だった人物です。


2 リチャード・A・プール

 プール氏は2006226日に死去していますが,墓所のあるアーリントン墓地のウェッブサイトにある記事によると,同氏は,アメリカ合衆国国務省の職業外交官だったそうです(官僚外交官が大使になる日本とは異なり,大使が政治任用職である米国ですから,大使までは務めなかったようです。日本の外務省職員の方が米国国務省の職業外交官よりも優秀なわけですね。)。日本進駐前の経歴を見ると,ハヴァフォード大学(Harvorford College.ちなみに,1903年から1904年まで有島武郎が留学した場所のようです。)の卒業で,19414月から194211月までモントリオールで,19433月から194411月まではバルセロナでそれぞれ副領事を務め,同月,国務省の職員に対する兵役就任の制限の緩和に伴い,海軍入りしています。志願ですね。「人の嫌がる軍隊に志願で出てくる○○もある」という健全な常識が庶民に共有されている我が文化国家日本とは異なり,おどろな黒船を駆って世界に横行し,「東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムト」し「剰ヘ与国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ与ヘ遂ニ経済断交ヲ敢テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加」え,我が帝国の「隠忍久シキニ弥リタルモ・・・毫モ交譲ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス」るようなことまでした好戦国家アメリカはまた非文化国家であって,我が国であれば○○がするようなことをする青年も多かった,ということなのでしょう。

 ところで,我が国の戦後法制改革に関与したアルフレッド・オプラー博士に関する論文等のある長尾龍一教授の「学者支配としての占領改革」という文章(1987年。同教授の「OURANOS」ウェッブサイトに掲載)に,「〔同教授が当該文章でものした〕スケッチからも分かるように,民政局は軍人の集団であるよりも,学者や知識人の集団だったのである。」という,おやと思わせる記述があります。しかしながら,当該「学者や知識人」の「スケッチ」においては,プール氏は取り上げられていません。他方,同教授の当該文章にはまた,「敗戦後のGHQの支配は,頭の杜撰な軍人の支配で,教育程度の低い単細胞人間たちに,卑屈な日本人たちがいいように引き回されたというイメージ」が少なからぬ人々に抱かれているとの記述もあります。「火のない所には煙は立たない」ということは日常よくある話ですし,多数の意見はそれとして尊重すべきことは,大人がその知恵としているところです。やはり,頭が「杜撰」な「教育程度の低い単細胞人間」こそがGHQのアメリカ人の原則型だったのでしょうか。

 長尾教授の「スケッチ」で「学者や知識人」の一員として特に言及されていない以上,「少なくない」人々の「イメージ」に無難に従って,プール氏も,頭が「杜撰」な「教育程度の低い単細胞人間」たちの一人であって,日本に関してはもちろん全く無知であったものと判断すべきでしょうか。となると,プール氏がその一員であった職業外交官など,学者でないことはもちろん,知識人の仲間には入らないものであって,いわんや外交官上がり風情が,一国の憲法の改正等に関する責任ある仕事をするなどとんでもない,という主張までが演繹されてくることになるようです。しかしこれは,現状にかんがみ,少々剣呑に過ぎる暴論でしょう。

 いずれにせよ,憶測及び偏見に基づく議論は不毛です。まず,147回国会参議院第7回憲法調査会におけるプール氏の自己紹介を聞いてみましょう。



 まず,私は横浜生まれでございまして,誕生日は1919年の429日です。もうかなり年をとってしまったんですけれども
陳述時81。たまたま私の誕生日は実は昭和天皇と同じ日ということでございまして,これは単なる偶然なんですけれども,その後になりまして複雑なことになりました。日本では五世に当たります,私の兄弟も含めまして私の代で。私の曽曽祖父の一人は,1854年にペリー提督が締結した条約のもとで日本に初めて派遣された二人の米国領事の一人でございまして,以来,私の家族の各世代はそれぞれ,私の世代も含めてずっと日本に滞在した経験を持っているという家系です。私の先祖のうちの4名は,実は日本のお墓に眠っております。

 横浜に住んでおりまして,1923年の関東大震災が起こりまして,幸いにも命は助かりました,その他はすべて失ってしまったんですけれども。その後神戸で2年過ごしまして,予想に反して私の父は,当時勤めていた会社の命令でニューヨークの事務所の長になるということで転勤を余儀なくされましたので,1945年に私が日本に戻ってくるまで私の家族は日本を離れていたわけです。

 ・・・

 ・・・国際法,商法ですとか憲法ですとか海洋法ですとか,国際関係,歴史等々の学問を修めておりました。そして,常に私は日本に対して関心を生涯を通じて持ち続けておりました・・・


 さて,どうしたものでしょう。アメリカ合衆国政府の人事は,なかなかどうして,横着ではありませんね。

 大日本帝国占領という大きな仕事をするに当たっての,意思的な方向性がそこにあるようです。プール青年をもって,遠い先祖の代から日本に縁もゆかりもなく,日本のこと,さらにはその政治外交の組織について全く何も知らない無知な一水兵であるとはとてもいえないでしょう。外交官たらんとして学問を積むリチャード少年の脳裏には,上記陳述にあるとおり,当然日本との関係が常に強い実感を伴う現実的課題としてあったものでしょう。日本統治の仕事の人事は,漫然たる在外勤務人事のローテーションの外にあるべきものとして構想されていたように思われます。日本の制度,伝統及び文化に敬意を払いつつ,きちんと仕事をすることが期待されていたのでしょう。((An aside) U.S. President George W. Bush once compared the then-coming American occupation of Iraq to the Japanese occupation. He was prescient, though not perfectly precise. In reality, the Iraqi occupation seems to have turned out to resemble more the Japanese occupation in China than the Japanese occupation by the U.S.)


3 プール少尉とGHQ憲法草案の天皇条項

 確かに,プール少尉は,新たな日本の天皇の在り方をGHQの憲法草案にまとめる過程において,宮中における天皇の側近の確保についてまで丁寧に配慮した,次のような条項を提案しています。



Article VI.  The Emperor shall be served by two Privy Ministers, appointed by him with the advice and consent of the Cabinet: A Lord Keeper of the Privy Seal, who shall assinst him in the discharge of his official duties, and a Lord Chamberlain, who shall assist him in the management of his household and expenditures of The Throne.

     The Imperial Household shall be managed in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.

     Appropriations for the expenditures of the Throne shall be included in the annual national budget.

(第6条 天皇は,内閣の助言と同意により,2人の宮務大臣を任命する。内大臣は,国務について天皇を輔弼する。宮内大臣は,宮務及び皇室経費について天皇を輔弼する。

 皇室については,国会の定める皇室典範による。

 皇室経費は,毎年の国の予算に計上されるものとする。)


 しかし,プール少尉ら天皇委員会の第1次案における上記提案条項は,194626日に開催された同委員会と運営委員会(ケーディス大佐,ハッシー中佐及びラウエル中佐並びにエラマン女史)との打合せにおいて,運営委員会側から散々批判され,削るべく命じられるに至りました。エラマン・ノートには次のようにあります(児島襄『史録 日本国憲法』(文春文庫・1986年(単行本1972年))275-276頁も参照)。



 運営委員会は,第6条において4人の宮務官(four Imperial officers)(2人の宮務大臣,1人の内大臣及び1人の宮内大臣)が認められていることに異議を唱えた。ケーディス大佐は,これは,国会ないしは人民にではなく天皇に責任を負う憲法外的官職を正統化するものであるのみならず,自由主義的憲法においては(under a liberal Constitution)事務員に毛の生えたような職務を有するものでしかない役人(officials whose duties...could be little more than clerkly)を不当に高い位置に置くものだと言って反対した。ラウエル中佐は,当該条項は,彼らを養うための予算の議決を国会に義務付けるものだね,と指摘した。プール少尉は,当該条項について,天皇のお付き(the personal officers of the Emperor)の厳格な制限であり,したがって,宮中のスタッフ(the Imperial Household Staff)のそれ以上の増加ないしは拡大に対する憲法上のチェックであると言って弁明した。運営委員会は,全員一致で,当該条項は宮中を過大に重要視するものであると決し,同章の最終草案から当該規定を削るように命じた。


 若手組の方に立憲君主の尊厳を尊重する意思がより多く見られたのに対して,大人組の方が大胆でした。大人組の方には,日本の伝統のほかにも,いろいろ配慮しなければならないことがあったのでしょう。GHQの目の上の瘤たるべき極東委員会には,共産主義ソ聯もいれば,白豪主義オーストラリアもいたのでした。

 なお,「4人の宮務官」というのは,運営委員会側の誤読であるように思われます。プール少尉らの原案の英文をよく見ると,「2人の宮務大臣」=「内大臣」及び「宮内大臣」の意味であって全体で2名であり,「2人の宮務大臣」+「内大臣」+「宮内大臣」=「4人の宮務官」ではないようです。"...Cabinet: A Lord Keeper..."と,コロンでつながっているのであって ,セミコロンが使われているわけではありません。本職のアメリカ人も英語を読み間違えることがあるということか。それにしても,「2人の宮務大臣」のつもりが「4人の宮務官」と勘違いされて,その養人のための予算が云々とまでねちねちと,運営委員会のおじさんたちに2倍おこられたプール少尉はお気の毒でした。

 ところで,プール氏の参議院憲法調査会における前記自己紹介でいう「たまたま私の誕生日は実は昭和天皇と同じ日ということでございまして・・・その後になりまして複雑なことになりました。」との「複雑」な事情とは,伊藤久子氏の「横浜のプール家」(有鄰463号(2006610日)4頁)に引用された鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(創元社・1995年)記載のインタビューによると,次のようなことだったようです。



プール元少尉:「
日本の憲法草案起草の各委員会のメンバー発表の最後に近くなって,ケーディス大佐があたりを見回して,天皇は君,プール少尉にまとめてもらうと言うんですよ。」


ケーディス元大佐:「君
プール少尉はたしか昭和天皇と誕生日が同じだったろう?それが君を選んだ理由だよ,なんて言った覚えがありますよ。」


 よく知っていましたね。日本のことも,スタッフのことも。

 ちなみに,プール少尉が大日本帝国の横浜市に生まれた日は,後の昭和天皇である皇太子裕仁親王成年の日(旧皇室典範13条)でもありました。


4 米国初代箱館領事エリシャ・E・ライス

 伊藤久子氏の上記記事からは,プール氏の自己紹介にある「私の曽曽祖父の一人」である「1854年にペリー提督が締結した条約のもとで日本に初めて派遣された二人の米国領事の一人」がだれであるかも分かります。



 
リチャード・プール元少尉の父チェスターは1916年に,横浜生まれのアメリカ人ドロシー・キャンベルと結婚。岳父は少年時代の遊びの師匠ウィリー・ウォリー・キャンベルである。ドロシーの母方は古くからの居留民で,母キャラ(旧姓ライス)の父は駐横浜副領事,祖父は初代箱館領事という家系だった。


 「曽曽祖父・箱館初代領事ライス→曽祖父・横浜副領事ライス→祖母キャラ・ライス→母ドロシー・キャンベル→リチャード・プール元少尉」という家系になるようです。

 なるほど。駐箱館初代米国領事のライスですか。

 いや,ちょっと待て。

 我々が学校で習った日本史の授業では,1854年の日米和親条約に基づき日本に初めて派遣されたアメリカ合衆国の領事といえば,駐下田領事のハリス(後に駐日初代米国公使)だけだったはずです。下田のほか箱館も開港ということにはなっていましたが,箱館に米国領事を置くことになっていたとは学校教育では習っていません。

 日米和親条約の当該条項は,次のとおり。



第十一条 

両国政府に於て無拠儀有之候時は模様により合衆国官吏之者下田に差置候儀も可有之尤約定調印より十八ヶ月後に無之候ては不及其儀候事


Article XI

There shall be appointed by the Government of the United States, Consuls or Agents to reside in Simoda at any time after the expiration of Eighteen months from the date of the Signing of this Treaty, provided that either of the two governments deem such arrangement necessary.


 日本語文では「両国政府に於て無拠儀有之候よんどころなき儀これありそうろう」なので,幕府の同意なしに「合衆国官吏之者」が下田に来ることはあるまいと思っていたのに,英語文に基づき両国政府のうちアメリカ合衆国政府がnecessaryと判断したことによってConsulハリスがやって来て,幕府役人は狼狽したという話は聞いたことがあります。しかし,そもそも英文でも,日米和親条約11条にはSimodaはあってもHakodateはありませんね。

 となると,プール元少尉の御先祖は,本当に日米和親条約に基づきアメリカ合衆国政府から箱館に派遣されて来た領事だったのか,甚だ疑問ということになります。どういう事情があったのでしょうか。これは日米同盟関係における最初の秘密事項だったのでしょうか。駐日アメリカ合衆国大使館の同大使館の歴史を紹介する日本語ウェッブページにも,1856年(安政三年)821日のハリス領事による下田玉泉寺でのアメリカ合衆国領事館開設の話はあっても,「ライス領事」の話は見つかりません。ハリスに比べて日米交流史上日の当たらない扱いを受けているライスとは,一体どのような人物だったのか。

 ライス「領事」の正体の問題については,ざっとインターネットの日本語サイトを検索したところでは,函館市のウェッブサイトの『函館市史デジタル版』の次の記述が一番詳しいようです。



・・・居留外国人の第1号でもあった最初のアメリカ領事は,安政41857)年4月に来箱して浄玄寺に止宿した,ライスであった。その時アメリカ国務長官からの書簡を持参してきたが,それには「コマーシャル・エージェント(Commercial Agent)」という名目で派遣するとあった・・・。しかし,日米和親条約では,箱館には領事を置くという規定はなかったのである。箱館奉行が老中に照会したところ,当初は駐日総領事ハリス(Harris, T.)でさえ,ライスの正体をいぶかった。ハリスも自国政府からライスの来日を知らされておらず,また「アゲント」と唱えているのは,自国の官名ではない・・・と断言したほどである。一方,下田条約が調印され,安政56月から箱館には下官吏(Vice-Consul)が置かれることとされた。ライスについては,後日ハリスが書簡を確認するに至って,その身元に間違いはなく「国事江渉り候儀」には関係せず,「全商売筋一通之取扱」で来たようであると言い,「アゲント」を「コンシュル四等官のうち最下官」と認め,前言を翻す見解を示し・・・,結局ライスの扱いについては老中から箱館奉行へ達しが出され,「今さら帰すこともできないので,来年六月に新しい下官吏が来たら帰すことにして,それまでは今まで通りにさせておくこと」とされたのである・・・。

 その後も条約にある新しい下官吏なるものは来箱せず,同じ肩書きのままのライスが残留した。・・・ところでライスは後年の記録では元治元(1864)年に「Consul」に任命されているが・・・,前々年の文久2年に箱館に戻ってきて以来,「Consul」という肩書きで文書を提出している。ライスの身分には各国の領事も不審を抱いており,奉行も真相がわからず,慶応2年になって江戸の公使に確認を依頼した。これで明らかにされたことは,(1)アメリカ領事の階級の第3位に「貿易方エセント」があり,他国にはない名称であること,(2)ライスは他国の領事の蔑視を恐れて「コンシュル」と称しているらしいこと,(3)各開港場の貿易量の大小に応じて領事の階級を考慮しており,箱館は貿易が盛大の場所ではないこと,(4)ライスはエセントであっても,コンシュル同様の職であること,ということである・・・。・・・『アメリカ領事報告』(国立国会図書館蔵)には,1869(明治2)年9月のライスの書簡に領事拝命を感謝する旨が記されているから,実際にはこの時点で初めて領事になったと思われる。

 

 1954年の日米和親条約調印から15年,ライス自身の来日から12年かかっての領事拝命ですか。最初は下田のハリス領事からも知らないと言われましたが,幕府の「今さら帰すこともできないので・・・」という事なかれ主義に助けられて箱館に残ることができて,その後は薄給の公務の傍ら商売関係にいそしみ,諸外国領事や幕府役人の冷たい目もありましたが,がんばりました。

 アメリカ合衆国の駐札幌総領事館は,箱館(函館)にあった米国領事館について紹介する英文ウェッブページにおいて,"Elisha E. Rice, first U.S. Consul; Jan.18, 1865-Nov.2, 1870"と記載しています。

 なお,北海道庁の古文書紹介のウェッブページに,エリシャ・ライス貿易事務官が船で3日前漁に出たまま行方不明になったので,見つけ次第箱館に戻るよう諭すべしと各村に告げる箱館奉行所のお触書(安政六年五月十八日付け)が掲載されています。ちょっと図々しくてお騒がせなアメリカ快男児だったのですね,プール少尉の御先祖さまは。



箱館在留亜米利加官吏ライス并同国人九人,本邦水主之もの三人,端船弐艘江乗組,鯨漁として去ル十五日当港出帆之儘,今以不相戻候。自然其村々海岸江船寄候儀も有之候ハ
,早々当地江立戻候様可申諭候。此触書早々順達,留り村より可相返もの也


 しかし,むむ,鯨漁ですか。これは現在では,アメリカ合衆国国務省の人間がすると,懲戒処分ものの所業ではなかったでしょうか。(また,これに加えて,エリシャ・ライスは,ハリスのような堅物(唐人お吉の話は疑わしいとされています。)ではなかったもののようです。)
  上記鯨漁行方不明騒動のほかにも,エリシャ・ライス貿易事務官の起こした悶着やら騒動としては,次のようなものがあります(『函館市史』デジタル版)。後の超大国アメリカ合衆国も,出先の事務所レヴェルでは,当時はお金が余りなく,トホホなことも多かったようです。



もともとライスの滞留の理由も,在箱居留人への対応が念頭にあったのではなく,寄航船への必要品の売買にあったのは明らかである。・・・その結果,奉行所の役人たちは「一体彼国(アメリカ)は,士商混雑いたし,利得を専といたし候習風相聞,御国士商格別之訳,毎々ライス江申諭候得共,兎角疑惑いたし候様子」・・・と,ライスの行為によい感情を持たず,ライスとの関係はしっくりしていない。慶応
2年には,安政4年から64月までにライスに渡した食料品・欠乏品代と家賃の未回収分をめぐる係争があり,ライスの方も運上所は17000ドルの未払い金があるとして,この解決は明治にまで持ち越している。

 ・・・文久2年に再び箱館に戻ってきて領事館の建設を計画した。ところが整地は終わっても,ライスの構想になる3階建の館の建設費用が予想外に高額であり,将来は病院や牢獄も建設しようという意気込みにも関わらず,結局この工事はこのまま頓挫している・・・。 

  北海道編集の『新北海道史 第二巻通説一』(1970年)には,次のように伝えられています(747頁)。



 安政四年四月五日,米国貿易事務官ライス(
Rice)が鯨猟船に便乗して箱館に来港し,六日上陸して奉行堀利熙に面会し,大統領の書簡を提出して在留することを告げたので,浄玄寺別堂の一部を仕切ってこれを宿所に充てた。一人で止宿して病気その他の不慮のことがあっては迷惑だから,水夫を留置しておくようにさとしたが,かれはほかの米国船がまもなく入港するから一人で差支えがないと答えたので,奉行はその旨を書面で差し出させ,自由にさせることにした。かれは携えて来た農作物種子を奉行に贈り,牝牛を請い受けて搾乳を試み,奉行所の馬場で馬を乗りまわしてその妙技を見せ,さきに自国漂流民の残して置いたバッテイラ(短艇)をもらって港内を乗り回し,豚を屠ってその肉を奉行をはじめ応接掛の人々に分配し,道で足軽小頭鈴木三右衛門が足を痛めているのを見てこれを治療し,また馬を借りて駒ヶ嶽に登りたいと願い出て(遊歩区域外につき許されず),さらに奉行所と内談して・・・,またきわめて平民的で商人などに対して威厳を装わないなど,天真爛漫で米国人の本領を遺憾なく発揮したため,あるものは敬服しある者は嫌忌した。敬服された一面としては,欧米文化の紹介者としてであって,奉行は通辞をつかわして緬羊の飼育法を問わせ,武田斐三郎はかれについて英語の疑義を正したことなどがあり,嫌忌された一つの現れは,足軽若山蕃ほか一名が酔ってかれの宿所を訪ね口論の末抜刀し,そのために職を追われた事件などである。よかれあしかれ,かれの在留は箱館の官民に少なからぬ影響を与え,安政六年の開港準備にあずかって力のあったことは否定できない。


 エリシャ・ライスの人物及び家系については,プール元少尉の母堂であるドロシー(Dorothy Campbell Poole)さんの手記が,Antony Maitland's Genealogy Pagesというウェッブサイトに掲載されています。

 それによれば,エリシャ・E・ライスは,182057日メイン州ユニオン(Union)生まれの六尺豊かなニュー・イングランド人。1845年にメイン州の法曹資格を取得するも開業はせず。商売替えをして異国の新開港地箱館に移ることになるまでは,ウールのカーペット製造業を営んでいたそうです。民兵大佐。1885111日,コロンビア特別区ワシントン市で死去。

 プール元少尉の曽祖父で,横浜副領事になったのが,エリシャの長男のジョージ・エドウィン・ライス(George Edwin Rice)。19011217日に長崎で死去しています。

 ジョージの娘でプール元少尉の祖母に当たるキャラ("Calla": Clara Edwina Rice)は,1871921日の函館生まれ。キャラ(函館),ドロシー(横浜),リチャード(横浜)と,3代続けての日本生まれということになります。


5 今上帝と「知日派の米国人」

 さて,時は移って1994612日の日曜日,リチャード・プール元少尉も既に75歳の老人となっていました。しかし,御先祖のエリシャ・ライス大佐譲りのちょっと図々しいお騒がせ精神は健在でした。場所は,プール氏の住居にほど近いコロンビア特別区ワシントン市のケネディ・センター。我が宮内庁の同年の「天皇皇后両陛下のアメリカ合衆国御訪問の御日程について」ウェッブページを見ると,同日につき「コンサートご鑑賞,レセプションご出席(ケネディセンター)」と記載されています。アメリカ市民との当該レセプション会場が,その舞台となりました。

 プール元少尉の前記参議院第7回憲法調査会における陳述にいわく。



...and I had the temerity to introduce myself to the Emperor and to tell him of my role in helping draft the Constitution concentrating on the Articles on the Emperor. He smiled and said, "Yes, those are my instructions."... 

(私は,向こう見ずにも陛下に自己紹介し,実は日本の憲法の起草に加わったんだということ,特に天皇条項について私は役割を持っていたということを申し上げましたら,天皇陛下はお笑いになって,そうですね私に対する指示だったんですというふうにおっしゃったわけです。)


 プール元少尉は,お付きにいるのは重々しい宮務の大臣・高官らではなく,「事務員に毛の生えたような職務を有するものでしかない役人」たちだけだと知って安心していればこそ,「向こう見ず」になれたのかもしれません。いやいや,むしろ日本側においてこそまた,あの押しかけ箱館初代領事の子孫を,ケネディ・センターから「今さら帰すこともできないので」と諦めていたものでしょうか。



戦後,連合国軍の占領下にあった日本は,平和と民主主義を,守るべき大切なものとして,日本国憲法を作り,様々な改革を行って,今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し,かつ,改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し,深い感謝の気持ちを抱いています。また,当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います(
I also feel that we must not forget the help extended to us in those days by Americans with an understanding of Japan and Japanese culture.)。

(宮内庁ウェッブサイトの「天皇陛下お誕生日に際し(平成25年)」ての20131218日の「天皇陛下の記者会見」ウェッブページから)


 ここでの「知日派の米国人(Americans with an understanding of Japan and Japanese culture)」とは,それぞれ固有名詞を持った,生き生きとした(当時は若かった)知識人たちであり,そこには当然,ケネディ・センターでの上記邂逅があったリチャード・A・プール氏の姿が含まれていたものと拝察せられます。

 調べてみると,「敗戦後のGHQの支配は,頭の杜撰な軍人の支配で,教育程度の低い単細胞人間たちに,卑屈な日本人たちがいいように引き回されたというイメージ」は,現在,なかなか簡単には維持できないのではないでしょうか。

 いずれにせよ,観念的な議論は,難しいものです。

このページのトップヘ